spine
jacket

陽一は夢を見た。
車に撥ねられ、轢き殺される夢。
それは夢だったはず……。
なのに、その日を境に陽一の世界は一変する。
銀色の髪をなびかせた謎の美少女。
頻発する不可解な密室殺人。
事件の背後にひそむものはいったい何だ……!?

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少年×無常鬼

鷹守諫也

櫻嵐堂



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 目 次


序章


1 白い部屋に…
2 上向きの強烈なヘッドライトが…
3 容赦のない蹴りが


第一章 少年×死神


1 目覚めは最悪
2 電池切れを知らせる耳障りな音に…
3 木曜日、陽一は…
4「……うはー、こいつぁ派手だな」
5 十分ほど電車に揺られて
6 帰宅した夫は…
7 陽一が自宅に戻ったのは…
8 映は夜の中あてもなく…


第二章 生か死か ~dead or alive~


1 またも目覚めは最悪
2 鏡を見るのが怖い……
3 土曜日。陽一は
4 月曜日の朝、陽一は
5 ……走ってる。
6 朝になって起こしにきた美晴は、
7 電話が
8「……今回もまたド派手に
9 逃げるように叔父の元から自宅へ戻り、
10 翌日の夕方、陽一は
11 木曜日、陽一は


第三章 無常鬼×殺人鬼


1 陽一が三瀬川探偵事務所で
2 陽一は、偉そうな態度で
3 夜、陽一はいつもと
4 日曜日、陽一は
5 深山心亜はあてどなく
6 その夜、ぐっすり寝入っていた陽一は


第四章 有罪か無罪か ~guilty or not guilty~


1 残業を終えた天野和臣が
2 月曜日の放課後、
3 奈々美は河川敷の公園で
4 陽一が奈々美の携帯にかけたのは、
5 比良坂は市立病院の
6 中学校に着いた頃には
7 少女はブランコに乗って
8「……誰もいない


第五章 換骨奪胎×七人ミサキ


1 小西真治に
2 祥子は雷に打たれたように


終章

序章



 白い部屋に、男はいた。
 白い壁。白い天井。白い床。
 白いベッドに白い寝具。
 そして白い寝間着。
 外側と廊下側、ふたつの窓には白い鉄格子が嵌まり、廊下の突き当たりには制服姿の刑務官が無表情に立っている。
 静まり返った真白な部屋の中、酸素マスクを通して籠もる男の呼吸と計測機械の規則的な電子音だけが静かに響いていた。
 たとえ病が癒えても、男が刑務所から解放されることはない。彼には死刑判決が出ている。自分が不治の病であることを以前から男は知っていた。
 だからこそ用心を捨て、無差別な凶行に及んだ。そして予定どおりに捕えられた。計画には及ばなかったものの、それ以前の犯行と合わせてかなりの人数を狩ることができた。
 それでも足りない。全然足りない。もっと狩りたい。ずっと狩っていたい。逃げまどう獲物を、永遠に追いかけていたいのだ――。
 酸素マスクの下で、男は嗤った。目が爛々と輝いた。焦燥も諦めも、ましてや絶望などは一片たりとも男にはなかった。それは強い確信を込めた『期待』の輝きだった。
 干からびた唇が声にならない声を紡いだ。
 モウスグ ダ モウスグ オレ ハ カイホウ サレル
 くく、と喉が鳴る。男は笑っていた。愉しげに、嬉しげに……。
 病室の扉がガチャリと開いた。重態の囚人のみが収容されている重病人病棟は一般病棟とは違って入り口の鍵はかけられていない。容体が急変した時に開錠に時間がかかるとまずいからだ。
 入ってきたのはクリップボードを小脇に抱えた白衣の看護師だった。透明ヴィニールの酸素テントをめくって中に入り、看護師は習慣化された仕種でモニターをチェックした。ちらと横たわる男を見やり、看護師は顔をこわばらせた。
 男は目を開けていた。ぞっ、とした。目が合ったわけではないのに。
 男はこの医療刑務所に収監されて以来、ほとんど目を閉じたままだった。意識があることはわかっていたが、呼びかけに答えたことは一度もない。いつも目を瞑り、まっすぐに天井を向いていた。
 今にして思う。男はずっと見ていたのだと。周囲ではなく、自分の内部を満たす暗黒にずっと見入っていたのだ――。
 看護師は、ぎゅっとクリップボードの端を握りしめた。男の声が聞こえた。酸素マスクに遮られてくぐもってはいたが、低くかすれた声が確かに洩れてくる。
「もどって、くる。おれは、すぐに、もどってくる、ぞ……」
 我知らず看護師は後退っていた。何を言っているのだ? この囚人は。すでに刑の確定した死刑囚がどこへ戻ると言うのだ。
 たとえ刑の執行が引き延ばされたとしても、一生誰とも接触しない独房暮らし。いや、その前に男は死ぬだろう。男の命を奪うのは絞首台のロープではなく病魔であっても。
 いずれにせよ、男は遠からず死ぬ。
 ぐるん、と男の首が突如として看護師の方を向いた。
「ひっ」
 反射的に看護師は後退った。にや、と男の口が紛れもない笑みの形になる。色を失った薄い唇はほとんど皮膚と区別がつかず、まるで顔の下半分に奇妙な亀裂が入ったようだ。
「足りない。足りない。足りないぞ。これじゃ全然足りない」
 男の声がまるで耳元で囁かれるかのように鮮明に聞こえた。ざりざりとした感触に鳥肌がたち、身体中の産毛が逆立つ。
「もっと殺す。もっと殺せ。七人殺せ。そうすれば戻ってくる。なぁ、そうだろ」
 看護師は気付いた。男は自分に話しかけているのではない。自分を見ているのでもない。
 ばっ、と看護師は背後を振り向いた。
 そこは何もないただの角だ。入り口にいちばん近い白い天井と白い壁と白い床に挟まれた角。真白なそこに何かの陰がうごめいた、気がした。
 焦って瞬きを繰り返す。ただの白い空間だ。壁にシミがあるわけでもない……。
 そこは白い。真白だ。
 そこは黒い。真黒だ。
 く、く、く、と途切れ途切れの笑い声がした。男は咳き込むように笑っていた。
「ああ、そうだ。七人殺せば、戻ってくるんだ。だから、今は――、連れて、いけ」
 ひゅう、と器官が鳴る。白い天井を向いた男の目に、最後の光が揺らめいた。
「じ、ご、く、へ――」
 空気が抜けるように笑い声がしぼむ。容体急変を告げる警告音が甲高く鳴り響く。我に返った看護師は呼び出しボタンに走り寄った。たちまち病室は騒然となった。
 駆けつけてきた医師が懸命に蘇生を試みたが、男の心音が回復することはなかった。カッと目を見開き、裂け目のような口許に不可解な笑みを浮かべたまま、男は死んだ。
 白い鉄格子の中、男の命を奪ったのは法の正義ではなく、誰にでも無差別に襲いかかる病魔だった。
 医師が時計を確認し、死亡宣告をする。うなだれた看護師は、首筋に悪寒を感じて振り向いた。先ほど男が見つめていた部屋の角は、やはり何もない真白な空間だった。
 真白な。真黒な。
 看護師の顔が恐怖にゆがむ。低い嗤い声が聞こえた。今、確かにそこで誰かが、
 嗤った。 



 上向きの強烈なヘッドライトが陽一の視界を真白に染めた。
 反射的に腕を上げて目を庇った瞬間、凄まじい衝撃に見舞われる。同時に陽一の身体は高々と宙に舞っていた。
 二度目の衝撃。今度は地面に叩きつけられたのだということを、陽一は理解していなかった。何が起こったのかさっぱりわからない。
(あれ……? 俺、なんで地面にぶっ倒れてるんだ……?)
 とりあえず起き上がろうとして気付く。身体が動かない。指先さえ持ち上げられないなんて、どうしたんだろう。
 その指先を見ることもできなければ頭も動かない。眼球すら動かせないのだ。たまたま視線の向いていた先で巨大な目玉みたいに車のヘッドライトが輝いていた。
 ここに至り、ようやく陽一は気付いた。
(もしかして俺、轢かれた……?)
 車からは誰も降りてくる様子がない。ライトが眩しすぎて車種も色も不明だ。運転席に乗っているはずの人影も逆光に沈んで陰になっている。
 きっと向こうからはよく見えることだろう。皓々とライトに照らされ、半眼に目を剥いたまま地面に倒れて身じろぎもしない陽一の姿が。
 不気味にアイドリングしていた車のエンジンが、ぐんと唸りを上げた。
(……そういえばさっき、何も聞こえなかったよな。ふつうあるだろ、クラクションとか、急ブレーキの音とかさ)
 そんな物音はいっさいなかった。赤信号にも関わらず車は減速することなく猛スピードで突っ込んできて、横断歩道の途中で陽一を撥ねた。そして流れるようにUターンし、じっと陽一を観察している。
 途方もない悪意を感じた。それから、ねじれた邪悪な喜悦も……。
 アクセルをふかす音。――来る。
 弦から解き放たれた矢のように。すでに瀕死状態だった陽一の身体を勢いよく踏みつぶし、哄笑めいた轟音とともに速度を上げる。車は闇の奥へと走り去り、後には念入りに二度轢かれた無残な亡骸が転がっていた。
 赤だった歩行者用信号が青に変わる。ざり、と靴底がアスファルトをこする音がした。光の消えた瞳で陽一は視た。
 車輛用の赤い信号の光を受け、ひとりの少女が佇んでいた。現代作家の創作ドールみたいに整った無表情な顔で、じっと陽一を見つめる。
 黒い衣装の腰に片手を置いて反対側に軽く首を傾げると、背にかかるメタリック・ピンクの髪がさらりと揺れた。しく、と眉間に皺を寄せ、少女はつまらなそうに吐き出した。
「あーあ。よりにもよって何でわざわざ私の目の前で死ぬかなぁ」
 いかにも迷惑そうな、投げやりな声。はぁ、と少女は大仰に肩をすくめて嘆息する。
「ったくもう、どんだけー?」
 もはや古くなった流行語が、絶妙なラインの唇から紡ぎだされる。
(……なんだそれ……)
 この状態の人間にかける台詞がそれかよ。もうちょっと、何か言いようがあるだろが、コラ。てゆーか救急車呼べ。
 …………。
(あ、れ……? 俺、ひょっとして死んだんじゃ……?) 
 二回、車に轢かれたような気がする。気のせいじゃないと思う。少なくとも相変わらず身動きできないし、目も動かせない。今はこの投げやりで高飛車なくせにやたら綺麗な少女だけが、限られた視界いっぱいに映ってる。
「やっぱアレよね、取り扱いは公平にいかないといけないわよね。うん、この子が死にたいと言うならそうさせるべきなんだし」
(ちょう待て。誰が死にたいだと)
 陽一は死にたくなどなかった。まっぴらごめんだ。まだ高校入ったばっかなんだぞ。
 にっこり、と少女が笑う。途轍もなく胡散くさい、悪徳商法の営業みたいに。
「というわけでぇ、どっちか直感で選んでね? その1、死ぬよりツライけど敢えて生きてみる。その2、このまま死んで宿題のない夏休みを貰う。さぁ、どっち?」
 正直、宿題のない夏休みに心惹かれていると、歩行者用信号が点滅を始めた。ニッと少女は笑った。
「早く選ばないと問答無用で『その2』が適用されちゃうよん?」
 陽一は答えた。どうやって答えたのかわからないが、とにかく答えた。そしてたぶん、間違えた。歩行者用信号が赤になり、反対側の車輛用信号が青に変わる。少女の髪がメタリック・ピンクからメタリック・グリーンへ変化した。
「……やれやれ。骨が折れるわね」
(骨が折れてるのはこっちだ)
 毒づいて、気付いた。少女の目の中には見たこともない金色の三日月があった。



 容赦のない蹴りが脇腹に食い込む。
 ぐえっ、と呻いて少年はのたうち回った。すでに殴る蹴るの暴行を繰り返され、顔も身体も無残に腫れ上がっている。
 取り囲む年嵩の少年たちは、哀れみの一片も見せることなくなおも犠牲者を弄んだ。
「これでもまだ俺らに逆らうってー?」
「こんな端金でどーしろっつんだ。ナメんなコラ」
「親の財布から抜くくらいの知恵もねーのかよ」
 きへへ、と下卑た笑い声が上がる。少年の口端から血の混じった涎が垂れた。転がされた時に口の中を切ってしまったのだ。
 這いずって逃げようとすると、襟首を掴んで引き戻された。汚れたスニーカーの先が胃の辺りにめり込み、少年は反射的に込み上げてきたものを吐いた。
 飛沫が靴先にわずかにかかり、暴力を振るっていた方の少年はたちまち激昂した。
「げっ、てめぇ何すんだよ。気に入ってんだぞこれ」
 かすれた声で必死に謝る少年の顎を蹴り上げ、倒れたところをまた寄ってたかって蹴る。だらしなくずり下げたズボンのポケットに手を入れ、無抵抗の相手に笑いながら暴力を振るう少年たちの表情には一片の罪悪感もなかった。蟻を踏み潰すほどにも思っていない。
「ホントにうぜえんだよ、てめーは。そこにいるだけで気分が悪くなってくる」
 少年は無抵抗に謝る。それがまた加害者の残虐さに油を注いだ。
 力任せに蹴られた勢いで吹っ飛んだ少年は、壁に叩きつけられてずるずるとうずくまった。ポリバケツが転がり、ゴミが散乱する。
 毒づきながら蹴り続けるもう一方の少年を、さすがにヤバいと思ったか他の少年たちが制した。
「おい、その辺でやめとけよ」
「あんま大ケガさせっと後が面倒だぜ」
 仲間に押さえされ、しぶしぶ足を引っ込める。うずくまった少年のすぐ側に唾を吐き、粗暴な少年は居丈高に命じた。
「いいか、明日中に五万持ってこい。さもないと、もっと痛い目に――」
 あわせるぞ、と続くはずだった言葉が喉の奥に呑み込まれる。力なくうなだれて壁に凭れかかっている少年の側に、異形のモノがいた。
 大きさは仔猫ほど。風船のように膨れ上がった腹。針のように細く長い口。顔の半分くらいを占める飛び出した巨大な眼球。ガリガリに痩せて皺だらけの手足。地面に吐かれた唾に針のような口を一心に押しつけている。うまく吸えないのか、身体を左右にひねっては何とかその汚物を吸い込もうとしている。
 唾を吐いた本人である暴力少年は思わず自分の口許を押さえた。その肩を仲間が不審そうに掴む。
「おい、どーしたよ」
 この異形のモノが見えてないのか!? 愕然とした少年は、ぎくりと動きを止めた。さきほど蹴られた少年が吐いた吐瀉物にも同じような異形のモノが群がっていた。
 振り向けばいつのまにか唾にも数匹の異形のモノが群がり、互いに激しく争っている。キィキィとガラスを爪で引っかくような音がした。奴らの鳴き声だ。
「どーしたよ、大丈夫か」
 不審そうな仲間の声に振り向くと、異形のモノと正面から鉢合わせした。それは仲間の肩に乗り、巨大な眼球でじっと自分を見つめていた。
「うわあぁぁぁっっ」
 絶叫を上げて飛び退かれ、仲間が唖然とする。異変を察してグループ全員が注目した。その肩や頭に、もれなく異形のモノを張りつかせて……。
 ぺた、と何かが自分の頬に触れた。視線を下げると、汚い爪のついた骨ばった指があった。至近距離で巨大な眼球と目が合う。
 自分の肩にも異形はいた。気味の悪い感触が額に触れ、反射的に眼球を上向ければ頭頂部に張りついた異形が逆さまに顔を覗き込んでいた。
「ひいぃぃぃぃっっっっっ」
 何かを必死に払いのけるかのように無茶苦茶に手を振り回して走り出した仲間の姿を、残された少年たちはあっけに取られて見送った。
「お、おい。どうしたんだ、あいつ」
「わかんね……。あ? おまえ、肩に何乗せてんだ。猫か」
「何言って――。うわあっ」
 黒いもやもやした影のかたまりが、ニタリと笑った。
 キキ、キ、キキキ。
 ガラスを爪で引っかくような嗤い声。慌てて振り払っても、次の瞬間にはもう別な――同じなのかもしれないが――モノが肩に張りついている。頭にも背中にも腰にも足にも、黒い靄がまとわりついて、キキ、キと哭く。
 どうやっても振り払えない黒いかたまりにしがみつかれたまま、少年たちはパニックを起こしてその場を逃げ去った。饐えたような臭いのただよう薄暗い路地裏には、身動きもせず壁に凭れた少年ひとりが残された。
 力なく地面に投げ出されていた手が、ぴくりと動いた。地面に爪をたてるように指の関節を曲げ、こふ、と小さく咳をする。
 一心不乱に地面に吐かれた唾を吸っていたモノは、突然むんずと掴まれて抗議の声を上げた。少年は構わず異形のモノを後ろの壁に叩きつけた。
 群がっていた異形たちが慌てて逃げだす。少年はゆらりと立ち上がり、広げた両手を確かめるようにしげしげと眺めた。
「……ショボい容器だが贅沢は言えねぇか。使ってみれば案外勝手がいいかもしれん」
 ひゅう、と奇妙な呼吸音まじりの笑いが洩れる。立ち上がった少年の身体には、異形のモノは一匹もついていなかった。周りから異形の影は消えている。――いや、一匹いた。いじましくも吐瀉物に針の如き口を突き立てている未練たらしい奴が。少年は冷たい錆色の瞳で異形を一瞥し、何のためらいもなく靴底で踏みつぶした。
 陰に隠れていた異形たちがいっせいに息を呑む気配がした。少年はまったく無関心な様子で路地を出て行った。
 その身体には、受けた暴力の痕跡は何ひとつ残っていなかった。
 少年の姿が消えるのを待ちかねて飛び出した異形のモノたちが、我先に汚物に群がる。
 互いに突き飛ばしあいながら必死に飢えを満たそうとする異形たちは、数秒とたたないうちに奇妙な少年のことは失念していた。

第一章 少年×死神



 目覚めは最悪だった。
「うぉぁ~、変な夢見た……」
 寝起きのダミ声で唸り、手の甲で額をこする。車に轢かれて死ぬなんて、夢にしたってえぐすぎる。しかも妙にリアルで、撥ね飛ばされた時の衝撃がまだ身体に残ってる。それから、音。二度轢きされた時の、骨がバキバキ折れる音まで。
(夢、だよな……!?)
 ガバと跳ね起きて自分の身体を見下ろす。パジャマの襟元から覗き込んでみると、逞しいとは言いがたい貧相な胸板にガッカリしつつ、ひっかき傷ひとつないことにホッとした。
 バタッと倒れ込み、安堵の吐息とともにもう一度ふとんを被った。とろとろと二度寝に陥りそうになったとたん、階下で自分を呼ぶ大声が響きわたった。
「陽一ー、さっさと起きないと遅刻するよーっ」
「……わーってるって」
 ぶつぶつ言いながらも、素直に陽一は起き上がった。半眼のまま頭をボリボリとかき回す。寝癖がいっそうひどくなった。欠伸をしながら階段を降り、トイレのドアを開ける。アイヴォリーホワイトの洋式便器のタンク部分に、妙なものが鎮座ましましていた。
 顔だけ見ると老人のようである。その顔の大半を占める異様に大きな双眸。狭い額は皺だらけ、げっそりと削げた頬はしなびて土気色。そして口には何故かストローをくわえていた。いや、違う。アリクイのように長い口吻がついているのだ。ずっと細くて気色の悪い肉色をしていたけれど。
 陽一は、かっきり三秒間、その変なモノと見つめ合った。硬直したままバタンと扉を閉め、呆然と突っ立っていると廊下を母が通りがかった。
「何やってんの?」
 不審そうな声に振り向けば、これから二階のベランダに洗濯物を干しに行くところらしく片手に脱水を終えた洗濯物の入ったカゴを提げた美晴みはるが、こわばった息子の顔に眉をひそめた。
「陽一? あんた大丈夫?」
「かか、母さん。トイレに変なものがっ……」
「はぁ? 何言ってんの。どれ、ちょっと開けてみな」
 母は学生時代柔道をやっていたせいか、度胸も腕力も人並み以上に所持している。少しこっちにわけてほしいくらいだ。
「陽一、深呼吸」
 言われるままに大きく息を吸い、吐きだす。満足そうに頷いた美晴は顎でクイッとトイレのドアを示した。
「オープン」
「えっ、俺が開けんの!?」
「ったりまえでしょー。幼児じゃあるまいし、トイレのドアくらい自分で開けな」
 くそぉと口中でつぶやき、陽一はやぶれかぶれの勢いでドアを開けた。真っ暗だ! わずかな沈黙を挟んで、ドスのきいた母の声が聞こえた。
「……何がいるって?」
「んあ?」
 陽一は目を瞬いた。ドアを開けると同時に目をつぶってしまったのだ。暗くて当たり前である。狭い個室は見回すほどのこともなく、一目で見て取れた。タンクの上には何も乗っていない。あえて言えば水が流れる部分におかれた芳香剤(下から青い水が出てくるやつ)が置かれている。
「あ、あれ……?」
 首をひねった陽一は天井を見上げ、床を見下ろし、かがみ込んで便器の陰を確認した。
「で、何がいるのよ」
 容赦のない母の声に、陽一はつねられたように肩をすぼめた。
「いや……、さっき開けたらさ。すげぇ変なものがタンクの上に乗ってたんだ。目がでっかくてしわしわで、夜行性の小さいサルみたいなの。口はアリクイみたいだった」
「そんなサル、いるわけないでしょうが。寝ぼけてたんだよ」
「そうかも……。ゆうべの夢見が悪すぎたんだなきっと」
「悪夢なんてちょっと運動すれば消えちゃうよ。ほらっ、そこらを一周しておいで」
 またかとうんざりしつつ、幼い頃からの刷り込みでつい従ってしまう。美晴は何かというと近所を一周してこいと命じるのだ。完全にノリが体育会系である。
 一周といってもいつもの朝コースならものの十分もかからない。天気もよく、走っているうちに昨夜の悪夢も今朝の錯覚もどこかに飛んで行った。
 家に戻ると朝食の支度ができていた。バターを塗ったトーストにちりめんじゃこをふりかけ、味付け海苔を貼り付けて食べ始めた陽一は、向かいに座る母を見て呑み込んだパンが逆流しそうになった。母の肩にあの変な生き物(?)がちょこんと乗っていたのだ。
「ごへっ、ぐほっ、か、母さんっ肩肩」
「な、何よ」
 むせ返る息子を心配しつつ、美晴は訝しげに自分の肩を見下ろした。何もいない。
「あ、あれ……? 変だな」
 陽一は激しく瞬きをし、目をこすった。改めて見れば、母の肩には抜け毛の一本もついてはいない。呆れていた母が心配顔になった。
「あんた、本当に大丈夫?」
「う、うん……。たぶん寝不足なんだと思う」
「何か悩みでもあるんじゃない?」
「や、そんなことないよ。大丈夫」
 陽一は苦笑いしてマグカップに入った粒入りコーンポタージュを飲んだ。母は剛毅な反面、心配性なところもあるのだ。
「あたしに言いにくいことだったらお父さんに電話するのよ」
「いいって。国際電話高いし」
「必要な時には遠慮せず使いなさい。なんなら、るー君に相談するといいわ」
 若い叔父の名前を出され、陽一は苦笑して首を振った。
「本当に寝不足で目がショボつくだけだよ」
「そお?」
 美晴は一度心配スイッチが入るととことん気にしてしまうのだ。陽一はそそくさと朝食を終えて立ち上がった。
「そんじゃ、行ってきます」
 陽一は玄関を出ると自転車に乗って走り出した。この春から通い始めた高校は、家から自転車で十五分ほどで行ける。中学の時よりも近くなったので、朝に多少ゆとりが出た。
(やべー、母さんの過剰心配性を刺激しちゃいかんよな)
 心配をかけたくない、などという殊勝な心がけとはいささか違う。母はアメリカに出向する父に付いていきたかったのだが、ちょうど陽一の受験と重なったため日本に残ったのだ。父は現在、遠い異国で単身赴任をしている。
 息子から見ても両親はたいそう仲がいい。酔漢に絡まれて難儀していた父を母が助けたのが縁で付き合いが始まり、交際三日目に婚姻届を出したそうだ。

 男勝りの母と誠実ながら気弱い父は互いのデコボコがぴったり合ったのだろう。母は父がアメリカ人の同僚に冷たくされて泣いているのではないかと本気で心配している。アメリカ人と聞いて美晴がまず想起するのはダイエット体操の鬼軍曹である。
(……母さんの心配性はどうにも方向音痴だからなぁ)
 離れているとますます方角に狂いが生じ、妄想に近くなる。陽一としては、母にはとっととアメリカに行って父と手でも腕でも組んで晴れやかに闊歩してほしいところだ。
 最初に父の出向が決まった時、向こうで高校入るかと訊かれて速攻で断った。ろくに英語も喋れない状態で高校なんか行けるわけがない。そう思いつつ、心のどこかで惹かれるものもあった。当時中学二年だった陽一は、通っていた中学校で起きた事件で心に深い傷を負っていた。どこでもいいから逃げ出したいという気持ちがあったのは確かだ。
 陽一は自転車のハンドルをぎゅっと握り、強くペダルを踏み込んだ。思い出したくない記憶を頭から振り払い、ぐんぐん走る。このまま突っ走りたかったのに、あいにく赤信号にひっかかってしまった。強烈な光を頭の中に感じ、陽一は片足を地面についた。
 闇を切り裂くヘッドライト。衝撃。点滅する信号。自分を見下ろして奇妙な問いを発した少女――。
 ここだ。夢で見た事故現場。自分はここで突っ込んできた車に轢かれたのだ。
 いやいや、あれは夢だ。ただの夢。後味悪い夢にすぎない。
 自分に言い聞かせるようにして交差点を見回した陽一は、ぎくりと身体をこわばらせた。奇妙なモノが行き交う人々の間に見え隠れしている。
 それは今朝トイレで見た(と思った)変な生き物にそっくりだった。大きさや形に多少の違いはあるが、皺だらけの顔の半分を占める巨大な出目や、ガリガリに痩せ細った手足、ふくれた腹に鳥の嘴かアリクイの口吻みたいに長く突き出した口は共通している。
(な、なんだこれ……。外来生物か何かか……?)
 妙なことに、行き交う人々は誰もその奇怪で醜悪なモノに目もくれない。まるで見えていないみたいだ。その変な生き物の方も、何をしているのかだらんと座って中空を眺めたり、手持ち無沙汰に通行人を眺めている。
(あっ、飛びついた)
 一匹がたまたま通りがかった人物の足にしがみつく。しかし数歩と行かないうちに自然と転げ落ちたので陽一はホッとした。そのうち視線を感じたのか、一匹がふと顔を上げて陽一を見た。しっかり目と目があってしまい、冷汗をかきながら見つめ合うはめになる。
(目を逸らしたら飛びかかってくるかも!?)
 たとえ飛びかかられても仔猫ほどの大きさしかないし、さきほどの様子を見る限りでは大して握力も強くなさそうだから、撃退することはできるはず。
 そう気負ったのもつかのま、変な生き物は陽一が自分を見ていることに気付くと哀れを催すほどに少ない頭髪を逆立て、巨大な出目をいっそう飛び出させてぶるんと身震いした。そして次の瞬間、その奇態な生物の姿はさっと掻き消えてしまった。
(えっ……)
 陽一は眉根に力を込め、何度も瞬きをした。見回すと、いつのまにか交差点にいたはずの変なモノは一匹もいなくなっている。
「またかよ……」
 朝からこの繰り返しだ。最初はトイレ、次は母の肩。よく考えると近所一周の時にも何だか変なものが視界に入ったような気がする。走っていたのでまじまじと見もしなかったが、もし見たとしても瞬きした瞬間にはやはり消えてしまったのかもしれない。
 信号が青に変わる。動きだした車や歩行者につられるように、陽一は自転車を漕ぎだした。気にしだすと道のそこここに黒っぽいもやもやしたかたまりみたいなモノが見えてくる。それらに焦点を合わさないように必死に目を逸らし、陽一は全力で自転車を漕いだ。
 校門前で止まった時にはレースでもしたかのように息が切れていた。徒歩通学の生徒が、自転車に乗ったままま両足を踏ん張ってぜえぜえ言ってる陽一に若干不審げなまなざしを投げて通りすぎた。
 その頃には、何となく気配を感じて視線を向けた途端、そいつの方が隠れるようになっていた。悪意は持ってないということなのか、見られるとコソコソ逃げてしまう。
 やっと息が収まり、陽一は自転車を降りた。自転車を押して校門を入ろうとして、逆方向から歩いてきた女子生徒と目が合い、ぎくりとする。
 榊奈々美さかき ななみ。同じ槇中学から有賀丘高に進学したうちのひとりだ。中学時代、同じクラスだったのは二年の時だけ。あの事件が起こった、二年生の時――。
 三年の時は別のクラスだったから、お互いどこの高校を受けるのか知らなかったのだ。高校の入学式で顔を合わせた時の気まずさといったら並大抵ではなかった。しかも同じクラス。互いの顔にはさぞかしデカデカと『最悪』と書かれていたことだろう。
 記憶はどこまでもついて回る。事件の記憶が薄らぐことはない。そんなことは許されないのだ、きっと……。
 目が合ったのはほんの一瞬だった。社交辞令的な微笑みを浮かべることもなく奈々美はフイと目を逸らした。いつものことだ。同じように陽一も逸らそうとした、のに! またもや見てしまった。奈々美の肩に、もやもやした黒いかたまりが乗っかっているのを。
「榊っ……!」
「な、何よ」
 切羽詰まった声で叫ばれ、奈々美は面食らった顔で立ち止まった。警戒心もあらわに奈々美が表情を険しくする。きしゅ、きしゅ。変な音がした。靄が笑っていた。それは今朝から見始めた変な生き物のようにはっきりとした形がない。周りをおぼろな影みたいなのが取り巻いていてはっきり見えないのだ。黒いかたまりは陽一に見られていることに気付いているようだった。それでも交差点にいたような生き物とは違って隠れも消えもしない。
 急に背中が寒くなった。露骨な悪意を感じた。それから、自分に注がれる、奈々美の敵意に満ちた視線――。黒いかたまりがフッと消えた。
「何なの?」
 向き直った奈々美が不機嫌に睨み付ける。
「あ……、いや。何でもない。ごめん、引き止めて」
 奈々美は眉をつり上げ、ストレートのロングヘアを翻してくるりと向きを変えた。

 ますます嫌われた。そしてこちらはますます気まずくなる。あと十か月近くも同じクラスで目を逸らしながら過ごさなければならないのかと思うと憂鬱でたまらないが、仕方ない。陽一は校舎脇の駐輪場に自転車を置き、人の流れに混じって昇降口へ向かった。
 校舎内でも黒いもやもやをあちこちで見かけた。昼休みになると口のとんがったギョロ目が現れた。教室で弁当を広げたり購買で買ったパンを食べている生徒の側に張りついている。気付いた陽一は危うく飲んでいたウーロン茶を盛大に噴くところだった。
 幸いというか何というか、ギョロ目どもは陽一の近くには寄ってこなかった。陽一が見ていることに気付くとコソコソ物陰に隠れたり、パッと消えてしまったりする。食べ物の側に張りついていても、盗み食いをしているわけではないらしい。あのとんがったアリクイみたいな口吻で食べ物をしきりに突ついたり、手で掴もうとしても、まったく成功していない。まるで幻影を掴もうとしているみたいに、すり抜けてしまう。
(やっぱり幻覚だ。ホログラムみたいなものなんだ)
 ここまで来るとさすがに錯覚とは言えなくなったので、しぶしぶ陽一は幻覚説を採用した。自分に電波がやって来たと考えるのは非常に不本意だったが、きっと寝不足と悪夢のせいで変なアンテナが立ってしまったのだ。そうだ、そうに決まってる。
 ギョロ目たちは何とかして生徒たちの昼食のおこぼれにあずかろうとしているが、パン屑ひとつ、飯粒ひとつも拾えていない。何だか見ていると可哀相な気がしてきて陽一は目を逸らした。ギョロ目を気にしつつも食べ盛りの陽一は母の作った弁当をすでに完食していた。弁当箱の蓋を閉めようとして、御飯粒がひとつ蓋の裏についていることに気付いた。
 陽一は試しにそれを、しょんぼりと座り込んでいる一匹のギョロ目に向けて弾いてみた。飯粒はぽとりとギョロ目の痩せ細って骨ばった手のなかに落ちた。ギョロ目は急いで飯粒を口の中に押し込み――口はほとんど開くことが出来ないようだ――巨大な眼球をうるうるさせて陽一を見つめた。
 もっとくれと迫ってこられたらどうしようかと思ったが、瞬きした時にはギョロ目の姿は消えていた。陽一はほんの少しだけいい気分になりかけ、気まぐれで施しをした自分が偽善者みたいに思い直して厭な気分になった。
 午後の授業が終わると当番の班がロッカーから箒やモップを取り出し、おざなりな掃除を始めた。教室を出ようとして、陽一はその中に奈々美の姿を見つけた。今朝の黒いかたまりは見えないが、何となくまだ奈々美にまとわりついているような気がする。
 あの黒いかたまりは、たったひとつの米粒に喜んでいたギョロ目とは何か違うようだ。ギョロ目は醜いし気持ち悪いとは思うが、こちらをどうこうしようという害意は感じられない。黒いかたまりは、むしろそういった害意とか悪意が形を持ったように思えた。
 奈々美と目が合いそうになり、足早に戸口へ向かう。また睨まれてはかなわない。
(そういや榊って、あんなにとんがった雰囲気だったっけ?)
 中学の時は、とにかくおとなしくて目立たない奴だった。話しかけられるとおどおどして口ごもることも多く、幼なじみだという深山心亜みやま ここあの後を金魚のフンよろしくついて回っていた。心亜が資産家の娘で可愛くて高飛車だったので、心亜と奈々美は女王様と女中というキャラづけだった。その頃から奈々美は無口であまり喋らなかったが、今のようなとげとげしさはなかったような気がする。
「――ま、いっか」
 陽一はつぶやいて昇降口を出た。高校生になったのだ。この機会にキャラを変えてみようと思ったのかもしれない。とっつきにくいキャラにわざわざ変える理由はわからないが、中学の時みたいにクラスメートに都合よく使われたりはしていないようだから、きっと女中役がほとほといやになったのだろう。
 自転車を走らせる陽一を校舎の屋上から眺める視線があることに、陽一はまったく気付いていなかった。金網フェンスに腰掛けた銀髪の少女が身にまとっているのはこの学校の制服ではなく、袖口の広がった黒いワンピースと黒い編み上げの厚底ブーツだ。
 燦々と陽光を浴びながら、少女の顔は月光に晒されているかのように冷たく青白かった。コーラル・ピンクの唇で微笑み、少女は足をブラブラさせた。幅の狭いフェンスに座っているのにまったく危なげがない。少女は金色の目を細めてひとりごちた。
「元気そうだこと。どうやらうまくいったみたいね。うまくいってくれなきゃ、こっちも身体張ったかいがないんだけど」
 ブーツの踵がフェンスに当たり、かしんかしんとリズムを刻む。
「さて。さっそく今夜から働いてもらうわよ。最初は誰にしようかなー。一日無駄にしちゃったし、ばりばりやらなきゃ」
 少女はどこからともなく手鏡を取り出し、じっと鏡面を見つめた。複雑な模様が彫り込まれた焔のようなフレームに囲まれた楕円形の鏡で、片手で持てる様に持ち手がついている。少女の整った顔を映し出した鏡の表面がざわざわと波うち、別の顔が浮かび上がった。同時に未解読の古代文字みたいな奇妙な記号の羅列が浮かぶ。
 少女は眉を上げ、鏡の表面を指の関節で軽く叩いた。別の顔が浮かび上がる。何度か同じことを繰り返し、ようやく満足そうに頷いた。
「こいつでいいか。素直そうだし。初心者なんだからラクなのから始めてあげましょ」
 悪戯っぽく笑った少女が踵でかしんとフェンスを鳴らす。同時にその姿は煙のようにかき消えていた。



 電池切れを知らせる耳障りな音に、川野正義は舌打ちをして携帯電話を睨んだ。
「くそ、なんだよ」
 どうしてこんなに早く電池がなくなるのだ。今日はまだ大して使ってないのに。イライラと川野は周囲を見回した。
 今いるのは駅前からまっすぐ伸びる商店街の真ん中辺りだ。わざわざ使い捨ての充電器を買うのも腹立たしいが電話はかけたい。約束したゲームセンターに畑中の姿が見えないのだ。
 おっ、と小さな声が洩れる。街路樹の側に、今ではすっかり珍しくなってしまった公衆電話のボックスがあった。
 川野は急いでボックスに入った。緑色の公衆電話はひどく古びて傷だらけだった。使えるか不安だったが、残金を示す表示部分に0が出ているからまだ現役なのだろう。尻ポケットからウォレットチェーンつきの財布を取り出して小銭を投入口に放り込むと、ツーという音が聞こえてきた。
 プッシュボタンを押そうとして気付いた。畑中の番号は何番だったろう。急いで携帯を見たが、とっくに電池切れで画面はブラックアウトしている。
 いまいましく舌打ちした川野は、ふと畑中がくだらない語呂合わせで自分の番号を教えてくれたことを思い出した。
 番号をプッシュして、ぎくりと動きを止める。向き合ったガラスに人影が映っていた。
 その顔に見覚えがあった。そこにいるはずのない人間の顔だ。絶対にいるはずのない――。
 バッ、と川野は振り向いた。
 背後には確かに人間が立っていた。ガラスに映っていた人間とは別人だ。知った顔で、こちらはここにいてもおかしくはない。すごく意外な気はするが……。
 外に立っていた人物はにこりともせず川野を見返し、黙ってドアを開けて踏み込んできた。狭い電話ボックスはたちまちぎゅうぎゅうになる。
「な、なんだよ。まだ俺の用が済んでないんだ、外で待ってろよ」
 答えずに、その人物は背中で折り畳み式のドアを閉める。バタン。音が響くと同時に、電話ボックスの周囲の景色が一変した。というより、何も見えなくなる。まるで突然夜が訪れたように真っ暗になったのだ。
 焦って周囲を見回すと、ガラスに映っている人影がさらにくっきりと目に入った。
 それは自分でも後から入ってきた奴でもない。ここにいるはずがない人間の顔だった。
 絶対にここにいてはいけない人間の顔が、川野を見ていた。何も言わず瞬きもせず、ただじっと見つめている――。
「うわぁぁぁっ」
 川野は背後に立つ人物を押し退けて電話ボックスを飛び出そうとした。折り畳み式のドアは押しても引いてもびくともしない。川野は両手でドアをガタガタ揺らし、蹴り付けた。
「何だよ、これぇっ!? なんで開かねぇんだっ」
 目を血走らせ、川野はもうひとりの人物を睨めつける。こいつがドアに何か細工をしたに違いない。
「てめえふざけてんじゃねーぞ! また痛い目にあいてぇのか!?」
 犬歯をむき出しにして振り向いた川野の表情が、一瞬にして白茶けた。ぎらりと銀色の刃が光った。いかにもよく切れそうな、研ぎ澄まされた細身の包丁が。
 ざしゅ。
 そんな音が、聞こえた気がした。
 びしゃ。
 切断された頸動脈から噴出した鮮血が、電話ボックスの天井を真紅に染める。
 どしゅ。
 胸に包丁が突き刺さる。抜かれる。突き刺す。幾度となく繰り返し。
 首から噴き出る血の勢いが弱くなった。心臓が、ついに止まった。電話ボックスの内部は赤いペンキをぶち撒けたようになっていた。
 薄汚れた天井も、手垢のついたガラスの壁も、傷だらけの電話機も、コンクリートの床も。染まっている。同じ色に。同じ赤に。
 刺された勢いでガラスにもたれかかっていた川野の身体が、ずるずると血溜まりの中に崩れ落ちた。目を見開いたその顔までも、べっとりと赤く染めて。
 生温かい血の海が、川野の亡骸を受け止めてたぷんと揺らいだ。空中でブラブラと揺れている受話器から苛立った声が洩れた。
「もしもし? もしもし? ……誰だよ、悪戯か? ふざけんじゃねぇ、切るぞ!」
 包丁を手にした人物は狭いボックスの中でしゃがみ込み、ゆっくりと回転している受話器に顔を近づけ、低く嗤った。

 自室で電話を受けていた畑中は、急いで携帯から耳を離した。
 うんともすんとも言わない電話に耳を押しつけていたら、いきなり気味の悪い嗤い声が聞こえたのだ。画面に表示されている発信元は公衆電話。ふだんつるんでいる友人は全員携帯を持っている。きっといたずらだ。
 また、嗤い声が聞こえた。残骸についた赤錆をこそげ落とすような、ざりざりした感触の声が。
 ゾッとした畑中の指が通話終了のボタンにかかる。びしゃ、と何かが額に垂れてきた。生温かく、ぬるぬるしたもの。おそるおそる額を探ると、指先が真っ赤に染まる。反射的に天井を見上げ、畑中は絶叫した。
 血まみれになった川野が、そこにいた。
 電話ボックスだ。血に染まった狭苦しいガラスの箱を、逆さまに見ている。ボックスの天井に逆立ちして見ているかのようなアングルだ。ありえない、と理性が叫ぶ。こんなことはありえない。
 畑中は携帯電話を握りしめ、凍りついたように自室の天井を見上げた。ふと、すぐ側に人の気配を感じた。気付いた時には既に事は成し遂げられていた。
 川野とは異なる角度で切られた首から噴き出した血流が、畑中の自室の壁を真っ赤に染めた。切られた勢いで半回転し、血飛沫が壁やベッド、大ヒット漫画の並ぶ本棚を毒々しく染め上げる。
 赤黒く染まった包丁をだらりとさげ、その人物は猫が喉を鳴らすように嗤った。
 床に倒れた畑中の身体を、川野と同じように執拗に刺す。溜まった書類に判を押すかのように、一定のリズムで、愉しそうに。
 どしゅ、どしゅ、どしゅ、どしゅ、どしゅ。
 袋に穴を開けるように。身体中の血が一滴残らず流れだすように。念入りに。重く血を吸ったカーペットから蒸気のように黒い靄が立ち上る。それは次第に小さな生き物めいた形を取り、じゅくじゅくになったカーペットに貼りついた。
 黒いかたまりは畑中の死体にも隙間なく群がった。天井とつながった電話ボックスでも同じような光景が繰り広げられていた。
 立ち上がった人物は満足そうに口の端をつり上げ、猫が喉をごろごろ鳴らすように嗤った。その人物が消えた時、川野と畑中の死体もまた忽然と消え失せていた。



 木曜日、陽一はげっそりと疲れ果てて自宅の鍵を開けた。鞄を適当に放り投げ、どさりとソファに沈む。
「うぁー……。なんでこんなに疲れんだよぉ」
 理由のひとつは間違いなくあれだ。月曜日から見えるようになった、変な生き物。別に何かされたわけではない。むしろ奴らは陽一を恐れているようで、目があった瞬間には身を隠すように消えてしまう。しばらくするとまた視界の隅にちらちらと見え始め、ギッと睨むとまたポンと消えるという繰り返しだ。
 害はなさそうだから放っておけばいいと自分でも思うのだが、何かこう気になってしかたがない。主に台所に出没する黒く艶光りするすばしこい奴みたいに妙に気に障るのだ。いっそゴ○ブリホイホイでもしかけて一網打尽にしたいくらいだが、あの変な生き物ははたして粘着テープにひっつくのだろうか。益体もないことを考え、陽一は不景気な溜息を洩らした。
 初日以外は自宅で出くわしていないのが唯一の救いだ。あんなのとトイレの扉を開けるたびに顔を突き合わせていたら絶対ノイローゼになる。
 無視しよう、無視すべきなのだ。己に言い聞かせつつ、どうしても気になるのは榊奈々美にへばりついていた真黒な靄のかたまりだった。
 あれは無害だとはどうしても思えない。陽一が見ていても恐れて逃げることもなく、姿を消してもむしろこっちを馬鹿にしているように思える。
 気をつけて見ていると、奈々美の他にも黒いかたまりがくっついている人物は何人かいた。生徒だけでなく教師の中にもいた。学校以外でも道行く人々の中に見かけたが、性別も年齢もバラバラだった。あえて共通点らしきものを挙げるとすれば、何だか皆あまり楽しそうな顔はしていないというはなはだ漠然とした印象だけだ。奈々美を含め、全員がどこかピリピリと尖った雰囲気の持ち主だった。
 そういった出来事が憂鬱な気分の一因であることは間違いないのだが、身体的にも妙にだるい。睡眠は足りているはずだ。むしろ以前より早寝になった。寝つけば翌朝母に起こされるまで爆睡で、夜中に目覚めることもない。それなのに朝起きるとどういうわけか全力疾走した後みたいに疲労困憊しているのだ。
 起きて活動を始めれば疲労感は徐々にとれてくる。それでどうにか授業中はもつのだが、放課後になるとまただるくなる。
 ぼんやりとソファに寝そべっていた陽一は、留守電のボタンが点滅していることに気付いた。ボタンを押してみると母の声が聞こえてきた。
『――あ、えーと。ごめん、急に残業入っちゃって今日は遅くなりそうなの。お腹空いたら適当に冷凍食品でも食べといてくれる? ごめんねー』
「へーい」
 留守電に向かって返事をし、陽一は設定ボタンを押し直した。こういうことは今までに何度かあったし、別にどうってこともない。身体はだるいが眠いわけでもない。ゲームでもやろうかと身を起こし、ふと思いついた。
「……叔父さんとこ行こうかな」
 今日は木曜日。ということは叔父の家で美味い夕食を食べられる確率が高い。よし、行こう。手早く着替え、財布と携帯をリュックに入れて家を出た。叔父は同じ市内に住んではいるが、陽一の家から電車で一駅ある。陽一は徒歩十五分の駅に向かって歩きだした。
「――あ、もしかして」
 角を曲がってから思い出し、急いで携帯を取り出す。呼び出し音が数回鳴って、陽一と同年代の控えめな少女の声が聞こえてきた。
『はい。三瀬川みつせがわ探偵事務所です』
真木那まきな? 俺だけど。えーと、陽一」
『陽一さん? お久しぶりです!』
 ワントーン上がって少女の声が弾む。
「今日、母さんが残業なんで叔父さんとこ行こうと思ったんだけど。……起きてる?」
『今は寝てますけど、そろそろお目覚めになるはずです。陽一さん、今どこですか?』
「ウチから駅に向かってるとこ」
『じゃあ、陽一さんが着く頃には起きていらっしゃると思いますよ。陽一さん、晩ごはんはこちらで召し上がりますよね?』
「あ、うん。できればそうさせてもらいたいなー、と」
『よかった。じゃあ、お待ちしてます』
「うん、それじゃ後で」
 通話を切り、ホッと息をつく。叔父の事務所でまったり過ごすなら、日・月・木のどれかに限る。陽一は携帯をポケットに突っ込み、歩く速度を速めた。



「……うはー、こいつぁ派手だな」
 制服警官が持ち上げてくれた黄色いテープを潜り、鷹見悦司たかみえつしは感心したようにつぶやいた。テープの向こうからすでに現場は見えていたが、間近で見るとやはり凄まじい。
 時代に取り残された、というより奇跡的に残った老朽化した電話ボックスは、ガラス張りの四面すべてが真っ赤に染まっていた。コンクリートの床も、ここからは見えないがボックス内の天井も、やはり赤ペンキをぶちまけたような状態とのことだ。扉は閉まっており、中には誰もいない。
 生々しい血臭が下部の隙間から漂いだし、鷹見の鼻腔を不快に刺激した。眉をひそめた鷹見の元に、童顔の青年が駆け寄ってきた。この春配属されたばかりの新人・宮迫みやさこだ。スーツを脱げば大学生で充分通ってしまう。良く言えばフレッシュ、悪く言えば頼りない。
「お疲れさまです、鷹見さん」
 宮迫は青白い顔で会釈した。鷹見は片方の眉を上げ、五歳年下の後輩を眺めた。
「どうした、今にも吐きそうだぞ」
「ヤバかったです、最初に見た時は」
 真剣に頷き、宮迫は肩ごしに電話ボックスを指さした。視界に入れまいと完全に背を向けている。鷹見は声もなく苦笑した。
「確かになぁ」
「中はあんなに血みどろなのに、外のガラスには一滴もついてないんですよ。通行人が気付いた時にはあの状態で」
「中に人はいなかったんだな」
「はい。通行人が悲鳴を上げて、それで周囲の人間も気付いたわけです。通報して警察が来るまでボックスの周囲は人だかりがしてましたが、中に入った人は誰もいません。ケガ人でもいれば入ったでしょうけど、無人だったので」
 鷹見は頷きながら周囲を見回した。人だかりは今でも消えるどころかさらに増えている。周囲にあふれだした血溜まりを踏まないように気をつけながら、ボックス内部を覗き込んだ。血飛沫などという生易しいものではない。バケツに汲んで力いっぱいぶちまけたみたいだ。ひとりの人間が流したものだとすれば、そいつは確実に出血多量で死んでいる。
「……人間の血かどうかはまだわからんのだろ」
「それはそうですけど、動物の血だとしてもどうやったんでしょうね。この商店街は駅に続いてて、通行人が絶えるのは終電後の深夜くらいです。それから、えぇと……」
 宮迫は手に持っていたメモ帳に視線を落とした。
「このすぐ前の商店主によりますと、午後三時ちょっと過ぎに客を送り出した時には電話ボックスに異常はなかったそうです。出入口に立てば自然と視界に入りますからね。あの状態だったなら、すぐに気付くでしょう」
「通報は三時半くらいだったか」
「そうです。午後三時三十二分。通報したのはそこの理髪店の主人で」
 鷹見は顎を撫でた。無精髭が伸びかけている。剃らなければと思いながら尋ねた。
「その間にボックスに入った人間はいるのか」
「目撃者なし、ですね。今、公衆電話の通話記録を調べてます」
 受話器はフックから外れたままぶら下がっている。少なくとも、誰かが受話器を持ち上げ、落とした。故意か不可抗力だったのか。
「……しかしどうにかしてここから出たわけだろう? どうやって出たんだ?」
「そうなんですよ。このドアは中から開ける時はこの端っこのところをこう、手で押さないと開かないのに、そこも血がべったりでしょ。手形どころか血が擦れた後もない」
 唯一の乱れはドアを開けて左手の壁面にある血が擦れた跡だけだ。ガラスに背中を預けてずるずると崩れ落ちる姿を想像し、鷹見は顔をしかめた。
「これが仮にたちの悪いいたずらだったとしても、痕跡を残さず出るのは不可能だな」
「天井まで血が飛んでるんですよ。こんなことしたら返り血というか、自分にもかかっちゃいますよねぇ?」
「そうだな……」
 鷹見はまたざらつく顎を撫でた。首筋がうすら寒い。いやな兆候だ。こういう時は大抵続けざまに何かが起こる。数時間後、不吉な予感が当たっていることを鷹見は知った。



 十分ほど電車に揺られて隣の駅に着いた。Y字型に伸びる道路の一方はビルの建ち並ぶ大通りで、数年前に再開発されて整然としている。
 陽一は反対方向に伸びるやや狭い道の方を歩きだした。駅に近い場所に昔ながらの書店とコンビニ、チェーン店のカフェ、小洒落たビストロなんかが並び、そこを過ぎれば飲み屋街だ。まだネオンが灯るには早い時間で、人通りは少なかった。
 だらだら坂を上り続けると三叉路に出る。まっすぐ進めば小高い丘の上に立つ寺に突き当たり、左手はやや下りになって駅の反対側へ続く。陽一は右側のいちばん細い道に入った。
 角を曲がるともうそこは閑静な住宅街だ。減速しないと車がすれ違うにはやや不安な道幅。両脇には二階建ての一軒家が適度な距離をおいて建っている。
 坂道が一瞬だけ急になり、この界隈ではいちばん高くなっているところに目指す叔父の家はあった。
 年季のいった煉瓦の壁に蔦が絡む、四角い箱型の建物だ。一階は車庫になっていて、向かって左手に二階の玄関へ続く中折れ階段がある。車庫の黒っぽい扉は閉まっていた。
 階段の手すりは凝った細工の鋳鉄でできていて、一見すると喫茶店かレストランのようだ。実際には、ここはかつて小さな個人病院だった。もうとっくに廃業したが、『三瀬川醫院みつせがわいいん』とレトロな字体で書かれたレトロな看板が、今でもひっそりと壁にかかっている。近所の人は知っているから診察を受けに来たりはしないが、やってもいない病院の看板をそのままにしておくのは紛らわしいじゃないかと見るたびに陽一は思う。
 しかも、今の本業である探偵事務所の方は一言も書かれていない。まぁ、通りすがりに探偵事務所に立ち寄る人間もいないだろうから差し支えはないのだろうけど。
 階段を登るとガラス張りの玄関ドアにもくすんだ金色の文字で『三瀬川醫院 外科・内科・小児科』と書かれている。ドアを開けるとかつては下足入れがあったであろう小さな空間を挟み、左手に続くもうひとつのドアを開けると上部に取り付けられたベルがちりちり鳴って来客を知らせた。
 事務所部分は土足なのでそのまま入る。中には誰もいなかった。間取りは病院だった頃と同じで、『受付・薬局』と書かれた上半分がガラスになったカウンターがそのまま使われている。かつて待合室だったところには応接セットが置かれ、テーブルの上には小さな花が飾られていた。
 受付の中を覗き込んでみると、内側のカウンターには伏せられた文庫本が一冊乗っていた。真木那まきなが暇つぶしに読んでいたのだろう。
 壁際には所員が書類仕事をするために使うスチール机がひとつ。机の上はいつもどおりきちんと片づけられていた。カウンターのこちら側に内線電話が置かれており、ガラス窓には使い方の説明を書いた紙が内側から貼られている。陽一は一度も使ったことがない。
 受付右手の壁にはドアがふたつ。かつての診療室に続くドアとトイレのドアだ。診療室に続くドアの方が開いていたので、覗き込んでみた。診療室は手前が所長室、奥が休憩室として使われている。
 この建物は正面から見た幅から想像するよりずっと奥行きがあり、ぱっと見た印象よりもかなり広い。所長室のドアをノックしてみたが返事はなかった。叔父はまだ寝ているのだろう。
 物音に気付いたか、通路の奥からひょいと顔が覗いた。陽一を認め、千曳ちびき真木那はパッと花がほころぶような笑顔になった。
「いらっしゃい、陽一さん」
「や、久しぶり」
 千曳は三瀬川探偵事務所の事務員で、真木那が出てくるのは木曜日だ。主な仕事は雑用――叔父の秘書業務と家事全般――だが、ネットを使った調査も担当している。
「叔父さん、まだ寝てんの?」
 真木那は陽一の先に立って休憩室に入り、棚の上に置かれた巨大な砂時計を眺めた。
「あ、落ちてますね。そろそろお目覚めでしょう」
 真木那の台詞が終わらないうちに、トントンと階段を降りてくる足音がした。
「千曳ー、コーヒーくれ」
 まだ半分ねぼけたような声に振り向くと、パジャマ姿の若い男が頭髪をかき回しながら大欠伸をしていた。
「んー? 陽一じゃないか」
「おはよ、叔父さん。もう夕方だけど」
 叔父――三瀬川はゆるは苦笑いして陽一の頭をぽんぽん叩いた。
「少し背が伸びたんじゃないか?」
「そぉ?」
 陽一は軽く顎を上げて叔父を見上げた。映は一八〇センチを超えるスリムな長身だ。陽一は一六二の身長を気にしている。
「まだ高校入ったばっかだろ。これからいくらでも伸びるさ」
 ボサボサ髪で笑う映に、真木那がカップを差し出した。
「はい、所長。起き抜けだからカフェオレですよ」
 受け取った映は背後を振り向いて鼻をくんくんさせた。
「いい匂いだな。ビーフシチューか」
「じっくり煮込んでますので、もうちょっと待ってくださいね」
「それじゃ、その間にシャワー浴びてくるとするか」
 カフェオレをすすりながら休憩室を出ようとした映がふと足を止める。
「メシ食ってくんだろ、陽一?」
「あ、うん」
「姉さんには言ってきたか?」
「今日は残業で遅くなるんだって。叔父さんとこ行くってメモ書いてきた」
「そか。ならいい」
 にこ、と笑って映は出て行った。
「陽一さん、TVでも見てゆっくりしててください」
 礼を言う陽一に笑いかけ、真木那はキッチンへ戻って行った。
 陽一はテーブルの上にあったリモコンを手にとり、TVのスイッチを入れた。適当にチャンネルボタンを押していき、ニュース番組でふと手を止める。人だかりのなか、女性レポーターが緊張した面持ちでマイクを握っている。
 何だか見たことのある風景――陽一の住む町の、駅前通り商店街だ! レポーターの背後に映っているのは黄色いテープに取り巻かれた電話ボックス。商店街に唯一残った公衆電話だ。陽一が自宅から駅に行くときにはこの商店街は通らないので騒ぎに気付かなかった。
 レポーターのしゃべりが聞けたのは途中からだが、公衆電話で悪質な悪戯があったらしい。誰かがボックス内部に動物の血をぶちまけたという。画面では少し遠いが、電話ボックスのガラスは確かに赤く染まっている。目撃者はなし。犯行は三時半前後とのこと。
 中継がスタジオに戻り、別なニュースが始まった。陽一は首を捻った。途切れることなく通行人が歩いているのに、どうやって誰にも気付かれずにそんなことができたのだろう。
「何か面白いニュースでもやってるのか?」
 背後から声がして振り向くと、映がタオルで頭を拭きながら入ってきた。黒いタンクトップと伸縮性のある動きやすい黒のボトム。見慣れたいつもの格好だ。
 手櫛で髪を後ろに撫でつけた映は相変わらず男前だった。風呂上がりの今は、文字どおり水もしたたるいい男である。幼い頃から見慣れていても、時々改めて感心してしまう。
 自分ももう少し叔父に似たかった、としみじみ思うが、それは無理な話だ。陽一と映はまったく血の繋がりがない。母の弟といっても映は母の父、つまり陽一の祖父の再婚相手の連れ子なのである。

 陽一の母・美晴が二十歳の時、祖父・桂一郎は三瀬川涼子という女性と再婚した。桂一郎は早くに妻を亡くし、男手ひとつで美晴を育てた。美晴は父の再婚を心から祝った。
 涼子には八歳になる息子の映がいた。桂一郎と涼子は東北地方へ新婚旅行へ出かけ、そのまま二度と戻らなかった。車で移動中、いずこともなく忽然と姿を消してしまったのだ。
 何の手がかりもなく、車も荷物も出て来なかった。突如として美晴は八歳の少年の面倒をひとりで見なければならなくなった。
 弟といっても映はまだ桂一郎と養子縁組をしていなかったので、戸籍上は赤の他人である。児童養護施設に引き取ってもらったらと親戚に勧められたが、美晴は映と一緒に住むことに決めた。
 短大生だった美晴は卒業後、会社勤めを始めてまもなく知り合った保科剛ほしなつよしと二十二歳の時に結婚した。
 剛がマスオさん状態で美晴の家に住み始めて三人暮らしとなり、翌年には陽一が生まれて四人暮らしになった。それは陽一が八歳になり、映が大学入学を機に家を出るまで続いた。
 そういうわけで映は陽一にとって叔父というより年の離れた兄といった存在なのである。陽一が物心つく頃にはすでに映は中学生だったが、よく遊んでもらった。
 映は両親が行方不明になった直後から始めた拳法がかなり強くなっていて、陽一は両親に連れられて映の出場する大会に応援に行った。強くて格好よい若い叔父は陽一の自慢と憧れの存在だった。
 映は大学を卒業すると警察官になった。母と義父が行方不明のままであることが頭にあったのかもしれない。捜査課に配属された映は、やがて悲劇に襲われる。とある立てこもり事件で応援に駆り出され、巻き込まれた銃撃戦で頭部に重傷を負ってしまったのだ。
 何日も生死の境をさまよい九死に一生を得たが、後遺症で刑事として働き続けることができなくなった。警察を辞めた映はかつて祖父が開業していた医院を改装し、探偵事務所を開いて今に至る。
 映は食卓の椅子に腰を下ろし、首にタオルをかけてTVを眺めた。画面に映っているのは経済ニュースだ。次は天気予報です、とアナウンサーが言ってコマーシャルが始まる。陽一は向かいの椅子に座った。
「なんかさ、うちの方で変な事件が起こったらしいよ。さっきやってた」
「変な事件?」
「誰かが縁野ゆかりの駅前商店街で、公衆電話のボックスに動物の血を撒いたんだって」
「何だそりゃ」
 映が端整な顔をしかめる。
「誰がいつどうやってやったのか、わかんないみたい」
「誰がやったにしろご苦労なこった。世の中暇人であふれてるな」
「お待たせしました~」
 真木那が大きな両手鍋を持って入ってくる。陽一は手伝おうと立ち上がった。
 皿や茶碗を並べ、メインのビーフシチューを盛りつける。他にはゆで卵とアボカド、エビを載せたボリュームのあるシーザーサラダ、きゅうりの酢の物も出ている。いただきますと唱和して食べ始めた。
 何時間もコトコト煮込まれた牛肉はとろけるようにうまい。母も料理するのは好きな方だが、フルタイムで働いているため時間のかかる料理は滅多に作れない。
「すげーおいしい、これ」
 そう言うと、真木那は嬉しそうにニコニコした。
「たくさん作りましたから、美晴さんにも持っていってあげてください」
「ありがと」
 映は黙々と食べ続けている。何せ二日ぶりの食事なのだ。映には奇妙な睡眠障害があって、毎回ではないのだが、一旦寝つくと四十九時間後まで目が覚めないことが頻繁にある。しかもそれは予想もつかず、不定期に訪れるのだ。
 これでは毎日規則正しく出勤するタイプの仕事はできない。刑事だって無理だ。もし何か事件があって捜査本部が立っている時に丸二日出勤できなかったら仕事にならない。
(優秀だったらしいのに、気の毒だよなー……)
 口には出せない言葉を胸の内で呟いていると、玄関の方で物音がして誰かが廊下を歩いてきた。開けっ放しの入り口に映を上回る長身の影が立つ。
「――あ、おかえりなさい、比良坂ひらさかさん」
 声を上げた真木那に頷いたのは、この事務所唯一の調査員・比良坂いつきだった。
「よ、おかえりー」
 にやりとした映に、比良坂は心もち眉をひそめた。
「ただいま戻りました。……お目覚めでしたか、所長」
 比良坂は映と同い年、しかも小学生からの友人であるにも関わらず何故かいつも敬語で話す。映が雇い主だからではなくて――それももちろんあるのだろうが――比良坂は誰に対しても無表情かつ堅苦しい敬語なのだ。真木那や陽一に対してもそれは変わらない。
「メシまだだろ? おまえも食えよ」
 比良坂は頷き、上着を脱いだ。ネクタイをきっちり締めたスーツ姿は、ぱっと見ビジネスマン、それもかなりデキそうなクールなビジネスマンだが、実際には比良坂は元監察医である。
 映がケガの後遺症で警察を辞めると何故だか彼も監察医を辞めてしまい、探偵事務所の調査員になった。理知的に整った顔は表情の変化に乏しく、何を考えているのかさっぱりわからない。陽一は正直ちょっと苦手である。
「そーいやおまえ、誰だっけか、身辺調査してたよな。あれどうなった?」
「もう終わりました。調査報告書を依頼主に渡してきたところです」
 映自身が担当するのは、すでに死んでいることがわかっている行方不明人の捜索と、警察が事故や自殺とみなしたことに納得できない遺族からの再調査依頼だけである。
 比良坂の担当はその他すべて。身上調査でも浮気調査でも選り好みせず引き受けるが、ペットの捜索だけは絶対やらない。犬猫アレルギーで近寄ると発疹が出るのだ。
 どう見ても流行っていそうにないこの探偵事務所が潰れないでいるのは、きっと比良坂のお蔭だろう。無口で無表情でとっつきにくいものの真面目で地道な働き者なのである。
 映は食べることに集中しているし、比良坂は食事中に限らずほとんど喋らない。食卓の会話を担当したのは陽一と真木那だった。というより、真木那にせがまれて高校での出来事などを話した。
 真木那は年齢的には陽一よりひとつ年上なのだが、事情があって高校には行かずに通信教材を使って自宅で勉強している。
 大学入学資格を取りたいのだと打ち明けた真木那は、すぐに『難しいですよね』と寂しそうに笑った。陽一には返す言葉がなかった。
 学力がどうこういうレベルではなく、真木那には学校に行けない理由がある。どこかに勤めたりアルバイトするのも難しい。
 真木那、というか『千曳』は多重人格なのだ。それも曜日ごとに異なる人格が存在するという、フィクションめいた七重人格である。
 彼女の特殊な事情を知ってなお雇ってくれる人はほぼ皆無だろう。三瀬川探偵事務所は、真木那を含めたすべての千曳にとって替えのきかないただひとつの場所なのだ。
 食後にほうじ茶を飲んでいると、映がのんびりした口調で言い出した。

「で? 何があった」
 陽一は驚いて叔父を見返した。別に何も匂わせたつもりはないのにお見通しだったらしい。黒目がちの漆黒の瞳で映は陽一を見つめた。光彩と瞳孔の区別がつかないほど真黒な瞳で見つめられると、そわそわと落ち着かない気分になる。何もかも見通されている気がして。ひどく後ろめたいような気分になって。
「うん……」
 湯飲みを両手で持ったままうつむいてしまう。微笑んで映は立ち上がった。
「場所変えるか」
 陽一は映の後について隣の所長室に入った。八畳ほどの部屋には入り口の正面に木製のデスクがあり、上にはノートパソコンが載っている。ヘッドレストつきの座り心地よさそうなデスクチェアに腰を下ろし、映は陽一に机の前の椅子に座るよう促した。そのまま映は椅子をリクライニングさせてのんびりほうじ茶を啜っている。
「うーん。やっぱりほうじ茶は縁野ゆかりの茶園のやつが香りがよくていいな。来るついでに買ってきてもらうんだった」
「あ、ごめん。忘れてた。今度は買ってくるよ」
 映は縁野駅前商店街にある茶屋が自家焙煎しているほうじ茶がお気に入りなのだ。よく土産に持ってくるのだが、今日はふいに思いついて訪ねることにしたので、そこまで気が回らなかった。思い出したらでいい、と映は微笑った。
「……叔父さん。実は俺、変なものが見えるようになっちゃって」
「変なもの? 具体的にはどんな」
 相変わらずのんびりした口調で訊かれ、陽一はできるかぎり詳しく話した。飛び出した巨大な目玉のついた、嘴みたいな細長い口の異形のモノについて。
「俺、目がおかしくなったのかな。それとも……」
「頭がおかしくなった、か?」
「叔父さんはそういうのが見える人なんだよね。見たことある?」
 陽一は身を乗り出した。叔父に相談しようと思ったのは他でもない、映がいわゆる霊視能力の持ち主だからだ。映は答えず、机の上にあったノートパソコンを開いた。しばらく黙ってキーを叩いていたかと思うと、パソコンを反転させて画面をこちらに向ける。
「見えるのはこういう奴か?」
 まさに陽一が見ていたのとそっくりな異形のモノが描かれている。古い日本画のようだ。
「これ! これだよ、こんな感じ。これって何の絵?」
「餓鬼草子だ」
「餓鬼……?」
「餓鬼界の住人だよ。餓鬼界は仏教の宇宙観で人間が輪廻転生する六つの道のひとつだ。天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄。餓鬼界は人界と地獄界の間にあるとされている。地獄に落ちるほどではないが罪を犯した人間が落ちる。基本的な刑罰は飢えと渇き」
「それってただの想像でしょ」
「人間の想像力ってのはな、まったく無の状態では働かないんだよ。何かしらヒントになるものがあってこそ膨らむんだ」
「じゃあ、俺が見たようなやつを昔にも見た人がいて、それでこの絵を描いた?」
「何らかのきっかけにはなったかもしれないな」
 陽一は絶句した。端整な叔父の顔は、からかっているようには見えない。
「……叔父さんにも見えてるの? これ」
「たま~にちらっと見えるくらいかな。普段は波長が合わないから俺はあんま見えない」
「じゃあ俺、波長合っちゃってるわけ? やっぱ電波が来た!?」
「陽一、最近なんか変わったことなかったか? 軽ーく死にかけたとか」
 何気ない口調で訊かれ、ぶんぶん首を振る。
「あるわけないじゃん、なんでっ」
「それまで霊やら何やら見えてなくても、臨死体験がきっかけで見えだす奴もいるから」
 あ、と思い出す。
「死ぬ夢なら、見た……」
「夢?」
「うん。夢の中で暴走車にドーンと撥ねられて、ド派手に死んだ。――でも、ただの夢だよ? ほら俺ぜーんぜん元気だし。夢でも臨死体験なんかできんの?」
「死にそうな重病人ならありえるが……」
 映は椅子の背にもたれかかり、しげしげと陽一を眺めた。
「ま、大抵は無害な奴らだ。そんなに気にしなくていい」
「だって気になるんだよ! うちだけじゃなく、学校とか道端とか、あっちこっちにうじゃうじゃいるんだから」
 陽一は椅子から立ち上がって机に手をついた。
「叔父さん、お願い! あの変なモノが見えないようにして。できるだろ!?」
「そりゃまぁ、見えなくするだけならできなくもないけど」
「じゃあそうして。お願いします!」
 ぱんっ、と手を打ち合わせて拝む。映は眉をつり上げ、ハッと嘆息する。
「本当に見えないようにするだけだぞ? そこにいることは変わらないんだ」
「いいよ、見えなければいないのと同じだもん。それに無害なんでしょ」
「全部が全部無害ってわけじゃない。中には凶悪なのもいる。生き血を好む吸血鬼みたいな奴とか、人間に取り憑いて精気を奪ったり狂気に陥れたりする奴とか」
 陽一の頭に、榊奈々美の姿が思い浮かんだ。もやもやした黒いかたまりを、べったりと肩に貼りつかせて――。
「……そういう危ない奴も、この絵みたいな格好なの?」
「人間の中に入り込むような奴ははっきりした形がないらしいな」
「それって誰にでも無差別に取り憑くのかな」
「波長の合う奴を選ぶだろうよ。心配しなくても、そう滅多に合うもんじゃない」
 だったら自己責任だ。奈々美がどうしてあんなものにくっつかれたのか知らないが、本人が呼び寄せてしまったものなら俺がどうこうすべき問題じゃない。
(向こうだって、俺とは関わりたくないと思っているはずだ)
 お互いに目を逸らしたまま、卒業して関わりがなくなるのをじっと待ってる。
「……見たくないんだよ。これ以上。俺、あれが見え始めてから何か調子悪くてさ。取り憑かれてるわけじゃないよね?」
「それはないな」
「だったらいいんだ。見えなくして」
 映は息をつき、身を屈めて机の下の方の引き出しを探った。
「見えなくするだけなら、あれでいいよな……」
 独りごちながらごそごそ引き出しをかき回す。お、あった、と呟いて映が取り出したものに、陽一は唖然とした。それは黄色い柄に赤い頭のついた――、
「――ピコピコハンマー?」
 玩具じゃないか。てっきり御札とか護符とか、何かそういうよくわからないけどありがたそうなグッズが出てくると思ったのに。なにゆえピコピコハンマー。っていうか、いい大人の、しかもどの角度から見ても隙なく美形の叔父が、どうしてそんな玩具を机の引き出しに入れているのであろう。
「馬鹿にしたもんでもないぞ。これには超強力な封印力があるんだ。こうやって、」
 ピコッと陽一の額を叩く。痛くはないが反射的に眼をつぶってしまう。
「叩けば力が封印される。それが良いものであろうと悪いものであろうと」
 陽一は額をさすりながら顔をしかめた。

「……これで見えなくなったの?」
「二時間は見なくてすむ」
「二時間だけ!? ずっとじゃないの!? 超強力なんだろ!」
「一回叩けば二時間は絶対に何も見えない。ただし、十二回以上叩いても効果はない」
「ってことは最大で二十四時間か……」
 陽一は差し出されたピコピコハンマーを浮かない顔で受け取った。何とも冴えないアイテムだ。持ち歩けない大きさではないが見られたら絶対呆れられる。しかしこれであの気色悪い餓鬼たちが見えなくなるのなら、毎朝自分の頭をピコピコ叩くくらい構うものか。
「そうだ。このハンマーで餓鬼を叩いたらどうなるのかな。消えちゃう?」
「あー、それは気の毒だからやめとけ。せっかく貯めた点数がパーになる」
「点数?」
「まぁわかりやすく言えばな。点数が溜まると餓鬼界を脱することができるってこと。悪意を向けてくる奴以外には使うなよ。見ないことにするなら、あいつらの不利益になるようなこともするな」
「……うん、わかった」
 公平だと思い、陽一は頷いた。



 帰宅した夫は、いつものように玄関からまっすぐ居間へ入った。
「ただいま」
 答える声はなかった。自宅療養に切り換えたとはいえ、まだ妻の体力は回復していない。寝室で休んでいるのだろう。
 台所にはラップのかかった料理の皿が、温めればすぐに食べられる状態で並んでいた。作ったのは妻ではなく、退院に合わせて頼んだ家事代行業の女性スタッフだ。
 二階へ上がろうとして、ギィ、と階段が軋んだ。何故だろう。見上げた二階がひどく暗く見える。まるでくろぐろとした陰が居すわってるみたいに。
 無意識に足音を忍ばせて二階へ上がる。二階には夫婦それぞれの寝室――妻が入院するずっと前から寝室は別だった――と、今は亡き娘の部屋がある。その部屋のドアが開いていた。
 覗き込んだ夫はその場に立ちすくんだ。妻は箪笥やクローゼットを開け、取り出した娘の服を床やベッドの上に並べていた。驚きから立ち直った夫は安堵を覚えた。やっと吹っ切れたか。娘が死んでそろそろ一年半になるというのに、妻は娘の部屋を完全に生前のまま保ち続けていた。
「処分するのか」
 夫が尋ねると、妻は振り向かずに答えた。
「そうよ」
 夫は混乱した。答えにではなく妻の口調に。それはとても嬉しそうに弾んでいた。これまでの妻の状態には、あまりにもそぐわなかった。
「今は伸び盛りでしょう? きっとずいぶん背が伸びたと思うのよ。あれから一年半たってるんだもの」
「何を言ってるんだ……、あの子は」
「帰ってくるのよ!」
 振り向いた妻は喜びに上擦った声で叫んだ。夫は息をのむ。妻の顔が、病後でやつれた妻の顔が、喜びに輝いていた。その目に宿る輝きは尋常ではなかった。どう見てもふつうではない。妻はふたたび背を向けて衣服の整理を始めた。
「帰ってくるの。あの子が帰ってくるのよ。素敵な服を買ってあげるの。あの子に似合う、可愛い服を買ってあげる。もうこんな服はいらない。中学の制服も捨てるわ。こんなもの見たら、イヤな思い出がよみがえってしまうもの。きっと不愉快になる。もうそんなイヤな思い出はいらないのよ。あの子は帰って来て、新しい人生を始めるの。祝ってあげなきゃ。あの子の新しい人生の始まりを、祝ってあげなきゃ――」
 服を広げては、いらないと言ってぞんざいに積み上げてゆく。その姿を夫は青ざめた顔で眺めていた。何も言えなかった。背中が冷たい。ワイシャツの下で鳥肌がたっている。
 嬉しそうに妻は笑い、うっとりとした口調でささやき続けた。
「帰ってくる。もうすぐあの子が帰ってくる――」



 陽一が自宅に戻ったのは八時頃だった。美晴はもう戻っていて、挨拶をして帰ろうとする映を強引に引き止めた。
「ちょっと、るー君。久しぶりなんだからお茶くらい飲んでけば。それともビール?」
「いや、車だから」
 とっくに成人した血の繋がらない弟を、美晴は未だに『るー君』と呼ぶ。
 苦笑して映は家に上がった。かつて十年以上も住んだ家だが、大学に入ってからは長期休暇でもあまり戻らなくなった。電車で一駅の距離に住んでいてもそう頻繁に会うことはない。
 美晴は真木那の作ったビーフシチューを受け取るとニコニコと笑み崩れた。
「わー、嬉しい。真木那ちゃんにお礼言っといてね」
 映は三十分ほど美晴と話すと、また近いうちに寄るからと言って引き上げた。見送った陽一はふわぁと大きな欠伸をした。
「なんか俺、すげー眠い」
「この頃疲れた顔してたもんねぇ。お風呂もう沸いたから、入って早く寝たら」
「んー、そうする」
 陽一は自室で荷物からピコピコハンマーを取り出した。母の目につくところには置きたくないが、下手に隠しておけば掃除機をかけにきた美晴に見つかる。
 別に見つかって恥ずかしいものではないが――いや、やっぱり恥ずかしいか。考えた末、机の一番下の引き出しの中に入れておくことにした。引き出しの中身と適当に混ぜ合わせ、あくまでさりげなくどうでもいい感じで突っ込む。
 ゆっくり風呂につかっていると、うとうとと眠気に襲われた。ずり落ちてむせながら起き上がり、顔をぬぐって陽一は風呂場を見回した。
 不審な影が見えないことを確認して、ほっと安堵する。例の変な生き物――餓鬼――は時折風呂場にも出没してぎょっとさせられたのだ。
(うさんくさいけど、やっぱ効いてるのかな、あのハンマー……)
 ハンマーで頭を叩かれる前から、叔父の探偵事務所では一匹も餓鬼を見なかった。駅前あたりでは何匹か見かけたような気もするが、それらしきものが視界に入るたびに目を逸らしていた。
 すでに脊髄反射的に視線が別方向に飛ぶのだ。それでも何となく苦い気分になってしまうが、最初から見えなければそんなこともないはずだ。
「助かったよな~。もっと早く叔父さんに相談すればよかった」
 陽一はしみじみ呟いた。映は霊能力者として売っているわけではないので、何となく遠慮があったのだ。
(あ、でも行方不明になった人の家族とかが相談に来た時には力使ってるんだっけ……)
 写真を見ただけで生死がわかるということを、映は依頼者には言わない。依頼者も映の能力をあてにして相談に来るわけではない。
 陽一も、映にそういう能力があることを絶対に口外するなと母に戒められていた。本人よりもむしろ美晴がとても嫌がるのだ。霊能力があるということではなく、そのために映が利用されることが許せないらしい。
 血は繋がっていなくても、両親が失踪してふたりきりになってしまった美晴と映には、手を取り合ってつらい時期を乗り越えた者同士の絆が確かにあるのだ。
 風呂から上がった陽一は、ぱったりとベッドに倒れ込んだ。
「……これで明日から安心だぁ~」
 ぐふふと笑い、ふとんにもぐり込む。目を閉じるなり陽一は一気に爆睡していた。

 陽一が幸せな眠りについた頃。向かいの住宅の屋根の上に、月光に照らされたシルエットが浮かび上がった。
 長い髪の小柄な少女である。着物を洋風にアレンジしたような変わった格好だ。黒が基調の袖が広がった衣装で、昏い黄金と真紅の金襴の帯を結び目を前にして胸高に締めている。
 月の光でうっすらと青みがかって見える銀の髪は、正面から見ると鋭角的なおかっぱだが後ろは長く腰まで届く。
 耳の上で彼岸花の髪飾りが夜風に揺れた。左手には身長を上回る長さの杖を握っている。杖の先には奇妙な形の骸骨がふたつ。片方は鳥、もう一方は獣の頭蓋骨だ。
 少女は身じろぎもせず、彫像のように屋根の上に佇んでいた。何かをひたすら待つように。そしてその時が、きた。
 カタカタ、と鳥の頭蓋骨がくちばしを鳴らす。うっすらと微笑んだ少女は帯から真鍮色の懐中時計を取り出し、ぱちんと蓋を開いた。盤面では針が重なって一番上を差している。だが、今は十二時ではない。
 悪戯っぽく少女はささやいた。
「さて。今夜も借りを返してもらいましょうか、 保科ほしな陽一くん。これからきみの四.九時間、二九四分、一七六四〇秒は私が使わせてもらう」
 カチッ。
 少女は時計の上部ボタンを押した。一番短い針が素早く動きだす。それを追ってやや長い針が、さらにゆっくりと一番長い針が動きだした。時計には三つの針があった。それは時間を知るためのものではなく、時間を計るためのもの――ストップウォッチだった。
 少女は懐中時計を大事そうに帯にしまった。少し間を置いて、陽一の部屋の窓が開く。眠ったはずの陽一が窓辺に立つ。寝間着ではなく、学校指定のジャージを着ていた。
 陽一の顔には表情らしきものがまったくなかった。目は開いていても何も見ていない、虚ろな瞳。意思も感情もない瞳を上げ、陽一は少女を見た。
 軽く少女が顎を逸らす。次の瞬間、陽一は少女のすぐ側に立っていた。少女は軽く溜息をついた。
「相変わらずダっサい格好ねぇ。靴も履いてないし。まぁ、動きやすけりゃいっか」
 この状態なら裸足でもケガをするおそれはない。少女は骸骨杖を握り直し、陽一に突き出した。ふたりして杖を握った状態で、少女は軽く屋根をついた。ぶわっと空間が渦を巻き、ふたりの足元に奈落が広がる。
「亡者の元に界路を繋げたわ。行くわよ」
 びゅう、と唸りを上げてふたりの身体が奈落に沈んだ。少女の長い銀髪が激しくうねり、瞳の三日月が妖しくきらめく。屋根に開いた黒い空間は、跡形もなく消えていた。



 映は夜の中あてもなく車を走らせていた。何となく、まっすぐ事務所に戻る気がしなかった。長い眠りから覚めた後はいつも気分が沈む。限界ギリギリまでねばっていればこうなることはわかっているのに、さっさと戻る気になれないのだ。
 せっかくの機会だからと、いつも強制覚醒の寸前まで手がかりを求めてさまよう。忽然と消えた母親と、その再婚相手――美晴の父の行方を、映はずっと探し続けていた。以前は現実の世界を、一度死にかけて黄泉返ってからは、現実と迷界の両方を。
 何かしらヒントになりそうなことを掴みかけるのは決まって目覚める直前で、否応なく映は現実の世界に戻されてしまう。次の長い眠りにつく時には、すでにその手がかりは消えている。また一からやりなおし。ずっとその繰り返しだ。
 それにしても、と映は思考の向きを変えた。
(陽一が餓鬼を視るようになるとはね……)
 血の繋がりはなくても身内と思えるわずかな人間のひとり。しかも生まれた時から知っている甥っ子だ。映にとって陽一は年の離れた弟のようなもの。八つになるまで一緒に暮らしていたからわかる。陽一は生まれつき外に繋がる霊的回路を持っているわけではない。
 ただ、一種の共振能力みたいなものが彼にはある。たとえば映と手を繋いでいたりすれば、この世ならぬものが見えることもたまにはあるらしい。その時々の身体的精神的コンディションに左右されるものの、そういう人間は意外と多い。
 話を聞くとまったく側に誰もいない状態でも餓鬼を見ているようだ。となると何らかの理由で後天的に力を得たことになる。それは一度完全に死ぬか、少なくとも相当危険な瀕死の状態に陥った後戻ってきたのでなければ、絶対に得られないはずだった。
(……そういえば、夢を見たと言ってたな)
 暴走車に撥ねられて死ぬ夢を見た、と。夢で死ぬのも臨死体験になるのかと訊かれた。
 そういう例もなくはないが、その場合ははっきりと『死ぬ』場面がなく、本人も自分が死んだと思っていないことが多い。目覚めた後も、内面の変化はあるかもしれないが、霊視ができるようになどならない。魂が何らかのの要因で一時的に現世を離れてしまうだけなのだ。肉体との絆はしっかり保持されているから迷って戻れなくなるということもない。
 だが、もしも陽一が見た『夢』が夢ではなかったとしたら。本当に陽一が、夢で見たとおりに車に轢かれて死んだのだとしたら……?
 映は不機嫌に鼻を鳴らし、フロントグラスの向こうに広がる闇を睨んだ。気に食わない。弟のように思っている甥っ子が、向こうの都合で何らかの作為に巻き込まれているのだとしたら、非常に気に食わない。
 向こうの奴らはこっちの都合など考えない。いつだって、にっちもさっちもいかない人間の元に現れては究極の選択を迫る。そしてたいてい誰もが間違った方を選ぶのだ。
 甲高い電子音がさえずり出した。携帯が鳴っている。映はバックミラーを確認し、ハザードランプをつけて車を停めた。携帯の画面に表示された名前を見て、軽く眉を上げる。
「……はい」
 相談したいことがある、と相手は言った。これから会えないか。
「いいですよ。今どこですか。何なら拾いに行きますけど。車なので」
 相手はとあるファミレスにいることを伝えてくる。そちらへ向かうと告げ、通話を切った。映は車をUターンさせ、指定された場所へ向けて走り出した。

 十分ほど走って目的のファミレスについた。もう十一時を回っていたが駐車場には何台も車が停まっている。案内を断って喫煙席の方へ進むと、隅のテーブルに座っている人物がすぐ目についた。テーブルには白いコーヒーカップが載っているだけだ。押しつぶされた吸殻が数本灰皿に溜まっていた。
「お久しぶりです、鷹見さん」
 力なく座席にもたれていた男が顔を上げ、眩しそうに目を細めた。
「よぉ。悪いな、夜遅くに急に呼び出したりして」
「ちょうど外に出てましたから。相変わらず不景気な顔ですね」
 丁寧な口調でずけずけ言われ、鷹見は苦笑した。
「おまえは相変わらず目から鼻に抜けるような美男子で、羨ましいよ」
 ウェイトレスが水とメニューを持って現れる。映はメニューを受け取ることなくコーヒーを頼んだ。ウェイトレスが去ると、映は闇色の瞳でかつての同僚を眺めた。三歳年上の鷹見悦司とは捜査課に配属されてから辞職するまでずっとコンビを組んでいた。映が撃たれた時も彼はすぐ近くにいた。警察病院に収容された意識のない映を、彼は毎日のように見舞った。辞職を告げた時には長いこと沈黙して、ただ一言『すまん』と呟いた。
「今回は何でしょう」
 映は軽い口調で尋ねた。鷹見は映の辞職に責任を感じているらしく――鷹見のせいではないと何度も言ったし、事実そう思っているのだが――、仕事の依頼というか仲介みたいなことをたまにしてくれる。鷹見の浮かない顔に、映は微笑んだ。
「仕事を回してくれるわけじゃなさそうですね。かまいませんよ、何ですか」
「うん……、すまんな。ちょっと妙な事件が起こってさ」
 鷹見が話しだしたのは、血まみれの電話ボックスの一件だった。
「それ、甥っ子から聞きましたよ。ニュースでやってたって」
「ああ、そういえば陽一くんが住んでる町だっけな」
「電話ボックスに動物の血を撒いたとか? 悪趣味な悪戯ですね」
「それがどうも悪戯じゃなさそうなんだな」
 コーヒーが運ばれてきて、鷹見は言葉を切った。ウェイトレスが立ち去るのを待って、少し低めた声で続ける。
「動物の血じゃなかった」
 映はわずかに息を呑んだ。闇色の瞳が鋼の光沢をおびる。
「人血、ですか」
「血液型はOだ。あれがすべて同一人物の血だとしたら、完全に失血死してる」
「保存血液かもしれませんよ」
「可能性はある。それより、わずかな時間に通行人が途切れることのない商店街でそういうことができたこと自体、ちょっと考えられなくてな」
「時限式の仕掛けが施されてたとか?」
「痕跡はなかった。回収する時間もなかったはずだ」
 映は肩をすくめ、お手上げの仕種をした。
「俺にもわかりませんね」
「訊きたいのはそれじゃない。犯行があったと思われる時間にその公衆電話から発信があった。かけた先は携帯電話だ。当然、その相手をあたってみたわけだが、その人物と連絡がつかないんだ。携帯もつながらない。自宅に行ってみると、その人物の部屋は電話ボックスと同じような状態になっていた」
「……まさか」
「室内はまるで屠殺場だったよ。や、屠殺場を見学したことはないけどな。とにかくひどかった。部屋の主は行方知れず。公衆電話から携帯に着信があって自室で受けたようだが、その後、携帯の持ち主がどうなったのかさっぱりわからない。家族はみな不在で、外出する姿も目撃されていない。――で、おまえに視てほしいんだが」
 鷹見は一枚の写真をテーブルに載せた。制服姿の高校生らしき少年が写っている。学生証の写真を引き延ばしたものだろう。写真を映の方へ押しやり、鷹見は尋ねた。
「どう思う?」
 映は写真には触れず、被写体の少年をじっと見つめた。
「……残念ですが」
「名前は畑中弘和。沼北高の一年生だ」
「この世には、もういませんね」 
 感情のこもらない声音で、あっさりと映は断定した。
「遺体がどこにあるか、わからないか? まったく手がかりがないんだよ」
「教えてあげられるものならそうしたいのはやまやまですが、わかりません。何でもかんでも視えるわけじゃないんです」
「そうか、そうだよな……」
 がっくりと鷹見は肩を落とした。
「お役に立てなくてすみません」
「いや、こっちこそ悪かった。虫のいい話だよな」
「この写真、もらえませんか。もう少し探ってみます」
「すまんな、三瀬川。こういうのはいかんと俺も思うんだけどよ」
「いいんですよ。鷹見さんが俺に話を持ってくるのは、いつも行き詰まった挙げ句にいたしかたなく、ですからね」
「今回は最初から行き詰まってるよ」
 親切なのか皮肉なのかよくわからない口調に、鷹見は思わず苦笑した。

第二章 生か死か ~dead or alive~



 またも目覚めは最悪だった。
 こないだ見た、どーんと車に轢かれて空中を吹っ飛ぶ夢よりなお悪い。
 夢の中で陽一はバトルを繰り広げていた。というより、必死になって逃げる相手を一方的に追いつめていた。
 その手に長大な三日月型の鎌みたいな武器を持って、追いついた人間の――モンスターじゃなく、どう見てもふつうの人間の――首を無造作に切り飛ばしていたのだ。
「完全に悪役じゃん……」
 それはもう情け容赦なく、必死こいて逃げる相手を後ろから問答無用に生首かっ飛ばして。しかも後ろに飛んだ生首をボールみたいにキャッチした人物が――。
(……あ、あれ? 誰がいたんだっけ)
 微笑む、薄い珊瑚色の唇が脳裏をよぎる。
 ああ、そうだ。女の子だ。着物のような洋服のような、変てこな衣装を身にまとった、すごく綺麗な女の子。
 平気な顔で生首を受け取って、可愛らしい声で言う。
『はい、一丁あがり~』
 うは。なんと冒涜的。
「陽一ーっ、さっさと起きて走ってきなーっ」
 階下で母が朝から豪快に命じる。
 雨の日以外、朝の町内一周は免除されない。かつて同居していた頃は映もこれをやらされていた。
 大好きな叔父が文句ひとつ言わずに従っていたものだからすり込まれてしまったのだろうか、陽一もついつい反射的に出かける体勢になってしまう。
 何気に起き上がろうとして、身体を衝撃が走った。
「う、ぐあぁっ!?」
 な、何だコレ。筋肉痛……!?
 節々がべきぼき鳴り、背中・腕・足腰、ありとあらゆる筋肉が悲鳴を上げる。苦痛のあまりベッドから転げ落ちた。全身にひびが入ったような激痛で目の前に火花が散る。
 ドアが開いて美晴が顔を出した。
「何やってんの、あんた……」
 床でのたうち回る息子に、何だかちょっと気の毒な人でも見るかのような目を向ける。
「か、か、か、」
「何よ」
 いや別に母さんと言いたいわけではなく。
「か、からだ、がっ、い、た、いっ……!」
「痛い? 首でも寝違えたの?」
 首。うわ。イヤなことを思い出してしまう。美晴は息子がふざけているわけではないと悟ったようで、心配そうに歩み寄った。
「どれどれ、どこが痛いの」
「かっ、からだじゅう、ぜんぶっ」
 痛みを訴えているというのに、美晴は容赦なく身体中をぎゅうぎゅう押しまくる。そのたびに陽一は、ぐぎっ、とか、ぴぎゃ、とか奇声を発するはめになった。
「骨が折れたわけじゃなさそうね。こんな若いのにベッドから転がり落ちて骨折するわきゃないか~」
「で、でも、痛い……」
「きっと全身寝違えたのよ」
「んなわけあるかぁっ」
「あんた昔から寝相が悪かったから。寝ている間によく逆さまになってたっけ」
 いやこれは寝違えたわけではない絶対ない、と陽一は主張を始めたが、美晴は聞く耳持たずに立ち上がった。
「ほらほら、さっさと走ってきなさい。ごはん食べてる時間がなくなるよ?」
「だから俺は身体が死ぬほど痛いんだって!」
「筋肉痛は身体を動かした方が早く治るのよ。四の五の言わずに行っといで」
 美晴はさっさと部屋から出て行ってしまう。ぶすくれながら、陽一はそれでも着替えて家を出た。
 顔をしかめながら、前かがみになってよろよろ走る。いでっ、とか、あだっ、とか言いながら、とにかく走って戻ってくる。
 軋む身体に鞭打って朝食をとり、さらに鞭をふるって自転車を漕ぐ。ぜーはー言いながら、何とか遅刻寸前で学校にたどりついた。
 放課後までにはずいぶんマシになったが、疲労困憊して居間のソファで休んでいると、仕事から戻った母が夕食の支度をする間にその辺を走ってこいと言う。
 いったいどこまで体育会系なのだ。
 動かざる者喰うべからず、とかわけのわからないことを言われて追い立てられる。仕方なく裕一はいつものコースを走り始めた。
 住宅街を抜けて緊急避難場所を兼ねた公園を一周し、自宅の裏の方をぐるっと回って戻ってくるルートはそれほど車も通らず信号も少ないので、ほとんど止まらずに走り続けることができる。小学生の頃から走り慣れた道だ。
(そーいや今日は一度もあの変な生き物を見てないな……)
 公園の中を走りながら、陽一はふと思い出した。叔父がくれたうさんくさい玩具のハンマーには確かに効き目があったらしい。
 朝、思い出してとりあえず頭を十回叩いて登校したら、通学路でも学校でもギョロ目の餓鬼も黒いもやもやも一回も見かけなかった。
 これなら今夜こそ本当に安心して眠れるだろう。昨夜、変な夢を見たのはまだストレスの影響が残っていたからだ。きっとそうに違いない。
 そんなことを考え、やれやれと溜息をついていると、いきなり目の前を人影がよぎった。
「おわ……っ!?」
 誰かにぶつかった、と気付いた時には陽一は後ろにひっくり返っていた。
(やべっ、前よく見てなかった!)
「す、すいませんっ」
 反射的に身を起こし、そのまま固まってしまう。そこには自分と同じ年頃の、高校の制服とおぼしきブレザー姿の少女が、茫然と尻餅をついていた。
 プリーツスカートがめくれ上がり、白い腿がむき出しになっている。陽一は慌てて目を逸らした。
(見てない! 俺は見てないぞっ)
「ああああの、ケガはっ」
 目を逸らし気味に窺うと、少女は地面にぺたりと座り込んでしまっている。驚きに茫然と目を瞠っているが、その瞳は陽一を見てはいない。何が起こったのかわからない、といった風情だ。
 急いで立ち上がった陽一は少女を助け起こそうと手を差し出した。
「ほんとにごめん。あの、立てる……?」
 少女はようやく瞬きをした。差し出された陽一の手を、不思議なものでも見るかのように眺め、ついで軽く顎を上げてようやく陽一を見た。
 衝撃が、走る。
 顔がこわばり、一瞬心臓が止まりかけた。全身にどっと冷汗がわく。
 どこかぼんやりとした顔で自分を見上げている少女の顔を、陽一は知っていた。彼女がここにいるはずがないことも、思いっきり知っていた。
 どくん、どくん、と耳元で動悸がする。全身が冷たい。肝が冷えるという感覚は、きっとこういうことを言うに違いない……。
 不思議そうに見返していた少女が、差し出されたままだった陽一の手を、少しばつの悪そうな顔で取る。我に返り、陽一は少女を引き起こした。
「……あの。ありがとう」
 陽一は自分が少女の手を握ったままであることに気付いた。うわっと反射的に声を上げて手を放す。
「ご、ごめん! ……あの、大丈夫……?」
「うん、平気」
 照れくさそうに微笑んだ少女は、さらりと髪を揺らし、「それじゃ」と小声で言って歩きだした。その後ろ姿を、陽一はぼんやりと見送った。
 少女の姿が植え込みの向こうに消えると、ようやくのろのろと走り出す。
(びっくりした……)
 世の中、同じ顔の人間が三人いるとか言うけど、本当に彼女にそっくりだ。十四歳で永遠に時を止めてしまった彼女が、成長して目の前に現れたのかと思った。
 そんなはずはないのに。もしそうであれば、どんなによかったか……。
  天野桜姫あまの さき
 その名を思い出すたび苦い味が口中に広がる。
 最後に言葉を交わした時に彼女が見せた、儚い笑み。今でも心の奥底に灼きついて消えない。きっと一生涯消えることはないのだろう。
 陽一は重い足どりで残りのコースを走った。



 鏡を見るのが怖い……。
 洗面台の縁に両手をつき、ぽたぽたと顎から雫を垂らしながら、深山心亜みやま ここあはなかなか顔を上げられなかった。
 ぎゅっと洗面台を握りしめる。冷たい陶器の感触はいつまでたっても変わらない。おそるおそる心亜は顔を上げた。水滴でぬれた自分の顔が不安げに見返していた。
 ほっと息をついた。大丈夫。あれは錯覚。そう、ただの錯覚なんだ。きっと少しばかり疲れてるだけ。
 厚手のタオルに顔を埋め、心亜は溜息を洩らした。
 大丈夫。大丈夫。メイクをすれば気も晴れる。ばっちり囲んで睫毛を盛って、可愛いデカ目にするんだ――。
 気持ちを切り換えてタオルから顔を上げた瞬間。喉から絶叫がほとばしった。
「心亜!? どうしたのっ」
 物音と悲鳴に驚いた母親が洗面所を覗き込む。心亜は洗面台の前に頭を抱えてうずくまっていた。そばにははずみで倒れた籐製のスツールが転がっていた。抱き起こそうとした母親は、娘が真っ青な顔で小刻みにふるえていることに気付いた。
「どうしたのよ、何があったの」
「か、鏡……」
 母親が立ち上がって見ると、とまどい顔が映っているだけで曇りもひびもない。
「鏡がどうしたのよ。何ともないじゃない」
 助け起こされた心亜が横目でこわごわ窺うと、鏡には確かに自分の顔が映っていた。瞬きをし、目をぎゅっとつぶって見直してみる。
 やっぱり自分の顔だ。でもさっきは確かに見えた。自分ではない少女の顔。よりにもよって、あのコの顔。
 あのコが死んだのはあたしのせいじゃない。自分で勝手に死んだのだ。あたしのせいじゃない。あたしが悪いんじゃない。あたしは何にも悪くない。
「もう、しっかりしなさいよね。いくら高校入ったばっかりだからって、毎晩遅くまで携帯いじってるから寝不足になるのよ」
 スツールを直しながら母親が説教口調で言う。心亜はそれを上の空に聞き流した。母親はなおも二言三言注意すると、洗面所を出て行った。
 心亜はじっと洗面台の鏡を見つめた。自分の顔が映っている。でも、自分の目を通してあのコが見てる気がする。
「……あたしのせいじゃない。あたしは何も悪くない」
 自分に言い聞かせるように何度も繰り返し心亜はつぶやいた。
 怯えた瞳の奥で、声もなくあのコが嗤ってる気がした。



 土曜日。陽一はソファでへばっていた。
 ぐっすり眠れると思ったのに昨夜もまた変な夢を見て、目が覚めたら身体がバキバキになっていた。
 床でのたうっていると起こしに来た美晴もこれは本当に調子が悪そうだと思ったのか、朝の町内一周は免除になった。
 病院に行くかと訊かれたが、特にどこが悪いというわけでもないのでやめておいた。このまま悪夢が続くようであれば、精神科の門を叩かねばならなくなるかもしれないが。
 だらんとしてTVを見る。たまたま合っていたニュースバラエティで、『血まみれ密室の怪』とかいう派手派手しい見出しが画面に出た。何だか見覚えのある風景が映り、陽一は目を剥いた。
「うっそ。あの公衆電話じゃん……」
 思わずつぶやくと、ちょうど入ってきた美晴がTVを見て声を上げる。
「あれっ、駅前の商店街じゃない」
「あそこで変な事件があったんだって」
「へー」
 美晴は寝そべっていた息子の脚を無造作に押し退けてソファに座る。陽一も座り直してTVに注目した。電話ボックスのことは叔父の事務所でちらっとニュースを聞いていたが、その時は動物の血液だと言われていたのが実は人血だったと知って驚いた。
「何それ、キモ~」
 美晴が気持ち悪そうにウェッと叫ぶ。さらに、同じ町内のとある住宅――周囲にモザイクがかかっているのでどこだかわからないが――でも、同じような事件があったと言う。
 その住宅の一室に大量の血液がばらまかれ、その部屋の住人が行方不明になっているという。住人の名前はAさんとしか出ず、写真もなかった。
「ヤだなぁ。戸締りに気をつけなきゃ。陽一、あんたも気をつけなさいよ」
「何に気をつけんだよ」
「わかんないけど、通り魔とかさ」
「別に死体が出たわけじゃないだろ? すっげータチの悪いいたずらかもよ」
「だったらいいけど……」
 美晴は不安そうだ。母ひとり子ひとりの状態、しかも昼間は家に誰もいないとなると、どうしても気になるのだろう。自分も戸締りには気をつけねば。
 母が部屋を出て行くと、陽一はだらだらTVを見ながら今日はどうしようかと考えた。
(叔父さんとこ行くか)
 あの気色悪い餓鬼が見えなくなった報告というか、お礼もまだしていない。入れ代わりのように見始めた変な夢とわけのわからない筋肉痛ですっかり忘れていた。
 いや待てよ、と思い出す。
 今日は土曜日。ということは本日の千曳ちびき志土シドだ。
 七人の千曳の中でも相性最悪な、唯一はっきりと自分を嫌っていてそれを隠そうともしない志土とは、できるだけ顔を合わせたくない。
 陽一は自室に戻り、やりかけで放置していたゲームを始めた。午後になると雨が降り出したので、ジョギングはできなかった。雨は日曜の昼過ぎまで降り続けた。
 結局、叔父の家には行きそびれた。電話してみると日曜担当の千曳日実香ひみかが出て、はゆるは出かけていると言われた。
 急ぎなら携帯へと言われたが、伝言を頼んで切る。『あれ効いた。ありがと』という伝言に、日実香は戸惑っていたが無理もない。
 夕方になってジョギングに出た。晴れて気温が上がり、道路はもうほとんど乾いている。
 公園を走っていた陽一は、金属が軋むかすかな音を耳にして何気なくそちらを向いた。古びたブランコが目に入る。
 乗っているのは幼い子どもではなく制服姿の少女だった。ストレートの黒髪が、さらりと夕風に揺れた。
 陽一はその場で足踏みした。
 昨日、うっかりぶつかってしまった少女だ。少し迷ったが、思い切って向きを変え、ブランコに近づいた。少女は所在なげにブランコを漕いでいる。勢いをつけて漕ぐのではなく、ただ揺らしているだけだ。
 考え事をしているのか、陽一が近づいても気付いた様子がない。
「……やぁ」
 できるだけ何気なく声をかけてみる。一瞬置いて少女はふっと顔を上げた。驚いたというより不思議そうな顔だ。警戒されたわけでもないようだが、焦って陽一は言葉を継いだ。
「あの、昨日はごめん。つい余所見してて。……あの、大丈夫だった?」
 きょとんと陽一を見つめていた少女が、ああ、と小さく声を洩らして微笑んだ。
「大丈夫だよ」
 やわらかな少女の声に、陽一は急に喉が詰まるような感覚に襲われた。こんな春の夕暮れに似た、どこかに物哀しさをおびた声――。やっぱり似てる。顔だけじゃなく声までも、もういない天野桜姫にそっくりだ。
 目の前の少女が口にした台詞を、陽一は何度も聞いたことがあった。記憶の中でセーラー服姿の少女が涙をぬぐって微笑んだ。
『大丈夫』
 おずおずとかけた陽一の問いと同じ言葉を、彼女は返してきた。
 言葉なんて信じるんじゃなかった。全然大丈夫じゃなかったのに。口にされた言葉をそのまま信じてしまった自分は、何と愚かだったんだろう。
 いや、信じたんじゃない。信じたかった。信じて安心したかった。大丈夫なんだと信じたかったんだ。
 そして彼女をそのままにした。放っておいた。取りかえしがつかなくなってしまうまで……。
 キィとブランコが鳴る。陽一は我に返った。ふわりとスカートが揺れ、風に髪がなびく。
「……え、と。清美女せいびじょ、だよね、その制服」
 清美女学院高校は、この辺りでは一番のお嬢様学校と見做されている。制服は上が紺色に金ボタンのブレザーで、リボンではなくネクタイなのがポイント。下は青と灰色がメインのプリーツスカートだ。全体に地味な配色なのだが清楚でもある。
 学校がある場所は同じ市内とはいえかなり離れていて、駅も違う。この辺りで見かけることはあまりない。むろん、この界隈に自宅があって通っている子もいるだろうけど。
 陽一の問いに少女は答えず、わずかに目を上げて微笑んだだけだった。
(あ、れ? 今日は日曜日だよな。なんで制服着てるんだろう……)
「俺、有賀丘ありがおかなんだ。一年。きみは?」
 目を上げた少女は、やはり答えずににこりとする。肯定ということにしておこう。
 あまり居すわっていてナンパと思われても困る。「それじゃ」と口の中でもごもご言って立ち去ろうとすると、背後から少女が独り言のように呟く声がした。
「今日は母の日だね」
 振り向くと、少女はブランコを揺らしながらにこりと微笑んだ。
「そうだっけ」
 思わず間抜けな声を上げてしまう。
 少女は小さな笑い声を上げて地面を蹴り、ブランコを漕ぎ始めた。ぼやっと見ていた陽一は、我に返って赤面しながらジョギングを再開した。
(母の日か……。そういえばそうだったな)
 わけのわからない夢だの餓鬼だのに取り紛れ、すっかり失念していた。ポケットを探ると、百円玉がふたつ出てきた。カーネーションの一本くらい買えるだろうか。

 陽一はコースを変更して商店街の方へ足を向けた。
(もしかして、お母さんと待ち合わせだったのかな……)
 母の日だから、これからどこかで食事をするとか。きっとあの公園で待ち合わせをしていたんだろう。なんとなく、陽一はホッとしたような気分になった。
 亡くなった少女によく似た面差しの少女が、母親と仲よく食事したり、高校に通っていたり、そんな普通の生活を送っているのだと思えば、消えることのない胸の痛みがいくらかでもやわらぐような気がした。
 ただの自己満足に過ぎないことも、わかってはいたけど。
 花屋でカーネーションを一本買い――残念ながら二本買うにはギリギリ足りなかった――家に戻る。手渡すのも照れくさくて、適当なコップに挿して食卓に置いた。
 気付いた美晴は、嬉しそうな顔で一本だけのカーネーションをガラスのしゃれた一輪挿しに入れた。
 夕飯を食べながら陽一は切り出した。
「……あのさ。母さん、アメリカ行っていいよ。俺、叔父さんとこ世話になるから。叔父さん、いいって言ってくれたし」
 美晴は箸を止めて息子を見返した。
「陽一……」
「大丈夫だよ。母さん、父さんとこ行きたいんだろ。無事高校にも入れたしさ」
「でも陽一、最近何だか調子悪そうじゃない?」
「う~ん。五月病みたいなもんかなぁ」
「学校行きたくないの?」
「いや、そういうんじゃないけど」
 中学の時よりも、今のほうがずっとラクだ。
 友だちと呼べるほど親しい人間はいないけど、それは中学の時も同じだった。今は少なくとも誰も自分を嘲らないし、殴らない。身を守るためにパシリをする必要もない。
 何より、自分よりも傷ついている誰かに手をさしのべることさえできず見て見ぬふりをしなくていい。たとえ卒業まで友人がひとりもできなくても、あんなことがまた起こるよりはずっとましだ。
「学校、楽しいよ?」
 味噌汁を飲みながら笑ってみせる。美晴は何だか曖昧に微笑んだ。
「……本当に大丈夫?」
「平気だよ」
「それじゃ、お父さんと相談してみるね。それからるー君に改めて話してみる」
「うん、そうして」
 夕飯と風呂を済ませて自室に引き上げた陽一は、寝る前に叔父にもらったピコピコハンマーで念入りに頭を叩いた。人には絶対見られたくない姿だ。
 やっているうちに何だか情けなくなってくるが、確かに効果はある。
 寝坊した朝、うっかり叩くのを忘れて家を飛び出したら、放課後になってまた餓鬼が見えるようになって焦った。
 それ以来、朝忘れてもいいように寝る前には必ず叩くようにしている。我ながら奇妙な就眠儀式だ。
「これで悪夢も見ないようにならないかなぁ……」
 ピコピコと頭を叩きながらぼやく。気色悪い餓鬼を見ないで済むようになったのと引き換えに、毎晩ホラーアクションみたいな夢を見るようになってしまった。
 詳しいことは起きて少したつと忘れてしまうのだが、とにかく自分が大鎌で人の首をチョン切っていることだけはよく覚えている。
 しかもそれが何だか妙にゲームっぽいというか、一晩でいくつ首を取れるか、みたいなノリのような気がするのだ。
「そんなゲーム、やったっけか……?」
 覚えがない。全然ない。首狩りゲームなんて物騒なシロモノ、年齢制限ありそうだし。
「といって、思い当たるマンガもないよな……」
 相手は陽一に背を向けて、ひたすら逃げている。それを背後から追って鎌にひっかけて首を取る。思い出すと何とも言えずイヤな感じだ。どう考えてもこっちが悪者ではないか。
 首は勢いで斜め後ろに跳んでいく。そして、和洋折衷の黒い衣装を着たすごく綺麗な女の子が生首を受け取って満足そうに笑う。
(いかん、寝る前に考えるな! また見ちまうぞっ)
 陽一は激しく首を振った。あまりに振りすぎて目が回り、ばったりふとんの上に倒れる。
 ぐるぐる回る天井を見上げ、陽一は謎めいた女の子の顔を思い浮かべた。不思議なことに、思い出そうとすればするほど面影がぼやけてしまう。
 どこかで見たことがあるはずなのに、どこで見たのかと考えるほどに一度も会ったことなどないような気がしてくるのだ。
「……寝よ」
 スタンドの灯を消して、陽一はふとんにもぐり込んだ。暗くなると、ほとんど反射的に眠気が押し寄せてくる。そういえば、夢見は悪いが寝付きだけは最近やたらといい。
(これで変な夢さえ見なければ、言うことないのにな……)
 そう思った次の瞬間には、陽一は深い眠りに沈んでいた。
 やがて美晴も寝ついて家が静まり返ってしばらく経つと、見計らったかのようにむくりと陽一は起き上がった。
 目は開いているが何も見てはいない。意識はまだ眠っている。それなのに身体は起きて、電気もつけない暗闇の中で問題なく着替え、足音もたてずに階段を降りた。
 玄関に鍵をかけ、ジャージのポケットに鍵を突っ込んで歩きだす。まるで夜のジョギングにでも行くような格好で、何気なく表に出た。
 足を止めて向かいの家を見上げると、月明かりに照らされた人影が屋根の上にあった。
 黒衣に身を包んだ銀の髪の少女は、懐中時計の蓋をパチンと閉めて微笑んだ。



 月曜日の朝、陽一はげっそりとした面持ちで自転車を漕いでいた。
 昨夜もばっちり見てしまった、えぐい夢。
 いやいや、考えまい。思い出したくもない。目覚めた時の全身筋肉痛は、だいぶマシになっていたけれど。
「……また叔父さんとこ行くか」
 自転車を漕ぎながらぼそりと独りごちる。とにかくわけのわからないことは、 映はゆるに訊くのが一番だ。
 ひょっとして頭に餓鬼が貼りついて変な夢を見せているのではないかと考え、ピコピコハンマーで頭を叩きまくった。
 ハンマーのお蔭で見えなくなったのだから矛盾しているとは思ったが、とにかく叩いた。
 餓鬼を直接叩いても効果があるはずだ。こっちに敵意を向けてこなければ放っておけと叔父には言われたが、もし餓鬼がこの夢を見せているなら完全に敵意を向けられてる。
 ぐったりしながらも何とか授業をこなし、忌ま忌ましい餓鬼を目にすることもなく放課後を迎えた。それにしても本当に今日は調子が悪い。頭はクラクラ、胃はムカムカ。無理すると本当にぶっ倒れそうだ。
 自転車を漕ぐのも億劫で押しながらよたよた歩いていると、後ろから声をかけられた。
保科ほしなくん」
 んあ? と半眼で振り向いた陽一は、ぎょっと目を剥いた。絶対に自分に話しかけたりしないはずの人物が、そこにいた。
「さ、さかき
「何よ、そんな青い顔して」
 ムッと眉をつり上げたのは榊奈々美だった。同じ中学出身で、たぶん同じ後ろめたさも抱えてる。それがわかっているがゆえに、お互い苦手な相手――。
「い、いや。ちょっと驚いただけ」
 奈々美の眉の角度が微妙に変わる。
「……どうしたの? 本当に顔色悪いけど」
「や、ちょっと体調悪くて。それより、何? 何か用」
 奈々美は急に後悔したような、ばつの悪そうな顔になった。
「ちょっと、話があるんだけど」
「話? 俺に?」
 奈々美は頷いた。面食らいながらも陽一は一緒に土手を降りて整備された河原に出た。
 ベンチの端と端に座ると奈々美は途中のコンビニで買ったスポーツドリンクをくれた。同じものを飲みながら、奈々美は眉を寄せた難しい顔で川面を眺めていた。
 とげとげしい雰囲気は以前と変わらない。陽一は横目で奈々美を眺めた。ハンマー効果で餓鬼が見えなくなり、奈々美にまとわりついていた黒い靄のかたまりも見えなくなった。だからそれが今でもそこにあるのかどうかわからない。
 消えているのかもしれないが、どうもそんなふうには思えなかった。見えなくてもそこはかとなく感じるのだ。何とも言えない厭な波長を。
 もし陽一が餓鬼を一度も見ていなかったら、その厭な波長を出しているのは奈々美だと思ったことだろう。
 だが、実際に黒いかたまりを見て、そこから自分に向けられた悪意を感じたこともあるがゆえに、陽一にはそれが奈々美自身の放っているものではないとわかる。
 そういえば、奈々美が誰かとつるんでいるのを高校に入ってから見たことがない。
 同じクラスであっても席は離れているし、故意に避けているので奈々美の交友関係についてはほとんど知らないが、たまに気がつくと奈々美はいつもひとりだった。
(まぁ、中学ン時からちょっと暗かったし……)
 中学時代は、それでも奈々美はひとりではなかった。幼なじみの深山心亜みやま ここあの後ろにいつもくっついていた。従っていた、といったほうがいい。女王様と女中だと陰口をたたかれ、ひどいことを言われてもおずおずと笑っていた。
 要は自分と同じ、強い者に媚を売って安全を確保しているパシリだったのだ。
 女王様はハイソな清美女へ行き、女中はこれといった特徴もなければ進学校でもない凡庸な公立の有賀丘へ来た。
 それでもあいつらと縁が切れたのだから、自分と同じく満足しているはず。有賀丘に入ったのは、あいつらの中では陽一と奈々美だけだ。唐突に、奈々美が尋ねた。
「保科くん、部活やらないの」
「あんま興味ないし……。榊は何かやってたっけ。中学ん時はテニス部だったよな」
 適当にはぐらかして逆に訊いてみる。奈々美はうつむいて軽く地面を蹴った。
「心亜に誘われたから入っただけ。ずっと球拾いだったし……」
 誘われたのではなく強制されて逆らえなかっただけだと、今ならわかる。奈々美はペットボトルを握りしめ、パキッと小さな音が響いた。
「……人と関わりたく、ないし」
 陽一は思わず奈々美の横顔を見た。思い詰めると同時に、完全に諦めてしまった顔をしてる。たぶん、自分も同じような顔をしているに違いない。
「そうだな」
 陽一はスポーツドリンクを飲んだ。奈々美の気持ちはよくわかる。いじめられないためにいじられることを受け入れて。強い立場の者に媚びて顎で使われて。
 笑いたくもないのに笑って、侮辱されてもへらへらして。それができずに陰湿ないじめで孤立した人のことを、見て見ぬふりをした。
 結果、あいつらの悪意の的となった少女は自ら死を選んだ。
 陽一と奈々美は黙ってそれを見ていた。どんどんエスカレートするいじめを、止めたくても止められなかった。そんなことをすれば自分が攻撃の的になる。それが怖くてたまらず何も言えなかった。何もできなかった。ただ見ていた。少女が追い詰められてゆく様を。
 最初から誰とも関わらなければ、利用されることもない。関わりがなければ、罪の意識も後悔も感じなくてすむ。
 陽一は学校内では無口で無愛想でとっつきにくいヤツと思われている。そのほうがいい。もう誰にも利用されたくない。それくらいなら孤立していた方がずっとマシだ。
 中学の時は逆だった。ひとりは厭だった。いじられてもかまってほしかった。だけど、そうやって保身に走った結果、何の罪もない少女の命が失われた。
 いじめは完全に隠蔽され、生徒も教師も知らぬ存ぜぬで口をぬぐった。そんな奴らにかまってほしがった自分があまりに情けなくて、許せなかった。だから遅すぎた反乱を起こした。身体中が痣だらけになり、骨にひびが入るくらいボコボコに殴られたけど我慢した。
 息子が一方的に暴力をふるわれたことを知った美晴は激怒して学校に怒鳴り込んだ。教師たちは生徒同士の他愛もない喧嘩だと言い張ったが、誰かが撮った暴行現場の写真が学校に送りつけられて来た。
 やむなく学校側は席を設けて加害者側から謝罪と、今後一切陽一には関わらないという言質を取り付けて美晴をなだめた。
 写真を送りつけたのが誰なのか特定されていない。
 奈々美ではないかと思い切って尋ねてみたが、きっぱり否定された。でも、やっぱり彼女だと今でも陽一は思っている。

「……で、俺に話って何」
 これまでの経緯があるだけに、甘い期待を抱いてなどいない。できるかぎり関わらずにいることが互いの不文律。それがわざわざ声をかけてくるなんて、よほどのことだ。
「ん……、心亜から聞いたんだけど」
「おまえ、まだ深山とつるんでんの?」
 思わず呆れた声が出る。ボコられる陽一を撮った写真には心亜もばっちり写っていた。手出しはしていないが、笑いながら見ているのがはっきりわかる写真だ。
 厳重注意された心亜は内申書を気にしたのか、ずいぶんおとなしくなった。清美女を狙っていたから、さすがの女王様も自粛したのだろう。それ以来奈々美も心亜から離れたように見えた。一足先に部活を辞め、距離を置くようになったはずだが……。
 奈々美はムッとした顔になった。
「つるんでないよ。お父さん転職して、家も引っ越したし」
 奈々美の父は、輸入販売の会社を経営する心亜の父親の運転手だった。
「へぇ。お父さん、今は何してんの」
「……タクシーの運転手」
 むすっと答える奈々美に、何となくごめんと謝る。
「なんで謝るのよ」
「そうだな、ごめん」
 さらに奈々美が眉をつり上げる。慌てて陽一は続きを促した。
「で? 深山が何だって?」
 用件を思い出したか、奈々美が怒り肩を下ろす。
「……こないだ、うちに電話がかかってきたの。心亜とは中三でクラスが別になってからほとんど話してなかったんだけど。川野くんと畑中くんが行方不明になってるんだって」
 思いがけない言葉に、陽一は目を瞠った。
「行方不明? 家出か?」
 川野正義は、中学時代のいじめグループの一員だ。何かと言うと陽一を小突き回し、罵倒した。言動が荒いわりに小心で、家出をするタイプとも思えない。
 畑中弘和もいじめグループのメンバーだった。人を蔑む言動が多く、陽一に対しても全人格を否定するようなことをよく言った。ふだんは手を出すタイプではなかったが、陽一が言うことを聞かなくなると、真っ先にキレて蹴飛ばした。
「ふたりともそう思われてるみたいだけど、心亜が虻田あぶたくんに聞いた話だと携帯がぜんぜん繋がらないんだって。家出にしちゃ変でしょ?」
 虻田はグループのリーダー格だった奴だ。虻田は深山心亜をちやほやして、このふたりがグループを率いていたと言っていい。
 川野と畑中が二番手、その下にはもうひとり、小西という少年がいた。陽一と同じようなパシリだが、小西はすでに加害者側に回っていた。いじめられる一方で、より弱い者をいじめてもいた。
 そうやって積極的な姿勢を見せることで、虻田たちに取り入ろうとしたのだ。
「保科くん、心当たりない?」
「ないね。俺、最後にボコられてからあいつらとは口きいてねーもん」
 奈々美は鞄を引き寄せた。取り出した四角い封筒を陽一に差し出す。
「これに見覚え、ない?」
「何だよ、これ」
「ないなら見てよ」
 しぶしぶ受け取り、手紙を開く。青ざめたように真白な便箋に、五つの文字がかすれた錆色で書かれている。
 カクゴセヨ
「――『覚悟せよ』? 何だよ、こりゃ」
「封筒の中、見て」
 言われるままに、手紙を取り出した後の封筒を覗き込む。そこには一枚の花びらが入っていた。青ざめた少女の唇みたいな、桜の花びらが。
 桜。――天野桜姫……?
「い、いたずらだろ!?」
 慌てて封筒の裏書きを見ても何も書かれていない。宛て名はワープロ打ちのシールだ。
「保科くん、最近変わったこと、ない?」
「え……」
 探るように、奈々美がこちらを見ていた。
 変わったこと、と言えば変わったことだらけだ。車に撥ね飛ばされて念入りにもう一回轢かれる夢を見て以来、餓鬼なんてこの世ならぬものが見えるようになった。
 叔父の助けで餓鬼は見えなくなったが、代わって今度は自分が誰かの首を刈る夢を見続けている。
「……別に何も」
 探るように見ていた奈々美の視線が険しくなる。
「まさかこれ、保科くんじゃないよね?」
「ああ!? なんで俺がそんなことすんだよっ」
 冗談じゃない、と猛々しく睨み返す。
「だったらいいけど」
「榊、おまえ最近ずいぶん目つきが悪くなったよな」
 疑われた腹いせに厭味を言うと、ぶわっと獰猛な波動が奈々美の身体から放たれた。それは目には見えないが確かな圧力となって、陽一はベンチの背もたれにドンとぶつかった。
「……きみに言われたくないよ」
 奈々美は吐き捨て、鞄を肩にかけるとスカートを翻して足早に去っていった。
(あのもやもや、まだ榊にまとわりついてるのか……?)
 うすら寒い気持ちで、陽一はぞくりと首をすくめた。
 ただ見えなくなるだけだ、と言った映の言葉が脳裏によみがえる。見えなくても、その存在を感じる。感じるけど、見えない。どうしようもない。
 それはしっかり見えるよりもずっとタチが悪い感覚なのだと今になって陽一は気付いた。



 ……走ってる。誰かが、自分に背を向けて、無我夢中で。
 違う。逃げているのだ。自分から。必死に。懸命に。逃げている。
 刈られまい、と。
 首を。
 ――ああ、夢だ。またあの夢を見てる。
 自分は武器を振り回す。
 長い柄のついた、三日月型の大鎌を。勢いをつけて、ぐん、と振り回し、後ろから刃に首を捉える。あっさりと首はもげて、反動で後ろに跳んでいく。
 首をなくした身体はゆっくりと倒れ――ない。四肢をつっぱるように硬直していた身体が、末端から崩れ始める。
 さらさらと。砂のようにさらさらと。塵になって、消えてゆく。
 何だこれ。おかしい。なんで血が出ないんだ?
 そうだ、いつもそうだった。思い出した。鎌で首をちょん切ったんだぞ。どう考えてもそりゃもう派手に血が飛び散るだろ。頸動脈寸断されたらさ。
 どばーっと、血が出るんだよな? 心臓がポンプになって、ぶしゅーって噴水みたいにさ。
 見たことないけど、そうだよな? なのに何で出ないんだ? いや、出なくていいけど。キモいし。でも変だ。
 鎌の刃先を見上げる。それは自分の頭上にある。長い柄は身長よりも高い。鋼の光沢が月を映してる。三日月型の刃が綺麗な冷たい鋼色に光ってる。血なんて一滴もついてない。
 何だ、これ。首を刈られたアレは何なんだ……?
 茫然とする背後で、澄んだ少女の声がきびきびと響く。
「さーて、今日は残りあと二件。このペースで行けば何とか予定どおり終わりそうね。さ、行くよ、ヨイチ」
 ――ヨイチ? 俺は陽一だ。ヨイチじゃない。
「何してんのよ、ほらぁ、さっさとしないと時間切れになっちゃうじゃない」
 地面に突き立てた鎌を軸に、ぎくしゃくと振り向いてみる。むぅ、と眉をつり上げ、同い年くらいの少女が自分を睨んでいた。整いすぎるほど整った顔だち。強気な吊り眼は気位の高い猫みたいだ。真黒な瞳の中に金の三日月を宿してる。
 さらりと流れる銀の髪。左耳の上には大きな彼岸花の髪飾り。着物のような合わせになってる、和洋折衷の不思議な黒装束。
 真紅と金の帯を蝶々結びに胸高に締め、短めのスカートの下には編み上げの厚底黒ブーツ。いったい何のコスプレだ?
「ヨイチ? どしたの」
 不審そうに、美少女が尋ねる。
「……俺は、陽一、だ」
 詰まったような喉をこじ開けて、何とか口にする。少女は目を見開き、軽く息をのんだ。
「うっそ……、起きちゃった?」
「誰だよ、あんた。俺、今まで何やってたんだ? あんた俺に何させてた」
 美しい少女は目に見えてうろたえた。
「ええ? なんで起きちゃうわけ? おっかしいなぁ」
「俺の質問に答えろ!」
「私に命令すんじゃないわよッ」
 怒鳴ったとたんに怒鳴り返された。銀の髪が帯電したようにバチバチ鳴る。怒りの波動が金と赤の入り乱れたオーラとなってゆらりと立ち上がる。
「もうっ、なんでこんな時に起きるのよッ、まだ仕事は終わってないんだから、とっとと寝なさいっ」
「てめーこそ寝言は寝てから言えっ」
 癇癪を破裂させる少女に向かって、陽一も負けじとわめく。
(何だ、何なんだこいつはっ)
 コスプレまがいの妙ちきりんな格好。染めてるにしては美しすぎる銀の髪。人間にはあり得ない三日月の瞳。
 顔だちは広い意味ではアジア系だが、純粋な日本人とは思えない。
 すらりと長い脚を開いて仁王立ちする少女には、奇妙に気押されるような迫力があった。自分よりも小柄な少女なのに、この威圧感はなんだ。
 思わず手にしていた大鎌をすちゃっと構えてしまい、陽一はギョッとした。
「わあぁっ」
 反射的にわめいて鎌を投げ出す。がらん。地面に転がった鎌は急に形を変えた。刃が白くなって質感が変わり、あっというまに縮んでこともあろうに髑髏になった。人間の頭蓋骨とは形が違うが、それにしたって髑髏は髑髏だ。
「何すんのよ、私の大事な骨杖に! このバチあたりっ」
 少女が慌てて杖を拾っているうちに、陽一は脱兎の如く逃げ出した。
「あっ、待てっ」
 もちろん無視して全力疾走する。
 背後で「ぎゃんっ」とわめき声がして反射的に振り向くと、少女がド派手に転んでいた。ちょっと良心が痛んで止まりかけたが、顔を上げた少女が口許に小さな牙を覗かせて涙目で「待てっつーの!」と怒鳴ったので、ゆるんだ足どりはたちどころに全速力に戻った。
(牙! 牙が生えてるっ、人間じゃねぇっ。化け猫だッ)
 そう言えば、このぎゃあぎゃあわめく声なんか、怒り狂った猫の鳴き声にそっくりだ。
「わあぁぁぁっ、化け猫女ーっ」

「誰が化け猫よ!?」
 少女はわめいたが、はや陽一は声の届く範囲にいなかった。
 悔しげに唇を噛み、少女はよろよろと起き上がった。すりむいた膝こぞうの傷が、みるみる消えて跡形もなくなる。やぶれかぶれに少女は大地を蹴った。
「んもうっ、予定が押してるのに、点数下がっちゃうじゃないのーっ」
 それにしても誰だ、余計なことをしてくれたのは。一日のうち約五時間は自分にあの少年の使役権があるというのに。
「執行官の邪魔をするとはいい度胸じゃないの。フン、すぐに正体暴いてやる」
 爛々と目を輝かせて不敵に笑い、少女は合わせから取り出した手鏡に素早く星を描いた。鋭い声音で一連なりの言霊を発する。
「三日月の浄玻璃鏡じょうはりきょうから検索開始。地上勤務の冥官補めいかんほ。常任・臨時を問わず。現在位置から半径〇.一由旬ゆじゅん
 ほとんど即座に検索結果が返ってくる。現在位置に近い順からほんの数人。一番上に示された、クールな美形の男に少女は唇をつり上げた。
「……フン、走無常そうむじょうか。仕方ないわね。でも、知らなかったからって邪魔して許されるもんじゃないんだから」
 少女は昂然と顎を逸らし、骨杖こつじょうでトンと大地を突いた。渦を巻いて広がった闇が少女を包む。唇がかすかな笑みを刻んだ瞬間、少女の姿は消えていた。
 一方、無我夢中で逃げ出した陽一は、とにかくひたすら走っていた。
 方向など考えもしない。ただただ走り続けた。息があがって腿やふくらはぎが悲鳴を上げてようやく速度を落とし、よたりながらぜーはーと息をつく。
 やっと周囲を見回す余裕が出た。大きな道路沿いで、見覚えがあるようなないような、よくわからない風景だ。
 時刻は不明だが、夜明け少し前といったところだろうか。空はまだ暗く、端の方がわずかに明るい。ということは、あっちが東だ。
「げ……、駅の反対側だ、ここ」
 やっと見当がついた。ずらずらと中規模のオフィスビルが建ち並んでいる辺り。メインの商店街は駅の向こうだから、こっちにはほとんど来ない。
 とにかく、あの屋上にでかい公告の看板がついた、見覚えのあるビルを目指して歩けば駅に出られるはず。
 最初はのたのた歩いていたが、時折通り掛かる車に不審を持たれるのではないかと何気に軽く走り出した。
 今さら気付いたが、陽一は学校指定のジャージを着ていた。走っていれば早朝のジョギングをしているんだと思ってもらえるだろう。
 それにしてもいつ家を出たのかぜんぜん覚えていない。夢遊病なのだとしても、わざわざきっちり着替えて出てくるものだろうか。
 小一時間かかってようやく家にたどり着いた。鍵のかかった玄関を前にして焦ったが、ポケットを探ると鍵はちゃんと入っていた。そっと玄関の内側に滑り込む。
(チェーンが外れてる……ってことは、やっぱり俺が外して出たのか)
 こっそりと陽一はチェーンをかけ直し、足音を忍ばせて自室に戻った。着替えてふとんを頭からかぶる。自分の部屋に戻って安心したのか、急にまたさっきのことが思い出されてふるえが来た。
(なんで俺あんなとこにいたんだろう……。もしかして今までのも夢じゃなくて、本当にどこかよそにいたのかな。知らないうちに出かけて知らないうちに帰って来て。だからあんなに身体が痛かったのか……?)
 それにしても何なんだ、あの奇妙な少女は。
 でかい鎌は投げ出したとたん髑髏のついた杖に変わってしまった。
 それより何より、首を切ったはずなのに出血もせず塵になって消えてしまうアレはいったいなんだったんだ……!?
 アレが人間じゃないなら少しは罪悪感が薄らぐにせよ、謎は却って深まるばかりだ。
 ふとんにもぐり込んだものの、陽一は明るくなるまで一睡もできなかった。



 朝になって起こしにきた美晴は、ふとんを引っ被ってガタガタふるえている陽一を見てさすがにこれは尋常でないと危ぶんだらしい。
 風邪をひいたという陽一の言葉を疑いもせず、欠席の連絡を学校に入れてくれた。
 母が仕事に出かけてしばらく後、陽一はもそもそと起き上がった。
 何も食べる気にならなかったので顔だけ洗って着替えた。青ざめた顔で目が血走っていて、我ながら怖い。
 陽一は通勤通学が一段落した頃を見計らって家を出た。
 こういう時に頼りになるのは叔父だけだ。とにかくわけのわからないことははゆるに訊くに限る。
 ふらふらしながら三瀬川みつせがわ探偵事務所にたどり着くと、やかましく鳴り響く入り口のドアベルを受けてややハスキーな女の声が元気よく出迎えた。
「いらっしゃいませー! ――なんだ、陽一か」
「あー……。火乃子かのこさん、ちわっす」
 そうか、今日は火曜日。千曳ちびきの女性人格の中でもいちばん元気な、というかワイルドな、火乃子の当番だ。
 いつもなら顔を合わせるなり嬉々としてプロレス技をかましてくる火乃子も、陽一の顔色のひどさに気付いたらしく心配そうに寄ってきた。
「どしたの、死人みたいな顔しちゃって」
「ちょっと寝てないんで……。叔父さん、います?」
「いるけど来客中」
 午前中から珍しい、とか言ってはいけない。仕事があるのはいいことだ。
「ほんとに顔色悪いぞ? 朝メシ食った?」
「いや、食欲なくて」
「そんなら茶漬けでもどお? あんたが元気ないと真木那まきなが心配する」
「や、黙ってて下さい」
「そうは行かないよ。できるだけ詳しく引き継ぎすんのがあたしらのルールなんだから。四の五の言わずに食べな」
 ぐいぐい背中を押されて休憩室に押し込まれる。
 出てきたのはインスタント茶漬けではなく、茶碗に盛られたほかほか御飯に焼き鮭とほうじ茶が添えられていた。
(ああ、また叔父さんの好きなほうじ茶買ってくるの忘れた……)
 心の中で詫びながら鮭茶漬けを啜っていると、いきなり聞き覚えのある怒鳴り声がした。
「あっ! こんなとこでのんびり茶漬けなんか食べてるっ!」
 陽一はぶーっと茶漬けを噴きそうになった。
 部屋の戸口には数時間前、尻に帆かけて逃げ出してきた意味不明な和洋折衷コスプレ美少女が仁王立ちしていた。
「ななななななんでおまえがここにっ」
「フン、私から逃げられるとでも思った? 百万年早いわっ」
 ホーッホッホと高飛車に笑い、ビシッと指をつきつける。
「働かざる者食うべからず! 勝手にエサを与えないでくれる?」
 後半の台詞は目をぱちくりさせる火乃子に対しての発言だ。
「俺は高校生だっ。だいたいメシ食うのになんでおまえの許可がいるんだよ、つーかおまえ誰だよ、なんでここにいるんだっ」
「文句を言いに来たに決まってるでしょ。知らなかったとはいえ業務妨害してくれたんだから、みっちり説教してやったのよ」
「説教? 誰に」
「俺にだよ」
 溜息まじりに応じた 映はゆるが少女の背後から憂えたような美貌を覗かせる。
「叔父さん……!? まさかそいつと知り合いなの?」
「そいつとは何よ、失礼なッ」
 目をつり上げる少女を映はまぁまぁとなだめた。
「せっかくだから座ってお茶でも。千曳、お茶」
「へーい」
「紅茶にしてちょうだい。アッサムにミルクを入れて」
「へいへい」
 つんと澄まして少女は着席する。映は背もたれに寄りかかって眉間をぐいぐい揉んでいた。さしづめ苦悩する美青年の見本である。
 紅茶が運ばれてきて、ようやく少女は表情をゆるめた。
 適当な返事をしたわりに火乃子はポットにティーコージーまでかぶせて出した。カップは誰も使っているのを見たことがない外国ブランドの高級品だ。
 先にミルクを入れてから紅茶を注いでひとくち含み、少女は満足そうに微笑んだ。
「なかなかね。思ったよりずいぶんいいわ」
 何様だ、と睨みつつ茶漬けを食べ終えてごちそうさまと手を合わせる。空いた食器を持って火乃子が下がり、ドアが閉められると映は小さく溜息をついた。
「――で? どっちが言います?」
 どう見ても年下の少女に対し、何故だか映は敬語を使った。
「そりゃああなたでしょ。身内から聞いた方がショックが少ないだろうし」
「……何の話?」
 警戒して身構える陽一に、映はしかつめらしい顔で切り出した。
「あのな、陽一。ものすごく驚くと思うんだけど、実はおまえはもう死んでいるんだ」
 大昔のマンガにそんな台詞があったような気がする。
 あたたたたたたー。
 真面目な顔でギャグを言う人じゃなかったのに、いつ壊れたんだろう。
「叔父さん。悪いけど全然面白くない」
「冗談じゃないのよ、あいにくね」
 澄ました顔で少女が言う。
 カップを受け皿に戻す音がカチリと鳴ったその瞬間。目の前の光景が一変した。
 信号を無視して車が突っ込んでくる。それはいつか見た光景。いつかなんてそんな遠いものじゃない。ほんの一週間ほど前に見た夢の光景だ。
 夢。
 ――いや。夢じゃ、なかった……?
 ドン。
 衝撃が来た。
 高く宙に撥ね飛ばされる自分の身体。次の瞬間にはアスファルトに叩きつけられて。
 急ブレーキ。
 戻ってくる。ふたたび車が突っ込んでくる。地面に倒れたまま指一本動かせない自分を、ためらいなく踏みつけて車が走り去る。
 点滅する歩行者用信号。コツコツと靴音が深夜の路上に響く。
『あーあ。よりにもよって何でわざわざ私の目の前で死ぬかなぁ』
 片手を腰にあて、いかにも面倒くさそうに嘆息する、銀の髪の少女。その、顔は――。
「あ――――……!!」
 陽一は澄まして紅茶を飲んでいる少女をふるえる指で差した。
「あれはおまえかーっ」
「命の恩人に向かって何その口のききかた。ま、今は動揺してるみたいだから特別に無礼を許してあげるわ」
「あれは夢だッ」
「夢にしてあげたのよ。取引が成立したんで、特別にね」
「取引……?」
「こうなったら覚えてないとは言わせないわよ。ちゃーんとリスク説明もしたんだから。このまま死んで宿題のない夏休みをもらうか、死ぬよりつらい目にあうことがわかっていても生き返るか。あなたは選んだ。生き返る方を」
「……やっぱ宿題なしの」
「もう遅いわ」
 とりつく島もなくぴしゃりと言われる。

「叔父さんッ、これは何かの冗談だよね!?」
「だったらよかったんだが……。残念ながら陽一、おまえは不幸な事故で死んだんだ。俺も彼女に聞くまで気付かなかった。さすが正式冥官めいかん、ここまでうまく修復するとはね」
「当然よ。こっちだってギリギリまで力を使ったんだから。そのせいで任務が遂行できなくなったのよ。手伝わせるのは当然の権利」
「話がっ、全然見えないんだけどっ。なんで叔父さん、俺が死んでるなんて言うんだよ」
 半狂乱でわめく陽一を、映は冷徹に見据えた。
「おまえがいたってピンピンしてるのに餓鬼が見えてるからさ。あれはふつうの霊能力で見えるもんじゃない。人間の幽霊とは違うんだ。存在する階層が違う。あれが見えるということは、人間界と餓鬼界を二重写しに見てるってことだ。そういう『眼』は、ほんの一瞬だろうが一度は完全に死ななきゃ得られない」
「叔父さんは生きてるじゃないか」
「今はね。でも、一度は死んでる。頭を撃たれた時に。完全に心停止して脳波も消えた。そうだな、三分くらい死んでたか」
 陽一は絶句して映を見つめた。冗談を言っているとは到底思えない表情。もとより映は人をからかって喜ぶ性癖など持ち合わせてはいない。
 映は少し表情をやわらげた。
「……その、死んでる間に俺も取引をした」
「生きるか、死ぬか?」
「そう。俺は生きたかった。だから生きることを選び、その代償として走無常になった」
「そうむじょう……?」
 ぽかんとする陽一に、少女が答える。
「冥府の執行官補の一種よ。冥府ってとこはとにかく忙しくて、いつでも人手不足なの。彼は非常勤の執行官、わかりやすく言えばパートタイムの死神ね」
 陽一は唖然とするあまり口もきけなかった。何を言ってるんだ、この銀髪のおかしな女は。
 叔父さんが死神? しかもパートタイム? そんな馬鹿な話があってたまるか!
「ざけんじゃねーっ」
「三瀬川。あんたの甥っ子は頭悪すぎね。三日月、一生の不覚よ。こんな奴と組まなきゃならないなんて」
「ま、運が悪かったと諦めるしかないですね。お互い」
「そんな与太話、信じられるか! 叔父さんもさらっと酷いこと言わないでくれる!? それじゃ何かよ、俺もパートタイムの死神だっつーのかっ」
「あんたはフルタイムよ。今は研修期間中だから加減してあげてるだけ。せめて勤務時間内くらいきちんと働いてよね」
「だから全然わかんねーんだよッ」
 美少女は、美しい曲線を描く眉を急角度につり上げた。
「いい加減わかりなさいよ。あんたは死んだの。そりゃもう絶対に蘇生不可能な状態で完璧に死んだの。全身骨折に内臓破裂、脳内出血。車に撥ね飛ばされて、さらにもう一回轢かれたのよ。ふつうに死ぬわよ」
「生きてるぞ、俺はッ」
「だからそれは私のお蔭なの! 正式冥官として使うべき力をあんたに注いで生き返らせてあげたのよ。そのせいで私は肝心の仕事が出来なくなったわ。私の力を全部あんたに注いじゃったから。生きたいって言ったのはあんたでしょうがっ」
 激昂して立ち上がった少女がテーブルを両手で叩く。黙っていた映が静かに言った。
「陽一。彼女はおまえの身体を修復して、死者名簿への記載阻止までしてくれたんだぞ」
「……それってそんなに大変なこと?」
 きぃっ、と少女は眉をつり上げた。
「あったりまえでしょー! 死者名簿はリアルタイムに更新されていくのよ。一度載ったら死者と見做されてしまう。生き返るには召魂しょうこん停止手続きやら蘇生許可の申請やら、しち面倒くさい手続きが山ほどあるんだから! もっともそれは書記官の仕事だから私には関係ないけどねっ、あの人たちも忙しいのはわかってるから、むやみに仕事を増やしたくないのよ。後でネチネチ文句言われるのも厭だしっ」
「じゃあ、あんたの仕事は何なんだよ」
 少女は誇らしげに胸を張った。
「私は冥府の執行官よ。死んだのに未練がましく現世をうろついてる奴らとか、死んだことにも気付かない間抜けな阿呆どもの魂を捕縛して、冥府に連行するの」
 少女は偉そうに腕組みして、可愛い声で暴言を吐いた。
「つまり、死神」
「陳腐な言い方をすればそうね。だけど私たちは死をもたらすわけじゃないわ。死んだ人間を、往くべき場所へ導くことが役目」
 捕縛して連行する、とか何とか居丈高な言い方をしたように思うが。
「……叔父さんも?」
「人手が足りない時だけだが。強制的に呼びだされて拒めないのが難点だな」
「仕方ないでしょ。そういう契約なんだから」
「――あ。もしかして、叔父さんが時々寝たまま起きなくなるのって」
 映は苦笑して頷いた。
「いつも四十九時間連続勤務なんでね。俺は走無常そうむじょうだから、活動してるのは魂だけで、肉体は寝てる。というか脱け殻状態だな」
「頭を怪我した後遺症だとばっかり思ってた、俺……」
「ま、そう言えなくもない」
「とにかく! 私はあんたを助けたせいで執行官としての職務遂行が不可能になったの。だからあんたが代わりにやるのよ!」
「俺にそんなことできるわけねーだろ」
「やってたじゃないの。今朝、途中で目を覚ますまで」
 平然と言われて言葉に詰まる。
「く、首をチョン切るのが魂を捕まえることになるのかよ!?」
「あれは別に実体じゃないもの。生前の記憶で人の姿をとってるだけ。首――頭部に見えている部分が核の部分、いわゆる魂ね」
「だからって何もあんな首斬りすることないだろ」
「別にしたくてしてるわけじゃないわよ。彼らはこっちの説得にがんとして応じないわからずやなの。ふつうはちゃんと話し合いで説得してる」
「じゃあそうしろよ!」
「仕方ないでしょ、あいつら脱獄者なんだから、そもそも話が通じる相手じゃないのよ」
「だ、脱獄……?」
 はぁ、と少女は溜息をついた。
「もう、最初から話さないとわからないみたいね」
「最初から筋道たてて話せーっ」
「三瀬川。あんたが話して。説明はさっきしたでしょ」
 少女はカップに残った紅茶を飲み、冷めちゃったじゃないのと文句を言った。映は軽く肩をすくめて後を引き取った。
「そもそもの発端は、冥府の死者名簿にトラブルが発生したことだ。原因は不明だが、死者名簿の一部データが消失して死者が死んでいないことになり、相当数の魂が勝手に現世に戻ってしまった」
 そうそう、とポットから継ぎ足した紅茶を飲みながら少女が頷く。
「勝手に、って……。そんなすぐに帰れるもんなの?」
「死者名簿に載っていなければ死者ではない。となると冥府に繋ぎ止める力が弱まり、相対的に現世に引っぱられやすくなる。生きていた頃の記憶が鮮明であればあるほど、その力は強くなる」
「だから現世に戻ってしまう……?」
「そう。彼女はそれらの魂を連れ戻す指令を受けていた。その活動中、偶然おまえが事故死する現場に居合わせたんだ」
「まったく間の悪いことにね」
 少女はぶすっとした顔で口を挟んだ。

「でも……、なんで俺を助けたんだ? 俺、死んだんだよな? あんたは死神なんだから、俺の魂とやらを引っぱっていくのが仕事なんじゃないの?」
「あんたの死が予定外だったからよ」
「は?」
「あんたはまだ死ぬ時期になかったってこと。閻魔庁のデータによれば、あんたはあと何十年かは生きることになってたの。それが予定外の交通事故で死んでしまった。ま、事故で死ぬ人間はたいてい予定外だけどね。私たち執行官は、そういう人間を見つけたら最優先で救助すべしという義務を負ってるの。これを怠ったことがバレるとマイナスポイントがついて昇進に差し障る。逆に、助ければボーナスポイントがついて将来的に有利なの。もちろんデメリットもあるけどね」
「それじゃ何か。あんたは昇進のために俺を助けたってわけか」
「そう思ってくれて結構よ。忘れてもらっては困るけど、あんたは自分で選んだの。私は何もあんたの意思に反してまで助けたわけじゃない。決めたのはあんた自身なんだから」
 黙り込む陽一を横目で見やり、映は軽く嘆息して続けた。
「まぁ、その話は置いといて。ともかく彼女はおまえを生き返らせた。その際、彼女が持つ執行官としての力はすべておまえの肉体の修復のために使われた。今も使われ続けている。おまえの身体は前と同じように見えても実際にはまったく違うものなんだ」
「えっ、どういうこと」
「彼女がおまえに使った《力》は、自己修復機能の行使権限を書き換えたものだ。本来、彼女自身が負傷した場合に使う力を、おまえが行使できるように改変した。その結果おまえの身体は冥府の執行官として再生された。つまり陽一、おまえは見てくれは以前と変わらないが、中身は全然違ってるってことだ」
「よく……わかんねーよ……」
「つまりあんたは執行官になったってことよ。あんたの言い方を使わせてもらえば、死神になったの。私たちの言い方をすれば、無常鬼むじょうきに、ね」
 陽一は絶句して少女を見つめた。そして、冗談にできる余地のない厳しい叔父の顔を見て絶望的になった。
「……何それ。俺に死神やれって? あんたの代わりに?」
「素人のあんたには無理よ。私の指示通りに動いて助手を務めればいいの」
 何だそれ。
「言ったでしょ。こっちだってデメリットがあるんだって。これからあんたが本来の寿命で死ぬまでのあいだ、二人三脚で働かなきゃならないんだから」
 何だそれ。
「とにかく、トラブルで脱走した魂をさっさと連れ戻さなきゃならないのよ。制限時間内に連れ戻さないと――」
「何だよそれっ……! 俺にあんたのパシリをやれってのか!?」
 爆発したように声を荒らげた陽一を、少女は呆気にとられた顔で眺めた。すぐに気を取り直し、ムッと眉を逆立てて睨み付ける。
「そうよ。文句でもある?」
「冗談じゃない、誰がそんなことするかっ。俺はもう二度とパシリなんか……っ」
「あ、そう。そんなに厭なら私の《力》を返して」
「とっとと持ってけよっ」
「いいの? 死ぬわよ」
 少女はさらりと冷やかに言った。
「あんたの身体は私が貸してあげた《力》でもってるのよ? 《力》を返してもらえるならそれに越したことはないけど。ま、あんたが拒絶したんだから、私も目の前で見殺しにしたと咎められて減点されないですむわね。別に私はどっちだってかまわないわ」
 フフン、と少女は鼻で笑った。
「公平を期して、もう一度だけ選択のチャンスをあげる。こないだはあんたも死にかけで頭が正常に働いてなかったろうし。実際、人生はとっさの判断が肝心だとは思うけどね。とにかくもう一度選ばせてあげるわ。これから四十九時間猶予をやるからそのあいだに考えなさい。人間として死ぬか、無常鬼として生きるか。どっちでも好きな方をとればいいわ。――じゃ、私はいったん帰るわね。三瀬川、お茶ごちそうさま」
 一見無邪気に、そのくせ目には露骨な怒気をにじませて少女はにっこりとした。カップを戻すカチリという音と共に、彼女の姿は消えていた。



 電話が鳴った。
 すでに真夜中近かったが、心亜ここあは機嫌よく携帯を手にした。
 最近は鏡に幻影が映らなくなり、気分はすっかりよくなった。久しぶりに奈々美と電話でしゃべって優越感を取り戻せたのが効いたのかも。
 同じ市内とはいえ離れた地域に引っ越し、別の高校に入学しても、心亜はまだどこかで奈々美のことを召使のように思っていた。
 希望どおりランクの高い――成績ではなく――高校に入れて心亜は満足していたが、少なからず不満もあった。
 清美女学院の中では心亜はそれほど一目置かれる立場ではなかったのだ。周囲には心亜よりもずっと多くの面で恵まれた少女たちがひしめきあっていた。
 そんな不満も、自分より格下と思っている少女に対して腹いせをすることでずいぶんやわらいだ。
 奈々美は相変わらず口下手で、一方的な会話を遮ることなく聞き、適度に口を挟んで適度に言い負かされてくれた。奈々美ほど都合のよい存在はそうそう見つからない。
 心亜は手にした携帯に表示された名前を確かめ、唇を軽くゆがめた。
「トモくんかぁ」
 虻田智之あぶたともゆきは幼い頃から自分の信奉者だ。いつでも心亜の機嫌をとって、ちやほやしてくれる。
 虻田という名前はあんまりイケてないけど、けっこうハンサムだ。あれでもう少し頭がよかったら申し分ないんだけど。
(まぁ、いいや。トモくんは何でも言うこと聞いてくれるし)
「はーい。トモくん? 久しぶりー」
『心亜? なぁ、畑中から連絡あった?』
 妙に息せき切った口調で虻田が尋ねる。
「畑中くん? 知らないよー、川野くんと一緒に家出したんじゃないの?」
『それが違うみたいなんだ。あいつ、何かヤバいことに巻き込まれてるんじゃないかな』
「何それー。あたし、ヤバいことなんか関わりたくないよ。せっかく入った清美女、退学になっちゃうじゃない」
『TVでやってるの、知ってるか。血まみれの電話ボックスの話』
「あー、あのヤラセっぽい怪談話ね。どっかそこらの家でもあったとか」
『それが畑中ん家なんだよ!』
「え……」
 心亜はドキリと携帯を握りしめた。ただの馬鹿話をしていたつもりが急に背筋が冷える。
「じょ、冗談でしょ、トモくん」
『本当だって! 俺、畑中のおふくろさんから聞いたんだ。例の電話ボックスからかかってきた電話も、畑中の携帯あてだったって――』
 キィ、と小さな音が背後で上がり、心亜はびくりと身をすくめた。電話の向こうで虻田はしゃべり続けている。
『畑中の奴、携帯持ったままいなくなったらしいけど、電源入ってなくて居場所がわかんねーんだと。それが、こないだから俺の携帯にあいつの携帯からよくワン切りが入るんだよ。こっちからかけ直すとつながんねーし』
 心亜は虻田の切羽詰まった言葉を上の空で聞き流していた。意識は背後に集中している。
 何だろう、今の音。振り向けない。見るのが怖い。
『川野にも何度かかけてみたけど、やっぱ全然つながんねぇ。そんで、さっき携帯見たら、畑中からメール入っててさ。相談したいことがあるんで 縁野ゆかりの中央公園に今から来てくれって。気味が悪ィけど、俺、やっぱ来てみたら……』
 キィィ、と背後でまた音がする。何かが軋む音。
 携帯を耳にあてたまま固まっていた心亜は、ついにこらえきれなくなってゆっくりと振り向いた。
 鏡台の扉がわずかに開いている。
 ほうっ、と一気に肩の力が抜けた。鏡台の鏡は姿見を兼ねた扉になっていて、開けると化粧品や小物がしまえる棚になっている。その扉が少し開いているのだ。
 たぶん、前に閉めた時きちんとしまっていなかったのだろう。
 傾きがあるのか、扉はさらにゆっくりと開いてゆく。変だ、とさすがに心亜は思った。こんなに開いてしまうほど傾いているはずがない。今までこんなことは一度もなかった。
 携帯からは虻田の声が洩れていたが、心亜はまったく聞いていなかった。
 ゆっくりと、ごくゆっくりと、扉が開いてゆく。ちょうど鏡面が自分の姿を映し出す角度でそれは止まった。携帯を握りしめる自分の姿が映っている。茫然としてる自分の姿。でも、その顔は、
 ゆがんだその顔は、
 苦しげなその顔は、
 泣きそうなその顔は、
 その
 顔
 は、
 天 野 桜 姫 。
「…………いやあぁぁぁぁっっっ」
『心亜!? 心亜、どうし――』
 ブツッ。通話が途切れる。反射的に携帯を見ると、画面は真黒になっていた。
「うそっ、なんでっ」
 さっき充電したばかりなのに。電源ボタンを長押ししてもいっこうにつかない。
 携帯を投げ捨て、心亜は部屋のドアに駆け寄った。開かない。どんなにドアノブをがちゃがちゃ言わせても、押しても引いても、ドアは開かない。
 半狂乱になって心亜はドアを叩いた。
「お母さん! 開けて! 助けてぇっ、お父さんっ」
 ドンドン、ドンドン。
 拳が痛くなるほど叩いても何の反応もない。
 嘘だ、こんなのおかしい。両親はもう寝てるだろうけど、これだけ騒げば比較的眠りの浅い母は必ず目を覚ますはずだ。
 心亜は大声で父母を呼び、ドアを叩いた。誰も来ない。はぁはぁ息を切らせると、鏡台の軋む音がまた響いた。
 恐怖で涙を目に浮かべておそるおそる振り向くと、怯えた自分が映っていた。
 違う。天野桜姫だ。
 彼女が怯えた顔で見ていた。その顔を心亜は知っていた。よく見覚えていた。桜姫はいつもそういう怯えた顔で自分を見返した。
 無茶な要求をつきつけていじめてやると、絶望的な目で自分を見た。それがとても心地よかった。他者の命運をこの手の中に握っているのだと思えて、ぞくぞくした。
 今、勝手に開いた鏡台の鏡から見返してくるのはまさにその顔だった。かつて自分が喜んで眺めたその顔が、自分の顔として自分を見返してる。
 心亜は絶叫して自分の顔を覆い、ずるずると床にしゃがみ込んだ。


 その頃虻田は、急に通話が切れてしまった携帯に向かって毒づいていた。
「何だよ、くそっ。心亜の奴、電池切れか?」
 それにしても畑中はどこにいるのだろう。暗くてよく見えない。ぽつぽつと設置されている水銀灯はやけに暗かった。
 真夜中の人気のない公園はやはり薄気味悪くて、虻田はせわしなく周囲を見回した。
 もう十二時を過ぎ、近くの商店街もみな閉まっている。駅近くの飲食店はまだ開いているだろうが、ここら辺りは通りすぎる車さえほとんどない。
 公園は片側が大通りに面しているのに、さっきから全然車の音がしなかった。
「おい、畑中」
 中途半端な大きさの声で虻田は呼びかけた。不機嫌に左右を見回していると、金属の軋む音がかすかに聞こえた。
 ブランコが小さく揺れている。一瞬そこに黒い人影が見えたような気がしてぎょっとしたが、見直せばむろん誰もいなかった。
(か、風だ。風のせいだ)
 急いで虻田はその場を離れた。風など吹いていないことは自分でもわかっていた。
 背後で明らかに自分のものではない足音がする。振り向くと闇があった。人の形をした黒いかたまりが、そこに立っていた。
 全身がゾッと粟立つ。その黒いかたまりは全身から露骨に悪意と残忍さを放っていた。考える前に、生存本能で虻田は走り出していた。
 あれはヤバい。途轍もなくヤバいモノだ。
 ざっざっと走る音がする。十メートルくらい後かと思えば、冷笑を背中に感じるほど近くに聞こえる。次の瞬間にはまったく足音が聞こえなくなる。
 とにかく公園から出ようと全力疾走したが、いつまでたっても出入口にたどり着かない。
 おかしい。こんなのはおかしい。
 パニックになって虻田は走り回り、目についた建物の中に無我夢中で逃げ込んだ。それは公園の片隅に設置された公衆トイレだった。
 虻田は一番奥の個室に入り込み、鍵をかけた。
 そんなことをしても追い詰められるだけなのに、もはや虻田は冷静に考えることができなくなっていた。ただひたすら正体不明の追跡者をやり過ごしたい一心だった。
 聞こえなくなっていた足音が、トイレの入り口付近で聞こえた。虻田はトイレの奥の壁に背中を押しつけた。
 このトイレの個室はすべて未使用時でも扉が閉まる構造になっている。鍵をかけると把手の表示が青から赤に変わるのだ。
 バン。
 一番入り口に近いドアが開いて跳ね返る音がした。
 ついで真ん中のドア。
 次は自分だ。今度こそ捕まる。こんなとこに逃げ込むんじゃなかったと後悔したが、もう遅い。
 不思議なことに、それっきり物音が途絶えた。聞こえるのは自分の心臓の音だけだ。
 耳を澄ませても何の音もしない。息づかいの気配もない。虻田はおそるおそる鍵を外し、ドアを開けてそっと顔を出した。
 誰もいない。よかった。ほっと息を洩らし、虻田は個室から出た。畑中なんか放っといてさっさと帰ろう。
 そう決めて足を踏み出したとたん、真ん中の個室から腕が伸びて虻田を引きずり込んだ。
 バタン。
 ドアが閉まり、鍵がかけられる。勢いで便座の上に座り込んだ虻田は、相手を見上げて息をのんだ。
「おま……」
 えは、と続くはずだった言葉が、刃の一閃で寸断される。
 不気味な音をたてて大量の血飛沫が個室の壁に跳んだ。
 ごぼごぼ。
 声にならない悲鳴が洩れる。
 キチキチ。
 耳障りな声をあげて、そこらじゅうから牙を剥いた小鬼が出てくる。便座に座った格好でこと切れた虻田に群がり、鋭い歯で全身を切り裂いた。
 床が真っ赤に染まった。
 刃物を手に佇む人物の足元だけを除いて。そこは円盤状に闇が取り巻いていた。にやりと笑った人物がその闇に包まれて姿を消すと、床はまったき朱色に染まった。
 そして真っ赤な小鬼が消えたとき、虻田の亡骸はどこにもなかった。



「……今回もまたド派手にまき散らしてくれたねぇ」
 鷹見悦司たかみえつしは現場を眺めて嘆息した。
 後ろでは 宮迫みやさこが真っ青な顔で口許を押さえている。血が大量に飛び散ってるだけで毎回これでは、ここに無残なホトケさんが転がっていたりしたらどうなることやら。
 先が思いやられるが、こればっかりは慣れてもらうしかないのでとりあえず放っておく。
 鷹見は近くにいた制服警官に尋ねた。
「発見者は?」
「清掃会社の社員です。八時頃トイレの掃除に来て異常に気づき、すぐに通報したと」
 今は開いているが、発見時ドアは内部から施錠されていたという。清掃会社の人間はドア下から流れだした血液を見て、慌ててドアを叩いた。
 人の気配がしないため隣の個室で便器の上に乗って覗き込み、狭い個室内が血に染まっていることを見て取ったのだ。
「また、変な具合に密室状態、か」
 鷹見はうんざりと溜息をついた。今回は電話ボックスとは違って説明はつけられる。まず真ん中の個室に入って施錠する。それから仕切りを乗り越えて隣の個室へ降りる。そして隣から血をぶちまければ一丁上がり、だ。
(……しかし、こんなことをして何になる?)
 悪趣味な愉快犯が、単に騒ぎを起こして愉しんでいるだけなのか。
(同一犯とは限らんな)
 今回は電話ボックスの事件を知った者による悪戯の可能性も高い。
 同一犯であるのなら、やはり疑わしいのは姿を消している畑中弘和だ。みっつの血まみれ密室(もどき)事件では、彼の自室だけが完全にプライベートな空間ということで性質が異なっている。
 公衆トイレの建物から出た鷹見は、現場保存テープの向こうに集まっている大勢の野次馬たちをちらと眺めた。
「……宮迫」
「はい、先輩」
 相変わらず青い顔で新米刑事は応じた。
「公衆電話の時も、野次馬の写真撮ってるよな」
「そのはずですが……、あっ」
「畑中弘和の自宅に集まった野次馬と、今回の野次馬、映ってる奴ら全員照合しろ。運がよけりゃ、共通する顔があるかもしれん」
「そうですねっ」
 手がかりとは言えないが、調べる方向性が見えて宮迫の顔色が回復した。鷹見は振り返ってコンクリートの無愛想な建物を眺めた。
(……なーんかこう、厭な感じがするんだよなぁ)
 ゆうに人ひとり死んでる量の血液だけが残され、死体はどこにもない。
 被害者がいるのかどうかもわからない。
 これはいわゆる『死体なき殺人』のケースなのだろうか。しかし不審者を見た、おかしなことがあったという目撃証言が、地道な捜査を重ねてもただのひとつも出て来ないというのはやはり異様だ。
(まるで、空間ごと遮断されていたみたいじゃないか?)
 鷹見は苦笑して首を振った。いかんな、現役の刑事がオカルトに走っちゃ。
 幸か不幸か鷹見はこの世界がこうして見えている風景だけで構成されているのではないことを知ってしまった。以前と同じように物事を見ることは、もはや出来なくなっている。
(やっぱりあいつに視てもらうべきか……?)
 かつての相棒、三瀬川映みつせがわはゆるなら、この風景をどのように視るのだろう。
 電話ボックスの件も民家の件も、何の手がかりも見つからないまま第三の事件が起こってしまった。頼み込んで視てもらうか。
 こんなふうに奴の〈能力〉を利用したくはないが、正直なところにっちもさっちも行かなくなってる。
 いっそ映が物凄く迷惑そうな顔でもしてくれれば、矛盾しているようだが却って頼みやすいのだが。あるいはビジネスライクに相談料でもとってくれれば。
 なのに彼はほんの少し眉を曇らせるだけで結局はいつも引き受けてくれる。そのたびに、ひどく残酷なことをしている気分になった。
 胸の奥で疼く罪悪感は、事件解決のためと割り切ろうとしてもどうにもならない。たぶん消えることはないのだろう。
 本当は、彼ではなく自分が死にかけたはずだと思えば。



 逃げるように叔父の元から自宅へ戻り、あっというまにその日は過ぎた。
 与えられた猶予は四十九時間。タイムリミットは木曜日の昼十二時。今はすでに半分過ぎて、もう火曜日の夜だ。
 陽一はいつもと変わらない夕食の席に着いていた。向かいに座った母が、ちっとも食が進まない陽一の様子に気付いて眉をひそめる。
「どうしたの。また具合でも悪い?」
「……あ、いや。そんなことないけど」
 急いで御飯をかき込み、お菜に箸を伸ばす。美晴はもの思わしげに息子を見つめた。
「陽一。もしかして、また学校で何かひどいことされてるの?」
「そ、そんなことないよ」
「前みたいに口出しされたくなくて言えないとか?」
「違うよ、学校とは全然関係ないんだ」
 陽一はまっすぐに母を見た。母の目も、今はちゃんと見返せる。本当に学校とは関係のないことだから。
「……学校、楽しい? 陽一」
「楽しいよ」
 嘘じゃない。友だちいないけど、いじめる奴もいないから。両方いるよりずっといい。孤立してても諦めていられる。
 虚しく助けを期待して、あげくに絶望なんてしなくて済む。
「本当だよ、母さん。高校はずいぶんと居心地いいよ。みんな放っておいてくれるから」
「友だちできた? 同じ中学から行った子、少ないんでしょ」
「しゃべる相手はいるよ」
 嘘じゃない。必要最低限のコミュニケーションはとれてる、はずだ。積極的に話しかけはしないけど。暗くてとっつきにくいヤツと思われてるだろうけど、別にかまわない。
 ただ、自分が明日死んでしまっても別に嘆かれもせず記憶から消えていくんだろうなと思えばちょっとだけ寂しい気もした。『よくわかんないヒトだったね』なんて言われるのかな。
 真木那はたぶん悲しんでくれるだろう。
 ああ、そうだ。真木那は友だちだと思う。女の子だけど。
「陽一。何かあってお母さんには話しづらいと思ってるならお父さんに電話しなさい。電話代なんか考えなくていいから。話したいって言えばお父さんは必ず聞いてくれるよ?」
「うん、わかってる」
 陽一は素直に頷いた。両親にないがしろにされていると感じたことは一度もない。むしろ、自分の身内はよく話を聞いてくれる人たちだと思っている。叔父の映も含めて。
「お父さんにも言いにくければるー君に相談するのよ。遠慮なんかしたらるー君怒るよ」
「叔父さんとはよく話すよ。メシ食わせてもらったりしてるし」
「あっ、そうだ。この前のタッパー返さなきゃ。お返しに何入れよう。陽一、あんた次るー君とこいつ行くの?」
「明日行こうと思ってるけど」
「わ、それじゃ何も作れないなー」
「別にいいんじゃない? お茶買ってくから」
「あっ、そうね。それじゃ特選ほうじ茶、三パックくらい買ってって。それから帰りはるー君に送ってもらうのよ、危ないから」
 陽一は母の言葉に首を傾げた。
「危ないって、何が?」
「最近、この辺りでおかしな事件が続いてるでしょ。ほら、例の血まみれ電話ボックスの怪。どこかの民家と公園のトイレでも同じような事件があったんだって。あんたあの公園、ジョギングで通るから用心しないと。トイレは家を出る前に済ましておくのよ」
 大真面目に念を押す母親に、陽一は呆れ顔になった。
「用心ったって、被害者出てないじゃん」
「出てるわよ! 仕事帰りのOLが赤ペンキかけられたんだって」
「ただのペンキだろ? どっかの馬鹿が事件を真似た悪戯だよ」
「悪戯だってペンキなんかかけられたら服がダメになっちゃうじゃないっ。今はただの悪戯でも、そのうちエスカレートして本当にケガ人とか出るかもしれないよ。死人が出てからじゃ遅いんだから」
 美晴は本気で心配しているらしい。心配性で思い込みも激しいのだ。
「……ねぇ、母さん。俺がもし、明日死んじゃったとしたら、やっぱ悲しいかな?」
 美晴は信じられないものでも見るかのようにまじまじと陽一を見つめた。
「やだ、何言ってんの。――陽一。やっぱり何かあるんでしょ。また誰かにいじめられてるの? あっ、身体が痛いって言ってたの、まさか殴られた!?」
「違うよ」
「じゃあ蹴られたのねっ」
「違うって! あれはその、ちょっと変な走り方した反動というか、とにかく誰かにボコられたわけじゃないから。本当に違うから」
「本当?」
「本当」
 美晴はしょんぼりと箸を置いた。
「……ごめんね、陽一。あたし、大雑把だから、あんまり細かいこと気付いてあげられなくて。昔っから気配りが足りないんだよね。ほんと、ごめん」
「な、何言ってんだよ。母さんのせいじゃないって。俺が弱気だったからさ。ヘタレだからつけ込まれたんだ」
「そんなことない。陽一は優しくて我慢強いの。お父さんそっくり。あたしはすぐにカッとなっちゃって。『短気は損気』を地で行くタイプだって、るー君にも言われた。陽一や剛ちゃんは、そういう時もじっと堪えてるんだよね……。でも、我慢ってのはしなくちゃならない時と、するべきじゃない時があるんじゃないかなって思うんだ。ま、短気なあたしが言えることじゃないけどさ」
 あはは、と美晴は笑ってふたたび箸を取った。
(ごめん、母さん)
 陽一は心の中で謝った。自分がもっとしっかりしていたら、母に心配かけずに済んだのに。叔父のように強かったらよかったのに。もっと強くなれたらよかったのに。
(だけど俺は怖がりで。痛い思いをするかもしれないと思っただけで身が竦んでしまうくらいに臆病で……)
 取り返しのつかないことが起こってしまった後でないと、身体に受けるだろう痛みを心の痛みが遥かに超えてしまわないと、世の中の理不尽に立ち向かうことさえできない。
(こんな俺でも、死んでしまったら母さんは物凄く悲しむんだろうな……)
 父も映も悲しむ。無表情な比良坂でさえ、ちょっとは悲しんでくれそうな気がする。
 真木那はわんわん泣くだろう。火乃子かのこは『あの馬鹿野郎』とか号泣してくれそうだ。他の千曳ちびきもたぶんそれぞれに悲しんでくれるだろう。俺を嫌ってる志土シドとか、どうでもよさげな水凪ミナギはどうかわからないけど、まぁ、半分以上の人格が悲しんでくれるだろうとは思う。
 何だかわからないけど、それには妙な確信があった。
(やっぱ死ねない、よな……)
 自分に愛情を向けてくれる人たちがいることを、知ってるから。
 その人たちが悲しむだろうと思うと、胸が痛くなる。
 殴られる痛みなんか、なんてことないと思えるくらいに、痛くなるんだ――。


10

 翌日の夕方、陽一は三日ぶりに夕方のジョギングに出た。
 いつもとは方向を変え、あの日――自分が事故にあった日曜日の夜――の道をたどった。
 交差点は絶え間なく車や人が行き交っている。時間的に遅かったこともあるだろうけど、あの夜はやけに人通りが少なかった。今思えばゴーストタウンみたいに静まり返っていた気がする。
 あの夜、自分はふと思い立ってコンビニに行って、雑誌と飲み物を買ったんだ。
 その時買った雑誌は部屋にある。今になって思い出してみればコンビニを出て道路を渡っていたところまでしか記憶がない。あとは切れ切れの断片だ。
 黒衣の銀髪少女に生きるか死ぬかの選択を迫られ、「生きたい」と願ったことは覚えている。というか思い出した。その後はまたあやふやで、目覚めて夢だと思ったのだ。
 ざっと見た限り、道路には事故の形跡は何も残っていなかった。
(やっぱあの娘が――あ、名前聞いてないや――細工したのかな……?)
 どうやったのかさっぱりだが、所詮人間ではないのだ。この世の常識は通用しない。
 いつものコースに戻り、陽一は公園へ向かった。
(そういや、ここのトイレだっけ、例の血まみれ事件)
 公衆トイレの周囲には立入禁止の柵が巡らされ、野次馬らしき人影が何人か集まっている。
 陽一はそんな光景を横目で見て通りすぎた。ブランコの側を通りかかって何気なく目を向けると、今日もあの少女が所在なげにブランコに座っていた。少女は顔を上げ、にこりと微笑んだ。
「あー……、こないだはありがとう」
 少女は戸惑った顔で首を傾げる。
「母の日だって教えてくれて。すっかり忘れてた。一本だけだけどカーネーションあげたら、母さん、すごく喜んだ」
「よかったね」
 にこ、と少女は微笑んだ。反動をつけて、軽くブランコを漕ぎだす。陽一は側に立って少女を眺めた。今日も制服姿だ。時間帯としては、別に今ここにいて不自然というわけでもないが、何となくしっくりこない感じがするのは何故だろう。
「……あのさ。ここでいつも何してるの?」
 少女は答えず、うつむき加減にブランコを揺らしている。警戒されたかと陽一は慌てて付け加えた。
「や、別に穿鑿せんさくするつもりはないんだけど。いつもひとりで何してるのかな~と」
「どうしてそんなこと言うの? 他の誰も、あたしに話しかけたりしないのに」
 陽一に尋ねるというより自分自身に問いかけているような不思議な口調で少女は呟いた。
「ご、ごめん。気に障ったら謝るよ。以前、きみによく似たコを知ってたから、何となく気になって」
 少女が顔を上げてまじまじと陽一を見る。かぁっと頬が熱くなった。
(う、ナンパと思われた!?)
 少女の向けてくるまなざしに警戒心は窺えない。とても不思議そうに陽一を見ている。しきりに考えているようでもあり、何か迷っているようでもあった。
「……きみと、どこかで会った、かな……?」
「いや、それはないと思うけど。ごめん、今の忘れて」
 ふ、と笑って少女はブランコを揺らした。
「会ってるかもしれないね。思い出せないけど」
 キィ、キィとブランコの揺れに合わせて鎖が軋む。
「……あたし、ここで何してるのかな。わかんなくなっちゃった」
 陽一はぽりぽりと額をかいた。ひょっとしてこのコはあれか。『不思議ちゃん』とかいう種類のヒトなんだろうか。
 そんな危惧も知らず、少女は急に興味を持ったように陽一をしげしげと眺めた。
「きみはここで何をしてるの?」
「俺? 俺はジョギング。いちおう日課なんで」
「よく通るね。きみも迷ったの?」
「へ? いや、いつものコースだから」
 何となく会話がかみ合っているようでかみ合っていない。妙な感じで陽一は落ち着かなかった。少女は急にブランコを止めた。
「ねぇ。もし明日死ぬって決めたら最後に見たい風景ってある?」
 唐突に少女の口から『死』などという強烈な単語がこぼれ出し、陽一はぎょっとした。少女の横顔には思い詰めた様子などまるでなく、淡々としている。
 ただの譬え話なのだと陽一は安堵した。
「最後に見たい風景か……。どうだろ、思いつかないや。きみは?」
「さくら」
 ぽつんと洩らされた言葉にドキリとする。
「さくらって……花見するあれ?」
「うん。桜が最後に見たかった。ここって意外と穴場なんだよね」
 陽一はブランコの前方を眺めた。公園の周囲に植えられた桜並木がかなり間近に眺められる。あいにく遊具などが点在していて花見客がシートを広げるには不便な場所だ。
 今年の桜はとっくに終わっていて、もう青葉が繁っていた。
「……じゃあ、来年の桜が咲くまでは死ねないね」
 少女は軽く目を瞠って陽一を見上げた。
「そっか。そう思えばよかったんだ」
 少女は出会って初めて声を上げて笑った。何だかわからないけど、陽一は少しホッとしたような気分になった。もしかしたら何か思い詰めたことがあってここにいたのかもしれない。
 青葉の桜を眺めたまま陽一は呟いた。
「やっぱ俺、生きていたいな。まだ何もしてないし」
「したいこと、何かある?」
 少女がブランコを揺らしながら問う。
「んー。今は思いつかないけど、そのうちなんか出てくるかも。生きてれば出てきそうな気がする。いつかは何かが」
「いつか」
「うん、いつか」
「明日はきっといいことあるよ、って?」
 少女の声にかすかな皮肉が混じる。陽一は首を振った。
「きっとあるとは言えないな。だけど絶対ないとも言えないと思う。あるかもしれないし、ないかもしれない。それでも今は、あるかもしれないほうを信じたい気分」
「そうだね。あたしもそんなふうに思えれば、よかったな……」
 キィとブランコが軋む。ふと視線を戻して陽一は茫然とした。
 少女の姿は消え、ただ無人のブランコが所在なげに揺れていた。


11

 木曜日、陽一は学校をサボった。ふだんどおりに家を出たが、土手に降りて学校が始まるまで川を眺めていた。それから自転車で三瀬川探偵事務所へ向かった。
 十一時半、叔父の家に着いた。真木那は緊張しきって顔をこわばらせ、一言も口をきかない。まずは叔父に挨拶しようと所長室に顔を出すと、いきなり高飛車な声がした。
「覚悟は決まった?」
 くるりと椅子を回し、銀髪少女が微笑む。陽一はデスクに陣取っている少女を睨んだ。
「そこは叔父さんの席だ。勝手に座るな」
「彼は出かけてるわ。冷たいわね、可愛い甥っ子が生きるか死ぬかの瀬戸際だってのに」
「叔父さんのこと悪く言うな、化け猫女」
「誰が化け猫よッ」
 銀の髪を逆立て、小さな牙を剥いて少女は叫んだ。
「どう見ても化け猫じゃん」
「死なすわよ、この無礼者!」
「できんの? 俺が『生きること』を選んだ場合、あんたがくれた命だか力だかをさ、勝手に引き上げたりできるわけ?」
 確信はなかったが、試しに言ってみると少女はウッと詰まった。
「ふ、ふん。あんたが生きたいって言うなら生かしといてあげるわよ。ただし私の〈力〉のほとんどは今はあんたにあるんだから、その分きっちり働いてもらうわ。言っとくけどこれについては選択の余地なんてないからね。どうしてもイヤだというなら寝てる時に強制起動するまでよ」
「あっそ」
「それから、三瀬川の霊視封印は無効化したわ。活動に支障を来すから。今後はもういっさい効かないわよ。見たくないなんてワガママは通用しないからそのつもりで」
「わかってるさ。今朝からばっちり見えてるもん」
「へぇ、急に肝が据わったみたいね」
「据えるしかねーだろ。俺、自分の知らないあいだに勝手にコキ使われるなんてまっぴらだかんな」
 少女は急に真顔になって陽一をじっと見つめた。
「……イヤな思い、するかもしれないわよ?」
「だからって目を逸らすのはもう厭なんだよ」
「そう。じゃあ、取引成立ね。――私は三日月」
「ミカヅキ? あの、お月さまの三日月?」
「そう。改めましてよろしく、ヨイチ」
 少女は珊瑚色の唇をつり上げてにっこり笑った。
「俺は陽一だ。勝手に縮めるな」
 むすっと応じたが、三日月と名乗った少女はまったく聞いていなかった。
「よかった。私としても本人の意思に反してコキ使うのはやっぱり良心が咎めるしね~」
 ころっと表情を変える少女に、陽一は唖然とした。
「ちょう待て。俺が承諾しなかったら、引き続き勝手にあの首チョンパをやらせたってことか?」
「だってそれが仕事だもん」
「仕事だもん、じゃねぇっ。全然選択になってないじゃないかっ」
「なってるわよ。あんたは自分で考えて選んだ。どうせ同じことするなら主体的に関わったほうがずっといいでしょ」
「そりゃそうだけど……」
 三日月はにんまりして拳をぐっと握った。
「さ、そうと決まれば今夜からガシガシ行くわよ。まだあと五十人くらい残ってるから」
「ごじゅ……、そんなに首チョン切るのか!?」
「大丈夫、別に痛くないから」
「おまえの首じゃなかろうがっ」
「冥府のこと何も知らないくせに文句ばかり言わないでよ」
「行ったことねーんだ、知るわけないだろ。だったらきちんと説明しろよ」
 デスク越しにぎゃあぎゃあ怒鳴りあう様子をそっと窺い、真木那はホッと安堵しつつも羨ましそうな顔でふたりを眺めた。

第三章 無常鬼×殺人鬼



 陽一が三瀬川探偵事務所で三日月と喧々囂々けんけんごうごうの話し合いをしている頃、映は逆に陽一の地元にいた。
 道路を挟んで反対側から発端となった古い電話ボックスを眺める。ちょうどバス停の近くなので、突っ立っていても違和感を抱かれずに済んだ。
 傍らには影のように比良坂が控えている。
 ごく普通のスーツ姿にアタッシェケースを持った比良坂は営業活動中のサラリーマンで通るが、濃青のシャツにネクタイなし、黒いジャケットを適度に着崩した映はどう見てもまっとうな勤め人とは思えない。
 どっちかというとこの時間帯はねぐらに潜んでいるであろう夜の職業のヒトのようである。しかもやたらと顔の造作がいいので、通りがかる女性はたいていチラチラと盗み見てゆく。
 映は周囲のことなど気にも留めず、車道の向こうの電話ボックスをわずかに目を細めて凝視した。
「……次、行くか」
 歩きだした映の後に、比良坂は黙って続いた。並んで歩きながら控えめに尋ねてみる。
「何かわかりました?」
「んー。残念ながら死んでるな」
「やはり犠牲者はいたんですね。遺体はどこにあるんでしょう」
「どこにもない」
 低く呟くと、比良坂は目を 瞠みはって映を見返した。
「……何を見たんです? あそこで」
「殺されたのは高校生の少年だな。たぶん陽一と同じくらい。殺したほうはわからない。黒いかたまりとしか見えなかった。被害者にとっては見知った人物だったらしい。ひどく驚いていたが、恐れてはいなかったようだから」
 よほど凄惨な光景を視たのか、ふだんあまり動じることのない映が口許をゆがめる。
「……ガラスに女の子が映っていた。中学生か高校生くらいの。被害者は彼女の顔を見て驚愕していた。それから振り向いて加害者を見て、意外そうではあったがホッとして。次の瞬間、喉を切り裂かれた」
 比良坂は息を呑んだ。短いながらも監察医をしていた経験上、犯罪被害者の死体そのものは見慣れていても当然ながら殺される瞬間など見たことはない。
 幻視であってもまさにその瞬間を映はるのだ。今現在目の前で起こっているかのように、生々しくもリアルに。
 比良坂は心の中で鷹見悦司に毒づいた。
 あの男は疫病神だ。いつだって映に不運と災難を運んでくる。そもそも映が向こう側に片足突っ込んだまま戻れなくなってしまったのは、あの男がミスをしでかしたせいなのだ。
 ひとしきり内心で罵倒して、ついでに二、三回絞め殺してやって、比良坂はようやく気を鎮めた。
「……その、ガラスに映っていた少女が犯人なのでしょうか」
「違うと思う。ガラスに映った少女を見た時の驚きっぷりは半端なかったが、振り向いた時には明らかに安堵してた。少しは驚いていたけど」
「顔見知りではあった、ということですよね。どちらも」
 話しているうちに第二の現場が近づいてくる。ここは住宅街なので、あまり立ち止まってじろじろ見ているわけにもいかない。
 現場付近で職務質問とかされたら自分の名前を出してくれてかまわないと鷹見には言われているが、元同僚とはいえ今はただの一般人である自分に捜査情報を洩らしていると勘繰られても気の毒だ。
 映はさりげなく辺りを窺った。傍らでは比良坂がいかにも自然に住宅地図を広げている。もちろん見ているわけではない。畑中家の周りに人影は見当たらなかった。
 一時は報道陣や野次馬が詰めかけたようだが、ここで犯罪が行われたのか、或いは行方不明になっている息子が加害者なのか被害者なのかもわからない状況では報道もしづらかったのだろう。
 家の前で足を止めた映は、ほんの一分ほど二階を見上げただけですぐにまた歩き始めた。
「もういいんですか」
「畑中弘和が死んでることはわかってるから」
 そういえば映が鷹見から畑中弘和の写真を見せられたのがそもそもの発端だったと比良坂は思い出した。映は歩きながら考え込むように顎を撫でた。
「彼も喰われてるな。写真を見た時、死んでることはわかっても死に顔が視えなくて何だろうと思ったが。現場近くまで来ないとそこまでは視えないな、俺には」
「やはり電話ボックスと繋がってるわけですか」
「文字どおり繋がってたんだよ。電話ボックスでの犯行後、界路を開いて畑中弘和の部屋に移動したんだ。被害者はあの公衆電話から畑中の携帯に通話中だった。界路を開く手がかりとしては完璧だ」
「ということは……」
 口ごもる比良坂に、映は凄味のある微笑を浮かべた。
「そう。冥府の住人か、少なくとも何らかの関係者が噛んでるってことだ」
 界路は次元を超越する近道だ。三日月のような執行官が冥府から現世に現れる時も界路を開くことによって移動する。走無常そうむじょうの状態であれば映にも使える。
「畑中弘和の部屋からも界路を使って移動したんですよね? どこに行ったんでしょう」
「閉じてしまえばどこに繋がってたのか知りようがない。それがわかれば犯人の居場所を突き止めるのも簡単だが、そう都合よくはいかないな。――次は公園か。今何時だ?」
 比良坂は腕時計を見た。
「十二時過ぎました。――陽一くん、大丈夫でしょうか」
「改めて『生』か『死』かどっちか選べと突きつけられて、『死』を選ぶ奴なんていないよ。たとえ直前まで死んでもいいとか死のうとか思ってたような人間であってもな。仮に陽一が『死』を選んだとしても――そんなことは万が一にもないだろうけど――、彼女がそれを許さないだろう」
「何故です? あの少女は執行官なんでしょう。死者を連れて行くのが役割なのでは」
「だからこそ、まだ生きている人間は決して連れて行かないのさ。俺たちは〈死をもたらす者〉であっても、〈死に誘う者〉じゃない。生きられる可能性があるのなら何があろうとそっちが優先だ」
 しばらくのあいだ黙々と歩いた。住宅街をぐるっと周って駅前から続く大通りに面した公園に入る。問題の公衆トイレは立入禁止になっていた。
 ぶらぶら歩きを装って横目で建物を観察する。
「……こっちも被害者は高校生だな。加害者は……やっぱり黒いかたまりにしか見えない。被害者の驚きようからして、加害者とはまたもや顔見知りか」
「全員が顔見知りというと、犯人も少年である可能性が高いですね」
「だな。しかし畑中弘和以外はどこの誰だかわからん。仕方ない、鷹見さんに頼んで被害者の友人の写真を見せてもらうか」

 ふと、映は足を止めた。
 比良坂が何気なく視線を追うと、そこには古びたブランコがあった。今は誰も乗っていない。それを映は何故かじっと見ている。
「所長?」
「――いや、何でもない」
 首を振り、ふたたび歩きだす。隣に並んで比良坂は尋ねた。
「犯人は界路を使ってるんですよね。それって生きてる人間にも使えるものなんですか」
 映は端整な顔をしかめた。
「そこがどうもよくわからないんだよな。被害者は物理的に刃物を使って殺されている。ということは、少なくとも刃物を持てる実体がなければならない。基本的に、同一の次元に属しているものしか触れられないんだ。集中すればおおまかになら動かせるが。――たとえば、走無常の俺が事務所の台所から包丁を持ち出しておまえを刺すのは無理だが、歩いているおまえの頭上に植木鉢を落とすくらいはできる」
「はぁ……」
 映はふと顎を撫でた。
「いや、待てよ。おまえに取り憑けば刃物くらい振り回せるか」
「あ、それじゃないですか? この世には執行官から逃げ回ってなかなかあの世へ行かない魂がいるそうですね」
「取りこぼし多いからな~」
「そういうのって放っておくと悪霊化するんですよね。それが犯人に取り憑いてるんじゃないでしょうか」
「ダメだね。悪霊憑きは界路が使えない。どんなにうまく取り憑いても、人間のできる範囲のことしかできないんだ」
 即座に却下されて比良坂はしょんぼりと肩を落とした。
「そうか……。一度は冥府に行かないと、界路は開けないんでしたよね」
「それに、悪霊憑きならふつうの人間みたいに俺にも顔が見えるはず……」
 ふいに映は言葉を切った。
「所長?」
 映は急いで携帯を取り出し、操作して耳に当てた。
「ひょっとして……。――陽一? ああ、俺だ。生きててくれて嬉しいよ。後でゆっくり話をしよう。ところで、そこにまだ三日月はいるか? 悪いけど、ちょっと替わって」
 少し間をおいて、尊大な少女の声が洩れ聞こえた。
「こないだ言ってたよな、死者名簿にトラブルがあって現世に戻ってきた魂がいるって。……そう。その死者名簿、改竄かいざんされてないか?」
 通話口の向こうから怒ったような声がする。
「調べてくれ。もしかしたらあんたたちが知らない間にこっそり戻ってきてる魂があるかもしれない。それも、かなり厄介な奴が」
 映は三つの事件をかいつまんで説明した。不承不承といった感じだが、三日月は映の頼みを了解したらしい。ふたたび替わった陽一に二言三言あたたかい言葉をかけると電話を切った。
 表情を引き締め、続けて別の番号にかける。
「――鷹見さん? 三瀬川です」
 比良坂が露骨に厭そうな顔をしたので、映は呆れたように眉をつり上げた。
「……いえ。ちょっと聞きたいこととお願いしたいことがあって。これから会えませんか。……わかりました。それじゃ」
 通話を切り、電話をしまいながら映は歩きだした。
「さて、メシ食いに行くぞ」
「え? 鷹見さんと会うんじゃないんですか」
「ちょうど昼時だから、メシついで」
「俺、あの人と一緒にメシなんか食いたくありません」
「おまえ、まだ逆恨んでるのか? でかいなりしていつまでもガキんちょみたいなこと言うなよな~」
「逆恨みじゃありません。正当な恨みです」
「ほんとにおまえは執念深いな。前世は蛇か? 俺は生きてるんだから、もう忘れろって。そんなに厭なら来なくていいよ」
 ひらひらと手を振って、映は先に行ってしまう。
「……くそっ」
 小さく毒づき、比良坂は足を速めて映を追った。



 陽一は、偉そうな態度でリクライニングチェアにふんぞり返っている銀髪の少女を不審顔で眺めた。
 冥府だの冥官だの、わけのわからない説明を立て板に水の勢いでまくしたてられ、「わからん」と言い返せば「無能」と怒鳴られる。
 こんな奴と一生組まなきゃならないなんて早くもうんざりしてきた。外見だけは文句のつけようもない美少女だが、中身については苦情が尽きることはなさそうだ。
 殺伐とした雰囲気で睨み合っていると、携帯電話が鳴り響いた。これさいわいと相手も確かめずに応答すると、叔父の声が流れ出た。
『陽一? 生きててくれて嬉しいよ』
 ホッとした声に胸が詰まる。
『後でゆっくり話そうな。――ところで、三日月はまだそこにいるか」
 横目で見ると、銀髪の美少女はつまらなそうな顔で爪をいじっていた。ずいぶん凝ったネイルアートをしている。十字架だの薔薇だの蝙蝠だの、ダークなモチーフだらけだ。
 こいつはあれか、ゴスロリというやつなのか。
 いる、と答えると替わってほしいと言われた。むすっとして陽一は三日月に携帯を突き出した。
「叔父さんが替われって」
「何よ、走無常そうむじょうの分際で生意気な」
 生意気なのはおまえだと怒鳴りたいのをどうにかこらえる。最初は面倒くさそうに聞いていた三日月の顔は次第に険しくなり、ついには声を荒らげて言い返し始めた。
「――この私に手抜かりがあるとでも!? ……そうよ、バックアップ用のコピー台帳を元に復旧したのよ。……それ、根拠があって言ってるんでしょうね」
 怒鳴りはしたが、聞く耳持たないというふうでもない。不機嫌そうにこめかみを押しながら三日月は大きく息をついた。
「わかった。担当者に調査するよう伝える」
 三日月はむっつりした顔で電話を返して寄越した。まだ切れてはいないらしい。
「……叔父さん?」
『陽一、おまえ学校サボったろ。今から急げば午後の授業に間に合う』
「ええ~、今さら行ったって……」
『行かないと姉さんに言いつけて小遣い停止処分にしてもらうぞ』
「行きます行きますっ」
 電話を切り、はぁと溜息をつく。三日月は面倒くさげに立ち上がった。
「それじゃ、用があるから一旦冥府へ戻るわ。今夜から仕事なんで、忘れないでよ」
「どーすりゃいいんだよ」
「始めるのは夜中過ぎだから。呼びに行くまで寝てていいわ」
 爪先で床を軽く蹴ると、粘性のある真黒な飛沫みたいなものがぶわっと上がって渦巻き状に三日月を取り巻いた。
「じゃあね」
 おざなりに手を振った次の瞬間、少女の姿はかき消すように見えなくなった。ぽかんとしていた陽一はハッと我に返った。
「ヤバ、急がないと午後の授業始まっちまう。――じゃあね、真木那。また今度」
「あっ、待ってください、陽一さん」
 追ってきた真木那が小さな包みを差し出す。
「おにぎり作りました。梅とおかかと明太子。間に合わなかったら休み時間か放課後にでも食べてください」
「おっ、サンキュー。助かるよ」
「お気をつけてー」
 全速力で自転車を漕ぐ陽一に手を振り、真木那は階段の上から見送った。ほんの少しだけ、寂しそうな微笑みを浮かべて……。



 夜、陽一はいつもと同じように就寝した。
 この数日で今までごく当たり前に受け取っていた常識をひっくり返されてしまったが、意外に落ち着いている。
 物心ついた頃からすぐ近くに映がいたことも影響しているのだろう。人には見えないものが見える映と兄弟のように育ったから、そういうこともあるのだとあまり抵抗なく受け入れることができたのだ。
(小さい頃は、叔父さんと手を繋いでると俺にも見えることあったもんなー……)
 それにしても、映がまさかあの世の役所と関係してるとは思わなかった。
 何でも三日月や映は冥府にある『閻魔庁』という死者の管理事務所みたいなところの職員、いわば公務員なのだそうだ。三日月はフルタイムの正規職員で、まだこの世で生きている映は必要に応じて召喚される臨時職員だとか。
『あんたの常識に沿ってわかりやすく例えればそうなるわ』
 三日月はささやかな胸を昂然と張って偉そうに言った。どんなにそっくり返ったところでささやかであることは変わらないのだが、地雷を踏むといけないので黙っていた。
 無常鬼むじょうきとなった陽一の立場は三日月に準じる。というか、今後はふたり一組という扱いになる。
 こういう特例は少ないものの他に何組かいるそうだ。三日月が言っていたように、執行官はできる限り運命のエラー修正をしなければならない。
 そうはいっても運よく死んだ瞬間に冥官が居合わせる確率は天文学的に低いので、滅多に修正は行われない。
 そういう意味では陽一は非常に幸運であった。轢き逃げされたのはとんでもなく不運であったが。
(まぁいいや。とにかく寝よ。呼びに行くまで寝てていいって言われたんだし……)
 目を閉じると、待ち構えていたかのように睡魔が襲ってくる。一分とたたないうちに陽一は寝入っていた。そして、感覚的にはほとんど次の瞬間――。
「いつまで寝てんの、よッ」
 怒声とともに衝撃が来た。
 反射的に目を開けると、すぐ側で鳥の頭蓋骨の長い嘴がふとんに突き刺さっている。
 凍りついて口をぱくぱくさせる陽一の様子など一切かまわず、和洋折衷ゴス装束の三日月は引き戻した骨杖を握って睨んだ。
「何すんだよ、危ねぇっ」
「さっさと起きなさい。出かけるわよ」
 時計を見ると、夜中の一時少し前だ。
(あれ……? 何でこんなにはっきり時計が見えるんだろ。電気、ついてねーよな)
「何ぼーっとしてんの。早く着替えてよ。寝間着のままで行ったっていいけどね」
「……いや、着替える」
 フンと鼻を鳴らし、三日月は背中を向けた。急いでジャージに着替え、階下から運動靴を持ってきた。
 三日月が立っている暗黒の淵をこわごわと見下ろす。彼女は何もない空間の上に浮かんでいるように思えるのだが……。
「何やってんの、早く来なさいよ」
「ここ、落ちない?」
「あんたは生身だから、奈落の底まで真っ逆さまね」
 じゃあどうすんだッ、と叫ぶ前に、三日月が杖を傾けた。
「これに掴まってれば落ちないから」
 言われるままに杖を握り、思い切って暗黒の上に足を載せる。何とも言えない感覚だった。確かな床が足元に感じられず、はなはだ心許ない。
 三日月は空いているほうの手で胸元から懐中時計を取り出して、ストップウォッチのようにカチリと押した。
「さて、これから四.九時間、無常鬼として働いてもらうわ。予定押してるから今夜もさくさくこなさないと」
 言葉と同時に黒い闇がふたりを包み込むように渦巻いた。それがふたたび下がった時には、陽一は見知らぬ場所に移動していた。
「手、離しても大丈夫よ」
 言われて足元を見ると、アスファルトの上だった。
「ここどこ?」
「どこでもいいでしょ。それよりほら、今夜のターゲットその一がいるわ」
 くい、と杖の先で示された場所に人影があった。せいぜい三十歳くらいだろうか、若い男がこっちを茫然と見ている。
「……何か、フツーの人に見えるんだけど」
「フツーに死んでる人よ」
「えっ、あれ死人なの?」
 素っ頓狂に叫ぶと、三日月はぐしぐしと眉間を揉んだ。
「あのねぇ、私たちは冥府から逃げ出した死者を捕まえるために来てるのよ? もぉ、やりづらいなぁ。やっぱり私が操るからあんたは寝てなさい」
「操られたくねーよッ」
「じゃあ、こっちの指示どおりにやってよね」
 三日月は陽一を睨むと、袂からするりと鏡を取り出した。鏡面には立っている男の顔が映っているが、それは赤ん坊から老人まで絶えず変化していた。
「えーと。俗名・津田正人さん? あなたはもう鬼籍に入ってるってこと、わかってるわね? すぐに冥府へ戻れるよう引導を渡すから受け取りなさい」
「いやだ」
 間髪入れずに男は拒絶した。うんざり、と三日月は眉を寄せる。
「おとなしく帰ったほうがいいわよ。ダダをこねると転生時期が遅れるだけなんだから」
「いやだ。俺は帰らん」
「ここにあなたの居場所はないの。さっさと引導を受け取って……」
「いやだーっ」
 男はくるりと踵を返すと、脱兎の如く逃げ出した。
「……ヨイチ」
「陽一だ」
「いいからあれ、追っかけて首チョンパして」
「えーっ」
「早くしてよ! このまま現世に留まってたら悪霊と合体しちゃうんだから。そうなったら始末するのがよけいに大変なのッ」
 ぐい、と骨杖を突きつけられる。反射的に受け取ってしまうと、ぐぐぐ、と鳥の頭蓋骨が変形して大鎌になった。
「ほら、早く。逃げられちゃうでしょ」
 睨まれてしぶしぶ走り出す。
「ちんたら走ってんじゃないわよーっ」
 ムッとして足を速めた瞬間、まるで空間がブレるように加速していた。
(え……?)
 考える暇もなく、流れるように身体が動いた。大鎌を構えた、と思った時にはもう首を捉えて手前に引いていた。そのまま綺麗な弧を描いて切断された首が飛んでゆく。
 それを目で追いながら振り向くと、待ち構えていた三日月が見事にキャッチした。
 すかさず生首の額にべしっとでかいハンコみたいなのを押す。生首は白い炎のようになり、くるくると渦巻き状に固まって、直径二センチほどの半透明の珠になった。
 落下する珠を三日月が手鏡で受け取ると、珠は跳ね返ることなく手鏡の中に吸い込まれて消えた。
「はい、一丁あがり~」
 どうにも冒涜的な台詞を吐いて、三日月はにっこりした。
「……それ、どうなるの?」
「この鏡は閻魔庁の 浄玻璃鏡じょうはりきょうと繋がってるの。今頃はもう向こうに到着して、担当の書記官からみっちり大目玉をくってるでしょうよ。軽~く地獄行きかもね。素直に執行官の言うこと聞かなかった記録が残っちゃったし」
 陽一は大鎌にすがりついた。
「素直に言うこと聞いたら……?」
「お咎めなし。脱獄と言っても今回は閻魔庁のトラブルが原因だからね。おとなしく戻りさえすれば不問にするって言ってるのに、素直に従う魂は少ないのよね。やっぱり一度戻ると里心がついちゃうのかしら」

 さぁ次次、とせき立てられ、陽一は黒い穴――界路――を使って移動しながら亡者を狩った。
 相手はすでに死んでいて痛みも感じないのだと聞いてはいても、やっぱり人間の形をしているものの首を刎ねるのは気が進まない。陽一は思い切って頼んでみた。
「あのさ、この鎌って他のものに変えられないのか? こういうの振り回してると、もろ死神ぽくて厭なんだけど」
「洋風に言えば死神に相当するんだから、いいじゃないの別に」
「いわゆる死神ではない、って言ってませんでしたかー」
「細かいことは気にしないの。逃げる相手の首を刎ねるには、それがいちばん扱いやすいのよ。あんたみたいな初心者でも何とかなるし」
「や、初心者だからこそ、もっとこう、取り回しの楽な奴を」
「らくらく取り回してるようだけど?」
「とにかく鎌はヤなんだよッ。つーか刃物じゃなきゃまずいのかよ。何かこう魚獲るような網とか虫採り網とかでばふっとかさ、そんなんじゃダメ?」
「抵抗されると面倒なのよね、そーゆーのは」
 しょうがないなぁとぶつぶつ言いながらも三日月は陽一が突き出した大鎌を受け取った。
「斬るのかイヤなら吸い込むしかないか~」
 ふむ、と三日月が首を傾げると、大鎌から頭蓋骨に戻った杖がするすると縮んで短くなり、同時に骨がお碗状に変化した。はい、と渡されたものを、陽一はぽかんと眺めた。
「……何これ」
「ラバーカップよ。排水口が詰まった時とかに使うやつ。知らないの?」
 いや、知ってるけど。
 つかこれ、いわゆるトイレのかっぽんかっぽんではないのか。
「これをどーやって使えと」
「もちろんこうするの、よッ」
 ラバーカップを奪い取られたかと思うと、顔に衝撃が来て目の前が暗くなった。
「もがーーーーっっっ」
 どん、と陽一の胸に足を踏ん張り、ぎゅむーっと柄を引く。
「こうして引っぱって吸い込むの。あ、顔じゃなくて後頭部をね」
 やっとカップが外れ、陽一はわめいた。
「俺の首が取れたらどうしてくれるんだぁっ」
「無常鬼がそう簡単に壊れるわけないでしょ。そうそう、言い忘れてた。無常鬼はほとんど不死身なの。大怪我してもすぐ治っちゃうから、人に怪しまれないように気をつけて」
「はっ?」
「今のあんたなら車に撥ねられてもすぐ立ち直れるってこと。人に見られると化け物呼ばわりされちゃうから、くれぐれも自重するように」
「何だそれっ」
 青くなる陽一に三日月はけろりとした顔でラバーカップを突きつけた。非の打ちどころのない美少女がにっこりする。がっくりと肩を落とし、陽一はラバーカップを受け取った。
「あら~。ジャージには大鎌よりこっちの方がしっくり来るわね」
「俺は掃除当番か」
 ぶつぶつ言いながら、陽一は三日月に尻を蹴飛ばされるようにして『仕事』を続けた。
 逃げる亡者を追いかけて、後頭部にラバーカップを押しつける。これが、ちょうど頭がすっぽり収まってしまうサイズなのだ。そして背中にどすっと足をかけて思い切り引けば首がすっぽ抜ける。
 待ち構えていた三日月が額にハンコを押し、後は鎌で首を切った時と同じ流れである。
 何だか首を切り落とすよりさらに申し訳ない気分になってしまい、追いかけながら陽一は何とか説得しようとし始めた。
 聞いてくれる亡者は今のところ誰もいないが、ごく稀には最初から素直に冥府へ戻ることを了承する魂もいた。そういう人たちには三日月がハンコではなく亡者の額に指で何かを書きつける。銀色にきらきら光るそれをもって彼らは浄玻璃鏡の中へ吸い込まれていった。
 往生際の悪い亡者たちに散々手間取った陽一にしてみれば、彼らは仏様のようであった。
 五時間弱、休む暇もなく亡者を追いかけ回し、ようやく家に戻った陽一はふとんに倒れ込むなり爆睡した。そしていつもの時間に、そんな事情など知らない母に叩き起こされた。
 欠伸をしながら登校した陽一は、昇降口で榊奈々美とばったり出くわした。河川敷で手紙のことを聞いてから、学校でも外でも奈々美とは一度も口をきいていない。
 というか、まだ疑っているのかあからさまに避けられている。何だかますます顔つきが険しくなってきたようだ。陽一の目には奈々美にまとわりつく黒いもやもやが今もはっきり見えている。
(前より広がってねーか……?)
 最初に気付いた時には片方の肩に乗っかってるくらいだったのが、今では上半身にべったりと貼りついている感じだ。
(やたらとげとげしくなったのも、絶対アレのせいだよな……)
 一瞬目があって、ぷいと顔をそむけて奈々美は歩いていく。やはり無視するのは気分が悪い。一か八かだ。辺りに他の生徒がいないことを確かめ、陽一は奈々美を追った。
「榊」
「……何よ」
 煩わしげに奈々美が振り向く。陽一は窓の外を指し、「おおっ、UFOだ!」と叫んだ。
「はぁ!?」
 奈々美がつられて余所見をした瞬間、陽一は手を伸ばして黒いもやもやを引っ掴んだ。
(うをっ、掴めた!)
 その瞬間、奈々美は「ひぁっ」と小さく悲鳴を上げた。自分を抱くように腕をさすりながらきょろきょろと辺りを見回し、疑わしげに陽一を睨む。
「……何、今の。すごく変な感じが……。保科くん。何かした?」
「んーん、何にも」
 陽一の片手では黒いもやもやがじたばた暴れていたが、引き剥がしてもやはり奈々美には見えないようだ。奈々美はますます不機嫌そうに眉をつり上げた。
「何がUFOよ。人をからかうのはやめてよね」
「ごめん。榊があんまり思い詰めた顔してたもんで、つい」
 照れ笑いでごまかすと、奈々美の表情が狼狽したように揺れた。
「べ、別に何も思い詰めてなんか」
 奈々美はぷいと顔をそむけ、足早に教室へ歩いて行った。廊下に突っ立ち、陽一は自分の手のなかで必死に暴れる黒いもやもやをげんなりと見下ろした。
「……どーしよ、これ。取れたのはいいけど」
 映にもらった霊験あらたかなピコピコハンマーで叩けば消えるのだろうか。しかしあれは自宅の机の引き出しだ。かといってこのまま持っているわけにもいかない。
 迷った挙げ句、陽一はそれをトイレに流した。根本的な解決には絶対なってなさそうだから今夜三日月に会ったら対処法を聞いておかねば。
 ふわぁと大欠伸をして陽一は教室へ向かった。



 日曜日、陽一は三瀬川探偵事務所に来ていた。
 代理の無常鬼むじょうきとして自覚的に活動を始めてからまだ二晩しか経っていないのに、真夜中に慣れないことをしてるせいか早くも精根尽き果てた気分だ。
 所長室に備えつけられた仮眠もできるソファにぐてっと横になり、陽一はぼやいた。
「何かもう限界のような気がしてきたよ、俺……」
 デスクの向こうで書類を眺めていた映が苦笑する。
「そのうち慣れるさ」
「今のペースでこき使われたら、絶対無理」
「それはないだろう。今はトラブルの影響で一時的に増えてるからキツイだろうが、そのうち落ち着くはずだ。おまえは代理執行官だから、しばらくは冥府も考慮して割当量を減らしてくれると思うよ」
「だといいけど……」
 溜息をつくとドアがノックされて日実香ひみかが顔を出した。
 日曜日担当の千曳ちびきだ。おっとりとやわらかく微笑む姿は春の女神様といった風情である。容姿的には真木那の時とほとんど変わらないのに、何故だかぐっとおとなっぽく見えた。
「お茶入りました。陽一くんの差し入れのほうじ茶と、柏餅です」
「お、悪いな、陽一」
「いや、買ったのは母さんで、俺は持ってきただけー」
 お盆を抱えた日実香がニコニコと話しかけてくる。
「陽一くん、やっと部活決めたのね。演劇部とは意外だわぁ」
「はぁ!?」
 突拍子もない言葉に、陽一は食べかけの柏餅を片手に持ったまま唖然とした。きょとんと日実香は首を傾げる。
「違うの? あ、それじゃどこかの劇団に入ったのね」
「ちょ、ちょっと待ってよ、日実香さん。何言ってんの」
「だって、公園で練習してたでしょ? 先週の夕方、縁野ゆかりの商店街に用があって公園の側を通ったのよ」 
「人違いでしょ。夕方なら俺、ジョギングしてたもん」
「そうかなぁ。確かに陽一くんだと思ったんだけど……」
「や、絶対違うからそれ」
「そーぉ?」
 腑に落ちない顔で首を傾げながら日実香は部屋を出て行った。
「日実香さん、相変わらず天然だなぁ……」
 柏餅の残りを口に放り込み、湯飲みに手を伸ばして陽一は顔をしかめた。
「てて。あ~、身体が痛ぇ。叔父さんも始めた頃はこうだった?」
「俺は肉体的に疲れることはないな」
「そっか……。寝てるんだもんね」
 走無常そうむじょうは肉体を伴わない魂だけの存在だ。追う相手も魂なのだからさしつかえはないのだろうが、どうもいまいちよくわからない。
「正確には眠ってるというより仮死状態だな。比良坂が言ってた」
「いつも叔父さんは二日くらい寝っぱなしなんだよね。時間が来ると自然に起きるの?」
「ああ。仕事の最中でも勝手に目が覚める。強制終了ってとこかな。だが、二度と目が覚めないかもしれないというリスクは常にある」
 陽一は驚いて映をまじまじと見た。
「ひとつは魂が何らかの理由で戻れなくなるか、消滅した場合。肉体はいずれ衰弱死する。もうひとつは逆に肉体の方が致死的ダメージを負った場合。現世でふつうに死んだのと同様の扱いで、俺の場合は強制的にフルタイム無常鬼にシフトだな」
「……叔父さんも無常鬼になるの?」
「いずれはそうなるだろうね」
 映はどこか皮肉っぽく微笑した。
(叔父さんも、別になりたくて走無常になったわけじゃないんだよな……。取引だって言ってた。生き返るための……)
 だが、そうやって生き返っても、いずれ死んだら無常鬼になることが決まってるのか。
「……何か、理不尽だ」
「仕方ないさ。自分で選んだんだから。たとえ重い荷物を背負うことになっても、俺はまだ死にたくはなかった。陽一だってそうだろう?」
「それはそうだけど……。別に後悔してるわけじゃないんだ。ただ、俺なんかに本当にうまくやれるのかなぁって心配になって」
「うまくやろうなんて考えなくていいさ。目の前のことをひとつひとつこなしていけば、気付いたときにはうまくやれてる」
 だといいけど、と胸の内で溜息をつき、陽一は立ち上がった。
「さっきから何見てんの?」
 デスクの上には所狭しと写真が並べられている。人込みをランダムに写したような雑多な写真ばかりだ。
「現場に集まった野次馬を撮った写真だよ」
「また捜査協力? 今度は何」
「血まみれの電話ボックスとその類似事件」
「あれか……。え、もしかしてこの野次馬の中に犯人がいるとか?」
「わからんが、放火事件とかだとよく犯人が野次馬に混じってたりするからな。三つの現場に共通する人物が写っていれば可能性は高い」
「あれってやっぱりただの悪戯じゃなかったんだ……。もしかして、人が死んでる?」
 映は写真を眺めたまま、眉根を寄せて頷いた。
「ただ、被害者が文字どおりこの世から消えてる。餓鬼に喰われたらしい」
「ええ!? あのギョロ目の、口がこーんなに細くて長い奴に?」
「あれは無害な部類だから放っといていい。一口に餓鬼といっても無害なのととんでもなく凶暴な奴とがあるんだ。人の血や肉、精気を好んで喰らう奴らは羅刹らせつ餓鬼といって、おまえの言うギョロ目とは全然種類が違う。羅刹は特定の人間に憑くことが多い」
「じゃあ、叔父さんはそれを探してるの? 餓鬼って写真に写るんだ」
「写らないが、見ればわかるんだよ」
 陽一は試しに手近にあった写真を眺めてみたが、不審なものは見当たらない。
「ぜんぜんわかんないなぁ」
 映に手渡すと、彼は口の端で微笑した。
「……写ってはいるけど、探してるような奴じゃないな」
 返された写真を改めて見たが、やはりわからない。餓鬼が見えるようになったといっても、写真だと勝手が違うのだろうか。目が痛くなってきて陽一は写真を置いた。
 ふと、他とは異なる種類の写真が目について何気なく手に取り、陽一はギクリとした。それは制服姿の少年のバストアップだった。証明写真を拡大したものらしい。
「――叔父さん。こいつも事件に関係あんの?」
 顔を上げた映は、少年の写真を見て眉をひそめた。
「ああ。二番目の現場から消えた少年だ」
「こいつも死んでる……?」
「残念ながら。――まさか、彼を知っているのか?」
「ん……、中学の時の同級生。畑中弘和だ。こいつ、家出したんじゃなかったのか」
「家出? 陽一、彼が行方不明になってることを知ってたのか?」
「榊から聞いた。あ、榊ってのも中学の同級生で、今、同じクラスなんだ。あんま話さないけど、この前ちょっと聞いた。畑中と川野が家出したらしいって」
 陽一は奈々美から聞いた話を繰り返した。
「その川野って子の写真はあるか?」
「ないよ。別に仲よくなかったし……。あ、卒業アルバムに載ってるか」
「見せてくれ」
 真剣な顔でせき立てられ、陽一は映の車で自宅へ戻った。買い物にでも出かけたのか、美晴は留守だった。自室へ上がり、棚から出してきた卒業アルバムを広げる。
「えっと……、これが川野。川野正義。それから……、こっちが畑中だけど」

 映は二枚の写真をしげしげと見つめ、前へ戻ってクラス写真を最初から順番に見ていった。そのうちページをめくる手がとまり、指先でひとりの生徒を指す。
「この子、知ってる?」
 陽一はその顔を見てギョッとした。知っているどころではない。
虻田あぶた。虻田智之。……こいつがどうかしたの」
「三番目の、公衆トイレで殺されたのは、たぶん彼だ」
「えっ……」
「この、川野正義が最初の電話ボックス。二番目は畑中弘和の自宅で、彼自身。――まさか全員おまえの友だちとはな」
「友だちなんかじゃない!」
 カッとなって怒鳴る。目をみはった映の表情に、すぐさま後悔した。ふいと顔をそむけ、陽一は言い訳じみた口調でつぶやいた。
「……ただの同窓生だよ。別に友だちじゃない」
「そうか。――このアルバム、ちょっと借りてもいいかな?」
「いいけど。でも、その三人、本当に、その、死んでるの……?」
「間違いだったら、いいんだけどな」
 沈んだ口調で映は囁いた。それだけで陽一は確信していた。
 映はあやふやなことは言わない。確信もないのに決めつけることはしない。だから、映が『死んでいる』というのなら、彼らは全員、本当にもう生きてはいないのだ。
 映がアルバムを持って引き上げた後、陽一は急に薄ら寒い気分になった。
 川野、畑中、虻田。自分を顎で使ってパシリをさせていた三人が三人とも死んだ。立て続けに同じような状況で。しかも『喰われた』のだ。この世のものではない、化け物に。
(――そうだ。榊も……)
 奈々美も奇妙な予告状めいたものを受け取っている。『カクゴセヨ』と血のようなインク――本当に血だったのかも――で書かれた差出人不明の手紙。深山心亜も様子がおかしいと言っていた。
 そして自分は、と考えて、陽一は頭を殴られたようなショックを受けた。自分は死んだではないか。三日月のおかげでこうして生き返ったものの、自分は一度は死んだのだ。轢き逃げされて。
 そうだ。生き返ったからうやむやにしていたけど、誰が自分を轢いたんだ? あれは事故じゃなかったのか。
(いや、事故なんかじゃない。あの車は俺を二度轢いた。わざわざ引き返してきて、身動きできない俺をもう一度轢いたんだ。念入りに……)
 陽一の脳裏にひとつの面影がフラッシュバックする。追い詰められ、自ら命を断った天野桜姫あまのさき。気になりながら、結局さしのべることの出来なかった手。
 桜姫にそっくりな、夕方の公園にいつもいる謎めいた少女。奈々美に届いた手紙に入っていた季節外れの桜の花びら――。
 まさか。あの公園の少女は桜姫なのか? 彼女の浮かばれない霊魂だったのか……?
 天野桜姫を自殺に追い込んだのは、中心のメンバーが、
 深山心亜みやまここあ
 虻田智之。
 川野正義。
 畑中弘和。
 そしてこの四人の使い走りをしていた、
 保科陽一。
 榊奈々美。
 小西真治。
「……小西。そうだ、小西はどうしてるんだ……?」
 陽一は机を引っかき回した。中学時代の名簿、まだ捨ててなかったはず――。
「あった!」
 陽一は名簿を持って階下に降り、家の電話からかけてみた。呼び出し音を聞いていると何だか焦ってくる。なかなか応答がない。厭な予感がこみあげてきた頃、やっと繋がった。
『……はい』
 面倒くさそうな男の声が応じる。
「あ、小西さん……ですか」
『はい』
「お、俺、保科といって、真治くんの中学の時の、その、知り合いなんですけど……」
『――保科? まさか、保科陽一?』
 不審そうな低い声で訊き返された。まさかって何だと戸惑いながら「うん」と頷く。一瞬間を置き、今度は一転して明るい声が受話器から流れだした。
『うっわー、すげえ久しぶりじゃん! 元気だったぁ?』
「う、うん、元気。小西は?」
『元気元気~』
 中学の時から調子のいい奴だったが、高校に入ってますます軽くなったみたいだ。
 一方的にぺらぺらとしゃべるのを付き合いでしばらく聞き、一段落したところで川野たちの件を切り出した。むろん詳細は伏せ、ただ家出したらしいと振ってみる。
 小西は初耳のようで、ひどく驚いていた。小西の行った高校には例のグループの関係者は他にいない。本人も解放された思いが強いのか、あからさまにホッとした話しっぷりだった。
『全然知らないなぁ。卒業してから連絡とってないし。つってもまだ二か月経ってないけどさ。何、保科。まだ付き合いあんの?』
「じゃなくて、榊から聞いたんだ。同じクラスなんで。榊は深山から聞いたって。――なぁ、最近何か妙なことなかったか?」
『妙なこと? さぁ、特にないけど。なんで?』
「いや、ないならいいんだ。ごめん、変なこと訊いて」
 詫びを言って少し喋り、陽一は電話を切った。
(やっぱ考えすぎかな。それか、単なる偶然か……)
 小西は、心亜と虻田をリーダーとする積極的にいじめをしていたメンバーと、陽一や奈々美のようなパシリの中間にいた人物だ。
 本人は虻田たちの仲間と思っていたようだが、虻田たちには目下扱いされて、いいようにあしらわれていた。
 天野桜姫が自殺して陽一と奈々美がグループと縁を切った後は、小西がパシリを一手に引き受けていたようだ。監視が厳しくなった面々の八つ当たりの的にもなっていたらしい。
(念のため榊にも連絡しとくか)
 以前の陽一ならただの偶然で片づけただろう。だが、今は常識では考えられないことが実際に起こりうるのだということを文字どおり身をもって体験してしまった。
 映の言葉も、以前はどこか現実離れしたものに感じていたが、もはやそんなふうにのほほんとしてはいられない。自分もまた常識外の存在になってしまったのだから。
(あんま自覚ないけどな……)
 奈々美の家電話にかけてみると母親が出たので緊張しつつ取り次いでもらう。奈々美はものすごく不審そうに電話に出た。
 詳細は伏せ、虻田も行方不明になってるらしいと伝える。そのとたん奈々美の応対は真剣になった。
『じゃあ、三人とも行方不明ってこと?』
「うん」
 本当は死んでるらしいけど、とはさすがに言えない。
『保科くんは? 何かあった?』
「え、っと……。車に轢かれ――かけた」
 受話器の向こうで奈々美が息を呑む。これも真実を告げるわけにはいかない。信じてもらえるはずがないし。
「榊は? その後、何ともない? 変な手紙は」
『来てないけど。でも気味が悪い……。あ、そうだ。小西君は?』
「さっき電話したら今のところは何ともないって。榊。深山に連絡とってみてくれるか」
『わかった。――それから、あたしの携帯番号教えとく。家の方にはかけないで』
 陽一は急いでメモをとり、自分の携帯番号を奈々美に伝えた。
 電話を切って、ふぅと溜息をつく。何だか自分の知らないところで悪意がうごめいている気がしてひどく落ち着かなかった。



  深山心亜はあてどなく街をさまよっていた。
 家にいるのが怖い。いつまた鏡に天野桜姫の姿が映り、ドアが開かなくなるかと思うと、心が休まる暇もなかった。
 家の鏡はできる限り見ないようにしている。部屋にある鏡にはすべて布をかけて覆った。毎日早めに家を出て、学校のトイレでメイクをする。
 友だちと喋っていれば忘れられたが、ひとりになると落ち着かない。ガラスは街じゅうにある。見られているような気がして振り向くと、ガラスや鏡に映った自分がおびえた顔で見返していた。
 疲れているのだ、と心亜は自分に言い聞かせた。
(あたしは悪いことなんかしてない。あのコが弱かったからいけないんだ。何よ、あれくらいのことで死ぬなんて。馬鹿みたい……)
 カラオケにでも行こうか。好きな曲を歌いまくって発散したい。誰かつきあってくれそうな奴――。そうだ、奈々美がいい。あのコなら何を言ってもおとなしく聞いてくれるはず。
 さっそく携帯を操作したが、呼び出し音が鳴り続けるだけでいっこうに出ない。挙げ句に留守電サービスに切り替わってしまった。
「何よ、使えない奴!」
 心亜は毒づいて電話を切った。このとき奈々美はちょうど家の電話で陽一と話している最中だった。いらいらしながら虻田にかけてみる。
 こないだ話していて突然通話が切れて以来、虻田とは話していない。こちらは呼び出し音さえ鳴らず、『おかけになった電話は電源が切れているか圏外』というアナウンスが聞こえてきた。
「もうっ、何なのよ」
 通話を切って携帯画面を睨むと、ちょうどメールが届いた表示が浮かんだ。今かけたばかりの虻田からだ。
『いつものカラオケボックス、四番で』
 ムッと画面を睨みつけたが、ひょっとして通話機能が故障しているのかもと思い直した。
「……ま、いっか。ちょうどカラオケしたかったし」
 心亜は独りごち、虻田たちとよく使うカラオケボックスに向かった。その店は駅近くにあり、かなりの客が入っていた。心亜は客の並んだカウンターを素通りして、指定された四番の部屋に行った。ガラス戸越しに覗くと虻田らしき人影の後ろ姿が見えた。
 ドアを開けた瞬間、バッグの中で携帯が鳴る。呼び出し音は一度だけで、ドアが閉まると同時に沈黙した。間違いか悪戯だろうと、心亜は携帯を出して確かめもしなかった。
「トモくん、携帯壊れてんのぉ?」
 機嫌をとってもらいたくて、わざと拗ねたように言ってみる。しかし、虻田は部屋の隅に座ってうつむいたままだ。居眠りでもしているんだろうか。
「トモくん!」
 覗き込んで声を張り上げた心亜は、相手がいきなり顔を上げたので驚いて飛び退いた。それが虻田の顔ではなかったから驚きもなおさらだ。
「な、何よあんた! なんであんたがここにいるのよ」
 怒鳴ってから気付く。もしかして虻田がついでにこいつも呼んだのかも。
「トモくんは? トイレにでも行ってる――」
 心亜はぽかんと口を開けた。ゆらりと立ち上がった人物の手に、カラオケボックスにはまったく必要のないものが握られていた。これが家の台所でもあったなら、まだ理解できたかもしれないが。
「な、何よ。何するつもり……?」
 相手は答えず手にしたものを振り上げた。銀色に光る、細刃の包丁を。
 後退った心亜は無我夢中でドアに飛びついた。開かない。鍵なんてかかるはずもないのに、押しても引いてもドアが開かない。
 この前と同じだ。自室に閉じ込められた数日前の恐怖が蘇る。心亜は拳でドアを叩いた。防音ガラスがしなる。
 どん。
 どん。
「助けて!」
 笑いさざめきながら数人が通路を通りすぎる。必死でドアを叩いても誰も振り向かない。気付いてない。こんなに叩いているのに。ガラスが割れそうに叩いているのに。
「誰か! 助けて、ここ開けてよっ」
 後ろから肩をぐっと掴まれた。すらりと刃が首を横切る。びしゃり。真っ赤な鮮血がガラスを汚した。切り刻まれた心亜は、ドアにもたれた格好でずるずると床に崩れ落ちた。
 キシ、キシシ、キシ、
 耳障りな音をたてて鋭い歯を持った小鬼がわらわらと床から生えるように沸いて出た。血まみれの包丁をだらりと下げた人物は、口許にうっすらと笑みを浮かべた。
「……あと、三人……」
 血を吸ったカーペットに奈落が広がる。小鬼に食い尽くされて心亜が消滅すると同時に、その人物も奈落に呑まれて、消えた。


 奈々美は眉を寄せて携帯を見た。一度はつながったのに、呼び出し音が一回鳴っただけで切れてしまった。
「こっちだって急ぎなんだから」
 腹立たしげに呟き、奈々美はリダイヤルボタンを押して心亜の携帯にかけ直した。今度はまったく繋がらなかった。仕方ない、後でまたかけよう。奈々美はあきらめて携帯をたたんだ。
 その頃、心亜は二度と開かないドアの向こうへ消えたところだった……。



 その夜、ぐっすり寝入っていた陽一はまたもやひどく乱暴に起こされた。
「起きなさい、よッ」
 不機嫌な声音と共に、鋭い刃が深々と枕に突き刺さる。わずか数センチの距離にある鳥頭蓋の嘴を半眼で睨み、陽一はのっそりと起き上がった。
「……もうちょっと穏やかな起こし方できねーのかよ」
「私が起こしに来る前に自力で起きてるべきだわ」
「寝てていいって言ったのはそっちだろ!?」
 三日月はわずらわしげに顔をしかめ、心持ち顎を上げた。
「今夜は狩りは中止。適当に支度して。何ならパジャマのままでもいいわよ」
「どこ行くんだ?」
「三瀬川のとこ」
 家族であっても別な場所に住んでいる以上パジャマでお邪魔したくはない。陽一は手近にあったTシャツとカーゴパンツに着替え、界路を通って移動した。
 夜中すぎでも映はまだデスクで仕事をしていたらしく、突然現れた三日月と陽一に一瞬ギョッとした顔になった。眉根を寄せ、映ははぁっと溜息をついた。
「……出てくる前にノックくらいしてくれないか」
「失礼。今度はドアにつなぐわ」
 平然と答える三日月を横目で睨み、陽一はおずおず挨拶した。
「こんばんは、叔父さん。その、突然ごめんね」
「別に俺はいいんだが、事情を知らない奴が居合わせたらまずいだろ」
「かまやしないわ。記憶を消せばいいんだから」
 まったく三日月は悪びれない。
「こいつに人権の概念なんかあるわけないよな」
「何か言った?」
「別にー」
 陽一はわざとらしくそっぽを向く。三日月もまた眉をつり上げ反対側に顔をそむける。苦笑した映がリクライニングしていた椅子を戻して座り直した。
「――で? 何か用かな。亡魂狩りは行かなくていいのかい」
「あんたに頼まれた調べ物の報告に来てあげたのよ」
 あくまで偉そうに、三日月は蝶々型に緋色の帯を締めた胸を張る。その表情はいささか生彩に欠けていた。
「それはどうも。で、どうだった?」
「あんたの言ったとおりよ。死者名簿のバックアップ用コピーが改竄かいざんされてたわ」
「何の話?」
 ぽかんと口を挟むと思い切り睨まれた。思い直したのか、三日月は表情をやわらげた。
「冥府には死者の記録が保管されてるってことは話したわね?」
「死者名簿だろ? それがトラブルで消えて、魂がこの世に戻ってきちまったとか」
「全部消えたわけじゃないわ。ごく一部分よ。それでも冥府の軛から解放されて現世に戻ってしまった魂は相当数に上る。失われたデータはこういう不測の事態のために作成してあったバックアップデータを元に復旧したんだけど、そのデータが改竄されていたことが今回調べ直して明らかになったの」
「……どういうこと?」
「要するにオリジナルには載ってて復旧用コピーには載ってない死者がいるってことよ。つまり、私たち執行官が把握していない亡魂が現世に戻ってきてるわけ。それも、よりによって地獄の最下層に送られたような凶悪狂暴な奴の魂がね」
 デスクに肘をついて聞いていた映が、組み合わせた指から顎を上げて尋ねる。
「そいつは特定されたのか?」
「ええ。オリジナルのオリジナルを使って調べたわ」
 三日月の説明によると、ふだん閻魔庁で書記官たちが閲覧している死者名簿はそもそもコピーなのだそうだ。本当のオリジナルは閻魔庁の中心部、多重結界に守られた『善名称院ぜんみょうしょういん』という最奥にある。死者名簿は同じものが三つあるのだ。
 今回の騒動では、ふだんオリジナルとして扱われている第一コピーが破損したため、第二コピーを使って復元した。定められた手順どおりのやり方ではあったのだが、その第二コピーがいつのまにか改竄されていたのだ。
「……ということは、第一コピーの破損自体が偶然の事故じゃないわけだ」
 映の言葉に三日月はしかつめらしく頷いた。
「最初からテロ行為によるものではないかという疑いはあったの。でも犯人の目的は破壊じゃなくてすり替えだったのよ。第一コピーはしょっちゅう閲覧されてるから書き換えるのは難しい。その点第二コピーは非常時用の保管データだから侵入はずっと容易だわ」
 陽一はごくりと唾を飲んだ。正直、完全に理解できたわけではないが、三日月の表情を見ているとただならぬ事態であることだけはわかる。それなりに経験を積んだ走無常である映には、事の重大性がわかるのだろう。厳しい顔をしている。
「それで、名簿から消えた名前は?」
「池田昭二」
 映の端整な顔が、一瞬凍りついたようにこわばった。
「……『黄昏の遊歩者』、か」
「それ、何?」
 どこかで聞いたような、と思いながらおずおずと陽一は尋ねた。固い声で映が答える。
「世間を震撼させた連続大量殺人鬼だよ。今から三年前に死んだ」
「あ……。ひょっとして、十何人もの人を殺して、最後に白昼通り魔事件を起こして捕まった、あの……?」
「正確には通り魔事件で現行犯逮捕された後、追及したら余罪がボロボロ出てきたんだ。まるで自慢するみたいにな。被害者はそれまで全員行方不明扱いで、池田の犯行はまったく知られていなかった」
「なのに、いかにも捕まえてくれ、みたいな通り魔事件を起こしたの?」
「捕まりたかったのさ。奴は病で余命半年と宣告されていた。最後にド派手な事件を起こしてやろうと思ったと、悪びれもせずぬけぬけほざいたそうだよ」
「叔父さん、この事件の担当だったの?」
 確か池田が捕まった当時、映は警察官になったばかりだったはずだ。
「直接の担当じゃないが、大がかりな捜査だったから駆け出しの俺も少しは関わった」
「死刑になったんだよね」
「いや、病死だ。異例のスピード裁判で死刑判決が出て本人も控訴しなかったものの、執行前に病死した。……人づてに聞いた話だが、奴は死ぬ直前、奇妙なことを言っていたそうだ。『俺はかならず戻ってくる』と」
 ぞっと背中が冷えた。
「何だよ、それ。まるで今の事態を予期していたみたいじゃん」
 しばらく黙っていた三日月が、険しい顔で頷く。
「今にして思えば確かに妙だったわ。ああいうタイプの人間は死んでも現世に強い執着が残ってて冥府へ引っぱってくるのが大変なのよ。ところが池田は迎えに行く前に自発的に死天山まで来ていたの」
「してんざん?」
「いわゆる『死出の山』ってやつ。冥府の入り口よ。ものわかりのいい魂は、死んでまもなくここに現れることになってるの。ま、そういう魂は滅多にいないけどね。たいがいこっちが迎えに行って、引きずってこなきゃならない」
「……迎えに行かなかったのに、来てたのか?」
 何やら別方向に憤っている三日月に、映は尋ねた。

「そうよ。あいつが病死することは閻魔庁も把握して、生前からマークしてたの。悪霊化が懸念されたから万全の体勢で待機してたわ。ところが導きなしであっさり冥府に現れて、閻魔庁の判決にも文句ひとつ言わずに従った。地上での裁判と同じね。もっとも、反省の態度が微塵も見られなかったから即刻地獄の最下層に送り込まれたけど。とりあえず禁固三百年。あ、地獄の一日は地上の百年にあたるから」
 最後は陽一に向かって解説する。一日が地上時間で百年相当の地獄に三百年禁固。ということは……?
「一千飛び九十五万年よ」
 世界が終わりそうな気がする。
「もちろん、入れっぱなしじゃないわよ。反省度合いに応じて軽減していくのが普通だから。ともかく、三年前に死んだ池田がどんなに反省したところで出て来られるのはどう見積もっても地上時間で数百年後だと思われてたの。ところがデータの改竄が明らかになって調べたら、すでに抜け出した後だった」
「地獄ってそんな簡単に出られるんだ……」
 呆れ半分に呟くと、三日月は眉をつり上げた。
「出らんないわよ! 死者名簿さえちゃんとしてればねっ。だからこの事態はものすごく異常なのッ、閻魔庁は今それこそ蜂の巣をつついたような大騒ぎよ」
「その、第二コピーを改竄した奴と第一コピーを破壊した奴は同一人物なのか?」
「可能性は高いわ。目星は残念ながらついてない。容疑者はいるにはいるんだけど、そいつはもう何年も前に姿を消したきり行方不明なの」
 三日月はむっつりと不機嫌そうな顔で言った。陽一はふと、三日月がその容疑者と知り合いなのでは、と思った。映もそれを感じたのか、闇色の瞳でじっと三日月を見た。三日月は何も言わず、ふいと目を逸らしてしまう。
「……まぁ、その追及は閻魔庁内部の問題だ。それより、こっちは蘇ってしまった池田昭二の亡魂を捕まえなきゃならない。そういうことだろう?」
 明らかにホッとした顔で三日月は頷いた。
「そうよ。池田の魂は間違いなく現世に戻ってきている。ただ、居場所がわからない。亡魂の状態でウロウロしてたらすぐに見つかってしまうから、誰か生きている人間に取り憑いているはず。それが今回の連続血まみれ密室事件の犯人よ。界路や羅刹餓鬼を操っているからには、必ず一度は冥府へ行ったことのある魂のはずだわ」
「厄介だな」
 映のつぶやきに、三日月は険しい顔で頷いた。
「悪霊憑きよりずっと厄介よ。地獄から舞い戻った亡者に憑かれたのではね。取り憑かれた人間の魂は、気の毒だけど食い尽くされて消滅してると思う。よほど強靱な魂なら残っているかもしれないけど、強い魂の持ち主はそもそも亡者に憑かれたりしないんだし」
 何だか会話に取り残された気分でいた陽一は、おそるおそる口を挟んだ。
「あのー……。それで、その話と俺はどう関わってくるわけ?」
「何言ってんの、私たちが殺人鬼の亡魂を引っ捕らえるんでしょうがっ」
「えっ、そうなの」
「そうよッ、緊急会議でそういうことになっちゃったのよ! たまたま私たちが殺人鬼の一番近くにいるらしいってことでね。私たちは今後しばらくそっち専従。やり残した仕事はあんたに回したからキリキリ働いてよね、走無常」
 びしっと映を指さす。はぁ~と溜息をついて映は頭を抱えた。
「俺、こないだ一仕事終えたばかりなんだけど。労基法に違反してないか?」
「だから緊急事態なのッ」
 こめかみに青筋たてて三日月が噛みつく。はいはいと映が肩をすくめると同時に携帯が鳴った。発信者を確かめて、映は軽く眉をひそめた。
「……はい。――いえ、まだ起きてましたから」
 敬語。ということは相手は比良坂ではない。映の表情は次第に険しさを増していった。通話を切ると、映は投げ出すように椅子の背にもたれた。
「どうかしたの。電話、誰から?」
「鷹見さんだ」
「元同僚の人だよね」
「ああ。――また、出たそうだ。血まみれ密室もどきが」
 陽一だけでなく、三日月もハッと息を呑む。三日月は固い声で尋ねた。
「今度はどこ」
「カラオケボックス。これまでと同じ、致死量相当の流血が残され、遺体はなし。目撃者もなし。現場はまたも中途半端な密室だ」
「でも、カラオケボックスなら部屋借りた人の名前はわかるよね?」
 陽一の言葉に映は目を細めた。
「借りたのは虻田智之だそうだよ」
 陽一は絶句した。
「虻田は死んだんじゃ……。公衆トイレで殺されたのが虻田だって叔父さん言ったよね」
「ああ。つまりカラオケボックスを借りたのは虻田の名を騙った犯人ということだ。店員はその人物の顔を覚えていない。虻田はそこをよく利用していたようだが、応対した店員があいにく入ったばかりのスタッフだった。別の店員が後から来た少女がそのボックスに入るのを見ている。以前にも何度か見かけていて、名前も覚えていた。名字はわからないし、あだ名かもしれないが、その少女は以前友人から『ここあ』と呼ばれていたそうだ」
 ここあ。まさか、深山心亜……!?
「陽一。ひょっとしておまえ、その娘を知ってるんじゃないか」
 びくっと顔を上げると、デスクに肘をついた映がこちらを見ていた。嘘やごまかしが通用しない、あの黒目がちの闇色の瞳で。
「……『ここあ』って名前のコは、知ってる。そのコが被害者かどうかはわからないけど。中学の時の、知り合い。深山心亜」
 陽一の説明を聞き、映が携帯を手にする。
「……鷹見さん? ええ、もしかしたら手がかりになるかも。深山心亜という少女のことを調べてください。深い山、に心と、亜鉛とかの亜。みやま・ここあ。清美女学院高校の一年生。家は柏木町の辺りです。――はい、待ってます」
 通話を切り、映は陽一に向き直った。
「ひとつ聞いていいか、陽一。一連の事件で死んだ人間は――死体は出ていないが――すべておまえの知り合いだな? どういう知り合いなんだ?」
「お、俺がやったんじゃないよ!」
「昼間、おまえの家で卒業アルバムを見せてもらった時、言ってたよな。彼らとは友だちなんかじゃない、と。だったらどういう知り合いだ?」
「ただの知り合いだよ。同じ中学だっただけ」
「陽一。おまえ、彼らにいじめられてたんだろ」
 映の声は、気遣いつつも容赦なく響いた。陽一は思わず拳を握りしめた。
「中学二年の時、学校でひどい暴行を受けたよな? 姉さんが学校に怒鳴り込んで一悶着あった。学校側はのらりくらりと言い抜けていたが、暴行現場の写真が学校に送りつけられ、動画がインターネットに流された。騒ぎを恐れた学校側が加害者側に謝罪させた。姉さんも、今後一切おまえに手出ししないという条件で、和解案をのんだ。――あの時流された動画を保存していたことを思い出してね。卒業アルバムを借りて帰ってから見てみたんだ。驚いたね。電話ボックスで殺された川野正義、自室で殺された畑中弘和、公衆トイレで殺された虻田智之、そしてカラオケボックスで殺された深山心亜。すべてがあの映像に写っている生徒たちだ」

「だ、だからって俺があいつらを殺したとでも? そんなこと俺にできるわけないだろ」
「……あんたにはできるわ」
 三日月のつぶやきに、陽一は愕然とした。
「あんたは無常鬼だもの。界路を使えるし、餓鬼を使役できる。事件が起きたのは、すべてあんたが死んで、無常鬼として復活した後に起こってる」
「冗談じゃないよ! だいたい俺、死んだっつっても冥府とやらに行ってないんだぞ!?」
「無常鬼として復活させたのは私よ? 私の力をあんたはそのまま使える」
 口をぱくぱくさせた陽一は、デスクに駆け寄り天板を両手で叩いた。
「叔父さん、俺はやってない! 絶対そんなこと、してないよ!」
 身を乗り出して映の目を見る。後ろめたいことがあったら絶対に正視できない闇色の瞳を、まじろぎもせずに見つめた。冷徹に陽一を凝視していた映は、ふっと表情をゆるめた。
「わかってるさ。そんなの最初から。おまえが犯人だなんて思ったことは一度もないよ」
 くしゃりと髪を撫でられ、陽一は茫然とした。
「叔父さん……」
 声を詰まらせる陽一の後ろで、三日月が憮然と嘆息する。
「まったく、このくらいのことで狼狽してるようじゃ、今後が思いやられるわ」
「三日月……。疑ってたんじゃないのか」
「まだわかんないの? あんたが使える力は本来私のものなの。あんたが何かしでかせば、私に伝わらないわけないでしょうが」
「か、からかったのかよ!?」
「試したのよ。冷静さについてはまるで赤点ね」
「ひでぇぞ……」
 興奮したせいで浮かんだ涙を、陽一はぐいと拳でぬぐった。
「俺はむしろ、陽一が一連の事件の最初の犠牲者じゃないかと思ってるんだ」
「最初? 俺が? でも俺、路上で轢かれたんだけど」
「陽一の死が、きっかけになったのかもしれない。あるいは開幕ベルだったのかも。今のところ犠牲者をつなぐ糸は同じ中学の出身者、それもかつてのいじめグループのメンバーだったということだけだ。陽一、言いづらいかもしれないけど、おまえも以前は彼らの仲間だったんじゃないのか」
「……ただのパシリだよ。でも、仲間だったのかと言われたら、そうだと言うしかないんだろうな」
 陽一は自嘲するように笑った。
「おまえはグループを抜けようとして暴力を振るわれたんだろ? それまでじっと耐え忍んできたのに、何故その時になって抜けようと思ったんだ?」
 陽一は言いよどんだ。言わなければいけない。わかってる。言うべきだ。だけど、それを口にするのが怖くて。思い出すだけでも罪悪感に苛まれるから、なるべく考えないようにしていた。だけど、このまま逃げ続けることはできない。いつかは向き合わなければならないと自分でもわかっていたはずだ。陽一は顔を上げ、映を見た。
「人が、死んだんだ。同級生の女の子。いじめられて……、自殺した」
「……天野桜姫という少女だな?」
「やっぱり知ってたんだね」
「彼女が自殺したのはおまえの事件が起こる少し前だったろ。同じ中学で同学年だったし、気になってた」
 陽一は頷いた。ほんの少しではあったが、肩が軽くなったような気がした。
「天野は中学二年の四月に転校してきたんだ……」
 内気なおとなしい子で、人と喋るのが少し苦手な感じがした。そんなところが自分とちょっと似てるような気がして、陽一は桜姫に共感と淡い好意を覚えた。
 きっかけはわからない。覚えてない。たぶん馬鹿馬鹿しいほど些細な行き違いだろう。桜姫はクラスの中心的存在だった深山心亜に目をつけられ、迫害されるようになった。
 転校まもない彼女には友だちと呼べるほどの人間はまだいなかった。心亜の不興をかうのをおそれた女子は誰も桜姫に近づかなかった。男子もまた、クラスを仕切る虻田智之に睨まれるのを恐れて無視した。陽一もそのひとりだ。
「詳しいことは、よく知らないんだ。俺、ほんとにパシリだったから……。だけど、ひどいことされてるのは何となくわかった。写真をばらまくとか何とか、深山が天野を脅すのを立ち聞きしたこともある」
 三日月は憤然と腕を組み、獰猛な鼻息を洩らした。
「……確か、クリスマス・イブだったと思う。天野がひとりで泣いてるのを見かけて、思い切って声をかけたんだ。『大丈夫?』って。馬鹿だよな、俺。大丈夫なわけないのにさ。なのに天野は急いで涙をふいて、『大丈夫』って笑ったんだ……。天野を見たのはそれが最後で。終業式の日に、彼女が自殺したって担任から聞いた」
「それで、グループを抜けようとしたんだな」
「今さら遅いと思ったけど……。あいつら、天野が自殺しても全然責任を感じてなかった。馬鹿みてー、とか言って笑ってて。俺もう本当にいやんなって。おまえらの言うことは今後いっさい聞かないから、って宣言した。それで散々ボコられたけど、骨にちょっとひびが入ったくらいで済んだし……。母さんにバレたのだけはまずかったな」
 映はあきれたように嘆息した。
「バレないわけないだろ。姉さんすっかりパニクって大変だったんだぞ。相手を訴えるって泣きわめいて、被害届の書き方教えろって胸ぐら掴んで揺すぶられた」
「あー……」
「義兄さんと俺でなだめて。ま、被害届を出せって最初に言ったのは俺だけど」
「出さなかったの?」
 三日月が尋ね、陽一は頷いた。
「あいつらの親が謝ってきたから。治療費とか全額向こうが負担して、今後は俺に近づかないと誓約書を書かせて、手打ち。公にしたほうがよかったかもね。今になって思えば」
 そうだな、と映も頷いた。
「……待ってよ。叔父さん、虻田たちが殺されたの、天野が自殺したことと関係あるって思ってるの?」
「おまえも被害にあったことを考えれば可能性は高い。そのグループのメンバーは虻田たち四人とおまえだけか?」
「あ……、いや、あと二人いる。榊奈々美って女子と小西真治っていう奴。榊は俺と同じ高校で、クラスも一緒。小西は西富高に行った」
「ふたりは無事なのか?」
「小西は別に何もないみたいだけど、榊には……、変な手紙が来たって、見せてくれた。血みたいな文字で『カクゴセヨ』って書かれてて、桜の花びらが一枚入ってたって」

 映は眉を上げ、陽一を凝視した。
「……それ、何でもっと早く言わない」
「ごめん」
「その手紙、借りて来られないか?」
「気味が悪いから焼くって言ったけど……。明日――あ、もう今日か――学校に行ったら訊いてみる」
「とにかく、犯人が狙ってるのは天野桜姫の自殺に何らかの責任を負っている――少なくとも負うべきだと思われている人間、ということね」
 三日月のつぶやきに、陽一は困惑して映を見た。
「犯人はその池田とかいう殺人鬼に取り憑かれてるんだろ? 天野の自殺と池田は全然関係ないよ」
「そこなのよね、わからないのは。池田はいじめグループの誰とも接点がないの」
 正直に吐き出し、三日月は顔をしかめた。
「奴が逮捕されたのは、陽一がまだ小学生の頃だ。中学に入った時にはもう死刑判決を受けて獄中にいた」
 記憶をたどりながら映がつぶやく。
「……いや、待てよ。池田の亡魂が取り憑いたのが、天野桜姫の縁者だったとしたら?」
 三日月は目を見開いた。
「ありえなくはないわ。強い恨みや憎悪を持った人間に取り憑いたとしたら、逆に影響されてもおかしくない」
「池田の被害者は十代の少年少女が多かったから、言葉は悪いが、ちょうどよかったのかもしれないな。陽一、天野桜姫の家族構成は知ってるか?」
「えっと……、確かひとりっ子だったと思うけど、詳しくは知らない。ごめん」
「いい。それはこっちで調べる。手配が済むまで引き継ぎは待ってもらえるか?」
 三日月はしかつめらしい顔で頷いた。
「わかった。こっちも池田の行方を掴めてないし、手がかりはほしいから。――仕方ない、今夜は残りの亡魂狩りを続けましょ。行くわよ、ヨイチ」
「だからヨ・ウ・イ・チ! ――てか、やっぱやるの?」
「目眩ましで逃がされた亡魂だとしても放ってはおけないわ。悪霊化したら連れ帰るのがますます難しくなって、不慣れなあんたの手に余る。さ、そうと決まったらちゃっちゃと動く! 今できることを全力でやるべし」
「それはすごく正しいと思うけど――、うわぁっ」
 ぐいっとTシャツの背を掴まれたとたん、足元に界路が開く。どわぁと奇声を上げ、陽一は三日月の骨杖にしがみついた。映はじたばたする甥に手を振った。
「がんばれよー。落ち穂拾いは後で俺がする」
 三日月に引きずられるようにして陽一が界路に消えると、映は表情を引き締めた。
「……さて。寝る前にやることやっておかないと」
 映は机上の電話に目をやった。三日月が現れた時、事務室へ通じる内線ボタンをさりげなく押しておいたのだ。そこで比良坂が書類仕事をしていることを知っての上で。
「比良坂。聞いてたか?」
『はい』
 スピーカーから抑揚の乏しい声が返ってくる。
「天野桜姫の親族をあたってくれ。必要なら千曳ちびきに手伝わせろ」
『もちろん、喜んで手伝いますよ』
 スピーカーから別の声がした。のんびりした若い男性のように聞こえる。
月夜つきやか。ああ、もう曜日が変わってたっけな。そうだ、ついでに小西真治という少年についても調べてくれないか」
 通話を切り、映は陽一から借りた中学の卒業アルバムを手にとった。
 二年生の時に自殺した天野桜姫の写真は、このアルバムには載っていない。ゆえに第一の現場である電話ボックスで幻視したガラスに映った少女の顔が彼女であったかどうかはまだわからないが、おそらくそうだろうと映は確信していた。
 アルバムをめくり、映は榊奈々美と小西真治の写真を確認した。奈々美は整った顔だちのわりに表情に乏しく、笑いもせずにじっとカメラを見つめている。少なくとも、彼女は今現在まだ生きている。
 一方の小西真治は、真面目そうな、それでいてどこかおもねるような表情を浮かべた少年だった。
 映は眉根を寄せた。
「……気付くのが、少し遅かったかもな」
 憂鬱な溜息を洩らし、映はじっと少年の顔写真を見つめた。

第四章 有罪か無罪か ~guilty or not guilty~



 残業を終えた天野和臣あまのかずおみが帰宅した頃には、すでに日付が変わっていた。
 リストラで人員が減り、そのぶん残った者の負担は重くなる一方だ。以前なら音を上げていただろうが、今はかえって安堵していた。残業のお蔭で家に早く帰らないで済むからだ。
 病で余命いくばくもない妻を抱えながら冷たい夫だと自分でも思う。できるだけ妻の側にいてやるべきだと頭ではわかっているのにそれができない。
 情が薄れたからではなく、あまりにも恐ろしくて――。
 娘を亡くして以来、妻はすっかり変わってしまった。没頭していた仕事をあっさりと辞め、ひたすらこの家で待つようになった。
 決して帰ってくるはずのない亡き娘の帰宅を。
 玄関灯は光センサーつきのライトで、辺りが明るくなれば自動的に消え、暗くなれば点灯して一晩中ついている。
 娘が亡くなってまもなく、祥子さちこは和臣に相談もせずライトを付け替えた。これなら桜姫さきが真夜中に戻ってきても困らないでしょと笑う妻に、和臣は何も言えなかった。
 その笑顔はあまりにも無邪気で、それゆえに鬼気迫って感じられた。
 鍵を開けて玄関に入る。「ただいま」とつぶやいた声は、闇に溶けるようであった。煌々と輝く玄関先のライトが、ドアのはめ込みガラスを通して三和土に射し込んでいる。
 玄関の中は外とは対照的に暗かった。まるで黄泉の国のように……。
 外の灯を頼りに手探りでスイッチを入れると、白々と浮かび上がった光景は非の打ちどころなく片づけられていた。
 いつものように和臣は落ち着かない気分になった。見るたびに、自宅に帰ったというより知らない家に上がり込んでしまったような違和感を覚える。
 一階の灯はすべて消えていた。それでも和臣は一箇所ずつ見て回った。万が一、祥子が倒れていたら大変だ。風呂場、トイレ、居間、ダイニング、台所。
 大丈夫だ、異常はない。
 階段の灯をつけ、足音を忍ばせて二階へ上がる。三つある部屋のうち、ひとつのドアの下から灯が洩れていた。死んだ娘の部屋だ。ノックをしたが返事はなかった。
 和臣はそっとドアを開けた。毛足の長い、白と薄桃色のラグマットの上に、こちらに背を向けて祥子が座り込んでいた。不自然に思えるほどすっと背を伸ばし、中空の一点を見つめている。
「……祥子?」
 振り向いた妻は口許だけで微笑んだ。
「お帰りなさい。夕飯は?」
「食べてきた。……何してるんだ?」
 祥子の表情がいきなり変わった。遠足前日の子どもみたいに興奮して目がきらめく。
「もうすぐ桜姫が帰ってくると思うとそわそわしちゃって、何だか落ち着かないのよ」
 和臣は絶句した。妻が現実を見なくなって随分経つ。幸福を夢みて贖った我が家に、真の団欒は果たしてどれほどあったろう。
 祥子はバブル絶頂期、男女雇用機会均等法が施行された頃に社会人となり、いわゆる総合職として遮二無二働いた。
 結婚して娘が生まれても、必要最低限で産休を切り上げて仕事に復帰した。
 働き続けていることに誇りを抱いていた。だが、その誇りは娘の自死を防げなかったことでまったく無意味になった。むしろ激しい後悔となって祥子を責め苛んだ。
 娘の部屋で日がな一日ぼんやりするようになり、必死にしがみついていた仕事をあっさり辞めた。不眠を訴えて処方してもらった睡眠薬を飲みすぎて――故意か事故かわからないが――病院に担ぎ込まれ、そこで思わぬ病気が発見された。
 すでに手の施しようもなく、せいぜいもって一年と言われた。告知しようとしたが、目覚めた妻がにわかに元気を取り戻したことに戸惑って言えなかった。
 どういうわけか祥子は娘が帰ってくると思い込んでしまったのだ。
 それはあまりにも強い確信で、とても諭せる雰囲気ではなかった。妻の目は異様なほどに輝き、こちらが圧倒されるほどだった。
 病状が悪化して入院させたが、祥子は家に帰りたがった。
 自分が家にいないと桜姫が帰って来た時に困ると真剣に訴えるので、医師と相談して在宅ケアに切り換えた。
 このまま命が尽きるまで夢を見させておくのもいいと思った。
 どうせ助からないのだ。だったら娘の帰宅を信じたまま逝かせてやった方がいい。それで妻の心が安らぐのであれば。

 だが、次第に和臣は怖くなってきた。
 妻が見ているものは絶望が裏返った他愛のない夢ではなく、異様にゆがんだ悪夢なのではないか? 祥子は何か途方もないことをしでかしたのではないか……?
 和臣は娘の写真にささやきかける妻の言葉を聞いてしまった。
『もうすぐよ。もうすぐお母さんが助けてあげる。あと少しだけ待っていて。桜姫をいじめた悪い子たちが罰を受ければ、桜姫は戻って来られる。だって桜姫はいい子だもの。悪いことなんか、なーんにもしてないんだもの……』
 くすくす、と失調した声で祥子は笑う。
『楽しみね、桜姫。悪い子たちは罰を受ける。そうよ、そうでなきゃおかしいわ。桜姫だけが死んで悪い子たちがのうのうと生きてるなんて、そんなの絶対おかしいもの……』
 異様な目つきで娘の遺影に話しかける妻の姿を見ていると心底肝が冷えた。
 桜姫が誰にいじめられていたのか今でも正確にはわからない。学校側はいじめはなかったと言い張り、桜姫の自殺は悲劇ではあってもあくまで個人的な悩みが嵩じた結果だと主張した。
 共働きで娘とうまくコミュニケーションが取れていなかったのではないかと、両親に責任転嫁するような発言さえあった。
 それは祥子の抱えていた後ろめたさを刺激し、自分を責める結果となった。
 だから妻が希望を取り戻せるのなら、他愛もない夢まぼろしであっても構わないと和臣は思っていた。妻に残された時間は決して長くはないのだから。
 だが、これはおかしい。何か途方もなく間違っている。そんな思いが日ごとにつのった。現実に生きている家族を見ようともせず、残り少ない日々を過ごしていいのか。
「……もうやめよう」
 祥子は不思議そうに夫を見返した。和臣は妻の肩を両手で掴み、噛んで含めるように言い聞かせた。
「いくら待っても桜姫は戻って来ない。もう二度と、絶対に」
「何言ってるの、あなた」
 過ちを指摘された幼児のように、祥子はにわかに不機嫌になった。
「桜姫は死んだんだ。葬式を上げて、火葬にしただろう?」
「やめて」
「現実を見るんだ、祥子。桜姫はもうこの世にはいないんだ」
「やめて!」
 祥子はわめき、両手で耳を塞いだ。
「そんなこと聞きたくない! どうしてそんなでたらめを言うの」
「でたらめじゃない。これが事実だ。桜姫は死んだ。死んだんだ」
 祥子がふいに顔を上げ、和臣を凝視した。
「……そうよ。桜姫は死んだ。でも戻ってくる。あたしはその方法を教えてもらったの。桜姫が死んだのは間違いなのよ。あの子を死に追いやった奴らが死ねば、間違いは正されて桜姫は戻ってくる!」
 けたたましい声を上げて祥子は笑いだした。
「もうすぐ死ぬべき奴らが全員死ぬ。そうしたら桜姫はよみがえり、戻ってくるのよ!」
「おまえ、何をしたんだ……!?」
「ねぇ、あなた。この世には生きているだけで害悪をまき散らす邪悪な存在がいるのよ。奴らは人間の皮をかぶった怪物。そんな怪物を野放しにしておくから悲劇が起こるの。怪物は罰せられ、取り除かれるべきだわ。あたしは正しいことをしただけよ。間違いを正しているの。そうすれば、死ぬべきでなかった桜姫が戻ってくる」
 祥子は狂気じみた目つきで夫を睨んだ。
「邪魔をするなら、あなたも『間違い』として正さなければならないわ。桜姫が死んだなんて、そんなの『間違い』よ。間違ってる。世界は全部間違ってるわ……!!」
 祥子は目をつり上げ、いきなり夫の首に手をかけた。
 驚いた和臣は妻の手首を掴んで振りほどこうとしたが、我を忘れた祥子の力は凄まじい。揉み合った末、和臣は苦し紛れに無我夢中で妻の身体を突き飛ばした。
 祥子の身体がクローゼットの扉に激突する。反動で開いた扉の向こうには、新品の服がずらりとかかっていた。茫然とそれを眺めた和臣は、ずるずると床に崩れ落ちた妻の傍らに慌てて屈み込んだ。
「祥子! おい、祥子」
 がっくりとうなだれたまま、青ざめた祥子は身動きひとつしない。
 狼狽した和臣は慌てて階段を駆け降り、居間の電話から救急車を呼んだ。
 駆けつけた救急隊員に担架に載せられ、搬送される間、祥子はうわごとのようにつぶやき続けた。
「もうすぐよ……、もうすぐ会える……。間違いはすべて正される……」



 月曜日の放課後、陽一は自宅へ寄らずまっすぐ三瀬川探偵事務所に向かった。
 迎えてくれた月曜日の千曳、物静かで人当たりのいい青年の人格である月夜つきやに言われて所長室へ入ると、客用ソファで澄まして紅茶を飲んでいた三日月がじろりと見た。
「遅い」
「授業終わって直行したんだぞ」
 むっとして言い返すと、三日月は軽く眉を上げてカップを傾けた。
 映はリクライニングさせた椅子にもたれて書類を眺めている。昨夜からあまり寝ていないのだろうか、少し翳った表情が持ち前の美貌に凄味を加えて何だか気押される。
 映は穏やかに尋ねた。
「手紙はあったか?」
「それが……、あれからすぐ燃やしてしまったって」
 休み時間に人目を憚りながら訊いてみると、奈々美はいぶかしげな顔でそう答えた。取っておいたほうがよかったのかと問われ、言葉を濁した。
「見せてもらった時に預かっておけばよかったな……」
「いいさ。見ても手がかりになったかどうかわからないしな。それより、その榊奈々美って娘は大丈夫そうなのか?」
「あ、うん。へばりついてた黒いかたまりをもぎ取ったら、何だか表情がやわらかくなったような気がするよ。こないだまでやたら険悪な感じで、ギスギスしてたんだ」
「黒いかたまりって、もやもやしてる不定形の奴か? じゃあたぶん精気を喰らう餓鬼に憑かれてたんだろうな」
「そうだ、三日月。餓鬼ってどうやって始末したらいいのかな? その辺放り投げちゃっても大丈夫?」
「そんなことしたら元に戻っちゃうでしょ。あんた無常鬼なんだから鉄爪で引き裂けばいいのよ」
「てっそう? 何それ」
 三日月は眉根にしわを寄せ、はぁと溜息をついた。
 ちょいちょいと招かれて近寄ると、空中から出現した骨杖で軽く手の甲を叩かれる。そのとたん、陽一の爪が黒い鉤爪状に変化して十センチばかりにゅっと伸びた。
「わぁっ、何だこれっ」
 度肝を抜かれて飛びすさる。
「それが鉄爪よ。金剛嘴烏のくちばしと互角の鋭さがあるわ」
「こんごうしう?」
 三日月は骨杖に飾られている鳥の髑髏を示した。亡者の首を刈る大鎌に変化する骸骨だ。
「コレ。何でもスパッと切り裂けるわ。食人精気餓鬼じきにんしょうきがきくらい、一発よ。せいぜい有効活用しなさいね。ま、いずれはまた寄り集まって復活しちゃうけど」
 陽一はまじまじと自分の手を見つめた。
「俺……、マジ人間じゃねーのか……?」
 走る速度や筋力は上がったような気はしたが、目に見える形で肉体が変化したわけではないのでいまいち実感がなかった。
 こうなってはもう本当に認めるしかない。自分が人間の枠を一歩も二歩も踏み出してしまったということを。
「叔父さんもこういうの出せんの?」
「走無常になってる時ならな。今は無理。俺は肉体的にはただの人間だから」
「三日月、これどうやって元に戻すんだよ」
「念じればいいのよ。戻れって」
「戻れーっ」
「怒鳴んなくていいから」
 自分の手に向かって真剣に命じる陽一の姿に、三日月はぐりぐりとこめかみを揉んだ。
「あ、戻った」
 ホッとして陽一は自分の手をなでた。
「――あ、っと。それじゃ、やっぱりトイレに流したのはまずかったかな?」
「トイレって、あんたね……。まぁ、しばらくは大丈夫だろうけど、心の持ちようが変わらなければまた何かのきっかけで取り憑かれるかもしれないわよ」
 三日月の言葉に陽一は眉根を寄せた。
「そっか……。だからって、言ったところでわかんねーよな。見えないんだし」
「放っておくわけにもいかないわね。脅迫状が来ているわけだし、直接いじめに関わっていないにしろ榊奈々美もグループの一員であったわけだから」
「……やっぱ狙われてる理由ってそれなのかな」
「今のところ他に共通点は見つからないな」
 考え込みながら映がつぶやく。
「でも、小西は別に変わったことは何もないって言ってたんだよ? 元気そうだったし」

「小西真治は、この世にはもういない」
 陽一はぽかんと映を眺めた。
「何それ……。俺、つい昨日あいつとしゃべったんだぜ?」
 映は中学校の卒業アルバムを開いて写真を差した。
「この子が小西真治だろう? 彼はもう亡くなってる。いつ死んだのかはわからないが」
「そんな……。じゃあ、俺が電話してすぐ後に……?」
「俺が彼の写真を見たのは昨夜、というか今日の午前一時頃だ。その時点ではもうこの世にいないと確信した。鷹見さんに頼んで調べてもらうと、小西真治は昨日の夕方自宅を出たきり行方がわからなくなっている。高校にも行っていない。つまり、現時点で残っているのは陽一、おまえと榊奈々美のふたりだけだ」
「さ、榊は? あいつは無事なのか」
 陽一は急いでアルバムをめくって奈々美の写真を指さした。ちらと見て、映は頷く。
「まだ生きてる。こんなことなら何とか理由をつけてここに連れてくればよかったな」
「ねぇ、天野桜姫の遺族はどうだった?」
「彼女はひとりっ子で、遺族は両親だけだ。母親は事件後体調を崩し、入院した時に癌が見つかって闘病中だ。今は一時帰宅しているが、症状はすでに末期だそうだ」
 陽一は暗澹とした気分になった。一人娘が自殺したうえ、不治の病にかかるなんて。
「遺族と池田の接点は?」
「まったく不明。……少し整理してみようか。今回の事件の発端は死者名簿の破損・改竄という冥府のトラブルだ。それによって殺人鬼・池田昭二の魂が現世に戻ってきた。その池田が誰かに取り憑いて、一連の事件を引き起こした」
 腕組みをして三日月が眉根を寄せる。
「問題は、誰に取り憑いたかってことよね。殺されているのが天野桜姫の自殺に関わるグループの人間ばかりだから、遺族に取り憑いていればいちばん自然なんだけど」
 机上の電話が鳴る。すぐに応じた映はしばらく耳を傾け、通話を切った。
「比良坂からだ。天野桜姫の母親が昨夜遅く緊急入院した。意識不明で側に夫がついている。夫には一連の事件の時にはアリバイがあるそうだ。会社にいて、つねに周りを同僚に囲まれていた」
「界路が使えるならアリバイなんて成り立たないけどね」
 三日月がむっつりと口を挟む。
「ここ数日、特に変わった様子はなく普通に勤務してる。池田に取り憑かれてるとしたらそんな芸当は無理だ。殺人まで犯すのではもう完全に入れ換わってる。とにかく桜姫の父、天野和臣には比良坂を貼りつかせた。母親の祥子の方は動ける状態じゃない」
「じゃあ、少しは安全、なのかな……?」
「ふたりのうちどちらかに池田が憑いているなら、な」
「だって、他に可能性のありそうな人なんていないじゃないか。小西ももう死んでるんだし。生きてるのは俺と――、……まさか榊が犯人……?」
「何とも言えないな。とにかく陽一は榊奈々美と接触してみてくれ。犯人じゃないのなら、必ず狙われる。俺はちょっと出かける」
 どこへ、と尋ねる暇もなく映は目を閉じて椅子に持たれた。同時にすっともうひとりの映がその身体から立ち上がる。少し輪郭がおぼろだが、ほとんどそのままに見える。
「……すげー。なんか双子の芸人みてーだ」
 映は苦笑して陽一の頭にぽんと手を載せた。実際にそうされるよりもずっと軽い感触だったが、すり抜けたりはしない。
『まずは天野祥子の入院している病院に行ってみる。後のことは月夜に任せればいいから、おまえたちは榊奈々美を探してくれ』
 映の声は明瞭で、耳からではなく頭の中に直接響く感じだ。わかったと頷くと、映の姿は映像がブレるような感じで消えた。
「えぇと。あ、そうそうまずは月夜さんを呼ばないと」
「その前に榊奈々美に電話しなさいよ」
 三日月に言われ、陽一は携帯を取り出した。しばらく呼び出し音が鳴ったかと思うと、突然アナウンスに切り替わってしまった。
「くそっ、通じない」
「いいわ、風を捕まえて私が探す。行くわよ」
「ちょ、ちょっと待って」
 所長室のドアを開けて呼ぶと、台所からエプロンをつけた月夜が顔を出した。
「月夜さん。叔父さんが、その……」
「ああ、大丈夫。任せて」
「ヨイチ!」
「わ、わかった。それじゃ、よろしく」
 所長室を覗くと陽一と三日月の姿はすでに消えていた。月夜は残念そうに肩をすくめた。
「今夜はみんなで食卓を囲むわけには行きそうにないな……。まぁいいや、作っておこう。明日の火乃子かのこちゃんは料理できないし」
 肩をすくめた月夜は、よっと掛け声をかけて意識のない映の身体を肩に担ぎ上げた。



 奈々美は河川敷の公園でベンチに座ってぼんやりしていた。
 数日前に陽一と話をしたベンチだ。あの時は陽一を疑っているようなことを言ってしまったが、実際にはその時になるまでそんなことは考えてもいなかった。
 不安で、だけどその不安を打ち明けられる人も他にはいなくて、八つ当たりをしてしまったのだ。
(――あの手紙、やっぱりとっておけばよかったな……)
 陽一には手紙の差出人を調べるための伝か何かがあったのかもしれない。いっそ、最初に見せた時に預けてしまえばよかった。
 それにしても誰なのだろう。あの手紙を出したのは。
 もしも本当に天野桜姫の自殺絡みなのだとしたら、まず思い当たるのは桜姫の母親だ。
 桜姫の母は事件後、同じクラスの子を片っ端から捕まえては、何か知っていることはないかと執拗に尋ねて回った。
 まもなく保護者から苦情が出て学校が抗議をして収まったが、奈々美も一度捕まった。
 すぐに教師が気付いて引き離してくれたが、あの時の母親の焦燥にかられた狂気じみた瞳には足が竦んだ。知らないと答えたけど、もしかしたら何か勘づいたのかもしれない。
 あの時言ってしまえばよかったのだ。何もかも打ち明けてしまえば。でも、怖くて。よけいなことをしゃべったら承知しないと心亜に言われて、逆らえなかった。
 先生たちはみな『いじめはなかった』と言い張ってたし。心亜や虻田たちが桜姫をいじめていたことは誰もが知っていたのに、何も言わなかった。
 しゃべったら自分たちが見て見ぬふりをしていたことまでバレてしまうから。自分がターゲットになることを恐れて、桜姫ひとりに犠牲を強いたのだということを、目の当たりにしなきゃならなくなるから。
 だからみんな口をつぐんだ。知らないふりをした。
 そんな中、わずかながらも動いたのが保科陽一だった。それまで唯々諾々と虻田たちのパシリに甘んじていた彼が、もうおまえらの言うことはきかないと急に言い出して。
 怒った虻田たちが陽一に暴力を振るうのを物陰から隠し撮りして、陽一の顔だけわからないように加工してインターネットに流した。それくらいしか臆病な自分にはできなかった。
(……もしかして、天野桜姫のお母さんもあの動画を見たのかも)
 事件から時間が経って、固く閉ざしていた口を開く子も出始めただろう。少しずつ糸をたぐっていけば、虻田と心亜が率いていたグループにたどり着く。
 携帯が鳴り出し、物思いに沈んでいた奈々美はびくりと身を縮めた。
 メールが届いたことを知らせる着信音だ。奈々美は鞄のポケットから携帯を取り出した。心亜からのメールだ。珍しい。心亜はいつも用があれば電話なのに。
【一緒にお祈りして。中学校の屋上で待ってる】
 奈々美はまじまじと画面を見つめた。短い文章を何度も読み返す。
「一緒にお祈りって……」
 やはり心亜も天野桜姫のことを思い出したのか。
 屋上にはよく桜姫を呼び出しては小遣いを巻き上げたりしていた。しかし、あの怖いもの知らずで傲慢な女王様が一緒にお祈りしてなんて弱気なことを言い出すとは。
 腰巾着だった川野や畑中が家出して不安になったのか。虻田はどうしているのだろう。小西は無事なようだと陽一は言っていたが。
 奈々美は立ち上がった。
 中学校はここからだとけっこう離れている。歩いて三十分以上はかかるだろう。
 歩きだしながら心亜の携帯にかけてみたが繋がらなかった。遅いと文句を言われるのも厭だからあらかじめ断っておきたかったのに。
 仕方なくメールを入れた。もしメールがセンターで止まっていたら、また詰られそうだ。
 とにかく急ごうと足を速めながら、まだ女中根性が抜けないのかと奈々美は自嘲気味に笑った。



 陽一が奈々美の携帯にかけたのは、奈々美が心亜に返信のメールを送った直後のことだった。
 その後、何度かかけなおしてみたが、やはり繋がらない。
「くそ、やっぱりダメだ」
 強い風に目を眇めつつ陽一は夕空を見上げた。すでに日は没して残照が空を染めている。
「まだかよ、三日月」
「うるさいわね、黙って」
 何度も繰り返された会話がさらに更新される。ここに来てからずっと、三日月は難しい顔で眉根を寄せたままじっと何かに集中している。
 陽一はそろりと眼球を下向きに動かし、慌てて上を向いた。
「なぁ、他の場所に移動しようぜ」
「ここがいちばん風を捕まえやすいのよ」
「んなこと言ったって、さっきから全然どうにもなってないじゃないか」
「もう、ホントにうるさいなぁ。べらべらしゃべる男は嫌いよ!」
「しゃあねぇだろ! 何かしゃべってないと怖いんだよッ」
 陽一はこめかみに青筋をたてて怒鳴った。臆病だと責めるのは酷だろう。陽一と三日月がいるのは周辺でもっとも高い送電線の鉄塔の上なのだ。
 探偵事務所の所長室から界路をくぐって出るといきなり地上何十メートルで、陽一は心臓が止まりそうだった。
 一応座って片手でしっかり掴まってはいるが、吹きっさらしで安定した足場もなく、居心地悪さの度合いは最大値をはるかに振り切っている。
「ダメ、やっぱり亡者以外は探りにくい。それにしても変だわ。ひょっとしたら彼女、すでに迷界に踏み込んじゃってるかも……」
「迷界?」
「現世と冥府の狭間よ。ふつうに生きてる人間でもちょっとしたきっかけで迷いこむことがあるし、向こうから呼ばれることもある」
「呼ばれるって……、どうやって」
「たとえば死者からの電話に出たり、メールに返信したりすると、空間が重なって知らないうちに迷界に次元スリップしてしまうの。迷界には現世が投射されているから、ちょっと変だなと思ってもまさか自分が異界に踏み込んでると気付く人はほとんどいないわ」
「居場所の特定はできないのか?」
「迷界っていうのはひとつじゃなくて、幾層にも重なりあってるの。例えれば合わせ鏡みたいなものね。合わせ鏡の中には無限に鏡が映っているでしょ? あんな感じ。どの層に入り込んでしまったのか、外からはわからない」
「じゃあどうすればいいんだよ!?」
 焦って腰を浮かした陽一は、足元の不安定さに思わず鉄骨にしがみついた。
「特異点を探すのが一番の近道ね。迷界には必ず現世と密接に繋がっている場所がある。今回はきっと天野桜姫に関わりのある場所だわ」
「そんなこと言われたって……、天野の家とか?」
 眉を寄せてしばらく考え込んでいた三日月が、ふと顔を上げた。
「天野桜姫が自殺した場所は?」
 陽一は言葉に詰まった。無理に押し出すようにつぶやく。
「……学校だよ。中学校の屋上から飛び下りたんだ」
「だったらたぶんそこね」
「じゃあ何だ、今回の事件の犯人は天野だって言うのか。天野は冥府から逃げた魂の中にはいないんだろ?」
「彼女はそもそも冥府へ来ていないのよ」
 言いにくそうに三日月は視線を逸らした。
「……どういうことだよ」
「自殺者はすぐには冥府へ来られないの。私たちも連れて行けない。彼らは自ら作り出した迷界を、そうとは知らずに何年もさまよわなくてはならないのよ」
「何でそんな……」
 絶句する陽一を見た三日月の瞳は、今までになくつらそうだった。
「そういう決まりだとしか言えないわ。とにかく中学校に行ってみましょう。そこが違ったならまた別の特異点を探す」
 陽一は頷き、差し出された三日月の杖をぎゅっと掴んだ。



 比良坂は市立病院の廊下で壁にもたれていた。
 天野桜姫の遺族についてざっと現状を調べ上げ、後はずっと天野和臣――桜姫の父親を見張っていた。自宅の監視は千曳に頼み、和臣が帰宅すると千曳は事務所に引き上げさせた。
 それからまもなく救急車が駆けつけ、比良坂も夫妻を追って移動した。
 以来、天野祥子――桜姫の母親は病室で意識不明、父親はしばらく傍らに付いていたが、今は廊下に出てきて長椅子で頭を抱えている。
 比良坂はしばらく医師や看護師の動きを観察し、車にいつも積んである白衣を着て伊達眼鏡をかけ、勤務医のふりをして祥子のカルテをざっと眺めた。
 医師免許を持つ比良坂には、祥子がすでに末期症状であることがすぐに見て取れた。それから人目のない隙を狙って病室に入り、さりげなく祥子の容体を確かめると祥子は昏睡状態に陥っていた。
 もし彼女が犯人ならば、動けない以上何もできないはずだ。
 病室を出た比良坂はかすかな気配に振り向いた。
 いきなり映と顔を合わせ、ぎくりとする。口を開く前に映は自らの唇に人指し指を当てた。やっと彼が生身でないことを理解する。
 比良坂には映が生身の肉体なのか霊体なのか咄嗟に判別するのが難しい。他の幽霊や餓鬼などはまったく見えないのに、何故だか映の霊体だけは実物並にリアルに認識してしまうのだ。
 映は何気ない足どりで祥子の病室へ向かい、ドアに上半身を突っ込んだ。
(……いつもながらシュールな眺めだな……)
 視線を逸らし気味に嘆息する。あまり直視したくない光景だ。上半身はドアを素通りしているのに律儀に両手をドアについているあたりが何とも言えなかった。
 むろん他の誰にも見えてはいない。たまたま通り掛かった看護師は一瞥もくれず、せかせかと歩み去った。
 しばらく病室を覗き込んでいた映が全身ドアの向こうに消えた。比良坂は落ち着かない気分で周囲を見回した。
 よほどの霊能力者でもなければ映の姿は見えやしないとわかっていても、何だかそわそわしてしまう。
 ほんの一分ほどで映は廊下に出てきた。今度は長椅子に座っている和臣をじぃっと凝視する。やがて和臣が頭から手を離して身を起こしたので、比良坂は焦った。
 しかし和臣には霊能力はないようで、目の前に立っている映にはまったく気付かず、何故か内ポケットからパスケースを取り出した。
(写真……?)
 比良坂の位置からはよくわからないが、パスケースを開いて中をじっと見つめている。映は和臣の隣に座ってそれを覗き込んでいた。
 立ち上がった映が身振りで移動しようと伝えてくる。和臣の監視はいいのかと目線で尋ねると、かまわないと首を振った。
 後についていくと待合室の外まで出てしまった。
 診察時間はとっくに過ぎているので、周囲に人影はほとんどない。それでも用心のため比良坂は携帯を取り出すと何もしないまま耳に当てた。
 霊体の映はふつうの人間には見えないから、こうでもしないと通りすがりの人間に奇異の目で見られてしまうのだ。
「……いいんですか、見張ってなくて」
『天野和臣は犯人じゃない』
 きっぱりと映は断言した。
「では天野祥子の方も無関係ですか」
『実行犯ではないが、無関係とも言えないな。彼女はあそこにいない』
 何となく視線を逸らしていた比良坂は思わず振り向いた。映は何か考え込む時の癖で軽く顎をつまんでいた。
「どういう意味です?」
『魂が抜けてる。それで意識を失ったんだ。どこへ行ったのか探ってみたが、わからなかった。魂が離れた後に身体の方が移動してしまうと、手がかりが消えてしまう』
「天野祥子が実行犯ではないという根拠は」
『彼女の身体からは血の匂いがしない。犯人なら相当量の返り血を浴びてる。洗い流して表面的には消えても、霊視すれば痕跡は残ってる』
「無関係ではない、というのは?」
 映は憂鬱そうに眉をひそめた。
『陽一を轢き殺したのは彼女だよ。それと、榊奈々美に脅迫状を書いたのも。つまり最初からこの事件の犯人はふたりいたってことだ。実在の人間としての天野祥子と、亡魂として現世に戻ってきた池田昭二。ふたりの繋がりは、当然冥府だろうな。天野祥子は何らかのきっかけで臨死状態に陥って冥府に迷いこんだ。ただ、隔離された下層地獄にいた池田昭二と行き会うはずがない。そこがよくわからないな。誰かが間に介在しているはずだ』
「死者名簿のトラブルとも関係があるんでしょうか」
『たぶんな。そのお節介な誰かが、娘を自殺に追い込んだ少年たちに復讐したい天野祥子と、現世に戻ってさらなる殺戮ゲームを続けたがっていた池田昭二を結びつけ、池田を現世に戻すために死者名簿の破壊と改竄を行った。そんなところじゃないかと思う。とにかく今は最後のひとり、榊奈々美の身の安全が最優先だ。それと、陽一もふたたび狙われる可能性が高い。殺したはずなのに死んでないことを知れば、必ずもう一度狙ってくる。まずは天野祥子の生霊がどこにいるのか探さないと』
「手がかりはあるんですか」
『さっき天野和臣が写真を見てた。親子三人で撮った写真だよ。やっと天野桜姫の顔がわかった。以前、公衆トイレの血まみれ事件で公園に行っただろう? あそこで少女の霊を見かけたんだ。あれが天野桜姫だ。彼女に接触すれば母親の行方を掴めると思う』
「何か俺にできることは?」
『今のところないな。ここはもういい。事務所に戻って休んでろ』
 じゃあなと軽く手を振り、映の霊体はフッと消えた。
「……お気をつけて」
 虚空に呟き、比良坂は携帯を耳から離した。とても休む気分にはなれないが、ともかく事務所に戻って映の帰還を待つしかない。
 比良坂は車に戻り、運転席のシートにもたれた。
「肝心な時にはいつも役立たず、か」
 腹立たしげに吐き出し、比良坂は車のエンジンをかけた。



 中学校に着いた頃にはすっかり日が暮れて、辺りは薄暗くなっていた。
 携帯を開いて時刻を確かめると、まだ午後六時を少し過ぎたくらいなのにやけに暗い。見上げた空は奇妙に毒々しいオレンジ色の残照が映える濃灰色の曇り空だった。
 何となく周囲を見回しながら奈々美は校庭を歩きだした。
 用務員や居残っている教師に見咎められるのではないかと、つい早足になる。ついこの間卒業したばかりだから、まだ顔を覚えている先生もいっぱいいる。しかし校舎は暗く、どこにも灯は見えなかった。
(先生たちはもう帰ったんだ)
 少しだけ安堵して、奈々美は校舎を回り込んだ。
 建物の端に設置された外付けの非常用階段を、そっと足音を忍ばせて登る。炎の色をした夕空の下、屋上はがらんとして誰もいなかった。
 奈々美は無意識に肩にかけた鞄の持ち手を握りしめながら辺りを見回した。
「……心亜? どこ?」
 名前を呼びながら中央にある校舎からの出入口となっているコンクリートの建物に向かう。向こう側に回ってみたが、心亜の姿はなかった。
 校舎への出入口のドアを試してみても、内側から鍵がかかっていて開かない。
(遅いって怒って帰っちゃったのかな……)
 自分勝手な心亜ならありえる。
 ぐるりと屋上を見回し、奈々美は携帯を開いた。電話帳を表示しようとして、圏外になっていることに気付いた。通話ボタンを押してみたが、うんともすんとも言わない。
 メールしようと思い、圏外になっていたら届かないかと諦める。奈々美は校舎の裏手にあたる方をこわごわと眺めた。天野桜姫が飛び下りたのは確かこちら側だ。
 詳しい場所は知らない。見に行かなかった。とても行けなかった。
 じり、と足が動いた。おそるおそる手すりを掴んで覗き込む。ヒョォと耳元で風がゆるく鳴った。直下は花壇になっていて、ピンクの花が植えられていた。
 そうだ、思い出した。天野桜姫は冬枯れの花壇に倒れているところを発見されたのだ。クリスマスの朝に。
「綺麗でしょ? サクラソウよ」
 いきなりすぐ近くで声がして、奈々美はギョッと顔を上げた。
 いつのまにか、痩せた女性が側に立っていた。白いブラウスにラベンダー色の薄いコットンカーディガン、濃灰色に臙脂えんじのチェック模様が入ったフレアースカートを穿いている。
 年齢は四十代半ばくらいだろうか。やつれて老けて見えるだけで実際にはもっと若いのかもしれない。
(この人……、見たことある……? ――――!)
 反射的に後退る。桜姫が死んだ後、必死の形相で自分の腕を掴んで尋ねた女性の顔がぴたりと重なった。あの時は憔悴はしていてもこんなに痩せてなかったけど……。
「……天野さんの、お母さん……?」
「あら……。覚えていてくれたのね」
 天野桜姫の母、天野祥子は血の気のない唇にうっすらと笑みを浮かべた。
 とれかかったウエーブ髪をゆるくバレッタで留めているが、ほつれてこめかみに落ちかかっているせいで余計にやつれて見えた。祥子は落ち窪んだ大きな瞳をじっと奈々美に注いだ。
「綺麗なお花でしょ? 私が植えたのよ。夜中にこっそり来て植え替えたの。だって黄色い花なんか植えるんだもの。桜姫は黄色が嫌いなのに。自分には似合わないっていつも言ってたわ。それで白いサクラソウを植えたの。花のかたちも可愛いし、桜姫の名前が入っているから。――でも見て。白を植えたのに、ピンクに変わったのよ。あれってきっと桜姫の血を吸ったからよね? だってあの花壇は桜姫の血をいっぱい吸っているんだもの。だから花の色が変わったの。ねぇ、そうよね。そうだと思うでしょ?」
 祥子の言葉は次第にもの狂おしく変化し、奈々美は気押されて後退った。
「わ、わかりませんっ……」
「嘘おっしゃい。桜姫がいじめられてることをあなたは知ってたはずよ。だってあなた、あのいじめグループのメンバーだったじゃない。女王様のおつきの女中だったのよねぇ」
 奈々美は思わず息をのんだ。祥子の笑みが陰惨に深まる。
「知ってるんだから。あなたは桜姫を見殺しにした。深山心亜の言いなりで、止めようともしなかった」
「だって心亜はあたしの言うことなんか聞かない……」
 反射的に言い返してハッと気付く。
「心亜……。心亜はどこ? まさか心亜に何かしたの」
「あの娘にはこの世から退場してもらったわ。切り刻んで、たくさん血を出してやった。苦しめたぶん桜姫よりもたくさん血を流さなくてはだめよ。白い花が赤く染まるくらいにね。他のお仲間も同じようにして、死体は餓鬼に喰わせたわ。ほら、ああいうの」
 指さされた背後を振り向くと、異形の者どもが非常階段への出口を塞いでいた。ぞろりと長い舌を垂らし、大きな口いっぱいに乱杙歯を生やした見るも醜悪な怪物たちだ。それぞれの大きさは幼児ほどしかないが、押し合いへし合いして完全に壁になっている。
 奈々美はかすれた悲鳴を上げ、コンクリートの壁に背をぶつけた。天野祥子はやつれた顔に慈母のごとき微笑を浮かべた。それはあまりに鬼気せまる笑顔であった。
「あれはね、疾行餓鬼しっこうがきといって、人間の屍肉が大好きなの。可哀相に、人間の死体以外は食べられないのよ。あんたのお友だちは、きっとさぞかし美味しかったでしょうねぇ」
 そして天野祥子は狂気の発作を起こしたようにのけぞって哄笑した。
 がくん、と壊れた人形のように顔を戻して笑いを収めると、祥子は表情の消えた虚ろな顔で言った。
「さぁ、そろそろ覚悟はできたかしら? 特別に時間はあげたのよ。あなたは桜姫を直接いじめていたわけじゃないようだから」
「ま、まさかあの脅迫状……!」
「脅迫じゃないわ。事前に予告してあげたの」
 あっけからんと祥子は笑う。
「いちおうね、私だってちゃんと区別くらいしなきゃ、って考えたのよ。だからあなたは切り刻んだりしない。ここから落ちてもらうわ。桜姫と同じように。おとなしく自分で飛び下りれば、あの餓鬼たちに死体を食べさせないであげる。あんなふうになりたくはないでしょ? 使いっ走りだった保科陽一も、ただ車で撥ねるだけにしてあげたのよ」
「保科くん!? 保科くんまで殺したの……!?」
「そうよ、だからあなたが最後のひとり」
 にっ、と口の端を割くように祥子が笑う。同時に、奈々美が握りしめていた携帯電話が甲高く鳴り出した。



 少女はブランコに乗って葉桜を眺めていた。
 もう少し早くここに来られたらよかったのに。そうしたら、きっと満開の桜を見られただろう。
 幼い日、両親と手を繋いで眺めた桜。あれはどこか別の場所の公園だった。どこだか覚えていないけど、ここでないのは確かだ。
 ここは記憶の中の風景にとてもよく似ている。
 どこの町にもあるありふれた公園の、ありきたりな桜並木。ペンキの剥げた古いブランコは、漕ぐたびに物哀しげな金属音を響かせる。
 あと十か月ばかりここにいれば来年の桜が見られるだろう。自分にとって日々のうつろいはとても早い。ほんの少しぼんやりして、ふと気がつくともう季節が変わっている。
 そうしてぼんやりしている間に桜の季節は過ぎてしまった。この前もそうだった。ふと顔を上げると蝉が鳴いていて不思議だった。自分が死んだのは寒い冬の夜だったのに。
「――やぁ。こんばんは」
 前触れもなく上がった声に驚きもせず、少女は振り向いた。
 見たこともない若い男性が立っていた。二十代の半ばくらいだろうか。とても綺麗な顔をしている。黒目がちの瞳の色が深い。
 真黒な、闇の色。宇宙を包む暗闇の色だ。
「……こんばんは」
 平淡な声で答えると、端整な美青年はにこりと微笑んだ。
「天野桜姫さん、だね」
 少女は目を瞬いた。
「そうだった、かしら」
「違うのかな?」
「そう……、あたしは天野桜姫だわ。すっかり忘れてた。名前を忘れるなんて、変?」
 青年は優しく微笑んだ。
「よくあることさ」
「あなたは誰?」
「三瀬川映」
「はゆる? 変わった名前」
「そうだね。俺は保科陽一の叔父なんだ。陽一のことは覚えてる?」
「ほしな・よういち」
 桜姫は目の前に文字を並べて確かめるように、その名を口にした。
「知らない。それとも知ってて忘れてるのかな……」
「きみと同級生だったんだけど。中学二年の時」
 ぱあっと目の前の霧が晴れるように、記憶が蘇る。
「保科くん。――ああ! あたし保科くんにこの前会ったよ」
「この前って、いつ?」
「母の日。誰かが喋ってるのがたまたま聞こえたから、保科くんにも教えてあげたの。保科くん、助かったって言ってた。忘れてたーって」
 思い出してくすくす笑う。笑うと何故か片目から涙がこぼれて頬を伝った。桜姫は指ですくった涙を不思議そうに眺めた。
「……きみは、陽一のことが嫌いだった?」
 桜姫は目を瞠って映を見上げた。
「嫌い? どうして? 保科くんは優しかったよ。深山さんにペンケース壊されて鉛筆もシャーペンもぜんぶダメになっちゃった時、側を通る時に鉛筆を一本さっと机の中に入れてくれたの。すっごく嬉しかった」
「そっか。……実はね、陽一のことをきみのお母さんが狙ってるんだ」
「お母さんが? どうして?」
「きみが亡くなったのは陽一のせいでもあると思い込んでいるんだよ」
 桜姫は黙り込んだ。ブランコの鎖を握った手に、くっと力が入る。
「……お母さんに会いたい。どうしたら会えるんだろう」
「願ってごらん。そうしたら俺が連れて行く」
 映は手を差し出した。桜姫は怯えた顔でしり込みする。
「本当に? 本当にお母さんのところへ連れて行ってくれるの?」
「約束するよ」
 しばし迷い、桜姫は差し出された映の手を取って立ち上がった。
「お母さんの姿を思い浮かべて、側へ行きたいと願ってごらん。強くそう願うんだ」
 愛情の絆で結ばれた近親者の魂には、強い想いに反応してどんなに遠く離れた場所にいても一種の共振現象が起こる。俗に『虫の知らせ』というものだ。
「……捕まえた」
 映は微笑して桜姫の手を引いた。
 驚いて目を開いた桜姫は、彼女自身が作り出し固着していた迷界から強引に引き剥がされ、映とともに別の迷界へと一気に跳躍した。



「……誰もいないじゃん」
 陽一は屋上を見回して気抜けしたように呟いた。眺めて楽しい場所ではない。虻田たちになけなしの小遣いを巻き上げられたり、コンビニで何とかを買ってこいと命じられ、間違えて殴られたりした場所だ。そして、天野桜姫が死への一歩を踏み出した場所でもある。
「やっぱここじゃないんだよ。移動しようぜ、三日月」
 腕を組んだ三日月は険しい顔で集中している。
「ここよ。かすかに声が聞こえる。間違いなく空間が重なってるわ。でも突破口がない」
 悔しげに呟き、ハッと三日月は顔を上げた。
「――携帯! ヨイチ、榊奈々美に電話するのよ」
「えー、さっきから何度かけてもつながんないぜ?」
「いいからかけて」
 リダイヤルすると、圏外にも関わらず何故か呼び出し音が聞こえてきた。ぐいっと自らの耳も携帯に押し当て、三日月は凶暴な笑みを浮かべた。
「ほら、出なさい。さっさと出るのよ……!」



 奈々美はほとんど反射的に携帯を開いた。表示されている名前は『保科陽一』。ピッ、と通話ボタンを押すと同時に祥子が叫んだ。
「出るなぁぁぁっっっ」
「もしもし、保科く……!?」
 目の前に、刃が迫ってくる。ほとんど奈々美をすれすれにかすって、刃はコンクリート床に突き刺さった。空間を切り裂き、長い銀髪の少女と保科陽一がいきなり出現する。
「よおぉーしっ」
 快哉を叫んだ少女はマンガに出てくる死神のような大きな鎌を両手で構えていた。大鎌の柄に片手で掴まり、もう片方の手には携帯を持って耳に押しあてているのは今電話が繋がったはずの保科陽一だった。
「榊!? 無事かっ」
 茫然とした奈々美は携帯を耳に当てたままこくりと頷いた。
「保科くん……、どこから出てきたの? っていうか、生きてたのね……!?」
「ま、話は後で」
 陽一は困ったように頭を掻き、祥子と奈々美のあいだに立った。祥子は血走った目をカッと見開いて陽一を睨めつけた。
「馬鹿な、あんたは死んだはずよ。生きてるわけない。あれだけ轢いたんだからっ」
 逆上しきった声でわめかれ、陽一は愕然とした。銀髪の美少女が腰に片手を置き、冷たい口調で吐き捨てた。
「あらま。いきなり自白してくれるとは、手間が省けたわ」
 奈々美は高飛車な少女をまじまじと見つめた。やけに裾が短い、着物なのだろうか、黒くて中振り袖くらいの袂がついた服に真紅の帯を舞妓みたいに胸高に締めている。すらりとした脚には編み上げの黒い厚底ブーツ。
 彼岸花の髪飾りをつけた銀の髪はとても日本人には見えなかった。整った顔だちも、やや東洋風ではあるもののどこの人だかさっぱりわからない。陽一や祥子との関わりもまるで見当がつかず、奈々美は陽一と銀髪少女をきょときょと交互に眺めた。
「ど、どういうことだよ。この人が俺を轢いたって……。つか、この人誰?」
「私は天野桜姫の母親よ!」
 陽一は殴りつけられたかのようにショックを受けた顔で祥子を見返した。
「え……、天野のおふくろさん……!?」
「そうよ! あんたたちが見殺しにした桜姫は私の娘。私の、たったひとりの……っ」
「ど、どうしてここに? 入院してるはずじゃ……」
「彼女は生身じゃないわ。霊体よ。つまり、生霊ってこと。肉体の方は病院で寝てる」
 銀髪の少女はこともなげにとんでもない台詞を吐いた。ふだんならコスプレまがいのあの格好からして電波系に違いないと無視するところだが、わけのわからない怪物が向こうにうじゃうじゃ控えている状況では何でもアリに思えてしまう。
 しかも、少女が何もない空間から陽一を連れていきなり出てくるまさにその瞬間を目撃してしまったのだ。
「だ、だけど三日月。この人が犯人じゃないよな? 虻田や深山を殺したのは……」
「残念ながら実際に手を下したのは私じゃないわ。全員この手で罰してやりたかったけど、なかなかそうもいかなくて」
 開き直ったのか、祥子はやつれた顔に嘲るような陰惨な笑みを浮かべた。
「私がやったのは保科陽一、あんたを車で撥ねたことだけよ」
「撥ねただけじゃないでしょ。わざわざ引き返してきて念入りに踏み潰したじゃないの」
 三日月と呼ばれた少女が、ムッとした顔で言い返す。
「そうよ。完璧に死んだはずだわ。保科陽一。あんたは最初のひとり、復讐の幕開けだったんだから。――教えてくれない? どうしてそのあんたが、今もこうして生きているのか。私があんたを撥ねたのは半月も前なんだけど」
「そ、それは……」
「黙ってなさい、ヨイチ。説明する必要なんてないわ」
「あなたこそ黙りなさいよ、お嬢ちゃん。私は彼に訊いてるの」
 三日月は眉をつり上げた。
「冥府の執行官に向かって無礼な口をきかない方がいいわよ。あんたはもうすぐ死んで審判を受けることになる。これ以上罪を重ねないで」
「罪って何? 私は罪なんて犯してない。復讐は正当な権利だもの。誰にも咎められる筋合いはないわ。この子たちが桜姫に何をしたか知ってる? 大人だったら完全に恐喝罪と暴行罪で刑務所行きよ。なのに子どもだからって目こぼしされる。学校は『問題』を起こさないことが至上命題で、起こった『問題』はなかったことにされるか、学校とは無関係だと突き放される。桜姫が自殺したのは学校とはまったく関係ないんですって。桜姫は個人的な問題で悩んで自殺したんだそうよ。校長も教育委員会の奴らも、私が桜姫の話をきいてあげなかったからだと言うの。私がフルタイムで働いていたから、親子で話す時間が少なかったんじゃないですかー、なんて、したり顔で言って……!」
 怨嗟をぶちまけた祥子は息を荒らげ、肩を上下させた。
「……それだけじゃないわ。桜姫をいじめ殺した深山心亜たちが、その後で何をしたか知ってる? 自分たちが疑われないために、ありとあらゆる手段を使って根も葉もない噂を流したの。援交してたとか、裸の写真を売ってたとか、妊娠してたとか、もう耳を覆いたくなるような話ばかり……! ネットには実際にあの子の写真が流れたのよ。誰が見たって無理やり撮られたってすぐにわかる酷いヤツがね。その写真で桜姫を脅しておきながら、死んだら平気で流したのよ……!?」
 奈々美はショックを受けて祥子を見返した。陽一も同様だ。
「そんな……、知らなかった、そんなこと全然……」
 茫然と呟いた奈々美を、祥子は憎々しげにせせら笑った。
「そうでしょうとも。あんたたちは目も耳も口も、ぜーんぶ塞いで知らないふりしてたんだから。そうして桜姫が死んだということさえ忘れようとした。桜姫は卒業アルバムにさえ載ってないのよ。最初からいなかったみたいに無視されてる。教師も生徒も、お葬式の時に形ばかり焼香に来ただけで、それからは誰ひとり、一度だってお線香の一本も上げにきたことはないわ。死んだのは桜姫の自業自得ってことにされてしまった。桜姫は親に放って置かれた寂しさから非行に走って、追い詰められて自殺したんだって。――何よそれ。みんな私の責任なの? 私が家庭を顧みずに働いてたのが悪いって言うの……!?」
 奈々美も陽一も呑まれたように絶句し、屋上はしんと静まり返った。そこに、はぁ~と場違いなほど大きな溜息が響く。うんざりと顔をしかめた三日月が、半眼で祥子を眺めた。
「あんたはそう思っちゃったんでしょ」
 憎悪のこもった目で睨まれても平然と、三日月は続ける。
「責任逃れに汲々とするそのコーチョーとかキョーイクイインカイとやらが、あんたにすべての落ち度をなすりつけただけよ。そんなの真に受けることないのに」
「桜姫が死んだのはいじめが原因よ!」
「でしょうね。だけどあんたは無責任な奴らの言い訳を真に受けて、自分が悪かったのだと思い込んでしまった。その罪悪感から逃れるために、ますますいじめグループの子どもたちを憎んだ。真相を明らかにするのではなく、闇雲な復讐を選んでしまった」

「わかったようなことを言わないで! あの子たちが自分の罪を認めないなら、世間があの子たちの罪を見逃すのなら、私がこの手で裁いてやる。私にはその権利がある。だって、この世でいちばん桜姫を愛してるのは私なんだから……!」
 言葉も出ない奈々美や陽一とは対照的に、三日月はどこまでも平然としていた。いや、その昏い金色の瞳には、乾いた哀しみが漂っているように見えた。 
「あんた、死んだらソッコー悪霊化するわね。このままじゃブラックリスト最上位に繰り上げなきゃならない。……ねぇ、もうこんなことやめない? わかってると思うけど、あんたはもうすぐ死ぬのよ。残された貴重な時間を復讐に費やすなんてもったいないわ。あんたにはまだ夫がいるじゃないの。あんたが死んだら、旦那はたったひとりで残されることになるんだよ。それ、考えたことある?」
「知るもんですか! あの人は逃げてばかり。ふたりで桜姫の冥福を祈ろうとか何とか、そんな弱腰のことしか言わない。あの子の名誉を守ろうともしない。くだらない噂なんて世間はすぐに忘れるから今は辛抱しようなんて、他人事みたいに言って!」
「旦那はあんたを責めたの?」
「あの人は誰も責めないわ。私のことも、桜姫をいじめた子たちのことも。一言だって責めない。あの人は負け犬よ。最初から諦めて、戦おうともしない」
「そうやって、黙って自分を責めてるのかもね」
 三日月の言葉に祥子は声をのんだ。口の端がひきつり、祥子は笑いだした。
「騙されないわよ。私は桜姫を自殺に追い込んだ連中を絶対に許さない。桜姫の痛みを、苦しみを、ひとり残らず思い知らせてやる。奴らを皆殺しにしてネットに流すわ。殺されたのは全員、桜姫をいじめた奴らだって」
「そんなことしたら、あんたの夫が疑われちゃうじゃない」
「何よ、それくらい。あの人は桜姫の父親なんだから、疑いをかけられるくらい耐えるべきだわ。肝心なことは全部私がやってあげたんだから」
 三日月はじっと祥子を見つめた。
「……ねぇ。本当にもうやめようよ。こんなことしたって、つらくなるだけだよ」
「つらい? 冗談! 嬉しくてたまらないわ。私はねぇ、ぜんぶその場にいて見てたのよ。あいつらが身体中の血を流して死んでいくのを、この目で見てた。一度死にかけたおかげで、いつでも好きなように幽体離脱ができるようになったの。夫は私が自殺を図ったと思ったみたいだけど、単に薬を飲みすぎただけよ。あいつら全員の死を見届けるまでは、誰が死ぬもんですか」
 祥子は歪んだ笑みを浮かべてひきつった笑い声を洩らした。三日月は硬い表情で尋ねた。
「どうしてわざわざ人目につく場所で殺したの? 電話ボックスだの公衆トイレだの」
「半端な密室だからよ。学校の教室と同じ。一見、逃げられるように見えて、実は閉ざされてる。どこにも逃げ場がない。でも、外にいる人間は思うの。どうして外へ逃げなかったんだろうって。所詮他人事だから、そんなふうにしたり顔で言えるのよ。そういう場所で殺されたら、絶望感もいや増すでしょう? 外には助けてくれるかもしれない人たちが大勢いる。なのに誰ひとりとして気付かない。電話ボックスで死んだ川野正義とか、カラオケボックスで死んだ深山心亜なんて傑作だったわ。ガラスをバンバン叩いて、助けを求めて絶叫して。恐怖と絶望の頂点で死んだのよ。……そういうパニック状態のさなかで死ぬと、魂は正気を失うそうね。そして恐怖と絶望の混乱状態のまま現世をさまよい続ける……。いい気味だわ。永遠に救われることなく現世をさまよい続ければいいのよ」
 祥子の瞳はもはや完全に常軌を逸していた。落ち窪んだ眼窩の奥で見開いた血走った瞳から真紅の涙があふれだした。
「私には死んだ後もやることがあるの。冥府へなんか誰が行くもんですか。執行官だか何だか知らないけど、私のことは放っておいて消えてちょうだい」
「できればそうしたいところだけど……」
「オイ!」
 溜息まじりの三日月の言葉に陽一が目を剥く。
「残念ながらそうも行かないのよね~。とりあえずあんたは肉体へ戻ってもらって、勝手に魂が脱けないように封印しないと」
「あら、どうやって?」
 笑った祥子の姿が消え、同時に背後で奈々美の悲鳴が上がる。振り向くと祥子が奈々美を羽交い締めにしていた。三日月が憤然と怒鳴る。
「ヨイチ! 何やってんのよッ」
「って、俺のせいかよ!?」
「その子から離れなさい! さもないと串刺しにするわよ」
 骨杖を構える三日月に、陽一は慌てて飛びついた。
「んなことしたら榊がケガするだろーがっ」
「これは冥界の武器だから生身の人間は傷つけないわ。離しなさいッ」
「ふふ。だったらこうするわ」
 不敵に笑った祥子がフッと消える。一瞬、がくんと俯いた奈々美の身体がバネ仕掛けの人形のように跳ね上がる。ガクガクと痙攣しながら奈々美に取り憑いた祥子は笑った。
「こここれで、い、いいいわ。そそ、そして飛び、飛び下りるの、の。うふ。うふふ」
 奈々美の手が柵の手すりにかかる。
「やめろ!」
 踏み出した陽一の肩を、後ろから誰かが強引に掴んだ。
「……へぇ、本当に生きてたんだ」
 振り向いた陽一は愕然と目を見開いた。
「こ、小西……!? おまえ、死んだんじゃ……」
「それはこっちの台詞」
 ニッと笑った小西真治の手に銀色の刃が光る。
「逃げてヨイチ! そいつが池田昭二よ!」
「遅」
 ズバッ。首元に衝撃が走った。真っ赤な血飛沫が陽一の視界を染める。返す刃で今度は胸元を一気に切り裂かれた。
「ヨイチ――!」
 絶叫した三日月の前に、フッと奈々美が現れる。不意を突かれ、骨杖を奪い取られてしまった。通常の状態であれば到底不可能な跳躍で奈々美は離れた場所に飛びすさり、骨杖を構えてニヤリとした。
 陽一は上半身を朱に染めてコンクリートの床に横たわっている。三日月は舌打ちした。陽一はまだ自分が無常鬼であることを充分に自覚していない。常識の因果律を抜け出せなければこのまま死んでしまう。死を受け入れた瞬間、魂は冥府に直行。そうなれば不死身の肉体もただの木偶の坊だ。
 小西――連続殺人鬼の池田昭二は、倒れた陽一の心臓に無造作にナイフを突き立てた。引き抜いたナイフを何度も突き刺し、舌を伸ばして自らの唇に飛んだ返り血をなめとった。
「今度こそ死んだな。無駄な労力だったね、執行官のお嬢ちゃん」
 ニヤニヤしながらナイフを掲げ、池田はべろりと赤い舌を出した。
「……小西真治はどうしたの」
「もちろんとっくに死んでるよ。地獄から戻ってきた俺が取りついた時、魂をぺしゃんこに踏み潰して蹴りだしてやった。こいつすげえ軟弱でさ、ぜーんぜん簡単だった」
 くくっと喉を鳴らす殺人鬼を、三日月は心底不快そうに睨んだ。視界の隅に倒れた陽一を捉え、心話で叱りつける。
『いつまで寝てんのよ。さっさと起きなさいよッ』
「無理ね。ここは私の作り出した迷界の中。冥府の執行官であろうと、ここでは私の意思に逆らう力の行使はできないわ」

 陽一に直接語りかけたはずなのに余裕たっぷりに祥子が応じ、三日月はうろたえた。榊奈々美の顔を憎悪でゆがめ、祥子はそんな三日月をあざ笑った。
「よくも邪魔してくれたわね。あなたにはお礼をしてあげないと。冥府の執行官なら知っているはずよね? 個人が作り出した迷界は入ってこられても決して出てはいけない」
「迷界を作り出した本人さえ倒せば出られるわ」
 鼻息も荒く、三日月は胸を張った。祥子が哀れむように失笑する。
「倒せると思うの? 私はこの世界の創造主なのよ」
「フン、やってみなきゃわかるもんですか」
 不快そうに祥子は鼻に皺を寄せた。
「……本当に執行官って気に障る。たかが閻魔王の使い走りのくせに……!」
 次の瞬間、三日月の視界の上に刃が迫った。間一髪飛び退き、鼻先数ミリをかすめる。三日月は軽業師のようにトンボを切り、床に手をついた。
「やめなさい! そんな無茶をさせたら、その子の身体が壊れる」
「かまうもんですか。どうせこの子にも死んでもらうんだから」
 骨杖を構え直し、祥子はあざ笑った。霊に取り憑かれた人間はふだんの想像を絶する怪力や敏捷さを発揮する。いわゆる火事場の馬鹿力というやつだ。
「今の発言で閻魔帳にマイナス三百点ついたわよ、天野祥子」
「勝手につければ」
 哄笑を上げ、祥子はふたたび三日月に襲いかかった。コンクリートの床が鉄嘴鳥のくちばし製の刃で脆くも寸断され、めくれ上がった。軽く息を上げながらも余裕で祥子は笑う。
「冥府の執行官なんて偉そうにしてるくせに、てんで大したことないのね。それとも逃げ回ってこの子の身体が疲弊するのを待つつもり? 無駄よ。私は疲れも痛みも感じない。この身体が使い物にならなくなったらそこから飛び下りるだけ。それで私の目標は完了」
「ねー、サチコさん。その執行官、俺に殺らせてよ」
 面白そうに見物していた池田が口を挟んだ。
「キレーな顔してるけど、そのコも冥府の鬼なんだろ? 鬼も赤い血を流すのかなぁ」
「後になさい。まずは榊奈々美を殺してから」
「だったら俺に殺らせてよ。墜死なんて勿体ない」
 池田はニヤニヤとナイフをかざす。祥子は思い直したように頷いた。
「そうね。執行官の目の前で切り刻んでやるのも面白いわ」
「やめなさいっ」
 三日月は眉を逆立てて叫んだ。
「こんな状況でも命令口調なのね。ほんと、気に障る」
「あんた、何か執行官に恨みでもあるの!?」
「当然でしょ。あんたたち執行官は死者の魂を冥府へ送り届けるのが役目なのに、桜姫の魂を彷徨わせたまま放置してる。死にかけて冥府へ迷いこんだ時に聞いたのよ。あの子は追い詰められてやむなく死を選んだのに、浮かばれずに現世をさまよってるって」
「それは……っ、仕方ないのよ、天野桜姫は自殺者なんだから。自殺者は扱いが通常の死者とは違う。それだって永遠に続くわけじゃない。時間はかかるけど、いずれ審議されて冥府に案内されるわ」
 祥子は激昂して怒鳴った。
「なんでよ! なんで桜姫がそんなめにあわなきゃならないの。死んだらすべての苦しみはリセットされるべきだわ。桜姫は苦しんで苦しんで、どうしようもなくなって死を選んだのよ。だったら誰よりも早く生まれ変わって幸せな人生を送らせてあげるべきじゃないの。苦しんだ者が死後もなお苦しむなんて、間違ってるわ……!」
 三日月は揺るぎない瞳で祥子を見返した。
「それが、世界の理なの。世界中のまっとうな宗教が自殺を禁じているのは何故だと思う? それが紛れもなく世界の理に反するからよ。人として生まれたからには、生き抜くことで証明しなければならない。自分が生まれてきた意味を」
「俺は証明したぜ。自殺でも刑死でもない。なんたって闘病の末の凄絶な病死だかんな」
 小馬鹿にした口調で池田が口を挟む。三日月はニヤニヤする池田を冷やかに眺めた。
「そうね。確かに証明したわ。たくさんの犠牲を出して長々と証明式を書いた挙げ句、生き方を完全に間違ったということを。そして最後の最後までその間違いに気付かなかった。今も気付いていない。だからあんたは当分のあいだ地獄で反省してなさい。もっともあんたの貧弱な辞書には『反省』という言葉は載ってないんだろうけどね」
「その、とお、りっ」
 けたたましい奇声を上げて池田は三日月に切りかかった。池田もまた常人離れした速度を持って眼前に迫る。かろうじて飛びすさったが、切っ先が顎下のやわらかい皮膚をかすめた。祥子の側に来た池田はナイフを捨て、祥子が三日月から奪った骨杖を受け取った。最初からそっちが目的だったようだ。
「こいつが執行官の武器か。思ったより軽くて使いやすそうだな。どれ、試してみよう」
 次の瞬間、三日月の足元に鎌の先端が突き刺さった。
「はははっ、どうしたよ執行官。えばってるくせに、いざ形勢が逆転すると逃げ回るだけか? 情けねぇなぁっ」
 三日月は唇をゆがめ、ギリギリのところで攻撃をかわしながら屋上を逃げ回った。
「逃げてるだけじゃ勝負にならないぜ。小西の身体がぶっ壊れるまで逃げ回れるかなぁ」
 池田は余裕で笑う。彼もまた取り憑いた人間の身体を大事に使う気は毛頭ないらしい。
 もっとも、残念ながら小西真治は魂が消滅――正確には分解されて餓鬼界にばらまかれてしまった状態だから、池田昭二の亡魂を追い出しても生き返ることはない。
 それでも、執行官の務めとしてはその肉体本来の所有者でない魂は追い出して二度と入り込めないように封印しなければ。
(あと、少し……)
 三日月は素早く視線を動かした。
 間一髪で攻撃を避けながら三日月は屋上に破界の術式を構築していた。相手に気付かれたらたちまち効果を失ってしまうような不安定な術だ。
 敵を攻撃するものではなく、完全に閉じられた迷界に極小の穴を穿って冥府から直接パワーの補給を受けられる。ただし、リンクする空間が微細すぎるため相当の圧力となり、受け取る際にかなりの反動をくらう。
(それが自分なら、何の問題もないんだけど)
 池田の攻撃を間一髪避け、怪しまれないように時には蹴りを繰り出しながら三日月は内心で舌打ちをした。現在、その力を受け取ることができるのは三日月ではなく陽一なのだ。
 そして陽一の魂は、ほぼ間違いなくその衝撃に耐えられないだろう。そうなれば陽一の魂は跡形もなく吹っ飛んでしまう。残るのは魂のない肉体だけ。
 そうなっても、三日月には陽一を動かすことができる。原理的には最初の頃、陽一が眠っている時に勝手に動かしていたのと同じだ。陽一は人形、三日月が人形遣い。そういう一方的な関係に戻るだけ。そして今度は陽一は永遠に目覚めない。
 三日月は魂のない人形を相棒に永き務めを果たさなければならなくなる。それでも三日月は己の務めを放棄することはできない。そんなことは決して許されない。
(ヨイチ! さっさと目を覚ましてよ……!)
 もう時間がない。もうすぐ術式が完成してしまう。
 あとみっつ。
 あとふたつ。
 あと、ひとつ――。
 三日月は唇を噛み、最後の仕上げをするために片手を上げた。その、瞬間。
 ふ、と目の前にあたたかな気配が出現する。血に染まったシャツの背中が、見開かれた三日月の視界を覆っていた。

第五章 換骨奪胎×七人ミサキ



 小西真治に取り憑いた池田は、驚愕に目を見開いた。
 どんなものでも切り裂く鉄嘴鳥てっしちょうのくちばしでできた刃が受け止められている。交差させた掌の、十本の指で。
 それは果たして指と言っていいものか。一本一本が鋼の光沢を放つ鋭い鉤爪になっているのだ。うつむいていた顔が上がり、薄闇に白目の部分が光る。とっさに退こうとすると、直下から蹴りが来た。のけぞって避けた一瞬、骨杖を握っていた指から力が脱ける。
 その瞬間を逃さず、伸ばされた爪が杖を引っかける。池田が体勢を整えた時、骨杖は陽一の手のなかにあった。三日月は背後から茫然と陽一を見つめた。
「……ごめん、三日月」
 振り向かず、陽一がつぶやく。三日月はくしゃくしゃと顔をゆがめた。
「遅いよ、ばか」
「ごめん。何かいろいろ思い出しててさ」
 三日月がぎくりと目をみはると同時に、小西が低く唸った。
「なんで生き返る!? いくら執行官だって他者の迷界で蘇生術なんて使えないはずだっ」
「使ってないさ。そもそも俺、死んでねーもん。気絶してただけ」
 陽一はぶっきらぼうに言い、池田のずっと後方に立ち尽くしている祥子を見た。
「天野のお母さん。俺を殺したのはあんたなんだね。気絶してる間にあの時のことすげー細かく思い出しちまった。ヘッドライトで目が眩んでたけど、車がぶつかってきた瞬間あんたの顔が見えたんだ……」
 それはとても正視に耐えない顔だった。あまりに無残で、あまりに悲惨で。
 怒りと憎悪と狂気で変形した、鬼の顔だった。
 あまりのおぞましさに陽一は無意識にその記憶を封印した。まさにその一瞬、陽一は地獄を見た気分になったのだ。
「……今のあんたはその時と同じ顔をしてる。榊の身体に入ってたってわかるよ」
 全身をふるわせていた祥子は、何かが分解するかのような狂気発作じみた哄笑を発した。
「あはっ、はははぁ、ぁは、ぁは、ぁははっ。……カオ? カオですってぇ? だぁれのせいだと、思ってるのよぉ……!!」
「俺たち、なんだろ? 俺と榊、虻田に川野に畑中、深山、それから小西。天野を自殺に追い込んだ者たちと、助けなかった者たち」
「わかってんじゃないのぉ。だったら偉そうなクチきいてないでとっとと死になさいよ」
「ごめん、天野のお母さん。俺、死ぬわけにはいかないんだ。生きるって約束しちゃったから。どんなに苦しくてもつらくても、生きるって」
 背後で三日月はハッと息をのんだ。
「今の今まで忘れてたけど、俺あんたに殺されて生き返る時ある人にすげー犠牲を強いたんだ。そん時は知らなかったとはいえ、そりゃもうとんでもなく割に合わない犠牲をさ」
 陽一は声のトーンを落とし、肩ごしに少しだけ振り向いた。
「……ごめんよ、三日月。俺を生き返らせたせいで、お勤めが千年も伸びたんだよな」
 三日月は泣いているのか笑っているのかよくわからない顔で呟いた。
「ばか。そんなことまでなんで思い出すのよ……」
 正確には、三日月は陽一を蘇生させたわけではなかったのだ。
 ふつうの状況なら単なる蘇生術でこと足りた。三日月が陽一に説明した執行官の救助義務も本当のことだ。
 だが、それには通常の蘇生術で可能な範囲という但し書きが入る。陽一の状態はその範疇を超えていた。
 一度ならず二度までも強固かつ明確な殺意を持ち、走る車を使って念入りに轢き殺されたのだ。骨も内臓も損壊してほとんど使い物にならなくなっていた。
 執行官が持つ蘇生力は最初から限られている。彼らは『死』の側に立つ者たちだ。図らずも境界に立ってしまった人間を、そっと『生』の側に押しやる程度の蘇生力しか持ち合わせてはいない。
 救助義務にしても、せいぜいほんの少し肉体を修復するだけで済む程度のものしか期待も予想もされてはいない。
 つまり三日月には陽一を助ける義務などなく、放っておいたとしてもそれは規定違反にはならなかった。咎められることも。
 にも関わらず、三日月は大きな対価を要する特殊な術――壊れた骨や内臓を神通力を使ってすべて造り替える――をあえて使い、陽一を助けたのだ。
「千年分の貯金がパーになるってんじゃ、『換骨奪胎かんこつだったい』ってワザ、すげー大変なんだな」
 しみじみと陽一は呟いた。身体のほとんどのパーツが三日月の神通力で作られたものに置き換わっているため、ところどころに彼女の記憶が混入している。術が完成して三日月がかけた封印は刺された時の衝撃で吹っ飛んだ。
 そして知ってしまった。三日月が執行官でありながら罪人でもあることを。彼女は無常鬼であると同時に犯した罪――どんな罪かは知らない――を償うため閻魔王の手足となって働く特殊な餓鬼、執杖餓鬼しつじょうがきでもあるのだ。
 だけど言わない。三日月がそれを誰にも知られたくないと思っていることもまた、わかってしまったから。
 それは命を救ってくれた者に対する最低限の礼儀だ。
「わ、私は気前がいいのよ。別にあんただから特別サービスしてあげたわけじゃないんだから、勘違いしないでよねっ。それなりに感謝はしてほしいけど」
 虚勢を張った言い方に、陽一の顔がようやくほころんだ。
「もちろんありがたく思ってるさ。――というわけで天野のお母さん。悪いけど、いろいろあって今は俺死ねないんだ。それから榊も殺させない。小西も生きてれば助けたい」
「小西真治の方は残念だけどもう手遅れだわ」
 硬い三日月の声に、陽一は横目で池田を見た。池田は骨杖の届かない距離まで下がり、せわしなく視線を動かしている。捨てたナイフが見当たらず、焦っているようだ。
「そか……。んじゃ、榊だけでも助けないと。――ねぇ、天野のお母さん。お願いだから榊の身体から離れてくれませんか」
「下手に出たってダメよ」
 祥子は凶猛な顔で嘲った。

「榊は天野をいじめたことは一度もない。絶対それは断言できる」
「知ってて助けなかったのだから同じことよ。そう、桜姫をいじめた子たちはもちろん、見て見ぬふりをした子たちもみんな同罪だわ。罪を償わなくてはならないのよ」
「榊だっていじめられてた。深山にいいように使われてたんだ。だから勘弁してやってくれよ。今は後悔してるはずだ。……俺も悔やんでる。あの時天野に手を差し伸べなかったことを、今はすごく後悔してる」
 祥子は目を見開いて押し黙った。ざわり、と頭髪が不穏にうごめいた。
「……後悔すれば済むとでも? 反省してそれで済むなら世の中に刑罰はいらないわ!」
 聞くに堪えない狂笑が屋上に響きわたる。陽一は眉根を寄せ、背後の三日月に尋ねた。
「なぁ。この骨杖、ほんとに生身の人間は傷つけないのか? さっきから床のコンクリ、がんがん削ってるけど」
「無生物と冥界所属の者に対する攻撃力はあるけど、生身の人間にとっては正確な意味での武器ではないの。そもそも聞き分けのない魂の捕獲用具なのよ。わかるでしょ」
 ラバーカップの一件を思い出し、陽一はげんなりとした顔になった。
「つーことは、魂も傷つけないんだよな」
「ショックを与えるだけ。譬えは悪いけどスタンガンみたいなものかな」
「それって大概悪人が使ってねぇ?」
「だって私たち無常鬼だもの。いつだって悪役でしょ」
 陽一は骨杖を握り直した。
「それもそうだな。んじゃ、覚悟を決めてやるっきゃないか」
 とはいえ現在もクラスメイトである奈々美の首をかっ飛ばすのは――実際に切断することはないとしても――あまりにえぐい。やっぱラバーカップかなぁ、と思った瞬間、にんまり笑った祥子が自らの喉元にナイフを突きつけた。
「やめておくのね。その前にこの子を殺すわよ」
 池田が骨杖を奪った時に捨てたナイフだ。祥子が拾って隠し持っていたのだ。
「いつのまに……!」
 三日月が悔しげに吐き捨てる。きっと池田の攻撃を躱しながら術式を組み立てていた時だ。逃げ回るついでに回収しておくべきだったのに、必死でそこまで気が回らなかった。
「この子の身体は保険として当分借りておくわ。保科陽一、あんたがきちんと死んでくれないから、計算が狂っちゃったじゃないの。あとひとり、殺さなきゃ」
「……ちょっと待ちなさい。それどういう意味!?」
「説明する義理などないわ」
 眉を逆立てる三日月に、祥子は陰惨な笑いを向けた。
「これは桜姫の復讐。同時に、あの子の再生となるのよ」
 三日月の顔色がさっと変わった。
「まさか……、まさかそのために七人殺そうとしたの?」
「ちょうど七人いたのよ。私の殺したい子たちが、まったく都合のいいことにね」
 陽一には理解不能な会話を進め、祥子はにやりとした。
「死にかけたかいがあったというものよね。お蔭で桜姫が死んでまで理不尽な扱いを受けていることがわかった。桜姫を死に追いやって悪びれもしないクズみたいな子たちを罰する方法と、あの子を蘇らせる方法をセットで教えてもらえたわ」
「誰がそれを教えたの」
 奇妙に平板な声で三日月は尋ねた。祥子は目を細めて笑った。
「秘密。喋ったら御破算になっちゃう。せっかくここまでこぎ着けたのに。あなたが当てるのは勝手よ。どうぞご自由に。私が自ら話さない限り、この復讐は必ず完遂される」
「言いなさい! あなたはそいつに呪われたのよ。そいつの名前を言わない限り呪いは解けない。あなたの目は曇っていく一方だわ」
「呪いですって?」
 祥子はまたひとしきり甲高い笑い声を上げた。
「いいえ、祝福よ。私の身体は病気で弱ってしまったけど、こうして魂を飛ばせるようになった。私の代わりに悪い子たちを罰してくれる人も紹介してもらった。『地獄に仏』ってまさにこういうことよね」
「そいつは殺人鬼よ! 利用されてるのがわからないの!?」
 あっけにとられていた陽一は激昂する三日月におずおず尋ねた。
「な、なぁ。おまえはそいつが誰か知ってるんだろ? だったら……」
「ダメよ! これは名前当てゲームじゃない。私がそいつの名を口にしたら、この人にかかった呪いが強化されてしまう。だけどこの人が自らの意志でそいつの名前を言えば呪いは解ける。正気に戻れるの。さぁ、名前を言って」
「私はいたって正気よ。口が裂けても言うものですか」
 そして祥子はにやついている池田に頷いた。
「さぁ、行きましょ。私がこの子を殺す前に、誰でもいいからひとり殺してちょうだい」
「よろこんで」
 ふざけた口調で池田が返す。三日月の顔が怒りと絶望にゆがんだ、その時――。

『お母さん』

 清冽な少女の声が、閉じられた世界に響いた。



 祥子は雷に打たれたように硬直した。何が起こったのかとぽかんとしていた陽一の前に、突然人影が現れる。
「――叔父さんっ!?」
「よぉ、陽一。無事だったか?」
 三瀬川映が端整すぎる顔に不敵な笑みを浮かべる。
「無事……かな、一応」
 池田に切られたり刺されたりしたせいでちょっとばかり血まみれだが、傷はもう治っている。その辺は映もわかっているのか、眉をひそめはしても心配したふうではなかった。
「それより叔父さん、誰を連れてきたの?」
「連れてきたんじゃない。連れてきてもらったんだ」
 映の言葉と同時に、こちらに背を向けていた少女が振り向いた。
「――えっ!? きみ、公園にいた子じゃないか」
 それはジョギングの途中で何度か出会った少女だった。いつもひとりでブランコに座っていた、天野桜姫にそっくりなあの少女。
「ごめんね、保科くん」
 少女が眉を下げ、消え入りそうな声で詫びる。陽一はぽかんとして少女を見返した。
「え……。ま、まさか……。きみ、本当に天野……なの……?」
「陽一。おまえ、彼女が幽霊だって気付かず会話してたのか?」
 あきれたように訊かれ、陽一は無言でぶんぶん首を振った。
「やっぱりそうか。どうも千曳が妙なことを言うから気になってたんだ」
「ち、千曳? どの千曳?」
「日実香が言ってただろ。演劇部に入ったのかって」
「そういえば……」
「千曳に幽霊は見えないからな」
 そうか。千曳から見ると、陽一は誰もいないところでひとりしゃべっている格好だったわけだ。それを演劇の練習と勘違いしたのだ。
「で、でも。天野、俺見ても全然知らない顔してたじゃ――」
 言葉を切った陽一は、気まずく目を逸らした。
「……ごめん、当然だよな」
 それこそ祥子のような鬼の形相で恨まれても仕方なかったのだ。苦い思いを噛みしめていると、ふるふると首を振った桜姫が声を詰まらせた。
「違うの……。あの時はあたし、ほとんど何も思い出せなくて。ぼんやりして、何も考えられなかったの」
「自殺者の魂が記憶を失うことはよくあるんだよ」
 そっと映が付け加える。それもまた、祥子が詰る理不尽な『罰』なのだろうか。桜姫は陽一を見つめて繰り返した。
「ごめんね、保科くん。出会った時に思い出せたらよかったのに。そうしたら、お母さんを止められたかもしれない……」
 陽一をまっすぐに見つめ、桜姫は決然と告げた。
「大丈夫、榊さんは絶対死なせない」
 潤んだ瞳でにこりとし、桜姫は棒立ちになっている祥子の元へ走り出した。
「お母さん! 榊さんから離れて」
「桜姫……!? 桜姫なの? どこ。どこにいるの……っ」
 ナイフを自らの首に突きつけながら、祥子は必死の形相で周囲を探った。どういうわけかすぐ目の前にいる桜姫の姿が目に入っていない。少し下がったところでは、池田が狂乱する祥子の姿を小馬鹿にした顔で見物している。
「ど、どういうことだよ。全然見えてないみたいじゃないか……」
「みたいじゃなくて見えてないのよ、実際」
 硬い声で三日月が応じる。
「あんなにはっきり見えてんのに? もしかして、榊に入ってるから見えないのか? 榊にそういう能力がないから――」
「違うわよ。言ったでしょ、天野祥子は呪われたの。あいつの言葉を鵜呑みにした報いがこれよ」
 三日月は一歩前に踏み出し声を張った。
「天野祥子! 冥府で誰と出会ったのか言いなさい。そいつはあなたを騙したの。そいつの支配下にある限り、娘の姿を見ることはできない。さぁ、名前を言って。拒絶して、支配を断ち切るのよ」
 祥子は三日月の言葉などまるで耳に入った様子もなく、両手を広げて我が子の名前を呼びながらよろよろと屋上をさまよっている。
「桜姫、桜姫、桜姫ぃ……。どこなの。どこにいるの。ちょっとでいいから顔を見せて、お願いよぉぉぉ」
「ここにいるよ。ほら、見てお母さん」
 すぐそばで、取りすがるように桜姫が叫ぶ。
「どこ? どこなの?」
「ここだよ。ほら、ここにいるじゃない」
 母の行く手を遮るように前に飛び出し、桜姫は両手を広げた。
「見て、お母さん。清美女の制服、着てみたんだよ。お母さん言ってたでしょ、清美女に行けるといいねぇって。あたしも行きたかった。だから着てみたの。ねぇ、見てよ、お母さん。似合うでしょ。この制服、あたしに似合うよねぇ?」
「桜姫? 桜姫。どこなの。どこにいるの……!?」
 視線を彷徨わせつつ祥子は必死に訴える桜姫の姿を突き抜けてしまう。陽一は思わず口許を押さえた。
「何なんだよ……。声も聞こえないのか」
「自分を呼ぶ声しか届かないわ。それがどこから聞こえるのかもわからない。ただ、暗闇の中で娘が『お母さん』と呼ぶ声しか聞こえないの。桜姫の方も母を止めようと必死になってるから声が切羽詰まる。すると祥子はよけいに焦る。桜姫が死後も苦しんでいるのだと思って」
「ひでぇ。それじゃまるで……」
「地獄よ。まさにここは今、想地獄そうじごくと化しているのだわ」
 暗い声でささやき、三日月はキッと眉を上げて歩きだした。
「お、おい」
 止める暇もなく祥子の正面に立ちはだかる。祥子は強張った顔で歩みを止めた。
「これでわかった? あんたにも聞こえてるとおり、桜姫は苦しんで、悲しんでる。でもね、それはあんたが間違っているからよ。冥府であんたに誤った考えを植えつけた奴の名を言いなさい。そうすれば桜姫は――」
「あたしは間違ってなんかいなぁぁいぃぃぃっっ……!」
 夜叉のごとき形相でわめき、祥子は握りしめていたナイフを振るった。とっさに左腕を上げて身をよじった三日月の長い袂がすっぱりと切り裂かれる。
「三日月っ……」
 叫んだ陽一の視界に別の人物が入り込む。いつのまにか映が祥子の背後に回り込んでいた。とっ、と背中に掌を突く。
 ようやく気付いた祥子が横目を向けると、今度は半分切れた袂の陰から三日月が右手を突き出して祥子の胸に当てた。
 裂帛の気合が呼応し、目を剥いた祥子が雷撃に打たれたように全身をつっぱらせて絶叫する。ふっ、と薄皮がはがれるように、奈々美の身体から祥子の魂が脱けた。
 糸が切れた人形のように、奈々美の身体は床にくたくたと崩れ落ちた。遅ればせながら駆けつけた陽一は慌てて奈々美の顔を覗き込んだ。
「榊!」
「大丈夫。ここは任せて、おまえはあっち行け」
 奈々美を支えながら映が示す方に目をやると、仁王立ちした三日月が天野祥子の生霊と向かい合っていた。
「ちょっとあんた、何すんのよ。せっかく手間隙かけて改造したってのに、こんなにしてくれちゃって」
 三日月は半分ばかり切り裂かれてだらんとしている袖を腹立たしげに掲げた。

「ケガがなかったんなら、服なんかどうでもいいだろ」
「よかないわッ、おしゃれは私に許された唯一の楽しみなんだから!」
 なだめようとした陽一は、逆に凄い剣幕で怒鳴られて首をすくめた。それで少しは気が晴れたのか、三日月はフンと鼻息をついた。
「まぁいいわ。まずはこのわからずやをどうにかしないと」
 三日月の側には桜姫が悲しげに眉を垂れて佇んでいる。
「お母さん……」
 桜姫がささやくと、すっかり夜叉の形相になってしまった祥子がうろたえて周囲を見回した。確かに娘の呼びかけだけは聞こえているらしい。
 祥子はうわごとのように呟いた。
「桜姫……、桜姫……。ああ、待っていてね。もう少しの辛抱よ。あとひとり殺せばいいの。あとひとり殺せば、あなたはこの世に戻れるの。生き返ることができるのよ」
「だからそんなの嘘っぱちだって、さっきから言ってるでしょ!?」
「やめて、お母さん! お願いだからこれ以上罪を重ねないで」
 三日月と桜姫が交互に叫んだが、祥子の耳に届くのはひたすら『お母さん』という桜姫の呼びかけだけだ。桜姫の声の悲痛さに、祥子の顔がますます悲愴にゆがむ。奈々美の身体を離れて本来の顔かたちに戻ると、それはよりいっそう絶望を増して見えた。
 陽一の目には、祥子が生身ではなく生霊だというのが信じられないくらいに鮮明だった。その場にいる他の誰と較べても全然違和感がない。三日月は繰り返し冥府で出会った奴の名を言えと迫ったが、奈々美の身体から脱けた祥子はまったく聞く耳を持たなかった。
 三日月はチッと舌打ちをした。
「まずい、暴走しかかってる。このままだと生霊のまま悪霊化してしまう。そこまでゆがんでしまったら元の身体に戻れなくなるわ」
「……なぁ、三日月。この人、本当に生霊なの?」
「何言ってんのよ、見りゃわかるでしょ!?」
「いや、だってこの人さっきからナイフ持ってるじゃん」
「だから暴走しかかってるんだってば! 理性が吹っ飛んでる証拠よ。自分でもわけがわからなくなってるの。霊体で実在の刃物を持つなんて、生身に置き換えたら刃の部分を力任せに握りしめてるような状態なんだか、らッ!?」
 ぶんっとそのナイフが三日月めがけて振り下ろされる。陽一はとっさに骨杖の鎌でそれを跳ね返した。祥子の生霊は耳障りに変調した笑い声を上げた。
「あとひとり。あとひとりぃぃぃ。そうよ、七人死ねば一人が生き返る。七人殺せば桜姫がこの世に戻ってくる。そう言ったのよ。そう聞いたのよ。絶対確実だって。その七人が一人の死に責任のある奴らなら、それはもう確実に効果のある方法なんだって」
 また刃が降ってくる。祥子はいつのまにか大きくなっていた。陽一と同じくらいの背丈だったのが、今は頭ひとつぶん上から見下ろしてくる。
 桜姫はそんな母親をどうにかして止めようと腰の辺りにしがみついたが、祥子はまったく感じてもいないようだ。ただ、桜姫、桜姫とうめき続けている。それはあまりに異様で、あまりにも悲しい光景だった。
「死んでよ。桜姫のためなんだから。あの子の人生を取り戻してあげなきゃ。桜姫はいい子よ。とっても優しくていい子なのよ。あんなクズどもより桜姫の方が、ずっとずっと生きる価値がある。クズを処分して、価値ある人間を取り戻すのよ。正しいことだわ。すごく正しい。どこが間違ってると言うの。どこも間違ってなんかいないわ……!!」
「やめて、お母さん……っ」
 桜姫が涙声をつまらせる。とたんに祥子はそわそわと中空を見回した。
「ほら。ほら、桜姫の声がする。なんて悲しそうなの。今すぐ助けてあげなきゃ。――死ね。死ね、死ね、死ね!」
 祥子は立ちふさがる陽一に、狂ったように切りかかった。骨杖に刃が当たるたび、何とも形容しがたい胸が悪くなるような音が連続する。ナイフが骨杖に当たると同時に祥子のどこかが傷つき、血飛沫が上がった。
「やめろ! 自分を傷つけてるのがわかんないのか!?」
 どんなに必死に叫んでも、祥子には届かない。
「死ね、死ね、死ね。おまえが生きているのが間違いなんだ。最初に死んでるはずなのに。この手で殺してやったのに。おまえが生きてるからうまく行かないんだ。保科陽一、おまえが最初で榊奈々美が最後。そう決めて始めたんだから、おまえは死んでくれなきゃだめなのよ。おまえの魂を切り刻んで餓鬼に喰わせてやらなきゃ。ほーら、おいで、飢えた者ども。こいつを喰わせてあげるから。そして榊奈々美も食べてしまえ」
 ナイフを受け止めた陽一は必死に顔をねじ向けて映たちのいる方を窺った。片腕で奈々美を支えた映に、奇声を上げて牙だらけの大口を開けた異形の小鬼が飛びかかる。
「叔父さんっ」
 陽一が叫んだ瞬間、小鬼は弾き飛ばされたように床に叩きつけられた。鋭い鉄爪を生やした映が凄絶な微笑を浮かべた。いらいらしたように三日月が叫んだ。
「ヨイチ! 三瀬川は放っておいても大丈夫。それより天野祥子をさっさと捕えるのよ」
 陽一は満身創痍の祥子の姿を改めて見つめ、表情をゆがめた。
「……なんかやだな。この人もう傷だらけじゃないか」
「だからこそこれ以上自分を傷つけないようにするんでしょうがっ」
「それはわかってるけど……」
 ビュッ、と祥子の刃が頭をかすめ、慌てて首をすくめる。切断された髪が何本か空中に舞う。しかし、骨杖に当たったときのようには祥子の霊体から血が噴き出さなかった。
(あ……? ひょっとして)
 次の攻撃を、陽一は骨杖で受けずギリギリのところでかわした。刃の先端がかすめて皮膚が少し切れたが、思ったとおり祥子にダメージはない。
「何やってんのよ!?」
 小さな牙を剥きだして三日月がわめく。
「やっぱり……。骨杖で受けなきゃこの人は傷つかないんだ」
「逃げ回ってたらいつまでたっても収集つかないでしょっ」
「だって、見てらんないよ。ただでさえ傷ついてるのに、あんなに……」

「ああ、もうっ。甘いこと言ってたら執行官は務まんないわ。貸しなさいっ」
 有無を言わさず陽一から骨杖を奪い取る。
「無常鬼としての力はほとんどあんたに渡しちゃったけど、骨杖をふるう力くらいは充分残ってるんだから。これで霊体の首を撥ねれば、衝撃と反動で魂は自分の身体に戻るわ」
「やめろっ」
「離しなさい! さっさとやらないと魂が変形しすぎて元の身体から拒絶されてしまう」
 骨杖を奪おうとした陽一の側面ががら空きになる。目をぎらつかせて祥子がナイフを振り下ろすと同時に、桜姫がふたりの間に割り込んだ。
 ざく。
 重く鈍い音が響いた。実在のナイフが、魂だけの存在である桜姫の胸に突き刺さって止まっていた。三日月が低く舌打ちをする。よろりと祥子は放心した顔で後退った。
「さ……き……?」
「お、かあ、さん……」
 胸にナイフを突き立てられた桜姫は、母親に向かって弱々しく、それでも精一杯の笑顔を浮かべた。
「ほら、見えた? お母さん。あたしはここにいるよ……」
「ああ! 桜姫ぃ……っ!」
「お願いだから、もうこんなことはやめて。お母さんがそんな顔してると、あたし、すごく悲しくなっちゃう……」
 にこ、と笑った桜姫の瞳から涙がこぼれた。
「桜姫っ」
「ごめんねぇ、お母さん。あの時あたし、自分が死んだら悲しむ人がいるんだってこと、どうして忘れちゃってたのかなぁ……」
 実物同様だった桜姫の身体が先端から次第に透明化し、泡のように消えてゆく。祥子は慌てて娘を抱きしめようとしたが、それは腕をすり抜けて光の粒になって消えてしまった。
 からん。
 虚しい音をたててナイフが床に転がる。
「桜姫ぃ――――!!」
 絶叫した祥子の周囲に激しい嵐が巻き起こる。それは理性を失ってわめき続ける祥子を引き裂き、呑み込み、絶望と狂気の哄笑じみた風音を残して、消えた。
 茫然としていた陽一は、がくんと膝から力が脱けてその場に尻餅をついた。
 静まり返ったその場に突然奇妙な音が響く。それが何なのか、陽一にはしばらく理解できなかった。あまりにもそぐわなすぎて。それは揶揄するような笑い声と、乾いた拍手の音だった。茫然と向けた視線の先で、小西真治が笑っていた。
 いや、希代の殺人鬼、池田昭二が。
「悲喜劇はこれで終幕か? それなりに愉しめたけど、やっぱ駄作だな」
 骨杖を手に池田を睨んでいた三日月が悔しげに吐き捨てた。
「なるほど、そういうこと。七人ミサキはすでに完成していたってわけね」
 にやりと池田が笑う。
「そう。七人殺して蘇るのは、最初から俺だったんだ」
「ど、どういうことだよ……」
 尻餅をついたまま陽一は茫然とつぶやいた。振り向きもせず、三日月が怒りにふるえる声で言う。
「最初から、天野祥子の復讐を隠れ蓑に池田昭二をこの世に蘇らせることが目的だったのよ。そのために、死者名簿のトラブルも仕組まれたんだわ」
「そ、それじゃ、俺たち利用された、ってこと……!?」
 池田は耳障りな声で笑った。
「天野祥子はもうすぐ死ぬ。最後のひとり、七人目は彼女自身さ。彼女が死んだ瞬間、七人ミサキの術は完成して、俺は実体を持ってこの世に戻ってくる」
「あとの六人は誰なの」
 ふざけた調子で池田は指を折り始めた。
「まずは電話ボックスで死んだ川野正義だろ。それから自宅で死んだ畑中弘和。公衆トイレで虻田智之、カラオケボックスで深山心亜。あと数分で死ぬ天野祥子」
「五人しかないわ」
「この身体の元の持ち主、小西真治」
「六人よ」
 芝居がかった様子で歩いていた池田は落ちていたナイフを拾い上げ、にやりとした。
「小西の母親だよ。とっくに冷たくなってる。どうせ蘇るなら、そのための犠牲も全員自分で用意したいじゃないか。天野祥子が殺した保科陽一は最初から数に入ってない。実際には死んでないが。それとも死んでるのかな? ま、どっちでもいいや」
 池田は肩をすくめ、にやにやとナイフを弄んだ。
「ああ、天野祥子が死んでもあんまりいい犠牲者とは言えないな。俺が殺したわけじゃないし。だったらやっぱり数え直しだ。天野祥子も除外。保険として小西の父親も殺しておいてよかったなぁ」
「なっ……!?」
「死体の場所は教えないよ。そこの探偵さん、がんばって探してあげな」
 横目で映を見てあざ笑う。
「さて、そろそろおしゃべりも飽きたんで行こうかな。順番が前後したけど数も揃ったことだし、自分としても納得いったから。小西真治に止めを刺すとしますか、文字どおり」
 ハッと三日月が目を見開く。
 弾かれたように陽一は飛び起き、池田に向かって跳躍した。その手が届く寸前。池田はにやりと嘲笑を浮かべ、自らの心臓にナイフを突き立てた。

終章

 事件の幕切れから三日後――。
 陽一は三瀬川探偵事務所の屋上に座り込んでいた。さっきまでは洗濯物が微風に揺れていたが、真木那が取り込んで今はがらんとしている。
 お茶を淹れるから階下へ来ないかと誘われて生返事をしていると、真木那は寂しそうにひとりで降りて行った。
 悪いとは思ったが、一度座り込んでしまったら立ち上がる気力が出て来なかった。
 あの時……、陽一が駆け寄ると同時に小西真治の身体は崩れ落ちた。慌てて抱き起こした時には彼はもう絶命していた。どこにも池田昭二の気配はない。
 三日月は険しい顔で唇を噛んだ。すがるように映を見たが、彼もまた眉を寄せて黙って首を振る。
 陽一は茫然と中学校の屋上を眺めた。宵闇に包まれた屋上に残ったのは、陽一と三日月、映、気絶した奈々美、そして小西真治の死体だけだった。
 群れていた小鬼の姿も一匹残らず消えてしまっている。空々しい非現実感に襲われ、陽一はぐるりと屋上を見回した。
「……天野。天野は、どこへ行ったんだ……?」
「彼女はもうここにはいない」
 平淡な声に振り向くと、映が屈み込んで小西真治の遺体を抱き上げている。陽一はくっと拳を握って映を見つめた。
「天野、死んだんじゃないよな……? あの天野は幽霊だったんだから。幽霊は、ナイフに刺されて死んだりなんか……っ」
「彼女は母親が作った迷界の因果律に同調したんだ。そしてほんの一瞬だけ実体化した。そうでもしないと、呪いのかかった母親には彼女の姿を見ることができなかったから」
 映の足元に奈落が口を開ける。
「じゃあ、また後でな」
 かすかに微笑み、小西の遺体を抱えた映の姿は消えた。
「ヨイチ! いつまでもボーッとしてんじゃないわよ。この子が目を覚ます前に家に戻しておかないと」 
 言われるままに気絶している奈々美を抱え上げる。黒い渦巻きが身を包んだ次の瞬間、見知らぬ部屋に立っていた。どうやら奈々美の自室らしい。
 ぐったりしている奈々美をおっかなびっくりベッドに横たえると、三日月がやれやれと吐息をついた。
「これで夢を見たんだと納得するでしょ。あ、靴脱がさなきゃ」
 三日月は奈々美のローファーを脱がせ、玄関に持って行った。それから奈々美の携帯を勝手にいじりだす。
「……何してんだよ」
「迷界と繋がる履歴を消しておかないと。割り込むためにあんたがかけた通話もね」
 ピ、ピ、ピ、といくつか手早く操作し、これでよし、と閉じた携帯を鞄に戻す。
「さ、行くわよ、ヨイチ」
「あ、うん……」
 生返事をする陽一の手を、三日月は強引に掴んだ。
「ほら、帰るのよ。『現実』へ」
 ぐい、と引っぱられた次の瞬間、ふいに手応えがなくなる。バランスを崩した陽一は尻餅をついた。
「いてっ」
 辺りを見回し、陽一は目を瞠った。
「……俺の部屋?」
 見れば三日月はまだ奈落の上に立っている。
「それじゃ、お疲れさま。とりあえずゆっくり休んで」
 そう言うと三日月はおざなりに手を振って、せかせかと消えてしまった。やがて夕食だと美晴が呼びに来るまで、陽一はそのままひたすら茫然としていた。
 夜になって映の携帯にかけてみると比良坂が出て、所長は夕方からずっと寝てると言われた。ということは、中学校の屋上に桜姫を連れて現れた映は実体ではなかったのだ。
「全然気付かなかった……」
 冷静になって思い出してみれば映は確かに自分と同じような鉄爪を出していたし、たぶんあれが『走無常』の状態なのだろう。桜姫の幽霊が生身の人間と区別できなかったように、いつもの映と全然見分けがつかなかった。
 結局その夜はろくに眠れなかった。
 うとうとするたび涙を浮かべた桜姫の最後の姿が鮮明に浮かび上がり、胸を突き破りそうな激しい動悸とともに跳ね起きた。
 翌日、学校に行くと奈々美は何事もなかったかのように登校していた。
 目が合って反射的に身構えてしまったが、驚いたことに奈々美は眉をひそめはしたものの、ほんの少し――本当にごくわずかではあったが――口角を上げ、ぶっきらぼうに『おはよ』とつぶやいたのだった。
「あ……、おはよう……」
「寝不足? 目の下にクマができてるよ」
「ああ、うん……。ちょっとね……」
 奈々美は不審げな、それでいて少しばかり気の毒そうな顔をして、自分の席へ歩いて行った。
(そっか……。三日月が言ってたみたいに、全部夢だったってことで納得したんだ)
 納得する以外にはないだろう。祥子に取り憑かれていた時のことを、奈々美がどこまで覚えているのかわからないが……。
 放課後、とりあえず三瀬川探偵事務所に行ってみた。
 映はまだ眠っていて話せなかったが、天野祥子が入院先の病院で亡くなったことを比良坂が教えてくれた。昏睡状態のまま目覚めることなく、昨夜遅くに息を引き取ったそうだ。
 映が眠っていて三日月も現れず、状況が把握できないまま二日が過ぎた。陽一は毎日放課後になるのを待ちわびて事務所へ直行した。
 小西真治の遺体が自宅で発見されたと鷹見刑事から連絡があった。もちろん移動させたのは映だが、鷹見はそれを知らない。わざわざ教えもしなかった。
 胸にナイフが突き刺さったままで、検死の結果小西は自殺と見做された。母親の遺体も同時に発見されたと聞き、陽一は暗澹とした気分になった。
 池田がうそぶいたことはハッタリではなかったのだ。
 現在、警察は行方不明になっている小西の父親の行方を探している。こちらも、池田の言葉を信じるならばすでに死者である。
 おそらく一家心中事件ということになるだろう、と比良坂は無感動に告げた。
 事件から三日後の木曜日、事務所に顔を出すと映は目覚めていて、いつものように所長室のデスクに座っていた。
 携帯で話している映が身振りで来客用ソファに座るよう促してくる。様子を窺っていると、通話の相手は鷹見刑事のようだ。やがて電話を切った映は軽く溜息をついた。
「どうやら一連の事件は小西真治が犯人ということで無理やり決着が図られることになりそうだよ」

「一連の事件って、血まみれ密室もどき? なんでそんな……」
「小西真治は高校に入ってからも不良生徒に目をつけられて、いじめられたり恐喝されたりしていたらしい。それで家のカネを勝手に持ち出したり、施設に入所している祖母に小遣いをせびったりして、家庭でもトラブルになっていたようだ。もっともここ一か月ほどは逆ギレしたのか反撃するようになって、それも平気で刃物を振り回すようになったとかで、不良たちも気味悪がって近づかなくなってたそうだ」
「それ……、やっぱり池田が取り憑いたせい?」
「時期的には合うな。実際のところ、事件は小西に取り憑いた池田が起こしたわけだし、小西の自宅には被害者の持ち物が残されてた。携帯とか財布とか。あと、得々と犯行を告白したノートまで作ってあったそうだ」
 陽一は絶句した。組んだ指に顎を載せ、映は瞳を暗く光らせた。
「これでもかというくらいお膳立てが整えられてたよ。事件にカタをつけるには池田の書いた筋書きに乗るしかない」
「……なんか釈然としないな。小西があんまり可哀相じゃないか。あいつだって池田に殺されたわけだろ」
「同感だが、他にどうしようもない。真犯人は少年に取り憑いた殺人鬼の幽霊だ、なんて言ったところで誰も信じやしない」
 しばらく黙り込んでいた陽一は、辺りを憚るように低声で尋ねた。
「……池田って、本当に生き返ったの?」
「わからない。探してはみたが、少なくとも冥府に戻ってはいないようだ」
「何とかいう術で本当に死人が蘇るなんて、信じられないよ」
「七人ミサキか。あれは別に死者を蘇らせる呪術ってわけじゃないんだがな」
「そうなの?」
「七人ミサキっていうのは、元々は誰かが死んで――大抵は殺されて――その最初の死者の呪いで七人の人間が死ぬ、という民間伝承なんだ。『ミサキ』は死霊や怨霊をさす言葉で、死者を復活させる術じゃない。だが、足掛かりにはなる。どんな術だろうと本当に必要なのは信念だから」
「信念?」
「強く信じる心、悪く言えば、激しい思い込み。時として人は、強く思い込むことによって現実をねじ曲げるほどの力を発揮する。ただ、あまりにも現実離れしたことを一点の疑いの余地もなく信じ込むのは常人には無理だ。常識の因果律を覆すほどの思い込みができるのは、まぎれもなく――狂気だよ」
「……天野のお母さんは、信じたんだよね。だったら、もし池田が絡んでなければ天野は蘇ったのかな」
 映は端整な顔をうんざりとしかめた。
「『何か』が現れはしただろうな。天野祥子の想いが凝った、何かが。死者の復活を願ったところで現れるのは大抵がおぞましい別物だ。生者の希求を利用してこの世に現れようとする邪悪なモノが形をなすだけだよ。死んだ人間は、同じ姿では二度と戻って来ない」
「どうして自殺者はすぐに冥府へ行けないの?」
「さぁ。俺も知らない。自殺者の迷路を脱ければ、本人にはわかるんじゃないかな。迷路というのはどれほど長大で複雑であろうと、最後には必ず出られるように作ってあるものだから」
 優しい声の響きに、陽一はうつむいた。喉が塞がれたように声が詰まる。
 いつか必ず出られるのだとしても、桜姫が出口にたどりつくことは永遠にない。彼女の魂は消えてしまった。迷路を脱けることなく、途中で消滅してしまったのだ――。
 陽一はふらりと所長室を出て、物干し場になっている屋上へ出た。しばらくして洗濯物を取り込みにきた真木那が、ぼーっと座り込んでいる陽一に話しかけたが、上の空でいることに気付いてそっとその場を離れた。
 座り込んで壁にもたれていると、中学校の屋上にまだいるような気がしてくる。
(あの時、三日月の言うとおりにしてたら、きっとよかったんだ……)
 祥子の生霊を奈々美の身体からさっさと追い出しておけば。そうすれば桜姫が消滅する事態にはならなかったはず。
 その光景を目の当たりにした祥子は、ショックのあまりさらに命を縮めてしまったに違いない。
(俺が、迷ったりしなければ……)
 頭を抱え込んで鬱々としていると、かつん、と軽く床を蹴る音がした。うつむいた視界に、黒くて丸っこいブーツの靴先が見える。
 真木那のサンダルではない、と気付いて顔を上げると、黒い合わせ襟と真紅と金襴の帯が目に入った。
 すんなり伸びた膝まで届く長い袂。腰に手を当て彼岸花を飾った銀の髪をさらりと揺らし、金色のきつい瞳の少女が見下ろしていた。
「なーに、暗い顔しちゃって」
「三日月……」
「何よ、もっと嬉しそうな顔してみせたってバチは当たらないと思うけど? 命の恩人に向かって、不景気な顔をしないでほしいわね」
「ごめん」
 力なく詫びると、三日月は面食らった様子で陽一を眺めた。
「何よ、どしたの」
「やっぱ俺のせいだよな」
「何が」
「天野がおふくろさんに刺されたの……」
 三日月は肩をすくめた。
「何、あんたまだ気にしてたの」
「俺が、もっと早く天野のお母さんの生霊を捕まえてたら、あんなことにはならなかったんだよな。せっかく三日月と叔父さんが榊の身体から追い出してくれたのに、俺がぐずぐずしてたから……」
「そうね。確かにあたしの言うとおりにさっさと始末してれば、桜姫は母親の手にかからずにすんだだろうし、母親もあともう少しくらいは生き延びられたかもね」
 あっさりと言い切られ、陽一はコンクリート床にめり込むくらいに落ち込んだ。
 むぅと口を尖らせた三日月は、陽一の傍らに立って柵にもたれた。
「だけど、そうしたら桜姫は今でも暗闇の迷路をさまよっていただろうし、母親は復讐心に駆られたまま死ぬまで生き地獄だったでしょうよ」

 ぼんやり見上げると、三日月は風で顔にかかった髪を後ろに流しながらつぶやいた。
「ああすることで、彼女はあとどれだけ続いたかわからない迷路を一気に駆け抜けたのよ。――大丈夫、天野桜姫の魂はちゃんと冥府に来てるわ」
「え……!?」
「これからどんな裁定を受けることになるのか、わからないけどね。でもまぁ、地獄落ちってことはないと思うわ」
「本当にっ!? 天野は消えてないのかっ」
「魂っていうのはね、そう簡単に消えたりしないのよ。池田に殺された四人――小西も含めれば五人だけど――、バラバラにされた彼らの魂も餓鬼界から回収されて今は冥府にいるわ。天野祥子の魂も、小西の両親の魂も」
 陽一は熱くなった目頭を押さえた。
「そっか……。よかった。天野はおふくろさんに会えたのか」
「転生が決定するまでは一緒にいられるわ。天野祥子もようやく黒幕の名を口にして呪縛を逃れたし」
「七人殺せば生き返るって教えた奴?」
「そう。見当はついてたけど、ずいぶん前から指名手配になってる犯罪者なの。それもタチの悪い愉快犯」
「あの世にも犯罪者なんているのか」
「手強いわよ。天界の神だったり阿修羅界の半神だったりするから、まったく始末におえないの。天野祥子の供述を元に捜索してるけど、たぶん見つからないでしょうね。腹立たしいことに、今までずっと逃げられ続けてる」
「池田も蘇ったらしいって叔父さんが言ってたけど……」
「ええ、地獄には戻ってきてないわ。きっとこの現世のどこかにいるんでしょう。絶対に見つけ出して、引きずって帰るわよ」
 三日月は決意を込めて呟いた。
「私たち執行官は誰も見逃さない。ひとり残らず冥府へ連れて行く。極悪人でも善人でも裁定を受ける権利だけは誰もが持っているから。死者の魂を洩らさず冥府へ案内することが、私たちの役目」
 言いさして、陽一に視線を落とす。
「――で、あんたはどうする?」
「どうする、って?」
「天野祥子のことで悶々としてたみたいだけど、これから先も似たようなこと、ううん、もっとつらいことが必ず起こる。どうしても耐えがたいというのなら、記憶を消してあんたの中にある私の力を封印するわ。そうすれば寿命が尽きるまでふつうの人間として生きていくことができる。命簿によればあんたはそれなりに長生きできそうよ」
「力が封じられたら三日月はどうなるんだ?」
「執行官としての活動ができないんじゃ、冥府にこもって事務でもするしかないわね。幸か不幸か書類仕事は山ほどあるから。ほんと、どこもかしこも人手不足なのよね~」
「書類仕事って、ハンコ押すだけ?」
「ハンコをもらう書類を私が作るのよ!」
 目をつり上げて三日月が怒鳴った。思わず陽一は笑いを洩らした。
「はは、そりゃ大変そうだ。三日月、そういうの苦手そうだし」
「なんであんたにそんなことわかるのよ」
「んー、何となくね」
 陽一は、よっと身を起こした。
「いいよ、俺、このままで。うまくできるかどうかわかんないし、また迷って迷惑かけるかもしれないけど。でも、三日月が俺を生き返らせてくれたことを忘れたくないし」
 にこっと笑うと、三日月は赤くなって視線を泳がせた。
「そ、そうよ。忘れてもらっちゃ困るわよ……」
「自分で選んだんだもんな。――あの時、三日月はちゃんと本当のこと言ってくれた。宿題のない夏休みもいいけどさ、ちょっとばかしつらくても、やっぱり俺、生きていたい」
「ちょっとばかしじゃなくて、すっごくつらいのよ?」
 真剣な顔で三日月が言う。陽一は頭を掻いた。
「そう脅かすなよ、せっかく決心したんだから。自信ないけど、でも俺、やってみる。だから、その――、よろしくな」
 思い切って差し出した手を、三日月は綺麗な金色の瞳を瞠ってまじまじと見返した。目許をほんのり薔薇色に染め、つんとそっぽを向く。
「あ、握手はしないわ。それって平等な者がするもんでしょ。あんたは私の、その何だ、弟子だから!」
「うん、だからよろしくな、師匠」
 陽一は強引に三日月の手を握ってしまう。実はけっこう恥ずかしかったのだが、ここはきちんとしておくべきだと思ったのだ。
 三日月はますます顔を赤くして目をつり上げた。
「こ、今度ぼさっとしてたら蹴飛ばすからね」
「ああ、頼むよ」
 ぷいっと顔をそむけ、三日月は手を振り払って踵を返した。
 陽一はその後をゆっくりと追った。屋上に涼やかな風が吹き、銀色の長い髪を揺らして三日月は少しずつ夕暮れの気配を深める空を見上げた。
「……今日はすっごく風が美味しいわ」
 くふんと笑ってささやいた三日月の顔は、とても穏やかで美しかった。 


【追記】後日、小西真治(池田昭二)の書いた告白ノートのコピーがどこからともなくマスコミに出回り、かなりの騒動を引き起こすことになる。ノートには天野桜姫の自殺の真相についても触れられていた。



『少年×無常鬼』〔了〕

少年×無常鬼

2013年6月2日 発行 初版

著  者:鷹守諫也
発  行:櫻嵐堂

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鷹守諫也

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