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 『水晶の舟』 Narihara Akira

死の淵に立つ人たちに、強くひかれてしまうデラ。
そんな彼女が運命のひとと出会ったが、それは至福であるとともに、破滅への第一歩だった――。


 解説:津原泰水(幻想文学作家)

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水晶の舟

Narihara Akira / 鳴原あきら

恋人と時限爆弾



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  この本はタチヨミ版です。




   あなたの意識が朦朧に沈む前に
   もう一度だけ口吻させて
   無上の幸福の閃く一瞬
   もう一度だけ口吻させて ねえ もう一度だけ

               ジム・モリソン 「水晶の舟」


  1

 物心ついた頃から、殺されたかった。
 ごっこ遊びをする時は、いつも生け贄役を志願した。助け出されるお姫様をやりたがる少女はいなくもないが、生け贄となる一般の娘をやりたがる女の子はとても少ないので、私の希望はだいたい通った。勧善懲悪の単純な筋立ての中で、私はむごたらしく殺された。死ぬ真似もまあまあ巧かったので、友人たちはたいして不審がりもせず、何度もそれにつきあってくれた。
 ごっこのクライマックスは、エレメンタリー・スクールの六年時、クラスの発表会でミステリー劇をやった時だった。この劇の冒頭で、三人の人間が殺される。私はすぐに被害者役を志望した。他の役をあぶれた子がもらうような、つまらない役だったので、この時ばかりは「何故そんなものをやりたがるんだ」と周囲に少々怪しまれたが、刺されて死ぬ真似にしろ撃たれて死ぬ真似にしろ、それまでに相当の経験を積んでいたので、演技を見せたところで納得してもらえた。
 嬉しかった。
 心の秘密を隠したまま、堂々と殺されることができるのだ。
 私はじっくり練習し、本番の日に備えた。
 どうやら私は、名もない、ありがちな犠牲者になりたかったらしい。通り魔にいきなり殺されるのが理想だった。自分でも動機を説明できないような連続殺人鬼が、さらに意図せず刺してしまうような相手に。いわく因縁があって殺されるとか、それによって誰かが嘆き悲しむような死に方は厭だった。ただ無雑作に殺されたかった。普通のごっこ遊びの死には、なにかの理由が必要だ。生け贄はその身を捧げることで、一躍英雄になってしまう。私は注目されたいのでも、愛されたいのでもない。ただ殺されたいだけなのだ。
 練習のかいあって、劇の発表の日、私は舞台の上で完全に殺されることができた。しかし、ひとつだけ失敗があった。倒れた時に、緞帳のおりる位置から少しはみ出してしまったのだ。第二幕が始まる前に、セットを変えるために一度幕がひかれるというのに。幕が閉まる直前、見ている人たちの前で生き返らなければならない。どうしよう、と焦った。
 ありがたいことに、私の焦りに気がついた同級生が一人だけいた。その子は閉まる幕と一緒に素早く近寄ってきて、倒れたままの私の足を少しだけひっぱり、なかに隠れるようにしてくれた。幕が閉まるまで、私は死体でいられたのである。
 私はその子に、十数年たった今でも、深く感謝している。
 だがこの日、芝居で欲望を満たせる日々に幕がひかれてしまった。いつまでも、ごっこ遊びのできる年齢ではいられない。女優になりたい訳でもなければ、演劇部に入る程度の資質さえなかった(それにだいたい、殺され役専門の女優になりたいだなんて誰にいえるだろう、それこそ変に思われる)。
 だから私は、困るはずだった。
 しかしその頃、私は図書館に行く許可をもらえるようになった。それまで学校の図書室にしか行かれなかった私は、よろこんで遠い図書館に通った。子ども向けに毒気の抜かれた本でなく、大人の本が読める。通俗犯罪小説や風俗小説を、何冊も借りだしては読みふけった。
 私をうっとりさせるものが、そこにはあった。戦場で、偶然拾った死体を抱き、その味が忘れられなくなった兵士が、戦争から帰って通り魔になり、若い女を殺してゆくというようなストーリーに、胸をときめかせた。
 兵士の興奮はたやすく理解できた。最初は彼も、自分が死姦常習者になるとは思っていなかったのだ。戦場でも、悪い企みで女を拾ったのではない。戦乱のどさくさに強姦するような卑しい気持ちはなかったのだ。むしろ、戦渦にまきこまれた敵国の女性に同情して、助けようとさえしていた。だが、腕の中で冷たくなってゆく女が、彼の底に眠っていたものを呼び覚ましてしまったのだ――つまり、愛や金ではえられない性行為の歓びを。
 私にはわかる。彼の目的は排出ではない。相手が少しずつ反応しなくなっていくさまに、ただただひきつけられるのだ。生きていたものが冷たい物に変わってゆく過程を愛しているのだ。その刹那は、日常生活でそう簡単に手に入るものではない。一度その快楽を知ってしまった彼が、犯罪に走らざるをえなかった気持ちは、痛いほど伝わってきた。私は兵士の瞳を借りて、死体になりかかっている女の、艶を失いはじめた頬と、弱々しく上下する胸の動きを見た。なだらかな冷たい腰に掌を置いて――そして、彼と一緒にクライマックスに達したのだった。
 十代の終わり頃、ある種のフランス文学が似たような癒しになることに気づくと、通俗小説への渇望は急激に薄れてきた。性と死は実は近い概念(性のクライマックスは「小さな死」と呼ばれる時がある)なのだと学ぶと、自分の秘密もたいしたことではないような気がしてきた。何人かの男女と官能的な触れ合いをし、これはこれで気持ちのよいものだということも学んだ。
 大学を出る頃には、殺されたいという欲望は、すっかりなりをひそめてしまった。形を変えて残ってはいた、軽いSM願望や、特定の相手を意味もなくなぶって追いつめるような残忍さが、私の中にあった。だが、それはすぐに修正のきく程度のものになりさがっていた。
 そう、私は健全な大人になれたのだ。
 国際政治学科を大学院まで卒業すると、大学機関関係の事務所に就職した。
 事務所にやってくる教授や学生たちは、すこやかな夢を語り続けた。世界から戦争をなくすにはどうしたらいいか。各国が所持する兵器のアンバランスさをどうやったら調整できるのか、悲惨な民族紛争を調停する術はあるのか、よりよい難民対策とは、自分たちが平和のために少しでもできることは何か、と。
 かけだしの私の仕事は、彼らが行う会議のセッティングや事務連絡、窓口対応にすぎなかったが、彼らと同じ夢を見ていた。普段の私は、すこぶるつきの平和主義者だ。争い事は大嫌いだし、人が死ななくてすむ方法を考えるのは大好きだ。そのために骨惜しみをする気はない。彼らの役にたてることは、私の誇りだった。
 たぶん人は、「それはおまえの本性の裏返しじゃないか」というだろう。「おまえは戦場の兵士の興奮に酔う女なのだ、それを繕うための仮面だろう」と。
 そういわれたとしても、私は違うとは言い切れない。
 だが、間違えてもらっては困るからつけ加えておくが、私は誰かを殺したいと思ったことはほとんどない。自分自身が殺人犯になる気はまったくない。単なる人殺しはまず、下品で汚くてくだらないことだと思っている。それに、私の欲望は現実であることをほとんど求めていない。あの陶酔さえあれば、後はなんでもいいのだ。余計なものがくっついてくる現実など、少しも面白く思われない。
 むしろ自分の中に悪念があるからこそ、他人に対する時に善良でいられる。
 だから私は、この性癖を一人で飼い慣らすことができれば、まっとうに生きていかれるはずだった。事実、そうして数年、無事に過ごしていたのだから。
 そう、あの晩、反戦集会の帰りに、彼女――ドロシー・ジョーダンを拾うまでは。


  2

 その日の集会は不調だった。
 いい議案は出ず、野次のとびかう醜いものになってしまった。私のせいではないとは言え、肩を落として歩くには十分なひどさだった。ボランティアとしてだが、お膳立てもし、自分も発言したのだから。
「……あ」
 とぼとぼと歩いていた私の前に、薄いコートに包まれた物体があった。
 行き倒れだ。
 まだ秋も深くない頃で、夜の気温も氷点下にさがるということはない晩だった。しかし、いくら比較的治安のいい一帯といえど、NYの裏道に女がひとり倒れているのだ、その身はやはり危険だ。たとえ動かさない方がいいような発作を起こしていたとしても、身ぐるみ剥がれて殺されるよりは、ましだろう。
「あなた、大丈夫?」
 私は彼女の側に屈みこみ、脇の下に腕をさしこむと、抱えて上半身を起こした。
「……」
 彼女はうっすらと目を開き、それから私をにらんだ。大丈夫だったらこんな所に倒れてやしない、とでもいいたげだ。だが、外傷はなさそうだ。栄養失調にも見えない、頬に丸みがありすぎる。おそらく何かの発作で苦しんでいただけのように思われた。
「私のいっていること、わかる? 何をしてあげればいいの」
 彼女は返事をしなかった。こちらの親切を疑っているのだろうか。介抱泥棒と思われたか。私だって、いきなりこんな風に抱きしめられたら、相手を疑うかもしれない。
 しかたなく、私は彼女をそのまま抱いていることにした。
 彼女はきつく眉を寄せたまま、私の腕の中で苦しそうな息を続けていた。時々、痙攣めいた動きで身をよじる。だんだん弱っていくようだ。
 ああ。
 このまま、何もしないでいたら、この人はここで死ぬかもしれない。
 その瞬間、強く胸をつきあげるものがあった。
 説明の必要はないだろう――それは、いきなり転がり込んできた天の贈り物だった。小説の兵士よりもずっと恵まれたこの状況。私はここで、手を汚さない犯罪者になれるのだ。あの瞬間を、心ゆくまで味わうことができるのだ。
 そう、死んでしまったら、死体は置いていけばいい。面倒はごめんだ。私の痕跡をできるだけ消して、そのまま立ち去るのだ。万が一、ここにいた事が知られたとしても、私は何もしていないのだ、誰も私を訴えられまい。
 いや、疑われてもかまいはしない。ある日いきなり、警察が訪ねてくるかもしれない。濡れ衣を着せられ、裁判で死刑を宣告されるかもしれない。そうすると私は、何の因果もないことで、殺してもらえるかもしれない。それは素晴らしすぎる結末だ。
 ああ、と思わず強く彼女を抱き寄せた瞬間、その口唇から低い声が洩れた。
「死ぬかもしれないから、放っておいて」
 私は驚いた。彼女はまだ生きていた。しかもその台詞が『これから死ぬから一人にしてくれ』というのだ。これ以上喜ばせてどうしようというのだ。私の声は熱情でかすれた。
「あのね、別に私の腕の中で死んでも、迷惑なんかじゃないのよ」
 そう、あなたは私の生け贄なのだから。
 薄暗がりの中で目を凝らす。彼女はひどく美しかった。全身に力が入らないでいるのに、きんいろの瞳だけをじっと輝かせている。かなり若いように思われた。頬のそばかすが、まだ消えていない。肌の色が白すぎて消せないのかもしれないが、全体の印象は十代だ。
 ふと、彼女は目を伏せた。
「……そこまでいうなら、水を一杯ちょうだい」
 やっと自分の希望をいう。
「わかったわ。水ね」
 彼女をその場に座らせると、近くのドラッグストアに走った。ミネラルウォーターの壜を抱えて、急ぎ戻った。
 彼女はまだ死んでいなかった。私は間に合ったのだと思いながら(いない間に死なれたらつまらない)、彼女に水を差しだした。
「これでいいの? 後はどうすれば」
「これだけでいいの。薬はもってるから」
 彼女はコートの懐から錠剤を取りだして口に含み、水でそれを流し込んだ。その様子を黙って見守っていると、彼女は非難の視線と受け取ったらしく、言い訳をはじめた。
「薬を飲むと眠っちゃうから、飲まないつもりでいたの。でも、これ以上、他人様に迷惑をかける訳にはいかないから」
 頬を染める様も可憐だった。私は微笑んだ。
「そう、眠ってはいけないのね。お家は遠いの? 送って行きましょうか」
 彼女は首を振った。
「同情されるのは厭だけど、どうやらこのまま放っておいてくれそうにないから、いうわ。三日前に下宿を追い出されちゃって、新しい家が決まってないの」
「まあ」
 嬉しくなった。本当にこの子は、私の腕の中に飛び込んできたのだ。重い発作と、それを和らげる薬と、美しい眼差しと共に。
「私のアパートはここから近いから、あなたが眠る前にたどりつけると思うの。部屋は二つあるし、ソファーベッドもあるから、恩義も感じなくていいわ。もし今晩泊まりに来てくれるなら、あなたを一人でここに置いていくより、私は気が楽」
 彼女は小さくため息をついた。
「認めたくないけど、ここで正体もなく眠り込むのはゾッとしないから、行くわ」
 そういって、ゆっくり立ち上がる。
 顔色がだいぶ、よくなってきている。彼女は今晩は死なないだろう。私はがっかりしたが、焦がれていた瞬間をくれたのだから、泊めるぐらいの礼はしてもいいと思った。
 並んで歩きだすと、彼女は私より少し背が低かった。サイズも一回り小さいようだ。抱きしめるにはちょうどいい。
 そんな私の視線を避けるように、彼女は瞳を虚空へ向けた。
「名前もきかないのね」
「あなたが名乗りたくないなら、名乗らなくても気にしないわ」
 きく必要はなかった。むしろ名前など知らないほうがよかった。だが彼女は逆に、それを押しつけがましい親切と感じたようだ。怒ったような声で、
「隠すほどの名前じゃないわ。ドロシー・ジョーダンよ」



  タチヨミ版はここまでとなります。


水晶の舟

2013年5月25日 発行 三版

著  者: Narihara Akira / 鳴原あきら
表  紙: たかはし かずか 様(toft / jomescope)
発  行: 恋人と時限爆弾
website http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/

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著者 Narihara Akira / 鳴原あきら

1967年1月生まれ。青山学院大学文学部英米文学科卒業。
1996年春、「誘惑のマーメイド」(テラ出版)で、「Narihara Akira」名義でデビュー。2000年4月、アンソロジー『血の12幻想』(エニックス)収録「お母さん」で「鳴原あきら」名義に(2002年4月、講談社文庫版『血の12幻想』に再収録)。
論文:「女性学年報 Vol.23」(オルタナティヴ)「幻の“ままの”朱い実~石井桃子の自伝的【カムアウト】小説を読みとく~」。「同 vol.25」に「『天使な小生意気』~ある少年漫画における「ジェンダー」表現の解体~」。
翻訳:TS論文集『セックス・チェンジズ――トランスジェンダーの政治学』(作品社)収録「帝国の逆襲――ポスト・トランスセクシュアル宣言」(2007年7月、共同訳)。
その他:文学アンソロジー“SPARKLING RAIN”(New Victoria Publishers 2008年)に「ピンクの水」(アニース2002年冬号掲載)の英訳「The Pink Drink」が収録。
レズビアン小説翻訳ワークショップ(講師:柿沼瑛子)現世話人として活動中。

サイト【恋人と時限爆弾】 http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/

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