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古いけれど比較的広い2DKのアパートは詠爾の名義である。彼は今春卒業した大学で臨時職員のアルバイトに就いていて、朝は十時夜は七時の規則正しい生活を送っていた。恋人であるわたしの生活は主にそのサポート、ごはんを作ったり風呂を沸かしたりしながら、稼業の小説ともエッセイともつかぬ駄文を書き、編集部に送信することなどで一日が終わる。
部屋に籠りきりなのも良くないかと、合間を見ては散歩に出かける。半年前に引っ越してきたこの地区は繁華街で、近くにデパートや複合施設、おしゃれなレストランやバーなどが立ち並ぶ。ずいぶん裏道にも詳しくなり、行きつけの飲み屋を二軒つくった。おいしいチャイが出る喫茶店にも足繁く通う。裕福な暮らしは望むべくもないが、細々としていて実は途切れることのない依頼と詠爾の稼ぎを合わせればなんとか生きてはゆける。ぬるま湯に浸るような穏やかな日々が続いていた。
その日、わたしたちの部屋に愉快な闖入者が現れた。まっ白い猫だ。三階であるこの部屋にまでどうやって上がってきたのか、ベランダに彼はいた。わたしは持っていた生乾きの洗濯物を置き、慎重に距離を詰める。野良猫というものはずいぶん警戒心の強い生き物で、たとえ善意から近づいたとしても、決して心を許すことがない。しかし、わたしの手にかかれば彼らも赤子同然である。昔からなぜか、猫に好かれる体質なのだ。
白い猫は最初威嚇するようにこちらを見ていたが、すぐに目の光りをゆるめた。そして手招きするわたしのそばにすり寄ってくる。べたついた、あまり良くない毛並みがふくらはぎのあたりにこすりつけられた。彼が生粋の野良猫であることは間違いなさそうだ。何故そんな孤高の存在がわたしに心を開いてきたのかは見当もつかないが、その小さな体をひょいと持ち上げ、わたしは家のなかへと引き返した。バスルームで身体を洗ってやる。午後からは雨だと聞いていたし、汚いままで部屋にあげると家主が怒る。猫は水辺が嫌いだというから、ひっかかれるのではないかとひそかに怯えていたが、なんのことはない。彼は大人しくお湯をかぶり、たくさんのボディーソープの泡を物珍しげに眺め、気持ちよさそうな顔で一切をわたしに委ねていた。人間でさえ、あったばかりの人物に全幅の信頼を置くことは難しい。こいつは大物だな、とわたしは楽しく思えてきて、その期待に応えんとばかり、ごしごしと力強くその身体をこすってやった。
帰宅した詠爾はあからさまに嫌そうな顔をした。やれ畳に爪が引っ掛かるだの、毛玉がじゅうたんに落ちるだのと不満を口にする。しかし、わたしは知っている。ほんとうは、誰よりも動物が好きなのが詠爾だ。見立て通り、十分もすれば文句も消えた。そしてその小さな客人に興味津津といった様子で、へたくそな猫パンチを繰り出してみたり、何かとてんごするのだった。
数日後、わたしたちは協議の結果、彼を迎えることと相成った。白い猫は窓を開けても扉を開けても決して外へ出ようとはせず、ちんまりと部屋の中心ですましたまま動こうとしなかったからである。最初、形だけでも迷惑そうな素振りを見せていた詠爾ですら、ここまでの度量を見せつけられてはあとには引けない。よし、飼おう。そう言葉にした瞬間、白い猫は尻尾をひゅうん、と一振りした。嬉しそうだった。
わたしたちはこの猫に、長い時間をかけて名付けた。命名、「まろ」。二つの眼の上にぽつぽつと浮かんだ茶色のぶちが、平安時代の貴族を思わせたからである。
まろは気高く、そして賢い猫だった。わたしたちが外へ逃がそうとしていた自分には、決してどこかへ行ったりはしなかったくせに、いざと決めると気まぐれに遊びに出かけるようになった。何をしているのかはわからないが、友達はできたらしい。他の野良猫とともに塀のふちを闊歩していたり、時には陽だまりで寝ころんでいることもあった。散歩や通勤の途中に見かけた「外まろ」のことを、わたしたちはご飯時にそっと報告し合ったりした。夜には必ず帰ってきて、わたしたちの頭上で丸まる。詠爾はこれじゃあ何もできない、と苦笑していたけれど、絶対にしたい、というときにはまろを追い出した。その間、まろは全て了解したような顔つきで、ベランダに出ている。ことが終わって窓を開けると、「やれやれ」といった風に、もったいぶってまた中へと帰ってくるのである。だからわたしたちは時折、気恥ずかしくもなった。
まろがいなくなったのは、月の奇麗な六月の晩だ。
その日、わたしも詠爾も出かけていた。わたしは小学校時代から仲の良い友人と飲んでおり、詠爾のほうは元上司が新事業を起こすというので壮行会に出席していた。酒の弱い、けれど恰好の的にされる彼を引き取ってくれと連絡が入ったので、わたしは飲み会を切り上げて迎えに行った。足取りもおぼつかない詠爾を支え、夜の道を帰った。しかし、鍵を開けて部屋を見渡しても、まろはいなかった。
鍵はかけていたし、外へ出られるはずはない。ずいぶん深かった酔いも冷めたのか、詠爾は慌てふためいた。わたしは急いでベランダに出てみたが、いない。もしかして落下したのだろうかと周りを捜索してみたが、死体どころか毛玉ひとつ見つからなかった。夜を徹して名前を呼び、うろうろと周辺をめぐってみた。しかしやはり見つからず、わたしたちは暗澹とした気持ちのまま、部屋に帰った。明け方だった。
それからしばらく、わたしたちはご近所や飲み屋や喫茶店にまろの写真つきポスターを張り、猫の好きそうなところへ足を運んだりして探し続けた。けれど、来る日も来る日も、情報は入ってこない。そしてもちろん、彼が帰ってくることもなかった。
うろたえるわたしを見かねて、まだ幾分かは気丈であった詠爾は、職場の先輩が飼っている猫の話をした。妊娠していて、もうすぐ子供が産まれるのだという。言外に、もらってこようかという彼の気遣いであった。わたしは首を振った。またいなくなるかも知れないという想いと、まろは帰ってくるのだから、という想いがあった。後者は希望的観測だった。
それから早くも、三年が過ぎた。さすがに沈むことはもうなかったけれど、わたしは猫を見てももう近付こうとは思えなかった。まろは、どこへ行ってしまったのか。結局未だにわからない。思えば不思議な猫であった。あんなにも人懐っこい猫を知らないが、それはわたしや詠爾に対してのみで、たまに友人が遊びに来た時は、高い場所にのぼり、常に警戒していた。わたしも詠爾も、自分たちが思っていたよりももっと、まろを可愛がっていたのだな、といなくなってから気づく。猫は自分の死期が迫ると、そっと行方をくらますのだそうだ。だからもしかすると、もう死んでしまっている可能性もある。それを考えると、まろが居なくなってくれてよかった、とほんの少し思った。姿が見えないだけでも、こんなに悲しいのだ。目の前で死なれたりでもしたら、わたしも詠爾も、もっと堪えたに違いない。
しかし、そんな三年目のある日、事態は思わぬ展開を見せた。
帰ってきたら大切なはなしがあるんだ、と詠爾は切り出した。最近帰りも遅く、話しかけてもひそやかに笑うだけだった彼は、生活に疲れているようだった。卒業後を楽しみにされていたはずの詠爾は、未だに大学で働いている。将来への期待が絶望に変わり始めている。そんな閉塞感が始終彼に付きまとって、オーラのように身体を包んでいた。わたしは静かに覚悟を決めた。まろがいた頃、わたしたちは常に笑い転げていた。寝起きの顔がぶさいくだと言ってはわたしをからかい、じゃれ合って最後はキスで収拾をつけるような、そんな時期は終わっていた。
詠爾がいつも通りの時間に家を出た後、わたしは部屋中にちらばった自分の荷物を少しずつまとめた。彼のシャツと絡まり合うようにくっついたタンクトップをほどき、その他の衣類を畳んだ。乱雑に置かれたわたしの本たちや、二人で観たDVDや、原稿を書くときに使っているノートパソコンを鞄につめこむ。わたしたちが過ごした五年と半年は大きな鞄ひとつに納まった。意外に少ないものだなと思った。
ついでに、捨てられずにいたまろグッズも片づけた。餌をあけていた皿と、詠爾が買ってきたねこじゃらしと爪とぎ。猫用シャンプー。ふと思いついて蓋をあけて嗅いでみると、フローラルの懐かしい香りが漂ってきた。まろのにおいだった。
涙は出なかった。悲しみはこびりついているのに、それを開放する手だてがないみたいだった。あの頃、わたしたちはずっと一緒にいられるものだと思っていたのに。わたしと詠爾のあいだにはいつもまろがいて、そして穏やかに毎日は過ぎていく。そう思っていたのに。
荷物をまとめた後、部屋の中をきれいに掃除した。台所を整理し、砂糖と塩にはラベルを張った。各種調味料をひとつのケースにまとめ、わかりやすいように。床を濡れ雑巾で拭き、乾拭きもした。和室二部屋には掃除機をかけ、ごみを捨てた。わたしのものが入っていた空間には、あぶれていた詠爾の私物を詰める。そうしてすべての調和を整えた。ここには、わたしもまろも最初からいなかったのだとでも主張するように。
部屋がすっかりと整い、最後に換気のために窓を開けた。トイレ脇にある小さな小窓から、あのベランダにつながる大きな窓まで。夏の湿った風が通る。遠くから、好きになれないままだったゴミ収集車のあの曲が、オルゴールのように流れてきた。
日が暮れてしばらくが経ち、足音が階段ホールから響いてきた。詠爾だ。足音だけでその帰宅がわかるほど、わたしは彼が好きだった。好きだったけれど、これでおしまいだ。
鍵をいじくる音、そして、重い鉄製のドアを開く音。これを聞くのも最後だろう。せっかくなので、耳を澄ませる。玄関まで出迎えることは、しないつもりだった。あの頃はよく、まろとふたり、駆けて行ったものだけれど。猫がいない、ただそれだけのことで、こんなにも色を変えてしまうものだろうか。わたしたちの生活は、まろがいなくなってから目に見えて下降した。それは明らかだった。変えてしまうのだ、色を。猫が。きっかけに過ぎなかったのだとしても。
「ただいま」
詠爾は、ベッド代わりのマットレスに腰かけてぼうっとするわたしに、そう言った。緊張しているのか、頬が微妙にひきつっている。それを見て悲しくなったが、わたしは笑顔を作った。
「おかえり」
詠爾は、通勤用の鞄のほかに大きな箱を抱えていた。コンビニか何かで貰ってきたのかもしれない、よれた段ボール箱。そんなものを用意しなくとも、わたしの荷物はすでに納まっている。しかし、そのことには気付いていないらしかった。詠爾は自意識はこまやかで大変繊細だが、そういった他人の些細な感情の抑揚には無頓着な男である。
「なに、それ」
憮然とならないよう、声に色味を持たせて尋ねる。
「その前に、聞きたいんだけど」
詠爾はうわずった返事をした。返事、というより遮った形の語りかけ。
わたしは小さく頷いた。先延ばしにしても、仕方がないのだ。
「大きい箱と、小さい箱。大きい話と、小さい話。飛鳥はどっちを、先に聞きたい?」
「……それって、大きい箱が、大きい話ってこと」
「ううん。大きい箱は小さい話のほうで、小さい箱は、大きい話のほう」
わたしは困惑して、怪訝に彼を見つめた。そわそわしている詠爾は、答えを促すようにこちらを見つめ返してくる。
どういうことなのだろう。
「……大きな、その箱は、なんなの?」
段ボール箱をさして、わたしは聞いた。
「よし、じゃ、こっちからだね」
久しぶりに、詠爾はうきうきとしていた。ますます意味がわからない。わたしは、身構えていた。そして彼が手に掛けた箱が開かれるのを、こわいような気持で眺める。
にゃあ。
箱が鳴いた。
懐かしい声だった。
「まろ?」
信じられない。わたしは箱に飛びつき、詠爾を押しのける。
そこに鎮座していたのは、ところどころに傷を負った、けれど、まろだった。
「保健所のひとから連絡があったんだ。捕まって、貰われていったんだけど、また戻ってきた猫がまろに似てるんじゃないかって」
まろを探し出すとき、わたしは保健所をかたくなに拒んだ。もし尋ねて、あああいつはもう殺処分しましたよ、なんて言われることを恐れていたのだ。詠爾は、得意げに続けた。
「ほら、だから言ったろ? まずは保健所に聞いてみるべきだって」
わたしは恐る恐る、彼を抱き上げた。目の上にぽつぽつと浮かぶ、丸いぶち。そのうちの片方は何者かに引っかかれたのか、大きな傷に遮られていた。まろはおとなしく抱かれている。撫でると、毛並みは脂っぽくべとついている。しかし、まろだった。
にゃあ。もう一度、高く鳴く。めったに鳴き声を上げない猫だったが、その声にはわずかな甘さと、喜びがぎゅっと詰め込まれているようだ。わたしはもう確信した。これは、正真正銘のまろ。
「おかえり」
ぎゅっと抱きしめて呟く。苦しいのか、ざらっとした舌がわたしの目尻を舐めた。思わず、涙が浮かんでくるのを止められない。動けずにいるわたしの頭に、詠爾がそっと手をのせる。しばらく、そうしていた。わたしは心の中で、何度も何度も、確認した。そしてまろの目をじっと見た。
だいじょうぶ。
だいじょうぶ、まろが、帰ってきた。
だから例え――この後、詠爾のはなしをすべて聞いても。わたしは、だいじょうぶ。まろと暮らせる部屋を見つけよう。そして、暮らそう。穏やかに。
わたしは、意を決した。抱きしめ続けていた腕をゆるめると、やはり苦しかったのかまろは逃げ出した。そして、わたしたちふたりの間にちょこんと座る。まるですべて理解して、見守っているかのように。
「小さいほうの箱には、何が入っているの」
話の内容は、わかる。痛いくらいにわかる。しかし箱の中身の予想は難しかった。詠爾は笑っている。そして、息をつくとポケットからそれを取り出した。
「一度でいいから、やってみたかったんだ」
てれくさそうにその箱を開けて、わたしに突き出す。そのなかには、信じられないものが二つ、並んでいる。
「えいじ、」
続けようとして涙声になっていることに気付いた。
「結婚しよう、そろそろ」
馬鹿みたいだ、と思った。わたしは一体、何を見ていたんだろう。別れ話をされることは、わたしにとって決定事項だった。確証なんてまるでなかったのに。
「してくれないの?」
固まっているわたしに、詠爾は促す。その声には微塵の迷いも疑いもない。わたしがはいと答えることを、確信しているかのようだ。
「する」
ぶっきらぼうに答えて、差し出された箱を奪いとる。あ、と非難する彼を尻目に、わたしはさっさとその中身を取り出した。するりと、左手の薬指が、吸い込まれてゆく。
「する」
もう一度、今度はきっぱりと答えると、詠爾はわたしを腕のなかに収めてしまう。ありったけの力をこめて、抱きしめる。先ほどまでのまろの気持ちが痛いほどよくわかった。幸せで息が詰まってゆく。手探りでまろを探すと、どこかで鳴き声が聞こえた。ふとそちらを目で追う。
にゃあん。
まろはベランダへと通じる大きな窓の前で、もう一度鳴いた。
風邪を引いた、として三日間休み、そのあいだわたしは脳みそがほぐれてしまうほど眠った。どうにでもなればいい、と思いながら。どうせこれ以上悪くなることなどないのだ。
一週間前に恋人がいなくなった。こつ然と。荷物もそのままに。わたしは途方に暮れた。同時に携帯が日に何度も鳴り響くようになった。仕事はちょうど佳境のときで、わたしはすべてを忘れるようにして没頭した。ようやく山場を越え、落ち着いて、久しぶりに帰宅した。部屋には孤独が満ちていた。
急に力が抜けてゆく思いがした。そのまま床に付き、朝を迎えた。だんだんと白んでゆく空の色がすっかり濃くなったのを確かめて、わたしは会社に連絡を入れた。そしてまた眠った。
夢を見た。恋人がこちらを向いて笑っていた。未練がましいと思った。いなくなってしまったくせに、彼は、屈託なく笑っていた。恨めしかった。なにか文句を言ってやろうとして、口を開く。すると舞台は暗転して、わたしは目を醒ますのだった。
ふたりで暮らすには狭すぎたのに、ひとりでいるとなんだか落ち着かなかった。わたしはスーパーに買い物に出かけ、大量の食料を買い込むと部屋にこもった。何日でも暮らせる分を確かに蓄えたはずなのに、日が昇ると、それらはすべてなくなっていた。わたしはまた買い物に出た。そして、同じことを二日繰り返した。
かつてわたしは気難しいこどもだった。なにか少しでも気に食わないことがあると、一切の食べ物を拒絶するこどもだった。悪癖は成長しても治らず、恋人はよくわたしをたしなめた。食べなくちゃ、なんにも解決しないだろ。呆れたようにそう言って、有り合わせの食材で魔法みたいな料理をつくった。わたしはしぶしぶそれを口に運ぶ。恋人はとなりで満足そうに何度も頷いて、自分も同じように食べた。
でももういない。
さすがにそろそろ出勤しなくてはと思い、ふと携帯を手に取った。いつのまにか電源がオフになっていて、わたしは外界から完全に遮断されていたことを知った。
充電器に携帯を差し、明日からまた忙しない日々が始まるのかと考えて憂鬱になった。このままずっと眠っていたい。恋人のいない世界など、なんの価値もない。
そんなところで出し抜けに、チャイムが鳴った。
恋人が帰ってきたのではないかと期待してふらりと立ち上がり、ドアを開けた。そこに立っていたのは会社の先輩であった。
彼はいつものように仏頂面だったが、唇をぎゅうと結んで、怒っているようだった。わたしは戸惑った。彼とは親しくない。
何か御用ですか。
様子を見に来たんだよ。
投げ捨てるようにそう言うと、彼は手に持った何かを差し出した。ばらの花だった。え。わたしは口のなかでもごもごと呟いた。意味がわからなかった。
やるよ。お見舞い。
先輩はそれだけ言うと、わたしに花を押し付けてなんの挨拶もせず、階段を下りていった。残されたわたしはぽかんとしたまま、あっけにとられて立ちすくんでいた。
しばらくたって、いつまでもこうしていても仕方がないので、その花を手に部屋へと戻った。台所に放置したままであったペットボトルに水を入れて、花を生ける。頼りなく傾いて不格好な赤い花は、包装紙をとってしまうと少しだけくたびれて見えた。
なぜ、花。
なぜ、ばら。
小一時間ほど考えてみたものの、皆目検討がつかなかった。考えることに飽きて、まあ明日聞くか、と思った。
明日また会えるし。
ばらに向かってひとりごちる。そして不意に、明日また会えない恋人のことを思った。胸に波が寄せるように、わたしは急に淋しくなった。
ぽろりと涙が出た。
思い返せば、恋人がいなくなってからの、はじめてのなみだだった。
別れてください、と夫に伝えると、いつもの小馬鹿にしたような目が今日もわたしを蔑んだ。そして、どうして。と尋ねる。
だってあなた、わたしのことを愛していないでしょう。それならば別れるべきだわ、とわたしは気色ばむ。こんなふうにわずかとはいえ語調を荒げて話すのははじめてのことかも知れなかった。
愛していないから別れるなんて、そんな子供じみたこと、出来るわけがないだろう?
夫はネクタイを緩めながら息をつく。まるで帰ってきてからも意志疎通のはかれない相手と会話しなければならない自分を、心底憐れむかのように。
どうして?とまた尋ねる。愛していないなら、別れる。恋人同士なら出来ることを、何故夫婦がやれないのかがわからなかった。さらに食い下がろうとするわたしに向かって、夫が言った言葉。それはごはん、だった。
急にくらくらと目眩が襲う。そしてこの、毎日八時に家を出て七時に帰宅する生き物が、途端になにか迷いこんできた異邦人のように思える。
学生の時分によくした遊びが脳裏に蘇ってきた。それはあらゆるおはなしの登場人物がいっしょくたに登場する、ノートのすみっこの小さな王国のことだった。毎日毎日つまらない授業のなかで、そこだけが色味を帯びた安全で満ち足りた場所だった。そのいびつさに、今が似ている。まるで統一性のないわたしたち。重なりあう場所はなく、笑いあうにはお互いを意識しすぎている、あの感じ。結婚というノートのうえで、はじまった日から多分別々のことを話している。あの日、グラマーのノートの余白で会話していたピノキオやジュリエットや赤ずきんみたいに。あの日のわたしはあの二人にどんな会話をさせたのか、もう思い出せない。女子高生のつむぐ稚拙な文面なんてどうせ意味のないものだったろうけれど。
呆然と立ちすくむわたしに対して、夫はどこまでも冷淡であるだろう。
そんな予想に反して、彼はぴくりとも動けないでいるわたしを見た。当惑しているようだった。ある種のうろたえのような表情を浮かべ、こちらを眺める。そしてしばらくの隙間があったのち、ぽつりと言の葉を漏らした。
疲れてるんじゃないか。
わたしはその台詞に、突き落とされたように現実へ引き戻される。そしてしばし憤慨する。この生き物は、わたしを何だと思っているのだろうと。疲れている?馬鹿にするにもほどがある。そんな理由で愛していないでしょうなどとは口にしない。わたしにだって分別があり、理性があり、それらすべての向こうがわに感情があるのだということを、夫は考えたこともないのだ。
震えにも似た激情が、一度攪拌されて散らばる。喉元にじわじわと集結して言葉を作り出す。そのほとばしりが声帯にさしかかって夫に投げつけるまで、あと数秒もかからない―――…。
「一体全体どうして、愛していないなんて発想が生まれるんだ」
しかし次に差し向けられた声と言葉が、あまりにも先回りした答えにそぐわなくって唖然とする。
夫はまたもや小馬鹿にしたような瞳でこちらを睨む。それなのにどこか不安げに揺れていて、なにかに怯えているようで。
今度こそと前のめりになった気持ちが見るも無惨に傾いでゆき、わたしは口ごもらざるを得ない。すると夫は畳みかけるかのように、
「ごはん」
と言う。幾分か苛立ちを含む声で。
わたしはもう、早合点を咎められたこどもみたいに居すくまってしまい、あわあわとしたまま台所へと向かう。夫はようやく「役割」を思い出したらしい妻に満足して、くしゃくしゃのカッターシャツを開襟してソファに座る。
作っておいたひよこ豆のスープを火にかけながら、わたしは「役割」ではなくてあの頃の小さな王国を思い出していた。そういえばいつのまにか、あの遊びはやめてしまった。ノートをつける機会など今だって皆無ではないのに。スープがくぽくぽ煮立つ頃、わたしは唐突に記憶を蘇らせる。そうだあの頃、王国が忽然と姿を消したわけ。それは恋だったように思う。わたしは恋をして、空想ではなくて妄想にいそしむようになったのだ。
名前は、アイダくん。野球部で日に焼けた、くまさんみたいな男の子だった。
わたしはピノキオやジュリエットや赤ずきんたちとさよならをして、アイダくんの肩幅の立派さだとか、鎖骨だけが妙に華奢な感じだとかをしきりに思い描き続けた。
「今日の夕飯、なに」
夫は野球中継を見る。さわさわとした球場の雑音。被さるような、解説者の語り。
「ねえ、アイダくんは甲子園に行ったのだったかしら」
スープの火を止めてサラダをよそいながら、わたしはふと夫に聞いてみる。
「は?」
虚をつかれたような声と気配で、振り向いたのがわかる。しかし彼は渋い顔をして、またテレビに向かった。
「二回戦敗退だよ。知ってるだろ?」
夫はチャンネルをガチャガチャと荒っぽくいじる。お笑い番組なんて好きじゃないくせに、観客の笑い声にどよめく画面を食い入るように眺めている。
アイってすごい。なんだって許せちゃう。だからたとえこの行為が白日の下に晒されたとしたって、アタシは大丈夫。だってタカシはアタシが好きで、大好きで、いつだってアタシの味方でいてくれるから。だからアタシもタカシが大好き。アタシを大好きなタカシを、アタシは大好き。
タカシとは、小学生のときに出会った。親の転勤で引っ越してきた、この街で。新築マンションの七階に住んでいたタカシは同じ階にやってきたアタシに、実によくしてくれた。時には王子様のように手をとって公園に連れて行ってくれたし、時には忠実な下僕のようになんでも言うことを聞いてくれた。
そんなこともあってアタシは、すぐにみんなの中に溶け込んだ。アタシは可愛い顔をしていたし、お母さんが買い与えてくれた綺麗なお洋服がよく似合った。大人も子供もアタシをお人形さんのようだと言って持て囃したし、アタシにはもちろんそれだけの価値があった。昔も。今も。
だから、中学生になったとき、タカシがアタシを呼び出したのは当然だと思った。小さくて可愛くて花のようなアタシ。タカシはほんの少し頬を赤らめて、アタシの目を見てこういった。
マナミのことが好きだ。
だけどアタシはタカシをふった。だって、タカシはその頃背も小さくて顔だって幼くて、入ったばかりの野球部の規則で頭は青々とした丸刈りだった。毎日泥にまみれて帰宅するタカシは以前ほどアタシに構ってはくれなくなったし、そんなタカシはアタシにふさわしくもなんともない。そう思ったから。
アタシは可愛くて、誰もが愛さずにはいられない。だから汚らしいユニフォームなんかに身を包んでなどいるタカシのものになれるはずがなかった。そんなことは、許されない。誰よりアタシが許せない。
悲しそうな顔でタカシが頷いてから、半年が経った。タカシは成長期を迎えぐんぐんと背を伸ばし、野球部で二番目に背の高い男の子になった。それから一年生の中では唯一、レギュラーに選ばれて、顔つきも少しずつ大人の男に変わっていった。
小蝿のような女どもが、いつも回りにたかっている。アタシは悟った。タカシも、やっと花になったのだ。うざったいけれど愛すべき、信奉者たちに取り巻かれる日々。選ばれたものだけが与えられる恍惚とした毎日。うん、それなら、オーケー。アタシは納得した。ようやく。これならアタシにふさわしい。アタシの王子様になれる。隣を歩いて、手を取って、そして時には口付けても構わない。だってアタシたちは美しく、お似合いのふたりになれたのだもの。
アタシは、タカシの部屋を訪れた。中学生になってからは足が遠のいていたけれど、チャイムを鳴らすとおばさんが笑顔で迎えてくれた。若いときは美人だったんだろうな、って感じのタカシのお母さんは、よく見ると目元が息子とそっくりだ。
タカシは部屋で勉強していた。部活をしながら課題をこなすのは並大抵のことじゃない、と言いながら、タカシは昔から勉強が好きだった。特に数学の問題を解いているときの彼はイキイキとしていて、難しい文章題も丁寧にクリアする。シャーペンを持つ指がごつごつと骨ばっている。知らぬうちに、随分成長していた。
アタシはその手に自分の手を重ねた。ふくふくと柔らかく、それでいて余分な肉のついていない、白く滑らかな手。女の子らしさの粋を集めたような、作り物のような、美しい手。びくっ、とタカシが、過剰な反応を示す。
ねえ、タカシ。アタシね、気がついたのよ。やっぱりタカシが好きなの。アタシもタカシが好きなの。
震える声はか細く儚く、庇護欲をかきたてるだろう。触れれば崩れてしまいそうな繊細さが、アタシにはある。アタシは瞳が潤んでいる事を確かめてから、タカシを上目遣いで見た。
ごめん。
え、とアタシは思った。有り得ない言葉だった。戸惑って、次の台詞を待つ。タカシの話を要約すると、つまりこういうことだった。
タカシはアタシにふられてから、野球に専念し始めた。めきめき実力を付けてゆくタカシを、一部の先輩グループが妬み、陰湿なイジメが始まった。ユニフォーム、シューズ、果ては鞄や制服に至るまで、ロッカーの中身は毎日のように荒らされた。けれど、負けないでといつも励ましてくれた人がいた。それが、マネージャーだったと言う。彼女のおかげで乗り越えられた。そして今、彼女と付き合っている…。
嘘、嘘、嘘。アタシの頭の中で、否定の言葉がぐるぐる回る。だって。タカシは。ずっと。アタシを。
野球部のマネージャー、それはうちのクラスの女の子だった。アイダさん、という、地味な子。アタシが花として生まれてきたのなら、彼女はその周辺に佇む雑草だ。誰も目に留めやしない。ずんぐりとした丸い身体、陰気な顔立ち。魅力も色気もアタシの半分にも満たない。そんな女が、タカシと。
タカシはまだ、何か言っている。悲しげな表情で。
俺、マナミのこと、ずっと好きだった。そりゃ、マナミに比べたら美人でもないけど、あいつは。
優しいんだ、とタカシは笑った。見たことのない、甘い微笑みだった。その笑顔、その声、その言葉。全てアタシのものになるはずだった。アイダさえ居なければ。あのブスさえ、身の程をわきまえていたなら。
アタシはその日、家に帰り、ずっとアイダのことを考えていた。許せなかった。タカシへの愛情が憎しみに変わり始める。けれどその矛先は、タカシじゃない。全ては、あの女が、いけない。
真綿で首を締めるように、じわじわ、じわじわ、逃げ場所のないところまでいじめてやろうか。とも思った。やめた。そんなことをすれば、タカシは割って入ってアタシをとめるだろう。小さいとき、公園で順番抜かしをしたことを嗜めたみたいに。そして咎めるかも知れない。アタシは、それが怖かった。タカシに嫌われることでなく。怒られることでなく。アタシの目の前で、アイダの肩を持つ、そんな姿を、目の当たりにするのが怖かった。
日々は過ぎていった。少しずつ噂は広がり始めていた。アタシがタカシに告白したことじゃない。アイダが彼と付き合っていること。タカシは今や、うちの学年では一番の人気者になっていた。季節が過ぎ行き、バレンタインが来た。タカシは他の女生徒からのチョコを全て断り、代わりに公衆の面前で、アイダからマフラーを貰っていた。日に日にアタシはどす黒くなっていった。
どうすればタカシが戻ってくるのだろう。そして、どうすればアイダを貶めてやれるのだろう。心に傷を負い、二度と部屋から出れないほどの、ダメージを与えてやりたい。雑草は雑草らしく地面を見つめ、頭を垂れて花の周りをうろついていればいいのだ。
アタシはつい最近まで、そんなことを始終、考えていた。気がつけば三月も中旬に入っていて、アタシはアイダを殺していた。
電話で呼び出すと、アイダは簡単にやってきた。昔、よくタカシと遊んだ公園だ。今は取り壊しが決まっており、まわりがブルーシートで覆われている。タカシが好きだったブランコに座り、アタシたちは少し話した。学校のこと、野球部のこと、そしてタカシとの付き合いのこと。
夢みたい。
アイダは笑った。
わたし、マナミさんに憧れてたんだ。可愛くて明るくて、マナミさんみたいになれたら、って。ずっとお話したいと思ってた。友達に、なりたいって…。
朗らかに、それでいて照れくさそうに、アイダはそう告白した。アタシの我慢は限界だった。図々しい。おこがましい。タカシにもアタシにも、あんたはふさわしくない。あんたみたいに何の取り柄もないブスが。アタシたちに近付こうなどと。
肉付きのよい首に、綺麗に研いである爪が食い込む。アイダが苦しげに抵抗する。だけど、アタシはずっと、自分の爪だけを眺めてた。桜色に塗ったマニキュア。浅黒いアイダの肌にはあまり映えない、けれど、アタシの白い肌にはよく似合う。
しばらくすると、アイダは動かなくなった。アタシは公園を囲むブルーシートを一枚、拝借した。丁寧に彼女を包む。そして、落ちていた黒と黄色の薄汚いロープでそれを縛った。
余したロープの端を持ち、重い彼女を引きずる。これを何処に隠そうか。アタシは考えあぐねながら、公園をうろうろした。
ズルズル、と響く鈍い音。ふと空を見上げると今宵は満月で、暖かくなり始めている冬の風を感じながら、アタシは明日からの生活を思った。
これで、しばらくは大丈夫。アイダが行方不明になり、タカシは悲しむだろう。その時側にいるのはアタシだ。アタシが優しくしてあげる。男の子には、一番辛いその時に、側で支えてくれる女の子が必要なのだ。タカシはアタシを好きになるだろう。もう一度、好きになるだろう。そしてこの先、何かがあって、アタシから心が離れたその時も、アタシは人を殺すだろう。タカシの大切な人を殺すだろう。そして自ら、癒すだろう。アタシは悟ったのだから。
タカシを慈しみ、慰める。そしていつでも愛が芽生える。アタシはタカシの側で、愛らしく微笑むのだ。世界で一番美しく。世界で一番幸せに。
それが花に生まれたアタシと、タカシの運命なのだ。
ニカイドウくんは素敵な男の子だった。ちょっと神経質そうな、眼鏡をかけた男の子。彼とはゼミで知り合い、わたしはそれまでも何度か噂を耳にしていて、名前だけは知っていた。
ニカイドウくんはよくもてた。特別容姿がよろしいわけでもないしフェミニストってわけでもなかったけれど、掴みどころのない飄々とした感じはいかにも女の子を夢中にさせてしまう、周りを見えなくさせてしまうようなところがあった。そのうえニカイドウくんは比較的誰とでもセックスをするというのが定説で、だからニカイドウくんに入れあげた女の子たちはみんな病んでしまって、そのうち刺されるのではないかといつも誰もがひそひそ話した。
わたしは友達が少なかったけれど、彼とは変に気があって、気がつけばそれなりに一緒にいるようになった。不思議と異性として惹かれることは無かったけれど、まあこいつがもてるのはなんとなく仕方がないことなのかも知れないなあなんてほどには、ニカイドウくんを好もしく感じていた。
「サバエさんは僕を好きにならないね」
あるとき酒の席で、しゃあしゃあと彼がそう言ったので、酔いも手伝って殴ってやったことがある。彼は真性のマゾみたいに嬉しそうに、痛いなあと笑った。
「ねえ、ニカイドウくん。調子に乗りすぎじゃない?」
「だって、女の子たちはぼくが好きでしょ。何故か」
「そりゃあ、まあ、きみはもてるけどさ。好きな女の子とか、いないの? 大切にしたい女の子は」
「うーん。でも、みんな大切だよ」
「それは違うんだよ、ニカイドウくん。たったひとりを大切に思えなきゃ、本物じゃないんだよ」
「ふうん」
「あのね。そんなだと、ほんとうに好きな女の子が出来たとき、困るよ。愛想、つかされちゃうよ」
「はあ、そういうものなんだね」
そう言って真摯に頷いたやつの目は冴え冴えとしていたけど、どこまで「わかって」いたのかはわからない。そして当のわたしも、そんなこと本気で言ったのかどうかさえ疑わしい。これは記憶が薄れているからではなく、そのときその瞬間でさえ。世間一般の恋愛論、それはわたしの経験や体験を一切無視して、「正しさ」としてそこにあったから。「正しい」から言っただけ。ほんとうに思っていたわけでは、ない。
わたしはよく酔うと彼をたしなめていた。なにも知らないはたち過ぎのアホのくせに、恋愛の尊さやらセックスの神聖さなどを講義した。少女マンガの夢想みたいな陳腐な内容で、今でもってその記憶だけニカイドウくんから盗めるものなら盗みたい。そしてロバの耳と一緒に土深く埋めてしまいたい。
「あのねえ、サバエさん」
「なあに」
「僕さあ。セックスが、出来ないんだよね」
梅酒が確か五杯目で、ニカイドウくんはおかわりしたたこわさをつつきながらそう言った。わたしはまた何の冗談かと、笑った。
「出来ないって、」
「ほんとだよ」
見つめたニカイドウくんの顔が真剣で、ちょっとびっくりした。EDなんて年老いたおっさんが、ハゲやメタボリックと同じレベルで悩むものだと思っていた。
「じゃ、若年性?」
「…若年性とか老年性とか、あるのかは知らないけど。多分、心因性のものなんじゃないかなあ」
結構ヘビーな体験をしたからね。
そういって密やかに笑うその横顔は、いつものちゃらんぽらんなニカイドウくんではないみたいだった。
聞きもしないのにぽつぽつと彼が語った経験は、逆レイプというより性的虐待に近いもので、ここに記すのが憚られるような凄惨な過去だった。わたしは思わず息を飲み、
「そりゃたたないわ…」
とこぼす。いたわりと憐れみを精一杯こめたつもりの返答に、しかしニカイドウくんは盛大に吹いた。
「男みたいな、コメント」
その痛ましい過去のはなしを、どうしてわたしにしたんだろうか。よくわからない、よくわからないなりにわたしは、そのはなしを大切に閉まっておくことにした。いつか使えるかも知れないからじゃなくって、形見分けでもらった故人の宝物みたいな感覚で。
しばらくしてニカイドウくんは、誰彼となくセックスをしてしまう(正式には誰彼となくいかせてしまう)悪癖をやめた。わたしこそが彼女と豪語する女の子がひとりしつこく彼を追い回してはいたけれど、別れ話の出来るタイプではないニカイドウくんは自然消滅を待っていた。その変化は頭のなかにピンクの綿菓子が詰まっているようなアホ女子に不評だったらしいが、彼はなにかとても、満ちた顔をするようになった。浮き世ばなれしていた自由さが売りだったニカイドウくんはなんだか生身の人間っぽくなって、はきはきと喋ることが多くなった。
「なにごと?」
あまりに不気味なその様子に、思わず聞いてしまう。うきうきしているニカイドウくんは気持ちが悪い。ひそやかな雰囲気は変わらないながら、内側から何かがほとばしっているような。
「なにがあ?」
「聞いて欲しそうだね…」
語尾があがる若いこぶった(いや、確かに若かったけれど)言葉尻で、すでに浮かれている様がはっきり見てとれる。にやにや笑うニカイドウくんはいつともなしに幸せそうで、それはなんだか、地味に怖かった。
「好きなこが出来たんだ」
「へえ?」
「ま、それだけなんだけど」
ニカイドウくんと出会ってから彼が誰かを好きとかなんだとか、そういうはなしは一切、聞かなかった。いつもは誰かが彼を好きでいた。だからか、色恋にはどこか醒めた目でいるような気がしていた。色眼鏡を承知で言えば、やつにとってはグロテスクでしかないあの行為をはらむ関係に、希望なんか見いだせるのかとも思っていた。だから素直に、言った。
「良かったじゃん」
そんな言葉にふふふと笑う。実に人間味溢れて、老人から少年にでも若返ったかのようなニカイドウくんに、自分まで嬉しく思えて、その日はいつも以上に飲んだ。
わたしたちはその後卒業をして、ふたりとも東京に移り住んだ。わたしは就職し彼は大学院に通っていたが、相も変わらず会合は続き、頻度は緩慢になれど月に一度、飲んだ。
「別れた」
東京に来て六度目の席、悲痛なしわを眉間に刻んだ彼が呟いた。
「え? あの、好きなこと?」
「うん」
そもそも付き合っていたという事実がニカイドウくんらしい。しかし彼は憔悴していて、茶化すのはためらわれた。
「なんで」
「僕に、彼女がいたから」
それはそれは、実に複雑な問題ではある。でもわたしにしてみればニカイドウくんはそういうやつで、普通ならば悪いのは完璧にニカイドウくんなのだけど、それは彼のアイデンティティというか、逆にそれを理由に傷つくことが出来たその子は、よっぽどニカイドウくんに大切にされていたのだろう。そんなことを聞いたら大学時代の女子は軽い暴動を起こすんじゃなかろうか。わたしたちの間ではニカイドウくんはみんなのものだった。諦念にも似た割り切りがあった。
その日ニカイドウくんはゆっくり酒を舐めて、ヒロタさんとやらのはなしをした。2つ年下であることや大学の後輩であることや、小柄で華奢だということや意地っ張りで強がりであることや、別れの理由はニカイドウくんの不手際と、遠距離と、側にいる男の子に負けるかたちで彼女が離れていったのだということや。はじめて知る、ニカイドウくんが愛した女の子。あんまり可愛くはないんだ、と悪びれず語る声音で、たぶん彼はどうしようもなく彼女のことが好きだったのだと悟った。
まさか死ぬほど好きだったなんてそのときはわからなかったけれど。
ニカイドウくんはそのまま、四日後に死んだ。睡眠薬の過剰摂取。ばかみたいな死に様で、全然似合わない。不当だ。不相応な死だ。お葬式の参列のなかで、ああそういえば昔、ニカイドウくんに恋をして自殺未遂を起こした女の子がいたっけと思いをめぐらせてみた。ドラッグストアで買いこんだらしい睡眠導入剤を焼酎でキメた子。その子はお葬式にも来ていて、でも存外にけろっとしていた。今のあの子にしてみたらニカイドウくんの名前入りの黒縁のハガキも、同窓会のご案内も、大した違いがないのかも知れない。やるせないけれどそういう生き方をしたのだ。そしてそういう彼にみんなは惹かれたのだ。いつまでも心には残しておけない、だからこそ強く手にいれたくなる男の子。
家族すら呆けたような淡泊さを見せる式のなか、沈鬱な表情を浮かべる女の子を見た。小柄で華奢な。寄る辺なく人の波に揺られている彼女は、十中八九ヒロタさんだった。ニカイドウくんは嘘つきだ。可愛らしい、頼りないヒロタさんを眺める。ああ、でもあんな風采で、意地を張り強がって生きているなんて、ニカイドウくんですら愛さずにいられなかったろう。今だって涙も流さない。どこかで見たような悲痛なしわを、あんなにも眉間に刻みこんでいるのに。
…ねえニカイドウくん。ヒロタさんが泣いてないから、わたしが、泣くよ。
だってほんものの悲しみは、たったひとつがいいでしょう?涙も流せないくらいの悲しみは、ヒロタさんだけに許される。
溜め込んでいた濁流に飲み込まれるように、わたしはわああと泣いた。あとからあとから流れる。周りから何人か駆け寄ってきてなだめる声がする。おさまらない号泣の果てで、わたしはニカイドウくんのことを考える。
たぶんニカイドウくんは全部わかっていた。たったひとりきりの心に、大きな傷をつけて残るために、死んだ。間違ったって同窓会なんかにならないために。それだけのために。ヒロタさんがニカイドウくんを選ばなくて、側にいる男の子の手を取ったとき、彼はなにを思っただろう。そうさせたのはやつだ。可哀想なのはむしろヒロタさんだ。ニカイドウくんなんて愛しちゃったら、不幸になるだけだ。こんな形で取り残されて、彼女はこれから、どうすりゃいいんだ。
わたしはわあわあ泣いた。恥ずかしげもなく。結局のところ、わたしは「道」から外れた人間だったのだ。彼の道はまっすぐ、彼女のところだけに繋がっていた。だからせめて脇道で騒いだ。あんたには脇道もあったのに。友達がいたのに。恋だけがニカイドウくんの人生なんかじゃなかったのに。
それでも、ニカイドウくんはたぶん、今もしどっかでこの茶番劇みたいなお葬式をを見ていたとしたら、やっぱりヒロタさんだけを見てるんだろう。たくさん泣いたら、涙が出なくなったら、わたしもひとつ恋をしてみようかなと思う。ニカイドウくんみたいな気持ちわるい強い恋じゃなくていい。ヒロタさんみたいなありふれた弱い恋じゃなくていい。ちゃんとわたしだけの恋をしてみようかなと思う。
そしていつか死んで、あのとんでもない男に天国(か、もしくは地獄)で出会ったら、全然好きじゃなかったけどでも好きだったってことにして、逃がした魚は大きかったよ、わたしはこんなに幸せになって、こんなに誰かを幸せにしたよって言ってやりたい。
対面で酒を飲み、くだらない話で小突きあった、あの日の夜のように。
父親の仕事の関係で遠くへ行ってしまうチカに合わせて、あたしたちは親友の誓い、の約束をした。
親友の誓いっていうのは、お互いにいちばん大切な秘密を打ち明けあうこと。そうすることであたしたちは、ただの仲良しから一歩進んだ関係になれる。
はすみんのお姉ちゃんはいま大学に通うために東京に行ってしまったけれど、理沙のお姉ちゃんと未だに仲がいい。それも、親友の誓いのおかげなんだって、はすみんは胸を反らせた。
もちろん、打ち明けるのはばらされては困る秘密。出来れば誰も知らないもの。そうじゃなきゃ意味がない。スリルが大事なの、と理沙が言う。でもあたしには、知られて困る秘密なんてないのだ。強いていえば、いまのところそれが「秘密」。だって他の三人はすぐに思い付いたようで、約束したそのときからくすくす、とても楽しそうに笑っていた。はやく見つけなきゃ、と思うのに、あたしの毎日はすごく平凡。このままじゃあたしだけが親友の誓いが出来なくて、仲間はずれにされてしまうかも。これも理沙の言うスリルかしら、と、ちょっとドキドキしている。とにかく、誰にも言えない秘密を探さなきゃ。
あたしたちは四人で仲良しだけど、二人組にならなきゃいけないときは、だいたいチカと組むことになっている。というのも、はすみんと理沙はお姉ちゃんたちも親友で、ふたりもとっても仲がいいのだ。移動教室も、トイレも、帰り道もずっと一緒。たまに手まで繋いでいる。さすがにやりすぎじゃない?って聞いたら、コマチはこれだから…って呆れられてしまった。
外国じゃ、当たり前だよこんなの。
あたしたちのなかでいちばん物知りなはすみんが言うのだから、間違いはないのだろう。そういうものかあ、と頷いたら、明らかにばかにしたように理沙が笑った。
ほんと、コマチって面白いよね。超天然ー。
ふたりは肩を並べてくすくす笑った。
そのとなりでチカが、困ったように微笑んでいる。
あたしは少し恥ずかしくて、それをごまかすように、えへへと照れたあと今日の給食なにかなぁ、と口にした。
今度ははすみんも理沙も、弾けたみたいに大笑いする。
もー、コマチ、それ以上太ってどうすんのよー。
鈴のような理沙の声が教室中に響いた。
その日の帰り道、あたしはチカと帰っていた。
ふたりはテニス部の練習があるとかで、いそいそとウェアに着替えていた。
あたしとチカは帰宅部だ。クラブ活動をすると夕方の再放送に間に合わないから、入るのをやめたのだ。あたしはあんまり興味ないけど、うちのママはあたしとテレビを見るのが好きで、その時間帯に帰っていないととても寂しがる。チカは卓球部だけど、週に二回しか練習がない。それももう、先月の試合を最後にやめてしまっている。
「だいぶ、日が落ちてきたね」
「もう秋だもの」
「いつ引っ越すの?」
「来週の水曜日」
あたしたちはどうでもいいことをしゃべる。
もう少しで分かれ道、というところまで来て、チカはぽそぽそ呟いた。
「ねぇ、コマちゃんはいいの?」
「なにが?」
「親友の誓いなんてしちゃって」
「いいよー。なんで?」
「…だって…」
チカは丸い目をしばたたかせて、少しいいにくそうにしている。
そしてしばらく間をおいてから、決心したように口を開いた。
「あたしはイヤだな。理沙も、はすみんも、あんまり好きじゃないもの」
あたしはびっくりして、思わずチカを見つめた。
「な、なんで? だって、いつも一緒にいるじゃん」
「一緒にいるけど、好きじゃないの。そりゃ、よく遊ぶし仲良くはしてるけど、理沙たちって都合のいいときだけあたしたちといる気がする」
「そんなことないよ、こないだも合コンとか呼んでくれたし」
先週、南高の男の子たちがカラオケに誘ってくれたのだ。理沙とはすみんが帰り道にナンパされたらしい。男の子たちはみんなかっこよくて、クールで都会的な感じがした。雑誌に載っているようなおしゃれな服装で、話もうまくて、歌ももちろん上手だった。
「だから、それは…」
チカがさらに言葉に詰まって、視線を泳がせる。あたしが首を傾げていたら、ごめんね。って前置きして、言った。
「それは、あたしとコマちゃんがかわいくないから。ふたりは自分たちがもっと可愛く見えるように、あたしたちを呼んだの。男の子たちだって、あたしたちのこと、全然相手にしてなかったでしょ?」
そんなこと、全然気付かなかった。
目をぱちくりさせて、ただただ驚いていたら、チカはいつもみたいに眉をきゅっと下げて、まるで泣きそうに見える顔で笑った。
「そこがコマちゃんのいいところだと思う。あたし、コマちゃんのことは大好きだよ。だけどやっぱり、あの子たちは許せない。だからいいことを考えてきたんだ」
「いいこと?」
「そう。親友の誓いを失敗させてやるの」
「ええっ! だ、ダメだよ。そんなことしたら…」
「いいのよ、別に。コマちゃんは知らないと思うけど、あのふたりだって影ではお互いの悪口ばっかり言ってるんだもん。どうせ誓ったって守りっこないよ」
まさか、そんな。
あたしはショックで頭が揺れていて、すぐにはチカのいうことを信じられない。
それに、どうやって失敗させるつもりなんだろう?
「あのね、親友の誓いはあたしとコマちゃんだけでやるの。それで、四人でやるときはウソの秘密を言うんだ。そうすればあたしたちは秘密を打ち明けずに、ふたりの秘密を知ることが出来るでしょ?」
なるほど。すごい、チカ、頭いい。
あたしが単純に感心すると、
「だからあたしがいなくなったら、コマちゃんはその秘密を人質にとって、あのふたりがイヤなことを言ってきたら反撃するのよ。『秘密ばらしちゃうよ!』って」
「で、でも、理沙とはすみんが困る…」
「困ればいいんだよ、少しくらい。出来るよね?」
「う、うん…」
いつもはおっとりしていて優しいのに、今日は妙に力強いチカの気迫に押されて、あたしはおずおずと頷いてみせた。するとチカはとても嬉しそうに笑う。
「がんばれ、コマちゃん! じゃあ、あたしの秘密はね…」
チカは少し声を小さくした。それは誰かに聞かれることを怖がっているだけじゃなくて、「秘密」が彼女にとってあまりにもつらいことだったので、自然とトーンが下がってしまった、というのもあるはずだ。
「…あたしが転校する、ほんとうの理由はね。お父さんの仕事の都合なんかじゃないんだ」
チカのお父さん、には何度も逢った事がある。
いつもニコニコしていて、優しくて、だけどちょっと頼りない印象があって。
隣の市の工場で働いていて、職場までは自転車で通っていて、よく通学路で見かけた。
こちらに気付くと軽く手をあげて、にっこり微笑んで通り過ぎていく。
その顔がチカにそっくりなのだ。
「お父さん、借金があるの。おばあちゃんが病気になっちゃって、その入院費とかで…いろいろ。だから仕事の都合なんかじゃない、あたしたちは借金を踏み倒して逃げるのよ」
夜逃げって、もっと突然なものだと思ってた。
正直にそう伝えると、
「お父さんがお金を借りているのは、消費者金融とかじゃないから…」
じゃあ、どこで。
それ以上聞く前に、チカはぱっと顔をあげた。
「これがあたしの秘密。誰にも言わないでね。次はコマちゃんの番だよ」
そういわれても、あたしにはそんな秘密。
と考えて、ひとつだけ、思いついた。
それは遠いむかしのことだったし、今ではもうみんな、忘れて暮らしている。
だから今更のような気もしたけど、他にはなにも思いつかない。
それに、チカが話してくれたのに、自分だけ話さないのは、やっぱり気が引けた。
「うんとね…」
あたしもつられて、ぽそぽそかすかな声で呟いた。
じっと耳を傾けていたチカは、次第に表情を固くする。
「…それ、ほんとなの」
ゆっくりと首をたてに振る。
すると、しばらく考え込んでいたチカは、まっすぐにこちらを見つめ返して、
「わかった。誰にも言わないね」
と強く、頷いてくれた。
あたしたちは親友の誓いを交わした。
遠く離れても、仲良くしていけたらいいな。
あたしは、改めてそう思った。
そして、ついに水曜日がやってきた。
帰りの会のさいごに、先生がチカの転校について触れた。
すこし涙ぐんでいる子もいて、あたしもちょっと泣きそうになる。
チカは学級委員に花束と寄せ書きを貰っていた。
そのそばで、理沙やはすみんも、大きく鼻をすすっている。
帰りは、四人で帰ることになった。
「ねえ、考えてきた?」
どこかわくわくしているようなはすみんが尋ねる。
「当然。もちろん、考えてきたよね、秘密」
理沙が相槌を打って、こちらを見る。あたしたちは曖昧に頷いた。
「じゃあ、早速、誓おうよ。これであたしたち、いつまでも親友だよ」
こうして話していたら、その言葉になんの悪意だってないように聞こえる。
チカの、勘違いじゃないのかな。
考え過ぎじゃないのかな。
そわそわしてしまう。すると、後ろからチカにシャツを引っ張られた。とがめるような視線が飛んできて、あたしは慌ててなんでもない風を装った。
「はじめはあたしからね。…実は、二ヶ月くらい前から…付き合ってるんだ」
理沙が恥ずかしそうに宣言する。
「えッ彼氏できたの?」
はすみんがすっとんきょうな声をあげる。
「うん」
「誰、誰?」
「テニス部の大伴先輩」
「えーっ」
「ほんとに、誰にも言わないでね? 先輩もてるから、絶対僻まれるし」
「マジ、超イケメンじゃん! えーうらやましい!おめでとう!」
はすみんは手を叩いて祝福している。
正直、大伴先輩と言われても顔も浮かばない。
「あれ? こないだの男の子たちは?」
確か、あのとき彼氏はいないって言ってたはずだ。
「…あは、コマチまじウケる。合コンで彼氏いますとか言うわけないじゃーん」
「まあコマチには縁のないはなしだから、別にいーけどー」
きゃははは。
また、いつもの笑い声。
寂しくなるような、悲しくなるような、自分がとても恥ずかしくなるような。
えへ、と笑い返す。
でもふたりはそんなことどうでもいいように、
「ほらあ、次はすみんだよー?」
「えー。てか、先輩と付き合ってるとか言われたあとに話すの超しょぼいんですけど」
「いいじゃん、約束なんだから言っちゃいなよー」
「もー。…こないだ三田村の漫画なくなったじゃん? 実はあれ、あたしがぱくったんだよねー」
「うわ、さいてー」
「だってあいつめちゃくちゃうざくてさぁ、ちょっと困らせてやろーとか思ってー」
「あはは、でも言えてるかもー」
「でしょ? 懲らしめてあげたくらいの感じだよねー」
楽しそうに。そんなことを、打ち明けていく。
あたしとチカのあいだに流れていたような空気は微塵も感じられない。
少し混乱して、でも、思った。
親友の誓い。いま話してくれた、ふたりの秘密。
もしかしたら、あたしたちが考えていたよりも、ずっとことは簡単なのかもしれない。だって、ふたりともこんなに楽しそうに秘密を打ち明けている。
そして信じているんだろう。あたしも、チカも、ウソはつかないと。
秘密を言いふらしたりしないだろう、と。
「…チカ」
彼女にしか伝わらないささやかな声で、あたしは呟いた。
「ごめんね、あたし、やっぱりほんとのことを言うよ」
だってやっぱり、ふたりを騙すなんてよくないし。
それに、残るあたしはいいけれど。
もしチカが、遠くへいってしまったあとに、やっぱりあのとき誓っておけばよかったって、後悔しちゃうのは、イヤだよ。
「だ、ダメ! コマちゃん!」
やっと聞き取ったチカが、大声を出した。
盛り上がっていたふたりがこちらを見る。
「ちょっと、なに? いきなり叫ぶとか」
眉間にしわを寄せたはすみんの声に、あたしはかぶせるように告白した。
「あたしむかし、人を殺したことがあるんだ。弟なんだけど。ほら、去年生まれた弟、いたでしょ? 毛布でくるんでたら、いつのまにか死んじゃってたんだ。びっくりしたけど…なんか赤ちゃんて、突然死んじゃうんだね。大したことないと思ってたんだけど。…これがあたしの秘密だよ。びっくりした?」
出来るだけ重く聞こえないようににこやかに、早口で。
一瞬、へ? という顔で、理沙とはすみんはお互いの顔を見合わせてる。
そして次の瞬間、
「ちょ、なにそれ超笑えるんですけど!」
「ほんっと、コマチって馬鹿だよねー。空気読めよ! ね、チカ…」
笑い飛ばした理沙がくるりとチカへ向き直り、そのまま、固まってしまう。
チカは、ぼろぼろと涙をこぼしていたのだ。
「…なんで…なんで、言っちゃうの…」
嗚咽に混じってあたしを責めることばが聞こえる。
「ごめん…」
ふたりはひくひくとこめかみを動かして、引きつった表情でただその様子を眺めていた。
そして、無理に作った笑顔をこちらへ差し向けて。
「…なんで、殺した、の?」
からからの喉から、かろうじて、それだけを絞り出す。
「んー…うるさかったから、かな? しつこかったし。ついつい」
朝も。昼も。夜も。夜中も。気が狂うのではないか、と思われるほど、あの頃、うちには常に弟の泣き声がこだましていて。
お母さんはとても疲れていて。お父さんも、とても苛立っていて。
なによりあたしも、いらいらしていて。
むしゃくしゃして、もうなんだっていいから黙って欲しくて。
そしてその場にあった毛布を、赤ちゃんの口いっぱいに詰めたんだ。
しばらくは火がついたように、いっそう泣き声がひどくなった。
だからもう一度力を込めて、毛布を、押し込んで、押し込んで、押し込んで、押し込んで。
気付けば弟はぐったりしていて。
もう随分前のことだから、ちゃんとは憶えてないけれど。
そのあと、両親はしばらく嘆き悲しんでいた。
けれど半年が経過するあたりになると、お父さんはもう何も言わなくなったし、お母さんはずっと笑っていて、ずっとテレビを見ていて、まるで、子供に戻ったみたいに嬉しそうにしているから。
「だから、いまにしてみれば、やっぱり殺しておいてよかったなって思うよ」
つとめて明るくあたしは話した。だけど三人の表情は変わらない。
理沙も、はすみんも、チカも、誰も何も言わない。
あたしは少しだけ困って、そして、この場をとりまとめるためにみんなに笑いかける。
「これであたしたち、親友だね。誰にも言わないでね。約束、破ったら針千本飲ます、だからね?」
ふたりが、ひ、と消えそうなくらいの息を漏らす。
まだべそべそと泣いていて、ついにはへたりこんでしまったチカに、あたしは駆け寄った。その肩を優しくさすって、声をかける。
「ほら、チカの番だよ。ちゃんと、本当のことを言わなくちゃ、ね?」
諭すように声をかけたら、チカの肩がびくりと跳ねる。
その手のひらが触れた先から、何故か体温が下がって行くように、彼女の身体はとても冷たい。
断然青だね。
色違いのシャツを見比べたきみが、自信満々に言う。
えー、赤だよ。絶対、赤。
あたしは反論する。
じゃあ訊くなよ。
きみは苦笑して、あたしの頭を撫でるように小突く。
あたしもついつい笑って、そうやってじゃれ合って。
たった一ヶ月前のことだ。
それなのにもう二度と、きみに逢えない。
真っ白な壁、真っ白な天井、
そして負けじと真っ白なきみの肌。
ぼんやり座り込むあたしに、手渡された黒い服。
涙なんかでない。
泣かない。
きみが帰ってくるまでは。
このたび、満月舎がオンデマンド文庫「ブックス文庫」に参入するということで、若かりし頃の(いまでも充分若いつもりではあるのですが)作品を何点か提供して欲しい、というご提案がありました。せっかくなので、ご縁のはじまりでもある「第六回 満月舎短編小説賞」で賞を頂いた表題作と、高校生、大学生の頃に書きっぱなしにしてあったものをハードディスクの奥底からずるりと引っ張り出してきて、なにやらフレッシュな完成度の低い短編集が出来上がりました。
わたしは至らなさゆえに、文庫本というものをあまり出さない人間です。そのため、こういった「あとがき」然としたあとがきはたいへん苦手です。それでも、賞を受賞させて頂いた頃などは、「あとがき」というものはたいへん小説家っぽいなあ、と考えて、いつかその機会が訪れはしないかと心待ちにしていたものです。
現在わたしは大人になって、このお話を書いていた頃とはまた違う目線で、環境で、のうのうと生活しております。文庫になるにあたって再度読み返してみると、聞きかじりの知識で、高校生が、よくもまあこんな恥ずかしい小説を書いたものだなと思いました。穴があったら入りたい、というよりも死にたい気持ちになるのですね。またひとつかしこくなった気がします。
あの頃、わたしは大人になったら世にちやほやされる感動大作など書いて多忙な日々を送っているのだろうと漠然と夢想しておりました。残念ながらそんな暮らしは、わたしの人生のどこにもないようですが。けれどいまの生活にも、実をいえば満足しております。いろいろなことを経験する、というのは、いずれまた小説をなりわいにしよう、と考えたときに、ずいぶんわたしを助けてくれることでしょう。
いまの環境を、わたしはたいへん愛しています。
文庫本を出すにあたり、細部に至るまで修正したい点は多々ありましたが、出来る限り応募した当時の原文のまま、お願いする事にしました。当時書けたものはもう二度と書けないし、わたしがこれから書いていくものも、おそらく当時のわたしには書けないものになると思います。
大人になる、というのはたいへんよいことだと思います。
そして当時のわたしはだいたい追いつめられていたせいか、この短編集は冒頭は桃色カラーのくせに中盤あたりからハイパー死人タイムが始まってしまうのですね。あとがきを先に読まれる方、今からでも遅くはありません。本を閉じて引き返しても構わないのですよ。
けれどももしこれから先、わたしの名前をどこかの書店で見かけた際には、是非手に取ってご覧頂ければと思います。そして出来るなら購入して頂けますと有り難く思います。
…あとがきというのは、果たしてこういうものだったでしょうか。
二〇十三年 初春
伽山 聡
初出
消えた白い猫 「第六回 満月舎短編小説賞 佳作作品」
その他、書き下ろし
2013年5月25日 発行 初版
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1987年11月16日生まれ。大阪府出身。
「ファクトリー・アース」にてデビュー。
その他作品に「世界の終焉と彼女」「希望的観測台」「子供たちが踊る夏」など。