起業を目指す若者を食い物にして、しかも痕跡をほとんど残さず消えていく「なめくじファンド」。それは本当にあるのか? それとも妄想にすぎないのか? ある若者に忍び寄るその影――
。現代の怪談。
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はじめまして。本間舜久です。
これからお読みいただく作品は、第二十回日本ホラー小説大賞に応募して一次通過した作品「なめくじファンド」を改題し、小見出しをつけたものです。
ご参考のために、それ以外は本文にまったく手を加えていません。いろいろと難点もあるとは思いますが、私としてはホラー作品のつもりで書いています。
発想は、三遊亭円朝の「真景累ヶ淵」であり、その元になった「累物」と呼ばれる江戸時代に人気のあった草紙、そして歌舞伎の演目です。怪談なのですが、「四谷怪談」ほどポピュラーではありません。現代人から見れば、どこが怖いのか、と思う部分もあると思います。
実話が元になっていて、そこからいろいろなものがついていき、総合的なエンターテインメントになっていく点がとても興味深く、そうした考えで作品を作ってみたいと思いました。
怪談のような話を現代の風景で描くことを試してみようとした、とも言えます。
では、どうか、お楽しみいだければ幸いです。
※当初原稿は一太郎で作成。四万九千四百字、四百字原稿用紙百二十四枚。
「あなた」
顔が近すぎる。化粧の濃い小太りの女。妙な髪飾り。巨大な耳のピアス。手にもすべての指に宝石のついた指輪。手首に何重にもブレスレット。
そして真っ赤な口紅の下の二重顎は、なんだか濡れて光っている。
「川口誠一郎さん。二十九画。最高にいい運の持ち主だわ。すばらしい才能がある。だけど、いま組んでいる人とは縁を切りなさい。そのビジネスを本気で成功させたいなら、別のやり方を見つけなさい。焦ることはないの。一年以内にホンモノの協力者が現れます。いま組んでいる人はダメ。あなたはすべてを失うわ」
「そんな……」
「悪いことは言わない占い師だ」と美紀は約束したではないか。
それなのに、おれのせっかくの楽しい気分は吹っ飛んでしまった。
八時間前のおれは、とてもいい気分だった。お酒のせいだけではない。自分の夢に向かって大きな一歩を踏み出したのだから。
その確かな手応えを得ていた。
約束は守られたのだ。
資本金三千万円。しかもその九十九パーセントが議決権なしの株式、つまり議決権制限株式による資金調達だった。
おれが作った売り上げゼロ、顧客ゼロの株式会社スペアヘッドに、新たな資本が注入されたのである。
明日はオフィスの契約もすることになっている。
「少しでも手応えがあるなら、最大二億まで資本を増やすことができますよ」
祖父ぐらいの年齢に見える花実享一郎が、そう約束してくれたのである。
「あなたは誠一郎。私は享一郎。同じ一郎同士というのも、なにかの縁ですかな」
彼は、いくつかの大学の研究室などから情報を得ていて、見込みのありそうな研究開発や事業化の資金集めをしてくれている人物だ。
「私自身は祖先の残した資産を維持管理することが使命ですが、同じような仲間がいましてね。儲けだけを考えているわけではないのです。国のために、そして未来のために役立つ投資をしたい。もちろん、過去には利益としても大きく貢献してくれた事業がありましたから、川口さんのビジネスもぜひその仲間に入ってほしいとは願っていますがね」
いまでは有名な大企業、ノーベル賞候補に毎回挙がる学者とその研究室などを、つぎつぎと花実は語るのだ。彼の人脈は広く、おれには想像もつかないアッパーな世界に生きている。財界、政界、法曹界、そして学者たちや技術者たち……。
話題が尽きたことがない。
「いま川口さんに提供できるのは、ほんのささやかな応援です。そして、事業が軌道に乗ったら私たちは退場します」
「それでいいんですか?」
「アップルをご存知ですか?」
「スティーブ・ジョブズの?」
「ええ。彼とも何度も会っていますが、おもしろいけど抜け目のない男でした。低迷していた頃のアップル株は、たったの二十ドルほどでした。損を覚悟で多少は応援をさせてもらったわけだが……。いまでは六百ドルにもなっています。我々はそういう株をほんの少し持っていればそれでいいのです。買い占めるつもりはありませんし、それでは成長しないでしょう」
「なるほど」
「上場するときに、川口さんの会社も公的な責任を持つようになる。組織や資金について、証券取引委員会がうるさい。注目されるかもしれない。そのとき、わたしのような者の名が余計な詮索を招くでしょう。我々はそういうことが煩わしいので表舞台には出ないのです。議決権のない株式で資金を提供するのは会社を支配する気はないからです。ただ、アーリーステージの企業はビジネスを知らなすぎることによる失敗も多い。そこで、優秀な役員を送り込みたいので、その人物にみなさんと同じ一票を与えるだけの最低限の株を普通株式で追加してほしい。条件はそれだけです」
にわかには信じられない話だった。
大学の在学中に開発したアプリが予想以上にお金になったので、その資金といっても遊びで使った残りの五十万円で株式会社スペアヘッドを設立した。
スペアヘッドとは「鑓の穂先」のこと。そして社会活動などの「原動力」といった意味もある。おれの狙いは社会だ。事業も社会とおれを結び付けるためのものと言っていい。
特定の友人とつるむのもいいが不特定の人たち、つまりソーシャルなつながりはもっとおもしろい。その大好きな世界で、一定の存在感を持ちたい。そしてみんなの役に立ちたい。ザッカーバーグのようになりたいとは思わないが、フェースブックのような事業をやりたい。
金儲けよりも社会のために役立つ技術を提供したかった。
頭の中には人々の社会活動を促進させる「原動力」となる新しいソーシャルネットワークの構想があった。
ただ、それを実現するには多少の資本が必要だ。
おれの計算でざっと一千万から二千万。
しかも、実現したあとも社会に還元する事業のため利益は薄い。かなりの成長をしないと株式公開などできないだろう。
どうしようか。どうやって資金を集めればいいのか。大学の教授、先輩、ドリーム・ゲート、日本政策金融公庫、商工会議所、東京都、銀行、信用金庫などたくさんの人に会い話をした。
いくらかの資金は得られるかもしれない。
そう思いはじめていた。
そんなときに、どこで聞き付けたのか花実の方からアプローチがあった。
「お力になりたい」と。
詐欺だろうと思い、ホテルのラウンジで会ったが、詐欺らしさはなかった。
「だって、こちらの資金を入れて役員になるわけですから詐欺もなにもないですよ。それに、その状況がいやならお辞めになったらいい。つまり、私たちがお金を出してあなたの会社を乗っ取ったとして、いまはなんにも中身はないのですから、あなたが逃げればそれで終わりですよ。私たちには手も足も出ません」
驚くべき好条件。無利子、無担保、無保証人。筆頭株主が、花実のエンジェルファンド「K87354投資事業組合」になるだけ。
「もっとも、あなたを完全に信用したわけではないので役員にはすべての情報を開示してもらいますよ。信頼関係がなければ成り立ちませんから。わたしたちは、その役員を通じて会社の状況を知ることができるのであとはこっちのことは気にせず事業に専念してください」
いろんな人に資金の相談をしていて、危ない話もいっぱい聞いた。投資資金を受けた企業が完成間近になって資金の出し手と揉めて、会社を潰されたとか……。
また、重要な技術だけを盗まれて会社から放逐されたとか……。
「豚は太らせてから食え」という言葉もある。
花実を信用していいものか。おれにはわからない。どこかに落とし穴があるかもしれない。
今後も十分に注意しなければならないが、その前に自分の名前を売り基礎を固めてしまえばファンドが無理難題を言っても対抗できるのではないか。
それに最初の資金はわずか三千万。事業が軌道に乗れば、もっと大きな資金を出す人が現れるかもしれない。そうしたら退場してもらうこともできるだろう。
おれが考えているソーシャルネットワークは、出来上がってしまえばおれ自身でそれを活用できる。たとえ他人の運営となったところで、そもそも大して利益は上がらないのだからこっちは痛くも痒くもない。この仕組みを活用できさえすればいいのだ。
夢としてはインフラを作り上げて、そこで活躍する「第一人者」としての川口誠一郎だ。そういうものを作った人として知られ人の記憶に残ってくれればいい。自ら経営を続ける気は最初からない。誰もやらないから自分でやるだけのことだ。
あくまでも、「もし資金が集まれば」という夢だった。
その資金はすでに振り込まれたのである。いま手の中にある。
そのうれしい日の夜に、たかだか中年の占いおばさんに妙なことを言われたら誰だって気分が悪くなるだろう。
「うれしそうね」
内野美紀が、シャンパン色のドレスで隣にやってきた。
「乾杯しよう。ドンペリってわけにはいかないけど」
「いいのよ。わたしが奢るわ」
安い酒で乾杯した。そのほうがつまみの柿の種には合っていた。
美紀が務めるキャバクラには、定期的に顔を出していた。いまも売れ続けているアプリの収益を、彼女の仕事に多少は還元しているのだ。
もっとも、美紀への直接的な還元はそれよりもずっと多い金額になっていたが……。
「スポンサーがついたんだ」
「ホント! すごいじゃない。じゃあ、さっそくスタートできるわけね。ここを辞めたりできるかなあ?」
「うん。約束通り雇うつもりだよ」
美紀はデザインの勉強をしておりイラストもマンガも巧みで、写真の腕もいい。アプリの開発でタダ同然のお金でデザインに協力してもらっていた。
「正式にスペアヘッドのデザイナーになってもらいたい」
「マジ?」
「ウソは言わないよ」
「うれしいー」
過剰な香水に包まれた美紀に抱きつかれて悪い気はしない。
「そうだ、だったら、先生に見てもらおうよ」
「先生?」
「そう。私の先生。この世界に入ったときの先輩でいまはもうやめているけど、サマンサ江上って知らない?」
「さあ」
「有名なのよ、最近。芸能人を占ったりしているの。テレビとかにも出てるわ。すごく人気があるのよ」
「占いか……」
呆れてしまう。美紀も同じ大学にいた。そこは理系の大学であり、もし信奉するとしたらサイエンスや数学、理論やデータを信じるべきだ。
占いとは真逆の世界を学んでいたはずではないか。占いに理屈はないので、反論がしにくい。言葉になって心に直接飛び込んでくるので始末が悪い。
いまのような大切なときには、そういうものに接触しないほうがいい。
「そういうのは苦手なんだけどなあ」
「こんな偶然、ないわよ。彼女、お店をやめて二年以上になるけど、すっかり有名人になっちゃって。それがホントにさっき、ふらっとやってきてあそこで飲んでる。こんな偶然、ないわ。きっとなにかの前兆よ」
前兆なんて言葉を使う。なにかが起きる前触れでいい意味、悪い意味はない。しかし、だいたい不吉なこと、天災や事故の話で使われる言葉だろう。美紀はそれを「いい意味」で使っているようだ。
かなり離れた奥の席で、若いキャバ嬢たちと歓談している小太りの中年の女性がいた。
普通の女性に比べればヘアスタイルも服装も、かなり派手だ。テレビに出ているというのがわかるような気もする。
「見てもらおうよ。すごく当たるし、悪いことは言わない人だし。損はないし。お願い。私のためにも。だって私、あなたとあなたの会社に思い切り人生を賭けるのよ」
そういって美紀は柔らかな体を押しつけてくる。
「しょうがないなー」
テンションが高くなっていたせいか、酔いが早く回ったのかもしれない。
美紀に連れられて、サマンサ江上のいるボックスへ行った。
大学時代の美紀は、理知的でおとなしい子だった。メガネをしていてたまに女の子らしからぬ辛辣な意見を述べた。
それが気に入っていた。こいつはフツーの女の子と違うかもしれない、と。
彼女の親が経営していた町工場が倒産し学費が払えなくなり、彼女はキャバ嬢に転身した。
なんとか彼女を助けようと付き合っているうちに、ごく普通の恋人同士となっていた。
華やかなキャバクラの裏では、冷徹なビジネスの側面がしっかりあってその中で彼女たちはもがき苦しんでいた。笑顔で脳天気でなにも考えていないようなフリをして毎日仕事をする美紀。
ますます愛おしく思えた。
もっとも、学生時代とは裏腹に言葉遣いもギャル風に変わり、享楽的な行動も目立つようになっていた。
このままでは夜の商売に染まってしまうかもしれない。
そんな姿は一時的なもので、彼女の本質ではない。なんとか自分が成功して彼女に以前の知性的な世界に戻ってほしかった。
そんな気持ちを知っているのかどうか。
美紀は店で少しは人気のあるキャバ嬢らしく、ドレスの裾をひらひらさせながら大げさな身振りでおれをサマンサ江上に紹介する。
「先生、この人、占って! すごい会社をこれからはじめるところなの!」
「しょうがないわね。瑞希ちゃんのウワサの彼なの?」
「違うわよー、大切なお客さんよ」
店では美紀は別の名を騙っている。瑞希とは紛らわしいが。ともかくおれはただの客の「川口」でいなければならない。
難しい人間関係の中で、商売をしている。恋愛よりは金銭。店で大事にしてもらうためにも、お客の存在が必要だった。
「いいわよ。ちょっと酔ってるけど。じゃ、こっちに来て。大丈夫、変なことしないから」
ほかのキャバ嬢がゲラゲラと笑う。
学生っぽく見えるのは慣れている。まだ学生なのだから……。
サマンサ江上はかなり太っていた。その腰が密着してきた。
「あんた、細いわねえ。ちゃんと食べてるの?」
なぜか太った年上女性は、たいがい、こういうことを言う。
「名前と生年月日をここに書いて」
小さなカードに、名前と生年月日を書いた。
書いている間、サマンサがじっと見ている。その視線が圧力のように感じられ珍しく指先が震えた。
「ちょっと調べるわよ」
スマホで彼女はなにかを入力している。
「ふーん。頭がいいのねえ。マジメにやれば、ひとかどの人物になれそうだわ」
当たり障りのないお世辞だ。
「手を見せて。両手」
彼女の赤ん坊のような小さな手に、自分の手のひらをのせた。
ぐいっと握られた。そして引っ張られる。思わず抵抗する。
「あなた」
顔が近すぎる。彼女の表情は険しい。
「いま組んでいる人とは縁を切りなさい。そのビジネスを本気で成功させたいなら別のやり方を見つけなさい。焦ることはないの。その人と手を切れば、すぐにホンモノの協力者が現れます。いま組んでいる人はダメ。あなたはすべてを失うわ」
「そんな……」
美紀に悪いことは言わないと聞かされ、渋々同意したのだ。それがこんなとんでもない占いを告げられて腹が立ってしょうがない。頼まれたとはいえ、占いなんてするべきではなかった。
「組んでいる人って、恋人とかそういう人?」
美紀が上ずった声を出す。
「違うわ。ビジネス上のパートナー。金銭問題で深く関わっている人のことよ。お金だけじゃなく、大変なことになる」
いきなりそんな不吉なことを言われて、腹が立たないほうがおかしい。
占いは非科学的なものであり、まったく信じていない。こんな風になんの根拠も理屈もなくいやな気持ちになる。最低だ。
高揚感がすべて吹っ飛んでしまった。
「わかる? いますぐ縁を切るの。すべてを投げ捨ててもいいから相手に謝って、終わりにしなさい。それぐらい、大変な危機が迫ってるのよ」
「やめてください」
じめっとした手を振り払って立ち上がった。
礼も言わず店の出口に向かう。
「ねえ、待ってよ」
美紀が追いかけてくる。
「怒らないでよ。そんなにムキになるなんて」
「気分が悪いよ。せっかく、いいことがあったその日にあんなことを言われたら……」
「思い当たる節があるの?」
黙るしかない。
そして黙ったまま外に出た。美紀は店があるので追ってくることはできない。
おれは彼女にとってただの客、ということになっているのだから。
タッタッと数歩は出て来た足音がしたが、都会の喧噪の中ではそれもほかの音にまぎれてしまう。
彼女が叫んだところで届かない。聞こえない。
足早に夜の街を彷徨する。
リスクはないはずだった。花実の申し出を受けたとしても問題はないことを慎重に調べていた。
大学の教授を通して法学部の教授に契約書などを見てもらったが、こちらに不利な条項は見つからなかった。
花実の名前を数人に聞いたが、そこからはなにも得られなかった。
ただ「K87354投資事業組合」のことは知られていて、そこから投資を受けているベンチャー企業がいくつかあることはわかった。
それとなくツテを頼って確かめたが、どの会社も問題はないようだった。ごく普通に毎日、事業を展開していた。ほとんどが開発型の企業で、おれのところのようなアーリーステージの会社は少なかったが、経営者はみな若かった。二代目、三代目といった人たちだ。
なにをびびってるんだ。
約束通り、資金はもう口座に振り込まれている。
話がうますぎると感じて、詐欺の実例も調べたではないか。たいがいは、詐欺師たちは見せ金すらケチる。三千万円を先払いする詐欺師はいない。三千万をだまし取るためにせいぜい百万円使うかどうかだろう。
だいたい、貧乏学生にいきなり三千万を渡せばそのまま持ち逃げされてしまう。そんなことをする詐欺師はいない。
おれはカネを引き出して逃げることだってできる。
相手が誠実さを先に見せた以上、こっちにもそれに応える義務があると思うからそんなことはしないが……。
明日、増資と新しい役員などを登記し、その登記簿を持って不動産屋へ行けば無事にオフィスの契約もできる。
そして修正された会社の謄本を投資事業組合に送付すれば手続きは完了する。
あとは研究開発に専念できるのだ。
プランでは、二か月で第一段階のプロトタイプを開発。三か月目から実験使用を開始する。クローズドな世界だけでだ。もちろん、その間にも主要な人たちには情報を流すので話題性は持たせる。
四か月目に第二段階のプロトタイプ。それで二か月、実証実験をする。これはオープンの世界でやる。ほぼ完成版と同じレベルだ。この段階では取材を受けるなど積極的に対応していき期待感を膨らませる。うまくすると、おれの読みではこの時点で早くも買収の話や提携の話が来るのではないかと期待している。
そうすれば投資組合に資金を返すか売却するかして、おれのプロジェクトは完結できる。それがダメでも、完成させて世に問えばいい。
八か月もあれば、最初の製品版をスタートさせられる自信があった。それまでに実験結果による修正をかけながら、よりよいものにしていく。おれは新しい世界を創った人間として、知られるようになる。
そのためにネット界で「アルファ」と呼ばれている重要な人物を数人、早い段階で巻き込む予定でいた。
根回しはすでにはじめている。資金とオフィスが決まれば、エンジニアと契約して開発がスタートできる。
最高にテンションが高かった。さっきまでは。
無性に腹が立った。
占い師にではない。そういうことに誘い込んだ美紀に、だ。
これまで、彼女とケンカしたこともなく同じような感覚、価値観、意見でずっとやってきた。
いずれ結婚すると信じていた。
大切なパートナーだと思っていたのだ。
それが、肝心なときにまるで足を引っ張るようなことをしたのである。
地下鉄の駅に向かった。いや、まて。地下鉄は自分のような者が乗るには危険ではないか。先日も人身事故があった。
なんといっても、三千万もの資金を預かったのだ。責任がある。ホームから落ちる、酔っ払いにからまれてケガをする、痴漢に間違われる……。
恐ろしい。
タクシーを止めた。
なんという贅沢。美紀の奢りでもなければ、タクシーを利用したことはほとんどない。
地下鉄駅でわずか二つか三つ分をタクシーで移動した。
これから会社を大きくしていこう、社会に大きな影響を与えるソーシャル・ネットワークを作ろうというのだから、当然ではないか。
自分には責任があるのだ……。
そもそも、浮かれて美紀の店に行ったのが間違いだった。
美紀という女性と、このまま付き合っていていいのか。ああいう店には、危険もつきまとう。一流の店ではないのだからおかしな客にからまれたりしたら……。先日、あの近くの店で客がギャングに襲われて殺された事件もあった。
あの店へ行くのも危険かもしれない……。
考えすぎだ。バカバカしい。
しかし、いま、これまでとは違う自分になろうとしている。それに気付き興奮した。
負けてはいけない……。
勝つための技術、勝つための戦略が必要になる。それを実現するアイデアはある。資金もできた。あとは人材だ。
プロトタイプの評価が高ければ、花実享一郎はもっと資金を出すというかもしれない。
「最大二億……」
あの言葉が深く、心に残っている。
初期段階で買収や提携ができなくても、花実と組めば確実に完成させることができる。
心配することなく開発に向かってほしいから言ったのだと思うが、おれの中ではすでにその二億を含めた資金計画が芽生えていた。
今日の振り込みがなければ事業の拡大など思いもしなかったはずだが、状況は一変したのだ。
裏切れない……。責任がある……。
最初の収益が発生するのは早くて八か月後。それまでに使う費用は人件費も含めればざっと二千万。三千万あれば十分なはずだが、おれの中には場合によっては使い切ってでも成功したい、という気持ちも芽生えていた。
もちろん一円でも無駄に使うつもりはない。
二億円まで……。
月に三百万円以上使って三年分。そのうちのわずかな額を役員報酬として確保したとしても一般的なサラリーマンぐらいの生活はできるだろう。
なにもしていない大学院生が年俸六百万円ほどになる。
すごい……。
それが三年続けば千八百万。その間に売り上げがきちんと伸びれば、役員報酬を増額できるだろう。
サラリーマンの年俸をこの三年で追い抜けるかもしれない。
三年後……。そのとき、おれはどうなっているのか想像もできない。
そのとき横に妻となった美紀がいるのか。
いまとなってはそれがイメージできなくなっていた。
ほんのわずか、美紀を疑うよりも短い瞬間にこれまで出会うチャンスさえなかった令嬢との結婚を想像していた。
有名になって知られるようになれば、これまでにない出会いもあるだろう。そのとき、キャバクラ嬢の美紀との縁はあまり意味を持たなくなるかもしれない……。
思いを振り払って自宅に戻る。
タクシー代を支払うと、小銭しか残っていなかった。
銀行に三千万あるとはいえオフィスの敷金、エンジニアへの報酬などでどんどん減るだろう。自分の給料など後回しだが、最低限の費用は受け取っていいはずだ。
「あなたも社長としての自覚を持っていただきたい。リーダーにふさわしい行動をお願いします」
花実享一郎はそう言った。
「さしあたって百万ぐらい、活動費と生活費のために手元に持っていた方がいいでしょう。そのかわりすべて領収書をきちんと保存してください。私どもが送り込む役員に見せてほしいので」
「無駄遣いはしません」
「いやいや。そういうことじゃない。あなたはリーダーなのだ。創造者でもある。つまりあなたが健康で活力あふれる状態になっていることがこのビジネスのXファクター、成功因子なのです。少なくともあなたが考えているものが出来上がるまではね。あなたが意欲を失えば、私たち外野にいる者にはどうにもならないのですからね。あなたの意欲を維持するための費用ならムダなものは一つもないのです」
あのときは、大げさなことを言うと思った。花実の考えに賛同できなかった。自分は学生であり、貧しくても自分のアイデアを実現できればよかった。報酬はそれからでもいい。
しかし、それは許されないのだ。
リーダーとしての責任……。
非現実的で根拠のない占い師の言葉などもはや、どうでもいい。
学生らしい一間のアパートに戻る。電気をつける。寒々しい和室。じとっとした空気。
木造のアパートは火事になればひとたまりもない。先月、隣町でアパートが全焼し一人暮らしのお年寄りが二人も亡くなっていた。放火というウワサだ。
セキュリティー。
ボロいアパートに似合わない最高性能のパソコン。これが奪われたら事業の核心部分を失う。
蹴っただけでも破れそうなドア。シリンダー錠。細いチェーン。
そこを強固にしたところで窓がある。簡単に打ち破れる。
頻繁に空き巣、置き引き、痴漢についての警告のチラシがアパートの入り口に貼られるようになった。地元の警察が用意したものを大家が貼っているのである。
この地域は学生が多い。アパートやワンルームのマンションが中心で住人たちの関係性も希薄になっている。
車上荒らしが話題になったのは昨年だったか。十数台が被害にあった。乱暴な犯行で窓ガラスをなにかで割ってしまう。それなのに、しばらく目撃者さえ出なかった。あの犯人は捕まったのだろうか。
よく利用するコンビニにも強盗が入った。牛丼屋にも強盗が入った。以前に利用していたATMも強盗にショベルカーで破壊されてから撤去されたままになっている。
ここにいてはいけない……。
明日、オフィスの契約をするついでに不動産屋にセキュリティのいいマンションを紹介してもらおう。
ポケットから携帯を取り出す。四年ほど使っている。最近のものからすれば、デザインも悪く機能も劣っている。
美紀からの着信が三つ入っていた。
メッセージは残っていない。
これから最先端のソーシャル・ネットワークを構築しようという男が、こんなボロい携帯でいいのだろうか。
いいわけがない。
ライバルたちがさまざまなサービスを提供しているが、こんな時代遅れの携帯電話では十分に利用できない。もちろんこれから創るおれのネットワークも、十分には対応できないだろう。
明日、最新のスマートフォンを手に入れよう。
かなり気分がよくなってきた。
パソコンを立ち上げて、フェイスブックでつながっているエンジニアたちと恒例のチャットをする。
主に技術についての話だ。彼らとはオフィスが出来上がりしだい、ミーティングをする予定になっていた。
チャットでは彼らはまだ、夢物語として語っている。
彼らに合わせた対応をしながらほくそ笑んでいた。
やつらはまだなにも知らないんだ……。
これは夢物語じゃない。現実だ。みんながエラソーに語っているけど、それを現実として証明してもらう日が来たのだ。
「いいオフィスですね」
花実が送り込んできた役員は女だった。
オフィスを契約した。ガランとした十七坪。古いマンションの五階。トイレ、流し台。室外機を置くだけのベランダ。
まだ机もイスもない。壁紙が貼り替えられていて、床からは電線が飛び出している。
「蟻森と申します。花実さんのファンドを代表してうかがいました」
名前は聞いていた。蟻森薫という。てっきり男だと思い込んでいた。
三十代だろうか。タイトなベージュのスーツ。スカートの裾が細く長い足にまとわりついている。黒い縁のメガネをしている。長い黒髪。白い平たい箱を抱えている。
モデルのような彼女を見てゾクッとこない男はいないだろう。
「よろしく」
彼女は手を差し出してきた。
あわてて握る。冷たく乾いた手。すらりとした指。肌が白い。
「あ、これは高級ドーナッツの差し入れ。食べに出る暇がないかもしれないでしょう?」
「ありがとう」
白い箱には見たこともないドーナツが二十個ほども入っていた。ナッツ。チョコ。パウダーシュガー。赤・白。緑の粒。さらに金箔のかかったものまで。
「これは成功者のドーナッツ。食べてみて。資本主義の味がするわよ」
彼女はニッコリ笑う。
「飲み物がないなー。買ってきます」
おれは頭を冷やしたくてビルの一階へおり、自販機で缶コーヒーやジュースを何本か買って戻った。
「いただきます。でも、社長はこんなことはしなくていいんですよ」と彼女は言ってジュースを手にした。
「ここにパーティションを入れてフリーアドレス式にしましょう。ロッカーをそこに置いて、観葉植物を入れるといいわね。社員は何人でしたっけ?」
「いまのところいません」
「そう。わたしは役員として来ているけど公認会計士の資格もあるし、秘書も受付もできるわ。当面は社員はいらないんじゃない?」
「そうですね」
なぜか美紀のことを言い出せなくなっていた。
すばらしい女神の出現で舞い上がっている自分がいた。新しいオフィス。自分の会社。成功への第一歩。やるべきことがありすぎて爆発しそうだ。おまけに片腕となる役員は蟻森薫と名乗る美女……。
警戒すべきだとは思う。
だが、彼女は花実のファンドがおれのビジネスに打ち込んだ楔なのだから勝手に引き抜いて捨てるわけにはいかない。うまくやること。それが大切だ。
これからは毎日が勝負なのだ。
「では、ミーティングをしましょう。場所はここでいいわ」
「すいません。イスもないですけど」
「わたしにそんな言葉遣いをしないで。社長がボスなんだから」
「はあ」
「時間がもったいないわ」
彼女はキャリーバッグを持って来ていた。その中から食品用のラップのような細長い箱を取り出すと、シートを引き出し壁に貼りつけた。そしてマーカーを手にする。
「キックオフ ミーティング」と彼女は書いた。
「ここにやるべきことを書き出していきましょう。最初にすべきは?」
「ここの内装をやらないと」
彼女はそれを書き、横に「K」と書いた。
「わたしに任せて」
薫という意味の「K」だ。
「開発チームを作る」
「それは社長に任せる」
そこに「S」と書いた。誠一郎のSか。
「社内ネットワークを作る」
そこにも「S」と書かれた。
おれは仕事モードになっていた。彼女はつぎつぎと新しいシートを引き出して壁に貼りつけていき、箇条書きにしていった。
気づくと壁が埋まっていた。
そして二十個もあったドーナッツもなくなっていた。
彼女は箇条書きをiPhoneで撮影していく。
「エバーノートに保存して共有すればいいですね?」
「うん」
クラウドによって、いまの時代は特別なシステムを導入しなくても情報共有はできるようになった。ただ、これからは複数の開発チーム、会社、そしておれをつないで、極秘の情報をやり取りすることになる。そのためのセキュリティとバックアップが必要だ。
いま見えている文字は、人に見られてまずいものはない。が、これからは部外者に見られてはまずいものが出てくるはずだ。
「じゃあ、できるところから取りかかりましょう。よーい、ドンね」
「よろしく」
「あ、これを見てください」
「はあ」
彼女は書類を取り出した。
「定款の変更。わたしの役員としての登記をしてきますので、ここに会社の代表印と……」
なんにもないオフィスなのに仕事はもう始まっていた。おれと彼女は、そこからバラバラにめまぐるしく駆け回った。
一人で技術者や取引先になるだろう会社を訪問していても、これまでとはまったく違う感覚があった。おれの名刺には「代表取締役社長」とある。おれの会社。その社長としてこれまでバーチャルなやり取りしかしていなかった相手と正式に話をする。きちんとした資本金があり、プランがある。支援してくれるファンドがついていて、右腕となる薫もいる。その分、言葉に力強さがあった。
こうして会社は動きはじめた。もう誰にも止められない。目標に向かって突き進むのみ。
夕方に一度、会社に戻った。薫がいて、業者に指示していた。いくつか大きな家具が運びこまれていた。
「社長、わたしは今日はこれで終わりにしますが……」
「ぼくはもう一件、人に会う約束がある」
彼女を一緒に連れて行けばもっと迫力が出るかもしれない。ふとそんなことを想像していた。
「わかりました。そのままお帰りになりますか?」
「たぶん」
「じゃ、ここはわたしが鍵をかけておきますので」
少し寂しい気持ちがした。
それも夜の街で、古くから付き合いのあるシステムエンジニアと食事をしているうちに忘れていた。新しい船出。彼とは大学時代からの付き合いだった。カラオケに行き、深夜に帰宅した。
アパートがますますわびしく、そしていまのおれにふさわしくない場所に感じた。中に入ると薫のように必要なものをキャリーバッグにつめた。あまり多くはなかった。ネットでホテルを予約し、タクシーで移動した。引っ越し先が決まるまでホテルに住もう。携帯とパソコンが使えればなんとかなるのだ。一流のホテルならセキュリティがいいし、会社にも近いし、人と会うのも便利だ。
なにより社長らしい気分になれる。
勘違いしているかな。ふとそう思うこともあったが、とにかくはじまったのだから。
走るしかない。
深夜。ふと目が開いて自分がどこにいるのかわからなくなった。焦ったが、ホテルだったことを思い出す。ふかふかのベッド。上質なガウン。ポプリの香り。
光っている携帯を見ると美紀からのメールと着信があった。明日にしよう。
すぐに眠りにつくことができた。
翌日、直行で大学教授に会いに行き数人の研究者を紹介してもらい、教授たちが利用する学内のレストランで食事をしてオフィスに戻った。
エレベーターの横に「スペアヘッド」のプレートがあった。あわててポストに戻ると、そこにも社名が入っていた。五階に行くと降りたところに胡蝶蘭の鉢が六つもあった。
どれもこれから取引をしようという会社からのものだ。その社名は花実には話していたが、まだなに一つ具体的にはなっていない。昨日、そのうちの三社に挨拶に行ったのが初めてだった。手回しがいい。
ドアを開けてさらに驚いた。パーティション。社名の入った額。造花のようだがあでやかな南国風の花盛り。バング&オルフセンの電話機。
内ドアを開けると観葉植物が並ぶオフィスが見えた。
フリーアドレス、つまり固定の席を設けないので社長室も社長の机も役員室も役員の机もない。ただ四つの机をくっつけてあるだけだ。
ミーティング用のテーブルには、六脚の革張りのイス。高級品らしい。
そこを肩ぐらいまでの高さのある観葉植物が囲んでいる。
「お帰りなさい」
薫がいた。
昨日はただ美人だという印象しかなかった。今日は昨日より薄い化粧をし、白に近いグレーのスーツを着ている。清潔感があふれている。間違いないと思わせる。彼女がいてくれるならこの会社は大丈夫だ。
「すごい、な」
すごいですね、と言いそうになったところを言い換えた。社長なのだ、おれは。
「少し予算をオーバーしているかもしれません。でも今後も、一流の研究者や企業の人たちが来社されるかもしれないのですから、狭くても居心地よくしないと」
「そうだね」
窓の下はロッカーになっている。ダイヤル式でロックできる。
おれは机に向かい、座ってみた。柔らかく包み込むいいイスだ。
「短時間でよく揃えたね」
彼女がすばらしくいい香りのするエスプレッソを持って来た。
「実は中古なんです。エスプレッソマシーンもね。ファンドの出資先にこういうことに詳しい人がいるので相談しておいたのです」
昨日、来ていた業者なのだろう。
「だけど、もうスペースに余裕がないね」
「あと二つぐらい、机を入れることはできます」
こういうことに疎いから、おれとしてはすごく助かったと思う。たぶん、自分一人だったら今日もなにもないオフィスだったろう。
電話、メールをこなしているうちに、あっという間に夕方になった。
彼女は先に帰って行く。
おれは一人、オフィスにいた。ファンドのお金とはいえ、これは自分の仕事場なのだと思うとうれしくてしょうがない。この喜びを誰かと分かち合いたい。
美紀。
いやな気分になるが、彼女から夕べ、メールや着信があったことを思い出す。悪くない時間だ。美紀に電話をしてみた。
「昨日はごめん」と下手に出て様子をうかがう。
「会社、どうなったの?」
突き放したような言い方。
「ああ。いまオフィスをね。いろいろあって、てんてこまいでさ」
「そう」
美紀は黙った。
おれもなにも言えなくなった。
「落ち着いたら電話して」
彼女から電話を切った。
ちくしょう。なんだよ。ふざけやがって。
電話が鳴った。携帯ではない。机の上のだ。
「はい」
「スペアヘッドの川口社長はいらっしゃいますか?」
ぞんざいな中年男。警戒してしまう。
「どちら様でしょうか」
「いるなら、いまから行きますけど」
「どういうご要件でしょう」
「行けばわかるから。いま、お宅の前にいるんでね」
ガチャリと切れた。
マズイ、と思う。なんだか嫌なのだ。怖い。名乗らず要件も言わない。
エントランスのインターフォンが鳴る。入り口近くまで行き、映像を見る。眉間に皺を寄せた怖そうな顔の男がカメラを睨んでいる。
だめだ。こういう人と関わってはいけない。おれは居留守を使おうと思った。場合によっては朝まで籠城しよう。
ところが、男はカメラに向かってなにかを見せている。無言だが手帳のようなものを突きつける。スーツ姿の男の顔写真。まともそうに見える表情。昔の写真だろうか。
その下に文字。警部補。赤沢利隆とある。金色に光る記章が視界に入った。
おれはロックを解除するボタンを押した。
刑事が来た。いい話のはずはない。おれはなにも悪いことはしていない。悪寒がするだけだ。
「こんばんは。すみませんね」
赤沢は若い刑事を連れていた。
はじめて使う会議用のテーブル。そこに最初に座るのが刑事だとは想像もできなかった。なんだか損をしたような気がしてしまう。
「最近、開業されたのですか?」
「はい。昨日です」
「なるほど。いいですねえ」
そしてぐるりと部屋の中を見渡す。
「どういうことですか?」
赤沢はさりげなく紙片を見せた。
盗聴、と書いてあった。
ごくりと生唾を飲んだ。
その紙片を裏返した。「外で話せませんか」とあった。
屈辱的な気分だった。
おれだけがなにも知らないのだ。こんなことってあるだろうか。月並みだが「なにかの間違いだ」と叫びたい。その言葉が十六両編成でおれの頭の中を駆け巡っている。なにかの間違いだ、なにかの間違いだ、なにかの間違いだ……。
「いま、お出になるところでしたか」
黙っているからか赤沢がうながした。
「ええ。もう今日は」
そう言うのがやっとだった。
「では、わたしたちもこの辺で失礼します」
「ご苦労様です」
だが、二人は動かない。
おれは立ち上がりパソコンなどを閉じて、ブラインドを閉めた。すると、彼らは立ち上がり出口へ移動する。
ものものしいな、と思う。
最後に電灯を消してセキュリティのスイッチを入れ、ロックして外に出た。
赤沢は口に指をあてて、しゃべるな、という合図をする。
三人は無言でエレベーターを降りた。そして出るときに、赤沢が指で自分たちは表から出て左へ行くのでおれには裏から出て右へ回って落ち合おうと合図する。建物の防犯カメラまで気にしているようだ。
裏口から出て右に回り繁華街方面の道路に出ると、二人も待っていて「すみませんでした」と言った。
「念には念を入れて離れて歩きましょう。あなたが入りたい喫茶店に入ってください。あとから私たちも行きます」
刑事たちはこの先にカフェが三軒あることを知っているのだ。薄暗い店。二階のハワイアンなインテリアの店、地下のタバコ臭い店。
二階の店に入った。細い階段をのぼっていくと、昼間と違い客は少ない。落ち着いたジャズが流れている。夜はカクテルも出す。生バンドの演奏をする日もあるようだ。幸い今日ではない。
アイスコーヒーを頼みガムシロップを入れた頃になって、刑事たちがやってきた。
「お待たせしました。外でしばらくチェックしていたものですから」
「なにかわかりましたか?」
「とくに変わった様子はありませんでしたが、慎重にやるべきでしょう」
二人が座り、注文を取り、彼らはホットコーヒーを頼んだ。それほど飲みたそうではない。
「単刀直入に申しましょう。わたしたちは特殊な事件を追っています」
「はあ」
「なめくじファンド、という言葉を聞いたことはありますか?」
「ええ?」
あまりにも気味が悪い表現で、嫌悪感が先に出てしまった。
「投資ファンドです。実在し、いろいろな人に融資したり投資したりしている」
「詐欺ですか」
「それがわからないのです」
「わからない?」
「ごくごく簡単に言いましょう。なめくじファンドという呼び名はとても古くからありましてね。長年、追っているのですが……。なめくじはご存知ですよね?」
「生物の?」
「はい。あれに塩をかけたこと、ありますか?」
「いや。ないですね。そういうのは苦手だし。知識としてはありますよ。なめくじは、湿った日陰のところに住んでいて塩をかけると溶けちゃうという……」
「そうなんです。なめくじファンドは、実態がわからないうちに溶けてなくなってしまう。まあ、比喩ですけどね。なめくじは、塩で溶けるわけじゃなくて体内の水分が浸透圧で外に出てしまうから縮まって死んでしまうわけなので、溶けるわけじゃないし、完全に姿がなくなるわけじゃないけど。昔の人がそう呼んだものだから……」
「そんなに古い話ですか?」
おれはなめくじを見た記憶がない。言葉としてはわかるが、見たり触った記憶はない。
「ええ。昭和か、もうちょっと古いかもしれませんね」
「そんなに? じゃあ、そのファンドにとっての塩はなんですか?」
「それもよくわからないのです」
「被害は?」
「わかりません。相談件数はごくわずかです。明確に騙されたという人が出てくれば捜査しやすいのですが、なにせ痕跡がわずかに残るだけで実態が消えてしまう」
「なぜです。被害があって被害者がいれば事件になって捜査されるでしょう」
「それがですねえ」
二人の刑事は目を合わせる。
「痕跡を辿ると何人かの関係者に行き着きますが、キーになる人物はみな行方がわからなくなるのです」
「はあ?」
「肝心の人物、つまり被害者じゃないかと思われる人は発見できないんです」
「そんな……」
思わず顔をしかめてしまう。
なぜだ、と思う。
例の占い師。今日の刑事。不吉なことばかり言うではないか。
占い師には「パートナーと手を切れ」と言われた。今日はそのファンドが怪しいと言わんばかりではないか。
「どうしてうちに?」
「最近設立された会社で、経営者としての経験のない人物が経営者になっていて、そこに投資ファンドのお金が入っているケースを、わかる範囲で調べているのです。その中では失礼だが、こちらは過去のなめくじファンドのケースの条件に適合しています」
「それは?」
「捜査上のことですので、詳細はお教えできません。ただ長年、警察にある捜査資料からおおよその条件というか、傾向は見えているのです」
情報を集めようとしたら法人登記は法務局。資金の流れは銀行だから金融庁や財務省だろう。個人情報の問題も出てくる。テロリストでもないのに資金の流れまですべて把握するような捜査は容易ではないはずだ。
「ええ、もちろん、すべての怪しいケースを調べきれているわけではありません。そんなことは不可能ですから。ただ、警察庁ではマネーロンダリングやテロ対策の連絡網が出来ていますので、細々と使える情報をもらってはあとはこうして実地でお話を聞くなどして調べているのです」
警察庁が動いているのなら、全国の警察でもこうした調査というか捜査は実施されているに違いない。
「失礼ですが、川口社長はどうやって出資者と知り合ったのですか? 以前からのお知り合いとか?」
「そうではありません」
そこを突かれると、おれも返事ができない。
「資金を調達しようと、いろいろな人に相談をしているうちに向こうから連絡があったもので……」
「向こうから?」
最初は教授か誰かがおれのことを紹介してくれたのだと思っていた。花実もそんな感じの話ぶりだったのだ。だが、「お礼をいいたいから」と紹介者を教えてほしいと頼んでも花実は教えてくれなかった。
「私どもでは、いろいろな決まりがあります。話を複雑にしないためのファイアウォールですよ。たとえば、あなたのことを私たちに紹介した人がいたとします。その人が『この資金は自分がいなければ出てこなかったはずだ』と主張して、あなたからなにがしかの金銭や便宜を受けようとするかもしれません。このビジネスに介入してくるかもしれない。そうなってからでは遅いのです。仲介者がたとえいたとしても、その人物と私たちの間では話がすんでいるのです。あなたはなにも気にすることはありません。仲介者といっても、ほんのちょっとあなたの話を小耳にはさんだ程度かもしれないですしね。ですから、今後もわたしたちを紹介したとか言う人間が出て来たら、きっぱり拒絶してください。そんな人物はいませんので。いたとしても、あなたは気にしなくていいのです。自由にのびのびと経営をしてください」
橋渡しをした人がいるのか、いないのか。曖昧なままだった。
刑事はため息をついた。
「あなたがお会いになった人は何人ですか」
「二人です」
「たったの二人?」
「ええ」
「そのうちの一人はこちらでもわかっています。役員としていま、会社にいらっしゃることになっているんですよね。蟻森薫という人」
「蟻森さんとは、昨日はじめて会ったんです」
「実印と印鑑証明が法務局に提出されています」
刑事は蟻森の資料を持っていた。コピーされた印鑑証明がある。
「どういう人かご存知ですか?」
「わかりませんよ、まだ二日ほどだし……。優秀ですよ。任せられる人です。ご覧になっているんじゃないんですか? 今日も出入りしていたんですから」
二人の刑事は顔を見合わせた。たまたまなのか、タイミングの悪い刑事たちらしい。あの美女を見損じているとは。
「もう一人はどなたですか?」
「花実享一郎。私が誠一郎なので、似た名前だと……」
「いくつぐらいの人ですか?」
「七十代だと思います。本人がそう言っていたように思います」
刑事はコピーした写真をこちらに見せた。質の悪いモノクロコピーだ。オリジナルに傷があるのだろう。コピーも傷だらけである。幸い顔の部分は傷がなく、はっきり花実だとわかった。
「ええ。その人です。少し若いように見えますけど」
「間違いありませんか? 雰囲気は違っているでしょうし」
「確かに髪もこんなに濃くないし、髭も違いますね。いまは顎髭ですよ。若い頃なんでしょう? 五十代ぐらいに見えますよね」
「この写真の人物はもうこの世にはいません」
「いない? どういうことです」
刑事はもう一枚のコピーを持ち出した。カラーコピーだ。紙がいい。だが、それはセピア色をした古い写真だった。大勢の男が映っている。軍人と侍が混ざっている。そして細かい傷がいっぱい入っている。印刷か印画紙なのかはわからないが、保存が悪かったに違いない。くしゃくしゃに丸めたり折り曲げられたりされたのだろう。
「それは、『幕府脱走軍兵士』と呼ばれる一群の写真の中の一枚です。撮影されたのは明治二年頃。一八六八年頃ですね」
「え?」
「これが土方歳三。これが榎本武揚と思われます」
冗談ではない。花実は年寄りではあるが、明治二年にすでに壮年だったとしたらいま何歳だというのか。
「百四十年以上前の写真です。なぜ、あなたの会った人物がそこに写っているのか」
「よく似ているだけでしょう。親子とか」
「そうですね。残念ながらこの写真の人物は誰なのか、いまだに特定されていません。花実という人物が函館戦争に関わっていた記録もない」
「ちょっと待ってくださいよ。うちとは関係のない話ですよね。それは直接、花実さんや蟻森さんとやってください。こっちはよく知らないんですから」
「今日は捜査というよりも、ご注意ください、とお伝えしたかったのです」
刑事たちは真剣なのだ。でも、その真剣さはおれには余計な話に聞こえる。あの占い師と同じだ。
相手が刑事なので文句も言えず、逃げ出すこともできない。
「なめくじファンドは、その痕跡を残しつつ、実態がわからない。なぜなら実態につながる人物が行方不明になってしまうからです。もし、いまあなたがこれに関わっているとしたら、行方不明になるのはあなたということになる」
「冗談はよしてください」
「冗談ではないのです」
赤沢刑事はぐっと身を乗り出した。
「いいですか。これは冗談じゃないのです。ほんとうに危険なのです」
「だとしたって、詐欺ではないし。こっちには盗まれるようなものもないし……」
「ほんとうにそうですか? なにも盗まれないと言い切れますか? たとえばあなたの頭の中にあるプラン。もし、それを取り出して売ることが可能ならいい値がつくということはあり得ませんか?」
「やめてくださいよ」
唇が震えてきた。信じているわけではない。怒りがこみあげている。どうしようもない怒り。なんでこんなことになるんだ、という怒りだ。
「われわれの調査はとても満足のいくものではありません。ですが、戦後のなめくじファンドと見られる投資事業は事業そのものはすべて成功しています」
「はあ?」
「なめくじファンドの投資先は、みな成功しているんですよ」
いい話ではないか。
「ただし、別の形で成功しているのです」
「別?」
「ええ。最初の投資先は整理され跡形もなくなり、当初の経営者、重要な人物はいなくなってしまう。ただ、事業だけは別の企業に引き継がれて大成功しているのです。単純に言えば、ガレージでやっているようなベンチャー会社を、平均株価に使われるぐらいよく知られた大企業が買収して終わっているケースが多い」
「だったら、買収した側をたどればいいでしょう」
「やっています。でも、こっち側も、キーになる人物はどこかに消えてしまっている」
「そんな……」
「どうしてその事業が引き継がれたのか。買収された場合でも、誰がお膳立てしたのか。肝心のところがよくわからないのです。銀行や弁護士事務所に行っても、ろくに資料も残っていません。ファンドの口座も消えている。口座の名義人も消えている。こちらで知る限り、買収側の株式と代金を交換している。そのため、誰がいつどこで売却益を現金化したのかもわからない。それでいて、見えている部分だけはすべて合法的に処理されているので、それ以上の捜査はできません」
おれの考えたソーシャル・ネットワークが、おれ抜きで完成して大成功したってかまわない。ただ、その場合でもこのネットを自分で利用したい。楽しみたい。自分がこの世にいないなんて前提は受け入れられない。
刑事はさっと立ち上がった。
「よく考えてください。そして十分に注意してください。今日、あなたのオフィスを観察していましたが、いまのところお宅の会社はあなたしかいないわけです。そこでなにが起こっても証言してくれる第三者がいません。極めて危険です」
彼らはコーヒー代を払いもせずに店を出て行った。
おかしなことを言う、とおれは思った。やつら蟻森を見ていないのだ。彼女がいるではないか。おれになにかがあれば、彼女を調べればいいではないか。
蟻森に会うのが怖くなってしまった。翌朝オフィスに出たおれは、完全にびびっていた。
消されてしまう。アイデアだけを盗まれて。
塩をかけられたなめくじの動画をユーチューブで見たのもいけなかった。あんな風にグニャグニャと苦しみながら、縮んで殺されるのだろうか。
頭の中からどうやってアイデアを吸い出すのだろう。彼女がおれに噛みついてバンパイアみたいに吸い取るとでもいうのか。
「社長、おはようございます」
さっそうとグレーのスーツ姿の蟻森薫が入ってきた。白い平たい箱を抱えている。
「ドーナッツ、また買ってきちゃった。ここのおいしいですよね」
とたんに、一晩中、うだうだ悩んでいたことは消え去っていた。
彼女はごく普通の有能な経営陣としてそこにいる。幻想ではない。彼女はテキパキと今日の予定を言い、お互いの仕事の内容を確認すると彼女の仕事にとりかかっていく。
頼もしい。いま会社が回っているのは彼女のおかげだ。彼女とドーナッツのいい香りが、部屋をイキイキとさせている。
見とれるほど美しい。単なる美女ではない。地に足のついたエグゼクティブとしての美しさがある。彼女のなにを疑えというのだろう。
「なにか?」
見つめすぎたらしい。
「なんでもない。早く社員を入れないといけないね。どちらも外出してしまうと、ここは無人になってしまうから」
「だったら、いい人がいますけど、お会いになりますか?」
「どういう人?」
おれはまたしても、約束していた美紀のことをいいそびれている。
「個人的な付き合いはないのですが、以前の仕事でお目にかかって、とっても優秀な人だと思ったので、ヘッドハンティングのコンサルタントに頼んでちょっと調べてもらっているんですけど」
「そう」
レベルが違う。
学生時代からの知り合いで、デザインの勉強をしているが実績はない。おれのアプリにはかかわったけども、あれは遊びのようなものだ。
いまとなっては、キャバクラで働いている女性を会社に入れようという考えそのものが、ビジネスにはふさわしくないのではないか、と思えてきた。社長の愛人。セックスフレンド。水商売……。
そう思うと、美紀が毎晩、ほかの客とどんなことをしているのかまったく知らないことに気づいた。これまでは気になったことはなかった。すべて彼女の言うことを信じていた。
いまは違う。美紀のことを信じられなくなっていた。
薫が取り出したのは、女性の写真がついた調査レポートだ。履歴書よりも詳しい。トップシークレット扱いになっている。こういうものがヘッドハンティングでは飛び交っているのか。
「すごい経歴だ」
外資系の誰もが知っている企業で秘書をやってきた。その前は交換留学生としてハーバードにいて、その間、日本政府の仕事にも携わっていた。外務省、経産省との関係も深いらしく、日米の通商関係の団体でも働いていたことがある。
「このぐらいできる人でなければ、今後の海外との折衝にも対応できないと思います。この事業は日本市場だけではありませんから。そうそう、こういうインドの会社をご存知ですか?」
英語のパンフレットを渡された。
「開発部隊を作るというのなら、インドの会社を利用しない手はありません。社長も優秀な人と会っていらっしゃると思いますが、そのチームとインドの会社を組み合わせれば、コストを抑えながら開発スピードを加速できます」
「でも、コミュニケーションの問題がある」
「大丈夫です。彼女はいま、そこのセールスエンジニアをしています。一度、会うだけ会ってみて、それからでいいと思います。その会社と組むのもいいし、彼女をうちに引き抜くのもいいと思います。今夜のご予定は?」
「特には……」
「では、銀座にあるインド料理店を予約してそこでミーティングしましょう。こちらからは仕事の具体的な話はしなくてもいいのです。社長が聞きたいだけ、相手のことを聞いてみてください。それで使えそうなら正式に進めましょう」
万事がこの調子で、彼女のスピードで処理されていく。スマートフォンとタブレット端末で、どんどんスケジュールを組み、相手と接触し、必要な情報にアクセスし、おれに決断を迫る。
それでいて不思議と嫌じゃない。
彼女の声だろうか。しぐさだろうか。リズムだろうか。
いわば「カオル・マジック」に魅了されて、あっという間に一日が終わっていく。ものすごく進展したような気もしつつ、なんにも動いていないような気もする。
こんな経験は初めてだった。雲の上にふんわりと乗っかっているような感覚。
夜。彼女とタクシーで銀座に行き、古くからあるというインド料理の名店に行く。
「カレー屋ではありません。大使館員も食べに来るインド宮廷料理の本格的なレストランです」
それでもまあ、カレー独特の香りはしている。
薄暗い一角に通されてしばらく待っていると、カツカツと靴音を立てて近づいてきたのは、若い女性だった。薫より若い。学生のようだ。日本人にしか見えない。
「こんばんは。マニーシャ・カドワキと申します」
ハキハキとした女性だ。
「彼女は英語、ヒンドゥー語、ネパール語、中国語ができるのよ」と薫。二人はその後、中国語のような言葉で二、三、会話をした。
おれは焦りながら慣れない食事をしつつ、彼女にインドのシステム開発の状況や人材などについて根掘り葉掘り尋ねた。だから、インド宮廷料理はなんとなくだが、濃いカレーと薄いカレー、辛いカレーと甘いカレーを交互に食べているような印象しかなく、本当にもったいないことをしたと思う。
「すみません、社長。急用ができました。ここで失礼します。明日、オフィスで」
薫は立ち上がっている。
「あとはよろしくね」
薫はおれではなく、マニーシャにそう言った。魅力的なお尻をふりながら薫が店を出て行くのを見送る。
「忙しそうですね、薫」
マニーシャがそう言った。
「彼女のこと、ご存知なんですか?」
「もちろん。中国語の先生が一緒だったから」
「なるほど。しかし若いですね。マニーシャさん。おいくつですか? いや、失礼しました。忘れてください」
「いえ。いいんです。子どもっぽく見られるんですけど、これでも二十一になりましたからお酒も飲めますよ」
二十一……。こんなにキュートで優秀な女性が……。慌ててテーブルの下で彼女の履歴をもう一度見るが、これだけのキャリアを十七歳から短期間に積み上げていたのだ。
「この近くに素敵なバーがありますから、一緒にいかがです?」
次の店は外国人の多いスタンディングバーだった。やかましく音楽やビデオが流れ、その中で大声で語り合う各国の言葉。頭が痛くなるが彼女はイキイキしていた。
「ごめんなさい。あんなに大騒ぎしているとは思わなかったわ。別の店にしましょう」
数杯飲んで、次は地下にある落ち着いたカウンターバーに行った。湾曲したカウンターの中で、ビシッときめたバーテンダーがカクテルを作ってくれる。
その一杯目を飲んだとき、けっこう酔っている自分に気づいた。
「なんだかインド料理を食べると、カッカしません?」
そう言われればそんな感じもする。
それから彼女とどんな話をしたのか、覚えていない。
次に気づいたのは、もう起きなくてはいけないと本能に告げられて目をむりやり開けたときだった。
「うっ」
自分は裸で知らないベッドに寝ていた。家ではない。
追い剥ぎかなにかにやられたのかと思ったが、ベッドから慌てておりると、カーペットの感じから高級なホテルだとわかる。
そうだ。自分はいまホテル住まいをしていたのだ、と思い出す。
安堵しながら部屋のライトをつけた。見慣れない服が床に落ちている。なんだろう。
「もう、起きるの?」
甘えた声がした。
美紀。あれから会っていなかったが、ゆうべここに来たのか。
そんなはずはない。おれがホテルに住んでいることを彼女は知らない。
「あっ」
昨夜、引き合わされたばかりのマニーシャ・カドワキがそこにいた。シーツから褐色の肌が露わになる。
「まだ二時よ。起きるのは早いわ」
なにも思い出せないとは言えなかった。
おれはベッドからおりた以上、なにかしなければいけないと少し部屋をうろついた。
白い平たい箱が落ちていた。砂糖やトッピングの粒が残っている。全部食べてしまったというのか。夜中にドーナッツなんかを?
自分はどうかしている。
「どうしたの。なにかなくしたの?」
「悪い。実はなんにも覚えていなくて……」
「ふふふ。わたしも」
はからずも浮気をしたことになる。
いや、そもそも浮気だろうか。美紀との約束がある。だが、婚約したわけではない。二人の間でしか知らないことだ。美紀はキャバクラの女性で、おれは客なのだ。その場だけの適当な話をしていただけではないか。美紀は何人もの男たちに、同じようなことを言っているのではないか。
朝になってオフィスへ行くと、薫はすでにいてパソコンを熱心に使っていた。
「社長。開発部隊の方はおまかせします。社長とマニーシャで進めてください」
「あ、ああ」
「気に入りませんでしたか、彼女のこと?」
そんなことはない。
あれから二人で風呂に入り、最初からもう一度、正常な意識の下で楽しんだ。彼女は最高だった。若い。慎ましい。柔らかい。男らしくさせるのが得意な女性だ。
あれほどすばらしい体験を、おれは誰ともしたことはなかった。
なんということだろう。
オフィスでは薫と仕事をするだけですべてが快適でスムーズに進み、終わればマニーシャと食事してベッドに行く。しかも彼女はシステム開発についてとても詳しく、おれが頼ろうとしていた数人の友人たちがすっかり霞んでしまった。
一流というのは、こういう仕事の仕方をするのだ。彼女を社員第一号に決めた。薫とマニーシャとおれだけで、この会社は回る。
その日も翌日も翌週も、翌月も。
おれは昼夜、休日も関係なく働いた。猛烈に働いたといっていい。
薫とマニーシャによって、おれは常時、最高の気分でいられた。社員は採用しないままだった。それでも開発はすでに始まっており、キーになる人間はおれのほかはほとんど外国人だった。
いまだにおれからアイデアが盗まれている様子は感じられなかった。
たまに友人たちから電話があるものの、彼らには仕事のことを話さなくなった。話してもしょうがないのだ。諦めてもらおう。
喩えれば、愛車を持ち寄ってサーキットを借りてやるような草レースを始めるつもりが、F1に参戦することになったようなものだった。
最高峰の仕事をするためには、そのための一定の水準をクリアしていなければならない。おれの友人たちは、おれ同様、まだそこまで到達できていない。仕方がない。花実のファンドにも報いたい。あの資金、そして薫、マニーシャがいなければ、おれのアイデアはいまだに一歩も前進していなかったはずだ。
取材も増えた。薫がセッティングしてくれて、地味だが専門的な番組にも出させてもらった。
そこで知り合ったノーベル賞級の学者たちとも交流が持てるようになった。
悪いが、おれの恩師や大学の教授は足元にも及ばない世界最高峰の頭脳たち。
実際、彼らの一言でおれのアイデアは飛躍的に成功する確率が高まっている。思いもよらなかった指摘がズバズバと的中し、おれもインスパイアされて新しいアイデアがどんどん生まれていった。
これはいける。間違いない。
わずか三か月でおれたちは、一流のマスコミを百人も集めた記者会見を開くことができた。プレゼンテーションは、マニーシャが通訳するインドから来てくれた開発者、薫が通訳するシンガポール在住のイギリス人学者などによって大いに盛り上がった。
そしておれが、いま開発してるソーシャル・ネットワークについてごく簡単なデモを見せたときに、それは起きた。
主に外国人記者たちだが立ち上がって拍手をするのである。
なんだろう。なにがあったんだ。サプライズ・ゲストでもいるのかと周囲を見渡した。誰もいない。袖に薫とマニーシャが笑顔で立っているだけだ。
記者全員が立ち上がって拍手してくれている。
このおれに?
スタンディング・オベーションだって?
ウソだろ。
インド人開発者、イギリス人学者、薫、マニーシャらがおれを囲み、一緒に祝福してくれた。おれは笑うしかなかった。ストロボが花火のように照らしてくれた。
やったのだ。とりあえず、やり遂げた。しかも辛辣なメディアの連中が喝采を送ってくれるようなタイプの成功だ。
なんという幸せ者だろう。
おれはホテルに戻った。
夜、身内だけで祝杯をあげることになっていた。そのために着替える必要があったのだ。彼女たちもそれぞれ着替えに戻っている。
「明日の検索で、あなたの名前が上位に来ることだけは間違いないわ」
薫が請け負ってくれた。
成功は思いがけなく近くにあったのだ。この調子なら、この会社の事業を大手企業に売り抜けることだって可能だろう。世界中からオファーが来ている。よりどりみどりだ。
ベッドサイドに当たり前のように白い平たい箱があった。蓋をあけると、二十個のドーナッツがあった。おれの幸運のドーナッツだ。
食べたいわけではないが、金箔のついたやつを一つ、つまんで囓った。
「資本主義の味よ」
薫の声が聞こえたようで、微笑む。この味を忘れないことだ。将来、おれが世界的な有名人となったとき「すべてはドーナッツのおかげ」なんてスピーチをするかもしれない。
シャワーを浴びて楽な服装に着替えた。パソコンでベータ版のおれのネットワークを立ち上げてみた。すごいことになっていた。IDを先行して渡していた一部の専門家たちに加えて、メディアの関係者がみんなで利用している。
それも全世界規模だ。
おれはシステムのデータにアクセスした。ベータ版の利用者数は百五十万人を突破していた。実験から記者発表までに多少の下地はあったとはいえ、情報が解禁になった今日、爆発的に利用者が増えたのである。
電話があった。
「おめでとう」
花実だった。
「ありがとうございます」
「なかなか順調そうだね。報告は受けている。当ファンドは君のビジネスを加速させたい。ついては二百億円まで資金を出せるように準備を始めている」
「え?」
「二百億円。二億じゃないよ。この事業への期待値はそれだけ上がったんだ。すべて君の成果だよ」
「そんな大金……」
「君にくれてやるわけじゃない。君のアイデアに対する資金なんだ。忘れるな」
「ありがとうございます」
「ちっぽけな会社のままではいられないだろう。明日までに別のコンサルタントを向かわせる。いくつかのM&A案件を持っていくはずだ。慎重に検討してくれ。ただし、会社を売る話じゃないぞ。わたしたちが会社を買う話だからな。まだ売るな!」
「あ、おれは……」
なにか確かめたかったのだが電話はもう切れていた。
すごい。社員を一人、二人雇うのではない。企業買収でいきなり人材豊富な会社を傘下に入れてしまおうというのだ。そのための資金が二百億円。
ファンドとしてはおれにくれてやるわけではなく、あくまでも買収費用なので、新たな収益源を得て同時にこのプロジェクトの成功率を高め加速できるわけだから、それほど大きなリスクはないのだろう。
おれはそこの社長になるのか。CEO川口誠一郎。
悪くない。
最近、マニーシャと選んだ服に着替えた。この方が、まだしも二百億にふさわしい男に見えそうだ。香水もつけておく。いやらしくない程度に。
鏡の中にいるのは、なよっとした夢だけを語る若造ではない。ちゃんとした事業をしっかりスタートさせた実業家だ。創業者だ。おれの会社はいまに、世界中の人に知られる存在になるだろう。何十億というユーザーたちが参加するだろう。
口角をあげて、ちゃんと笑顔ができるようにする。
誰に見られているかわからないのだから。
部屋を出る。オートロックがかかるのを確認する。
ポケットを叩いて忘れ物がないかチェックする。
エレベーターホールへ行く。
そこに、人がいた。小柄なみすぼらしい女だ。このホテルにはふさわしくない、安物のドレスで安い酒の臭いがする。
「ねえ」
女が振り向いた。
「美紀」
「覚えてくれていたのね」
信じられないほど崩れた顔。もう若くはないのだ、彼女は。
「こんなところで、なにをしているんだ」
「あなたを探していたの。あれから部屋にも戻っていないし。会社を作るって聞いたけど、場所も電話も社名も教えてくれなかったし」
「知らせなかったっけ」
「ずっと音信不通だったじゃない。メールしても携帯にメッセージを入れても一切、返事くれなかったじゃない」
なんだか彼女がかわいそうな人に見えた。おれは美紀と付き合って夢を語り合っていた。だがそれは、昔のことで、いまはもうなんの価値もない。残酷なようだが、おれと彼女との関係は終わったのだ。
「それよりもあなた、早く目を覚まして」
「なんだ。妙なことを言うな」
おれは下りのエレベーターを呼んだ。
ドアが開き、おれが乗ると、彼女も付いてきた。幸い二人きりだ。こんな女と話しているところを誰かに見られたくなかった。
「ねえ。よく見て」
壁に反射しているおれを彼女は指さす。
「なんだ。このかっこう、おかしいか?」
「ちがうわ。ここよ」
彼女はおれの顔を指さした。なにがおかしいのだ。おれは毎日この顔を見ている。
「この目。見えないの?」
「目? どうかしたかな」
「サマンサ江上さんの忠告を思い出してよ」
「なんだ、サマンサ? 誰?」
「占い師よ。忘れたの? あなたは忘れたかもしれないけど、わたしにとってはあれから時間が止まっているのよ」
「うーん、言っている意味がわからない」
ロビー階についた。
おれは外に出た。そこに太った女がいた。鬼のような顔をしておれを見る。
「サマンサさんよ」
美紀が紹介する。見覚えさえない。なんだ、ぶくぶく太って。不健康そうな女だなと思う。揃いも揃って不健康そうな女たち。大していいものも食べていないんだろう。夢だけを食べているとか? 笑えるな。
おれは微笑んだ。
「これを見なさい!」
サマンサ江上という女が手鏡をおれに向けた。ぎらりと反射して目に鋭い痛みが走った。おもわずのけぞる。倒れそうになるのを美紀が支える。おれはその手を払った。
「やめろ。ふざけるな」
「これを見るのよ!」
手鏡を見た。
電流のようなものが鏡とおれの間に流れた。
そこには、見覚えのない痩せた男の顔があった。顔色はドス黒く、頬骨が突き出て、目は落ちくぼんでいる。
どこかで見たことがあるぞ。
そうだ。ゾンビ映画だ。これはゾンビメイクではないか。
「なんの冗談だ。ハロウィンか?」
鏡と思われたのはディスプレイで、そこにイメージを映し出せるのだろう。
「違うの!」
美紀が叫ぶ。このキチガイ女、どうにかしてほしいな。うっとうしいし。貧乏臭い。そう、臭いんだよこいつ。殴ってやろうか。
怒りがこみあげてくる。
「危ない」
サマンサがおれに抱きついた。
「なにするんだ、おまえ」
体重をかけられて、おれは仰向けに倒れた。天井がぐるっと回った。ホテルのロビーの天井は無駄に派手なシャンデリアがあるな、と思った。
その直後、意識が混濁していった。
殺される。おれはこいつらに殺される……。
なにか逆恨みでもされるようなことでもしただろうか。
なにも思い出せない。
おれは誰だ。
何者だ。
苦しみの中でもがき続けた。溺れて死ぬのは嫌だった。
気づくと、白いシーツのかかった自分の下半身を見ていた。
「気がついた?」
「美紀……」
学生のようなセーターとチェックのスカートを履いた美紀がいた。相変わらずかわいい。肌も艶々だ。天使のようだ。
「店はいいの?」
「なに言ってるのよ。いまは昼間よ。ここは病院。安全なところ」
そこに、教授や友人たちも入って来た。
「大丈夫か」
「みんなどうしたの。おれは大丈夫だけど」
「昨日倒れたのよ。覚えてる?」
「いや」
おれは気分が悪くなった。横に看護師が立っていたのにも気づかなかった。戻しそうになっていることに気づいて、洗面器を持たせてくれた。
「うげっ」
腹の底からこみあげてくるものがあり、そこになにかよくわからないものを大量に吐いた。
ドーナッツの香りがする。二度とあんなドーナッツは食べないぞ。
「出たね」
サマンサもいたのだ。看護師の横に座っていた。
「よかったな、川口」
「そうだよ、みんなで心配していたんだからな」
なにを? なぜ?
「思い出せないんだよ」
「おまえ、大変なことになってたんだよ」
なんのことだろう。
サマンサが立ち上がり、洗面器をおれから取り上げてどこかへ持っていった。
「ほら。見て」
美紀が手鏡をおれに差し出す。
おれがそこにはいた。なにも変わっていない。いや、かなりやつれていた。頬がこけている。しかし優しさだけが取り柄のような目は、変わっていない。
「三か月、ほとんど飲まず食わずだったのよ」
「なんのこと? さっぱりわからないよ」
「ゆっくりやろう」
教授が笑っている。
頭の奥が重い。
三か月、なにがあったというのか。
このあと点滴を受けながら、美紀とサマンサ、友人たちから聞かされた話は、おれの想像を超えていた。
おれはある古いビルの一室とホテルを毎日、往復し続けていたという。ほかにはどこにも行かなかったらしい。そしておれは、誰とも接触していなかった。誰とも会わなかったという。ビルの一室にもホテルにも、人が訪ねて来たことはなかった、と彼らは言う。
「あとでビルに行ってみよう。なにか手掛かりが残っているかもしれない」
友人たちの冷静さがうれしかった。
「私たち、あなたが連絡を絶ってしまってから、必死で探してやっと街角で見つけたので、あとを追ったりしていたの。話しかけても返事しないし。いつも誰かと話をしているような感じで、なにかをぶつぶつ言っているの」
「なんのことだか……」
ようやくそのとき、小さく畳まれた記憶の断片を見つけた。おれは融資を受けて会社をつくり、ホテルに住むことにし、魅力的な女性たちと仕事をしたり、わずかしかないプライベートタイムを楽しんでいたのではないか。そして大成功したのではないか。インド。二百億。
「そうだ。おれの会社……」
「やっぱり。そうなんだね。もう少しで殺されるところだったんだよ」
サマンサが言う。
「なんで? 成功しかかっていたじゃないか。おれの会社の事業はインドの開発会社を使って、ノーベル賞クラスの学者たちと国際的なコラボレーションをして、たくさんのメディアに賞賛されて……」
言いながらなにかが違うと気づいた。
さすがにおれでも、それはわかる。
あのめくるめく悦びの日々がすべて幻だったというのか。
「なめくじファンドだよ」
サマンサの厳しい目を、まともに見ることができなかった。
「あんたがさっき吐き出したものの正体は、いまの科学ではわからないかもしれないけど、一応、研究所に回しておいたけどね。私の考えでは、エクトプラズムだと思うわ。いわば魂ね。なにか、別の魂を入れられたのよ。つまり、あんたは悪いやつに取り憑かれたんだよ」
「取り憑く……」
「そう。エクトプラズムを押し込んで、そいつを成長させていくのさ。あんたの体を借りてね。その間、あんたは内側から食われていく。寄生虫に取り憑かれたみたいにね。そして成長するまでの間、当人を機嫌よくさせるためにあらゆる都合のいい幻想を見させるんだよ」
薫が毎日のように会社に持って来たり、ホテルに差し入れしてくれたドーナッツ。あれなのか? あれをどれだけ食べたのだろう。それは資本主義の味……。
なんだか恥ずかしく、子どもじみている気がして、ドーナッツのことは誰にも言わなかった。
「吐きそうなの?」
「ああ。だけど、もうなにも出ない」
体の中は空っぽだ。
「これから、どうなるんです?」
「さあね。残念ながら、これまでの事例をすべて調べたけど、被害に遭った当人がどうなったのか、いまだにわからないんだよ。消えてしまうからね。おそらく食いつぶされて絞りカスみたいになって、その辺に捨てられても誰も気づかないんじゃないかね」
「で、もし、あのままおれに寄生したやつが成長したら?」
「さあ。なんらかの次の段階に進むのか。寄生した人間に似た格好をして、どこかで生きているのか」
信じられない話だ。
あの花実がそういうことをしたというのか。蟻森薫やマニーシャ・カドワキも幻想だというのか。食べたり飲んだりしたのも。懸命に働いたことも。成功したことも。
ああ、あの成功がウソだなんて……。
夢でもいい。あの成功による喜びの中で死ねばよかった。
おれは心底、そう思ったが、美紀たちにそんなことは言えない。
あの喜びはカネでは買えない。二百億という金額はメダルの刻印のようなもので、それ自体はどうでもいいのだ。メダルをかけてもらう喜びは、メダルがなにで出来ているか、どんな模様が彫られているかなんてことよりも遥かに大きい。あれが幻だなんて思いたくない。
「これから、どうすればいいんですか?」
「やつらが簡単にあんたをあきらめるかどうか、様子を見る必要があるね。あんたはいま抜け殻だ。現実の厳しさよりも、甘ったるい幻が懐かしいだろう。そこを連中はついてくるかもしれない」
「おれのことなんて、どうでもいいと思ってるでしょう」
「私はそうは思わないね」
江上が暑苦しい顔を近づけてきた。口臭がひどい。このオバサンはなにを食っているのか。ニラレバか。スタミナ丼か。
「なめくじファンドは、これまでもあんたみたいなやつを食い物にしてきたんだよ。それは、あんたのようなタイプを選んで接触しているってことだよ。そうそういないんだよ。今回だって、ほとんどうまくいきかけていたんだからね。簡単に次は探せないだろう」
「どういうタイプなんです、おれみたいなのって」
刑事たちも、そういえばなにかしらパターンがあるかのようなことを言っていたではないか。
「さあ。はっきりとはわからないね。警察ほど情報を持っていないんでね。ただ言えることは、これまでやられた人たちはみんな若い男だった。男しかやられていない。大きな野望があって、チャンスさえあれば実現できそうなところにいる。ファンドの話に乗った場合しかこういうことにならないわけだしね」
「さっぱりわからないな」
魂の話とファンドの話はなんだか遥かに遠く離れているように感じる。ファンドにこだわるのは妙だ。資本主義を語る幽霊などいるのだろうか。
「やつらはあんたにいくら掴ませたんだい?」
「三千万円。そうだ、あの資金はどうなったんだろう」
「ふふふ。あんたは知らないだろうけど、翌日にはすっかり引き出されていたよ。一部は現金、一部は送金されていた。それもファンドに関係のある会社の口座を使ってね。警察は詳しく知っているはずだけども、追跡不可能なところへ消えている。つまり、表面的に見るとあんたはマネーロンダリングに使われたとも言える」
「なに、それ」
美紀の問いに、江上は答える。
「汚いカネ、出所のわからないカネを洗濯して表に出すことだよ。いま主要国はマネーロンダリングを監視して、厳しくチェックしているからね。そういうことをする連中は、反社会の組織、暴力団やテロリストってことだからね」
おれの名前と口座は、そんなことのために使われたというのか。
「もちろん、なめくじ野郎の狙いはマネーロンダリングだけじゃない。実際に新規事業を立ち上げて、どこかに売り飛ばすことだからね。あんたが楽しく夢の中で成功している間に、どこかであんたのアイデアをそっくり盗みとって事業化しているはずだよ。完全なコピーだからね。違いはたったの一つ。あんたはただ幻想に浸っているだけで、盗んだ連中はリアルなビジネスをしているってこと。そして、世の中で本当にカネになるのは、幻想じゃなくてリアルだからね。法廷で争っても勝ち目はないわけさ」
美紀たちによれば、おれはただ意味もなくホテルとオフィスと思い込んでいた部屋を往復していただけらしい。なにも作らず、生み出さず……。ホテル代はおれ名義のカードで支払われ、預金残高を減らしていただけだった。
「契約書とかいっぱい書いたんだ。あれはホンモノだった……」
「書いたときはそうでも、いまはもうないだろうさ。どこに置いておいたんだ」
ホテル。そしてオフィス。
どっちも、やつらなら出入りできるだろう。マニーシャ・カドワキはいつもホテルにいたし、薫はオフィスにいた。
なんてことだ。
「だけど、おれはいろんな人に会って話をしたり仕事を頼んだりしたんだ」
「幻想だよ。あんたは、ただ街をうろうろして、公園に行ったり、座り込んだり、たまには寝込んだりしていたんだ。それだけだよ」
霊的な存在なら、ただ人間を苦しめるだけで楽しいのではないか。金銭的な見返りが必要な霊的な存在ってなんだ。霊の世界も資本主義なのか。
おれの乏しい知識が正しいなら、自らを「妖怪」になぞらえたのは脱資本主義である共産主義の方ではなかったか。「一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている。――共産主義の妖怪が」だったろうか。
「おそらく正体はいずれわかる。あんたが会ったのは、花実という男だったそうだね。そいつは、刑事によれば明治時代の写真の中の人物にそっくりなんだってね。いま、こっちでも調べているところだよ」
まさに化け物だったのだ。不老不死なのか。ドラキュラのように永遠の命を得たとでも?
「おれはいつまでここに?」
「あんたが倒れている間に検査をしたけど、栄養失調で体力がギリギリしか残っていないというほかは、とくに異常はなかったらしい。だから、点滴が終わって歩けるようなら、いつでも出て行くことはできる」
「疲れた。一人にしてほしいんです」
「それはダメよ」
「なぜです」
「相手の出方がわからないんだから。もし、次にアタックされたらあんたは死ぬ」
おれはその死を望んでいるのかもしれない。
大成功の夢を見て死ぬのだ。あんな素敵な結末なら死んでもいい……。
「死んじゃいや! せいちゃんが死ぬなんて!」
美紀がおれの手にすがりついて泣いている。
「大丈夫。おれは死なないよ、そう簡単には」
そう言うしかないのでそう言ったが、死への願望は大きくなっていくばかりだ。
見ろ。この病院。このつまらない世界。
美紀。サマンサ。教授。友人たちのあまりにも平凡な顔。この日常に比べたら幻でも、あの夢の中で死にたい。
「頼みがあるのよ。簡単なことなんだけど」
サマンサが言う。
「なんです」
「あんたが会った連中とまた会うことがあったとしても、相手の場所に行ってはだめ。必ずあなたの部屋で会うこと。約束してほしいの」
「おれの? あんな汚い部屋で?」
「ええ。あなたの部屋に来るように仕向けるの。それで、どこまで入ってくるか見ていてごらんなさい。相手の場所に行くのだけはやめて。約束できる?」
「ええ」
美紀の手前、約束した。
どこで会おうと薫やマニーシャに会えるなら、おれはそれでいい。
「どうします? お札でも貼っておきますか?」
おれが軽く言ったことに、サマンサはビクッとして気分を悪くしたようだ。
「これはあんたの命がかかってるのよ。冗談にしてはいけないわ。お札も必要なら貼りますよ。何百万枚でもね」
妙な単位を使うな、とおれは微笑んだ。札束対お札か。どっちが強いか。いまの時代、札束だろう。そもそも、お札をもらうのに札がいる。そうだ。サマンサはこんなにおれに関わっていくらふんだくるつもりだろう。
人を気持ちよくさせてふんだくるやつと、気分を悪くさせてふんだくるやつ。現実社会のほうがよっぽど魑魅魍魎じゃないか。
おれは気持ちよく死にたい。
退院を許され、おれは美紀と部屋に戻った。
三か月というのは、思った以上に長い期間だった。カレンダーをめくるだけではなく、冷蔵庫の中身をすべて捨てなくてはならなかった。ホコリも、おれが想像した以上に溜まっていた。
そもそも季節が違う。春はとっくに過ぎて、夏になりかかっていた。
美紀は汗だくになって掃除を手伝い、どんどん服を脱いで下着になっていた。
すっかりゴミを捨てて、新しい風が入ってくる部屋で、おれは美紀をベッドに押し倒した。
「ごめん」
とりあえず謝った。
彼女からキスをしてきた。
現実はしょっぱい。甘いキスは幻だ。彼女の体は汗をかき、嫌ではないがケモノじみたニオイがしていた。おれもそうだろう。久しぶりに体を合わせて、いろいろな工夫をしながら小一時間過ごした。
彼女は満足しているようだ。
おれは……。
よくわからなかった。
時速三百キロから時速三キロになったとき、こんな感じではないか。すべてが止まり、退屈になる。どこかでホッとしているが、「これでいいのか」と思う自分もいる。
「冷蔵庫が空だから、なにか買ってくるわ」
「店はいいのか?」
「とっくに辞めたのよ」
「え?」
「いろいろ人間関係が複雑で面倒なの。いまはサマンサに紹介されたIT会社で事務のパートをやっているの。今日はお休みをもらっているけど」
「そうなんだ」
彼女はジーンズに長袖のシャツを着て、サイフを持って出て行った。薫やマニーシャに比べると、貧弱なお尻。プロモーションそのものが幼く見える。
これが幸せなのかもしれない。平凡で。つましくて。おれは何者にもなれず、彼女はパートで生活費を稼ぐ。
たまに休みにセックスして外食する。
そのうち子どもができたりして。結婚する。そして年を取るか、なにかの悪運で死んでしまう。なにも成し遂げず、ろくな夢も見ずに。
チャイムが鳴った。彼女がなにか忘れたのだろうか。
「どうしたの」
この部屋は古くて安いので、画面のないドアホンだった。
「ハー、ハー」
最初は鼻息しか聞こえなかった。いたずらか。
「川口さん。どうして来てくれないんですか」
薫だ。ドアホンに口を近づけすぎている。そのせいか、おれの耳の中に、直接言葉や息を注ぎ込んでいるような感じがする。
「どこへ」
「会社に決まってるじゃないですか。あなたの会社ですよ。株式会社スペアヘッド。資本金二億円。もう少しで成功するんです。あなたがいなければダメなんです。お願いです。戻ってきてください」
二億円。増えている。もう払い込まれているのだ。花実は約束している。事業展開しだいでいくらでも資本を提供しようというのだ。
そう、もう少しで成功する。最高のスタッフたちによる、最高のソーシャル・ネットワークが生まれる……。二百億の資金でM&Aを成功させれば……。
おれの夢。
サマンサの忠告を思い出す。相手の場所へ行ってはいけない。おれは着替えて、すぐにでも飛び出したい衝動をなんとか抑えた。まだ裸だったのは幸いだった。
「いまはダメだ。それより、狭いけど、うちに来て少し話でもしないか」
「ほかに誰かがいるでしょう?」
「いまはいない」
相手は黙っている。
「開けてください」
喉になにかが詰まったような声だ。
おれはエントランスのドアを開けるボタンを押した。
蟻森薫がここに来る。異常に興奮している自分がいた。急いでジーンズとシャツを着た。
チャイムが鳴った。
玄関のドアの向こうに彼女がいる。スコープから見ると、不安そうな彼女がビシッとしたベージュのスーツで立っていた。凛々しく、美しい女性。
ドアを開けた。
部屋の空気を受けて、彼女は顔をそむけるようにした。
「お願いですから。早く、会社に戻ってください。スペアヘッドはあなたがいないと進まないです」
可憐な声。胸に突き刺さる。悪いことをしているのはおれだ。
おれからも目を背けている。無精髭はあるが、清潔にしているけども。
どうして見てくれないのだろう。
「いまは行けない。体調が悪いんだ」
「じゃあ、これをぜひ、受け取ってください」
白い平たい箱。ドーナッツだ。
おれの中の欲望がそれに手を伸ばす。
「なにしているんですか!」
美紀がそこに立っていた。
「え?」
「外に出ようとしていたの?」
ドーナッツをおれに押しつけて、薫は、おれから遠ざかっていく。おれはふらふらと玄関から出ようとしていた。
それを美紀が体で押しとどめて、「ねえ、どうしたの。なにをしているの」と怒っている。
「どうしたって、ほら、あそこに」
おれの目線を追った美紀は、しばらく薫を見ていた。
「なにがあるの? なにが見えるの?」
「え?」
「冗談はやめてよ。びっくりしちゃうわ」
美紀に押されて、玄関に戻された。
「なにも見えなかったの?」
「見えてるわよ。なんだか寝ぼけた顔をしたあなたが、ふらふらと外に出て行こうとしていたところはね。だめよ。まだ体調だって万全じゃないの。もう少し、おとなしくしていなくちゃ」
美紀はなぜ、薫を無視するのだろう。あそこにいたではないか。
おれはドーナツの箱を流し台に置いた。あのドーナツ。香ばしい香り。
強烈な怒りがわきおこり、「なにするんだよー」と怒鳴って、脱いだ靴を揃えている美紀の細い首に、背後から両手を回していた。
「うっ」
彼女の体が固まる。
彼女が置いたレジ袋が横倒しになった。
その中からソフトクリームの形をした安いアイスが転がりでて、おれの足に当たった。
力が抜けていく。
「ごめん」
おれは部屋に戻り、床にへたりこんだ。
「大丈夫?」
美紀は自分の首を絞めた相手の心配をしている。
「ごめん。どうかしていた。ほら、アイスが溶けてしまうよ」
「一緒に食べよう」
彼女は買ってきたものを冷蔵庫に入れ、おれは安物のアイスを口にした。
あの高級ドーナッツが資本主義の味なら、このアイスはなんの味だろう。
わからない。
ただ、冷たくて甘くて。溶けていき、指を汚す。
現実はそんなものか。
「なに見てるのよ」
「別に」
冷蔵庫に食品を入れている美紀のお尻を見ていた。現実。どうしても、そこにうまくコミットできていない感じがある。
「サマンサを呼ぶわ。いい?」
「なんで」
「安心できないから。どんな手を使ってくるか、わかったもんじゃないし。刑事さんの話だと、目を付けられた人は消えてしまうんでしょう? わたし、怖いし。サマンサなら、なにかいい方法を知っているかもしれないし」
大げさだな、と思う。
客観的に見れば、女同士の男の取り合いではないか。
薫はビジネスとしておれを求めている。その薫がいても、見えないふりをする美紀。見えないふりなのか。それともある意味で、見えていないかもしれない。見たくない存在を心理的に排除したい、という気持ちが強烈に働いているのかもしれない。
薫はおれとビジネスがしたいだけだ。
だったら、美紀はおれとなにをしたいのだろう。なにを求めているのだろう。
「今日、ここに泊めてくれる?」
まだ夕暮れには早い。
「うん。まあ。いいけど」
優柔不断と言われようと、相手が恐ろしい相手かもしれないとしても、たかがビジネス・ウーマン一人に、美紀は大げさすぎるのではないか。
美紀は薫が見えていたのだ。おれは気づいた。だから、サマンサを呼ぶのだ。自分には手に負えないと感じたのだろう。
夜になって、簡単な夕食を終えた頃に、サマンサ江上が人を連れてやってきた。
「おじゃまします。こちらは強力な霊能者の、イザベラ群司さん。わたしとお師匠さんが一緒なの。いわば姉妹弟子ね。だけど霊力についていえば、イザベラはおそらく日本で最強だと思う」
真っ黒なサングラス。ぽかんと開いた口。ガリガリに痩せた体をインドの人のように、オレンジ色の布を巻いて隠している。修験者のようだ。
「こっちよ」
サマンサはイザベラに手を貸してやり、靴を脱がせ、廊下を連れて居間のソファに座らせた。
「イザベラは、生まれつき耳が不自由でなんにも聞こえないの。いえ、聞こえてはいるらしいけど、激しい波の音のような雑音しか聞こえないの。人の言葉とか、音楽を認識できないわけ。目は、ある強い霊と対決したときに能力をほとんど失って、いまは光を感じるけど、見えるとは言えないの。光がこういう普通の蛍光灯でも、太陽を直接見るのと同じぐらい強烈に感じるので、サングラスをしています」
サマンサがそう言うと、イザベラは「その人の手を、ここに」と言った。
おれは、サマンサに促されて、イザベラの枯れ葉のような手の平に自分の手をのせた。
ゆっくりとイザベラはおれの指や、指の間や、関節などを確かめていた。
「難しいことになってるわね」
イザベラは機械のように平坦にしゃべった。
「あなたの体の中に、しっかり楔が打ち込まれている。それを取り除く方法は、いまはわからない」
キッチンを抜け、美紀とセックスしたベッドにカバーをかけてごまかし、床に置いたちゃぶ台を囲んで座った。
「サマンサと調べたことから話しましょうか」
イザベラは平坦なしゃべり方をする。顎を突き出し、見えない目でなにかを見、聞こえない耳でなにかを聞いている。苦痛にときどき顔を歪める。リズムに合わせているかのように体をくねらせるときがある。
「花実享一郎という人に会ったのですね」
「はい」
「花実という苗字がヒントでした。花実と書いて『はなみ』と呼ばせているのですね。でも、そう読むのではないのです。『かさね』と読むのです」
「かさね?」
「漢字では、本来『累』と書きます。古く、江戸時代に累という名の女がいました。下総国羽生村というので、いまの茨城県常総市羽生町。そこであった恐ろしい祟りの話の主人公の名です。与右衛門は後妻との間にできた助(すけ)と名付けた子を醜いと殺してしまうのですが、そのつぎに生まれてきた女の子に『累』と書いて『るい』と読ませて育てる。だが、その累が殺された子にそっくりの醜い子だったので、村では生まれ変わりでかさなっている。だからその子は『るい』ではなく『かさね』だろうとウワサされたのです。両親の死後、累は流れ者の谷五郎と知り合い、一緒に住み、彼を二代目の与右衛門として家を守ろうとした。ところがここでもまた同じことが繰り返される。重なるわけ。谷五郎は累を殺してきれいな女と結婚する。すでに祟りがはじまっていて、後妻は何人もつぎつぎと死んでしまう。やっと六番目の後妻に子が生まれた。また女の子だ。その子にも累が取り憑く。聞き付けた祐天上人が除霊して供養したところ、本来の助の霊も現れて、やはり除霊して供養した、という話」
一度、聞いたぐらいではわかりにくい話だ。
「祐天は祐天寺の祐天よ。東急東横線の駅名にもなってるお寺。あそこで亡くなった人」
イザベラの単調な言い方が、よけいに耳について、すっと入ってこない。
「これは歌舞伎、怪談として語り継がれてきた話だけど、要するに、仏教的な教訓の話になっているの。悪いことが重なる。だけど、その原因は最初にある。根本を正さないと、悪いことは続くのだ、ということね。もちろん、悪いことを続けているとそのうち因果応報ということになるわけだけど」
なにがいいたいのか、さっぱりわからない。
「それが、フィクションではなかったわけ。累は実在したの。怪談とはずいぶん違う話よ。この一族は累の名を名字に使おうとしたのね。明治八年(一八七五)の平民苗字必称義務令で、誰でもが名字をつけるようにと義務化されたときに。ただ、『累』という名があまりにも芝居とかで知られすぎたので、『かさね』という音を生かして『花実』にした」
「なにが言いたいんですか」
おれは少しキレぎみに言った。
「明治政府は近代化を進め、天皇の神格化、神道のみを国の宗教とする方針を進めたから、仏教は邪魔だった。それまで神仏を一緒に祭っていたことをやめさせた。そのときに行き過ぎた過激な人たちは廃仏稀釈に走った。そんな時代だから、仏法に関わる一族も肩身が狭かったということもあるでしょう。『花実』と字をあてるだけではなく、『はなみ』と読ませるようになっていった」
だから、なんだ、と言いたい。
「たまたま、そうなる前の江戸末期に、花実の一族は金貸しとして大成功していました。お金を重ねる、借金を重ねる、金利を重ねるって意味だったわけよ。こうして稼いだ大金を持っていたので、それで自分たちに都合のいい政府を作るための運動に参加した。『蝦夷共和国』を作ろうとした榎本武揚に荷担したと見られている」
「どうして大金を持っていたんです?」
「よくはわからないけど、コツコツと積み上げていたところに、動乱に乗じて大きく儲けるチャンスがあったのかもしれない」とサマンサが補足する。
「忌み嫌われる者の代表は、金貸しだからね」とイザベラが言った。「カネほど『かさね』の因縁にふさわしいものはないじゃないか」
「醜いからと殺された子が『助』。そのあとに生まれたうり二つの子が『累』。お金を嫌う人間は多いけど、お金に助けられる人間も多い。そしてお金はどれだけ崩してもお金だ。昨日貰った一万円札。今日貰った二枚の五千円札。同じお金だ。どれだけ醜くとも、同じ顔をしている。どれだけ崩れても価値は同じ。そういうものさ」
おれはこじつけのような話についていけなかった。
サマンサとかイザベラとか、西洋風の名をつけたわりには、ずいぶん泥臭い話をするんだな、とも思った。くだらない。占いもくだらないが、霊能者もくだらない。
「おそらく、累の一族は、日本の近代化に乗っかって富を蓄えた一族の一つ。ただし歴史の表舞台には出て来ないのね。だから調べるのが大変だったわ」
イザベラはそう断言した。
「そのカネは、明治時代を通じて、富国強兵とともに、政府と一体となって巨大になっていったんだね。たくさんの若者たちを戦地に追いやり、無惨に殺させたり、人殺しをさせたんだよ。これほどの怨念があるだろうか」
「反政府だったんじゃないか、最初は」と、おれは話の矛盾をついたつもりだった。
イザベラとサマンサが笑った。
「こうした資金を持った者はしたたかなのさ。ルーレットでいえば、赤と黒、両方に賭けることもできる。そういう連中だよ」
「だとして、なんで、おれなんかを騙すんだよ」
「黙れ」
イザベラが怒鳴った。
「花実は、おまえを騙したのか?」
「そうじゃないか」
「違う! おまえが描いた夢を夢として体験させてやったのは誰だ! 花実は騙してはいない。おまえが気が済むように、カネを用意し、夢を見させてやったじゃないか。それはおまえの描いた夢じゃないか!」
おれは反論したかったが、美紀が腕にしがみつき、引き留めた。
なにするんだ、と思わず美紀をにらんでしまった。美紀が脅えた顔をした。
「いいか、若造。騙されたと被害者ヅラするな。おまえは共犯者だ。花実たちは江戸時代から、社会の片隅でじっと人々の欲望をチェックして、そこに入り込み、一族の富を増やし、一族を永続させてきたんだ」
「だけど、やつらは幽霊なんだろ。違うのかよ。化け物なんだろ」
おれはうわずった声で反論した。
「やめて」と美紀が小さく言った。
「この部屋にお札でも貼ろうかと言ったそうだな。それもいいだろう。ほら、持ってきてやったよ」
イザベラが、束になった神社仏閣のお札を床にバラ撒いた。
「やつらは、おまえの家には入れない。それだけは間違いない。自分たちの都合のいい場所でなければ、おまえとコンタクトすることは難しいはずだ。太平洋戦争ではかなりのダメージを受けたはずで、なめくじファンドをはじめたのも、生き残るための手段だったに違いない。一族は弱っている。絶滅危惧種よ。おまえが明治時代の写真を見て、花実を特定したという。そうなのだ。この一族は、生まれてくる子が、みな同じ顔になる。もっとも子が生まれれば、だよ。もうそれほどの力は残っていないだろう。だからといって、あなどってはいけない。政府までも動かすほどの力はもうない。それでも、おまえごとき簡単にひねり潰せるぐらいの力はまだある」
言い方が気に入らない。人を共犯者よばわりし、虫ケラのように言うなんて。
「わかったから、出て行ってくれ」
「せいちゃん、ダメよ。せっかく来てくれたのに」
「美紀。おまえも出て行くのか? いいよ。出て行きたいなら」
「なんで、そんなこと、言うの」
「おまえたち、自分がなにを言ってるのか、わかってるのかよ。人の夢をぶち壊して、人助けをしたとでも思ってるのかよ。ああ、おれは化け物に騙されたくだらない男さ。虫ケラだよ。なんの価値もないさ。だったら、放っておいてくれ。おれなんかを助けたって、なんにもならないだろう。腹が立つんだよ。善人ヅラしやがってさ」
「そんな!」
美紀はおれを殴ろうと手をあげたので、おれはそれより早く、身をかわし、美紀を蹴ってやった。
「あうっ」
お腹をかかえた美紀を、サマンサがかばった。
「悪い空気がプンプンしてるね」
イザベラがなおもしゃべる。
「黙れ、クソババア。とっとと出ていけ!」
サマンサが美紀とイザベラを連れて、ゆっくりとおれから離れていく。
なにかくだらない捨てゼリフでも言うかと思ったが、やつらは、黙っていた。美紀がバカみたいに泣いているのが、余計腹が立った。
本当におれのことが心配なら、ずっと一緒にいてくれるだけでいい。占い師や霊媒師なんて必要ないじゃないか。なんでも他人を頼りやがって。その負け犬根性が気に入らないんだよ。
腹の中で毒づいたつもりだったが、最後は口に出していたみたいだ。
美紀が玄関でおれを睨んでいた。
そして、何も言わず、三人は出ていった。
すうっと、怒りが抜けて行った。
あー、すっきりしたじゃないか。病院で妙なものを吐いてからこっち、ずっと自分が自分ではないような気がしてならなかった。
いま、やっと自分を取りもどしたようだ。
「ぎぃぃ!」
その夜、激痛で飛び起きた。
腹が痛い。腸がねじくれ、引き裂かれているようだ。
とても眠れない。ベッドで大量の汗をかいて、七転八倒していた。
チャイムが鳴った。ドアホン。とても行けるものではない。
それなのに、不思議と足が動いた。助けに来てくれたのだ。美紀だろうか。
「はい」
「出て来ませんか? 外は気持ちがいいですよ」
マニーシャ・カドワキだ。
「花実も、折り入って話があるそうです」
腹が痛くて、それどころじゃない、と言おうとした。
「苦しいですか? だったら、薫さんが置いていったものを召し上がればいいのに」
「え?」
「朝まで、この近くのファミレスでお待ちしています」
なんだって?
おれは苦しみながら、部屋の電灯をつけた。
誰もいない部屋。だが、昼間に薫が来て、おれに押しつけた白い箱が、流し台の横に置いたままになっていた。
そういえば、あれについては美紀も誰も、なにも言わなかった。おれも忘れていた。
開けると、ドーナッツが一個だけ、入っていた。
吐きそうになる。
こんなものを食ったら、おれはきっと死ぬ。
これはドーナッツに見えるが、そうじゃない。
おれに寄生するよからぬ物体なのだ。
もう手に取っている。
そうか。寄生したものは、病院で吐いただけでは吐き出しきれていないんだ。まだ体の中に残っていて、おれをコントロールしている。
こんなに自然に手がドーナッツをつまみあげて、口に持っていくではないか。
食べたくない。これはもういやなのだ。たしかに、おれは美紀やサマンサやイザベラにあたり散らした。
わけのわからないこと言われたらだ、誰だって怒るだろう。
美紀がいれば、こんなことにはならなかっただろうか。
腹痛もなく、マニーシャも訪ねて来なかっただろうか。そして、このドーナッツを口にすることも……。
もう大半が口の中だ。
なんてマズイんだ。吐きそうだ。内臓をすべて吐き出してもいいから、もうやめにしたい。終わりにしたい。
それなのに咀嚼をはじめている。そんなに噛むな。味わうな。
吐き気はますます強くなるのに、喉が嚥下をしはじめた。まるで、おれの中の寄生体が、勝手に臓器をリモコンで操作しているようだ。
ああ、すべて食ってしまった。
水道の蛇口に口をつけて、水まで飲んだ。
「はー」
長い息。
腹の痛みが止まった。吐き気もない。
なんともない。
爽快そのものだ。元気まで出てきた。
てきぱきと服を着た。ロックして外に出る。
深夜だった。
朝までやっているファミレス。下が駐車場で、その上にある店。ガラス張りの店内。花実が手を振っている。
小走りに店に入った。
「ありがとう」
マニーシャが抱きついてきた。
なんと美しく、完璧なプロポーションなんだ。すばらしい感触。キスをする。熱いキスをする。ファミレスでなければ、このまま押し倒してセックスしただろう。
「川口さん。あなたはひどい人だ」
花実が言う。しかし、微笑んでいる。マニーシャもニコニコにしている。キスのあとの唾液を指先で拭い、それから舌をのばして指先を舐めた。
「そう、あなたはひどいわ」
おれは言葉が出なかった。
「ご注文は?」
ウェイトレスが来たので、「パンケーキとホットコーヒー」と注文した。やたらに腹が減っているのだ。
「事業は中断したままですよ。せっかくの資金が泣いていますよ」
「あなたは、花実と言ったが、祖先は『かさね』というのか?」
花実は表情を変えない。
「何百年も昔の話です。意味はないですよ、古いことを詮索されても役には立ちません。私たちはいつも未来志向なのです」
「だが、おれを潰して、アイデアだけ盗んで、潰れかけた一族をなんとかしようとしているわけだろ?」
「ご冗談でしょう」
パンケーキが届き、おれはバターとクリーム、そしてメープルシロップをたっぷりかけて、下品に食べ始めた。
「川口さんは私と契約をされたのです。契約を守るのが信義というものです」
「マニーシャ、今夜、おれの部屋に来いよ。セックスしようぜ」
マニーシャの表情が強ばった。
「あなたの部屋には行けないわ」
「な? そうなんだろ。おまえたちは化け物だ。生きているか死んでいるか、おれにはどっちでもいいさ。亡霊だろうと怨霊だろうと、未知の知性体だろうと。そんなことはどうでもいいんだ。知りたいのは一つだけだ。おれを食い殺して、自分たちの利益にしようってことなんだろ? なめくじファンドさん」
「下品ですね。それに失礼ですよ」
花実が言う。
「世間がどう言おうと私たちはかまわないのです。だけど、間違いなく言えることが一つあります。私たちなら、あなたの夢を実現できるのです。私たちはこれまで、たくさんの人の夢を実現してきた。その実績は数限りない。そのわずかな見返りとして、細々と社会の片隅で生きながらえさせてもらっている。それだけなのですけどもね」
「じゃあ、なんで関係者が消えるんだよ」
「消える? そうなんですか? それは初耳ですね」
花実とマニーシャは笑った。悔しいが、向こうのペースらしい。
「人柱という言葉、ご存知ですか? 大切なことを実現するには、犠牲がつきものです。自分の夢を実現するのに、自分以外に犠牲になるのにふさわしい者がいるでしょうか? かつては生贄だとか人柱とか、その集団の中から無作為に犠牲者を出していた。野蛮な時代です。その後、みんなで選んだ政府が、徴兵などで強制するようになった。これは一定の合理性はありますが、野蛮といえば野蛮だ。いまの時代はすばらしいですね。自由です。他人のための犠牲になりたい人は、犠牲になってもいい。なりたくない人はならなくてもいい。みごとです。いまの時代、自分の夢を実現するために犠牲になるのは自分自身しかいません。ほかに誰がいるんです?」
なるほど。
おれは丸め込まれたのだろうか。
同じ夢を見るにしても、あれだけ完璧で、天にものぼる心地のする夢なら、どんな代償を払ってもかまわない。
「消えたのではないのです。これまでの彼らは、魂を自分の夢と一体化させたのです。あなたは自分のプロジェクトを完結するのです。そうすれば、一体化できる。いわば、永遠の命を手に入れるのです」
「永遠? そんな大げさな」
「大げさではありませんよ。命を吹き込む。魂を入れる。これが大事でしょう。その犠牲も払わずに、なにを手に入れることができるというのです」
奇妙な宗教に勧誘されている気分になってきた。
ただ、頭は混乱していない。スッキリしている。占い師や霊媒師の言うことは混乱するばかりだが、花実はわかりやすい。
「だけど、実際にはおれのプロジェクトはなにも動いていない。おれは幻想を見ているだけで、現実はなにも変わっていない」
「バカな。そんなこと、誰が言ったんです。マニーシャ」
花実に促されて、マニーシャは最新のスマホを取り出し、テーブルの上に置いた。
「あっ」
おれのアイデア。おれのアプリ。おれのソーシャル・ネットワーク。それがそこにすでにある。
おれはしばらく夢中でそれを操作していた。まったく違和感なく操作できる。あたりまえだ。隅々までおれが設計し、アイデアを出したとおりになっているからだ。
「完璧だ。もう、できていたんだ」
「そうですよ。世界の頭脳がこのプロジェクトに参加しているんです。実態がないなんて、よく言いますね」
「でも、おれは、なにもない部屋とホテルを往復していただけだそうだ」
「ああ、そのことですか」
花実はスマホを取り上げて、マニーシャに返した。
「この世の中には、いくつかの次元がパラレルに存在している。あなたの中にあるアイデアを短期間に実現するためには、あなたは、あなたの脳内だけの活動に専念しなければなりません。ほかのことはどうでもいい。些末なことですからね。自分でなにかをする必要なんてないのです。脳内でイメージすればいい。そこで、どんどんアイデアを出して、人と会話して、開発してください。紙に書いたり、パソコンに入力する必要すらない。イメージすればいいのです。あとは、私たちがすべて現実にしてみせます」
「五稜郭では失敗したんじゃないか?」
「失敗? どこがですか?」
「明治政府に負けたんだろう?」
「あれは、勝つことが目的ではなかった。私たちは彼らにも支援をし、彼らの夢も実現しましたよ。彼らの多大な犠牲のもとにね。すべて政府の中に取り入れてしまったし、五稜郭はいまでも残っているじゃないですか。彼らのストーリーは何回も繰り返しドラマや映画になっている。本になって読まれている。歴史に刻まれている。彼らの望みです」
なるほど。
いや、納得してはいけない。
いや、納得していいのではないか。
心の中では揺れている。
「さっきは、ひどい腹痛で大変でしたよ。おれは、もうすぐ死ぬんでしょう?」
「違いますよ。激痛の原因は、あなたの中に入っている物質のせいです。あなたに心配させたくないので、ドーナッツに入れて食べてもらいましたけども。あれが切れると、激痛となってしまう。食べ続ければ問題はない」
「中毒にしたのか」
「あなたのアイデアを実現するためのアダプターですよ。その物質のおかげで、あなたは疲れを知らず、夢を追い続けることができる。同時に、あなたの頭の中のイメージの細部までもが、こちらにデータとなって送られてくる。これは比喩です。実際はそういうものではないが、わかりやすく言えばそういうことになる。インターネットにつながるためのプロバイダーのようなものです」
さっぱりわからない。
「それを食べ続けないと、ああなるのか」
「そうです」
「死ぬまで?」
「肉体を失って感じなくなるまで」
その違いは、いまのおれにとっては同じことにしか思えない。死ぬことも、死人のように生きることも、おれはイヤだ。
「その大切なドーナッツを薫がお持ちしたのに、追い返したそうじゃないですか。彼女、泣いてましたよ。最高のビジネスパートナーだと思っていたのにね、あなたのことを」
悪いことをしたような気分になる。
「だけど、今夜、あれを食べたんですね。それを聞いたら、薫もホッとするでしょう」
「もう、選択の余地はないんだな」
「そういうことです。あの激痛は、誰にも抑えることはできません。現代の医学ではムリです。それどころか、日に日に痛みは激しくなります。たぶん、三日か四日で、あなたは激痛の中で動けなくなるでしょう」
「じゃあ、どっちにしろってわけだ」
「ええ。契約をされたのですから」
「苦しみながら死ぬか、夢を見ながら幸福に死ぬか」
「あなたはもう選んだんですよ。死ぬとか生きるとかに拘泥するのはおかしいですよ」
そうか。そういうことか。とっくに決めた話だったのだ。
「わかった。戻るよ」
「ありがとう」
マニーシャの情熱的な抱擁とキス。心の奥底まで温かくなる。早くも幸福感を示す針が、振り切れている。
思えば、夢を途中で破られてから、一度として、こんな気持ちになることはなかった。腹立たしく、うんざりすることばかりだった。
「ついては、お願いがあります」
「え? 戻るだけでいいんじゃないの?」
「ダメです。あなたはすでに、夢を妨害する者たちに許しを与えてしまっている」
「なんの話?」
「三人の女性。二人の刑事」
「え? ああ。だけど、もう関係ないよ。追い出したし。刑事はもともと、おれを助ける気なんてないんだから」
「しかし、あなたはまた夢を妨げられるでしょう、このままでは」
たしかに。二度あることは三度ある。かさなるから、「かさね」なのだ。奇妙なかさね、それはデジャヴであり、シンクロニシティであり、不気味で不安なものであり、同時にすばらしいものでもある。フラクタルはすばらしい模様でもある。かさなることはセックスにも通じる。生み出すことでもある。そして、倍々と増えていくイメージでもある。
生い茂る木々。重なる葉。豊かさ。幸福。富があり、成功があり、夢の実現を予感させる。
「その夢を妨げないように万全を期する必要があると思いませんか?」
「ああ、もちろん。その方がいいな」
面倒事はもううんざりだった。美紀が泣き、サマンサが怒鳴り、イザベラが不気味につぶやく。あんな修羅場はゴメンだ。
「これを、彼女たちに飲ませてください」
マニーシャは、小さな瓶をテーブルに置いた。
「あなたは決して口にしてはいけません。もうドーナッツを食べてしまっていますから。混ぜるな危険、というやつです」
ニヤリと花実は笑った。
「あなたは、これを彼女たちに飲ませるのです。一滴でいい。相手が逆らった場合、目でもいいし、鼻の粘膜でもいい。耳の穴でも有効です。そうすれば、また復帰できます。そのあとに二人の刑事にも飲んでもらいますが、それはあとでもいい」
「そうですね。あとでいい」
ぼんやりと繰り返していた。繰り返しも「かさね」だろうか。
「これを飲むと、どうなるんでしたっけ?」
わざと無邪気に聞いてみた。
「気にすることはありません。あなたが開発に没頭できるようになるのです」
「あ、そうだよね。そうだ。それが大事なんだ」
「さあ。この鍵を再びあなたに渡せるように」
花実はオフィスの鍵をテーブルに置いた。取ろうとしたら、引っ込められてしまった。
「これを彼女たちに確実に飲ませてください。目の見えないイザベラを最初の標的にしてください。次に美紀。最後にサマンサです。サマンサは手を焼くかもしれないので、その前にイザベラと美紀に食べさせておく必要があるのです」
「なるほど。理に適っている」
「ええ。間違いありません。あなたの夢の実現のために、私たちはどんな援助でもするつもりです」
「ありがとう」
おれは立ち上がり、花実と握手した。はにかんだように、マニーシャは花実の背後に隠れてしまった。あれだけキスをしてくれたのに、最後は小さな投げキスだけだなんて。
いや、これははじまりなのだ。終わりではない。
いくらでも、マニーシャとセックスできる。夢の実現は同時平行、パラレルなんだ。
「どうして私を」
イザベラがおれの部屋にいた。サマンサと美紀は、彼女を連れて来て、外で待ってもらっている。
「腹を割って話がしたかった。美紀はシロウトでなにもわかっていない。サマンサとおれは、なんだか相性が悪くて、すぐおれがキレるようなことを言う。この間も、すまないことをしたと思っているんです。わざわざ来てくれたのに。サマンサがなにかを発言すると、カチンとくるんです」
「まあ」
イザベラは笑った。
「彼女はちょっとキツイところがあるから。私も同類だけど」
「ぜんぜん、違いますよ。あ、これ、水です。それともコーヒーとかがいいですか?」
「水でけっこう」
イザベラはミネラルウォーターのペットボトルを手にし、器用に封を切ってあけた。
「ストローはない?」
「ありますよ」
ストローを渡す。
「ありがとう」
ストローをペットボトルに入れた。
そして勢いよく、一口、飲んだ。
完璧だった。イザベラは飲んだ。
まさかストローになにかが一滴、入っているなんて、思わないだろう。
「どうすれば、元に戻れるでしょうか」
「あなたの努力しだい。あなたは、どうしたいの?」
「実は、おれの言う元に戻るというのは、花実たちとの関係を回復したいという意味なんですよ」
「まあ」
イザベラにはなんの変化もなかった。想像したような苦しみもなければ、火を噴くこともなかった。まして、なめくじのように溶けることもない。
しばらく、おれたちは静かに話し合った。
約束の時間がきて、ノックをしてから、外にいた美紀とサマンサが入って来た。
どうしてもサマンサだけを遠ざけることができず、美紀とサマンサには同時に飲んでもらうしかなかった。
サマンサは胡散臭そうにペットボトルを見た。なにかを感じただろうか。
「なにか飲んだらいいですよ。冷蔵庫にありますから」
「いま、私が買ってきたんじゃない」
美紀が言う。
「そうだった。ははは」
サマンサはますます疑っている。
美紀は炭酸のペットボトルを出し、サマンサは緑茶を出した。
「で、どういう話になったの?」
イザベラは、眠そうだが、落ち着いていた。
「元に戻りたいらしいの。どうしても」
「それは重症ね」
サマンサがさっそく、おれの神経を逆なでする。
「やめてくださいよ!」
おれは激高し、テーブルを叩いた。その拍子にイザベラのペットボトルが倒れた。
「あ、だめじゃない」
美紀はタオルを取りに行った。サマンサは、目の見えないイザベラが、おれの暴力を受けないように、そしてこぼれた水に濡れないように、体でかばった。
おれは慌ててペットボトルを手にし、緑茶と炭酸の容器も一緒に片付けた。そうしながら、手にしていた小瓶を緑茶と炭酸に振りかけてやった。
誰も見ていない。いや、目が見えるなら、イザベラだけは気づいたかもしれない。
テーブルの下で小瓶に蓋をして、靴下の中に押し込んだ。
すべてがうまくいく。
しかし、彼女たちにはなんの症状も出ない。残念だ。目に見えるような変化があるかと期待していた面もあったのに。
「あいつがいる!」
イザベラが立ち上がり、玄関を向いた。見えないはずなのにそれは正確な方向だった。
「誰? なに?」
美紀はテーブルを拭きながら、慌てている。
サマンサは素早く玄関へ行き、のぞき穴から外を確認すると、ドアを開けた。
「これはこれは」
花実が立っていた。
「みなさん、おそろいですね。どうですか。ちょっとそこのファミレスにでも場所を移しませんか?」
美紀とサマンサは否定的な顔をしているが、イザベラは目が見えていないのに、どんどん玄関へ進み、靴を履いた。
「すごいわ。目が見えます。耳が聞こえます」
イザベラが静かに言い放った。
「そうでしょう。それがあなたの本来の姿だからですよ」
「みなさんの顔が見えます。姿が見えます」
サマンサは涙ぐみながら駆け寄って、イザベラを抱いた。
「よかったわ。奇跡ね」
「感動的ですな」
花実が言う。
「なにをしたの。イザベラになにを」
「私はなにもしていませんよ。いま来たばかりじゃないですか」
サマンサの鋭い視線がおれを見る。
「なにをしたんだよ。言ってごらん」
「なにもしませんよ。話をしただけです」
「あっ」
突然、サマンサが体に手をやった。
服がぶかぶかになっている。
「ウソ」
美紀が驚いている。
「なんてことを……」
サマンサは泣いている。スリムになった彼女は、大きすぎる服をもてあましていた。顔もいくぶん、若返っている。おれが最初に見たときよりも、ずっと若く、きれいだ。抱きつきたいほどではないけれども。
「サマンサ。悪いけど、私は行くところがあるの。どこへ行くのも、自分の自由なの。それじゃ、みなさん。お先に」
人助けなど、もはやどうでもいいらしい。
おれを放り出し、サングラスを捨てて、イザベラはさっさと出て行ってしまった。
「ああ、これは、あなたがやったのね」
普通の女性になっているサマンサが、泣きじゃくりながら、花実をなじる。ずいぶん、女性らしくなったものだ。仕草も態度も。言葉も。
「違いますよ。そんな力はありません」
「と、とにかく、着替えなくちゃ」
「着替えを買わなくちゃ、ですよね?」
花実が意地悪く訂正する。
サマンサはぶかぶかのパンツがずり落ちているらしく、妙な歩き方で、出て行った。
「なにこれ」
美紀は呆然としている。
「どうやら、みなさん、長年思い描いていた夢がかなったみたいですな。美紀さんはどうですか?」
「え? 私? 私の夢って……」
美紀は考えている。なにも彼女には起きていない。
「楽しみにされることですね。そうだ。今日は宝くじの抽選日だったのでは?」
花実に言われて、美紀は顔を真っ赤にしていた。
そしてバッグを手にすると、「ちょっと」と言い、そのまま出て行った。
「彼女、宝くじが当たってるの?」
おれは花実に聞いた。
「でしょうね。夢ですからね」
おれはニヤリとした。
「まさか、あれは全部、幻想なのか?」
「さあ。私にはイザベラさんは目が見えているようにしか見えませんでしたし、サマンサさんはすばらしいプロポーションになられていましたよ」
「残酷じゃないか。夢が醒めたらどうなるんだ」
外で激しいブレーキ音がした。そして金属がなにかにぶつかる音。悲鳴。
「あなたが入れたクスリの量にもよりますが、一滴ぐらいだと、五分程度が限界でしょうかね。あなたは夢にアクセスできるように体の中から変化をさせていますが、このクスリはただの劇薬ですからね。リスクが大きすぎる。似て非なるものですよ」
イザベラはもう見えない。聞こえない。突然そうなったら、パニックになるだろう。
サマンサはどうするだろう。
そして美紀は……。
おれが味わったことを、やつらも味わうわけか。
夢が途中で醒めたときのショックは、死ぬほどつらいんだ。
あのまま死んでしまったほうがよかったと思うほど。
「事故に遭ったり、絶望のあまり自殺したり、気力を失ってまともな生活ができなくなったりする人もいますよ、夢が破れたときは」
そう。できれば、その夢は長く続いてほしいものだ。
とくに、美紀には幸せな最後を迎えてほしい。せめても。
「さあ、これでもう邪魔する者はいなくなったでしょう。もし、彼女たちがピンピンしていたとしても、こちらの申し出を受けてくれると思います。あの小瓶と引き替えに、あなたには干渉しないと」
「悪いね。手間をかけさせて」
「いえ。どうってことはありません。私はみなさんの希望を達成させてあげたいのですからね。そしてそれによる幸福を長続きさせるためのお手伝いをしたいのです。いろいろなものが重なって、繰り返して、厚みを増していきながら、営々とこの国を築いている。たくさんの犠牲を払いながらね。もちろん、私もそのための犠牲を払っているのです」
救急車のサイレンが響く。
「あなたが?」
「ええ。決して表舞台には立たないという犠牲です。自ら政治家になったり、経営者になったりすることなく、影で支える。名を捨て、実を取る。花実という姓には、そういう意味もあるわけです」
おれは、すがすがしい気分で部屋を出た。二度とここには戻らないだろう。道路に出ると、薫が待っていた。
「外が騒がしいね」
「ええ。目の不自由な人がトラックの前に飛び出したらしいのです。お気の毒です」
花実の姿がいつの間にか見えなくなっていた。
おれは薫と一緒に、この街をあとにした。
新しいオフィスは郊外に設けたのだ。成功したIT企業は緑に囲まれた公園のような会社を理想とするものだ。それにならって、今度は緑の多い地域に拠点を作る。どのぐらい、この夢を見ていられるかはわからないが、おれはきっと、幸福な人生を送るだろう。世の中の誰よりも。
〈了〉
いかがでしたでしょうか。お読みいただき、ありがとうございます。
本来、このようにコンテストに出した原稿で最後まで残ることのなかった作品は、世に出ることもなく消えていくのが運命かもしれません。
しかし、世の中は電子書籍の時代。コンテストではうまくいきませんでしたし、それにはいろいろな理由があることは、一読されたみなさまにはおわかりかもしれません。
ただ、こうしたものが物語として残ることも、ひとつの試みとしてあってもいいのではないかと思います。そしていわば反面教師のように、これから創作をされる方には「自分ならこうする」という参考作品としてもお役に立てれば幸いです。
2013年5月29日 発行 初版
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(ほんま しゅんじ)
1950年代から生きています。
横浜、東京を転々と。
仕事も転々と。
ただ書くことだけは続けてきました。
本書は現代の怪談として書きました。