spine
jacket

彼は堕ちて来た。流星のように――。
血の繋がらない叔父と暮らす少女ユカは、荒野を旅する途中、隕石の如く空から落ちてきた青年を拾う。記憶を失った青年に思い出せたのは『シン』という名前だけ。ユカは渋る叔父マサトに頼み込み、店のアルバイトとして彼を使ってもらう。だが、新しい生活に馴染む暇もなくシンの背中からは純白の大きな翼が。そして同じ頃、ユカの住む街にシンを追う者たちが舞い降りた……。
運命を変えるボーイ・ミーツ・ガール。レトロチックなSci-Fiファンタジー。

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ディアボリック・エンジェル

鷹守諫也

櫻嵐堂



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 目 次

ディアボリック・エンジェル


序章 憎悪の再会


第一章 堕ちてきた少年


第二章 天使降臨


第三章 ムーンレイカーズ


第四章 もの言わぬ翼


第五章 よみがえる悪夢


第六章 風が吹くとき


第七章 生まれた場所


第八章 誰かと一緒に見上げた空


第九章 冷たい熱


終章 歌おう、あふれだすままに


後記

「自分が何と呼ばれているか、知っているか?」
閉ざされた『楽園』に無情な天使たちが舞う。

序章 憎悪の再会

 デスク上のキーを叩くと、透明モニターの画面が黒く反転した。人物画像と経歴の概略が浮かぶ。写真は三枚。正面と左右それぞれの上半身。映っているのは自分と同じ二十歳前後の青年だ。漆黒の髪と瞳。象牙色の肌。東洋系の顔だちは整っているものの表情に乏しく、精巧なアンドロイドを思わせる。
 何故か、見覚えがあるような気がした。画面をスクロールして記録を読む。もとより本名や出身地などは記載されていない。
 とある一文に目が止まった。眉を上げ、考え込む。コツコツとドアを叩く音に視線を上げると、透明なドアの向こうから見知った顔が見つめていた。こちらが頷くのを確認し、女が入ってくる。青磁色の眼をしたやや険のある美貌で、艶やかな栗色の長髪を後ろでひとまとめにしている。年齢は二十代半ばといったところか。彼女はデスクの前でぴしりと敬礼をした。向かい合ったふたりは同じ群青色の制服姿だ。
「お呼びでしょうか、D1」
「《パワーズ》に新人が配属になった。登録コードはS1—Nだ」
「新人? 新人が、いきなり《パワーズ》ですか」
 女の顔に驚きが広がる。D1は女にモニターを向け、椅子をずらして足を組んだ。
「経歴が少々変わっている。覚醒したのが十九歳ちょうど」
「十九? そんな年になって覚醒するなんて、聞いたことありません」
「確認されている限りでは最年長だな」
 口の端を皮肉っぽくつりあげる上官の横顔を、女は黙って見つめた。彼が覚醒したのは十四歳と三〇〇日。それをあっさり四年も更新してしまうとは。
「M1。おまえの覚醒は?」
「十二歳と九六日です。平均的だと思います」
「そうだな」
「何故、そんな遅くなって覚醒したのでしょう。通常、十五を越えての覚醒は滅多にないし、あっても形成異常を起こして死亡する確率が高い。何か特別なきっかけでも?」
「パラシューティング中の事故だ。不具合で主   傘メインパラシュート予 備 傘リザーブパラシュートも開かなかった」
「両方とも、ですか」
 M1はモニターに目を走らせ絶句した。横顔のままD1は薄い笑みを浮かべる。
「確かにおかしな事故だが、絶対にありえないというわけではない。ともかくパラシュートは開かず、代わりに別のものが開いたというわけさ。覚醒時期と能力は正比例することは知っているな? 記録を読めばわかるが、彼はそれを見事に証明してみせた。覚醒半年でいきなり《パワーズ》に配属されたということは、それだけの能力があるということだ。もっとも、問題点もかなりのものらしいが」
「問題点?」
「自覚に乏しく、えらく反抗的だそうだ」
 M1は軽く嘆息した。
「それでよく《パワーズ》に配属されましたね……。任務に支障を来すのでは?」
「今はお利口さんだよ。エンジェライザーが最大値でセットされてる。今の彼に自分の意思などない。命令を正確に実行するだけさ。人形みたいなものだ」
 M1は画像を拡大して凝視した。最初に感じた違和感の正体はこれか。
「︱︱さて。彼が地上に降りる前に会っておこうか」
 D1は副官を伴って別室へ向かった。このフロアは群青色の制服が大部分を占めている。ちらほら見える緑の制服姿は、報告のために上がってきた地上基地勤務の《プリンシパリティーズ》だ。ドアが開くと、深紅の制服の背が視界に飛び込んできた。ゆったりと彼が振り向く。無表情な黒い瞳が、まっすぐにD1を見つめた。
 どくん、と心臓が鳴った。見覚えが、あると思った。画像を見たとき何故気付かなかったのだろう。忘れていた、否、忘れたと思っていた記憶が、奔流となって精神の防波堤を突き破る。自分の名前を呼んだ、朗らかな彼の声。向けられる屈託のない笑顔。鮮やかすぎる遠い日の記憶が、ようやく得た平穏を激しく苛む。
 勝った、と思っていたのに︱︱。
「D1……? どうかされましたか」
 副官の囁きに、我に返る。
「︱︱いや、何でもない」
 赤い制服の青年は、無表情なまま型通りの敬礼をした。抑揚に乏しい声が耳朶を打つ。
「《パワーズ》第三隊所属、S1—N。出頭しました」
 D1は冷たく微笑んだ。かつてのように、その裏に計り知れない闇をひた隠して。

第一章 堕ちてきた少年

 飛行艇は順調に進んでいた。地表面から一・五メートルほどの高さを保ち、時速五十キロの自動操縦だ。細長い箱型の下部には走行用のキャタピラもついていて地表を走ることもできる。中距離移動用のファミリータイプで定員は四人。もっともこれは簡易寝台が四つしかないというだけで、重量的には大人六人が悠々と乗れる。
 現在、艇に乗っているのは四十前後の男性と十代後半の少女のふたりだけだ。少女は作り付けのソファに腹這いになり、デジタルフレームに写真を次々と表示していた。背の半ばまで伸びた髪が垂れてくるのを煩げに払いのけ、明るい茶色の大きな瞳を愉しげに輝かせて少女は画像を眺めた。ふいに破顔して、フレームを男に向けて突き出す。
「見てよ、これ。叔父さんたら鼻の下伸ばしちゃってさぁ」
「ああ?」
 寝転んで雑誌をめくっていた男が面倒くさそうに首を回す。表情を引き締めればそれなりに佳い男だろうに、無精髭が伸び始めた眠たげな顔ではだらけた印象の方が強い。示されたフレームには、透明ウェアの下にマイクロビキニをつけた刺激的な恰好の女性をぼけっと眺める男の顔が映っていた。男は慌てて半身を起こした。少女はタッチペンで画面に何か書き込んだ。
「……根岸雅人氏、妙齢の美女に見とれるの図、っと」
「変なタイトルつけるな、ユカっ。んなもん消しちまえ!」
 ユカはショートパンツからすんなり伸びた脚をばたつかせ、けらけら笑いながら画像を眺めた。マサトは雑誌を放り出し、憤然と起き上がった。投げ捨てられた雑誌は若者向けのファッション誌で、マサトとは少々年代が合わない。別に買ったわけではなく、出掛けに謝礼と一緒に一冊贈呈されたものをそのまま持ってきただけだ。
「いいじゃない。せっかく気を利かせて離れててあげたのにさ。叔父さんてば全然女の人に声かけないんだもん」
「ナンパしてるヒマがなかったんだよ! おまえが無茶しないか見張るのに忙しくてな。だいたい、おまえがスキーを習いたいって言うから行ったんであって……」
「別に特訓しに行ったわけじゃないんだしー。まったく過保護なんだから。あたしもう十七だよ。子どもじゃないんだからね」
「子どもだっ、未成年!」
「はいはい」
 ユカは嘆息してフレームのスイッチを切った。姿勢を変えて天井を見あげる。強化アクリルの透明天井を透かして、満天の星空が見えた。けっして瞬くことのない、凍りついたように静かな星々。
「綺麗だねぇ。やっぱりお星さまは生で見るのがいちばん……」
 呟いたユカはふと眉を寄せた。黒い空を背景に、何か光の筋のようなものが飛んでくる。一直線に、こちらに向けて︱︱。
 ユカは目を見開き、星空を指さした。
「叔父さん、あれ……!」
 ビーッと警告音が鳴り響く。女性の合成ヴォイスが淡々と告げた。
『前方に障害物。自動停止します。衝撃に備えてください』
 備える暇もなく、がくんと艇が急停止した。ユカはソファからふわりと浮き上がった。とっさにテーブルの端を掴む。マサトが放り出した雑誌がゆっくりと床に落ちる。マサトは表情を引き締め、反動をつけて操縦席に飛び込んだ。
「隕石か? それにしちゃ、角度が……」
 ヘッドレストに掴まって、ユカはフロントウィンドウの向こうを指さした。
「ね。あそこに何かあるよ」
「しゃーねぇ。行ってみるか」
 操縦を手動に切り換え、そろそろと近づく。ユカは息をのんだ。
「あれ、人じゃない? 事故だよきっと。ほら!」
 マサトは左右のアームを伸ばして人らしき物体をそっと突ついた。持ち上げてみると、確かに人の形だ。白っぽいスペーススーツを装着しているようだ。
「……ずいぶん略式だな。こんなんで平気なのか?」
「最新型なんじゃない? 小型のジェットウィングもついてるみたいだし」
「おーい。生きてるかー」
 マサトはマイクに呼びかけた。音声はアームの先端から振動となってスーツに伝わっているはずだが、反応はない。試しに揺すってみたが、がっくりと前のめりにうなだれたまま、力なくブラブラ揺れているだけだ。
「ちょっと叔父さん! 脳震盪を起こしてるかもしれないじゃない。そんなに揺すったら危ないよ」
「ちっ、面倒くせぇ」
 いかにも不本意そうに口をひん曲げ、それでもマサトは飛行艇後部の外部ハッチを開けた。アームを操作して、画面を見ながら慎重に中間室へ収容する。ユカは急いで後方へ飛んで行った。気圧メーターと睨めっこしていたユカは、傍らに来た叔父が小型のレーザー銃を点検しているのを見てびっくりした。
「何してんの? そんな物騒なもの出して」
「追剥かもしれんだろ。奴らはどこにでも出没する」
「……違うと思うけどなぁ」
 赤いランプが点滅し、グリーンに変わる。
「下がってろ、ユカ」
 有無を言わさない口調で命ぜられ、しぶしぶユカは叔父の背後へ下がった。シュン、とかすかな空気音をたててドアが開く。警戒しつつ近づいたマサトは、レーザー銃を構えながら倒れ伏した人物を爪先でそっと蹴った。ぴくりともしない。
「し、死んでるの……?」
「わからん。ユカ、銃を持っててくれ。使い方はわかるな?」
「う、うん」
 レーザー銃を受け取り、さまにならない格好で構える。マサトはぐったりとした人物を中間室から引きずり出した。くっきりした室内灯に照らされ、その人物は横向きに転がっている。ぶかぶかした通常のスペーススーツとはまるで異なり、ボディラインに沿った造りだ。ムーンストーンみたいな半透明の乳白色で、照明があたると目も綾な光沢が表面に流れる。その美しさに、ユカは思わず感嘆の息を洩らした。
 背中に飛行用のジェットウィングらしきものはついているが、酸素タンクは見当たらない。頭の側に回り込んでみると、ヘルメットはドーム内のバイク用フルフェイスよりも小さいくらいで、顔は全然見えない。というか、ヘルメットの顔面部分がそのまま顔のように見えなくもなかった。銃を構えながら倒れた人物の周りを一周したユカは、何か違和感を覚えて目を瞬いた。
「あれ……? このウィング、さっき見たときはもっと大きかったような気がするんだけど……。収容式なのかな。︱︱あ、たたんであるんだ。わぁ、うまくできてるー」
「こら。危ねぇからあんまり近寄るな。……しかし、どうやって脱がせるんだ? ファスナーもボタンもねーぞ」
 ぶつぶつ言いながらスーツに触れ、マサトは眉をひそめた。指の関節を当てると、コツコツと硬質な音がする。
「ねぇ。この素材、何だろ。すっごく綺麗……」
「けっこう固いな。でも金属じゃない。ちょっと弾力もあるし。甲羅か何かみたいだ」
「甲羅って……。カニじゃないんだから」
 呆れて呟いた瞬間、ぼうっとスーツが発光した。驚いたマサトが後ろに飛び下がる。
「離れろ、ユカ……!」
 白熱した光が船室に満ちた。ユカは反射的に腕を上げて顔を庇った。光が収まり、そろそろと腕を降ろす。どちらからともなく狼狽した声が上がった。
「なっ……!?

 視線の先にあったのは、もはや紛れもない人間だった。全身を包んでいた乳白色のスペーススーツは跡形もなく消え、黒い袖なしのシャツと黒い細身のボトムを身に着けた人物がうつ伏せている。体格から見て若い男のようだ。上半身をぴったりと覆うシャツは背中が広く開き、むき出しになった肩胛骨が苦しげに上下している。その背を走る朱色の線に、ユカは声を上擦らせた。
「ねぇ、ケガしてるよ、この人! ほら、血が……」
 首筋にかかる髪を払いのけると、首のつけ根、盆の窪あたりに裂傷があり、銀色の金属片が覗いている。
「何か破片が食い込んでるみたいだ。︱︱ユカ、救急キット」
「はっ、はいっ」
 キャビネットから備え付けの救急キットを取り出し、急いで引き返す。未開封ラベルを引き剥がし、マサトは医療用手袋をすばやく装着した。ピンセットで食い込んだ金属片を慎重につまみ、除去する。元は円形をしていたようだが、今は割れて不規則な半月型になっている。眼前にかざして検分していたマサトの目が凍りつき、次第に見開かれてゆく。それに気付かず、背後からユカは尋ねた。
「叔父さん。それ何? ︱︱叔父さん?」
 いぶかしげに問われ、マサトは我に返った。脱脂綿に金属片を包み、乱暴にポケットに押し込む。
「消毒スプレー」
「はい」
 傷口をていねいにぬぐい、大判の絆創膏を張り付ける。
「出血は止まってる。見たところ他には傷はないようだが、俺ァ医者じゃねぇからな」
「病院に連れてった方がいいよね。頭打ってるかもしれないし」
「︱︱ったく、とんでもねぇものを拾っちまった」
 ぶつぶつ言いながら、マサトは青年を簡易ベッドに運んだ。毛布をかけ、上からベルトでゆるく固定する。
「ユカ、いちおうこいつのこと見てろ。念のため銃を離すんじゃねぇぞ」
「う、うん。わかった」
 操縦席に戻ったマサトはポケットの中で脱脂綿にくるんだ金属片を握りしめた。
「……くそっ」
 ユカに聞こえないように舌打ちし、エンジンを始動する。
「ナビ。いちばん近い病院は? 救急外来があるヤツ」
『ツクヨミ・シティドーム、東総合病院です』
「ちっ、結局そこかよ」
 罵り声を上げて発進する。ベッド脇の手すりに掴まりながらユカは叫んだ。
「ちょっと、叔父さん! ケガ人がいるんだから静かに操縦してよねっ」
「悪ィ。︱︱ナビ。最短ルートに方角調整だ。まっすぐ行けるか?」
『障害物は見当たりませんが、このスピードを維持するなら高度を五メートルに上げてください』
「了解、っと。ユカ、フックつけろ」
「うん」
 ベルトから伸ばした固定ロープを壁のフックにかけ、長さを調節する。座り込み、ユカは簡易寝台に横たわる青年を眺めて眉を寄せた。端整な顔は青ざめて苦しそうだ。血の気のない唇が薄く開き、皓歯がわずかに覗いている。自分よりは年上のようだが、それでも二十歳そこそこだろう。
 それにしても、あのスーツはどこに消えたのか。パーツ式の簡易スーツなら、かなり小さく収納できるものもあると聞く。だが、目に見えないほど小さくなるはずがないし、身体にぴったり合った青年の服装にはポケットさえ見当たらない。
「……ねぇ。あなたは誰? どこから来たの……?」
 意識のない青年に問いかけ、ユカは小さく溜息をついた。


     †

 首の後ろに衝撃が走る。瞬間、意識が暗転した。自分は倒れたらしい。気がつくと、誰かが自分を抱き起こしていた。覗き込んだ顔は悲壮にゆがんでいる。
 ああ、……だ。どうしてここに……がいるんだろう。
 ぽたりと顔に生暖かい雫が落ちる。そのひとは涙を流していた。真っ赤な血の涙を流しながら、自分の名前を呼ぶ。その声は聞こえない。やがてその姿さえ、血涙となって消えてしまう。
 気がつくと、自分はたったひとりで立っている。真紅の海。掌からこぼれ落ちる赤い雫が、じわじわと海を広げてゆく。赤い海の底にはたくさんの人影がある。老若男女、さまざまな人々。その顔に一様に浮かんでいるのは恐怖、怨嗟、憎悪。
 冷たい笑みをふくんだ声が聞こえる。
『彼らがおまえを何と呼んでいるか教えてやろう』
 ︱︱やめろ。
『誉れに思うがいい』
 ︱︱やめろ!
『虫けらどもは、断末魔の呻きでこんなふうにおまえを呼ぶのだ』
 ︱︱やめろ……!!
『︱︱︱︱と』


     †

「……あああぁぁっ……!!
 突如響いた絶叫に、椅子に座ったままうとうとしていたユカは仰天して飛び上がった。
「なっ、何? 何っ!?
 きょときょと左右を見回す。クリーム色の清潔な病室。小さな個室は控えめな間接照明でやわらかく照らされている。ドキドキしながら周囲を見回し、ふと、ベッドの上に起き上がった青年に気付く。
「あ! よかった、目が覚めた!」
 ほっとして椅子に座り直す。青年は半身起き上がった姿勢のまま、茫然自失の状態だ。
「あの……。大丈夫、ですか?」
 青年はぴくりと身じろぎ、茫然としたまま病室を見回した。最後にようやくユカに目を留める。軽く見開かれた瞳は髪と同じ漆黒だった。
「……きみ、は……?」
「あ、あたし、ユカっていいます。須藤由香。あなたは?」
「俺……」
 青年は急に言葉に詰まる。ふるえる手で額を押さえ、眉をきつく寄せる。
「っつ……!」
「あ、あの、まだ横になってた方が……」
「俺……、俺は……、誰だ……?」
「︱︱は?」
 手を貸そうと身を乗り出した格好で、ユカは固まった。

「記憶喪失だぁ?」
 マサトは思いっきり不審げに口をひん曲げた。腕を組み、じろりと青年を睥睨する。ベッドに上半身を起こした青年は、ひどく申し訳なさそうな顔でうつむいた。
「ふざけんなよ、おい。そんな言い訳が通用するとでも思ってんのか?」
 ぐい、といきなり襟首を掴まれ、青年が目を見開く。ユカは慌てて割り込んだ。
「ちょっと叔父さん! 乱暴はやめてよ、この人ケガしてるんだよ」
「ふん、単なる裂傷だ、舐めときゃ治る」
「首の真後ろをどうやって舐めるのよ」
 真顔で言い返し、ユカは気の毒そうに青年を見た。後ろに立っていた若い医師が、コホンと咳払いをした。
「えぇとですね。記憶喪失、正確には全生活史健忘というもので、名前とか住所とか自分に関する記憶が思い出せない状態です。社会的常識はありますから、普通に生活するぶんには支障はないでしょう」
「原因は、やっぱり頭を打ったせいですか?」
「そうですねぇ……。打撃を受けた痕跡は見当たらないし、全生活史健忘の場合はほとんどが心因性なのですが……」
「治るんですよね」
「脳波に異常も見られません。そのうちだんだんと思い出すでしょう」
「そのうちって、いつですか」
 剣呑な目付きでマサトがずずいと詰め寄る。いかにも育ちの良さそうな医師は、怯えて顔を引きつらせた。
「さ、さぁ? それは何とも……」
 一概には言えないということをしかつめらしく説明すると、医師は逃げるように病室を出て行ってしまった。ユカは溜息をついた。
「もう、叔父さんたら……。︱︱気にしないで。ケガが治るまでゆっくり休むといいよ。そうだ、とりあえずうちに来ればいいわ」
「何を言ってる! こんなどこの馬の骨ともつかん奴!」
「だって記憶喪失なんだもの、帰る家だって思い出せないでしょ。このまま病院にいるわけにもいかないし」
「だからって、なんで俺らが面倒みてやらにゃならんのだ!」
「遭難者を見つけたら救助するのは人間として当然の義務。お互いさまだって、叔父さん前に言ってたじゃない」
「だからこうして病院に連れてきた。義務はここまでだ、あとは自力で何とかしろ」
「だーかーらー。記憶喪失なんだよ、この人。おまけに身分証もクレジットも持ってない。こんな状態の人を放り出すって言うの? 叔父さんの鬼!」
「んだとぉ!?
 睨みあうふたりに、青年がおずおずと声をかける。
「あの……。ケンカしないでください。僕、自分で何とかしますから」
「ほれみろ」
「何とかって言ったって、どうやって何とかするのよ。この町のことだって何にも知らないんでしょ」
「それは、そうです、けど……」
 ユカの剣幕に圧倒され、青年が小さくなる。憤然と腕を組み、ユカは鼻息を荒らげた。
「決めた! この人うちで預かる!」
「くぉら、勝手に決めんなっ、家主は俺だぞ」
「そうだ、住込みのアルバイトってことにしたらどう? あたしが学校行ってるあいだお店にいてもらえば、叔父さんだって制作に集中できるでしょ。それにほら、この人ならきっとうちの商品が似合うよ。お客さんの参考にもなるんじゃないかな」
 マサトは品定めするようにじろりと青年を睨む。ユカはぽそぽそ耳打ちした。
「客観的に見て、この人けっこうイケてると思わない? こんなこと言ったら身も蓋もないけどさ、叔父さんが着けるよりずーっと映えるって」
 マサトはがっくりと顔を覆った。
「確かに身も蓋もない言い方だな、ユカよ……。しかしな、もしこいつが持ち逃げでもしたらどうしてくれる」
「もう、猜疑心にもほどがあるよ!?
「わーった、わかったよ。疑り深くて悪かったな」
 げんなりとマサトは首を振った。
「やったー! よかったねっ、これで一安心」
 ニコニコするユカに、青年は困惑気味の笑みをおずおずと浮かべた。
「あ、ありがとう、ございます……」
「ったくよー。そういえばおまえ、ガキの頃よく捨て猫とか拾ってきて、しゃかりきになって飼い主探したりしてたっけなぁ」
「だってうちで飼えないんだもの」
「しゃあねぇだろ。俺は猫アレルギーなんだからよ」
 睨むユカに肩をすくめ、マサトは憮然と溜息をついた。


 念のため病院に連絡先を残しておくことにして受付の職員とマサトがやりとりしているあいだ、ユカは青年とともに入り口近くに立って待っていた。彼は広々とした待合室をとまどったような顔で見回している。
 ユカは傍らの青年をちらと見あげた。思ったより背が高い。先ほどマサトと並んだら青年の方が少し上背があった。マサトが確か一七八センチだったから、一八〇を少し上回るくらいだろう。漆黒の髪はうなじにかかるくらい。首の後ろに貼られた大きな絆創膏が、髪のあいだから覗いている。黒目がちの真っ黒な瞳は寂しそうというか不安そうで、何だか捨てられた仔犬みたいだ。
 青年は、身に着けていたぴったりとした黒い袖なしの上からフードのついたモスグリーンの上着をはおっている。しぶしぶながらマサトが自分の着替えを貸したのだ。寒くないと彼は言ったが、背中が大きく露出したデザインの服は見ているこっちの方が肌寒い気分になる。ちなみに彼の服にはタグ類が何もついていなかったので、身元を探る手がかりにはならなかった。
(どこのドームから来たんだろ……。やっぱり真夏のドームかな?)
 カレンダーは一月でも、ドームによって季節や温度設定は異なる。現在ツクヨミ・シティは冬真っ盛りだ。
(もしかしたらアスリートとか。細身だけどきれいに筋肉ついてる感じだし)
 肩幅が広く、背筋も発達しているようだ。年頃からして、大学の運動部に所属している可能性もある。
(でも、重量挙げとか体操選手とかじゃない気がする。格闘技系かなぁ……)
 う~ん、とユカは首をひねった。ざわめきと呼び出しの音声が流れるなか、ぼんやりとしていた青年がふと振り向いた。やんちゃそうな子どもが転び、後ろから母親が足早に歩み寄る。
「走らないの! ここは病院なのよ、ケガしてる人にぶつかったりしたらどうするの」
 自力で起き上がった男の子はまるで平気な顔をしている。五~六歳くらいだろうか。どうやら見舞いに来たようだ。母親が注意するそばからまた元気よく駆け出した。
「こら、シンちゃん!」
「お父さんに動物園の話するんだー」
「わかったから走らないの。そんなに急がなくたって大丈夫よ。待ちなさい、シン!」
 慌ただしく母子が入院棟へ向かう。その姿を、青年は軽く目を瞠って眺めていた。
「どうかした?」
「……シン」
「え?」
「名前……」
 ユカは目を輝かせた。
「あっ、もしかしてシンっていうの?」
「そんなような気が。でも、違うかも……」
 曖昧に青年は呟く。そこへマサトが戻ってきた。
「叔父さん! この人、名前はシンっていうみたいよ」
「思い出したのか?」
「いえ……。何となく、聞き覚えがあるような気がして」
 青年は自信なさそうに眉を寄せる。
「とりあえず、シンってことにしておけば? 名前がないと、あたしたちだって呼ぶのに困るもんね」
 青年は少し考え、小さく頷いた。三人は正面玄関前に列をなしている無人タクシーに乗り込んだ。合成ヴォイスが行き先を尋ねる。
『住所を入力して下さい。それとも検索しますか?』
「直近の警察署へ行ってくれ」
「警察? なんで」
 不審そうに尋ねたユカに、マサトは面倒くさそうに肩をすくめた。
「もしかしたら、行方不明で捜索願とか出てるかもしれないだろ」
「あ。それもそうね」
 マサトは黙っている青年︱︱シンをじろりと見た。
「警察って聞いても平気な顔してるあたり、後ろ暗いもんはないみてぇだな。それとも根こそぎ忘れてんのか」
「何言ってんの叔父さん。ごめんね。悪気はないのよ。ただちょっと疑り深いだけで」
「ユカ、無防備に近寄るな。てめえも馴れ馴れしくするんじゃねーぞ」
「は、はい、すみません……」
 罵られて怒りもせず、シンは精一杯身を縮めた。もよりの警察署で調べてもらったが、該当するような家出人や行方不明者のデータはなかった。まだ家族が不在に気付いていないということもあるので、念のため写真を撮り、身体データを入力して警察署を後にした。


 マサトの自宅兼店舗は、大通りから一本入った場所にある。表通りは交通量も多く、商業ビルが立ち並んでいるが、裏には住宅地が広がっている。小規模の集合住宅、長屋様式のタウンハウスや一戸建ての住宅。通りによってはブティックなどを自宅に併設している家も多い。タクシーを降りたシンは、とまどい気味に目の前の店を眺めた。
 蔓草模様の洒落たシャッターの向こうにディスプレイされているのは、派手すぎないシンプルな銀のアクセサリー類だ。リング、ネックレス、ブレスレットといった商品が表からも眺められるようになっている。
「ここは……?」
「叔父さんのやってるお店。裏が自宅になってるの」
 シャッターの隙間から、ガラス扉に装飾文字で描かれた店名が見えた。
 シルバー・アクセサリー 《フォルセティ》
「玄関は裏だよ。こっち」
 腕を取られるまま、シンはユカに従って住宅の脇を回った。

第二章 天使降臨

 軽い空気音をたててドアが開く。気圧差で風が吹きつけ、D1は鬱陶しげに眉をひそめた。がらんとしたポートには、灰色の制服と制帽姿の壮年男性が後ろ手を組んで佇立していた。後ろにはまだ若い副官が緊張した様子で控えている。形式的な敬礼を交わすと、灰色の男が口許をゆがめた。
「セレネへようこそ。《ヴァーチューズ》がわざわざお出ましになるとは、よほどの非常事態ですかな」
 皮肉な口調にも、D1は眉ひとすじ動かさなかった。
「ご心配なく。単なる内部監査の一環にすぎません。我々エンジェロイドのね。あなた方の仕事に干渉するつもりはない。そちらもご同様に願います」
 冷淡に告げて会釈をすると、案内も請わずに彼はM1を従えてポートを出て行った。その群青色の背を見送り、灰色の男はいまいましげに舌打ちした。
「化け物のくせに、偉そうな面しやがって」
「ば、化け物って……」
 驚いて上官を見やった副官は、がっかりしたような声音で呟いた。
「……エンジェロイドって言っても、我々と見た目は変わらないんですね」
「阿呆か貴様は。あんな邪魔くさいモンを年がら年中出しっぱなしにされたら、こっちが迷惑だ」
 毒づいた男が憤然とした足どりで出口へ向かう。副官は慌てて後を追った。
「あ、あの、いいんですか? 放っといて」
「かまうものか。放っとけと言うんだ。用があれば向こうから言ってくるだろうさ」
 不機嫌に吐き出すと、男は自分のオフィスに戻った。一方、D1とM1は事務局で割り当てられた宿舎へ向かっていた。あらかじめ本部から連絡が入っていたので、手続きは滞りなく進んだ。セレネにエンジェロイドが来ることは滅多にない。事務局の職員に好奇の眼で見られたが、気にはならなかった。というより、いちいち気にしてなどいられない。
 脇腹に鈍い痛みが走る。無意識に手を当てる仕種に目を留め、後ろからM1が気づかわしげに尋ねた。
「大丈夫ですか? まだ休んでいた方がよかったのでは……」
「口出しするな」
 振り向きもせず冷淡に撥ねつける。黙り込むM1をあえて見ないようにして、D1は個室の認証パネルに掌を押しつけた。滑らかにドアが開く。
「少し休む。表側の情報屋どもにエサをまいておけ」
「了解しました」
 目礼するM1から顔をそむけたまま、D1は室内に入った。自動的に照度を抑えた室内灯が点く。調節しないまま、D1はリクライニングチェアに身体を投げ出した。脇腹の痛みが鈍く内側に響いていた。鎮痛剤を打とうかと一瞬考え、即座に思いなおす。この痛みがあればこそ、S1に対して闘志を燃やしていられるのだ。
 十五歳を目前にして『覚醒』して以来、これほどの傷を自分に負わせたのは奴だけだ。思い出すだけで屈辱と憤怒にはらわたが煮えくり返る。いや、傷を負わせられたのはずっと以前からのことだ。表面的にはそれとわからないほど癒えたようでも、どこか深い場所で今でも古傷は疼き続けている。しかも奴は、自分が傷を与えたことすら知らないのだ。
 涼しい顔で奴が目の前に現れた時の、どす黒い衝撃。勝ったと思っていたのに。譬え奴が知らずにいても本当に優れているのは自分の方なのだという自負があればこそ、忘れていられたのに。それが無残に打ち砕かれた瞬間、長年のわだかまりは明確な殺意になった。
「……待っていろ、S1。どこに身を潜めようと、必ず見つけ出してやる」
 D1は脇腹を押さえながらギリリと奥歯を噛みしめた。


     †

「わぁ~。やっぱり叔父さんよりだんぜん似合う!」
 無邪気な歓声に、マサトの憮然とした顔がさらに不機嫌になる。困惑顔のシンは睨まれてびくびくしていた。
「こないだの雑誌のモデルさんより、絶対いい。ねっ、叔父さんもそう思うでしょ」
「ふん、どうだかな」
 そっぽをむいたマサトに、ユカは苦笑した。
「素直じゃないんだから……。似合う人に身に着けてもらえば、デザイナー冥利に尽きるってもんでしょ」
 マサトが経営する《フォルセティ》は、シルバー・アクセサリーを扱う小さな店だ。デザインはすべて店主のマサト自身が手がけている。基本的に商品は男性向けかユニセックスもので、ゴシックテイストを取り入れた重厚感のあるデザインが売り。女性向けの可愛らしいデザインとは無縁だが、マニッシュなファッションとも相性がよく、甘すぎないデザインを好む女性の固定客も多い。
 どれも限定少数の手作り品なので、値段はそれなりに張る。ユカは放課後や休日に店員として店に出ているが、同年代の客はほとんど来ない。憧れはあっても、高校生には手が出しにくい商品なのだ。マサトは不機嫌そうに頭を掻いた。
「ったく、なんで俺の大事な作品を、どこの誰ともわからんような奴に︱︱」
「お客さんだって、ほとんどはどこの誰だかわからなくて普通でしょうが」
 呆れるユカには答えず、マサトはシンに怒鳴った。
「おい、おまえ。ぼーっとしてないで掃除しろ、掃除。表を掃いて、ガラスを拭くんだ。ピッカピカにな」
「は、はいっ」
 シンは箒と塵取りを持ってそそくさと外へ出て行く。ユカは溜息をついた。
「ちょっと冷たすぎない? あの人だって好きで記憶をなくしたわけじゃないんだし。もう少し気遣ってあげたって……」
「うちに置くことにしただけでも充分気を遣ってるさ」
 ユカは真面目に掃き掃除をしているシンを窓越しに眺めた。ラフな白いシャツと適度に色の抜けたジーンズはマサトからの借り物だ。シンの方がいくらか背が高いものの、体格的にそう大きな差はない。掃き掃除を終えたシンは窓を拭き始めた。彼は売り物の中からユカが選んだチョーカーとブレスレットをしている。ユカはほれぼれと眺めた。
「う~ん。やっぱりイケてる男の人がした方が断然いいなぁ。あたしがつけたって、お客さんの参考にはあんまりならないもんねぇ。叔父さんだって、そう思うでしょ」
「ふん。売り上げが伸びたら認めてやるよ」
 在庫をチェックしながら、マサトはにべもなく言い捨てた。
「叔父さんの偏見は脇に置いといてさ。シンは客観的に見てハンサムだし、似合ってるもの。彼氏へのプレゼントにしたいっていう女の人が来たときに、参考になっていいんじゃないかなぁ」
「それよりちゃんと見張ってろよ。あいつが商品ちょろまかしたりしないようにな」
「そんなの売り上げと在庫を付き合わせればすぐわかるじゃない。本当に疑り深いんだから。ほら、叔父さんは奥で仕事しててよ。お店はちゃんとあたしが見てるから」
 鬱陶しくなり、ユカは邪険にマサトを奥へ追いやった。
「あんまり側に寄るんじゃねーぞ。監視カメラで見てるからな」
「はいはいはいはい」
 くどくどしいマサトを追い払い、嘆息する。そこへシンが用具をまとめて戻ってきた。
「ユカさん。掃除終わりました」
「ご苦労さま。︱︱っていうか、さん付けはやめてくれない? あたしの方が年下なんだし、ユカでいいから。それと、敬語もやめてね。なんか肩凝っちゃいそう」
 シンはおずおずと微笑んだ。
「……うん」
「今日は初めてだし、接客とかしなくていいからね。うちはお客さんには自由に見てもらうことにしてるの。まぁいちおうさりげなくチェックはしてね。たまに不埒な奴が万引きすることもあるんで」
「わかった」
「レジの打ち方は実際にやりながら教えてあげる。大丈夫、簡単だから」
「ユカ……は、毎日働いてるの?」
「土日祝日と放課後だけだよ。あー、明日から学校かぁ……。一週間長いなぁ」
 ユカは溜息をついた。
 昼を過ぎるとぽつぽつと客が入り始めた。プレゼントのシーズンが終わってまもなくなので、商品の動きは鈍い。新作が出ればまた動きだすだろう。《フォルセティ》は一般にはまだそれほど知られていないが、リピーターが多いのだ。参考商品としてファッション誌にも出たことだし、少しは客が増えるかもしれないとユカは期待していた。レジ打ちや商品の包装などを教えながらその日の営業は終わった。
 まずは順調に数日が経つと、当初ぶつぶつ言っていたマサトもとりあえず信用してみる気になったらしい。彼は呑み込みが早く、センスも悪くない。なめらかとは言い難いが、客との会話もそこそこ成り立っている。ユカが学校から戻って店に出てくると、シンがひとりで店番をしていることもあった。
 そしてまた何日かが過ぎたある日。ユカは壁の時計を見あげ、シンに声をかけた。営業時間終了の五分前だった。
「今日はもう閉めよっか。お客さん、来そうにないし」
 頷いたシンが、急に顔をしかめる。
「どうしたの?」
「あ、いや何でも」
 笑ってみせた顔が、少し無理しているように思えた。何となく気になって、シンを目で追っていると、締まりかけたシャッターの向こうで慌てた声がした。
「あーっ、待って待って!」
 急いでスイッチを止めると、シャッターを潜って若者が現れる。短めの革ジャンにマフラーを幾重にも巻いた、吊り目気味の少年だ。両耳にはスタッズを複数つけ、髪を金に染めている。
「なんだ、タケぽんか」
「なんだはないだろ。冷たいなー」
「だってタケぽん、お客さんじゃないじゃん」
「ふふん。将来の大口顧客さ。大事にしろよー。――ところでマサさんいる? こないだ借りたの返しに来たんだけど」

 片づけをしているシンに気付き、少年が足を止めた。
「新しいバイトさん?」
「うん。シンって言うの。シン、この人はタケぽん︱︱じゃなくて、タケルって言って、バンドでギター弾いてる人なんだ」
 片目をつぶり、小柄な少年は胸を張る。
「《ムーン・レイカーズ》ってバンドなんだけど、知ってる?」
「いえ……。すみません」
「謝ることないよ。インディーズでやっと一枚出しただけだもん。知るわけないじゃん」
 恐縮するシンをフォローすると、タケルが大げさに眉をしかめた。
「ユカ~。知るわけないじゃんはひどくね?」
「あ、ごめーん」
 悪気はないのよと謝るユカを、わざとらしく睨んでみせ、タケルは横目でシンを見た。
「あんた、背高くていいなぁ」
 ふたりの身長差は十五センチくらいありそうだ。タケルは爪先立ち、両手で自分の頭を掴んで押し上げた。
「くそぉ、俺もせめて一七〇欲しい」
「これからまだ伸びるって。︱︱そうだ、うちで御飯食べてく?」
「おっ、サンキュー」
「先に行ってて。叔父さん、アトリエにいるから」
 頷いて奥へ向かう。作業台に向かっていたマサトは、ぶっきらぼうにタケルを迎えた。タケルは背中に斜め掛けしていたバッグの中から幾つかの小箱を取り出して並べた。どの箱にも《フォルセティ》のロゴマークが入っている。
「ども、ありがとうございましたー」
「……おい。一個足りねぇぞ」
「あ、クウヤがブレスレット気に入ったから買いたいって。後で代金持ってくるそうです。今日は来られないんで、後日また」
 そうか、とマサトは頷いた。マサトは縁あって︱︱本人に言わせると悪縁だそうだが︱︱タケルが率いるロックバンド《ムーン・レイカーズ》に店の商品を貸しているのだ。
「ねぇ、マサさん。あのバイト君、いつ入ったんです?」
「一週間くらい前かな」
「ふーん」
「なんだ?」
 不審げな目を向けるとタケルは肩をすくめた。
「いや、当分男のバイトは入れないのかと思ってたから。︱︱ほら、前にいた店員がユカにちょっかい出したとかで、ずいぶん怒ってたでしょ」
「……ああ、あいつにもきつく言い聞かせてある。ユカに指一本でも触れたら即刻叩き出すってな。︱︱おい! まさかあのヤロー」
「ち、違いますって! ユカがずいぶん優し~くしてるんで、何だろと」
 マサトは不機嫌そうに眉をしかめた。
「迷い猫を拾った気分なんだろうさ」
 おおまかな事情を聞いて、タケルは目を丸くした。
「記憶喪失? そりゃまた難儀な」
「こっちがな。すっかりユカが気の毒がっちまって、追い出すわけにもいかねぇし」
「見た感じじゃ、そんな悪そうな奴にも思えないけど……」
「ふん、悪人が全員悪人面してりゃあ世話ねぇよ」
 ふいにタケルはにやにやした。
「あ~。マサさん、妬いてるんでしょー。可愛い姪っ子が取られそうで」
「……てめえにはもう二度とうちの商品は貸さん」
「ああっ、そんなこと言わないで! 冗談、冗談ですって。俺、《フォルセティ》のアイテム大好きなんですーっ。でもお金ないから貸してーっ」
 ガチャリとドアが開き、ユカが顔を出す。
「ねぇ、今日は野菜炒めと焼き魚でいい? ︱︱何騒いでるの?」
「いやいやいや。ユカの作ってくれるもんなら、何でもOK!」
「てめえ、またたかってくつもりか」
「お、俺給料日前なんスよ。こないだ買ったギターの代金、払わないとー」
「分不相応に高価いもん買うからだっ」
 怒鳴られたタケルは、耳を押さえてしょんぼりした。

 食事を前にすると、タケルの気分は即座に上向いた。遠慮なしに夕食を平らげ、今度新曲を持ってくると言って上機嫌で帰って行った。食卓を片づけながら、ユカは黙々と皿を運んでいるシンを眺めた。どうも食事中からずっと気になっていたのだ。
「……ねぇ、シン。もしかして具合、悪いんじゃない? 何だか顔色がよくないよ」
「ん。大丈夫」
 シンは何でもなさそうに笑ったが、やはり生彩がない。昨日あたりから彼が時折ぐったりと壁にもたれかかったり、深刻そうに眉をひそめていることにユカは気付いていた。記憶を失っているせいか、口数はもともと少ないのだが、それにしても今日はやけに無口︱︱というより何だかひどくつらそうだ。夕刊を読んでいたマサトは、ちらりと目線を上げただけで何も言わない。
(やっぱり遠慮してるんだよね……。叔父さんがもう少し親身になってくれれば、話しやすいのに)
 視線に気付いたマサトが、ムッとしたようにユカを睨み返した。互いに眉を上げ下げしながら無言の言い合いを繰り広げていると、食器が砕ける派手な音が響いた。運んでいた皿を取り落とし、壁に寄りかかりながらシンの身体が崩れ落ちてゆく。
「シン! どうしたの!?
 慌てて側に屈み込む。シンは真っ青な顔に脂汗を浮かべ、苦悶に表情をゆがめていた。
「つっ……」
「どこか痛いの? どこ?」
「背中、が……っ」
 おろおろと背中をさすろうとしたユカの肩に、マサトが手をおく。
「俺が見る」
 マサトは手早くシャツを脱がせ、背中をまくり上げた。苦しげに上下する背筋に、奇妙な盛り上がりがあった。皮膚の下で何かが蠢いている。
「何だ……?」
 眉をひそめたマサトは、ふいに顔色を変えた。
「ねぇ、どうしたの?」
「ユカ、下がれ!」
 何かがシンの背中から突き出した。銀色の、まるでナイフの先端のようなもの。シンは苦痛に呻き、身体を折り曲げた。視界全体を白銀の光が覆う。ばさり、と空を打つ音が響き、ユカは茫然と目を見開いた。シンの背中から腕よりも長く斜め上に向けて伸び出たもの。それは︱︱。
「︱︱翼……!?
 あっけにとられ、マサトも声を失う。むき出しになったシンの背中から紛れもない翼が生えていた。最初は金属質の光沢をおびていた羽の一枚一枚が次第に真っ白でやわらかな質感に変わってゆく。荒い呼吸を繰り返していたシンは、ようやく顔を上げて初めてユカとマサトの表情に気付いた。視線をたどり、自分の背中から生える翼を見てぎょっとする。

「な……、何だ……これ……」
 意外と早く立ち直ったマサトが、きりきりと眉をつり上げた。
「それはこっちの台詞だ! 何なんだおまえはいったい!?
 シンはわけがわからない様子で首を振る。ぴんと伸びていた翼が力なく垂れ下がり、床にくたくたとわだかまった。
「……天使……?」
 思わず呟いたユカに、マサトがにべもなく言い放つ。
「んなもん、いるわけねぇだろ」
「だ、だって……」
 立ち上がったマサトは、無言でキッチンへ歩いていく。引き返してくるなり、彼は包丁をシンの首筋に突きつけた。ユカは悲鳴を上げた。
「なっ、何するのよ、叔父さんっ」
「黙ってろ! ︱︱言えっ、おまえは何だ!?
「わ、わからない」
 シンは混乱しきって声を上擦らせる。
「ふざけてんじゃねぇぞ! だいたいおまえは拾ったときから変だった。人を騙くらかして、何を企んでる!?
「知らない! 俺は、俺、は……」
「やめてよ!」
 ユカは無理やりマサトの腕を押しやり、シンを抱き寄せた。
「離れてろっつってんだろ、ユカ!」
「やだ! ひどいよ、叔父さん。どうしてそんなに追い詰めるの? 羽が生えてるからって何よ。シンはあたしたちと同じ人間だよ!」
「同じなわけねーだろ!」
 むきになってマサトが怒鳴る。
「変だよ、叔父さん。いつもは人を見た目で差別したりしないのに。どうしてシンに限ってそんなに疑うの。シンは真面目で優しい人だよ。叔父さんだってわかるでしょ」
「そいつが記憶を失う前に何をしていたか、わかったもんじゃねぇ。とんでもない犯罪者かもしれないだろうがっ」
「そんなの知らない!」
 シンをぎゅっと抱き寄せ、ユカは叫んだ。
「あたしが知ってるのは、出会ってからのシンだけだもの。少なくとも、あたしたちが出会ってからのシンは絶対に悪い人じゃないよ! あたしはシンを信じる」
「……勝手にしろ!」
 包丁をシンクに投げ込み、マサトは足音も荒くダイニングを出て行った。悔しくて、悲しくて、涙がにじむ。
「ごめん……。僕のせいで」
 くぐもった声でシンが呟く。ハッと我に返り、ユカは慌てて腕を解いた。力なくうなだれたシンと膝を付き合わせるようにして座り込み、ユカは改めてシンの翼を眺めた。
「……触っても、いい……?」
 ふと顔を上げ、シンは弱々しく頷いた。触れた羽はすべすべして、ほんのりと温かい。
 膝を抱え、シンが呟く。
「僕は何なんだろう……。マサトさんの言ったとおりだよ。天使なんてものは幻想の産物だ。翼の生えた人間が存在するわけがない……」
「天使かどうかはわからないけど……。シンが存在してるのは確かだよ。それに、この羽、すごくきれい」
「……ごめん」
「どうして謝るの」
「僕のせいで、マサトさんとケンカして……」
「いいの。どうせ中学生の頃は毎日ケンカしてたもの。叔父さんの言ったこと、あんまり気にしないでね。ずっとここにいていいのよ」
「ありがとう……」
 ようやくシンは泣き笑いのような笑みを見せた。その表情に、ユカは胸を締めつけられた。誰よりとまどっているのは、不安なのは、彼自身なのだ。自分が誰なのかどころか、何なのかさえわからない。寄って立つものが、彼には何もないのだ。
 子どもの頃、迷子になったことがある。見知らぬ場所で、見知らぬ人に囲まれて、不安でたまらなかった。おとなたちがどんなに優しく親切にしてくれても、不安で溺れてしまいそうだった。それでも自分には期待があった。マサトがきっと迎えに来てくれると、帰る場所が自分にあることは、決して揺らがなかった。
 シンにはそんな全幅の信頼を置くべきものがない。それはどんなに不安なことだろう。そう思うと、彼を決して捨て置けない気分になった。

 ぴしゃりと自室のドアを閉め、マサトは罵り声を上げた。
「くそっ……! なんでよりにもよって俺んとこへ来るんだよ……!」
 人が変わったように凶暴な目付きで荒々しくデスクの抽斗を開ける。小さな透明ケースに、銀色の金属片が収められていた。救助したときにシンの首から落ちた、破損した円形の金属のかけら。
 マサトは椅子に座り、金属片を食い入るように見つめた。シンの記憶喪失は、これの破損と関係あるのだろうか。わからない。そもそもこれが、今どれだけ使われているのか。ひたすら忘れようと努め、ようやく忘れかけた過去が今になって亡霊のようによみがえる。
 シンは封印した過去からやってきた『天使』だ。置き去りにしてきた罪を、否応なく突きつける。マサトは長い間机に肘をついて頭を抱えていた。
 時計が夜の十二時を過ぎた頃、マサトはふらりと部屋を出た。リビングに灯がついている。覗いてみると、一人がけのソファにうずくまっていたユカがふっと顔を上げた。
「……まだ起きてたのか」
 長い方のソファにはシンが横になり、白い翼で自らを抱くようにして目を閉じている。
「やっと眠ったの。一昨日くらいから背中が痛くてほとんど眠れなかったんだって」
 膝を抱えたままユカが呟いた。マサトは頭をがりがり掻き、ぶっきらぼうに言った。
「さっきは言いすぎた。悪かったよ」
 応じるユカの声はまだいくらか固かった。
「それは彼に言って」
 マサトは深く嘆息した。
「そうだな。もう寝ろよ、ユカ。見張ってなくても、こいつは意外と義理堅そうだから飛んで逃げたりはしないさ。……たぶんな」
「そんなんじゃないよ。ただ、考えてたの。︱︱シンが最初に着てた服、背中がすごく開いてたでしょ。肩胛骨が見えるくらい。あれって、最初から翼を出すことを考慮して作られた服なんじゃないかな」
「かもな」
「だったら、シンは自分に翼があることを知ってた。……もしかしたら、シンはどこからか逃げてきたのかも」
「そうかもな。……もう休めよ。明日も学校あるんだろ」
 マサトは嘆息し、ユカの頭を掌で軽くたたいた。ユカはぎゅっと膝を抱え込んだ。
「シンを追い出さないで。ここに置いてあげて。お願いだから……」
「わかったよ。心配すんなって」
 ようやくユカは立ち上がり、気がかりそうな顔でシンを見つめた。「お休みなさい」と囁いて、悄然とリビングを出て行く。マサトはソファに座って脚を組み、眠るシンをしみじみと眺めた。
「……なぁ。『天使』さんよ。俺はユカが可愛いんだ。絶対に、危険な目にはあわせたくない。おまえの性根が善だろうが悪だろうが、どっちにしたって厄介なことに変わりはないんだ。俺は、俺の大切な存在を守りたい。そのためなら、どんなことだってするつもりだよ……」
 髪と羽に半ば隠れたシンの表情が動くことはなかった。

第三章 ムーンレイカーズ

 ふわぁとあくびをし、しょぼつく目をこすりながらユカはキッチンに入った。けっきょく昨夜はろくに眠れなかった。目を閉じても様々な思いが去来して、出口のない迷路を際限なくさまよって、ようやくうつらうつらとしたかと思うと目覚ましが鳴った。
 鼻腔がコーヒーの芳香を捕える。ユカは目を瞬いた。真っ白な背中が見えた。翼︱︱ではなく、洗い晒しの白いシャツを着たシンがコーヒーサーバーを手に振り向いた。
「おはよう、ユカ」
「おはよ……。︱︱シン、羽は!?
「それが、目が覚めたら消えてたんだ。どうしてだかわからないけど……」
 困惑顔で微笑んだシンはユカのマグカップにコーヒーを注ぎ、テーブルに置いた。狐につままれた気分で腰を降ろす。シンはすっかり慣れた様子で冷蔵庫からミルクやジャムを出して食卓に並べてゆく。
「でも、助かったよ。あんなもの生えてたら店番もできないし」
「そうだね……」
 『天使のいる店』、か。何だか違うジャンルの商売のようだ。埒もないことをぼんやり考えているうちに、焼きたてのトーストが温めた皿に載って出てきた。
「あ、ありがと」
 バターを塗り付けながら、ふと尋ねる。
「そういえば、叔父さんは? そこら辺にいなかった?」
「ソファで寝てるよ。目が覚めたら、何でだかマサトさんまで向かいのソファで眠ってたから驚いた」
 会話を聞きつけたように、リビングから寝起きの嗄れ声がする。
「おぉい……。俺にもコーヒー……」
「あ、はい」
 いそいそとシンがコーヒーカップを持っていく。
「あれ……? おまえ、羽どうした」
 ユカと同じことを寝ぼけた声で尋ねる。目が覚めたら消えていたと聞き、マサトはあくびまじりに頷いた。
「そりゃよかった。あんなでかい羽、邪魔くせぇもんな。見てのとおりうちは手狭なんだからよ、もう二度と生やすんじゃねぇぞ」
 ぶっきらぼうに無茶な命令をする。はぁ、とシンは自信なさそうに眉を寄せた。
「叔父さん」
 声に険をにじませると、ソファの向こうでひらひらと手が動いた。
「朝飯も重要だが、のんびりしてっと遅刻するぞー」
「やば! 行ってきますっ」
 ユカは急いでコーヒーを飲み干し、ダッシュで飛び出した。勢いに呑まれたように「いってらっしゃい」とシンが呟いたとたん、何故か勢いよく戻ってくる。
「シン!」
「な、何……?」
 面食らうシンを、息を切らせながら見つめる。
「……何でもないっ。急いで戻ってくるから、それまでお店よろしくねっ」
 バタバタとユカは廊下を駆けて行った。シンはあっけにとられて見送った。
「そんなに急がなくても︱︱」
 大丈夫だと思うんだけど、と口の中で呟く。裏口がバタンと閉まり、家の脇を自転車を押して走る足音が窓越しに聞こえる。コーヒーをすすったマサトが呆れたように嘆息した。
「朝っぱらから元気だねぇ……。ガキの頃と全然変わってねぇ。遮二無二がーっと活動したかと思うと、疲れてこてんと寝ちまうんだから」
 マサトは空になったカップをシンクに置き、大きく伸びをした。
「シャワー浴びて少し寝るわ。店開ける前に声かけてくれ」
「わかりました」
 あくびを連発しながら出て行くマサトを見送り、シンは洗い物を始めた。


     †

「……ひとつお訊きしてもいいですか」
 固い声でM1は尋ねた。D1は彼女を見ようともせず無造作に問う。
「何だ」
「もしかして、あなたは前からS1を知っていたのではありませんか。彼が覚醒するずっと前から」
「何故そう思う」
 デスク上のモニターから目を上げ、D1は感情の読めない瞳を向ける。最初から冷やかな拒絶をふくんだ視線に、萎えそうになった気力を奮い立たせる。
「彼の動向にひどくこだわっていらっしゃるからです」
「当然だろう。この俺に傷を負わせてくれたんだからな」
「それ以前からです。あなたは《パワーズ》に配属になったS1を最初から最も苛烈な任務につけた。いくら《パワーズ》が実働部隊と言っても、新任者は後方援護から始めるのが通常です」
「奴の力を知りたかっただけだ。S1は非常に特殊なケースだからな。実戦データをなるべく多く収拾したかった。それと、エンジェライザーの対戦闘効果がどれほどのものかについても、上層部が多大な関心を寄せていた」
 M1は軽く息を呑んだ。
「……《ドミニオンズ》が?」
「通常、我々がエンジェライザーを装着されることはない。我々エンジェロイドはみな選ばれた《ガイア》のしもべ、《ガイア》の意思を実行するための存在だ。︱︱M1、おまえはそれを疑問に思ったことがあるか?」
「ありません」
 M1の返答には迷いも淀みもない。D1は尖鋭な笑みを浮かべた。
「俺もだよ。俺たちは正しく覚醒した、選ばれし者たちだ。S1は頑としてその認識を受け入れなかった」
「愚かしいことです」
「そう。嘆かわしくも愚かだ。奴は奇跡的に目覚め、死を免れたというのに、以前と変わらぬ生活を望んだ。奴は《ガイア》の子たる己の義務を拒否したのだ」
「どう見ても彼は異常覚醒です。処分すべきだったのではありませんか」
「確かに検討はされたようだ。しかしせっかくの覚醒体をただ処分するのも惜しい。奴には相当の潜在能力があることが予測されていた」
「……だからエンジェライザーを?」
「そう。奴はまったく好都合だった。高い潜在能力を持ちながら、強烈な反抗心が邪魔をする。問題の反抗心を徹底的に押さえ込めばどうなるか……。結果はおまえも知っているはずだな」
 M1は無意識にこくりと喉を鳴らした。クク、とD1は低声で笑った。
「S1は見事にやってのけたよ。奴が始末した反逆者の数は《パワーズ》の歴代エースの中でも突出している。……おそらく今後、誰にも抜けないだろうな。あの記録は」
「まさか……、《ドミニオンズ》は、それを我々にも装着させるつもりなのですか」
 喉がひりつく感覚があった。声に含まれた危惧を察し、D1が皮肉な笑みを浮かべる。
「心配するな。装着するとしても《パワーズ》だけだろう。それに、S1に埋め込んだような単純なものにはならないはずだ。あれは単なる感情抑制と思考誘導装置にすぎん。アラボトで開発中のものには戦略補助人工知能搭載を検討しているそうだ。今よりもっと効率的に反逆者どもを狩りだして処分することができるようになる」
 D1は軽く手を振り、退出を命じた。自分の質問がさりげなくはぐらかされたことにM1が気付いたのは、部屋を出てしばらく経ってからのことだった。
 副官を遠ざけ、D1はモニターに視線を戻した。S1の単独任務の記録映像が延々と映し出されている。それは血腥く情け容赦のない殺戮の光景だ。D1はそれを飽きることなく異様な熱意で眺めていた。指を組み合わせ、食い入るように画面を見つめながら囁いた。
「……知りたかったんだよ、S1。おまえの力がどれほどのものなのか。おまえが俺より優れているのなら、それ相応の処遇をしてやらないと気の毒だものなぁ。だからおまえを血の海に突き落としてやったんだ」
 D1は目を細めた。数年ぶりに再会した彼の、制服姿で敬礼する人形めいた冷たく固い表情が脳裏に浮かぶ。血の色をした制服が、おそろしいほど似合っていた。
「どうしてだろうな。おまえの翼はどれほど返り血を浴びても決して染まらない……」
 血まみれの長大な翼を打ち振ると、ルビーのように血の雫が飛び散って。真っ白な翼が、陽光を受けてオパールのようにきらめいた。感情のない底なしの虚のような黒い瞳で、まっすぐに自分を見た。あのとき感じた胸のわだかまりは何だったのか。嫉妬か。恐れか。それとも︱︱。我知らずゆがんだ顔を、D1は両手に埋めた。


     †

 シンが居候するようになって半月が経過した。記憶は相変わらず戻らない。思い出せたのは名前だけ。どこから来たのか。何をしていたのか。どうして翼があるのか。何ひとつ明らかにならないまま、いつしか彼の存在はユカの日常に溶け込み始めていた。
 朝起きるとシンがすでにキッチンにいて、コーヒーを淹れてくれる。簡単な朝食も作ってくれた。いつも夕食を作ってもらうのに、こんなことしかできなくてごめんねと彼は申し訳なさそうに微笑んだ。別に料理は嫌いではないし、一人分増えたところでたいした差はないからかまわないのだが、コーヒーメーカーであってもインスタントの粉をカップにぶち込んだものよりはずっといい。ましてやそれが、他の誰かが自分のために淹れてくれたものならなおさらだ。
 マサトはたいていユカが家を出る頃になってのっそり起き出してくる。夜の方が仕事がはかどるそうだ。それでも寝過ごすことはなく、必ずユカが登校するのを見送るのが昔からの習慣だった。そうやってシンの存在が馴染むほど、彼がいつかいなくなるのだと思うと落ち着かない気分になる。
(ずっとここにいてくれたらいいのに……)
 ふと夢想し、勝手なことをと反省する。彼にだって家族がいて、今頃死ぬほど心配しているのかもしれないのに。どこかに友だちや仲間や、もしかしたら恋人だっていて、まったく違う世界でまったく違う生活を送っていたのかもしれない。たとえば、彼のように翼のある人たちが他にもいて……。
 一緒に《フォルセティ》でアルバイトをしながら、接客をしているシンを眺める。だいぶ板についてきた。男女のひとり客やカップルに請われてアドバイスする姿は様になっている。暇をみては雑誌やカタログを見て勉強もしているようだ。実際、彼を目当てに訪れる女性客も出始めて、ユカは嬉しいような妬けるような複雑な気分になった。
 シンを包む雰囲気には、ある種独特の翳りをおびた光がある。静かで、透明で、それでいてどこか謎めいているのだ。ほのかに笑むときの、ゆったりと穏やかな仕種。指の長い、がっしりしていながら繊細にも見える大きな手の、何気ない動き。《フォルセティ》のシンプルなリングがとてもよく似合ってる。
 光彩と瞳孔の区別がつかないほど真っ黒な瞳。黒目がちで曰く言いがたい色香のようなものがある。淡々としてやや沈んだトーンの話し方も落ち着いて好ましく思えた。気がつくと彼の姿をぼんやりと目で追っていてユカは我に返ってひとり赤面したりするのだった。
 ごほん、と間近で咳払いが聞こえ、ユカは飛び上がった。
「お、叔父さん。何よ、びっくりしたぁ」
「さっきから何度も呼んだぞ。ぼーっとして、熱でもあんのか?」
「べ、別に何でも。ちょっと考え事してただけよ。︱︱何? どこか出かけるの」
 マサトが焦げ茶色のコートを着込んでいることに気付き、軽く目を瞠る。
「ちょっと仕事の打ち合わせ。遅くなるかもしれん。待たなくていいから先に休んでろ」
「そう。気をつけてね」
「戸締りはしっかりするんだぞ。ガス栓もな。それから部屋の鍵をかけて、ドアを家具で押さえとけ」
「何なのそれ……」
 ひくりとユカは口許をひきつらせた。
「用心するに越したことはねえ。嫁入り前の若い娘を、どこの馬の骨だか鳥の骨だかわからん奴とふたりきりにするのはできれば避けたいんだが」
「叔父さん、あのね」
「わかったな」
 ぎろり、といつになく剣呑な目付きで睨まれ、ユカはカクカク頷いた。よし、と頷いたマサトは、店内に客がいないのを確かめてシンを手招いた。
「おい、シン。ちょっと来い」
 いぶかしげな顔でやって来たシンに、ユカと同じ説明をする。シンは生真面目に頷いた。
「マサトさんが帰ってくるまで用心のため起きて待ってます」
「そりゃ結構。ところで俺が言ったことは覚えてるだろうな」
「えぇと……?」
 シンは眉根を寄せた。色々言われているからどれだか咄嗟にわからなかったのだろう。
「指一本でもユカに触れたら許さんからな。言いつけにそむけば……」
 マサトは鼻を付き合わせんばかりの距離で、ドスの効いた声で囁いた。
「コ・ロ・ス」
「わ、わかりました……」
 シンは本気で怯えた顔をした。しかつめらしく頷き、マサトは店の入り口から出て行った。ユカは溜息をついた。
「もう、叔父さんったら。シンのおかげで売り上げ伸びたんだから、ちょっとは信用しなさいよねー」
「そんなこと……。マサトさんのデザインがいいからだよ。この前出た雑誌を見たってお客さん、けっこう来てるよ」
「雑誌のモデルさんより、シンの方がずっと似合ってるもん」
 張り合うように断言すると、シンは困惑顔で苦笑した。


     †

 今日はやけに気温設定が低い。ドーム内の温度は記録に残る平均気温に沿って調整されているものの、時折やけに寒かったり温かかったりすることがある。自然気候にできるだけ似せているつもりなのだろうが、あざとく感じてしまうのはひねくれすぎということか。
 マサトはコートのポケットに手を突っ込み、混み合う街路をうつむきがちに進んだ。周囲には飲食店や飲み屋が軒を連ねている。特別柄の悪い地域ではないが、昼間はまだしも日が落ちたらユカを連れて食事に来たくはない場所だ。
 マサトは凝ったファサードのついた一軒のビルに入った。入ってすぐ、両開きのアーチ型の扉が待ち構えている。扉の中は照明が抑えられて薄暗い。煉瓦を貼り付けた秘密の地下通路めいた通路には、ちらちら瞬く蝋燭型の灯。
 奥へ進むと、中世の陰鬱な古城を模した壁にまた扉があった。半ば扉に埋め込まれた、ぼろぼろのマントを着込んだ骸骨。死神のつもりか、大きな三日月型の鎌を握っている。
 骸骨の虚ろな眼下の奥で、赤い光が灯った。扉の前に立ったマサトに細く赤い線が投射され、上からサーチしていく。重々しい音をたてて扉が開いた。ずいぶん来ていなかったが、登録データは抹消されていなかったようだ。
「相変わらず悪趣味全開だな」
 ぼそりと呟き、マサトは店内に足を踏み入れた。人声と弦楽器のざわめきが押し寄せる。入ってすぐ、マサトは足を止めて上を振り仰いだ。数階分ぶち抜きになった天上の遥か高みで、巨大なシャンデリアがきらめいている。ガラス張りのエレベーターがひっきりなしに上下し、螺旋状に続くフロアには人が溢れていた。いちおうドレスコードがあるため、くだけすぎた格好の者はいない。
 客層は二十代から四十代までけっこう幅がある。客に気付いて、超ミニスカートの黒メイドっぽい格好の案内嬢が近づいてくる。コートを預け、引き換えの番号札をもらって地下へ続く階段へ向かう。地下は静かに飲みたい客向きのバーラウンジになっている。まだ時間がそれほど遅くないからか、こちらは上のレストランと違って人影は少ない。黒光りするカウンターのいちばん奥で、トランプを広げていた長い黒髪の女が顔を上げた。こんな場所には似つかわしくないような清楚な美貌が、マサトに気付いて微笑んだ。
「お珍しいですね」
「……久しぶり」
 カウンターを見ると、並べられているのはトランプではなくタロットカードだった。彼女はカードを集めてシャッフルし、扇状にきれいに並べた。
「一枚引いてくださいな」
 マサトは適当に引き抜いた。彼女は無言でカードを一瞥し、マサトに示す。翼の生えた骸骨が逆さまで笑っていた。
「『死』か。いきなり不吉だな」
「勘違いしないで。『死』の逆位置は『再生』よ。悪くないカードなの」
 彼女はスツールからすらりと降り立った。カツンとヒールが硬質に響く。
「……姉さんに御用なのでしょう? 待っていて、呼んでくるわ」
「ご注文は」
「ギムレット」
 カウンターの中から尋ねたバーテンに告げ、マサトはスツールに腰を下ろした。カクテルを飲み終わる頃ゆったりとヒールの靴音が近づいてきた。振り向くと銀髪を後ろで結い上げた女が佇んでいた。胸元に垂れるふたすじの銀髪がライトを受けて美しく輝く。結い上げた髪に差した簪がしゃらしゃらと鳴った。女は真紅の唇で妖婦めいた微笑を浮かべた。
「いらっしゃい」
「リリス……?」
「他に誰がいて?」
「いや……。この前会ったときとえらくイメージが違ったんで」
 会うたびに顔ばかりか身体つきや肌の色合い、声、髪や瞳の色まで違う。同じ人物とは到底思えない。身体改造に凝りまくった挙げ句、脳以外はぜんぶパーツ交換可能のボディに変えてしまったのだというまことしやかな噂もある。真偽のほどは確かではないが。ともかく妹のレヴェナに取次ぎを頼み、出てきた人物が『リリス』だと信じるほかないのだ。
 今夜の彼女は、キモノふうのドレスを身にまとっていた。胸高に大きな帯を締め、前から見るとミニだが後ろは長く引きずっている。くっきりとしたアイラインは猫のようにつり上がり、金緑の色をしている。リリスは最前まで妹が座っていたスツールに腰かけた。裏返したまま放置されていたタロットカードをめくり、眉を上げてにやりとする。そのまま戻してしまったので、彼女が何のカードを引いたのかマサトにはわからなかった。
「それで。今日はどんないいお話かしら?」
 リリスに緑のカクテルを出したバーテンが離れるのを待って、マサトは低く囁いた。
「……エンジェロイドの情報を売りたい」
 グラスに唇を寄せたリリスが、驚いたように動きを止めた。グラスをカウンターに戻し、軽く小首を傾げてマサトを見やる。
「まさかこの町に天使サマがいる、なんて言わないでしょうね」
 マサトは答えず、リリスを見もしなかった。くすりとリリスは笑みを洩らした。
「どうして軍に持ち込まないの? あなたなら信用があるし、言い値で買ってくれるんじゃないかしら。エンジェロイドはガイア軍の中枢だものねぇ。どんな情報でも喉から手が出るほどほしいはずよ」
「カネがほしいわけじゃない」
 そっけなく言うと、リリスはちろりと桃色の舌で歯列をなぞった。
「……ふぅん。ま、いいわ。訊いてみましょ。その代わり、レヴェナに何か作ってよ。あの娘に似合いそうなデザインで。もちろん、一点モノよ」
「俺は女性向けのデザインは苦手なんだよ」
「あの娘に似合うもの、よ。いやなら買い手は探してあげない」
 マサトは溜息まじりに舌打ちした。
「わかったよ。――じゃあよろしくな」
「あら、もう帰っちゃうの? 滅多に来ないんだからゆっくりしていけばいいのに」
「あんたと飲むと、いくらぼったくられるかわかんねぇからな」
「ま、ひどい」
 くすくすと笑い、リリスは立ち去るマサトを見送った。


     †

 夕食は何だか気づまりな雰囲気だった。もっとも、そう感じているのはユカだけかもしれない。シンが口数少ないのはいつものこと。食卓で会話を交わすのはもっぱらユカとマサトだ。正確にはユカが他愛もない話題を持ち出してマサトがぶっきらぼうに突っ込み、さらにユカが言い返すという埒もないループである。シンはユカが同意を求めたり、何か尋ねたりしない限りは黙って聞き役に回っている。積極的に会話に加わることはなくても、彼はいつもほんのりと笑みを浮かべて耳を傾けてくれていた。
(もうひとりいてくれるのって、何だかいい感じ)
 シンがこの家で暮らし始めてまもなく、ユカはそんなふうに思った。叔父とふたりきりの生活は、決していやではないのだが、時にもやもやした鬱屈を感じることがある。マサトのことは好きだ。自分のことを大事にしてくれるのはわかっているし、ありがたく思ってもいる。場合によっては過保護な時もあるが、元来そう口うるさい方ではない。それでも家の中では互いの関心はどうしても互いに向くしかなく、それが時に妙にストレスに感じるのだ。
 マサトが未だに独身なのも気になる。自分に遠慮しているのかとそれとなく尋ねてみると、『面倒くさいから』という身も蓋もない答えが返ってきた。実際それが本音なのかもしれないが、ユカはどうしても自分の存在が何がしかの重しになっているように思えてならなかった。
 シンの存在は、そんな圧迫感をやわらげてくれた。面と向き合うしかなかった関係が広がって余裕が生まれたとでも言おうか。中学生になった頃から時折わけもなくマサトに対して沸き上がるようになっていた苛立ちを、この頃あまり感じないのは確かだ。ユカはふだんどおりに黙々と食事するシンの姿を横目で眺め、箸の先をくっと噛んだ。
(もうっ、叔父さんが変なこと言うから、かえって意識しちゃうじゃないのっ)
 気まずさに耐えかね、無理無理に探した話題を脈絡もなく話す。シンはいつものように相槌を打ってくれたが、ひとりで空回りしているようで虚しい。
(あ~……、あたしばかみたいかも。シンにばかだと思われるのはいやだなぁ……)
「あっ、あのねシン」
 小鉢に箸を伸ばしたシンが視線を向ける。
「何?」
「あ……、えっと……。︱︱き、きんぴら辛すぎない?」
「そんなことないよ。ちょうどいい」
 にっこりと、シンは微笑む。
「そ、そう。ならよかった」
 あはあはと虚しく笑う。ユカは食卓に突っ伏したくなった。
(やっぱりあたし、ばーかー)
 心の中でえぐえぐ泣きながら、並んで片づけをする。マサトの心配は、わからなくはない。以前に雇っていたアルバイト店員のせいでユカが不快な目にあったことを、今でもひどく気にしているのだろう。ちら、と傍らのシンを見あげる。彼はユカから人一人分空けて立っていた。ユカに絶対触るな、四十五センチ以内に近寄るなというマサトの厳命を、彼は律儀に守っていた。ユカも同じことを言われている。
 シンに翼が生えたときには思わず抱きしめてしまったが、あれは不可抗力というもの。そもそもマサトがあんまりひどい罵詈雑言を吐くからいけないのだ。
(……シンは悪い人じゃないもん。絶対)
 胸の内でマサトに向けて言い返す。説教面で睨む叔父の幻影を追い払い、ユカは拭いた皿をしまっているシンの背に声をかけた。
「お茶淹れよっか」
 シンが振り向いたとき、チャイムが鳴った。
「……誰だろ、こんな時間に」
「僕が出る」
 シンが裏口へ向かう。上半分が曇りガラスになった裏口のドアに人影が映っている。ひとりではないようだ。シンはドアを見ながら廊下に設置されたインターフォンのスピーカースイッチを入れた。
「はい」
「︱︱あ。シンか? 俺、タケルだけど」
 声を聞き、ユカはドアを開けた。よっ、とタケルが片手を上げる。
「御飯終わっちゃったよ」
「いや、食ってきたから大丈夫」
「あ、クウちゃんとトモも一緒? どうぞー、上がって」
「こんばんは」
「……お邪魔します」
 タケルの背後から、もうふたり人影が現れた。踝まであるようなレザーコートに身を包んだクウヤはタケルよりもだいぶん上背がある。切れ長の瞳が怜悧な美青年だ。少し長めの黒髪で、一部だけ青い。ジャンパーのポケットに手を突っ込み、ボンデージベルトのついた細身のパンツを履いたトモはさらに小柄。女の子めいた綺麗な顔なのに表情に乏しく、無口で感情が読み取りにくい。髪は脱色してシルバーグレイに染めていた。シンに気付いたふたりは、一瞬間を置いて黙って会釈をした。
「ちょうどお茶淹れようと思ってたんだ」
「俺、コーヒーがいいなぁ」
 無邪気にリクエストするタケルを、クウヤがじろりと睨んだ。
「いいっていいって。コーヒーくらい奢るわよ」
「お湯沸かそう」
 にこりと微笑んでキッチンに引き返したシンを、クウヤは含みのあるまなざしで見た。
「……あれが新しい住込みのバイトくん?」
「うん。あとで紹介するね。さぁ、入って」
「マサさんは?」
「出かけてるの。遅くなるかも」
 そっかと呟いてクウヤはタケルの後に続いた。ソファに並んだ三人にユカは首を傾げた。
「カイさんは一緒じゃないの?」
 途端にタケルが吼え、ユカは目をぱちくりさせた。
「それが聞いてくれよっ。あいつ、いきなり辞めちまったんだよーっ」
「ええっ?」
 クウヤを見ると、彼は深刻な顔で頷いた。
「以前から別のバンドに誘われてたとかで、そっちへ移った」
「しかも俺たちよりも集客力のある奴らでよ~。くっそむかつく~」
「それは仕方ない……かも」
「まぁ、もともと腰掛けっぽかったしな。あいつは」
 おんおん泣くタケルを横目で見やり、冷静な声音でクウヤは呟いた。
「でも……、ヴォーカルがいなくなったんじゃ、困るよね」
「新曲作ったのに! ハコだって予約したのに! どうしてくれるんだぁぁ」
 そこへシンがカップを並べた盆を持ってやって来る。コーヒーを配り、改めてユカは各自の紹介を始めた。
「タケぽんにはこないだ会ったよね。《ムーン・レイカーズ》のギタリストのタケル。こっちはベースのクウヤ」
「どうも、初めまして」
「で、ドラムのトモね」
 無表情なまま、黙ってぺこりと頭を下げる。ふたりに会釈を返し、シンは少し緊張した顔で微笑んだ。
「……シンです。よろしく」
 不景気面でコーヒーをすすり、タケルは陰々と溜息をついた。
「どーしよ。まじやばい。せっかくいい曲できたのに。デモ演奏して録音したのに~」
「あ、だったらタケぽん歌ってみてよ。聞きたいな、あたし」
 お世辞でなくユカは言った。《ムーン・レイカーズ》の曲は大半がタケルが作詞作曲していて、これが意外に︱︱と言っては何だが︱︱いい感じなのだ。
「それはやめといた方がいい」
 軽い気持ちで口に出したとたん、クウヤが冷然と遮った。タケルがぐわっと牙を剥く。
「何だと! クウヤ、てめえ俺がタマシイ削って作った曲に文句あんのか!?
「曲にも詞にも文句はないが、おまえが歌うのだけは勘弁してくれ」
「ええ~? タケぽん、そんな悪声には聞こえないけどなぁ」
「よぉし、歌っちゃる! 聞いて驚け」
 今更驚かねーよとクウヤが呟く。ユカは渡されたディスクをリビングのステレオに差し込んだ。タケルは折り畳んだ紙きれをがさがさ広げる。

「……おまえ、自分で作った歌詞も覚えてねぇのかよ」
「るせー。自分で歌わないからいいんだッ」
 イントロが始まった。足でリズムを取り、タケルが口を開いた。

 いつか見た 薔薇色の蒼い月
 照らされたキミの横顔 声もなく 通りすぎて ……

 ユカは目を見開き、懸命に歌うタケルをまじまじと見つめた。一分も経たぬうち、無言で立ち上がったクウヤがステレオのスイッチを切る。
「おい! まだサビに入ってねぇっ」
「もう充分だ」
 クウヤは眉根に深々と皺を寄せて唸った。唖然としていたユカは、タケルに視線を戻してぽつりと呟いた。
「……タケぽん、音痴だったんだ……」
「違ーうっ、音程が取れないだけだっ」
「それを音痴と言うんだろうが」
 冷徹に指摘され、タケルは憤然と立ち上がった。
「だったらてめえが歌え! 歌えるものならな!」
 ムッとしてクウヤはタケルの手から紙きれをひったくった。今度はタケルがステレオのスイッチを入れる。ソファの背に片手を置いた立ち姿もクールに、クウヤが歌いだす。

 人は僕らを 愚か者と呼ぶだろう
 かまわない それでも 僕らは手を伸ばす
 真っ黒なあの空に昇る 蒼い月に ……

 ばっしーん、とタケルはスイッチを叩き切り、クウヤに指を突きつけた。
「何故こぶしを回す!? 演歌じゃねーんだッ」
「仕方ないだろ、自然に回っちまうんだよ」
 けろりとした顔でクウヤがのたまう。彼の歌は、ある意味たいへん巧かった。土鈴を振ったみたいにコロコロとこぶしがよく回る。ユカは唖然茫然を通り越し、いっそ感心してしまった。隣でシンも目を丸くしている。
「祖父さんの趣味が民謡で。無理やり歌わされたのがクセになってな」
「ふざけんなーっ、そんなんロックじゃねえっ」
「絶対音痴が何ぬかす。悔しかったら『正調木曽節』を歌ってみやがれ。超むずかしいんだぞ、あれ」
「俺がやってるのはロックだ! 演歌や民謡じゃねぇっ」
 わめき散らしたタケルは、取り返した歌詞を今度はトモに押しつけた。
「次はおまえだ。歌え!」
「えっ……」
 それまで無関心そうな顔で黙っていたトモが、困惑に眉をひそめる。まさか自分にお鉢が回ってくるとは思っていなかったのだろう。
「いいから歌え。歌わないと泣くぞ」
 タケルは据わった目付きでわけのわからない脅迫をする。トモは溜息をついた。
「……別にいいけど」
「よぉし」
 タケルは手をすり合わせ、勢い込んでスイッチを入れた。すっ、とトモが座ったまま背筋を伸ばす。

 Blue Moon  なんて綺麗な
 初めて見た あのときの
 声にならない 衝撃
 今もこの胸を 叩いてる
 どうして僕らは ここにいるのかと

 スイッチ、オフ。頭を掻きむしったタケルが、眉を逆立ててわめいた。
「てめえはどこぞの少年合唱団かーっ! 何じゃその澄みきったボーイソプラノは! 声変わりはまだなのか!? いったい幾つになったんだああっ」
 タケルの罵倒があんまりだと思ったのか、シンがおずおずと口を挟む。
「そんな言い方は……」
 しょんぼりしていたトモがふと顔を上げた。それまでシンに対してほとんど無関心だったのに、今更その存在に気付いたようにしげしげと見つめだす。視線が合うと、トモはごく淡い笑みを照れたように口の端に浮かべた。よほど嬉しかったのだろう。トモはドラムを叩いているとき以外は茫洋として表情に乏しく、怒りもしないが滅多に笑いもしない。無愛想というより、ひたすらぼーっとしている感じなのだ。
 タケルはただでさえ整髪剤でツンツンに立っている髪をさらに逆立て、シンに紙切れを突きつけた。
「あんたも歌え。歌わん限り、文句は言わせねーからな」
「え? 僕は別に文句なんか……」
 言ってません、と呟くシンの襟首を掴んで引き立たせる。驚くシンに代わってユカが抗議の声を上げる。
「ちょっとタケぽん! 乱暴しないでよ」
「おにーさん、歌えるよねー? 三回聞けばメロディはだいたいわかったっしょ」
「あの、僕は歌なんか歌ったことは……」
「いーや、あるはずだ。幼稚園で『村まつり』くらいは」
「お、覚えてません……」
 ユカはごついピアスを刺したタケルの耳を掴んで囁いた。
「知ってるでしょ、シンは記憶喪失なのよ!?
「記憶喪失だって歌くらい歌えるだろ。ひょっとしたらすっげー上手いのに忘れてるかもしれないじゃないかー」
 事情を知らなかったクウヤとトモが『記憶喪失』と聞いて驚いたようにシンを見る。ユカは頭に来て、大声で口を滑らせたタケルの後頭部を張り飛ばした。
「タケぽんのばか!」
「わ、悪かったよ。でもさ、やってみる価値はあるんじゃね?」
「まぁ、タケルよりひどい音痴はそうそういないだろうしな」
 冷淡に呟いたクウヤを、タケルは悔しげに睨んだ。ふんっと鼻息荒く向き直り、無理やり紙切れを持たせる。
「とにかく歌って。これも円滑な人間関係を築くための試練だ。歌え。いいから歌え。歌わないとでんぐり返って泣くからなーっ」
 さらにわけのわからない脅し文句で迫られ、シンは気押された顔で頷いた。
「わ、わかりました。たぶん外すと思いますけど……」
「いーのいーの。気にせずどんどん外してねー」
 一転して満面の笑みを浮かべ、タケルはステレオへすっ飛んで戻る。はぁ、と嘆息したシンは、困り顔でユカを見た。
「……笑わないでね」
「そんなことしないよ」

「行くぞー」
 嬉々としてタケルがスイッチを入れた。イントロ。最初のAメロから歌い始める。ややとまどい気味だが、すぐにリズムを捉え、メロディに乗った。どうでもよさそうにソファにもたれていたクウヤが無言で目を見開く。スイッチの上に指を載せたまま、タケルはあんぐりと口を開けた。

 愚か者よと 笑われても あきらめない
 この気持ち キミはわかってくれるはず
 あの蒼い月が ほしいんだ
 蒼い 蒼い あの月が

 いつかキミと翔ぼう あの蒼い月へ
 愚かな僕らは信じてる
 いつか が きっと来ることを
 だから歌うよ 声の限りに 歌うよ
 Cry for the Blue Moon

 録音された演奏が終わる。シンは照れくさそうに頭を掻いた。   
「ごめん、やっぱりちょっと外した︱︱」
 だだっと駆け寄ってきたタケルが、がしっとシンの手を掴む。
「決まりだーっ」
「……は?」
 面食らうシンにはかまわず、タケルはキラキラした瞳で仲間を振り向いた。
「クウヤ! トモ! 新ヴォーカルはこいつにするぞ」
 ぱちぱちと大真面目な顔でトモが拍手をする。クウヤはぽかんとしているシンを眺め、肩をすくめる。
「ま、悪くはないな」
「……あの、何ですか一体」
「だから新しいヴォーカルだって。俺たち《ムーン・レイカーズ》のな!」
「︱︱はぁっ!? じょ、冗談はやめ……」
「冗談なもんか。いやー、あんたの声いいわー。俺のイメージぴったし。カイより断然ずーっといい。なぁ? クウヤ。あんにゃろが辞めてくれて、いっそよかったよな。こういうの何て言うんだっけ。棚からぼた餅? 瓢箪から駒? もっけの幸いだっけか」
「災い転じて福となす、ってとこか」
 クウヤの言葉にうんうん頷き、タケルは無理やりシンと肩を組んだ。
「ちょっとタケぽん、勝手に決めないでよ。シンが困ってるじゃないの」
 呆気にとられていたユカは、ようやく我に返ってタケルを引き剥がした。むぅっとタケルは口を尖らせた。
「いいじゃんか別に。一緒にやろうぜ? それともあんた、音楽嫌いなの?」
「別に嫌いじゃない、と思うけど……」
「そんだけいい声してんのに、もったいないって。なっ、お願い。ウチに入って。助けると思って、ね! お願いします!」
 いきなり土下座の勢いで頼み込まれる。困り果てるシンを見かね、ユカは割って入った。
「やめなさいよ、もう」
「何だよユカ、反対なの? ユカだって聞きほれてたじゃないか」
 ユカは思わず顔を赤らめた。
「……そ、そういうわけじゃないけど。シンがやりたいなら反対はしないよ。でも、無理強いするのはよくないと思う」
「そうだ。しぶしぶ来てもらっても仕方ない」
「おぉい、クウヤ。おまえはどっちの味方なんだよ」
「俺は単に自分たちのバンドを大切にしたいだけ。《ムーン・レイカーズ》はおまえだけのもんじゃないんだからな」
「んなこたわかってるよ」
 ぼそぼそとタケルは声のトーンを落とした。諦めたのかと思いきや、キッとシンを睨むように見あげる。
「俺は諦めねーからな。ぜーったい、うんと言わせてみせるぜ!」
(こうと決めたらしつこいからなぁ、タケルのやつ……)
 口許を引きつらせるシンを気の毒そうに見やり、ユカはしかめ面で嘆息したのだった。

第四章 もの言わぬ翼

 人気のない展望室に彼はいた。透明なドーム天井越しに漆黒の空が広がっている。散りばめられた無数の星は瞬くこともなく、静かに天界を巡ってゆく。D1は後ろ手を組み、飽きることなく星空を見あげていた。
 かつん、と背後で靴音がする。少し離れた場所で靴音は止まった。ためらうような沈黙に続き、感情を抑えた声が低く囁いた。
「︱︱S1らしき者の情報が入りました」
 ほんのわずか、D1の肩が揺れたような気がした。だが、振り向いた彼の顔はいつにも増して無表情だった。かつて見たS1を反射的に思い起こし、M1はひどく居心地悪い感覚を味わった。
「ツクヨミ・シティ在住の亡命者が、エンジェロイドと接触を持ったもようです。彼に関する情報を売りたいと」
「それが本当にS1のことならいいが……」
「所在不明のエンジェロイドは彼だけです」
 しばらく無言で考え、D1は無感動な顔のままM1に問う。
「︱︱その亡命者の身元は?」
「すでに判明しています」
「身辺を探って情報精度を確認しろ。取引はそれからだ」
 副官のもの言いたげな表情に気付き、D1は軽く眉をひそめた。
「……何だ?」
「いえ……。居所がわかったのなら、直接押さえてしまえばよいのではないかと」
「奴がおとなしく捕まると思うか? 参謀本部を半壊させて逃げたような奴だぞ」
 M1は顔をこわばらせた。不意打ちだったとはいえ、たったひとりのエンジェロイドの逃亡を防げなかったことが、今更ながら口惜しい。しかもD1は今まで経験したこともないほど深い傷を負わされた。副官のM1にとっても、それは耐えがたい屈辱であった。
 D1は無機質な瞳でM1を見やった。
「それに、表側の居住ドーム内で騒ぎは起こさないでほしいと、ここの司令官に泣きつかれてる。どんな些細なことから足がつくとも限らない。この基地の存在が奴らに知られれば、今後の監視活動に支障を来すことになる。回りくどく感じるだろうが、S1はなるべく人目を避けて確保したい」
「了解しました」
 退出する副官を見送り、D1はふたたび星空を見あげた。近く彼にまみえることが出来そうだと思うと、残虐な喜びがじわりと滲む。
「生きていてくれたようで嬉しいよ。S1」
 密やかな彼の呟きを、展望室に置かれた緑の植物だけが静かに聞いていた。


     †

 《ムーン・レイカーズ》の面々が引き上げてまもなく、ふらりとマサトが戻ってきた。コーヒーカップを片づけていたユカはキッチンに顔を出した叔父を意外そうに見た。
「お帰りなさい。ずいぶん早いじゃない? もっと遅くなるかと思ってた」
「……誰か来てたのか?」
「レイカーズのみんなよ。その辺で会わなかった?」
「いや」
「行き違いね。クウちゃんがブレスレットの代金払うって言ったんだけど、あたし値段がよくわからないから、またにしてもらっちゃった」
「ああ、そういえばタケルの奴がそんなこと言ってたっけな。いいさ、どうせまたすぐに来るだろう」
 マサトは冷蔵庫を開け、缶ビールを出した。
「飲んできたんじゃないの?」
「カクテル一杯だけさ」
 無造作にプルトップを引き開けるマサトからは、確かに酒の匂いがしない。マサトはシンに目を留め、手に持ったビール缶をちょっと上げた。
「おまえも飲むか?」
 驚いた顔でシンは首を振った。
「遠慮すんなって。たぶん二十歳は越えてるだろ。いいから付き合えよ」
 グラスにビールを注ぎわけ、差し出す。遠慮がちに受け取ったシンに低く「乾杯」と呟き、マサトは食卓に腰を下ろした。シンはためらいながらグラスに口をつける。
「何か思い出すか?」
 からかうようにマサトが尋ねた。
「……飲んだことはあるような気がします」
 小さく噴き出し、マサトはビールをあおる。
「あたしも飲んでいい?」
「あと三年経ったらな」
「けちー」
「俺は良識的な大人なの」
 ユカはむくれて冷蔵庫からオレンジジュースを出した。
「あ。ねぇ、叔父さん。そういえばさっき、シンの意外な特技がわかったのよ」
「特技?」
「ユ、ユカ。あれは……」
 焦るシンを不審げにじろりと見やり、何だと先を促す。
「あのねー。シンってばすっごく歌が巧かったの。びっくりしちゃった」
「歌ぁ?」
 マサトは《ムーン・レイカーズ》のヴォーカル脱退騒ぎと、それに続く妙ちきりんなカラオケ大会について聞かされ、呆れ返ったように嘆息した。
「ったく、何やってんだよ。レイカーズも先は長くなさそうだな」
「そんなことないよ。シンが入れば、ねぇ?」
「だから僕はそんな。︱︱っていうかユカ、さっきは反対してたんじゃ?」
 ユカは肩をすくめた。
「あれは、タケぽんがシンを困らせるから……。あたしは、すっごく上手いと思ったよ。びっくりした。っていうか、感動したわ」
「か、感動……? そんな大げさな」
「本当だもん。悪い話じゃないと思うなぁ。もちろん、シンがいやなら話は別だけどね」
「いやって言うか、僕なんかには無理だって。絶対」
「やってみなきゃわかんないじゃない」
「そうだぞ。せっかく頼まれたんだ。やってやれよ」
 マサトの言葉に、ユカはびっくりした。
「ど、どうしたの? 叔父さん」
「どうしたも何も、いいじゃねぇか。レイカーズはプロを目指してるんだろ?」
「まぁ、インディーズで一枚出したばかりだけど……」
「人気が出て稼げるようになりゃ、充分ひとりで食って行ける。ここで居候してなくてもいいってことだ」
 一瞬唖然とし、ユカはテーブルに拳を叩きつけた。
「何それ!? ようするにシンにとっとと出て行けってこと?」
「自分で生活費を稼ぐってのは、大事なことなんだぞ」
「話をすり替えないでよ!」
 そっとシンがユカを制す。
「……いいんだ、ユカ。マサトさんの言うことはもっともだよ。︱︱考えてみます。ビール、ごちそうさまでした」
 シンは微笑んで立ち上がると、律儀にグラスを片づけてキッチンを出て行った。ユカは彼が二階へ上がる足音を確かめ、キッと叔父に向き直った。
「ひどいよ、叔父さん! そりゃ、叔父さんは愛想がいい方じゃないけど、レイカーズの皆には何かと親切にしてあげてるじゃない。なのに、どうしてシンにだけは冷たいの。どうしてそんなに嫌うの。シンは記憶喪失なんだよ。病人みたいなものでしょ。もう少し優しくしてあげたっていいんじゃない!?
 べこっ、と無言でマサトはやわい缶を握りつぶす。
「おまえさ。忘れてないか」
「何を!?
「あいつは人間じゃねえ」
「︱︱そんな言い方しないで。叔父さんのばか、嫌い!」
 ユカはキッチンを飛び出して二階へ駆け上がった。自室のドアが閉まる音が階下まで響いた。限界まで缶を握り潰し、残骸をテーブルに放り出す。マサトは苦く嘆息した。
「……俺はなぁ、ユカ。別にあいつが嫌いなわけじゃねぇんだよ。あいつは、まぁ何だ、けっこういい奴だと思ってる。でもな……。あいつは︱︱、造られた『人工天使』なんだ。おまえの側にいさせてやるわけにはいかねぇのさ」
 のっそりと立ち上がり、マサトは潰れた缶をゴミ箱に投げ入れた。
「俺にとっていちばん大事なのは、おまえの身の安全。何が何でもおまえを守ると固く誓っちまったんでなぁ。おまえの親の亡骸によ……」

 腹立ちが収まると、今度はたまらなく悲しくなってきた。せめて泣いてしまえたらよかったのに。何かが胸につかえているようで、いくら膝を抱え溜息をついても涙は出て来なかった。ユカはぼんやりと風呂に入り、ぼんやりと髪を乾かした。家の中はひどく静かだった。いつもだったらマサトが動き回る気配が何となく伝わってくるのに、今夜はそれもなく虚ろな静寂に満ちている。
 シンの部屋の前で、ふと足を止める。マサトは物置代わりに使っていたこの小部屋を黙って片づけ、生活できるようにしてくれた。叔父が渋るのも聞かず、強引に彼を連れてきたのは自分なのに。ユカはドアにそっとこめかみを押し当てた。中からは何の音もしない。ドアの下の隙間から洩れる光もない。きっともう休んでいるのだろう。ユカはそのままずるずると廊下に座り込んだ。
「……ごめんね、シン。叔父さんのこと、悪く思わないでね。叔父さんは、きっとあたしのこと心配してあんなこと言うの。無愛想なくせに心配性でさ……。本当は優しくて、とってもいい人なんだよ。赤の他人のあたしを引き取って、ずっと育ててくれたんだもの。だからね……、叔父さんのこと嫌いにならないでね……」
 ドアの隙間からふいに仄かな光が射す。ユカはハッとドアから身を離した。
「……ユカ」
 囁くようなシンの声が聞こえる。反射的にかあっと頬が熱くなった。
「ご、ごめん。起こしちゃった?」
「起きてたから……」
 物憂げな優しい声が少しくぐもって響く。
「今の、聞いてたの……?」
「大丈夫だよ、ユカ。僕はマサトさんを嫌ったりしない。当然のことを言われただけだし、それに彼にはとても感謝しているから。もちろん、きみにもね……」
 ユカはわずかに眉を寄せた。何故だろう。喋っている内容とは違って、シンの声は元気がなく、ひどく疲弊したように聞こえる。
「……シン。あの……、開けてもいい……?」
 返事は少し間を置いて聞こえた。
「うん、いいよ」
 遠慮がちにドアを細く開く。部屋は小さなスタンドがひとつ灯っているだけで薄暗い。シンはローベッドにもたれて床に座り込んでいた。背から生え出た白い翼が、床とベッドの上にだらりと広がっていた。ユカは膝行して室内に入り、急いでドアを閉めた。
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
 上半身裸のシンは、立てた片膝を抱え込むようにして小さく微笑んだ。
「一日か二日おきくらいに出し入れしないと背中が痛むんだ。下手に我慢して、またこの前みたいに驚かせちゃいけないから……」
「……それ、自分で動かせるの?」
 失礼かと思いつつおずおず尋ねてみた。シンは頷き、垂らしていた翼を広げた。ふぁさ、と軽い音がして天井近くまで長い羽が伸びる。片羽だけで彼の身長と同じくらいありそうだ。やわらかな電球色の灯に照らされて白い翼が微妙なグラデーションを描く様は美しくも荘厳で、ユカは息を呑んだ。
「飛べるかどうかは、わからないけど」
 呟いたシンの口調は、どこか自嘲するような響きをおびていた。ユカは胸が詰まり、黙ってシンを見つめた。
「……飛べるよ、きっと」
 そしてどこか遠くへ行ってしまうのだ。たぶん、そう遠からぬいつか。唐突に泣きたくなった。ほんのわずか目頭に浮かんだ涙の粒を、シンに気付かれぬよう、急いで拭い取る。
「マサトさんが本当の叔父さんじゃないって言ってたけど……」
「う、うん。そうなの。実は親戚でも何でもないんだ。あの人、死んだお父さんの友だちなの。仕事で知り合って、仲よくなったんだって」
「ユカのお父さんもデザイナーか何かだったの?」
「ううん、全然。ふたりとも、軍関係の研究所で働いてたらしいの。叔父さん、訊かれるの嫌がるから何やってたのかよく知らないんだけど。だいぶ前に辞めちゃったしね」
「意外だな……」
「でしょ。叔父さんは、あのとおり無愛想な人だからあんまり友だちとかいなくて、お父さんが唯一の友だちだったみたい。うちへ食事に呼んだりしてね、お母さんとも仲よかったらしくて。︱︱あ。写真見る?」
 返事も聞かずに立ち上がり、自分の部屋から急いでデジタルフレームを持ってきた。
「︱︱これが、あたしと両親と叔父さん。全員で映ってるのはこれしかないの」
 示された写真には、赤ん坊を抱いた若い夫婦と今よりは若げなマサトが写っていた。満面の笑みをたたえる夫婦とは対照的にマサトは憮然とした顔つきだが、照れているようでもあった。
「この写真を撮ってまもなく、死んじゃったんだ。お父さんとお母さん。交通事故で、ふたりともいっぺんに。あたしだけ、奇跡的に無傷でさ……」
 シンは衝撃を受けたようで、黙りこくっている。
「他に身寄りがなかったから、施設に行くことになったの。それを聞いた叔父さんが、あたしを引き取ってくれた。独身男だから、養育許可を取り付けるの大変だったみたい。そんなにまでして引き取ってくれるなんてねぇ。別に頼まれてたわけでもないのに、物好きって言うか何て言うか」
 ふふっ、とユカは笑った。写真の中の憮然としたマサトの顔をじっと見つめる。
「……血のつながりとか、そういうものは全然ないけど。だけど叔父さんは、あたしにとってたったひとりの大切な家族なんだ。ホント、わからずやだし、つっけんどんで無愛想でぶっきらぼうで、ずけずけもの言うし、頭に来るのもしょっちゅうで。だけど……、心根は優しい人なの。本当だよ? ︱︱だからわからない。どうしてシンにだけは、あんなに冷たくあたるのかな……」
「……ユカのことが心配なんだよ。僕を警戒するのは当然だ。僕自身、自分のことがわからない。本当はとんでもなく危険な存在なのに、それを忘れているのかもしれないし」
「そんなふうには見えないよ」
「翼の生えた人間が自然に存在しないことくらい、僕にだってわかる。だから僕は人工的に作られたものに違いないんだ」
「シンは人間だよ。ものじゃない」
 むきになって言い張ると、シンは微笑んだ。
「そう言ってくれて、すごく嬉しいよ。︱︱でも、マサトさんの言ったことは間違ってない。僕にはなるべく関わらない方がいい。きみのために」
「……好きになったらいけないの?」
 シンは軽く目を瞠り、黙ってユカを見つめた。
「やめたほうが、いいと思う」
 穏やかに、しかしきっぱりと彼は言った。ユカはうつむき、吐息だけで「そう」と囁いた。立ち上がり、ドアへ向かう。背を向けたまま告げた。
「︱︱おやすみなさい。それから、今の冗談だから忘れて」
 返事を聞かず、ドアを閉める。自室に戻るなりベッドへ潜り込み、灯を消した。
「……二秒でふられちゃった。最短記録、更新……」
 頭から布団をかぶって身体を丸める。喉元まで出かかった嗚咽は、苦い塊となってわだかまり、胸を重くした。

 翌朝、腫れぼったい目で起き出すと、シンはいつものようにキッチンでコーヒーを淹れていた。何事もなかったかのように、彼は穏やかに微笑んだ。
「おはよう、ユカ」
「……おはよ」
 忘れろと自分で言ったくせに、胸の奥がちりちりする。ささくれだった感情は、しかし丁寧に淹れられたコーヒーを啜っているうちに少しずつ溶けていった。
 寝ぼけ眼をこすりながらマサトが現れる。ユカの顔に目を留めていた時間がいつもより長かったような気がする。けっきょく何も言わずに食卓につき、コーヒーをもらう。
 たぶん、三人が三人とも目を背けて留保した結果の、危うい均衡をたもった日常風景。今この瞬間に壊れてしまってもおかしくない、脆い平穏。それでも今は失いたくない。つかのま凪を漂っていたい。いつか嵐が来ることが、わかっていても。
「︱︱行ってきます」
 捉えどころのない焦燥と不安を胸の底に押し込め、ユカはいつもどおりに家を出た。


     †

 シンはひとりで店にいた。何かあったら呼べと言い置き、シンが昼食から戻るとマサトは工房に戻った。信用できないと冷淡に言い切りながら、彼は接客と会計のほとんどをシンに任せていた。店内には監視カメラがあり、映像は工房のモニターに常時映し出されている。それにしたって四六時中見張っているわけにもいかない。きっと信用してくれているのだろう。少なくとも接客態度や金銭面に関しては。
 自分が何者なのかについては自分でさえ未だおぼつかないのだから信用されなくてもやむを得ないが、大事な商売を少しでも任せてもらえるのはやはり嬉しかった。
 平日の午後。店内に客の姿はない。カウンターの上の置き時計をちらりと見ると、三時を少し回っていた。ユカが学校から戻るまでまだいくらかある。ふと、店内を覗き込む人影に気付いた。店の外からディスプレイを眺めているのだ。通りすがりに目を留める人は多いので、シンはあまり気にしなかった。客が入ってくる率はそう高くはない。
 カランとドアの上部に取り付けられた古風なベルが鳴る。シンは顔を上げ、微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
 入ってきたのはすらりと背の高い若者だった。薄く色のついた、ゴーグルめいたかたちのサングラスをかけている。グラスを少し押し下げると、薄茶色の瞳が覗いた。
「ちょっと見てもいいですか」
「あ、どうぞご自由に」
 青年は口の端で軽く微笑み、店内ディスプレイを眺め始めた。シンは在庫表をめくりながらさりげなく客の姿を確認した。それほど広い店ではない。まもなくひととおり見回ってしまう。青年は何やら考えあぐねた様子で棚を見ている。
「……何かお探しですか」
 控えめに声をかけると、振り向いた青年は迷ったような笑みを浮かべた。
「こないだの雑誌に出てたのを探してるんだけど……」
 シンはレジカウンター内の棚から該当のファッション誌を出した。持っていこうとすると、青年がカウンターに歩み寄ってくる。
「どれでしょうか」
 《フォルセティ》の商品が掲載された特集ページを開く。向き合った青年がサングラスを下げて覗き込んだ。かすかな香りが鼻腔をかすめた刹那、脳裏を奇妙な感覚がよぎった。
「えぇと……。あぁ、これだ」
 青年が、とある写真を示す。我に返り、シンは目を瞬いた。
(何だろう……。今、何か思い出しかけたような……)
 だが追及している場合ではない。シンは気持ちを切り換え、写真を覗き込んだ。革と銀を組み合わせたチョーカータイプの商品で、トップはクロスとダガーを組み合わせたようなデザインになっている。どちらかというとダークゴシック寄りのラインナップで、数はもともと少なめだ。シンはそのタイプが置いてある棚をざっと眺め、足元の在庫置場を覗き込んだ。並んだ箱にはすべて商品名が書き込まれている。目当てのものはなかった。
「ちょっとお待ちください」
 一旦しまった在庫表を出してチェックする。記録ではあとひとつ残っていることになっていた。だが、肝心の商品がない。売れたときに書き忘れただろうか。シンは内線電話のボタンを押した。いかにも不機嫌そうな声でマサトが出た。
『何だ』
「あ、すみません。ちょっと商品のことで」
 おそるおそる訊いてみると、マサトは憮然と嘆息した。
『てめえの首からぶら下がってるのをよく見てみろ』
「︱︱あ」
(忘れてた……!)
『売れたらちゃんとつけとけよ』
 ぶっきらぼうに言ってマサトは電話を切った。ユカの主張を汲んで、というより根負けして、マサトはシンに《フォルセティ》の商品を着けさせることにしたのだった。店に出ている間だけで、品物は毎日替える。傷をつけたり汚したりしたら買取だからな、ときつく厳命されてもいた。
「あ、あの、これ……。これも売り物でした。今朝つけたばかりで、一回だけです。すみません、これしか在庫ないんですけど……」
「ああ、いいですよ」
 あっさりと青年は頷いた。
「かまいませんか」
「うん。だって試着だけでしょ」
 シンはホッとして、外したチョーカーを消毒剤を含ませた布で拭いた。ケースに収め、外箱に入れる。
「包装しましょうか?」
「いや、いいです。自分で使うから」
 胸を撫で下ろした。ラッピングはまだうまくできない。ギフト用の包装はユカの担当だ。神業級に速くきれいに仕上げることができる。ロゴの入った袋に入れ、入り口まで送る。
「ありがとうございました」
 品物を手渡して頭を下げると、青年は口の端を軽く引き締めるようにして微笑んだ。悠然と歩き去る青年を見送り、先ほどかいだ香りを思い出そうとした。だが、どうしても思い出せない。シンはこめかみを押さえながら店内に戻った。
(あのとき、何かがひらめいたような気がしたのに……)
 ハッとしたあの感覚も、今となっては雲を掴むように漠然としていた。闇のなかに朦朧と浮かぶ黒影が、不可解な笑みを浮かべる。シンはきつく眉を寄せた。あの香りを知ってる。あるかなきかのごとき気配にも似た︱︱。あれと同じ香りをまとった人物を、きっと自分は知っているはずだ。
(誰だ……?)
 ズキリと頭が痛む。カウンター内に座り込み、シンはこめかみを押さえた。おぼろな人影が自分に向かって何か言っている。よどみなく酷薄に響くその声音を幾度聞いた……?
『︱︱セ』
 全員だ。ひとり残らず、
 殺せ。
「︱︱シン!」
 間近で呼ばれ、びくりとする。仏頂面のマサトが覗き込んでいる。
「何やってんだ、おまえ。居眠りこいてんじゃねー……、おい、大丈夫か」
 叱責が途中から気づかわしげなトーンに変わる。
「真っ青だぞ。何かあったのか」
「い、いえ……。大丈夫です。すみません」
 立ち上がろうとすると、ぐらりと視界が揺れた。マサトがとっさに腕を掴む。
「いいから少し休め。そろそろユカも帰ってくる頃だ。そんなゾンビみたいな顔して、せっかくの客が逃げちまうだろ」
 有無を言わさず追い立て、マサトは不機嫌に嘆息した。
「ったく。うっかり任せられねぇな」
 ポケットで携帯電話が鳴り始める。
「もしもし」
 相手も確かめず、マサトはぶっきらぼうに応対した。《フォルセティ》に用がある客は、店の電話にかけてくる。
『買ってくれそうな人、みつけたわよ』
 挨拶もなく、女の声が告げる。マサトは眉をひそめた。
「……リリス?」
『今晩お店に来て。引き合わせてあげるから』
「わかった」
『約束、忘れないでよ』
 マサトは舌打ちした。
「まだデザイン中だ。そうせっつくなって」
 忍び笑いを残し、女は通話を切った。マサトは天井を仰いだ。
「︱︱こうなったらもう思い出すんじゃねぇぞ。今更飛んで逃げられちゃ、かなわねぇからな……」
 からんとドアベルが鳴る。現れたカップル客にマサトは素早く営業用スマイルを向けた。


     †

 ユカは途中で自転車を降り、浮かない顔で押して歩いた。このところ学校が終わるなりすっ飛んで帰っていたのに今日はひどく足が重い。鬱々と溜息をつき、気付いて頭を振る。
(だめだめ。しっかりしなきゃ)
 シンはこれまでどおりに接してくれたのだから、自分だってそうしなければ。いつまでもこだわっていたら、彼が居づらくなる。あてもないのに出て行かれでもしたら、まるで自分のわがままで追い出したみたいではないか。のろのろと着替え、自宅から店へ続くドアの前で立ち止まる。ユカはぺちぺちと自らの頬を叩いた。よしっ、とひとり頷き、ドアを開ける。レジカウンターにシンの姿はなかった。物音にマサトが振り向く。
「よぉ、お帰り」
「ただいま……。シンは?」
「休ませてる。なーんか調子悪そうでな。︱︱どこ行く」
 身を翻したユカの肩をがしっと掴む。
「あ、ちょっと様子を見に……」
「奴にはもうかまうな。どうせふられたんだろ?」
「なんで知ってるのよ!?
 反射的に叫び、慌てて口を押さえる。さいわい、店内に客はいなかった。ユカは眉を逆立て、押し殺した声音で問いただした。
「︱︱まさか立ち聞きしてたわけ?」
「ばか言え。今朝のおまえら見てりゃ、いやでも見当つくっての。脈なしってわかったんだから、諦めろよ」
「そんなんじゃないよ! 具合が悪いんでしょ、心配するのもいけないの?」
「ただの貧血だろうさ。あいつ、遠慮してんのかあんまり喰わねぇからな」
「ちょっとくらい顔見て来たって……」
「だーめ。おまえは店番してろ。俺、仕事あんだよ」
 マサトはそっけなく言い置いて行ってしまった。店を空けるわけにもいかず、ユカはひとしきり小声で毒づいたのだった。
 結局、シンとゆっくり話せたのは夕食後、また打ち合わせとかでマサトが外出した後のことだった。
「匂い?」
「うん……。今日、店に来たお客さんから何となくいい香りがして。それが、どこかでかいだことがあるような気がしたんだ」
 湯飲みを抱え、ユカは首を傾げた。
「香水かな?」
「どうだろう。本当に微かだったし」
「もしかして使ってたことがあるのかもね。どんな感じの香り?」
 シンは眉根を寄せて考え込んだ。
「柑橘系、とか……? レモンとかライムみたいなのじゃなくて、もっとこう、深い感じがするような……」
「うーん。ベルガモットかなぁ。あたしも香水ってあんまり詳しくないんだ」
「もうあまりよく思い出せないんだ。一瞬のことだったし……」
 自信なげにシンは眉を寄せる。
「匂いって記憶と強く結びついてるんだって。視覚とか音とかよりも、もっと直接に」
「︱︱そうだ。ねぇ、明日街に出てみない? フレグランスを扱ってるお店とか、アロマショップとか覗いてみようよ。ひょっとしたら何か思い出すかもしれないじゃない? ちょうど明日は定休日だし、ね」
 シンはとまどい気味に、それでもこくりと頷いた。ぎくしゃくせずに済んだことに安堵しながら、ユカはシンの表情があまり晴れないことに気付いた。
「どうしたの、シン。何だか心配そう」
「何でもない。何か思い出せるといいなと思って」
 シンはにこりと笑ってみせたが、ユカは何となく引っかかるものを感じた。

     †

 ほの昏いバーカウンターの端に、銀の髪の女が座っていた。マサトは足を止め、無言で女の背を眺めた。腰から襟足まで背中が編み上げになった黒いドレス。視線を感じたか、女が振り向く。猫めいた金緑の瞳でリリスが微笑した。
 逆向きのホルターネックのような変わったデザインのドレスの胸元から、豊満な谷間が覗いている。両手で掴めそうにウエストが細く、胸は異様なほど大きい。マサトもごく一般的な男なので巨乳は決して嫌いではなかったが、リリスの肢体にはあまりそそられたことがない。彼女はどこもかしこも人工的な匂いがする。精妙にこね上げられた粘土の人形めいたわざとらしさを感じてしまうのだ。
 それが悪いというのではない。整形も身体改造ももはや奇異なものではなくなっているし、中には原型を留めないほど自己を改造するマニアもいる。《フォルセティ》の客の中にはトランスセクシャルな人々も大勢いた。偏見を持っているつもりはないが、ことリリスに関しては自己表現や自己実現といったものとは真逆の病的な執着を感じてしまうのだ。
 徹底的な自己破壊。まるで、世界の終りをこいねがっているような︱︱。
 リリスは半身振り向き、計算しつくされた仕種で優雅に脚を組み替えた。グラスを持った手で、フロアの反対側の隅を示す。
「あちらでお待ちよ」
 短く礼を言い、マサトは踵を返した。
「……レヴェナが喜んでたわ」
 足を止め、肩ごしに振り向く。リリスはピックに刺さったオリーブを舐め、真珠色の歯をたてながら目を細めた。
「出来上がりを、楽しみにしてるって」
 マサトは無言のままふたたび背を向けた。待ち人は、店内でも特に照明が抑えられた一角にいた。黒いロングのレザーコートに全身を包み、黒いソファに深々ともたれている。ほとんど闇に溶け込んでいるように輪郭が判然としない。唯一薄闇に浮かび上がる顔も、黒いサングラスで半ば覆われていた。わかるのは男性だということくらいだ。さして年はいっていない。たぶん自分よりもずっと若いだろう。
 黒衣の人物が顔を上げる。わずかに微笑んだようにも見えたが、ただの錯覚かもしれない。彼はマサトに座るよう身振りで示した。小さなスタンドの置かれた黒ガラスのテーブルに、琥珀色の液体の入ったグラスが置かれている。
「お好きなものを。奢りますよ」
 平淡な声には金属的な響きが混じっていた。変声機を使っているようだ。マサトは近づいてきたウェイターに「同じものを」と告げた。飲み物が来るまで互いに沈黙が続いた。遠慮なく観察させてもらったが、相手は気にした様子もない。肌は色白の方だ。髪は暗がりのせいで黒褐色に見えるが、実際にはもっと明るい色だろう。
 瞳の色はサングラスのせいでわからなかった。特殊なものだったら向こうからこちらは隅々まで丸見えかもしれない。不快だがしかたない。
 やがて飲み物が運ばれてきた。マサトが一口飲むのを見届け、相手は口を開いた。
「『天使』をご存じだそうですね」
「人工のな」
 不敵に言い放つ。相手はひるむこともなく、無造作に内ポケットから出した写真をテーブルに置いた。手にとって眺める。
「……ああ、こいつだ」
 写真にはシンが写っていた。どこか仮面めいた無表情な顔はまるで印象が異なるものの、確かに同じ顔だちだ。今より少し髪が短い。身にまとった立ち襟の制服は深紅。不吉なほどに鮮やかで、似合っている。返された写真を、男はそのまま内ポケットに戻した。
「彼は今どこに?」
「どこだっていいだろう。あんたが奴を引き取ってくれるのなら、どこへなりとも好きな場所へ連れ出してやるよ」
 男は沈黙し、サングラスの向こうから推し量るようにマサトを見つめる。
「︱︱どうやら信用されているようですね。彼は何か話しましたか」
「いや。記憶を失ってるんでな」
 男はしばし沈黙した。
「それは本当でしょうか。演技では?」
「そうは思えねぇな。最初は俺も疑ったが、どうも本当らしい」
 男の唇に薄い笑みが浮かんだ。
「なるほど。︱︱いいでしょう。で、報酬はいかほどをお望みですか」
「ほしいのはカネじゃない」
「では、何です?」
「ふたりぶんの永住市民権。もちろん、地上のな」
 くすりと男は笑った。
「里心がついた、というわけですか」
 男の声音に含まれた皮肉を、マサトは無視した。男は軽く息をついた。
「それは私の一存では決めかねます。本部に確認を取らないと」
「取ればいいさ。ひとつ言っておくが、俺の要望は新規の市民権だ。復帰じゃない」
「もし、許可が出なかったら?」
 マサトは片頬で辛辣に微笑した。
「だったら俺が『天使』を飼うだけさ」
 ポケットから厚手のヴィニール袋に入れた金属片を出す。男は黙って破片を注視した。
「これが何だか俺は知ってる。壊れてちまってるが、原理はわかってるから必要とあらば一から作れる。ちょいとコネがあるんで、必要な機材も使えるしな。ついでに少々手を加えさえすれば、『絶対者』の書き換えも可能だ。《ガイア》から、たとえば俺に」
 今度の沈黙は長く続いた。凍りつくような気配がする。背骨が氷柱になったような感覚を懸命に押し殺す。やがて男はくっと笑った。
「どうやらあなたにもまだ利用価値はありそうだ。︱︱いいでしょう。許可が降りたら連絡します」
「なるべく早いとこ頼むぜ」
 ぶっきらぼうに言って立ち上がる。マサトは男にもフロアの反対側にいるリリスにも目を向けず、大股で歩み去った。残された男はソファの腕に肘を載せ、指を組み合わせてしばらく考え込んでいた。
「……『絶対者』の書き換え、か」
 一瞬、抗いがたい誘惑が胸裏をよぎる。反射的にその想いを押し殺し、男はグラスに手を伸ばした。カツン、と細いヒールが響く。目を上げるとリリスがソファの背に軽くもたれていた。艶やかな赤い唇が笑む。彼女は黙ったまま軽くグラスを掲げた。心持ちグラスを上げ、口許に運ぶ。いくぶん薄まった琥珀色の酒が、名残のように喉にしみた。

第五章 よみがえる悪夢

 翌日。授業が終わるなりユカは猛ダッシュで自宅へ戻った。店が定休日だと知っている友人たちの誘いを断り、脇目もふらずに自転車を飛ばす。シンは肩で息をするユカを唖然と迎えた。そそくさと着替え、マサトの工房に顔を出す。
「叔父さん。ちょっと友だちと出かけてきまーす。夕飯は外で食べてくるから、よろしくねっ」
「ああ、こっちは適当にやっとく」
 作業台から顔を上げたマサトに急いで手を振り、ユカはシンの袖口を引っ張って外へ出た。シンは面食らった顔で付いてくる。
「ユ、ユカ。嘘つくのはまずいんじゃない?」
「嘘はついてないよ。シンは友だちだもん」
 自分に言い聞かせるように断言する。シンは心配そうに眉を寄せた。
「マサトさんは、そう思ってないと思う……」
「いいからいいから、ほら急いで」
 バスに乗って別の街区をめざす。近所しか出歩いたことのないシンは、物珍しそうに大通りを眺めていた。
 このドーム最大級の商業エリアで、日用品から超のつく高級品まで様々な品物を取り扱うショップが並んでいる。以前に来たときの記憶をたどって、フレグランスとアロマ系のショップをひとわたり訪ね歩いた。店員に訊きながら柑橘系の香りをメインに探してみたが、どれもピンと来るものがないらしい。シンはひどく悩ましげに考え込んでいる。そのうち、ユカも鼻が利かなくなってきた。色々な匂いをかぎすぎて、眩暈と頭痛がしてくる。
「少し休もうか」
 シンもさすがに疲れたようで、元気なく頷いた。ふたりは手近にあったセルフ方式のコーヒーショップに入った。
 天井がガラス張りになったフロアに、オープンカフェふうにテーブルが散らばっている。解放感のある空間だが、空調が利いていて暖かい。仕事帰りの勤め人も増え始め、大勢の人が行き交っていた。
「ちょっと無謀だったかなぁ……」
 カフェオレをすすり、今更ながらに嘆息する。
「ごめん。もっと特徴を覚えてたらよかったんだけど」
「シンのせいじゃないよ。ほんの一瞬のことなんでしょ」
 プロの調香師でもなければ、つかのま鼻先をよぎっただけの香りを詳細に覚えていられるわけがない。
「……謝るのはあたしの方。本当は、シンとふたりで街を歩いてみたかったんだ。わがまま言って、ごめんなさい」
 率直に頭を下げる。驚いた顔をしたシンが、溜息まじりに微笑んだ。
「僕はかまわないけど︱︱。マサトさんにはちゃんと言った方がいいと思う」
「うん……」
 それは、わかってる。でも、話したところで許してくれたかどうかわからない。時々マサトはひどく頑固なことがあるから。
 これが最初で最後かもしれないのだ。シンは遠からず記憶を取り戻すような気がする。そうしたらきっと今までの生活は泡沫のように儚く消えてしまうだろう。思い出すと同時に、記憶を失っていた時のことを忘れてしまうという話を、何かの本で読んだ。そうなったら、自分の居場所はシンの内面から完全に消えてしまう。
 想いが届かなくても、せめていくばくかの時間をともに過ごした存在として覚えていてほしいのに……。それも叶わぬ夢なのだろうか。
 シンの指先が、一瞬だけユカの手に触れた。顔を上げると彼はいつもの顔で微笑んでいた。ほんの少しだけ憂いをふくんだような、静穏な微笑み。その表情を見ると、ユカの胸はきりりと痛んだ。
「僕が頼んだことにするから」
 ユカは首を振った。
「いいの。どうせ叔父さんにはお見通しだもん」
 そうだね、とシンは微苦笑した。隣のテーブルに誰かが座る。何気なく視線を向けたシンが「あ」と声を洩らした。いぶかしげに振り向いた人物が、眉を開く。
「︱︱あれ。《フォルセティ》の店員さんじゃないですか」
「先日はどうも。ありがとうございました」
 にこり、と青年は笑った。シンに負けず劣らず整った容貌の持ち主だ。光沢のある褐色の髪をさらりと流し、瞳は薄いブラウン。全体に、シンよりは色素が薄めな感じだった。たぶん、年は似たようなものだろう。
 誰? と目線で尋ねると、シンは顔を寄せて耳打ちした。
「例のお客さん」
「……あの匂いの?」
 首を伸ばして眺めると、ユカに気付いた青年が微笑んで会釈した。
「デートですか。いいな」
 かぁ、とユカは頬を染めた。
「オーナーの姪御さんなんです」
 ユカはぺこりと頭を下げた。
「あの。それ、お買い上げいただいたものですか?」
 シャツの襟元から見覚えのあるデザインのチョーカーが覗いている。《フォルセティ》の商品だ。
「ああ、そうです。どうしてもほしくて、彼がしてたの取っちゃいました」
 いたずらっぽく青年は笑った。シンの説明を聞いて、ユカは初めて経緯を知った。
「とってもよくお似合いです」
 お世辞でなく、褒めた。青年は嬉しそうな顔で礼を述べた。すごく気に入ってるんですよと言われれば、店員として悪い気はしない。
「あーっ、こんなところにいた」
 突然、よく通る女性の声が響いた。見れば裾の広がった膝丈のコートにロングブーツ姿の若い女性が腰に手をあてて仁王立ちしていた。足元には大小様々なショップバッグが並んでいる。
「げ。姉貴」
「もぉ、探したんだからね! 何よ、人に荷物持たせて!」
「ぜんぶ自分の荷物だろー。自分で持つのが当然だって」
「か弱い女性にそういうこと言っちゃうわけ」
 耳をぐいぐい引っ張られ、青年が悲鳴を上げる。
「いていていて。わかった、悪かった!」
 女性はぽかんと見守っているシンとユカにようやく気付いた。
「あ、あら。お友だちかしら? ってゆーか、ダイ。あんたこのドームに知り合いなんていたっけ?」
「昨日知り合ったばっかだよ。買い物した店の……」
「あっ、《フォルセティ》ね? この子がこれ買った」
 いきなり弟の襟からチョーカーをぐいと引き出す。
「は、離せよ。壊れちまうだろ」
「これ、素敵だから譲れって言ったのに、この子ったら絶対いやだって」
「あったりまえだろ。最後の一個だったんだからな!」
 元気すぎる姉弟の姿にすっかり気押され、ユカとシンはしばし呆気にとられた。

 当然のごとくコーヒーを買いにいかされた弟が仏頂面で姉の前にカップを置く。女性の名は江藤美宇、青年は大樹と言った。なんでもミウは離婚したばかりだそうで、曰く『ヒマな弟に荷物持ちをさせて傷心旅行中』なのだとか。
「若気の至りね。勢いだけで結婚するもんじゃないわ~」
 彼女はしみじみ呟いてコーヒーを啜った。どうもスピード破綻したらしい。ミウはせいぜい二十代の半ばくらい。ふわりと広がる栗色の髪に、黒い瞳。艶やかな唇には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「そうだ。せっかく知り合ったんだし一緒にお食事でもどう? 奢らせてちょうだいな」
「いえ、そんな……」
「遠慮しなくていいよ。どうせたんまり慰謝料ふんだくった……」
 どす、と変な音が足元でした。青ざめる弟の革靴を、笑顔のミウが凶器まがいのピンヒールでぐりぐりえぐっている。
「ちょーっと顔がいいからってチヤホヤされて、気取ってスカしてるような勘違い野郎は黙ってなさい」
「それは姉ちゃんの元旦那……。ごめん、俺が悪かった」
「わかればいいのよ」
 鷹揚に頷き、ミウは靴をどけた。ユカの背をたらりと冷や汗が流れた。何事もなかったかのように、ミウは満面の笑顔を今度はシンに向けた。
「ね? いいでしょ」
「は、はぁ……」
 助けを求めるようにシンがユカを見る。とりあえず、悪い人たちではなさそうだ。旅行者のようだし、地元の人間と話をしたいのかもしれない。
「……本当にご迷惑じゃないですか?」
「もちろんよ! 決まりね」
 嬉しげにミウは歓声を上げた。若干慌てた様子でシンが尋ねる。
「い、いいの? ユカ」
「乗りかかった舟ってやつよ。それに、あの香りのこと訊くチャンスだわ」
「それはそうかもしれないけど……」
 マサトさんに怒られないかなぁ、とシンはしきりに気にしている。
「大丈夫、あとで電話しとくから」
「行くわよ、おふたりさん」
「あ、はーい。︱︱行こうよ、シン。ね?」
 懇願口調で促され、シンは諦めたように頷いた。


 江藤姉弟はそこから歩いてすぐのホテルに泊まっていた。吹き抜けの豪華なロビーに立ち、ユカは感心してきょろきょろと周囲を見回した。存在は知っていても、足を踏み入れたのは初めてだ。
「すっごいねー。ここ、ツクヨミ・シティでも最高ランクのホテルなんだよ。いちばん安い部屋でも一泊四万クレジットはするとか。ミウさんたちはきっと続き部屋とかに泊まってるんだろうな~。それに較べたら、叔父さんの作るアクセサリーなんて、超庶民的だよねー」
 生まれも育ちも庶民なユカは無邪気にのたまう。実際のところ《フォルセティ》の商品には、庶民的とは少々言い難い値段が付いているのだが。シンは記憶喪失のせいか物価の感覚が未だによく掴めないらしく、曖昧な顔で沈黙を守っていた。
 買い込んだ荷物をフロントに預け、部屋まで運んでおくように頼んでいたミウが、弟を従えて女王然とした足どりで戻ってきた。
「お待たせ。さ、行きましょうか」
 ミウは一同を引き連れて楽しそうに歩きだす。
「上階のレストランも悪くないんだけど、食べながらお喋りするには向かないのよね」
 お勧めの店はあるかと訊かれても、高校生のユカには答えようがなかった。友人と手軽なランチが食べられるようなところしか行ったことがないのだ。
 けっきょくミウがグルメガイドでピックアップしておいたところを何軒か回り、そのうちのひとつに入った。テーマレストランの類らしく、洞窟めいた凝った内装になっている。大小のテーブルごとに巧みに仕切られて、半個室といったプライベートな雰囲気がある。七時を過ぎ、しだいに客が増え始めた頃合いだった。
 メニューから各自気に入ったものを選び、取り皿で分け合う。ミウは会話上手で、お互いほとんど知らない者同士にも関わらず、気づまり感をまったく感じさせなかった。
 黙っていようと思っていたのだが、話しているうちについうっかりシンが記憶喪失だということを洩らしてしまった。江藤姉弟もこれには驚いたようで、ふたりとも一瞬言葉に詰まる。
「それは、大変よね……」
 眉を寄せて呟いたミウはすぐに顔を上げ、穏やかながら強い光を目にたたえた。
「あまり気にしない方がいいと思うわ。頭抱えて考え込んでいても仕方ないもの。ふつうに暮らしていれば、何かのきっかけで手がかりが得られるんじゃないかしら。何かひとつ思い出せば、連鎖反応的に次々思い出すってこともあるでしょうし」
「……そうですね」
 微笑むシンの傍らで、ユカはそっと囁いた。
「シン。あのこと訊いてみたら?」
「あ、うん……。あの、ダイキさん」
「ん? あ、ダイでいいよ。さんはいらないから」
「あ、はい。え、と……。すみません、つけてるフレグランスなんですけど、銘柄を教えてもらえますか?」
「フレグランス?」
 ダイは面食らった顔で目を瞬き、照れたように頭を掻いた。
「ああ、これ……。これはね。実は売ってないんだ」
「売ってない?」
 意外な答えに、ユカは目を瞠った。
「うん。手作りフレグランス」
「あら。何よ、ダイ。いつのまにビスポーク香水なんて作ったの」
 ダイは姉の詰問に眉をしかめた。
「違うよ、そんなんじゃない」
「あの、ビスポーク香水って何ですか」
「カスタムメイドの香水のこと。ビスポークっていうのはね、顧客が店側と話し合って、特別にオーダーした品物のことを言うの」
「へぇ~」
 感心するユカに、ダイは慌てた様子で言う。
「だから、そんなんじゃないんだって。ほら、ハーブだとかアロマだとかの店によくあるじゃないか。エッセンスを調合して好きな香りを作りましょうとか、ああいうの」
「自分でそれ作ったの。意外ー」
「もらったんだよ!」
「誰に」
 ダイは顔を赤くして黙り込んだ。ピンと来た様子でミウはにやにやした。
「あ~。あんた、確か最近ふられたのよねぇ」
「別にふられたわけじゃ……」
「あんたも女々しいわねぇ。ふられた女にもらったフレグランスをつけてるなんて」
「だからふられたんじゃないって」
 ダイは弱々しく呟いた。どうやら『傷心旅行』はミウだけではなかったらしい。あまりいじっても可哀相だと思ったのか、ミウもそれ以上は突っ込まず肩をすくめた。拗ねたような顔をしていたダイがシンを見る。
「で、この香りが何か?」
 事情を話すと、ダイは腕を組んで考え込んだ。
「うーん……。残念だけど、手がかりにはなりそうにないなぁ」
 言葉は悪いが、素人が適当に混ぜ合わせたものなのだ。作った本人にも二度と同じ香りは出せないだろう。
「きっと、成分配合がシンの知ってる香りと似てたんだね。もしかしたら、それこそビスポーク香水で、市販されていないものなのかも」
「悪いね、役に立てなくて」
 すまなそうにダイが頭を下げる。シンは慌てて首を振った。
「そんな、いいんです」
 何となく沈黙が流れた。ミウが一段と明るく声を張る。
「さて。そろそろデザートにしようかしら。何でも好きなのどうぞ、ユカさん。デザートは別腹ですもんねぇ」
「そ、そうですね」
 デザートメニューを選択すると、パネルにずらずらとスイーツの画像が並ぶ。お腹いっぱいだったはずなのにどれも美味しそうでにわかに食べる気満々になってしまうから困る。
「俺、コーヒーでいいや」
 関心なさそうに呟いた弟を、ミウは軽く睨んだ。
「甘いものを食べられない男なんて、つっまんないのー。︱︱あ、私はこれにするわ。カシス風味のチョコレートムース、ミントとオレンジソースがけ」
 甘いものが苦手らしいダイが、うえっと呻く。
「じゃあ、あたしはチーズケーキアイスのストロベリーソース。シンは?」
「僕もコーヒーで」
「何よ。シンくんも甘いの嫌いなの?」
「い、いえ。もうお腹いっぱいなので何か苦いものを……」
「強要すんなよ、姉ちゃん」
「してないわよ。訊いただけじゃない。︱︱私、化粧室へ行って来る」
 ミウがバッグに手を伸ばす。ユカも腰を浮かした。
「あ。あたしも行こうっと」

 女性ふたりが席を離れると、やれやれとばかりにダイは溜息をついた。
「ごめん、気に障ったら謝るよ」
「え? いえ、全然。面白いお姉さんですね。あ、すみません」
「いや、面白いって時々俺も思うけど」
 苦笑したダイは、何か迷うように紙ナプキンを無意味にもてあそんだ。
「……あのさ。さっきの『手作り香水』の話」
「はい……?」
 先ほどとは声のトーンが変わって、憂鬱そうにダイは囁いた。
「作って俺にくれた娘なんだけど……。実は︱︱亡くなったんだ」
 シンは言葉を失った。ダイは哀しげに眉根を寄せ、独りごちるように呟いた。
「そのとき俺はちょっと急いでて、受け取って礼を言っただけで開けて見もしなかった。どうせまた後で会うからそのときでいいや、って、ろくに話しもせずに別れて。それっきり……」
 何と言ったらいいかわからず、シンは黙ってダイを見つめた。
「この世にたったひとつしかない香りなんだ。きっと俺のためにいろいろ考えて選んでくれたんだと思う。もったいなくて、だけどしまい込んでおくのも彼女に悪くて、ほんの少しずつ使って……、それでも確実に減っていく。すべて使い終わったとき彼女は思い出になるのかもしれないな。今はまだ、気持ちの整理がつかないけど」
 にこ、と照れたようにダイは笑った。
「ごめん。何か暗くなったな」
 シンは黙って首を振った。注文したデザートとコーヒーが運ばれてくる。まもなくミウとユカが連れ立って戻ってきた。何事もなかったように軽い調子で姉のお喋りに相槌を打つダイの姿が、今までよりも少し翳って見えた。


 ユカは静かにコーヒーを飲むシンの横顔を、そろりと眺めた。何となく、頬が火照っているような気がする。化粧室でのミウとの会話をユカは無意識に反芻した。
『ユカさんの彼氏、素敵ね~』
 化粧を直しながら、冗談めかしてミウが言う。
『カレ……じゃないです。あっさりふられたし』
『えぇ? そんなふうには思えないけど。どこからどう見ても、いい雰囲気の可愛らしいカップルよ』
 きゃらきゃらとミウは笑う。
『……あ。もしかして、記憶がないのを気にしてる、とか』
 押し黙るユカを窺い、ミウは嘆息した。
『そっか……。まあねぇ。自分がどこの誰だかわからないんじゃ、恋愛どころじゃないかもしれないけど。でも、誰かを好きになるとかならないとか、そんなことは自分の意志で決められるものでもないしね』
 ミウの口調にはどこか苦いものがあった。
(別れたっていう旦那さん、今でも好きなのかな……?)
『諦めたらダメよ。彼、あなたに好意を持ってるのは確かだから』
『そうでしょうか……』
『絶対そうよ。だって、あなたを見る目がもうすっごく優しいんだもの。ああ~、いいなぁっ』
 ひとりで盛り上がるミウの姿に、ユカは頬を引きつらせた。
『あ、あの、ミウさん……?』
『きっとユカさんのこと大切に思ってるのねぇ。だから二の足踏んでるんだわ』
 ミウはずいっと身を乗り出し、打って変わった真剣な目でユカを見つめた。
『いい? 脈がありそうなら、まずは押すの!』
『だから押してみて玉砕したんですってば~』
『ふふん、そんなの玉砕なもんですか。まだまだ序の口よ。押して押して押しまくり、いざとなったら押し倒しちゃえ~!』
 おおー、とミウは意気軒昂に拳を突き上げる。ユカはたらりと冷や汗を流した。
(そ、そんなに飲んでたっけ、このひと……)
 一見素面にしか見えないが、顔に出ないだけで実は相当酔っているのかもしれない。諦めません勝つまでは、と何故か宣誓させられ、化粧室を出ながらユカはげっそりと嘆息した。元気づけられるというより、すっかり圧倒されてしまった。けっきょくのところ全然諦めきれてはいなかったのだと、自分でもよくわかったけれど――。
 ぱく、とアイスの最後のひとかけらを飲み込む。
(もし、シンが記憶喪失じゃなかったら。それでもやっぱりふられたのかな……)
「――ユカ、時間大丈夫?」
 シンが小声で尋ねる。ハッと我に返り時計を見て、ユカは慌てた。
「あっ、もう九時回ってる。ヤバ、門限十時だ」
「あら。ごめんなさい、引き止めちゃって」
 申し訳なさそうにミウが謝る。ユカは急いで両手を振った。
「あ、いいんです。全然大丈夫。ここからなら時間までには余裕で帰れますから」
 会計を済ませ、外に出る。けっきょくミウにぜんぶ奢ってもらってしまった。
「ごちそうさまです。ほんと、美味しかった」
「こちらこそ楽しかったわ。近いうちにお店に伺うわね」
「ええ、是非。お気に召すものがあるといいんですけど」
 もう遅いからタクシーで帰りなさいと言って、ミウは気前よくキャッシュを一枚くれた。いちばん高額の紙幣だ。仰天して辞退するユカを押し止め、ミウはいたずらっぽく笑う。
「いいのよ。《フォルセティ》で何か買ったときにそのぶん割り引いてもらうから」
「勉強させていただきます」
 大真面目に答えたユカに、ミウはぷっと噴き出した。
「あなた可愛いわねぇ。ほんと、知り合えてよかったわ」
「こちらこそ、楽しかったです」
 シンは差し出されたダイの手を握った。
「それじゃ、気をつけて」
「またね~」
 江藤姉弟は揃って破顔すると、腕を組んで夜の雑踏に紛れて行った。
「……面白い人たちだったね」
 ユカの呟きにシンが頷いた瞬間。軽く摘んでいた紙幣が魔法のように指先をすり抜けた。
(え……?)
 瞬きの刹那、紙幣を奪って逃げる人影が視界をかすめる。反射的にユカは悲鳴を上げた。
「ど……、泥棒――っ」
 シンが瞬時に地を蹴って走り出す。逃げるひったくり犯に突き飛ばされ、通行人が怒号を上げた。ユカは慌ててシンの後を追いかけた。
 路上には大勢の通行人があふれ、まっすぐ走れない。追手に気付いた犯人はわざと通行人をこちらに突き飛ばして逃走する。あちこちで悲鳴や怒声が上がった。犯人は横手の路地に入り、さらに何人かの通行人にぶつかった挙げ句、裏の小路へ逃げ込んだ。
 どうにか見失わずにユカが追いついた時には、すでにシンは犯人を捕えていた。後ろ手にねじ上げられ、にきび面の少年が悲鳴を上げる。
「い、痛ぇっ、痛ぇって! わ、わかった。返す! 返すから放してくれっ」
 そう力を入れているようには見えないが、がっちりと押さえ込まれて身動きが取れないようだ。思わぬ手際のよさに、ユカは驚いた。哀れっぽく懇願され、シンが手をゆるめるや否や、少年は懐から短い棒のようなものを引き出した。
 振り回した柄から刃が飛び出す。裏返った雄叫びを上げて向かってくる少年の手首を、シンはこともなげに掴んだ。
 一瞬ぽかんとした少年の顔が、苦痛にゆがむ。手からナイフが落ちた。あまりの苦痛に、少年が声にならない悲鳴を上げる。シンは今度は離そうとしなかった。少年は自由が利く方の手で必死にポケットを探り、しわくちゃになった紙幣を取り出した。
「返す。ほら、返すから……っ」
 苦鳴を上げた少年の手から紙幣が落ちる。こちらに背を向けているシンの顔は見えない。無言で少年の手首を締め上げるその後ろ姿には一種異様な気配があった。ユカは我知らず恐怖にふるえて叫んだ。
「シン……!」
 ぴくりと肩が揺れる。尻餅をついた少年は罵声を上げる気力も失ったらしく、ほうほうの体で逃げて行った。シンは黙って紙幣を拾い上げ、振り向いた。その顔は見慣れたいつもの穏やかな表情だった。
「はい」
 ユカに紙幣を差し出し、シンは眉を寄せて微笑んだ。
「しまっておいた方がいい。危ないから」
「う、うん」
 ユカは急いで紙幣をコートのポケットに入れた。ほとんどの支払いが電子マネーで行なわれるため、逆に現金の相対価値は高い。チャージは現金ではなくクレジットで行なわれる。マネーカードには認証システムがあり、持ち主本人にしか使えないので、盗んでも現金を引き出すのは難しい。つまり社会的信用度の低い連中に使えるのは現金だけということになる。

 裏路地を出ようとして、立ちふさがる人影に気付いた。ユカを庇うようにすっとシンが前に出る。三人、いや四人か。いかにも柄の悪そうな連中が、路地を塞いでいた。格好つけて壁に靴底を押しつけていた男が、のっそりと身を起こす。男はにやにやしながらねっとりした視線をユカに向けた。
「お嬢さんよぉ。ひとを突き飛ばしておいて謝罪の一言もないとは、いくらなんでも失礼なんじゃねぇ?」
 誰も突き飛ばした覚えはない。逃げるひったくり犯の仕業だろう。言いがかりだと弁明したところで通じないのは明らかで、ユカは青ざめた唇を噛んだ。穏やかにシンが言う。
「あなたがたにぶつかったのは僕らじゃない。そこをどいてくれませんか」
 ひゃひゃひゃと下卑た笑い声が路地裏に反響する。
「どいてくれませんか、だとよ。︱︱気取ってんじゃねぇぞっ」
 チンピラどもは一斉に襲いかかってきた。突き出された拳に嵌められた見るからに凶悪な金属装具が、背後から射す乏しい街灯に光る。
 数秒後。ユカは茫然と立ち尽くしていた。何が起こったのか、見ていたはずなのに理解できない。網膜に映った映像は認識する前に消えていた。瞬きをすると、一瞬前に粗暴な面構えで襲いかかってきたはずの男たちが、地面に折り重なって倒れていた。白目を剥いている者もいる。
 かろうじてユカに捕えられたのは、シンが最後のひとりの首筋に手刀を叩き込む瞬間だけだった。シンの立ち位置はほとんど変わっていない。男のひとりが苦悶に呻きながら地面を掻く。シンは振り向きざまにユカの腕を掴んだ。
「︱︱行こう」
 顔をそむけ、シンは足早に歩きだした。引きずられるように後に続く。
「ちょ、ちょっと待ってよ、シン」
 訴えに耳も貸さず、シンは表通りに向けてどんどん歩いていく。
「ねぇ、待ってってば。い、痛い」
 悲鳴じみた声を上げると、シンはハッとしたように手を離し、立ち止まった。
「ごめん……」
 ユカは掴まれた手首を反対側の手で握った。まるで機械に締めつけられたように、その力は容赦がなかった。シンは激しい後悔を顔に浮かべてうつむいた。
「ごめん、本当に……」
「……もう大丈夫。行こうか」
 シンは黙って頷き、今度は並んで歩きだした。ほどなく表通りに出て、ユカはほっと息をついた。たどりついたタクシー乗り場には列ができていて、少し待たなければならなかった。待っているあいだも乗り込んでからも、シンはずっと黙りこくっていた。
 ユカはけっきょくタクシー代を自分のクレジットで払った。やはり、どう考えてもミウにもらった額は多すぎる。お店に来てくれたら、そのとき返そう。もちろんマサトに頼んで割引もしてもらう。
 裏口のドアを開けたとたん、仁王立ちしたマサトの姿が目に飛び込んできた。不機嫌きわまりない顔つきで、唇をへの字に結んでいる。マサトが口を開くと同時にユカは叫んだ。
「あたしが頼んだの! 一回でいいからデートしてって! してくれなきゃ死んじゃうって脅したの!」
「ユ、ユカ」
 後ろでシンが唖然とする。
「だから、シンに怒るのは筋違いだからね!」
「ち、違います、マサトさん……」
「シンは黙ってて!」
 横面をはたかれたようにシンが口を噤む。泣きたいような気持ちで、ユカは叔父を睨んだ。腕組みしたマサトはしばし無言でユカを睥睨していた。やがて呆れたような、あるいは諦めたような吐息を洩らし、脇に退いた。
「……ともかく入れ。いつまでも開けとくと寒いんだよ」
 シンが慌ててドアを閉める。
「ユカ」
 厳格な声で呼ばれ、反射的に肩が縮む。だが、続くマサトの声は穏やかだった。
「せめて携帯の電源は入れといてくれ」
「……ごめんなさい」
 マサトはばつの悪そうな顔で立っているシンを感情の読めない瞳で一瞥し、黙って工房へ入って行った。
「ユカ、電源切ってたの……?」
「邪魔されたくなかったから」
 消え入りそうな声で、ユカは呟いた。楽しい時間はどうしていつもあっというまに過ぎ去ってしまうのだろう。ほんの数十分前の出来事が、ひどく遠く思えた。


     †

 ユカが二階へ上がっていくのが気配でわかった。工房のドアが叩かれ、シンがしょんぼりした顔を出す。
「あの……。ユカが言ってたのは嘘ですから。ユカは僕をかばっただけで」
「そうかよ。だったら説明しろ。手短に頼むぜ」
 シンが訥々と話すのを、マサトは黙って聞いていた。眉をひそめ、少しひげが伸び始めた顎をさする。
「……匂いねぇ。手がかりとしちゃあ悪くないが、けっきょくわからなかった、と」
「すみません……」
「別に謝るこたねぇが。ふむ、俺もあんとき店に出りゃよかったな。モニター越しには見てたんだが。︱︱まぁ、いいや。今度その客が来たら俺を呼べ。世話になった礼をさせてもらわねぇとな」
「わかりました」
 マサトは溜息をついた。
「どうやらユカはおまえさんにすっかりのぼせちまってるようだ。俺が何を言ったところで聞く耳持ちゃしねぇ。おまえの方からきっぱりふってやってくれよな」
「そうしたつもりだったんですが……」
「期待を持たせるような態度を取るなっつの。まぁ、おまえは人当たりがいいから冷たくすんのも難しいだろうけどよ。ともかく俺は、可愛い姪っ子をおまえにくれてやる気はねぇから」
「わかってます。俺は、彼女にはふさわしくない」
 シンは己の言葉を噛みしめるように呟いた。
「……あてを作って、なるべく早く出て行きます」
 おやすみなさい、とシンは静かにドアを閉めた。椅子の背にそっくり返り、マサトは天井を見あげながら嘆息した。
「わかってりゃ、いいんだよ」
 携帯電話が鳴り出す。
(リリスか?)
 マサトは顔をしかめ、ぶっきらぼうに応対した。聞こえてきたのは若い男の声だった。
『遅くにすみません。クウヤです。今から伺ってもいいですか』
「いいけど何だ?」
『ブレスレットの代金、まだ払ってなかったんで』
「別に後でもいいぞ」
『実は今、お店の前にいるんです』
 マサトは憮然と頭を掻いた。
「……裏、回れ」
『すみません』
 通話が切れる。マサトは裏口を開けに行った。練習帰りに寄ったのか、肩から楽器のケースを下げている。《ムーン・レイカーズ》のベーシストはやや堅苦しく会釈をした。
「上がれよ。何か飲むか?」
「いえ、すぐお暇しますから」
 リビングではなく工房の方へ通す。クウヤは現金で支払った。カードも持ってはいるのだが、記録が残るのがいやのようで、必要に応じて現金化している。
「本当にこの値段でいいんですか?」
 クウヤは気がかりな顔で尋ねる。提示された額は定価の半分だ。マサトはにやりとした。
「いいのさ。将来売れっ子になったら三倍のプレミア付きで売ってやるから」
「そういうの、プレミアって言うのかなぁ」
 苦笑したクウヤが、ふと真顔に戻る。
「マサさん。今日、街でユカを見かけたんですが」
「ああ。シンと一緒だったんだろ? まだ子どもだと思ってたのに、あいつと来たらすっかり色気付いちまってなぁ。困ったもんだ。手ェ出したら殺すと、シンの奴にはきつく言ってあるんだが」
「……守れますかね、それ」
「そう思うが。︱︱なんだ? まさかあいつユカに……!?
 気色ばむマサトに、クウヤは慌てて手を振った。
「違いますよ! そうじゃなくて、さっき柄の悪い連中に絡まれてたから」
「んな話は聞いてねぇぞ。あいつ、省略しやがったな。︱︱それでどうしたんだ」
「ちょっとヤバそうだったんで、助けに入ろうかと思ったんですが」
 ムッとマサトは眉をつり上げる。
「入んなかったのかよ」
「と言うか、入るヒマもなかったと言うか……。とにかく秒殺、いや瞬殺でしたから」
「殺っちまったのか!?
「いや、それは言葉の綾で。生きてます。相当きつい打撲でしょうね。かろうじて骨折は免れただろうけど、ひびくらいは入ったかも」
「ふーん……。ぼーっとしてるようだが、やるときゃやるんだな」
 感心したように呟くマサトを、クウヤは生真面目に凝視した。
「彼、素人じゃないですよ。絶対。あれは、ちょっと格闘技習いました、なんてレベルじゃない。高度な戦闘訓練を受けてると思います」
 マサトは面白くもなさそうに軽く鼻を鳴らした。
「おまえが言うんじゃ信憑性ありそうだな。エリート軍人一家のお坊っちゃま」
「俺は落伍者なんで。……あまり驚いてませんね。もしかして、わかってました?」
「ろくでもねぇことに関わっていそうだとは思ってたよ」
「余計なことでしたね」
「いや、礼は言っとく」
 裏口からクウヤを送り出す。楽器ケースを担ぎ直し、ぺこりと会釈して歩きだしたクウヤは、数歩先で足を止めた。
「あ、そうだ。さっきの話、ユカには黙っててくださいね。告げ口したと思われたら、さすがに俺も切ないんで。貴重なファンを失いたくない」
「わかってるって」
 それじゃ、とクウヤは闇の中へ消えて行った。黙然と顎をさすったマサトは冷気に身震いし、ドアを閉めてくしゃみをした。


     †

 階下でぼそぼそと話し声がする。誰か来たのだろうか。自室にいたシンは浮かない顔を上げた。物憂げに白い翼が動き、床をこする。
 ぼんやりと、先刻の騒動を思い出した。考えるより先に身体が動いていた。どうやってあのごろつきどもを倒したのか、よく覚えていない。ほとんど無意識の行動だった。
 ユカを守らなければ、と、そう思ってのことではなかった。あれは、ただの反射だ。向かってくる敵を倒す。そこに意思も感情もありはしない。効率よく、無駄なく。最小限の労力で最大限の効果を狙う。
 ぞくり、と背中が冷えた。翼がこわばり、ふるえた。シンは眉根を寄せ、こめかみを押さえた。頭の芯が脈打つように鈍く痛み続けている。
「つっ……」
 低く呻き、膝に額を押しつけて頭を抱えた。脳裏の暗闇に黒いシルエットが浮かぶ。群青色の輪郭。不可解な笑み。何かを示すように差し出される手。鼻腔の奥に、幻の香りが蘇る。闇の底でたゆたうようなその香り。ベルガモット、ユリ、そして︱︱乾いた血の匂い。酷薄な笑みを刻んだ唇が、嘲るように名前を呼ぶ。
 違う。
 それは 俺の 名前 じゃ ない。
 呼ぶな。
 その名前で、俺を呼ぶな︱︱!
『虫けらどもがおまえを何と呼んでいるか、教えてやるよ』
 いやだ。聞きたくない。
 聞きたくない。
 ふさがりかけた盆の窪の傷が、生々しく痛む。脳髄に錐を差し込まれたような痛みが走り抜け、シンは頭を抱えたまま床に昏倒した。

第六章 風が吹くとき

 後ろ手を組んでゆっくりと歩きながら、D1は壁面の画像を眺めていた。角のない円筒状の部屋の壁は床から天井まで継ぎ目のないディスプレイになっている。映し出される何枚もの静止画像は、ほぼ実物大だ。
 かつん、とかかとを鳴らし、D1は足を止めた。うつむきがちに微笑む青年の相貌を無言で凝視する。それらはすべて、シンとその周囲の人間の画像だった。隠し撮りのようで、視線がこちらを向いているものはひとつもない。
 わかっていても、D1はかすかな苛立ちを感じた。かつて自分にまっすぐ向けられたS1の瞳には、何の感情もなかった。人形に嵌め込まれたガラス玉の方がまだしも何かを感じさせてくれる。それくらい、彼の黒い瞳は無感動で虚ろだった。そこには魂の片鱗すら存在しなかった。当然だ。あのときの彼は、精巧な操り人形に過ぎなかったのだから。
 隠し撮りされた画像の中で、青年は笑っていた。ありえないほど無防備な顔で。その視線の先で笑っている少女を凝然と見つめる。
 唐突に、少女の細い頸を折ってやりたくなった。雛鳥をくびり殺すのと同様、それはきっとたやすいだろう。思わぬ衝動にふるえた利き手を、D1は強く握りしめた。
「……気に入らない」
 囁いた声を、一瞬自分のものかと思う。D1は瞬きし、背後を振り返った。同じ制服姿のM1が、こちらを向いて佇立していた。いつも完璧に感情を押さえたその冷やかな美貌に、つねならぬ綻びが生じているように感じる。D1は改めて彼女に向き直った。
「珍しいな。おまえがそんなことを言うとは。何が気に入らないんだ?」
「何もかもです。S1がこんな暢気な顔で笑っているなんて、信じられません」
 D1は小さく苦笑した。
「仕方あるまい。記憶喪失だそうだからな」
 M1はムッとしたように柳眉を逆立てた。それもまた、彼女の神経をひどく苛立たせる要因のひとつらしい。
「忘れるなんて許せない。《ガイア》を裏切り、あなたに傷を負わせながら、その事実さえ忘れてのうのうと生きてる。それも、まるで普通の人間みたいな顔をして」
 M1は烈しい怒気をはらんだ瞳で、シンの横顔を凝視した。今にもナイフを突き立てそうな、剣呑なまなざしだ。
「……彼も傷つくといいんだわ。あなたと同じように、いいえ、あなた以上に血を流すべきです。営倉に叩き込んで翼を斬り落としてやる。のたうちまわって苦しめばいい」
「綺麗な顔して怖いことを言うんだな」
 D1はおどけたように呟き、副官の顔を覗き込んだ。M1は我に返って顔を赤らめた。ふたたび画像を眺めながら歩きだす。その姿を、M1はしばし無言で見守っていた。迷いを振り払い、思い切って声を上げる。
「D1︱︱」
「だめだ」
 ぴしゃりと遮られ、言葉に詰まる。D1は肩ごしに冷徹な視線を向けた。
「力では、おまえはS1に遠く及ばない。返り討ちにあうのが関の山だ」
「ですが、彼は記憶を失っています。自分が何者かもわかっていないのに︱︱」
 D1はひとつの画像の前で足を止めた。夜の雑踏の中、思い詰めたシンの横顔をユカが心配そうに見つめている。
「どうやら、考えなくても身体は動くらしい︱︱。《パワーズ》はエンジェロイドの中でも戦闘に特化した一群だ。S1はそのエースだったんだぞ。後方支援の経験しかないおまえがどう足掻いたところで敵う相手じゃない」
 M1は悔しげに拳を握った。
「……わかっています。ですが、わたしだってあの裏切り者に一矢報いてやりたい。今の状況はわたしにとって唯一のチャンスなんです。エンジェライザーが破壊された今、彼の精神は裸同然。S1はもともと性格的にまったく《パワーズ》向きではなかった。彼の精神は呆れるほどやわくて脆い。彼の心に爪をたてるくらい、わたしにだってできるはず」
 黙然と佇んでいたD1がわずかに笑む。
「いいだろう。退屈しのぎに少し突ついて遊んでやれ。ただし、直接の手出しは禁ずる。不必要な騒ぎは起こすな」
「思い知らせてやりますわ。自分がけっして受け入れられない存在だということを」
 M1は会心の笑みを浮かべて敬礼し、高揚した顔で出て行った。
「……やわくて脆い、か。人はそれを『優しい』と言って、都合よく美化するのさ」
 D1は、物憂く眉根を寄せるシンの画像を眺め、口の端で薄く憫笑した。


     †

「あんたしかいないんだ! 頼む!」
 必死な形相で懇願され、シンは嘆息した。
「……だから無理だって」
「そんな冷たいこと言うなよ~。人助けだと思って、ね!?
 拝み倒さんばかりの勢いで頭を下げているのは《ムーン・レイカーズ》のギタリスト、タケルである。彼は自作の曲を無理やりシンに歌わせて以来、ヒマさえあれば《フォルセティ》に顔を出して三拝九拝するようになった。
 よほどシンの声に惚れ込んだと見え、いくら断っても諦める気配がない。ほめられて悪い気はしないが、困惑の方がずっと強かった。自分の声がそれほどのものとは思えないし、ましてやロックバンドのヴォーカルなんぞ務まるわけがない。何度もそう言ったのだが、タケルは自信たっぷりに『大丈夫だ、行ける! 俺が保証する!』と繰り返すばかりだ。
 からん、とドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
 接客スマイルを浮かべるシンを、タケルは恨めしげに見あげた。彼は先ほどからずっとレジカウンターの内側に座り込んでいる。客から姿は見えないが、客が店内にいる限りは慎ましく沈黙を守ることにしていた。さいわい《フォルセティ》はそれほど混み合う店ではない。
「……録音しときゃよかったなー」
 タケルはぼそぼそと独りごちた。自分の作った曲を歌うシンの声を聴いたとき、頭を殴られたような衝撃を感じた。理想の声だと思った。深みと広がりがあって、高音部もそのままでよく伸びる。
 脱退してしまった前のヴォーカルは、けっして下手ではなかったものの声が裏返るところがどうしても気に入らなかった。確かにそれも表現のひとつではあるだろう。しかし自分のバンドのヴォーカルがそんなふうに歌うのを聴くのは、横でギターを弾く身としては耐えがたいものがある。
 最初はそれほどでもなかったのに、次第に裏返りが顕著になってきた。タケルの作曲傾向のせいでもあるのだが、ついにキレて文句を言い出したタケルと大口論となり、捨て台詞を吐いて追ん出てしまったのだ。
「しかも俺の大嫌いな奴のバンドに入りやがって……。なんて嫌味な野郎だ」
 こうなったら、何が何でもシンを口説き落として再出発だ。
 さりげなく客の動きを見ているシンの姿を、座り込んだ体勢でちらと見あげる。見た目は問題ない、というか、前のヴォーカルより断然いい。ちょっと細いが背は高いし何より男前だ。マイクスタンドを前に立つ姿を想像してタケルはほくそ笑んだ。
「いい。絶対イケる……!」
 ふいに、目の前が陰る。シンではない誰かの脚が見えたかと思うと、爪先が頬をかすめた。ゴツ、とカウンターの板に鈍い音をたてて靴が当たった。青ざめて硬直しながらそろ~りと視線を上げる。憤怒一歩手前の不機嫌面で、マサトがぬうと立っていた。
「……でけえネズミだな。いや、ゴキブリか」
 ドスの効いた声が呟く。ひぃ、と身を縮めた瞬間、背後でドアベルが鳴った。
「ありがとうございました……」
 微妙にひきつったシンの声がした。どうやら客は何も買わずに引き上げたらしい。ホッと息をつくや否や、襟首を掴んで引きずり起こされる。
「てめえも大概しつっこい野郎だな。営業妨害だって何度言ったらわかるんだよ」
「ぼ、妨害はしてませんって。ほらこのとおり見えないように隠れてるし……」
「俺が目障りだって言ってんだよ。いい加減にしないともう二度とうちの商品は貸してやらねぇからな。どうせ《ムーン・レイカーズ》も先はなさそうだしなぁ」
 革靴でドカドカ蹴り付けられ、タケルは情けない泣き声を上げた。
「シンがメンバーになってくれたら一発逆転ホームランですって~。メジャーデビューしてみせますよ絶対!」
「ほー。そんなにこいつは上手いのか」
「そりゃもう、マジいい声ですぅ」
「タケルっ」
 シンが珍しく声を荒らげる。マサトはしらっと肩をすくめた。
「怒るこたねぇだろ。褒めてんだから」
「僕はやりたくありません」
 かたくなな声で言い放ち、シンはそっぽを向いた。
「だとよ。いい加減諦めて、他の奴探したらどうだ」
「俺はこいつに歌ってほしいんですよ! 他の奴じゃいやなんですっ」
「えらく惚れられたもんだねぇ」
 皮肉めいたマサトの呟きに、シンは困惑と迷惑が入り交じったような顔をした。
「……僕には無理です。タケルの耳がおかしいんですよ」
「何をぅ!? 音程は取れなくても、耳はすっげーいいんだぞ、俺。聴力検査の順位はいつも一番……」
「聴力検査は関係ねぇだろ。ってか、順位って何だ」
「もち、反応速度っスよ」
「早押しクイズじゃねーんだよ、ばかやろう」
 耳をひねり上げられる。
「いでいでいで! 本当に耳はいいんですって。ガキん頃ピアノ習ってて、音階当てで外したことないんですからっ」
「だとよ」
「……その前が︱︱アレだったから、相対的に上手く聞こえただけでしょう」
「ふむ。そりゃそうかもな。音痴とこぶしとボーイソプラノの後じゃあ」
「ひ、ひどいっスよ、マサさん!」
 泣き顔でくってかかるタケルを鬱陶しげに押しやり、マサトは思案顔で顎を撫でた。
「仕方ねぇな。シン、おまえ一回歌ってやれ」
「はぃ!?
 ぎょっとするシンの隣でタケルがわーいと万歳した。
「な、何ですかそれ。僕はいやですよ。絶対無理ですっ」
「だからさ。きっちり歌って、無理だってことを納得させてやれや。このばかに」
 このばか呼ばわりされても、タケルは気にした様子もなくニコニコしている。
「ちょうどよかった。今夜、集まって練習なんだ。みんな喜ぶぜぇ」
 キラキラお目目でがっしり手を握られ、シンはひくりと頬をひきつらせた。
「いや、だから無理……」
「シン。俺の言うとおりにしねぇと叩き出すぞ。今、すぐ。ついでに金輪際うちには出入り禁止だ。ユカの飯も二度と食わせてやらねぇ」
「そ、そんな横暴な……」
「文句言える立場かよ、ああ?」
 凄む目付きはほとんどヤクザである。シンは脳貧血でも起こしたようにフラリとよろめいた。マサトは一転、したり顔で青ざめたシンの肩を叩いた。
「特別にユカも一緒に行かせてやる。目の前でユカが聴いてたら、おまえだって手ェ抜けないだろ。わざとヘタクソに歌われちゃたまんねぇからな」
「うんうん、そうそう」
 尻馬に乗って頷くタケルをキッと睨み付ける。タケルはそそくさとレジカウンターから抜け出した。
「じゃ、後で迎えに来るから」
 よろしく~と手を振って、店から飛び出して行く。頭を抱えてカウンターに突っ伏すシンの襟首を、マサトは容赦なく掴んで引き上げた。
「不景気面してんじゃねぇよ。うちは客商売なんだぞ」
 にべもなく言い捨て、マサトは悄然とするシンにデコピンを喰らわせたのだった。


 帰宅したユカが店に顔を出すと、居合わせたマサトが今夜はシンと一緒に《ムーン・レイカーズ》の練習を見に行けと告げる。ユカは呆気にとられ、次いで疑わしげな顔でマサトを睨んだ。
「どういう風の吹き回し?」
「シンが行きたがらねぇんだ。おまえ、引きずってけ」
 見ればシンは何やら呆然とした態で脱力している。
「いやがってるなら無理に行かせることないじゃない」
「ショップ店員よりロックバンドのヴォーカルの方が格好いいだろ。せっかく容姿や声に恵まれたんだから、無駄遣いしたら世界の損失だ」
「……叔父さんがそんなに日和見なヒトだとは思わなかったわ」
「おまえだって煽ってただろうが」
 ユカは焦って言葉を濁した。
「あれは別に……。って言うか、本音はシンのこと、厄介払いしたいだけなんでしょ!?
「身も蓋もない言い方すんなよ。自立の手助けをしてやろうってんじゃないか」
「ふんっだ。ものは言いようねっ」
「あ、あの、ケンカしないで……。僕、行きますから」
 睨み合うふたりの様子を気にして、シンが取りなす。自分が原因でユカとマサトがいがみ合うことが、彼にはひどく耐えがたいらしいのだ。何となく、うまいことマサトにしてやられたみたいで腹立たしい。しかし、叔父公認でシンと出かけられるというのはやはり魅力的だった。ユカはすっかり観念した様子のシンを横目でそっと窺った。
 江藤姉弟と食事をした帰り。チンピラに絡まれて予想外の強さをかいま見せたシンだったが、自信を持つどころか以来めっきり意気消沈してしまっている。ときどきぼんやりと考え込んで、話しかけてもなかなか反応しないことさえあるのだ。元気づけたくても、ちょっとした発言が予想外の反応を引き起しそうで、ついためらってしまう。
 六時半を過ぎた頃、タケルがふたたび現れた。店はマサトに任せ、三人は徒歩で練習場所へ向かった。境界の道路を渡ると街区が変わり、人通りがぐんと減る。《ムーン・レイカーズ》は、区画整理に取り残されたような古いガレージを練習場所として借りていた。周囲は主に事務所が入った低層建築。住宅地ではないので、多少大きな音を出しても文句は出ない。とは言え防音設備のないガレージなので、条例により夜十時を過ぎての活動は禁止だ。三人がガレージに入ると、クウヤとトモはすでに到着していた。
「イェーイ! 連れてきたぜ~」
 タケルが得意気にシンと肩を組む。高低差がけっこうはっきりわかるので、見ていてユカは微妙な気分になった。クウヤは意外そうに眉を上げた。ドラムセットの向こうから、整ってはいるが表情に乏しい顔でトモがじーっとシンを見つめる。どう思っているのかちょっと見当がつかない。並んで立ったふたりをしげしげと見つめ、クウヤは他人事のように独りごちた。
「タケルが厚底靴でも履かないと、どうもバランス悪いな」
 ずけずけ言われ、タケルはこめかみに青筋をたてた。
「るせぇ! トモの方が背は低い!」
「ずっと座ってるんだから関係ないだろ」
「むかつくー。ちょっとばかりタッパがあるからってよー」
 ユカは隅に立てかけてあった折り畳み椅子を出して座り、四人の姿を眺めた。
(こうして見ると、《ムーン・レイカーズ》ってずいぶんデコボコしてるよね)
 上背のあるクウヤとシン、小柄なタケルとトモキ。アングルによっては一緒の画面にそれぞれ顔の上下しか映らない。指で作った画面を覗き込んでいると、タケルが不審そうな視線を向けた。
「……何してんだ、ユカ」
「な、なんでもないっ」
 笑ってごまかし、座り直す。シンはいよいよ観念したのか、真面目な顔でメンバーたちと打ち合わせしている。チューニングを済ませ、拍子をとって演奏が始まった。歌詞を覚えていないので、シンは紙を見ながら歌っている。
(︱︱やっぱりいい声してるよねぇ……)
 改めてそう思う。ユカは頬づえをつき、じっと耳を傾けた。


 ユカたちを送り出した後、マサトは閉めたガラス扉にもたれて嘆息した。
「……何やってんだかな、俺は」
 シンをユカから遠ざけたいのなら、どうとでも理由をつけて追い出してしまえばいい。仕事口くらい知己にあたれば見つけてやるのは容易だ。それでも手元に置いていた理由は他でもない。あの壊れた金属片が気になったからだ。よみがえった悪夢のかけらが、棘のように突き刺さって抜けない。とりとめのない罪悪感が胸を重くする。急にどっと疲れた気分になった。
(今日はもう閉めるか)
 マサトは扉に下がっていた『OPEN』の札をひっくり返し、鍵をかける。折り畳まれた蔓草状のシャッターが降りてくるのをぼんやりと眺めていると、携帯電話が鳴った。
「はい」
 無愛想に応対すると、冷たい金属質の男の声が流れだした。
『許可が出ました。永住市民権の申請を行ないます』
 挨拶も前置きもなく、声が告げる。マサトは反射的に携帯をきつく握りしめた。
『特に居住希望の都市はありますか? あれば追記しておきますが』
「どこでもかまわん。……いや、そうだな。なるべく『天使』が現れない、治安のよい所にしてもらおうか」
 低い笑い声が通話口の向こうで微かに響く。
『天使は都市部には滅多に出向きませんよ。︱︱いいでしょう、特Aクラスの上位都市を希望しておきます。あなたならたぶん通るでしょう。根岸博士』
 押し黙ったマサトの耳に含み笑いが届いた。
『《ガイア》はあなたにまだ相当の利用価値を見出しているようだ。光栄なことではありませんか?』
「市民証はいつ出る」
 皮肉を無視し、マサトは冷淡に尋ねた。男は声のトーンも変えずに続けた。
『そう時間はかからないと思いますよ。ところで移動はどうされます? 彼の引渡と同時でもかまいませんが』
「こっちにも色々と整理することがあるんだよ。それなりに長居したからな」
『そうですか。では、登録が済んだら連絡します。パスと彼の交換ということで、よろしいでしょうか?』
「ああ」
『それではまた』
 なめらかでありながら奇妙に耳障りな笑い声を残して通話が途絶える。マサトは携帯電話を握りしめ、店をぐるりと見渡した。これでもう後戻りはできない。帰ろう。逃げ出してきたあの場所へ。ほんの少し目をつむりさえすれば、何不自由なく平和に暮せる。気に病むことはない。そもそもゆがみの存在に気付いていない者の方が圧倒的に多いのだから。
 店の灯を消す。引き上げるマサトの足どりは、決意とは裏腹にひどく重かった。《フォルセティ》は静かに闇へと沈んだ。


     †

 低層ビルの屋上に立ち、M1は傲然とガレージを見下ろした。いつもの群青色の制服ではなく、ぴったりとした黒い上下に身を包んでいる。肩と腕は剥き出しで、背中も広く開いている。真冬の温度にも関わらず、M1の皮膚は粟だつこともなくなめらかだった。
 ガレージからは演奏の音が洩れ聞こえる。M1は不愉快そうに眉をひそめ、ちっと舌打ちした。
「……いい気なものね」
 M1は軽く顎を反らし、次いで背を丸めてうつむいた。組み合わせた両腕をつっぱるようして背中に力を込める。一瞬にして奔流のように翼が出現した。誇らしげに翼を広げ、M1は艶然と微笑んだ。
「のんきにおままごとにふけっていられるのもここまで。しょせん自分が人ならぬ身であることを、思い出させてあげる」
 M1は自分の翼から羽を一枚引き抜いた。くるくると指でもてあそび、ガレージを見下ろしながら憎悪のこもった声音で囁く。
「これでわかるはず。心弱いあんたにとって、エンジェライザーは《ガイア》が与えてくれた何よりの恩寵だったということが」
 引き抜いた羽を鋭く投擲する。それは一瞬にして刃のような形状に変わり、ガレージの屋根に音もなく突き刺さった。にっ、とM1は朱唇をつり上げた。

 短い余韻が消える。ガレージの隅で固まったように聞き入っていたユカは、我に返って熱心に手を叩いた。顔を上げたシンが照れたような苦笑いを浮かべてユカを見る。
 タケルは親指をぐっと立て、クウヤに向かってウィンクした。
「なっ? いいだろ、やっぱり」
「悪くはないな」
 そっけないクウヤの答えに、タケルは大仰に顔をしかめた。
「素直じゃねぇよな、おまえ。俺知ってるんだもんねー。クウヤの『悪くない』は『すっげーいい』と同義だってこと」
「そいつはおまえの勝手な解釈」
 そっぽを向いたクウヤの顔は、しかし口調ほど憮然としたものではなかった。ニヤリとしたタケルは、こっそりその場を離れようとしていたシンの肩をむんずと掴んだ。
「︱︱さて。誰が『無理』なのかなぁ?」
「いや、このくらい歌える奴は他にいくらだって……」
「うん。そりゃいるだろうさ。でもな、俺はおまえの声がすっげー気に入ったの。もう絶対、おまえに歌ってもらいたい。おまえじゃなきゃヤだ」
「ほ、他のメンバーの意見も聞かないと」
「反対してる奴なんていないさ。そうだよなぁ? クウヤ」
 クウヤは黙って肩をすくめる。
「トモ?」
「……シンがいい」
「ほら、な。︱︱な!?
 脅迫まがいにタケルが迫る。すっかり逃げ腰で、シンはひくりと頬をひきつらせた。
「し、しばらく考えさせてくれる?」
「なんだよぉ。もうさんざん考えただろー」
「いや、断るつもりでいたから……」
 ふう、とタケルは嘆息した。
「しゃーねぇなぁ。よし、それじゃ明日まで待ってやる」
「明日!?
「一晩で充分さ。『やる』って言えばいいんだし」
 わははと笑ってタケルはシンの背中をバシバシ叩いた。げんなりと肩を落としたシンの耳に、かすかな異音が響く。反射的に頭上を振り仰ぎ、シンは目を見開いた。いつのまにか、天井に無数の亀裂が走っていた。埃と破片がぱらぱらと舞い落ちてくる。
「……逃げろ!」
 突き飛ばされてつんのめったタケルは抗議の怒声を上げた。
「何だよいきなり!?
 間髪入れずクウヤが叫ぶ。
「屋根が落ちるぞ! タケル、ユカを連れて逃げろ」
 天井を見あげたタケルは、げっと呻くなり転がるように駆け出した。わけがわからず突っ立っているユカの腕を掴んで引っ張る。
「外出ろ、ユカ!」
「え? え? 何!?
 有無を言わさず引きずり出す。走りながらクウヤが振り向いて叫んだ。
「トモ! さっさと来い!」
 蒼白な顔でスティックを握りしめて転び出たトモが、配線に躓いて倒れる。
「トモ!」
 振り向いたクウヤの目に、取って返すシンの背が映る。後に続こうとしたが、崩れた鉄骨がなだれ落ちてきて、危うく鼻先をかすめる。
「クウヤ!」
 外でタケルが叫ぶ。クウヤは無我夢中で崩壊するガレージから飛び出した。タケルに抱き抱えられながらユカは絶叫した。
「シン︱︱!!
 まるで目に見えない巨人の手に押しつぶされるように、ガレージがひしゃげて倒壊する。大量の土埃が街灯の白けた光にもうもうと立ち込めて視界を塞いだ。言葉を失う三人の前にあるのは、もはや無残な残骸のみだった。ユカは眉根を寄せ、ふるふると首を振った。
「……やだ……、そんな……、嘘……!!
 がらりと何かが崩れる音がした。次第に落ち着いてくる土埃の向こう、積み重なった建材の隙間から不思議な光が射した。
 ばさり、と長大な翼が広がる。天蓋のように翼に覆われて、トモが茫然と床にうずくまっていた。傍らで支えるシンの背中から伸びる淡い微光をおびた翼を、誰もが声をなくして見つめた。


     †

「︱︱ユカ!」
 焦燥でかすれたマサトの声に、瓦礫の山を眺めていたユカはぼんやりと顔を上げた。辺りは駆けつけた消防隊や救急車でごった返している。ひととおり事情を訊かれた後、ユカたちは配られた毛布にくるまって一か所に寄り集まっていた。
「叔父さん、ここ……」
 細く声を上げると、辺りを見回したマサトが凄い形相ですっ飛んで来た。力なく座り込むユカの姿に顔色を変える。
「ケガは!?
「ううん、大丈夫」
 ほっと安堵の息をつき、マサトは顔を上げた。シンも《ムーン・レイカーズ》のメンバーも、近くに集まって座ったり立ったりしている。
「みんな無事か」
 無言で頷く面々の表情はさすがに固い。
「……何があった」
「いきなり天井が崩れてきたの。わけがわかんない。みんなで練習してただけなのに」
 クウヤがマサトに向かって小さく頷いた。拳を握りしめたタケルは、押し黙って建物の残骸を睨んでいる。その足元で、トモが全身を毛布にくるんで座り込んでいた。
 シンは少し離れた場所にぽつんと立っている。巻き付けていた毛布がずり落ちて、腰の辺りにわだかまっていた。マサトは眉をひそめ、歩み寄った。
「ケガしたのか」
 シンは空虚な瞳をマサトに向け、ゆるく首を振った。シャツの背がずたずたに裂けている。だが、出血の跡はない。立ち上がったユカが、毛布を肩からかけ直してやる。シンはわずかに光の戻った瞳をユカに向け、小さく微笑んだ。そのままシンの側に寄り添い、ユカはうつむきながら囁いた。
「トモを庇って︱︱。翼をみんなに見られてしまったの……」
 地面に座り込んでいるトモの視線の先には、解体されたドラムセットが積んである。建物の崩れ具合からすれば、奇蹟のように無傷だ。マサトは憮然と嘆息した。
「とりあえず、うちへ運ぶか」
「……いいの?」
「ここに置いとくわけにもいかねぇだろ」
 舌打ちし、マサトは振り向いて声を張った。
「ケガがないんならとっとと引き上げるぞ。こんなところにいつまでも座り込んでたら風邪ひいちまう」
 もの問いたげにシンを眺めていたクウヤが振り返って頭を下げる。タケルは息を吐き出し、足元に座り込んでいるトモの肩をそっと揺すった。
「ほれ。行くぞトモ。楽器が無事でよかったじゃないか。アンプは潰れちまったけどよ」
 小さく頷き、トモは黙って立ち上がった。さいわいクウヤが運転してきた荷物用の小型トラックは無事だった。手分けして楽器を積み込み、その場を離れた。トラックに乗れるのは詰めても四人だけだ。ユカとシン、タケルは歩いて戻ることにした。
 人気のない街路を歩くあいだ、三人とも無言だった。シンは脱いで置いたジャケットが瓦礫に埋まってしまったので、マサトのコートを借りてはおっていた。うつむきがちに並んで歩くふたりの前を、タケルが頭の後ろで手を組みながら歩いている。彼は時折、首をひねったり、小声で意味不明の呟きを洩らした。ふいにぐるりと向き直る。足を止めたふたりを、タケルは真剣な顔で見つめた。
「なぁ。やっぱり原因はアレかな」
「︱︱アレ?」
「ほらぁ、何だっけ。物体には固有の振動数があって、それがたまたまかぶるとすげー勢いで揺れるっての」
 ユカは眉をひそめた。
「……もしかして、共振現象のこと?」
「そう! それそれ。絶対それだ」
「何が」
「だから、ガレージが倒壊した原因だよ!」
 大真面目に叫んだタケルを、ユカは半眼で睨んだ。
「何ばかなこと言ってんのよ、タケぽん」
「そうに決まってる。絶対クウヤのベースが、ガレージと共振現象を起こしたんだ!」
「……タケぽんのギターのせいじゃないの?」
「んなわけねぇって。あいつのベースはこう、腹にズシンと来るからなぁ。そりゃもう揺れる揺れる。絶対あれが原因だ」
 無茶苦茶な論理で決めつけ、すっきりした顔でタケルは足どりも軽く歩きだした。ユカは嘆息しながらかぶりを振った。
「ったく。そんなわけないでしょ。ねぇ? シン」
 考え込んでいたシンが、我に返ったように微笑む。
「どうしたの。何か気になることでも?」
「いや……」
「もしかして、自分のせいだと思ってる……?」
「︱︱わからない」
 悩ましげにシンは眉根を寄せた。ふと足を止めたタケルが、ひょいと振り向く。
「あ。そうだ、言い忘れてたけど」
 親指をたて、にかっとタケルは笑った。
「サンキュー。おかげで助かった。トモの奴、見たまんまでとろくてさぁ。あんたがいてくれて、ホントよかった」
 返事も聞かず、タケルは背を返すと鼻唄を歌いだした。自信作だという新曲。やはり音程が盛大にズレている。ユカとシンは顔を見合せ、どちらからともなく笑みをこぼす。先を行くタケルが能天気に呼んだ。
「早いとこ帰ろうぜ。俺、腹減っちまった」
「もぉ。今日はパスタしかないよ」
「上等上等。ケチャップかけて食うからさ」
「行こ、シン」
 思い切って、ユカはシンの手を掴んだ。そのまま顔も見ずに走り出す。
「ユ、ユカ」
「……信じてよ。シンが誰でも、あたしはシンの味方だから」
 答えは、握り返す指の強さとなって伝わった。


「︱︱で。あんたは何なの」
 平淡な声にも関わらず、クウヤの問いかけでその場の空気は一変した。急ごしらえの夕食を終え、全員がリビングに集まって一息ついた瞬間だった。タケルが信じられないと言いたげにクウヤを見る。
「お、おまえな……。たまには空気読めよ」
「だから食事中は黙ってた」
「今はどう見てもなごやかな食休みタイムだろ!?
「いつまでも気になってると消化に悪い」
「こっ、この超絶マイペース人間めぇっ」
 クウヤは冷やかにタケルを眺めた。
「おまえに言われたくないな。説明のつかないことは何でも見なかったことにして済ませるくせに」
「何だとぉ!? 誰も見なかったとは言ってねぇぞ。おうよ、見たともさ。シンに羽が生えてたのを、この目でしっかと見てやったよッ」
 怒鳴り声に、びくりとシンは肩をすくめた。彼はソファの陰で目立たぬように直接床に座っている。
「それで、何とも思わないのか、おまえ」
「すっげー、と思った」
 大真面目な返答に、クウヤは頭を抱えた。
「……そんだけかよ」
「だってさー。あの大きな翼で守ってくれたから、トモだってケガしないで済んだんじゃないか。ドラムも無事だったし」
 トモが無言で視線をめぐらせる。クウヤは溜息をついた。
「翼の生えてる人間がいるわけない」
「ここにいるじゃん」
 クウヤはけろりと答えるタケルを胡乱な目付きで睨んだ。
「あいにく俺は、おまえほど素朴に物事を捉えられねぇんだよ。曖昧なまま放置しておけない性分なんだ」
「それって損じゃね? 夢みる余地はねーのかよおまえ」
 気の毒そうに呟くタケルを睨み付け、クウヤはマサトに向き直った。
「マサさんはご存じだったんですね」
 ソファにふんぞり返り、マサトは憮然と頭を掻いた。
「俺だって詳しいことはわからんよ。ただ、こいつにはどういうわけか翼があって、しかも出たり引っ込んだりする。本人に説明を求めようにも記憶喪失でどうしようもない。最初に翼が出たとき、自分のことなのに本気で驚いてたからなぁ」
 マサトは立ち上がり、空になった湯飲みにお茶のお代わりを注いだ。しかつめらしい顔で茶を啜りながら呟く。
「人類は翼を持たない。突然変異で翼が生えるわけはねぇんだ。︱︱故意に遺伝子をいじらない限りは」
 ユカは驚いて振り向いた。
「それじゃ、シンは遺伝子操作されてるって言うの?」
「そう考えるのが妥当だろうな」
「だ、だって、ヒトに対する遺伝子操作は禁止されてるんでしょ」
 口ごもるユカに、クウヤが冷徹に告げる。
「月ではそうだけど、地球では逆なんだよ、ユカ。《ガイア》の支配下では、受精卵段階での遺伝子操作はもはや義務化されてる」
「ここは地球じゃないわ、月よ! そんなことあるわけない……」
「︱︱月? ここは月なのか?」
 茫然とシンが呟く。
「え……? そ、そうよ。あたりまえじゃない。地球本来の人類は、今では月にしか住んでいないのよ」
 シンはあっけに取られた顔でユカを見つめた。
「ここが、月……?」
 衝撃を受けた様子でシンは呟く。タケルが得心したように頷いた。
「ああ、おまえ記憶喪失だから忘れちまったんだな。そうさ、ここは月のドーム都市のひとつだよ。月の表側にはこういう都市が無数にある。今や人類最後の砦ってわけ」
 したり顔で説明するタケルを、クウヤは白々とした顔で眺めた。
「阿呆か、おまえ」
「何だよ!?
「忘れるなんて、ありえない。俺たちはもう三世代以上月に住んでるんだぞ。いいか、俺たちは月面生まれの月面育ち、月を離れたこともない生粋の月面人だ。ここが月だということは俺たちにとって意識以前の問題、絶対的な前提なんだよ」
「︱︱あ」
「シンが俺たちと同じ月面人なら、ここが月だと聞いて驚くわけがないんだ。つまり、シンにとって自分が属する世界は月じゃない」
 タケルはムッとした顔で食ってかかった。
「じゃあ、どこから来たってんだよ」
「決まってる。︱︱地球さ」
 沈黙が流れた。マサトは無表情に茶を啜っている。茫然としていたシンが、頼りない顔でユカを見た。
「ユカ。本当なの? 本当にここは、月なのか……?」
「う、うん……。本当、だよ」
「︱︱っしゃあっ! こうなったら見に行こう!」
 突如タケルが奇声を上げた。
「何を」
「もちろん、地球さ」
 面食らうクウヤに、タケルは胸を張った。
「外はちょうど長い夜の真っ最中、絶好の『地球見』日和だぜ。ほら、立てよ、シン。シケた顔してんなって」
 有無を言わせず引き起し、とまどうシンの腕を引く。ユカは急いで立ち上がった。
「あ、あたしも行く!」
「こら。何時だと思ってんだ」
 ムッとした顔でマサトが遮る。
「大丈夫っスよ。夜の時期は展望台、ずっとやってますから」
「そういう意味じゃねぇっ」
 タケルを怒鳴りつけたマサトは、不機嫌な吐息をついた。
「︱︱ったく。わかったよ。どうせ止めても聞かねぇんだろ。仕方ねぇ、立派なオトナが引率してやる。タクシー呼ぶからおとなしく待ってろ」
 子どもみたいにはしゃぐタケルの傍らで、シンは途方に暮れた顔をしていた。

第七章 生まれた場所

 漆黒の空に、蒼い星が浮かんでいた。全面ガラス張りの展望室に立ち、シンは蒼い薄膜に包まれた惑星を茫然と見つめた。黒い空には無数の星が散りばめられている。大気を通さずに見る星は瞬かず、じっと静止してこちらを凝視しているようだ。
 ガラスに張りついて、タケルが無邪気な歓声を上げる。
「おおっ、ちょうど満月だぜ! ラッキー」
「『満地球』、だ」
「言いにくいじゃん。月でいいよ月で」
 クウヤに冷静に突っ込まれても、タケルは気にしない。処置なし、といった風情でクウヤは嘆息した。遅い時間にも関わらず、展望台にはまだちらほらと人の姿が見受けられた。ほとんどがカップル客で、そこここに置かれているベンチに座って肩を寄せ合ったり、手をつないでそぞろ歩いたりしている。
 ガラス張りの展望室には美しく花壇が整えられていた。車輪つきの大きな鉢に植え込まれた樹木もたくさん配置されていて、ちょっとした植物園か公園のようだ。外部が昼となる二週間はドームをシャッターで覆って休業しているが、夜の二週間はずっと開いている。ドーム内時間の昼間は見学の子どもたちや学生、夜は仕事帰りに立ち寄る社会人でにぎわう。併設されているレストランも人気が高い。タケルは行き交うカップルたちを羨ましげに横目で眺め、溜息をついた。
「あ~……、俺もカノジョとロマンチックな気分に浸りたいなぁ」
 ちら、と視線を向けたが、ユカは気がかりそうにシンを見守っていてタケルのことなど一顧だにしない。タケルはがっくりと肩を落とし、あてどなく歩きだした。無表情に見送ったトモが小首を傾げ、少し離れて付いて行った。言葉をなくして立ち尽くしているシンの隣に、クウヤが並び立つ。しばし黙ったままクウヤは並んで地球を見つめていた。
「……地球から見ると、月は空を移動するんだってな。ヴィデオで見た」
 クウヤは独りごちるように呟いた。
「月から見た地球は、同じ場所に立てばいつでも同じ場所にある。空の同じ位置で満ち欠けを繰り返すんだ。『新地球』になると、ぼんやりした影みたいなのが白銀のリングに囲まれて見える。なかなか綺麗だよ。地球からは、新月は見えないそうだけど」
 果たして聞いているのか、シンは食い入るように地球を見つめたまま答えない。クウヤは気にすることもなく、蒼い球体を指さした。
「わかるか。細い銀色の円環がぐるりと地球を囲んでいるだろう?」
 土星の環のように地球を囲む円環は、太陽光を受けて眩しく輝いている。
「CRS︱︱天体環状衛星セレスティアル・リング・システム。人類最大の構築物さ。軌道エレベーターで直接地上から昇れるとか。もっとも今は《ガイア》の信奉者に押さえられてしまってるが」
 ぴくりとシンの表情が動く。思わずユカはよろめくように数歩前に出た。クウヤの声が前よりはっきり聞こえる。
「︱︱シン。あんたは《ガイア》の命令で月へ来たんじゃないのか。月に生き残った人類を殲滅するために」
 愕然と、ユカは足を止めた。平淡な口調でありながら、クウヤの声音には一切の言い訳を許さない厳しい響きがあった。シンに向けた視線は冷徹そのものだ。もともと無駄口をたたかないクールな人物だと思ってはいたが、今の彼はまるで知らない人のようだ。
「……違う」
 地球に茫然と視線を向けたまま、シンは呟いた。
「俺は︱︱、逃げてきたんだ。あそこから……」
「逃げてきた……?」
 そうだ。逃げてきたんだ。ズキリと盆の窪の傷が疼く。頭の中で、瀕死の声が囁いた。
『逃げろ、シン。月へ行くんだ︱︱』
 ︱︱父さん。
『月にはオリジナルの人類が今も生き延びている。《ガイア》も月の人類には手出ししないはずだ』
 一緒に行こうよ。父さん。
『……私は行けない。もう、ここまでだ』
 静かに笑った父の身体は、大量の出血で赤く染まっている。抱き起こした自分の手も、真っ赤にぬれて。
『すまない、シン。もっと早く、助けに来たかった。おまえの手が、血で染まる前に……。許してくれ。おまえをこんなにしてしまった私を、許してくれ……』
 父の口から鮮血が噴き出す。父さん。しっかりして。死なないで。やっと会えたのに。
『早く……行きなさい……』
 いやだ。父さんを見捨ててなんか行けないよ。
『奴らに捕まったら、また同じことの繰り返しだぞ。せっかく父さんが命懸けでおまえの心を解放したんだ。無駄にしないでくれ……』
 力を振り絞って自分を突き放し、弱々しく父は微笑む。
『行くんだ。おまえなら宇宙を渡れる。︱︱行け!』
 父さん……!
「……シン? どうした」
 真っ青な顔色に気付き、クウヤは眉をひそめた。ぐらりとシンの身体が揺れた。ガラスの壁面に肩をぶつけ、そのまま崩れ落ちる。背後でユカが悲鳴を上げた。
「︱︱シン!」
 少し離れた場所で、紙容器に入ったコーヒーを渋い顔で啜っていたマサトが振り向く。ユカは力なく壁面に凭れかかるシンを懸命に揺さぶった。
「シン! どうしたの、ねぇ」
 マサトはユカを押し退け、蒼白なシンの頬を叩いた。
「おい、しっかりしろ」
 騒ぎを聞きつけた展望台の職員が急ぎ足でやって来る。異変に気付いたタケルとトモも慌てて駆け戻って来た。
「どうしました? 救急車呼びますか」
 心配そうに覗き込んだ職員に、マサトは首を振った。
「大丈夫だ。『地球見発作』を起こしたんだろう」
 ああ、と職員は納得顔で頷いた。ときおり、宇宙に浮かぶ地球を凝視しすぎて意識を喪失する者が出るのだ。高齢者に多い症状だが、若者でもとりわけ神経が繊細にできている者や想像力が過剰なタイプなどで見られることがある。
「医療室で休んで行かれては?」
「いや、もう帰りますから」
 マサトとクウヤで失神したシンを両脇から支える。傍らを歩きながら、ユカはうなだれたシンの顔を心配そうに窺った。タケルが非難じみた口調で問いただす。
「クウヤ。おまえ、シンに何言ったんだよ」
「別に。ちょっとカマかけてみただけさ。あんたは《ガイア》の回し者かと」
「何がカマだ。もろ直球じゃねえかっ」
「回りくどいのが嫌いでね」
「で、何だって?」
 マサトが尋ねる。
「逃げてきた、と。そう言ったとたん気絶しちまったんで」


     †

 帰宅した頃には時刻は十二時近くになっていた。《ムーン・レイカーズ》の三人とは店の前で別れた。マサトはシンをぞんざいにベッドに横たえ、毛布を掛けた。展望台で昏倒してからずっと、シンは気を失ったままだ。
「ったく、無駄に手足が長ぇから扱いにくいったらないぜ」
 ぼやいて額をぬぐう。床に座り込んでシンの顔を見つめているユカを、マサトは不機嫌に見やった。
「もう休め。そう心配しなくても大丈夫だよ。朝になれば目を覚ますさ」
「……ここにいる」
「あのなぁ、ユカ︱︱」
「ここにいたいの!」
 激昂したように声を荒らげるとマサトは目を丸くした。がりがりと頭を掻き、嘆息する。
「わかったよ。まったく頑固なんだから。いったい誰に似たのかねぇ」
「……叔父さんに決まってるでしょ」
 ぼそりと呟き、ユカはことさらマサトに背を向けた。マサトは入り口近くの壁際に胡座をかいて座り込んだ。ふたりきりにするつもりは断固としてないようだ。床に直置きした古いデスクライトの灯にぼんやりと浮き上がる部屋を、マサトは見るともなしに眺めた。
 物置だったこの小部屋にシンが住み始めて半月以上経った。毎日寝起きしているにも関わらず、生活感はひどく希薄だ。着替えとしてマサトの古着以外にも少しは新品を買い与えてやった。他にあるのは必要最低限の日用品くらいなものだ。それらはすべて並べて置かれ、ベッドもきちんと整えられていた。
 いついなくなってもいいように。そんな、寂しくも毅然とした気配を感じた。毎朝、シンはどんな思いでこの部屋を出たのだろう。行くあても帰る場所もなく、自分が何者なのかもわからない。ただ、人間とは異なる存在なのだという、やるせない確信だけを抱えて。
 繰り返す日々。単調に穏やかに。それこそが彼の望んだことだったのかもしれない︱︱。
「……逃げてきたって、シンは言ってた」
 背を向けたまま、ユカはぽつりと呟いた。
「地球から逃げてきたんだ、って。︱︱だったらシンは、あたしたちと同じだよね? だってあたしたち、みんな地球から逃げてきたんでしょ」
 嘆息し、諦念まじりにマサトは呟いた。
「逃げたんじゃなくて、追い出されたんだ。《ガイア》は意図的に誤った情報を流し、CRSに避難していた人類が出て行くように仕向けた」
「どうしてそんなことをしたの。《ガイア》はもともと地球環境を良くするために作られたプログラムなんでしょ」
「……だからだよ」
「シン……!」
 ベッドの上に半身を起こすその姿を、マサトは昏い光をたたえた瞳で凝視していた。シンは片手で顔を覆い、くぐもった声で呟いた。
「人類は増えすぎた。《ガイア》はそう結論づけ、間引くことにしたんだ」
 ユカはとまどった顔でシンを見あげた。
「どういう意味……?」
 答えは背後から返ってきた。
「文字どおりの意味さ。全世界で猛威を振るい、人類の半数を死に至らしめたウィルス禍。あれを、《ガイア》は意図的に広めたんだ」
 ユカは弾かれたように振り向いた。
「叔父さん……!?
「どうやら記憶が戻ったようだな」
 シンは眉根を寄せ、小さく頷いた。ユカは呆然とシンを見つめた。
「シンは、本当に地球から来たの……?」
「ああ。そうだよ、ユカ。俺は、CRSに避難せず、地上の隔離施設でウィルス禍を免れた人類の子孫だ。オリジナルの人類とは、すでに言えないな。《ガイア》によって遺伝子改変を加えられているから」
「そんな……」
「本当だよ。俺たち都市民はすべて、生まれる前に遺伝子操作されている。名目上は病気にかかりにくくしたり、知的能力や身体機能の向上を図るためとされているが、それだけじゃない。《ガイア》の帝国を支え維持するための存在、天使型人類を生みだすためだ」
 いかにも人為的な響きをもつその言葉を、ユカはぎこちなく繰り返した。
「エンジェロイド……」
「エンジェロイドは通常の人類をはるかに凌駕する身体能力と超感覚を持つ。その背には長大な翼があり、外見はまさしく『天使』そのもの。彼らの仕える神は、《ガイア》という名の人工知能だけどね……」
「シンもエンジェロイドなのね……?」
 疲れ果てたようにシンは頷いた。
「じゃあ、地上の人類は、みんなそのエンジェロイドってこと……?」
「いや。遺伝子操作されてもその形態が発現する確率はごくわずかだ。九九.九%は通常の人間として一生を終え、変異が子孫に受け継がれることもない。発現した場合も形成異常で死ぬ者の方が多い。所詮無理な改変なのさ。『天使』を作り出すなんてことはね」
「でも、あなたは生き延びた……」
 ほっとしたように呟くと、シンは顔をゆがめて吐き出した。
「死んだ方が、ずっとよかったよ……!」
 シンは膝に額を押しつけた。抱え込んだ腕がこわばってふるえる様を、ユカは声をなくして見つめた。やがてシンは呻くようにふたたび話し出した。
「……俺は、こうなるはずじゃなかったんだ。エンジェロイドの形質発現は、本来ごく限られた年代にしか起こらないようになっている。十二歳から十五歳までのあいだに発現しなければ、一生覚醒することはない。だけど、俺の背中に翼が生えたのは二年前、俺が十九歳になった日のことだった。その日、俺はパラシューティングをしていた……」
「パラシューティング?」
「スカイ・ダイビングのことさ」
 背後でマサトが言い添える。何となく、イメージがわいた。
「飛行機からジャンプして︱︱どういうわけかパラシュートがふたつとも開かなかった」
「でも……、死ぬわけじゃないんでしょ?」
「ユカ。シンが言ってるのは地球での話だ。月の重力は地球の六分の一。逆に言えば、地球では落下速度が単純に言って月の六倍になる。ジャンプ高度は千から三千メートル、落下時の安定時速は二〇〇キロメートルだ。パラシュートなしに地上に叩きつけられたら死ぬに決まってんだろ」
 ユカはさあっと青ざめた。月でも『スカイ・ダイビング』というスポーツはあるが、出力の弱いジェットウィングを装着しての遊覧飛行みたいなものだ。ドーム内は地上とほぼ同じ重力設定がなされているので、重力が六分の一になる外での遊びは人気がある。
 月には大気がないのでドーム外ではパラシュートは使えない。大規模なアドベンチャー・ドームに行けばパラグライダーで遊べるそうだが、ユカはまだ経験したことはなかった。
「︱︱で? パラシュートが開かなかった代わりに、翼が生えたってわけか」
 シンは小さく頷いた。

「そのときのことは、あまりよく覚えていないんです。何がどうなったのか……。気がつくと、軍の施設に隔離されていて。十九にもなって発現するのは非常に珍しいと言われました。エンジェロイドのことも、そのときになって初めて知ったんです」
「でも……、どうして軍の施設に?」
 ユカの問いに、シンは苦く微笑んだ。
「エンジェロイドは軍の中枢を占めてる。数だけ見れば普通人が圧倒的に多いけど、司令官クラスは大部分がエンジェロイドなんだ」
「おまえ、軍で何してたんだ?」
 無遠慮にマサトが尋ねる。シンは胸を突かれたような顔をして黙り込んだ。張りつめた様子を感じ取り、ユカは尖った口調でマサトを遮った。
「叔父さん︱︱」
「答えろよ、シン。おまえは軍で何をしてた」
 シンはうつむいたまま目を見開き、ぐっと拳を握り込んだ。
「俺は……、《パワーズ》に所属してました」
「何なの? それ」
「治安維持のための特殊部隊だよ。《ガイア》に保護されていない旧人類が企てた反乱の鎮圧を主たる任務としている」
「え。だって、地上で生き延びた人類は全員《ガイア》の支配下にあるんでしょ?」
「都市部の住民はね。かつての俺を含め、地上に点在する計画都市で暮らしている市民は、《ガイア》の直轄システムによって保護されている。だが、地上には隔離施設に避難することなくウィルス禍を生き延びた人類が、実は大勢いたんだ。彼らは《ガイア》の地球支配に反抗し、ネットワークシステムを破壊しようと工作活動を行なっている」
 マサトは鼻に皺を寄せ、辛辣に笑った。
「ふん、テロリストってわけだ」
「……そう見なされてるのは確かです。俺もずっとそう思っていた。そういうふうに、教えられたから」
「要するに《パワーズ》ってのは対テロ特殊部隊なんだろ。テロリストをとっ捕まえて拷問でもすんのか」
 たまりかねてユカは叫んだ。
「やめてよ、叔父さん!」
「捕えない」
 ぽつりと呟いた声音の平板な響きに、ユカは慄然とした。シンは感情が抜け落ちたような白茶けた表情で続けた。
「殺すんだ。その場で全員。性別も年齢も関係なく、たまたま居合わせただけの一般人であろうがかまわず皆殺しにする。それが《パワーズ》の任務だ」
 ユカは愕然とシンを見つめた。
「シンも……そんなこと、したの……?」
「……俺はね、ユカ。《パワーズ》ではエースだったんだよ。所属していた十八ヶ月のあいだに何人殺したか覚えてない。数えてさえいなかった」
 シンは顔を両手に埋めた。
「家へ帰りたかった。翼も特別な力もいらない。これまでどおり、ごく普通の人間として家族や友人たちと暮らしたかったんだ。でもそれは許されなかった。俺は︱︱、すでに死んだことになっていたから」
「……!! そんな……」
「パラシューティング中の不幸な事故、ということでね……。軍が手を回して代わりの死体まで用意して。自分の葬儀のヴィデオを見せられたよ。喪服を着た父が泣いてた。大学の友だちも、みんな……。もう帰る場所はないのだと言われた。そして俺は、最年長の覚醒体としてデータを取るために隔離された――。何度も逃げようとしたけど、そのたびに捕まって連れ戻されて、手を焼いた彼らは、俺にエンジェライザーを埋め込んだ」
「エンジェライザー……?」
「俺の、ここに丸いボタンみたいなのが埋め込まれてなかった?」
 シンは自分の盆の窪を指先でさすった。すでに傷は癒え、絆創膏も貼っていない。
「あ……。そういえば、シンを拾ったとき変な金属片が落ちたような……。叔父さん。あれ、どうしたっけ」
 マサトはそっけなく肩をすくめた。
「ゴミかと思って、とっくに捨てちまったよ。割れて半分しかなかったし」
「そう……。何だったの? あれ」
「《ガイア》のサブシステムのひとつで、一種の洗脳装置だ。超小型の人工知能を搭載してる。神経組織に侵入して、人格に影響を与え、人間を直接操作することができる。《ガイア》への絶対服従を新たな本能として刷り込み、レベル設定に合わせて感情の制御や抑制を行なう」
 すっと背中が冷えた。
「もしかして、エンジェロイドはみんなそのエンジェライザーがついてるの……?」
「いや。おそらく俺だけだろう。エンジェライザーはもともと、性格や信条的に難はあるがきわめて有能な人間を《ガイア》の支配下に組み込むためのものだと聞いている。対象は主に捕虜になった旧人類だ。通常、エンジェロイドが《ガイア》に逆らうことはない。《ガイア》は彼らにとって『絶対者』だから」
「でも、シンは違った……」
 シンは苦い笑みを浮かべた。
「俺は最初から異端だった。どうやら通常の期間中に発現しないと、《ガイア》が意図した服従本能の絶対性が急速に衰えるらしい。俺は覚醒したのが設定から五年近くもずれていたからね。ところが戦闘能力だけは群を抜いていたらしくて……。彼らは俺を手放したがらなかった」
「だから、その変な装置で操ったのね……」
「エンジェライザーを埋め込まれてからのことは、すべてがひどく非現実的だ……。ずっと命ぜられるままに動いてた。考えることもなく、ためらいもせず、数えきれないほどの人間を殺した。何も感じなかった。父さんがエンジェライザーを破壊するまでは」
 血を吐くように、シンは呻いた。
「お父さん……?」
「父は、どういうルートかわからないが、実は俺が生きているということを知ったんだ。そして、あらゆる手段を使って俺に会いに来てくれた。感情は抑制されていたけど記憶を封じられたわけじゃなかったから、父さんのことは一目でわかった。でも、やっぱり何も感じなかった。嬉しいとか、悲しいとか、そんなものがかけらも浮かんで来なくて……。ただ、目の前にいる父の存在を認識していただけだった。父さんの表情が何を意味していたのかさえ、あのときの俺にはわからなかったんだ。……今にして思うよ。あれほど深い絶望の表情は、未だかつて見たことがない、と」
 シンは首の後ろをぐっと押さえた。
「……父はエンジェライザーを叩き壊した。俺は父を『敵』とは認識していなかったから、まったく警戒してなかった。昏倒し、やがて意識と感情を取り戻した俺に父は言ったよ。装置を壊せばショックで俺は死んでしまうかもしれない。それでも、このまま殺戮の道具として都合よく《ガイア》に使われるくらいならいっそ自分の手で殺そうと思った、と」
 言葉を切り、シンは込み上げるものを抑えるようにしばし黙り込んだ。やがて、額に乱れ落ちる髪を掻き上げながら彼は顔を上げた。血の気の失せたその横顔に、昏く悲壮な翳が落ちた。
「月へ行け、と父は言った。月にはかつてウィルス禍を逃れて移住した、オリジナルの人類が暮らしているから。父に聞かされるまで、俺はそのことを知らなかった」
 ユカは虚を衝かれた。
「え……? 地球の人たちは、月にあたしたちがいるって知らないの……?」
「一般には、CRSがウィルスに汚染されて全滅したということになってる。真実を知っているのは軍と政府のごく限られた部署の人間だけらしい」
「そんな……」
 マサトが皮肉っぽく笑う。
「同じことさ。おまえだって地球にオリジナルの人類が生き残っていることを知らなかっただろう?」

「それは、そうだけど……」
 自分たちが『いないこと』になっているなんて、あまり面白い気分ではない。
「︱︱で、それからどうしたんだ」
「何事もなかったふりをして、父と一緒にCRSに昇りました。訓練用の小型宙行艇を奪って月へ逃げようと思って……。でも、エンジェライザーの不具合が管理部に知られてしまい、銃撃されて︱︱父さんは、死んだ……。俺は父の死体を置いて逃げた。言われたとおり何としても月へ行こうと、追手を振り切って、閉鎖された障壁をぶち破って︱︱。もう少しでCRSから出られるところで、エンジェロイドがひとり、俺を追ってきた。彼はその手にぶら下げていたんだ。切り落とした、父の首を」
 衝撃に、ユカは息を呑んだ。マサトもまた凝然と凍りついている。
「彼は嗤って、首を俺に投げつけた。︱︱それからのことは、よく思い出せない。たぶん、そいつを倒して逃げたんだと思う。ひょっとしたら殺したかも……。気がつくと病院のベッドの上で︱︱、ユカがそばにいた」
 ようやくシンはユカに目を向けた。たまらずに立ち上がり、枕元に座って強く抱き寄せる。シンはまるで意識が途切れたかのように、なすがままになっていた。なんて凄まじい経験なのだろう。これが現実の出来事だなんて。シンが取り戻そうとしていた記憶が、これほど酷いものだったなんて︱︱。
 マサトは片膝を立てて、むっつりと眉を寄せている。さすがにこのときばかりは離れてろと怒鳴りはしなかった。長いこと三人は互いに黙り込んだまま座っていた。やがてシンは、そっとユカの手を押しのけた。
「……ごめん。悪いけど、ひとりにしてくれるかな」
 我に返り、ユカは慌てて立ち上がった。
「う、うん」
「ごめんね……」
「ううん! こっちこそ……」
 のっそりと立ち上がったマサトが無言で部屋を出る。その後を追いながら、そっと振り向いてみた。シンは片手で顔を覆ってうつむいていた。
 打ちのめされたその姿に、胸の奥がキリキリと痛む。何もしてあげられない自分の無力さに歯噛みしながら、ユカは音をたてないように細心の注意を払ってドアを閉めた。
「シン……、大丈夫かな……」
 消え入るように呟くと、ぽすん、とマサトが頭に軽く手を置いた。
「今はそっとしといてやれ。どっちにしろ自分で乗り越えるしかないんだ」
「シンは悪くないよね? 操られてただけなんだもの……」
「それは俺たちに決められることじゃない」
 ユカはたまらず声を荒らげた。
「悪いのは《ガイア》でしょ!? 《ガイア》はあたしたちを地球から追い出して、残った人たちをいいように操ってる。ただの人工知能なのに、勘違いしてる《ガイア》がいけないんだよ!」
「忘れてないか、ユカ。《ガイア》を作り出したのは人間だ」
 おそろしいほど冷徹な、マサトの声。ユカはぐっと拳を握った。
「自分たちの生活レベルの維持に汲々とした挙げ句、どうしようもなくなって能力未知数の人工知能に環境改善対策を丸投げするほど互いにいがみあった。俺たち人類が、奴を生みだしたんだ。暴走を始めた《ガイア》にとって、もっとも重要なのは人類の繁栄ではなく地球環境を最良の状態で維持することだ。生態系にとって、人類は必要不可欠の存在ではないんだよ。むしろ、精妙に築かれた循環システムの破壊者なんだ」
「じゃあ人類は滅んだ方がいいとでも? なんで《ガイア》の肩なんか持つのよ!?
 いきりたつユカに眉をしかめ、マサトは顎でシンの部屋を示した。
「静かにしろって。︱︱誰が持つかよ、そんなもん。どう見たって奴はイカレてるさ。そもそも思考パターンに根本的な欠陥があったんだよ。でなきゃデマを流して人類を追い出したりするか? 確かに《ガイア》からすれば、人類は地球にとっていてもいなくてもいいエキストラにすぎない。ただし手先は器用で大脳が異様なほど発達してる。手足代わりにこきつかうには最適だ。使い道は色々ある。お払い箱にするには非常にモッタイナイ」
「だからって遺伝子まで勝手にいじくるわけ!? どうかしてるよ」
「そう。どうかしてる。みんな言ってるだろう? 《ガイア》は狂ってる、と。地上に残った人類は《ガイア》の実験動物なのさ。当然、シンもそうだ」
 冷酷な指摘に、ユカはかっとなった。
「病気の治療のためとかならともかく、あれは︱︱、あんな、翼を生やすとか︱︱、あれじゃまるで興味本位の実験じゃないの!」
「通常、生物の身体の大きさと力の強さは比例する。ところが人類だけは例外だ。大脳が高度に発達した代わり、特別な訓練でも受けない限りは素のままでの戦闘能力はイエネコにすら劣る」
 マサトはうっすらと不気味な笑みを浮かべた。
「《ガイア》は案外、我ら脆弱なる人類を強くしてやろうと親切心を起こしたのかもしれないぜ?」
「……冗談でしょ!!
「なぁ、ユカ。《ガイア》はその気になればすぐにでも月の人類を滅ぼせるのに、何故そうしないと思う?」
 いきなり話が飛び、ユカは面食らった。
「知らないよ。面倒だから放っとくんじゃないの」
 マサトはくっくと笑った。
「いいな、それ。妙に人間くさくて。︱︱《ガイア》にあらかじめ付与されたコマンドのひとつに、『現存する種を滅亡させてはならない』というものがある。だから俺たちが月に住み続ける限り、《ガイア》は月には手を出さない。ここは、オリジナル人類の貴重な保存場なんだよ。水族館や動物園と同義だ」
 ユカは絶句してマサトを見つめた。
「……叔父さん。昔、軍の研究所で何してたの」
「さて。ろくでもないこと、かな」
 ユカは声もなく喘ぐと、自分の部屋に飛び込んでぴしゃりとドアを閉めた。マサトは肩をすくめ、ゆっくりと階段を降りた。抽斗から取り出した銀色の金属片を机に置く。捨てたとユカに嘘をついたそれを、マサトは暗い目でじっと見つめた。携帯電話が鳴り始めた。手探りで掴みだし、耳に押し当てる。金属表面のように滑らかな男の声が流れだした。
『私です。パスが用意できました』
「……もう少し早くしてほしかったぜ」
『何かまずいことでも?』
「いや、別に」
『明日、彼を連れ出してください。彼と引き換えにパスをお渡しします』
「わかった」
 場所と時間を確かめ、通話を切る。
「……おまえの話は、聞かなかったことにするよ、シン」
 もう手遅れだ。おまえが誰であろうと、どんな事情があろうと、かまわず踏み台にさせてもらう。故郷へ、ふたたび帰還するための。マサトは机に肘をつき、掌で顔を覆った。
「どう足掻こうが、ろくでなしは所詮ろくでなしってことさ……」


     †

 起き出してきたユカの腫れぼったい目を見ると、シンはひどく済まない気持ちになった。顔を合わせたとたん、にこっとユカはことさら明るい笑顔になる。無理を、しているのだろう。それでも目を逸らさない。これまで以上に真摯なまなざしを毅然と向けてくる。何があっても自分は味方だからね、と。
(︱︱いい娘だ)
 素直にそう思う。自分に向けられる彼女の好意が善意の親切心だけではないことくらい、わかってる。だからこそ、このまま側にいるわけにはいかない。絶対に。
 頼りなげな顔で、『好きになったらいけないの』と問われたときは胸が詰まった。引き寄せて抱きしめてしまいたい衝動を懸命に押さえつけた。やめておけと、むしろ自分にそう言ったのだ︱︱。
 いつもどおりに朝食の用意をする。コーヒーとトースト。バターとジャムを出す。目にいいと言って、ユカは大量のブルーベリージャムを塗る。甘いものが苦手なマサトは辟易したように横目で見て、苦いブラックコーヒーをちびちび啜る。壁の時計を見あげる。
「ユカ、時間」
「もう!?
 毎朝交わされる、同じやりとり。
「行ってきます!」
 慌ただしく出て行くユカ。いってらっしゃいといつものように声をかけて。
「︱︱ユカ!」
「なに?」
 マフラーを首に巻きながらユカがきょとんと振り向く。反射的に微笑ってみせた。
「……気をつけて」
「うん。終わったらすぐ帰ってくるねー」
 じゃあね、と手を振って、小さな足音がぱたぱたと遠ざかる。シンは心の中で呟いた。
 ありがとう、ユカ。︱︱さよなら。
 マサトは無愛想な顔で新聞を読んでいる。いつもどおりに洗い物と掃除をする。ここで暮らし始めて以来、掃除は自分の担当だった。楽しかった。小言を言われても気にならなかった。毎日同じように日常が繰り返されること自体に幸福を感じた。記憶を取り戻した今になって、何故だったのかわかる。それは、記憶をなくすよりもずっと前に、なくしていたものだったのだ。自分が『死んだ』ことになったあの日を境に、否応なく奪われてしまったもの。
 繰り返される、何気ない日常。挨拶。笑い。ムッとして、怒って。涙ぐんで、安堵して。そしてまた、照れたように笑う。当たり前に享受していたもの。それが本当は途轍もなく幸運なことだったのだと、失って初めて気付いた。
 失わせたくない。絶対に。ユカの、そしてマサトの、穏やかなこの日常を。自分をバンドに誘ってくれた《ムーン・レイカーズ》のメンバーたち。強引に、でも真摯に、一緒にやろうと言ってくれた。嬉しかった。手を差し伸べてくれたすべての人たちに、いつまでも普通に笑っていてほしい︱︱。

 雑巾を絞り、ぬれた手を払って汗ばんだ額をぬぐう。
「︱︱完了!」
 独りごちると我知らず笑みがこぼれた。家も店も残らずピカピカだ。しんとした冬の陽射しが透明度を上げて窓から射し込む。かつて地上で観測されたデータを元に合成された季節の陽射し。それでもぬくもりは変わらない。きっと人々がここで生活しているからだ。灼熱と極寒を繰り返す不毛の月面に築かれたドーム都市。言われるまでそのことに気付かずにいた。営まれる日々の暮らしが、あまりにも普通で平穏だったから。
「何だぁ? 今日はえらい念入りだな」
 開店前の《フォルセティ》に顔を出したマサトが、眩しそうに目をしょぼつかせる。シンは表情を引き締めてマサトに向き直った。
「マサトさん。俺、今日出て行くことにします」
 意外そうに、マサトが軽く目を瞠る。シンはぺこりと頭を下げた。
「突然ですみません。今まで本当にお世話になりました」
「……そか」
 ぽそりと呟き、マサトは思案するような表情で頬を掻いた。
「ま、俺は止めねぇよ。前からそう言っといたけど。やっぱ《ムーン・レイカーズ》に入るのか?」
 シンは笑って首を振った。
「いいえ。誘ってくれたのは嬉しかったけど、迷惑かけるだろうから。……ガレージが崩れたの、偶然じゃないと思うんです。たぶん、俺を追いかけて誰かが月に来てる」
「ありえるな。じゃあ、どうすんだ? 別の都市へ行くか」
「どこへ行っても災難を引き起こしそうなんで……、帰ります」
「帰るって……、地球に?」
 シンはこともなげに頷いた。
「どうにかしてCRSに侵入します。あれほど巨大な構造物だから、必ずどこかに死角はある。軍事ブロックでなければ、それほど監視体制は厳しくない。俺はふつうのレーダーには映りませんから」
「……おまえさ。真空でも平気なわけ?」
 シンは答えない。マサトは観察するような目付きで彼を見た。
「そういや最初に拾ったとき、外殻みたいな妙な装甲に包まれてたっけな。翼の質感もずいぶん違ってたし……。あれが耐真空仕様か」
「そんなようなものです」
 堅苦しくシンは答えた。
「ふーん。エンジェロイドってのは翼が生えるだけじゃなく、変身もするのか」
 マサトは感心したように顎をさすった。
「……せっかくきれいに掃除してくれたのに悪いんだけどよ。店、閉めてくれ。今日は臨時休業だ」
 思いがけない言葉に、シンはとまどった。
「え……? で、でも」
「おまえ、ドームからどうやって出るかもわかんねぇだろ。うっかり拾っちまった責任てやつだ。おまえが落っこちてきた場所まで送ってってやるよ。そこからは、まぁ自力で何とかするんだな」
「マサトさん……」
「あ、そうだ。ユカにあてて一筆書き置いてくれ。俺が追い出したと泣かれても困る」
「わかりました」
 生真面目に頷き、シンは水の入ったバケツを下げて奥の扉から出て行った。マサトは不用紙の裏に太いサインペンで『臨時休業』と書き、店のガラス扉に貼り付けた。蔓草模様の白いシャッターがゆるゆると降りてくる様を、マサトは無言で見つめていた。

第八章 誰かと一緒に見上げた空

 シン、何だか様子が変だった……。
 ユカは授業に集中できず、窓の外に視線を泳がせた。自分を呼び止めて、微笑んだあの顔。何故だか向こう側が透けているみたいに存在感が薄かった。まるで心がもうそこにないかのように。ふと、急激な不安が胸を刺す。
(︱︱まさか。シン、出て行くつもりなんじゃ……!?
「ユカ。ねぇ、ユカってば!」
 肩を揺すられ、ユカはハッと我に返った。クラスメートの少女がふたり、不審そうな顔でユカを見下ろしている。
「何ボーッとしてんの? もうとっくに授業終わってるよー」
「お昼食べ行こ。早くしないといい席なくなっちゃうよ」
「あ、あたし……。︱︱︱︱帰る!」
 バタバタと教科書をかばんに詰め込むユカを、少女たちはぽかんと眺めた。
「どしたの? ユカ」
「お腹痛いの。もう死にそう! 生理痛!」
「……生理痛じゃ死なないよー」
「適当に言い訳しておいて。今度何かおごるから!」
 ユカはかばんを引っ掴み、慌ただしく教室を出た。
「今の聞いたからねー! 取り消しきかないよっ」
 追いかけてくる友人の声に、背を向けたまま手を振る。ユカは猛ダッシュで廊下を駆け抜け、自転車置場を目指した。

 息せき切って《フォルセティ》の前で自転車を止める。
 店は閉まっていた。おかしい。とっくに開店時間は過ぎてるのに。よく見ると、シャッターの向こうのガラス扉に何やら白いものが内側から貼り付けてあった。
「……臨時休業? そんなの聞いてないっ」
 ユカは慌てて自転車を押し、裏口に急いだ。もどかしく鍵を開け、大声でただいまと叫びながらリビングに飛び込む。誰もいない。
「叔父さん! シンは……」
 工房にマサトの姿はなかった。ユカは二階に駆け上がり、シンの部屋を覗いた。いつもどおり、いや、いつも以上にきっちり片づけてある。ユカは途方に暮れて立ち尽くした。部屋を見回し、枕の上に折り畳まれた紙きれが置いてあることに気付く。急いで手にとってみると、ペン習字のお手本なみにきれいな文字が書かれていた。
 そういえば、シンは若い男性には珍しいような達筆だった。自他ともに認める悪筆のマサトは、手書きしなければならない時はこれ幸いとぜんぶシンにやらせていた。お習字でも習ってたんじゃないのと、冗談めかして言ってみたことを唐突に思い出した。ぶるぶると頭を振り、文面に集中する。

 ユカ
 突然だけど、出て行くことにしました。びっくりさせてごめん。ここにいていいのだと、きみが言ってくれてすごく嬉しかった。
 ありがとう。でも、やっぱりここにはいられない。僕は地球へ帰ります。
 今までお世話になりました。マサトさんを責めないでください。僕が自分で決めたことだから。
 《ムーン・レイカーズ》の皆さんにも、よろしくお伝えください。タケルが作ったあの歌、ぜんぶ覚えました。タイトルを聞き忘れたのが残念です。告白するけど、ロックバンドで歌ったのはあれが初めてのことでした。
 いろいろとありがとう。とても楽しかった。これからも、マサトさんと仲よくしてください。
 さようなら。
                              鳴沢 信

「……何よ、これ」
 ユカは紙の端をふるえる手で握りしめた。ぽたぽたと涙が滴る。
「こんな、子どもみたいな手紙……っ、国語の先生みたいな達筆でさらさら書いちゃって……。中身はまるで小学生じゃないの……!」
 八つ当たりのようにユカは叫んだ。
「シンのばか! わけわかんないよっ」
 ユカは手紙を握りしめて外へ飛び出した。自分でもどうするつもりかわからないまま走り出す。擦れ違った車が、行き過ぎて急停止した。
「︱︱ユカ? ユカさんじゃない?」
 振り向くと、カブリオレタイプの洒落たエアカーからスカーフと薄い色のサングラスをかけた女性が身を乗り出している。サングラスを押し下げた女性の顔を見てユカは叫んだ。
「……ミウさん!?
 ひょんなきっかけで知り合い、夕食を御馳走してもらった江藤姉弟の姉、美宇だ。ユカは慌てて駆け戻った。
「どうしたの? 血相変えて。︱︱あら。今日休みなの? もぉ、せっかく見に来たのに残念。ダイってば荷物持ちをさせられると思って逃げちゃったのよ。ひどいでしょ」
「ミウさん! シンが、シンが出て行っちゃった……!」
 堰を切ったように涙があふれる。ミウはびっくりしてユカをエアカーの助手席に招いた。
「いったいどうしたっていうの」
 ユカはしゃくりあげながら、くしゃくしゃになった手紙を渡した。黙って読み進めていたミウが、小さく嘆息した。
「……そう。記憶が戻ったのね」
「で、でも、だからってこんな急に出て行かなくたって……」
 嗚咽を上げるユカの目許を、ミウはバッグから出したハンカチで押さえた。
「そんなに泣かないで。何か心当たりはないの? 彼が行きそうな場所とか」
 ユカは首を振った。手紙の内容からして《ムーン・レイカーズ》の誰かのところに行ったとも考えにくい。マサトもいないということは、どこかへ送って行ったのかもしれない。
「もしかしたら、ドームの外へ出たのかも」
「ドームの外? 地球見かしらね。ちょうどいい時期だし」
 今ひとつ深刻さが伝わっていないようで、ミウはとんちんかんなことを言う。眉根を寄せてユカは考え込んだ。そうだとしたら、どこから出たのだろう。ツクヨミ・シティドームにはゲートが東西南北に四つある。
(︱︱東、かな?)
 スノー・ドームからの帰り、自分たちは東ゲートから入るつもりで飛んでいた。その途中でシンを拾ったのだ。
「ミウさん! お願い、東ゲートまで乗せてってくれませんか?」
「え? い、いいけど。なぁに? そこから出たの?」
「たぶん」
 ちょっと考え、ミウはにこりとした。
「わかったわ。行ってみましょ」
「すみません。助かります!」
 ミウは操作ボタンを押して、幌を閉じた。
「さて、飛ばすわよ。ナビ、最短距離で東ゲートへ向かって。急いでよ」
『了解』
 合成音が答える。エアカーは軽い排気音とともにぐるりと回転した。


「なんでぇ、休みかよ」
 ふてくされた声で呟き、タケルはシャッターの降りた《フォルセティ》の外観を憮然と睨んだ。クウヤとトモの姿もある。クウヤの場合は無理やりタケルに引きずられてきたようなものだ。彼は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ったく。来る前に確認くらいしろよな」
「いーじゃん別に急いでるわけでもなし。今日はバイトも休みだしさ」
「おまえは休みでも、俺はバイト入ってんだよ!」
「夕方からだろ? 平気平気、まだ一時を過ぎたばかりだぜ」
 処置なし、とばかりにクウヤは眉根をきつく寄せる。
「なんで俺、おまえなんかとつるむことにしたのかな……。人生最大の謎だ」
「何を言う。俺たちゃ人生これからだぜ! なぁ、トモ?」
 トモは目をこすり、ふわぁとあくびをした。おとなしくついては来たものの、まだ半分寝ぼけているようで、いつにも増してぼーっとしている。
「まぁ、いいや。せっかく来たんだから裏回ってみよ、裏」
 とっとと歩きだすタケルの襟首を、クウヤがむんずと掴む。
「具合が悪くて寝てるかもしれないだろ」
「だったらなおさら見舞いに行かなきゃ。我らがレイカーズの大事なヴォーカルだし」
「まだ言ってんのか……」
 クウヤの手を振り切り、タケルは走って行った。このまま暴走させるわけにもいかず、仕方なく後を追う。続けざまにチャイムを押すが、応じる声はなかった。タケルはしつこくチャイムを連打した。ドアに耳をつけると、内部でけたたましく電子音が鳴っているのが聞こえる。
 これだけやかましくされてマサトが居留守を使うとは考えられない。きっと鬼のような形相で飛び出してきて、「うるせぇ!」と容赦なく蹴りを食らわせることだろう。シンならば具合が悪くて臥せっていたとしても、這って出てきそうな気がする。
「うーん。やっぱり留守かな。︱︱あっ、ひょっとして入院しちまったとか!? シンの奴、実は意識不明の重態で……」
「……何故そう極端に走る。わかったよ、マサさんに電話してみるから」
 嘆息し、クウヤは携帯電話を取り出した。耳にあててしばらくすると、クウヤは眉をひそめて電話を切った。
「どした?」
「留守電サービスに転送されてる」
「しゃーねぇ。こうなったら最後の手段だ」
 まさかドアをぶち破るつもりかと、クウヤは反射的に身構えた。タケルは自分の携帯を取り出し、にかっと笑った。
「ユカに訊いてみるさ」
「授業中は通じないだろ。ってか、通じたら迷惑だろうが」
「だーかーらー、最後の手段。︱︱︱︱お? もしもしユカぁ?」
 どうやら通じたらしい。嘆息したクウヤは、タケルの声色が突然変わったことに気付いて眉をひそめた。
「︱︱え。シンが出てった?」
 切迫したタケルの声に、ぼーっと突っ立っていたトモの瞳がにわかに生彩をおびた。

「そうなの。変な置き手紙して、いなくなっちゃったのよ」
 携帯電話を握りしめ、切羽詰まった声で告げる。ユカは東ゲート前のターミナルにいた。各ドームをつなぐ交通機関のステーションの他、個人客に飛行艇やバギーなどのRVを貸し出す店が軒を連ねている。
 案内所で調べてもらうと、マサトは小型飛行艇をレンタルして外へ出ていた。シンが一緒かどうかは不明だが、ユカは確信していた。きっと、あの場所へ向かったのだ。流星のようにシンが落ちてきた、あの場所へ。
「︱︱うん。今、東ゲートにいるの。追いかけて、絶対連れ戻すから」
 通話に雑音が入り、声が聞き取れなくなる。
「タケル?」
 ざざっ、と耳障りなノイズに続いてぷつりと回線が切断された。ユカは憤然と眉をつりあげた。
「もうっ、何よ! また充電忘れて!」
 足早にミウが戻ってくる。
「ユカさん、手続き終わったわ。出発しましょ。︱︱電話? もしかして連絡入った?」
「い、いえ……。それより、すみません。すっかり付き合わせちゃって」
 恐縮するユカに、ミウはにっこりとした。
「いいのよ。何だかちょっと、わくわくするわ。さ、行きましょ」
 促され、ユカは急ぎ足で歩きだした。ミウは料金の張る高速タイプの小型飛行艇をレンタルしてくれた。彼女がいなかったら、運転免許を持たないユカにはどうすることもできなかっただろう。スーツとジェットウィングが借りられればまだしも、未成年のユカは保護者同伴でないとレンタル許可が降りないのだ。流線型の機体に乗り込む。操縦席に並んで座り、ユカは緊張でこくりと喉を鳴らした。
「行くわよ」
「お願いします」
 決意を込めたユカの声に微笑むと、ミウは静かに操縦桿を握り込んだ。シャッターが開いていく。真っ暗な天空から、蒼い惑星が見下ろしていた。

「︱︱あ? おい、ユカ!?
「どうした」
 焦って携帯電話に喚いているタケルの様子に、クウヤは眉をひそめた。
「くそっ、切れた」
「どうせまた充電し忘れたんだろ」
「違わっ、見ろ、こんなに残量あんだぞ!」
 タケルはぐわっと牙を剥き、クウヤに携帯電話の画面を突きつけた。そうかと思うと、ふいに踵を返す。
「どこ行くんだ」
「決まってらぁ、東ゲートだ。俺もシンを追っかける」
「あのなぁ。いくら気に入ったからって、無理強いすんのはどうかと思うぜ? 奴には奴の都合ってもんがあるだろうし」
「だったらその都合ってやつを聞かせてもらおうじゃねぇか!」
「ほんっと、おまえって諦め悪いよなぁ」
 タケルは悔しそうに顔をゆがめた。
「……よろしくだってよ」
「ああ?」
「ユカが言ってた。シンの奴、『《ムーン・レイカーズ》のみんなによろしく。あの歌、ぜんぶ覚えた。タイトルを聞き忘れたのが残念だ』なんて、置き手紙に書きやがったんだとよ!」
 クウヤは言葉に詰まった。
「ふざけやがって……。タイトル聞き忘れただと? 歌詞見てわかんねぇのか、あのばか。︱︱とにかく、俺は行くから。じゃあな」
 くるりと向きを変えたタケルは、上着の裾を掴まれてつんのめった。
「何すん……」
 憤然と振り返ったタケルは目を丸くした。トモがじっとタケルを見つめていた。ドラムを叩いているとき以外は始終ぼんやりしているのに、今はまるで人が変わったように凛と光る瞳を向けて来る。ぽそりと、トモは囁いた。
ふね
「……は?」
「あてが、ある」
「あて?」
 やはり意外そうな顔のクウヤと、タケルはぽかんと視線を交わした。


     †

 黒い空に浮かぶ地球を、シンは無言で見つめていた。かすかな空気の動きを感じる。たちこめる緑の匂い。ざわ、と梢が鳴る。強化ガラスを透かして射し込む蒼い光。地球の満月よりも何倍も明るい。
 グリーン・ドームと呼ばれる施設のひとつに、シンとマサトは来ていた。レンタルした飛行艇の調子が途中で悪くなり、点検のために立ち寄ったのだ。ここは酸素供給施設であるとともに、緊急避難所でもあった。月面で何らかの事故に遭遇した場合、死に直結する可能性がきわめて高い。グリーン・ドームには酸素はもちろん水や食料、燃料が常備されており、緊急連絡用の通信設備と自動化された修理工場もある。各ドームをつなぐ公式ルートに沿って、このような設備が等間隔で設置されているのだそうだ。
 背後から靴音が聞こえ、シンは振り向いた。仏頂面でマサトがやって来た。
「直りそうですか」
「ああ、修理ドックに突っ込んできた。少し時間がかかりそうだ。すまん」
「いえ」
 シンは微笑み、ドーム内の森を眺めた。
「何だか本物の森のなかにいるみたいだ」
「月面人にとっては、これが『本物の森』なのさ」
 苦々しさの混じる口調で、マサトは呟いた。
「同時に実験施設でもある。いつか月に酸素を満たし、ドーム外で生活するための、な」
「そんな計画が?」
「月面人の夢さ。いくら快適に作られてたって、頭の上にガラスの天井があるのはあんまり愉快じゃねぇからな。月では気体の脱出速度が地球の六分の一だ。気体は軽いものから次々逃げ出しちまう。だが、失われる以上の速度で酸素を供給し続ければ、大気圏を形成することは可能なはず︱︱。いつ実現するのかもわからんような話だが」
 シンはガラス壁の向こうに広がる荒涼とした風景を眺めた。いつかこの粉末状のレゴリスに覆われた大地に、緑の森が広がるのだろうか。マサトが背後で呟く。
「譬え月が緑の星になったとしても、やっぱり地球じゃねぇんだよな」
 投げやりなような、思い詰めたような、その声の奇妙な響き。振り向こうとした首の真後ろに、冷たい銃口を感じた。シンは凍りついたように目を瞠った。
「……マサトさん……?」
「悪ィな、シン。やっぱり俺も、帰りたくなっちまったんだよ」
「帰る……?」
「あそこに、さ」
 見なくてもわかる。マサトの視線が何を見ているのか。
「……あなたも地球から来たんですね」
「ああ。俺は亡命者だ。おまえと同じ『地球人』だよ。《ガイア》の実験体さ。もっとも俺は、おまえみたいに目覚めちゃいないが」
 皮肉なマサトの口調には、紛れもない憤怒がにじんでいた。
「何故こんなことを? 俺が密告するとでも思っているのなら……」
「言っただろ。帰りたくなったんだ」
「連れていくのは無理です」
「そんなことはわかってる。俺はおまえのような覚醒体じゃない。ただの人間だ。だから、おまえを引き渡す代わりに、地球の市民権を都合してもらった」
「そしてまた《ガイア》の保護下に入ると? あなたは《ガイア》の支配から逃れてきたのではないんですか」
「……ああ、そうさ。あの、人を人とも思わない人工知能の『神』からな……!」
 押しつけられた銃口の圧力が増す。ぎりぎりと歯を食いしばり、軋むような声音でマサトは囁いた。
「なぁ、シン。おまえ、言ってたよな。《ガイア》は全都市民の遺伝子を操作して、エンジェロイドの可能体を作ってるって。俺たちの遺伝子に加えられている要素はいったい何だと思う?」
 意味を掴みかね、シンはとまどった。くくっとマサトがかすれた声で笑った。
「翼が生えるんだから、やっぱり鳥類かな? だったらいい。地球上の生物であることに変わりはない」
「そうではない、と?」
「ああ、違うね。︱︱シン。例のウィルス禍の原因、何だったっけな」
 いまさら聞くまでもないことを、妙に優しげな口調で唐突にマサトは尋ねた。ぐりっと銃口が盆の窪を圧迫する。
「……地球に飛来した隕石に付着していた未知のウィルスが、爆発的に流行したと。違うんですか」
「間違っちゃいないさ。ただし、隕石が積んできたのはウィルスだけじゃなかったんだ」
「何です、それは」
「エイリアンだよ。地球外生物って奴。ウィルスは元々そいつの体内にいたんだ」
 シンは息を呑んだ。
「エイリアンの体内ウィルス……!?
「ああ、自然宿主だったらしい」
 ウィルスと自然宿主は共生関係にある。感染していても何の異常も来さない。ところが、決まった自然宿主以外の生物に感染すると、凶暴性が一気に増す。新しい環境で生きなければならなくなったウィルスが強度のストレスにさらされるためだ。人間と同様である。マサトの口調に辛辣さが増した。
「なにせ、地球人にはまったく免疫がなかったからな。しかも、運んできたのがエイリアンだ。ひた隠しにされた結果、あっというまに世界的大流行さ。高熱、脱水症状、内出血、腎臓障害……。飛沫感染で、感染力も強い。ワクチン開発の目処はたたず、死人は増える一方。やむなく人類は地上の隔離都市やCRSに避難した。パニックが収まるのを待つつもりだった。そんな中、唯一成功したのが遺伝子注入だ。自然宿主であるエイリアンの遺伝子を人類に組み込んだのさ」
 頭を殴られたような衝撃が走る。シンは張りつめた瞳を地球に向けたまま、茫然と立ち尽くした。
「プロジェクトの背後にいたのは《ガイア》だ。ウィルスを滅ぼせないのなら、人類を新たな自然宿主にしてしまえばいい、というわけだ。発想の転換と言うべきか? だが、それだけならまだしも、《ガイア》はエイリアンの形質まで人類に複写しようとした」
「形質……?」
「翼だよ。エイリアンは有翼人オーニソイドだったんだ」
 固くこわばる首筋になおも強く銃口を押しつけ、茫然自失するシンの耳元でマサトは囁いた。
「天使さ。本物のな。四枚の翼と四つの頭部、四本の腕と脚を持った、異形の存在だ。研究者たちは、それを『智天使』と呼んだ。それがどこから来たのか、未だにわかっていない。地球に災厄をもたらした巨大隕石は、ある日突然出現した。まるで異空間からワープアウトしたかのように……。そして地球に未曽有の大災厄をもたらした」
「……あなたはその『天使』を見たんですか」
「ああ、見たよ。この目で、はっきりと。もっとも、生きてはいなかったがね……。そいつは地球に到達したときにはすでに死んでいたそうだ。どうやら《ガイア》はその『智天使』にえらく感銘を受けたらしくてな。地上に隔離されて生き残った人類を使って壮大な実験を始めた。そして作られたのが俺たち遺伝子改変人類だ。俺たちにはエイリアンの遺伝子が混じってるんだよ……!」
 マサトの声には幽鬼のごとき絶望と、地獄のような怒りの響きがあった。

「それを知って、俺は吐いたよ。胃液で喉が焼けるまで吐きまくった。あんなものの遺伝子が、自分に混じってるなんてな……! それが自分の中にあるとわかっても、遺伝子じゃあ病巣みたいにえぐりだすこともできやしない。︱︱ふん。実物を見なきゃわからないだろう。あんな凄まじい異形を見たのは後にも先にも初めてだよ。あれは、別世界の生物だ。あんなものを人類と掛け合わせようとするなんて、狂気の沙汰としか言いようがない。無茶な遺伝子操作のせいで、実際にどれほどの異常が生じていると思う。『天使』の形質発現異常で死ぬ奴は、おまえが思っているよりずっとずっと多いんだ。シン。おまえは自分がどれほど幸運だったかわかってない。奴らがおまえのデータをほしがったのも当然さ。思春期を過ぎてから発現した者は、たいてい死ぬんだ。翼の形成異常が引き金になって、全身の骨が変形して皮膚や内臓を突き破る。見るに耐えない、すさまじい死に方だよ」
 押し当てられた銃口から、じわじわと憤怒が伝わってくる。マサトは噛みしめるような沈黙の後、激昂を抑えた低声で続けた。
「地上にいた頃、これでも俺には恋人がいたんだ。もうすぐ結婚するはずだった。彼女は……、俺の目の前で、身体中から白い骨を突き出して死んだ。ちょうど式の衣装合わせをしていてな……。真っ白なウエディングドレスが血に染まって、床には白い骨のかけらがバラバラに散らばってた。彼女は︱︱、彼女はすでに残骸になっていた。あの光景が、今でも忘れられない……!!
 食いしばった歯の間から、啾々と息が洩れる。遣り場のない憤怒と悲哀とが、ないまぜられた怒気となって吐き出された。血反吐を撒き散らすような凄まじい告白に、シンはただただ声をなくした。ようやくマサトの息が鎮まり始め、シンは低く囁いた。
「……だから月へ亡命したんですね。《ガイア》の手が及ばない、オリジナルの人類が暮らしている月へ」
「そうさ。おまえと違って何ヶ月もかけて計画を練りあげた。亡命者として受け入れてもらうために、色々と手土産も持って行った。その後も、長いこと軍の研究所で働いたよ」
「どうして、今になって帰ろうなんて……」
 うっそりと、マサトは笑った。
「俺も不思議だよ。帰りたいなんて、これまで一度も思わなかったのに」
「だったら何故なんです!?
「……本物の景色を、ユカに見せてやりたくなったんだよ」
 シンは意表を突かれて絶句した。
「おまえにはわからないかもしれんなぁ。地球に生まれ、本物の景色を当たり前に見て育ったおまえには。︱︱月には作り物しかない。どれほど精巧に、綺麗に出来ていても、すべて計画され整備された『お清潔』な作り物なんだ。おまえを拾ったあのとき。俺は新しく出来たスノー・ドームにユカを連れて行った、その帰りだった。スノー・ドームってのは、冬の遊びを楽しむために作られたレジャー・ドームのひとつで、ここいら辺りでは初めてできた施設だ。スキー、スケート、スノーボードなんかが楽しめる設備がいっぱいある。ユカが行きたがってやいやいせっつくから冬休みに連れて行った。ツクヨミ・シティにも雪は降るが、積もったところでせいぜい十センチがいいとこだ。ユカが小さかった頃は、一緒に雪だるまを作ってやったがね……。俺はたいして乗り気じゃなかったが、ユカはすっかり喜んで、雪の上を転がってはしゃぎやがるんだ。目をキラキラさせて、『すごいね、叔父さん。きれいだね!』なんて言ってさ。人工的に機械で作った雪を、ドームの天井からばらまいてるだけなのに、本物の雪が降ってるみたいにはしゃぐんだよ。……それ見てて、気付いた。ユカは本物の景色をひとつも知らない。本物の空も、本物の風も。本物の、雨も、雪も、雷も、夕焼けも、朝もやも、瞬く星も、満ち欠けする月も。海も、山も、池も、川も、滝も、草原も、沙漠も。何ひとつ、あの娘は本物の景色を見たことがないんだ。感じたこともない。触ったこともない。あの娘の見る空はスクリーンに映し出された過去の残像だ。展望台から見える宇宙は、地球から見あげる夜空とは違う。知ってるよな? 地球から見ると、夜空の星は瞬くんだ。大気を通して見るからな。大気があるから地球の空は刻々と色を変える。例えようもなく美しい……。だがユカは本物の風景の美しさを知らない。これから一生、そんな機会が訪れることは絶対にないんだ。この月面に住み続ける限りはな……! 作り物を見て感動しているあの娘を見たら、どうしても本物を見せてやりたくなったんだよ。だからユカを地球に連れて帰ることにした。かつての俺みたいに逃げてきたおまえと引き換えにしてもな……!」
 苛烈に吐き出したマサトの耳に、弱々しくすすり泣くような囁きが届いた。
「叔父さん……」
 ハッと振り向いたマサトは、ここにいるはずのない少女の姿に愕然と目を見開いた。
「ユカ……!?
 銃口の圧迫がゆるむ。マサトをねじ伏せるには絶好の機会だったのにシンはほとんど身じろぎもせず、棒立ちになっているユカを黙って見やった。彼女の背後にはスカーフで髪を覆い、薄い色の大きなサングラスをかけた女が、遠慮がちな様子で佇んでいる。
 江藤美宇だ。ふと、奇妙な感覚に襲われた。脳髄の奥がくらりとし、シンは片手を上げてこめかみに押し当てた。
「ユカ……。どうしてここに」
 マサトがまごついたように口ごもる。ユカはキッと眉をつりあげた。
「追いかけてきたんだよ! 当然でしょ!?
 怒りの表情は、しかし長くは続かなかった。ユカは今にも泣きだしそうにくしゃくしゃと顔をゆがめた。
「もうやめて。一緒に帰ろうよ、ねぇ」
 マサトは気を取り直したように、ふたたびシンの首に銃口をあてた。
「ああ、一緒に帰るさ。地球へ、な」
「あたしは行かない」
「行きたがってたじゃないか。展望台で地球を見るたびに目を輝かせて、『あの蒼い星へ行きたい』って︱︱」
「いつの話よ!? 何もわかってなかった子どものたわごとだわ! 叔父さんは《ガイア》の支配を嫌って命懸けで逃げてきたんでしょ。今になってイカれた人工知能にひれ伏すつもり? 叔父さんの︱︱恋人が死んだのだって、元をただせば《ガイア》のせいじゃない。今さら戻るくらいなら、どうしてわざわざ逃げてきたのよ!?
 マサトは懇願口調で囁いた。
「おまえを連れて行きたいんだよ、ユカ」
「あたしは行かないよ!」
 激昂したようにユカは怒鳴った。怒りでにじんだ涙が蒼い光を反射する。
「あたしが可哀相だから? 本物の景色をひとつも知らないあたしが哀れだから? そんなもの、シンを犠牲にしてまで見たくなんかないよ! 作り物の雪だって、冷たくてふわふわしてて、すっごくきれいだったよ……!」
 言葉を切り、ユカは嗚咽をこらえるようにぐっと唇を引き結んだ。
「……あたし、すごく楽しかった。何故だかわかる? 大好きな叔父さんが一緒だったからだよ」
 マサトのこわばった表情が揺れる。

「もしあたしがひとりだったら。周りに大好きな人たちがひとりもいなかったら。そうしたら、あの雪はあんなに綺麗じゃなかった。あんなに楽しくなかった。︱︱あたしの知ってる空がスクリーンに映し出された記録映像にすぎなくても、それでも夕焼けは綺麗だった。だってあれは、いつか誰かが見た空なんでしょ? きっと、いつか誰かが誰かと一緒に見上げた空なんだよ。それをまた、あたしが誰かと一緒に見上げてる。大好きな、誰かと一緒にね。だから綺麗なの。作り物でも、本物と同じくらい、綺麗なの」
 ユカの瞳から涙ひとすじこぼれ落ちた。
「誰かと一緒に見るから、感動するんだよ。︱︱ねぇ。叔父さんだってそうなんでしょ。心の底から愛してる人と一緒に見たから、だからこそ地球の景色が目に焼きついて、忘れられない……」
 頭の中で懐かしい声が響く。嬉しそうに楽しそうに幸せそうに。優しく響く、彼女の声。
『見てよ、マサト。なんて美しいのかしら』
 微風になびく髪を押さえ、彼女が微笑む。
『本当に地球は美しいわ。こんなにも美しい星を、私たちは危うく失ってしまうところだったのね。人間って本当に愚かだわ。でも、愚かだという自覚があったから、かろうじて踏みとどまることができたのかもしれない。……私、自分がばかだってこと忘れないようにしなきゃ』
 おどけて笑った彼女。それから数日後、彼女はもの言わぬ残骸となり果てた︱︱。
「……ねぇ、叔父さん。綺麗なものならここにだってあるよ。月は、本当は人の住める場所じゃない。だから、この人工の世界で美しいものや心地よいものはすべて、人が努力に努力を重ねて築き上げたものなんだよ。失ってしまったもの。奪われてしまったもの。いつか、取り戻したいもの……。どれもこれも、そんな誰かの想いがこもった景色なの。だから、あたしにとってこの世界は作りものなんかじゃない。叔父さんやシンと一緒に見た景色はすべて本物。大切な、かけがえのない景色だよ︱︱」
 場違いな拍手が響いた。反射的に振り向いたマサトの目に、黒衣の姿が飛び込んでくる。いつのまに現れたのか、そこには漆黒の長外套に黒いサングラスをかけた男が佇んでいた。
 にっ、とかたちよい唇の口端がつり上がる。
「実にしっかりした姪御さんだ。感心しましたよ」
 皮肉を隠そうともしない金属的な音声が一同の耳朶を不快に打った。シンは固い表情でじっと男を見つめた。男の表情はサングラスに隠されて読み取れない。つり上がった唇も仮面じみて、かえって現実味が薄い。
「まさかとは思いますけど今さら『なかったことに』なんて言い出したりしませんよね」
 眼を怒らせ、マサトはぎりっと歯噛みをした。中途半端に降ろしていた銃口を、乱暴にシンの首筋に押し当てる。シンは顔色も変えず、黙然と男の姿を見ている。
「……言うわけねぇだろ」
「叔父さん!?
 ユカが愕然と叫ぶ。無視してマサトはシンを銃口で小突いた。
「歩け」
 逆らわずに従う。マサトは擦り切れたような笑いを洩らした。
「やけに素直だな。どうした、俺を振り切って逃げるくらい簡単だろ?」
 答えないシンに苛立ったのか、押しつけられる銃口の圧力が増した。
「やめて! あたしは行かないよ! 絶対行かないからねっ」
 悲痛な叫びを無視して歩を進める。黒衣の男は後ろ手を組んで木立の前に佇んでいる。背後は木々が重なり合い、暗い翳の森だ。男は仮面めいた笑みを浮かべたまま、シンが近づいてくるのを待ち受けていた。
「止まれ」
 男の数歩手前でシンは足を止めた。ユカの悲鳴が響いた。
「逃げて、シン! かまわないから!」
 シンは動かない。ざわ、と男の背後で森が揺れ、かすかな風が吹きつけた。シンはぴくりと眉を上げた。頭の中でピースがかちりと嵌まった気がした。
「パスと引き換えだ」
 マサトの声に男は微笑み、内ポケットに手を入れた。取り出されたのは、しかしパスではなかった。男の手は玩具のような小型の拳銃を握り込んでいた。瞬間、シンは身をかがめながらマサトを肘で突き飛ばした。ぱん、と玩具じみた音がした。
「叔父さん︱︱!!
 ユカの悲鳴。振り向くと、左腕を押さえてマサトが呻いている。急所を外れたことを素早く見定め、シンはマサトが取り落とした銃を男に向けた。
「何故撃った、D1!」
「︱︱おや。気付いていたか」
 ばかにしたように男が薄笑う。サングラスを外した男の顔に、マサトは目を瞠った。
「てめえはあんときの客……!?
 あらわになった江藤大樹の顔が酷薄な笑みをたたえる。脱ぎ捨てた黒い長外套の下から群青色の制服が現れる。
「記憶を取り戻したようだな、S1—N」
 声が変わる。それはまぎれもなく江藤大樹の声だった。
「D1—E……」
 シンが声を軋ませる。D1は愉快そうに目を細めた。
「わざわざわかりやすいように名乗ってやったのに、気付かないんだからな。呆れたよ。……いや、面白かったな。ぞくぞくした。いつ気付くかと、スリル満点だった」
「何故撃った!?
 シンは語気荒く繰り返した。
「おまえと関わったものは、すべて殺す。最初からそう決めてたからな。もちろん、パスなど端から用意していない。残念だったな、博士」
「くそっ、ふざけやがって……!」
 腕を押さえ、マサトが呻く。シンは苦痛に歯を食いしばるマサトを見やった。早く手当てをしなければ。シンはD1に突きつけていた銃をだらりと下げた。
「……わかった。言うとおりにするから、彼らを見逃してやってくれ。頼む」
 D1は口の端で冷たく笑った。
「信じられんね。《ガイア》に対するおまえの反抗心はテロリスト並だからな」
「だったらまたエンジェライザーをつければいいだろ」
 突き放した口調でシンが言う。マサトはぎょっと目を剥いた。くっ、とD1は失笑を洩らした。
「それでまた殺戮人形に戻ってもいいと? わかっているのか、こいつはおまえを売ったんだぞ。逃げ出してきた地球に舞い戻りたい一心で、おまえを騙したんだ」
 シンは迷いのない静かな瞳をD1に向けた。
「……助けてくれた。失って、二度と手に入らないと思っていたものをくれた。大切な人たちなんだ。死なせたくない」
 マサトは絶句し、自分をかばうように立ちはだかっているシンの背を見つめた。
 落雷のように閃いた。こいつは死ぬつもりだ。俺たちを逃がしたら、どんな手段を使っても死ぬ気でいるに違いない。エンジェライザーを埋め込まれる前に。ただ命令に従って殺戮を繰り返す意思のない『天使』に戻るなど、こいつに受け入れられるはずがない。
 凝然とシンを見つめていたD1の口許が、皮肉にゆがんだ。
「……お優しいことだな。相変わらず」
 呟いた声音に深い憎悪がにじむ。握り込んだ拳がゆるみ、冷笑が浮かんだ。
「だが、その男がエンジェライザーの開発者だとしたら? それでもおまえは同じことを言えるのかな」
 衝撃を受けるシンの顔を見定め、D1はいくぶん気が晴れたように微笑んだ。

第九章 冷たい熱

「……嘘だ!」
 眼を怒らせ、シンはD1を睨んだ。D1は腕を組み、傲然と顎を反らす。
「嘘じゃないさ。根岸雅人はアラボトの研究所に属していた科学者だ。アラボトは《ガイア》本体にもっとも近い。そこの研究員だったということはとりもなおさず彼がかなり上位のエリートだったことを意味する。実際彼は、ある時点までは忠実にして有能な《ガイア》のしもべだった。残念ながらちょっとしたことが元で道を踏み外してしまったがね」
 ちょっとした、こと。頭の芯が憤怒で焼き切れる。マサトはほとんど無意識のうちに身を起こし、シンの手から銃を奪った。
「……ちょっとしたことだと︱︱︱︱!!
 フルオートで銃弾が切れるまで連射する。銃撃音がやみ、空虚な静けさが訪れた。眼を見開いたマサトの手から拳銃が滑り落ちる。
 D1は最前と同じ格好で佇んでいた。その端整な顔には冷たい憫笑が変わることなく貼りついている。空中で静止していた弾丸が、雨粒のようにばらばらと床に散った。
「ばかな……」
「驚くことはないさ。これくらいの防御能力ならS1にだってある」
 シンは怒りを抑え、小気味よさげに笑うD1を見つめた。
「頼む、この人たちに手出ししないでくれ。俺は、あんたと一緒に帰るから」
「もちろんおまえは連れて帰るさ。その前に、おまえがこの月で知り合った人間をすべて抹殺しなくてはならないが。︱︱そうだ、おまえの目の前で殺すというのはどうだろう。まずは、あの可愛らしいお嬢さんから」
 振り向いたシンの目に、蒼白になったユカの姿が飛び込んでくる。
「ユカ︱︱!!
 血の気の失せたユカの背後から女が腕を回し、がっちりと押さえ込んでいた。ナイフがユカの首に押し当てられている。ほんの少し不用意に動かしただけで、頸動脈がすっぱりと切断され血が噴き出すことだろう。ユカは怯えた瞳を脆く張りつめ、硬直している。女が片手で器用にスカーフとサングラスを外し、紅い唇を妖艶につり上げた。
「M1……!」
 押し殺したシンの叫びに、江藤美宇を名乗った女は残忍な憫笑を浮かべた。
「ミ、ミウさん……、どうして……」
 ユカが切れ切れに囁く。M1はほんの少しだけ哀しげに眉を寄せてみせた。瞳の色が変わっている。黒から青磁色に。
「ごめんなさいね、ユカさん。わたし、あのひとの姉じゃなくて部下なのよ。なるべく苦しまないように殺してあげるから。恨むのなら、あなたの優しい彼になさい。みーんな彼がいけないんだもの、ねぇ?」
 ひくり、とユカが喉をふるわせる。切迫したシンの怒声がドームに響いた。
「やめろ! 彼女は関係ない!」
「関係はあるさ。運悪くおまえに関わってしまったんだからな。正体不明の人物なんて、そうそう気軽に拾うものじゃない」
 低声で嗤い、M1に軽く指を上げてみせる。鋭利な先端がやわらかな皮膚に沈む。
「ユカぁぁぁ︱︱︱︱!!
「やめてくれ! 頼む!!
 マサトとシンの叫びが交錯する。シンはがくりと膝をついた。
「頼む……。何でも言うとおりにするから、彼女を傷つけないでくれ。頼む……!」
 床に両手をつき、シンは頭を下げた。その姿を冷然と眺めていたD1の顔に、亀裂のような薄い笑みが走った。
「では、俺を殺せ」
 シンはほうけたようにD1を見返した。何を言われたか、とっさに理解できなかった。かかとを鳴らして歩み寄ったD1は、酷薄な瞳でシンを見下ろした。
「聞こえなかったのか? 俺を殺すことができたら見逃してやるよ。おまえも、おまえに関わってしまった不運な連中もな」
「何をおっしゃるんです、D1!?
 M1が惑乱して叫ぶ。ナイフを押し当てられたユカがひっと息を呑んだ。D1はいきり立つ部下には目もくれず、熱と氷が同居する奇妙なまなざしでシンを凝視した。
「できるだろう? S1。あのときは、俺を殺すつもりだったんだから」
 ぼんやりと、シンは眼を瞬いた。D1を殺そうとしたことなんて、あっただろうか。彼は俺の上官だったのに……?
「何だ、思い出せないのか……。ま、あのときはおまえも相当頭に血が上っていたようだからな。ゆっくりと思い返してみるといい。CRSに逃げたおまえを追ってきたのは誰だった?」
 かつん、とかかとが鳴る。
 非常用のサイレンが鳴り響くCRSの一角。壊れたシャッターの向こうから、ゆっくりと彼が姿を表す。
 かつん。
 かつん。
 炎の色に染まる翼。青みがかった乳白色の生体装甲が、ゆらめく炎を映して輝く。手に何か丸いものをぶら下げて、彼が立ち止まる。その丸いものを、無造作に投げつけられた。足元に転がってきた、それ。ぐるりと半回転して、カッと見開かれた瞳が恨めしげに自分を見上げる。
 切断された、父の生首。ぐっと喉が鳴り、シンは反射的に口許を押さえた。
「…………!!
 足を止めたD1が振り返り、こともなげに言い添えた。
「そうそう。あの首な、行方不明だから」
 無邪気とも言える顔でにこりと微笑む。
「悪いのはおまえだぞ、S1。おまえがCRSの隔壁をぶち破ったりするから、あの辺りにあったものは軒並み真空に吸い出されてしまった。父親の首は今でも宇宙を漂っているだろう。腐ることもなく、絶望の表情を永遠に留めたまま、暗黒の宇宙をさまよい続けるというわけだ……」
 シンの身体がバネのように跳ね上がる。突き出された拳を、D1はこともなげに避けた。しかし振り向きざまに放たれた強烈な蹴りは避けきれず、とっさに腕を上げて受け止める。
 D1の身体がわずかに揺らいだ。シンの蹴りは側頭部を正確に狙っていた。常人であれば吹っ飛ばされ、相当のダメージを負っていたことだろう。
「……なまってはいないようだな」
 ふ、と笑みをこぼした瞬間、D1は反撃に出た。めまぐるしく拳と蹴りが交錯する。わずかな隙を突いてD1はシンの胸部を蹴り飛ばした。茫然とうずくまるマサトの前に転がり、シンは瞬時に跳ね起きて片膝立ちで身構えた。D1が嘲笑する。
「どうした、S1。遠慮している場合じゃないぞ。俺を倒さなければ、おまえに関わった者すべてが死ぬ。ユカもマサトも、あの何とかいうロックバンドのメンバーもな」
 ふいにD1は悪童めいた笑みを浮かべた。
「そうだ。おまえに殺らせるというのもいいかもしれない。エンジェライザーをもういちど埋め込んだら、最初に自分の尻拭いをさせてやるよ。そのとき彼らはいったいどんな顔をするんだろうな」
 うつむいたシンが、歯を食いしばるように呻いた。
「……何故だ。何故、そんなに俺を憎む。俺があんたに何をしたと言うんだ……!?
 D1の表情に、つかのま奇妙な表情がよぎる。怒りと失望がないまぜになったような、どこか子どもじみた表情。それはすぐに消え失せ、冷然と彼は吐き捨てた。

「何もしてないさ。ただおまえが気に食わない。癇に触るんだよ、おまえの存在自体が」
 シンの背後で、血まみれの腕を押さえてマサトが低く笑った。
「ふん。さしずめ劣等感の裏返しってとこじゃねぇのか」
 D1の瞳に剣呑な光が浮かぶ。マサトは血の気を失った顔でにやりとした。
「図星かよ。わかりやすい奴」
「……あんたみたいな身勝手な人に、偉そうに言われたくないな。《ガイア》を裏切ったくせに、自分の都合でまた帰りたがる。そんな願いが叶うなんて思い込んでいたのだから、あんたも相当おめでたい」
 辛辣な冷笑に、マサトは眉を逆立てた。
「おめでたいのはどっちだ。おまえは自分が選ばれた者のように感じているかもしれないが、自分に何の遺伝子が組み込まれているかを知ったら︱︱」
「知ってるよ」
 こともなげにD1が遮る。意表を突かれて黙り込むマサトを、彼は小馬鹿にしたように眺めた。
「エイリアン、だろう? 隕石に乗って地球へやってきた有翼人。そんなこと、今さらあんたに説明してもらうまでもない」
「知っているだと……!?
「エンジェロイドでもおおむね上位二階級に限るがね。S1の所属は上から三番目。知らなくても無理はない。もっとも《パワーズ》は我々の命令を実行に移すだけの実働部隊だからな。知る必要もない」
 マサトは憤激して怒鳴った。
「知ってて何とも思わないってのか!? あのおぞましい、異様極まりない姿を、貴様は本当に知っているのか!? あんなものの遺伝子が混ざっているんだぞ」
「あんたは自分の祖先が猿だからと気分を害するのか? それじゃまるで進化論にヒステリックな過剰反応を起こした大昔の連中と一緒だよ」
 D1は低い含み笑いを洩らした。
「俺たちは厳しい試練をくぐり抜け、選ばれた存在なんだ。遺伝子を操作したからと言って、必ずしも予測どおりに発現するわけじゃない。九九.九%、発現を阻害され、意味のない羅列に組み込まれるか、胎児の段階で自動的に修正されてしまう。異次元の存在に対する拒否反応かもしれないな。あんたのように形質発現しない可能体がそれだ。そして、譬え発現のスイッチが入ったとしても、ほとんどは形成異常を起こして死亡する。《ガイア》が意図したとおりの姿と能力を発揮できる者は、ほんの一握りにすぎない」
 D1は群青色の上着を脱ぎ捨てた。制服の下には、シンと同じようなハイネックのぴったりした黒いシャツを身に着けている。ばさりと空気を打つ音が響き、D1の背に巨大な翼が出現した。かすかに青みをおびた白い翼。傲岸なほど誇らしげに、広がる翼の存在はその場を圧倒した。D1は確信に満ちた口調で言い放った。
「そうさ。俺たちは人間じゃない。それ以上の存在なんだ」
 息を呑んだマサトは苦い嫌悪の表情で吐き捨てた。 
「……てめえらイカレてる。トチ狂った《ガイア》以上にな……!」
「負け犬は好きなだけ吠えていればいい」
 空を打った翼がピンと伸びる。低い虫の羽音めいた振動音が、不快に鼓膜をふるわせた。急激に加速がかかったような衝撃が叩きつけられる。D1は何かを捧げ持つように両手を前にさしのべた。帯電する黒い球体が渦を巻きながら出現した。光ならぬ光、暗黒の照射を受けてD1の顔に不気味な陰影が生まれる。低く喉をふるわせるようにD1は嗤った。
「……有翼人は異次元の存在。その遺伝子は、単なる肉体的能力を超えた力を、我々にもたらしてくれた。我々は望むままに、有翼人の故郷である異次元から『力』を引き出し、自在に形作ることができる。こんなふうに」
 さしのべられていたD1の手が黒光りする球体をひと撫でした刹那、それは激しく放電しながら拡散し、シンに襲いかかった。背後にいたマサトは迫り来る球体から反射的に顔をそむけた。バランスを崩し、床に倒れ伏す。ユカの悲鳴が遠くで虚ろに反響した。吹き飛ばされるかと思ったのに、衝撃は来なかった。マサトは漸う身体を起こして振り向いた。
 白い翼が視界を覆っていた。両足を踏ん張ってマサトを守るように立ちはだかったシンの背中から生える、長大な翼。それはいま、羽毛というよりも鉱物めいた不思議な光沢をおびている。
「シン……!?
 半透明な乳白色の表面を流れる、夢幻的な色彩。まるでオパールのように、その翼は息をのむほど美しくきらめいた。シンの身体もまた、いつのまにか同じような色彩の外殻に包まれている。マサトの脳裏に、月面でシンを拾ったときの光景がよみがえった。あのときも、彼の身体は白蝶貝の内側のようにきらめく外殻に覆われていた。
 両手を交差させて顔を庇っていた彼が、ほんの少しだけ振り向いた。その横顔は同じ光沢の外殻に包まれ、表情を推し量ることはできなかった。

「シン……!」
 涙声で叫び、ユカはM1の腕を振り払おうともがいた。
「放して!」
「おとなしくなさい」
 情け容赦のない力で引き戻される。顎の下にちくりと鋭い痛みが走った。ユカは身をこわばらせ、恐怖と混乱にあえいだ。こらえきれず、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「ど……して……。どうして、こんなことするの……。ひどいよ。シンはあなたたちの仲間なんでしょ……」
 M1の声が頭のすぐ上で冷たく響いた。
「勘違いしないで。裏切ったのは彼の方よ」
「シンに、無理やり人殺しをさせたんでしょ……。いやだったのに。シンは、そんなことしたくなかったのに。ただふつうに暮らしたかっただけなのに……。彼の意思を奪って、利用して。お父さんまで殺した︱︱。どうしてそんなことができるの? 同じエンジェロイドなのに」
 冷やかな哄笑が無残に耳を打つ。
「ばかな娘! 人間が、同じ人間に対してどれほど非道なことをしてきたと思ってるの。まがりなりにも学生なら、知らないとは言わせないわ」
「あなたたちは、『人間以上』なんでしょ。人間が間違ってしまったのと同じことを、そんなあなたたちがするなんて、どう考えたって変だよ……」
 M1はぎりっと歯を軋ませた。
「口の減らない娘ね……! 彼が助けてくれると思っているのなら無駄よ。譬え彼がD1に勝ったとしても、その瞬間にわたしがあんたを殺してあげる。彼はいったいどんな顔をするかしらねぇ? ……いいえ、D1は負けない。今度こそ、必ずS1を倒すわ。息絶えた彼の亡骸にすがって泣きなさい。愉しいひとときをくれたお礼に、気の済むまで泣かせてあげる。それから彼の後を追わせてあげるわ」
「……ぜんぶ嘘だったの? ミウさん。あたし、ミウさんのことすごく素敵なひとだと思ってたのに」
 M1は皮肉な冷笑を浮かべた。
「それはどうも。わたしもけっこう愉しませてもらったわ。すっかり信用しきってるあなたたちの間抜け面を見るのが可笑しくて可笑しくて、もう。ほんと、たまらなかった」
「あたし、信じないよ……。ミウさんが言ってたことが、何から何までぜんぶ嘘っぱちだったなんて、絶対、信じない」
「懲りない娘ねぇ。それとも、自分の幻想にしがみつくタイプなのかしら?」
「だってミウさん、つらそうな眼をしてたもの……」

「︱︱何ですって?」
 M1は意表を突かれ、ユカを見下ろした。
「すごくつらそうだった。あのとき言ってたでしょ。『誰かを好きになるとかならないとか、そんなことは自分の意志で決められるものじゃない』って……。別れた旦那さんっていうのは嘘かもしれない。だけど、あのとき感じたの。ミウさんにはきっと、好きなひとがいるんだな、って……。苦しくて、つらい恋をしているんじゃないか、って……」
 M1はユカの顎を荒々しく掴んだ。
「……賢しらな口をきくものね。本当に癪に障る! ほら、ちゃんと見てなさい。あんたの好きな男が死ぬ瞬間をね!」
 涙で曇る視界に、白い影が瞬いている。ユカはぎゅっと眼をつぶった。少しだけクリアになった光景はまるで非現実的だった。激しくぶつかりあい、反発しあうふたつの影。どちらも流れるようなフォルムの装甲に身を包み、手には剣か槍のような武器を持っている。羽毛に覆われていた翼は今や鉱物か金属のような光沢を放ち、鋭く空を切り裂く。青みをおびた装甲をまとった『天使』の方が優勢のようだ。
 ユカは眼を何度も瞬き、涙を払い落とした。どちらも同じような格好で、顔も見えない。それでもユカには押されている方がシンだとわかった。光線の具合によって変化するオパールのような輝きを放つその外殻に見覚えがある。
 最初から、異質な存在なのだとわかっていた。始めはただ、記憶を失い、頼るものとてない彼が気の毒だった。背に生えた翼は神々しいほどに美しくて。自分たちとは違うのだと、思い知らされもしたけれど。それでも一緒に暮らしていると、まるでふつうの人間としか思えなくなって。
 照れたような微笑みや、怒られてしゅんとした顔。無邪気に感心したり、まごついたり、溜息をついたりするしぐさが何だか気になり始めて。何気なく向けられた黒い瞳の深さに胸がドキドキして。苦しむ彼に何かしてあげたくて。何もしてあげられなくて。だからせめて、いつでも彼の味方でいたいと思った。失った過去で彼が何をしたとしても、けっしてそのことで彼を責めたりしない。
 許すとか、許さないとか、そんなことを言う資格なんて自分にはないから。だから、彼の苦しみをやわらげてあげることはできないかもしれない。いつも肩が触れるくらい近くにいて、いつでもあなたを見ていることを知っててほしい。彼が、悲しみや苦しさや罪悪感で押しつぶされてしまわないように。ほんの少しでいいから手を添えさせて。この手を取ってくれなくても、かまわないから。
「……シン」
 ミウの腕に押さえ込まれ乱暴に顎を掴まれながら全身全霊の祈りをこめてユカは囁いた。
「負けないで。ここに、いるから……」
 あなたの味方が。いつだって、あなたのことを信じてる︱︱。

 身を隠す場所を求め、マサトは必死に這いずっていた。戦闘開始直後からシンは守勢に回り、思い切った攻撃を仕掛けようとしない。ごく最近まで《パワーズ》のエースだったのなら譬え階級が上だろうと、戦闘能力ではD1にひけを取らないはずだ。
 エンジェロイドの能力を正確に把握しているわけではないが、D1の言動からすると、シンは逃亡のさい彼と同等かそれ以上に渡り合ったようだ。上位階級のD1にとって、それはかなりの屈辱だったのだろう。任務を逸脱するほど勝負にこだわっている。D1はすでにマサトの存在など忘れ去ったようで、まったく顧みることがない。シンを倒すためにこれ以上自分を利用する気はないようだ。
(くそっ、ひとをダシに使いやがって……)
 マサトを撃ったのもユカを人質に取ったのも、戦う意志のなかったシンを否応なくその気にさせるため。もはや用済みとなった自分の存在は、かえってシンの集中を妨げ、敵に利することになってしまう。事実、シンが戦いながらもしきりとこちらを気にしていることにマサトは気付いていた。
(ばかめ。自分を敵に売り渡そうとした奴の生き死になんぞ、かまってる場合かよ)
 マサトは胸の内で毒づいた。あいつは本当にばかだ。傷ついた方の腕はもうほとんど感覚がない。歯を食いしばり、力の入らない重い身体を引きずった。入り口を塞ぐように、D1の部下の女がユカを拘束しながら立っている。ふたりとも戦いに気を取られてマサトの動きには気付かない。ようやく壁に背を預け、マサトは上がった息を懸命に整えた。
(……少しはマシになったか)
 マサトが危険地帯から消えたことに気付いたらしい。シンの動作から迷いが消えた。ふ、と力なく笑み、マサトはジーンズの尻ポケットから小型のスタンガンを引き抜いた。抵抗されて銃を奪われたときの用心のために持ってきたものだ。シンは拍子抜けするほど無抵抗で、使うまでもなかったが。
(ったく、俺が極悪人みてぇじゃねぇか)
 自嘲ぎみに苦笑した。事実そうなのだろう。シンはある意味、確かに『天使』のような奴だ。バチッとスタンガンの先端に青白い電流が流れる。思いっきり尻餅をついてしまったが、さいわい故障はしなかったようだ。
 密着して立っているユカと軍服姿の見知らぬ女を眺める。今いる場所は、ふたりからすれば斜め後方だ。首元に刃を当てられて硬直しているユカの姿にマサトは改めてぎりぎりと歯を軋ませた。女と直接面識はない。正体を偽って近づいてきたミウとかいう女だろう。
(あいつもエンジェロイドか……?)
 翼を出していなければ、エンジェロイドと普通の人間は区別できない。記憶では群青色のあの制服をCRSで何度か見かけたことがある。参謀本部に所属する高級士官だ。まずエンジェロイドと見て間違いないだろう。
 普通人よりは高圧電流にも耐性があるに違いないが、装甲に身を包んでいない状態ならつかのまでも行動の自由を奪えるはず。これは小型のわりに高電圧のモデルだ。一瞬の隙を突いてユカを逃がすことさえできればいい。代わりに自分が捕まることは、もとより覚悟の上だ。
 マサトは苦労して上着を脱ぎ、シャツを破いて止血をした。靴を脱ぎ捨て、足音を殺して背後から少しずつ近づいていく。
 もう少し。あと一歩。
 ふっ、と風が耳元を通りすぎる。胸部で衝撃が炸裂し、凄まじい勢いで隔壁に叩きつけられた。ずるずるとへたり込んだマサトの手から、スタンガンがころりと落ちた。
「叔父さん……!!
 ユカが悲鳴を上げる。完璧なバランスで片足立ちしていたM1が、優雅に脚を降ろした。
「……肋骨が折れたみたいね。ごめんなさい、とっさに足加減できなくて」
「叔父さん! 叔父さん、しっかりしてっ」
 ユカの叫びにも、マサトはぴくりとも動かない。泣きわめくユカの首に押し当てたナイフを、ほんの少し滑らせる。薄い傷口から血がにじみ出た。
「おとなしくしないと、もっと深く切っちゃうわよ」
 ぺろ、とM1はユカの首筋をなめた。ユカは涙のにじむ瞳をきつく閉じた。


 ユカの悲鳴に気を取られた瞬間、吹き飛ばされて木立に突っ込んだ。折れた木々を背に倒れると同時に反転して飛びのく。太い幹が粉砕されて木っ端みじんに砕け散った。
「どこを見てる」
 冷やかでありながらどこか熱をおびたD1の声が響く。間髪入れず、長大な槍の穂先が脇腹をかすめた。ぎりぎりで躱して跳ね起きる。とたんに降り降ろされる刃をかろうじて受け止め、脚払いをかけて相手がバランスを崩した隙に後転して距離を取った。体勢を立て直したD1が不敵に嗤った。
「やっと復調したかと思えば、また気を取られているのか……。やはり、あいつらは先に殺した方がよさそうだ」
「やめろ!」
 シンの翼が帯電し、幾筋もの雷撃がD1を襲う。余裕で飛び退き、D1はわざとらしく呆れたように首を振った。
「エンジェライザーがなければ本当に使いものにならないんだな、おまえは。いっそあれが正常に働いているうちに戦いたかったよ。命令すれば、おまえはためらうことなく俺に向かってきただろうに」
「どういう意味だ。逃げるときあんたに傷を負わせたから怒っているんじゃないのか」
 くっ、とD1は笑った。
「もちろん怒っているさ。……そう、あれは最後のひと雫だった。表面張力ギリギリで保っていた水面に落ちた、ささやかで、決定的な最後の一滴︱︱」
 囁きと同時に、D1の攻撃が面前に迫る。息つく暇もなく猛攻にさらされ防戦一方となった。打ち合った衝撃が吸収される瞬間、憎悪をにじませD1は囁いた。
「いつだっておまえは、苦もなく俺を超えていく。涼しい顔で俺を打ちのめし、そのことに気付きもしない」
「何を言ってる……!?
「わからないか。そうだろうな。何も知らずに笑っていたおまえには……!」
 パワーを相殺しきれず、武器が砕ける。肩に叩き込まれる衝撃を逃がしながら、反対側の拳を脇腹に深く突き入れた。瞬間。くぐもった呻きがD1の口から洩れた。
 予想外の反応にシンはわずかにひるんだ。隙をついてD1が身をひるがえす。曖昧だった記憶が断片的に閃く。父を殺され、切り落とされた首を投げつけられ︱︱。
 一瞬で理性は蒸発した。焼き切れた脳髄にあったのは憤怒と狂乱のみ。感情を封じられていたときにはなかった暴虐の衝動に身を任せた。
 そうだ。あのとき初めて自分は、誰かに対して明確な殺意を抱いたのだ。繰り出した長槍の穂先がD1に突き刺さり、肉をえぐり、背に突き抜けた。その感覚が掌によみがえる。
 幽鬼のごとく、D1が囁いた。
「どうした。何故止まる……」
 おぞましい感覚を圧殺するように、シンは掌を固く握り込んだ。
「……俺は、もう誰も殺したくない」
 一瞬の空白。そしてD1は狂ったように哄笑した。
「だからおまえが嫌いなんだよ……!!
 激情にかられた咆哮と同時に攻撃を再開する。傷を負っているとは思えないような戦いぶりは、すでに何もかも振り捨ててしまったかのようにかけらも躊躇がない。
「見ているだけでむかつく! 天使みたいに清廉潔白な顔をして。あんまりむかつくから、大事なものをぜんぶ奪い取って、滅茶苦茶に切り刻んでやりたくなる……!」
「何なんだよ、いったい!?
 狂気じみて理不尽な糾弾に、シンは慄然としながら怒鳴り返した。ぶつかり合い、また離れ、D1は肩を上下させながら嘲るように囁く。
「おまえが知らずにいることを、ひとつ教えてやろう。︱︱おまえは俺に、いや、江藤大樹に尋ねたよな。フレグランスの銘柄について。それに対して、ダイはとても悲しい話を聞かせてやった……」
 シンはカッとなった。記憶を失った自分に何食わぬ顔で近づき、親密さを装いながら裏で嘲笑していたのかと思うとやりきれない。欺いたD1以上に、迂闊だった自分自身に対して腹が立った。あの香りをかいだ瞬間、思い出すべきだったのに。
「愚にもつかない作り話を素直に信じ込む俺は、さぞかし笑えたことだろうな!」
「作り話なんかじゃないさ。俺はほんの少し脚色を加えただけ。とある女が、好きな男をイメージして作ったというのは本当の話だ。ただ、その恋人というのは俺じゃない」
 D1は仮面の下でにやりとした。
「おまえだよ。覚えてないか? おまえはあの日︱︱あの運命の日︱︱、パラシューティングのフライト前に電話を受けた。かけてきたのは誰だった?」
 言葉を失ったシンの脳裏に、人間でいられた最後の日の風景が立ち上がる。何もかもが変わってしまったあの日。自分は、大切な友との約束を果たすために飛ぼうとしていた。直前に携帯へかかってきた、彼女からの電話。
『Happy Birthday!! ︱︱ねぇ、わたし一番だった?』
 誰より最初に言いたかったと、声を弾ませた彼女。
『今日、会えるでしょ? プレゼント渡したいの。︱︱え? やぁね、教えたらつまんないじゃない。楽しみにしてて。︱︱うん。それじゃ、あとでね』
 これが最後になるなんて思いもしなかった、他愛ない言葉のやりとり。渡したいというプレゼントが何だったのか、知る機会はついになく︱︱。
 小気味よさげにD1が笑う。
「そう。あれは、彼女がおまえのために作ったフレグランスだよ」
「何故あんたがそれを持ってる……!?
「さて、何故だろうな。︱︱ところであの娘、名前は何と言ったっけ。今頃どうしているかなぁ。無事でいるといいんだが」
「……!! まさか︱︱!?
 D1はにんまりとシンを見返した。
「言っただろう。むかつくから、おまえの大事なものをぜんぶ奪い取って、滅茶苦茶に切り刻んでやりたくなる、と」
 絶望と怒りで、目の前が真っ赤に染まった。


 ︱︱子どもの頃、とても仲のよい友人がいた。
 何でもよくできる子だった。苦労も努力もなしに、どんなことでも楽々と、そつなくこなしてしまう。勉強もスポーツも万能で、裏表がなく、偏見を持たず、誰にでも親切で優しかった。きれいに整った顔をしていて、真っ黒な瞳は夜空のように澄んでいた。
 まるで天使のようだと、大人は言った。年長者に一目置かれても力や権威に媚びることなく、不正だと思えば誰であろうと時に激しく歯向かった。彼の中には、ダイヤモンドのようにきらめく何か固いものがあったのだ。それに惹かれ︱︱同時に嫌悪してもいた。
 どんなに努力しても、彼には敵わなかった。血のにじむような努力を重ねたところで、彼はいつも自分のはるか彼方の先にいた。彼は最初から手の届かないところにいて、自分には汗のしみた跡もない涼しげな白い背中しか見ることができないのだ。
 決して追いつけない存在。だったらいっそ、物理的にもどこか遠くへ行ってくれたらよかったのに。なのに、彼はすぐ近くにいて、何の屈託もなく無邪気に笑うんだ。
 かけがえのない大親友みたいに、俺に接するのはやめてくれ。おまえの引き立て役なんかごめんだ。おまえの側にいると、自分がとんでもなく無能で間の抜けた阿呆に思えて仕方がない。劣等感と絶望感で死にたくなる。
 背中が痛い。痛くて死にそうだ。
 死にたくない。あいつに負けっぱなしで死ぬのはいやだ。
 一度でいいから、あいつの鼻をあかしてやりたいんだ。一瞬でいいから、あいつを追い越したい。振り向いてあいつの顔を見てみたい。
 いつでも後ろにいると思っていた自分に追い越されたら、あいつはどんな顔をするんだろう。その顔を見られたら、どんなにか爽快な気分になれるだろうに……。
 背中が痛い。骨がギシギシ鳴ってる。
 痛い。
 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
 背中が割れる。骨が軋む。
 バキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキ
 骨が鳴って、軋んで、
 メキメキメキメキメキメキメキメキメキメキメキメキメキメキメキメキメキメキメキ
 皮膚を、突き破る。
 白い骨が。白い羽根が。白い翼が。貧弱な背中には釣り合わぬほど大きな翼が。
 苦痛の涙にぬれた顔で、自分の背から伸びる翼を茫然と見て。
 笑った。
 天使は僕だ。あいつはただの人間で、本当の天使は僕だったんだ。
 勝った。
 あいつがどこにいようとも、しょせん二次元の延長。これであいつを見下ろして笑ってやれる。地を這いずるしかない、あいつを。
 ︱︱そう思って、ようやく長年の溜飲を下げたのに。
 あいつはまた、俺の前に現れた。涼しげにきれいな顔をして。強大な白い翼と、圧倒的な力を持って。違ったのは、輝く黒い瞳がガラス玉のようになってたことだけで。それでもおまえは、またしても俺の前にいた。永遠に消えたはずのおまえ。背中しか見ることのできなかったおまえ。その背に生える翼は、誰よりも美しく、力強く︱︱。
 俺は一目でわかったのに、おまえは何度会っても俺が誰だか気付かなかった。思い知らされた。おまえにとって俺は、小石ほどの重みすら持たなかったのだと。だからおまえが正気だったら絶対にしたがらないことをあえてやらせた。お優しいおまえには耐えられぬであろうことを。
 いつかおまえは知るだろう。その真っ白な羽根の一枚一枚が血の色に染まったら、おまえを正気に戻してやる。その時おまえはどんな顔をするのか︱︱。

「……嬉しいよ。絶望のあまり無抵抗に殺されたりしたら、がっかりだった」
 独り言めいたD1の呟きはシンに届くことはなく、激闘に紛れた。今更ながら、シンの卓越した戦闘力に感嘆する。彼の極めて優秀な頭脳を考え合わせれば、彼は《ガイア》にとって最強の手駒となっていたことだろう。おそらく自分を軽々と追い抜き、《ガイア》に直結する最高意思決定機関《ドミニオンズ》の一員となっていたに違いない。ゆるぎない、ダイヤモンド級の強固な核さえ魂に存在していなければ。
 だが、それがあるからこそ『シン』なのだ。感情を極度に抑制された、ガラスのように意思のない瞳。そんな彼に対して感じた漠然とした苛立ちは、きっとそれゆえだったのだろう。あれはシンではなかったから。だから彼がどれほど汚れていこうと手放しでは愉しめなかった。報告のために出頭する彼と会うたび、妙に胸がちりちりして不快だった。
 だが、今は違う。容赦なく全力で向かってくる。S1ではなくシンが、その瞳を怒りに燃え立たせて。かつて、ついぞ自分に向けられることのなかったむき出しの、激しい感情。それを感じる高揚感はたとえようもない。脇腹の痛みはほとんど感じなくなっていた。驚くほど自在に動ける。それでも、シンに決定的なダメージを与えることはできない。自ら闘ってみて初めて実感した、彼の並外れた強さと鋭敏な戦闘感覚。
 不思議と笑えてきた。初めて闘ったときには、それがショックだったのに。歯ぎしりするほど悔しくて。どうしようもなく憤ろしくて。彼のすべてが厭わしく、呪わしかった。取り逃がした自分が情けなくて、頭がどうにかなりそうだった。どうあっても、この手で必ず彼を殺す。これだけは他の誰にも譲らない。たとえ刺し違えようともこの手で倒す。
 執念で立ち上がり、ここまで来た。相討ちになったとしてもかまわない。それなら俺の勝ちだ。彼を振り向かせ、この手で殺すことができたなら、俺は勝ったことになる。もう二度と、おまえには負けない。絶対に――。
 ……笑える。
 そんな決意、彼にとってはまるで無意味なのに。しょせん俺のひとり相撲にすぎなかったんだ。彼は、ほら、こんなにもあっさりと俺を打ちのめす。子どもの頃と何ひとつ変わっていない。俺は必死に努力して、追いつこうとして。指先がその背に触れるかと思った瞬間、彼は軽やかに地を蹴って、先へ行ってしまう。
 最初から彼の背には、見えない翼があったんだ。それがわかっていたら、もっと早く諦めがついたのかもしれない︱︱。  
 眼前に重なった円錐形の穂先が迫る。身体が動かない。ふいに、ひどく穏やかな心境が訪れた。つねにささくれだち、にじみ出る血に疼いていた心が、諦念にぴたりと凪いだ。認めてしまおう。最初から、勝てるはずがなかったのだと。これで終わる。何もかも……。
 ふ、と笑みがこぼれた。刹那。
「D1︱︱︱︱!!
 全存在をかけた絶叫が響く。視界を塞ぐ淡い桜色の装甲が、鮮やかな血に染まる。頬を張り飛ばされたように、ぼやけていた頭が鮮明になった。
「……M1……!?
 突き刺されたまま傾ぐ副官の身体を背後から抱きとめる。シンは武器を手放し、茫然としていた。

「M1、何を……っ」
 見返す瞳から急速に光が失われてゆく。
「……に、げ、て……」
 たどたどしく懸命に、紡がれる言葉。逃げて。お願いだから。
 死なないで。
 声にならない叫びが、D1の口を突いた。グリーン・ドームの透明な天蓋に、蜘蛛の巣状のひびが走る。とたんに警告音がドーム内に響きわたった。D1は力なく翼を垂れた副官を抱きかかえ、シンと相対した。一度は消えた炎が、ふたたびその瞳に燃えていた。
「……M1に免じて今は引いてやる。だが、次はない。︱︱覚悟しておけよ。次は絶対、負けないからな」
 最後の捨て台詞は、何故かひどく子どもっぽく響いた。記憶の底で、懐かしい友の声が同じ台詞を叫ぶ。自分に指を突きつけて睨んで、やがて破顔して、闊達に笑いだした少年。交わした約束を果たすことなく夭折してしまった、親友。
「……待て! D1︱︱、……ヒロキ……!?
 猛烈な風に、叫び声が紛れる。M1を抱えて飛び立ったD1は天井を突き破り、一気に月面へ飛び出した。空気が吸い出され、ドーム内に発生した旋風で轟々と梢が鳴った。床に倒れ伏していたユカの身体が浮き上がる。
「シン︱︱︱︱!!
 動転した悲鳴にハッと振り向き、シンは必死に伸ばされたユカの腕を掴んだ。
「叔父さんは……!?
 見回すと、無抵抗に突風に流されるマサトの姿があった。意識を失っている。シンはユカの胴に片手を回し、もう片方の腕でマサトを抱え込んだ。早く避難しなければ空気がなくなり、ユカやマサトが致命的なダメージを被ってしまう。非常用の粘液状修復材が射出されているが、破損個所が大きすぎてとても塞ぎきれない。
(シェルターはないのか!?
 しかしこのグリーン・ドーム自体が、いわば緊急避難用の施設なのだ。こんな事態は想定されていまい。
(そうだ、俺たちの乗ってきた飛行艇……!)
 確か今、修理工場に入っているはず。調子が悪いと言うのが本当なのかマサトの嘘なのかわからないが、当面必要な酸素は積んであるはず。急いで森林養成ゾーンの出口へ向かう。ところがゾーンはいつのまにか隔壁で遮断されていた。ドーム天井が破壊されると同時に自動で隔壁が降りてしまったらしい。
 ぶち破ろうにも両手が塞がっている。かといって手を離せば、この風の勢いではふたりともあっというまに外へ吸い出されてしまうだろう。こうなったら金属状に結晶化させた羽根で切り裂くしかない。吹き飛んだ破片は風の流れですべてこちらへ向かってくるが、この状況ではふたりを庇うことができない。
 極端に空気が薄くなり、ユカはすでにチアノーゼを起こしかけている。その頭部を抱え込み、翼を広げた瞬間。
 隔壁がこちら側へたわみ、何かが飛び出してきた。シンは翼でユカとマサトの身体を覆い、飛んでくる破片から守った。シャッターが開く。それは装甲飛行艇の気密室だった。身体を固定し、酸素マスクをした人間がふたり、必死な様子で手を振っている。シンは迷うことなく飛び込んだ。シャッターが完全に閉まるのを待ちきれず、ふたりは自分たちの酸素マスクをユカとマサトに押し当てた。
「タケル……! トモまで……」
 《ムーン・レイカーズ》のギターとドラムが、装甲の消えたシンの顔を見返してそれぞれにやりとする。
「どうしてここに……」
「決まってんだろ。おまえを追いかけてきたのさ」
 タケルは異形の姿をしたシンを見てもまるで飄々とした様子だった。
「なんで……」
「ふふん。俺様がこれと見込んだ奴を逃がすとでも思ったか?」
 絶句するシンに、ぽそりとトモが呟いた。
「タケルはしつこい。たまに、だけど」
 言葉を失っていると、半ば失神していたユカが呻いた。慌てて顔を覗き込むと、ぼんやりとユカは微笑んだ。
「……シン」
 安堵すると、身体を覆っていた装甲が流れるように溶け消えていった。やわらかな羽毛に戻った翼が、くたりと床に伸びる。好奇心に負け、タケルは翼の先端を摘み上げた。トモがすかさず手刀をタケルの額に食らわせた。背後の騒動には気付かず、シンは心配そうにユカを見つめていた。
「大丈夫? ユカ……」
「うん……。それより、叔父さんは……?」
 傷を調べたトモが心配そうに呟く。
「呼吸の方は何とか。でも、早く手当てをしないと。腕の傷と、肋骨もヤバいみたい」
 タケルが内部の扉を叩いてインターフォンに怒鳴る。
「おい、クウヤ! 聞いてただろ、病院に直行だ。もういいだろ、ここ開けろよ」
 シュン、と空気音がして扉が開く。操縦席から振り向いたクウヤの横顔もまた、いつもとまるで変わらなかった。
「マサさんを固定したら、おまえらもとっとと座れ。飛ばすぞ」
「OK!」
 ユカは振り向き、後ろに横たえられたマサトを心配そうに見つめた。並んで座ったシンがその手にそっと触れる。詫びるように眉を寄せ、すぐに離れようとしたその手を、ユカはぎゅっと握りしめた。シンの手にやさしい力がこもる。
 肩が触れ、ぬくもりが近くなった。少しずつ、安堵が胸に落ちてきた。

終章 歌おう、あふれだすままに

「わ。ずいぶん降ってきた」
 何気なく窓の外を眺め、ユカは目を丸くした。シンと並んで鈍色の曇天を見上げる。
「珍しい~。こんなに降るなんて、ツクヨミ・シティじゃ滅多にないよ」
 ふたり揃って、しばし無言で空を眺めた。雪空を見上げたまま、ユカは呟いた。
「……この空は本当の空じゃないって叔父さんは言ってたけど。それが事実なんだってわかってるけど。それでもあたしは嫌いじゃないんだ。だって、この『空』があるから生きて行けるわけだし」
 ね? とシンを見上げる。彼は淡く微笑み、頷いた。
「たぶん、地球も同じようなものなんだろうな。あのごく薄い大気圏が天蓋となって守ってくれなかったら、地上では誰も生きて行けない。でも、地上で暮らしていると、それを意識することは滅多にないんだ」
 もしかしたら、天井があることを自覚しながら暮らしている月面人の方が、ずっと意識が高いのかもしれない。地上では、自分たちが当たり前に享受しているものがどれほど奇跡的な恵みであるのか、その価値を知ることは困難だ。
「なくしてから、それがどれだけ大事だったか気付くってこと、けっこうあるよね」
 物思いにふけるように、ぼんやりとユカが呟く。シンの胸に鈍い痛みが走った。『当たり前で大切だったもの』を、どれだけなくして来ただろう。かつて当たり前だったものはすべて失われ、もはや手の届かない遠いものになってしまった。なくしたものに想いを馳せるとやりきれない。
 シンは無心に雪を眺めているユカを見た。二度とそんな想いをするくらいなら。失う前に、手放してしまった方がいい︱︱。
 振り向いたユカが、にこりと笑う。
「だからよかった。なくしてしまわなくて」
 さらりと投げられた言葉に、虚を衝かれる。ユカはほんのり頬を染め、うつむいた。
「……ごめん。やっぱり無理」
「え……?」
「好きにならない方がいいって言われたけど。ちょっともう、手遅れ、かも」
「ユカ……」
「きっ、気にしないで! これはその、あ、あたしが勝手に……、だから、そういうこと気にしないで、ここにいれば、いいんだよ。もしその……、ここにいるのが、いやじゃなかったら……」
 耳を赤くしてしどろもどろに呟くユカを、シンは黙って見つめた。
「……いやじゃないよ」
 はっと顔を上げたユカに、シンは眉根を寄せて囁いた。
「いやじゃない。だけど、ここにいたら、きっときみに迷惑をかける」
「そんなこと︱︱」
 抗議の声を上げるユカの首筋に、そっと手を伸ばす。細いうなじに巻かれた白い包帯が痛々しい。
「きみを危険に晒して、ケガまでさせて……」
「こんなのただのかすり傷だよ! 仰々しく包帯なんか巻かなくても、絆創膏で充分。ほんとに大したことないんだから」
「でも、怖かっただろう? 彼らの言葉は決して脅しじゃない」
「それは……怖かったけど。でも……、シンのこと信じてたから。だから、怖かったけど、怖くなかった」
「ユカ、俺は︱︱」
「関係ないよ!」
 大声で遮り、ユカはあっけに取られるシンを目頭を潤ませて見つめた。
「……どうせ、自分は人間じゃないとか何とか言うんでしょ。そんなのどうでもいいよ。だってシンにはちゃんと心があるんだから。それは、シンの翼は確かに綺麗だと思うけど、別になくたってかまわない。あたしは、ふつうに喋ったり考えたり働いてたりするシンのことが好きなの。だから︱︱、だから、そんな理由で逃げないでよ……!」
 恥ずかしそうに、あるいは悔しそうに唇をふるわせるユカを見つめていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。それはユカの手が伝えてくるぬくもりと同じ温度で、どうにもならない孤立感を溶かしてくれる。
 頬に触れ、瞳を覗き込む。この世界で目覚めたとき、最初に自分を認め、とまどう手を引いて導いてくれたのは彼女だった。まっすぐに自分に向けられるこの瞳がなかったら、記憶を失ったまま今でも不安と孤独に怯えていたかもしれない。
 ふるえる睫毛がそっと伏せられる。引き寄せられるように顔を近づけた瞬間、ごつっ、とシンの側頭部に何かが激突した。ころころと、白い床をリンゴが転がる。
「…………!?
 頭を押さえて振り向くと、ベッドに横たわったマサトが半眼でじーっと睨んでいた。
「四十五センチ以内に近づくなと言ったろうが。羽根が生えてるだけあって、頭もトリ並らしいな」
「お、叔父さん。起きてたの……」
 顔をひきつらせるユカを、マサトはじろっと見やった。
「ったく。重傷を負った保護者の目の前でいちゃつくとはいい根性してるぜ」
「だ、だって寝てると思って……。別にいちゃついてなんか」
 いったいいつから聞いていたのか。赤面するユカを不機嫌そうに眺め、マサトは横柄に顎をしゃくった。
「おい、シン。リンゴ剥け」
「は、はい」
 シンは慌ててリンゴを拾い、ベッド脇のテーブルからナイフを取り出した。
「コラ、剥く前に洗わんか! 床に落ちたんだぞ」
「す、すいません」
 怒鳴られたシンは言われるまま、洗面台でいそいそとリンゴを洗う。ユカはげんなりと溜息をついた。
「もう、叔父さん。シンに八つ当たりするのはやめてよね」
「八つ当たりじゃない。こいつのせいでケガしたんだ」
「叔父さんが肋骨折ったのはシンのせいじゃないでしょ! 撃たれたのだって、元を正せば叔父さんが悪いんじゃないの。シンのこと売ろうなんてするから……」
「ユカ。もういいから、ね」
 微笑んだシンが軽くたしなめるように言う。ユカはしぶしぶ引き下がった。マサトもやはり後ろめたさはあるようで、むっつりと口を閉ざした。シンが剥いたリンゴを楊枝に刺し、もそもそ三人でかじる。
「……ミウさん、どうしたかな」
 何の気なしに呟くと、シンが眉を曇らせた。ユカは慌てて口を押さえた。マサトがフンと鼻を鳴らす。
「あんな女、知ったこっちゃねぇ。ひとを騙くらかしてユカに傷を負わせた挙げ句俺の肋骨まで折りやがって。とんでもねぇ凶暴女だ。危うく蹴り殺されるところだったぜ」
「でも、あのひとのこと庇ったんだよ。ダイ︱︱じゃなくて、D1だっけ?」
「上官だろ。条件反射じゃねぇの」
 ユカは楊枝の先を噛んだ。それだけとは思えない。あのときユカを突き飛ばすようにして飛び出したM1の︱︱ミウの悲愴な叫び。
「助かると、いいな……」
 祈るような呟きに、シンは黙って頷いた。
「あ。ねぇ、シン。そういえば、D1のこと、最後にダイじゃなくて別な名前で呼んでなかった?」
「……ヒロキ。中学までずっと一緒だった、いちばん仲のよかった友だち」
「D1がその人なの?」
「わからない。俺の知ってるヒロは十四歳で死んだから」
「死んだ……?」
 シンは憂鬱そうに頷いた。
「突然学校に来なくなって、どうしたのかと思ってたら、病気で亡くなったと……。その少し前に、背中が痛むとこぼしてた」
「シンも背中が痛いって言ってたよね」

「うん……。もしかしたら、エンジェロイドの形質発現だったのかも。︱︱CRSでD1に初めて会ったとき、ヒロキに似てると思ったんだ。そのときには、俺はもうエンジェライザーの作用で感情が極端に抑制されていた。何か好意のようなものを感じたとしても、それを表すことはできなかった……」
 マサトが憮然とした顔でぱきんと楊枝を折る。
「要するに逆恨みだろ。久しぶりに再会したらすっかり忘れ去られてて、頭に来たってわけだ」
「そんなこと言ったって、シンは彼のことを死んだと思ってたのよ!? 本人だなんてわかるわけないじゃない」
「まったくガキだねぇ。おまえら幾つよ」
「二十一です……」
「だったらもっとオトナになれよな」
 偉そうに説教するマサトに、シンは神妙に頷いた。
「すみません……」
「シンに言っても仕方ないでしょ! もうっ、シンもなんで謝るのよっ」
 憤然と叫ぶと、ノックもなしに病室のドアが開いた。
「おっ、元気そうじゃん」
 《ムーン・レイカーズ》の面々が、どやどやと入ってくる。マサトはうんざりと顔をしかめた。さして広くもない病室は、たちまち一杯になった。相部屋が塞がっていたので個室に入れられたのだが、同室者がいたらいい迷惑だ。
「ユカ、具合どうよ」
「平気平気。縫ったわけじゃないしね。ちょっと打ち身が痛いだけ」
「あ、マサさん、これ見舞いっス」
 タケルが差し出したのは、黄色い小菊の花束だった。
「なんで菊……。俺はすでに仏様か」
「だからかすみ草にしようって言ったのに……」
 トモが眉を寄せて呟く。マサトはぴくりと耳をそばだてた。
「まさかかすみ草だけってことはないよな?」
 沈黙。トモは表情の読みにくい顔でじっとマサトを見た。
「……だめ?」 
「かすみ草ってのは添えものだろ! サシミ抜きでツマだけ持ってきてどーすんだよ」
 好きなんだけど、とトモはわびしげに呟いた。ユカはマサトを睨んだ。
「言い過ぎだよ、叔父さん。痛くてイライラするのもわかるけど、トモが飛行艇を出してくれなかったら、今頃もっと大変なことになってたかもしれないんだよ」
 グリーン・ドームに突っ込んでマサトたちを収容してくれた装甲飛行艇はトモの持物だったのだ。正確にはトモの実家の、である。
 ユカとの連絡が途中で切れ、追いかけようとした《ムーン・レイカーズ》の三人はトモの実家に立ち寄った。ここだと言われてクウヤが小型トラックを停めたのは、とんでもない大豪邸の前だった。
 敷地を囲む鉄柵は延々と続き、果てが見えない。ひときわ巨大な門扉の向こう、遥か彼方に城と見紛うばかりの壮麗な邸宅がそそり立っている。
『……やけに長い柵だと思ったが』
『俺、てっきり公園だと……』
 クウヤとタケルが茫然としているあいだにトモは門扉の真っ正面に立った。何をしたわけでもないのに、幾つもの錠が次々に解除され、ゆっくりと門が開く。戻ってきたトモを乗せて敷地に車を乗り入れる。中古のおんぼろ小型トラックが走っては申し訳ないような風景だ。やっとの思いで玄関にたどり着くと、両開きの荘厳な扉が重々しく開いた。
 倉庫のドアが開いたくらいの気軽さで入っていくトモの後をおどおどしながら付いていく。蝶ネクタイに燕尾服を着た青年が奥で待ち受けていた。おそらく二十代の後半か三十代の始めくらいだろう。彼はトモに向かってうやうやしくお辞儀をした。
『お帰りなさいませ、トモエお嬢様』
『ただいま』
『お嬢様ぁ!?
 タケルとクウヤは同時に素っ頓狂な叫びを上げた。
『おま、おまえ女だったのか……!?
 振り向いたトモは、かすかに困ったような顔をした。
『……うん』
『名前、トモキだろ!?
『トモエ。タケルがエとキを勝手に見間違えたんだ』
 ああ、とクウヤは納得した。たぶん、エの真ん中の縦棒が、上下の横棒から若干はみ出していたのだろう。
『おまえの字が紛らわしいんだ! ってゆーか女!? 嘘だろ、だって胸が全然な……』
 わめいたタケルの後頭部を、クウヤがすかさず張り飛ばす。
『何すんだッ』
『トモエ様は正真正銘、当家のお嬢様でございます』
 完璧な笑顔で燕尾服の青年が保証する。
『で、あなたは?』
 尋ねたクウヤに、青年は会釈をした。
『わたくしは当家の第三執事、陸宮と申します。どうぞお見知り置きを』
『第三!? ってことは執事が三人もいるのかっ』
『四人。第一執事の上に執事長がいる』
 淡々とトモが言う。
『どういう家だ、ここ……』
『クガ、ドーム外に出るから飛行艇を使いたいんだけど。なるべく頑丈で速いやつ』
『かしこまりました。ただいますぐにご用意いたします』
 驚きもせず胸に手を当て、陸宮第三執事はにっこりと笑った。
「︱︱というわけで、すぐにご用意されちまってなー……。まぁ、お蔭でどうにか危機一髪間に合ったけど」
「本当に助かった。︱︱ね? 叔父さん」
「う~ん。レンタル飛行艇はグリーン・ドームごとあの嘘つき天使どもに壊されちまったからなぁ」
「あれだって、トモが手を回してくれたから、補償しなくて済んだんだよ。大変だよ、あんなの買ったら」
「わかってるって。……ありがとよ、トモ」
 トモはほんのりと笑って首を振った。
「いつも、よくしてもらってるから」
 はぁ、とタケルが不貞腐れたような溜息をつく。
「それにしても、まさかトモが女だったとはなぁ……」
「今までまったく気付かなかったなんて、自分でも信じられん」
 タケルとクウヤはそれぞれ異なるポイントに衝撃を受けているようだ。超のつく大金持ちだったことにはそれほど重きを置いていないのが、妙に彼ららしくもある。ユカもトモは男の子だとばかり思っていたので、正直かなり驚いた。女顔だな、とは思っていたが、まさか本当に女の子だったとは。
「……女だったらだめなの?」
 ぽつん、とトモが問う。タケルとクウヤは目を丸くし、ぶんぶん首を振った。
「んなこた言ってねぇよ。おまえのドラムは最高さ」
 うんうんとクウヤもめずらしく素直に頷く。無表情なトモの顔に、はにかんだような笑みが広がった。
「……よかった」
「シン、ひょっとして気付いてたの?」
 驚いた様子がないので訊いてみる。シンはとまどい顔で頷いた。
「と言うか、みんな知ってるとばかり……」
「何でわかったんだ?」
「何でって……。だって女の子だし、見ればわかるよ」
 だいぶん見ていてもわからなかった人たちは、一斉に気まずく沈黙した。
「……シンは目がいい」
 トモが相変わらず起伏に乏しい声で呟く。ムッとタケルが眉をつりあげた。
「俺、視力二.〇だぞ。クウヤよりずっといいんだ。視力だけはな!」
「だけは、なんて自分で言うか普通。だいたいそういう問題じゃない」
「いちいち細けぇんだよ。もっとおおらかになれ」
「大雑把なおまえにだけは言われたくないね!」
「何をぅ!?

「…………おまえら、ケガ人が寝てる脇でよくもそうぎゃあぎゃあと」
 不穏な低声がどろどろと響く。菊の花束を胸に抱き、マサトが胡乱な目付きで一同を見回した。
「ピーチクパーチクうるっせーんだよ! 隣に迷惑だろうが。お喋りならよそでやれ! ︱︱ユカ、付き添いはいらんからおまえも帰れ。心配しなくても美人の看護師が世話してくれる」
 ユカは肩をすくめた。このぶんなら大丈夫だろう。
「はいはい。じゃあ、また明日来るね」
「あ、そうだ。マサさん、もひとつお見舞い」
 タケルはディスクを一枚差し出した。
「何だこれ」
「俺らの新曲。こないだシンが歌ったの、録ったんで。暇つぶしに聴いてください」
「え! あれ録音してたのか!?
 帰り支度をしていたシンがぎょっと振り向く。にやぁ、とタケルが不気味に笑った。
「実はしてたのさ~。ガレージは潰れたけど、幸いマスターディスクが無事だったんで、コピーして事務所の担当者にも渡したから」
「何でっ」
「新ヴォーカルはこいつなんでよろしく、ってことで」
「そ、そんな勝手に……」
「うるせぇって言ってんだろ!」
 マサトが怒鳴る。一同はあたふたと病室から飛び出した。
「シン! ちょっと来い」
 尊大に呼び止められ、シンは及び腰でベッドに歩み寄った。
「何でしょうか……」
 手招きされ、身体を傾ける。とたんにぐいと耳を掴まれた。
「いいか。俺が入院してるあいだにユカに手を出しやがったら、ただじゃ済まさんからな。てめえが天使だろうが悪魔だろうが、ぶっ殺してやるから覚悟しとけ」
「だ、出しません、絶対出しませんっ」
「本当だろうな」
「本当です! い、痛いですマサトさん痛い」
 フン、と鼻を鳴らし、マサトは手を放した。病室の外で待っていたユカは、耳を押さえてしょんぼり戻ってきたシンを心配そうに見つめ、振り返って眉をつりあげた。わざとらしくしっかと腕を組み、シンを引き立てて行くユカを横目で睨んでいると、クウヤがドアを閉めながら思い出したように言った。
「そうだ、マサさん。ここの看護師、八割方は医療用の高性能アンドロイドだそうですから、ナンパするときは御注意を」
「……どうやって見分けるんだ?」
「耳の後ろにバーコードがなければ人間ですよ。それじゃ、また見舞いに来ますね。今度はもっと静かに」
 にっこり笑ってクウヤはドアを閉めた。ぽかんとしているうちにそのドアがふたたび開く。ちょっといいなと思っていた美人の看護師がにこやかに入ってくる。
「根岸さん、点滴変えますねー。ご気分はいかがですかー」
「あー……、いいような悪いような」
 きびきびと立ち働く看護師の後ろ姿を見上げた。すっきりと髪をまとめ、ほつれ毛のあいだから耳が覗いている。
 振り向いた看護師は、不思議そうに小首を傾げた。
「どうかなさいました?」
「い、いえ何でも。……人生ままならぬものですねぇ」
 虚脱した笑いを上げ、マサトはベッドに深く沈み込んだ。
「はぁ? ︱︱あら、綺麗なお花。生けて来ましょうか?」
「ご親切にどうも……」
 それからしばらくのあいだ、マサトは黄色い菊を虚ろに眺めて過ごしたのだった。

 ユカは降りしきる雪の中を歩いていた。交通網が乱れているようで、バスもタクシーもなかなか来ない。待っていても寒いだけなので、駅まで歩くことにした。《ムーン・レイカーズ》の三人は喋りながら前を歩いている。手袋を嵌めた手でユカはシンの手を握っていた。自分の手袋を片方貸そうとしたが、シンの手には小さすぎた。
「手、冷たくない?」
「あったかいよ」
 微笑んだシンの手を握りしめる。それからまた、無言で歩いた。さくさくと、降ったばかりの雪が足元で軋む。
「……約束を、したんだ」
 シンが、ふいに呟いた。
「約束? 誰と?」
「ヒロキだよ。中学に入ったばかりの頃。パラシューティングの映像を見て、やってみたいね、って。いつか絶対、一緒に空を飛ぼうと約束した。でも、約束を果たす前に彼は死んでしまった……」
 シンは胸が詰まったように言葉を切った。さくさくと、足音だけが立ち上る。
「……ヒロキの命日は、俺の誕生日だった」
 ユカは反射的にシンの横顔を見上げた。彼は少し顎を浮かすようにして、雪の向こうを眺めている。
「毎年、誕生日が来ると約束を思い出した。……大学に入って、パラシューティングを始めた。十九になる日、やっと約束を果たせると思った。一緒に写ってる十四歳のときの写真をポケットに入れてジャンプした。でも、どうしてだか主傘も予備も開かなくて……」
 ユカはその場に居合わせたような恐怖を感じ、思わずシンの手を握りしめた。
「ああ、自分は死ぬんだな、と思った。意識が遠のいた瞬間、ヒロキの顔が浮かんだような気がした」
 雪を踏む。雪が降る。
「あのとき俺は、確かに死んだんだろう。鳴沢信という人間は、望みもしなかった翼を得て、この世から消えた。ヒロキという人間も、きっと同じように『消えた』んだ」
 雪が顔にあたって溶ける。涙のように流れる。真白い雪を踏みしめながらユカは呟いた。
「シンはここにいるよ。あたしの知っているシンは、今、ここに」
「……うん」
 こみあげる塊を押さえつけるように囁く。
「消えないで……」
「消えないよ」
 シンは立ち止まり、ユカに向き直った。少し冷えた唇が触れた。離れると、ぬくもりが残った。歩きだす。ふたたび。しばらくして、シンが独りごちた。
「……しまった。マサトさんに殺される」
 ぷっとユカは噴き出した。涙が少しにじんだ。
「黙ってればわかんないよ」
「いやでもあの人、勘が鋭いから」
「っていうか、シンは嘘つけないもんねー。すぐ顔に出る」
 前を行く三人が足を止め、振り返って大きく手を振った。
「なぁ、コーヒーでも飲みながら打ち合わせしようぜ」
「打ち合わせ? 何の」
「決まってるだろ、次のライヴのさ。新しい練習場所も探さなきゃなんないし」
 追いついたシンは、小さく息をついた。タケルが眉をしかめつつ、懇願するように見上げた。
「……やるよな? 一緒に」
 トモとクウヤも、黙ってシンを見つめている。シンはもうひとつ息をついた。今度は、根負けしたような笑みを浮かべて。
「やってみるよ」
「ぃやったぁっ」
 タケルが満面の笑みで飛び上がる。
「とりあえず、一回だけ」
「言ってろ言ってろ。どうせやめられやしねぇから」
 すっかりご満悦のタケルはトモと手をつないで雪の中をくるくる躍った。いつも表情に乏しいトモが珍しく頬を紅潮させ、目を輝かせている。
 クウヤはポケットに手を突っ込み、呆れたように頭を振りながら後を追う。その後ろから、シンとユカは並んで歩いて行った。降りしきる雪は冷たくて寒かったけれど、つないだ手はいつまでも温かかった。


     †

 小さなライヴハウスは、お世辞にも一杯とは言い難かった。新生《ムーン・レイカーズ》の初ライヴの観客は、大部分がメンバーの友人か知り合い、そのまた友人と知り合いといったところだ。
 ユカも高校の友人を連れて来た、というか頼み込んで来てもらった。マサトはまだ入院中なので来られない。あとで録音ディスクを持って行ってあげよう。最初はさして興味なさそうだった友人たちもライヴが進むにつれて乗ってきたのがわかってユカは嬉しかった。
「けっこういいじゃん、このバンド」
「そうでしょそうでしょ」
「あのヴォーカルの人、かっこいい~。声もいい~」
「そ、そうね」
 嬉しいけど、ちょっとだけジェラシーを感じたり。終盤に差しかかり、タケルがマイクスタンドを握る。MCはほとんどタケルが務めていた。シンは緊張しているのか照れているのか、ほとんど喋らない。歌はまったく危なげなかったが。
「えー。今日は《ムーン・レイカーズ》のライヴに来てくれて、本当にありがとう。最後に新曲をやりたいと思いまーす」
 にかっと笑い、定位置に戻る。タケルが頷くと、シンがそっとマイクに囁いた。
「……Cry for the Blue Moon 。蒼い月が昇る場所」
 静かなイントロにシンの声が重なる。

 あの月が 昇るのを見た?
 動かない あの蒼い月
 なんて遠い場所まで 僕らは来てしまったのだろう
 きみと一緒に 少しだけ 泣いた

 空白。
 一転、タケルのギターが炸裂し、囁くようだったシンの声がしなやかに伸びる。
 翼を広げたかのように。

 いつか見た 薔薇色の蒼い月
 照らされたきみの横顔 声もなく 通りすぎて

 人は僕らを 愚か者と呼ぶのだろう
 かまわない それでも 僕らは手を伸ばす
 真っ黒なあの空に昇る 蒼い月に

 Blue Moon  なんて綺麗な
 初めて見た あのときの
 声にならない衝撃
 今もこの胸を 叩いてる
 どうして僕らは ここにいるのかと

 あの月にいた 知らない記憶が 僕らを揺さぶる
 それはきっと 未来の記憶……

 愚か者よと 笑われても あきらめない
 この気持ち きみはわかってくれるはず
 あの蒼い月が ほしいんだ
 蒼い 蒼い あの月が

 いつかきみと翔ぼう あの蒼い月へ
 愚かな僕らは信じてる
 いつか が きっと来ることを
 だから歌うよ 声の限りに 歌うよ
 Cry for the Blue Moon

 いつか帰るよ
 いつか眠るよ
 いつか泣くよ
 いつか笑うよ

 だから今は ただ 歌おう
 この気持ち 忘れないように歌おう
 Cry for the Blue Moon
 Cry for the Blue Moon
 Cry for the Blue Moon  ……

                                     〔了〕

後記

 どうも、こんにちは。『ディアボリック・エンジェル』はいかがでしたでしょうか。お楽しみいただければ幸いです
 子どもの頃よく見てたTVアニメで、等身大の変身ヒーローが好きでした。
 特に好きだったのはタツノコプロの『新造人間キャシャーン』。「キャシャーンがやらねば誰がやる」という悲壮感あふれるキャッチコピーに幼心をうるうるさせたものです。
 それからだいぶん経って、何故か大学生の頃、同じくタツノコプロの『宇宙の騎士テッカマン・ブレード』というアニメに嵌まりました。
 これまた悲壮な話でねぇ……。思いっきり端折ると、赤の他人を守るために家族全員を殺す、みたいなすごい話でした。
 結局、悲壮な話が好きなのですね、私は。うん、今どき流行らないね(笑)。
 はい、そんなわけで変身ヒーローです。
 宇宙人由来のウィルスで、感染すると全身の骨が変形して死ぬか、翼が生えて『天使』になるかのどっちか、という究極の二者択一(しかも当事者に選択権なし)。
 こう書くと何だか馬鹿みたいな設定ですな……。
 その他にもいろいろと「趣味ですが、何か?」的な要素てんこ盛りです。そんな偏りまくりのお話ですが、少しでも楽しんでいただけたら望外の喜びです。
 この後の展開では、すったもんだの末、ヒロインとバンドの面々は地上に降りて旅芸人となります。
 いや、冗談じゃなくて、ホントにそういう流れなのよ。『天使』ならぬ異常覚醒の『悪魔』が出てきたり、ね。実際に書くかどうか不明ですが、一応構想はあります。万が一書いた場合はご笑覧いただければ嬉しいです。
 表紙はイタリアのサンタンジェロ城のミカエル像の写真を画像ソフトで加工したものです。著作権フリーの画像を使わせていただきました。ありがとうございます。
 それでは、また。最後までお読みいただき、ありがとうございました。   鷹守諫也 拝

ディアボリック・エンジェル

2012年11月27日 発行 初版

著  者:鷹守諫也
発  行:櫻嵐堂

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Written by 鷹守諫也

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