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物极必反
「物事は極点に達すれば必ず逆方向に動き始める」
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私たちは地震が突然起きたときに青山学院大学の正面にいました。それが東京の震源地ではないということはわかって、どこか、遠くの、そしてひどく大きい地震だ、とすぐに思いました。赤ん坊は眠ったままで起きませんでした。でも、すごく揺れていましたね。私の20歳になる娘は世田谷の伴茂の事務所で働いている建築学科の学生ですが、彼女は私たちとは一緒にいませんでした。携帯電話は回線が落ちてしまったのでしょうか、使えなくなっていました。そこでフェイスブック経由で連絡をとり、私の友人が黒のヴィンテージのフェラーリを運転して、彼女を迎えにいきました。カリンや彼女の友達を助けたわけですが、みんな(車に)驚いていましたね(笑)。交通渋滞がどこでもひどく、新宿では消防車が目的地にたどり着けないようでした。確実に機能しているものは何もなかったのです。
人々は歩いて家路につきました。それで私たちはテレビを見たら、福島の原子炉のシステムが3時間のうちに機能しなくなると言っていました。これは大変だ、と思いました(笑)。お父さん、どういうこと?つまり6時間でメルトダウンするっていうことだよ。在日外国人たちが騒ぎはじめました。何が起こるのか分からなかったのでしょう。彼らはパニックを起こし始めました。翌日には私たちは京都に移り、1ヶ月をそこで過ごすことになるのです。
京都に着くと、街の雰囲気はすごくメロウで、まったく違っていました。東京と違って食事もいつもと変わらず、スーパーマーケットに商品がいつもの通り並んでいました。東京では、食料品、電池、水、みんな店先から消えていました。気違いじみていました(笑)。街で友人のヨネと偶然会いましたが、彼は何が起こっているのか分かりかねているようでした。「原子力発電所がメルト・ダウンを起こして、爆発するかもしれないんだ」と言いました。家に帰ってパッキングしたほうがいい、レインコートを着た方がいい(笑)。塵や埃がつき易い素材のものではなく、って。
悪夢が現実になっていきました。今日は新宿でデモがありましたね。こういうことが起こると知っていた人もいて、何年も警告していたのに誰も真剣に受け取らなかったのです。97年に私は「チャイニーズ・シンドローム」というシングルをリリースしたのですが、誰も気にしませんでした(笑)。原子力発電所が日本中にあるのだから、事故は起こるべくして起こったのです。狂っています。政府とか役人は最初から事態を矮小化しようとしていました。まるで「大丈夫、大丈夫、大丈夫、ほんとうに起こったことを知るまで、大丈夫」と言っているみたいでした。彼らは最初からメルトダウンだと知っていました。メディア統制、パニック・コントロールだったのでしょう。四六時中いい加減なことを言っていました。最初から「キャスケットは無事です。水蒸気が漏れだしているだけです。健康にはすぐには問題はありません。しかし、長期に渡る被爆については、私たちはまだ分かりかねます(笑)」なんて言っていたのです。3ヵ月後になって「メルトダウンと分かっていました」という発表がありました。嘘つき野郎どもです。今でも私たちが東京に留まるかどうか分かりません。いつも最後の夜を過ごしているように話しています。水や汚染について心配です。誰も次に何が起こるか知りません(笑)。原子炉の完全なメルトダウンというのは、人類が始めて直面する事態なのですから。どこか遠くへ逃げるべきなのではないでしょうか?でも、どこに逃げても、汚染は追いかけてくるのかもしれません。
でも、いつも移動していましたね。何もあなたにとっては新しいことではないのではないでしょうか?USツアー、ロンドンの暮らし、だからまた移動するのではないでしょうか?
時には移動しなくてはいけません。ローリング・ストーンズの歌のようですね。選択の余地はありません。そのようにして京都に行ったのです。パッキングなしで、避難のときは何も必要がなくなります。ヘッドフォーン、サヴァイヴァル・ファッション(笑)、アヴァン・ギャルドな服装(笑)、パンクというのは移動にはとても適したスタイルだったのですね。多くのジップやポケットがありますから(笑)。毛皮やハイ・ヒールはいりません。そうですね、スケート・ボードもだめでしょう(笑)。大阪と京都はのんびりしていました。まるで何も起こってなかったかのようでした。東では緊張度がすごく高いのですが、でも、西ではテレビを見てはいるけど、ことさら事態を把握できている、というわけでもなさそうでした。NHKとか、TV番組です。なんで彼らは嘘を流しているだけなのに、受信料をNHKに払う理由があるでしょうか?(笑)。金がチャリティに使われていきます。私自身に今チャリティが必要なぐらいのです(笑)。東京には全然今お金がありませんし、なんでみんなが中国に行くか分かります。でも、私のフランス人の友人が言うように「中国で働くぐらいなら、死んだ方がましだ!」です(笑)。もし北京に行けば、お金を儲けられるでしょうが、いまのところは行く気はありません。今ハウイーBが中国で働いています。映画のサウンド・トラックを作っているのです。
今私は本を書いています。プラスチックスについてだけではなく、ニューウェイヴの前後の時代について。私はプラスチックスを1976年に始めました。その頃原宿に面白い動きがあって・・・今はGAPがある場所ですが。レオンというコーヒー・ショップがあって、そこにみんなが集まっていたのです。鋤田正義もそうです。彼はデヴィッド・ボウイとT-レックスの有名な写真を撮影しましたね。ハジメもいました。ピカソやダダイズムの頃のパリのカフェ・フロールやドゥ・マゴみたいな、一種のカフェ・ソサイエティです。東京ではカフェ・シーンは重要で、たぶん、60年代と70年代の原宿で始まったのだと思います。人数的には少ない、たぶん、20人から30人ぐらいでしょうか?いつも会っていました。それがグラム・ロック・シーンが始まったきっかけだと言えるのではないでしょうか。それ以前は新宿で、政治と赤軍にみなどっぷりとつかっていました。ビートルズとサイケデリック文化が盛んで、みながマリファナを吸っていて、いつ逮捕されてもおかしくなかったでしょう。僕たち原宿の方は、ロキシー・ミュージックの初期とか、デフ・スクールというバンドにいれこんでいました。もう少し美術学校的で、ジョン・レノンっぽくなく、ビバみたいな20年代ぽいファッションをしていて、少しフランス趣味もあったのでしょうか?もっとエキセントリックでした。新宿スタイルはジーンズ、警官や機動隊への投石、暴動、僕たちはそういうものに興味のない少数の人間だったのでしょう。それから数年のうちにすべてが気違いじみていきました。赤軍のハイジャックがあり、60年代のピークで、ストリート・ファイティング・メン、パリのカルチェ・ラタンと同じように青山学院の学生たちも投石を始めたのです。投石がクールな行為だったのでしょう(笑)。それよりも若い世代だった私たちは、5歳ぐらい全体として若かったのでしょうか?でも、学生運動に入れ込んでいた友達もいました。ハジメ、ヤン富田、坂本龍一・・・。彼らはみな僕よりも年上で、まぁ、僕は弟みたいなものだったのでしょうか。僕たちはニューヨーク・ドールズやキッスが好きでした。
その頃、海外の音楽を探すのはそう難しいことではなくて、竹下通りに輸入レコード店のCISCOのお店がありました。ロキシー・ミュージックのレコードも売っていて、みんな輸入盤でした。西武百貨店にもCISCOのお店が1968年からはいっていて、品揃えもよくて、どんなレコードでも買えたし、高くもありませんでした。というか、実際には国内盤のほうが高かったです。どういうことでしょうか?(笑)。日本にはこういう雑誌があって(70年代のミュージック・ライフ誌を見せる)、これは確かキディ・ランド(東京の有名な玩具屋)で買ったのですが、というのは、昔地下では洋雑誌を売っていたのです。そうやって50年代に商売を始めたたのです。代々木公園に駐屯していた米兵のための本屋として商売を始めて、クリスマスに本国の子供たちに送る玩具を兵士がほしがったので、キディ・ランドは玩具を扱うようになったのです。原宿は宇宙の中心でした。なんでも買えました。本、レコード、インターネットはなかったけど、何が海外で起こっているのかは知っていました。ファッションも同時進行で、グラスという店があって、そこではT-レックスのTシャツなんか売っていました。
パリとは違っていますね。それほど海外のものを買うのは簡単ではなかったのです。何ヶ月も遅れて、ようやくレコードが数少ない、限られた店に入荷するという具合でした。
セルジュ・ゲーンズブールは特別扱いですか?(笑)。それはロンドンを嫌うフランス人のメンタリティからくるものだと思います(笑)。東京と大阪みたいなものでしょうか。愛と憎しみの関係です。たぶん、近すぎるのだし、他の街の人間には自分たちのことは理解できっこないと思うからでしょうか。レッド・ツェッペリンがパリで演奏したけど、誰も見に来なかったという話があります。すごい客が少なかったと。80年代でも。トラブル・ファンクがパリに来たときも、誰も来なくて、アフリカの人や黒人ばかりだった、と聞いたことがあります。ロンドンとはまったく違う客層です。アフリカ・バンバータやマドンナだって、パリのファッショナブルな人種、カール・ラガーフェルドは「ハナにもかけてない」(笑)。まったくフランス人的です。日本人は好奇心がいっぱいで、それに「アメリカが1番」というコンプレックスもあります。黄金時代ですね。たぶん、私たちが、プラスチックスもそうですが、アメリカに属していない最初の世代、自分たち独自のスタイルをつくりあげた第一世代なのではないでしょうか。
トーキング・ヘッズとはどうやって出会ったのですか?
ハジメと私は、グラフィック・デザインのバックグラウンドがあるのです。私たちは美術学校に行っていたのです。日本に来るバンドのためのツアーのパンフレットの仕事をいっぱいやっていました。XTCとか、それからトーキング・ヘッズのツアーのパンフレットのデザインの仕事を依頼されたのです。それをデヴィッド(バーン)が見て気に入って、彼らの次に予定されていたシングルのジャケット・アートとかそうしたもののデザインを依頼してきたのです。それから「僕たちと同じマネージメント・オフィスに新しいバンドでB-52'sっていうバンドが契約したんだけど、彼らの日本公演用にデザインを頼めるかい?」と聞いてきたのです。私たちはデザイナーとして仕事を始めたのですね。プラスチックスのデモ・テープは持っていて、デヴィッドはそれを気にいって、トーキング・ヘッズの公演の前にかけたりしていました。彼らが私たちをUSに紹介してくれたのです。同じエージェンシーに所属しました。トーキング・ヘッズと同じマネージャーでした。私たちは日本対策というのではなくて、ニューヨーク/USとはすぐに密な関係を結べました。それからUSツアーを3回しました。
ニューヨークはその頃いろいろなことが起こっていましたね。
ニューヨークは重要でした。バスキアとか他のアーティストと関連していて。でも、「昨日の夜はほんとにニューヨークでビッグ・スターになったな」と思ったとしても、それはそれだけなのです。ただ、昨日の夜に起きただけで(笑)。ウォーホーリアンの15分の名声、でしかなくて、昨日の夜、そして他にはなにもないのです。それがニューヨークです。ニューヨークでの成功はなにも意味しません。ビッグ・アップルでの出来事で、合衆国の他の地域とは何の関係もないのです。あなたはノース・キャロライナとかネヴァダでも有名でしょうか?難しいです。ニューヨークは重要ですが、それは何を意味しているでしょうか?なにかが実際に動くなるようには、合衆国ツアーを3回か4回しなくてはないりません。MTV以前の話です。どこへでも行かなくてはなりませんでした。ラモーンズ、B-52's、トーキング・ヘッズ、彼らは合衆国ツアーを3回していました。ニューヨークでは、ブロンディがビッグでした。でも、田舎に行くと誰もブロンディのことなど気にかけていませんでした。パリも同じでした(笑)。ネブラスカとかテキサスとかでいい反応があったときに初めてリアルだ、と言えたものです。でも、プラスチックスはニューオーリンズでは全然受けませんでした。こういう経験がバンドを鍛えて、いい演奏をさせるようになるのです。でも、私は毎晩同じことを繰り返すのは嫌だったので、毎日少しずつやることを変えることにしていました。毎晩同じこと、それも50都市で繰り返すのは退屈です。フェスティヴァルでも同じです。ツアーをやると正気を保つのが大変なのです。それがプラスチックスをやっていて直面した問題でした。ツアーをやればやるほど、正気を失っていきます。どうすればいいでしょうか?(笑)。ローリング・ストーンズを見てください。馬鹿げています。(ツアーの)技術屋さんにいっぱい払わんなくてはならないので、別にお金は儲かりません。Tシャツのほうが音楽より儲かるぐらいです。人々がどうやって音楽でお金を儲けているのか、全然見当もつきません。
あなたがユニクロからオファーを受けて蹴ったのを覚えています。「やりたくない」と言っていましたね。
大企業のせいで誰もがハッピーなわけではありません。工場労働者の問題もあります。悪循環です。別に関わっていい気分のものではありません。広告は最悪です(笑)。そのうえ、提示された金額も別にたいしたものではありませんでした。
藤原浩氏についてはどう思いますか?あなたがた2人はメジャー・フォースで一緒に働いていましたね。今では彼はナイキやリーヴァイスのコンサルタントをしていますね。
長い間音沙汰がなかったのですが、実は最近彼から電話がありました。音楽を一緒にまたやることになると思います。彼が電話してきたとき驚きました。でも、とても落ち着いた様子で、意味ないことは一切言わなくて。この共同作業がどうなるか楽しみです。実はその前までは、彼が何かを裏切ったのだと思っていました。たぶん、パンク・スピリットをです。彼はパンクだったわけです。人が「僕はこれを買った、あれを買った」と聞いているのはそれほど面白いことではありません。彼が最近言っているのは「今日は僕はCDについて、それからカー・ステレオについて大きな決断をしました」とかいうことですね。一体どういうことでしょうか?時々、全部を失うといいと思うこともあります。そうするとまた彼はパンクになれるのではないでしょうか?年をとると、所有しているものが多くなりすぎます。歴史もありすぎで、守らなくてはならないことが増えるのです。エリック・クラプトンが言っているみたいに「このギターを持ってます」というような戯言です。私は全部売りました。ヴインテージ全部です。今使っているモデルは全部学生用のものばかりです。インターネットで一番安いモデルです(笑)。311のあと、ほぼすべてを売ってしまいました。救いになりました。ほんとうによかったと思っています。壊れやすい古いものを所有して手入れするのは苦痛でした。もうヴィンテージ・ギターには興味はありません。今では新しいもので十分です。それにヴィンテージ機材はステージで時々調子が悪くなるのです。手入れに本当に手間ひまがかかります。311のあと、そういうことを気にすることができなくなりました。ギターに真剣なわけではありません。ただの道具です。収集するべきではありません。使うべきものです。そうでなけば、意味はありません。
ファッションはどうでしょうか?
ファッションも同様です。自分で着るか、もしくは誰か着る人にあげるべきです。博物館に飾ってある蝶の死骸ではないのですから。くだらない。ジョニオも浩も、(持っている服を)着ろよ(笑)と言いたいです。ファッションは何が起こっているのかついていくのが大変ですから、そのうちにマネー・ゲームになりがちです。莫大な売り上げを達成するのも困難です。麻薬のようです・・・もっと、もっと、と。ジョニオがある時点からほんとうにお金が入り続けるのが大変だと言っていました。彼は確かに90年代はほがらかとは言えませんでした。
宣伝のためにプラスチックスの歌の使用許可を求める人もいるのではないでしょうか?ノーと言いますか?
もちろん「イエス!」と言います(笑)。SONYサウス・アメリカ・・・「アイ・ラヴ・ユー、オー・ノー」はフランスとベルギーで使われました。
なぜ90年代にロンドンに行ったのでしょうか?
ロンドンのほうが、多くの機会があったからです。SONYは莫大な予算をメジャー・フォースに費やしていました。日本のバンドにとって、イギリスで成功する、アルバム契約をする、というのは大きな出来事だったのです。元々はニューヨークに行くつもりだったのですが、ニューヨークは育児に最適の場所とは言えませんでした(笑)。公園に行って、注射針を見つけたくはないでしょう。既にロンドンには友達がいました。ハウイーB、ネリー、ネネ・チェリー、いい関係がありました。パリには音楽産業はありませんでした。LAは選択のうちでした。でも、私たちはLAが大嫌いだったのです(笑)、私がデヴィッド・リンチの映画が大好きなのにも関わらず。私は彼と会ったことがありませんが、メジャー・フォースのシンガーだったジョセリンはツイン・ピークスやデヴィッド・リンチのほとんどの映画を手がけているプロデューサーと結婚したので、コネクションもありました。彼女はビバリー・ヒルズの素晴らしいフランク・ロイド・ライトの邸宅に住んでいました。いい趣味ですね(笑)。ジョセリンはでもパンクなので、彼女の部屋はパンク流にちらかっていました。LAは美しすぎます。管理されすぎています。イタリアン・シェフとか、そういうくだらいことが多すぎます(笑)。人工的すぎる。私が彼女の家を訪れたときに、彼女の旦那が来客簿にサインをしてほしいと言ったのですが、私の前に書いてあった名前はトム・クルーズとか、そういう感じで驚きました(笑)。誰もが映画業界に属していました。産業です。LAはなにか馬鹿げていました。ロンドンはよかったです。トリップ・ホップが起こっていました(笑)。モー・ワックスも起こっていました(笑)。金があったのです。
トリップ・ホップはお笑いぐさだと思っていますか?
トリップ・ホップはそうですね、冗談でしょう。一体、トリップ・ホップとは何だったのでしょうか?ドラッグをとりすぎたヒップホップですか?(笑)。ビョークでさえちょっとトリップ・ホッピーでしたね。
どうしてトリップ・ホップとメジャー・フォースのほうへ移っていったのでしょうか?
プラスチックスとメジャー・フォースの間にメロンというバンドを結成したのです。私たちはニューヨークへ行き、ヒップホップの最初の兆しを見たのです。マルコム(マクラーレン)とダック・ロックです。サウス・ブロンクスにも行きました。何もなく、すべてが荒廃していました。そこで映画も撮影しました。アフリカ・バンバータがヒップホップの最初の兆しでした。「プラネット・ロック」です。私たちは彼のライヴ/DJをペパーミント・ラウンジに見に行きました。ステージでは彼が808ドラム・マシーンをいじくっていました。それにはさほど感心しませんでした。黒人がテクノをやってるんだな、と思ったのです。しかし、ダンス・フロアは面白かったのです。(ニューヨーク)シティ・ブレーカーズ、ロック・ステディ・クルー、あんなものはそれまで見たことがありませんでした。ヘッド・スピンとかブレイク・ダンスです。大きな衝撃を受けました。日本に帰ると私はブレイク・ダンスについて話しました。誰も理解する人はいませんでした。そのうち映画「ワイルド・スタイル」の公開があり、ロック・ステディ・クルーが日本にやってきました。あの映画は教育的な意味があったと思います。どのようにブレイク・ダンスするのかを見せたのですから。高木完は当時60年代風なサイケデリック・ロックをやっていたのですが、私は彼に「そんなことをやっている場合じゃないぞ、みんなニューヨークじゃくるくる回ってるんだぞ」と言いました。彼は「何を言ってるんだ?」といった感じでしたが、ロック・ステディ・クルーを見てすぐに分かったようでした。「すごい」と。浩もそうでした。すぐにのめり込んでいきました。そしてみながヒップホップに夢中になっていったのです。浩はマルコムに聞いて、マルコムは彼にサウス・ブロンクスで起こっているすべて、スクラッチとかミックスとかを教えました。それで東京でヒップホップが始まったのです。ロンドンでも同様でした。ほんの少しの人しかニューヨークで何が起こっていたかを理解していませんでした。アフリカ・バンバータのシングルを買うと、翌週にはグランドマスター・フラッシュのシングルがリリースされていました。「何かが起こっている」まさにそんな感じでした。コンピレーション・アルバムで「ラップ」というのがヴァージン・レコードからリリースされました。でも、ニューヨークの街や路上で起きていたことに比較なんかできないようなものでした。ニューヨークのラジオを録音したテープばかり聞いていました。ラテン・ラスカルズとかです。マルコム、私、浩・・・当時ヒップホップにのめり込んでいたのはそうは多くなかったのです。「ワイルド・スタイル」は特に重要で、ファブ・ファイヴ・フレディも日本に来たし、レディ・ピンクも来ました。みな原宿のピテカン・クラブでプレイしたのです。私たちがプラスチックスのあとに始めたクラブです。リップ・リグ&パニック、UB40、誰もがそこでプレイしました。でも、2年しか続きませんでした。
ハジメはヒップホップにのめり込んでいましたか?
「いや、全然そんなことはありませんでした(笑)。彼はプリンスにもマイケル・ジャクソンも別に好きではなかったでしょう。彼は少しばかり三島(由紀夫)みたいなところがありましたね。ナショナリスティックでね(笑)。彼はジェームス・ブラウンは好きでした。60年代ソウルが好きで、ヒップホップは好きではなかったでしょう」
その頃のファッションはどうでしたか?
「ヒップホップの時代には、ファッションはとても重要でした。私はミックス・マスターと書いたゴールド・チェーンをニューヨークのダウンタウンで買って、東京にもって帰りました。ロンドンでもそんなものを身につけている人はいませんでした。つまり、本物のブリン・ブリン、14Kのヒップホップ・ゴールド・チェーンですが・・・(スタイリストでBUFFALOの)レイ・ペトリが雑誌のi-Dにスタイリングをしたときに私のベルトを借りていったのを覚えています。ロンドンはカスタマイズされた黒のMA-1ジャッケットと盗んできたメルセデスやワーゲンのエンブレムががすごく流行っていました。誰もお金なんてもっていなくて、駐車してある車から盗ってきていたのです。ビースティ・ボーイズのマイクDみたいに。東京では浩と(高木)完のタイニー・パンクスがアディダスのトラック・スーツをファッション・ステートメントとして初めて着た人間だと思っています。私も彼らに倣いました。私はトゥループにすごい凝っていました。その頃ソウルIIソウルのネリー・フーパーがカンゴールの事務所に電話してタダでカンゴールを手にいれることを思いつきました。彼はそういうすばしこいところがありましたね。私たちのスタイルはヒップホップとヴィヴィアン・ウェストウッドのワールズ・エンドのマッシュ・アップというところでした」
「ヨージ(ヤマモト)が好きでした。サテンのイエローの服を作ったときですが、グラム・ロック的で。私にはコム・デ・ギャルソンは退屈ですね。ブラック、ブラック、ブラック、非対称で。(佐藤)チカはほんとうに好きでしたが。私にとってはジュンヤ(ワタナベ)がやっていることは、ヴィヴィアン・ウェストウッドを黒を強調して追従しているだけのように思えます。ヒステリック(グラマー)はアメリカ的です(笑)。ですが、(デザイナーの北村)ノブは好きです。彼は私よりも若くて、武道館でのプラスチックスのコンサートで、ハジメに向かって叫んでいたんですから。
ハジメはロック・スターなんですね。
「いつでも優れた存在でいようとしていたし、興味深い存在であろうとしていました。新しいことを試そうとしていました。カッティング・エッジであろうと。でも、毎回は彼にプレッシャーはすぎたと思います。だから、鬱になってしまうんです。いつでもがんばりすぎて、また完璧を求めすぎるのでしょう。彼の『クールなイメージ』が壊されてしまうことをいつも恐れていますが、私に言わせれば、『そんなクールなイメージなんて過去30年間持ったことないから、気楽になれよ』といったところでしょうか。『ああ、すっきり』と(笑)。私たちはミック・ジャガーとキース・リチャーズのような関係かもしれません。クールになる必要はありません、チルしていれば十分です。何が今クールか、藤原浩に尋ねる必要はありません。かわりに私に聞いてください。エリック・クラプトンに何を着るとクールなのか聞く必要はありません」
それは最高のファッション・アドバイスですね
「そうでしょう(笑)。ハジメはいつもHF(藤原浩)に何がクールなのか聞いています。スニーカーとかなんとかです。やりすぎなのでしょう。だから鬱っぽくなってしまうのです。弱いとは思いません。私は彼のことがよく分かるんです。アルバムを作るたびに、(ミュージシャンは)一体こんなくだらないものを聞いてくれる人はいるのだろうか?なんて自問自答するものなんです。でも、どのみち誰も聞く人なんていないのだから、チルしてればいいんです。ビートルズになる必要はありません。やるべきことをすればいいのです。私はもうクールになる必要はありません(笑)」
昨年プラスチックスのライヴを見ました。エネルギーは特別だと思いました。でも、若いシンガーを加えたのは驚きました。マドモワゼル・ユリアです。
「ユリアを加えようとというのはハジメのアイデアです。私のではありません。でもそうですね、特別ゲストを加える必要はなかったかもしれません。ユリアとかホテイとか・・・」
ホテイをステージに迎えることは「一体何だこれは?何が起こっているんだ?」という意味でよかったと思います。
「あの晩、私は熱があって体調が悪かったのです。ハジメの調子がいいと、私が病気になるんです(笑)。20年もやってますが、それがバンドというものです。大げんかもしましたが、今はいい関係です。自由に話しあえるし『それはくだらないよ 』なんて言うこともできます。曲をこれからもレコーディングし続けます。私が歌詞とメロディを書きます。彼がコードをやります。ライティング・チームとはリアルなのもで、レノン=マッカートニーもキース=ジャガーも、私とハジメも同様です。早く書くとこもできます。1日に10曲とか。でも、彼がすぐに自分を他人と比較しはじめ『デヴィッド・バーンよりもいい曲を書かなきゃ、YMOよりもいい曲を書かなきゃ』なんて考えだしたら、私は彼に『行っていいよ、YMOに参加しなよ。君がいなくても大丈夫だから』と言うでしょう(笑)」
チカはバンドを離れましたね
「彼女がオリジナルのプリマ・ドンナです。今はハジメがそうです。私はいつも2番手なのです(笑)」
あなたはスピリチュアルですね?
「80年代に初めてバリ島に行ったときにスピリチュアリティに興味がわきました。今ではバリ島はプラネット・ハリウッドみたいですね。テクノなビーチ・リゾートです。でもその当時はまるで別世界でした。具体的にはすべてをはっきり覚えてない体験をそこでしたのです。科学では説明できないことがあるのだと確信しました。細野晴臣も私に同じことを話してくれました。彼は魔術に入れ込んでおり、だから彼のバンドはイエロー・マジックというのです。彼は魔術師です」
ドラッグは重要ですか?
「日本ではマッカーサーがマリファナを禁じたので、日本人はドラッグに目を向けるようになりました(笑)。ドラッグは昔は日本にそこら中にあったのですが、特に日本人は気にしていなかったのです。ある意味でドラッグと音楽は同じ言語を共有していると言えます。でも、どちらにせよ、ドラッグなしで創造的である必要があります。作家のコリン・ウィルソンがドラッグとは単なる明かりなのだ、と言っていますが、とても適切な言い方だと思います」
正直でなくてはいけませんね。
「私はそういう意味でキース・リチャーズとジョン・レノンを尊敬しています。正直さ、人間的であること、くだらない誤摩化しのないこと。彼らと一緒に育ったわけですから。ボウイーも正直だと思います」
キースと会ったことはあるのですか?
「80年代に私は(ニューヨークの)リッツ・クラブから道を渡ったところに住んでいたのです。キース、パティ、ボウイー、スーザン・サランドンが毎晩いましたね。クラフトワークがライヴをやったときにキースも来ていたのを覚えています。でも、その頃は大ファンではなかったのです。年寄りだぐらいに思っていました。ジョニー・サンダーズとかを私は気にいっていたからです。キースがクラブの終わった朝に、ゴミ箱を覗き込みながら歩いているのに出くわしたことがあります。気取りがないな、と思いました。多分、なさすぎるかも知れません(笑)。ウチのドラマーはキースにこっぴどくやっつけられたことがあります(笑)。でも、ローリング・ストーンズに夢中だったことはないのです。その頃ほんとうによくないアルバムを出していました。『エモーショナル・レスキュー』です(笑)。ニューヨークのダウンタウンでヴィデオ撮影していましたが、ちょっと恥ずかしいような感じでした。ミックがかっこ悪い服を着ていました。麦わら帽子に襟の開いているシャツです。まったく趣味の悪い」
ボウイーもですか?
「ハジメはボウイーが日本からロシアに行く船に同乗していたことがあるのです。その後ボウイーに会ったときに、彼が私たちに『最近はプラスチックスで何をしているのですか?』と聞くので、ハジメが『あなたの曲を演ってるのです。"Be My Wife"、と言うと、『いやいやいや、それは止めた方がいい。自分たちで曲を書いたほうがいい、あの曲はよくない曲だ」と答えました。ボウイーがほんとうに私たちに自分たちの曲を書くように奨めてくれたのです。コピーするな。同じ車にいつも乗るのがいいわけじゃない、と。ブライアン・イーノとボウイーはいつも冗談を言い合っていました。ブライアンはロンドンで隣人でしたが、彼は写真的な記憶力を持っていました。最後に会ったときは家には50人ロシア人のストリッパーがいるんだけど、ここに来るまでに道に迷っちゃってね、なんて言ってましたね。彼はこのロシア人のストリッパーのバッキング・バンドという冗談が好きでしたね。私は『その通りだね、ブライアン!』とか言ってました(笑)。
何か最近エキサイティングなものはありますか?ここにある古い雑誌を見てください。これを見るとどのくらいの割合でバンドが失敗するのか思い出されます。たぶん80%ぐらいでしょうか?プロモーション、広告といったものにもかかわらず彼らは消えていったわけです。私ですら名前を知らないバンドがいます。誰も気にしてないのです。日本でも同じことです。音楽についていうなら、私は日本で何が起きているのかあまり気にしていません。誰かがフェイスブックで新しいバンドについてポストしています。イギリスのトマトがヴィデオをやったそうです。でも、音は最悪です」
もう誰も何も期待してないのかもしれません。80~90年代には、人々はMTVに露出したがっていました。
「プラスチックスで演奏し始めた頃は、客が唾をとばしてきました。それはノーマルなトレンディなことだったのです。親しみの表現といいますが、唾をかけることが・・・前技みたいなものです。もしビール缶を投げなかったら、パンクではありません(笑)。パンクは非常に危険でしたね。東京ではみんな客が椅子を投げていましたから。でも楽しかった。今ではずっと安全です。リンキン・パーク?いい加減してください、あれはパンクとは言えません」
レディ・ガガは人気がありますね。
「レディ・ガガは音楽的には退屈なのですが、ファッションなのです。(マドモアゼル)ユリアに聞けばクールかどうか教えてくれるでしょう。私にはただただ過剰なだけです。いっちゃったクラウス・ノミみたいです」
ヴォリュームは重要です
「最近のバンドは『やかましい』ということに関して誤解があるような気がします。ほとんどはマスターベーション的にやかましい、だけなのです。言っていることはわかりますか?コンプレッサーをかけすぎなのです。制限のあるやかましさ、みたいなことになってしまいます。とてもとてもやかましい、のとは違います。コンプレッサーがかかっていると、コード変化も聞き取れなくて、なんかピシューーーという音が聞こえてくるだけなのです。でも、レッド・ツェッペリンは違います。とてもとてもやかましいです。糞やかましいんです、いいですか?(笑)もうそういうことは体験しなくなってしまいました。だからやかましさの違いも分からなくなってしまいました。すごくやかましいのと、マスターベーション的にやかましいのは違うのです。私はレッド・ツェッペリンが武道館でほんとうにやかましかったのを覚えています。
インタビュアー: Antonin Gaultier
翻訳: 荏開津広 for De Rigueur
あなたのアーティストとしてのプロフィールは、書くのに決して短くも簡単でもありません。あなたの文化的背景と学歴はとても多様で、おそらくそれ故にあなたの作品は簡単には分類を許さないのでしょうし、また幅広い分野やメディアを楽しく横断するのでしょう。あなたの経歴とアーティストとしての軌跡を簡単にお聞かせ頂けますか?
思い出せる限り、僕は始めからアーティストになりたいと思っていたのですが、身近な環境にはその様な刺激はほとんどありませんでした。僕はイギリスのコーンウォール州セント・アイヴスの出身で、そこは1930年代から60年代にかけて大変重要な国際的アートシーンがあり、テート美術館が街に建てられたのもその記念なのですが、しかし僕が育った80年代と90年代はそういうアヴァンギャルドな気質はほとんど残ってはおらず、ただフィッシュ&チップスと観光客だけでした。僕の育ったところでは、アートとは歴史であり、形式ばった彫刻や抽象絵画のことであって、現代への連続性は皆無でしたが、アーティストの不名誉な伝記がセント・アイヴスには息づいていて、彼らの作品というよりはそれらにとても触発されました。例えば、女性彫刻家のバーバラ・ヘップワースは、ベッドで煙草を吸っていてそれで小屋に火がついて亡くなったのですが、その悲惨な逸話を学校の先生たちが僕らに煙草を吸うのをやめさせるために使ったり — 効果はなかったですが。とにかく、要点としては、私的で平凡なアーティストの人生が、彼らの作品が美術館の素材となった後にも重要なこととしてずっと残っているということで、この彼らの伝記との私的な繋がりが、僕に彼らのモノを通じてではなく彼らの人生の物語の文脈の中で彼らを見るようにしたのだと思います。
アートを勉強したくはありませんでした。というのも、熟練になるという意味では、それは勉強したり習ったりできるものだとは本当には信じていなかったからで、そこで建築科へ進んだのも、興味を持っていた建築、人類学、物質、空間、歴史を、建築学がすべて結合させるように思えたからです。それは僕にとって大変もどかしい時期でしたが、最後には実り多いものだったと分かりました。というのも、建築科で学んだ技術は人生に対する実用的な視野を与えてくれ、それはその時の僕に必要なものだったからです。僕はかなり夢見がちな子供でした。
シアター/パフォーマンス作品の「The Boy Who Cried Wolf」の中であなたは、演技については才能が無かったけれども監督業に親しみを感じると分かってきた、また自分が演じることのできる役は自分自身だけであるという結論に行き着いた、とおっしゃっています。
実際に、あなたの作品ではご自身の経歴が目立って登場し、 フィクションと事実の境目がしばしば意図的にぼやかされています。広範囲にわたるメディアや手法の中で、さまざまな自分の可能性、サイモン・フジワラが何者たり得るかという別の様相を提示しています。
「彼の意図するところは、歴史を再解釈することと変化する歴史を提示することの双方である」、と東京の現代美術館があなたのことを書いています。フィクションが自己分析の方法となり、実際に自己の本質になるかもしれない。アイデンティティの概念の探求があなたの作品の中核にある、と言うと単純すぎるでしょうか?
僕は対立する項目としてフィクションと現実の違いを理解したことはありません。一方のコンセプトが他方無しには存在し得ないことは明確で、これが私が探求している難問といえます。つまり、これは一見学術論文のように見えますが、僕は物語を組み立てていく過程においてほとんどそれらの違いを考慮することはなく、また多くの小説家や映像作家など物語を語る仕事に従事している人々と同様に、これはより多くの場合、作業している架空または現実の構造についての何らかのアイディアというよりは、「信憑性」に対する忠誠心なのです。実際に僕は、座って純粋に自分の想像力だけで創作すること(それがもし実際に可能なのであれば、の話ですが)を面白いと感じたことはめったになく、いつも「現実」に根ざしたところから、より正確に言えば、個人的に関わってきた経験からスタートします。
それは自分の旅であったり、出会った人であったり、それが起きたと一般に受け入れられている歴史的事実など・・・けれども僕は、はっきりとした情報に欠け、上手く記録されておらず、解釈の余地がある出来事に常に引き込まれます。伝記というのは大変実り多く、それは物語の中心が人間であり、人生がどれだけ不条理で、豊かで、多次元なものであるかは計り知れないからです。別のアイディアの探求のために自分自身の経歴を使う時もあれば、誰か他の人の一代記のこともあります。誰か特定の人に常に関心を持っているというのでもなく、自分が特に面白くてたまらないと思うというのでもなく、個人というものがもたらす構造、つまり他人を語る声、というものを面白いと感じ、また共有の経験に引きつけられるのです。徐々に分かってきた事は、僕の作品は個人を無くしたことによる深部に根差した不安から出てくるということで、それは政治的な力や商業主義、iPad、ポルノ等のようなものではなく、どちらかというと個人的な「異なって」いることへの恐れや、疎外されること、誰もが同じで遥か昔からあることです。僕は2つの島国文化の産物で、それはイギリスと日本、どちらもよそよそしく、様々な度合いで非常に国粋主義的で、そして同時に小さくしきりに何か大きいものの一部になりたがっている。それが何らかのかたちで影響しているのだ、と僕は思います。
あなたの場合のアイデンティティとは、多文化な経歴の持ち主であること(あなたはイギリス人と日本人のハーフですね)や同性愛者であることなど、本質的に文化的・政治的懸念に結びついています。この様なテーマについての探求は広大な領域を提示しますが、その中であなたは様々な分野を使用して自分の仕事(パフォーマンス、舞台デザイン、演劇、建築についての執筆・・・)に情報を与えて最高の物語を作り上げ、そこに自分自身や家族の歴史を投影しています。曖昧さや不一致がものすごく豊かな芸術の素材になる。 けれども、ナルシシズムとは程遠く、このような示唆に富んだ優雅で人を引きつける作品、遊び心があると同時に過激、というものはめったに見ることはありません。
そこにはきっと幾つか回り道があったに違いないと想像するのですが、なぜ全てのインスピレーションの中で一番身近なもの、つまり自分自身を題材にすることになったのかお聞かせ頂けますか?
僕が育ったのは、沿岸部にある人里離れた外国人嫌いの海辺の村です。母は背の高いブロンドのアングロ・サクソンで、常にそのアジア人の子供をどこで養子にしたのかと聞かれていました。初めてロンドンに行ったのが14歳で、そこでカムデン・マーケットに行った時、初めて僕に注目した人々から僕の人種的外見について興味を持たれました。それは、僕の両親はテイクアウトの中華料理屋をやってはいないとか、里子ではないと説明しなくてよい初めてのことでした。それはとても強力な経験で、明らかに僕の人生ではかなり遅いものでした。大人になってから都市部に移った時、まず東京でその後ロンドンですが、僕は自分のことを説明すること、自分の生い立ちや、なぜスペイン語を話すのか、なぜこうなのか、なぜそうなのか、と何かエキゾチックなものとして扱われることにだんだん疲れてきました。そのイライラは特に日本でひどく、そこでは僕は常に外国人として扱われ、外来の風変わりなものとされ、それはとても偏狭な見方でした。僕は、(人種的に)はっきりと決められないこと、という事で何かできるかもしれないと気付き、そしてそれは多くの場合、僕の外見が他の人々の文化的起源についての考えを露呈していて、僕自身が他人が抱く期待というものを伝達する媒体であったのではないかという事でした。
あなたの父親との難しい関係、その延長としての日本との関係は、特に私にとって響くものがあります。あなたのパフォーマンスを最初に見たのは2010年(2009年でしょうか?)のベルリンで、「The Incest Museum」(その中であなたは父親の建築研究を辿り直し、父親は特にその不在によって顕著に関わっています)の一部としてですが、あなたは今、大きなプロジェクトを彼と一緒に「Fuji Re-United」というアーティスト名で実現させたところですね。ここであなたの父親はアートの共同制作者となっています。そして意義深いことに、これは日本で実現したプロジェクトです。
僕は父とは難しい関係にはありません。子供として僕は父とほとんど何も関係を持たず、大人としてとても良い関係を築いてきましたが、喪失感やトラウマなどは感じた事がありません。父を持つということを知らなかったので、それは寂しく思うことではなかった ― 両親が別れた時、僕は幼過ぎたのです。しかしながら、ひとつ興味深いのは、文化的(圧倒的に西洋の)考えでは、強い父親の存在を持たない子供は、トラウマの影響を受けたり、それを持って育つとされていて、それは物語としては説得力があります。そこで僕はプロジェクトを立ち上げ、その中でこの想像上のトラウマというアイディアを扱い、それを「いない父親」を持つという一見個人的な経験に据え、そしてその上で他の文化的現象 — 2つ例を挙げるとすると、フランコの独裁政権の家父長制度や、同性愛についてなどでしょうか — についてもっと説得力を持って語ることができるのではないかと考えました。
聞き手:ニーン・エグランティン・ヤマモト
翻訳:亀井佑子
本文を入力します
“Let’s start a new country up” (REM, “Cuyahoga”, Life’s Rich Pageant)
......皮膚の下を流れる血、無限の悦びがある哀しみの。
一人の写真家と一人のスタイリストが、夜の電車のなかでノートブックのページをめくる。電車は地下へ潜りまた地上へと 出てくる。ときどき、写真家とスタイリストは話をする。
写真家が言う「。アート・ロックもエレクトロクラッシュもHanging on the telephoneもみんなファックだ」
スタイリストが言う。「“アブジェクト”って言葉を含まない髪の歴史について教えてくれ、シビル・シェパードから始まったソ フトフォーカスの歴史について教えてくれ、ファラ・フォーセットと70年代と強い日差し/夕焼け、ピクトリアリスムの因果 関係について教えてくれ」
しかし二人ともほとんどは黙ったままだ。 これが、彼らの住まう世界である。アドルノが一番よく知っている
• • • •
(以下は我々がすでに知っているその他のこと)
ファッションは辺境である。それは空間的なものだ。ファッションにおいてはすべての瞬間が出発となる。
すべての瞬間が崩壊・惨事・無秩序の可能性を持った瞬間だ。ファッションは列車事故・災害映画なのだ。
ファッションを以前・現在・以後と共に考えると、それは哲学になる。そして写真に。我々の目玉が創世神話になるとき、す べての行為がその瞬間を運命づける。
だがそれは我々の選択にすぎない。
テリー・リチャードソンが目の前にたちはだかり、ぼそっと「チーズ」とつぶやく。それが何を意味するかを悟ったときに裸の 女の子が見せる唖然とした表情、それに気づくかどうか、というような。
かつて主体性の理論があったところにファッションがある。
さて、ここで細っこい腕の男がモールを歩いてくる。彼は試着室から出てくる女の子たちに恋をしている。何であっても美し く、何であっても恋に落ちる準備はできている女の子たち。
この箱室が我々の新しいポップソングだ。
我々のカルチャーは、試着室で自分を取り戻す。
ファッションは、パウル・ツェランと同じくらい重大であるはずだ。だがそんなことは稀である。たいていの場合、ファッション はスタイルであり交換可能なものなのだ。ポスト・モダニズムの気まぐれな反響/(前反響)のように。
それは存在のレベルでは共鳴しない。
わたしが知る限り、哲学的ファッション性の装いとなる楽観主義と悲劇の両極を結びつける、このゆったりとした壮大さを 持っているのはpurple magazineだけだ。
purpleで見いだされた写真は...こう言うしかない...ラヴリイだ。
だからpurpleは上品に過激でいられる。それは、かもしれないことに対する懐古・思春期の不機嫌さの再来だ。我々はフ トンに横たわる。髪が目にかかる。それを忘れちゃだめだ。
ラヴリイでいることの何が悪い? purpleは年に4度発行される。
purpleでは、少女らしさが美的民主主義の条件となる。
自分も他人もそろって少女っぽい肘を持っていると気づいたとき、我々はそのことに気づく。
purpleでは、人々は世界最高の写真家たちのレンズを前に物憂さを表現する。ホンマタカシ、アンダース・エドストローム、 マーク・ボースウィック、レティシア・ベナ。彼らが撮る人物は、モデルではない。ショーン・マーシャル、キム・ゴードン、ジョ ン・ウォーターズ、マリア・フィン、彼らはみな物語に弧を描き、個々の伝記を放出している。
音楽を作るように・ノートブックに絵を描くように、彼らは服を着る。
マルジェラ、ミュウミュウ、マークジェイコブスを着る。閉所恐怖症・ロマンス・物質・初稿といったもので頭をいっぱいにし ながら。
服を着ることは哀惜を伴う。哀悼の行為として服は着られる。不必要であること・身体を清浄し存在させるフレームとして の役割であること、その悲しみのなかで着られるのだ。バルトが言ったように ――xx xxx xxxx, xx xxxxx xxxx xxxx xxx xxxx xxxxxxxx xxx xxx xxxxxxx xxxxxxxx xxx xxx xxxxxxxx xxxxx xx xxx xxxxxxxx: xxxxx xxx xxxxxxx xxxxxxxx xxx xxxx, xx xx xxx xxxxxx xxxxxxxxx xxxx xxx xxxx xxx xxxxx xx xxxxxxx xxxxxxx xxxxxxx xxx xxxxx xx xxxx xxxxxxx?
確かな悲哀とともに何かを着るとき、その人は自分を掌握できている。つまり可能性について考えることができる。 こういった中で、purpleは人生をプロジェクトとして・衣服の探求として見るという概念について取りかかりはじめた。
purpleは誰にも従わない。彼らは反=集団性の一形態に自らを順応させている。そこでは異なる様々な団体が、ジェシ カ・オグデンのチュニックの内側から声を発することができる。
わたしは関係性の美学についてうまく集中できた試しがない。誰もと同じくカプローが大好きなので、のぼせたこともある。 だが彼の精神にしてもそこまで残り続けるものではない。
ニコラ・ブリオーは言う。関係性の美学とは、我々の交流がすべて資本化されたことで鈍化した世界に新しい交流の空間 を作ること・別の可能性をもった空間やイベント空間を模索することだと。しかし、そこには自己矛盾があるのではないか。 完全なる透明性がある公共領域という、全く幻想的な概念を持つ結果、それは我々の現実の生活からは切り離されてし
まっているのだから。
ありふれた場所にめかしこんだ内部性を構築する、といった精力的な新しい様式を呼び込むことで、purpleはこれに反対 票を投じている。
そうすることによりpurpleは単独で、自己形成のための写真の力を我々に取り戻してくれた。かつては専門誌や家族アル バムだけが独占していた空間を。それは読書と同じように、ジョナサン・フランゼンの見解で言えば、公の場における私的 空間を作り出しているのだ。
purpleはそれ以前・以後に登場したどの写真よりも優れているし、進歩的だ。世界的に見ても、局所的に見ても。他の写 真が提供するのは人々が興味を持つ人物やシナリオ、景色であるのに対し、purpleは我々自身だって興味の対象になれ ると言う。問題となるのは、ファッションシステムの使い方にすぎない。それは内省もなく同一化への陰謀へと我々を引き 込むものであり、前世紀にわたり大学でたらい回しにされてきた最も過大評価されている概念だ。
それにもう一つ、purpleは客体を扱うのではなく主体を扱う。こんなことを言うなんて愚直すぎる、そう言われようがわたし は気にしない。
ある夜、わたしはブルームズバリーグループについて考えていた。そして我々は関係性の美学を葬り去り、代わりに関係性 の耽美主義を据えてはどうかと思いついた。
それに幅広く考えてみれば、小さな国々が毎日のように作られているではないか。心のミクロ=ポリネシア。誰もこの活動を独占することはできない。
悲哀とは、本物の存在であるために欠かかせない進歩的なアマチュアリズムの基本法であり、声明である。悲哀とは、すべ てのリアルで尊いサブカルチャー的活動の条件である。ボタン穴が緩んでほころびたような共通文化の条件であり、スプ レーされた髪のようにどぎついトーンの前衛性を、いい感じに落ち着かせた上品さのユートピア的モーメントや、言いよう もないゴージャスさに曲げてしまうようなコミュニティの条件なのだ。
purpleはスティーブン・ショアー、フリードランダー、後期のフランク、アーバス、エグルストン、といった全くのフリークショ ウ、の後をついて流れてきた。
単純に柔軟でオープンだ。友情と同じように。
そう、まるで友情【フレンドシップ】のごとく、purpleのコラムは――それぞれの号の広告の後にある――できるかぎり学識 【スカラシップ】から遠ざかっている。幅広く読まれているジェフ・ライアンだが、彼は言葉につかえるようなアカデミアの落 とし穴を避けている。彼やpurpleがしゃべりだす前には、穴がちゃんと埋められているか何度も何度も確認されることな どなかった。代わりにpurpleはすでに言われていたことを、それが個人化の行為となるようなやり方で繰り返したのだ。文 化は既成のものであり、purpleは愛でもってそれを新たに見いだされた存在に変える。つまりpurpleは日常という考えを 取り入れることで、真新しくはないが普遍性を見事なまでに反復する概念を示したのだ。そしてそれは道徳的かつ知的な問いを生みだす。 もちろん、これは新たな概念ではない。 わたしは生まれながらに美しい。 でもそれを当たり前のことと思ったりはしない。贈られたものだと考えている。 そのためにわたしはより善良な人間でいられる。
グルスキーやヘーファー、パーといった現代写真を代表する写真家たちと、purpleの間にあるのはアドルノの言う「自由時 間」についての論争だ。しかし社会は以前のものとは異なることをpurpleは知っている。そしてフリーランサーが複雑な問 題に対応でき、できなくともそれらを詩に変えてしまえるだけの、新たな空間について明言している。
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ラップトップがあればいいのに。
以下は、ニューヨーカー誌のジャーナリスト、ラリッサ・マクファークファーのタランティーノに関する発言だ。「タランティー ノはあまりにも攻撃的なエゴを持っているように見えるせいで、周りの人は彼のライバルや先駆者を軽蔑してしまうのでは と思うかもしれない。でも実際は違う。彼はそういった人たちを飼いならしてしまう。彼らを褒めそやすことで、自分のものに してしまうのだ」
それは以前、セリーヌ・ディオンが自分の夫と勘違いして太った男に歌を歌ったときと同じような感じだ。またあるときは、 彼女は観衆に向かい全ての人のために歌った。
我々はセリーヌのメッセージを受け取る。それぞれに違ったやり方だが、それでもみんなが一体となって感動を覚える。我 々にはわかる。それこそがある種の非=独自性を、実行可能なある生活様式のモデルに変えてしまえる特異なコミュニテ ィだと。
誰が写真家であってもいい。誰がスタイリストであってもいい。彼らは互いにとっては、すでに誰でもありえるのだ。鏡に映 る自分の姿も含め、今までに見たことがある全ての人々、その他いろいろな顔に分裂していく。彼らは知っている。ファッシ ョンに向かうことによって、我々はみな取り替え可能になることを。統一されることや飲み込まれることの恐怖を払いのけ、 クリステヴァの想像界の産毛の上に打ち立てられた、新しいコミュニティの到来を告げることができるようなやり方で。
あなたとわたし、一緒に新たな国を開くのだ。 傷が癒えてしまう前に。
ロバート・クック 1999
翻訳: 菊池 裕実子
私は7年間ずっと東京に住んでいます。妻は日本人で1991年にパリで出会いました。91 年から96年まで私たちはパリに住み、そのあと2004年に東京に移るまではロンドンで暮 らしていました。 子供たちのためには日本で暮らした方がいいんじゃないかと思ったんです。日本の学校に 行かせて、日本人であるとはどういうことかを学ばせて。 別の場所に行こうかともずっと考えてはいるんですが、結局はその勇気がない。
―よくわかります。
日本で暮らすのは精神的にきついこともあります。でもここに住めるのはとても幸い なことでもある。日本で暮らしたあとでは、物事が違って見えるようになりますから ね。東京に移ってきて、はじめは写真におさめてもオリジナルになりそうなものが見 つかりませんでした。今までに見たことがあるような写真は撮りたくなくて。あらゆる ものがすでに文書化されているんです。 写真を撮るには、その場所との関係を築く必要があった。大変でしたよ、物事を再 び見られるようになるまでに、3年もかかりました。 建築物があまり限定されていない場所ではインスピレーションを得やすいと思い ます。そういった意味で、パリは大変だった。建物の存在感がありすぎて。どの街角 もすでに何度も写真におさめられているし、庭園ですらあまりにも整然としすぎてい る。 パリにしばらくいたあと、そろそろ別の場所を見るべきだと感じました。季節の移り変 わりを何度か見てきましたからね。
―私もパリから出てきたんです。
確かにフランス人の方が、パリで住むのは辛いかもしれない。母国ではない場所に行くと 人々は自分を違った目でみるものです。だからもっと自由でいられる。解放された気分にな れます。どこから来たのか誰も知らないわけだから誰からも束縛されることがない。だから 私は、外国人として暮らすのが好きなんです。
―だからやっていけるんですよね。
わたしは人々と話すのが好きですが、日本ではたいてい誤解されているように感じてしま う。日本語では自分の気持ちを表現できない。他の言語でも気持ちを伝えるのは難しいけ れど、日本語だと余計にそうなんです。しかも全てのことが、決まった言い方と決まったジェ スチャーで表現される。わたしは未だに正しくお辞儀ができないし、手の使い方もよくわか らない。ぎこちなくなって、まるで自分に教養がないみたいに感じられてくる。 その全てが日本文化だから素晴らしいとは思うのですが、あまりに礼儀正しすぎるとコミュ ニケーションがストップしてしまう。よくあることなのでしょうが、息苦しく感じます。 いつも礼儀ばかりを気にしていると、互いを知ることができなくなってしまう。小話だってで きません。人々があまり話さないから、カフェはすごく静かですよ。 わたしも昔は小話が嫌いだった。でも今になって、それがいかに大切かわかったんです。 パリではバゲットを買いに行くだけでも誰かが話しかけてくれるので、生きてるって実感は もてますね。
―パリで活躍したりインスピレーションを見いだしたりするのは難しいことだったのかもし れませんが、あなたがパリでスタートしたファッション写真はとても斬新でした。
スウェーデンにいたころは写真を学びたくて広告写真家たちのアシスタントをしました。ノ キアの広告を撮ってる人たちで、コンピュータの写真を撮っていた。照明や技術を学ぶの には最適でしたよ。撮影では、準備をするのに3日間かけることもありました。的確な色が 出せるようにいつも新しいフィルムを試したり。彼らはいろいろとおもしろいやり方でフィル ムを扱っていましたね。実験するために何日間もかけたし、クライアントもそれに対して支 払っていました。最近では、コンピュータを使えば誰でもクリック一つで同じ結果を得られ るようになってしまったけれど。 それで2年たったあと、先に進もうと思いました。照明や技術を知ることはできたけど、静物 写真に飽きてしまった。時間がかかりすぎるように感じたんです。だからパリに行きました。 コンピュータではなく人間を撮る写真家のアシスタントをするほうがいいと思ったし、フラ ンス語も勉強したかった。でもすぐにそういう写真家たちは、私に教えられることがあまり ないと気づきました。私は技術的に彼らよりも優れていたし、彼らの写真にも興味がわか なかったんです。だから代わりに自分の道を進むことに決めました。 アリアンス・フランセのフランス語のクラスで、服のデザイナーと仕事をしたいというノルウ ェー人の男に出会いました。私たちは、彼がスタイリングをした写真をいくつか撮ろうと決 めたんです。彼はマルジェラのプレスオフィスで働いている女の子と知り合いでした。私た ちは彼女に、あるスウェーデンの雑誌のために撮影をしたいからと、嘘をついて服を借りた んです。一週間後、彼女がすごく怒って電話をかけてきました。というのも、まさにそのスウ ェーデンの雑誌社が、オフィスに服を借りたいと言ってきたらしくて(笑)。それで彼女にオ フィスに写真を見せにくるように言われた。だから私は写真をもってオフィスを訪れたんで すが、そのまた一週間後に今度は「マルジェラがあなたに会いたいと言ってる」という電話 をもらった。マルジェラが私の写真を気に入ってくれたんですよ。彼の次のショーで、バック ステージの写真を撮るように言ってくれた。それで、今までに撮ってきたような写真を撮り 続けました。今も撮っている写真とほとんど同じようなものです。服を記録に残す写真を撮 ればよかったんです。
―あなたはマルジェラの偉大さに気づいていましたか?
初めて彼の服を見たときは、なんて変てこなんだろうと思いましたよ。メーキャップも変だ ったし、モデルも変だった。オフィス全体が白くペイントされていて、テレビまで白かった。す ごく変わっていました。私はスウェーデンから来たばっかりだったから、こんなものは見た ことがなかった。ファッションのことは全然知らなかったけど、グラマラスだろうとは思って いた。でもそれが全く逆だったんです。でも、最初のショックを乗り越えたあとは、私もその 気になりはじめて。彼のショーは大盛況で、エネルギーに満ちあふれていました。でも規模 はすごく小さかった。オフィスのアパートメントで働いていたのは、彼を含めてたった5人で す。本当に刺激的でしたよ。
マ ル ジ ェ ラ と の 仕 事 は ま る で 素 晴 ら し い 授 業 の よ う で し た 。私 た ち は 1 9 9 1 年 に 出 会 い、1998年まで一緒に働きました。雑誌用のファッション撮影もしました。私自身がレイア ウト作業に関わって、物事の見せ方を考えることもできることにも気づかせてくれました。 やらせてくれるか聞いてみるべきだって。今まで考えたこともなかったことです。それでもた いていの雑誌はやらせてくれましたよ。 自分の作品の見せ方が、いかに大事だということがわかりました。写真自体と同じくらいに 大事、いやそれ以上に大事なことかもしれません。
マルジェラは私によく電話をかけてきて「おい、アーカイブからこれこれの服があるから、 写真を撮りにきてくれないかな」と頼んできました。私がロンドンに移ってからはそれが できなくなったけれど。
―マルジェラの発展をどう思いますか?
マルジェラと仕事をするのは本当に面白かった。彼は以前は全てをコントロールしていた んです。どんな些細なことでも、毎年のクリスマスカードですら。マルジェラ本人からクリス マスカードを受け取るなんて最高でしたよ! すごく美しいカードだったから。 彼はデザイナーというよりも、アーティストなのでしょう。ただ素晴らしい服を作りたかった のです、お金儲けのためじゃなくて。でもファッション業界はある時期からすっかり変わって しまった。ファッションだけじゃない、世界が変わったんです。物事がもっと商業的になって しまった。
―デザイナーたちは自分の創作物によって生かされているわけではありません。おそらくマ ルジェラが辞めたのは、何も言うべきことがなくなったからでは。それとも先に進みたかっ たからでしょうか。
本当の理由は誰にもわかりません。想像するのみですよ。 ―日本のファッション誌の仕事もたくさんしましたか?
お金のためにカタログをいくつか撮ったことはあります。自分の仕事ができるように。私はフ ァッション写真家じゃないから。もっと他の仕事をしてるほうがいいんです。
―でもあなたの写真のスタイルが、ファッション写真に大きな影響を与えたとは思いませ んか?
いや、わかりません。直接フィードバックをもらえることは少ないから。他の人たちがなにを やってるかもよくわからないし、誰が私の写真を見てるかもわからない。私は何かおもしろ いことをしようと思ってるだけなんです。 ファッション写真はたいてい、しっかり準備をして、たくさん話し合いながら撮影します。 ファッション写真はおもしろい場合もあるけど、私は誰かのポートレートを撮ったり、建物 を撮る方が好きですね。 ファッション撮影では、セットアップをしたり、準備とかやることがたくさんありすぎる。だけ どいったい何のために(笑)? 神経が参ってしまう。シンプルな方法をいつも探している んですが、ファッションだとたくさんの人間が関わってくるから、そうもいかない。私だって 人間は好きですよ。でも写真を撮るところを見られたくない。評価されているように感じて しまう。 たいてい自分が何をしているかは、わからないものなんです。フィルムを現像するまではわ からない。わかっているフリをするのはストレスがたまってしまう。 ポートレートは良いんです。失敗が少ないから、ファッションよりも気が楽です。もちろん知 らない人に会う訳だから、相手が何を考えているのか気になってストレスを感じることはあ ります。でもおもしろいから。 建築や報道写真が一番好きですね。ある場所に行って的確な光が来るのを待つ。自分を 待っているひとは誰もいない。誰も私を見ていない。自分がやりたいようにやるだけ。最高 ですよ。
インタビュアー: Antonin Gaultier
翻訳: 菊池 裕実子
僕はロックが好きなんだ。一番好きなのは、ソニック・ユースかな、それ以外はジャズを聴 く。80年代 ニューヨークのアンダーグラウンドの音楽シーンが・
―ニューヨークに行ったことは?
いや、一度もない(笑)!友達はたくさんニューヨークに住んでるんだけど。おもしろいよね、 これは秘密なんだけど、僕はアメリカが好きじゃない(笑)。行ったこともないんだけど、アメ リカンスタイルっていうのが好きじゃないんだ。
―林文浩、またの名をチャーリー・ブラウン。彼は東京とニューヨークのアートシーンのつ なぎ役になった人ですよね。
そう、DUNE誌でね。彼に会ったことは?
―前にちょっとだけ、実はニューヨークで。パーティで友達に紹介されたんです。写真を始 めるきっかけは何でしたか?
大学で経済学を勉強したんだ、ヨーゼフ・ボイスに興味があったからね。彼の作品は資本 主義に大いに関連してるから、資本とか経済について学ぼうと思った。なんらかの思想が 必要だったんだ。そんなとき、昔からの友達だったミュージシャンの嶺川貴子に、”Winter of Love”というパリでの展覧会のカタログを見せてもらった。エレン・フライスとオリヴィ エ・ザームがキュレーションした展覧会で、ヴォルフガング・ティルマンスやアンダース・エド ストロームの作品が目玉になっていて・・・その頃ティルマンスはバーナデットコーポレーシ ョンの写真を撮っていて、アンダースはマルジェラと仕事をしてたんだけど、彼のスタイルが すごくいいとすぐに思ったんだ。ドキュメンタリーであり、ポートレート写真であり、すべての ものが含まれてるんだよ。僕はアンダースの作品がすごく好きになって、カタログをみたら 彼がパリに住んでることがわかった。彼の連絡先とかそういうのは全然知らなかったのに、 フランス語を習ってパリに住もうと決心した。他の生徒たちに「どうしてフランス語を習って るの?」と訊かれたら、あのカタログのことと、パリに住んでるスウェーデン人の写真家がい るからって言っただろうね(笑)。偶然にも一緒に勉強していた生徒の一人がアンダースの ことを知っていて、僕に彼の住所を教えてくれたんだ! フランス語を半年間勉強して、ア ルバイトでお金を貯めると、パリに行ってアンダースに会ったんだ。彼に作品を見せたら、 仕事をするべきたと言ってくれて、エレインやオリヴィエみたいな編集者を紹介してくれた よ。それで二人は僕に仕事をくれた。あの頃のパリは、とにかくみんな金が無いって感じだ ったけど、また新しく何かを始めようという時期でもあって、アメリカのアーティストたちもパ リに来てた。テリー・リチャードソンや、マーク・ボースウィックもいた。Self Service誌の編 集者や、エレインとオリヴィエ、アンダース、テリー、マークと一緒によく食事をしたものだっ たよ。すごくエキサイティングだった。僕はすべてを彼らから学んだんだ。でもパリにいる間 は、ファッション撮影しかしていなくて、僕は自分の作品を撮ることができなかった。それを エレインに言ったら、そうね、その通りね、あなたはパリジャンじゃなくてジャパニーズだも のね、と言われたんだ。だから僕は日本に帰って、日本を撮ろうと決めた。それで仕事を始 めたんだけど、日本でのファッション写真はすごくやりづらくて。
―どうして?
このことについては林文浩さんがどこかで赤裸々に書いてるよ。日本ではファッション写真 ではなく、宣伝のための広告写真がまず第一なんだ。たいていの写真家は広告業界に移 行する。そういう人たちは、ファッション写真は真似をしやすいと考えてるんだ。アンダース・
エドストロームやマーク・ボースウィックのスタイルとかね。僕は日本のメディアのために仕 事をするのをやめて、i-Dや、Purpleや、Self Serviceといった外国の雑誌のために日本で 写真を撮りはじめた。
―この状況は変わりはじめていると思いますか?
僕は武蔵野美術大学と、ときどき芸大でも教えているんだけど、生徒たちの気持ちは変わ りはじめてると思う。とくに地震が起きた後ではもっと学びたがっている。生徒たちの多く は日本の雑誌を信用してないんだ。まるでカタログみたいに、あまりにも広告的だから。生 徒たちはたいてい、雑誌で見た日本の写真家を尊敬して、その写真家たちが真似の真似、 物真似にすぎないし、何がオリジナルなのかということも知らなかったりする。でも今は、生 徒たちもオリジナルを尊重しはじめているように感じる。シンディ・シャーマンとか、ピエー ル・モリニエとかについて生徒たちも勉強したがってる。つい最近のことだよ。題府くんも そうだと思うよ。生徒たちはどこか別の場所、つまり海外で起こっていることを見ようとして る。
―90年代にはたくさんの日本のアーティストは海外に行ったものでしたが、2000年ごろ から流れが変わった気がします。そして3/11以降はまた変わり始めているのかもしれませ ん。
荒木経惟の写真も変わったと思う。癌を患ったことが彼を変えたのかもしれない。彼の作 品は日本の雑誌に出るようになって、以前よりもメインストリームになった。彼はもうエロテ ィックな写真だけで知られているわけではない。日本の若手写真家たちはもっと彼の作品 に触れられるようになった。彼のスタイルはすごくユニークだよ、すごく日本的だ。
僕ははじめ日本の写真家に興味がなかった。アンダースとティルマンスの写真を見たの が、僕が写真家になったきっかけだから。でも今一番好きなのは荒木さんなんだ。2、3年 前に初めて彼に会って、一緒に撮影したんだけど、いろいろ教えてくれてすごく楽しかった。
『センチメンタルな旅』っていう素晴らしい写真集があるんだけど、荒木さんと撮影した次 の日に、僕はその写真集の表紙に載ってる人形と同じのを見つけたんだよ。たぶん、あの 人は神様なのかもしれない(笑)。何か特別なパワーを持ってるんだよね。
―荒木経惟は90年代に世界でかなり有名になりました。そして今は日本の若者たちの関 心を集めはじめているのかもしれません。『センチメンタルな旅』はその中でも最たる作品 です。
彼こそが日本で最高のカメラマンだと思うね(笑)。つまり、日本のコンパクトカメラが写真 を変えたんだ。荒木、HIROMIX、ティルマンス、テリーもだし、ユルゲン・テラーも・・・コン パクトカメラはよりプライヴェートになれるから、新しい写真のスタイルが作れる。大きくて 重いカメラよりも、写真を民主的にしてくれるんだ。撮れたものはプライヴェートでありなが ら、どこか異様な感じをはらむ。
―あなたは林文浩と彼の雑誌のDUNEで、長い間アートのコラボレーションをしてきまし たね。
僕らはマーク・ボースウィックが日本に来たときに初めて出会った。そのとき林さんは黒い スーツに黄色のシャツを着ていて、ほんとにヤクザみたいに見えたんだ(笑)! 僕たちは 写真についてたくさん語り合った。彼は写真に関して深い知識と見識眼を持ってた。林さ んとオリヴィエ・ザームがテリーを選んだ最初の人だったんだよ。 林さんに会ったころは、DUNEはすごく80年代的だった。でもすぐに方向を変え て、Purple誌のようにテリーを使ったり、ハーモニー・コリンについて書いたりしはじめた。 この二つの雑誌はぴったりと連携していたんだよ。 僕たちは、オリジナルの作品を見せることに重要さを感じていた。例えば、僕のオリジナル の写真を載せた横に、僕のオリジナルに”インスパイア”された別の写真を載せる、とか。日 本では、真似をする写真家ばかりなのに対して、もともと影響を受けたオリジナルについて みんな何も知らない状況なんだ。ひどい話なんだけど、10年前には日本の雑誌のいたると ころでボースウィックスタイルの写真が使われてた。でもたいていの写真は、ただそれを真 似たものなんだよ(笑)!それが最近になって変わりはじめている。
昔の世代の日本人写真家は外国人に対して、とくにヨーロッパ人、アメリカ人に対してコン プレックスを持ってるんだ・・・そういう人たちはヨーロッパの写真家、ヘルムート・ニュート ンとか・・・に敬意を抱いてる。荒木経惟が写真を始めたころは、ヨーロッパの写真家の影 響をすごく受けていた。篠山紀信は何年か前に、街角で、いや正確には青山墓地でヌード 撮影をして逮捕されたんだけど、それで僕はニュートンが城のなかで撮影したのを思い出 したよ・・・上の世代の人たちは、外国人に対してはすごくオープンなんだけど、日本人には 意地悪だね・・・たとえば森山大道はDUNEに載せたいという林さんのリクエストをいつも 断っていたんだけど、林さんがPurple誌のためにインタビューしたいというと、すぐに応じ てくれたんだ(笑)。荒木経惟も同じだ。マリオ・ソレンティが日本に来たとき、彼が荒木さん に会いたがっていたので林さんが荒木さんを招待しようとしたんだけど、来なかった! テ ィルマンスが自分の写真展の際に日本に来たとき、HIROMIXと篠山さんはティルマンス を撮影しに行った。篠山さんはティルマンスのことを知らなかったんだけど、アシスタントに 彼の作品のことを聞いたので会うことになったんだ。実は僕も撮影のときにそこにいた。篠 山紀信はたいていデジタルを使うんだけど、その時は大きなカメラを持ってやってきた。気 持ちが若いんだよ、競争心が強いんだ。一番になりたいから、8x8の大判カメラを持ってき たんだ(笑)。僕はその光景を記録した。抽象画を背景にした篠山さんとそのカメラとティル マンスをね。
―デジタルとアナログでは美的感覚が異なりますね。
デジタル写真は、はかない桜みたいなものだ。見上げたときに、光があって花を照らしてる けど、桜自体がが光を放っているわけじゃない。デジタルはスクリーンに映すためにある。 プリントしたり本にするなら、アナログじゃないとね。僕は90パーセントはフィルムを使う よ。 フィルムは変わりつつあるし、選択肢が少なくなっている。例えばタングステンフィルム とかブルーフィルムとか、リチャード・プリンスのスタイルとか。若い写真家たちはこういう 技術を知らないから、Photoshopで作ってると思ってるんだ(笑)! 僕はフィルムを扱う のが大好きなんだよ。
―デジタルでは編集の作業がより重要になっていますが、アナログ写真では実際の処理 行程がかかせませんよね。
可能性はいくらでもあるんだ。ポジを使うかネガを使うか、白黒にするか、デジタルにする か・映像を撮ってそこから写真を抜き出すのか・
―ファッション業界では、今までになくスピードが重要視されているように思えます。クライ アントは終わり次第すぐにその場で結果を見たがります。
デジタルだと簡単なんだよ、撮ってはチェックして、撮ってはチェック。思うんだけど、ほとん どの人がいい感性を持ってない・・・何が写真を良くするのかをわからずに、ただスクリー ンで見て決めるだけだ。僕がファッション撮影をするときにクライアントが仕上がりを見た がっても、僕は見せない(笑)。見るものなんてないんだよ。僕には経験があるから、たいて
いの場合はみんな信用してくれる。
―あなたのような立場にいられればいいのですが、若い写真家たちには難しい状況でしょ うね。彼らにあなたがやっていることを見せる必要がありますね。
俳優たちには僕に敬意を払ってくれる人たちもいて、彼らが撮影のときに決定権を持って くれる。そうすると撮影がやりやすくなる。例えば菊池凛子。僕は彼女が有名になる前に何 度も撮影したことがある。ベネチアで賞をとった染谷祥太も同じだ。彼のことをずっと知っ てる。二人とも僕の写真を気に入ってくれてるから、やりやすいんだ(笑)。
―Driving with Rinkoはどうやって撮ったんですか?
僕は車を持ってないから、どこへ行くにも凛子が迎えにきてくれた(笑)。パリで雑誌をやっ てる友達がおもしろい被写体はいないかと訊いてきたから、凛子がいいと言ったんだ。撮 影にかかったのは1時間。その後一緒にKinko’sに行って写真を選んで、何枚かプリント して、それで終わりだった。ラフな感じにしておきたかったんだ。時々人のことを気にかけて いれば、信用してもらえるようになる。俳優たちが有名になると一緒に仕事がしづらくなる だろう。でも僕は若いうちにその子たちの役者としての才能を見いだすのに長けてるんだ。 ファッション撮影のためにエージェントと交渉するときにはいつも有名じゃないモデルを お願いする。僕は映画監督やアートディレクターたちと知り合いだから、僕がモデルたちを 使ったあと、みんな彼らを使うようになる。 たぶん、僕は人の良い面を引き出すことができるんだ。たいていの人間には良いところがあ る。だけどすべての人がそれを見いだせるわけじゃない。良いところを引き出せれば、誰か を有名にすることは難しいことなんかじゃないよ・ たいていのファッション誌は、僕のことをあまり好いていない。若い写真家たちは僕の真似 をしてるんだけど、僕は編集者たちに「真似はよくない」ってはっきり言う。いつも正直でい たいんだ。デザイナーと仕事をするときも同じだ。例えばCosmic WonderとSuzuki Tak- ayukiは僕と撮影したいと言うので一緒に仕事をした。たいていの若いデザイナーは外国 人モデルを使いたがるけど、海外で自分のブランドを見せるときにはアジア人のモデルを 使った方がいいと思うんだ。だからそうすべきだと言ったよ。でもデザイナーも有名になる と利己的になってくるから・・・ファッションデザインは、マスメディアだ。だから利己的であ ることが重要なときもある。でも、他の人に安心感を与えることも重要だと思うよ。彼らはア ーティストでありながらも、単純に製品デザイナーでもあるんだから。 デザイナーがいつでも自分はアーティストなんだと思いはじめると問題だと思う。Cosmic WonderにUnited Bamboo・彼らのスタイルはコンセプチュアルだったし、自分たちが やっていることをよくわかっていた。でも有名になるほど変わっていく。日本人のデザイナー にはよくあることなんだ。ビッグになると、自分のなかの日本人らしさを失っていく。すると外 国人は彼らに興味を失うようになる。 日本の編集者たちは、雑誌を売るためにできる限りデザイナーを宣伝しまくる。そのブラン ドに人気があるうちはね。でもサポートもしないし批評もしない。だから日本のデザイナー たちは成長できないんだ。僕はそういうデザイナーたちには世界でビッグになってもらいた いと思ってる。でも日本の雑誌だと難しいんだよ。
―日本には、写真家とデザイナーと編集者の連帯みたいなものがないように思えます。ヨ ーロッパにおける、アンダース・エドストロームとマルタン・マルジェラとPurple誌のような。
その通りだ、関係を結ぶのが難しいんだ。パリに住んでいた時は、僕はそういったコネクシ ョンみたいなものを目の当たりにした。文化を育むためにはかかせないものだ。僕は日本で も同じようなことをやろうとしたんだ。人々が一緒に成長していくことは、すごくエキサイティ ングだよ。こういうことが日本にも起こるんじゃないかと感じてる。可能性ならここにはたく さんある。若いデザイナーたちは、どうやって海外に進出したらいいかわからないし、海外 で売りたいと思ってもやり方を知らない。サポートが必要なんだ。中国や香港と新しいコネ クションを作る必要もある・
―ブランドとの関係も難しいですよね。
でかいブランドのメゾンから撮影の依頼がきたんだけど、断った。僕は商業的じゃないか ら。彼らの広告を見たんだけど、僕の作品のスタイルと同じ写真を使ってた。だったらなん の意味があるんだ? 昔、トム・フォードがグッチのクリエイティブディレクターだったとき、テリー・リチャードソ ンにキャンペーンの撮影を依頼した。聞いた話なんだけど、テリーはすごくナーバスになっ て、大判のカメラを持ち込んだんだ。彼らしくないよね。それでフォードは撮影を見に来た けど気に入らなかった。テリーは誰かに仕事をとられるんじゃないかと恐れて、いつものス タイルに戻ったら撮影はうまくいったらしい。
―ブランドとアーティストの関係がうまくいった例もありますよね。ユルゲン・テラーがマー ク・ジェイコブスとヴィヴィアン・ウエストウッドとやったものとか。
高級品はどこにでもあるし、ブランドは人々が自社の製品をどう扱うかをコントロールでき ない。だからもとストリートスタイルや、エッジのきいたものやドキュメンタリーみたいなの が必要だ。メゾンは知性を必要としている、そしてそれを持ち込むのは写真家の役目なん だ。ブランドと仕事をすることによって、そういったアーティストたちは文化において革命的 になれるかもしれない。概念を変え、すごく個人的な視点を与えることができる。そしてこ れはすべて日本のコンパクトカメラのおかげなんだ! まったく革命的な道具なんだよ( 笑)。
インタビュアー: Antonin Gaultier
翻訳: 菊池 裕実子
本誌: この話がファッションについてだと言ってありましたっけ? でもファッション には、あなたはあまり興味がないかもしれませんよね...それとも...どうでしょう? わたし の思い違いだったらいいのですが。でもあなたの作品には、ファッションが感じられるんで す、それに対する態度というか。ぱっと見ただけではわからないのですが、でも確かに感じ られる。とくに中国のイスラム教徒たちの写真です。そこに写る人々の顔は完全に隠されて いるけれど、代わりに何か別のものが表に浮かび上がっている。
MP: ファッションか... いや、人類が木から降りてきて以来、我々はファッションに取り憑 かれているみたいだ。86年の中国西部での写真から、(今では)失われてしまったタジキス タン、キルギス、ウズベキスタン、ウイグルのドレスコードがわかる。服だ。彼らには彼らの暮 らしがあり、それが未来へ反響するものだとわかる。なによりも我々が残してきたのは彼ら の写真記録なのだから。
本誌: 確かにそうです。このような写真への取り組みは普段のあなたの作品とはどのよう に違うのでしょうか。あなたの他の作品では、被写体の人々の顔はいつもすごく生き生きと していて、楽しそうですらある。あなたが彼らに、そして彼らもあなたに何かを与えたかのよ うに。でもこれらの写真はずいぶん違いますね。文字通り顔を覆われているけれど、決して 顔がない訳ではない。何かいつもと違うアプローチをしたのですか。つまりどうやって写真 を撮るか、どのように被写体との一時的な関わりを築くのかにおいて。それともそういった ジェスチュアは同じで、ただ構成の方法だけが違うのでしょうか?
MP: 良い友人たちとの付き合いや、ちょっとした知り合いとの偶然の出会い、カメラを持 って撮影に出ているときに起こるかもしれない完全な見知らぬ人とのめぐりあい、そういったものはす べてアイコンタクトから始まるんだ。目と目が結ばれる、そんな瞬間。言葉はなくとも心を動 かされるような、ちょっとした接続の瞬間に起こること。それは人間のありようにおいて、未 だに解き明かされないことの一つだ。アイコンタクトという偶然の出来事は可能性に満ち あふれている。我々は互いを読みとり、結果を導く。そして行動を起こすかもしれないし、興 味を失うかもしれない。誘い合うかもしれないし、拒絶し合うかもしれない。他者とのアイコ ンタクトは、それは強烈なものなんだ。わたしが写真を撮る場合、ほとんどは完全な他者と 仕事をすることになる。ストリートというまったく自由な形式の劇場で彼らと出会う。表面だ け見れば、わたしは彼らを集め、一本のフィルムに彼らをしまい込むだけ。そしてあとから試 し刷りの段階で撮ったものと向き合い選別する。伝統的な衣装を着たイスラム教徒の女 性たちとのアイコンタクトは、とりわけすごかったな。見る者の目を彼女たちの目へと釘付 けにしてしまう。あの衣装は彼女たちの美しさによって引き裂かれている。彼女たちは視線 を合わせることについて、もっと意識的なんだよ。 しかしそうだな、具体的に言えば、このカシガルにいた2人の女性...アウグスト・サンダー 定番のダブルポートレートから盗んだみたいだな... 今でも、アウグストが見せる美しさを 盗用して、彼について言及するのを光栄に思うんだが。イスラム教徒の女性たちがこうい った格好をしているのは世界でもこの地域だけ、しかも今ではほとんど見かけない。と、き たら彼女たちを撮らないわけにはいかないだろう? ストリートで撮影をするときにいつも 興奮しながら思うのは、これを目にすることはもう二度とないだろうってことだ。この写真で 最初に感じる奇妙さは、まさに顔がないという状態が彼女たちの異質性を際立たせるか らだ。わたしは彼女たちのすぐ前に立っていて、広角レンズで撮影した。手を伸ばせば触れ られる距離だったんだ。「こっちにくるな」と言われたら、すぐ引き返すつもりだった。いつも のようにアイコンタクトができないわけだから、彼女たちの身体が発する言葉を読み取ろう とした。彼女たちは目に触れることを望んでいるように見えたんだ。全く初めての、刺激的 な体験だったよ。なにしろわたしは鉛筆のかわりに写真を使って様々な体験を記録してい るのだから。あの写真が86年のカシガルのすべて表しているといってもいい。たった一枚 の写真が心をつかんで離さないことがある... とはいえ他の作品もたくさんあるし、それら はより全体的で重層的な理解を与えてくれる。あれは一連の作品として1986年にカシガ ルでわたしが過ごしたときを再演してくれるんだ。
本誌: その通りなんです! それこそが「ファッション写真」です。つかの間のアイコンタク ト、そして服!そう、また別の写真にも本当に驚かされました。わたしにとっては、この写真こ そが「ファッション写真」に思えるんです。深層でも、表面上でも。深いところで言えば、「フ ァッションの被写体」があなたにはいるということ。ヴェールを通して、服やスタイリングとい ったヴェールの奥から、鋭い視線をカメラと観る側に投げかける被写体です。表面上でわ たしを引きつけるのは、その服装自体です。奇妙なことに、あれはあなたが写真を撮った1 ~2年後にベルギーのデザイナーが提案したもののように見えます。80年代のマルジェラ のジャケットと、ドリス・ヴァン・ノッテンのスカートを合わせたようなスタイリングで、半神話 的なグルジエフの国を舞台にして(例えばフセイン・チャラヤン)。そしてあなたはそれが発 生した瞬間を撮ったのです、おそらく西洋のファッションとは最も遠いところで。わたしが共感するのはそういうところです。わたしたちは「ファッションを出版」している。そして「雑誌」 が語りかけているほぼすべての人々が、いろいろな方法でこういったことについて言及して いるのです。分断された現実で撮られた一枚の写真を通して。 さて、「イスラム教徒の女性たちがこういった格好をしているのは世界でもこの地域だけ」 と言っていましたが、こっちでも同じようなスタイルを見ることができる。つまり、この花柄の スカートと男性的なジャケットのコンビネーション、それでいて女性らしいカットとシルエッ ト、これはまるでアントワープ王立芸術アカデミーの卒業ショー、もしくはJPゴルティエの アトリエから飛び出してきたみたいですよ。このマルジェラやマグリット的なヴェールは言う までもありません。これは一体何なのでしょう? あなたはそこに居たんですよね。あれは 男物のジャケットですか? 彼女たちの夫や兄弟たちも着るような? わたしがこれを見 て引きつけられるのは強烈なまでの、または強いられてすらいるような、両性具有性なんで す。
MP: それはちょっと難しいな。イスラム女性のファッションは、あまりにも保守的な家父 長制度の制約や重圧のなかで機能している。例えば1986年ごろの中国西部にいる洋裁 師は男ばかりだ。大まかなつくりの国産スポーツジャケットは、タシクルガンからウルムチあ たりの向上意欲の高い男たちがよく着ていた。洋裁師たちはそのジャケットと同じパター ンを使って、女性用に作り直したのだろう。この写真はその定番のファッションをとらえた んだ。わりに裕福なイスラム女性をね。彼女は通りを支配していた。道の真ん中をつかつか と歩き、たくさんの人が彼女に目を奪われていた。どこでもあるような光景だ、誰の目でも 奪うような女の子が歩いている。彼女はあまりにも魅力的だった。カメラを手に行く手をふ さぐ異国の写真家を、いとも簡単にやり過ごすその手のしぐさ。まるで脱がせてと言ってい るような刺繍が施されたスカート、その下に隠されているセクシーなウールのストッキング。
本誌: また同じ写真の話ですが、これが一つの総体としてまとまっていること、そこにどこ かエロティックなものを感じますね。ギイ・ブルダンやヘルムート・ニュートンの作品のよう に。不思議なことにこの写真はそれらと同じような要素やテンションがある。でもこれは色 んな意味でも「リアル」なんですよね。そこで訊きたいのは、この写真を撮ったとき、何を感 じたのか、つまりそこに立っていて、そこに、彼女の目の前にいて、彼女とその空間、そして 自分自身をどのように感じていたのかということです。この写真「であること」とはどのような 感じでしょうか?
MP: あの写真は簡単に撮れた。彼女はカシガルのダウンタウンで、自分がキャットウォ ークを歩いていると、ちゃんと意識していたんだ。だからとにかく撮るしかなかった。
本誌: そうですね、つまりそのエネルギーが、ただの布をファッション、またはそれ以上の 何かに仕立て上げる。あなたの目がそれをとらえたのですね。さて、そこで気になるのです が、あなたは実際にファッション写真を撮ったことがありますか?
MP: いや、一度もない。でも実はいつだって考えてはいるよ、ファッション写真にはかな り興味はある。着飾ったゾンビたちのために死ぬほどPhotoshop加工しているような、こ こ15年ばかりの写真じゃなければね。でもバーバーリーは、人を食いものにするような卑 しいファッション業界をどうにかコントロールしようと窺いながら撮影しているように思え るが。ファッション写真は「ぜひ」撮ってみたい。60年代のファッション写真には影響を受 けているよ。粒子が荒くて、ハイライトと高いコントラストに中間トーンが支配されている。 黒い唇、白い肌、三日月型の眉。コダックのトライ-Xパンフィルムをぎりぎりの値で現像す るとハロゲン化銀粒子が出る。偽りのオーガズムみたいなPhotoshopツールをつかうより も、こういった手法のほうがもっと感情に訴えるし面白いと思う。
本誌: ここで話をやめるわけにはいきません。もっと訊きたいことがありますから。さて、写真家としての人生に『原光景』みたいなものはあるのでしょうか? あなたが言っていた (理想の)ファッション写真というのは、1970年に撮ったあの有名なジョルジーナの写真 にとても近いのでは(あなたにとって初めての「実際的な写真」ではないですか?)。わたし 自身の話をすると、撮る写真のタイプとしては2~3くらいしかありません。また、そういった 写真を「撮らない」という手法もいくつか... つまり「反-写真」を撮るということですね。わ たしのそういった『光景』の一つは、80年代のThe Sugercubesのコンサートでした。初め てのNikon Fナントカに安っぽい35-200mmのズームレンズ、それに店の男がタダでくれ たこれまた安っぽい2倍コンバーターを持っていったんです。会場ではステージからかな り遠く、観衆の真ん中に立っていたのですが、どういうわけかビョークがこっちを見つめていた。ライブの間ほとんどずっとわたしのことをじっと見つめてたんです。だから「なんだよ! ?」と思って思わずカメラを掴んで、アホらしいテレコンバーターまでつけて(ロングレンズ を使ったのは後にも先にもありません)、何枚も撮りました。今では2枚くらいしか残ってな いのですがそれらの写真は確かにわたしの『原写真/光景』なんです。彼女の眼差し、あ の有名なアイスランドの歌手に処女性を奪われたという感じです。もちろん写真において の話ですが。ここで言いたいのは、つまりあのばかばかしいロングレンズを持ってしても、わ たしが彼女を”ショット”(撃った/撮った)したとは言えないということです。今だって、写 真を撮るときに”シュート”(撃つ/撮る)という言葉を使うのが好きじゃない。あの『原光 景』をもとに写真撮影について考えるとき、カメラの目の前にいる物/者はカメラの後ろに いる撮り手よりも力強くないといけないと感じる。なので写真を撮るときは「撃つ」というよ りも「自滅」行為に近いんです。いや、これがわたしの『原-問題』なのですが... ...それはさておき、あなたは物事を違った形で見始めるようになった。あなたが中国西部 で撮った写真を何度が見ていると、そのうちに写っている男たち全員が同じ人民帽をそれ ぞれ違うスタイルで被っているのに気づきます。レンガ職人、肉を切っている男、ストリート ではお洒落で通っていそうなスニーカーを履いた少年、マンホールから這い上がってくる 男、等々。でも彼らは典型的なマオイストには見えない。これは体制に対する反抗か何かな のでしょうか、それともその頃にはもう革命の熱意は失われていたのですか?
MP: 1986年の中国は、自由化の流れが少なからず動き出した時期だった。それでも庶 民には2種類の服装しか許されていなかった。漢民族用のものと、少数民族用のものだ。 漢民族の人は青、緑、灰色の人民服。人民解放軍は同じ服を改良したものを着ていた。例 えば軍の帽子には赤い星がついているが、庶民のものにはついていない。わたしが気づ いたのは、人々はその全体主義のユニフォームを着ていても、そこに自分なりの個性をさり げなく組み込もうとしていたことだ。少数民族の人々は自分たちの民族衣装を着てよかっ た。1986年は、外国の旅行者たちが個人的に僻地を訪問することが許された初めての年 だった。だから漢民族がほとんどいない中国極西部にわたしが行ったときには、高い普及 力があった人民服も、エレガントで鮮烈な中央アジア/イスラムといった多様なスタイル に取って代わられていた。19世紀頃のシルクロードのスタイルだ。
本誌: 正確に言うと中国のどこを訪れたのですか?
MP: 中国はものすごく大きい国だ、オーストラリアよりも大きい。定番の場所はちょっと ずつ回った——上海、西安、北京、広東。でもわたしが中国で本当に行きたかったのは、で きるだけ西、つまりタクラマカン砂漠、ウルムチ、カシガル、トゥルファン、そしてシルクロード だった。タイムマシーンみたいだったよ。アントノフ24というおもちゃみたいな飛行機で未 舗装の滑走路に降り立ったとき、カシガルには凍えるような砂嵐が吹いていた。飛行機は キュートだったが飛んでるうちに部品が取れたり、トイレにはドアがないし、懐中電灯で探 らないといけなかったし、それにプロペラの一枚が回らなかった。空港は泥とレンガで固め た要塞になっていて、街全体が19世紀から18世紀のイスラム/サラセン建築の目録にす るにうってつけという感じだった。長い旅だったけど西部へ行けて本当に良かったと思う。 近代化がすべてを消し去ってしまう前に歴史の最後の痕跡を目撃できたからね。
本誌: それはやはり違った感覚を与えるものでしたか? 間違っているかもしれません が、あのときのあなたはどこか、ロバート・フランク的な何かと、アウグスト・サンダー的な何 かの間で揺れているように感じられたんです、その二項対立がほとんど解消されていない ような。わたしにとっては、その矛盾が魅力的に感じられるんですが、もしかしたらあなた自 身もそれらが自分の分野とは外れていたように感じたのでは。これらの作品は、あなたが 前に撮ったインドや東南アジアの作品とはどこか異なった感覚を持っているように感じる んです。
MP: 君の言う通りだ。あの作品にはずいぶん郷愁がこめられているからな。あの場所か ら逃れることはできなかった、時代を遡らずにはいられなかったんだ。姿を現しつつあった 革命後の中国はそこにはなかった。あの作品には、ロバート・フランクよりももっとアウグス ト・サンダーに近い。わたしは自分自身の文化革命を経験したんだ。少なくとも変わりはじ めていると感じた——例えて言うなら今まで乗っていた”馬”を捨てて、カメラを手に世界 との新しい繋がりかたを見つけなくてはという感じだった。
本誌: それはどういう意味ですか? それはどのような”馬”だったんでしょうか?
MP: 種類は断定しがたいな。全然現れないと思ったら、いつのまにかそこに居たという 感じだった。1986年の時点で、わたしはもう同じことをやり続けるのはいやだと思いはじめ ていた。それでも変化を遂げるには結局あれから14年もかかったよ。あの時期はずっとそ ういうことばかり考えていたな。影響力のある人々がいた——ウィリアム・エグルストン、篠 山紀信、川人忠幸、ウィリアム・ケントリッジ、それにもちろんColors誌。自分の生徒たちに も大きな刺激を受けた。彼らはほとんどみんなデヴィット・リンチの魔法にかけられていて ね。リンチの独創性に富んだブルー・ベルベットは決定的なあの陶酔感や舞台効果を作り 出して、それは90年代、いや今でも学部生たちに影響を与えている。興味深いのはリンチ があの映画の中でスティーブン・ショア、ラリー・クラーク、ジョエル=ピーター・ウィトキンと いった写真家たちをずいぶん引用していることだ。
本誌: この写真群についてあなたと初めて語ったころ、わたしはロラン・バルトの『中国旅 行ノート』を読んでいたんです。バルトは中国における「ファッション」の記号(「ファッション のシステム」)と性の記号(その時代のセクシュアリティ)をなかなか見いだせずにいたよう です。でもあなたの写真を見ていると、セクシュアリティではないにせよ、何かしらの鋭い「 センシュアリティ」が感じられる気がするんです。その当時の典型的な中国的感覚にはっき りと反抗しているような(わたしはあの当時の中国とよく似た状況下にあったルーマニアで 育ったのですが、そこですらこんな冗談がかわされていたほどです――「中国のポルノっ て?」「上着の一番上のボタンが外れている毛沢東の写真だよ」等々)。あなたの写真から は、はっきりとスタイルやスタイリングが読み取れます、襟やボタンや...
MP: そう、それこそがファッションだ。ファッションを通して、押さえきれない欲求を形作 り自己を表現する。われわれが反ユートピア的な栄光の下に屈することになり、真っ黒な ゴミ袋を着るように強制されたとしても、どうにかして縁を溶かしてVネックにしたり背中があくようにしたりコッドピースをつけたりするだろうな。
本誌: それこそがあなたが目撃し、撮影したものですね。あなたは国の周辺部に行き、バ ルトは北京のど真ん中に行った。
MP: そうだな。バルトの苦しみならよくわかるよ。あの頃の北京はオーウェル的な悪夢さ ながらに管理されていて、街中が重く沈んでいたから。遠くに行けば行くほど国家の権力 は弱くなり、個人が実験的な混在性に触れて反革命的な機会を誘発することになるんだ。
本誌: ふむ、ある種の革命に対する反革命... 先に進みましょう。あなたは日本で大き な写真展を開催しましたね、いつでしたか? 80年代後半だったでしょうか。どのようなも のだったんでしょう? 場所は奈良かどこかですよね。バブル期に建てられたばかりの美 術館だったかな。その時期あなたの写真はどのように受け取られたのでしょうか? とい うのも、わたしが思うに日本という国はある種のサイクルを持っている気がするんです。しば らくの間はわりと作品そのものを真っすぐに受容するのに、その後長い間は、同じ作品に 対しても再構築しようとし続け、言うなればそれが無効化してしまう傾向がある。例えば多 くの国際的な「ストリートアーティスト」たちは、日本に来るといつもデパートやそういった 場所でショーをやれと言われることに不満を持っていますね。いつものやり方とは違うか ら。
MP: 奈良のそごうデパートで展示した。上階にあった美術館で。日本での後援者だった 友人の”デンジャーマウス”が開催してくれた。彼女は本当にキケンだったよ。金持ちの子 女で一度も働いたことがない。自分の家族に恩がある他の有力な人たちに、義理を感じさ せるのがむちゃくちゃにうまかったんだ。写真展を開催するのに金は全く問題にならなか った。目録用の写真は何枚必要かと訊いたら、「全部よ。ここは美術館だもの、マックス」と 言われたよ... 結局250枚も展示したんだ。我々は帝国ホテルに泊まらせてもらった。昭 和天皇も泊まったことがある場所だ。ランドリーサービスの値段は世界一高い。着た服は 隠しておかなきゃならなかった。じゃないと部屋係が勝手にランドリーに持っていって、下 着2枚に靴下一足だけで500ドルも徴収されるはめになる。デンジャーマウスがいてくれて 助かったよ、日本人らしからぬ強い態度でマネージャーの脅しから守ってくれたからね。 彼女は今修道院で暮らしている。
本誌: ふむ。バブルが弾けたときにデンジャーマウスが修道院に行っていなかったら、本 誌も当初の目的通りに日本で発行することができたかもしれません。
MP: そうだな、デンジャーマウスならぴったりだったはずだ! だが世紀の変わり目と同 じくして彼女は燃え尽き、破産した。
本誌: ある意味ではわたしたちがこの会話をしているのもデンジャーマウスのおかげ なんです。というのも、あなたの「日本製の」写真集であるこの大規模な奈良写真展の目 録(これからは「デンジャーマウス・ブック」と呼ぶことにしましょう)を昨年あたり古本屋 で見つけて、あなたの作品をまた新しい観点から見られるようになったことが話を伺うき っかけになったのですから。そういえば、2000年あたりに一緒に写真展をやりませんか と声をかけたことを覚えていますか? テーマは「ヒューマンアイ vs シックアイ」、あなた の”Human Eye”からの写真を元にして(あれはデンジャーマウス・ブックの表紙だったか もしれません)、構造的には同じだけれどトラコーマや他の眼病にかかった被写体をわた しが質の悪いAPSフィルムで撮り、それらの写真を対置するというものでした。写真展を行 うというアイディアはともかく、そのテーマ/アングルはちょっと、ということで丁重に断られ ましたが... とにかくその”Human Eye”に対して反抗したいという気持ちがあったので す。今考えてみれば、わたしが反抗していたのはあなたが元々写真に対して持っている思 いではなかったのですね。つまりわたしはあなたの作品を支配していたように見えた、典型 的な「人道的写真」に反抗していたのです。少なくともあれはそういう形で編集され提示さ れていたから。でもあなたという人には度々驚かされる(あなたは絶妙にまたは大胆に自分 を改革しているんです)。例えば90年代後半にあなたは70年代に撮ったものをプリントし ましたね、カラーを白黒プリントしたものとしてすでに有名だった物を。実際あなたはそれ をカラーで撮っていた。その結果、もっと「ヒッピー的」に見えていたものがカラーになると 突如として新鮮で「現代」的に見えてきたのです。ティルマンスがその時点でやっていたこ とのように。あの写真群は20年ばかり時代を先取りしていたのです。なので(よりメインスト リームの)アート・フォトグラフィにおいてカラーが再び見直されるようになった90年中頃 まで待たなくてはならなかった。 さて、話を元に戻しましょう。デンジャーマウス・ブックを昨年見ていたとき、一枚の写真が 目に飛び込んできました。中国のイスラム教徒だと思われる二人の高齢の女性が写ったも のです。二人はカメラに対して斜めに配置されていて、顔はこちらを向いているのにしっか りと隠されている――その緊張感がとても気に入ったのです。個人的にはあなたの「人道 的」な写真よりも好きなんです。それで思ったのですが、あなたは実はもっとこっち側の写 真を撮りためていたんじゃないかと。古典的な「マックス・パム」の写真は、実際あなたが目 指しているものというよりも、ただ発表するためのものであったのではないでしょうか。それ らは最初からカラープリントで発表していますし...
MP: あの本を持ってるのか?? あれは本当にレアなんだ、基本的には日本でしか手に 入らなかったはずだ。2000部刷られて、200部は売れたけど残りの1800部はトーフにで も変えられてしまったらしい。そう、”Human Eye”はデンジャーマウスが企画したものだ った。創作には関わってないけれど、彼女は金庫破りに奔走してくれた。馬鹿高い手数料 やコンサルタント料の手配してくれたんだ。デンジャーマウスがいなかったらこんな企画は できなかった。彼女は日本の体制に対して大胆なやり方で協力を要請してくれたんだ。奈 良での2週間の滞在中は、通訳者/アシスタントとして4人の女性たちをつけてもらった。 彼女たちはみんなデンジャーマウス・ワールドとも言える強烈なすり鉢のなかに身を投じ て、その罪を負って使い捨てられることになった。”Human Eye”の目録は自由に作らせて もらえたよ。”Going East (1992)”と同じ年に出版された。
本誌: それでは、その他のマックス・パムについてはどうでしょう? その他大勢のマック ス・パム... どのように共存しているんでしょうか? これは単なるわたしの幻想なんでし ょうか。
MP: そう、マックスはたくさん存在するし、わたしはその一部と共に仕事をする。今わたし が事物と辛抱強い関係を結ぶことができるのも、幼い頃におもちゃを手にした時の満足 感や喜びがあったからだと思う。第二次世界大戦のナチス空軍のモデルキットには何週 間もぶっ続けで熱中した。あの時代のこういうおもちゃは、20世紀後半に流行したフラット パッケージ消耗品の代表と言えるな。例えばIKEAの製品もそうだ。細かくて分かりにくい 説明書が同梱されている。プラスチックから押し出した部品をハイになりそうな透明な接 着剤で組み立てていく作業は、言うなれば「麻酔と彫刻」初級クラスの導入みたいなもの だ。 それから何年も経った後、説明しがたいカタルシス的感情にさいなまれたことがあった。 人生の岐路に立ち、方向転換を迫られたんだ。そこで久しぶりにおもちゃ屋に行って大好 きな船のモデルを買ったよ。数カ月後にこのアートセラーピーをやりきったとき、汽船ルシ タニア号のモデルが出来上がった。作っている最中に子どもたちと写真撮影をして、おもち ゃを使ってちょっとした冒険をしたんだ。8歳の息子ジャック・パムをこのルシタニア写真の モデルに起用した。うちはロンドンのマスウェル・ヒルにあるんだが、その急な坂の下にある マンホールの中央に彼を立たせた。その朝はものすごく霧がかっていて、白黒写真を撮る には最適だった。尽きることなくわたしが焦がれたもの。ジャックと、悲惨な歴史を背負っ たあの船のモデル。我々が海へ乗りだしていくと、車がアクセルを踏んで坂を下ってくる。怖 がるジャックはボンネットの飾りを振り返って見る。北部ロンドン独特のライティングと気候が一体になり、モデル船ルシタニア号のフィナーレへと写真を導く。
本誌: 確かに、そこにはとても「フィジカル」なものが感じられますね。写真自体が そうなのですが、デジタル化すればするほどそう感じるようになります。だからあな たの言う感覚が分かりますよ。さて、話がストリートに戻ったところで訊きたいことがありま す。知らない人々を撮る際には実際どのようなアプローチをするのでしょうか? 話しかけ ませんよね、おそらく。あなたは動く、ジェスチュアを見せる。 どのような感覚ですか? 関係性を作るとき、あなたの身体はどのように動くのでしょう? 自分では意識しているの ですか?
MP: それに答えるには、わたしの写真生活のスタートに立ち返る必要がある。重要な写 真を初めて撮ったのは、1970から71年、ロンドンのアートスクールにいた頃だ。1971年の 初頭、わたしは学校の図書館で初めてダイアン・アーバスの作品に出会った。生々しいスタ イル、主題に込められた感情や意味、それがスクエアフォーマットにすべて完璧におさまっ ていること、それに心を掴まれたんだ。金ができ次第、持っていたペンタックスSPからハッ セルブラッドに乗り換えなくてはと思った。そして手にした瞬間、これが持つべきカメラだと 分かったんだ。頭で考える必要はない。カメラを手にする、しっかりと収まる、ウェストレベ ルファインダーで構図を決めることができる——ただ、これだって感じられるんだ。すぐさま ダイアンと繋がっている感じがした。彼女は20世紀における本当に素晴らしいアーティス トだ。この新しいカメラに出会ってすぐ自分自身のアイデンティティを探る絶好の機会が訪 れた。わたしはルームメイトの恋人に恋していたんだ。麗しきジョルジーナ(あの写真につ いての話はすでに出たはずだ)、わたしにとって初めてのポートレイト。人は誰かに出会った とき、何かを与え代わりに何かを得る。二人の間で交わされるのは無言の同意、大概は笑 顔でもって証明されるが、そうでないときもある。初めての撮影で経験したこの流動性と他 者との交渉が、今でもわたしが写真を撮るときに生かされている。
本誌: 素晴らしい表現です! 美しい! あなたの全ての作品には愛が関わっているの では? 一風変わった、つかの間の愛といった意味で。あなたの作品は過ぎ去っていく愛 の歴史ではないでしょうか。もちろん広い意味においてですが。というのも、あなたは決して 写真家として意地悪くも、批評的でもないですよね。あなたは自分の好きなもの、愛するも のを撮る。もっと引き出したいと思うものを。これが先ほどの『原光景』についての質問の答 えになるみたいですね。 これと関連して訊きたいのですが、写真を撮る際ですね、そのときは正当性を感じている のに途中で何かがあって、写真を撮った後になってから当初の感覚を見直したくなる、と いった経験はありませんか? また、フィルムで撮ることについてはどうでしょう。おそらくデジタルで撮ってしまうと、その 場で写真を確認したくなって、その結果ある被写体を削除したくなるかもしれない。そのこ とについてはどう思いますか?
MP: フィルムで撮るという行為は、デジタルで撮るのとはずいぶん違う。フィルムで撮ると きには、完全に最初の感覚に頼るようにしている。その体験自体のなかに自分を置くんだ。 とてもやりがいのある撮りかただ。何が得られるのかはわからないが、そんなこと誰も気に しない。写真はその瞬間についてのすべてなんだ、その瞬間に起きた興奮とドラマそれが すべてだ。デジタルカメラを使うと臨場性を損なうことになる。再生ボタンを押してしまえば その瞬間を失ってしまう、それは永遠に戻ってこない。写真を撮り終えた次の瞬間にスク リーンで作品を確認するなんて自分を信じていない証拠じゃないか。そのせいで独創性 のない潔癖性の写真家になってしまうだろう。もし写真がパーフェクトに感じられなかった らすぐに削除して、すでに過ぎ去ってしまったその瞬間を52枚も撮り続けるはめになった りする。それに素晴らしい作品だったとしても、周りにいる人々にスクリーンで見せてしまう ことで、その写真が持つ親密性が損なわれてしまう。デジタルがしっくりくる人もいるんだ ろうがね。鏡で自分たちがセックスしてるところを見るのが好きな人もいる、iPhoneでそれ を撮ったりしてね。もしデジタルで撮りはじめたらきっと怠惰になるだろうな。わたしなんて 最近それでなくてもだらしなくなってきたんだから。
本誌: さて、話の終わりの始まりに、もしくは始まりの終わりに... 戻りましょう か。あなたとファッションの関係性を教えてもらえますか? タージマハルかどこか で撮ったセルフポートレートがありますよね。その写真に写っているあなたは若かり し頃のイヴ・サン=ローランのようです。
MP: あれは1971年にアジメールのアンバーパレスで撮ったものだ。当時はサブ・ カルチャーに属する特別な格好にはまっていたんだ。東へ向かう旅人のイメージ があって、それと結びつきたいと思っていた。マスカラに、ペンで書いたような口ひ げ、カマーバンド、バンダナ、ふんわりとしたシャツ、らくだに乗るための靴、といった エスニック風の格好だ。サマルカンドの映画に出てくる海賊から逃げ出したような。 ロンリープラネットのガイドブックなんてなかったし、バックパッカーもいなかった。 グローバリゼーションも大型飛行機も、観光旅行業も。東を旅していると別の世界 に入り込んだ気がしてくる。海賊映画のエキストラのような格好をした地元の人々 と同じような格好をしてね。数週間も西洋人に会わないことだってあるし、会えばす ぐに相手も自分と同じ現実逃避ゲームをしているのだとわかるんだ。若かりし頃の YSLか。サングラスのせいかもしれないな、あれはYSLのだったから。
本誌: 最後にファッション写真家たちにアドバイスはありますか?
MP: 探究心をもった若いファッション写真家にも、カメラを使って何かを創作する他の 若いアーティストたちにも、共通して言えることがある。自分自身の中に隠されている「特異 さ」を発掘することだ。誰にだってあるものなんだから。蓋を開いて、中身をいくつか取り出 し、それと向き合ってみる。そうすればいつの間にか、自分の作品に偽りのない自然なオリ ジナリティが溢れ出てくるはずだ。まずは尊敬する写真家の写真を真似してみること。そう することで次第に自分自身の”馬”をたやすく扱えるようになってくる。ファッション誌の編 集者のご機嫌をとったりなんかすること無しに、うまく乗りこなせるようになってくるだろう。 それが自分の馬だってことを忘れるなよ、扱うのは彼らじゃない、君自身なんだ。
【本誌: Alin Huma】 【翻訳: 菊池 裕実子】
―あなたはエルメス中国のデザイナーであると同時にご自身のブランドBoundlessも展開
されています。あなたの経歴について教えてください。
1986年にNorthwest Textile Collegeに入学して、ファッションデザインを学びまし た。1990年に卒業した後も学校に残ってそこで7年働きました。1999年に上海のChen Yi Feiのスタジオから一緒に働かないかとの誘いを受けて、上海に移り今でもここに住ん でいます。1999年から2002年までChen Yi Feiのスタジオにいて、それからしばらくフリ ーランスで働いた後、2005年に自分のスタジオParallelをオープンさせ、ブランドBound- lessを立ち上げました。
―エルメスに加わるまでに国際的な経験はあったのでしょうか?
通っていた西安の学校は、アントワープの王立芸術アカデミーと提携していました。そこの 協力を得てトレーニングスクールが設立され、また中国から講師がむこうに派遣されたり していました。わたしはベルギー人の講師のアシスタントとして、準備の段階やクラスでの 手伝いをしていました。良い経験になりましたよ。その後はローマの服飾企業で3カ月間オ ートクチュールを学びました。
―ヨーロッパのブランドと仕事をするのはどうですか?
Shang Xia(シャン・シャ)エルメスは上海を拠点にしているので、そこで働いているのはほ とんど中国人です。オリジナルの素材を調達したり手工芸の技法を研究したりするのが一 番おもしろい。もちろん困難もあります。中国ではまだ高級品の扱いに慣れていないところ がある。なのでディレクターとしてフランス人のデザイナーやコンサルタントが必要になっ てきます。
―誰かのためにデザインするというのはどうでしょう?
Shang Xiaに加わる前から自分のブランドを始めていたし、まだこれからも続けたいと思 ってます。Shang Xiaでは規約に従う必要があるんです。新しい布地や素材を探したり、手 工芸の店を訪れたりするのは楽しいですよ。デザインにおいては自由にやらせてもらってい ますが、アートディレクターの指示もちゃんと聞きます。自分の名前がブランドに出なくても 気になりません。自分のアイディアを表現するのには自分のブランドがありますから。ちょう どいいバランスだと思っています。Shang Xiaも必要だし、Boundlessも必要です。
―全体として、あなたの作品にはヨーロッパの影響があるのでしょうか?
そうですね。まずベルギー人の講師と働いていたときにヨーロッパの影響を受けました。す ごく重要な経験だったんです。それから3カ月間ローマでインターンをしたことからも、かな り影響を受けています。
―マルタン・マルジェラを重要なデザイナーとして挙げていましたね。
マルタン・マルジェラは好きなデザイナーの一人なんです。彼のおかげで服というものの見 方が変わった、だから重要な存在です。彼の服に対するアプローチはユニークです。彼は 服飾という概念そのものからインスピレーションを見いだすんです。特定の服という存在 を超えたところで。これには深い刺激を受けました。それに彼のデザインはベルギーやパリ での自身の日常生活に根ざしていると同時に、哲学的なものも伴っている。すごく興味深い し、刺激的ですよ。
―エルメス以外でのデザインをするときには、どこからインスピレーションを受けますか?
Boundlessでインスピレーションの源になっているものは二つあります。一つは中国的な ものの見方。つまり中国的な哲学です。また、ドレープやダーツがない中国式のとてもフラ ットなカッティング技術... 中国人の服の作り方はおもしろいんです。それに伝統的に身 体をどう見せるかという精神性も異なります。中国人も日本人も、身体は隠して他人に見せ るものではないと考えてきました。古代から中国と日本の服はとてもゆったりと作られてい た。身体が直接見られないようになっているんです。素材はとても柔らかく、たいていは絹、 綿、麻が使われます。身体の線は感じられるけれど、実際には見ることができない。想像力 をよりかき立てることができる。実際に見て分かるのではなく、このような形でセクシーさ を表現しているのです。このような精神性の違いがあるからこそ、わたしたちはヨーロッパと は異なる服を作るのです。ヨーロッパ人は大抵自分の身体を誇示することを美徳としてい ます。なので衣服の機能の一つとして身体の形を強調することがあり、お尻のあたりや胸 を大きく見せるためにカットや縫製技術を駆使してそれを実現しようとする。
もう一つのインスピレーションはわたし自身の日常生活。様々なものが混在しているのはと ても興味深いんです。西洋のもの、中国のもの、古いもの、そして新しいもの。実にごちゃご ちゃとしているんですよ。北京は本当に乱雑ですね。時にはこの乱雑さが好きなんです。趣 味は確かに悪いけど、面白いし、パワーに満ちあふれている。
―その通りですね。この国には未だに様々なものが流入してきていて、人々はどのスタイル をどう使っていいか理解するのに時間がかかりそうです。ヨーロッパでは、すでに全てのも のにきちんとした文脈が備わっています。こういう人々はこういう服装をする、というように。 ここでは全く異なる背景を持った人々が、同じ服装をしていたりする。おかしく感じると同 時に、物事について考えさせられるような気がします。 全体的な中国でのデザインについてはどう思われますか? 中国は次の日本になるので しょうか?
中国は今、エネルギーとチャンスに溢れています。経済が急成長したおかげで需要が高ま り、デザイナーたちにより多くの機会がもたらされたのです。しかしデザインのレベルは全 体的にあまり高くはありません。今までのところ、日本に匹敵するものにはなっていません。 現在の中国におけるファッションデザインは、1980年代、90年代のコンテンポラリーアー トと似ています... あの時代のアーティストはあらゆる西洋のスタイルを取り入れていま した。今ではファッションデザイナーがその真似をしています。ロンドンやミラノやパリのス タイルを全部真似ているだけです... どのスタイルも中国で見かけられるのに、自国のス タイルだけがないのです。10年もすれば、きっとこの傾向は変わっていくでしょう。
―デザインにおけるレベルだけではなく、消費者のレベルもありますね。中国の消費者は ルイ・ヴィトンのように有名ブランドに入れ込んでいます... 有名でも前衛的なデザイナ ーたちは中国で製品を売るのに苦心しているようです。
金持ちの多くはヨーロッパの有名ブランドが好きなんです。それが事実ですね。そこまで裕 福ではなく高い製品が買えない人々も、有名ブランドの値段が低めのアイテムを買おうと します。観光旅行者や留学生の多くはセールの季節になるとそういうものをたくさん買うん です。また、オンラインショップがヨーロッパ製品の仲買をして、手数料を取ったりすること も多い。というようにファッションだけを見れば、中国の消費者はデザインや形や素材には こだわらずに、ブランドネームや社会的地位だけを追っているのがわかります。
エルメスの仕事をしながらも、自分の小さなブランドのためにマーケティングをしたりもし ますよ。違いがよく見えてきます。わたしのブランドは北京や上海にある小さな個人ショッ プで売れます。商品の数は少ないですが、最近はより多くの人々が中国人のデザイナーが
作るのものに興味を持ちはじめているみたいです。それと反対に、Shang Xia エルメスは 高級ブランドですから、上海でしか売れません。それに裕福な人々だけをターゲットにして います。Shang Xiaを買う人々は値段なんか気にしないんです... 残念ながらこの傾向 はしばらくは続くでしょうね。これは成熟した消費行為とはいえません、心配です。5年から 8年のうちには何かが変わるかもしれませんが。
―中国ではいろんなことが急激に動いていますからね... 5~10年のうちには信じがた いことになっているかもしれません... 最近ではたくさんの学生がファッションを学びに 海外に留学していますね。
その通り、多くの学生が留学しています。良いことですよ。一つの要因としては、子どもの留 学中にサポートできるだけの資金を親たちが用意できるようになったからでしょう。少なく とも技術やファッション業界の流れを学ぶことができる。これによってレベルを引き上げる ことができるでしょうね... 一番重要なのは、学生たちが物事に対して自分なりの見方が できるようになることです。わたしとしては、彼らに自分を見つけてほしい、ファッションに対 して自分なりのアティテュードを見つけてほしいんです。次に大事なのは品質に気を配るこ と。
―ご自身の仕事をどう表現しますか?
「フラット」とわたしが呼んでいるタイプがあります。中国式のカッティング技術や事物の 見方を定る精神から学んだことです。フラットカッティングは中国や東アジアの象徴と言え ます。また、襟と袖の位置の決め方など、昔の日本からも影響を受けています。そのやり方 で作ると、縫う時によったり特別なことをしなくても、服を着れば布地にしわやねじれが出 るんです。これは中国の考え方でもあります――完成された服を作るのではなく、それが 生まれる方法を作り出す。つまり物事はすでに決められているのではなく、自分が作り出す 環境によって自然に生みだされるのだ、ということです。
ヨーロッパでは形作るのにドレープの技術を使います――始めからそうなるように完璧に 作るのです――服を脱いでハンガーにかけても同じ形状をしている。でもわたしの服は、 脱いでしまえばフラットになる。ひだなどの形はなくなってしまう。それはとても中国的なん です――ひだや形をつくることはせずに襟や袖を違う場所につけることで、身体が布を形 作る。
―イッセイ・ミヤケにも影響を受けましたか?
ええ、彼にはすごく影響を受けたので、そこから抜け出すのにとても苦労しました。彼らは 日本のファッションスタイルというものを確立しました、素晴らしいことです。それまではパ リという一つのスタンダードしかなかった。それから彼らが参入してスタンダードが二つに なり、そのあとにはベルギーのスタンダードもできた。日本には3回行ったことがあります。 いずれも短い期間だったけど、日本人がデザインに優れていることがわかりました。それは 国民性なのかもしれませんね。彼らは整然としている。コントロールするのが好きみたいで す... 自然でさえ。日本人は自然が好きですが、それらもコントロールされている。盆栽を 考えてみてください。裏庭に飢えられた木々、高さも形もコントロールされている。アメリカ のようにただ木々が成長するまま放っておくことはしません。
―そこでの違いは、日本人は木々をきちんと世話し管理をしているということです。中国で は手入れをまったくしていないのでとても汚いですよね。
日本人と中国人には大きな違いがあります...日本人が作るものはみんな整理され、人間 の手で管理され、きっちりデザインされている。私にはどうもそれが過剰な気がして落ち着 かないのです。もちろんとても清潔な環境はいいのですが、場合によっては行き過ぎに感じ られる。でもきっとこのような特徴があるからこそ、素晴らしいファッションやグラフィックデ ザインが生まれるのでしょう。
―UCCAであなたはIKEAのタオルでスカートを作りましたね。わたしはスウェーデン出身 なので、あのタオルは見慣れたものです。どの家にもあります。子どもの頃にもあったし、毎 日見ていましたよ。なのでUCCAのショップであれを見た時に、この場所にそぐわないもの を見た気がしました。わたしはずっと中国でこういうものを探し求めていたんです。表面的 で見かけだけのものではなく、もっと概念的な何かを...
確かにIKEAはもともとスウェーデンのものですが、今では中国にもあります。なのでわたし たちにとっても意味深いものなのです。わたしのスタジオにはIKEAの家具がたくさんあり ます。IKEAは中国人の生活にとって欠かせないものです、とくに若者たちにとっては。おか げで生活がよりよく見えるんです。そういうわけで、もとはスウェーデンから来たものでも今 ではIKEAはわたしたちの生活の一部になっているんです。だからタオルやプリント素材な どIKEAのものを使いました。あのタオルはキッチンで洗ったりボウルを拭いたりするのに 使いますね。だから夏用のドレスやトップスを作るのにぴったりだと思ったんです。コットン だし、汗もそれで拭き取れる。それに安価でローテクなところが気に入りました。ドレスを 作ったとき、タグはそのまま残したんです。おもしろいだろうと思ったから。多くのファッショ ン好きの人々はブランドの刻印されたものが大好きで、そのブランドを自慢したがる。でも IKEAみたいに安いものはもちろん自慢にならない。
―もしルイ・ヴィトンのバッグを買ったらLVだとわかる大きなラベルがあったほうがいい、 でもIKEAの場合はそれがIKEAだとばれたくない。それがブランドというものの奇妙なお もしろさです。だからタグを残したんですね。
そういう人たちを冗談半分にからかいたかったんです。わたしはIKEAのタグをドレスに残 した、それが嫌なら、じゃあもうIKEAは買わないことです。
―スウェーデンでは、20歳から27歳、もしかすると30歳ぐらいの人々の家でも家具は大抵 IKEA製です。中古で手に入れたか、両親の家からもらってきたか。見ればすぐにわかりま す。わたしたちにとっては、IKEAばかりだとつまらなく思えてくる。個性の欠如のように感じ られます。中国ではIKEAはどのような意味を持っているのでしょう? もうすこし良いもの のように捉えられていそうですが。
確かに中国では少し異なると思います。小さな町の一般の人々にとっては、IKEAはまだ少 し高級です。でも北京や上海のホワイトカラーの人々なら、簡単に買うことができます。大 都市に住む若者はIKEAで家具を買います。というのも中国にはまだ大衆用に安く作られ た家具でデザインが良いものがないから。IKEAが売れるのは、デザインが良くて値段が安 いからです。中国では普通安いものは趣味が悪いんですよ。
―わたしが住んだ経験から言うと、中国でアパートメントを借りると家具がついてきます ね。でも大抵は醜くて品質が悪い。新しいものは良く見えることもありますが――他のデザ インを真似をしているものもあります――1カ月ほど経つと壊れたりサビたりします。そうな ってくると本当にIKEAのありがたみがわかりますね。
若者にとってIKEAが重要になのは、彼らがスタイルにこだわりを持つようになったからで す。それに中国の大都市では、みんなしょっちゅう引っ越しをします。高い家具を買っても、 新しい場所に引っ越したときには置けなくなるかもしれない。IKEAなら安くても見かけが 良い。だからみんな欲しがるんです。ユニクロも同じですね。無印良品はちょっと高めです。
―あなたは上海に住んでいますね。ですが中国ではアートやクリエイティブなことはすべて 北京にあります。なぜ上海なのですか?
1999年の時点では、上海が最適な場所だったと思います。あの頃の北京と比べて、布地 や服飾工場が探しやすかった。でも一番の理由はChen Yi Feiです。彼はデザイナーに自 由にやらせてくれたし、ブランドの印象もすごく良かった。だからすぐに決めました。もちろ ん今だと、アートや音楽や映画を作るには北京のほうが適しています。上海はもっと商業 的ですから。でもファッションには上海の方がいいんです、ビジネス環境が良いんですよ。 それに街の中心部には狭い路地がたくさんあって、個人デザイナーが小さなショップを借 りることができる。個人デザイナーが初めに登場したのは上海なんです。2000元ほどでシ ョップを借りることができるので、ここでデザインを始めた。ここに住みながらお金を稼ぐこ とができるのです。今までは企業で働くことしかできなかったので、これはとても新しい考 え方だった。あの時代、働きながら暮らすことができたのは上海だけです。北京でそれがで きるようになったのはもっと後です。北京には狭い路地がないので、人々はゆっくり足を止 めて個人のデザインを楽しむ余裕がないんです。ファッションデザイナーが北京で活躍し はじめたのは最近になってからです。ヨーロッパに留学していた学生は、もっとメディアが 盛んでチャンスのある北京に戻っていくみたいです。だから最近の北京はより活動的にな った。
―アイ・ウェイウェイは北京は汚い、と言っています... もしあなたが今選択を迫られたら どうでしょうか?
それは難しい質問です。ここ何カ月かそのことについて考えていました。個人的なことなの ですが。みなそれぞれ都市に対しては違った思いを持つものでしょう... でもアイ・ウェイ ウェイの言うことはわかります。もしまったく普通の生活を営むなら、北京は便利です。音 楽やアートをやりたかったり、色んな人々に会いたい人にとっては、絶好の場所です。でも もっと穏やかな中流階級の暮らしがしたいのであれば、上海でしょうね。
―わたしにとって最も重要なデザイナーを3人挙げるとしたら、コムデギャルソン、ヨージ・ ヤマモト、マルタン・マルジェラです。でも彼らはみんないなくなってしまった。マルジェラは 今ではディーゼルです。ヤマモトは破産しましたし、コムデギャルソンはといえば、いまだに アンチ・ファッションの姿勢は持っているものの、財布やプレイラインを作っている...
それが普通だと思いますよ。コムデギャルソン、川久保玲... みんな歳をとったら、今まで のように斬新なコレクションを作らなくなるものです。全ての人にそういう時期が来ます。時 代は進んでいくものなのです。あの3人のことは尊敬していますよ。でも仕事やめたいので あれば、それも理解できます。実際やめた方がいい場合もあります。とくに最近のヤマモト のコレクションはあまり好きではありませんでした。
―おそらくわたしたちはまた別の何かを求めているのでしょう。有名な名前やラベルは必 要ない。もっと個人的な何かを求めているのかもしれません... デザインの未来をどう考 えますか?
すごく重大な質問ですね! 一つ確かなことは、みんな驚きを求めているということです。 日本のファッションもベルギーのファッションも消えた、アントワープシックスやアンチ・ミ ニマリズムも。だから人々は待ち望んでいるんです。期待できるのは中国だけ、しかし大企 業には期待できません。お金はたくさん儲かりますが、変えることができるのは社員のため に職場を改良し、給料を上げることだけ。わたしの友達にも会社を経営している人がいま すが、ここ2、3年は社員に高い給料をあげるために大変な思いをしています。だから商品 の値段をあげなくてはならない。
個人デザイナーたちも、よりよく仕事ができる道を見つけなくてはいけません。その方法 は4つあります。一つにはUma Wangのように海外に行くこと。彼女は上海からスタートし て、うまくやっていますね。今ではミラノとロンドンにショップがあります。Joyceも北京で自 分の道を見つけて頑張っています。二つ目は、わたしのように自分の商品を売る自分の店 を開くこと。三つ目は2、3年してお金が貯まったらデパートに店を持つ。それから最後にイ ンターネットを使って商品を売る。Decosterは最近コンセプトストアをオープンしました ね。Zaishi Wangも... みんな自分に適した仕事の仕方を探し求めているのです。
【インタビュアー: Erik Bernhardsson】 【翻訳: 菊池 裕実子】
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2013年6月1日 発行 初版
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記憶は未来のように布は胞子のようにピクセルは郷愁のようにそして内海は露光であるかのごとく・・・塗りたくられた白さすでに言われたことのようにそして再び言われるのだ意味とともに再び