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PTA会長と校長先生って
どっちがエラいの?

~校長先生のためのPTA入門~

川端 裕人



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 はじめに

 PTAは本当に悩ましい。
 筆者は、教員でも校長でもないので、保護者としてPTAと付き合ってきたわけだが、なぜこのように悩ましい組織が、半世紀以上、温存されてきたのか、不思議でならなかったし、抜本的な手を打たないと、様々な面で危ないとも感じるようになった。
 そのことを校長先生にも知って欲しい。それが、執筆の直接の動機だ。
 第二次世界大戦後、米国から「輸入」されたPTAは、デフォルメされた形で日本に根付き、問題を指摘されながらも、長い間、誰にも変えられない不可侵領域のように扱われてきた。
 結果、今のPTAはきつい。どうやら、何十年も前からずっときつく、誰もそれを変えられなかったらしい。
 きつい、と思っている保護者は多いし、うすうす気づいている校長先生も多い。公の場で、「我が校のPTAは協力的で」と誇らしげに述べる時、「でも、結構、大変そうだよなあ」「辛そうな親も結構いるなあ」と感じ取っている校長は、少数派ではないと思う。
 保護者としてPTAに関わってきた筆者の個人的な体験としても、取材してきた結論としても、PTAのきつさは、半端ではない。処世術的な提言ではなく、もっと根っこからなんとかできないか、と思い続けてきた。
 PTAは一般に「保護者団体」だと思われており、「保護者のことは保護者で解決せよ」というのが、学校側の標準的な見解かもしれない。しかし、実際は、保護者だけではなく、教員も会員であり、校長も会員、もしくは、相談役、理事、参与(肩書きは様々である)などとして、会の運営にかかわっている。
 会員の過半数が保護者である、というのは事実なので、保護者が問題を感じるなら、保護者どうしで声を掛け合い変えていけばよい、というのは理にかなった考えではある。ただ、筆者の観察では、校長がPTAにかかわることを「面倒」と感じたり、一部の有力者(元PTA会長などが「地域」指導者として、学校とかかわることが多いのはご存じの通り)の声に重きを置くあまり現役の保護者の意見を軽んじたりすると、とたんにおかしなことになる。PTAは、会員のためでも、子ども・児童・生徒のためでもなく、ただ、存在するために存在する、義務・負担・強制の団体になってしまう。
 筆者は小説を書くのが主な仕事だが、二〇〇七年に「PTA再活用論──なやましい現実をこえて」(中公新書ラクレ)を執筆して、保護者サイドに問題意識を伝えた。教育上、子どもたちに悪い影響を及ぼしかねないとすら感じられるPTAの現状と、にもかかわらず、PTAが持っているかもしれない潜在的な可能性について語り、よりよい「学校を中心にした共同体」を創りえるのではないか、と述べた。
 しかし、すぐに悟った。それだけでは、足りない、と。
 保護者側に情報提供したり、提案したりすることで、今のPTAが持つ強烈な「きつさ」を緩めて、なおかつ、学校教育・家庭教育によい方向に持って行けないかと期待していたわけだが、いざ保護者が実践しようとしても、うまくいくのは少数だ。学校、とりわけ、校長の理解がないと、頓挫してしまう。もちろん、校長の意向ですべてが決まるわけではないが、それでも、校長先生の理解は、パズルを解くための必須のピースなのだ。
 そこで、学事出版の雑誌「月刊プリンシパル(校長先生)」に、二〇一一年度と一二年度、二年間にわたって、問題提起・注意喚起のための連載をさせていただいた。
 一年目は、校長先生にとって、身近で、しかし、謎の存在であろうPTAについて、保護者目線で語った。本書の幹の部分である。 PTAがどんな性質を持つ団体なのか、その背景と、校長先生からは見えにくい「実情」を述べた。
 二年目は、保護者や地域から、学校がどんなふうに見えているか語ってほしいという発注に応じて、視野を広げて書いた。結果、PTAとかかわるテーマも敷衍して述べることになったので、本書には付録として、特に関連性の高い六回分を収めた。「繰り返し」になる部分もあったが、それは特に重要なことだと思っている。
 いずれも、基本的には連載当時のままだが、掲載当時の限られた紙幅ゆえに舌足らずな点は補った。また、執筆後に、大きな変化があった箇所については、新しい情報を入れ込んだ。
 校長・教頭・副校長や将来、学校管理職になるかもしれない先生が、PTAについて考える一助になれば本当にうれしい。

 二〇一三年 七月 川端裕人




本書は、「月刊プリンシパル」(学事出版)に二〇一一年度に連載された「校長のためのPTA学入門」(すべて採録)と、二〇一二年度の「外からみた学校」(抜粋)をまとめたものです。
基本的に連載当時のままですが、紙幅の関係で切りつめた表現を補ったり、本質的と思える新たな情報がある場合は追記しました。書籍化のための編集作業につきましては、YFさん、YHさんの超強力な協力をいただきました。感謝!

 目次

 1 PTAは学校・家庭・地域の断絶をもたらす?
 2 原点は保護者と教師の学び合い
 3 PTAの実情とは?
 4 本当に必要な活動はなに?
 5 外部から見て透明なものに
 6 自由な入退会をめぐる新たな動き
 7 PTAと学校経営にかかわる残念な例
 8 いっそPTAの義務化はありうるか?
 9 NZでは保護者が学校を統治する
 10 セーフティネットが必要
 11 PTAと「民意」?
 12 また新しい春が来る

付録 「外からみた学校」  (二〇一二年四月号~一三年三月号)より

 1 保護者会って……
 2 「地域」って誰だろう
 3 海外の日本語補習校にて
 4 保護者を管理したい欲望
 5 保護者が管理されたい欲望
 6 PTAでは、がんで闘病中でも「役」は免除されない

 PTA問題をめぐる最近の展開についての補遺

 1 PTAは学校・家庭・地域の断絶をもたらす?

 学校・地域・家庭の連携が強調される中、PTAの役割りはますます大きくなっているとされる。うまく連携したいという思いを持つ校長は多いはずだ。ところが、現在のPTAが、多くの場合、単に連携するだけでは済まない複雑な存在になってしまっているのが悩みの種である。
 筆者は小説家で、同時に保護者である。二〇〇四年、長子が小学校に入学してからPTA問題に首を突っ込んでおり、PTAがかなり「きつい」と言われる地域で本部役員(副会長)を務めたこともある。取材を重ね『PTA再活用論』(中公新書ラクレ)という本も上梓した。その間、嘆かわしい実例に多数出会った。
 PTA役員が「私たちは学校の(校長の)嫁」と自嘲することは珍しくない。「子どもを人質に取られている以上、無難に任期をこなし次の役員に引き継ぐだけ」と。このような現象を察知している校長は立派だ。なぜなら校長がPTA役員に直接聞いても「学校の理解が深まった」「勉強になった」と標準的回答をするのが常だからだ。
 さらに言うと、男性のPTA会長が地域有力者の中から選ばれる傾向が強いPTAの場合、会長の業務は、本来はたすべきPTAの事務局業務より地域対応が主になって、主に女性(母親)からなるPTA実務者の実情を察知していないことも多い。
 現状、校長とPTAの保護者の間には断絶があるかもしれないと用心しておいたほうがいい。どんなに良好に見えるPTAでも、長年の硬直した組織運営の結果ひずみを抱えていて、保護者に過大な負担を強いるものになっていることは珍しくない。その上、今「新たな連携」を望まれる世相の中、しんどい思いをしている保護者は多かろう。

 逆に、PTAの存在故に、学級経営上、困ったことになる例が、毎年四月に繰り広げられている。
 それは、新学年最初の保護者会(学級懇談会)にまつわること。
 あまりに「当たり前」のこととして受け入れられているため、それを「問題」と認識していない教員や校長もいるかもしれないが、よくよく考えてみると根本的な問題だ。
 四月の保護者会は、新担任が学級経営方針を述べ、保護者からも質疑応答を受け、互いの信頼関係を形作る第一歩としたいところだが、たいていは「PTAの役決め」に時間を取られてしまう。
 いや、それ以前の問題として、「役決め」を回避するために、同じ日に流れで開催される「学年保護者会」や「授業参観」(各校スタイルは違うだろうが)には出ても、学級保護者会には出ずに帰ってしまう保護者も珍しくない。高学年になるほどこの傾向は強く、取材したある六年生担任の先生は、授業参観の半分くらいしか残ってくれなかったと嘆いていた。
 そんな中、教員は短い時間で、自己紹介と学級目標などを述べ、あとは役決めが延々と続く。統計的な検討にたえうる調査をしたわけではないが、四月の保護者会で「保護者と教員のコミュニケーションが取れる」「信頼関係を醸成できる」と述べる教員は希だ。
 ちょっとした工夫として、先に役決めをして、後で保護者会を開く方法もある。しかし、役決めが一時間を超えることはざらだし、終わったとたんに帰ってしまう人も出てくる。筆者の子の中学校PTAはこのスタイルだが、何人もの保護者がそそくさと教室を出る。小学生の子がいて面倒を見なければならなかったり、仕事をやり繰りして参加はしたがまた戻らなければならなかったり、理由はいろいろだ。
 保護者にすれば、一年の生活に大きな影響を及ぼす決断を迫られており頭の中はいっぱいで、「役決め」が教員とコミュニケーションの機会を奪っているとはまず思いつかない。これは本当に気づくのがむずかしく(保護者はそういう「第一回保護者会」しか知らないのだから)、筆者も「役決めのせいで先生の話が聞けない」弊害に思い至るまで四年くらいはかかかった。
 この件は、PTAが抱える問題のまさに入り口だ。背後には、活動の肥大化・硬直化、保護者のライフスタイルの変化もあるだろう。PTAのOB・OGでもある「地域」が、これまで行ってきた事業を問答無用で伝承していこうとするため、自らは変わりにくいPTA固有の構造も指摘できる。
 学校長は、自動的にPTAの顧問・相談役・理事に立つことも多く、行き詰まったPTAに助け船を出し、学校経営のよきパートナーに再生するための助言ができる立場にある。
 では、どのように? 追って考えていきたい。


 2 原点は保護者と教師の学び合い

 PTAは、戦後、GHQの発案、文部省の旗振りにより、個々の学校で独自に設立された。
 ボーイスカウト、婦人会、敬老会といったものと同じ「社会教育関係団体」であり、保護者と教職員の学習の場として位置づけられている。最近の言葉では「生涯学習団体」といったほうがしっくりするかもしれない。この時、教育されるのも、学習するのも、児童・生徒ではなく、まず会員である保護者や教員であることに留意。よりよい保護者、よりよい教師となって、子どもの育ち・学びに還元するというルートで、学校教育、家庭教育にかかわる。もっともその理念は早々に忘れられ、またT(教職員)の存在感も薄れ、「保護者代表団体」と見なされるようになって久しい。

「保護者代表団体」としてのPTAの存在感は、学校管理職なら日常的に感じることが多いだろうし、一般的にも例えばこんなところに、顔をのぞかせる。
 先日、筆者の出身地である千葉市市長のブログを閲覧していたところ、小学生の保護者からの問題提起が書き込まれていた(二〇一一年八月二八日コメント欄)。
 要約すると、

 PTAは任意加入なのに、入学と同時に自動的に入会で会費は給食費と抱き合わせ徴収。これでは強制加入だ。規約に入退会の自由を明記すべき……

 等々。
 あちこち相談しても埒があかず、市長のブログに訴えたらしい。
 これに対して、市長の回答は、

 学校側との意見交換の際に保護者をまとめる代表的団体としてPTAが優遇されるのは仕方がないこと……(中略)……改善すべき点はその団体の中でしっかりと発言し改善すべきです。

 前述の通り、これが実によくある誤解なのである。
 インターネットで簡単に情報を調べられる昨今、この誤解に気づく保護者は増えている。その一方で、市長にとっては、あまり馴染みのないものなのだろう。また、PTAと日常的につきあいのある校長でも誤解していることがある(だからこそ、このような原稿を書いている)。
 たしかに、実質的にはほとんどの保護者が入っているのだから代表性があるという意見はありうる。そのような立場で、「PTA=保護者代表」説を擁護する人を筆者はずいぶん見てきた。
 しかし、それが成り立たないのは、ブログでの訴えに書かれているような特殊事情による。
 PTAは、なぜか学校に子を通わせるだけで自動加入することが常態化して、長年それをだれもおかしいとは思わずにきたのだ。二〇一〇年に文科省委託で特定非営利活動法人・教育支援協会が全国アンケートを行ったところ、PTA役員経験者のほぼ五〇%が入退会の自由を知らなかった。PTA役員とは会の事務局であり、役を担った人たちがこのような基本的なことも知らなかったのは恐るべきことだ。
 PTAがみずからの意志で入退会する「生涯学習団体」ではなく、重苦しい義務になって久しいことが背景にある。
 従って会員の参画意識は低い。さすがに自分の子のPTAの会員であることは知っていても、市区町村の連合組織に属していることに気づいていないことはよくある。また男性の場合、配偶者に学校のことを任せてしまい、自分もPTA会員だと気づいていない人も多そうだ。
 というわけで、代表性があくまで「見かけ」に留まるのがPTAの現況だと思った方がよい。文科省もこの点を憂慮しているようで、優良PTA表彰について「任意加入団体であることを前提に」推薦するよう、各教育委員会に事務連絡した(平成二二年四月二六日)。

 もう一点、市長発言で気になるのは「その団体の中で改善すべき」という部分。
 正論だが、この点については、校長ならそれがいかに難しいか理解いただけるだろう。
 PTAは実に変わりにくい。筆者は千葉市の保護者同様「入退会規定を規約に書き込もう」と自分の子のPTAで主張してきたが、総会で提案するまでに五年もかかった。
 最初の二年は委員をしつつ、調べ、資料を作り、役員の打合せ会で発言するところまでこぎ着けたが、執行部の不興を買った。そこで自分が本部役員となり執行側に立ったものの、役員仲間からブレーキがかかった。一会員に戻ってやっと総会で問題提起するまでたどり着いたが反応は薄かった。結果、今もその学校のPTAの規約も、自動入会の運営も変わっていない。
 別に珍しいことではない。内部から変えるのが正論などと言えるのはPTAの実情をまったく知らないか、PTAにおいてよほどの成功体験の持ち主で、かつ、他の場所での惨状が気にならない人くらいだ。
 なぜこの点に拘るか。PTAでは人権問題とまでいえる悲喜劇が起きており看過できないからだ。見せかけの「保護者代表」の窓口として、学校、行政、警察などと連携する中、身動きが取れなくなっており、それが保護者を追い詰める。子どもにすら影響を及ぼす。
 筆者は「保護者代表」機能は別の組織、あるいは仕組みで、果たし得ると考える。また無理に保護者代表を組織化しない方が健全な場合もあると思う。さらに言えば、これからの時代の校長は、そこをきちんと理解して適切に保護者と相対する能力が求められているわけだ。


 3 PTAの実情とは?

 行政や学校にとってPTAは「便利すぎる」団体だ。
 任意に組織され、表向き強制されていないのに有資格者全員が集まってくれており、代表として向き合ってくれる。おまけに大多数は参画意識がなく、執行部も「学校の嫁」とまで言われるほど従順。まれに対立する場合もあるが、それはよほどのことだ。筆者が知る自治体の社会教育主事は「PTAの大切な役割りは保護者を代表して学校・地域・行政との窓口となること」と言い切った。
 筆者の立場からは、実に「便利に」活用されているなあ、と感慨を抱く。行政はともかく、校長は間近にPTAの保護者の様子を見ている分、この状況に多少なりとも違和感を抱いてくださるとうれしいのだが。

 実際、「便利さ」の裏側でPTAの現況は本当にきつくなっている。その度合いは、校長の想像の遥か上をいくと断言できる。
 なぜなら、校長が接することが多いPTA役員は本音は口に出さないからだ。遠慮もすれば、保護者同士で相互牽制もする。
 なら、校長自身、自らの子が在学中に保護者会員としてかかわった経験がある場合はどうだろう。「教員」というだけで「平日休めない」「激務」として特恵待遇を受けがちだ。「実情」が見えにくくなる壁が何重にも張り巡らされている。
 自分の経験を例にとる。二〇〇七年度、世田谷区の小学校PTAで副会長をつとめた際、学校などに赴いての会議や実作業などでの拘束時間は四〇三時間にのぼった。
 これはあくまで「外に出ての拘束時間」だ。
 数字に出ない自宅作業も含めれば、優にフルタイムの仕事に匹敵した。経済的に不安がなく、心身共に健康で、家族の理解がある人でないと務められない。PTA問題を考える本を出した後、二〇箇所ほどの自治体でPTAの本部役員らを前に講演したが、業務量について「大体そんなもの」と頷かれた。「楽」な部類でも本部役員は年間二〇〇時間は費やしているだろう。
 もちろん、PTA活動で学ぶことは多くある。しかし、本部役員ほどの負担ではないいわゆる「委員会活動」(PTAによっては「部」などほかの用語もある)ですら、「勉強になった」という感想を述べつつ「来年はできない」保護者のいかに多いことか! 労力に見合うだけの「勉強」や「やりがい」を見い出しにくいのだ。

 現在のPTA活動は「誰でもできる」範疇を遥かに超えている。
 それでも「全員参加」のかけ声とともに、「ただ乗り」を許さない方向へ舵を切りがちだ。「一人一役」「ポイント制」はまさにその象徴だ。賛否の多いベルマーク収集について「これくらいしかできない保護者もいるから残さねば」という倒錯した声を様々な所で聞くのは「一人一役」の発想だ。一方「ポイント制」は「同じ役でも責任が軽い低学年で済ます」インセンティヴを生み、高学年になってから「できない人」に無理に重たい役を担わせるトラブルが絶えない。「仕事は理由にならない」と最初から釘を刺されるのは常で、病気の人が診断書の提出を求められる例もある。耐えかねて退会届を出した人を「やめさせない」ことも。筆者はPTA悲劇と呼ぶが、もっと強く「PTA被害」として糺弾する人もいる。
 いずれにせよ人権問題のレベルの惨事が、子どもの教育と同じ場でごく普通に起きている。
 これから先、不合理で非人間的なPTAを温存する学校は評価を落とす時代が来る、と筆者は予期している。


 4 本当に必要な活動はなに?

 校長は多忙故、PTAについて考える機会は多くないのではないかと思うことがある。
 ここでほんの数分間でも、自校PTAの組織図を見ていただけるととてもうれしい。
 本部役員(正副会長、書記等)の他、専門委員会(専門部)と呼ばれるさまざまな「役」が描かれているはずだ。「学級」「広報」「文化教養(家庭教育・厚生)」「校外」「役員選出」等々。最後の「役員選出」は不可思議かもしれないが、次年度の本部役員を決めるためだけに一年を通じて活動する専門委員会を持つPTAは実在する。
 さて、学校経営責任者の立場から「仕分け」をしたらPTAはどうなるかというのが今回のお題。PTA活動で必要なものはどれで、無くてもよいのはどれだろう。
 保護者は多くの場合「学校のため」に活動をしていると感じているらしいし、一方、校長はPTA規約で、顧問、相談役といった役を最初から与えられていることが多い。
 もし、組織運営で苦労している姿を見たら、校長の目での「仕分け」は有効な助言になりうる。それぞれ考えていただきたいのだが、ここでは数人の校長(現役・元含む)の意見を聞いた上での筆者の考えをまとめる。

 まず「役決め」でなかなか決まらないことが多い広報はどうか。
 学校には独自の広報誌があり、学年便りもある。保護者視点からの広報があってよいことは間違いないし、PTAが自律的団体としてPTA活動について知らしめたいなら広報が重要であろう。
 が、かといって、絶対必要というわけでもない。PTA広報誌がなかったところで、子どもが急に不幸になるとは想定しがたい。ならば広報誌業務を、義務ではなく機会と読み替えてはどうか。希望者のみで活動すればいい(集まらなければ休眠)と悩める保護者たちに助言してみたい。ちなみに希望者のみのサークルとしてむしろ活性化した広報の例は実際にある。
 とすれば「文化教養」もサークル化しても問題なかろう。自治体から家庭教育学級の開催を委託される場合があるが、必ず受けなければならないわけでもない。貴重な税収からの支出なのだから、嫌々集まったメンバーが行うくらいなら辞退する方が誠実だ。わざわざ講師を呼ばずとも、仲間内で学び合うのもPTAらしいと言える。更に言うと学級委員も本当に必要か。学校には保護者会があり、連絡網がある。学級で大きな問題があった時、開催されるのは、学級PTAではなく臨時保護者会だろう。学級の保護者代表となる人がいれば「便利」なので募るとよいと思うが、希望者がなければ空席でもかまわない。どんなことでも「やりたい人」に機会として開かれた瞬間、やりがいのあるものに変身する可能性が高くなる。それでも成立しないならむしろニーズがない活動だと割切ればよい。
 役員選出委員と校外委員が残った。役員選出委員がいないと次年度役員が選べないかもしれない。会長や副会長が空席では、市区町村のPTA連合に顔を出す人がいなくなり、また、地域有力者との保護者側の窓口が閉じる。また、校外委員が集まらないと防犯や交通安全にかかわる行政、警察との連携の窓口もなくなる。いずれもPTAの「代表性の問題」に直結している。筆者が「仕分け」について相談した現役・元校長たちはだいたいこの点を難問と捉えていた。
 しかし、現状のPTAが保護者を代表することの無茶さ加減は前にも述べた通り。むしろPTAは保護者の学びの場、共同体意識醸成の場と割り切り、「サークル」として捉えた方が健全ではないか。保護者代表が必要なのはむしろ、今後さらに普及するであろう学校理事会など、ガバナンス組織の方だというのが筆者の見解だ。

 5 外部から見て透明なものに

 PTAを保護者代表組織として捉えず「サークル化」した方が健全で、保護者代表はむしろ学校のガバナンス側、つまり学校理事会(学校運営協議会等)の側にいるべきだと前回書いた。もっとも、現状を言えば、日本の学校理事会で理事(協議会委員)になるのは校長が「この人」と見込んだ保護者や、充て職的にPTA会長だろう。選挙で保護者代表を送り込む方がガバナンスのあり方としては好ましいが、行われている例は寡聞にして知らない。
 二〇一〇年八月「PTAは『新しい公共』を切り拓けるか」と題したフォーラムを東大本郷で主催した。その際に登壇いただいた文部科学省の前川喜平統括審議官(当時)は、現在の学校理事会制度を「明治維新の段階。これからどんどん変わる」と述べた。筆者はなるほどと膝を打った。理事会制度は導入段階であり、今後、本当の意味で学校のガバナンスを担う存在になっていく。そのためには、校長の推薦を教育委員会が承認する現在の理事任命を、もっと外部から見て透明なものにすべきだろう、と。
 保護者の「機会」として任意のPTAは残しつつも「保護者代表」の重責は取り除く。その代わり、透明なプロセスで保護者から選ばれた代表を理事会に送り込む。
 よりよい学校経営のためにはその方が望ましい。
 この件について、確信を持っているのは、筆者が学校理事会制度の「本場」においてかなり突っ込んだ参画体験を持っているからだ。

 日本の学校理事会制度はイギリスをモデルにしていると言われている。
 一九八〇年代後半の英連邦各国は、足並みを揃えるかのように教育改革に取り組んだ。背景にあったのは財政難なのだが、イギリスよりも切羽詰まった状態で更に思い切った改革を行ったニュージーランドは、現在、英連邦諸国の中で最も成功した例として注目されている。
 英連邦諸国の中ではPISA学習到達度調査での成績の最上位を維持し、常に日本と同程度の上位グループであることも面白い。PISA学習到達度調査を過度に重く見るのはいかがなものかと思っているのだが、新しい調査結果が出るたびに教育施策が動くほどの影響力あるようであえて言及する。
 筆者は二〇〇九年から二〇一〇年にかけて、半年間ニュージーランドに住み、子どもを現地校に通わせつつ教育制度をめぐる取材を行った。目の当たりにしたこの国の学校理事会制度はまさに「目から鱗が落ちる」類のものだった。一九八九年、教育省の下にあったすべての教育委員会を廃止し、保護者からなる学校理事会を各校ごとに選挙で選出し学校の最高監督責任者(ガバナー)とした。その上で、教育省が作る国のカリキュラムに沿った教育を行う契約を理事会と結び、公立校としての予算を与えることにした。独自色の強い教育をしたい場合は公立校ではなく私立・半公立としての契約で、公的予算は少なくなる。
 理事会は、校長を選任、雇用し、また、すべての教職員を雇用する立場だ。つまり、学校ごとに「保護者からなる教育委員会」ができたに等しい。こんなので学校経営が立ちゆくのか不思議に思う方も多いだろう。しかし筆者が話を聞いたた十人超におよぶ現地の校長は、一人の例外もなく、大げさなくらいの実感を込めて、現在の制度の方がやりやすく、子どもにも校長にも保護者にもよいと述べた。
 筆者の観点からは、PTAを保護者代表として扱いアリバイ的に「学校・教育委員会への理解と協力」を求めるより、保護者がガバナンスに名実ともに参加する方がシンプルでまた論理的だと感じたのだった。


 6 自由な入退会をめぐる新たな動き

 二〇一〇年二月、文部科学省委託PTA全国調査のシンポで「PTAは入退会自由と周知すべきか」討論された。
 画期的だったのは「入退会自由」という事実を官僚からPTA役員まで共有した上での議論だった点だ。会員に「無知」なままいてもらうか、任意性を前に押し出してPTAを変えていくのか。二カ月後、文科省は優良PTA表彰について「任意加入の団体であることを前提」と各都道府県教委に通達した。明確なメッセージだ。とすると、それを受けて「変わる」PTAが現れるかもしれないと期待していた。そして、実際、大きく舵を切ったPTAの知らせを聞いた。

 岡山市の西小PTAは、総会で、文科省の通達や、元来PTAが強制ではないこと(PTA発足当時、旧文部省が作った参考規約)等について説明し、自由な入退会を周知する方針を打ち出した。給食費とPTA会費を一括徴収するのをやめ、会費納入の前に「参加する・しない」を選んでもらった。非会員世帯の子が不利益を被ることはないことも明記した。
「これまでの仕組みでは、世帯数に対して二割近くが〝役員〟になります。子ども一人につき一度は役に就く内規もあり、いかにやらずに済ますか、楽に終えるかばかり考えている人が多かったんです。一年間の役が終わる年度末になると〝あの人は引き受けて結局何もしなかった〟とか、そこにいるのが辛くなるようなことが耳に入ってくるんです」と会長さんの弁。
 そこまできついならPTAって本当に必要なの? 加入の意志を問えば、支持率が分かるとの思いもあり「自由な入退会を周知」に踏み出した。
 結果、世帯の九五パーセントが加入。
 九五パーセント加入なら「PTAが崩壊する」心配はないだろう。なにがなんでも百パーセント!という信念を持っている人以外は、容認できるのではないだろうか。一方、五パーセントの非加入者は、主旨に賛同しない者が会員にならない選択肢があると常に思い起こさせてくれる。
 初年度ゆえ少々困ったことも起きた。四月に決まった〝役員〟は旧来通り「義務」を前提にしており、後出しで「義務じゃない」と言われたに等しい。手続き上仕方ないとはいえ不整合だ。会長はこう告げた。「来年からは義務でないのが前提になる。活動が無意味だったり、負担が大きすぎるとなり手がなくなる。みなさんの目でチェックしてください」つまり活動を見直すご意見番の役割りをお願いしたわけだ。結果「これはいらない」「縮小が望ましい」といった意見が続々届くようになった。次年度を待たず形骸化した行事を廃せそうだという。
「自由な入退会はみんなが知ってしまえば後戻りできないんです」と会長。「私のやり方がまずいなら、新しい執行部がもっと良いやり方を工夫して乗り越えてほしい。でも、強制加入には戻れない。そこを織り込んだ上で、時代に合ったPTAにしないと」
 このような「改革」について、校長はどんな立場か気になる。
 西小の校長は、まだ始まったばかりで未知数の事が多いとしながら「PTAを良くしようとやっていると分かっていますので全面的に支持しています」とのこと。これを読んだ方は、御自身の学校のPTAで同じ動きがあった場合、どうなるか是非シミュレーションしてほしい。存外、そういう未来は近いかもしれないのだ。

 追記
 二〇一三年度の時点でも、ここで紹介した西小は自由な入退会を撤回することなく、健全な運営を続けられているようだ。
 また、札幌市の札苗小PTAが、一年間の検討期間を経て、二〇一三年度より入退会の自由を規約にはっきりと書き込んだ上で、ボランティアとして運営するPTAへと転進した。新聞やテレビでさかんに取りあげられたので、ご存じの方も多いかもしれない。
 どうやら、このような時代の流れの中で、学校とPTAの関係、保護者の関係も再構築しなければならないのではないかと思う。

 7 PTAと学校経営にかかわる残念な例

 岡山市や札幌市の小学校PTAが、自由な入退会を周知し現状を打開する動きを報告した。会員からの問題提起を、執行部や校長が真摯に受け止めて対応したことが大きい。
 PTAが抱える問題はこの数年、よく報道されるようになったし、ネットでも容易に情報が手に入る。二〇一一年の優良PTA表彰についての文科省通達があったのは前述したが、二〇一二年では日本のPTAの連合組織である日本PTA全国協議会(日P)の広報誌で、文部科学大臣みずからが、PTA予算の教育予算への「流用」を問題視する発言をするなど、行政側からもPTAの「正常化」を求めるサインも出始めた。
 そんな訳で今では、日本各地でPTAの運営のねじれを正そうとする動きがある。岡山市や札幌市のように「正常化」に成功する場合もあれば、執行部や校長が対応を誤り、残念な結果を招くこともある。

 校長の対応が鍵を握った沖縄県那覇市の事例を紹介する。
 二〇一〇年四月、那覇市の小学校PTAで、給食費用の口座から、PTA会費・周年行事積み立て金などが、抱き合わせで徴収され、事実上の強制入会になっていることについて、一会員が改善を求めた。
 この件、学校が徴収する形をとっているので、校長も当事者となった。
 さらに同じ会員が、学校が児童や家庭の「個人情報」を、本来別の組織であるPTAや周年行事の「実行委員会」に提供するなど、情報管理がずさんなのではないかと問題提起した。実際、学校から提供される個人情報を「当たり前」のように利用するPTAは今も多い。慣例で認められてきたとしても、ひとたび自覚すれば襟を正さねばならないところだ。
 会員の要望は、学校とPTAがかかわる業務で、違法性すら問われかねない部分を改善することだったわけだが、校長はその点を見誤ったようだ。
 自動引き落としについては当該会員のみ除外することで対処した。
 また、個人情報についても、この会員世帯のみ慎重な運用をはかった。
 筆者が閲覧した両者のやりとりからは、校長が、会員の指摘をあくまで個人の不満として「甘く見て」いたことがありありと見て取れる。また、教職員のPTA活動を「職務である」と言い切るなど、PTA活動について誤解も多い。
 本連載で強調してきたような、基本的知識を持っていたらどれほどよかっただろう。
 そこまで言うのは理由がある。
 一会員世帯限定の個人情報慎重運用というのが、なかなか酷いものであったようなのだ。
 例えば──学年末に撮影したクラスの記念写真を周年行事記念誌に流用する際、当該会員世帯の児童だけを、デジタル処理して削除した。本来別の目的で別の団体(学校)が撮影したものを、流用するのだから新たに各世帯から承諾を得るか、周年行事記念誌用の写真はそれとしてやはり新たに撮り直すというのがスジであろう。しかし、「面倒なことをいう世帯の子だけ、削除する」という選択を、校長は選んだ。
 クラスに「いないこと」になってしまった児童は大いにショックを受けた。教員・保護者の間でも問題になり、記念誌はほとんど配布されないまま宙に浮いてしまった。
 この件につき、学校に確認したが、直接意志決定にかかわった校長・教頭は、別々の自治体の教育委員会事務局に異動し、現校長は経緯をよく知らないという。
 そこで、那覇市教委に聞いたところ、大まかな事実関係は間違いないと確認できた。教育委員会として見解は、あらためて連絡が来ることになっているが、その後、連絡はなかった。
 いずれにしてもPTAとその周辺の問題について、校長が無頓着で、本質を外した対応をする中で、学校のマネジメント自体に失敗した事例であると思われる。
 この件で悲しい思いをした児童には申し訳ないけれど、本連載を読んだ校長には、他山の石としていただきたい。


 8 いっそPTAの義務化はありうるか?

 岡山市・札幌市の傑出した例と、那覇市の残念な例を紹介した。いずれも、校長がPTAの問題を無視してはいられないと示している。
 個々の学校単位では目につきにくいかもしれないが、すでに「保護者代表」としてのPTAは、大きな部分から崩壊しかけているのかもしれない。
 筆者が住む東京都では、他の道府県と同様に、都単位のPTA連合、東京都小学校PTA協議会がある。加入割合は低下しており、二三区のうちの五区、そして一村四島のみだ(市部はすべて未加入で、区部はかつて加入していたところが相次いで脱退した)。個々のPTAの数でいうと、市区町村立小学校が全部で一三一一あるのに対して、二四八のみ。加入割合は二割を切っている(二〇一〇年時点)。もはや代表性を持った団体とはいえない。
 それでも東京都は、都小Pを保護者代表として優遇しているのだが、遠からず、保護者と相対するための新しい枠組みが必要になるだろう。

 新しい枠組み候補として、筆者が最近知って驚いたのは「PTA義務化論」だ。
 保護者にとって既に事実上の義務だったわけだし(都小PのようなPTA連合体の加入割合が少なくても、PTA自体がない公立学校は少なく、ほとんど自動加入、つまり事実上の強制加入で会員になる)、「逃げる人」を逃さないために「一人一役」「ポイント制」などのルールを取り入れる所もある。
 それが多くの悲喜劇を生みだしているのなら、いっそ本当の義務に……という意味だろうか。
 議論されたのは、PTAの全国組織、日本PTA全国協議会が二〇一〇年度、千葉県で開いた全国研究大会において。
 司会者(当時の市川市PTA連絡協議会・会長)が「組織運営」についての議論のまとめとして提案したという。
 その内容は、氏によれば「PTA活動は、親の意識レベルを下げないために絶対的に必要」であり、「文科省は家庭教育の具体的施策を立てるべき」「〝親業〟の必修履行。PTAの義務化」など(氏のブログより)。
 任意の団体であり、社会教育関係団体であるPTAを義務化するには、想像もつかないような裏技が必要になりそうで、この主張が公の場で唱えられたのはまさに驚きだ。筆者の観点からは、現状のPTAは、総合的には保護者の意欲を削ぎ、笑顔を奪うと思っている。そもそも「意識レベル」は誰かに一義的に決められるような性質のものではないので、依って立つ前提が違うと感じる。
 にもかかわらず、これを検討するのも面白いと思うのだ。かくも矛盾やジレンマに満ちた存在を「合法的に」「義務化」するためには、それこそゼロから設計し直さなければならない道理で、これまでのPTAの枠組みはモデルにすらできないとすぐ気づくだろう。
 ちなみに校長の立場からは、PTAの「義務化」は魅力的だろうか。それも興味あるところ。
 筆者が個人的に思いつく代替候補としては、学校理事会・運営協議会の役割りの拡張と、保護者中心の組織への改組。元来、保護者が担うのは「普通教育」を施す義務であり(日本国憲法)、国が保証する「義務教育」の現場の統治(ガバナンス)に、保護者の参画を保証することで、その義務も果たし得るだろう。選挙による代表選びを取り入れれば、今PTAが無理をして担っている「保護者代表」の役割りもごく自然に移譲できる。
 というわけで、モデルとなりうるニュージーランドの学校理事会制度について、次回は立ち戻って述べる。

 9 NZでは保護者が学校を統治する

 日本の学校では、PTAを保護者代表とすることが多いと思うが、筆者が二〇〇九年に滞在したニュージーランド(以下NZ)では学校理事会が名実ともに「保護者代表」だ。
 PTAのような社会教育関係団体(保護者と教員の勉強会)を流用したものでなく、法的根拠があるし、代表者も選挙で選ばれる。だからPTAとは本質的に違う権限と責任を持っている。この国には日本のような教育委員会ではなく、保護者(学校理事会)が、国と直接契約して校長や教職員を雇用し、学校運営する形式を取るからだ(「明日の学校」と呼ばれるが、制度が始まったのは一九八九年なので既に四半世紀の実績がある)。

 ちなみに、日本で順次導入されつつある学校運営協議会(理事会)はイギリスをモデルにしていると言われ、英連邦系という意味では同根。ただ、NZとの大きな違いが二点ある。
 ひとつは前述の通り、学校理事会が「各校ごとの教育委員会」の役を果たすこと。また、もう一点は理事会に原則として地域代表枠がないこと(先住民族であるマオリが多い地域では地域枠が設けられることが多いが)。日本の場合「有識者」や「地域の代表」が多数を占め、現役保護者としてはPTA会長ともう一人くらいだろうから大きな違いだ。なぜ保護者だけなのか、NZ教育省に聞いたところ「保護者は、子どもが受ける教育について、最大のステークホルダー(利害関係者)であり、もっとも熱心に学校経営にかかわる動機があるから」とのこと。実際に、三年に一度改選される理事選挙には、定員を超える立候補があることが多く、保護者の関心の高さを感じられる。
 なお保護者の時間的負担は、議長でも年間一〇〇時間を超えることはないそうだ。仕事は意志決定が主で、形式的な充て職の会議もない。取材した中で唯一の例外は、十年勤務した校長が退任するため次期校長を慎重に選んだ理事会で、年間七〇〇時間以上を費やした。これは、日本だと「忙しいP連役員」レベルの激務だ。しかし、やり遂げた時には心底達成感を抱いたという。この点でも徒労感が多いとされる日本のPTAとは違うと感じる。

 一方、校長はどうか。筆者が会った校長、元校長は全員、オーバーなほどの実感をこめて「以前には戻りたくない」と述べた。教育委員会があった頃は、日本以上にお役所的体質であったらしく「電球ひとつ補充しようにも、決められた用紙に細々と必要事項を書き込み、指定の業者に発注し、納入まで延々と待つ」といったことが多かった。「明日の学校」以降は、学校のカリキュラムや、子どもたちのことに集中できるようになったという。
 思うに、いくら保護者に雇用されると言っても、保護者は教育については素人だ。もちろん、立候補して理事になる人物は責任感も強くよく勉強するだろう。しかし、そこから先、現場の指揮は完全に校長の領分だ。大組織である教育委員会よりも、自校のみを見る理事会の方が、校長は常時話し合いやすく、具体的で小回りが利く方法を試すことができる。そもそも、雇われる段階で理事会と教育観が合う校長が選ばれているわけだから、自分の信念・理想を実現しやすい。
 もっとも、理事会と校長が過度に結託したり、何かをきっかけに反目したりしてしまうこともある。それを防ぐための方法も、「明日の学校」には備えられている。


 10 セーフティネットが必要

 ニュージーランドでは、選挙で選ばれた保護者からなる学校理事会が個々の学校ごとの教育委員会の役割を担う。保護者はガバナー(統治者)で、校長はマネジャー。
 本当に学校経営ができるのかと訝しむ人は多いだろうが、この制度は実際に四半世紀にわたり改良されつつ維持されており、英連邦系学校理事会の成功例と見なされている。

 成功の秘訣のひとつは、セーフティネットの存在だ。
 NZの学校理事会を日本のPTAに見立てると、連合組織に相当するNZSTA(NZ学校理事会協会)という団体がある。これには全国の学校理事会が参加しており、日P(日本PTA全国協議会)を連想させる。
 ただ、決定的に違うのは、日Pが保護者代表として教育施策に意見したり、子どもをめぐる社会環境の「浄化」に興味を抱いたりするのに対して、NZSTAの主たる業務は学校理事会支援だ。日PもPTA支援をしているが、PTA活動の事例集の出版程度。
 一方、NZSTAの支援は、第一に電話やインターネットによるヘルプデスクだ。各地域ごとの担当者に加え、本部には常時十数人が、学校ガバナンスに悩む理事(保護者)からの電話・ネット相談を受け付けている。
「校長の方針に疑念がある。国のカリキュラムとの整合性は?」「教員の労働争議が起きた」「問題教師、問題行動を繰り返す児童・生徒の処遇について」等々。責任が大きい分、悩みも大きくなりがちだ。
 また、有料の研修も活発に行っている。テーマは「校長評価」「学校経営指針の策定」「新しい理事選出と業務の引き継ぎ」など具体的なものだ。これらの研修に筆者も参加したが、ワークショップ形式で実践的な知識と技術を身につける場だと感じた。

 日本のPTAも組織運営の悩みが大きい。日Pにヘルプデスクがあって、Q「入りたくない人・退会したい人がいるがどうしたらよいか」(A「活動に納得してもらえなかったら非入会、退会は当然」)とか、Q「校長から新しい業務を持ちかけられたが無理がある」(Aたぶん正解は「実情を説明して校長と協議」)などとやってくれればいいのに! 日本のPTAにはセーフティネットがないのだ。
 研修なら沢山あるじゃないかって? たしかに役員になれば、自治体とP連が主催する導入研修に招かれる。
「PTAとは何か」と説き起こすことから始まるのが常で、本当は会員になる段階で知るべきことを役員になってはじめて知らされる。PTAが果たしている「役割」は強調されるが、組織運営の困難を乗り越えるヒントはせいぜい「みんなで協力し合って」になってしまう。
 以上、本来素性が違う団体だが、あえて比較してみた。
 いずれにしても「会員支援」は重要な事業だ。加盟PTAの児童数(会員数ではなく!)に応じて徴収している会費(児童ごと十円)を、形骸化しているように思える「見せたくない番組」調査などに使わず、時に人権問題にまで発展する「PTA問題」を解決する支援に使ってほしい。
 加えて、日本では校長が、自校PTAにおいて組織運営の助言を行いうると本稿では述べてきた。自分自身がセーフティネットになりうる立場であると是非認識していただきたい、とあらためてお願いする次第。


 11 PTAと「民意」?

 前大阪府知事で、現大阪市長、橋下徹氏は時の人のようだ。二〇一一年の大阪府知事・大阪市長のダブル選挙で圧勝し、ますます社会的プレゼンスを増した。
 実は、筆者の頭の中で、橋下氏は「PTA問題」関係者である。二〇〇八年九月、大阪府立高校の学力低迷を受けて「教育非常事態宣言」なるものを発した際、「PTAが機能していないからこういう状況になった」「PTAを解体する」と発言し周囲の度肝を抜いた。
 PTAは任意の団体なので知事の意向で解体することはできないのだが、どこかに誤解があったのか。その後、PTA関係者などから強い抗議もあったようで、「今までのやり方では立ち行かない時代。全部白紙に戻して在り方を考えてほしいという思いだった」と釈明した。「解体」にせよ「白紙」にせよ、実に気になる論点である。

 橋下氏の発言の背景にあるのは、今の教育には「民意」が反映されていないとの認識のようだ。そして、PTAも民意を反映していないという考えであったと理解している。たしかに、形骸化し、形ばかりの「代表」に留まる現況では、そう言われても仕方ない。
 とすると、進むべき方向性として前に紹介したニュージーランドの学校理事会制度は参考になる。保護者からなる理事会が小さな教育委員会としてガバナンスの役割りを担い、校長が現場指揮に専心する。二十年以上の実績を持ち、学業成績で常に国際的に上位を維持しているし、理事は選挙で選ばれるから「民意」の点でも万全だ。
 もっとも、橋下氏の考えに端を発する大阪府の教育基本条例案を読んだ時、氏の考える「民意」の反映は、別の方角を向いていると知った。
 条例案では、知事が大阪府の教育委員を任命し、教育目標を設定する権限を持つという。
 校長の立場としては、保護者に統治されるのと、首長に中央集権的に統治されるのと、どちらがよいだろう。
 また、この条例案には、保護者についても条文がある。

 ・学校の運営に主体的に参画し、より良い教育の実現に貢献するよう努めなければならない。
 ・教育委員会、学校、校長、副校長、教員及び職員に対し、社会通念上不当な態様で要求等をしてはならない。
 ・学校教育の前提として、家庭において、児童生徒に対し、生活のために必要な社会常識及び基本的生活習慣を身に付けさせる教育を行わなければならない。

 より良い教育を求めるのは保護者として異存ないが、「主体的」という内面的態度まで条例で決められたり、「社会通念上不当な態様で要求」をどうやって確定するのか分からなかったり、不安を感じる。
 それ以前の問題として、知事が教育委員会を直接コントロールすれば、「民意」が反映されるのかという素朴な疑問がある。
 日本ではかつて教育長を公選していた実例もある。その方が現行制度と矛盾なく、より効率的に目的を達成できるのではないか。首長の選挙は争点が多く、こと教育問題だけに限って誰に投票するか決めるのは不可能だ。直接選挙で選ばれたのだから「我こそ民意の体現者」とするのは無理がある。
 さらに、橋下発言にあるPTAとは、実は教職員を含まない「保護者」であり、一連の発言は、子育て・教育の最中にある者たちを、架空の「民意」で絡め取らんとするものになりかねないと留意したい。
 大阪府立校のPTA協議会は、この条例案の改善・撤廃を求めていた。そのコモンセンスにやや安心しつつ、実はこのレベルでもPTAにおける「民意」の所在地はどこなのか、常に気になってしまうのだ。なぜなら、PTA協議会が保護者の「民意」を得ているケースを、筆者はいまだに知らないからだ。


 12 また新しい春が来る

 本稿は、月刊誌に書いた連載が元になっている。
 四月号でスタートしたため、一二回目は三月号、ということになる。
 学校の一年度が終了する時期だ。進級といい卒業といい、学校を仕事場にする人にとって、一番ドラマティックで、感動的な季節であろう。
 学校で活動するPTAにとっても、三月は区切りの月といえる。役を担った保護者たちは一応のところ、三月末日をもって重責から解放される。
 さまざまな価値観を持つ保護者が、学校という不思議な空間(保護者からはそう見えることが多いのです)で活動するPTAは、本来必要ないはずのやっかいごとを学校にもたらしたり(例えば、広報が学校経営上あまりうれしくない特集をしたがったり)、校長からは見えない水面下の摩擦(次年度役員を決める時など、保護者にとって深刻な大問題に発展していることもあるのです)を経つつ、最後は雨降って地が固まるがごとく、形の上では大団円を迎えるようにできている。もちろん、もう二度とやらない、登校拒否! と言う保護者もいるから「終わりよければ全てよし」と手放しで言うわけにはいかない。

 この点、校長からは実に見えづらく出来ている。機会があったら、任期を終えようとしている本部役員に、ぜひ質問してみてほしい。「一年間の感想は?」と。
 回答として標準的なのは、「大変だったけど、勉強になった。学校のことがよく分かるようになった」というものだろう。かくいう筆者も、はじめて本部役員をやり遂げた三月に校長から聞かれ、そのように回答した。
 でも、実際には、言わなかった続きがある。本当ならこう付け加えるべきだった。
「それにしても……無駄な摩擦や、理不尽や、軋轢が多すぎる。心身に不調きたす保護者もみた。嫌々やっている人が多いから、やる気があると逆に疎んじられることもある。元々、保護者や教員の学習の場なのに、学校への奉仕だと思っている人が多い。それもこれも、関心のない人、出来ない人にまで網をかける強制加入の問題が大きい……」
 実は、その時の校長は女性で、かつて自子の小中学生時代、保護者としてPTA活動を経験していた。広報の仕事で夜なべしてガリ版を切ったといった思い出も語ってくれた。共感してもらえるかと期待して、折に触れて、小出しに本音も述べてもみた。しかし、反応は芳しくなかった。年度末、校長からの質問に、筆者は、自分にちょっと嘘をつき前述のような総括に留めたのだった。
 今にして思うと、件の校長はPTA活動の本当のしんどさを体験していなかったのかもしれない。PTAの保護者会員で、職業が教員であることは最強のカードのひとつだ。
 ほかの保護者は、自分の子の先生を通じて、教員たちがいかに替えの効かない仕事をしているか目の当たりにしている。基幹病院の手術室看護師のように、別の意味で替えの効かない仕事をしている人より、教員の方が「大変だ」と認定を受けやすい。そんなわけで、かの校長のPTA体験は「一般保護者」とはかなり違っただろう。
 大変だったけど……の背景には、校長が想像する以上に、ぎゅっと凝縮されたひと言で言い表せない苦労が含まれている可能性がある。だからこそ、校長には、PTAが本来の主旨を超えて、義務・強制・負担になってしまいがちな現状に、歯止めをかけられる可能性があることを自覚していただきたいと願うのだ。筆者は世の校長先生に、そう伝えたい一心でこれらの文章を書いた。それが伝わったなら本当に嬉しい。
 なにはともあれ、また新しい春が来る。


 付録 「外からみた学校」  (二〇一二年四月号~一三年三月号)より

 1 保護者会って……

 昨年度は「保護者と教員が学び合う」場であるはずのPTAをテーマにして書き綴った。筆者自身、小・中学校に子を通わせる保護者であり、PTA活動にも深く関わったことから、今のPTAが抱える悩ましい点を強調した。本来、任意の「ゆるい学習会」のはずが、自動的に束ねられた「保護者代表」になってしまっている。そこで学び成長する保護者がいる反面、保護者や家庭にとって(つまり児童にとっても)悲劇をもたらすことが多く、看過しがたい。大抵の場合、校長はPTAの顧問や相談役なので、まさにセーフティネットになりうるとまず述べたかった。現状のPTAを放置することが学校経営上のリスクになり、さらに児童が傷つけられた事例、逆に、無理に入会を強いない「正常」なPTAが、今、胎動していることも伝えた。
 今年はもう少し話題の範囲を広げて、学校教育の素人から見える学校そのものについても語ってみたい。読者はほぼ100%、その道のプロなわけで、筆者が寄与できるとすれば、素人である保護者・地域の人(保護者は、公立の小中校の場合、大抵「地域の人」でもある)の立場から見えるものを伝える、ということにつきるだろう。
 さて、保護者が学校を見るといっても様々なルートがある。授業公開やPTAもそうだ。ほかにも、学校運営評議会(学校理事会)、学校支援地域組織といった類の仕組みがあるところもある。でも、なにはともあれ最初に、一番、基本的なものを強調しておきたい。
 保護者会だ。学校が主催し、定期的に保護者が集い、教員と話し合いを持つ。学校公開等と並んで、保護者が学校を知る公式ルートといえる。
 筆者が気になっているのは、その保護者会の位置づけが少々曖昧になっていること。実は、保護者会と学級PTAの区別がついていない保護者が多い。年度初め、保護者会の大半の時間を「PTAの役決め」に使う場合もあるし、PTA学級代表は、先生との連絡役のようにも見えるから無理もない。
 いじめなり事故なり緊急の事案があり、臨時保護者会が招集されることになると、保護者はさすがに学校主催の保護者会と「正しく」認識する。でも、そこで目にするのは、硬い表情の担任や校長であり、幸せな構図ではない。杓子定規で保身的なイメージが、学校の顔である校長に貼り付いてしまうこともあるだろう。
 毎年4月に思うのだが、校長は保護者を集めて学校経営方針を述べるだけでなく、クラス単位の保護者会にも顔を出せないのだろうか。もちろん「第1回」は慌ただしすぎるから、それ以降。学校規模にもよるが、学年ごとに保護者会の日をずらせば、年に一度くらい出席し、学校経営の中での学年やクラスの位置づけを語れるのではないか。保護者にとって学校とはまず「自分の子のクラス」だ。「クラス単位で細やかに見る校長」の態度を打ち出せば、問題発生時にも議論しやすいかもしれない。校長としても、PTA会長や主張の激しい一部の保護者の声ばかりに耳を傾けるのではなく、平時のコミュニケーションで保護者の感覚を吸い上げておくことは大いにプラスになるはず。
 目下のところ思いつきレベル。それでも、保護者会は、大切なものだと信じていること自体は、ずっと変わらない。


 2 「地域」って誰だろう

 学校にとって「外」というのは何だろう。保護者は存外「身内」だと感じられるのではないかと思うことがある。なぜなら、児童・生徒を通じて切っても切れない関係があるわけだし、PTAという強力な「学校に事務局を置く社会教育関係団体」も存在するのだから。
 公立小中学校の場合、保護者も地域住民であることが多いわけだが、「保護者ではない近隣住民」がまず最初に意識される「外」「地域」ではないだろうか。これは、筆者自身が、PTA副会長をした際、目の当たりにした校長や副校長の挙動を見ていて感じたことでもある。そして、そんな学校(校長)の挙動を保護者として何を感じたか、というのが今回のお題。
 具体例をひとつ。
 筆者が住む地域には創立百年を超える小学校があり、そこから派生した小中学校が8校ある。これらの学区地域の結束は堅く、毎年、夏休みに箱根で合宿形式の「教育研修会」が開かれるほどだ。主催は地域の元PTA役員。80代の重鎮から、この前まで「現役」だった人まで「歴代」が連なっており、学校にとっての「地域」とはPTA役員経験者と重なることが多いのだなあと感慨を抱く。一方、研修会に招待されるのは、8つの小中学校の現役および元校長・副校長だ。数年前まで、教育長や区長が出席することもあったのだが、研修会とはいえ、東京からわざわざ箱根に出向き、夜、「接待」めいた宴もあるため、今では出席しなくなったようだ。
 さて、地域(研修会)の主催といいつつ、この会を実質的に運営するのは、現役PTA役員であった。これが、かなりきつかった。小学校低学年の子を持つ役員だと、子どもが家にいる夏休みに箱根で一泊は厳しい。それを重々理解しつつ、「地域の先輩」たちは「私達もやったのだから」「研修会長を怒らせたらどうなるか」「一度、新宿のホテルで日帰り開催したらOBから非難囂々で、しばらくその学校は睨まれた」などと述べ、「現役」は「前例通り」を旨に、時間と労力を捧げることになるのだった。
 この時、学校側は、保護者である現役役員が非常なストレスに晒されていることを知っていた。また、校長にしても副校長にしても、「夏休み学校」やプール開放のことなどもあり、責任者として学校を空けがたいと不満を述べていた。けれど決して「地域」に対して口出ししようとしなかった。結局、学校側も現役PTA役員も幸せではないまま強行された感があった。
 その時思ったのは、学校にとって、「保護者よりも地域が上」、という素朴な序列の感想だった。校長が「地域主催の箱根一泊研修会」について、実は学校としても負担であるとか、自校PTA役員のアビューズ(虐待という意味です)をやめて欲しいと言い得る機会があっても、研修会の主旨を褒め称えるばかりだった。
 なおPTAの役員を辞した後、筆者は他の保護者から預かった「現役」の窮状を訴える手紙10通あまりを持参し、「研修会長」に直訴した。話してみると実に物わかりのよい方であり、「まったくその通りだ。善処する」と述べた。その後「善処」が功を奏したかどうか、筆者は知らない。


 3 海外の日本語補習校にて

 縁あって、英語圏の小都市にある日本語補習校の保護者や教員とメールのやりとりをしている。その中で「校長」が話題になったり、相談を受けることがある。
 補習校なので、授業は週末だけだ。児童は平日、現地の学校に通っており、普段は英語で生活している。小都市ゆえ企業の派遣世帯は少なく、現地人・日本人世帯の子が多い。日本語の基本的な読み書きくらいは学ばせたいという親の思いから始まったと聞いている。日本から校長が2年任期で派遣されており、退任後の元校長が応募して任にあたる(現役教員のこともある)。
 さて、補習校の校長には、大きな自由がある。日本の指導要領に従う必要はないし、補習校だからその国のカリキュラムも関係ない。教育委員会の顔色をうかがう必要もなく、教員も専門性が低い現地採用(元保護者が多い)だ。ただ一人の専門家として、まさにフリーハンドで采配をふるうことができる。となると、校長は大体2つのタイプに分かれるらしい。
 ひとつは現地の保護者や児童のニーズを吸い上げて柔軟な学校経営をするタイプ。もうひとつは、自分の理想の実現の場として補習校を捉えるタイプ。もちろん理想を持たない校長などいないだろうし、目の前の現実を完全に無視する校長もいないだろう。それらをすり合わせる中、結果的にどうなるかという問題と理解している。
 ある2年間、「理想」系の校長が補習校に就いた。「自分が来たからには自分のやり方で」と述べ「あくまで日本らしく」という方針を掲げた。最初から現地で育っている子が多い土地柄、「話せても読み書きは苦手」な子も多い。本来、そういう子の日本語力の嵩上げを目的としていたはずなのだが、日本に準じた授業を導入し、補習校の「日本化」をはかった。結果、多くの子が、授業についていけず学校を去った。2年が過ぎ、校長が去り、一時代が終わった後、ぼくに届いた教員からのメールには「補習校を自己実現の場にされた」とあった。保護者からは「校長派」として見られていた教員だった。
 数人の保護者と教員から聞いた話なので、あまりフェアな書き方ではないと思う。だから、ここではあくまで、教訓なり風刺なりを含んだ「寓話」として読んでいただきたい。というのも、海外の補習校の校長という、極端な立場ゆえ際だって見られたものと似たことが、日本でも小さなスケールで起きている気がするからだ。
 校長が、決められた約束事の範囲内で、自らの理想なり信念なりに基づいて、学校経営に自分の色を出していくのは当然のことだ。困るのは、自己実現の部分が肥大してバランスが崩れることか。例えば「晴れ舞台」ともいえる周年行事の際、あるいは退任が間近になった頃、そうなりがちではないだろうか。PTA問題で交流のある各地の保護者や教員から「周年行事で教育とは関係のない部分で理不尽になる校長」や「任期の最終年に急に暴君になった校長」の話をしばしば耳にする。
 もっとも、この件を校長経験者に聞くと「周年行事は地域との関係で大変」とか「退任後の処遇を考えると好き勝手はできないのでは」という意見もあった。寓話は寓話として、日本で校長でいるというのは、本当に一筋縄ではいかないのだなあと思った次第。


 4 保護者を管理したい欲望

 年度はじめに「外から見た学校」という連載テーマを頂いたとき、最初に連想したのは「学校・地域・家庭の連携」であり、それが制度として結晶した学校理事会や学校運営協議会などの学校統治組織だ。これらの目的は、学校の運営方針に地域住民や保護者の考えを取り込み、地域に相応しい学校運営が行われるように統治(ガバナンス)することだと理解している。だから校長が掲げた方針に意見できるし、教員人事についての具申権もある。
 ところが、しばしば、学校のガバナンスを忘れて、別のことに気を取られているのではないだろうか。メディアを通じて「成功例」とされる理事会は、筆者の目にはどこかずれていると感じられる。
 初期の成功例としてよく紹介されていた地域立校(コミュニティースクール)の例で考える。かりにA小学校とする。平成二〇年度末の報告会で、A小学校の学校理事会は保護者に6項目の「お願い」をした。

1.登校時間を守る
2.忘れ物をしないようにする
3.礼儀や挨拶は、親が指導するのが基本
4.〇つけは家庭でやる
5.子供の話を信じて学校に文句を言う前に、きちんと状況判断をする
6.開かれた学校協議会やPTA活動に積極的に参加し、A小の保護者としての責任を果たす。


 そして「93%の保護者から確認書を頂いた」というから、「お願い」にしてはかなり強いものだ。
 筆者の価値観では項目6を除き、概ね納得できる。項目5など、なかなか冷静になれない親として常に心がけたいと思う。ただ、学校理事会がこのような事を確認書つきで呼びかけるのはおかしなことだ。単に校長が言いにくいことをかわりに言ってあげました、という構図に思える。「学校・地域・家庭の連携」ではなく、「学校が地域の権威を笠に着て、保護者を管理しようとしている」のではないか。学校統治ではなく保護者を統治したがっているとでもいうか。
 項目6を承服しがたいのは、その欲望が強く現れていると感じるからだ。「開かれた学校協議会やPTA活動」とはどんなものだろう。学校協議会(理事会)の協議員は、町会長や商店会長、PTA会長などが、充て職的に任命されるのではなく、選挙などをして決めるのだろうか。そうでないとしたら、どういう意味で「開かれている」のだろう。子育て、教育の現場から離れて久しい年配の地域有力者が、「最近の若い親はなってない」とばかりに「PTAに積極的参加を」と確認書を取るというのは、正直ぞっとする。A小PTAが組織運営上も公正で、活動上も「教育のためになる」素晴らしいものであったとしても、全員を無理に絡め取るやり方は必ず軋みをうむだろう。
 筆者の子らが通う小中学校も、それぞれ地域運営学校に移行した。小学校の校長は「学校は地域のもの」と繰り返し述べる。その背景には一言でいいつくせないものがあるのは重々承知しているが、「地域のもの」と断言されてしまうのはしんどい。教育の第一責任者である保護者や、教育を受ける子どもたちはどこにいった? と疑問を抱く日々が続いている。


 5 保護者が管理されたい欲望

 各地で導入されつつある「地域運営学校」では、「地域」や学校(校長)が保護者を管理したい欲望を増長しうるのではないかと前回指摘した。それはいかがなものかという問題意識なのだが、最近、実は保護者の側も、管理されたがっているのではと思うことがある。
 例えば運動会。ある学校の運営協議会に参加している知人によると、運動会終了後の保護者アンケートで、毎年必ず上位に入るクレイムが「保護者のマナーが悪い」なのだそうだ。具体的には、シートを敷く場所や、写真・ビデオ撮影の場所の取り合いなど。良い場所を独占する保護者に、ほかの保護者が怒りをあらわにするという構図。それを運営上の問題として、学校に仕切ってほしがっている、と。
 たしかに、筆者の体験上も、運動会の場所の取り合いは「鬼門」だ。PTA本部役員を務めていた時、運動会当日、朝早くから準備に赴いたところ、それより前に校門前に並んでいる人たちがいるのに驚いた。「準備のために先に校庭に入ったPTA運動会係が先に場所取りするのが納得いかない」と激怒する人もいて、副校長が宥めに出たこともあった。
 後日、PTAの運営委員会で「運動会係による開門前の場所取りを禁じるか」延延と議論され、結局その時も校長にルールを決めてほしいということになった。筆者はこの手の「場所取り」に無関心なので、なぜ保護者がここまで熱くなるのか理解できないのだが、とにかくそれと同様のことが学校の運動会アンケートに書きこまれ、保護者の行動を学校に仕切ってほしいと要望が多いことを痛感した。自縄自縛というのとは違うかもしれないが、どこか息苦しい。
 筆者の娘の小学校でも、つい先日、運動会が行われた。場所取りのことは気にせずのんびりと出かけて、後ろの方にシートを敷いた。すると、場所取りに余念のない保護者とは違う風景が目に見えてくる。
 隣に大きなシートを敷いた一家が賑やかだ。クーラーボックスを持ち込んで、冷たい飲み物をタオルでくるんで手に持ち、楽しそうに語り合っている。昼ご飯の時間帯にはお子さんもやってきて、三世代が仲良く食事していた。そして、その時、クーラーボックスの中がちらりと見えてしまったのだった。
 ビールだった。当然、運動会は飲酒喫煙禁止なので、見つからないようにタオルで巻いていたわけだ。
 さて、それを見た筆者はどうするべきだろうか。直接注意をするか、学校の先生に報告するか、PTAの運動会係に連絡するか、アンケートに書きこむか。選択肢はいろいろ。でも、結局、どれもしなかった。
 理由は色々ある。場所取りにしのぎを削る人たちよりも、この家族は平和に運動会を楽しんでいるように見えた。誰にも迷惑をかけていない。わざわざ「通告」すると、ますます「保護者のマナーが悪い」ということになりそうで嫌だ……。本当は、児童の祖父母も飲酒していたから「地域の人のマナーが悪い」とも言えるわけだが、たぶん「保護者のマナー」に鋳込まれてしまうだろう。
「マナー」といった部分まで学校に仕切ってほしいという保護者側の感覚が、学校側の保護者を管理したい欲望と両輪をなすと、ますます健全とはいえない「管理」につながりかねず、その点が気になっている。


 6 PTAでは、がんで闘病中でも「役」は免除されない

 2年間エッセイを書かせて頂いた。初年度は保護者だから見えるPTAの実態について。今年度は保護者側から気づく学校にまつわる話題を中心に。お付き合いいただき感謝。最後に、原点に戻ってまたPTAを話題にするのを許してほしい。理屈は昔さんざん書いたので、PTAがいかに保護者を追い詰めるか自らの見聞として。
 筆者の子らが通った小学校は、世帯数が400を超すくらいで、だいたい800人くらいの保護者がいる。とすると、毎年、1人2人の訃報を耳にする。
 特にお母さんが亡くなった場合、PTAのことが大いに関係してくる。例えば──あるお母さんは、がんの治療で入退院を繰り返しているのに、負担の重い委員会の役を引き受けてしまった。定例会の欠席も多く「あの人は無責任」という批判の声もあがった。その方が年度内に亡くなった。それではじめて、みんな病気のことを知った。本人はまったくそれを言わず朝PTAに出て午後、化学治療などというスケジュールもこなしていたらしい。
 がんだというのは、あまり人には言わないし、言えない。だから全員に強制力を持つPTA活動の中では、そういう人にまで網がかかる。周囲の多くの人が、衝撃を受け、しばらくあちこちでこの件について議論された後、だいたいこんなかんじの2パターンの結論に落ち着いた。

(1)「PTAが死に追いやったようなものだ」いわば懺悔系。
(2)「先が長くないのは分かっていて、子どものためにやれる時にやっておきたいという前向きな気持ちだったのかもしれないし、今から蒸し返してもなにもならない」いわば、不可知論的スルー(?)。

 その時、ぼくが思ったのは、論点がずれているなあということ。ずれているなりに共感する部分はあって、(1)は極端ながら体がきつい彼女にPTAストレスが追い打ちを掛けただろうことも想像に難くない。(2)は、今さら確かめようもない不可知論的部分は合意だが、そのわりには「前向き取り組み説」を出してくるのが理解できない。正反対のこともありうるだろうに。
 そして、議論が「ずれている」部分についてきちんと意識しないと。この件で、PTAが肝に銘じなければならないことが浮き彫りになったのではないか。つまり、PTAは、役決めにおいて、死に至る病を抱え通院・入院をしている人たちを、健康な人たちから分けて検出することができない。本来きわめてデリケートなプライバシーだから検出できなくて当然だ。しかし、検出できないからといって「全員参加」だとか、絶対にクラスから○人選ぶ、とやっているとこういうことが起こる。「義務・負担・強制」の団体になってしまった感のあるPTAは、とにかく誰かを選ばねばという強迫観念のもと、PTA悲劇を引き起こすことがあるわけだ。
 この件をブログに書いたら、あっというまに似たケースが沢山報告された。ぼくの妹の学校でもあったそうで、それはもっと生々しかった。普遍的な問題だと思った方が良い。また、がんではなくとも、別の重い病気やうつなどの精神疾患を煩っている人への配慮も、薄い場合が多い。校長先生は、PTAの会員ではないこともあるが、時には顧問として、時には事務局施設を貸し出している責任者として、保護者の窮状を助けられる立場にあることを肝に銘じていただきたい。本当に御願いします。

 PTA問題をめぐる最近の展開についての補遺

 本書をまとめている最中、気鋭の憲法学者、木村草太氏(首都大学東京准教授)が、PTA問題について法的な面から発言を始めた。「強制・自動加入を定める規約や慣習があっても、法的には無効」「会員への労役強要や非会員への心理的圧力が過大になってイジメのような事態に発展すれば、不法行為として役員やPTAが損害賠償を請求される危険すらある」(二○一三年四月二三日、朝日新聞)。また、現状のPTAはいわば「違法PTA」であり、全員加入の見かけの平等さも「多数決の決定が正統性を失う場合の典型的な場面の一つ」であると(シノドス・高校生のための教養入門)。
 PTA問題の改善に積極的に取り組みたい校長にとって、法的な論考は理論的な根拠として力になるだろう。と同時に、現状を追認し続けると訴訟リスクすら抱え込むかもしれないと教えてくれる。さて、21世紀の教育を現場で指揮する校長は、いつ、どの時点で、この問題に切り込むべきだろうか。




川端裕人「かわばた・ひろと」

1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。東京大学教養学部卒業後、日本テレビに勤務。98年よりフリーランスに。小説作品に『夏のロケット』『今ここにいるぼくらは』『川の名前』『ギャングエイジ』など多数。ノンフィクションとして『PTA再活用論──悩ましき現実をこえて』(中公新書ラクレ)などがある。
少年サッカーを描いた『銀河のワールドカップ』『風のダンデライオン』は、「銀河へキックオフ!!」としてNHKでテレビアニメ化された。

PTA会長と校長先生ってどっちがエラいの?
~校長先生のためのPTA入門~

2013年7月7日 発行 初版

著  者:川端 裕人
発  行:川端 裕人

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