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jacket

写真:Wesl90
イラスト:mode-M
カバーデザイン:glaze*




  この本はタチヨミ版です。

ケンジ ・ 1

「小太郎、どうしたんだよ」
 おれはすっかり参っていた。
 今迄こんな事は無かった。小太郎はいつだって聞き分けが良かったし、人や他の犬に吠える事はしなかった。リードを引っ張ることもなく、おれの真横を行儀良く歩いた。
 それが今日に限って、ちっとも言うことを聞こうとしない。リードを引っぱっても、足を踏ん張って抵抗している。小太郎の小さな体ではおれの力に勝つことは出来ず、ずるずる引き摺られて砂埃が舞う。爪がガリガリ音をたてる。それでも彼は、諦めようとしない。
「どうしたんだ、行くぞ」
 声を掛けると、悲しそうな顔をする。無理矢理抱き上げようとすると、遂に吠え出した。悲鳴みたいな、必死な声だった。
 これは可笑しい。具合でも悪いのだろうか。
 おれは途方に暮れて小太郎の前に座り込んだ。小太郎は体に力を入れるのをやめておれを見上げ、くんくんと鳴いた。そして、立ち上がって少しリードを引っ張った。
「なんなんだよ、小太」
「戻ってみたらどうかな」
 思いがけず、後ろから声を掛けられて驚いた。振り返る。転校してきたばかりで、まだ名前を覚えていなかった。が、同じクラスのやつだった。確か、杉……なんだったか。
「なんだって?」
 おれは立ち上がった。彼が胸につけている名札が目に入った。六年一組 杉浦はじめ。まだ帰宅途中らしく、ランドセルを背負っていた。
「その犬。君の犬。戻りたいんだと思うよ」
「戻るってどこへ」
「どこまではわからないけど」
 彼は首を竦めた。おれがリードを持つ手を緩めると、小太郎がおれの顔を窺いながらそろそろと歩き出した。
「行こうよ」
 杉浦が言った。おれは訳もわからず、小太郎に引かれる儘に歩いた。公園まで戻ってくると、小太郎はさっきおれが座ったベンチに向かって走り出した。
「おい、小太郎」
 おれは危うく転びそうになりながら追いかけた。杉浦は、後からゆっくり歩いてくる。小太郎がベンチの前にさっきと同じように座ったので、おれもつられてさっきと同じようにベンチに座った。
「そう言えば刻み煙草買ってきてくれって、じいちゃんから頼まれてたんだ」
「へぇ」
 おれの呟きを耳にして、杉浦が相槌を打った。どことなく、満足そうに見えた。訊かれてもいなかったけれど、おれはそうした方が良い様な気がして、横に立った彼を見上げて説明した。
「おれのじいちゃん、未だに煙管を使ってるんだ。葉っぱがきれたから、散歩行ったついでに買ってきてくれって言われてたんだ。忘れてた」
「そうか。なら、早く買って帰ってあげなよ」
「あぁ。そうする」
 おれが立ち上がると、今度は小太郎も素直に立ち上がり、いつものようにおれの横にぴったりとついて歩き出した。それを見て、杉浦があっさり片手をあげた。
「じゃあ、またな」
「お、おぅ」
 あいつ、何しにここまで来たんだろう。おれは少し呆気に取られた。家がこの近くなのかどうかも知らない。でもまぁ、また月曜日訊けば良いか。
 おれは家に帰る途中、角の煙草屋に寄って帰った。

 じいちゃんが死んだのは、日曜日の朝だった。

 忌引き明けに、昇降口で杉浦に会った。彼は上履きに履き替えて、スニーカーを下駄箱に入れているところだった。おれに気がつくと彼は、ちょっと顔を顰めるようにして言った。
「この度は、ゴシュウショウサマでした」
 きょとんとしたおれに、彼は誤魔化すように
「こういうときはそう言うんだって、母さんが言ってた。……大変だったな」
 その最後の一言に、思わず涙ぐみそうになった。おれは大層な、じいちゃん子だったので。もしあの時あの儘、お使いを忘れて帰っていたなら、じいちゃんは大好きな煙草を吸えずにこの世を去っただろう。
「な。杉浦おまえさ」
「ん?」
「おまえ、犬の言葉がわかるの?」
 彼は、とても怪訝そうな顔をした。
「それとも、まさか、未来がわかるとか?」
 そこまで言うと、彼はおれの言わんとすることを理解したらしい。唇をきゅっと引き結び、少し笑うような形に曲げた。
「おれのはそういう、力ではないよ」

 他の記憶はどうか知らない。でもこの記憶は、しっかりとおれに紐付けられて、一度も落としたことがない。
 これが、おれとハジメの最初の記憶。


「茶太郎、おいで」
 おれが呼ぶと、ころころと転がるように走ってくる。豆柴。まだ一歳。下駄履きのおれの足の上もお構いなく踏んで飛びついて来る。爪が食い込んで少し痛い。
「元気一杯だな」
 苦笑いするように、啓が言った。盆に載せた湯呑みを口に運び、茶の熱さにちょっと眉を顰めて唇を舐めた。
「熱かった?」
「うまいよ」
 おれの質問を微妙にはぐらかして応え、湯呑みを盆に戻す。猫舌だけれど熱い茶を好む彼の、お眼鏡に適うお茶を用意できたことが未だに無い。もう十年を越える付き合いなのだが。今度はもう少し温めの湯で入れてみよう。
「茶太、こい」
 啓が手を出すと、茶太郎が走っていって小さな桃色の舌でぺろぺろと舐め出した。
「よしよし、可愛いな」
 捏ねくり回すように撫でられて、茶太郎が軽く唸り声を上げながら飛び回る。毛の生えた茶色いゴム毬が跳ねているように見える。そう言えば先代の小太郎のことも、こいつはよく可愛がってくれたものだったな、などと思い出す。啓は無理矢理跳ね回る茶太郎を捕まえて膝の上に乗せると、何気ない調子で
「そう言えば今朝さぁ」
 と言い出した。
「うん?」
 おれの手からブラシを取って茶太郎の毛を梳きながら、啓は続ける。
「学校へ行く道で、女の人が落としたのを見たんだ」
「うん」
「彼女が幼い頃に、集めていた小石の記憶だった。とてもきらきらしていて。其の儘置き去られていくのが可哀想に見えた」
「記憶が? その女の人が?」
 おれは注意深く訊いた。
「両方、だな」
 茶太郎の毛が顔についたのか、腕で鼻先を擦り上げながら、彼はぼそぼそと言う。
「本人にとっての大事な記憶は、本当にとても綺麗に見えるんだ。遠目にも、わかる。宝石が、落ちているような。そんな言葉じゃ違うくらい、綺麗、なんだ。だから、すごく悲しくなる。置いていかれる記憶も、なくしてしまう人も。その光景そのものが、とても切ない」
 啓が片言のように、考えながら言葉を紡いでいくのを、邪魔しないようにおれは身動みじろぎせずに聞いている。普段どちらかと言えば滔々と流れるように話す男だ。頭の回転も速くて、考えながらでも間断なく話す。こんな風にたどたどしい喋り方をするのは、少なからず心を痛めているときなのだ。言葉にするのを躊躇い、口に出すことで傷ついている。しかし、そうしないことには彼の中で整理がつかず、膨れ上がり、やがて膿んで破れてしまう。
 おれに出会うまで、啓がどうやってこの痛みと闘ってきたのか。おれは知らない。ただ吐露する場所を提供出来ているだけでも、おれは彼の友達をやれるようになって良かったと思っている。おれの存在意義がある。少なくともその一点だけでも。
「ホームレスの、人がいたんだ。いつも、いる。肌が浅黒くなっていて、側を通るだけで異臭がする。髪はどうやってか、剃りあげているんだ。どこかで拾った毛布を袈裟懸けに巻きつけていて、まるで、坊さんのように見える」
 ブラシを動かす手が止まった。茶太郎はくりくりした真っ黒な瞳で啓を見上げた。ブラッシングが終わったと思ったらしく、膝からぴょんと飛び降りる。庭の隅にさっき自分で落としておいた赤いボールを見つけて、一目散に走っていく。啓はまるでそれに気がつかないように、空になった自分の胡坐をかいた足をぼんやり見つめていた。おれは彼の手からブラシを取り上げて横に置く。湯呑みを覗いたら茶太郎の毛が入ってしまっていたので、庭の土の上にお茶を捨てた。盆に一緒に載せてある急須から注ぎなおす。ぼんやりと湯気が立ち上るが、さっきよりは冷めている。おれは黙ったまま、啓の目の前に突き出した。
「ありがとう」
 受け取って、一口含む。表情を変えずに飲み下す。
「うん。うまいな」
「そうか。良かった。……それで?」
「うん」
 湯呑みを両手で握りこんで、啓は頷いた。
「その人が、叫んでいた。おい、おいって。女の人に向かって、必死で。彼女は、一度は振り向いたんだ。でも、彼女には何も見えなかった。思い出せなかったんだ。それで、怪訝そうな顔をして、足早に行ってしまった」
「その坊さんにも、見えていたのか」
「うん。そうらしい」
 初めてではない。が、よくあることでもない。啓と同じように、人の〝落し物〟が見える人がいることは。そしてそういう人に、啓が遭遇するということは。
「彼の、必死さが、余計に悲しかった。おれの目に、焼きついた。朝の白い光の中で、記憶が煌いて、でも、落ちてしまって。あんなに、綺麗なのに、きっと拾い上げてもらえず、あそこで汚れて、擦り切れてしまう。それが、おれは、おれたちは、悲しかった」
「……そうだな」
 おれは人の記憶が目に見えたことがない。だから、本当のところはよくわからないのだろう。それでも、とても綺麗なものが地面に落ちて、埃に塗れていくのを見るのはとても嫌だと思った。拾って届けてやれるものならそうしたい。でも、実際に手で掴むことの出来ない物だったら。見ている以外にどうしてやることも出来ないとしたら。それは、とても悲しいだろう。
 おれは、自分の湯呑みにお茶を注いで飲み下した。おれには、随分ぬるかった。そして、渋かった。けれど、黙って飲み込んだ。啓はいつも、そうしているのだと、なんとなく思った。別段辛いことだとか、自分が不幸だとか、そんなことは考えずに。当然のこととして受け入れている。ただ、全てを見ている。まるで、神のように。と言っても、全知全能の神とは違う。自分の目に見える範囲だけを見ている。そして、出来ることはしようとする。おれにじいちゃんの言付けを思い出させてくれたときのように。自分で拾って届けてくれることが出来ない分、思い出させることはできる。こちら側に、啓の言葉を聞く余裕さえあれば。聞いて理解することさえ出来れば。落し物は届く。おれは見つけられた。あのとき公園で落とした自分の記憶を。
 そして、啓という友達を。

ハジメ ・ 1

 ドアを開けると朝日に目が眩んだ。反射的に右腕で顔を覆う。朝の太陽は挨拶が乱暴だ。
「いってきます」と首をねじって家の中に声を投げる。母がいるが、聞こえていないかもしれない。別に良いかと思って、返事を待たずにドアを閉じた。バタンという音に背中を叩かれる様に、おれは渋々歩きだした。
 今日一日の天気を約束するかのような、秋晴れの空だ。駅への道を黙々と歩く。兼司がいれば道中暇をせずに済むのだが、生憎彼は水曜日一時限目の講義を履修していない。
 滑り止めに受験した地元の大学に通い出して四年目。三年の秋に本格的に始めた就職活動。落とされ続けておれも就職浪人か。留年も視野に入れるべきだろうかと悩みだした四年生の夏にあっさり内定。打って変わって、あとは卒業を待つのみ、という平穏な学生生活を送れることになった。もう今年で二十二歳。春には社会人になっているというのが全く想像出来ない。同級生で高校を卒業してからすぐ就職した者もいるのに、おれは学生気分が抜けていない。確かにまだ学生ではあるのだが、二十歳も疾うに過ぎている。社会人でもなく、子供というわけでもない。大学生というもっともらしい肩書きが、成人しても尚子供であり続けるのに都合の良い最高の身分なのだ。しかし、そんな大学生活も残り僅か。卒業の先にある現実を、そろそろ見据えなければいけないのだと思う。
「学生の内にいろんなことをやっておきなさい。社会に出ると出来ないことがたくさんある」
 と大人たちは口ぐちに言う。
 混雑する朝の駅のホーム。駅員に押し込められた車内で人混みに揉まれ、スーツを皺だらけにしていくサラリーマンを見ると不憫でならない。おれも来年はああなるのかと思うと、目を逸らさずにはいられない。
 視線を落とした先、何本もの足が乱立する人の林の中で蹴られ踏みつけられる〝落し物〟が目に止まった。
 白く輝いていて輪郭がはっきりしないが、朝日と違って眩しくない優しい光。触れれば温かそうな、耳を澄ませば心地よい音色が聞こえてきそうな何かだ。少し視線を落とせばこんなに目立つものがあるのに、誰も気が付かない落し物。誰かの、少年の頃の記憶だ。小学校の校庭で友達と一緒にドッジボールをして遊んだ記憶。
誰もが持っていそうな記憶を、誰かが落としている。ついさっきまでは覚えていたのに。この通勤ラッシュで弾き飛ばされたかのようだ。そして慌ただしい時間に揉まれて忘れられていく。社会に出ることと少年時代の記憶を落とすことの因果関係の証明はおれにはできない。でも、おれがそう思ってしまうのは残り少ない大学生活に憂えているのと、この目を持っているからなのだろう。
 電車は停まってドアを開けると、人々を大量に吐き出した。落し物は蹴飛ばされ、どこかへ飛んで行ってしまったようだ。
 おれは人の流れに乗って電車を降りて改札を目指す。駅のホーム、エスカレーター、階段、連絡通路、そして改札。道中、意識すれば捨てられた今朝の朝刊と並んでコンクリートの地面に転がる〝落し物〟がいくつも見える。その落し物はどれも綺麗だ。決して悪い記憶ではないということだ。人間は、悪いことほどよく覚えているのかもしれない。その証明が、おれの視界の端々に映る宝石たちなのだろうか。
 おれは改札を抜けた。沢山の落し物を跨ぎ、避けながら進んでいる内に、急に嫌気が差した。駅から大学まで出ている送迎バスのバス停まで行ったが、乗らなかった。このまま平凡に大学へ行き、いつものように先生の禿げ頭を眺めながら板書を取るのがなんだか馬鹿らしくなった。踵を返し、朝早くから開いていた喫茶店に入る。モーニングセットを注文し、丁寧にトーストにバターを塗って平らげ、コーヒーをゆっくりと飲み干した。十時過ぎに店を出て本屋へ足を運び、雑誌コーナーでしばらく雑誌を立ち読みした後、目に付いた文庫本を一冊持ってレジで会計を済ませた。
 このまま帰ったのでは母親に怪しまれる。仕方が無いので早めの昼食をとることにして、ファミリーレストランに入った。角の席を確保し、ランチセットとドリンクバーを注文。手早く食事を済ませてしまうと、紅茶を片手にのんびりと読書に時間を割いた。
 青春恋愛ものの小説だったらしい。高校生の男女が切なくも甘酸っぱい展開の中で高校生活を謳歌している。いや、甘酸っぱいというのは間違いか。練乳に漬け込んだ苺のような、兎に角甘ったるい話だった。世の中そんなに甘くないとはよく言ったものだ、などと思う。
 読み終わると、店内の壁掛け時計の針は三時を指していた。午前中いっぱい潰せれば良かったものを、つい読みふけってしまった。
「何やってんだおれは」
思わず独り言を漏らし、伝票を持ってレジへ向かう。無愛想な女性スタッフ相手に清算を済ませると、ドアを押して外に出た。頬に冷たい空気が触れる。太陽は早くも西に進路を取り、北風と違ってじんわりとおれの背中を温める。
 帰ろうと思い、駅へ足を向ける。駅の入口から少し離れた場所に目が留まった。ついこの前ホームレスがいた場所だった。今は移動してしまったのか、させられたのかはわからないが、彼の姿はない。あの落し物もなくなっていた。
 一陣の風が吹いた。燻ぶる心を冷やすようだったが、その心を煽るようでもあった。

 玄関のドアを開けて乱雑に靴を脱ぎ、居間の前を通り過ぎざまに母に「ただいま」と告げた。
「おかえり。今日はいつもより遅かったわね」
「講義の後図書館へ行ってた」
 用意していた言い訳をさらりと口に出す。大学生ともなれば、特に母親も追及してくる訳でもない。あらそう、という気の無い返事を聞き流しつつ、階段を昇ってすぐの自室に入る。無駄に持ち歩いてしまった教科書の入った鞄を床に放り投げ、どかっと椅子に腰を下ろした。



  タチヨミ版はここまでとなります。


忘却の彼方

平成二十四年十一月十八日 発行 初版

著  者:愛月律馬・佐倉有希
発  行:まなゆき文庫

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まなゆき文庫

忘却の彼方

まなゆき文庫は、創作庵 月雪花 のレーベルです。

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