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私たちがふだん目にする新聞や書籍、雑誌などに使用されている文字群には、いくつもの違ったデザイン、太さをもった文字が使われています。明朝体やゴシック体はどなたもご存知でしょう。これらは通常、書体と呼ばれます。印刷物の制作にあたって植字組版される文字は、活字から写植そしてフォントへと、その呼び方は変化してきましたが、そこにはつねに元となる書体をデザインし、制作する人たちが存在してきました。
書体は、長い歴史の上に築かれてきた文字文化の伝統を継承するものであり、また、しばしば、その文章に対する読者の印象をも左右する影響力をもつものです。したがって書体の制作には、高い信頼性と精妙なデザイン感覚が必要とされます。また一つの書体のセットは、漢字、仮名、アルファベット、記号など約八千字から成っているため、一人で一書体を制作した場合には三年ほどの期間がかかるとされるほど、非常に忍耐の必要な地味な仕事でもあります。
この本の主人公である鈴木勉は、書体デザインの仕事に一生をささげ、一九九八年五月六日、四十九歳の若さで世を去りました。
私ども字游工房の創設者であり、代表取締役でもありました鈴木勉は、二十代前半で書体デザインコンテストの最優秀賞を二回連続で受賞するなど、若くしてその才能を開花させ、株式会社写研、字游工房と約三十年の間、つねに第一線で書体を作りつづけてきました。「スーボ」「スーシャ」「ゴーシャ」に代表される個性的な書体から、「ゴナ」や「本蘭明朝」のファミリー展開、ヒラギノシリーズなどのベーシックな書体、そして「秀英明朝」や「游築36ポ仮名」といったクラシックなものまで、手がけた書体は多彩です。また、書体の魅力と奥深さを後輩たちに伝え、多くの人材を育てたことも大きな功績であったと思います。
このように、鈴木勉が書体デザインの世界に与えた影響には多大なものがありましたから、その死を惜しみ、その業績を後世に残すため出版を考えたらどうかという要望が多くの方々から寄せられたのは当然の成りゆきでありました。私ども字游工房としても、鈴木勉、鳥海修、片田啓一の三名で始めた会社とはいえ、鈴木勉の文字に関する考え方や人との接し方などが字游工房の「礎」そのものでありましたから、弊社の礎を確認する記録として、さらにその遺志を引き継ぎ今後に飛躍するための糧として、鈴木勉の本を作ろうと考えた次第です。
有難いことに、本の制作に関わるあらゆる方面から有志の方々のご参集をいただきましたので、この『鈴木本』制作委員会を中心として編集作業は円滑に進みました。また、私どもの依頼にご快諾をいただき多くの方々より貴重な玉稿を頂戴することができました。鈴木勉の思い出をお寄せくださったみなさま、『鈴木本』制作委員会のみなさまに厚く御礼を申し上げます。
なお、本書に使われております書体は、社内での開発名称を「A明朝体」と呼んでいるもので、鈴木勉が晩年に書き残した下書きをもとに、この本のために今回新たに制作した書体です。製品化されていない書体のため、フォント化につきましては大日本スクリーン製造株式会社開発部のみなさまに、組版出力につきましては凸版印刷株式会社情報・出版事業本部のみなさまに特段のお取りはからいをいただき、鈴木勉が残した最後の書体で組みあげることができました。ここに深く謝意を表させていただきます。
この本がみなさまにとって、鈴木勉の人と仕事を偲ぶよすがとなり、さらには書体デザインの今後の発展に資するものとなることを念願いたします。
有限会社字游工房代表取締役 鳥海 修
スーボは一九七二年、当時二十三歳であった鈴木勉が株式会社写研主催の第二回石井賞創作タイプフェイスコンテストで最優秀賞を獲得した書体である。一九七四年に写研から写植書体として発売された。のちにスーボO、スーボOSが発売されている。
この書体をコンテストに出品したときの制作意図を、鈴木は次のように記している。
「写植文字・活字を含め、これといったユニークなディスプレイがないのに着目し、今までにない太さの丸ゴシック体を創作した。
従来、太い書体は画数が多い場合、その部分を細くして処理していたが、この書体では“くい込み”の方法をとり、なるべく太さを均一に保つようにした。結果的にはこの“くい込み”が面白い効果となったと思う。また、ディスプレイタイプの太い書体は字間が目立つためそれを防ぐ意味で字面を大きくした。利用範囲は限られると思うが、それがかえって印刷物をひきたてることになるのではないか。」
この制作意図のとおり、線を極限以上に太くして重ね処理を施した、大らかでユーモラスな形のスーボは、二十五年経った今も幼児から小学校低学年向けの雑誌を中心に多く使われている。また理由は不明だが、中国の上海では書籍を始め看板などで見かける機会が多かった。それにしても二十代前半に制作したとは思えない完成度である。鈴木本人の努力もあっただろうし、写研のスタッフの優秀さに助けられたこともあっただろう。が、何よりも鈴木の才能の賜物ではなかったかと思う。
いわゆる新書体ブームは、一九六九年、グループ・タイポによる「タイポス」から始まった。それまで印刷用書体としては、一般的には明朝体、ゴシック体、丸ゴシック体、楷書体などしかなく、書体を制作する人の存在はごく一部の人たちにしか知られていなかった。タイポスの登場はそうした書体デザイナーに光を当てると同時に、書体デザインそのものにも光を当てるきっかけとなった。そして、この新書体ブームを牽引し、開花させる役目を果たしたのが石井賞創作タイプフェイスコンテストである。
このコンテストは、新しい書体デザインの発掘の場として業界第一位の写研が一九七〇年に設立したもので、第一回石井賞の受賞作品は後に爆発的なブームを巻き起こした中村征宏氏デザインの「ナール」であった。最優秀賞の賞金が百万円を超えるということもあり、業界および文字デザイナーに与えた影響は絶大なものがあった。
その第二回コンテストで、百点前後の応募作品の中から弱冠二十三歳の若者の作品が選ばれたことは、関係者に大きな衝撃をもって迎えられた。実はこの時、写研の社員がコンテストに応募してもいいものかどうか、公平な審査ができるのかどうかという議論があった。だが、誰でも平等に機会を与えようという審査員の声と、応募作品のパネルの裏に記された氏名を隠して評価する審査方法をとるということで、社員であった鈴木にも参加資格が与えられたという経緯がある。
スーボという書体は重ね処理がポイントで、どの部分をどのように重ねたらいいかというルールがないため、その制作は試行錯誤の連続だったという。結局、鈴木個人の感覚に頼る部分が非常に多く、約三千の文字を作り上げるには大変な苦労があったようだ。この時、スーボを制作したスタッフの中に、後に夫人となった雅子さんもいた。
それから数年後、学生だった筆者が会社見学に行った時のことである。文字制作の現場に案内され、「この人がスーボの鈴木君だよ」と紹介された。右の耳に筆を挟んで不機嫌そうに文字を作っていた鈴木は、いかにも気難しい人のように見えた。しかし、体を揺らしながら迷惑そうに立ち上がって「スーボの鈴木です」と低い声で言ってはにかみ、案内の方から「ほら、書体と一緒だろ」と言われると今度は照れくさそうに頭をかいた。その笑顔は人なつこく、ああ、やっぱり書体どおりの人なんだなと思ったものである。(T)
「書体制作が完了するころにやっと、その書体が分かったような気がしてくるんだよ」
スーシャは一九七四年、鈴木勉が株式会社写研主催の第三回石井賞創作タイプフェイスコンテストで最優秀賞を獲得した横組み専用書体である。一九七九年、スーシャL、スーシャBが写研から写植書体として発売された。
書体デザイン界の高倉健を自任し、寡黙で渋い男を標榜していた鈴木は、みんなに「スーボ」のようだと言われることが不満だったようだ。そのイメージを一掃するかのように、彼はその二年後、贅肉を削ぎ落とした繊細で都会的な横組み専用書体の「スーシャ」を制作したのである。本人はスーシャこそ自分であると思いたがっていた節がある。
スーシャは第三回石井賞創作タイプフェイスコンテストで最優秀賞を獲得した書体である。このコンテストは隔年で実施されるため、第二回のスーボと第三回のスーシャを連続で受賞したことになる。このことは快挙であり、当時新聞の「顔」欄に取り上げられたり、週刊誌に掲載されたりした。今であればさしずめ宇宙飛行士ほどの扱いであったろうか。
タイプフェイスコンテストにこの書体を出品したときの制作意図について、鈴木は次のように書いている。
「元来日本の文字は縦書き用であるが、現在では横組が相当多くなってきている。しかし、印刷文字においては同一文字を縦横兼用にしているのが現状である。そこで、横組用文字の制作を試みた。
(1)横への視線を滑らかにするために正斜体(傾斜角度約八六度)とした。(2)横線については、縦線が傾斜している関係で右下がりに見える欠点を矯正し、右上に抜けるような筆法にした。(3)従来の細明朝体よりも力強さを出すため、縦・横の太さの差を少なくした。(4)ベースラインを揃えるため、文字間の重心を下げた。」
いま改めて見ると、コンテストに出品した作品と商品化されたスーシャではかなりデザインが変わっている。まず気がつくのは字面が大きくなったこと、フトコロが広くなったこと、エレメントが変わったことだろう。そして何よりも完成度が飛躍的に上がったことだと思う。
エレメントが変わったことについては裏話がある。「口」などの部分で左の縦画の起筆の形が全く違うのだ。鈴木が明朝体を単に斜めにしたようなシンプルなエレメントを主張したのに対して、横線の筆法は隷書をモデルとしたものであるから、縦画の打ち込みも隷書の筆法で斜めに書けば「ひし形」のようになるというのが石井社長の主張だったようだ。すったもんだのあげく、結局鈴木はその意向にしたがった。その結果は別にして、文字の善し悪しのことで一人の若い社員と会社のトップが真剣に話ができるような恵まれた土壌が写研にはあったのである。この土壌で鈴木は鍛えられたのだと思う。
鈴木の家に泊まった日の翌朝、彼の部屋に招き入れられると、鈴木自慢のサッシのないコーナーのガラス窓から清々しい朝日が射し込んでいる。ところがラジカセから流れてくる曲は健さんの「網走番外地」。そして今度は「模造刀だけど…」と言いながら刀を抜いた。「スーシャみたいだろ」と言ったような気がした。スーシャの硬質で伸びやかな左ハライはまさに刀の線と類似しているように思える。(T)
「書体を作ってると自分が芸術家になったように勘違いしてしまうことがあるけど、書体は芸術じゃないよ。じゃあ、読めれば何でもいいかというとそれも違うんだな」
ゴーシャは、横組専用書体として鈴木勉がつくったスーシャのデザインを、ゴシック体に移植する意図から制作された書体である。一九八一年、株式会社写研からゴーシャEが発売され、順次ファミリー化された。
スーシャのL、Bが発売されてから二年が過ぎていた。スーシャのイメージをゴシック系の太い書体に移植し、新しい見出し用書体として制作されたのが「ゴーシャ」だ。スーシャに比べると正斜体のゴシック系にヒゲのようなアクセントといういでたちで、少々アクの強いところも見受けられるが、広告用としては各方面で使われてきた。その個性の強さをいかして、若者向けのビジュアル雑誌やグッズの広告等に利用され、さらに最近ではテレビのテロップなどにも使われている。現在はウェイトが二種と、ゴシック系ならではのアウトライン、アウトラインシャドウでファミリーを形成しており、さらに細いウェイトも開発されてファミリーの拡充が図られているようである。
スーシャL、Bが発表されたころ、「スーシャのイメージでゴシック系のものを」という写研の石井社長の発案で動き出した書体であったと思う。ウェイトもEで、見出し用ゴシック系書体としてはいちばん売れ筋のところであり、ディスプレイ書体のバリエーションがまた増えることとなる。早速試作に取りかかり、いくつかの案ができていった。用意された版下に、あのちょっととげとげしいアクセントを人海戦術で加えていく。そのような作業を進めながら制作の現場では「ゴシック系でスーシャのファミリーを拡張していったら、明朝系のあの軽やかな雰囲気に影響するのでは」といったような声がちらほらしていた。しかし鈴木はそんなことには耳を傾けるそぶりも見せず、文字の左右の縦画の角度(例えば、くにがまえの左縦画と右縦画)を微妙に変えてみるなど、良い姿勢で文字が見えるようにといったような調整等を行い、本制作に入っていった。
スーボ、スーシャは鈴木が発案した書体だったが、ゴーシャはスーシャの見出し用として要求された書体である。繊細な感覚でスーシャを作った鈴木にとって、この押し出しの強い書体をデザインすることには多少なりとも抵抗があった、と思う。周囲には批判的な声もあったし、また別の悩みもあった。若くしてオリジナル書体を任されたことに対する優越感と、周囲の羨望やねたみである。だが鈴木は決して嘆くことも、また浮かれることも、弁解することも、迎合することもしなかった。ただ黙々と作った。自分が好きな書体、嫌いな書体に係わらず、社員の一人としてしっかりとやり遂げなければならない、と考えたのではないか。後年鈴木はゴーシャについてあまり語ることはなかった。ただ折に触れて、「書体にはいろんな背景があるんだ。いろいろなしがらみの中から生まれるんだよ。人間だっておんなじでいろんなものを抱えて生きて行かなくなくちゃならないんだよ」と言っていたのは、こうした背景があって出てきた言葉のような気がする。
組織の中にいて何千という数の文字を創り、さらに書体数を増やしていく。そういった面では他人の意見や上司の要望には本当に謙虚であり、うまく自分のものとして取り込んでいったのではないだろうか。結果的にはそれが鈴木にとって見識を広めていくこととなっている。
発売にあたって「ゴーシャ」と命名されたその書体は、兄貴分であるスーシャよりも販売数では上だったかもしれない。あちらこちらの見出しに使われてきたように思う。しかし作業者たち、特にチーフとしてこの後のゴーシャO、OSをまとめていくこととなった鈴木には、スーシャ、ゴーシャのデザイン後遺症とも言うべきものが残った。次の仕事、他の作業に移行するとき、正体の文字が皆、逆に(左に)倒れて見えてしまうというのである。テーブルの上のコップでさえも傾いて見えるという話を、酒の席で鈴木から聞いたことがある。(K)
「書体を作っている人の苦労が分かるから、他社の書体の悪口なんてとても言えないよ」
秀英明朝は、株式会社写研から一九八一年に発表された写植書体である。元となったのは秀英舎の秀英体初号活字で、人気のあったこの活字書体を復刻し、写植化したものだ。鈴木勉はこの書体の仮名を担当した。
秀英明朝は大日本印刷株式会社の前身であった秀英舎が、明治の後半に制作したとされる秀英体初号活字の復刻である。エディトリアルデザイナーの杉浦康平氏の強い希望によって、写研が大日本印刷から写植化の権利を買うことによって実現されたと聞く。
この書体は如何にも力強く男性的であり、ブックデザインに多用するグラフィックデザイナーの平野甲賀氏は『裃を付けた武士の趣』と評した。仮名はそれぞれの文字が固有の形に徹し、大きいもの、小さいもの、長いもの、平たいものが奔放に表現されていて、現代から見ると仮想ボディを意識させない伸びやかで独特の味わいがある。こうした味わいが支持されてか、書体にこだわるデザイナーには圧倒的な人気があり、ポスターやブックカバーなどに数多く使われている。
鈴木勉はこの仮名の制作(復刻)を担当した。初号といえば一辺が約一五ミリの大きさの清刷である。これを約五センチに拡大して修整するのだが、復刻だから簡単に思えるかもしれないが、実はこれが難しい。清刷というのは紙に印刷されたもので、インクがはみ出したり擦れたりがあり、それにより文字が太くなったり細くなったりするし、細部などは形すら分からないものがあったりする。鈴木は清刷から文字の形を読み取り、筆の動きを把握し、秀英明朝の仮名を自分の中に取り込み、消化しながら制作するのである。
築地書体と並び称された秀英体の見出し書体を復刻しているという充実感と、過去の卓越した職人の技に触れることの喜びを感じつつ、まったく新しいものを制作するほうが楽だな…鈴木はそう思ったかもしれない。後年、鈴木はこの秀英明朝の仮名の制作を通して、仮名が分かったと言った。当人の探求心の賜物であると同時に、上司であった橋本和夫氏のアドバイスも大きいものがあったであろう。「仮名が分かった」と言った鈴木の晴れやかな顔が目に浮かぶような気がする。
漢字の復刻は今田欣一氏がチーフとなってまとめ上げた。この手法も手の込んだものであった。このころ文字を作る際の道具としては三角定規と溝引きが常識であったが、漢字の復刻にはご法度とされた。直線と思える線でも人間の手によって彫られた線のために微妙に曲がっていて、それが秀英明朝の柔らかさや味を出しているのだから尊重しようというのが趣旨であった。したがって手法としては写真のピンホールを埋めるスポッティングのような作業で、すべてフリーハンドで行われた。
明治に作られた書体が、今もって第一線で使われているということは、秀英明朝を作った職人にとっては職人冥利に尽きるというものだろう。しかし、現代の人がこのように普遍的でありながらも動きに満ちた仮名を、まっさらな状態から作り出すことはおそらくできない。現代の学校の書写をはじめ、デザイン系の大学や専門学校の教育、毛筆を使わなくなった社会全体の環境がこうしたものを生み出す環境にないからだ。なぜこんなことを書くのかというと、今の文字、特に仮名は全体に平均的な印象を受けるからだ。つまり個性がないのである。線の強さ、大らかな筆法、動きのある字形、秀英明朝はいろいろな意味で文字の可能性と楽しさを教えてくれるように思う。文字を作る現代の職人は、秀英明朝を越える書体を生み出して後世に残してゆく必要があるのではないか。しかしそれを獲得するのは並大抵のことではない。(T)
「俺はこの書体で仮名が分かったような気がした」
ゴナUは中村征宏氏により制作され、株式会社写研から写植書体として一九七五年に発売、好評を得てゴナEが同じく中村氏により制作された。鈴木勉がこの書体の制作に関わったのは、それ以降のファミリー化においてであった。
「ゴナU」は写研の依頼により、「ナール」をデザインした中村征宏氏によって制作され、一九七五年に発売された。アクセントのないフラットな線で構成され、字面いっぱいにデザインされた超特太ゴシック体で、太いわりには明るく都会的でスマートな印象を与える。そして、それまでのゴシック体は泥臭いというイメージを完全に払拭した、極めて新鮮で画期的なゴシック体である。ポスターなどに盛んに使われたが、そのうちにもう少し小さく使ったときに潰れないものがほしいとの外部からの要望で「ゴナE」が、やはり中村氏によって制作された。折しも「ポパイ」に代表されるビジュアル雑誌ブームに乗り、ゴナは爆発的に普及した。
鈴木がゴナに関わったのは、それ以降のゴナのファミリー化においてである。ゴナのファミリー化は、試作した「ゴナM」と「ゴナDB」が三菱銀行の制定書体に決まったことがきっかけであった。ところが、採用は決まったものの試作した数文字しか存在しなかったためにまともな文章を組むことができない、一方でデザイナー側はパンフレットなどを作るために、使う文字だけでよいから一日でも早くほしい、そういう状況だった。職場ではゴナ以外の書体の進行をストップし、さらに生みの親である中村氏を招いて全員でゴナの制作に当たることになった。まとめ役は鈴木で、補助が橋本和夫氏、そして監修が中村征宏氏であったと思う。職場は活気づき、下書きをする者、墨入れをする者、仕上げをする者、整理をする者、写真の処理をする者などが機敏に、かつ的確に動き、緊張感の中にも何やら華やいだ印象を受けた。
初日の定時後で残業に入る前に、鈴木は下書きをしているメンバー全員を引き連れて会社の近くの寿司屋に行った。「今日は何時までかかるかわからないが、おまえらがしっかりやらないと後が困るんだから頼むぞ」というようなことを言ったのだと思う。「酒、飲むか」と聞いた。どこからか「まだこれから仕事じゃないの」という声が上がる。「少しなら大丈夫だろ。…お酒、熱燗で」と鈴木が注文した。「内緒だぞ」。写研において仕事の最中にお酒を飲んだのはこれが最初で最後だったが、この酒の効果はてきめんで、連日十一時頃まで皆楽しそうに仕事をしていたような気がする。みんながそれぞれの持ち場で与えられた作業を的確にこなしたために、三菱銀行の制定書体の仕事は滞りなく終えることができたのだった。
鈴木は部下に気を使い、また特別に参加していただいた中村氏にも気を使ったのではないかと思う。鈴木はスーボやスーシャのように新しい書体を創造することも一流だったが、それよりもどんなスタイルの書体であれ、誰が作った書体であれ、それを咀嚼して字種を拡張し完成度の高い書体としてまとめ上げる技能が卓越していたように思える。制定書体であるゴナを制作する時も、書体のまとめ役として活躍する一方で、部下の掌握にも心を砕いていた。字游工房を作り、鈴木の下で働いてみるとそれは鈴木の天性のように思える。鈴木は書体をまとめる以前に、人をまとめることに秀でた人であったと思う。
鈴木は制定書体が終わって数日後、ゴナの本格的なファミリー展開のチーフとして「ゴナL」の制作に着手した。ゴナファミリーの完成を見たのは、それから数年後の一九八五年であった。(T)
「書体は一人でなんかできないよ。みんなで作るもんだよ。だから速く作れるし、いろいろな書体に挑戦できるんだよ。そのためには少数精鋭がいいな」
本蘭明朝ファミリーは、まず本蘭明朝L(当初の名称は本蘭細明朝体)が、一九七五年に株式会社写研から本文用明朝体として発売された。それから十年後に、LからHまで七書体でファミリー化が行われている。
写研から本蘭明朝Lが発売されたのは一九七五年のことである。仮名の設計は橋本和夫氏が担当し、漢字は鈴木を含む数名のチームによって制作された。それまで本文用明朝体といえば石井明朝体だけであり、チラシ、広告などの需要は満たしていたものの、書籍用としては弱々しいとの評価が定着していて、その分野においては依然として活字に分があった。そこで登場したのが本蘭明朝Lである。第二世代の自動写植機と一対で開発された本蘭明朝Lは、若干広めのフトコロと均一な空きを持ち、横線とハライの先などが太く設計されたためそれまでになかった明るさと活字に匹敵する力強さを持った。普及までには時間がかかったが、文庫本や単行本に多く使用されるなど書籍用書体として見事にその役割を果たし、その時代を代表する明朝体となった。
本蘭明朝Lは非常に優れた書体であったにも関らず、その普及には約十年の歳月がかかった。スーボやゴナUといった見出し用書体の普及は速いが、本文用書体といわれる分野のうち、特に明朝体やゴシック体のような基本書体ほど、その普及は遅いのが普通だ。十年後に本蘭明朝のファミリーが発売され、それをきっかけとして一気に普及した。
本蘭明朝ファミリーの仮名は鈴木が担当した。はじめに着手したのはファミリーの中でもっとも太い本蘭明朝Hの仮名を作ることであった。これが完成すれば後はコンピュータで間のウエイトを生成し、それに修整を加えればできあがるため、本蘭明朝Hの仮名が要となるのである。一番細い本蘭明朝Lの仮名をベースに本蘭明朝Hの仮名を作るという作業は秀英明朝の復刻とはまた別の難しさがあったようだ。文字の大きさや太さは漢字に比例して変化するためにそれほど難しいことはない。困難さを極めたのは細い部分をどこまで細くするかということであった。
はじめ、細い部分は今より相当太く、標準的な太さだったと記憶している。上司を経由してトップに確認すると「もっと細くしなさい」ということだった。確信の持てないままに鈴木は少しずつ線を削り、細くしていった。試行錯誤の末に得心がいったか、これでいいだろうと思い、再びトップにお伺いを立てると、「もっと細く」という指示が返ってきた。鈴木は驚くと同時に悩んだ。筆者が「どうなりましたか」と尋ねると、「もっと、細くしろだってさ」と言って納得できないように首を横に傾けた。秀英明朝で仮名が分かったと思ったときには、どんな書体でも同じ式で解ける、何でも来い、という気分だったのに、あの自信はどこに行ってしまったんだろうか。本当にこれ以上細くしていいんだろうか。筆で文字を書くとしたらそんなに細く書けるのだろうか。もし、書けないとしたら常道を外した不自然な仮名にならないだろうか。鈴木は自信を失いかけた。しかし前出の橋本氏にアドバイスを求めつつ、鈴木はさらに未知の領域に足を踏みだした。こつこつと新しい仮名に出会うために壊しては作るというイメージの格闘が再開された。こうしたやり取りを三、四回続けて本蘭明朝Hの仮名は完成した。まさに苦心の作であった。
できあがった本蘭明朝Hの仮名は、良くも悪くも他に例がないほど非常にコントラストの強い清潔感のある書体に仕上がった。雑誌などで見かける機会が多く、その細い部分が時として針金のように見えることがあり、やや神経質な印象を与える。
鈴木にとって本蘭明朝Hの仮名の制作は、秀英明朝の時のように文字の世界がパッと明るくなるといった感じではなく、文字デザインの奥行きを感じたのではなかっただろうか。
ちなみに、本蘭明朝ファミリーの漢字は岡田安弘氏がチーフとなって制作されたものである。(T)
「永く文字を書いてると、分かったと思えることがあるんだよ。でもさ、それは一瞬だけ」
織田特太楷書は、織田八良氏の筆によるもので、力強い書風をもった筆書系の写植書体である。一九八四年、株式会社写研から発表された。鈴木勉はチーフとして写植書体化の実作業と全体のまとめを担当している。
写植業界において新書体の開発が活発になり始めていたころ、広告の紙面におけるディスプレイ用の特太楷書体は株式会社モリサワのものが独壇場という状況が続いてかなりの時間が過ぎていた。当時、写研には広告の見出しに使うための太い楷書体がなく、その開発が急がれていた。
決定までの経緯は定かではないが、見方によっては女性的とも思えるモリサワの特太楷書の書風とは対照的な、力強く、どっしりとした感のある織田八良氏の特太楷書体の文字盤化が決まった。そして商品化が終わり販売が始まると急速に使われるようになり、先行して市場に定着していたモリサワの特太楷書に肉薄していった。住宅関連の広告、大型店舗の広告の見出し、看板やサインなど、信頼性や訴求力を表現するのに適した書体で、現在では見出し用としてすっかり定着している。
この書体の制作は、織田氏が書き上げてくる原稿を受け取り、コピーをとって、それに写植文字用として必要な要素を統一して盛り込むため補正を加えつつ進められた。鈴木は実際の作業と全体のまとめを担当した。当時、鈴木は新書体開発部署のチーフとして係内の部下に数書体の開発を振り分け、並行して制作作業を進めてゆく立場にあった。秀英明朝は別格として、外部のデザイナーが仕上げてきた書体に手を加え、商品化するのはこの係が初めてであり、鈴木はその性格からデザイナーの思いを壊さぬよう気を使いながら、部下を指導していた。この特太楷書は特徴ある筆法のため、字面の大きさ、見え方を左右するハライの処理が難しいが、特に見出し用として大きく見せるために、力強い右ハライの長さを保つことと、文字の姿勢を決めるセンターの設定のかねあいで苦労したようである。
書体の付属として制作する欧文のデザインは、秀英明朝に続いて漢字・仮名のエレメントに合わせてデザインすることになった。漢字・仮名と同様の筆法でアルファベットを新規デザインするのは写研ではおそらくこの書体が初めてであったろうと思う。世の書家の方はみな基本的にそうであるが、原作者である織田氏にとっても和文に比べて欧文はやはり勝手が違うらしく、ある程度の雰囲気で書かれた原稿が上がってきた。
試作・検討を幾度か繰り返しながら、織田氏の原稿をベースとして字形を整え、ラインやサイドベアリングの設定等を行い、欧文を仕上げていった。そうしてでき上がったものが本社の打ち合わせの席で検討され、それが二度ほど繰り返された。そうした議論と修整を経て最終的には現在の形で商品化されたわけだが、そこに至るまでには賛否両論いろいろあった。
欧文のデザインについて本社での二回目の検討が終わり、その内容が上司から鈴木と担当者に伝えられた時のことである。指示された修整内容は予想外の方向へのものであり、若い担当者は納得がいかず、修整の筆も進まなかった。「(修整の)方向が違うのではないか」「何とかもう一度上の方を説得できないものか」と、つい愚痴を並べる。鈴木はトップと現場のデザイナーの間に立って困っている上司を気遣い、この担当者の無神経な言葉が腹に据えかねたのか、「つべこべ言わずにとっととやれ! 間に立つ人間のことも少しは考えろ!」と一喝した。
鈴木には、書体を創るうえで間に立たされる者の味わう労苦や葛藤、ジレンマが、自らの経験から痛いほどよく理解できたのだろうと思う。(K)
「文字のセンターをとるのなんて簡単なんだけど、筆書系はハライで考えさせられるよなあ…」
ヒラギノ明朝体は、大日本スクリーン製造株式会社の「千都フォントシリーズ」のファミリー書体として、一九九三年に発表された。字游工房が制作を担当し、初めて商品化された書体であった。現在、ファミリー七書体のほか、仮名書体も発売されている。
ヒラギノ明朝体は字游工房設立の翌年に、大日本スクリーン製造株式会社からビジュアル雑誌やパンフレット向けの明朝体の依頼があって制作した、弊社にとって最初の記念すべき書体だ。三年後の一九九三年に同社から発表された。特徴はフトコロを広めに、字面は大きめ、エレメントはやや単純な方向に、そして重心はやや高めに設定して、都会的でクールなイメージとした。明朝体という基本的な書体の例に漏れず普及には時間がかかったが、ここ一年ぐらいの間に毎日新聞社の「二〇世紀年表」、朝日新聞社の「週刊二〇世紀」をはじめとして、雑誌、単行本のタイトル、さらには菓子のパッケージなど、着実に使用される機会が増え、確実に世の中に定着し始めてるように思える。
鈴木は、ヒラギノ明朝体制作においては人を育てることに主眼を置いたのではないか。
漢字の制作は字游工房の全員とアルバイトが担当し、鈴木は制作も含めたまとめ役であった。一字一字丹念に検査し適切な指示を与えたが、時としてあまりの出来の悪さに「おまえら、十年間何をしていたんだ」と怒鳴り散らすこともあった。
仮名はその怒鳴り散らされた一人でもある筆者が担当した。なぜ筆者が仮名を担当することになったのかはっきり覚えていないが、おそらく「書かせて下さい」と自分の経験不足も省みず、厚かましくお願いしたのだろう。「やってみな」と答えたかどうか。ともかく、鈴木はこの浅はかな自分に任せてくれたのである。明朝体の仮名を作ることは書体設計に携わるものなら一度は経験してみたい事柄である。それが字游工房最初の明朝体の仮名を作るのだから嬉しいやら怖いやら。よーし、やってやるぞと勇躍する反面、どうやってデザインしていいか分からず、試行錯誤を繰り返した。半年位の間に三回ほど書き直した。自分が書いたらとっくに終わっているであろう仕事を、鈴木は言いたいことも言わずじっと我慢していたのではなかったか。鈴木はたまに「まだか」と柔らかく催促するぐらいで、こちらから意見を求めないかぎり黙っていた。また意見を言うにしてもこちらのやりたいことを尊重した上での意見であって、決して我田引水的なものではなかった。鈴木はとても忍耐強く見守ってくれた。
制作したものを、外部の方々に直接会って評価していただいたことがある。褒める人もいたが褒めない人もいた。筆者は「良くない」と言われるとまず不機嫌になり、次に思い当たる節があるとがっかりして「あぁ」とため息が出てしまう癖がある。こんな筆者を見て「これはおまえの書体じゃない。いいか、みんなの書体なんだぞ。良くても悪くてもみんなの責任なんだぞ」と言い、「褒めてるのなんか参考にならない。駄目だと言われることがありがたいんだ」とも言った。
市場に対してヒラギノ明朝体を宣伝するに際して、大日本スクリーン製造から「鈴木勉デザインとしたい」との要望が出された。このとき鈴木は頑なに拒んだ。ヒラギノ明朝体は自分一人で作ったのではなく、字游工房のみんなで作ったものだから、出すのなら字游工房の名前を出してほしい、というのが鈴木の考えだった。結局、大日本スクリーン製造が「字游工房デザイン」を受け入れてくれたおかげで、字游工房の今があるのだと思う。鈴木はヒラギノ明朝体を通して、人を育てることに心がけていたと同時に、字游工房を桧舞台に押し上げたような気がする。(T)
「時間があればいい書体ができるわけじゃないだろ。与えられた時間の中でどれだけのことができるかが勝負だよ」
ヒラギノ角ゴシック体は、大日本スクリーン製造株式会社の「千都フォントシリーズ」のファミリー書体として、一九九六年に発表された。ヒラギノ明朝体につづく字游工房制作の第二弾となった書体である。現在、ファミリー九書体が発売されている。
大日本スクリーン製造株式会社とともに進めていたヒラギノ明朝体ファミリーの制作が終盤にさしかかってきたころ、予定どおり角ゴシック体の開発が始まった。当然、ヒラギノ明朝体との混植を目的としており、ビジュアル雑誌用として本文組から見出し用まで、また中間ウェイトはヒラギノ明朝の見出し用としても使えるよう設計した。ウェイトは細かく九段階に設定、ビジュアル雑誌などでブロックで本文や説明文を組んだとき、そのグレートーンのテクスチャの選択が細かく調整できるように、本文寄りの細いウェイトの方を充実させた。現在、パソコン、DTP関連の雑誌や広告のコピー、ライフケア製品関係のパッケージ等に使われている。小ポイント数でのグラビア印刷に対応するため、専用の仮名も開発した。
角ゴシック体開発当時、巷の印刷物で使われていたのは、写研のゴナシリーズ、モリサワの中ゴシック体、新ゴシック体シリーズ、MB101シリーズ、そしてリョービのナウシリーズが主なものであった。メジャーなところではゴナ、新ゴ系統のカウンターが広くて明るいものが主流であり、その中でヒラギノ角ゴシック体はすこしフトコロを締め気味にして、現代的な明るさを残しつつもオーソドックスな路線を狙ったものである。
下書きを社員三~四名で書き起こし、鈴木がそのまとめを行っていった。ヒラギノ明朝体につぐ自分たちの企画によるベーシック書体開発の第二弾である。仕様の設定を進めるにあたり鈴木は社長としての位置にいながらも、社員みんなの意見を聞き、尊重しながら丁寧にデザイン仕様をまとめていった印象がある。ヒラギノ明朝体開発の時より社員数は増えていたが、そういった人数で書体開発を進めるときはこんな感じだぞ、と教わっている印象を受けたのと同時に、次の世代に伝えることを考えていたのではないかと思う。
この書体の制作方法は今でこそどこでも当たり前となったが、下書きだけを行い、その後はマッキントッシュを使ってデータ上でアウトラインの形成・修整・仕上をするという方法をとった。字游工房にいる人にとってはアナログ上の仕上げを省くのは初めての経験であり、品質的に問題が生じないのか、その制作方法をめぐり多くの時間をかけて試行錯誤が繰り返された。データ上の作業はすべてマニュアルであり、自動化などはまだ考えられないころであったが、クライアントである大日本スクリーン製造からの、商品化を急ぎたいとの要望にも応えるために、いろいろと考え、工夫をしていった。おかげでこの方法は、字游工房におけるフォント制作のベースの一つになっている。
鈴木はコンピュータで作った文字には口を出したが、コンピュータを使って文字を作ることについては前向きな姿勢は取ったものの、具体的な方法については筆者をはじめとする若い社員に完全に任せてくれた。自分が慣れ親しんできた制作方法が隅に押しやられるような寂しい思いを多少はしたようだが、それよりも、若い世代の人たちが、より速く、より品質の高い文字を作るために可能性を模索する姿を見ているほうが鈴木にとっては嬉しかったし、頼もしく思ったはずである。
「俺にコンピュータは分からない」という立場をとっていながらも、「頭のいい人が作っているはずなのに、どうしてこんなにばかなんだろう」とは、コンピュータに対する鈴木の感想であった。(K)
「いくらコンピュータが盛んになっても、アナログがデジタルに合わせるんじゃなくて、アナログにデジタルがついてくるんだよ」
痩金体は台湾・ダイナラブ社の書体で、一九九六年にダイナラブ・ジャパン株式会社から発売された。字游工房では痩金体のほか、隷書体、新宋体、魏碑体、麗雅宋のそれぞれ仮名のみを制作しているが、鈴木勉は痩金体と麗雅宋の仮名を担当した。
痩金体は本文用か見出し用かと問われれば、見出し用と答える。縦長な字形、鋭い起筆と終筆、そして細い走筆は宋朝体にやや似ているが、それよりも人間的な感じがする。まだこれだという使い方に出会ったことはないが、非常に典雅な書体だけに、うまくマッチしたときの風景は身震いするほど美しいはずである。
この書体は制作の仕方が特殊で漢字、仮名、アルファベットをそれぞれ別の国で作った。漢字は台湾のダイナラブ社、仮名は字游工房、アルファベットはアメリカのマシュー・カーター氏が担当した。つまりそれぞれの国が持っている文字を担当したのである。歴史的に、漢字を中国から輸入し、アルファベットを外国の活字メーカーから買い、それに合わせて仮名を作ったことはあったが、痩金体のように同時期に別々の国で作った例を知らない。世界を股にかけるダイナラブ社であったからこそ成しえた方法ではなかっただろうか。それだけに、三者間においてデザインのすり合わせの機会がまったくなかったのは本当に悔やまれるところだ。
痩金体の漢字の元は、中国は宋の時代の徽宗皇帝の文字であり、もともと鈴木が好きな書体で、ずっと以前から拓本を持っていた。長峰でイタチの毛のような固い筆で、彫り込むように縦長でスマートに書かれた書風は鋭利で繊細である。
ダイナラブ・ジャパンから仮名の制作依頼を受けたとき、フィッシャー・リー社長から「これは売れるだろうか」という質問があった。鈴木は「売れるかどうかは分からない。ただ使い道は限定されるかもしれないが、これでなければならないという場面は必ずある」と言った。そして「これは自分にとって非常に作りたかった書体だけにとてもうれしい」と付け加えた。
筆で書くとどうなるのかを見たいから、おまえが筆で仮名を全文字書いてみろと言われ、筆者が半紙に痩金体の漢字をまねて書く練習をしながら仮名を書いた。書いてはみたもののまったくひどいもので、これで参考になるのかなと半信半疑でいると、しばらくのちに鈴木は立派な原字を作り上げた。文字の形を参考にするのではなく筆で書く際の転折や筆の動きを参考にしたかったのだろうと思う。数回紙焼きで縮小をして検討した後、さらにダイナラブでフォント化してテストをしていただいてから、そこでも二回ほど修整を加えた。痩金体に向かう態度はいつにも増して真剣だったし、めったに自分の作ったものについて話すことをしない人が「結構きれいだな」と珍しく自画自賛したところからも、自信作であったと思う。評価する際、ダイナラブ社のフォント責任者サミー・オー氏も隣にいて、「トテモウツクシイヨ、スズキサン」と英語で言ってくださった。
後日、ダイナラブ社のフェアが京都で開催されることになり、そこで痩金体の発表を大々的にやるからぜひ参加してほしいとの要請があった。京都はお世話になっている大日本スクリーン製造株式会社のおひざ元でもあり、仁義に反するようなことになりはしないかとの危惧から丁重に参加をお断りした。先方には悪いことをしたと思っているが、ダイナラブ・ジャパンのフィッシャー・リー社長やサミー・オーさんにはこうした事情を理解していただけるだろうと思ったのである。(T)
「書体を作るのは難しいでしょうって言われるけど、俺の場合は単純で、揃って見えることと均等な空きになってればいいんだよ」
ヒラギノ特太行書体は、一九九六年、ヒラギノシリーズの筆書系書体として、大日本スクリーン製造株式会社から発売された。元字の創作は田中馨氏が担当、監修を字游工房が行った。九八年には細いタイプのヒラギノ行書体が発表されている。
ヒラギノ角ゴシック体の制作が進んでいるころ、大日本スクリーン製造株式会社との間で筆書系で見出し用の太い書体についての商品化の企画が動き出した。その当時、江戸文字を除き、太い筆文字といえば楷書体しか存在しなかったように思う。そのような状況の中で、高品質の見出し用筆書系書体として今までに類を見ない、特太楷書に匹敵する太い行書体を創ることとなり、長年、毛筆耕を営まれ、以前よりお付き合いのあった田中馨氏に元字の創作をお願いした。幸いなことに発売以後、デザイナーおよび一般ユーザーから高い評価と支持をいただいており、現在は各種の雑誌、広告の見出しやタイトル、パッケージおよびテレビのテロップ等、多様なジャンルで使用されている。今年度、行書本来の太さで描かれた細いタイプも商品化され、細・太二ウェイトのファミリー体制となった。
田中氏の筆書系書体については時を遡ること十五、六年ほど前、縁あって田中氏の要請により、一度、写研における文字盤化への可否の検討をお願いしたことがあった。しかしその当時、写研では筆書系の商品については充実した状況であり、文字盤化については見送りという形となった。それが成長したDTP業界という別の土俵の上で、筆書系フォントの新しい風として登場することになった。田中氏は筆耕業という仕事柄、タイプフェイスデザインにつきものである仮想ボディという四角い枠の中に、伸びやかな筆文字を描いていくことに長けていた。しかし、第二水準のほとんどが一度も毛筆では書いたことのない字体であり、また書道字典にも載っていない文字が多かったため、形を決めるまでに何十回と書き直したという苦労話もうかがっている。
原稿は約二五ミリ正方の枠の中に描き進められていった。それを字游工房内で拡大し、タイプフェイスのデザインとして字体や処理の整合性をとり、太さ、線質、画質等を整えてから台紙に貼込んで、データ化のためのスキャン用原稿を作成していく。そしてさらにアウトライン上でデータの乱れを修整していくといった工程であった。
田中氏の話によれば「毛筆耕の仕事は思いを込めて文字を描いても、ほとんどが使い捨てとなってしまい、残るのは賞状とか表札ぐらいかな」ということである。したがってタイプフェイスデザインという、いいものを創れば後に残るような仕事には文字書きとして
非常に魅力があるということだった。今回のプロデュースによって、伝統的で毛筆の雰囲気を色濃く残した美しい行書体を世に送り出すことができ、田中氏の思いの一助になれたことと、筆書系のフォント化というデザインの幅を広げる機会を得られたことは、鈴木をはじめ字游工房にとってひとつの新しい軌跡を生み出すよい経験となった。
プロデュースという仕事は鈴木にとって初めてであった。日頃から「字游工房だけですべての書体ができるわけではない。世の中には自分たちより上手い人がいっぱいいるんだから、手伝ってもらうことは重要なことだ」と言っていたことを実践したのである。ヒラギノ特太行書体のパッケージに『田中馨デザイン』と入れることを要求したのは鈴木であった。田中氏本人は「そんなに気を使ってくれなくてもいいよ」と謙虚に言って下さったが、それが鈴木だった。文字を創っていただいた方に礼をつくすという態度が鈴木の基本的な姿勢であった。(K)
「世の中には上手い(字を書く)人はいっぱいいるんだよ。謙虚にならなきゃな…」
游築36ポ仮名は、一九九八年、ヒラギノシリーズの新書体として、大日本スクリーン製造株式会社より発表された。ヒラギノ明朝体の漢字と組み合わせて使用される仮名書体である。游築五号仮名も同時に発売されている。
「游築36ポ仮名」は、明治から大正にかけて作られたと思われる築地活版所の明朝体三六ポイントをモデルとして、やや現代風に書き起こしたオリジナル仮名書体である。書体の位置づけとしてはヒラギノ明朝体のオールドスタイルの仮名で、ヒラギノ明朝体の漢字と組み合わせて使うように設計されている。太さによって本文や見出しに幅広く使えて、なかなか優雅な世界を醸し出す仮名書体である。そしてこの書体は現在製品化されているものの中では、鈴木の最後の書体となった。
過去の書体の再現というと「秀英明朝」を思い浮かべるが、この游築36ポ仮名の作り方は秀英明朝とはまったく違う。秀英明朝が清刷を拡大してそこに直接墨を入れて、あくまでオリジナルの再現にこだわったのに対して、游築36ポ仮名は清刷を下敷きにすることなく、いきなりヒラギノ明朝体W3とヒラギノ明朝体W8の太さに合わせて、まったく新規に書き起こしたのである。ちなみにオリジナルの太さはヒラギノ明朝体W5に近い。ファミリー化を前提としたための制作方法とはいえ、誰にでもできる方法ではない。鈴木はオリジナルの再現にはこだわらなかった。如何にその雰囲気を残しながらヒラギノ明朝体に合わせるか、そして補間をとった後の各ウェイトの修整を如何に減らして速く作るか、そうしたことに心がけての制作方法であった。
紙の上にかいた原字をカメラで縮小して方眼紙に貼り、さらに縮小して一辺が一センチ位の大きさにして眺めていた。「細いほうはきれいに見えるんだけど、太いほうが難しいな」、そう言って机の隅の方に押しやる。数日の時間をおいて眺めてみると転折の形状や線の起伏が、書くことをイメージしたときに自然に流れていないことに気がつく。改めて「文字は難しいな」と思った。そして最低二回は書き直したように記憶している。このように制作された游築36ポ仮名は一文字一文字が宝石のように美しい。沈着で繊細な筆の入り方、たおやかな筆の運びは他に例を見ない。鈴木の技量の高さを証明する文字である。
製品化されてまだ日が浅く、実際に使われた例は数えるほどしかない。その中に、平野甲賀氏が装丁した角川書店刊の『津本陽歴史長篇全集』(A5判の箱入り上製本)がある。この装丁がすばらしい。箱に「津本陽歴史長篇全集 第二十二巻」と、タイトルの「下天は夢か」の文字が入っている。タイトルの文字は一辺が約四センチと大きく、画面の右上に置かれており、ヒラギノ明朝体W7の漢字と、游築36ポ仮名の組み合わせである。背景である雪村筆の墨絵の風景の中空に、その大きなタイトルが黒の箔押しでいかにも堂々と定着している。その背景の空間と文字のたたずまいがいいのだ。
平野氏には「いい文字だ。こういう文字を作ってくれると嬉しいな」と喜んでいただいた。専門家の手によって、文字の作り手が驚くほどうまく使っていただき、使っていただいた方に褒められるというのは、文字を作っている者にとってはこの上ない喜びである。この時、鈴木は亡くなっていたが、生きていたらどんなにか喜んだことだろう。筆者は平野氏にいただいた『下天は夢か』を携え、そのことを墓前で鈴木に報告した。
唐突だが、鈴木にとって游築36ポ仮名を作るという仕事は、社長業から解放され、文字を作ることだけに集中できる貴重な時間であり、喜びの時間であったはずである。そう思う。(T)
「宝くじに当たって、お金の心配なんかしないで、文字だけ作っていられたらいいな」
JK明朝は、字游工房初の自社ブランド書体として開発中の新明朝体である。この新書体の制作は一九九六年、鈴木勉によって着手され、現在は鈴木が生前書き残した下書きを元に、開発が進められている。
設立以来、自分たちの手で基本書体を作りたい、そして自分たちの書体を持ちたい、これが字游工房の夢であった。最初の夢は、すでに大日本スクリーン製造株式会社のヒラギノ明朝体、ヒラギノ角ゴシック体、ヒラギノ丸ゴシック体によって幸運にもほぼ達成されているが、自分たちの書体を持ちたいという希望はなかなか実現できないでいる。
鈴木も社員を前にして、ここ数年の忘年会の席上で「来年こそはウチの書体を手がけたい」と言ってきた。しかしながら目先の仕事に追われる日々でなかなか着手できないでいた。そんなとき弊社宛に一通の手紙が届いた。金澤和広氏からの手紙で、そこには金澤氏が自分で作ったフォント作成ツールの特徴や、そのツールで作った自作の書体の一部などが同封されていたと思う。金澤氏に直接会って話を聞くと、下書きがあればアウトライン化は金澤氏一人でも高速に処理できるという優れものであったため、鈴木は「JK明朝」の制作を決断した。平成八年のことであった。
JK明朝の開発コードは「A」。「ありきたり」とか「あたりまえ」とかの頭文字をとったものである。手元に猪瀬直樹著の『日本凡人伝』という本がある。数年前に鈴木にもらった本だ。そこに紹介されてる人たちはアナウンサー、バスガイド、調香師、スジ屋と呼ばれる鉄道員など、普段はあまり表に出てくることのない職人たちである。鈴木はこうした人たちを好んだため、「ありきたりの明朝体を作ろう」と考えたのは自然の成り行きだったかもしれない。またそのころ流行っていた「究極のラーメン」などの究極に対抗する意味もあった。また「(ビジュアル雑誌用だから)ヒラギノ明朝体には時代劇が似合わないだろう。だから時代小説が組める書体を作ろう」とも言った。ありきたりの「A」、これがJK明朝の設計思想である。
鈴木は忙しい中で何とか時間を作り黙々と下書きをした。文字を作るときの鈴木は常に前向きにテーマを持って臨んでいたような気がするし、それまでに書体を作ることによって経験したことの集大成であったように思う。感性そのもので書いた「スーボ」「スーシャ」に始まり、仮名を学んだ「秀英明朝」、人をまとめることを意識した「ゴナ」、育てることで苦労した「ヒラギノ明朝体」、そして「ヒラギノ角ゴシック体」など、皆そうである。そして今度の普通の明朝体である「JK明朝」も集大成に変わりはない。しかし鈴木にとっては字游工房として初めての自社明朝体ということで一段深い思い入れがあった。そうした中で、奇をてらわず普通の明朝体を作ろうと考えるところに鈴木の見識と、決意がくみ取れるのである。約三十年間、書体一筋だった鈴木にとっても、また字游工房にとっても、大きな節目であるとともに、次の時代へ踏み出す大きな一歩でもある。
残念なことに、病に倒れたのはそれからほぼ一年後のことであった。鈴木は細いウェイトと太いウェイトで合計四千字ほどの下書きを残してこの世を去った。制作途中とはいえ文字を拡張するのに必要な字種はおおかた書き残してくれた。
本書『鈴木勉の本』は、JK明朝(試作)で組まれている。鈴木が書き残した下書きをベースにしながら足りない文字を書き起こし、データ化は金澤氏の協力を得て試作した。単行本や文庫本に使うための本文用書体という位置づけで、ゆったりとした漢字に小振りの仮名を組み合わせ、今までのDTP書体にはなかった普遍的で読みやすい書体になったと思う。鈴木が「池波正太郎も藤沢周平も組めるじゃないか」と言ってくれるかどうか。今後はブックデザイナーや編集者の方々の意見をうかがいながら、さらに煮詰めて、より完成度の高い書体をめざそうと思う。(T)
「俺が今一番やりたいのは…、やっぱり仕事だな」。病床の鈴木の言葉である。
※JK明朝はのちに游明朝体と改称されました
□企画・編集
『鈴木本』制作委員会
統括責任者:鳥海 修
統括編集:瀬川 清
装丁:平野甲賀
ページデザイン:堀田隆彦
組版:紺野慎一
書体試作:字游工房/金澤和広
相談役:杏橋達磨
会計:片田啓一
事務局:樋泉雪子・岡澤慶秀・石崎伸枝・半田哲也・鈴木 匠
□協力
大日本スクリーン製造株式会社
ダイナラブ・ジャパン株式会社
キヤノン販売株式会社
凸版印刷株式会社
□参考文献
『第二回石井賞創作タイプフェイスコンテスト展』作品集(株式会社写研・1972)
『第三回石井賞創作タイプフェイスコンテスト展』作品集(株式会社写研・1974)
『文字に生きる[51~60]』(株式会社写研・1985)
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2013年6月27日 発行 初版
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