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意識を取り戻した時、自分は死んだのだと思った。
嬉しかった。
ホッとしていた。
猛火で生身を炙られるかのような激痛も、窒息しそうな苦しさも、もうどこにも感じられない。
(ああ、やっと死ねた)
殺してくれと何度叫んだことだろう。
こんな苦しみを味わうくらいなら、いっそ死んで楽になりたい。
わめく自分を家人はただおろおろと見守るばかりで、そのうちに痛みのあまりわけがわからなくなった。
きっとそんな自分を見かね、誰かが手を下してくれたのだ。
ゆったりと呼吸をし、空気の成分のひとつひとつを味わった。
今までとは異なる味わいだった。複雑であるにも関わらず、すべての構成要素がわかる。
ふと、違和感を覚えた。
自分は死んだのに、どうして空気を味わったりしているのだろう。死んだら息をしないのではないか?
指先がざらりとした布地を掴んだ。
ざらり。
どうしてそれがわかるのか。死んだら何も感じないはずだ。
目を見開いた。
歳月を経て黒ずんだ、見慣れた板張りの天井。
死んだのに、どうしてそれが見える?
窓の外からは甲高い鳥の鳴き声が聞こえた。
馬鹿な。聞こえるはずがない。
何だ、これ。
耳元でわめきたててるみたいにうるさい。
何故だ。窓は閉まっているじゃないか――。
すべての色彩が、異様な鮮やかさで瞳を突き刺した。
些細な音が鼓膜を破るように響き、あらゆるものの発する匂いが洪水となって鼻腔になだれ込んで来る。
目を瞑り、息を止め、耳を塞ぎ、膝の間に頭を抱え込んでも、まだ何かが聞こえた。
体内を流れる血流がゴウゴウと凄まじい轟きを発している。ひび割れた叫び声が渇ききった喉を突いた。
扉がばたんと開き、憔悴しきった顔の女が室内に飛び込んできた。女は叫びながら自分を抱きしめた。
誰だっけ。
ああ、そうだ。これは『母』だ。
戸口に立った痩身の男が、口を半開きにして自分を見つめている。
あれは『父』だ。
自分にこの苦しみを与えた男。
そうなることを知っていながら我が子を実験動物のように扱った男――。
憎しみが芽吹いた。
そして理解した。
やはり自分は死んだのだ。だからもう彼の子ではない。彼の役目は終わったのだ。
私の瞳を食い入るように見つめ、『父』は呻いた。
「おお、神よ」
落ち着きを取り戻し、私は微笑んだ。
『父』は瞬時に破裂して肉の破片となった。少し腕に力を込めただけで『母』は全身の骨が砕けて絶命した。
血まみれになった私は喉を鳴らして笑った。これまでの自分が本当に死んだことを実感し、深い喜びが込み上げた。
鏡を覗き込むと、瞳が青と金に変わっていた。白目は乳白色の蛋白石みたいに輝いている。
これこそが支配者の証、神々の証だ。『両親』の流した温かな血溜まりを踏んで私は歩きだした。
さぁ行こう。
世界をこの手に取り戻そう。
丹精込めて我らが造り上げた、美しきこの世界を。
目指す建物はアステルリーズの螺旋大通りからずっと奥に入った目立たぬ場所にあった。
街路樹が整然と並ぶ清潔な通りに面し、美しいファサードで飾られた建物が優美な曲線を描いている。
五月のそよ風に柳の枝がやさしく揺れた。
大通りが建国千年祭の祝賀でにぎにぎしく飾りたてられていても、ここはふだんと変わらぬ穏やかな風情を保っている。
時折行き過ぎる馬車の音さえ、数段ゆったりと聞こえた。
思い切ってノッカーを叩き、落ち着かない気分でしばらく待っていると、鍵を外す音がして静かに扉が開いた。
黒い立ち襟、肩の部分が大きく膨らんだ手首まで来る長袖の黒いドレス。輝くように真っ白なエプロンをつけた年若いメイドが愛想よく微笑んだ。
「いらっしゃいませ。お約束はございますか」
ドギマギと首を振る様子や服装で見当がついたのか、メイドは後ろに下がって無造作にドアを開いた。
かといって横柄になるでもなく、さばさばした口調で「こちらへどうぞ」と促すと、元通りに鍵を閉めてさっさと奥へ歩きだす。
「当斡旋所では登録希望者に対し、まずは仮登録という形をとっております。書類に必要事項を記入していただき、調査確認した上で所長が面接いたします。審査に通って初めて登録となりますが、はっきり申し上げてその確率は大変低いです。でも書類だけで落とすことはありませんし、ものは試しと言いますからね」
立て板に水でまくしたてられ、我に返って「あのぅ」と小声を挟んだが無視された。
「所長は門前払いはしない主義なんです。書類だけで人を理解できるわけありませんもの。かといっていきなり面接しても短いやりとりで判断できることは限られますし、本人が自覚していない特技があるかもしれません。だからそういうことを公平かつ正確に判定するためにも、まずはこちらが行う事前調査についての承諾を一筆入れていただきます」
メイドはどんどん進んで扉を開け、とある部屋に入った。
飴色に艶光りする美しい木目に真鍮の飾り把手がついたキャビネットと机が並んでいる。
「さ、こちらにご署名を。それを確認したら仮登録用の書類をお出しします。署名する前には、よーくお考えになってくださいね」
脅かすような言葉とともに差し出されたペンを受け取りそうになり、慌てて首を振った。
「ち、違う! 私は登録に来たのではありません」
「あら。あなた、お仕事は家事使用人でしょ? 何かこう、そういう雰囲気ですもの」
「確かについ先日まで、ある御方に従者として仕えていました。でも、今日は職探しで来たわけではないのです」
「ここは家事使用人の斡旋所ですのよ。失礼ですけど、お宅で使う召使を探しに来たようにも思えませんわねぇ。うちの派遣員はとってもお給金が高いんですの。何しろ特別なものですから」
「どうしてもこちらで相談したいことがあるのです」
メイドはOの字に開いた口に手を当てた。
「ま。そっちでしたの。だったら最初からおっしゃってくれればいいのに」
口を挟ませなかったのはあんただろ、と言いたいのをぐっと抑え、「お願いします」と頭を下げる。
「では、所長秘書のミスタ・リドルを呼んで参りますわ。控えの客間でお待ちを」
「僕ならここにいるよ、ダフネ」
笑みをふくんだ軽やかな声が入り口から聞こえた。
ぴしりと糊の効いたシャツに青磁色のジレを合わせた青年が、こちらに目を向けてにこりとする。
金髪にやや垂れ気味の青灰色の瞳をした、洒脱な雰囲気の青年だ。年の頃は二十代半ばといったところ。
「所長秘書のユージーン・リドルです。ちょうど廊下を通り掛かったらふたりの会話が聞こえましてね。ご相談に来られたとか?」
頷き、呼吸を整えた。
「……目には見えず耳には聞こえず、手には触れ得ぬことについてお尋ねしたいのです」
黙って見返したユージーンが口の端を軽く持ち上げる。
「して、その舌にはいかなる味わいが?」
「いいえ何も。ただ何ともいえず、におうのです」
緊張にふるえる声で答える。
人づてに聞いた合言葉。それを口にすれば、彼らが手を貸してくれると聞いた。
ユージーンの表情は動かない。間違えたか、と背筋が冷えた瞬間、青年は悪戯っぽく微笑んだ。
「所長室へご案内しましょう。ダフネ、お茶の用意を頼む」
手招かれてさらに奥へ進み、どっしりした扉を青年がノックすると女性の声が応えた。
窓から射し込む光の中に背の高い女性が佇んでいた。才媛という表現がぴったりな、理知的な美女だ。
彼女は怜悧な美貌に謎めいた微笑を浮かべた。
「ブラウニーズ特別家事使用人斡旋所へようこそ。所長のアビゲイル・ブラウンです。お話を承りましょう」
「……無限の闇の彼方より彼らは現れた。
混沌の海を越えて、彼らは至った。
彼らはこの世界を発見した最初の神々であった。
神々は荒れ果てた岸辺に上陸した。
大地は黒光りする尖った石塊に覆われていた。
朝になれば燃え上がり、夜になれば凍りついた。
そこは不毛の世界だった。
にも関わらず神々は嘆かなかった。
何もないなら創ればよい。
そして神々は必要なものを創り始めた……」
朗々と響く美声が止んだ。
うっとりと耳を傾けていたフィオナは、声の余韻が消えるのをせつなく追った。
深紅色の天鵞絨めく麗しい声音が中空に溶け込んだ、まさにその刹那。
ぐすー。
静まり返った室内に、何とも間の抜けた音が響いた。
広い部屋の中央には長方形の大きな机が置かれている。国内有数の職人が丹精込めて作った、精緻な蔦と果物が彫り込まれた胡桃材の美しい猫脚机だ。
その机に突っ伏しているフィオナの主、十七歳という妙齢の少女が、明るい栗色の髪を天板いっぱいに広げ、何とも気持ちよさげに寝息をたてている。
ぐごっ。
今度は噎せたような鼾が響いた。
フィオナは血の気の失せた顔で、自分と同い年の主と、それを睨んでいる美貌の青年とを交互に窺った。
美青年は背後の黒板から親指大の白墨をおもむろに摘みあげた。弾丸もかくやの勢いで白墨が居眠り少女の頭頂部に激突する。
「いたっ」
反射的に身を起こしたソニアは瑠璃色の瞳を眇めて頭をさすった。
何が起きたのかとねぼけ眼で周囲を見回すと、真っ青になったフィオナがしきりに目配せしている。
何やら目の前が急に翳ったような気がして顔を上げると、机を挟んで佇む青年が凄絶な微笑を浮かべていた。
左手に〈光の書〉の小型写本を持ち、右手で第二弾とおぼしき白墨を不穏に弄んでいる。
ソニアの家庭教師であるアイザック・ノーマンは、唇だけでにっこりと微笑んだ。
「目は覚めましたか、ミス・ソニア。おや。顔に本のページ跡がくっきりついていますね。もう少し刺激が必要なら、こちらの写本を脳天にお見舞いしてさしあげますが?」
「い、いえ、結構です」
あの装幀写本は小さな見た目からは想像つかないほど重いのだ。
表紙は一見革製のように見えて実は薄い板金だし、角は真鍮で補強してある。おまけに背表紙にはいくつもの貴石がはめ込まれている。
目の前で居眠りしたのを見咎められてはさすがに気まずく、ソニアは誤魔化すようにぐすぐすと鼻を鳴らした。
「お風邪でも召されたのですか、ミス・ソニア」
「いえ別に。わたし、とっても丈夫なのでご心配なく」
「そうですね。何とかは風邪をひかないと言いますから」
ムッとしてソニアは家庭教師を睨んだ。
「わたしが馬鹿だとおっしゃるの」
「おや、誰がそんなことを」
机の下でぐっと拳を握る。
ソニアは国内でも三つしかない準王族・公爵家の令嬢だと言うのに、まったく遠慮も会釈もない。
さすがに口調だけは丁寧だが、彼にとってソニアはお嬢様でも何でもないただの生徒――それもかなり出来の悪い生徒にすぎないのである。
「鬼教師……」
低声で呟いたとたん、「オニ?」と訊き返される。地獄耳め。
「いえっ。その……、そう! お兄様に会いたいなぁ、と」
「そういえば、近々若君が帰省される予定だそうですね」
「そうなの。久しぶりなもので、嬉しくってもうウキウキしてしまって」
「それで浮かれるあまりに爆睡してしまった、と。たいへんユニークな反応ですね」
「ありがとう!」
「褒めてません」
睨まれたソニアは亀のように首をすくめた。
「では、〈光の書〉、通史の部分を暗唱しなさい。今私が読んだ続きから」
アイザックはくるりと背を向けてしまう。続きと言われても完全に寝落ちていたので見当もつかない。
横目で窺うと、フィオナが口をぱくぱくさせて教えてくれた。ソニアは軽く息を吸い、暗唱を始めた。
「……そして神々は必要なものを創り始めた。
まず、世界を司る四つの元素に〈宇宙の息吹〉を吹き込んで火と風と水と土の元素霊を創り、彼らを統率する王をそれぞれに置いた。
神々は四元素すべてを統合した〈第五元素〉の王となった。故に神々は〈世界の支配者〉と呼ばれるのである。……
神々は精霊たちを駆使して世界を整えていった。
世界が広がってゆくと、神々は自分たちの代理として〈第五元素〉を元に人間を創った。
ところが人間は神々の威光を嵩にきて威張り散らしたため、神々は不快に思って人間から〈第五元素〉【クウィンテセンス】を操る力を奪った。
以来、人間は神々の助けなしには〈第五元素〉を操ることができなくなり、ほとんどの人間は単なる労働力とされた。
ごく少数の優れた者だけが神秘の力を許されて神官となり、神々の代理人としての地位に留まった。
こうして人間は力なきものとなったが、その代わりに誰よりも早い速度で増え始めた。
放っておいても勝手に増える人間を、神々はあまり重視しなくなった。
容姿や能力の優れた者を連れ去り、逆らう者は容赦なく殺した。
神々にとって人間は虫のごときもので、美しければ愛で、不快であれば叩きつぶすのは当然であった。
そのような状態が永く続き、やがて神々の中から違う考えを持つ者たちが現れた。
彼らはこの世界に生まれ育った神々だった。
新しき神々は人間を奴隷状態に留めておくことに疑問を感じた。
同時に、押さえ付けられた人間たちも少しずつ知恵と力を蓄え始めた。
これを不愉快に思った祖神たちは人間の数が増えすぎたと判断し、自分たちに忠実な者だけを残して滅ぼしてしまおうと決めた。
それに反対する神々は、離反して人間の側に立った。
こうして後の世に〈世界継承戦争〉と呼ばれる大規模な戦が起こった。
戦いは千年の長きにわたった。
神々の大部分は戦争に倦み飽き、新しき世界を探そうとふたたび混沌の海へ乗り出していった。
残った神々は世界の支配権を巡って争い続けた。
人間に味方する神々は、少しずつ追い詰められていった。
人類を敵視する神々の陣営には、最強完璧なる戦神――〈神々の神〉がいたのである。
もはや残るは最初に立ち上がった女神アスフォリアと、彼女を支えるわずかな神々のみ。
ところが戦いの流れは突如として変わる。
〈神々の神〉が腹心の手勢を連れ、アスフォリアに加勢したのである。
これ以降〈神々の神〉は〈神殺しの神〉と呼ばれるようになった。
戦いはアスフォリア側の勝利で終わった。
敗れた神々の一部は女神に誓いをたてて軍門に下ったが、大半は最後まで戦いぬいて大地に骸を埋めた。
戦争が集結した時、美しかった世界は無残に破壊され尽くしていた。
神々の粋を極めた文化はもはや跡形もなく、文明は大きく後退してしまった。
残った神々は世界中に散らばり、世界の復興に力を尽くした。
月日は流れ、やがて荒れ果てた大陸に神々を始祖とする七つの国が興った。
中心となったのはアスフォリア女神を始祖とする王国である。アスフォリアの王国はやがて大陸の覇者となり、アスフォリア帝国を名乗った。
……その影響力は国境を越え、今に至るまで大陸全土に及び――」
「はい、そこまででけっこうです。よくできました」
ようやくストップがかかり、ソニアは尻餅をつく勢いで椅子に座った。
「さすが準王族の一員だけのことはありますね。フィオナ、ミス・ソニアにライム水を」
いそいそとフィオナは部屋の隅に駆けてゆき、卓上に用意されていたライムとレモンで風味をつけた冷水をグラスに入れて持ってきた。
喉を湿してホッと溜息をつく。
「ま、聖神殿の敬虔な信者である準王族ならば、〈光の書〉を暗記するくらい当然のことですが。アスフォリア女神は王室の始祖、国の基となった神格ですからね」
ソニアはむくれ顔でぐっと水を飲み干した。
「今日はいつにもまして機嫌が悪いのね。でも、わたしに八つ当たりしないでほしいわ」
「八つ当たり? 何のことです」
「だってあなたは神々を認めない創造主教会の信者だもの。〈光の書〉の内容だって本当は信じていないんでしょ。なのにこの国はアスフォリア女神を崇め、建国千年の祝賀ムードで浮かれ騒いでいる。さぞかし苦々しいことでしょうよ」
「創造主教会は神々を認めていないわけではありません。この〈光の書〉も、教会聖典の中にちゃんと入っています」
「偽書の疑いが強い外典扱いじゃないの!」
開いていた〈光の書〉をぱたんと閉じて、アイザックは嘆息した。
「ミス・ソニア。私はあなたのお父上からひとつだけ禁じられていることがあります。この屋敷内で創造主教会の教義を説いてはならないということ。破れば私は即刻お役御免となります。私をクビになさりたいのですか?」
「別に、そういうわけじゃないけど……」
「創造主教会の教えに興味がおありならいつでも教会の方へどうぞ。歓迎いたしますよ」
「行かないわよ。わたし、女神様を信じてる――」
びゅっと耳元で風切音がした。
ソニアは茫然と青年を眺めた。
右手に持っていた白墨がない。そして彼の右手はまさに何かを弾き飛ばした形になっている。
背後できゃっと悲鳴が上がり、振り向くとフィオナが目を瞠って床を見下ろしていた。
「蜂ですわ、お嬢様! ノーマン先生の白墨がこの大きな蜂を落としたんです」
「――ほう、これは珍しい。猛毒で知られるマダラサイミョウオニバチだ」
アイザックは片膝をつき、床に落ちた虫をしげしげと眺めた。
こわごわ覗き込むと、ミツバチの五倍くらいありそうな巨大な蜂がひっくり返っている。
「初めて見たわ……」
「この辺には生息していませんからね。風に乗って運ばれてきたのでしょう。マダラサイミョウオニバチ本来の棲息地は、ここよりずっと南、南部三州の辺りです。今はちょうど巣分かれの季節で、そういう時期になるとこの蜂は高く舞い上がる習性があると聞きます。おそらく強い南風に乗ってはるばるここまで運ばれて――」
ブン、と不穏な羽音がして、蜂が空中に躍り上がる。目にも止まらぬ速さでソニアに向かった蜂が突如として燃え上がった。アイザックが厳しい顔で、左手に掴んだ十字形を突き出していた。先端に切り込みの入った同じ長さの棒を組み合わせて作られる正十字は創造主教会のシンボルで、魔除けの護符でもある。ソニアは大きく息をついた。
「アイザックが錬魔士で助かったわ……」
黒焦げになって床に落ちた蜂の残骸を、アイザックは靴先で軽くつついた。
「残念。標本にしたかったのに」
「こんな蜂にアステルリーズで巣作りされたら困るわね」
何だか心配になって首をすくめると、アイザックは笑ってかぶりを振った。
「この蜂は寒さに弱いから、この辺りの気候では冬になれば全滅してしまいますよ」
「よかった。でも散歩の時は気をつけなきゃ。まだ仲間がいるかもしれないし」
聞きとがめたアイザックが眉をひそめる。
慌ててソニアは口を押さえたが時すでに遅し。家庭教師はせっかくほぐれた美貌を厳しく引き締めた。
「散歩は当分自粛するよう、公爵様からお達しがあったはずですが?」
「だって……、退屈なんだもの。アステルリーズが建国千年祭で盛り上がってるのに、どうして屋敷に閉じこもっていなけりゃならないの。せっかくドレスを新調したのよ。ねぇ、フィオナだって新しい外出着に新作のパラソル差して散歩したいわよねぇ?」
気まずそうにフィオナは口許をひきつらせた。
彼女はソニア個人に仕える侍 女なので、家女中のようなお仕着せは着ていない。同い年で背格好や髪の色が似ているふたりは、しょっちゅうお互いの服を借りたり貸したりしている。
「そういうお楽しみは建国祭の後にごゆっくりとどうぞ。今はダメです。〈月光騎士団〉と名乗る連中が貴族を標的にしていることはあなたもご存じでしょう。今は建国祭で国中の貴族がアステルリーズに集まって来ているから、なおさら危険なんです。彼らは女性でも容赦しませんからね。逆さ吊りにされた貴族女性もいるそうですよ」
思わずごくりと唾を呑むと、さっとソニアの前に出たフィオナが毅然と抗議した。
「ノーマン先生、お嬢様を怖がらせるのはやめてください」
「怖がって屋敷でおとなしくしていてくれれば本望です。いいですか。今年の建国祭はいろいろと節目の年でもあり、帝都には例年以上に人が詰めかけています。国内の主だった貴族はもとより大勢の平民、外国からの見物客もいます。彼らの懐を狙う犯罪者も流れ込んでくる。警察はただでさえおおわらわなのです。あなたのような身分の高い貴婦人は外出を控え、少しでも彼らの負担を抑えるよう気を配らねばなりません」
お説ごもっともと頷いたものの、一言くらいは言い返したい。
ふとソニアは小耳に挟んだ話を思い出した。
「……そうだわ。〈月光騎士団〉は創造主教会の手先だって噂があるそうよ。教会の過激セクトだとか。襲われた貴族は神殿派――聖神殿の信者ばかりだもの」
アイザックは端麗な顔をうんざりとしかめた。
「何を言い出すかと思えば……。この国の貴族は大半が神殿派でしょうが。教会派の貴族は子爵以下の平貴族で、それもほんの一握り。〈月光騎士団〉が狙うのは昔ながらの帯剣貴族が中心だから、被害者が神殿派の貴族ばかりになっても不思議はありません。言っておきますがミス・ソニア、創造主教会は暴力行為によって信仰表明することを厳しく禁じています。我らが創造主は戦いを好まれません。戦争好きは神々の方なのでは」
あてこすられ、ソニアはムッとして言い返した。
「襲撃現場にはいつも十字形が残されてるって言うじゃない。ティムから聞いたわ」
「誰です?」
「うちの小姓よ」
「さてはあなたのゴシップ仕入れ元ですね」
「ゴシップじゃないわ。情報よ」
「〈月光騎士団〉に創造主教会の使徒が混じっていることは、遺憾ながら事実のようです。しかし、今言ったとおり教会は暴力行為を認めていません。教皇様は〈月光騎士団〉に対し、貴族襲撃をやめるよう何度も呼びかけています」
「全然聞く耳持たないみたいだけど?」
「ええ、残念なことに。というわけで、危険性が高止まりしているからには、やんごとなきご令嬢には無用の外出をお控えいただきたく」
結局『周囲に迷惑だから外へ出るな』とクギを刺されてしまう。藪蛇だった、とソニアはがっくりした。
「――では、来週またお会いしましょう。週末にはきちんと宿題をやっておくように」
いつ出たのだ、そんなもの。アイザックはぽかんとするソニアをしかめっ面で睨んだ。
「やはりもっと頭を刺激してさしあげるべきでしたね、ミス・ソニア。あなたは『高等数理第三課』の途中で舟を漕ぎだし、『錬魔術概論超入門編』で堂々と机に突っ伏し、『古代神話研究序説』を爆睡し倒した挙げ句、建国祭の余興で私が〈光の書〉を朗読している最中に派手な鼾を轟かせたのです。授業内容はフィオナがしっかり聞いていましたから、後で彼女からよく教わっておくように。――いいですね、フィオナ。人に教えると自分もよく身につくのですよ」
「はい、ノーマン先生」
目をキラキラさせてアイザックを見つめるフィオナを、ソニアは半眼でじとっと見た。
いくら美形だろうとこんな口の悪い男、自分はごめんこうむる。
アイザックが退出したあと実際にそう言うと、フィオナは苦笑した。
「確かにはっきりした物言いをなさいますが、けっして悪気があっておっしゃっているわけではありませんわ。ノーマン先生はとっても正直な方なんですよ、きっと」
「フィオナ。あなたはわたしの侍女なんだから、わたしをフォローすべきじゃなくて? アイザックをかばってどうするの」
「す、すみません! そんなつもりでは……」
「いいけどね。アイザックは憎たらしいけど別に嫌いじゃないわ。お昼を食べたら、さっき寝倒して聞きそびれた分を教えてちょうだい。どうせ散歩にも行かれないし」
はい、とフィオナは澄んだ声で答えた。
やわらかな物腰といい楚々とした風情といい、まったくフィオナの方が『公爵令嬢』の一般的イメージに合っているとしみじみ思う。
ソニアは昔から勝気なお転婆娘で、お人形遊びより兄や兄の友だちと駆け回って遊ぶことを好んだ。
乗馬も貴婦人の横乗りスタイルではなく、跨がって疾走するのが好きだ。
そんな娘の勝手放題を許してくれる鷹揚な父も、さすがに〈月光騎士団〉と名乗るならず者が横行している状態では監督を厳しくするのも無理はない。フィオナと並んで廊下を歩きながら、ソニアは大きな溜息をついた。
翌日は久しぶりの雨だった。
「……少し小降りになったんじゃない?」
窓の外を眺めてそろりと言ってみると、フィオナはキッと目をつり上げた。
「いいえっ、ざあざあ降りです。外出は禁止です。今朝も旦那様に念を押されました。お嬢様がこっそり抜け出さないよう、くれぐれも気をつけるようにと」
「過保護だわ。ちょっとその辺を馬車で回るくらい……」
「お嬢様の活発なご気性はわたしも承知しております。でも、今は本当に時期がうまくありません。建国祭が終わるまではどうぞご辛抱を」
「今年はただの建国記念祭じゃないわ。千年に一度の千年祭なのよ! 屋敷に閉じこもってたら記念行事にも出られないじゃないのっ」
「皇妃様主催の園遊会に招待されているでしょう。あれは出席してよいと旦那様がおっしゃっていましたよ」
「そりゃあ皇妃様のご招待だもの。断るわけにはいかないわ」
「皇帝陛下もお出ましになられるのでしょうか」
「どうかしら。皇帝陛下は内気な御方だから……。顔見せ程度にはいらっしゃるかもね」
「わたし、皇妃様のことを思うと今でも何だかおいたわしくなりますわ」
ソニアは眉根を寄せて頷いた。
アスフォリア帝国皇妃オフィーリアは現在二十三歳。隣国の王女であったひとだ。
胸を衝かれるような儚げな美貌で、ほっそりと華奢な身体つきから受ける印象そのもののたおやめである。
元々は現在の皇帝の兄の婚約者であった。しかし帝都に到着した姫君を待っていたのは婚約者の死の知らせ――。
結局彼女はそのまま宮廷に留まり、急死した皇帝の後を継いだ弟の妃となったのだ。
「先月も体調を崩されて、しばらく静養なさっていたのよね。本当は園遊会どころじゃないんでしょうけど、建国祭の恒例行事だから中止するわけにもいかないんだわ。あの冷血宰相がそんなこと許すはずないもの。何としても王室の健在ぶりを見せつけたいのよ」
園遊会には帝都に駐在している外交官夫人も招かれるのだ。
二代続けて国王が急死した辺りから、アスフォリア帝国は勢力が衰えたと見做されるようになった。
二十年前、北方の国境紛争で思わぬ苦戦を強いられて多大な犠牲を払ったことも、未だに尾を引いている。
これまでアスフォリア帝国を大陸の覇者として周囲の六王国が認めてきたのは、女神アスフォリアの特別な加護を受けた国だという認識があればこそだ。
女神の加護が薄れたのではないかとの噂は少しずつ信憑性を増しながら大陸全土を席巻しつつある。
帝国の政務を実質的に把握している宰相ヴィルヘルムは、建国千年祭をそんな憂慮を吹き飛ばすための絶好の機会と捉えている。
「そういう時に貴族が狙い撃ちにされたんじゃ、洒落にならないわよねぇ」
「外出を控えるようにと言われても、正式に招待されている園遊会や舞踏会、晩餐会なんかには行けるんだからいいじゃありませんか」
「全部室内か、せいぜいお庭よ。それに、社交辞令ばかりのつっまんない会話。ちっとも息抜きにならないわ。ねぇ、フィオナ。雨が降ってるってことは視界が悪いってことよね」
イヤな予感にフィオナは眉をひそめる。
ソニアは無邪気ににっこりとした。
「雨の日はみんな家に閉じこもっているもの。テロリストだってお休みなんじゃないかしら。出かけるとしてもガラス天井つきのアーケード街だわ。公園には絶対誰もいない」
ね? と小首を傾げて微笑まれ、フィオナは肩を落とした。結局フィオナは、ソニアのこの笑顔にとても弱いのだった。
口うるさい執事に気付かれないようにこっそりと馬車を用意させ、ソニアはフィオナを連れて屋敷を抜け出した。
馬車で十分ほど行ったところにある公園の周囲をぐるりと一回りしたら帰るつもりだ。父の心配もわかるが、ちょっとばかり息抜きがしたい。
ゆっくりと馬車を走らせながら公園の景色を眺めていると、ふと道端に立っている人影に気付いた。
ひょろりと背の高い男だ。
なんとなくくたびれた感のある帽子が、頭の上で傾いでいる。
雨にぬれて重そうなケープつきの黒いコート。
何故か傘をたたんだまま腕にひっかけ、足元に古ぼけたトランクを置いて、手に何か小さな紙切れを持って辺りをきょろきょろ見回している。
建国祭の見物に来た観光客だろう。
(ホテルを探してるのかしら……)
目抜き通りに軒を連ねる超高級ホテルほどではないが、この周囲にも公園を借景にした瀟洒なホテルがいくつもある。
馬車が前にさしかかると、車輪の音に男はふと顔を上げた。
窓の雨垂れでよく見えなかったが、やけに頑丈そうな黒縁眼鏡をしていることだけは見て取れた。
通りすぎて何となく振り返ると、小さな影が男の前をさっと走り抜けるのが見えた。
薄汚れた格好の子どもが、男の足元にあったトランクを通り抜けざま引っ掴む。
車輪の音にまぎれ、男が「ああ!?」と間抜けな悲鳴を上げたのが聞こえた。
思ったよりもずっと若そうな声だった。
「ま、待って! そんなもの持っていっても何にもなりませんよーっ」
男は手にしていた紙切れを放り出し、慌てて子どもの後を追いかけ始めた。
「いやですね、こんなところにまで……。やっぱり建国祭の影響かしら。お上りさんを狙って掏摸やひったくりが横行してるって聞いたけど、本当なんですね」
後ろの窓から窺っていたフィオナが嘆かわしげに首を振る。
ソニアは窓ガラス越しに空を見上げた。
いくらか明るくなった気がする。雨の勢いもさっきより静かだ。
「……ねぇ、フィオナ。公園の中を歩きたいわ。少しでいいの」
「何をおっしゃるんですか! ああいう連中がまだいるかもしれません」
「噴水のある広場をぐるっと回るだけでいいのよ。ほら、そこの入り口から入ってすぐの場所。馬車からそんなに離れるわけじゃないんだし、門の側には守衛もいるわ」
「仕方ありませんねぇ……。本当に噴水の周りだけですよ」
フィオナは小窓を開け、公園の入り口で馬車を止めるよう御者に指示した。
ソニアはさっそく馬車を降りると傘をさし、深呼吸をした。
「ああ、素敵。わたし、雨の匂いって大好きよ。特に春の雨はいいわ。若葉の青っぽい匂いとうっすら甘い花の香りが絶妙に入り交じって、何ともいえない気分になる」
先端に鏃のついた黒い鋳鉄製のアーチ型の門が、半分だけ開いている。
守衛小屋の窓から顔見知りの老人が会釈した。ソニアはブーツのかかとを弾ませて歩いた。
噴水広場は門を入って短い小道を歩けばすぐそこだ。
円形の広場の真ん中には巨大な六芒星型の噴水があった。
真ん中には岩に腰掛けるアスフォリア女神の像が置かれ、戯れる水の精霊たちの彫刻が周りを囲んでいる。
ソニアは足を止め、軽く首を傾げた。
「……やっぱり雨だといまいち映えないわねぇ。女神様も何だか憂鬱そう」
「雨の日に噴水を眺めても仕方ありませんわ。さ、もうお気は済みましたか」
「一回りしたらおとなしく帰るわよ」
溜息をつくフィオナを従えて歩きだした途端、にわかに雨足が強くなる。
傘に当たる雨粒の音に、ソニアは眉をひそめた。
「馬車に戻るまで待ってくれたっていいのに……」
意地でも一周しようとソニアはずんずん歩きだした。
そこへ、反対側から花売り娘が近づいてきた。目深に被ったフードの端からぽたぽたと雫が滴っている。
いつもここには小さな花束を売る少女がいて、散歩の客がたくさんいる晴れた日にはけっこうはけるのだが、今日はほとんどが籠に残ったままだ。
「お花はいかがですか、お嬢様。森で摘んできた鈴蘭はいかが」
少女はかすれた声で鈴蘭の花束を差し出してくる。ソニアは受け取った花束を鼻にあてた。雨にぬれた香りが清々しい。
「全部いただくわ」
ソニアは雨に打たれた少女が気の毒になって言った。
五月とはいえ傘もささずにいたら風邪をひいてしまう。それに今日は公園を訪れる人も少ないだろう。
少女は声を弾ませた。
「ありがとうございます、お嬢様」
「籠ごともらうわね。いかほどかしら」
少女から受け取った籠をフィオナに持たせ、ソニアは持っていたポーチから財布を取り出そうとした。
少女は奇妙な含み笑いをして首を振った。
「お代はいりません。お嬢様、あなたの命でお支払い願います……」
いつのまにか、少女の手に鋭い短剣が握られていた。それはまっすぐにソニアの喉笛を狙っている。
にやりと少女の唇がゆがんだ。
「毎度、ありがとうございま――」
ふざけた口上は最後まで続かず、少女はギャッと叫んで短剣を取り落とした。
どこからか飛んできた石が、少女の手に命中したのだ。
フィオナは鈴蘭の籠を少女に投げつけ、引き寄せたソニアを気丈にも背後に庇った。
「あー、すみません。手元が狂いました。刃物の方に当てようとしたんですけど」
申し訳なさそうな声がしてソニアは瑠璃色の瞳を瞠った。
少女は石に打たれた右手を押さえ、狂暴な目つきで相手を睨んだ。
少し離れたところにひょろりとした男が立っていた。
(さっきの人……!)
馬車から見た、トランクを置き引きされていた青年だ。
くだんのトランクは無事取り戻したと見えて、足元に置かれている。
いかにも実用一点張りといった太い黒縁眼鏡をかけた青年は、二十代前半くらいの年頃に見えた。
彼は心底すまなさそうに眉を垂れた。
「痛かったでしょ? もしかして、骨、折れちゃいました?」
「……ふっ、ざけるなぁっ」
少女は叫んだ。
いや、違う。少年だ。
めくれたフードの下から現れた顔は人形めいて整っていたが、その猛々しい表情が元来のものらしい。
少年は裾のほつれたスカートをひるがえし、地面に転がっていた短剣を左手で掴んだ。
大地を蹴って姿勢を変え、勢いに乗ってソニアに飛びかかる。
雨にぬれた刃がぎらりと光った。
瞬間、目にも止まらぬスピードで飛来した礫が、またもやナイフを弾き飛ばす。
ソニアには青年が身じろいだようにすら見えなかった。相変わらず緊張感のかけらもなしに突っ立ち、青年は困ったようにぽりぽりと頬を掻いた。
「すいません、今度は思いっきり狙いました。そんな危ないもの、振り回しちゃいけませんよ。ましてや女の人に向けるなんて、ねぇ?」
女装の少年は猫みたいな金緑色の瞳をギラギラさせて青年に向き直った。
だらりと垂れた両手はよく見ると不規則に痙攣している。痺れているのか、握りしめることもできないようだ。
少年は獣じみた叫び声を上げ、青年に襲いかかった。
「どわっ」
奇妙な声を上げ、間一髪で青年は少年の繰り出す蹴りを躱した。
それがまた怒りに油を注ぎ、少年は殺意をむき出しに目まぐるしく回転しながら連続して蹴りを放った。
ぎりぎりでどうにか躱し続けた青年の身体が、バランスを崩してよろける。
少年の瞳が輝いたのは一瞬だった。
振り向きざま、生き物のように飛び上がったトランクを肘で叩き落とす。その時には青年はすでに間合いの外に出ていた。
少年は憤怒の形相で肩を怒らせた。
よろけたように見えたのは、身体を沈めて傍らのトランクを蹴り上げたためだったのだ。
距離を置いた青年は、生真面目に眼鏡の位置を直した。まったく息を切らせもせず、ただ困ったように見ている。対する少年は肩で荒く呼吸をしていた。
「……覚えてろ!」
お決まりの捨て台詞を吐き、少年は激しさを増す雨の中を走り去った。
「あ、忘れもの。おーい、これ、忘れて――あーあ、行っちゃった……」
地面から拾い上げた短剣を手に、青年は途方に暮れた様子で肩を落とした。
「……仕方ない。預かっておきますか」
身を寄せ合って固まっているソニアとフィオナには目もくれず、青年は転がったトランクに歩み寄った。
「ふう、思わぬ寄り道をしてしまった。これはもう遅刻確定だな。とにかく急ごう」
独りごちながら持ち上げようとした瞬間、ぱかっとトランクが開いた。
女装少年の肘打ちか地面に激突した際の衝撃か、或いはその両方で留め金が壊れてしまったらしい。
世にも情けない悲鳴を上げ、青年はばらけた荷物を必死に詰め込み始めた。
我に返ったソニアは、そこらに転がっていた自分の傘を拾って駆け寄った。フィオナも目が覚めたようにぱちぱち瞬きをし、自分の傘を拾って後を追う。
降りしきる雨が遮られ、青年が顔を上げた。雨粒のついた眼鏡を通して、青い瞳がソニアを見上げていた。
見たこともない青だった。
空の色とも海の色とも違う。
宝石の青とも異なる、譬えようのない『青』だ。それは魂に食い込んでくるような色彩だった。
青年はしかし、隠された神秘の如き超絶色の瞳を、あまりにも人間くさい仕種で細めた。つまりは人懐っこく笑ったのである。
あまりの無邪気さ無警戒さに、ソニアはたじろいだ。
「あ、どうもありがとうございます。ご親切に」
青年は照れくさそうに微笑み、荷物を詰め込んでトランクを閉めた。
やはり留め金は壊れているらしい。青年は持ち手の両脇についてるベルトを閉めて固定した。さっきはこのベルトを閉めていなかったので中身をばらまいてしまったのだ。
立ち上がった青年は改めて微笑を浮かべ、帽子の縁をちょっと上げて挨拶した。
てっぺんが凹んでいて、溜まった雨水がザバとなだれ落ちたが、ソニアは淑女らしく見ない振りをした。
そういえばこの帽子、女装少年の攻撃を躱す間ずり落ちることもなかった。
(つまり、ほとんど動いてなかったってこと……?)
顎を反らして青年を見上げる。
ソニアは同年代では背が高い方だが、それにしても青年は非常に背が高かった。確実に頭ふたつ分は違い、その上にさらに帽子が乗っかっている。
それだけ上背があるのに威圧感を感じさせないのは、ひょろっとした細身の体格のせいなのか、あるいは人畜無害ぽい笑みのせいだろうか。きっとその両方だ。
「やぁ、どうも。助かりました。ありがとう」
「助かったのはこっちよ。あなたは命の恩人だわ」
「いやぁ、さすが帝都は物騒ですねぇ」
「今はちょっと特別なの。建国祭でいろんな人が来てるでしょ」
「そうなんですか。私も地方から出てきたばかりでして」
「……あの、どうしてご自分の傘をささないの?」
青年が腕にかけている傘を、ソニアは目線で指した。
雨傘はステッキ代わりに持ち歩くことも多い。きれいにたたんで巻くのはコツがいるから、ちょっとやそっとの雨では差したくないという気持ちもわかるが、これだけ降っていたら背に腹は換えられまいと思うのだが……。
青年は恥ずかしそうに微笑んだ。
「破れてるんです。修理に出さないといけないのに、ついうっかりして」
「だったらお礼に修理をさせていただけないかしら。うちの執事に頼んで傘屋に持っていかせれば、すぐに直してくれるから」
「いえそんな! とんでもない」
「遠慮しないで。これからどこへいらっしゃるの? よければ馬車で送るわ」
「いえ、こんななりではお席をぬらしてしまいますから」
「気にしないで。わたしたちだってずぶぬれだもの」
目的地まで送り、修理のために傘を預かろうとソニアは決めた。なんなら新品を贈ってもいい。
ソニアが何度も勧めると、根負けしたように青年は頷いた。
「ではお言葉に甘えて。傘は自分で修理しますから、どうぞお気遣いなく」
隙を見て奪い取る気まんまんなのをおくびにも出さず、ソニアはにっこりした。
「で、どちらへいらっしゃるの?」
「グィネル公爵のお屋敷へ行きたいのですが、ご存じですか」
青年の腕を取って歩きだしたソニアは、足を止めてぽかんとした。
「……それはうちよ」
黒縁眼鏡の奥で、青年は青すぎるほど青い瞳を見開いた。
晩餐の後、ソニアは父に呼ばれて書斎へ行った。てっきりお小言を喰らうものと覚悟しながら室内に足を踏み入れ、呆気に取られて棒立ちになる。
美しいマホガニー製の執務机の向こうでグィネル公爵が手にした書類から目を上げた。
ソニアの視線は父ではなく、机の横に佇む青年に釘付けになっていた。それは襲撃者の魔手から救ってくれた、あのひょろりとして人の良さそうな青年だったのだ。
太い黒縁眼鏡、ハッとするほど青い瞳、人懐こい笑み……。灰色っぽい金髪かと思った髪は、よく見れば青みがかった銀色だ。
「彼はもう知っているね?」
父の声にソニアは慌てて視線を戻した。
グィネル公爵家当主アドルファスは四十代半ば。帝国議会の要職にあり、宰相ヴィルヘルムとともにアスフォリア帝国の政務を実質的に運営している御前会議の最重要メンバーだ。
自宅で家族に接する時には闊達な青年時代そのままといった感じで、悪戯っぽい微笑みを絶やすことがない。ソニアはそんな父が大好きで、尊敬していた。
「フレッチャーからあらましは聞いたよ。彼に危ないところを救われたそうだね」
「え、ええ、その……、はい」
うろたえてソニアは口ごもった。青年の目的地がよりにもよって自分の家であったこと、しかも彼が客ではなく新規の使用人希望者として訪ねる途中とわかり、ソニアは何とも微妙な気分に陥った。
ソニアがグィネル公爵の娘と知った青年は馬車に乗ることを固辞したのだが、そうはいかない。ソニアは軽く混乱しながらも強引に彼を馬車に押し込んで自宅へ連れ帰った。待ち構えていた執事にこってり絞られたのは言うまでもなかった。
「何かの縁だな。フレッチャーとも話して彼を我が家の従僕として雇うことに決めたよ」
「光栄です、閣下」
「あ、あの、お父様……?」
「第一従僕のマーティンが急に辞めただろう? フレッチャーによれば他にも何人か希望者はいるそうだが、昼間の出来事もあるし、持参した紹介状は文句なく立派なものだ。ギヴェオン、だったね、きみ」
「はい。ギヴェオン・シンフィールドと申します」
「詳しい採用条件はフレッチャーから聞いてくれ。きみにはこの跳ねっ返りのお嬢さんのお目付役をしてもらいたい」
「お父様! そんな言い方ってないわ」
「私の言いつけを守れない娘に文句をつける権利はないよ」
きっぱりと言われてうつむいてしまう。やはり怒っていないわけではなかったのだ。
「今日の出来事で身にしみただろう、ソニア。奴らは貴族と見れば女だろうと子どもだろうと容赦なく襲ってくる不逞の輩なんだ。警察や軍も動いてくれてはいるが、基本的には自衛するしかない。かといって襲撃を恐れて閉じこもっていては怯懦が過ぎる。我々は大陸の盟主たるアスフォリア帝国を支える誇り高き貴族なのだから」
「はい、お父様」
神妙にソニアは頷いた。
「おまえが恐れることなく外に出て覇気を示すのは大いに結構。だが、父親としてはやはり心配だよ。今回だって彼がいなかったらどうなっていたと思う?」
父の声になじる響きはなかったが、情愛に満ちた声音にソニアはうなだれた。
まだどこか他人事だった。貴族層が狙われていると聞いてはいても、実際にこうして自分に関わってくる出来事なのだということが、実感できていなかったのだ。
「……ごめんなさい」
「わかってくれればいい。私としても、活発な気性のおまえを閉じ込めておきたいわけではないんだ。そんなことをしたら、おまえのキラキラした瞳が曇ってしまうからね」
「お父様……」
「これまでどおり、外出はできるだけ控えること。どうしても出かけたいならこそこそせず、行き先をきちんとフレッチャーに告げてギヴェオンを同行させなさい。いいね?」
「わかりました」
「ギヴェオン。言っておくが、娘にもし何かあれば、私はきみを許さないよ。しかるべき代償を払ってもらうことになる」
「心得ました」
ソニアは唇を噛んだ。わざわざそういうことを目の前で言うのは、ソニア自身に対する牽制である。軽はずみな行為で自分が負傷、あるいは最悪死んだとなれば、ギヴェオンに責任を取らせて罰するというのだ。父にはその手段がいくらでもある。
自分たちの生活を支えてくれる使用人たちに対して優しく寛容であること、自分のわがままで振り回して彼らの仕事の邪魔をしないことをソニアは幼い頃から厳しく躾けられてきた。召使に対してむやみに威張り散らすのは成り上がりのすることだ。
それは単なる横暴で、矜持を示すどころか自らの尊厳をも貶める行為。そんなふうにソニアは教わってきた。ゆえに、それぞれの分野での専門家である召使たちにしかるべき敬意を払うのは当然であり、軽はずみで迷惑をかけてはいけないと思っている。
主人側のそういう姿勢のためか、グィネル公爵家では他家に較べて使用人たちが居つく割合が高い。
マーティンの突然の辞職願いには驚いたが、このまま勤め続けても執事になれる見込みは少なく――フレッチャーは有能かつまだまだ若い――、ステップアップするには転職するしかないという事情もわかる。
ソニアは彼の前途に幸多きことを願い、できるかぎりよい内容の紹介状を書いて持たせたのだった。
「どうした、ソニア。浮かない顔だな。彼が気に入らないのかね?」
「いえ、そういうわけでは……」
「ふむ。確かに他の従僕と並ぶと彼ひとりだけ頭が飛び出るな。まぁ、ずらりと並ぶような場面には出さなければいい。ギヴェオン、きみには娘の世話と外出時の護衛をメインにやってもらおう。フレッチャーにはそのように言っておく。何かあれば彼に訊きたまえ」
「かしこまりました」
ギヴェオンは慇懃に頭を下げた。
その物腰も態度も、今のところまったく非の打ち所がない。人畜無害な笑顔はどこから見ても好青年だ。作り笑いでないのは目許を見ればわかる。
なのに、それがかえってうさんくさい。怪しいとまでは言わないが、何かが妙にひっかかる。彼のあまりにも青すぎる瞳のせいだろうか。
にこり、とギヴェオンはソニアに向かって微笑んだ。
ああ、そうかとソニアは納得した。うさんくさいのではない。この無邪気で無害そうな笑みが実は曲者だということを、自分はもう知っている。だからこんなにも落ち着かないのだ。
彼の見た目から受けるのんびりした印象と、刃物ばかりか驚異的な体術をもった襲撃者を息ひとつ乱さずに撃退してみせた能力とのギャップが、あまりに大きすぎる。
昼間の事件が起こらず、父から彼が新しい従僕だと紹介されたら、この笑顔から受ける印象のままに捉えただろう。
背は高いけどひょろっとしてて頼りなさそうだな、とか、人懐っこい笑顔だな、とか。あるいは太い黒縁眼鏡がダサすぎるとか、ボサボサ髪をもう少しなんとかしろとか文句を言いつつ、それほどの関心も抱かず受け入れたことだろう。
「では、いいね? 今後出かける時は、どんな些細な用事であろうと必ず彼を伴うように。この言いつけを守れないなら、残念ながらおまえを屋敷内の一角に監禁せざるを得ない。私としてはせっかくの建国千年祭をおまえにも存分に楽しんでもらいたいと思っているんだ。ぜひわかってほしい」
「ええ、お父様。お言いつけは必ず守ります」
「嬉しいよ、ソニア。ではギヴェオン、よろしく頼む」
「はい、旦那様」
ギヴェオンは胸に手をあて、古風に一礼した。
書斎を辞したソニアの後をついてきたギヴェオンは、ソニアが自室の前で立ち止まると同時にさっと扉を開けてくれた。
ふと彼の左手に目が留まった。中指にくすんだ金色の指輪が嵌まっていた。通常見かけないくらい幅広で、真ん中には深紅色の石があしらわれている。
「変わった指輪ね」
そういうと、何故かギヴェオンは少し驚いたような顔になった。
「……護符なんですよ」
よく見れば赤い石を囲んでアスフォリア女神の紋章である六芒星が描かれている。なるほど、とソニアは納得した。使用人は結婚指輪以外、指輪を嵌めることは禁止されている。実際には独身が多いため、指輪を嵌めている者はほとんどいない。護符ということで特別に許されたのだろう。
(でも指輪の護符って珍しいわ)
アスフォリア女神の護符は信者であれば何かしら必ず持っているが、たいていは首飾りだ。ソニアも六芒星のペンダントをいつも身に着けている。
「おやすみなさいませ」
さりげなく指輪をソニアの視線から外しつつ、慇懃にギヴェオンは頭を下げた。
「……おやすみなさい」
閉まりゆく扉の隙間から、姿勢を戻したギヴェオンの顔がほんの一瞬だけ見えた。彼は相変わらず、こちらが気抜けしてしまうほどのほほんと笑っていた。
扉を閉めたギヴェオンの微笑が苦笑に変わる。まさか、この指輪を見咎められるとは思わなかった。見えないように目眩ましをかけてあったのだが……。
「さすが、と言うべきだろうな」
吐息で笑い、ギヴェオンは廊下を歩きだした。その口許には、やけに楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「スリリングな体験をなさったそうですね、ミス・ソニア」
週明け、教室として使っているいつもの部屋で顔を合わせるなり、アイザックが無表情に尋ねた。反射的に横目でフィオナを見ると、鞭打つようにぴしゃりと言われる。
「ちょうどお出かけになる公爵閣下と玄関ホールで行き会ってお聞きしたんですよ」
「えっと、そのぅ、ほんの少ーし息抜きをしたかっただけなのよ。雨が降っていたから、あんまり人もいないだろうと思って……」
「人が少ないということは、助けてもらえる可能性も低いということです。息抜きで死ぬくらいなら、息苦しさで気絶した方がマシでしょう。ミス・ソニア、あなたは曲がりなりにも貴婦人の端くれなのですから、もう少し自覚をお持ちなさい」
「……何だかひっかかる言い方ね」
「ほう。正統派のご令嬢だと主張なさるおつもりで」
「そうは言わないけど……。この前は、確かに自分でもちょっと軽はずみだったわ。まさか刃物を突きつけられるとは、正直思ってもみなかった」
その瞬間はただもうびっくりしていたし、すぐにギヴェオンが割って入ってくれたから恐怖に支配されずに済んだのだ。後になって思い出すと、今さらながら背筋が冷える。
「ともかく、ご無事で何よりでした。――では宿題を出して」
「なかったことにはしてくれないのね」
「ケガでもしたならともかく、かすり傷ひとつ負わず、雨にぬれて風邪をひいたわけでもないでしょう。特別扱いはしませんよ」
ソニアは溜息をつき、ノートを広げた。その日は居眠りすることもなく、順当に進んだ。授業を終えたアイザックは、帰り支度をしながらふと思い出したように尋ねた。
「そういえば今日でしたか、若君がお帰りになるのは」
「ええ、そうよ。今夜戻っていらっしゃるの」
ロイザの大学に行っている兄ヒューバートが、久しぶりに帰省してくるのだ。大学入学以来、兄とは夏と冬の長期休暇以外めったに顔を合わせなくなった。
「楽しみだわ。お正月以来なのよ」
「それはお話が弾むでしょう。ちょうどよかった、と言うべきかな。次の授業はお休みさせていただきます。用事がありまして」
「それじゃ次は金曜日ね?」
アイザックが講義に来るのは週三回、月水金だ。
「そうなりますね。少々間が空きますから、宿題をたっぷりと」
ソニアが絶句するのを見て、アイザックはくすりと笑った。
「……出すのはやめておきましょう。お兄様とゆっくりお話なさい」
「ありがとう、アイザック!」
玄関ホールで、預かっていた帽子をギヴェオンが差し出す。受け取ったアイザックは訝しげな顔になった。
「おや。新しい方ですね」
「土曜日からこちらでお世話になっております」
「あ、彼はギヴェオンよ。急に辞めたマーティンに代わって来てもらったの」
「そうですか。では、ミス・ソニア。また金曜日にお会いしましょう。進み具合を確認する意味で試験をしますから、これまでの講義内容を見直しておくように」
「ええっ、それじゃ宿題なしの意味ないじゃない!」
「その後は二週間のお休みです。お祭騒ぎを心ゆくまで楽しみたいなら頑張りなさい」
「オニ!」
「褒め言葉と取っておきます。では」
アイザックは帽子の縁に手を添えて会釈すると、ギヴェオンが開けた扉から悠々と出て行った。がっかりと溜息をつくと、後ろに控えて見送っていたフィオナが苦笑した。
あらかじめ知らされていた予定時刻を過ぎても、ヒューバートは現れなかった。
ソニアは苛々と暖炉上の時計を見た。あと三十分もすれば晩餐の時間だ。公爵家では食事の時間が厳密に定められており、時間になれば頭数が揃わなくても開始される。
ヒューバートは遅くとも六時には到着すると手紙に書いて寄越した。晩餐は八時からだから、着替えて食前酒を楽しむ余裕もあると見積もっていたのに。
横目で父の様子を窺うと、安楽椅子にくつろいでゆったりと本を眺めている。
ソニアは座っていたソファから立ち上がり、窓辺に歩み寄った。五月初旬、帝都の夕暮れはまだ始まったばかりだ。
ぽつりぽつりと街灯が灯り始め、美しい波形を描く鋳鉄製の柵の向こうの表通りを劇場へ向かう馬車やそぞろ歩きの通行人が行き交っている。
やきもきしながら視界に入ってくる馬車を見定めていると、ようやく一台の馬車が門扉の前で速度を落とした。門衛が木陰にある田舎家風の煉瓦の小屋から走り出てきて門を開ける。ソニアは歓声を上げた。
「お兄様だわ! お父様、お兄様が帰っていらしたわ!」
「スープを飲み損ねずに済みそうだね」
父が本から目を上げて微笑んだ。ソニアは兄を出迎えるべく急いで玄関へ向かった。
階段を降りていくと、金褐色の髪の青年が従者に帽子を渡しているところだった。
「お兄様!」
「やぁ、ソニア。元気だったかい」
抱擁と挨拶のキスを交わし、ヒューバートは空色の瞳で軽快に笑った。
「よかった、間に合わないんじゃないかとやきもきしたわ」
「予想以上に道が混んでいてね。――ああ、父上。遅くなって申し訳ありません」
ゆったりと歩み寄った公爵は息子と握手しながら肩を叩いた。
「早く着替えてきなさい。ミセス・コーウェンが腕によりをかけた料理が冷めてしまう」
「ええ、すぐに」
従者を従えて自室へ向かうヒューバートを見送り、ソニアはふと首を傾げた。
「お兄様、従者を変えたのね。エリックじゃなかったわ。お父様、ご存じだった?」
「いや。何も聞いてはいないが」
父に促されて食堂へ向かいながら、ソニアは何となく腑に落ちなかった。
ディナージャケットに着替えたヒューバートを迎え、久々に親子三人揃っての食事が始まった。
兄からロイザでの学生生活を聞くことを、ソニアはとても楽しみにしていた。ロイザは帝国最古の大学が開かれた町で、学問と研究の中心地となっている。歴史ある建物や美しい運河が見事な町で、ソニアはまだ一度も行ったことがないのだ。
晩餐の後、部屋を移ってしばらくお喋りすると、父は先に自室へ引き上げた。
「お忙しそうだな、父上は」
「建国祭の準備でずっとそうなの。外国からの賓客をもてなす責任者なんですって」
「それは大変だ。気苦労も多そうだね。白髪が増えないといいけど」
笑ったソニアは、ノックの音に目を上げた。入ってきたのは先ほど見かけたヒューバートの新しい従者だった。黒髪黒瞳の青年は銀の皿に数葉の手紙を載せていた。
「ロイザから手紙が転送されて参りました」
頷いたヒューバートは手紙をひっくり返して差出人を確かめ、すべて開かずに戻した。
「急ぎの手紙はないようだ。後で見るから机に置いといてくれ」
「かしこまりました」
うやうやしく頭を下げ、従者は引き下がった。ソニアはドアが閉まるのを待って尋ねた。
「エリックはどうしたの? お兄様」
「……エリック? ああ、彼は――、クビにしたよ」
「あんなに気が合ってたのに?」
ヒューバートは急に不機嫌そうになった。
「鬱陶しくなったんだ。よく気が回ったけど、この頃何かと口出ししてくるようになって。友だちの悪口を言ったり僕の行動を監視するようなことまで。頭に来たからクビにした」
「お兄様のことを心配してのことでしょう。悪気はなかったと思うわ」
「あいつは僕をいいように操ろうとしてたんだ。大学に入って、やっとそれがわかった」
エリックはヒューバートがまだこの屋敷で暮らしていた頃からずっと仕えている。気心が知れている分、何もかも把握されているのがいやになったのだろうか。
(わたしは色々とよくわかっててくれるフィオナにずっと側にいてほしいけど……。男の人の考えは違うのかしら)
「オージアスはエリックよりずっといいよ。気が利くけど押しつけがましくないんだ。万事控えめだし、若くて教養がある。背が高くて見た目もいい。エリックよりずっといいんだ。オージアスの方がずっと優れてる。彼の方がエリックよりも、エ、エリック――」
何だか変だ。不安になってソニアは兄の腕をそっと掴んだ。
「お兄様?」
ハッとヒューバートは目を瞬いた。唇から血の気が失せ、額に汗が浮いている。
「……すまない。ちょっと疲れてるみたいだ」
「そうね。長時間馬車に揺られたせいよ。もうお休みになった方がいいわ」
力なく頷き、ヒューバートはのろのろと部屋を出て行った。
(どうしたのかしら、お兄様……)
エリックとよほどひどい口論にでもなったのだろうか。
ソニアの印象では、エリックは心配性なところはあっても口うるさく指図するタイプではない。ましてやヒューバートの友人の悪口を言ったなんて、ちょっと信じられない。
自室に戻ってフィオナに訊いてみると、やはりソニアと同じ意見だった。侍 女のフィオナと従者のエリックは、同じく上級使用人である執事や家政婦と一緒に食卓を囲み、言葉を交わす機会が多かった。
エリックは他人に指示を出すのが苦手で、執事には向いていないと苦笑まじりに言っていたことをフィオナは覚えていた。
「坊っちゃまもおとなになられたということなんでしょうね」
妙にしみじみとフィオナは嘆息した。ヒューバートは今年で二十歳になる。幼い頃からききわけのよい利発な子で、父に逆らったり言い返したりしたのを見たことがない。
その点ソニアの方がよほど言いたい放題で、わがままだった。
「遅まきながら反抗期、ということかしら」
「かもしれませんね。それにしてもオージアスさんは素敵な方ですわ」
頬を染めるフィオナを、ソニアはじろりと見た。
「フィオナって、本当に面食いよねぇ」
「そ、そんなことはありませんっ」
「あらそーお? アイザックのこともキラキラお目目で見てるじゃないの」
「違いますっ、わたしはただ見目麗しい殿方が、その、好ましいな~って思うだけで」
「それを面食いと言うの。もぉ、気をつけなさいよ。どれだけ顔がよくたって、性格もいいとは限らないんだから。あーあ、これじゃわたしがフィオナを見張ってなきゃ。顔だけ男に騙されたりしたら大変」
「騙されたりしませんってば!」
真っ赤になって抗議するフィオナを笑ってあしらいながら、ソニアはやはりあのオージアスという新しい従者が気になって仕方なかった。はっきりした根拠があるわけではない。先ほど手紙を持ってきた時にそれとなく観察してみたが、確かになかなかの美形だ。
身内の贔屓目を差し引いてもヒューバートはかなりの美青年だし、何というか主従の釣り合いは取れている気がする。物腰はそつなく、洗練されている。良家の出身であってもおかしくない。
にも関わらず、何やら得体の知れない感じがするのだ。
(得体が知れないと言えば、ギヴェオンも似たようなものだけど……、あっちは印象が真逆なのよね。何というか、毒気を抜かれるって感じ?)
へらっと笑う黒縁眼鏡の顔が頭に浮かび、がくりと肩を落とした。
ソニアの従僕である彼は食事時にはソニアの給仕担当で、晩餐の時もずっと後ろに控えて椅子を引いたり皿を取り換えたりしていた、はずだ。兄との会話に夢中でほとんど見ていなかった。
(そうだわ。オージアスをどう思ったか、後で訊いてみようっと)
翌日、部屋に呼ばれたギヴェオンは、眼鏡の奥で青い瞳を瞬きながら首をひねった。
「オージアスさん、ですか? さぁ~、ちらっとしか見てませんので、何とも……」
「階下で喋らなかったの?」
「私はあんまり。上級使用人のフレッチャーさんかフィオナさんに訊かれては」
フィオナは彼の良さげな面しか見ていないし、執事に問うのも大仰かと思ってギヴェオンに尋ねたのだが。
「あのー、他にご用がなければ行ってもいいでしょうか。まだ靴磨きが終わらなくて」
頷いて長椅子に沈み込んだソニアは、ふと気付いて伸び上がった。
「ちょっと待って! ギヴェオン、あなた靴磨きまでしてるの?」
「そりゃあしますよ。当然です」
「それはもっと下の者の仕事でしょ。あなたは私の従僕なのよ」
「だから磨いてるのはお嬢様のお靴だけです。御用事があればいつでもなんなりとどうぞ。あ、お出かけの際は必ず呼んでくださいね。旦那様からきつーく承っておりますので」
しかめっ面で頷き、行ってよしと手を振る。こめかみを押さえ、ソニアは溜息をついた。
あのへらっとした態度に苛立つのか和むのか、よくわからなかった。
翌々日、ソニアは知り合いの屋敷で開かれる舞踏会に兄とともに招かれた。
わりと近くだったし、兄が一緒ということで公爵はあっさり外出を許可した。もちろん護衛としてギヴェオンを連れて行くという条件が外されることはなかったが。
馬車が走り出してまもなく、ソニアは違和感に襲われた。
「……ねぇ、道が違うんじゃない? ジョーンヴィル街はこっちじゃないわ」
差し向かいに座ったヒューバートが悪戯っぽく笑う。
「いいんだよ。別のパーティーに行くんだ。もっとくだけた集まりだよ。そっちの方が楽しいさ。ソニアも気取った集まりよりそういう方が好きだろ?」
「それはそうだけど……。でも、招待されて行かなかったら心配されるんじゃ」
「大丈夫さ。最初から断ってあるんだ」
ソニアはまじまじと兄を見返した。
「お父様に嘘をついたの?」
「ダメだと言われたらがっかりだからね」
こともなげにヒューバートは笑う。ソニアは呆れ返った。
「お兄様、大学に入ってずいぶん変わったわね!」
「僕はもう二十歳だよ。いつまでも父上の命令に唯々諾々と従ってはいられない」
「お父様は無理強いなんてなさらないでしょ。納得いかなければ、いつもわかるまできちんと説明してくださるじゃないの」
「――そう、父上は正しい。いつだって絶対に正しいんだ」
そう呟いたヒューバートの目は昏く翳っていた。ソニアは言葉を失い、兄の整った横顔を見つめた。ソニアに対して父はいつも優しく愛情深いが、それはソニアがいずれ他家へ嫁いでいく身であるがゆえなのかもしれない。
準王族グィネル公爵家の跡取りであるヒューバートは、ゆくゆくは父の後を継いで国政の中枢で重責を担うことになる。家を継ぐ跡取りと出て行く娘とでは扱いが違って当然。兄にとっての父は、ソニアにとっての父とはまったく違う重みを持っているのだ。
「……ごめんなさい、お兄様」
「何だい、いきなり」
「わたし、性格が大雑把で、お兄様の気持ちがまるでわからないのだわ……。お兄様はわたしと違って頭がよくて繊細だから、きっと色々と悩みがあるのよね」
目を瞠っていたヒューバートが、可笑しそうに噴き出した。
「ソニアは相変わらず変わってるなぁ。貴婦人はふつう自分は大雑把な性格だなんて言わないよ。『わたくし繊細でとっても感じやすいんですの』とか何とか、溜息まじりになよなよと言うものだろ。本当かどうかはともかくとして」
「わたし、そういうの性に合わないのよ。たぶん生まれてくる家を間違えたのね」
「そんなことないさ。むしろ……」
言葉尻が曖昧に消え、ふいにヒューバートは歓声を上げた。
「ご覧よ、ソニア。今夜の目的地が見えてきた」
窓の外を覗くと、夕闇を背景に城の尖塔が浮かび上がっていた。いつのまにかアステルリーズを囲む城壁の外に出ていたのだ。
「あれ、もしかしてアラス城? ギオール河の曲がり角にある……」
「そうだよ」
得意気にヒューバートは頷いた。
「あそこって今は誰も住んでいないんじゃなかった? 何とか言う新興の男爵が買い取ったけど、住むには不便だって」
「だから人に貸してるのさ。今夜はその人からの招待なんだ。誰なのかはまだ内緒」
くすくすとヒューバートは笑った。目的地が違うと知った時は不安に駆られたが、秘密めかしたことを言われればわくわくしてくる。何と言っても兄が一緒なのだ。心配することはない。
城はどんどん間近に迫ってきた。窓辺で灯が揺らめき、外には篝火が焚かれて宵闇の中に城を浮き上がらせている。堀に掛けられた石橋に差しかかると、窓外を覗きながらヒューバートが脅かすように注意した。
「この堀はギオール河と繋がってる。ふつうの堀と違って流れが速いから、あっという間に河まで流されてしまうそうだ。はしゃいで落ちないようにね」
「まぁ、失礼ね。お兄様こそ酔っぱらって落ちないでよ」
軽口を叩き合ううちに馬車は城の入り口で止まった。周囲には馬車が行列をなしている。
先に出たヒューバートの手を借りて降り立つと、扉の脇に金モールと金ボタンのついた外出用お仕着せ姿のギヴェオンが控えていた。
彼は困惑顔でソニアを見た。とまどっているのは自分も同じだとソニアは必死に目で訴えたが、兄に腕を引かれて歩きだしてしまったので通じたのかどうかわからなかった。
入り口で招待状を渡して中に入る。大広間では楽団による音楽が流れ、早くもダンスに興じる人々でいっぱいだった。ざっと見渡した限りでは、知った顔は見当たらない。
(思ったよりも人が多いわ……)
室内を照らすのは電灯ではなく本物の蝋燭を使った巨大なシャンデリアだ。古風というより、電気が使えるのは城壁の内側だけなのだ。
大広間を中心に幾つもの部屋が開放され、料理や飲み物が満載された長卓が並び、会話やカードを楽しめる部屋もある。
ヒューバートは人込みをかき分け足早に進んでいった。軽く何か摘みたいのに有無を言わさず引っぱられ、ソニアは美味しそうな軽食の載ったテーブルを恨めしげに眺めた。
「どうしたのよ、お兄様」
抗議の声を上げても、ヒューバートは生返事をするばかりだ。誰かを探しているようで、あちこちをせわしなく見回している。
しばらく部屋から部屋へ引き回され、ようやく目当ての人物を見出したヒューバートはパッと顔を輝かせた。
「――ああ、いた。ナイジェル!」
やっとの思いで通りすがりの給仕からグラスを獲得したソニアは、飲みかけたシャンパンを噴きそうになった。
手持ち無沙汰な様子でグラスを持っていた青年が、こちらを向いて破顔する。頬が熱くなったのは今飲んだシャンパンのせいばかりではない。
(うそっ、どうして……)
「こんばんは、ソニア。久しぶり」
青年が穏やかに微笑んだ。兄の親友、ナイジェル・ハワードだ。
「お、お久しぶり、です……」
ソニアは赤面しながらしどろもどろに挨拶した。
ひどい不意打ちだ。彼も来てるなら前もって教えてほしかった。そうしたらドレスやアクセサリーだってもっとしっかり吟味したのに。
恨みがましく兄を睨んだが、ヒューバートはまだそわそわと辺りを見回している。
「ナイジェル。僕は人と会う約束があってね。妹の相手をしてやってくれないか」
ヒューバートはナイジェルの返事を待たず、さっさと行ってしまった。ソニアは焦って兄を呼んだが振り向きもしない。
「もうっ、お兄様ったら……」
くすくすとやわらかな笑い声にそろりと目を上げと、知性的でありながら尖ったところのない端整な顔だちがまっすぐこちらを向いていた。
「相変わらず元気がいいね、ソニア」
「あ、あの。ごめんなさい。わたしのことはどうぞお構いなく」
「何を言うんだ。喜んでエスコートさせてもらうよ」
「でもお連れの方が……」
「連れなんていないさ。顔見知りさえろくにいなくて退屈してたんだ。よかったら何か少し食べない?」
無論否やはない。ソニアは差し出された腕を取り、軽食の用意された部屋へ向かった。
その頃ギヴェオンは少しぶらついてくると御者に断って馬車を離れていた。建物の陰の暗がりで、堀を囲む腰高の石積みの壁によりかかって城を見上げる。
「……こういうことは、あんまりやりたくないんだけど」
嘆息しながら幅広の指輪の上下を軽く押すと、指輪はパカッと縦に割れた。それを左の耳朶にクリップのように挟み、髪で隠す。
石壁の上に座り込み、ギヴェオンはお仕着せの襟元をゆるめた。深紅の石が一瞬羽音のように唸り、人の声が聞こえ始めた。
『――様子がおかしい? それ、どういうこと』
ソニアの声が、不安そうな息づかいまではっきりと響いた。
きらめくシャンデリアの灯が、ソニアの耳朶を飾るダイヤモンドのイヤリングに反射する。振り向いたソニアは、悩ましげに眉根を寄せるナイジェルを見つめた。
「お兄様の様子がおかしい? それ、どういうこと」
ふたりは開放されたテラスの隅にいた。室内は照明の放つ熱と人いきれでかなり暑くなっており、テラスを吹き抜ける初夏の夜風が心地よい。
互いの近況を報告しつつ冷肉やゼリー寄せなどを軽く摘んで大広間に行くと、ちょうどダンスが入れ代わるところだった。
礼儀正しく申し込まれ、内心では狂喜しながらあくまで楚々と頷く。音楽に合わせてくるくる回りながらソニアは夢見心地だった。
ナイジェルに初めて出会ったのは、兄が大学に入った年の冬だ。年末年始の休暇を一緒に過ごそうと誘い、兄が領地の屋敷へ連れてきた。
今思えば、ほとんど一目惚れだった。挨拶を交わした瞬間、今まで経験したこともないくらい胸が高鳴り、頬が熱くなった。
当時まだ社交界に出ていなかったソニアにとって、兄以外の若い紳士で親しく言葉を交わしたのはナイジェルが初めてだった。
その時は緊張しただけだと思っていたが、社交界デビューして青年貴族たちと話をする機会が増えても、そういう反応が出るのはナイジェルだけだった。
去年の冬、三回目に彼に会って、自分は彼が好きなのだとようやくソニアは自覚した。
ヒューバートはソニアと同じく、よく言えば活発、悪く言えば騒がしいのに対し、ナイジェルは落ち着いて寡黙な青年だった。いつも穏やかに微笑んでいるが、必要があればかなり厳しいことも言う。少し軽はずみなところのある兄にとってはいいお目付役だ。
ナイジェルは古い伯爵家の出身で、幼い頃に家族を亡くしており、成人するまでずっと後見人がついていた。法定年齢に達して自由を得ても箍が外れることはなく、淡々と勉学に励んでいる。
そんな慎重で理性的なナイジェルから兄の様子がおかしいなどと聞いてはとても聞き流せない。ソニアは室内の人込みを見回したが、兄の姿はなかった。
「――お兄様がどうしたって言うの」
「ヒューバートとこの前会ったのはいつ?」
「お正月よ。春先の休暇は、お友だちの領地に誘われてるとかで戻って来なかったわ」
ナイジェルと会うのもその時以来だ。家族のいない彼は長期休暇でも領地へはあまり戻らず、ここ二年はソニアたちと過ごした。グィネル公爵家では夫人が亡くなっていて家族の数が少なく、他家より気兼ねなく過ごせるらしい。
「久しぶりに会って、何か変だなって思わなかった?」
「そうね……、お気に入りだった従者をいきなりクビにしたことには驚いたわ」
「ああ、あれには僕も驚いた。数日会わないでいて、訪ねたら新しい従者が応対に出て」
「オージアスでしょ。すごく洗練されてて有能そうだけど、何だか冷たい感じがする。わたし、あんまり好きじゃないわ。エリックが鬱陶しくなったからクビにしたそうだけど」
そのことを尋ねた時の、兄の異様な反応が思い出され、ソニアはぞくりとした。
「……お兄様、エリックが悪いんだって繰り返してた。そういうのってお兄様らしくないと思うの。今まで一度だってそんなふうにエリックを責めたことなかったのに……」
「案外、本心だったのかもしれないな。――ヒューは半年くらい前、とあるクラブに入ったんだ。ロイザには大小様々な規模の学生クラブがあってね。趣味の同好会から政治議論をするところ、哲学・宗教関係、真面目なものからふざけたものまで色々だ。その中に、〈世界の魂〉と名乗るちょっと変わったクラブがある」
「〈世界の魂〉? 哲学サークルか何か?」
「失われた文明の研究団体と謳っている。〈世界継承戦争〉で失われた神々の知識や技術を研究しているそうだ。元々は考古学好きの学生が集まって各地に点在する遺跡の探検や発掘をしてたらしいんだが、いつのまにか妙に秘密主義になって、閉鎖的な結社みたいになった。噂によると〈神遺物〉を見つけたとか」
「〈神遺物〉!?」
思わず大声を出してしまい、慌てて口を押さえる。肩ごしに振り向いて確かめると、さいわい音楽や人声にまぎれて聞きとがめた者はいなかった。ソニアは声をひそめた。
「……それ、見つけたら遺跡管理庁に届けなければいけないのよね」
「そして研究所に回される。ものによっては非常に危険な場合もあるらしいから」
「お兄様はそんな大昔の遺跡や〈神遺物〉になんか、特別な興味はなかったはずよ」
「本当に見つけたかどうか怪しいもんだし、おおかた人寄せの宣伝だろう。それだけなら別にどうってことはないんだが、〈世界の魂〉には単なる同好会ではなく政治的秘密結社、それも反政府的な結社だという噂もあってね。もし本当なら、学生が集まって気炎を上げるだけの他愛ないサークルだとしても、ヒューが参加するのは立場上非常にまずい」
ナイジェルの心配はソニアにもよくわかった。
兄が単なる貴族の御曹司であれば、学生の悪ふざけとして眉をひそめられるくらいで済むだろう。しかし兄は準王族なのだ。
お遊びでもそんな団体に所属しては、良識を疑われるだけでは済まない。父にとっても大きな痛手となりかねない事態だ。
「そのクラブにヒューが入ったきっかけがエリックにあるみたいなんだ。詳しいことはよくわからないが、エリックが酒場である男と知り合って意気投合し、その男をヒューに紹介した。エストウィック卿と言って、触れ込みではレヴェリアの貴族だそうだが、実のところは正体不明だ。そのエストウィック卿がくだんの〈世界の魂〉の現在の主催者で、ヒューを結社に引き入れた。いい噂を聞かないから早く抜けるように、僕も何度か言ったんだけど、エリックと一緒に嵌まっちゃったみたいで……。でもヒューはエリックと口論になってクビにしただろう? だからてっきり結社とは縁を切ったと思っていたのに」
悔しそうにナイジェルは顔をしかめた。
「〈世界の魂〉は学生クラブなんでしょ?」
「認められれば学生じゃなくても入れるんだよ。資金を提供するバックがついてるクラブは他にもたくさんある。エストウィック卿は某大学教授の家に客人として滞在していた」
「していた、ってことは今は違うのね」
「居場所はわかってる。――ここだよ。この城をハル男爵から借りたのはエストウィック卿なんだ。今夜のパーティーの主催者は彼、エストウィック卿だ」
背筋がぞっと冷えた。何か途方もないことの渦中にいるのだとソニアはやっと気付いた。
「……あなたはどうしてここにいるの? まさかあなたも〈世界の魂〉のメンバー?」
「違うよ。僕は以前エストウィック卿とちょっとした意見の食い違いから議論になって、以来彼には嫌われてるんだ」
「なのに招待されたの?」
「招待状は買えるんだよ。このパーティーで主人が選んだ招待客なんかほんの一握りさ。後は金で招待状を買った一般客だ」
だからこんなに人が多いのか……。どうも盛況というより雑然としていると思ったら。
アステルリーズには富裕な市民層も多いが、爵位を持たない一般人はどれほど裕福であろうと特別な縁故でもない限り貴族の社交界からは締め出されている。
こういう古城など由緒ある建物はほとんどが貴族層の持ち物だから、城で開かれるパーティーに出席できるなら高額な招待状でも買いたがる人は多いだろう。
「資金集めってことなのね」
「そう。〈世界の魂〉のための――いや、それならまだいい。もしかすると、もっととんでもない組織のための資金集めかもしれない」
「とんでもない組織? 何なのそれは」
「きみも聞いたことがあるんじゃないかな。〈月光騎士団〉という過激な結社のこと」
今度こそ、ソニアは愕然とした。足元が急に崩れ落ちるような気がして、思わずよろけてしまう。ナイジェルが慌てて支えた。
「〈月光騎士団〉……? あの、貴族を襲撃している……?」
自分を刃物で襲った、花売り娘に扮した少年。いや、彼は〈月光騎士団〉をはっきり名乗ったわけではないが。それにしたって、まさか兄が過激結社のメンバーだなんて……。
「――ソニア!」
大声で名を呼ばれ、びくりと振り向く。人込みを掻き分けて兄が大股に歩み寄ってきた。ひどく顔がこわばり、血色が悪い。
「一緒に来てくれ、ソニア。きみに紹介したい人がいる」
ヒューバートは早口に言ってソニアの手首を握った。急に引っぱられてよろけてしまう。ナイジェルはムッとした顔でヒューバートの肩を掴んだ。
「乱暴はよせよ、ヒュー」
「こいつは僕の妹だ」
いつになく荒々しい口調に目を瞠る。兄がこんな乱暴な喋り方をするのは初めて聞いた。
「そんなに急かさなくたっていいじゃないか。転んで捻挫でもしたらどうする」
自分を気遣う言葉にソニアは感動したが、ヒューバートは余計に苛立って眉を逆立てた。
「急いでるんだよ。ソニア、ちゃんと歩け」
「わ、わかったわ、お兄様。一緒に行くから落ち着いて、ね」
普段ならこんな扱いをされたら強く抗議するところだが、兄のただならぬ顔色が気になった。青ざめているなんてものじゃない。それこそ死人のような土気色なのだ。
ナイジェルもそれに気付き、穏やかになだめた。
「落ち着けよ。いったいどうしたんだ、すごい顔色だぞ。具合でも悪いのか」
「何でもない。気にするな。――行くぞ、ソニア」
ソニアは仕方なく兄に従って歩きだした。振り向くとナイジェルが唇の動きだけで『気をつけて』と囁くのがわかった。ソニアは小さく頷いた。
ヒューバートは急ぎ足でどんどん城の奥へ入っていく。
いくつもの扉を抜けて通路の角を曲がり、階段を登ったり下ったりするうちに、城のどの辺にいるのか見当もつかなくなってしまった。
ずっと手首を掴まれていて、ついに我慢しきれなくなる。
「お兄様、痛いわ」
「……すまん」
ハッとしたように力がゆるんだが、離しはしなかった。
左手を兄に拘束され、右手でドレスの裾を踏まないようにからげながらソニアは懸命に早足で付いていった。必死に何かを押さえ付けているような兄の横顔に、心配と不安とがないまぜになって沸き起こる。
ナイジェルが最後に呟いた言葉は暗雲となってソニアの心を分厚く包んでいた。
(〈月光騎士団〉――。お兄様は本当にそんな危険な組織のメンバーなの……?)
今すぐにでもこの手を振り払って問い質したいが、兄の切羽詰まった様子が異様すぎる。酒を飲みすぎて吐いたのかと思ったが、それにしては酒精の匂いがまったくしない。どこか痛むのか、気分が悪いのだろうか。苦痛を堪えるように歯を食いしばっている。顔色は死人みたいなのに、瞳だけはギラギラと狂気じみた輝きを発していた。
(そうだわ、前にもこんなふうになった……)
エリックを辞めさせた理由を訊いた時も、急に顔色が悪くなってうわごとめいた呟きを繰り返した。今はあの時よりもずっとひどい。
ひょっとして兄は病気なのではないか。考えたくもないが、身体ではなく心の病に冒されているのでは……。
とめどなく沸き起こる不安が頂点に達した頃、ヒューバートはようやく足を止めた。目の前に大きな扉があった。
「……さぁ、ここだよ」
振り向いた兄の顔は笑っていた。
それは何という恐ろしい笑顔だったろう。まるで絶望にすすり泣くような、絶えがたい苦痛に呻くような、凄まじすぎてとても正視に耐えないような『笑顔』だった。
ヒューバートは拳を振り上げ、ドアを叩いた。まず三回。間を置いて一回。素早く二回。そしてまた一回。内側から鍵が外される音がして、両開きの扉が重々しくゆっくりと開かれる。
引きずられるように室内へ入ると、背後で扉が固く閉ざされた。
照明が抑えられていて部屋の四隅は暗がりに沈んでいた。室内には一ダースほどの人間がいた。いずれも夜会服姿で、男性であることだけはわかっても誰が誰やら区別がつかない。というのも、全員が白い仮面ですっぽりと顔を覆っているのだ。
異様さに足を竦ませるソニアを引きずり、ヒューバートはまっすぐ部屋の奥へ進んだ。仮面の男たちは無言のままふたりを追って向きを変え、気がつくとソニアは仮面男の包囲網の中、ひとりだけ椅子に座った人物と対峙させられていた。
その男は金泥を塗った獅子脚の椅子にゆったりと腰を下ろし、周囲に雷状の飾りがぐるりとついた金色の仮面をつけていた。
仮装パーティーでよく見かける太陽を擬人化した扮装で、その場合は裾をひきずるぶかぶかした白い衣装を着るのが普通だ。
しかし目の前の男は仮装しているわけではなく、他の男たちと同じ夜会服姿で、ボタンホールには白い薔薇を飾っている。
何ともちぐはぐな格好が、いっそうこの場の異様さを際立たせていた。
「連れてきました」
ヒューバートがかすれた声で告げると、太陽仮面の男は重々しく頷いた。
顔は見えないが、そう若くはなさそうだと何となくソニアは感じた。他の面々は兄と同じ年代の若者のような気がする。
太陽仮面の男が黙って指を上げると、頷いたヒューバートはソニアに向き直った。ずっと掴まれていた手首がずきずきと鈍痛を訴えた。
「ソニア。おまえにやってほしいことがある」
重病人のような顔色で兄は告げた。その額に汗の粒が浮いていることに気づき、ソニアはいてもたってもいられなくなった。
どう見ても兄は具合が悪そうだ。今すぐ休ませなくては。ソニアは兄を刺激しないよう、おとなしく頷いた。
「なぁに、お兄様。わたしにできることがあればおっしゃって」
「来週、王宮で皇妃主催の園遊会がある。おまえも招かれているな」
突然何を言い出すのかと面食らう。確かに招待されて出席の返事をしてあるが……。
「おまえには会場となる王宮の庭園に、あるものをいくつか隠してもらいたい。もちろん、誰にも見つからないように、だ」
「……あるものって、何?」
「知る必要はない。誰にもわからないようにこっそり置けばいいんだ。仕掛ける場所はあらかじめ指示するから、よく頭に入れて――」
「仕掛けるって何を!? そんな、わけのわからないものを王宮に隠せるわけないでしょ」
「おまえは言われたとおりにすればいいんだ」
「いやよ! まさかお兄様、わたしに爆発物でも置かせるつもりじゃないでしょうね!?」
兄の顔が固くこわばり、ソニアは一気に絶望に包まれた。
「……ただの花火さ」
「嘘! お兄様、本当に変な結社に入ってるのね!」
「ナイジェルが喋ったんだな。余計なことを……」
ヒューバートは不愉快そうに吐き捨てた。
「お兄様、こんなことは今すぐやめて!」
「僕たちはアスフォリア帝国を少しでもよくしたいと願ってるだけさ。この国を守るべき貴族は、長く続いた平和に浸かりきってすっかり緊張感をなくしてしまった。このままでは六王国のいずれかに取って代わられるのは時間の問題だ。いや、それ以外の新興国に攻め込まれて滅んでしまうかもしれない。実際、二十年前の北方戦争の時は危なかった」
「だからって暴力で叩き起こすわけ? まさかわたしが襲われることも、お兄様は知っていて黙ってたの!?」
「別にケガもしなかったし、すぐに助けが入っただろう」
「ギヴェオンが助けてくれなかったら死んでたわよ!」
憤激してソニアは叫んだ。
兄はちょっと脅かすだけのつもりだったのかもしれないが、実際に襲ってきた女装の少年には完全に殺意があった。
間近で見た少年のあの眼。あれを見てしまったら、悪ふざけだなんてそんな言い訳は通じない。
「大袈裟だな。ドレスが一着雨にぬれてだめになっただけじゃないか。ああ、ソニア。おまえも結局身を飾りたてることにしか興味のない腐った貴族女なのか。がっかりしたよ」
「お兄様……っ」
「自分は違うと言うのなら、それを証明しろ。気概を見せてくれよ、ソニア。我々貴族を束ねる王家には一刻も早く目を覚ましてもらわなければならないんだ。この国を守るためなんだよ。あの弱々しい皇帝と皇妃で帝国を支えきれると思うか? まずは本人たちにそれを自覚してもらわないと。自分が弱いってことがわからなければ、鍛えることなどできないんだ。そうだろ? ソニア。僕は間違ったことは言ってないよな。正しいよなぁ?」
兄の声にはまぎれもない狂気があった。ソニアは絶望にふるふると首を振った。いったい何が兄をこんなふうにしてしまったのだ……。
「やってくれるな? おまえが仕掛けたとは誰も思わないさ。まさかグィネル公爵令嬢がそんなことするはずがない。おまえは絶対疑われないよ。でも、宮廷には緊張感が戻るはず。僕らはそれが目的なんだ。な、手伝ってくれるだろ?」
「いやよ! 誰かケガでもしたらどうするの。もしかしたら死人が出るかもしれないわ」
「少しくらいの犠牲はやむを得ないさ。この国を守るためだ。ソニアだってアスフォリア帝国を守りたいだろう?」
「それとこれとは話が別よ! お兄様の言ってることは滅茶苦茶だわ」
「――そうか、それじゃ仕方ない」
不意にヒューバートは平板な顔になった。背後に控える仮面の男たちに向かって頷くと、何人かが隣の部屋に続くドアを開け、中から誰かを引きずって戻ってきた。
ソニアの顔が驚愕と絶望にゆがむ。
「フィオナ……!?」
後ろ手に縛られ、口に猿ぐつわをされたフィオナが激しく身をよじる。足首まで縄が巻かれ、身体の自由がまったくきかない。
涙のにじんだ瞳で、それでも気丈にフィオナはソニアを見つめて何度も首を振った。今までの会話を隣の部屋で聞いていたのだろうか。必死に目で訴えてくる。言うことを聞いてはいけない、と。
兄がそっと肩に手を置いた。
「覚えてるかい、ソニア。ここの堀は河と繋がっているって教えたよな。どうしても僕の頼みを聞きたくないと言い張るなら、フィオナを堀に放り込まなきゃならなくなる。あんなに縛り上げられていては泳げないし、あっという間に河まで流されて死体も見つからないだろうね。そうなれば葬ってあげることもできない」
「どうしてそんなことが言えるの! フィオナとは小さい頃からの付き合いなのにっ」
「言っただろう、少しくらいの犠牲はやむを得ないと」
少しくらい。
兄にとってフィオナはそんな程度の重みしかないのか。
まだフィオナの両親が生きていた頃、家族ぐるみで親しく交際していたのに。侍女としてソニアに仕えるようになってからも、兄妹みたいに気を置かず接していたはずなのに。
ともに過ごした思い出も、交わした言葉も、兄にとっては『少しくらい』にすぎないのか――。
「迷うことはないさ。ちょっとした花火を仕掛けるだけ。千年祭の余興だよ……」
兄の手が突然ぐっと肩に食い込む。痛みに呻いたソニアは覗き込む兄の顔に驚いた。
すっかり生気を失った土気色の顔には玉の汗が無数に浮かび、色あせた唇は絶え間なくわなないている。狂熱に見開かれた瞳の奥で弱々しい光が明滅した。
兄の指がいっそう強く肩に食い込んだが、ソニアは痛みを忘れ、兄の瞳の奥に瞬く光を見つめ続けた。
「……ソ、ソニ、ア……」
兄がかすれた声で切れ切れに吐き出す。
「お兄様……!?」
「に、にげ……ロ……」
目を瞠った瞬間。凄まじい音がして廊下に続く扉が吹き飛んだ。何人かの仮面男があおりを食って倒れる。壊れた扉の向こうから、よく通る声が凛と響いた。
「特務隊だ! 全員動くな」
濃灰色の軍服をまとった男たちが銃やサーベルを構えて現れる。
仮面男たちが凍りつく中、意外なことにヒューバートが素早い動きを見せた。思いっきり前方へ突き飛ばされ、勢い余ったソニアはあろうことか先頭に立っていた将校らしき男の胸に飛び込んでしまった。
男は反射的にソニアを受け止め、銃口の狙いが逸れた。その隙をつき、ヒューバートは手近なドアから隣室へ逃れた。
いち早く立ち直った男が「追え!」と怒鳴り、半分近くの兵が指示に従って動く。舌打ちした男は、いまいましげにソニアを後ろへ押しやった。
「全員その場で立って手を上げろ」
仮面男たちは抵抗するそぶりすら見せず、おとなしく指示に従った。
兵士たちが銃剣で脅しながら全員を一箇所にまとめる。ひとりだけ裾の長い将校服をまとった男は、つかつかと部屋の奥へ進んだ。
椅子の前に立って両手を上げている男の仮面を毟りとる。現れたのはチョビ髭を生やした貧相な男だった。将校服の男は仮面を床に叩きつけた。
「誰だ、貴様は!? エストウィック卿はどこにいる」
どよめきが上がった。仮面男たちは自主的に仮面を取り、ふるえているチョビ髭男に怒鳴った。予想どおり全員が二十代前半の若者だ。
「なんだよ、おまえ! エストウィック卿じゃないじゃないかっ」
「わ、わたくしは頼まれただけでございまして、はい。この城の執事でございまして。旦那様に急用ができたので身代わりを務めてほしいと頼まれまして、はいぃ~」
詰め寄った将校が男をがくがく揺すぶるのを茫然と眺めていたソニアの腕を、誰かがそっと後ろから引いた。びくっとして振り向けば、ナイジェルが唇に指を当てている。
足音を忍ばせてそろりと部屋を抜け出そうとすると、兵士の怒鳴り声が響いた。
「待て、おまえらっ」
同時にぐいっと腕を引かれ、蹴躓きそうになりながらソニアは駆けだした。追いかけてきた兵士たちを、間一髪物陰にひそんでやり過ごす。
しばらく様子を窺い、ナイジェルはふたたびソニアの手を引いて走りだした。
「ナイジェル……、待って、ねぇ。何がどうなって――」
「しっ。話は後で」
気を取り直したソニアはドレスの裾を思い切ってたくし上げ、足を速めた。
吹き抜けの回廊の端からそっと見下ろすと、大広間には客たちが集められて兵士たちに囲まれていた。みな驚いた様子で居心地悪そうではあるが、落ち着いている。
夜会の招待状の売り買いは法律に反するわけではない。それだけなら疚しいことは何もないのだ。
柱の陰に潜み、ソニアは小声でナイジェルに尋ねた。
「わたしがあそこにいるって、どうしてわかったの?」
「気になって後をつけたんだよ。ヒューの様子、すっごく変だったろ?」
脱出経路を考えているのか、ナイジェルはあちこち見回しながら答える。うずくまったソニアはスカートを握りしめた。
「……お兄様が言ってたこと、聞いた?」
「大体ね。途中で誰か来る気配を感じて隠れたけど。まさか特務が出てくるとは思わなかったな。いや、案の定というべきなのか……」
特務隊は帝都警備隊の中でも特に治安維持関係を担当する、公安活動がメインの小隊だ。
「それじゃ、〈世界の魂〉とかいう組織は、すでに監視対象になっていたわけね」
「そうなるな。たぶん、〈月光騎士団〉の下部組織だと見做されてるんだろう。僕でも考えついたくらいだし」
今さらながら衝撃で身体のふるえが止まらない。
明るく快活で、人生を楽しんでいるものとばかり思っていた兄が、まさかそんな過激な結社のメンバーだったなんて。
しかも人質を取って、妹まで巻き込もうとするなんて――。
「……フィオナ、大丈夫かしら」
励ますようにナイジェルがソニアの手を握った。
「大丈夫。銃撃戦になったわけじゃない。彼女は被害者だ。事情は訊かれるだろうけど、きっとすぐに解放されるよ」
ソニアは頷き、ナイジェルの手を握り返した。
城の中には兵士たちの呼び交わす声が響いている。兄を探しているのだ。それと、もちろん自分のことも。今頃あの仮面男たちの口から自分たちの素性は知られてしまったはず。
これを知ったら父はどんなにショックを受けるだろう。父の政治的立場にも大きな影響が及ぶのは必至だ。
「やっぱりわたし、出頭するわ。その方が傷が少なくて済むと思うの。お兄様がしようとしたことはどう考えても言い訳できることじゃない。罪は償わなくちゃ。まだ計画段階だったし、ひょっとしたらお咎めもいくらか軽くなるかも……」
「だめだよ、ソニア。きみが捕まったりしたら、ヒューは自暴自棄になる。思い詰めて万が一のことでもあったら――。僕はヒューを死なせたくない」
あの時の兄の様子を思い出すと、確かに自殺の可能性も否定できない。罪を償わなければならないとしても、絶対に死んでほしくなどなかった。
「わかったわ。お兄様を探しましょう。何とか説得してみる。お兄様、ひょっとしたら病気かもしれないの。本当にものすごく具合が悪そうで……、心配だわ」
頷いたナイジェルは辺りを窺って移動を始めた。ソニアも周囲を見回しつつ後に続く。
入り組んだ城の内部は隠れる場所には事欠かない。兵士に出くわしそうになった時には身を隠しやすいが、逆に言えば隠れている相手を探し出すのも容易ではなかった。
気配を探りながらソニアは囁き声で呼んだ。
「お兄様。わたしよ。いるなら出てきて。話をしましょう。お兄様……」
しっ、と鋭くナイジェルに制止され、ソニアは反射的に口許を押さえた。大勢の足音がする。角から窺うと、夜会服の男たちがぞろぞろと歩いていく。
銃剣で武装した兵士たちが周りを固めていることからして、さっきの仮面男たちだろう。司令官とおぼしき将校服の男はいない。兄を追っているのだろうか。
ふ、と首筋に涼しい空気の流れを感じて、ソニアは振り向いた。誰もいなかったが、かすかに風の音が聞こえる。
ソニアはナイジェルの袖を引いた。振り向いたナイジェルに身振りで伝え、ふたりはそっと下がって暗くて狭い通路を覗き込んだ。
衝立のような壁のせいでわかりにくいが、そこには小塔に通じる扉があった。扉は閉まっていたものの、留め金は外れ、わずかながら隙間もある。ここから夜風が忍び込んだのだろう。
用心しながら押し開けてみると、そこはもういきなり外になっていた。
「……城壁の上だ」
驚いた声でナイジェルが呟いた。歩哨用の通路が夜闇のなかにうねうねと伸びている。星明りの下、ずっと先に黒い人影が見えた気がしてソニアは思わず声を上げた。
「お兄様……!?」
黒い影が立ち止まる。錯覚ではない。振り向いた、死人のように青ざめた顔。確かにヒューバートだ。ソニアはナイジェルを押し退けるように飛び出した。
慌てて追いかけて来たナイジェルが歩廊の途中でソニアを引き止める。後ろから押さえ込まれながらもソニアは必死に呼びかけた。
「お兄様! この城はもう兵士でいっぱいなの。逃げられないわ。わたしと一緒に出頭しましょう。何もかも正直に話せば、きっと皇帝陛下もお慈悲を下さるわ」
「……宰相が許さないさ」
「そんなことない。お父様が助けてくださるはずよ。ねぇ、わかるでしょ、お兄様。もう何もかも露顕してしまっているの。諦めるしか――」
いきなり銃口を向けられ、ソニアは絶句した。素早くナイジェルが前に出て庇う。
「やめろ、ヒュー」
「……おまえのせいだ。何もかも、おまえが悪いんだ」
顔をゆがめ、ヒューバートは呟いた。その声はどうしようもない絶望に満ちている。ソニアはナイジェルと揉み合いながら叫んだ。
「やめて、お兄様! ナイジェルが特務隊を引き入れたわけじゃないわ!」
「おまえは僕から何もかも奪った! 何故だ!? おまえを信じてたのに、親友だと思っていたのに……!」
「お兄様っ、ナイジェルはお兄様を助けようとしてるのよ。銃を下ろしてっ」
「ヒュー、僕も一緒に行くよ。だから、それをこっちに寄越すんだ」
ナイジェルがゆっくりと踏み出す。ヒューバートは頑是ない幼子のように首を振った。
「……いやだ。来るな。おまえなんか嫌いだっ」
「ヒューバート、銃を渡せ」
ナイジェルがさらに一歩踏み出す。ぱん、と乾いた音がした。身体が一瞬揺れ、歩みが止まる。ナイジェルは驚いたように自分の身体を見下ろした。胸の真ん中に赤い穴が開いていた。信じられないと言いたげに顔を上げ、ナイジェルはヒューバートを見つめた。
「うわあぁぁぁっ」
ヒューバートは狂ったように絶叫し、続けざまに引き金を引いた。
着弾の反動でナイジェルの身体が操り人形のダンスみたいに揺れる。茫然と目を見開いて仰向けに倒れたナイジェルの口から、真っ赤な血があふれ出した。
ソニアは立ち竦み、喉が裂けるような悲鳴を上げた。膝からがくんと力が抜ける。歩廊の壁にすがりついて顔を上げると、斜め前に将校服の男が立っていた。
その手に握られた銃を目にしてソニアは凍りついた。それは兄が持っているものよりずっと大きく、見るからに強力そうだった。
「……銃を下ろしたまえ、ヒューバート卿。弾はもう一発も残っていない」
ソニアは茫然と男を見上げた。やはり素性はとっくにバレているのだ。男は落ち着きはらった声音で続けた。
「抵抗しなければ乱暴はしない。準王族としての処遇を保証する」
こと切れた親友を放心して見つめていたヒューバートが、のろのろと顔を上げた。視線があてどなくソニアと将校の間を泳ぎ、ふらりと銃口をこめかみに当てる。
ヒッとソニアの喉が鳴った。何のためらいもなく、ヒューバートは引き金を引いた。
かちん、と虚しい音が静まり返った城壁の上に響いた。ヒューバートの顔が泣き笑いにゆがむ。彼は身体を折り曲げ、大きく痙攣した。
「ふっ……くくっ……」
切れ切れの笑い声が響く。手から銃が滑り落ちた。
ヒューバートは両腕で自らを抱くように、身体を折ったまま笑い続けている。今兄がどんな表情をしているのか、床に座り込んでしまったソニアには見ることができなかった。
若い将校は銃を下ろした。うつむいて嗚咽を上げているヒューバートを感情のこもらない瞳で見つめ、一歩踏み出す。
そのまま彼は固まった。兄の嗚咽に耳障りな異音が混じり始めたことに気づき、ソニアは息を詰めた。
嗚咽は次第にひしゃげた濁音まじりの呻き声へと変わり、やがてゲフゲフと苦しげに咳き込み出した。ソニアは兄の側に這い寄ろうとしたが、気付いた将校が前に立ちふさがってしまう。
黒革の長靴を押し退けて前へ出ようとして、兄がただ噎せているわけではないことに気づく。
頭の上で金属音が響いた。見上げると将校が一度はしまった銃をふたたび手にして撃鉄を起こしたところだった。
反射的に飛びつこうとしたソニアは、ひときわ高い呻き声にびくりと身をすくめた。それはもう呻き声というより唸り声だった。ぐるる、と喉を鳴らす獣の唸りだ。兄の身体が急に一回り大きくなったような気がする。
気のせいなどではなかった。限界まで張りつめた夜会服の布地が悲鳴じみた音をたてて裂ける。小山のように盛り上がった肩が荒々しく上下し、兄の顔はすでにその面影をなくしていた。
耳まで裂けた口から鋭い牙と真っ赤にうねる舌が覗いた。
ソニアはぺったりと座り込んだまま身動きもできなかった。自分が目にしている光景が信じられない。いや、理解できなかった。
兄がいたはずの場所に、何故か世にも恐ろしい醜悪な化け物が立っている。
ちっと将校が舌打ちをした。鋭い銃撃音にソニアはようやく我に返り、無我夢中で将校の腰に飛びついた。
「やめて! お兄様を撃たないで!」
化け物の筋骨隆々とした身体に、夜会服の残骸が腐った屍衣のようにまとわりついている。信じられない――信じたくないが、あれはヒューバートなのだ。
将校は鬱陶しそうにソニアを払いのけた。
「ああなってはもう遅い」
ふたたび銃声。肩に当たり、ほんの少し怪物はよろけた。
だがそれだけだった。まったくダメージを負った様子もなく、こちらに向けて足を踏み出す。ずたずたになった革靴の名残がわずかにひっかかっていた。
将校は狙いを定め、続けざまに引き金を引いた。すべて身体の真ん中に命中する。怪物の歩みは止まらない。将校は銃を投げ捨て、腰のサーベルを引き抜いた。その刀身に指を走らせながら凛とした声を上げる。
「女神アスフォリアの御名において神威を招請する!」
刀身が淡い金色に輝き、根元から切っ先まで炎の神文が踊った。ソニアは目を見開き、サーベルを握る将校を見つめた。彼の身体を〈第五元素〉の輝きが包んでいた。
(――錬魔士……!?)
両手で握っている武器がいつのまにかサーベルから両刃の大剣に変わっていた。直視できないほどの霊気に圧倒されつつも、ソニアは必死にその場の光景を見定めようとした。
将校は振りかざした大剣を鋭い気合とともに斬り降ろした。刃が届く距離ではなかったが、霊気は激しくも鋭い奔流となって怪物に襲いかかる。
躱す暇もなく、怪物の身体が吹き飛んだ。
「お兄様ぁっ……!」
ソニアの叫びは怪物が背後の小塔にぶつかって周囲を破壊する音にまぎれた。石壁が衝撃の余波で壊れる。怪物は瓦礫に巻き込まれながら城壁の外へ落下して行った。
まだ不穏な輝きにゆらめく大剣を引っさげ、将校は苦々しく吐き出した。
「……くそ。やりすぎたか」
跳ね起きたソニアは城壁に飛びついて下を覗き込んだ。城壁の下はそのまま堀になっている。大量の瓦礫が水面に落ちて派手な水しぶきが上がった。
堀際で人の怒鳴り声が響き、カンテラの灯が激しく揺れる。背後から慌ただしく靴音が近づき、将校を呼んだ。
「少佐!」
「ここはいい。馬鹿貴族どもはどうした」
「全員護送車に乗せました」
「手が空いた者は堀の捜索へ回せ。一般客は身元の確認が取れ次第帰してよし」
敬礼した兵士が駆け戻っていく。少佐と呼ばれた男は、茫然と堀を見下ろしているソニアの腕を取った。無造作だが乱暴なやり方ではなかった。
「ソニア嬢、あなたにも聞きたいことがある。一緒に来ていただこう」
ショックで放心状態のソニアは逆らう気力もわかず、腕を取られるままよろよろと歩きだした。
ソニアは解放された一般客や兵士たちでごった返す正面玄関ではなく、人の少ない側面の出入口から外に出た。
将校服の青年に二の腕をがっちりと掴まれている上、前後を銃剣で武装した兵士に挟まれている。逃げる隙はなさそうだが、それ以上にソニアは気力が尽きかけていた。茫然として何も考えられない。
憧れの人が目の前で死んだ。しかも撃ったのは実の兄。その兄は奇怪な変貌を遂げて恐ろしい怪物と化し、神剣で斬られて堀に落ちた――。
現実の出来事とは思えなかった。あまりに多くのことが一時に起きて、理解が追いつかない。石畳の継ぎ目に細いかかとが嵌まり、ソニアはよろけた。
傍らの将校がすかさず支え、転倒を免れる。
「ありがとう……」
放心したまま礼を述べると、無機質だった将校の瞳にわずかながら感情が浮かんだ。
「よければ腕に掴まって」
ソニアはぼんやりと将校の腕を取った。頭のどこかで、この人が兄を斬ったのだという思いが浮かんだが、それはひどくぼやけていて明確な感情を呼び起こすことはなかった。
彼が斬った相手は、ソニアの知る兄とは似ても似つかぬ姿だったから――。
「私はキース・ハイランデル。帝都警備軍、特務隊所属。階級は少佐です」
青年は深みのある声で告げ、軽く会釈をした。ソニアは上の空で頷いた。
「しばらくこの中でお待ち願えますか」
キースは立ち止まり、停めてあった黒塗りの箱馬車を示した。おとなしくソニアが従おうとした時、ガラガラとけたたましい車輪の音が聞こえた。
一台の馬車がまっすぐこちらへ突っ込んでくる。キースが何ごとか叫び、ソニアの身体を軍用馬車に押しつけた。ソニアは奇妙な非現実感に捕らわれながら、突進する馬車を茫然と眺めた。
手綱を握る御者の目許が、煌々と焚かれた篝火を受けて不自然にきらりと光る。
眼鏡だ。
ぼんやりとしていたソニアは、横面を叩かれたようにハッとした。
ギヴェオンが御者台で手綱を取っていた。馬車はほとんど体当たりするようにこちらへ突っ込んでくる。彼が片手を差し伸べるのが見えた。
時間の流れがゆっくりになり、騒音が遠ざかる。キースに押さえ込まれながらも、ソニアは必死に手を伸ばした。
指先が触れたと思った瞬間、身体が宙に浮いていた。
「きゃあぁぁぁぁっ……っ!?」
気付いた時にはギヴェオンの膝に横座りしていた。悲鳴を上げ、降りようともがく。
「わわ、暴れないでっ、危ない! そのまま掴まってて下さい」
馬車は全速力で疾走している。車輪の音や車軸の軋む音、バネのたわむ悲鳴のような音が一気に現実となって戻ってきた。
この状態では御者台に座るのも難しい。仕方なくギヴェオンの膝の上に乗っていることにしたが、あまりに振動がひどくて安定を保とうとすると彼に抱きつくしかない。
暴走に近い速度の馬車から転げ落ちたら大怪我どころでは済まないだろう。ソニアは覚悟を決めてギヴェオンにしがみついた。
「うちの御者はどうしたの?」
騒音に負けじと大声で尋ねると、ギヴェオンは前を向いたまま答えた。
「いきなり兵士がやってきて御者や従僕をまとめてどこかへ連れていっちゃったんですよ。私はたまたま外してて。隠れて様子を窺ってたらお嬢様が出てくるのが見えたんです」
「これからどうするの」
「もちろん、お屋敷へ戻ります。お嬢様を軍に留置させるわけにはいきませんよ。そんなこと、旦那様がお許しになりません」
屋敷内にいれば軍も手出しはできない。準王族たる公爵家の息女を捕えるとなれば、正式な許可書がいる。そのような許可書は簡単には出ない、というか、まずもって出されることはない。捕えるならば現行犯逮捕しかないのだ。
やがて帝都を囲む城壁が迫ってきた頃、ようやくギヴェオンは速度を緩め、後方を確認してから道端に馬車を止めた。
「いくらか時間を稼げたようです。中に入ってください」
ソニアは急いでギヴェオンの膝から降りて馬車に乗り込んだ。
ふたたび走り出し、今度は怪しまれない程度に速度を落として無事城門を通過する。
美しく花で飾られた街灯が大通りを明るく照らしていた。まだ多くの馬車が走り、歩道には通行人があふれている。
屋敷に近づくにつれ、歩道の様子がおかしいことに気付いた。いくら千年祭で一時的に人口が増えているとはいえ、どうしてこんなに人が群れているのだろう。今頃は食事をするなり劇場へ行くなりしているはずだ。
しかもみな妙に興奮した様子で一方向へ向かい、前方を指さして声高に叫ぶ人もいる。
ソニアは馬車の窓を開け、顔を出した。夜空が赤く染まっていた。ギヴェオンが固い声で呟いた。
「……火事のようですね」
「も、もしかして、うちの方向じゃない……? ――ギヴェオン、急いで!」
ぴしりと手綱が鳴り、馬車の速度がぐんと上がった。
近づくにつれ、黒い煙が立ち昇っているのも見えてくる。間違いなく火事だ。水を積んだ消防用の馬車が激しく鐘を鳴らしながら追い抜いていく。
悪い予感は屋敷に近づくにつれて大きくなり、ついに最悪の確信へと変わった。燃えているのはまぎれもなくグィネル公爵邸だった。
消防用の馬車や作業員で屋敷の前は埋まっていた。動員された警邏兵が集まった野次馬を後方へ押しやったり馬車の誘導をしている。
ソニアは窓から身を乗り出して屋敷を見つめた。広壮な屋敷が炎に包まれ、燃え上がっている。その熱気は馬車にいても感じられるほど強烈だった。
ソニアは膝ががくがくして、窓枠をぎゅっと握りしめた。
「お父様……、お父様はどうなったの……!? ――ギヴェオン、馬車を寄せて」
「これ以上は無理です」
「だったら降りる!」
ソニアは自らドアを開けて飛び下りようとしたが、どうしたわけかドアが開かない。
「何よこれ、どうなってるの!?」
半狂乱でソニアはわめき、ドアを叩いた。こうなったら窓から出てやる、と思いっきり身を乗り出してもがいていると、泣きべそまじりの少年の声がした。
「あっ、お嬢様!」
顔を上げると、顔や服を煤で汚した少年が駆け寄ってきた。ソニアの情報源、小姓のティムだ。馬車から半身以上乗り出した不安定な格好で、ソニアは腕を伸ばした。
「ティム! お父様は? お父様はご無事なの!?」
「そ、それが……」
言いよどむ小姓の姿にいやな予感が込み上げる。
「どうしたの、はっきりおっしゃい」
「旦那様は――、亡くなられました。銃で撃たれて」
身体を支えていた腕ががくんと揺れた。バランスを崩したソニアを、御者台から飛び下りたギヴェオンが素早く支える。ソニアは馬車の中で膝をつき、窓にすがりついた。
「誰がそんなことっ……」
「エリックさんです!」
ティムは引き攣った声で意外な人物の名を叫んだ。
「え……?」
「若様の従者だった、エリックさんですよ! 若様とお嬢様が出かけてまもなく、エリックさんが訪ねてきたんです。旦那様にお会いしたいと言って。嘘じゃないです。俺がフレッチャーさんに取り次いだんですから」
ティムは炎の熱で赤らんだ頬をさらに赤くして言い張る。声も出ないソニアに代わってギヴェオンが質した。
「旦那様は彼とお会いになったのか?」
「は、はい。フレッチャーさんが案内しました。俺は書斎に珈琲を持っていくよう言いつかって。お盆に珈琲セットを載せて書斎へ行って、ノックをしてドアを開けたら中からエリックさんがすごい勢いで走り出てきたんです。ぶつかって、高価なカップが全部割れちゃった……。ああ、どうしよう……!?」
ギヴェオンはすっかりうろたえておろおろするティムをなだめ、先を促した。
「俺、頭に来て大声を上げたら、ちらっと振り向いたエリックさんがあんまり真っ青で凄い形相だったんで、何があったのかと急いで中を覗いたんです。カーテンが燃え上がっているのが見えて、びっくりして中に入ると、胸から血を流して旦那様が倒れていました。騒ぎを聞きつけたフレッチャーさんや他の人たちがやってきて、急いで旦那様を運び出したけど、その間に火が燃え広がってしまって……」
ううっ、とティムは声を詰まらせた。
「それで、旦那様はどちらへ?」
「わ、わかりません。俺、逃げるのに必死で。すみません! すみません、お嬢様!」
混乱したティムはわっと泣きだして詫び始めた。ソニアは茫然とするあまり声もかけられない。
そこへ、複数の馬蹄の轟きと「いたぞ、あそこだ!」と怒鳴る声が聞こえてきた。振り向いたギヴェオンは濃灰色の軍服を来た男たちに舌打ちした。
「追いつかれたか……。仕方ない、いったん逃げますよ。きみも乗って」
有無を言わさず少年の襟首を掴み、ドアを開けて馬車の中に放り込む。
どうやっても開かなかったのに、とソニアは目を丸くしたが、放り込まれた少年がのしかかってきて後ろにひっくり返ってしまった。
「ああっ、すみませんお嬢様っ」
ティムは慌てて離れようとしたが、馬車が急発進してもろにソニアの胸元に顔を突っ込んでしまう。
どうにか座席に座り直した時には少年は緊張と狼狽で半死半生になっていた。
暴風に巻き込まれたかのような一夜が明けた。
粗末な寝台の上に身を起こし、ソニアは黒ずんだ梁がむき出しになった斜めの天井をぼんやりと見上げた。
少しずつ昨日の出来事が思い出されてくる。あまりにも多くの事件が立て続けに起こり、昨夜は思考停止に陥ってしまった。
ここはギヴェオンの知人宅だそうだが、よくも眠れたものだと我ながら思う。
控えめなノックの音にぼんやりしたまま返事をすると、年若いメイドが洗面器と水差しを持って入ってきた。軽く膝を折り、微笑みを浮かべる。
片隅の鏡台に洗面器を置き、開けたままの戸口に戻って廊下から差し出された包みを受け取る。黒い上着の袖口が覗いた。
「……ギヴェオン?」
「はい」
落ち着いた声が戸口の向こうから返って来る。ソニアは急に胸が締めつけられるような感覚に襲われ、声を詰まらせた。
「お支度が整うまでお待ちします」
ソニアは唇をふるわせ、様子を窺っていた少女に小さく頷いた。扉が閉められる。ぐっと奥歯を噛みしめ、ソニアは寝台から起き上がった。
少女の手を借りて洗面や身支度を済ませて部屋を出ると、言葉どおり廊下でギヴェオンが待っていた。
「おはようございます、お嬢様」
屋敷にいる時と同じ裾を短く切り詰めた短燕尾服で挨拶をされ、いつもと変わらぬ日常が始まるような錯覚に捕らわれる。ギヴェオンはしげしげとソニアの身なりを眺めた。
「サイズは合っているようですが、丈が少し短いかな……」
ソニアはギヴェオンが買ってきた古着を着ていた。昼用の外出着で、状態は悪くない。生地や仕立てもしっかりしており、裕福な家庭から出されたもののようだ。
「これくらいなら別にかまわないわ。動きやすいし」
「靴はいかがです?」
「大丈夫、ぴったりよ」
ソニアは裾を摘み、確かめるように足を動かした。やわらかな革のブーツもやはり中古品だが履き古されたものではなかった。
かかとはわずかしか減っていないし、ぴかぴかに磨き上げられて編み上げのリボンはほぼ新品。わずかな時間によく調達できたものだ。
ギヴェオンに導かれ、階段を一階分降りて小さな部屋に入った。
すでに朝食の用意が整っていて、ティムが控えている。炎にあたった赤らみは頬から消えていたが、目が腫れぼったいのはよく眠れなかったせいだろう。
今になってソニアは、自分が昨夜は夢も見ずに熟睡したのだと気付いて、呆れたような哀しいような気分になった。
「……食べたくないわ」
ソニアは運ばれてきたベーコンと卵料理の皿から目を背けた。ギヴェオンは構わず丸パンの盛られた籠とオレンジ果汁のグラスをテーブルに置いた。
「今朝早く、お屋敷の様子を見て参りました」
天気の話でもするように、のんびりと彼は言った。ソニアはハッと顔を上げた。太い黒縁眼鏡に遮られた蒼い瞳には何の含みもなく、ただ穏やかに凪いでいる。
「……どうだったの」
「訊きたいですか?」
「もちろんよ!」
「では先にお食事を。残さず召し上がればお話しします」
ソニアは眉をつり上げたがギヴェオンは平然としている。
「先に話して」
「お食事が先です」
穏やかな口調ながら、ギヴェオンには一歩も譲る気配はない。ソニアは唇を噛んだ。悔しいが、軍に連行されるという不名誉から救ってくれたのはこの男だ。
あの時はショックで茫然自失状態に陥ってしまってそこまで気が回らなかったが、準王族たる公爵令嬢が特務隊に拘束されたなどと知られたら社交界に顔を出せなくなってしまう。
「……食べればいいんでしょ」
拗ねたように呟き、ソニアはナイフとフォークを掴んだ。ギヴェオンは軽く会釈して戸口脇に控えている少年に向き直った。
「ティム。ここはいいから階下へ行って何か食べて来なさい。しばらくしたら珈琲を持ってくるように」
「は、はい。ギヴェオンさん」
頷いた少年はそそくさとお辞儀をして出て行った。ソニアは出された料理を黙々と口に運んだ。食べているうちに突然涙が噴き出してくる。
「う……、ふっ……」
堪えきれなくなって、ナイフとフォークを握りしめた。ぱたぱたと涙がテーブルクロスの上に落ちた。そっと新しいナプキンが差し出される。ソニアはナプキンに顔を埋めてひとしきり泣いた。
やっと嗚咽が収まってくると、宙ぶらりんだった気持ちが幾分か落ち着いた。ソニアはぬれた目許を丁寧に拭い、ゆっくりと食事を再開した。
皿が空になって一息つくと、見計らったようにドアがノックされた。応対したギヴェオンが珈琲ポットやカップの載った盆を運んできてテーブルに置く。空いた皿を下げると、彼は珈琲とミルクをカップに注いでソニアの前に置いた。
熱い珈琲は新鮮なミルクが加わってちょうどよい飲み加減になっていた。ミルクの割合も文句ない。
働き始めてまだ数日しか経っていないのに、ギヴェオンは衣食住にわたるソニアの好みをしっかり把握しているようだ。
卵料理は最初からほどよく胡椒が効いていたし、急いで用意されたはずの着替えもサイズばかりでなく色合いやデザインまでソニアの趣味に沿ったものだ。
のほほんとして一見頼りなさそうな印象なのに、仕事は徹底している。ソニアは改めて感心するとともに彼に対して敬意を抱いた。
父もよく言っていた。己のやるべきことを手を抜かずにきちんと成し遂げている人というのは意外と少ないのだと。そういう人には身分がどうであろうと相応の敬意を払うべきだ。
ましてや自分がそういう人を使う立場であるならば、いつも感謝の気持ちを忘れてはいけない、と……。
つん、と鼻の奥が痛くなる。ソニアは眉根をきつく寄せて堪え、ゆっくりと珈琲を飲み干して静かに皿に戻した。
「……聞かせてくれる? お父様がどうなったのか」
「残念ながら、グィネル公爵閣下は亡くなられました。中央病院に運び込まれた時にはすでに手の施しようがなかったそうです」
背後からギヴェオンが静穏な声で告げた。ソニアは腿の上でぎゅっと拳を握りしめた。掌に爪が食い込み、痛みで涙が引っ込むくらいに。
「屋敷は居住部分の三分の二が焼けました。厩や車庫は無事です。貴重品を運び出す際に軽い火傷を負った者はいますが、使用人に死者や重傷者は出ませんでした」
ホッと息をついたのもつかのま、次のギヴェオンの言葉にふたたび顔がこわばる。
「火事の原因と旦那様を殺害した犯人について、警察が調べています」
「……本当にエリックがお父様を殺したの?」
「状況としてはそのように見えます。ただし、ティムはエリックが旦那様を撃つ瞬間を目撃したわけではありませんし、銃声も聞いてはいません」
「でも、真っ青な顔で逃げたんでしょ。疚しいことがないならどうして逃げたりするの」
「警察もエリックの行方を追っています。他の使用人にも姿を目撃されていますから」
ソニアの興奮をなだめるようにやんわりとギヴェオンは言った。
「……お兄様は?」
「わかりません。特務が探しているようですが」
「あなたは、どこまで知っているの?」
「ヒューバート様のことで、ですか? 何やら反政府的な活動に関わっていらしたようですね。昨夜の騒ぎで兵士たちの会話からそのようなことを小耳に挟みました」
涼しげに微笑む従僕を、ソニアは険しい顔で睨みつけた。
「わたしもその一味だと思ってる?」
「そうなのですか?」
「違うわよっ」
「ならば私はお嬢様の言葉を信じます」
あっさり言われ、ソニアは却ってたじろいだ。
「だけど特務はわたしも一味だと思ってるのよ。わたしにくっついてるとあなたまで目をつけられるわ」
「私はお嬢様付の従僕ですから、仕事をまっとうしたいと思います。勤めて六日目だし、お給料もまだもらってません」
台詞の前半にはちょっと感激したが、後半にがくっと来る。じとっと半眼でソニアは黒縁眼鏡の青年を睨んだ。
「そういえば、この服とか靴とか、お金はどうしたの?」
古着とはいえ状態からしてそう安い買い物ではなかったはずだ。
「お嬢様のために自腹を切りました――というのは真っ赤な嘘で、フィオナさんから財布を預かっていたんです。元を正せばお嬢様のお金ですからご心配なく」
「……それ持って逃げようとか考えなかったの?」
「お嬢様、持ち逃げは犯罪です」
「知ってるわよっ」
真面目な顔で諭されて逆上する。
「信用できないのであれば、財布はお返ししますが?」
「い、いい。あなたに預けておくわ」
「それがよろしいでしょう。落としたりすられたりしたらいけませんから」
今さらりと馬鹿にされたような気もするが、考えないでおこう。
「明細はつけていますからご心配なく。贅沢しなければしばらく潜伏していられます」
「潜伏って……、いやな言い方ねぇ。わたしは危ない組織とは本当に無関係なのよ」
「旦那様が亡くなられた今、一度捕まったらすぐに出られる保証はありません。反政府的な過激派との関わりを疑われている状況では、王宮が身元引受人になってくれるかどうかも怪しいものです。しばらくは身を潜めているのが得策かと。とりあえず情報を集めて善後策を練りましょう」
ギヴェオンは改めて状況を探ってくると言って外出した。
部屋に戻ったソニアはティムとしばらく話をして下がらせ、窓からそっと外を覗いた。
狭い通りを挟んだ向かい側にも同じような建物が並んでいる。目印になるものが見えないので、自分が今どこにいるのか見当もつかない。ギヴェオンに訊いてもはっきりとは教えてくれなかった。
ティムはこの家の使用人とあまり話さないようギヴェオンに命じられたことに加え、事件のショックで怯えてもおり、何もわからないようだ。
昨夜の逃走劇で、ティムはすっかりギヴェオンを信頼してしまったらしい。
気持ちはわからなくもない。少なくとも彼は驚くべき行動力の持ち主で、見た目からは想像もつかないほど頼れる人物、のようではある。
ちょっと怪しいというか、謎めいたところもあって、それが否応なく興味をそそるのだ。ソニアにすれば信用していいのかどうか微妙な気分になるところだが、少年の目には意外と格好よく映るのかもしれない。
(ここはたぶん、四階建てね)
向かい側を眺めてソニアは考えた。この部屋は建物の裏手に当たっていて、向かいも同様だ。
見下ろした通りは馬車がやっと一台通れるくらいの狭い路地で、洗濯物を干す紐が渡されている。造りはしっかりしているようだから、表側は案外立派なファサードを持つ建物なのかもしれない。
狭い部屋にいるせいか、ソニアは少し息苦しさを感じた。この部屋は屋敷のソニア専用バスルームよりも狭いくらいだ。
こんな状況で贅沢を言うつもりはないが、何だか閉じ込められているようで気が滅入る。
(窓、開けようかな)
風を入れれば気分もよくなるだろう。窓は胸よりも少し高い位置にある。背伸びをして留め金を外し、両開きの窓をいっぱいに押し開けた。
吹き込んだ風は思いのほか爽やかで、額にかかる明るい栗色の髪を掻き上げながらソニアは目を細めた。
「……薔薇の匂いがするわ」
独りごちたソニアの眼前に、赤い薔薇の花束がぬっと突き出された。窓の向こうに逆さまの顔がぶら下がり、ニィッと笑う。
「お花、買ってくれませんか、お嬢様ァ」
反射的に飛び退こうとして足を滑らせ、尻餅をついてしまった。一回転して窓から飛び込んできた少年が、薔薇の花束を胸にあてて芝居がかったお辞儀をする。
いつかの花売り娘に化けた少年だった。
今日は女装はしておらず、一昔前の貴族みたいな袖の広がった上着にレースの襟飾りと袖飾りのついたシャツを着ている。
肩の上で綺麗に切り揃えた金髪を揺らし、少年は美しく整った顔に禍々しい笑みを浮かべた。
「あなたのお墓に供える花ですよ。ぜひとも買ってもらわなきゃ」
「ど、どうしてここが……!?」
ずっと尾行られてた? まさか、そんな。昨夜ギヴェオンはしつこいくらい何度も念入りに周囲を確かめていたのだ。
特務とは別口でも、あれだけ用心したのだからそう簡単に見つかるはずがない。
落雷のように、ソニアの脳裏に衝撃が走った。昨日の兄の言葉が蘇る。夜会服に仮面の男たちに囲まれて、兄は悪びれもせず自分への襲撃を認めた。ソニアは兄に向かって言い返した。『ギヴェオンが助けてくれなかったら死んでたわよ!』と。
ギヴェオンが、助けてくれなかったら――。
まさか、彼が助けに来ることを兄は知っていた? いや、そうじゃない。最初から仕組まれていたのではないか? ソニアに恩を売って従僕として屋敷に潜り込むために。
(ギヴェオンは……、こいつらの仲間!?)
血の気を失ったソニアの顔を、少年はうっとりと眺めた。
「ああ、いいな。その絶望顔。とっても素敵だよ。ジャムジェムは人間のそういう顔を見るのが大好きなんだ。もっと見せてよ、お嬢様。ジャムジェムにいい顔見せてくれたら、ほんのちょっぴりだけど長生きさせてあげてもいいよ」
ジャムジェムというのは少年の名前だろうか。興奮に瞳をきらめかせると、少年の顔はさらに禍々しく艶めいた。
ドンドンと外からドアが叩かれ、ティムが叫ぶ。
「お嬢様? どうかなさいましたか」
鍵のかかっていなかったドアが返事を待たずに開いた。
ジャムジェムの袖口に、きらりと光るものが覗く。警告を発する暇もなく、少年の両手から細身の刃が放たれた。
それはティムの頭上ギリギリを通過した。ティムが大人の体格だったら間違いなく胸か首に突き刺さっていただろう。
ソニアは身体を反転させ、茫然と突っ立っているティムに体当たりする勢いで廊下に飛び出した。
倒れた視界にこちらへ向かって跳躍する少年の姿が映る。反射的にソニアは壁に当たって跳ね返ってきたドアを思いっきりブーツの踵で蹴った。
勢いよく閉まったドアの向こうから「ぎゃふっ」と叫び声が上がる。ソニアは一瞬もがいて起き上がり、ティムの手を引いて転げ落ちるような勢いで階段を駆け降りた。
「なっ、何です、あいつは!?」
「殺し屋よ! とにかく逃げなきゃ」
どうにか踏み外さずに階段を下ると、ソニアは手近なドアから外に飛び出した。
凄まじい騒音に何事かと顔を出した建物の住民が、鼻を押さえて駆け降りてきた派手な格好の少年に目を丸くする。
よほど鼻を強打したのか、少年は涙目で上着の内側から拳銃を取り出した。住民の悲鳴と銃声が重なる。弾はソニアの影をかすめてドアに当たった。
「クソ女ぁっ、ジャムジェムの鼻が曲がったらどうしてくれるっ!?」
バン、バン、と立て続けに銃声が上がり、泡を食った住民が叫びながら逃げまどう。
ソニアは片手でティムの手を引き、もう片方の手でスカートの裾を思いっきりたくし上げて全速力で走った。裾にレースのついた白いドロワーズがむき出しになったが、恥じらっている場合ではない。
「待てこのーっ」
すっかり逆上した少年は二丁拳銃を乱射しながら追いかけてくる。通行人の多い大通りへ逃げたら人死にが出そうだ。ソニアはやむなく人がいなさそうな路地裏へ逃げ込んだ。
弾丸がすぐ脇の煉瓦壁をかすめ、ティムが「ひぃっ」と首をすくめる。
「走るのよ、ティム! 急いでっ」
「は、走って、ますっ。ってか、お嬢様、足速っ」
「駆けっこは、昔から、得意なの、よっ」
ぎゅん、と勢いをつけて角を曲がる。耳障りな音をたてて弾丸がまた側をかすめ、ひぃ~とティムが泣き声を上げた。
息を切らせてT字路で左へ曲がる。ソニアは反射的にたたらを踏んだ。そこは行き止まりだった。後ろからは怒号と靴音が追いかけてくる。引き返す余裕はない。
ソニアは目についたドアに飛びついたが、内側から閉まっていた。突き当たりの壁は建物ではない。かつては門がついていたらしいが、どういうわけか煉瓦が積まれて塞がれていた。
壁際に古びた木箱がいくつも転がっているのを見て、ソニアはティムを促した。
「あれを積んで向こう側に出るのよ」
壁際にたどり着くと同時に銃声が響き、衝撃がソニアの頬をかすめた。
「お嬢様!」
真っ青になってティムが叫ぶ。振り向くと、袋小路の入り口にジャムジェムが立って荒々しく肩を上下させていた。
「このォ、ちょこまかと逃げ回りやがって……!」
少女と見紛う美貌を憤怒にゆがめ、乱れた金髪が顔にかかっている。ジャムジェムは金緑色の瞳をギラギラさせ、壁に貼りつくソニアとティムに二丁拳銃を向けた。
「絶対、楽には殺してやらないからな。さっきはすっごく痛かったんだぞ。お返しにおまえの鼻を粉砕してやる」
息を荒らげていても銃口はぴたりとふたりに向けられている。どこにも逃げ場はない。
ソニアが絶望に呻きそうになった瞬間、ビュッと何かがジャムジェムに向かって超高速で飛んできた。反射的に引き金を引くと、茶色い陶器のかけらと土砂が降り注いだ。
「なにっ!?」
ジャムジェムは慌てて後退った。そこへまた続けて同じような物体が飛来する。
今度はソニアにもわかった。花の植わった植木鉢だ。避けようとして間に合わず、ジャムジェムはふたたびそれを銃で撃つ。
粉砕された鉢の向こうから間髪入れずにもうひとつ飛んできた。反射的に腕を上げて頭部をかばったものの、代わりに銃を取り落としてしまう。石畳に落ちた銃は狙い済ました礫に弾かれ、手の届かぬ場所まで滑って行った。
ソニアが上を見上げると同時に、目の前に人影が降り立つ。後ろ姿だったが、ひょろりとした長身と青みがかった銀の髪は見間違えようがない。
「……ギヴェオン!」
「先に行ってください。馬車を待たせてあります」
「行けってどこから――、っていうか、あなたがこの人にわたしの居場所を知らせたんじゃないの!?」
振り向いたギヴェオンは、完全に面食らった面持ちだった。
「はぁ? 何くだまいてんですか、お嬢様。いくらお祭期間中でも、昼間から酔っぱらうほど飲むのは感心しませんね」
「飲んでない、わッ――!?」
殺し屋少年が放ったナイフを、寸前でギヴェオンが受け止める。
「話は後で。ティム、そこの壁、ちょっと蹴れば崩れるから」
ちょいちょい、と例の塞がれた跡を指さす。半信半疑の面持ちで、それでもティムは素直に指示に従った。思い切って蹴飛ばすと、大した抵抗もなく煉瓦は崩れ、くぐり抜けられるくらいの穴が開く。
ソニアは唖然とした。
(そんな馬鹿な。がっちり固めてあったはずよ……)
「さぁ、早く」
ギヴェオンに急かされ、ティムはおずおずとソニアの袖を引いた。
「お嬢様、行きましょう」
「まっすぐ行くと路地の出口に黒塗りの馬車が止まってます。手綱を取っているのは金髪の垂れ目男で、私の知り合いです。先に出発してください。後で追いつきますから」
ソニアはギヴェオンの背を茫然と眺めた。
(本当に関係ないの……?)
「早く!」
鋭い声音に、鞭で打たれたようにハッとする。ソニアはティムに手を引かれるまま、崩れた穴を潜って走り出した。
ギヴェオンは手にしていた少年のナイフを何気ない動作で放った。それは少年が折しも取り出したもう一本のナイフに当たって弾き飛ばした。
「危ないですよ。刃物なんてやたら振り回すもんじゃないと言ったでしょう」
にっこり笑う黒縁眼鏡の青年を、ジャムジェムは憎々しげに睨んだ。
「何なんだ、おまえ。こないだから邪魔ばかりしてくれて。ずいぶん手慣れてるみたいだけど、軍の関係者かよ?」
「ただの家事使用人です」
「ふざけんなっ」
にっこり笑うギヴェオンに、少年は激怒して飛びかかった。
一方ソニアは言われたとおり壁の向こうに続いていた路地を全速力で走り抜けた。高い建物に挟まれた薄暗い路地から急に開けた通りへ出る。
眩しさに顔をしかめたソニアは、ちょうど目の前に停まっている小型馬車に気付いた。
御者席にいた男がこちらを向いて微笑む。やけに暢気そうな笑みが、普段のギヴェオンと重なった。
やや癖のあるやわらかそうな黄金の髪に、青灰色の瞳。ギヴェオンの言ったとおり垂れ目気味で、右の目尻にある小さな黒子でさらに強調されている。
「待ってたよー。さ、どうぞ乗ってちょうだい」
とろんと間延びした声は昼寝から起きたばかりみたいだが、笑みをふくんだまなざしはこちらを見通すように深い。ソニアはためらった。
「でもギヴェオンが……」
「きみらふたりで来たってことは、先に行けってあいつが言ったんでしょ。だったらそのとおりにしないと、僕が後で怒られる。さ、乗った乗った」
顎で示され、ティムが慌てて馬車の扉を開ける。
疑り深く金髪青年を睨むと、彼は上機嫌な猫みたいにふにゃっと微笑んだ。ギヴェオンよりもさらに脱力させる笑みだった。
(ええい、ままよ!)
ソニアは腹を括って馬車に乗り込んだ。
扉を閉めたティムが馬車の後部席に上がるのを確かめ、青年はぴしりと手綱を鳴らした。最小限の反動でなめらかに動きだした馬車は、花で飾られた螺旋大通りを軽快に走り出した。
……懐かしい夢を見ていた。
自分は今よりもさらに小さくて無力で、誰にも顧みられず、不安でたまらなかった。
そんな自分の前に現れた銀青色の髪をした青年は、床に膝をついて視線を合わせ、ハッとするほど鮮やかな青い瞳で優しく微笑んだ。
彼は自分の世話係として配属された。年齢は憧れの兄と同じくらい。でも兄のように近寄りがたくはなかった。兄のように自分を軽視しなかった。
優しくて面白くて、すぐに大好きになった。灰色だった毎日が楽しくなった。遊び相手として連れて来られる貴族の子弟の前だと緊張してふつうに喋ることさえできないのに、彼が相手だとするする言葉が出た。大声を上げることも、はしゃぐことも、笑うこともできた。
そして、泣くことも。
ずっと側にいてくれると思ったのに、一年ほど経つと彼は去っていった。急な事故で兄が亡くなり、不安でたまらない時期だった。自分に対する周囲の扱いが突然変わり、彼がお役御免になったのもそのせいなのだとわかっていた。
どうすることもできなかった。人々の態度がやけにうやうやしくなっても、結局何ひとつ自分では決められない。彼は去り、ふたたび毎日は灰色になった。
時折、彼を夢に見た。
彼はかつて自分に仕えていた時のように、誰かの世話をしていた。自分といた時と同じように笑っているのが寂しくて、彼を身近に置いている雇い主が妬ましかった。
そんな夢から覚めるとひどい癇癪を起こし、世話係を難儀させるのが常だった。
でも、今日は違っていた。廃墟のような遺跡のような奇妙な場所で、彼は必死で何かをしている。その姿形さえいつもとはずいぶん違って見えた。
異形の姿でも彼だとわかったし、怖いとも思わなかった。ただ、彼がとても困っていることを感じてやきもきした。
彼を助けたい。彼がいつも自分を助けてくれたように。でもどうすればいいんだろう。
このままだと大変なことになる、と彼は考えている。何がどう大変になるのか全然わからないけど、彼が焦って追い詰められていることだけは理解できた。
どうすればいいんだろう。どうしたら彼を助けてあげられる?
どうしたら――。
「……陛下。陛下」
優しい声に促され、アスフォリア皇帝シギスムント三世は目を開いた。優しく臈たけた女性が、かすかに眉を寄せて自分を見下ろしている。シギスムントはかすれ声で囁いた。
「姉上……」
微笑んだ女性が後ろに控えた侍女からタオルを受け取り、寝汗で湿ったシギスムントの額をそっと撫でるように押さえた。
冷たいぬれタオルの感触が心地よくて、少年はホッと息をついた。寝台の中でもがくように起き上がると、繊細な指が乱れた髪を梳いてくれる。
「ひどくうなされておいででしたわ。いやな夢でもご覧になりましたか」
シギスムントは考え込んだ。悪夢ではない。だが、とても気になる夢ではあった。
ふるっと頼りなく首を振ると、美女はあやすように微笑んだ。
「お庭でお茶はいかがですか。陛下の好きなお菓子も用意しました」
「はい、姉上」
口にしてからハッと気づき、慌てて周囲を見回す。くすりと美女が笑った。
「大丈夫ですわ。口うるさい侍従は外に控えておりますゆえ」
いたずらっぽい言い方に、シギスムントは照れ笑いを浮かべた。
彼女のことを姉上と呼ぶたびに、侍従はシギスムントを睨んでいちいち訂正するのだ。『皇妃、もしくはお名前でお呼びなさいませ』と。
わかってはいるが、最初彼女は自分の『姉』となるべく現れたのだ。
彼女の微笑みがとても優しくて美しくて、それがあまりに嬉しかったから、強く心に刻まれてしまった。周りに人がいる時は気をつけているが、ふとした時にほろりとこぼれてしまう。
「さ、お召し替えをいたしましょう。わたくしがお手伝いいたします」
にこりと微笑んだ表情は、まさに年の離れた可愛い弟を見るような慈愛にあふれていた。
宮殿の奥まった内庭にはすでにテーブルや椅子がセットされていた。建物に囲まれた庭から見上げた空は雲ひとつない快晴だ。
この時期、アステルリーズは一年でいちばん美しい季節を迎えていた。庭には薔薇を始め色とりどりの花が次々に開花する。
シギスムントは皇妃が手ずから紅茶を注いでくれる姿を眺め、またしても申し訳ない気分を味わった。
妃であるオフィーリアは現在二十三歳。夫より十二歳も年上だ。
彼女は六王国のひとつヴァルレインの王女だった。元々は兄である先代皇帝ジーグフリード二世の妃となるべく、三年半ほど前に輿入れしてきた。
病死した父の後を継いだジーグフリードは当時二十一歳で年齢的な釣り合いも取れていたのだが、その頃王宮はごたごた続きで婚礼は何度も延期された。
不良行為が過ぎて宮廷から追放された先代皇帝の弟が、逆恨みから兄皇帝を毒殺したという噂が流れていたのだ。鳴り物入りで真相究明が行われたものの、証拠がなくて結局うやむやになってしまった。
やっと挙式の日程が決まって許嫁を呼び寄せた途端、若き新皇帝は狩猟中の事故で急死してしまった。当時まだ七歳の弟シギスムントが後継者となり、母のエメライナ皇太后を摂政として急遽即位した。
二国間で討議した結果、オフィーリアは国には戻らず、そのまま新皇帝の妃となった。七歳の皇帝に十九歳の妃というのは歴代皇帝夫妻の中でも年齢差が突出していたが、いずれ跡取りを儲けることも不可能ではあるまいと見做された。
エメライナ皇太后はこの結婚に猛反対した。そもそも溺愛する長男の妃として迎えるのも不満だった。エメライナの母国レヴェリアはオフィーリアの母国ヴァルレインと長年にわたる確執を抱えていたのだ。
それを宰相ヴィルヘルムが押し切った。三代にわたって皇帝を補佐する宰相には、さすがの皇太后も従わざるを得なかったのだ。
そのエメライナも、長男の死から一年と経たぬうちに馬車の事故で亡くなった。
わずか数年の間に王族の不祥事、疑わしい病死、二件の事故死が立て続けに起こり、人見知りの激しい内気な少年が大国の皇帝として立つという異常な事態になった。一連の死は謀殺ではないか、あるいは何かの祟りではとの噂が流れ、今でもことあるごとに蒸し返される。
年齢的なことに加え、引っ込み思案な性格で、はきはきと自分の意見を言えないシギスムントは、実権から遠ざけられているものの、周囲の者が思い込んでいるほど馬鹿でも暗愚でもなかった。
両親と兄の死に不穏な噂があることも、自分が不甲斐ないせいでアスフォリアの盟主としての地位が揺らいでいることも知っている。それを立て直そうと、宰相が必死になっていることも。
ただ、だからどうすればいいのかがわからない。亡くなった兄は子どもの頃から聡明で将来を期待されていた。学問も武術も政治的なセンスも傑出していた。
憧れの兄だった。それだけに、年齢差以上に遠い存在でもあった。
溜息をついて湯気の立ち昇るカップをぼんやり眺めるシギスムントの横顔に、オフィーリアは愁わしげに眉根を寄せた。
「どうなさいました? さっきから溜息ばかりつかれて」
「あ、ごめんなさい。姉上」
我に返ったシギスムントは慌てて菓子にかじりつき、噎せてしまった。背中をさすりながらオフィーリアは涼しげな笑い声を上げた。
「急ぐことはありませんわ。ゆっくりでいいのです」
オフィーリアの言葉は目の前の出来事だけでなく、シギスムントが常に苛まれている焦りをもなだめてくれるようだった。
「……姉上は、ずっと側にいてくださいますね」
懇願するような声の響きにオフィーリアが目を瞠る。彼女は嬉しそうに頷いたが、その微笑みにはどこか寂しげな翳が漂っていた。
「もちろん、わたくしは一生陛下のお側におりますわ。陛下がそれを望まれる限り」
「シギが望んだってダメなんだもん」
急に子供っぽい口調になった。
拗ねた気分になるといつも精一杯背伸びをしておとならしくふるまっている反動か、実年齢以上に子どもに返ってしまう。わかっていても止められない。
それを知っているオフィーリアは叱ったりたしなめたりせず話を合わせた。
「まぁ、何故ですか? どうしてそんなことおっしゃるの」
「だってシギはずっと側にいてほしかったのに、辞めてどこかへ行っちゃったんだ」
「誰のことですの?」
「昔シギの世話をしてくれた人。シギが皇帝になったらいなくなっちゃったの。――あっ、そうだ。夢を見たんだ」
目をぱちぱちさせる妃に、シギスムントは夢のことを話した。
うまく説明できなくて、もどかしさに苛立ちがつのる。最初とまどった顔で首を傾げていたオフィーリアの表情が少しずつ毅然としたものに変わるのを、夢の説明でいっぱいいっぱいだったシギスムントは気付かなかった。
「どうすればいいのかな。わかんないや。何としても助けてあげたいのに。だって彼はいつもシギが困ってる時に助けてくれた……」
吐息のような笑い声が聞こえ、うつむいて唇を噛んでいたシギスムントはふと顔を上げた。
オフィーリアは静かに微笑んでいた。その笑みはいつものように優しく美しかったけれど、いつもとは何かが違っていた。
オフィーリアの笑みはどこまでもやわらかくて、雲のように掴みどころなくふわふわしている。今の彼女の笑みは、しなやかな強靱さを秘めて内側から光り輝くようだった。まるで雲間から太陽が覗いたみたいに――。
「答えはもう知っているはずだと、言ってあげるといいわ」
彼女の声もまた若木がしなるように凛と響いた。シギスムントはぽかんと妃を見つめた。
「探している答えは、すでに自分の中にあるのです。ただそれを思い出せばいい。今度夢で会ったら彼にそう言ってあげなさい」
シギスムントはこくりと喉を鳴らした。
まったく別の人と会話をしているような気がする。でも全然怖くない。いや、怖くないと言えば嘘になるが、少なくとも恐怖は感じなかった。聖廟の地下で女神の眠る柩を目にした時の畏れに、それはとてもよく似ていた。
ぱち、とオフィーリアが瞬きをした。呪縛が解けたように、ひしひしと感じていた言うに言われぬ威圧感が雲散霧消する。
にっこりとオフィーリアは銀のポットを持ち上げた。
「お茶、もう一杯いかがですか?」
「――あ。いただきます……。あの、姉上」
「はい?」
軽く小首を傾げ、オフィーリアが目を上げる。
「今、おっしゃったことは――」
「わたくし、何か申し上げましたかしら」
オフィーリアはとまどい顔で訊き返した。シギスムントは急いで首を振った。
「いいえ。何でもないんです。――このお茶、おいしいですね」
「それはよろしゅうございました」
ふわりとオフィーリアは微笑んだ。
青空に浮かぶ雲のような微笑み。掴みどころがなくても、シギスムントは彼女の包み込むような笑顔が大好きだった。
それはいつも緊張を強いられて張りつめた心を癒してくれる。
この笑顔を守れるおとなに早くなりたいと、シギスムントは改めて思った。
ソニアを乗せた馬車は市街地を通り抜け、アステルリーズの東区へ入った。
帝都は大きくわけて東西南北と中央の五区画からなる。中央区には各省庁が集まり、その中心にあるのが王宮だ。
王宮にはいくつもの宮殿が建ち並び、議会棟や近衛軍の詰所、帝国軍の各部署、錬魔術中央研究所の他、国の始祖である女神を祀る聖廟がある。
グィネル公爵家のような大貴族を始め、古くからの帯剣貴族はたいてい西区から北区にかけて屋敷を構えている。
法服貴族や商人あがりの下級貴族は東区から南区にまたがる地域に住んでいる者が多い。
ギオール河が東から西へアステルリーズを貫流し、東北から南西にかけては主街道が通じている。そのため帝都の東側は商工業が特に盛んだ。
一般市民が住む居住区は中央区以外ならどこにでもあるが、おおまかに分ければ西区や北区に住んでいるのは比較的富裕層で、東区には大手や中堅の商人、南区では庶民が肩を寄せ合うように暮らしている。
ソニアは帝都では西区にある屋敷を中心に生活し、出かけるのはせいぜい緑地の多い北区や東区、それも中央区寄りの目抜き通りへ買い物に行くくらいだった。
自分が一晩過ごした建物は、どうやら南区にあったらしい。
馬車は螺旋大通りを外れて脇道へ入った。浅緑の柳がそよ風になびく静かな石畳をしばらく進み、噴水と緑地のある広場に面した通りでようやく止まる。
ドアを開けてくれた人物を見てソニアは目を瞠った。
「ギヴェオン! どうしてここに」
「途中で追いついて、後ろに飛び乗ったんです」
こともなげにギヴェオンは答えた。後ろにいるティムに目線で尋ねると、少年は頬を紅潮させてこくこく頷いた。風に晒されて多少髪が乱れているが、ケガもしていないようだ。
「あの変な殺し屋は?」
「追っ払いました。ともかく中へ入りましょう」
ギヴェオンは先に立って階段を昇り、奇妙な意匠の重々しい真鍮ノッカーを鳴らした。メイドのお仕着せ姿の、まだ少女といっていいくらい若い女性が現れた。
「こんにちは、ダフネ。グィネル公爵令嬢をお連れしました」
「ようこそブラウニーズへ」
メイドはうやうやしく膝を折る。ソニアは玄関ホールを見回しながら尋ねた。
「ブラウニーズ?」
「家事使用人の、斡旋所ですよ」
「斡旋所? それじゃ、ギヴェオンはここの……」
「はい、派遣員です」
にこっと無邪気にギヴェオンは笑った。
館の内部は趣味のよい調度品や絵画が適度に飾られ、斡旋所というより個人の邸宅のようだ。
靴音を吸収する深紅色の絨毯を踏んで奥へ導かれる途中、階段の側でギヴェオンは足を止めた。
「ティムは階下で休んでいなさい。ダフネ、お嬢様は私が案内するから、彼にお茶を」
ダフネは頷き、気安い調子でティムを手招いた。ふたりが連れ立って階段を降りるのを見送ってふたたび歩きだし、ギヴェオンはひときわ重厚な造りの扉をノックした。
「ソニア様をお連れしました」
「入りなさい」
クールな女性の声が重々しい口調で応じる。
中に入ると、正面にひとりの女性が立っていた。二十代の半ばくらいだろうか。亜麻色の髪を後ろでまとめ、かっちりした紺色のツーピースドレスが怜悧な美貌によく似合っている。ギヴェオンほどのっぽではないが、ソニアよりもずっと背が高い。
扉を閉めたギヴェオンがソニアの斜め後ろに落ち着くと、おもむろに歩み寄った女性はいきなり左足を振り上げた。ほとんど反動もつけず、右足を軸にして凄まじい勢いの蹴りを放ったのである。
ギヴェオンの側頭部で、ぴたりと足は止まった。ほとんど髪の毛一本の差で見事に停止している。チッ、と女性は舌打ちをした。
「何故避けん」
「避けたらソニア様に当たりますので」
平然と答えると、女性はさらに表情を険しくした。
「このわたしがそんな不手際をするとでも?」
「そうは思いませんが、念のため。下手に避けると反対側の足で背中を蹴られそうだし」
女性はふたたび舌打ちをした。姿勢を正し、ソニアに向かって慇懃な礼をする。
「大変な不作法を、……この者が」
じろり、と女性はギヴェオンを睨んだ。謝罪は自分のことではなかったらしい。
苦笑いして頬を掻く彼を見て、間髪入れずに拳を叩きつける。またもやそれは紙一重の差で止まった。ギヴェオンは顔をこわばらせるでもなく平然と言った。
「眼鏡壊したら弁償してくださいね」
「わかってる」
つまらなそうに言い捨て、女性は拳を引いた。硬直するソニアにギヴェオンは笑った。
「心配しなくても大丈夫ですよ~。所長は寸止めが得意なんで――へぶっ」
今度の蹴りは脇腹にもろに食い込んだ。いつ身を翻したのかもわからない早業だった。ソニアはただもう唖然とした。
(な、なんなのこのひと……、っていうかこのひとたち……!?)
こほんと澄ました咳払いをひとつして、女性はスカートの裾を摘んで優雅に一礼した。
「わたくしは当斡旋所の所長でアビゲイル・ブラウンと申します。今回この者をお屋敷に派遣した責任者として、ソニア様が受けた数々の苦難に対し心よりお詫び申し上げます」
確かに次から次へと大変な目にはあったが、それは別にギヴェオンのせいではない、はずだ。それとも――。ハタと思い当たり、ソニアは眉をつり上げた。
「――やっぱりあなた、あのわけわかんない暗殺者とグルなのね!? 〈月光騎士団〉とかいう過激派結社のメンバーなんでしょ!?」
糾弾されたギヴェオンは目を白黒させて迷惑そうに手を振った。
「だから違いますって。もー、どうしてそうなるかなぁ」
「どうもこうもないわっ、あなたが現れてから変なことばかり起こるじゃないのっ。いきなり命を狙われて、お兄様が反政府過激派で園遊会で爆弾をしかけろと脅されて、フィオナが人質に取られて。特務は出てくるし、ナイジェルは死んじゃうし、お兄様は化け物に変身して、うちは火事になってお父様が死んだわ! それからまた銃でバンバン撃たれるし、いったい何がどうなってるの、頭が変になりそう。誰かちゃんと説明してよ……!」
昨日からの出来事が頭の中で爆発し、すっかり取り乱したソニアは幼子のようにわめき散らした。興奮のあまり目が熱くなり、涙がぽろぽろこぼれる。
堤防が決壊したみたいにわーっと泣きだしたソニアの肩に、ギヴェオンがそっと手を置いた。
「ええ、だからここへお連れしたんです。ここならゆっくり話ができると思って」
「最初から連れてくればよいのだ。回り道などするから余計にややこしくなる」
不機嫌そうにアビゲイルに睨まれ、ギヴェオンは困り顔で頭を掻いた。
「昨夜は警邏隊がやたら出動してて、あっちこっちで道路封鎖してたんですよ。特務の人たちもしつこくてねぇ」
「想定が甘い」
バッサリ切り捨てられ、ギヴェオンは「すみません」と神妙に謝った。ぐすぐすと啜り上げるソニアに向き直り、真摯な口調で告げる。
「とにかく僕らはあなたの敵ではありませんから」
「信じられないわ! もう、誰を信じていいのか、全然わからない」
「まぁまぁ、ここはひとつゆっくりお茶でも飲んで落ち着きましょ~」
のんびりした声が部屋の奥で上がる。別方向の入り口から茶器一式を載せたワゴンを押して現れたのは、先ほど馬車を操っていた金髪垂れ目気味の青年だった。
やむなしといった表情でアビゲイルが肩をすくめる。
「最後の客もちょうど来ました。――どうぞ、入って」
背後に向かって声を上げると、ひとりの青年がおずおずと現れた。
「エリック……!?」
兄ヒューバートのかつての従者エリックは、ソニアを見てホッと安堵の表情になった。
「お嬢様! よかった、ご無事で――」
ソニアは皆まで聞かず怒り任せに掴みかかった。
「あなたのせいね!? あなたのせいでお兄様は変になっちゃったんだわ……!」
「ち、違いますッ」
「はいはい、双方落ち着いてー」
べり、と音をたてる勢いで金髪青年がソニアとエリックを引き剥がす。後ろからギヴェオンがソニアの腕をそっと押さえた。
「あなたの警護をブラウニーズに依頼したのは、このエリックさんなんですよ」
弾かれたように振り向くと、ギヴェオンの蒼い瞳が眼鏡の奥で透徹と光っていた。
「……どういうこと」
「まずは落ち着いて、お茶を一杯召し上がってからです」
にこっと彼はいつものように笑った。
アビゲイルに促されてさらに奥にある小さな居間へ入り、座り心地のよい長椅子に腰を下ろしてギヴェオンが淹れてくれた紅茶のカップを受け取る。金髪の青年はワゴンを押してきただけで、あとはギヴェオンに任せて窓際に腰かけてにこにこしながら一同を見ていた。
ソニアは熱い紅茶を用心しながら最後まで飲み干し、膝に載せた皿に戻した。
「……そろそろ説明してくださる? もう落ち着いて聞けると思うわ」
「ことの発端は、エリックさんが当斡旋所へいらしたことです」
アビゲイルの言葉に、ソニアは緊張しているエリックをじろりと睨んだ。
「お兄様の従者をクビになったから、別の仕事を探そうとしたわけね」
「い、いえ、そういうわけではなく……」
「だってここ、家事使用人の斡旋所でしょ」
「表向きはね」
平然と不穏なことを言ってアビゲイルが微笑んだ。造作が整っているだけに何とも言えない凄味がある。ぞくりとした感覚を打ち消すように、明るい声が響いた。
「それはないでしょ、所長。うちはちゃーんとふつうの斡旋業もしてますよ」
「……彼はわたしの秘書で、ユージーン・リドル」
よろしくね~と笑み崩れる軟派な秘書をアビゲイルは鋭く睨み付けたが、ユージーンはうろたえもしない。軽くこめかみを押さえ、アビゲイルは抑えた口調で話を続けた。
「うちは主に上流階級の方々のお屋敷に勤めるスタッフを派遣しています。皆、求められる職業能力が折り紙付きなのは当然として、うちにはその他にも高い能力を持った派遣員がおります。そこの――」
と壁際に立っているギヴェオンを指す。
「彼のように、一見凡庸そうに見えて緊急時には何かと役に立つ男とか」
「緊急時以外も役に立ちます」
ギヴェオンは眼鏡をきらりとさせて訂正した。アビゲイルは無表情に言い直した。
「……日常はもちろん、とりわけ緊急時に役立つスタッフです。ブラウニーズは色々と事情のある上流階級の方々に、家事能力はもちろん護衛としても有能な特別家事使用人をご要望に応じて派遣しております」
「それが裏家業なんですか」
「いいえ、本業です。要するにうちは『家事以外のことはできません』という人の登録は受け付けていないのです。家事能力に加えて特技のある人のみ採用しております」
窓辺でユージーンが付け加える。
「見るからに護衛ですーって感じの目つきの悪いオニイサンとかが身近にいるのって、けっこう鬱陶しいもんだよ。自分を重要人物に見せたいとか、見せびらかしたい人は別だけど。目立つのが嫌いな人もいるからね。その点、侍女や従者、従僕なんかは側についてるのが当たり前で、わざわざ目に留める人はいない」
確かにそうかもしれないとソニアは頷いた。
「こちらの特色についてはわかりました。でも、どうしてギヴェオンがわたしの従僕になったの? 彼は空きに応募してきたのよ」
「今回の雇い主はこちらのエリックさんです。雇い主というか、依頼人ですね」
面食らうソニアにアビゲイルは頷いた。
「わたしたちは家事使用人斡旋業の他に、ある種の相談所を開いています。引き受けるのは主に錬魔術や〈神遺物〉が関わってくる事柄です」
ソニアは唖然としてアビゲイルを見返した。ついで壁際のギヴェオンを眺め、振り向いて背後のユージーンを見る。そしてまたアビゲイルに視線を戻した。
「あなたたち……、錬魔士なの?」
「無資格だけどねー」
飄々とした口調で悪びれもせずユージーンは肯定した。
「え……、国家資格なしで錬魔術を行使するのは取り締まりの対象になってるんじゃ」
「だから裏家業って言ったでしょ。ひとつ内密にお願いしますよ、ソニア嬢」
「――というわけで、やっとスタート地点にたどり着きました。今回の依頼人はこちらのエリックさん。彼は主人の異変にただならぬものを感じ、我々に相談にいらしたのです」
「旦那様は、明らかに様子がおかしかったんです。あいつと出会ってから――」
アビゲイルの言葉を受け、エリックは堰を切ったように話し始めた。
今から半年ばかり前のことだ。休暇をもらったエリックは行きつけの酒場で飲んでいた。
そこは大学町ロイザでも学生や大学の職員はあまり来ない店で、息抜きにはちょうどよい場所だった。エリックのような貴族の子弟に仕える従者たちがよく集まって、世間話をしたり、使用人ならではの愚痴をこぼしたりする。
その夜は親しい知り合いも来あわせず、エリックは酒場の主人と時折会話をする以外はほとんどひとりで飲んでいた。そこへ現れたのがオージアスだった。
悔しそうに、またどこか怯えたように、エリックは呟いた。
「……きっかけが何だったのか、泥酔していたわけでもないのに記憶がぼんやりして思い出せないんです。気がつくとオージアスと差し向かいで飲んでいて、彼が言いました。自分の主人がヒューバート卿と近づきになりたがっていると。珍しい話じゃありません。そんな輩は掃いて捨てるほどいます。ヒューバート様は準王族である公爵家の跡取り息子ですから。私はいつものように適当に話を合わせておきました。中には賄賂めいたチップを渡して取次ぎを頼もうとする輩もいますが、そういうのはお断りしています。ヒューバート様は内気なところがあって、あまり積極的に交際範囲を広げたがらないんです。私もそこいら辺は肝に命じてお仕えしておりました」
エリックは言葉を切り、紅茶の受け皿を割れそうなくらいに握りしめた。
「……それが、数日後にヒューバート様のお伴で出かけた時、オージアスとその主人にばったり出くわしたんです。ただの偶然なのか計られたものなのかわかりません。無視しようとしましたが、オージアスと目が合った途端に気分が悪くなって倒れてしまったんです。気がつくと病院で、ヒューバート様がおっしゃるにはオージアスの主人が馬車で運んでくれたとか……。それでヒューバート様は彼らをすっかり信用してしまって」
「オージアスの主人って誰なの?」
「エストウィック卿と名乗る、得体の知れない外国人ですよ」
エリックは吐き捨てるように答えた。
「エストウィック卿!? それって、〈世界の魂〉とかいう結社の後ろ楯でしょ」
「そうです。そいつがろくでもない組織にヒューバート様を引っ張り込んだんです。私はヒューバート様を何とか抜けさせようとしました。オージアスにも、妙な活動に旦那様を巻き込むなと何度も強く抗議しました。でも奴はのらりくらりと言い逃れるばかりで」
(そういうところをナイジェルに目撃されて、誤解されたんだわ……)
ナイジェルの凄絶な死を思い出し、ソニアの胸は鋭く痛んだ。だが今は悲しみに浸っているわけにはいかない。
ソニアは涙ぐみそうになるのをぐっと堪えた。
「……あなたの忠告を、お兄様は聞かなかったのね」
「は、はい……。何度申し上げても、おまえの誤解だ、曲解だとおっしゃるばかりで。ひどく不機嫌になって、今までにないほど激昂されてひどい言葉で罵られました。驚きましたが、それ以上に心配でたまらず……。こうなったら大旦那様にお出まし願うより他ないかと、手紙を書き出したところを旦那様に見つかって、その場でクビを申し渡されました。私を大旦那様のスパイだと決めつけてひどく罵倒されて。私もあまりにショックで、つい売り言葉に買い言葉、辞めますと叫んで飛び出してしまったのです……」
「あなたのせいじゃないわ」
「いいえ! 私のせいなんです。元はといえば、私があの胡散臭い男と近づきになってしまったのが悪い。私のせいなんです……!」
生真面目な従者が両手に顔を埋めるのを、なすすべもなくソニアは見つめた。
やがてエリックは顔を上げ、小さく鼻を啜った。
「――すみません。まだ続きがありました。飛び出したものの、何日か経ってこっそり戻ってみたんです。まだ鍵を持っていましたし、エストウィック卿と付き合うようになってから旦那様はとても体調が悪そうだったので気になって。寝室を覗くと旦那様が臥せっているのが見えました。私に気付くと嬉しそうに微笑まれて、『ああ、エリック。戻ってきてくれたんだね』とおっしゃって――。痛々しいくらいしわがれたお声で、私の手を握りしめて何度もすまないと繰り返されました。すぐに医者を呼ぶと言いますと、旦那様は弱々しく首を振って『もう遅い。僕はもうダメなんだ』と言うばかりで。そのうちに顔色がますます悪くなって、死人のような土気色に変わってガタガタ震えだしたのです。苦しげに咳き込まれて、もういても立ってもいられず、医者を呼びに行こうと立ち上がったところノックもなしに扉が開いて、オージアスが手に小さな盆を持って入ってきました。盆の上には注射器とかゴムのチューブとか、何か医療器具のようなものが色々と乗っていました。医者を呼べと怒鳴りますと、奴はふてぶてしく『自分は医師の資格を持ってる』などと言い出したのです。そうする間にも旦那様の容体はますます悪くなって、オージアスも焦った様子で私を押し退け、手早く注射をしました。何の薬だかわかりません。突き飛ばされた拍子に頭を壁にぶつけて目が回っていたものですから……。ただ、血のように赤いものが入っていたのはどうにか見えました」
ソニアは青ざめて拳を握りしめた。
「お兄様、やっぱり病気だったのね……」
「注射をすると旦那様は一応落ち着かれて、そのまま眠ってしまったようです。私は恐ろしくなって寝室を飛び出しました。追いかけてきたオージアスに睨まれたら急に身動きできなくなって……。その時、呼び鈴が鳴らなかったらどうなっていたことか……」
「誰が訪ねてきたの?」
「郵便屋です。私はとにかく恐ろしくて、配達人を突き飛ばして逃げ出しました……」
ソニアは何といっていいかわからず、うなだれたエリックを見つめた。
「……それで、ここに相談に来たのね」
「は、はい。どうしたらいいかと悩んでいるうちに、ふとこちらを思い出しまして。使用人仲間の噂話で聞いたことがあったんです。登録が難しい上流向けの斡旋所で、わけのわからない出来事の相談にも乗ってくれると。旦那様の異変は単なる病気とは思えません。何だかとても妙なんです。オージアスも普通の人間とは思えないし。奴と話していると頭が急にぼうっとしてきたり記憶が飛んだりするんです。奴も錬魔士なんでしょうか」
アビゲイルが重々しく頷いた。
「可能性はある」
「才能と実力があっても免許を取らない人ってけっこういるからね~。下手に免許なんて持ってると色々とうるさいし」
対照的な軽い口調でユージーンが口を挟む。ソニアはそろりと斡旋所の顔ぶれを見回した。彼らもそういう理由であえて無免許のままなのだろうか。
(錬魔士の正式免許を持っていれば研究所や軍で高給取りになれるそうだけど……)
民間で独立開業している錬魔士は大儲けしているとも聞く。もっとも大部分の錬魔士は研究者なので、一般客からの依頼のみで生計をたてているような輩は蔑視されがちだ。ソニアの家庭教師アイザックも国家資格を持った錬魔士だが、よほど親しい間柄かその紹介でもないかぎり相談は受けないと言っていた。
「さて。我々ブラウニーズの立場とエリックの事情についてはわかっていただけましたでしょうか? ソニア様」
「は、はい。大体は」
「結構です。では続きはわたしから説明いたしましょう。エリックの相談を受けて調査した結果、ヒューバート卿が〈世界の魂〉を名乗る結社に加入したことが確認できました。この結社は元々学生の道楽クラブだったのが、次第に変質したものです。〈世界の魂〉の主催者であるエストウィック卿とお会いになったことはありますか?」
「わたしが紹介されたのは偽者でした。いつ入れ代わったのかわかりませんけど……。結社のメンバーも偽者と知って驚いていたし。彼は何を企んでいるのかしら」
「あなたはご存じのはずですよ。お兄様から無茶なことを強要されたでしょう?」
ソニアは絶句した。何故それを知っている? そのことはまだ誰にも話していないのに。アビゲイルは感情の読めない青い瞳でソニアを見つめ、口許だけで笑った。
「我々には色々と手段もございますから」
ハッとソニアは壁際に控えたギヴェオンを見た。ほんの少し居心地悪そうに動いた表情で、疑惑が確信に変わる。
「……何をしたの」
「お嬢様の耳飾りに錬魔術で少々細工を。ご無礼ながら城の内部で交わされた会話をすべて聞かせていただきました」
ソニアは盗み聞きされた怒りと羞恥とで真っ赤になった。
「よくもそんなこと……ッ」
「申し訳ございません」
深々と彼は頭を垂れた。拳をふるわせるソニアをなだめるようにユージーンが言う。
「気持ちはわかるけど、特務に連行されるのを防げたと思って許してもらえないかな」
「……二度と無断でしないでよ」
ソニアは眉を怒らせたままそっぽを向いた。
「大体の経緯はわかったわ。お兄様は〈世界の魂〉に加入しておかしくなった。結社は王家に対する反逆を企んでる。首謀者はエストウィック卿ってわけね。でもどうして外国の亡命貴族がアスフォリア王家を狙うの? それに――、お父様は誰に殺されたの」
「わ、私じゃありません」
黙り込んでいたエリックが裏返った声で叫んだ。
「だってあなた、血相変えてお父様の書斎から飛び出してきたそうじゃないの」
「確かにお屋敷には伺いました。前もって公爵様に手紙を差し上げたんです。ヒューバート様のことでお話したいと。日時を指定されて訪ねると、すぐに書斎に案内されました。ところが書斎に入ったらあいつが……、オージアスが立っていて――」
「オージアスが!?」
「は、はい。執事はドアの陰にいて気付かなかったようです。私が突っ立っている間にドアは閉まりました。金縛りにみたいになって、動くどころか声も出せなかったんです。オージアスの足元に公爵様が倒れているのが見えました。目をカッと見開いて、すでに亡くなられていることは一目でわかりました。オージアスはその手に銃を持っていて、身動きできない私に歩み寄り、銃を握らせて囁きました。突然解雇された文句をつけに来た私が逆上して公爵様を撃ち殺し、我に返って発作的に自殺した。そういう筋書きだと……。こめかみに銃口を押しつけられ、それでも声が出せなくて。もうダメだと覚悟した瞬間、ノックの音で金縛りが解けました。こないだの郵便屋みたいに――。きっと女神様のご加護です! 私はすっかりパニックになって部屋を飛び出して。誰かにぶつかったようですが、よく覚えていません」
「ぶつかったのはティムよ。彼はあなたがお父様を殺したのだと思い込んでいるわ」
「違います! 犯人はオージアスです、本当ですっ」
うろたえたエリックはふたたびパニックに見舞われたようにわめきたてた。
アビゲイルは鬱陶しそうに眉を寄せ、エリックの顔に無造作に拳を放った。寸止めではなく微妙に当てたらしい。痛みよりもショックを受けた様子でエリックは目を見開いた。
ソニアは今聞いた話を懸命に頭の中で整理した。
「オージアスがお父様を殺したとして……、でも、どうしてそんなこと」
「反政府活動の一環でしょうね。グィネル公爵は準王族かつ御前会議の重要なメンバーで影響力も大きい。他のメンバーにかなりの衝撃を与えることができる」
「……お兄様はいったいどうなってしまったの。主義主張のことじゃないわ。わたし、見たのよ。目の前で、お兄様が――、怪物に変貌するのを……」
すっ、とアビゲイルの瞳が冷える。見えないけれど、ユージーンとギヴェオンも同じような目で自分を見ている気がする。顛末を知らないエリックだけがぽかんとしていた。
「まさしくそれが、我々がエリックの依頼を引き受けた理由です。人間を異形のものに変えるなどという技には、必ず〈神遺物〉が関わっている」
〈神遺物〉。遠い昔、神々の争いの集結とともに失われてしまったという超文明の名残。
『神々が眠りに就いた後、人間は〈神遺物〉を発掘し、その技術を学ぶことで急速に復興を遂げることができたのです』
授業でアイザックが言っていたことが思い浮かぶ。何故だか彼は苦々しい口調で、眉間にしわを寄せていた。
それは彼が創造主教会の使徒だからだと思っていたが、もしかしてそれだけではなかったのだろうか。
「……どうして遺跡管理庁に話を持っていかないの」
「遺跡管理庁はその名のとおり、遺跡と、そこから出てくる〈神遺物〉を管理・研究するための機関です。彼らがこのことを知れば、何としてもヒューバート卿を手に入れようとするでしょう。貴重なサンプルとして」
「サンプル……!?」
「モノ扱い、されますよ。間違いなく。わたしたちはそれを望まない。あなたと同様に」
「じゃあ、あなたたちの目的って何」
「一言で言えば危険な〈神遺物〉の破壊です。〈神遺物〉は生活に役立つものもありますが、ろくでもないシロモノも多いのですよ。人間の怪物化どころじゃない。都市ひとつ簡単に、いえ、まるごと国ひとつ一瞬で消滅させられるような、とんでもない兵器もある。わたしたちはそういうものを見つけて破壊することを目的にしています」
ソニアは身をこわばらせた。背中を冷たい汗が滑り落ちる。もしかしたら彼らは〈世界の魂〉や〈月光騎士団〉よりも危険な存在なのでは……?
「あーもう、所長~。純情なお嬢様をそんなに怯えさせてどーすんですか」
突然、緊張感の欠落した声がのんびりと割って入った。
ユージーンが窓辺を離れて歩いてくる。彼は壁際に控えていたギヴェオンの肩を、いきなりガッシと抱え込んだ。
「僕ら、そんな怖い人に見えます~? まぁ、破壊活動なんてったら確かにテロリストみたいだけどさ。破壊するのは危険物に限りますんで。なー? ――いでぇっ」
ギヴェオンが鬱陶しげにユージーンの手の甲をつねり、アビゲイルの冷やかな声が飛ぶ。
「ユージーン。表の仕事で勤務中のスタッフには絡まないよう言ってあるはずよ」
「はいはい、すいません」
「ソニア様。これだけははっきり言っておきます。わたしたちの目的はヒューバート卿を救出し、王家に対する反逆を阻止することです。危険な〈神遺物〉の破壊とてアスフォリア帝国を守るためにしていることであり、他意はございません」
「そうそう、僕らバリバリの保守で王党派なのー。アスフォリア帝国ばんざーい」
「黙ってなさい、ユージーン! あなたが言うとふざけているようにしか聞こえない」
「えー、本気なのになぁ。僕、アスフォリア様が大大大好きなんだよ?」
アビゲイルは頭痛を堪えるようにぐりぐりとこめかみを揉んだ。
「……とにかくわたしたちはあなた方と対立する者ではありません。証明しろと言われても今すぐは難しいので、信じてもらうしかありませんが」
ソニアは上目遣いにギヴェオンを眺めた。眼鏡の位置を直したギヴェオンが、にっこりと笑う。まっすぐに注がれるまなざしは深く穏やかでどこまでも澄んでいる。ソニアは何だか泣きそうになって、それを隠すためにわざと睨み付けた。
「……信じるわ」
睨まれてうろたえたギヴェオンが、ホッと息をつく。
信じてみよう。
彼らのすべてが理解できたわけではないけれど、敵ではないという言葉だけは信じられる気がした。
ソニアはアビゲイルの勧めで当分のあいだブラウニーズに滞在することになった。
ソニアの身分を考えると生半なことでは指名手配書など出せないが、特務に見つかれば参考人として連行されるのは目に見えているし、暗殺者もまだ諦めてはいないだろう。
「ジャムジェムも〈世界の魂〉のメンバーなのかしら」
ギヴェオンの案内で客間へ移動しながら尋ねると、彼は眉根を寄せて首を振った。
「〈世界の魂〉は結局貴族の集まりですから、彼は雇われたごろつきでしょう」
「最初にジャムジェムに襲われた時助けてくれたのは偶然? それとも見張ってたの?」
「偶然です。お嬢様は強運の持ち主でいらっしゃる。もっとも、職を求めて公爵家へ向かう途中ではありましたので、まったくの偶然とも言いがたいところですが」
「うちで従僕の空きが出たのも偶然というわけ?」
皮肉っぽく尋ねるとギヴェオンは苦笑した。
「それはこちらの細工です。報酬のよい勤め先を紹介して辞めてもらいました。――さて、お部屋はここです」
ギヴェオンが扉を開けてソニアを通す。室内に入ると、部屋の隅にいたお仕着せ姿の少女が立ち上がった。それは今朝方着替えを手伝ってくれたあのメイドだった。
「ミミは元々ここのメイドです。何なりとお申しつけを。それではおやすみなさいませ」
呆気に取られているうちにギヴェオンは扉を閉めて去ってしまった。
にこっと笑ったミミが身振りで着替えを勧めてくる。今朝から彼女は一言も喋っていない。どうやら話すことができないらしい。
ソニアはおとなしく世話をやいてもらうことにした。
薄闇の中に、人形の如き少年が立っていた。
一昔前の貴族の格好をした少年の美しい金髪は乱れ、花びらと土がついていた。服も泥だらけ。まるで土砂崩れに巻き込まれ、ほうほうの態で逃げ出してきたようだ。
流線型の椅子で帝王のごとく傲然と長い脚を組んだ男は、一言も発せず無感動に少年を眺めた。少年は自棄を起こしたように叫んだ。
「何とか言えよ、オージアス!」
「何を言えと? おまえがしくじったということは見ればわかる。しかも、これで二度目。さらに言えば思いっきり手加減されてるな」
冷やかに言い捨てられ、ジャムジェムは眉をつり上げて黒髪の青年を睨んだ。憤怒と屈辱で陶器のような肌が赤黒く変わる。
「……あいつ、普通じゃないんだよッ」
「それは最初の時でわかってるはずだ。なのに何故失敗を繰り返す?」
「だって……、ただの人間が僕らにかなうわけないじゃないか」
「だから普通じゃないんだろう? 自分で言っておきながら信じていない。苦しい言い訳だな、ジャムジェム。今のおまえは実に見苦しい」
美少年はムッとしてオージアスを睨んだ。
「だったらあんたがやれば。大体、あんたがさっさとあいつを始末しておけばこんな面倒なことにはならなかったんだ。公爵邸で一緒だったんだろ」
「失態を棚上げして吠えるのが得意だな。私は私のやるべきことをやっている。おまえはおまえのやるべきことをやれ。それができないなら、ひとのやることに口出しするな」
氷よりも冷たく言い放たれ、一瞬怯んだジャムジェムはぷいとそっぽを向いた。むくれながら踵を返すと、鞭のようにしなる声が背中を打った。
「言っておくが、始末すべきは娘の方だ。忘れるな」
「わかってるよ! あいつが引っついてて邪魔するんだから仕方ないだろ!?」
「だったら引き離せ。奇天烈な格好を考える以外にもたまには頭を使ったらどうだ」
「むかつくぅ……っ」
ジャムジェムは少女のような顔を怒気にゆがめ、憤然と靴音を鳴らして立ち去った。
ゆらりと立ち上がったオージアスは、ゆっくりと薄闇の中を歩いた。
歩くたびにかすかに周囲が明滅する。やがて足を止めると、そこには頑丈な鉄格子の嵌まった巨大な檻があった。
中には粗末な寝台が置かれ、青ざめた青年が横たわっている。その傍らで汗ばむ青年の額をかいがいしくぬれ布巾でぬぐっていた少女が、怯えた顔で振り向いた。
「……あなたのお蔭で準備は順調ですよ、ヒューバート卿。女神の柩が開かれた夜、終焉の宴の幕は上がり、盛大な炎が帝都を包むことになる」
オージアスがゆったりと腕を組んで微笑むと、少女は鉄格子にすがりついて叫んだ。
「お医者様を呼んでください。このままではヒューバート様が死んでしまいます」
「心配することはない。そう簡単に彼は死なないよ」
残酷に微笑んで背を向けたオージアスの背が薄闇にまぎれる。ヒューバートは整った顔をゆがめ、苦悶の瞳を少女に向けた。
「すまない、フィオナ……」
痩せ衰えて骨の浮いた彼の手を両手で握りしめ、フィオナは押し殺した声で叫んだ。
「ああ、どうか。神様……!」
その声は、闇の向こうにいるオージアスにも届いた。彼はゆっくりと口角を上げた。
「……ここにいるよ。きみの呼ぶ『神』は……」
さざ波のように、闇が揺らいだ。
ブラウニーズでの生活が始まって数日後、ソニアはナイジェルの葬儀に出かけた。
ギヴェオンが情報を持ってきてくれて、どうしても行きたいと懇願したのだ。アビゲイルはいい顔をしなかったが、ともかく参列は許された。
ユージーンは出かけていたので辻馬車で葬儀場に赴いた。ギヴェオンは紳士の装いをして、馬車でもソニアと同乗した。ギヴェオンの方がナイジェルの友人と思わせるためだ。
葬儀会場の小さな祭殿にいたのは柩守の老人だけだった。他に祭文を詠唱する神官と伴奏の竪琴を弾く神官がいるはずだが、ちょうど昼時で親族が席を外したので休憩に入っているようだ。ギヴェオンはそれを見越し、わざわざ人が少なくなる時間帯を狙った。
柩守の老人はこくりこくりと舟を漕いでいた。ソニアたちが入っていくと薄く片目を開いたが、会葬者だとわかるとすぐに目を閉じてしまった。
ソニアは入り口の脇に並べられていた赤い薔薇を一本手に取り、ゆっくりと柩に歩み寄った。
柩の足元には白い犬がうずくまっていた。渦巻くようなふさふさした毛並みの、細長い顔をした大型犬だ。
「……コーディ。あなたはコーディね」
ソニアが囁くと、犬は顎を床につけたまま目を上げた。
「ご存じなんですか?」
「話に聞いただけ。とても優秀な猟犬だったそうよ。お父様が亡くなられて犬は全部譲ってしまったけど、ナイジェルにいちばん懐いていたコーディだけは残したんですって。もう年を取ったから領地でのんびりさせてるって聞いてたけど……」
ソニアは屈んでそっと指を伸ばした。
「こんにちは、コーディ。あなたもアステルリーズに来てたのね」
老犬は尻尾をぱたりと揺らし、くぅんと哀しげに鼻を鳴らした。犬の頭を撫で、ソニアは身を起こした。
開かれた柩の中が視界に飛び込んできて、反射的に硬直してしまう。ぎゅっと薔薇を握りしめ、ソニアは細い息を洩らした。
呼吸を整え、柩の側に歩み寄る。
死化粧を施されたナイジェルは眠っているようにしか見えなかった。弾丸はすべて胸部に撃ち込まれたため、目に見える部分には傷跡ひとつない。
嗚咽が込み上げてきて、ソニアは口許を押さえた。ギヴェオンがそっと肩に腕を回す。ソニアは息苦しさが収まるのを待ち、手にした薔薇を静かにナイジェルの胸の上に置いた。
彼の魂の安寧を祈り、最期にもう一度うずくまったままの犬を撫でると、ソニアはギヴェオンの腕に手を添えて静かに祭殿を後にした。
「ナイジェル卿とは親しかったのですか」
遠慮がちにギヴェオンが尋ねる。
「……そういえば、あなたはナイジェルに会ってないのね」
「石を通してお声を聞いただけです。理性的で思慮深い方だったようですね」
過去形で語られるのを物哀しく思いながら、ソニアは頷いた。
「ナイジェルは兄ととても仲がよかったけど、性格的にはむしろ正反対だったと思うわ」
兄ヒューバートは明るくて闊達だったが、悪く言えば浅はかで軽薄な面もあった。何事につけ表面だけで拙速な判断をしがちで、父にもよくたしなめられた。
兄にとって父は絶対の存在だったから、そうなると今度は過剰なまでに気に病んで、いつまでもくよくよしてしまう。
その点、ナイジェルは慎重な性格で、様々な角度から的確に判断することができた。気分のむらも少なく、落ち着いて穏やかだった。プライドが嵩じて少々傲慢なところのあった兄とは違い、誰に対しても礼儀正しく親切だった。
「全然違ってたから、かえって気が合ったのね。ひょっとしたら兄はナイジェルに甘えていたのかもしれないわ。一緒にいると気が楽なのか、ずいぶんやんちゃにふるまってた。――去年の夏、ナイジェルはわたしたちと田舎で休暇を過ごしたの。そのとき兄があんまり勝手放題にふるまうので、心配になってこっそり謝ったのよ。機嫌を悪くして出て行かれたらどうしようと思って……。彼は笑ったわ。気にしてないって。自分には家族がいないから、兄弟ができたみたいで嬉しいって」
あふれそうになる涙を押しとどめようと、思いつくままナイジェルとの思い出を挙げた。
「彼はスポーツが得意だったわ。勉強もよくできたみたい。お兄様はいつも負けてるんだって自分で言ってた。ただひとつ、勝てるのは馬車だけだって」
「馬車ですか。ああ、レースですね」
「違うわ。ナイジェルはどういうわけか馬車が苦手だったの。ひどい乗り物酔いで」
ぽかんとするギヴェオンに、自分でも小さく笑ってしまう。
「どんな馬車でも十分もすれば気分が悪くなってしまうんですって。御者席にいてもダメだって言ってたわ。風にあたれるだけいくらかよかったそうだけど。だから、どうしても馬車で移動しなくてはならない時は早めに出発して、気分が回復するまでの時間を取るんですって。何だか可笑しいでしょ」
「……確かに変わってますね」
「恥ずかしそうな顔でそう言って、溜息ついてた。『せめて人の身で享受できる速度くらい、存分に楽しみたかったのに』なんて、お芝居みたいにしかつめらしく眉間にしわを寄せて、嘆かわしげに首を振ってね……。悪いと思いつつ笑っちゃった」
ソニアが笑うのを見て、ナイジェルも笑った。その笑顔が、とても好きだった。
「馬車には乗らないわって言ったの。わたしはゆっくりと、あなたの隣を歩くから……」
驚いた顔をしたナイジェルは、ソニアを見返して微笑んだ。そしてソニアの大好きな深みのある穏やかな声で囁いた。『ああ、それはとても素敵だね』……
その声が脳裏でこだますると同時に、抑えていた涙がこぼれ落ちた。ギヴェオンがそっとハンカチを差し出す。ソニアは受け取ったハンカチで目頭をぎゅっと押さえた。
「……卿がお好きだったんですね」
ソニアは無言で頷き、しばらくその場に立ち尽くした。
「ごめんなさい。もう大丈夫よ」
照れ隠しのように笑い、ギヴェオンの腕を取った。
「それじゃ、どこかでお昼を食べてから帰りますか」
「いいの? アビゲイルさんに怒られるんじゃ」
「せっかくだから、ちょっと街の様子を見てみましょう。私から離れないでくださいね」
ソニアは頷き、なるべく自然に見えるように腕を絡めた。カップルを装うのが一番目立たなくていいのだ。
神殿の敷地を出ると籠を手にした中年女性がすっと近づいてきて、二つ折りになったパンフレットのようなものを差し出した。籠の中には同じものがぎっしり詰まっている。
女性は祈りの言葉らしきものを小声で呟いた。神殿から出てくる人たちに同じことをしながら向こうへ歩いていく。ギヴェオンは小さく苦笑した。
「創造主教会のパンフレットですよ。神殿の目の前で勧誘とは、堂々としたもんですね」
「あんまり効果はなさそうよ。ほら、ちらっと見ただけでみんな捨ててる」
お蔭で掃除人は大忙しだ。頭に来たのか、籠を持った人たちを箒で追い立てる者もいる。
「これも千年祭のせいかしら。前はさすがに神殿の近くにはいなかったと思うけど」
答えがない。ギヴェオンは険しい顔でパンフレットを見ていた。覗き込むと、創造主を讃える預言の書の一節が印刷された余白の部分に、走り書きの文字があった。
『侍女の命が惜しければ一時までにアッシュヴィルの廃神殿へ来い。令嬢ひとりで』
慌てて振り向いたが、女性の姿はすでに雑踏の中に消えていた。
「これってフィオナのことよね……!?」
「アッシュヴィルの廃神殿か……。南区の外れだ。老朽化して危険なので閉鎖されてる」
「は、早く行かなきゃ!」
ギヴェオンは懐中時計を確かめた。
「……あと二十分。時間がない、行きましょう」
「で、でもわたしひとりでって……」
「ひとりじゃ行かれないでしょ」
ギヴェオンはソニアをせき立て、大股に歩きだした。
その頃ブラウニーズでは、昼食の用意が整ったことを告げたダフネがぐずぐずと居残っていることに、アビゲイルが眉をひそめていた。
「どうかしたの、ダフネ」
「あ、あの……。いえ、何でもありません」
急いで退出しようとする少女を、アビゲイルは穏やかに引き止めた。
「何かあるなら遠慮なく言っていいのよ」
「その……、ユージーンさんのことなんですけど……。あたし、市場へお使いに出た時に見たんです、たまたま。ユージーンさんが、軍人さんと話してるのを」
ぴくり、とアビゲイルの柳眉が動く。
「軍人だと見てわかったということは、つまり制服を着ていたわけね?」
「はい。えっと、濃い灰色の、裾の長い上着でした」
濃い灰色は特務隊のカラーだ。裾が長い上着は将校であることを示す。特務隊の将校と言えば、とりあえず思い当たるのはソニアから聞いたハイランデルとかいう少佐だが……。
「何を話していたのか聞こえた?」
「いえ、遠かったので……。ユージーンさんはいつもみたいに愛想よく笑ってました。軍人さんの方はずっとこちらに背中を向けてたので顔はわかりません」
アビゲイルは、おどおどしているダフネににっこりと笑いかけた。
「よく話してくれたわね。これからも何か気付いたことがあれば言って」
ホッとした顔で頷き、少女は急いで礼をして部屋から出ていった。アビゲイルは椅子の背にもたれ、冷やかに呟いた。
「……特務とお喋り、ねぇ。いい度胸してるじゃないの」
机の抽斗を開け、二重底になった部分からアビゲイルは一挺の拳銃を取り出した。しげしげと眺め、ひとりごちる。
「残念、弾丸を切らしてたんだっけ」
肩をすくめて銃を戻し、とりあえず昼食にしようとアビゲイルは立ち上がった。
閉鎖された神殿は真昼にも関わらず薄暗かった。
丸天井の周囲には明かり取りの窓があるものの、長年の埃で曇ったり、割れて板で塞がれていたりして、わずかな光しか射し込まない。
かつては南区の中央神殿だったが、かなり以前に移転してしまい、現在この辺りに住んでいるのは日々の生活だけで精一杯の人々だ。
ここまで十五分で来られたなんて奇跡のようだ。
やはりギヴェオンはいざとなれば行動が速い。ソニアがおろおろしている間に足の速そうな辻馬車を見つくろって交渉し、馬ごと買い上げてしまった。
商売道具である馬と馬車を譲るくらいだから、余裕で新品が買える金額だったはずだ。馬車の中に取り付けられた添え木に両手でしがみつきながら、ソニアはいつかの夜を思い出していた。
舌を噛まないようにしっかり口を閉じ、ギヴェオンが通行人を轢き殺さないよう懸命に祈った。
ソニアはがくがくする足で神殿に入り、がらんとした薄暗い空間で声を張り上げた。
「来たわよ……! フィオナを返して」
怒鳴ると眩暈がして、よろけてしまう。ソニアは頭を押さえて何度も深呼吸をした。
「……へぇ。本当にひとりで来たんだ」
嘲るような声が陰から聞こえた。丸天井を支える柱の側にいつのまにかジャムジェムが立っていた。今日はレースのついた白いブラウスに袖無しヴェストを着て腰に細身の剣を吊り、頭には羽根を飾った鍔広帽子を斜にかぶっている。
何事もなければいちいち派手な格好だと感心するところだが、猿ぐつわを噛ませて縛り上げたフィオナを引っ立て、喉元に鋭い短剣の切っ先を突きつけているのを見たら、そんな悠長なことは言ってられない。
「気配がないな。あいつ本当に来てないの? 残念、買いかぶりだったかな」
「それはどうも」
低い声がすぐ側で響く。
ぎょっとしたジャムジェムは振り向く暇もなく吹っ飛んで瓦礫の散らばる床に転がった。どこから現れたのか、ギヴェオンが拳を握ってフィオナの側に佇んでいた。
殴り飛ばされたジャムジェムは、茫然と頬を押さえて身を起こした。ギヴェオンはひょいとフィオナを抱え上げ、呆気にとられているソニアの側にすとんと下ろした。
後ろ手に縛り上げていた縄を奇術のようにあっさり解いてしまう。
「下がってて下さい。今、迎えが来ますから」
床に座り込んでいた少年が、突然けたたましく笑いながらぴょんと跳ね起きた。
「あっははは。びっくりしたぁ! まさか完全に気配を消せるとはねぇ。驚いた。やっぱりあんた人間じゃないね」
妙に嬉しそうな少年の言葉に、ソニアはぎょっと目を瞠った。ギヴェオンは答えない。
「うん、うん、そう来なくっちゃ。ただの人間がこのジャムジェムに手出しできるわけないもんね。ジャムジェムは人間なんかよりもずーっとずーっと優れてるんだから。うん、今のでわかったぞ。ねーねー、あんた半神でしょ」
「違います」
そっけなく否定され、ジャムジェムは耳障りな笑い声を上げた。
「うっそだぁ。絶対そうだよ。最初っから何か変だなぁって思ってたんだ。ジャムジェムの仕事を人間が邪魔するなんて、もう絶対あり得ないもんね」
「自信過剰ですね。人間を舐めすぎると痛い目を見ますよ」
「いいね、是非とも見てみたいよ。昨今の人間は弱っちくて、つっまんないんだもん。そのお嬢様はわりと根性あって愉しめたけど」
べろ、と異様に赤く長い舌で唇を舐める。生理的嫌悪感にソニアは鳥肌がたった。
「私は半神ではありませんし、あなたのような傀儡でもありません」
冷やかにギヴェオンが放った台詞に、少年の顔色が変わった。
「……誰が傀儡だって?」
「あなたは傀儡でしょ。自分の意思ではなく、誰かの指先で踊ってる操り人形だ」
「ジャムジェムは傀儡じゃなーいっ……!」
少年の指先に炎が燃え、ゴウッと渦を巻いてギヴェオンに襲いかかった。
「舞え! 火蜥蜴の槍!」
ギヴェオンは平然とその場に立ったまま眼鏡をついと押し上げた。
「無効化」
呟きと同時に、ギヴェオンの面前で炎は障壁に当たったように跳ね返った。
そのまま空中に火花を散らしながら霧散してしまう。つかのま花のように広がった炎の中から、剣を構えたジャムジェムが飛び出してきた。
「取ったァ!」
剣先がギヴェオンの喉を貫く光景にソニアは悲鳴を上げた。
少年が鋭く舌打ちをする。ギヴェオンはわずかに上半身を傾げた体勢で切っ先を避けていた。床を蹴った少年がふたたび襲いかかる。
目にも留まらぬ高速の突きをギヴェオンは薄皮一枚の距離で躱し続けた。
「このッ、逃げてばかりいるんじゃないよッ、半神のくせに」
「だから半神じゃありませんって」
ガツッ、と剣が弾かれる。それまで左手に持っていただけのステッキを、やっと使ったのだ。ジャムジェムはにやりとした。
「それって仕込み杖?」
「ただのステッキです」
しれっとギヴェオンは応じ、ジャムジェムは眉をつり上げた。
「なんだよそれ、ふざけんなっ」
距離を置いて細剣とステッキを構えたふたりが睨み合う。
先に動いたのはやはりジャムジェムだった。鋭い気合とともに打ちかかる。ギヴェオンはステッキで切っ先を躱すだけで、攻撃しようとはしない。それとも避けるだけで精一杯なのだろうか。
ソニアはフィオナと抱き合いながらハラハラと勝負の行方を見守った。
明らかにギヴェオンは押され気味だった。時折反撃に出て立ち位置を変えるが、それも苦し紛れに逃げ回っているだけのように見える。
瓦礫に足を取られるのか、時に体勢を大きく崩してステッキを支えにすることもある。先端が床を滑り、そのたびにソニアは悲鳴を呑みこんだ。
「やぁ、お待たせ」
いきなり背後から声をかけられ、心臓が止まりそうになる。振り向くとユージーンが状況を丸無視した泰平楽な顔で佇んでいた。
「ど、どうしてここに!?」
「ギヴェオンから連絡もらってねー。時間くっちゃって、ごめんごめん。ケガはない? ――じゃ、行こうか。気付かれないように静かーにね。ギヴェオンなら心配しなくても大丈夫。なーに、あいつは殺したって死なない男だから」
ひそめた声で笑ったユージーンに促されて忍び足で移動を始めたものの、さっきから押されっぱなしのギヴェオンが気になって仕方がない。
「ユージーンさん、ギヴェオンって錬魔士なんでしょ。どうして錬魔術を使わないの」
ジャムジェムも炎を操っていたから多少は使えるのだろうが、あの奇態な少年は刃物や銃といった武器で闘う方が好みらしい。
人間の持つ〈第五元素〉を活性化して自然界の四元素、火・水・風・土の元素霊たちを動かす錬魔術は、元素霊の条件反射を利用したごく単純なものなら術式と聖句、護符の適切な組み合わせさえ間違わなければ誰にでも使えるのだ。ソニアにも火種を起こすくらいならできる。
「さぁー。面倒なんじゃない?」
他人事めいたユージーンの言葉に絶句する。ハッと思い当たり、ソニアは足を止めた。
「もしかしてギヴェオン、護符を持ってない……?」
ソニアは胸元から六芒星の護符を引っぱりだした。掌に収まるサイズだが、純金と青玉、乳白色の蛋白石を使用して神官が手作りした、正式かつ強力な護符だ。
ソニアは首から遮二無二外した護符を握りしめ、だっと引き返した。
引き止めようとするユージーンに、緊張が限界を超えて失神したフィオナがふら~っと倒れかかってくる。慌ててフィオナを支えながらユージーンは怒鳴った。
「だめだよ、邪魔したら!」
すでにその声はソニアに届かなかった。
距離を置いて対峙するギヴェオンとジャムジェムをソニアは物陰から息を殺して窺った。ギヴェオンは壁際に追い詰められている。
「ちょっとは遊べるかと思ったのに、半神って所詮こんなもの? 神よりもずっと人間に近いっていうのは本当だったんだ。つまんないからもう終わりにしようっと」
残忍にほくそ笑んだジャムジェムが、すっと刺突の体勢で剣を構える。ギヴェオンは壁に背を預けたまま無表情にステッキを握りしめた。
まさにジャムジェムが飛びかかろうとした瞬間、ソニアは瓦礫を乗り越えて飛び出した。
「ギヴェオン! これを……」
手にした護符を投げようとした瞬間、ギヴェオンが顔色を変えて叫んだ。
「踏むなっ」
反射的に視線を落とすと、まさしく自分の足が複雑な文様を踏みつけていた。
床に薄く描かれた錬魔術の術式だ。
あ、と思った瞬間、術式がまばゆい光を放った。光は蛇のようにうねり、不規則に明滅した。
足元に衝撃が走る。術式が暴走し、神殿の床が崩壊を始める。柱がひび割れ、支えを失った丸天井が瓦礫に変じて落ちてくる。
罵声を上げながらジャムジェムは飛び退き、降り注ぐ瓦礫と粉塵の中を逃げていった。
わけのわからないうちにソニアは床の崩壊に巻き込まれていた。
地の底に呑み込まれようとするソニアの手首を、しっかりと誰かが掴んだ。
目を開けたソニアは、自分が星空の下に横たわっているのかと思った。
ハッと気付いて身を起こすと、それは黒っぽい石造りの天井だった。石材に含まれるガラス質の粒子がキラキラと星のように輝いている。
「大丈夫ですか?」
傍らにしゃがみこんだギヴェオンが、しげしげとソニアを見ている。
「ギヴェオン……」
「どこか痛みます?」
「いえ……、何ともないと思うわ」
ソニアはギヴェオンの手を借りて立ち上がった。少し身体が痛むのは、軽い打撲のせいだろう。ソニアは茫然と周囲を見回した。
立ち上がっても天井はまだずっと上にあり、相変わらず夜空のようだ。床も天井と同じように星屑をばらまいたみたいで、まるで夜空に浮かんでいるような気分になる。
少し離れた場所に瓦礫が堆く積もっていた。視線に気付いたギヴェオンは首を振った。
「あそこはダメです。瓦礫で完全に塞がってしまった」
「じゃあ、どこから出ればいいの」
絶望的な気分で呻くと、壁のあちこちを探っていたギヴェオンが先に立って歩きだした。
「地上との出入口が何箇所かありますから、そこを探して外へ出ましょう。この通路を歩いていけばどこかにあるはずです」
ソニアは恨めしげに瓦礫の山を見つめ、ギヴェオンの後について歩きだした。
「何なの、ここ」
「アステルリーズの地下第一層です」
「帝都の地下にこんな通路があるなんて、全然知らなかったわ」
「網の目のように張り巡らされていますよ。地上の道路と同じように。遺跡管理庁の管轄下にあって、一般の人々にはほとんど知られていません。一部は下水道に繋がってますし、それと知らないうちに地下室として一般家庭が使ってる場合もありますけどね」
「遺跡管理庁ってことは、ここ、神代の遺跡なの?」
「ええ。かつて神々が地上を支配していた頃のね。第一層はほぼくまなく調査されていて、地図も作られています。〈神遺物〉はすべて回収済み」
「地図があるの? だったらすぐに出られるわね」
「あいにく今は持ってません。まさか地下に落ちるとは思ってなくて」
「……ごめんなさい。わたしのせいなのよね、こうなったのも」
「そ、そうは言ってませんよ」
「錬魔術を発動させようとしたのを、わたしが邪魔したんでしょ」
ついいじけてしまうソニアに、ギヴェオンは困ったように頬を掻く。
「まぁ、思ったように行かなかったのは事実ですけど。そもそも私が回りくどいやり方をしたのがよくなかったわけで。――あ、これ、お返ししておきますね」
差し出されたのは黄金と宝石で作られた護符だ。鎖が無事だったので元通り首にかける。
「〈神の瞳〉ですか。さすが、いいものをお持ちだ」
「持つのがわたしでは宝の持ち腐れよ」
ソニアは嘆息し、手にとって護符を眺めた。
六芒星の護符でも特に黄金と青い宝石、乳白色の蛋白石もしくは白蝶貝を使ったものは〈神の瞳〉と呼ばれて尊ばれる。
ソニアの護符はその中でも最も高価な組み合わせである、黄金・青玉・蛋白石で作られたものだ。
「神々は蒼い瞳で瞳孔が金色、白目の部分が蛋白石みたいにきらめいたんですって。それってすごく綺麗よね」
「そうですかね」
ギヴェオンはさして興味もないようで、立ち止まって思案している。どうしたのかと思えば、行く手の道が二股に分かれていた。
「どっちでしょう?」
「わたしに訊かれたってわからないわよ」
「えぇと、さっきの神殿の位置からすると、こっちが西でこっちが北で。えー、ということは、中央区はこっちの方で、この道はこっちへ続いているから。――よし、こっちだ」
左手の道を指してギヴェオンは歩きだした。後を追いながらソニアは非常に不安だった。
「本当にこっち? というか、どこへ向かってるの。出口を探すんじゃなかった?」
「どうせならブラウニーズの方向へ歩きながら探した方がいいじゃないですか」
「それはそうだけど……」
「うまくすればそのまま家に戻れるんじゃないかと思うんですよね。ブラウニーズの地下室は地下道と繋がってるんです」
「えっ、そうなの!?」
「正確には、繋がってるのは建物の裏手にある昔からの遥拝所ですが。そこから横穴を掘ってブラウニーズの地下室に繋げたんです。さっきのとこみたいに、古い神殿は地下道と繋がってることが多いんです。ほとんどの神殿は今では移転してしまってますけど」
話しながらギヴェオンは時々立ち止まって足元をじっと見つめている。何かあるのかと覗いても、黒っぽい石の床の上には光る粒子以外特に目を引くようなものはない。
「何を見てるの?」
「いや、別に」
ギヴェオンはそそくさと歩きだす。
「ねぇ、ブラウニーズの場所、ちゃんとわかるの?」
「地下室から地下道に出て少し歩いたことがあります。近くへ行けばわかりますよ」
「ならいいけど……。それにしても迷路みたいね、ここ。迷子になりそう」
暗に迷っていないかと訊いたつもりだったのに、ギヴェオンは「本当ですね」と大真面目な顔で返してくる。黙っていると不安が増すのでソニアは思いつくまま喋り続けた。
「これって何のために作られたのかしら。いつからあるの?」
「アステルリーズが都に定められる前からありましたよ」
「そんなに昔から!? ここがアスフォリアの王都になったのは千年も昔よね」
「ここは神々が作った要塞跡なんです。アステルリーズはもともと地下要塞都市で、女神アスフォリアが敵対する神々からの攻撃を避けるために作ったんですよ」
「地下要塞……」
茫然と呟くと、歩みを止めたギヴェオンが足元をつと指さした。
「この地下には何層にもわたってかつての要塞が続いています。戦争が集結して攻撃される危険がなくなると人々は地下から出て、地上に町を築いて暮らし始めた。それがアステルリーズの始まりです」
「知らなかった……。ここは女神が〈神の力〉をもって創った町だって……」
「それも間違いではありませんけどね」
ギヴェオンは不思議な笑みを浮かべ、ふたたび歩きだした。ソニアは落ち着かない気分で彼の背中を見つめた。
(この人……、いったい何なのかしら)
何度も浮かんだ疑問が再燃する。
彼はソニアが知らないこと、思ってもみなかったことをまるで常識のように口にする。自分がそれほどの知識人でないことくらいソニアも自覚はしていた。
貴族の子女として求められる教養は多岐にわたるものの、浅く広く知っていればよいとされている。常識を疑ってみたこともない。
だが、この数日、当たり前だと思っていたことが根底から揺らぎ始めている。
「……ギヴェオン。あなたは半神なの?」
ジャムジェムの問いを繰り返してみた。
半神は古くからある伝承のひとつで、神々と人間との間に生まれた存在だと言われている。ギヴェオンは振り向きもせず、「違います」とふたたびきっぱりと否定した。
「半神って実在するの? 古い伝説や物語にはよく出てくるけど」
「神々が実在するのなら半神がいてもおかしくはないでしょう。神々は自分たちの仕事を手伝わせるために、自分たちに似せて人間を創った。いえ、自分たちを元に人間を創ったんです。もともと同じ存在なのだから、子どもだってできる。実際、アスフォリア王国の二代目は半神でした」
それは歴史で習った。
アスフォリアは帝国となって三百年だが、その前に七百年にわたって王国として存在していた。王国の初代は女神アスフォリアだ。
女神は人間を伴侶とし、男女ふたりずつ四人の半神を産んだという。王家は女神の長男の直系子孫とされている。
「あなたは違うと?」
「違います。私は単なる在野の錬魔士ですよ」
言い切られてしまうと、それ以上訊いてはいけないような気がしてくる。
好奇心が強く、時にははしたなく遠慮を忘れてしまうことさえあるのに、ソニアは我ながら不思議だった。
「――もしあなたが言うように神々が実在したのなら、創造主教会の教えはすべてでたらめってことになるわね」
アイザックのことを思うと複雑な気分になった。
父に禁止されて創造主教会の教義を教えられることはなかったが、彼が敬虔な使徒であったことは身近で接してわかっている。
「神々と創造主は矛盾しませんよ。〈光の書〉に書かれているとおり、神々はこの世界を無から造り上げたわけではありません。すでにあった世界に、よそからやってきたのです。この世界を造り上げた存在が別にいたとしてもおかしくはない」
「でも、聖神殿は創造主の存在を認めていないわ」
「否定もしていません。神々にとって創造主は、いたところで何の意味もない存在なんです。神々がやってきた時、この世界は不毛の大地でした。この世界を創ったのが創造主だったとしても、世界に命を吹き込んだのは神々です。――ここが聖神殿と創造主教会の最大の対立点ですね。創造主教会は、命を創り出したのも世界を創った創造主の御業であると主張しています。聖神殿は、それを神々の御業としている。
創造主教会も神々の存在自体は否定していない。ただ、神々もまた創造主の被造物と見做しています。創造主は神々を造ったもののあまりに強大すぎて世界を滅ぼしそうになったため、この世界のスケールに見合った人間を創ったのだと。つまり、この世界に最もふさわしいのは人間である。
……ものすごく省略すると、創造主教会の教義はそういうことです。彼らに言わせれば神々は悪魔も同然なんですよ。被造物でありながら創造主を認めない。一方神々は自分たちこそが至高の存在だと自負しており、善悪も相対的なものにすぎません。
――ソニア様、神と人間を分かつ根本的な違いは何だと思います?」
とまどって首を傾げる。
「〈神の力〉を持っているか否かでしょ?」
「いえ、そういうことではなく。ものの考え方として」
「ものの考え方……? さぁ、わからないわ」
「簡単なことですよ。『神を必要とするもの』が人間であり、『神を必要としないもの』が神なんです。神々にとっては自分たちこそが絶対であり至高である。何といっても彼らは『神』なのですから」
くす、とギヴェオンは小さく笑った。
「……宗教談義はこの辺にしましょうか。適当に聞き流しといてください」
「錬魔士というのは信仰心が篤いものだとアイザックが言っていたわ。何かを強く信じる心がなければ、錬魔術を使いこなすことはできないって」
「そうかもしれませんね」
「ねぇ、ギヴェオン。あなたは神々を信じているのよね?」
「もちろん、私はアスフォリア女神を信じ、敬愛していますよ」
穏やかな返答に、ソニアはホッとした。
「……ギヴェオンって、本当はすごくプライドが高そうね。どうして召使をしているの? 人に仕えたり使われるようなタイプじゃないと思うんだけど」
「そんなふうに見えます?」
「んー、今話してたら何となくそう感じたの」
はは、とギヴェオンは困ったように頭を掻いた。
「喋りすぎましたね。どうも、まだまだだなぁ」
「まだまだって、何が?」
「ああ、いえ。出口が。まだまだ遠そうだと」
何だか誤魔化されたような気がしたが、ギヴェオンは先に立ってさっさと歩きだしてしまった。
しばらくは壁に刻まれた表示らしきものを探しながら歩いていたのだが、そのうちに彼はまた足元を気にし始めた。何かあるのかと目を凝らしても、見えるのは発光粒子を含んだ床だけだ。
「それにしても不思議だわ。どうして光るのかしら。こんな石、初めて見た」
お蔭でこんな地下でも明かりに不自由しないわけだが。ソニアはそっと壁に触れてみた。かすかにざらりとした手応えはあるものの、表面はなめらかだ。
「〈神遺物〉のひとつですよ。発光石のかけらを混ぜ込んだ煉瓦みたいなものです」
「発光石?」
「神々が創った石です。純粋な発光石は電灯よりも明るくて、しかも熱くないんです。今でも遺跡でたまに見つかりますよ」
「へぇ……。これ、地上の道路にも敷いたらいいのにね。夜はとっても綺麗よ。まるで星空の上を歩いてるみたい」
「地上に出すと光らないんですよ」
残念、と肩を落としたソニアは、ギヴェオンがまたもや足元を気にしていることに気付いた。今度は完全に立ち止まってじっと床を見つめている。
「ねぇ、さっきから何してるの? 床に何か――」
ソニアはハッと声を呑んだ。
地下通路の下にはずっと深くまで要塞都市が眠っているとさっき彼は言ったではないか。眉をひそめたギヴェオンは、ついに膝を落とした。両手を床に置き、耳を澄ますようにじっと集中する。ソニアはこくりと喉を鳴らした。
「……お嬢様」
「な、何?」
「ここ、温泉が出そうだとは思いませんか?」
「――――はぁ!?」
何を突飛なことを言い出すのかとソニアはぽかんとした。ギヴェオンは大真面目な顔で、ついと眼鏡を押し上げる。
「さっきから気になってたんです。何かこう、ゴボゴボと水の流れる音がするような……。温泉が湧いてるんじゃないのかなぁ」
「水道管でも埋まってるんじゃないの?」
「でも何だか温かいんですよ。ほら、ここ。触ってみてください」
「ええ~?」
はなはだ疑わしかったが、ギヴェオンがしつこく言い張るのでしぶしぶ屈み込んで示された場所に触ってみる。
「……別に温かくなんてないわよ。っていうか冷たいじゃないの」
「もっとしっかり押しつけてみてください。下の方からじわじわと熱が伝わってくるのを感じませんか?」
ソニアは眉を寄せ、床に両手を押しつけて掌の感覚に集中してみた。
「自分の体温でぬるくなってきたわ。水音も聞こえない。気のせいよ。大体この辺で温泉が湧いたなんて話、聞いたことないもの。温泉といえばバールスルドの保養地でしょ」
「アステルリーズにも温泉があったらいいと思いません?」
「そりゃそうだけど……、とにかくここは違うわよ。だいたいアステルリーズの地下はずっと要塞になってるんでしょ。温泉が湧く余地なんかないんじゃない?」
「いや~、神々が風呂に入るために地下深くから引いてきたんじゃないかなぁ、と」
「もうっ、馬鹿なこと言ってないで出口を探しなさいよ!」
頭に来てソニアはずんずん歩き始めた。
このまま地下を通ってブラウニーズまで帰るなんて、はなから無茶だったのだ。どこでもいいからとにかく地上に出て、馬車を拾って帰る!
最悪徒歩でも、迷路みたいな地下通路をあてどなくうろつき回るよりよっぽどいい。
「あ。お嬢様、こっち! こっちですよ、この辺、見覚えがあるような気がします」
ギヴェオンが二股道の細い方を指して言う。
「本当に?」
疑わしげに睨むと、ギヴェオンは自信ありげに大きく頷いた。ソニアが見る限りでは、これまでの通路とあまり違いはないような気がするのだが……。
かといって自分が行こうとした方が正しいという保証もなければ確信もない。
蛇行する狭い通路をしばらく進むと、凹んだ壁の中に扉がついている箇所を見つけた。
「ほら、あった! ここから横穴を掘って屋敷の地下室に繋げてあるんです。――あれ、おかしいな。中から鍵がかかってるみたいだ」
「それはそうなんじゃない? 開けっ放しだったら泥棒が入ってきちゃうわ」
「なるほど!」
素直に感心されても困る。ソニアは半眼でギヴェオンを睨んだ。
彼は扉を拳でどんどん叩き、おーいと声を上げた。何の反応もない。
「仕方ない、壊しましょう。非常事態ですからやむを得ません」
ギヴェオンは指輪に嵌めた赤い石で扉に重なり合う逆向きの三角形を描いた。アスフォリア女神の霊印、六芒星だ。
かすかに赤く色づいた星型の線画を覆うように掌を扉に当てる。聞き取れないくらいの低声で何かを呟くと扉に赤い光の星型が浮かび、内側に向かって吹き飛んだ。
「真っ暗ね……」
これまでの通路と違って敷きつめられているのは普通の煉瓦のようだ。
「後から作られた通路ですから」
ギヴェオンは木っ端を手にとり、赤い石で先端をこすってふっと息を吹きかけた。ボッと音をたてて炎が燃え始める。
臨時の松明を掲げたギヴェオンに続いて通路を行くと、ふたたび扉に遮られた。これも鍵がかかっていたので破壊する。
後でアビゲイルにみっちり怒られそうだが、とにかく今はさっさと地上に出たい。
がらんとして埃っぽい地下室を抜けると、またまた扉があった。
「やれやれ、これで最後のはずです。後で修理しなきゃ」
景気よく扉を吹っ飛ばすと、急に明るい光が射し込んで目が眩む。
「やったー、文明の光――」
ギヴェオンの歓声が不自然に途切れた。
ようやく光に目が慣れてきたソニアはその場で凍りついた。ふたりは無数の銃口に取り囲まれていたのだ。詰め襟の濃灰色の軍服を着た兵士たちの真ん中に、やはり濃灰色の将校服をまとった若い男が立っていた。
アラス城で出会った特務隊の指揮官だ。彼は端整な顔を皮肉っぽい笑みの形にゆがめた。
「変わったところからお出ましですね、ソニア嬢」
絶句するソニアの隣で、ギヴェオンがぽりぽりと頬を掻いていた。
「あれ? 変だなぁ……」
キース・ハイランデル少佐が無言で手を上げる。一斉に飛びかかってくる兵士たちに血の気を失いながら、涙目でソニアは罵った。
「この、方向音痴――!!」
ギヴェオンの謝罪は兵士たちの怒号に紛れてよく聞こえなかった。
ふたたび薄闇の中にジャムジェムは立っていた。
手前には真珠色をした流線型の椅子でオージアスが脚を組んでいる。構図だけは数日前と同じだが、オージアスのまなざしは格段に冷たくなり、ジャムジェムは崖っぷちに追い詰められていた。
「で? また失敗したと言うわけか。しかも無断で侍女を連れ出し、奪われたと?」
無機質な声に冷汗がどっと噴きだし、ジャムジェムは青ざめた唇をわななかせた。
「獲物を食いつかせるには、餌が必要だもん……」
「餌というより保険だろう。人質を取っておけばあの従僕を牽制できると踏んだ。お笑い種だな、あっさりノックアウトされて」
少女めいたジャムジェムの美貌が怒りで赤黒く染まった。
「ノックアウトなんかされてない! ちょっとはたかれただけだ。あいつ、ジャムジェムの顔を殴っておいて、謝りもしなかった。絶対許してやんない! あの女も許さない。あの女のせいでジャムジェムの鼻はとても痛い目にあったんだ」
ソニアが蹴ったドアで鼻を強打したことまで思い出し、少年は狂気じみた怒りに目をギラギラさせた。オージアスは眉をひそめ、うんざりと吐き捨てた。
「また顔か。奴らはおまえの顔にまったく何の感銘も受けていないようだが」
「あ、あいつら美的センスが皆無なんだ。ジャムジェムの美しさを理解できないんだ。しかもあいつ、ジャムジェムを傀儡って言った。誰かの指先で踊ってる人形だって」
「ほぅ。図星を刺されて逆上したというわけだな」
「ジャムジェムは人形じゃな――」
すっとオージアスが黒い瞳を細めると同時に、見えない攻撃をくらってジャムジェムの細い身体が吹き飛んだ。
床に倒れ伏して苦痛に身体を折り曲げている少年を、ゆらりと立ち上がったオージアスは顔色ひとつ変えずに蹴り飛ばした。さして力を入れたようにも見えなかったが、ジェムジェムはふたたび軽々と吹き飛ばされ、今度は壁に叩きつけられた。
かは、と声にならない苦悶を上げた少年の口から、赤い血がひとすじ流れる。
「人形だろ? それともまだ自分が人間だとでも思っているのか」
「……ジャムジェムは人間なんかじゃない。あんなつまんないのはもうやめた。でもジャムジェムは人形じゃない。ジャムジェムは――」
「神々の端くれにでもなったつもりか? カッとなって、たかが半神に遊ばれた挙げ句、危うく捕獲されるところだったくせに」
「あいつは半神じゃないって……、ただの錬魔士だよ!」
「手練の錬魔士は半端な半神よりも厄介だと言っておいたはずだ。ジャムジェム、おまえがやるべき仕事をきちんとこなしている限りは、不届きな勘違いを大目に見てやってもいい。だが、命じられた仕事もろくにできない上にこちらの足を引っぱるようなら、自分が単なる傀儡にすぎないことを思い出させてやらねばならんな」
ジャムジェムは金緑色の瞳いっぱいに恐怖を浮かべ、激しく首を振った。
「や、やだ……っ」
「では、せいぜい役にたつことだ。まずは誰か看護人を適当に見つくろって来い。あの従僕の対応はこちらで考える。指示するまで今後一切近づくな」
「女はジャムジェムが殺す! 鼻の仇を取るんだ」
オージアスは呆れたように眉を上げた。
「だったら役に立て。そうすれば殺らせてやる」
行け、と顎で示されてジャムジェムは立ち上がった。背を向けたオージアスを凝視する瞳には恨みと憤怒の炎が燃えていた。
「何だよ、えらっそーに……!」
「さっさと行け」
後ろ姿で冷やかに命じられ、ジャムジェムは思いっきりあかんべーをして走り去った。
憮然と嘆息したオージアスの耳に、かすかな呻き声が聞こえた。呻きというより苦悶に耐えきれずに洩れ出たような唸り声だ。オージアスは表情を消し、濃密な闇のわだかまる一角へ足を向けた。
暗幕の如き闇を抜けると、黄昏めいた薄明かりが満たす空間に檻があった。粗末な寝台に臥せったモノが絶え間なく苦痛に喉をふるわせ、枕に噛みついている。
人とも獣ともつかぬ異相の中に残されたわずかばかりの面影が痛々しい。オージアスの無感動な顔を、嘲りとも侮蔑ともつかぬ表情がかすめた。
「あなたも諦めが悪いな、ヒューバート卿。素直に受け入れればそんなに苦しまずに済むのに。ま、相性が悪くて当然か。あなたはどれほど憎んでも足りない存在の末裔だ。でもね、全面的に降伏するならばこれ以上苦しまなくても済むんですよ?」
「……いも……とにて……だすな」
妹に手を出すな。
金色に変じた瞳孔で、ヒューバートは恫喝するように睨む。
「自分より妹君の心配ですか。泣かせますね。何度も言ったとおり、あなたが率先して我々に協力してくれるなら、彼女は生かしておいてあげてもいいんです。今しばらくは」
咆哮をあげ、ヒューバートは寝台から跳ね起きた。オージアスの目の前で、鉄格子を掴んで激しく揺さぶる。眉ひとすじ動かさず、オージアスは嘲笑った。
ヒューバートは突如として凄まじい絶叫を上げた。鉄格子を握りしめる指先に伸びた鋭い爪が掌に食い込み、鮮血が噴き出す。
みしみしと鉄格子が撓んだ。強度に不安はないものの、ヒューバートの狂乱は単なる怒りによるものではなかった。
背骨が軋むほどのけぞり、硬直した体勢のまま床に倒れ込んでしまう。激しい苦痛で身体を反らせ、ヒューバートは血走った目を限界まで見開いた。顎が外れそうに大きく開いた口の端に黄色っぽい泡が噴き出した。
オージアスはチッと舌打ちをすると、壁際の棚を開けた。
「……やはりアラス城で死んだことにしておいて正解だったな」
苦々しくオージアスは呟いた。ヒューバートの変貌は予測どおりには行かなかった。普通なら拒絶反応さえ乗り越えればおとなしくこちらの意のままになる。受け入れられずに死ぬか、傀儡として蘇るか、そのどちらかであるはずだ。
にも関わらず、ヒューバートは肉体的にも精神的にも闘い続けている。
「予想外だったな。甘ったれたやわなお坊ちゃまとばかり思ってたのに」
薬と暗示でどうにか抑えていたが、それも限界に達し、ふとしたはずみで不安定さが露呈するようになった。そこで、アラス城で用済みになった学生どもを特務に引き渡し、ヒューバートは追い詰められての自殺を装うという計画を立てたのだ。
「特務の指揮官に変身を見られたのはまずかった。まったく余計なことをしてくれて」
ぼやきながら檻の前に戻ってきたオージアスは、うんざりと顔をしかめた。
「そう暴れないでください。薬が打てないじゃないですか」
言葉自体が巨大な掌になったように、ヒューバートの全身を床に押さえ込む。動きが封じられたのを確かめ、オージアスは鉄格子の一部を解放した。
こういうことは何度もあった。興奮し過ぎるとヒューバートの内部でせめぎ合っているふたつの要素のうち、もともと彼が受け継いでいる要素の方が暴走を始めるのだ。
「さすが神の血統はあなどれませんね。普通は一度の投与で充分なのに、こう何度も補充しなければならないとは。お蔭でストックが激減してしまいましたよ」
腹立たしげに呟いたオージアスが、ぐったりしたヒューバートの首に注射針を刺そうとした瞬間。跳ね起きたヒューバートの頭部が屈み込んでいたオージアスの額に激突した。
壁際まで吹っ飛んだオージアスが眩暈をこらえて顔を上げた時、ヒューバートは開かれたままの檻からすでに抜け出していた。オージアスは反射的に起き上がり、「待てっ」と怒鳴りながら無我夢中で後を追った。
頭部にもろに食らった衝撃のせいで視界が回る。かろうじてヒューバートの背中が見えた。闇の障壁が破られる。そうはさせない――!
オージアスの右腕が膨れ上がり、上着がずたずたに裂けた。蛇のように絡み合う赤黒い触手が空を切り裂いて、一直線にヒューバートに迫る。その途中で触手の先端はさらに分裂し、鋭い針となった。
ヒューバートの全身に突き刺さった棘は内部で花が開くように分裂して反り返り、弾け飛んだ。それはまさに一瞬の出来事で、オージアスの眩暈が収まった頃にはヒューバートの上半身はぐずぐずの肉塊と化していた。
「くそっ……!!」
オージアスは激しい罵声を上げた。眩暈と動搖で、とっさに調節できなかった。
「あーははは! 派手に殺っちゃったねぇ!」
狂ったような哄笑が響く。物音に気付いて戻ってきたジャムジェムが、さも可笑しそうに飛び跳ねていた。ざまを見ろとでも言いたげに歯を剥き出して大声に嘲り笑う。
「こんなミンチになっちゃったら、どんなに頑張っても復活は無理だ。どうしよう~。どうするぅ? あはっ、あははっ! こいつ、最後の仕上げにはどうしても必要なんだよねぇ? どーすんのさ。こいつがいなけりゃ花火は上がんないよぉ。ばーか」
ギリ、と歯噛みすると同時に、オージアスの触手が鞭となってジャムジェムに迫る。
「は! そんなんでジャムジェムを捕まえられるとでも――」
余裕で躱したつもりが、次の瞬間背中から衝撃が胸を突き抜けた。幾筋にも分かれた触手の一本が、背後からジャムジェムを貫いていた。左胸から突き出した触手は無数の棘に分裂しながら反転し、左頬に突き刺さった。
オージアスは怒りに軋む声で吐き捨てた。
「黙れ、能無しが」
悲鳴を上げてジャムジェムは転げ回り、顔から触手を引き剥がそうとした。その顔が異様な変貌を始める。細かい無数の棘が刺さった場所から、陶器のようになめらかだったジャムジェムの肌が茶色く染まり始めた。
たちまち皮膚は潤いを失い、ミイラのように乾燥してしまう。触手から解放された時、ジャムジェムの左胸に開いた穴からはどす黒い血があふれだし、顔の半分は見るも無残に干からびていた。
「うわぁぁぁ……っ!! 顔が、ジャムジェムの顔がぁっ」
「おまえが失敗したお蔭で代役が確保できたことになるな。癪に障るが礼はしてやる」
胸の傷を癒すことも忘れ、少年はオージアスの足元に這い寄った。
「戻して! ジャムジェムの顔を元に戻してよぉっ」
「ソニアをここへ連れて来い。どんな手を使ってもいい。ただし、生きたまま攫って来るんだ。それができたら顔を元に戻してやる。いいか、生きたままだぞ」
涙を流して足にすがりつくジャムジェムを邪険に蹴飛ばし、オージアスは闇の向こうへ消えた。後には甲高い少年の啜り泣きだけが薄明かりに恨めしくこだましていた。
閉じ込められた猛獣のごとく、ソニアは部屋の中を行ったり来たりしていた。長椅子やテーブルが置かれ、一見すると応接間のようだが、窓には鉄格子が嵌まっている。正面にある格子窓は高い位置にあって外の景色は見えない。どっちにしても今は夜だ。
「……ギヴェオン、どうしたかしら」
あの男の方向音痴のせいで、よりにもよって一番近づきたくない場所へ出てしまったことには正直もの凄く腹が立った。とはいえ連行されたギヴェオンが手荒く扱われているのではないかと思うと気が気でない。
「まさか、拷問なんてされてないでしょうね……!?」
扉の鍵が鳴り、キース・ハイランデル少佐が入ってくる。閉まった扉にふたたび鍵がかけられるのを待って、彼はソニアに会釈した。
「お待たせして申し訳な――」
「わたしはテロリストじゃないわ! ギヴェオンを拷問しても無駄よ、今すぐ中止して」
開口一番がなりたてるソニアを、キースは軽く目を瞠って見返した。
「拷問などしていないが……」
「だったら会わせて! いったいどこへ連れていったの、彼はわたしの従僕なのよ!?」
「あなたと同じく身体検査をしただけです。一緒にするわけにもいかないでしょう」
ようやく収まっていた怒りと羞恥が再燃し、頭に血が上る。捕えられてギヴェオンと引き離されたソニアは、何故か医師と面談させられた。健康状態に関してあれこれ質問され、最後には血液採取までされたのだ。
「無事な姿を見るまでは信用できないわ。彼をここへ連れてきて」
「その前に軽く食事でもいかがですか。なんでも昼からずっと食べていないとか」
返答するようにすかさず腹が鳴り、ソニアは赤面しつつ怒鳴った。
「ギヴェオンの無事を確かめるまでは何も食べませんッ」
キースは肩をすくめ、扉を叩いて合図をした。手招かれ、後について部屋を出る。天井の高い廊下を大股に歩きながら無造作に彼は言った。
「はっきりさせておきますが、我々はあなたをテロリストだと思っているわけではない。〈世界の魂〉と無関係なことは、メンバーたちの証言で確認できました」
「だったらさっさと解放してよ」
「血液検査の結果が出たらお屋敷までお送りします。いや、顧問弁護士の事務所がいいか。とにかく、あと数日こちらに滞在していただきます」
階段を降り、別棟へ向かうキースの後をソニアは懸命に追いかけた。
「数日!? っていうか検査の結果って何よ。失礼な、わたしが病気だとでも!?」
「そうではないようですが、念のため確認を。ヒューバート卿と接触した者はすべて調べていますので、どうか我慢してください」
「何それ、まるでお兄様が危ない病気でも持ってるみたいじゃない」
「そのとおりです。正確に言えば『病』ではありませんが」
「じゃあ何よ!?」
入り口に立っていた警備兵に頷いてドアを開けさせる。キースに続いて憤然と中に飛び込むと、扉は外から鍵をかけられた。振り向いた青年将校は低く囁いた。
「中毒ですよ」
絶句するソニアを置いてキースは奥へ歩いていく。両側に鉄格子の嵌まった小部屋が並んでいるが、どれも無人だ。キースは一番奥の牢を顎で示した。駆け寄ると、そこには黒のモーニング・コートを着た男が背を向けて横たわっていた。乏しい灯の下でも青みがかった銀色の髪がわかる。ソニアは鉄格子にすがりついた。
「ギヴェオン……! ――少佐、ここを開けてっ」
キースは肩をすくめ、無言で鍵を開けた。ソニアは慌ててギヴェオンの横顔を覗き込んだ。光線の加減か、ひどく青ざめて見える。出血している様子はないが、ひょっとしたら見えないところをひどく殴られているのかも……。
「ギヴェオン、ギヴェオン! ああ、しっかりして!」
肩を揺さぶり、頬をぺちぺち叩いてみる。低い呻き声が聞こえ、ホッとしたのもつかのま、ソニアは唖然とした。
それは気持ち良さそうに、ギヴェオンは寝息をたてていた。
「あなたの元へ連れて行こうとしたのだが、どうやっても起きなくてね」
「ね……寝てる……の……?」
「我々は身体検査と採血をしただけだ。拷問などしていないし、薬も打ってない」
心配の反動で頭に来たソニアは、爆睡するギヴェオンを乱暴に揺すりたてた。
「起きて、ギヴェオン。起きなさいっ」
「んぁ?」
やっと反応を示した青年は、目をしょぼしょぼさせてソニアを見上げた。
「あ、お嬢様。おはようございます」
「おはようじゃないわよ、今は夜よ。っていうか暢気に寝てる場合じゃないでしょーっ」
「いやぁ、寝られる時に寝ておかないと。――あ、どーも。えぇ、ナントカ少佐」
「……ハイランデルだ。キース・ハイランデル」
「あ、そうでした。えーと、前にもどこかでお会いしましたっけ?」
「アラス城でな。危うくきみの馬車に撥ね飛ばされるところだった」
「ああ、そうそう。その節はたいへん失礼いたしました。お嬢様が攫われるのを傍観しているわけにもいかず」
「攫ったのはむしろきみだろう……」
「お嬢様、この人たちに何かされませんでした? 私は勝手に血を抜かれましてねぇ。いやだってのに無理やりですよ。ひどいでしょう」
「わたしも採血されたわ。わたしたち、病気だか中毒だかを疑われてるらしいわよ」
当て擦るように横目で睨むと、キースが苦笑する。ギヴェオンは心外そうな顔になった。
「私はいたって健康ですよ。風邪も滅多にひかないんです。健康だけが取り柄ですから。それに中毒って何ですか。私、酒は嗜む程度ですし、煙草はやりません」
「わたしだって知らないわ。少佐、納得の行く説明をしてくださらない?」
キースは頷き、壁際にあった古ぼけた椅子を牢の前に持ってきた。牢の出入り口は開けっ放しだが、ソニアは抗議の意を込めてギヴェオンの側に座り込んだ。
軽く溜息をつき、キースは自分でその椅子に座った。
「そもそもの発端は数年前から出回り始めた怪しげな薬です。上流階級の秘密クラブで秘かに取引されていて、なかなか実体が掴めなかった。まぁ、節度を守って愉しむくらいなら富裕な有閑階級のお遊びとして大目に見てもよかったが、そのうちに重度の中毒者が現れた。精神に異常を来して、暴力沙汰で人死にが出たり、自殺したり、廃人になってしまったり……。こうなると捨て置くわけにも行かなくなってね。この薬の中毒者の特徴としては、気分の浮き沈みが激しいことが挙げられる。ニコニコしていたかと思うと、些細なことで逆上して激怒したりとか。その他、体温低下に多汗症、手のふるえなど」
ソニアは慄然とした。それはまるっきりヒューバートの異常と同じではないか。ぽかんと聞いていたギヴェオンが、学校の生徒のように質問の手を上げる。
「あのー。麻薬類の取り締まりって、確か警邏隊の仕事じゃなかったですか? あなたがた特務隊は公安担当でしょ」
「そうだ。だからこそ我々にお鉢が回ってきた。この麻薬――我々は便宜上『M』と呼んでいるが――、とある政治的秘密結社が出所であることが確実視されている。はっきり言ってしまえば、薬を流しているのは〈月光騎士団〉だと我々は睨んでいる」
「〈月光騎士団〉……!」
「あの結社には謎が多い。誰が正式メンバーなのかもよくわからない。元々は創造主教会の内部組織で、過激な強硬派の集まりだった。アスフォリア女神を悪霊の女王と罵り、神々をみな悪魔と見做す一派だ。帝国国教である聖神殿と王家に対する配慮から、創造主教会の教皇は十年前、結社を正式に破門した」
「それ、アイザックから聞いたことあるわ。あ、彼はわたしの家庭教師で創造主教会の使徒なの。でも教義は聞いてないわよ。お父様が固く禁じていたから」
「我々がヒューバート卿に注目したきっかけは創造主教会ではありません」
「〈世界の魂〉、ですね」
ギヴェオンの呟きに、キースは頷いた。
「我々は〈世界の魂〉を監視していた。正確にはエストウィック卿を監視していて、彼がバックについた組織ということで監視対象にしたんです。その調査過程でヒューバート卿がどうもおかしいと気付いた。彼も『M』の中毒者らしいと」
「またエストウィック卿? 彼、いったい何者なの。捕まったの?」
「行方をくらましたままです。正体についてはまだ言えません」
キースの口調には取りつく島もなかった。
「それまで我々は〈月光騎士団〉とエストウィック卿を別々に追っていたんですがね。図らずも『M』の存在によって両者が結びついたわけです。それで〈世界の魂〉は〈月光騎士団〉の下部組織、あるいはダミー組織ではないかと監視を強化した」
「ねぇ、その『M』って何の略です?」
ギヴェオンの問いに、キースは瞬きをして答えた。
「『狂気』、だが」
「へぇ? 『擬態者』じゃないんですか」
無表情だったキースの顔に驚愕が浮かんだ。
「きみは何者だ!? 何を知ってる」
「ただの家事使用人ですよ。もう調べたんでしょ」
「……ギヴェオン・シンフィールド。きみの経歴は確認した。小学校卒業と同時に小姓として屋敷勤めを始め、以来十二年間ずっと召使として働いている。王宮にも勤めたことがあるそうだな。きみの経歴に不審な点はない。実に綺麗なものだ。綺麗過ぎるほどに」
「お蔭様で、いいご主人たちに恵まれまして」
あからさまに含みのある言い方をされても、ギヴェオンは悠然としていた。
「……いいご主人のお蔭で『擬態者』なんて言葉も知ってるのかね」
「そんなところですねー」
ソニアはハラハラしながらふたりの睨み合いを見守った。睨んでいるのはキースだけで、ギヴェオンはのほほんとしているが……。
突然ギヴェオンは立ち上がり、鉄格子に歩み寄った。ぎょっとしたように後退るキースを、格子越しにじっと見つめる。
仕種で彼が眼鏡をずり下げたことがわかった。キースは凍りついたようにまじまじとギヴェオンを見返している。何故だかひどくショックを受け、言葉も出せない様子だ。
「ちょっと、何をしたのよ!? 妙な真似はしないでちょうだい。誤解を招くでしょ」
戻ってきたギヴェオンを小声で叱責する。
「やー、お嬢様。この人、よく見るとけっこういい男ですねー」
「何言ってるの。よく見るとなんて失礼だわ。あなたって本当に目が悪いのね!」
「そうなんですよー。ひどい乱視でして」
ごほん、と気を取り直したキースが咳払いをした。冷汗をかきながらソニアは固まったが、ギヴェオンは懲りずに図々しくねだった。
「ねぇ、教えてくださいよ、少佐ー」
「やめなさいってギヴェオン! 拷問されたいの!?」
「お嬢様だって知りたいでしょ? ヒューバート様に関係あることなんですよ」
「そっ、それはそうだけど」
「……きみはどう考えてるんだ?」
キースは探るようにギヴェオンを見る。ギヴェオンは生真面目な顔で眼鏡を押し上げた。
「推測するに、神の亡骸を掘りあてましたね?」
絶句するキースと不敵に腕組みをするギヴェオンを、ソニアは交互に眺めた。
「か、神の亡骸? 何それ」
「文字どおりの意味ですよ。〈世界継承戦争〉でアスフォリア女神軍と戦って破れた、敵軍の神々の遺体です。ごく稀にですが、今でも遺跡で見つかることがある」
「……そのとおりだ」
何を言い出すのかとぽかんとしていたソニアは、重々しいキースの答えに驚いた。
「二十年ほど前、とある未発掘の遺跡が北方で発見された。当時は北部国境紛争が膠着状態に陥っていて、その作戦行動中に偶然見つかったんだ。神の亡骸はすぐさま中央研究所に運ばれた。錬魔士たちは総力を上げて神の亡骸を分析し、遺体から霊薬を創り出した」
「霊薬……?」
「神になれる薬、ですよ。もちろん物真似に過ぎませんがね」
皮肉っぽくギヴェオンは囁き、表情をなくしたキースを見やった。
「確か、『神の亡骸を利用してはならない』という古い王命がありましたよねぇ? アスフォリア王国の二代目の王、女神の長男が定めた法が」
「……ああ。だが、まさかそんな実験がひそかに行われていたとは」
「神になれる薬って……、どういうこと?」
ギヴェオンの視線を受け、キースが苦い口調で話し始めた。
「霊薬を投与された人間は身体能力が著しく向上する。筋力、耐久力、速度、正確さ。五感は鋭敏になるが痛みに対しては鈍くなり、自然治癒力が大幅に上がる」
「そして上位者からの命令には絶対服従。まさに理想的な兵隊ですね。彼らを投入した甲斐あって、膠着状態だった国境紛争は急転直下アスフォリア帝国に有利な形で決着した」
「……そのとおり」
「その人たちはどうなりました? 薬を投与された兵士たちは」
「ほどなく全員死亡した。いや、処分されたと言った方が正確だな。狂暴化して手に負えなくなり、味方に殺された」
ソニアは気分が悪くなって口許を押さえた。
「あの薬はコントロールが難しい。体質的に合わない場合が多く、被験者となった者の半数以上が投与後二十四時間以内に死亡している。記録を読むと、激烈な苦痛に苛まれた末、見るも無残な最期を迎えたようだ。リスクがあまりにも大きいため、国境紛争終結後はすべてのデータが封印され、実験は中止になった」
「あ、あたりまえよ! そんな、ひどすぎる……! 人を何だと思ってるの」
「そのデータが流失したわけですね」
「最近の調査でようやくわかった。いつ盗まれたのか、誰が盗んだのかも不明だ」
「それがどういうルートか〈月光騎士団〉の手に渡ったと」
「奴らは霊薬を元に開発した麻薬で、活動資金ばかりか手足となる人間も手に入れてる」
「それじゃ〈世界の魂〉のメンバーは、みんなその麻薬の中毒者なの!?」
キースは眉間にしわを寄せ、迷うように首を振った。
「そこが解せないところでね……。逮捕した〈世界の魂〉のメンバーに薬の痕跡は皆無だった。中毒者はただひとり、ヒューバート卿だけだ」
「お兄様だけ……?」
「他のメンバーはヒューバート卿が中毒者だったことさえ気付いていなかった。どうやら〈世界の魂〉は彼らにとって気晴らしの会、完全なる悪ふざけの集まりだったらしい」
「悪ふざけ……!? 皇妃様の園遊会に爆弾を仕込めなんて言ったのよ!?」
「ヒューバート卿の発案で、あなたをからかったんだそうです。皆詫びてましたよ」
「か、からかわれてたの、わたし……」
がっくりと肩を落とすソニアを、気の毒そうにギヴェオンは見つめた。
「肩すかしは我々も同様ですよ。エストウィック卿とヒューバート卿を除けば、結社のメンバーは全員何にも知らないただの悪戯坊主どもだった。正直、手がかりが消えてお手上げ状態です。〈月光騎士団〉は創造主教会の庇護を受けているし、いつのまにか教会は軍部にも食い込んできているようで非常に動きづらい」
「え、だって教会は〈月光騎士団〉を破門したって」
「表向きはね。しかし何らかの繋がりがあるものと我々は睨んでいる。そっちはそっちで専任の担当班があるし、軍の内部調査機関も動いている。軍人は全員聖神殿の信者のはずだが、採用後に秘かに改宗されてもわからない。報酬目当てに情報を洩らす不届き者も絶対にいないとは言えません」
何だか軍部も色々と大変そうだ。
「お兄様はまだ見つからないの? その薬の中毒って、治療すれば治るのよね?」
キースの顔に初めてつらそうな表情が浮かんだ。
「実はあなたに伝えなければならないことがある。……ヒューバート卿の遺体が見つかりました。ギオール河の下流側の柵に引っかかっていたそうで……」
跳ね起きたソニアは、牢から飛び出してキースに掴みかかった。
「会わせて! 今すぐお兄様に会わせてよ!」
「見ない方がいいと思う。ちょっと……ひどい状態なので」
「あなたがお兄様を撃ったんじゃない! それで死なないからって錬魔術まで振るった。わたしは全部見てたのよ! 見てたんだから……!」
牢から出てきたギヴェオンが、キースの胸を拳で打っているソニアをそっと引き剥がした。ソニアはギヴェオンに抱きついて子どものように泣きじゃくった。
「堀へ落ちた時、ヒューバート卿はすでに亡くなっていたのですか?」
「いや、致命傷ではなかったはずだ。言い訳に聞こえるだろうが、俺は卿を殺そうとしたわけじゃない。あれくらいしないと怪物化した傀儡の動きは止められないんだ」
「溺れて亡くなったわけでもなさそうですね。卿の遺体はどんな状態なんです」
「……頭部と下半身しかない」
急速に食道を灼けるようなものが込み上げ、ソニアは床に這いつくばって吐いた。空っぽの胃から吐き出されたのは緑色の胃液だけだった。跪いたギヴェオンが背中をさする。
「お嬢様を休ませてください」
「医務室へ運ぼう」
ギヴェオンは嗚咽を上げるソニアを抱き上げ、キースの後を追った。
医務室に運ばれたソニアは箍が外れたように泣きわめき、興奮して暴れた。
医師が鎮静剤を打とうとするのを遮り、ギヴェオンはソニアを抱きかかえ、辛抱強くなだめた。そのうちに疲れも出たのだろう、ソニアはうとうとし始めた。
完全に眠るのを確かめると、ギヴェオンは遺体発見時の状況について詳しい説明を求めた。ソニアに代わって確認すると強硬に言い張られ、キースはやむなく彼を遺体安置所に連れていって回収された首を見せた。
ギヴェオンは顔色ひとつ変えずに無残な生首を眺め、「死後それほど時間は経っていませんね」と呟いた。冴えない顔色でキースは頷いた。死体の酷たらしさに加え、先ほど彼の瞳を直に見てしまったショックがまだ尾を引いている。
「卿のご遺体は引き渡していただけるのですか」
「個人的にはそうしてやりたいが……、難しいな。遺体発見が研究所に知られてしまった。もうすぐ引き取りに来る。上からの命令で、俺にはどうしようもない」
眼鏡の奥から辛辣な瞳を向けられ、反射的に目を背けてしまう。
「宮仕えの哀しさって奴ですか。研究所は失われたデータを補填するために卿の遺体を使う気なのでは」
「正直、その可能性は高いだろうな」
「やはり研究者は懲りるという言葉を知りませんね。ところで採取された私の血液は?」
「遺体と一緒に研究所に押さえられた。ソニア嬢のサンプルも」
「ふむ。それは困る。どうにかなりませんか、あなたの権限で」
「俺にはどうしようもないと言っただろう。今の俺は特務隊実働班の責任者に過ぎん」
「そうですか。――まぁいいや。私はお嬢様の側についていたいので失礼します」
兵士に伴われて医務室へ戻るギヴェオンと別れ、キースはひとり建物の外に出た。
軍区を宮殿の方へ向かって歩けば白亜の建物が見えてくる。女神アスフォリアを祀る聖廟だ。一般には日の出から日没までしか開放されていないが、王宮と軍区からはいつでも入って拝礼することができる。
入り口の神殿警備兵の敬礼を受けて中に入ると、さすがに真夜中を過ぎて祈りを捧げる人の姿はなかった。
正面には淡い薔薇色の大理石で造られた女神の像が安置され、微笑みを浮かべて出迎えてくれる。この像を見るたび、キースはむず痒い気分になった。
これは王国が帝国となった頃に造られたもので、神々は背が高かったという伝承に基づいて人の背丈の二倍近く、台座を含めると三倍ほどにもなる。
目も綾な錦織のずっしりした衣をまとい、瞳には伝承を忠実に再現してサファイアと黄金、乳白色のオパールが嵌め込まれている。参拝者が捧げた灯明や蝋燭の炎を反射して、女神の瞳は神秘的に輝いていた。
キースは女神像の手前にある手すりに寄りかかって地下の霊廟を見下ろした。円形の地下霊廟の真ん中に、台座に載った巨大な柩が置かれている。この中で、女神アスフォリアは静かな眠りに就いているのだ。
キースは柩を眺めながら低く呟いた。
「千年祭、か……。この国が、もうそんなになるとはね」
アスフォリアが人間の国の女王として戴冠してから千年。遥か昔に眠りに就いた女神を巡り、様々な思惑が交錯する。
聖神殿は女神の聖骸――正確には死んでいないが――を公開することによって減少気味の信者を取り戻そうとし、創造主教会はそれが創造主の特別な恩寵によるものだと主張して権威を高めようとしている。
長く続いた帝国はいたるところで硬直化し、綻び、過激な政治結社が暗躍する素地を自ら生みだしているのだ。
(それにしても腑に落ちん……)
〈世界の魂〉のメンバーたちは、自分たちの活動を完全に『お遊び』と捉えていた。
皇妃主催の園遊会に爆弾を仕込めとソニアに迫ったのもその一環で、ソニアに渡す『爆弾』は紙でできた小袋を錬魔術で破裂させるだけの他愛ない玩具だと笑い、真剣なキースを小馬鹿にしたように嘲笑さえした。
しかし、アラス城で押収した『爆弾』は実際には彼らの説明どおりではなかった。椅子の上で試しに爆発させてみたら、椅子は跡形もなく吹き飛んだ。
見ていた学生たちはすっかり色を失い、たちまちパニックになった。『爆弾』は彼らの知らないうちにすり替えられていたのだ。彼らは危うく本当の謀反人になるところだった。
「巧妙なのか杜撰なのか、よくわからん計画だな……」
アラス城に踏み込んだのは密告を受けてのことだが、誰の仕業かわかっていない。エストウィック卿は密告を知っていたのか、途中で抜け出して未だに行方が掴めない。爆弾のすり替えを行ったと思われるオージアスも行方不明。ヒューバート卿は死んだ。
「……それにしても、何故ヒューバート卿だったんだ?」
神の亡骸から生成された霊薬を投与されたのが、何故彼だったのか。エストウィック卿は王家に強い恨みを抱いている。警備が厳しい王族に近づくのは困難だから、準王族の中でも現役の学生で警護が比較的ゆるやかだったヒューバートに近づいたということか。
しかし引っかかる。〈月光騎士団〉は狂信的な反神殿、反女神が信条のはずだ。なのに神殿もその最大の庇護者たる王家も、これまで一度も直接の標的にはなっていない。
「あの『爆弾』が手始めだったのか? 王家は女神の直系子孫、最大の標的のはず……」
「――王家の方々は女神の直系とは言えませんよ」
落ち着いた女性の声に、キースは驚いて顔を上げた。神官の装束に身を包んだ丸顔の中年女性が静かに微笑む。荘厳な雰囲気に自然とキースは背筋を伸ばした。
「どういう意味です?」
「不敬を申し上げるつもりはございません。王家は確かに女神の子孫。でも、直系というのが〈神の力〉を受け継ぐ者という意味ならば、王家の方々はそうではありませんから」
キースは、あっと息をのんだ。
「そうか……! 〈神の力〉は女系でしか伝わらない」
「はい。女神の息子は〈神の力〉を受け継いでも、それを次代に伝えることはなかった。現在の王家は二代目の王、女神の長男の家系です。女神と血縁はあっても〈力〉を受け継いではいません」
キースが口を開きかけた時、ドンと腹に響くような爆発音が聞こえた。神官は目を丸くしてそわそわと周囲を見回した。それまでの神秘的な雰囲気は拭ったように消えている。
「な、何でしょう、一体」
聖廟から出ないよう言い置き、キースは外へ飛び出した。軍区へ駆け戻ると、北側から炎が上がっているのが見えた。軍の建物ではない。隣接する遺跡管理庁の中央研究所だ。窓から炎が噴き出しているのが見え、駆け寄ってきた部下にキースは語気鋭く尋ねた。
「何があった」
「研究所でいきなり爆発が起きまして……。宮城守備隊が消火活動を始めました」
「爆発は他でも起きているのか」
「いえ、研究所だけで、今のところ一回きりです」
キースは頷き、念のため不審物がないか周辺一帯を捜索するよう命じた。司令室へ戻ろうと向き直り、キースは凍りついた。
いつのまにかそこには闇が凝ったような人影が佇んでいた。
両腕に紺色のドレスを着た少女を抱えている。夜風にふわりと裾が揺れた。ソニアは意識がないらしく、ぐったりと男の胸に凭れていた。
「ギヴェオン・シンフィールド……、どうしてここに。窓から出たのか」
医務室には鍵をかけ、見張りの兵を張りつかせておいたのに。
「ちゃんとドアから出てきましたよ。見張りの人には少々眠ってもらいました」
こともなげにギヴェオンは微笑んだ。愛想のいい笑顔なのに、背筋が凍りそうな圧迫感に気押される。眼鏡の奥からこちらを見つめる瞳は、まったく笑っていない。それだけで氷水を浴びせられたかのようにぞっとした。
「……あの爆発はあんたの仕業か」
「勝手にひとの血を抜くからですよ。私は一滴たりとも自分の血をサンプル提供するつもりはありません。ついでにお嬢様の分も破棄させていただきました。ヒューバート卿の遺体は返してもらいます。では失礼、案内は不要ですので」
人をくった台詞を慇懃な口調で述べ、ギヴェオンはキースの傍らを悠然と通りすぎた。
「――ああ、そうだ。あなたもね、気をつけた方がいいですよ。正体バレると色々とまずいんじゃないですか。昔のような敬意は払ってもらえそうにない。時代は変わった」
「そんなものを求めてここにいるわけじゃない」
くす、とギヴェオンは吐息で笑った。
「ええ、私もです」
夜の闇に黒衣の後ろ姿が溶けてゆく。無言で見送っていたキースは、ふと振り向いて未だ燃え続けている研究所の一角を眺めた。
炎は広がってはいないが、消し止められてもいない。夜風に乗って悲鳴じみた怒鳴り声が聞こえてくる。研究所の錬魔士が炎を消そうとしてできずにいるようだ。さぞかしパニックに陥っていることだろう。
「……無駄だな。あれは人に消せるもんじゃない」
呟いたキースの瞳が遠い炎を受け、ほんの一瞬だけオパール色に輝いた。
目覚めたソニアに最初に見えたのはフィオナの顔だった。夢を見ているのかと思ったが、抱きしめられてようやく現実感が沸いた。特務隊に捕らわれていたはずが、いつのまにかブラウニーズに戻ってきていた。
ギヴェオンが言うには『誤解が解けたので早々に解放してもらった』とのことだ。医務室でうとうとしたかと思った次の瞬間にはブラウニーズの客間で目覚めたので、時間の経過や物事の経緯がいまいちぴんと来ない。
ギヴェオンが道に迷ってこともあろうに特務隊本部の地下室に出てしまった一件を聞くと、ユージーンは笑い転げた。
「こいつ昔っからそうなんだよ! 地下に潜ると途端に方向感覚がめためたになってさぁ。地上なら真っ暗闇でも迷わないのに何故か地面の下は苦手なんだなぁ」
アビゲイルの計らいで、心配していた顧問弁護士とも連絡が取れ、屋敷の修復や父の葬儀の打ち合わせをした。
ヒューバートの亡骸はどういう手段を使ったのか、ブラウニーズに運ばれていた。葬儀屋が綺麗に整えてくれたおかげで、柩に入れられたヒューバートはまるで眠っているかのようだった。父と兄の葬儀は千年祭が終わってから執り行うこととし、遺体には防腐術を施した。
グィネル公爵はテロリストに射殺され、ヒューバートは事故でアラス城の堀に落ちて水死、と王宮には報告し、受理された。
公爵殺害犯として指名手配中のオージアスは行方が知れず、あの奇矯な暗殺者ジャムジェムも廃神殿以来なりをひそめている。
フィオナの話からすると、オージアスのアジトは地下遺跡のどこかにあるらしい。だが、移動する際フィオナは目隠しをされていた。ブラウニーズの面々はそれぞれに手がかりを追っているものの難航中だ。
聖骸公開が間近に迫り、ますます帝都が混み合ってきているのも不利だった。警備に動員される兵士が一気に増え、迂闊に動けない。
ブラウニーズの裏家業――危険な〈神遺物〉の破壊――は非合法な活動だ。〈神遺物〉は極めて貴重なものであり、保存・研究・活用すべきであって、破壊などもってのほか、というのが遺跡管理庁の姿勢である。故意だろうと事故だろうと遺跡及び〈神遺物〉の破壊は厳重に処罰される。
今のところブラウニーズの〈神遺物〉破壊活動は組織として認識されてはいない。目をつけられると厄介だから慎重になるしかないとわかっていてもソニアは歯がゆくてならなかった。
父と兄を殺され、憧れの人まで巻き添えで命を落としたのだ。何としてもこの手で仇を取りたい。
そんなある日、ソニアはアビゲイルに呼ばれて所長室へ行った。先客が何気に振り向く。
「ハイランデル少佐……!? どうしてあなたがここに」
「先日はどうも……」
私服姿のキースがぎこちなく会釈すると、ユージーンがいきなりばしんと背中を叩いた。
「固いなぁ。もっと砕けろよ、親戚だろ」
「遠すぎますって」
無礼な仕種に怒りもせず、キースは困惑したように顔をしかめる。無表情にふたりを眺めていたアビゲイルは眉間に皺を寄せて嘆息した。
「なるほど、そういうことでしたか。ユージーンが軍人と喋っていたというから誰かと思えば、まさかあなたとはね」
「え……? お知り合いなんですか!?」
「そ。とっても古ーいお知り合い。な?」
ユージーンがにっこりする。キースは何だかすごくイヤそうな顔をした。ソニアはますます混乱した。
「で、でも。だったらどうしてギヴェオンを捕まえたりしたの」
「そりゃ仕方ない。キースはギヴェオンと会ったことがなくて、顔を知らなかった」
「色々と話は聞いてましたけどね」
どことなく含みのある視線を向けられても、ギヴェオンはそしらぬ顔で受け流した。ソニアが同席している時、彼は決して使用人としての姿勢を崩さない。
「……あの、親戚って何のことですか」
「文字どおりの意味さ。このキースくんはねぇ、ソニア様の遠い遠ーい親戚なの。彼はソニア様の母方の祖先のお兄さんなんだよ。わかった?」
全然わからない。ソニアの不審そうな顔に、アビゲイルが溜息をついた。
「わたしたちは彼女に何の説明もしていないのですよ。わからなくて当然です」
「え、そうだっけ。ギヴェオン。おまえから説明したよな?」
「してない。可能な限り、それは伏せておくはずだったのでは」
平淡な彼の声には微妙な怒りが含まれていた。ユージーンの顔に焦りが生まれる。
「あ、あれ? 俺、もしかして口滑らせちゃった?」
いや困ったなぁ~と空笑いするユージーンを、アビゲイルとギヴェオンが冷めた目で睨む。しかめ面でこめかみを揉み、アビゲイルは諦めたように切り出した。
「わたしから説明しましょう。こうなったらソニア様にもしっかり事情を把握してもらった方がいいと思います。何といっても当事者ですから」
「そーね。アビちゃんから聞くのが一番わかりやすいと思うよー」
(アビちゃん……!? ユージーンさんって、所長の秘書じゃないの!?)
上司になんて口を、とおののいたが、アビゲイルは鬱陶しげに眉根を寄せただけだった。
「――ソニア様。〈光の書〉はご存じですね? 現存する〈光の書〉には後代に作られたフィクションが混入してかなり荒唐無稽になっていますが、大筋はだいたい合っています。神々はどこからかこの世界へやって来て、荒野を沃野に変えた。やがて自らが生みだした人類の扱いを巡って対立し、最終的には人類側に立った神々が勝利した。神々は世界を人類に譲り渡し、姿を消した。――さて、消えた神々はどこへ行ったと思います?」
「どこって……、眠っているんでしょ? 聖廟におられる女神アスフォリアのように。いつかこの世界に危機が迫った時、神々はふたたび目覚めるのだと習ったわ」
何の関連があるのだろうと訝しみつつソニアは答えた。
神々はそれぞれの神殿で眠りに就いている。眠っていても神々は人間の祈りを聞き、力を貸してくれるのだ。幼い頃からずっとそう言い聞かされてきた。それはソニアにとって世界を認識する上での大前提だ。
「そうです。神は眠った。でも全員が同じ時期に眠ったのではないし、ずっと眠り続けているわけでもない。ほとんどの神は眠りと覚醒を繰り返しています。人間が夜になると眠り、朝が来ると目覚めるように。ただ、神々の睡眠周期は人の一生よりもずっと長いのです。ちなみにわたしは五十年ほど前に叩き起こされました。いい気分で寝てたところを」
「起こしたのは俺ねー。アビちゃんがついててくれないと色々と困るんで」
ニコニコしながらユージーンが口を挟む。アビゲイルはじろりと彼を睨んだ。
「そして面倒くさいことをすべてわたしに押しつけるわけですね」
「やだな、僕ぁ昔っからアビちゃんの実務能力を高く買ってたじゃないかー」
ユージーンはまったく悪びれずにからから笑った。アビゲイルは投げやりに目を逸らす。
「あ、あの。どういうことでしょうか。さっぱりわからないんですけど……」
「つまり、こういうことです」
嘆息しながらアビゲイルは目を閉じ、一呼吸置いてゆっくりと瞼を上げた。
アビゲイルの蒼い瞳が不思議な光を放つ。瞳孔が黄金に変わり、ラピスラズリのように細かい金色が瞳に散らばる。金環食のように蒼い瞳を金の輪が取り囲み、白目の部分が乳白色のオパールのように幻惑的に輝いた。
ソニアは息をするのも忘れてアビゲイルの瞳に見入った。その視線を避けるようにアビゲイルはそっと目を伏せた。
「……あまり見つめない方がいいですよ。影響を受けますから」
目を閉じてふたたび開いたアビゲイルの瞳は元通りの理知的なブルーに戻っていた。ソニアは絶句してまじまじとアビゲイルを凝視した。
「あなたは……、神様なの……!?」
「人間の言い方によれば、そうなりますね」
ソニアは振り向いてユージーンを見た。彼は悪戯っ子のように笑った。
「僕の目は見せないよ。下手に影響を及ぼすとアスフォリア様に蹴り飛ばされるからね」
「おちゃらけた言い方をしていますが、彼はわたしより格上ですので本当に危険です」
「うん、だから見せないって。心配性だなぁ、アビちゃんは」
「あなたのようなちゃらんぽらんな上官に仕えたら誰でもこうなります!」
噛みつかれて首をすくめるユージーンを茫然と眺め、ソニアはその向こうに立っているギヴェオンに視線を移した。
「……あなたも……なの……?」
彼はかすかに眉根を寄せて微笑んだ。眼鏡の向こうの瞳は、やはり胸に食い込むほど蒼くて。黄金とオパールの輝きがなくても、レンズ越しであっても、否応なく引き寄せられてしまう。
「ギヴェオンは僕よりさらにヤバいよー。自力で封印して、さらに錬魔術を仕込んだ眼鏡で強制封印してもまだ微妙に洩れてるからね。なぁ、いっそ黒眼鏡にすれば?」
「怪しすぎて仕事にならないだろ」
ギヴェオンは憮然とユージーンを睨んだ。ソニアは混乱して必死に考えた。
「アビゲイルさん、ギヴェオンを蹴ってましたよね。彼が格上なら、そんなこと……」
「あー、あれはねぇ、気合を入れてるんだよ。自分よりずーっと格上の存在を目下の者として扱うのは、やっぱり落ち着かないもんだからねぇ。無意識に圧倒される前に先制攻撃をしかけて自分を落ち着かせてるの。畏怖を克服するための、アビちゃんなりのやり方」
アビゲイルはこめかみに青筋を浮かべたが、あえて否定もしなかった。
「か、変わってますね……。もしかして、あなたもなんですか、ハイランデル少佐」
「キースでかまわないよ。――俺は純粋な神ではないから、物凄く感情が昂った時とか暗い場所から明るい場所へ出た時の一瞬くらいだ。気をつけていればバレない」
「彼は半神なんだよ、ソニア様。キースはね、アスフォリア様の実の息子。アスフォリア王国の二代目の王様なんだ。あ、そっちの意味でも親戚かぁ」
ソニアは居心地悪そうな顔つきの青年を茫然と見つめた。
「いきなり言われても信じられないと思うが……」
勿論信じられない。でも、嘘だと切り捨てることもできなかった。アビゲイルの瞳を見てしまったから。
息が止まりそうなあの輝き。本物の神の瞳は、まさに生きている宝石だ。
「……信じるしかなさそう」
ソニアは茫然と『神々』を見回した。現代を生きるふつうの人たちにしか見えないのに、全員が伝説の存在だなんて――。
「でも……。名前、聞いたことないわ」
「もちろん正式な神名は別にあるよ。でも内緒。有り難みが薄れるといけないからね」
真面目なのかふざけているのかわからない口調でユージーンが含み笑う。
「それじゃ、神殿もあるんですか」
「あるよー。もうずっと帰ってないけど。代理人に任せきりだな」
「あまりべらべら喋らないでください、ユージーン。それこそ有り難みが薄れます」
アビゲイルに睨まれ、ユージーンは首をすくめた。唖然とするソニアに向き直り、アビゲイルはきっぱりと言った。
「ご心配なく。代理人といっても人間ではなく、わたしたちの部下ですから。〈光の書〉に名前が出て来ないだけで、この世界に居残った神々は大勢いるのです。神にも力の差は歴然とあり、強い〈神の力〉を持つ神は多くの配下を従えています」
「アビゲイルさんも神殿をお持ちなんですか……?」
「ええ、まぁ。慎ましいものですけれど。わたしは元々ユージーンの副官なので、彼の命令には従わざるを得ないのです」
微妙に殺気のこもった目でじろりと睨まれ、ユージーンは顔を引き攣らせた。
「やだなぁ、アビちゃん。僕は命令なんてしてないよー。お願いしたの、お願い」
「もういいです。話がずれるからあなたは当分黙ってて下さい。――とにかくそういうわけで、わたしたちが危険な〈神遺物〉の破壊を行っているのは自らの尻拭いのようなものなのです。神の亡骸も同じ。あれはかつて我々と敵対した側の神の遺体です。人類を蔑み、人類に味方したわたしたちを裏切り者と憎んでいる。神は死してなおその性質を保持します。神の精髄を投与された人間は、紛いものの〈神の力〉を得ると同時に人類への蔑視と敵対神への憎悪を本能に強くすり込まれてしまうのです」
「……お兄様もそうなってしまったの?」
「おそらくそこが彼らの誤算だったと思います。ヒューバート卿がもともと持っていた要素が目覚め、激しい葛藤を引き起こしたのです」
アビゲイルは懐かしそうに目許を和ませた。
「ソニア様。あなたとヒューバート卿は、アスフォリア様が人との間にもうけた娘の子孫なのです。あなたがた兄妹はその血統を母方から受け継いだ。一方父方からは王家の血を受け継いでいる。まさに、最もアスフォリア様に近い存在なのです」
「ど、どういうこと。わたしのお母様は女神様の子孫なの?」
「〈神の力〉は女系でしか伝わりません。キースはアスフォリア様から〈神の力〉を受け継ぎましたが、それを次代に伝えることはない。男系の王家は三代目ですでに普通の人間とほとんど変わらない存在になっていたのです。一方、女神の女系子孫たちは〈神の力〉を保持し続けた。人間との婚姻が続いて表面には出て来なくなりましたが、それでも力は受け継がれてきた。キース、あなたはそれに気付いてここへ来たのでしょう?」
アビゲイルの問いにキースは頷いた。
「気になって、妹たちの子孫がどうなったのか系図を調べてみたんだ。俺のふたりの妹はどちらも人間と結婚して子どもをもうけているが、姉の血統は三百年ほど前に途絶えてしまった。男しか子どもが生まれなくてね。妹の方は細々ながら続いて、最後にはグィネル公爵夫人にたどり着いた。公爵夫人が亡くなり、ヒューバート卿が亡くなった今となっては、ソニア嬢、あなたがただひとりアスフォリア女神の直系子孫ということになる。俺にとっては妹の子孫であると同時に自分自身の子孫だ。奇縁だな」
ソニアは絶句してキースを見つめた。
この人が自分の先祖。二十代前半の青年にしか見えないこの人が、アスフォリア女神の息子で半神で、ほとんど伝説上の人物だと思っていた二代目の国王。父方でも母方でも縁のあるひとだなんて……。
ものも言えずに突っ立っているソニアを、ユージーンが心配そうに窺った。
「ソニア様、大丈夫? 頭爆発してない?」
「……するかも……」
ふらぁとよろけたソニアを、すかさずギヴェオンが抱き留めた。寝椅子に横たえ、アビゲイルが差し出した扇子でせっせと扇ぐ。
ぼんやりとした頭にとりとめのない考えが浮かんだ。自分は今、本物の神様に扇いでもらっている……。
気力を振り絞って身を起こし、背中に差し込まれたクッションに凭れかかると、ギヴェオンがレモネードのグラスを差し出してくれた。
「ありがと。――もう大丈夫です。話を続けて」
「キース、あなたから説明してもらった方がいいわね」
アビゲイルに言われ、キースは言葉を選びながら話し始めた。
「ことの発端は、先日話したとおり二十年前に見つかった神の亡骸だ。これが巡り巡って〈月光騎士団〉に渡った。創造主教会の過激セクトを母体とする騎士団は、聖神殿を壊滅させ、教会信仰で大陸全土を支配することを目論んでいる。アスフォリア帝国は聖神殿の本拠地で最大の擁護者。そこで目をつけたのが建国千年祭で行われる聖骸公開だ。これまで一度も人目に晒されたことのない女神の柩が、公衆の面前で開かれる」
「それを見るために大陸中から聖神殿の信徒がアステルリーズに押し寄せているわ……」
キースは頷いた。
「ここ十数年の間に創造主教会の勢力は著しく増大し、聖神殿の信徒はかなり減っている。それを何とか奪還しようと聖神殿のお偉方は気を揉んでいるんだ。女神の奇跡を目の当たりにすれば、きっと信者は戻ってくる、とね」
「あの……、本当にその、何というか、ご遺体は」
「母は眠ってるだけだ。完全に昔のままさ」
「キースさんは公開に反対なんですね」
「母親の寝姿を見せ物にしたいと思うか?」
ソニアはぶんぶん首を振った。ユージーンが頓狂な声を上げる。
「そうだ、どうせなら起こしちゃえば? すげー奇跡だ。俺も感涙にむせぶ」
キースは逆上したように怒鳴った。
「そんなこと母が望むと思うか!? あんたたちはこの世界を人間に譲ったんだろう。口出しも手出しもしないと決めたんじゃなかったのか」
「神の口出しと手出しを未だに望んでるのは人間の方さ」
しらっと切り返されてキースは言葉に詰まる。
「……母とはこのところ話ができない。あそこにはいないんじゃないかと思う」
「そんな、大変じゃないですかっ」
「いや、身体はある。でも、魂が抜けてる気がするんだ」
「あーははは。そりゃあれだ。アスフォリア様、寝てるのに飽きて出かけたんだよ。身体ごと覚醒すると色々と面倒だからねぇ」
愉快そうに笑うユージーンを、キースは横目で睨んだ。
「とにかく聖骸公開は決定事項だ。今さら中止はできない。そんなことをしたら押し寄せた信徒が暴動を起こすかもしれないし、ここぞとばかりに創造主教会がごっそり信者をかき集めるだろう。それに、公開は聖神殿だけでなく王家の意向でもある。このところ王室の権威も下がりっぱなしだからな」
「あれだけ不祥事が重なれば当然だろうね。不良皇子の追放から始まって、怪しい病死だの、続けざまの事故死だの」
「宰相が皇帝陛下を意のままに操っているという噂は本当なのかしら……」
ソニアの呟きに、キースは眉をひそめた。
「どうかな。シギスムントはまだ十一歳。生来引っ込み思案で人見知りをするし、政治的意見に限らず自己主張の薄い子だ。しかし宰相ヴィルヘルムは絶対的な権限を持っているわけではない。何をするにも御前会議の賛同を得なければならない」
「で、その御前会議にはうるさ方が揃ってる、と」
ユージーンの茶化したような言い方にも、キースは真面目に頷いた。
「少なくとも宰相の提示している政策は国策として妥当なものだ。独断専行はないと見ていい。そういう意味では、かつて摂政を務めた太后の方がよほど露骨に専横的だった」
「太后が馬車の事故で死んで、宰相の謀殺じゃないかって噂が流れたんだよな~」
「ちょうど対立が最高潮に激化している頃だったからな。宮廷でも事故調査委員会が設けられた。結論として、宰相が事故に関与したという証拠はなかった」
「は。微妙な言い方だな。つまりまだ疑惑は完全に晴れてないわけだ」
「そっちは近衛隊の管轄だ。俺はよく知らん」
むっつりと言うキースに、ユージーンは皮肉っぽく目を眇めた。
「それで? 元王様としてはどう思ってるのかな?」
「シギスムントが無能なら、できる宰相に任せておいた方がよほど安心だな」
「わ~、厳しいねぇ。手ェ貸してやらないの?」
「俺はとっくに引退した。手出しも口出しもしない。あんたたちもそうだろ」
ユージーンはにやりとした。
「基本的にはそうだけど。今にも倒れそうな奴を見たら反射的に手を貸しちゃうよね」
「単にお節介なだけです」
「あたっ。アビちゃんキツイなぁ」
「わざと突き飛ばしておいて親切ごかしに手を差し出すよりは、よっぽどマシですけど」
ユージーンは、ぽんと手を打った。
「なーるほど。つまり王家は今まさに『わざと突き飛ばされてる』わけだ」
「というか、突つかれてる状況だな。先々代の皇帝が亡くなって以来、王家には黒い噂が絶えない。現在の皇帝は幼く頼りがいがない。宰相にいくら実力があったところで国を代表するのは皇帝だからな。王家と協力して国を支えてきた聖神殿も、創造主教会に信者を奪われて影響力が低下しつつある」
「女神様の聖骸を公開すれば、王家と聖神殿、双方にとって人心を取り戻せる、と?」
ソニアに向かってキースは頷いた。
「効果覿面だろうな。『奇跡』を目の当たりにすれば信仰心は劇的に高まり、創造主教会に流れた信者がかなり戻ってくるはず。当然、教会にとっては面白くない事態だ。といって横やりを入れるわけにもいかない。下手に反対表明や批判をすれば国内での布教を禁止されるおそれがある。そうなっては元も子もない。そこで〈月光騎士団〉の過激行為を黙認してる。というか、むしろ陰で奨励しているふしさえある」
「教会は騎士団との関係を否定してるんですよね」
「破門したわけだし、絶対に認めないよ。こちらとしても確たる証拠がない限り教会を閉鎖するわけにもいかない。――ところで、例の男だが、それらしき人物の行方が掴めた。エストウィック卿の従者で、その後ヒューバート卿の従者にもなった……」
「オージアス!? どこ? どこにいるの」
父と兄を奪った男が見つかったと聞いては落ち着いていられない。勢い込んで迫るソニアに対し、キースは何故か顔色が冴えなかった。
「それが、大司教の邸宅にいるようなんだ。しかも、大司教本人の従者をしてるらしい」
「大司教って……、もしかして創造主教会の偉い人?」
「そう。アステルリーズ大司教座教会の主。アスフォリア国内における教会活動の最高責任者だ」
絶句するソニアの背後で、ユージーンがピュウと口笛を吹いた。
「そりゃまた面倒なところに潜り込まれたなぁ。ほとんど治外法権地帯だぜ、そこ」
「……確か、大司教は過激な発言で何かと物議を醸していたような」
アビゲイルが眉根を寄せて呟く。
「ああ。聖神殿や神々に対する攻撃的な物言いが多く、何度も神殿から正式抗議を受けている。そのたびに失言だったと謝罪はしてるが、本音だろうな。大司教は創造主教会の高位聖職者の中でも最右翼の狂信者だ。赴任前は、聖神殿の神々は皆悪魔だと公言して憚らなかった。そんな奴がなんでアスフォリアに派遣されたのか……」
「わはは! 俺たち悪魔だってよ、アビちゃん」
「笑うとこですか、そこ」
「んじゃ、怒る?」
「どうでもいいです。人間がわたしたちを何と呼ぼうと知ったことじゃありません」
きっぱりした口調にただならぬ矜持の高さを感じ、ソニアは秘かに驚いた。キースは何となくげんなりしたように見える。
「……とにかく、大司教は心情的には完全に過激派だ。〈月光騎士団〉を陰から援助している疑いは濃厚だが、何しろお偉いさんで手が出せない。オージアスは屋敷から出て来ないし、勝手に踏み込んで捕まえるわけにもいかないからな。ちなみに、この情報を伝えてくれた邸宅の下働きとは、その後まったく連絡がつかない」
ユージーンはゆっくりと顎を撫でた。
「新しい間諜を入れるのはやめといた方がいいぞ。無駄死にする」
「ああ、代わりに二十四時間体勢で外から屋敷の周囲を監視してるよ。――もうひとつ、きな臭い噂もある。聖骸公開日に天変地異が起こるそうだ。悪魔を拝みに行くと天罰が下る。教会の使徒は巻き込まれないように、聖廟には決して近づいてはならないとか」
「それ、何らかの大規模破壊活動が行われるということなのでは?」
「だろーね。〈月光騎士団〉としては、女神の実物と偶像を一度に破壊できる上、かなりの数の神殿派を始末して、創造主に対する畏怖をかきたてられる。一石何鳥だ?」
「そ、そんな。教会は大勢の人が死ぬのを黙って見てるつもりなんですか」
「たなぼたでしょ。〈月光騎士団〉は教会とは『無関係』なんだから」
ソニアは絶句した。
「公式見解では、教会は神々の存在を認めている。あくまで創造主の下位の存在としてだがな。だから表立って聖骸公開にケチはつけていないし、参拝を禁止してもいない」
「黙認してたら教会の使徒だって死ぬかもしれないじゃないですか。改宗しても神殿に通い続ける人は大勢いると聞いてるわ」
「悪魔の親玉である女神を拝むような輩は偽の使徒だから死んでもいいくらいに思ってんじゃないのかな。あの大司教はとにかく凝り固まってるからねぇ。上っ面はどうあれ、創造主教会は聖神殿との共存など望んでいない。神々に対する信仰を根絶して創造主信仰を大陸中に徹底させることが彼らの目標なんだ。聖神殿の中核たる女神を排除するのも使命のひとつ。ゆえに女神を破壊する。しかし、女神の血を受け継ぐ者たちがいるかぎりいつか復活してしまうかもしれない。だから女神の血筋も根絶やしにするべし」
「教会は王家を滅ぼすつもりなんですか!?」
「違うよ、ソニア様。さっき言ったでしょ。王家が何代続いたところで神々の因子は受け継いでいないんだ。彼らはただの人間さ。教会にとって真に目障りなのは、〈神の力〉を受け継いでいる女系子孫、つまりきみだよ、ソニア様。きみは教会にとっては邪魔なだけだが、王家の方は利用価値がある。そういうことだろ? キース」
「王家が聖神殿を捨てて教会に改宗すれば、勢力は一気に逆転するからな」
ソニアは愕然とした。教会は王家を利用してこの国を支配するつもりなのか。
「それが創造主教会の最高指導者である教皇の意向かどうかはわからないが、少なくともアステルリーズ大司教の思惑はそんなところだ。〈月光騎士団〉の幹部であるオージアスを懐に抱えている以上、無関係のはずがない。裏でどんな取引があるのか知らないが、おそらく多数の死傷者が出るような破壊活動が計画されている。大司教はそれを黙認し、事後は潔白をアピールするために〈月光騎士団〉を声高に非難するだろう。これまでの活動内容からして、騎士団は汚れ役を厭わない」
「むしろそれを自分らの使命と心得ているんだろうね。自らの手を汚すことに彼らはまったく無頓着だ。ソニア様、自分がどれだけ厄介な連中から狙われてるか、わかった?」
返事もできず、ソニアはぎゅっと拳を握りしめた。アビゲイルが気遣う口調で言った。
「ここにソニア様がいらっしゃることはすでに敵方に知られていると思います。しばらく神殿にでも身を隠しては」
自分がここにいれば、アビゲイルたちの活動に支障を来す。ソニアは意を決して頷いた。
「……わかりました。でも、どこの神殿へ行けばいいの? やっぱり聖廟ですか」
「何もなければ聖廟に籠もっててもらうところだけど、今は聖骸公開でバタバタしてるからなぁ。公開が始まると不特定多数の人間がどっと押し寄せてくるし、いまいち不安」
「シリウス神殿はどうだ?」
キースがどことなく皮肉っぽい顔で提案した。シリウス神殿はアステルリーズ郊外にあり、各神殿の警護を担う神官騎士たちの本拠地だ。建物は神殿というより堅固な要塞である。ユージーンは「うーん」と唸りながら顔をしかめたが、肩をすくめて頷いた。
「ま、あそこがいちばん安心ではあるかな。知り合いに話を通しておくよ」
「問題は移動中ですね。おそらくブラウニーズは監視されています」
「ここぞとばかりに狙ってくるだろうね。身代わりをたてるしかないか」
アビゲイルは頷き、部屋を出ていった。しばらくして戻ってきた彼女はフィオナを伴っていた。驚いているソニアをまっすぐに見つめ、きっぱりとフィオナは告げた。
「お嬢様。わたし、やります」
フィオナの口調は固い決意に満ちていた。
「荷造りができましたわ、お嬢様」
自室で物思いに沈んでいたソニアは、フィオナの澄んだ声にハッと顔を上げた。
「あ、ありがとう。こんな時まで悪いわね……」
「お嬢様の荷物がこれだけだなんて、何だか寂しいですわ」
旅行用の大型トランクに入っているのは最小限の着替えと身の回り品だけだ。
「向こうで神官服を借りるからいいのよ」
力なく微笑むと、フィオナは歩み寄って優しくソニアの手を取った。
「気になさらないで、お嬢様。わたし、お嬢様のお役に立てて嬉しいです」
「何を言うの、フィオナ……」
声を詰まらせるソニアに、フィオナはふふっと笑った。
「お嬢様にはずっとよくしていただきましたもの。旦那様もヒューバート様も、まるで家族のように接してくださって」
「フィオナとはずっと家族ぐるみの付き合いでしょ」
「そうですね。わたしはひとりっ子だから、ソニア様とヒューバート様がいつも一緒に遊んでくださって、とても嬉しかったです。公爵様もお優しくて、お嬢様と一緒に勉強ができるように計らってくださったし……。本当に感謝しています」
「わたしこそフィオナを姉妹みたいに思ってるわ。それで、つい甘えてしまうのね……」
フィオナは目を潤ませて首を振った。そろそろ寝支度をしましょうと言われ、身繕いを済ませて髪を梳いてもらっていると、ドアをノックする音がした。フィオナに頼まれ、ギヴェオンが温めたミルクを持ってきたのだ。鏡越しにギヴェオンの横顔がちらりと見えた。ソニアは落ち着かない気分でミルクを飲んだ。
(神様に身の回りの世話をしてもらうなんて、変な感じ……)
何となく、アビゲイルが気合を入れるのもわかる気がする。それにしても、どうしてわざわざ召使や使用人斡旋所を経営しているのだろう。逆の立場が当然だろうに腹は立たないのかと尋ねると、ユージーンは「人間観察が面白くてやめられないよ」とのたまった。
冗談めかしていたが、案外本音かもしれない。何しろ彼らは神なのだ。人間と違ってほとんど不老不死の存在である。
彼らにとっては使用人生活も暇つぶしの『遊び』なのかもしれない。ギヴェオンの仕事ぶりを見ていれば、いい加減にやっているのでないことはわかるが……。少なくとも彼は、仕事を完璧にやり遂げることにある種の情熱を燃やしているようだ。
(うぅ。でもやっぱり神様に靴を磨いてもらうのは恐れ多いわ……)
大事に履かなきゃ、と少々ズレた決意をして、ソニアは寝台に潜り込んだ。
翌日、ソニアは玄関ホールでフィオナと固い抱擁を交わした。フィオナはソニアの服を着ている。背格好や髪の色が同じようなので、よくよく見なければ見分けられないはずだ。一方ソニアはアビゲイルのものと似たデザインのツーピースドレスを着ていた。
「フィオナを頼むわね」
ケープ付きの薄手の黒いマントをはおったギヴェオンは、振り返ると帽子の鍔に手を添えてにこりとした。次第に遠ざかる車輪の音に、ソニアは建物の中から耳を澄ませた。
ホール脇の客間でじりじりしながら時が経つのを待つ。やがて迎えに来たアビゲイルはメイドの格好をしていた。緊張しながら玄関を出ると、すぐ前に馬車が横づけされていた。開いたドアの側には外出用のお仕着せ姿のティムが緊張の面持ちで立っている。
ソニアは外出するアビゲイルを装い、できるかぎり背筋を伸ばして悠然と馬車に乗り込んだ。ティムが後ろに飛び乗ると馬車はなめらかに走り出した。ほっと息をついたソニアは、気を取り直して姿勢を正した。神殿に着くまでは安心できない。
(フィオナ、大丈夫かしら……)
うまく敵が引っかかってくれたとしても、そうなれば襲われるのはフィオナの方なのだ。不安が黒雲となって心を覆う。ギヴェオンから渡された赤い石の嵌まった指輪を撫で、彼がついているから大丈夫だとソニアは何度も自分に言い聞かせた。
アビゲイルはソニアの乗った馬車をうやうやしく送り出すとダフネを従えて建物内へ戻った。歩きながらメイド用の室内帽を脱ぎ、髪を留めていたピンを次々に外す。手を後ろに回してエプロンの紐を解こうとするのを、ダフネが後ろから追いついて手伝った。
「すぐにお召し換えの支度を――」
アビゲイルが外したエプロンを腕にかけたダフネは、反対側から廊下を歩いてきた人影に絶句した。軽く手を上げたユージーンが、いつもと同じ軽薄な笑みを浮かべる。後ろには困惑顔のフィオナが従っていた。
「ユージーンさん!? もう戻ってきたんですか? でも、何でフィオナさんと一緒に」
「そこらをぐるっと回って引き返してきたギヴェオンとあらかじめ入れ代わってたのさ」
「で、でもそれじゃ囮にならないんじゃ……」
「いいんだよ。先に出た馬車は絶対に狙われないってわかってるんだから、うろうろしてても意味ないしね。――どうした、ダフネ? 顔が引き攣ってるよ」
メイドの少女は口ごもりながら後退った。
「い、いえ、あんまりびっくりして……。あ、あたし、お召し換えの支度をしないと」
「着替えは後でいいわ」
ぴしゃりと遮られて振り向くと、いつのまにかアビゲイルがさりげなく背後に回り、退路を塞いでいた。ダフネはうろたえて左右を見回した。
「あ、あの、フィオナさんがいらっしゃるなら、人数の変更を料理人に知らせなきゃ。早めに言わないとすごく怒られるんです」
「知らせる相手は料理人じゃないでしょ。誰に知らせるのか教えてもらえないかしら」
「な、何をおっしゃっているのか……」
「ちょっとやりすぎたね、ダフネ。僕が軍人と喋ってたと所長にご注進に及んだとか?」
「本当に見たんです! あの方がユージーンさんのお友だちだなんて全然知らなくて」
「へぇ? じゃあ何で今は知ってんの」
「だ、だって、訪ねてきたあの方をご案内しようとしたら、ユージーンさんが来てそうおっしゃったじゃないですか」
「おかしいわね、ダフネ。わたしに報告した時、軍人の顔は見えなかったと言ってたでしょう。制服で軍人とわかったんだと。彼はここへ私服で来たのよ。顔を知らず、服装もぜんぜん違うのに、どうして同一人物だとわかったのかしら」
「俺をスパイと疑わせておいて、ソニア様を攫った犯人に仕立て上げるつもりだった? 案としては悪くないけど、俺らの上下関係取り違えてたのは致命的だったねぇ」
ダフネの口から呪詛めいた叫びが上がる。ざわりと頭髪が逆立ち、口が耳まで裂けて鮫のような鋭い歯が真っ赤な口腔からぞろりと覗いた。
ひくっと喉を鳴らしたフィオナを、ユージーンは素早く背後に隠した。鋭い気合とともにアビゲイルの回し蹴りが容赦なく襲いかかる。かろうじて避けた異形の少女は、バランスを立て直しながらユージーンに向かって突進した。
フィオナを背中に庇いながら、彼は哀しげな微笑を浮かべた。
飛びかかったダフネが、ゆったりと佇むユージーンの眼前で、見えない力に弾き飛ばされる。無数の槍で一気に貫かれたように、ダフネの背中全体から鮮血が噴出した。
吹き飛ばされて廊下に叩きつけられたダフネは、ぴくりとも動くことなく絶命していた。歩み寄ったアビゲイルが覗き込み、無表情な顔を上げる。
「フィオナを頼む」
嘆息したユージーンに言われ、小さく頷いたアビゲイルはフィオナが惨状を見ないように気をつけながらその場を去った。
ユージーンはもはや原型を留めていないダフネの亡骸に向かって低く呟いた。
「……ごめんな、守ってやれなくて」
ダフネは何も知らない純朴な娘だった。ブラウニーズに関わっていたがために巻き込まれたのだ。霊薬は一度投与されたら取り返しがつかない。拒絶反応を乗り越えた者を待ち受けるのは、ただひとりの例外を除けば傀儡としていいように操られる運命だ。
「オージアスめ。こんな可愛い娘を化け物にしやがって。絶対許してやんないぞ」
ユージーンのふざけたような口調には、滅多にない真の怒りがこもっていた。
ソニアの乗った馬車は襲撃を受けることなく城門を通過した。ソニアは後部窓から次第に遠ざかっていくアステルリーズの城壁を見つめた。
幼い頃、城壁の塔に登りたいと駄々をこねて両親を困らせたことを思い出す。城壁の上は昼間なら一般人が散策することも許されているが、どの塔にも入れない。
八つある城壁塔のどれにも出入口がないのだ。立ち入りが禁止されているのではなく、どこからも入ることができない奇妙な塔なのだった。
塔のてっぺんにはぐるりと窓がついているから内部に空間があることは確かなのだが、どうなっているのか誰に聞いても首をひねるばかりだ。『きっと鳥のおうちになっているのよ』と陽射しの中で微笑んだ母の姿が、記憶の中で眩く輝いている。
白いパラソルに白いドレス。元気だった頃の、最後の姿。その後まもなく母は病に倒れ、亡くなった。フィオナを枕元に呼び、ソニアと仲良くしてあげてね、と囁いてふたりの手を重ねてきゅっと握った。その弱々しさを思い出すと、今でも鼻の奥が痛くなる。
(無事でいて、フィオナ……)
車輪から伝わる振動の質が変わり、ソニアは外を見た。深い森蔭が前方から迫ってくる。馬車は神代から続く整備された街道を外れ、脇道に入っていた。
不安になって御者席の後ろの窓を開け、吹き込んでくる風や車体の軋む音に負けじと声を張る。
「ユージーンさん、道が違うんじゃない?」
「近道するんですよ。森を突っ切れば三分の二の時間で到着します」
返答には納得したが、別の点でひっかかる。それはユージーンの声ではなかった。
「ギ、ギヴェオン……!? どうしてあなたが乗ってるの!? いつ入れ代わったのよ」
狼狽するソニアに、ギヴェオンは馬を操りながら振り向いてにっこりした。
「最初から私です。近所を一周しただけなんでお嬢様の出発には余裕で間に合いました」
「フィオナは? フィオナは無事なの!?」
「もちろん無事ですとも。ブラウニーズにいますよ」
手短に説明を聞き、ソニアは絶句した。まさかあのダフネが敵方の間諜だったなんて。
「本人の意思ではないでしょう。彼女もまたヒューバート卿と同じ犠牲者です。とにかくお嬢様がこの馬車に乗っていることはバレてますから。今のところ尾行はされてないようですが。向こうが素直に街道沿いを張っててくれるといいんですけどね」
脇道に入ったのは単なる近道ではなく、待ち伏せを警戒してのことだったらしい。冗談めかして軽口を叩いた直後、ギヴェオンは鋭く舌打ちをした。
狭い窓から前方に目を凝らし、ソニアは息を呑んだ。道の真ん中に誰かが立っている。どんどん近くなるその人影が、芝居がかった昔風の衣装を着ていることが遠目にもはっきりとわかった。
「……掴まっててください、お嬢様。強行突破します」
ソニアは言われるまま手すりに両手でしがみついた。車軸の振動がいっそう激しくなり、派手に身体が揺さぶられる。車輪が大地を噛む音が雷のように轟いた。
ふいにギヴェオンが叫び声を上げた。
「伏せて!」
ソニアは反射的に床めがけてダイブした。指先に触れた座席の足部分を掴んで身を縮める。鼓膜をつんざく破壊音と狂ったような馬の嘶きが交錯し、床が一気に傾いた。わけがわからないうちに馬車は半回転して木立をかすり、奇跡的に横転を免れて止まった。
眩暈を押さえて仰向いたソニアは、異様な光景に茫然とした。空が見えている。身を起こして周囲を見回すと、馬車の上半分が消失していた。まるで巨大な刃によって一気になぎ払われたかのようだ。遥か後方に、屋根の残骸らしきものが転がっていた。
愕然とするソニアのすぐ側で、誰かの足がだんっと音をたてる。座席の背もたれに足を載せ、ジャムジェムが傲然とソニアを見下ろしていた。
「お迎えに上がったよ、お嬢サマ」
何故かジャムジェムは顔の左半分を白い仮面で覆っていた。見えている右半分は相変わらず人形めいて精緻な美貌だが、瞳には狂気じみた凶暴な光がちらついている。
「ほーんと、殺してやりたいところなんだけど。そうもいかなくなったんだよねぇ」
情け容赦なく馬車から引きずり下ろされ、ソニアは遮二無二抵抗した。
「離してよ! 離してったら、この変態!」
「何だとぉ!?」
ジャムジェムは猛々しく目をつり上げ、ソニアの横面を叩こうと手を振り上げた。無我夢中で頭突きを食らわせると、みごと少年の左半面にぶち当たる。ジャムジェムは切羽詰まった悲鳴を上げ、ソニアを突き放した。仮面が外れて地面に落ちた。
ジャムジェムは両手で顔の左半分を覆いながらよろよろと後退った。必死で隠そうとしても指の隙間から見えてしまった。
日に焼けた紙のような、カサカサして皺だらけの皮膚。たるんで萎びた唇。落ち窪んだ眼窩の奥で黄色っぽく変色して血走った瞳が、怒りと狼狽でギラギラ光っている。
以前と同じく陶器のようになめらかで瑞々しい右半分との落差には胸が悪くなるほどだ。ジャムジェムは呪詛まじりの叫びを上げた。
「見るなぁ――っ!!」
血管が浮くほど強く拳を握ると、指の股から柳の葉のような形をした刃が四本にゅうと顔を出した。目をぎらつかせたジャムジェムが腕を振る。
飛来する刃になすすべもなく茫然とするソニアの視界を黒い翳が覆った。叩き落とされた刃が地面に落ちる。
「ギヴェオン……!」
「下がって」
短く命じ、ギヴェオンはどす黒い怒りに身をふるわせている少年と対峙した。ふっふっ、と吐き出される短い吐息がいびつな嗤い声に変わった。
「あんたも、いい加減しつっこいよなぁ……。すっごい腹立つんだけど」
「その言葉はそっくりそのままお返ししますよ」
「今、僕の攻撃でまっぷたつにならなかったっけ」
「錯覚でしょ。まっぷたつになんかなったら、そこらじゅう血の海ですよ」
「――ふん。まぁいいや。今止めてくれたことには礼を言っとく。その女、すっげ気に食わないんだけど、生かしたまま連れてかないと顔を治してもらえないからね。うっかり殺したりしたら、もう片っぽもミイラにされちゃう」
調子外れな笑い声を上げ、ジャムジェムはべろりと舌を出した。先端が尖り、うねりながら爬虫類の尻尾のように伸びて行く。めり、と口が裂けて口吻が長く伸びた。ほっそりしていた身体が筋肉で膨れ上がり、時代がかった衣装が弾ける。
「コレ醜いからキライなんだケドなァ。ホント、あったま来る。オマエ絶対ユルさない」
にた、と獣と人が入り交じる異形の怪物が嗤った。同時に大人の頭ほどもある巨大な拳が超速で迫る。ギヴェオンは身体をひねりざまソニアを抱えて跳んだ。大地を割った拳を引きながら、怪物は赤黒い舌をぐるぐる回して耳障りな笑い声をたてた。
ソニアを下ろしたギヴェオンが右手を閃かせると、無数のきらめく針のようなものが現れて怪物に向かって飛来した。しかし瞬時に怪物の身体を覆った鋼のような鱗に弾かれ、消し飛んでしまう。怪物は鼓膜がビリビリするような哄笑を上げた。
「バーカ。そんなちゃちな術が通用スルと思う? シロートじゃナイんだからさァ、もうちょっとマシな錬魔術使ってみなよォ。ムダだと思うケド」
「……ティム。お嬢様を連れて先に行ってください。この先に小さな御堂があります。古いものですが、今も結界が生きているはず」
「は、はいっ」
背後で上擦った声が上がる。よろよろと起き上がった少年の額からは赤い筋が流れていた。ティムはおぼつかない足どりでソニアに歩み寄った。
「血が出てるわ、ティム!」
「だ、大丈夫です。ちょっと切っただけで……。それよりお嬢様、早く行きましょう」
手を引かれて振り向くと、ギヴェオンは背を向けたままぴしゃりと言った。
「ここにいられると邪魔なんですよ」
突き放した言い方に、冷たさよりも余裕のなさを感じる。ソニアは意を決し、まだふらふらしているティムを逆に引っぱるように駆けだした。
ふたりをギヴェオンの肩ごしに眺め、怪物はニタリと目を細めた。
「ぐふっ、ぐふっ。これで心置きナク戦えルってか? だったらかかっておいでヨ」
身構えた瞬間、背後で甲高い悲鳴が上がった。弾かれたように振り返ったギヴェオンの視界に、ティムによって羽交い締めにされるソニアの姿が映る。小柄な小姓の姿もまた、いつのまにか半獣人に変貌していた。両腕で首元を締めつけられたソニアはほとんど失神寸前だ。ジャムジェムは喉を逸らし、けたたましく笑った。
「ばっかだなァ。メイドひとり始末して終わりと思った? んなわけないじゃん。メイドなんか最初から目眩ましサぁ。あの小僧は火事の時に煙を吸って死にかけてたのを助けてヤッタんだ。わざわざ貴重な霊薬を使ってネ。そんでアノ小娘を見張らせといたの」
怪物は舌を口腔に収めて嘲笑い、芝居がかって一礼した。ギヴェオンが体勢を戻すと同時に、何かが弾丸のように左胸を貫く。
息も絶え絶えのソニアは、霞む視界でぼんやりとそれを捉えた。禍々しく赤黒い鞭のようなものが怪物の口腔から長く伸び、ギヴェオンの胸を射抜いていた。
引き戻された鞭状のものが反動で高く空中に跳ね上がる。
それは怪物の舌だった。長大な舌がその先端にしっかりと絡め捕っているものが、ちぎり取られたギヴェオンの心臓だと気付いた瞬間――。
ソニアの意識は暗転した。
心臓を一呑みにしたジャムジェムは、今までの鬱憤を晴らすかのように絶命したギヴェオンの身体を巨大な拳で幾度となく殴った。仕上げとばかりに力任せに蹴り飛ばす。ぼろ布のようになった身体は太い木の幹にぶち当たり、座り込む格好でずるずると崩れ落ちた。
ジャムジェムは地面に転がった眼鏡を踏み砕き、ひとしきり変調した哄笑を上げると、気絶したソニアを抱えたティムを従え、悠然と去って行った。
森がようやく静けさを取り戻した頃。がっくりと項垂れていたギヴェオンの亡骸に小さな異変が起こった。力なく地面に落ちていた指先が、ほんのわずかぴくりと動いたのだ。
半開きの口から細く深い息が吐き出された。もう一度指先が痙攣し、今度は唇からはっきりとした言葉が洩れた。
『生命兆候消失から三百秒経過。規定により自動修復を開始する』
感情のない声が告げると同時に、胸郭に開いた血まみれの穴が塞がり始めた。奇妙な声は平淡に経過を確認し続ける。
『修復率五十パーセント、七十パーセント、九十パーセント。――修復完了。再起動』
雷撃でも受けたかのようにギヴェオンの身体が大きく跳ねた。のけぞった拍子に後頭部がごつごつした幹にぶつかり、「あだっ」と情けない悲鳴が上がる。頭をさすりながらギヴェオンは顔をしかめた。謎の声が冷やかに問う。
『目は覚めたか』
「あー、お蔭様で。できればもうちょっと優しく起こしてほしかったなぁ」
『頭がぶつかったのは偶然だ。私が意図したわけではない』
「はいはいどうも、お手数かけますねぇ」
ギヴェオンは両手を眺め、確かめるように指を折ったり伸ばしたりすると、よっと軽い掛け声をかけて立ち上がった。自分の身体を見下ろし、うんざりと顔をしかめる。
「あーあ、ひどいな。こんなボロボロにしてくれて。〈管理者〉、服も直してくれよ」
『そんな面倒まで見る義務はない。自分でやれ』
ぶつくさ言いながらギヴェオンは両手を広げて軽く息を吸った。瞳が青と金とオパールの彩りに変わる。ふわりと風が周囲を螺旋状に取り巻いたかと思うと、見るも無残な襤褸は見慣れた従僕のお仕着せである金ボタン付きの短燕尾服に変わった。
ギヴェオンは壊れた眼鏡を地面から拾い上げ、首を傾げてしげしげと眺めた。
『……のんびりしてていいのか? あの娘、連れ去られてしまったぞ』
「ま、そういう計画だからね。――だめだな、これは」
封印を施したガラスは割れてしまい、蔓も折れている。それでも一応ポケットに入れた。
『計画というと、最初からあの娘を攫わせるつもりで?』
「アジトが地下第二層にあるのはわかってるんだけど、入り口が見つからなくてさ。いっそのこと彼ら自身に案内してもらおうと」
『どうやって追う? おまえが娘に持たせた血髄晶なら、とっくに見つかって捨てられたぞ。ここから南西方向四五二メートル先に破壊されて落ちてる』
「あれはブラフだからいいんだよ。お嬢様には内緒でもうひとつ靴に仕込んである」
『それを知ったらあの娘、さぞかし怒るだろうな』
「二、三発殴られるのは覚悟の上さ。――ああ、見つけた。やはり市内に戻るようだな」
ギヴェオンは倒れてもがいている馬に歩み寄り、自分の指を噛んで軽く振った。血の雫が飛び、青い炎が馬を包む。絡みついていた馬具が燃え上がり、跳ね起きた馬は身体を揺すって鋭く嘶いた。静まった馬の背にはすでに鞍と鐙がセットされていた。
金色の瞳を覗き込んでよしよしと鼻面を撫で、ギヴェオンはひらりと鞍に跨がった。腹にかかとを当てると闇色の馬はぶるると鼻を鳴らし、疾風のごとく走り出した。
キースは司令室でひとり、机に広げた大判の地図を睨んでいた。聖廟と中央神殿には厳重な警備態勢が敷かれているが、万全とは言いがたい。
女神の聖骸を一目拝もうと、予定されている三日間で万単位の人間が押し寄せるだろう。敬虔な信者を装ったテロリストが紛れ込んでいても見分けるのは困難だ。聖廟入り口で身体チェックは行われるが、とにかく数が多すぎてそう念入りにもやっていられない。
実際にどんな攻撃が計画されているのかも未だ判然としなかった。禍が起こると吹聴している創造主教会の使徒を尋問してみても、さっぱり埒が開かない。声高にわめく者ほど実際には何も知らないのだ。
(奴らは陽動に使われているだけだ……)
流言蜚語に乗せられやすい人間を選んでまことしやかな噂を仕込み、大袈裟に騒ぎ立てさせて軍や警邏の注意を引きつけ、陰では真の陰謀が静かに進行している。
ノックの音に苛々と応じると、ドアが開閉して小気味よくかかとが鳴った。
「報告しまーす。〈月光騎士団〉シンパの居所を、残らず調べて参りましたぁ」
「――はぁ?」
間抜けな声を上げたキースは、真面目くさった顔で敬礼している人物に度肝を抜かれた。
「ユ、ユージーン……。どこから入ってきた? っていうか、その格好は何だ!?」
ユージーンは特務隊将校の制服と制帽を被り、儀礼用のサーベルまで佩いていた。
「似合うー? 俺も昔はいちおう軍人だったんだよねー、つーか軍神?」
キシシと彼はふざけた笑い声を上げた。キースは毒気を抜かれて返事もできない。ユージーンがくいと指を曲げると、机に置かれていた地図がふわりと舞い上がり、壁にぴたりと貼りついた。
「特務の皆サンも色々と忙しそうだから、代わりにアブナイ奴らのアジトを調べてきてあげたよー。特別大サービス。キースくんの言うとおり、俺ら基本的に人間社会に手出し口出ししないことにしてるからさ。ま、今回はアスフォリア様の安眠を妨げる恐れが強いからね。万が一にもアスフォリア様の身体が傷ついたりしたらイヤだし、かといって衆人環視で目覚めて騒がれるのも、アスフォリア様は嫌がると思うんだよねー」
腕組みしながらしたり顔で頷いたユージーンは、腰に手を当てコキコキと首を鳴らした。
「さーて、そんじゃ行くよ~」
ニッと笑った瞳が一瞬のうちに青と金とオパールに変わる。地図の一点に突如として小さな赤い旗が立ち、あっという間に十箇所以上に増えた。
「――ここが過激派の塒ね。追加サービスで一人残らず塒にいるよう仕向けとくから、公開日前日の早朝に一斉検挙するといいよ。勘づかれたとしてもそこまで面倒見きれないんで、せいぜい気をつけて」
にっこり、と笑顔で言われ、キースの顎ががくんと落ちた。
「……俺たちが数か月かけても掴めなかったのを、たった一日で……!?」
「見直した? なーんて、実際調べて来たのはアビちゃんだけどね。俺、面倒くさがりだからさー。礼ならアビちゃんに。エメルのガトーショコラがいいって言ってたよ」
「ケーキでもムースでも何でも持ってく……」
「それじゃもうひとつ。スペシャル濃厚プリンをつけてくれたらいいこと教えてあげる」
「全種類買ってやるから知ってることは全部言えっ」
「大司教宅に、面白いお客が来てるよ」
「……オージアスじゃなくて?」
「お客って言っただろ。ほら、あの人。きみたちがアラス城で取り逃がした」
にっ、と笑ったユージーンの無邪気そうな顔は、ある意味とても恐ろしかった。
アステルリーズの大司教は、屋敷の奥まった一室にいた。面談を申し入れる人間は多いが、ここまで招じ入れられる者はごく限られている。
召使でも特定の者しか立ち入りを許されないその部屋で、大司教ともうひとりの人物が優美な寄せ木細工の丸テーブルを挟んでいた。ふたりとも座り心地のいい天鵞絨張りのクッションがついた重い花梨材の椅子にどっしりと腰を下ろしている。異様なのは大司教と向き合う男が白い半仮面で顔を隠していることだ。
「いよいよ明日ですな」
グラスを傾けた大司教は、唇をちろりと舐めて口角をつり上げた。アステルリーズ近郊で作られるワインは彼のお気に入りだ。悪魔の化身を神と崇めるアスフォリア帝国は彼にとって侮蔑と憎悪の対象でしかなかったが、そこで作られる酒は美味い。向かいに座った半仮面の男は、大司教の言葉に頷いてグラスを掲げた。
「女神の死に、乾杯!」
大司教もまたおもねるようにグラスを掲げる。空になった双方のグラスをふたたび満たしながら、大司教はねっとりした口調で尋ねた。
「ところで……。殿下が帝位に就かれると同時に改宗を宣言するというお約束は、信じてよろしいのでしょうな?」
「くどいぞ、大司教。何度もそう言ったではないか」
「疑うわけではございませんが、何ぶんにも口約束に過ぎませんのでな。是非とも殿下のご署名入りの念書をいただきたいものです」
「わかっておる。前にも言ったとおり、それはあの目障りな宰相を始末してからだ。あ奴さえいなければ、寄る辺ない子どもに過ぎぬ皇帝などどうにでもなる。グィネル公爵が死んだ今、宰相さえ消えれば御前会議を動かすのもそう難しくはない」
「殿下のご帰国に反対の貴族も、ほとんど姿を消しましたからな」
「そう、不幸にも〈月光騎士団〉の犠牲となってな……」
ククッと喉の奥で笑い、殿下と呼ばれた半仮面男は美味そうにグラスを干した。
「やっとここまで来た。判断力に欠ける幼帝を忠義面して操り、国政を恣にするヴィルヘルムめ。奴の讒言で追放された屈辱は片時も忘れたことはない。大司教よ、宰相を始末する手筈は整っているのであろうな?」
「聖廟の破壊と同時に、宰相もまた命を失う算段になっております。帝国中枢は大混乱に陥るでしょう。そこへ殿下が颯爽と現れ、事態の収集を計るというわけです」
露骨なおべんちゃらを言われた男が満足そうに頷いた時、扉の向こうから不穏な物音が伝わってきた。必死に制止する執事の声と、低く聞き取りにくいが威嚇するような声が入り交じる。何事かとふたりが腰を浮かすと同時にノックもなく扉が開いた。
なだれ込んできた兵士たちに銃剣を突きつけられて目を白黒させていると、兵士たちの壁が割れて将校服の男が悠然と現れた。大司教はようやく気を取り直して怒鳴った。
「い、いったい何の真似だ!? 大司教の公邸に許可も得ず踏み込んでくるとは」
「許可はありますよ。あなた方ふたりに対して皇帝陛下より正式な逮捕状が出ています。アステルリーズ大司教。そして、ルーサー元皇子」
つかつかと歩み寄った将校が硬直している男から半仮面をむしり取る。四十代後半と思われる男の顔が現れた。濃灰色の軍服を着た将校は皮肉な笑みを浮かべた。
「ご尊顔を拝し奉り光栄です。皇帝陛下の叔父君、ルーサー元皇子殿下。いや、エストウィック卿とお呼びした方がいいですかな」
「ぶ、無礼だぞ。下がれっ」
「あなたに科された国外追放処分は未だ継続中です。領地として認められた土地を除き、あなたはアスフォリア国内に一切足を踏み入れてはならないはずですが?」
「領地だと!? あんな辺境の、猫の額ほどの土地に閉じこもってなどいられるか!」
「たまに息抜きをするくらいなら大目に見ることもできましょうが、創造主教会の過激派と組んで陰謀など企まれては見逃すわけにもいきませんな」
将校の合図で、兵士たちがエストウィック卿ことルーサー元皇子を引き立ててゆく。何とかしろとルーサーは大司教に対しわめきたてていたが、こちらも逮捕状を突きつけられてそれどころではなかった。
「わ、私は創造主教会の大司教だ。せ、聖職者の逮捕には教主の許可がいる」
「これがあなたの逮捕を認める教皇の書状。こっちがあなたに対する破門通知です」
大司教は絶句し、限界まで目を見開いてわなわなふるえながら通知状を凝視した。
「すでに破門されている異端過激派の〈月光騎士団〉とよしみを通じた咎により、あなたも破門に処すそうです。ちなみに、聖廟襲撃計画の加担者は全員捕縛済みですので」
冷然と告げると、茫然自失していた大司教はにわかに逆上して破門通知に掴みかかった。兵士たちに押さえ込まれ、大司教はルーサー元皇子同様に連行されていった。
キースは証拠品の差し押さえを部下たちに命じ、玄関へ向かった。激しくわめきたてる声が聞こえてくる。拘束された大司教が、ややデザインの異なる法衣姿の男を口汚く罵っていた。馬耳東風とばかりに涼しい顔で聞き流していた男は、キースに気付くと大司教には目もくれず媚びを含んだ微笑を浮かべた。好かない顔だと改めて思ったが、スムースに逮捕状が発行されたのもこの男の協力があったゆえだ。
男は大司教の補佐として派遣された司教だった。テロリストの潜伏先を暴いたユージーンが姿を消してまもなく、この司教がやってきて大司教と〈月光騎士団〉、エストウィック卿ことルーサー元皇子の繋がりを暴露したのである。用意のいいことに大司教の破門状まで持参していた。タイミングがよすぎる気はしたが、ユージーンたちが教会とつるんでいるとも思えない。司教は前々から大司教を蹴落とそうと機会を窺っていたのだ。
「おかげでテロを未然に防ぐことができました。感謝します」
「いえいえ。こちらこそ、仮にも大司教位にあった方に大罪を犯させずにすみました。創造主教会は決して聖神殿を敵視してなどおりません。ごく一部の不心得者が、創造主の御心をはき違えているのです」
司教は丁寧に礼をして去った。馬車を見送っていると、部下の兵士が走り寄って来る。
「少佐! 屋敷中を捜索しましたが、オージアスの姿はありません」
「そうか。――地下室は調べたか?」
「はい。少佐の睨んだとおり、地下都市への通路が設けられていました。捜索しようとしたところ、いきなり天井が崩れてきて」
「何だと!? 負傷者は」
「踏み込む直前だったので、全員無事です。ただ、完全に塞がれてしまいまして……」
「……やむを得ん。とりあえず証拠になりそうなものはすべて押収しろ」
敬礼して兵士が去る。キースは口惜しげに舌打ちした。
「また逃げられちゃったみたいだねー」
背後から悠然とした声が聞こえてきた。振り向けば、またもや軍服を着込んだユージーンが何食わぬ顔で立っている。キースはげんなりとユージーンを睨んだ。
「あんたが逃がしたんじゃあるまいな」
「まさかぁ。ま、たぶん逃げられるだろうなぁとは思ってたけどねー。いいじゃん別に。聖廟襲撃は未然に防げたわけだし」
「主犯を捕えてないのに安心できるか」
「オージアスだって身体は一個しかないんだからそうあちこち仕切ってはいられないよ」
「ソニア嬢は無事なんだろうな」
「奴らにとってソニア様は文字どおり最後の切り札だ。何としても生かしておくさ。それより、テロリストを逮捕したからって気を抜かないようにね。〈月光騎士団〉とは無関係のお馬鹿さんたちが騒ぎ出さないとも限らない」
のほほんとした口調にイラッとしたキースが「わかってる!」と怒鳴ろうとした時、すでにユージーンの姿はどこにもなかった。キースは腹立ち紛れに地面を蹴った。
「これだからあいつらは嫌いなんだッ」
毒づいたキースは軍服の裾をひるがえし、憤然と屋敷へ引き返した。
ユージーンが所長室のドアを開けるなり、フィオナが血相を変えて掴みかかってきた。
「ソニア様は!? お嬢様はどこですかっ」
「まぁまぁ落ち着いて、フィオナ。そんなに目尻をつり上げては可愛い顔が台無しだよ~。そんなとこまで所長を見習わなくていいからさ」
「あら。目尻をしょっちゅうつり上げてると、顔がたるまずに済んでいいのよ」
不気味に静かな口調でアビゲイルが微笑む。ユージーンはたらりと冷汗を流した。
「えぇっと……。あ、そうそう。エストウィック卿ことルーサー元皇子は無事特務に逮捕されたよ。テロリストも一斉検挙されたし、とりあえず地上の騒乱は避けられたかな」
「では、あとは地下の騒ぎにケリをつけるだけね」
「地下? ソニア様は地下にいらっしゃるんですか!」
ぐいぐいとフィオナに襟首を締め上げられ、ユージーンはぐえっと呻いた。
「た、たぶんね。大司教があっさり捕まってはっきりしたけど、〈月光騎士団〉を率いているのはやっぱりオージアスだ。ひょっとしたら大司教が元締めかなーって思ってたけど、その線は消えたな。気の毒に、ルーサー元皇子ともども単なる捨て駒だ。オージアスは何事も使い捨て主義らしいね。ルーサーの復活劇も特務に対する煙幕に過ぎない」
「地下第二層への出入口は?」
「残念ながら入り口のトラップに特務が見事に引っかかってくれてさ。埋まっちゃった」
「じゃあどうするんですか、どうやって助けに行くんですかっ」
「ギヴェオンに任せておけばいいって。ソニア様を囮に他の出入口から侵入して、ケリつけて帰ってくるから」
「信用できません! 大体肝心要のソニア様を囮にするなんて、意味わかりませんよっ」
裏計画を知らなかったフィオナはすっかり憤激してユージーンを乱暴に揺さぶった。
「いやぁ、奴なりに考えあってのことで……」
「今すぐ助けに行かなきゃ。ギヴェオンさんがいくら強くたってひとりじゃ無理です!」
フィオナはギヴェオンやユージーンがかつてこの世界を支配した神々であることを知らない。まさか自分が〈神〉の襟首掴んで揺さぶっているとは思いもしないだろう。アビゲイルは面白そうに眺めているだけで仲裁に入ろうともしなかった。
「いや、あいつは馬鹿みたいに強いから大丈夫だって。それに、下手に邪魔するとすっごく怒られるんだよね~。あいつ怒るとそりゃもう物凄いのよ? ねー、所長」
アビゲイルは澄ました顔で目を逸らしたが、口許が引き攣るのは隠しきれなかった。
「でも地下にいるんでしょ? 敵をやっつけたって、迷って出て来られないかもしれない。ギヴェオンさんは地下にいると途轍もない方向音痴だって、ユージーンさん言ってたじゃないですか!」
ぽん、とユージーンは手を打った。
「確かに! ギヴェオンは地下だと右も左もわからない重度の方向音痴だ」
「右と左の区別くらいつくでしょう。それを言うなら西と東」
アビゲイルが細かく突っ込む。
「とにかく、ギヴェオンさんに任せておいたら地下をさまよった挙げ句どこに出るかわかったもんじゃありません。こないだだって特務隊の本部に出ちゃったじゃないですか。もしも錬魔術研究所なんかに出たりしたら、どうなるかわかりませんよっ」
「それもそうだなぁ。しょーがない、迎えに行ってやるか」
「わたしも行きます!」
「いや、きみはここで所長と一緒に待ってて」
「彼女も連れていった方がいいんじゃないかしら?」
アビゲイルに意味ありげな視線を向けられ、ユージーンは思い出したように頷いた。
「わざわざ遠回りすることもないか。――じゃ、行こう。僕の側を絶対離れないでね」
はいっと勢い込んでフィオナは頷く。念のため聖廟を見張るというアビゲイルと別れ、ユージーンとフィオナはブラウニーズの地下室から闇の中へ踏み出した。
ソニアは見えない檻に閉じ込められていた。
まるで円筒形のガラス容器か何かですっぽりと覆われたように、腕を広げることさえできない。完全に透明で、どの角度から見ても何も見えないのに、確かに何かが壁となっている。叩いた感触はガラスとは異なり、弾力があってゴムみたいだ。
ソニアは眉を逆立て、目の前の光景を睨んだ。
ジャムジェムはすっかりご満悦で鏡に見入っている。ミイラ化していた半面が元通りになったのが嬉しくてたまらないのだ。時代がかった豪華な衣装に身を包み、鏡の前でポーズを取ったり、あれこれ角度を変えて微笑んだり、見ている方がげんなりしてしまう。
「ちょっと、いつまでやってるの!? ここから出しなさいよっ」
「うるさいなぁ。仮にも公爵令嬢なら、もうちょっとおしとやかにしろよ」
顔の点検に集中しているジャムジェムは振り向きもしない。
「ティムはどうなったの。あの子は無関係よ、元に戻して!」
「それは無理。だってあいつ、死んじゃったもん」
あっさり言われ、凍りつく。
「……殺した……の……?」
「一度変身しただけで元に戻らなくなっちゃったんだよね。実際そういうのが多いんだけどさ。僕みたいに自在に変身できて、しかも美しい姿形を保っていられるのは、すっごく珍しいんだ。つまり僕は〈神〉に選ばれたってわけ。残念ながらあの小姓はそうじゃなかった。怪物化したまま飼ってもやれたけど、妙に狂暴化して騒ぐもんだから」
ジャムジェムは不可視の檻に歩み寄り、にんまりとソニアを眺めた。
「あんたがおとなしく捕まれば、ティムも変身せずに済んだと思うな。つまり、あいつが不可逆的な変身を余儀なくされたのは、あんたと、あんたの面倒くさい従僕のせいだ」
失神する直前の光景が、落雷のように脳裏に閃いた。凶器と化した化け物の舌に胸を貫かれたギヴェオン。鞭のように弾んだ舌が、その先端に絡め捕っていたもの、は――。
「あいつの心臓、すっごく美味かったよ」
慄然と立ち尽くすソニアの頬を、ジャムジェムの赤黒い舌がべろりと舐めた。悲鳴を上げて飛び退いたソニアの背が、見えない壁に当たる。
ジャムジェムの顔はどういうわけか壁など存在しないように迫ってくる。わけがわからずソニアは無我夢中で手を振り回した。
狂ったようなジャムジェムの哄笑の向こうから、冷やかな声が聞こえた。
「いい加減にしろ。全身ミイラにされたいか」
慌てて顔を引っ込めたジャムジェムは、闇のカーテンの向こうから現れたオージアスに舌打ちすると「やーだねっ」とうそぶきながらソニアの背後に回り込んだ。
慇懃無礼に会釈され、カッと頭に血が昇る。ソニアは見えない壁を叩いた。
「よくも! よくもお兄様をあんな目にっ……!!」
「あれは我々にとっても誤算でした。ヒューバート卿は神の血筋、不適合で死ぬことはないと判断したのですが、よもやあれほどの拒絶反応を起こすとは。神族間でも相性のよしあしがあるようですね」
「敵対してた神なんだから、相性なんていいわけないじゃん」
ぼそりと呟いたジャムジェムは、オージアスに無機質な視線を向けられて慌てて首を引っ込めた。ソニアの背中に隠れつつ、仲間のオージアスを陰湿な口調で詰る。
「こいつ、絶対わかっててやったはずだよ。ただ操るだけじゃ面白くない。アスフォリアの末裔が苦しむ様をとっくり眺めたかったのさ」
「否定はしない。アスフォリアに対する憎悪はおまえよりも私の方がずっと強いのだ。私の力が遥かにおまえを凌駕することと比例してな」
「ちぇっ、厭味な奴! ホントあったま来る」
「だから――、だから殺したの!? さんざん利用した挙げ句、手に負えなくなったから殺したってわけ!? ティムみたいに……っ」
「ちょっとした手違いなんですよ。ヒューバート卿はいつまでも自我を失わず、何度も追加で薬を打たなければならなかった。お蔭で在庫がほとんど尽きてしまった。ソニア嬢、あなたに薬は投与しません。やってもらいたいのは最後の仕上げだけだ。それが済めば速やかに兄上の元へ送ってさしあげます。そして女神の血筋は地上から完全に消える」
「聖廟の襲撃計画はポシャったみたいだけど? アスフォリア本人の身体が残ってたら何にもならないじゃん。あの女神サマ、実際は眠ってるだけなんだろ?」
用心深くオージアスを窺いながらジャムジェムが皮肉る。
「最初から失敗を見込んだ余興にすぎん。うまくいけば儲けもの、失敗しても安堵した軍が気をゆるめれば充分だ。どちらにせよ、アステルリーズはこの世から消滅する定め」
「それ、どういう意味……!?」
「アステルリーズは本来地下都市、いや地下要塞だったのですよ。神代、ここはアスフォリア女神に与する神々の拠点だった。何層にもわたる地下都市には神々だけでなく、何万人もの人々が暮らしていた。地上にある今の町とまったく同じようにね。女神という名の皇帝がいて、それを支える位の高い神々が御前会議を形成し、さらに下位の神々が戦士貴族として周りを固め、人間は一般市民。そんな感じですか。当時の人々は今よりずっと快適な生活を送っていましたが。それを支えていたのが電気です。電気はご存じで?」
「し、知ってるわよ! 電灯のことでしょ!?」
「そう。闇を払う光。風が吹いても雨が降っても消えない灯。それがあるのはごく限られた大都市だけです。それ以外の場所に灯はない。何故だと思います?」
「何故って――」
考えたこともなかった。アステルリーズに電灯があるのは当たり前で、地方の領地ではガス灯やランプを使うのも当たり前。そういうものだと思っていた。
「神々の要塞都市には、当然ながらそれを支えるエネルギーの供給源があります。〈永久機関〉と呼ばれる、無限のエネルギー供給源が。それはアステルリーズの地下深くにもあり、我々が日常的に使っている電灯はエネルギー供給路の末端なのですよ。〈永久機関〉の出力は、すべての都市で最低レベルに固定されたまま封印されています。せいぜい電灯として使うのがやっと。さて、封印したのは誰か? もちろん神々です。各要塞都市の最高責任者だった神が自ら封印した。アステルリーズの〈永久機関〉を封印したのは当然アスフォリア女神です。その封印を解けるのは女神以外には女神の〈神の力〉を受け継ぐ直系子孫だけ。ソニア嬢、あなたは封印を解ける唯一の人間というわけですよ」
ソニアは言葉を失い、オージアスを凝視した。
「……封印を解いて、どうするつもりなの」
「余計なものを焼き払います。つまり、地上の都市を一掃する」
「大掃除ってわけさ!」
ソニアの背後から顔を出したジャムジェムが愉しそうに叫んだ。
「まずは聖廟に〈神の雷霆〉を撃ち込みます。いくら神でも直撃には耐えられない。ましてや女神は眠っており、聖廟も柩も後世になって作られたもの。防御力は無に等しい」
「木っ端みじんさぁ」
ジャムジェムは調子外れなけたたましい笑い声を上げた。
「そしてアステルリーズは劫火に包まれる。城門はこちらの操作で閉めます。誰も、どこへも逃げられない。もちろん王家とて例外ではありません。神の因子を継いでいなくても、アスフォリアの子孫には違いない。彼らにも残らず死んでもらわねば」
「アステルリーズの住民すべてを殺すというの!? 帝都には何十万もの人々が住んでるのよ。千年祭の今は見物客だってたくさん――。……ま、まさか、それを狙ったの……?」
オージアスは答えない。だがその悠揚とした微笑は肯定以外の何ものでもなかった。
「やめて! そんなに女神が憎いなら、子孫の私を殺せばいいわ!」
「もちろん、殺してさしあげます。我々の役に立っていただいた後にね。いいんですよ、人間なんか大勢いるんだから、ちょっとくらい死んだって。我々は何も人類を殲滅しようというわけじゃないんです。世界をこの手に取り戻したいだけ。もともとこの世界は神々のもの。我々は〈世界の支配者〉として正当な権利を行使しようというだけです」
「自分が神だと言うの!?」
「私は神の精髄を与えられ、試練を生き延びて選ばれた。我らは新しき神となり、この世界を支配する。アステルリーズを焼き尽くす炎は、その喜ばしい先触れとなるのです」
「どうかしてるわ!」
「どうかしてるのは神でありながら人間に肩入れしたアスフォリア女神の方だと思いますがね。道具にすぎない人類の扱いを巡ってわざわざ身内と殺し合うなんて、狂ってますよ。アスフォリアに与した神々も同様だ」
「……千年たっても、意見は合わないようですね」
突然、別の声が闇に響いた。オージアスが振り向くと同時に、霧が晴れるように闇が後退する。早朝のような仄昏さを含んだ光が周囲を満たした。見たこともない、ソニアには理解できない立体物やパネルのようなものが、整然と室内を埋めていた。
それよりさらに理解できない光景が、そこにはあった。死んだはずのギヴェオンが静かに佇んでいたのだ。まるで仕事の途中で屋敷からちょっと抜け出してきた、といった風情で。裾が膝上で切り詰められた金ボタン付きの短燕尾服。縞のベスト。いつもと同じ格好。違うのはただ一点、太い黒縁の眼鏡をしていないこと――。
「し、死んだはずだ! 確かに心臓をえぐり取ってやったのに……!?」
すっかり顔色をなくしたジャムジェムがわめきたてる。ギヴェオンは平然と微笑した。
「美味しかったですか? 私の心臓は」
ぴくりとオージアスの表情が動く。彼は冷やかにジャムジェムを見やった。
「喰ったのか。馬鹿め」
ジャムジェムは抗議の声を上げることができなかった。突然身体のあちこちがぼこぼこと盛り上がっては凹み、糸で操られる人形のような奇怪なダンスを踊り出す。
少女めいた美貌と醜悪な怪物の相貌が絶え間なく入れ替わり、せめぎ合う。反り返った喉から凄惨な絶叫を放ち、ジャムジェムは糸が切れたようにばったりと倒れ伏した。その姿は美しい少年に戻っていたが、虚ろに見開かれた瞳にもはや光はなかった。
「……もしかしたら中和できるかと思ったけど、手遅れだったようですね」
眉根をわずかに寄せ、ギヴェオンは呟いた。助けようとする素振りさえ見せずに死の舞踏を眺めていたオージアスは、冷笑まじりに吐き捨てた。
「無理だな、もともと死にかけだ。こいつは道楽貴族の愛玩物でね。群を抜いた美貌と利発さでちやほやされていたが、病み衰えて回復の見込みもないと知った飼い主は文字どおりこいつを捨てた。壊れた玩具を捨て去るように、あっさりと」
「それをあなたが拾ったというわけですか。霊薬を与えて」
「試しに投与してみたのさ。被験者が瀕死の状態だと何か違うかと思ってね。苦痛は一瞬で終わり、即座に傀儡化した。これは使えそうだと思ったのに、期待外れだったな。屈辱感の裏返しで自尊心ばかりが異様に肥大した、手におえない小さな怪物だった。己の分も弁えず、敵の力を冷静に推し量ることさえできなかった。こうなったのも自業自得だよ」
まるで悼む様子もなく切り捨てるオージアスに、ソニアは怒りを覚えた。ジャムジェムにはひどいことばかりされたけど、仲間にまでそんな言い方をされてはあんまりだ。
オージアスは興味深そうにキヴェオンを眺めた。
「公爵邸で見かけた時から普通の人間ではなさそうだと思っていたが、確かに半神でもないな。半神は神よりもずっと人間に近い。心臓を抉り出されても平気なほどの再生能力を持っているならば、きみは純粋なる神というわけだ」
皮肉めいた口調にもギヴェオンは無反応だった。ただ黙ってオージアスを見ている。
「神として、千年後の今をどう思う? 千年たっても人間は失われた神の世界レヴェルを取り戻せないでいる。血眼になって〈神遺物〉を探し回り、閉ざされた知識の扉を何とかこじ開けようと必死になっているが、所詮劣った種である人類には無駄な足掻きさ。〈神遺物〉を手に入れたところで、それを使いこなせる能力など持っていないのだからな」
「……世界はすでに我らの手を離れた。今さら取り戻そうとしても遅い」
うっそりとギヴェオンは呟いた。オージアスの黒い瞳に怒りが燃える。
「遅くはない! いつでも我らは取り戻せる。世界は一時的に人の手に委ねられただけ。我々が支配者であることに変わりはない。アスフォリアは何故、世界を人間に明け渡したりしたのだ? おまえたちは何故、彼女の愚行を止めなかった。苦労して作り上げ、神同士争ってまで手にした世界を、人間風情にやすやすと譲ってしまったのは何故なんだ」
「アスフォリアは世界を支配するために戦ったわけじゃない。それでは神代と何ひとつ変わらない。彼女は未だ神と渡り合えぬ人間に代わって戦った。この世界に生まれ、育まれた者たちに世界を委ねるために。我々は彼女の真意に共鳴し、味方した」
「愚かな! 我らの被造物に過ぎぬ人間どもに世界を譲り渡すために、裏切り者と謗られてまで身内と戦ったというのか。狂ってる!」
「神々の多くは、どちらにも与せぬまま静かにこの世界を去った」
「ふん、苦労して勝ち得たものを守るために戦うこともできない腰抜けどもは去るがいい。いずれまた放浪の果てに彼方の荒れた世界へ流れ着くだろうよ。我らはここから出て行かぬ。何故、手塩にかけたこの世界を手放さねばならないのだ? 脆弱で愚昧な人間どもに譲り渡さねばならない理由がどこにある!?」
激昂するオージアスに、ギヴェオンは静謐なまなざしを向けた。
「世界がそれを望んでいるから、ですよ」
「戯れ言を!」
オージアスの腕がしなり、瞬時に五本に分かれた肉色の鞭となった。槍の穂先のように鋭く尖った先端が一斉にギヴェオンに襲いかかる。
ソニアが気付いた時には、ギヴェオンの上半身は五本の触手によって背中まで貫かれていた。ニヤリとしたオージアスの顔が、愕然とこわばる。
「何故だ? 何故爆発しない……!?」
ギヴェオンは衝撃でわずかに揺らぎはしたものの、ほとんど最前と変わらぬ姿勢で立っている。苦痛の色もなく平然としている様は却って異様で、悪夢のようにグロテスクだ。
逆に、オージアスの顔には焦りが浮かんだ。不気味な肉色の鞭がピンと張りつめている。抜こうとしても抜けないのだとソニアは気付いた。
形勢は完全に逆転していた。仕留めたつもりが罠にかかってしまったのだ。オージアスはもう片方の手で触手を掴み、渾身の力で引っぱったが、びくともしなかった。
ギヴェオンは軽く足を開いて立っているだけで、特に抵抗している様子はない。触手は胸や腹を完全に貫通しているのに、まったく血が出ていなかった。
ギヴェオンは口の端にうっすらと笑みを浮かべた。
「……なんだ。やっとトカゲの頭を押さえたと思ったら、また尻尾でしたか」
オージアスの顔が赤黒く染まる。ギヴェオンは憐れむように彼を見た。
「しかもあなたは〈神〉の名を知らないんですね。残念です」
「ま、まさかそのためにわざとっ……!!」
触手が黒く変色し、もろもろと崩れていく。変色は肩口へと急速に迫り、オージアスの顔に焦りを通り越して恐怖が浮かんだ。
「い、いやだ。人間なんかに戻りたくない。俺は選ばれたんだ。俺をこき使い、ないがしろにした奴らを反対に操ってやるんだ。無力な人間になど、誰が戻るかァ……!!」
オージアスは変色の進む触手を自ら引きちぎった。同時に床を蹴り、ギヴェオンに飛びかかる。わずかな滞空時間のうちにオージアスは異形の怪物に変貌していた。黒い鉤爪の生えた手を振りかざし、耳まで裂けた口に鋭い牙を剥き出して咆哮を上げる。
ギヴェオンは、すっと掌を怪物に向けた。
「あくまで〈神〉の眷属として死にたいですか」
眩い光が弾け、ソニアは顔を背けた。目に見えない波動が重い衝撃となって全身を圧倒する。振り向いた時、ギヴェオンは足元に倒れたオージアスを静かに見下ろしていた。
「……所詮、紛いものの神に過ぎませんけどね」
苦い余韻が消えぬ間に、どこかでコツリと足音が響いた。
「紛いもの? おかしなことを言うね」
また、コツリ。ソニアは全身が冷たくなるのを感じた。そんな馬鹿な。この声には聞き覚えがある。だけど……、そんなこと、絶対にありえない……!
コツリ、足音。含み笑う声。振り向くのが怖い。足音は近づいてくる。表情を消したギヴェオンは黙ってそちらを見ている。
そろそろと振り向くソニアの視界に、その姿が少しずつ入ってきた。
勘違いであってほしい。錯覚であってほしい。そんな思いも虚しく、そこには思い描いたとおりの人物が佇んでいた。
「……ナイジェル……!!」
男らしい端整な顔に、かつてソニアが胸をときめかせた優しい微笑が浮かんだ。
「やぁ、ソニア。また会えて嬉しいよ」
ナイジェルは凍りつくソニアに向かってにっこりと笑った。どくんどくんと重い鼓動が胸郭で暴れ回っている。混乱と疑惑が頭の中で激しく渦巻いた。
兄が彼を拳銃で撃つのをこの目で見た。夜会服を血に染めて、完全にこと切れていた。葬儀にも行った。彼の亡骸に薔薇を手向け、柩を守る忠義な老犬の頭を撫でた。
その彼が、何故ここにいる? 何故、何事もなかったように笑って現れる?
わかっているはずの答えが頭に浮かぶのを、反射的にソニアは拒否した。震える口許を押さえ、頼りなく首を振る。ひたひたと音もなく、絶望が心を侵食し始めた。
「……なるほど。あなたが黒幕だったとは、さすがに思ってもみませんでした」
冷えきった声音でギヴェオンが呟く。ナイジェルは少年のように無邪気に笑った。
「きみとは初対面だね、ギヴェオン・シンフィールド。いや、葬儀の時に会ったっけ。あの時はさすがに緊張したよ。死んだふりがバレるんじゃないかと」
「残念ながら、亡くなったとばかり思っていたので。やはり思い込みは危険ですね」
冷徹な声にナイジェルは肩をすくめた。
「わずかでも疑われていたら、あの場でバレたな。きみとは面識がなくて本当によかったよ。オージアスからきみのことを聞いて、どうも厄介そうだと思ってたんだ」
「説明してもらえませんか。私を欺いたのは別にかまいませんが、わざわざソニア様の目の前で死んでみせる必要などなかったのでは?」
「必要はあったさ。ソニアには私が完全に死んだと証言してほしかったからね。とはいえ協力してもらった礼はすべきだな。どこから話そうか。きみはどこまで知っている?」
「錬魔術研究所が、発掘された神の亡骸から霊薬を創り出し、封印されたそれがいつのまにか消えていた、ということまではわかっていますよ」
「ああ! それは我が父の仕業さ。研究所から霊薬を盗み出したのは私の父親なんだ。父は錬魔術研究所の主任研究員で、霊薬で強化兵を生みだす極秘プロジェクトの一員だった。国境紛争が終結し、強化兵も副作用によるデメリットが大きすぎてプロジェクトは封印されたが、父はあらかじめ霊薬を全て盗み出しておいたんだ。どうしても試してみたいことがあってね」
「何です、それは」
「被験者の生存率はせいぜい二割だったが、年齢が若いほど生存率が高くなる傾向が見られた。ということは、幼児のうちに霊薬を接種すれば拒絶反応を起こさずにすむかもしれない。かつてこの世界を支配した神、人間よりも遥かに優れた能力と身体機能を併せ持つ神を自分の手で蘇らせることができるかもしれないと、父は考えたんだ。しかし充分なサンプルがなくて統計的に有意とは言えず、未成年の被験者は合法的には得られない。かといって、父には子どもを攫ってくる勇気もなくてね……。そこで私に目をつけた」
皮肉な笑みを浮かべ、ナイジェルは胸に手を当てた。
「私は次男で、万が一死んだとしても跡取りの兄がいるからかまわないと思ったのさ。父は予防接種だと母を偽り、私に霊薬を投与した。そして地獄が始まった。死ぬかと思った。いや、死んだ方がずっとましだと、本気で死を願ったよ……」
ナイジェルの笑みがにわかに凄味を増す。青と金とオパールの瞳に憎悪の炎が燃えた。
「凄まじい苦痛に三日三晩苛まれた。神経が焼き切れそうだった。どうやって耐え忍んだのか自分でもわからない。ただひたすらこの苦痛から解放されたい、死んで楽になりたいと願った。痛みのあまり気絶して、痛みのあまり覚醒する。その繰り返しだった」
淡々とした口調が却って不気味だ。ソニアは凝然とナイジェルを見つめた。
「四日目の朝、気がつくと苦痛は拭い去ったように消えていた。そして、自分がかつての自分ではないと気付いたんだ。私は私であると同時に別の存在に成り代わっていた。かつて裏切り者の女神アスフォリアと戦い、敗れた〈神〉。だが、たとえ死しても神はその精髄さえ残っていれば別の肉体で復活できる。かつての記憶を保ち、新しい器に手を加えて再び蘇ることができるんだ。だが、器は誰でもいいわけではない。適合性を持ち合わせた幼い子どもでなければだめだ。そう、父の考えは確かに正しかった」
乾いた笑い声を上げるナイジェルに、ギヴェオンは冷やかに尋ねた。
「で、あなたは誰に成り代わったんです?」
「おっと、その手には乗らないよ。私が誰か知りたければ、きみが先に名乗りたまえ」
おどけたように言ってナイジェルは目を細めた。ギヴェオンは黙って彼を見返した。その瞳は怖いほどに蒼さを深めてはいたが、誇らしげに神の色彩を輝かせるナイジェルとは対照的にどこまでも深沈としていた。
「……ご家族を殺したのはあなたなんですね」
「目覚めた私が最初にしたのは父を殺すことだった。それから母と兄を殺し、使用人を殺した。屋敷中を荒らして金品と父が研究所から持ち出した資料を隠し、すべてを強盗の仕業に見せかけた。簡単だったよ。誰にも疑われなかった。後はソニアも知ってのとおりさ。ヒューバートとは大学で偶然知り合った。彼が憎んで余りあるアスフォリアの直系だとわかって、今回の計画が浮かんだ。折しも建国千年祭が迫り、王家は不幸続きで屋台骨が傾いている。現在の皇帝は頼りない内気な子ども。追放された不良王族は虎視眈々と皇位を狙い、神々を敵視する創造主教会がじわじわと勢力を拡大しつつある。絶好の機会だ」
「それで〈月光騎士団〉を隠れ蓑にしたわけですか」
「神々を悪魔呼ばわりするのには笑ってしまうがね。所詮神も悪魔も人間にとっては同じ存在だ。自分たちに都合がよければ『神』と呼び、都合が悪ければ『悪魔』と呼ぶ。それだけのことさ」
強烈な自負のにじむ台詞だった。ソニアはいつかギヴェオンが言ったことを思い出した。神を必要とする者が人間であり、神を必要としない者が神なのだ……。
「貴様らは我々に勝利したつもりでいるのだろうが、私と同じように埋もれて眠っている神は多い。この世界を取り戻した暁には、戯言をぬかす創造主教会などアスフォリアを崇める聖神殿ともども叩き潰してやるよ。それまではせいぜい利用させてもらう」
「なるほど。確かに〈月光騎士団〉はあなた方にとって使い勝手がよさそうだ。アスフォリア女神を悪魔の女王と罵って敵視する一方、教会からは異端として破門されたため支配が及ばず活動が制限されない。〈世界の魂〉という学生結社を作ったのも、本当はあなたなんでしょう?」
「ああ、エストウィック卿――ルーサー元皇子に踊ってもらうための小舞台さ」
意外な名前が出てきてソニアは瞠目した。
「ルーサー元皇子ですって……?」
「きみは知らなかったっけ。そう、謎のエストウィック卿の正体は、目に余る素行の悪さで追放されたルーサー元皇子だ。現皇帝の叔父だよ。帝位への野心抑えがたく、舞い戻ってきたんだ。特務の目を引きつけるにはうってつけの人物だ。特務に密告してアラス城に踏み込ませたのも私さ。ヒューバートはまともな日常生活が送れなくなっていたからね。すでに特務は霊薬が使われたことを掴んでいたし、一刻も早く彼を隠す必要があった。どうせならついでに私も身を隠そうと思ってね。ソニア、きみにはつらい思いをさせてしまってすまなかった。だけどそれもギヴェオンがきみの従僕として入り込んだせいなんだ」
「どういうこと……!?」
「私としては、ヒューバートの死後ずっときみの側にいてあげようと思っていたんだよ。しかし彼が貼りついていればそうもいかない。あの時点ではさすがに彼が神そのものだとは思わなかったけど、オージアスの報告から半神か手練の錬魔士だろうと予測はついたからね。顔を合わせる前に表舞台から退場する必要があると判断した。ギヴェオンがいなければ、きみにあんなむごい場面を見せなくて済んだのだが」
くっと唇を噛み、ソニアはナイジェルを睨んだ。
「側にいてあげよう、ですって? 要するに監視したかっただけじゃない! お兄様に何かあればわたしを代わりにするつもりだったんでしょ!?」
「きみはなかなか頭のいい子だね、ソニア」
嘲り口調に、カッと目の奥が熱くなる。ソニアはきつく拳を握りしめた。許せなかった。自分を騙しただけではない。そんな茶番劇のために自らを撃たせ、兄に汚名を着せたのだ。
「ひどい……! お兄様はあなたのことを親友だと信じていたのに」
「だからこそ、この手で殺してあげようと思ってたんだよ。ところがオージアスがドジを踏んでうっかり殺してしまったんだ。あの時はさすがに肝が冷えたな。きみが生きていてくれて本当によかった。ギヴェオンにはきみを守ってくれた礼を言わないと」
ひとを食った物言いに罵倒の言葉も出てこない。ナイジェルは溜息まじりに首を振った。
「まったく物事というのは計画通りにいかないものだね。ヒューバートにあれほど手こずらされるとは思わなかった。おかげで霊薬は底を尽き、ジャムジェムとオージアスは死んでしまった。あれらは傀儡の中でいちばん出来がよくて色々と役に立ってくれたのに」
「卑怯者! いつも陰に隠れていいように人を操って。それが神のすること? ひとりでは何もできないくせに、都合の悪いことはすべてひとのせいにして。部下が死んでも何とも思わないの? もしかしたら、あなたたちの立場は逆だったかもしれないじゃない。なのにあなたは彼らが死んでも何も感じないの!?」
「私にどれだけ近かろうと彼らは傀儡、神の血に選ばれなかった失敗作だ。一柱の〈神〉から作られた霊薬は同じく一柱の〈神〉しか生みだせない。というより、それはもっとも相応しいひとりを選ぶための審判なんだよ。選ばれたただひとりの人間がすべてを受け継ぎ、新たな〈神〉として生まれ変われるんだ。私のようにね。他はすべてその〈神〉を守り仕える半神半魔。彼らは確かに紛いものさ。使い道があるから使うだけの道具だ」
ナイジェルは死んで床に倒れているオージアスに冷めた一瞥を投げた。そこには路傍の石を眺めるのと何ら変わらぬ無関心しかなかった。そんな冷たく利己的な男にうかうかと恋心を抱いた自分に猛烈に腹が立った。
何もかもが見せ掛けだった。優しい微笑も言葉も気遣いも、自分たちに近づき利用するための布石にすぎなかったのだ。
憤怒にかられ、せめてその澄ました横面を張り飛ばしてやりたいと飛び出したソニアをギヴェオンが制止しようとした瞬間、突然背後から現れた影が彼の首筋に食いついた。
白い毛並みの犬だった。優美な弓なりの体型をした口吻の長い大型犬。ナイジェルの柩の側にうずくまって離れようとしなかった、寂しそうなコーディだ。それが目を爛々と赤く燃やしてギヴェオンの喉笛に牙を突き立てている。
ギヴェオンと犬は折り重なるように倒れ、上下になりながら床を転がった。やがてギヴェオンの身体はぐったりと動かなくなった。凍りついたように立ち尽くすソニアを横目で見やり、ナイジェルはくすりと笑った。
「大丈夫、死にはしないよ。神はそう簡単に死なない。ヒューバートを観察していてわかったことだが、神は別の神の支配を根本的に受け付けないんだ。それでも一時的に操ることはできる。コーディの牙には残った霊薬を全部仕込んでおいた。すべて代謝されて排出されるには四十八時間はかかるだろう。彼はヒューバートと違って純粋な神だから、もっと早いかもしれない。なに、ほんの数時間で充分さ。純粋な神なら耐性があるから拒絶反応も起こらないしね。――さて、地上では聖骸公開が始まった。我らも宴を始めよう。ギヴェオン、ソニアをこちらへ連れてきてくれたまえ」
ずっと噛みついたままだったコーディが口を開けた。ゆらりと上半身を起こしたギヴェオンは大きく咳き込んで鮮血を吐き出し、のろのろと起き上がった。
がっちりと手首を掴まれ、恐怖で身の毛がよだつ。彼の瞳には何ひとつ感情がなかった。必死に抵抗するソニアを引きずり、ギヴェオンはナイジェルの後に続いた。
「離して、ギヴェオン! 正気に戻ってよ!」
なりふり構わず腕や肩口を叩いたが、何の反応も返ってこない。背の高い流線型の椅子に無理やり座らされるとわずかに身体が沈む感覚があり、気がつけば椅子の中に取り込まれていた。ゼラチンみたいな物質に身体が包まれて身動きもできない。
鳥肌をたてるソニアを眺め、ナイジェルは愉しげに笑った。
「さぁ、ソニア。点火式を始めよう。アステルリーズの〈永久機関〉はアスフォリアによって封印されている。それを解いてもらうよ」
「誰がそんなことするもんですかっ」
「きみの意思など関係ない。必要なのは代々受け継がれてきた女神のコードだけ。それさえあれば封印が解ける。すでに準備は整っているんだ。ヒューバートを使って出入口の封印を解き、この制御室へ入ってからずっと、エネルギーを放出させるための術式を組み立てていたからね。あと必要なのはアスフォリアの承認だけだ」
「わたしは女神じゃないわ!」
「血統でありさえすればいいんだよ。きみの中にあるコードを読み取れば自動的に承認されるようになっている。では、始めようか」
さらにずぶりと身体が沈んだ。顔まで完全にゼラチン状の膜で覆われてしまう。甲高い音が鳴り響き、それまで余裕綽々だったナイジェルの顔色が変わった。
「……エラーだと? 何故だ」
ナイジェルは半円形に並んだ機械に指を走らせ、何事か素早く操作した。同じ音が鳴る。舌打ちをしてもう一度、さらに苛立った様子で操作すると、三度目の音が鳴ってソニアを包んでいたゼラチン状のものは消えてしまった。同時に軽く浮き上がって束縛を解かれる。
ぽかんとしていたソニアの耳に、屈託のない笑い声が聞こえてきた。顔を上げると、首周りを血で染めたギヴェオンが可笑しそうに笑っていた。凄惨な姿とはまったくそぐわない朗らかな笑い声に、ただただ唖然とする。
「すみません、お嬢様。怖い思いをさせてしまって」
「ギヴェオン……? あなた正気だったの?」
「ええ、最初から」
彼が指を鳴らすと椅子はいきなり質感を変え、水のようになって床に流れた。すかさず受け止めたソニアを立たせ、にこりと笑う。感極まったソニアはギヴェオンに抱きついた。
「お、お嬢様。汚れますから、あのっ……」
「よかった……! もうだめかと思ったわ」
「……すみません。ちょっと悪ふざけが過ぎましたね」
「どういうことだ……!?」
ナイジェルは二重のショックでよろめき、制御卓にぶつかって喘いだ。
「何故霊薬が効かない。神であろうと、あれほど濃度の高い霊薬を大量に投与されれば一時的には操れるはずだ。それを、最初から正気だっただと……!?」
ソニアをそっと離し、ギヴェオンは静謐な光を湛えた瞳でナイジェルを見た。
「〈神〉としてのあなたの記憶は完全ではないようですね。確かに神の精髄から作られた霊薬は神代に於いても相手を意のままに操る道具として頻繁に用いられ、人間ほどではないが同族に対してもある程度の効力を持つ。しかしそれは相手が自分より低位か、少なくとも同等の位階でなければまったく無意味なのですよ」
「貴様が俺より上位だと言うのか!? 馬鹿な、俺は数少ないイルムの――」
はっとナイジェルは口を噤む。ギヴェオンは残念そうに肩をすくめた。
「そのまま名前まで喋ってほしかったんですけどね。ま、あなたの位階がわかっただけでもいいか。亡骸が見つかった遺跡の場所からして、可能性がある神は五名。うちふたりは女性だ。性転換を伴う神格移植は条件が非常に厳しいから、あなたは元々男性ですね。となると残り三名のひとり。確か、そのうちふたりは兄弟だったな」
「貴様……、何故そんなに詳しく知っている……!?」
「私たちは長々と戦争をしていたんですよ? 誰がどこを拠点としているかくらい、しっかり頭に入っています。それに、あなた方は土地に対する執着心が我々よりも遥かに強かった。旗色が悪くなっても逃げずに留まり、結果的に領地に骨を埋めた者が多い」
『分析完了』
突然、聞き覚えのない声がそっけなく告げた。ソニアはびくっと周囲を見回したが、他には誰もいない。ナイジェルもまたうろたえたようにきょときょとし、ギヴェオンだけが落ち着き払ってムッとしたように顔をしかめた。
「どうして俺が聞き出すまで待ってくれないかなぁ」
『おまえのやり方は非効率だ』
「だ、誰だ!?」
「あ、私の相棒です。お気になさらず」
にっこりとギヴェオンは笑う。いつのまにか、完全に彼がこの場の主導権を握っていた。
「ずばり、あなたはエイルメル兄弟のどっちかですね。どっちです? ナシュリ? それともヴァシュティかな?」
「答えると思うか!」
「自主的に答えてもらえないなら無理やり聞き出すしかありませんね。ソニア様、ちょっとあっちを向いててもらえます? あんまり見てて気持ちのいいものじゃないので」
「ま、まさか拷問するの!?」
「そんなことしませんって。とにかくちょっと目をつぶってて――」
「ソニア様――!!」
いきなり甲高い女の声が響きわたった。驚いて振り向くと、そこには何故かフィオナが真っ青な顔で立っていた。後ろではユージーンがひらひらと手を振っている。
「地下限定方向音痴さんのために、わざわざ迎えてきてやったぞー。用は済んだ?」
「ば、馬鹿! なんで彼女を連れてくる!?」
「やー、遠回りするのも面倒でさぁ。いちばん近い出入口から――」
「大変! お嬢様がお怪我をっ」
先ほどギヴェオンに抱きついたせいで、ソニアの顔や服には派手に血がついていた。
「ち、違うわ、フィオナ。わたしは大丈夫……」
「お嬢様ぁっ」
「わぁっ、待って! それ踏んじゃだめっ」
ギヴェオンが悲鳴じみた叫びを上げる。フィオナの足が床に流れ出した液体――元は椅子型の何かの装置のようだったもの――を踏んだ途端、液体が眩く発光した。生き物のように床から立ち上がった液体が粘性を増し、あっという間にフィオナの全身を包んでしまう。
ソニアの時とは違う音が鳴り響き、それまで暗かった制御卓の盤面が一斉に点灯した。
『コード確認。封印を解除しますか』
無機質な声がどこからか告げる。弾かれたように動いたナイジェルが、制御卓に飛びつく。同時にギヴェオンの瞳が輝き、手も触れずに吹っ飛ばされたナイジェルの身体は激しく壁に叩きつけられた。抑揚のない声が無情に報告した。
『プログラムの実行を開始しました』
焦って制御卓を操作するギヴェオンを、磔状態でナイジェルは嘲笑った。
「無駄だ、一度動きだしたら止められない……」
「中止命令は出せるはずだ。そうでなければこんなもの弾かれる!」
ギヴェオンは歯噛みしながらなおも操作を続ける。その後ろではフィオナがゼラチン質の膜から解放され、目をぱちくりさせていた。
「フィオナ! 大丈夫? 何ともない?」
「お嬢様……? あっ、お嬢様こそお怪我を」
「ギヴェオンの血がついただけよ。わたしは何ともないわ」
「い、いったい何が起こったんです?」
「わからないわ……」
ギヴェオンは目にも留まらぬ速さで制御卓を操作している。
くくっと掠れた笑い声がした。壁に叩きつけられた状態のままナイジェルは暗い笑みを浮かべていた。足が床についていないのに落ちもしない。まるで見えないピンで展翅板に留められた異形の蝶のようだ。
「そうか、娘をすり替えていたか……。まさかそんな手を打ってあったとは」
「ど、どういうこと……?」
「……女神の血筋はソニア様じゃなくて、フィオナの方なんだよ」
振り向くと、ユージーンが困った顔で頬を掻いていた。
「実は、グィネル公爵の本当の娘はフィオナなんだ。ソニア様はその、何と言うか……」
「身代わり、ということさ……。騙されたな、ソニア。公爵にも、そいつらにも。そいつらはきみが女神の血筋ではないと知った上で利用したんだ。ソニア、きみは私を詰ったが、そいつらも結局は私と同じだよ。所詮人間など、神にとっては盤上の駒にすぎない」
「エイルメル! 中止命令のパスワードを言え!」
ギヴェオンの怒鳴り声に、くすっとナイジェルは笑った。
「私の名前だよ。フルネームで入力してくれたまえ。忠告しておくが、もし間違えたらプログラムの実行速度は倍になり、二度と止められない。さぁ、私はどっちかな?」
「聞き出せ、ユージーン!」
「はいはい。わかってますよ。あーあ、また怒られた」
溜息まじりに首を振ったユージーンが進み出ると、ナイジェルの瞳がぎらりと光った。ぐっと拳を握り、全身に力を込める。ユージーンは気の毒そうに告げた。
「抵抗しても無駄だよ? 気の毒だけど」
「そのようだな。だが、いくら貴様らが上位神格でも燃え滓からは何も読み取れまい」
高らかに叫ぶと同時に、ナイジェルの身体がゴウッと音をたてて発火した。一秒とたたぬうちに彼は白熱する火だるまと化した。燃え盛る炎が不気味な哄笑を響かせる。
「ユージーン、さっさと消せ!」
「無理だって! 細胞から発火させてる」
炎に包まれながらナイジェルはギヴェオンを睨めつけた。
「……ああ、おまえが誰なのか見当ついたぞ。呪われるがいい、神殺しの……か……」
燃え盛る炎の勢いに禍々しい呪詛が呑み込まれる。ギヴェオンは罵り声を上げ、制御卓に拳を叩きつけた。ソニアはユージーンの背後に庇われながら、フィオナをぎゅっと抱きしめていた。ナイジェルの身体は完全に燃え尽き、炭化した黒い塊となって床にわだかまる。ユージーンはうんざりと顔をしかめた。
「あちゃー……。どうするよ、ギヴェオン。パスワードなしで止められるか?」
「無理だな。エネルギーの迂回路を構築しながら隔壁でブロックする。同時に奴がエイルメル兄弟のどっちなのか手がかりを探す」
「モグラ叩きだなー。まぁ、それしかないか」
「おまえはふたりを連れて地上へ戻れ。万が一に備えて聖廟を中心に障壁を張るんだ」
「俺とアビちゃんのふたりだけじゃ強度に不安があるけど、やるしかないな。そうだ、キースにも手伝わせよう。いないよりマシだ。――さ、行くよ、おふたりさん。ここにいてもやれることはないから」
急かされて後に続きながら振り向いてみたが、操作に集中しているギヴェオンはソニアの視線に気付いた様子もない。言いたいこと、訊きたいことがありすぎて却って言葉が出てこなかった。ソニアは心を引き剥がすように顔を背けて走り出した。
『――行ったぞ』
淡々と声が告げる。ギヴェオンが〈管理者〉と呼び、相棒とも呼んだ謎の声だ。ギヴェオンは操作の手を止め、出血で汚れた短燕尾服を脱ぎ捨てた。その下の白いシャツにも血が染みている。腕まくりをし、ぐっと背中に力を込めると、シャツが破れて六本の骨状器官が羽のない翼のように広がった。それはぐんぐん伸びて天井や床に突き刺さった。
『メインフレームに直結する』
声が告げるや否や、神経回路がスパークして視界に蒼い火花が散った。
「……うげ……っ、久しぶりにやると気持ちわる……」
吐きそうな顔でギヴェオンは制御卓に両手をついた。声は淡々と続ける。
『固体識別完了。権限委譲要求――認識中――承認手続き実行――承認――権限委譲完了。全権掌握。アステルリーズ維持管理機構との一体化完了』
「〈永久機関〉の封印解除を中止する」
『パスワード入力要求』
「解読しろ!」
『作業中だ。間に合わないから要求してる』
無感動だった声にわずかに不機嫌そうな響きが混じった。
「解読にかかる時間は」
『千二百秒』
「そんなに待ってられるか! 発射まであと三百秒しかないんだぞ」
『ではどちらかの名前を入力しろ。確率は五十パーセント。間違えればあと百四十秒で聖廟に高圧エネルギーが照射される。照射時間は最大出力で六十秒設定。完全に消滅だな』
「アビゲイル単独で充分な強度の障壁を維持できる時間は二十秒足らずだ。ユージーンが加勢してもギリギリ間に合うかどうかだな……」
『おまえとあの娘たちは要塞にいるから死にはしないさ』
冷淡な声に反論することもなく、入力作業を続行していたギヴェオンが叫んだ。
「よし! エネルギー迂回路を設計した。中止できないなら管理者権限で上書きしろ」
『パスワード要求。不正アクセスの場合、回路が強制的に切り離される。そうなれば手も足も出せない。ナイジェルは思ったよりずっと慎重だったな』
「くそ……っ、どっちだ、あの兄弟とは直接会ったことが一度もない」
歯ぎしりをしたギヴェオンは、ふいにざわりとした皮膚感覚に襲われて顔を上げた。
〔ギヴェオン〕
頼りない声がゆらゆらと響く。振り向くとそこにはひとりの子どもが立っていた。十一、二歳の、まだ幼さを残した少年だ。その姿は向こう側がぼんやりと透けていた。
「――シギ……、陛下!?」
〔よかった、やっと通じた! 伝えなきゃって思って、ずっとお祈りしてたの〕
アスフォリア皇帝シギスムントの幻影はギヴェオンに駆け寄り、実体があるかのようにぎゅっと腰に抱きついた。たどたどしい口調で懸命に訴える。
〔あのね。答えを過去に探してもダメなんだって。探してる答えは『今』にあるんだって。ギヴェオンはもう答えを知ってるはずなんだ。落ち着いて思い出せばいいんだよ。――僕、助けになった……?〕
少年は眉を垂れてギヴェオンを見上げる。ギヴェオンは微笑み、跪いて視線を合わせた。
「……ええ、陛下。お蔭で助かりました」
嬉しそうに笑ったシギスムントの姿は急速におぼろになり、空気に溶け込むように消えた。立ち上がったギヴェオンは制御卓に両手をつき、軽く眉根を寄せた。
「答えは今にある、か……」
『あと二百秒』
無情な声が告げるのを聞きながら、ギヴェオンは集中して記憶を探った。
ナイジェルのことはソニアの言葉を通じてしか知らない。ソニアは彼についてどう言っていただろう。そうだ。葬儀に出かけた時、ソニアは何を言っていた……?
天啓のように、とある言葉が閃いた。思考を読み、〈管理者〉が呟いた。
『ナイジェルは乗り物酔いだと、あの娘は言っていたな』
「だったらナシュリだ。彼はどんな高性能の乗り物でも必ず酔うから、高速飛空挺はおろか、自走車も馬車も嫌ってた。それでほとんど領地にひきこもってたんだ」
そう呟きながらもギヴェオンは入力を途中で止めた。
『どうした? 早くしないと手遅れになる』
「……いや、違う。ソニアによればナイジェルはこうも言ってた。『せめて人の身で享受できる速度くらい、存分に楽しみたかったのに』。――速度だ。乗り物嫌いのナシュリだったらそんなこと絶対言わない。神に成り代わってもベースになった人間の弱点が残ってしまったんだ。ナシュリが乗り物酔いをするようになったきっかけは速度狂の兄貴の無茶苦茶な曲芸飛行に無理やり付き合わされたせいだと聞いた」
ヴァシュティの名を入力し、確定キーに指先を載せる。
『間違えれば、残り時間は九十秒を切るぞ』
「そうなったら回路を強制遮断して聖廟へ跳ぶ。俺の封印を三つ解除すれば最大出力の照射でも六十秒以上アステルリーズ全体を防御できる」
『後でやり直すのが面倒だが、やむを得まい』
ギヴェオンは思い切って入力を確定した。すべての制御盤が青く変わり、一定間隔で点滅した。ホッとしたのもつかのま、耳障りな警告音が鳴って今度は盤面が赤く変わる。
『パスワードを制限時間内にもう一度入力しなかったので不正干渉と見做された』
「何でそれさっさと言わないんだよ!?」
『隠し機能だ。今わかった。残り時間、七十秒』
憮然とした声が答える。
「もういい、跳ぶぞ!」
『待て。今度は上書きが可能だ。まだ間に合う』
「第二の封印を解除して書き込み速度を上げろ!」
答えもなく脳髄がスパークする。独特の瞳が輝きを増し、ギヴェオンは制御卓の端を掴んで衝撃に耐えた。
『上書き完了。電磁パルス照射コマンド撤回。エネルギー逆流――負荷が発生した。回収しきれない。減圧のため余剰エネルギーを放出する』
「おい! 勝手にやるなっ」
『ではどうする? 放置すれば地下第一層が吹き飛び、中央区から東区にかけて半径五キリアの地面が一斉に陥没する。死傷者が多数出るぞ』
「エネルギーを相殺するには?」
『二つの最小フィールドを構成する六つの放出口をコンマ一秒の狂いもなく同時操作すれば互いに干渉し合って消滅する』
「放出口は八つだ。――東西の城壁塔を閉鎖しろ」
『城壁の管理は別系統だ。残念ながら手が足りないな』
「くそっ、ユージーンを残しとくべきだったか」
「――わたしではだめ?」
固くこわばった声に振り向くと、ソニアが青ざめた顔を緊張させて立っていた。
その少し前。ソニアはフィオナと手を繋ぎ、ユージーンの後から地下道を駆けていた。
「女神の本当の血筋がフィオナなら、どうして連れてきたりしたんですか!?」
「危ないかなーとは思ったんだけどね。フィオナがいないと地下第二層への扉が開かないんだ。アスフォリア様自らが施した封印を解除できるのは本人以外はその子孫――つまりフィオナだけだから。出入口は幾つか見つけたんだけど、ソニア様が封印に触っても何の反応もなかったでしょ。それで身代わりだとわかったってわけ」
(ひょっとして、温泉がどうとか言って床に触らせられた、あれ……?)
ソニアが気絶している間に連れ込まれた出入口は、ヒューバートが封印を解いた。無論本人の意思ではなくオージアスに強制されてのことだ。ユージーンたちもそちらの出入口をずっと探していたが結局見つけられず、やむなくソニアを囮にしたのだった。
「ギヴェオンはソニア様を尾行して入り込んだから、もうわかってるはずだよ。たぶんそっちから出るつもりなんじゃないかな」
しきりに背後を気にしているソニアをなだめるようにユージーンは言った。脱出路があると聞いたところでさっぱり安心できず、ソニアは何度も後ろを振り向いた。
「大丈夫。ギヴェオンは僕よりずっと格上だし有能だから。下手に手を貸そうとすると足を引っぱることになっちゃうんだよねぇ。今回みたいに」
「間に合うのかしら……。アビゲイルさんはもう聖廟に行ってるんですよね」
「警備に扮してアスフォリア様の柩にくっついてる。緊急事態ってことはさっき伝えた」
いつのまに、とびっくりしたソニアの顔に、ぱらぱらと細かな瓦礫が降ってくる。
「……この辺だいぶ傷んでるなぁ。千年も手入れしてないし、ちょっとヤバイかも」
フィオナは最初のうちソニアを引っぱって走っていたが、今は逆に手を引かれて青息吐息だ。駆け回るのが好きだったソニアと違い、フィオナは昔から運動が不得手だった。
あっ、と声を上げてフィオナが躓く。繋いでいた手が離れると同時に、ひび割れた床が互い違いに盛り上がった。よろけて座り込んでしまったフィオナに手を貸していると、天井から大きな破片が落ちてくる。ソニアは急いで引き起こしたフィオナを勢いよくユージーンの方へ押しやった。同時に天井が抜けて大量の瓦礫がソニアの頭上に落下した。
「お嬢様ぁっ」
蒼白になってフィオナが叫ぶ。ユージーンは唇を噛んだ。フィオナに気を取られて咄嗟に反応が遅れた。しかし、もうもうと立ち込める埃が自動的にどこかへ排出され始めると、茫然と立ち尽くしているソニアの姿が粉塵の中から現れた。瓦礫に当たって怪我をした様子もない。誰より本人が驚いた様子で目を丸くしている。こわごわと両手や身体を眺め、何ともないことを確かめると、ソニアはいきなり踵を返した。
「――えっ!? お嬢様、どこへ!?」
「わたし、ギヴェオンを手伝ってくる。何だかそれが必要な気がするの。ユージーンさん、フィオナをお願い。本当のお嬢様はフィオナなんだから、ちゃんと守ってね!」
「お待ちください、お嬢さ――」
追いすがろうとしたフィオナの鳩尾に拳が食い込む。ぐったりしたフィオナを肩に担ぎ上げ、ユージーンは通路を駆け戻っていく少女の後ろ姿を眺めた。
「……驚いたね。ソニア、きみはいったい誰の血筋なんだ?」
ふっと嘆息し、表情を引き締めてユージーンはアビゲイルに心話で呼びかけた。
((フィオナを連れて聖廟へ跳ぶ。適当な場所を指定してくれ))
((墓所の地下は現在無人です))
脳裏に三次元地図が送られてくる。空間座標を確認し、ユージーンは跳んだ。
一方ソニアは全速力で通路を引き返した。先ほどの部屋で、ギヴェオンは目に見えぬ誰かと早口にやりとりしていた。意を決し、ソニアは足を踏み出した。
「――わたしではだめ?」
ぎょっとした顔でギヴェオンが振り向く。その表情を見ると、少しばかり気が晴れた。盤上に両手をついた彼の背中からは、いくつもの節に分かれた骨みたいな器官が伸び、あちこちに繋がっている。
「……今さら驚かないけど、凄い格好ね」
「何で戻ってきたんです……!?」
「あなたをひっぱたいてやりたいからよ」
はぁ? とギヴェオンがげっそりした半眼になる。
「約束したはずよね。わたしの許可なく妙なものを仕込んだりしないって。またやったでしょ。ついでにまた盗み聞きもしたわね? 仮にも神様なら約束ぐらい守りなさいよッ」
「あー……、すみません」
『――おい。さっさとしないと時間切れなんだが』
「あ、まずい。お嬢様、後で何発ぶん殴ってもいいからちょっと手伝ってください」
言い争ってる暇などないことはわかってる。ソニアは気持ちを切り換えてギヴェオンの側に歩み寄った。恐ろしいほど輝く神の瞳には本能的な畏怖を抱いてしまったが、その声はいつもの調子を取り戻していて少しだけ安堵した。
「要するに八つのことを同時にやらなきゃいけないんです。六つは今この地下要塞の維持管理システムと直結している〈管理者〉が一括統御します。あとふたつはシステム系統が違って同時操作できないので、私とお嬢様でひとつずつ分担します」
「具体的に、何をすればいいの?」
「こっちの画面を見て。これは東の城壁塔です。この装置は操作者の思考を読んで動きます。ここに手をあてて、見えている塔に意識を集中してください」
言われるままにともかくやってみる。ずぶりと沈むような感覚とともに、目の前にリアルな光景が広がった。驚いていると頭の中にギヴェオンの声が直接響いた。
「塔の下からエネルギーが噴き出そうとしてるのがわかります? それを何か別な物に変えてください。何でもいいから無害な物が塔から出てくる光景をイメージするんです」
すっと気配が遠のく。彼には彼の仕事があるのだ。自分にできることをやろう。ギヴェオンの言うとおり、塔の地下に渦巻くエネルギーを感じる。それは行き場を失っていて、このままでは暴走して塔が崩壊する。そうなれば大勢の人が巻き込まれてしまう。
はっきりと見えた。長い初夏の陽射しも翳り、無数の灯がきらめく帝都。建国千年を祝う人々が押し寄せ、どの路地も人でいっぱいだ。女神の聖骸公開が始まり、夜になっても聖廟を訪れる人は途切れない。料理店や酒場、小劇場が軒をつらねる城壁の近くには、歓楽を求める人々が群れをなし、特別に夜も解放された城壁の上から大勢の人がライトアップされた聖廟や王宮を始めとするアステルリーズの壮麗な建物を眺めている。
塔が崩れれば、この光景が一転して地獄絵図となるのだ。
どうすればいい? あの不安定なエネルギーを何に変えたらいいのだろう。無害なものってどんなもの? ソニアの脳裏に遠い日の思い出が蘇った。白いパラソル、白いドレスの美しい母……。塔の中はどうなっているのと尋ねた自分に、悪戯っぽく片目をつぶる。
『きっと、鳥たちのおうちになっているのよ』
鳥。白い鳥が一斉に羽ばたく。光の鳥が、夜空をきらめかせて――。
わあっ、と人々の歓声が聞こえた。
――見ろよ。塔から鳥がいっぱい出てきたぞ――
――光る鳥だ! 何だ、あれ。鳩か?――
――あ、おい、空を見てみろ!――
――星だ!――女神様の星だ――アスフォリアの星だ――
人々の感極まった叫び声に視線を上げ、ソニアは息を呑んだ。六つの城壁塔を繋ぎ、アステルリーズの夜空いっぱいに金色の線で描かれた巨大な六芒星が浮かんでいた。
同時刻、疲れてうたた寝をしていた少年皇帝シギスムントは妃に優しく揺り起こされた。
「陛下、陛下。ご覧になって。夜空に女神様の星が現れたのですよ」
シギスムントは急いでテラスへ飛び出した。宮殿の三階にある広々としたテラスからは、遮るものなく壮大な光景が眺められた。思わず歓声を上げたシギスムントは東西からまばゆい光の点が無数に舞い上がるのを見て目を瞠った。オフィーリアが訝しげな声を上げる。
「まぁ、あれは何かしら。鳥のようだけれど……。夜に鳥は飛びませんわねぇ」
小太りの女官が紅潮した顔で走ってくる。
「皇帝陛下、皇妃陛下、奇跡ですわ! 六つの城壁塔から放たれた光が夜空に女神様の星を描き出し、東の塔からは光る鳥が、西の塔からは光る蝶が現れました!」
「まぁ……! きっと陛下の御世に良きことが起こる先触れですわ」
はにかむ少年に、皇妃は嬉しそうに微笑みかけた。シギスムントはおずおずと告げた。
「……さっき、夢を見ていたのです。夢の中で、ずっと会いたかった懐かしい人に会いました。いつか見た夢と同じで、その人はすごく困っていたの。前に見た時はどうしようもなくて僕も困ってしまったのだけど、今度は姉上が教えてくださったことをちゃんと伝えられました。とても役に立ったって、彼は言ってました。僕、すごく嬉しくなった」
「わたくし、そんなお役にたつことなんて言いましたかしら」
とまどって首を傾げる妃に、シギスムントは満面の笑顔で頷いた。その無邪気な表情に、オフィーリアもまたにっこりした。ふたりはテラスに運ばれてきた椅子に並んで座り、輝き続けるアスフォリアの星を肩を寄せ合っていつまでも見上げていた。
ソニアはどこまでも続く階段を必死に駆け上っていた。崩壊の音が背後から猛スピードで追いかけてくる。先を行く大型犬が足を止め、励ますように吠えた。
「あ、足が、つりそうなの、コーディ……っ」
駆け戻ってきた犬はソニアの頬を舐め、袖口をくわえて引っぱった。ソニアは歯を食いしばり、必死に足を動かした。
(ギヴェオン……! 今度約束破ったら、本当に承知しないんだから……っ)
アステルリーズを劫火に包まんとしたナイジェルの計画はどうにか回避された。抑えきれなかったエネルギーはギヴェオンの機転で夜空に女神の象徴たる六芒星を描き出すことで千年祭の余興として紛らすことができた。ソニアは洩れたエネルギーを光の鳥に変換し、ギヴェオンは反対側の塔から噴き出すエネルギーを光の蝶に換えた。無我夢中だったソニアに、彼の方でうまく合わせてくれたのだ。
反動で放心しているソニアを、ギヴェオンは休む暇もなく急き立てた。
「ここは封鎖しますから、お嬢様は先に逃げて。彼の後についていけば外へ出られます」
振り向くとコーディが盛んに尻尾を振っている。ナイジェルの指示でギヴェオンに噛みついた時の凶暴さは完全に消え失せていた。血まみれだった口吻は綺麗になり、白い毛並みは艶を増して一回り体格が大きく、若々しくなったような気がする。
「ジャムジェムやオージアスは無理でしたが、彼はうまく相殺できたようです。今はもう普通の犬ですよ。出口まで彼が案内してくれます」
「でも……っ」
「ここは完全に封鎖しておかなければなりません。〈神遺物〉がごろごろしてますから。錬魔術研究所に見つかるとまずい。さぁ、早く行って。私も後から追いかけます」
ソニアはたまらずギヴェオンに抱きついた。彼はまだシステムと連結した異様な姿だったが、そんなことはどうでもよかった。
「絶対に戻ってきて」
「ええ、必ず」
見られないように目許を拭い、ソニアは出口へ走った。勇んでコーディが駆け出す。最後に見たギヴェオンは無邪気に笑っていた。初めて会った時みたいに――。
犬はいくつも枝分かれした通路を迷うことなく駆け抜けた。ソニアはスカートをたくし上げ、泣きだしそうになるのを堪えてコーディの後をひた走った。
背後から響く崩壊の音に追い立てられながら、延々と続く階段を時に踏み外し、臑を強打して悲鳴を上げながら、よじ登るようにして登り切る。
アーチ型の出口から飛び出すと、すぐ目の前は川面だった。市内を貫流するギオール河だ。見上げれば石造りの天井――橋がある。ソニアが出てきた入り口から轟音とともに粉塵が噴き出した。低い出入口は完全に塞がれていた。
隙間なくぴったりと、まるで石工がきちんと計ったかのように石が組み合わさっている。
(ど、どうなってるの!? これもギヴェオンが……?)
呆然としていたソニアはコーディの吠え声に顔を上げた。急いで橋の下から出ると、上から賑やかな音楽と人々の歓声が聞こえてきた。ライトアップされた王宮の遥か上方、濃紺の夜空に、アスフォリア女神の星は未だ神々しくきらめき続けていた。
聖骸公開の日程終了後、ソニアはフィオナと一緒に特別に女神の眠る柩を見せてもらった。アスフォリアは本当に美しかった。思ったよりずっと小柄で、若い。神像は確かに女神に似せて作られてはいるのだが、実際の彼女は可憐な少女で、人間で言えば十六、七。ソニアやフィオナと同じくらいだ。
女神はいつ目覚めるのかとソニアが尋ねると、アビゲイルは微苦笑して、わかりませんと答えた。もしかしたらとうに起きていらっしゃるのかも、と呟いたアビゲイルは、妹を見るような愛情深いまなざしで女神を見つめた。千年前、彼らはどんな日々を一緒に過ごしたのだろう――。ソニアは遥かな思いを抱きつつ聖廟を後にした。
お祭騒ぎが一段落しても、帝都はまだまだ賑わっている。そんな中でも確かに日常は戻ってきて、ソニアの生活は大きく変わった。
フィオナが公爵夫妻の実子であることは、顧問弁護士が預かっていた遺言書にはっきりと書かれていた。ショックでフィオナが茫然自失している間に、ソニアは王宮と相談して事実をあっさり公表してしまった。お蔭で公爵とヒューバートの葬儀では参列者に好奇の目で見られてしまったが、さっさとケリをつけた方が後腐れなくていい。
ソニアは正式な養女であり、財産相続権はないものの生涯にわたって充分な年金が支給されるようになっていた。出生の詳細は不明で、わかっているのはとある神殿付属の孤児院から引き取られたことだけ。十八年前、生まれてまもない状態で神殿の前に置き去りにされていたという。地下道で自分が無意識に使ったらしい〈力〉も気になるが、今のところ何の手がかりもなく、ユージーンたちにもソニアが誰の血統か特定できないようだ。
フィオナは修復中の公爵邸に新しい女主人として戻り、ソニアは引き続きブラウニーズに間借りしている。一緒にいてほしいと懇願されたが、自分が側にいては習い性でいつまでも召使気分が抜けないだろう。ブラウニーズからは護衛を兼ねたメイドが派遣され、職場復帰したエリックは第二執事となった。
ソニアはとりあえずアビゲイルの秘書見習いを始めたが、その頃になってもギヴェオンは未だに戻って来なかった。なのにユージーンたちにはまったく案じる気配がない。不安が嵩じて詰め寄ると、どこにいるのかわからなくて探しようがないとあっさり言われた。
「そんなっ。前は来てくれたのに!?」
「あれはギヴェオンがきみの靴に仕込んでおいた血髄晶をたどって行ったの。万一のため、僕にもわかるように調整しておいてくれたから。それに、今はちょっと地下に入りづらいんだよ。ギヴェオンが例の制御室を封鎖しただろ? その余波で第一層が一部陥没して、遺跡管理庁の調査が入ってるんだ」
「それ、まずいじゃないですか! 〈神遺物〉が見つかったりしたら――」
「その辺りは抜かりなくやったと思うよ。心配ないさ、あいつはとにかくしぶといから」
そんなこんなで一月以上がばたばたと駆け足で過ぎ去り、六月も下旬に差しかかった雨催いの夜、ソニアはユージーンたちと居間で食後の珈琲を飲んでいた。
とある地方の古い名家にブラウニーズの登録者を派遣することになったという何気ない話題から、古い屋敷といえば幽霊だよね~、とユージーンが頼まれもしないのに怪談を始めた。ソニアは面白がって聞いていたが、アビゲイルは無関心を装いつつこめかみを妙にぴくぴくさせている。その時、まるでユージーンの話に合わせるかのように、どこかでギギー、バタンとドアの閉まる音がした。室内は水を打ったように静まり返った。
「……今、変な物音がしなかった?」
「しませんっ」
ユージーンの囁きに、噛みつきそうな剣幕でアビゲイルが叫ぶ。
「そ、そうだよね。それじゃ、続き。――ドアが音をたてて閉まり、しばらくすると、ゆっくりとした足音が響き始め……」
コツーン、コツーン。本当に靴音が聞こえた。アビゲイルは真っ青になり、手にしていた本をばさっと取り落とした。ユージーンは口を半開きにして固まっている。ソニアの足元で寝ていたコーディが、やおら上半身を起こして耳をピンとたてた。足音は次第に近づき、居間の前でぴたりと止まった。ガチャ、とノブが回り、ギ、ギ、ギー、と妙に軋みながらゆっくりとドアが開いていく。
暗い廊下に白っぽい人影が立っていた。ひいっとアビゲイルが喉を鳴らし、ソニアは総毛立った。不気味な人影が室内に足を踏み入れた瞬間、コーディが一声わふっと吠え、一直線に飛びかかった。幽霊は妙に人間味あふれる悲鳴を上げ、後ろにひっくり返った。
「どわぁ! ――やめろ、こらっ。おも、うげっ」
ソニアは弾かれたように立ち上がり、廊下に飛び出した。
「ギヴェオン……!?」
埃まみれのギヴェオンが廊下に倒れていた。彼の胸にのしかかったコーディが盛んに顔を舐めている。ようやく半身を起こし、ギヴェオンは照れくさそうに微笑んだ。
「あ、どうもお嬢様。たいへん遅くなりまして――」
最後まで聞かず、ソニアはギヴェオンに抱きついた。
「遅すぎるわよっ……!」
「ずいぶんゆっくりしてたなぁ。やっぱ迷ってた?」
呆れたようにユージーンが覗き込むと、ギヴェオンはがらりと目つきを変えて睨んだ。
「地下限定方向音痴なもんでね! なんで迎えに来ない!?」
「行っただろー。でもって、めっちゃ怒られた」
「最悪のタイミングで来るからだっ。昔からおまえはそうだった。来なくていい時に来て状況を悪化させ、必要な時には絶対来ない!」
「それは言いすぎだ。なぁ、アビちゃん」
「そのとおりじゃないですか」
そっぽを向かれたユージーンは、わざとらしくよよと泣き崩れた。ソニアは急に鼻がむずむずしてくしゃみをした。慌ててギヴェオンはソニアを押し戻した。
「すみません、埃まみれで。お召し物を汚してしまいました」
「本当にひどい格好だわ。……でも、嬉しい。帰って来てくれて」
またくしゃみをしてソニアは笑った。目が潤むのは、くしゃみ連発のせいじゃない。
「……おかえりなさい」
万感の思いを込めて囁くと、ギヴェオンはにっこりと笑った。
「ただいま戻りました」
ふたりの側で尻尾を振っていたコーディが、絶妙なタイミングで大きなくしゃみをした。
ほんの十日ほどをブラウニーズで過ごしただけで、ギヴェオンはさっそく次の仕事に向けて旅立つこととなった。何となくこれからも彼が側にいてくれるように思っていたソニアは、急に寄る辺ない気分になってしまった。そんな自分を叱咤し、心を奮い立たせる。
(しっかりしなさい、ソニア)
これまで漠然と予想していたものとはまったく違う人生が待ち受けているのだ。学ばなければならないこともたくさんある。誰かに甘え、頼っている場合じゃない。
ギヴェオンは古びたトランクを足元に置き、帽子の端をちょっと持ち上げた。
「では、お嬢様。これで失礼いたします」
「もうあなたの『お嬢様』じゃないわ」
寂しい気分を笑いに紛らすと、ギヴェオンはわずかに眉根を寄せて微笑んだ。
「そうでしたね。――では、ソニアさん。どうぞお元気で」
「あなたもね、ギヴェオン。……また会えるかしら」
「さぁ、どうでしょう。わかりませんが、いつか会えるといいですね」
軽く請け負わないことに彼の誠実さを感じる。ソニアは鼻腔の奥の痛みを堪えて頷いた。
「おーい。追剥には気をつけろよー。千年祭の余波で、街道沿いに頻発してるそうだ」
物騒な大声が二階から降ってくる。見上げると、窓から身を乗り出してユージーンがニコニコと手を振っていた。ギヴェオンは無言で踵を返し、すたすたと歩きだした。
「あっ、無視? 無視!? ひでぇ、忠告してやったのに~」
子どもっぽいわめき声に思わず笑ってしまう。ギヴェオンの姿が遠ざかり、建物の角を曲がって消える。しばらく玄関先に佇んでいたソニアは、深呼吸をして軽くかかとを鳴らした。仄かな薔薇の香りが、初夏の朝風に乗って涼やかに吹き抜けていった。
2013年12月9日 発行 初版
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