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座談会「お絵描き掲示板のインターネット・リアリティ」
プロフィール
はじめに
1|お絵描き文化の略史──イラストサイトからpixivの時代へ
2|デジタル描画特有の技法をめぐって
3|「キャラ文化」としての形式と「イラストレーション」としての形式
4|現場の“絵師さん”はどこに向けて、
どういう志向で描いているのか?
5|作家性や作品は、今や“自動生成”されるのか?
6|ジャギーをめぐる美意識、ドットの物質感
7|デジタル画像としての“外側”との関係にこだわる
8|海外における「OEKAKI文化」をめぐって
9|お絵描き文化における「祭り」とは?
脚註
インターネット・リアリティ研究会は、エキソニモ(千房けん輔、赤岩やえ)、思い出横丁情報科学芸術アカデミー(谷口暁彦+渡邉朋也)、栗田洋介を中心に、2011年7月に開催された座談会「インターネット・リアリティとは?」をきっかけに発足しました。
わたしたちは現在、常時インターネットにアクセスできる/している状態で生活しています。そこでは、さまざまなサーヴィスを介して自分の行動や好きなものなどをネットで公開し、友人や家族、はては国籍や国境を越えた見ず知らずの人たちが今どこで何をしているのかという行動や状況を、ネットを通じて想像することができます。このような、インターネットそのものが日常を映すメディアとしてわたしたちの意識に浸透した状況において、わたしたちが感じるリアリティもまた変容しているのではないでしょうか。
そのような問題意識を元にした座談会を経て、その後展覧会「[インターネット アート これから]——ポスト・インターネットのリアリティ」を企画、展覧会会期中もさまざまなゲストを交えた座談会によって議論を深めていきました。インターネット・リアリティ研究会は、このICCのホームページ内を研究会の主な発表の場として、展覧会以降も継続して活動を行ないます。これから順次、座談会の採録やさまざまなテキスト、また映像の記録などを公開していきます。
日時:2012年2月11日(土)午後4時
出演:谷口暁彦
gnck
虎硬
山本悠
畠中実(ICC)
「[インターネット アート これから]——ポスト・インターネットのリアリティ」展にて展示された「二艘木洋行とお絵描き掲示板展」に関連して開催。お絵描き掲示板やイラストサイトの文化,また「画像」について語りながら,お絵描き掲示板におけるリアリティとはなにかを探った。
谷口暁彦
1983年生まれ。インスタレーション、パフォーマンス、ネット・アート、彫刻、映像作品などを制作する。主な展覧会に「ダングリング・メディア」(「オープン・スペース 2007」内「エマージェンシーズ!004」、ICC、2007)、「Space of Imperception」(Radiator Festival、イギリス、2009)、「redundant web」(インターネット上、2010)など。処女小説『四月の続き』が第二回京急蒲田処女小説文藝大賞にて大賞受賞。
http://twitter.com/hikohiko
gnck
1988年生まれ。ウェブイラストから現代美術までを対象とした研究と、ジャギーやグリッチにみる、画像の演算性の美学を考察。企画した主な展覧会に「JNT×梅ラボ 解体されるキャラ」展(apmg、2009)、主な論文に「創造の欲望をめぐって―キャラ・画像・インターネット―」(武蔵野美術大学芸術文化学科卒業論文、2011)、「『キャラ絵』とは何か」(『ネット絵学』寄稿、2012)など。
http://d.hatena.ne.jp/kno_apm_kgd/
虎硬
1986年生まれ。イラストレーター/デザイナー。2003年頃より自身のサイトやお絵描き掲示板でイラストを発表。2008年よりイラスト集を中心に漫画、評論、PVアニメーションを発表するインターネット発の同人レーベルproject百化を主宰。2011年、「百化展」をpixiv Zingaroにて開催。
http://anofelus.com/
山本悠
1988年生まれ。高校3年の1学期、引退間際の柔道部でいためた腕の筋肉に電気を流す治療を受けていた時、接骨院の天井を眺めているのがとても退屈で、いつも昨晩お絵描き掲示板で見た絵のことを思い浮かべて過ごしていました。採録を読み返して、そんな昔のことを思い出しました。今は美術作品を作っています。主な展覧会に「であ、しゅとぅるむ」(ファン・デ・ナゴヤ美術展、2013)、「破滅ラウンジ」(NANZUKA UNDERGROUND、2010)など。
http://yuuyamamoto.jp/
畠中実
ICC主任学芸員。
畠中:では、準備が整いましたので、そろそろ始めたいと思います。今日も会場からお届けしておりますが、本日のイヴェントに先だって、お絵描き掲示板の関連イヴェントが先週ありました[*1]。本日はそれに引き続いて「お絵描き掲示板のインターネット・リアリティ」と題した座談会をお届けしたいと思います。
お絵描き掲示板というのは、今回の展示の中の二艘木洋行さんの作品中にも出てきますね。そこでは「二艘木洋行とお絵描き掲示板展」という、いわば展覧会内展覧会の形で展示をしているわけですが、そこでプラットフォームになっている「お絵描き掲示板」とはいったい何か? そこで形成されている、ある種のコミュニティ、その動向ならびに可能性みたいなことを(二艘木さんは今日ここにはいらっしゃらないのですが)このメンバーでお届けしたいと思います。
今日の話は「インターネット・リアリティ研究会」の谷口暁彦さんを中心に議論していただきたいと思います。といったところで、今日の出演者の方々をご紹介します。私の隣から、山本悠さんです。
山本:山本悠と申します、よろしくお願いします。
畠中:隣が、gnckさんです。
gnck:gnckです、よろしくお願いします。
畠中:そのまた隣、虎硬(とらこ)さんです。
虎硬:虎硬と申します、よろしくお願いします。
畠中:で、最後に谷口暁彦さんです。では、よろしくお願いします。
谷口:はい、今回はgnckさんをお招きして、彼を中心に「お絵描き掲示板のインターネット・リアリティ」というテーマでトークを進めていこうと思います。gnckさんは、今回の「[インターネット アート これから]」展にも出品されている二艘木洋行さんの展示キュレーションを行なっています。厳密には(先ほど畠中さんからご説明がありましたように)単に二艘木さんの作品を展示するだけではなく、展覧会内展覧会という形になっています。二艘木さんの作品そのものがお絵描き掲示板という、インターネット上に古くからあるウェブ・サーヴィスと関係が深いと言いますか、そこでの問題となかなか切り離せないところがあります。なので、単に二艘木さんの作品を展示するだけではなくて、お絵描き掲示板のなかで実際に行なわれているコミュニケーションとか、そういった要素も交えて、企画展のなかに「お絵描き掲示板展」というものが(二艘木さんの作品展と)並行してあると思うんですね。で、その一部が、あそこにああいう形で展示されてるのですが、それのキュレーションをgnckさんが担当されたわけです。
gnckさんと僕は、つい最近知り合ったばかりです。で、実は彼は武蔵野美術大学の芸術文化学科の卒業生で、卒業論文で「創造の欲望をめぐって─キャラ・画像・インターネット─」という文章を書かれていまして、実はこの論文がかなり重要なんですね。内容的には、JNT(http://meiblg.fullmecha.com/)さんと梅沢和木(http://umelabo.info/)さんという、2人の絵師さんの作品論を中心にしながら、その背景にあるお絵描き掲示板の問題に迫ったり、pixivや「カオス*ラウンジ」の問題、あるいはそれらの登場以前からあった、お絵描き掲示板や普通のイラストサイトでの問題点やコミュニティについて記されていて、なおかつ、そこで生み出されている作品の受容のされ方や作品論にまで迫ったものになっています。「カオス*ラウンジ」の問題がこれだけ巷で騒がれている中において、具体的な作品論にまで言及する人はあまりいなかったわけで、そういう意味でも重要な論述ではないかと思います。
なので、今日はそのgnckさんを中心に、彼の論文の内容をなぞりながら、お絵描き掲示板とイラストサイト、あるいはそこで描かれる画像やキャラの問題などを追っていけたらと思います。
畠中:先ほどの紹介で、僕がうっかり飛ばしてしまったのですが──今日集まっていただいた方々は、そのお絵描き掲示板で活躍されている絵師さんを代表する方々なんですよね。で、gnckさんはその「お絵描き掲示板展」のキュレーションをされています。
谷口:はい。そういった感じで、まずはgnckさんからよろしくお願いします。
gnck:どうも、gnckと申します。今回、このICCの会場に二艘木さんが出品されるということで、キュレーションというほど大袈裟なことはしていなくて、展示のお手伝いを少ししたぐらいです。ただ僕は、以前から、二艘木さんや彼の他にも何名かの方──イラストレーターのTOKIYA(http://www.abukas.com/)さんや、あるいはqp(キューピー)(http://www.k5.dion.ne.jp/~yokogao/)さんなどといっしょに、「どこかのタイミングで「お絵描き掲示板展」をやりたいね」という話をしていたので、ぜひこの機会にそれをやってみようということで、二艘木さんからお話があったという形です。
で、先ほど谷口さんからご紹介いただきましたように、私自体は2009年に「解体されるキャラ」展[*2]と題して、(今現在はアーティストですが、当時はまだイラストレーターであった)JNTさんと、梅ラボ(梅沢和木)さんの二人展を企画し、その問題に引き続いて、「創造の欲望をめぐって—キャラ・画像・インターネット—」という論文を書きました。
特にその論文の3章が、今回の展示と絡んでくるところなのですが──僕は、JNTさんと梅ラボさんという2人のイラストレーター/アーティストの作品がひじょうに重要であると思ったわけですが、ではそれを当時いかにして褒めるか、どうしたらそれらが(単なるイラストにとどまらず)アートとして評価できるかを伝える言葉がまだまだ少なかったので、その背景となっている、インターネットで絵を描くイラストサイトとかお絵描き掲示板、あるいはpixivとか──そういった背景も含めて、彼らの作品が成り立っていたので、論文のなかではそれらにも言及しました。ではここで、他の方にも自己紹介していただきます。じゃあ、虎硬さんからお願いします。
虎硬:はい、ご紹介に与りました虎硬と申します。僕は普段イラストレーターとして活動していまして、経歴としては最初にウェブ・デザイナーの仕事をしていて、その後、村上隆さんの会社「カイカイキキ」のアシスタントとしてお仕事させていただいたこともあったのですが、それをやっている途中──大学生の時ですが、「百化(ひゃっか)」(http://100cca.anofelus.com/)という、いわゆる同人サークルを作って、コミケやコミティア(http://www.comitia.co.jp/)といったイヴェントで同人誌を作っては売る活動を始めました。今(プロジェクターの投影画面に)出ているのが、その「百化」の作品のひとつです。また、去年の11月には「pixiv Zingaro」(http://pixiv-zingaro.jp/)という、東京の中野ブロードウェイにあるギャラリーでも展示させていただきました[*3]。
今回gnckさんにお呼びいただいたのは、自分の場合、もうかれこれ10年ぐらいになりますか、お絵描き掲示板にずうっと作品を出していまして──まぁ、最近はお絵描き掲示板もあまり見なくなってしまい、作品もあまり出してはいませんが、一応ここ10年ぐらいネット上で作品を発表する活動を続けてきたので、そのことについてちょっとお話しできればと思います。どうぞよろしくお願いします。
山本:山本悠と申します。お呼びいただいてありがとうございました。さっき自己紹介された虎硬さんが、お絵描き掲示板とかイラストサイトや同人誌の即売会といった分野で積極的に発信をされてきた方だとしたら、僕はその逆で、どちらかというと積極的に発信はしていない、いわば「ROM専」と言われるような人種でした。
とはいっても、時々お絵描き掲示板で絵を描いたりすることもありました。最近描いた絵は──例えばこんな感じです(プロジェクター投影画面上で自作を紹介)。中学・高校という自分の価値観が形成される時期に、たまにはウェブ上で絵を描いてみたりしたけれど、虎硬さんが積極的に発信してるのを憧れながら見ていたという、そういう経験をモロにしていて、今では美術作品を作っている人です。今日はよろしくお願いします。
gnck:そんな感じで、虎硬さんと山本くんは、僕が呼んだわけですが──では、そもそもの「お絵描き掲示板」の話から、少しずつしていきたいと思います。
gnck:今回は「お絵描き掲示板展」ということで「お絵かきBBS.com」(http://www.oekakibbs.com/)というところからレンタルしている電子掲示板を使っています。このお絵描き掲示板というのは1990年代の後半に登場したサーヴィスで、インターネットのブラウザ上で動く、お絵描きツールです。
また、それには「誰でも無料で使えて、しかもそこそこ高機能である」という特徴があります。当時、Adobe Photoshopのような描画ソフトはすでにありましたけれど、まだまだ高価だったので──プロの方はどんどん使っていたと思うのですが──当時の中高生でも使えるツールとして、このお絵描き掲示板というのはひじょうに有益でした。「ネット上で絵を描く」ということに対して、とても重要なポジションにあったツールです。
あと、お絵描き掲示板というものは、ただ単に電子掲示板として存在しているだけではなくて、当時あったイラストサイト(個人ホームページ上に自分で描いた画像をアップロードすることで、ウェブ上に作成される、自分専用のギャラリー)が、それこそ90年代の後半から2000年代の始まりの頃、とても流行っていたのですが、そういったイラストサイトのいちコンテンツとして、個人サイトのお絵描き掲示板というものがあったわけです。
このイラストサイトなるものは、実は最近ではそんなに流行っていなくて、2007年にイラストSNSのpixivが登場して、そこが大きく「ネットで絵を描く舞台」に変わっていきました。それでもお絵描き掲示板というものは独特の機能を持っていたので、完全には駆逐されず、お絵描き掲示板独特の表現、ないしは、お絵描き掲示板でしか起こりえなかった事件とかがあったわけです。で、そういうものが「あったよね。懐かしいよね」というので「お絵描き掲示板展」を企画したわけです。
次にpixivの説明をしないといけませんね。ご存じの方も多いと思いますが、pixivは現在、会員登録数が400万人を超えている、イラスト投稿に特化したSNSでして、前に見た時は、1日当たり2万枚を超える枚数の絵がアップロードされていて、恐らくは日本最大──どころか、世界で最も大きい、歴史上最大の絵描きのコミュニティになっているのです。
どうしてこういうコミュニティが2007年当時に発生して、ものすごい勢いでその会員登録数がアップし、盛りあがったのかというと、その前史として存在した「イラストサイト」のお話をしないといけません。個人でイラストを描いていた人が、ネット上のイラストサイトにそれをアップした。そんな人がたくさん存在したことが(pixivのブレイクの)背景にあります。pixiv開設当初というのはある種の黄金期で、過去10年のストックが次々と投下されたわけで、当初の勢いというのは、そういう過去の資産をうまく引き継いだことにも求められると思います。
そんなイラストサイトのなかでも、例えばこんなサイトがあった、というのを次にご紹介します。これは論文で取りあげたJNTさんのイラストサイト[*4]です。こんなふうにイラストがあって、リンクがいっぱい貼ってあって、いろいろ飛ぶことができる感じです(何点か作品を紹介する)。改めて見ても、すごくカッコイイんですが──。
これは論文のなかでも言及したことですが、この次々にイラストへとハイパーリンクしていく気持ちよさを「ブラウジング・ハイ」と呼んでいまして、これは、他の通常のイラストサイトの構造とは違っていて、JNT作品の鑑賞条件のひとつでした。現在のTumblrのような、次々と画像を見ていく。次に何が出るのかわからない、というようなブラウジングの感覚ですね。そして、こういうイラストサイトに付随して設置されていたのが「お絵描き掲示板」でした。
ここでSNSとイラストサイトの違いを説明しておかないといけませんが、SNS、例えばpixivの登場は、言わばグローバル化なんですね。それまでは個人が(自分のホームページとして)作成していたウェブサイトが、それぞれお互いにリンクで結ばれていたような世界に、突然巨大な帝国が出現して、そこに行けばものすごい数のイラストをいくらでも観ることができるし、逆に、自分が描いたたくさんのイラストを一挙に他人に見せることもできるようになる。当然、人々はそちらに移住するのですが、一方でイラストサイトで培われていたものが、そこで一気に変質していってしまったとも言えるんですね。
言ってみればイラストサイトというのは個人サイトなので、自分自身で作るものだし、日記を載せていたりとか、途中からそこにブログ機能が入ってきて、日記ページがブログページに取って変わられたりしたわけですが、基本はhtmlタグを自分で打ったり、ウェブページ作成ソフトを使ったりして作っていた感じですね。で、個人サイトのお絵描き掲示板というのは、グローバル化した表舞台のSNSと比べると、すごく「洞窟のなか」というか、あるいは「ストリート」というか、「こっちのほうに迷い込んでいったらすごい絵があった!」みたいな、そういう世界だったと思います。なので、今改めて「お絵描き掲示板とは何だったのか?」というと「そこで事件が起こっている現場」だったのではないかと思います。そのうちのひとつが「sKILLupper」[*5]というもので、例えば今年(2011年度)の文化庁メディア芸術祭アニメーション部門で新人賞を取られた植草航さんとかが、以前よくここに絵を投稿してました。
山本:(画面を見ながら)スパムがメチャメチャ来てるね。
gnck:お絵描き掲示板をターゲットにしたスパムというのが一時期すごく流行って、有効な対策がなされずに、エロスパムが大量に出てきた時期もありました。で、これらのお絵描き掲示板って、描くだけではなくて、アップロード機能もあるので、他の人の描いた絵を自分でリミックスして再アップしたり、ということもよくやられていたのですが、逆に言うとエロ広告の画像とかもしょっちゅう貼られていて、そのエロ広告画像をさらにリミックスしてまた貼る、といった遊びも発生していたりします。
また、アニメーション機能もあって──あ、見られましたね! こういうふうにアニメーション機能というのもお絵描き掲示板にはあって、すごくリッチなんですが、このアニメーション機能のおかげで、絵を描く人たちの交流がより深まった、ということもあります。どういうふうに描いているのかを、アニメーション機能で創作途中のプロセスを公開することで、「あ、こういうふうに描いているんだ、スゲー!」とか言われたり。あるいは「こんな描き方見せられても、真似できないよ!」ということもあって、相手の技量がわかるという、そういうコミュニケーションも発生したりしていました。
あと、ツールの特性の話もしておきますと、画像のサイズとして、ドットを視認できるレヴェルで、Adobe Photoshopで言うところの鉛筆ツールで絵を描いたりもできるので──これが、ラレコさんという方の「ウェブテント」(http://www.geocities.jp/jugongordie/index.html)というページにあった(今はもう消えてしまった)「jugongordie」というお絵描き掲示板です。UST画面上ではちょっとわかりづらいかもしれませんが、鉛筆ツールで塗られた線と、ボカシのアンチ・エイリアスが自動的にかかる水彩ツールという機能があって、それらのうまい使い方が開発されたり研究されたりしました。
こうして、お絵描き掲示板が誕生した当初から、スキルがどんどん蓄積されていって、お描き掲示板の絵のレヴェルもどんどん上がっていったし、新しい表現技術もどんどん開発されていきました。
谷口:お絵描き掲示板自体は、インターネットのかなり初期の頃からあったそうですが、例えば「256色までしか色数が使えない」とか、そういった制約はありませんでしたか? PCに表示されるJPG画像とかは、すでにフルカラーの描画が可能だったはずですが、プログラムでJavaアプレットで走るお絵描き掲示板の場合、色数などに制約があったりしなかった?
gnck:使える色数が少ない、ということは特になかったと思います。フルカラーでリッチなんですけれど、なぜか「トーン・ツール」という、(色数が少ないからあるはずの)ドットのタイルを打っていくツールがあったんですね。実際に見ていただくといいのですが──ああ、でも、ここでは流せないような画像もあるからなぁ(苦笑)。インターネット上のお絵描き文化って、やっぱりインターネット自体が少しアンダーグラウンドというか、今のようにソーシャル化していない状態で成熟した文化だったので、わりとエロ画像的なものも多くあって、ちょっとHなイラストを描く人なんかがものすごく技術が高いということもあったのですが、ここでは紹介できないかもしれませんね。
今はアニメーターで、キャラクターデザインとかもやられている、島田フミカネ(http://www.ne.jp/asahi/humikane/e-wacs/)さんという方がいらっしゃるのですが、彼もかなり初期の頃からお絵描き掲示板で絵を描いていて、(先ほどお話しした)お絵描き掲示板のトーン・ツールを使って、すごくきれいな金属の光沢表現や、すごく上手な色彩表現をしていました。たぶん今では島田さんも「Painter」を使っていると思うのですが、たぶん描いている女の子が裸だと思うので──彼の絵は、ここでは見せられない(笑)。
谷口:トーン・ツールというのは、ドットを打っていってハーフトーン状態の網点を作るってことですか?
gnck:そうそう。昔のパソコンのエロゲーとかでも、肌のなめらかさを表現するためにトーン・ツールを使ったりして、限られた色数でグラデーションを作っていたりしたと思うのですが、その機能がお絵描き掲示板にもあったということですね。それが逆に、デジタル独特の表現というか、ただの絵画ではなくて「画像だからこそ出せる美しさ」みたいな可能性のところに到達しているような感じもしましたね。
谷口:それって面白いですよね。もともと初期段階からお絵描き掲示板ではフルカラーが扱えたのだけれど、なぜかそこにはトーン機能が備わっていた、ってことですよね。
gnck:理由はよくわからないですが、レイヤーやマスクなど、お絵描きツールとしては高機能なところが最初からあって、それがいろいろな技術開発を促したところはありますね。
あと見せたかったのは──このサイトなんかも、管理人さんの名前が読めないのですけど(笑)。こういう顔文字(´・д・`)の方[*6]なのですが、かつてInfoseekが無料サーバーを提供していて、それで個人サイトやイラストサイトを作っていた方が2000年代の初期にはずいぶんいたのですが、2010年の10月31日をもって、その無料サーバーの提供をInfoseekが打ち切ったんですね。告知も1ヶ月前ぐらいからしただけで、そのサーヴィス中止によって消失してしまったサイトもたくさんあったのですが──そこで消えてしまうと、もう完全になくなってしまうわけです。
で、「独りの帝国」(http://www.geocities.jp/empire01jp/)さんという、イラストサイトのポータルサイトがありまして、このサイトも一番古いログが2002年8月ぐらいなのですが、毎日のようにリンク先のイラストサイトを「更新していないか?」と巡回したり、旬の絵師の人を紹介する、というようなことをずっと続けられているところです。“かねさだ”さんという方が管理人で、ここはもうすでに貴重な(お絵描き文化の)アーカイヴになっているのですが、ここの「独りの帝国」に貼ってあるリンクのなかから、Infoseekのサイトをクロールしてイラスト・データをローカル保存した、という経緯がありました。その時に蒐集したサイトのひとつなんですね。ここにもお絵描き掲示板の絵がいっぱいあって、さっき言ったような、ドット・レヴェルで制御して、色を塗っていく技術ですね。
谷口:独特の、いわゆるジャギーっていう──アンチ・エイリアスがかかっていない、ドットの見える線ですよね。
gnck:そうですね。
谷口:これ、やっぱり、お絵描き掲示板の機能自体としては、さっきの塗り潰しのところもそうでしたが、ボカシが使えるから、本来、こういうジャギーを多用しなくてもよくて、もっとなめらかに描けるわけですよね。
gnck:だからやっぱり、鉛筆ツールそのもののきれいさみたいなものを、感じますよね。
谷口:それは、この大きさ=解像度だからこそ、っていうこともあるのかな?
gnck:そうですね。やっぱり400×400ピクセルとか、それくらいの低解像度というか、ドットが視認できるサイズですね。最近のディスプレイの進化の具合は「もうジャギーが見えない」という方向性に向いていますが、むしろドットが見えたほうがきれいなんじゃないかな、という美意識もありますよね。
谷口:ちょっと昔のマシンとかを使うと、モニタの1ドットがやたらでかいですよね(笑)。15インチ・モニタで1024×768ピクセルとかだったので、最近ビックリしました。
gnck:やっぱりそうすると、モニタの表示環境によって、こういう絵が流行らなくなったり、っていう可能性も大いにありますよね。pixivにもお絵描き掲示板の機能がついていて、drawr(ドロワー)(http://drawr.net/)っていうネット上のサーヴィスがあるんですが、このdrawrの方は、描くと自動的にアンチがかかっていくので、ジャギーが出ないようになっています。
谷口:そもそも今表示されているのはサムネイルですよね? それで、いきなり縮小されてしまう、ということもある?
gnck:このdrawrにもアニメーション機能がついていてSNSがお絵描き掲示板を統合していく、という流れもありますね。あ、でも、これジャギー出てるな。drawrでジャギー出せますかね?
虎硬:出すこともできるけど、基本的にはかからない。
gnck:キレイですね──はい。でもやっぱり、2012年の絵は(昔と比べて)進化していますね。勝手に再生とか、しちゃいますね。動かないですね──あれ、動いてる?
山本:目元がすごい、細かく──。
谷口:今は、アニメーションかどうかがわからないくらいの解像度になっちゃった、ということですよね。
畠中:これ、再生速度は変えられるんですか?
gnck:はい、(再生速度を変えながら)こうするとわかりますね。やっぱり描いていると、すごく細かい部分に凝る時間がものすごく楽しかったりするんですよね、お絵描き掲示板って。
畠中:解像度が上がると、描き込みが細かくなる?
gnck:そうとも言い切れなくて、低解像度だと、ドット・レヴェルの制御をしたくなっちゃうんですよね。レイヤー機能があったので、下書きをまず薄い色で入れて、そのうえにペン入れをするみたいに鉛筆ツールで黒い線を引いていって、線を引いたら、今度はポチポチと修正していって、線を整えて、次になかを塗っていく。で、なかの色も無事塗れたら、最後は線の色もマスクをかけて、肌の色や周りの形の色に合わせて主線の色を変えていく、みたいなことはやってましたよね。
畠中:ちなみにそういった技法というのは、いわゆる紙にイラストや絵を描いたりする技法とは全然違うでしょう? 例えば絵を描いていく場合、油絵でも何でも、暗いところから先に塗っていくところがあるじゃないですか。こういうツールを使うとすると、使い方は自分たちで開発していくわけですよね? コミュニティのなかで、どういう描き方がいいのか──とか。
gnck:絵の具で描く描き方は、歴史的な蓄積もすごくあるので、教育機関などで教えられるもの、あるいは技法書もいっぱい出ていますが、インターネット上のツールで絵を描く描き方は、昔から技術交流というか、講座みたいなものがものすごくよくあって、そういうものがすごく参照されていましたね。
イラストレーターの原田たけひと[*7]さんという方の「原田屋」(http://www4.ocn.ne.jp/~u1h/)という、97年からあるイラストサイトがあります。ここのお絵描き掲示板もずいぶん盛り上がっていて、よく見ていたのですが、このサイトのなかにもお絵描き講座がありましたね。塗りの講座とか線の講座とかで積極的に技術を公開して、お互いにそれを見ながら高めていくみたいなことが、言ってしまえばインターネット上ではすごくよく見る風景かもしれませんが、イラストサイトでもそういうことがけっこうありましたね。
畠中:ちなみにさっき、ジャギーの話が出てきたのがすごく面白かったのですが、ジャギーが出ているということに、ある種の「デジタルで描いている」というか、まさに「何でもって描いているのか」というマテリアルとしてのリアリティみたいなものがあるとすると、その一番の究極にあるのは、それこそ「ドット絵」みたいなものですよね。ああいう低解像度の、でかいピクセルの絵が一方にはあって。でもお絵描き掲示板で描かれている絵って、意外とタブレットとか使ったりして、鉛筆とか──ジャギーがあるにせよ、けっこうナチュラルな描画が可能なツールを使って、普通に手で紙に描いたりするのと同じように改造されていくわけじゃないですか。だけど、そのなかにもジャギーを見ていくという感覚が、ちょっと面白いと思ったんだけれど。
gnck:その「ジャギーをめでる感覚」というのがどれくらい一般的なのかがよくわからなくて(笑)。個人的にはジャギーはメチャクチャ好きなんですけど、一方では「水彩ツールがきれい」という人もいっぱいいて、逆に言うと二艘木さんのような「ジャギーをあえて見せる」ような作風というのが、今改めてこういう展覧会で観ることができるというのは、お絵描き掲示板がそういうステージをも超えて、ある程度高解像度・高機能になったために、逆に低機能であった当時の「お絵描き掲示板らしさ」みたいなものが、二艘木さんの作品に色濃く残っている、っていう感じですかね。
畠中:僕なりの疑問点や関心事を、ここでついでに話させていただきますと──今、お話しになっていたように、お絵描き掲示板も10年ぐらいの歴史を重ね、機能もだいぶ高くなってきたということで、ずっと使い続けられている人たちの間では、その変化はどういうふうに捉えられているかのかな、という関心がひとつ。つまり、今は高機能になってしまったけど、実は「昔のように描いていたい」ということもあるかもしれないし、依然としてお絵描き掲示板というツールは進歩し続けていくから、技術的な進歩に伴って、自分たちの技法なり何なりも更新していくのか。今のお話を伺っていると、やっぱりその両方のベクトルがあるのかな、というふうに思うのですが。
gnck:まぁ、でも「お絵描き掲示板で描く」機会というのは、個人史的な範囲でいえば「すごく減った」という感覚がありますね。
畠中:わりと久しぶりに、って感じですか。
gnck:そうですね。今日ちょうど、そのイラストSNSのpixivが主催した「pixivフェスタ」というイヴェントをやっていて[*8]、ここに来る前に寄ってきたのですが、そこで、今から7、8年前──僕が高校1、2年の頃、当時自分もホームページを持っていて、そのイラストサイトにお絵描き掲示板を設置していたのですが、よくそこに書き込んでくれた常連さんで、電鬼くんという同い年の子がいまして、その彼と今日、「pixivフェスタ」の会場で初めて出会いました。最初は向こうから書き込んでくれて、そこから知り合って、交流したりしていたのだけれど、リアルでは一度も会ったことがなかったんです。
あと僕は過去に一度だけ、こうしたイラストサイトやインターネットそのものから少し遠ざかっていた時期もあったのですが、SNSで(その電鬼くんを)再び発見し、今日7年ぶりに現実で遭遇して、すごく嬉しかった。
畠中:何か「インターネット・リアリティ」ではないけれど──ネットを介して、そういう実感を味わった、と。実は今日の話にはいくつかの軸があると思いまして、ひとつには(お絵描き掲示板が)インターネットを使ったプラットフォームである、ということ。あと、そこで描かれる絵のスタイルや形式の話とかもあると思います。なので、そのへんのいくつかの軸を絡めつつ、「インターネット・リアリティとお絵描き掲示板」の関係をお聞きしていけたらと思います。
今、gnckさんの論文をパラパラっと拝見していて、わりと「形式」という言葉が重要なキーワードのようで──それに1章が割かれているくらいだから、ある種の形式性からああいうツールで絵を描いている行為を説かれているわけです。で、昨日もちょうど、いわゆる「メディア芸術」云々という会議[*9]に僕は出席して、他の分野の方々ともお話ししてきたのですが、それぞれのジャンルが依拠する「形式性」の部分がけっこう違っているのが、すごく面白かったんですね。例えば漫画というジャンルでは、「2ページの見開きが1単位の表現だ」という話があって、僕はあまりそれを意識したことはなかったのだけど。そうすると今後、漫画が電子書籍とかになってくると、その「漫画」という形式自体がゆらいでしまう、という話があって「なるほど、そうなのか」と。僕なんかはわりと、漫画というのはそれこそ巻物でもいいかもしれないし、「何でもアリかな」と思ってるくらいなのだけど──そういうジャンル特有の形式性がなくなってしまうと「漫画の読み方自体も変わる」という指摘だったんですね。僕自身は(漫画の読み方が)変わってもいいんじゃないか、と思うくらいのスタンスなのだけど。
じゃあ、イラストというジャンルにおいても、当然「イラストというもの自体の形式性」は意識されていると思うのだけれど、デジタルで描くという時──さっき「画風」なんていう言葉も出ましたが、実はそれも形式性と関係があるような気がするんですね。ドット絵と写実的でナチュラルな絵の描き方という形式があった時に──そのへん、いかがですか?
gnck:お絵描き掲示板や画像のツールの面と、掲示板としてのコミュニティの面と、当然その両面があると思うのですが、僕が論文のなかで「形式」を強調した動機というのは、実は「形式が重要である」というのもそうですが──特にJNTさんは、今でこそペインティングをしていて、アーティストを名乗っていますが、当時はアーティストではなくてイラストレーターだったんですね。で、彼がインターネット上でしている活動を見て、僕は直感的に「これはアートだ」と思ったわけです。だけど、それを美術畑の人に「これはアートなんだよ」っていう話をする時に、形式の話をしないとアートに登録されない、ということがあって──そういう意味で、形式についてすごく考えたというのはありますね。
畠中:なおかつ、もうひとつの形式があって、それが言わば「イラスト文化」みたいなもので、だからこそ、アートとしてやるのだけれど、でも、同じツールを使っても──何でここに出てくる人たちの絵のモチーフや主題になっているものが、まさにキャラだとかアニメ文化みたいなものにひじょうに深く関わって、依拠しているのか。そこもまたもうひとつの「形式」ですよね?
gnck:イラストを描いている人たちすべてがアート的なのかというと当然そうではなくて、「イラストをイラストとして描く」ことだってあるだろうし、「イラストをイラストとして描いていたのに、結果としてすごくアーティスティックなことをしていた」ということもあるでしょう。
逆に、油絵具で絵を描いているけれども、全然批評的ではない作品もある──ということだと思います。ネット上で絵を描いている人全てが、そういった批判的(クリティカル)なものをそこに込めているかというと、必ずしもそうではない。というか、むしろ数としては少数なのではないか、と思うわけです。
とはいえ、JNTさんがモティーフとして、メカであるとか少女であるとか、キャラクター文化に大きく依拠しているのは「出発がそこだから」ということが言えるのかな、と。つまり「イラストでもあり、アートでもある」時に「少女やメカを描くことが大事なのか?」というと──「大事な人もいるし、大事でない人もいる」という感じになってしまうわけです。
ウェブイラストというものが何に依拠しているか。その前史として何があったかというと、やっぱりサブカルチャーというか、コミケのようなファン・カルチャーというものが、すごく大きくあります。コミケっていうのは1975年ぐらいに生まれて、80年代の最初ぐらいに参加者が1万人を超え、80年代を通じて、ファン・カルチャーの規模がどんどん大きくなっていくんです。同人誌とか、あるいはアニメ雑誌のようなものでイラスト投稿というのがすごく増えていく、という歴史がある。
そういうイラスト投稿の場、アニメ雑誌があって、コミケがあって──それらのカルチャーの連続性の先に、インターネット上でのイラストもあるわけです。当然、他の要素もいろいろあるでしょうが、コンピュータを使う作業ですので、例えばゲーム会社でイラストを描いていた方は、すごく初期からイラストサイトを開設されていました。あるいは漫画家でも、仕事でパソコンを使うようなスタイルの漫画家は、早くから個人のイラストサイトを持っていた。そういった「ウェブイラスト以前」の要素として、漫画やアニメやゲームといったキャラクター・カルチャーがあった。やっぱりお絵描きカルチャーも、そこから進化してきたカルチャーなので、そういった連続性を持っているのではないでしょうか。
畠中:ではそろそろ、今日お越しいただいた出演者の方々にもお話を伺ってゆきますが──それこそみなさん、それぞれのスタンスがあるだろうと思います。さっきの話で言えば、「アートとイラスト」とか、あるいは「どこに向けて描いているか?」とか「何を志向しているか」とか。そして、このgnckさんの論文でも触れられていることですが、今日のテーマでもある「リアリティ」という部分に関連させて言えば、各自がその(インターネット上の)お絵描きツールを使って「描くことのリアリティ」の問題、あるいは女の子やメカのような「特定のイメージを描きたいと思うリアリティ」の問題もあるでしょう。なので、そのあたりを順番にお話ししていただけたらと思います。
虎硬:自分に関して言えば──話が少し戻るのですが、最初の「お絵描き掲示板の今昔」という話の続きをさせていただくと、はっきり言ってお絵描き掲示板って、今現在は文化としてほとんどちゃんと機能していないんですよ。それは何でかというと、さっきgnckくんも言っていたように、お絵描き掲示板って90年代の後半に生まれたものでして、そこでは「poo(poo site、後の「お絵かきBBS.com」)」と「しぃ(「PaintBBS」)」という、2つの大きなブランドみたいなものがあって、主にここに展示されている二艘木さんのようなタイプは前者の「poo」のお絵描き掲示板を使っていた方なんですね。
畠中:すいません。2つのブランドが──「ぷぅ」と「しぃ」?
虎硬:はい、名前だけ覚えておいてください。名前だけでいいです(笑)。要は「シャネル」と「グッチ」みたいな二大ブランドなわけです。で、そこでの「poo」派と「しぃ」派では絵柄もけっこう違ったんですよ。どちらかというと「poo」派の人は、それこそ二艘木さんの絵のように、カクカクしていてジャギってる。ドットがかなり粗く見えているタイプが、「poo」派にはけっこう多かった気がします。言ってしまえば「アート」タイプということですね。アートの定義はいろいろだと思いますが、抽象画みたいな画風が、とにかく「poo」派には多かった。
かたや「しぃ」派の方は、題材がキャラクターだったり女の子だったり、あるいは漫画っぽい絵柄が多かったんですね。
で、僕はどちらかというと、その「poo」と「しぃ」の間で活動していた人間で、今そのgnckさんが紹介されたJNTさんという方は、どちらかというと「しぃ」派の絵描きなんです。今、画面に出ているのが、まさに女の子を描いたJNTさんの作品で、もう10年以上も前のイラストなんです。で、この「しぃ」の方が──。
gnck:開発者が「しぃちゃん」、だったんですよね。
虎硬:そうそう! その「しぃ」の方が、やや高機能だったんですね。水彩機能とか、可愛らしいボワッとした女の子の絵が描きやすい、みたいな感じでした。
で、それがしばらく続いていたのですが、今度は今現在のお絵描き掲示板の話をします。それこそ2007年の秋に「pixiv」という会員数最大の大手SNSができた少し後ぐらいから、みんなそっちのSNSの方に移っちゃったんですよ。なにせ会員数400万人強ですからね。分母が全然桁外れです。普通のお絵描き掲示板なんて、1日に10回ぐらいイラストが投稿されれば、メチャメチャ賑わっているサイトですから。
当時、最高に繁盛していたサイトが、イラストレーターのこより(http://www.pixiv.net/member.php?id=3761)さんだったり、今すごく人気のある『刀語』のイラストを描いている竹(http://sai-zen-sen.jp/special/takegarou/)さんだったり、『やわらか戦車』や『くわがたツマミ』、あと『ちーすい丸』という、今、日本テレビでやっているアニメなどを手がけているラレコ(http://www.geocities.jp/jugongordie/)さんの掲示板だったのですが──こういうものは基本、個人でやっているところなので、もうSNS文化の比にはならない。
で、いったんSNSに入ってしまったら、もうpixivに(イラストを)投稿するだけで、どんどん人は観てくれるわけです。そりゃあ、活動履歴がまだ浅い人はしょうがないですが、ある程度描いていれば、アクセス数も1000や2000はどんどん増えていく。そうなると、わざわざお絵描き掲示板に絵を投稿するメリットはほとんどなくなる。お絵描き掲示板を作っても誰も来ないし、誰も観てくれないし、誰も投稿しない。そうなると、当然廃れてくるわけです。
去年、中野のギャラリーで僕がやった「百化」展にはgnckさんも観に来ていただいていて、そこでよく言っていたのが「お絵描き掲示板とか個人ホームページというのは、いわば“ムラ”社会だ」という話です。ところがpixivとかmixiのようなSNSは「いわば“デパート”だ」と。さっきグローバルとおっしゃられていましたが、僕はデパートだと思っています。
個人サイトというのは地元密着型といいますか、老舗だったり市場(いちば)だったりするものですが、その近くにデパートができて、品質のいい商品がそこに集まり、どんどん高速で流通したら、はっきり言って個人商店はそれには勝てないわけです。インフラがもう全然違うから。なので、個人サイトにはどんどん人が来なくなっていき、お絵描き掲示板も個人サイトの一部でしたから、やはりアクセスが少なくなっていって──今に至るわけです。
今現在のお絵描き掲示板の話に戻ると、さっきちょっと出していただいたdrawrというシステムがありましたが、あれもまた実に絶妙なシステムでして、今の喩えで言えば、デパートの機能とムラの機能の両方を押さえたような、すごく微妙なやつなんですよ。でも、デパートほどのわかりやすさと明快さは全然ない。だから、それこそ「大量の作品を描いて、大勢の人に見せたい人」でdrawrに投稿する人ってメチャメチャ少ないですよ。drawrというシステムもそれこそ地元密着型で、自分の絵をより身近な人に観てほしい、あるいは「このツールが好きだから、とりあえずやる」という人、もしかしたらこっちのタイプの人は、昔からインターネットに接している人には多いかもしれないですね。
今度は、自分の「表現の話」になりますが──僕はキュレーション的なこともやっていますけど、単純にいち「絵描き」としては、どれか特定のツールにこだわっているみたいなことは正直それほどありません。あと(先ほどから言っているように)現状のお絵描き掲示板文化は(自分の意見では)あまり機能していないというのが本音なのですが、それでもその根っこにあるスピリットはいまだ生きているし、それこそ今、アニメ化されたりして、イラスト文化の最前線で闘っている人には、お絵描き掲示板の出身者ってものすごく多いんですよね。それこそ今アニメ放映中の『ギルティ・クラウン』のキャラ・デザインをやっているredjuice(http://redjuicegraphics.com/)さんとかは、「poo」のお絵描き掲示板の1回目のコンテストで準優勝で、第2回で優勝された方ですよね。もう10年以上も前の話ですが、覚えています。挙げていけばキリがないですが、それこそ(先ほどgnckさんが紹介していた)原田たけひとさんとかも、そうですね。思いついたまま喋ってるとまだまだ長くなりそうなので、このへんで次にパスします(笑)。
山本:最初、gnckくんが「ある形式の中における技巧」とか「形式がどんどん形式たりうるものになっていく」とか、そういうマニエリスムっぽいというか、フォーマリスティックにそれを分析しちゃうとか、そういう欲望に基づいた話をされていて、そこで虎硬さんにマイクが移って、今度はもっと人間の側に寄った、それを使う人間の側が「誰に向けて描いているか?」という話になったわけですが──。
その、gnckくんの論文の中で面白いところがあったのは、pixivで絵がキュレーションされるように、より絵がキュレーションされやすくなったことによって「絵が機能主義的に貧しくなったのではないか」というふうに書いてあって、これは面白い指摘だなと思いました。これって、gnckくんが取材したネット絵師の方が言っていたことなの?
gnck:いや。あれは、伊藤剛さんが『ユリイカ』で言っていたことですね[*10]。
谷口:流れとして、ローカルだったお絵描き掲示板とか絵師さんの個人サイトから、「ウェブリング」という、同じバナーを張ったサイトで隣に移動できる、別の近いジャンルで描いている絵描きの人との横のつながりが増えてきたり、あるいはさっきの「独りの帝国」さんのように、めぼしいイラストサイトを全部総ナメするタイプのポータルサイトとかが出てきて、その後に「TINAMI」(http://www.tinami.com/)が出てきたんですよね。萌え絵の、例えば“猫耳”系だったら、そのタグをクリックすると、そういうイラストサイトの一覧が出てくるようなタグ化がなされてきて、そういったノウハウの総集が、今のpixivにつながってくるわけですね。
gnck:pixivのシステムとしてキュレーションというほどのことは行なわれていないのじゃないかな。「機能主義的な貧しさ」というのは要するに、絵のランキングというものがpixivでは表示されて、閲覧数とか「お気に入り」が多い作品がランキングでドドーンとみんなの見やすいところに出てきてしまう。すると、どうしても閲覧数を稼ぎたくなってしまうので、パッと見て他の人がクリックしたくなるような絵柄がどんどん描かれ、投稿されていく。そこでの「機能主義的」というのは「クリックされることを目的とした絵」にどんどん洗練されていくんだけれど、一方で多様性は失われていく、というような状況ですよね。
畠中:そういう中でも、会員数が多くなればなるほど、そうした原理に従っていくしかなくなってしまう、ということもありますよね。会員数が多いということは、多数決じゃないけれど、そこに集まるみんなが観たいモノが必然増えていってしまう。そういう、ある種の快楽原則に従ってしまうということも、どうしても出てきちゃう。
gnck:それはそれで、ものすごくひじょうに興味深い現象ではあって、じゃあ今までの歴史上にそのような形で洗練された絵柄があったかというと、まったくない新しいものだし、その「美しさ」みたいなものって、やっぱりすごく美しいですよね。ただ、それだけしかないようなことになると、やっぱり貧しい。だから、pixivというサイトがどのようにして作品の多様性を擁護していけるのかというのは、(いちサイトの問題としてではなくて)お絵描き文化そのものの問題として、pixivが仕様をどうするかという問題と直結する話だとは思います。
山本:絵の表面を──もう本当に人間中心ではなしに、絵の表面を子細に分析していって感動し、それに酔いしれるみたいな欲望は、僕も彼に負けずにあるつもりなので、なんかその話もけっこうできるのですが、それと両輪で「誰に向けて描いているのか?」という人間側の話を今日はもっとしたいなぁ、という気がしてました。
そもそも「お絵描き掲示板で描く」っていうことは、どういうことなのか? 何の公共性もないような行為のようでもある。誰に向けて描いているのか、例えば僕が彼の家に行って、机の上で彼に絵を描いて「ほらほら!」って見せてる、みたいな感じでありながら、同時にそれを窓から少年が覗いている、みたいな。その少年は無言で、気配も残さず帰っていく、とか。
pixivと違って、お絵描き掲示板って(つけようと思わなければ)閲覧数がつかないわけです。誰が来ている(観ている)場所なのかもわからない。そういう変なことをできる空間が、なぜか一時期最適なものとして採用されて、ドバーっと広がったという現象は、かなり興味深く、お絵描き文化固有のものではなかったのかと、僕は思います。
gnck:イラストサイトのなかのお絵描き掲示板の位置というのは、一番コンテンツが更新される場所なんですよね。自分ひとりで、管理人だけが投稿しているという、スケッチブック的な使い方をしているサイトもあって、それはそれで、それを覗き見する楽しさがあるんですが、交流のためにいろんな人が書き込んでいて、いつ更新されるか──。例えばイラストサイトだったら、毎日頻繁に更新する人はそういないので、定期巡回で「あっ、更新されてるな!」って感じだったと思うのですが、お絵描き掲示板はいつ更新されるのかわからないので、つい何度も何度も通ってしまう。やっぱりそういう意味で、一番メインのコンテンツだったし、一番の現場だし、「自分が投稿したら、どれくらいレスがついているかな?」みたいなことで[F5]を連打しちゃったり──そういうことがありました。
さっきの「覗いている」という話の続きをすると、そういう「洞窟」というより「ムラ」に近いのかな? 誰が覗いていたかわからないけれど、数年後に「覗いていたよね──」みたいな話をできる人が唐突に現われたりするわけです。「「sKILLupper」観てたよ!」みたいな話を、インタヴューなどでいろんな人から聞くと、すごく不思議ですよね。
この論文を書く時に、pixivに投稿している美大生に5人ぐらいインタヴューしたのですが、「どういうサイトを観てましたか?」と聞くと、いろいろ浮かびあがってきました。全然交流のない人同士が「あ、でも、そこのサイトは観てましたね」という形でつながっていたりして、社会のなかでいろいろなところに散らばって存在している、という感じだった。なので、逆に言うと「(空間的に)同じ場所にいた人たち」ではないので、例えばお絵描き掲示板がなくなってしまったら、もう一度そこに集まることはできないわけですよね。ということは、逆に言えば「歴史を残していく」ことが、ものすごく難しくなってしまう。というか、収集できるうちに話を収集しておかないと、あるいはログを保存できるうちに保存しておかないと、どんどん拡散していって、消えていってしまう。一番現場で一番熱くて、「おお、スゲエ!」っていう気持ちを共有していた人たちなんだけれど、それがなかなか残ってくれない、そういう側面もある気がします。
山本:だからある意味、「pixivは公共的で、すごくいいものだ」という見方もできるわけです。18世紀末に初めて美術館ができて、王様の御殿にあった絵や宝物がワーッとみんなかき集められて、市民も観ることができるようになった。キュレーションによって、今までアクセスするために必要だった経路を辿らずとも観られるようになること自体は、みんなにとってすごくいいことじゃないかと、僕は普通に思います。でも、それだけでは取りこぼしてしまうものがあるのではないか──というのが、恐らくは彼が「お絵描き掲示板展をやりたい」と言っていた動機なのではないかな、って。
谷口:今の話を聞いていて、「これまでの座談会の話とつながるな」って思ったことがひとつありました。そもそもインターネット初期って、僕らは「ホームページ・ビルダー」ってアプリケーションを使って、個人サイトを作ったりしたわけですよね。そこでの「ビルダー(builder)」って建築のことで、つまり「家を作る」という意味だった。で、お絵描き掲示板というのも、自分ん家のひとつの部屋にみんなで集まって、お絵描きっこをやる場所だったんですよね。だけど、それが(pixivで)SNS化され、また足跡機能がつくようになって、人間の行動が可視化されるようなことが起きてきた。
その一方で、震災以降のTwitterが完全に社会的なインフラ化されたみたいなこともありました。本当にそれは、単なる連絡手段として使えるツールのひとつになってしまった。内輪だけでギャーギャー喋っているだけではなくて、非常時に役立つ(水道やガスのような)インフラの一種になってしまったのではないか、ということを感じ始めたわけです。そうなるとやはりインターネット全体が、個人個人がサイトを持って、そのどれかに集まる“ムラ”ではなくて、より巨大なインフラによってつなげられた巨大な公共空間になってきた、という変化とも無関係ではないと思います。
あともうひとつ、昨日gnckさんの論文を最後までバーッと読み直して、個人的に「つながってくる話題だなぁ」と思ったのは、今回の展覧会の出品作で(アーロン・コブリン+川島高・作の)《10000セント》(2008)という作品──アマゾン・メカニカル・タークというAPIを介して、1万人に1セントずつを払って、100ドル札の絵を分割して描いてもらった作品がありましたが、あれってpixivのタグに似てるなあ、って思ったんですね。
gnckさんの論文のなかで、久しぶりに「カオス*ラウンジ宣言」を読んだんですよ。「カオス*ラウンジ宣言」の序文の文章中で黒瀬陽平さんが「アーキテクチャによって、作家性とか作品とかは自動生成される」って書いてあって、最初にそれを読んだ時、全然理解できなかった。だけど今、pixivで適当なタグを2、3選んでクリックしたら、それに応じて作品が生成されるように見える。そういった意味で、作家性というか、作品の生まれ方みたいなものもだいぶ変化してきていると思うわけです。ひとりひとりの絵師さんが、「このパラメータを与えたら、こういう絵が生成されて返ってくる」みたいなAPIになってしまっているわけですね。それが一種の反動となって、今お絵描き掲示板みたいな「ムラに戻る」という反動が起きているのかなぁ? って感じたわけですが、今改めて振り返ってみて、お絵描き掲示板の立ち位置について、いかがでしょう?
虎硬:そうですね。はっきり言って、それは「ムラによって違う」としか言えないところがあって──変なムラは本当に変ですからね。例えばすごくグロい、足を切断された女の子の絵ばっかり集まってくるムラもあって、いわばわけのわからない作物ばかり耕している畑みたいなものでしょうか(笑)。そういう変な風習が根づいていそうな怖〜いムラがあったかと思えば、一方では超平和に美しい背景画ばかり集ってくるムラもあったりして、言わばそこは、村人がみんなすごくニコニコしながら有機野菜を作っているようなところだし。
あと、自分がその“ムラ”の喩えでよく言っているのは、要は畑なんですよね。ムラであって、かつ、そこでは畑が耕されている。そういう畑って、その場に適した肥料や種があるわけじゃないですか。北の地方だったら、こういう作物が育ちやすい、みたいなこともある。そういう適材適所みたいなことはイラストサイトにもあって、はっきり言って、エロ畑で耕された作物は、やっぱりエロい花しか咲かないんですよ(笑)。そこにキレイな山の絵の種をポンと蒔いても、全然咲きません。逆に、風景畑の作物からはエロい花は咲かない。そういう意味では、「すでに生成された大地から一定の植物が出る」っていうところは、タグとかの効果と似ているかもしれませんね。
gnck:あの手の背景画って、新しいジャンル、新しい風景画だと僕は思っていて、pixivの“背景”タグとかですかね。アニメの背景というよりもゲームの背景やヴィジュアルにすごく近いと思う。別にキャラとかいなくてもよくって、そういう背景画ばっかりひたすら描いている人たちがいるのですが──あれってどういうジャンルなんだろう、って。
虎硬:でも、あれってすごく古典的な側面もあって、風景って昔から、そんなに変わらないじゃないですか。
gnck:風景画は風景画なんだろうけれど、そこで描かれているものが、今までのゲームとかアニメのようなカルチャーを経由した風景だ、というのがすごく変だな、って。
虎硬:やっぱりそこでのひとつのターニング・ポイントは新海誠かなって、僕個人は思っています。あの描き方って、そこそこ早くてそこそこきれいに描ける、っていうか。
gnck:でも「百化」というのはやはり、そういうpixivによる「機能主義的な貧しさ」に、ある種のアンチとして機能しうるようなプロジェクトなのかな、って思っていたのですが。
虎硬:先ほどご紹介した「百化」っていうイラスト・サークルみたいなものを、インターネットで知り合ったイラストレーターの方を集めて、僕が主宰しています。2008年夏ぐらいに最初に企画して、定期的にイラスト集と漫画を出しているのですが、企画当初の2008年というのは、絵柄の画一化やpixiv化みたいなことも、まだそこまで進展していませんでした。けれど、その後のSNSの様子を見ていて、やっぱり今後はそういうふうになってくるな、と思いました。今のpixivランキングなんか「たしかにこれは1位になるな」という絵が1位を取っているし、そういう傾向はこれからどんどん進んでいくだろうなぁ──という時期の前哨が、その2008年頃でした。あ、今(プロジェクターで)映していただいているのがうちの作品ですね。で、当初はそれに反撥すると言いますか、「いや、でも、オリジナル主義をもっと貫いていこうぜ!」っていう感じで始めたわけですが、それも作品を出していくうちに変わってきたところがあります。
ここでpixivの話もしておきます。今日、僕とgnckさんは「pixivフェスタ」というイヴェントに立ち寄ってから、こちらに来ました。pixiv主催で、そこに参加している作家さんのイラストを集めて展示する催しで、アナログで(作品を)出されている方も若干はいらっしゃるのですが、多くの出品作はデジタル出力です。で、この「pixivフェスタ」も今回で5回目なのですが、やっぱりpixiv側も、ある意味、そういう作家のクラスタだったり、それこそ「何とか畑の人間だ」ということがだいぶわかっているんですよ。展示の「部屋ごとの区切り」がその証拠で、「この部屋は人物メインの絵」を集めていたかと思うと、「別の部屋は背景メインの絵」だったりして──。
gnck:でも僕は、あの区分けの仕方が最初から嫌なんです。もっと相乗効果が出て、みんなの絵がよく見えるように並べてくれればいいのに、「似たような絵を集めればいいや」というのは、すごく雑な感じがします。
虎硬:gnckさん的にはどういう展示方法がいいんですか?
gnck:展示で相乗効果が出る──と言いますか、ある程度ジャンルが違うものが並んでいる方が巡回していて楽しいだろうし、「興味のない部屋はプイっといなくなってもいいや」というよりは、全部の部屋をグルグルと回って、それぞれ違う味が順番に楽しめるほうが、回るぶんにも楽しいのではないのかなって思います。
山本:最初の時とかは、そんな感じじゃなかったですか?
gnck:いや、最初の回もジャンルで分かれていて──。
山本:入口にいきなりアナログな絵があって、けっこう面白かった記憶もあったのですが。
gnck:アナログはアナログで「アナログ展示」みたいなのは、あったよね──。
山本:その「(ジャンルごとに)分かれて見えるとか、見えない」というまなざしも、イラストという大枠のもとで観る時と、そうでない時とでは変わってくるから、難しい話だなぁと思いますけど。
gnck:コミケとかは(売場が)ジャンルごとに分かれてますけどね。
谷口:タグ化と展覧会のキュレーションの関係とかはあったりしますか? pixivのタグの選択によって出てくる検索結果とキュレーションの関係、というか。
gnck:pixivのウェブサイト上で、タグがコメントのように使われている場面があって、それと同じように、自分がコメントを書いて、タグみたいなシールを貼りつけることは最初からできるようになっていますね。ただ、そういう「タグによるつながり」みたいなものの実装は、やっぱり厳しいですよね。現実はソートできないので──。
虎硬:だからあれも、ギャグみたいなものというか、お遊びみたいな感じですよね。
gnck:あと、その「pixivフェスタ」会場のデザイン・フェスタ・ギャラリー原宿に出力したタペストリー状の絵がかかっていたんですけど、あのタペストリーは僕はあまり好きじゃないんですね。「デザイン・フェスタ・ギャラリー原宿」って、照明の数もそんなにないし、質もそこまでよくないので、できればモニタ画面で観たいなぁ、って欲望がある。でっかいモニタを置いてくれて、そこで観られたらすごくいいのに、って。今ならデジタル・サイネージとかですごく高輝度の機材があるので、それがズラっと並んでいて、みんながデジタルで描いた絵なんだから、展示もデジタルで観られたらいいのに、って。メチャクチャお金がかかりますけれど──。
山本:安易に展示におけるその物質そのものが「何か?」って──それが木なのか、それともプラスティックの表面にシールが貼ってあるのか、とか。それって、物理的にタペストリーをモニタに置き換えればすむ話ではないように、僕は確信しています。だって、古典の美術作品とか、作品を複写した写真の印刷で鑑賞してましたよね。撮影写真で美術作品を鑑賞し、本当に心を動かされたりしていたわけだから、「タペストリーはダメでモニタがいい」とか、「画面で観ているから、お絵描き掲示板(の作品)なんだ」というわけでもないと、僕は思います。
谷口:ちょっとこの辺まで、アーキテクチャ的な話というか、ウェブ・サーヴィスの変化や変遷の話と、描き手や発表の仕方の話がけっこう続いてきたと思うのですが、今、山本くんのほうからあった提言で、「お絵描き掲示板にあるものをアウトプットするべきなのか、それともモニタ展示にするべきなのか」という話が出てきました。例えば二艘木さんの今回の絵をキュレーションするうえで、二艘木さんの絵のなかにある物質性みたいなものをどう扱うのか、とも関連してきます。
今回の座談会は話の軸が2、3個あったと思います。ひとつは(これまで論じてきたような)ウェブ・サーヴィスの変化。もうひとつがgnckさんの論文のなかで触れられている「ジャギーやドットの物質感」もあったと思いますが、今度はその「物質感」みたいな話を聞けたらいいなと思ったのですが、いかがですか?
gnck:ジャギーとか、どうかな──。Twitter上でも、二艘木さんの展示に関して「四角い矩形のモニタがあるんだから、それで展示すればいいのではないか」といったコメントがありましたけれど、個人的にはそれでも美しいんじゃないかとは思います。ただ、二艘木さんの作品にはアナログ──というと誤用らしいのですが、現実に絵を描く作品とモニタで描く作品を行き来する作家なので、やっぱりその違いを見せてあげるのも面白いし、それから「モニタの美しさをどう物質に変換するのか」みたいなことも、けっこう面白い課題だし、ありえるのかな? と思います。
谷口:僕らがインターネット・リアリティ研究会で、この展覧会の設計を考える時に、ネット・アートというものを追っていくと、やっぱりブラウザ上でしか発表されていない作品っていっぱいあって、それを実際の会場に設営する際、モニタがあって作品があってマウスが置いてあってそれに触れて、みたいなことになってしまうのですが、それだと展示会場の空間として弱くなってしまう。
二艘木さんも、ちょうどICCでの展覧会が始まるタイミングで、中野の「タコシェ」のほうでやっていた展示があったんですよ。そちらでは、アクリルで小さいプリントを作っていたのですが、僕はあれがすごくいいなと思ったんです。
僕が一番最初に二艘木さんの作品をプリントで観たのが、たぶん「カオス*ラウンジ2010 in 高橋コレクション日比谷」[*11]の時だったと思います。あの時は、大きなキャンヴァス地の布にプリントアウトして、キャンヴァスにちょっとズラして貼っていたのですが、あっちのほうの展示は、そんなにそんなにうまくいってるようには思えなかった。
でも、「タコシェ」でやっていた展示[*12]を観た時に、こんなに小さい──たぶん5センチ四方と10センチ四方の2種類のアクリルに後ろから貼りつけた作品があったんですよ。たぶんあれが(前にも話したと思うのですが)、モニタ上の1ピクセルと、プリンタの解像度の1ピクセルが対応しているサイズだと思う。それくらいの解像度でプリントしていて、かつ、アクリルがCRTっぽく機能するんですよね。そこでお絵描き掲示板、ネット上で描いたものをどのようにネットの外にアウトプットするべきか、という問題がクリアに解決されているように思えたんですね。
山本:面白い話があって、実はあれ、1ドットと1ドットが対応していないんですよ。
谷口:そうなんですか!
山本:そこが面白いところで、たしかにあの時の二艘木さんの作品には大きさが2通りあったのですが、大きい絵も小さい絵も、原画のサイズはいっしょなんです。だから、小さいほうが1ドットあたりの大きさも小さくなっちゃって、あれをブラウザ上にポンと置いたら、おかしくなっちゃう。でも、あれはリアルであるように感じられる。そこが面白いですよね。
谷口:あとやっぱり、1ドットのサイズをどう捉えるか、が重要で、僕らがこの展覧会を企画するなかでも──Photoshopには背景グリッドがあるじゃないですか。透明に見える白とグレーのグリッド──あれをシールにプリントアウトして会場を飾るというアイディアもあったんですよね。その時、そのグリッドのサイズをどれくらいの大きさにしたら、Photoshopの画面上にあるものだと認識できるのだろうか、という問題があって、ひとつの解決策としてうまくいったのが、あの二艘木さんがアクリルに貼っていたプリントの作品だったような気がします。お絵描き掲示板の400×400程の解像度が、実際にアウトプットしてみたらこんなに小さくなっちゃうんだ、みたいなリアリティがそこにあったんですね。そこらへんの「ピクセルの持つ物質感」みたいなこともけっこう重要かも、なんて思ったりします。
gnck:今のピクセルの話から思い出したのが、「せいまんぬ」(http://www.pixiv.net/member.php?id=41559)くんという絵師の子がいるのですが──今すぐ出ないかな? 彼は自分のアイコンをドット絵にしてたのですが、実はそのアイコン、見た目はドット絵なんだけれど、「0.5ピクセル」を使って描画していた箇所があったんですね。
ドット絵というのは、その最小単位が画面のドットと対応しているかというと、実はそうではなくて──あ、せいまんぬくん(このUSTを)見てますよね(笑)。彼の昔のアイコンが──今すぐ出てこないかもしれません。せいまんぬくん、このUSTを見てたら、自分のTwitterにアイコン画像をアップロードしてくれると嬉しいのですが──。
一同:(カメラ越しにせいまんぬ氏に語りかけるgnck氏のやり取りを見て)凄いなぁ(笑)。
谷口:アップロードお願いします!
山本:1個が光っていれば、それを1ドットと認識してしまう、っていうことですよね。今、せいまんぬくんのアイコンが変わるはずです──って、すごい“インターネット感”が出てきましたね(笑)。アイコンが出ました! リテラルに1ドットだから、実際に1ドットというわけではない、仮想的なグリッドがあるということですね。
谷口:今のgnckさんの話を補足しますと、これ、彼に以前、一度iPhoneで見せてもらったのですが、普通ドット絵って1ピクセルごとに描くわけですよね。でも、せいまんぬさんの0.5ピクセルという話は、2×2の4ドットを1ピクセルとしてドット絵を描くわけです。それをパッと見ると、何となくドット絵だから(2×2の4ドットで)1ピクセルかな、って思うんだけれど、その時、ドット絵としては反則技的に、その半分の1×1の1ドットを使うんだそうです。つまり、「2×2ドットを1ピクセルに見せることによって、1×1ドットを0.5ピクセルとして使っちゃう」という裏技があって、僕はそれが面白いと思ったんですね。
昔のお絵描き掲示板の参加者には「poo」派と「しぃ」派がいて、「「poo」派のほうがアーティスティックだ」って話が、さっきありました。何でかといったら「ドット絵のジャギーを多用した人がいっぱいいたから」ということだったけれど、gnckさんの論文のなかでそのドット絵の話をする時に、グリーンバーグをもろに引用した「モダニズムの自律性」みたいな話をしていたんですよね。
で、なんでドット絵がモダニスティックなアプローチに近づくのかというと、やはり最小単位としてのアトムというか、モダニズムなら絵の具そのものが見えてしまう、ということがある。さらにその問題が、今の「0.5ピクセル」の話と、かなり関連していて、言わば「仮想の1ピクセル」を作るわけです。本当は2×2=4ドットを1ピクセルにしているんだけれど、それが作品自体のフレームを規定している、ということ。そういう「作品そのものが作品のフレームを規定しはじめる」ことが起きているなって思ったわけですよ。
gnck:この(アイコンGIFが)最後にニヤっと笑う時の、この八重歯が0.5ピクセルなんですね。
山本:JNTさんは「ドットを切る」とか言うよね。実際には「ドットは切れない」んですけど、4ドットで1ピクセルになっているように見せかけて「ドットを切る」って──。
gnck:ちなみにJNTさんはさらに面白い話をしていて「本職のドッター(ドット絵師)は、ドットのアニメーションのなかでも、0.5ピクセルを使える」というか「0.5ピクセルがあるかのように見せることができる」という話を言っていました。じゃあ、どういうふうにそれをやるのかというと、実際には絵の中央を見ないで──周辺視で「視界の端っこで見ながら、動いている時に0.5ピクセルを感じさせるような描き方をする」そうです。(またカメラ越しに)せいまんぬくん、ありがとうございました。
山本:そもそも「ドットがある」と思い込んじゃっていること自体が、すごくヤバいことですよね。正方形の画像とかって、例えば300×300だったら、合計90000個の正方形がきれいに積みあがって1枚の絵になっている、というものとしてみなすけれど、それってすごく理念的な話じゃないですか。やっぱりアトムの話とかに行ってしまう。本当は正方形なんてないはずなのに、それを洪水のように浴びて、親しくなっちゃっている。それってちょっとヤバいことなんですが、どんどん深みにハマっちゃっている。
gnck:でも「どうしてドットが美しいのか?」という、そもそもの話に行くと、矩形がきれいに整然と並んでいるからなのだと思うんですよね。かたや、ジャギーというのは汚いもの、基本的には消したくて、アンチ・エイリアスでグラデーションがきれいにかかっているほうがよい、っていうのが一般的な立場ですけど、どうしてジャギーがきれいなのかというと、やっぱり整然と並んでいるからでしょう。それが単なるノイズだったら、単なるノイズにしか見えない。紙を破いた跡だったら、紙を破いた汚さにしか見えないけれど、やっぱり矩形でグリッドを持って整然として並んでいる、ノイズなんだけれどすごく整理されている、そういう感覚がすごくきれいなのではないかな、というふうに思うんですよね。
山本:やっぱり形式の話とか技法の話になると、僕はそこまで「お絵描き掲示板だから固有のものがある」という理論を組み立てていくのは難しい気がするんですよね。僕は美大の油絵科というところにいて、そこにはこれまでの絵画の汲み尽くせない豊かな蓄積というものがあって、それを適用して、その理論でお絵描き掲示板の絵だって説明できちゃうわけだから。
さっき畠中さんがおっしゃった「技法をどういうふうに捉えているか」という話でいくと、川洋(http://kawayoo.net/)さんというイラストレーターのサイトとかは、もう「絵の具で描いている」という感じすら、かなり豊穣に含んでいるんですよね。油絵の具で使うテクニックとかもポンポンと出てきていて、自然に観られちゃう。もちろん、デジタル固有のニッチな表現も点検していけばあるんですが、そこの話も面白いけど──やっぱり主体の側の話、僕たち「ヒトの意識が変わっちゃっているのではないか」とか、そちら側をこの「インターネット・リアリティ」の場では話したい、かな。
gnck:そろそろ「インターネット・リアリティの話をしよう」と?
山本:とはいえ、表裏一体なんだけどね。
gnck:まあね。例えばこういう透過GIFとか透過PNGといった画像ファイルって、すごく「画像的」な画像のような気がするんですよ。あと、ループGIFとかも。どうしてそれらが画像的かというと──アイコンとかもそうですが、画像のなかでも「モノっぽい感じ」がするんですよね。
普通の画像というのは、端っこまであって、必ず矩形の真四角で──何ピクセル×何ピクセルというふうになっているんですけれど、透過画像というのはちょっと違う──。これは「とりかわ」(http://blog.livedoor.jp/torikawa0902/)さんという方がブログに上げていた絵なのですが、こういうふうにココが透過しているわけですね。背景色で下に黒い画像を置いておくと黒になるし、今はプレヴューの色が見えている感じです。僕は「これ、すごくいいなぁ」というふうに思っていて──。
山本:その“よさ”って、ほとんどの人には伝わっていないですよ(笑)。
gnck:あはははは。いや、すごくいいんですよ! 何でかというと、ジャギってるし、鉛筆ツールで描いているから、筆跡がきれいに残っていて、色の重ね方、絵の作り方の「単位」が見える。さらに言えば、オブジェ的というか、ヴィネット(Vignette)的なんですよね。ヴィネットって必要最小限の単位で風景を作りあげるじゃないですか。そういうふうに、透過していることによって、必要最小限の描画で、モノとして、ヴィネットとしての画像がある、みたいな感じがするんですよ。
山本:ヴィネットというのは、説明しておいたほうがいいですよね。フィギュアの──例えば『鉄人28号』が二本脚でポーンと地面に立っている、みたいなフィギュアじゃなくて、台座がついていて、『鉄人28号』が見下ろしている街までが作られていて、その台座がついているのがヴィネットで──。
gnck:でも、ジオラマじゃない。
山本:はい。表面だけ見ていっても、画像の質感を人に伝えることって難しくて、その「台」みたいな、どう外側とくっついているかというところが、たぶん鍵なのかな?
例えば、お絵描き掲示板で背景が透明の絵を描く時、お絵描き掲示板によってもとの背景色って違うんですよ。背景画像を敷いている掲示板があったり、それこそ一番わかりやすく言うと、最初のほうで見ていただいたラレコさんの「jugongordie」という掲示板があって、なんかものすごい人数の小中学生が訪れていたんですよね。普通はお絵描き掲示板に来るメインの年齢層がどんどん上がっていくと、サイトごとに廃れていっちゃうわけです。JNTさんは「自分のウェブサイトの掲示板には人が来なくなったのに、なんでラレコのところは来てるんだ?!」「背景が黄色いからだろう」「何であんな黄色いところに絵を描きたいんだ、あいつらは!」って(笑)。
見ての通り、ラレコさんの「jugongordie」は背景が黄色いです。だから、ここに背景が透明の絵を投稿すると「黄色いところにオブジェを置ける」っていう、ホントにそういう感覚があるんですよ。この黄色のなかに、輪郭の外側が全部透明な絵を描いて置けば、なんか「そこに投稿したんだ!」という、その瞬間のためだけの絵とかが、ある。
gnck:そこの背景色とまったく同じ輪郭の色の絵を描いちゃえば──。
山本:そうそう。透過が使えないJPG画像とかのレンダリング形式で保存するときは、掲示板の背景と同じ色で画像の背景を塗って、そこにフィギュアが置かれているかのように人物を描いたりする。そういうことが「できる」のりしろを持っているのが、画像なのかな? って思います。僕は「ジャギーがあるから画像だ」というよりも、むしろ「外側とどうくっつくか」という部分を見ています。
畠中:そこでは画像の「観られ方も限定されてくる」ということ? 画像という単位があるじゃないですか。すると「外側との関係」というのは、例えばあるお絵描き掲示板サイト特有のある関係性としてしか成立しないものなんですか? その「外側との関係」というのは、どういうことですか?
山本:最初の意識としては、この掲示板で描いた絵を、雑誌の表紙とか商用の印刷物とかに使おうとか、そういう建設的な発想はまったくなくて、その場で描いてその場でレスがつけば、コメントしてくれるヒトがいればいい──みたいな、そういうフローなものなので、ある意味では、その場でしか成立しないものでもあるにもかかわらず、でもローカルに──彼(gnck)とか大量に保存してますけれど──今、すごい何年も前の画像ファイルを見て、味わいながら話せていたりもするので、(作者の)意図とは裏腹に、実はもっと公共性を持ったものに(投稿した画像作品が)なっているんじゃないかな、と。
畠中:最初に(作品が)置かれた状態というものがある種の「出来事性」みたいなものだとすると、その出来事というのは、その状況を離れても、その画像自体の出来事として、ずっとくっついていく。そういうことですか? ちょっと僕は今の「外部との関係」というのを、うまく理解できていないのかもしれないけど──。
山本:わかりやすく言えば、僕たちはその表面を味わうことができるから、お絵描き掲示板のツールで描いた絵を観た時に、少なくとも「世界に過去、とあるお絵描き掲示板が存在して、何かしらのお絵描き掲示板特有の開かれ方をした場所で描かれた絵だな」みたいな、そういうものをいつまでも読み取れる。お絵描き掲示板で描かれた画像はそれを画像性として保っている、みたいな。もっとわかりやすく言えば、さっきの「背景が黄色いお絵描き掲示板に投稿するために背景が黄色く描かれた絵」なんかは「あ、これ、あれだよね」って──。
畠中:様式として分類できるような特徴になる?
gnck:絵画の話なのかな、それは──。
谷口:もうひとつには、背景を透過にしたり、掲示板のお絵描きフィールドと同じ色にするということは、その作品自体が置かれる場所を支持している、ということだよね。
gnck:さっきの0.5ピクセルの話と近くなってきますね。あと、次に公共性の話をしますと──どうしてこういうものを保存して、個人的に味わうだけじゃなくて、こういう場所でわざわざ喋っているかというと、やっぱりアートとカルチャーの問題というものがあります。つまりアートと認められたものしか歴史として残っていかない──と言い切っていいのかどうかわかりませんが、「残っていかないのではないか?」という怖れがありますよね。こういうふうに「ミュージアムで蒐集されるものだけが、歴史として登録され、その周辺にあった文化がみんな消えていってしまう」という状況があるような気がしていました。
「解体されるキャラ」展という、JNTさんと梅ラボさんの二人展を2009年にやった時のモチベーションが、まさにそういうところとつながっています。当時、アートフェアとかに行くと、キャラ的な図像とかを描いた絵がすごく多かったんです。あと「pixivフェスタ」も当時、第1回目が開催された[*13]ような状況のなかで、やっぱり「「pixivフェスタ」がそのままアートか?」といったら、そうではない。一方でアートフェアに行ってもキャラっぽい絵があって、それがアートかというとそうではなさそうな、つまり「これじゃ批評的じゃないな」という作品だった。そうじゃなくて、歴史的に登録されるべき、でもキャラ的な図像というものを描いている人が存在したわけだけれど、同時に「キャラを描けばアートだ」とか、そういう安易なノリがあったのではないか、と。
僕も当時、まだ学生ながらにそういうことを感じて、そうではなくて、本当に批評的な仕事をしている、キャラクターというものがどのようにして立ち上がってくるかを感じさせるような作品を作っている、JNTさんと梅ラボさんという2人の作家をきちんと取りあげ、これを歴史に登録しないとまずい、と思ったわけですね。
例えば、村上隆がよく金田伊功というアニメーターに言及するけれど、村上隆を経由しないと金田伊功に言及できないんじゃなくて、金田伊功が素晴らしいアニメーターであれば、金田伊功は金田伊功というアニメーターとしてきちんと歴史に登録されるべきですよね。村上隆を通過しないと金田伊功が発見できないというのは、文化としてすごく偏っている状況なのではないかということを、すごく思ったわけです。
じゃあ、アートと普通のカルチャーで何が違うのかというと、それって単に「歴史として、きちんと整備されているか/いないか」だけ、「歴史的な視座を持っているか/いないか」という違いだけではないかと感じて、「じゃあどういうことが必要なのか」というと、やはりこうしたカルチャーのアーカイヴ化が重要なのではないか、と。例えばpixivなんかにしても、今、大地震が来てサーバーがフッ飛んだら、それはものすごい歴史的な損失だと思うわけです。
だから、それこそNTTさんでもいいのですが(笑)、誰かが勝手にクロールして投稿画像データを一括保存しておいたら、仮にpixivがある日突然倒産しちゃっても、どこかにデータがちゃんと保存されているという状況は、とても公共的な意義があると思う。それこそミュージアムが率先してやるべき、公共的なアーカイヴのような気がするんです。
やはり、文化をきちんとアーカイヴにしていくこと、文化を歴史として言葉にしていくことが(当人たちの意識はどうあれ)必要な気がします。例えばアートをやっている人は、歴史を参照しながら作品を作ったりしている──と、多くの人は思うのですが、そういう歴史的な意義みたいなことを考えずにやっている人たち、単に交流でイラストを描いている人、友達の家に遊びに行く感覚で絵を描いている人たちの記録もきちんと残して、参照できる形にしておかないと、文化全体としてはすごく不健全な形になっているんじゃないかというのが、個人的にすごく感じているところです。
畠中:もう少しお話を続けて、いろいろと聞いてみたいところもあるのですが──残り時間15分ということもあり、今gnckさんのほうからいいまとめの言葉も入りましたので、このあたりで会場からのご質問・ご意見など、聞いてみたいです。このUST中継を見ている人も、Twitterなどでコメントをいただければ拾いますので──。まず会場の方とか、いかがですか? あ、どうぞ。
観客:みなさん、面白いお話をありがとうございました。僕はあまりアートとかを専門にやっている者ではなくて、ただ面白いものを好きで見ているだけで──gnckさんとか山本さんとかがTwitter上で面白い発言をされていたので、今日は見に来てみました。で、その「お絵描き掲示板の機能が制限されているがゆえに表現される、何か“足りないアートとしてのよさ”みたいなものがある」とおっしゃっていたのですが、それって海外の方とかでも理解できるものなのでしょうか? また、海外にはお絵描き掲示板みたいな文化は存在するのでしょうか?
gnck:じゃあ、谷口さんのほうから──。
谷口:海外におけるお絵描き掲示板ですか? えっと、僕自体はそれほどウェブ・サーヴィス・レヴェルとしては追ってみれてはいないのですが、今回の展覧会を企画するうえで参照した海外サイトとしましては──たぶん、日本における「カオス*ラウンジ」とか、お絵描き掲示板の文化に対応するような形で言えば、「Computers Club Drawing Society」(http://www.computersclub.org/draw/)という、アーティストが自律的に集まって作ったサイトがありまして──(プロジェクション画面上に)出ますか?
山本:ここに投稿されている絵って、今ICCでやっているお絵描き掲示板展に投稿されている絵によく似てますよね。
谷口:似てますよね。あ、これですね(「Computers Club Drawing Society」のウェブサイトが表示される)。何人かのアーティストが集まって、こういう抽象画みたいなものをやはり、かなりチープというか、独特な使い方をして描いているというのがあります。(画面に投影された脱力系の作品を見て)これなんか、相当いいですよね(笑)。これは、二艘木さんのにも近い感じがしますね。ちなみにここは、ドローイング・ソフトとかをあまり限定していませんね。
もうひとつお願いしていいですか? 「Paint FX」(http://paintfx.biz/)というサイトがあって、今回の展覧会に参加しているパーカー・イトーもいっしょにやっていたシリーズで──これは「ArtRage」(http://graphic.e-frontier.co.jp/artrage/)という、Photoshopよりも絵画のマチエールを再現するのに適したアプリケーションがあるのですが、それを使ってどんどん描いていく企画で、1ヶ月ぐらいで1000枚とか2000枚の作品を5人のアーティストで描いていった、という経緯があります。これも「ふたば★ちゃんねる」(http://www.2chan.net/)とか、日本の画像掲示板に近いようなコミュニケーションが起きていて、誰かの描いた絵をコピペして使ったり、誰かの描いたスタイルを真似して、1週間ぐらいずーっと青い絵が続いて投稿されたり、そういうことが起きてました。
畠中:こういうのを観ると、(ゲルハルト・)リヒターの絵にどこか似てるよね。
谷口:そうですね。ちょっと(日本のお絵描き掲示板と)違うのが、これらのアーティストが、どちらかというと現代美術作家に近いんですよね。ただ単に「ネットを使っている」というだけで、スタンスとかコンセプトはかなり現代美術的です。だからリヒターに似てるとか、そういうこともあるんじゃないかな、と。
gnck:あと、今思い出したのは、昔はお絵描き掲示板に謎の外国人が突然乱入してくる、みたいな出来事がけっこうあったように記憶しています。よくわからない絵を唐突に投稿して、「Hello!」みたいな感じで、自分のホームページのURLだけ残して帰っていく、みたいな。そういう海外の英語を話すヒトとの遭遇とかが、最近はすごく減りましたね。TwitterやSNSが普及すると、そういう言語の壁がむしろ厚くなったような気がする。
虎硬:でも、海外の話で言うと、僕はけっこうUST中継をやっているんですが、そうするとわけのわからない外国人がメチャクチャ寄ってきますよ(笑)。下手したらSkypeつないで、英語で喋りますからね──それだけですが。
gnck:じゃあやっぱり、ウェブ・サーヴィスによって、見え方がけっこう違っているんですかね。(質問者に向かって)そんな感じでよろしいでしょうか?
観客:海外でもこういった形で、ローテクなものを使ったツールとかで描かれたものが存在して、そういう文化が存在する、と。
谷口:ただちょっと違うのは、(日本の)お絵描き掲示板のようなシステムではない。日本ほど、コミュニケーションとして「絵を投稿する」みたいな側面は、外国にはちょっと弱いところがありますね。
観客:アーティスティックな面が強くて、コミュニケーションがそこで普通に行なわれているとか、そういう感じではない?
谷口:ただ、特異的にこういうプロジェクトが立ち上がると、そこにはコミュニケーション的なものもあるように見えるんですけどね。日本のお絵描き掲示板とか画像掲示板ほど、直接的な感じはしないです。
観客:日本だと、マンガやアニメの文化があって、それらのイラストとかを気軽に描いている人がいて、そういう人たちのコミュニケーション・ツールとして有効に機能しているというのが、やっぱりあるのかもしれませんね。日本の投稿作品を海外のと比べてみると、圧倒的にキャラが描いてあるのが多くて、そこのなかでジャギーとかによさを見出していくとなると、またこういう(海外の投稿画像のように)抽象画のようなものとは別の感じがするので、そのへんの「キャラクターの魅力」と「ドットの粗さのよさ」みたいなところを「こういうふうに観るといい」みたいなことがどこかにあるといいかな、とは思いました。
gnck:でも、「キャラクターが好きでジャギってる絵も好き」っていう人は、ものすごく超少数派だと思うのですが(笑)。でも、そういう人たちがどうして一定数出てくるのかというと、日本のキャラクター文化の豊かさや懐の広さなんですかね?
山本:たぶん、国内向けのウェブ・サーヴィスを作ろうとすると、どうしても人が少ないので「まず同好の士を集めて」みたいな作り方になっちゃうのかも。海外でも「OEKAKI」って、日本語のまんま翻訳されていますよね? 「OEKAKI」って言葉で、ツールの仕組み的にはほぼ同じようなものを提供しているウェブページはいくつも存在しているのですが、もっと曖昧模糊とした広がり方のような気がする。日本はやっぱりある程度の「同極化」が進むから、変なモノがあぶり出されることで見えてくる景色が、日本のウェブ・サーヴィスには共通してよく見られるのではないかな、と思います。
gnck:他に会場からご質問はありませんか? じゃあ、Twitterのリプライで届いたコメントのなかから印象的なものを読みあげてみます。
「ベンヤミンのアウラが事後的な発見である可能性があるように、pixivが登場したゆえに、お絵描き掲示板の見え方が変わってしまった可能性はあるのかな?」というのは──これはその通りだと思います。仮にpixivが登場しなければ、そこでのコミュニケーションのあり方が俎上に乗ることはなかったのではないでしょうか。「祭りの会場」がお絵描き掲示板だった頃は、pixivで起こる「祭り」とはまた違った「祭り」の感覚だった気がします。
ここで「祭り」と言うのは、お絵描き掲示板で何かをきっかけとして、ひとつのテーマに沿った絵が大量に投稿されるような現象を指したり、あるいはひとつの(投稿された)絵にどんどんレスがついていって、絵柄もどんどん変化していく、といった状況のことです。まぁ、インターネット上で創発的に何かが起こる時に、よくある現象ですね。
でもって、お絵描き掲示板における「祭り」とpixivにおける「祭り」では何が違うかというと──2ちゃんねるの各板もそうですが、掲示板には板による違いがあって、各「お絵描き掲示板」ごとに「これは描いてもいいな」とか「このレヴェルのことはここには描けねえよな」とか、見えないルールがいろいろとあるわけです。それは客層というか、その板を観ている人が同じようなものを観ているという感覚のなかで「祭り」に乗ることができた。かたやpixivだと、やはりひとつの「祭り」に乗っかるという感じではなくて、開けた広場に続々と集まってきて、みんなで何かやっている、という感じもありますよね。
谷口:例えばタグとかで──。
gnck:あ、タグでどんどん並んでいるように見えて──でもpixivのタグって、なぜか「祭り感」みたいなものが少なくって、何であんなに祭り感が少ないのかなって考えたら、サムネイルの並びの間隔が少し離れているからではないかって思ったことがありますね。
虎硬:すいません、今「pixivにおける祭り」っていうお話でしたが、自分的にはpixivには「祭り」はないんです。pixivにはお絵描き掲示板的な「祭り」は存在しないし、しいて言えば「現代アート」タグ祭り[*14]ですよ。あれが(pixivにおける)唯一の「祭り」であり、最初で最後かもしれないと思っています。
もしくは、今人気のアニメ──今だと『ギルティクラウン』だとか“モバマス”(『アイドルマスター シンデレラガールズ』)とかが人気ですが、それって別にファンだから描いているだけ。それらをソート(検索)すればバーッと画像がたくさん出てくるだけで、別に特定の神輿を担いでいるわけではないんですよ。
さっき「お絵描き掲示板はいわばムラ社会」って話をしましたけど、その喩えで言えば、村人総出で田植えとかして、テンションが上がってきて、ちょっとお調子者が歌い出したりしたら「おっしゃ〜。オレもやるべ! やるべ!」と、俵とかいろいろなところから持ち出して「ワッショイワッショイ!」って具合に祭りが始まっちゃうわけです。
かたやpixivは、なにせデパートですから(笑)、ちょっと珍しい商品とかをそこで見つけて「こ、これ、チョーヤバいんだけど、ヤバくない? ヤバくない!」って集まって、そこで騒ぎ出して「よっしゃー、ちょっと祭るぜェ!!」って張り切りだしても、「ちょっと、お客さん──」って警備員が止めに入ってくるんです(笑)。さっき僕が「pixivには祭りは物理的に存在しない」って言ったのは、そういうことです。でも、それをぶっ壊したのが「現代アート」タグ祭りでしたよね。
gnck:そうでしたよねー。
山本:「ナイキ祭り」とか「ドラゴン祭り」とか、お絵描き掲示板でも1、2週間ぐらい、ずうっと変なモチーフにこだわり続けて投稿が続く──みたいなことがあったんですけどね。
gnck:pixivだと「pixivファンタジア」[*15]みたいな大掛かりな企画があったじゃないですか。あれはあれで大規模だし、盛りあがってはいるけれど、たしかにあれが「祭り」かっていうと──「現代アート」タグ祭りあたりと比べると、だいぶ違いますよね。
畠中:もう終了時間の18時が近づいてきましたが──まだまだ話は尽きない感じがします。
ちょうど先ほどgnckさんが、会場質問の前にまとめてくださったように、僕自身の今日の座談会の関心事としては、ひとつには「形式」とか「様式」といった話があって、そこでは「どちらの側から観るか」ということも大きいような気もするんですよね。つまり「アートの側」から観るのか、あるいはある種の様式を胚胎する「文化の側」から観るのか──それによって、大きな違いがあると思います。
やはりアートとして構造的に出てくるものは、何かしらある前提みたいなものをとっぱらったところから、大まかに、そういった現代的な状況を取りあげて、それをイメージとして取り扱っている部分がすごく大きいと思います。そこが、ある種の(インターネット上の)現場と、文化のほうの現場との軋轢になっている気もするんですね。そういう意味では、お絵描き掲示板を、今回こういった文脈であえて取りあげたことは、その部分に問題意識を向けるいいきっかけになったのかな、という気がします。
僕自身、あまりこういった世界に明るくない部分もあったので、みなさんの今日のお話はひじょうに面白く聴かせていただきました。まだまだこの続きもできそうな気がするのですが、時間的制約もありますし、また「インターネット・リアリティ研究会」のほうでも引き続き取りあげていければと思います。といったところで、今日の座談会は終了させていただきます。今日はどうもありがとうございました。
一同:ありがとうございました!
*1 本日のイヴェントに先だって、お絵描き掲示板の関連イヴェントが先週ありました:「二艘木洋行とお絵描き掲示板展 ライヴお絵描き」2012年2月23日開催、出演:二艘木洋行、qp、アニュウリズム、蚊に、水野健一郎
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2012/Internet_Art_Future/Event/0223_j.html
*2 「解体されるキャラ」展:「JNT×梅ラボ 解体されるキャラ」展、apmg(武蔵野美術大学構内)、2009年11月9—21日
http://apm.musabi.ac.jp/apmg/cutupchara/
*3 去年の11月には「pixiv Zingaro」という、東京の中野ブロードウェイにあるギャラリーでも展示させていただきました:「百化」展、2011年11月25日—12月5日
http://pixiv-zingaro.jp/exhibition/100cca/
*4 JNTさんのイラストサイト:現在は閉鎖。
http://rakgadjet.fullmecha.com
*5 「sKILLupper」:現在は同名のインターネットレーベルとして運営。
http://www.skillupper.net/
*6 こういう顔文字(´・д・`)の方:サイトは現在消失。
http://bael.hp.infoseek.co.jp/index.html
*7 原田たけひと:代表作に『ファントム・キングダム』、『ファントム・ブレイブ』、『魔界戦記ディスガイア』など。
*8 今日ちょうど、そのイラストSNSのpixivが主催した「pixivフェスタ」というイヴェントをやっていて:「pixivフェスタ vol.5」、デザイン・フェスタ・ギャラリー原宿 EAST&WEST全館、2012年2月25—26日
*9 いわゆる「メディア芸術」云々という会議:平成23年度メディア芸術部門会議シンポジウム「新たなメディア芸術への革新とコミュニティ形成」東京ミッドタウン・タワー4階 カンファレンス、2012年2月25日。出演:畠中実、野村辰寿、表智之、吉田寛。
http://plaza.map-staff.jp/bumon2012/
*10 あれは、伊藤剛さんが『ユリイカ』で言っていたことですね:片桐孝憲(聞き手:伊藤剛)「絵を描く、つながる、そしてその先へ——“表現”のプラットフォームとしてのpixiv」(『ユリイカ』Vol. 592(2011年2月)特集「ソーシャルネットワークの現在——Facebook、Twitter、ニコニコ動画、pixiv、Ustream…デジタルネイティブのひらく世界」pp.153–164)
*11 「カオス*ラウンジ2010 in 高橋コレクション日比谷」:2010年4月10—18日。キュレーション:黒瀬陽平、藤城嘘
http://chaosxlounge.com/exhibition/ex_chaos2010intakahashi
*12 「タコシェ」でやっていた展示:二艘木洋行展覧会「梨でおねがいします!」、2012年1月20日—2月5日
*13 「pixivフェスタ」も当時、第1回目が開催された:「pixivフェスタ vol.1」、デザイン・フェスタ・ギャラリー原宿、2009年2月27日—3月1日
*14 「現代アート」タグ祭り:参考:ピクシブ百科事典■pixiv問題 5.2 現代アートタグ騒動
http://dic.pixiv.net/a/pixiv問題#h3_17
*15 「pixivファンタジア」:pixiv内におけるファンタジー系ユーザーの「テーマ企画」として、2008年1月24日—2月4日に開催された。
◎展覧会情報
インターネット・リアリティ研究会による
[インターネット アート これから]
――ポスト・インターネットのリアリティ
会期:2012年1月28日(土)—3月18日(日)
会場:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC] ギャラリーA
主催:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2012/Internet_Art_Future/index_j.html
2013年8月5日 発行 初版
bb_B_00116015
bcck: http://bccks.jp/bcck/00116015/info
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インターネット・リアリティ研究会