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座談会「『ポスト・インターネット』を考える(β)」

インターネット・リアリティ研究会

インターネット・リアリティ研究会+ICC



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目次

インターネット・リアリティ研究会とは


座談会「『ポスト・インターネット』を考える(β)」
プロフィール


はじめに

A■レクチャー「ポスト・インターネット」を考える(β):水野勝仁

A01|「リアル→インターネット」から「リアル⇄インターネット」へ
A02|「ポスト・インターネット」の紹介
A03|「ポスト・インターネット」について語るときに可能な4つの方法
A06|もしかしたら「つながり」はGIFの質感なのかもしれない
A07|「GIFアニメーションの情動」
A08|GIF的無意識
A09|GIFとJPEGどっちが硬い?──Webの質感と〈インターネット・リアリティ〉
A10|脱ヒト中心主義/脱ヒト化
A11|インターネット→インフラ(水平軸+垂直軸)
A12|イメージ・オブジェクト
A13|「* new jpegs *」展
A14|「* new jpegs *」と「[インターネット アート これから]」
A15|リアルとインターネットの同期

B■座談会

B01|「パブリック」化したネット・アートが、ポスト・インターネット・アートなのか?
B02|アーキテクチャ論よりも表現レヴェルでの議論に向かう、ポスト・インターネット・アート
B03|GIF vs JPEGの問題を(改めて)考える
B04|空間性に依拠しない、ポスト・インターネット・アート?
B05|ポスト・インターネット時代の「脱ヒト」とは?
B06|ヒトと機械と「全自動/半自動/手動」
B07|ポスト・インターネット・アートの「ファイルっぽさ」をめぐって
B08|「ポスト・インターネット」アートの「陳腐さ」や「安定」は、一種の「後退」なのか?
B09|ネット・アートの「インターネット・リアリズム」と、美術界での「インターネット・リアリズム」と



脚註

インターネット・リアリティ研究会とは

インターネット・リアリティ研究会は、エキソニモ(千房けん輔、赤岩やえ)、思い出横丁情報科学芸術アカデミー(谷口暁彦+渡邉朋也)、栗田洋介を中心に、2011年7月に開催された座談会「インターネット・リアリティとは?」をきっかけに発足しました。

わたしたちは現在、常時インターネットにアクセスできる/している状態で生活しています。そこでは、さまざまなサーヴィスを介して自分の行動や好きなものなどをネットで公開し、友人や家族、はては国籍や国境を越えた見ず知らずの人たちが今どこで何をしているのかという行動や状況を、ネットを通じて想像することができます。このような、インターネットそのものが日常を映すメディアとしてわたしたちの意識に浸透した状況において、わたしたちが感じるリアリティもまた変容しているのではないでしょうか。

そのような問題意識を元にした座談会を経て、その後展覧会「[インターネット アート これから]——ポスト・インターネットのリアリティ」を企画、展覧会会期中もさまざまなゲストを交えた座談会によって議論を深めていきました。インターネット・リアリティ研究会は、このICCのホームページ内を研究会の主な発表の場として、展覧会以降も継続して活動を行ないます。これから順次、座談会の採録やさまざまなテキスト、また映像の記録などを公開していきます。

『ポスト・インターネット』を考える(β)

日時:2012年3月4日(日)
出演:水野勝仁
   谷口暁彦
   栗田洋介
   萩原俊矢
   畠中実(ICC)

プロフィール

水野勝仁
1977年生まれ。ユーザ・インターフェイスにおける「デスクトップ・メタファー」と「マウス」の研究から、エキソニモ《断末魔ウス》を経由して、ディスプレイ上の「カーソル」や「GIF」を考察するようになる。主な論文に「あいだを移行する「↑」:エキソニモ 《断末魔ウス》、《↑》におけるカーソルの諸相」(『映像学』第85号,日本映像学会,pp.20-38,2010年)など。
http://touch-touch-touch.blogspot.jp/

谷口暁彦
1983年生まれ。インスタレーション、パフォーマンス、ネット・アート、彫刻、映像作品などを制作する。主な展覧会に「ダングリング・メディア」(「オープン・スペース 2007」内「エマージェンシーズ!004」、ICC、2007)、「Space of Imperception」(Radiator Festival、イギリス、2009)、「redundant web」(インターネット上、2010)など。処女小説『四月の続き』が第二回京急蒲田処女小説文藝大賞にて大賞受賞。
http://twitter.com/hikohiko

栗田洋介
1981年生まれ。GRANDBASE inc.代表。ウェブ・デザイン、グラフィック・デザイン、CI/VI計画などのデザイン制作全般を中心にデザイン・ポータルサイト「CBCNET」やデザイン・カンファレンス「APMT」の企画・運営を行なう。その他にもデザイン・プロジェクトのディレクションやアーティストのコーディネーションなども広く手がける。
http://www.cbc-net.com/
http://www.grandbase.jp/

萩原俊矢
1984年生まれ。ウェブ・デザイナー。2012年、セミトランスペアレント・デザインを経てセミ・セリフ(http://semiserif.com)を設立。ウェブ・デザイン、ネット・アートの分野を中心に幅広く活動し、同時にデザインと編集の集団クックトゥ(http://cooked.jp)や、flapper3(http://flapper3.co.jp)としても活動している。CBCNETエディター。IDPW正式会員として第16回文化庁メディア芸術祭新人賞を受賞。
http://shunyahagiwara.com/

畠中実
ICC主任学芸員。

はじめに

畠中:今日は「「ポスト・インターネット」を考える(β)」というタイトルでお届けいたします。
 座談会の一回目に「「ポスト・インターネット」を読む」(http://bccks.jp/bcck/112370/info)という回がありました。そこで「「ポスト・インターネット」とは何か?」という話をしたわけですが、そこで何を“読んで”いたのかというと、今僕の隣にいらっしゃる水野勝仁さんが執筆されて、この展示会場内に掲示されている「ポスト・インターネットの質感」というテキストだったわけです。
 そこには現在のポスト・インターネット状況に関する考察が書かれていて、本展覧会は、その文章をサブ・テキストのように参照しつつ、展覧会企画を固めていったという経緯があります。
 そして今日は、そのテキストをお書きになった水野さんをお招きして、お話をうかがっていこうと考えています。またタイトルにあります“β”(ベータ)ですが、水野さんのテキストの中でも触れられているとおり、この「ポスト・インターネット」というコンセプトは、海外でも、もちろんこの展覧会においても「いったいそれは何だろうか?」ということが考えられているわけですが、何か確定した形での「ポスト・インターネット」という名称や定義づけがあるわけではなく、いまだ思考の途上にあるという事情があります。なので、いわゆる“β版”という意味合いをも含めて、話を進めていきたいということです。
 まずは、水野さんが書かれたテキストをもとに、最初の1時間ぐらいで「ポスト・インターネット」についての簡単なレクチャーをしていただき、後半は研究会メンバーを交えて「「ポスト・インターネット」とは何か?」をめぐる討議をしていきたいと思います。
 討議に参加する研究会メンバーは……かなり常連と化しつつありますが(笑)、萩原俊矢さん、栗田洋介さん、谷口暁彦さんのお三方です。それでは水野さんのレクチャーから始めましょう。よろしくお願いいたします。
水野:はい、学会のプレゼンとかと勝手が違って、ちょっと緊張していますが(笑)……よろしくお願いします。今、畠中さんからも補足説明をしてもらいましたが、本日のプレゼンのタイトルに“β”(ベータ)と入れたことについては、後ほど改めてお話しします。

A■レクチャー
「ポスト・インターネット」を考える(β):水野勝仁

A01|「リアル→インターネット」から
「リアル⇄インターネット」へ

 まずは「ポスト・インターネット」とは何のことなのか? 僕が考えはじめたのもつい最近のことですが、今まではリアルな世界からインターネットの世界へと、僕たちの持っている感覚を移そうとしていました。これは、インターネットだけの話ではなくて、インターフェイスなども、例えば「デスクトップ(机の上)」のような「メタファー」を使って、現実からコンピュータ画面の中に持っていった仕組みだったと思います。インターネットにおいても、ウェブ作成ソフトが「Internet Builder」とか呼ばれるように「メタファー」を使って、現実にあるものをどんどんインターネットのほうに移そうとしていた。技術的な制限もあって、そのすべてがうまくいったわけではないのですが、言葉とか頭の中では可能な限り移そうとしていたわけです。
 ところが気がついたら、インターネットの中に存在するものが、あるひとつのリアルな世界から移されたものではなくて、それ自体がリアリティを持つようになってしまった。そして、多くの人がそのことに気づきはじめたり、リアルなネットに“住んでいる”かのような状態になってくると、今度はインターネットからリアルのほうに、何かを“戻そう”というか“移そう”とするような流れが出てくる。その時には、いわゆる(先のデスクトップのような)「メタファー」は使えない。リアルとインターネットが同等の存在だと意識しはじめた中で、この二つのあいだを手探り状態で行き来しているのが、今の状況なのではないか。これが、まず最初に僕が思っている「ポスト・インターネット」の状況です。
 そして、いわゆる「インターネット・リアリティ」というものが、リアルな世界からネットの世界への“移行”だとすれば、「ポスト・インターネット」では、「リアル⇄インターネット」という双方向の矢印(⇄)でリアルとネットとが結ばれている。さらに、この二つの世界は、常にSYNC(同期)しようとしている。しかし、リアルも常に動いているし、インターネットも常に動いているので、同期しようとしてもどこかにズレが生じてきている。それが、今現在の状態なのではないかというのが、まず一番最初に指摘しておきたいことです。

A02|「ポスト・インターネット」の紹介

 今回のICCの企画展の中だと、参加アーティストの多くは基本的に日本人で「ポスト・インターネット」的状況に可能性を感じている作家が多いのですが、まずは海外で「Post Internet」に関連する人物を、最初にざっと紹介しておこうと思います。こういう作家たちは、作品履歴や資料もインターネット上にほぼ全部残しているので、それらを見ていこうと思います。
 まずは、ジーン・マクヒュー(Gene McHUGH)というアメリカの批評家がいます。2009年12月から翌10年9月までのあいだ、彼は「Post Internet」(http://122909a.com/)というブログを書いています。実は僕の関心もここからスタートしているわけですが(プロジェクターで、マクヒューのブログ画面を表示する)、英語で書いていますし、拡大表示してもここで読むことは困難ですが……この記事内で多くの作家が取り上げられていて、「「ポスト・インターネット」とは何か」ということを、ジーン・マクヒューが考えているブログです。
 たとえブログの内容までは読めなかったとしても、そこに出てくる作家名を辿ることで、どんなアーティストが「ポスト・インターネット」界隈にいるのか、概要を知ることができます。このブログはとても有用で、あとで書籍化もされています[*1]
 しかし、ブログにはなぜかリンクが一切貼られていないという、そこから情報を辿りたい読み手にとっては、とても面倒くさい作りになっています。インターネットといえば参照リンクが必ずあるはずですが、ここにはリンクは一切ない。ここまでくると、意図的にそうしているのだと思います。
 彼はここで「「ポスト・インターネット」とは何か」ということを論じているわけですが、最初のほうで「ポスト・インターネット・アートはインターネット・ワールドから離れていっている」と指摘しています[*2]。もともとのインターネット・アート=ネット・アートなるものは、インターネット・ワールドの中でやっていたのだけれど、徐々にそこから離れていって、インターネット内のカルチャーというよりも、コンテンポラリー・アート(アート・ワールド・アート)になっている、ということを書いています。ジーン・マクヒューをはじめとした海外の作家や評論家たちには、常に「ネットに軸足を置いて作品を作りながら、どこかでコンテンポラリー・アートへの意識が頭のどこかにある」のが、日本の状況との違いとして面白いと思います。

A03|「ポスト・インターネット」について語るときに可能な4つの方法

 同ブログの、2009年12月30日の投稿(http://122909a.com/?p=62)では「Four ways that one can talk about “Post Internet”」、つまり「「ポスト・インターネット」について語るときに可能な4つの方法」が書いてあります。実はこのブログが書籍化された際には、これが4つから5つに増えまして、どちらが正しいのかはわかりません。ちなみにここでの「*3」が、ジーン・マクヒュー自身の見解だと言われています。まずはその「4つの方法」を個別に見ていきましょう。

*1:WWW以後のニュー・メディア・アート
 これはとても広い感じ、ざっくりとした定義ですね。

*2:マリサ・オルソン(Marisa OLSON)の定義:インターネットを使用した後に作られたアート
 このマリサ・オルソンについては、後で説明します。

*3:インターネットが陳腐なものになった状況に反応しているアート
 こちらがジーン・マクヒュー自身の見解。彼自身は「誰もがインターネットを自由に使えるようになってしまった、そういう状況に反応しているアートが「ポスト・インターネット・アート」なのではないか、と。

*4:ガスリー・ロナガン(Guthrie LONERGAN)が言っているように、イメージがオブジェクトよりも広がっていく
 今、この座談会会場の後方にも展示作品がありますが、そういった光景をドキュメントとして写真に撮ったりしてネット空間に上げると、そのイメージのほうが作品自体よりも流通していく、というようなもの。それが「インターネットを意識した」アート=「ポスト・インターネット・アート」なのではないか、と。

 ひとつ面白いのは、最初にこの記事をマクヒューがブログに上げたとき、トム・ムーディ(Tom MOODY)という「ポスト・インターネット・アート」を語る時に必ず出てくるアーティストが、マクヒューに対して「君の言っていることは間違ってるよ」とコメント欄で指摘したんですね。それに対してマクヒューは「ありがとう。エラーは直していくよ」と言って、修正したりしています(http://122909a.com/?p=62#comments)。そもそもブログ記事だし、指摘されたら訂正していくみたいなところも、先ほどの“β”の話に近い気がします。どこかで止まってしまうわけではなくて、考え方も修正して、より良いものにアップデートしていくんだ、という姿勢です。

A04|「ポスト・インターネット」と言い出した人物、マリサ・オルソン

Marisa OLSON《Golden Oldies》
http://www.youtube.com/watch?v=kb8CMI6JANM

 先ほどの4つの中の「*2」に出てきた、「ポスト・インターネット」という言葉を最初に言い出したのが、1977年生まれのマリサ・オルソン(http://www.marisaolson.com/)です。わざわざ生年を入れたのは——先ほどのジーン・マクヒューの生年はわからなかったのですが、こうした生年から、世代というか、だいたい何歳ぐらいでインターネットに初めて触れたかがわかるので、その辺からアプローチしてみたい、ということでもあります。
 マリサ・オルソンが生まれた1977年は僕の生年でもありますので、同年代ということになります。彼女は黄金にペイントしたカセット・テープの作品などを制作しています[*3]。廃れていくガジェットなどを作品として提示するということをやっている作家で、黄金にしたガジェットを壊したりする動画を、YouTubeに上げたりもしています[*4]。あと、消えゆくガジェットを表示させたディスプレイの上に紙を載せて、その形態をトレースした作品を作って、それらをFlickrなどに上げたりしています[*5]
 オルソンは作品制作のプロセスの中で、Googleの画像検索サーヴィスを使っているのですが、その使い方が最先端なわけではなく、「ただそこにあるものを使っている」というわけです。こういったネットを普通に使う、つまり、ジーン・マクヒューが言っていたような「陳腐になってしまった」ものとしてインターネットを用いているアーティストです。そんな彼女が「ポスト・インターネット」という言葉を、あるインタヴューで初めて口にしたんですね。「インターネットというものはすでに大勢の人が使っているし、そこではオンラインとかオフラインといった区別は、もはやないだろう」という状況を「ポスト・インターネット」と名づけた。なので、先ほどの作品のように、ただ単にディスプレイに映った形をトレースして引き写すのも、インターネット・アートと言えるのではないか、と言っているわけです。彼女はまた「ネットにつながっていなくても、私たちはすでにインターネットの影響を受けている」とも言ってます。先ほどの作品もGoogleの画像検索を使っていましたが、インターネットはもう日常生活の中に入り込んでいるものだから、僕たちの考え方の一部になってしまっている、ということを強調している人です。
 このマリサ・オルソンという人は、アーティストであり、批評家・キュレーターでもあるという、何でもできてしまうような人です。「ポスト・インターネット」の動向の中で面白いのは、批評家やキュレーターを専門とする人があまり出てこないことです。アーティストの中で、ある人は少し長めの文章を書いて批評家のようになり、またある人は、Facebookなどで仲間を募ってグループ展をキュレーションしたりします。別にFacebookを使わなくても、日本の作家でも自然とつながってグループ展などをやっていくのかもしれませんが、こうやってアーティストでありつつ、自らが概念を提示したり、賛同者を募ってグループ展をやって、その概念を確かめることをやり続けているわけです。ただ、先ほどのジーン・マクヒューだけはちょっと特異な人で、彼だけは批評家として「外側」から入ってきている、面白い存在です。
 では、「なぜそうなるのか?」というと、今までのメディア・アートとかでも言われてきましたが、そうした何らかの技術と結びついたアート=「New Media Art」と言われている分野には、アーティストがいて、そこに寄ってきて何らかの概念を考えるような学者や批評家も多く、日本も含め、ヨーロッパやアメリカにもいる。そして、「ニュー・メディア・スタディーズ」とか、そうした関連の学問もいっぱいあります。そこでは何か新しい技術として「ニュー」という言葉が頭についているのですが、「ニュー」が取れてしまった後、目新しさがない中で活動を続けていくところで、今までのメディア・アートとは違う新しい領域を作るために、学者とかが入り込んでこない段階で、自分たち自身で批評などを書いているのではないか、と思います。
 また、アーティスト同士がSNSなどを介して次々につながっていく「「つながり」の発生」という現象は、「ポスト・インターネット」という状況に意識的なアーティストにはあたりまえのことになっています。インターネット界隈の言葉をみると、今やSNSなどで簡単につながれることはあたりまえのように言われていますが、そういった状況に彼らはいるわけです。だから、先ほどのキュレーターみたいな役割も、アーティスト自身が自然に果たしてしまうのではないかと思います。

A05|「つながり」から「ポスト・インターネット」を考える2つのテキスト

A05-1●「From Clubs to Affinity: The Decentralization of Art on the Internet」

 1番目のテキストが「From Clubs to Affinity: The Decentralization of Art on the Internet」[*6]という英文で、タイトルを無理矢理日本語に置き換えると「クラブから「好み」によるつながりへ:インターネットにおけるアートの脱中心化」となります。ここでの「好み」というのは、もしかすると「いいね!」ということかもしれませんが、著者はブラッド・トロメル(Brad TROEMEL)というアーティストです。

 このテキストの中で、トロメルは「インターネット・アートにおける三つの段階」ということを言っています。最初はネット・アートと言われているもので、ここだと

*1:リアルな世界にいるアイデンティティを否定するようなもの
 JODI.orgなどが挙げられています。この「リアルのアイデンティの否定」というのは、例えば実名で活動しないなども含まれています。他のインターネットの本を読んでみると、初期のネット・アートというのは、ネットそのものの構造を逆手に取って、多くの作品が作られていた。普通にブラウザで見ているときは意味がわからなくても、ソースコードを見ると、「ロケット」みたいなものが描かれている作品だったりする。このように「ネットそのものを考える」という部分で、現実との断絶を考えているようです。
 その後に来る段階が、

*2:メンバー間の承認を求める
 こちらの例としては「nasty nets」(http://nastynets.com/)などが挙げられています。今、萩原さんがうなずかれたように、彼は僕よりも詳しいと思います。このnasty netsは、僕は名前だけ知っているような状態ですが、掲示板みたいな形で何人か(10、20人ぐらい)のメンバーによって画像が投稿され、それにコメントを加えていくというものです。仲間の中での承認を求めていく段階ですね。だから不特定多数ではなくて、ひとつのクラブみたいになっている。もしかしたら、「お絵描き掲示板」とかがこれに近いのかもしれないなと、先日の座談会(http://bccks.jp/bcck/116015/info)を見ながら思ったわけです。じゃあ、今の段階はどうなのかというと、

*3:(TumblrやFacebookなど、Web2.0のプラットフォームにおける)「リブログ/いいね!」による承認
 という段階になっている。ここでは、承認をしてくれる相手は不特定多数です。誰がリブログしてくれるか、あるいは「いいね!」を押してくれるかわからないけれど、作品を出して、それがリブログや「いいね!」で承認されなければその存在自体が認められない、というような段階になってきているということです。

 おさらいしますと、最初は現実世界のアイデンティティを否定していたが、次は小さなサークルのメンバー間で承認を求めて、そのグループの中でのアイデンティティを求めた。そして、今度は、FacebookやTumblrなどのプラットフォーム上で、アイデンティティの承認を求めるような状況になってきた、というこの変化に基づいて、「特定のクラブから「いいね!」やリブログによるつながり」に移行しているのではないか、ということです。
 このテキストの中には、もうあまり使われなくなった「Web 2.0」という言葉が使われていたりするのですが、Web 2.0 のアーティストは、リブログとか「いいね!」を表明することで、他の人の作品などを自分のブログやTumblrに入れてしまうわけですね。そうしたことを繰り返していると、それがある種の作品になっていったりもする。というわけで「「見る/作る」の境界がなくなってきている」という指摘も、トロメルはしています。また「(見る/作るの)どちらも、他の作家とのコミュニケーションになっている」ということも言っています。

A05-2●「Club Kids: The Social Life of Artists on Facebook」

 2番目のテキストが「Club Kids: The Social Life of Artists on Facebook」(http://dismagazine.com/discussion/29786/club-kids-the-social-life-of-artists-on-facebook/)というタイトルで、こちらも日本語に訳しますと「クラブ・キッズ:Facebookにおけるアーティストのソーシャル・ライフ」となります。こちらのテキストは、先ほども出たブラッド・トロメルと、アーティ・ヴィアーカント(Artie VIERKANT)、ベン・ヴィッカーズ(Ben VICKERS)という3人のアーティストによって書かれています。アーティ・ヴィアーカントについては後ほど改めてご紹介しますが、このテキスト、書き方自体が非常に面白くて、書かれているところごとに色が違うんですね。ところどころ、文字に線が引っ張ってあったりもする。何で色が違うのか、読みにくいなぁ……と思うわけですが、改めて見ていくと、この3人にそれぞれ色が割り振られていて、つまり、ひとつのテキストを3人で書いているわけですね。さらに2人の連名で書いたりもしている。
 最初にトロメルが書いたとしたら、それにヴィアーカントがつけ足したりしている。さらに「これは違うだろ」みたいな感じで、後から消されたりもしている。ここでは「ひとりで(テキストを)書く」ということが放棄されていて、みんなでワイワイ書いているわけです。実際に読んでみると、僕は日本人ですので、この英文の細かいニュアンスの差異まではわからず、ひとりの人が書いているようにしか思えないのですが、実際には何人かで書いているという試みをしています。
 本日のこの座談会を、実際の会場に来て聴講されている方も、Ustream画面で観ている方もいらっしゃるでしょうが、このテキストも、インターネットの出現以降、Facebookとかができてしまって、作品との接し方が決定的に変わってしまったということを言っているわけです。「作品の実物を観ることが一番だ」という序列ももうなくなってきている、と。アーティストにとって、今までは作品を作りそれをギャラリーに展示し、来場者とつながりを持って、鑑賞者=ファンを得る、ということだったが、近頃は、作品を作る前からネット上で活動していて、そこで友達を作るとか、リブログによってTumblrで評判を高めるなど、あらかじめ自分のファンみたいなものを増やしてから作品を作ってしまう、ということが行なわれている。だから作品自体よりも、Facebookの友達とか、Tumblrが無限の展示空間になっている、ということを言っている文章です。
 「ただ、そこでひとつ注意しないといけないのは……」と言っているのは、そこではたしかに「いいね!」がついたりするわけですが、それって何に対しても「いいね!」って言うわけですね(笑)。テキスト内では「作品に対しての「いいね!」が、チキンナゲットに対しての「いいね!」と同じ価値かもしれない」と書いてあります。なので、その「いいね!」の数が、作品の評価を正確に表わしているのかどうかは慎重に考えないといけない、とも書いてあります。

A06|もしかしたら「つながり」はGIFの質感なのかもしれない

 ここからはちょっと突飛なつながりかもしれませんが、「GIF」について考えていきたいと思います。「つながりを持つ」ことは、ネット自体の構造でもあります。ハイパーテキストもそうですし、それは何か連想したものをくっつけていくというものです。ネット上では、これまで結びつくことがなかったものが、突如つながったりします。そして、面白いことに、「ポスト・インターネット」のことを調べていくと、だいたい「GIF」のことが出てきます。
 GIF(Graphics Interchange Format)とは何か? Wikipediaに行って調べてみてもよくわからないのですが、そこにはこういうふうに書いてあります。それはひとつの圧縮画像のフォーマットなわけです。


GIFは256色以下の画像を扱うことができる可逆圧縮形式のファイル・フォーマットである。圧縮画像ファイル・フォーマットでは歴史の長いもののひとつで、WebブラウザではJPEGと並んで標準的にサポートされる。圧縮形式の特性上、同一色が連続する画像の圧縮率が高くなるため、イラストやボタン画像など、使用色数の少ない画像への使用に適している。
——Graphic Interchange Format – Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/wiki/Graphics_Interchange_Format)

 ……といったことが書かれています。また、複数の画像を使ったGIFアニメーションという動画的な表現も可能です。GIFフォーマット自体は一時期、特許絡みの問題で、オープン・フォーマットになるかどうかが微妙でしたが、今ではオープンになっています。
 では、なぜいきなり「つながり」から画像形式に関しての話になるかというと、主には先ほどふれた「GIFアニメーション」についてなのですが、ポスト・インターネット界隈の多くの人がGIFアニメのことを論述するんですね。「そもそもインターネットとは?」とかそういった大きい問題設定じゃなくて、「GIFアニメとは?」みたいなことを多くの人が議論しているわけです。なので、もちろんインターネット自体が「つながり」を作っているのですが、もしかすると「GIF」というファイル自体も「つながり」を作る力を持つのではないかということを、一度考えてみたいのです。
 ちなみに、先ほど引き合いに出したトム・ムーディは「GIFはインターネット・ネイティヴなメディアだ」と言っています。実際に彼が書いた論文を読んでみると、彼も主に「GIFアニメ」のことを言っています。トムは1965年生まれなので、今回取り上げている他の作家よりよりも少し上の世代ですね。このようにネットで調べてみると、GIFアニメーションがすごく論述の対象になっていたりするわけです。どうやって論述したらいいのかよくわからないようなところも実際あるのですが……(笑)。

A07|「GIFアニメーションの情動」

 さらにそういったGIFアニメーションの特徴について、サリー・マッケイ(Sally McKAY)という人が「The Affect of Animated GIFs (Tom MOODY, Petra CORTRIGHT, Lorna MILLS)」(GIFアニメーションの情動)という文章を書いています。そこでは、トム・ムーディとペトラ・コートライト、ローナ・ミルズの3人のアーティストが作ったGIFアニメが取り上げられています。GIFアニメを作るような人たちは何か強い作家性のようなものを求めているわけではない、と書かれています。Tumblrでリブログされ、流れていったりするので、そのあいだに「自分が作ったよ!」という(著作権ではないですが)作者自身の名前が落ちてしまうこともままある、と指摘されています。作家名がなくなっても、ネット上を流れていくんだったらいい、ということがあって、ある意味、そこでは作家性というものがなくなっているのでは、と。
 それで、トム・ムーディはそのことを面白がっているわけです。これは2008年にニューヨークのニュー・ミュージアムで開催された「ネット美学2.0(Net Aesthetics 2.0)」というパネル[*7]の記録映像です。トム・ムーディ自身が作ったGIFアニメーションが、Tumblrその他、色々なところに伝播してゆき、様々なところで使われる。ムーディの展示はもちろん、誰か見知らぬ人のホームページの壁紙にキャプチャされた画像が使われたりしています。その時、トム・ムーディという名前はどこにも入っていないわけですが、彼は自分のGIFアニメが勝手に使われているページを探しては(60個くらいになると思いますが)スクリーン・ショットを撮って、それらを貼り出して自分で展示したりしています。「自分の作品なんだから勝手に使うな!」と怒るのではなくて、使われ、流れていく中で、それをまた別の自分の作品にしてしまうわけです。この場合、自分のモノとしていったん回収しているわけですが、一方では(先ほども触れたように)「ネットを流れていくからいいかなぁ」という感じもあるわけです。
 ムーディの例のように、Tumblrなどで画像が流れていくことで作品が注目を集めているわけなので、マッケイは「貨幣」という言葉で作品を説明しようとします。ひとりではなくて、みんなで使うことで「貨幣」のようにネットを流通していくような性格を、GIFというファイル形式は持っているのではないか、ということです。
 では、どうしてサリー・マッケイ自身はGIFがネット上の「精神」みたいなものを表わしていると言っているかというと、そこにはレフ・マノヴィッチ(Lev MANOVICH)という人の影響があります。マノヴィッチはニュー・メディアと言われている領域でよく言及されるアメリカの理論家です。彼が「私たちが使っているコンピュータなどのインタラクションというのは、私たちの内面が外に反映されたものとして出てきたものだ」ということを書いているのですね。それはインターフェイスに限らず、例えば映画のようなメディアも「個人の夢をスクリーンに投影する」みたいなことで「中のものを外に出していく」わけです。しかし、映画だと決められた流れでしかないので、コンピュータのインターフェイスというのは、僕たちの精神性をより物質化して見せてくれる、ということをマノヴィッチは言っているわけです。

A08|GIF的無意識

 マノヴィッチを受けてマッケイは、実は「GIF」自体が、私たちが「つながりたい」と願う、そうした部分のひとつの現われなのではないか、ということを結論に書くわけです。多くの人は「そんな突拍子もないことを!」と思われるでしょうが、僕はそういうのが好きなので、とても共感するわけです。
 ヴァルター・ベンヤミンというドイツの思想家がいまして、映画とかが出てきた時代に彼が「視覚的無意識」という言葉を言っていましたが、わかりやすく説明すれば「僕たちが今まで見えていたけれど、意識的には見ることができなかったものを、映画とか写真とかは見せてくれる」というようなことです。
 そうなってくると、GIFというファイル形式も何かを無意識的に作りあげている、というようなことを考えてみてもいいのかな、ということです。どうしてかというと、さっきも言ったように、トム・ムーディが「GIFはインターネット・ネイティヴ・メディアだ」と言っているように、ネットのネイティヴなメディアは、映画でもテレビでもないわけですね。僕たちが画像として観ている映画とかは、ちらつきがないように、人間の知覚能力に合わせて1秒間に24コマが映されたり、テレビ画面も走査線の変わるレートが決められているのに対して、GIFは先ほど見ていただいたように、ガシャガシャしている。GIFという形式が作られたのは、ネットとかコンピュータの能力が今よりも全然低い時代のものなので、今見ると「もうちょっとなめらかに動いてほしいなぁ」なんてことがあったりするわけです。
 このように、GIFの形式が使用色256色以下とかに決定づけられているのは、人間の知覚や認識の能力に合わせられているのではなくて、少しスペックが低かった頃のコンピュータの能力に合わせて決められているのが面白いと思います。人ではないところに中心が置かれているのが、とても面白いわけです。ベンヤミンの「視覚的無意識」は「それまでの人間も見ていたけれど、まだまだよく見えなかったところを、機械がよく見せてくれる」ということで、結局は人間のところに戻ってくるわけです。しかし、GIFの場合、人間もそこにいるけれど、もうひとつコンピュータというものがそこにあって、人間のためだけなくコンピュータの情報処理のためでもあるという意味で、「中心」が人間からコンピュータに少し移っている画像としてGIFを考えてみると面白いかなぁ、と私は考えています。
 さっき言った、少しシャギシャギしたGIFの感じをそのまま受けいれていく中で、今までと違った感覚が「ポスト・インターネット」と呼ばれている作家たちの中で生み出されてきて、「(作家の)名前が消えちゃってもいいや」とか、そういう部分とも関係して、そうした流れを組みあげるものとして、例えばTumblrとか、そういったアーキテクチャが出てきたのかもしれない、ということです。ここは単なる仮説ですが、自分の中では、かなり考えてみたいところでもあります。

A09|GIFとJPEGどっちが硬い?
──Webの質感と〈インターネット・リアリティ〉

 もうひとつ、「GIF」を考えた文章として挙げられるのが,インターネット・リアリティ研究会の始まりの座談会です。そこに「GIFとJPEGどっちが硬い?──Webの質感と〈インターネット・リアリティ〉」という一節(http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2012/Internet_Reality/document1_j.html#cap02)があります。そこで、エキソニモの千房さんが「GIFとJPEGはどっちが硬いと思うか?」という問いを出すわけですね。
 千房さんはそこで「もう15年も(エキソニモの)活動歴が長くなって」みたいなことをおっしゃっていたのですが、僕たちはすでに「15年」もインターネットと向き合ってきたわけです。作品を作るにせよ、ウェブ関係の仕事をしていたり、もしくはもっと一般的に、ただ単にネットを見ているだけなど、色々な立場の人がいますが、等しく「15年」の歳月が経っているわけです。それだけ長い年月が経ってくると、今まで考えなかったようなことも考えられるのではないか、と言っていた時に出てきた質問が「GIFとJPEGどっちが硬い?」でした。
 当日のやり取りをテキストに沿ってみていくと、インターネット・リアリティ研究会のひとりである渡邉朋也さんが、APMT[*8]の会場で「GIFとJPEG、どっちが硬いか」を実際に聞いてもらったところ、大した差が出なかったと指摘します。それを受けて、千房さんが「画像の形式に硬さなんかないわけですよ、本当は」と言いつつ「でも、「どっちが硬いか?」って聞かれたら、確実にGIFのほうが硬いって言える」っていう、そういう感覚がある」というわけです。畠中さんはそれに対して「どうしてですか?」と訊くのですが、栗田さんは「ふつうに、「うん」ってうなずける感覚があるんです」と言い、横の谷口さんも「うなずける感じですよね」と言い、畠中さんは「えっ本当(笑)?」と。youpyさんに至っては「JPEGはぬめっとしてる……感じがします」とまで言っています。
 僕もどちらかというと、「えっ本当?」という畠中さんの感覚に近いんですが……でも、「GIFのほうが硬い」という感覚がどうやら実際にあるようだ、というのはわかるし、あってほしいとも思うんですね。
 今、この話を聞いているみなさんの中でも「そうそう!」とうなずける人もいれば「本当かよ!」という人もいるかもしれない。けれど、そこがまた面白いところで、これがみんなうなずけるようになったら問題にはならないわけで、もしかしたらインターネットと長いあいだ向かい合う中で生まれてきた「出始めの感覚」みたいなものがあるのではないか。それまでインターネットやコンピュータとは無縁に生きてきた人類が、ここ15年、20年と経ってきて、そうしたものが一般的に使われるようになってきた中で、今までは「硬い/柔らかい」といった質感として語られていなかったものに対して、そういった感覚を見出せるような人が現われてきている。それ自体が面白いことなのではないか、と思うわけです。「こういう人たちがいる」ということは、もしかしたら今では、脳科学とかを用いて科学的に実証できなくてはいけないと言われるかもしれないけれど、そういうことではなくて、GIF画像に対して「硬い」という言葉を与えてしまえること。そこが考えるべきことであって、実証は後ですればいいのではないでしょうか。このような言葉と現象のつながり面白がりながら、そこを真面目に考えてみると、今後そこから興味深いことが出てくるのではないでしょうか。
 先ほどのトム・ムーディは、GIF自体にはシャギシャギした感じがあるから、自分の展覧会の際、DVDに焼くために「GIFをMPEGに変換したら、その特質が損なわれるからどうしようか」ということを本気で悩んでいました。アーティストだったら、自分の作った作品のクオリティ・質感が損なわれるというのは、とても悩ましいところだと思います。先ほども言ったように、GIFというのはフルカラー表示ではなくて、256(2^8)色表示など、ヒトの認識に合わせたというよりは、その当時のスペックのコンピュータの処理能力に合わせたものです。だからこそ、そこに新しい感覚が生じる可能性があるわけです。だとすると、youpyさんが「JPEGはぬめっとしてる感じがする」と言ったのも、JPEGは「フルカラー」表示が可能だということと関係があるのかもしれない。現在は、GIFやJPEGに今ある言葉を合わせているだけなので、これらの画像形式と言葉のマッチングから、そこでの感覚をもっと細かく開いていくことを考えないといけないのかもしれません。

A10|脱ヒト中心主義/脱ヒト化

 この展覧会に誘っていただいた最初の頃、畠中さんから「脱・人間」という話題もいただいていていました。ちょうどその時、畠中さんが考えられていたことと僕の考えでは、必ずしも同じではないかもしれませんが、僕も「脱ヒト」ということを考えていました。今まではヒト中心に考えてきたものを、コンピュータとともにあるGIFファイルのようなものを手がかりにすると、中心をちょっとズラして考えることができるのではないか、と。例えば、Twitterには、140文字以内という縛りがついたりしている。それに慣れてしまえば、言い換えればヒトの内面をシステムの都合に合わせてしまえば、コミュニケーションが可能になるわけだけれど、最初は「なんでそうなの?」っていうことになるわけですよね。でも、一度システムのほうに合わせてしまえば、あとは問題なく、そのシステムに合わせた感覚が生じたりします。
 以前行なわれたエキソニモのアーティスト・トーク(http://bccks.jp/bcck/112539/info)でも話題にのぼった《断末魔ウス》(2007)という作品がありまして、マウスを物理的に破壊した時の映像とその時のカーソルの動きを同時に記録して、その動画を再生するとカーソルの動きまで再現される作品なのですが、そこでもカーソルというものに哀れみを感じてしまうようなことが行なわれている。何かヒトではないものに対して、ヒト的な感情を持ったりすることが行なわれていたりするわけですね。
 あと、youpyさんの《Your photos' photostream》(http://www.flickr.com/photos/youpy/)という作品は、RGBのそれぞれのRed、Green、Blueの値をひとつずつ上げてゆくことで表示される、別の色のファイルを全部ネット上のFlickrにアップしていく試みです。これはアップされた画像ファイルごとに色が全部違っている、ということですよね。でも僕たちはその違いがすぐにはわからない……いや、256×256×256=約1600万色、フルカラーという、とてつもない色の差異を識別できる人が今後出てくるかもしれないけれど、今はこれを見ていても違いはほとんどわからないですよね(笑)。そもそも、こういった作品を作ろうという姿勢が、とても面白い。フルカラーの値をひとつずつ上げていって、違う色データのファイルを無数にアップするのだけれど、人間のほうはそれらの違いを識別できない、ということが行なわれているわけです。
 この、「脱ヒト」とか「脱・人間」という部分は、海外ではあまり考えられていないような側面です。日本独自というわけではないですが、面白い出来事だったりもします。

A11|インターネット→インフラ(水平軸+垂直軸)

 インターネットというのは、われわれのインフラとしてすっかり定着しているわけですが、アレクサンダー・ギャロウェイ(Alexander GALLOWAY)という人がいて、彼はニューヨーク大学のメディア論の先生ですが、調べてみたら2002年のアルス・エレクトロニカで(《Carnivore》(2002)というソフトウェアの作品で)金賞を取ったりもしてもいます。今のインターネット社会を、ドゥルーズなどを使って読み解くようなことをやっている人物が、ソフトウェアの分野にも精通しているところが面白いし、それが「ポスト・インターネット」的状況なのだと思います。
 ギャロウェイは『Protocol』[*9]という本を出しています。通信におけるプロトコルとは、ネットワークを介してコンピュータ同士が通信を行なううえで相互に決められた約束事のことですが、インターネット接続の標準方式では、TCP/IPとかが有名ですね。この著書の中でギャロウェイは「脱中心化した後の「支配」はどのように存在するのか」ということをテーマとして挙げています。著書の中で、インターネットは非常に自由(例:TCP/IP=インターネット上で通信を行なう際のプロトコル|水平軸)でありながら、それだけだと人間が対応できないから、秩序(例:DNS=ドメイン・ネーム・サーバ、適当なIPにドメインを与えるシステム|垂直軸)を与えている、というようなことを言っているわけですね。
 よくよく考えてみれば、世の中はまさに自由と秩序が入り交じっているわけですが、とくにインターネットというものは途轍もなく自由な方向に行きながら、そこに秩序も与えられている、ということです。それらが「水平軸」であり「垂直軸」だと言われているわけですが、よく扱われるTumblrやニコニコ動画など「アーキテクチャ」と言われる部分はネット上の「垂直軸」として、ある種の秩序を与えているのではないか、と思われるわけです。かたや先ほどから取り上げているGIFやJPEGみたいな画像形式は、その中を自由に流れていくメディアとかマテリアルと呼ばれるものに近いのかもしれず、それが「水平軸」になるのではないか。
 「インターネットとは何か」とか、新聞やテレビといった既存のメディアと比較した「インターネット論」は多く語られてきたし、Tumblrとかニコニコ動画のようなアーキテクチャと言われている部分も、濱野智史さんを筆頭にこれまでに多数論じられてきたと思うのですが、GIFやJPEGについては、まだあまり論じられていない。この「あまり論じられていない」という場合、そこに新しさを見出すのか、ただ単に「需要がない」からだということもあるのですが(笑)、とにかくまだ「論じられていない」けれど、海外のポスト・インターネットについて調べていくと、そういうことに着目している人たちが多数いるというのは、これまた面白いことではないかと思います。
 結局、GIFというのはTumblrなどに吸い上げられてしまうもので、アーキテクチャの話に落ち着いてきてしまうのではないか、またはインターネット内のハイパーテキスト的なつながりを言ってしまえば、それ一発ですむのではないかという話もあるのですが、でもそこで、あえて「GIF」に注目してみると面白いと思うわけです。「GIF」から考えてみると、今までとほんのちょっと違った感覚を持っている人たちが、作品制作をしはじめているような状況が掴める感じがします。

A12|イメージ・オブジェクト

 次のコリー・アーカンジェル(Cory ARCANGEL)の「猫が20世紀の前衛音楽を弾く」動画《Drei Klavierstücke op. 11》、これは後で時間があったら改めてご紹介しますのでいったん飛ばしまして……。
 もうひとつの「イメージ・オブジェクト」という話題ですが、これが先ほどから何度も名前が出てきた、アーティ・ヴィアーカントという1986年生まれのアーティストが言っていることです。アーティは、作品自体もとてもチャレンジングというか、もしかしたら少し「頭でっかち」なのかもしれないけれど、色々な挑戦をしている人物です。今「頭でっかち」と言ったのは、彼もまた、自分でテキストも書いている人なんですね。それで、過去の「ポスト・インターネット会議」で谷口研究員が、この「イメージ・オブジェクト」について端的に説明していただいたくだりがあったので、改めてここで引用しておきますと「「イメージ・オブジェクト」は実際に展示会場の壁面に設置されたレリーフ状の彫刻と、それを撮影し、画像編集ソフトで編集/改変したいくつかの画像のバリエーションから構成される作品だ」と。
 アーティは、こういう作品を作っています(プロジェクターで作品の展示光景を見せる)。実際の作品は彫刻というか、物質で立体彫刻を作っておいて、それを撮影して、その撮影した画像をPhotoshopのスタンプ機能や修復ツールなどを使って加工して、さらにそれを展示してしまう……と。もともとは彫刻という物質的なものなのだけれど、それを写真に撮ってイメージにして、さらにその画像に加工を加えて再発表する。普通なら、そもそもの彫刻が作品として一番という位置づけなのでしょうが、ここでは加工した画像なども、ひとつの作品として扱っているわけです。そして、アーティはこのプロセス全体を「イメージ・オブジェクト」と言っているわけです。つまり、今までが物質=マテリアルな部分が一番だったのに対して、ネット上だとイメージに関しても多くのバリエーションが出てきて、それらが広がっていくわけで、そちらも(もとの作品=オブジェクトと)同等のものとして扱う、といったことですね。

A13|「* new jpegs *」展

 そしてこのアーティ・ヴィアーカントも、本展覧会の出品作家でもあるパーカー・イトーも出品した「* new jpegs *」(http://www.johanberggren.com/past/11-07-newjpegs.html)という展覧会が2011年7月23日から8月20日まで、スウェーデンの「ヨハン・ベグレン・ギャラリー(JOHAN BERGGREN GALLERY)」で開かれました。ギャラリーのページにはその展示風景がアップされています。この「* new jpegs *」に限らず、今はどんなギャラリーでも、展示作品をできるだけ良い状態で撮影し、ネットに画像を載せるのがあたりまえですが、「* new jpegs *」も、ここまでで終わっていたら、普通の展覧会なわけです。彼らの新しさは、作品を撮影したものを改変して、Tumblrに上げたことにある。さらに「改変していいよ」という形で画像をダウンロードできるようにした。すると、Tumblrには作家以外の人が改変した画像も上げられていく。このように、自分の絵を自分でも改変するし、他のヒトが改変して、再びネットにアップすることも「許して」いる。というか、彼らはこのように作品のイメージを循環させることを念頭に置いて、作品を作っているわけです。
 同展覧会のプレスリリースには「メディアのあいだの差異をヒョイとまたいで活動しているポスト・メディウム世代」と書かれていますが、彼らの世代……1980年代に生まれた世代ですね。彼らはインターネットとリアルをつなぎながら、展示を組み立てている。ここでひとつ問題提起をしたいのは、なぜ「new jpegs」で「new gifs」ではないのか? という部分ですね。
 もうひとつには、展示空間のこと。今ここで写真を見るとそれなりに期待させるのですが、実際にはそこまで面白い空間ではない、というか、だいたいのギャラリー展示は、ICCのように天井が高くて空間がしっかりとしているわけではなく、普通のホワイト・キューブの空間の中に作品が展示されているわけです。なので、ここのギャラリーでの紹介画像もそうですが、静止画像が一番きれいに見えて、実際に観に行くと「あれっ?」と思ってしまうところもある。でもこの場合は、ギャラリーに来た人は、パンフレットやリーフレットのどこかに「ネットにもつながっているよ」という案内を見て、たぶんネットのほうもあとで観に行ったりするのでしょう。

A14|「* new jpegs *」展と「[インターネット アート これから]」展

 次に、この「* new jpegs *」と、今回の「[インターネット アート これから]」展を比較して考えてみます。「* new jpegs*」は、あの直接的な空間の中で、ネットとリアルをイメージが循環していくわけですが……やや余談になりますが、これはこちらに来る新幹線の中で見つけたのですが、昔、藤幡正樹さんが『アートとコンピュータ:新しい美術の射程』という著書の中で「四次元からの投影物」と言っていた一節がありました[*10]。「僕たちが現実世界にあるものは、四次元……もうひとつ次元が上のところからの、ひとつのスライスでしかない」といった発想の、いわばネットを使ったうまいやり方が「* new jpegs *」なのではないでしょうか。もしかするとそれはとても陳腐なやり方なのかもしれないけれど、ひとつ興味深い部分だとは思われます。
 では、「[インターネット アート これから]」展に、イメージ・オブジェクトみたいなものがあるかといわれると、あそこにある谷口暁彦さん(1983–)の作品《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのか分からなくなる》(2010)が示している、イメージなんだけれど、同時に何かの機能を持ってしまっているという部分が近いかなと思います。谷口さんの作品はネットとリアルを循環しているわけではないけれど、僕たちがコンピュータを使っている時に見るカーソルとかボタンは単なるイメージでしかないけど、同時にある種の機能を持っているということに近い。これは、アーティ・ヴィアーカントの言っている「イメージ・オブジェクト」の意味からはズレてるかもしれないけれど、「イメージ」に新しい機能を持たせて「モノ」として機能させるというような感じで、イメージが「直接的」に機能をもつ、そのような新しいイメージが出てきているのではないかと考えています。一番わかりやすいのは、モノとしてのコンピュータの再起動が、イメージの組み合わせでできてしまうことです。コンピュータの再起動が「コンピュータをリスタートする」ということを示すイメージと、カーソルを組み合わせるとできてしまう。これもまた違う意味での「イメージ・オブジェクト」なのかな、と思います。
 「* new jpegs *」展と「[インターネット アート これから]」展の比較に戻ります。内覧会のときにやった座談会(http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2012/Internet_Reality/document2_j.html)で、「やっぱり、今回こうやって難しかったのは、空間という条件ですね」と畠中さんが言ってて「だから今回のセレクションはそういう意味でほんとに空間性をちゃんと持っている作品」に限っている、と千房さんが言う。この言葉から今回の展示を見てみると、「* new jpegs *」展に空間性がないかというと、そうでもないのですが、ここ(ICC)での展示風景を見ていただくとわかるように、奥まったところにも別の展示があったりして、空間構成が豊かというか、実にうまく使われている部分が「* new jpegs *」展と「[インターネット アート これから]」展の違いではないかと思います。
 「空間性」への意識というのは重要な点だと考えられます。これまでは、デスクトップとかブラウザといったものの中にリアルな空間、特に「デスクトップ」は「机の上」というリアルな空間を「メタファー」によってコンピュータの世界に持ち込んだわけです。リアルから持ち込んだ空間性がコンピュータの中にあると同時に、今は「インターネットそのもの」という、そこに空間があるのかないのかわからない茫漠とした論理空間がある、その空間をどのように考えたのか、その結果が「* new jpegs *」展と「[インターネット アート これから]」展の展示構成の違いになっているのかなと思います。「* new jpegs *」展は、ネットの空間への入り口としてリアルの会場が設定されているのに対して、「[インターネット アート これから]」展は現在のネットの状況そのものをデスクトップという仮想の空間を介して、空間化するように会場が設定されている。だから、「* new jpegs *」展の展示会場は論理空間に直結するためにシンプルな構成になり、「[インターネット アート これから]」展は、コンピュータの空間がもともと雑然としたリアルな空間性を持ち込んだのであれば、その先にあるインターネットを再びリアルに召喚すれば乱雑というか入り組んだものになることを展示構成で示している。どちらが正しいというわけではなくて、インターネットという「空間」に対して、リアルの側からアプローチしていくという意識こそが、重要なのではないでしょうか。

A15|リアルとインターネットの同期

 そうなってくると、リアルとインターネットという二つの「空間」をできる限り同期させよう、という動きも出てきます。先ほど、今日のお話のタイトルに“β”とつけた理由をお話ししましたが、例えば東浩紀さん(1971–)の2冊の著書のタイトルが『思想地図β』(コンテクチュアズ/ゲンロン、2010–)だったり『一般意志2.0』(講談社、2011)というように、いずれもネット由来の言葉が使われていますよね。逆に言えば、もしかしたらネット界隈ではあまり言われなくなっているような言葉が、あえて使われているわけですけれど、これも何かインターネットで起こってきた感覚をリアルな現実世界……この場合は書籍ですが、こちら側にうまく移そうという意図の現われなのではないかと思います。おそらくこの感覚を形にしていくには既存の出版社ではダメだったのだと考えられます。だから、『思想地図β』のほうは、東さんたちが自分たちで会社を起こしてやっていたりするのかなと思います、それがとても面白いと感じていたので、今日の話にも“β”とつけさせていただいたわけです。
 「ポスト・インターネット」も同様に、ネット上で起こってきた感覚を、リアル=現実界のアートの状況に同期させようとしているのではないかと思います。ただ、この展覧会の最初の頃、もしかしたら今でも言われていることかもしれませんが、インターネット上ではとてもあたりまえのことを現実=リアルな空間に落とし込もうとすると、それがあたりまえではなくなってしまう。例えば「ICCの企画展なのにインタラクションが一切ない」とか「ネットワークにはつながっていないの?」とか、そういう感覚で展示作品を見られてしまう危険性もあるわけです。だけど、インターネットにどっぷり浸かっているわけではない、普通に使っている人にとっても、実はコンピュータやインターネットにおける「リアルさ」は、「インタラクション」とかそういった直接的なものではなく、まだ明確にはわからないけれど新しい「何か」になっていて、それを現実空間に持ち込んだ展覧会が「[インターネット アート これから]」展なんだということも言えるわけです。繰り返しますと、ただ「あたりまえ」なものを「あたりまえ」でないところに持ち込むと「あたりまえ」ではなくなってしまうということです。それは、アートの世界では死語かもしれませんが、いわゆる「前衛」というところに行ってしまうわけです。
 では、「[インターネット アート これから]」展が示そうとしているものは何なのか? そのヒントのひとつは、ネットとリアルとでは、情報処理の速度が違うためにズレが生じていることにあるのではないでしょうか。現実世界ではモノを見たり触れたり、“すべて”の知覚情報として感じているわけですが、ネットやコンピュータの世界では、どこか一点を選択しないと、今のところは処理ができない、ということになる。これは、千房さんの「コンピュータ 記憶 シンクロ」というブログ記事(http://www.cbc-net.com/blog/sembo/2012/02/13/)に書かれていることですが、「僕たちは情報をすべてリアルに処理しているけれど、コンピュータだと何かを選択しないと、そこでの処理が進まないというズレも、大きな問題を抱えているのではないか」と。 
 この会場の後ろのほうで動いているdividualの《TypeTrace》[*11]も、キーボードの中からひとつのキーを選択していく過程で、キーを選択するあいだの時間を含めて「すべて」を記録すると面白いことができるよ、ということなのではないかと思います。こうやって処理スピードが違うものを同期させようというのが、アーティ・ヴィアーカントの言う「イメージ・オブジェクト」の考え方であったり、ここで展示されている多くの作品であったりするのかな、と。
 なので、今までの私たちはアートにおいても社会においても、インターネット独自のリアリティを追求してきたわけですが、今後はそういった「インターネット独自」とか「リアルそのもの」の追求ではなくて、インターネットとリアルが同期しているリアリティ……それはどこかしら完全に一致せず、微妙にズレているわけですけれど、そういったものをも追求していくのが、ここで言う「ポスト・インターネット」なのではないかと思っている次第です。時間が来ましたので、以上で前半のレクチャーを終わらせていただきます。(拍手)

B■座談会

B01|「パブリック」化したネット・アートが、ポスト・インターネット・アートなのか?

http://wwwwwwwww.jodi.org/

畠中:ありがとうございました。水野さんの講義でした。このまま後半の討議のほうになだれこみますが、研究会のみなさん、いかがですか?
萩原:今まで僕たちが行なってきた討論を踏襲したうえで、その先を見せてくれるような充実した内容でした。議論に上げたい話題が何カ所もあったのですが、どこから取り上げていったらいいのか(笑)。最初に面白かったのが「New Media Art」のくだりですね。
 かつてはNew Media Artと呼ばれていたけれど、今はもうどこにでもメディアが存在しているわけだから、どんな作品を制作してもメディア・アートになってしまう。だったら、そこのところは一回置いておこうよ、という話になりつつある。かつてのNew Media Artって、「ネット・アート1.0」の時代だったはずですよね。その「ネット・アート1.0」時代を具体的に言えば、例えばJODI(http://wwwwwwwww.jodi.org/)が1990年代後半から2000年代初期にかけてやっていたことや、Form Artといって、htmlのtableタグであったり、ボタンを素材として使ってアート作品を作ることで、どちらかというと「俺たち、ネットをハックしているぜ!」みたいな意識が強かった。今までの議論にも出てきたような、作品制作にあたってコンピュータやテクノロジーをハックするのか、それともデフォルトとして使うのか、というような議論のきっかけになるものが、New Media Artと呼ばれた時代にはあった。だけど今はそのあたりの感覚が徹底的に「ポスト〜」と呼ばれるようになったわけで、New Media Artと呼べる時代は終わっているよね、ということになる。先ほどの話でいう「オーナー(作家・個人)/グループ(nasty netsなどグループ)/パブリック(Tumblrなどのサーヴィス全体)」それぞれ三つの立場から、最後の「パブリック」に移行していく部分がとても興味深かった。そのあたり、どう議論していったらいいのかな?
谷口:今の萩原さんの「三つの部分」の話を聞いて、ちょうど先週の座談会で討議した「お絵描き掲示板からpixivへ移行した時の話」(http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2012/Internet_Reality/document5_j.html#cap01)とものすごく似てるなぁ、と思いました。昔は、ひとりひとりの絵師さんが自分のホームページの中にお絵描き掲示板を設置していて、それはある種、その人んちのリヴィング・ルームにみんなが集まって絵を描きはじめる、という状況だった。(先の「三つの部分」の)一番目の部分が、お絵描き掲示板の文化において何だったのかはよくわかりませんが、そんなふうに(居間に集まって絵を描いて見せっこするの)が、たぶん二番目の「グループ」ですよね。それこそ「nasty nets」のような、ある種閉じられた一定グループの中で、そういう活動が行なわれていた。
 その次の段階にあたる、リブログや「いいね!」の評価というのは、まさにpixivの方式で、ソーシャル・ネットワーク化したサーヴィスの流れの上で行なわれるものですね。だから、今回のブラッド・トロメルさんが指摘されていた「三つの段階」と、先週触れた「お絵描き掲示板からpixivへの移行」という流れは、ある程度一致しているんじゃないかと思えます。
萩原:JODIは、一組で活動し、独立していた印象がありますが、「nasty nets」に関しては、活動の中心が「delicious」(http://delicious.com/)ですよね。「delicious」の中にnasty netsグループを作って、自分達のお気に入りやキーになるサイトを登録していくようなグループ・ワークをやっていた。それは「delicious」のアーキテクチャの上でやっていたことで、お絵描き掲示板というアーキテクチャの上で表現していたことと、状況はすごく似てると思うんです。だんだん作家性とか作品ということに対しての抽象度が上がっていくんですよ。サーヴィス自体も、リブログだったり「いいね!」に準拠して、抽象度が上がっていく。そこでつながってくるのが、さっき出た話題で言う「脱‐個人」というところ。「グループ」で、あるいは「パブリック」で作っていくこととつながるのかなぁ、と思いました。
 それで言うと、今現在というのは、かなり抽象度が上がっている状態ですよね。こういった現状が作品じゃなくて、「作品を通してのコミュニケーション」に作家が価値を見出させている。今はアーキテクチャの変化にともなって「作家って何だったっけ?」というふうに、個人や作品という単位自体が曖昧な状態になっちゃっているのかもしれない。それはそれですごく面白いことだとは思いますが……水野さんはそのあたり、どうお考えですか?
水野:どうでしょうね……というか、作家自身に訊いてみたいですよね。「こういう時、作家ってどうなの?」って(笑)。
谷口:ちょうど先週、そういう話をしていたのですが、pixivっていろんな絵師さんが描いた絵に対して、例えば「猫耳」だとか「メイド」といった、タグづけがなされますよね。たぶんその「タグづけ」が、言ってしまえば一種のAPI化してしまっている気がする。ここで言う「API」というのは、「query(クエリ)」(データベースからデータを抽出したり操作したりといった処理を行なうための命令)って言って、URLに検索キーワードやパラメータをつけてリクエストを送るとAPIを介してデータが返ってくる、という仕組みのことです。そのAPIを用いて色々なサーヴィスをマッシュアップして作ることができるわけなんですが、そこでpixivのタグがqueryっぽく、まさに人力API的に機能していく。「猫耳」と「メイド」とかのタグを選択して検索すると、「猫耳」と「メイド」の要素で描かれた絵が返ってくる。それって単に、データベースとしてそこに存在するだけなのですが、あたかもそのタグの要素から生成されたデータのように画像が返ってくる。ひとりひとりは、そのタグで呼び出されるという前提なしに、自由に絵を描いているわけだけど、後でそういうふうにタグによって引っ張り出すことによって、まさにAPI的な……ちょうどパーカーが発注した中国の絵師のように、依頼主のリクエストに対するレスポンスの仕組みとして、絵が返ってくる。そういう時において、ひとりひとりの作家性は損なわれている可能性があるなぁ、と思っていて、そのへんは難しいところだと思います。
 ただ、それでも興味深いのは、こうやって「ポスト・インターネット」系の興味深い作家を探し求めていくと、何だかんだ言っても、個人に焦点があたっていくわけです。たしかにSNSの表面を通じて見ると、API的な自動生成に見えてしまうのだけれど、それって単にスケールの問題で、深く掘っていけばちゃんと個人にあたるんだな、と。インターネットについての議論において、匿名性の問題が度々出てきますが、だけどそれってマスというか、大きな集団というスケールにおいて現われてくるもので、小さなスケールにおいては個人が個人としてあり続けていること自体は変わらないな、って思いました。ごくあたりまえのことかもしれませんが。現にそれが、例えばアーティ・ヴィアーカントとかトム・ムーディっていう個人名に、こうやって掘っていけば必ずつきあたるわけで、あまり変わらないのかも……とも思います。ただ、一番最初に触れる機会が、個人的な契機ではなく、いきなりAPI的になってしまった、ということはあるのかもしれません。

B02|アーキテクチャ論よりも表現レヴェルでの議論に向かう、
ポスト・インターネット・アート

畠中:前半の水野さんのお話の中に含まれていたいくつかのポイントは、この「三つの段階」のようには整理できない形としてもあるような気がしました。それは何かというと、ここに挙げているような「三つの段階」でもそうなのですが、先ほども話していただきましたように、今日のこの話も“β”(ベータ)とついているように、ウェブの世界で慣例化されているある名づけみたいなものを現実のほうに流用しているわけで、命名自体に直接の関係はないと思います。で、三番目の「リブログ云々による承認」というのは、TumblrとかFacebookのようなWeb2.0のプラットフォームを実際に使って何かが行なわれている部分もあるのだけれど、例えばそれがFacebookなり何なりでコミュニティのように盛り上がっているものとは若干違うと思いました。
 冒頭に「(ポスト・インターネット・アートが)インターネット・アートと違うのは、(インターネットについての)アート・ワールド・アートを意識している」という話もありましたが、インターネットのプラットフォームの中で形成されるものとはまた違ってて、そういう「形成のされ方」に似せられた形成のされ方をしていることがけっこう重要なのかな、と。直接Facebookとかを使って何かが始まるのかもしれないけれど、でも最終的には、脱中心化という傾向はあるだろうし、そうしたプロセスを経て作品が作られるとしても、ある作家性は保たれてしまう……という、まさに今、谷口さんがおっしゃったようなことも起こる。だから、いわゆるアーキテクチャの話と、実際の表現の領域の話とが、ちょっと切り離されているような気がした。
 そこで思ったのが、水野さんの話の最初のほうで「リアルとインターネットのフィードバック」の図(「リアル⇄インターネット」)がありましたよね。リアルからインターネットへ、インターネットからリアルへと矢印が回って、ずっとフィードバックし続ける。その図で表わされているようには、両者が直接的には関連づけられずにそのフィードバックが起こっているような気がする。例えば「GIFとJPEG」という話もありましたが、それって、今までインターネットの話の中で出てきたアーキテクチャの話とは、ちょっと違った話として現われていた気がします。
 例えば画像データのファイル形式の話。それは音楽でもムービーでもいいのですが、そこではファイル形式が問題になっていて、表現レヴェルではどんな形式がいいのか? それは「表現論」のほうの話だと思うんですよね。だから「GIFとJPEG、どっちが硬い?」というのは感覚の話ですが、それをどう受け止めるのか。ファイルの構造上、それぞれの成り立ちから言えば、GIFとJPEGのどっちが「硬い」かを言えてしまうことだってあると思います。だけど、普段からそういうことに親しんでいないと、単なる見た目で「どっちが硬い」かはわかりませんよね。でも、そういう知識が一切なくても、見分けがついちゃうような目や感覚を持った人が出てきているとも言える。そういった事態が、ウェブのリアリティとして立ち上がっているとは思いますが……。
 でも、ここでの話は、いわゆるアーキテクチャの話ではなくて、もうちょっと表現レヴェルでの話になっているのではないか、という印象もあります。だから、ポスト・インターネット・アートが、いわゆる「コンテンポラリー・アートへの意識が強くある」というのも、もちろんマーケットなのかもしれないし、あるいは、もっと美術的な思想の適用なのかもしれない。例えばモダニズム……先ほどの「イメージ・オブジェクト」の考えというのは極めてモダニスティックな考え方で、美術の色々な考えに精通している人なら、何となく入り込みやすい部分もありますよね。だから「ポスト・インターネット・アート」というものが、どちらかというとアーキテクチャの話ではなくて、表現論として立ち上がっている感じがしました。だからジーン・マクヒューが書いた「ポスト・インターネット」のブログ記事も、たしかアンディ・ウォーホル財団の助成を受けて書かれていますよね。それだって理由なきことではない気がして、そうしたつながりも十分に感じられる。
 で、そこから話をしていくにあたっては、それらいくつかのポイントがどういうふうにつながってくるのかが肝心で……個別に話をされていくと、そのつながりがなかなか見えてこない。どうでしょうね? 何か一本につなげていくような話としては、どのようなことが考えられるでしょうか?
谷口:ひとつには「アーキテクチャ論ではない」という点ですね。水野さんの話の中では、アレクサンダー・ギャロウェイからの引用で「垂直軸と水平軸」という問題が出てきました。で、ポスト・インターネットにまつわる議論や、この展覧会の議論が「GIFとJPEG、どっちが硬いか」から始まっているように、どちらかというと「水平軸」のほうから始まる問題なんだな、ということを改めて気づかされたことはあります……。
 その水平軸において、GIFやJPEGといったファイル・フォーマットが自由に行き来し、流通するわけですが、そこにおける主体みたいなものの同一性というか同期というのも何らかの形であるんじゃないかと思える。
萩原:その全部に共通できるかどうかはわからないのですが、その「脱中心化」には、個人とかが消えていく過程とか、あとひとつには「アーキテクチャ論」とかもあると思うのですが、その前提として、パソコンをやっているとファイルの“permission(許可権)”というのがありますよね。そのファイルにどういう許可権を与えるかを決められるんですよ。それが何を表わしているかを言いだすと、また話がズレてしまうのですが(笑)一回これ(画面上)でお見せしますと……こういう設定画面があります。「個人(owner)」と「staff」と「everyone」、この情報に対して、その三者がどこまでアクセスすることを許可するか。「書き出しのみOK」とか「読み出しも書き出しもOK」とか、それとも「実行」させちゃう、とか。パソコンって普通、こういう三段階で「俺だけのもの」か「グループのもの」か「パブリックなもの」を決めていく感じがあって、そのことがすごく頭をよぎったんですよね。
 例えば「改変する」で言えば、アーティ・ヴィアーカントは自分のオブジェクトを自分で改変してネットに上げていく作業をやっていくわけですが、「* new jpegs *」の展覧会では、グループの作品をパブリックに改変させてネットに上げさせるみたいなことをやっていたりします。あとトム・ムーディに関しては、個人で作ったものをパブリックに改変させて、ネットに出回っているものを回収してきて、それをもう一回自分の展覧会に投影し直す。というわけで、こちらもパブリックまで許可権を下ろしちゃった例ですね。たぶんそれはGIFという形式がパブリックと相性が良かったということなのですが、それもGIFとかJPEGのファイル形式という地平——まさに水平軸が、アーキテクチャよりも下のレイヤーにあったということからきているのだと思います。なので、これら「三つの段階」で、匿名性とかグループ/個人というものと、それをどこにどう発表するのかというアーキテクチャ論と、さらに作品の拡張子GIF/JPEG問題が全部地続きになっている感じがしました。
谷口:今の話を聞いたのと、さっき水野さんが話されている時に、(プロジェクターで見せていた水野のドキュメントの中で)横から栗田さんが「ここが面白いよ」って指摘していたところがありまして……「GIFのようになる、もしくは、GIFになる、ということかもしれない。GIFと触れ合い続けると、GIFが持っている性質をヒトが身につける」という一節で、けっこうブッ飛んだことを言ってますね(笑)。今萩原君が言ったように「ファイルのパーミッションのように作家が行動している」ことがあると思うんです。だからもしかしたら、ポスト・インターネットの作家というのは、アーキテクチャの上でふるまうのではなくて、画像のように/ファイル・フォーマットのようにふるまっているのではないか。その「GIFが流通するように作品を流通させる」とか、そこでのパーミッションを変えていくことで、あるいは自分を流通させるのか(笑)。
畠中:例えば「GIFの質感がすべてを規定していく」というような話がありましたが、そういうものだったのか……と(笑)。僕は全然、そういう認識はなかったのですが。そうなってくるとアーキテクチャ云々よりも、そこに見えている「GIF」というものがすべてを規定していく。例えば「GIFというものは、映画でもテレビでもない」というわけですが、それって例えば映像論の中で、ヴィデオのような新しい映像が出てきたときに必ず議論されることですね。つまり「新しいメディアが、以前の古いメディアと比較される」ということですね。それが今回は(映画でもテレビでもなく)「GIF」において適用される、と。それほどGIFが凄いのか、と(笑)。

B03|GIF vs. JPEGの問題を(改めて)考える

萩原:さっき、何で「new jpegs」で「new gifs」ではなかったのか、という話がありましたが、JPEGは画像形式なんだけれど、GIFは時間軸を持たせることができる。でもそれはきちんとした時間軸ではなくて、例えばTumblrで発表する場合は、短いループの中でコマ数を増やしたければ色数を落とさなくてはならない[*12]。コマ数と色数の一方しか取れないという制約がある。GIFは拡張子のことなのですが、明らかにそれ“だけ”ではない。その、動画でも静止画でもない、そういうどっちつかずな何とも言えない状況にGIFが置かれていて、それは最初からウェブの技術に準拠していた。形式としてTumblr受けがよく、改変されやすいものの、「new」と扱うには問題が複雑すぎるのかな。と思います。
谷口:「何で「new jpegs」で「new gifs」ではなかったのか?」という素朴な疑問は、「GIF vs. JPEG」の問題を考えるうえでも重要で、やっぱり「* new jpegs *」というプロジェクトは、オリジナルとして実際の会場での展覧会があって、それを記録してちゃんと収めるということ——まさにアーティ・ヴィアーカントのアプローチですが——JPEGが今までずうっと果たしてきた役割が、まさに記録写真と同様にオリジナルの正しい複写だ、という形で流通してきたメディアだと思うんですね。だからこそ、ウェブサイトを作るときもボタンとかアイコンのようにデフォルメされた画像は、GIFで書き出すんですよね。いっぽう、何か対象物が写っていて色数も多い写真っぽい画像は、JPEGで書き出して使うケースが多い。このようにJPEGの果たしてきた役割というのは「オリジナルの複写物として、ちゃんと記録して流通させる」ということだった。だからこそ、アーティ・ヴィアーカントはGIFではなくてJPEGを選んだと思います。
 逆にGIFの場合、色数を減らさなくてはならなかったりするので、その時点で何らかの恣意的なデフォルメとかが行なわれちゃう。だから、そこでいったん対象物から切り離されちゃうというか、リアリティの距離が離れてしまう。また、GIF自体、アニメーションで画像がループしはじめると、同じ世界を延々と何回も繰り返すことで、この世界の時間軸からも切り離されてしまう。JPEGは「8×8ピクセル」の中でグラデーションのように圧縮するんですが、GIFは単に1個のピクセルの集合で、何か民芸品ぽいというか、パッチワークっぽい存在感もある。そういうわけで「* new jpegs *」においてGIFが選ばれなかったのではないかと思います。GIFだとそれだけが独立しちゃって、会場との関係性が切断されてしまう、といったこともあったのではないのか?
水野:そういった意味でも、GIFファイルというのは、やっぱりインターネット・ネイティヴ?
谷口:インターネット・ネイティヴ……っていうのは強いと思います。JPEGは「その画像自体の外側の対象を指し示している」けれど、GIFは「この画像自体、この画面自体から出ない」という感じがします。
水野:でも、Wikipediaで見たところによると、GIFというファイル形式自体は、インターネット登場以前からあるんですよね。今、萩原さんがおっしゃっていた「どっちつかず」というのは……僕も文章に書いたのですが、そうした両義的なものがコンピュータの世界にはよくあって、それって、リアルな世界の中では一義的なものだったのかもしれない。さっき言ったように、イメージに機能を持たせていたり、何か両義的……というか。僕の好きな喩え話で言うと「Aでもあるし、Bでもある」というような。キメラ的というか、ちょっと怪物的というか、そういう部分がコンピュータの中にあって、それをうまく使いこなすような画像形式として、GIFとかがあるのかなぁ、って。
 どちらかというと、僕は字面だけで考えているようなところもあるのですが、先ほど谷口さんが「ネットで使用する時に(GIFかJPEGか)どちらに書き出すか」みたいなことを実感として話してくれたので、そことうまくつなげられたら面白いと思います。
 あと、さっき「最終的には個人名に落ち着く」ということもありましたが、でも、それは研究者としての僕が取り上げやすいものを、取り上げているからかもしれません。僕が取り上げているのは、最終的には「テキストを書いている人」なんですよね。実はペトラ・コートライトという作家もいて、今回彼女のことも取り上げようと思ったのですが……(投影画面上にペトラのウェブサイト(http://www.petracortright.com/)を表示)こういう、延々とくだらない画像があったりして(笑)、面白かったりもするのですが、単に「面白いね!」で止まっちゃうところもあったりしますし、ちょっと西海岸寄りなところもありますよね。
萩原:パーカー・イトーと同様、彼女もカリフォルニア出身のアーティストだったと思います。
栗田:パーカー・イトーが以前“prosumer(プロシューマー)“という言葉を使っていて、彼いわく「今はみんなprosumerだ」ってことを言っていました。それもみんな認識していて、意外と(さっき言われたような)「アートとの接続」というものを意識しているということもある。みんなネットでやっているせいもあるんですが、このへんのアーティストってわりとエゴが強くて、みんなどうやって目立つかというのは考えてる。だから“prosumer”なんですけれど、いわばそれのプロになろうとしている。けっこうそういう現象を楽しんで、ハチャメチャにやって、GIFアニメのような作品をバンバン流通させて、少しでも名前が出たら今度はいいキュレーターに見つけてもらって、ギャラリーで展示してお金持ちになって……みたいな(笑)。典型的にそういうアーティストもいたりして、本当にヒップスターみたいに、自分たちでもわりと“お洒落”的にやっているところもある。
 で、何も考えていないようにやっていて、使われているものが、今のメディアだったらJPEGだったりとか、普通に流通しているものを使って作品を制作したらこうなった……というのも、一面としてはあるのかなと思います。
谷口:その“prosumer”という言葉の意味は?
栗田:「(作品を)作る側と観る側がいっしょ」ということですね [*13]
萩原:「作る側と観る側がいっしょ」という話は、さっきのアーティたちが『DIS Magazine』(http://dismagazine.com/)に3人で書いていた原稿(「Club Kids: The Social Life of Artists on Facebook」)にもつながってて、あれも結局「読みながら書いたり」ということを複合的にやっちゃってるわけですよね。その論文の中でも、作る側と観る側が再帰的に関係している。今までは、「作品展をするためにお客さんが必要だった」あるいは「お客さんを呼ぶために作品を展示」していたわけだけど、インターネット以降は「作品を作るためにはお客さんが必要になる」あるいは「作品を成立させるためには「お客さんがいないと意味がない」状態になっている。というようなことを、その『DIS Magazine』の記事の中でも書いていたと思います。それから「ネット以降と以前で、作品と鑑賞者という距離感が全然変わってしまった」というふうなことも書いてあります。さらにその原稿を「3人組でいっしょに書き合う」のも、さきの「個人とグループとパブリックがよくわからないことになっている」ところと通じているわけですが、その「(ネット以降)作品と鑑賞者という関係が反転した」という部分はすごく面白いな、と感じましたね。たぶんもしかすると、それは今栗田さんがおっしゃった“prosumer”ともつながってくるのかな、と。

B04|空間性に依拠しない、ポスト・インターネット・アート?

畠中:さっきの「* new jpegs *」の話を聞いて僕が思ったのは、例えば美術史だと「ニュー・ペインティング」みたいな言い方があるじゃないですか。あれは「新表現主義」なんて言われたりしたものですが、じゃあ「新しいJPEG」とは何なのかというと、やっぱり、さっきの「コンテンポラリー・アートを意識」みたいなことが多分にある気がします。そのJPEGというのはコンピュータ由来の画像の形式だし、それを出力して作品にすることもできるんだけれど、もうちょっとその、JPEGというものを、いわゆる写真だとか絵だとかを画像化する「何か」ではなくて、もっと素材的というか……画像の「様式」みたいな形として捉えようとしているのかな、っていう気もしました。それは「コンテンポラリー・アートに向かう」ような志向としてね。
 で、さっき「* new jpegs *」展の空間の話が少しあって、過去の座談会でも「展示空間が何もないように見える」という話がありましたよね? けっこうそれって、「そういう展示をやると寒いよね」というような話ではなくて、もっと空間性みたいなところに依拠しない部分で、その作品のありうるような場所があるんじゃないか、と。空間に展示されているような写真があって、それを加工して……作品化しているものがありましたよね。
谷口:アーティ・ヴィアーカントですか?
畠中:そう、アーティ・ヴィアーカントの「イメージ・オブジェクト」の絵なんかを観ていると、すごくそういう感じがするんですよ。あれは、実際にあの作品があるべき場所がどこなのかわからないですよね。ギャラリーなのか、コンピュータの中なのかがわからなくて、居場所がまったく定まらない感じ? (投影されている画像を指しながら)これはもしかしたら展示されているものかもしれないけれど、でも、これもちょっと怪しいですよね。何度か絵に角度をつけて撮っていて、本当は一枚の板……なの? これが実際に展示されている状態?
谷口:ですけど、(画像のほうの)壁に全く同じグラデーションを必ず入れるんですよ。
畠中:なるほどね。そんな彼の作品って、展示されている状態で必ずしも完結していなくて……例えばPhotoshopでこういうふうに、あえてレタッチをもっと創造的に使っちゃうようなところがあって、空間性は(この作品には)ないんですよね。展示されている状態もあまり想像できない……というか、それ自体で作品としてみなしていいのかどうかがわからない。この展覧会場の中にブルーバックみたいな場所があって、そこで絵を合成できる……あれは誰の作品でしたっけ? ありましたよね。
萩原:おそらくクリス・コイ(Chris COY)のものだと思います [*14]
畠中:あれも結局は「何を貼ってもよい」っていうものですよね。そこに何を貼りつけてもよくて、誰かが好きなようにその展覧会に参加できちゃうもの、とも言える。これは実際会場でありながら、インターネットかもしれない、そういうものとつながっている、あるいは、これ自体は「作品の一側面でしかない」とか。
 さっき、藤幡さんの話の中で出てきた「次元の話」も面白くて、「三次元でものを見ているということは、もっと高次元のところから投影されているものを見ているのではないか」という話がありましたが、これも「見えているもの」は、ある側面、ある部分でしかない……というようなことをすごく感じて「インターネットにはつながっていない」というけれど、そこでの「作品自体の完結しなさ」が、まさに現実空間だけでは完結しない感じを表わしている。パーカーにしても、その背景にはアメリカのインターネットがあったり、「直接つなげることがインターネット・アートじゃない」という地平があることが、よく示されている気がしました。
谷口:今日の水野さんのお話の中で、同期という意味あいで、行ったり来たりする円形の矢印(⇄)を使っていたと思うのですが、アーティ・ヴィアーカントの「* new jpegs *」は、その同期を前提としながらも、その同期を崩すというか、壊していますよね。あと、空間性の話で言うと、アーティ・ヴィアーカントがこういうふうに操作しちゃうと、そこに映っている一個一個のテクスチャーとか質感は、実際の展示会場から取られているから、そこには実際に存在したものだという相応のリアリティがある。だけど、それが改変されちゃうことで、実際に展示されていた会場ではない別の場所を指し示しはじめる、というか、同期の矢印があちこちに行っちゃったりして、結局はその狭間にしか作品がなくなってしまうような感じでしょうか。
栗田:あと、今みたいに「この作品の話題でこれだけ話せる!」のも、ポスト・インターネット的だと思う(笑)。それをどうやって理解すればいいかを考えちゃう谷口くんがいる、というのも、今のポスト・インターネット的な状況だし、「インターネットが普通にあるから楽しめる」という感覚を、向こう側も持っているし、こっちも持っている。そこでの感覚はいっしょだから、こういうカルチャーになっていくというのも面白い。「そういう意識が広がっていってほしい」というのは、恐らく彼らにもあって、「言葉が多い」のもそういう理由だろうし、そういう言葉が広がって、僕らの感覚をもうちょっと広げられるといいかな、と。だって、普通の人がこれらの作品を観ても、何も思わないですよ(笑)。それくらい「ポスト・インターネット」的な画像って、だいたいが見にくいか、色数が変だとかして、ちょっと「普通に美しくはない」ということがある。でも、そこから「見出す」ことを、彼らがやっているということはありますね。
 あと、先ほど水野さんが「時間があったら見せられる、かも?」と言っていた、コリー・アーカンジェルのネコ動画(《Drei Klavierstücke op. 11 - I - Cute Kittens》(http://www.coryarcangel.com/things-i-made/DreiKlavierstucke/))。あれとかもそうですよね。ものすごく複雑なシェーンベルクの前衛音楽を、たまたまネット上に落ちていた何百個かの「ネコの動画」を落としてきて、それと同期するようにプログラムを書いてやるわけですが、YouTubeの一般視聴者たちがこの動画を見たら、みんなネコ好きだから「わぁ、ネコを見た!」となるわけだけど、コリーとかはコンテンポラリー・アートの世界でもやっている人だから「そういう有識者にもネコ映像を見せられるのが面白い!」と言って、ケラケラしてるんですよ。「してやったぜ!」みたいな(笑)。

コリー・アーカンジェル《Drei Klavierstücke op. 11 - I - Cute Kittens》
http://www.youtube.com/watch?v=lF6IBWTDgnI

畠中:これを観てちょっと思い出したのは、クリスチャン・マークレーの《the Clock》(2010)と同じ、だよね……いや、単に「同じ」って言ったら怒られちゃうかもしれないけど(笑)、作り方や発想には共通点があると思う。《the Clock》の場合、色々な映画から「時計のシーン」とか「時間を言う台詞のシーン」を1分毎に抜き出してきて、それをつなげて、全部で24時間の映像作品を作ったわけですよね。言わばそれは、いろんな映画の中から、例えば「16時59分」という、ある特定の時刻を示している部分を抜き出してつなげたものです。かたやコリーの画像のほうは、インターネット上のネコ動画の中から、シェーンベルクの曲のメロディになるように音程を選んで編集している。そういう意味で、同じといえば同じ、では?
栗田:同じですよね。そこに、ちょっとしたアイロニーを込めたりはしているでしょうけど。今のネット界隈って、なぜかネコ素材がとても多いので、特にネコを飼っていなくても、ネット見てるだけでネコを見ない日はないくらい。そういう「今っぽさ」を彼らなりに出した、ということでしょうね。彼らのような作家は、だいたい20代なので、そういうところに彼らの持っている感覚がすごく出ている気がする。そして、それを楽しめちゃう僕らもいる、みたいな。
畠中:でもこれ、本当に(シェーンベルクの)《Drei Klavierstücke op. 11》になってるのかなぁ? これだけじゃよくわからないや(笑)。
水野:何かプログラミングで抜き出して……その抜き出すプログラムも配布しているんですよね。「やろうと思えば、誰でもできるよ」って(笑)。
谷口:もとがシェーンベルクだから、けっこうわかりにくいですよね。
栗田:だから一般の人が見ると「わりとデタラメに弾いている」光景を集めただけにしか見えない。だけどそこには、音楽を聴かせているという作家の意図が、実はある。コリーは「この作品を作るために、毎日ネコ動画を収集してた」って言ってました。

B05|ポスト・インターネット時代の「脱ヒト」とは?

畠中:あと、それ以外の話題で言うと、「脱ヒト」みたいな話もあったじゃないですか。次にそのへんを、いかがでしょうか?
水野:ちょうどこの(コリーの)作品も、その「脱ヒト」の項目で挙げていたのですが……それって単なる冗談というか、だって「脱ヒト」というか、単に「ネコ」ですから(笑)。でもそこには何か、YouTubeという映像を無尽蔵に吸い取れる装置があって、そこから目的のシーンを収集する行為を、それこそ人力でやろうとしたら超面倒くさいかもしれないけれど、ネコ動画をサーチしてくるプログラミングを書けてしまう人がいて、そのプログラムをこういう用途で利用して、作品を成立させてしまう。結果、20世紀芸術のある種の到達点と言われているような複雑な曲を(人間じゃなくて)ネコが弾けてしまう、と。とても冗談っぽいんですが、面白い試みだとも思います。
 そうしたネット上にあがっている膨大なデータをいかにくっつけるのかといった時点で、「多くの人がプログラミングを書けるようになると、データと組み合わせることで、人ではない何かがそこで輝き出す」というか「存在感が増してくる」。なのでこれ、とてもギャグっぽいけれど、味わい深い作品でもあります。
畠中:僕は「脱・人間」という言葉をちょうど使っていたんだけれど、水野さんのテキストの中では「脱ヒト」というふうに書かれていて、やっぱり「人間」というと、どうしても主体とかそういう話になってきちゃう。だけど、それをあえて「ヒト」と言うことによって、少しポイントをズラしているところが水野さんにはあるのではないかと。そこの部分をお聞きしたかったのですが。
水野:「人間」と言うと、さっき、畠中さんもおっしゃっていましたが、主体とか、そういう言葉はいっぱいあるわけですが、今僕が使っている「ヒト」というのは、その人間の横にコンピュータというものが現われてきて、それによって、楕円のように「ヒト」と「コンピュータ」という2つの中心ができたということなんです。
 今までも人間は自らについて考えてきました。例えば哲学においても「人間とはどうあるべきか?」とか言って、いっぱい考えてきたわけです。そこに全く異なるひとつの種としてコンピュータがでてきた。その時に、今まで考えられてきた人間が、一瞬カッコに入れられて、今まで語られていなかった部分として、「生物種のヒト」として「機械種のコンピュータ」とともにあるようになったのではないかということです。
 コンピュータとともに長い時間を過ごしている「ヒト」は、もしかしたら「GIFが硬い」という感覚を持つかもしれないし「JPEGはぬめっとしている」ということを認識できるかもしれない。そういった「コンピュータと共に共進化するようなもの」として、「人間」をもう新しく語り直すことができるのではないか、という意味で、ここでは「ヒト」という言葉を使っています。その場合、中心は「ヒト(人間)」だけじゃなくて「コンピュータ」というものもあるんだよ、ということで「中心がズレている」というふうに考えました。
谷口:今の話を聞いていて思ったのは、「GIFがフルカラーではない」という話ですが、コンピュータの処理能力に合わせて作られたフォーマットをヒトが補完して、わざわざ粗い画像を見る場合、ある意味そのヒトはGIFのコンバーターになる、あるいはGIF自体になる、といえる。そういうふうにして、コンピュータによって想定される主体と折り合いをつけることによって「脱ヒト化」というか、ヒト中心主義からズレる、と。そういう理解でいいのかなと思っていたのですが、いいですか?
水野:はい、そうだと思います。ヒトがGIFのコンバーターになるというのは、とても面白いですね。ちなみに畠中さんにとって、この「脱ヒト化」という言葉は、どういうふうに聞こえますか?
畠中:例えば、さっき紹介されていたyoupyの作品みたいなものは、もちろん個人が作ったものだけれど、ある表現性をまったく捨象したところで生成されている、というか……いや、生成じゃないんだよな、作られていく。そういったところに、(谷口さんも言っていたけど)ある個人が投影されないままに作られていくようなことって、人間的な手仕事的な「制作」というものとは、ちょっと違うでしょう。そういう部分ですね。
 あと、この展覧会の各「カテゴリー」(と我々は呼んでいたのですが)にかけられていたパネルの中で、これまでの座談会でもたびたび出てきた「人力API」みたいな話があって、今ネットの中で起こっていることというのは、ほぼ、そこを使っているユーザーがそれを使うことによって生み出されるデータや色々なものが動かしている、と言われていますよね。だから人間がやっているのだけれど、ある種……それこそ、さっきベンヤミンを引用して「無意識」という話をされていたけれど、そこでの人間が大勢で勝手に何かを行なっている営み、それぞれがまったく関連性も関係性もなく引き起こしている行ないが、ある無意識的な動きとして現われるようなこともそこには含まれるかな、と。
谷口:「脱ヒト化」ということに?
畠中:そうですね。だから人間が参加して、その結果として何かが起こっている“はず”なんだけれど、そこではもう「人間がやっている」ことという部分は捨象されている、という感じですね。
谷口:量が集まると、データのマスになってしまうような感じ?
畠中:そうですね。先日の「文化庁メディア芸術祭」のシンポジウム・テーマでもあった「マッシブデータフロー」[*15]と言われるようなことも、そこには含まれているのかな、と思いますね。

B06|ヒトと機械と「全自動/半自動/手動」

谷口:一方でyoupyのFlickrの作品なんかも、プログラム自体はせいぜい10行ぐらいのすごく短いソースコードで、それを書いたのはyoupyだってこともわかってるのですが、あれは逆に「プログラムがやっちゃっている」ことなんですよね。本当に最初からヒトがいない、というか(笑)。
畠中:人の手によるものでは“ない”ってことですよね。
谷口:あの量に対する主体の在り方というのが、ある。これが一枚一枚本当にバラバラの写真だったら、一個人の主体というのはなかなか見えてこない。でもこれの場合は、ほぼ全部同じような画像で量もあるのだけれど、とてもではないけれどひとりの人がやっているようには思えない。だけど、実際にはひとつのソースコードで生み出されている。だから「大勢の人たちが無意識的にやる」という行動と「ひとつの小さいソースコードが行なうこと」が併置されているというか、同じ地平にある感じがしましたよね。
畠中:このyoupyの作品では「1600万色のフルカラー」って言われているけれど、本当の「フルカラー」って1600万ではすまないはずじゃないですか。「フルカラー」って言って「あ、1600万色なんだ!」って言ったら、もう色の数が決まっちゃうでしょう。でも、色の数を規定しているのって、いわゆるデジタルの領域で規定されているわけで、人間が見てる色って、もっと細かい階調まで見ている“はず”なんだよね。さっき「一色一色が区別つかない」って言っていたけど、それよりも細かい階調の色の差を、脳は処理しているかもしれない。人間のポテンシャルのほうが高いはずなんだけれど、あえてこうやって「フルカラー1600万」って言って見せられると「人間には違いがわかりませんねぇ」ということになっちゃう。そういう転倒みたいなものも、「脱・人間」というよりは、テクノロジーのポテンシャルのほうが人間を上回っているように見させられちゃう、そういう転倒のほうが、問題としてはあるのかもしれない。
栗田:逆に言うと、この作品で一番大事なのは「Flickrに上がっている」ということと、彼がプロ(・アカウント・ユーザー)として(自分でお金を払って)これをやっている、ということ。だから、人間に落ちてくる、というか。これを普通に自分のサイトでやっていも、まったく意味がなくて、自分のFlickrアカウントで、個人のユーザーが写真を上げるツールを使うからこそ、これだけのページ数になっていることに感じることがある。Flickrはちょっと重かったりするので、これだけの数が上がっていると、一般のネット・ユーザーの感覚なら、ここで「このページ数(約14万ページ)あるという事実」だけでも楽しめるし、youpyっぽいし、今の作家っぽいと感じますね。
萩原:プログラム自体は全自動なんですよね。「全自動/半自動/手動」って、3タイプあると思うんですけど、その中でも全自動なのにも関わらず、youpyさんというひとりの作家のアカウントで行なわれていて、ページャーがついて……という文脈によって、最終的に人間に返ってきちゃっている。ただプログラムが全部上げているので、これ自体にyoupyさんは手を動かしているわけではないと思います。でも何だかんだ言って、プロ・アカウントというのが効いてきますよね。“Some rights reserved”ってクリエイティブ・コモンズ・ライセンスを使ってて「コピーライト・フリーじゃないんだ」とか(笑)。そういう設定も作品の外側からあぶり出されていて、結局は個人、プログラムがやってても個人の作品みたいな感じがしてくるのだと思います。
谷口:さっき萩原君がファイルのパーミッションで「User/Group/Everyone」の三種類あると言っていましたが、ポスト・インターネット系のアーティストがやっているアプローチや流通の仕方を見ると、「これとこれ足したら、こういうアプローチ」みたいに、それら三つの段階を行き来している。あるいは、さっき水野さんがテキストの中で、「(ヒトが)GIFになる」みたいなことをおっしゃっていたのですが(笑)、そこでこういう作品が想定する主体というか、作品を作った主体みたいなものが、ファイルっぽくなっているのではないか、って気がしたんですよ。youpyの作品の場合は、たぶんRubyとかで書かれたプログラムがそこに見えちゃう……というか、そういう作品を作った主体が、GIFっぽかったりJPEGっぽかったり、何らかのファイルっぽくなっているという在り方がそこにあるのではないか、という気がしなくはない。
栗田:よく「全自動」とか言うけれど、ありえないじゃないですか。どこかで人間が手を動かして「実行」させる環境まで作っているわけで、そこから先は全自動だけれど。で、Botの話もこのあいだよく出ていたけれど、震災以降にBotの「中の人」が出てきちゃって「不謹慎なことを言う可能性があります」と宣言してみたり。あれって、今まで自動で動いていたものに、最終的に人のブレーキが入ってきたわけですよね。あるいは「サザエさんbot」とかは全自動ではない。半分は人間が関わって、Twitterアカウントを管理しているわけで、半自動生成です。僕らのアカウントというのは自動で、個人で生成されるもので、その自動にも何段階かある。それをどこでユーザーに渡すかというタイミングもあるんじゃないですかね。
 Flickrに関しても、全自動っぽいんだけど、最終的に一個のアカウントでやっているということで、作家性みたいなものが出てくる。youpyさんの作品って、けっこうそういう作品が多い感じがするし……。どうオチていくかはわからないのですが、あくまでも全自動というのは「作る段階」を全部プログラミングに投げているだけの話で、「Paint FX」なんかも人間が手を動かしているけれど、全自動的じゃない。デフォルトに準拠しているし……。そういうレイヤー構造が、今の議論から見えてくるような感じがしましたね。それが「無意識的」「GIF的」と近いのかな、と思いました。
萩原:全自動とはいえ、プログラムは人間が組んでいる。
栗田:そうですね。
萩原:すこし視点を変えてみると「Mechanical Turk」なんかも全自動と言えないでしょうか。もちろんどこかの国の誰か、つまり人間が手を動かしているんですが、先ほどの谷口さんのpixivの例にもあったように、あれらも見方によっては全自動なんですよね。今はもはや、その検索などを実行したタイミングでその結果が返ってくるというシステムでは、その結果は人間が作ったものが返ってくるのか、コンピュータが作ったものが返ってくるのかは、あまり関係ない。そういう意味でその「全自動かどうか」も、よくわからない状況になっちゃっているのではないかと。
栗田:人がやっていてもやっていなくても、もう変わらない、と。
萩原:そうそう。「Mechanical Turk」とかって、まさにそういう仕組みだと思うんです。
谷口:そういうところからホンノリと、「脱ヒト」感みたいなものが見えてきたんじゃないかなと思えますね。

B07|ポスト・インターネット・アートの「ファイルっぽさ」をめぐって

水野:その「脱ヒト」みたいなところに、テクノロジーによってヒトが拡張されていく感じがあるのではないか、ということを考えています。この前の、エキソニモのアーティスト・トーク(http://bccks.jp/bcck/112539/info)の時に谷口さんが「コンピュータに最適化されたアヴァターって、カーソルでは?」みたいなことを言われていて、僕はこういう「ヒトではないものになる」といった話になった時、なにかおどろおどろしい感じ……「遺伝子組み換え」みたいな大きな話になりそうですが、逆に「カーソル」などのとても小さいところでも、そういったことが起こっているのではないかという気がしているんですよね。
 「カーソル」という、何かを指すだけの存在にヒトがなってしまっているような。もしかしたら、カーソルはヒトが今までに持っていた機能を特化させて行なっていた行為を、画像として肥大化させたのかもしれません。ヒトがコンピュータと触れ合ってる中で、とても小さなところから、今までとは違った部分がヒトに出てきて、少しずつ変わってきているのかなと思います。カーソルやGIFがその変化を考えるきっかけになるのではないでしょうか。
畠中:もともと水野さんはインターフェイス論が専門で、カーソルというものを研究されているのですが……ちょっと今回、GIFというものがキーワードになっているのと同じように、インターネット上のインターフェイスが、ポスト・インターネットと言われるようなものに影響を与えていると考えられますか?
水野:ちょうど僕がこの展覧会を最初に観に来た時、今、畠中さんがおっしゃっていたように、僕は主にカーソルとかの研究をしていたこともあったので、一連の展示が「デスクトップのリアリティ」にとどまっているような気がしたんですね。本当は、それをインターネットにまでつなぎたいんだけれど、そこ(デスクトップ)の周りでグルグルと周回しているような感じだったので、そこをどう結びつけるのかを考えるために、今日は「GIF」を持ってきたわけです。
 しかし、その「デスクトップ・リアリティ」と「インターネット・リアリティ」という二つのリアリティがあるとしたら、そことの接続はちょっと……まぁ、接続する必要があるのかどうかもまだわからないですが、そこにもまた二つの異なるリアリティがある気がする。だからそれをつなぐのは、やはりブラウザみたいな装置なのかな、という感じがしています。だからブラウザで表示するのに適したGIFとかが、二つのリアリティをつないでくれるのかなと考えてたわけです。
畠中:たしかにそういったものに規定されているわけじゃないですか。例えばカーソルならカーソルに規定されたうえで、インターネットを触ったり、その中に入っていったりする。それ自体も感覚を規定してるわけでしょう。そうしたときに、そこでの影響関係とか、やっぱりあるんじゃないですか?
谷口:僕が最近思ったのは……これは以前話したことがあるのですが、MacがOS X(10.7)になってから、デフォルトのスライダーの方向が逆になったじゃないですか。今までは、下に下げたらページも下に下がる仕組みだった。つまり右側にあるスライドバーを握って下ろすのと同じ仕組みだったと思うんですね。それって、このブラウザが何らかの「窓」になっていて、その「窓枠」をこうやって動かすのと同じ動きなんですよ。窓枠の向こうにあるコンテンツを、その窓枠を動かすことで見るっていう仕組みですね、そこで「スライダーを動かす」というのは。だけど今では、それが逆になっていて、書類に直接触れて、向こうに飛ばしているわけです。これって、やっぱりiPadとかiPhone以降のことで、窓枠の向こうに書類があるのではなくて今ここに書類がある、というように、一個手前にレイヤーが来ているんだな、というのはありますね。
畠中:本当に触っているわけだからね。
谷口:なんかそれが「インターネットがチープになる」ということと常につながっていて、「遍在している」感じとも近いのかな、という感じがしました。レイヤーが一歩手前に来た、というか。
畠中:触ればそこに、ある?
谷口:あるんじゃないか、という近さを感じますね。
畠中:それってたしかに、インターネットとかデヴァイスを規定するものですよね。例えばARなんてものをやろうとした時には、「窓」というか、すでにそこにある情報がそこに表示されて、もうちょっと触覚的に扱えるものになっているかもしれない。実際、iPadなんかも画面を触るわけだし。
栗田:将来的にはマウスパッドもなくなる可能性があって、(ジェスチャーを交えながら)こうやったらパソコンの電源が落ちるかもしれないし、それこそ脳波で「フン!」ってやったら(画面の中身が)下がるかもしれない。ただ、最近ではチョロチョロとトレンドが変わってくるので、僕みたいに90年代からネットの細かいところを見てきた人からすると、もうしょっちゅう仕様が変わるじゃないですか。Facebookにしても週に1回ぐらい、小っちゃなところが変わったりする。デザインとかが少し変わると感覚が狂ってしまったりすることもありますが、80年代後半生まれの(ポスト・インターネット世代の)人たちの場合、「そういうもんだ」ということで(その変化を)受け入れられるのかもしれない。
 あと、どれだけの信頼性とか美徳とかをそこに置いているのかは、ちょっと気になるかな。前に(ポスト・インターネットの作品は)「普通に美しくない」って言いましたが、世代によってその感覚も違うのかもしれないし、今のネットっぽさを表わしているのかな、とも思います。
萩原:その「フォーマット問題」というのはすごく感じます。特にプログラムを書いていると、母体のアップデート……例えばFacebookのプログラムを書いてて、APIの仕様が変わったりすると、想定していたものが全部できなくなったりすることがあるんですよね。もっと大きなシステムで言えば「MacのOSがアップデートされたらスクロールの方向が上下で逆になっちゃった」とか。そんなレヴェルの「大きい改変」が、コンピュータの世界では頻繁に起こる。
 このあいだの打ち合わせでも言っていた話なのですが、本の世界で「オフセット印刷ができました!」というような革命が、月単位で起こるのがブラウザの中の世界で、変化することがあたりまえという感覚がどこかにある。「1カ月後にはFacebookのページ表示をタイムライン表示にします」とか、今まで想像もしなかった変更が起こる。たぶん2、3人の決定で、全世界のブラウザ内の様子が変わっちゃう。
 そもそもHTMLという言語自体がそういうものなのかもしれません。先に出た西海岸の作家がノリでやっているのがいいのって「仕様が変わったら、またそれに合わせて作ればいいじゃん」みたいな場当たり的なところにあるような気がする。形式に対して、あまり守りに入らないんですよね。常に「攻める」というか「サーフしてやるぜ!」みたいな姿勢の作家が多い気がしていて、「テクノロジーを怖れない」というか「ひとつの波として(それに)乗っかれ!」というか。
畠中:でも、ちょっとよくわからないところでもあるのですが、この座談会の中でも、よく「ハッカーとデフォルト」とか言っていたでしょう。で、ハッカーって言うと、ハックする相手は……ある種、変わらない、不変的なものが対象で、それに反抗していくような態度なのだと思うけど、今度はその相手もコロコロ変わっちゃうわけだから、それに合わせてやっていけばいい、みたいな感じですか?
谷口:それはちょっと「あるかな?」という感じはしますね。Web 1.0系のアーティストって、何らかのプログラム作品を作っていたじゃないですか。だけどそれらの作品って、ブラウザが変わったりOSが変わっちゃったりすることで動かなくなっちゃう。メディア・アートの世界でもその問題はけっこうありますよね。
 それこそ西海岸系のアーティストが「サーフィンするようにネット空間を渡り歩く」という感覚をわかっているのは、今はかつてよりもOSやブラウザのアップデートの頻度がすごく上がってきているからこそ、そういった中でも「変わらなかった」ファイル・フォーマットとしてのGIFとかJPEGに主眼を置いたり、それらが主体になってきて……そういう小さいファイルになることによってサーフしていく、というか。GIFだったら、15年経った今でもまだ見られるわけですよ。そういうことじゃないかな、と思いますね。
畠中:あ、そういうことなんだ(笑)。
栗田:でも、それってあるような気がします。Webデザインの世界でも、一時はIEでもSafariでも、全部のブラウザで同じようにサイトを見たいというユーザーが多かったのですが、最近ではレスポンシブル・デザインとか、言い方は色々ありますが、ブラウザのサイズや状況に応じて「同じ情報を見ているのだけれど、見た目は違っていてもいいじゃん」みたいな柔軟性は、だいぶ出てきてはいるんですけどね。そこに来て、改めて強いのはGIFファイルだったりして、どんなブラウザでも、iPhoneでも見られる。やっぱりそいつらが強い……というのは、本当におっしゃるとおりです(笑)。だんだん「降りてきている」と言いますかね。サーヴィスも充実してきているので、もっとファイル形式とかそれを組み立てる言語のほうに安定を求めるというか。
谷口:だから何となく、ポスト・インターネット系のアーティストがファイルっぽい作品……GIFとか、小さいプログラムの作品が多いのは、そういうふうにサヴァイヴしていくために、時代が経っても、ブラウザの仕様が変わったとしても変わらない、ミニマムなファイルになっちゃう、というふうにも見えてくる。

B08|「ポスト・インターネット」アートの「陳腐さ」や「安定」は、一種の「後退」なのか?

畠中:そこであえて意地悪な問いを投げるとすると……「安定を求める」なんて言葉もありましたが、前には「前衛」云々という話も出てたじゃないですか。その前衛という話と今の安定という話では、まったく逆向きでは?(笑)
谷口:けっこう、キッチュっぽいですよね。
畠中:たしかに向こうのポスト・インターネットのシーンの中で「チープさ」とか「平凡さ」とかがキーワードになっているみたいだけれど、なおかつ、いわゆるハッカー的なネット・アートがコンテンポラリー・アートを志向することによって、むしろそういった「安定的なコンピュータ・アート表現みたいなものに向かっている」というふうには考えられませんか?
谷口:いや……本当に“そういうふう”にも考えられますよね(爆笑)。やっぱりかつてのインターネット・アートのほうが前衛的で、ハック的だったじゃないですか。
畠中:ちょっと破壊的な感じがあったよね。
谷口:唯一それが、まだ前衛として感じられるのは「* new jpegs *」みたいなアプローチだと思うんですよね。実空間との関係性を再構築するというか、考え直すとか壊すという意味において、それは前衛だと思う。だけど、インターネットでの、プログラムを駆使するような構築的な前衛は、もう終わってしまったのかもしれないと思うんですよ。
畠中:形式の問題とかにも言及されるのかな、と思って、前に「* new jpegs *」の話とかをしたときに……あ、ちょっとコレを見せてもらっていいですか? ドイツのアーティストなんだけれど、イミ・クネーベル(Imi KNOEBEL)という人がいて、彼はボイスの弟子だったりした人でもあるのですが、やはり絵画の構造みたいなものを扱ってやってきたのだけれど、この作品なんか、ちょっと「* new jpegs *」と……似てるでしょ?(笑)。これなんかもマレーヴィチへのオマージュということで、裏返っているのかな? マレーヴィチというのは幾何学的な抽象画を描く人だけども、たぶんこれはその背景と……地と図が、絵の裏側を見ているみたいなところがあるのではないかな。そういう形式性への批評的観点が、その「* new jpegs *」の中にもあるような気がする。だけど、じゃあコンピュータ界隈からすると、それってどういうふうに見えるのかも、ちょっと気になるんですよね。たしかに、その「* new jpegs *」の作家たちの持つある傾向は、美術の問題としては非常に興味深い接点を見出しているような気がするわけですが……。
谷口:そこでの「コンピュータ界隈」というのは、具体的にはどういうことですか?
畠中:インターネット業界でも何でもいいのですが……そちら側からすると、ポスト・インターネットと言われている志向性はどうなのか? これは栗田さんあたりに伺ったほうがいいのかもしれないけれど、その接点というのはどんなふうに受け止められているんでしょうか? 先ほどの「陳腐さ」とか、ある種のポスト・インターネットの作家が持っている「安定」とか、色々なキーワードが出てきていますが、ある意味それらの動向が、ちょっと後退しているように思えるのか/思えないのか、というあたり。
栗田:ちょうど2日前ぐらいに、UBERMORGEN.COM(http://ubermorgen.com/)のプレゼンテーション[*16]を見に行ったのですが、彼らは90年代から作家活動をやっていて、「Googleの広告でGoogleを買う」[*17]とか、ネット上のプロジェクトをやっています。昔はウェブサイトも作っていたのですが、基本的にウェブサイトもインスタレーションも、作品としての区別は全然していないですよね。今回もリサーチの為に来ていて、作品の最終目標はまだ決まっていないのですが、色々なところにリサーチに行って、普通に真面目に話を聞いて、資料もメチャメチャ持って帰っていくのだけれど「じゃあ作品、何を作るの?」みたいな感じなんです。
 彼らはすごくパンクで、激しい考え方をしたアーティストなんだけど、マニフェストでは「私たちには政治的な背景は一切ない」みたいなことを言っている。たまたま「この仕組みはおかしい!」とか「この仕組みには違和感がある!」みたいなことをやっているけれども、作品はもどれも(オフラインだろうがオンラインだろうが、また実体のない作品もあるのですが)すごい強いパワーがある。《GWEI–Google Will Eat Itself》も図しかないんですよね。「何も作品にはできない」みたいなこともやってきた、ちょっと特異な作家だと思うのですが、そういうUBERMORGEN.COMのような作家が長年活動を続けている姿からは、やっぱりアーティストとしての力強さを感じることができます。
 かたや、今の僕らが見ているようなポスト・インターネット系の作家というのは、この2年間ぐらいの活動が面白いな、という感じ。その中から僕らも共感できるところを採用したようなところもあるのですが、まだまだみんな若い世代で、次に何をやるかはわからない……だからちょっとレース感覚もあって、誰が先にメジャーなギャラリーと契約するか、みたいな話題もあって、その中でもやっぱりラファエル・ローゼンダール(Rafaël ROZENDAAL)が、アートやファッション分野への接続にうまく成功していて、かつわかりやすく説明もする。
 先ほど、西海岸系とかヨーロッパ系とか言いましたが、個々の作家の価値観は違ったりすると思いますよ。例えばF.A.T. Lab(http://fffff.at/)とかは、「Graffiti Research Lab」(http://graffitiresearchlab.com/)などいろんなメンバーの人たちがやっているのですが。あれも、ポスト・インターネット系のアートを直接ネタにはしていないですけれど、確実にポスト・インターネット系のクリエイションはやっているわけですね。そこに今見ているような質感はないかもしれないけれど、今の時代でしかできない、みんなが(ネットにつながることで)アクセスできるような表現というのは、いっぱい出てきている。でもやっぱり、作家性とか、オリジナル/コピーの問題とか、著作権の問題とかは、だいたい共通してありますよね。ではそれをどうやって乗り越えるかは、まだ見えていないところでもある。
 だから、さっき出てきたUBERMORGEN.COMのような強い作家はたぶん今後も生き残っていくと思うので、そこに次の世代もうまくリンクしていくと、次のシーンが見えてくるのかな、というのはありますよね。こうした一連のポスト・インターネット的な現象も、今回水野さんが発表された内容をまとめられて、できれば本にしていただきたいぐらいです。「志向的に共通するものを見ていく」ということは、今後も積極的にやっていきたいと思いますね。だからと言って、別に今の世代だけがものすごく未来を切り開いている、というわけでもないとは思いますけど。

B09|ネット・アートの「インターネット・リアリズム」と、美術界での「インターネット・リアリズム」と

畠中:やっぱり僕が思うのは、「インターネット以後」という状況がすごく影響あるというか、「インターネットがなければ出てこなかっただろう」という発想があり得るわけですよね。事実、アートはこういったものから、ずうっと影響を受けているし……。で、僕としては、その系譜として、例えばポップ・アートみたいなものがあったり、あるいは資本主義リアリズムみたいなものがあったと思う。資本主義リアリズムというのは、そんなにメジャーな動向ではなかったけれど、かつてのゲルハルト・リヒターとかジグマー・ポルケのようなドイツの作家たちが「資本主義リアリズム」を標榜して描いていた絵がある。そうすると、ちょっと「インターネット・リアリズム」みたいなことも起きうるのかな、と思ったりするわけです。もしかするとそれは、今、インターネットの側から発想されているものから例を挙げられているけれど、普通に美術のほうから出てきてもおかしくないのかもしれない。
 今、「キャラ」だとか、ネット界隈から出てくるアートというものもありますよね。で、そういうものが出てくるのと同じように、やっぱり「ネット以後の表現」というものがあって、「インターネット・リアリズム」と言ってもいいようなものが出てきている。それを、あえてそれと区別する言葉なり基準なり、それを規定するようなものがあるのかな、という気がする。ここ(ICC)はメディア・アートを取り扱う場所だし、多少はネット・アートの歴史を背負っていたりもします。今日の話には「ネット・アート1.0」みたいな話もあったけれども、そうした連続性の中でネット・アートの展開を考えていったときの「インターネット・リアリズム」みたいなものと、一般的に美術の世界で起こっている「インターネット・リアリズム」みたいなものをどう区別する言葉があるのかを考えるべきではないでしょうか。
谷口:けっこう難しいところですね。今日取り上げた作家の出自はけっこうバラバラなところがあって。たしかトム・ムーディは、もともと画家でしたよね。普通に平面を描いている画家だったんですが、そこからGIFアニメを作るように転向していったところがある。逆にコリー・アーカンジェルはもともとハッカーっぽい人で、純粋にプログラマですよね。最初期にけっこう有名だったのが、ファミコンの『スーパーマリオブラザーズ』か何かの画面をハックして、雲だけがずっと遠泳してる作品[*18]だったんですよ(笑)。
畠中:例えばリキテンスタインがああいう(コミック的な)イメージを絵画として描くのと近いイメージもありますよね。ただ「そんなの区別はないでしょう。今はもう、メディア・アートもいわゆるファイン・アートも変わらないのだから、同じようにやっていくべきだ」という意見も当然あるだろうし、それもわかるんですけどね。
谷口:ただ、何となくメディア・アート的、インターネット・アート的な系譜からいくと、「インターネットとの関係が変わった」というのはあると思いますね。現代美術とかの文脈で言えば、インターネット以前と以降をある時代の区分として考えることができる。だけど、メディア・アートの側から言うと、ずうっと前からインターネットをやってきたわけじゃないですか。だけどそこでの関係性が変化してきた。ある意味では(かつてのように)ハッキングができなくなってしまった、ということも関係あるのかもしれませんね。
畠中:そろそろ、終了時間が来てしまいました。何か質問があればお受けしますが。ネットからも拾えるかなと思いつつ……あまりなさそうですね(笑)。Twitterでも質問があればよかったのですが、会場のほうからも何か……大丈夫ですか?

 次回、来週の土曜日は、ついに問題作《インターネット史上最も悪名高き女性》の作者であるパーカー・イトーが、アメリカからはるばるやってきます。パーカー・イトーは、「* new jpegs *」にも参加しているし、当地のポスト・インターネット運動にもコミットしている人です。ここはひとつ、ポスト・インターネット研究会のメンバーで立ち向かう、と(笑)。では水野さん、最後に何か言い忘れたこととか、ありませんか?
水野:この(今日の座談会のために)作ったファイルは(ネットに)上げて、Google DOCSで見られるようにしておきますので……再利用してください。(https://docs.google.com/document/d/19Nq0oJajtslfebg0Rny_LNV4G0908JQlpC2i9e8SVAg/edit?pli=1)
栗田:最後にひとつだけ、水野さんにお訊きしていいですか? 水野さんは学生とかに教えられる立場だと思うのですが、こういう(ポスト・インターネット的な)話題を今の学生に話した時の反応とか感覚とか、何かあれば教えていただけますか。
水野:あ、この「GIFとJPEG」のことについては、一部の学生は面白がってくれますけど、すぐに思い浮かぶものとしては、むしろ「mixiとFacebookの違い」のようなSNSのサーヴィスのほうが「質感が違う」という言葉が出てきますね。でも、まったくスルーされるわけではないのですが、100人いたら、このへんを面白がってくれる生徒は1割弱くらいですかね。今後、東京藝大でもこの話題で授業をやってみようと思っているので、その時にどういう反応が来るのか、楽しみです。講義の受講対象者も、彫刻科とか音楽科とか、色々な専攻の学生さんが来るらしいので。まあ、人数がどれくらい集まるかはわかりませんが、こういう話をしてみて、どういう反応が返ってくるのかを楽しみにしつつ、またそれを活かして何か考えられればいいかな、と。今日の話からもいろいろなヒントをいただきましたので、ありがとうございました。
畠中:では、座談会の時間が予定よりも長くなってしまいましたが、本日のトーク・イヴェント「『ポスト・インターネット』を考える(β)」を終了します。来週のパーカー・イトーさんも楽しみにしてください。彼の作品もどんどん増殖中ですが、来週中にはさらに6点が追加される予定です。だいぶ絵ヅラが変わっているので、ちょっとビックリするかも。会場でその変わりようをご覧いただけたらと思います。というわけで、今日お越しいただいて発表してくださった水野さん、並びに研究会の皆さん、どうもありがとうございました。
一同:ありがとうございました。

【終わり】

脚註

[*1] あとで書籍化もされています:Gene McHUGH, “Post Internet,” LINK Editions, 2011.
http://www.amazon.co.jp/dp/B006VOLRRO

[*2] 最初のほうで「ポスト・インターネット・アートはインターネット・ワールドから離れていっている」と指摘しています:「Post Internet」2009年12月29日のエントリ参照。
http://122909a.com/?p=3161

[*3] 彼女は黄金にペイントしたカセット・テープの作品などを制作しています:《Time Capsules》という進行中のプロジェクトのこと。「フォート・ノックス・スタイル」(ケンタッキー州フォート・ノックスにある米国連邦金塊貯蔵所に保管されている金が実はメッキされた偽物である、という噂がある)で金色にペイントされたオブジェクトを複数用いて、埋立地やゴミの山に見立てたサイト・スペシフィック・インスタレーションとして展示されることが多い。

[*4] 黄金にしたガジェットを壊したりする動画を、YouTubeに上げたりもしています:《Golden Oldies》のこと。32分間のパフォーマンスを編集した抜粋版がYouTubeで視聴できる。
http://www.youtube.com/watch?v=kb8CMI6JANM

[*5]  消えゆくガジェットを表示させたディスプレイの上に紙を載せて、その形態をトレースした作品を作って、それらをFlickrなどに上げたりしています:《Monitor Tracings》のこと。
http://www.flickr.com/photos/marisaolson/sets/72157602681001997/

[*6] 「From Clubs to Affinity: The Decentralization of Art on the Internet」:2011年1月6日に、「491」というサイトで発表(http://fourninetyone.com/2011/01/06/fromclubstoaffinity/:現在はページ消失)。ブラッド・トロメルの著書『Peer Pressure』(LINK Editions, 2011)に収録されている。
http://thecomposingrooms.com/research/reading/repeatpattern/Brad_Troemel_peer_pressure.pdf

[*7] 2008年にニューヨークのニュー・ミュージアムで開催された「ネット美学2.0(Net Aesthetics 2.0)」というパネル:2008年6月6日、出演:ペトラ・コートライト、ジェニファー&ケヴィン・マッコイ(Jeninifer and Kevin McCOY)、ティム・ウィデン(Tim WHIDDEN)、デイモン・ズッコーニ(Damon ZUCCONI)、トム・ムーディ。
http://archive.newmuseum.org/index.php/Detail/Occurrence/Show/occurrence_id/1048
記録映像(トム・ムーディのプレゼンテーションは6本目)⇒ http://vimeo.com/album/51214

[*8]  APMT:APMT6:APMT CONFERENCE(http://www.apmt.jp/)のこと。2011年4月30日開催。

[*9] 『Protocol』:Alexander R. GALLOWAY, “Protocol: How Control Exists after Decentralization,” MIT Press, 2006
http://mitpress.mit.edu/books/protocol

[*10]  昔、藤幡正樹さんが『アートとコンピュータ:新しい美術の射程』という著書の中で「四次元からの投影物」と言っていた一節がありました:「四次元からの投影物——デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」(『アートとコンピュータ——新しい美術の射程』(慶應義塾大学出版会、1999)pp.119–124)参照。

[*11] 《TypeTrace》:2006年に開始されたdividualによるプロジェクト。コンピュータ上でのタイピングを時間情報とともに記録・再生するソフトウェア「TypeTrace.app」と、TypeTrace.appと連動してタイプされた軌跡を再現するキーボード「Kinetic Keyboard」で構成される。「[インターネット アート これから]」展では、このシステムを用いた《タイプトレース道――舞城王太郎之巻》(2007)を展示した。
http://typetrace.jp/
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2012/Internet_Art_Future/Works/work05_j.html

[*12]  例えばTumblrで発表する場合は、短いループの中でコマ数を増やしたければ色数を落とさなくてはならない:2013年3月現在、TumblrにGIFアニメーションを投稿する場合、サイズ1MB以下で幅500ピクセル以下でなければならない(2012年1月より、サイズ制限は512KBから1MBに変更)。

[*13] 「(作品を)作る側と観る側がいっしょ」ということですね:prosumerは「producer」と「consumer」をかけた造語。アルビン・トフラーが著書『第三の波』(1980)で提示した。

[*14] おそらくクリス・コイ(Chris COY)のものだと思います:クリス・コイ《0823_2011.jpg》(2011)のこと。

[*15] 先日の「文化庁メディア芸術祭」のシンポジウム・テーマでもあった「マッシブデータフロー」:文化庁メディア芸術祭 テーマシンポジウム「“マッシブデータフロー”の時代のメディアアート」(2012年2月29日、出演:池上高志、江渡浩一郎、畠中実、後藤繁雄)のこと。
http://www.ustream.tv/recorded/20771592

[*16] UBERMORGEN.COMのプレゼンテーション:「(講義)メディア・ハッキング vs コンセプチュアル・アート & the 0.01%」2012年3月2日、ARTS FIELD TOKYO
http://artsfield.jp/lecture/000202.html

[*17] 「Googleの広告でGoogleを買う」:《GWEI–Google Will Eat Itself》(2006)のこと。ICCでは「コネクティング・ワールド—創造的コミュニケーションに向けて—」展(2006)で展示。
http://gwei.org/
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2006/ConnectingWorld/Work/GWEI_j.html

[*18] ファミコンの『スーパーマリオブラザーズ』か何かの画面をハックして、雲だけがずっと遠泳してる作品:《Super Mario Clouds》(2002–)のこと。
http://www.coryarcangel.com/things-i-made/supermarioclouds/

◎展覧会情報

インターネット・リアリティ研究会による
[インターネット アート これから]
――ポスト・インターネットのリアリティ


会期:2012年1月28日(土)—3月18日(日)
会場:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC] ギャラリーA
主催:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2012/Internet_Art_Future/index_j.html


座談会「『ポスト・インターネット』を考える(β)」

2013年8月5日 発行 初版

著  者:インターネット・リアリティ研究会
発  行:インターネット・リアリティ研究会+ICC

制  作:大岡寛典事務所/畑友理恵

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