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亜 人
三人の女に
地図にも年表にも載らない話だ。そのような切り出しかたが許されるだろうか? ひとを食ったような無礼さからはじまるひとつづきの言葉にわざわざ耳をかたむける奇特な人物がいるとでも? だが、その種の無礼を前提にすることでしか語れないなにごとかがあるはずだ。地理に見放され歴史からもはぐれた辺境によりそうことを決意した言葉だけが浮かびあがらせることのできる諸相というものが。事物にひそむ崇高さがおしなべてまがいもの扱いされる世からは遠くへだたることではじめて可能になる啓示の舞台が。それがアルシドだった。意味とは群れをなすでもなく束になるともなく、それでいてこぞってこちらのあとをつけるうすぎたない追いはぎどもの別名である。
アルシドという呼称が熱帯の海洋に浮かぶ二十三の島々からなる群島全体を名指すものであるのか、それとも領主の館を中心に栄えた城下町といくつかの村落から構成されている主島を名指すものであるのかは定かでない。定かにする必要もないだろう。領土はせまく、歴史はあたらしかった。太陽の通り道からは幾分はずれた地理にあったが、熱くまばゆく降りそそぐものは惜しみなく、残照の夜を徹することも稀ではなかった。原色の花々は肉感的に咲きみだれて蜜を垂らし、鈍い音をたてて雨粒をはじきかえす分厚い葉々は地面に近く重なりあっていたるところに湿った暗がりをなしていた。森は影よりも深く、谷は骨よりも嶮しく、沼には龍がひそんでいた。真珠色の浜からは空と海の直に接して果てているのが遠目にながめられ、あるかなしかのその境界が黒いひとすじとして瞳に映じる日にはきまって死者が出た。ひとびとの肌はいまなお白かった。島民の大半は大陸から海をわたってやってきた移民の末裔であったが、四代前の領主が独立を宣言して以降長きにわたって続く大陸との争いに勝利の旗印をあげるまでは、決して肌を黒く染めるわけにはいくまいとかたくなに決意しているのだった。
領主は大陸の由緒ある軍人の家系だった。当時はまだアルシドではなく別の名で呼ばれていた諸島への統治の命を受けて、ガレー船にありったけの部下と物資と移民志望者をのせてはるばる大陸からやってきた初代領主の階級が大佐であったことから、その子々孫々にいたるまでもが島民からは遠巻きの親しみといささかの揶揄をこめて大佐と呼ばれているのだった。独立不羈の十全なるあらわれか、肌はとりわけ白く、頭髪までもが四十路を待たぬうちに銀色に輝きだすのは一族共通のしるしであった。背筋は頭をさげることなど知らぬとばかりに尊大にのび、高々と張られた胸板は大理石の高貴なひややかさを片時も崩すことがなかった。両の脚はといえば大樹の根であった。土にささえられるのではなく、むしろ手なずけた。歩行には龍の歩みを思わせるそぶりがあった。太刀をふるえば右に出るものはおらず、刀剣をたずさえた立ち姿を前にすれば戦の神々さえもが余念なく武具の手入れをはじめるほどだった。きわめて直情的な太刀筋は心得のあるものならばだれにでもたやすく読めはしたものの、いざ真正面から相対するとなるとその刀身からほとぼしる輝く湯気のような凄みに四肢をからめとられ、気づけばむき身の命をあられもなくさしだしてしまうのだった。さしだされたものを断ちわる大佐の手つきにはいっぺんの躊躇もなかった。情容赦ないという言葉がこれほど似つかわしい人物も稀であった。仮に自死の必要が納得されたとすれば、大佐はなんのためらいもなくみずからの首を刎ね落としたにちがいない。四十もなかばをまわるころには一族の例にもれず、総白髪に白髭をたくわえた隠者の体をなしたが、体格はあくまで屈強で眼光はするどく、戦陣にあろうものなら野心を燃やす兵卒どもより先にたって斬りこみ、だれよりも多くの返り血を浴びた。戦に燃やす細胞の数が人一倍多いがゆえに老いのおとずれもまた人一倍はやいのだろうか? 老いの兆候はそのまま名誉だった。きざせばきざすほど島民の信頼は篤くなり、兵らの旗印をながめる目つきが澄んだ。魂の感受性の異様な繊細さにも恵まれていたが、これは当代領主のみに見られる突然変異のあらわれと見なされていた。世界と詩と魂が三位一体となってとりむすぶ崇高な共犯関係をたどるその目つきは、賢者のものとも戦士のものともつかぬ裸身のするどさに見開かれ、ときにあられもないほど無防備だった。太刀筋を競わせるさなかにさえのぞくその危うさに射ぬかれると、進んで斬られたい心地になった。
大佐は完璧な詩人だった。言葉の誤りを指摘されるたびに、むしろその言葉によって指示しようとした当のものを誤用された言葉に見合うべく変形してみせる、しなやかで強情な鑿の振るい手だった。戦の大半は海戦であった。海神の御心によるものか、群島のきわめて複雑な配置によって呼びこまれる海流は陸よりも海で過ごした歳月のほうが長い老水夫たちにすら容易には見定めがつかぬほど気難しく、大陸から派遣される軍船の大半はアルシドに上陸することはいわずもがな、敵を迎え撃つべく海上で待ちうける大佐の船に接近することすらままならぬうちに、あるいは沈没し、あるいは退却するありさまだった。ごく稀に接近に成功したところで、無数の巨大な海蛇どもによる見境ない交尾の波及かとも思われる潮のうねりに踊らされる船上では二本の脚でたつのもやっとのことで、地の利があるアルシド軍からむけられる千もの弩によって狙い撃ちにされるのがせいぜいのところだった。横づけしようものなら、大佐の太刀が死神の大鎌のように次々と首を刎ねた。大陸に攻めいるだけの戦力にこそ恵まれていなかったものの、アルシドの防衛にぬかりはなかった。
潮に砕かれ波にのまれた船が背骨を鳴らしながら沈んでいくありさまは大佐の死生観に少なからぬ影響をおよぼした。沈没はいつもおおうずをともなった。ひきよせ、めぐらせる力とは、まさしく支配そのものだった。うずの中心にはまだだれも見たことのない海底への入り口が開けていた。漂流物にしがみついてひとまずの難を逃れた敵兵どもが徐々にその円周運動をせばめながら無限の胃袋へと接近していくむごたらしさには、血も情けもない歴戦の兵らでさえもがおもわず目を背けた。義務とも権利ともつかぬ一語に影が縫われていたのか、ただ大佐だけがそうした一部始終を直視しつづけた。いちど二隻の敵船が横ならびに沈没したことがあった。そのとき大佐は三十もなかばをまわったところで、かたわらにはまだ亜人の姿はなかった。隣りあったふたつのおおうずの流れはさかしまで、肩をかすめてすれちがうその接点にむけて船体から切り離された船首像がそれぞれの円周上を波間にかしぎながら押し流されていくのが見えた。稲妻のような音は衝突にずいぶんと遅れてとどいた。それから巨人の歯ぎしりのような鈍い音が海上でぎしぎしうなりをたてた。二体の船首像はまさしく首をからめあう動物のようにして接点上にとどまっていた。腰までとどく長いあごひげを痩せさらばえた半身に垂らした王冠の老人と、裸の胸を張って顎をこころもち高くあげた若い娘の像だった。娘の後ろ手は二の腕から先が猛禽の翼になっていた。つかのまの愛のやりとりにも、和解した親子の絵姿ともとれた。相対する力に屈していまにもまっぷたつにくずおれかねぬと危ぶまれた神話の形象は、啓示にしてはあまりに長く現世に踏みとどまり、ほとんどおおうずをせきとめんばかりだった。それぞれの領分にむけてひきさらわんとする力に両者がとうとう打ち負かされると、名残惜しくよせあった頬と頬を中心に二体の船首像はぐるりとその場で反転した。そのままおのおのの海流に運ばれひき離されるものとだれもが考えたその瀬戸際にあって、しかし反転は反転にとどまらず、みずからをみずからたらしめる掟の一線を越えて回転にいたると、よりそう頬の力点を軸に第三のうずを形成しはじめた。うずははじめのうちはおずおずと控えめに、しかしみずからの威光を自覚するにつれてほとんど傲慢なまでの奔放さで勢いを増すと、もともとあった二つのうずをもその流れにとりこみ、たちまち大佐らの船をも巻きこまんばかりに巨大化した。人類誕生以前には日常茶飯事であった原始の営みが、時空の大穴を抜けてはからずも現代に露呈したかのようだった。船員たちが大慌てで行きかい叫びあう甲板上の喧騒にあって、ただ大佐だけが例のごとく、巨鯨が迂回し海獣どもが祈りをささげる未踏の海域へとしずかに沈みさっていく神々の姿にむけて不動のまなざしを送りつづけていた。潮の乱れがおおかたおさまり、海面の白い泡だちがぷつぷつと解消され、ぶつかりあう波のしぶきが甲板にとどかなくなるころには、騒ぎを聞きつけたかしましい海鳥どもの姿ももはやなく、漂流物の大半は四方八方へとゆるやかに散在しはじめていた。すでに太陽は水平線に接せんばかりのところにまでかたむいていた。大佐は船医を呼びつけて左目の痛みを訴えた。去りゆく神々を見送るあいだじゅうまばたきひとつしなかったことが原因で瞳が砂のように乾いてしまったのだった。痛みは三日目の夜に峠を迎え、その翌朝にはナイフでうすく削りとった貝殻の切片のようなものが瞳からはがれ落ちた。風に含まれた潮が結晶化したのだと船医は言った。するどさがするどさとして極まりかけたその代償としての隻眼であった。直視してはならぬものを直視した報いともいえた。
左目の視力を失ってもなお大佐は戦の先陣を切りつづけた。片目となった大佐のかたわらにはすでに亜人の姿があった。敵船の沈没をその結末とする海戦ばかりが続いていたアルシドにはそもそも敵兵をとらえて捕虜や奴隷とする慣習がなく、亜人の一件はアルシドはじまって以来の例外だといえた。夜のうちの黒い嵐が乱れがちな潮の流れを一時的にただしたその間隙を偶然に突くかたちで群島の北端に位置する小島に上陸した大陸の船団を返り討ちにした際に、相手方の虜囚であったらしいその身元を大佐が気まぐれからひきうけたのだった。それをただの気まぐれで片づけてしまっていいものだろうか? 世にあるものごとがおしなべて脈絡なく生じるものだとすれば、およそありとあらゆる行為は気まぐれをその動機とすることになる、そういう意味での気まぐれではなかったか? 敵船上陸の報せが夜目の利く伝書鳩によって館内にもたらされたとき、大佐は太刀を片手にだれよりもはやく馬上のひととなった。大将でありながら斥候であるのが彼の宿業だった。鞘でありながら剣、握り手でありながら切っ先、命令でありながら従属であった。潮のひいた時間帯であれば、船を乗り継がずとも馬上のままに渦中の地まで諸島を横断することができた。館の門前に敷かれた硬い石畳から夜露に濡れて冷えた大地、密林のなかを蛇行する黒々としたやわらかな湿地から星明かりに青白く照りはえる微風の浜辺へと、蹄の音色がめまぐるしく変わりつづけた。生きるということは期せずして奏でられる音楽であった。はじまりからおわりへと心を方向づける旋律を厭い、なにごとかへの同期にむけて駆りたてるむきだしのリズムとささやかな音色の持続する変容だけがたしかな、ちょうど先住民らのあいだに代々伝わる儀式の伴奏を思わせる、そのような音楽であった。浅瀬にさしかかると大佐は片手に高々と太刀を掲げた。月光に照らされてあやしく艶めくその刀身にはいっぺんの慈悲すらにじまぬ大佐の相貌が銀色の死に顔となって映りこんでいた。大佐は命を落とさなかった。夜半にはじまりを告げた侵略はその夜が明けきらぬうちに見事に打ち破られた。敵兵の大半は戦死し、生きのこったものらもことごとく首を刎ねられた。森に逃げこんだものもいるらしかったが、十中八九、凶暴な野獣どもの餌食と化したにちがいなかった。夜が明けると潮風に吹きあげられてか、戦の舞台となった村落のあちこちから血が塩辛くにおった。餌場を嗅ぎつけた小動物らがいてもたってもいられぬとばかりにかさこそとせわしなく茂みをゆらした。逃げ隠れた敵兵がひそんでいるかもしれぬと太陽のひかりが十分にゆきわたった時刻になってからふたたび村落の調査がおこなわれた。亜人がひそんでいたのは村の漁師らが共同で使用している納屋の地下室だった。地下室の片隅には予備のともづながとぐろを巻く蛇のように巻きあげられて片づけてあった。亜人はそのともづなの下に敷かれていた筵の端に尻餅をつき、壁を背にひざを抱きかかえるようにして座りこんでいた。逃げだそうとするそぶりも抵抗しようとする気配も見せなかった。大佐の手にしたランプのひかりを真正面からむけられてもまぶしさに目を細めることもなければ視線を逸らすこともなく、一見すると衰弱しきっておりいまにも絶命しかねぬように見えたが、ひとたびたてと命令されればのろのろとした動作ながらも危なげない腰つきで補助もなしにたちあがってみせた。みずから命令を下しておきながら、大佐はそこではじめて相手が人語を解する存在であることを思い知り、ひどくおののいた。黄金色の炎に照らされたその顔にゆらめき浮かびあがる、到底ひとの顔がおりなすものとは思われぬ陰影の散在が目の前の相手にまとわりつく怪物的な印象をぬぐいがたくしていた。痩せさらばえて筋ばった身体は呪われた海域に楽園をもつといわれる半魚人の木乃伊のようであり、破壊された顔面は森の奥の湿地帯に隠れ棲む絵物語のなかの蜥蜴男にうりふたつであった。ランプの炎がゆれるたびに陰影は濃くなりうすくなり、長くなり短くなりしたが、石のようにかたくななその表情が崩れることは一瞬たりともなかった。そのような存在を前にしていったいだれが息をのまずにいられよう? 踏み越えられてはならぬ最後の一線だけが帯びることのできる畏怖の圧力が近づくものをみな硬直させ、やぶりがたい均衡を司っていた。それでいて次の瞬間にはあっけなくすべてが崩落するかと思われる脆さがどこまでも無防備にのぞきもした。相反するそれらの印象はまばたきよりもはやく交互にたちあらわれることで同居の体裁をとっているようでもあり、あるいは事実同居しているものの、焦点の合わせ方次第でどちらかいっぽうを前景に浮かびあがらせざるをえない見者の限界によって、一瞬ごとの交代を余儀なくされているようでもあった。
日のひかりのもとに連れだすと、醜悪な顔面は恐怖よりも憐憫の対象にふさわしく見えた。容貌の醜さが拷問によってきざみこまれた悪意の痕跡であるのか、彼の地で蔓延する未知の風土病によってもたらされた呪いのしるしであるのかは定かでなかった。あるいはその双方であったのかもしれない。舌は切りとられ、体毛は頭髪をわずかに残してすべて抜けおちていた。皮膚は乾き、ひびわれ、かびのようなかさぶたがいたるところにはびこっていた。顔面と四肢の末端はことさらひどかった。赤紫色に毛羽立ち、硬化し、さながら鱗であった。硬く厚ぼったいうわまぶたは黒目がちな瞳を斜めに横切り、ひととひとならざるものをへだてる不確かな境界線として鈍く艶めいていた。龍や蜥蜴の印象が色濃くたちこめるのもその線上であった。ある一点から別の一点へと最短距離でぎょろりと動く瞳の水っぽさが、そうした印象にますます拍車をかけた。囚人服と思われる襤褸を身にまとってはいたものの、罪人のようには見えなかった。おそらくは悪趣味な見世物小屋で働かされていたところを補給のためにたちよった大陸の船団によって発見され、母国へのいっぷう変わった手土産にといくばくかの銀貨とひきかえに興行主の手から買い受けられたといったところだろう——当てずっぽうのうわさ話が妥協を見るにいたった着地点はおおむねそのようなところであったが、一種の生贄として航海に先立ちさんざんに傷つけられ痛めつけられたあげく、ろくに食事もあたえられぬまま暗くせまい船室に監禁されていたにちがいないと大陸の野蛮な風習をそしる調子で語るものもなかにはいた。光線にくまなく照らされたその容貌はみすぼらしく、いかにも惨めたらしかった。大佐は地下での対面時におびえを感じたことをひそかに恥じた。あられもなく貧相なそのたたずまいは、内密にされた恥の意識を炎であぶった。高潔な人物がしばしばそうであるように、大佐には周知と内密をわけへだてなく遇する傾向があった。噛みしめる含羞には外面も内面もなく、天秤のかたむきはただちに是正される必要があった。大佐に亜人の身元をひきうけさせたのはそうした均衡の要請にほかならなかった。
多くの呼び名がそうであるように、亜人という呼び名もまただれからともなく口にされた軽口が流行病のように蔓延することでひとびとのあいだに定着したものだった。数の論理を前にそもそもの語義が追いやられ、あやふやな生ものの輪郭がそこにとってかわるという成り立ちは、領主一族の呼び名と同様であった。強いてその名をたずねるものなどいなかった。亜人は亜人であり、大佐は大佐であった。同語反復の閉鎖性に力を得ればそれは高貴となり、ひざを折れば下賤と見なされるのだった。亜人は声を発することもなければ身ぶりでなにかを訴えることもなかった。言いつけや命令にもおとなしく従い、呼びかけには直視でもって応えた。奥行きの深さがむしろ表面に結実したかのような、透明度の高さがそのまま色づきと化したかのような、どこまでも鉱物的なそのまなざしは相対するひとびとにいやおうなく針のひとつきにも似たうしろめたさをおぼえさせた。野生の動物が逃げもせずにじっとこちらを見返しているときにおぼえるような、人間であることの羞恥と戸惑いを亜人もまた対面者にもたらすのだった。
領主の館は時間から分離されていた。ひとけのない館内をさまよい歩く亜人の姿は館に仕える下働きの女たちをおびえさせ、警備にあたる兵どもの背筋に針金を通した。捕虜としてその身元をひきうけたとはいえ、大佐は亜人を地下に幽閉しようとはしなかった。館にある無数の客室のうちのひとつをあたえるとなればそれはそれで過分にすぎたし、家畜小屋をあてがうのはいかにも趣味が悪かった。熟慮の果てに、大佐はほんの数日前まで旅の賢者が居候していた図書室をそのまま亜人の居室としてひき継がせるよう侍女どもに命じた。戦続きのアルシドにあって図書室はほとんど無用の長物と化してはいたものの、決定の分不相応な印象は当の大佐以外のだれもがひそかに共有するところだった。ふたりめの賢者は文盲ときたぞ、叡智を枕になにを思うやら──皮肉めいた笑い話が館のひとびとの違和感をなだめすかし、反感の到来をぎりぎりのところで御した。図書室の扉は常時開放されており、部屋と館内の行き来は自由であった。おおかたの予想とは異なり、亜人は一日の大半を部屋の外で過ごした。はじめのうちは客室や士官らの控え室が両側にたちならぶ赤絨毯の廊下を行ったり来たりする姿がよく目についたが、時の経過につれて大理石の敷きつめられた無人の大広間をうつろにさまよい歩く姿が頻繁に目撃されるようになった。館の外には見向きもしなかったが、それでも逃走の意欲や害意の在処を探ろうとするまなざしの傾注が絶えることはなかった。傷つけられた過去を風化させぬために儀礼の場で慟哭してみせる先住民らのごとく、出会い頭にことさらおおげさな悲鳴をあげてみせる侍女らの魂胆が踊ることもあったとはいえ、ひと月も経たぬうちに亜人は広間の立像とさして変わらぬ無害な威容と見なされるようになった。鈴の音ひとつ許さぬ白々とした静寂が昼もなく夜もなく降りしきる大広間はだだっぴろくがらんどうとしており、壁ぎわには四階にまで達する吹きぬけをそのまま背丈とする巨大な騎士の立像が正面に剣をたずさえた姿勢を断乎として崩さぬまま、たがいに真っ向からむかいあうかたちでたちならんでいた。立像は代々の領主をかたどったものらしく、アルシドの独立を宣言する以前は代替わりするたびにあらたに建造されたということであったが、それほどまでに巨大なものをいったいどのようにして館に運びこんだものか、風習の廃れたいまとなってはだれひとり知るものはなかった。大広間はいたるところに設えられたランプによってくまなく照らされており、尽くされたひかりはまばゆく、蠅の影の忍びこむ余地もないほどだったが、本来ならばこのうえなく豪奢な印象をともなうはずのそうした可視性も、生きた墓場のような館のしずけさのうちにあってはさしずめ逃げ場のどこにも見当たらぬ不気味にはなやかな閉塞感、死角のことごとくが漂白されたおそるべき八方ふさがりとしてうらがえしに結実するほかなかった。磨きあげられた大理石に滴りおちる黄金色の光彩がなめらかにはねかえり、風のある日の木漏れ日のようにたえまなくゆれては輝かしくせめぎあうその逐一がまったくの無音のもとではじまりもなくおわりもなく亡霊の手まねきのように謎めきくりかえされる大広間を、亜人は高みからふりそそぐ瞳の欠けた騎士の睥睨を左右に受けながら足音ひとつたてずに、むしろ沈黙をより厳かにきわだたせるつつましさでうつろに徘徊した。好奇心や探究心とはおよそ無縁の、強いられるのでもなければ試みるのでもない、意味も目的ももたぬ、因果の鎖からはぐれた行為ならぬ行為としての徘徊だった。歩みは常に一定であった。のみならずいくらか鈍重でさえあった。腕をあげたり足を踏みだしたりするだけのなんでもない身ぶりひとつとっても人間には常に表情というものがつきまとうのだということが逆説的に理解されるような徹底した無表情性によって、その一挙手一投足はあますところなく律されているように見えた。自覚の範疇から遠くへだたり、認識の手がとどくこともなければその意味が問いの俎上にあげられることもない、だれの欲望にも基づかぬ非人称の矢印こそを推進力とし、背を軽く曲げ、首を前に突きだし、ものの気配なき大広間にみずからの気配を重ねてさまよい歩くそのさまは、冒険者の探索というよりは幽霊の彷徨のようであり、まぼろしに誘導される夢遊病者のようでもあった。ときおりなにかに耳をすませるかのようにしてたちどまることもあったが、真意は読みとれなかった。真意そのものの欠落を思わせぬところに、あてどないその歩みを機械じかけの産物として看過することを許さぬあやしげな余白が嗅ぎわけられた。大広間の頭上をぐるりととりかこむ吹きぬけの回廊をゆく途中、大佐はしばしば祖先の頭蓋を覆う鉄兜の陰に身をひそめながら眼下の光景をながめやった。ここから太刀を投げつければその盲目的な歩みもたちどころに途絶えるものを、その首ねっこ、ひねりつぶしてやろうか! 死の床に就いた病人の苦しげな寝がえりや痛ましいつぶやきを前に、いっそのことみずからの手ですべてをせきとめてしまいたくなるような、慈悲ともつかぬ白い殺意の胸のうちで昏々とわきあがるのを大佐は押しとどめることができなかった。亜人の姿それ自体が、おそれと軽蔑が交差するかすかな領域にあてがわれた特別な感受性の持ち主にのみ働きかけるひとつの作用であった。水の低きに流れるように、そのよわさこそが大佐の血の気をまねきよせるにちがいなかったが、まねくものは強く、まねかれるものはよわいという自然の理にもまたひとつのゆるぎなさがあった。そしてその自覚こそが硬い鑿の先端となって、祖先の立像にきざみこまれているのと同じような烙印めいた縦皺を大佐の眉間に苦々しく浮かびあがらせるのだった。そのような諸々の思念が列をなした言葉として輪郭を固める以前の不確かな範囲や危うげな領域のままたわんだり縮んだりしているあいだに、亜人は大佐の視界から消えさった。そして消えさったときになってはじめて、なぜ身を隠しているのかという驚くべき自問が大佐の額に刃物のようにひらめく──そんなことが幾度もくりかえされた。
罰の予感がすでに罪であり、罪の実感がつねに罰であった。めざめと同時に今日がその日だとだれもが直感せざるをえない完璧な凪の数日というものが一年のうちに何度かおとずれた。島の言葉で︽蜥蜴の服喪︾と呼ばれる、落とし穴のような数日だった。そうした日には戦もひとりでに遠ざかった。亜人をはじめて館の外に連れだすのにこれほどうってつけの機会もなかっただろう。骨の谷で発見されたという巨龍の化石見物が、大佐がみずからの用向きに亜人をともなう最初のできごととなった。見物の帰り、浜辺に沿って島内をぐるりと迂回する道のりをとった一同の前に、一個の腐乱死体がたちふさがった。顔ははがれ落ち、四肢は海水にふやけて蛭のように輪郭をなくし、男か女か、子供か年寄りかさえ見たところ判別できなかったが、ふくらんだ体をぴったりと包みこむ藍色の軍服が大陸の兵士のものであることは疑いなかった。さえぎるもののない海からの光線にいぶされてにおいたつ塩漬けの腐臭は舌にしみ、誘われるがままにしみだすもののいかにも野蛮で汚らわしく思われた一同は、馬上から砂浜にむけて次々にチッチッと音をたてて唾を吐いた。潮を吸った肉は密林の獣どもの忌み嫌うところだった。海から来たものは海に帰すべきとされていたが、遊山の帰路に敵兵を埋葬するひと手間がうとましく、馬から降りるきっかけをいつまでたっても見つけられぬまま、馬上の一群は迷惑な贈りものの周囲をむごたらしい慎重さでぐるぐると経めぐりつづけていた。蘇生の儀式のようにも、鎮魂の儀式のようにも見える円舞の中央にいつ、どのようにして亜人が歩みでたものか、おそらくはだれひとりとして答えることなどできなかっただろう。遠目から見れば、蘇生でもなければ鎮魂でもない、ほかならぬ召喚の儀式によって喚びだされたもののように映ったかもしれない。ことのはじめからそこにあった探しものをずっと見落としていたことに気づいてはっとしたときのようなさえた驚きが、とりかこむ一同の胸をまっすぐに横切った。居合わせた士官のなかには、腐乱死体も亜人も崩れた容貌にかけては似たり寄ったりであると、事の一部始終を品の悪い皮肉の大箱にたやすくしまいこんでそれきりにせんとするものもあったが、おそらく神秘はその時点ですでにはじまりを告げていたのだ。亜人は死体のかたわらに歩みより、しばらくのあいだじっとたちつくすと、やがてゆっくりと息を吐きながらひざを折り、たっぷりとした、それでいてひとしずくのためらいもない動作で、前も後ろも定かならぬ塩漬けの肉体を手のひらでぺたりぺたりと押さえつけはじめた。粘土細工で遊ぶというよりは、それが手のひらにあたえる質感をおそろしく生真面目な様子でたしかめる幼児のような、ぎこちなくも確固たる一手一手だった。かたちをととのえているのだと気づいたときには、遺体はすでに若く勇敢な兵士の無念の表情をとりもどしていた。兵士をあおむけに寝かせ、右手を左の肩に、左手を右の肩に置き、みずからの身体をいとおしく抱きしめるような姿勢に固めると、亜人は気後れのひとつも浮かべることなく大佐のかたわらを通りすぎ、浜辺を密林にむけてゆっくりと歩きだした。円舞はすでに停止し、一同は強い力によって黙視を強いられていた。馬までもが足踏みひとつすることなく、荒い鼻息さえもぴたりととめて、茂みの奥にひそむ未知の気配の正体を見極めんとする顔つきで、硬く強ばったまなざしをひとところに送りだしていた。ひとりの士官がどこへ行くつもりかと声をかけたが、続くものはなかった。亜人は赤い花びらを手のひらいっぱいに摘みとり、両手にすくった清水のようにそれを持ちかえると、若い兵士の身体の上にひとひらずつ、迷いのない厳粛な手つきでちりばめはじめた。そのふるまいのひとつひとつに、ことに習熟したものだけがまとうことのできる口出し無用の威光のようなものが、いまよりも四肢の自由が利いたころの幻影と重なりおぼろげに透けてみえた。戦とは無縁の女子供の目にもしかし美しく映える剣の達人の太刀筋のように、亜人の一挙手一投足は見るものすべてを強いて黙らせるだけの様式美に力強くかたどられていたが、馬上の一同に言葉を追いつかせなかったのはむしろ咲きみだれては散ることを待たぬ花のような、流れおちては涸れることを知らぬ滝のような、美の類型におさまりきらぬむき身の印象、なまなましく滴りおちる営為の凄みのほうであった。
おそらくは異国の習俗かと思われる亜人の弔いを前に、大佐の手は腰にさした太刀にかけられたまま動かなかった。神秘とは常に正邪の蝶番に位置するものだった。侮りと蔑みの対象であった諸々の特徴はまばたきのはやさで選民的な紋章へとうらがえり、あるいは本物の亜人かもしれぬとのおそれにも似た疑いが大佐の四肢を麻痺させた。愚にもつかぬことを! 吹きこまれたばかりのおとぎ話をくりかえし耳にこだまさせる幼子のような感度でおよそ馬鹿馬鹿しいこと極まりない事態の可能性について真剣に疑ってみせるおのれの気の迷いを、大佐はすぐさま恥じた。二度目の含羞が直視を耐えがたくさせた。我知らず逸らしたまなざしが、潮風に重くなった砂浜にそれでもかすかにきざみこまれてある亜人の足跡を、彼方の密林から手前にむけて点々と追った。その道筋のなかばを一匹の小蟹が横断しつつあった。あるかなしかの窪みをなす砂地の足跡の、その周縁をふちどるかすかな盛りあがりをかたわらに控え、小蟹はまず節くれだった四対の脚のいっぽうを砂の斜面にかけて半身をかたむけると、地面と平行に伏せてあったはさみをこころもち高く掲げて重心をととのえながら、探るような脚つきでおそるおそるふちの頂点にむけてよじのぼりはじめた。さしこんだ脚の根元からさらさらと流れおちる砂のせせらぎにときおり甲羅をふるわせながらも、小蟹は一歩また一歩とやわらかな砂地にくさびをうちこみ、みずからの体躯を堅実にひきあげていった。そうしてとうとうふちの頂点に這いあがると、どことなくおぼつかないようにも見える足踏みをいささかせわしなくくりかえし、すり鉢状の窪みに真正面から相対するようにむきなおるがいなや、不意に、なにかしら思うところでもあるかのようにじっと動かなくなった。思うところ? この小さな存在に? きざすものがきざしはじめていた。風景にきたしつつある縮尺率の奇妙な狂いを、大佐は認めないわけにはいかなかった。小蟹は穴の底にむけてふたたびはすかいにむきなおると、甲羅を低くかたむけて傾斜の急な斜面におもむろに脚をさしこんだ。重力のたやすいまねきに歯止めを利かせるべく、さしこんだほうの脚を突っ張りながら、残る脚を器用に折りたたんだりのばしたりして釣りあいをとり、慎重な横歩きをくりかえしてじわじわと穴の底にむけて急斜面をくだりつつあるその一部始終を、島の生きものを愛でる好奇心とは似ても似つかぬ、それを目にするみずからの胸のうちで萌動しはじめたなにごとかにたいするおそれおおさから、大佐は息を詰めて見守りつづけた。馬上からはそれとして一目で見わけることもままならぬあるかなしかの砂地の凹凸が、一匹の小蟹の赤い軌跡によってみるみるうちに地図となって浮かびあがった。木々のさやぎによって風の通り道がなぞられるようなものだった。それどころか、小蟹の一足ごとに押印されるごくかすかな足跡さえもが、さらには針のひと突きにも劣る小さなその足跡を前にしてうろたえる極小の砂蟻どもの動きまでもが、大佐の目にはいまやあますところなくはっきりと見てとれた。亜人の足跡のひとつひとつは火口であった。浜は切りたった峡谷であり、海からの風はあたりいったいの地形を切り崩す壊滅的な突風だった。潮を吸いこんだ砂にほおずりするようにしてはじめてその嶮しさが理解されるような極小の断崖や山脈、吹きさらしの谷底や枯れた水脈などが、だれひとりとしてその設計を把握していない古代文明の遺産のように地平線の果てまできりもなく繰りひろげられているのを大佐は見た。馬上から落ちる影にも満たぬその空間は、巨龍の化石の発掘現場などとは比較にならぬほど深く、広く、ほとんど絶望的な汲みつくしがたさにひらかれていた。常ならば決して意識にのぼることのない根源的な前提がその巨大な輪郭をはじめて浮きあがらせる稲光の一瞬があった。小蟹が窪みのふちにたっていちど体を硬直させたのは、火口の底にひそむ巨大さそのものによってはるか眼下から射すくめられたからではなかったか? そしてほかでもない同様の硬直によっていま、大佐はみずからの四肢がきつく縛りつけられていることを認めないわけにはいかなかった。耽溺しすぎると狂いをもたらすたぐいの緊張、名づけた途端に口をふさぎ、首を絞め、息をせきとめにやってくるにちがいない親殺しの張りつめた感情が胸骨のあたりでたちさわぎ、つぼみのおおきく開花するようにそのむき身を外気にさらそうとつくづく強いた。大佐は亜人を見た。おのれ自身を含むなにものに急かされたわけでもなければうながされたわけでもない、意図や欲望から遠く離れた神話の摂理がかくあるべきと舞台をととのえた、そんなふうなまなざしの送りだしだった。亜人は花びらを全身に散らした若い兵士の脇に手をすべりこませ、海にむけて遺体をひきずり運びこもうとしているらしかった。腱を切られ肉を削がれたその体では塩水にふくれあがった一兵士の重く地面にたれさがった遺体を運びだすのは至難のわざらしく、咳病にかかった老婆のうなり声のような吐息をとぎれがちにしかし激しくふるわせながら、言い分をきかぬ四肢にそれでも厳命を強いる亜人のその顔がいつ、みずからの影に沈んだ死に顔から晴天を後光に背負う馬上のこわばりへとむけられるのか、助けを請うまなざしが日暮れを知らぬこの光線に相対してどのように細められさしむけられるのか、必ず来るその瞬間を不動のまま待ちうけるだけの無限に延長されつづけるいっときがひとつの死のように、隠者の送る余生のように、大佐をつくづく責めた。こっちを見るなと強く思った。強く思うあまりうらがえって口をつくのが呼びかけというものだった。
﹁きさまの連れあいであったか﹂
遺体の周囲をむらがる蠅どもの羽音がよせかえす波のすきまを縫って明瞭な輪郭をともない聞こえるだけの、一陣の風のようなしずけさが円陣を吹きぬけた。世界が午睡についたかのような、島の生命が一時的に活動を自粛したかのような、あやうい均衡によって司られた間であった。ひとをからかう悪ふざけのようにも聞こえる蠅の羽音は、あるいは書きこみのないその空白を方向づけるのにうってつけだったのかもしれない。岸壁を打つ波のような、低く、力をはらんだ男どもの笑い声がどっと沸いた。絶体絶命の罠にかけられた状況をある奇抜な策を弄することで見事に切りぬけてみせたときに下腹の底からおもわずせりあがるもののような、すでに遠ざかった苦難のあっけなさを安全圏からおおいにあざけり笑ってみせる口元から我知らずこぼれおちるもののような、群衆だけが帯びることのできる共犯者めいた野太さを芯とする哄笑だった。沸きかえる一同にむけて亜人はちらりとまなざしをめぐらした。大佐の硬くひきしまったくちびるから軽薄な発言をひきだすにたるだけの言外の迫力や凄みなどとはまったくもって無縁の、虐げられたものの卑しい鈍光が宿った、まずしい一瞥だった。大佐はようやく太刀から手を離した。四肢の麻痺が解けたかわりに、行き場のない軽蔑の念が銀髪を逆立てた。笑声はなおもとぎれなかった。自虐が勢いをつけたか、呼吸さえためらわれる厳粛な空気にのまれてしまっていたみずからの体たらくを嘲笑的にふりかえる士官らの声の響きは次第に哄笑から高笑いへとのぼりつめ、安心感は優越感へと装いを変えつつあった。士官のひとりなどは馴れ馴れしくも大佐の肩に手をかけ、くしゃくしゃに破顔してみせさえしたが、当の大佐はその手をふりはらうようにして馬のむきを変えると、落としどころの見つからぬ感情を無理やり壁ぎわに片寄せるような宙ぶらりんの手つきで手綱をとり、亜人のほうを見向きもせずに帰路の続きをたどりはじめた。
大佐が隻眼となったのはその翌月だった。
時を同じくして、大佐は亜人をみずからの戦陣に加えるようになった。
そのふたつのできごとのあいだになんらかの因果関係を認めることはできるだろうか? あるといえばたしかにあるだろうし、ないといえばまったくもってないといえるだろう。歴史とは、接続詞の欠けた未開の言語のように進行するあやうさ以外のなにものでもなかった。とびとびでありながらそれでいてたしかに連続している、破線のような継起性だけが時をまだらに縫いつけていた。亜人には弓を射る器用さもなければ、太刀をふるう膂力もなかった。大佐は巡礼者のための裳裾の長いフード付きの長衣を亜人にあたえると、懐にしのばせておくための銀のナイフをひとふり持たせたうえで、海戦に当たってはつねに船室に控えているよう命じた。戦は例のごとく潮流に翻弄された大陸船の独り相撲に終始しがちであったが、それでもときには兵と兵が直接刃を交える船上の白兵戦に発展することもあった。そのたびに大佐は鬼神と化したが、それは以前とははっきりと異なる、物思う鬼神であった。没我と上の空に大差はなかった。斬りむすび、刎ねとばし、返り血を浴びながら、粛々と死を産みだすおのれの豊穣さに大佐はしずかな感動をおぼえた。太刀をふるうたびごとにひとつの創造がうながされ、一夜の出産がまねきよせられるのだった。恍惚はなく、抑揚もなく、表裏一体の奇跡は常に地表ぎりぎりを夜の水のように流れすぎていった。死角となった左目の暗く沈んだ視野をして相手の剣を受けてみせる盾とすることが大佐にはときおりあった。自暴自棄な運だめしなどでは決してなく、ただ覆い隠せばそのまま消えさるのではないかという素朴な発案をためさずにはいられないのだった。つかみがたい想念が大佐からまとまりを剥奪していたが、まとまりを奪われみずからもまたつかみがたい存在と化していた大佐にできることといえば、つかみがたさをつかみがたさのままにとらえることだけであった。それは思念のとどかぬ不可視の中心にむけられた力の矢でもなければ、理性にめざめたばかりの獣がいだく初々しき処女の思考とも無縁の、辺境に追いやられてくたびれきったひとつの機微、臨終まぎわにある論理のかすかなふるえのようなものだった。
アルシドの防衛はゆるぎなかったが、そのゆるぎなさが無数のゆらぎの奇跡的に相殺しあった結果としてのものなのか、それともそれ自体独立した絶対的なゆるぎなさの持続によるものなのかはわからなかった。世界は破壊と創造の二神のみで均衡を保つのか、それとも第三項としての維持の神それ独自の機能によって保たれるのか、それはまた別の神話にかかわる問題だろう。海戦が終焉を迎えるたびごとに大佐はひとを遣って船室の亜人を甲板に連れださせた。天から惜しみなく直下的にふりそそぐはしたないまでの光線を粉々に砕いて無方向にはねかえす海面の色はそのままふたたび天に写しとられ、地はどこにもなく、きりもなく細分化されひろがりつづける天とその似姿の合わせ鏡の迷宮にあってなお、亜人は暗がりの徘徊者であることをやめなかった。いかなるまばゆさの懐にあろうとも、その歩みの一足ごとにまき散らされる燐光ははかなくよわいものの立ち姿を足下からぼうっと浮きあがらせるのだった。甲板を濡らす波の飛沫と火薬の燃え殻とそれにいくらかの脂っぽい鮮血とが、地表をなでる裳裾によってずるずるとかきみだされ、大蛇の這いずりまわったあとのような曲線を描いた。深々とかぶったフードを海風にはねあげられると、傷痕に潮がさわるのか、亜人はかすかに目を細めた。瞳孔が縦一文字に収縮することこそなかったとはいえ、そこにはやはりひとならざるものだけが帯びることのできる、言葉に落としこまれる以前の、動物的というよりほとんど鉱物的な営為のきわめて微細なしるしが認められた。沈没する敵船の背骨の折れる音が雷鳴のようにとどろくと、亜人は大佐と同じく、海の彼方にむけてまなざしを投げかけた。逆巻きはじめたうずの中心にむけてまねきよせられていく諸々のなかには藍色の軍服がはっきりと点在して見えたが、亜人の表情は硬貨にきざみこまれた建国者の横顔のように固く動かなかった。その横顔を雄弁な無表情として認識しようとする心根を大佐は力ずくで御した。意識を特定方向にうながそうとするひとつのかたむきをつくづく感じたが、それはおのれ自身の屈折を起源とするものではなく、世界それ自体がことのはじめからはらんでいる傾斜に対応することによってもたらされる参与の産物であった。回答を必要としない、それ自身で完結された問いかけばかりがたてつづけに泡だっては音もなく潰える、その営みこそがもしかすると──その言葉もまた結論を導きだすまもなく潰えて消えた。
敵船から放たれた砲弾によってアルシド軍に戦死者の出ることもときにはあったが、鎧ごと上下まっぷたつにちぎれた遺体のかたわらに亜人がひざを折ることはなかった。交感とは、送りだしたものが受け手に固有の屈折を経て送りかえされてきたときにはじめて成立する反射の一形態だった。亜人は未開の洞窟だった。屈折もなく反射もなく、ただ吸収だけをその属性とする暗渠であった。そうしたなにもかもがただの装いにすぎないのでは? 浜辺の一瞥がなにか大事にまつわる気がかりのように大佐を落ち着きなくさせた。もはや亜人を船室に閉じこめておくべき理由などなにひとつなかった。海戦のただなかにあろうとかまわず大佐は亜人を船室から連れだしみずからのかたわらに仕えさせ、死が一分一秒ごとに頬をかすめて過ぎさるあの痺れるような現実の担い手となるよう強いた。目の当たりにしただけで回路がひとつ組みかわる、見ることの不可逆性を逆手にとったそんな光景があるものだ。海をはさんだ敵船へのにらみを解かぬまま、ひざを折ってそばに控える亜人の手にした矢筒から洗練された殺意を一本ずつ抜きとる大佐の姿は、戦を象徴する神話的な光景として兵らの胸に恍惚とした憧れを灯らせた。方針の転換は亜人の化けの皮を剥ぐためにほかならぬと大佐自身は考えていたが、しかし本当に剥ぎたかったのはそのような策略を弄するほどまでに厚くふくれあがった己自身の面の皮であったかもしれない。
おおうずの年以降、徐々に潮の流れが変わりつつあった。雲の上では見極めがたい事態が着々と進行し、下された判決はことごとく地上に例外をまねきよせた。岸辺にうちあげられた白鯨の死骸が腐食し、近隣の村に伝染病が流行した。浜辺のオオトカゲどもが漁師らに襲いかかるという事例が二三報告され、アルシドの固有種であるハイビスカスの花弁が赤く染まりきらぬうちに白々と乱れ咲いた。骨の谷で巨龍の化石が発掘されたのも、あるいはそうした異変の一端であったかもしれない。読もうとするこちらがむしろ読みつくされてしまうような、千の海をわたり歩いてきた船乗りでさえもが目をまわすほど自在にうごめきとどろくそれ自体がありありとひとつの生命であるかのようなあの潮流もまた、いつしか見定めやすいある規則性のもとに収斂していき、居住まいをただし、美しくも単純な法則の内側におさまりよく落ち着いた。侵入者を決してよせつけぬ不落の防壁、そのあっけない瓦解はたちまち大陸軍との交戦の機会を増大させるにいたった。矢と砲弾の飛びかう海戦はいつしか横づけにされた二隻の船上での白兵戦へと移りかわり、白兵戦の舞台は海上から地上へとごくなだらかに移行した。太刀でもって斬りむすぶとなれば大佐にかなうものなどいるはずもなかったが、軍事的な戦力として見た場合、両軍の差は目を背けたくなるほど歴然としていた。命の目減りする、耐えしのぶばかりの戦が逃げ水のような破局をひたむきに追走するなかで、アルシドの戦線はじわじわと後退し、二年と経たぬうちに軍船の大半は使いものにならなくなった。それ以降は上陸する敵軍を地上で待ちうけるのが通例となった。亜人が二度目の水葬を執りおこなったのはそのときだった。長きにわたる沈黙には複雑な理由などなにひとつなく、事情はおそらくより単純で、要は舞台装置の不備にすぎなかったのだ。太刀と敵兵と戦場があれば鬼神と化す大佐のように、花と遺体と海があれば祭司となるのが亜人だった。息の根の絶えたものがあれば、亜人は敵味方のべつなくその容姿をととのえ、花を散らし、そして海に送りだした。送りだした遺体が送りかえされてくることは決してなかった。屈折もなく反射もなく、ただ吸収だけをその属性とするものの起源とはまさしく海ではなかっただろうか? 亜人はその海をわたってはるばるアルシドにやってきたのだった。おおきな戦のあとには、沖へと運ばれる遺体に付きそうことなくその場にとどまり浮かびあがる無数の赤い花びらが海面をまだらに覆った。血も硝煙も、悲嘆も勝鬨も、快哉も慟哭も、およそ戦場に満ちあふれるなにもかもをも十把一絡げにひとしく洗いながしてしまう無慈悲なたそがれどきの驟雨にいくら打たれようとも決して沈まず、ただいたずらにたゆたいつづけるだけのその赤々とした赤さのありように大佐は亜人の故国を見た気がしたが、それは観察しがたい連想の導きによって育まれたあるかなしかの幻想などではなく、むしろその幻想自体をなんの根拠もないまま先立って規定することで事後的にたちあらわれるような、気まぐれな余白を舞台にしたつかずはなれずの社交や場当たり的な隣接に基づく一種の偽婚、真に迫ったまがいものの論理とでもいうべきものだった。そして現実をつき動かすのはほかでもない、常にその種の先立ち、その種の論理であった。
大佐が殺し、亜人が葬った。葬られたものが再来することはなかったが、それでいてあらたに到来するものが尽きることもまたなく、大佐が殺し、亜人が葬り、それだけでひとつの不可能な循環が構成されていた。それが十年続いた。事態は直線的な円環とでもいうべき様相を呈していた──少なくとも大佐にはそう思われた。数えられる無限としてまっすぐにのびつづけるその直線にかきわけられた表面が波うち、無理な構造の皺よせとして、いつの日かアルシド全土を大津波のように襲うのではないか? だが、そうした予感は大佐の考えからおのずとわきあがったものではなく、館つきの予言者の示唆によってうながされた因果の見取り図にすぎなかった。アルシドの守護神ともいうべきほかをよせつけぬ潮流のあっけない終わりについて、予言者は当初から亜人が島に足を踏みいれたその災いにほかならぬとたえず進言をくりかえしていた。断罪の調子は日ごとに増していき、ついには亜人を目の前にして罵倒するにいたったが、ある日を境に進言はぴたりと途絶えた。館から姿を消した予言者について、ひとびとはなにも口にしなかった。酒杯を倒せば中身がこぼれるのと同じくらい、事の次第は目に見えて明らかであった。
それは本当に明らかだったのだろうか? 変化とは次なる変化を呼びおこすきっかけにほかならず、世界観とは際限のない連鎖をどこで区切るかという問題にたいする数ある回答のひとつ以外のなにものでもなかった。大佐は連鎖を連鎖のまま受けいれることをみずからの方針としていたが、それといえど結局は見逃すほかないことのはじめと見守ることのできぬことのおわりとの、仮構されたその両端ぬきには受容できぬものとしてであり、つまるところひとつの世界観にほかならなかった。たしかに、無限は数えることができた。だが、それにはほとんど無限に近い時間を要するのだった。その理が、殺して葬る亜人との関係にあってあやしくゆらいだ。潮の変化がまねきよせたのは外敵だけではなかった。支援や協力や交易をのぞむ異国からの使者も遅れて次々と島に上陸した。維持の力を至上とするアルシドにとって、来客とはおしなべてまねかれざるものにほかならなかった。アルシドとはまた別に長らく大陸と小競り合いをくりかえしている第三国の使いが同盟の意向をもって館に遣わされてきたときも、大佐はその打診のうらにひそむ煮えたつような野望をすっかり見抜いていた。しかしほかにいかなる方法があったというのか? 結ばれた同盟の手始めからしてすでに指示は一方的であった。ひとまず半年耐えよ、と伝令があった。大陸との総力戦にのぞむべく戦備をととのえる必要があるのだ、と。半年経ったところで、戦備はまだ十分ではない、あと一年待て、と続報があった。一年待った。事態はまるで好転しなかった。問えば、機はまだ熟しておらず、いましばらく待て、と返ってきた。長いいましばらくのはじまりだった。一年は二年になり、二年は四年になり、四年は八年になった。そうしたなしくずしが十年にもわたる防衛戦のあらましだった。支援物資の送付や防衛戦のための派兵こそあったものの、かぼそい同盟関係をつなぎとめておくための一時しのぎの撒き餌にすぎぬことはだれの目にも明らかであった。
常駐部隊として派遣されてきた同盟国の兵士らには館の離れが兵舎としてあたえられた。部隊長は物腰のやわらかな、戦場よりも社交界のほうが似つかわしいと思われる、紳士然とした三十にも満たぬ優男だった。命尽きるまでアルシド軍の一兵として戦陣に加わる所存です──港で出迎えた大佐を前にしてひざを折り頭を垂れながら、その太刀に口づけして述べられる言葉にしかし隙はなかった。アルシド防衛の大義名分を隠れ蓑に、どうやら諸島の地形についての調査を目的として送りこまれてきたらしいことが、監視を怠らぬよう命じられた見張りどもの報告によってじきに明らかになったが、大佐は特別手を打とうとはしなかった。泳がせておくというよりは、ともに泳ぎまわることを選んだのだった。そうすることで現状の水面をかき乱し、あらたな潮流を生みだすことができるとでも? まずい比喩にすがりつくおのれのありさまを自嘲するだけのゆとりがあるうちはまだ大丈夫だろうと大佐は踏んでいた。比喩に支配されるようになったときこそが一巻の終わりだった。
部隊長のおだやかな物腰は組織の陰画であった。亜人をはじめて目の当たりにしたときも、洗練されたそのふるまいにほころびがきざすことはなく、これはこれは、と口にするにとどめて、あるかなしかの、それでいてきわめて丁重な印象のあとに残るようなどこまでも目配せの利いた会釈を送ると、相手方の反応をうかがう無礼さを避けるようにしてそのかたわらをすみやかに通りすぎた。実によく訓練された人物だった。反して、一般兵の多くはどこまでも粗野だった。僻地での勤務である。兵の大半は報奨に目のくらんだならずものか、減刑を条件に務めを命じられた罪人だろうと館のひとびとは口々にうわさした。よそでは目にすることのかなわぬアルシド固有の生きものを見かけるたびに生け捕りにしては、館の中庭に連れこみ、ものめずらしげな表情を醜く浮かべる仲間たちの前でいたぶり見せものにしている光景がしばしば見られた。だれの目にもアルシドそのものの蹂躙として映じたが、いまはくちびるを噛みしめる時期だった。いちど浜辺で捕獲されたとおぼしきオオトカゲが館の中庭に運びこまれたことがあった。夜だった。酒がまわり興の乗ってきた一味は、館をさまよう亜人を外に連れだすと、剣に背をつらぬかれて地面にはりつけにされたオオトカゲのとなりにならべて物笑いの種にした。その現場を、たまたま本館のあるほうにむけて部隊長とならんで歩いていた大佐が通りかかった。中庭をとりかこむようにしてめぐらされている回廊の、月のない夜のいちばんしずかなうす暗がりに沈みこんだ一角から、太刀を片手にたっぷりとした足どりで騒動の中心にむけて歩みだした大佐を、部隊長はひきとめはしなかった。オオトカゲとその縁者をとりかこむ円陣から少し離れたところで酒杯をかたむけていたものらはいちはやくその気配に勘づき、星明かりのもとに青白く染めぬかれた冥府魔道の騎士もかくやと思われる巨躯を目の当たりにするがはやいか、すみやかにその場をたちさった。たちさる機会を逸したものらは笑うほかなかった。真意とは裏腹の、集団性の狂騒だけを頼りにじわじわと後退し身をひそませるような腰のひけた嘲笑が、うす暗い中庭にまばらに響きわたった。野次や笑声をたたえた無数のまなざしが大佐へとそそがれたが、それらのどれひとつとして焦点のはずされていないものはなかった。せめて顔を見覚えられるのだけは避けようとする心づもりからだろうか、邪悪な瞳を前にして石にされるのをおそれる騎士らのように? 顔とはすなわち関係の単位だった。その関係が血を噴いた。オオトカゲの頭部は大地にたいして垂直にふりおろされた、太刀というよりもほとんど戦斧のひとふりとでもいうべき正確無比な一撃を受けて、高々と跳ねあがるがはやいか、熟れた果実がひとりでに落下し黒々とした大地に抱きとめられるときのような、やわらかくも野暮ったく、弾みに欠けた、いかにも無様ったらしい物音をたてて亜人の足下に転がりおちた。胸にしみだした怖じ気を認めたくない兵のひとりがわざとらしい感嘆の声をあげたが、続くものはなかった。太刀を鞘におさめた大佐はゆっくりと腰をかがめて断ち落としたばかりのものをひろいあげ、亜人の顔に近づけていくらか見比べるようにすると、うむ、たしかに似ておる、と口にし、頑迷な背中をそれでも上下に激しくゆらしながら部隊長の待つ回廊の暗がりにむけて鷹揚にたちさった。大佐にも体裁というものがあった。個人的な恥辱にまつわるものとはまた別の、一国の領主としてとりつくろわれる必要のある外聞だった。それさえもがときには打ち捨てられかねなかった。常駐部隊いちばんの力自慢はきわめて酒癖の悪い四十男だった。岩肌のように硬くひびわれたむきだしの頭部と石炭のように黒々としたカイゼル髭をもつ、筋骨隆々の、野獣というよりもむしろこれぞほかならぬ人間の権化と見るものを圧倒するかのような、輝くばかりの俗物性を背負った巨漢であった。耐えがたいふてぶてしさを日常的な体臭のように発散し、物腰のやわらかな若い文人肌の部隊長へのあからさまな蔑みを隠そうともせず、大佐にたいしてさえときに分別を知らぬ口調で語りかけた。戦陣に加わるならば剣を持て──衆人環視のもと亜人にむけて細身の剣をひとふりさしだしたのもこの男だった。柄のかたちと刀身のむきからして剣は明らかに左利き用のものであったが、これは蜥蜴男は総じて左利きであるという俗説を踏まえたうえでの、きわめて悪辣な侮辱として解されるべきふるまいであった。手元に残しておくがよい、いずれ必要となるときがくるやもしれんぞ──亜人の前に割ってたちはだかった大佐の言葉はすでに確定した事象だけがはらむことのできるたしかな響きによって重々しくふちどられていた。二日後に戦があった。報いは右腕の切断というかたちをとってすみやかに下された。建前上は戦場における名誉の負傷となってはいたものの、大佐の仕業であることは火を見るよりも明らかであった。
部隊長は火を見なかった。その目が見ているのは目的と犠牲の釣りあいをはかる天秤だけであった。いかなる騒ぎがもちあがろうと貴族的な微笑をたたえて崩さず、おやおや、とおだやかに目を見開いては口をつぐむのがせいぜいのところだった。おそれからの黙認などでは決してなかった。俺はこの男の手によっていずれ殺されることになるだろう──十年のあいだ、大佐はしばしばそのような予感にとらわれたものだった。にもかかわらず、戦場で窮地に追いこまれた部隊長の前に助けの手をさしのべたことも一度や二度ではなかった。みずからの行く末をそこに投じて占う認識と行為のはなはだしき裂け目は、ひきのばされつづける悲劇の結末にともなっていやおうなく育まれていくある種の痴呆、避けがたい弛緩の産物にほかならなかった。関係が句点の打たれぬままのびきってしまえば、その線上でまじわる結び目もおよそ等間隔にふりわけられるほかなく、意味と無意味、価値と無価値、利益と不利益がおのおのの国境を食いやぶり、灼熱の混濁のなかでおのずとたちあらわれるであろうあらたな画定にむけて貪欲にまどろむのもいわば必然の理であった。落としどころの見当たらぬ戦がはじまりもおわりもなく、それゆえにくりかえされるのではなくただときに高くなったり低くなったりしながら、持続的に、そしてたえまなく、時間と孤独な連帯を結んで波うった。それは現世の目ではとらえがたい暗がりの既知であり、死者の目がひっそりと宿す世界にほかならなかった。まばたきのすきまに隠されるものもなければ、その営みによって数多に分節されることもない、動かなくなった瞳だけが全貌を把握することのできるなにひとつ欠けるところのない実相、名詞が動詞のかたちをとる言葉の外だった。隻眼の大佐にはそうした様相を目の当たりにする権利がなかばあたえられていたのだろうか? 生きた目はものを見、死んだ目はことを映した。生は垂直にきざまれ、死は水平にとぎれなかった。戦線はもはやぎりぎりにまで切りつめられていた。これ以上は一歩たりとも譲ることのできぬ究極の一線を前にして、最後の口火が切って落とされた。決戦の機を見た大陸軍がとうとうその戦力の大半をアルシドに派遣したという報せと、第三国の軍隊がその隙をついて大陸に進軍したという報せがほとんど同時に大佐の耳に入った。体の良いおとりとしてまんまと見殺しにされたというわけだ──戦陣を張った大佐のかたわらにはしかし馬上で異国の大弓の手入れをする部隊長の姿があった。てっきり大陸にむかったものだと思っていたが? 大佐の皮肉にも部隊長は微笑を崩すことなく答えてみせた──アルシドに捧げたこの身ですから。
息を吹けばたやすく舞いあがる綿毛のような命だった。四肢は火薬のにおいもろとも軽々と宙に散った。十年のあいだにアルシドの兵力は三分の一にまで減少していた。決戦はそこからさらに三分の一の乗算を余儀なくした。戦とは、勇猛果敢なひとりの英雄の活躍によって戦局がおおいに左右される一種の叙事詩であった。アルシドを見舞った十年の総決算はとうてい戦と呼べるものではなかった。戦争の散文が歴史上はじめて諸島を覆いつくしたのだった。
凄惨極まりない、実に壊滅的な打撃であった。壊滅的ではあったが、壊滅そのものにはいたらなかったところに守りの歴史の矜持を認めるべきかもしれない。神々の恩恵か悪魔の横槍か、語りぐさになるにちがいない歴史の気まぐれがここでもまた顔をのぞかせたのだった。報せは、決戦がはじまって二十日目の早朝にもたらされた。異国の角笛が鳴りひびくと、アルシドの法螺貝がそれに応えた。大陸が同盟国の手により陥落したことが告げられると、戦況はそれを機に一変した。大佐は大陸軍が撤退していくさまを見とどけることができなかった。うずたかく積まれた屍の山々に埋もれて身動きのできぬ状態から抜けだすのに丸一昼夜の時を要したからだった。大佐が死の重苦しい圧迫からどうにか身をひき離したときには、地肌の見えぬほど敷きつめられてあった遺体のいくらかはすでに方々に片寄せられて無数の蟻塚をなしていた。これらすべてを葬るとしたらひとの一生では到底間に合うまい。だが、そのような一生がありうるのだろうか? 他人の死を完遂させることにだけ費やされる生涯というものが? それをしてなお生を詐称することが許されると? 戦の火ぶたが切られて三日目にはすでに亜人は重傷人と連れだって館へ退くよう命じられていた。屍の山のなかから戦友の姿を探す兵らの姿がいたるところにあった。彼らは大佐の姿を目にするがはやいか、祝福と歓迎の言葉を口々に叫びながら駆けよった。涙を流すものさえあったが、そのなかに若い地理学者の姿はなかった。被害のいちばんひどかった湿地帯には戦死した兵らの姿がもっともなまなましいかたちでとりのこされたままになっていた。一歩でも踏みだせばそのまま死者への冒涜になりかねぬほど密集し重なりあった屍の大地を大佐はかまわず踏みしだき、かきわけ、ときに太刀でもって切り崩しながら進んだ。量が質を変えるとはこのことだった。一目では把握のきかぬ数量を境に、没個性の霧はすべてを曖昧な一個、身近な無限へと還元してしまうのだった。屍のいくつかはすでに傷みはじめており、ところどころに悪臭がわだかまっていた。踏みしめた足元から死者のおくびのもれる音がたちのぼることもあった。死屍累々たる一面にむけて大佐は、朦朧と濁った、それでいて芯のまだ鈍りきってはいないかぎ爪型のまなざしをめぐらせた。素通りと上滑りに終始した目線を足下に落とすと、断ち落とされた右腕の付け根が折りかさなった屍のすきまから天にむけて芽吹くように突きだしているのが見えた。傲岸不遜なあの男のものではなかった。それどころかそれは腕でさえなかった。大佐はその場にひざを折り身をかがめると、芽吹くものによってたかる欲深い死者どもをひとつ残らずかきわけ、なぎはらい、ひっこぬくようにして、幾層にもわたる亡骸によって厳重に封じられた泉下の国境をかまわず素手で掘りかえした。生きていたのはまごうことなき奇蹟であった。失われた片ひざを地表にむけて死の土中に逆さまに沈みこんだまま、微笑はなお崩れることなく暗い口元にその面影をとどめていた。仮に体力を回復し持ちなおしたところで、その足ではもはやアルシドの切りたった渓谷やむせかえるような密林、あるいは暗い沼気のただよう沼を探索することは不可能と思われた。抱きかかえるようにしてふたたび光線の射しこむ地上にその身体をひきずりだすと、部隊長は水平線のような目をさらに細めて切れたくちびるをかすかに開け、力不足のようでした、と存外はっきりした声でつぶやいた。
﹁地図は無事に完成したのか?﹂
﹁複雑な島です。平面に落としこむには、あまりにも﹂
大佐の予想に反して、大陸を攻めおとした同盟国がたてつづけにアルシドを制圧しにかかるという動きはいっこうに見られなかった。部隊長はたっぷり半年ものあいだアルシドで療養生活を送ったのち、傷口がふさがり、あてがわれた義足の扱いに十分に長けたところで本国に帰国した。残された大佐がなすべきことは、残された大佐だけしかできぬことではなかった。癒し、復興せしめ、祈ることは、鬼神とは無縁の所業だった。太刀をふるうことこそ治世であり政 であった一時代はいまや波間に沈みこみ、戦時下と同様、実務をすべて家臣に丸投げした大佐は手持ち無沙汰に肉が錆びつき魂がなまくらと化すのをおそれ、視察の名目のもと亜人をともなって島の方々を逍遥した。戦死者の大半はすでに国をあげて弔っていたものの、それでもときおりだれの目にも触れることなく白骨化した無名戦士らの遺骸が、密林の下葉の陰や熱をはらんだ砂の下、腐臭のにおいたつ湿地のたまりなどから見つかることがあった。そのたびに大佐は亜人が彼らを弔うのを黙って見守った。そのようにして弔われたもののなかには大佐の殺めた命もあれば、大佐を殺めんとした命もあるはずだった。大半は大佐とはいちども刃を交わすことなく、各人各様の、それぞれに固有の死を生産して力尽きたものたちだった。それでも関係しているのだ、無視できないのだ。はっきりとそう考えたわけではなかった。しかし先の戦で命を落としていればじぶんもまた亜人の手によりこのようにして葬られたにちがいないという想念がよぎるのを、大佐は無視することができなかった。実に、実に無視することのできないものばかりが増えたのだ! 冷たく鋳られた歴史の事実性を想起の炎でたくましく融解せしめれば、亜人の手により海に送りかえされるおのれの死に姿がたやすく目に見えた。そのたびに無名性に肩まで浸かり匿名性にたっぷりと染めぬかれた赤の他人たちの魂が喉元にまでせりあがったが、それでいて吐きだしてみれば、いやおうなく大佐の声色であり、吐息であり、舌のもつれであり、すなわち大佐の所感であった。それは産声よりも未熟な呼気、人称未然に息づく一種の胎動であった。不可能な妊娠であり、宿命づけられた流産であり、ひとつの出産たりうるためにはおよそ欠けるところのある一個の未遂であった。越えがたい一線は、おそらく必要の後押しをもとめていたのだ。
亜人は、しばしばなにかの化身なのではないかと疑われた。その醜悪ささえもが、ときには、地上の論理にはおよびもつかぬ神々によって生まれもたされた大いなる恵みの烙印としてまぶしくもおそろしく映ずることがあった。あるいはそれは莫大な豊穣さをはらんだ手つかずの起源としてあらたな文明の発端とも嚆矢ともなりかねない、きわめて大胆で原始的な一個の誤解のようなものであったかもしれない。だが、誤解とは常に生産的であり、理解とは往々にして袋小路への招待状でしかない──それさえもがまたひとつの誤解にすぎないのだとしたら? そう考えるたびに、騙し絵の扉を次々と蹴りあげていくようなひろがりが大佐の肉を内側から白くつらぬいた。おそれが結実するのは、むしろこの一点であった。
亜人は、海の眷属だった。そして葬送者でもあった。つまり、海とは死の眷属であったのだろうか? そうではなかった。むしろ、死こそが海の眷属だった。波は死の飛礫でもなければ生の甘露でもなく、生命の観念よりもはやくからこの地に存在してその営みを絶やさぬ、ただの──それゆえほとんど近寄りがたいまでの聖性をおびた──水滴にすぎなかった。ただのそれ自身に終始すること、発端にも起点にもならぬまるく閉ざされたものとしてあること、神秘とは事物のそうしたありようにほかならなかった。それは館をさまよい歩く亜人の姿だった。
亜人は、二重に定義された聖者だった。聖なる化身であると同時に、まったきそれ自身の神秘として、重ね書きされた聖性は大佐の両目それぞれにふりわけられて像を結んだ。そしてそのたしかな誤差こそが──なんということだろう!──ありふれた奇蹟にまつわる目隠しされた秘密、すなわち、まごうことなき人間そのものにほかならなかった。亜人、それは人間だった。言葉を抜きさる実感の速度が信仰を産みだし、すでに潰れた目に垂れこめる暗闇とは異なりどこまでもすみきった閃光のような白さがいまにも残されたもう片方の目に焼きつけられるのではないかというおそれの期待に視界が曇った。曇りが極まれば、黒いひとすじの境界線が海と空をわけへだてて走るように見えることもあるだろう。不吉を厭い、背をむけた大佐の正面に別の黒さが──しかしそれは本当に別の黒さだったのだろうか?──たちふさがった。常夏の昼日中だった。自重に耐えかねて落下した黒雲がやわらかな砂浜をささえにしてどうにか身を起こそうと最適な輪郭を探しあぐねている、そんなふうにも見えた。かたちをなすよりもはやくうごめくその様態が、精確な認識を許さなかったのだ。白く濡れた牙のわずかに黄ばんだ根元や、てらてらと艶をおびた薄桃色の歯茎からのぞく黒い斑点などが、気づけば目の前にまで迫っていた。はっとして太刀を構えたが、遅かった。ひとならざるものを相手に大佐の太刀は磨かれていなかった。鈍く、熱く、重いものが走った。肩口に煮えたぎる熔岩でも押しつけられたかのようだった。砂浜を背に後ろ倒しになりながらもどうにか片手でふるった太刀は獰猛に隆起した喉元をかすめ、濡れた石炭のような鼻を斜めに斬りつけて目元に達したかに見えた。血は赤く、体躯は黒く、刈りとられた短い毛が光線に反射して銀色にひらめきながら大佐の顔にふりそそいだ。強襲者は天を突かんばかりの甲高い声で一鳴きすると、黒々とした体躯をひるがえして視界からたちさり、あとに残されたのは生まれたての青空のまばゆさだけだった。すべては漆黒の薄皮がめくりとられ、燦々たる青の地が姿をのぞかせるまでの様変わりする風景の過程として、遠く無関心な一瞬のもとに把握された。空は感情の入りこむ余地がないほど均質であった。光線は色彩のすみずみにまで溶けこんで凹凸をなさず、雲は風もないのに水平線のむこうまで吹き飛ばされていた。なにも映しださない鏡のようだった。とっかかりのないのっぺりとしたその全貌に視界を占められてしまうと、重力が根拠を失い、方向感覚があやしくかたむき、このまま上空にむけて落下するのではないかとおそれられた。錯覚を無効にしたのは、逆光に黒く垂れこめる人影だった。顔なき顔が大佐の視界を覆いつくし、日蝕のように太陽をさえぎると、星もなければ月もない底無しの闇夜、天涯孤独の盲人の夜が不意におとずれた。その夜の子宮をつらぬくようにして深々とのぞきこむ不可能なまなざしとどこまでもたいらなその圧力が、大佐の四肢に重力の恩寵と呪いをふたたびもたらした。まさに皆既の極まったその瞬間だった。みずからの巨躯が地にはりつけにされるとほとんど同時に、大佐はとつぜんおのれが戦で命を落とした一個の死者であることを悟った。なんということか! なんということだろう! 身の毛のよだつような歓喜が燃える水のように地の底からほとばしり、認識の爆発にわなわなとふるえてやまぬ大佐の肉体を内側から激しく刺しつらぬいた。そればかりではなかった。目が親しむにつれ、暗い輪郭の内側にまた別の輪郭がたちあらわれた。なぞれば、やはりまごうことなき人間の顔かたちだった。なにも映しださない鏡? 顔なき顔? そうではなかった。大佐は目を見開いた。性分をとりもどすにいたった頭上の大鏡がそこに映ずる人影のたしかにおのれの似姿であることを告げる磨きぬかれた曇りなさとともに十全にひらかれてあるさまを、大佐は永遠の夜に没したはずのあの死者の目でもってひるむことなくのぞきこみかえした。合わせ鏡の迷宮でおなじふたつのまなざしがかちあった。ほかでもありうることの可能性が、結びあわされたその焦点を発端としてまぎわに拡大した。歓びが大佐を急かした。ゆけるところまでゆかなければ! 到達点は生をもたらしたものか、死をあたえるものか、いずれかの極点にあるはずだった。大佐はせきこむように激しく呼吸をくりかえした。すると獣のよだれが濃くにおった。
そのにおいは大佐に終生つきまとうことになった。アルシドの歴史をどれほどさかのぼってみたところで密林を住処とする黒ヒョウの目撃談を見つけだすことはかなわなかった。動じることを忘れてひさしい生きながらにしてなかば偶像と化した島の長老たちでさえ、浜辺で大佐を襲撃した黒ヒョウの報せには目をまるくした。館の兵らによる主導のもとただちに山狩りが実施されたが、足跡ひとつ見つからなかった。前代未聞のできごとだけがもたらすことのできる解釈の嵐が諸島を見舞った。大佐を暗殺すべく訓練された個体が混乱に乗ずるかたちで同盟国の手によって運びこまれたのではないかと陰謀をたくましくつむぎあげるものらが濡れた瞳で熱心にささやきだすと、戦没者らの報われぬ魂が凶悪な獣の姿をとってあらわれたのだとする迷信深く密談めいた声がそれに続いてあちこちでおこりはじめた。先の戦における尋常ならざる犠牲に業を煮やしたアルシドの地霊が漆黒の形象をとって大佐に贖いを詰めよったのだとも、無関係な戦に駆りだされて働き手を失った先住民らがその復讐に禁断の秘術を用いて異界から使い魔を呼びよせたのだともいわれた。決め手は、予言者の喉元からたくましく発せられたひとことであった。おおかたの予想に反し、かつて大佐によっておはらい箱にされた館つきの予言者は在野で生きのびていたのだった。予言者はここでもまた、すべては亜人のまねいた災いである、といわくつきのお告げをくりかえしたが、今度ばかりは状況がちがった。乱立した解釈のなかにあって人心を買うのは、もつれあった因果の糸を──ときには因果そのものを解体することも辞さぬ構えで──巧みに解きほぐし方向づけてみせる繊細で創造的な手つきなどではなく、むしろ一刀のもとに断ち落としたものらの先端を無理やりよじりあわせてみせる無骨で暴力的な手管の突拍子のなさ、根拠のなさ、はばかりのなさのほうであった。
大佐が倒れてひと月も経たぬうちに亜人は館の地下牢に幽閉されることになった。
亜人に課せられたそのような処分が大佐に知らされることはなかった。左肩の傷口を中心にまばらに芽吹きはじめた短く硬い黒毛は、いまや地肌をのぞかせぬほど密に艶めき生いしげり、大佐の半身を野生の漆黒でなみなみと覆いつくしていた──そうした異形を前にして、事の推移を把握してみせるにたるだけの知性が残されているなどと考えるものがいったいどこにいるというのだろう? 館に運びこまれた当初、大佐の体は微熱に鈍く火照り、いくらか膨張しているように見えた。傷口はじきにふさがったものの、熱はいっこうにさがらず、回復する傷と拡大する発熱との奇妙な経過のなかにあって、じわじわと、それでいてあますところなく進展していく巨躯の膨張だけがしたたかにゆるぎなかった。傷口の消滅によって逃げ場を失った熱が皮膚の内側に滞留し、かえって盛んに活動しているのではないだろうか? 医師らによって感染症の可能性が否定されると、未知の毒素の見極めに呪術師らが手に手に薬草をもって駆けつけたが、功を奏すことはなかった。波乱のない、平坦な発熱がしばらく続いた。しばらく続いたところで、高熱が灰汁のようにふきこぼれた。吐きだす息のことごとくが蒸気のように熱かった。喉や鼻の通り道が焼けつくのではないかとおそれられるほどのわだかまり凝縮された高熱、鉄を溶かしてあらたな鋳型へと誘導するそうしたたぐいの高熱が、四肢にくまなくゆきわたりその末端を熱くおびやかした。思考は単線的な流れを拒み、平行線上を飛び石伝いに行き来してはたちまち行方知れずとなった。言葉は舌足らずに切りつめられ、玉のような汗をかくそのたびごとに一語一語と語彙が滴りおちて失われた。俯瞰の高みを維持することはもはやかなわず、権威は地にひきずりおろされ、見るじぶんにたいする見られるじぶんの意識が仮構することになる幽霊のまなざしもきっぱりと祓われた。時間が線ではなく範囲としてたちあらわれ、断片的な思考が不可解な翻訳を経てとんちんかんな像を結ぶ、あの夢とも現実ともつかぬ波うちぎわの住人として大佐はいつしかそこにたちほうけていた。
朦朧とする頭がほんのときおり、それでも疑いなくさえわたる時間帯というのがあった。そのたびに大佐はもはや他人事のように遠ざかってしまったおのれの身体を、動きの鈍い指先を這わせることでじっくりと検分した。指先で押さえつけた皮膚はぶよぶよと水っぽかった。太刀を自在にあやつる膂力はいまやことごとく発熱のために必要な原液と化していた。水死体のかたちをととのえる亜人の手つきが断片的な心象のひとつとしてときおり大佐の脳裏に去来したが、それはいかなる思考の起点にもなることがなかった。熱は接続詞まで溶かしきっていたのだった。大佐は寝台脇にそなえてある秘密の短刀を手にとり、息もきれぎれになりながら腕を高く垂直にのばして掲げると、重力の助けに勢いを借りてその切っ先をみずからの肩口に沈めた。現場を目撃した侍女が悲鳴をあげると、席をはずしていた医師や呪術師らがあわてて駆けつけた。ふたたびひらかれた傷口からはわずかに血がにじんだばかりで、出口を得たと騒ぎたて噴きだすものはなにひとつなかった。そこではじめて大佐はめざめた。つまり、さえわたったつもりでいた頭がいまのいままでやはり曇りきっていたことに気づき、あらためてぞっとしたのだった。おのれにたいする不信感が、ぶつぎりの時間のなかでそれでも募った。じぶんはいまどちらにいるのだ? 残り少ない語彙による自問自答がくりかえされるうちに、その意味もまた目減りし、いつしか擦りきれた。
だが、ある意味でやはり大佐はさめていたのだ。自傷行為は、黒毛の生育をおおいにうながした──少なくとも、そう推断されてしかるべきだと付きびとらは考えた。のびるものたちにつられるようにして、あらたに芽吹くものらが続いた。出産と成長、分裂と脱皮がひとしく授けられた傷口だった。寝台に敷かれた高価な織物は日に二度もとりかえられた。膿んだ体液は寝汗と同様、饐えた獣のにおいがした。四肢が痺れて腫れあがり、関節を曲げることすらままならなくなるのと時を同じくして、最期の語彙が失われた。息子のシシトが統治をゆだねられていたアルシド最南端の離島からはるばる父の病床を見舞いにやってきたときには、大佐の奇病はもはや治療不可能な段階にまで達していた。語りかければ、喉を雷雲のようにゴロゴロと鳴らしてなにやら応えたが、一語たりとも聞きとることはできなかった。目尻は細くつりあがり、瞳孔はたやすくかたちを変え、耳は見えない糸でひっぱられているかのように垂直に張りつめていた。指先からのびた爪は冷えた大理石のように白く、するどく、異国の曲刀のように危険な弧を描いており、いまにも獲物を捕らえんとしてじりじりしているようにも見え、事実、ときおり宙をかきむしった。むせかえるような獣くささは寝室いっぱいに充満し、生肉を運ぶ侍女らが耐えきれず嘔吐することも稀ではなかった。ただ暗闇のなかにあってなお黒光りする美しく高貴な毛なみだけが、かろうじて見るに耐えるものとして異彩を放っていた。美が異彩として実存するほかない状況を、シシトはどう解釈してみせるべきかわからなかった。
父が大樹と比せられるならば、シシトはむしろ蔓のような男だった。体格のへだたりが比喩の主柱であることはさることながら、太刀より弓を好み、同じ弓でも音を奏でるほうのそれを好むという性向の異同もあった。リズムというよりは旋律、詩というよりは修辞のひとであった。それでも戦とあれば一族の名にふさわしい戦果をあげてみせるところに、たくましい血の流れが感じられた。先の一戦においても一介の騎士として前線にたつことをみずから志願し、比較的戦火の下火であった地域に配備されていたとはいえ、地平線の裏側にひそむ夜を満たしてあふれはじめた曙光がそのかんばせに流された血の赤ごと赫灼と大地を染めぬいてから次なる地平線にむけてみずからを洗いながしていくまでのあいだ、戦陣を一歩も離れず淡々と矢を放ちつづけては敵兵の心臓を五十も六十も射ぬいたという連日の武勲が声高に謳われていたし、南中の太陽めがけて射られた矢が丸一昼夜かけて巨大な放物線を描いたのち、海上からはるばる指揮をとっていた敵軍の副隊長の頭蓋を鉄兜ごと垂直に射ぬいたという神話の所業じみた武勇伝がまことしやかにささやかれてもいた。女と戯れることはそれほど好まなかったが、その点にかんしては父も同様であった。いまは太陽のように明るい金色の頭髪も先祖代々がそうであるように、いずれは無音の月のような銀色に冷たく磨きぬかれるはずだった。父が大佐ならば息子は少佐だとする軽口を嫌い、あくまでシシトを名乗り名指されることを希望したが、別段父のことを憎んでいるわけではなかった。ふるまいのひとつひとつが瞬間的でみずみずしく、ときになんの責任もないように見えたが、重々しく陰気な使命の小部屋の暗がりに水路づけられた一族の血の、無音で波うつその継ぎ目でときおりひらめき反映するだけの、よわく、とるにたりない、気まぐれな性格の発露でしかないと本人は思いこんでいた。
亜人の存在についてシシトは父からなにか直接聞かされたことはなかったし、その姿を目にしたこともなかった。風のうわさが館に住まう奇妙な捕虜についての不吉な印象の幾ばくかをシシトのもとに運びはしたものの、彼の好奇心が鎌首をもたげて応ずることはなかった。もたげようにも重力の気だるさにたえかねてたちまち地に伏してしまう、シシトの好奇心にはどうにもそんなところがあった。大佐の病床をあとにしたシシトを廊下で待ちかまえていた予言者が館の地下牢へと先立って歩きはじめたときも、シシトはまるで定期的に催されることが義務づけられている村落の歓待にむかう前のような、少々罰の悪い、いくらか気のない様子で、ひんやりとかびくさい石段を一段ずつ下りていった。地下に足を運んだのはそのときが初めてであったが、石段を踏みしめるシシトにその自覚はなかった。おそらくは初対面でありながら顔見知りでもあるという、奇妙な、意識されざるがゆえにいまだ名づけられたことのない関係が、人称の横たわる地平の果てでシシトと地下をとりむすんでいたのだ。ちりぢりの光線をはねつけるように輝く大理石のすきまなく敷きつめられた豪奢な大広間とは打って変わって、地下は古代のにおいがしみついた不揃いな石畳によって四方から圧迫されており、盗賊どもがねぐらとする洞窟のような、閉鎖されたばかりの坑道のような、ひとの手によって掘りおこされたそれ自体が巨大な鉱物であるかのような──それゆえときに宝石の美しさをそこに見出さないわけでもない──そうした相貌のもとに自身を形成しつつあるように見えた。通路に沿って等間隔に灯された壁ぎわのランプの、輪郭のあやふやなまるくぼんやりとしたひかりが接しあうことなくそれぞれのあいだに暗がりを居残らせているためにか、天井の低さや道幅のせまさとは別の、かといって不可視がもたらす認識上の奥行きともまたちがった、先刻から間近にひそんでいた生物のひそやかな息づかいに不意打ちされたときにのみ実感されるたぐいのひろがりが、暗がりそれ自体がときに生物的な息づかいをとるこの地下では感じられた。ランプの灯された石壁とは逆の壁面には無数の格子がたちならび雨粒の残した軌跡のように天地を結びつけていたが、その奥にうずを巻いて滞留する黒々とした湿り気がはらんでいるものの見極めは長い地下生活の果てに夜目を獲得するにいたった牢番だけに許された特権であった。通路のなかばほどに達したところで予言者は足をとめた。続けてたちどまったシシトの後方から牢番の太くむきだしになった傷だらけの腕がぬっとのび、壁ぎわに架けられたランプをとりはずして格子のむこうにひかりをそそぎかけると、途端にばらけはじめた暗がりの奥底から魚のように白い人影がぼんやりとあぶりだされた。ランプの炎の映しだす影が、そのなかでやわらかな呼吸をくりかえすもののゆったりとした肩の動きを幾重にもなぞっていた。シシトのまなざしはむしろ壁面を彩るそれら無数の、なかば重なりあい、なかば独立した、ゆらめきながら徒党を組む濃淡さまざまな影絵の動向にむけられた。主人の身ぶりのことごとくに従うという点で、影はきわめて忠実かつ優秀な下僕であるということができたが、はなはだしく誇張されてなぞられるそれらの所作のひとつひとつにはまた、風刺の利いた道化のおもむきが見られないこともなかった。不気味さにたちまさる滑稽さ、凄みにたちまさる妙味の踊る絵姿だった。極まれば、主人に先立って動きはじめることすら厭わぬようにも思われた。同様の転回は炎との関係にもたちまち飛び火した。皮膚では感知することのできぬごくわずかなすきま風、館それ自体のたてる寝息のような通気に応じて無形の舞踏を踏みつづけるランプの炎に従うようにして、影はのびたり縮んだり背筋を曲げたり正したりとせわしなく軽薄に姿勢を変化させつづけていたが、いまではそうした影らの一挙手一投足こそがむしろ炎をあやつり、あおりたて、ゆらめかせているように見えた。父君の命が尽きる前にしかるべき手続きと方法をもってしてこのものを処刑すべきかと──ふりむきざまに放たれた予言者の言葉をシシトは手でさえぎった。さえぎってから、よくよく考えるでもなしにふるわれたその身ぶりののっぴきならなさに思いいたってはっとした。うらがえしの余波がおのれ自身の心理にもおよんだというのだろうか? 第三者の距離から下された指示の出所が、しかしほかでもない自分自身であることの奇妙さには弁明の余地もない、有無をいわせぬ迫力があった。一刻もはやく追従し、辻褄をあわせる必要があった。おおかたの見通しとは裏腹に十年以上もの長きにわたって細々とくすぶりつづけることになる父大佐の余命を、息子シシトが見かぎるにいたった最初の瞬間はかくしておとずれた。
突きだした手がためらいがちに下ろされ、錠を開けろ、という命令がそれに続いた。腰に軍刀がおさまっていることを確認してからシシトは牢番の手よりランプを奪い、額の高さに掲げながら牢のなかに足を踏みいれた。かすかに汚物がにおったが、大佐の寝室をあとにしたばかりの身にはやさしいものであった。牢屋の奥の壁にもたれかかって座りこんでいる亜人の姿を真正面からはじめて目の当たりにしたとき、シシトを見舞った最初の衝動は笑いだった。彼の目の前にいたのは村落の長い夜をふるえあがらせるおそろしい口承とは無縁の、ちんけな不具者にすぎなかった。災いの源などでは決してなかった。むしろその最初の犠牲者として見なされるべき、ありありとよわいみじめな一個の生命であった。無聊をもてあました島民らの手により描かれた卑猥な落書きが一級品の額縁で飾りつけてあるさまを目の当たりにして、刃の欠けた包丁をふりまわす料理女どもの腰ひもに繊細な金細工のほどこされた鞘が結びつけられているのを目の前にして、いったいどうして笑わずにいられよう! 壁ぎわにうずくまる亜人を見おろす位置にたち、いまにも噴きだしそうになるのを噛み殺しながらランプの炎を近づけると、壁面に這いつくばっていた影がやもりのようにすばやく逃げさった。飲み水だけの生活もすでに十日を数えるということだったが、亜人はことさら衰弱しているようには見えなかった。ゆるやかに死につつある生命がおのずと浮かべることになるあの場違いな法悦の表情も認められなければ、いまにも彼岸にうちあげられんとする命が波間でくりかえし演ずることになる酷薄な浮き沈みの息遣いも認められなかった。衰弱を常態とするがゆえに衰弱の表現をもたない、そのようなことがありうるのだろうか? シシトはいかにも支配者らしいはばかりのなさで凝らした観察の目を亜人にそそぎかけると、壁ぎわでうずくまったまま動かぬその異形をすみからすみまで存分にながめまわした。長衣からは白く痩せさらばえた四肢がはみだし、古い傷痕にまじってまだ乾ききっていない生傷が赤く目立った。皮膚を走る蛇は鞭打ちの痕らしかった。軍靴の先でもってなぞれば、かすかに身じろぎした。それは亜人がシシトに示してみせた最初の反応だった。業病の猛威はすでに過去のものであるらしく、瘢痕は石のようにゆるがず、変形はすきまなく突きつめられていた。表情はなく、というよりかたちづくられるための経路がすでに破壊しつくされており、目つきに見てとれるうらみがましさもおそらくは意思というより造形の問題にすぎなかった。すべては事後にすぎず、生来ではなかった。なるほど、父の目は島の目であった。なくしたばかりの片目がなくしてひさしい伝説の形象を認めんとしてうずきあおりたてる、その作用のことごとくが館の住民に伝染したとしてもふしぎではない。著しい日照りにひびわれた大地のような地肌からわずかに垂れさがっている、蜘蛛の糸のように細くしなやかな、地肌と同じ海の白さに色の抜けた毛髪がちりちりと音をたてて焦げはじめたところで、シシトはすばやくランプを離してきびすを返した。口元の微笑は皮肉めいていたが、目元は愉快な滋味に彩られていた。ぜひとも父君の太刀でもって事に当たるべきでございます──困惑の表情とは裏腹のかたくなさで提言する予言者のいささか芝居じみた言葉の抑揚に、きさまがそう欲するのならそれでよかろう、とシシトは応じた。不浄が出尽くすにはまだいくらか猶予がある、時が来れば呼ぶがいい、その暁にはこの手でもって父の太刀をふるおう。
館から村落にいたる道のりはいくつかあったが、巨龍の化石が発掘されたのをきっかけに骨の谷の下道が本格的な交通路として整備されて以降、ひとびとの往来はおのずと一本化しつつあった。シシトが好んで出かけた影の森は日中でもうす暗い見通しの悪さや迂回を必要とする泉、その泉から動脈のように流れだす水路の多さなどから悪路としてもとより好まれておらず、骨の谷の一件以降はほとんど打ち捨てられたも同然であったが、ひとの出入りが途絶えるにつれて盛んに活動しはじめたらしい稀少な鳥獣の目撃談をきっかけに、いつからか良質の狩り場というあらたな価値を背負いこんで一部の好事家らを魅了しはじめていた。シシトがそれら好事家のひとりであることは疑いなかったが、彼が好んだのはあくまでも狩り場となる舞台そのものの魅力、すなわち、影の森という劇場とそこでささやきかわされる木々や獣のざわめき、ひとつなぎの輪を描きながら湧きいでる風や土や葉や水によって演ぜられる神聖なる喜劇であった。競って矢を射る従者らを尻目に、シシトはしばしばひんやりとした苔の絨毯に尻餅をつきながらなにをするでもない無為にふけった。影の森はあたえられたその名をひとまずは従順に受けいれているように見えたが、暗さを誇る言葉よりは明るさを物語る言葉で形容されるにふさわしい神秘的な透明度をそのひろがりのうちにうっすらとはらんでもいた。空気は夏の夜のように明るく青ざめ、地下にわだかまる暗がりや閉鎖的な翳りとははっきりと類を別にしていた。あざやかに発色したエメラルド色の苔類は湿った大地の柔肌のみならず、その上に転がり積みかさなった大小さまざまな石塊の表面までをもびっしりと埋めつくし、ところによっては木肌や岩肌にさえ達していた。苔の地面のところどころには獣の足跡が点々と残されていた。それらはひとの視線からまぬがれたつかのまを利用してすばやく身を起こすと、次の瞬間にはもうまるでなにごともなかったかのように平然ととりすましてみせるのだった。森の最深部ともなればあたり一面、見わたすかぎりが原始の彩りや未踏の燐光で覆われているのを目の当たりにすることもできた。そこにあっては風景とはもはやエメラルドの濃淡にほかならなかった。身を置けばなるほど、いまではその末裔を市のたつところや祭式の場でちらほら見かけるだけになってしまった先住民らが、燃える羽をもつ怪鳥や虹色の鱗をきらめかせる巨大なうわばみの住まう神々の聖地としてこの森をうやまいおそれているのも無理はないように思われた。ただひとり塗りのこされた我が身の場違いじみた寄る辺なさが、浄められたおそれをかくもたしかに結晶するのだった。木々は細く、間隔はまばらであったが、しなやかな幹に秘められた力は自粛した枝わかれの分だけ天高く屹立し、おそれをしらぬほどまっすぐ、まなざしの矢尻のとどかぬ果てにまでのびていた。その先では巨人の手のひらのような葉がまばらに重なりあって風通しのよい天井をつくりあげているはずだった。木漏れ日というにはあまりに遠い光線の青白くぼんやりとした射しこみが、苔のエメラルドや泉の青を反映してしずかに色づきながら透明な羽衣のように宙をたなびき、そのなかを音もなく通過する無数の塵や胞子を白く浮かびあがらせていた。流れのなかをゆっくりと無音ですべりだしていく粒子の数々は、なにかおおきなものに背を押されていく巡礼者の行列のようにも見えた。うすく落ちかかったひかりの裾は、気の置けない様子で地面に投げだされたシシトの両足に触れるか触れないかのところでひたひたと波うち、神話に登場する妖艶な女神の手まねきとなって恍惚を誘った。シシトは指先を苔の地面に押し当てた。すると深々と吸いこむだけで喉のうるおうような、土のにおいのする涼気がそこからたちのぼった。なにをするでもなく過ごす無為のひとときによって、しかしたしかに忙殺されているこのありさまをいかに名づけたものだろう? 十歩と進まぬ先では楕円形の泉が口を開けていた。成人男性の腰の高さに達するか否かの、浅瀬のない均一な深みは、鏡とするには少々澄みわたりすぎているように見えた。事と次第によっては、映りこんではならぬものまで映りこみかねなかった。森に風はなく、動きのない水面は鉱物だった。ときおり黄色や緑や水色のはばたきをちらつかせる蝶が命の粉をふりまき、水晶のように透きとおった翅をもつ蜻蛉のつがいが水面をはねる石の間隔で筆先のような尾を点々と打っていく様子が見られた。水面は波紋の不意打ちにやわらかく崩れ、さざなみは岸辺にひっぱられるようにして幾重にもたった。
泉はきっかけの宝庫だった。あるときシシトが狩りにいそしむ従者らをあとに残してひとりで泉のそばにまでやってくると、蝶も蜻蛉も見当たらないにもかかわらず、泉の水面がひとりでにふるえていたことがあった。おそらくは森の小道から泉にむけてやってくるシシトの気配を察して、波うたせたものらが姿を消したというただそれだけのことにすぎなかったが、シシトはあやうくひざから崩れおちそうになった。風景がじぶんのあずかりしらぬ片隅においてなお一分一秒とたゆまず営まれているという圧倒的なゆるぎなさを前にして、おもわずもろ手をひろげて屈服したいという支配者の一族らしからぬ衝動にとりつかれたのだった。これほど腑に落ちるまで時間を要する当然がほかにあるだろうか! 片隅とはむしろ彼自身の限定された視界のほうにほかならなかった。だれの目にも触れることのない、世界の死角とでもいうべき領域にあってもなお営みは営みとして営みつづけているという、ほとんど奇蹟のような、かたくなな図太さと無神経さの同語反復によってこの世界の地盤は鍛えぬかれている──その事実をもてあますことの歓びがシシトに感涙ではなく哄笑をもたらした。この完璧な舞台のぬかりなさ! この豪奢な筋書きのめくるめく惜しみなさめ! また、こういうこともあった。泉のそばではときおり空をひっかくような鳥たちの鳴き声を耳にすることができたが、鳴き声の主が姿を見せることは滅多になかった。頭上はるか彼方の梢からあるかなしかのはばたきに次いで若葉が一枚二枚と表地と裏地をたえずひらめかせながらそろって落ちてくるのを認めてはじめて、葉群れから葉群れへと飛びたつ彼らの存在が察せられるのだった。無風地帯の森をまっすぐに、ひらひらと回転しながら落下する葉をシシトはしばしば目で追った。高い位置からかすかなひかりを背負って落ちる一枚の葉が泉のおもてにぴたりと受けとめられるまでには、たっぷりとした間があった。物思いをまねきよせ、まねきよせたそれを消尽させるに十分ことたりる、長い長い間だった。そのあいだも変わりなく頭上では鳥が鳴いた。獣が茂みをゆらした。泉の底にひそむ魚が地上の様子をうかがいにおそるおそる浮上し、水面にただようなにかを間の抜けた大口で吸いこんだ。ひるがえった尾ひれがさざなみをたて、小石を落としたような水音がぽちゃりとたった。遠く離れたところで従者らの歓声がどっと沸いた。かと思うとすぐにしずまりかえった。シシトは見た。一枚の葉はいまだにその行程のなかばにも達していなかった。永遠とはつまるところ、この一枚の葉が地上に落下するまでのひとときのことをいうのではないか? 時の営みをいやおうなく変質させる、そのようなひとときのことを? 持続的に吹きながれる風の音ではなく、間歇的に滴りおちる水の音として表象されるべき時の営みにみずからもまたそのひとしずくとして同化しつつあったシシトの胸のうちで極まるものがあった。すると、百年前にも二百年前にも三百年前にも──そしておそらくは千年前にも──このように落下する一枚の葉をながめていたひとりの男がいたにちがいないという確信が、根拠をもたぬもの特有の凄みをともなってしずかににじみだすのだった。第三のできごとは、洗礼の儀式を終えたばかりらしい先住民の子とその付きそいの老人に泉のそばでばったりと出くわしたときに起こった。神官らしい老人の手によってなにもわからぬまま泉の水で四肢を洗いきよめられた幼子は、ものめずらしく目に映るものすべてを順々に指さしながら、万能の語彙の威力をためすかのように﹁それ、それ、それ﹂と容赦なく名指しつづけていた。木々の一本一本、枝のひとふりひとふり、青葉の一枚一枚、苔のひとむらひとむら、羽虫の一匹一匹、光線のひとすじひとすじ、胞子の一粒一粒をわけへだてなく名指しつづけるその指先は、やがて泉のおもてに映りこんだ幼子自身の姿にもむけられ、次いで、その時点ですでにはっきりと発見のきざしに皮膚をあわだてていたシシトのまなざしを真正面から射ぬいた。幼子のまるみをおびた指先から放たれる不可視の圧力を前にした途端、シシトは魂が後ずさりするのを感じ、みずからの輪郭が景色に埋没する音をはっきりと耳にした。頬をいっぱいにふくらませた幼子の顔はひかりを浴びた果実のようにまるく晴れやかで、悪戯っぽい目元などは思いついたばかりの冗談をそのまま口にしてみせた直後の満足に彩られているようにも見えたが、それは決して軽い悪戯やちょっとした冗談として看過されるべきできごとなどではなかった。ひとりで歩くことすらままならぬ幼子のおぼえたての言葉とたわいもない身ぶりが、しかし考えようによっては全世界を真っ平らに一面化しかねないという事実は抜き身の冷ややかさに磨きぬかれた切っ先するどい刃物と化して、逃れようもない脅迫性の名のもとにシシトの喉元にくっきりと突きつけられていたのである。
それらすべてのきっかけをシシトは病床の大佐にむけてあますところなく語った。父ならばある種の畏敬の念とともに胸のうちに封じこめておくであろう固有の機微を、息子はちょっとした旅の経験から得た手軽な土産話でも披露するかのように、いくらか得意気でさえある調子で語ってみせた。大佐の病状が悪化するにつれて、寝室の灯りはひとつまたひとつと落とされていった。だれが命じたわけでもなかったし、また、だれもその意味を問いただそうともしなかった。いちど大佐が悪夢に吠えて寝床から転がりおちたことがあった。あわてて駆けつけるものらの前で、自力で体勢をたてなおしてみせた大佐の四肢はしかし地にたいしてそろって直立し、生まれたばかりの仔馬のようによわくふるえながら胴の重みをささえていた。それ以来、気高く忠実な家臣らはみずから盲いることをのぞんだのだった。シシトといえどその思いは同様であったが、盲目の工夫は長続きしなかった。そもそも、見ないためには見られない必要があった。だが、啓示によって潰れたはずの大佐の瞳はいまや暗がりにあってあやしく発光し、のぞきこまれぬうちからいやおうなくのぞきかえす後手の先に研ぎすまされていたのである。
だれもが一刻もはやい病の終わりを願ったが、それが完治というかたちをとっておとずれることをのぞむほど愚かな、ほとんど侮蔑にもひとしい楽観主義にとりつかれているものはひとりもなかった。終点はある種の到達や完了としてあらわされるべき事態であることを、ひとびとは言葉に出さずともはっきりと理解していたし、そうしたたがいの理解を見抜きあってもいた。シシトは侍女らのおびえをくみとり、配膳の役目をみずから買ってでた。四六時中うなされているように見える大佐であったが、それでも食欲だけは衰えなかった。食事をすませるとすぐに眠りに落ちこむさまはさながら赤子であった。眠るか食事をとるかの果てしない二択のなかで、やすらかにずれこんでいくものがあった。眠りとは死の予行練習であり、めざめとは誕生の復習にほかならなかった。死をはさんでへだてられた前世から現世への山越えに際して課されるしずかな手続きが、夜明けのたびごとにくりかえされた。大佐が次第に大佐から遠ざかっていく、転写のわずかな不一致の現場はそこだった。積みかさなる誤差はすでに山となりつつあった。口元の髭を生肉の鮮血に濡らしながら、それでもまだ幾分は人間らしい姿勢で寝床に横たわる大佐は深々と、それでいて継ぎ目のはやい呼吸をくりかえした。急かされているのではなく、急いているのだった。逃れようとする足どりがそのまま不可逆的な行程であることを検証する余地もなく、余地をもたないからこそ可能になる速度と、その速度ゆえに達成されうる越境があった。熱のひどくなる夜更けにはちょっとした物音や残響が呼びかけのように聞こえ、記憶の声がいまここで発せられたばかりのように生々しい余韻をくりひろげた。みずからのうめき声によって目をさますこともしばしばであった。頭は石でも詰められたかのように重く、四肢は紙風船のように軽かった。あおむけの姿勢で腕を天にのばせば、そのままするりと半身の宙に浮きあがりかねぬ心地をおぼえた。枕にのせた頭をかたむけると、砂丘のようにだんだんと波うつシーツが目に入った。その襞の上を一匹の巨大なダニが、のろのろと這いつくばるようにして歩いていた。臥せった視界を基準とすれば、頭を下にむけて絶壁をおりていく命知らずの冒険者のようにも見えたが、そうした錯覚との戯れを規制する蝶番の一点として、重力のむきをあらわに反映する探るような脚の動きがあった。目と足と地の三位一体こそが図の天地左右を決定づけるのだろうか? 小さなものに見られずして見、それでいて構図の主導権は当の小さなものにそれとして自覚されぬまま全面的にゆだねられてある、この天秤こそ定点を知らず遍在する神のまなざしの正体なのでは? そのようなことが熱のまわった頭で考えられたものかどうか──あるいは熱のまわった頭であるからこそ経めぐることのできる突飛さというものがあるのかもしれない。じっと焦点を凝らしていると、不意におのれが大広間にそびえたつ歴代領主の立像にはやくも仲間入りしたかのような、どこか誇らしげな勇みに腹の底の冷えて固まる感じがした。襞の頂点はあるかなしかの空気の流れによわよわしくふるえていた。ダニが節くれだった触肢をかけるとふるえはいちどおさまったように見えた。安定とはまるで無縁の、いつくずおれてもおかしくない緊張からもたらされるたぐいの均衡だった。続く二の足はなかった。さしだしかけた歩脚を宙にぴたりと停止させるがいなや、ダニは不意に動かなくなった。まもなくおとずれるにちがいないなにか、それでいてみすみす過ぎさるにまかせるほかないなにか、述語としてのみ感知されうるなにかをためらいながらも待ちうける、一途に不器用な構えのように見えた。襞が折れた。するとダニの姿はもうそこにはなかった。やわらかい風の通りぬけに、額にべったりとはりついた髪の毛の幾筋かがはがれ落ちた。凝視が破られ、注意がひろがった。夢からさめた一瞬のように五感が息をふきかえすと、昼下がり特有の、あの物憂いしずけさが耳目にしみた。甘い水薬のにおいが陰干しされた果実のようにただよい、寝台は天蓋から吊るされた更紗のカーテンのためにうす暗く、花弁とも種子ともつかぬ繊細な模様のちりばめられたうすい生地の織目からしみこむやわらいだ日射しに、事物はそれでも逆光に暗く落ちこんで見えた。ベッドの脇に控えた侍女はうとうととした心地からさめたものらしく、手にした団扇をふたたびゆるりとあおぎはじめていた。風の源はそこであった。侍女の腰かけている籐椅子の足下には水のひたひたに張られた洗面器が置かれていた。その上を蠅が一匹、弧を描きながらぶんぶんとうなりをたてて飛びまわっていた。厚手の葉を幾枚も重ねて編みこんだ巨大な団扇を侍女はときおり蠅のほうにむけた。すると蠅は突風に気圧されてあわてて高くその身をひるがえしたが、じきにまた螺旋階段を下りるようにして水に近づくのだった。腰かけた籐椅子ごとやはりおぼろげな逆光に暗く落ちこんで見える侍女の背後では、かすかな身ぶりをともなう人影が滝のように垂れこめる薄手の目隠しを透かしてぼんやりと浮かびあがっていた。﹁病状は……解熱剤のとりよせが……先住民どもの秘薬を……母君のあとを追うようなことが……﹂押し殺したような声の、それでも押し殺しきれぬ抑揚の頂点が、波間に顔をのぞかせる岩礁のようにとぎれとぎれに聞こえた。人影の相対する先にはそれとは別の、よりおおきく輪郭のかたどられたもうひとつの人影があった。閉じあわされた目隠しのすきまが微風にゆれて食い違うと、くちびるを固く結び、目を足下に落とし、腕を組んで仁王立ちしたまま医者の言葉にじっと耳をかたむける、そのころはまだ黄金色のうるわしい頭髪がわずかにのぞいた。だが、いったいいつから観察は幼いシシト自身の記憶をなぞりはじめていたというのか? 侍女が団扇を片手にたしかにその上に腰を落ち着けていたのと同じ籐椅子からゆっくりとたちあがったシシトの目の前には、すでに腕を組むことも仁王立ちすることもままならぬ父大佐の姿があった。シシトには信じられなかった。ここに横たわっているのは本当に父なのだろうか? むしろいまだ熱病の癒えぬ我が身なのでは?
思えば、混濁もやはりまたきっかけの一種だったのだ。時のおとずれを告げる予言者の言葉にシシトは耳をかたむけなかった。催促は再三にわたったが、そもそもシシトは言葉の責任を行動でとる男ではなかった。そっけないはぐらかしに出くわすたびに、予言者は不信の表情を隠しもせずありありと浮かべてみせた。その不信がいつからか憂いと懸念にとってかわった。表情の変化がなにを意味しているのか、シシトには察しかねた。察しかねているあいだに、館で顔をあわせるものらまでもが次々と予言者とよく似た目つき顔つきを浮かべはじめた。すれちがいざまの横目や、面とむかった際のおそるおそるとしたためらいが次第に目につくようになった。近しい家臣のなかには、わざわざ道ゆくシシトを呼びとめてなにやら気遣いらしい言葉をかけるものさえいた。問いかえせば、失言を詫びるようにして目を伏せるか、怪訝さ疑わしさもあらわにその場をたちさった。鏡を前にするシシトの目つきが日ごとにするどくなった。泉のふちに腰をおろしては、まぼろしのように映りこむ自身の姿をくまなく検分した。血脈を通じての感染があったのではないだろうか? たとえそれが時の因果に逆流するかたちであるとしても? だが、どれだけ目を凝らしてみたところで鏡像が分別を失うことはなかった。不吉な黒毛は一本たりとも認められなかったし、骨格や関節の変形も見られなかった。食事の好みも変わらなかったし、汗や唾に獣のにおいが混じりはじめるということもなかった。それでも自問は尽きなかった。自問、それは常に他者のまなざしを経由して運びこまれる責め苦であった。鏡像とはのぞきこんだ相手の瞳に映る人影ではなく、そのおもてで混じりあった瞳の色それ自体のことを指すのかもしれなかった。頭が重く熱っぽい気はしないか? 頬がこころもち痩けているように見えるのは気のせいか? 妙に息切れしやすくなったような、判断力が鈍くなったような、見るものことごとくがあたらしい息吹をともなっているような感じは受けないだろうか? 答えを待たずして増殖しつづける問いの重みに沈みこむばかりの日々が続いた。反発がシシトに従者から弓を奪いとらせ、その矢を頭上高く続けざまに五本でたらめに射たせた。五本の矢のうちの四本は梢に隠れていた溶岩のように赤い羽をもつ小鳥の心臓を射ぬいた。残る一本は天高くまっすぐ上昇したのち、なにものも射ぬくことのないまま泉のおもてに突き刺さったが、じきに水底に住まう巨大な雷魚が水面に半身を浮かべた。シシトはそれまで従者らの道楽に付きあったことはほとんどなかった。そもそもの弓の扱いからしてシシトの得意とするところではなかった。五本の成果はそれゆえ文句なしの偶然であるといえたが、偶然性も極まれば往々にして聖性にふりきれるものである。先の戦における神話じみた武勲はほかでもないこの一件を契機として事後的に編みだされたものであった。
侍女らにせがまれて館の広間やときには使用人らの控え室で軽快な嬉遊曲の一節を弾いてみせることもあったが、シシトが好んだのはむしろ森のなかでひとり物語のなかの吟遊詩人のように楽曲未然の定かならぬ旋律をもてあそぶ幼子の時間であった。森のなかでの演奏はひときわちがった経験をシシトにもたらした。大理石にかこまれた館のなかではあれほどまであまくうるわしく十全に響く音色が、泉と水路の森のなかではいかにもたどたどしくもつれ、どもり、まるくたちあがることもなければやわらかいひろがりをみせることもなく、途端にひしゃげて落下するのだった。どうにかして森に適した響きを獲得する手はないものか、泉のほとりに腰かけてつま弾くシシトの指先はいつからかその方法をもとめて弦の上をせわしなく行き来しはじめていた。探究は度を越した。大佐を見舞うことにたいするおそれとも忌まわしさともつかぬなにごとかがシシトを館から遠ざけていたという事情もあったが、ふとしたことから見出された偶然の試練を突破することによって、正体不明の息苦しさをもたらす暗雲を退散せしめることができるのではないかという転嫁された期待によるところもおおきかった。試練には試練にふさわしい形式と手続きがあった。あるいは、しかるべき形式と手続きだけがただのできごとを試練へと鋳直すのかもしれなかった。シシトは館にもどらなかった。本当の響きをこの手にたぐりよせるまではここを一歩たりとも離れまいとする誓いが、その居住まいに石像の寡黙さを宿らせたのだった。従者や家臣らによるたびかさなる進言にもかかわらず、泉のふちから一度も腰をあげることのないままシシトの探究は夜通し続いた。朝の鳥が頭上の樹冠から飛びたち、入れかわりに昼の獣どもが茂みを揺らしはじめたところで、はじめて楽器をかたわらに置いた。草むらにごろりと横たわるとすぐさまかすかな寝息をたてたが、一時間もしないうちに身を起こしふたたび楽器を手にするがいなや、夜の魚たちが水面下をうごめくあいだじゅう探るような指先で音色をたどりなおした。昼もなければ夜もない生活はこのようにしてはじまりを告げた。体力の尽きたところで浅い眠りをとり、昼夜交代で護衛につく従者らのさしだす食事にはいっさい手をつけぬまま、ただときおり泉のふちにひざをついては両手ですくった清水で口をすすぐ、そんな日々が七日七晩続いた。一心不乱にというよりはほとんど淡々と義務を遂行するようにしてこなされる、朦朧としてなかば狂気じみた営みであった。まず弓が折れた。次に指先が血を吹き、やがて爪が砕けた。砕けた爪でなお弦をはじくその姿は吟遊詩人と武人とのありえない交点に浮かびあがるまぼろしであった。そのありえなさを可能なものとしてどうにかとりむすんでいた弦が切れたとき、決着は武人の勝利というかたちをとってあらわれたかに見えた。だが、それこそシシトがもとめていた解放の瞬間でもあったのだ。弦のひきちぎれる野太い音ははじけず、ひろがらず、たちのぼらず、ただいきなり森のなかに満ちた。シシトははっとして目を見開いた。これぞもとめていた響き! これぞ探しあぐねていた音色! 旋律はひとつぶの摩擦もはねとばすことなく水銀のようななめらかさで森をすりぬけ、響きは調子はずれであるにもかかわらず圧倒的に正しかった。弾きつぶされた無理な楽器の一音一音は実にするどく跳躍しながらそれでいて先端は乳房のようなまるみを帯びてやわらかく、余韻を滴らせることもなければ残響として滞ることもないまま空間にうっすらと溶けこみ、決して跡を濁さなかった。まさしくこれしかないというぴたりとした一致の直観がほとんど算術的な官能性となってシシトの背中をあわだてた。答えは問いの領地の外側にはじめからあふれかえっていたのだ──楽器の遺言、弦の断末魔、調律からの解放として!
なるほど、音楽の単位とはたしかに時間である。だが、音の単位、響きの次元、音色の受け皿とはほかならぬ空間ではなかったか? おそらくそれぞれの空間に適したそれぞれの響きというものがあるのだ、調律からの解放が大理石の館からの解放をも意味していたように! 開拓された視野から吹きよせる風にいまやシシトの思考はめまぐるしくかきまぜられていた。あるいは人間もまた一本の弦にすぎないのではないだろうか? ちがう、そうではなかった。人間とはむしろひとつぶの音であった。なにをいうか、それもあやしいものだ。シシトは比喩を根城とした手探りを好んだ。逆算してのぞく現実に真相を見ようとする性根があった。練りあげられるものと重ねあわせられるものの配分にその秘密をもつ一種の錬金術を愛した。森には森の、山には山の、浜には浜の、館には館の、適した響きからつむがれる適した旋律というものがあるはずだった。最適な組みあわせを、最短の関係を、最速の経路を探りだすことに成功しさえすれば、なにもかもがうまくいくにちがいなかった。真理というものが仮にあるのだとすれば、それ以外のかたちをとってあらわれることなどシシトには到底考えられなかった。
もはやおそれることはなかった。シシトは大佐の病床のかたわらに例の籐椅子をひきよせ、腰かけると、あらたに張りなおされた弦の上にそっと弓をかざした。馬のたてがみと羊の膓がこすれあい、空気がのびやかにふるえて天地に波うった。シシトは指先に主導権をゆだねた。身体にしみこんだ楽曲のいくつかが思いつくままに奏でられた。たちこめる臭気を両手でかきわけてただよい流れだす旋律に、たちまち扉の外にひそひそと集いはじめる女たちの気配がからみあった。強くひっぱればたやすく切れてしまいかねない、よわく繊細な一本の糸を慎重にたぐりよせるようにしてシシトは弓を持つ手を優雅に踊らせた。死からも見放されたこのせまく暗い呪われた一室にもっとも適した響きと旋律がそう遠くないどこかにあるはずだった。あるかなしかの感触をしるべにあることのたしかな極点にむかう未明の旅路にあって、ひろいあげては捨てさり、見放してはふりかえる、探る手つきの物怖じせぬ贅沢奔放な営みだけがせわしなくくりかえされた。疲弊と油断による指先の簡単な踏みまどいによってか、成果のない楽音がいざなう自失とも麻痺ともつかぬ夢うつつに呼びこまれた不意なる弛緩の仕業によってか、一音から一音への結びつきがやわらかくたわむと、ねじれてうらがえるその一瞬にまぶしいひかりの矢が駆けぬけることがあった。そのたびにシシトははっとし、乳白色にけぶる夜空に緑色の尾をひきずって消えさる流星のあとを目で追うように、ほとんど白に近い金銀のひかりをその先端に響かせながら遠ざかる矢の方角に耳をそばだてた。連なる鎖としての自我の、もっともよわい環から吹きこむ外気こそが手がかりであった。風通しの良いほうへ良いほうへとむかう足どりは次第に圧力を増す逆風を前にして鈍り、ほどなくして十全たる牛歩と化したが、シシトはそれでもなおひきかえそうとはしなかった。むかうべき方角はすでに定まりを得ていた。それ以上は一歩たりとも進むことのままならぬ逆風の極まる地点に達するころには、シシトの手はすでに奏でることをやめ、それ自身が奏でられるべき楽器の一部と化していた。指先も、手首も、肘も、肩も、首から背中、背中から腰、腰から尻、尻からひざ、ひざから足の爪先にいたるまで、すでに奏でられるべき楽器であった。ならば奏でているのはなにものだというのか? すると、記憶のなかで先住民の子供がシシトを指さして言うのだった──それ。
その指先の命ずる方向に突風が吹いた。弓と弦が吹きとばされると、あとに残るは低い歌声だけとなった。偽物を消しさり、本物を見極める、一陣の明晰さが吹きぬけたのだった。響きの尾をしかと掴まえた手をそのままたぐりよせれば、芋づる式に姿をあらわす旋律があった。口ずさめば、風の塊を難なく突きぬけた。無風地帯にまねきいれられたシシトは籐椅子の背にもたれながらまなざしを内側に沈みこませると、古い記憶の上に降りつもったほこりをやさしく吹きはらうたどたどしい吐息で、ひろいあげたばかりの旋律をゆっくりとなぞりはじめた。歌声未満の、ちょっとした感嘆符をともなうつぶやきのような、いささか恣意の目立つひとりごとのような、一語一語に唾液のねばつくかすかな地声が、記憶のなかで都合良く改変された幼年期の思い出のように無傷なひとつらなりをなぞった。短く、なつかしい節まわしであったが、なぜなつかしいのかはわからなかった。それがはっきりしていればそもそも身にしみて感じられることもないであろう、不確かさと親族関係にあるなつかしさであった。ありとあらゆる気配が鎮まり、かき消え、引き潮のようにたちさったのも、あるいは口ずさまれるもののなつかしさが万物の注意を一身にひきうけていたためかもしれない。出自不明の憧憬がそれでいて記憶の主として君臨してしまうひとときは、時の地層の激しい隆起をまねかずにはおかなかった。現在の地表に突きだす過去が、それらをまとめて串刺しにする未来と重なり一致し、永遠という仮の名のもとに時の純潔を受胎すると、その産道から何時にも属さぬ亀裂が稲妻のようにほとばしり、地層の断面図を刃物でずたずたにされた戦士の横顔のように狂わせるのだった。旋律はほかでもない、ずたずたにされたそのくちびるからこそしとやかにこぼれ落ちた。その旋律が不意に途絶えた。日没の瞬間のように境目のはっきりとせず、しかしたしかにそこを通過したのだと事後的に判断せざるをえない、そうした境界線の越境として終息はおとずれた。シシトはおののき、その場にたちあがった。いまのいままで憑かれたように口ずさんでいた鼻歌の正体が、我に返った途端、ほかでもない子守唄であることにとつぜん思いいたったのだった。同時にまた、シシトはそのようにおおげさな反応をとったおのれ自身のふるまいにもひどく困惑することになった。いったいなぜこれほどまでに動揺する必要があるというのか? 自問が刃の切っ先と化して隠された矛盾の存在を暴くと、心臓がたちどころに早鐘を打ちはじめた。シシトは扉のあるほうにむけてふりかえった。すると、呆然としてたちつくす自身の姿が寝台をとりかこむ色のうすい更紗のカーテンに影絵となって映りこんでいるのが目についた。それはおとぎ話のように遠い褐色のなかでいまもまだかろうじてとらえることのできる、熱病によって妻と子をたてつづけに奪われようとしている危機にあってただただおのれの無力に気骨が折れぬよう硬く腕組みし、仁王立ちの構えをとることしかできぬ若き日の父大佐のシルエットそのものであった。歴史はくりかえされるというのか? 一族の血がそれを強いるとでも? そうではなかった。むしろいまのこのじぶんの姿をこそあのときの父は後追いしたのだという不可能な確信がシシトをつらぬいた。事実の事実性が問われる以前の信仰の聖域に、真偽の確認が免除されるひとつめの論理に、天地左右の定まらぬ無傷のはじまりに、その仮定を横たわらせることによってはじめて可能となるあらたな分別がシシトに生じた。いまやシシトにははっきりとじぶんのなすべきことが理解できた。足どり猛々しく地下牢にむかうシシトの様子に予言者は歓喜し追従を述べたが、シシトは固く結んだ口元をゆるめず、牢番に命じて亜人の幽閉されている牢を開放させると、ランプを片手に軍刀のひとふりも持たずにつかつかと腐臭のたちこめる暗がりへと足を踏みいれた。
﹁出よ。きさまは許された﹂
亜人は以前シシトがここを訪れたときと寸分違わぬ壁ぎわに腰をおろし、たてた両ひざに顔を斜めにうずめたまま、ぴくりとも動かなかった。出よ、とふたたびシシトが口にすると、鉛でもひきずるようにして重々しく顔をあげたが、その目は突きつけられたランプから放たれる金色のまばゆさにも物怖じすることなく、白く濁った瞳孔にとりこんだ炎をゆらめかせたままとらえどころのない距離の彼方を見据えて離さなかった。眼光を失っているのだった。出よ。みたび口にした。亜人は岩陰で腹這いになった魚のごとく動かなかった。死んだ目の色が変わらぬのはさることながら、呼気までもがひとつの乱れもきざすことなく低く堅持されてあるところに、据わりきったものから放射される口数少ない圧力が見てとれた。食事もろくにとらぬままいったいどれほどの月日が経過したというのか、シシトの目の前にいるのはもはや死すらも拒みかねない、かたくなな態度の権化であった。ただ放っておいても進行する死をなすがままにさせておきながら、その完了という新規の展開は拒絶する徹底の様態だった。このまま永遠に延期しつづけるとでもいうつもりか? さすれば不死者になれるとでも? 馬鹿なことを! シシトはランプを左手に持ちかえ、自由になった右手を幽閉者にむけて威圧的にのばした。だが、いったいどこにその手をかければよいというのだろうか? 抜けおちきった毛髪をたばねることはかなわず、枯れ枝のような手首をひっつかむのも無理があった。長衣の襟元はびりびりにひき裂かれたのを鎖骨の上に結びとどめてどうにか体裁をとりつくろってあるようなありさまであった。もうこれ以上は言わぬ、出よ! 強められた語気は拒絶者としての亜人にたいする苛立ちの発露というよりは、むしろうらぎられくつがえされた見込みに騒々しくあわてふためく背後の予言者を圧するべく放たれた牽制の一撃としての意味合いが強かった。よるべなく宙をさまよう手をシシトは横手にむけていくらかおおげさにふりはらい、開けはなされた牢のむこうに集う灯火をきつく指さしてみせたが、闇に盲いたまなこがその指示に従うことはなかった。やはりまぎれもない、とシシトは考えた。この強情さはまぎれもない人間のものだぞ。シシトはふたたび空いたほうの手を眼下の亜人にむけてさしのばすと、今度はいっぺんのためらいもなくその襟元を強く握りしめ乱暴にひっぱりあげた。意想外の軽さにだまされておもわず後ずさると、軍靴にはねとばされた腐り水がぴちゃりと音をたてた。ひとつの抵抗も示すことなく腰をあげた猫背は存外ふらつくこともなく、あるかなしかの重心はそれでいてふしぎに安定しているように見えた。目はシシトの肩の高さにまっすぐ凝らされてありとあらゆる焦点のかたわらを通過し、色をして語ることを忘れてひさしいありさまはなるほどますます表情のない蜥蜴の瞳を思わせたが、しかしそれだけであった。シシトは長衣の襟元をくしゃくしゃにまるめてひっつかんだまま牢の出口にむけて強い足どりで歩きだした。みずからをして最後の防壁とでもいわんばかりに決死の表情を浮かべてたちはだかる予言者の門番めいた風情のためか、待ちうける構えは出口というよりむしろあらたな入り口のように見えたが、シシトはいささかも歩調をゆるめることなく、ただその手に掲げたランプを遠慮なく無造作に予言者の胸元に押しつけると、聖衣の焦げつくのをおそれた相手が小さく悲鳴をあげて飛びのいたその先にむけていくらか乱暴な、そしてそのような扱いの手荒さをある種の弁明とせんとする手心のかすかにのぞけなくもない手つきで亜人を放りだした。結びとどめてあった襟元のふたたび破れる強い音がたち、牢の外に無理やり投げだされた亜人は通路の石壁にむけてよろめくように正面からぶつかると、二三歩その場で足踏みするかのように身じろぎし、壁ぎわにはりつく甲虫のごとく無防備にも背中をさらした姿勢のまま不意に動かなくなった。
しかるべき道筋にひそむ一種の欺瞞を嗅ぎつけたかのような、ありうべきたしかさの結節点に隠蔽された危険なひびわれを認めたかのような、するどい違和感が屹立してとどこおりのない事の次第をはばんだ。なじみのない語彙をもてあますくちびるの痙攣のように看過することのならぬ場違いな身ぶりが、亜人の骨身をすばやく横切ったことは予言者の目つきを見ても明らかであった。シシトはだらりとたれさがった右腕の先で握りしめられていた拳をゆっくりとほどいた。破りとられた長衣の布地がひらりと石畳の上に落ち、窪みにたまった水気をじわじわと吸いとるうちに重く濡れて潰えるその一部始終が、まなざしはまるで別方向にむけてあるにもかかわらず手にとるようにはっきりと見えた。器官の統率から解きはなたれて自在に迷走する知覚の不意打ちに、とつぜんおそろしくもひらめくものがあった。
﹁きさま、女であったか?﹂
まろびでた言葉はいかにも動揺して聞こえた。シシトはひどい羞恥心に駆りたてられた。その反動が、亜人にたいする臆面もない接近を可能にした。むき身の肩にむけてことさら無造作にかけられた手は特権を認めじとする意気地がなしとげた最後の強がりであった。痛々しく張りつめていまにも屈服しかねぬ他人のようなその手をシシトはそれでもぐっとひきよせた。すると、あれほど遠ざけられていたはずの一個の完了があっけなくあらわになった。亜人はこときれていた。肉体は石壁を寝床として垂直に伏したまま動かず、意識は見捨てられた貝塚のように不通と癒着しすでにゆるぎなかった。いったいなにを契機として? どの瞬間に? 熱っぽい逆算がたちどころにシシトをとらえた。常闇にひたりきっていた瞳がひさかたぶりの灯火にとつぜん熱くまばゆく射ぬかれたことで? あるいは石壁に倒れかかるようにしてぶつかったその打ち所が悪かったとでも? はたまた断食の限界がいまこの瞬間に偶然にも重なったというのか? そうではなかった。消去法はただ直観を裏打ちするためだけに費やされる理性の悪あがきでしかなかった。認めないわけにはいかなかった。ほかならぬ先の問いかけこそ、死神の指先に宿り、亜人の額に犠牲のしるしをなぞりつけるにいたったものの正体であった。
途端に斜めにかしいでくずおれかかる亜人の身体があった。シシトはさっと両手をさしだしてその肩をささえた。抱きとめるのを忌避したとっさの判断を償うように、手のひらから前腕へ、前腕から上腕へと、おのれ自身にさえ気取られぬようおそるおそる接着面を拡大してみせるちょこざいな欺瞞のそれでも隠しおおせぬのにやり場のない羞恥を苦々しく噛みしめながらも、背筋をぴんとのばしたまま地に両ひざをついた亜人のかたわらにシシトは片ひざをついてよりそい、背後から腕をまわし肩を組むようにしてその上体をささえた。亜人の瞳は干上がった魚の鱗のように透明度をなくしてべったりと色づき、乾き、風化し、つい先ほどまで濡れた炎をその内側に宿していたとは到底思えぬほどいっさいと無関係であった。もはや鏡でもなければ容器でもなかった。ほんのかすかな余地さえもたぬあたらしい充溢に黒々と塗りこめられたうえで固く封をされている、ひとつの打ち捨てられた秘密がそこにはあった。両の手は裂けた長衣を胸元で閉じあわせたまますでに硬直していた。ともすれば、敬虔な祈りの姿勢のようにも見えた。遅ればせに事態を悟った予言者が、これはなんと……いや、しかしこれで……と口にしかけた言葉をのみこんだ。牢番は鉄仮面を脱ぎ、脇に抱えた。シシトは亜人をささえていた手をゆっくりと離して自重にゆだねると、かがめていた腰をのばして敬虔なる死をあらためて高い位置から見おろした。視界をひとすじのこそばゆさが横切った。抜けおちた前髪が一本、鼻の頭にひっかかっているのをシシトはつまみ、そしてながめた。ゆれるランプの黄金色をたっぷりとたたえながらも、それは刃物のような銀色の艶めきにするどくはっきりと研ぎすまされて見えた。じめじめとした地下の空気が途端に鼻についた。シシトは言葉を切りだしかねている予言者のほうをふりかえった。口外無用とはいわぬ、だがことさら病人の耳に入れることでもなかろう──命令はいくらか控えめな領主の口調で下された。
亜人の幽閉されていた地下牢から迷宮が発見されたのはそれから三日と経たぬうちのことであった。牢獄の最奥、通路に灯された明かりのとどかぬいちばん深い暗がりの亜人がいつも背をもたせかけていた石壁のあたりに、たちこめる闇のなかにあってなおいっそう黒々とした、見るものの重心を崩しかねないただならぬ奥行きが魔物のようにぼうっと口を開けているのを、事後処理に入った牢番のひとりが驚きの声とともに発見したのであった。最初それはだれにも思いつくことのできぬ突飛な方法で試みられた脱獄の痕跡かと思われた。だが、その仮説はためしに秘密の通路にむけてランプの炎を掲げてみた牢番の狂人じみた悲鳴によってたちどころに否定されることになった。石壁の一部として嵌めこまれてあった巨石がそのまま一枚はがれ落ちたかのようにも見える、ひとの背丈より少し高いほどの︽入り口︾だけですでに見るものを驚倒せしめるには十分であったが、暗がりの奥深く地下の深部へとひとをいざなう釣りあいのとれた石段がその先にむけて螺旋状に続いているさまはもはやひとの気を不確かにし、足下をすくい、生涯をかけて積みあげてきたものから無理な中抜きをしとげてみせる、芸術のように荒々しく野蛮なひとつの徹底された怪奇、既知の急所に産みつけられた純粋無垢な害意以外のなにものでもなかった。たったひとりの、それもたかだか数週間幽閉されていたにすぎない囚人の手によってなせるわざなどでは決してなかった。悲鳴を受けてやってきたもうひとりの牢番もやはりまた雄々しい叫喚を地下いっぱいにとどろかせた。それにたいして叫び声をあげることが妥当であるのかどうかさえ定かでない、想像を絶する事態のあまりにも簡単で率直な顕示、その当然の顔つきをしたたたずまいを前にすることで、人智を越えたできごとを目の当たりにしたことによるおそるべき報いにおびえて縮こまる極端なまでに萎縮したものの意欲が、あるいはそのようなできごとを認めじとする苔むした理性によって過剰なまでに動員された攻撃性のいたたまれぬ衝迫が、そしてその両者を声部とするいまだかつて記譜されたことのない未開の和声のごときものが、内なる動物の姿をとり、あらゆる意味をはねつけてただむき身の一心さで吠えるのだった。むきだしの太くたくましい腕に蜂にでも刺されたかのような鳥肌を走らせながらこめかみに汗をしたたらせた牢番が青ざめた表情で報告にやってきたとき、シシトはもはや理屈をつけて事象を解釈しまいとするたしかな態度を身につけていた。臣下のものらをぞろぞろとひきつれてむかった地下牢の現場においても、牢番らの報告により多少の免疫を獲得していたがゆえに叫び声こそもらさなかったもののなにかと理由をつけて二の足を踏むものらとは異なり、シシトはひとり奥へと進むことをおそれず、手元に掲げた炎のゆらめきがなぞる長い螺旋階段をおりた先に無数の通路の入り組む迷宮じみた光景が待ちうけているのを目の当たりにしたところで、ことさらとりみだすこともなかった。シシトの無鉄砲にただひとり遅れて同行した予言者は、古代に建造された城や宮殿が天変地異に巻きこまれてこのように地下深く埋もれることになったのではないかとの仮説を表明したが、それはもはやほとんど発明というにひとしい、折りかえされた理性が苦心して編みだすたぐいの戯言にすぎなかった。
探索と究明はその翌日から本格化した。シシトはほとんど毎日のように選りすぐりの兵をともなっては地下にもぐり、広大無辺な迷宮のなかを慎重にさまよい歩いた。入り口の螺旋階段をおりた先がどうやらこの迷宮に存在する唯一の広間と呼ぶにあたいする空間であるらしいとの見通しがつけられると、シシトは報酬につられてやってきた命知らずの職工たちに命じて、ひとまず︽入り口︾の螺旋階段と広間に燭台をとりつけさせた。広間には地下牢のものとよく似た古い石畳が不揃いに敷きならべられており、そのところどころはひび割れ、湿り気をおび、かすかな水気をたたえていた。壁面もまた牢獄と同じく石造りであったが、切りだした石をならべたり、重ねたり、はりつけたりすることによって仕上げられたらしい造作の地肌そのものよりも、その上に堆積する砂粒や塵芥による彩りのほうがかえって人目につきやすい、経過した時間との親和性を感じさせる独自の固着性のほうがよく目立った。燭台が順次とりつけられていくにつれて、予想していたよりもはるかに巨大な広間の実体が明らかになった。ひとの顔の高さの壁ぎわに等間隔にそなえつけられた炎の、無風になおゆらめく赤い舌先さえとどかぬほど天井は高く、まなざしをはばむ暗がりの層は未知の奥行きをもって物音を遠くうつろに響かせた。その空間が館の大広間と酷似していることにはおそらくだれもが気づいていたが、それは口にした途端によからぬものを呼びよせることになるに相違ないある種の忌み言葉として、厳粛に結ばれたくちびるの境界線上で堅くつつしまれていた。広間には障害物ひとつなく、それでいて殺風景とも見えぬのはおそらく燭台の炎が壁面に投影する彩度の異なる円の幾重にも重ねられたおぼろげな模様がずらりとならんであることの幻想的な印象と、その幻想を疑似餌としてするどくあぎとを開いて獲物を待ちうける数多の蛇道の暗い息遣いのためだった──螺旋階段につながる入り口がその中点に設けられた一辺は別として、ほぼ正確な正方形にかたどられた広間をふちどる残る三辺からは、ほとんど無数といってよいほど多くの通路がどことも知れぬむこう側にむけて深々とのびていたのである。そのひとつひとつをしらみつぶしに探索するのは至難のわざだった。通路のひとすじひとすじは広間に劣らぬほど数多くの別の通路へと、あるいは分岐し、あるいは合流することでまぎれもない迷宮の相貌をとっており、上っては下り、直進しては湾曲し、迂回しては短絡するその複雑さはさながら未知の生物の体内を自在に錯綜する不可解な脈絡であり、仮定法で語られる混濁した記憶であり、前後をないがしろにする悪夢の構造であった。方向感覚は無効化され使いものにならず、前進と後退のべつが常にあやういそこにあってはありとあらゆる一歩があらたな到達として把握されるほかなかった。すべてが唯一の可能な方向にむけての撤退であり、そしてその撤退とはほの暗い謎にむけてのますます奥深い潜入、見当もつかぬ未踏を舞台にした命がけの冒険を意味していた。
まかりまちがえばたちまち遭難し命を落としかねなかった。それにもかかわらず──あるいはそれゆえにこそ──シシトはたびたび羊皮紙とインクをみずから手にしては、きりのない混沌にそれでもひとつの目印を、旗を、痕跡を残さんとして、多頭の化けものの首筋ひとつひとつを斬り落としてみせんとする英雄の勇み足とともに果敢にも通路に足を踏みいれた。暗闇を暴く地図の作成はしかしことごとく不首尾に終わった。あるいは終わらざるをえなかったのだ。迷宮にあっては地図とはついに一分の一でしかありえないとでもいうのか、一本の通路のおおよその見通しをどうにか書き写したつもりでいても、その地図を手に同じ通路に足を踏みいれた次の瞬間には、記入されてある構造とは似ても似つかぬ新規の未知、更新された不明がたちどころに姿を見せるのだった。あるいはそれはそれぞれの暗がりにむけてのびる無数の入り口の、その画一的な外貌によって狂わされた認識がおちいる簡単な錯覚のようなものかもしれなかったし、眼前によせた手のひらさえ目視のかなわぬ通路の深い暗闇のなかにあっては無理もない見落としが積みかさなった結果としての、単純な錯誤の産物にすぎなかったかもしれない。だが、隊を組んで別行動をとっていた兵らが規定の時刻になっても広間にもどってこないという事態のたびたびにわたる発生は、もはや錯覚や錯誤のひとことで誤魔化し正当化することのできるものではなかった。それもすでにその道のりのなかばまで燭台の設えられてある、そうした通路の残すところわずかな探索に出かけた一隊が忽然と姿を消すのだった。そういうとき、兵らはしばしば︽迷宮に喰われる︾という言葉を口にした。なかには迷宮の奥深くにひそむ化けものや怪物どもの餌食になったのだとうわさするものさえいたが、それは必ずしも長時間にわたって水っぽい暗闇にひたされることで子供がえりした兵らのとるにたりぬ恐怖心のあらわれなどではなかった。シシト自身、前方に投げかけられた松明の炎が不安定な呼気をともなう正体不明の影の無気味にうごめくその片鱗をかすめた瞬間を幾度となく目にしていたし、より奥深い領域では身の毛のよだつような獰猛な金切り声を耳にしたことさえあった。それはシシトが地下にもぐるようになってからすでに三年が経過したころのできごとだった。三日三晩にわたって休みなく遂行されたそれまでの記録を大幅に塗りかえるもっともおおがかりな探索がその金切り声をきっかけにやむなく打ちきられると、うわさはまたたくまに館中にひろまった。意気を消沈させるような、戦意を喪失させるような不安の種をみだりにまき散らすことを固く禁じていたシシトであったが、この一件にかんしてはもはや彼自身だれかれかまわず話しかけずにはいられないような、たとえ壁や鏡にむけてであろうといちどは言葉を投げかけて反応をうかがってみなければ気のすまないような、そうした強迫観念に──理性の手にあまる事象を克服するためには、ただもちうるかぎり精いっぱいの愚直さでもってゆきとどかぬ領域にはみだしたその輪郭をなぞり、反芻し、くりかえし発音することによって角のたった部分をひらたく摩滅させるほかないのだということを本能的に知る饒舌の衝動のようなものに──すっかりとり憑かれていたのだった。すっかりとり憑かれていたものの、しかしどうにか抑制してみせたところに領主の血をひくものの底意地めいたものが見え隠れしたが、いずれにせよ、魂がしなびるほどの恐怖を責任感の自重で噛み殺しながらいつちぎれてもおかしくないほど張りつめた緊張の糸をたぐりよせてはたどりなおし、命からがらどうにか広間に帰還することのできたその途端にこみあげる強烈な熱狂をなおも泰然としてのみくだす必要にせまられたとなれば、戒めをまぬがれ軛から解放された兵らの爆発的な饒舌を一喝のもとにふたたび封鎖してみせる余力などあるはずもなかったし、それにまた兵らがあのおそろしいできごとをどう解釈してみせるのか、どう正当化して次なる探索の動機と気力に転じてみせるのか、そのためのもっとも有効な暗示とはなにか、ほとんどすがるような祈るような願うような、合理化の安全な展望をひたむきに請うよわい心根が禁止のひとことを遠ざけていたという面もあった。
だが、賢明なシシトでさえ編みだすことのできないそのような有効な解決策が、交差するざわめきのなかで偶然にも像を結んで浮かびあがるなどという事態が現実に起こりうるだろうか? 発展のない放縦な繰り言がひきおこしたのはむしろ極端にひけた兵らの腰つきだけであった。迷宮が亜人の産物であることを疑うものはもはやだれひとりとしていなかった。館のものらが当初からささやきかわしていたようにやはりあれは人外のものであったのだろうか? それをたしかめるためだけにこのような日々を送っているとでも? シシトは石壁にもたれかかりながら、通路の中央によせあつめられたランタンや手燭やたてかけられた松明の炎にむけてかざしたおのれの手をしげしげとながめた。手のひらや甲のいたるところにきざみこまれしるしづけられた無数の傷跡の、炎のゆらめきに応じてのびたり縮んだりするそのたびごとによみがえり反芻されることになる挿話のひとつひとつも、いまは計りしれぬ疲労によってだれの呼び声も受けつけぬ遠い彼方にまで追いやられていた。シシトは傷だらけのその手をかえすがえす、ためつすがめつ、それでいて無目的に検分しつづけた。休息は半日ぶりか三日ぶりか、ひょっとすると一ヶ月ぶりだったかもしれない。暗闇のなかでは時間がなだれ、ずれこみ、ひとりでにさまよい歩くのだった。一同は蓄積された疲労に身体をゆだね、ひきのばされた恐怖の裏面にはりつく気だるさにひとことも口を利かぬまま銘々が楽な姿勢をとって、ただ武具だけは肌身離さず、炎をとりかこむつかのまの休息に放心していた。シシトの左となりでは若い狩人が通路の元来たほうに頭をむけて長々とあおむけに横たわっていた。両手を頭の後ろに組んで枕とし、あらわになったまなざしを隠すように鳥の羽根のあしらわれたつばのひろい帽子をおもてにかぶせていたのは、この期におよんでなお孤独の誠実な暗闇に両目を休ませたがる根無し草らしい性向のあらわれなどではなく、ただ心中を図った母の手により幼いころに傷つけられた額の切り傷を気にしてのことだった。獲物の額を射ぬくことにたいするほとんど病的なまでの執着に焦がれて痩せほそった胸も、いまはくりかえされる記憶の悪夢になじみのあるもの特有の浅さで不規則に波うっていたが、冷たい汗に濡れた額をおさえながら青白い顔をしてめざめる彼にますます危険で強大な獲物にたいする古傷の転写を渇望させるのはほかでもない、そのひとなみひとなみごとに喉元を圧迫する出口なき呪詛の数々であった。その狩人のとなりでは、布教目的でアルシドに上陸しそのまま島に住みついてしまった異国のなまぐさ宣教師が浄めの塩の入った小瓶を耳元でかすかにふり、魔物どもを追いはらうためには欠かせぬ聖具の残量をたしかめていた。一同のなかでは狩人に次いで若い金髪の優男で、ときに臆病風に吹かれることこそあったものの、それでも探索の一行に加わりこうして最後まで残っていたのはほかでもない、迷宮の超常性を前にしてはじめて神のきざしを感知しえたおのれの直観の行く末を見とどけるためであった。あるいはこうまでして神の有無、信仰の是非をたしかめんとする時点でひょっとするとわたしは地上をさまようもののなかでもっとも敬虔な信者だといえるのかもしれません──最初の休息時、シシトの前で自嘲的にそう語ってみせた口もいまは疲れのにじむ吐息になかばひらかれたままになっていた。宣教師のとなり、炎をはさんでシシトに相対する壁ぎわにもたれこみ、明かりを頼りに足下で黙々とナイフを研いでいるのはアルシドの先住民と植民者の混血児で、浅黒い肌を有する彼は投げナイフの達人であった。年齢は不詳で、ほんの子供のように見えることもあればときに老年の戦士のような硬い表情に顔つきのひきしまって見えることもあったが、だれもことの真相をたずねようとしないのは彼が唖であるからだった。迷宮に生息する魔物を最初に仕留めたのも彼だった。体躯の退化してほとんど頭部と翼だけになった巨大な蝙蝠のような生きものが、背面にまで裂けた口角を痙攣させながら象牙色のいばらとも見えるするどく短い歯をカチカチと羽音のように打ち鳴らして松明の投げかけるおぼろげな円光の端をかすめて飛びさろうとしたその瞬間、先端に痺れ薬をしこんだひとふりの刃をするどく放ち見事に命中させてみせたのだった。この世ならざる魑魅魍魎どもが目の前をかすめるたびに一同の背を強ばらせてやまなかった金縛りが、その一撃をきっかけにしてあっけなくもことごとく氷解したという一点をとっても、混血児は讃えられてしかるべき勇者であった。混血児のとなりは空席になっていたが、そこにはつい先ほどまでひとりの詩人が腰かけていた。奇妙なことに彼とは迷宮のなかで出会ったのだった。最初は︽迷宮に喰われた︾兵の生きのこりか、あるいはそれこそほかならぬ亜人のたぐいではないかと、通路のむこうからひとり手燭を提げて近づいてくる人のかたちをした気配に警戒心を固めた一同であったが、異国の装束を身にまとった男は太刀を首元に突きつけて詰問するシシトを前にして、わたしはただ︽バベルの竪穴︾を掘りすすめているうちにこの迷宮へとたどりついたにすぎませんと、しかし一同に通用する言葉ではっきりと口にし、それ以降はシシトらと行動をともにすることになったのだった。温厚で人柄の良い、しかしいささか神経質な面持ちをしたこの男は、元来たほうにもどりたいともシシトらの拠点である広間に連れていって欲しいとも言わず、ただこの場をたちさりつづけたいのだと意味深にも口にした。そうした欲求に急かされてか、いまもまた予言者と連れだって、分岐点の途絶えてひさしいこの通路の一本道がいましばらく続くものかどうか確認すべく一同のもとを離れたところであった。そのふたりが、はぐれていた火の粉がふたたび燃えさかる炎のもとにひきよせられるように、小さな明かりを灯して石畳に足音をこつこつと響かせながらシシトらのもとに合流した。腰をおろせば、炎をとりかこむ円陣の完成であった。総勢六人の探索者一行のなかに館の正規兵の姿はひとりも見当たらなかったが、しかしながらいったい襤褸をまとった骸骨どもの襲撃やうめき声をあげる腐乱死体の突進に、あるいは汚水のにおいを発散させながら通りかかるものにむけて天井から飛びつく軟体生物の奇襲やおぼろげに浮遊する正体不明のガスがいざなう催眠や幻覚に、ひとを斬るためだけに磨かれた技術がなんの役にたつというのだろう?
金切り声の一件以降、急速化した脱落と離脱の過程のほとんど極点ともいうべき位置にみずからの身の置き場を見つけた六人が、未踏の暗がりに焚いた炎によっておのおのの拠りどころを照らされるのを厭うような心地でくちびるを沈鬱に閉ざしているのだった。しばらくの間を置いたのち、七十歩ほど進んだところに分岐点がありました、と詩人が告げた。だれも返事をよこさなかった。予言者だけが同行した証人としての義務感からか、うむ、と聞こえるか聞こえないか程度の音量で喉を鳴らした。予言者は一同のなかでは最年長であり、その身体もすでに老体というにふさわしかったが、強靭な、ほとんど執念とでもいうべき精神力によって育まれた舌はどれほどの逆境にあろうとも力強く言葉をひねりだし、足はだれよりも勇ましく歩を進めた。いまにもばらばらにほどけかねぬ老体をとりまとめるその執念はまぎれもない亜人にむけられたものであったが、ならばシシトの迷宮探索にかける執念はなにごとにむけられたものであったというのか? そもそも、その執念は本当にシシトのものであったのだろうか? シシトのかたわらには大佐の太刀が、斬りはらいなぎ倒した魔物どもの怨念を吸って黒々と錆びた刀身をさらして横たわっていた。シシトの手のひらはいまや大佐以上にその太刀になじんでいた。空手を宙にもちあげれば、太刀の柄の分だけ自然と握りがあまった。炎にむけてかざしてあるいまも、その手は不可視の太刀を握りしめているように見えた。太刀よりほかのいったいなにがこの手に、指に、爪に、掌におさまりうるというのだろうか? 詮なき自問に目をつむり、頭を垂れると、すぐさまうつらうつらと運ばれる心地がした。混血児のナイフを研ぐシャリシャリとした物音の波間に、息苦しげに浮き沈みをくりかえす狩人の寝息がかすかにたった。何度たしかめたところで残量が増えるわけではないとわかってはいるもののそうせずにはいられないとばかりに宣教師がくりかえし塩の小瓶を耳元でかさこそとふった。持ち手にまで飛び火した松明がいま、燃えつきる前の最後の盛りにバチバチと爆ぜはじめた。その光彩と音響に想を得たらしい詩人が胸元からとりだした紙片にさらさらとなにやら書きつけると、火種はこれで尽きますな、予言者の独語がむなしくたった。その声に反応したものか、指先にぴくりと痙攣が走った。手のひらのかたちが崩れると、前後不覚の時が力ずくで直線の軌道にねじこまれ、途端に隊列の乱れた記憶がしかるべきかたちに復元された。妙なる調べを奏でる弓や弦に触れなくなってすでに十年以上もの月日が経過していた。十年! シシトはぎょっとして目をさました。ひらかれたばかりのまなざしをその手にむけると、探索の過程で負った無数の傷痕のきざみこまれているのがたしかに目についた。だが、傷痕の数に勝るとも劣らぬだけの老いの証左もそこにはまた深々と走っていたのである。地中にしみこんだひとしずくの水滴が数多の地層のさまたげをどうにか潜りぬけたあげく、その深いところにぽっかりと空いた場違いな空洞に到達する瞬間の鮮烈さで、彼の腑にひたりと落ちるものがあった──必要なのはこの迷宮に適した響きと旋律ではないのか?
あるはずの弓と弦が手元になかった。館に置きわすれたままになっているのだろうか? 大佐の寝室に? その寝室を最後におとずれたのがいったいいつであったのか、シシトにははっきりと思いだすことができなかった。すぐにでもとりにもどるべきだとの想念がシシトのひざを押しあげ、たちあがらせた。もどる? しかしどうやって? すでに撤退が不可能なほど、探索の行程は長大なものと化していた。そうではなかった。帰還の挫折をとりつくろう探索の体裁であった。頓挫の連続としていまある彷徨であった。この期におよんであらたまって帰還を命じようものならたちまち一笑に付されるに相違ない、そのような最果てにすでに身を置き、あろうことか馴化してしまった一同であった。呆然としてたちつくすシシトを、予言者が訝しげなまなざしで見上げた。弓を、と口にしかけたところで、シシトの眼下の炎が不意によわまり、一同がその守護のもとにあった黄金色の円光がぐっとせばまった。燃えつきたもののかたわらでは、詩人の持ちものである手燭と館からもちだされたランタンがふたつ、よわよわしくかぼそい灯火をそれでも賢明に維持してふるえていた。休息の終わりだった。詩人が手燭を手にとってたちあがると、続く宣教師が腰をかがめてランタンをひきはらい、そのうちのいっぽうを予言者に手わたした。解散した灯火のかつてかきよせられてあった円陣の中央では燠火が赤々とくすぶっていたが、それも最後の一本まで余念なくナイフの手入れにはげんでいた混血児がようやく研ぎ石を片づけてたちあがったところで、パチンと音をたてて崩れた。崩れたのは松明などではなかった。やむをえずに火種として提供したものが最後に残した響きと旋律をとらえそこなったことを、シシトは認めざるをえなかった。
先頭をゆくのは宣教師と混血児だった。ランタンが分岐点の存在を告げるたびに、宣教師はその陰で待ちうける魔物どもにたいする警戒から短い祈祷を唱え、浄めの塩をふりまいた。牽制を潜りぬけた魔物どもが少しでも姿をあらわせば、混血児の投げナイフがひとすじの思想のように暗闇のなかでひらめき尾をひいた。たいていの魔物どもはそのように組みあわされた威嚇によって退散せしめることができたが、なかには威嚇などものともせず石壁をふるわせるほどの獰猛な雄叫びをあげながら一行にむけて飛びかかってくる狂暴な魔獣どももいた。創造者の手違いによって地に産みおとされたかのような、耐えがたいほど醜悪に畸形化した猛禽や四足獣の現前は見るものを驚きすくみあがらせてやまなかったが、その外貌を正視せずにすむ最後尾から狩人の正確無比な矢が標的の額にむけて放たれると、射られた衝撃に身をくねらせる巨体にむけてふたたび混血児の投げナイフが突き刺さり、聖職者の手から塩が撒かれ、ひるんで動きの鈍くなったその一瞬の隙をねらって必殺の太刀をふりおろすのがシシトの役目であった。そのような連携に陰りのきざす頃合いであることをだれもが理解し、受けいれていたがゆえに設けられた長い休憩もしかしとうとう終わりを告げた。火種の尽きたいま、崩落のときが目前にまでさしせまっていることはもはや疑いようがなかった。それでいて隊列を組んで歩きはじめた一同のだれひとりとして沈鬱な表情を浮かべるものがなかったのも奇妙な話であった。あるのはただ疲労だけだったとでもいうのだろうか? あるいはひょっとすると、ひたすらにくりのべられてきたひとすじの長いできごとにようやく区切りを設けることができるという純粋な期待感のようなものが、彼らにほとんど恭順とでもいうべきふるまいをとらせていたのかもしれない。
狩人とならんで最後尾に控えていた詩人の捧げもつ手燭の蝋燭が燃えつきると、そこからははやかった。明かりの消滅によっていささかの困難が生じた連携の遅れから、魔獣の一撃がランタンごと混血児の命を奪った。残された灯火ではもはや通路の幅員を満たすこともかなわなかった。一同はせまくかぼそいひかりの輪のなかに身をよせあって歩いたが、なにかの拍子にその輪の外へと足を踏みはずしてしまったらしい詩人が出会ったときのようなあっけなさで忽然と姿を消すと、ほどなくして宣教師がけたたましい笑声を爆発させながら輪の外へむけてみずから走りさった。狩人は最後のランタンの炎が消えさるまぎわの激しさに直立するのを認めたところで、懐から古ぼけた短剣をとりだし、額の古傷を十字に上書きするやいなや喉笛をかき切った。常闇のおとずれを受けいれたのはシシトと予言者だけであった。
命名がひとすじのひかりの外部からのほとばしりであり、その受けいれがひそかに泡だつ内部からの燐光であるとすれば、シシトと予言者をとりまいているのはもはや暗闇というそれ自体やはりひとつの名の明るみにほの白く照りはえる様態とは原理的にへだてられた、対義語をもたぬ言葉の外、文字どおりの異次元であった。名づけようがないのではなく、ただ名という名をことごとくつっぱねるある種のひたむきな事態としてしか把握することのできぬ未曾有がそこではくりひろげられていた。名指しの試みはすべて比喩にとどまり、その薄膜を突破することは決してならず、そのようにはねかえされつづける無数の試み、無数の比喩こそがそこではむしろ自重を獲得し、実体としての権利をふりかざすのだった。そのような状況に置かれたものがいったいどうして正気をつらぬくことができるというのだろうか? 石壁の湿気をなめとり、むした苔を齧ることでつながれる露命のここにきてしかし盛んな活動が、働かなくなってひさしい意志や理性の代行をつとめた。ふしぎと魔物どもの強襲を受けなくなったのは、はぐれることのなきようたがいの名を呼びかわす声もすでに嗄れはて、水気をもとめて壁ぎわをなぜる指の腹からかすかにたちのぼる摩擦音や生命のもっとも微弱な気配だけを虫の翅のようにこすりあわせながら暗闇のなかをさまよう彼ら自身、迷宮に巣食う魔物どもともはやなにひとつ変わるところがなかったからなのかもしれない。ふたりのまえには前も後ろもなかった。進むも退くもなかった。ならばなにがあったというのか? 時間だけがあった。火種の消尽はその一元性を完璧なものに仕立てあげていた。対から独立することで述語を失った時間はいまやきざみ、数えあげ、見おろすことなどできぬそれ自体の横溢として、迷宮そのものであると同時にシシトらそのものでもまたあった。完成された盲目は鏡を割り、自画像を燃やし、境界としての皮膚を剥いだ。必然的に導かれる変形を、異食が補った。営みは、営みが必要とされる時間だけ続いた。区分けし、整頓するには、事後のおとずれを待たなければならなかった。同語反復の閉鎖性ならぬ自閉性がそこではすべてを支配していた。みずからをみずからとして閉ざし、みずからをみずからのうちに幽閉する、それはいわばさなぎの様態だった。流れさるものではなく固着しつづけるもの、さなぎの時間ではなく時間のさなぎとして、迷宮とその内なる徘徊者は緊密に結ばれていた。だが、その結び目もいずれはほつれるものである。さなぎが羽化するように、しかるべきときに。
人間とはまさしく一本の弦ではなかっただろうか?
にわかに騒ぎだすかねてからの比喩があった。それこそ迷宮脱出のために必要な導きの糸にほかならなかった。まじりけのない痛みのようにするどく真っ白な光線に満たされた出口は、その比喩の回収されてしずまりかえる先でこそシシトを待ちうけているはずだった。必要なのは最適な響きと旋律を奏でるための一本の弦として、空間にふさわしい調律をみずからに施すことであった。たとえいまだ空間のはじまらぬ盲目の迷宮にあろうと──あるいはそれゆえにこそ! 諸々の条件は目指されるべき一点、達成されるべき目標としてあらかじめ彼方に見据えられていたわけではなかった。鋳型にむき身をさらし、境界にうがたれた穴を潜りぬけることのできる輪郭にみずからを変形してみせたそのあとになってはじめて姿を見せる、きざしとも予言とも無縁の、たんなる偶然の産物にしかし一方的な正解を告知するところの事後的なお告げとでもいうべきもの、出口とはほかならぬそうしたものであった。
その出口の前にシシトがついに姿をあらわしたとき、アルシドはすでに最後の戦乱のただなかにあった。きのうのように近く、それでいてみずからの死後のようによそよそしい顔つきをした広間が、帰還者であると同時に侵入者でもある彼を迎えいれた。絶やすことなく燃やしつづけよとされていた壁ぎわの灯火はほとんど消えさっていたものの、ひとけのないしずまりの印象はむしろ遠く、ちりちりとざわめくものの不穏に熱された気配がひとえに騒がしかった。そこだけランプの明かりによってぼうっと浮かびあがって見える螺旋階段に近づくにつれて、気配は次第に物音の輪郭を帯び、物音の輪郭はやがて競りあう剣戟の図像として鮮明化した。うずを巻く階段に沿って設けられたランプの炎が、追いつめられたひとりの兵の最期を影絵として映しだすのをシシトの目ははっきりと認めた。ひざから崩れおちた上体が背後にむけて倒れこむと、影絵からこぼれおちた生身がごとごとと骨と関節を鳴らしながら段差を転がり、地下の広間まであと数段というところであらぬ姿勢をとって停止した。息絶えたのはほかならぬアルシド兵であった。シシトの右手には大佐の太刀が、まるでそれを握るだけで精いっぱいとでもいうようにだらりとぶらさげられていた。二三の遠慮のない足音が、宝物庫だのお宝だのと高くはねる声にあわせて螺旋階段のむこうからシシトのたたずむ地下へと駆けおりてくるのが聞こえた。欲深い野獣のような影絵に遅れて姿をあらわした異国の兵らの、その顔がシシトの姿を認めた途端に白く凍りついた。シシトは両手で握りなおした太刀をたっぷりと時間をかけて頭上にふりかぶり、呼吸三つ分ほどの間をもって目の前にたちふさがる三人の兵をじろりとにらみつけた。剣戟の一瞬としてはあまりにも長すぎるそのいっときを、三人の兵のうちだれひとりとして攻撃に転ずる機会とは見なさなかった。段差やその上に横たわる屍に足をひっかけ、つまずき、転びながら階上にむけて決死の足どりで駆けさっていくその後ろ姿に、シシトはかつての同盟国の装備を認めた。
螺旋階段をのぼりかつて亜人が幽閉されていた牢屋の奥に出ると、喧騒は具体性を増しつついっそうきわだった。金色に交わされる刀剣の響きと間歇的な銃声、それに石を燃やす炎の獰猛な舌打ちが、隣村の宴にむけて遠巻きにそばだてられた耳の距離感を逆手に、地下一階分へだてられた先にせまる窮地の息吹をしかしかえってありありと吹きこむようだった。野蛮な叫びの数々が獣性の解放にうながされた恍惚の抑揚にからみあって、逆巻く炎のように館を内側から突き破ろうとしていた。これこそしかるべき響きだというのか? いっさいを解決に結びつける旋律だとでも? せりあがりこみあげるどす黒いものに奥歯を噛み鳴らしながらたっぷりとした一歩一歩を刻印のように重ねて歩くシシトの行く手は、錠のかけられた牢によってかたくなにはばまれていた。吠えるシシトの声に、たちまち先ほどの三人が上官らしい男をともなって舞いもどった。三人の兵は牢屋の前にならんでたち、軍刀を地面にたいして水平に構えそれぞれの切っ先をシシトにむけて威嚇的に突きだしてみせたが、表情は硬く強ばり、腰のひけた身ぶりはむしろほかならぬおのれ自身を牽制し威嚇しているようにも見えた。その三人を片手でかきわけるようにして上官らしい男が姿をあらわした。男の一歩一歩にあわせて、こつり、こつり、と石畳を叩く物音がうつろに響いた。義足の男は格子越しにシシトを認めるなり、これはこれは、と細い目をいくらか芝居がかったように見開き、そうしてなにか思うところのひとつやふたつでもあるかのようにしずかに微笑を浮かべて口を閉ざすと、つつましげな物腰をたたえて崩さぬ、品をわきまえた順序で投げかけられる観察の目つきをシシトにそそぎはじめた。その目はじきにシシトの右手にさげられた太刀へと行き当たった。途端にまなざしがふたたび見開かれシシトの顔をしかととらえなおしたが、それは先ほどよりもはるかに意志的で、強烈な感情を訴えんとして意気込むひかりを宿す、強い意味のこもった目つきであった。
﹁あなたは……﹂
ほころびかけた口元が、首筋にたてられたひとすじの矢の衝撃によって、急激にゆがんだ。義足の男は途端に生じた重心の乱れを補いささえるかのように両の手を咄嗟に目の前の格子にかけたが、両ひざから斜めに崩れおちていく自重には抵抗できず、握った手をずるずると下にすべらせながらそのまま地面にひざまずくようにして倒れこんだ。矢の射られたほうにむけて反射的に飛びだした三人の兵らのうち、ふたりが続けざまに放たれた同じ矢に倒れた。残るひとりが手にした軍刀でどうにか射手の心臓をひと突きしたものの、奇襲を受けて気が動転したのか、上官の安否もたしかめようとせずに狂人じみた罵声をあげながら階段を駆けあがっていくのが見えた。それほど遠くない階上で爆発音が響き、天井がゆれた。石壁のいたるところからぱらぱらとはがれ落ちるものがあり、ランプの炎があやしくのび縮みした。義足の男は小刻みに息を継ぎながら片方の手を地面につき、もう片方の手で格子を握りしめて上体を起こすと、地面についたほうの手をおそるおそるみずからの首元に近づけ、這わせ、やがて行き当たるものにぴくりと指先を痙攣させた。その一部始終をシシトは格子越しに突っ立ちながら無言で見おろしていた。格子のすきまから手をのばせばたやすくその喉を絞めることもできたし、太刀を突きだせば事はもっとはやくすんだにちがいなかった。シシトはただ見た。頭上からそそがれるそのひたむきなまなざしを察した義足の男は、悲壮な目つきをかすかにゆるめると、ふっと息をもらし、もっとこちらへ、とかぼそくささやいた。シシトが片ひざをついて視線を同じ高さにもっていくと、義足の男は息も絶え絶えのくちびるをふるわせながらそれでも微笑を崩さず、シシトの手にした太刀のほうに目を見遣りながら言った。
﹁その太刀の持ち主を……この手にかけるのが……わたしに約束された……天命であったはずなのですが……﹂
﹁彼はもういない。この上にも、この下にも。天命は躱されたのだ﹂
その返答に思いがけぬものを見てとったかのような、あるいはむしろ返答それ自体が思いがけなかったとでもいうような、前提をくつがえされたもののぎょっとした顔つきが一瞬、男のたゆまぬ微笑をつらぬき凍てつかせた。瀕死の男が浮かべるにしてはあまりに力強いその表情の変化に、さしものシシトも幾分ひるまずにはいられなかった。強ばりは、内側からふたたびしみだす微笑によってじきに融解した。ひとりでの納得にほどけるもののやわらかさだった。義足の男は軍服の胸ポケットからふるえる手で牢獄の鍵をとりだすと、解錠の余力すらないその指先を格子のすきまにさしこみ、つまんだものを離した。
﹁お逃げなさい……夜には大軍がおとずれます……﹂
よわい音をたてて落ちたものがはねて転がり、ひざ頭にぶつかった。ひろおうとして手をのばしたところで、シシトはおのれの腕が異様なまでの白さに透きとおっていることに気がついた。牢を出るとすでに義足の男はこときれていた。その手は二本そろって格子を握りしめたまま硬直し、頭はうつむき、首筋にたった矢は斜めに虚空をうがち、よわい女のように崩したひざからのびる古い義足は修復と延命の痕跡に痛々しく擦りきれていた。矢に倒れたふたりの敵兵を踏みわけ、胸から血を流す射手のかたわらを通りぬけると、大広間へと続く階段が熱風に明るんでいるのが目についた。館をとりまく火の手は思いのほか深いところにまで達しているようだった。中庭へ行け、中庭に出よ、と連呼する声があった。剣戟や銃声はすでに遠のき、ごうごうと燃える風音とその炎をばちばちとはねつける石壁の耐久とが、苦悶に満ちた館それ自身の軋みの雷鳴となって始終かまわずとどろいていた。ときおりおおきなものの崩壊する地響きが足下をゆらし、そのたびに割れもののいっせいに砕けちる悲鳴が高くたった。すでに敵味方ともに兵らは館の外にむけて脱出しはじめていたらしく、好機をうかがう炎の一進一退の照りかえしに赤々とくすぶる大理石の大広間からまだ火の手のとどかず煙だけが幾分たちこめて視界を濁す上階にいたるまでの道のりのあいだ、シシトは多数の屍と二三の瀕死の兵を見かけたほかは、だれひとりとすれちがうこともなかった。
大佐の寝室には錠がかかっていた。シシトは太刀をふりまわし、扉を蹴破った。かすかな悲鳴がたった。なで肩の細いシルエットが寝台の上に座りこみ、ぶるぶるとふるえながらそれでもなお短刀を手にして構えているらしいのが、かぼそく閉じあわせてある更紗のカーテン越しに目についた。案ずるな、病人を迎えにきたのだ──力強くはっきりした声でそう告げながらシシトはカーテンをひきはらった。侍女はたちどころに絶叫し、目をむいて気を失った。シシトは寝床に倒れこんだ女をどかすと、薄手の掛け布団をひきはらい、次いでシーツをひきはらい、最後には敷き布団をひきはらった。大佐の姿はどこにもなかった。ものの焼けるにおいにまさって部屋にたちこめるなまなましい獣のにおいは、しかしその死をはっきりと否定していた。ならばすでに連れさられたか? 黙考にたちどまるシシトの目を、寝台のかたわらに置かれた姿見が不意にひきよせ、吸いこんだ。魚のように白くうすい皮膚を有する、人間離れした、性差のべつさえつかぬものの姿がそこにはあった。曖昧でどっちつかずな外貌には不似合いな、息苦しい自重と輪郭をたっぷりとかねそなえた太刀を構えながら、その表面に映しだされたおのれの姿ではなく映しだす鏡自身にむけて焦点のあやしいまなざしを凝らしてみせる、一個の立ち姿であった。
その足下をずりずりとうごめくものの気配がにわかによぎった。はっとしてふりかえると、感情の読みとれぬ不規則に荒い息遣いに混じってそれでもなにかを訴えるようにして一心にシシトのほうをのぞきみる暗いまなざしが寝台の下に認められた。さあ、はやく! とっさに手をのばしたが、反応はなかった。さしのべた手をいくらか苛立たしげにうらがえし、床にたてた指先でコツコツコツとせわしない催促をくりかえすと、真っ黒な体毛のびっしりとつまった四足獣の前肢がおずおずと、日のかたむきに応じてのびる影のようにさしだされた。シシトはその先端を躊躇なくひっつかんで隠れひそむものの全貌をおもてにひきずりだした。反省の成果か、割り切りの産物か、誠実さとも残酷さともつかぬものによって育まれた手荒な動作であった。大佐はすでにはっきりとひとならざるものの姿形をとっていた。夜に染めぬかれた宝石のように輝かしい漆黒の体毛によってその四肢はあますところなく覆いつくされ、腰は曲がり、背はおおきく湾曲し、だらりとたれさがった両腕は力なく地のささえをもとめているように見えた。耳はするどく尖り、鼻は高く突きだし、裂けた口元からは根元のわずかに黄ばんだ刃がてらてらと濡れてのぞいていた。潰れた片目だけがかろうじてかつての面影をとどめていたが、書斎に設けられた黒い革張りの腰かけよりも地下に広がる迷宮のうっすらと濡れた石畳のほうが似つかわしい姿であることはもはや疑いようがなかった。だからというわけではなかった。シシトにはただ大佐の望むところがふしぎと察せられたのだった。もうもうとたちこめるものにすでに白く見通しも危うくなりつつある廊下を、シシトは片手に太刀をさげ、片手に二足歩行のもうずいぶんとあやうい大佐の腕をとりながら、その一足ごとに確信の募りかさなる自足的な早足で駆けぬけた。
大広間はすでに炎の巣窟と化していた。巨大な人影のようにゆれてあざわらう火炎を斬り捨て、たちはだかる不可視の熱風をなぎ払いながら、達した地下はしかしふしぎな守護のもとにいまださえざえと冷めているように見えた。迷宮に続く牢の奥にむけて足を進めようとするシシトの後ろで、大佐はほんの一瞬、後肢を踏んばり床に爪をたて、かすかな抵抗を示してみせた。ふりかえるシシトの目線をひきうけ、その注意の矛先を誘導せんとするかのようにゆっくりと宙をなぞりだしたつり目は、格子と同化して硬直する義足の男の亡骸へとそそがれたところでひたと停止した。シシトは首をふった──死者は死者の尊さのままに!
地下の迷宮におりたったところでシシトは、そのかすかなふるまいがそのかすかさゆえにかえって過剰な意味など帯びぬよう気を配りながら、大佐の腕からそっと手を離した。保育したものを野生にかえす見立ての残酷さがそれで完全に回避されるわけではなかったが、しかしすべては大佐自身の熱望でもまたあったのだ。解きはなたれた大佐の足つきは鈍かったが、それは暗がりをおそれてでもなければ未知を警戒してでもなく、ただしかるべき行く手を見定めてのことだった。見定められたその果てには、あるいは両腕を前肢とし、ふしぎに気配を殺しながら音もたてずしなやかに運ばれる四つ足とはしかし正反対に長い蛇のような尾を天高くぴんと張りたたせ、石畳に鼻をこすりつけながら眼だけはぎょろりと前方を見据えて離さない、そうした一挙手一投足として結実する彼自身の姿があるのかもしれなかった。大佐は挫折の定められたおどろおどろしい二足歩行の構えをとると、持ちおもりのするみずからの異形を異形としてひとまずは持したまま、ひきずるような一歩一歩をおもむろに重ねはじめた。口元からよだれを垂らし、しゅうしゅうと息をあえがせ、肩を斜めにかしげてときおり痙攣させながら、かろうじて保たれたものをどうにかたずさえて待ちびとのもとにむかう、ひとりの男の急いた後ろ姿がそこにはあった。葬られにいくのだ──黒毛が暗闇の奥深さに溶けこみ、均され、境界をあやうくするにつれてしかしかえってぼうっと浮かびあがるような、緑色にちらつく燐光がシシトの目をひいた。残された片目に灯る輝きにちがいなかった。絶やすことなく燃やしつづけよ! その呼びかけはしかし不当ではなかったか? 燐光はやがて消えいり、無音の常闇に同化した。
するどくまがまがしい爪を生やした大佐の指先が迷宮に溶けこむまぎわ、優雅な衰弱をしたがえて痛々しくもぴんと張りつめたのをシシトは見逃さなかった。指図の方角に目線を送りだしかけたところで、呼びかけに遅れて応ずるものがあった。およぶべきところにおよばぬ不確かな迷路は、うらをかえせば、およぶもおよばぬもあらぬ意想外の死角におよんでしまう唯一の通路でもあった。予言者か! 耳になじみのある声のまだまだ遠くうす暗い源にむけて、シシトはかつて泉のふちでおぼえた喜悦のうわずりそのままに問いかえした。返事はなかった。ふりかえれば、火の手はすでに螺旋階段のなかばまで達していた。だれの目にも一望することなど許されぬ地下の広間を、しかしここにきてみずからの光熱で掌握せんとたくらむ邪悪な炎の精らがいまかいまかと侵入の機をうかがっているのだった。シシトは高々と声をあげて笑った。神も精霊もみなこの迷宮に喰われてしまえ! そうしてひとしく一個の徘徊者、さまよう魔物と化すがいい! またよわい声がした。たしかに予言者のものであった。この声をたぐりよせよ、予言者よ! 歓喜の色を導きの糸とせよ! 呼びかけの力強さとは別に、シシトは予言者の声のするほうにむけてみずから歩みよろうとは決してしなかった。それが功を奏した。広間につながる無数の通路のひとつから壁に手をつきつき、息をあえがせながらぬっと姿をあらわした予言者の姿を、せまる火の手が間遠にほの白く浮かびあがらせた。みすぼらしく襤褸を身にまとった予言者の、しかしその姿自体はなんら以前と変わるところはなかった。シシトはふたたび高々と笑い声をあげた。どこまでも意固地な男! どこまでも強情なやつめ!
﹁おお、シシト様! そのお姿は──﹂
﹁あっぱれだ、予言者よ。逃げるぞ。じきにここも火の手にやられる﹂
告げるがはやいかきびすを返して大股で歩きはじめるシシトのほとんど独善的というにふさわしい、問いかけの余地など決して残さぬはばかりのなさが力強い足音をたてた。それはまた予言者を予言者のうちに押しとどめてやまぬ分厚い扉の、その外側から試みられた強固な施錠の響きでもあったかもしれない。残像となっていまだなおまなうらにひそむ大佐の、よわくふるえる、五指のべつもなくなりかねぬほど内側に固く巻いた、それでいてまだぎりぎりそれぞれの独立して見える指先のひとつが指し示してみせる方角にしたがって、シシトは暗闇のなかをぐんぐんと迷いなく足を運び、予言者はそのあとに疑義のひとつもさしはさむことなくつきしたがった。導きはやがてひとすじの通路に達した。ほかとなにひとつ変わるところがない、迷宮にありふれた通路の底冷えするような無名性の印象はしかしそこに足を踏みいれた途端、めざめのようにはっきりととりはらわれた。燭台もランタンもなかったが、経路をどこにも認めることのできないふしぎな射しこみが記憶のようにかすかな青白さとなって行く手をまちがいのないものにしていた。誘うものであると同時に誘われるものでもある奇妙な足運びが、シシトを奥へ奥へと駆りたてた。通路は分岐することなく直進したまま次第にのぼりにかたむき、視界はそれに応じてますます明度を増していった。ひとの手により設えられた坑道の印象はいつしか地中にひそむものらの息遣いによっておのずと掘られた巣穴のそれへと転じ、ふくらみ明るむものの助けがやがて通路の石壁ではなく土壁によって造形されてあることの確実をふたりに告げ知らせた。明るみは地表に接近している証しにほかならなかった。天井のことさら低くもはや背をのばしながらではそれ以上先に進むことのかなわぬ果てにいたったところで、シシトは射しこみのもっとも明るい頭上に見当をつけて太刀をおおきくふりかぶった。地表は想像していたよりもずっと近く、うすく、脆く、あっけなく崩れおちる土砂の量も真っ向から浴びる覚悟の肩が透かされる程度にすぎなかった。切りひらかれた蒼穹をはばむ雲の障壁が途端に目にしみたが、凝らしてみれば、うっすらとただよう白煙の仕業であった。這いでた先にひろがる館の中庭にひとけはすでになかった。本館の外壁に沿ってまなざしを上昇させれば、高い位置にずらりとならんだ客室のどれもこれも割れて跡形もなくなった窓のひとつからすさまじい勢いで黒煙が噴きだし、その間隙をかすめて踊る炎の赤がわずかにのぞいた。
﹁これはなんと──﹂
どうにか地表に這いでたはいいものの受けいれがたい事態の現前にそのままたちあがれなくなってしまった予言者の、掘りかえされたばかりの土が黒々とにおいたつのにとりかこまれたその周囲に小動物のものと思われるいくつかの白骨がまぎれこんでいるのが、シシトの目をふしぎにひきつけた。太刀の先でほじくりかえせば、すぐさま爬虫類の頭蓋骨があらわれでた。途端に巨大な地響きがたった。とっさに片ひざをついて低く構えられたシシトの顔にむけて、地表に積もった塵がせまる水位のようにいっせいにもちあがった。くの字に折りまげた肘の内側に急いで鼻を押しこみながらなお喉に苦くからみつくものを耐えしのんでいるうちに、館の外壁の一部が派手に崩れおちた。そこを始点とする余波がたちまちゆくりなくひろがり、はがれ落ちるものらのたてる物音が災いの驟雨のように次々と下腹の底にひそむうつろを響かせた。事態がおさまるべきところにおさまるのを待ちうける、無防備な金縛りがシシトを地に釘づけにしていた。だが、崩落はすでにその完成にむけてひたむきな単線をたどりはじめていたのだ。たちさらねば! 決然としてたちあがったシシトの出足を挫くように、おお、おお、と背後で滴りおちる悲嘆があった。ふりかえり、嘆きの矛先に目をやれば、そこだけすっぽりと崩れて失われた館の外壁から巨大な石の塊が突きだしているのが間遠にながめられた。なにほどのことか! 愚図る予言者をうながし、たちあがらせ、そろってどうにか駆けだしたその急ぎ足がくだんの石塊の前にさしかかったところではじめて、シシトはそれが大広間にたちならぶ歴代領主をかたどった立像の横倒しになった際に転げおちた頭部の残骸であることに気がついた。きっかけの地響きはほかならぬその倒壊によるものだった。
朝霧のようにうすくたちこめる白煙と地響きをともなう轟音は逃亡者にとって絶好の隠れ蓑であったが、潮風にあおられて予想以上にめぐりのはやい火の手に総員待避の命令でも下されたのか、敵兵の姿はすでにまったくといっていいほど見当たらなかった。動くものはといえばただ、息絶えたアルシド兵らの地に伏したのが火薬のにおいのする煙の底で打ち捨てられた瓦礫のように点在するあいだを、炎の灯された尾の逃れられぬ宿命に荒々しく抗いながらときおりのいななきとともに疾駆する一頭の雄馬の姿だけであった。むごたらしいことを──しかしやはり先手を打たれたか! 館の敷地をとりかこむ背の高い白壁の塀に接して建てられてある厩舎は予想どおり、馬の一頭も見当たらぬもぬけの殻と化していた。逃走手段をみすみす残しておいたまま待避するほど敵軍もめでたくはなかったが、それでも内部の手ひどく荒らされていないようであるのは不幸中の幸いだった。シシトは厩舎のなかにすべりこむと、奥の一画に山のように積まれてある藁をかきわけ、たちまちそこだけ楕円形におおきく欠落した内壁のむこうにのぞく外の白壁を探り当てた。手のひらをあてがえば、計画的に仕込まれた脆い壁材のいまなお生きているのが容易にたしかめられた。敷地内から撤退した敵兵らが塀の周囲にくまなく配備されていることはまず疑いなかったが、しかしほかにいったいなにができるというのか! シシトはしぶる予言者を顧みず、わずかに後ずさりして距離をとると、助走をつけてひといきに壁を蹴破った。
敷地の外にむけて勢いよく踊りでたシシトを待ちうけるものの姿はどこにもなかった。常日頃ならばぽつりぽつりと歩哨の配置されてあるはずの塀に沿ってのびる細い道筋の、しかしいまはふしぎに両軍いずれの兵の姿のどこにも見当たらぬその対岸には押しよせる影の森のいちばん若い波、青々としてにおいたつもっともあたらしい茂みの国境が控えていた。そのなかに身を投じ、あるといえばあるといえるしないといえばないともいえる踏みわけ道を見誤ることなくたどりさえすれば、島のいたるところに抜けでることができるはずであった。獣のような身のこなしでシシトが茂みの奥に飛びこむと、そのあとに予言者が続いた。灌木の密集する道のりの蛇行するまにまに払われる注意の、やはりまたひとつの敵意にもさしあたることがないのはいかにも奇妙であった。いまやアルシド全土が迷宮と化したのでは? ふつふつともちあがるそれ自体やはり奇妙な想念が、勝手知ったる森を抜けて浜に出ようとするシシトの足運びをこのうえなく大胆にふるまわせた。あるいはそれこそが罠であったのだろうか? 長い森の細道からようやく姿をのぞかせた淡い浜のひろがりにさしかかり踏みだされたその一歩を待ちかまえていたかのように、シシトの目の前を黒い一閃が駆けぬけた。
だが、待ちかまえていたのはむしろその一撃を反射的に躱してみせたシシトのほうであったかもしれない。上体を目いっぱいにそらすがはやいか、そのまま後ろ倒しになる身体を斜めにひねって砂浜の上にうつぶせに着地すると、すぐさま太刀を手にしたほうの手を強襲者にむけて突きだし牽制してみせながら、相手から目をそらすことなくじりじりと慎重に身を起こしたところであらためて切っ先を構えなおす、その一挙手一投足はそれでいてシシトの身体に由来するものではまったくなかった。交わされたわけでもない約束がしかし見事に果たされる、継承とはまさしくそのような達成の瞬間をこそいうのではなかったか? 奇襲にしくじった黒ヒョウはさもいまいましげに牙をむき、喉を鳴らし、視界をふさぐ古傷に憎悪を皺よせてみせると、からぶりに終わった一撃の本来獲得すべきであった手応えをたしかめるように足下の砂山を刎ねてみせた。
﹁よく来たな。どうやらきさまがわたしの待ちびとであるらしい﹂
高々と太刀をふりかざすシシトにむけて砲弾のように飛びかかる黒ヒョウの直進が、次の瞬間には二手にわかれた。迷宮の魔獣どもを相手に鍛えられた剣技の、太刀をも犠牲とする真髄の一閃であった。黒ヒョウの体躯をまっぷたつに斬り捨ててみせると同時に華々しく折れたその切っ先は宙に高々と跳ねあがり、灼熱の光線を全方向に乱反射しながらすさまじい速度で回転したあげく、砂地にするどく突き刺さり大地の息の根をとめた。それは混乱を地につなぎとめる神話の錨、いっさいを不可逆としてしるしづける王の墓標であった。
﹁おお……これはもしや……﹂
﹁案ずるな、予言者よ。杞憂だ。打ち捨てておけ﹂
黒々として横たわるものにおそるおそる近づこうとする予言者を、シシトは間遠に制した。
﹁いや、しかしこれは……このお姿は……﹂
﹁きさまの目は見えすぎてなどいない。きさま自身が見すぎるのだ、予言者よ。祟りも遠のくほどにな﹂
告げるがはやいか、真意をはかりかねて濁る予言者のまなざしになど見向きもせず、シシトは浜辺に建てられた漁師小屋のひとつにむけて毅然とした様子で歩きだした。小屋のなかには一艘の小舟がしまいこまれていた。白い木造の、どことなく棺を思わせる小舟であった。シシトはその小舟を小屋の外にひきずりだした。波うちぎわに運び、浅瀬に浮かべたところで、遠く館のほうからふたたび轟音のとどろくのが聞こえた。ひざまで水に浸かりながらふりかえると、高所にそびえる館からたちのぼる細い煙のたなびきが、まるで来るべき夜の祝祭にむけて仕込みに精を出す料理女らの手元から歓びとともにふくれあがりあふれだすもののごとくのどかな活気に満ち満ちて見えた。あおげば、雲一つない快晴であった。弔いにはうってつけの日であった。
﹁シシト様!﹂
浅瀬にたちつくしたまま動かぬ予言者との距離はすでにずいぶんと開いていた。シシトは小舟のかたわらに付きそうようにしながら遠浅の海を沖にむけて歩きつづけた。波うつ海面を腰で切るたびに水音がざぶざぶとたった。もういちど呼びかけがあった。シシトはふりむかず、なにも言わなかった。また轟音がとどろいた。立像の倒壊は海面のごくつつましやかな、あるかなしかの乱れとなってシシトの胸をわずかに濡らした。白くうすい皮膚にしみわたる水、風、潮、熱、光、そのどれもがいまや最小単位のみずみずしい経験であり、鑿の一撃として、刷毛のひと塗りとして、かぎりない歓びの責め苦をいちいちかたちづくっていた。水位が首の付け根にまで達したところでシシトは小舟に乗りこむと、先の折れた太刀を櫂代わりにゆっくりと沖合にむけて漕ぎだした。
﹁いけません、シシト様!﹂
﹁きさまにはきさまの戦があろう、予言者よ! その手、その足、その皮膚でこその!﹂
シシトはそう答えるがはやいか狂ったように高々と笑い声をあげると、引き波をとらえて漕ぎ手の助けもなくひとりでに動きはじめた小舟の上にすっくとたちあがった。浅瀬に両ひざをついて茫然自失と座りこみ、がたがたとふるえる身体のばらばらにほどけてしまわぬようみずからの両肩を抱きしめるようにして背を折りまるくなった予言者の老いたまなざしがとどくぎりぎりの果て、シシトは両手をおおきくひろげて頭上をあおぎ、ぎらぎらとまぶしい光線に全身をさらしてみせた。四肢はほとんど絶望的な歓喜とでもいうべきものにわなわなとうちふるえていた。離れゆく島をその胸に抱きかかえようとしている罪人の名残のようでもあれば、背後にしたがえた海の軍勢をもってして勝ち名乗りをあげる王者の喜悦のようでもあった。しかしこのような修辞がいったいなんになろう? すでに比喩のとどかぬ果てへ、ひとの世の彼方へむけて万事は漂流しはじめていたのだ──あるいはとっくに、それとも常に!
﹁さあ! 好きな色に肌を灼こう! 髪を染めよう! 爪をのばし、牙を研ごう! わたしは亜人として生きるぞ、予言者よ! 海の果て、きさまの予言すらとどかぬ彼方でな!﹂
潮風にも流されぬシシトの強い言葉が予言者の耳にとどくことはしかしなかった。すでに存分な距離がふたりをへだてていたのだ。太刀もなければ楽器もない、十全たる手ぶらとなったシシトの両手はいまや祝福と喝采の身ぶりにのみ捧げられていた。小舟にゆられるシシトのはるか前方には空と海の黒々とした不吉な折り目が控えていた。くっきりとのびるその無限の線分によって、じきに海上のシシトは四方を包囲されるはずであった。だが、それがいったいなんだというのだろう? シシトは高々と哄笑した。それらは結局のところ、地図の端、紙片の断崖にすぎないのだ。
三宅誰男(みやけ・だれお)
1985年生まれ。三重県伊勢市出身。
2013年現在京都市在住。
2013年12月31日 発行 初版
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表紙:Chad Wys『Nocturne 113』より使用
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