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運命の泉 上 (前編)

垣根 新

垣根 新出版



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運命の泉(左手の小指の赤い感覚器官と羽衣)
 序章 
 遠い、遠い過去には、赤い感覚器官と背中に蜉蝣(カゲロウ)の羽を持つ種族がいた。それは、七千五百万年に遡る。その時代の地球には月(衛星)が無い為に、地球の重力が今の十分の一しかなかったのだ。その理由で、現代でも謎の一つとして述べられる。時より、化石などでしか発掘されない巨大な生物の世界だったのだ。だが、月が天文学的な確立で偶然に地球の衛星になったのではなく、ある銀河の惑星の衛星だったのを長い宇宙の旅ができるように造り替えて地球に向ったのだ。それでも、月は、単なる宇宙を移動する宇宙船ではなく、聖書に書かれている箱舟だった。なぜ、それほどまで大掛かりなことをしたかと言うと、子を思う親の気持ちだったのだ。まだ、普通の親と子なら何も問題はなかっただろうが、王家の血筋では障害者では許されなかった。それでも、王家の血筋では権力を得ようとする者達に祭り上げられる可能性があり。父親でもある王は、血の涙が流れるほどの悲しみに耐えて、仕方なく、ある星(地球)に赴任させたのだが、星を箱舟にするほどの科学技術がある文明でも、その星を観測するのが精一杯の遠い、遠い星だった。それでも、無事に到着するのだ。そして、第二の故郷として繁栄を謳歌していたが、その星だけでは足りずに、一族の象徴として保存していた月を船から人が住める星に造り替えたことで、ますますと、謳歌するが、衰退は必ず来るのだ。その時、子孫を残せなくなってきたことで、地球に様々な生息していた生物の遺伝子を使用して擬人を創り出して、様々な産業の担い手に、人によっては、愛玩動物(特に猿の遺伝子を持つ人)とする者もいた。だが、神をも恐れる禁忌の所業のためだろうか、種の限界なのか、地球の環境に体などが適さなくなったのだ。そのために、地球と月を捨てる考えになるのだが、その時の様々方法の一つで、他次元に逃げる馬鹿げた手段を実行する者達がいたのだ。その時のエネルギーに利用されたのが月の地表だった。重さに比例して他次元の扉が開くのが発見されたのだが、利用方法に失敗したことで月は次元の底に落ちた。だが、何時の時代の月なのか分からない。そこでは、無数の地球がある多重次元世界が存在した。だが、不思議なことに月は一つしかなかった。その不具合からなのか、月人には、左手の小指に赤い感覚器官(赤い糸)と背中に蜉蝣の羽(羽衣)があり。子孫を残す方法も変わっていた。それは、赤い感覚器官の導きが示す。運命の異性だけしか子孫を残せないのだ。それほど過酷な運命のために、赤い感覚器官は、赤い糸とも言われ、伸び縮みして剣や槍になるだけでなく拳銃の弾まで弾く事ができた。もう一つある。蜉蝣の羽は、羽衣と言われ、空を飛ぶだけでなく、他次元にも過去や未来に飛ぶ事もできたのだ。それから、長い時間が流れ、その種族が、擬人の助けや擬人の敵などになる。そんな、様々の出来事も、神話として微かに残るだけになった。その地名を現代で、例えるのなら、現代では有名な名称の遺跡がある。青森、北海道王朝であり。連携都市が、岩手、秋田、宮城含めた所だったのだ。そして、現代では、まだ、発掘されていないが、一万年以上も前から存在する。この一帯の国の発祥地の遺跡は宮城にあった。

 第一章 (青森、北海道(首都)王朝)連携都市が、岩手、秋田、宮城含めた。
 山岳地帯の小さな村、いや、里よりも住人が少なく、一族だけが、ひっそりと住んでいる。それは、同じ姓を持つ家族だけだった。だが、それでも、その地には千年も続く神社があったのだ。もう少し正確に言うなら文献と神主の系図の記録として残っているだけで、口伝まで信じるのなら六千万年以上から続いていた。それを証明できる遺跡が残されているのだ。(現代で例えるのなら山形と福島の県境の宮城にあったのだ)それが、神社の裏山の三角山であり、神がお休みになっている山として崇められていた。そのような由緒ある里(神休み村とも天祖村(てんそむら))なのだが、新天祖南国(福島)と天祖北国(山形)の戦争で、二つの国の県境だったことで、里の成人男性の殆どが徴兵されたのだ。だが、徴兵を命じる国は、神社よりも新しい国で、千年の間に三度も国名が変わった。新興国なのだった。それでも、戦争が激戦しても二つの国の神官や書物がある時は、国を興した発祥地として敬う気持ちだけはあった。そして、書物を守る神官が殺され、書物もなくなると、辺境に暮らす蛮族の里としか思われなくなってしまったのだ。それで、徴兵される者が増え始めた。だが、それでも、数十年前までは神社の関係者の数十人だけになり。まだ、歴史を知る者もいたが、健康な成人男性がいなくなり、あっと言う間に疫病が里中に広まって、今では・・・・・。
「ピューピュー」
 人工的な機械音が響いた。何かを知らせる音らしい。だが、真っ暗で誰も人がいると思えない。それだけでなく、窓もないのだから地下室だろう。その音が何なのか、それを、探そうとしたとしても、その地下室にはガラクタだろうと思われる物が多すぎて探し出せない。もしかすると壊れた機械が何かの拍子で鳴っているのかもしれない。それは、当然かもしれない。必要ならば、ごみ置き場のような地下室に置いておくはずがないからだ。
「充電が完了しました。一日の行動計画を実行する時間です」
 カタカタと、凄く原始的な、茶運び人形が動くような音が響く、もしかすると、機械として動くのには限界なのかもしれない。そんな音が響いた。この音なら地下室に人が居れば場所の特定ができるだろう。そして、質素で飾りのない椅子に、白い巫女服の様な服を着た。少女のような女の子が座っているのが分かるだけでなく、人が背伸びするように両腕を上に上げて身体をそる動きをした。まるで、隅々まで電力を行き渡せるような感じを見ることができるはずだ。
「実行」
 少女のような女の子が許可するような言葉なのだが、なぜか感情が感じられない人工的な声だった。たが、数分が過ぎても何も起きる様子がなかった。そのためだろうか、自分の両腕を後ろに回して、ゴソゴソと何かをしているようだった。
「強制切断」
同じように感情を感じられない言葉を吐くと同時に人工的な音が響いた。その音は接続されていた配線が抜けたような音だった。そして、椅子から立ち上がったような音が響くと直ぐに、老婆とも思われる片足を引きずるような歩き方の音に変わった。そのような身体機能の欠陥で、どこに向かうのだろう。その者は地下室を出ても止まる気配も、行き先を探すでもなく歩き続けて、ある扉の前で止まった。そして、ゆっくりと腕を動かして扉のノブを掴んだ。これが、第二段階なのか、感情があるかのように笑みを浮かべたのだ。それだけでなく、先ほどのゆっくりの動作でなく、人らしい動きで扉を開けて、寝ている者の寝顔を見た。そして、寝台に近づくのだ。だが、動きを早くしたからだろうか、無理やりに機械を動かす鉄の擦れる音が微かに聞えた。やっとと言うべきだろう。寝台に着くと直ぐに右手を動かして、寝ている者の頭を撫でるのだ。もしかすると、笑みを浮かべた理由だったのだろうか、だが、優しい触り方なので、触られた者は起きる事がなかった。
「ご主人様。朝ですよ。起きてください」
 先ほどと同じ者なのだが、感情をはっきりと表し、可愛い少女のような若い声色だった。もしかすると、寝ている者の寝顔に反応したのだろうか、それを確かめることは出来ないが、優しく起こされている者は、背中に蜉蝣に似た羽(羽衣)があり。左手の小指に赤い感覚器官(赤い糸)を持っていた。その器官は、蛇のように動いて運命の相手がいる方向を方位磁石のように示すだけでなく、結ばれるための試練も示し、身体の危機がある場合は、伸び縮みして拳銃の弾もはじくのだが、当然、伸び縮みして剣、槍のように武器にもなるのだ。この蛇のような不快を感じる器官を持つ者は、邪なことを常に企む顔を持つ者。そう思われるだろう。だが違っていた。女性のような柔和な顔で、身体も痩せて戦うことに適していない者だった。一番適した職業と言えば僧侶だろう。それを、神も感じて、千年は続く三角山神社の跡取り息子として生まれた。その名は、天家(あまけ)新(しん)だった。それなのに、男を一人残して里の者は全て亡くなってしまったのだ。それなら、男を起こす者は幽霊かと思われるだろうが似たような者だった。今では信じる者は、神社の跡取りの男以外は誰もいないが、一万年以上も生きていると、少女は、それを教えるのは主と認めた者と、その家族だけ、そう言うのだった。
「御日様の光は気持ち良いですから早く起きないと損をしますよ」
 それが、証拠のように片足を引きずって歩くだけでなく、老婆のように前屈みで歩いて窓のカーテンを開けていた。勿論と言わなければならないが、この時代では空を飛ぶ機械もなく、地を走るのは馬車のような物しかなかったのだが、驚くことに少女としか思えない若い表情で服装も見た目も少女のような姿なのだ。変だと思うだろうが、耳を澄ませば、歩くと歯車の音と、鉄と鉄が擦れる音が聞こえる。それと、口癖のように・・・・・・・・。
「ご主人様は、雲よりも上の宇宙と言う世界から現れた末裔なのですよ。何を子供のように駄々をこねるのです。御日様を体に感じるのは幸せな事なのですよ」
「分かった。起きるから朝食の用意を終わらせてくれ、その間だけ寝る。その後は、必ず起きるから頼む。もう少し寝かせてくれよ」
「分かりました」
 また、歩くと機械仕掛けの音が響くのだが、何歩だが歩いた音がした後・・・・。
「また、その・・・・・・・・・・・朝食の用意をした後に起こしにきます」
 演技なのか、それとも、苦労して作ったとしても、起きるのを待つとなると料理が冷めるのが心配なのか、悲しそうに言うのだった。そして、男は、自分が泣かす程の悪い事をしたと感じて起きるのが毎日だった。
「俺が悪かった。直ぐに起きる」
 寝具から飛び起きると、直ぐに寝巻きから普段は着ない。裕子が用意した。旅装の服の様でもあり。狩り用の服にも近く、袈裟の様でもある白い服に着替えた。そして・・・・。
「朝の御日様は気持ちいいな」
 開けてもらった窓から太陽の光を浴びながら背伸びするのだった。
「それでは、朝食を作って食卓の上に並べて置きますね。その間に顔を洗って目を覚ましてくださいね」
「分かった。分かった」
「ご主人様が好きな料理を作るのですから早く来てくださいね」
 また、老婆ように機械仕掛けの音を響かせながら部屋から出て行った。その様子を見送った後は、急いで寝具を整えて洗顔するのに井戸に向かった。また、変だと思われるだろう。ご主人様と言われる者が、自分で井戸の水を汲んで洗顔などをするのかと、まあ、洗顔は良いとしても、何故、寝具を整えるのかと思われるだろう。それは、若々しい声だが動き方が老婆としか思えない様子なので、少しでも長生きして欲しいために、自分で出来る事は自分ですることに決めていたのだ。これが一番の理由だが、それに、任せても時間が掛かる。そう言う理由もあった。
「今日は何だろうか?」
 井戸で洗顔を終えて、使用後の桶を脇に置いて、台所の方に視線を向けると、小窓から顔が見えた。それは嬉しそうに料理を作っていたのだ。その顔を見るのも嬉しいのだが、笑みから判断すると、自分の好きな料理を作っていると判断が出来る。嬉しくて駆け出したかったが、転ぶと危ないと、子供のように心配するのだ。確かに、幼い頃に裕子(ゆうこ)の誕生日を聞いた時に製造されて一万年は過ぎました。と言われた。その意味は分からなかったが、一万年は生きているお婆ちゃんなのかと驚きと同時に、自分が大人になっても子供のように接するのだろうと感じてしまった。そう思ったのは正しかった。
「裕子。出来た?」
 本当なら「裕子お婆ちゃん」と言いたいのだけど、子供の時に泣きそうな表情を浮かべたのと、自分を「新(しん)坊ちゃま」と言われるのが嫌で、「ご主人様」と言う変わりに「裕子」と呼ぶと、二人で指切りまでして約束したのだ。
「まだですよ。紅茶を作って置きましたので飲みながら待っていて下さいね」
 食卓の上に、紅茶専用の容器と湯飲みが置かれてあり。自分で湯飲みに注ぎ、飲みながら待つ事にした。そして、食卓の上に一品の料理が置かれたので、自分で、ご飯と味噌汁を装って食べ様としたのだが・・・・・・。
「ご主人様。待ってください。後、二品があります」
「凄いな、今日って何か特別の日だった?」
「いいえ。何か今日は、どうしても坊ちゃまの笑顔が見たいと思ったのです」
「そうか」
「はい」
 本心から嬉しいと、まるで、微塵も邪気の無い赤子のような笑みだった。
「頂きます」
 まあ何て言うべきか、新の食べ方は美味しく食べていると感じるが、美しい礼儀があるとは思えない。まるでリスのように口の中に溜めて蛇のように飲み込んでいる姿だった。だが、料理を作る方では気持ちの良い食べ方とも思えた。
「凄い食欲ね。美味しい?」
「うんうん」
「良かったわ。でも、食べ終えたら、歴史の勉強続きですよ。この地では最後の赤い感覚器官を持つ者なのですから、先祖代々の歴史を後世に伝えなければなりません」
「その最後の血筋が僕なのだよね」
「そうよ。でも・・・・・正確に言うのなら・・・・・」
 その星(地球)が観測され始めてから数十年後に、就任する地球に着くのだが、星を人目だけ見るのと同時に命の火が消えてしまったのだ。それでも、供と婚約者の一族は生まれ育った星に帰れるはずもなく、主の転生を信じて全ての者が地球の地で生きる事を決めたのだ。それから、数千年も地球の第一文明として謳歌した。だが、その頃になってから、何故か生まれた星と地球の気候に遺伝子が拒否反応したのか、それとも、地球に衛星がなかったのを無理やりに衛星にした反動からだろうか、人体に拒否反応が始まって、出産機能の低下だろう。子供の人口が減り続けた。確かに、微かな重力の変動でも生物に影響が出ることは証明されていた。元々、地球の巨大生物とは共存を考えて、地球に影響がでないように計算して、ゆっくりと地球に近寄ったはずなのに、微かな月の引力の変動で巨大生物は絶滅したのだ。その生物と同じように絶滅を恐れて、人々は逃げるように月に帰って行ったことで、事実上、第一文明は滅亡した。
「ああ、そうだったね。それから・・・・・」
 第一文明が滅亡してから数千万年後、月でも人口が増えて、また、地球の地に降りることを考えた。これが、第二文明の始まりだが、地球に降りると、予測された通りに出産機能の低下が始まり子孫が減り続けた。そして、最後の手段として、地球の生物の遺伝子と自分たちの遺伝子を結合して子孫を残そうと考え出され、これは成功した。その直系の子孫が新であり。現代文明の先祖であった。だが、その為に、純血族は消えた。
「そうです。ご主人様。第二文明からが正確な先祖です。そして、今が第三文明です」
「その文明の区切りが複雑だよね。憶えるのが複雑で嫌になるよ」
「何てことを言うのですか、ご主人様」
「ごめん、ごめん。あっ、そうそう、神社の裏山が、第二文明の名残だったね」
「憶えていましたか、うっうう、安心しました。それで・・・・・」
 第二文明が滅んだ原因は、極端に血族を愛し続けたからだった。それも、自分のお腹を痛めて生まれた子だけでなく、遺伝子の繋がりだけの血族を愛し続けて、最後には自分の命も犠牲にするほどまで愛情を示したのだ。なぜ、そこまで、と思われるだろうが、理由があったのだ。第二文明の末期には、純粋の血族が一万人に一人の確立でした生まれなかったからか、それとも、心底から命がある全てを愛する人々だったのかもしれない。だが、現代人には理解が出来ない思考だろう。例を挙げるならば、猫に自分の遺伝子が入れられて誕生したとしても、自分の命や同族の命まで犠牲にして守るはずがないだろう。それも、顔が像や牛など様々な遺伝子を持つ者だった。もしかすると全ての生物の遺伝子を使用したはずだ。その者たちを擬人と呼ぶが、その中でも特に愛されたのは、猿の遺伝子を持つ者たちだった。確かに、猿の遺伝子として生まれた者たちは、獣としての力がなにも備えていなく、誰かが守らなければ真っ先に滅ぶ運命だった。それ程までにかよわい者たちだったからだろうか、第二文明の多くの人々が擁護していたのだが、擁護した擬人たちを第三文明の主と考えて、守ると同時に、他の擬人を攻めるだけでなく、第二文明人との同士討ちまで発展したのだ。
「裏山にある遺跡が、その流れの一つの一族だね」
「そうです。それだけでなく、恐らく、最後の生き残りが、ご主人様なのです」
「うん」
「それも、最後の赤い感覚器官を持つだけでなく、第二文明人の直系の子孫なのです。これだけは忘れないでください」
「分かったよ。それよりも、また、豪華な食事を作ってくれよな」
 口の中の物を一気に飲み込んで、一番の興味あることだけをハッキリと伝えた。
「はい。本当に、美味しく食べますわね。料理を作る私も嬉しい・・で・・・・・・・す」
 玩具の機械人形が、電池が切れたようにぎこちない動きのまま固まってしまった。
「お替り。あっ、眠いのか、なら、俺が装うよ」
 食欲に気持ちが優先しているのだろうか、裕子の様子に気が付かないのだろうか、それとも、今まで不審に思っていたのだ。寝ている様子を見た事がなかったので、人らしき様子を見て安心と同時に、本当に眠いと感じたのだろう。それで、自分でお替りを装った。
「ご馳走様・・・・・・ん?」
 食欲が満ち足りて、やっと関心が裕子に向いた。それでも、顔だけは視線を向けていたのだ。嬉しそうに微笑む笑顔が好きだった。その笑みを見るだけでも食欲が増す笑顔だったからだ。でも、顔だけでなく体全体を見ると、どの様に考えても気持ちよさそうに寝ているとは思えない。まるで、時の流れが止まったように動かないのだ。
「寿命が来たのか?」
 信じられないと何度も同じ事を呟きながら涙を流していた。
「・・・・・・」
 でも、裕子は何も答えない。
「里の皆が疫病で死んで、もう十年が過ぎた。その間は少しも寂しいと感じなかったよ」
「・・・・・」
「だって、いろいろな話もしてくれたし遊んでもくれた。洗濯が大変と言いながら、一緒に泥まみれにもなってくれたよね。本当に楽しかった」
「・・・・・」
 何も答えてくれないが、笑みを浮かべたままなので話を聞いてくれていると感じたのだ。
「今まで僕の事が心配で寝てなかったのだろう。だから、眠くなったのだよね」
「・・・・・・」
「そうだよね。だって、一万年以上も生きていたのでしょう。なら、死ぬはずが無いよ」
「・・・・・」
「もう、寝たふりなのでしょう。遊んでいるのでしょう。負けを認めるから動いてよ」
「・・・・」
「動いて、動いて、動いてよ」
 何度も同じ言葉を吐きながら泣き続けた。それも、一時間、五時間と泣き続けた。普段なら空腹を感じる頃なのだが、裕子の笑みを浮かべたままの姿を見つめ続けた。もしかすると裕子の笑みを見るだけで満腹を感じるのか、それは分からないが、目も瞑ってないのかと思えるくらい動かずに、裕子を見続けて涙だけを流していた。もしかすると、走馬灯のように昔の夢でも見ているのかもしれない。
「そう言えば、小さい頃は憶えてないけど、一度だけと思うけど、里を出たい。旅に出たいと泣き叫んだ事があったね。あの時は、裕子は悲しそうな表情を浮かべたね。でも、今考えても何が理由で喧嘩して旅に出ると叫んだのだろう」
「・・・・・」
「僕は憶えてないけど、裕子は憶えているのだろう」
「・・・・」
「でもね。憶えてないけど、何て言われて泣き止んだか、それは憶えているよ」
「・・・・・」
「成人の年になれば、嫌でも旅に出ないと駄目だって言ったよね。でも、もう、二十三歳になったよ。成人から三年が過ぎてしまったけど、まだ、旅には出ていないね。もしかして、今日の料理は、大人になったのだから旅に出なさいと、それを言うために、気持ちを落ち着かせようとしたのかな、それとも怒る気持ちだったのかな?」
「・・・・」
「もしかして、大人なのだから自分で決めなさい。それで黙っているのだね」
「・・・・・」
「うん。分かったよ。左手の小指の赤い感覚器官の導きを信じて、人生の連れ合いを探す旅に出るよ。でも、裕子よりも美人で優しくて料理が上手い人は居ないと思うな」
「・・・・」
「ああっ何も言わなくていいよ。何か言われると旅に出る気持ちが揺らいでしまうから」
「・・・・」
「旅の用意をしてくるよ。出来たら直ぐに旅に出るね。そして、運命の人を探し出せたら、必ず裕子に会わせるのに帰ってくるからね」
 涙が枯れたのか、泣いていると心配すると思ったのか、もう泣き顔でなく、微かだが笑みを浮かべていた。そして、用意が出来ると・・・・・。
「行って来ます」
 新は、顔の筋肉を引きつりながら出来るだけの笑みを浮かべて、手を振りながら部屋から出て行った。そして、家から出ると、玄関の鍵を閉めるかと悩んでいたが、裕子が寝ていると思いたいのだろう。その眠りを邪魔されないように鍵を閉めると決めた。そして、誰も徴兵から帰って来ないと思うが、もしも帰って来た時の場合に、里の者だけが分かる場所に鍵を隠した。
「東か」
 左手を腕時計でも見るようにして、小指の赤い感覚器官を見た。それは、蛇のようにくねくねと動いていたが、突然に固まったように動くのを止めて、東の方向を指した。だが、道は北の方向にしかない。山でも登って東の方向に向かうかと、一瞬だけ考えたのだろうが、東に向かわずに北の道を歩き出した。そして、体が疲れを感じる頃・・・・。
「東に向かう道があると思ったのだが、北に真っ直ぐに向かう道しかない。どうするか?」
 途方に暮れて悩んでいたが、思案すると言うよりも、裕子が隣にいると思っていた。まだ、自分が考えて行動する考えもない。まだ、親鳥が居ないと何も出来ない雛鳥(ひなどり)と同じなのだ。それと、まだ、亡くなったと思えない気持ちもあった。
「ねえ、裕子。どうしたらいいかな?」
つい、裕子が声の届く範囲にいると思ってしまった。

 第二章
 男は、不審そうに辺りに視線を向けて、女性の名前を叫ぶのだ。だが、返事が無い。水でも探しに行ったのかと、そんな表情を浮かべるのだが、心細くなり涙を流すと、涙腺が脳内の記憶を刺激したか、ある記憶を思い出して泣き出した。
「あっ、そうだった。もう裕子はいない」
 それでも、もう涙が枯れたのだろうか、泣く事は無かったが、生前の頃を・・・・。
(あれを言われたのは、確か十歳の時、飼っていた猫が消えて、泣いていた時の事だった)
「どうしたの?」
「シロがいないから呼んでいたの」
「そうなの。外にでも遊びに行ったのかな?」
「違うと思う。この時間なら寝ている時間だよ。だって、今までは、シロは夜遅くまで遊んでいるけど、寝る時は、僕の寝台の上で寝ていたよ。でも、今日は居ないから・・・」
「そう。あっ、もしかしたら、連れ合いを探しに行ったのかも」
(たぶん、自分の寿命を感じ取って死ぬのがわかったのでしょうね。だから、その姿を、ご主人様に見せたく無かった。でも、それは言えないわ)
「連れ合い?」
「そうですよ。ご主人様にも左手の小指に赤い感覚器官があるでしょう。それと同じように、連れ合い探しの旅に行きなさいと指示が来たのね」
「そうなのかな、なら、僕は嫌われたのだね」
「それは、違うわね。好きだから黙って行ったと思うわ。だって、好きな人に別れを言って泣かれたら心配で行けないでしょう。だから、驚かせようと考えたのよ」
「驚かせる?」
「そう、自分の奥さんを連れてきて、ご主人様を驚かせる気持ちなのよ」
「赤ちゃんも見られるかな」
「それは、どうかな?」
「何時頃くるかな、今日かな、明日かな」
「それは、どうでしょうね。でも、何時かな何時かなって考えていると出てこられないわ」
「そうなの?」
「だって、それだと驚かせることが出来ないでしょう」
「あっ、そうだね」
「それと、ご主人様も旅の準備をしましょう。何時、シロちゃん見たいに突然に連れ合いを探す旅に出なさいと、指示が来るかもしれないでしょう」
「なら、直ぐに用意するね」
「そうね。でも、沢山は持っていけないわ。大事な物だけよ」
「うん。わかった」
「そう。なら、出来たら見せて下さい。本当に必要か調べます。それと、私から考えて必要と思える物を背負い袋に入れておきますので、旅に出る時は必ず持って行くのですよ」
「うんうん」
「用意は出来ましたか?」
 裕子は、一時間も過ぎたのに何も言われないので心配になった。
「もう少しだよ」
 少し心配になり部屋の中を覗いてみた。
「ご主人様。まさか、その箱に入っているのを持って行くのですか?」
「うん。でも、まだまだあるから、もう少し待っていて」
 自分が入れる程の大きさの木箱に玩具を入れていた。
「ご主人様。それは無理ですよ。自分で持てる物だけですよ。それと、私が用意した背負い袋だけは必ず持って行くのですからね」
「えっ一人で行くの?」
「そうですよ。ご主人様だけで行くのです」
「無理だよ」
「そうですか、でも、ご主人様よりも小さいシロちゃんは、一人で行ったのですよ」
「あっそうだね。大事な物を減らすね。でも、その背負い袋は重そうだね。減らす事は出来ないのかな、それができたら、少しでも大事な物を持っていけるのだけどな」
「ご主人様。それは、無理ですよ」
 珍しく怒ったような声で言われたので怖い思いをした。その恐怖を思い出すと同時に、ある事を思い出した。それは、自分の肩から提げている物のことだった。
「ああああ、そう言えば、まだ、背負い袋の中身を見てなかった」
 そう言うと路肩の大きい石に座り。背負い袋の中を開けた。
「えっリンゴ、バナナもある。なんで?」
 驚くのは無理がなかった。自分の思いでは何年、何十年か前から中身が変わってないと感じていたのだ。それなら何で持ってきたと思うだろうが、緊急避難用の時に持ち出す程度の物だと考えからだった。確かに、裕子は赤い感覚器官の連れ合い探しの旅の話題が出ると、必ず「背負い袋を持って行くのよ」と耳が痛くなると思える程までしつこく言っていたからだった。
「どう考えても、二、三日以上は過ぎていると思えないぞ。もしかして、裕子は、僕の為に何時でも旅に出られるようにと、毎日、背負い袋の中身を入れ替えていたのか?」
 驚くのは当然だった。リンゴでは正確な時間は判断できないだろうが、バナナは、まだ、食べ頃の黄色のままだった。今日の朝でも背負い袋に入れたとしか思えない。黒い染みが一つもなかったのだ。そして、泣きながらバナナを食べながら感謝を感じていた。
「地図?」
 地図を見て、驚いていたが、背負い袋の中に入っていたので驚いたのでなくて初めて見たからだった。里の簡単な絵が描いた地図らしき物を見た事があるが、本格的な地図を始めて見たからだった。それだけでなく、初心者の新が、地図の見方が分かるように方位磁石の置き場所まで絵で書いてあり。一番近い街まで赤い線が描かれてあった。その線では街まで一本道だったが、街まで行けば四方向に進めると書かれていただけでなく、地図の見方を教えるように止まる場所まで描かれてある。一本道なのに必要かと思われるだろうが、道は一本だか直線ではない。その場所で方位磁石を使わせて使い方を教えたかったのだろうが、休憩を取らせる考えも兼ねていると思えた。
「後は、短剣と、乾パンみたいな菓子と干し肉と水か、うっ、これは・・・・・・・・」
 手袋ほどの大きさで可なり重い袋と軽い袋が三個入っていたのだ。不思議に思い開けてみると、塩と胡椒と砂金が入っていた。そして、砂金の袋の中には小さい紙切れが入っていた。それを、開いてみると、文字が書いてあり読んで見た。
「街に着いたら両替屋と言う店を探しなさい。そこの店主に十グラムの金を貨幣に交換したいと言うのですよ。それから、好きな菓子を買って食べてみなさいね。お勧めは饅頭(まんじゅう)ね。美味しいわよ。それと最期に、文字を読むと時は声に出さないで読むのですよ。もう私と二人だけでないのですから恥ずかしい事ですからね」
 新は、注意書きのように声を出して読んでいたので、ふきだしてしまったが、それよりも、裕子の驚かせる遊びかと感じて、近くで見ているだろうと辺りを見回してしまった。それほどまで、文字に書かれた通りだったので驚いたのだ。
「行くか」
 短剣を腰の帯革に吊るすと、残りは全てを背負い袋の中に戻した。そして、歩きながら裕子が言った様々な事を思い出していた。恐らく、常に昔を思い出していないと不安や寂しさに耐えられないからだろう。
「ご主人様。私も全ての都市の記憶は知らないわ。でもね」
「都市の記憶?」
「ああ、あのね。余りにも昔の事は憶えていないのですよ」
「そうなの?」
「そうですよ。ご主人様。それで、連れ合い探しは人によっては過去や未来だけでなく他の世界に行く可能性もあるのですが、行かなくても、赤い感覚器官を持っているだけで、時の流れを変える働きがあるのです。もしもですが、直ぐにでも連れ合いが探し出せたとしても結ばれるには、全ての時の流れの修正をしなければならないのです」
「時の流れの修正?」
「それは、遠い昔に雲よりも上の宇宙と言う世界の海を旅して来た。その末裔がご主人様なのは教えましたね。その人々は種族として限界だったのです。それは、この地(地球)に来ても子孫を残すことが出来なかったのです。それで、この地の若い動物の種族の遺伝子と結びつけるだけでなく、人体を作り変えて、時の流れを干渉できる感覚器官まで作って子孫を残そうとしたのです。それが、御主人様の体にある。左手の小指に赤い感覚器官と背中に蜉蝣(かげろう)の羽衣(はごろも)と言う羽(はね)なのです。まあ、その純血族には元々あったのですが、猿の遺伝子がある者だけに無理に付けたのです。その二つの感覚器官で、自分の最良の異性を探すのですよ。確かに、子孫が残せることになりましたが、時の流れの修正が発生したのです」
 口伝の内容だったことで、擬人に都合が良い内容に変わっていた。
「それは、湯飲みの中に満杯まで水があるとします。普通の人や世界は湯飲みの中の水なのです」
「うん」
「ご主人様は、湯飲みの中にある満水の水の中にある貨幣と同じなのですよ」
「貨幣?」
「そうです。見ていてくださいね。湯飲みの満水の中に貨幣を入れます」
「あっ、溢れたよ」
「そうです。その溢れた水を元の湯飲みに戻すのが時の流れの修正なのです。もしもですが、零れた方に運命の相手がいたら、過去か未来なのか他世界なのか分かりませんが、行かなければならないのです。そこまでの時の流れの修正は余りないと聞きますが、零れたために時の流れが変わってしまったのです。その全ての零れた者なのか獣なのか分かりませんが、全てに赤い感覚器官が結びついているのです」
「そう・・・結び付いているの?」
「そうです。その繋がっている感覚器官を手繰り寄せて、もしかしたら自分以外の命の火を消さなければならない場合もあるのです。人の命の場合は無いと思いますが、それが、熊でも倒さなければなりません」
「そんなのは無理だよ」
「大丈夫ですよ。全て、赤い感覚器官が指示をしてくれます」
「指示?」
「そうです。時の流れも柔軟性があるのです。それを、手伝うだけで良い場合があります」
「手伝ってくれるの?」
「手伝います。と言ってはくれません。そうですね。きっかけを作るのです」
「きっかけ?」
「例えばですが、ご主人様が森に入ったとします。その音を聞いて、鳥や狐が逃げてしまうでしょう。これが、赤い感覚器官が無い者なら問題はないのです。時の流れでは起きる出来事だからです。ですが、御主人様は違います」
「うん」
「ご主人様が、森に入らなければ鳥の一羽の命が消えるだけで、狐の命は消えないのです」
「えっ、どうして?」
「それは、御主人様の枯れ木を踏む音に驚いて鳥が逃げしまうのです。それと同時に狐も逃げるのですが、その途中で、人が仕掛けた罠に掛かって命の火が消えてしまうのです」
「ああ」
「それで修正とは何をするか、簡単な事なのですよ」
「森に入らなければいいのだよね」
「違います。この世界に誕生した事や世界に居るだけで、もう起きる予定と言いましょうか、時の流れでは予定されてしまっているのです。それを、起こらないように修正するのです。例えば、森に入る前に枯葉を集めてばら撒くのです」
「それだけでいいの?」
「そうです。後は時の流れの自動修正が手を貸してくれます。枯れ葉が空中を舞って、鳥が逃げないようにすると同時に、狐が逃げる方向を変える。その先には、美味しい鳥が居て、狐にも気が付いてない。絶好の機会を作るのです」
「そうかぁ。それなら、森に入る前に枯れ葉をばら撒けばいいのだねぇ」

 第三章
 「ご主人様。それは少し違います。ばら撒く場所が決っているはずです。恐らく、赤い感覚器官は、方向の指示から何歩だけ歩きなさい。その場に伏せなさいと詳しい指示があるはずです。その指示を間違わずに枯れ葉をばら撒けば良いのです」
 新は、これから何をするか全てを理解した。
「裕子。頑張って修正するから、連れ合いを探して里に連れ帰るからね」
 そして、立ち止ると左手の小指の赤い感覚器官を見詰めた。
「あっ、目印から行き過ぎた」
 せっかく、裕子が作製した地図の目印から歩きすぎてしまった。もしもだが、裕子が見ていたのなら・・・・・・。
「ご主人様。本当に確りしてくださいよ」
と、嘆いたかもしれない。それでも、自分で気が付いたのだ。それならば、赤い感覚器官がある自覚と考えたのなら簡単に旅が終わるかもしれない。それを証明しているのか、それとも偶然なのか、赤い感覚器官の修正の指示がないまま、何も起きる事がなく無事に目的の街が見る所まで着いた。
「確か、両替屋を探すのだったな」
 新は、簡単に考えていた。街の中に入れば、赤い感覚器官から指示が与えられて簡単に探せると考えているのだろう。その思考のまま様々な希望、いや欲望だろうか、心を弾ませながら街に向かい。そして、街の門の中に入って行った。
「あれ、あれ?」
 左手を腕時計でも見るように、小指にある赤い感覚器官を見つめては手を振っていた。まるで、自動巻きの腕時計が止まったので振って動くように祈っているようだった。
「どうしました?」
 検問所に勤めている男が不審を感じて声を掛けてきた。
「えっえっえっ」
「もしかして、誰かと待ち合わせでしょうか?」
 不審と感じるのは当然だった。門から出ると直ぐに辺りを見回しては手を振っているのだ。不審に感じない方が変だろう。
「えっその、あっ両替屋を探していたのです」
「そうでしたか、それでしたら、あの店です」
 新には分からない事だが、この都市の特有で両替屋や貴金属などを扱う店は護衛や密輸出などを防ぐために検問所の近くに店を構えていた。それと、よそ者を街の奥に近寄らせない目的もあったのだ。この当時、絹は高級品で製法は国の最高機密だった。その為に、余所者が利用する店や施設などは全て入り口の近くにあったのだ。
「ありがとう」
 新は何度も頭を下げながら感謝を表していた。そして、裕子の教育がよかったのだろう。普通なら扉を叩く必要がないのだが、何度か扉を叩くと、店主が出て来るのを待っていた。
「どうしました?」
 先程の検問所の男が笑みを浮かべながら声を掛けてきた。
「あっ何でもありませんよ。店の主が出て来るのを待っているだけです」
「もしかして、旅は始めてかな?」
「はい」
「それでは、一つ教えましょう。殆どの店は扉を叩いても主は出て来ません」
「何故でしょう?」
 本当に不思議そうに尋ねるので、男は何も疑問に思わずに答えていた。
「強盗や命の危険を感じるからですよ。まあ、我々が目を光らせているから何事も起きませんが用心のためですよ」
「それでは、どうしたら宜しいのでしょうか?」
「ごめん。いや、失礼する。と入れば宜しいでしょう」
 新は頷くと・・・・。
「ごめん。失礼する」
と、両替屋の扉を開けて中に入った。
「いらっしゃいませ。何の御用でしょうか?」
「砂金を貨幣に交換したいのです」
「何キロ。何グラムでしょうか?」
「三十グラム位を交換にきました」
「それでは、切りの良い三十五グラムで、小銀貨で九枚に・・・・ごっほ、ごっほ」
「ごめん」
 検問所の男が外で誤魔化しがないか聞いていたのだ。それで、相場では銀貨十枚が普通なのだが、安く言ったので中に入って来たのだ。
「毎度どうも」
「どうした。気にしないで続けてくれ」
「三十五グラムだから銀貨十枚になります」
「それ位が、相場だな。そうそう、名前は何と言いましたかな?」
「新と言います」
「それなら、今のやり取りで九枚から十枚に変わったのが分かりましたか?」
「はい」
「登(のぼる)さん。それは言わないで下さいよ。手数料を取るか取らないかは、店の主人が決めていいことになっているはず。それに、自分の店は、朝の相場から上がろうが下がろうが同じ値段で、お客を待たせないのが信条ですからね」
「分かっている。チョットなぁ。少年に教えようとしていただけだ」
「そうでしたか、お客さん。交換屋にきて砂金と正直に言わない方がいいです。店の主人から値段を、それとなく聞いて他の店と比べるか、自分で相場を憶えるのが良いでしょう」
「はい」
「まあ、言い訳ではないですが、時間に急ぐ人や面倒な人が多いので、当方のような両替屋がある。と考えてください」
「ありがとう御座います」
「本当に良い少年ですね。それで、この街に来たのは何か買い物でもあるのかな、あるのならお勧めしますよ」
「あります。この街の饅頭を買いなさいと勧められました」
「饅頭ですか・・・・・ああっ十年程前なら茜婆ちゃんの手作りが有名でしたなぁ」
「もう今はないのですね」
「孫が引き継いで作っているが、茜婆(あかねばあちゃん)ちゃんよりは美味くない」
「俺も子供の時は美味しくて良く並んで買って食べていたぞ。たが、最近は噂も聞かないし、店の前に並んでいる者たちを見てないな」
「それでも、食べたいと言うなら紹介します。どうします?」
「教えてください」
「そうか、地図を描いてやろう。いや、俺が連れて行く。何だか無性に食べたくなった」
 そう言われて付いて行くが、新は不審を感じていた。検問所がある街の門の大通りから外れて裏の通りに向かうのだ。その道は旧大通りで殆ど住民しか使用していなかった。そのような理由なのか、倒壊しそうな店が多かった。その中でも一番年季を感じの店の前で、男が止まって指を示した。店の看板には「仙人の霞の饅頭(せんにんのかすみまんじゅう)」と、書いてあった。
「この店だ」
「あっ登(のぼる)おじさん。ひさしぶり」
「久しぶり、元気そうだな」
「うん。元気よ。でも、おばあちゃんの時みたいに売れないわね」
「そうか、がんばれよ。それと、薄皮饅頭(うすかわまんじゅう)を一個くれないか」
「あっ・・・ありがとう」
 一つの饅頭を手渡しで渡した。そして・・・・・。
「そう言えば、生前におばあちゃんから噂を聞いていましたよ」
「何を?」
「登おじさんが子供の頃は常連さんだったって」
「まあ、子供の時は甘いのが好きだったからな、今は酒に変わったよ」
「それで、薄皮饅頭が出来たのはおじさんのお陰だって作る度に言っていたわよ」
「それは、初耳だぞ」
「子供の頃のおじさんは毎日一個の饅頭を買ってくれたらしいわね。それで、ある時に、友達は、二個とか三個とか買っていたらしいけど、それを見て驚く事を言ったの」
「何か言ったか?」
「うん。同じ値段で皮はあるか無いかでいいから餡を多くしてくれよ。そう言ったらしいわ。それで、一個の値段で二個分になるって叫んだって、笑いながら話してくれたわ」
「そんな事を言ったか?」
「まあ、皮より餡の方が高いのだけどね。でも、良いアイデアを教えてくれたから、一人で買いに来た時だけは、一個の値段で二個にして上げたって嬉しそうに言っていたわよ」
「あああ、変だと思っていたよ。突然に一個おまけって言われたからな」
「それに、まだあるわよ」
「あっ又後でも来るよ。案内しに来ただけだ。済まんな。直ぐに戻らないと駄目なのだよ」
 いかにも、今、用事を考えたような話しの仕方で店から離れていった。恐らく恥ずかしかったのだろう。それは、酒も飲んでないのに顔が真っ赤なのが証拠と思えた。
「それで、お客さんは何が欲しいのでしょうか?」
「今の人と同じ薄皮饅頭を三個ください」
「分かりました。直ぐにご用意しますので少々お待ち下さいませ」
「はい」
 二分位だろうか、新は女性の手先を見詰めていた。それも、子供のように無邪気に見ていたのだ。女性は、それに気が付いて、何かを迷っているようだった。
「はい。どうぞ、余りにも美味しそうに見詰めるから特別に一つサービスしましたよ」
「えっありがとう」
 紙袋の中に手を入れて、一つの饅頭を取り出した。
「頂きます・・・・・美味しいね。餡も甘すぎなくて丁度いい感じだし、皮も薄くもなく厚くもなくて凄く美味しいよ」
「そうでしょう。そうでしょう。分かる人が居て嬉しいわ」
「また、買いにきますね」
「お待ちしております」
 女性の満面の笑みを見て少し恥ずかしそうに頷くと、その気持ちを隠そうとしたのか、それとも、饅頭が食べたかっただけか、饅頭をくわえたまま店から離れていった。
「ぼっぼぼう。ぼっぼぼ」
 何処からなのか、ほら貝の音が聞こえてきた。その声が聞こえると、懐から書面を取り出す者や家の中に駆け込む人だけでなく顔色を真っ青にして立ち尽くす者もいたのだ。
「なんだろう」
 人々の様子も気になるが、何かの理由で鳴らしているのが分かる。その理由が気になって、音が聞える方向に歩き出した。それでも、新は、幸せそうに饅頭を食べながら歩いているのだから何も恐怖や自分に係わるのかなどの心配をしているとは思えない様子だった。
「あっ街の門が閉じる」
 街の門と言うよりも城壁の様な頑丈な門だった。その閉じる所を見て、出られなくなると思って駆け出したのだが、大勢の人が門の前に居たので出る事も近寄る事もできなかった。それでも、人々の叫び声から戦が始まるのかと問い掛けているのが聞こえてきた。

 第四章
 「あっ先程の人だ。たしか、登さんだ」
 そして、暫く待っていると怯えたように震えながら人垣から出てくる人を見ると、新も何か嫌な予感を感じて、無理やりに人垣を掻き分けて前に行った。すると、登が書面を掲げながら叫んでいたのだ。その話を聞くと、この都市の支配者は都市王(としおう)とも領主と呼ばれている通りに、大国の中の一つの街だが、支配されているのでもなく税も納めえてもいない。同じ神を信じているだけで、都市の一つ一つが好きなように納めているのだ。だが、二つの事だけを守らせていた。都市同士の戦は禁止と他神を崇める者たちが責めて来た時は共に戦う。との確約だけされていた。それなのに、何故、都市の人々だけでなく商人や旅人が慌て騒ぐのだろうか、それは、この都市の政策にあった。支配者の領地では岩塩と絹の交易で莫大な収入があるので、通行税だけでなく全ての税を取らなかったのだ。だが、その代わりに、都市の危機が起きた場合は傭兵となり都市のために戦う。と、明記されていたのだ。それでも、誓約書が作製されたのは先代の事であり。殆ど儀礼的な事とされていたので書面を読む者も居なかったのだ。その為に、人々は本当に戦に参加するのかと詰め掛けてきたのだ。
「良いかぁ。三十分以内に、この場に集まれよ。女子供もだぞぉ。女子供は飯炊き班と救護班をしてもらうからなぁ。」
 登は、この場から離れる者たちに叫んだ。
ほら貝の音と書面の理由を伝え終わると、集まってきた者たちは納得ができなかったが、今回の出来事が決着されないかぎり門が開けられないのが分かった。それだけでなく、傭兵などの働きをした後に誓約書にサインがない者は都市から出られない。それが、分かったのだ。登が叫ばなくても集まるのは確かなことだった。
「登、指揮官殿。誰かが向かって来ます」
「何だと?」
 見張り塔から部下が叫んでいた。それを確かめるために門の上に登った。すると、一騎だけで走って来る姿を見たのだ。そして・・・・・・。
「誰も弓を放つなよ」
 登は、階段を上がりながら叫んでいた。まだ、誰なのか確かめもしないのに注意の指示をするのだ。この言葉だけでも戦いなど考えてもいなかった。そして、頂上に登と同時に一騎の者も着いたようだ。
「頼もう」
「何だ」
「我は、北東都市(ほくとうとし)の主人の命で西都市(にしとし)に宣戦布告を伝えにきた。戦いは明日の正午から開始する。それでは、確かに伝えたぞ」
 自分の力を誇示したいのか、槍を地面に刺した。
「待て、同じ神を崇める都市ではないか、なぜ、戦わなければならないのだ」
「それは、この書簡を主人に渡してから直接に聞くのだな」
 槍を地面に刺して強さを表したかと思ったのだが、柄の所に書簡が結ばれていた。そして、刺したまま、一騎で来た者は帰って行った。
「誰か、書簡を取ってくるのだ」
 一人として動く者はいなかった。見える範囲に多くの兵が陣を構えているからだ。それでも、弓が届く範囲ではないのだが、兵の数と言うよりも戦いが怖いのだろう。
「やれやれ」
(軍隊経験も訓練もしてない者には無理か、警備は警備しかできんか、仕方がない)
「人が通れる程度の隙間だけ門を開けよ。俺が取りに行く」
 心底から疲れた。そんな様子で階段を下りた。そして、門の前に立つと開くのを待った。
「もういいぞ」
 自分が入れる程くらい開くと、部下に指示を伝えた。すると、まるで猫のように通り抜けたと思ったら直ぐに現れた。
「閉めていいぞ。だが、ほら貝の笛の音は交代で兵が消えるまで鳴らし続けろ」
「承知しました」
「俺は、手紙を主様に渡してくる。その間に誓約書の人々が来たら警備の心掛けでいいから伝えておいてくれ、それと体を適当に慣らしていろよ」
 そして、町の中心に体を向けた。主が住む屋敷は中心を越えて、その奥だった。
「登さん」
「先程の少年・・・どうした?」
 一度だけ利用した。あの両替屋の軒下で新は、登を待っていた。
「僕、どうしても東に行かなければならない。だから、一緒に行きたいのです」
「なぜ、俺に言うのだ。俺は、街から出ないぞ」
「でも、行くような気がする」
「なぜ、占いか?」
「いいえ。その手紙から何かを感じるよ」
「感と言うやつだな」
「そうかもしれない」
 新は本当の事を言えなかった。頭の中で響く事・・・それは、手紙を持った男を捜して共に東に向かえ。そう響いたのだ。
「俺も、若い時は感を頼りに旅もした。それだけでなく、戦争の時も感で生還もできた。だが、今は何も感じない。それで、少年。その感で、外の兵に何か感じないか?」
「何も感じない。でも、登さんと一緒に行けって」
「それほどまでして東に行きたいのか?」
「はい。僕の運命ですから」
「運命か、それを探すのに旅に出たのだな・・・・仕方がない。付いて来い。だが、主様が旅に出ろと言われた場合は、旅の供として都市から出るのを許そう」
「はい」
「それで感じたと言うのは、初めて会った時からか?」
「いいえ。ほら貝の音なのですかね。あの響きを聴いてからです」
「そうだったか」
 二人は、街の中を歩き続けながら話をしていたのだが、屋敷が視界に入ると、登は無言になった。それは当然だろう。新の話が本当ならば、主様の指示で街から出なくてはならない。何の命令か分からないが危険なのは確かだ。その心構えなのかもしれない。
「ねぇ。僕も入っていいのかな?」
 そう思うのは当然だった。大小の木が塀のように並んでいるだけでなく、扉は無いが門のように作られているからだ。
「構わない。公園みたいな所だ」
「それなら良かった」
 何年も手入れをしてないのだろう。始めて見た物なら公園とは思えないはずだ。
「この奥に、人口の泉がある。この街の水源だ」
 歩き続けて視線も向けないが、右の方向を示した。
「左は?」
 新が問い掛けた。
「左の奥には、主様の代々の墓地がある」
 それだけ言うと、また、無言になった。そして、木製の大きな長い塀が見えてきた。その門の前に着くと・・・・・・。
「ここで待っていろ。好きにしていいが、声が届く所には居てくれ」
「わかりました」
 その返事を聞くと、自分で門を開けて入っていた。当然、自分で開けたのだから門の扉を閉めた。その中は、白い小さい石が敷き詰めてあり。広さは二十歩位の四角の広さだった。そのまま歩き出すが、正面の豪華な玄関に向かわなかった。何回も来たので用件がある場合は右側と分かっていたのか、それとも、もしかするとだが、豪華すぎて自分には不釣合いと思ったのかもしれない。この様子を見て笑うかもしれないが、普通の人ならば豪華すぎて、左右の扉に使用人でも居ないかと助けを求めるほどの豪華すぎる扉なのだ。
「何か御用でしょうか?」
「主様に書簡を持ってきました」
「もしかして、ほら貝の音と関係あるのでしょうか?」
「はい」
「御主人様は、その知らせを待っていられました。どうぞ中へ」
「はい」
 扉が開けられた。その中に入ってみると同じ様に白い小さい石が敷き詰められていた。もしかすると、屋敷の周りにあるのかもしてない。その事は、登が分かるはずも興味もなかった。そのまま男の後を歩いていた。どの位の歩数を歩いただろう。もしかしたら建物の裏まで来たのかと思う時だった。
「ここで待っていてください」
 若い男は建物に入った。
 執事にしては少し若い。もしかすると只の雑用をする使用人なのか、その判定は、登には興味がなかった。それよりも、多くの太陽の光が当たる所だと感じていた。
(ここの部屋で昼寝でもできたら気持ちいいだろうなぁ)
 などを考えていた。
「来たか、誰だ?」
「はい。登であります」
 主様の言葉が聞こえるが、どこか分からず辺りを見回していた。
「おお登か、待っていたぞ」
 先程、登が昼寝をしたら気持ちいいと感じた部屋の窓が開けられて、主が顔を現した。
「あのほら貝の理由を知らせに来たのだったな」
「はい。都市を包囲するように多くの兵が集結しています」
「そうか」
「明日の正午に開戦すると声明されました」
「それで、開戦の理由は述べたか?」
「はい。恐らく、書簡にあるかと・・・・・」
「なぜ、そう思う?」
「書簡が力を誇示するように槍の柄に括られてありました」
「小津(おづ)読んでみろ。今、本から目が離せんのだ」
 若い男が入ったところから年配の男が現れた。
 戦争の開戦と言う言葉が分からないのだろうか、主と呼ばれていた者は、まるで人事のような態度だった。もしかすると、兵員の補給するための値切り交渉とでも思っている感じに思えた。それは、当然かもしれない。戦争など、自分の祖父の時代の話だったのだ。
「御主人様。北東都市のからの書簡のようです」
「それで、何て書いてある?」
「それが・・・」
「あっ、補給交渉の値切りだと言うなら任せるぞ」
「それが、税の統一と書いてあります。応じない場合は・・・・攻め滅ぼす」
 何かが落ちる音が響いた。恐らく、主が読んでいた本が手から落ちたのだろう。
「確か、北東都市は、我が領とは違い塩の交易のはず。その統一の意味は何だ?」
「恐らくですが、塩の交易をしていますが、北東都市は通行税も、交易にも全てに税を徴収しています。ですが、御主人様が収める領地では税がありません。その為に交易する人々が減ってきた為に同じ税を取るように要求か、または、この都市を自国の領地にするために兵を差し向けたかと思われます」
 この男は主人が慌てていると言うのに冷静に問いに答えた。

 第五章
 「小津。どうしたら良いか?」
「もし要求に答えても、次々と要求が増えましょう。もし出来れば兵を引かせる事ができれば宜しいのですが・・・・・・・自分は・・・・・商い以外は分かりません」
 御主人様が若いから冷静な態度を表しているのか、元々の性格なのかの判断は出来ないが、恐らく、先代からの部下だったのだろう。それで、どの様な態度をしたら、自分の主人が困るのか分かっているのだろう。その心の中の葛藤が左手の指に現れていた。悔しいのか、恐怖なのか、もしかすると両方かもしれないが、自分の着衣を握り締めて震えていたのだ。
「登。兵の規模から考えて、都市を守れるか?」
「三千、いや、四千は居るでしょう。直ぐに街の中まで攻められないと思いますが、一ヶ月が限度でしょう。援軍が来ないと分かれば街の中から崩れます」
「街の中?」
「そうです。武装の放棄が起きる可能性があります」
「何故だ?」
 驚きの表れだろう。部屋の窓越しだったのが、部屋の扉を開けて出てきたのだ。
「当然、予想される事です。この都市には軍隊はありません」
「警護隊が居るだろう」
「確かに、警護隊はありますが、軍隊ではなく警護人ですから戦いになりません」
「意味が分からんぞ。それだけでなく、誓約書の交易人も警護するのだろう。戦力になるだろう。それだけでは足りないのか?」
「一言でハッキリ言いますと、軍人は人を殺せますが、警護人では人を殺せません」
「どうしたら良いのだ?」
「一ヶ月なら持ちましょう。それまでに他の都市から援軍を要請するしかありません」
「狼煙で知らせれば来てくれるだろうか?」
「無理でしょう。この都市で何が起きているのか、その全ての現状を伝えて、次の標的が他の都市にも向かう可能性があると、他の領主に知らせに行けば七割の可能性で援軍を寄越してくれるでしょう」
「それでも、七割なのか?」
「ですが、何もしなければ一月後には、都市の住民も交易人も助かりたい一身で、武器を捨てて城門を開けるのは間違いないでしょう」
「それなら、援軍を要請するしかないだろう」
「ですが、主様。誰に行かせるか決めなければならないでしょう」
「誰でも良いではないか、交易人でも金額を積めば行くだろう」
「無理と思います。恐らく逃げるでしょう。義理堅い者なら行って書簡を渡すでしょうが、援軍は期待できません」
「登。何故だ?」
「それでしたら、もしもですが、主様が援軍の要請が届いたとして兵を送りますか?」
「書簡の内容によるが、偽の書簡で敵の策略の可能性がある。直ぐには無理だろう」
「その通りです」
「あっ」
 自分の現状は混乱しているので判断は出来ないが、他人と考えを置き換えたら冷静な判断ができた。それで、頭を抱えてしまったのだ。
「誰を行かせるかだな」
「はい」
「はい」
 登と小津が返答した。自分たちしか居ないと分かったのだろう。
「答えは出ている。登か小津しかいない。だが、小津では高齢で旅は無理だ。それでも、登が居なくては指揮する者が居なくなる」
「自分が行っても大丈夫と思います」
「だが、登以外に誰が指揮をするのだ」
「小津殿なら大丈夫でしょう。交易人にも顔が利きますし、警護人たちにも信頼があります。それだけでなく、もしかしたら戦争の経験もある。そんな気持ちを感じます」
「確かに、若い時に戦争は経験しましたが、見ていただけです。ですが、書物の力と登殿の作戦案を一緒にすれば、一月は持ちこたえてみせましょう」
「小津。登、頼む」
「承知しました」
 二人は即答した。その言葉から意気込みが分かった。
「直ぐに書簡をお願いします。その間に小津殿に考えられる事態を全て伝えます」
「分かった。直ぐに用意する」
 御主人が部屋に入ると、二人の男は時間が惜しいのだろう。その場で話を始めた。それだけでなく、近くの木から枝を折り、敷き詰められた石をどけて地面に何かを書き始めた。
「登殿、わかりました。攻めてきた場合は作戦の通りにします。ですが、自分の本分である交渉で時間を稼ぎましょう」
「それが、良いでしょう。都市の事は頼みます」
「必ず。援軍を引き連れて来ると信じて待ちます」
 二人の話が終わるのと、殆ど同時に書簡を手に持ち主人が現れた。
「頼むぞ。登」
「必ず援軍を連れてきます」
 その言葉を吐くと、返事を聞くのも惜しいと思ったのだろう。直ぐに屋敷から駆け出した。そして、当然だが、門を開くと、新が待っていた。
「居たか、旅に出る事になった。可なり危険だ。それでも来るか?」
「行きます」
「直ぐだぞ」
「このまま行けます」
「なら、行こう。あっ、その前に饅頭を買いに行こう」
「饅頭?」
「そうだ。酒を飲んで任務の成功を祈る事はできないだろう。その代用だ」
「そうだね」
「俺の奢りで全ての種類を食べさせてやる」
「本当?」
 無邪気に幼い子供のように微笑んだ。
「本当だ」
(これでは役に立たない。だが、一人よりも二人の方が気持ちは落ち着くな)
「それと、俺の部屋に戻って支度はする。この姿では目立つし金も必要だからな」
「いいよ」
 二人は、饅頭屋に向かって駆け出した。
「登おじさん。息を切らせて、どうしたの?」
「お前の饅頭を買いに来ただけだ」
「ありがとう。それで、何が欲しいの?」
「全種類の饅頭を買いに来た」
「えっ」
「本当だ」
「それで、驚いたのではないわ。もしかしたらほら貝の音に関係しているのでしょう。戦争が起きるって本当なのね。それで、饅頭を買うのはお別れの挨拶なの?」
「違うぞ。少年に食べさせたいだけだ」
「本当なの。また買いに来てくれるのね?」
「本当だ。だが、明日とかは無理だ。少しの間だけ使いに行ってくる」
「そう」
「金を持ってくるよ。作っていてくれ、直ぐに来る」
「はい」
「美味しそうだね」
 登が行く方を見ていたが、新の声が聞えて視線を向けた。
「美味しいわよ。先に食べる?」
「後で、登さんと、一緒に食べるよ」
「そう。でも、お金を取りに行っただけにしては、少し遅いわね」
「そうだね」
「出来たわ。それで、一つサービスよ」
と、紙袋を持たせると、一つの饅頭を新の口に入れた。
「むぐむぐ」
 恐らく、美味しいか、ありがとうでも行っているのだろう。
「お前ら何をしているのだ?」
「あっ先に食べているのでないよ。一つサービスだって言われたから・・・」
 紙袋を両手でなく片手で持ち変えて、食べかけの饅頭を口から取り出した。
「それは、どうでもいいのだが、まあ、何でもない。行くぞ」
 娘は知人と言うか、恩人の娘とも言えるので心配した。だが、男性の素性などは知らないが、これから命懸けの旅になるだろう。もしかすると、根性の別れになる可能性が高い。それで、良い思い出でも作らせようと考えたのだが、どちらを心配して良いか迷った挙句に、無視する事に決めてしまった。
「はい。また、必ず買いに来ますね」
 行くと決めて、登の後を歩き出したが、饅頭の誘惑だろうか、いや、一個の饅頭だったがお礼が言いたかったのだろう。振り向いて手を振っていた。新の幸せそうな笑みとは違って、登は何か悩んでいるようだった。
「どうしたのですか?」
 新は問い掛けた。だが、聞えていないのか返事が返らなかった。その事で悲しくなったのか、いや違うだろう。恐らく、出来立ての饅頭が食べられないからと思えた。仕方なく、無言のまま後を付いて行った。そして、検問所が見えてくると、大勢の人々が・・・・・・。
「隊長」
 一人の男が大声を上げて近寄ってきた。この一言で、この場に居る。大勢の避難民のような人々も、登に視線を向けて何か言いたそうに見詰め続けた。
「何かあったか?」
「いいえ。特に変わった事はありません」
「そうか」
「それと、指示の通りに、心構えと、簡単な体操ですが、皆の体を解しておきました」
「そうか、良くやってくれた」
 登は、略式の敬礼で労った。その後、同僚だけで分かる仕草で、二人だけで話がしたいと伝えた。その部下は承諾を会釈で答えると・・・・・。
「暫く、この場で待機していてくれ。だが、女性と子供は救護室で仕事の内容を聞いた後は寛いで構わない。それと、恐らくだが、戦いにはならないだろう」
 この言葉で、殆どの人々は安心したのだろう。安堵の吐息が広がった。その後、少しの間だが、ざわめきが起きたが、一人、二人と救護室に向かって人の流れが続いた。それに紛れるかのように登と部下が歩いた。その後ろを、どこに向かうのかと思いながら新も付いて行った。それでも、隊舎であり。検問所でもある建物に向かうと予想していたのだろう。特に驚く事もなく一緒に中に入っていた。
「済まないが、隊長と話がある。少しの間だけ休憩室を貸してくれないか?」

 第六章
 検問所に居た人々は、不思議そうに出て来た。
「何があったのだ。もしかして紙袋を大事そうに持っている少年が理由なのか?」
「どうだろう」
「それよりも、なぜ、隊長室を使わないのだ?」
「まさか、隊長は降格して一般兵になったのか?」
 人それぞれの思案をするが、誰一人分かるはずがなかった。それでは、休憩室を占領して中で何をしているのかと言うと・・・・。
「突然、済まない。饅頭でも食べながら話をしようではないか?」
「それでは、お茶でも入れましょう」
 登の部下は声色からは穏やかで嬉しそうに感じるが、顔の表情は、まだ、何を言われるのかと顔が引きつっていた。
「少年。済まないな、全ての種類の饅頭を食べさせえると言ったが少し分けていただくぞ」
「そんな、気にしないでくださいよ。僕でも全ては食べられません」
 テーブルの上に全ての饅頭を紙袋から出して並べた。
「俺は、そんなに甘い物は・・・」
「遠慮するな、お前も甘い物が好きなのは分かっているのだぞ」
「それでは、遠慮なく食べさせていただく、少年、頂くぞ」
「どうぞ、どうぞ」
 一つ、二つと饅頭が、三人の体の中に消えていった。そして、登は、部下の顔が緩んできたので、今なら全てを話しても柔軟に受け止められると感じたのだろう。
「俺は、今の状態を主様にお伝えしてきた」
 そして、主に会ったことから、小津と二人で決めたことまで全てを話した。
「そうでしたか」
「そして、俺は、主様から手紙を預かっている。それを、東都市(ひがしとし)に持って行くだけでなく、都市を守る為に援軍の要請を頼みに行くのだ。俺は、必ず一ヶ月の間までに援軍を連れて帰ってくる。その間まで守ってくれ」
「それでは、小津殿が隊長の代わりをするのですね」
「そうだ。だが、それは、形だけになるだろう。悪い例えだが、小津殿が頭になり、お前が体となって行動して欲しいのだ」
「確かに、ご高齢ですから何となく意味は分かります」
「頼むぞ」
「隊長の頼みです。死ぬ気で小津殿の補佐を致します」
 その時、突然に扉が開けられた。
「死なれては困ります。ほどほどに頑張りましょう」
 小津が、突然に現れた。
「小津殿」
 新を除き、二人の男は驚きの余りに立ち上がっていた。
「何時から居たのです?」
「今来た所です。まだ、行かれてなかったのですね」
 登に鋭い視線を向けた。恐らく、御主人様の指示を軽く考えているとでも感じたのかもしれない。だが、直ぐに登が心底から頭を下げているのを見て、何か理由があるのかと不審な表情に変わった。
「すまない。直ぐにでも向かいたいのだが、門から出る方法がなくて思案していたのだ」
「そうでしたか、それなら」
「良い考えがあるのですか?」
「なくもないが」
「話を聞かせてください」
「開戦を遅らせる一つとして考えていたことです」
「それは、何です」
「書簡のやり取りで、少しでも時間を延ばす考えです」
「ほうほう」
「それは、相手の陣営まで書簡を持って行かなければならないのです。まあ、それを誰に行かせるか考えていたのです」
「なら、自分が行きましょう。何人かの血気盛んな者たちの数人くらい叩き伏せます。それに、自分に挑む者など殆ど居るはずもないので必ず届けましょう。そして、届けた後は、一目散に、東都市に向かいます」
「それだと、困ることになります。出来るだけ相手を怒らせて欲しいのです」
「えっ」
「何て言いましょうか、危険を感じたので、門が開くのを待てなくて逃げたと演じて欲しいのです。そうする事で、二回目の書簡は相手の陣営まで持っていかなくてよくなります」
「ほうほう」
「分かって頂けましたか、次回からは矢に括り付けて放つだけです」
「やってみます。出来る限り挑発してみましょう」
 小津から書簡が手渡された。
「隊長。馬を用意します。荷物は今あるのだけですか?」
「そうだ。頼む。それで、少年」
「何でしょう?」
「これから、門が開くが、馬が通れる程だけだ。そして、馬が出ると同時に門が閉まるが、その間に門から出て近くの壁に立っていてくれ」
「はい」
「俺は書簡を届けなければならない。その後、直ぐに迎いに行く。少しの間だが待てるか?」
「待てます」
「なら、行こう」
「はい」
「そうだ。饅頭が残っていたな、持って行こう。今度こそ後でゆっくり味わって食べよう」
「はい。あっ、それと・・・」
「何だ?」
「少年では呼びづらいでしょう。新、と呼んでください」
「わかった。新、だな」
「はい」
 二人の男が建物から出ると・・・。
「隊長。用意が出来ました」
「すまない。直ぐに門を開けろ。馬が通れるほどでよい。そして直ぐに閉じるのだぞ」
「承知しました」
 部下は駆け出した。その後を新も追いかけた。だが、登は、馬に乗ったまま動かずに検問所の扉を見ていた。
「まだ行かなかったのですか?」
「大事な用件が残っているからだ」
「それは、なんだ。早く済まして行ってくれないか」
「わかった。早く手を出せ」
「手?」
「仕方がないな」
 馬から下りると、小津の手を捕まえて握手をした。
「後のことは頼む」
「あっああ」
 言葉を待っていたが何も言わないので、耳打ちした。
(何をしている。知らない者が見たら、俺を追い出して隊長になったと思われるぞ。何か適当な事を言って、皆を安心させてくれ)
「登殿。領主様から緊急の使いの無事を祈って下ります。そのお帰りまで、隊長職の代行をお任せください。それと、領主様だけでなく、都市に居る全ての人々の無事は必ず守ります。何も心配などせずに使いを完遂してください」
「後を頼む」
 再度、馬に乗ると門に向かって駆け出した。
「開門」
 登が叫ぶと、門が開き始めた。そのまま速度を落とさずに門を通り抜けた。一瞬だけ新が門を出るのを確認すると、後は何も悩まずに敵の陣営に向かった。
「領主様から書簡を持参した」
 同じ言葉を叫び続けた。その言葉を聞き、一人の上級兵士らしき者が叫び返した。
「降伏の書簡でも持ってきたのか?」
「領主様の書簡を読むはずがないだろう。だが、降伏の書簡ではないはずだ!」
「何だと!」
「お前などの下士官と話す気持ちも、書簡を渡す気持ちもない。直ぐに上官を出せ!」
 普通の交渉任なら低姿勢するのだが、小津に言われた通りに、威圧を剥き出しにした。
「侮辱は許せん。弓を放て」
 正式な命令でないので全ての弓隊が放たなかったが、それでも、とっさに数えられない程の矢が放たれた。普通の者なら矢が体や馬に当たるのだが、登の剣さばきと馬の扱いが上手い為に、一つの矢も当たらなかった。そして、数人の兵士を蹴散らしながら進み続け、先程の上級兵士の目の前にたどり着くと・・・・。
「書簡だ。お前の主人に渡せ」
「うぁあ」
 神業のように上級兵士の横をすり抜くと同時に、衣服の隙間に書簡を差し入れた。
「何をしている。弓を放て」
 味方に当たる可能性もあったので、誰一人として弓を放てなかった。
「何を騒いでいる」
 部隊長だろうか、騒ぎを聞いて簡易テントから出てきた。そして、部下の姿を見ると、衣服に書簡が挟まっているのを見つけた。
「それを寄越せ」
「えっ」
 自分の衣服に視線を落とすと、書簡が刺さっているのを見つけた。
「どうぞ」
「ぶざまだな」
 書簡を手渡したが、同時に屈辱的な言葉が返された。上官が立ち去ると直ぐに、自分の部下に視線を向けた。
「安心してください。門が開くのを待っている時に、弓を放つよう指示しました」
「良くやった」
「必ず討ち取れるでしょう」
「そうだな」
 二人の男と弓隊は、登の後ろ姿を見続けた。そして、多くの矢が体に刺さっている姿を想像していたのだ。だが、予想していた時間が経ったのだが止まる気配がなかった。そして、信じられない光景を見たのだ。その驚きは二つあった。一つ目は、何時から居たのか、壁に人がいるのに気が付き、二つ目は、その人に突進する勢いのまま走り続けて衝突する。と思われた時、急激に馬の向きを横に向けた。そして、・・・・・・。
「新。手を伸ばせ!」
 驚く神業を見せた。それは、馬の最大速度と思える速度なのに、登は片手と両足で馬を操作しただけでなく、新がいる方向に落馬寸前まで体を傾けたのだ。

 第七章
 新は、登の言葉の意味が分かった。突進してくる馬には怖かったが、それでも、確実に手が届く範囲まで二歩進んだ。そして、頭の中で想像している事と同じ事がコマ送りのように見えたが、本当に馬の背に乗れるのかと考えてしまった。だが、何も心配は無かった。まるで、磁石と磁石の磁力で密着するっように手と手が結ばれるだけでなく、馬の背にも吸いこまれるように無事に乗れたのだ。
「うぉおおおお」
 都市側の人々は、登が、新を片手で持ち上げて、自分の後ろに乗せた。その奇跡を見て興奮が抑えられないのだろう。人々は叫び声を上げていた。その中で、恐らく一人だけだろう。冷静に二人の様子を見ていた者がいた。その者は、小津だった。
「上手く行ったようだ」
 二人が逃げて行く姿を見ると、何度も頷いていた。そして、何かを納得したのだろう。頷くのを止めると、隣に控えていた部下に顔を向けた。
「赤い矢を放ってくるはずだ。その矢が届いたら知らせてくれ」
「赤い矢ですと、我々が放つのでなく、届くのですか?」
「そうだ」
 驚くのは当然だった。普通は劣勢側が降伏する条件を求めるのに放つのだ。それが、有利側が放つ理由は一つだけ、無条件で降伏するのなら命だけは助ける。その意味しかないからだ。それなのに、その赤い矢を待つとは、死ぬ場所は自分で選ぶと言うことになる。
「待ってください。籠城して援軍を待つのでないのですか?」
「何を心配している。篭城しか考えてないぞ」
「ですが、赤い矢が放てられた場合は・・・・・」
「何も心配するな。良い考えがあるのだ。だから、知らせてくれればよい」
「承知しました」
 小津が笑いながら城壁から立ち去るので信じるしかなかった。それから、二時間が過ぎると、言われた通りに、赤い矢が城門に突き刺さった。
「小津殿。城門に赤い矢が刺さりました。それだけでなく、文らしき物が付いております」
「取ってきてくれないか」
「はっ、承知しました」
 赤い矢が来ることよりも、文が付いているのに驚いていた。そして、開戦の合図だと知っているはずなのに、城門の脇の小門でなく堂々と正門を開門して、数人の兵士が嬉々として矢を取りに行ったのだ。それは、返信のように同じ赤い矢を放つまで開戦をしない。そう暗黙の了解があるから安心していたのだ。
「お持ちしました」
「分かった」
 文を渡されて読むと、儀礼的な開戦の文だった。その内容が分かっていたのだろう。不敵な笑みを浮かべた。
「赤い矢を放つ準備をしてくれ」
 その文を握り締めながら指示を伝えた。
「はい。ですが・・・・・・・文は宜しいのですか?」
 開戦の開始と感じて顔色を青ざめた。
「要らない。だが、饅頭を括り付けろ」
「饅頭?」
「そうだ。昔風の仙人の霞の饅頭を二個用意しろ。それも、油紙で包んだ物と薄絹で包んだ物を括り付けて放つのだ」
「はい。ですが・・・それでは、相手が怒りを感じるのでは・・・」
「理由は聞くな。これが成功すれば、三日の時間を稼ぐ事ができる。援軍が来るまで間に合うはずだ」
「計画だったのですか、済みませんでした。直ぐに用意して放ちます」
「頼む」
「小津殿の計画に必要なのだ。直ぐに用意しろ」
 隊長室に向かうとしたが、言い忘れていたことを思い出したのだろう。
「あっ・・・・待ってくれ」
「何でしょうか?」
「直ぐに次の赤い矢が来るはずだ。それにも、文が付いてくるだろう。直ぐに隊長室に持ってきて欲しいのだ」
「承知しました」
「わしは、次の返信の文を書く。何か変わった事があれば知らせて欲しい」
「何か飲み物でもお持ちしましょうか?」
「要らない」
 急ぐかのように隊長室に帰って行った。それを見届けてから部下に任せえられないとでも思ったのだろう。隊長補佐は、仙人の霞の饅頭の店に行ったのだ。だが、今では饅頭を全て包んで販売していないために、紙屋と生地屋に走り回らないとならなかったのだ。そして、包む物を探し出した後に、また、饅頭屋に戻って包んでもらったのだ。
「任せなくて良かった」
 やっと饅頭を手にした。その安堵感だろうか、内心の気持ちを吐き出した。それも、小声で呟いたのには、まだ、冷静な判断力がある証拠だった。
「補佐役。どうしたのですか?」
「後の支払いや、無理な注文の謝罪は任せたぞ」
「お任せください」
 検問所に戻るまでに、三十分が過ぎていた。
「早く赤い矢を放たなくてはならない」
「補佐役。話を聞いていました。一番の弓の名手を待機しております」
それでも、息が切れるほどまで急いだのだ。そして、息を整えたい気持ちがあるが、まだ。命令の用件が終わっていなかった。死ぬ気持ちで城壁を駆け登る思いだったが、今の様子を見て部下が城壁から駆け降りて来たのだ。その言葉を聞いて、驚きと同時に自分の部下も使える者がいると安心したのだ。
「饅頭を括り付けて、敵陣に赤い矢を放て」
「はい。お預かり致します」
 そして、城壁を駆け戻り。名手に饅頭を渡して、自分で括り付けさせたのだ。それは、当然だろう。弓を放つ者でなければ釣り合いが分からないからだ。
「まだか」
 補佐役が痺れを切らした。
「今放ちます」
 弓の名手は弓の弦を引き、補佐役の言葉を待った。
「放て」
補佐役が時間を急かせたが、それでも、饅頭を預かってから五分で弓を放ったのだ。

 第八章
 赤い矢は、放物線を描くように飛び続けた。
「赤い弓が放たれました。恐らく、文の返信だと思われます」
 先ほど、赤い弓を放った者が、相手からの赤い弓が放つまで待っていた。そして、騒ぎを聞え、登に遊ばれた。あの上級兵士が現れた。
「予想よりも早かったな。命乞いの文だろう。俺は、先に殿下の天幕に(簡易テント)居るから持って来い」
 自分の提案で、明日の正午まで待たずに交渉を提案したのだろう。
「お待ちください。文ではありません」
 上級兵士に聞えるように大きな声で叫んだ。
「何だと」
「饅頭のように思えます。どうしたら宜しいでしょうか?」
 地面に突き刺さっている。その赤い矢を見て指示を仰ごうとして問い掛けた。
「饅頭だな」
「・・・・・・」
 部下に問い掛けられても答えを出せるはずがなかった。
「そのまま引き抜け、その状態のままで殿下に見せる」
「はい」
「赤い矢を持って付いて来い」
「・・・・・・」
 部下は赤い矢を放ったが、途中で文を落としたために返答に困り饅頭を括り付けた。と感じて血の気がなくなり青白くなっていた。その様子に気が付いていないのだろう。二人して天幕の中に入っていた。
「それは、何だ?」
 天幕に居た者たちは、赤い矢と饅頭を見たのだが、何て答えて良いのかと考えていた。その気持ちが分かったのだろうか、それとも、皆に問い掛けたとも思える言葉だった。
「饅頭だと思われます」
 主が問い掛けたと思い。何かを答えなければならないと感じたのだろう。
「それは、分かっている。その意味は何だと聞いているのだ」
「・・・・・・」
「誰も分からないのか?」
 十人の武将が何も言えずに俯いていた。
「仕方がない。年寄り衆を呼べ」
「ですが・・・・」
 現武将としては引退した者の意見を聞きたくなかったのだ。もしも、相談して答えを出されたら、この後、自分たちの意見は信じてもらえないだろう。それだけでなく、何かと年寄りたちは意見を述べるに違いない。そうなれば、自分たちの降格もありえる。それで言葉を詰まらしたのだ。
「この様な時くらい役に立ってくれなくては連れて来た意味がない。直ぐに呼んで来い」
 主が苛立ちをぶちまけている。だが、武将たちは畏まっているだけで行動することはしなかった。それは当然だった。年寄り衆に頼みに行くのも嫌だが、もしも、行く事になる者は降格が決定されたと同じだからだ。それで、主と視線を合わせず畏まり。他の者が行くように祈ると同時に、年寄り衆を呼ぶのを諦めて欲しいと祈っていたのだ。
「何を、立っているのだ。元々は、お前の提案だったはずだ。それの返事で悩んでいるのに、答えを出せずに居るだけでなく、年寄り衆を呼んで来いと言っているのだぞ。この言葉も分からないのか?」
「ひっひっ」
 心底からの恐怖のために言葉にすることも身体も動かなかった。
「仁。(じん)主様の命が聞えないのか、直ぐに呼んで来るのだ」
 現武将たちは、少し気持ちが緩んだ。年寄り衆が来るのは不満だが、怒りの矛先が、自分たちでなく、新たに武将の列に入るかもしれない者だったので、安心と同時に失態を喜んだのだ。それでも、声を上げた者は、震えている者の上司だった。内心の底からの微かな気持ちだろうが、自分の直接の部下だ。助けてやろう。としたのか、それとも、自分の部下なのだ。その失態が自分に降りかかると感じたのか。それでも・・・・・・。
「仁。何をしている。直ぐに行け」
二度も部下に声を掛けたのだ。助ける気持ちがあったようだ。
「ひぃ」
 二度も名前も呼ばれたからだけでなく、自分が立っている所から近くなので耳に届いたのだろうか、いや、主君よりも、普段から様子を見ている上司の怒りが爆発寸前の殺気を感じて、正気を取り戻したと思われた。
「直ちに」
 本当に逃げるように立ち去る。それを表すように駆け出した。そして、回りには同じ様な天幕が何個かあるが、誰に聞かなくても直ぐに年寄り衆の天幕は分かった。何故かと思われるだろう。その天幕だけが、酒宴で浮かれ騒いでいるからだ。
「主様の命です。直ぐに天幕に赴いてください」
「やれやれ、まだ、我らの知恵がないと駄目のようですな」
「そのようですな。仕方がない。よいしょ・・・と」
「仕方がないでしょう。助けてやりましょう」
 三人の老人は、主が聞いたら刀を抜くかもしれない言葉を吐きながら腰に手を当てながら椅子から立ち上がった。だが、本心から主を愚弄しているのではない。本心は、隠居して余生を楽しめ。と言って欲しいのだった。だが、先代からの重臣でもあり、様々なことを教えた。その師と思ってくれているのだろうが、自分が選んだ家臣たちと同じ様に接しして欲しい。まあ、それが言えないのが、本当の孫のように愛しく感じるのだった。
「どうしたのだ。一緒に来ないのか」
「わたくしは、一緒に行けません」
 先ほどの言葉を思い出しているのだろう。怯えながら返事を返した。
「そうか」
(わしらにも、同じように接して欲しい者だな)
「挽回の機会を与えて欲しいと、そう申しておく、頑張るのだぞ」
「ありがとう御座います。自分は、この天幕の前でお待ちしております」
(あれが、達人までに達した者の微笑と言うのだな。もしかすると腰を痛そうにしていたのは、油断を誘うための演技かもしれない)
「さて、何が遭ったのだろうかな」
「そうですな」
「お前ら、楽しんでいるだろう」
「それは、お前も、そうなのだろう」
「確かに」
 三人の老人は、上級兵士の言葉が聞えていないか、笑いながら主の天幕に向かった。
「御呼びと言われまして、我ら三人参りました」
「待っていたぞ。酒を飲んでいるのか、それで、頭は働くのだろうな」
「何の支障もありませんぞ。それで、何事があったのでしょうか?」
「この赤い矢に饅頭が括ってある物を放って来たのだ。この意味が分かるか?」
「ほう、面白い事をしますな」
 三人の老人たちは、頭が禿げてあごひげだけの者。白髪頭で口ひげだけの者。白髪でひげが無い者が居た。その中で一番の年長者は口ひげが無い者だった。その年長者が笑って楽しんでいた。
「意味が分かるのか?」
「むむ、分かりません。ですが、仙人の霞の饅頭は、西都市の特産だった物です」
 その笑いに関心を示しされて、問いを求められたのだ。
「確か、特産品は絹と思っていたが・・・・・違うのか?」
「絹が特産品は確かです。ですが、饅頭を作っていたから絹の生地が出来たのです」
「何だと、それで、理由は分かっているのか」
「はい。自分たちが若い時では、かなり、有名な話題でしたので」
「その話題を聞かせてくれないか?」
「当時の仙人の霞の饅頭は、かなり、有名でして、遠方からでも買いに来る者が多かったのです。ですが、油紙で包んでいる時は、薄皮饅頭と言う名称で、どこの都市にもある物でした。まあ、売れていなかったから発想と工夫を考えたのでなく、油紙だと直ぐにカビが生えて長期の保存が無理だったのです。それで、軽くて風通しの良い物はと考えて出した結果が、絹だったのです」
「それは変だろう。今でも高級なのだ。その当時では見ることも出来ない貴重品だろう」
「確かに、そうでした。ですが、あの頃は引っ張れば破けてしまう程度の物だったのです。元々の発想が蜘蛛の糸からでしたので、編み棒での手編みでしたから丈夫な物ができるはずがなかったのです。それでも、作った物は使用しなければならない。それで、饅頭屋の話しに飛び付き使用が始まったのです。それは、霞のような物に包まれた饅頭でしたので、珍しいだけでなく、仙人が食べる物。仙人の霞の饅頭として爆発的に売れました。それから、直ぐのことです。饅頭屋の前で、姉と弟の旅の者が驚きの使用方法を見せたのです。別に特別の事ではなかったのです。姉の方も深い意味はなかったのでしょう。誰でも、弟が転んで怪我をしたら何かで拭って血を止めようと考えるはず。それが、自分が食べていた。饅頭の包みだったのです。まあ、姉は、何でも良かったのでしょうね。それを、看護婦が偶然に見て、医療の包帯に適していると、医師の先生に伝えたのです。それでも、直ぐに破けるのでは役に立たない。需要が増えれば、製品を作るのに人も増やすことになる。そうなれば、思い付きや工夫を考える人の声も増えて、製品も改善されて、包帯から下着も作られて、今では、手織りから木枠で糸と糸とを絡めて、糸を引き締める手織り機が作られると、大量の衣服が作られているのです」
 次の事は、噂にも記録にも残されていないが、饅頭の包みを包帯の代わりにした。姉と弟とは、天家の新。その父親と、一万年は生きている。と思われている。ロボットの裕子だった。そして、看護婦とは、新の母親なのだ。この騒動は、父親の左手の小指の赤い感覚器官の導きで、絹を広めることと、二人を結ばせるための出会いの演出だった。
「そうだったか、だが、これ程まで詳しい話が伝わっているのに、なぜ、我が都市では絹の服が作れないのだ」
「それは、肝心なところが分からないのです。手織り機が手に入れたとしても織り方が分かりませんし、肝心な、蜘蛛の巣を見て考えたと言われても、蜘蛛のはずもなく、何の虫なのかも分かりません。これでは、何も分からないと同じです」
「そうなのか・・・・・それで、赤い矢の意味が分かったのか?」
「恐らくですが、仙人の霞の饅頭と絹の服の作り方を教える。そう伝えたいのでしょう。ですが、かなり、強気な態度だと思われます。それでも、強気の態度の裏には、有無を言わせずに戦いになった場合は、全ての資料を焼き捨てる考えだと感じ取ることもできます」
「それでは、意味がないのだ。饅頭の製法は良いとしても、絹の服の資料は欲しいのだ」
「分かっております。それなら、赤い矢の饅頭の返信として、こちらは、赤い矢に白紙の手紙を括り付けましょう」
「それは、どのような意味になるのだ」
「特に意味がありません。向うが強気で、こちらに答えを求めえるのなら、白紙の手紙で何て言ってくるか確かめるのです」
「それは、良い考えだ。白紙の書簡を放ってくれ。あっ・・・・・・上級兵士はどうした?」
 名前は、憶えられていないが、それでも、何かと重宝がっていたのだ。
「わしらを呼びに遣した者ですかな?」
「そうだ」
「仕方がない。わしらが呼んできましょう。それと、失礼だと思いますが、天幕に戻ろうと思います。許して頂けるでしょうか?」
「構わない。突然に呼び立てて済まなかった」
「わしも、退室させて頂いて宜しいでしょうか?」
「構わない。だが、赤い矢が届いた内容によっては、呼ぶ場合があるぞ」
「何時でも御呼びください。直ぐに赴きます」
 三人の老人が退室した。そして、数分後に、息を切らせて現れる者がいた。
「殿下。遅れてすみません」
「構わない。直ぐに赤い矢を放って欲しいのだ。それに、白紙の書簡を括り付けるのだぞ」
「御意」
 簡潔に答えて、恐怖から逃げるように立ち去ったが、それでも、男の表情からは笑みを浮かべていた。まるで人生で、これ以上の幸せがない。そのような笑みだった。
(殿下は、俺を必要としている。殿下は、俺を、俺を)
「何事があったのですか、上級兵士殿」
 驚かれるのは当然だろう。眼は血走りながら極限の状態を超えたような走りで自分たちが控える陣地に向かって来るからだ。
「赤い矢を放つ準備をしてくれ」
 まだ、興奮が冷めないのだろう。隣に居るのに、その場にいる全ての兵に伝えるような叫び声を上げたからだ。
「分かっております。もう少々お待ちください」
 隣に居るのに叫び声を上げるので、時間が定められていると感じて一般の兵士たちは急いでいた。だが、急がせているのではない。その証拠のように笑みを返すのだ。
「確実に城門に刺されば、それで良い」
 それでも、引きつったような笑みだったので、何時もよりも恐怖を感じたのだ。
「早く放て」
 まあ、矢を放つだけなら数分だと思われるだろうが、普段から赤い矢が有る訳でないのだ。普通の矢に赤く色を塗ってから放つのだ。それでも、十分間は掛からなかっただろう。
「用意ができました」
 色を塗り終えて、弓を引き絞ると声を上げたのだ。
「放て」

 第九章
 上級兵士の気持ちが込められたかのような勢いで、弓矢は半円を描くように飛ぶのでなく、殆ど垂直に弓矢が飛んで行き、城門に刺さった。
「ドッン」
 都市の全ての者が、弓矢が突き刺さる音が聞える。そう感じられる音が響いた。
「また、赤い矢が突き刺さりました」
「文はあるのか?」
「あります」
「直ぐに城門を開けろ。俺が取りに行く」
 言われるのが分かっていたのだろう。指示すると同時に城門が開き始めた。そして、堂々と門から出て矢を抜こうとするのだが、深く刺さりすぎて鏃まで抜くことができずに、折ることになった。そのためだろう。少しでも早く、小津に赤い矢を渡すために駆け出しているのだが、矢を折ってしまったからだろう。不安そうな表情をしていたが、小津は何も言うはずがない。それでも、その表情を浮かべるのは、赤い矢を折ったことが、作戦の失敗する暗示と思ってしまったからだろう。
「小津殿。赤い矢が届きました」
 小津の癖なのか、それとも、直ぐに赤い矢が届くと確実に思ってのことか、隊長室の扉は開けたままで、小津が椅子に座っているのが見えたが、そのまま廊下を走り続けた。
「ありがとう」
「ですが、鏃が抜けなかったので、折ってしまいました」
「それは、良かったではないか、敵の策略を赤い矢を折ったことで防いだのだからな」
「ありがとう御座います」
 小津の冗談で気持ちが落ち着いたようだった。そして、心底からの謝罪をした後に、赤い矢を渡したのだが、退室することが出来るはずもなく、小津の表情を見続けたのだ。恐らく、いや、確実に、その表情を見れば内容が分かると感じるからだ。
「心配しなくていいぞ。予想の通りに、白紙の書簡だった」
「えっ、白紙?」
「そうだ。白紙の書簡か、怒りを感じて開戦するか、二通りしかなかったのだ」
「それで、我々は、次の行動は、どの様にするのでしょうか?」
「また、赤い矢を放って欲しい」
「承知しました」
 返事を返した後、少々の時間が掛かると思ったのだが、直ぐに書簡を手渡された。それも、内容が分かるように開いたままの書簡だったので、文字から目を離せなかった。
「白紙の書簡を頂きましたが、貴方が求めていた情報を手に入れたのならば、兵を撤収して頂きたい。そう要求を致します」
と、書かれていたが、意味が分からずに、首を傾げながら小津に視線を向けたのだ。
「意味が分からないだろう。だから、時間が稼げるのだ」
「赤い矢に括り付けて、敵陣に放てばいいのですか?」
「そうだ。恐らく、今度は、一時間くらいの時間が稼げるはずだ」
「えっ・・・・・」
 小津は、笑みを浮かべて話しだすのだ。問い掛けた者が、変な事を言ったのか、それとも、普通は、あの文面で意味が分かるのだろうかと、不思議がっているようだった。それでも、その笑みを見たからだろう。計画が想定の通りに進んでいると思うと同時に、恐らくだが、敵の武将も、同じ通りに思案するに違いないと感じているようだった。
「補佐役の表情を見て確信した。何も心配しなくて良いぞ。援軍が来るまで時間を稼ぐ」
「それでは、放って参ります」
「急がなくてもよいぞ。だが、確実に陣営まで届かせてくれよ。それと、今までの通りに城門を開けて、堂々と赤い矢を取りに行って欲しい。それでは頼むぞ」
 そう言われたが、ゆっくりと歩く気持ちにはなれるはずもなく、五分後には、敵陣に赤い矢を届かせたのだ。そして、小津の想定の通りに一時間後に、赤い矢が城門に刺さった。
「ドッスン」
 矢が刺さる音が聞えると、指示の通りに堂々と城門を開けて、赤い矢を取りに行ったのだ。だが、今回は、威嚇のつもりなのか、赤い矢を抜こうとして掴んだ時だった。左頬に触れるかと思われるぎりぎりの所に、赤い矢が刺さったのだ。驚いて、敵陣の方を振り向きたかったのだが、小津の言葉を思い出し気持ちを抑えた。勿論、足が震えていたが、城門が閉まると、部下にも知られないように、小津の所に向かったのだ。
「想定の通りに、一時間後だったな。それで、威嚇するような事が起きたかな?」
「はい。赤い矢を抜いている時に、もう一つの赤い矢が放たれてきて頬を掠めました」
「ほうほう、それは驚いただろう。その侘びとして書簡を読んで見て良いぞ」
「貴方の勘違いです。当方は何一つとして情報は頂いていない。至急に情報を提供しない場合は、当方は考えを変えなければならない。と要求する」
 小津は、声を上げなくて良かった。と、言いたそうに聞いていた。そして、次の書簡も開いたまま手渡したのだ。
「当方としては、饅頭を見ても分からない場合は教えることができない。それとも、勉学のために人を遣す。そう考えて良いのでしょうか?」
「えっ。まさか、敵兵を都市に入れる考えなのですか?」
「来るなら。面白い考えがあるが、誰も来るはずがない」
「面白くても、敵兵を城内に入れる考えだけは止めてください。兵士だけでなく、他の者たちも恐怖を感じます」
「分かった。その計画は止めておく。そろそろ、赤い矢を放ってくれ」
「すみません。直ぐに放ってきます」
「頼む」
 次の矢が放たれるまでには、三時間も過ぎたのだ。
 上級兵士が、当初の計画と違って情報が、何一つとして手に入らなくて、主に知らせるのが遅れたこともあるが、天幕の中でも対策に時間も掛かっていたのだ。そして、小津の陣営では、赤い矢が届くと直ぐに手渡したのだ。そして、読み終わると・・・。
「読んでみるか?」
「はい」
 書簡を開くと、声を上げて読んだ。
「当方は、その要求には答えられない。至急に情報の提供を要求する」
「城内では、来ると言ってこないだろう。それは、当然なのだよ」
「それは、なぜです」
「開戦を開始すれば、必ず勝てる戦なのに、その前に死にたくないからだ」
「あっ」
 驚きと言うよりも、難問の問題を解き明かした。そのような表情を浮かべた。その表情を見て、小津も憶えの悪い生徒が答えを解いた。その喜びのような表情を返したのだ。
「そうだろう。この都市の兵力くらいなら死ぬ危険度は少ない。それで、殆どの兵士は、戦の後のことを考えているのだ。それで、次の書簡から本格的な計画に入るのだ」
「えっ」
「読んでみたいだろう。構わんぞ」
「それでは、読ませて頂きます」
 書簡を手渡されて書面を見ると、今までの文字数とは違って長く書かれていた。
「当方と、貴方では、考えが噛み合ってない。もしかすると、当方の都市規約を知っての
書簡のやり取りと考えていた。そうではないのか。知らないはずはないと思うが、当方では、商人と旅人の強制的の兵員になる法律のために、軍事機密は全公開と法で定められている。この法律のために赤い矢での書簡でも、全公開するために詳しい情報を送る事ができない。だが、貴方が全公開での情報のやり取りを希望の場合ならば情報を公開する考えがある。そうなると、誰もが知る情報となり商品価値が消えると思われる。それでも良いと言うのならば当方は構わない、貴方の返答を求む。だが、一つ当方からの提案だが、当方も全公開では、これからの商いに支障が起きる可能性は高い。それで、提案とは、当方と貴方だけの書簡のやり取りを続けるが、当方が、貴方に分かるように、書簡に、貴方が知りたい情報を暗号として書いて知らせる。これならば、情報は、当方と貴方だけで、情報の秘匿になると考えた。貴方の返答しだいで、即、実行したい」
 上級兵士は、手を震わせながら書簡を読んでいた。それは、当然だった。書簡に書かれていた情報とは、都市で極秘の最高機密であり。小津が勝手に決められる内容ではないからだ。もし情報を公開するとしても都市を支配する主人の直筆か印がない場合は、極秘情報を漏らしたとして最高刑の死刑が宣告されるからだ。
「小津殿。本気で極秘情報を教えるつもりではないですよね。それとも、主様の許可があって教えるのですか、もし違う場合は、逮捕しなければなりませんぞ」
 顔を青ざめているのは怒りからか、それとも、重罪犯罪のための驚きか、恐らく、両方だろう。だが、心底の気持ちは、自分も犯罪者となる可能性がある。それが、一番の恐怖を感じているからに違いない。
「書簡を読んで、今のような返事が聞けて安心した。命が惜しさに黙認するのかと少し考えたぞ。だが、何一つとして都市の機密を教える気持ちはない。適当な書簡を書いて、のらりくらりと誤魔化す考えだ。それで、援軍が来るのを待ち続ける」
「それなら問題はない。ですが、信じないのではないが、必ず書簡を読ませて頂きますぞ」
「それなら助かる。少しは気持ちが安らぐよ。それと、頼みたいことがあるのですが・・」
「何でしょうか?」
「のらりくらりと誤魔化す。文面を考えてくれると助かる」
「面白そうですね。喜んで協力します」
 小津の本気か、冗談か分からない頼みで、二人の精神的な気持ちが解れた。それを、証明するように笑い声が室内に響いた。
「その前に、この書簡を敵陣に放って欲しい。今頼んだことは、相手の返事が届いてからのことだからな。恐らく、いや、必ず喜んで承諾すると書簡が届くはずだ」
「そうでしょう。その情報が欲しいので戦を起こしたはずです」
「頼むぞ」
「承知しました」
 今まで何度も赤い矢を放つために、書簡を部下に渡す時に殺気を放っていた。だが、今は笑みとも思える表情を表していた。その表情を見て部下も旅人も商人も戦争が起きないかもしれない。と、安堵の表情を浮かべ始めた。
「用意ができました」
「放て」
 今までは殺気とも恐怖とも感じられた叫びだったが、今の補佐役の声色は、明るい希望と言うか、勝利を確信した時の響き。そんな響きで都市の全ての者が安堵したのだ。そして、直ぐに赤い矢が届くのだ。その内容は当然。
「提案の件。直ぐに実行して欲しい」
 そう書簡に書かれていた。
「それでは、何を書くか考えなければならないな」
「そうですね。都市の生い立ちからでも書いてみるのも面白いかと」
「面白いが、こちらが考えている計画が見抜かれる恐れがあるぞ」
「なら、仙人が食す。その霞から出来ている。と噂も流れていますし、それか、霧を濾した残りかすが原料だとも思われているのですし、その取り方は駄目でしょうか?」
「ほうほう、霧とは面白い。それにしよう」
「それでしたら、まず初めに投網が必要と書いてみては、どうでしょう」
 二人の話題は冗談でなく本当に書簡に書いた。そして、赤い矢に括り付けて放ったのだ。普通なら冗談だと怒るだろうが、今回の場合は、攻められている方からの命乞いの妥協として提案されてきたために本気で信じたのだ。その赤い矢のやり取りは、十回を越えても、不審に思われなく続き、そろそろ、百を超えようとした時には、日付が変わろうとしていたからだろう。双方とも続きは朝日が昇ってから始めると決った。
「貴方が、代々の秘匿として守ってきた。その歴史は分かるが、そろそろ本題に入って欲しい。このまま歴史を語るのなら情報を公開する意思がないとして開戦を決行する」
と書かれている。その書簡が昨夜の間に放たれて、赤い矢が城門に刺さっていた。それに気が付くのは、次の日の朝日が昇り、兵士が見回りで城門を見るまで分からなかった。       当然、補佐役が赤い矢を抜いて、小津の所に持っていたと思われるだろうが、昨夜の安堵する響きを聞いたことで、殆どの者は恐怖心が消えていたのだ。それでも、牛乳や新聞を取りに行くような気楽な気分ではないが、城門から出られる気持ちまで落ち着いていた。
「赤い矢が城門に刺さっていました」
 小津と補佐役は、これから来る書簡のことで話し合いをしていた。その時、廊下を走る音が聞えていたが、書簡が届く時間には早いと思っていたので気にかけなかったが、扉を叩く音と当時に叫ぶ声が聞こえたのだ。それでも、恐怖と言うよりも、戦の終了だとでも思っているような興奮を表していた。
「もう刺さっていたか・・・・早いな。まさか面倒になり開戦でも考えたのか?」
「入ってきなさい」
 小津は、書簡を持って来た者の興奮する言葉よりも、予定よりも早かったことに驚くだけだった。その様子を見て仕方がないとでも思ったのだろう。補佐役が、扉の外の者に指示を伝えた。叫ぶのを止めて、扉を開けて入ってきた者は兵士ではなく、中年の男で商人か旅人だろう。予定されていた旅先の宿の予約か、商談の日時に遅れていたことを諦めていたが、この書簡で自由になれるとでも思っている様子だった。そして、二人の誰に渡すのかと目線を交互に動かしていた。
「俺が受け取ろう。ありがとう」
と、受け取ると同時に言葉を掛けたが出て行く様子がない。恐らく、男は内容をしりたいのだろう。だが、直ぐに書簡を読んだとしても知らせるはずもない。それに気が付かないほど興奮しているようだった。
「どうした?」
「あっ・・・済みませんでした」
 やっと気持ちが落ち着き、自分が何を考えていたか思いだしたのだろう。何度も頭を下げながら退室しようとした時だった。
「直ぐに書簡を手渡すから外で待っていてくれるか?」
「分かりました」
「それでは、失礼します」

 第十章
 現代的な時間で言うと、深夜の二時頃だ。先ほど敵の城門に、赤い矢のやり取りは明日の朝日が昇ってから開始しようと、こちらから、赤い矢を放った。そのことを主に伝えようと天幕に向かった。それ位の事なら部下にでも頼んだら良いだろう。そう思うだろうが、辺りは、三千以上の兵士が木に寄りかかる者や、地面の上に寝ている者たちが大半だった。それで、頼み辛いと感じたのか、それとも、主に少しでも気に入られようとして考えなのか、いや、その両方なのだろう。
「赤い矢を放ってきました」
 天幕の中に入りたかっただろうが、主が寝ていると感じたので、外から言葉だけ伝えた。
「頼みがある」
 床に入っているのだろうか、それとも、元々の口調なのだろうか、半分寝ているような感じだった。
「何でしょうか?」
 聞き取りにくいと、感じているようだが、許しもないのに中に入れるはずもなく、それでも、聞き違いでもしたら困ると、天幕の布に耳を押し付けていた。
「年寄り衆に、書簡の翻訳が出来ているか聞いてきてくれないか、何が原料なのかだけでも良い。それが、知らないと眠れそうにないのだ」
「承知いたしました」
 主の言葉が終わると、一瞬だけだが目を瞑り、何を言われたか思い出しているようだった。恐らく、命令されたことを確認しているのだろう。そして、目を開けると同時に声を上げ、年寄り衆の天幕に駆け出したのだ。だが、五分も経たずに戻って来たのだが、なぜか、泣き出しそうな表情で現れて、その場をうろうろと歩き回っていた。
「聞いて来たのか?」
 主は、歩き回っている音が聞えたようだった。
「はい。今、戻りました」
「それで、聞いて来たのだろう。何の原料なのだ?」
 布団から飛び起きたような音が聞えた。その後に、興奮を隠せないような声色で問い掛けたが、相手は、何て言っていいのかと迷っているみたいに歯切れが悪かった。
「聞えんのだ。はっきりと言え」
「はい。翻訳はまだでした」
「それは分かっている。書簡が貯まり翻訳ができないのだろう。だから、明日からと言ったのだ。だが、原料だけで良いから聞いて来いと言ったのだ」
「はい。そうです。ですが・・・・その・・・・」
「聞えんと、言っているだろう」
「はい。年寄り衆の話しでは、歴史だけが書かれていて、肝心の原料や作り方は書いていない。そう、言われました」
「何だと」
「すみません。今一度、赤い矢を放ちます。原料や作り方を教えなければ開戦だと」
「当然だ。そうしろ」
「はい。直ぐに放ちたいと・・・思います。ですが・・・」
「なぜ、直ぐに行動しない」
「はい。はい。書簡をお願いできないでしょうか?」
「そうだったな。直ぐに用意しよう。少々待て」
「ごゆっくりと、何時までもお待ちします」
 天幕の中では、一人だと思ったのだが、誰かに指示している事と、灯りが灯された。その者は、男か女なのか分からないが、数分後、天幕の隙間から手紙だけが出てきた。もしかすると、女性で、裸なのかもしれない。それだけでなく、兵士であり。既婚者なのかもしれない。それで、声色で、誰だか分かる者なのだろうかと、考えながら手紙を掴んだ。
「頂きました。直ぐに放って参ります」
「届いたら、直ぐに知らせろ」
 この書簡が、朝一番に、小津の手に届いた物だった。それから、書簡が届くのを朝まで待つことになるのだが、この男にも部下はいる。その者たちに指示をした後、仮眠を取るのだが、寝られるはずもなく起き出してきた。それも、不機嫌そうにも、何か考えているようにも感じられた。そして、部下たちを見回した後に・・・・・・・。
「起きている者は居るか?」
「はい。我々は夜に生きる者ですので、何なりと・・・」
「そうか、なら、馬に乗って書簡を届けに来た者を憶えているか?」
「はい。憶えております。そろそろ、仕留めたと知らせが届く頃だと思われます」
「お前の部下が、もう向かったのか?」
「はい。普通の戦以外で、お役に立てるのでないかと、それで、誰の指示もありませんでしたが、命を取りに向かわせました。行けませんでしたか?」
「構わん」
「安心しました。それで、誰が金を払ってくれますかな?」
「俺の出世払いでは、駄目か?」
「考えておきましょう。今回の仕事は、我々の宣伝として無料にしておきます」
「俺では、出世できないと、思っているのか?」
「あっ帰ってきたようです」
 故意に無視したのか、偶然か、それは、分からないが紙の飛行機が飛んで来た。それを、片手で掴み。広げて読んだ。
「出世の好機かもしれませんぞ」
「何だと」
「書簡を届けに行った。あの武将の連れが、都市の主でした」
「それで、命を取ったのか?」
「崖から落ちましたので、命は無いでしょう」
「そうだな。それなら知らせに行くか?」
「それは、少し待った方が良いでしょう」
「なぜだ?」
「二つの理由があります。主が亡くなったと知った場合は死ぬ気で戦うはず。それだけでなく、こちらが欲しい情報も燃やす可能性があります」
「それでは困る。だが、手柄が無かったことになるぞ。良いのか?」
「まあ、仕方がありません。名前を売れただけで良いと考えています」
「これからも仕事があるだろう」
「その時は、御呼びください」
 人を殺す生業の者とは思えない。まるで世間知らずの紳士のようだった。
「この陣の中で、控えてくれ」
「はい。それでは、失礼致します」
 そう言うと、ゆっくり歩き林の中に消えた。部下と合流する考えなのだろう。
「ご苦労だった」
と、声は聞えたが、その後は、囁きのような言葉が続いていた。
「この陣の者たちでは金にならない。別の戦場を探すとしよう」
「お頭が、そう言うのなら・・・・・」
「俺の考えだが、援軍は想像よりも早く来るだろう。そして、この騒ぎは終結する。だが、波紋のように戦は発展するだろう」
「なぜ、お頭には分かるのですか?」
「援軍を派遣するだけでも金は掛かるのだぞ。誰が払うのだ」
「援軍を頼んだ方の都市からか、仕掛けた方から無理やり取ると思う」
 悩みながら、少し、少しと話し出した。
「そうなると、援軍が来ると同時に敵わないと逃げるだろう。だが、追いかけるだけでなく都市を攻めるはずだ。そうなると、際限なく戦場は広がる」
「それで、お頭は、どこの都市の陣営に入るか考えているのだろう」
「考えていない。今のように適当に掻き回して、高く金を払うところを決める考えだ。それに、金はまだある。直ぐに命の危険をする必要もない。暫く遊んでいよう」
「それと、お頭、なぜ、北東都市の主の指示みたいにしろ。そう言ったのですか?」
「西都市の手助けでは時間が掛かりすぎるし値段に合わないからだ。襲う方が時間的に早く、金払いも高いからな。まあ、このくらいで詰まらん話は止めよう。北の方でも行って様子を見よう。北都市までは戦端は広がらないはずだ」
 この者たちが話題にしているのは、天家の新と登のことだった。それも、西都市が北東都市から宣戦布告を言われた時まで時間を戻れば、何を言っているのか、何が起きたのか分かるはずだろう。それだけでなく、もしも新と出会うことがなければ、登るが、一人で援軍の要請に向かう時に、矢が身体に刺さり死ぬ気で逃げ続けるのだが、谷がある所で追いつかれる。普段の登なら余裕で剣戟をかわすのだが、矢の傷のためにかわすことが出来ずに谷から落ちるのだ。それで、援軍が間に合わなくなり都市が占領されてしまい。だが、この時の流れは存在しない。それでは、新と出会い。何が起きたか、そして、傭兵たちは何をしたか・・・・・・・・・・。

 第十一章
 時は遡り、北東都市から宣戦布告されて、登と新が東都市に援軍を要請に行く。もう少し詳しく言うと、登が、小津の計画に必要な書簡を敵陣に渡し、逃げる振りをして援軍を求めに向かった時だった。
「二人を逃がすな」
敵の者たちは矢の嵐で気持ちを表していた。それと、この場面を見て、もう一つ答える声が聞こえた。それは、新にだけに聞える言葉が脳内に響いたのだ。
(左手を水平に、敵の陣営を射抜くように指差すのだ)
「はい」
(風車の回転を思いながら腕を回すのだ)
「はい」
 新の言葉と同時に飛んでくる矢を全て叩き落した。この叩き落した物は、左手の小指の赤い感覚器官だった。だが、誰一人として見えた者は居なかった。もしかすると、新の体の感覚器官なのに、本人も高速のために見えていなかったかもしれない。
「なに?」
 全ての矢が叩き落された音で、やっと、登も気が付いた。
「矢だったのか、それにしても何が起きたのだ?」
 だが、呑気に思案できる状態ではなかった。一秒でも惜しいだけでなく、一メートルでも遠くに逃げなければならなかったのだ。それでも・・・・・・。
「新、大丈夫か、まさか矢が当たったか?」
「大丈夫です。饅頭が数個だけですが零れ落ちただけです」
「うぁあはははは」
「どうしました?」
「何でもない」
(この少年を連れてきて正解だったかもしれない。一人だと使命や焦りなどで、思考も体の疲れも限界まで無理をして途中で倒れたかもしれない。だが、今は力が湧き出るように思うのは、心底から笑える精神の安定からだな)
 馬の背に乗る二人の男は気持ちが落ち着いた頃で、馬が、主人が指示をしても速度が落ちる頃だった。
「この辺りまでくれば大丈夫だろう。そろそろ馬も限界だ。少し休もう」
「はい」
 登は辺りを見回しながら呟いた。
「休める場所はないだろうか?」
 辺りに気配が感じないので安心したのだろう。だが、二人と馬は気が付いていないが、数人の囁く声があった。
「お頭の言う通りであった。やはり、東都市に援軍を要請にきたか」
「今、行動を致しますか?」
「いや、もう少し待て、暫く様子を見よう」
「承知しました」
 この後は、囁きが消えた。だが、会話が続いているのか分からない。それは、登の声が大きかったので聞こえなくなったかもしれない。
「馬から降りて歩くぞ」
「えっ」
「馬を休ませなくてはならないからだ」
「そうだね。かなり疲れているみたいだね。歩くから止まって」
 登は、新を降ろすためと、自分も降りるので馬を止めた。
「よしよし、疲れただろう。もう走らないからな」
 そう言葉を掛けながら馬の体をさすった。
「落ち着いたか、ならもう少し歩こう」
 馬の息が整ったのが分かると、手綱を持ちながら歩き出した。
「ねぇ」
「何だ?」
「東都市って何時間くらいで着くのですか?」
「何時間では無理だ。馬の命などを気にしないで走りつめれば一日で着くな。まぁ、普通は馬で二日と考えて旅の予定を考えるだろう」
「二日ですか」
「何か不味いか?」
「寝る所と食事は、どうするのですか?」
「今日は野宿だな。明日は宿屋に泊まる予定だぞ」
「野宿、宿屋?」
「本当に知らないのか?」
「はい。何か変ですか?」
「まあ、いいか」
 普通は子供でも分かる事なのだが、新が本当に不思議そうに答えるので、それ以上は聞かずに、これからの旅に必要な事を教えなければならない。そう思ったのだ。
「野宿と言うのは雨露など防ぐ人工物のない。その辺りにある地面の上で寝るのだ。その反対に、宿屋と言うのはお金を出して寝泊り専用の建物だ」
「ほうほう」
 心底から関心を表して頷いていた。
「一つ聞くが、野宿も宿屋も知らなくて、どのようにして旅をする気持ちだったのだ?」
「むむ」
 言われた事に驚き、そして、何て答えていいのかと悩んでいた。
「複雑な事情があるのだな。済まなかった」
(両替するほどの金があるのだ。もしかしたら、どこかの商家の倅か、それとも若様か?)
「いいよ。気にしないで」
「まあ、その代りに、美味しい紅茶をご馳走しよう」
「はい」
「だが、もう少し待ってくれな。もう少し行けば川があるはずだ。そこで暫く休もう」
「楽しみしています」
「期待していてくれ」
 暫く歩くと、本当に川の流れの音が聞こえてきた。そして、・・・・・。
「もう少しだ。体も休めるし水も飲めるから、もう少しだからがんばれよ」
「はい。がんばるよ」
 自分に言われたと感じたのだろう。だが、馬に言ったのが分かると、返事をしたのを隠そうとしたのだろうか、顔を真っ赤にしながら馬の背中を撫でた。
「新もがんばれ。もう少しで川に出る」
 新に視線を向けると、顔を真っ赤にしていたので疲れを我慢していると感じた。
「はい」
 すると、馬が突然に早く歩き出した。
「どうした?」
「水が飲める場所を感じたのだろう」
「そうなの?」
「間違いない。一緒に付いて行って見ろ」
 そう言われると、馬の後を追った。
「うん。先に行っているよ」
 登は、新が手を振りながら馬を追う姿を見てから今まで進んで来た後を見詰めた。
「追っては居ないようだ。それに正午は可なり過ぎたが煙も上がってない。小津殿の作戦が成功して開戦が伸ばせたようだな。それなら、暫く休んでも大丈夫だろう」
「うぁあ」
 新の悲鳴が聞えた。
「大丈夫か~ぁ」
 悲鳴が聞える方向に駆け出した。
「何をしているのだ?」
 川の中で、新が仰向けに倒れていた。
「水を飲もうとして川に落ちたのです」
「そうか、それなら良かったが、怪我は無いのか?」
「大丈夫だよ」
「本当に心配したぞ」
 そう呟きながら火を熾し始めた。その脇に湯を沸かすポットも置かれていた。
「ごめんなさい」
「わかった。服を乾かしてやるから早く川から出て来い」
「はい」
「寒いだろう。これを着ていろ」
 川から上がり服を脱ぎ出した。そして、全ての服を脱ぎ終わると、登は立ち上がり、自分の服を、新の肩に上着を掛けた。
「ありがとう」
「焚き火にあたれ」.
「はい」
「背負い鞄は大丈夫だったのか?」
「落とすような感じがして降ろしていたから大丈夫です」
「そうか、それも感みたいな感覚か?」
「違うよ。子供の時に川で遊んでいると、いろいろな物を落とした事があったから」
「そうか、あっそれなら、饅頭は大丈夫なのだろう。そろそろ食べようか」
 お湯が沸くと思い出したように声が出ていた。
「大丈夫だよ。持って来るね」
「ああ、頼む。紅茶を作っておくよ」
「持ってきたよ」
「ありがとう。下に置いてくれ」
 新は紙の袋を地面に置くと、登から紅茶が入ったカップを手渡された。
「あっ熱い」
 容器が金属だったので熱さを感じたようだ。
「大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
 そして、息を吹きかけて冷ましながら一口飲んだ。
「砂糖は一個入れたが足りないのならあるぞ」
「苦いや、砂糖二個もらっていいかな?」
「好きなだけ入れても構わないぞ」
「俺は、何の饅頭を食べるかな」
 それから、饅頭を全て食べ終え、容器の中の紅茶を飲み終える頃には服も乾いていた。
「それでは、そろそろ行こうか」

 第十二章
 二人の男と馬は東に向かっていた。行き先は港町の東都市だ。それを追うように数人の男たちが、姿を隠しながら後を追っているのには気がつかないでいた。追われている男は歴戦の剣士であり武官なのに気がつかないのは、少年に気持ちが向いているからなのか、それとも、追う方が特別な忍術でも会得しているのだろう。そうとしか思えなかった。
「疲れたか?」
「大丈夫だよ」
 新の様子は息が荒れて大丈夫とは思えなかった。
「そうか」
(まだ、三分の一か、このままでは二日では着けない三日は掛かりそうだ)
「どの位まで来たのです?」
「そうだな、三分の一位かな」
「そんなに来たのだね。良かった」
「そうだ。馬の鞍にある鞄は大事な物なのだ。落ちないように支えてくれないか」
「いいよ」
 そう言うと歩きながら鞄の下を押さえていた。
「もし出来れば馬に乗りながらの方が良いのだが駄目だろうか?」
「いいけど、馬が可愛そうかもしれない」
「馬も落ちないように歩くのは疲れると思う。もしもだが乗ってくれた方が、馬も歩くのに楽かもしれない」
「そうか、それならいいよ」
「大丈夫か?」
「落とさないから安心していいよ」
「ありがとう。助かるよ」
(これで少しは距離が縮みそうだ)
「ねね」
「何だ?」
「東都市って、どんな所なのかな?」
「そうだな、港町だから漁業と船での交易だな」
「住人は多いのかな?」
「西都市の倍の人々が住んでいるぞ」
「大きい都市なのですね」
「そうだぞ。迷子になったら二度と会えないかもしれないぞ」
「うそ!」
「それだから、俺から離れるなよ」
「うん。絶対に離れないよ」
 馬に乗って歩かなくなったからだろう。その代りに口が滑るように話すのが多くなった。だが、登としては退屈を紛らわすにも、笑う事で疲れが取れると感じていたのだ。そのお陰だろう。太陽が傾くのが分かるほどまで歩くのが早くなった。それは大袈裟だが、予定よりも早く距離が進んだのは確かだった。
「予定の森の入り口まで来られたぞ。後は、この深い森を抜ければ東都市だ」
「暗くて何かが出そう」
「確かに、狼などは出るぞ」
「えっ」
「それで、普通なら森に入る前に野宿をするのだが、もしかすると、追っ手が居るかもしれない。それで、何も隠れる場所が無い所での野宿は危険なのだ」
「森の中で野宿するのですね」
「そうだ。だが、安心してくれ、焚き火の火を絶やさなければ動物は近寄ってこない。それだけでなく、もしもだが、狼などに襲われたとしても命を懸けて守ってやるからな」
「うん」
 怯えるように頷くが、登の恐怖など微塵も感じられない。そんな表情を見ると安心した。
「それでだ。もしもだが、一人で旅をする事になったとしたら夜の森は絶対に歩くな。それだけ危険なのだ。それだけは絶対に忘れるなよ。良いな」
「はい」
 先程まで、新の口は滑らかだったのが、森の中に入ると別人のように変わり、逆に登の方が滑らかになり話しが止まらなかった。そして、そろそろ夕日が傾く頃に・・・・・。
「この辺りで野宿をしよう。薪を集めるのを手伝ってくれないか?」
「・・・・・いいけど」
 何が居るか分からない森の中を動き周りたくなかったが、しぶしぶと薪を集め始めた。
「この位でいいぞ。ありがとうなぁ」
「ここで寝るのですよね」
「そうだ。初めてだったな」
「はい」
「初めてなら寝られないかもしれない。だが、旅を続けるのなら慣れたほうがいい」
「旅とは、野宿をすると考えた方がいいのですね?」
「そうだぞ。予定通りに街に着いて、予定の通りに宿屋に泊まれるとは限らない」
「・・・・・」
 想像もできない事を言われて何も言えなかった。
「それと、外套は必需品だ」
「外套?」
「俺が身に着けている物だ。寒さや雨も防いでくれるだけでなく、野宿の時は敷き布団の代わりにもなる。今度の街で買うのなら良い物を選んでやるぞ」
「必需品なら買うかな」
「それなら期待していろ。良い物は高いが値切ってやるからな」
「値切る?」
「決められた値段よりも安く買う。そんな意味だ」
「そう」
 返事を返すが意味が分かってないはずだ。
「あの初めて会った時の両替屋と同じ事だ」
「ああ、それでしたか、外套の時もよろしくお願いします」
 二人の話を聞いている者が居たとしたら笑うか、それとも呆れるだろう。そんな会話を長々と話していた。そして・・・・。
「ふぁあ」
会話の内容が詰まらないはずがない。もしかすると、強制的に体の機能が疲れを訴えているのだろうか、それを証明するかのように、新の大きい欠伸が辺りに響いた。
「眠いか、今日はいろいろ遭ったからな。そろそろ寝るとするか」
「まだ、大丈夫だよ」
「そうか、それでも、体は疲れを表していると思うぞ。それに、命の危険など初めてだっただろう。やっと恐怖からの緊張が解けてきたのでないのか?」
「命の危険?」
「弓矢が飛んできただろう。途中で落ちたから良かったが、それでも怖かっただろう」
「あっ」
(たしか、左手の小指の赤い感覚器官で叩き落したはず。気が付かなかったのかな?)
「忘れていたか、ごめん思い出させて」
 登にしては確かに想像もできない事があった。だが、新の一日は知らないはず。それでも、弓矢が、自分に向けられたのは初めてだろうと、それを前提に話しているようだった。
「大丈夫だよ」
「自分では分からないだろうが、体は恐怖を感じているから眠気を感じないだけだと思うぞ。それに、明日は早く起きて出発したいから寝るとしよう」
「そう言うなら・・・おやすみなさい」
「新。おやすみ」
 地面の上に敷かれた外套の上に、新は横になった。そして、登を見て不審を感じた。
「もしかして、僕が外套を使っているから座って寝るのですか?」
「これは、旅の時の癖だ。俺が教えられた軍隊教育では、何時、敵が来ても良いように座って寝るように教えられたのだよ。だから何も気にしないでゆっくり寝なさい」
と、登が言うが、それは何年前の頃なのだろう。目を瞑っているが寝ていないようだが、教えられた教育は忘れているようだ。確かに、近くで歩く音がするはずなのだが、気づいていないようだった。その音は人なのか、それとも、獣なのだろうか、もしかすると、獣と感じて無視しているとも思える。だが、・・・。
「今、襲いますか?」
「待て。まだ寝て直ぐだ。もう少し様子を見よう」
 そして、三十分、一時間、二時間と過ぎた。隊長らしき者は、二人の男を愛しているかのように見続けているが、部下たちは痺れを切らしていた。
「そろそろ良いだろう。行動するぞ」
「はい」
「俺に続け。だが、音を立てるなよ」
 六人の男たちは登が寝ている場所に向かった。その走り方は、音も立てずに走るのだ。まるで、何かの忍術を取得した。それも神業と思える程だったのだ。これでは、登が感じるはずもない。それなのに、後、数メートルの距離で立ち止った。もしかすると、感付かれた。それを確認しようとしたのか、それとも、成功が間違いないと感じての勝利の感覚を先に味わいたかったのか、それだけでなく、二人の男を見て笑みを浮かべていたのだ。その笑みは、人が血を流すのを見るのが好きだ。そうと思える。残忍な笑みだった。そして、想像だけでは我慢出来なくなったのか、部下に指示を伝える為なのか、ゆっくり一歩を踏み出そうとした時だった。
「俺は、寝ている姿を男に見られるのは好きではない。それだけでなく、男の寝姿を見て笑みを浮かべる姿も見たくない」
 怒りからなのかゆっくりと思いを伝えたが、右手には剣を掴み、左手では、新の体を揺すっていたのだから、怒りではなく、新を起こす時間が欲しかったようだ。
「気づいていたか?」
 隊長らしき男は、先程の殺気から怒りに変わり。人としての最高の怒りが爆発寸前と感じた時だった。
「新。起きろ。そして、死ぬ気で走って逃げろ」
 登は起き上がると同時に、新に言葉を掛けた。
「はい」
 殺気と耳の鼓膜が破れると思う叫びだったので起き上がった。だが、まだ寝起きなので、意識がはっきりとしていない。登の言葉が耳に残っているので行動しているが、何が起きたのかも分からないし、周りの様子も真っ暗で、手探り状態で森の中を逃げていた。
「新。気をつけろ」
 敵が六人では、全てを自分に引き付けることなど出来るはずもなく、数人の男が、新が逃げた方向に向かったのを見た。
「何が?」
 何に気をつけるのか分からない。だが、前へ前へと進み続けるしかなかった。
「うぁあああああああああ」
「どうした。大丈夫か?」

 第十三章
 「お前ら、新に何をした?」
「分からない。だが、何か遭ったようだな。ふっふふ」
「貴様。死を覚悟しろ。殺してやる」
「ほうほう、部下が帰ってきたぞ。何が起きたか聞いてやろうか?」
「貴様。貴様」
 登は我慢の限界だったが、生死を確認したく気持ちを抑えた。
「殺したのか?」
「ぐっ」
 剣の柄を握り締めて我慢した。
「いいえ。崖から落ちたようです。恐らく助からないでしょう」
 登は、一瞬だけ思案した。自分の命は別としても、新を助け、東都市に書簡を届けるには、どうするかを悩んで、そして、一つの思案が思い付いた。
「おのれ、御主人様を、御主人様を・・・・・」
上手く行くか分からないが、新を、自分の主だと思わせることを試してみた。
「はやり、西都市の領主は逃げ出していたか、そうだと思っていたのだ。自分が馬に乗らずに、少年を乗せていたのだから可能性はあった。それで、一つ提案したいが、聞くか?」
「なんだ。自分の命乞いか、それは無理だぞ」
「俺も、お前を殺したいが、今の状態では何人の部下が殺されるかわからない。それでは、お頭の計画が遅れる可能性がある。それで、今直ぐに剣を鞘に収めれば命を助けてやろう。元々、東都市からの援軍を来ないようにするのが任務だ。それは達せられたからな」
「・・・・・・」
「思案しているのか、だが、時間が無いのだ。直ぐに返事を聞かせて欲しい。それと、もしもだが、今ならまだ遺言くらいは聞けるかもしれないぞ。ふっふふ」
「分かった。剣を鞘に収めよう」
「行くぞ」
 現れた時とは違い。足音も立てるだけでなく、不快を感じる笑い声まで聞えてきた。
「上手く行った」
 そして、直ぐに新が落ちたと思える崖に行ったが、夜の闇が広がっているために下まで見えるはずがなかった。だが、当然のように降りる場所など探す時間などあるはずもなく、落ちたと思える同じ場所から下りて行った。暗い為に落ちそうになったが、それでも、一秒でも早く探し出せれば命を助ける事が出来ると、死ぬ気持ちで下りて行った。
「新、大丈夫か?」
と、叫びながら辺りを見回して、又、祈る様に叫んだ。
「頼む。返事をしてくれ」
 登は叫び続けた。だが、返事は返って来なかった。それでも諦める事ができるはずもなく、夜が明けても探し続けていたのだ。だが、見付からない。そして、辺りが明るくなってきたから分かった事なのだが、落ちた辺りには血痕がなかった。恐らく、運良く川の中に落ちて流されたと思うしかなかった。それは、願いだったかもしれない。これ以上、この場にとどまる事が出来ないからだ。それでも、歩き難いが川岸を歩いて東都市に向かった。このままの気持ちでは街に行けるはずもなく、また野宿して、睡眠時間を削りながら新を探すことになるだろう。だが、それでも、予定通りに昼前には着くに違いない。
「東都市に着いてしまった」
 登は落ち込みと同時に、都市に着いたことの安堵感があった。その気持ちが、どちらが多いかなど考えるゆとりもなく。急いで東都市の領主が居る建物に向かった。
「西都市の領主から緊急の書簡を持参した。至急に面談がしたいと伝えて欲しい」
 主が居る建物の警護人に簡潔に伝えた。すると直ぐに建物中に通された。それだけではなく、直ぐに東都市の領主が会ってくれる。そう使いが来て、その後を付いて行った。
「中でお待ちです。お入りください」
「すまない」
 礼を言った後、ゆっくりと扉を開けた。すると、三十前後の男が玉座に座っているのを見えた。そして・・・・・。
「至急の面談の願いを叶えて頂きまして、本当にありがとう御座います」
「構わない。礼儀よりも書簡を早く読もう。そうして欲しいのだろう」
「はい。書簡の内容を叶えてください」
 一人の警護人なのか、執事なのか分からないが書簡を取りに来た。そして、書簡を手渡すのと同時に、登は、先ほどの願いを大声で言ったのだ。それは、取りに来た者にではなく、玉座に向かっての願いだった。そして、書簡が玉座に座る者に渡ると、深々と頭を下げながら読み終わるのを待った。
「分かった。書簡の願いを叶えよう」
「ありがとう御座います」
「構わない。それよりも涙を拭きなさい」
「えっ・・・・・・・・・涙?」
 登は涙を流しているのを今やっと気が付いた。
「辛い事があったのだな。だが、その涙を流しているから直ぐに会ったのだぞ」
「涙が・・・・・」
「そうだ。書簡を持って来た者が、涙を流しながら面会を求めていると知らせが来たのだ」
「涙が止まらない」
「今日は身体を休めた方がいい。明日にでも援軍の準備をしよう。それで良いだろう」
「涙が・・・」
「部屋まで付き添ってあげなさい」
「承知しました」
 近衛隊の隊長の瑞(ずい)が、返答を返した後、扉に控えている部下に視線を向けた。すると、簡易礼をした後に、登を連れて客室に案内して行った。
「この部屋でお寛ぎしてください。私は、外で控えております」
 部屋に案内されて、独りになると少し気持ちが落ち着いたのだろう。
(何故だろう。どうしてだろう。これ程まで涙が流れるのだ)
 登は知らないのだ。確かに悲しい気持ちなっている。だが、涙が流れるのには理由があった。新が東に向かう理由でもあり。時の流れの自動修正であり。左手の小指の赤い感覚器官の修正でもあった。新も登も気がつかないままの自動修正だった。その修正とは、新と会ったことから始り。新が崖に落ちることも、今の登の精神状態や体の機能で涙を流す理由もだった。それでなければ、援軍が西都市に向かうまで数ヶ月は掛かる。それが、涙を流しての面談ならば、次の日に援軍の準備を始めてくれることになり。これで、西都市には予定通りに援軍は間に合い。西都市の危機は回避されるだろう。それだけではない。全ての都市に知らせるだけでなく、開戦の準備も整うのだ。そして、数日後に涙を流した原因である。その新と再会が出来るのだ。
「それより、都市は大丈夫だろうか、明日から準備だとして、早くて五日後に都市だな・・・・。
 そうなると一週間が過ぎる。小津殿は都市を守れるか、むむ、少数の馬隊だけでも、先に出発するしかないだろう。だが、出してくれるだろうか・・・・・・ん?」
 数人の足音が聞えてきたが、扉の前で止まった。そのようなに感じられた。それで、登は視線を扉に向けた。
「落ち着きましたかな?」
 先ほどの男だろう。扉越しに声を掛けて来た。同じように扉越しから答えようとしたのだろうが、先ほどの思いが過ぎり扉を開けた。すると・・・・・。
「大丈夫です。ですが・・・」
 登は驚いて言葉を無くした。当然かもしれない。飲み物などが置かれたワゴンが目に入った。それには想像は出来ただろうが、大きな壷を抱えている者が数人いたのだ。何事かと立ち尽くしたが、恐らく、湯が入っている壷だろう。
「何でしょう?」
と、答えながら物を持って控えている者たちに右手で中に入るように指示をした。登は目線と表情では必要ないと、言いたそうだったが、思いを伝える方に第一に考えた。
「これから、お願いしたい事があったのです」
「もしかして、馬と数人の兵士を借りたいと願いに行くのですか?」
「そうです」
「それでしたら食事を食べて、身支度と身体の汚れや疲れを取ってください」
「そんな時間は無いのです」
「安心してください。自分は、今回の部隊の長に命じられました。それで、登殿の都市の危機と同時に、都市間の検問所が心配で、本隊よりも先に千の騎馬隊を連れて向かいます。勿論、登殿も行くだろうと迎に来たのです」
「それは、ありがたい。それなら、直ぐに行きましょう」
「直ぐに来られても困ります。いろいろと準備もありますので、登殿は、食事と湯殿に入ってください。必要は無いとは言わないで頂きたい。都市から出たら休むこともできませんし、途中で空腹を感じたと言われても用意はできません。もし拒否するのでしたら連れて行くことはできません」
「分かりました」
 登が話を聞いて承諾する頃には、湯殿の用意も食事もテーブルに並べ終わり。次々と給士たちが部屋から出て行った。
「それでは、出発の用意が出来次第、お迎えに参ります」
「お願いします」
「少しでも疲れを取ってください」
「済まない。様々なことに気を使って頂き。感謝する」
「それでは、後ほど」
 先ほどの主に対しての敬礼とは違い。同僚の兵士にするような敬礼で気持ちを返した。
「仕方がないか」
 扉を閉めた後に、呟きながら衣服を脱ぎ出した。精神的にも肉体的にも湯船で疲れを取りたい気持ちはあったのだが、やらなければならない事が脳内を占めていたのだ。それでも、湯船に入ると、全てを忘れるほど気持ちがよかったのだろう。自分でも気が付かないほどまでの安らぎの声が出ていた。そして、城門が閉じられた原因から新との別れまで、走馬灯のように思い出された。
「このままなら援軍は間に合うだろう。それは、新が共でなければ出来ないことだった。だが、あれ程まで涙が出たのは何故だろう・・・・・・もしかすると、主様の代理にした罪からか、だが、死なないでくれ、それだけを祈るしかない。それでも、今度、また会えた時は恨まれるかもしれない。あれ程まで大声で、新の名前でなく、主様と言ったのだからな。必ず新の耳に聞えていたはずだ」
 亡くなった者への謝罪を口にしているようにも思えるが、口調では、まるで、友や上司と酒を飲んで愚痴を言った後の、次の日に会う時の動揺に思えた。また、目が痛みを感じ始めて涙が出そうと思った時だった。空腹を知らせる悲鳴が響いた。
「子供の時以来だな。まるで、新が饅頭を食べたいと言っているように思う。うん、心配はするのは止めた。必ず生きている。人に助けられたか、川にでも流されたのだろう」
 腹の虫が鳴るほど空腹だったのか、それとも、新の赤い感覚器官の導きで会わなければならない者だったので微かな繋がりがあり。今の状態の登では支障がでると、それで、体内機能が新の無事を知らせたのだろうか、それは分からないが笑みを浮かべていた。その表情からは、これから行動しなければならない事に、微かな不安も抱かずに全力で行動すると誓ったようだった。それを証明するように、普段は野菜を食べないはず。それなのに、食卓の上にある全ての物を身体の中に入れていた。その思いは、身体の機能を正常の状態にする考えだったとしか思えなかった。
「ふぅー」
 食べ終えて一本のタバコを吸っている時・・・・・・。
「お迎えにきました」
 タバコの火を消すと、無言で扉に駆け寄った。
「待っていた。直ぐに行こう」
「行きましょう」
 登は、どこに向かうのかと無言で付いて行った。兵舎か馬小屋にでも向かって部下を紹介するのか、自分の馬を選ばせてくれると思ったが違って、城の外に向かうようだった。
「おお」
 登が驚くのは当然だった。千の騎馬隊もだが、先に部下を行かせて、自分と隊長は馬車で向かうと思っていたからだ。それの方が早いだろうが、だが、一番に向かうのは検問所で都市ではないはずだからだ。だが、自分を待っていると言うことは、真っ先に都市に行くと言うことになる。
「敵の数は分かりませんが、この場に千の騎馬隊と、検問所には、五百の騎馬隊で、併せて千五百の騎馬隊なら本隊が来るまでなら持つでしょう」
「やはり、先に検問所に・・」
「いや、真っ先に都市に向かいます。途中で部下に指示を伝えに行かせますので、殆ど同時に合流できるでしょう。それでは、時間が貴重です。直ぐに行きましょう。」
「そうですね。お願いします」
(これから行くとして、開戦予告をされた日から四日目の昼か、まあ、考えても仕方が無い。小津殿を信じるしかないか?)
 そして、千の馬は駆け出した。登は馬の背から落とされるのではないか、そう思うほどの暴れ馬と感じた。自分の手綱の指示の通りなのか、それとも、先頭を走る隊長の馬を追っているだけとも感じたが、それでも、自分が馬から落ちないように手綱を操作するしかなかった。それほどまで早くて辺りを見ることも、どの場所なのかも分からないまま走り続けていると、ほら貝の音が響いた。恐らく、検問所に知らせに行った者たちが、検問所の部隊を連れて、先に西都市に着いたと感じられたのだ。
「ブォオー」
 また、同じ音が響いた。その音が段々とハッキリ聞えてくる。そして、馬がやっと止まり休憩かと思って辺りを見ると、何年も見慣れた城門を見た。その驚きよりも、太陽を見た驚きに比べたら天と地の開きがあったのだ。それは、早くても昼と考えていたのに、太陽の昇り方で判断すると、二時間も早く着いたと感じたからだ。この時間の驚きを現代で考えるのならば、東京から青森までを二時間で着いたと同じ驚きだったのだ。
「良い部下をお持ちですね」
「部下もだが、我が都市の馬より早く走れる馬はいないだろう」
 などの会話をしている間に、全ての部隊が城門に到着した。すると、今度は、ほら貝の音だけでなく銅鑼を叩く音が響いた。その音が聞えると、殆どの人々が青白い表情を浮かべながら恐怖を感じていた。だが、一人だけは戦いが楽しいのだろうか、笑みを浮かべる者がいたのだ。
「おっと・・・この様なことをしてはいられない。部隊を並列並びで待機だ」
 その者は、登の隣に居る。部隊の隊長だった。まるで、好敵手に会えたような感じで喜んでいるようだった。何故、これ程まで恐怖を感じる者や喜ぶ者がいるかと言うのは、見方なら安心を敵なら恐怖を感じる。ほら貝と銅鑼の音の響きだ。その響きを人の言葉で表すのなら「槍重装備(やりじゅうそうび)隊。陣を囲え」と指示をしていたのだ。音が止むと同時に、二つの陣営は陣の整えが終わった。
「ほう、さすが、最強と言われた。槍重装備隊だな。だが、勝たなければならない」
 重そうな鎧と折れそうもない長い槍を構えたまま微かな動きもなかった。その姿や陣を見ただけで敵は怯えるだろう。これ程の部隊があるから西都市に攻めに来たのだ。だが、騎馬隊の隊長の笑みも理由があった。こちらの騎馬隊も最強と言われていたのだ。
「この機会を楽しみにしていたぞ。どちらの部隊が最強なのか決着が付けられるからな」
 その言葉が聞えたのだろうか、それは有りえないが、殆ど同時に、また、ほら貝の音と銅鑼の音が響いたのだ。その意味は「槍重装備隊は、殿として敵の攻撃を防げ」だった。
「ほうほう、逃げるのか、だが、今までは見方だったので戦いの機会はなかったが、この機会で、最強を決められそうだな」
 その言葉を聞いて、登は・・・・・・。
「逃がせて欲しい。まだ被害らしいことはないようですからお願いします」
「だが・・・」
「同じ王を敬い。同じ都市国家ですよ。本当に内乱に発展させる考えですか?」
「だが、王には連絡は行っているぞ。それでもか?」
「そうです。王の勅命が下れば別ですが・・・・・」
「だが、我らが兵を引き上げた場合、また、攻めに来るかもしれないぞ。その時は、どうするのだ。同じ様に助けを求めに来る考えなのか?」
「・・・・・・・」
「まあ、今は、俺だけの気持ちで決められるが本体が到着した場合は無理だぞ。主様から部隊の最高指揮権を託されているが、俺と同格の者たちが従うとは思えない」
「・・・・・・・」
「それほどまで無茶苦茶なことを言っているのだぞ。登殿に言うことではないが、恐らくだが、今回の戦費の費用の全額は西都市が支払うはずだ。それでも、逃がせと言うのだな」
 良かれと思ったことを否定されて、可なりの大声で叫んでいたからだろう。城壁の上まで声が届き。小津が言葉を掛けてきた。それでも、登の言葉が聞えていたかは疑問だった。
「その事は何も問題はないだろう。敵は再度の戦費はないはず。そして、恐らくだが、元々の考えは絹の情報を第一に考えて、運良ければ都市を占領と考えていたはず。もし占領をしたとしても、一つの都市の援軍ぐらいでは都市を取り戻すなど出来るはずがない。そう考えて一か八かの考えに出たとしか思えない。それを証明するような逃げ方だと、自分には判断ができる。だが、こちらから頼んだ援軍なのだから強制的な命令はできない。それでも、敵を追い詰めて、死ぬ覚悟で戦いになった場合は可なりの被害が出る場合がある。その時の保障はできないが、当方の考えが分かってくれるのでしたら好きに戦ってくれて構わない。その結果、今は被害らしいことにはなっていないが、もし敵を追いかけたために、当方で被害が出た場合は責任をとって頂くぞ」
「・・・・・・」
「まあ、これは建前です。貴方は当方を助けるために駆け続けたことでしょう。少々身体も馬も休まれてから追いかけるか、追いかけないか決めても遅くないでしょう」
「まあ、少し休ませて頂こう」
 小津の話しを聞いたのと、周りの部下の様子に馬の様子を見た結果、直ぐに敵を追うのは自殺すると同じだと感じたのだろう。その言葉を聞いて、小津は満面の笑みを浮かべた。
「開門」
そして、小津は嬉しそうな表情を浮かべるのと同時に、安堵した声色で部下に命じた。
「さあ、中に入って寛いでください」
「すまない。部下と馬にも疲れを取れる場所を提供して欲しい」
「当然です。安心してください」
 城門が開けられる間に、小津は下に降りて出迎えた。そして、先ほどの詫びと同時に援軍に来てくれた感謝の気持ちを表しながら握手を求めた。
「同じ王を敬う。国の都市と都市なのですから当然のことです」
「主の代わりに、心底からのお礼を申し上げます」
 そして、手を離すと隣では、登と補佐役が抱きしめながら無事を喜んでいた。
「登殿。新殿は、本隊と一緒に来られるのですかな?」
「新・・殿。それは、誰です?」
「・・・・・・・」
 新に会った事がないのだ。驚くのは当然だった。だが、登は何て答えて良いのかと悩んでいたが、新のことを隠せるはずがなかった。そして、全てを話し出そうとした時だった。
「まず中に入りましょう。いろいろな話は茶でも飲みながらゆっくりと・・・」
 登の表情で、簡単に話が終わらないことが起きたと感じて、建物に手招きしながら目線だけで補佐役に後のことを頼むと伝えた。そして、補佐役が行動してくれたのを確認すると、三人は建物の中に入っていた。

 第十四章
 小津は、二人を隊長室の中に入るように勧めて、自分は最後に入って扉を閉めた。
「直ぐにお茶を入れますので寛いでください」
「お疲れでしょうが、自分の話を聞いて頂くと助かります」
「そう言うのなら」
 登に言われて椅子に腰掛けた。だが、直ぐに話が始まらない。仕方がなく、小津のお茶を待っているのだろう。そう思って待ち続け・・・お茶が出された後も、そして、一口、二口と飲んでいる姿を見るが、なぜか話し出さなかった。ならば、雰囲気を変えようとしたのだろう。そうすれば、話し出すきっかけにでもなると思ったに違いない。
「小津殿でしたな。これからの戦の参考として、開戦を遅れさせた作戦を教えて頂きたい」
「構いませんが・・・・・」
 小津は、登に視線を向けた。だが、俯いたまま顔を上げようとはしなかった。
「まあ、相手が何を欲しいか分かっていたので出来た事です。それだと、戦の参考になるか分かりません。それでも、宜しいのでしょうか?」
「ぜひ、話が聞きたい」
「そこまで言われれば、喜んで話をしましょう」
 本当は話をしたくて堪らなかったのだろう。それを証明するかのように席から立ち上がり身振り手振りで、登が主に書簡を持参した所から始まった。そして、登が都市から出て赤い矢の第一矢を放ったのだと、自分が放ったかのような様子で話すのだった。
「ほうほう、そのような赤い矢の使い方もあるのか、確かに、赤い矢を放たれたなら休戦するのが慣わしだからな、機会があれば試してみるか」
 驚きを表すが、小津には聞こえ無かったのだろうか、小津は最後まで話を聞かずに続きを話し出したのだ。そして、第二矢、第十矢、第百矢と続き、開戦予定の朝には第二百矢を数えるくらいまでになっていたと話をしたのだ。
「ほうほう、それで、朝一に届いた矢には何て書いてあったのです?」
 二人は関心を表していた。
「それが、直ぐに情報を渡さない場合は開戦すると言ってきたのです」
「そして、何て返事をしたのだ」
「確かに、返事を迷いました。ですが、知られても良いだろうと思う。編み機を教えることにしましたが、細かく八百枚くらいの書簡にパズルのように作製したのです。それも、一枚の書簡に編み機の幅と高さだけを推理遊びのように作製した書簡や背板だけ書簡、釘を使わないのが理想と伝え、木製の釘の大きさに道穴の深さに穴の大きさなどの書簡を用意したのです。この書簡で怒りを爆発させ、直ぐに開戦だと書簡を遣した場合は、私が直接に陣に出向き、可能の限り時間をかけて編み機を作成しに行く考えだったのですが、逆に細かい内容で感謝すると書簡が来た時は笑いが止まりませんでした」
「それは、そうだろう」
「ほうほう、このような時間の引き延ばしが可能なのか、うむうむ」
 一人は関心を表し、もう一人は笑いを堪えていた。そして、小津は・・・・。
「それでも、千回を超えるほどの赤い矢のやり取りでした。そして、編み機だけは教える結果になりましたが、もし援軍が三十分遅れていたら原料まで教えることになっていたかもしれません。本当に、馬の蹄の音が聞こえた時は、心底から安心しましたぞ」
「そうでしたか、ぎりぎりでしたか」
「それで、登殿。新殿は本隊にいるのですかな?」
「それは・・・・途中で刺客に襲われて、新は・・・崖から・・」
「崖から落ちたのですね。だが・・不思議な事に・・新殿は居なかったのですね」
「そうだ。探したのだが・・・川に落ちて流されたとしか思えない・・」
「自分が考えるなら・・・」
「生きているはずなのだ。血痕も無かったのだぞ」
 登は、死んだ。その言葉を考えるのも嫌だっただけでなく、その言葉も聞きたくなかったのだ。それで、小津の言葉を遮った。
「確かに生きているはずです。自分の足で歩いて移動したのでしょう」
「崖の下にも刺客がいて連れ去られたか?」
「それは違うでしょう。ですが、怪我もしなかったのに、なぜ、登殿に会わずに消えたのか、もしかすると・・他にも人が居て助けられたのかもしれませんぞ」
 小津は可能性を述べた。
「それなら良いのだが・・・・」
 登は、その可能性を信じたかった。だが、それなら何故、新は無事だと知らせてくれないのか、何故、自分たちの前に現れないのか、そう考えたが答えは出てこなかった。
小津が述べたことが正しいのか、それは、昨夜の夜に戻る。もっと正確に言うのなら崖から落ちる寸前まで戻れば分かるだろう。
「何に気を付ければいいのだろう」
 逃げながらだか、登の声は聞こえていた。
「誰か来る。でも、一人ではない。今来る人たちから逃げないと駄目、でも、どこに?」
 闇雲に走り出した。それが行けなかった。運が悪く崖の方向に駆け出したからだ。当然、暗闇の中を走っているのだから崖から落ちるのが当たり前だった。
「うぉあああああ」
 新は落ちると同時に気絶した。そのお陰で、登が思ったように川の中央に落ちるだけでなく流されたのだ。それは、どこまでも流され続けて、登が歩いていた反対の岸に流れ着いたのだが、月も雲に隠れたために闇になり、登の視線には入らなかった。それだけなら、東に向かうはず。そして、東都市で再会できるはずなのだが、運が悪く流されていた時に石が頭に当たり記憶を無くしてしまったのだ。それでも、意識が戻ったのだが、何故か川下ではなく川上と歩いて行った。そして、何故か南の方向に進むのだ。それでも、初めは無遊病のようにふらふらと岸辺を歩いていたのだが、突然に目的があるのかのように山を登っただけでなく、森の奥へ奥へと進み続けたのだ。もしかすると、怪我のために身体の機能が悲鳴を上げて、一番近い村に向かった。そうとしか思えなかった。
「・・・・・・」
 一人の女性が山菜取りをしていた時だった。新が頭から血を流しながら村に入ろうとしていたのだ。それを見て、悲鳴を飲み込むほど恐怖を感じたのだ。だが、腰を抜かすような、かよわい女性ではなかったので、村人に知らせようと山菜をその場に置いて村に帰って行った。その女性が特に顔が広いからでないのだが、新が村に入る前には全ての村人に伝わっていた。それは何故だろうと思うはず。だが、その村が閉鎖的だからではないが、滅多に人が訪れない辺境な村だったので話題が乏しいからに違いない。
「来たわ。あの人よ」
「一人だけだな」
「本当に怪我をしているぞ」
 知らせに来た女性と数人の男性が様子を見に来ていた。何かの用心のためと、新が怪我をしているので倒れた場合の介護と運ぶために来たのだった。
「この様子では、危険はないだろう。助けに行っても構わないな?」
 女性の話を聞いて五十歳頃の医者が一緒に来たのだが、警戒するだけで、誰も助けに行こうとしないために、我慢の限界を超えたのだろう。だが、助けに行こうとした時、新が倒れたのだ。
「うっうう、うっうう」
 医師は、新を背負って、怪我の状態を考えてのことなのだろう。村長の家に連れて行ったのだ。医者なら薬などがある。自分の家に連れて行けば良いだろう。そう思うだろうが、入院する設備がないために、村で一番の建物でもあり、接客が出来る者もいるだけでなく、食材も普通の家よりも有る為に連れて来たのだ。それで、肝心の男の状態は、頭から血を流しているが、それほど危険な状態ではないと分かったからだろう。誰も付き添いをする者はいなかった。それで、心配がないと感じたからだろうか、大勢の村人の声が聞こえて来る。恐らく、隣の部屋からだと思うが、男のことを話題にしているのだろう。
「先生。男の状態は大丈夫と言いましたが、何時頃なら起きるでしょうか?」
「疲れているでしょうから、明日には目を覚ますでしょう」
「村長、それに、先生」
「何だ?」
「うっむ?」
「男が起きた後は、どうするのです?」
「そうだな、ボロボロな服を着ているが、素材はから判断すると裕福な家の者だろう。恐らく、元は貴族で、戦争で領地を奪われてしまい。追っ手から逃げる途中で部下とはぐれたのだろう。そう思われる」
「確かに、長老の考えが正しいだろう。治療する時に下着を見たら紋章のような絵柄が刺繍されていたのだ。恐らく、元貴族と考えて間違いないと思う」
「どのように接すればいいのでしょう?」
 長老宅に集まった者たちは、同じ様に頷いていた。
「暫く、村の客人として様子を見よう。もしもだが、何か頼まれでもした場合は叶えてやりたいと考えている。その時は協力を頼む」
「村長が、そこまで言うのなら協力はします」
「それでは、今日は解散して男が起きてからでも、その時に又考えよう」
「分かりました」
 皆が頷くと、一人、二人と自分の家に向かった。
「あっ、ですが、先生には居て欲しいのですが?」
「そう思っていましたから安心してください」
「すまない」
「気にしないでくださいよ。それにしても、自分が今までの記憶では始めての客人ですね」
「そうだな、だが、わしが子供の時に、一度だけだが客人が来たのを憶えているぞ」
「そうでしたか、その時は、面倒な事でも起きましたか?」

 第十五章
 「うっうううう」
 新は呻き声を上げていた。怪我の痛みが我慢できないのだろうか、それとも、悪夢でも見ているのだろうか、恐らく、両方かもしれない。この悲鳴は隣室に届いているはず、それなのに、気が付かないのだろうか、それとも、診断の結果を知っているので起きるはずがないと思っているからなのか、隣室からは、二人の男の会話の声が聞こえる。
「いや、何も面倒なことなど起きなかった。ただ、盛大なお祭が行われたのを憶えている」
「お祭ですか?」
「そうだ。理由は知らない。だが、村長が客人から謝礼を頂いたのでお祭でもしようと言ったのを憶えているだけだ」
「そうでしたか?」
「だが、今思えば、祭ではなく慰労会だと思えるのだ」
「何があったのです?」
「その男の昼の弁当を、皆で一緒に食べた事があった。それも、肉や魚と様々な具材が入っていたから会えるのを楽しみしていたよ。まあ、貴族と噂だったので子供の時は不思議に思わなかったが、今思えば具材は全て村にある物だったはず。それが食べられていたとなると、村人が食べる食料を減らして貴族に食べさせたのは間違いない。それに、三時のおやつまであったのだ。当然、朝食も夕食も豪華だったはずだ」
「そう言えば、確か、祖母から聞いた話では今よりも貧しかったはずですよね」
「その通りだ。それなのに豪華な食事を食べさせていたのだ。それだけでなく、落ち武者と考えられていたから可なりの村人が周辺を警戒していたはず。それで労働力不足になり、殆どの村人は不満を感じていただろう」
「その通りだと思います」
「それで、不満を爆発させないために、男の家臣が迎にくれば謝礼が頂ける。その謝礼で盛大な祭を行おうと、皆を納得させていたと思えるのだ」
「長老は、その時と同じ様に接待をして、村人には祭をするので少々のことを我慢して欲しいと言うのですか?」
「だが、男の様子を暫く見てからだ」
「それでは、私は男の様子を見てきましょう。そろそろ、起きると思いますのでね」
「頼む」
 そして、隣室の扉を開けた。その時だった。驚きの声が響いた。
「長老殿」
「どうしたのだ?」
「男が居ません」
「何だと、怪我をしていたのだろう。どこかに行く場所でもあるのか?」
「もしあるのだとしたら面倒な事になるのは確実です」
「当たり前だろう」
「まさか、あの男は運命の泉を調査に来たのでしょうか?」
「それだと大変なことになる。だが、何時から、いや、誰が何の為に、運命を好きな様に操れる泉。そんな嘘の話題が広まったのだ」
「長老の子供の時に現れた。あの貴族からでしょう。恐らく、その部下と思います」
「そうなのか?」
「はい。有名な話題ですが、あの貴族なのか部下なのかは確認していません」
「どの様な話題なのだ?」
「ある貴族が泉に写った理想の女性に夢中になり、地位も財産も全て捨てて、女性を探す旅に出たのです。ですが、それは、ある下士官の男が姫と結婚したいために泉に願った。そう言われています。当然かもしれませんが、その貴族は、今もまだ女性を探し続けているらしいのです」
「ほうほう」
「それだけなら、噂で終わるでしょう。ですが、ある国で名も無い男が姫と結婚して王位を継いだ者がいるのです。その人物が、噂の貴族の下士官だと噂になっているのです。だから、その泉を探し出せたら、そして、願い事を言えれば何でも願いが叶う。そのように噂が流れているのです」
「この世に、そのような泉があるはずもない。信じるなんて馬鹿馬鹿しい」
「長老のように冷静に考えてくれたら何も問題がないのですがね」
「そうだな」
「それよりも、そろそろ男を捜しますか?」
「さて、何をしているかな?」
「もしもですが、偽りの怪我なら泉でも探しているのでしょう」
「そうだな、村人に尋ねているか、当ても無く歩き回っているはずだろう」
「それでは、私一人でも大丈夫でしょう」
「村は広いぞ。大丈夫なのか?」
「はい。村人に男は何をしているか聞くだけで済みますよ」
「そうだな、頼むぞ」
「はい。連れて来るか、男の不審な行動を知らせに来ますよ」
 そう言い終わると、長老に退室の礼をして、男を捜しに行った。
「えっ?」
 驚くのは無理なかった。建物から出て何気なく庭を見渡すと、男は庭の隅に座り何かを見ていたからだ。そして、男の所に向かって後ろに立った。だが、何も見ているのか分からなかった。
「何をしているのです。それよりも身体は大丈夫なのですか?」
「えっ?」
「大丈夫ですか?」
「あっ畑を見ていました。なぜだか懐かしくなって・・・」
「畑ですか、野良仕事をしていますね」
 数人の女性が、キャベツを収穫していた。
「うん」
 まるで母の仕事を楽しそうに見詰める子供のようだった。もしかすると、記憶も無い昔の両親と重ねているのか、それとも、育ての親の機械人形の裕子と思っているのだろう。
「まだ、身体の怪我は治りかけでしょう。まだ、部屋で休んでいてください」
「怪我?」
「そうです」
 痛み止めを飲ませているから痛みは感じないと思うが、それでも、身体に巻かれた包帯を見れば、自分が怪我をしているのが分かるはずなのだが、まるで、今、気が付いたように驚いていた。
「・・・・・・待っていないと」
「誰を?」
「裕子」
 名前を言うと同時に、野良仕事をしている数人の女性に指差した。
「えっ誰の事だ?」
 蔵や離れの家の隙間から畑を見た。その中の誰だろうかと見るのだが分かるはずがなかった。それでも、思案したが昔からの知り合いしか居ないのだ。
「・・・・・」
 突然に立ち上がり母屋の方に歩き出した。
「どうした。どこに行く?」
「部屋に入るのでしょう」
「そうだ。包帯を替えよう」
「うん」
 一人で先程の部屋に戻れるのかと、新の様子を見ていた。それと同時に野良仕事をしている者たちの所に向かうか迷っているようだった。
「女性たちは後で話を聞いてみるか、それよりも、怪我を診ながら話を聞く方が先だな」
 新が迷わずに部屋に入るのを見ると、急いで後を追った。中に入ってみると、大人しく椅子に座って待っているが、まるで、子供が頬を膨らせて両足をブラブラと振りながら不満を表していた。
「痛くない?」
「大丈夫ですよ。でも、痛くなるかもしれないから今日一日は寝ていてくださいね」
「う・・・・ん。わかった」
 不満を表していたが、痛みがあると言われたからだろう。しぶしぶと頷いた。
「それでは横になって休んでいてください」
「いいけど、どこか行くの?」
「どこにも行きません。隣の部屋にいますから気にしないで休んでいてください」
 医者から診ると、新の表情からは疲労が感じられた。それなのに、先程まで起きて外にいたのは、恐らく、初めて見る物しかなく恐怖を感じて、誰かに救いの手を求めたのだろう。それを感じ取ったので背中を撫でながら気持ちを落ち着かせようとした。
「うん」
「隣の部屋にいます。何か用事があるなら呼んでください。直ぐにきますからね」
 寝台に寝かせ毛布を掛けて寝かせた後、暫く様子を見ていた。その後、優しく声を掛けながら隣室の扉を開けた。
「・・・・・」
 扉を開けると、長老が椅子に座っており、無言で扉の向こう側を見ると同時に、医師が入って来るのを見ていた。
「寝かせてきました」
 扉を静かに閉めた。そして、先程まで座っていた同じ椅子に腰掛けた。
「そうか」
「ですが、長老が考えていた計画は無理かもしれません」
「何が駄目なのだ?」
「今の様子だけで判断をするならば、男は幼児後退の可能性があります」
「幼児後退だと、それは治る可能性があるのか?」
「その可能性なら良いと考えてのことです。それならば、怪我のために、一時的で治る可能性もあります。ですが、もしもですが、生まれた時からならば治るはずもなく今のままです。それだけでなく、親か、今まで育てていた人から捨てられたとも考えられます。これでは、誰も探しに来る者はいないでしょう」
「それで、治す方法があるのか?」
「一つだけ方法があります。ですが・・・・その前に、何て言いましょうか、怪我から判断するならば崖か谷から突き落とされた可能性が高いです。恐らく、育てるのに疲れたからでしょう。他の可能性で、良くも悪くも考えて、村の一人として迎い入れた方が、何かと言い訳も出来るでしょう。迎い入れる準備は、長老の指示の後から実行します。それで・・・・治療方法なのですが・・・・。」
「それは、難しい方法なのか?」
「先程、少し話をしたのですが、村人の中に男の知人に似た人がいるらしいのです。その人の協力があれば治るかもしれません」
「ならば、わしから協力を頼んでみよう。それも、一月だけ怪我が完治するまでだ。それで治らないようならば、追い出すのも酷だ。村人の一人として迎い入れよう」
「分かりました」
「それで、その似た者は誰なのだ?」

 第十六章
 医師は、先程の男の様子と、短い会話の内容を教えていた。そして、何を見ていたか、それは、誰なのかと話したのだ。それを聞いて、長老は、医師には男の様子を診る様に言って、自分は、その畑に一人で向かった。
「長老。どうしました?」
「済まないが、少し手を休めてくれないか?」
「構いませんよ。そろそろ休憩にしようと考えていましたのでね」
「そうだったか、それは、良かった」
「それで、どうしたのです?」
「それは、あの男の事なのだ」
 そのように言った後、医師から聞いた話を、そのまま伝えた。
「えっ、幼児後退?」
「うそ、記憶喪失なの?」
「なっな、知り合いが居るって言っているの?」
「裕子?」
「それで、わたしたちの誰かが彼女になれって言うの?」
「介護と彼女になれって事は、まさか、夜伽もして欲しいなんって言わないでしょうね」
「夜伽だって冗談でしょう。死んでも嫌よ」
 伝え終わると、この場にいた女性の全てが狂ったように叫びだした。
「ちょっと待ってくれ、何か誤解しているぞ」
「はっひぃ。はっひぃ」
 叫び続けて息切れを感じたのだろう。そのお陰で、女性たちの声は途切れた。
「落ち着いて聞いてくれ、俺は、介護と少しの時間だけでいいから話し相手をして欲しい
だけだ。それも、強制的ではない。だが、一度だけは挨拶には来て欲しい。それだけだ」
 七人の女性の承諾の頷きを確認すると・・・・。
「それと、男の部下が迎いに来て謝礼を頂いた時は、盛大な祭をしたいと思っている」
「・・・・・」
「それで、今話したことは嘘ではない。その証拠として全ての村人に話しても構わないぞ」
 長老の気持ちが伝わったのだろう。先程まで必死に、女性たちの心の思いを叫んで伝えようと、金魚のようにパクパクと口を開けて叫ぼうとしていたが、今は口を閉じていた。
「お茶でも飲もう」
 女性たちの気持ちを解そうとして、長老は、自分と全ての女性の人数分のお茶を入れ始めた。そして、お茶を手渡したのだ。
「少しだけの話し相手ならしてもいいわよ。でも看護ってしたことないから出来るかな?」
 祭をすると聞いたからか、それとも、長老からお茶を頂いて気持ちが解れたのだろうか、一番若い女性が承諾した。それから、順番に意味があると思っているのだろうか、次は自分が承諾したと順番を競って承諾するのだった。
「やってくれるのか、ありがとう。本当にありがとう」
「それで、祭は、わたくしたちの希望の通りしていいのね」
「それなら、お酒の飲み放題ね」
「いや、豪華な食事よ」
「それ程までしてくれるなら、何をされるか分からないわ」
「でも、自己紹介して少し話しすればいいのでしょう」
「そうだ」
 長老を蚊帳の外にして女性たちは好き勝手を言っていたが、長老に確認するのを思い出したかのように言葉を掛けてきたのだ。
「それよりも、介護って、何をするのかよね」
「先生の助手をして欲しい。それだけで構わない」
 それ程まで、男の為にしなければ行けないのかと思うだろうが、自分が長老になってからの始めての客人なので、何か嫌な予感を感じていたのだ。それは、男が原因なのか、それは分からないが、村に何かが起きる。そう感じるのだった。
「ふぅん。そうなのね」
「・・・・・」
 数人の女性たちが何かを囁き合っていた。そして、答えが出たのだろう。
「なら何も問題はないわ。今直ぐにでも挨拶に行きましょうか?」
「構わないぞ。だが、予定されている農作業の計画には支障ないのか?」
「今は挨拶だけなのでしょう。それなら大丈夫ですわ。まあ、それでも、介護をするようになる時は交代でも考えましょう」
 班長らしき女性は、先程まで無言で様子を見ていたが、皆の考えが一致したからだろうか、代表のようにハッキリと承諾すると伝えたのだ。
「それでは、一緒に来て欲しい」
「はい」
と、返事をする者や頷くだけの者もいたが、女性たちは何も不満を表さずに付いて行った。
「あっそうだった。先に先生に会って頂くぞ」
 長老は何かを言い忘れたようだったが、振り返る事も、女性たちが拒否するとは考えられないのだろう。そのままの足取りで自分の屋敷に向かった。すると・・・・。
「長老。上手く説得が出来たようですね」
「ああっ後は頼むぞ」
 長老は、医師の肩を叩くと、屋敷に入ってしまった。
「分かりました」
「・・・・・」
 女性たちは意味が分からないので不安なのだろう。救いを求めるように無言で、医師の表情と長老の後姿を交互に見詰めていた。
「そんなに心配しないでください。長老に何て言われたか分かりませんが簡単な事ですからね。それでは行きましょうか」
「・・・・・」
 不安で頷くだけだった。そして、医師は、扉を開けた。
「起きていたのですね。良かったです。私の知人を紹介しますね」
 七人の女性が、一人、また一人と部屋に入ってくるのを見ていたが、六人目の女性の姿を見ると、泣きそうな表情を浮かべた。そして・・・・。
「裕子お姉ちゃん。仕事が終わったのだね」
 そう叫ぶと同時に、一人の女性に抱きついたのだ。
「キャ~やめて、何、何なの。えっ、どうしたの?」
 当然だが、女性は悲鳴を上げた。知らない名前で呼ばれただけでなく抱きつかれたのだ。意味が分からずに、美雪は驚くことしか出来なかった。だが、まるで母とはぐれて迷子になった子供のように泣くのだった。もしかすると、男は恐怖を我慢していたかもしれない。
「早く帰ろう」
 二人の様子を見て、女性たちは医師に視線を向けた。そして、男が泣くのを止めた頃だ。
「この人はね。美雪さんと言うのですよ」
「あっ何年か前の名前でしょう。おじさんの時は美雪と呼んでいたのだね。でも、今は、裕子だよ。そうだよね。裕子おねえちゃん?」
「えっ?」
「はっあぁ」
(やはり、何処かの若様だな、その女性は密偵を兼ねた護衛だろう)
 美雪だけでなく、この場の者は意味が分からなかった。だが、医師は心当たりがあるのだろうか、大きな溜息を吐きながら言葉を選んでいた。
「その裕子さんとは、何処で別れたのですか?」
「えっと・・・・・」
 新は、考えるにしたがい表情が苦痛を表し始めた。その様子に気が付かないまま、医師は話し続けた。
「その場所が分かれば使いを出します。恐らく、その人も探しているでしょうからね」
「頭が痛い。痛い、痛いよ。考えると頭が痛いよ」
 頭を抱えながら蹲ってしまった。
「もういいわよ。何も考えなくていいわよ」
「うん」
 美雪は優しく声を掛けると同時に、頭を優しく撫でた。その気持ちを感じて安心したのだろうか、それとも、考えを止めたから痛みが消えたのか、男は笑みを浮かべて、美雪の顔を嬉しそうに見ていた。
「大丈夫か、痛いなら痛み止めがあるぞ」
「苦いのでしょう。要らないよ。でも甘い薬なら飲んでもいいよ」
「そうか」
(この男は生まれた時から知恵が遅れているのではない。薬は苦いと感じた記憶もある。それに思考して要らないと返事も出来るのだ。やはり、頭を打ったからの幼児後退だろう)
「あるの?」
「それは無いなぁ」
「なら、いいよ。我慢する」
「それで、自分も、女性たちも自己紹介するから君もして欲しいのだけど、駄目かな?」
「いいよ。でも僕よりも先にしてよ」
「自分は、この鏡泉(きょうせん)の村に住む。医者の鏡家の輪(きょうけのりん)です」
「それで、君が言っていた人は」
「わたくしは、白粉家の美雪(はくふんけのみゆき)です。宜しくねぇ」
「美雪さんの隣の人は」
「えっ、裕子お姉ちゃんでないの?」
 次の女性を紹介しようとしたが、新が突然に叫ぶので紹介が出来なかった。
「そうよ」
「・・・・・」
「花咲家の涙(かさきけのるい)です。この班の長をしているわ」
「蘭家の千佳(らんけのちか)です」
「櫛家の留美(くしけのるみ)です」
「簪家の里美(かんざきけのさとみ)です」
「帯家の由美(おびけのゆみ)です」
「香家の紀子(こうけののりこ)です」
 新は、裕子が別人と言われてから目をキョロキョロト動かして何かを考えているようだった。静かになったので、医師の輪が紹介を始めたが、恐らく、聞いていないだろう。
「それで、あなたは何て言うの?」
「えっ」
 美雪が、新の肩を叩きながら問い掛けた。それで、やっと思案から覚めたように驚いた。
「そう、あなたの事よ」
「本当に、僕の事が知らないのだね。僕は、三角山(さんかくやま)神社の神主の息子の新。苗字は、天家(あまけ)名前は、新だよ。裕子お姉ちゃん。僕の事を思い出した?」
「もう、違います。美雪よ」
「好かれたのでは仕方が無い。美雪さん。新の介護をお願いして良いでしょうか?」
「いいわよ。でも、一人では、その、あのね。男の人だから、その」
 美雪は、班長の涙に助けを求めた。

運命の泉 上 (前編)

2016年4月13日 発行 初版

著  者:垣根 新
発  行:垣根 新出版

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垣根 新

羽衣(かげろうの様な羽)と赤い糸(赤い感覚器官)の話を書いています。

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