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01 「カイルズカラー」 …… 005
02 「捜査官に必要なこと」 …… 021
03 「生き残りの行く先」 …… 037
04 「少女と猟犬と行き場の無いカイル」 …… 059
05 「恋とキャンディと秋の空」 …… 099
06 「カレーニナ女史の戦場」 …… 129
07 「鉄壁の向こう側」 …… 157
08 「それぞれの祖国」 …… 173
ドアを開けた参謀本部所属のアーディ・コンラート中尉は、思いがけない訪問者に驚きと嫌悪の表情を見せた。訪問してきたのが、事件を起こし、国防軍犯罪捜査局に左遷される予定の、カイル・ヴァイツェル中尉だったからだ。
お互い様だ、とカイルは正直言いだしたくなった。それでもアーディに会いに来たのは、どうしても取り返さなければいけない物があり、それを持っているのが彼だったのだ。
犯罪捜査局へ転属が決まり、カイルは部屋の荷支度をしていた。官給品等の日用品は手早く片付け、壁にかけている表彰品を丁寧にしまい始めた。カイルの部屋は、特別高級品や余計な荷物がなく、賞状類が殺風景な部屋を唯一彩った。
軍法弁護士と軍法検察官の資格証明書や、士官学校時代に成績優等生がもらえる勲章、奨学金の許可証等、思い出すように一つ一つ入れていく。
全てカイルが努力し、それが認められ、勝ち取った物で、父親の遺品と同じく、カイルにとっては大事な物だ。これらを持ち歩くのは大変な事だが、実家に置いておくと、無関心の義母に捨てられかねない為、部屋の飾りとして大事に持ち歩いていた。
思い出しながら入れて行った時、カイルはここにはない大事な物も思い出した。それは、フライングキャッチの帝国民競技大会でもらった賞状だ。
しかし、その賞状は一人の同僚に奪われ、手元になかった。奨学金が許可された後であった事や、できるだけその同僚とは関わりたくなかった為、今まで取り返そうとは思わなかった。
負傷した左足が脈打つようにうずきだし、今になり、取り戻したいと気持ちが湧きあがる。そして、カイルは何かに取り憑かれた様に、アーディの部屋へ向かっていたのだ。
アーディはカイルの目的がわかると、不敵な笑みを浮かべ、答える。
「アレか。ここにはないよ」
「どういう意味だ」
神妙な顔で尋ねるカイルに、アーディは軽い口調で説明する。ここにないとは、軍から借りているこの自室にないという意味で、カイルの賞状はアーディの実家に置いてきてしまったらしい。
仕事がある為、忙しい時分では取りに行く事は出来ないというと、本心とは思えない謝罪をする。
「お前が異動する前に渡すのは無理なんだ。悪く思うなよ」
カイルは思わずため息をついてしまう。アーディが嘘をついている事がわかったからだ。人から奪った物をのこのこ実家に置いておくとは思えない。おそらく賞状はアーディの部屋にあると、カイルは判断した。
しかし、追及すればシラを切られるうえ、カイルの印象を悪くするような噂を流され、二度と参謀本部には戻れない。だが、ここで引き下がる事はしたくない。
「なら、僕が行って、取ってきてもいいかい」
カイルの突然の提案に、アーディの余裕の表情は一瞬にして凍りつく。
アーディの実家はこの惑星バウルカにある名家だ。つまりアーディは、これから左遷される国防軍捜査局の統括責任者、ゲオルグ少佐同様エリート組なのだが、彼の立場は正直あまり良くない。
アーディには兄がいて、とても優秀で、家族の期待は兄に向けられていた。その為アーディは、努力する事を諦め、堕落し、結果家庭内で疎まれ、本星に実家があるにもかかわらず、軍から借りたこの小さな部屋に住んでいる。
そんな中、犯罪者であるカイルという存在が行けばどうなるか。名家というのは、異質な者が来ただけでも問題になる。その原因が自分であるとわかったら。
「あっ、確かこの前帰った時に見つけて、持ってきてたな。返そうと思ったのに、すっかり忘れていたよ」
アーディはしらじらしく思い出したかのように、訂正する。
「でも、探すのには時間がかかりそうだな。見つけたら返しに行くよ」
それでも、カイルにすんなり返す気はなく、その場限りの言い訳をする。嘘をつく人間の言葉を信じる程、カイルも馬鹿ではない。ここで去れば、アーディはカイルが異動になるまで逃げ続けるだろう。
「いや。見つかるまでここで待ってるよ」
カイルの返答に、アーディは焦りを見せる。自分の部屋の前で、犯罪者が立たれるのだって迷惑だ。参謀本部の人間に見られたら尚の事。
アーディはカイルを睨みつけると、渋々ドアを開け、部屋の中へと誘う。カイルは何事もなかったように、冷静な顔で堂々と部屋へ入って行く。
アーディの部屋も、カイルと同等のものだが、殺風景なカイルの部屋とは打って変わって、嗜好品や高級品が無造作に置かれた雑多な光景は、とても同じ造りとは思えなかった。
ため息をひとつつき、アーディは賞状を探し始めるが、物をひとつ持ち上げては、また置き、それをだらだらと繰り返す。
「他にもいろんな物を持ってきたからな。まあ、お前のが、ついでなんだけど」
そのうえ、やる気のない動きに反し、相変わらず健在な嫌味に、元々期待してなかったとはいえ、思わずカイルの眉間にしわが寄る。
痺れを切らし、カイルは部屋を一通り見ると、ありそうな所に歩み寄り、自分で探そうと手を伸ばす。
すると、それを見たアーディの表情が一変し、カイルに向かって、すごい剣幕で怒鳴る。
「カラーのくせに、触るな」
アーディの一言に、カイルの背筋は凍りつき、惨めさで唇を噛みしめる。士官学校卒業後、露骨に侮辱する人間がいなかった為、少し気が緩んでいたせいか、余計に応えた。
有色人種であるカイルは、いつも周りに受け入れてもらえず、居場所がなかった。だから、受け入れてもらうため、人一倍努力した。
奨学金の許可をもらうため、フライングキャッチを始め、恥を捨て、土の上を犬と這いずり駆けながら、一つのボールを追いかけ、戦った。
教育環境の良いエリート組に置いて行かれない為に、寝る間も惜しんで、勉学にも励んだ。強みになると思い、資格も取った。
カイルは決して周りに劣るような事ない成績を収めていた。が、周りがカイルを認めてくれる事はなかった。
それどころか、クラス内でも人種差別により、身体的、精神的虐待を受けた。そして、その中心にいたのが、今目の前にいるアーディだった。
カイルが出会った頃には、アーディはすでに堕落していて、士官学校時代は豪遊の限りを尽くしていた。カッとなりやすい性格のアーディは、たびたび暴力沙汰を起こしていたが、そのたびに家の手によってもみ消されてきた。
そんなアーディを誰も止める事はできず、クラス内でも好き勝手し、まるで王のように振る舞っていた。そのなかでも、有色人種のカイルは格好の餌食で、カイルを孤立させ、私的な理由で使役、暴力、暴言を振るった。
始めはカイルも抵抗し、拒否していたが、最終的には抵抗する意欲もなくし、ただ耐え忍ぶ日々を送っていた。有色人種を指す色つきという意味の「Colored」から、カイルをカラーと名付けたのも彼だった。呼ばれるたびに、カイルは苦渋を味わされた。
有色人種は奴隷制度を正当化する為、人種を分けた。それは遠い昔の話だが、カイルはそれに今も苦しめられていた。
カイルは早く兵士になる事を望んだ。そうすれば、アーディも手が出せなくなると信じていたからだ。
「自由なのは、ここにいる間だけか」
カイルに暴力を振るい、気が晴れたアーディが、世間話でよく口にしていた言葉だ。どんな身分であれ、卒業すれば一兵士だ。面倒事を起こしばれれば、粛清の対象になる。
家を傷つけられる事を嫌がるアーディの父親に、アーディは何度も言い聞かせられるとぼやいていた。カイルはその言葉を信じ、耐え続けた。
実際、卒業後アーディとカイルは参謀本部で共に働くが、士官学校時代の様にカイルに関わる事は一切なくなった。
有色人種として疎まれている状況は変わらなかったが、アーディと関わらなくなっただけでも、カイルは平穏に感じていた。過去の事は忘れ、参謀本部で自分の力を発揮させようと希望に胸を膨らませていた。
だが、カイルは一つの事件により、犯罪者となり、参謀本部から追い出された。そのうえ、過去の悪夢に追い打ちをかけられたのだから、顔に出ないわけがない。
カイルの異変をアーディは見逃さなかった。アーディの中で士官学校時代に味わった快感が蘇り、部屋はあの時の教室の空気へと変わっていた。
「怒っているのか、カラー。でも、お前が悪いんだぞ」
人の物を勝手に触ろうとし、気持ちを害させた結果だと指摘し、アーディはさも正当な事のようにカイルを咎めた。
「…やめろ」
過去の恐怖に苦しみながらも、絞り出して訴えたカイルを、アーディはカイルの頭を手で押さえ、床に叩きつける。
「やめるのは、お前だろ。今更、賞状なんて手に入れて、何になるんだよ」
床に倒れ込むカイルの左足を、足で押さえ付け、過去の栄光だと嘲笑い、賞状を諦めさせようと働きかける。
アーディは賞状がある場所を知っていた。返そうと思えばすぐにでも返し、追い返す事も出来た。が、アーディは虫けらの様な存在に思っているカイルにだけは、屈したくないのだ。その為なら、賞状一枚だって譲る気はなかった。
「今日の事は許してやるから、このまま帰れよ。楽になりたいだろ?」
失意のカイルに、アーディは悪魔のような囁きを投げかける。賞状をもらった後、不当だと言いがかりをつけ、散々罵った後、賞状と引き換えに解放してやると言って、賞状を奪ったあの時のアーディが、今のアーディの姿と重なって見える。
怒りと悲しみが腹の底から湧き上がり、胃の中の物まで逆流しそうな吐き気を感じ、カイルは口を抑えこらえた。楽になりたい、今すぐここから逃げ出したいと、カイルは思うが、カイルのとった行動は、賞状を渡してしまった頃とは違っていた。
「君は、犯罪者だ」
カイルの発言に、気でも狂ったと思い、アーディは笑った。確かに、今のカイルは常軌を逸していた。
「一週間前の事、覚えてるか?」
カイルの問いに、アーディの脳裏に浮かぶ事があったが、とぼけてみせる。
「何の事だか、さっぱりわからないな」
「覚えてないのか? 一週間前の夜にした事」
アーディの中で緊張が走る。カイルは一週間前に目撃した事を話した。
一週間前、捜査局への異動を命じられたカイルは、自暴自棄になり、夜の街をあてもなく歩いていた。
そんな時、路地裏で数人の男の声が聞こえ、ふと見ると、若い男が中年の男の上に乗り、暴力を振るっていた。数人の男達はそれを見て楽しんでいたのだ。
中年の男は絡まれた様で、若い男の攻撃に、防ぐのがやっとに見えた。一向に止めようとしない若い男の攻撃に、とうとう腕がダメになり、受け続け、中年の男は、人形のように動かなくなった。
大変な事態になったと気付き、止めようと声を出すが、覇気のないカイルの声は、夜の騒音にかき消されてしまう。すると、さすがに異常に気付いた周りの男達が、若い男を止めに入った。
カイルはその時見てしまった。殴っていた若い男は、アーディである事に。我に返り慌てたアーディは、カイルの事にも気付かず、数人の男達と共に消えていき、カイルはそれを呆然と見ていた。
いつものようにシラを切ろうとするが、アーディの顔は明らかに焦っていた。その後カイルは病院に連絡をするが、中年の男がどうなったかは知らない。だが、暴力事件である事は確実で、最悪の場合だと殺人事件、立派な犯罪だ。
「自由なのは、学校にいるまでなんだろ。じゃあ、今やったらまずいんじゃないのか?」
カイルは、アーディが昔言っていた言葉を引用して脅迫をする。
「たとえ俺だったとしても、お前がそれを告発したところで、誰がお前を信じるんだよ」
犯罪者であるカイルの発言には信憑性がないと、アーディが反論するも、カイルは一切動じず、アーディに宣言する。
「決定的な証拠を見つけて、必ず暴いてみせる。これから行く部署は、国防軍犯罪捜査局なんだから」
国防軍犯罪捜査局の事は、軍内に起きた事件を捜査、解決する部署だという事しか知らないが、司法に疎いアーディを脅すには、十分だった。
アーディは戦意を失い、真っ青な顔で立ちつくす。アーディは家族の冷たい顔が想像できた。そして、自分がただでは済まないとわかり、真っ暗な未来に恐怖する。
アーディはフラフラと力なく歩き始め、机まで来ると、引き出しを開け、賞状を取り出す。
狂気の顔をしたカイルに、震えながら、アーディが賞状を見せると、カイルは落ち着きを取り戻し、安堵の表情を浮かべた。やっと手に入れられる賞状は、更に愛おしく感じる。
カイルに屈し、アーディは今までに無いほどの屈辱を味わっていた。
所詮相手にならない人間だと、省かれたような気持ちになった。アーディは、カイルが、家族が、自分を無いもののように扱う人間が大嫌いだ。
努力して成績を上げても、優秀な兄と比較し、認めてくれない両親が憎かった。
アーディの気持ちも知らず、ないがしろにし、高みを目指す兄が恨めしかった。
アーディを内心無力だと思い、関わろうとしないカイルが疎ましかった。
皆、能力のない自分を相手にしたくないのだ。そして、アーディはそれを言った人間に暴力を振るった。一週間前も。
自分との事は何もなかったかのように賞状だけを見つめ、手を伸ばすカイルに、殺意を覚え、アーディはいきなり雄叫びをあげると、賞状を引き裂いた。
「ふざけんな。お前らなんか。お前らなんか」
アーディは原形がなくなるほど粉々にしていくが、目の前の光景に唖然とし、カイルは一歩も動く事が出来なかった。アーディは床に落ちた粉々の賞状を踏みつけ高笑いする。
「ぶっ壊してやった。家なんて知るか」
カイルはゆっくりと、アーディに向かって歩き出す。歩みは重く、顔は悲しみを浮かべるでもなく、悔しさに耐えるでもない無表情で、アーディの笑いは止まった。
目の前まで来たカイルに恐怖を感じ、アーディは怯えた。が、カイルは粉々になった賞状を見つめると、振り返り、何も言わずにアーディの部屋を出て行った。
アーディは憤りを感じた。ここまでして結局相手にされなかった。アーディは、カイルのいなくなった部屋で、全ての怒りを物にぶつけ、暴れた。
カイルにとって、賞状は自分の力で切り開いた居場所への道標なのだった。その道標に向かって進み、参謀本部まで来た。
しかし、事件で実父を失い、義母の銃弾で自慢の足を傷つけられ、参謀本部を追い出され、自信を無くしてしまった。
それでも、カイルの中でまだどうにかなると甘さがあったのかもしれない。そう思いたくて取り返そうとした 賞状だが、粉々にされ、道は完全に絶たれた。
一から探さねば、カイルはそう思った。新たな職場で、何が見つかるかわからないが、それでもカイルは、歩みを止める事は出来なかった。
カイルはその日、機嫌が悪かった。
相変わらずシュレイダーとふたり、操作任務にあたっていたのだが、シュレイダーのあまりにも強引な操作手法に憤りを覚えていたのだ。
それはブルゲラIXに戻ってからも変わらず燻り続けており、シュレイダーに食って掛かるように後を追っては文句を口に出し続けている。
「少尉、さっきのあれはなんだったんですか? あれではまるで脅しじゃないですか」
「おまえは馬鹿か? 埃は叩かなければ出るものもでない。そうだろ?」
「ですが、あれでは恐喝です。我々は捜査官であって犯罪紛いな手段は取るべきでは…」
「なら、聞くが。おまえはあの場合、どう動くのが正解だったと思うんだ? まさか、頭を下げて教えてください、とでも言うつもりだったのか? もしそんなのが通用する相手だったら、捜査局も絶対捜査権も必要ないだろ。迅速に捜査を行うための絶対捜査権だ。使ってなにが悪い? いつまでも甘いこと言ってるなよ? そんな甘い考えは、そのへんの野良犬にでも食わせちまえ」
カイルはなにも言えずに押し黙った。
確かにシュレイダーの言っていることは正しい。正しいことではあるが、それでも市民を護ることが軍人の 勤めとするカイルにとって、とても納得できるものではない。
なおも食い下がろうとすると、シュレイダーが振り向く。
「これ以上、甘いこと抜かすと殺すぞ。いいからおまえは黙ってついてこい」
「おう、おまえら! 今、仕事納めか?」
共同スペース、普段は人がいない場所に差し掛かったところで声が掛かる。
数人の男たちが机を囲み、騒いでいるようであった。
「どうした? 若いの。湿気た顔なんかしやがって。こっちに来て一勝負しようや? そしたら、少しは気が晴れるかも知れねえぞ?」
「そうだそうだ」
近寄るべきではないと判断したが、シュレイダーが口端を少しだけ釣り上げて、男達に近寄る。
「ふん、偶には付き合ってやろうじゃないか」
カイルは耳を疑った。
上官への態度は問題ではあるが、誠実な一面がある、と思った矢先の不誠実である。
呆れて食い下がる気力も失せ、後に続く。
「おまえが自分から加わりに来るとは珍しいな? どういう風の吹き回しなんだか」
言葉とは裏腹に、歓迎だ、と言わんばかりにひとりの男が椅子を引き、シュレイダーがそこに座る。
机の上には散乱するトランプの札。その下にDZ札が数枚隠れている。
ポーカー賭博。
誰が見ても明らかな場を見てカイルが眉間をひそめる。
ポーカー自体はいい。一昔前ではトランプさえあれば誰でもできる道楽として、大人子供を問わず一世風靡していたくらいには一般的な遊びである。誰がしていてもおかしくはない。
だが、軍の規律では艦内での賭博行為は禁止されており、軽微とはいえ処分を下される。
シュレイダーがそのことを知らないはずがない。
「正気ですか? 少尉。賭博だなんて!」
「黙ってろ」
慌てて耳打ちをするも、シュレイダーに短く遮られる。
「ですが、賭博は軍規で…」
「だから、青いと思われるんだ。ポーカー賭博なんぞ軍人の嗜みのひとつだぞ?」
シュレイダーが鼻で笑い、カイルを小馬鹿にした。
「もう、どうなっても知りませんよ?」
「おい、チップはどうなってる?」
ひとりの男にシュレイダーが聞くと、事細かに教えてくる。
どうやらはじめは額も小さかったようだが、ゲームが進むに連れてみな高揚し、かなりの高額へと推移していったのだ、と説明を受ける。
「今なら、怖気づいてやめれるぜ? どうするよ?」
不敵に笑う男たち。
「この俺が怖気づくだって?」
それに対してシュレイダーは怯む様子なく、なにくわぬ顔。
「なんの冗談だ? むしろ、怖気づくのはおまえらのほうだろ?」
「少尉、止めておいたほうがいいですよ」
挑発に対しての挑発。単純な言葉の応酬でさえ、男たちの感情を昂ぶらせる。
カイルも内心穏やかではなく、制止しようと口を挟む。が、もはや空気の扱い。
「おうおう、言ってくれるじゃねえか。上官様だろうが手加減しねえからな?」
他の男たちも凄んでみせるが、シュレイダーは動じず、ただ無言で受け流す。
「上等だ! オケラにしてやるぜ!」
元からテンションは高かったが、相手は上官。普段、頭が上がらない相手だからか、みな意気がる。
「それじゃあ、さっそく始めるぞ?」
それぞれ山札から一枚取り出し、公開する。
どうやら公開したカードの強さで親を決めるらしい。
ポーカーのカードの強さはエースからキング、キングからクイーンと強さが下がっていく。
また、スートの立場はスペード、ハート、ダイヤ、クローバーの順番である。
男のひとりがスペードのキングを高らかに掲げる。どうやらその男が親らしい。
親が決まって、全員が無造作に紙幣を一枚卓上に放り投げる。
アンティと呼ばれるそれは、いわゆる参加費用で、ゲーム開始時に支払われるものである。
各プレイヤーにカードが配られ、確認し、不要なカードを交換して、ゲームスタートとなる。
「よし、コールだ」
「俺もコールだ」
まずは、小手始めの様子見を決め込もうとする男たち。
「レイズだ」
その中でひとりだけ、シュレイダーがいきなりのレイズ。
「少尉!」
「おいおい、いきなり吊り上げかよ? もう少し場の空気ってもんをだな…」
カイルを含め、場がどよめく。
「レイズだ。お前らは耳が悪くて聞こえなかったのか?」
「ど、どうなっても知らないからな!?」
その後、一回のベットラウンド、二回のチェンジラウンドを経て、ショウダウン。
シュレイダーに釣られてレイズをする者、怖気づいてフォールドするものが続出。
ノーリミットだったベットは実に、かなりの金額に膨らんでいたのである。
「ショウダウンだ」
次々と公開されていく手札。
それぞれ公開されていく役に、男達が一喜一憂。祈るように見る者もいれば、余裕に笑みを浮かべる者もいる。
シュレイダーは後者に属し、その態度はぶれる気配がない不動。
「俺は、フルハウスだ」
シュレイダーが放り投げた手札、確かに内訳はキングが三枚、10が二枚のフルハウスであった。
シュレイダーが、強気で攻めた結果に場がどよめく。
「次のゲームに移ろうか」
シュレイダーが親を引き継ぎ、次のゲームへ。
新しく配られたカードを確認し、交換を行いゲーム開始。
ベットラウンドにて、シュレイダーが口を開く。
「レイズだ」
カイルは耳を疑った。
「少尉、またレイズですか? もしかして、レイズしかしないなんてことは…」
不安気にカイルがたずねると、シュレイダーはなにも言わずに紙幣を投げ放つ。
「さすがに二連続はないだろ? 俺もレイズだ」
「俺もだ!」
次々に、レイズが繰り返されてショウダウン。
「今度はさすがに……なんだと?」
全員見張る中で公開されたのはストレートフラッシュ。
確かに内訳はスペードの三から七であった。
色めき立つ周囲にまぎれて、カイルはなにか仕掛けがあるのではないかと睨む。と、シュレイダーと目が合う。
「おまえもやるか?」
「は? 僕がですか? なんの冗談ですか、僕は賭博なんてしませんよ」
「おいおい、若いの。せっかくこの場にいるんだ。ひとつ手合わせしたらどうだ? それとも逃げるのかい?」
「だから、僕は…」
「ああ、だめだ。そいつは腰抜けでな。誘ってものってこないさ」
「少尉! そんな言い方はないでしょう!?」
「事実じゃないか? それともおまえ、勝負にのるのか?」
シュレイダーが鼻にかけた笑いを浮かべる。
「そうだな、ポーカーで俺に勝てたら、おまえのこと、少しは認めてやろう」
売り言葉に買い言葉。挑発にも近い言葉に、カイルの目の色が変わる。
「約束ですよ? もし僕が勝ったら、もうすこし口の聞き方を考えるようにしてくださいよ」
シュレイダーと同じ卓に着くカイル。一泡吹かせてやろうと息巻く。
「ふん、裸にひん剥かれないように、せいぜいがんばるんだな」
シュレイダーの二度目の親。
これまでのようにカードが配られ、不要なカードを交換し、ベットラウンド。
今までと同じ流れになるかと思いきや、シュレイダーの次の宣言で流れが変わる。
「コール」
今まで、吊り上げしかしなかったシュレイダーのコールに、みな色めき立つ。
「おいおい、いきなり新人が入ってコールかよ!?」
「そうだぞ? せっかく面白い展開になるって期待してたのに、拍子抜けだぜ」
口々に批判する男達。
雰囲気に引きずられ、カイルも少しいら立ちを覚える、が勤めて平静に、ポーカー・フェイスに努めようとする。
「むきになっても、仕方ないだろ? 引きどころを見誤らないのも大事なことさ」
その言葉を皮切りに、シュレイダーを気に食わないと思っていた者たちが、競ってレイズを口にする。あっと言う間に、ベットが天井突かんと跳ね上がる。
そして、次のショウダウン。男達が手札を次々公開していく中、カイルの手札はスリーカード。
「これなら…」
シュレイダーの様子を見て、確信を持ったのか、少しだけ表情が明るくなる。
しかし、シュレイダーは対照的に、つまらなそうにため息をつく。
「お前、ばかだろう? ポーカー・フェイスしてれば勝てるとでも思ってるのか?」
呆れ顔で吐き捨てるシュレイダー、手札を放るとスペードのフラッシュだった。
「こういうのは、時にブラフも必要なんだよ。型だけ守ってても仕方ねえ。それに、相手の言葉、表情、仕草のひとつひとつから、情報を得るのが捜査官の基本だろうが」
「そんなこと、少尉に言われなくても分かってますよ!」
確かに、捜査官にとっては基本的なことだが、今さら言われるまでもない、とカイルの内に反発心が生まれる。
仕切りなおして、言われた通り基本に帰ろうと、気持ちを落ち着けて再度挑戦する。
しかし、次も、その次も、調子を狂わされ、勝てないカイル。結局、最後までシュレイダーに負け続け、惨敗だった。
シュレイダーは、あまりにも強すぎた、という結果を残した。
連戦連勝にて、最後はロイヤル・ストレート・フラッシュまで決めてみせ、あの場の者達は言葉を失っていた。もちろん、カイルも同様であった。
ポーカー賭博から開放され、艦内科学捜査研究室へ向かい、先を歩くシュレイダー。何かがおかしい。確率的にありえないような手管の数々。本当にこの男の強運なのか、と訝しげにカイルは睨んでいた。
カイルの視線に気付いていたのか、シュレイダーが振り向く。
「おまえ、まさか言葉、表情、仕草で相手の手札を読もうとしてたんじゃないだろうな? 相手がイカサマしてるかどうかを疑うのは、基本中の基本だぞ?」
まさかのイカサマだったのか、とカイルはここでやっと気づく。
騙されたことに加え、真剣に勝負を挑んだ自分が馬鹿にされてるようで、カイルは憤りを感じた。
しかし、相手の手札ばかり気にしすぎたせいで見抜けなかったのも事実だ。
イカサマをされたのならば、その場で立証せねばならない。見抜けなかった自分が悪いのだ、と自分に言い聞かせる。
「そうそう、俺が勝ったらお前にひとつ罰ゲームをくれてやろうと思ってたんだが、今のところ良いものが思いつかん。追って伝えるから楽しみにしてろ」
「少尉、それは…」
「おまえが言い出したことだろ?」
不機嫌に指摘して、シュレイダーが先を進み、カイルが盛大に落胆の息をこぼす。
この後、シュレイダーがゲーテアヌム教授に賭博で得たDZ札を手渡し、調査依頼を出した。
これを見て、賭博は一般兵からDZ札を入手し、偽札の浸透率を調査するため、とういう意図があったのだと気づき、カイルは重ねて驚かされることになったのであった。
どこまでも広がる大宇宙。そこに漂う無数の鉄の残骸。暗い宇宙を光の閃光が行き交う。宇宙の一角で、花火のように爆発が起こる。鉄の船と鉄の鎧は、生き残りをかけて殺し合いをしていた。
彼はそんな光景を、日常のように見ていた。誰かが言っていた。戦争は音楽だと。しかし、彼には耳鳴りのする騒音にしか聞こえなかった。
そして、戦争は変革だと。しかし、彼には争いそのものが原始的なもので、人そのものが何も変わってないように見えた。
そして、戦争は芸術だと。しかし、彼には無数の鉄の残骸と日々消えていく人を見る空しさに、感動など一ミリも感じなかった。
目を大きく見開き、ゾーイ・シュレイダー少尉は目を覚ました。シュレイダーは体を起こすと、すぐ偏頭痛に襲われた。ベッドを出て、軍服から精神安定剤を取り出し服用した。おまけに咳も始まり、シュレイダーの寝起きは最悪なものだった。
女帝Σの御幸を翌日に控え、ゲオルグ大佐の計らいで皆早出をし、休息を取っていたのだが、普段より眠ったせいか、めったに見ない夢を見てしまった。しかし、それは夢というより記憶だった。宇宙軍時代の思い出したくない記憶だ。
「余計な真似してくれたぜ」
シュレイダーは舌打ちをし、ゲオルグ大佐を恨んだ。こうなると、また寝る気分にはならなかった。とはいえ、夜が明けてもいない今、準備するにも早い。部屋にいるのも、夢の事を思い出し、ストレスが溜まるだけだ。
シュレイダーは面倒そうに、私服のジャンバーを羽織ると、気晴らしと運動を兼ね、散歩に出かけて行った。
シュレイダーは基地を出て歩きだし、街まで来ていた。市民の多くが疎開し、人口が減少したとはいえ、歓楽街は依然と変わらない明るさを放っていた。
人生への不満を忘れたいかのように、酒を飲み、泥酔して外で寝ている男。街を歩く男達に声をかけ、いかがわしい店へと連れて行く客引き。カジノで大損をし、裸で帰る男。歓楽街は人の欲望を喰らい、輝き続けていた。
しかし、シュレイダーは目もくれず、歩き続けた。シュレイダーは、ケンカを売ってくる人間を待っていた。夜をさまよう人々は、酒が入って、気が大きくなっている。
誰がケンカを売っても、罪を犯してもおかしくない。戦場をくぐり抜けたプロのシュレイダーが一般人にケンカを売るのは、格好が悪い。
だから、売られるのを待つのだ。売られれば、遠慮なく買え、ボコボコにし、憂さを晴らせる。
その時、背後から尾行している気配を感じる。すぐに向かってこない所から見て、物取りの可能性が高かった。シュレイダーは素知らぬ顔で歩き続け、人気のない道へと入って行く。
道へ入ると、シュレイダー以外人は居ず、相手はここぞとばかりに、シュレイダーに向かって行った。しかし、気付いていたシュレイダーはするりとかわし、前に出た相手をおさえつけた。
そして、シュレイダーは相手の顔を見てがっかりした。シュレイダーを襲ってきたのは、年端もいかない幼い少年だった。
「おい、お前。金目の物を、全部おいてけ」
そこへ、少年の仲間と思われる二人の男達が現れ、シュレイダーを脅迫する。少年とは打って変わって、筋肉質で、凶悪そうな人相の二人だ。シュレイダーはニヤリと笑った。
「断ったら、どうなるんだ?」
二人の男はナイフを持っていた。そのナイフをシュレイダーに見せ、答えた。
「そんなの、決まっているだろう。殺して奪うって…」
男がすべてを答える前に、シュレイダーは少年を放し、答えていた男の急所に蹴りを入れる。
「そりゃ、恐いな。どうにかして逃げないと」
そう言いつつ、シュレイダーは臨戦態勢で構えた。地面でのた打ち回る男に代わり、もう一人の男が、殺す気でシュレイダーに向かってくる。シュレイダーは男の攻撃をかわしながら、筋肉質な体に、遠慮なくパンチを与える。
蹴られた男が起き上ってからは、二対一となったが、シュレイダーは、私服から警棒のような武器を取り出し、応戦した。
少年はシュレイダーの戦いに驚き、立ち上がる事もできずに、ただ見ていた。十分もかからなかったが、目まぐるしい動きで、少年には長く感じた。
そして、一人倒れ、もう一人はしばらく頑張っていたが、健闘むなしく地面へと崩れた。シュレイダーは一息つくと、背伸びをする。
「まあ、気晴らしにはちょうど良かったよ」
幾分か気が晴れたシュレイダーは、少年の方を向き、戦う意思を尋ねた。少年は答えなかったが、完全に戦意は感じなかった。
しかも、少年は小さく細身で、左目を負傷していて、片目しか見えていないようだった。
「倒したこいつら、家族か?」
シュレイダーの問いに、少年は首を横に振った。だろうな、と納得した。だとすれば、少年はこいつらに買われたのだと推測した。
「逃げるなら今のうちだぞ。まあ、こいつらに殺されて、早死にしたいんなら別だが」
シュレイダー達を見張っている気配はない。逃げるのは今しかないが、少年は一歩も動かなかった。ただ少年の目は、助けを求めていた。
左目が見えない少年と二人の怪しい男を見て事件性を感じたのか、夢の呪縛からの解放感なのか、今となってはシュレイダーにも自分の言動が理解できなかった。
「なぜ、逃げない?」
思わずシュレイダーは尋ねてしまった。
そして、少年はしばらくシュレイダーを見つめ続けた後、ようやく口を開いた。
「大佐におこられるから」
「大佐っていうのは、何者だ?」
「組織の一番えらい人」
夢といい、今日の不運を恨んだ。大佐という言葉を聞き、しかも組織だと知ってしまった以上、捜査官として、このまま帰るわけにはいかなくなった。シュレイダーは少年に近づき、詳しく話を聞いた。
少年の話によると、「堕天使の反逆軍」と名乗るその組織は、戦争地帯で家族を失った孤児を集め、兵士として育成している。少年は無理やり入れられたのだが、左目を負傷している為、物資担当として、盗みを働かされそうになっていたらしい。二人の男は少年の監視役で、堕天使の反逆軍での教育係を務めている。そして、その組織を統括しているのが、大佐と呼ばれる男だという事だ。
一通り聞き、シュレイダーは考えた。兵士不足とはいえ、国防軍がこんな幼い子供を兵士にさせようとするとは考えにくかった。そんな事をすれば、更に帝国民からの支持は下がるからだ。
おそらく、大佐というのは呼び名で、一般市民の可能性が高かった。だが、その組織が地球連邦軍の仕業とも、グリューネカルテ・マフィアのような反対勢力の発足の可能性も捨てきれない。
「ぼくが戻らないと、皆がおこられる。皆が罰をうけるんだ」
少年の健気さに、シュレイダーは舌打ちをした。左目まで負傷している状態でよく言えると、呆れた。
「なら案内しろ。組織のアジトに」
捜査局に報告するには、確かな事か見る必要がある。シュレイダーは、堕天使の反逆軍の実態を知るべく、散歩を再開した。
少年の案内で、シュレイダーは廃墟になった商業施設の前へ来ていた。人口減少で閉店したこの商業施設を、堕天使の反逆軍は基地として利用しているのだ。
シュレイダーは基地で仕事しているゲーテアヌム教授に連絡を取り、捜査の事は伏せた上で、商業施設の見取り図を転送してもらった。ゲーテアヌム達鑑識は、翌日の御幸とは直接関わっていない為、山積みになった仕事を、徹夜で行っていた。
訳を話さないシュレイダーに、最初は渋ったゲーテアヌムだが、お礼はすると言うと、喜んで送ってきた。シュレイダーの言うお礼とはコーヒー一杯のつもりだが、ゲーテアヌムはもっと大きな要求を、期待しているようだった。
見取り図が送られると、シュレイダーと少年は侵入を試みる。正面入り口と裏口はもちろん、屋上にも見張りを発見した。しかも見張りは全員子供だ。少年の供述に信憑性が増した。
シュレイダー達は見取り図を頼りに、商業施設の隣にある駅に行く。ここも現在使われておらず、廃墟になっている。
駅と商業施設は隣接されていて、当時は通路で繋がれていた。その通路は現在シャッターで締め切られ、通れない。
シュレイダーは、周りに人がいない事を確認すると、シャッターの隣にある関係者用扉に目をつける。こちらも鍵がかけられ、閉まっている。
すると、シュレイダーは針金を取り出し、鍵穴に差し込み、いじると、カチャッと音がし、ドアを開けた。
尊敬の眼差しをする少年を鬱陶しく感じながら、通路から基地に侵入する。辺りを警戒しながら、子供達が多く集まっている場所へ向かう。
シュレイダー達は途中、何人かの子供や男を目撃した。
ある場所では少年より幼い子供達が男に訓練を受けさせられていた。幼い子ばかりの為、泣きじゃくる子もいるが、そんな子を教育係の男は、容赦なく体罰を与えた。この時点で亡くなった子もいると、少年は言った。
ある場所では、女の子ばかりが集められていて、お世話や、教育係である男達の性的欲求の解消に使われていた。
通過する際少年は、耳を塞ぎ、出来るだけ見ないようにしていた。少年にとっては人生に一度あるかないかの悲劇に遭っているのだから、当然の反応だ。
そんな気持ちを無視し、シュレイダーは何のためらいもなく証拠として、写真を撮った。シュレイダーからすれば、予想の範囲内で、歴史から見てもよくある話だった。
目的の場所付近へ近づいた頃から、多数の人の声が聞こえてくる。そして、目的の場所に着くと、子供達が一人の男の前で列をなし、何かを見せ、話していた。
「選定だよ」
少年はそう言い、シュレイダーに説明した。今行っているのは選定と言い、今日あげた成果を報告する作業だ。
少年のように物資担当なら、盗んだ物や金額を、戦線担当であれば、殺した人間の数や経緯を報告する。市内での行動の為、もちろん被害者は地球連邦軍ではなく、一般市民だ。
戦線担当の目的は、子供達を殺戮兵士にする為の実践訓練で、首都機能が失われた現状で、誰がいなくなっても問題になりにくい一般市民は、彼らにとっていい標的だった。
そして、成果によって少年達の処遇を決める。大きな成果を取った子には食事や階級を、成果の悪かった子には罰が与えられた。
皮肉な事に、ご褒美を喜び、もっともらおうと、どんどん悪事に手を染める子もいる。選定は、子供達の士気を高める効果もあるのだ。
そして、その処遇を決めているのが、列の先にいる、大佐と呼ばれる男であった。
シュレイダーは大佐の写真を撮ると、ゲーテアヌムに送った。ゲーテアヌムに大佐の正体を調べてもらうのだ。
大佐の正体がわかれば、あとは簡単だ。大佐が軍人なら捜査局に、一般人なら街区の警察に連絡する。今なら現行犯で全員逮捕は可能なはずだ。
「用は済んだ。出るぞ」
シュレイダーは少年に外へ戻るよう促す。犯罪組織の基地にいつまでもいるのは危険だ。それに、いくらシュレイダーでも大人数を相手にするのは面倒だった。
「大佐、物資担当一組帰って来てません」
教育係の一人が、少年達がいない事に気付き、大佐に報告した。少年も自分の事だと気付くと、動こうとはしなかった。
「どうしよう。皆が罰を受けちゃう」
「大佐の正体がわかったら、応援を呼んでやる。ちょっとぐらい我慢してもらえ」
「ダメだよ。それだといっぱいの子が死んじゃうよ」
すると、椅子に座っていた大佐が立ち上がり、子供達に向かって、少年がいない事を報告した。
「皆、残念な知らせだ。逃亡者が出てしまった」
そう言うと、成果をあげ喜んでいた子と、成果をあげられず落ち込んでいた子が、同じ絶望的な顔を見せた。
「これは皆の団結力が欠けていた事による」
そして、数人の教育係が物資担当と戦線担当に集め、同じ担当の子供を二人一組にさせ、向かい合わせに立たせた。教育係の一人はカメラを持ち、子供達を撮り始めた。
「逃げる者は弱い者だ。二度とそのような者が現れない為、今目の前にいる者同士で殺し合え。弱い者はいらん」
カメラの映像は、訓練中の子供達や、女の子達に見せていた。少年も一度見た事がある。そして、この後子供達は殴り合い、半分の子供が命を落とす事を知っていた。
罰は経験した子供達だけでなく、見ている訓練中の子供達や、女の子にも恐怖を与え、逃亡の抑止に繋がった。
「行かなくちゃ」
「そんな事したら殺されるぞ。お前どこまでお人よしなんだ」
出て行こうとする少年を、シュレイダーは止めようとする。その物音に子供が気付くと、罰から逃れようと、大佐に訴える。
「大佐。向こうに誰か隠れてます」
シュレイダーは少年を連れ、走り出す。
「捕まえろ」
大佐の命令で、子供達は銃を取り、二人を追う。入ってきた場所を目指し、シュレイダー達は走る。が、堕天使の反逆軍の基地と化した廃墟は、見取り図を持ってても複雑で苦戦を強いられる。しかも、訓練された子供達は実に連携が取れているうえ、罰から逃れようと必死であった。
通れる道を塞がれ、どんどん追いつめられる。すると、二人を囲む子供達の間から大佐が現れ、二人に向かって声をかけた。
「侵入者。銃の餌食になる前に聞く。お前の目的はなんだ」
シュレイダー達は大佐が見える位置に隠れていた。大佐の動きに警戒しながらも、シュレイダーは答えた。
「あんたらの仲間になろうと思ってな。随分待遇の良い仕事だって聞いて来たんだ」
シュレイダーは少年の教育係から話を聞いたと嘘をつく。
「ただ、目的を聞いてなかったもんで、それでちょっと見に来たのさ」
「それで、目的は分かったか?」
「いや、全然」
ならばと、大佐は、堕天使の反逆軍の目的をシュレイダーに教えた。
「国防軍への復讐だよ」
大佐は元国防軍の将校だった。しかし、問題を起こした為、軍での地位をはく奪された。
「部隊を私物化したとか言ってな。そんなのどこでもやってる事だ」
その処分を不服とした大佐は、粛清される前に軍をやめ、エリートの道を絶たせられた復讐として、堕天使の反逆軍を結成した。
教育係の男達は、大佐におこぼれをもらっていた元兵士や、雇われた元マフィアの人間だった。
「そんなことで、皆殺されたの」
少年は初めて目的を聞き、ショックを受けた。少年の反応は、いちいちもっともだが、シュレイダーは呆れていた。どんなに理不尽でも、それが理由で、現実だった。
「物資兵よ、聞こえるか」
大佐は次に、少年に声をかけ始めた。子供達の報告で、侵入者と共にいるのが、少年である事はばれていた。大佐は少年に命令をした。
「お前に機会をやる。侵入者を殺せ」
少年は残忍な命令に、返事をする事が出来なかった。苦しむ少年を、大佐は尚も追いつめる。
「侵入者を殺せば、不問にし、罰も取り止めてやろう。だが…」
大佐は子供達に聞こえるような声で、脅迫する。
「殺さなければ、お前は侵入者もろとも銃殺。勿論罰も実行する」
少年と子供達に緊張が走った。すると、一人の子供が少年に、シュレイダーを殺すよう訴えると、他の子供達も次々に、訴え始めた。
「殺せ。殺せ」
「死にたくないなら、殺せ」
子供達の叫びが、廃墟内に響く。耳を塞ぎ、少年は怯え悩んだ。シュレイダーは立ち上がった瞬間、少年の襟首を掴み、放り出した。
少年はうまく態勢が取れず、転んだ状態で皆の前に姿を見せた。そして、少年に続き、シュレイダーも姿を現し、大佐と対面する。
二人が現れ、子供達の声が止んだ。決断できず、おろおろする少年に向け、大佐が銃を床に滑らせ、渡す。
「それで、その男を殺せ」
少年は銃を見つめ、手に取った。小さい少年には両手で持つほど、重い。少年がシュレイダーを見つめると、シュレイダーは少年に聞いた。
「お前、撃った事あるのか?」
少年は首を横に振った。少年は今日初めて任務を行った。盗みをすると聞いて直前まで震えていた人間が、人を撃った事などあるわけない。
「なら、俺の教えた通りにやれ。絶対当たる」
そう言うと、これから撃たれる人間とは思えないほど、余裕の顔をして教え始めた。
何か策があるのかと思い、少年もそれに従うが、気付けば、銃は確実にシュレイダーに向けられ、あとは引き金を引くだけの状態だった。
「おじさん、なんで。このままじゃ、死んじゃうよ」
「俺はな、死ぬ事なんて、たいして恐いと思っちゃいない。が、ヘロヘロした弾で死ぬなんて御免なんだよ」
少年は唖然とした。少年は、戦争で家族を失った。自分が幼く無知だったばかりに、兵士を見て泣き出し、自分が声をあげた事で、敵にばれ、家族は少年をかばって死んだ。
自分も左目を切られた。それでも、みっともなく生き続けた。だから、シュレイダーの言葉は信じられなかった。
「自分の死に様くらい、自分で決める」
少年を真っ直ぐに見るシュレイダーの目に、少年は息を飲んだ。人に向けた銃はさらに重く感じる。
「みんな、ごめん。僕、知らなかった」
そして、少年は銃を手放した。
「殺されそうな時は怖かったけど、人を殺そうとする時は、もっと怖いんだね」
少年は泣きじゃくり、子供達に言いなりにならないよう訴えた。
大佐は舌打ちをし、手をあげる。子供達は大佐の合図で、銃を二人に向け構えた。そして、
銃声が鳴り、少年は驚き顔を上げた。
しかし、銃声の後、倒れたのは、大佐の方だった。少年の目の前には、銃を構えたシュレイダーがいた。
シュレイダーは、大佐が手をあげると同時に、少年が手放した銃を拾って、大佐を撃った。弾は上げた手に見事命中し、大佐はのた打ち回っている。
その際、一人でもシュレイダーの動きに反応し、撃った子供がいれば、今頃ただでは済まなかったが、少年の声が届いたか、隙ができたのか、幸運にも撃った者は一人もいなかった。
銃を大佐に向けたまま、立ち上がり、シュレイダーは子供達に尋ねた。
「大事な大佐様は、もう動けないぜ。どうする?」
すると、子供達の多くは、近くにいた教育係を殴り倒し、銃を向けた。同時に外もなにやら騒がしい音をたてていた。
シュレイダーもただ追いつめられていた訳ではなかった。大佐の写真をゲーテアヌムに送った際、どちらであってもいいよう、街区の警察と、連絡がつく捜査官の応援を頼んでいた。
大佐の目的を聞いたのも、少年に銃の撃ち方を教えたのも、時間稼ぎだった。
「少尉、大丈夫ですか」
真っ先に現場に現れたのは、足を引きずったカイルだった。シュレイダーは気が抜けた。
「締まらねえな、中尉じゃ」
しかし、カイルに続き、多数の警官も現れると、大佐と教育係の男達は全員逮捕され、「堕天使の反逆軍」は壊滅した。
現在、一般市民である大佐達は、街区の警察によって連行された。事件は解決した。しかし、それは問題が解決したという意味ではない。
堕天使の反逆軍にいた子供達は孤児だ。組織が壊滅した今、子供達に居場所はない。とりあえず、街区の警察で保護する事になったが、その後の人生は各々違う。
運が良ければ、養子として迎えられるかもしれない。だが、たいがいは孤児のまま、ギャングか売春婦になるケースも多い。
彼らの兵士としての実力であれば、本当の兵士なる事もあり得る。そうなると、罰がないだけで、子供達の立場は組織の時と、何ら変わらないのではないか。
保護された子供の中には、堕天使の反逆軍を崇高しているような子も見られた。その子が組織を復活させる可能性もあった。
「いい養親が見つかるといいですね」
他人事とは思えないカイルは、子供達の将来を心配する。が、子供と関わった当のシュレイダーは、ようやく長い散歩を終え、車の中で横になっていた。シュレイダーに情を少しでも期待した事を、カイルは後悔した。
シュレイダーは眠ってはいなかった。ただ、子供達の事など考えたくなかった。兵士でありながら生き残り、死に場所もわからなくなってしまったシュレイダーに、同じ生き残りである子供達の行く先など知るわけもないし、知りたくもなかった。
少年も今の状況を、感情もなく受け入れていた。そして、保護され連れて行かれるまで、車にいるシュレイダーの姿を、見つめていた。
シュレイダーはただ目をつむり、少年が連れて行かれるのを待った。
「お前、やる気ないなら帰れよ。二、三日は顔出すな」
そう言うとシュレイダーはカイルを蹴飛ばした。
操作手法について衝突するのはいつものことであった。科学鑑識研究室から追い出されたカイルは平時なら再び部屋に戻り、許しを乞い、捜査に参加するところである。
しかし倫理や常識を全て無視したシュレイダーのやり方に、カイルの我慢はついに限界まで到達していた。
自分は何のためにここにいるのか。なぜこんなことになってしまったのか。全てがよく分からなくなってしまった。
「もう、このまま帰ろうかな」
そう呟くとカイルはゆっくりとした足取りで科学鑑識研究室を後にした。
外に出ると渇いた風がカイルを出迎える。晴天の日光は睡眠不足に少し堪えたが、やはり気持ちのいいものである。このまま家に帰っても誰に迎えられるわけでもない。特にやることがあるわけでもない。心休まる場所を持たないカイルは風の導くままに街を散策することにした。自分は何をすればいいのか、その答えが見つかることを期待した。
◆
暇を持て余した学生や休憩中の労働者が集まる広場を抜けてカイルは住宅街の外れを歩く。人気も少なく、人間関係の希薄そうなこの地域は生家を思い出させた。
「実家もこんなだったっけ」
すこし感傷的になっていると裏路地からボールが一つ転がってきた。青い色をしたよく弾みそうなゴムボール。カイルはそれに見覚えがあった。
「懐かしいな……これ、公式のボールじゃないか」
それはまさしく、学生の頃に無我夢中になって追いかけたフライングキャッチの競技用ボールであった。ボールには汚れがあるものの、大して犬の歯形は付いていない。不思議に思いながらしゃがんで拾い上げるその時、カイルは少女の存在に気付いた。
裏路地に佇むのは癖のある金髪を後ろで束ねた整った顔立ちの少女。その表情には幼さが残るものの、年齢を重ねれば自然と美しい女性になることは容易に想像できた。
そしてその傍ら一匹の猟犬が付き従っている。やや手足が長く、筋肉質の体躯がフライングキャッチの為に品種改良された猟犬であることを示している。まだ子犬から成犬になる途中だろうか、不安げな上目遣いからは迫力を感じられない。
カイルが立ち上がると少女は一歩後ろに下がる。
「か、返して! そのボールは私のよ」
消えかかった語尾を捉えたところで初めて、カイルは少女が恐怖している対象に気がついた。自分が今着ているのは軍服だ。
「大丈夫だよ。僕は君に危害を加えたりしない」
「軍人はみんなそう言うわ……し、白々しいのよ。それ以上近づいたら大声を出すわよ。ほら、ボールをこっちに投げて」
仕方なくカイルは下手投げでボールを放る。少女はボールを受け取ると異常がないかボールを丁寧に観察し、一瞬カイルを睨むと走り去ってしまった。
虚勢を張る少女と卑屈な猟犬。カイルは興味をそそられて彼女達の後を追った。
◆
その後一時間ほど、カイルは木陰で無意味な時間を過ごすことになった。
狭い町の路地で少女がボールを投げ、それを猟犬が取ってくる。しかし猟犬には覇気が無く、事務的にただ走って取ってくるだけ。それを少女が怒鳴りつけるの繰り返し。彼女は真剣なのだろうがその作業はま徒労でしかない。
見かねたカイルは少女に声をかけた。
「フライングキャッチをやっているのかい? こう見えて僕は競技大会にも出たことがあるんだよ」
見られていたのには気付いていたのだろう、睨みつけてくる少女。虚ろな目をしている犬より、彼女の方がよほど猟犬らしかった。緊張を解すためにカイルは笑顔のまま続ける。
「僕の名前はカイル。君の名前は? あとその子の名前も教えて欲しいな」
「……私はヘレーナ。この子はランス。パパが買ってきてくれたの」
カイルは大げさに驚いて見せる。
「そうなのかい! 娘思いの良いお父さんなんだね」
ヘレーナは口をとがらせてそっぽを向いてしまう。少々嫌われてしまっているようだが、世話好きなカイルはそう簡単には諦めたりしない。
「良かったらヘレーナ、僕にボールを貸してもらえないかな。アドバイスするよ」
数秒の間をおいた後、ヘレーナはボールを差し出した……相変わらずそっぽを向いたままではあったが。それを受け取ったカイルはランスの頭を撫でると、優しく言って聞かせる。
「いいかい、ランス。今からこのボールをバウンドさせる。バウンドしたボールを一番高いところでキャッチするんだ」
身振り手振りを加えながら説明するその様子をヘレーナはチラチラと盗み見ている。カイルは微笑みをかみ殺しながら続ける。
「ようし、ランス、それじゃあいくぞ……そらっ!」
カイルがボールを勢い良く地面に叩きつけると、ボールは垂直に2メートルほどの高さまで上昇した。ランスは体を伏せるような予備動作の後に高く跳び、バウンドの頂点に達したボールを見事にキャッチして見せた。
フライングキャッチにおいて、犬が人間と空中で張り合えるかどうかは大事なポイントとなる。ランスの身体能力はやはり競技に適している。
「よしよし、いい調子だ。それじゃあ今度は投げるぞ、一番高いところで取るんだ。ほらっ」
今度は前方に向かって高く投げる。
ランスは勢いよく大地を蹴り、落下するボールに飛びついた。今度は2メートル以上の高さを跳びボールに食らいつく。着地と同時にUターンをすると一直線に走って帰ってくる。上下する体はやや脂肪がついており波を打っているが鍛えればすぐに無駄のない体になるであろう。カイルはランスの差し出すボールを受け取るとヘレーナに渡そうと手を伸ばす。
「なかなかやるじゃないか。次はもうちょっと難しいぞ……行け!」
今度は低く地面すれすれにボールを投げるカイル。ボールがワンバウンドして勢いが殺され始めたあたりからランスがぐいぐいと追い上げる。
しかし投げられたボールの先には斜めになっているレンガの壁があった。それにぶつかるとボールは右に方向を変える。ランスは体の重心を後ろに置くことでどうにかブレーキをかけるがすでに遅く、壁に体当たりする形となった。
しかしランスは一向に怯む様子もなく再び走り出すとボールに直進していく。ボールを取ったランスはまた全力で走り、カイルの元にボールを届けた。
「凄いぞ、ランス! 本気を出せば大会出場も夢じゃない。欲を言えばボールの跳ね返りを予測して走る方向を決めるくらいのことをして欲しいが、今はまだ若いからね。これから経験で覚えていくだろう。それよりもその体当たりしてでも走っていく姿勢が大事なんだ」
カイルは何より、ランスが内に秘めているボールに対する執念を褒め称えた。ボールを取って返ってくることに対する使命感を教え込むことが猟犬の調教で一番難しいポイントであった。生まれつきそれを持たない犬たちには、お仕置きによる恐怖で取りに行かせるか、餌で釣って取りに行かせるかしなくてはならない。
「よしよし良い子だ。ほら、ヘレーナ、次は君の番だ。僕がやったように投げてごらん。簡単には取れないようにやるんだ」
その様子を見ていたヘレーナは驚き、同時に悔しがりもした。初めて出会ったカイルがランスの潜在能力を引き出したのである。飼い主としては不愉快であろう。
「もういい! そんなに私が嫌いなら軍人さんと仲良くすれば! 勝手にすれば良いのよ!」
言うが早いかヘレーナはカイルから差し出されたボールをひったくると思いきり放り投げてしまった。ボールは明後日の方向に飛んでいったためカイルにも捕捉することはできなかった。背を向けて肩をいからせながら立ち去るヘレーナ。
「うーん、どうしたものかな……ランス、どう思う?」
カイルは暴君の後姿を眺めるしか出来ない。肝心のランスはと言うと、好き勝手に明後日の方角を向いていた。
◆
翌朝、目を覚ましたカイルはいつも通り軍服に着替えるといつもとは違う場所、市街地に向かった。ついつい意地っ張りの少女とその飼い犬のことが気になってしまう。彼女からすれば大きなお世話かもしれないし、シュレイダーが聞いたら呆れるだろう。自分でも何を無駄なことをやっているんだろうという気持ちが無いわけではない。しかし少女の寂しそうな表情を思い浮かべると放っておくことが出来なかった。
昨日、彼女と出会った裏路地を覗き込むと少年が四人たむろしていた。不良の少年であろうか、腕に小さな刺青が見て取れる。どんなところにでも悪ガキの一人や二人いるだろう。いたってありきたりな風景だが、カイルはなぜかそれが気になったので遠目から観察をすることにした。少年達は足で何かをいじっているようである。
「俺は生意気な奴が大嫌いだ。だからお前のことも大嫌いさ。ここいいる奴らはみんなそうだ。なぁ、そうだろ?」
にやにやと下卑た笑みを浮かべながら頷く少年たち。
「お前なんていらないんだよ、愛されてないんだ」
そう言いながら鋭いローキックを放つ少年。足元の物体は身体を波打たせながらが呻いた。それを見て少年らは笑う。
「父親だってお前のことが嫌いなのさ。だからお前はいつも一人ぼっち」
「そんなこと……」
足元の物体が声を発した。それは昨日出会った少女、ヘレーナである。服を脱がされ下着姿になっている彼女の皮膚には幾つもの痣が見て取れた。一瞬にしてカイルの血が沸騰する。
「こら! 貴様ら何をやっている!」
こんなとき軍服はその効力を遺憾なく発揮する。少年達の顔色が変わった。
「……ちっ、助けられたなヘレーナ。いくぞ!」
少年達は合図とともに蜘蛛の子を散らすようにバラバラに逃げていった。カイルは無理に追うことはせず、ヘレーナに駆け寄ると抱きかかえて上着を着せてやる。思ったより身体的外傷は少なそうだが、問題は精神的外傷である。
「私……いらないの……? パパ……ママ……」
ヘレーナの涙が汚れた頬を伝って流れた。
◆
落ち着いたヘレーナはゆっくりと語り始めた。
「私のパパはお仕事が忙しいみたい。お休みなんて無くって、一ヶ月帰らないこともあるの。だから……ママも出てっちゃった。ランスが家に来たけど、全然懐かないし」
それはそうだろう。昨日の態度を見ていれば一目瞭然だ。ヘレーナはランスを父親の機嫌を取るための道具としか見ていない。そんな扱いを受け、毎日怒鳴られれば誰だって嫌になる。
「でもね、ヘレーナ。ランスが懐かないのだって理由があると思うんだ。物事には必ず原因があるからね……それに本来、犬はとても人間に懐きやすい動物なんだ。ずっとずっと昔から人間のパートナーとして共に暮らしてきたんだ」
「昔から?」
「そう。人類がまだ地球に収まっていた時代からだ。それくらい僕等の付き合いは長い。僕はね、人間も犬も大した違いは無いと思っている」
ときには人間同士のように激しく争うこともある。フライングキャッチの経験者であるカイルはそれをよく知っていたが、今のヘレーナには必要のない情報だと判断し割愛した。
「こちら信頼すれば相手も信頼してくれる。まずは信じてあげるんだ、出来るね?」
少女は頷いた。
◆
ヘレーナの自宅に戻った二人は庭先にあるランスの犬小屋の前にやって来た。
「ランス! ごめんなさい、昨日のこと謝りたいの」
言いながら犬小屋を覗き込むがそこには毛布が一枚敷き詰めてあるだけ。そこにいるはずの猟犬の姿は見当たらなかった。
「いないのかい?」
「そうみたい。いつもだったらご飯の時間にはここで待ってるのに。こんなこと初めてだわ」
カイルはヘレーナと共に家を一週して回る。玄関、庭先、リビングにシャワールーム、二階のベッドの下、さらには家と塀の隙間を歩いて家屋の裏まで探し回ったが、ランスの気配はどこにも感じられない。……さらに言ってしまえばこの家には生活感がない。ヘレーナが暇に飽かして掃除をするのか廊下の床には汚れ一つなく、棚の上にもホコリ一つない。飾り気のない家には冷たい空気が漂っているばかりである。父親のベッドルームにも入るが、本当に一ヶ月に一度も帰ってきているのか疑問を覚える。クローゼットには男性用の礼服やスーツ、コートにマフラーも掛けてあるものの使用感は全く見られない。それをつい珍しそうに見ているカイルにヘレーナが言う。
「パパね、昔は優しくってカッコよかったのよ。でもママがいなくなってすっかり変わっちゃった。着るものはいつも一緒でね。汚れても良いようにって、黒いズボンに黒いセーターばっかり。髪の毛はいつもぐしゃぐしゃで髭も剃らない。そこにかかっているコートもあの日以来着てないんじゃないかな」
この家は空き家で元々誰もいなかった。そう錯覚させるような静けさが家全体を包んでいた。
◆
ヘレーナの母は彼女に何も言わずに出て行ってしまった。いつも通りの朝を迎えたヘレーナに父親は冷たく事実のみを告げた。
「父さんと母さんは離婚することになった。お前にはすまないと思っている」
全く感情を感じさせない表情の父はまるで昨日までとは別人で、目の前にいるのは父に良く似せた蝋人形だと言われれば信じてしまいそうだ。
「離婚って……どういうこと? もうお母さんと暮らせないの? お母さんどこに行ったの?」
「それはお前には教えることは出来ない……そういう約束になっているからな」
突然すぎる話にヘレーナは涙することさえ叶わなかった。実感が湧かない。昨日までは普通の家族だったのにもう二度と会うことは出来ない。ヘレーナは当然納得できなかった。
「なんで私にも話してくれなかったの? 私は離婚なんてして欲しくなかった!」
「お前の意志は関係ない、父さんと母さんで話し合って決めたことだ」
冷たく放たれる言葉から逃げるようにリビングを飛び出すヘレーナ。自室のドアを乱暴に閉めるとベッドの中で丸くなった。そして一日経ち、二日経ち……家の中に人の気配が一切しないことを実感し大声で泣いた。リビングに降りると置手紙がたった一枚置いてあった。「すまない、仕事でしばらく戻れそうもない」と記されていた。
◆
「……思い出しちゃった。ランスが来る前ってずっとこうだったわ。誰もいないし、誰も来ないの」
ヘレーナの声のトーンが薄暗いものになってきている。辛い記憶は人間を蝕んでいく。子供にとって片親がいなくなること、そしていつ帰るかも分からない親をひとりで待つことはどれだけ辛いことだろうか。カイルはどうにかヘレーナを慰めるべく彼女の頭を撫でてやった。
「大丈夫、カイルは逃げたりなんかしていない。君が迎えに来るのを待っているはずさ。お父さんだってヘレーナとカイルが仲良くやっているのを見れば、きっとまた昔みたいに優しくなってくれるよ」
根拠の乏しい薄ら寒い慰めであることは明白であったがヘレーナはその言葉を信じた。
「そうよ、私が信じなかったら誰が信じるっていうの。パパは昔みたいになる。私がそうしてあげる」
その言葉を信じたかったのだ。震える身体を握り拳で押さえつけ、ヘレーナは恐怖に耐えていた。顔が少し青ざめているように見える。
「行こう、それにはまずもう一人の家族を家に呼び戻さなきゃ」
二人は静かな家を後にした。
◆
街に出て聞き込みを始めたヘレーナとカイルであったが、情報はそう簡単には集まらない。二人は身振りを交えながら必死に説明をする。
「このくらいの大きさの、まだ一歳に満たないくらいの中型犬でね、逞しい体の猟犬なんだけど」
これまで同じ質問を何度したか分からない。今回の相手は露天商の店主である。
「おいおい、軍人さん、俺にだって知らないこともあるぜ。そもそもだ、善良な市民が知ってることなんてそんなに多くはないんだよ」
軍人と少女が練り歩く様子は市民の注目を浴びてしまう。どんな情報がどんな意味を持っているとも限らない。安易に情報を渡してしまうと結果仲間を売ることになりかねないため、市民の口は堅かった。
「お願いよ、おじさん。うちの子がいなくなっちゃったの」
ヘレーナの懇願に彼の顔も流石に曇った。
「すまないねぇ。しかしこの人に何かを話すってのは世間話をするのとは訳が違うんだよ。次から探し物があるときは一人でするのが懸命な判断ってもんさね」
あまりの言われようにカイルは閉口した。一部の軍人が権力を傘に市民に対し横暴な振る舞いを行っているのは知っているし、自分の目で見たことすらあった。彼らのそういった行動が評判となり街の隅々まで染み渡っていることが情けなくて涙が出そうになる。
帝国軍人は誇り高くあるべきではないのか。都市に来てから軍人らしい軍事にあまり会っていない。
カイルが落ち込んでいるのを見てバツが悪くなり、店主は弁解を口にした。
「おいおいそんな顔しないでくれよ。俺だってここで生きてるんだ、守らなきゃいけないもんがあるんだ。分かるだろ? それぞれに譲れないもんがあるんだ。家族のためには仕方ないんだよ。さ、行った、行った、店先に辛気臭い顔ぶら下げてたんじゃ商売にもなりゃしないよ」
手で追い払う動作に促されてその場を後にする二人。かれこれ一時間程度聞き込みを行っているが一向に手がかりを掴めないでいる。
「ごめんね、ヘレーナ。僕のせいで」
カイルが肩を落としながら呟くのをヘレーナは懸命に否定してみせる。
「ううん。手伝ってくれてるだけで嬉しいわ。……こんなに誰かに優しくされるのって久しぶりだもの」
そう言って照れくさそうに笑う。その笑顔はとても美しいものだったが。
◆
無邪気な笑顔を前にしてカイルの心は微かな痛みを覚えていた……針のむしろ、と言ったら良いか。当然ながら感謝されるのは嬉しいことだ。今、自分のしている行為は正しい行いであるとカイルは胸を張って言える。しかしその胸中、奥深くでは焦りに似た不安が積もり始めていた。
『自分はこんなところで何をやっているのだろう』、『自分にはやらなければいけない仕事があるのではなかったか』、『軍人として与えられた使命を全うしていない』。考え始めるときりがない自問自答が頭を支配し始める。頬をぴしゃりと叩くと無理に大きな声を出した。
「もう少し頑張ろうか!」
ヘレーナはその声に驚いたようだったが、自分を元気付けようとしている、と捉えた。
「うん! そうしましょう!」
彼女の健気な姿のおかげでカイルは彼女を直視できなくなってしまっていた。
「では二手に分かれようか。僕は東、ヘレーナは西だ。一時間後にまたここに集合だ」
街の時計を指差すカイル。そうやってヘレーナの笑顔から逃げようとしたのが間違いだったのかもしれない。
◆
カイルの聞き込みはやはり成果を上げられなかった。ある者は初めから敵対心を剥き出しにし、またある者は下手に出るカイルを不審に思い、口を塞いだ。
「くそっ……こんな服着てくるんじゃなかった」
家を出るときに軍服に袖を通したのはやはり罪悪感に似た焦燥のせいだったのだろうか。そわそわと落ち着かないカイルは時計を見上げる。時間はヘレーナと手分けをして聞き取りを始めてからすでに一時間以上経過していた。しかし周囲にヘレーナの姿は見当たらない。
「あの子はまたもしかして……いや、可能性はあるな」
カイルはヘレーナを探しに街の西部に向かう。
探す場所は人気の無さそうな裏通り、建物の隙間、獣道。十五分ほど探索したところで目標はあっさりと見つかった。犯罪捜査局で鍛えられた犯罪に対する嗅覚を遺憾なく発揮した結果と言えよう。建物と建物の隙間、ともすればあっさりと通りすぎてしまいがちな通路に彼女はいた。口元を男に押さえつけられている状態で。
「ちっ、金髪ったら金持ちと相場が決まってるのによ……一銭も持ってないとはな。大外れだよ」
男はもう片方の手でヘレーナの両手首を握って身動きを奪っている。モガモガと声にならない声を上げながら必死に抵抗するが成人男性の腕力には敵うはずもなく、身をよじるだけの結果に終わった。
「それならもうお前にはこれしか興味が湧かねぇな。初めてなんだろ? 俺が貰ってやるよ。ありがたく思えよ」
美人薄命とは良く言ったものだ。彼女の整った顔立ちが災いし、悲劇を生もうとしている。カイルは後ろから近寄り男の右腕を後ろに捻り上げた。ぎしぎしと軋む関節が男の脳髄に鋭い痛みを送り込む。
「痛てて、何しやがるテメェ! 何もんだ!」
「貴様のような下衆に名乗る名はない! それでも帝国民か! 恥を知れ!」
カイルは男と背中を密着させると首を掴んで一本背負いの要領で投げ飛ばした。
首投げは力を入れすぎると一瞬で死に至る危険な技である。怒りに駆られているとはいえ、カイルがそれを間違えることはない。男は地面に叩きつけられて即座に失神することになった。
開放されたヘレーナはその場にぺたりと座り込んだ。事態が決着を見たその直後、通りのほうから大声が聞こえた。
「おい、ケンカだ! 軍人が市民を投げ飛ばしたぞ! それに女の子を攫おうとしている!」
やってしまった、と思ったがすでに遅かった。大声を聞いて正義感の強い市民が集まり始める。こうやって軍人の悪名がより一層深く浸透するのかと思うとカイルは頭が痛くなった。
呆然としていたヘレーナであったが市民たちの声を聞きショックから立ち直るとカイルの手を引いた。
「こっちよ、抜け道があるの!」
カイルはヘレーナの言うとおり一目散に逃げ出した。
その後二人は街中を歩き回った。都市部から市場を抜け広場に到着する。流石にここまでは追ってくることもあるまい。二人はベンチにもたれかかった。
「はぁ、はぁ……ありがとう、軍人さん。でも少しやりすぎよ」
「そうだね、これからは、背後にも、気を配るよ」
息も絶え絶えになりながらかろうじて返事をするカイル。二手に分かれるという自分の判断を悔いるあまりやりすぎてしまったなどとは口が裂けても言えそうにない。
◆
「少し休憩しようか。飲み物を買って来よう。オレンジジュースでいいかな」
飲み物を飲みながら広場のベンチに腰をかける二人。思い思いに行動する人々を見ながらゆっくりと体力を回復させると、カイルはヘレーナにいくつか質問をすることにした。
「……お父さんはどんなお仕事をしているんだい?」
「私もよく分からないの。パパは国家機密っていうのがあるって言ってたわ……大事なお仕事だっていうのは分かるけど……寂しいわ」
国家機密。その言葉を聞いたカイルは考えを巡らせた。ヘレーナの父は同業者であろうか。いや違うか、軍人ならヘレーナが軍人忌み嫌うことはないだろう。それなら国に仕える役人か、研究者か……もしかしたら皇帝に仕えているのかもしれない。
「やっぱり私……皆の言うとおりパパに嫌われてるのかも……」
では母親は、と言葉を繋げようとしてカイルは思いとどまった。
そもそも父親がろくに自宅に戻らないことを知りながら、幼い一人娘を残して家を出る母親である。他人の母親を悪く言うのは気が引けるが、やはり彼女の母親も人格者というには相応しくない人物なのかもしれない。
母親というものにあまり良い印象を持っていないカイルはつい悪い方へ想像を膨らませてしまう。
いや、もしかしたら彼女の母親は事故か何かでもう――。父親は幼い娘にその事実を伝えることが出来ずそんな嘘を言ってしまったのだろうか。そして自分は仕事に逃避するようになった……。
ヘレーナの境遇を聞けば聞くほど他人事とは思えなくなってくる。親に愛されず、父親によって国のための犠牲になっている……。カイルはヘレーナの手を強く握った。
「? どうしたの、お兄さん」
純粋に信頼の眼差しを向けるヘレーナ。
「大丈夫。大丈夫だからね。僕が絶対見つけ出してあげるから」
彼女の未来のために、ランスを見つけてやらなくてはならない。
相手の姿が見えず、市民からの情報も得られない。それなら知っている人間から多くの情報を引き出せばよい。カイルはヘレーナにいくつかの質問をすることにする。
「ランスの好きな場所とか、好きなものとかってあるのかな? なんだっていいんだ。些細なことでも教えてくれ」
ヘレーナはうんうんと唸るもののはっきりとした言葉を発することができない。
「……わからないわ。ランスは私と一緒に練習に出かけるとき以外はずっと家の周りにいるの」
「そっか。それならランスの好きなものとかあるかな」
「それもわからないわ……私がボールを投げると取って帰ってくるけど、犬小屋にいるときに一人でボール遊びをしているようなこともないし……私、本当にランスについて何も知らないのね」
二人してため息をついてしまう。数時間掛けて調べたものの手詰まりか。
ランスはあんなにボールを一生懸命に追うことが出来るのに家ではボールに興味を示さなかった……。
カイルはふと、さきほど聞き取りをした店主の言葉を思い出した。
それぞれに譲れないものがある。
ランスにとって譲れないもの、それは単なるボールではなく……。
カイルの中で様々なものが一本に繋がる。そして同時に嫌な予感がした。
「もしかしたら……行こう、ヘレーナ」
カイルはヘレーナの腕を掴むと昨日、ランスにトレーニングをした路地に向かう。
昨日ヘレーナが怒って帰ってしまったとき、ランスが向いていた方角。もしやそれはボールが飛んでいった方角ではなかったか。
基本的に猟犬は使命感を強く持つ生き物である。特にフライングキャッチ用の猟犬は執念深いとすら言える。文字通り、カイルはそれを痛いほど体で知っていた。そしてその素質はランスからも見て取れた。
街をすり抜けて見慣れた光景に近づいてきたところでヘレーナは大声を上げた。
「あ、あそこ!」
彼女が指差す方向にはランスがいた。
ランスは三角屋根の上を危なげな足取りで歩いている。あの後からずっとそうやってきたのだろうか、本当に小さな歩幅でランスが進むその先、屋根の雨どいには昨日ヘレーナの投げたボールが引っかかっていた。屋根の角度は急であり、タイル張りのためよく滑る。カイルの脳裏に最悪の事態がよぎる。
「まずい。早く行かないと」
言いながら駆け出そうとするが怪我の後遺症で速度が出ない。カイルはうまく動かない自らの膝を呪った。もしヘレーナが先に行き、ランスを抱きとめたところでその重さには耐えられないだろう。ここは自分が行くしかない。
「駄目よ、ランス! それ以上行ったら落ちちゃう! お願いだから言うことを聞いて!」
ヘレーナの制止をランスは聞こうとしない。いやむしろやる気になったようにすら見える。
「なんで? 駄目なのに! 私の言うことがわからないの?」
カイルは走りながら自分に言い聞かせる。
「間に合うか? いや、間に合わせなくちゃ! ヘレーナと約束したんだ!」
その間にもランスはゆっくりと歩を進めていく。ボールの前に立つと鼻先をゆっくりと伸ばす。身体を後ろに置いたまま賢明に鼻先を伸ばしているため足がブルブルと震えている。ついにはその口にボールを咥えて。
足を滑らせた。
「い、いやっ」
ヘレーナが息を呑んだ。ランスが死んでしまう……? 絆の大切さに気づいたそばから失ってしまうなんて残酷すぎるのではないか。カイルは必死に歩を進めた。
真っ逆さまに落ちていくランスをカイルは前に跳んで受け止める。しかし落下の衝撃を殺しきることが出来なかった。それでもランスの身体を守ろうとしたためにカイルは頭を強打してしまう。額を道路にぶつけ、傷口から血が流れ出した。鈍痛で飛びそうになる意識を、歯軋りしながら必死で繋ぎとめる。
「お兄さん、大丈夫? ランス! なんてことをしたの!」
ランスに批難の言葉を浴びせようとするヘレーナ。カイルはぐらぐらと世界が回る中で懸命に言葉を紡いだ。
「怒らないであげてくれ。彼はフライングキャッチの為に作られた猟犬なんだ……パートナーから投げられたボールは何よりも優先して取りにいかなくてはならない。ランスは単にボールを大事にしているから走るんじゃない……君が投げたボールだから走るんだ」
ぽろぽろと涙を流すヘレーナ。
「そんな……ごめんね、ランス。私、ひどいことしたね」
顔を涙でぐしゃぐしゃしながら謝罪するとランスの首筋に抱きついた。意地っ張りでパートナーになる相手にすら心を許せなかった少女が謝罪をしたのである。
ランスは慰めるようにヘレーナの頬を舐めている。人間変わるきっかけさえあれば変わるものだ。
二人の絆が見えるようでカイルは微笑ましい気持ちになる。が、その感動は背後からの衝撃によってかき消された。寝転がっているカイルに激しい蹴りが浴びせられる。
「この野郎、さっきはよくも脅かしてくれたな」
物陰から覗いていたのであろう、先ほど追い払った少年達がやってきてカイルを袋叩きにする。普段なら気にすることもないような子供の蹴りでも今のカイルの頭にはひどく響いた。
「くそ、や、やめろ、お前ら……!」
「うるっせぇんだよ! 恥かかせやがって!」
少年はカイルの頭部を何度も何度も上から踏みつける。何とか両手で頭を保護するがレンガ敷きの道路に打ち付けられる衝撃に耐え切ることができなかった。呻き声を上げて動けなくなってしまうカイル。
「……はぁ、はぁ……ふん、思い知ったか糞野郎め。軍人だからっていつまでも舐めた態度取ってんじゃねぇぞ」
リーダーの少年はカイルに唾を吐きかけるとターゲットをヘレーナに移した。怯える彼女の髪の毛を掴むと強引に引き摺り倒し、上着を奪い、さらには下着を剥がそうとする。
「痛い! やめて、助けて!」
「誰がお前を助けるってんだよ、ああ!? 頼みの綱の軍人は倒れてる! ……そもそもお前は誰からも愛されてないし、友達なんていやしねぇだろ」
しかし少年は間違っていた。何しろ彼女は変わったのだ。今のヘレーナには大事な友人がいる。
ランスは吠え、猛り、牙を剥き出しにした。その顔はやはり猟犬、異様なまでの迫力を備えている。
ランスはヘレーナの下着を掴んでいる少年の腕に思い切り噛み付いた。
「いたたた! 離せ!」
腕を大きく振り回すがランスの牙は少年の肉に食い込み離さない。むしろ噛まれた状態のまま振り回したため傷口は広がり、少年の服に赤い染みを作る。
「や、やべえぞ、こいつ! いかれてやがる! おい、誰か助けろ!」
しかしリーダーの少年の声に呼応できるほど度胸のある人間はいなかった。皆、どうしていいのかわからず距離をとりながら眺めることしか出来ない。その間にも肉は少しずつその割れ目を肥大化させ続ける。彼の体液を吸い取りきれなくなった袖口から赤い液体が零れ、地面に点々と紅い華の絵を描いた。骨が見えるか見えないかのレベルまで傷が開いたところで痛みに耐えかねた少年は涙を流した。
「くそ、痛てぇよう……もうやめてくれ……」
少年は言いながら膝を着いた。ランスは相手の戦意が失われたことを認識すると口を離し振り向いた。
残りの少年達はランスと目が合い、慌てて逃げ出すが大した訓練もしていない子供が、走りで猟犬に勝てるはずもない。ランスは飛びついて押し倒すと顔に噛み付こうとする。慌てて少年はランスの口を手で押さえるので、ランスは仕方なくその手に噛み付くことにした。ぶんぶんと左右に激しく揺さぶり噛み千切ろうとする。
「うわぁぁぁあ! やめて! ゆ、指が取れちゃうよ!」
小便を垂れ流しながら懇願する少年、しかしランスに容赦はなかった。手を離す代わりに顔面に噛み付いた。頬に犬歯が突き刺さり悲鳴を上げる少年。
一人と一匹が格闘している間に残りの一人はリーダーの元に戻ると引き摺りながら逃げ出そうとする。
「はやく、さっさと行かないとまた噛まれるぞ!」
形勢は一気に逆転、阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されていた。
因みに残りの一人はすでに逃げてしまっており姿を消していた。
◆
薄れゆく意識の中でカイルは、ランスが少年達を追い払うのを見ていた。しかしそれは、なんてことはない、正にフライングキャッチの日常であった。
学生時代はいつもあの中で生き残る為に必死であった。勝つためには手段を選んではいられない。対戦相手である犬を殴り、蹴り、投げ飛ばす。競技中に大怪我をしたなんて事例は当たり前すぎて大した話題にもならない。そして生き残るために必死なのは人間だけではない。猟犬たちも同じなのである。戦いに勝ち残れば主人に認められるし、よりより食事にもありつける。
さらに怪我に関して言えば犬の方が悲惨である。寿命が短い犬にとってブランクとは大きな落とし穴となる。骨が折れれば治療に半年、リハビリに半年は最低でもかかる。その間の治療費や維持費よりも新しい犬を調教したほうが早いと見なされれば処分される場合もあるし、目が潰れでもすれば処分は確実だろう。実際にどうであったかは分からないが、カイルが殺処分へ追い込んだ猟犬だっていたはずだ。
◆
彼女を守るためとはいえ、ランスの中にある本能に火が点いたのは良いことだったのであろうか。自分に出会わなければランスは只の飼い犬として一生を終えることもあったのではないだろうか。ただでさえ犬の一生は人のものよりも格段に短い。ヘレーナの中でランスの存在が重要になればなるほど死別のときの衝撃は大きくなる。
更に言えばヘレーナを取り巻く根本的な孤独の原因、父親との関係も改善したわけではない。これから彼女は父親と向き合わなければならないだろう。もしも父とうまく向き合うことが出来ず、尚且つランスとの別れを迎えてしまった場合、彼女は本当に一人ぼっちになってしまう…。
◆
木陰で寝ていたカイルは遠くに聞こえる少女の笑い声に包まれながら目を覚ました。ヘレーナがボールを投げればそれに懸命に飛びつくランス。誇らしげにボールを持ち帰る猟犬を少女は撫でたり抱きしめたりしている。二人の関係は……少なくとも、今はとても良好なようだ。これからの未来については分からない。競技によってランスは壊されてしまうかもしれないし、もしくはスターダムをのしあがっていくかもしれない。もしかしたらヘレーナが競技への参加をさせないかもしれない。もう彼女にとってランスは愛情を獲得するための道具ではなくなっているのだから。そしていつか二人に別れが訪れたとしても、友情を育んだ日々こそが彼女の明日への糧になる可能性だってある。不確定な恐怖に怯えるよりも、目の前の幸せを噛みしめた方がいい。この考えはカイルの心を少しだけ暖める結果となった。
「これでよかったのかな」
「……何が、よかった、だ。大切な場面でお前はのびてただけじゃねえか。全く情けないな」
背後から掛けられる声にカイルは戦慄した。もうしばらくは会いたくなかった相手、シュレイダーである。彼は座っているカイルに合わせて隣にしゃがむ。
「少尉! どうしてここに? いつからいたんです」
「お前に用があるからに決まってんだろ。都市の西部で何やら乱闘騒ぎがあったらしくてな……被害者の男はまぁ前科ばかり阿呆みたいに持ってる奴だったから別に良いんだけどよ」
そこまで言ってカイルをジロリと睨みつけるシュレイダー。蛇に睨まれた蛙のごとくカイルは口をつぐんで動けなくなる。
「女の子をさらってった加害者の男の特徴がな、俺の知ってる使えない部下にぴったり当てはまるんだよ……その話を頼りに聞き込みをしながらこっちまで来て、裏路地を歩いてたらお前があの子といるのが見えた」
「それはすみません……でもずっと見てたんですね。だったら助けてくれてもいいんじゃないですか?」
「仕事を放り投げて好き勝手してる奴を、わざわざ探して世話までしてやったってのに。お言葉だな、全くよ」
このときになってやっとカイルは自分の割れた額にガーゼとパッチが当てられていることに気がついた。ヘレーナが手当てをしたと考えるよりも……今、隣にいるこの男が処置したと考えるのが打倒だろう。
「……ありがとうございます」
ケンカ別れのようになっていたものの、流石に礼を言わないのは人として間違っていると感じカイルは礼を口にした。しかしシュレイダーは特に気にした様子もなかった。
二人の間に沈黙が流れる。親しい者たちの間に流れるそれは心地良いものであるが、今ここにあるのは泥のように重く辛い時間だ。と、そのときヘレーナがカイルに気がついた。ランスと一緒に走ってやってくる。
「お兄さん、もう大丈夫? ランスのために色々してくれてありがとう。そっちの人は?」
その言葉に目を合わせる二人。カイルが返答に困っているとヘレーナは突然パッと顔を輝かせた。
「私、分かっちゃった! その人、お兄さんのパートナーなのね! 同じ服を着てるもの、すぐ分かるわ。私とランスみたいなものね」
思わず黙り込んでしまうカイル。なんとかこの場を凌ぎたいところであったが、敵の援護射撃は思わぬところから飛んできた。
「ああ、そうだ。俺はこいつと一緒に仕事をしている。パートナーだと言っても過言じゃない……そうだろ?」
シュレイダーの言葉に、カイルは外堀を埋められた感覚を覚えた。折角、ヘレーナとランスに絆が芽生えたところに水を差すようなネガティブな発言をしたくはなかった。
「うん、そうだよ。ヘレーナの言うとおりだ」
「やっぱりね。すぐにわかったわ。お兄さん、いつも不安そうな顔してるけどその人と一緒だと全然そんな感じしないんだもん」
流石にこれには苦笑いするしかなかった。カイルの内側にあった悩みは少女にはお見通しだったらしい。シュレイダーは横を向いていて二人に表情を見せなかったが肩が震えている。ヘレーナは満面の笑みを浮かべた。
「良かったら二人ともどう? 今晩は私の家でディナーを食べましょう。こう見えて料理も得意なの。ね、いいでしょう?」
シュレイダーはすぐに返事を出した。
「俺も一緒で良いのか? それなら世話になるか」
「構わないわ! もう少しランスとトレーニングしてくるわ、待っててね。行くわよランス!」
走り出すヘレーナにランスはワン、と元気よく返事をして着いていく。シュレイダーは彼女等が遠くに行くのを見てカイルに声をかけた。
「よし、もういいだろう。来い、今すぐだ」
そう言って立ち上がるとカイルにも立つように要求した。
「もう行くんですか? 夕食の約束はどうするんです?」
カイルの気の抜けた返事に気を悪くするシュレイダー。迫力のある眼力でカイルを睨む。
「お前の遊びにこれ以上は付き合ってられない。俺たちには仕事があるんだぞ、わかってるだろう。お前は何をするためにこの街に来た。やるべきことが出来ないなんて犬以下だぞ」
自分のやるべきこと。全て納得は出来ないが……少女と猟犬の後姿を眺めていると自分も立ち止まっていてはいけないと感じた。
「……そうでしたね。捜査はまだ終わっていません。私にもまだやらなきゃいけないことがありますね」
「なんだ? やけに物分かりがいいな、気持ち悪い。……まぁいい。博士と二人で次の任務の準備をしておいた。四の五の言わず着いて来いよ。今回も多少、派手にやるつもりだ」
「こ、今度は何です? また危ない作戦じゃないでしょうね」
尻をはたいて立ち上がると後について歩くカイル。シュレイダーは顎でついて来い、と言うとそれ以上は何も語らなかった。また心労が重なる日々が始まると思うとカイルの胃は悲鳴を上げた。だが同時に、自分の中の使命感が再び燃え上がるのを感じていた。
こうしてカイル・ヴァイツェル中尉が国防軍犯罪捜査局に配属されて初めての休暇は終わりを告げた。
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「んーっ! これで半分!」
作業の手を止めると、フランカ・カバナーは背を反らせて大きく伸びた。
いつもは部下の手前、こんな気を抜いたことはしない。
今日は休日なので、白のワイシャツにチノパン姿というラフな格好で職場に来ていた。軍服姿では隠されがちな形の良い胸や腰まわりが綺麗なラインを描き、フランカのスタイルの良さを際立たせている。
「家に持って帰って出来ればねー……」
端末を前にフランカの気分はうんざりとしていた。軽く溜息を吐きだしてみるが、肩の凝りはそのままだ。
フランカの所属する国防軍犯罪捜査局では、万年人手不足の状態が続いている。扱う事件が軍に関するものなので、資料の持ち出しは厳禁なのだ。だからこうやって溜まった報告書の作成を、貴重な休日を潰してまでやりに来ないといけない。
「誰のせいでこんなに手間が掛かってると思ってるのかしらね」
先ほどから格闘していた報告書を、フランカは忌々しく睨んだ。
殴り書きされたその報告書は、部下のゾーイ・シュレイダーが書いたものだ。フランカに与えられた責務の一つは、現場で捜査する彼の報告内容を纏めて上層部に報告することである。
シュレイダーという男は、報告、連絡、相談という仕事上の基本を全く無視する非常にやっかいな部下だった。おまけに事件解決のためには方法を厭わず、規則違反ギリギリの行為も平気でやってしまう問題児でもあった。そんな報告をストレートに上層部に上げるわけにはいかない。
自分達のチームがいかに有能で、事件を最適な解決に導いたかを、少しの演出を交えながら報告書に纏める。気苦労が絶えない仕事だけれど、それでもフランカは今の仕事に誇りを持っていた。こうやってプライベートも仕事に捧げることで、自分の階級や責任に自信をつけてきたのだ。
「今度からカイルに報告させましょう」
真面目なカイル・ヴァイツェルなら、きっちりとした報告書をあげてきてくれるだろう。ちょうどシュレイダーとコンビを組ませているし、仕事は適材適所に配分すべきだ。
シュレイダーの書いた雑な報告書を机の上に投げ置くと、何かが卓上から滑り落ちた。
床に落とされた映像記録メディアを拾い上げたところで、フランカは思い出す。
「まったくもう、こういうものにうつつを抜かしているから、仕事の能力が上がらないのよ」
それは昨日、部下のカレーニナ・ザスト上等兵より没収したものだった。
規則に厳しいフランカは、職場に不必要なものを持ち込むことを極端に嫌がった。しかもカレーニナがこそこそと隠す素振りを見せたため、余計にそれが何か重大な規則違反になっていると感じたのだ。
女帝Σのもと、帝国内での女性の地位は決して低くはない。しかし、実際は男尊女卑が横行していることを、今までの生活の中で嫌というほど思い知らされた。そしてそれに真正面から戦いを挑んだ結果、一旦はキャリアの道を閉ざされてしまうという苦い経験が、彼女の過去にはあった。
フランカには野心がある。だからこそ、出世欲の無い人間を認めることが出来ない。それが同性だとなおさら厳しい目で見てしまう。女であることに甘えるな、と思うのだ。
「やっぱりチェックすべきよね」
内容によってはカレーニナの処分を決めなくてはいけない。
映像記録メディアの束を掴むと、フランカは視聴覚ルームへと向かった。
◆
まだ至る所に戦争の爪痕が痛々しく残るペデルゴン・ゲルマニア市。
メインの通りを外れた路地裏の、そのまたさらに奥まった場所に、店はあった。
日中も薄暗いその場所には、何かを求める人が次々とやって来る。
重い扉を開け、ゾーイ・シュレイダーは店の中に入った。今日は非番なのでもちろん軍服は着ていない。
「いつもの」
一番奥のテーブル席に腰かけながら、マスターへと声を掛ける。
その席はシュレイダーの定位置となっていた。ここからなら店の中を一望できる。
「なんだ、今日は繁盛してるんだな」
ビールを運んできた不愛想なマスターに、シュレイダーは話し掛ける。
「あまりウチの店の名が売れすぎると困るんだがな」
「まったくだ」
狭い店内には、複数の男女がいた。何かこそこそと話しては、ペアを変えてまた話しはじめる。
彼らには特徴があった。女はやたらと露出の高い服を身にまとい、男はコソコソと人目を気にしている。よほど見られたくないのか、変装している男までいた。
やがて話の纏まったらしいペアが、店の奥へと消えてゆく。一組、二組、とその姿を消し、店内にはシュレイダーとマスターだけが残された。
売春が禁止されているΣ帝国内において、違法な売春宿兼バーがそこにはあった。
ゾーイ・シュレイダーは休日をいつもこの店で過ごす。勤務時間外に、違法行為を発見し通報するほど真面目な男じゃない。かといって女を買いに来ているわけでもなく、ただ酒を飲み、欲望にまみれた人間を眺めて時間を潰すだけだ。長年最前線で戦い、生と死が隣り合わせの戦場を生きてきたシュレイダーにとって、人間のむき出しの欲望を目の当たりにすることがもはや日常となっていた。
戦争は人も日常も狂わせる。
「こんにちは!」
勢いよく開いた扉から、少女が顔を出した。まだ顔にあどけなさを残し、白いワンピースから覗く華奢な手足が、成熟途中であることを物語っている。腰まで伸ばしたブロンドの髪は薄く汚れ、全体的に粗末な印象になっていた。しかしブルーの大きな瞳には、まだ夢や希望の輝きを残している。
新顔だな、とシュレイダーは思った。戦争孤児が生きるために体を売ることはよくある話で、この街では珍しくも無い。幼女趣味の連中は割合に多く、皮肉なことに彼女のような娼婦には一定の需要があるのだ。
少女は少し緊張した面持ちでドアの前に立っていたが、シュレイダーの姿を見つけると小走りに近付いてきた。
「あの……お兄さん、わたしを買ってくれませんか?」
「残念だが、ガキは俺の趣味じゃない」
シュレイダーはいつも娼婦にそうするように、少女を冷たくあしらう。
「他を当たれ」
そう言って、ビールに口をつけた。炭酸が喉を刺激し、咳き込む。
少女は心配そうにシュレイダーを見ていたが、何かを思いついたように鞄に手を突っ込んだ。そしてキャンディを一つ取り出し、シュレイダーに差し出す。
「これ、妹へのお土産なんだけど……まだ沢山あるから、お兄さん、どうぞ」
少女の場違いな行動に、シュレイダーは顔をしかめた。
「わたし、マリアっていいます。お兄さんのお名前は?」
了解も得ずにマリアはシュレイダーの向かいに腰かける。テーブルに両手で頬杖をつく仕草が幼い。
興味深々といった目で見てくるマリアから、シュレイダーは視線を逸らした。
「お前、何でこんなところにいるんだ」
「わたし、まだ小さい妹がいるんです。両親は戦争に行ったまま帰ってきませんでした。妹と二人で生きていくには、わたしがこうやって働くしかなくて」
「そのお涙頂戴話、どっから仕入れてきた」
「よく言われますけど、本当なんですよ」
シュレイダーの嫌味な言い方に、マリアは少し困った顔で笑ってみせた。
「でもわたし、この仕事が好きです。一所懸命やったら、みんな喜んでくれるから」
甘いな、とシュレイダーは思った。言葉を掛ける代わりに鼻で笑ってやる。
「お兄さんがどう思ってるか分からないけど、これも夢を売るお仕事なのかなって思うんです。こんなあたしでも必要としてくれる人がいるんだって思うと、頑張れちゃいます」
「お前の客たちはよほどおめでたい奴らなんだな」
「この世に悪い人なんていませんよ」
そう言ってほほ笑むマリアに、シュレイダーはひどく違和感を覚えた。現実の厳しさを教え
てやりたくなる。
「戦争で両親を失って、憎いとは思わないのか」
「悲しい……かな。でも相手にも家族がいて、自分達の国を守ろうとしてるんですよね。憎んだってしょうがないっていうのが正直な気持ちです。早くこんな戦争が終わるといいな……」
「お前も、おめでたい奴だ」
シュレイダーは思わず舌打ちしていた。マリアを見ていると何だかイライラする。
「そうだ! わたしの妹の写真、見て下さい。一枚だけ残ってるんです、コレ――」
マリアが写真を取り出したとき、その華奢な肩が乱暴に揺れた。客とおぼしき男がマリアの肩を掴んでいる。
「おいお前、いくらだ?」
男は室内にも関わらず大きなサングラスをかけ、帽子を深くかぶっている。店にやって来る男達の中には正体を隠すように変装をしてくる奴もいるが、この男はより厳重だった。
シュレイダーはこの男のことを知っている。店の常連客だが、暴力癖があるため、娼婦たちからは嫌われている。
「あの、ええと、コレでお願いします」
そんな男とは知らぬまま、マリアは金額を手で示した。娼婦がよく使うサインだ。
シュレイダーは店の奥へ消えてゆく二人を眺めながら、酒を胃に流し込み、再び咳き込んだ。
◆
「なによ、これ。どこでこんなものを!」
映像記録メディアに入っていたドラマの冒頭部分を見たフランカは、早くもカレーニナの処分について思考を巡らせていた。
それはΣ帝国貴族の娘と地球連邦の兵士の、禁断の恋物語だった。
Σ帝国の宝である婦女子が敵国の男に惚れるなど言語道断、倫理違反も甚だしい。愛国心のかけらもない内容ではないかと、フランカは憤慨する。
さらにフランカをイライラさせたのは、地球連邦の兵士の役を演じている俳優が、部下のカイル・ヴァイツェルにそっくりだったことだ。
参謀本部から転属してきたカイルに、はじめは自分の境遇を重ねて見てしまうこともあったが、あまり出世欲を見せないカイルを「男らしくない」と思っていた。ドラマの中の兵士も、敵国の娘に恋をし、愛国心と恋心の間で揺れ動いている。
「男だったらもっとはっきりしなさいよ!」
優しそうな主人公の兵士が、フランカには頼りなく女々しい男に見えてしまう。
「だいたいこの部隊の指揮官も策が無いわね! 敵地を攻めるならこんな辺境の土地に部下を送り込んでどうするのよ」
ドラマを盛り上げるための設定に真面目にツッコミを入れる。
「ああ、もうっ!」
ピンチに陥る主人公に、フランカは手に汗握りながら画面に食いついた。
「そっちじゃないわよ、彼女はこっち―――」
戦場と化した屋敷の中を、兵士と娘はお互いを探しあって奔走する。壁を挟んですれ違う二人の姿に、やきもきする。
お互いに想い合っているのに、手も繋げない二人。ようやく人の目を盗んで逢引きに成功しても、空襲が邪魔をする。そして周囲に関係を知られてしまい、引き離される二人。
「なんて時代なの……」
いつの間にかフランカは、ドラマに夢中になっていた。
はじめは主人公への苛立ちと同様に、非力なヒロインへの嘲笑の感情を持っていた。今までのフランカは、誰にも頼らず、自身の力だけで生き抜いていくことが強さだと信じていたからだ。
しかし今は、お互いを想いあう心が、なにものにも負けない強さを生み出していることを知ってしまった。
…私もこんな恋をしてみたい。
ヒロインの娘に対して憧れの気持ちが強くなる。
私も、こんな風に誰かを愛し、愛されることがあるのだろうか……。その疑問には、不安よりも期待の方が勝っていた。
やがて物語はクライマックスを迎える。
地球連邦の決死の作戦を遂行するため、主人公の兵士は再び娘のいる街へと戻る。敵として、娘が生まれ育った街を破壊しつくさなければならないのだ。そして彼は、震える手で空爆のボタンを押す……。
視線の先には、逃げ惑う人々を必死で誘導し、街を守ろうとしている娘の姿があった。
彼は戦火の中を、娘を求めて必死に走った。そして自国の兵が娘に向けた銃口の先へ、何も考えずに飛び出す。凶弾がその胸を撃つ。
「だめよ、死なないで……!」
フランカは叫んだ。それはヒロインの娘のセリフと全く同じ叫びだった。
ただひたすらに彼の命が助かることを神に祈る。フランカの大きな瞳からは、大粒の涙がとめどなく溢れていた。
永遠の別れを悟った二人は、お互いの唇を重ね合わせる…。
エンドロールが流れるのをぼぅっと眺めながら、フランカは胸の中に熱い気持ちが湧きあがってくるのを感じていた。
「カバナー大尉もそういうのがお好きなんですね」
突然背後から声を掛けられて、フランカは口から心臓が飛び出そうなぐらい驚いた。振り返ると、朗らかな笑みを湛えている優男が立っている。
「え……あ……」
フランカは恥じらう乙女のように、ただ顔を真っ赤にするばかり。
◆
シュレイダーが五杯目を飲み干した頃、男が奥の部屋から出てきた。相変わらずの厳重な変装である。
するとその後を、マリアがよろめきながら出てきた。
「なんだっ!」
さしものシュレイダーも顔をしかめる酷さだった。
少女の顔には大きな青い痣が出来ており、右目は腫れて開いていない。明らかにはじめよりもボロボロになった服から覗く手足には、痛々しい痣がまるで戦争中の領地のように白い肌を赤黒く染めている。
「お願いです、今日の稼ぎがないと、わたしたちは生きられません」
「うるさい! 客も満足させられないくせに、一人前ぶるんじゃねぇよ!」
「お願い、お願いですから、お約束の代金を払ってください」
非情にも男は縋りつくマリアを足蹴にした。
弾みでキャンディがばらばらと床に散乱する。
「お前らみたいな低俗な人間に、こんな嗜好品なんて贅沢すぎる。身の程を知れ」
マリアの目の前で、男は散らばったキャンディを踏み潰した。マリアはそれを涙を浮かべた目で悔しそうに見ている。
そこには己の力を誇示し虐げる者と、非力に虐げられる者の構図があった。
「何だよその目は? また殴られてぇのか」
男はマリアの胸倉を掴み、その体を引き上げる。苦しそうに呻く彼女に向かって、右の拳を振り上げた。
「おい、こんなところでやめておけよ」
マスターが動くよりも早く、シュレイダーはその腕を取った。
「ここは個室じゃねぇんだぞ」
シュレイダーなら、このまま男の腕を捻り上げて制圧することも出来る。しかしあくまで傍観者の立場を崩さない彼は、そうしなかった。
忌々しそうに舌打ちしながら、男はシュレイダーの手を振りほどくと、黙ってバーを出て行った。
あとに残されたマリアは、嗚咽をこらえながら必死に涙を拭っている。
さすがに同情したのか、マスターが床に落ちたキャンディを拾い集めてやっていた。ここでは娼婦と客のトラブルには関知しないのがルールなのだ。
マリアは床にへたりこんだまま、涙を止めようと必死になっていた。零れた大粒の滴が床に黒い染みを作る。その華奢な肩は、悔しさで小さく震えている。
「これがお前の現実だ。諦めろ」
戦争孤児になった時点で、マリアの運命は決まっている。
崇高な思想を持って戦う奴が、戦場で簡単に命を散らす様をシュレイダーは嫌というほど見てきた。この戦時中に、夢や希望を持つほど無駄なことはない。
「……憎いか?」
シュレイダーの問いかけに、マリアは答えない。
唇を噛み、必死に感情を押さえているようだった。
「憎いか、って聞いてるんだ。答えろ」
マリアは大きな瞳をシュレイダーに向ける。その瞳からはまだ涙が溢れ続けている。ただ虐げられるだけの少女は、やがて小さく首を横に振った。
テーブルの上には、マリアがくれたキャンディが転がっている。
「……チッ」
大きく舌打ちすると、シュレイダーはキャンディを掴んで店を飛び出した。
◆
「少佐! ……どこから見られていたんですか」
フランカは涙を消そうと急いで拭うが、まだ涙は止まってくれない。
後ろにはフランカの上官であるゲオルグ・ベンヤミンの姿があった。彼も軍服姿ではないところを見ると、フランカと同じく休日出勤していたらしい。
「主人公がヒロインを庇って倒れたところからですかね」
「すぐに声をかけて下されば良かったのに。少佐はいじわるですね……」
拗ねた少女のように鼻をすするフランカに、ゲオルグは苦笑した。いつも完璧な彼女の意外な一面を見てしまった気まずさでも感じたのだろうか。
「弁明させて下さい。これはカレーニナ・ザスト上等兵が秘密裏に持ち込んだものを、検閲して…」
「分かっています。これであなたをどうこうするつもりは私にはありません」
ゲオルグはフランカの言葉を遮ると、安心させるように言った。
「それよりもこのドラマ、設定はどうあれ、いい話じゃないですか。私も最後はホロリときてしまいましたよ」
フランカは急に体から力が抜けるのを感じた。ゲオルグの寛大な対応に、緊張が解ける。
いや、それよりも共感してもらえたことへの安心感なのかもしれない。
「実はあなたは鉄の女なのではないかと思っていたんですが、今日のあなたを見て安心しました」
ここまで男女の性差別にこだわっておきながら、他人に女性扱いされると怒るフランカだったが、鉄の女と言われても今日ばかりは気にならなかった。
むしろ、気を使ってくれたゲオルグがいつもと違うように見えた。それはただの上司という存在ではないように感じられる。
「あなたも意外にかわいいところがあるんですね」
心臓がドキリと跳ねた。
優しく笑うゲオルグが直視できない。顔が熱くなる。
「や、やめてください……私をからかっているんですか」
「まさか。私はただ、あなたが悲劇をきちんと悲しむことが出来る心の優しい人なんだな、と思っただけです。でもかわいいは余計でしたね、すみません」
ゲオルグは申し訳なさそうに少し頭を下げた。
三十三歳という若さで少佐に上り詰めていながら未だに独身で、浮いた話も無いゲオルグは、女性兵士の間ではちょっとした人気者だ。フランカはそんな話を馬鹿にしていたが、 今なら何となく理解できる気がする。
「では、あまり根を詰めすぎないように。せっかくの休日ですから」
労をねぎらう言葉を残し、ゲオルグは部屋を出ていこうと後ろを振り返った。
「……少佐も、お優しい人です」
その背中に向けて、フランカはポツリと呟いた。
フランカは知っている。ゲオルグが誰よりも部下のことを気にかけ、率先してフォローを行い、休日も潰してまで仕事をこなしていることを。
ゲオルグが去ったドアを眺めながら、フランカはまだ火照っている顔の熱を感じていた。
フランカの中に、ゲオルグに対する尊敬とも憧れともとれる感情が芽生えた瞬間だった。
◆
店の前の暗い道で、シュレイダーはすぐにその背中を見付けることが出来た。
前を歩く男の無防備な背中へ、蹴りをくらわす。うつ伏せに倒れた男の襟首を掴んで引き上げると、キャンディを握りしめた手で数発殴りつけた。
「な、なにをするんだ! やめろ! やめてくれ!」
「そう懇願する女を、お前は殴るんだろう。こんな風に」
シュレイダーは男の顔面に容赦なく拳を振り下ろした。衝撃で男の変装道具が吹き飛ぶ。
「やめてくれぇ! 顔だけは! し、商売道具なんだ! 芝居ができなくなっちまう!」
男は必死に顔を庇った。ガクガクと膝が震えていて、失禁寸前といった怯え方だ。
「あいつらの体も商売道具だろう。お前だけが許されると思うな――」
力を溜めこんだ拳が男の鼻っ面へ当たるギリギリで、シュレイダーはその拳を止めた。男の顔に目が釘付けとなる。
何と男の顔が、シュレイダーの上官にあたるカイル・ヴァイツェルにそっくりだったのである。年齢よりも少し若く見える甘いマスクは女ウケがいい。真面目で仕事に真っ直ぐなカイルのことが、シュレイダーは苦手だった。
「…………くそっ」
これ以上は単なる私怨のリンチになってしまう。そう判断したシュレイダーは、ゆっくりと拳を下ろした。
「こ、こ、これで勘弁してくれ!」
男は震える手で財布を取り出すと、中にあった札を全てシュレイダーに差し出す。
「今度から料金はちゃんと払え。まあお前に今度があるかどうかは分からないが」
シュレイダーの鋭い目に射抜かれた男は、とうとうズボンを濡らしてしまった。
◆
フランカは自分の容姿に少なからず自信を持っていた。端正な顔つきは産んでくれた両親への感謝の念を忘れない。バランスのとれた肢体は、適度な運動と食生活により維持できている。
しかしせっかくの美貌を、フランカは恋のために使おうと思ったことは今まで一度も無かった。
「ちょっと地味かしら?」
必要最低限のものしか入っていない化粧ポーチを覗きながら、フランカは独り呟いた。
「今年の流行色って何色なのかしら……」
フランカがさらに自分を美しく磨く努力をすれば、きっとペデルゴン基地、いやΣ帝国国防軍の中で最も美しい女性将校になるだろう。恋を知った今、より美しくなる彼女に敵はいない。
ただし一つだけ問題があるとすれば、フランカが淡い恋心を寄せ始めたゲオルグが、何故浮いた話が無いか、という点につきる。彼の隠された嗜好を知った時、フランカの初めての恋は終わる…。
そんな結論になるとは想像もせず、フランカは軽い足取りで職場を後にした。そこには愛国心や規則ばかりを気にする女は、もはや存在しない。
◆
「こんなに……! 多すぎます。残りはお兄さんの報酬に……」
店に戻ったシュレイダーに金を渡されたマリアは、明らかに料金よりも多い札束に目を丸くした。律儀にも、余分をシュレイダーへ渡そうとしている。
その手を振り払うと、シュレイダーは何も言わずに店を出た。
「ありがとうございます!」
マリアは遠ざかるシュレイダーの背中に深く頭を下げた。その姿が見えなくなるまで、ずっと頭を下げ続けた。
「……俺も丸くなっちまった」
シュレイダーは前線で戦っていた時代を懐かしいと思った。
こうして命の危機を感じることなく休日を過ごせる今は、平和なのだろうか。しかしこの場所も、今の仕事も、ある意味では敵だらけの前線である。他人への優しさが致命傷になることだってあるのだ。
シュレイダーはキャンディを口の中に放り込むと、緩んだ心を引き締めるように、甘いそれを噛み砕いた。
◆
大通りに面したショウウィンドウの前で、フランカは足を止めた。ガラスケースの中には綺麗にデコレーションされた最新の化粧品が、キラキラと輝いている。
その後ろを、ひとりの男が通り過ぎた。甘いキャンディを舌の上で転がしながら、シュレイダーは人混みを縫うようにして歩く。
先ほどまで湿っていた空から雲が去り、綺麗な夕日が顔を出す。
移りやすい天気が、季節は秋だと教えてくれたのだった。
銃や剣を手にして敵に振りかざすだけが戦争ではない。
もちろん兵の多くは戦地におもむいて武器を手に取り、鍛え上げられた体一つを頼りに戦う。が、なかには情報収集や捜査を中心に行ない、軍に貢献している者たちがいることを忘れてはいけない。
カレーニナ上等兵が所属するΣ帝国国防犯罪捜査局は後者に分類される。ここでは軍内部で発生した犯罪を捜査、解決することに尽力していた。
同じ軍にいながら味方を裁く役目を持った捜査局は兵士たちから嫌われる存在であり、捜査官でないカレーニナでもそれは充分に感じ取ることができた。
捜査局本部は戦闘知性艦ブルゲラⅨの中にある。局長室、研究室、執務室、さらには居住区などの機能を搭載して独立運用されていた艦内には捜査官以外の人々も多く働いている。
カレーニナ上等兵も毎日事務仕事に追われながら忙しく過ごしていた。言うなればここが彼女の戦場であった。
「これがどういうことか、説明してくれるかしら」
捜査局執務室の机に腰かけたフランカ大尉は腕を組んだまま、無表情で静かに静かに言い放った。手元のディスクを指で叩きながらカレーニナ上等兵を鋭い目で見つめていた。
この表情が一番恐ろしいと、カレーニナ上等兵は思う。
あからさまに叱ったり不機嫌な顔をするわけではないのに、心の底ではやり場の無い怒りをふつふつと燃やし続けている。爆発するタイミングがまったくわからないところが余計に怖さを増長させる。
「すみませんでした」
横に立たされていたカレーニナ上等兵は何よりもまず頭を下げた。もちろん、これで上司の怒りが静まるわけはない。
まさに絶体絶命。
前線なら五体満足での帰還が叶わぬような危機的状況だった。
「私は説明をお願いしたのだけど?」
「えーっと……」
フランカ大尉はわずかに苛立った様子で返答を求めてくる。これ以上下手なことは言えないと冷や汗をかきながら、カレーニナ上等兵は口を開いた。
「……大尉からの指示通り、資料をまとめたディスクと書類を先方に送った、……つもりでした」
「そうね。じゃあどうしてディスクが送り返されてきたのかしらね」
「…………すみません」
「空のディスクを間違えて送るなんて聞いたことないわよ」
フランカ大尉は頭を抱えた。
事の起こりは数日前。カレーニナ上等兵が、資料を焼いたディスクと間違えて空のディスクを送ってしまったことにある。
そして今日の朝。空のディスクが返送され、ついでに先方から嫌味を聞かされたらしい。
「カレーニナ上等兵、あなた最近ミスが多いわよ。仕事は遊びじゃないんだから、もっと集中して取り組んでもらわないと困るから」
「……はい」
「わかったらもういいわ。仕事に戻って」
そう言われて、カレーニナ上等兵は逃げるように自分の席に戻った。
フランカ大尉に言われた通り、近頃ミスを連発している。どれもちょっとしたミスなのだが、積もりに積もって上司の我慢の限界を超えてしまったらしい。
このまま機嫌を損ねたままにしていたら、面倒な仕事を押し付けられたり残業をさせられたりする可能性がある。それらはできれば避けたいことだった。
しばらく大人しく仕事をしてから席を立ち、カレーニナ上等兵は紅茶を入れて戻ってきた。フランカ大尉のもとへまっすぐ向かい、遠慮ぎみにカップを差し出す。
「どうぞ」
「あらありがと。珍しく気が利くのね」
フランカ大尉は少し驚いて言った。
カレーニナ上等兵は机に戻ると、自分のぶんの紅茶には口をつけずに、時折顔を上げて上司のフランカ大尉の様子をうかがっていた。
悟られようものなら「仕事に集中しなさい」と喝を入れられるに決まっている。視線に気づかれないようにしながら、先ほど運んだ紅茶のカップを注視する。
フランカ大尉は難しい顔で書類に目を通しながら、そっとカップに手を伸ばした。無骨な軍服を着ていても気品と美貌がかすむことのない彼女は、琥珀色の水面で唇を潤してから小さく首を傾げた。
「もしかして、いつもと茶葉替えた?」
「あ、わかりますぅ?」
カレーニナ上等兵は、待ってましたとばかりに答えて立ち上がった。紅茶のパッケージを掲げて嬉しそうに言う。
「いつもより高いやつ買っちゃいました。お口に合いました?」
「確かにおいしいけど……」
「よかったぁ。大尉に飲んでもらおうと思って、高いものを取り寄せたんですよ」
嘘も方便である。
とは言っても実際のところ、半分嘘で半分本当だ。
上司の機嫌を取るために用意していたものに違いないが、この紅茶を選んだのは、カレーニナ上等兵自身が飲んでみたいと思っていたからに他ならない。
わざとらしいご機嫌取りを見て、フランカ大尉は呆れながら言った。
「……いくらだか知らないけど、無駄に使うのはやめておきなさい。軍のお金なんだし、こういうのにうるさい上司だっているんだから」
「えー。いいじゃないですか、ちょっとくらい」
カレーニナ上等兵は唇を尖らせる。
「仕事の効率アップにもなりますよ」
「そういうのはちゃんと仕事ができるようになってから言いなさい。……だいたい、わざわざここで飲まなくても、家で買って飲めばいいじゃない」
「嫌味にしか聞こえないんですけど」
この紅茶はカレーニナ上等兵がプライベートで買えるような値段ではなかった。特に戦争中の今、嗜好品を楽しむ余裕のある一般市民は多くはない。
名家出身であるフランカ大尉と一般市民のカレーニナ上等兵とでは金銭感覚が大きく違うのだ。
フランカ大尉は目を細め、カップに添えられた角砂糖をつまみ上げた。
「まさかこれにもお金かけてるの?」
「それは違いますよ、普通の砂糖です」
「……まあいいわ。それより、頼んでた仕事終わったの? 今日はカイル中尉とシュレイダー少尉との打ち合わせがあるから、資料を執務室まで運ぶようお願いしていたはずだけど」
「こ、これからやります……」
目をそらして答えたカレーニナ上等兵に、フランカ大尉はため息をついた。
「私はこのあと来客の対応があるから頼むわね。打ち合わせまで時間がないから急いで」
「でも、その前に私も一杯お茶をいただいてから……」
「急ぎなさい」
上司にぴしゃりと言われ、カレーニナ上等兵は執務室をあとにした。
◆
ブルゲラⅨ艦内の狭い廊下を『箱』が歩いている。
一歩進んでは右に傾き、また一歩進んで左に傾く。そのたびに中の荷物が揺れて、カタカタと危なっかしい音を鳴らす。
歩いているのは箱ではなく、箱を抱えたカレーニナ上等兵なのだが、大きな箱に隠れて正面からだと顔も見えない。
「うわわっ」
前のめりに倒れそうになるのをどうにか踏ん張ったが、傾いた箱からはいくつかの書類と記録メディアが滑るようにこぼれ落ちた。
「もー、信じらんない」
疲労の色が混じった声をもらしながら、箱の重さに耐えきれず半ば乱暴に床に下ろした。
いやいや運んでいますという空気を全身からにじませ、落とした書類たちをぞんざいに拾って箱に投げ入れた。衝撃に強くない記憶メディアが破損している可能性もあったが、そんなことは知ったことではない。
箱の中身はすべて、書類と記憶メディアだった。
それらが山のように入っており、量がありすぎてふたを閉じることができない状態だった。
カレーニナ上等兵は廊下の真ん中でしゃがみ込み、上司への恨み言をつぶやいた。
「これを一人で運ばせるなんて、鬼よ鬼」
「あの、大丈夫ですか?」
そこへちょうど通りかかったのはカイル中尉だった。フランカ大尉との打ち合わせのためにやって来た彼は、廊下を塞ぐカレーニナ上等兵を不思議そうにのぞき込んだ。
「え? あ、カイル中尉、お疲れさまです」
「具合でも悪いんですか? こんな所で座り込んで」
「いえ、全然大丈夫です」
カレーニナ上等兵は慌てて立ち上がり笑ってみせた。カイルはそれを見て安堵する。
「ならいいんですけど。……それにしても、すごい荷物ですね」
箱を指差したカイルに、カレーニナ上等兵はずいと顔を近づけて言った。
「聞いてくださいよぉ中尉。フランカ大尉に頼まれて執務室まで運ぶところなんです。これ、めちゃくちゃ重いんですよ」
「確かに重そうですね。一人で運んでるんですか?」
「そうですよ、ヒドくないですか? こんなか弱い乙女に。……ほんっと大尉って人使いが荒いんだから」
カレーニナ上等兵は頬を膨らませた。
人使いが荒いという言葉を聞き、カイルの頭の中には国防軍捜査局の同僚の男の顔が思い浮かんだ。思わず口から心の声がこぼれてしまう。
「お互い大変ですね」
「え?」
「あ、いえ、なんでもないです。それで、これは執務室まで運べばいいんですよね?」
カイルはひょいと箱を持ち上げた。腰にずっしりとくる重さは思っていた以上だった。男性のカイルでもそう感じるということは、カレーニナ上等兵のような女性が運ぶには相当の労力が必要になるということだ。
「そんな、悪いですよ中尉」
「気にしないでください。僕もこれから執務室に向かうとこですから」
「でも……」
カレーニナ上等兵の目は、カイルの足元に向けられていた。
カイルは左足を負傷しており、通常の歩行もままならない生活を送っていた。足を引き摺って歩くことは周知の事実であり、カレーニナ上等兵はそのことを気にかけていた。
カイルは笑顔をつくって言う。
「大丈夫ですよ、すぐそこですから」
「そうですか? ……じゃあ、お言葉に甘えちゃいます」
過酷な重労働から解放されたカレーニナ上等兵はぱっと表情が明るくなった。カイルの顔を見つめながらしみじみとつぶやく。
「中尉って、すごくいい人ですよね」
「そんなことはないですよ」
戸惑っているような笑みを浮かべてカイルは歩き出した。カレーニナ上等兵は慌てて後を追った。
「でも、軍の中ってひねくれた人が多いから、中尉みたいな人ってなかなかいませんよ」
「……僕はそんなに立派な人間じゃないですよ」
カイルは少し寂しそうにつぶやいた。カレーニナ上等兵の位置からは、カイルがどんな表情をしていたのか確認することはできない。
「そうだ、中尉。執務室についたらお茶入れますから、ぜひ飲んでってください。いつもより高い葉っぱを買ってみたんです」
「そんなに気を遣わなくても」
「いいじゃないですか。運んでもらうお礼ですよ」
「……じゃあ、あとでいただきますね。ありがとうございます」
カイルが答えると、カレーニナ上等兵は嬉しそうに微笑んだ。
楽しそうに話す姿は兵士ではなくまるで女学生のようだと、カイルは思った。軍の殺伐さを感じさせない彼女は、ここが軍艦内であることも混沌とした戦争のただ中にあることも忘れさせるような空気を纏っている。
「中尉に飲んでもらえたら、きっと紅茶も喜びます。……大尉みたいに紅茶の入れがいがない人より何百倍素敵ですよ」
カレーニナ上等兵は恨めしそうに言う。
それで火がついた彼女は延々と上司への不満を喋り続けた。カイルが丁寧に相槌を打つので余計に饒舌になる。
二人が執務室へ向う角を曲がろうとした時、突然一人の兵士が飛び出してきた。
「危ないっ」
カイルはとっさに避けようとするが、相手が猛然と走ってきたことと廊下が狭いために正面から衝突してしまう。
箱に入っていた書類や記憶メディアたちがバラバラとこぼれ落ち、床一面に大量に散乱した。
「きゃっ。大丈夫ですか? カイル中尉」
カレーニナ上等兵は小さく悲鳴を上げた。
「僕は大丈夫です……けど」
困った顔で床に散らばった荷物を見た。
「もしかして壊れてしまったかもしれません」
「いいですよ、そんなこと。……それより」
カレーニナ上等兵は兵士をキッと睨みつけた。
「ちょっとぉ、危ないじゃないですか」
強い口調で文句を言う。しかし兵士は二人の方を見ようともしない。
「すみません、大丈夫でしたか?」
カイルも声をかけるが反応は同じだった。
その兵士はカイルの知らない顔で、なぜだかひどく焦っているようだった。床に這いつくばり、カイルたちの荷物の下敷きになってしまった自分の荷物を必死にかき集めていた。
目が据わっており、あからさまに兵士の様子はおかしかった。
「もお、聞いてるんですか?」
さらに語気を強めて追及しようとするカレーニナ上等兵を、カイルは制した。
「中尉?」
彼女は何も気づいていない。
カイルは厳しい戦況下に置かれた人間が、今の兵士とよく似た挙動を見せることを知っていた。
カレーニナ上等兵を背中に庇いながら、兵士を刺激しないように挙動を探る。追い詰められた人間は何をしでかすかわからないのだ。
兵士は急いで荷物を抱えると、脇目も振らずに全速力で走り去ってしまった。どうやらカイルの杞憂だったようだ。
「なんなんですかアレ。ぶつかってきといて謝りもしないなんて感じ悪ぅ」
「……相当焦っていたんですよ、きっと。それより僕たちも急ぎましょう。大尉が待っているんですよね?」
腹の虫が治まらない様子のカレーニナ上等兵をなだめながら、カイルはしゃがんで荷物を箱に集め始めた。
「そうでした……。遅れたらまた怒られちゃいますよ」
フランカ大尉の顔を思い浮かべて眉を寄せたカレーニナ上等兵は、一日に何度も怒られては堪らないと床の書類に手を伸ばした。
◆
「ただいま戻りました」
扉を開けると同時に二人は固まってしまった。
執務室は嵐でも通り過ぎたかのように酷い状態だった。
「これはいったい……」
「ちょっと、なにこれ?」
室内には争った形跡があり、机の上の書類やペンが散らばり、落ちたティーカップが濁った水たまりをつくっていた。茶菓子や角砂糖なども床で無惨な状況になっている。
「あ、私の紅茶が」
カレーニナ上等兵は床に落ちたパッケージに気づいて駆け寄った。拾い上げると中身はほとんどこぼれてしまっていた。
「まだ一口も飲んでないのに……」
と泣きそうになりながらつぶやく。
「遅かったわねカレーニナ上等兵」
部屋の奥からフランカ大尉の声が聞こえた。
見るとそこには、顔をハンカチで押さえたフランカ大尉と、仏頂面をしたシュレイダーの姿があった。
「大尉、どうしたんですか?」
ハンカチの下からのぞく肌は赤く腫れているように見える。
荒らされた室内、顔を負傷したフランカ大尉、そして、どういうわけか執務室にいる太々しい様子のシュレイダー。
カレーニナ上等兵の頭には一つの答えが浮かび上がる。
「まさか、その顔……シュレイダー少尉に殴られたんですか?」
「違うわよ」
フランカ大尉は即答した。
「さっき外部から兵士が尋ねてきたの。機密情報が入った記録メディアを受け取るために。……あなたには言ったわよね?」
「はい、聞きました。来客があるって」
カレーニナ上等兵が頷く。
「それで兵士が来たのはいいけど、なんだかおかしかったのよ、挙動不審で。念のために身分証明を見せてもらおうとしたら突然暴れ出した。おそらく偽者だったのね。兵士は私を突き飛ばしてから、記録メディアを奪って逃げ出してしまったの」
フランカ大尉はその時に負傷した頬をさする。
「言っとくけど、俺はその後でここに来ただけだ」
カイルと同じく打ち合わせのためにやって来ただけのシュレイダーは、あらぬ疑いをかけられて面白くなさそうに言った。
「上にはなんて報告しようかしら」
フランカ大尉は深いため息をついた。
ここまで黙って話を聞いていたカイルは神妙な面持ちで口を開いた。
「もしかして僕たち、その兵士に遭ったかもしれません」
「あ、それって、廊下で私たちにぶつかってきた人ですか?」
カイルは頷く。
「今ならまだ、そんなに遠くまで行っていないと思います。艦内の兵士を集めて追いかけましょう」
持っていた箱を壁際に下ろすと踵を返し、執務室を出ていこうとする。
「待ちなさい、カイル中尉」
「急がないと取り逃がしてしまいます」
カイルにはフランカ大尉の制止が不思議でならなかった。
奪われたのがどれほどの機密レベルのものかはわからないが、時は一刻を争うはずだ。すぐに兵士を集めて追跡させるなり艦内を閉鎖するなりの緊急配備を敷かなければならない。しかしフランカ大尉は座っているだけで、そういった行動に移る気配はまったくなかった。
「やっぱり甘いな、中尉」
「どういうことですか」
シュレイダーから揶揄され、カイルは少しむっとする。
「敵地や戦場ならいざ知らず、自分とこの艦内で機密資料を盗まれるなんて、警備レベルが低い大間抜けですって言ってるようなもんなんだよ」
「言い過ぎよ、少尉」
フランカ大尉がたしなめる。
「だからどうにかもみ消す方法はないかって探してたんだよ。お前も考えろ」
「そんな」
隠蔽工作に加担させられそうになったカイルは、この部屋で最も権限があるフランカ大尉に目で助けを求めた。
「悪いけど、中尉にも協力してもらうわ。だって上に知られたら、私はたぶんコレだから」
フランカ大尉は首を切られるジェスチャーをした。
「あ、そうだ」
名案を思い付いたのか、シュレイダーが手を叩く。カイルを指差しながら、
「こいつがなくしたことにすればいいんじゃないか?」
平然と言い放った。
「……冗談ですか?」
「本気だけど?」
目が一切笑っていない。
「お前が兵士と遭った時に捕まえていれば万事解決だったわけだからな。これなら役立たずでもできる仕事だろ」
「無茶言わないでください、僕だって今初めて知ったんですから」
この男なら実際、カイルに無実の罪を着せかねなかった。
「ちょっと待ってください。わかりました、僕も考えます」
「そう、助かるわ」
満足げにフランカ大尉が言った。
カイルは脳をフル回転させて解決法をみつけようとした。なんといっても自分の冤罪がかかっているのだ。
「奪われたデータのバックアップがあればどうにかなりませんか? それで大袈裟にならないように僕たちだけで犯人を捕まえれば……」
「バックアップはないわ。そもそも記録メディアは、艦内のコンピュータに対応していない特殊な型。……あなたが運んできてくれた箱に入っているようなものとは違うの」
カイルは執務室まで運んできた箱に目を向ける。この中にも様々な記録メディアが入っていたが、そのどれとも違う型となると想像がつかなかった。
「やっぱり誰かさんに責任を取ってもらうしかないな」
「僕はいやですよ」
「困ったわね……」
頬以外も痛めているらしくフランカ大尉は首の後ろをさすった。それを見ながらカレーニナ上等兵が労るように言う。
「あのう、早く手当てした方がいいんじゃないですか?」
「大丈夫よ。それより先に、あなたには床の片付けをお願いするわ」
「わかりました」
カレーニナ上等兵は雑巾を持ってきて床に広がる紅茶の拭き掃除を始める。手を動かすたび呪文のように、
「もったいない、もったいない……」
と唱えていた。
「……それで、特殊な型というのはどんな形だったんですか?」
カイルは続きを尋ねた。突破口を開くためには情報が必要だ。
フランカ大尉は親指と人差し指の先をくっつけて大雑把に大きさを示す。直径二、三センチメートルほどの丸をつくった。
「そうね、大きさはこのくらいかしら。キューブ状で色は白」
「なんだかそれって、この角砂糖みたいな感じですね」
カレーニナ上等兵は落ちていた角砂糖を拾い上げた。
「確かにそれとよく似てたわ。大きさも色も……いえ、ちょっと待って……カレーニナ上等兵」
「はいっ」
急に名前を強く呼ばれたカレーニナ上等兵はびくっと体を震わせた。フランカ大尉は彼女に近づいて手元の角砂糖を凝視した。
「これよ……機密情報の記録メディア」
「え?」
室内にいた誰もが耳を疑った。記録メディアは奪われ、すでに持ち去られてしまったはずではなかったのか。
しかし一番驚いていたのはフランカ大尉自身だった。
「おい、どういうことだ」
「私にもわけがわからないわよ」
「もしかすると、大尉と犯人が争った時に、机の上の記録メディアと角砂糖がごちゃごちゃになってしまったのかもしれません」
呆れ気味のシュレイダーにカイルは憶測を述べた。
「まったく人騒がせな話だな」
「いいじゃないですか、大切な機密情報を奪われなくて済んだんですから」
そう言って事件解決を喜ぶカイルだったが、何よりもシュレイダーに無実の罪を着せられなくて済んだことにほっと胸をなで下ろすのだった。
「これで私の首も繋がったわ」
フランカ大尉はイスに深く腰かけて一息ついた。カレーニナ上等兵は掃除の手を止め、にこにこしながら言った。
「もしかして、これって私のおかげですか?」
「なに調子に乗ってるの。今日は部屋を片付けてからじゃないと仕事に手を付けられないから、残業確定ね」
「そんなぁ、ヒドいですよ」
執務室にカレーニナ上等兵の嘆き声が響き渡るのだった。
珍しく、フランカ大尉がラフな私服といった格好でブルゲラIXの艦内を歩いていた。
「あれ? 大尉。そんな格好されてどうされたんですか?」
艦内廊下でばったりと出くわしたカレーニナ上等兵がフランカ大尉に声をかける。
どうやらフランカ大尉の格好がよほど珍しかったらしい。表情が少し驚きの色に染まっている。
「今日は非番で、官給品では補えないものを買い出しに行こうと思って、これから買い物です」
「ええ? 本当ですか? 私もお買い物行きたいです」
「なに言ってるの。あなたはまだ報告書の訂正があるでしょう」
フランカ大尉を、哀れみを乞うような目でじっと見つめるカレーニナ上等兵。
そんな彼女のささやかな抵抗さえもフランカ大尉には通用せず、カレーニナ上等兵を鋭く睨みつける。
「無駄な足掻きをする暇があるなら、さっさと報告書を書いて上げなさい」
「分かりました。上げれば文句ないんですよね?」
「もちろんです」
売り言葉に買い言葉、と言えば良いのか。そこまで言って、カレーニナ上等兵が良いようにフランカ大尉にあしらわれたと思い至って肩を落とす。
そんな彼女の様子をいつも通り冷たく見やって、脇を通り過ぎて行くフランカ大尉。
「私ばっかり、どうして……」
ブルゲラⅨの降板へ向かうフランカの背中に、小さく愚痴をつぶやくカレーニナ上等兵。
「愚痴を零す暇があるなら、早く報告書を上げなさい」
フランカ大尉はカレーニナ上等兵に、捨てゼリフを置き土産にしてブルゲラIXを降りて行く。
そんな彼女に文句を言おうにも言えず、カレーニナ上等兵は執務机に向かって歩を進める。
片や残務処理、片や休日のショッピング。
カレーニナ上等兵は、自分の仕事を処理しながら、フランカ大尉への恨みを募らせていくのだった。
◆
ペテルゴン・ゲルマニア市国立女帝∑記念公園駅近くの市場。その一角に存在する雑貨屋にフランカの姿があった。
フランカの目的は紅茶の茶葉。
官給品には日常品以外は含まれず、嗜好品は自ら手に入れるしかない。それ故に、嗜好品として扱われる紅茶を手に入れるには自らの足を使わなければならない。
この雑貨屋は、特に紅茶の茶葉の品揃えが良く、フランカ大尉がブルゲラIXを降りる時、それなりの頻度で立ち寄ることがある。
軍の捜査官として、あまり女らしくないフランカには茶の嗜みは数少ない趣味だ。
Σ帝国国防少女団の元エリートであるフランカ大尉なら、そのような趣味のひとつやふたつ持っていてもおかしくないのだが、普段の振る舞い、人付き合いに人柄というフィルターを通した他人の目に映れば『らしくない』の一言を口にされるかもしれない。
もちろん、フランカ大尉自身もらしくない、とは思っている。が、日ごろのストレスを和らげるには茶の一杯や二杯で済むなら安いもの、との考えもある。
そんな自分の考えがおかしくて、茶葉を吟味しながら少し自嘲気味に笑うフランカ大尉。
それを見て女性店員が近寄る。
「もしよろしければ試飲もできますが?」
「本当ですか?」
嗜好品扱いで税金もかなり高く設定されている紅茶の試飲。普通の店ならしないサービスである。
しかし、店員から見たらフランカ大尉はお得意様になりつつある。時代が時代で、嗜好品の需要も下がってきている。だからこそ、この店にとってもお得意様になりつつあるフランカ大尉の存在はありがたかった。
フランカもそんな店員の好意を感じて小さく頷く。
「それではひとつ、よろしくお願いします」
「はい」
店員は流れるような手付きで、お茶を入れていく。
フランカ大尉はトレイに乗せて差し出されたカップを受け取り、口をつける。と、爽やかな口当たりと少しの渋みが口に広がる。
ハーブティーの一種だろうか、あまりこの手の物に手を出さなかったからか、新鮮さを感じてフランカ大尉の口元がかすかにほころぶ。
「ハーブティーの一種で精神的を安定させる効果があるんです。最近は入手困難な逸品なのですが、いかがでしょう」
「……そうね、いただこうかしら」
「はい、ありがとうございます」
国防軍捜査局の捜査官、なんて立場はストレスを溜め込みやすい。特に同僚を監視し、監視されるという立場はそれだけストレスを溜め込みやすい。
フランカ大尉に自覚はない。自覚はないが、捜査官とはそういうものだと、着任前の新人研修で教えられた。だからこそ、茶の嗜みという趣味を続けていると言っても良いかもしれない。
「他にもですね…」
フランカ大尉が購入を決めてくれたことに機嫌を良くした店員が、さらにお勧めと言わんばかりに別の茶葉も勧める。
商魂たくましい店員に、偶には良いか、とフランカ大尉も付き合う気になる。
結局、店を出るには随分と店員と世間話をすることになったのだった。
◆
店員と少し話し込んで、帰りが少し遅くなったフランカ大尉が足早に商店街を歩く。
開いている店舗は少なく、すれ違う人もまばら。かつては戦時とは言えど、賑わっていたはずの町並みを見て少し詫寂しく思うフランカ大尉。
しかし、彼女にとって特に目を引くものはなく、フランカ大尉の歩く速度は変わることはない……はずだった。
しばらく歩くと、道の端で泣いてる子供と怪しい男の後ろ姿を見つける。
子供はどうやら少女のようで、男は怪しい身振りで泣いている少女を威嚇しているように見える。
フランカはその怪しいと思える男に職務質問をしようと、念の為に携行した銃を取り出し、構え、近寄ることにした。
「そこの男、黙って両手を上げて立ちなさい!」
驚き、両手を上げて立ち上がり、振り返る男。
「フランカ大尉?」
フランカ大尉は男の顔を見て驚いた。
「……中尉、こんな所で女児を相手に何をしているのですか?」
その男とは、着任してあまり間もないカイル・ヴァイツェル中尉、その人だった。
フランカ大尉の冷たい視線がカイル中尉を突き刺す。それに耐えかねて、カイル中尉が慌てて両手を振って無害を示す。
「誤解しないでください、大尉。僕はこの子供が怪我をして泣いていたのでなだめようとしただけですよ」
慌てて言い訳をするカイル中尉を片手で制止するフランカ。
「そんなに言い訳をし過ぎると、逆に疑われますよ? 中尉」
言われて、カイル中尉がハッとして、肩を落とし小さく「すみません」と謝罪する。
「それで、この子はどうしたのですか?」
「それはですね…」
尋ねると、カイル中尉が現状を説明していく。
どうやらカイルも今日が非番で、シュレイダー少尉に「たまには外に出て見聞でも広めてこい!」とブルゲラⅨを追い出されたらしい。
「自分は官給品のみで生活していますし、急にそんなことを言われてもよくわからなかったので……」
とりあえず、商店街に来てみれば何かの時間つぶしになるだろうと来たら、少女が怪我をして泣いていたので様子を伺っていた……と、そういうことらしい。
「とりあえず事情を聞きながら手当をしましょう」
フランカ大尉が少女に近寄りしゃがむ。
「あなたのお名前は? なんて言うのかしら?」
普段の凛としたフランカ大尉の口調からは想像できない優しい口調にカイル中尉が驚きの表情を見せる、が口を挟まず様子を見守る。
「私たちは怖い人じゃないわ。お願いだから、教えてくれないかしら?」
「……ベル……ティーナ……」
「そう、可愛いお名前ね。私はフランカ、こっちのお兄さんはカイルよ。どうしてここで怪我をして泣いてるのか説明できる?」
「それは…」
フランカが応急処置をしながら少女に聞くと、少女は涙声でたどたどしく、これまでの経緯を話し始めた。
怪我の原因は近場で喧騒が起き、それに驚いて逃げている最中に、転んで、一緒にいた飼い犬のアーネを手放して逃げてしまい、途方に暮れて泣いていたのだという。
泣き止まなかった理由は、最近軍人が一般市民に手をあげる事案が頻発しており、自分も手をあげられるのではないか、と不安になったからだという。
「ありがとう。良く話してくれたわね」
一言礼を言って、フランカ大尉が少女の頭を撫でる。
丁寧な対応が功を奏したのか、少女の態度もいくらか刺が抜け、打ち解けてくれているように見受けられる。
「でも、困ったわね。早く犬を見つけないといけないわ」
フランカ大尉の焦った口調にカイル中尉が訝しげな表情をする。
「何か問題でもあるのですか? 焦るような理由が」
「ええ、早く見つけないと捕獲される可能性があるわ」
近頃、避難民や疎開民が連れていけないからと飼い犬を放して行く事が多く、野犬が増加傾向にあり、野犬専門の処理を受け持つ機関も存在している。早く見つけなければ、捕獲され、殺処分となることをフランカ大尉はカイル中尉に説明をした。
「あなたの犬がどんな特徴か教えてくれるかな?」
「えっと……白くて、小さいの。赤い、首輪と……アーネ」
「そう、小さいのね。それだったら、そう遠くまで行ってないかもしれない」
フランカ大尉が立ち上がる。
「少尉はここで少女と待ってなさい。その足では探せないでしょう」
「わかりました」
捜索に参加する気を見せるカイル中尉をフランカ大尉は制して、犬を探すために駆け出した。
商店街、裏道、町外と探し歩くフランカ大尉。聞いた犬の特徴は小型犬。そう遠くまで逃げているとは思えない。あまりにも見つからないならそれまで、と考えながら探し続ける。
◆
程なくして犬は見つかり、女の子の元へと戻る。
犬がいたのは商店街の外れにある小さな公園の片隅だった。
「この犬でいいのかしら?」
アーネを持って、小さな白い犬を連れて戻ったフランカ大尉が少女に姿を見せると、少女は涙ぐみながらこくこくと頷く。
「ありがとう、お姉さん」
「どういたしまして。次はアーネを離さないように気をつけるのよ」
「うん」
お礼を言う少女にフランカも優しい表情で少女に注意を促し、少女は小さく頷いた。
それを、フランカ大尉はカイル中尉とともに送り出した。
「さて、と。私達も戻りましょうか? 中尉」
少女と別れ、カイル中尉とともにブルゲラⅨに戻ろうとするフランカ大尉。
「僕は結局、『見聞を広めてくる』なんて目的を達してないんですけど、いいんですかね」
そんなカイル中尉の態度を見て、フランカが溜息をつく。
「あなたと少尉。階級を考えれば、律儀に守る必要のないことなのではないかしら。もっと自分の立場をしっかりと認識しなさい」
「それも、そうですね。すみません大尉」
フランカ大尉の鋭い指摘に、頭を下げて、カイル中尉が後に続く。
「……それにしても、国防軍捜査局の女王様にこんな一面が……」
思わず小さく口にするカイル中尉。
本人はフランカ大尉の耳には届いていないだろうと、高を括っていた。
だがしかし、フランカ大尉は、静かに振り返り、カイル中尉を鋭く睨む。
「中尉、私とあなたの立場は上官と下官。いくらオフとはいえ、そういうセクシャルな発言は慎むべきでは?」
鋭い指摘にカイルは脂汗をかいた。
◆
後日、ブルゲラⅨ艦内で、「国防軍捜査局の女王様に以意外な一面」という噂が流れ、フランカ大尉はカイル中尉を疑うことになる。が、出処は別のクルー。
偶然あの場を見かけた者が噂の元凶だったらしい。
その直後、噂を聞いたカレーニナ上等兵が、「もっと私にも優しくしてくれればいいのに……」という余計な言葉を口にして、フランカの怒りを買い、酷い目に遭うのだった。
ずっと、「祖国」について考えている。
自身の居場所。存在意義。生きる目的。希望。
それが欲しくて、これまでずっと生きてきた。 正しく生きれば見つかると思っていた。いつの日か報われると思っていた。
それでもまだ、ぼくは「祖国」を見つけられずにいる。
何度も裏切られ、何度も信じられなくなった。何もかも捨ててしまおうと思った。
それでも。
ぼくはまだ、信じることをやめられずにいる。
何処かにあるはずの、「祖国」の存在を…。
◆
フリーゾ・エアフロート美術館公園付近のカフェ。一組の男女が、その屋外テラスで昼食を取っていた。
まだあどけなさの残る、整った顔立ちの青年。育ちの良さそうな、いくらか気の強そうな知的な美女。一見すれば姉弟か、ともすれば、年下の彼と年上の彼女というカップルに見えないこともない。
上品なカフェの雰囲気と相まって、いかにも絵になるふたり組。歩道を歩く人々も、時折目をやっては通り過ぎた。
しかし、ふたりは姉弟でも、ましてや恋人同士でもない。
Σ帝国国防軍犯罪捜査局ティーガー・シュバンツの、カイル・ヴァイツェル中尉、フランカ・カバナー大尉…。
無名兵士の墓への献花式が行われるこの日。女帝Σの護衛任務に就くふたりは、ここで着任前のランチタイムを過ごしていたのだった。
「最近……敬礼をしない者が増えているように思えます」
カイルが外を眺めながら、神妙な面持ちで口を開いた。歩道、そして道路。いつもどおりの街の景色は、横並びの小さなプランターで仕切られている。
「由々しき事態です。戦争で不安を抱えた民を前に、我々軍人は、シグマニオンとしての模範を示すべきなのに。何故このような…」
「あのね、中尉……」
フランカはカップから口を離しながら、溜め息混じりに言った。
「シュレイダー少尉は特殊なタイプよ。彼をここの基準に据えられては困るわ」
それに、確かに我々は軍人ではあるが、初めて食事に同席する異性にもっと気の利いた話題はないのか……。
そんなことをフランカがつぶやこうとした、そのとき。
カイルが突然立ち上がった。がちゃん、と、食器が揺れて音がした。
「どうしたの?」
フランカがカイルの視線のほうを見る。老婆がひとり、道で倒れているのが目に入った。
視線を戻すと、もう、カイルは席を離れていた。
◆
カイルは脚を引きずりながら、老婆に駆け寄った。
「大丈夫ですか! おばあさん!」
「……う……ぅう……」
老婆は歩道の上で蹲っている。意識はあるようだ。怪我もしていない。突き飛ばされて倒れただけのようだった。
目線を歩道の向こうにやる。鞄を抱きかかえて走っていく、男の後ろ姿が見える。
間違いない。あの男が老婆の鞄を引ったくったのだ。
人通りはいくらかある。だが、市民は男に目をやるだけで、止めようともしなければ声も上げない。
何故、誰もこの老婆を助けようとしないのか。これほどまでに荒んでしまったのか。我が国の人々は。
無理もない。軍人が規律を守らず、人を人とも思わないような世の中だ。
カイルは男を見据えたまま、無言で立ち上がった。
小さなプランターを手に取り、小脇に抱えて身構える。
軽く膝を曲げ、左脚に体重が乗らないように意識して、独楽のようにぐるんと一回転。遠心力でプランターを投げた。
こげ茶の鉢植えは、猛烈な勢いで男の背中に吸い込まれ――見事命中。
男の体がよろめいた。プランターが地面に落ちて、ばりんと音を立てて割れた。
男は腰に手をやりながらよろめく。一瞬、割れた鉢に目をやり、それから後ろを振り返った。
脚を引きずった若い軍人が、男に肉薄していた。
「貴様ぁッ!!」
叫びながら、カイルは両手で男の肩を掴む。体を引き寄せるようにして、男の腹目掛けて、膝蹴りを叩き込んだ。
「うげぇっ」
男の喉から呻き声が漏れる。
カイルは…この感覚を知っていた。
自分の攻撃が相手の硬い肉に直接めり込む感触。息を荒げて相手に喰らいつく衝撃。目的のために力任せに捻じ伏せる感覚。
そのまま男から、鞄を強引に奪い取った。
「げほっ……な……なんだっ、なんだてめえッ!?」
「……何故だ! 何故盗った!!」
男に向かって、カイルは叫んでいた。鞄を抱きかかえながら、自分でも驚くような大きな声だった。
人のものを盗っていいという意識。盗らなければやっていけないという意識。それがこの星にはあるのだ。
祖国のために、ひとつの敵に一致団結して立ち向かわなければいけないのに。皆で助け合えば、それだけでいいはずなのに。それなのに。
「なんで…」
…何故、こんなにもうまくいかない……?
「……う、うるせえ! 訳の分からねえことをゴチャゴチャと……!」
男がカイルの肩を掴んだ。そして、カイルの横っ面を大きな拳で殴り飛ばした。
鞄を抱きかかえていたお陰で防げなかった。視界がぐるんと横に巡り、カイルの意識が一瞬遠のいた。
よろけて、左脚に体重がかかる。膝に痛みが走る。
カイルはバランスを崩して倒れ込んだ。
男はそのまま覆い被さり、鞄を奪おうと掴みかかってきた。
カイルは鞄を抱いたまま、男に背を向けて、ダンゴムシのように丸まった。口元で錆びくさい味がした。さっき殴られたとき、唇が切れたらしい。
「こいつっ、俺たちの苦しみも知らないで……ッ!」
男の指が喰い込む。背中を何度か殴られる。それでもカイルは離れない。
ふと、男はアスファルトの上に散らばった鉢の破片に目をやった。鼻息を荒げながら手を伸ばし、一際大きな破片を掴もうとした。そのとき。
一発。銃声が鳴り響いた。
驚く男の視線の先に、拳銃を構えた女性軍人の姿があった。上に向けた銃口から、うっすら硝煙が上がっていた。
フランカは腕をゆっくりと動かし、銃口を男の額に向けた。
「次……あなたの頭が砕けるわよ? 投降しなさい」
カイルの上に乗ったまま、男の体が固まった。ゆっくりと手を挙げた姿勢で立ち上がる。
通りを歩く市民たちが身を竦め、何事かと囁いていた。
「……ううッ……」
カイルの呻き声が聞こえた。
フランカの目線が、カイルのほうに一瞬逸れた。その隙をついて男は走り出した。銃から逃れるように人混みに紛れ、そのまま見えなくなった。
その場に残ったのは、老婆の鞄を奪い返し、守りきったカイルの姿。
歩道に蹲るその姿は、しかし、あまりにも無様だった。
ふたりは鞄を持ち主に返すために、倒れた老婆のほうに戻っていった。
「投擲が上手いのね。相手を蹴り飛ばすことも、奪われたものを奪い返すことも……」
カイルに肩を貸すこともなく、フランカが口を開いた。
「でも、刺されていたらタダじゃ済まなかったわ。いったいどういうつもり?」
カイルは、フランカから目を背けた。
「ぼくの命は、民に……シグマニオンに捧げています。祖国のために死ねるなら本望です」
「じゃあ、前線でさっさと犬死になさい。推薦状書いてあげる」
フランカの言葉は冷たかった。
「……今日の中尉、ちょっと変よ。生き急いでるみたい」
カイルは答えなかった。
プランターを投げたのも、走って相手を蹴り飛ばしたのも、ほとんど無意識だった。全身に染みついた動きだった。
だが、それについて説明するのは、何となくはばかられた。
「大尉にはきっと……分からないです」
目を合わせずに、そう言った。
嫌な沈黙。
やがて、さっきのカフェの前にたどりついた。
倒れていた老婆が、立ち上がってふたりを待っていた。
何処か遠くを見据えながら、じっと痛みに耐えるような老婆の顔。カイルたちに気付く様子はなかった。
「あの、鞄を……」
カイルが声を掛ける。老婆は驚いてこちらに振り返った。かつっかつっ。杖で地面を突きながら。
カイルは鞄を差し出しながら、老婆のほうに近寄った。
「……アンタ、無事かい?」
老婆が言った。
「はい、あの……」
老婆は片手を伸ばした。そして差し出した鞄ではなく、カイルの頬に触れた。
「あの……おばあさん?」
皺だらけの指が、カイルの頬を包む。老婆は、いくらか白濁した青い瞳で、カイルの顔をじっと覗きこんだ。
「大きな声が聞こえた。銃声も聞こえたよ。怪我はないかい? 何処も痛くないかい?」
「はい。大丈夫です」
口の中が切れて血が滲んでいたが、それは言わないでおいた。殴られたところがあちこち痛んだが、大したことはなかった。
「よかった……もう駄目だよ。こんなに危ないことをしては」
「でも…」
ぼくはΣ帝国国防軍の軍人で…そう言おうとして、カイルは口を噤んだ。
「命を粗末にしてはいけないよ。人が人を殺すようなロクでもない世界だけどね。機械で
さえ自殺しちゃうような非道い世界だけどね。そんなもんのためにアンタが死ぬことはな
いんだ。まして、こんな老いぼれのために……」
不思議な感覚だった。喉が熱くて声が出なかった。
最後にこんなふうに心配されたのは、いつだっただろう…。
カイル・ヴァイツェルはずっと悩んでいた。
ぼくの「祖国」は何処にあるのか、と。
昔、脚を怪我する前。よくひとりでボールを放り投げ、走って取りにいっていた。
「フライングキャッチ」という競技の練習のためだ。空中に打ち出されたボールを、選手や狩猟犬と奪い合う、命懸けの競技。
ついさっき引ったくり犯に向かっていった動きと、それは同じものだった。
勝っても、誰も褒めてはくれなかった。
有色人種だから。こんな野蛮な競技。プライドはないのか。そんな理由で周囲に妬まれ蔑まれた。
それでも、いつかは報われると思っていた。
この世界には命を捧げるべき「祖国」があって、そのために戦い続ければ、自分もいつ
か幸せになれると思っていた。
記録を取って、奨学金も手にした。いくらかの賞讃も得た。
だが、この脚は、義母の放った銃弾によって撃ち抜かれた。競技も辞めざるを得なくなった。「罪」という衣を無理矢理着せられて、カイルは、この惑星フリーゾにやってきた。
それでも彼は現実と戦い続けた。それなのにこの星で突き付けられたのは、どうしようもない「無力さ」だ。
正しく生きたくても、生きられるわけがない。そんな諦念。
誰かに認めてほしかった。居場所がほしかった。そのためなら、いつ死んでも構わない
と思っていた。
それなのに。
「あら? おやおや……」
老婆が呆れたように小さく笑った。
いつのまにか、カイルの頬に涙が伝っていたのだ。
老婆は、温かな指でカイルの目尻を拭った。
カイルははっとして、老婆から一歩後ずさった。恥ずかしそうに、鼻をすすりながら目元を袖で拭った。そして、意を決したように顔を上げた。
「あっ、あの! この鞄……何処かに出掛ける途中ですか?」
「え? あ、ああ……」
老婆はカイルの不意の質問に、一瞬口ごもる。
「ちょっと届け物を、ね」
カイルが胸に手を当てて、腰を折った。
「是非、送らせてください。あの悪漢がまた現れるかもしれません」
予想外の発言に、老婆とフランカが驚いて顔を上げた。
「ちょっと中尉、何を言ってるの。これから着任よ?」
「開会までまだ一時間以上あります。途中まででもいいんです。……それに」
カイルは、至極真面目な顔で言った。
「女性のエスコートは、男性の役目だと心得ます」
フランカが呆れたように目を丸くする。
やがて、ぷっと吹き出した。小声で「どの口が言うのかしら」と呟いた。
「いいわ。ただし時間厳守よ。定刻五分前には現場に到着すること。いいわね?」
「了解です」
カイルはフランカに敬礼する。
「カイル・ヴァイツェル中尉、只今より、市民の護衛任務に就きます!」
「……全く無粋ね。任務なんて言い方やめなさい。今は休憩時間だもの。デートのつもりで、スマートに彼女をお送りすること。いいわね?」
◆
カイルは老婆の鞄を持って街を歩いていた。
さっき引ったくり犯から奪い返したときも思ったのだが、随分と重たい鞄だった。持ち手のひとつ付いた、茶色い革のハンドバッグ。昔から使っているのだろう、鈍い光沢を放っていた。
老婆はカイルの二歩ほど前を歩いていた。速度は相当なもので、足腰は随分丈夫なようだった。かつっかつっ、と小気味良いリズムで杖を突く音が響く。
十分ほど進むと、アパートメントの並ぶ住宅街に入った。さっきまでの中央通りとは違い、人気は少なく、建物は何処となく古く、寂しげな雰囲気だ。
帰りはタクシーを拾おうかと思っていたが、ここにはあまり来なそうだ。帰りの時間を計算しておかなければ
「あの、おばあさん。この荷物はどこに…」
「…マリーエル…」
「はい?」
老婆は真っ直ぐに前を見据えながら、カイルのほうを振り返らずに言った。
「わたしは「おばあさん」じゃないよ。ちゃんと、「マリーエル・ヴァージニア」って上品な名前があるんだ」
「あ! す、スミマセンっ」
「まったく。そんなんじゃ、さっきの姉さんにも愛想つかされるよ」
「いやあ、まいったな」
「もともとあまり愛想はありませんよ」という台詞が頭に浮かんだが、口には出さないでおいた。
このマリーエル・ヴァージニアという老婆。
さっきまでは、どちらかというとか弱い――大人しい印象を受けたのだが、こうして見ると随分と気丈夫そうだ。それとも、一度危ない目に遭って、気持ちが高ぶっているのか。
どちらにせよ、なにやらぶっきらぼうな感じ。
「ところでアンタ、軍人さんかい? その制服。それにさっき、中尉とか大尉とか言ってたけど」
「はい」
カイルが答えると、マリーエルは神妙な面持ちのまま、少し黙った。
沈黙を不安に思って、カイルが口を開く。
「あの……軍人はお嫌いでしたか?」
「嫌い……どうだろうだね」
マリーエルは小さく唸りながら、何かを思い出すように空を仰いだ。
「軍人にだって、良いやつもいれば悪いやつもいる。ひとくくりにできないもんさ。わたしの旦那も息子も……軍人だった」
「だった、というと。今は?」
「ふたりとも戦死」
カイルがなんと返そうか戸惑っていると、そのまま老婆は続けた。
「旦那は昔……アマイゼンベア・イエーガーのパイロットでね。脚をやられた味方機を助けようとして、自分も撃たれて死じまった。息子も軍の技術者になったんだが、自分の開発した戦闘知性艦が自爆。逃げればいいのにね……最後まで艦を説得しようとして、一緒にドカーンさ」
誰かを、何かを助けようとして。信じる道に殉じた軍人たち。
カイルは小さい溜め息をつきながら、マリーエルの家族に思いを馳せた。
「立派なご家族ですね」
「バカ言っちゃいけない!」
マリーエルは大声で、からからと笑いながら言った。
「女ひとり残して逝っちまうなんて、褒められたもんじゃないよ。それなのに軍人さんは、「祖国のために」とか「名誉の戦死」とか言うんだろう?」
恨み言を言っているようで、マリーエルの言葉は、決して暗い調子ではなかった。身内の失敗を笑い話にするような、日常の雰囲気があった。
「あいつらもきっとそう思って、自分の生き様を選んだろうね。でも……どんな立派な人間も死んだらお終いだ。アンタもよく覚えておきな」
「あの……でも」
カイルは口を開いた。歩きながら、慎重に言葉を選ぶ。
「すみません、こんなことを言うのは適切じゃないかもしれない……。でも、生きるのが嫌になることはありませんか? 辛い現実を突きつけられて、何もかも嫌になることが。自分が何のために生きているのか、分からなくなってしまうことが」
それならいっそ、志高く死んでいきたい、何かに命を捧げたい。そう思うのは不自然なことだろうか。
カイルの脳裏に浮かぶのは、あのサーシャ・ヤンドルという少女の姿だった。
…こんな世界から、生まれ変わりたい……。
彼女がつぶやいた言葉が、ずっと頭に残っている。
カイルも、その言葉に賛成だった。
軍人も、市民も。戦いながら、迷っている。そう思った。
「嫌になるよ。嫌になるけど…」
マリーエルは静かに、しかし力強く言った。
彼女の歩みは少しも緩まなかった。
「わたしまで死んだら、あいつらが戦った意味がなくなっちまう」
やがて、小さなビルの前についた。一階にシャッターの降りたガレージと、その脇に小さく口を開ける階段。看板はない。
ふたりで二階の窓を見上げる。ブラインドが閉じており、中の様子はうかがえない。
「ここですか。何かの事務所みたいな」
「ああ。ご苦労だったね」
そこでカイルは、意を決したように聞いた。
「あの……マリーエルさん。教えてほしいことがあるんです」
階段に向かおうとしたマリーエルが、ぴくっと震えて動きを止める。
「……なんだい?」
「護衛する……というのは口実で、実はぼくは、別の理由があってあなたについてきたんです」
マリーエルはが、ごくりと唾を飲み込む音が聴こえる。
カイルは深く溜め息をつく。気持ちを整理するようにして。
そして口を開く。
「教えてほしいんです。祖国がどこにあるのか」
沈黙。
マリーエルは思わずカイルのほうを見上げた。
カイルの熱視線が、マリーエルを射抜いていた。
「…………は? なんだって?」
「祖国です。「シグマニオンに命を捧げ給え。祖国のために」の、祖国」
「そ、それが?」
「ぼくはずっと悩んでいます。自分が何のために戦っていて、何のために生きているのか」
カイルは胸に手を当てて、マリーエルに向かって小さく礼をした。
「軍人も市民も、みんな、正しい生き方を見失っている。だけどあなたに声を掛けてもらって、あなたの生き方、考え方に、気高いものを感じました」
だから教えてほしい。
どうしたらそんなに強く生きられるのか。
あなたにとって、「祖国」とはなんなのか。
「お願いします」
「お願いしますって……アンタねえ」
マリーエルは面食らって、呆れ返った。
しかし、カイルの顔は真剣そのものだった。
「なんとまあ……馬鹿正直なやつだね。随分と生きづらいだろうに」
マリーエルは小さく溜め息をついた。
「しかしね、そんなもん人に聞くもんじゃ…」
その瞬間。
カイルはマリーエルの肩を片腕で抱き寄せた。もう片方の腕で、鞄を脇に抱える。
「なっ、今度はなんだい?」
マリーエルがカイルを見ると、カイルは、険しい顔で元来た道を振り返っていた。
道の向こうに、男が三人。
そのうちのひとりは、さっきの引ったくり犯だ。
道の反対側に目をやると、同じく三人。別の男。
「すみません。後をつけられていたみたいだ」
カイルの声に緊張が走る。
道の両端を塞がれ、背中にはビルの階段。もう片方には別の建物。
逡巡しているうちに男たちが近付き、カイルとマリーエルを挟んで、脚を止めた。
無言でこちらを睨んでくる。用件は分かっているな、と言わんばかりだ。
「……鞄を渡しな」
マリーエルは小さく言った。
「でも!」
「いいんだよ」
「こんなにまでしてあなたを狙うなんて……この鞄、何が入ってるんですか?」
「今さらというか……ようやく出たね、その質問」
マリーエルがカイルの抱えたカバンに手を伸ばす。慣れた手つきで、器用に口を開いた。
中身が覗く。
やはりか、とカイルは思う。重さからなんとなく察しはついていた。
鞄の中身は、大量の札束だった。
「金を卸しているところでも見られたかね。街には金のないやつで溢れてるから」
「そんな……そんなやつらに!」
「言っただろう? こんな老いぼれのために、アンタが危ない目に遭うことはないんだ。さっさと渡しちまったほうが賢明だ」
カイルは左右に首を大きく振った。
嫌だ、と思った。
「このお金は、あなたが集めたお金だ。戦争で家族を失ったあなたが、なんとかして集めた大切なお金のはずだ」
いい訳がない。そうやって集めた金を、弱いものから力ずくで奪って。
ズルしたものが得をする。奪ったものが生き残る。
そんな世界であって、いいはずがない。
「グリューネカルテ・マフィア……」
カイルがそうつぶやく。
マリーエルが、はっと顔を上げる。
「ぼくの推理では、この建物はグリューネカルテ・マフィアの事務所です。あなたは軍に自分の家族のような犠牲者が出ないよう、哀しむ人が少しでも減るよう、献金を続けていた……。その活動に目を付けたやつらが、数を頼って金を奪いにきた……」
カイルの言葉に、マリーエルは何も答えなかった。
その沈黙を、カイルは肯定と捉えた。
彼女は悩んだはずだ。
カイルを軍人と知って、この鞄の中身を隠し通せるかどうか。
グリューネカルテ・マフィアは、軍の地下で活動を行う非合法コミューン。しかし、全てがその理解者というわけではない。カイルがその理解者でなければ、弱みに浸け込み、私的な献金を求められるかもしれない。
「非合法の組織を認めるべきか、ぼくにはまだ分かりません。彼らがいなければ助からなかった命があるのかもしれない。でも、そのために私腹を肥やす人や、犯罪に手を染める人がいるのも事実です」
たくさん見てきた。この星で。国防軍犯罪捜査局ティーガー・シュヴァンツに配属されて。
この戦争で生き残るために、手段を選ばない人々を。
家族を守るために、信じて行動を起こす人々を。
何が正義か見失い、歪んだ心のなれの果てを。
そのために、流された涙を。
自分だけが苦しいんじゃない。この世の中は、不条理なことで満ちている。
正しく生きたいのに。どうすれば正しく生きられるか、分からない。
そもそもそんな生き方は、端から存在しないのかもしれない。
だけど…。
「あなたから感じた思いやりを、ぼくは信じたい。何が正しいか分からないけど、あなたに心配されて嬉しかった。それだけは本物なんです」
だから…。
カイルは腰に提げた拳銃に、そっと手を伸ばした。
やつらを牽制して、彼女をこの事務所に上げれば、勝ちだ。
カイルはそう思って、脚を一歩踏み出した。その刹那。
「……そこまでだ。そのまま動くな」
声が聞こえた。背後からだ。
後頭部に、ひんやりと硬いものが当たっているのが分かった。
「見事な推理だよ軍人さん。そう、あんたの言うとおり、世の中は単純じゃない」
低い声だった。重たく、有無を言わせない声だった。
「察しのとおり、おれたちはそのマフィアの一員だ。我々は人々のために動き、その金も彼女の自由意思で受け取っている」
カイルはマリーエルを片手で抱いたまま、硬直していた。
もう片方に抱えた、札束の入った鞄が重く、腕が痺れそうだった。
「彼女は責任を持って我々が保護しよう。だが、おまえは何処から湧いてきた? 彼女に取り入って、遺産でも貰おうって魂胆か?」
「なん……だとッ!」
カイルは拳銃を握り締めた。
「やめな!」
マリーエルはそう言って、カイルの腕から離れた。そして、カイルの抱えた鞄を両手で掴み取った。
「その坊やを悪く言うのはやめな。近頃じゃ珍しい、紳士的な軍人さんだ」
彼女は鞄を、階段の男に手渡した。
カイルが止めようとしたが、銃を押し当てられ、動きを制された。
「アンタの言うとおり、この金は、わたしがこいつらに渡しているものだ。死んじまったあいつらのような軍人が、これ以上出ないようにするための……」
かつっ、かつっ。
マリーエルは杖を突きながら、道の真ん中に歩み出した。
杖を両手で持ち、堂々と胸を張り、大声で叫んだ。
「そこらのハイエナども! 聞こえるかい!」
よく通る声だった。寂れたこの住宅街にいる、全ての人に聞こえるような。
マリーエルは、道の両側に佇む男たちを交互に睨みつけた。
「この金は、死んだ旦那と息子の遺族手当だ!! 戦って死んでいった、あいつらの命の対価だ! 無駄な死人を出さないために使う、誇り高い金だ!」
そしてマリーエルは、カイルのほうを向いた。正確には、カイルの後頭部に銃を突きつける、階段の男に向かっていた。
「わたしは今、グリューネカルテ・マフィアを信じて、その金を渡す。しかしそれが、このくだらない戦争を終わらせるために使わなければ、誰かの私腹を肥やすために使われるようなら……絶対に許しはしない」
マリーエルの視線が、カイルと交わる。凛としたその顔は、にやっと笑っているように見えた。
そして真っ直ぐに腕を伸ばし、指を差した。
「わたしや……この青年のようなシグマニオンが、絶対に見つけ出す! 人が人を殺すような、機械でさえも自殺するようなこんな世の中だが……それでも誇りを忘れない人間が! 祖国に蔓延る不正は必ず! だからちょろまかすんじゃないよ! いいね!」
カイルの後頭部から、金属の感触がなくなる。男が拳銃を下ろしたのだ。
「……承知した」
そう言ったのが聞こえた。
こん、こん、と足音。鞄を受け取った男が、階段を上がっていく音だった。
道を塞いでいた男たちも、いつのまにか何処かに去っていた。
誰もいなくなった道の真ん中を、カイルとマリーエルは、静かに歩いていた。タクシーの拾えそうな大通りに出るためだ。
「すみませんでした」
「何がだい?」
「ぼくは……何もできなかった。あなたを守ることも、彼らに意見することも。何もできなかった」
カイルは拳を握り締め、震わせていた。
まただ。
この世界に、ぼくは、あまりにも無力だ。
ぼくは正義を行うには、あまりにも弱過ぎる。
「そう。アンタはまだ、何もしていない」
マリーエルはカイルの頬に触れた。
「アンタはわたしを信じてくれたね。そして、わたしらを取り囲む不条理を憎んでくれたね。だけど、それだけじゃ何かをしたことにはならないんだ。……いいかい?」
彼女が覗きこんだカイルの顔は、今にも泣き出しそうな顔だった。
だが、涙は流れなかった。
「状況がいつか良くなると、耐えて待つだけなのはやめな。世の中は間違ってると、思うだけで不貞腐れるのはやめな。今自分がいる場所で、できることを考えな」
わたしも、随分泣いた。
だけど、何も変わらなかった。
わたしが泣いているあいだ。世の中は、意地悪く笑うばかりだった。
だから、もうやめたんだ。
マリーエルはそう言った。
「あなたみたいに強くありません。ぼくは……」
「分かんないやつだね!」
ごつッ。
「……痛ったぁ!」
カイルの頭を、マリーエルが杖で思い切り殴った。
彼女は杖を引っ込め、古代ローマ式の敬礼をした。
「……シグマニオンに命を捧げ給え! 祖国のために!」
反射的に、カイルは敬礼を返した。
「お、同じく我は捧げる。魂を!」
「よし!」
マリーエルは満足げに笑った。
「うちの子がこの敬礼を好きでねえ。すっかり覚えちまったよ」
マリーエルが手を挙げる。気がつけば、いくらか明るい通りに出ていた。
タクシーが停まる。
彼女は勢いよくタクシーの後部座席のドアを開ける。そしてカイルのほうを振り返り、嬉しそうに言う。
「アンタの敬礼は立派だよ。うちの人や息子に負けないくらい。今は苦しいだろうけどね、アンタなら必ず見つけられるさ。自分なりの祖国ってやつを。だからそれまで死ぬんじゃないよ」
カイルが何か言おうと、口をぱくぱくさせる。
マリーエルは素早く後ろにまわって、カイルの背中を押した。そうして彼の体を無理矢理タクシーに乗り込ませた。
車の窓が開く。カイルが、声を上げる。
「あっ、あのっ、ありがとうございました!」
車の時計を一瞥すると、もうあまり時間はがなかった。
「誇りを見せてもらった。死ぬなと言ってもらえた。……あなたに会えてよかった!」
タクシーが発車する。無名戦士の墓へ向かって。
カイルが身を乗り出して、マリーエルのほうを振り返る。
そこには、誇り高きシグマニオンが、見事な敬礼を見せる姿があった。
◆
「……無礼をして、申し訳ありませんでした」
マリーエルが鞄を送り届けた事務所。応接間のようなところで。
先の低い声の男が、頭を下げていた。
ギュンター・シュゲルゲビード曹長…それがこの男の名前だ。
見ると、その横で同じく頭を下げている男がいる。引ったくり犯のあの男だ。
他にも、カイルたちの前に立ちはだかった男たちが、全員事務所の壁に並び、シュゲルゲビード曹長と同じように、頭を下げていた。
「構わないよ。頭を上げな」
シュゲルゲビード曹長の向かいに座る人物。
「それよりもいいのかい? アンタほどの男が、こんなところまで顔を出して……」
「せめてもの誠意のつもりです。昔、ご子息にあなたを頼むと言われたのに、危険な目に遭わせてしまった」
「何を今さら。わたしが好きでやってることだよ」
杖を持った老婆…マリーエル・ヴァージニアだった。
ふたりのあいだのテーブルには、例の茶色い革の鞄が置いてある。上向きに口が開き、中に詰められた札束が覗いている。
「偽札作りを追っているやつらがいます。あなたに脚がつかないようにするためには、こうするしかなかったのです」
マリーエルは、偽造した紙幣の、いわば一時保管庫であった。
ザイツ・ヤンドルの作成した偽札を、その孫のエルモラーエフが軍に運ぶ。しかし一度に運べる量には限界がある。残った偽札をヤンドル家に保管していては、捜査が入ったときに言い逃れはできない。
そのためザイツの旧知であるマリーエルは、偽札を自宅で保管する役目を負っていたのだった。
しかしエルモラーエフが死に、ザイツが死んだ今。この偽札をマリーエルに預けたままにしておくわけにはいかなかった。
マリーエルに疑惑が掛からないための、特別な偽札の受け渡し方…。
シュゲルゲビード曹長が考えた作戦内容は、こうだった。
無名戦士の墓への献花式当日。つまり、軍の意識が別に向いているこの日。
マリーエルが、偽札を持った鞄を持って街を歩く。そこに、事前に連絡を入れておいた引ったくり役の男が現れ、鞄を奪う。
これで、何の罪もない老婆が、運悪く引ったくりの被害にあっただけの構図が築かれる。
彼女に何処かに赴いてもらう必要もない。警察に事情聴取を受けても、鞄には、財布や日用品が入っていたとでも言えばいい。
しかし…予定外の事態が起きた。
若い軍人が、引ったくり役の男から、鞄を奪い返してしまったのである。
「……あの青年が、札束を本物と勘違いしてくれたのが幸いだった」
数を頼って鞄を奪い返そうと思っていたが、あの勘違いのお陰で、ひとまず偽札の入った鞄を回収することが出来た。
「結局、彼は何者だったのですか。あなたの知り合いの?」
「今日会ったばかりさ。言っただろう、ただの紳士的な軍人さん。か弱い女性をエスコートしてくれたのさ」
「はあ……」
後ろから銃を突きつけただけなので、シュゲルゲビート曹長は、カイルの顔を見ていない。彼が憎むべき国防軍捜査局の人間だとは知る由もなかった。
「祖国……か」
マリーエルは宙を仰いで呟いた。
「守るものなんてみーんな無くなっちまったが……、ああいう馬鹿を少しでも長生きさせるのが、これからのわたしの生き甲斐かもしれないね」
なんのことだ、という顔をするシュゲルゲビート曹長に、マリーエルは「こっちの話さ」と苦笑いで答えた。
そして椅子から身を乗り出し、真剣な顔で言った。
「ところで、あの話。分かっているね」
「あの話……というと?」
「鞄を渡すときに叫んだことさ。あれは本心だよ。偽札だろうがなんだろうが、わたしはアンタたちを信じて力を貸している。ザイツもそのつもりだったはずだ」
「……分かっています」
シュゲルゲビート曹長は、厳かに頷いた。
「グリューネカルテ・マフィアは、弱者が戦争で生き延びるために生まれた組織です。そのためならどんなことでも厭いません。ザイツ氏の仇も、必ず討ちます」
「かたき……?」
首を傾げるマリーエルに、シュゲルゲビート曹長は再び頷いた。
その目は、何があっても任務を遂行しようとする、軍人の目そのものだった。
「国防軍捜査局。あいつらを、必ず潰します」
◆
フリーゾ・エアフロート美術館公園にタクシーが停車する。
タクシーからひらりと飛び降り、カイルは持ち場に向かった。そんなに距離はなかったはずなのに、料金は随分割高だった。
脚を引きずりながら持ち場へ向かう。上級の将校と、喪服の帝国民が集まる一団。その端の列だ。もっと中央への着任だったら、間に合わなかったかもしれない。
フランカ・カバナー大尉の姿を発見し、その隣りに並ぶ。
「ようやく来たわね」
フランカは腕の時計に目をやった。
「ぎりぎり五分前。彼女は無事に送り届けた?」
「……はい」
返答に間があったことに、フランカは一瞬眉根を寄せたが、追及はしなかった。
「まあいいわ。それにしても中尉、少し凛々しくなったかしら」
「そ、そうですか?」
カイルは驚いて、自分の頬に手を当てた。
「やはり女性に優しくすると、一時的にでも男前になるのね。これからも心掛けなさい」
「は……はあ……」
一時的に、が余計である。
やはり愛想はあまりないようだ、と思ったが、口にはしないでおいた。
会場を遠くから眺める。女帝Σはまだ到着していなかった。
カイルはまだ、女帝Σを実物で見たことはなかった。しかし今日、その念願が叶う。
この惑星フリーゾにやって来てから、あまりいいことはなかった。いや、きっともっと前から、カイル・ヴァイツェルをめぐる様々な事象は、不幸の連続だったといえる。
生きることが嫌になるくらい。
自暴自棄になって、何もかも投げ出したくなるくらい。
それでもいいこともあった。あの老婆のように、気高い人に出会えることもあった。
辛いのは自分だけじゃない。今日はそう思えた。
これからはきっといいことがある。
色んなことがきっと上手くいく。
女帝Σをこの目で見て、自分がこの国の…Σ帝国の軍人であることに、今一度誇りを持とう。
ただ盲目的に信じるだけじゃ駄目だ。行動を起こすのだ。自分の信じるやり方で、この国の不正を正していくのだ。
大丈夫。
きっと、大丈夫。
あの人のような人たちのために、ぼくも戦いたい。
そうして見つけるんだ。ぼくだけの「祖国」を…。
そんな彼の決意が一瞬で打ち砕かれるのは、それから数分後のことだった。
2014年12月26日 発行 初版
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