───────────────────────
───────────────────────
この本を手にとって下さってありがとうございます。
「難病がくれた豊さの贈りもの」このタイトルにどう感じられたでしょうか?
難病が幸せを運んでくれる・・・
と思われた方もいるのでははいでしょうか。
平成23年に身体の具合が悪くなり、病院へ行くとたくさんの検査をしました。
そして、待っていたのは難病の宣告でした。
身体が動かなくなり仕事を辞めることになりお金もなくなり、もうこれ以上は生きていけないと、本当に苦しみました。
しかし、家族の支えや友人の応援、
私自身が学んだ心理学やメンターの教えにより人生最悪の状態から多くの気づきや学びがありました。
まさか、難病の経験から生きることの素晴らしさや命の大切さ、メンターの教えを活かすこと、など数え切れないほどの豊かさと幸せを発見することが出来ました。
発病当時にこれらのことを知っていたならばあれほどに苦しむことはなかったと思います。
この経験を自分の胸に納めておくことはもったいないという想いから講演会活動や本の執筆が始まりました。指が動かないときは原稿の音声入力などでカバーしながら進めてきました。
発病当時からの体験やこころの様子を綴り、体験プログラムを生活の中で使うことにより今まで気が付かなかった幸せと豊かさに気づけるように作りました。
始めに、あなたに質問があります。
あなたはいま、幸せですか?
毎日、楽しい時間を過ごしていますか?
こころから毎日が充実した時間を過ごしている人生を生きている人は希ではないでしょうか。
ましてや身体に病気を抱えていると健康な方に比べると不自由なことが多いのではないでしょうか。
身体が痛い、思うように身体が動かない、イライラが募ることもあると思います。
でも、病気だからといって、不幸だとは限りません。不自由なことはいろいろあると思いますがそれが不幸に繋がることはありません。なぜならば、幸せや不幸は自分が決められるからです。
私は病気になる前はとても自由な生き方をしていました、しかし、幸せ感はあまり感じていませんでした。むしろ、いつも何かに追われているような気がしてこころが安まるときはなかったように思います。
病気になり身体が動かなくなって、仕事を辞め、お金もなくなり住むところも追われ、全てを失うような恐怖を味わいました。しかし、家族の支えや友人達の応援、心理学やメンターの教えのおかげで健康なとき以上に幸せや豊かさを手に入れることが出来ました。
人は苦しいときにはどうしてもそこから逃れようとして、もがきます。
しかし、もがけばもがくほどその苦しみはどんどん増していきます。
身体の力を抜いてもがくことを止めて諦めたときに始めて自分の生きていることの素晴らしさや命に感謝が出来ました。
心理学やメンターの教えを知らなかったらいまでも地獄の淵を彷徨い歩いていたでしょう。
それらの教えは決して難しいものではありません、ただ、学校では教えてくれなかったものなのです。
これらの教えを生活の中で使うことにより、こころが軽くなったり、気持ちに余裕が出来たり、あなたの笑顔はもっと増えるでしょう。誰もあなたを不幸にすることは出来ません、どんな病気もあなたを不幸にすることは出来ないのです。あなたは幸せになることを自分で決めることが出来ます。
一 治療費が150万円 ・困難や災難は助けてもらう練習
二 天に向かって祈りつづける ・自分の感情と寄り添う
三 難病の宣告、すべての人生が終わった・無力な自分を認めてあげる
四 自分に出来ることは2つしかなかった・不安や悩みを小さくする魔法
五 希望の光 ・未来を思い通りに変える
六 再びどん底へ突き落とされる ・使命に気がつく
七 生き延びるだけの毎日 ・命を輝かせるエネルギー
八 自分の命の使い道 ・人のお役に立てること
九 再発が教えてくれたこと ・今が未来を変える
十 再入院 ・不安を吐き出す
十一 副作用で何も出来ない ・あきらめない
十二 再び希望の光 ・期待を手放す
十三 外に出ただけ ・小さな可能性を信じる
十四 夢を叶えるために ・今という時間を未来につなげる
十五 初めての講演会 ・今の自分を表現してみよう
十六 全国へ向けて ・行動してみよう
十七 難病を改善するためのエネルギー ・幸せはあなたのすぐそばにある
こんにちは神谷 豊です
多くの方にとって、病気は嫌なこと、大変なこと、辛いことだと思います。病気になると、痛いし、苦しいし、仕事を休まなければならない。お金もかかります。本当なら病気にはなりたくありませんよね。
私も病気にはなりたくありませんでした。しかし、平成二十三年に難病の宣告を受けてしまいました。けれども、苦しいばかりの難病から様々な気づきや自分の中にある執着心などを見つけることができました。今まで私が学んできた心理学やメンターの教えを使うことにより、幸せや豊かさが少しずつ訪れ始め、わずか半年で活動を再開できるようになりました。
現在も病気は完治しておりませんが、気持ちが元気になることで少しずつ活動することができるようになりました。
初めに、私の病気についての簡単な説明からさせて頂きます。
私の病気は慢性炎症性脱髄性多発神経炎と言います。国で指定されている難病は百三十ぐらいあります。その内の一つです。未だに難病の指定にならない、原因不明の病気はたくさんあります。
多発神経炎には2種類あり、一つは急性のギランバレー症候群。もう一つは慢性炎症性多発神経炎というものです。急性のギランバレー症候群というものは数カ月で完治します。慢性の多発神経炎は再発を何度か繰り返すことがあります。
私がいま患っているのは慢性の慢性炎症性多発神経炎です。
この病気は末梢神経組織に炎症を起こして、両手足に力が入らなくなり、歩行障害や感覚障害などの症状が現れます。その症状の度合いは人によってさまざまで、薬が効く方もいればあまり効かない方もいます。薬の効かない方は症状がどんどん進行して、寝たきりの状態になる方もいるそうです。
患者数は全国で二千人程度だと言われています。
私の場合は平成二十三年ぐらいからだんだんと体が疲れやすく、初めは整体やマッサージに通っていましたが、一向に良くなりませんでした。四十八歳という年齢のこともあり、初めはあきらめていました。痛みはないので、自分の体に何が起こっているのかがわかりませんでした。ただ、毎日少しずつ力が入らなくなっていくのです。そのうちに不安が募り始め、大きな病気ではないかと思いましたが、家族にはなかなか打ち明けられないでいました。
一家の大黒柱が病気になって、家族に心配をかけられない。
病気になってしまったら、家族がぼくのことを見捨ててしまうのではないかと変な不安が心の中で渦巻いていました、そのために、家族になかなか伝えることができませんでした。
六月に入り、階段を上がることや、立ち上がることが本当に辛くなり、もう我慢できないと自分で思った時にやっと、家族に伝えることが出来ました。
町の病院へ行くと私の体を診察し始めた先生の表情は真剣な表情に変わり、その病状の重さに不安がどんどん膨らんできました。先生はこちらでは判断つかないので大きな病院を紹介しますので、そちらで改めて検査してくださいと言われました。私は自分の病気に改めて直面することになりました。
市民病院では診察後、すぐに入院を勧められ検査が始まりました。レントゲン、CT、 MRI、髄液検査、末梢神経電動検査、筋肉検査。今までにないぐらいのたくさんの検査をしました。入院している間にも、どんどんどんどんと、手足に力が入らなくなっていくのです。
食事の時に箸を持つ力も無くなり、スプーンで食べる状態です。痛みは全くありません。この痛みがないということがとても怖さを感じました。痛みがないので、夢を見ているような感覚で、次の日に朝起きたら健康な体に戻っているのではないかという思いがわいてきます。
朝、起きるときに自分の体がどれぐらい動くかを確かめてから1日が始まります。手を持ち上げても見たり、手に力を入れ握ってみたり、足をふんばってみたり、少し動くことで安心します。
けれども、確実に毎日少しずつ力が落ちている。初めての入院の検査は五日ぐらいで終わりました。先生からは病気の診断が伝えられました。
「ギランバレー症候群の疑い」
病名が告げられるまでは、私の体に何が起こっているのかが分からずとても不安でしたが、病名がつくと、なぜだかひと安心しました。先生から病気の説明が終わると治療法の説明が始まりました。治療法はいくつかあり私が勧められたのは、点滴による免疫グロブリンの大量療法というものでした。
その治療法は少しお金がかかると先生は言ったのです。私はいくら点滴が高額とはいえ、数万円だろうと考えていました。先生の口から出てきた金額に私の頭は混乱し一瞬、先生が何を言っているのかが理解できない状態でした。
「1日の点滴に30万円。それを五日間します。」私の頭の中が真っ白になり、妻と顔を見合せました。
病気の治療費が150万円。
妻自身も大きな不安に包まれていることがよくわかりました。妻はすぐに母親に連絡をしてくれ、私は兄に電話をしました。わたしは先に病気の説明やこれからの治療のこと、費用のことを詳しく話しました。兄は私の話しをじっくりと聴いてくれ、
「わかった、お金のことを心配するな」おれが何とかすると言ってくれたのです。
私は胸につかえていたものが一気に溢れ出し、話す声はしゃがれ、いままでに流したことのないほどの大粒の涙が眼からあふれていました。病気になったときには、ひとりぼっちになって誰も助けてくれないと思っていました。大人になって、周りの人に助けてほしいと言わずにずっと頑張ってきた人生で、初めて人に助けてほしいということができました。それまでずっと「助けて」、と言うことが怖かったのかもしれません。
助けてなんて言ったら、男らしくない。そんな考えが自分の中にあったようです。病気になってしまい、自分の力だけではどうする事も出来ないと、ぎりぎりのところで、やっと助けてほしいという言葉が使えるようになりました。
コラム
〇 困難や災難は助けてもらう練習
助けた相手はあなたのことを助けることが出来きるのでとっても幸せな気持ちになる! 助けてもらうことであなたも救われる
兄の応援の言葉は私の心の中に暖かい太陽のような気持ちまで運んでくれました。これで病気の治療に専念できる。自分の中で治療に対するスイッチが入りました。私は早速、インターネットで病気のことを調べました。けれども調べれば調べるほど、逆に不安も増していきました。
このギランバレーには急性と慢性があり慢性の場合には難病の指定で現在の治療法では完治した人は4パーセントと書いてあったのです。「難病」という文字が私にとって、とても大きく感じられました。私は夜になると、持参した本を読み、できるだけ心が落ち込まないようにしていました。病気になって体が弱り、心までも弱ってしまったら、もう自分には先がないのではないかという思いから、必死で頑張っていました。そのとき持参した本は自己啓発の本が主で何とか自分の気持ちを向上させようという一心で入院のバッグの中に詰め込みました。
夜眠りに就く前に必ず天に向かって、「わたしを難病には絶対にならせないでください」と、真剣にお願いをしていました。あの時ほど人生で毎日のようにお願いしたことはなかったと思います。
病院で点滴が開始されると四日目ぐらいから、やっと力が少しずつ入るようになってきました。ところが、点滴の副作用で頭痛や体のだるさに悩まされたのです。点滴は1日9時間ぐらい続き、私はその点滴を眺めながら、一本5万円それを6本 30万円、それがいま私の身体の中へゆっくりと入っていく。命もお金なんだなぁとしみじみ考えていました。
五日間の点滴が終わるとリハビリが始まりました。リハビリでは力が思うように入らず細かい作業はとてもイライラしました。早く病院から出て仕事を再開したい。私が病気によって気持を沈めたくなかった最大の理由は2カ月先に恩師との講演会を企画していたことがありました。
数年前からカウンセラーとして仕事を始めて、勉強会なども開催できるようになり、やっとの思いで、恩師との講演会を自分で企画した矢先の病気でした。なんとしてでも、この病気を乗り切らなければならなかったのです。自分の夢をかなえるために一生懸命頑張って走っていました。
入院して、十日目ぐらいから歩けるようになり、先生に退院のお願いをしはじめました。一刻も早くこの遅れを取り戻したい。私の気持はどんどんどんどんと前のめりになっていきました。十四日間の入院、大きな病気と検査、私は自分が一回り大きく成長したような感じがしました。
退院するとすぐに会社に連絡を入れ、これまでの遅れを取り戻すことを約束しました。そして、講演会の準備も始めました。あと2カ月での開催。休むわけにはいきません。私は全力で走ることを決めると身体中に大きな力がみなぎってきました。退院の挨拶を各方面に済ませると講演会に向かってスタートし始めたのです。
動き始めると薬で体を治したせいか、少し不安定な感じがしました。先生からも日常の生活と仕事は問題がないと言われていました。私自身も遅れを何とか取り戻さなければならないという焦りもありました。
働き始めて、二十日ぐらいすると何だか体に力が少しずつ入らなくなってきたのです。「何かの勘違いであってくれ」「何かの思いちがいであってくれ」私は自分の中の不安を鎮めるように自分に向って云い聞かせていました。けれども日に日に力が少しずつ入らなくなっていったのです。
怖さのあまり私は森の中で大声で叫びました。「オー」「アー」悲しみと恐怖と不安でしゃがれた声が森の中に消えて行きました。30分以上、私は森の中で叫び続けました。体中の震えは止まりませんでした。
コラム
〇 自分の感情と寄り添う
本当のあなたは自分で自分を大切にすることを望んでいます。悲しみや不安な感情を感じて、自分に対して優しい声をかけてください。
家に帰り妻に事情を説明して、会社と病院に連絡を入れ入院の準備をしました。2度目の入院は平成二十三年の8月。その時の記憶は本当におぼろげなことでしか、覚えていません。相当に大きな不安がこころの中でいっぱいだったのだろうと思います。入院すると先生から病気の説明や今後の治療法についての話しがありました。私は全身の力が抜け、先生の話しにも耳を傾ける気持ちが入っていない状態でした。
「難病」のレッテルが張られたのです。
「人間の不良品」のようなレッテルを張られた気がしました。もう仕事もできない。先生の話のあと、病院のケアマネジャーの方が今後の生活をなどのことについて説明をしてくれました。保健所に公費の手続き、役所に高額医療費の届け出など、とても親切に説明をしてくれました。妻は保健所、役所などに足を運んでくれ、いろいろな手続きをしてくれました。その年の夏はとても暑く大変だったと思います。
2度目の入院、治療が始まりましたが、「難病」というレッテルは私の中でとても、とても、大きな恐ろしいものでした。治らない病気。一瞬にしてすべてのものを失ってしまったような感覚で生きる希望と気力がなくなりました。全身の力が抜け、まるでもぬけの殻、襲いかかる不安や恐怖。これからどうなっていくのだろう。目の前が真っ暗になり、暗い闇の世界。
本やパソコンを持ってきましたが全く読む気になれず、ただベッドの上でボーッとし、窓から外を眺めていました。外の世界ではみんなが元気に働いている、ガラス一枚隔てた病室ではすべての時間が止まっている。暗い闇の中を漂うような心、本当にひとりぼっちになってしまったと思いました。苦しいとか悲しいとかを通り越し、感情さえも感じられないような日が続きました。
これからどうなっていくのだろう。
これからどうしたらいいのだろう。
夜になると涙がとめどなく流れ、たくさんもの悲しみが押し寄せてきました。自分ではどうする事も出来ない思いを友人にブログで知らせました。すると、たくさんの方がお見舞いに来てくれ、私のつらい気持ちをじっくりと聴いてくれました。聴いてくれた友人には本当に感謝しております。それでも、そのときにはいくら聞いてもらっても、どんどんどんどんと、心の底から辛い言葉があふれ出してきて止まらない状態でした。
そのようなときに、以前からお願いしていた、電話会社の方が契約のために病院まで来てくれたのです。そこで、私はもぬけの殻だった、自分が思い切りたたきのめされることになりました。契約に来てくれた方は身体に障害のある方で、ひじから下がなく、直接手になっており、指も三本ぐらいしかありませんでした。わたしは契約のことよりその方の身体をまじまじと見ていました。体に障害があるにもかかわらず、その方は営業をしっかりとこなし、分からないことを丁寧に説明してくれました。
私は情けない自分、だめな自分、弱い自分、を思いっきり見せつけられました。偶然とはいえ、よくこの時にこの人に引き合わせて頂いたことに不思議さを感じました。弱りかけ、壊れかけた私の心に一つの小さな光が入ったような気がしました。営業の方だって頑張っているのだからもう泣くのをやめよう。自分のできることは何か考えよう、その方との出会いによって、どんどんどんどん、沈みかけていた気持ちが少し止まりました。そして、これから先のことを少し考える気持ちが芽生えてきたのです。
コラム
〇 無力な自分を認めてあげる
人生が思うように行かない時、ひとは自分の力の無さを思い知らされます。駄目な自分を責めないでください。思うように行かない時でも頑張っている自分を労ってください。
考えるとたくさんの不安な材料が出てきました。
体は動かない、お金がかかる、仕事は続けられるのだろうか、家族はどうなるのだろうか、不安の要素がたくさん出てきました。それを考えるだけでも心が小さく震えていました。本当に怖いです。
私はある方から教えていただいたことを試すことにしました。それは今、自分の立場で、できることが必ずあるから、それを探すということです。
今の自分にできること。 今の自分に出来ること。
私は一生懸命に考えました。自分たちの生活のこと、自分の身体の状態のこと、をよく考えました。この体では今も住んでいるところは雪が多いので住めない。引っ越しの場所を考える。お金が足りないのでお金を借りる。家族がバラバラにならないようにする。住んでいるところは雪が多いのでそれを乗り切る。
病気の不安に押しつぶされようとしている中、私は自分のできること、できないこと、やることをノートに書きだしました。すると、今まで何をしていいのかわからなかったことが少しずつ分かるようになってきたのです。
自分のやることが少しずつ明確になると、今まで漠然とした大きな不安が少しだけ小さくなりました。
コラム
〇 不安や悩みを簡単に小さくする方法
不安や悩みは頭の中で考えているとドンドンと大きくなって手に負えなくなります。悩みや不安を紙に書いてみてください。小さく萎んでいきますよ。
引っ越す家を探すこと。生活費を借りること。私はそのことを一番初めにすることを決めました。今することはまず、引っ越す先を決めることでした。今住んでいる山の家は冬になると雪が2メートルも積もり、私の動かない身体では除雪することができません。十二月の雪が降る前までに引っ越すところを探さなければなりません。
実家の東京に家族で帰るか?
今、住んでいる信濃町にもう数年の間、暮らすか?
子供たちと妻と家族みんなで話し合うことに決めました。人生の先のことを決めるのに家族で話し合うことなどを今までありませんでした。ほとんどの場合、家族によかれと思い、父である私がすべてのことを決めていたように思います。安心安全のために妻の実家の東京で暮らすということも思いましたが、子供が中学校、小学校、自然が好きという意見を考慮に入れ、今住んでいる信濃町で、もう数年間の間暮らすことに決めました。
自分の体が弱ったことで初めて家族の話しをゆっくり聞いたような気がします。大切な機会をこの病気によっていただきました。
信濃町で引っ越し先を見つける。ところが田舎の町には、アパートはありません。その上に家を貸してくれる人は、ほとんど知りませんでした。私たちは知り合いの方に連絡を取り、私は病気の説明をして家さがしを手伝ってもらうことを始めました。車を運転している時も、空き家らしいところに当たりを付け、近所の方にお話しをうかがうこともありました。2カ月間の間に本当にこの町で借りられる家が見つかるかどうか?今の住んでいるところにこのままいったら絶対に生きていくことはできない。
私は本に書いてある、ある方法を試してみました。それは「自分の思いが現実を引き寄せる」という方法です。家族のみんなに今度、引っ越して住んでみたい家を想像してもらい、絵に描いてもらいました。妻と私、子供3人それぞれが自分の思いの家や部屋、環境を絵に描いていました。
私の希望は一軒家で雪が少ないところ学校へも歩いて行ける景色がいいそして部屋数は6部屋ぐらい。病気のため仕事ができなくなるので家賃は2万円から3万円ぐらいのところ。私は自分の希望を好きなように描きました。
本当に絵に描くことで自分が願ったことが夢のように引きよせられるのだろうか?
貸家を紹介している建築屋さんにお話しすると、家賃は6万円からだと言って取り合って貰えませんでした。家を探しはじめて1か月ぐらいすると不思議な事に私の描いた想像の絵にそっくりな家が見つかりました。貸してくれる家が見つかったのです。この家が見つかる間にも何軒かお話しはあったのですが、学校から遠いことや部屋の数が少ないために検討していました。
目の前にある家は学校から歩いて25分、山の家に比べると雪の量は3分の1。そして2階からの眺めは、はるか遠くの志賀高原の山並みを見事に映し出してくれています。そして、なんとも驚いたのは家賃です。普通この町で一軒家を借りる場合、6万円以上はかかります。それが3万円で貸して頂けるのです。その上、うれしいことに紹介してくれた方がお願いをして少し家賃を下げて貰えたのです。動かない私の体にとって小さな家がとっても素晴らしく見えました。
山の上の大きな家から町の小さな家へ、心は少し寂しさを感じていましたが、今は家族で生きることがとても大切。十二月の一日に引っ越しをすることを決めて大家さんにお願いして掃除を始めました。新しい住みかが決まりました。この家に慣れるまでに少し時間がかかるでしょう。
六月に一家の大黒柱が突然に倒れ、入院、長年住み慣れた所からの引っ越し、会社の退職、私にとっても大きなことですが妻や子供たちにとっても大きなことだったと思います。子供たちは小さな心が大きく揺れている。体は動きませんがカウンセラーとして、「私にできること」今の私にとってまずは家族がバラバラにならないよう心のケアをすることに大きな意識を注ぐことにしました。
「それが今のわたしに出来ること」
コラム
〇 未来を思いどおりに変える
未来を思いどおりに変えるには、 今できることを一生懸命にすることです。必ずあなたが望む人生がやって来ます。
引っ越しをして、1~2ヵ月すると長男の様子が少しずつ変わってきました。何かにつけてイライラして、下の子供たちに当たるのです。子供の中で一番繊細な彼は、状況や心の変化にとても敏感ですぐに表にあらわれてきます。私の体も思うように動かない、つらい時には彼に手を挙げてしまうこともありました。相手の気持をしずめるために暴力を使い抑え込む、本当に申し訳ないことをしてしまったと思っています。
引っ越しをした年の冬は今までにない大雪の年でした。十二月の中旬から毎日のように雪が降りつづけ山に比べるとまだ雪の量は少ないのですが、動かない私の体にとって雪かきは本当に大変なものでした。子供たちと一緒に雪を片づけるのですがスコップで3回ほどかいただけで体中の神経がビリビリと痺れてくるのです。以前ならば機械を使い1時間でも何ともなかった身体が今ではスコップさえも使えない。
本当に自分の体を恨み、悲しく思いました。
私は天を仰ぎ、どうかもう雪を降らせないで下さい、とお願いをしました。しかし、雪は降りやみません。一月に入ると、町では豪雪対策本部が設置されました。
白い小さなふわふわとした美しい雪がそのときには悪魔のように見えました。いくら片づけてもまた、積もる雪。本当に苦しかったです。見かねた隣の御爺さんが除雪機を持って助けに来てくれたのです。おじいさんは八十二歳、ゆっくりと機械を使いながら私たちが悪戦苦闘している大雪をあっという間に片づけてくれました。
神様が私たちを救いに来てくれたと心から思いました。その後もおじいさんは雪が多くなると何度も何度も機械を持って片づけに来てくれていました。動かない私の体を見かねた神様がきっと、おじいちゃんを使って私のことを助けに来てくれたのです。その後も雪は降りやみませんでした、家の裏までは手が回らずに屋根まで雪がつながってしまいました。
雪が家を壊す寸前です、私は役場に事情説明すると、すぐに係の方が対応してくれ、次の日にはボランティアの方が20人以上集まり、人力で私の家の裏の雪を片づけてくれたのです。皆様に助けていただき、感謝することばかりです。
ところが、それもつかの間、苦しい私たちにさらに追い打ちをかける出来事がおこりました。二月の下旬、一本の電話が自宅にありました、以前住んでいたペンションの近所の方からでした。「ペンションの玄関の屋根が壊れているみたいですけど確認してみてください。」
その連絡で私の体は震え始めました。一月の終わりにペンションの屋根の雪を落していたのですが 1か所だけ残ってしまい心配していました。二月にもペンションに行こうと思っていましたが体調が悪く動けなかったのです。
私はすぐにペンションに向かいました。車を運転している時も体の震えはだんだんと大きくなってきました。二月の終わりに春のような大雨が降っていました。その雨により大きく固まった2メートル近くの雪が屋根の上から玄関の大きな屋根に直撃したのです。
ペンションに着くと無残にも破壊された玄関の大きな屋根。長い間、私たちをいつも迎えてくれた屋根が斜めに折れていました。私の眼からは涙があふれ出し、空に向かって大声で叫びました。本当にもう勘弁してください。私が一体何をしたというのでしょうか。
大きな叫び声は真っ白な雪の中に消えていきました。30分以上そこに立ちつくしていました。私は車に乗り家へもどり、妻に連絡を入れて事情を説明すると保険会社にも電話をしました。すると雪の被害の保険は1年前に解約してしまっていたのです。保険会社の方はすいませんと、労をねぎらってくれましたが、私の体はますます震えが大きくなり思わずその場にへなへなと倒れ込んでしまいました。
病気で体が動かなくなり生活するお金もなくなり、住んでいる所も大雪に苦しみ、ペンションの屋根までも破壊され、少しでも前に向かって進もうと考えているのに・・・
妻や子供たちが帰ってくると屋根のことを話しました。みんなは悲しみのあまり見に行くことを嫌がっていました。大切にしていたわが家が大雪によって破壊されたのですから、その気持はよくわかります。
今まで生きてきた人生の中で一気に災難が続いて起きたのです。
私はこれから先のことが本当に怖くなってきました。
二月の中旬には体中が寒く、何枚もの布団をかけても体が温まらない状態でこのまま朝、目が覚めないのではないかと思う日が十日ぐらいありました。大きな病気を抱え、つみかさなる災難。
一体この先どうなるのだろう?毎日が生きる延びるためだけにありました。
朝ご飯を食べて、子供たちが学校へ行き、家内と一緒に仕事へ行き、夕ご飯を食べてお風呂に入って寝る。毎日が命をつなげることだけにあり、ほかのことを考える余裕などありませんでした。
コラム
〇 使命に気がつく
自分は何のために毎日、命を使っているか考えたことはありますか?命があと5年しか無いとしたらどのように使いますか? 大切な命の使い方を考えてみてください。
三月に入ると雪の降る日も少なくなり、太陽が顔を出す日が増えてくれました。あれほどたくさん積もった雪が少しずつ解けていきます。体の方も少しずつですがエネルギーが上がってきている感じがしました。やっと、訪れてくれた春の日差しに少しずつ気持ちも上がってきました。
やっと、ここまで生き延びたという実感が体の中心から湧いてきました。そして、そのエネルギーが私を次の行動へ駆り立ててくれたのです。
難病の宣告を受けて8カ月。厳しい大雪の冬を乗り切り何とか生き延びてきたという感じでした。この命をこれからどう使っていこうか、一度、消えてなくなりたいとまで考えた命。残りの命は何かのために使おうか。
私はひそかに心に決めました。残りの人生は本当に自分のやりたいこと、好きなことを中心に生きる、そのことが多くの方のお役に立つように生きると覚悟を決めました。
私は引っ越す時に持って来た大きなコルクボードを引っ張り出し、中央に「夢の旅」と書いた紙をはりました。 夢には人を元気にするエネルギーがあります。
コラム
〇 命を輝かせるエネルギー
情熱的に輝いていた自分の姿を思い出すことが出来ますか?
どんな夢や目標のために生きていましたか? あの時の情熱をもう一度、生きてみましょう。
今の私に何ができるだろうか。今の私がどんなお役に立てるのだろうか。この動かない身体で何ができるだろうか。私はそのことについて何日も、何日も一生懸命考えました。そして、この病気を治すことも全力で取り組むことを決めました。
四月に入りも雪の降る日はなくなり、後は雪が解けることを待つばかりです。私はホームページで体調のことを書き、カウンセリングの再開を報告しました。すると相談者からの申し込みがあり、私は改めてカウンセリングの仕事を続けることができました。
友人からは癒しマップのスタッフの誘いがあり、家に閉じこもりきりだった私は少しずつ外へ出ることができました。体が動かずほとんど手伝いできない私を仲間に入れてくれていただいて本当に感謝しています。
私は動かない身体でも、自分ができることを必死に考えました。日常の生活がやっと、1か月に動けるのは十日ぐらいで残りは病院で五日間の点滴をしなければなりません。何ができるのか。
今の私に出来ること。考えること、伝えること、話すこと、書くこと、インターネット、心理学のこと、病気の経験。少しですが私にもできることがありました。五月に入り妻の仕事の手伝いも一段落したので、私は以前から持っていたブログに私の病気の経験から得た気づきを少しずつ綴ることにしました。
病気を宣告された時のつらさ、悲しみ、不安、病気を受け入れ、ともに歩むと決めた時のこころの静けさ、春になり、また新しい人生を自分で作ると決めた時の勇気。いたらない文章ですが自分の思いを込めて書きはじめました。毎日、毎日、自分の今の思いを伝えることがあふれだしてきたのです。
私は心理学やメンターの教えのおかげで何とか感情と寄り添うことができ、病気の苦しみから少しずつ抜け出して、少しずつ行動ができるようになりました。そのことを自分だけの中に閉じこめておくことはもったいないと思い。私の経験が多くの方の役に立てたら嬉しいとブログを書き始めました。
コラム
〇 命はあなたが使うことを待っている
人は命がある限り誰かのお役に立てるのです。誰かの笑顔のために役立てる。それが仕事に繋がる日が来ます。あなたは誰のお役に立ちたいですか。
☆ 再発が教えてくれたこと
こころは少しずつ安定して、自分の出来ることが見つかり初めてきた。しかし、再発が治まらない。毎月のように両手足の力が抜けていく不安と恐怖はまるで底なし沼にゆっくりと引きずり込まれて行くような不安は何度味わっても気持ちが悪いものだ。この病気で今は点滴が効いてくれているがいつ効かなくなるのか分からない。その不安はいつも私のあたまの隅から離れない。
自分の身体を捨てて逃げ出したい。
出来ることなら、身体を誰かと交換したい。
でも、交換するにはひどい身体だな。
点滴が全く効かずに寝たきりになる人がいるという事実。先生に聞いても今、効いているのだから心配はないという不確かな答え。まぁ、難病だから仕方ないや、と、ひとり呟いてみる。病院での点滴は1クール、4日から5日間がかかる1日10時間ぐらい、入院して点滴を受けることも出来るのだが点滴が150万円の高額のために病院では採算を合わせるために20日以上の入院が強いられる。
私にとって20日の入院は家族に迷惑がかかるので通院にして処置室で10時間の点滴、本を読んだり講演会のテープを聴いているのだが副作用の頭痛やむくみがのんびりとした時間を許してはくれない。点滴をするとゆっくりとゆっくりと力が出始める。そして、4日ぐらいで歩くことが出来たり、箸を持つことが出来はじめる。でも、それは健常者のように力が出るわけではなく、本当に家での範囲の生活がやっと出来るぐらいなのである。
点滴の効き目は期間は25日から30日。毎月の再発を繰り返すうちにこの日数が確実に短くなっている。筋力も確実に落ちてきて筋肉もみるみる内になくなってきた。一体、いつまで続くのだろう。
遠くの山を眺めながらこころの奥から黒い煙のような不安がモヤモヤと沸き上がってくる。その不安と悲しみ恐怖を自分のこころの中だけに閉まっておくことが出来ずにインターネットを通じて、ブログやフェイスブックに書き綴る。
ひとりになったぼくの元へ励ましのコメントが届けられる。まだ、お逢いしたことのない方からの温かいメッセージ。
先の見えない不安で折れそうなこころにメッセージがしみこんでいく。
悲しみや恐れ、不安などは決してひとりのこころの中に押し殺して閉じ込めてはいけない。
閉じ込められた不安はどれほどに自分の心を蝕んでいくか分からない。
情けない、恥ずかしいなんて言っていられない。
「まわりの人にどんどん助けを求めよう。」
本当に辛いときには自分からヘルプのメッセージを発信しよう。
きっと、きっと、誰かが受け取ってくれるはずだから。
実は周りの人もあなたからの助けのメッセージを待っているんだよ。
ぼくも助けを求めたときに初めて知ったんだ。みんなが喜んで助けてくれた。
それまだぼくからのメッセージを待っていたかのように。
たくさんの友人や兄弟、家族によって支えてもらった命。
ぼくはこれからのことを真剣に考えた。
今の自分には何が出来るのだろう。
動かない身体でも出来ることはないだろうか。
毎月の再発で未来の予定が全く立たない。
まるで未来が自分の人生から消えてしまったみたいだ。
治ることの光も見えない病気。
それでもぼくは考えた。
「今の自分に出来ること。」
「今の自分に出来ること。」必死になって考えた。
心理学やメンターの教えによって、暗い淵から這い出して、再発を繰り返すも何とかこころ穏やかに保てることが出来ている。それを伝えよう。人は大きな病気や失敗によって、立ち直れないほどにこころが折れてしまう人がいる。その方たちのお役に立てるかも知れない。
難病という苦しい地獄の淵から立ち直ってきた経験がいつの間にかぼくにとっては宝物になっていた。病気やケガは一瞬にして多くのものを失う力を持っている。仕事、お金、こころ、家族、家、友人。持っているものにしがみつけばしがみつくほどにどんどんと苦しみは増していく。元に戻りたい、元の生活に戻りたい。思えば思うほどにどんどんと自分の首を絞めるように苦しさが増していく。
持っているものを手放すと、もっと落ちていくような恐怖心がより一層としがみつかせるのだ。ぼくは手放した瞬間、本当に怖かった。見捨てられる怖さ、独りぼっちなる怖さ。でも、それは全て自分の執着心から出ていた幻想だった。お金や住むところは失ったけど何も変わらなかった。むしろこころが軽くなった。生まれ変わったようにさっぱりとした。それまで失いたくない、失いたくないと必死につかんでいたから余計にさっぱりしたのだろう。
それ以上のものが周りにあふれていることに気が付いた。
家族がいること、友人がいること、住む家を借りられること、食べ物があること、お風呂に入れること、手があること、足があること、口があること。当たり前のことがありがたいことに変わったのだ。
「当たり前から感謝することへ。」
私はその思いをブログやフェイスブックを通じて伝え始めた。今まで以上の方がぼくの文章に共感してくれメッセージを頂くようになった。そして、療養中の時間を有効に使うことを考えた。昔からのコンプレックスだった、汚い字、かけない漢字。文章の練習をこの際始めることにした。コンプレックスの克服のために動くことが出来るのは1日で4時間ぐらい、後は夕飯の準備や横になっていなければ身体が動かない。
未来の夢を観ることから、今を生きる時空へとシフトしていった。毎日を生きること、命をつなげること。
そして、病気が再発したら病院へいき4日間の点滴を受けること。それが今のぼくにとっての人生の中心になった。未来から、今を生きることへのシフトはぼくに不思議な感覚を知らせてくれた。
今を真剣に生きることが自分の夢や未来を大きく創り出していると言うことだった。今までは未来を変えるために一生懸命に頑張っているのに未来はあまり変わってる感じを持つことが出来なかった。今という時間に集中して物事を進めていると、今から見える世界がどんどんと変化しているのだ。今という時間がどんどんと積み重なって、自分の思い描いた世界が現実として現れてくるスピードが以前にも増して速くなっている。
インターネットでは多くの人と繋がり、字はうまくなり、漢字検定5級に合格。今という時間を使うことがいかに大切かということをこの再発で教えて頂きました。
コラム
〇 あなたの人生を変えることが出来るのは、今という時間だけ。
あなたの今やりたいことは何ですか? 未来を思い描いてますか?
毎月のように繰り返される再発。両腕、両足の筋力は確実に落ちている。足は細くなり、まるで老人のように筋肉が無くほっそりしている。再発する日数が確実に短くなってきている。一年前には35日前後だったが今では25日になっている。毎月、力が出なくなり病院で治療してくれるグロブリンの点滴はもはやその場しのぎでしか無い。これからどうなっていくのだろう。本当に改善しているのだろうか。週に二回、整体に通って自然治癒力を高めているのだが改善する気配は無い。
筋力は落ち、再発の期間も縮まり、ぼくの病気はどうなるのだろう。小さな不安を抑えることは出来なくなってきていた。2012年6月。発病して1年が経過して市民病院か改善が観られないので、松本の信州大学付属病院への転院が薦められた。発病当時から改善が観られないときには信大への転院の話もあったのだが飲み薬が減り、整体への期待があったので、なかなか信大への転院を進めていなかったのだが、先生からの薦めもあり松本の信大へ転院することに決めた。
自宅から100キロの道のりはとても遠く感じられた。市民病院では入院してもすぐに家族がきてもらえるという安心感があったが、信大は離れ小島へ島流しをされるような感じだ。
信州大学病院はまるで要塞のようだった。担当の池田教授は脳神経の世界ではとても有名な方だった。第一印象はとても難しそうな方で、私の意見など聞いてくれないような怖い顔をしていた。しかし、それは私の思い違いであった。それは後ほど。
信大での診察が終わると、入院の予定が決まった。仕事をしているわけでも無いので、入院は診察の次に日からだった。入院すると検査が始まった。電気信号の検査では一年前より結果が悪かった。そのことは自分でも分かっていたが担当のスタッフの人が、ぼそりと、「一年前よりかなり悪くなっているな」と呟いた。自分では分かっているがそのことを言われると、不安が頭をもたげてくる。
身体の弱っている患者にとって、こころはもっと神経質になっているのだ。自分でも頑張ろうという気持ちを持ち続けているのに、病院の先生やスタッフにそのような言葉を言われてしまうと大きく響くのである。このまま寝たきりになってしまうのでは無いか、改善しないのでは無いか、薬が効いてくれなかったらどうしよう、不安が不安をよんでくる。
「悪いのは分かっている。だから病院に来ているのだ。」
身体の中心から怒りと悲しみが押し寄せてきた。私は不安と怒りを深呼吸とともに大きく吐き出した。何回も、何回も、大きく息を吸い込み、呼吸に載せて不安と怒りを吐き出した。そして、今できることに考えをシフトした。
今できること。
身体のために出来ること。こころの平安のために出来ること。
病気の治療を先生にお任せすること。
改善するために治療に専念すること。
私は治療の時間が終わると、家にいたときのように心を穏やかにする習慣を病室でもおこなった。タロットカード。字の練習。大きく広がった見えない不安はゆっくりと小さくなっていった。病気が良くなることをこころから信じて祈ること。
それが、今の私にできることだった。
コラム
〇 不安が大きくなり始めたときには一旦、考えることを止めてみましょう。
考えないことで不安が広まるような感覚がありますが、疲れているときは、いい考えは浮かび上がってはきません。 今、考えている不安を一度吐き出して、こころを軽くしましょう。
大きく深呼吸をします。そして、吐くときに不安や悩んでいることを吐く息に載せて吐き出します。悩みや不安をイメージの中で吐き出します。何回か繰り返していると、不思議とこころが軽くなっていきます。
頭の中が軽くなりましたか。ゆっくり休んでくださいね。
信州大学で一通りの検査が終わり、治療が始まりました。ステロイドの点滴は自分が想像していた以上に副作用が大きい。一気に身体がむくみ始め、頭痛が始まった。以前は薬で服用していたがそれ以上のけださ、気持ちの悪い感覚が身体に広がっていく。病気を治してくれることは分かっている。けれども、まるで身体が自分のものでは無くなるような気がする。
ステロイドの点滴治療をして数日間様子を見る。一日も早く、グロブリンの点滴をして身体を動くようにしてもらいたい。私の身体がどれくらいステロイドに反応しているのかを調べる必要があるために、いつものグロブリンの点滴が出来ない。点滴の効果はほんの少し、力が戻った気がする程度だった。しかし、教授の診察のときには少し大げさにアピールした。それは新しい薬にすがる思いだった。毎月の再発には嫌気がさしていた。少しでも改善し、再発しなければ、どんな治療でも覚悟していた。
いつもこころを平安に保っていたが、奥底では逃げ出したい、これ以上長引かせたくない、そんな想いが吹き出してきた。教授も、その患者によって薬の効き具合に違いがあるので、これが一番いいという確証は無く、ひとりひとりに合わせた治療法を試している。
ステロイドの点滴が効いてきたことを見計らい、いつものグロブリンの点滴が始まった。しかし、信大での治療は市民病院とは違った。グロブリンの点滴を薄めるために、グロブリンが終了した後に薄める点滴をしなければならなかった。
1日中つながれている。寝るときもつながれている。そんな・・・入浴の30分だけ外してもらえることが、せめてもの救いだった。点滴が始まると、いつものように副作用も始まった。頭痛、むくみ。
私は毎日の日課である、字の練習と本を読んでこころの平安を保っていた。字の練習はそのことに集中するので、瞑想がそこで出来てしまう。時間的には10分ぐらいで、とても効果的で字もうまくなり一石二鳥なのである。
本を読むことはこころを沈ませないためにとっても効果的なのである。特に自己啓発やこころのことを扱った本は気持ちを安定してくれる。病気になり、入院すると人はどうしてもその環境に適応してしまい。病人のようになってしまう傾向があることに気が付いた。病気だから仕方が無いと思うかも知れないが、具合が悪いときには休めばいいのだが、病気で入院していると、だんだんとその生活に慣れてきて、周りの人も病人なので、自分の知らない内に病人のようになって、ゆっくりと、そのパターンにはまってしまうのである。知らずにそのパターンにはまると、気持ちや行動が病人になってしまうのである。
病気イコール病人では無い。「病気でも、こころは健常者。」
信大では婦長さんが毎日のように患者さんのストレスを軽減するためにお話を聞いてくれた。それは本当に救いになった。入院すると女性は周りの方とよくお話をしているみたいだけれど、男性にとって世間話はなかなか慣れていない。挨拶程度はしても話をすることはあまりない。そんな時には聞き役になってくれる人がいると、胸につまった思いが軽くなる。看護師さんの対応にはいつも感謝することばかりである。
5日間のグロブリン点滴が終了すると、だんだんと力が出始めた。今回の点滴はステロイドもしているのでいつもより早く力が戻ってきている。身体が回復してくると、自然とこころも元気になる。リハビリも柔軟体操中心でのんびり関わった。しかし、退院の許可がなかなか下りない。大量のステロイドの投与とステロイドの飲み薬によって、肝臓の数値が下がらないのである。毎日のように太い注射で数値を下げる薬が身体の中に入っていく。
身体を治すために飲んでいる薬が身体の機能をめちゃくちゃにしている。それを正常にするためにまた薬を身体の中に入れる。薬は身体を治すためにでは無く、身体が指示道理に動かないので薬によってそれをコントロールしているのである。
このときに始めて、薬の意味が分かった。
治しているのでは無く。「コントロールしているのである。」でも、薬が無かったら、動くことも出来ない。ジレンマが身体中を駆け回る。思うように動かない身体をさすりながら、涙がこぼれた。
コラム
〇 希望の光はいつも輝くとは限らない。
希望を捨てなければ、きっと輝くときがくる。
いつか輝くことを信じて、そっとポケットにしまっておこう。
きっと、あなたの思うは叶うのだから。
1年ぶりの入院は以前よりも悪い結果で始まった。しかし、ステロイドの点滴が効いてくれたこと、飲み薬の追加。教授の安心感などが重なって、改善への大きな期待が膨らんでいた。大量の薬の投与が副作用を大きく引き起こしていたが、何人もの患者を診ている教授の自信たっぷりの診察は、私にとって安心感をもたらしてくれた。そして、新しい飲み薬にも期待していた。
今まではプレドニンだけの服用であまり効果が見られずに徐々に量を減らしてもらい、その代わりに整体に期待をかけていたのだが、整体だけでは再発を食い止めることは出来なかった。信大での入院は20日間になった。退院間際に教授からこれからの治療計画を教えてもらった。プレドニンは退院ぎりぎりの30ミリから少しずつ経過を見て減らしていくとのこと、そして、週に一回のグロブリンの点滴。これが私の治療計画であった。
多くの患者を診て、その人に合わせた治療法を手探りでおこなうしか無い治療法。難病という大きな病を持っているということを思い知らされた。ステロイドの大量投与は、自分の身体を自分でコントロールできなくなることに見えない不安が募った。
頭痛などの副作用のほかに食欲が止まらないことに悩まされた。19時ぐらいに夕食をとるのだが、2時間ぐらいするとまたお腹がすいた感覚が襲ってくる。満腹中枢が壊れたような感じで、ご飯を食べても、お腹がいっぱいになった感覚が無い。初めは気が付かずに食欲に任せて、身体にも栄養を与えないと考えて取っていたのだが、気が付くと体重があっという間に10キロも増えていた。私はご飯をお腹いっぱい食べるのでは無く、目で見て量を決めるように心がけた。すると体重はそれ以上増えることはありませんでした。
ステロイドのせいでむくみ、お腹は出る。顔はパンパンに腫れる。変形した身体を見る度に、切なさ寂しさがこころの中にありました。
週1回の信州大学通いは本当に遠い。片道100キロ、高速を使って2時間半。音楽を聴いたり、講演会の話を聞いたり、途中で美味しいラーメン屋さんを見つけたりと、何とか、信大通いを楽しいものにしようと工夫しました。何度か通っていると、100キロの道のりも慣れてくるものですね。数回通っている内に初めてのときに比べると半分ぐらいに負担になりました。
僅かな希望もつかの間。25日目を境にだんだんと力が落ちてきたのです。
やっぱりまた駄目か。
信大通いを楽しいものに変えたり、いろいろとやってきたのに、また駄目か。再発には慣れているが、新しい病院と権威のある教授。表には出していなかったが大きな期待を隠していたのは事実だ。またやり直しか、もう薬は効かないのでは無いか。不安と向き合いながら、「またやり直しか」と呟いた。
病院に連絡を入れ、入院の準備。手慣れたものだった。家族には、また行ってくるよ、と伝えた。家内はお見舞いに行こうかと言ってくれたが、松本までは、子供達にとっても楽しくないようなので断った。
さあ、次回の入院生活はどんな楽しみを創ろうか。期待は小さく希望は大きく。「人生は諦めなければ道は開ける。」誰かがそんな言葉を言っていた。
今できることを淡々とおこなう。そう自分に言い聞かせるように入院準備を進めた。信州大学病院での2回目に入院が始まった。いつものように点滴につながれる5日間。字の練習。漢字の勉強。
前回と違うことは、今回は病気の体験を小冊子にまとめようと原稿用紙を持ち込んだ。20日間、近くの長丁場、時間はたっぷりとある。三食昼寝付き、それに加えて、自分の時間を邪魔する人は誰もいない。回診や検査がたまにはいるぐらいである。作家がホテルに缶詰になる状態に似ている。思わず笑ってしまった。時間の合間を見つけては、1年前を少しずつ思い出しながら綴っていった。
まさか、1年前の苦しみを病院のベットの上で味わうとは思ってもみなかった。あの苦しくて不安と悲しみ、失望、恐怖ありとあらゆる感情が入り乱れ、消えてしまいたい、と思い詰めたときのことを病院のベッドの上で思い出す、同じシチュエーションの中で同じ感情を味わうことになるとは思ってもいなかった。
同じ環境がよりリアルにその感情をわき上がらせていた。
「身体の不調から入院検査、難病の宣告、引っ越し、退職、大雪の冬、生命の危機、春の喜び、生きる力、命の大切さ。」改めて文章に落としてみると、1年間の出来事がまるで50年分ぐらいの時間と経験をしているようにさえ感じられた。自分のこころの中から沸き上がってくるたくさんの感情と向き合った。荒れ狂う感情をゆっくりと抱きしめた。隠れていた感情は溶けていった。
静かな病室は、自分の感情と向き合うには、とても良い空間だった。改めて思い起こしてみると、まるで映画のような人生を1年間のうちに経験していた。この経験を自分の胸だけにしまっておくのはもったいない、という思いが胸の中心から沸き上がってきた。一度は消えてなくなりたいと考えた命。次の命は、この体験という財産を、多くの方のお役に立てるように使うことを決めた。
2回目の入院は、私に自分と向き合い、癒す時間をプレゼントしてくれた。
「新たなる希望の光が芽生えた。」
コラム
〇期待は大きくなればなるほど苦しみも大きく跳ね返ってくる。
期待してしまうのが人間。希望の光は決してあなたを見放しはしない、いつもこころに希望の光を持とう。
信州大学病院での2度目の入院が終わり、外に出られるようになったのは2012年の10月2日でした。飲み薬はステロイド30ミリ、プログラフ4錠、ほかに7種類の薬が出されていた。大量のステロイドやプログラフは身体に大きな負担を与えていた。そのために血圧を下げる薬、コレステロールを下げる薬、感染を防ぐ薬、骨を守る薬。
自分の身体を自分ではコントロールできない。
難病で毎月のように再発していることは分かっているが、もう自分の身体が自分のものでは無いようである。教授の話では、退院して社会復帰を目指すと言っていたが、大量の飲み薬で副作用の頭痛やむくみがひどく、家にいるだけがやっとの状態。これだったら病院に入院していた方がましだった。
家に帰れば食事の支度や洗濯などの作業が待っていた。長期の入院によって、身体は動かなくなっており、大量の飲み薬は動くことさえもおっくうにしてくれた。
週1度の信大病院通い、副作用の大きいステロイドを極力減らしてほしいと教授に懇願した。教授はすぐに薬を減らしてやりたいのだが、再発することを考えると急には減らせないよと、少し困った表情で答えてくれた。初めて、怖いと思っていた教授が優しく見えた。教授は私の意見も聞いてくれながら慎重にステロイドの量を減らしてくれた。
病院へ通うごとに、ステロイドの量は2ミリ、3ミリと少しずつ減っていった。
「病気の再発が止まった。」1年間再発し続けた難病が治まった。
発病して以来、毎月のように襲いかかる不安と力が出なくなる恐怖、それが終わった。毎月繰り返す恐怖から、新しい世界への移行だった。一体、どれくらいの期間、治まっていてくれるのだろう。病気の会の掲示板では3ヶ月ごとに再発を繰り返す人が毎回苦々しいコメントを残していた。「ぼくの場合はどれくらい再発しないのだろう。」
新しい世界は希望と不安の交差点。1日1日が何かに挑戦しているような感覚だった。そして、全くなくなった筋力を戻さなければならない。掲示板では無理な運動は禁物と書いてあった。でも、早く取り戻したい。私はゴムボールと大きなゴムバンドを購入して、ゆっくりとお風呂上がりにリハビリを開始し始めた。
12月の初旬に、教授から市民病院への転院許可がおりた。3ヶ月の通院がひとまず終わった。最後に通ったのは12月29日の雪が降るとても寒い日だった。教授や看護師さんに感謝の気持ちでいっぱいだった。
1年間、再発を繰り返し、未来の予定や希望を全く立てなくしてくれていた再発が治まった。再発は私に今を集中して生きることが未来を大きく変えることを私に教えてくれた。次なるステージ。再発が治まることによって、未来という時間を手に入れることが出来る。希望を手に入れることが出来る。
今まで当たり前だった未来という時間が、今の私にとってはとても光り輝いて見えた。これからの未来は、自分の好きなこと、人のお役に立てること、自分にとって楽しいこと。私は一生懸命に考えた。
コラム
〇 あきらめないことが次なるステージへの切符になる。
辛くても、希望の光をこころの隅に持とう。小さな可能性を信じて続けよう。きっとその光は輝く。
2013年に入り、再発が治まって4ヶ月がたった。いつ再発をするか分からない不安の中で、気が付いたら120日という時間が過ぎていた。もっと、もっと長く延びてくれ。そんな思いでいっぱいだった。
今年の冬は去年とは大きく違った。本当の力が出ないが、再発が治まっているだけでもありがたい。雪かきも以前のような神経がビリビリと痺れることは少なくなっている。その上大家さんが古い除雪機を貸して頂けることになった。身体がすこし動くことによって、除雪機も扱うことが出来る。この大雪の場所でも生き延びることが出来る。去年は身体が思うように動かないで本当に苦しく情けない思いでいっぱいだった。
何よりも嬉しいことは、再発が治まっているので未来の予定が立てられること。私にとって、大きな希望だ。多くの方にこの難病からの復活の経験を伝えよう。もし、心理学やメンターの教えを知らなければ、奇跡は起こっていなかっただろう。それどころか、自分の大切な命さえも自分で絶っていたかも知れない。何かのお役に立ちたい、誰かのお役に立ちたい、そのような思いが身体の中心から湧きだしてきた。どのようにしたら多くの方に伝えることが出来るか?そうだ、講演会をしよう。私は今まで講演会などはしたことが無かったがそれが一番いい方法だと思った。ひとりでも多くの方に伝えたい。まず小冊子を創ろう。
2回目の入院のときに書きためた原稿の編集に取りかかった。パソコンに向かった。しかし、簡単なはずの入力作業は力の出ない私にとって長くは出来ない作業だった。キーボードを打つ作業は思った以上に力が要るのである。指が時々攣る。長くは続けられない。一体どうしたらいいのだろう。いろいろ調べてみると、音声で入力できることが分かった。音声入力をして、少しずつ前に進んでいった。雪であまり外に出られない私にとってパソコンの作業はちょうど良かった。初めての講演会は私にとって、分からないことだらけ、友人が開催した講演会セミナーにも参加した。
いつ再発するか分からない難病におびえながら、体調を崩さないように身体に細心の注意を払いながら、作業を続けていった。単調な作業が続くと進んで横になって体調の管理は気を遣った。それでも、大量の飲み薬は頭痛やむくみの副作用をもたらした。疲れが溜まってくると、また再発したのでは無いかと思うような不安定な体調になり、不安が襲ってきた。そのたびに横になり体調が安定するとまた作業を再開することを心がけた。ゆっくりとした進み具合に苛立ち始めていたが、自分に我慢、我慢と言い聞かせるように編集作業を積み重ねていた。
インターネットのフェイスブックに投稿をした。フェイスブックでは投稿を見た方から多くの励ましのメッセージが届いた。メッセージは家で閉じこもっている私にとって、何よりも嬉しいことであった。多くの方の励ましは折れそうになったこころが勇気づけられ、前へ前へと進むことが出来た。
小冊子の原稿は何度も書き直すことが続いた。どのようにして、度重なる困難から乗り越えてきたかというヒントまで付け加えることが出来た。ゆっくりと小冊子の完成に近づくことが出来ている。
講演会の開催は4月の25日に決定。初めての開催地は私が本当に苦しいときにお世話になった友人達のいる長野、感謝とお礼を込めての開催。初めての講演会に対して大きな不安があったが、一度は消えてなくなりたいと思った命、失敗して笑われたって、いいやと、開き直った。
コラム
〇 夢を叶えるために大切なこと。
今という時間を夢のためにどのように使うかと言うこと。夢は向こうからはやってこない。「こちらから夢に近づいていこう」
2013年4月25日、講演会の日程を決めた。それはまだ雪の残る3月に中旬だった。1月に今の自分でも何か出来ることは無いか?多くの方にこの体験を伝えたい。初めは苦しみだけの難病が、心理学やメンターの教えを使うことにより、こころが回復して体調が安定し、行動が出来るようになり、1年後には再発が飲み薬によって止まる。
毎日が自分にとっては奇跡の連続のようだ。自分の望んでいた未来が次々に目の前に現れてくる。自分のこころの中に宝物が一つ一つ、蓄えられていくような喜びであった。
今の自分が本当にしてみたいことは何か?
それは多くの方に、この奇跡的な体験を分かち合いたいという思い。そして、そのことが、同じ苦しみを感じている方の生きる希望や夢に繋がることが出来たら、自分を支えてくれた方への恩返しとなる。それは自分の夢を叶えることにも大きくシンクロしているのでは無いか。簡単に想い描いた講演会の夢が少し現実味を帯びてきた。参加して頂いた皆さまには小冊子をお配りして、講演会だけでは無く、どのようにメンターの教えを使ったのか詳しくお伝えする。小冊子の編集作業も急がなければならない。少しずつ出来上がってくる小冊子を眺めながら、講演会の開催がより、リアルに自分に迫ってくる。それと同時に講演会に対する不安もゆっくりとわき上がってきた。
失敗したらどうしよう、笑われてしまったらどうしよう。人前ではセミナーを開催したことはあったが、講演会という形で何十分もの間、お話をしたことは無かった。45分から60分もお話しが出来るのだろうか。どんどんと怖くなってきた。自分で決めておいて、逃げ出したい心境になってきた。
そんな時、ふと思った。「難病になったときに人生をあきらめかけたほど苦しんだじゃないか。」その苦しみからしたら、失敗して笑われるぐらい何ともないよな。そう思うと、不思議と安心感が湧いてきた。笑われることが怖かったら練習すればいいのだ。自分で自分に言い聞かせた。
会場の予約、友人の招待、司会者のお願い、小冊子の制作、講演会の練習。瞬く間に時間は過ぎていった。果たして、やっと動くようになった身体は持つのだろうか。ほとんどが家での生活。みんなの前に立って話すことが出来るのだろうか。不安のエネルギーを挑戦へのエネルギーに変えた。
長野でお世話になった方々にメールや電話で講演会の案内をさせて頂いた。もし、長野での友人達がいなかったら、ここまで元気になっていなかっただろうと思うと急に涙が溢れてきた。本当に苦しくて耐えきれないとき、私の悲しみをわざわざ病院まで来て聴いてくれた友人達。本当にかけがえのない友人たちに助けられた。講演会は支えてくれた友人に恩返しのつもりで開催させて頂いた。4月25日、初めての講演会が始まった。15名以上の友人達が集まってくれた。
私は少し恥ずかしくて、中央に立って話すことや参加してくれた方のお顔を見ることさえも出来なかった。事前に練習したときよりも話す時間は短く、たくさんの失敗をしてしまった。
参加してくれた友人達は満面の笑みで、私の話をじっくりと聞いてくれ、大きな拍手を送ってくれた。難病から立ち直ったことを自分のように喜んでくれた。講演会が終わると、懇親会では夜遅くまで美味しいお酒を飲みながらたくさんの気持ちをお話しした。2年ぶりにこころから解放された気持ちになった。
生きることをあきらめなくて本当に良かったと思った。
コラム
〇 自分の出来ることから始めてみよう。
感謝の言葉を伝えてみよう。今の自分を表現してみよう。きっと、新しい自分に出逢うことが出来る。
長野で始まった講演会。ゴールデンウイークには東京でも開催を決めてしまった。家族で東京へ帰る予定があったので開催を決めてしまった。体調を見ながらの開催予定が何だか嬉しくなって、つい開催を決めてしまったのである。
今の身体の状態でどれくらい動けるのだろう。家での生活は2回ほど横にならなければ丸1日持たない状態であった。外に出て講演会をおこなう。歩くのは1キロが限界。立っているのは20分ぐらい。講演会で会場の準備やお話しをすること、懇親会をすること。今の身体の状態を知るのは、実際に動いて確かめるしか無かった。
東京での講演会は兄や昔からの友人やお世話になった先生方が出席してくれた。兄や妻の前で自分の病気に対しての思いを話すことは、とても照れくさかったが、病気になったときに一番支えてくれたのはやはり家族だった。その家族の前でお話しが出来ることはとても嬉しかった。
参加してくれた方々は本当に苦しい時期を支えてくれ、私の命を繋いでくれた方ばかりだった。今の私の姿を見て頂くことが一番の恩返しだと思った。講演会終了後の懇親会も久しぶりに美味しいお酒を友人達と飲むことが出来た。
5月18日は名古屋の開催。名古屋開催のご縁を作ってくれた方はインターネットのフェイスブックで知り合いになった方だった。まだ、お逢いしたことが無い方が私の病気の投稿を見て、メッセージを下さったことがご縁となり、開催に繋がったのである。
フェイスブックでのメッセージは家に籠もりがちな私にとって、元気と勇気をくれる魔法の箱だった。
病気になると、どうしても家に閉じこもりがちになって、気持ちまで落ち込むことがよくある。そして、人との会話が少なくなると、だんだんとひとり取り残されているのでは無いかという不安が出てくる。
悪いことばかりが頭に浮かんでくる。悪い思いは自然と悪い状況を引き寄せる。悪循環のスパイラルの始まり。いつになったら治るのだろう。もっと悪くなったらどうしよう。
頭の中で勝手に膨らんでいく不安感。
フェイスブックで知り合った方からの励ましのメッセージは沈んでいる気持ちをゆっくりと浮かび上がらせてくれていた。その方達への恩返し。会場の手配などもお手伝い頂き、司会も引き受けてくれた。
インターネットで知り合った方に励まされ、そしてリアルにお逢いできる。それはまるで夢を観ているような感覚で、夢が現実をどんどんと引き寄せているようでした。名古屋の講演会では十数名の方が参加してくれました。
初めてお目にかかる方々ばかりでしたが、フェイスブックを通じてお話をしていたので、もう何年も前から知っているような感じですぐに打ち解けることが出来ました。
参加してくれた方達が言ってくれたことは、神谷さんの投稿から、「生きる大切さや、勇気をもらっている」ということでした。
私の生きることへの頑張りが多くの方のエネルギーになっていたことは大変嬉しかった。
私自身も多くのメンターから学んだことを生きる支えとして活用して、少しでもお役に立てばと思い、発信していたことが、これほどに多くの方のお役に立っていたとは知らなかった。
難病から教えてもらったことは、「あたりまえ」から「ありがたい」という思い。
病気になる前は全てが当たり前。身体が動くこと。お金があること。住むところがあること。家族がいること。全てが当たり前ですから、少しでも思い道理にいかないことがあると不満が出る。病気になると、病気が悪い。お金が無くなると、不況が悪い。家の作りが悪い。など、すぐに口から多くの不満といらだちが出ていました。
難病になって、身体が動かなくなり、やっとの思いで冬を乗り切り、生き延びたことを実感したときに、見える世界が変わっていました。身体が動くこと。家族がいること。住むところがあること。食べるものがあること。
目の前にある全てのものが、不思議とありがたいことに変わっていたのです。そのことを自然に投稿していることが多くの方に伝わり、参加してくれた方のこころにも届いたのです。本当に嬉しい気持ちでこころがいっぱいになりました。自分の病気の経験が少しでもお役に立てば、と始めたフェイスブックへの投稿がインターネットを通じて向こう側の人のこころに届けられていました。
長野で始まった講演会が東京、名古屋へと広がり、私の思いは全国の方へとこの経験を伝えたいという、あまりにも無謀な考えへと膨らんでいったのです。
身体はまだまだ本調子では無く、1回の講演会が終わると3日は横になっていないと体調が回復しない状態でした。1日動くと3日は横にならないと行けない。でも、再発を繰り返していたときのことを思えば動けることだけでも希望に繋がった。
そして、実際に動くことで自分の身体がどれくらい使えるのかということも確認することが出来た。けれども。1ヶ月の内に3回の講演会の開催は嬉しい反面、身体には相当の負担が来ていた。このまま再発をしないで下さい。私は祈るような気持ちで身体をさすりながら天に向かってお願いをした。
そして、未来への希望を膨らませていた。
コラム
〇 自分がどれくらいのことが出来るのか確かめているためには動くことでしか証明は出来ない。
頭の中でシミュレーションしても、結果は分からない。試してみることで自分のことがよく分かり、改善点や身体をホローすることがよく分かる。まずは動いてみよう。インターネットを通じて動いてもいいと思う。
全国へ向けて講演会がゆっくりと順調にスタートしていきました。全く動くことが出来なかった身体。自分の未来に予定を立て、準備をして行動することがこれほどに楽しいと改めて感じることが出来ました。再発では、今の状態で出来ることを一生懸命にすることで未来が少しずつ変わっていくことを学び。再発が治まり、予定を決めて、1日1日を積み重ねる大切さを知りました。一つずつ積み重ねることが自分の夢を創ることに着実に繋がっている。それが生きる喜びとなって、自分の身体の状態を良くしてくれていることを実感しました。
病院で頂いている飲み薬も毎月のように量が減っていきました。
ステロイドを20ミリ服用しているときには副作用により、自分の身体を治すために、頭痛やむくみで思うように動けない状態でした。しかし、毎月の検診で先生にお願いをして、ステロイドを1ミリグラムずつ減らしてもらいました。そのおかげで、副作用も少しずつ減って日常の生活が出来るようになりました。
1年間の再発で全くなくなってしまった両腕、両足の筋力。それの回復は家での生活と毎日の散歩で少しずつ取り戻しています。歩く距離は1キロ。立っていることは20分ぐらい。1日に2回ほど横にならないと1日の生活は出来ませんが、毎日、1ミリぐらいずつ体力は上がっています。
毎月通っている整体でも、私の体調の回復を自分のことのように先生やスタッフが喜んでくれています。
身体が少し動けるようになると、今度はもっと動きたい、何でちゃんと動かないのだろうと、自分の身体に対しての不満が気付かないうちに出てきます。そのようなときには、ゆっくりと心を静めるために散歩をしたり、大声で叫んでみたり、自分が家族のためにしていることを振り返り、自分で自分をねぎらうようにしています。そうすることによって、心が荒れることが少なくなり、こころを平安に保つことが出来ます。
人は自分の出来ないことや不安や失敗があるとどうしても自分や周りの人や環境を責めてしまうことがあります。そうすると、自分が今できていることでさえ否定してしまい、気持ちが落ち込んで前に進むことが出来なくなってしまいます。
それを防ぐために、私は自分のやっていることに対してや病気に対しての不安が出てきたときには、今まで自分のやってきたことを振り返り思い出して、自分のやってきたことを認めるようにしています。そして、がんばっている自分を認めてあげる。
病気のときはなかなか、周りの人は自分のことを認めてくれません。ましてや体調の悪い自分自身を自分で認めることはなかなか出来ませんが、「自分を大切に扱う。」そのことが病気の改善に役立つと思います。
「人生は点ではなく線である。」
「今、自分の出来ることを着実にすること」この言葉は私のメンターの言葉です。
不平不満で荒れる気持ちもよく分かります。その気持ちばかりだと前に進むどころか、ますます身体の状態も良い方向へ向かいません。今できることを考えて、一歩、一歩、着実に行動していく。すると、今まで目の前が真っ暗だった状況に新しい扉が開いていきます。扉の向こうにはまた新しい希望が待っています。
私の講演会も回数を重ねるごとにだんだんと皆さまの顔を見ながらお話しが出来るようになりました。時折、冗談も言えるようになりました。まさか、難病を冗談のようにお話しをするときがくるとは思っていませんでした。初めは原稿を間違えないように読んでいたのが、4回5回と回を重ねる内に皆さまの前でお話しすることが楽しくなってきたのです。
今までは難病で辛かったことから乗り越えてきたことをお伝えしてきたのですが、難病でも人生を楽しんだり、幸せになってもいいという許可が自分に対して降ろせたのでしょう。そのおかげで、家にいるときにも自然と身体の中心から生きている喜びや幸せな感覚が溢れ出てきたのです。そのことで、講演会では自然と笑みがこぼれ、冗談も言えるようになってきたのでしょう。
福岡での講演会の集合写真は私を始め参加してくれた皆さんがとてもいい笑顔で写っています。その笑顔を拝見しているだけでもたくさんの幸せが溢れてきます。
今から2年前の2011年の5月から体調が悪くなり、病院で身体が動かなくなり、難病の宣告を受けたときには、これからどのように生きていけばいいのか分からずに、夜になると涙が止まらず、暗い闇の中を彷徨っていました。いっそ、この世から消えてなくなりたいとまで思いました。
入院中にある方の出逢いがきっかけとなり、生きる光を見いだし、自分が学んできた心理学に助けられ、多くのメンターの教えに助けられ、家族の支え、友人達の励まし、お金を貸してくれた兄弟、家を貸してくれた大家さん。
毎日がただ生き延びるためだけにあった大雪の冬。
もう一度、自分の夢を思い出し動き始めた春。
子供達が学校から帰ってくるだけでありがたい。
ご飯が食べられるだけでありがたい。
お風呂に入ることが出来るだけでありがたい。
毎日が奇跡の連続の日々。
何気ない日常が「当たり前」から「ありがたい」ことに変わった。
病気によって引き起こされた人生最悪と思える出来事が、一つ一つ、新しい気づきとなって、たくさんの学びを私に与えてくれました。学びや気づきをひとつひとつ、紐解いていく内に自分の使命に気付かせて頂けたのです。
自分がこの苦しい体験から得た気づきや幸せや豊かさを多くの人に伝えたい。私が心理学やメンターからの教えを知っていなければ、これほどに早くは改善していなかったともいます。今でも苦しい闇の世界を彷徨っていたでしょう。
これは知っていたから使うことが出来たのです。特別なことや難しいことではありません。しかし、これらの教えは学校や社会ではあまり知られていません。むしろ社会では病気は病院で治すもの、病人は静かにしていること。などと、改善する方法とは違った方向にあるような気がします。
人はどんなときでも幸せになることや豊かになることが出来ます。たとえ、お金が無くても、病気になっても、仕事を失っても、幸せは自分で選ぶことが出来ます。
私は決して特別な人間ではありません。ただ、心理学やメンターの教えを知っていて使っただけなのです。
幸せは遠くにあるわけでも、勝ち取るものでもありません。
幸せはすぐあなたの近くにあります。それを一つ一つ、集めてみて下さい。きっと、あなたの周りにも豊かさと幸せが溢れてくるでしょう。
私の経験が皆さまの、お役に立てますように
皆さまの体調がどんどん良くなりますように
難病改善 心理カウンセラー 神谷 豊
この本を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
2011年には大地震などが起こり、私自身も大きな病気をして、とても重大な年になりました。人生にはいろいろなことが起こるということを改めて実感しています。
人は苦しい時や辛い時にどうしても恐れや不安の方ばかりに目が行ってしまいます。そのような中でも自分の生き方は自分が選択できるということを思い出してください。不安の中で生きることも出来るし、豊かさを見つけることも出来るのです。あなたが豊かさと幸せの中で生きることを決めると周りの人も笑顔を取り戻すでしょう。
この本を書くきっかけとなった難病に今では感謝できるようになりました。
あなたの周りで落ち込んでいる方や病気で苦しんでいる方がいましたらこの本のことをお伝え頂けると幸いです。
一人でも多くの方の希望と夢のスイッチが「オン」になることを願っています。
調理師学校卒業後、フランス料理店に10年間勤務、5度の渡仏を経験。
自分の料理を表現するためにペンションを開業、長野に移住。
本田健氏、犬飼ターボ氏と出逢う。自分の大好きなことを探し始める。
人間の心に興味を持ち心理学を学ぶ。愛息の不登校の改善により心理療法家を志す。2008年 心理療法家として独立。
カウンセリングやこころと感情のセミナーを開催。
1年間で受講生は150名を超える。
6ヶ月の長期セミナー「ゆめ工房」の卒業生は長野県でリーダーとして活躍している。心のブロックを解放し、愛を感じながら幸せに成功することを心理療法家として多くの方にお伝えしている。
2011年 難病の宣告を受ける。身体が動かなくなり、生きることを諦めかける。今まで蓄えた心理学の手法を自分で応用してわずか半年で活動を再開。こころが元気になることで活動できることを実感する。
難病からの気づきを多くの方と分かち合う講演会活動をスタート。
ホームページのアドレスは http://nanbyo.holy.jp/
発行日 2014年3月7日
著者 神谷 豊
2014年2月4日 発行 初版
bb_B_00120057
bcck: http://bccks.jp/bcck/00120057/info
user: http://bccks.jp/user/127417
format:#002y
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
神谷です