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傷痕――お試し版

天野 蒼

LAST MOMENTS



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傷 痕












 目 次

第一章 卒業のエチュード―――2018年

第二章 天国――――――――――2018年

第三章 記憶――――――――――2015年

第四章 永遠――――――――――2015年

第五章 週末ピアニスト――――2014年

 








 第一章 卒業のエチュード ―――――――2018年  


 それが起こったあと、地面にしゃがみ込んだまましばらく動けないでいた。
一時停止していた世界が再び息を吹き返したことは、目の前を過ぎる人の靴音で分かった。何事もなかったかのように立ち去る人々。私だけが痛む頭を抱えたまま、じっとしている。
 どうしよう、どうすればいいのかな……。
 混乱する頭でそのことばかりを考えていると、誰かがスカートの裾をひっぱった。振り返ると、同じ目の高さに血の気の失せた男の顔がある。
 反射的に身を引くと、スカートの細糸がビリビリといやな音を立てた。それでも男の手は私を掴んで放さない。砂場で遊ぶ幼い子供のように地面に尻をついて、四角い肩をぶるぶると震わせている。色のない唇は緊張したように結ばれて、頬に汗の粒が流れていた。
 頭痛を忘れて、私は男に見入った。初めのうちは引きつけの発作でも起こしているのかと思ったけれど、どうやらそうでないらしいことは雨の日の曇りガラスのように虚ろな目を見ているうちに気づいた。
男は身を縮めて震えていた。今起こった出来事を、必死でやり過ごそうとしていた。手に触れると、子供のような迷いのなさで強くしがみついてくる。
 私は立ち上がった。痛みは既に引いていた。男の手を引っ張るとよろよろと彼も立ち上がる。私よりもずっと背が高い。身体も大きい。三十代の、大人の男――ただ外見だけを見れば。
「怯えないで。大丈夫だから」
なるべく優しく声をかけた。二、三秒間があって、彼はこっくりと頷いた。
「ぼく、だいじょぶ」
成熟しきった大人の声でたどたどしく彼は言った。ああ、やっぱりこの人は普通の人とは違うんだ、と思いながら、私は彼から手を離した。支えをなくして男の手は数秒宙を彷徨ったが、やがて自分のズボンを掴んだ。
 男はその場から動かなかった。地面を見つめたまま、唇をもぐもぐ動かしている。惚けたような掴み所のない表情で、行動の目的を失ったように立ちつくしている。私はきょろきょろとあたりを見回して彼の家族を探すが、それらしき人は見当たらない。
 迷子なのだと私は思った。迷子というか、きっと徘徊者なのだ、この人は。高校生の時に死んだ私の祖母や、現在困惑の種になっている親戚の大叔父さんと同じように。彼らに比べると、彼はずいぶん若いけれど。
「家はどこ?」と聞いても男の意識は遠くへ飛んでしまっていて、ただ曖昧に頷くだけだ。
仕方がないので交番へ連れて行こうと彼の腕を取ると、冷たいチェーンの腕輪が指に当たった。
腕輪には平べったいプレートがついていて、簡単には引きちぎれないよう、こちらも白い鉄で出来ている。

 おおざき・みなと

プレートにはひらがなで名前が彫り込んであった。その下に、油性の黒マジックで手書きの住所も書いてある。
「おおざきさん、みなとさん」
名前を呼んで初めて男の目に光が宿った。浮遊粒子を追っていた目が私に向けられると、おおざきさんは微かに笑った。
 私たちは歩き出した。腕輪に書かれた住所はここから遠くない。
 おおざきさんは覚束ない足取りで、ふらふらとあとをついてくる。目を放すと道路の方へ歩いて行ってしまいそう。だから私は、駅前から延びる坂道の途中で彼の腕をとった。
 チェーンの迷子札を再確認する。うん。この道で間違いない。
 おおざきさんの家は坂を下った先の住宅地の中にあった。坂の上からおおざきさんの家の方向を見ると、低い屋根の密集した家の中に場違いな高層ビルが四棟見える。つい先ほどまであの建物の地下へ潜っていたというのに、もう懐かしさで胸がじくじくと締め付けられる感じがする。
 私の視線を追いかけて、おおざきさんは建物を指さした。薄い唇が微かに開いて、低い声が漏れる。
「だ、い、が、く」
「おおさきさん、知ってるの?」
「だい、がく」
「私、三年前にあの大学を卒業したの。ピアノを弾いていたのよ。今日はね、後輩の卒業演奏会があったの。うちの学校の伝統で、卒業式の一ヵ月前には演奏会を開くのよ」
 おおざきさんは不思議そうな顔で首をひねった。長すぎる言葉は理解できないらしい。
えん、そう、かい。
一語一語をはっきり区切って言うと、おおざきさんはやっと合点がいったように頷いた。

 調子が良かったのは大学卒業までのこと。
 小学校から高校にかけて受賞したトロフィーの数は数え切れない。一時期、私はテレビや雑誌でも紹介された。三年前の卒業演奏会でも学科一の優秀生に選ばれて、大勢の観客の前でピアノを弾いた。拍手がわき起こり、称賛の声と羨望の眼差しに取り巻かれ、あとはずっと下り坂。
 大学を出てから三年間、ありとあらゆるコンクールに応募し、私は落選し続けた。何時間という練習を積んで、今回が最上の演奏だと思っても予選にすら名前が通らない。今までの栄光が嘘のように、何もかも上手く行かなくなってしまったのだ。
 そんなときに鑑賞した後輩の演奏はかつての私とどこか似ていた。テンポが早く、飛び跳ねるように乱雑で、まだらな演奏の中に耳を疑うほど澄みきった音が耳をかすめる。
 かつて私が弾いていた音と似ていて、もう二度と出せない音。後輩の演奏は技術力に欠けていた。昔の私みたいに。でも、なぜだろう――胸のざわめく余韻が会場を出てからずっと続いている。

 ――好きなように弾けばいいのよ。
 ――本当に価値のあるものは、自分の中にしかないってこと。

 一緒に演奏会を見に行く予定だった友人から、突然キャンセルの電話が届いた。演奏開始三十分前、携帯電話の電源を切りかけたところだった。
「ごめん、今日の演奏会だけど、急な用事が入って……みんなによろしく伝えて」
 何年も聞いていなかった彼女の声を聞いたとたん、頭の中で蘇った。ずっと心に残っていたあの言葉は、かけがえのない友人が教えてくれたことだった。
 今でもコンクールに落選するたび、私は彼女の言葉を思い出す。「好きなように弾けばいいのよ」。それは傷口にかける消毒液だ。じゅわじゅわと泡をたて、血のにじんでいた患部は色の薄い傷痕に変わる。もう何箇所心に傷を作ったのだろう。
 私は、何がしたいのだろう。

 何かが後ろ髪に触れる。驚いて背後を振り返ると、おおざきさんの指が間近に迫っていた。私の突然の動作に驚いて、おおざきさんの視線が戸惑ったように左右に泳ぐ。
 彼の意思に反するように、指先が再び私の後頭部へ伸びた。男の人にしては細く、繊細な指がバレッタをわし掴む。毛根を引きちぎる、鋭い痛み。
 私より年上で私より背の高い、知能に障害を持ったこの男を恐れる気持ちは少しもなかった。相手の手首をぎゅっと掴むと、彼はわずかなうめき声をあげて、放心したように体を脱力させた。唇から低い声を漏らして、目元の生の光が弱くなる。
 彼の手からバレッタを奪い返すと、私は新たにポニーテールを作って髪に留める。
私たちは再び坂道を下りだした。

 私が学生だったころと比べ、街並みはすっかり変わってしまっていた。古い家のあった場所はコンクリートの空き地に埋め立てられ、アスファルトの道路も新しく塗り替えられていた。
 整備されたというよりも、人々が築き上げた土地を白紙に戻してしまったと言った方が正しい。その中に、点々と昔の傷痕――半壊したまま放置されている家々。あれらはわざと撤去されずに残っているのか、分からない。
 携帯電話のマップを確認しながら、おおざきさんの腕輪に書かれた住所へ辿りつく。
彼の家は周辺の住宅と同じような形の、小ぢんまりした一軒家だった。玄関の表札に「大崎」と書いてあるので間違いない。
 呼び鈴を鳴らすと、私の両親ほどの年齢の中年女性が出てきた。ぴっちりしたトレーナーにデニムのパンツ。黒く長い髪をひっつめにして、こざっぱりとした女性だ。
 おお、と背後でおおざきさんが言いよどんだ。おお、おお……そして、やっと言葉を見つけたようにおおざきさんは言った。
「おかーさん!」
のっそりと私の背後から姿を現して、おおざきさんは一歩前に進み出た。
「湊人(みなと)!」
思わず飛び出た母親の驚きの声に、おおざきさんは体をぶるぶる震わせた。すぐさま踵を返して私の背後に隠れる。ごめんよぅ、とくぐもった声が背中から聞こえてきて、私は微かに笑った。おおざきさんたら、なんだか童話に出てくるクマみたい。
 おおざき夫人は私に向かって頭を下げた。
「すみません。私、気が動転しちゃって、突然のことだったから……」
 湊人、とおおざき夫人が優しく名前を呼ぶと、身を縮めていたおおざきさんの体が安心したようにまっすぐに伸びた。そのまま私の手を掴んで家の中へ入ろうとするので、私は慌てて足を踏ん張った。
「おおざきさん、私もう帰らなくちゃ」
 そう言っても、おおざきさんは嫌々と首を振って、なおのこと強い力で私を家に招き入れようとする。おおざき夫人も私の顔を見て、笑みを作った。
「わざわざ家まで送り届けていただいて……外、暑かったでしょう? 良かったら、お茶でも飲んで行ってください。息子も喜ぶと思うから」
 いいえ、お気遣いなく。そう言って一端は断ったものの、おおざき夫人は元来から持っているらしい溌剌さで引き下がらなかった。何回か押し問答が続いたのち、このやりとりを見ていたおおざきさんがしびれを切らして言った。
「いいもの、聴かせるよ! いいもの!」

 玄関からぴかぴか光るフローリングの廊下を歩いて、リビングに通された。部屋は広々としていて、趣味の良い調度品があちこちに飾られている。油彩画の大きなリンゴや、手作りのフラワーリース、色ガラスを混ぜて焼いた花瓶など。家中が様々な色彩にあふれていた。
 キッチンとひと続きになっているリビングには大きな円卓があって、ふかふかのソファがぐるりと周りを囲うように置いてある。進められるがままにその一つに腰掛けると、おおざき夫人は湯を沸かしにキッチンへ立った。
「あの、あまり気を遣わないでください。私、たまたまこちらへ向かう用事があって、そのついでにお送りしただけですから」
 知り合ったばかりの人の家に慣れず、咄嗟に嘘をついた。しかし、思ったほど声が張らず、おおざき夫人の耳には届かない。所在なく足の指先をすりあわせながらおおざきさんの姿を探したが、彼はいつの間にか姿を消していた。
 白いレースカーテンの隙間からこぼれる、夕焼けの光。フローリングの床に、細かな模様の影ができている。遠くから、カラスの鳴き声が聞こえてくる。
 微かな音を立てて、目の前にティーカップが差し出され、大したお構いもできなくてごめんなさい、そう言いながらおおざき夫人はテーブルの向かいに腰を下ろした。
「湊人を送ってくれてありがとう。急にいなくなったものだから、心配していたんです。てんかんの発作があるので、道で倒れていたらどうしようかと。もう少しで警察に連絡をしていたところでした」
「私がおおざきさんに会ったのは駅前のロータリーでした。道が分からなくて迷子になっていたんです」
ああ、とおおざき夫人は額を押さえ、深い溜息をついた。
「息子が事故に遭ったのも駅前だったんです」
「事故?」
おおざき夫人は頷いた。
「三年前に湊人はバイク事故を起こしたんです。乗用車と接触して、頭に深い傷を負いました。命は奪われなかったものの、脳に重い障害が残ってしまって、それが今も悪化し続けているんです。徘徊すると思い入れのある場所に惹かれて行ってしまうものなのかしら。もう私の手に負えなくなってしまって、困っているのよ」
 しばらくの沈黙。ごまかすように紅茶に口をつけた。熱いダージリンティがひび割れた唇にしみこんでずきずきと疼いた。夫人もティーカップに口をつける。
バイク事故、障害、徘徊……それらの言葉が私の頭の中をぐるぐるまわる。どうしてこんなに私的な話を見ず知らずの私に告げるのだろう。何気なく呟いただけなのか、それとも意識的に、彼女が私の興味を喚起するような発言をしたのか、分からない。
 もしかしたら、おおざき夫人は私にその話をしたくてうずうずしているのかも知れない。誰か、親族以外の、深い関係に陥ることのない人間に愚痴を吐きたいのかも。私がおおざきさんの病状についてちょっと興味を示したようなことを言えば、紅茶を三杯も四杯もおかわりするハメになったりして。
 そんな憶測を始めたら最後、早くも暇を告げたい衝動に駆られた。
 私には誰かの感情のはけ口になっている暇なんてない。一分一秒でも時間が惜しい。ピアノに向かえば向かうほど、次のコンクールの成績が一点でも多く獲得できると信じているから。
親切心を利用されたような感じがして、にわかに憤慨しながら、私は席を立つ――いや、立とうとした。
 ポーン。どこかからなじみ深い音が聞こえ、私は肩を震わせた。私の思考を飛び出し、幻聴が聞こえたのかと思った。しかし、凛としたピアノの音色が跳ねるように再び聞こえ始めると、おおざき夫人に尋ねずにはいられなかった。
「一体誰が弾いているのですか?」
 瞬間、部屋の調度品についたあらゆる色彩が物体の枠を飛び超え、音となって耳の中へなだれ込む……そんな印象の旋律が部屋中にあふれ出した。
 それは正式に、「音楽」と言って良いか分からない。スタッカートばかりの音の洪水。耳の痛くなりそうな速弾きの連続だった。よどみなく生まれ続ける、音・音・音。
 とても奇妙なリズムだ。敢えて秩序を壊そうとしているのか、完璧な演奏の中、奈落へ突き落すような欠落がところどころにくわえられている。それは恐いもの見たさに近い。調和の中の不調和が、聴く者を不安にさせ、違和感とともに曲の中へ引きずり込む。こんな演奏、聴いたことがない。
 様々な音が入り交じり、大幅にアレンジが加えられていたが、私はこの曲を知っていた。それどころか、血を吐く思いで引き続けた因縁の曲。あの大学を卒業した者なら誰でも知っている。
 これは「卒業のエチュード」だ。
 私の大学では必ず、卒業の実技試験で「卒業のエチュード」を弾く。それによって、卒業資格が得られるか否かが決まる。中でも一番上手く演奏した者が、三月に行われる卒業演奏会のピアノ・ソロを弾くことができる。いわば、在学時の名誉を左右する運命的な曲なのだ。
 あの大学を卒業した者しか知らない、秘密の音色を弾いているのは誰? そう思いながらも、既に予想がついていた。ソファから立ち上がり、リビングと隣室を隔てる引き戸に手をかける。隙間から、繊細な、男の人の手が見える。
 赤茶色のアップライト・ピアノを弾くおおざきさんの目は爛々と輝いていた。迷子になっていたときの、ぼんやりとした表情は欠片もない。額に玉の汗を浮かばせ、前後に体を揺らしながら、生き生きと鍵盤をはじく。おおざきさんは笑っていた。誕生日プレゼントを手渡された子供のように、嬉しそうにピアノを奏でていた。
 そんなおおざきさんを見ているうちに、私は気づいた。そして、理解した。落とし穴にはまったようにして、欠落する音の原因。
 おおざきさんには小指がない。右手の第一関節から、小指が切断されていた。
 小指の担当する範囲の音は第二間接が触れるだけにとどまり、鍵盤を叩くことが出来ない。これもバイク事故で負った怪我なのか。丸くすぼまった小指が音のない音に触れるたび、わたしは我が身のことのように身のすくむ思いがした。
 数分、音は流れ続け、ある瞬間、静寂のもたらす鋭い余韻を残して、ぴたりと止まった。息を弾ませながら、おおざきさんは立ち上がる。こちらへ向かってぺこりとお辞儀をする前に、私は拍手を送った。心の底から素晴らしい演奏だと思った。おおざきさんには小手先の技術を越えた、貫禄のようなものがあった。楽しげにピアノを弾く彼を見ていると、この世界に悲しい事なんて何一つないような気持になってくる。
「いいもの、聴かせた。いいもの」
 おおざきさんが笑った。人のびっくりする顔を見るのが嬉しくてたまらないと言った様子を隠して、それでもすべて隠しきれず唇の端を曲げてにやりとした。
その笑いに、私は彼の事故以前の姿を垣間見たような気がした。
「おおざきさん、一体どうしたらそんな演奏ができるの?」
 傍へ寄って、興奮に腕を掴みながら私は問い正そうとした。
 そのときだ。
 視界の定まらない違和感が私を襲った。駅前で受けたものと同じ感覚……まさか、また? そう思った途端、床が大きく揺らいだ。すぐに家がゆさゆさと揺れ始める。壁に掛かった写真立てや額縁が大きな音を立てて壁に打ち付けられる。
「やだ、大きいわ」
 背後でおおざき夫人がつぶやいたのと同時に、テーブルからティーカップが転げ落ち、不協和音が響いた。それは家が上げた悲鳴のように聞こえた。へなへなとその場にくずおれる。
鼓動が速い、息が切れる。胸が痛くなる。やだ。私、また気持ち悪くなってきてる……どうしてこんなに揺れるんだろう。もう、いい加減にして。
 目を瞑ってわきあがる気持ち悪さに堪えていると、大きな手が肩に触れた。薄目を開けると目の前におおざきさんの顔があって、彼もまた苦悶の表情で、襲いかかる震動に必死で堪えていた。
 その手は一秒先の予想もつかない未知の恐怖に細かく震えていたが、男性の力強さで私を抱きしめて離さなかった。腕は夜の海に浮かんだ一本の太い丸太のようで、しがみつくと不思議な安心感があった。私は、守られている。そう思うと、どんなにひどい災害も我慢することができるような気がした。
 もう少し。もう少しの辛抱よ。すぐにまた静けさがやってくる。大丈夫、今回も何事もなく過ぎるから。
必死の思いで自分に言い聞かせていると、耳元に彼の熱い息がこぼれた。
「あ……や……ね」
 おおざきさんの低い声が、家具の打ち付けられる激しい物音とは別の場所から、静かに聞こえてくる。私は目を開いた。おおざきさんの顔を見上げた。
「そばにいる。だいじょうぶ、だ……あやね」
 バタン、と大きな音がしてピアノの鍵盤蓋が乱暴に閉まった。それからしばらくは何の物音もしなくなった。
 足の感覚がない。代わりに、涙が滲むほど膝の痺れを強く感じた。おおざき夫人に肩を支えられ、ようやく私は立ち上がった。
 立ちくらみを起こしたあとのように、鈍い痛みがこめかみをつつく。
「大丈夫?」
心配そうな顔で私を見るおおざき夫人の顔が何重にもぶれている。大丈夫です。返事をした声が震えていた。私をソファに座らせると、おおざき夫人は割れたティーカップをまたぎ越して、冷蔵庫から冷たい麦茶を持ってきてくれた。
 口をつけると、頭のうずきが少しだけ弱まった。
「地震が起こると、きまって頭痛がするんです。どんなに小さな揺れでも、気持ち悪くなっちゃって」
「そう言う人、多いって聞くわ。一時間くらい前にも小さな揺れがあったけれど、大丈夫だった?」
「そのときも、駅前で倒れてしまって……」
まあ、と呟いて、おおざき夫人は眉をひそめた。
「それは大変な思いをしたわね。でも怪我がなくて何よりです」
 私たちはどちらともなく互いの手を握っていたが、二人とも指先は真冬のように冷たく凍えていた。
 視界の隅におおざきさんの姿が見えた。彼はピアノの前に立って光沢する鍵盤蓋を優しく撫でていた。おおざき夫人が手を伸ばしてリモコンを取る。どのテレビ局も地震速報を流していたが、規模は思いのほか大きくなかった。震源地は神奈川県の東部だったが、そこでも最大震度は四ほどで済んだそうだ。交通機関も運転を続けているらしい。
「このごろ、本当に多くて嫌になるわ」
おおざき夫人が小さく呟いた。
 ポーン。
 おおざきさんの弾く低いピアノの音が耳に届く。
 49Aの「ラ」の音。

 それから二時間ほど、私はおおざきさんの演奏を聴きながら、外の様子をうかがっていた。
 余震が心配だったが、テレビの地震速報はとうに消えていたし、携帯で地震のことを調べても、今回の余震については何も触れられていなかった。もしかしたら、地震の頻度が多すぎて、情報が上手く取捨されていないのかも知れない。「地震」と検索タグを打ち込んで、専らページを占めるのは三年前の千葉大地震のこと。
 これから何が起こるかは誰にも分からないが、帰るなら今しかない。おおざき夫人に暇を告げると、席を立った。おおざきさんもピアノを弾く手を休めて立ち上がる。
「おおざきさん、美しい演奏をありがとう。あなたのピアノを聴いて、大切なことを思い出したような気がするの。もう一度、私にとって何が必要なのか、考えてみるね」
別れ際、玄関の前でおおざきさんはもじもじとズボンを握っていたが、やがて意を決したようにポケットから何かを取り出した。
「ごめん。ぼく、悪かった。ごめんね」
 彼の大きな掌には、見慣れたバレッタがきらきらと輝いていた。後頭部に手を添えると、さっきまで髪を留めていた位置に何もない。きっと私を抱きしめたとき、手を伸ばしたに違いない。
「湊人! 人のものを取ったらダメでしょう!」
蒼い顔をして息子を叱るおおざき夫人を宥めて、私は言った。
「そんなに気に入ったのなら、おおざきさんにあげる」
「でも……」
「いいのよ。素敵なピアノを聴かせてくれたお礼。大切にしてね」
 さようなら。
 そう言って、私はおおざきさんの家を出た。彼とはもう二度と会うことはないだろう、と思いながら。
 ドアを閉める直前、大切そうにバレッタを撫でるおおざきさんの姿が目に入った。

 ――好きなように弾けばいいのよ。
 ――本当に価値のあるものは、自分の中にしかないってこと。

 帰り道、私は電話をかけた。演奏会に来るはずだった、私の大事な友達に。
 大学時代、私たちは同じサークルで知り合って、いつも一緒に遊んでいた。学業ではライバルのように張り合っていた時期もある。卒業後、久しぶりに連絡を取った私たちは、直前までメールを頻繁にやりあって演奏会を指折り楽しみにしていた。
「ごめん、今日の卒業演奏会だけど、急な用事が入って……みんなによろしく伝えて」
 けれど、彼女は来なかった。私が返事をする前に、その電話はすぐ切れた。いくらメールを送っても一向に返事が返ってこない。もしかしたら、心のバランスが乱れているのかも知れない。
 彼女が精神的な病にかかっていることを、彼女からのメールで知った。快方に向かっていると言っていたけれど、その病態について、私は詳しく聞かされていない。ただ思うのは、彼女が今もピアノを弾き続けていれば良いな、ということだけ。
 駅前の坂道を上りきると、高い崖の上から町全体が見渡せた。鼠色の住宅屋根が密集する中、シャンパン色のライトに照らされ、私たちの大学がひときわ明るく浮かび上がっている。
「私、好きなように弾いてみるよ。自分の中にあるものを信じて」
彼女のことを思いながら、私は小さく呟いた。




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傷痕――お試し版

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2014年2月14日 発行 初版

著  者:天野 蒼
発  行:LAST MOMENTS

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ao amano

ao amano 蠍座 東京生まれ。 福岡を中心に個人で本を制作・出版。 平生は地域密着型のライターをしています。 2013年に日本大学芸術学部文芸学科を卒業しました。文章修業は十年目です。 個人誌の試し読みという形でbccksに出展。 作品を気に入られた方はぜひ当サイトまでいらしてください。よろしくおなしゃす。 ・LAST MOMENTS http://xxxxmomentsxxxx.xxxxxxxx.jp/index.html ・通販ページ coming soon ・twitter https://twitter.com/LULUsmoments

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