
この本はタチヨミ版です。
目次
第一章 郷土の昔話(「なばりの昔話」より)
【一】猪早太(いのはやた)の墓(箕曲中村)
【二】昔話に出てくるなばりの寺社・史跡 福成就寺
【三】有綱(ありつな)の碑(薦生)
【四】熊坂長範(くまさかちょうはん)(蔵持)
【五】昔話に出てくるなばりの寺社・史跡 蔵持春日神社
第二章 日本の昔話(源氏の人々)
【一】源頼政
【二】源有綱
【三】源義経
第三章 日本の昔話(源氏の人々)・解説
【一】源頼政
【二】源有綱
【三】源義経
第四章 世界の昔話
■アトム・ライン
【一】オマル・ハイヤーム
【二】ルクレティウスとエピクロス
■エルサレム・ライン
【一】巡礼(じゅんれい)
【二】イスラム
【三】教皇対皇帝(聖と俗)
【四】ウルバヌス二世の教皇就任
【五】十字軍の呼びかけ「完全免罪」
【六】死者の冥福「追善供養」
【七】十字軍の行動原理
【八】戦争の前
【九】隠者ピエール
【十】領主・騎士の十字軍参加者
【十一】第一回十字軍の結果
第五章 現代社会
【一】ドイツ/アデナウアー(仏ドゴール・英チャーチル)
【二】ロシア
(一)レーニン~スターリン
(二)フルシチョフ~ブレジネフ~アンドロポフ~チェルネンコ
(三)ゴルバチョフ~エリツィン
(四)プーチン~メドベージェフ
【三】キューバ/チェ・ゲバラとカストロ
第六章 未来・おとぎ話
第七章 世界の神話(日本/古事記)
日本音楽著作権協会(出)許諾第一四〇三七七九-- 四〇一
やあ、久しぶりじゃのう。元気じゃったか? ではさっそく話の続きをしようか。保元の乱(一一五六)、平治の乱(一一五九)で平清盛が日本のナンバーワンになったところまで話したんじゃったな。
その平清盛ひきいる平家があまりにもえらそうにしたので、これを倒そうと源頼政(*1)は立ち上がったのじゃ。頼政には、猪早太(いのはやた)という家来がおった。猪早太の話が、名張の箕輪中村に残っておるので、紹介しよう。
今から八百年ほどの昔の源平時代。源頼政が治承四年(一一八〇)、平家に反抗して兵を挙げようとしていたのを事前に知られて戦になったんじゃ。ところが、すさまじい平家軍の攻めに宇治川で頼政勢は敗れてしもうた。
頼政は、一族とともに自害して果てる直前、家来の猪早太を呼びつけて、
「早太よ、この法華経は高倉宮公(*2)からいただいた大切なものじゃ。ぜひ奈良、東大寺に納めてもらいたい。」
猪早太の手に法華経三巻を渡したそうじゃ。早太は涙を払って、
「承知いたしました。命にかえても必ずお納めいたします。」
「頼むぞ。このまま奈良に行くのは危険だ。わしの領地の名張にいったん出てから奈良へ向かうがよい。」
頼政の命を受けた早太は、味方が立てこもっていた平等院をそっと抜け出して山づたいに名張までたどりついたんじゃが、ここで平家の兵隊に追いつかれてしもうたんや。襲いかかる敵を必死で切り払いながら逃げたんじゃ。しかし、切っても切っても次々に向かってくる敵に、とうとう力尽き、殺された。
何も知らん村人は、あわれんで早太が体につけていた法華経を遺体と一緒に手厚く埋葬。供養のため十三重の立派な石塔を建てたんじゃ。
話・岩田昌充さん(明治三十二年生まれ)
(*1)みなもとのよりまさ。一一〇四~一一八〇。
(*2)たかくらのみやこう。一一五一~一一八〇。第七七代後白河天皇の第三皇子。以仁王(もちひとおう)。源氏に平氏打倒の挙兵を促した。
箕輪中村の話はどうじゃったかな? 次のサイトで下手じゃが、音声が聞けるぞ。
http://nabari.plwk.jp/0803.html
■福成就寺:三重県名張市箕曲中村一〇四一
■本尊:薬師如来
■真言宗室生寺派
■撮影(二〇一四年):村井章雄
源頼政の孫が源有綱(ありつな)じゃ。有綱の話が、名張の薦生に残っておるので、紹介しよう。
昭和の初めやったな。わしの家に、古い大きな木がありましたんや。ある日じゃまになったでな、取り除こうとして掘ったんや。すると、ぽっかりあいた穴の底に思いもかけぬものがありましたのや。
こびりついている土を井戸水で洗い落とすとな、表面に「神源有綱」とはっきり読みとれる文字が刻んである石碑やったのや。最初は無縁さんの所へまつるつもりやったが、予野(上野市 *1)のあるお坊さんがこの碑を見てな、
「このあたりでナギナタを持った女たちが倒れているようじゃ。有綱はんは、人目につかん場所にそっとしまってくれと言ってるがな。これから、毎日欠かさず水と線香一本を供えてやりなはれ。」
不思議なことを言うたんやわ。
そしてしばらくたったある日うとうとしてたらな、
「有綱はんは、苦しゅうてかなわんと言っているがな。」
夢の中でこう呼ぶ声が聞こえたんや。目をさまして碑を見ると、夢の中の言葉通り、ツルが巻きつき碑が傾いておったんじゃ。
碑は予野の人に言われたようにして、裏庭でそっとまつり、毎日欠かさず掃除もしています。有綱を埋めたと伝わる「天神塚」はわしの家のすぐ東の畑の中ですわ。
話・井戸本義正さん(明治三十七年生まれ)
薦生は源有綱(*2)が自害をした地と伝承されています。有綱は源義経(*3)の娘むこ、頼政(*4)の孫で、義経が兄頼朝に追われ、重臣だった有綱も同じ目に会いました。有綱は吉野から山辺(奈良県・榛原町)に逃れましたが、ここでも頼朝の追討を受け、祖父頼政の領地である薦生の地へ山伝いに逃げて来ました。薦生には源氏の一党である武田氏が住んでいましたので、ここでしばらくかくまわれていたのです。
ところが、頼朝の命を受けた伊賀の服部六郎時定(はっとりろくろうときさだ)が軍勢を引きつれて、有綱の立てこもる薦生の山城を攻撃しました。有綱は勇猛果敢な武将らしく戦いましたが、多勢に無勢。嫡子の有宗に六人の家来をつけて乳母の弟である予野の萱左衛門のもとに預けたあと山城で自刃して果ててしまいました。文治二年(一一八六年)六月十六日のことといわれています。
予野の地を無事逃れた嫡子有宗の家系は、為盛→景守→元成→清次と続き、清次は郷土が誇る「能」の大成者である観阿弥となりました。
また、有綱には有宗ら四人の子供がいて、次女は柏原(名張市赤目)の城主である滝野上野介の妻になったと伝えられています。
(*1)現在(二〇一四年三月)の伊賀市。
(*2)みなもとのありつな。? ~一一八六。源頼政の孫。
(*3)みなもとのよしつね。一一五九~一一八九。源頼朝の異母弟。
(*4)みなもとのよりまさ。一一〇四~一一八〇。摂津源氏の祖・源頼光の玄孫。
薦生の話はどうじゃったかな? この話で有綱の子孫とされている観阿弥は、『うつぼ舟Ⅴ 元雅の悲劇/梅原猛(一二頁)』によれば、伊賀に伝わる「上嶋家文書」には楠正成の甥であるとも記されているそうじゃ。そうそう、次のサイトで下手じゃが、音声が聞けるぞ。
http://nabari.plwk.jp/0309.html
先ほど話した有綱と親しかったのが、源義経(*1)じゃ。鎌倉幕府を開いた頼朝の弟さ。義経の話が、名張の蔵持に残っておるので、紹介しよう。
もう遠い昔のこと、蔵持村原出で熊坂長範が生まれた。ほれ、あの大どろぼうじゃ。子供のころは太郎といって生まれつきとても器用な子どもだったんやわ。両親が早く死んで一人ぼっちになったある日のこと、もらわれていった親類の家の土蔵の前で泥遊びをしておったそうな。ふと、土蔵の方をみると、扉が半分あいてかぎがさしたままになっていたんや。きっと家の人たちが中で捜し物でもしておったんじゃろ。いたずら好きの太郎は
「ようし、このかぎを取って合いかぎを作ってやろう。おもしろそうじゃ。」
すきを見て、かぎをはずし、持ち出したんじゃ。大急ぎで田んぼまで行き、田の土でかぎの型をとってしまいおって、何くわぬ顔でかぎを元に戻しておいた。器用な太郎は、かぎの型の土に鉄を流し込んで、みごとな合かぎを作ってしもうたんじゃ。それからというもの、合かぎを使って親類の土蔵に忍び込み金目の物ばかりを持ち出しておった。そのうち、家の者たちがどうして土蔵のものが次々となくなるのか、それも金目の物ばかり、と不思議に思い始めてな。
「ようしこうなったら待ち伏せて盗人を捕まえてくれるわ。見つけたらどうなるか思い知らしたるわ。」
ものすごいけんまくだったんじゃよ。そして、今日か明日かと毎日、毎日目を光らせておったそうな。
しばらくたって、太郎がいつものように自分が作った合かぎで土蔵をあけようとしたときとうとう捕まってしもうた。家の主人は太郎を見て、
「ムウ、お前は、子どものくせに盗っ人をするとは末恐ろしいやつじゃ。そんなことをするとは思わなかった。家への出入りは絶対ならん。とっとと出てゆけ!。」
太郎は
「かっ、かんべんしてくれー、かんべんしてくれー、もう二度としないから許してくれー。」
しきりにあやまり、たのんだけど、家のものは許してくれず、太郎は泣きながらとうとう家を出て行ったんやわ。
太郎は蔵持村を出て美濃の国(岐阜県)に移り住んでどろぼうになり、何年かあとには「長範」と名乗って大あばれをしていたそうな。
そう言うと悪人と思われるのじゃが、長範はそこらのどろぼうと違い金持ちやずるがしこい商人らから金や物を盗んで、貧しい人たちに分け与えていてな。憎めないどろぼうだったんじゃ。
平安時代の末、牛若丸(義経)が京の三条の金売りの吉次という男をおともに、奥州(東北地方)に向かっていたとき、長範は一行の荷物を盗んでやろうとくわだてたんや。その夜、一行は美濃の赤坂の宿で泊まるようすなのでそっと後をつけ、夜がふけるのを待っておったそうや。あたりが闇につつまれ静まりかえったとき長範は、そっと牛若丸の部屋へ忍び込んだ。
「しめしめ…よく眠っておるわ。」
と、思った瞬間、運悪く見つかってしもた。めったなことではやられたことはなかったのに、相手が牛若丸とあってはな…。とうとう斬られてしまいおったんやわ。
長範の生まれたところは、長範が田の土でかぎ型をとったということで『鍵田』と呼ばれておったが最近では『かわぎた』とか『こぎた』と呼ばれ、春日神社には今でも『伊州鍵田領主熊坂長範』と書かれたむな札があるそうじゃよ。
話 蔵持のお年寄り
熊坂長範は、平安時代末の大盗賊です。しかし、実在したかどうかははっきりしません。出生などについては諸説がありますが、名張では、蔵持出身との説が伝わっています。
▽伊州=伊賀地方の旧国名
▽むな札=むねあげの時、工事の由緒などを書いてむな木に打付ける板。
(*1)みなもとのよしつね。一一五九~一一八九。源頼朝の異母弟。
蔵持の話はどうじゃったかな? 次のサイトで下手じゃが、音声が聞けるぞ。
http://nabari.plwk.jp/0202.html
■蔵持春日神社:三重県名張市蔵持
■祭神:天児屋根命 ほか
■撮影(二〇一四年):村井章雄
名張の昔話に出てきた三人の話をもう少ししようか。
源頼政、源有綱、源義経の話じゃ。
昔々。
高倉天皇(*1)が、平清盛の孫である安徳天皇(*2)に譲位した頃。
安徳天皇はわずか二才。当然ながら実権は清盛が握った。反発する者も多くてのう、ついに、治承四年(一一八〇)四月九日、平家打倒のため、以仁王(*3)と源頼政(*4)が挙兵した。この戦いで、源頼政は敗れて死ぬ。頼政にはこんな話がある…。
仁平(*5)の頃、毎夜丑の刻、東三条の森の方から黒雲が来て御殿の上を覆うので、近衛天皇(*6)は怯えて発作をおこされた。
武士に警護させることになり、選ばれた頼政は、部下の猪早太(いのはやた)と共に参内した。
その夜。丑の刻、東三条の森の方より、黒雲が来て、御殿の上にたなびいた。頼政が、きッと睨み上げると、雲のなかに怪しい物の姿がある。
(これを射損じるような恥をさらせば、生きてはおれん)
こう思いながら頼政は矢をつがえ、南無八幡大菩薩と、心のうちに念じ、よっぴいてひょうと射た。手応えあり!
「射たぞ!」
猪早太が、落ちてきた何者かを、続けざまに九回切りまくった。
それから火を灯して、これを見たところ、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿だった。鳴く声は鵺(ぬえ)に似ていたという。
近衛天皇は感激の余り、「師子王(ししおう)」という名剣を頼政に賜ったそうな。
(*1)たかくら。八〇代天皇。一一六一~一一八一。第七七代後白河天皇の第七皇子。
(*2)あんとく。八一代天皇。一一七八~一一八五。第八〇代高倉天皇の第一皇子。
(*3)もちひとおう。一一五一~一一八〇。第七七代後白河天皇の第三皇子。高倉宮公(たかくらのみやこう)。源氏に平氏打倒の挙兵を促した。
(*4)みなもとのよりまさ。一一〇四~一一八〇。
(*5)にんぴょう。一一五一~一一五三。
(*6)このえ。七六代天皇。一一三九~一一五五。第七四代鳥羽天皇の第九皇子。
源有綱(*1)は頼政の孫じゃ。頼政が都で挙兵したときは伊豆にいた。
同じく伊豆にいた頼朝の挙兵に有綱は従い、やがて頼朝の命で、有綱は義経(*2)と行動を共にするようになる。これが有綱悲劇の始まりだったかも知れん。平家を滅ぼした後に、頼朝と義経は対立するんじゃ。しかし有綱は決して義経を裏切らなかった。
元暦二年(一一八五)十一月、有綱は、都を落ちて九州へ向かう義経についていった。船が暴風雨によって難破し、一行が離散した時も、有綱と武蔵坊弁慶(*3)、堀景光(*4)、静御前(*5)の四人のみは残った。
それから義経と共に吉野山に逃げ込むが、頼朝の追及は厳しかった。
文治二年(一一八六)六月十六日、大和國宇多郡で、有綱は頼朝の追っ手と戦ったが、敗北した。有綱は、山の奥深くに入り、自殺した…といわれておる。
(*1)みなもとのありつな。? ~一一八六。源頼政の孫。
(*2)みなもとのよしつね。一一五九~一一八九。源頼朝の異母弟。
(*3)むさしぼうべんけい。? ~一一八九。義経の部下。
(*4)ほりかげみつ。? ~?。義経の部下。最期については諸説あり。
(*5)しずかごぜん。? ~?。義経の恋人。
文治二年(一一八六)三月、義経の恋人である静御前は捕らえられ、鎌倉に送られた。
そして四月八日、静は頼朝に鶴岡八幡宮で舞を命じられた。自分の恋人・義経を殺そうとしている男、すなわち、恋人の兄・頼朝の前で、歌って踊ってみせろと言われたのじゃ。静は、今でいうなら芸能人またはアーチストだから、こんなことを言われたのじゃ。
静はまず、こう歌った。
吉野山 峯の白雪 ふみ分けて
入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山で、深く積もった峰の雪の中、私のあの人は山へ入って行った。後をどんなに追いかけていきたかったことか)
続けて、こう歌った。
しずやしず しずのおだまき 繰り返し
むかしをいまに なすよしもがな
(しずしずと、糸巻きが何度も巻くように、あなたと私は一緒に過ごした。その昔はもう決して戻ってこない)
いやもう、命を張って敵のど真ん中でおのれの愛をあらわしたのじゃ。
神殿の神様さえ感動しているように思われ、ましてや人々は上下の別無く感動したということじゃ。
静のその後は、よおわからん…。
ん? 義経か? 奥州で再起をはかって潜んでおったんじゃがなあ。
文治五年(一一八九)閏四月三十日、衣川館(ころもがわのたち)というところで死んだといわれておる。
弁慶は最後まで義経を守った。「弁慶の立ち往生」というてな、有名な話じゃが…ま、それはまたいつか…。
頼政は、源頼光の玄孫じゃ。つまり、頼政のお祖父さんのお祖父さんが、源頼光というてな、摂津源氏の祖じゃ。源頼光→源頼国→源頼綱→源仲政→源頼政ということさ。ちなみに、頼光の異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がおるよ。
源頼光は、酒呑童子や金太郎の話で有名なんだがのう。酒天童子は、京都と丹波国の国境に住んでいたとされる鬼で、退治したのが頼光とその一行じゃ。一行の中には「金太郎」と呼ばれて有名な坂田金時(さかたのきんとき)らがおる。二〇一三年にブレイクしたモノマネの「キンタロー。」ではないぞ。
まあ、それはさておき、先ほどの昔話は、『平家物語』を参考にしたよ。原文は次の通りじゃ。
日ごろ人の申にたがはず、御悩の剋限に及で、東三条の森の方より、黒雲一村立来て、御殿の上にたなびいたり。
頼政きとみあげたれば、雲のなかにあやしき物の姿あり。
これをゐそんずる物ならば、世にあるべしとはおもはざりけり。
さりながらも矢とてつがひ、南無八幡大菩薩と、心のうちに祈念して、よぴいてひやうどゐる。
手ごたへしてはたとあたる。
「ゑたりをう」と矢さけびをこそしたりけれ。
猪早太つとより、おつるところをとておさへて、つづけさまに九刀ぞ裂いたりける。
其時上下手々でに火をともいて、これを御らんじみ給ふに、かしらは猿、むくろは狸、尾はくちなは、手足は虎の姿なり。
なく声鵺(ぬえ)にぞにたりける。おそろしなどもをろか也。
主上御感のあまりに、師子王といふ御剣をくだされけり。
そうそう、「師子王」は「獅子王」とも言うてな、後に、徳川家康から土岐(とき)家に与えられた。土岐家は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家じゃ。本姓は源氏で、頼光~頼政の摂津源氏の流れさ。美濃国を中心に栄えてな、織田信長を殺した明智光秀は土岐の一族じゃよ。
獅子王は、土岐家が代々伝え、明治になってから明治天皇に献上された。今は、東京国立博物館にあるそうじゃ。
源頼政が近衛天皇から獅子王をいただいてから約三〇年後。頼政が戦いを始めた治承四年(一一八〇)は、源頼朝が鎌倉幕府を開いた年でもある。「イイクニ(一一九二)つくろう鎌倉幕府」の語呂合わせで有名な一一九二年は、後白河法皇が頼朝に征夷大将軍の位を贈った年じゃ。
ついでに言うておこうか。戦いに敗れた源頼政は、京都府、宇治の平等院で切腹したそうじゃ。宇治の平等院、十円玉に刻まれておるぞ。藤原頼通が建てた寺じゃなあ。毎年五月二六日には「頼政忌」の法要が営まれておるとか。頼政の辞世の和歌を紹介しておこう。
「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに
身のなる果てぞ 悲しかりける」
『吾妻鏡』を参考にしたよ。『吾妻鏡』は、鎌倉時代に成立した歴史書でな、原文は次の通りじゃ。
文治二年(一一八六)六月小廿八日甲戌。
左馬頭〔能保。〕飛脚參着。
去十六日平六兼仗時定於大和國宇多郡。
与伊豆右衛門尉源有綱〔義經聟。〕合戰。
然而有綱敗北。
入深山自殺。
郎從三人傷死了。
搦取殘黨五人。
相具右金吾首。
同廿日傳京師云々。
是伊豆守仲綱男也。
そうそう、栃木県那須塩原市の伝承によると源有綱の終焉の地は下野国(栃木県)であったとも云われる。那須塩原市の中塩原温泉には「源三窟(げんさんくつ)」と呼ばれる鍾乳洞がある。鎌倉に追われた有綱が再起を図るために潜んでいた、と伝えられておるそうじゃ。遠くはなれた関東の地にのう。不思議なことよ。
『義経記』と『吾妻鏡』を参考にしたよ。
『義経記』は、全八巻。室町前期の軍記物じゃ。作者も成立年代もよくわかっておらん。源義経とその主従を中心に書いた軍記物じゃ。「勧進帳」とか「弁慶の立ち往生」などの場面などが有名じゃのう。
「勧進帳」は歌舞伎にもなっておって、歌舞伎の名作の一つじゃなあ。兄の頼朝と仲が悪くなった義経は、弁慶などわずかな家来とともに、平泉(岩手県)へ逃げる。平泉は国宝の中尊寺金色堂が有名じゃな。「勧進帳」は、平泉まで逃げる途中、義経たちが安宅(あたか。石川県)の関所を通過する時の事件を歌舞伎にしたものじゃ。
また「弁慶の立ち往生」は、平泉でいよいよ追いつめられた義経を守る弁慶の話さ。
先ほど昔話で紹介した義経と静御前の別れの直前の場面を題材にした「船弁慶」という能もあるぞ。
まあ、それはさておき、静が頼朝に鶴岡八幡宮で舞を命じられた場面は『吾妻鏡』から。原文は次の通りじゃ。
靜先吟出歌云。
よし野山 みねのしら雪 ふみ分て
いりにし人の あとそこひしき。
次歌別物曲之後。
又吟和歌云。
しつやしつ しつのをたまき くり返し
昔を今に なすよしもかな。
誠是社壇之壯觀。
梁塵殆可動。
上下皆催興感。
そうそう、日本芸術文化振興会のサイトで歌舞伎の「勧進帳」が紹介されておるぞ。興味があれば観てみたらどうかな。
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/exp5/
ルネサンス、知っておるかのう?
二〇〇八年ごろ、「髭男爵(ひげだんしゃく)」という漫才コンビがネタで使っておったわ。ルネサンスとはフランス語で「再生」「復活」という意味じゃ。普通は、十四~十五世紀のイタリアで起こった文化の大きな変化のことをいう。
さて、日本が源平合戦の頃、世界では「十二世紀のルネサンス」が盛んだった。西アジアのイスラム教の国から、古代ギリシャの文化が、南ヨーロッパのキリスト教の国に伝わったのじゃ。当時は、前にも言ったように、十字軍の時代(*1)でもある。キリスト教の国とイスラム教の国は、長い長い戦争を続けておったのじゃ。しかし、その十字軍とは別に、シチリアやイベリアから、古代ギリシャ文化は南ヨーロッパに入っていった。
ん? シチリアか? シチリアは、イタリア半島の南にある地中海最大の島じゃよ。そしてイベリアは、ヨーロッパ大陸のいちばん西の端の半島。イベリア半島には、サッカーの強いスペインとポルトガルがあるぞ。
では十二世紀の昔話をしようと思うが、その前にひとつ質問がある。まずはこの話を聞いてもらおう。
ある女の子がいた。その子は勉強が嫌いで成績がとても悪かった。彼女は言う。
「なんでこんなにいっぱい勉強せなあかんの? 大人になったら朝から晩まではたらかなあかんし、そんなんやったら死んだ方がええと思うわ」
わしがホントに出会った女の子のホントの話じゃ。
では、ひとつ質問。
「なぜ生きる?」
この質問の答えのヒントになるかどうか、昔話をしよう。まずはオマル・ハイヤームの話じゃ。
(*1)一〇九六~一二七〇。全八回
(一)信州にて
みんなは、「ルバイヤート」という言葉を聞いたことがあるかな?
昔々、わしが信州に行ったときのことじゃ。勝沼という駅で電車をふらりと降りた。日にちは覚えておる。十一月三日じゃ。勝沼の駅は高い所にあって、見下ろすと一面のブドウ畑、遠くに甲府市まで見えた。きれいだったのう。あてもなく歩いていたら、公民館のような建物で、ワイン祭りをやっておった。勝沼のあたりはワインをつくる醸造所がたくさんあるのじゃ。そして、「ルバイヤート」というワインに出会った。そのワインは、丸藤葡萄酒工業という会社がつくっておる。「ルバイヤート」の誕生について、おもしろい話がホームページにのっていたから紹介しておこうか。
昭和三十二年のある日、三代目社長、大村忠雄の知人で内務省の関川氏が、詩の先生の日夏耿之介(*2)氏を連れてワイナリーに遊びにみえました。
タチヨミ版はここまでとなります。
2014年4月28日 発行 初版
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京都の片田舎から燃ゆる思いを。