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こたつに入って読書をしていると、
「こんばんは」
ぼろぼろの着物をまとった少年が、むかいにすわっていた。
(な、なんだこいつ)。
「あ、いま、〈なんだこいつ〉っておもったでしょう」
(ひょっとして……)。
「こんどは、〈ひょっとして〉だね」
(化けもんだあ!)。
「あたり」
(こ、こいつは、ひとの心をよむ妖怪だな)。
「そうだよ」
(たしかこいつは、村人が鉈で薪を割っているのを見ていて、ぐうぜんとんできた木っ端が目にささり、逃げていったんだよな)。
「よく知ってるねえ。そう、ぼくを退治するには、ぐうぜんに頼るしかないのさ」
「ひゃああ」
文庫本を手にとってペラペラとページをめくったり、みかんの皮をおでこにこすりつけたり、ティッシュを何枚もひっぱりだしたり……、とにかく目につくものを手当たりしだいにいじくりまわした。
「へへへーん。そんなことやったってむださ。ぐうぜんなんておこら──ぐええっ!」
いつのまに来たのか、徘徊癖のある認知症気味の祖母が、背後にまわってくびをしめている。
「……ぐ、ぐええ……ぐるじい……だずげでぐれええ……」
妖怪はどうにか祖母の手から抜け出し、
「化けもんだああ!」
と叫びながら逃げて行った。
祖母が生きていたころの、なつかしいおもいでだ。
ブルーの手術衣にブルーのマスク、そして白いゴム手袋。外科医マキノはいままさに、手術に取りかかろうとしていた。
「メス」
助手から手渡されたメスを患者の下腹部にあて、手前にひいて切開する。血がほとばしり、マキノの手術衣にかかる。
開業もせず、手術医としてこの大学病院に勤務して十五年。いままで一七五七回手術をやり、九十九・七パーセントは成功している。
マキノは名医だ。
しかし、手術台に横たわる患者にとって、きょうは不運な日であった。そう、のこり〇・三パーセントの失敗は、このような日に起こる。
マキノの目は真剣だ。一心不乱に執刀しているようにみえる。しかしいまの彼は、心ここにあらずの状態だ。現在彼の心を占めているのは、読みかけの推理小説の内容だ。
「あせ!」
助手に汗を拭かせながら、マキノは考える。
(うんんん、被害者はどうして犯人を……)。
切開した腹部から膀胱が顔をだした。
(おっ、膀胱がみえてきたぞ)。
「あっ!」
「どうされました、ドクター」
「いや、なんでもない」
(被害者は暴行されて、そして……)。
「ドクター! 尿が逆流しています」
(なに、逆流。逆流、ぎゃく……)。
「そうだ!」
「ドクター!」
「なんでもないぞ」
(被害者は暴行されて逆上したんだ。そうだ、きっとそうだ。これが動機だ)。
「ドクター、患部がだいぶ腐っているようです」
(なに……そうだ! 加害者の勤務している会社の幹部は腐っていたんだ。だから……)。
マキノはいてもたってもいられなくなった。はやく続きが読みたい。自分の推理があたっているかどうか確かめたい。
マキノは手術を急いだ。
おおざっぱに患部を切除し、ひょいひょいひょいと膀胱を縫いあわせ、ちょんちょんちょんと切開した皮膚を縫いあわせた。
「オペ、終了!」
「ドクター、ハサミが一本足りません」
「な、なんだと」
「おそらく腹部に置き忘れたと……」
「あっ。きみぃ、なぜそれをはやく言わん」
マキノは回れ右し、走りだした。
「ドクター、どちらへー」
「あとはまかせた」
マキノは手術室をでて、歩みよってきた患者の家族をつきとばし、夢中で走った。
(そうだ! 凶器はハサミだ。犯人は犯行現場に置き忘れたんだ)。
夜、こたつに入ってテレビをみていると、カーテンが七色に光った。
なんだなんだ?
くびをかしげながら立ちあがり、カーテンをひいた。
どっひゃああ!
UFOだ! うちのせまい庭に着地しようとしている。
えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。
あわてて玄関にとんでいき、サンダルをつっかけてドアをあけた。
「うわああ!」
宇宙人がポーチに立っていた。
腰がぬけそうになったが、かろうじて耐えた。
全身うす茶色、身長百二十センチくらい、五頭身、細長い手足に短い胴、そして大きな瞳。まちがいない、TVや雑誌でよく目にする宇宙人だ。
ついにおれも宇宙人と接触か。
「こ、こんにちは」
勇気をだして言ってみた。すると、
「こ、こんにちは」
答えた。ちいさな口をモグモグさせ、子供みたいな高い声で。おお、言葉が通じるのか。それに友好的なようだ。
おれはうれしくなった。
「どこからきたんだい?」
「どこからきたんだい?」
はぁ?
「おれの言葉、わかるよな?」
「おれの言葉、わかるよな?」
へんなやつだ。
「わからないのか?」
「わからないのか?」
なんなんだこいつは。おれをからかっているのか?
「なんでマネすんだよお!」
「なんでマネすんだよお!」
このやろう、抑揚までマネてやがる。ふざけんな! おれを下等な生き物だとおもってバカにしているのか。地球人代表として、このままナメられていてたまるかあ!
「なまむぎ、なまごめ、なまたまご」
「なまむぎ、なまごめ、なまたまご」
おっ、やるな。
「えんのしたのくぎ、ひきぬきにくい」
「えんのしたのくぎ、ひきぬきぬくい」
あはは。いまちょっとあぶなかったぞ。
「かえるピョコピョコ、みピョコピョコ。
あわせてピョコピョコ、むピョコピョコ」
どうだあ! 言ってみろ!
「かえるピョコピョコ、みピョコピョポ。
あわせてピョコポコ、むピョピピョピョピョピョピョポポポポポポ、わあああああ!」
「やーいやーい! 言えねえでやんの」
「…………」
「どうした? もうマネしないのか?」
「…………」
おれはあせった。
みると、おおきな瞳に涙をうかべている。
宇宙人も泣くのか?
「おいおい、そう落ち込むなよ」
宇宙人はうつむいて涙をぬぐいはじめた。
「わ、わるかったよ」
宇宙人の足もとに、ポタッと大粒の涙が落ちた。
「なあ、元気だせよ」
おれは宇宙人の肩をポンッと軽くたたき、
「まあ、うちに入れよ。コーヒー淹れるからさ」
と言いながら腕をとった。
「おれたち、ともだちだろ」
「と、も、だ、ち」
「もしもし~」
「なあにぃ?」
「おじさんね、植草たまおっていうの。五十七歳。おじょうちゃんは~?」
「みぽりん。十四歳」
「そう、みぽりんねえ。きゃわいい名前だねえ。デヘ、デヘ。デヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ。おじさんのこと、たまちゃんて呼んでねえ」
「わかったあ。たーまちゃん」
「なーに、みーぽりん。デヘ、デヘ。デヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ」
「ねえ、たまちゃん。なにしてあそぶぅ」
「そうだなあ……。それじゃあ、おじさんの質問にこたえてよ」
「いいよぉ」
「じゃあ、いくよお。みぽりんは、おふろに入ったとき、まずどこから洗うの?」
「ん~、そうだなあ……、むね」
「デヘ、い、いきなり、むね。デヘ、デヘ。デヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ。そのつぎは?」
『ピーピーピーピーピーピーピー。タイムオーバーです。続ける場合は、延長料金振込みの手続きをしてください。お手持ちの電話のプッシュボタンの米印を押したあとに1を押し、お客様の取引銀行コードと口座番号を入力して……』
──めんどうだなあ。ピッポッパッ……っと。はい、やりましたよ。
「たーまちゃん」
「あっ、みぽりん。デヘヘ。で、むねのつぎは、どこを洗うのかなあ?」
「おなか」
「デヘ、デヘ。デヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ。そのつぎは?」
「ひだりあし」
「あら、とんじゃうのね。そのつぎは?」
「みぎあし」
「デヘ、デヘ。デヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ。で、そのつぎは、どこなのかなあ? おせーて、おせーておせーておせーて~」
「ひだりあし」
「あれれ。つぎは?」
「みぎあし」
「あしだけ入念に洗うんだねえ。おじさん、きょうからあしフェチになっちゃう。デヘ、デヘ。デヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ。で、つぎはひだりあしかい?」
「そうだよぉ」
「あしはもういいや。あしを洗いおわったら、おつぎはどこなんだい? デヘ、デヘ。デヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ」
「肛門」
「でひゃあああああ! こ、肛門だなんて、きゃわい子ちゃんが。デヘ、デヘ。デヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ。そ、そそ、そいで、おつぎは?」
『ピポピ、ピポピ、ピポピ、……』
──あっ、キャッチが入った。娘からだ。まったくもう、いまいいとこなのに。
「みぽりん、ちょっと待っててね」
「いいよぉ」
──ペチッと。
「おとうさん、たいへんたいへん」
「なんだ、いきなり」
「うちの大学の研究室から実験動物が逃げ出して──」
「そんなことか。心配ない。それよりおまえ、ちゃんと勉強してんのか?」
「してるわよお。とにかくおとうさん、気をつけてね」
「わかったわかった。じゃ、切るぞ」
──ペチッと。
「たーまちゃん」
「あっ、みぽりん。デヘヘ。で、肛門のつぎは、どこを洗うのかなあ? はやくおせーておせーて~。じらしちゃ、いや~ん」
「糸いぼ?」
「はぁ?」
「で、つぎがうえにもどって、触し。そのつぎが八個の単眼」
「みぽりん、なにいってるの?」
「おじさん、わかんない? あたし、うえにいるよぉ」
「えっ──ぎゃあああああ! お化け蜘蛛!」
玄関のわきにしゃがみ、そこにあるバケツをのぞきこむ。なかにはメダカが五十匹くらいいる。
あ~あ、あしたの運動会、休んじゃおうかなあ。
ぼくは運動が苦手だ。運動会の日は、きょねんもおととしも休んだ。参加したのは、ピカピカの一年生のときだけだ。そのときは、入場行進だけやって、あとは見学していた。
行ってもつまんないもんなあ……。
ぼくの気配を感じたのか、メダカの動きがあわただしくなる。
しばらくぼぉーっとみつめたあと、手にしているえさのふくろをあける。ホームセンターで買った、九十八円のやつ。そこから茶色くてこまかい粒をつまんで、バケツにパラパラと落とす。
メダカたちがいっせいにえさによってくる。
このメダカたちは二代目だ。きょねん、ちかくの川で七匹のメダカをつかまえた。水草とともに金魚鉢に入れて飼っていたら、ことしの六月ごろ、そのうちの三匹が卵を産んだ。図鑑に書いてあるように、卵のついた水草をとりだし、バケツに入れておいたら、いつのまにかウジャウジャとかえったのだ。
どうして運動会なんてあるのかなあ……。
よくみると、メダカのおおきさはまちまちだ。三センチくらいのすっかり成魚になったのもいれば、五ミリくらいのちいさな稚魚みたいのもいる。
生まれた時期はおなじなのに、どうしておおきさに差がでるのかなあ。
ふと、そんな疑問がわく。
あっ、へんなのがいる。おおきさは一センチくらいで、尾びれがひだりのほうにほぼ直角に曲がっている。いままでどうして気づかなかったのだろう。
こういうのを「奇形」っていうのかな。
そのへんなメダカは、いっしょうけんめいパクパクやっているけど、まっすぐ泳げないうえにほかのメダカにじゃまされて、なかなかえさにありつけない。
あっ、ひとつぶたべた。
がんばれ! チビすけ!
ふたつぶ、パクッ。
いいぞ! その調子だ!
さんつぶ、よんつぶ、ごつぶ……。
いいぞいいぞ!
やればできるじゃないか!
ぼくの右足。ひざから下が生まれつき内側にねじれている。
あした、運動会に参加しようかな。見学でもいいや。みんなの活躍をよーくみて、学級新聞に載せるんだ。
ぼくが担当している学級新聞は、けっこう評判がいいんだ。
ぼくは、まほうびん。
うわブタがとれている。
いま、裏庭のすみにいる。
捨てられたんだ。
電動式ポットがきてから、ぼくは使われなくなった。そして新聞紙に包まれて、茶ダンスの下にしまわれた。ある日おおそうじがあって、ひっぱりだされたぼくは、じゃまになってお払い箱さ。
さいきんまでここんちの子が、ぼくをおもちゃにしてあそんでいた。だから、危険物ゴミとして捨てられることもなく、ここにこうしていられるのさ。
からだのなかに雨水がたまってからだよ、ぼくに意識が芽生えたのは。と同時に、過去の記憶もそなわった。神様のお恵みか、それとも、いたずらかな。
今年の夏、ぼくのもとで、ボウフラが何匹か、蚊になって巣立っていった。
「ありがとう! まほうびんさん」
「やあ、蚊くん。元気でなあ」
って、お別れしたよ。
あっ、いま、柿の木の葉っぱが、ぼくのなかに落ちた。もう秋もおわりだなあ。
石焼き芋のにおいがしてきたぞ。
「い~しやき~~~いもぉ~~、おいもっ」
って、おじさんの声がするぞ。
あれ、なんか焦げくさいぞ。あっ、板塀の下のすきまから、けむりが出ている。わああ、燃えている。たいへんだあ! だれかが回収ごみに火をつけたのかな。消さなきゃ。
よいっしょ、よいっしょ。
たおれないように、慎重に進んでいこう。
よいっしょ、よいっしょ。
ぼくだって、ぼくだって……。
よいっしょ、よいっしょ。
ぼくだって、ぼくだって……。
よいっしょ、よいっしょ。
ぼくだって、まだ、役に立つんだあ!
わああ、熱いなあ。
それっ!
やったあ! やったぞー!
シュワ~って、消えたぞ。
消、え、た、ぞ……。
よ……かっ……た。
夢のなかでチャーシューメンをたべていると、いつのまにか左どなりに少年がいた。
ラーメン屋のカウンター席。
わたしはたちまち、その少年とおなじ七、八さいのこどもすがたになった。
「やあ、ゆめ太郎」
ゆめ太郎はぼくを無視し、
「おやっさん、五目ラーメン大盛りね」
そう注文してから、割りばしをすばやくとってふたつに割り、ぼくのどんぶりに手をのばしてチャーシューを一枚かっさらっていった。
「あっ、ああ……」
「んまんま……おいちい」
「行儀わるいぞ、ゆめ太郎」
「エヘヘ。ゆるせ、やっちん」
ゆめ太郎の屈託のない笑顔をみていたら、たいせつなことをおもいだした。
「なあ、ゆめ太郎。おねがいがあるんだ」
「なんだい、復縁や就職のせわならむりだぜ」
「ち、ちがうよ。姪っ子のことだよ」
「話してみな」
「いま養護施設にいるんだ。三さい。ぼくの兄さんの子だよ。三カ月まえに兄夫婦が交通事故で亡くなって──」
「OK!」
「まだぜんぶ言ってないよ」
「わかるって。その姪っ子ちゃんを励ましてくれっていうんだろ?」
「そう、そうだよ」
「じゃ、さっそくいこうぜ」
ゆめ太郎はいすを九十度まわしてこちらにからだをむけ、ぼくの両手をとった。
「え、ぼくもいくのかい?」
「あったりまえだろ。ひとりよりふたりのほうが、パワーがあるんだぜ。じゃいくよ。
ドリーム、ドリクラ──おーっとっと。その子のなまえ、なんてんだい?」
「ルミちゃんだよ」
「よーし。
ドリーム、ドリクラ、ドリルルルゥー。ルミちゃんの夢のなかへ、ドリーム・イン!」
「うひゃああ、目がまわるぅ~」
おおきなコーヒーカップのなか。どうやら遊園地のようだ。
「やっほぉー。ぐるぐるぐるんの、ぐるりんぱあ~」
「お、おおい、ゆめ太郎。ハンドルまわすなって。きもちわるくなるだろう。オエ~」
「わりいわりい」
ゆめ太郎がハンドルから手をはなすと、コーヒーカップのうごきがおだやかになった。
「わあーい、わあーい」
ちかくのコーヒーカップから、おんなのこのはしゃぐ声がきこえてきた。ルミちゃんだ。ママさんパパさんといっしょだ。
あんなにたのしそうな声をきくのはひさしぶりだ。
ルミちゃん親子は、コーヒーカップのアトラクションをおえると、売店でアイスクリームを買い、ベンチにすわった。
「つぎはなんにのるぅ?」とママさん。
「ジェットコースター」
「ルミちゃんはまだちいさいからむりだよ」とパパさん。
「じゃあ、かんらんしゃ」
「うん。それならだいじょうぶだよ。あっちだよ。いこう」
「まってえ、これたべちゃう」
アイスクリームをたべおえると、ルミちゃん親子はベンチをはなれ、歩きだした。ルミちゃんを真ん中に、手をつないで。
ぼくとゆめ太郎は三人のあとをおった。
「なあ、ゆめ太郎」
「なんだい」
「ぼくたち、こうしてうしろを歩いているだけでいいのかな?」
「ま、そうあせるなって」
ルミちゃん親子が七つか八つのアトラクションであそんだころには、もう日が暮れかかっていた。出口にむかう三人のうしろすがたが夕陽に染まる。
とつぜん、ママさんとパパさんの背中に白いつばさが生え、ルミちゃんと手をつないだまま宙に浮いた。
「あわわわわぁ、たいへんだあ。ゆめ太郎、ほら、あれあれえ」
ゆめ太郎はあまりおどろいていないようだ。
三人はどんどん上昇していく。もう観覧車のおおきな輪の中心くらいの高さだ。
ぼくは駆けだし、三人の真下にいった。
「おーい。ルミちゃんのママさんとパパさあーん。ルミちゃんをつれていくなああ」
「やっちん」ゆめ太郎もやってきた。「よせって」
「なんだよゆめ太郎。じゃますんなあ!」
「むだだって、やっちん。これはルミちゃんが決めたことなんだ。ルミちゃんの意志なんだよ。どうにもならないよ」
「そんなことあるもんかあ。
おーーーい、手をはなせえ」
わたしはいつのまにかおとなのすがたになって叫んでいた。
「おーーーい、兄貴ぃーーー! ルミちゃんをはなせええ!」
もう観覧車より高いところにいってしまった。
「ひどいじゃないかあ、兄貴ぃーーー!」
「さ、帰りますよ、おっきいやっちんさん」ゆめ太郎が腰をつんつんと小突いた。「いつまでもここにいたら、いっしょにあの世いきですよ」
「うるさい、だまってろ、ゆめ太郎。
兄貴ぃーーー! ルミちゃんはおれが責任をもって育てるからあ、りっぱに育ててみせるからあ。だから連れていくなああーーー!」
兄貴と奥さんがちらっとこっちをみた。そしてすぐおたがいかおをみあわせ、ふたことみこと言葉をかわした。直後、ふたりは手をはなした。
ルミちゃんがママさんパパさんからゆっくりはなれていく。
ルミちゃんはおどろいたようなかおで、ママさんとパパさんをみている。
ママさんとパパさんが手をふった。
ルミちゃんもちいさく手をふった。
兄貴がこっちをみた。
遠かったけれど、くちびるのうごきがわかった。
「た、の、ん、だ」
ルミちゃんがこっちにからだをむけた。
スカイダイビングするように大の字になって、ゆっくりおりてくる。
だんだんちかづいてくる。
兄貴たちは空のかなたにきえた。
ルミちゃんはこっちにやってくる。
わたしをめがけてやってくる。
わたしは両手をひろげた。
ルミちゃんはわたしの目をみつめている。
いたいけな目でじっとみている。
わたしもルミちゃんの目をまっすぐみつめる。
もうすぐ。もうすぐ。
「おじちゃーん」
ルミちゃんがわたしのむねにとびこんできた。
「ルミちゃん」
ほっぺとほっぺがくっついた。
あたたかかった。
「あのう……、おとりこみちゅう、すみませんけどね」
「な、なんだよ、ゆめ太郎」
「ルミちゃんはもうだいじょうぶです。そこのベンチにすわらせましょう。ねえ、ルミちゃんが目をさますまえに、もどりましょう」
「ああ、そうだな。
ルミちゃん、まってなよ。すぐむかえにくるからね」
「さあ、おっきいやっちんさん、帰りますよ」
ゆめ太郎に両手をにぎられたわたしは、たちまちこどものすがたになった。
「いくぜ、やっちん!
ドリーム、ドリクラ、ドリルルルゥー。やっちんの夢のなかへ、ドリーム・イン!」
「へい、おまちぃ!」
ゆめ太郎のまえに五目ラーメンが置かれた。
「やっちん、いいとこあんな」
ゆめ太郎がニカッと笑った。
「おやっさん、ギョウザふた皿、追加ね。
おごるぜ、やっちん」
親指を立てたこぶしをつきだし、片目をつむり、ポーズをきめた。
◇
うちわだけの質素な結婚式。
留美の花嫁姿をみていたら、こんなことをおもいだした。
世界征服をたくらむ魔女ガイザァが、小さな木製の人形たちに悪魔の心をふき込んだ。
「さあ、悪魔人形どもよ。心は宿してやったぞ。生身のりっぱな悪魔になりたかったら、肉体は自分のちからで、人間どもから奪ってこい。さあ、ゆけ~い」
そう言って魔女ガイザァは、多くの悪魔人形を世界中にばらまいた。
スクールバスの中、後部座席にすわっているユミコちゃんのランドセルに、キーホルダーがついている。その先で、ピノキオのような小さな木製のお人形がゆれている。パパが海外出張したときに骨董屋で買ってきたものだ。
じつはこのお人形、魔女ガイザァが世界に放った悪魔人形のひとつ、アクちゃんだ。
(さあて、どの子の体をいただこうかしら。瞳はユミコちゃんから、腕はよこの席の女の子から、髪はまえの席の女の子からもらいましょうか。残りのパーツは、どの子のにしようかなあ)。
アクちゃんが不気味な笑いをうかべながら思案していると、とつぜん、スクールバスが横転し、そのまま滑ってビルに突っ込んだ。
「いたいよー!」
「ママー、たすけてえー!」
「パパー、お手てがいたーい!」
車内に子供たちの叫び声や泣き声が響いた。
(あれれえ。事故だわ。これじゃあ、ダメねえ。ケガした体なんて、いらないわ)。
「ママー、いたいよー!」
「重いよー!」
「パパー、たすけてえー!」
ユミコちゃんの涙がひとしずく、ポトンと、アクちゃんの顔に落ちた。
「いたいよー!」
「ぬけないよー!」
「パパー!」
「ママー!」
悪魔人形アクちゃんは弾け飛んだ。粉々になって、跡形もなくなった。
人間の心にふれたアクちゃんが、ちゅうちょせず、車内のすべての子供と運転手のキズと痛みを、瞬時に吸収したのだ。
<了>
2014年6月1日/2015年10月9日 発行 初版/第二版
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