序
怪談話で有名な牡丹灯籠は、中国の怪談、牡丹燈記(ぼたんとうき)を元に、三遊亭園朝が落語の演目として創作したお話で、元は大変長く、複数のエピソードが複雑に絡み合う物語です。その中でも有名な、お札剥がしの一説を、抜き出して再編、脚色いたしましたのが、このお話です。
それでは、Road Qu 脚色版 牡丹灯籠、最後までごゆっくりお楽しみください。
初演 二〇十三年八月九日 高松市 珈琲倶楽部 欅
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さて、それは昔の話でございます。
根津の清水谷に、萩原新三郎という、若い浪人が住んでおりました。その独り身の浪人、生まれついての美男子で、歳は二十一歳になるのですが、未だに妻もめとらず、ごく内気なせいか、外に遊びに出かける事も無く家に閉じこもり、鬱々と本を読むといような、引きこもった暮らしをしております。
その新三郎に、ある日の事、山本志丈という友人の医者が尋ねてまいります。
「今日は天気もよいので、出掛けませぬか。亀井戸の臥竜梅(がりょうばい)でも眺めて、それから僕の知人、飯島平左衛門の別荘に寄りましょう。そこは、飯島のお嬢様と女中がふたりで暮らしておるのですが、そのお嬢様と言うのがたいそう美しくて、動きもしない梅を眺めるよりも、ずっと楽しいというものです。君は内気だからご婦人方と話す機会も無いし作ろうともしない。たまにはご婦人相手に冗談のひとつでも申して楽しまなければなりませんよ」
などと理由を付けて、新三郎を誘い出しました。
こうして新三郎は、志丈に連れられ、亀戸へ行き、臥竜梅を見て回ると、帰り道に飯島家の別荘に立ち寄りました。
「ごめんください」と、志丈が呼びかけますと、ほどなく、女中のお米(よね)が顔を出しました。
「まあ、良くいらっしゃいました。あなた様が久しくお見えにならないから、どうなさったのかと、お噂を申し上げていたのですよ。今日はどちらへ?」
お米が親し気に問うと、志丈は快活に笑って答えました。
「臥竜梅へ梅見へと参ったのですが、いささかもの足りず、お庭内の梅花を拝見いたしたく参ったしだいです」
「それはよくいらっしゃいました。どうぞこちらへお入りくださいまし」
志丈の言葉に、お米は喜び、庭の切り戸を開いてふたりを招き入れました。
「実のところ今日は、お嬢様のお顔を拝見いたしたく参りました。ここにいるのは僕の親友です」
志丈は、お米に新三郎を紹介して、お米が離れた後で新三郎に言いました。
「この家のお嬢様というのは、それはもう大した美人なのです。じきに出ていらっしゃるから、良くご覧なさい」
そして、出された羊羹をむしゃむしゃと先に食べ、新三郎にすすめました。
「ここの家は女ふたりきりなので、お菓子など、とても食べきれないまま余るのです。それ、食べてあげるのが親切というものですよ」
新三郎はといえば、真面目な姿を絵に描いたように姿勢も崩さず、凛とした様子で佇んでおります。
やがて、志丈は、庭の向こうに見えるお座敷の障子の内から、若い娘がそわそわと覗き見ているのを見つけました。
「ほらご覧、萩原君、お嬢様がこちらを見ておりますよ。梅の花を見ている振りをしているが、視線は梅の木と僕をよけて全部君に向かっているじゃないか」
そう言って志丈が新三郎におどけてみせていると、お米がお酒と肴を持って現れました。
「何もございませんが、ごゆっくりとお召し上がりくださいまし」
志丈は、「恐れ入ります」と言いながらも、遠慮する事無くお酒を飲み始めます。
「どうぞお嬢様にもいらっしゃるようにお呼びください。お庭の突っ立っているだけの梅よりも見目麗しいお嬢様を前にすれば、酒もいっそう進むというものです」
調子の良い志丈の言葉に、お米は笑いました。
「私もそう申し上げたのですが、お連れの方をご存じないので、失礼にあたるやもとおっしゃいまして」
「いや、何の心配もいりませぬ。この萩原は、私の親友と申したとおり、ご遠慮する事はありません。これも一目お嬢様にお目にかかりたく参ったのですから」
志丈のその言葉に、お米はほどなくお嬢様のお露を連れて来ました。
「志丈さん、久方ぶりでございます」
お露は、お米の後ろに隠れるようにして、恥ずかし気に挨拶をしました。
「ご無沙汰しております。この人は僕の友人で萩原新三郎と申す独り者でございます。お近づきにちょっとお盃を頂戴いたさせましょう」
お露が新三郎の盃にお酒を注ぎ、新三郎がその盃を頂く様を見て、志丈は、
「なんとも美男美女の組み合わせ。これではまるでご婚礼の盃のようです」などと囃し立てるものですから、お露は恥ずかしそうにしながら、それでも横目で新三郎の横顔をちらちらと眺めています。
一方新三郎も、お露の美しさに目と心を奪われてしまいました。
しかし新三郎とお露のふたりは、ろくに話をする事も無く、時間だけが過ぎて行きます。志丈とお米から見れば、そのふたりがお互いに一目惚れした事は、火を見るよりも明らかだったのですが、当人達は、そんな事はおくびにも出していないつもりだったのです。
日が暮れて、街に灯りが点き始めましたが、新三郎は一向に帰ろうと言いません。
「長居をしてしまいました。そろそろおいとまいたしましょう」
志丈がそう言って立ち上がると、新三郎はそこから離れるのが惜しそうにして立ち上がり、お露に挨拶をしました。
「それでは今日はお邪魔をいたしました」
お露は頷き、別れ際になって新三郎に言いました。
「ぜひまたおいで下さいよ。あまり待たせると、私は待ちきれず死んでしまいます」
その言葉は、新三郎の胸に響きました。
その日からというもの、新三郎の心のうちには、お露への想いがどんどんと募ってまいります。
お露の住む飯島の別荘に、もう一度と言わず何度でも会いに赴きたい気持ちで一杯なのですが、元々が真面目で内気な性格のせいで、一人で会いに行く事が出来ません。
会いに行ったところを、もしも飯島家の家来や、万が一にもお露の親に見つかっては大変です。なので、せめて志丈が一緒に行ってくれるなら、お礼を名目にぜひ行きたいと思っていましたが、志丈はそれ以来、一向に新三郎を尋ねてまいりません。
新三郎が頼みにしている志丈は志丈で、飯島の別荘で、新三郎とお露が惹かれ合っているを見てしまっているので、もしもふたりの間に万が一の事があって、それが露見してしまったら、その時は自分が飯島の父君に斬られてしまう事になりかねないのが判っていましたから、当分の間どちらにも近づかない事にしておりました。
二月三月四月、と月日が経ちましたが、新三郎の所へ志丈は姿を見せません。
新三郎は一人でお露の事を思い悩み、恋の病の例え通り、食事もろくに喉を通りませんでした。
そんなある日の事、新三郎のもとへ、近くに住む伴蔵(ともぞう)という男が尋ねてまいります。
「旦那、この頃は一体どうしたんです? 全然食が進みやせんし、今日はお昼も召し上がらないじゃないですか」
「食べたくないんだ」
「そいつはいけません。それに旦那は外へも出かけません。あっしみたいに釣りをするとか、少しはお天道様の下に出ませんとお体に毒ですよ」
伴蔵の言葉に、新三郎はふと思いつきました。
「そう言えば、貴様は釣りが好きだったな」
「へい、それはもう」
「ならば一緒に釣りにでも行くとするか」
「旦那は釣りなどお嫌いでは」
伴蔵が怪訝な顔をしますと、新三郎は立ち上がりました。
「興味がわいたのだ。どうだ? 行かんのか?」
「もちろん参りますとも。それで、どこへ参ります?」
伴蔵は慌てて立ち上がりました。
「柳島の横川がいいらしいぞ」
新三郎は、そう言いましたが、伴蔵は小首をかしげました。そこは大して釣りに向いているところではなかったからです。
とは言えとにかく、伴蔵は新三郎のお供をして、船を借り、川へ船を出しました。
新三郎の言う横川は、飯島家の別荘の近くでした。新三郎は、釣りをする気は全くありませんでしたが、船の上からでも飯島の別荘にいるお露の様子を少しでも眺めようというつもりでした。
釣りに没頭する伴蔵を尻目に、新三郎は釣り竿に手を付ける事もせず、持ち込んだ吸い筒に入れた酒を飲み、船ら揺られるうちに眠ってしまいました。
「風邪を引きますよ」
誰かに起こされた気がして、新三郎は体を起こしました。
「ここはどこだ?」
廻りを見ますと、伴蔵の姿は見えず、船は岸に着いております。
ふと見ると、岸の先には見覚えのある垣とくぐり門が見えます。
新三郎は船を降りました。
間違いなくその門は飯島の別荘の門でした。
新三郎は、寒気を感じて体を震わせながら、そこから中を覗き込み、手で門を押したところが音も無く開いたものですから、そっと中へと入り込みます。
庭伝いに進み、四畳半ほどの座敷にたどり着くと、新三郎は中を覗き込みました。
そこにはお露が佇んでいます。
「新三郎様」
お露は新三郎の顔を見上げ、はっとした顔を見せました。
「その後は大層にご無沙汰をいたしました。お礼に上がりたかったのですが、山本志丈があれきり顔を見せぬもので、私一人で参るわけにも行かなかったのです」
新三郎が言うと、お露は彼の手を取って、座敷の中に引き入れました。
「よくいらしてくれました」
お露は、ただただ嬉しいばかりという表情で、新三郎に寄り添い、うれし涙をこぼしました。
新三郎は、そんなお露が愛しくてたまらず、抱きしめてしまいます。
新三郎は時の経つのも忘れ、お露とのひと時を過ごしました。
その時、座敷のふすまが突然開かれ、お露の父親、飯島平左衛門が現れました。
「露、これへ出ろ。男を引き入れるとは何たる不届き者め。手打ちにいたすゆえそこへ直れ」
平左衛門は怒りにまかせ、お露に詰め寄り腰の刀を抜きました。
「お待ちください。お嬢様が悪いのではありません。私、萩原新三郎がお嬢様をそそのかしたのです」
新三郎はお露をかばいますが、平左衛門は、刀を振り上げます。
「誰とて容赦せぬ。貴様は後だ」
平左衛門はそう言うや否や、刀をお露の首に振り下ろしました。
新三郎は声を上げ、思わず目を閉じました。
「なんです旦那、驚かさないで下せえよ」伴蔵の声が聞こえました。
新三郎は目を開けました。そこは伴蔵とともに釣りに出た船の上です。
「眠っていたのか」
新三郎は、起き上がりました。体が冷え、背筋が冷たく何とも嫌な気持ちになりました。
「何か悪い夢でも見たんですかい? ずいぶんと唸っていましたよ」
「俺は船を降りなかったのか?」
「バカ言っちゃいけません。ここでいきなり船を降りたらずぶ濡れでさあ」
「そうか。体が冷えちまって、なんだか気分が悪くなった。もう帰ろう」
新三郎は、そう言って、懐で腕を組み、座り直しました。
萩原新三郎は、その夢を見てから、いっそうお露の事を思い詰めておりました。
季節は移り、六月も下旬になりましたところ、山本志丈が尋ねてまいります。
「あれから大層ご無沙汰してしまいました。もっと早く伺うべきでしたが、麻布辺からここへは結構遠いもので、それに私のような藪医者にも病で頼ってくる方もおりましてな。とにかくご無沙汰でした」
志丈はそう言い訳をして、新三郎の顔を覗き込んで怪訝な顔で言いました。
「どうも顔色が優れませぬな。どこかお加減が悪いのでは」
新三郎は、憔悴した顔で答えました。
「四月の半ばから、どうにも加減が悪いので、ずっと寝ております。飯も喉を通らない有様で難儀しております。だが其方も人が悪い。私も飯島さんの所へ、菓子折りの一つでも提げてお礼に行きたいと思っておりますのに、其方が来ぬために私は行きそびれているのですよ」
新三郎のその言葉に、志丈は束の間考えておりましたが、決心したように口を開きました。
「その飯島様のお嬢様ですが、亡くなったそうですよ。お可哀想に」
新三郎はぎょっとした顔をして志丈を見返しました。
「亡くなった、のですか? お嬢様が」
志丈は頷きました。
「あの時、僕が君をお連れしたのがそもそもの間違いなのです。かのお嬢様は、君に一目で恋いこがれてしまった様子でした。それが向こうの親父様に知られでもしたら、私が首を斬られかねないと思い、あれきり君にもあの別荘にも参らずにいたのですが、この前、ふと飯島のお屋敷に行く事になり、平左衛門様にお目にかかった所、娘は身まかり、女中のお米もすぐに亡くなったと申されたのです」
「なぜ亡くなったのですか? まさか」
「色々様子を聞いてみますと、あれからどっとお体の加減を悪くなさって、お食事も召し上がれなくなり、立ち枯れる様に亡くなったそうです。ただ、噂では亡くなるときも、君の名をうわごとで喚んでいたそうですよ。これはね、君に焦がれ死んだようなものです」
志丈はその後も、色々話をして帰って行ったのですが、新三郎は、お露が亡くなったと言う話しか覚えていませんでした。
新三郎は、お露に会いに行かなかった事を悔やみ、気持ちも塞ぐ一方でしたが、それからは、お露の名を書いた札を仏壇に供えて、毎日念仏をあげて過ごしていました。
やがて、暦は盆になりました。
その十三日の夜。新三郎は、盆の精霊棚を設え、縁側に敷物を敷くと、蚊遣りを炊いて、浴衣などを着て団扇を片手に月を眺め、出会った時のお露の姿に思いを馳せておりますと、どこからか、カラン、コロン、という、駒下駄が鳴る音が聞こえてまいります。
その音に誘われる様に、ふと生け垣の外に目を向けますと、丁度、ちりめん細工の牡丹や芍薬が飾られた灯籠を提げた、女中姿の女に案内されて、若い娘が通りかかりました。
秋草色の振り袖を着た、艶かな髪を高島田に結い上げた娘の横顔に、新三郎は思わず目を見開きました。
その時、娘の前を歩いていた女が立ち止まり、新三郎を見返しました。
「まあ、萩原様ではございませんか」
女のその声に、新三郎は、驚きました。
「その声、お米さんじゃありませんか」
「こんな所でお目にかかるとは、思いませんでした」
「生きていらしたのですか。私は、貴方がお亡くなりになったと聞いていたのですよ」
新三郎が言うと、お米は、笑いました。
「誰がそのような事をおっしゃったのですか、縁起でもない」
お米のその言葉に、新三郎は安心しました。
「まあ、お入りください。そこの折り戸を開けて、どうぞ中へ」
そう言って招き入れた新三郎は、ふたりの顔を確かめる様に、もう一度見ました。
「誠にご無沙汰をしておりました。いえ、その、実は、先日山本志丈に聞いたのです。あなた方ご両人がお亡くなりになったと」
お米は、頷きました。
「あなた様はお人が良いからだまされたのです。それに、お嬢様の事を悪く思う者もいますからね」
「そうですか」
「実は、お嬢様と私はお屋敷を出たのです」
お米はそう言って、新三郎に話しました。
「あれからずっと、お嬢様はあなた様の事を忘れられず、思い続けていらしたものだから、お屋敷の中でつい、あなた様の事を仰ってしまう事があって、それが親父様の耳に入ってしまったのです。お嬢様は親父様よりすぐに他の家より婿を取れと仰られたのですが、お嬢様は強情にそれを拒んだのでございますよ。それで親父様は大層お怒りになり、お嬢様は私を連れてお屋敷を出たのです。今は谷中(やなか)の三崎(さんさき)にある家に入っておりまして、私が手内職などをしてなんとか暮らしを立てているのでございます」
新三郎は、深く頷きました。
「そうでございましたか。私はお嬢様がお亡くなりになったと聞いて、この通り、お嬢様の俗名を書いて毎日念仏を上げておったのです」
新三郎が仏壇を指し示しますと、お米はお辞儀をしました。
「それほどまでに思っていらっしゃるとは、誠にありがとうございます。お嬢様も、たとえ勘当されても、斬られて死ぬ事になっても、あなた様のお情けを受けたいと仰られておいでです。新三郎さま、今宵お嬢様をこちらにお泊めいたしてもよろしゅうございますかえ?」
お米の言葉に、新三郎は、内から沸き上がる思いに目を閉じて息を吐きますと、
「私の孫店(まごだな)に住まっている人相見の白翁堂勇齋と申す者が、何かと私の世話をやいてやかましいのですが、それに知れないよう、裏からそっとお入りください」と、お米に伝えました。
その日からというもの、夜更けになると、牡丹飾りの灯籠を提げたお露が新三郎の家を訪れ、お米を待たせて、一夜中新三郎と情を交わしては、明け方になると帰って行くという事が繰り返されました。
「新三郎さま、私がもしも親に勘当されましたら、お米とともにここに置いてくださいまし」
座敷の蚊帳の中で、新三郎に体を預けたお露が囁く様に良いました。
「そんな事になれば、貴方を引き取れる私は幸せこの上無しですが、貴方は一人娘。御勘当される気づかいはありますまい。後になって、生木を裂かれるような思いをする事になりはしまいかと、私は心配してしまいます」
新三郎がそう言うと、お露は目を潤ませて新三郎を見ました。
「私は、貴方様より他に、夫はいないと思っております。たとえこの事がお父様に知れて、手打ちになろうとも、この思いは変わりません。ですから新三郎さま、私の事を見捨てないでくださいまし」
「誰が貴方を捨てられましょう」
新三郎は、お露を抱き寄せました。
お露が新三郎の元へと通う事七日目の事です。
月明かりが雲に遮られた夜更けの暗い中を、近くに住む伴蔵が、新三郎の家の前にやってまいります。
伴蔵は、数日前より真夜中になると新三郎の家から、何やら女の声が聞こえてくるので、気になっていたのでした。
「いったいどんな女が旦那のところへ通ってるんだ? 旦那は人が良いから、悪い女に引っかかってだまされると大変だ」
伴蔵は、腕を組んでそう呟きながら、新三郎の家の戸口まで来ると、耳を澄ませて息をひそめました。
微かに新三郎と女の声が聞こえます。
座敷から漏れて来る、吐息まじりのその仲睦まじい話し声に、伴蔵はたまらず戸口の隙間から中の様子を覗き見ました。
座敷の中に吊ってある蚊帳と、灯りが無いせいで、座敷の中はよく見えません。
その時、厚い雲間から月が現れ、座敷の中をほのかに照らしました。
蚊帳の中で、新三郎の背中が見え、その向こうに、高島田に結い上げた黒い髪が見えました。
伴蔵は目を凝らして女の方を見つめました。
女の手が新三郎の背中に回され、伴蔵の目に入ります。
月明かりに照らされたその腕は、血の気が全く感じられないほどに白く、肉の厚みも柔らかさもありません。
新三郎が向きを変え、女の体が見えると、伴蔵は息を呑みます。
新三郎の胸に顔を埋めた女の、はだけた着物の隙間からのぞく女の脇腹は、あばら骨が浮き出しています。そしてその体の腰から下は、にじむ様に消えて見えます。
女が顔を上げました。
その横顔は、頬はこけ落ち、目のところは落ち窪み、乱れ髪はささくれています。
新三郎は、その女の体を愛し気に抱くと、再び背中を伴蔵に見せました。
その時、月夜に照らされた女の顔は、どくろの様に目の所に深い窪みがあるだけで、目はありません。
伴蔵は、声も出せずその場にへたり込みました。腰が抜けたのです。
「これ下郎、無粋な真似をしてお嬢様の邪魔をするでない」
横から女の声がして、伴蔵は思わず顔を上げました。
そこには、骨と皮ばかりになった女中姿の女が、伴蔵を見下ろしておりました。
そして、伴蔵を睨むのは、どくろの二つの眼窟でした。
新三郎の家の裏に住む、白翁堂勇齋は、夜も開けぬうちに戸口を叩かれて起こされました。
「誰だい、こんなに早く」
勇齋がいぶかりながら心張り棒を外し、戸を開けますと、這いつくばった伴蔵が、勇齋を見上げています。
「先生、大変でごぜえやす」伴蔵はかすれた声でそう言いました。
「伴蔵か、どうした? 夜盗にでもあったのか?」
どこから這いずって来たのか、泥だらけの伴蔵を、勇齋が助け起こします。
「ばけもん、萩原様と」
「落ち着け。最初から話せ」
勇齋は、柄杓に水を汲むと、伴蔵に差し出しました。伴蔵は、持つ手が震えて、ほとんど水がこぼれてしまいましたが、残った水を飲むと、ようやく落ち着いた様子になります。
「萩原様に、女が毎晩通ってくるんでさあ。おいらは、萩原様が悪い女にだまされちゃいけねえと思って、覗いたんですがね」
「覗いたのか、悪趣味な真似はよせ。まあしょうがない、それで?」
「その女ってのが骨と皮しか無いんでさあ」
「萩原様はそういう女子(おなご)が好みだということか?」
「ちげえやす。その女、足も無いんでさあ」
「なんだと?」
勇齋は伴蔵に向き直りました。
伴蔵から話を聞いた勇齋は、日が昇るのを待ちかねるように新三郎の家へ参ります。
「どなた様かと思えば、勇齋殿。お年寄りは早起きですな。何か御用ですかな?」
戸口からでて来た新三郎は、勇齋にそう言って笑いました。
「いや、ちょっと、貴方の人相を見てしんぜようと思い付きましてな」
勇齋はそう言って、新三郎の顔をじっと見つめます。
「萩原殿」
勇齋の声が、固くなりました。
「どうしたのですか、いきなり怖そうな声で」
「貴方には死相が現れております。見立てでは、後二十日と待たずに死んでしまう」
それを聞いた新三郎は驚き、怒った顔をします。
「何をいきなり、私が死ぬと言うのか」
勇齋は頷きました。
「毎夜、貴方の元へ女が尋ねて参っておるでしょう?」
「いえ、まさか。誰も尋ねてなど来はしません」
新三郎は、はぐらかしました。
「見た者がいるのです。正直に申すが、おそらくその女は人ではない。既に死んだ者だ。それが貴方に取り憑いておる」
新三郎は笑い出しました。
「何を申すかと言えば。なに、心配は無用、確かに女は尋ねて参りますが、実は、牛込の飯島という旗下の娘なのです。今は訳あって、谷中の三崎村で米という女中と暮らしております」
「わしの言う事が信じられぬか。では一度、その女が本当に生きているものか、三崎村とやらへ行って確かめて来なさることだ」
「わかりました。では今から行ってきましょう」
勇齋の、そのあまりに真剣な面持ちに、新三郎は頷きました。
新三郎は三崎へ行くと、お米とお露を探しました。しかし、ふたりの事を知る者もおらず、新三郎は、そのうちに疲れてしまいました。
ふと、立ち寄ったお寺で休んでおりますと、新しく建てられた墓が目に入りました。
墓には、ちりめん細工の牡丹があしらわれた灯籠が供えられ、朽ちかけております。
新三郎はその灯籠を見て、寒気を感じました。
「どうなされました?」
不意に呼びかけられた新三郎が怖々振り向きますと、このお寺の僧侶が立っております。
「つかぬ事をお尋ねするが、あの牡丹の飾りの付いた灯籠を供えてあるのは、いったいどちらのお墓なのですか?」
「あれは、牛込の旗下、飯島平左衛門の娘の墓です」
「では、隣のは」
「その娘の、お付きの女中のものです。先に娘が病で亡くなり、すぐに後を追う様に女中がその看病疲れで亡くなりましてな。こうして一緒に葬ったのです」
血の気の失せた顔の新三郎には、僧侶の言葉は聞こえていませんでした。
「どうすれば良いのだ。このままだと俺は取り殺されてしまう」
新三郎は、必死の思いで家に戻り、勇齋に助けを乞います。
「わしは占いは出来ても、払い事は門外。知り合いの良石(りょうせき)和尚を紹介します故、そのお方にすがるのが良いでしょう」
勇齋が、良石への手紙を書いて新三郎に手渡しますと、新三郎は、良石がいる寺へ飛んで行きました。
新三郎の前に現れた良石は、すぐに新三郎の顔を一目見るなり、言いました。
「なるほど、深い因縁によって絡めとられ、今生ではそれが死相となって現れておる」
「どうかお助けください。私は死霊に取り殺されたくはありません」
新三郎はすがりつく様に、良石に願い出ました。
「ならば、相手の霊に其方を諦めさせて、成仏させるよりあるまい」
良石は新三郎に、その大きさ四寸ほどの、海音如来をかたどった金無垢の像と、お札を出して参りました。
「このお守りは、死霊除けのお守りだが、金無垢ゆえ、人の目に触れると、邪な者に奪われるやも知れぬ。厨子(ずし)に入れて、肌身離さず持っておくのだ。そしてお札を家の方々へ貼り、一歩も外に出ず、これから教える経を唱える事を忘れぬ事だ。良いな? これを幽霊が現れぬ様になるまで続けるのだぞ」
新三郎は家に帰ると、良石和尚に言われた通り、家中にお札を貼り、座敷に蚊帳を吊ってその中にこもり、一心に念仏を唱え続けました。
やがて日が暮れ、夜更けになり、八つ時の鐘が聞こえました。
町中が静まり返り、遠くの水音と微かな風の音だけが聞こえる中、やがて駒下駄の音が聞こえて参ります。
カラン、
コロン。
新三郎は、いちだんと声を張り上げて念仏を唱えます。
家の前に近づいた駒下駄の音が途切れました。
新三郎は、念仏を唱えながらも、外が気になり、座敷を出ると戸口へ行き、隙間からそっと外を覗き見ました。
お米が提げた牡丹飾りの灯籠に照らされ、お露が立っています。
高島田に結い上げ、秋草色に染めた振り袖を着飾ったその姿は、一目それを見たならば、新三郎でなくとも恐ろしさを感じるほどの美しさです。
新三郎の胸中は、今やお露への愛しさよりも、死へと連れ去られる事の恐怖の方がはるかに勝っておりました。
お露とお米は、立ち止まったまま動きません。それはお札の力で、それ以上近づく事が出来ないのです。
「お嬢様、萩原様は心変わりをなされたのか、戸締まりがきつくてとても入れませぬ。今日のところはお家へ帰り、もう一度出直しいたしましょう」
お米が言うと、お露は、涙を流し、振り袖を頬に当てて濡らしました。
「昨日までは、あれほどまでに私に情を掛けてくださったのに、なぜなのですか。新三郎さま、どうかここを開けてくださいまし。お願いでございます」
お露の涙声が聞こえましたが、新三郎はいっそう怖くなり、何も答えず、必死になって、ただただ念仏を唱え続けます。
そのさめざめとした泣き声は、駒下駄の音とともに、家の裏へと廻り、再び表に廻りして、入り込めるところを探しています。
やがて長い夜が明ける頃になって、ようやくお露の鳴き声は、駒下駄の音とともに遠ざかりました。
翌日の夜も、翌々日の夜も、八つ時の鐘が聞こえると、駒下駄の音と共にお米とお露が現れ、新三郎の家に入れてくれるよう懇願し、入れずに泣きながら家の廻りを回ると、夜明け前になってようやく諦めて去って行きます。
その様を近くに住む伴蔵が、毎夜隠れて覗き見しておりました。お米とお露の、その姿はなぜか、最初に伴蔵が月の明かりの下で見た恐ろし気な姿ではなく、優し気な女中と、美しい武家の娘の姿に見えるので、伴蔵は少しずつ近づいて覗き見る様になりした。
その夜も、駒下駄の音と、お露の涙声が聞こえて参ります。
伴蔵が物陰からそっと覗き見ますと、泣いているお露の脇に立っていた女中が、伴蔵の方を向いて、音もなくすーっと、近づきました。
伴蔵は、自分が見つかった事に気がついて、思わず後ずさりしますが、後ろの壁に阻まれて動く事が出来ません。
息を詰めて見上げる伴蔵の前に、お米が立って見下ろしていました。
「其方はこの前から、ずっと私達の事を覗いておりますね」
お米がとても恐ろしい形相で睨むので、伴蔵は、脂汗を流して頷く他ありません。すると、お米の顔は、優し気な表情に変わりました。
「普段の事なれば、其方のような目障りな輩はけっして赦しませんが、ここは一つ、私どもの頼みを聞くのであれば、目をつぶりましょう」
「へ、へい、なんでも聞きやす」伴蔵は微かに震えて頷きました。
「新三郎様の家に貼られたお札と、新三郎様が肌身離さず持っているお守りが大層邪魔をして、私とお嬢様は新三郎様に近づく事が叶いませぬ。そこで其方に、明日の夜までに家のお札を剥がし、お守りを持ち去っていただきたいのです」
「それは、い、いくらなんでも、とても出来ません」
伴蔵は、さすがに断ろうとしました。
「出来ぬと申すのですか。もちろんタダでとは申しません。お礼の代わりに、新三郎様より引き離したお守りは、其方がそのままお持ちくだされば良いのです。同じ目方の金に換えれば、しばらくは遊んで暮らせましょう。それでもならぬというのであれば、致し方ありません」
見る見るうちにお米の姿と形相が恐ろしいものに変わります。
「わ、わかりました。なんとかいたします。なんとかしますから、どうか命だけはお助けください」
伴蔵は額を地面にこすりつけて懇願しました。
翌日の昼間に、新三郎の元へ、伴蔵が参ります。
「旦那、このところ家中の雨戸を閉めて引きこもって、毎日毎日お念仏を上げてなさるが、たまには一休みして、行水の一つでもなさらないと、暑さに負けてしまいますよ」
伴蔵の言葉に、新三郎は、首を横に振りました。
「行水は外でしなければいけない。だが今は、それは出来んのだ」
「心配はいりやせん。今は昼間ですし、なんでしたらここの畳を上げてなさればよろしいじゃありませんか。用意でしたら全てあっしがいたしやす。旦那はそれまでお念仏を上げていて下せえ」
新三郎は、ようやく頷きました。
「ではそうするか。伴蔵、頼む」
伴蔵がたらいとお湯を用意すると、新三郎は着物を脱ぎ、首に掛けているお守りを伴蔵に渡しました。
「これは無くしたり汚したりすると大変なお守りだから、終わるまで向こうの神棚に上げて置いてくれ」
伴蔵は、お守りが入った厨子を受け取ると、新三郎に背を向け、神棚に上げる振りをしながら、そっと厨子を開けて中身を覗き、目を見開きました。
「こいつはすげえ、金無垢のお守りだ。金に換えちまえば、当分遊んでくらせる」
伴蔵は、その金無垢のお守りを、同じほどの重さの、瓦で出来た不動様の像とすり替えました。
新三郎が行水を終えると、伴蔵は後始末もそこそこに、家を出る間際に、隙を見て物陰に隠れたお札の一枚をそっと剥がしました。
そして、伴蔵は、金無垢の海音如来像を持ったまま、家には二度と帰らず、そのまま遠くへと逃げ去ってしまいました。
夜が更け、八つ時の鐘が聞こえます。
じきに、念仏を上げている新三郎に、カラン、コロン、という駒下駄の音が遠くから聞こえて参ります。
カラン、コロン、
カラン、コロン、
カラン、コロン、
駒下駄の音は、戸口の前で止まりました。
「新三郎様、どうか入り口をお開けくださいまし」
お露の悲しげな声が聞こえます。
新三郎は、一段と声を張り上げて、念仏を唱えますが、暑さと疲れのせいか、時折引っかかる様になってしまい、うまく上げられません。
駒下駄の音は、ゆっくりと、裏へ回ります。
カラン、コロン、
カラン、コロン、
裏口のあたりで、音が止み、お露の声が聞こえます。
「どうか、私を中に入れてくださいまし。お願いでございます」
そして、再び駒下駄の音がして、それは気配とともに庭へと回り込んで参ります。
カラン、コロン、
新三郎は、束の間念仏を止め、気配を探りました。昨晩は、そこで音が一度途切れ、次には音が遠ざかったのです。
そろそろ、明け方なので、お露は諦めて帰るはずです。
カラン、コロン、
お露が歩き出す気配がします。
カラン、コロン、
カラン、コロン、
ところが、遠ざかって小さくなるはずの駒下駄の音は、逆に近く、大きくなって来ます。
そんなはずはない、と、新三郎は、念仏を上げますが、疲れ果てて、声もかすれて参ります。
新三郎が、固く目を閉じて、必死に念仏を唱えていますと、駒下駄の音が途切れました。
新三郎は、思わず安堵の息を漏らしました。
その時です。
新三郎の耳元に吐息が掛かりました。
「新三郎様。嬉しゅうございます。お会いしとうございました」
間近にお露の囁き声が聞こえました。
新三郎は悲鳴を上げながら目を開けました。
お露が嬉しそうに涙を流して、新三郎にしなだれかかりました。
「た、助けてくれ」
新三郎は声にならない悲鳴を上げながら、お露に抱きつかれて座敷を這いずります。
その拍子に、首から提げていたお守りの厨子から、黒い固まりが飛び出します。
その、黒い瓦で出来た不動像を見た新三郎は、目を見開いて呻きました。
「新三郎様、何をそんなに取り乱していらっしゃるのですか?」
お米が、新三郎の目の前に立っています。
「お米、お露、私の事は諦めて成仏してくれ。お願いだ。私はまだ死にたくないのだ。取り殺さないでくれ」
新三郎は、必死に手を合わせて念仏と一緒にそう言いました。
「一体何を仰るのです?」お米は笑い出しました。
「私達が新三郎様を取り殺すなど、そんなご冗談を、どなたが申したのです? ねえ、お嬢様」
お米が言うと、お露は、愛らしい仕草でくすりと笑いました。
「新三郎様、もうお念仏など上げなくともよろしいのですよ」
「そうですとも、ほら、そこをご覧なさいませ」
お米が指し示すと、そこには、自分が着ているのと瓜二つの着物を着て、まるで棒切れの様に痩せこけた男が、転がっています。
新三郎は、そこに何故そんなものが転がっているのか、判りません。
「よくご覧遊ばせ。それは、新三郎様の骸でございますよ」
お米のその言葉を聞きながら、お露に絡めとられる様に抱きつかれ、新三郎は、呆然と自分の亡骸を見ていました。
夜が開けて、白翁堂勇齋は、新三郎の家から念仏が聞こえなくなっている事に気がつくと、戸口を叩きました。
「萩原殿、眠っておるのですか?」
一向に新三郎が出て来ないので、勇齋は、裏に回り、勝手口の心張り棒が外れているのを見て、中に入ります。
暗い家の中を歩き、いつも新三郎がいる座敷に上がると、勇齋は、雨戸を開け、蚊帳の中を見て声を上げました。
「萩原殿」
そこには、目を剥いて息絶えている新三郎の亡骸がありました。
その骸を抱きかかえる様に、骸骨が散らばっております。
座敷の隅には、朽ちかけた牡丹飾りの付いた灯籠がありました。
-終-
クラシックギタリストの山本一馬の呼びかけで集まった、ボイスパーソナリティのよしかわ真世と、音響係のうえまつまさおの三人によって、二〇十一年三月に結成。
朗読と音楽が融合した、単なる物語の朗読や読み聞かせに音楽伴奏を加えただけではない、大人が楽しめる新しい物語の体験を演出する事を目指したパフォーマンスユニット。
本作を含むオリジナル作品や童話などを中心に、地元香川県で不定期に公演。二〇十五年活動完了。
2014年6月2日 発行 初版
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