オーストラリアを旅行中、早朝アデレードからバスに乗った。
途中乗り込んで来た女の子が日本人のようなアジア系でずっと気になっていた。
カンガルー島行きの船着き場に付きバスを降りると「Are you alone?」「こんにちは」ほとんど同時に声をかけた。
(アーユーウーロン?て何だろう-日本人じゃなかったんだ-韓国の人かな-ああウーロンじゃなくてアローンね)
それが初めて出会った隣国の女の子と交わした言葉だった。
彼女は語学留学中らしく、私は初めての海外旅行の途中だった。
"近くて遠い国"とよく言われる日本と韓国の関係。
島までの船の上で、お互いに相手の国のことを何も知らないことに戸惑いを覚えながらもひとつひとつ確かめるように私達は言葉を続けた。
私が何の気なしに「いつか韓国にも行ってみたいな」と口にしたら、「いつくるの?」とヨンヒーは真面目に聞き返した。
「再来年なら戻っているから来る時には連絡して」と住所を渡された。
その日から韓国という国がわたしの中で現実味を帯びた隣の国となったのだった。
そしてどうせ行くなら言葉を少しは話せるようにならなければ、そう思った。
帰国後、文法を勉強せずに多言語を学ぼうという外国語サークルに入った。
そこでは歌を歌ったり、子供と一緒に遊びながら日常会話を覚えていった。
サークル活動も楽しかったのだけれど、早く話せるようになりたいと急ぐあまりハングルの読み書きを直接韓国人の先生から習うという脱線お父さん達のグループに私も混ぜてもらい、早速ハングルの習得を"カナダラマバサ"(日本語で言うあかさたな)から始めることになった。
毎週月曜夜7時、場所は神田のアマンド。
勉強だけではなくたまには飲みにも行きましょう、ということで"マッコリ会"。
机をくっつけて参考書とノートを拡げると、紅茶とリングシュークリームを食べながらの勉強会。とりわけ皆ノレバン(カラオケ)が好きで、よく歌い、飲み、笑い、そして話した。
初代先生人は文ムンさん、蘆ノさんだった。
そしてノさんの先輩である韓ハンさんが加わり、後輩の金キムさん、続けて来日した梁ヤンさん、その先輩の金キムさん、韓さんの友達の姜カンさん、朴パクさん、金キムさん、安アンさん...と先生がバトンタッチしながらマッコリ会は2年近くも続いたのだった。
民族や国という違うバックグラウンドを持った人々と対面しその違いを知ることで同じ言葉を共有する者同士の間では意識することのなかった何かが浮き彫りになる。
その何かを彼等も私たちもこの交わりから感じ取ろうとしていた。
そしてより深く個々の人を知るに連れ、属性はもはや重要ではなくなって最後はまたユニークな存在あることを再び確認し、一対一でお互いが対峙することになるのだとこの2年間で知ったのだった。
オーストラリアでの出会いから3年、ヨンヒーへ出した手紙は転居先不明で戻ってきてしまった。
先生人のひとりに出した手紙の返事も無いままだった。
けれどもすでに職場で「韓国に行くのだ」と公言していたために予定通り韓国へ行くことに決めた。
1月から2月、花屋は一年で一番暇なので遠慮無く休むことができるのだ。
機上では簡単な機内食が出されるとたたみ込むように飲物もサービスされて、雑誌をパラパラめくっている内に金浦空港に到着した。
空港はがらんとしてなんだか寂しかった。
市内行きのバスに乗り込み、鐘路2街-チョンノイガ-まで車内でかかっているラジオに耳を傾ける。ソウルの中心部へとバスが入ると、週末の夕方だけあって街は人でごったがえしていた。
ホテルの入り口は待ち合わせの人で溢れていて、人混みをかき分けやっとのことでエレベータに乗り込む。
チェックインするとフロントで友人からのメッセージを受け取り、彼も無事に着いたことを知った。
出発の数日前に偶然同じ頃ソウルに行く予定だと知り、向こうで会おうと宿だけ教えておいたのだ。
オーストラリア人のグリンは先生人も知っている共通の友人だ。
私が予約したのはYMCAでグリンの安宿もすぐ近くにあった。
夕方合流するとその夜は仁寺洞の民芸酒場っぽい店で定食を食べた。
夜他の先生人にも電話をかけてみたけれど、誰とも連絡が着かなかった。
これから一週間も何をして過ごそうか...
翌朝フロントの前で新聞をめくっていたら、「良子さん電話ですよ」と日本語で声をかけられた。
受話器をとると文さんだった。
マッコリ会のお父さんのひとりが連絡してくれて私がここに居ることがわかったらしい。
明日の昼一緒に食事をしようと約束した。
今日もグリンと出かける予定。
朝食を終えて「どこか行きたいとこある?」と聞くと彼は「コートを買いに行きたい」と言った。
寒風吹きすさび寒さが骨に凍みるソウルに一張羅の上着を忘れて来たという。
早速探しに南大門市場-明洞と歩き、途中で彼がPC房で知り合ったという韓国人の学生さんとすれ違った。
なかなか気に入るものがなく、最後に入った新世界百貨店でオーソフドックスで良いデザインのものを見つけることができた。
もちろんそのまま着て行くことにしたのだけど、ちぐはぐ感は否めない。
スニーカーとナイキの帽子に手袋という出で立ちでなければ....せっかくのコートが、ね。
ずっと歩き通しだったので冷えた身体を温めようとタバンへ。
注文するときには店員さんを相手に二人とも韓国語会話をいろいろ試した。
一度ホテルに戻ってから夕飯を食べようと言う事になり、フロントでお勧めの店を訊いたら不快感を露にあしらわれた。
食事くらい自分で決めろということらしい。
びっくりしたけど気を取り直して近所の焼肉屋に入った。
「食事ですか?」と聞かれたので「そうです」と答えると、焼肉のメニューを下げられてしまった。
焼肉は食事ではないのだろうか???
宿に戻る前にグリンの部屋に寄ってみた。
週末、狭い路地に溢れた酔っぱらいの大学生にもみくちゃにされながらたどり着くと、玄関のすぐそばに経営しているご家族の居間らしき部屋があり、アジュンマが「おかえり」と顔を出した。
地球の歩き方に載っていたその宿は"蛸部屋"と呼ばれる見本のような所だった。
お掃除はされているようだったけど、ドアを開けたら部屋の幅そのままの細いベッドが一台あってじん砥の小さな流しが付いてるだけだった。
グリンは釜山へ向かった。
私は文さん韓さんと会うために会社へと向い、同じビルの中にあるフードコートでランチを食べることに。
折しも韓国はバブル崩壊後だったので、仕事は大変だと話していた。
二日後の夜に先生人の皆さんと会えるよう文さんが骨折ってくださったのだが、韓さんはその日は都合が悪いからと代わりに私の観光スケジュールを立ててくれることになった。
まずは会社のすぐ裏にある美術館に行ってみようと建物まで送ってくれたが、残念ながらその日は休館日だった。
仕方ないのでそのまま南大門市場へと歩いた。
ビル風は本当に冷たくて、肩をすぼめて歩いているとやけにしんみりした気持になった。
夏にキャンプ行って皆で夜通し語りあったこと、灼ける日射し、西瓜割り...そんなことばかり思いだされた。
結局韓さんはお土産の買物に付き合ってくれて私はモガチャをご馳走になった。
そこから韓さんの観光プランに沿って?言われるままタクシーに乗りこみ梨大院に向かった。
梨大院の通りには観光客めあての店が軒を並べる。
南山の南になるのだろうか、丘陵地帯で坂や石段がたくさんあって、赤茶の瓦屋根がひしめきあっていた。
お土産屋さんに声をかけられるのが面倒で、横道を入ってはくねくねと曲がる住宅街の中の道を歩いた。韓国では路上駐車は常識のようだ。
そして二日後の夜、数人の先生人と再会した。
お会いできなかったふたりの金さんとは電話で話をすることができた。
テーブルいっぱいに料理が並べられた韓定食(ハンジョンシク)をご馳走になり、この後まだ接待があって同じ方向に行くという梁さんに鐘路まで送っていただいた。
少し時間があるというので喫茶店でお茶を。
ここにも電話。(当時各テーブルには電話機が置いてあり、店内の違う席から電話がかかってきたりして、ナンパしたりされたりという出会い系のハシリみたいなのが流行っていたのだ)
それぞれの先生と想い出がある。
韓国と日本は言語も文化も親戚のようなものだけれど、私には日本ではなかなか見つけられなかった気持ちの通じる人が外国にもいて、言葉が不自由でもフィーリングは互いに通じるものだとわかって、そういうのもありなのかと想像したりした。
今思えばこの頃がモテ期だったのに、オジサン達と勉強会している場合じゃなかった。
−--というのは冗談だけど、外国語を話すということは違う考え方・ものの見方を手に入れるということで、それは今の私の大事な一部になったと思えた。
今夜はひとりで夕飯。
二三度行ったり来たりしたあげく、路地裏の食堂シクタンに入ってみた。
ドアを押して入ると店の人がちょっとびっくりした様子だった。
中は地元のアジョシ(オジサン)ばかりである。
これまた迷ったあげくにパジョン(ネギのジョン、チヂミ)を注文した。
待っているとスーパーのビニールをさげたアジュンマが店に入ってきてチョコレートを黙ってテーブルに置いて行った。
始めはその意味がわからなかったのだが、チョコは好きなのでそのままたった1枚だけど買うことにした。
出てきたパジョンはLサイズのピザ程もあり、ひとりで食べきることは出来なかった。
店を出る時アジュンマが「ト オセヨ. またいらっしゃい」と言ってくれたのがうれしかった。
食後にお茶でも飲もうと仁寺洞インサドンヘぶらぶら歩く。
仁寺洞には茶房タバンがたくさんある。
伝統音楽のBGMに伝統茶を出す店、至る所に蝋燭を飾っている店など喫茶店めぐりができる。
そのなかの一軒に入ってみる。
白い塗り壁が落書きでいっぱいのその店は若い人達でにぎわっていた。
メニューを見ていて"ネンノクチャ"という文字が目にとまった。
ノクチャは緑茶のこととわかったけれど、ネンて何だろう-と思いながらも深く考えずに注文した。
運ばれて来たモノをみて、店員が変な顔をして"何か言いたそうにもじもじして"注文を聞き直していた意味がやっとわかった。
ネンは"ネンミョン=冷麺"の冷だったのだ。
暖かいお茶をと思って入ったのに...仕方がないので半分ほど飲んでそそと店を出なければならなかった。
そのまま帰るのはあまりにも淋しかったのでもう一軒。
二階の窓の行灯のようなあかりに誘われて階段を昇る。
店に入って見るとテーブルはふさがっていた。
少し迷って奥の座敷にあがった。
メニューを見ると中国茶が中心のようだったけれど、(韓国の喫茶店ににはどこにでもある)モグァチャ(かりんのはちみつ漬けをお湯で割ったもの)や生姜湯のようなものがあった。
店のオーナーらしきオンニお姉さんは大学時代に日本語を勉強していたという。
暖かいお茶で緊張がとけて、、すっかり外に出るのがおっくうになってしまった。
気がつけばお客がいなくなっていてそろそろ帰ろうと支度しだした時、オンニのチングドゥル友人達がビールやら何やら抱えてやって来た。
「どこから来たの?」など一通りの質問に答えているうちにビールを注がれ、鯛焼きにケンタッキー、ラッポッキにキンパブを勧められ、一緒にご馳走になった。
チングのひとりが、「暇だから案内してあげようか?」と言い出した。
オンニが「この人は危ない人ではありませんから」と付けたし、もう一人のオンニが「この人、私が唾付けてるからとらないでね」とジェスチャーしながらウィンクした。
翌朝10時にここで会う約束をして、店を出た頃には12時近くなっていた。
窓の外は雪だった。
私は心配になって今日のガイド朴パクさんに電話したが、ここはソウル、雪などたいしたことないようだった。
出かける前にオンニのいる茶房に寄ってお茶を飲みながら計画を立てた。
景福宮-に行こうとしたのだけれど、予約の電話をすると今日は休園日だった。
それではと博物館に行くことになった。
重い辞書を片手に雪のちらつく中を歩いてゆく。
案内してくれる朴さんは日本語はわからないけど、韓国語と英語でどんどん話しかけてくれる。
新羅や百済の装飾品などが展示されている中をゆっくりひとめぐりした。
出ると昼をまわっていたので何か食べようということになった。
「プンシクでいいかい?」と聞かれ、なんだかよくわからないけど「うん」と答えた。
店のドアに"粉食"と書いてあった。なるほど。
看板には"ハンアリスチェビ"と書いてある。
この店の名物らしい。
壷ごと火にかけたスープがでてきた。
白濁したスープにきゅうり、じゃがいも、わかめとワンタンの皮の大きさの小麦の生地が入っていた。
温かい汁物に胡瓜が入っているのには驚いたけれど、これはとてもおいしかった。
体が温まったところで徳寿宮へ向かった。
雪も止んであまり積もってはいなかったけれど、冷凍庫内のような気温である。
あっという間にまた冷えて足先が凍りそう。
平日の午後、シーンと静まり返った宮の周りをゆっくりと散歩した。
ホテルまで送ってもらい別れるとき、「あとでまたタバンにおいで」と言ってくれたのだけれど、身体の芯まで凍りついて疲れてしまい、話す気力も尽きてそのまま部屋に戻って夜まで眠りこんでしまった。
改めて御礼も言えず申し訳なかったけれど、この時徳寿宮で撮ってもらった数少ない旅行写真を見ると、どれも顔がひきつっている。
とにかく慣れない寒さに耐えてたんだなと。
ソウルの冬をナメてはいけない。
今日はヨンインにある民俗村へ行くことにした。今日も寒い。
学生や通勤の人に混じって地下鉄チハチョルに乗る。
朝のラッシュはどこも同じだ。
ただ日本と違うのは、学生さんや若い人たちは中年のおじさんおばさんにもすぐ立って席を譲ること。
お年寄りだからではなく自分より目上の人という基準がはっきりあるみたいだった。
乗り換える駅を一度間違えたものの無事民族村行きのバスに乗ることができた。
村の中には古い時代の街並みが再現されている。萱葺き屋根にオンドルの床の古い家。遠足で来ているらしい子供達と何度かすれ違った。
しばらくぶらぶら歩くうちに、皆とはぐれてしまって半べそかいてる男の子が。さっきまでたくさんいた子供たちも見渡せどどこにも影はなく、私以外に大人も見当たらない。
「ケンチャナヨ」と言い聞かせながら手を引いて売店のある方へと歩いた。
私も昔よく親とはぐれたのでその心細さは良くわかる。
服の色をたよりにちゃんとついて行ってるつもりが..気が付くと知らない人だったりする。
そんな風に迷子になったこと数回、今でも記憶に残っている。
だからなのか大人になってからはよく迷子を見つけてしまう。
やっとここで働いているらしい女の子に会ったので声をかけ、後を頼んだ。
昼をたべようと屋台村のような広場にいってみる。先に食券を買うらしい。スープのようなものを頼もうとして、前にいたカップルの注文に聞き耳をたてて、おなじ"スンデクク"を注文した。果たして出てきたものは、"豚の臓もつや腸詰め?のスープ"だった。ご飯を入れて、具だけを残してたべた。カムジャジョン(ジャガイモのジョン)にしておけばよかった。
土産物店をひやかして、気になっていた"占いの舘"にいってみる。
と、襖が開いて中からおばあさんが「寒いからあがんなさい」と日本語で言った。
ちょっと迷ってから観てもらうことにした。
生年月日からボロボロの本で何か調べ、顔と手をひとしきり眺めて、
「耳が小さくて鼻が大きいだから-」とか「晩婚なら大丈夫」「来年結婚するといい」とか、、
でもそれは無理。
しきりに「アンシムシナサイ」と繰り返す。
私はイギリス行きのことが心配だったので尋ねたのだが、「今年、来年は何をしてもだいジョブ"」だと言う。良かった。
ぬくぬくのオンドル部屋から出て再びぶらぶらしていると、漢方茶の張り紙が目にとまった。チマチョゴリ姿のお姉さんが松の木をかまどの火にくべながらお茶を煎じている。
いかにも苦そうな色をしているそのお茶には、30種の漢方が入っているという。
かまどのそばにしゃがみこんで、飲んでみた。
うーんこれは苦い、けどちびちび嘗めるようにして飲む。
するとそこへ二人の外国人観光客を連れたガイドさんが通りかかり、二言三言話すうちに「案内してあげるけど一緒に来ない?」と誘われ、ちゃっかりご一緒させてもらう事にした。
プライベートっぽいツアーのお二人は大学の教授で、ひとりはテキサスから、もう一人は西海岸から学会で来ているのだという。
帰りもソウルまでバスに乗せてもらえることになった。
しかしそれが間違いだった。
明日は帰国日だというのに、昼を一緒に食べる約束をさせられてしまった。
ロッテホテルのロビーで待ち合わせた。
その人のニックネームは白熊さん。
確かに、色白で丸顔で背の大きな人だった。
早速ランチと思っていたら、これから南山タワーに行くという。
なんだかお上りさんよろしく展望台まで上がって市内を眺めた。
彼は英語が難無く話せて、どこかのホテルのラウンジがお気に入りで、花屋に行ったら買う花はピンクのバラと決めているのだと得意げに話した。
でもそんな話を聞いているとどんどん気が滅入ってきた。
おでんとうどんを食べながら私は早く帰りたくて気が気じゃなかった。
南山の麓で別れてホテルへ戻るつもりが、彼はホテルまで送ると言い出した。
何度も断ったのに振り切れず、とうとうホテルまで来てしまった。
着いた時には私も半分怒っていた。
好きにさせてよ。
せっかくその時いたフロントのお兄さんと最後の挨拶もろくにできずに...(彼は今回の旅行中ちょっと気にいってた人だった。)
空港行きのバスはホテルのすぐ前から出ていたのだけど、一刻も早く一人になりたかった。
でもスーツケースを持ってバス停に立つと今度は空港まで送ると言い張った。
私も喧嘩腰で「一人にしてくれ」と繰り返したが相手には堪えていないようだった。
バスが来た時には私の怒りも頂点に。
しかし悪気はなかったらしく、スーツケースだけ乗せると彼はバスを降りてニコニコ手を振った。会ってから別れるまでたったの3時間。なのに我慢ができなかった。
でも喧嘩腰になったとき、私はちょっとだけ韓国人になったような気がしたのだった。
三年ぶりの韓国。
たった2度とはいえ、先生人に教えていただいた言葉で就くことができた仕事で再び韓国に行くことに。
担当は韓国南部、その時の日記です。
ソミョン行きの路線バスに乗りこんだ。
心配なので一番前に座る。
バスの運転手サンにオソオシプシヨといわれてびっくりした。
最近はお釣りも出る様になったし、ハナロカードになちゃったし目覚ましい変容ぶり。
アナウンスで聞き取れるバス停の名前と書いてあるハングルが一致しない。
どうしてだろう?
(その後、始めに次のバス停、最後のはもう一つ先のバス停なのだとわかった)
ロッテ前に着いたので、地下鉄の駅はどこかと訪ねると、地下鉄でどこに行くのか?と聞くのでプサンジンヨクだと答えた。
そこからどこへいくのか?と聞くのでオリンピアホテルだと答えると、それならバスで乗り換えた方がいいからアンジュセヨと言われた。
この運転手サンはなかなかの私好みのお腹から響く声の持ち主だった。
降りるときに乗り換えたバスの運転手に渡すようにとメモを用意しておいてくれた。
こんな親切な人に当たるなんて、寒空の下変に見られながらもリムジンバスを3台見送って待っていた甲斐があるというもの。
はっきり言って韓国のバスに乗るのは大変だ。しかもスーツケースをひきずって。
バスはすごい勢いで次から次へとバス停前に滑り込んで来る。
自分が乗るバスを見つけたら駆寄っていって乗らねばならない。
バス停前でおとなしく立っていたら一生乗ることなどできない。
---なんとか無事ホテルに到着。
ホテルに着くと、私の予約を受けたヨンさんがフロントにいた。
エレベータはあまりきれいとは言えなかった。
5Fに着くと真っ暗で、省エネなのか、モーテル仕様なのか...
部屋に案内されたが、なかなか鍵が開かない。
中はきれいだったので一安心。このホテルつぶれる寸前なんじゃないかと心配になった。
サウナは営業しているが、レストランは真っ暗だった。
地下鉄の駅から徒歩2分。プサン市内どこへ行くにもちょうど同じくらいの場所にあった。
それがこのホテルにした理由だった。
これから11泊もするのに。失敗したかな.......
明日はとりあえずプサン駅周辺をまわることにする。
プサン駅前は鳩が集う広場だった。
山側にテキサスと呼ばれる外国人街がありその向うに住宅が続いている。
コンクリート造りで淡い水色とかピンクとかパステル色のペンキで塗られていた。
朝早く店が開いていなかったのもあって、なんだか真冬に函館に行ったときの寂しさににているなと思った。
内見を予定していた何件かのホテルは潰れていた。
そのまま中央洞からナンポドンへ向かう途中、地図の店があったので入ってみた。
駅前の本屋には丁度良いものがなかったので25000分の1図を買おうとおもったのだ。
けれども外国人が持ち出すのは禁止だという。
店の主人は少し日本語が話せて、一生賢明私に説明してくれた。
やっと見つけた観光地図は入荷待ちだという。
それでもよいから取り寄せてもらうことにした。
昼も食べずに歩き続け、良さげなタバンを見つけたので休むことにした。
プサンはコートを着ずになんとか歩ける寒さでほっとした。
とは言え手がかじかんで冷えきってしまった。
ホテルの前の通りの向うにいつも真っ白い湯気をたてている小さな食堂があった。
店の前にはスチーマーが3つ並んでいて揚げドーナツも並んでいた。
店の中にはテーブルが2つだけ。
なぜか女の子がテーブルに伏せっていた。
気にせず奥に座り、昨日は別の食堂でカムジャスッチェビを食べたので...マンドゥラーミョンをたのんでみた。
背の高いお兄さんが"日本の方ですか?"と訊いてきた。
聞くと店主で大学の頃日本語の勉強をしていたそうだ。
おでんを店先でつまむひとの相手をしながら、その合間に私とも話をしてくれた。
ひとつチンパン(あんまん)をくれた。
マンドゥラーミョンは名前そのままラーメンに饅頭(韮饅頭のようなもので中にキムチや野菜、肉が入っている)がのせてあった。1800W也。
後で食べようとおやつにねじりドーナツを買って帰った。
家では全くといっていいほどテレビをつけない生活を送っているのだが、言葉に馴れるために部屋に戻るとテレビをまずつけて書類を整理した。
流行りがわかっておもしろい。
人気があるらしいのはマライアキャリー風のいでたちで、(声は細い)バックダンサーを従えてパラパラ風の振り付けで踊る歌手。
真行寺君枝さんとホンジョウマナミさんを合わせて割ったようなちょっと淑やかな感じの女優さん。
日本でも人気が出そうなやわらかな感じの人が以前よりも増えた気がする。
全体的には女性のお化粧はあまり変わってない。
口紅の色が違うだけで勝ち気というか強気でしっかりメイク。
へアスタイルも後頭部を高めにアップさせた70年代風が3年前と変わらずに人気らしい。
1時間の連続ドラマもここでは週一ではなく毎日続く。
おもしろかったのは時代もの。"女人天下"というドラマ。
日本でいう大奥というか後宮の女性が争う話。本筋はもうちょっと複雑なはずだけど。
夜市場を歩いていたらぽつぽつと雨が降り出した。
見物をあきらめてホテルに戻る途中、歩道橋を上るとプサンジンの駅舎の向うに花火がみえた。
港であげているらしかった。
ふりしきる雨のなかの花火。
不思議な気持が私を支配する。
雨は冷たかった。けれども確かにもう冬のものではなかった。
これから10日間、この街に滞在する。
地下鉄の中で向かいに座っているお祖母さんと目があってしまった。
お祖母さんはヤクルトを飲んでいた。
私に残りの一本を差し出して飲みなさいと言う。
こっちに来て飲みなとジェスチャー。
せっかくなので隣に座っていただいた。
こういうものを飲むのは子供の時以来だ。実はあまり好きではないのだけど。
翌日、やはり地下鉄の中で目にごみが入ってどうにも困ってしまった。
こういうときに限ってレンズケースを持っていなかったりする。
目薬は持っていたのででごみを流してしまおうと立ったままでさしていた。
すると私の前に座っていたアジュモニがぶつぶつ言いだした。
「レンズガイッスムニダ」と言い訳?すると、「レンズなんかダメよ、目薬なんかさしたってダメ。目に悪いんだから...」とかなんとかぶつぶつ。
(と言っているように聞こえた)
そりゃ重々承知ですが今はごみが入って痛いんです--と言えず。
ちょうどとなりの人が席を立ったので私にそこに座れと言う。
私のことガイジンだってわかってないのかなあ。
かまわずアジュンマはお説教を続けた。
「眼鏡が一番よ。最近の若い子はレンズなんか入れるけど、絶対に良くないんだから、眼鏡にしなさい。」(と言っていたと思う。)
私は仕方なくだまって聞いていた。
席をとっておいて私に勧めてくれたことにお礼を言って降りた。
大通りに面したわりと大きなビルの1Fに茶房があった。
滞在中他によい店を見つけられず、そこでおみやげを買うことにした。
茶器もいくらか置いてあったけれどなかなか眼鏡にかなうものがない。
迷って歩く私の後ろを店員がついて歩く。
商売熱心なのはいいけれど、なんだかなあ。
茶葉を買おうと思ったが試飲はさせてくれないようなので、おすすめを訊いてみることにした。
一番高いものは桐?の箱に入って70000Wくらいしていた。
丁度中間のものを勧められた。値段の割りにいい味がすると。(韓国の緑茶は蒸してある日本茶と違い、やはり中国の釜煎茶に近い味のようだ)
甘みのあるお茶が好きなんだけど、というとお汁粉のような伝統茶の箱を指さして、ノクチャは甘くないと言い張る。
そういう意味じゃ無いんだけど、わかってないな。
韓国でノクチャ(緑茶)またはホンチャ(紅茶)を頼むとティーバッグで出てくる。
なのであまり美味しくない。
一杯のお茶を求めてタバンに来る人の気持もわかってそうになかった。
いや、本当はそうじゃない。
この胸のざわつきには覚えがあった。
私はここへきてからRuth(イギリス留学時にお世話になったLandladyのお婆さん)のことを想い出していた。
そして彼女に異国の小さなお土産を贈りたくて急いていたのだ。
きっと彼女はもうすぐ遠くへ旅立とうとしていたのだと思う。
だから私はもどかしく贈り物を探していたのだ。
小さな鶴の絵付けの花瓶を買うと中央郵便局へその足で向かった。
今日は釜山鎮から列車に乗って機張という町へ。
海雲台を過ぎると岩場近くで海女さんが潜っているのが見えた。
誰もいない松停の浜辺を越すと、列車は海を離れた。
景色は里山へ変わって行く。
木造の駅舎に降立って、ホテルまでの道を尋ねた。
言葉は通じているのだが、日本人だというのでわざわざ日本語の話せる人を呼んでくれている。
道を教えてくれた人はもう少し話したげだったけれど、私は先を急いでいた。
その日一軒目のホテルへ行かねば、と気負っていたのだ。
そうでもしないと誰も後押しはしてくれないのでなしくずしになってしまいそうだから。
これが一人旅の途中なら、帰り道に寄っていたならもう少し話すことも出来たのに。
8日間歩き詰め。
足腰は痛いし、いつもバッグをかける右肩はまわらなくなっていた。
休日を使って東菜温泉の虚心庁という温泉センターに行った。
健康ランドそのもので温泉の効能があるのか無いのかはよく実感できない。
温泉の中でも女の子同士のふたり組がほとんど。(手こそつないでないけど)
一人で温泉に来ているのは目立つらしい。
1時間位で出たら昼を食べようと思っていたのだが、忘れてふやけるほど湯につかり打たせ湯で首や肩辺りを打って、眠くなったので仮眠室で寝た。
寝てる間に汗をかいたので再び湯に入ったのだがすぐに気持悪くなって出るとふらふらした。
だめだ、歩けない。
やっとのことでまた仮眠室へ行き、横になって休んだ。
思えば昨日の夜以来何も食べていなかった。
すでに午後4時近くなっていた。
しばらく休んでやっとのことで外に出た。何か食べなければ。
近くにあったカルククスの店に入った。
トンネオンチョンにはカルククスの店が並んでいる通りがある。
煮干しのだしに細目の手打ちうどんが250円くらいで食べられる。
他にはビビンカルククスという汁のない(ビビンネンミョンのうどん版)やジャージャー麺(のうどん版)がある。
とにかくうどんをすすってひと心地ついて、ホテルに戻った。
夜になって荷物をスーツケースに詰めているとだんだん頭が痛くなってきた。
横になったけど眠れない。
あの打たせ湯がいけなかった。
マッサージの代わりなどと思って調子に乗って打たれていたのだけど、少々きつすぎたらしい。
-----参りました。
明日までに治りますように、と割れる頭にもだえながら念じていた。
とうとう一睡も出来ず午前4時。
30分で荷物を詰めて残りの30分で身支度を。
小走りにスーツケースをがらがら鳴してバス乗り場へ向かう。
夜明け間近の空、高層ビルのフロアのライトが温かい家の明かりにも似て見えた。
同じ夜を明かしたという妙な親しみ。
バスは代々木-思いがけず千鳥ヶ淵を通った。
お堀の桜はまだ三分咲きと言ったところ。
そのまま箱崎-佃島の新大橋を見ながら-豊洲-新木場-船橋--やっと緊張が解けて少し眠った。
空港はまだがらんとしていた。
金浦空港で国内線に乗り換える。
私の窓際の席はアジュモニにすっかり陣取られていた。
大邱テグの人で北京-桂林-西安を5泊6日でまわってきたのだという。
景色はいいけど食事はさんかくだと言った。
空港からはタクシーに乗った。
電話で日本人の観光客を乗せてるとかなんとか話しているので、ぼられないよう地図を取り出して場所を確かめながらいろいろ質問もした。
アジョシは日本語は話せないけど実は在韓日本人で、広島に親戚もいるのだそうだ。
大邱は桜も満開、ケナリ(連翹れんぎょう)もたわわに咲いていた。
タクシーを降りるとき、上手だねぇとおじさんはばつが悪そうに笑った。
(韓国の人の車の運転は総じて荒いので、事故のことを考えると助手席はやめた方が無難かも)
まず今回の私の宿泊先からインスペクション。
そこから一番近いホテルまで歩いて見た。
3軒目まで歩いてみて、地図での見た目よりかなりの距離があるのがわかった。
そしてバスに乗るのが難しくなった。
漢字表記が無いからだ。(釜山ではまだ漢字表記が用いられていた。)
空港の観光案内所で強く勧められた観光情報センターに行くことにした。
テグは近年観光に力を入れているようだ。
観光資料室にPCが6台、フィルム上映、特産品売り場がある。
伝統家屋の旅館がないか聞いてみたが、そういう宿があるのは慶州と安東くらいだろうと言う。情報センターのパクさんは日本の大学で勉強したことがあり、日本語の通訳もしていてるそうだ。
バスの路線図から一般には配ってない地図、近郊の資料など紙袋に詰めてくれた。
今日は足が痛い。
靴が歩くのに向いていないのもあるが、モザイク状のブロックを敷き詰めた歩道がどこも波打っているのである。
何度つまづいたことか...昨日とうって変わって気温が下がった。
スポーツシューズとセーターが必要かもしれない。
今日はまだ1日目。
日毎に寒さが増している。
これはダメだ、と夕方テグの繁華街へと買い物に出た。
デパートの最上階でちょうどセールをやっていた。
まずは靴。本当は黒か紺のデザインのを探していたのだけれど、ちょうどいいのが無くて、迷っていた。
売り場にいたのはアルバイト風の若い男の子だったのだが、そこへ店長さんらしき人がやって来て、どういう目的の靴を探しているのかと聞いてきた。
仕事で履くのだ。と言ってもニュアンスが伝わらない。(時々スーツ姿でスポーツシューズの人、見掛けるでしょ?)
うっかり韓国の靴のサイズを調べてくるのを忘れてしまい言葉につまっていると、サイズを見立ててくださった。
やっとこ購入すると、店長さんは「いろいろ話しかけてごめんなさい」と謝った。
ソウルに日本人がたくさん来ていることは知っているけれど、テグでこうして実際日本人に会って話すことは無かったから、とのことだった。
こちらこそ、かまわず話しかけていただけると全部はわかっていないにしても話してる気になってうれしいです。
さて、問題は寒さをしのぐ服を買うこと。
寒の戻りとは言えデパート中が春の装いでセーターなど売ってやしない。
日本に戻って着れないものを買うのはいやだし、薄い春物ジャケットの下に着られるものなど見当たらない。
仕方なくぶらぶらしていたら、ワゴンでスカーフやショールを売っていた。
これでいいか、と物色。
売り子のおねーさんは強気で勧める勧める。
二言三言交しながら、薄手のストールを買うことにした。
会計して戻ってきたオンニは、困ったような顔をしていた。
私のカードのサインを見るまで日本人だとわからなかったらしい。
知らずにやりとりしてたのかと思うと少し可笑しかった。
ホテルの部屋の窓にはカーテンの外側に障子もあって、開けてみなければどんな天気かがわからない。
やけに明るい障子を開けてみると---外は雪景色だった。
ああ、昨日買い物しておいて良かった。
この雪の中、街中を歩き続ける姿は想像したくなかった。
だからといって最低6日間のスケジュール、休む訳にもいかない。
考えた末あまり軒数が無いと予想される海印寺へバスで出かけることにした。
移動距離が長いので、もしかしたら雪もその間に止むかもしれない。
いつものジャケットでは無く、ゴアテックスの上着にしてTシャツを重ね着、カイロを背中に貼り付けて部屋を出た。
フロントでタクシーを呼んで貰い待っていると、私のいでたちを見て「今日は観光ですか?」
とフロントあたりに集まってたいつものスタッフが訊いてきた。
「アニムニダ」と力無く答えた。
今回良かったことの一つは、このホテルのスタッフがフレンドリーで気兼無く話したり尋ねたりすることが出来たこと。
私にはそれがちょうど良かった。
まずはバスターミナルへ向う。
ここでは(市外バス停留所)ボスチョンリュージャンと呼ぶらしかった。
微妙に地方によって、呼び名が違う。地名もしかり。
テグで目についたのは、"サゴリ""ネゴリ""オゴリ"など。(交差点でね)
そして運悪く乗り込んだバスは汚かった。
寒いけど暖房も入れてくれず、運転手はパンチパーマの恐面の人だった。
乗客は片手ほどしかいない。
雪は止む気配すらない。
そしてバスは山へ向っている。
着いた場所は山間の温泉場のような雰囲気のところだった。
細い坂道の両側に小さな食堂、土産物屋、旅館が並ぶ。雪は降り続け、昼近くなって食堂はてんてこまいだ。
修学旅行シーズンらしく、何処も学生でいっぱい。
することがなくて部屋でだらだらしていた。
まったく仕事にならない。
坂を登って行く途中でおばさんに呼び止められた。
「この先には何もないよ」 Y字にわかれていたもう一本の道が唯一の観光ホテルに通じる道らしかった。
そんなこんなで仕事を終え、お昼時を逃し、すっかり宿街の食堂は閉ってしまった。
バス停の2階で山菜ビビンバをいただいた。
ゴマが効いていてこれは美味しかった。
日が暮るまで少し時間があったので海印寺へ。
以前辞書片手に門前仲町の八さんの店で飲んだ時に、カンさんが海印寺の話をしてくれたことがあった。
その時のカンさんの語り口が素晴らしかった為に、深山の霊気のなかのお寺と経木を想像していたのだが、学生のはしゃぐ声に掻き消された。
それでも帰る頃には雲間から日が差し雪化粧の木々の梢を光らせて、すがすがしい気分になった。
大邱のバス停留所の隣は市場だった。
食料品と日曜雑貨を置く店がほとんど。
目だったのは何軒もある天然胡麻油を売る店。
香ばしい匂があたりに立ち込めている。買って帰ろうか本当に迷った。
でも今回はまだプサンに移動して、帰りにソウルに寄るハードスケジュール。ソウルで買おう、と諦めた。
夜食にキンパブを買った。2本で1000W。
結局ルームサービスでお茶を頼んで、これが夕飯になってしまった。
三切れほど朝に残して、満腹。満足。
食べ物と言えば、ホテルの近くの食堂は閉るのが早かった。
ある晩JAZZ...という名の店に入った。
きっと1品くらい食べられるものがあるだろうと期待しつつ...
ところが入ってしばらくしてから、窓際で管を撒いている酔っぱらいに気が付いた。
しまった、絡まれなきゃいいけど。
メニューを見ると食べたいものが無い。
迷った挙げ句、とんかつを頼んでみた。
待っている間流れていたBGMは、グレゴリアンチャントをアレンジしたニューエイジミュージック。
良く見ると、テーブルの上にはメルへンチックな調味料入れ。
ぜんぜんJAZZじゃない。
サラダを口に運んだら甘く、出てきたトンカツは薄くのしたメンチカツだった。
夜中に飲む水が無くなったのでコンビニに立寄った。
甘いものでもと棚の前で迷っていると、突然「これが美味しいわよ」と背後から声がした。
振返ると、カウンターでキンパブを食べていた女性が口一杯にほおばったまま私に訴えていた。
その迫力にびっくりしてそのままそのお薦めのチョコクッキーを買って帰った。
そして今日は釜山へ移動。
チェックアウトの時にフロントでしばしスタッフの人たちとたわいのない話しをした。
ここから釜山へ特急ではなくバスに乗る理由を話していたら、ちょっと背の低いボーイさんが私のことを褒めてくれた。
滞在中四苦八苦しながらも私ができるだけ韓国語で話そうとしていたことをわかってくれたようだった。
最後はそのボーイさんがなかなか来ないタクシーを捕まえて来てくれた。
荷物を積んでもらって、お別れに「マンナソパンガプスムニダ」そう言ったら彼は驚いていた。
お客とホテルスタッフの会話としてはちぐはぐに聞こえたかもしれなかったけれど、でもほんとうにそう思えたのだから。
ここで日記は終わり。
テレビや映画の中で見るソウルの街はかなりの変貌を遂げた様子。
あれからしばらく韓国へは行っていないけれど、いつかまた。
안녕히 게세요.
2015年1月18日 発行 公開版初版
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1970年4月21日生
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