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思考と観察
観察によって修行を進めるのじゃ
さらに姿勢を正すのじゃ
言葉の無い観察
金剛経解説
献身の道
己の本心を観るのじゃ
死に行くものを観るのじゃ
さらに本心を観るのじゃ
瞑想の心得
さらに本心を観続けるのじゃ
己を追求するのじゃ
自分の名前とイメージを観察するのじゃ
観察の行
観の行
厭離とは何か
観察によって何故、厭離が起きるのか
観察例
空の法Ⅰ
空の法 実践
解体による空の法
縁起による空の法
般若心経の現代語訳
おぬしは無限の価値がある
無限の力を引き出す法
あきらめてはいかん
正しい言葉による宣言
生きるのじゃ
今、不安を超えるのじゃ
100%の死
心が主じゃ
励むのじゃ
自我を完成させて捨てるのじゃ
苦によって正しい道を知る者は幸運じゃ
恐怖や不安、苦しみなどは心から生じるのじゃ
絶望には修行が治療じゃ
常に実践じゃ
三つの教え
多くの苦しみも消せるのじゃ
心をゴミ箱にしてはいかんのじゃ
苦の牢獄から出るのじゃ
さらに自らの心を観るのじゃ
恐れを超えるのじゃ
役割を超えるのじゃ
瞑想に親しむのじゃ
確信によって何事も成しえるのじゃ
止観に励むのじゃ
子供のように今ここに在る事を楽しむのじゃ
悟りと超能力
謙虚とは何か
仏教は哲学や思想ではない
止観の両方を修行すべし
大悟徹底せよ
心の模式図
己を追及するのじゃ
生の滅とは何か
真の悟りを目指すのじゃ
本当に努力する価値ある事に努力するのじゃ
善い事をするのじゃ
肉体の秘密
悟りと記憶と苦の関係
観察
念処経について
思考に囚われてはいかんのじゃ
難易を知るのじゃ
道の違いを知るのじゃ
気付きとは真実のあり方を見出す事なのじゃ
不死の原理
自我を滅する
ダンマパダにおける名称と形態について
不死の境地
最上の勝利者
まことであるものをまことと見なすのじゃ
自分のしたこととしなかったこととだけを見よ
心が主じゃ
つとめ励むのじゃ
妄執の消滅
出離の楽しみを味わうのじゃ
苦を滅する法を実践するのじゃ
感覚を制するのじゃ
自分を頼るのじゃ
暴力によって生きものを害せぬようにするのじゃ
わしは何故ネットで法を説くのか
わしが悟りを得たと言う訳
本物の悟りを得た者の見分け方
苦滅の理論
苦滅の理論Ⅱ
原因が無いと観想するのは、原因を無くすためではないのじゃ
投稿日:2007-10-12 Fri
昭和の中頃、東京に生まれるが如く生まれる。
子供の頃、九死に一生を得て、死について考えるようになる。
10代の頃から仏教の経典を読み、独学で修行する。
20代の頃、悟りを得る。
人々に教える為に、勉強と修行を続ける。
2007年の春頃から2ちゃんねるで教える。
最近、ブログで教え始める。
投稿日:2008-08-20 Wed
わしは悟りを得てから、自分に何が起きたのかを、知ろうとした。
それはどのような現象なのか、それはどのように言葉にすべきか、知ろうとしたのじゃ。
さまざまな経も読んだ。坐りもした。
難しいのは、それを西洋風の理論的な知識として、表さなければならないことじゃ。
今はみんな西洋的な勉強をしておる故に、理論的な知識として、教えなければ理解出来ないからじゃ。
昔の禅寺のように、ただわしを信じて坐れ、動けばひっぱたく、頭を捨てろと言うだけでは、誰も悟りを得ようとは思わないじゃろう。
今の時代には、時代に合わせた教えが必要なのじゃ。
お釈迦様も古いヴェーダの教えから離れ、時代に合わせて真我を捨て、空を教えられたのじゃ。
自分の心を探り、さまざまな文献を読むうちに、わしには一つの確信が生まれた。
悟りは認識と記憶の依存関係について、述べれば説明が出来ると判った。
その後に、唯識論を知った。
唯識論は間違いは在るものの、初めて西洋的な理論によって悟りを表したものと言える。
細かい間違いは在るが、大筋は正しい。
理論的には唯識論を、少し直せば使えると判った。
更に実践を追及する為に、数息観をしながら、観察に入った。
瞑想を止めた状態から、数息観を行い、初心の段階から、不動心を得て、悟りに至るまでの各段階を観察し、さまざまな試しを加えた。
足の組み方や手の位置などの姿勢の研究から、集中の仕方、呼吸の仕方などを、少し変えたり、間違っていると判れば、元に戻したりと、さまざまに研究したのじゃ。
そのような研究を二十年重ねて、ようやく理論的にも、実践的にも、正しい指導が出来ると判り、人々に教える事にしたのじゃ。
今の時代には、インターネットというものがあり、遠くの他人にも教えを伝える事が出来る。
わしは既に名声への要求が無く、金や権力なども求めない故に、無名のまま、ただ正しい教えだけを伝えようと考えた。
それには、インターネットというものは、ふさわしい仕組みじゃと思った。
そして、このように時代に合わせて、ブログなども書いているのじゃ。
投稿日:2007-11-02 Fri
仏教に限らず、サタニストやオウムなどを除いて全ての宗教は善を為すことを薦め、悪を諌める。
善を行えば良い報いがあり、悪を為せば悪い報いがある。
仏教では十の悪を諌め、その反対の十の善を為すように薦める。
不殺生、生き物を殺さず、傷つけず、助ける事。
不偸盗、他人の物を盗まず、困っている者には与える事。
不邪婬、不倫や強姦、セクハラなどをせず、正しく交際する事。
不妄語、嘘をつかず、正しく伝える事。
不綺語、意味のない議論やおしゃべりをせず、意義のある言葉を言う事。
不悪口、罵詈雑言を止め、優しい言葉を使う事。
不両舌、他人に言った言葉と違う事をする二律背反や、詐欺を止める事。
不慳貪、欲を張らず、気前良くする事。
不瞋恚、怒らずに、いつもきげんよくしている事。
不邪見、誤った考えを止め、正しい考えをする事。
これらの善を為すことで、現世では良い報いがあり、死後には天人にもなれるじゃろう。
一言にまとめるなら、他の衆生、生き物を苦しめないで、喜ばすのが善であり、苦しめるのが悪じゃな。
例えば泥棒を助ければ、泥棒は喜んで有難がるだろうが、物を取られた者は苦しむじゃろう。
故にこのようなことが悪であると判る。
オウムの者もこのように考えれば、人を傷つけることが悪であり、善い事ではないと判ったじゃろうにのう。
食べ物を食べるなどのように、生存の上で必要な時には、あえて苦しめるのは仕方が無い。
しかし、組織の存続や、より多くの金の為に衆生を殺すのは、悪と言わねばならぬ。
皆はそのようなことがないようにして戴きたいものじゃ。
さて、善を行えば善い報いがあると書いたが、具体的にはまず罪の浄化が行われる。
わしの話を読んだりしてこれからは善を行おうという者は、罪の浄化として試練にさらされる。
他人に罵られたり、嫌な思いをしたりするが、それは罪を浄化するための試練なのじゃ。
それを恨まずに「この試練によって地獄に落ちるほどの罪も浄化出来た」と、喜ぶがいい。
かつてお釈迦様のもとで帰依したアングリマーラという殺人鬼は、僧になってからも肉親や知人を殺された街の人は、彼に石を投げ憎しみをぶつけたものじゃ。
お釈迦様は
「耐え忍ばなくてはならない。それがおまえの犯した罪の償いなのだから。」 と諭されたのじゃ。
改心した者には、このように罪の償いがなされるのじゃ。
それを耐え忍び善を行い続ければ、罪は浄化され、善き報いが来るのじゃ。
運気は向上し、次の試しがまっている。
投稿日:2007-11-02 Fri
試練にあっても善いことを続けていれば、自然に運気は向上し、お金や欲しかったものが手に入るようになるじゃろう。
しかし、そういう時こそ気をつけねばならない。
お金などが入ってくるようになると、良いお金と共に、悪いお金も入ってくるようになる。
良いお金とは労働や他人に与えられたなどの、正当な理由で手に入ったもの。
悪いお金とは拾ったり、何かの間違いで手に入ったものじゃ。
要するに与えられた物が良いお金じゃ。
与えられていない物は悪いお金なのじゃ。
与えられていない物は、決して手にしてはいかん。
その途端に再び運気は下がり、再び試練からやり直しじゃ。
大抵の人間はこの試練と試しの間を上下しておる。
皆もこの試練と試しを知っていれば、繰り返す事はなくなり、次第に運気も向上していくじゃろう。
世には多くの開運法とか、運を良くする技などが宣伝されておるが、それらが効果があったりなかったりするのも、この善い事をする事で、善根が植えられ、やがて良い報いが来るということを知らないからじゃ。
善い事をし続ければ善い因が重なり、善い事が起きる果を受ける事が出来るのじゃ。
茄子の種を植えれば茄子の実が出来、カボチャの種を植えればカボチャの実が出来るように、善い事の因を積み重ねれば善い果を受け、悪い事の因を積めば悪い果がやってくる。
これが因果の法則と呼ばれるものじゃ。
もともと善い事をしている者は開運法などをしなくとも、善い事が起きるが、悪い事ばかりしているものは、どんな開運法をしようと善い事は起きないものじゃ。
運気を必ず向上させようと思う者は、善い事をするのが一番良いのじゃ。
みんなもこの因果の法則を使って、運気を向上して頂きたいものじゃ。
投稿日:2007-12-04 Tue
みんなは「無財の七施」というものを知っておるかな?
お釈迦さまが「雑宝蔵経」で教えられたお金がなくともお布施が出来る方法じゃ。
まずは眼施 眼の施しじゃ。慈眼施ともいう人々をやさしい目で見ることじゃ。
次に和顔施 優しい笑顔で人々に接することじゃ。
愛語施 優しい言葉をかけることじゃ。
身施 体を使ってボランティアなどをすることじゃ。
心施 心配りや気遣いなどをすることじゃな。
牀座施 席を譲ったりすることじゃ。
房舎施 家に泊めてやったりすることじゃ。
まとめて言えば人に優しくすることじゃな。このように人々に優しくすることで、お金を布施するのと同じ功徳があるとお釈迦さまは言われたのじゃ。
金などよりも心が大切なのじゃ。
心を施すことが真のお布施なのじゃ。
このような布施を知れば、オウムや他のカルトなどのように、金ばかりを要求する者達が所詮ニセモノの詐欺集団でしかないことが判るじゃろう。
金を要求するのは神仏を信じず、真理も知らぬ者達なのじゃ。
お釈迦さまの真の教えは、金よりも心を大事にする事なのじゃ。善を行い、悪は為さず、心を清める事が真の修行の第一歩なのじゃ。
例え悟りを得ようとは思わなくとも、この世に生まれた者は、「無財の七施」のような多くの善い事を行い、善い者となるのじゃ。そうすれば死んでも善い所に生まれ変わるじゃろう。
みんな頑張るのじゃ。
投稿日:2007-10-14 Sun
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いて二と数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。
投稿日:2007-10-15 Mon
腰を据えて背筋を伸ばし、上中下の三つの丹田が垂直になっていたら、人は自然に無念無想になれるものじゃ。
道元禅師も禅とは只管打座、ただ真っ直ぐに座ることが肝心と言うておる。
足の組み方は、日本人には完全な結跏趺坐は、向かないものが多い。
片足を片腿に乗せる半跏座や、あぐらなどでも背骨が真っ直ぐになれば良いのじゃ。
そして、尻を据えて腰は伸ばす。胸を開き、肩の力を抜く。首で頭のバランスを取るようにするのじゃ。
全体が整ったら、頭のてっぺんから糸が出て吊られているようにイメージして伸び上がり、力を抜いてもとの姿勢に戻るのじゃ。
下半身の中心の下丹田、上半身の中心のみぞおちにある中丹田、頭の中心にある上丹田が完全に真っ直ぐになっておれば、快が生じ自然に三昧の境地に入るじゃろう。
自分で座りながら体を少しずつ動かしてみて、頭の中心に快が生じたら、それがおぬしの正しい姿勢なのじゃ。
そのコツを掴めれば、正しい姿勢が出来て、修行は速やかに進むじゃろう。
投稿日:2007-10-15 Mon
座禅の心得は焦らず、恐れず、拒まず。と言う所じゃ。
進歩がないなどと焦ることはない、続けていれば必ず不動心が身に付く。
それを待つのじゃ。
座禅中は色々と奇妙な感覚が起こったりするものだが、恐れる必要は無い。
そのような時こそ一切は縁起によって起こる、空なるものであると観想せよ。
そして、瞑想の中で何かが起こるのなら、それを拒まずに受け入れるのじゃ。
自分が変わっていくことを受け入れ、新しい己の誕生を見守るのじゃ。
投稿日:2007-10-15 Mon
自己否定は否定する自己を肥大させる自己満足に過ぎない。
自分を否定してみせる人格を肯定する遊戯であり、却って自我を肥大させるものじゃ。
真の自我の解体とは、あくまで自己観察と、その延長にある観照によってのみなされるものじゃ。
例えば日常において、道を歩いていると女子が下着などを晒していたのを見て、欲情したとしよう。
そんな時に己をすけべいだなどと批判したり、これからは欲情しないようにと思うのは自己否定じゃ。
自己観察は己の行為や感情を批判も肯定もせず、ただ見つめるのじゃ。
女子の下着を見て欲情したのなら、今、自分は欲情した、もっと見たいと思っている、などと観察し、それを認め、一切の批判も否定もしない。
ただ心の動きを黙々と観察するのみじゃ。
或いは仕事で嘘を付かねばならなくなった時も、自分は今、仕事の為に嘘をついている、嘘を付いて金を稼いでいる、と、観察し、認めて批判も否定もしない。
日常においてこのように己を、ただ黙々と観察するならば、瞑想に入ったとき、己の心が容易に観察出来るようになる。
真の自己観察には否定も、批判も、称賛も、肯定も不要なのじゃ。
ただ黙々と己の心を観察すると、自我の観照が起こる。
見るものである筈の自我を、見ることが観照と呼ばれる現象じゃ。
見られた自我は、認識による自己同一性を失い、解体する。
そして、認識をも解体した時、人は目覚めた者となるのじゃ。
その時まで精進するのじゃ。
投稿日:2007-10-17 Wed
快とは丹田が真っ直ぐに揃った時に、上丹田より生じるこころよい感覚じゃ。
それは例えば、良い景色などを見た時の感激にも似ておる。
背骨を伸ばし、上下の丹田が完全に重なれば、体の中心を気が自然に上昇し、上丹田に達する。
すると背中に電気が走ったように感じ、全身に心地よさが広がる。
鳥肌が立ち、髪の毛が逆立つような者もおる。
この感覚と快を得るための上中下の丹田の統一は、言葉で伝えるのは難しい。
身体の微妙な感覚であり、それを真に身に付けるには、自ら研究する他は無い物じゃ。
初心の者は取り合えず背中を真っ直ぐにして、頭の中心と下丹田にゴルフボールくらいのボールがあり、それを上から垂直に合わせるようにイメージするのじゃ。
ボールが重なれば自然に快が生じる故に、そこが正しい姿勢の位置であると判るであろう。
投稿日:2007-10-17 Wed
座禅をしていると、集中しようとしても思考や連想が頭の中を流れ、それに囚われてしまうことがある。
そのような思考や連想を雑念と呼ぶ。
雑念を無理に止めようとすると、その思いが又雑念となり、再び雑念に流されてしまう。
雑念を止めるには、一つ一つの思考を意識せず、流れるままにしておくことじゃ。
例えば心を川に、雑念をその川に浮かぶゴミのようなものとして喩えるなら、川の流れに浮かぶゴミを見ず、川全体を見るようにするのじゃ。
流れていくゴミをそのままに、数息観であれば呼吸に集中し直す。
そのようにすれば、雑念は自然に消えていく。
投稿日:2007-11-26 Mon
数息観によって必ず不動心は身につく。
悟りへの道は自我を解体する道である故に、未だ自我を自分だと認識している修行者は時に恐れを抱くものじゃ。
わしも悟りを得る直前には、自我の消える不安や恐怖を味わった。しかし、自我は自分ではなく、ただのイメージに過ぎないと知ることで 恐怖は消えていった。
それらの不安や恐怖は正しい道を歩み、自我を脱しようとしている証拠なのじゃ。
恐れているものは何か、恐れとはどこから生じ、どのように作用するのか、詳細に観察するがよかろう。
そうすれば恐れは消えていくじゃろう。
不安や恐怖は修行中には誰でも感じるものじゃ。それから目を背けることが寧ろ後退への道と言えよう。
恐れている自分と折り合いをつけ、僅かずつでも進んで行くのじゃ。
一日に一センチしか進めない芋虫でも、一年間一日も休まずに歩み続ければ、三メートルも進む事が出来る。
小さな虫でも毎日の努力を積み重ねれば、人を驚かすまでに進むことが出来るのじゃ。
お釈迦さまが教えられた、優れた修行法である数息観を、毎日行う修行者が不動心を身に付けられぬはずは無いのじゃ。
芋虫の如き歩みでも良い。
毎日、数息観を続けて不動心で進むのじゃ。
投稿日:2008-01-17 Thu
さて、今日は瞑想をさらに深くするコツのようなものじゃ。
みんなかなり瞑想が上手くなったことじゃろう。
更に深く集中するには、心の中に在るブレーキを緩める事がコツなのじゃ。
人は普段の生活では、常識や良識の範囲内で生活するために、心の中にブレーキをもっており、常に自分の心や体を制御しておる。
心のブレーキは瞑想中でも働き、ちょっとでも常識の範囲を越えようとすると、たちまち心を引き戻してしまうのじゃ。
例えば瞑想をしていて、とても深い集中に入ってしまうと、今までの経験には無い領域に恐れを抱き、心のブレーキが働いて、瞑想から覚めてしまう。
そして、それからはもうそのように深い瞑想には入れなくなってしまう。というような経験をした者も居るじゃろう。
心のブレーキは常識を外れた深い境地に入ろうとすると、自我を構築する反射作用を保つために、それ以上の瞑想の深化を止めてしまうのじゃ。
そのような心のブレーキを外すのは、なかなか大変な事じゃ。心のブレーキは自我を保つ恐怖からの逃避にも関わっている故に、自我の危機を感じると本能的に働くからなのじゃ。
心のブレーキは一度に外そうとしては恐怖を呼び起こす故に、少しずつ外していかなければならんのじゃ。
それには肩の力を抜いて、リラックスする事が大事じゃ。
リラックスと恐怖は相容れないものであるから、リラックスすれば、恐怖は消えていく。
肩や首筋、背中などにかかっている力を抜き、背中を真っ直ぐにして坐っていられるぎりぎりのところまで力を抜いていくのじゃ。
そして、心の中では内側から出て来る、さまざまな衝動に身をゆだね、心の制御を一時休んで、預けてしまうのじゃ。
それを恐れる心があるなら、一時的に心のブレーキを外すだけじゃと、自分に納得させるのじゃ。
心の奥から何が出て来ようと、それに任せ切り、何もしないで己をあけわたしてしまう。
風にさすらう木の葉のように、空を行く雲のように、流れる水のように、何かをするのではなく、待ったりするのでもなく、しないことをするのじゃ。
心から来るものは来させ、消えていくものを消えるままにする。
ほんのわずかな心の動きさえ、放棄してしまうのじゃ。
そうすれば集中の中に集中を忘れてしまう、真の瞑想が自然に起こって来る。
もはや息を数えることも、呼吸に集中することも、瞑想の妨げであると感じるならば、自然に止めて良いのじゃ。
そのような甚深微妙なる瞑想の中では、観照は自然に起きてくるじゃろう。
みんなその時まで頑張るのじゃ。
投稿日:2008-01-30 Wed
思考と観察は違うものじゃ。
思考は記憶の範囲内でしか働かない、過去のもの。
観察は過去の記憶を離れ、今、ここに気付かせるものじゃ。
沢山の事を考えている者は、気付いているかも知れないが、思考と言うものは、いつでも堂々巡りをしているものじゃ。
同じ考えを何時までも繰り返し、同じ壁に突き当たって囚われてしまう。
思考に囚われている限りは、新しい考えや知見は訪れぬものじゃ。
観察によってこそ、人は思考の網を打ち破り、新しい知見を手に入れる事が出来る。今、ここにあるものを観察出来れば、囚われていた事が判る。
目の前に在っても気付かなかった事が、観察によって明らかになる時、人は思考の枠を超えた、新しい知的段階に進む。
現代の科学が発展したのも、思考による理論より、観察によって得られた知見を重視した為なのじゃ。
自らを、そして全てを観察する事が、真の現実に気付く道なのじゃ。
例えば子供の頃、世界は神秘と輝きに満ちた、わくわくする所だったと覚えている者も多いじゃろう。
小さなどんぐりや石ころなども宝物の様に見えた。
大人になると、あれほど輝いていた世界が、いつのまにか光も、色も失い、灰色の世界になってしまったように感じる。
しかし、それは世界が変化した訳ではない。
世界が灰色に見えるのは、思考の網に囚われてしまった者の、イメージに過ぎない。
どこにも行けない、何度も繰り返される思考の網が、人をしてこの世界が行き詰まり、何もかも同じ事の繰り返しのような、灰色の世界に見させているのじゃ。
今より繰り返される思考が少なかった子供の頃には、観察する事が出来ていた故に、観察によって正しい世界の姿が見えていた。
大人になって、思考の網に囚われたから、世界は暗く灰色に見えるのじゃ。
観察する者にとっては、世界は今でも神秘と輝きに満ちた、わくわくするような所なのじゃ。
毎日、同じように立っている木も、日毎に違う。
毎日が新しく、未知の輝きに満ちている。
思考を離れた観察によってのみ、それを知る事が出来る。
みんなに教えているように、わしも自分の手を観察したりする。
右手と左手の中指を比べてみると、左手の中指が五ミリほど高いのに気付いたりする。
みんなはどうかな。
何十年も使っている自分の体でさえ、実際にはあまり観察しておらず、知らない事が多いのでは無かろうか。
自分の事は自分が一番良く知っていると、人は思っているが、実はそれは記憶や思考によって作られたイメージでしかない。
イメージを自分であると思い、見慣れた、良く知っている自分というものを、記憶の中で作り上げている。
そしてそのイメージを、自分の肉体などの集まりに、投射しているだけなのじゃ。
それに、気付く事が出来るのは、観察によるしかない。
体は本当に自分であろうか。
感覚は自分のものだろうか。
思考が自分なのか。
認識を自分として同一化しているのか。
自分とは何なのか。
自分で無いものとは何であるか。
観察すればそれらの答えが、現れてくるじゃろう。
思考によってではなく、観察によって人は悟りを得て、目覚めた人と呼ばれるようになるのじゃ。
投稿日:2010-01-11 Mon
観察力が高くなれば、観察によって修行を進める事も出来るようになるものじゃ。
習慣的に修行しているうちに、姿勢が崩れたり、どこかに拘りがあって修行が滞る時も、観察によって障害に気付けば、直す事が出来る。
瞑想に入る時、又入っている時にも体を観察すれば背骨が曲がっているとか、肩に力が入っているとか、気付けば体が自然に動いて正しい姿勢になるじゃろう。
そのようにどこかに間違いがあると気付けば、それだけで心身は自然に動いて直すのじゃ。
観察が無ければ何年もそのままになっていたかもしれない障害も、乗り越えられる。
何年も修行してあらゆる知識を身に付けたのに、いくら坐っても何も起こらない者も、よく観察したら腰が少し曲がっていたという事もあるじゃろう。
ほんの少しの姿勢の歪みで何年も無駄に過ごす愚かさから抜け出せるのが、観察というものなのじゃ。
このように心も観察する事で、自分がどうしてもっと深く瞑想に入れないのか、どこで引っかかってるのか気付いて直す事が出来るのじゃ。
心とは正直なものじゃ。
ほんのちょっとの恐怖や不安があるだけで、進まなくなってしまう。
例えば修行中に自分が消えていくような感覚があって恐れを抱くと、そこから逃げ出して二度とそこから先へはいかなくなったりする。
何年もそのような恐怖に囚われていながら、修行がさっぱり進まないと想う者も居るじゃろう。
そのような時にも観察して何が障害になっているのか、気付くことが出来れば原因を知って消す事が出来るじゃろう。
このように観察によって障害を知り、それに気付く事によって修行を進める事が出来るのじゃ。
お釈迦様の説いた経を読めば、多くのものが観察せよ、このように観よと、観察や観想を勧めている事がわかるじゃろう。
観察はそれ自体が修行であると同時に、修行を進める事が出来るものでもあり、悟りを得るためのとても優れた技なのじゃ。
障害を乗り越えて修行を進めようとする者は、一度何が障害になっているか、姿勢から観察し直してみるのが良いのじゃ。
必ず修行を進める上で大きな効果があるじゃろう。
投稿日:2010-02-16 Tue
深く集中するには体の力を抜く事が必要に成る。
力を限界まで抜くには姿勢が正しくなければならんのじゃ。
姿勢を正しくするには骨盤が大事じゃ。
骨盤を出来るだけ垂直に地面に立てるようにするのがコツと言えよう。
骨盤の上に腹を乗せ、腹の上に首を乗せるようにする。
そして力を抜けば深く集中する事が出来る。
骨盤が正しく垂直に成っていないと、力を抜いた時に姿勢が崩れる。
崩れないようにと力を入れれば、深く集中する事が出来ない。
骨盤が正しく垂直に成っていれば、力をぎりぎりまで抜いても姿勢は崩れない。
姿勢が崩れないからそのまま力を抜いて深く集中に入れるのじゃ。
このように骨盤を正しく地面と垂直に立てる事と、姿勢を正しくする事、力を抜いて深く集中に入る事はみんな繋がっているのじゃ。
人体の要である骨盤が正しく垂直になっていれば、全てが正しく整えられるのじゃ。
このような事を知らなければ、何年坐っても何も起こらない事もあるじゃろう。
経典を読んでいくら知識は集めても、何年も坐っているのに腰が少し曲がっているせいで、何も起こらない、というような事が無いように、姿勢は常に観察して気をつけねばならないのじゃ。
骨盤が地面と垂直に成るように、座布団や足の組み方や位置などを良く調べ、調節するのが肝心じゃ。
足の形だけ伝統的な正しいものになったからと言って、骨盤が曲がっていては何も成らない。
むしろ骨盤が正しく地面と垂直になるように、足を直すべきなのじゃ。
同じように座布団や椅子なども、骨盤を垂直にするための細かい調整を行うのじゃ。
一度、骨盤が正しく地面と垂直に成り、力を坐っていられるぎりぎりの限界近くまで抜けたなら、それだけで思考の無い無念無想の境地に入れる。
安らぎと静寂に満ちたその境地を知れば、体こそ寂静を表す偉大な寺院だと気付くじゃろう。
投稿日:2010-03-19 Fri
長い間修行して集中力と観察力がついたなら、観察も言葉の無い領域に入っていくのじゃ。
言葉を使う観察はもともと未だ観察力の無い最初の頃に、観察力を養うためのものじゃ。
修行して観察力がついたなら、心の動きを見守りながら、それらに一つ一つ言葉を与えない観察をするのじゃ。
人の頭の中には言葉を操る言語中枢というものがある。
そこで言葉を記憶から取り出し、知覚したものに投射しておる。
その働きは本来在るものではなく、又知覚よりは遅いものじゃ。
知覚したものを言語にする事に拘れば、観察は妨げられる。
そして人によっては、言語による知識への自我の投射も続くものじゃ。
そのような妨げを無くすには、言語を超えた観察によらねばならない。
言葉以前の心の動き、本初に近い知覚の働きを、言葉を使わずに観察するのじゃ。
それにはかなりの集中力と観察力が必要になる。
十分に集中力と観察力が身についたと感じた時にやるべきものじゃ。
時には自分が何をやっているのか、判らなくなる事もあるじゃろう。
そのような時には言葉による観察に戻って、やり直すのも良い。
もとより心の動きは言葉にはならないものじゃ。
言葉にならない心の動きに、記憶の中から言葉をつけたしておる。
自分はこのように感じたとか、このように思ったなどの言葉は後からつけたしたものじゃ。
今、ここに生じては消える心の働きを観察するには、言葉を使っていては不可能なのじゃ。
後になって説明する事は出来る。
しかし、観察中に言葉を使えば、記憶への依存を引き起こすのじゃ。
記憶に依存しない、今、ここにあるものを観察するには、言葉から自由になった観察力が必要なのじゃ。
心はいつでも動いておる。
坐って観察してみれば、ほんの僅かな時間でも忙しく働いている心が判るじゃろう。
いろいろなものを思い出したり、考えたり、物音を知覚したり、止む事無く働いておる。
それらの動きがある度に、言葉にしたくなるじゃろう。
言語中枢が働かせたくなる。
それを抑えてそのままに見守るのじゃ。
心の中に動いていく物事をあれこれと言葉にする事無く、流れるままに見守る。
あれでもなく、これでもないものが働く様を見守り続ける。
その過程で心の働きの中で己であると投射していたものが、剥がれ落ちていく。
つい言葉が動いてそれらに名づけてしまうこともあるかも知れん。
そのような事があっても動揺せず、言葉と共に動くものを抑え、見守り続けるのじゃ。
十分な集中力と観察力が無ければ難しいかも知れん。
集中力が無ければ心のコントロールは難しく、観察力が無ければ進歩が無い。
基本的な止観の修行が十分になされたと感じた時にのみ、試してみるのじゃ。
古の目覚めた者達はいずれも、このような言語に出来ない心を観て悟りを得た。
言葉に出来ない動きを見た故に、それを言葉でうまく説明は出来なかった。
ここまで来ればもはや悟りは近いと言えるのじゃ。
後必要なのは真の悟りを得たいという純粋な熱意と、己ではなく己のものでもない自我を捨てる勇気だけなのじゃ。
それを持つ者が最後の関門を越える事が出来るのじゃ。
投稿日:2010-05-13 Thu
金剛経は正式には金剛般若波羅蜜経という。
ダイアモンドの如き知恵の完成という意味じゃな。
大体般若経というのは空観のやり方を説くものじゃが、この経には空と言う言葉は出てこない。
それにもかかわらずこれが般若経であるのは、論理的な実践によって認識の働きを止めるという共通した内容があるからじゃ。
空は全てが有るでもなく、無いでもないとして心の働きを止める。
金剛経はまた別の論理、論理外の論理によって心の働きを止める事ができる。
それ故にこれも又知恵の完成と言っても良い経になるのじゃ。
金剛経の前半には他の般若経と同じく、全ては幻であり、それを観念として捕らえてはいかんと説く。
そこで重要なのが、人が己というものを認識する時、持っている言葉とイメージなのじゃ。
サットヴァ、ジーヴァ、アートマン、プトガラという四つが個我の観念として説かれる。
サットヴァとは生きている者という観念。
ジーヴァとは生命とか個体。
アートマンは心の最奥にあるという不滅の認識主体
プトガラは輪廻の主体とされている。
これらの観念は人が個我というものに抱くイメージを表している。
自分とは生きているものであり、個体であり、不滅の認識主体であり、輪廻の主体であると、当時の者が抱いていた個我のイメージを代表して説いている。
現代でもこれと似たような、自分というもののイメージを抱いている者も多いじゃろう。
生き物である自分、他から離れた個体である自分、不滅の認識、見るものである自分、生まれ変わる主体の自分というイメージ。
多少の違いはあってもそれらのイメージを抱き、肉体や感覚、思考、感情、認識などに投射して個我というものを認識しているのじゃ。
わしはこのうちのプトガラと言う言葉に触れ、自らが過去からの記憶を持つ者としてのイメージを抱いている事に気づき、自我が落ちた。
それは作られたイメージであり、自分では無かった。
自分というもの、自分という個体は無かった。
そして無為に坐し、悟りは開かれた。
このように経を、意味を確かめながら読む事は意味があるものじゃ。
お釈迦様の説かれたものでなくとも、目覚めた者が自我の牢獄の外で書いたものは、牢獄の中に居る者に気づきを起こさせる力がある。
金剛経ではこれら四つの観念を持つべきではないという。
そして、法という観念も、非法という観念すらも持つべきではないという。
それを実現する為に、金剛経には独特の論理外の論理による法が説かれる。
経によれば、法とは法ではないという。
そして、それだからこそ法と呼ばれるという。
法は法ではない。
だからこそ法と呼ばれる。
おかしな事じゃ。
普通の論理とはA=B B=C 故にA=Cとか書かれるものじゃ。
そこには何の不思議もない。
しかし、金剛経ではA=非Aだという。
故にA=Aであるという。
明らかに論理を逸脱した、論理外の論理と言えよう。
このような論理外の論理が、世界とか、悟りとか、さまざまな観念に対して延々と説かれる。
これこそが金剛経の最も伝えたかった法と言えるのじゃ。
人間の認識は外にある物を感受すると、その特徴を抽出し、記憶の中にある物と照合して、名前を確定する。
例えばりんごを見れば赤いとか、丸いとか、つやがある、へたがついているという特徴を見て、頭の中からそのような特徴のある物を思い出し、照合してりんごというものを認識する。
その動きは素早く、観察も容易ではない。
これを止めて観る事によって、自らの認識に気づき、自我は落ちる。
空観はその認識する物全てを空とする事によって認識の働きを止める。
金剛経の法は認識の働きそのものに介入する事によって、それを止める。
りんごというものが、実はりんごではないとすれば、りんごの認識は止まる。
しかし、りんごで無いならば、他のものであるという認識もできる。
それを止めるには、さらにりんごでないものが、それ故にりんごであると観じる。
そうすれば認識の働きは、逃げ道がなく、止まる事になる。
このようにして認識の働きは止まるのじゃ。
このような論理外の論理が、本当に法として働くのか疑問も湧くじゃろう。
しかし、このような法は何度も繰り返せば必ず効果があるものじゃ。
認識の働き、記憶による認識の働きそのものも、繰り返された習慣によって動いているものに過ぎない。
それは新しい習慣を受け入れ、従うように出来ている故に。
このような論理外の論理による法が、頭では受け入れられなくとも、何度も繰り返し実践すれば必ず効果は現れるじゃろう。
他の般若経と同じく、金剛経の法も執着を滅し、囚われから脱し、悟りへの道となる。
後は実践あるのみじゃ。
投稿日:2010-07-15 Thu
献身の道とは大体神仏の観想を行いそれと一体化する修行じゃ。
神と仏は本来違うものじゃが、ここではイメージとして同等に扱う故に一緒にしていうのじゃ。
浄土宗や密教などが主に行っているものじゃ。
神仏を観想するのは極楽へ行くためとか、その力を借りるために行われると思われているが、ちゃんとやればそれもまた悟りへの道になるものじゃ。
神仏を心底敬愛している者には呼吸を数えるよりも早くサマーディにまで至れるものじゃ。
呼吸を愛する者はおらんが、神仏を敬愛する者は多い故に。
そのような者が神仏と一体化すると観想すれば、無念夢想の境地が速やかに現れるのじゃ。
大体の道筋は神仏をイメージして一体化し、サマーディに入る。
そして、その状態で自我の成り立ちを観る。
自我が落ちるとその状態を観ている認識も無くす。
そのように進む。
神仏と一体になったサマーディによって、自我を観る事が容易になる。
サマーディに到達し、神仏のイメージ無しでその状態になれるならば、神仏のイメージは捨ててよいのじゃ。
それは集中力を増すためのイメージに過ぎないものなのじゃ。
用がなくなった後も神仏のイメージに囚われるならば、それより先には行けないものじゃ。
献身を行う者は先ずは自分が最も敬愛する神仏、菩薩などを選ばなければならない。
浄土教だから阿弥陀如来を、真言だから大日如来を観想しなければならないという事はない。
本当は観音菩薩が一番好きじゃとか、宗旨とは違うが不動明王がいいという者もいるじゃろう。
そのような時は自分の心に素直になり、最も敬愛する神仏を選ぶのじゃ。
それは自分の心を見てこなかった者には難しい事かもしれん。
何が本当に好きなのか、心を誤魔化してばかりいれば判らなくなったりするものじゃ。
献身の道は神仏を敬愛する心情を発揮するものであるから、己の感情に素直に従うのが原則といえるのじゃ。
観想をするにはイメージが大事じゃ。
神仏がイメージ出来るように修行が必要じゃ。
観無量寿経にはイメージを訓練する過程が載せられておる。
最初は夕日とかイメージしやすいものを思い浮かべる。
それが心の中にありありと見えるようになったら、川とか大地とか木などをイメージする。
それも見えるようになったら、神仏の降りる座席をイメージするのじゃ。
阿弥陀如来や観世音菩薩なら巨大な蓮の座席とかを最初に思い浮かべる。
そして、神仏の本体をイメージするのじゃ。
イメージする神仏の姿は、自分の最高の理想とするものでなければならんのじゃ。
観無量寿経では何キロも身長のある巨大な阿弥陀如来や、観音菩薩が説かれておる。
必ずしも巨大である必要はないが、そのように想像を絶するほどの神仏のイメージを心に浮かべる必要がある。
理想的な神仏の姿は人によって違うじゃろう。
それはある者には両親の姿に似ていたり、あるいは現世の敬愛する者の姿に似ているかもしれん。
そのような神仏のイメージは極めて個人的な物であり、他人に告げるものではない故に、心置きなく己の理想のイメージを作り出すのじゃ。
神仏のイメージが出来たら一体化をするのじゃ。
一体化にはさまざまな方法がある。
自分が小さくなって神仏の胸に入り、神仏が小さくなって自分の胸に入るというイメージをする。
神仏の眉間から光が出て自分の眉間に入り、その光が自分の胸に回って胸から出て神仏の胸に入る。
その光が神仏の眉間に回ってまた自分に入り、ぐるぐる回る。
光がどんどん大きくなって光の中で一つになる。
自分が大きな神仏の中に入り、同時に小さな神仏が自分の中に入る。
大きなものは小さくなり、小さいものは大きくなって自分と同じ大きさになる。
ただ単に神仏のイメージを強く思い浮かべて集中する。
などの方法がある。
どれがいいという事はなく、自分に合った方法を見つけるのが大事じゃ。
神仏との合一が果たされたならば、思考や認識の働きは緩くなり、忘我の状態になるじゃろう。
一度でならなくとも修行を続けていけば、その時はくる。
我という物の認識が一時的に止まった状態、それがサマーディなのじゃ。
その状態ならば自我の生起を、自己同一化せずに観る事ができる。
思考や感覚などの同じ繰り返しによっていつも感じる自分というもの。
いつもと同じように感じ、反応する同じ自分という偽りの自己認識。
そのようなものが合一した神仏の視点から、無になった心から観る事ができる。
それらを残す事無くくまなく観察し、滅し尽くさなくてはならない。
我というものが完全に滅すれば神仏もまた生じる事がなくなる。
為す者と為される物が消えたそこにおいても、未だそれを認識するものがあると気づくじゃろう。
その認識をも滅した時、悟りは完全に徹底されるのじゃ。
そこにおいてはもはや語るものも、語られるものもない。
どのような行も最後には我を滅し、それを認識するものをも滅さなければ完全とは言えない。
我というものに執着すればそこへは辿り着けない。
この献身の道によっても我に執着する者は、神仏に執着し、捨てられないじゃろう。
それは神仏に囚われるのではなく、神仏に認められる我に執着する故なのじゃ。
神仏を敬愛する者には献身の道は速やかにサマーディまで導くじゃろう。
しかし、悟るためには我も神仏も捨てて行かねばならん。
例えば賢く、慈悲のある親がいたならば、子供がいつまでも自分の下にいればいいとは思わないじゃろう。
子供が自分以上に成長し、いつか独り立ちするのをむしろ喜ぶじゃろう。
そのように神仏も真に智恵があり、慈悲深い親のようなものならば、自らを敬愛する修行者がいつまでも我が下に居るより、むしろ自分よりも成長し、自らを灯明とする事を喜ぶじゃろう。
子供が親の糧を利用して育ってもむしろそれを喜びとするように、神仏もまた自らを利用して成長する修行者を喜ぶ。
自らのためでなく、全ての衆生の利益をもたらすのが目覚めた者なのじゃから。
修行者達よ、全てを捨てて完全なる不死の境地に行くのじゃ。
投稿日:2010-11-13 Sat
多くの人が観念に囚われるのは、観念を持つと共にそれを正しいものとしているからじゃ。
しかし、観念を正しいと思うのも実際は自己正当化によるものが多いのじゃ。
一度、観念を受け入れ、それが正しいと思ってしまうと、なかなかそこからは抜けられないものじゃ。
現実とはかけ離れたことでさえ、観念として囚われてしまえば、それがその者にとっては現実よりも優先するようになる。
例えば些細なことでも己を責め、自分で自分を苦しめたり、知識を蓄え、それだけが正しいと思い、現実を見られなくなったりする。
観念に囚われ、観念に従っていれば、そこから逃れるのは難しいものじゃ。
観念に囚われた者は観念が己であると投射し、観念を持つ己というものを守るために、観念を守ろうとする。
それが自分を苦しめているものであるとさえ、判らずに観念を守るのじゃ。
観念に囚われた者は、観念を守るために人の言葉を聞かず、観念を守るために知識を集め、修行さえもする。
しかし、観念を守るための知識や修行は何の役にも立たないものじゃ。
それはかえって苦滅の道、悟りへの道から遠ざかるばかりなのじゃ。
そのような観念を滅するには、己の本心を観なければならない。
嘘偽りに固められたものではない、己の本当の思いを、集中力と観察力で観るしかない。
ただ独りで座り、他人からの何の介入も無い時、人は己の本心を自ら吐露する。
他人が居ればやはり観念を用い、それをまた守りたくなる。
ただ独りで居れば、誰かに何かを開陳することも無い。
観念を述べたり、守ったりする必要も無い。
そこで初めて己の本心が現れるのじゃ。
修行によって得た全ての集中力と観察力は、本心に向けられるためにのみある。
それが本心に向けられず、ただ観念を守るために向けられれば、どんな修行も実ることは無い。
集中力と観察力は本心に向けられるために、養われてきたのじゃ。
己の心を嘘偽りで固めてきた者には、むしろこの本心を知るのが難しいものじゃ。
誰かに見せるためでもない。
誰かを守るためでもない。
誰かを見返すためでもない。
ただありのままの己の本当の心。
そこに帰ることが安らぎであり、苦を滅する道であり、悟りへの道なのじゃ。
投稿日:2011-01-14 Fri
真の修行者は常に死を想うのじゃ。
死を想えば修行も進むのじゃ。
昔、インドにラマナ・マハリシという覚者が居った。
彼は常に自ら死を想い、それから逃げるより、むしろ死を味わうことで悟りを得た。
偽りの導師、偽者の修行者は死を恐れ、それから逃げ、隠そうとする。
死を語る者を非難し、そうすれば死が遠ざかると思うかのように、己を守ろうとする。
そのような者は悟りをもたらす真の教えから遠ざかる。
死は真の修行者にとっては修行の糧となり、導師となり、試金石となるものじゃ。
死から逃れたいと思う事で修行を志し、励みとなるのが修行の糧じゃ。
修行が正しく進んでいるならば、やがて死の恐れは消え、死そのものも無いと知れるのが導師じゃ。
迷った時には今自分が死を恐れていないか、死を超えた境地にいるか確かめる事が試金石じゃ。
人が恐れる死によって真の修行者は糧を得て、導かれ、試されて目覚めに至る。
死は勇気のある真の修行者にとって、恩寵と言えるものなのじゃ。
誰にでもあてはまる普遍的な真理があるとすれば、それは死に他ならない。
誰もが避けられず、やがて死に行くこの真理に眼をそむければ、やがて絶望が訪れる。
愛する家族も、友人も、自分も、やがて全ての者が死ななければならない。
それは自我を守る者にとっては絶望であるが、真の修行者には越えて大きく羽ばたくことが出来る、踏み台となるものじゃ。
真の修行者が自らを偽らず、死を観たならば、大きな恩恵を受けるじゃろう。
死に行くものと、滅することの無い不死の意識を知る事が出来る故に。
マハリシが観たものは、正にそれじゃった。
死の中に入り、死に行く己を観る、死亡観とでも呼ぶ観察じゃのう。
肉体が死を迎える時、手足が動かなくなるじゃろう。
今まで自分の意のままに動いていた手足が、永久に動かない。
そして体も動かなくなり、硬直する。
腰や胸や腹が動かなくなる。
呼吸が止まり、心臓も止まる。
眼は見えなくなり、耳も聞こえなくなる。
触感も無くなり、その他の感覚も消えていく。
思考も無くなり、感情も消えていく。
認識さえも無くなってしまう。
言葉もイメージも無い絶対的な無。
全てが消え去り、己さえも無い。
そしてまだそれを意識するものがある。
それさえも消えた時、それは露になる。
死すべきものが全て死に絶えた時、死なないものが露になる。
不死の意識が今ここにあるじゃろう。
死に行くものに囚われて観えなかったものが、死に行くものが消えた時、露になるのじゃ。
それは時を知らない。
それは唯一の実在。
それは変化しながら変わることが無い。
常に今ここにあり、消えることは無い。
到達するのではなく、得るものでもなく、ただ死によって消えるものに囚われていなければ、直ぐにも観られる。
永遠の意識であり、唯一の実在であり、滅する事が無い。
それだけが実在であり、それを知れば今まで非実在のものを実在であると見なしていたと知る。
非実在の夢から覚めた者が、目覚めた者と呼ばれる。
死から眼を逸らさず、己を誤魔化さず、勇気をもって進む者は速やかに目覚めるじゃろう。
千の方法も、万の知識も、ただ一つの死を恐れぬ勇気が無ければ、何の役にも立たない。
真の修行者は勇気をもって、常に死を想い、それによって不死の意識を知る事が出来るじゃろう。
投稿日:2011-04-20 Wed
誰でも社会的に生きるために己の心を偽っているものじゃ。
そのうちに何が自分の本当の気持ちなのかわからなくなってしまうのじゃ。
死ぬ時になって、自らを偽って居た事で、自らに騙されていた事を知るのじゃ。
自分を偽っていれば、騙されて苦しむのは自分自身なのじゃ。
もし人が自分の心を偽ったまま暮らせば、苦は尽きる事無く、修行さえ迷い道となるものじゃ。
例えば自分が臆病である事を偽り、強がって生きている者がいたら、自分を納得させるために、あらゆる危険な事に挑戦し続けたりするものじゃ。
誰彼構わずけんかをふっかけたり、命を落としたり、怪我をしたりするような危険な遊戯を繰り返したりそんな事ばかりする。
大怪我をして身動きが出来なくなったり、死に際になって初めて自分の心を見つめ、それらの行動がただ自分が臆病である事を認めたくなかっただけと判り、後悔したりする。
心の中のほんの小さな事実を認めていれば、他人とも仲良く、安心して暮らすことが出来た筈が、本心を隠していた故に苦を生じ、このように人生さえも壊れてしまう。
心は人の主である故に、心を偽れば全てがおかしくなってしまうのじゃ。
己の心を偽り、何故自分は自分を苦しめてばかりいるのか、わからない人間は、自らの本心を知らなければ決して苦が滅する事は無い。
どれほど辛くとも己の本心を見つめる以外に無いのじゃ。
先ずはこれからは自らの心を偽る事無く、どれほど弱く、醜く、酷いものであろうと自分の心を正直に観る事を決意しなければならない。
時には自分の心が反社会的な事を思っていると知り、驚く事もあるじゃろう。
それでも自らの本当の心を観ると、意志を決めるのじゃ。
そして自分が何を避けているのか、何から逃げようとしているのか。
一番苦しく、悲しいことは何か、それから逃げたり避けたりするために何をしているのか。
自らに聞くのじゃ。
自らの本心を知ること、自らの本心を尋ねること、それが苦を滅する道、修行の一歩目なのじゃ。
最初にそれが判らなければ、修行の道もまた迷いの道になる。
例えば一度、迷い道に入ってしまったものが、どれほど歩いても、目的地には近づけず、かえって歩くほど遠ざかっていくようなものじゃ。
自分が迷っているという事を認めることで、初めて正しい道を探す事も出来るのじゃ。
修行の道も自らを偽り、己の心から逃げるために行うのであれば、どれほど深い瞑想に入ろうとも、悟りからは遠ざかる。
知識も集中力も、自らを偽るために使うのならば、ますます迷いは増し、傲慢を深めるばかりなのじゃ。
修行とは己の本心と向き合うこと。
己の本心を観ようとしないのならば、もはや修行とはいえないのじゃ。
かつて自分の心を偽り、本心から眼を背けていた者も、一度己の心を偽らず、本心を見つめようとしたならば、苦は滅し、そこにこそ全ての法の真髄が在ると知り、真の悟りが訪れるじゃろう。
投稿日:2011-10-28 Fri
瞑想を長くしていると、自分と言うものが消える瞬間があるものじゃ。
すでに何度か味わった者も居るじゃろう。
自分が自分であると言う感覚。
自分であるという認識。
そのようなものが深い瞑想の中では消えて行くじゃろう。
それに恐怖を抱き、止めてしまうと瞑想もまた進歩を止めてしまうのじゃ。
自我というものが自分であり、守らなければならないもの、守るものが自分である、というような観念を抱いていると、それが消える時に恐怖を生じるのじゃ。
また自我は生きていくのに絶対に必要とか、無ければならない、無いと死んでしまうとか思っていても、消える時に恐怖を感じるのじゃ。
例えば体を守るために鎧を着た昔の侍でも、安全な所で寝る時には鎧を外したじゃろう。
そのように自分を守る意識を外した時、眠りのように深い瞑想が訪れるものじゃ。
そこでは自我も絶対に必要ではなく、なくてはならないものではなく、無くても死ぬ事は無いと知るじゃろう。
眠りには瞑想の真髄があるものじゃ。
観察してみれば人が眠りに入る時、自らを守ろうとする意識をも捨てるしかないと判るじゃろう。
そのように自らを守ろうとする意識を捨てる時に、瞑想は自我を忘れる境地に入るのじゃ。
人は眠りに入る時、自ずから瞑想の心得を行っていると言える。
起きていながら眠りの心境を実現するのが、瞑想であるとも言えるのじゃ。
修行に進歩がないと感じたり、深い瞑想に入れないと思ったならば、毎晩の眠りに入る瞬間を観察してみるのじゃ。
眠りに落ちる瞬間の、自分と自分を守ろうとする反応を捨てる様は、なによりも瞑想の参考になるじゃろう。
そのようにして自分と自分を守ろうとする意識を捨てた時、安らぎと静寂が在る。
自我が無い時、守るものが無いから安らぎがあり、守るための分別が無いから静寂が在る。
自我が無くともその安らぎと静寂を観るものがある。
それすらも超えた時に、真の悟りは在るのじゃ。
速やかに悟りを求めない者も、自我の無い境地を楽しむのじゃ。
静寂と安らぎに没入し、自我は確かに忘れられるものであり、無くても良いものと知るのじゃ。
やがて朝になれば日が昇るように、不要なものを捨て去った修行者に自ずから悟りは訪れるじゃろう。
投稿日:2012-03-30 Fri
自らの本心を観るには、自分に対して徹底的に素直でなければならんのじゃ。
今まで自分に隠してきた事を、ありのままに観るには、そのように完全に自分に対して全てを開き、嘘偽りの無い思いを開いてみせるのじゃ。
そのようにして観た本心は自分だけのものじゃ。
導く者やわしにさえ、自分の本心はこのようでしたとか言う必要は無いのじゃ。
自分だけのものであるから、どこまでも自分に対して本当の気持ちをさらけ出せるじゃろう。
自分には何の飾りも無い、本当の気持ちを見せられるのじゃ。
例えば自分は強いと思っている者は、実は弱さの裏返しで、そのように自分を騙し、偽っているのかもしれない。
自分は本当は弱いと感じている、その気持ちを自らに表わすのじゃ。
そのように観る事によって、自らの弱さを知り、本当に強くなれるのじゃ。
弱さを隠したままで強いつもりで居ても、いずれは暴かれてしまうじゃろう。
自らの弱さを知る事が真の強さへの道なのじゃ。
そのように本心を観る事が出来れば、人は真に成長する事が出来る。
本心を観ないままでは、どれほど知識や技術や力があっても、本当に成長する事は出来ないのじゃ。
例えば自分が何処に居るのかわからなければ、どんな目的地へも決して行けないじゃろう。
そのように己の今の心がわからなければ、決して成長は出来ないのじゃ。
自らの本心を自らに開き、観る事で今の己が判るのじゃ。
人間は生きて行く過程で、自分を誤魔化したり、偽ったりしているものじゃ。
不安や恐怖や孤独から逃れるために、執着するものを作り出し、それが得られぬとなると、更に別の逃避を作り出す。
そのようにして幾重にも己を偽れば、もはや自分というものを見失ってしまうのじゃ。
自分は何なのか、自分は何がしたいのかもわからず、ただ偽りと逃避と執着による反応ばかりしているのが、自らを見失った人間と言うものじゃ。
本心を観る事は、そのように幾重にも重なり合った逃避と執着の連鎖を、解き放つ事が出来るものじゃ。
それは始めは恐ろしく、また迷いになるようにも感じるかもしれん。
しかし、やがてそれこそが苦を滅し、真の悟りへと通じる道であるとわかるようになる。
自らの心を偽ったままでは、観察が自我の深みにまで届く事は無いのじゃ。
本心を観察し続けて、そこから眼を逸らさない者だけが、自我を作る言葉とイメージの働きを観る事もできるのじゃ。
その時が来るまで、真の悟りを求める修行者は本心を見続けるのじゃ。
投稿日:2012-08-31 Fri
自我を滅する為には、それがどのようなものかを追求しなければならん。
自我の成り立ちや、原因が判ればそれが偽りの観念でしかないと気づきが起こり、他の観念と同じように、厭離されるのじゃ。
以前に書いた通り人間の認識能力は、記憶に依存しておる。
認識能力が記憶に依存していると、己というものの認識も又記憶に依存したものとなるのじゃ。
昨日と同じ自分という言葉やイメージが、記憶に残っている感覚の印象に投射されているのじゃ。
そのようにして昨日と同じ感覚を持つ、昨日と同じ自分という認識が起こるのじゃ。
それは実際には自分というものではなく、自分のものでさえ無いのじゃ。
ただの言葉とイメージに過ぎないのじゃ。
そのような言葉とイメージでしかないものを己と認識する事で、さまざまな苦が生じるのじゃ。
言葉で悪口を言われれば、怒ったりする。
言葉で誉められればいい気になって騙されたりもする。
立派な人とか勇気のある人とか、勝ち組の人と呼ばれたいために、一生を費やし、時には命まで捨てようとする。
それが叶わなければまた苦が生じてしまう。
そのように言葉とイメージでしかない自我を、己であると認識するのが、苦の根本の原因でもあるのじゃ。
お釈迦様が説かれた縁起を観察する法は、その自我を滅するにも有効なものじゃ。
己を追及し、己という認識が起こる原因を突き止めれば、原因から自我が起こり、原因が無ければ自我も起こらないと観察して、自我を厭離する事も出来るのじゃ。
苦を観察し、滅していく行も、その修行の一環であったとも言えるのじゃ。
そのような自我を起こす原因となるものは、人によって違うものじゃ。
記憶や認識が己であるとする者は、朝目覚めて記憶が動き出す時に自我が起こるのを感じるじゃろう。
記憶が原因として己が起きるのじゃ。
肉体や思考が己とする者は、それらが働く時に己を感じるじゃろう。
それらの原因を追求する事が、己を追及する事なのじゃ。
そして己を追及する事で、速やかに自我を滅し、悟りを得られる道を行く事ができるのじゃ。
一切の苦を滅し、真の悟りを目指す者は、恐れずに己を追及するのじゃ。
投稿日:2013-07-31 Wed
記憶に依存した認識機能を持つ人間は、言葉とイメージによる観念に因って全てを認識しているのじゃ。
そしてその中には自分自身も含まれているのじゃ。
つまり普通の人間は言葉とイメージによって自分を認識しているのじゃ。
自分の名前と言う言葉によって自分があり、自分のイメージによって自分があると思うのじゃ。
自分の名前によって自分のイメージが起こり、自分のイメージによって名前を思い起こすのじゃ。
言葉には自分の名前以外にも、自分の所属する国や組織や地域や民族なども含まれているのじゃ。
それ故に自分が所属する国や地域を悪く言われると怒ったりするのじゃ。
そのような国や地域の名称も、己であり、己のものであると思っているのじゃ。
自分の名前とその名前が使われた時に起こる反応を、良く観察するのじゃ。
そうすれば名前による囚われが無くなるじゃろう。
そして、自分のイメージをも観察し尽くすのじゃ。
自分のイメージがどのようなものであるのか、呼び起こしては良く観察してみるのじゃ。
どのような色や形をしているか、どのような性質であるか、どのような原因から起こり、どのように生じるのか等、一つ一つ自らのイメージを観るのじゃ。
そのイメージが自分の行いにどのような影響を与えているのか、そのイメージが無ければ自分の行いにどのような変化があるのか、そのような事も観察してみるのじゃ。
その観察によって自分のイメージが己ではなく、己のものでもないと気づきが起これば、自我は厭離されるのじゃ。
己ではないものを己としていた誤謬に気づき、自然に厭離は起こるのじゃ。
そして自我が滅すれば、さらに認識をも滅する事は容易になるのじゃ。
無我に達し、無認識にまで至ったならば、真の悟りを得たと言えるのじゃ。
投稿日:2007-10-27 Sat
数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するのじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。 ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムっておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。
投稿日:2007-11-04 Sun
観察の行の本行じゃ。
花などの外部の物を観察して、観察が出来るようになったら、自分自身を観察するのじゃ。
観察は肉体から始り、心の中の微妙な領域に順々に深く入っていく。
人の自我は多様であり、どこに自我を投影しているかは、本人も観照が起こるまでは判らないからじゃ。
まず手の平を観察してみるのじゃ。
花を観察した時と同じように、皺があるとか、節があるとか、詳細に観察していくのじゃ。
何度もしつこく繰り返し観察していくと、手に奇妙な感覚が生じるであろう。
自分の手が自分のものではないような感覚。
それは厭離という感覚じゃ。
厭離とは観察によって物の本性が表れ、阿頼耶識によって分別された偽りの名前と形態が剥がれ落ちる事じゃ。
普通の人間は自分の手を、阿頼耶識で「自分の手だ」と認識している。
しつこく観察していると、阿頼耶識による認識は止まり、自分のではない、ただの道具としての手が表れるのじゃ。
この観察による厭離の感覚を、肉体の他の部分を観察する事で広げていくのじゃ。
肉体に自我を投射している者は、これだけでも悟りを得られるじゃろう。
未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。
感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、今、感じている感覚を観察するのじゃ。
その鐘の音によって生じる感情も「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
思考も「あの鐘は仏壇屋で買った、もっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。
物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。
このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。
それは又、別に書くじゃろう。
投稿日:2007-11-30 Fri
厭離とは観察によって阿頼耶識の影響がない、真の姿を観る事を言う。
通常の人間は阿頼耶識により、感じられたものに、言葉とイメージを投射しておる。
手を見れば、それが我が物であり、我の一部であるものであると、言葉やイメージを投射しておる。
それが観察によって止められると、我が物でもなく、我の一部でもない、ただの道具としての手が、如実に観る事が出来るようになる。
それが厭離が完全に出来た状態じゃ。
厭離が完全に出来たなら、例えば手に痛みなどを与えても、確かに痛みは感じられるが、それによって苦しむ事は無くなる。
手が己の物であり、我が物であれば、痛みは恐るべき物であり、苦しみに他ならないが、道具としての手に痛みと言う肉体の警告を与えても、それ自体が苦ではなくなるのじゃ。
そのような厭離を手から始って、全身に及ばせれば、肉体が我であり、我とは肉体であるという概念から、完全に自由になれるのじゃ。
お釈迦様は四聖諦にて、苦を観察せよと説いた。
苦、苦の集、苦の滅、苦滅の道を説かれたが、観察を知らねばこの四聖諦によってどのようにして苦を滅するのかは、理解出来ないのじゃ。
長らく誤解されて来たが、四聖諦をただ知識として知った所で、相変わらず苦は人を苛み続ける。
四聖諦は知識として覚えた所で何の意味も無いものじゃ。
四聖諦とは本来、苦しみを観察する事で、苦しみからの厭離を説いた教えなのじゃ。
それを示すいい例があった。
在る時、お釈迦様のもとへ、子供を亡くした女がやって来た。お釈迦様に子供を生き返らせてもらおうとして来たが、お釈迦様は、
「生き返らせるには、いままで死人が出た事の無い家から水を貰ってこなければならない」
と、女に告げた。
女は方々の家を回ってみたが、死人の出なかった家などはなかった。
しかし、女は苦を脱して、お釈迦様の弟子になったという。
この話は苦を脱する観察の過程を良く表しておる。
女が子を亡くして嘆いていたのは、愛別離苦と呼ばれる苦の一つじゃ。愛する者と死などで離れ離れになってしまう苦しみじゃ。
女はこの苦しみに陥っていたが、お釈迦様の教えにより、方々の家を回り、様々な死別に苦しむ人々の姿を見て、己の愛別離苦の苦を客観的に観察することが出来た。そして愛別離苦から厭離する事が出来たのじゃ。
この女が修行僧なら苦を観察せよと、お釈迦様は言ったであろうが、そうではない者に苦を観察させようと、お釈迦様は家々を回らせたのじゃ。
普通の者は苦を受けると、それを自らのものであり、自らが苦を受けていると分別してしまうものじゃ。
しかし、苦を観察し、厭離すれば苦は我が物ではなく、自らが苦を受けているという概念を無くし、苦を離脱する事が出来るのじゃ。
それこそが四聖諦の真の意味じゃ。
苦しみと、苦しみの集まり、苦しみの滅するさまを、八つの正しい道で観る事が真の四聖諦なのじゃ。
みんなもこの真の四聖諦によって、苦しみを離脱して、悟りを得る為に修行すれば、必ず苦の滅が起こるじゃろう。
その時まで修行に励むのじゃ。
投稿日:2008-05-24 Sat
もともと人の受ける苦は、それ自体は無我にして起きるものじゃ。
例えば手が傷つけば、直ぐに痛みが起こる。
その反応は自我があろうと、無かろうと、関係の無い、体の自然な反応なのじゃ。
自我が無くても、あっても痛みは勝手に起こる。
しかし、自我を持っている人間は、阿頼耶識の作用で、その痛みに直ぐに自我を投射してしまうのじゃ。
それによって痛みに「これは私の痛みである」とか「私が傷ついている」という認識を抱いてしまう。
痛みを自分のもの、自分の苦であると、認識してしまうのじゃ。
その他の苦も同様に、苦が起きればそこに自我を投射し、自分が苦を受けている、自分の苦であるという認識が生じる。
言わば苦を自己同一化しているものと言えよう。
これが人が持っている、阿頼耶識による苦の自己同一化の成り立ちなのじゃ。
観察はこの阿頼耶識の自己同一化の働きを、破壊する事が出来るのじゃ。
観察をすれば、観察したものと、観察する主体との間に、距離が出来る。
観察したもの「対象」は、観察している者「主体」ではないと、認識させる作用があるのじゃ。
それにより、観察された苦は、もはや自分のものではなく、自分が苦を受けているのではないという、正しい気付きが生まれる。
正しい気付きに拠り、苦は自分のものでもなく、自分が苦しんでいるのでもないという自己同一化の破壊が起こる。
それが厭離と言うものなのじゃ。
観察によって苦は自分との同一化を破壊され、主体から切り離された対象となる。
その現象を厭離と呼ぶのじゃ。
それは苦だけでなく、煩悩や執着、そして自我などの自己同一化をも、破壊する事が出来るのじゃ。
観察によって厭離が出来れば、自己同一化を破壊された苦は、もはや苦では無くなる。
ただの肉体や心の自然な反応であり、消えてしまうものであり、思い煩うべきものではなくなる。
同様に煩悩や執着、自我なども観察によって、主体から切り離され、同一化を破壊され、消えて行くものとなる。
観察にはこのように厭離を起こさせるという、大きな力がある。
真に観察こそが王道であり、観察による厭離こそが、王道を行く者の受け取る果実であると言えよう。
みんなも頑張って観察をするが良かろう。
投稿日:2008-07-15 Tue
わしの体は今、意志と習慣の力により、擬似的自我と同一性を維持している。
そのようにする事で、普通の人と同じ言葉と、感覚などを共有する事が出来る。
今回はその体の一部である右手を、わしは観察してみた。
右手を観察するのに、手という言葉や、指という言葉を忘れ、子供のように純粋な眼によって、このように観察した。
それは平たい四角形をしたものであり、五本の突起がついている。
表面には何本かのしわがある。
突起のうちの一本は短く、四本は長い。
突起には間隔をもったしわがあり、そこから曲げる事が出来る。
突起の先端は固く薄いもので、半分だけ覆われている。
その反対側には縞模様がある。
このように観察していくうちに、わしは右手が、自我から離れていく感覚を生じた。
右手は依然としてそこにあるが、その感覚や動きは、自我から離れた遠いものになり、他のものに感じられる厭離が起こった。
試しに右手を強く握ると、痛みの感覚があると分かる。
しかし、それは鈍く、どこか遠くで感じられるようであり、何の思いも起こしはしない。
右手と比べてみる為に、同じように左手を強く握った。
鋭い痛みがあり、痛みから不快があり、苦という感情が生じた。
苦は不安をもたらした。
このまま続ければ、自分が傷つき、さらに苦しむのではないかという不安があり、直ぐに手を緩めた。
左手には自我との同一性があり、その習慣に結びついた反射作用が残っている故に、このような反応が起こった。
再び右手を握り締めた。
痛みは生じるが、それはやはり切り離されたように、遠く、鈍いものであり、何の感情も引き起こす事が無かった。
右手は厭離されていた。
右手は観察により、完全に厭離されている故に、何の反応も起きなかった。
痛みとはもとより肉体の危険を知らせる、信号の一つに過ぎない。
痛みは自然な反応であり、それ自身が苦なのではない。
痛みに対して不快や不安があり、それを除こうとして葛藤を生じる事が苦なのである。
観察による厭離によって、苦はこのように消えると知るのじゃ。
これが観察による厭離の実験である。
これは観察の一例に過ぎない。このように観察しなければならない、というのではなく、このように観察すべきであるというものでもない。
人には生まれ育った環境による違いがあり、その違いに応じて、観察の仕方や言葉による表現の違いがある故に、観察の仕方や言葉による表現は、自ら行い、心に適うものにすべきなのじゃ。
各人、観察に励み、苦を離れるが良かろう。
投稿日:2007-12-13 Thu
縁起の法はお釈迦様が教えられた、真の仏教の修行と呼べるものじゃ。
通常の観察では連想記憶と今、ここにあるものの観察が混在したりするが、縁起の法では今、まさに起こっている心と体の動きを観察することが出来る。
悟りを得る前の者でも、煩悩を離脱出来る故に、煩悩を破壊し、真の悟りに導く修行法と呼べるじゃろう。
では判り易く一つずつ教えて行く事にしよう。
縁起の中でも一番判りやすいのは、やはり接触によって生じる感覚であろう。
接触によって感受が起こる、という一節じゃな。
観察で紹介した鐘の音を聞く方法であれば、鐘の音を聞く、耳から音が聞こえた、音によって聞くという感覚が起こった、と観察する。
音に因って起こされる感覚を詳細に観察するのじゃ。
それが大きいのか、小さいのか、丁度いいのか、澄んだ音であるか、濁った音であるか、高い音であるか、低い音であるか、詳細に観察するのじゃ。
音を聞く、聞いた音によって起こされた感覚を観察する。
この連鎖を何度も観察すると、次第に慣れて来る。
そうなったら、今度は感覚によって引き起こされた感情や思考を観察するという風に、十二縁起などを参考にして、少しずつ増やしていくのじゃ。
そのプロセス、過程が自我無しで起こる所まで観察出来れば、観照が起こる可能性が非常に大きい。
しかし、十二縁起は一つの観察例に過ぎない。
例えば十二縁起は愛があるから取、執着があると説くが、執着があるから愛があると観察する者もおるかも知れない。
その時は自分が観察した通りでいいのじゃ。
要は今、ここにあるものを観察する事であり、十二縁起はそのためのモデルの一つに過ぎないのじゃ。
例えば強い情念を持っていて坐る事すら出来ず苦しんでいる者でも、縁起に従って観察する事により、情念の影響を脱する事も可能なのじゃ。
その為には情念によって引き起こされる苦の過程を、縁起に拠って観察する。
例えばモノや人に執着する苦を抱えている者なら、執着によって苦ありと、この位は観察出来るであろう。
更には苦を感受する感情がある、感情が苦を逃れようとする逃避がある。逃避によって一時的な安楽があると、どこまでも観察していくのじゃ。
人の心身の動きは次々に連なって止まる事は無い。
一度、止まったと見えても、実は更なる逃避や忌避によって目隠しされているに過ぎないのじゃ。
それらの過程を次々に追っていけば、全体的な観察が出来る事になる。
全体的に観察する事で、観照はより起き易くなるのじゃ。
真にお釈迦様の教えられた縁起の法は、煩悩を破壊し、速やかに人を悟りに導く法と言えよう。
投稿日:2007-12-24 Mon
今回はある程度修行をした者に与える教えじゃ。
長く修行をしているのに悟りを得られぬ者、心当たりの有る者は聞くが良い。
未だ数息観をしている者や、ヴィパッサナーを始めたばかりの者は読まないでも良い。将来、修行が止まってしまった時に、参考にするとよい。
さて、今世間にはわしが教えた物も含めて、さまざまなヴィパッサナーなどのやり方が伝わっておる。しかし、それらのやり方は実はヴィパッサナーではない。
ヴィパッサナーをしやすくする為の技に過ぎないのじゃ。
真のヴィパッサナーとは己を観察する事。
長く修行しても悟りを得られないのは、観察をしているようでいて、実は観察をしていないからなのじゃ。
観察するのに必要なのは、技ではない。
勇気なのじゃ。
己の心を勇気を持って観察する事が、真のヴィパッサナーなのじゃ。
それが出来なければ永遠に悟りは得られん。
人間の心は恐ろしい事や不安、嫌悪感、劣等感などがあるとそれらの感情から逃げようとする。逃げて見ないようにしたり、蓋をして忘れようとさえする。
それらの逃げが、心を観察する事を困難にしているのじゃ。
それはもともと生き物に備わった本能じゃ。ゾウリムシでもミジンコでも、炙ってやると逃げていくように、人間も心に苦痛を感じると、それから逃げようとする。
その動きが心の観察を困難にしているのじゃ。
この逃避の働きが人の心に深く、深く根付いて行動の全てを支配しておる。
このように書くと自分の心には逃避などは無いと、思う者もいるじゃろう。それが完全な逃避の姿じゃ。
自分が逃避している事さえ自分に隠す、完全なる逃避なのじゃ。
もともと仏門に入る動機が、何らかの恐怖や不安、孤独からの逃避であった場合、悟りを得るのは更に困難になる。
悟りを得る為には、逃避してきた自分の心を観なければならないのだから。
そのような者は仏門に入る動機から、掘り起こして観なければならないのじゃ。
真のヴィパッサナーをしようと思う者、本当に心を観察しようと思う者は、坐る前にこのように決意し、誓うがいい。
「私はいままで心の中にある恐怖や不安、嫌悪感、劣等感から逃げてきた。しかし、もう逃げはしない。心の中に表れるものを全て逃げずに観察する」
と、自分自身に強く誓うのじゃ。
そして坐るがいい。
もはや逃げないと、今まで逃げて隠したりしてきた恐怖や不安、嫌悪感、劣等感、孤独感、悲しみ、苦しみなどが襲ってくるじゃろう。
そのような思いを、誓った通りに逃げずに観察するのじゃ。
恐ろしいなら恐れていると、不安なら不安だと、嫌悪するなら嫌悪していると、劣っていると感じるなら劣っていると感じていると、孤独なら孤独だと、全て観察するのじゃ。
この今まで逃げていたものの観察は、非常につらいものじゃ。
泣きたくなることもあるだろう。そのような時は泣いてもいい。
苦しみにもがきたくなることもあるじゃろう。そんな時はもがくがいい。
そして、悲しみの故に目から涙を流していると、苦しみを因としてもがいていると観察するがいい。
修行は誰かに見せる為のものではない。涙を流し、もがき苦しみ、狂える者の如く這い回り、ちっぽけな自分に絶望し、それでも観察し続けるのじゃ。
何もかも観察するのじゃ。
いつまでこんなに悲しみ、苦しむのかと思ったら、そのように思っていると観察するのじゃ。
もう止めたいと思ったら、もう止めたいと思っていると観察するのじゃ。
何が心に浮かぼうと、観察し続けるのじゃ。心に生じる何もかも、全てを観察するのじゃ。
そのように何もかも観察し続ければ、しまいには自我を支えるものが全て解体し、坐る動機も意味も無くすじゃろう。坐る動機が無くなった時、坐る意味も無くなった時、初めて本当に坐る事が出来るじゃろう。
そのようにして坐った時、真の観察である観照が始る。
何が観察しているのか、観察しているものは何なのかと、観察しているものの観察が、主体無くして起こるじゃろう。
その時が来るまで観察を続けるのじゃ。
投稿日:2007-12-24 Mon
自我を観照する道はとても難しい。
それというのも自我は人の心に大きく巣食い、固く根を張っているからじゃ。
例えばそれは巨大な城のようなものとも言えよう。
巨大な城には偽りという掘りが周囲を取り巻き、逃避という石垣が外壁を固め、自我を自分と思う誤った自己保存の兵が中に居て、殿様である自我の核を守っている。
その城を落とすには先ず心の中から偽りの水を抜き、逃避の外壁を崩し、誤った自己保存の兵をなだめ、自我の核に辿りつかなければならないのじゃ。
自分の心から偽りや逃避、誤った自己保存という自我を保存しようとするものを、解体していかなければ、たとえ中核に踏み込んだとしても、たちまちの内に再び偽りや逃避によって、自我は保護されてしまう。
長い間修行してきた者は、恐らく一度や二度は、観照が起こっている筈じゃ。
しかし、その度に恐怖を感じ、誤った自己保存の本能によって自我を破壊する観照から逃避し、隠蔽してしまうのじゃ。
真の悟りを得ようとする者は、先ず偽りを捨て、逃避を止め、自我は真の自己ではなくイメージに過ぎないと知らなければならぬ。
それらの障害を心から取り除く事で、初めて観察者に気付く事が出来るのじゃ。
偽りも逃避も捨てて己の心を清める事が、真の仏道なのじゃ。
投稿日:2008-09-09 Tue
さて、今日は知識に囚われた者達への教えじゃ。
もともと知識人などは多くが、知識こそ自分であり、自我であると認識しておるものじゃ。
それ故に知識を捨てろと言うと、自我が消されると思い、強く反発し、なんとか消されまいとして激しく抵抗するものじゃ。
例えば禅の者は良師は全てを奪うと言う。
その全ての中に知識は入っていないと思うのじゃろうか。
例えば空を知る者は、一切は空であると言う。
その一切の中には知識は含まれていないのじゃろうか。
そうではあるまい。
真の良師なら、知識も含めて、自我を存立させる因となるものを、全てを奪うじゃろう。
一切が空とは、知識をも含める全てが空であると言う意味しかない。
それなのに知識を自分だと思い込んだ者は、知識だけは例外だと、思い込んで、このような矛盾にも気づかぬふりをしている。
知識が自分だと認識している者にとっては、知識を捨てろとは、正に自分を捨てろ、己を殺せと言われるに等しい。
それ故に捨て去られ、殺されようとする自我が、激しく抵抗をするのじゃ。
全てを捨てろとか、一切が空であると聞いても、その知識をしまいこみ、却って知識を増やし、自我を強化しているのじゃ。
知識は道具に過ぎないとか、知識と思考、分別は違うだとか、ありとあらゆる言い訳を考え出し、知識とその投射された自我を守ろうとする。
知識が道具ならば、ペンチやスパナのように、本来捨てる事も、又拾う事もたやすい筈ではないか。
必要なら改めて身に付ける事も出来る。
全てを奪い、一切が空ならば、知識と思考と分別と、全てを奪い去らせ、一切を空とする以外に無い。
しかし、知識が自分であるとする者は、決して手放そうとしない。
知識だけは例外であり、手放してはならないモノと、執着するのじゃ。
その激しく抵抗する姿こそが、知識に執着している何よりの証拠であるが、決して気づこうとはしない。
気づいてしまえばそれを捨てなければならない。
それは自分を捨てる事に等しい故に、恐怖を生じ、執着が生じているのじゃ。
だが本当に真実を求め、ありのままに観察する者は観る事が出来るじゃろう。
知識も又、他の一切のものと同じく、移り変わるものであり、陽炎のようなものであり、実体が無く、空であると。
どんな知識も永遠には止まらない。
記憶は薄れ、変化し、やがて消える。
書き写したものでも、やがては消えていく。
知識は仮想された現実の上での、仮想されたデータであり、実体は無い。
夢や幻のようなものと変わらず、永遠にして普遍な実体は無い。
そのようなものとして知識を観る時、知識とその執着から離れ、自我の生成を観照する準備が出来るじゃろう。
そして、観察を続ければ知識を因として生じた自我が、観えるじゃろう。
その時こそ恐れずに、全てを観るがいい。
知識は己ではない、空であり、無我であり、ただ自我が投射している対象であると、完全なる了解が得られるじゃろう。
更に進んで認識をも転換した時、完全なる悟りを得る事が出来るのじゃ。
投稿日:2008-02-25 Mon
空の法を説く前に注意しておかねばならないのは、空とは概念や思想、哲学、世界観ではなく、悟りを得る為の技術であると言う事じゃ。
多くの学者や知識人などが空の思想や哲学などと称しているが、それらはことごとく間違いであると言えよう。
お釈迦様が空を悟ったとか、空を知ったら悟りだとか、勘違いしてはならない。
「物事が空であるという概念を持ってはならない。概念を破壊するのが空なのだから」
と、言う言葉は経にも論にも、何度も語られている。
空は概念に執りつかれている者の概念を破壊して執着を無くさせ、更には自我を解体し、阿頼耶識をも止める作用がある、悟りを得る為には有効な心の技術なのじゃ。
それによって観照を起こりやすくさせるが、それ自身が悟りなのではない。
物事を論理的に考えすぎて、一つの概念から離れられない者には適した技術であると言えよう。
しかし、悟りを得る為の技術の一つに過ぎない故に、無用と思う者には無用である。
観察する事が出来る者は、そのまま観察だけで悟りを得られる。
前述のような論理にしがみ付いている者に、有効なる技術なのじゃ。
一口に空と言ってもいろいろな定義ややり方がある。
お釈迦様が説いた空はそれほど複雑ではなく、幻や幻術、陽炎のようなものと観よ。と、言う位であったが、龍樹のように縁起と結びつけた者もおる。
他にも解体により、本性が空であると観るものや、金剛経のように、空という言葉を使わず、ただ概念を破壊する論理を駆使するものもある。
これらは全て技術であるが故に、各々が自らの経験や各自の性格によって使い分けられてきたから、種類が増えたのじゃ。
例えば薬が用いる医者や患者の体質によって、違ってくるようなものじゃ。
肝心なのは、効果がある事だけじゃ。
それ故にこれから空の法を修行しようという者も、自分に合ったやり方を選択したらいいのじゃ。
投稿日:2008-02-26 Tue
空の法には幾つか種類があるが、代表的なものをやってみるのじゃ。
一つは般若心経にあるように、全てに無を持って観るものじゃ。
全ては在るでも無く、無いでもない。汚れているものでは無く、清いものでもない。増えもせず減りもしない。特徴があるのでも無く、無いのでも無い。
このようにおよそ考えたり、言葉やイメージとして認識している全てが無であると観るのじゃ。
疑問が浮かべば、その疑問さえも無であると観る。
そのようにして修行すれば、空を感得するに至る。
空を感得するとは、例えばりんごを見ても、それがりんごであるという言葉が浮かばない。
逆にりんごという言葉を聞いても、りんごのイメージが湧かなくなる。
そのようであれば、りんごというものの概念が壊れ、阿頼耶識の作用を止めたと言う事になる。
それが空を感得したと言う事じゃ。
空を感得したなら、次にはそれを自らの肉体と心に向けるのじゃ。
肉体が空である、そして心を形成する感覚、感情、思考、分別、認識の全てが空であると観るのじゃ。
それらのうちのいずれに自我を投射していようと、それが空であり、阿頼耶識の作用を受けつけないが故に、自我は観照され、無に消え行く。
更に消えた自我を観る認識をも空であると観た時、阿頼耶識は観られたものとして落ちていき、完全なる悟りが得られるであろう。
これが無による空の実践法である。
投稿日:2008-02-27 Wed
次は解体による空の法じゃ。
例えば車はタイヤ、車体、エンジン、ハンドルなどで出来ておる。
それらの一つ一つが車ではなく、それらの他に車がある訳でもない。
車と言う物の本質はどこにも無く、本性も無く空である。
同じように自らの肉体も、手が自分ではなく、足が自分ではなく、頭や腹、胸、腰などの一つ一つが自分ではなく、本性や本質が無く、しかもそれらを離れて自分は無い空なるものと観る。
心も感覚、感情、思考、分別、認識などの一つ一つが自分ではなく、本性や本質が無く、しかもそれらを離れて自分は無い空なるものと観る。
このように自らを構成する部品の一つ一つを解体し、それらを本質が無く、本性が無い、空なるものと観じていくのが解体による空の法である。
自分というものに執り付かれ、即物的な価値観を持っている者には、有効なる修行と言えよう。
他の空の法でも同様であるが、これらの空の法は、集中力を以って繰り返し念じていれば、確実に作用する。
そのように作られているのが空の法なのじゃ。
少しやってみて何も起こらないと投げ出してしまうものには、何も起こらない。
確たる信念を持って修行を続けるのじゃ。
投稿日:2008-02-28 Thu
龍樹などの提唱する縁起と組み合わせた空の法じゃ。
肉体は食べ物や飲み物などによって存在し、それらが無ければ無くなってしまう。
体は食べ物などの縁によって起こり、縁が無くなれば消えてしまうものじゃ。
縁に依って起こるものであるから、そこに実体は無く、本性も無い、空なるものであると見なす。
心も感覚は感覚の対象を縁として起こり、実体が無く、本性も無く、空であり、幻のようなものであると見なす。
以下、感情と感情の対象、思考と思考の対象、分別と分別の対象、認識と認識の対象について、それらが縁によって起こり、実体が無く、本性も無く、空であり幻のようなものとして観るのじゃ。
このように心と体に対して、縁によって起こり、実態が無く、本性も無く、空であり幻のようなものと見なすのが、縁起による空の法である。
これは仏教の縁起を深く信じ、縁起を良く学んだ者にとって、有効なる修行法と言えるだろう。
しかし、これは縁起と空について、深く知らねばならぬ故に、初学者にとっては少し難しいものがあるかもしれぬ。
投稿日:2013-11-28 Thu
般若心経は他の経と違い、最初に私はこのように聞いたと言う文句が無いのじゃ。
それは元からお釈迦様の教えではないと言う事を宣言しているのじゃ。
金剛経とは違う空の法が書かれた経なのじゃ。
本来自己を観察するための心身の各要素を、無であり、空であるとみなす事によって執着を消し、自分という観念をも滅する事が出来るのじゃ。
人によっては観察よりも、この空を観想する智慧の完成の行が、役に立つ事もあるじゃろう。
般若心経
観自在菩薩が智慧の完成と言われる行をして、心身の全てを空と観想して、一切の苦厄を脱した。
舎利子よ、肉体は空と異ならず、空は肉体と異ならない、肉体は即ち空であり、空は即ち肉体である。
感覚も空であり、空は感覚と異ならない。感覚は即ち空であり、空は即ち感覚である。
思いも空であり、空は思いと異ならない。思いは即ち空であり、空は即ち思う事である。
分別も空であり、空は分別と異ならない。分別は即ち空であり、空は即ち分別する事である。
認識も空であり、空は認識と異ならない。認識は即ち空であり、空は即ち認識する事である。
舎利子よ、全ての事物を空と観想して、生まれる事は無く、滅する事は無く、汚れる事は無く、清くなる事は無く、増える事は無く、減る事も無いと見よ。
空と観れば肉体は無であり、感覚も無であり、思いも無であり、分別も無であり、認識も無である。
眼耳鼻舌身意も無であり、色声香味触法も無であり、眼によって成される界域から意識によって成される界域も無である。
修行のための法である無明や無明が尽きるという事も無く、老死も無く、老死が尽きる事も無い。
四諦の苦集滅道も無く、智慧も無く、何かの境地を得る事も無い。
得るという事も無いのであるから、菩薩達は智慧の完成によって心の妨げを無として、恐怖も無とする事が出来る。
全ての顛倒や幻想を厭離する事が出来て、涅槃を極めるのである。
智慧の完成によって無上にして正しい悟りを得るのである。
故に智慧の完成が一切の苦を除く、真実にして虚しくない偉大な呪文と知るのじゃ。
故に智慧の完成の呪文も記すのである。
羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯帝菩提僧莎訶
以上のように心身の各要素に、空であるとか無であると観想するのじゃ。
この空の法が難しいのは、人の特性として空とはどのようなものであるかとか、このようなものではないかと、観念として言葉やイメージで捉えようとするからなのじゃ。
そのように言葉やイメージによって捉えられず、認識できない状態こそが空なのじゃ。
もし誰かが空とはこのようなものであると知ったというならば、それは空ではないのじゃ。
知る事の無いものが空なのじゃ。
知る事が無く、認識する事も無い、分別の停止した状態を頭の中に実現し、それを心身の各要素に当てはめるのが、智慧の完成と呼ばれる法の正しい使い方と言えるのじゃ。
何度も何度も繰り返し唱えたり、観想したりすることで空の法は効果を表わすじゃろう。
心身の認識が無くなり、自然に無我に入るのじゃ。
更にそれを認識するものさえ空であると想えば悟りも訪れるのじゃ。
投稿日:2007-10-12 Fri
みんなは自分というものの価値をどのように考えておるかな?
両親や兄弟、友人、社会から貼られたレッテルを真に受けて、自分はそこそこの奴だなどと思ってはいないかな。
そのような奴はわしの一喝を聞け。
おぬしは最高の存在なのだっ!
おぬしにとって自分とは、常に最高の価値と、計り知れない重要性を持っているのじゃ。
この地上にある全てのものを合わせたものより、おぬしにとって尊いのが、自分という存在なのじゃ。
それを事実として受けとめよ。
私は最高だと声に出して言ってみよ。
誰かに笑われたら、笑い返してやれ。
事実を知らない愚か者だと。
自分を無価値なものだとは、ただの一瞬も思ってはならん。
私は最高であると信じるのだ。
私は最高であると感じるのだ。
私は最高であると認めるのだ。
まず何よりも先に己が最高の価値があるという事実から、全てを始めるのだ。
最高の価値がある自分を生かす道は何か。
最高の価値がある自分を更に素晴らしくする方法はないか。
最高の価値がある自分をどのようにすればいいのか。
ただそれだけを考えよ。
投稿日:2007-10-12 Fri
もしおぬし等が100の力を持っているのに、自分には10の力しかないと思っているとしよう。
そうすると一生10の力しか出せないで終わってしまうだろう。
もしおぬし等が自分には100の力があると知っていれば100の力を出せる。
そして、1000の力があると思えば1000の力を出せる。
さらには自分には最高の力があると知れば、無限の力を出せるであろう。
無限。
無限の力がおぬし等の心に宿っている。
だからして己の力に限界を作ってはならん。
おぬしがもしも総理大臣であったとしても、自分にはさらにそれ以上の力があると知るのだ。
信じるのでも、考えるのでもない。
知るのだ。
自分には無限の力があると知る。
その事実を受け入れるのだ。
そして、無限の力をこの世界に叩きつけよ。
世界はおぬしのものになるだろう。
投稿日:2007-10-12 Fri
悟りの道に限らず、どのような道を行く者も成功するためには一つの秘訣がある。
それは決してあきらめないということじゃ。
あきらめなければ成功する確率は常に50パーセントはある。
成功するか、しないかの50パーセントずつじゃ。
しかし、あきらめてしまえば可能性は0パーセントじゃ。
このはげちゃびんは何をあたりまえのことを言っているのかと、おぬしらもあきれているかも知れぬ。
しかし、このあきらめないということは、道の途中で本当に苦しくて、つらくてもう止めてしまいたくなった時にこそ判るのじゃ。
世の中には、本当に大事な願いが、簡単にかなうということは滅多にない。
大抵は苦労に苦労を重ねて、なおもうまく行かないということが多い。
自分の考えた事がうまくいかず、自分自身を否定され、打ちのめされ、叩きのめされたとしても、あきらめず、未だ可能性は50パーセントあると己に言うがいい。
そうすればどんなに否定され、打ちのめされ、叩きのめされても、もう一度、立ち向かう勇気が湧いてくる。
そして、不可能を可能にし、勝利を手に入れるための最後の力を与えてくれるだろう。
投稿日:2007-11-20 Tue
さあ、みんな聞くが良い。
今、わしを信じる者も、信じない者も、苦しんでいる者も、悲しんでいる者も、カルトにはまってしまっている者も、みんな聞くがいい。
おぬしらはみんな、今まで正しい言葉によって評価されていなかったのじゃ。
おぬしらの価値と、力と働きを知る者はいなかったのじゃ。
それ故におぬしらは、この汚濁の世に生きる邪な者たちによって蔑まれ、無力で、穢れた者と評され、それを信じ込んでしまったのじゃ。
しかし、そのような己を蔑む言葉を、もはや信じたり抱え込んだりする必要は無い。
今、この文を読む、2チャンネルの者だけでなく、将来にどこかでこの文を読むであろう全ての者達よ。
わしは悟りを得た者、目覚めた者としておぬしらに真実を告げる。
おぬしらは本当は僅かの穢れも無く、清純であり、無垢の心を持ち、純粋な者であり無限の力を持ち、無限の可能性を持っている者達であると宣言する。
それが唯一の真実なのじゃ。
今、悟りに向かい、このわしの文を目にした者は、全て心清浄にして穢れ無く、無限の力を持っている者なのじゃ。
おぬしらはこの言葉を受け入れよ。
そして、今まで持っていた、自らが穢れたものであるという言葉と、それらの言葉の影響力を全て捨てよ。
これからは自らが清浄であるという言葉を受け入れ、おぬしらを汚し、無力にさせる言葉などは一切信じてはならない。
そして、おぬしらは自らが無力であり、何も出来ず、ちっぽけな存在であると言う言葉とその影響力を捨てよ。
おぬしらの本当の力は、無限であり、限界などは無く、この全ての世界を変えるほどの力であると宣言する。
おぬしらの心にある本当の力は、真に無限であり、巨人の如く極め難い程なのじゃ。
たった一人の力で歴史を変えた英雄、偉人と同じ力をおぬしらは持っている。
おぬしらは無限の力を持っている。
この言葉を受け入れ、己を縮こませる言葉を全て捨てよ。
そして、二度とそのような言葉を信じてはならん。
わしは悟りを得た者として、目覚めた者として宣言する。
もはやおぬしらは自らを蔑むわずかの言葉さえも、受け入れてはならない。
おぬしらは自分が僅かの罪、穢れもなく、清純にして純一無垢であり、無限の力を持つ者であるという事実を受け入れよ。
それが真実であり、真理であるということを受け入れるのじゃ。
おぬしは清純にして、無限の力を持っている。
それが真実なのじゃ。
それが真理なのじゃ。
その言葉を、恐れずにただ受け入れよ。
おぬしらこそ、この世の光、最後の希望であり、正しい教えを伝える者達なのじゃ。
これから千年、二千年の長きに渡り、人々はおぬしらのことを語り、その名を呼ぶじゃろう。
お釈迦様とその弟子達がそうであったように。
偉大な者達よ、わしは仏陀の智恵によっておぬしらを知っている。
我が愛する息子、娘達よ。
いずれわしらは一つになるだろう。
永遠の喜びがわしらを待っている。
投稿日:2007-12-04 Tue
生きるということはもとから理屈や理論や信仰によるものではない。理論的に生きることが否定されたからといって、死んだりする愚か者も居るまい。
生きるということは、理論も理屈も信仰も超えた、命の躍動なのじゃ。
命は絶望を知らず、力の限り生きようとするものじゃ。
例えば脳みそや心臓を破壊されても、肉体は細胞を再生し、何とか生きようとする。
絶望も限界も知らず、力の限り生きようとするのがおぬしらの命なのじゃ。
生きるということは理論でも理屈でも信仰でもなく、ましてゲームなどではない。
そのような頭で作り出すような、小賢しい思惑を超えて輝く炎が命なのじゃ。
その力は人々を救い、世界を良くするためにこそ存在しているのじゃ。
今、これを見ている者の中で自殺しようなどと思ってる者も、居るかもしれん。
そのような者はわしの言葉を聞くがいい。
おぬしは生きるのじゃ。
己のためではなく、人の為に生きるのじゃ。
生きて大勢の人を助けるが良かろう。
助けた人々は感謝するじゃろう。
おぬしが生きていて良かったと言うじゃろう。
それこそがおぬしがこの世に生まれた意味なのじゃ。
身を捨てようと言うなら、人々の助けになるように己の身を捨てるがいい。
最後のひとかけらの力までも、人々に与えるのじゃ。
助けを求める者には必ず力を貸し、人々の願いに背いてはならん。
そのように勤めた者を、わしは真の菩薩であり、わしの愛しい子であると言うじゃろう。
投稿日:2008-02-10 Sun
さて、今日は選択の事について話をしておこうかのう。
多くの人間には、自ら考えて己の道を意志選択する能力がついておる。
これは昆虫や動物には殆ど無い、人間だけが持っている能力じゃ。
昆虫は己の意志などは無く、ただ本能の命じるままに動き、それが死に繋がろうとも本能のままに行動する。
例えば蛾が誘蛾灯に誘われ、死に行くように、目の前で仲間が死んでいても、本能のままに行動し、何も知らずに死に行く。
動物には多少の学習と思考能力があるが、やはり大方は本能に任せて動く他は無いものじゃ。
人間だけが己の置かれた状況を観察し、考えて、自ら選択し、決めた道を歩むことが出来るのじゃ。
この偉大な能力によって、人間は他の動物には無い、多くの実りを手にする事も出来るようになったのじゃ。
その一方で、悲惨な状況を招く事もあったのも事実じゃ。
社会を発展させた意志の力も、ひとたび戦争や紛争に使われれば、恐るべき悲惨な結果をも招くものじゃ。
人は自らの選択によって幸福になり、不幸にもなり得る。
他を慈しみ、憐れむ事を選択した者は幸福になり、他人と争い、傷つける事を選択した者は不幸を選択した事になろう。
みんなが今、この場、状況に居るのは選択によって居ると言えよう。
それ故に今、自分を不幸であると感じる者は、自分が何を選択したのか、何の選択が間違っていたのか、考えてみる必要があるじゃろう。
良い事を選択する事によって人は自らを幸福にし、逆に幸福に選ばれた者となる。
自らが幸福の道を選ばなければ、幸福はみんなを選んではくれないじゃろう。
選ぶ事によって、選ばれた者となるのじゃ。
故に真の悟りを得ようと選択した者は、真の悟りに選ばれた者ともなるのじゃ。
みんなも、真の悟りを選び、選ばれた者となるがいい。
真の悟りを選び、選ばれた者にこそ真の悟りは訪れるじゃろう。
投稿日:2008-04-01 Tue
さて、今回は修行の道について話をしよう。
みんな長らく修行しているが、全然悟りなどは得られないと、そろそろ飽きてはいないかな。
もう半年はやっているが、一向に観照などは起こらないと。
焦るのはわかるが、修行などは何もしていなかった者が、半年ばかりの修行ではやはり真の悟りは得られないものじゃ。
石の上にも三年と言うことわざ通り、最低でも三年は修行すべきじゃろう。
もちろん、お釈迦さまのように、悟りを得られなければ死んでもいいと決意して、七日七晩も坐り続けたなら、直ぐにも悟りを得られるかもしれん。
しかし、普通の日常を送っている者には、やはりそれほどの決意や時間はとれるものではなかろう。
普通の者は長い目で見て毎日の修行で、少しずつ進歩していくしかないものじゃ。
悟りへの道は例えば高い山に登るようなものとも言えよう。
一日や二日ではとても登りきれない、高い高い山。
そのような山に登ろうと言う者は、始めに固い決心が必要じゃろう。
どうしてもてっぺんまで登ってやるという、強い決心が無ければ、とても登りきれるものではない。
そのような決意は悟りを求める者にとっては、発菩提心と呼ばれる悟りを求めるための心に喩えられよう。
死の恐怖やもろもろの苦を逃れる為に、正しい悟りを得ようという固い決心が、修行の最初に必要なのじゃ。
真の悟りを得ようとする者は、正しい悟りを得るまでは決して修行を止めないと、最初に固く決心すべきなのじゃ。
さて、決意が出来たなら、いよいよ登るのじゃが、山の麓には川が流れていたり、珍しい獣などがいて、気を取られるかもしれぬ。そのようなものに一々気を取られていたら、早く登る事は出来ない。
それらは不要なものとして目もくれないで、登る事に集中すべきじゃろう。
そのような目を奪われる景色などは修行者にとっては、世間の雑多な知識や心のうちの雑念に当るじゃろう。
こっちのカルトが良さそうだとか、あっちの修行はくんだりにーが早くあがる、などと比較したり、心の中の雑念に気を取られていては、修行は進まない。
修行者はそのようなものに囚われず、ただもくもくと己の努めを果たすべきじゃろう。
麓から中腹まで登ってくると、今度はいろいろなものが見えてくるようになる。下からは見えなかった深い谷間や、奇妙な洞窟など下界では見られない珍しいものが、たくさん見られるようになる。
面白いからと言ってそのようなものに近づけば、たちまち谷に落っこちたり、洞窟に迷いこんで出られなくなってしまう。
修行者も修行が進んである程度、集中力がついてくると、いろいろなものが見えたり、珍しい力がついてくるようになる。
しかし、それらに囚われると慢心の谷や妄想の洞窟に迷い込み、行者病になって、修行の正しい道には戻れなくなってしまうのじゃ。
古来から力のある多くの修行者が、この行者病に落ちこみ、修行の道から外れていった。
そのような罠には気をつけなければならんのじゃ。
そのようなものにも気を取られずに、更に登って行くと、やがて開けた所にでる。
そこは日の光が多く当り、全てが輝くように見える。
そこからは広い景色が見渡せ、何もかもが明らかになったようにも見える。
とても気分が良く、自分が無くなったかのようにさえ感じる。
もしかするとここが頂上かと、間違う者が居るかもしれないが、冷静に良く見てみれば、半分位しか来ておらず、まだまだ先があると知れる。
修行も深くなって来ると、やがて心が統一したサマーディーの状態に入る者もいるじゃろう。
知らない者にはそれが悟りのようにも思えるじゃろう。
しかし、サマーディーを得ただけでは、まだまだ半分の行が上手くなったというところに過ぎない。
そこから自己の探求を経なければ、真の悟りは得られないものじゃ。
開けた丘を後にして、昼間でも暗い森林を手探りで歩いていくと、やがて登る者は大きな石にぶつかるじゃろう。
とても大きな石じゃ。
避けようとしても避けられず、常に目の前に広がる石。
それを越えるにはひたすら自分というものを無くし、ただ登るという事に集中しなければならない。
今まで行ってきた事の全てが試される、真の正念場である。
修行者が自己を手探りで観察し続ければ、やがて大きな石のような障害に当るじゃろう。
それが自我と言うものじゃ。
それは真に大きく、修行者の全ての世界を覆っている。逃げようにも逃げられず、さけようにもさけられない、どこにでもあって、どこまでも続く巨大な石のようなものじゃ。
それを超えるには、ただひたすら己を虚しくし、観察が無意識の観察に変化するまで、修行し続けるしか方法は無いのじゃ。
ここでは、もはや何のテクニックもちっぽけなエネルギーも役に立たない。
己の心に嘘をつかず、己の心に陰の無い者だけが、その石を超える事が出来るじゃろう。
そして行者はいつか自分がその石を超えたと判る。
その石はただ言葉とイメージに過ぎなかったと、観照によって破壊する時、頂上は既に目の前に在る。
そこからは既に目の前に頂上が見えるじゃろう。
必要なのはただ今、観ているものも、又捨てるべきものと気付く事だけじゃ。
それが大悟徹底なのじゃ。
頂上につけば、もはやなにも恐れるものも無い。
全てがそこにあり、全ての意識が連なっていると、感じるじゃろう。
山も、風も、空間さえも意識であり、形の違いは意識の大海に漂う波のようなものと、知れるじゃろう。
そして、頂上では永遠すらも無と観る大いなる意識が、帰ってきた小さな波の一つを迎えるじゃろう。
投稿日:2008-04-22 Tue
未だ悟りを得ていない者でも、そのかけら位なら味わう事が出来る。
それが今、目の前に在るものを五感で観察する事じゃ。
今、目の前に在る何でも良い。
キーボードやマウスの色や形、感触などを、味わい観察する。
今まで見慣れた物でも、改めて観察すれば、それが記憶から生じたイメージと、違う事に気付くじゃろう。
マウスにはこんなキズがあったのかとか、キーボードも知らないうちに汚れてきたなとか、記憶にはない物の、形に気づいたなら、それが今、ここに在るという悟りのかけらを味わったと言えよう。
外に居るなら、空や雲、星や月などを観てみると良い。
見慣れた空も日ごとに違い、雲も一つとして同じ形の物は無い。
星のまたたきも、月の姿も観るたびに違った美しさが、あると判るじゃろう。
そのありさまを何もかも忘れて、子供の頃のようにただ見つめるのじゃ。
そして体を吹き抜ける風の感触や、足に伝わる大地の固さも、同時に味わえば、確かに自分は今、ここに居るという、安心を感じるじゃろう。
不安や恐怖とは、結局の所、記憶から出ていたに過ぎない故に、記憶の連鎖を止めて、今、ここに在る時、心は安らぎを感じるのじゃ。
この方法は孤独などの感情や過去の嫌な記憶などが蘇ってきた時にも、対処法として使える。
孤独の感情や過去の嫌な記憶などが蘇ってきたら、それに巻きこまれないように、急いで目の前の物を見つめたり、触ったりする。
記憶などが次々に蘇ってきても、それに意識を向けず、ただ目の前に在る物の観察に集中すれば、それらは雑念と同じように、流れて消えていくじゃろう。
どうしてもそれらの記憶や感情に巻きこまれてしまうという者は、それらが起こるたびに、それは記憶に過ぎないと、レッテルを貼り、客観的に見つめるようにする。
このようにして何度も対処していれば、やがて習慣になって、上手く対処出来るようになる。
もともと人間は、自分の心を上手くコントロールする力を、持っておる。
感情や記憶に引き回され、その奴隷となって生きるのは、人生の貴重な時間を無駄にする事になるじゃろう。
みんなも己の心をコントロールして、楽しく生きるのじゃ。
投稿日:2008-12-30 Tue
今年は大変な年になったようじゃのう。
みんなも生活などに不安を抱いておるかもしれん。
リストラや売上の減少、年金なども天引きされるという状況に、この先どうなるかと不安になるのも無理は無い。
そのような状況でこそ、不動心が重要じゃ。
何が来ようと心が動かなければ、ストレスなども少ないものじゃ。
生活の不安から心が動揺し、体にまで影響が出てしまうと、それこそ本当の危機になるものじゃ。
生活や肉体に不安があっても、心が動揺しないならば、危機にはならないものじゃ。
いつでも平気で生きていく事が出来るじゃろう。
どのような事が起きても、そんな事もあるだろうと受け流していくのがいいのじゃ。
いつも修行で雑念を処理しているように、ただ流れていくのを眺めているようにすれば、心の動揺は無くなる。
動揺せず、心が動かなければ、適切な対処の仕方も思い浮かぶものじゃ。
むしろこのような危機的な時の方が、自分という者を観察し、心の中から新しい力を引き出すチャンスがある。
自分で作っていた限界を打ち破り、本当の自分の力と知恵を試す時なのじゃ。
今までの何倍も力と知恵を発揮しなければならない時、その力と知恵は心の奥から沸いてくる。
危機はいつでも人が利用する為にある。
この危機を乗り越えた時、それまでより何倍も強く、賢くなっているじゃろう。
新しい力と知恵を目覚めさせるチャンスなのじゃ。
この危機を乗り越える為に、今までより更に自分を観察するのじゃ。
今まで不安や恐怖から、観ようとしなかった心の奥底に光を当てて、観察するのじゃ。
そこには人を唯一本当に変える事の出来る、新しい力と知恵が眠っているじゃろう。
投稿日:2009-01-30 Fri
今日は死について話すのじゃ。
例えば現代の医学では100%助からないと、宣告された者がいるとしよう。
その者の前にある人がきて、この薬を飲めば50%の確率で助かるかもしれないと、言ったならどうするじゃろうか。
恐らく多くの者はどうせ100%助からないのなら、怪しい薬でも飲んでみようと想うじゃろう。
それがあるいは10%とか0.1%とかの低い確率でも、やはり何人かは飲むじゃろう。
死を宣告された者と同じように今、生きている者も全て100%の確率で死んでいく。
ただの一人も例外は無い。
わしも死ぬ。
この言葉を読む全ての者もやはり死ぬじゃろう。
それは100%の確率で決められている。
ただ時期が判らない故に、誰もが忘れようとして、本当に忘れてしまうのじゃ。
賢い者だけがやがて100%の確率で死ぬ事を知り、唯一の不死の境地に辿りつこうと修行するのじゃ。
それは50%か、あるいは10%か、もしくは0.1%位の低い確率でしか着けないかもしれない。
しかし、100%の確率で死ぬ人間にとっては、それでも選ぶ価値のあるものじゃろう。
自分が死ぬという事、100%確実に死ぬという事をわきまえた時から、真の修行が始まるのじゃ。
人は自分の死を認めなければ、現実を観る事が出来ず、いつまでも観念の遊戯を繰り返すばかりじゃ。
死に行く人間がそれをわきまえず、何を語り、何を取り繕うとも、それは現実から離れている夢幻のようなものじゃ。
お釈迦様も四門を出て老病死に苦しむ人間の姿を知り、世を捨てる決意をされたように、避ける事の出来ない現実を知って、はじめて人は悟りを得ようと正しく想うじゃろう。
人間には老病死という限界がある。
それが正しく現実の姿なのじゃ。
どれほど高尚な事を語ろうと、人はこれらの現実に屈服し、やがて屍を晒す。
それは全ての生き物、動物や昆虫などとも変わりは無い。
老病死がある限り、人間も又無力な生物の一つに過ぎないのじゃ。
ただ人間にはこの世から出離する道が残されておる。
それが修行して悟りを得る道なのじゃ。
人間だけが修行して老病死を超える事が出来る。
それは僅かな可能性かも知れないが、100%確実な死より、遥かに大きなものなのじゃ。
修行を続ければ、それは次第に大きな可能性になっていくじゃろう。
そして、不死の境地に辿り着けば、100%の死の確率を覆す事が出来たと知るじゃろう。
投稿日:2009-12-11 Fri
最近の世間では不景気だとかで、多くの者が嘆いておるようじゃ。
心配のあまりうつ病やノイローゼになったり、自殺したりする者もいる様子じゃ。
景気が良いとか悪いとか、そのようなものに振り回されるのは、心を主として扱っていないからじゃ。
心が中心であり、心を主として日を送るならば世間でどんな事が起ころうと、動じる事は無くなるじゃろう。
どんなに困った状況でも智慧が湧き、行うべき事がわかり、それを行う事が出来る。
例えば腹が痛い者がいて、腹の痛みを忘れるために映画を見たり、テレビを見ていたりするとしよう。
腹の痛みを忘れるために見ている映画やテレビが困った場面になると、腹が痛い上に苦しみが重なり、混乱してどのようにすればいいか判らなくなる。
腹が痛むのならまず、腹を良くしなければならない。
人間も心に苦を抱えながら、それを忘れるために金や権力や名声を求めておる。
恐怖や不安、悲しみなどを忘れようとしてそれらに執着しているのじゃ。
そして、それらが得られないと、更に苦を抱え、混乱してどのようにしていいのか判らなくなるものじゃ。
心に不安や恐怖、悲しみなどがあるならば、まず心を治さなくてはならんのじゃ。
心にそれらの苦を抱えたまま、不景気だとか、社会が不安だとか、想っていれば苦はますます多くなり、混乱するばかりなのじゃ。
人は先ず心を主として扱い、心を修める事を一番にして生活するならば、どんな不景気や不安があっても、動ずる事は無くなり、執着は減り、智慧も湧いてくる。
その為にお釈迦様は止観の行や四諦を説かれたのじゃ。
目覚めた者は人々が心を修め、苦を離れるのを観て喜ぶ。
目覚めた者は心を修めた者が、不安を離れるのを観て喜ぶ。
目覚めた者は人々が苦を滅するのを観て、宿願が果たされたと喜ぶ。
目覚めた者の宿願とは人々を苦から逃れさせる事なのじゃ。
それは目覚めた者が独りだけでは、果たせぬ事じゃ。
教えを知った者が修行して、初めて達成される。
それ故に目覚めた者は、人々が修行し、苦から逃れるのを観て喜ぶのじゃ。
目覚めた者は人々が心を主として一番に修め、世間を不安なく楽しんで行く事を喜ぶ。
目覚めた者は人々が心を極め、悟りを得るのを観て喜ぶ。
この上なく喜ぶ。
目覚めた者は修行者を祝福する。
真摯に修行する者に幸いあれ。
修行者の行く道に苦難が少なく、多くの幸いあれ。
千の祝福をする。
投稿日:2010-04-16 Fri
修行者達よ、かつてお釈迦様は血筋によって僧となるのではなく、修行するものが真の僧であると言ったものじゃ。
どのような血筋や家に生まれようとも、それで修行僧となれるものではない。
自ら修行する者だけが修行僧なのじゃ。
自らを偽らず、真摯に真の悟りを求める者達の利益は大きいものじゃ。
修行する事によって真の喜びに達し、心の安らぎを得られる。
そして、悟りを得て死をも克服できるのじゃ。
それらは修行者たちによって知られた道であり、修行し続ける者達に約束されたものなのじゃ。
いつそれが得られるだろうとか、もしかすると自分には得られないのかもしれないと、不安に思う必要はない。
例えば遮るもののない平原で、空に向けて石を投げれば、直ぐに地面に向かって落ちてくるじゃろう。
そのように修行者が真摯に悟りを求めて修行し続けるならば、石が地面に落ちてくるように、必ず効果があるものじゃ。
世にあるもの、そして目には見えない空間も、全てが変わりない本質を持つ平等にして一つのものである故に、どこに向かい、何を求めようと最後まであきらめずに修行し続ければ、自ずとその意識に行き着くのじゃ。
それには多くの道をただ知るだけでは行き着けない。
むしろ自分に向いた一つの道を、どこまでも極めるのが大事なのじゃ。
かつてお釈迦様は三日修行すればそれだけでも利益はあると言われた。
十日行えば十日分の、さらに続ければさらに多くの結果が出るのが真の修行というものなのじゃ。
自ら行えば真にそのとおりと判るじゃろう。
たった三日の修行でも以前より集中力が付き、観察も容易になる。
さらに続ければもっと多くの効果が現れる。
集中力によって出来る事は増え、観察によって知恵が高まる。
続ければ心は不動になり、何ものにも動じなくなる。
苦を滅する法を身に付ければ、苦を滅して楽になる。
苦を滅し、心が不動になれば世において恐れるものはなくなる。
そして真の悟りを得ればもはや為すべき事も無く、全ては楽しみになる。
世にある事も楽しみであり、世を去る事さえも楽しみになる。
修行によって尽きることのない、永遠の楽しみを味わう事が出来るのじゃ。
投稿日:2010-06-17 Thu
普通の者は誰でも自分を自分と認識する自我をもっておる。
それは認識そのものが不完全な故に、誤った自己認識ではあるが、悟りへの道を行くには必要なものとも言える。
自我がある故に意志が芽生え、己の行いを己の責任で結果を受ける覚悟が出来るのじゃ。
自我さえも不完全であるならば、強い意志が無く、己の行いの結果を己で受ける覚悟も無い。
未だ不完全な自我を持つ者は、自ら何かをしようと思わず、他人からの反応で生きているものじゃ。
誰かがこのように言ったからこうするとか、あのように言っているからこれはしないとか、全ての動機が他人からの言動で決められ、自らの考えで行いを決める事が出来ない。
そのようであれば、その結果もまた誰かのせいでこうなったとか、あのようになったとか、自分で結果を受け止める事ができなくなる。
このような不完全な自我を持っているならば、悟りに向かう前に、自立しなければならないのじゃ。
自分自身が考え、その結果を自ら受け止める覚悟あって始めて修行は完遂される。
そのように他人からの反応で生きている者は、自ら自立した自我を持つ事が重要になる。
自我を持って初めてそれを捨てる事も出来るのじゃ。
捨てる事によって起こる結果も、全て自分で受け止める覚悟と共にのう。
このように知れば人がこのように生まれ、自我を持つ事も又必要な事であったと判る。
それは完成され、捨て去られるために在ったのじゃ。
学校に行く者が一年生から二年生へと進級するように、自我は完成から放棄へと進歩して行くのじゃ。
それは恐れる事でも不安になる事でもない。
ただ通り過ぎていく道の一つに過ぎないものなのじゃ。
この自我について観察が完全に行われ、厭離が出来たのなら、悟りは始めの段階に入る。
自我が滅したのなら、それを観るものである認識をも滅する事が容易になる。
認識をも滅した時、悟りは完成されるのじゃ。
自我について知る事は人が進歩する上で、大きな利益がある。
常に気をつけて己の自我を観察しているならば、気付きも訪れ易くなる。
自我は子供の頃や思春期には体験する自己認識を元に成立しておる。
自分が他のものとは違う、世界にたった一人の自分と認識した時、人は強い孤立感があるものじゃ。
今までの親や周りのものと一体であった感覚は無くなり、たった一人で世界に対応している気分になる。
その強い孤立感、孤独感の故に、人はさまざまなものに逃避する。
酒や薬物に依存したり、偽りの一体感を得るために、どこかの国や共同体の一員であるとか、そのような形の逃避もある。
宗教に依存するのもそのような逃避の一種と言えるじゃろう。
自我を観察し難いのは、そのような逃避行動がいくつも重なり、孤立感、孤独感を思い出すからなのじゃ。
習慣的に孤独からの逃避を行っていると、逆に孤独感を思い出させる自我の観察も難しくなるのじゃ。
そのような習慣を改善する為には、獅子の如く勇猛心を奮い起こさなければならない。
孤独から逃げず、むしろ立ち向かっていこうと言う勇猛なる心が、成長への道を示す灯りとなるのじゃ。
お釈迦様は犀の角のように独り歩めと言われた。
孤独によって人は確かに成長するものじゃ。
他人に依存する不完全な自我を持つ者も、自ら独り歩むならば、己の行いが己にのみ返ると知り、依存を離れるしかなくなる。
多くの民族が成長のための儀式として、一人での旅行を行わせるものじゃ。
たった三日の間でもただ一人になって考えるならば、人は変わるじゃろう。
そのようにして自我は完成し、自立した者となる。
更に孤独に立ち向かう事によって、人は見難い自我の成立を観察し、それを捨てる事も出来る。
孤独に立ち向かう力は人の中にもともとあるものじゃ。
それは勇猛心と呼ばれる。
勇気の事じゃ。
知識よりも、技術よりも孤独や恐怖に立ち向かうためには、心の中にある勇気が必要なのじゃ。
修行者達よ、勇猛心を奮い起こし、孤独や不安や恐怖を乗り越え進むのじゃ。
投稿日:2010-10-14 Thu
お釈迦様はこの世界を皆苦であると言われた。
その通り多くの人はこの世において、苦を受けるものじゃ。
人によっては、苦によって自暴自棄になり、もはや立ち直れないものも居る。
しかし、どのような激しい苦にも気落ちせず、却って真の幸福への道を求める者が居れば、そのような者こそ真の賢者と呼べる。
苦によって肉体の限界を知り、皆苦である世界を知るならば、金や権力や名声を求める者より、はるかに優れた智恵を持つものと言える。
何故ならばこの世において、金や権力や名声を求め、得たとしてもやはりそれは苦の原因になるばかりなのじゃ。
金や権力や名声を得るために苦労を重ね、そして得れば今度はそれを失ったりしないかと不安を抱える。
外に行くにも護衛がつき、他人に害されないかと怯えておる。
そして最後には死によって一切が無くなる。
もしそのように金や権力や名声を求める者に智恵があり、先を見通せたとしたら、決して免れることの出来ない死によって全ては無になると知り、それほど必死になって求める事も無いじゃろう。
不安や恐怖を誤魔化すためにそれらを求め、何も判らぬままに貴重な時間を失ってしまう。
それが欲に囚われた多くの者の辿る道と言えよう。
そのような多くの物を持ちながら苦に付き纏わられ、死によって自ら赴く道を知らず、全てを無くす者より、苦にあってもそれを契機として正しい道を知り、実践する事の出来た者は幸運じゃ。
何故ならば正しい教えは実践すれば苦を滅し、安心をもたらし、遂には死によっても消える事の無い境地に行けるからじゃ。
金や権力や名声などがどれほどあっても得られない、苦を滅する道が正しい教えにはある。
金や権力や名声では得られない、死を超える法が正しい教えには存在する。
それは自らの心身によって実践する事で、確実に得られるものじゃ。
この世の全ての金や権力や名声を使っても得られない、真の安楽への道が、ここにはあるのじゃ。
苦によってそれを知り、自ら実践する事が出来たならば、やがて苦を滅した安楽を味わい、却って苦によってこの安らぎを得ることが出来たと、感謝する時が来るじゃろう。
投稿日:2011-03-17 Thu
恐怖や不安、苦しみなどは心から生じ、心に返るものじゃ。
心に生じるものである故に、心を修めれば滅することも出来るのじゃ。
災害があれば人は死を恐れ、不安になるものじゃ。
しかし、本当は日常でも死はいつでも直ぐ其処にあるものじゃ。
事故や病気、事件など死の条件はどこにでもあり、消えるわけではない。
それが災害の時だけ、強く意識されるのは、正に心に生じるものだからなのじゃ。
普段は何とか誤魔化している死というものも、このような災害で見せ付けられると、誤魔化せなくなってくる。
それ故に恐れや不安が生じるのじゃ。
例えば腹が痛いという者が居るとしよう。
腹が痛いのに、それを誤魔化そうとしていろいろと遊んだり、映画とかを見たりしている。
そのような誤魔化しで一時的に、腹の痛みは紛れるかもしれんが、それが終わればまた腹の痛みが戻り、誤魔化せなくなる。
そのような腹の痛みを治すには、腹に病があると知り、それを治さなければならん。
腹に病が在ると知り、それを治して人は健全になり、誤魔化しも必要ではなくなる。
同じように人は心に恐怖や不安を抱え、それを誤魔化すために金や名声や権力を飽きずに求めるものじゃ。
不安や恐怖を誤魔化すためのものであるから、どこまでも求めつづけて止めることが無い。
不安や恐怖がそれらによって誤魔化せると思っておる。
しかし、実際には何の役にも立たず、このような災害でまた生じてきたりする。
そのような恐怖や不安も、腹が痛い者が腹を治して健康になるように、心から生じるものは心を修める事によって癒されるのじゃ。
そうすれば金や名声や権力などの誤魔化しも必要ではなくなる。
そのような不安や恐怖が、心から生じてくるのを観るのじゃ。
肉体を己であると思い、己のものであり、それをいつまでもそのまま維持したいと思っていると、それが壊れるのが恐ろしくなる。
家でも車でも、それが己のものであり、いつまでもそのまま維持したいと思っていると、それが壊れるのを恐れ、不安になる。
不安や恐れはそのようになにものかに囚われ、その意に反して破壊されるとの予測によって生じるものじゃ。
知識によって知るのではなく、記憶によって覚えるのではなく、それを自らの心の中に観察した時、不安や恐怖は滅する。
不安や恐怖が生じる度に、繰り返し観察すれば、それは繰り返し滅する。
そしてやがては生じることが無くなる。
それが無畏というものじゃ。
このような機会にこそ、自ら心を修め、不安や恐怖や苦を滅する修行に励むのじゃ。
そうすれば地面がどれほど揺れようと、死が近くに来ようと、なにものも畏れるものは無くなる。
修行者は全ての畏れを滅し、獅子の如く修行に励むのじゃ。
投稿日:2011-05-20 Fri
多くの賢い者は、この世の無常に一度は絶望するものじゃ。
かつてお釈迦様が四つの門を出て、死人と老人と病人とを見て、それを超える出家の道に入ったように、無常を感じて世の中を捨てるのじゃ。
今も学者は、人はいずれ全て滅び、死後も何も無いという。
それでは科学とは人に絶望を教えるものという事になる。
同じような事は凶悪な殺人犯なども言っておる。
死んだら何も無いから、生きているうちにやりたいことをやるのだと。
世の中には絶望しかないと教えるならば、そのように行う者も出るじゃろう。
人の全ては肉体であり、肉体を離れては何も無いと思えばこの世は全て絶望となるじゃろう。
肉体に囚われ、肉体しか見なければ、そのような結論にしかならないものじゃ。
自分であると思っている肉体が無くなる不安や恐怖、それらが人を絶望させ、時には狂気や犯罪にさえ陥らせるのじゃ。
この世にある物しか見て来なかった者には、そのような絶望は決して無くならない苦になるじゃろう。
しかし、お釈迦様のように、真摯に真実を追求する者にとっては、それはむしろ修行の道に入るきっかけになるものじゃ。
もし人がこの世の全てが虚しく感じられたり、全てに何の意味もないと絶望したりしたのならば、速やかに修行の道に入るが良い。
全ての絶望に対する回答が、そこにあるじゃろう。
全ての生き物がやがて滅び、死後の世界も無い、という合理的な事実による絶望は、己の心の内に滅びる事の無い意識があるという真実によってのみ滅する事ができるのじゃ。
例えば重い荷を背負い、遠い山に登らなければならないと苦しみながら歩いていた人間が、実は重い荷物など背負う必要は無く、山に登る必要も無いと気づく。
その瞬間、荷物は放り出され、歩く事も止めて人は安らかにくつろぐじゃろう。
そのように人はただ気づく事によって、苦は滅し、行うべき事も無くなり、今ここに安らぎを見出すのじゃ。
投稿日:2011-06-22 Wed
修行とは知識を得るためのものではなく、考え方を身につけるものでもない。
その点では修行と言うものは学問よりもスポーツに似ているものじゃ。
学問では知識を記憶したり、公式を身につけて応用するのが目標となるものじゃ。
そしてそれを世間に役立てたりする。
スポーツでは練習によって個人の体力や技術を養う。
それで体を鍛えたり、体の使い方を習うものじゃ。
そして大会とかでの優勝を獲得する。
それらは個人の記録や栄誉に関するものであり、世間に役立つとかいうことは無い。
知識や考え方を得ることが目標でもない。
大会で優勝したからといって、それを知識として他人に伝えられるものではない。
他人が同じように優勝するには、やはり練習するしかないものじゃ。
悟りを得るための修行は、大体は集中力と観察力を養うものじゃ。
それによって心を鍛え、心をコントロールし易くする。
そして集中と観察によって自我を超え、悟りを獲得する事が出来るのじゃ。
そのようにして得た悟りは他人に言葉として伝えられるものではない。
他人が悟りを得るには、やはり修行するしか無いのじゃ。
悟りへの道が学問と同じようなものと想っていると、延々と知識だけを求めたり、法則を知るのが悟りであると謬見が生じたりするものじゃ。
修行はむしろスポーツの練習が体を鍛え、体の使い方を習うように、心を鍛え、心の使い方を習得するものと言えよう。
スポーツのように知識を習得するだけでなく、実践する事が大事なのじゃ。
偉大なスポーツ選手が弛みなく己を鍛え、栄冠を手にするように、修行者も常に怠り無く修行に励み永遠の喜びを手に入れるのじゃ。
投稿日:2011-09-27 Tue
お釈迦様の教えには人に合わせて三つの段階がある。
一つは善事を行い、幸運を招くもの。
二つ目は止観の瞑想を行い縁起を観察して苦を滅するもの。
三つ目には更に瞑想し、本心を観察して悟りを得るものじゃ。
一つ目の善い行いをすることは、これこそお釈迦様の教えの尊い所じゃ。
ダンマパダ(法句経)にも多くの善い事をせよ、と何度も書かれておる。
世に生まれては善い事をするのが幸運への道と言えよう。
特に今、苦が無く悟りを求めていない者でも、幸福を求めているならば、この善事を行うのが良いのじゃ。
善い事とは人を喜ばす事であり、悪いこととは人を苦しませたり、悲しませたりする事じゃ。
人を喜ばせるといっても犯罪者の手伝いをしたりしては、苦しんだり、悲しんだりする者が居るから悪い事なのじゃ。
世の宗教の中には、神仏のためなら人を殺したりする事を善い事と教えるものもある。
中には仏教といいながら、人を害したり傷つけたりすることを認めたり、その方法を教えるようなものもある。
そのような宗教が間違いである事を、はっきり教えてくれるのじゃ。
二つ目には苦しむ人々が自ら苦を滅するために、苦滅の道を説いたのじゃ。
人の心は縁によって様々な作用が起こるものじゃ。
例えば昔、車に轢かれた者が、普段は忘れていても車を見たりする縁によって、昔の痛みなどが蘇り苦しんだりする。
或いは何ものかに執着する者が、執着する物を見る縁によって欲求が起こり、それが叶えられなくて苦を生じたりする。
このように苦しみは様々にあるが、いずれも原因からの縁に因って起こるものじゃ。
全て苦しみはそのような性質を持っているのじゃ。
それを滅するには原因から生じる縁起の連鎖を、全て観察しなければならないのじゃ。
それが観察されたのならば、苦は必ず滅するのじゃ。
最後の一つが完全に全ての苦を、永遠に滅するための悟りへの道なのじゃ。
人が永遠に全ての苦を滅しようとするならば、悟りを得る他は無いものじゃ。
これこそ本当にお釈迦様が教えたかったことと言えよう。
心の作用が縁起によって成り立っている故に、自我の生成もまた縁起によっておる。
自分が自分であるという認識が成り立つ原因、それを観察すれば自我もまた滅するのじゃ。
本来ならば悟りを得た者は、この悟りへの道だけを教えたりするものじゃ。
しかし、慈悲の故に悟りを得ようと思わない者にも、幸福への道、苦を滅する道をも説かれたのじゃ。
悟りを求めない者にも幸福への道を、苦がある者には苦を滅する道を、悟りを得たいと思う者には悟りへの道を、全て解き明かされたのじゃ。
幸福を求める者は善事を行うのじゃ。
苦を滅しようとする者は苦滅の道を行くのじゃ。
全ての苦を永遠に滅するには、悟りを求めるが良いのじゃ。
投稿日:2011-12-27 Tue
今年は大きな災害もあり、あらためて生きている事が大きな恵みであると、気づかされる年であったのう。
多くの人が悲しみを味わった。
しかし、悲しみは苦ではないのじゃ。
親しいものが死んで、悲しむのは当然の事じゃ。
それは本来の心の働きなのじゃ。
悲しみが心を離れず、何度も死んだ者を思い出したり、過去にはこのように生きていたとか、もしかしたら何かの間違いで生きているかもなどと、思うのが苦になるのじゃ。
今、ここにあるものより過去や願望を見る時、執着により苦が生じるのじゃ。
心は全ての世界を形作っている故に、心に悲しみが在れば世界は悲しみが一杯にあるように見えるじゃろう。
心に恐怖があれば、世界もまた恐ろしいものに見える。
心に憎しみがあれば、世界は憎しみで満ちているように見える。
心に孤独があれば、世界は全て寂しいものに見える。
心に苦があれば世界は一切が苦になるのじゃ。
それ故に安楽を求める者は先ず、己の心を整えなければならんのじゃ。
心が整えられ安楽になれば、世界もまた安楽になるのじゃ。
世間の多くの者は、この順序を間違えているから、絶望に陥るのじゃ。
多くの者は心に孤独や悲しみや恐怖を抱えながら、先ず金や名声や権力などを求め、それが得られれば、孤独や悲しみや恐れが消えると思っておる。
しかし、心にある孤独や悲しみや恐れは、どれほど金や名声や権力があっても、消える事は無いのじゃ。
腹が痛い時は腹を治さなければならないように、心に苦があれば心にある苦を滅しなければならないのじゃ。
どんなに多くの苦に苛まれていても、人が執着を減らし、苦を一つずつ滅していくならば、やがて苦は無くなるものじゃ。
例えば大きな池に沢山の水がたまっていても、上から水が流れてこないようにして、下から水を抜いていけば、やがて空になるのじゃ。
そのように人も執着によって苦を作り出すのを止め、一つ一つ苦を滅していけば、やがて苦は無くなり、安楽の境地に至るじゃろう。
そのように修行者は執着を去り、苦を滅し、世において自ら安楽の境地に行くが良いのじゃ。
投稿日:2012-01-30 Mon
社会で生きる人間は、日々の糧を得るために、心をゴミ箱のように扱っている者が多いのじゃ。
社会では感情をそのままに表す事がいけない事だと教わり、自分の心を偽ったり、抑圧したりしているのじゃ。
日頃の嫌な事やストレスなどを、全部心の中に捨てて、無かった振りをしているのは、心をゴミ箱にしているようなものじゃ。
自分の感情を抑え、心に嘘をついているといつかは爆発してしまうじゃろう。
長年真面目に働いてきたのに、わけのわからぬ犯罪を行って全て失ってしまう者などは、その類じゃのう。
あるいはうつ病になったり、ひきこもりになったりするのじゃ。
自分の心を無視して無理を重ねていれば、心は限界を超えてしまうからなのじゃ。
心は人の主であり、世界を形作っているものじゃ。
その心をないがしろにしていると、いずれ制御できなくなり、破綻してしまうのじゃ。
そのような事の無いように、心をゴミ箱にしないためには、先ずは己の心に嘘はつかない事じゃ。
自分の心の想う事を、押さえつけたり、無かった事にせずにありのままに認めるのじゃ。
時には嫌な者が死んだりして喜ぶような、非常識的な想いが起こる事もあるじゃろうが、それもまた己のあるがままの心として認めるのじゃ。
そのようにして心の本当の想い、本心を受け入れる事で、心が限界になる時にも敏感にわかるものじゃ。
そして時には独りで心を観る時間を作り、自らの想いを省みるのじゃ。
苦しかったり、怒ったりする激しい感情があれば、なぜそれが生じるのか、原因を探してみると良い。
原因が判ればそれを滅する事も出来るのじゃ。
そのようにして常に心を偽らず、心を観て整えていれば、破綻する事も無いのじゃ。
心を観る事の効用はそれだけではない。
心の中にある昔からの拘りや苦を滅する事も出来るのじゃ。
たった一つの苦を滅するだけでも、世界は新しくなり、喜びが生じるものじゃ。
どれほど金や名声や権力があっても、決して得られない、自らの世界を変える力がある。
それが心を観る修行なのじゃ。
その法に巡り合えた事は非常な幸運といえるのじゃ。
修行者はこの幸運を無駄にせず、修行に励むのじゃ。
投稿日:2012-05-27 Sun
例えば人が何重にもなっている牢獄に入っていたら、周りの景色は見えず、行動する事も全然出来ないじゃろう。
牢獄から一つ一つ抜け出す事によって、次第に景色が見えるようになり、行動もできるようになってくるものじゃ。
人が多くの苦を抱えているのは、このような何重もの牢獄に入っているようなものじゃ。
苦によって世界が狭まり、考える事も動く事も制限されてしまうのじゃ。
苦を一つでも滅したならば、それによってものの見方や考えが変わり、出来る事も増えるのが判るじゃろう。
正に牢獄から出たかのように、見る景色が変わり、行動も広がるのじゃ。
苦があれば人はただそれによって悩むだけでなく、世の中も暗く、何もかも虚しく絶望的に見えるものじゃ。
今の苦がある自分を先々にまで投射して考えるから、世の中も、未来もまた何の希望も無く絶望的に見えるのじゃ。
そしてやる気が無くなり、行動も制限されてしまうのじゃ。
そのような苦が無くなれば、それらの関連も無くなり、正に世界が変わるのじゃ。
世の中は明るくなり、絶望が無くなり、行動も自由になるのじゃ。
世界は本来そのままで完成されているものじゃ。
苦のある心がそれを虚しく、絶望的に見せているだけなのじゃ。
苦を滅する事が出来れば、それを本当に感じることが出来るじゃろう。
しかし、世の中にはそのように自分の苦を滅し、変わる事を拒む者も居る。
自分が変わる事を敗北する事と思い、他人や世の中を変えようとする。
そのような考えは実は恐れから来ているものじゃ。
人は苦しみを持ち、それからの逃避を心の中に作り上げると、その心の中の働きに自分のイメージを投射するのじゃ。
そして苦のある自分が唯一の自分と感じてしまう。
そこからそれが無くなる事は、自分が消える事であると謬見が生じる。
それ故に苦にさえも執着し、変わる事を恐れるのじゃ。
そのような者は丁度、牢獄の中に居て外に出るのを恐れているようなものじゃ。
実際には外の方が楽なのに、恐れから苦しく不自由な生活を選んでしまっているのじゃ。
そのような者も勇気を出して修行し、苦を滅してみるのじゃ。
ただ一つの苦を滅しただけでも、楽になっただけでなく、世界が変わっていくのがわかるじゃろう。
今まで知る事が出来なかった事が知られるようになり、出来なかった事も出来るようになるのじゃ。
例えば病に苦しむ者が居る村に昔、医者が来たとしよう。
その医者は治療法を教えて村を去った。
年月が経つうちにみんな医者の言葉を忘れ、治療法の書かれた処方箋を死人に読んだりしておった。
そこに新しい医者が来て、人々に以前の医者が教えた治療法の正しい使い方を教え、人々はまた病が治り、楽になった。
目覚めた者は人々の無明の病を治す医者のようなものじゃ。
かつてお釈迦様は人々に苦を滅する方法を教えた。
しかし、2000年も経つうちにわからなくなってしまったのじゃ。
今、ここにおいてかつてお釈迦様が教えた通り、苦を滅する方法が正しく教えられたのじゃ。
このチャンスに修行者は自ら修行し、苦を滅して安楽を味わうのじゃ。
投稿日:2012-10-01 Mon
全ての真正なる導師達が、皆等しく説いている事が一つあるのじゃ。
それは俗世に関わる事無く、自らの心の中を観る事なのじゃ。
何ゆえ真正なる導師達は、自らの心を観る事のみを勧めるのか。
それは凡そ一切の俗世間における物事は、人を満足させる事も出来ず、究極には苦をもたらすだけの夢幻の如きものであり、心の中にこそ真の満足と喜びがあると知っていたからなのじゃ。
人が世間において金や権力や名声を求める時、それらが得られなければ苦しみ、得られても又それらを失いはしないかと苦しむものじゃ。
得たものはやがて失われ、作られたものも壊れていくのがこの世の仕組みなのじゃ。
それらを得ようとして苦しみ、得られても苦しむ世に真の満足と安らぎは無いのじゃ。
怨みを心に抱く者が、世間において怨みを晴らそうとすれば、それが新たな怨みを生み出し、絶える事が無いじゃろう。
心の中を観察する事によって怨みが無くなるのじゃ。
そうすれば世間においても怨みを晴らそうとする事は無く、怨みは止むのじゃ。
世の多くの者達が間違えてしまうのは、そのような事なのじゃ。
心の中に寂しさや孤独があるから、金や名声で多くの者を身の回りに引き付けて寂しさや孤独を癒そうとする。
しかし、心の中に寂しさや孤独があれば、どれほど身の回りに多くの者が居ても、寂しさや孤独は無くならないのじゃ。
むしろ多くの人の中でこそ、更に強い寂しさや孤独を感じたりもする。
先ず心にある寂しさや孤独を滅しなければ、世間においてどのような条件があろうと、寂しさや孤独は無くなる事は無いのじゃ。
同じように心に劣等感や被害者意識やその他の苦があれば、心を整える事によってのみ、滅する事ができるのじゃ。
人が初めて自らの心を省みた時、むしろそこに苦が多いと観えるかも知れん。
今まで無理をして見ないようにしていた苦が、そこにあるからじゃ。
初めて己の苦と向き合えば、恐れを抱く事もあるかも知れん。
しかし、お釈迦様の教えた苦を滅する法によって、一つ一つの苦を恐れずに滅して行けば、そこに安楽があるものじゃ。
更に進めば思考や感情を離れ、それをただ見つめている意識が在るのに気づくじゃろう。
寂静であり、一切を見つめるものであるその意識に辿り着けば、肉体や感情や思考だけが己であると言う謬見を離れられるじゃろう。
そして更に瞑想が深くなれば、もはや言葉をもって表される事の無い意識に辿り着く。
言葉も仮設された観念も無いから一切の苦が無く、一切の本質が真の平等であり、区別が無い事を理解するのじゃ。
一切の区別が無いからそこにもはや死は無く、永遠の安らぎがあるのじゃ。
そこに至れば人は真正なる導師達の言葉が、本当に正しかったと自らに証明できるのじゃ。
投稿日:2012-11-30 Fri
修行が段々と進んでくると、人によっては恐れが生じる事もあるじゃろう。
自分が変わっていく恐れ。
自分が無いと知る恐れ。
そのような恐怖があれば、修行を止めてしまう者も居る。
多くの修行者が悟りを求めながら、長年修行しても悟りを得られないのは、この恐れからの逃避によるものじゃ。
心は正直なものである故に、ちょっとした恐れが在ってもそこから逃避して、自ら進歩を止めてしまう。
そのような恐れを超えなければ、進歩も変容も無いのじゃ。
恐れを超えるには先ずは意志を起こさなければならん。
恐れを超えるために意志を奮い起こすのじゃ。
そして自分が何を恐れているのか、深く観察するのじゃ。
恐れの原因も人によって、或いは境地によって違うものじゃ。
同じ性格や性質を持つ固有の自分と言う自我を持つ者は、性格や性質が変わってしまうと、自分が自分ではなくなるという恐れがあるじゃろう。
そのような者は変化することを恐れるのじゃ。
変化する事に恐れを抱くから、苦しみさえも無くす事を恐れるじゃろう。
苦しみのある自分が、変わらぬ自分であると思うのじゃ。
そのような者も、固有の自分という観念に囚われる故に、変化を恐れると気づきがあれば、恐れも消えるじゃろう。
心の働きを観る気づきによって、恐れも滅するのじゃ。
他にも修行が進めば、自我が無いと言う事を予感して恐れる者もあるじゃろう。
その恐れには自分の消失の他に、それを肯定してしまえば世間の常識を外れ、狂人とみなされる恐れも入っているじゃろう。
自分が消える死と狂気の恐れが修行を妨げるのじゃ。
多くの修行者がそこで修行を止めてしまう。
自分が死を超えるために修行しているのに、その自分が無くなってしまう。
それでは何の意味もないと感じる者も居るじゃろう。
そのような狂気と消失の恐れには、知性と勇気で立ち向かうほかは無いのじゃ。
狂気とは無に包含される世界の一部なのじゃ。
目覚めた者達は狂気を知りながら、秩序の世界にも対応して人々に教えを説いておる。
狂気はそれを知りながら、制御できるものなのじゃ。
そして己が消えると言う恐れには、何もしなければやはり死によって、己は消えるものであると深く認識しなければならん。
何もしなければ消えてしまうものを、自ら捨てる事により、永遠へと至る事が出来るのじゃ。
それが多くの目覚めた者たちの辿った道であり、悟りへの門なのじゃ。
お釈迦様も成道の時には、悟りを得るために死をも恐れぬ勇気を示した事が記されておる。
修行が終局を迎えようとしている時、もはや知識も法も役には立たない。
ただ勇気をもって進むだけなのじゃ。
真の悟りを求める修行者は、死の恐れも超える勇気を奮い起こし、最後の関門を通り抜けるのじゃ。
そうすれば自我は幻想でしかなく、それを超える不死の境地、永遠の意識に到達できるじゃろう。
投稿日:2013-06-29 Sat
人は誰でもいろいろな役割を抱えているものじゃ。
家庭では父親とか母親とか兄弟姉妹とか子とかの役割があり、社会に出れば学校の生徒とか会社の社員とかの役割があるじゃろう。
そのような役割があれば、人は心の中にその役割に適した反応の習慣を創り上げるのじゃ。
それによって外にさまざまな性格を持つ個人として認識されるのじゃ。
そのような反応の習慣を心理学では仮面とかペルソナとか言ったりするのじゃ。
そのような習慣が長年たつと人は仮面と自分の本来の性格がわからなくなったりするのじゃ。
本当は暗い性格なのに社会での必要上明るい性格を演じていたりすれば、無理が生じてストレスも溜まったりするのじゃ。
役割を演じる上で必要なものと、自分が本来必要とするものが判別しがたくなる者も居る。
そのようであると自分が何をしたいのか、何をするべきなのかも判らなくなるのじゃ。
時には全ての役割を離れ、本来の性格がどのようなものであるか、自ら知る事が肝心なのじゃ。
それが本当に自らを知る事なのじゃ。
役割の性質を知った所で、それは自分を知った事にはならないのじゃ。
それは幾らでも変えることが出来るものであるからのう。
日頃から自分に役割があることを知り、それを観察していればその反応にも気づくようになるのじゃ。
会社の社員としての反応であるとか、親としての反応であるとか、理解していればそれを超えることも出来るのじゃ。
一つの役割はそれによる一方からの視点しかもたらさないものであるから、一つの役割に深く囚われてしまうと自分の事も、他人の事も判らなくなったりするのじゃ。
本来ならある筈の他人に対する慈悲心も役割によって隠されてしまい、人の心も判らなくなるのじゃ。
そうすると記憶と反応による機械のような者になってしまうじゃろう。
多くの者がそのような機械的な反応によって、世を過ごしているのじゃ。
そして何をすれば善いのかも判らなくなるのじゃ。
日々の観察によって役割があることに気づき、その反応を注視すれば、役割を超えることも出来るのじゃ。
そして与えられた役割の仮面の奥にある、本当の性格を知るように勤めれば、本当の生き甲斐も知れるじゃろう。
投稿日:2013-12-30 Mon
最近は自己啓発の本などに社会で成功し、億万長者になるには瞑想を行うと良いとか書いてあったりするのじゃ。
多くの指導者が成功するための方法の一つとして瞑想を勧め、瞑想によって智慧が生じ、成功への道が開けたというのじゃ。
昔の剣豪なども禅寺で修行して剣が上手くなったりしたものじゃ。
智慧が生じるだけでなく、丹田に気が落ちる事で肉体にも好影響があるのじゃ。
瞑想によって心が静まれば確かに智慧が生じるものじゃ。
普段はわからないような問題でも、瞑想中ならば智慧が生じて簡単に解けたりするのじゃ。
瞑想中には一時的に自己への囚われや環境への依存が無くなる故に、智慧も生じるのじゃ。
誰でも普段の生活では自分と言うものがあり、自分が利益を得たり、不快を避けて、快楽に向かおうとしておるのじゃ。
その性質が多くの情報を遮断し、視野を狭くしたり、必要な知識を思い出せなくしているのじゃ。
良いアイデアでも少しでも不快なものであれば無意識に見ないようにしたり、避けようとするからなのじゃ。
更に周囲の環境から常に投射されている自我は、その制約の中でしか思考は出来ないのじゃ。
例えば今自分に一万円しかなかったら、その金でできる事しか考えられない。
百万円でできる事など夢想として考えられないのじゃ。
それ故に瞑想によって自分の枠を離れ、環境の制約をも超えれば、それらの障害は取り除かれ多くの智慧が生じるのじゃ。
少しの努力や不快を要する事でも、高遠な境地にある大きな利益を見出す事が出来る。
そして環境にも囚われずに大きな理想を感じる事も出来るのじゃ。
更に瞑想を続ければ、人を超えた大きな喜びも感じる事が出来るようになる。
人が望む全ての快楽と歓喜は瞑想によって達成する事が出来るのじゃ。
そうであるから世間の欲を達成するためにも、自己を練磨するためにも、喜びを味わうためにも瞑想を活用しても良いのじゃ。
お釈迦様も修行者はむしろ瞑想の喜びに触れよと言っておるのじゃ。
たとえ欲の為に始めた瞑想であっても、続ければ瞑想の喜びが人を思いもしなかった境地へと導いてくれるものじゃ。
死を超える事だけを考えて悟りを求めた者が、全てを手に入れて歓喜するように、瞑想が人を全てへと誘うじゃろう。
投稿日:2014-01-31 Fri
前にも紹介したが、お釈迦様はこのように言っておる。
1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。
2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う。
影がそのからだから離れないように。
今引き寄せとか、願望の実現とか呼ばれる原理も、既に2500年前にお釈迦様が説いておるのじゃ。
ものごとは心によって作り出される故に、人が心を清め、確信を持って直感に従えば何事も成せない事は無いのじゃ。
心を清めるとは、決意して悪事を止めて善事を志す事なのじゃ。
善い事をする善い者を、この世の自他のあらゆる智慧と力が助けるのじゃ。
しかし、頭の中でちょっと考えた位では、何も叶わないのじゃ。
自他を助ける大儀があり、心の奥に深く入って確信となった願望が実現されるのじゃ。
確信とは確かな信じる心なのじゃ。
信じるとは未だ実現していない事をも実現したかのように振舞う事なのじゃ。
心を清め、未だ実現していない事も実現したかのように振舞えば、智慧と力が湧いて実現を促進するじゃろう。
それが出来ればこの世で成しえない事は殆ど無いと言って良いのじゃ。
そのような実現を妨げるのは、観念に因って築いた限界なのじゃ。
心を観察し、観念を滅する法を知った者にはそのような観念を滅するのも容易となるのじゃ。
そして確信を養うには正しい言葉を何度も繰り返すのが効果的なのじゃ。
お釈迦様はこのようにも言って居るのじゃ。
299 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に身体(の真相)を念じている。
300 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も不傷害を楽しんでいる。
301 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も瞑想を楽しんでいる。
本当は瞑想を楽しんでいなくとも、このように宣言する事で弟子たちも瞑想を楽しむようになったりするのじゃ。
このような宣言は自己暗示とかアファメーションとも呼ばれておる。
言葉によって宣言して確信を養う事が出来るのじゃ。
このように心を清め、確信を作り上げることによって、世間の成功を求める者はそれを得られるじゃろう。
安心の境地を求める者は困難な修行も乗り越えて安心の境地を得るじゃろう。
一切の苦を滅した不死の境地である悟りを求める者は、必ず真の悟りを得られるじゃろう。
修行者は心の力を知って心を清め、不信を捨て、確信をもって修行に励むのじゃ。
投稿日:2014-03-01 Sat
今、止観と言う言葉は残っているが、その真の意味を知り、正しく修行しているのは、わしがここで教えている者たちだけじゃろう。
お釈迦様が教えて以来、その言葉の意味すらも失われて久しいものじゃ。
集中によって心を止め、心を観察する。
ただそれだけの事が難しいのは、人々は自分の心を観ないからなのじゃ。
なぜ観ないのかと言えば、観たくないからなのじゃ。
誰でも自分について、多少の飾りがついたイメージがあり、それを壊されるのは恐いのじゃ。
自分の心を本当に観ようとすれば、自分の心の醜さや、愚かさや、情けなさもちゃんと観なければならないのじゃ。
自分について飾られたイメージがあれば、それには耐えられない。
それ故に人々は観察を拒否し、忘れる事を無意識に選んだりしているのじゃ。
その結果、本当の観は忘れ去られてしまったのじゃ。
しかしどのように醜く、愚かで、情けない心であっても本当に自分の心が観られたならば、そこから本当に変わる事が出来るのじゃ。
真の変容は観察によってのみ起こるのじゃ。
心が観られなければ本当の変化も変容もあり得ないのじゃ。
自らの心を観る事を避け続けて悟りに至った者など居ないのじゃ。
どれほど困難であっても自らの心を観察し続ける者には、変化が訪れ、やがて変容もやってくる事じゃろう。
長年続いた苦は観察されれば一瞬にして消え去るじゃろう。
自我を観察できたならば、個我の観念を離れて無我に至るじゃろう。
認識が観察できれば、真の悟りが訪れ、目覚めた者となるじゃろう。
全ての変化と変容は観察によって訪れるのじゃ。
その観察を強く完全なものとするには、集中力が必要なのじゃ。
集中力と観察力を養う真の止観を修行する者は、真の変化と変容を味わう者となるのじゃ。
盲亀の浮木と言うように人として生まれたものが目覚めた者に合うのは稀な事じゃ。
既に忘れさられた止観の法を正しく知るのは更に稀な事じゃ。
止観を正しく修行して変容を味わう事が出来るのは、真に稀な幸運な修行者と呼ぶべきじゃろう。
修行者は自らの幸運を無駄にせず、永遠の境地に至るまで油断せず修行に励むのじゃ。
投稿日:2014-04-30 Wed
子供のように人生を楽しむには、過去の事も未来の事も考えずに、今ここにある事だけを感じると良いのじゃ。
子供の頃には皆そうだったのじゃ。
リストラされそうだとか、変なものを買ってしまったとか、未来の事や過去の事は考えずに、今目の前にある事だけを楽しんでいたのじゃ。
大人になったからと言ってそれが出来ない訳は無いのじゃ。
しかしそれでは未来の計画を立てたり、過去の過ちを反省するのはいかんという事ではないのじゃ。
未来の計画も過去の反省も進歩するためには必要なのじゃ。
人に不安や憂鬱が起こるのは、未来の計画を立てたり、過去を反省するだけでなく、それ以上に考えて事故が起こるのではないかとか、こうすれば良かったとか想ってしまうからなのじゃ。
計画や反省をしたならば、もはやそれ以上に考えたり、想ったりせずに思考を止めるのじゃ。
日頃から数息観などの瞑想をしていれば、簡単な事なのじゃ。
先の事について計画を立てて、さらにそれ以上に考えていると気付いたならば、それで止めるのじゃ。
過去を反省して、さらにそれよりもこのようにすればよかったなどと、執着となる事を考えていたと気付いたならば、それも止めるのじゃ。
そうすれば不安や執着からの憂鬱もなくなり、子供の頃のように楽しい日々が送れるのじゃ。
実践してみるのじゃ。
投稿日:2007-10-12 Fri
悟りを得たものがいきなり筋肉モリモリになり、体力が倍になるということがあり得ないように、悟りを得たからといって神通力などは身につかない。
悟りを得た者が身につけるのは智恵なのじゃ。
正智、妙観察智などの智恵が身につくのじゃ。
それらの智恵も又、おぬし等の中に眠っておる。
人間はそれらの智恵の力で空を飛ぶことも出来、海にもぐり、宇宙にまで行く事が出来た。
神通力などは必要ないのじゃ。
智恵こそが人を偉大にするもの。
ただ妙な力があるだけで智恵がないなら、ゴリラやチンパンジーと変わりはあるまい。
おぬし等も智恵を磨いて偉大な者になるがよい。
わしが許す。
投稿日:2007-10-12 Fri
謙虚とは何か、或いは何に対して謙虚であらねばならぬかということになれば、それは真実に対して謙虚であらねばならないということになろう。
真実に対して謙虚であれば、真実の表れを見出すことが出来よう。
しかし、人に謙虚であることにより、認められようと思うのであればそれは揚棄に他ならない。
謙虚であるということだけで、人を判別しようとするものは、謙虚なる詐欺師にだまされ続けることにもなろう。
詐欺師というものは実に巧妙に謙虚な者を装うものじゃ。
謙虚であらねばならぬのは、真実を見出すためであり、それは心の在り様を顕わすものならば外に現れることもあるまい。
己の内にある真実を見出すことに勤める者こそ、真に謙虚な者と言えようか。
投稿日:2007-10-16 Tue
世の多くの学者達はお釈迦様の教えを、哲学や思想として捉えておる。
しかし、それは誤りなのじゃ。
縁起も、無常も、無我も、空も悟りを得るための心理的なテクニックに過ぎないのじゃ。
思想や一般論として捉えては、仏教というものを理解していない事になる。
お釈迦様は洗濯屋には心の汚れを取れと説き、楽人には楽器の弦がゆる過ぎず、張り過ぎないように心を調節せよと説いた。
お釈迦様が教えられたのは思想でも、一般論でもなく、悟りに導く手法であり、心理的なテクニックなのじゃ。
もし縁起が無いとして人を導けるなら、そのように説いたじゃろう。
目覚めた者の智恵は、目覚めた者にしか判らないものじゃ。
おぬしらもお釈迦様の教えの真の意味が知りたかったら、遠くへ行って他人の教えを聞く必要は無い。
今から数息観を始め、己の心を観よ。
投稿日:2007-12-13 Thu
禅ではなにもせずに坐れと言うものがおる。止観の止だけをやれというのじゃな。
一方でクリシュナムルティなどは、観察だけを行えと言う。 止観の観だけをやれというのじゃ。
それらはどちらも間違いじゃ。
お釈迦様は止観の両方を修行せよと説いた。
それによって速やかに悟りを得られるのじゃ。
実際に悟りを得られるのは、観察によってだが、自我の生成を観察するには強い集中力が必要なのじゃ。集中と観察の二つの行があって、初めて速やかに悟りを得られる。
現に、禅の者でも悟りを得た者は観察をした者だけじゃ。
一休禅師がカラスの鳴き声を聞いて、悟りを得たと書いたのを覚えているかな。一休は座禅中にカラスの鳴き声によって、偶然に自我の生成するさまを観察する事が出来、観照が起こり、悟りを得られたのじゃ。
他にも蝉の声を聞いたり、師匠に背中を叩かれたり、問答の言葉で観察が起きたりした者だけが悟りを得ておる。
直ぐに判ると思うが、このような偶然に頼るやり方は、とても効率が悪いのじゃ。カラスが偶然鳴かなければ、一休はいつまでもそのままだったかもしれん。
現に禅の者には自分から出家して、良い師匠についたというのに、45年も修行して老年に達したというのに、未だ悟りを得られない者もおる。
お釈迦さまの時代には、教えを聞いて修行した者が500人も速やかに悟りを得られたと、経には記されておる。
速やかに真の悟りを得たいと望むのなら、お釈迦さまの言うとおり、止観の両方を修行すべきなのじゃ。
投稿日:2008-02-24 Sun
自我が解体され、観照によって無くなった後、それを観ている阿頼耶識をも厭離した時、完全なる真の悟りが得られた事になる。
自我が無くなっただけでは、完全な悟りとは言えないのじゃ。
この辺の研究は禅の方が進んでいる。
禅ではそのような者を生悟りと呼んでおる。
白隠なども一度の観照では生悟りに陥っていたのを、師によって直されておる。
禅で言う大悟徹底という言葉は、裏を返せば、不徹底に陥ってしまう者もおるから、気をつけなさいという意味も含まれておる。
なまじ自我を観たり、落とした者が、その境地に驕り昂ぶり、俺は悟った、これが悟りだなどと言って修行を止めてしまえば、悟りは不完全なままに終わってしまう。
それを戒めておるのじゃ。
自我を落としただけでも、安心、寂静、平等性智などの一部は味わう事が出来る。
無学な者はそれをもって本当の悟りだと思ってしまうのも、無理は無い。
しかし、それだけでは未だ阿頼耶識に種子が残っている故に、その後も自我は形成され、再び概念に執り付かれてしまうものじゃ。
自我が無くなっても、未だそれを観るものがある。
自我によって認識があるのではなく、認識によって作られていたものが自我なのだから、自我が無くなっても未だ認識はある。
その自我を作っていたものこそ、阿頼耶識に他ならないのじゃ。
自我が消えた後も、未だそれを観ている阿頼耶識を厭離しなければ、大悟徹底とは言えないのじゃ。
大悟徹底すれば更なる無為、平等、大円鏡智、 妙観察智などの智恵や境地が輝き現れる。
それは自我を落としただけの境地とは、比べ物にならないものじゃ。
その境地に辿り着くまで、決して修行を止めてはならんのじゃ。
投稿日:2008-03-27 Thu
自我と認識の関係をもう少し判り易く、図にして説明しよう。
大抵の人間は以下の図のようなものとして、自我と認識を位置付けておる。
自我を自分として、それを基盤として認識があり、認識をもとにして感情や思考などがある。
勿論、このように考えていない、感じていないという者もおるであろう。
感覚が全てだとか、感情が自分とか、思考が己であると思う者も居るであろう。
そのような者も、良く自らの心を吟味して観察すれば、それらはやはり認識が基盤であり、更に自我によってあるものであると、認識して居ると要約する事が出来る。
この一般的な図式は阿頼耶識の作用によって、誤って認識されたものであり、真の模式図は以下のようなものになる。
阿頼耶識である認識から自我が生成し、感情、感覚などからの刺激に依って起きた自我が、それらに投射されている。
自我は阿頼耶識に蓄えられた言葉とイメージであり、感情、感覚などに依存して生起されるものなのじゃ。
この真の模式図を見れば、自我が我であり、感情、感覚などが我が物と言う誤謬が過ちであると言うのが判るであろう。
それらは阿頼耶識によって誤って認識された、自我とその対象に過ぎないのじゃ。
これらの図を良く見て理解すれば、我という思い、我が物という思いへの執着を離れられるじゃろう。
自我を我であると言う思い、対象を我が物と言う思いである我見、我身見などを離れ、自我の壊滅を恐れる事無く、修行に励むのじゃ。
投稿日:2009-05-31 Sun
わしはこれまで止観を教えてきたが、それらは法であり、悟るための方法に過ぎない。
その方法をどれほど習熟したからといって、悟りは訪れないものじゃ。
逆に方法や、それによって得た知識などに執着するなら、逆に悟りは遠ざかるばかりじゃ。
悟りを得るにはあくまでも、己を追求しなければならないのじゃ。
それを忘れて方法や知識に囚われ、それによって自我を補強するならば、法はもはや何の意味も無くなる。
多くの修行者がこの落とし穴に陥った。
そして今も多くの者が、方法や知識を誇り、悟りを遠ざけておる。
自ら正しい法を知り、それ故に他人を排斥しなければならないと考えるなら、それは己の自我を補強するための考えに他ならない。
そのような欺瞞が、真摯に己を追及する道となる事は在り得ない。
正しい知識に囚われるならば、その正しさの故に知識は悟りをもたらさない、誤ったものとなる。
例えば向こう岸に渡るために造られたイカダについて、どのように知り尽くしても向こうには渡れないように、目的のために造られた法についての知識を集める事に、時間を費やしてはならんのじゃ。
もしも人が何の法も知らず、知識も無いが、ただ己とは何なのか、何が我であり、我があると言えるのかと、真摯に追及し続けたなら、それだけでも悟りはやってくるじゃろう。
法とはそのような追求を、行い易くする為のものでしかないのじゃ。
それ故に我が子達よ、真の悟りを求めるなら、どこまでも己を追及して行くのじゃ。
例えばおぬしは手であろうか?
手が無くなれば、自分は無くなるじゃろうか?
或いは体の他の部分が己じゃろうか?
体のどこかが無くなれば己は無くなるじゃろうか?
或いは心の中の何かが自分じゃろうか?
感情が己であり、感情が無くなれば己は無くなるじゃろうか?
思考が己であり、思考が無くなれば己は無くなるじゃろうか?
或いは認識する作用が己であり、それが無くなれば自分は消えるじゃろうか?
或いは言葉が自分であり、言葉が無くなれば己は消えるじゃろうか?
それともイメージが己であり、イメージ出来なければ自分が無くなるじゃろうか?
このようにどこまでも己を追及し、諦める事無く続けていくならば、悟りは自ずから来るじゃろう。
投稿日:2009-07-17 Fri
十二因縁の最後では生の滅が老死の苦が滅するとあり、永らくこれは死ねば苦がなくなるというような、間違った解釈がされてきたものじゃ。
その為にお釈迦様の教えは、悲観的なものじゃと誤解までされてきた。
生の滅とは死ぬ事ではない。
これは間違って認識された生、生あるものという概念が滅するという事なのじゃ。
生あるものという概念がある限り、老病死の苦はあり、それが無くなれば苦はなくなる。
これこそが生が滅すれば苦が滅するという教えの真の意味なのじゃ。
人が無明や他の因縁により、生ある者という概念を持った時、生の衰える病や老いなどの苦を抱え、生の絶たれる死という苦が生じる。
誤った認識により、生あるものと、生の無いものという分別が起こり、それによって多くの苦が生じるのじゃ。
生あるものであるという概念が、他から離れたものである個我という概念を生み、他から離れた不安と恐怖の苦の海を変転としていく。
それが輪廻というものじゃ。
本来は他との隔たりは無く、一つのものであっても生あるものという分別が苦を生じる因となるのじゃ。
例えば一つの部屋にいろいろな地域から来た人が、何人も入っているとしよう。
何もしなければそのままじゃが、互いに皮膚の色や髪の色などで分別し、仲間を組んだりすると、喧嘩が始まったりする。
分別によって他から切り離されたと思う者が、他を恐れ、不安に思うからなのじゃ。
この因と縁を観察し、生あるものという概念を離れれば、もはや生の衰えである老病などの苦は無くなり、生の絶たれる死という苦もなくなる。
生あるものという概念によって生じた間違った認識が無くなれば、それをもとにした苦も無くなるのじゃ。
生あるものと生の無いものという分別が無くなれば、全ては始めから一つであったと認識される。
生あるものも無いものも、ただ一つの意識の表れに過ぎないのじゃ。
この大地も空も空間も全てが、本来同じ一つの意識を持っているだけなのじゃ。
それは変転しながら変わる事が無い。
言葉を越えた永遠の安らぎがある。
観察によって生あるものという概念を厭離すれば、始めからそこに居た事を認識するじゃろう。
投稿日:2009-09-01 Tue
精神を集中していると、次第に思考が静まっていき、何の思考も無い精神状態に入るじゃろう。
思考無しの意識があるそのような状態から、更に深まれば一時的に自我の抜け落ちた集中状態になる。
それをサマーディ、三昧と呼ぶ。
それは自我の無い集中、集中して一時的に自我の無くなった状態なのじゃ。
この状態では一時的ではあるが、自我が無くなっている故に、悟りと間違えてしまう者が多い。
サマーディの間だけは苦や迷いが無く、自我が無い為に平等性智も芽生えておる。
自我を離れた安心感や対象との一体感があり、歓喜も起こる。
そのような経験から、これは経典にあるような、悟りに違いないと、勝手に解釈してしまう。
中にはこれで自分は悟ったと勘違いし、天狗になって他人の言葉が聞けなくなり、却って真の悟りから遠ざかってしまう者までおる。
そのような者にとっては、サマーディはむしろ修行の妨げでしかなかった、と言えよう。
禅で言う大悟徹底というスローガンは、このような迷いに陥り易い者の為に、言われておるのじゃ。
このようにサマーディと真の悟りとは、違いがあると知って置けば迷うことは無い。
一番大きな違いはサマーディは一時的な体験でしかないが、悟りは恒久的な変化である事じゃ。
サマーディに入っている時は、迷いも苦も無いが、日常に戻ったら相変わらず迷いや苦に陥る。
このような状態ならば自分はまだサマーディを経験しただけと知るが良い。
悟りを得たならば迷いも苦も永遠に無くなる。
本人がそれをあえて受けようとしない限りは。
例えばある者が体が痛いとか、借金をどうしようとか悩んでいるとしよう。
その者が坐っている最中は、その悩みや苦が無い。
しかし、日常に戻ると再び体は痛み、借金をどうしようと悩んでいる。
このような体験があるならば、それはサマーディにまでしか到達していないと知れるじゃろう。
悟りを得たならば体の痛みや借金が無くなる訳ではないが、それについて悩んだり苦にしたりする事は無くなる。
もはや体や社会的な立場に対する執着が無くなっているからじゃ。
悟りとサマーディにはこのような違いがある事を知って、修行者は止まる事無く修行に励むのじゃ。
しかし、サマーディが全く役立たずと言う訳でもない。
高度に精神が集中し、自我も一時的であるが抜け出しておる。
そのような状態の時、自我の生成や仕組みを見たならば、自我が完全に消えて行く観照が起きる可能性が非常に高い。
もし修行者が天狗になる事無く、恐怖に打ち勝って、集中力を、観る者そのものに向けたならば、悟りの最初の関門を開く事が出来るじゃろう。
為す者も無く為される観照によって、自我が完全に抜け落ちたならば、もはや認識の誤謬を正す事は容易である。
サマーディに千回入った所で、真の悟りには及ばない。
例えば船に乗っている者が目的地の岸を見ただけの者と、目的地に本当にたどり着いた者のようなものじゃ。
岸を見ただけの者が大きな虎が居ると思っても本当は岩かもしれない。
岸にたどり着いた者は、実物を見て岩だと知れる。
真の悟りを得た者は智恵が生じ、全てを如実に見る事が出来る。
そして初めて何の意も無しに、全ては一つであると知れる。
語ることも、表すことも出来ない意識のみが存在すると判る。
そこに至れば死をも無に等しい砂粒の一つと了解する。
修行者はそのような真の悟りを得るまで、サマーディに止まる事無く進んでいくのじゃ。
投稿日:2009-11-16 Mon
例えば子供達が砂場で遊んでいるとしよう。
お互いに泥団子を作っていたら、まん丸で綺麗な泥団子を子供達は欲しがるじゃろう。
そのような泥団子を欲しがり、それを貰うためなら作った者の言う事を聞き、他の物と交換したりする事もあるじゃろう。
泥団子に執着し、可能な限り綺麗な泥団子を数多く集めようとする。
しかし、母親が呼びに来て、遊びが終わりになると泥団子は何の価値も無くなり、もとの泥の塊になるじゃろう。
この世にある金や権力や名声なども、全てこの泥団子のようなものじゃ。
それはこの世に居る間だけは役に立つ。
しかし、死という誰一人避けられない現実がやって来た時には何の役にもたたない。
泥団子が遊びの時間を過ぎればもとの泥になってしまうように、金や名声や権力も全て無くなってしまうものじゃ。
そして更に無くなってしまったものがある。
時間も無くなってしまうじゃろう。
金や名声や権力を追い求めるのに使った時間は、二度と元には戻らないものじゃ。
金や名声や権力は必ず失い、無くなってしまうものじゃ。
それを手に入れるために時間を使いすぎれば、泥団子を作りすぎた子供のように、費やした分だけの時間を失ってしまうものじゃ。
金や名声や権力を手に入れようとするのは、現実的に見えて実は子供が泥団子を作って遊んでいるのと変わり無いものじゃ。
死という誰もが避けられない現実がある限り、どれほど金や名声や権力を積み上げても時間によって無に還る。
それは100%確実な事であり、誰にとっても現実というものなのじゃ。
そのような死によって終わる事の無い境地だけが、本当の現実に対応していると言えるのじゃ。
そのような境地を得る為に時間を使うのなら、それは遊びではなく現実に生きる事と言えるじゃろう。
消えてしまう時間によって消えてしまう金や名声や権力というものを追いかけるならば、それは夢の中で生きているのと変わりは無い。
いずれ死によって何もかもが夢となるじゃろう。
消えてしまう時間によって、消える事の無いものを求めるならば、永遠に消える事の無い意識にたどり着くじゃろう。
死によっても消える事の無い不死の境地に至れば、不安や憂いは無くなる。
賢い者はこのような現実を知り、不死の境地に行く為に時間を使うがいいのじゃ。
真摯に追い求めればそれは必ずやって来る。
そして何もかもが始めから在ったのだと、静寂と平等と沈黙の中で知るじゃろう。
投稿日:2010-08-12 Thu
昔、お釈迦様と同じ時代に六師外道という六人の導師がおったそうじゃ。
その中の一人にこの世には善も悪もないと言う者が居ったのじゃ。
善い事をしても善い報いはなく、悪い事をしても悪い報いはないという。
お釈迦様はそのような者に対して、そのように説くべきではないと言われたのじゃ。
世には善い事と悪い事があり、善い事をすれば善い報いがあり、悪い事をすれば悪い報いがある。
そのように説く事こそ正しい教えと言われたのじゃ。
一説によれば六人の導師も悟りを得ていたという。
全てを否定するのも真我の法の一部と言えるじゃろう。
それでも悟りを得た者の間にも優劣があり、教えにも正否があるものじゃ。
善悪の基準も仮設された人の世の中にあるものであり、本来は無いとさえ言えようが、それでも善悪はあり、善悪の報いもあると教えるのが、お釈迦様の教えなのじゃ。
善悪が無く、その報いもないと言えば、戒が浅く、軽率な者は悪事に走る事もあるじゃろう。
人々は善い事をしなくなり、獣のように争い合って暮らすじゃろう。
自らの欲にのみ従い、他から奪う事だけを考えるようになる。
そして実際に個我の観念を持つ者には、やはり悪事には悪い報いがある。
そのような教えを真に受けて悪事をした者は、この世で苦しみ、死んでからも苦しむものじゃ。
それ故に人を教え導く者は、そのように説くべきではないと、お釈迦様は言われたのじゃ。
そのような説は人を過ちに導くものであり、愚かな教えであり、外道の説なのじゃ。
悟りを得れば世を超脱し、善悪の基準も無くなるが、それでもあえてそう説くべきではないのじゃ。
例えば学校に入っている者には校則というものがある。
すでに学校を卒業した者が、そんなものは無いといって、生徒に校則を破らせれば良い先輩ではないじゃろう。
校則を守って学問に励むのじゃと、教えるのが正しい教え方といえるじゃろう。
そのように悟りを得ればもはや善悪の基準も無くなるが、未だ個我の観念を脱していない者には善悪がある。
そんなものは無いと教えれば、ただ害だけがあって良い事は一つも無く、良い導師とは言えないのじゃ。
世にいる内には善悪があり、それを守って修行するように教えるのが、正しい教えといえるのじゃ。
悟りを得て善悪の基準を脱していながら、あえて人には善悪があり、その報いがあると教えるのが、お釈迦様の深い智恵による教えなのじゃ。
実際に悪いことばかりしていれば多くの悪しき事が起こり、心は乱れ修行どころではなくなる。
善い事をすれば善い報いがあり、心が静まり、落ち着いて修行ができる。
それ故にお釈迦様の教えは有用なものであり、正しく、善く説かれたものとして修行者も、目覚めた者も尊ぶのじゃ。
みんなも善い事をして、心穏やかに修行に励むのじゃ。
投稿日:2011-07-26 Tue
お釈迦様は2000年前に、苦しみから逃れる方法を示した。
しかし、人は何故苦しむのか?
それについての説明はされなかったのじゃ。
昔のインドではそれでもよかったのじゃろう。
東洋では精神的な指導者に対する信頼があり、何も説明しなくとも、人々は信頼して修行に入ったものじゃ。
今は西洋的な学問が主流になり、何でも説明しなくては納得して修行に入ることが出来ない者も多いのじゃ。
人は何故苦しむのか?
簡単に言ってしまえば、記憶への依存があるからなのじゃ。
認識に記憶への依存が在る故に、思考や感情にも依存があり、そこから苦が生じるのじゃ。
記憶に依存している故に、縁に触れて苦が何度も起こる。
そしてそれを制御できない。
それが度重なる苦しみの原因なのじゃ。
記憶に依存していると、なぜ苦が起こるのじゃろうか?
記憶による苦には、いくつか種類がある。
一つには以前に起きた苦しかった事や悲しかった事を、何度も何度も思い出して、繰り返し苦を味わう事が在る。
そしてそれがまた起こりはしないかと、不安になる。
PTSDとか不安の原因になるものじゃ。
死苦や貧窮の不安もこの中に入るじゃろう。
また、記憶による認識があれば、以前に味わった快を再び味わおうと執着する苦が在る。
それが叶わないと苦が生じる。
叶っても記憶によるものであるから、何度でも味わおうと限りなく執着する。
そしてそれが以前よりも刺激が少なければ、もっと強い刺激を求めたりするものじゃ。
五蘊盛苦、愛別離苦や欲求不得苦などがこれが原因で起こるものじゃ。
同じように以前に不快な記憶があれば、それを避けようとする事でまた苦が生じる。
避けられないと苦が生じる。
避けられても記憶によるものであるから、更に不安になり避けようとするものじゃ。
老病の苦や怨憎会苦などがこれに当たるじゃろう。
そして、記憶によって言葉とイメージによる自我が生じると、それもまた苦の原因になる。
記憶が消えると己が消えるという不安と恐怖による苦。
我慢や傲慢によって他人と争う苦。
言葉によって傷つけられる苦。
孤独や寂しさという苦。
本来は無い言葉とイメージによって起こるものを、己であると認識することで、このような苦が生じるのじゃ。
これも五蘊盛苦と言えるじゃろう。
そのような苦を滅するにはどうすれば良いのか?
それには観察をするのが、お釈迦様の説いた法なのじゃ。
記憶に依存した認識や思考は、苦が生じる習慣を作り、それが何度も繰り返される故に、そして、その習慣が自分であると同一化する故に、苦は去らないのじゃ。
観察はそのような習慣による苦の連鎖と、己との同一化を、終わらすことが出来る。
それ故に観察によって苦は滅するのじゃ。
苦の原因から、苦が生じる過程を観察し、苦が生じ、そこからさらに逃避に至る全てを観察すれば、苦と己との同一化が無くなり、習慣も滅するのじゃ。
さらに原因が無ければ、苦の過程が無く、苦が生じ逃避に至る結果も無いと、逆から観察すれば、観察は完全となり、苦は完全に厭離される。
それこそがお釈迦様の残された法なのじゃ。
日毎苦しみに悩む者は、この法を良く知り、習い修めあらゆる苦を滅して進むのじゃ。
投稿日:2012-04-28 Sat
更に姿勢について研究するのじゃ。
古来から下腹部の丹田については、多くの研究が成されてきた。
とにかく力をいれるとか、集中すれば良いとか、いろいろと言われてきたものじゃ。
しかし、無理に力を入れるだけでは、疲れるだけなのじゃ。
丹田に入れる力は軽く、腰の力と釣り合うだけでいいのじゃ。
正しい姿勢でそうすれば、気が上昇し、自然にサマーディに至るのじゃ。
骨盤を真っ直ぐにした状態で座り、腰にかかる力と釣り合うだけの力を下腹部に入れるのじゃ。
腰の力が強ければ強く、弱ければ弱い力を入れる。
力が釣り合えば、自然に快が生じる。
正しい姿勢である事を体が教えてくれるのじゃ。
それが完全に出来れば気が上昇し、思考は自然に停止する。
雑念を処理しようとしなくとも、もはや浮かばないのじゃ。
同じように長年座っていても、ある者はサマーディに至り、別の者はなかなか入れないのは、この姿勢のこつを把握できない事が原因のものも多いのじゃ。
先ずは正しい姿勢を作り、少しずつ丹田に力を入れて行くと良い。
座っただけでも倒れないように、腰に力が入っておる。
後は下腹の力を丁度上手く釣り合わせるだけなのじゃ。
少しずつ丹田に力を入れて、体の反応を見ながら調節するのじゃ。
力を入れ過ぎたと感じれば力を抜き、力が足りないと感じるならば、更に力を入れるのじゃ。
寝ている者は自然に腰に力が入らない故に、意識して腰に力を入れ、腹の力と釣り合わせるのじゃ。
座ったままより少し難しいかもしれんが、修行すれば出来るようになるじゃろう。
ある程度瞑想を行い、何の変化もないという者は、このように姿勢を研究して見ると良いじゃろう。
瞑想とは体の力によって精神を統御するものじゃ。
体の秘密を知って、更に精進するのじゃ。
投稿日:2012-07-30 Mon
悟りとは記憶に依存した認識が滅し、本来の認識に回帰する事と言えるものじゃ。
認識が記憶に依存していると、苦が生じ、観念による妄想によって実際の状況が見えず、智恵も完全ではないのじゃ。
記憶に依存した認識が滅すれば、本来の認識が起こり、苦が全て無くなり、観念による妄想を離れて実際の世界が見えるのじゃ。
認識能力が記憶に依存していると、苦は次々に生じてしまうものじゃ。
大きな事故に遭ったりすれば、人はそれを何かのきっかけで何度も思い出し、悩み苦しむものじゃ。
それが心の傷による苦なのじゃ。
愛しい者と分かれる苦も、その者を記憶し、執着しつづける事が苦になるのじゃ。
憎い者と会わなければならない苦も、その憎しみを記憶し、持ちつづける事が苦になる。
欲する物が得られない苦、貧困の苦、老病死の苦なども自らの肉体や物を記憶し、執着し続ける事で苦になるものじゃ。
そのような苦は認識能力が記憶に依存している故に、記憶によって何度も思い起こされ、自らの意志では止める事が出来ないのじゃ。
ただお釈迦様の教えられた通り、観察する事で滅する事が出来る。
観察は苦と己との同一化を引き離し、それが己ではなく、己のものでもない事を気づかせる。
そして苦は厭離されるのじゃ。
しかし、全ての苦を滅し、全ての煩悩を無くした事が悟りなのではないのじゃ。
記憶に依存した認識がある限り、全ての苦を滅したとしても、苦は又作られ続ける。
自我を滅し、記憶に依存した認識をも滅した時、一切の苦から永遠に解放されるのじゃ。
苦を滅する法は囚われを離れ、集中力と実行力を養うためにあるものじゃ。
多くの苦を抱えていれば、修行する事さえ出来ないものじゃ。
苦を滅し、安楽な境地に入る事で囚われも無くなり、落ち着いて修行できるのじゃ。
そして原因から生じる縁起の仕組みを知る事で、己と言う観念もまた原因から生じ、原因が無ければ起こらない事を気づくためにも行うべきものなのじゃ。
その法によって苦を滅したとしても、修行者はさらに精進し、一切の苦を永遠に滅する悟りへと至るのじゃ。
投稿日:2012-10-30 Tue
観察というものは、人によってはかなり難しい修行といえるじゃろう。
多くの知識を得ている者ほど、逆に観察が困難であったりする。
通常の学問では初めに知識が与えられる。
地面に転がっている硬いのが石であるとか、緑のものが草であるとか、最初に知識が与えられ、それを見たものに当てはめるものじゃ。
観察は逆に見たり、感じたりする事が先になるのじゃ。
何かを見て白いとか緑色であると、感じたそのままを認識するのじゃ。
それには知識は逆に邪魔になる。
石が硬いと思っていると、柔らかい石があったり、水に沈むと想っていると水に浮く石もあったりする。
知識があれば石は硬い筈だから柔らかいのは石ではないとか、浮くのは石ではないとか想ったりするじゃろう。
初めに与えられた知識があれば、それを優先して現実を否定しようとするのが、記憶に依存した認識を持つ人間の習性であるからなのじゃ。
記憶の中の知識が世界であり、そこから逃れられないのじゃ。
観察も行っている積りで、実は記憶の連想や思考をしているだけになってしまう事もあるじゃろう。
観察と連想や思考は全く違うのじゃ。
観察は実際に在るものを観て、そこから特徴を見出すものじゃ。
思考や連想は記憶にある知識や情報を、起こるままに操作しているに過ぎないのじゃ。
観察は常に新しく、今まで知らなかった事がわかるのじゃ。
思考や連想は過去の記憶が元であるから、新しいものは無いのじゃ。
例えば自分の手を観察すると、関節に皺が三本あるとか気づいたりするじゃろう。
昨日は気づかなかったのに、今日は気づいた。
それが観察によって実際に在るものを見たという事なのじゃ。
真の観察は常に新しい、何かに気づく事なのじゃ。
それには記憶による知識や情報は邪魔になるだけなのじゃ。
知識や情報やマニュアルや昨日観察したという意識さえ、今日の観察の妨げになるのじゃ。
毎日、新しく初めて観るような心掛けで、観察を行わなければならないのじゃ。
知識や情報によって手に皺があると、新しく気づくことは出来ないじゃろう。
逆に手には皺がないという間違った知識や情報があれば、観察の妨げになったりもするのじゃ。
通常の学問のように、初めに与えられた知識や情報によって、実際にあるものを当てはめて考えるという習慣があれば、そのように知識や情報が観察を困難にするのじゃ。
知識や情報やマニュアルや昨日観察した記憶を捨て、知識を当てはめる学問の習慣さえも捨てて、今生まれて初めて対象を観るかのように、赤子のような眼で観察するのじゃ。
自分自身の感覚だけを頼りに、今の苦や苦の連続する性質や苦の原因を、正しく観察するならば、苦は必ず滅するのじゃ。
そして己というものも又、習慣による心の連想によって起こるものであると気づいたならば、それもまた滅するじゃろう。
更に己が無い事を観るものも、記憶と記憶の対象に依存して在ると錯覚されているものであると観察できれば、悟りは向こうから訪れるのじゃ。
投稿日:2013-05-02 Thu
観察の為の手引きとして念処経と大念処経というものがあるのじゃ。
内容は大体同じものじゃ。
観察の対象である己を、身体、感覚、心、法の四つに分けて、それぞれを詳細に観察して行くものじゃ。
このように全てを観察すれば、心身の何れかに自分を投射している仕組みが観察され、厭離が起こるのを促進しているのじゃ。
人は自我を肉体や感覚や精神の思考や感情や認識などに投射しておる。
それがどこか探すより、心身の全てを観察してしまえば、どれかは当るであろうという意図によるものなのじゃ。
ある意味、観察や悟りのマニュアルとも言えるじゃろう。
先ずは肉体から観察して行くのじゃ。
肉体をありのままに観察し、肉体への自己同一化を止めるのじゃ。
そして感覚を観察し、感覚からの厭離を目指すのじゃ。
特に眼や耳に対して見るものや聞いたものが己であると言う謬見を離れるのじゃ。
更に心を観察し、思考や感情や認識や記憶に対する自己同一化を離れるのじゃ。
思考が観察されれば思考に対する自己同一化が消え、感情が観察されれば感情が己であるとする認識が無くなるじゃろう。
それらを観察するものとして法もまた、正しく実践されているか観察されなければならんのじゃ。
そのように経に従って、全て観察されれば、悟りは訪れるかと言えば、そうでもないのじゃ。
マニュアル通りにすれば、直ちに悟りが訪れると言う事はないのじゃ。
例えば思考が己であると思う者が、わざと思考はあまり観察しないで、全てマニュアル通りに観察したと、想ったりもするのじゃ。
自我を己と思い、己が消えるという恐れがあれば、自我は己を守るために、さまざまな誤魔化しをしたりするのじゃ。
どんなマニュアルも、自我が消失する恐れから逃げる者を、悟りに導く事は出来ないのじゃ。
それがマニュアルの限界であるのじゃ。
念処経も真摯に悟りを求める者には役立つじゃろう。
しかし、悟りを求める気の無い者には無意味なのじゃ。
そのようにこの経にも限界がある事を知り、囚われる事無く学ぶが良いのじゃ。
投稿日:2013-06-02 Sun
頭を使うのが好きな者は思考に自分を投射し、思考が自分であると思ったりするものじゃ。
思考が自分であると思えば、常に思考し続ける事を好み、思考に囚われてしまうじゃろう。
そのようであれば身心は消耗し、ノイローゼや心神が衰弱してしまう事もあるのじゃ。
何事もやりすぎれば心身に悪影響が出るように、思考し続けることも身心に悪いのじゃ。
思考し続けていると、何か新しい事がわかったような気になり、進歩したように思う事もあるじゃろう。
しかし、直ぐに新しい思考が始まり、前にわかったと思う事も否定して、もっともっと新しい事が判った気になる。
そのように進歩したような気になっても、実は同じ事を同じ思考回路で何度も繰り返しているだけであり、少しも進歩はしていないのじゃ。
思考を自分と思うという事は、自分を意識するためには思考し続けるしかない故に、新しい事が判っても判らなくても、思考し続けるのじゃ。
思考する事そのものが目的になってしまっているのじゃ。
本来は真実を知るための思考が、目的になってしまっては本末転倒なのじゃ。
そして延々と続けられた思考は止める事が出来なくなり、休もうと思っても頭が勝手に思考を続けてしまうじゃろう。
そうなれば本当にノイローゼ等になってしまうのじゃ。
思考には対象があり、対象が無ければ思考は無くなるじゃろう。
例えばりんごについて考えた時に思考はあり、りんごについて考えなければ思考も無いのじゃ。
そのように対象に依存して思考は存在するのじゃ。
対象に依存し、対象が無ければ存在しない思考は、実は己ではなく、己のものですらないのじゃ。
そのような思考を制御するために、集中の行はあるのじゃ。
数息観を行ったり、阿弥陀経等を読んで仏陀の姿をイメージしていれば、やがて思考は静かになり、消えていくものじゃ。
自ら消そうと思わなくとも、集中によって思考は静まるのじゃ。
思考は無くなってもそこに意識は在るじゃろう。
思考の無い安らぎの意識に達すれば、もはや思考が己であるという囚われは無くなるじゃろう。
そのようであれば正しい見解に達したといえるのじゃ。
投稿日:2013-08-31 Sat
集中力が身につき修行が進めば人は瞑想中に忘我の状態に入るのじゃ。
そのような我と言う観念の無い集中状態を三昧、サマーディと呼ぶのじゃ。
一時的に我を忘れ、在りのままの世界の姿を垣間見えるために、昔から真の悟りと間違われてきたのじゃ。
それは未だ真の悟りではなく、禅では小悟と言われる段階なのじゃ。
更に精進して自我を滅し、認識をも超えなければ真の悟りではないのじゃ。
その段階で驕り、自らを目覚めたと思えば修行も止まり、真の悟りは訪れないのじゃ。
サマーディを続け、その状態を極めれば悟りに至る事もあるのじゃ。
それには対象の無いサマーディにまで到達しなければならないのじゃ。
対象に集中する意志がある限り、心の働きも止まらず、自我は完全に観られる事は無いからなのじゃ。
対象の無いサマーディにまで到達すれば、心は止まり、自我は観られるものとなり、厭離されるのじゃ。
しかし、そこまでに至るには長い時間と才能が必要になるのじゃ。
観察を行えば悟りはもっと早くなるのじゃ。
対象の無いサマーディによっても最後には自我を観察する事で厭離は起こるのじゃ。
集中と観察を二つながら行う事によって、悟りは速やかに訪れるのじゃ。
瞑想によってサマーディにまで至ったならば、忘我の状態から、きっかけによって起こる自我を観察するようにするのじゃ。
昔の僧も烏の声とか、鐘の音とか、セミの声を聞いて悟ったと言う者が多いのじゃ。
忘我の状態に在る時、それらの音を聞いて、記憶から起こる自我を見る事が出来たのじゃ。
そのようにサマーディに入ったら、油断無く注意深く観察し、自我の起こる瞬間を捉えるのじゃ。
自我は記憶から縁によって起こるじゃろう。
強い集中力によって、それが観られれば厭離が起こるのじゃ。
自我が厭離され滅すれば、認識も容易く滅することが出来るのじゃ。
修行者はそのように修行の道に難しいものと容易いものがある事を知り、迷うことなく進むのじゃ。
投稿日:2013-10-02 Wed
真の悟りは一つであるが、悟りへの道は幾つもあるものじゃ。
先ず最初には意志による道がある。
強い意志を持って死を克服し、悟りを得ようとすれば短時間の内に悟りが得られるものじゃ。
お釈迦様は七日間の瞑想で悟り、マハリシも一晩で悟ったと言う。
人間の意志はこの世で最も強い力であるから、本当に決意して死を克服しようとすれば自然に短時間の内に悟りに至れるのじゃ。
これには自分の全てを捨てても良いと思うような、強い意志が必要なのじゃ。
大抵の者は自分を含めて全てを捨ててしまうという決意が出来ない故に、悟りもなかなか訪れないのじゃ。
そのような者のために様々な法があるのじゃ。
次には数息観などの集中の瞑想による道があるのじゃ。
集中力を養い、忘我によるサマーディに到達し、更には対象の無いサマーディにまで至れば無我となり、悟りに至れるのじゃ。
しかし無我で止まってしまったりすると小悟で終るのじゃ。
無我になった後にその状態を観る認識をも滅して無認識に至れば真の悟りなのじゃ。
この道は長い時間と才能が必要になる故に、限られた者しか成就できないのじゃ。
神仏のイメージを用い、帰依する事によって無我に至るのも集中の法の一種なのじゃ。
しかし、神仏に執着してしまうと対象を消す事が出来ずに、止まってしまうのじゃ。
チベットのミラレパなども神仏のイメージは集中の為のものでしかないと言って居るのじゃ。
神仏に強い信仰があれば集中力も増し、サマーディに至るのも早いが、信仰が邪魔をして行き詰まる事もある法なのじゃ。
人によっては袋小路にもなる道なのじゃ。
更には観察の道があるのじゃ。
観察による道は観察できる者が行なえば早く悟りに至れるが、観察するのが人には困難なのじゃ。
全ての道はいずれにしても自我を観て無我にいたるものであるから、最初から観察する修練を積めば悟りも早いのじゃ。
しかし観察は記憶に依存した認識を持つ人間には、難しいものでもあるのじゃ。
自分では観察している積りでも、つい記憶から生じた観念を作り出している事もあるからのう。
今ここに生じる心の有様をそのままに観られなければ観察とはいえないのじゃ。
例えば昨日は心にこのような感情が湧いたとか思えば、それはもう観察ではなく記憶の想起になるからのう。
常に今ここに集中し、心を観察しつづければ観るものを観るのも近いのじゃ。
ある程度集中力を養い、観察を行えば大抵の者には最も素早く悟りに至れる止観の道となるのじゃ。
集中の法によって心をコントロールする力と技を身につけ、観察が出来るようになれば、悟りは素早く訪れるのじゃ。
大抵の者は観察力が無く、持続力も無い故に先ずは集中の法で観察力と持続力を身につけるのじゃ。
そのようにして観察するのであるから、合理的に悟りも近くなるのじゃ。
止観の道こそ真のお釈迦様の教えと言えるのじゃ。
このように種々の道があるのも人に種々の違いがあるからなのじゃ。
止観の道は極めて合理的で近道なのであるが、人によってはどうにも出来ないという事もあるじゃろう。
そのような者には集中の道こそ早かったりするかもしれんのじゃ。
このように人には種々の性格の違いがあることを知り、修行者はそれぞれの道の優劣を知り、己にあった道を選んで進むが良いのじゃ。
投稿日:2013-10-29 Tue
観察を行う目的は気づきを得るためなのじゃ。
気付く事で人は苦を厭離し、自由になるのじゃ。
例えば道の真ん中にでかい蛇が居ると見た時、人は恐れて道を行く事が出来なくなるじゃろう。
しかしよく観察して、それがへびではなく縄であったと気づいたならば、もはや恐れは無く、自由に道を行く事が出来るじゃろう。
そのように気付きとは、対象を良く観察して真実を見出す事なのじゃ。
観察して真実に気づいたとしても、何か外部の世界が変化する訳ではない。
蛇がどこかに行き、縄が現れたのではない。
蛇がどこかに行ったから恐れが消えて、道を行けるようになったのでもない。
縄は元から縄であり、自分が知らなかっただけなのじゃ。
元々縄であったものを、蛇と間違えていた自分の認識が正されるのじゃ。
そして恐れが無くなり、道を自由に行く事が出来るのじゃ。
気付きによって変わったのは、自分の認識なのじゃ。
認識が変わった故に、恐れが無くなり、自由に道を行けるようにもなったのじゃ。
それが気付く事による解放なのじゃ。
同じようにもし人が肉体が自分であり、肉体以外に自分は無いと認識していたならば、肉体がやがて無くなる恐れがあり、恐れによって苦を生じる事になるじゃろう。
感情や思考や認識能力等もそれだけが自分であり、他に自分は無いと認識していれば、同じように恐れと苦があるじゃろう。
しかし、観察する事によって自我を滅し、それらが己ではなく、己のものでもないと気付いたならば、恐れは消え、苦も無くなるのじゃ。
それら肉体や肉体の作用や能力が変化したり、消えたりするのではないのじゃ。
ただ自らの認識が変化しただけで、恐れは消え、苦は無くなり、心は自由になるのじゃ。
それが気づく事の作用なのじゃ。
悟りも自我の作用に気付く事で自我は無いと知り、認識の作用に気付く事で認識を滅して得られるのじゃ。
肉体や心が変化するのではなく、自らの心の真実のあり方を見出す事で、悟りは得られるのじゃ。
修行者はただひたすらに心を集中し、自らの本心を観察し続けるのじゃ。
そうすれば気付きが訪れ、悟りは得られるじゃろう。
投稿日:2014-03-30 Sun
人が死ねば肉体は無くなり、意識だけになるじゃろう。
そうすると肉体や肉体の能力である思考や感情などがなくなり、それに依存していた者は己がなくなったと想うのじゃ。
実際には全ては意識であり、肉体もその能力も意識の表れに過ぎないのじゃ。
天も地も海も空間さえも一つの意識であるから、その中にある肉体やその能力などは小さな一部に過ぎないのじゃ。
例えば爪の先がなくなっても人は己がなくなったとか、もはや何もなくなったとか想わないじゃろう。
そのように肉体やその能力などは意識の一部であり、それが変化し、操縦する力が喪失するだけであるから何も無くなったりしないのじゃ。
そのように観察する者には死も、もはや存在しないのじゃ。
人が己の消滅として恐ろしいイメージと共に想起する死は、完全に滅しているのじゃ。
肉体を己と想って執着していた者は、再び肉体を持つ事を望むじゃろう。
その執着に従って、人は肉体に惹かれていくのじゃ。
しかし己の行いの報いによって、得られる肉体も違うのじゃ。
良き事をしてきた良い心の者には良い環境の肉体が得られるじゃろう。
悪しき事をしてきた悪い心の者には、悪い所の肉体が得られるじゃろう。
智慧によって分けられる報いには抗いようも無いのじゃ。
そして悟りを得た仏陀はもはや肉体を必要としない故に、全てであるがままに安らぐのじゃ。
このような正しい知によって修行者や賢い者は善事を心掛け、真の悟りを目指すが良いのじゃ。
投稿日:2014-06-29 Sun
悟りを得るには先ず自我を滅しなければならんのじゃ。
人によっては何故そのような事をしなければならないのかとか、そんな事は出来ないとか思うものも居るじゃろう。
自我があっても特に支障は無く、楽しく生活しているとか、自我が自分を守っているなどとも思っているじゃろう。
或いは自我が無ければ何も出来ないとか、むしろ滅するべきではないなどとも思っているかもしれん。
例えば誰かが川を渡るのに泥の船を創っているとしよう。
その舟が自分を守ってくれるとか、どこかに行くのに必要とか自分のものと思うじゃろう。
それを水の上に浮かべて乗り込むと、泥の船は次第に溶けていき、水が入ってくるじゃろう。
しまいには無くなってしまうが、その舟に乗っている者が、これは自分のものであり、棄てる事は出来ないとか思って居れば一緒に沈んでしまうじゃろう。
自我も同じようなものじゃ。
それが自分を守るとか、生きるのに必要とか自分であるとか思っていても、やがては消えていくしかないものなのじゃ。
何故ならばそれは言葉とイメージによる観念であり、それが肉体や感情や思考や記憶などに投射されているだけであるからなのじゃ。
その認識は消え去り、肉体や心の働きも消えていく。
消えて行くものを自分であり、自分のものであると思っていれば消滅する苦が起こるのじゃ。
肉体や思考や感情や記憶に投射される自我を自分と思うのは、自分ではない消え去るものを自分と思い、自分のものと認識しているだけなのじゃ。
誤って自分であると認識された観念とそれが投射された身心による自我があるかぎり、苦は在り続けるのじゃ。
誤って認識されているものを正す事が、自我を滅する事になるのじゃ。
本来誤って認識されていたものを正すだけであるから、実は何も滅したり失ったりする事も無いのじゃ。
そのような真実を知って修行者は、自我を離れるために修行し続けるがよいのじゃ。
投稿日:2007-10-16 Tue
ダンマパダ(法句経)の一句じゃ。
【 第十七章 怒 り 】
221 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。
ここに名称と形態と書いてあるのが判るじゃろう。
まさにこれが悟りを得なければ見過ごしてしまうような言葉じゃ。
人間は名前と形とで全てを認識しておる。
今風に言えば言葉とイメージとでも言おうか。
人が何かを認識したというのは、この言葉とイメージを記憶し、内外に当てはめることが出来るということなのじゃ。
それは当然、自我を認識する時も同様。
人は言葉とイメージによって自分を認識し、この体や心の作用に当てはめているのじゃ。
この言葉に自我からの反発を覚える者も居るだろう。
結局、お釈迦様の言葉は悟りを得たものにしか判らないものじゃ。
2000年前に、既に認識のメカニズムを看破していたお釈迦様の真の偉大さは、言葉に尽くせぬものがあると言えよう。
お釈迦様は悟りを得る前には漠然と偉い人と思っていただけだが、その言葉が理解出来る程、ますます偉大さが判って来たものじゃ。
投稿日:2007-12-15 Sat
さて、今回はお釈迦さまのありがたいお言葉をみんなで、お勉強しようではないか。
ダンマパダ、法句経にはこのような言葉がある。
114 不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。
115 最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれている。
ブッダの真理の言葉 感興の言葉/中村元 訳より。
素晴らしい言葉じゃ。
昔、中国の孔子などは、朝に真理を聞けば、夕べには死んでもよい、と言ったそうじゃが、彼も当時仏の教えが中国にあれば、それを修行したじゃろう。
お釈迦さまの言われる不死の境地、それは確かにある。
死を超えた境地に、人は確かにたどり着けるのじゃ。
修行をすれば死を超越し、最上の真理を見ることが出来る。
そうすればこの世は苦しみの世界から、全て楽しみの世界に変わるのじゃ。
お釈迦さまは最後の旅で、楽しいと言われた。
死を迎える事を知りながら、楽しく、喜びながら、旅をされたのじゃ。
それも自らが不死の境地にあり、最上の真理を見たからなのじゃ。
お釈迦さまの教えは、絶望や、諦めを目指すものではない。
不死の境地に到達し、最上の真理を見て、喜びの人生を送り、楽しみながら死を迎えることのできる教えこそ、真のお釈迦さまの教えなのじゃ。
みんなも不死の境地を目指して頑張るのじゃ。
投稿日:2007-12-22 Sat
さて今日は久しぶりにダンマパダ(法句経)の講義じゃ。
103 戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。
104、105 自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、──このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。
【真理のことば】ダンマパダ<中村 元訳> より
戦場において百万の敵に勝つより、自己に克つ者の方が偉いとお釈迦様は言っておる。
自己に克つと言う事は、修行においては自らの自我を解体し、己を虚心に観ることにも喩えられよう。
自我を解体するのは、何故それほどまでに難しいのじゃろうか。
人が自らの自我を自分であると認識しているうちには、決してそれを壊す事も観る事もしないものじゃ。それは自分を壊し、観ることになるのじゃから。
他にも自我は自らを守る城壁であると、考える者もおる。
不安や恐怖から自分を守る心の動きに、自我のイメージを投射しておるのじゃ。
自我が無くなれば、今まで抑えてきた不安や恐怖が全て噴出してくるのでは無いかと、恐れておるのじゃ。
今まで逃れ、眼を背けてきた恐怖や不安に初めて目を向けようとするのは、とても大きな勇気が要るものじゃ。
それ故に百万の敵に勝つよりも、自己に克つ者が、最上の勝利者と呼べるのじゃ。
今、自ら最上の勝利者となろうとする者は、真実の言葉を聞くがいい。
自我は自分ではない。
そして自我は不安や恐怖を抑える役割もしておらぬ。
むしろ自我は不安や恐怖を生みだし、それを繰り返す役割を果たしておるに過ぎないのじゃ。
過去の恐怖に自我を投射する事によって、恐怖は繰り返され、増大し、隠蔽されて長く不安のもととなるのじゃ。
故に自我を解体し、観照によって無くせば、安心が訪れるのじゃ。
不安が無い事による絶対安心の境地が、そこには訪れる。
それはおぬしらが今まで味わった事の無い、無上の安らぎ。
完全にして無謬な、真の安らぎなのじゃ。
その境地は実在する。
わしはそれを体感している。
常にそこに居て、いかなる時も不安なく過ごしている。
みんなも修行に励み一時も早く、安らぎを手に入れるのじゃ。
投稿日:2008-01-06 Sun
ダンマパダにはこう書いてある。
11 まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(マコト)に達しない。
12 まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しき思いにしたがって、ついに真実(マコト)に達する。
【真理のことば】ダンマパダ<中村 元訳> より。
これは子供に聞かせるような教えじゃ、とみんなは思うかもしれん。
まことであるものをまことと知るとは、当たり前ではないか、と思うじゃろう。
しかし、現実にはまことであるものをまことであると知るのは、とても難しく、厳しく己に克つ事が必要とされるのじゃ。
世の中には嘘が多いものじゃ。仕事の上で、あるいは対人関係で、ちょっとした調整や気配りで細かい嘘をついてしまう者も多いじゃろう。
小さな嘘をついているうちに、嘘をつくことが当然の事となってしまい、何時の間にか嘘で心が塗り固められてしまう。
人間の心は習慣の力によって流され易いのじゃから、嘘をつくことが習慣になってしまえば、もはやまことであるものが見えなくなってしまうのじゃ。
みんなにも経験があるじゃろう。
例えば宣伝文句などにも、嘘臭いものだと思ってはいても、余りに繰り返されると何時の間にか受け入れてしまう。
日頃から自分が嘘に塗れている者は、嘘に関する感受性が下がってしまい、他人の嘘にも鈍くなってしまうものじゃ。
そのように小さな嘘を続けているうちに、次第に何が本当か判らなくなってしまう。
このような欠陥は、己の心を観察しようとした時、大きな障害になるものじゃ。修行の時にも己の心を誤魔化そうとする習慣が働いてしまうからじゃ。
それゆえに、まことであるものをまことであると、日頃から見なしておかなければならないのじゃ。
しかし、仕事の上で調整や人間関係で嘘をつかなければならない者も居るじゃろう。
そのような時には嘘をついてもいいが、心の中では「今、私は仕事の為に嘘をついた。人間関係を円滑にする為に嘘をついた」と、はっきり宣言するのじゃ。
それに対して批判も肯定もしない。
ただ、己の心にまことであるものをまことであると宣言する。
それが修行なのじゃ。
このように日常からまことであるものをまことであると見なしておれば、心の観察は容易になって来るじゃろう。
己の心に嘘をつかなければ、心の奥に隠された秘密は、少しずつ開かれてくるじゃろう。
その秘密が開かされるまで、みんな頑張るのじゃ。
投稿日:2008-09-24 Wed
「ダンマパダ」法句経には、このような言葉がある。
50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。
なかなか味わい深い言葉じゃ。
この言葉はどんな時にも、自分を観察する事の大切さを教えてくれる。
殆どの人は、自分の事はさておき、他人があれをした、これをしてくれないと、他人のあら捜しばかりしておるものじゃ。
それはわしとて例外ではない。
ここで人があまりおかしな事を書いてあると、つい、教えてやりたくなってしまうものじゃ。
そんな時はこの言葉を思い出すのじゃ。
他人の過失を見るなかれ・・と。
どんな時も、常に自分を、自分のした事を、そして、しなかった事だけを、見つめる事が正しいのだと、この言葉が教えてくれる。
他人の過失を非難していれば、気分がいいというのは、誰にもあるじゃろう。
しかし、それは大抵は攻撃欲を満足させる我欲であり、拳の変わりに言葉などを使っている暴力に過ぎない事も多いものじゃ。
他人が本当に間違っている時もあるじゃろう。
そのような時も、まずそれが現在の状況で正すべきか、自分にそれを正す資格と、能力があるか、問う事が大事じゃと、言えるじゃろう。
日常でも常に自分を、自分のした事を見つめ続けていれば、修行に入った時も、速やかに自分を観る事が出来るじゃろう。
そして、生活する上でも常に他人への過度の干渉を止め、自らはつつしんでいれば、トラブルや憂い悩む事は少なくなるじゃろう。
誰かの言葉や動作で頭にきた時、自分がきれてしまった時なども、この言葉を思い出すだけで、直ぐに冷静になれるじゃろう。
常に自分を観るという事の重要さを、この言葉は教えてくれる。
真の導師は常に人に対して、自分に眼を向けさせようとしておる。
それが世に生きる人間には、最も重要な事だからじゃ。
悟りを得る為にも、日常で生きる為にも、常に自分を観ていれば、間違いはなく、常に正しい道を進んでいける故に。
この言葉はダンマパダで一番重要な言葉だと、言った者も居る。
確かにその通りかもしれん。
わしも常に頭に入れて、置こうと思って居る。
投稿日:2009-02-28 Sat
今回はダンマパダの一番最初に書いてある言葉を、学ぶのじゃ。
1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。──車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。──影がそのからだから離れないように。
ダンマパダ<中村 元訳>より
全ては心から作り出されるものじゃという。
まさにその通りじゃ。
世界は心から作り出されている。
心から作り出されたものが、今みんなのいる世界なのじゃ。
この単純な真実を知らない多くの者が、人生を無駄にしてしまっているのじゃ。
例えば苦労して金持ちや、有名人になった者が、酒や薬に溺れて自滅してしまうような事が度々ある。
彼らはもとから心に不安や恐怖、劣等感などを抱き、金持ちや有名人になったらそれが無くなると想って居った。
しかし、実際になってみるとそれらの恐怖や不安、劣等感などは少しも無くならない。
それ故に絶望して、酒や薬に逃げるのじゃ。
外部の環境を変えても、心が変わる訳ではない。
不安や恐怖、劣等感に囚われた心は、金持ちや有名人になったところで少しも変わらないものじゃ。
それはここに掲げた言葉のように、全ての世界は心から作り出されるからなのじゃ。
不安や恐怖、劣等感などがあれば、どれほど金持ちや有名人になったとしても、やはり世界は不安や恐怖、劣等感に満ちた世界のままなのじゃ。
千人の護衛が居ても、不安や恐怖は無くならない。
自分より劣った者が千人居ても、劣等感は無くならない。
心は不安や恐怖、劣等感を世界に投射し続ける。
一生をかけて築き上げた財産や名声も、何の意味もなさない。
それが阿頼耶識という認識を持っている人間の性質なのじゃ。
今、この言葉を知る事が出来た者は幸せじゃ。
無意味な努力で人生を無駄にせずに済むのじゃから。
今、この世界から不安や恐怖、劣等感などを取り除きたいと想うなら、自ら汚れた心を取り除き、清らかな心を取り戻すのじゃ。
ここでいう汚れた心とは、不善に向かおうという心だけではない。
不安な心、恐れる心、劣等感や傲慢な心など、否定的な心も全て含まれておる。
他人を卑しめるのは汚れた心といえるが、己を卑しめるのも汚れた心であり、いらないものじゃ。
それらを取り除いていく過程は、心を磨くといわれる。
今、失業などで自分を見つめ直す機会ができた者は、むしろ幸運じゃ。
必要の無いものを必死で追い求め、人生を無駄にする道から、離れられるチャンスなのじゃ。
汚れた心を取り除き、清らかな静かな心で世界を見渡せば、自分に本当に必要なものは何じゃったのか判るじゃろう。
本当の世界は常に光り輝いておる。
心を磨く事によって、みんなも自ら世界を輝かすのじゃ。
投稿日:2009-10-04 Sun
今日は久しぶりにダンマパダを講義するのじゃ。
21 つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである。
22 このことをはっきりと知って、つとめはげみを能く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地をたのしむ。
いい言葉じゃ。
古来から悟りを得た者はみんなこのようにつとめ励む事を教えるものじゃ。
知識として覚えるだけでなく、自ら修行につとめ励む事でしか、悟りは得られないからなのじゃ。
怠けてばかりいる者が立派になったり、簡単に悟りを得るというような事はあり得ないものじゃ。
例えば鳥は翼があるから空を飛ぶ事が出来、馬は四本の脚があるから何キロもの遠くまで走る事が出来るじゃろう。
人にはそのようなものはないが、自らの意志によって毎日つとめ励む事が出来る。
それによって天に等しいニルヴァーナにも達し、遠く遥かな境地にまで到達するのじゃ。
つとめ励む事は人だけが出来る、空を飛び、何キロも走るよりも優れた事なのじゃ。
つとめ励む事によって人は目的を達成する事が出来る。
つとめ励む事によって人は偉大な者となる。
つとめ励む事によって人は目覚めた者となる。
世の人間は多くが孤独や死の恐怖に取り付かれ、そのようなものからは逃れられないと諦めておる。
それから眼を逸らすために自ら作り出した欲にがんじがらめに縛られておる。
そして、苦を次々に増大させて、自分がどのような者で、何をしたいのかも判らずに混乱しておる。
例えば一〇〇〇もの大きな岩が集まった山があったとしても、一つ一つ取り除いていけば三年にして消え去るじゃろう。
そのようにどれほど混乱し、煩悩にまみれた心でも毎日つとめ励み、一つ一つの苦を取り除いて行けば安らぎに達する。
心に巣食い、大きな山のように増大した煩悩も、お釈迦様の教える通りに止観の瞑想を行えば、一つ一つ消えて行くのが判るじゃろう。
それこそが本当に偉大な事なのじゃ。
空を飛んだり、死人を生き返らせるのが奇跡というものではない。
正しい教えによって人が苦を滅し、悟りを得る事が、本当に奇跡と呼ぶべき事なのじゃ。
正しい教えを知っても、それを実践しつとめ励む事が無いならば、苦から逃れる事は出来ない。
正しい教えを知っても、それを実践しつとめ励む事が無いならば、死によって破滅する。
正しい教えを知り、それを実践してつとめ励むならば、世の人々が逃れられぬと諦めている苦を滅する事が出来る。
正しい教えを知り、それを実践してつとめ励むならば、世の人々が逃れられぬ死をも超越する事が出来る。
知識は未だ阿頼耶識の範疇にあり、それによって正しい認識を得た事にはならないからじゃ。
つとめ励み、自ら悟りを得たならば、それによって正しい認識が生じ、不死の境地に居る事が了解される。
死は生の裏側であり、それは同じものであったと判るじゃろう。
その時までつとめ励むのじゃ。
投稿日:2010-09-13 Mon
今日もダンマパダより学ぶのじゃ。
このような言葉がある。
186 たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である。
187 天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(=仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。
岩波書店「ブッダの真理のことば・感興のことば」中村元著より。
良い言葉じゃ。
欲望に執りつかれた者は、どんなに金や名声や権力があっても、決して満足はしないものじゃ。
すでに生活には困らないほどの金があっても、さらに金を求めて不正なことまでする者もおる。
そして、目的のものが手に入ったとしても、実には満足も出来ないものなのじゃ。
多くの世間では成功されたと言われる者達も、それで満足したとか、心が満たされたとか言う者は居ない。
わずかに貧困の不安を逃れ、目的を達成したのはいいが、これからどうしていいか判らない者ばかりじゃ。
人によっては酒や薬などにおぼれ、ついには身を滅ぼす者も居る。
何故そのような事になるのかと言えば、人は実は欲する物を追いかけているのではなく、不安や恐怖、苦などから追われているからなのじゃ。
それらから追われ、少しの間、忘れるために欲する物を作り上げているのじゃ。
それ故に目的を達成しても満足せず、次々にまた欲望が現れたり、酒や薬などに頼ってしまうのじゃ。
貨幣の雨がふっても、心の中の不安は消えないものじゃ。
しかし、そのような不安や恐怖、苦などが観察によって消えれば、それらに依存していた妄執も消え、本当の安らぎと満足が得られるのじゃ。
例えば誰かが草原で、でかい虎などに追いかけられていたとしよう。
トラから逃げるために、人はもっと良い靴が欲しいとか、車が欲しいとか思うじゃろう。
車が手に入れば、もっと頑丈な車が欲しいとか、速い車が欲しいとか、考えるじゃろう。
しかし、それらを手に入れても虎はやっぱり追ってくる。
勇気を出して虎を見てみれば、実は己の影に過ぎなかったと知る。
そしてもう安心して、車も何もいらなくなる。
これと同じように人は不安や恐怖、苦に追われて、金や権力や名声を欲しがる。
それらがあれば不安や恐怖、苦などが癒されると信じておる。
しかし、それらを得ても依然として不安や恐怖、苦などは追ってくる。
それ故に満足する事が無く、次々に欲しい物を作り出し、別の逃避を作り出す。
しかし、ここにある者が自らの心を観て、不安や恐怖、苦などが己の心に在ると知り、それを滅する事が出来れば、自然にそれらの妄執も滅して行くのが判るじゃろう。
それら恐るべきものが、実は己の心の中に在るものであり、それを滅する事が出来ると判れば、妄執もまた消せるものと知るじゃろう。
無理に満足するのではなく、己の心から苦が無くなる事で、妄執は消え去り、自然に満足する。
それが真の足るを知る事と言えるじゃろう。
そのように妄執の消滅によって、二つの楽しみがある。
一つは苦が滅した事であり、もう一つは妄執が滅した事で、欲するものが得られないという苦も滅する事じゃ。
もはや欲する物を、無理に追いかけなくて良い、とする安心は真に深いものじゃ。
それこそ本当の満足するという事だと気づくじゃろう。
真に修行の道には楽しみが多いものじゃ。
不安や恐怖、苦に追われ、欲しい物を得られず苦しみ、さらにそれを得ても満足できず、次々に欲しい物を作り出す人の心より、そのように苦を滅して安心し、満足する修行者の心は遠くかけ離れて行くものじゃ。
みんなもそのように貨幣の雨でも満たされない妄執を捨て、真の楽しみの多い道を進むのじゃ。
投稿日:2011-02-17 Thu
ダンマパダにはこのような句がある。
271、272 わたくしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。
それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。
修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。
出離の楽しみとは悟りそのものの事じゃ。
それは戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないと書いておる。
戒律や誓い、知識を多く知ること、瞑想、孤独によっても得られない。
それらはただ悟りを得る助けになるもの、手段に過ぎないものじゃ。
それをどんなに上手く、また長期間にやったとしても、それだけでは悟りは得られないのじゃ。
戒律は日常生活を正しくすることで、自らを追及する環境を作り出すものじゃ。
誓いは道を歩む意志を確立させる。
それらは助けにはなるが、それだけでは悟りを得る事にはならない。
博学、知識を学び、多く知る事もまた悟りを得る事にはならない。
良くある誤解が、世にある科学と言うものが法則を知る事を目的にしている故に、仏教も法を知るという事が悟りではないかと思われておる。
しかし、なにものかについて知識を得たとしても、苦は無くならず、智恵が生じる事も無い。
それ故にそのような知識や思想、ものの考え方などは悟りを得るものとはならないのじゃ。
多く知ることによって、修行する上で助けになり、不安が無くなるという事はあるじゃろう。
しかし、知識を悟りだと思い、それに囚われれば悟りは遠ざかる。
瞑想もまた手段であり、それで悟りを得るということはない。
瞑想の中で己を無くすサマーディなどの深い瞑想も、悟りではない。
瞑想は心を観る手段として有効であるから、行うものに過ぎないのじゃ。
孤独であることも、修行の役には立つ。
独りでいれば他人からの反応で生きる事無く、自らを偽る必要も無い。
己の心を観るには良い環境となるものじゃ。
しかし、ただ独りでいるだけで、悟りが得られるものではない。
それらの環境や方法は、全て助けにはなっても、直接悟りを得るためのものではないのじゃ。
悟りは人が何の方法も無く、ただ己の本心を真摯に観た時に起こる。
己と言うものが起こる時、完全に注意して見守れば、それが実は己ではなかった事が判る。
心の中の習慣として己が起こる。
観るべきものはそれのみなのじゃ。
そして己が無くなり、認識をも実体が無いものと観る時、完全な悟りはやってくる。
言葉にすればこのようになるが、言葉を超越した悟りが実際にこのように起こるわけではない。
そのような悟りによって煩悩の汚れは全て消え去る。
その時まで、油断無く精進するべきであると経典は語っている。
この句によって、悟りを得るためには、戒律や誓いや知識や瞑想や孤独などに囚われ、時間をとられるのは間違いと判るじゃろう。
手段や知識や環境は、己の本心を観るためでなければ、却って回り道となるものなのじゃ。
手段や知識を捨て、己の本心が観られたならば、出離の楽しみを味わうじゃろう。
その時にはすでに必要としない楽しみを、自ら味わうのじゃ。
投稿日:2011-08-29 Mon
久しぶりにダンマパダから学ぶのじゃ。
273 もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれている。
もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)が最もすぐれている。
もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。
人々のうちで<眼ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。
274 これこそ道である。
(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。
汝らはこの道を実践せよ。
これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。
275 汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。
(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。
276 汝らは(みずから)つとめよ。
もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。
心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。
(岩波文庫 ブッダの真理の言葉 中村元訳より抜粋)
この四つの句の中にはお釈迦様の教えがどのようなものなのか、良く語られておる。
始めに人が行くべき道としての八正道が説かれ、
観察の目標としての四諦が説かれ、
執着の原因となる情欲を離れる事が説かれておる。
そして、次の句ではそれらが見ること、観察を清めるためのものであると説かれておる。
更にそれは苦しむ民衆のために説かれた方法であると宣言しておる。
その方法も如来はただ説くだけであり、人が自ら修行しなければならないと言われる。
このように説かれている通り、四諦八正道などは人が実践すべき法であり、観察の為の方法なのじゃ。
苦に悩む人々はそれを自ら実践する事で、苦を滅する事が出来る。
そのように心を観察し、究明する事が観察力を養い、心の働きに気づく力となるのじゃ。
苦が原因から生じ、原因が無ければ消えると観察する筋道が、自我をも観察する手立てとなる。
自我もまた縁によって起こるものでしかない故にのう。
それが如来によって説かれたのは、人々の苦を抜くためであるのじゃ。
苦を滅するための四諦八正道によって、人を悩ます苦が滅し、観察力を養い、観察の為の筋道がわかるのじゃ。
そのように優れた方法も人が自ら実践しなければならないものじゃ。
実践しなければお釈迦様と言えども、他人の苦を滅する事など出来ないのじゃ。
例えば誰かを連れてきて無理やり座らせたとしても、その間中瞑想をせずに金勘定をしている事も出来るじゃろう。
このように誰も他人に苦を滅する事を強制は出来ず、自らの意志によって行うべきものなのじゃ。
選択は常に法を知る者に任されているのじゃ。
賢い者は苦を滅する事が出来ると知った法を、無駄にする事無く修行に励むのじゃ。
投稿日:2012-06-28 Thu
今回はダンマパダに記された修行法について書くのじゃ。
360 眼について慎しむのは善い。耳について慎しむは善い。鼻について慎しむのは善い。舌について慎しむのは善い。
361 身について慎むのは善い。ことばについて慎しむのは善い。
心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。
修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。
このように目や鼻などの感覚器官を慎むというのは、ヨーガでは制感法と呼ばれるものじゃ。
この法は感覚を制する事で、深い瞑想の境地に入る方法なのじゃ。
感覚を制すれば深い瞑想に入り、安楽が生じるのじゃ。
瞑想が深くなれば、自然に感覚が無くなり、安楽の境地になるものであるが、制感の法は、感覚を制する事でその境地を再現し、深い瞑想に入る方法なのじゃ。
瞑想をしていても物音などがすると、一々それに気を散らされたりする事があるじゃろう。
自我のイメージを持っている人間は、普通の生活をしていても、瞑想中でも不安や恐怖から、周りの情報を求めているものじゃ。
それ故に僅かな物音にも反応してしまうのじゃ。
予め感覚を制しておれば、そのような事もなくなるのじゃ。
制感の法を行うには、座ってから目を閉じて視覚の制限から始めるのじゃ。
目を閉じただけでは未だ見ようという意志が残っているじゃろう。
見ようとする意志も放棄しなければならない。
丁度寝る時のように、何か見ようとする意志を捨てるのじゃ。
目に向けていた注意力を引き上げ、心に向けるように感じる者も居るじゃろう。
それが出来れば目を開いても、見える物に反応しなくなるのじゃ。
そうすれば目の感覚を制するのは完成なのじゃ。
同じように耳に向けていた注意力を止め、何かを聞こうとする意志を捨てるのじゃ。
耳から音が入ってきても、心に反応が起きないようになれば完成じゃ。
耳の次は鼻からの嗅覚、舌からの味覚、全身の触感も制していくのじゃ。
そのようにして次々に感覚を制御していくと、恐れが生じる者も居るじゃろう。
人は不安や恐れから周囲の情報を求めている故に、それがなくなると恐れが露になるのじゃ。
そのような恐れを観察し、滅して行けばさらに深い境地に行くのじゃ。
肉体の感覚が全て消えれば、そこに安らぎが感じられるじゃろう。
肉体の感覚を超えた、周囲の空間を感じ、そこに意識も感じられるじゃろう。
それは空無辺処定とか識無辺処定と呼ばれる境地じゃ。
肉体の感覚という仮設された刺激が消えれば、自然に本来の感覚が蘇るのじゃ。
さらに言葉や分別する心の働きからも注意力を止め、言葉を使おうとする意志や何ものかを分別する働きも捨てたならば、速やかにサマーディは訪れるじゃろう。
言葉も分別も無い境地に、心は安らぐ。
サマーディの中で自らを認識する仕組みに気づく事が出来たならば、己があり、己のものがあるという謬見は永遠に滅する。
そして認識をも滅した時、悟りは訪れるのじゃ。
瞑想をしていても周囲の物音に反応してしまう者や、更なる深い瞑想の境地を求める者はこの制感の行を修行してみると良いのじゃ。
投稿日:2013-03-03 Sun
お釈迦様はこのように言っておる。
379 みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。
修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。
380 実に自己は自分の主(あるじ)である。
自己は自分の帰趨(よるべ)である。
故に自分をととのえよ。———商人が良い馬を調教するように。
本来、修行とは自分が自分のためにやるものじゃ。
安楽になるために、死を超えるために、自ら行い、他人に対して何も言うべきではないのじゃ。
故に自分で自分を励まし、自分で自分を反省せよとお釈迦様は言うのじゃ。
修行すればその結果は自らの心に返ってくるじゃろう。
人によって気づきがあったり、サマーディに達したり、或いは真の悟りに達する事もあるじゃろう。
それは他人に分ける事は出来ず、自分一人にしか齎されないものじゃ。
ここで自分と言われるのは、肉体や感覚や思考等なのじゃ。
それらは人によっては頼りなく、それを主とするより、頼りがいのある他人や社会や金や権力や神などを頼りにしたくなるものじゃ。
しかし、そのようなものは存在しない観念であったり、虚偽によるものであったり、この世から移り変わり消えてしまったりするじゃろう。
そのようなものより、修行によって整えられた自らの体や感覚や思考が、主として頼れるものになるのじゃ。
止観を修行すれば心は不動になり、苦を滅して安楽になるじゃろう。
そのように修行によって整えられた心身は、生きている限り主として役に立つものじゃ。
自分で行い、自分に結果が返る修行が、この世で人が得られる唯一のものともいえるじゃろう。
金も権力も名声も死によって消えてしまうが、修行によって得た境地は、空しくはならないものじゃ。
自分の主である自分を、修行によって整えれば、堅固なより所になり、永遠の安楽が得られるのじゃ。
お釈迦様の言葉を読んで更に精進するのじゃ。
投稿日:2013-03-31 Sun
お釈迦様はこのように言っておる。
129 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
130 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
131 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。
132 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。
これこそ不変の真理と言うべき言葉なのじゃ。
暴力によって衆生を害する事は常に悪であり、非難されるべき事なのじゃ。
暴力によって衆生を害しない事は常に善い事であり、称えられるべき事なのじゃ。
しかし、何人かの世の者はこの真理を知らず、互いに害しあっているのじゃ。
カルトとか過激派とか暴力によって人々を支配しようとする者達はいつでも居るじゃろう。
そのような者達は様々な理屈を述べて暴力を正当化し、人を騙そうともしてくるじゃろう。
洗脳された者はそれが自らを苦しめる道である事さえ知らないのじゃ。
これから暴力的なカルトとか過激思想の団体などが、身近に現れるかも知れん。
賢い者はこの真理の言葉を知り、悪しき行いと善き行いを見分け、騙されないようにするのじゃ。
投稿日:2007-10-18 Thu
わしがここで説教するのは、お釈迦様と同じように、悟りを求める者を導くためじゃ。
お釈迦様は自分の足でインド中を歩き回り、人々を教えて回った。
奴隷階級のものにも、バラモンにも分け隔てなく平等に教えを説いた。
もし、わしが紫の衣を着て、金の座布団に座り、セレブにしか教えを説かないとしたら、お釈迦様の弟子とは言えまい。
それ故にわしも悟りを求める者に平等に教えを説くのじゃ。
真面目な質問には、聞かれれば答える。
それがわしの仕事じゃ。
投稿日:2007-10-18 Thu
従来の仏教の導師達は、悟りを得ても自分が悟りを得たとは言明しなかった。
その理由は、悟りを一つの固定した観念として扱われる事を嫌った為であり、言葉では表現出来ない境地を、言葉にする事の無意味を避ける為でもあった。
故に禅では悟りは文字を使わない不立文字であるとし、悟りなどはない、何もないのが悟りであると、告げてきた。
しかし、近年になってオウムなどのカルト宗教が、インドに行って悟ったなどと称して若者達を騙し、テロを起こすという事件が起こってしまった。
宗教を金儲けの道具としているカルト宗教は、未だにこのような、インドに行って悟ったなどと称する詐欺を行っている。
このような詐欺が横行するのは、我々仏教徒が悟りというものが、どのようなものであるのか、明確にして来なかった事にも一因がある。
我々悟りを得た導師は、自ら悟りを得たと宣言して、彼らカルトの詐欺師が明らかに悟っていないと言明し、たとえ最後の境地は言葉に出来なかろうと、理解し得る限界までは、言葉を以って説明すべきであったのじゃ。
それをしてこなかった為に、インドで悟りを得たと称するニセ導師が、金や権力を求めて純真な若者達を騙せる状況を作ってしまったのじゃ。
そして今、オウムは未だ存続し、インドで悟りを得たと称するニセ導師達も、何人も居る。
もはや伝統の上に胡座をかき、怠惰の言い訳として文字を使えない境地などと言っているべきではないのじゃ。
悟りを得た者はそう宣言し、限界まで言葉による説明をしなければ、法慳貪の罪は逃れられぬ所じゃ。
それ故にわしは悟りを得たと宣言し、悟りの境地を言葉にして説くのじゃ。
投稿日:2007-10-20 Sat
本物の悟りを得た者と、そうではないニセモノの見分け方はどうすればいいのか。
一般の人でも簡単に判るのは、次の三つの違いによるものである。
悟りを得た者は権力に執着しない。ニセモノはそうではない。
悟りを得た者は金銭に執着しない。ニセモノはそうではない。
悟りを得た者は名声に執着しない。ニセモノはそうではない。
このような誰にでも判るような、明白な違いがある。
お釈迦様は釈迦族の王子としての権力の座を捨て、金銭を身につけず乞食行をして、身を養っていた。バラモンの者が論争を仕掛けても沈黙を保ち、名声に傷がつくと弟子達が狼狽するのも気にかけなかった。
そのような態度こそ真に悟った者の態度と言えるじゃろう。
投稿日:2007-10-23 Tue
このブログを読む者の中には未だ疑いを離れてはいない者もおるじゃろう。
しかし、それでいいのじゃ。
お釈迦様は「なにものも信じるな、疑え」と、言われた。
お釈迦様の教えは信じることが全てというような、脆弱な教えではない。
わしの書く事も疑うがいい。
疑い、自ら試してみるがいいのじゃ。
信じようと信じまいと、数息観を行えば意識は集中し、不動の心を得られる。
それが本当かどうか、一つ一つ試して見るのじゃ。
試して、己の体で本当だと知ることが重要なのじゃ。
仏教は実践が全てじゃ。
実践によって真実と妄想を区別することが出来る。
知識だけを追うものは、疑いと妄想の網に落ち込み、なにものも得ることがない。
偽りの認識に囚われている人間は、真実を知ることすら出来ないのじゃ。
認識の転換を果たして、漸く真実を知る事の出来る体質になるのじゃ。
そのような者が目覚めた人、仏陀と呼ばれる。
投稿日:2007-11-04 Sun
わしは何故、鬼和尚なのか?
わしは既に名声も、金も、権力も欲してはいないからじゃ。
お釈迦様の教えを広め、出来る限り多くの者を悟りに導くのが、わしの唯一の望みなのじゃ。
その過程でわしは名を広めたり、金や権力を得たりする事はしないのじゃ。
例えば世界中の富を得た大金持ちが、道端に落ちている1円の金を拾おうとしないように、絶対幸福である悟りを得たわしは、もはや何一つ必要としてはいない。
ただみんなに死を超えた最高の境地である悟りを得させる為だけに、生きているのじゃ。
故にわしをカルト宗教の宣伝員ではないかとか、洗脳されるのではないかと、恐れる必要はない。
このネットで教えを受ける者の多くは、最後までわしが誰かを知る事すら無い。
わしは一銭の金も受けず、誰にも知られずに死ぬじゃろう。
それで良いのじゃ。
ただ全人類の宝であるお釈迦様の教えが、正しく伝わり、悟りを得たいと望む多くの人間が悟りを得られるようになる事が、わしの唯一の望みなのじゃ。
投稿日:2008-06-27 Fri
死とは旅行のようなものとして喩えられよう。
人は旅行する時には目的地や行き方など調べ、なるべく快適に過ごそうと思うものじゃろう。
滞在が長くなるほど、沢山の情報を知ろうと思い、集めるものじゃ。
それによって不安を無くし、事故に備え、楽しい期待も高まる。
もし長く旅行しなければならないのに、行き先も行き方も判らないのなら、不安に苛まれ、ストレスを多く受け、不安から逃れようとして多くのものに執着するだろう。
死とは永遠の旅路のようなものじゃ。
永遠に行かねばならないのに、多くの者は行き先も行き方も判らない。
ただ恐ろしいものというイメージを投射し、漠然とした不安や恐怖を抱えておる。
それ故に人々は毎日、不安に苛まれ、金や権力や名声に執着し、互いに争い、この世を苦しみながら生きておる。
金や権力や名声によって死を超える事など出来はしないのに、不安や恐怖によって正常な思考も無くし、無意味な競争に貴重な時間を失ってしまう。
人生そのものを、無駄に失ってしまう者も多いものじゃ。
死の不安が、それら煩悩の原因であるとも言える。
しかし、もし、死を超える事が出来たなら、死によって消える事の無い不死の境地に辿り着いたなら、もはや死の不安に怯える事は無い。
金や権力や名声に執着する事も無くなり、争わず、この世を楽しみながら生きていけるじゃろう。
そして死を迎えようという時にも、お釈迦さまの様に楽しいとすら言えるじゃろう。
死によって変化するものは何であるか、恐れていたものは何なのか、それらを観察し、厭離出来れば、死の不安は無くなり、初めてより良く生きる事が出来るのじゃ。
死を超えると言う事は、むしろ不安を無くし、より良く生きる事であるとも言えるのじゃ。
死の不安によって、人々にとってこの世は皆苦であるが、死の不安を超えればこの世も皆楽になる。
それは決して不可能な事ではない。
お釈迦様や幾多の先人が成し遂げてきた事なのじゃ。
同じ人である者に、出来ないという事はありえないのじゃ。
みんなも修行して、死を乗り越え、楽しく生きるのじゃ。
投稿日:2008-11-06 Thu
お釈迦様が説いた経には、諸法無我とある。
無我とは自我が無い事と思われているが、実はそうではない。
これは真我、つまりアートマンが無という事なのじゃ。
永遠普遍の実体というものは、何処にも無いと観る、それが無我という事なのじゃ。
では、お釈迦様は真我を否定したのかといえば、それも早計じゃ。
お釈迦様がこのような事を言ったのは当時、真我の本当の意味を知らず、それに囚われている者がおったからなのじゃ。
真我ももともとは、修行の為の手法であった。
しかし、年月を経るにしたがってそれに言葉とイメージがつきまとい、却って真我に囚われ、それに自我を投射する者も居た故に、お釈迦様は諸法無我と説いたのじゃ。
言わばお釈迦様は、真我を否定したのではなく、真我の誤った使い方を否定したのじゃ。
諸法は無我であると言えば、アートマンにとりつかれた者も、目が覚める。
そこに言葉とイメージを投射していた者も、囚われなくなる。
その為に説かれたのじゃ。
真我とはよく誤解されておるが、それも又悟りへと導く技術であったのじゃ。
聖典などには真我が無で定義されるものとして、表されておる。
お釈迦様はそれを正しく理解し、解き明かしたに過ぎないのじゃ。
諸法は無我とは、諸法に自我が無いという意味ではなく、アートマンが無いという意味ですらもない。
正しくは、諸法の根源として追求してきたアートマンすらも、無と観よ、という教えなのじゃ。
本来は悟りへの手段であったものも、時が経てば言葉やイメージが投射され、概念として設定されてしまう。
それは阿頼耶識しか認識手段を持たない人間の、習慣でもある。
当時の修行者は、多くが真我を追求しておった。
しかし、アートマンという名前がつけられてしまうと、どうしてもそこに概念が生じてしまう。
その概念に自我を投射し、却って囚われの元になってしまうのじゃ。
それ故に、お釈迦様は、無我と言われたのじゃ。
それはアートマンが無いという事ではなく、アートマンすらも無であると観る事により、アートマンを追求してきた者の心を、無にする効果があったのじゃ。
全てがアートマンであり、そのアートマンすらも無であるとした時、修行者の心は、寄る辺となるものを無くし、無念無想に没入する。
そこでは思念も概念も起こる事が無く、無想のサマーディーが続く。
そして観照が始まるのじゃ。
これはその意味では、真我にとりつかれた者に対する教えと言えよう。
真我に囚われている者には有効な教えと言えよう。
投稿日:2007-12-19 Wed
わしは金剛経を読んでいる時、観照が起こった。
観照によってわしの自我は消え去った。
そして静寂と安心が起こった。
もはや守るべき自我が無いことにより、緊張と不安が消えたためじゃった。
そして、智慧が湧いた。
自我が消えた故に、自我の歪みを受ける事の無い、平等性智が起こったのじゃ。
わしはその智慧に問うた。
(ここでは言葉を使う必要上わしという主語を使うが、その時の心にわしは無かったと覚えておくのじゃ)
この境地が最後のものであるのか、すると自然に智慧が湧き起こり、答えが湧いて出た。
この境地が最後のものではない、未だ安心と静寂を認識するものが残っている、と。
そこでわしは更に認識するものを観察し、それが実体が無く、空であると観じた。
自我が消えてしまえば認識を破壊するのは容易であった。
空であると観じていると、認識するものが消えた。
そして、認識するものがなくなると、言葉やイメージで表せるものが全て消え去った。
そこにおいてはもはや見る者も、見られるものも、見るという事も無かった。
言葉もイメージも、記憶さえも無かった。
全てが無かった。
そして無でさえも無かった。
今、何年も経ってからでさえ語るべき言葉の無いものじゃった。
わしはそこで全ての技を捨てた。空であると言う観も捨てた。
そこでは為すべきことは無く、為す己が無く、為すという行為さえ無かった。
わしは再び問うた。(本当はもうわしは無いんじゃよ、わかっとるね?)
この境地が最後であるかと、智慧が答えた。
この境地が最後である。何故ならもはや為すべき事も、為すべき者もおらず、為す事も無いのだから。と、智慧が答えた。
そこには智慧があった。平等性智、大円鏡智、妙観察智等の智慧が全てあった。
無為にして坐り続けるわしの前に、一切の神秘が開かれた。
わしは世の一切が平等であり、空間さえも一つの同じ意識を共有しているのを感じる事が出来た。
わしは死の意識を知り、死がもはや無い事を知った。
死は意識の消滅ではなく、変化に過ぎないことを知った。
わしは経典の言葉が理解出来るようになった。お釈迦さまが何を言わんとしていたのか、判るようになったのじゃ。
世界は全て一つの意識で出来ており、それは唯一なるが故に、一つと数える事さえ無いものであった。
わしは長らく坐っていたようじゃ。
永遠の安らぎである涅槃がそこにはあったのじゃ。
わしは菩薩の誓いを思い出した。
悟りを得たら、再び地上に返って人々を導くと言う菩薩の誓願が、わしを押し止めた。
わしは定を解き、ここに帰ってきた。
自我は無くなっていた。
人と話をする為に擬似的自我を作り出したのじゃ。
投稿日:2013-01-31 Thu
仏教とは無神論であるとか、言われたりしておる。
しかし、お釈迦様が悟りを得た時、創造神であるブラフマンが法を説くように勧請したとか、神を信じる者の為に、神は居ると言った事が記されておる。
お釈迦様の教えとは全ての者の宝であり、神を信じる者達にも開かれているものじゃ。
どのような思想や信仰をもっていようと、修行は出来るものじゃ。
それが神を信じる者には、神を知り、神に近付く道にもなるのじゃ。
例えば子供が総理大臣に会いたいとか言っても、何処にいてどのようにすれば会えるのかも知らず、自分では会う事は出来ないじゃろう。
大人になれば総理と同じ政党に入ったり、有力者に近付いて伝手を辿って会えるようにしたりと、いろいろな手段で会えたりする。
そのように修行しない者は智慧が無く、自らの心も観られず、心も乱れて神が何処に居るかもわからないものじゃ。
修行すれば心は静まり、智慧が生じ、自らの心も見られるのじゃ。
そこに神を求める事も出来るじゃろう。
心を静め、謙虚に自らを省みる修行は、多くの神を信じる教えにも背かないものじゃろう。
それこそが真に神を求める道とさえ言えるのじゃ。
人が己の心の中に神を求める時、間違ってはならないのは、自我やその反映を神と思う事じゃ。
己の為に神を求めれば、そのような間違いも起こるじゃろう。
己を無くし、虚心に求めれば感じるじゃろう。
その肉体にも全てと同じ本質がある事を。
それは全てを作るものと同じ意識なのじゃ。
それを感じれば神と呼べない神を知るじゃろう。
投稿日:2014-05-31 Sat
修行中の者は、道の途中ではどうしても不安や迷いが起こるものじゃ。
悟りを得ると自我が無くなると言うが、それで大丈夫なのかとか。
自己防衛がなくなるのではないかとか。
或いは自分の道は正しいのかとか。
社会に貢献しないで良いのかとか。
さまざまな悩みや不安は尽きないものじゃ。
そのような不安や悩みも自ら滅しようと想えば滅する事が出来るじゃろう。
悟りへの道を行く意志が堅固であれば、不安や悩みを滅しようとする意志も働く。
意志が堅固でなければ、不安や悩みも増大するじゃろう。
自らの本心を常に確かめ、悟りへの意志を堅くする事が一番大事なのじゃ。
そして不安や悩みがあれば、滅しようとする意志を起こすのじゃ。
自我を無くす不安はそれが投射される観念である事を知り、観察出来れば消えるじゃろう。
観念には自己防衛は無く、むしろ自我が無い時に肉体の防衛機能は良く働く事もわかるじゃろう。
正しい道を行っていると確信すれば、自らの道に対する不安や迷いも消えるじゃろう。
そのような確信は今まで培ってきた心の状態によって起こるじゃろう。
修行によって心が整えられ、苦が無くなり、世界が変わる状態を経験したならば、自らの道に間違いが無い事が判るじゃろう。
世間において人々が執着から起こる苦に悩み、その苦にもしがみついて生きるしかないのを観察すれば、自ら道を行ける事の幸運に気付くじゃろう。
元々修行も何もしなければ苦を越える事も知らず、不死の境地も知らないまま死ぬしかないものじゃ。
心が鎮まり、苦を滅した安楽を得ただけでも幸運といえるのじゃ。
不安や迷いも不死の境地を目指すゆえに起こるものじゃ。
それは悟りへの道標ともいえるのじゃ。
そのように不安や迷いがある修行者は、自らの心と世間を観察し、不安や迷いも道標として進むのじゃ。
投稿日:2009-04-01 Wed
今回は苦と観察について話すのじゃ。
人を苦しめるものの本体は何かと言えば、それは阿頼耶識による繰り返し起こる一連の連鎖反応と言えるかもしれん。
苦は因により、縁によって、何度も繰り返し起こり、止めることが出来ず、増大していくものなのじゃ。
それは今、ここにある現実を見る事が出来ず、過去の記憶による認識がそうさせておるのじゃ。
例えば死の苦、死苦というものがある。
死というものは現実にあるものであるが、生きている限りは誰もまだ経験した事がない。
経験したことが無いにも関わらず、人は死を慮り、それを苦にしておる。
死苦の本体は死そのものではなく、過去の記憶から構成された、死に対する不安や恐怖を伴う言葉とイメージに過ぎないものじゃ。
それが繰り返し起こり、止められず、増大する故に死は苦となる。
人が何らかのきっかけで個我の消滅という推測や、他人からの情報などによって死に対する恐怖や不安を抱くと、それが記憶され、関連性のあるものを見たり聞いたりする事で、なんどもその不安や恐怖が甦る。
認識そのものが記憶に依存している故に、人はそれを止められない。
止められないから何かに逃避し執着する事で忘れようとする。
すると執着するものを得られないという苦や他者との争いという苦が、次々に起こる事になる。
このようにして人は苦を繰り返し味わい、止められず、苦が増大して行く人生を送る事になるのじゃ。
病や貧困による苦も世の中にはある。
それらは今、ここにおいてあるものと思う者もいるかもしれん。
しかし、それらも又、個我というものに執着し、その消滅する不安や恐怖と結びついているのじゃ。
例えば病による痛みは今、ここにあるものじゃが、それは本来体に備わった、警報に過ぎないものじゃ。
体のどこかに不具合があれば、体は痛みという警報装置で教えてくれる。
痛みはただの警報であり、それが体を傷めるものではない。
意志によって気にならなくする事も出来る。
しかし、痛みが起こる度に、肉体が壊れるのではないかとか、昔は痛まなかったとか、 早くもとのようになりたいとか、何度も繰り返し思い、それを止められぬ故に、病による痛みは苦になるのじゃ。
貧困も腹が空き、餓えるものじゃが個我に囚われなければ、苦になるものではない。
もっと金が欲しいとか、恥だとか、金があればと思う心が苦を作り出す。
そのような心の仕組みは全て記憶による認識である、阿頼耶識によって成り立っておる故に、繰り返し表れ、止められず、増大する性質をもっているのじゃ。
そしてそのような苦に自分のイメージである自我を投射している。
苦が我であると想い、執着し、離れようとしない事が更に苦を増しているのじゃ。
例えば人が自動車事故などに会い、恐怖を味わったとしよう。
その記憶は心に残り、自動車とか車に関係するものを見たり聞いたりする度に、表れ出る。
その記憶の連鎖は止められず、恐怖そのものを恐れ始める。
恐怖から逃れる為に車を見ないように外出を避けたり、思い出すものを目に付かないようにしたりと、さまざまに苦を増やしつづける。
そして、そのような苦を己だと想い、執着し、離れず、苦であると認めようともしない。
これが多くの人間の陥っている現状なのじゃ。
このような苦の連鎖を止めるには、観察をするのじゃ。
観察によって記憶の連鎖は止まり、客観視する事で自己同一化が解消される。
このような過程は厭離と呼ばれる。
観察によって観察するものと観察されるものとの間に、狭間ができるのじゃ。
観察されたものは外部のものとして認識され、自己同一化が終わる。
そしてその仕組みが全体として把握される時、あたかも種のわかってしまった手品のように、もはやそれは苦として恐怖や不安の対象ではなくなり、いらないものとして処理されるのじゃ。
このように今、ここにある苦の表れと、原因と、逃避する行程を全て観察する事で、苦は止める事が出来るのじゃ。
観察は今、ここにあるものを観る行為であるから、過去の記憶に惑わされず、干渉を受けないのじゃ。
とは言っても最初のうちはやはり観察をしていても、つい記憶に釣られてしまうという事もあるじゃろう。
しかし、集中と共に修行していく事で、観察は上達し、記憶に煩される事が無くなる。
十分に修行した者なら、個我の成り立ちを観察し、あらゆる苦を消す、観照が起こる事もあるじゃろう。
全ての苦を消すまで、みんな精進するのじゃ。
投稿日:2009-04-28 Tue
観察と知識は違うものじゃ。
観察とは、知識を得るためにするものではない。
知識を得ても苦が滅しない限り、観察を続けなければならんのじゃ。
例えば昔、お釈迦様が居た頃にキサーゴータミーという母親が息子を亡くしたそうじゃ。
キサーゴータミーはお釈迦様に生き返らせてくれと頼んだ。
するとお釈迦様は、
「この子を生き返らせるには、今まで死者の出た事の無い家から貰った水が必要だ」
と、言われた。
そこでキサーゴータミーは家々を周って、聞いてみたが、どの家も死んだ人が居ると答えるばかりじゃった。
とうとう死者の無い家は見つからなかった。
しかし、キサーゴータミーの苦は消えておったという。
やがてキサーゴータミーは、出家して尼になったそうじゃ。
キサーゴータミーも人は死ぬものであり、死んだ者は生き返らないと知ってはいたじゃろう。
どのように苦しんでも無駄とわかっていても、知識では苦は去らない。
繰り返し観察する事によって、苦は初めて滅するのじゃ。
この話は観察によって苦が無くなる過程を良く表しておる。
お釈迦様は子供が生き返らないと知って居ったが、キサーゴータミーの苦を無くすために死者の無い家を探し回らせ、他人の苦を観察させたのじゃ。
修行者ならば修行によって得た集中力で、己の苦を観察できたじゃろう。
しかし、そのような力の無いキサーゴータミーの為に、方便を使って他人の苦を観察させるようにしたのじゃ。
このように愛する者を亡くした苦は、愛別離苦と呼ばれるものじゃ。
愛する者を亡くし、その悲しみが何度も繰り返し起こり、自分では止められない、恐ろしい苦じゃ。
現代でも癌やうつ病などの病気になる者は、近親者が死んだりした者に多いと言う。
無くなった愛する者の残した着物を見たり、同じような年頃の者を見たりするたびに、苦しみは繰り返し起こったじゃろう。
そして過去にこのようにしておけば良かったとか、今ここに居ればどんなに良いだろうかとか、思うたびに苦は増大していく。
悲しみ自体は自然な反応であり、苦ではないが、それが記憶による認識の不備により、何度も繰り返し起こり、止められず、増大していく事が苦になるのじゃ。
そのような苦も、縁によって起こり、苦に終わる結果を観察されれば消え行く。
キサーゴータミーが家々を廻り、死者はないかと聞けば、それによって家の者に苦が起こる事もあったじゃろう。
そのように聞くという縁によって、悲しみが起こり、苦しむ家の人の姿を見る事によって、己の苦もこのようなものであると、全体を観察する事が出来た。
そして苦は客観化され、己との同一化が解消され、滅して行ったのじゃ。
このように他人の苦を観察する事によっても、苦は無くなる。
しかし、そう都合よく己と同じ苦を抱える者が近くに居るはずもない故に、己を観察する以外に無いものじゃ。
苦が縁によって起こる所を、因によって生じる事を、結果として苦がはびこり、逃避や隠すという行為が起こる事を、全て観察すれば、必ず苦は消える。
そして全ての苦が拠って起こる因である、己と言うものが観察できたならば、全ての苦が消える悟りを得る事も出来る。
それまで実践あるのみじゃ。
投稿日:2012-02-29 Wed
苦を滅するための瞑想で、原因が無いと観想しても原因が無くならないと、思う者が居るようじゃ。
苦を滅するために、原因が無いと観想するのは、その原因を無くすためではないのじゃ。
それは苦を滅するために、原因が無いと想うだけなのじゃ。
その原因が無かったらどのようになるかと、心の中で想い、心の反応を観察するのじゃ。
例えば手にりんごを持っていたとして、それが無ければどうなるかとか想うとする。
りんごが無ければ、手にかかる重みが無いじゃろう。
冷たい感触とか、匂いも無いじゃろう。
そのようにもし無かったらどのようであるかと想い、その反応を観察するだけでよいのじゃ。
原因がその観想により無くなるのではないのじゃ。
原因の記憶はありつづけるじゃろう。
しかし、そこから次々に起こる苦の反応が滅するのじゃ。
例えば親にぶたれたとかの記憶から他人への過度の依存が起こり、満たされぬと、そこからの逃避として酒や薬にまで依存するようになるというような反応があるとしよう。
原因から観想して反応が完全に観察されれば、原因となった記憶は残っていても、その原因から起こる他人への依存や満たされぬ苦や、そこからの逃避としての更なる依存などが起こらなくなるのじゃ。
そのように順逆から観想する事で、苦の反応がよく観えて来るのじゃ。
観察された苦の反応が、自我の投射を離れ、その苦が己ではなく、己のものでもないと気づきが起こり、厭離に至るのじゃ。
何度も実践すれば、その微妙な働きがわかって来るじゃろう。
修行者は良く実践し、速やかにあらゆる苦を滅して進むのじゃ。
投稿日:2009-04-28 Tue
お釈迦様は苦を滅する法を、四つの真理として説かれた。
四聖諦と呼ばれるものじゃ。
しかし、時代が重なるうちに真理が埋もれてしまい、本当の方法が判らなくなっておるようじゃ。
観察というものはあまりに微妙であり、実践が難しく、伝えにくいという理由もあるじゃろう。
十二因縁や念処なども観察の結果であり、それを得ることが目的ではないというのに、それだけを丸暗記して法であると思うのは、例えば水泳のマニュアルを覚えて、泳げる気になっているようなものじゃ。
水泳のマニュアルを幾ら覚えても、実際に水の中で泳いでみなければ、決して泳げるようにはならないものじゃ。
同じように文字を覚えてこれが十二因縁じゃ、四聖諦じゃと言っても、実践出来なければマニュアルをただ暗記しているのと同じなのじゃ。
四聖諦のうち八正道においては、始めに正見をせよと書いてある。
ここから説かねばならん。
正見とは正しく見る、観察する事なのじゃ。
あまりに明白であり、結果だけを文字にしたために、多くの者が勘違いしているようじゃが、正しく伝えられ、翻訳されたお釈迦様の教えは多くが観察せよと教えておる。
何を観察するのかと言えば、苦、苦の集まり、起こり、苦の滅、苦滅の道を観察せよと教えておる。
苦などはともかく八正道すらも観察せよという。
正見を正見せよという。
観察すらも観察するのが、正しいお釈迦様の教えなのじゃ。
正しい観察によって、その元に正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定がある。
正しく観察する事によって正しく考え、正しい言葉を使い、正しく業を行い、正しく生活し、正しく精進し、正しい念が生じ、正しい定に入る。
そして、正しい定によって、正しい観察が力を増す。
これが止観の道なのじゃ。
正しい観察を行い、正しい定が出来、正しい定によって強くなった集中力で、より正しい観察が出来るようになる。
このように止観の道を修めて、初めて苦を滅する基礎が出来上がる。
苦を滅せんとする者は、先ず正しい観察と正しい定によって、集中力と観察力を養うのじゃ。
投稿日:2009-04-28 Tue
止観を実践して集中力と観察力がついた者は、苦を観察する道に入るのじゃ。
苦を観察するというのは簡単なようで実際には、これが難しいものじゃ。
何故なら多くの者は苦を恐れ、逃避し続けた為に、自分に苦があるという事すら認めないようになっていたりするものじゃ。
苦から逃避するという習慣が出来ている者は、苦を認め、滅しようと決意する事すら難しいじゃろう。
しかし、最初の一歩が肝心なのじゃ。
自分に苦がある、苦しんでいるという事をはっきり認め、その苦を滅しようと決意すれば、もはや苦は半分は滅したも同然じゃ。
全ては己の決意にかかっておる。
苦があると認め、それを滅するという決意から全てが始まるのじゃ。
苦があると判ったなら、それを正しく観察するのじゃ。
それはどのようなものなのか、初めて観るような気持ちで観察する。
それは目や耳や鼻や舌や体や心にどのような影響を及ぼしているのか。
見る事、聞く事、匂う事、味わう事、感じる事、考える事にどのように関わっているのか、観察する。
それがどのようなものであるか、子供のように観察するのじゃ。
観察にはあらかじめ結果があってはいかんのじゃ。
結果が判っているなら、それは観察ではない。
経典に書かれているのは、例であり、マニュアルなのじゃ。
心から沸いてくるものがどのようなものであろうとも、それを認め、肯定も否定もせずに観察し続けるのじゃ。
本当の観察とはただひたすらに今、ここにあるものを観ていく事じゃ。
例えば子供が目の前に見知らぬ物を出されたら、どうするじゃろう?
子供はただひたすらに見つめるじゃろう。
我を忘れ、己も無く、ただ無心にそれが何なのか見つめる。
それこそが観察なのじゃ。
心の中から湧き上がる感情に、名前を付ける事すら観察の妨げになる。
例えば誰かと離れた時の苦が悲しみとは限らない。
それは怒りかもしれん。
感情を限定する事無く、初めてそれを見つけた子供のように、驚きと新鮮さをもって心の中から湧き上がるなにものかを観るのじゃ。
どんな言葉が浮かんでも雑念として処理するのじゃ。
涙が出るなら泣いていい。
そして眼から水を出していると観察する。
耐えられないと感じるなら、そのように感じていると観察するのじゃ。
それがどこから沸いてくるのか判らないなら、それから逃げているからかもしれん。
その時も逃げていると観察する。
逃げるのは恐れがあるからかもしれん。
それも恐れから逃げていると観察する。
なにものが表れようとも、それを観察し続けるなら原因が観えてくる。
そして、苦の集を観る事に繋がっていくのじゃ。
投稿日:2009-04-28 Tue
お釈迦様が教えられた縁起は、人の心の中に起こるものが、ただ一つであるのではなく、関連していると示している。
苦もただそれだけであるのではなく、原因から関連し、関連する事から連想や想起があると教えられている。
それを観察するのが、苦の集の段階である。
苦が確かにあり、それが原因から生じていると判ったなら、苦を滅する観察が本格的に始まる。
原因から苦があり、それが縁によって想起されると、全体を観察したならば、早くも苦は客観化され、厭離していくのが判るじゃろう。
ここで注意しなければならんのは、前にも書いた通り、観察が知識を得るためではないという事じゃ。
原因を探り出し、原因が判ったからといって、それで終わりではない。
苦が無くなるまで、繰り返し、原因から苦が生じ、苦から逃避が起こっていると、観察し続けなければならん。
例えばキサーゴータミーのように、子を亡くしたのなら、子供への執着から苦が生じ、それから逃避しようとして、生き返らせたいと願っていると、観察し続けるのじゃ。
何かの事故にあい、その経験から恐怖症に陥っているなら、己の肉体への執着から死への恐怖が起こり、そこから逃避しようとして思い出すことを避けていると観察する。
多くの苦は執着が原因になっておる。
しかし、あらかじめ結果が判っていては、むしろ観察の妨げじゃ。
経典などに書いてあるのは観察例の一つであり、参考にしても囚われてはならん。
例えば人によっては愛する者と離れた苦も、原因は怒りかもしれん。
あるいは別に二つも三つも原因があって、苦が成立している事もある。
一つの苦が執着を生み、別の苦の原因になっているという事も珍しくは無い。
人の心は千人居れば、千の違いがある故に、一人一人が真摯に己の心を観る努力をしなければならない。
そして、観察によってどのような事が判ろうと、それを受け入れ、苦が無くなるまでその連鎖を観続けるのが大事なのじゃ。
苦は人の認識の上に成立し、記憶によって思考や感情をともなう回路を作り上げる。
それに自我を投射し、己の苦である、己が苦しんでいると誤認する故に、苦は人にとりついてはなれないのじゃ。
観察によってそれらが己ではなく、ただ記憶によって成立した回路である事が了解された時、自我の投射は止み、苦は厭離される。
そのような縁って起こる苦の集が観られたなら、次の苦の滅によって更に厭離を促進するのじゃ。
投稿日:2009-04-28 Tue
苦が縁起していると判ったなら、今度は苦の滅を観察するのじゃ。
これによって苦の縁起は更に客観化が進み、厭離が容易になる。
苦が原因から生じるという事は、原因が滅すれば苦も滅するという事になる。
苦が滅すればそこからの逃避も無くなる。
苦の集によって感得した縁起の段階を、そのまま逆にたどって苦の滅するさまを観察するのじゃ。
執着が滅すれば、苦が滅する。
苦が滅すれば、逃避も滅すると観察する。
これを逆観という。
普通のが順観じゃな。
順観と逆観をおこなっていくと、苦の縁起はより速やかに厭離されていくものじゃ。
観想であり、観想しながら観察するのじゃ。
苦の縁起が滅していく過程を考えながら、己の反応を観ていればそこに必ず変化は訪れる。
例えば子を亡くしたキサーゴータミーの場合なら、子に対する執着が滅すれば苦が無くなり、苦が滅すれば、逃避も滅すると観想し、観察する。
恐怖症ならば、己に対する執着が無くなれば、苦が滅し、苦が滅すれば、逃避も滅すると観想し、観察する。
逆観によって苦の無い状態の心が観想されると、それに対する投射が無くなり、自然に縁起する苦の回路が浮かび上がり、簡単に観られるじゃろう。
苦の縁起を離れた己の心が、苦を客観的な存在として観る。
そして、更に厭離は進むのじゃ。
このように己の心を観察し、苦を観る修行をしていけば、どのような苦であろうと、全ての苦は必ず滅する。
苦が滅すれば生き方さえも変わる。
苦を滅する道は強く生きる道にもなるのじゃ。
しかし、一つ注意しなければならんのは、苦を滅すれば今まで逃げていた恐怖や不安と対する故に、強いストレスがかかる事じゃ。
ストレスが溜まってきたと感じたなら、少し休んで上を向いて、ため息をつくような感じで大きく息を吐きながら、体の力を抜くのじゃ。
そうすればストレスは抜けていく。
この時、体が自然に動く事も在るが、自然な反応であり、気にしないで良い。
それでもストレスが抜けない時は一時中断し、ストレスが無くなってから又再開するも良い。
自らの心身を調えながら、修行を進めるのじゃ。
多くの苦があれば防衛反応により、自我を滅する事も難しいものじゃ。
それ故に悟りを得る修行の為に、苦を滅する事も説かれたのじゃ。
このように縁起として成立する心の仕組みを、観る事に慣れれば、その仕組みによって成立する自我を観る事も容易になるじゃろう。
そして、苦の元になる己というものが観られたなら、全ての苦を滅し、二度と生じなくする悟りが訪れるじゃろう。
投稿日:2010-12-14 Tue
今、多くの者が苦しめられている劣等感と言うものがあるのう。
背が低いとか、鼻が低いとか、学歴が低いとか、あるいは特に理由も無く他人よりも劣っていると、思い込んで苦しんでおる。
そのような劣等感も実は心の作用であり、心の中にあるものであり、観察によって滅する事が出来るのじゃ。
人は自分は背が低いとか、鼻が低いとか、学歴が低いとか、そのような事で悩むが、実は背が高い者は背が高いことに悩み、鼻が高いものはそれに悩み、学歴が高い者もそれについて悩んだりしているのじゃ。
日本の美容整形では低い鼻を高くしてくれという客が来るが、西洋の美容外科には高い鼻を低くしてくれという者が来たりするという。
背が高い者も、低く見られるようにわざと、わざわざ肩を落として歩いたりするという。
このように背が低かったり、鼻が低かったりするのも、相対的なことであり、それが他人と比べて、絶対に劣っているという訳でもない。
ただ人の心の中にのみ、自らの外見や条件を以って、他人よりも劣っていると言う観念があるのじゃ。
劣等感が心の中にあると、他人の言葉が全て自分を批判するように思えたり、自分の観念に固執して離れられず、真実が見えなくなったりするものじゃ。
それも己の弱さを隠そうと防御する反応から来るものじゃ。
そして自らを弱いと思う事も認めず、強く見せかけるために、他人への攻撃をえんえんと繰り返したりする。
実際は弱いと言う感覚さえも、謬見ではあるが。
偽りでしかない弱さを隠すために観念にしがみつき、観念を守るためにさらに攻撃を繰り返す。
このように心に劣等感があれば、攻撃的になり、自らの心の中を観察するのが困難になり、誤った観念に囚われ、真実を追究するのも、修行するのも困難になってしまうものじゃ。
弱さを隠すために行動し、今まで生きてきた人間が、己の弱さをあらわにする心の観察をするには、よほどの決意と努力が必要になるじゃろう。
しかし、一度、それを決意して自らの弱さを認め、それをあらわにしようとすれば、もはや劣等感もやがて滅する。
自らを劣っているとする思いがどこから来るのか、過去の記憶からか、他人の言葉からか、あるいは何らかの体験から来るのか、先ずは原因を見つけ出すのじゃ。
そして、その原因から自らを劣っていると言う思いが起こり、自らが劣っていると言う思いから、弱さを隠す防御反応が起こると、観察するのじゃ。
その原因が無ければ、自らを劣っていると言う思いが無くなり、自らが劣っていると言う思いが無ければ、弱さが無く、防御反応も起こらないと観察する。
そのように順逆に正しく観察すれば、劣等感が消え去る。
それが無くなった時、劣等感は心の中にのみあり、外見などは関係が無かったと、気づく事が出来るじゃろう。
投稿日:2011-11-26 Sat
苦を滅する法をくわしく解説するのじゃ。
大体、このような順番になるのじゃ。
① 正しく心を観察する
② 苦の原因を見つける。
③ 原因から苦が起きると観察する。
④ 原因が無くなれば苦は無いと観察する。
① 正しく心を観察する。
先ず最初に数息観などを行い、心を集中するのが良いのじゃ。
そして心を観察する事を学ぶのじゃ。
心の現われは体の反応となって起きるものじゃ。
興奮すれば心臓が早くなる。
悲しければ喉が詰まり、みぞおちの辺りが苦しかったりもするじゃろう。
そのような反応によって心が動いている事も知れるのじゃ。
観察すればそのような反応が起きると判るじゃろう。
それによって観察が出来ていると知る事もあるのじゃ。
② 苦の原因を知る。
苦を滅するには、その原因を追求しなければならんのじゃ。
苦の原因は大抵が執着や孤独や不安や恐怖などじゃ。
過去の経験や誰かに言われた事に囚われていても、それが苦になったりするのじゃ。
そのような原因を正しく知る事で、苦を滅する事が出来るのじゃ。
③ その原因から苦が起きると観察する。
原因が判ったならば、実際に心の中を観察し、苦が生じる状況などを思い浮かべて苦が原因から生じる所を観るのじゃ。
この時、体にも反応が現れるじゃろう。
反応が無くなれば苦もまた無くなるのじゃ。
④ その原因が無ければ苦も無いと観察する。
さらにその原因が無くなり、苦も無いという状態を思い浮かべ、心の動きを観察するのじゃ。
これによって原因から起こる苦の連鎖が、はっきりとわかり、気づきによって厭離が成されるのじゃ。
人はそのような原因から生じる苦の連鎖を己のものと投射しているものじゃ。
この二つの観察によって、それが己のものではないと気づき、厭離されるのじゃ。
こうして何度も行えば、いかなる苦も滅するのじゃ。
例えば病気によって苦しんでいても、それは実はもとの健康な体になりたいとかの執着によるものが多いのじゃ。
必ず人に訪れる死も、体に執着がある故に苦になるのじゃ。
心に苦が無ければ死もまた楽しいのじゃ。
これがお釈迦様の教えられた苦を滅する法なのじゃ。
全ての者はお釈迦様の教えられた通りの法によって苦を滅し、楽しく生きるが良いのじゃ。
投稿日:2012-12-30 Sun
お釈迦様の教えられた苦を滅する法を、出来るだけ易しく解説するのじゃ。
先ずは全ての法の基本となる止観の法を修行しなければならん。
止観の法も実は難しくは無いのじゃ。
要するに心を落ち着かせて、心を観察する方法と言うだけなのじゃ。
心にある苦を観察するのに、一々苦しんだり悲しんだりしていては、観察が出来ないから、心を落ち着けて観察し易くするのが、止の行なのじゃ。
数息観などで心を集中させて、雑念に悩まされないようになり、心が落ち着いて観察できるようになれば、止の行は完成なのじゃ。
詳しくは数息観のやり方の記事を見るのじゃ。
そして観察の基本や観察の本行も参考にすると良いのじゃ。
心を観察するには何よりも、自分に正直であらねばならないのじゃ。
自分の心に嘘をついていれば、何時までも本当の心の観察は出来ないものじゃ。
特に苦や苦の原因を観察しようとする時、本当は苦しいのに自分は苦しんでいないとか、本当の原因を避けていては、苦も滅する事が無いじゃろう。
苦を滅する修行は誰かに見せる為のものではない故に、自分には自分の心の全てを正直に見せるのが肝心なのじゃ。
心を落ち着かせたら、先ずは苦がどのようなものであるか、観察しなければならないのじゃ。
基本の手を観察する時のように、出来るだけ客観的に自分の苦がどのようなものであるか観察するのじゃ。
仏教では苦を愛別離苦とか怨憎会苦などと色々に分類しているが、それらはあくまで参考にすべきものであり、人は各々が自分の苦がどのようなものであるか、観察して見出さなければならないのじゃ。
苦がどのようなものであるか判ったら、次は苦の原因を追求するのじゃ。
それも観察によって、何が原因なのか自ら見出さなければならないのじゃ。
同じような苦でも原因は一人一人違っていたりするものじゃ。
例えば愛する者と別れた愛別離苦であっても、ある者は執着が原因で苦しみ、別の者はプライドが傷ついたのが原因で苦しむという事もあるじゃろう。
そのような原因を自ら観察して、見出さなければならんのじゃ。
苦を滅する法に於いて一番大事なのは、この原因を探す事なのじゃ。
本当の原因さえ判れば、後は観想し観察するだけで苦は必ず滅するのじゃ。
人によっては原因が判っただけで、苦が滅する事もあるのじゃ。
それ故に苦の原因を探す事に、最も注意しなければならないのじゃ。
苦の原因は人が心の中で最も避けていた事や、観ないでいようとしていた事である事もある。
一番辛い記憶がやはり苦の原因になっていたりするものじゃ。
原因が判らない時には苦を観察しながら、様々な原因を思い浮かべ今の苦が最も強くなるものが原因と理解できるじゃろう。
又一つの苦が複数の原因より起こる事もある。
そのような時には一つ一つの原因について、次の縁起による苦の観察を行うが良いのじゃ。
苦の原因を思い浮かべ、苦が起こる事を観察する。
その苦の原因が無いとイメージして、苦も消える事を観察するのじゃ。
このように順逆に観察する事で、苦は自己同一化を離れ、滅していくのじゃ。
もし滅しないのであれば、それは原因が間違っているか、あるいは複数の原因がある可能性があるのじゃ。
そのような時にはさらに原因を探し、一つ一つの原因に対して、順逆に観察して行くのじゃ。
そうすれば苦は必ず滅していくじゃろう。
2014年7月7日 発行 初版
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