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体中が相変わらず軋んでいる。皮膚から骨までどこかが痛い。しくしくとした痛みの波がいつも私の中でぶつかりあってはたまに荒れる。ちょっと手を伸ばして、箪笥を支えに立ち上がろうとしたときでさえ、気まぐれに波は荒れ、私の体を少しだけ動きづらくして、少しだけ涙の滲みそうな感情の昂ぶりを与えることすらある。波がやってきて特に辛いのは、椅子に座っているときだ。間接がビリビリと音を立てて、電流を発し、手足が根本から少しづつぼろぼろと崩れていくのではないかと錯覚したことは何度もある。
今日もひどい痛みだった。小さい棘のアイアンメイデンに入れられると、きっとこんな感触がするんだろうと思う。
起きてからしばらくは、動くことが躊躇われた。少しの仕草で間接からビリビリが流れてくるのだ。誰かが私の血管に、小さい赤錆を注射したに違いない。そう思いたくなるほど、じりじりと血管そのものが削られるような熱と感触だった。
起き抜けから最悪の朝が始まったとため息をつく。動けないので、しばらくは布団にくるまってじっとしているしかない。学校はどうしたらいいのだろう。「行かないといけないんだよなぁ」と頭がぼやく。早く、痛みが引いてくれれば問題はないだろう、が、いつまでも引かなかったら、休むしかない。私は仕方なしに、天井をじっとみつめる。
天井と私の間には、空気しかない。空気の中では糸のような埃がぬるそうで気だるいダンスをしているのが見て取れた。ぷな、ぷな、ぷな、ぷな。力の抜ける擬態語が実にふさわしい。ぷな、ぷな、ぷな、ぷな。見つめていると、私もぷなぷなとした心持ちへと変貌しそうだ。目を細める。埃がよく見えた。楽しかった。埃が力なさそうにいくつも動いている。あれだけなにもない空間なのに、自由自在に遊泳しているわけでもない、その力のなさが、私は嬉しくなった。埃も力がないのだ。私も力はない。素晴らしいことだろう。
全身に流れていた痛みが和らいですっと体が天使の羽のように優しく浮いてくる。動ける準備が整ったのだ。アイアンメイデンの蓋が開いた――ようやくプログラムエラーだらけであるこの体が、いうこと聞いてくれるようになった。
布団を剥いだ。ゆっくり慎重に起きあがって、ベッドの縁に座る。大きくため息を吐き出した。朝日の差し込む窓を背に、私は昨日のことを思い出していた。断じて良い思い出ではない。体に刻まれた一つのトラウマだ。
パジャマの袖を捲りあげて、二の腕をじっと見てみる。赤紫色に皮膚が染まっていた。それはぼんやりとしている滲んだ輪郭で、斜めについていた。触れると少し痛く、いわゆる赤痣だった。私の体が痛む原因はこれだった。二の腕のちょっとした痣。この怪我から発せられる信号に、脳がいつも過剰反応するのだ。
病院には一応、診てもらっている。ふらりと立ち寄って病状を説明し、それから隙間を見つけるように何回か通った。
内科の医者はこの謎の痛みを、何度か血液検査などで入念に調べて「分からない」と診断した。この個人経営の病院が行う、委託血液検査では分からないことが相当あるようで「もっと詳細に検査ができる、市立病院への推薦状を書いてあげるから、行ってきなさい」といった主旨のことを言われ、推薦状を書かれそうになった。しかし、いかんせん、私の手元にあるお金は少なかったので「このクリニックで分からないなら十分です」と丁重に断った。
だから、私の病気は原因が不明だ。どこに理由があるのかはしらないけど、朝起きるとよく全身が痛くなっていて動けないのだ。学校に行かなくてはいけないという使命感が、消し炭になるまで、ずっと布団の中でモヤモヤと煮えるしかない。
今日、早めに布団から出られたのは幸いなことだった。
夢を食う貘でさえ、眠りこけるほど静かに脚を這わせる。私の体重、息づかい、心臓の音、全てをなるたけミュートして私はそっと家の中を動き回る。おそらく、眠りこけているであろう父を起こすわけにはいかないからだ。自分の部屋でぐっすりと寝ていることだろうと思う。昨日の深夜までずっと仕事をしていた彼のことだ。起こされれば、たちまち不機嫌な鬼になって、暴れ回る。
この早朝からそんなことをされては困るので「起きないように、起きないように」と祈りを込めて、ナメクジに追い抜かれそうなほどの慎重な足取り。せっかく着替えたばかりの黒いソックスが床の埃で汚れるが、構わない。するすると足を滑らせているような、この一歩一歩でさえ、下手をすれば父からすれば、なんと言われることか。
ましてや、床が軋んだりすれば――。
二日酔いの耳に響くキキキという音は、一斗缶がひしゃげる音にも等しい。
肩に掛けている鞄は両手で抱きしめるように抱え、玄関のノブすら、掌で覆って優しく回した。
開けて出てみれば、外は暑かった。いつからこんなに世界が暑くなっていたんだろう。私はそっと扉を閉める。閉めてから、自分の格好をよく見てみる。夏服の、白いブレザーと薄めの紺のスカートも、ソックスも、特段の支障はない。肩に掛けた鞄も一度ぐちゃぐちゃになるまで抱きしめてしまったが、中身はちゃんとしているようだ。財布も入っている。
家の陰から、日差しの中へと一歩踏み込む。一瞬だけ、不安がよぎる。学校、か。空間を音声で透明に塗りつぶせるほどの喧しいクラスを思い出す。その中へと、身を投じる自分を案じた。大丈夫という保証はあまりにも少なかった。
しばらく思考停止して、考えるのをやめて、そこから考え直すと足は前に進んでいた。
父と学校を天秤秤にかけて、重さを計れば、父を乗せた皿が糸を切って落ちる。父がそれほどに私には恐ろしくて仕方なかった。今は、まだ、ギロを歯で擦っているような鼾を呑気に掻いている父であったとしても。
背後の鼾から感じる強い殺意に、私は戦慄を覚える。そこから遠ざかりたい一心で踏み出した一歩をさらに進める。オンボロの体は陰を完全に離れて、紫外線をたっぷりと浴びた。可視光線の世界にやってきた。「すごいや、明るいや……」世界が息づいているみたいだった。
晴天の日差しは体を灼く。久しぶりに外へと出たような気がする。湿気が多くて、肌が濡れるような空気の中、一瞬だけ一掃して駆け抜けていく風が心地よく、一瞬以外は濃くてねっとりとしている空気に汗がとろとろと溢れた。頬と首を伝うそれを、手のひらで払う。血の巡りが良くなったせいか、赤痣が少し熱を持ち始めていた。痛みはない。体は不快さで重くなることもない。むしろ、私はなぜか解放されたような清々しさを覚えていて、晴天の下にいる自分が、奇跡みたいだと思った。少し大袈裟な表現だとは自覚している。
実のところ、学校までの道のりをいまいち覚えていない。私はいつもどうやって学校へ行っただろう。そんなに私は学校を休んでいたのだろうか。それすらよく覚えていない。私が進む道が正しいのかさえ、今の私にはよく分かっていなかった。きっと出鱈目を踏んでいるのだろう。だけど、岐路とはいつでも結果が曖昧なままに決断を迫られるものだ。私はどうしても抑えきれない、はしゃぎ倒したい気持ちを、それでも抑えて、一歩一歩を進めた。出鱈目でも良かったのだ。
道の端にいる男子生徒が私を見ている。私の姿に驚いているようで、その表情はどことなく呆然としていた。私が外に出てきていることに驚いているのか、あるいは、私がやたら嬉しそうに目を輝かせていることに驚いているのかは知らない。いずれにしろ、私がイレギュラーだから気になって仕方ないのだろう。
私はふと彼を追うように歩いていけば、と思った。学校への道は彼なら、確実に分かっていることだろう。私は男子生徒に目を向けた。私を見ていた男子生徒は慌てて視線を逸らす。私を見ていることはそんなに罪なのだろうか。私は少し不機嫌になって、しばらく眉を寄せる。唐突に「そうかもしれない」という結論が沸いてきた。確かに罪かもしれない。私は罰の多い人間だ。二の腕の痣が鮮明にそれを物語っている。
日差しがじりじりと私を灼く。
教室にぎっしりと詰まった目玉たちは「見まい、見まい」と「見たい、見たい」の葛藤の中で、私にチラチラ視線を注いでいた。異質すぎる、現実でないような現実の空間は、想像していた教室とは少し違っていた。だが、私をなによりも驚かせたのは、教室があまりにも明るくないということだった。コの字型の校舎にあって、太陽を受ける東側に、文字通りの東棟が存在するこの校舎のつくりでは、西棟にいる私たちには、外の陽気な日差しも降り注がれることがないようだ。
私は「自分のクラスは明るいものなんだ」と思い込んでいた。「明るい中で、誰もが自分勝手に振る舞う場所なんだ」と思っていた。だから、実際の暗さには驚かされるばかりだった。
薄暗いのだから、誰か電灯でも付ければいいじゃないかと思うが、誰も付けない。私をチラリと見ては、会話を進める。なぜだろう。そんな油売ってないで、やった方がいいことをすればいいのに。「周りに咎められるからできない」と教室の空気が答えた気がした。
どうして咎められるというのだろう。電灯程度で。
不思議なのだが――とはいえ、私がのろのろ歩いて、教室の電灯を点けるのもどうだろう。クラスの目玉たちが、私のことをどう見るだろうかと思うと、少しの躊躇いが生じた。黒い瞳孔たちの視線を一集したときには、少し眩暈を覚えるかもしれない。これも少し大袈裟な物言いだろうか。だが、今の私では、電灯を点けられるほど自由な立場にないことも周知の事実だ。
こうして、うだつの上がらないまま、煮え切らないうちは、私も電灯程度で人に咎められそうな気がしている一人か。文句を言える資格はなさそうだ。
私はやるせなくて、机の上でただ授業がやってくるのを待った。
待つことは苦行ではない。アイアンメイデンの中で、「いつになったらこの魔法が解けるのだろう」と悶々とし、身動きの一つも取れないでいる私にはあまりにも慣れていることだった。今は体を覆う痛みもなく、父の鼾が、部屋の果てより到来しない分、気楽だったかもしれない。思考をやめて、時計の針の動きを眺めているとそれだけで心が落ち着いた。外の蝉の声でもいい。耳を傾けて、微細な変化を心に刻めば、それで十分に楽だった。
痛みが体を覆っているときは、こんな余裕もない。痛みがどんな集中力も妨げてしまうし、痛みが他の感覚を支配するから、聞くこと見ること感じることの殆どは掻き消えてしまうばかりだった。
私を取り巻く、目玉の飽和した状況も少し視点を変えれば、ただの天国だった。誰も襲撃してくることもない。折檻を恐れて、背骨を冷やすこともない。少しずつこちらを見るために現れてくる目玉は――言うなれば、お化け屋敷のアトラクションで、火の玉のようにたまに光っては、幻惑的な感覚を私に植え付けてきているのだと思えばいい。醜聞に極まるひそひそ話も、右に現れては左に消え、正面、背後と、駆けまわる音の情報として捉えてしまえばいい。アバンギャルドな名演だ。
私は何も気にしないで、教室のなかにそっと居た。渦中であることも、台風の目としてなにか大きく教室を動かしていることも承知しながら、だけど、私は私の意識としてただこの教室に居るだけだった。それ以上に機能する、何らかの形での問題提議や、それに対する回答や、意識らしい意識は一つも持っていなかった。
ただ、一つだけ自分の頭に弾ける意識があるとすれば、父のことだ。家に残っているであろう父親の動向が気になる。私の居ない家でなにを思い、なにを行っているのか。学校は住居代わりではないから、いずれ戻らなければならない。この時間は永遠でも開放でもなければ、ただの余暇であり、背後から迫る影には抗えず、引きずり込まれてゆっくりと暴力の中へと戻ろうとしているのは間違いがなかった。父親のことを思うと、心が落ち込んだ。
少し考えて、それは考えないことにしようと決めた。「父のことは、今はやめよう」と心で呟く。折角、抜け出してきたのだ。考え過ぎは良くない。せめて、学校にいる間だけは、考えることをやめておきたい。その後で幾らでもその分の制裁は受ける。「だから、喩え、一瞬間に、頭が父を思い浮かべても、気にしないでいよう……」決心を決める。
教室の電灯が点いた。
薄暗い影が消えて、電灯の明かりに教室は占領される。私は意識を戻して、周りを見る。教室の扉を開けながら、壁のスイッチから教師が手を引っ込めるところが見えた。目玉たちが一斉にワーッと移動していく。私は目の前で、狭い机同士の隙間を迷路のごとく進み、互いに行き違う目玉たちに面食らう。当たり前のことをしているつもりなのだろうけど、よく互いにぶつかりもしないで、ギリギリの距離を行き交うことができる。間違って、机の横に下がっている誰かの鞄をひっくり返したりしないのか。
頬が少し粟立つ。誰かの視線を感じて目をやると、教師が私の姿を見つけて、目を白黒させているところだった。私の存在に気づいていなかったらしい。さっきまでそっと教室に居たせいだろう。突如として、霞から現れたように感じたのかもしれない。
認識として間違っていない気もする。少なくとも、私の意識は霞にあったと思うし、私はあのとき霞そのものになって、そっとして居たかったのだから。
「あ……」
しばらく教師は唖然としていると、やがて、気を取り戻す。鞄から出席簿を抜き出すと、動揺した指先で、ボールペンをちょんと取り上げる。それから、出席簿を一回、満遍なく眺めて、それから再び私を見やった。
私は愛想笑いを浮かべて、会釈する。教師を頷き返した。
たぶん、二人ともなぜ会釈したのかは理解していない。
教師はそれっきり私には注目しなくなった。そして、出席簿に目をやると、ボールペンでなにかメモのようなものを書き添える。なにを書かれているのかは察しがつく。間違いなく私のことだ。大方、予め『蓬――不登校』とか、備考用にメモをしていたところに書き加えをしているのだろう。
それから、一息つく。
「青木――青山――伊勢――伊東――」
教師は何事もなかったかのように、出席を読み上げた。
出席でみんなの名前が呼ばれるに連れて、周りが薄い騒がしさを醸し出してくる。私のことを再認識するときが一刻と迫っているせいだろうか。それは自意識過剰というものか。だが、暫く周囲に耳を傾けていて、やはり周りが私の話をしているという結論に至った。ただ、別に「私が出席で呼ばれる、呼ばれない」という話をしているわけでもなかった。只管、周りは「教師が不登校児の登校に驚いていた」という事実に盛り上がっているのである。
『担任が驚いちゃダメじゃね?』
『それが島チュークオリティでしょ』
『ずっと放置してたからなー』
『どう見ても、取り繕ってるよね』
『島チュークオリティだからな』
そんな会話が空気にのって漂ってくる。
少し不愉快だが、少し面白い。私は誰にも分からないように北叟笑んだ。
一時間目は数学だった。数学教師は私の姿には目もくれず、教科書と数学の問題集を教卓の上に広げて、よく目を凝らすと、一人で「あぁ、あぁ……あー」と納得してからチョークで黒板を白い文字で埋めていった。あまり髪を手入れしてないらしいボサボサな頭には、似合わないくらいに綺麗で、ただ、少し小さめの字をどんどんと書く。教室の誰もかれも目を細めて、それを見つめていた。
私も同じようにそれを見つめては、ノートに小さな文字を写していく。ノートに埋めている間、教室は、鉛筆の引っ掻き傷で溢れかえる。シャリシャリという音が響いては消えていく。黒鉛たちは輝かずに、ずっと曲線を描き続け、あらゆる人の口を奪っていく。誰も一言も語れない。代わりに、齎すのは人の頭を机とくっつける呪術だ。
これに掛かってしまえば人はたちまち、瞼を下ろして瞑想を始める。そして、瞑想の中で声を聞く。二次方程式の解の公式が瞑想に現れて、輝かずにやがて不発の花火のように心像の奥底へと落ちるのだ。輝きを放つことがないので、心像という黒い海の底に落ちたらそれきりである。二度と掬われることなく、その人から消えたのも同然。こうして、二次方程式の解は不必要という、幻想だけが、心像の表層に残り、あとは――終わりとなる。
呪術ゆえになにも残らない。呪術が生み出した睡魔の餌食になると、ただ眠るよりも深く眠って、ただの眠るよりも多くを食らいつくされて至る。喩え、抗って眠らなかったとしても、その人でさえ呪術は効いている。両耳は塞がれ、頭は愚鈍になり、油断した隙に脳が優しいオルゴールでも奏でたかと思うと、しばし、記憶がなくなる。ふと手元を見ればノートには書いた記憶のない、脈絡の抜けた怪文『自転車の山に越えるブーツ』とか『明日の予報は、もう聞いていたいな』など並び、それをしげしげ眺めてから、慌てて消しゴムで消す。
数学の授業とは、かくあるものらしい。
私が教室の様子を見る限りはそう思う。既にクラスのあちこちに走り回っていた黒鉛の擦れる音は、だいぶ減少し、静寂が訪れつつあった。寝ているのはごく少数だったが、寝ぼけたように瞼を重く開ける人は多い。誰かに至っては視線が定まらず、二、三度、船を漕いではそれが引き戻る仕草を見せている。また誰かに至っては瞳の明かりが一切消え失せ、幽体離脱しているらしく、頬杖に頭の重さを預けたまま蕩けてさえいる。
すっかり呪術に掛かった教室では、逃れようとしつつも、逃れられずに呪縛されて引きずり堕ちる魂ばかりが集まっていた。「これでよく、堕ちた魂同士が交じり合うような事が起きないものだ」と感心する。どんよりとした停滞的な空気のえげつなさとも違う、一息吸うと体が浮遊しそうな、ふんわりという柔らかい淀みが漂うここでは、それくらいのサイケデリックが起こってもむしろ自然であると思った。
この空気で、理性的な思考を維持するのは難しいだろう。数学が初めから好きならば、空気など気にしないでやっていけるだろうが、嫌いとなると、あるいは好きではないとなると……。
それで当の私はどうかと言うと、目が冴えていた。
数学は好きではない――はずだ。そもそも、授業そのものを受けたことがないので、好き嫌いよりも手前の話かもしれない。それでありながら、目は他の誰よりも冴えていた。こうして、冷静なクラス観察ができるのも一重にその、冴え具合の成せるものだ。目が冴えている理由は、自分でも分からない。授業の内容は、一から十までよく分かっていないが、ノートを書き写しているだけであったが、苦痛ではなかった。日常でこれ以上の苦痛を幾らでも味わっているからか。
しかし、いくら苦痛とはいえ、この睡魔と私が指しているアイアンメイデンはまったく違う苦痛だ。つまり、単純な話で、私は眠気に強いということなのかもしれない。言われてみれば、眠すぎて意識が飛んでいるという経験はあまりない。眠りたいのに眠れないままの夜は多くあるが。
私は体質として眠気というものを意識しにくかったのかもしれない。
教室では、自分を含めて、十数人の鉛筆の走らせる音が響いている。既にそのくらいの人数まで減っていた。あとは、たまに何人かが増えたり消えたりを繰り返しているだけ。鉛筆の擦れる音は人によっては心地の良い子守唄なのかもしれない。私には、ただの鉛筆の音だが。
十数人の顔を眺めてみる。たいてい、真剣な表情で黒板を見つめている人たちばかりだった。それくらいでないと、この呪術に勝てるようにはならないということか。私は感心して、くるりと教室を見てみる。ものの見事にみんな目が虚ろだ。あるいは睡魔に負けて寝ている。様子を見るかぎり、睡魔は感染するらしく、一人が寝ているとその周辺の席は、みんな眠そうだった。その中で、ポツリポツリと数人が生気を放っている状況で、客観視する分には、だいぶ面白い光景だった。
日差しの差し込まない、この教室が独特に保有する照明の感じと相まって、ここは機械工場の一室なんじゃないかと錯覚した。二階にあるのだけど、地下二階にあると頭に思い込ませる。そう思うと、不思議なものでなにもかもが、視界にあるものを頭が書き換えていく。周りの人たちは着用している制服の鈍い白さから、誰もがロボットに見えた。――オンボロだ。こっくり、こっくりと首を傾けるあの人も、生気なくしてノートに謎の曲線を書き綴るこの人も、みんながオンボロの仕草をしている。
オンボロが教育を受けているのだ。
嬉しいと思った。教室はオンボロばかりで、そのオンボロの多さに胸の淀みが梳いた。
私は爛々とした目で教室を順繰りに眺める。
どこもかしこもオンボロしかいない。鉛筆を一定に動かしているオンボロ、鉛筆を動かせないオンボロ、バグのせいで足がずっと揺れているオンボロ、手で頬を支えないと頭が落ちてしまうオンボロ。
そして、私のことを見つめるオンボロも。
私の目と、彼の目はその一瞬、確実に同じ線上に存在していた。真っ黒い虹彩が、私のことをずっと見ていたようだった。急に私の中に恐ろしさがこみ上げてくる。意識していなかった。事実として、どんな事情にせよ、私は不登校児である。不登校児が登校してきたのだ。そこに間違いはない。彼の視線に在らぬものを私は感じ取る。
不登校である事の重大さが、自分の境遇が、一気にその瞳を介して流れ込んできた気がした。闇を見つめるとき、自分もまた闇から見つめられているのだ。皮肉かと思うほど、綺麗にその言葉が頭に浮かぶ。視界が傾く。私が壊れたように首を傾げているだけだった。オンボロだから。
何かをしていないと不安になった。私は、慌てたように視線を逸らすと、すぐにノートと向き合う。向き合ってから、なにもしないで鉛筆の先端をじっと見つめる。数学教師が黒板の内容を消しに掛かっているところで「黒板の内容写さないと」と気づいて、慌ててノートにいっぱい文字を書き写していった。ほとんどは間に合わず、冒頭の四行を書いたところで、黒板は次の内容を写し出していた。
三時間目、歴史の教科書を広げる頃には、私の不安は心いっぱいに充たされていた。教室にばっこする目玉たちは、授業中だから私に視線を注ぐことは少ない。勝手な被害妄想もありうるだろう。しかし、被害妄想でも、心に募るものは募ってしまう。雪のように、一つ一つが小さい結晶であったとしても降り積もれば大きな層になっていく。心像の海に厚い膜が覆うように、雪の層は敷かれる。海の上では、ただ融けるだけの取るに足らない雪が積もり、重さが増せば、海の動きさえ変えてしまう。心像の動きが変わっていく。
大袈裟なことをまた言っているのかもしれない。「勝手に雪を降り積もらせているのは、私自身だろう」と問い詰められれば反論の一つも出てこない。ノートを取る以外、行動を選択できない現状では勝手なことを思うしかなかった。
私は、不登校児としてどう見られているのだろう。
先ほどまで平気だったはずの感情が沸き上がっては、私を左右に酷く揺らす。溢れる間欠泉の勢いに圧されて、私は船酔いするほど波立つ。頭は水平を失って何度も傾く。複雑に上下する細かい波の一つ一つに私は押し上げられ、また、波の谷間に落ちる。水しぶきが石の礫のごとく、顔に何度も当たり、それを必死に掌で払っては、手の甲で払っては、浮かぼうとするが、瞬く間もなく、次の波が私を押し上げる。方向感覚が失われていった。
社会科の教師が世界大戦へ向かうところの欧州を解説している。バルカン半島は武器庫。私もそれをノートに記す。バルカン半島は世界の武器庫だった。心にのたうち回る波が、バルカン半島の形を創造する。バルカン半島の詳しい形を詳細に写し、半島の人々の様子を念写する。ラテンの、辛さ伴う暖色系に彩られた街の天上には、八方にスターバーストを起こした黄色い太陽が燦々としている。私はノートにその描写が書き写せなくて悩む。
この絵を書くか書かないか、どのようにすれば書けるか拱いているうちに、社会科教師の解説は気づけば、オーストリアに移っていた。波が描く世界が一変する。暖かい色が次々と冷めていき、世界が白銀と水彩青の二つで淡くなる。街並みが形成されていく。煉瓦作りの建物たちは、茶赤く、しかし、空と水平線の青さが印象を奪い、街並みはどこも青銀である。その色とまったく同じ色で飾り付けた、貴族の慎ましやかな衣装が浮かぶ。手元の大きな宝石はトパーズだろう。光で色変わりする美しさに見とれ、ふと息をつくと、その貴族は乗車し、民衆の前に姿を見せている。レトロの青い車は、流線型とはほど遠く、組み立てた積み木に車輪を付けたようだった。民衆と貴族たちに一つ距離を置いて、カフェから出てきたばかりの青年が、拳銃を忍ばせている。そして、まっすぐ車へと銃口を向けると引き、そして、発射された銃弾を皇太子が受けた。途端、世界が吸い込まれるように、渦を巻く波の中へと消えていく。波ばかりが残った。私は世界がどこにあるのか分からなくなる。しかし、また世界の入り口が見えてくる。社会科教師が、また話を変えていた。年代が大きく飛んで、なぜか第二次世界大戦前のドイツの話だ。それもヒトラーが台頭する前の話の経済の話。
ドイツの金銭、マルクの異常な程のインフレーションについての話。波は今度、灰色と黒の無機質な光景を映し出した。数字がいくつも連なっている。インフレ状態の経済において、当時の財務大臣は、貨幣を大量に刷るという行動に出ていたと社会科教師が言う。貨幣が増える光景を波が写す。ノートに次々に文字を浮かばせる。波は貨幣に代わって、私を取り巻く。波に溺れていた今までよりも貨幣の波には溺れやすかった。一つ一つが紙なので手で掻いても感触が軽く、隙間が多いので手は海の中をただ通り抜けていく。浮いている体を保てない。紙の方がはるかに軽いので、体はどんどん海の中へと沈んでいった。灰色い貨幣は、端が鋭く、私の体が何度も小さく切れる。海の底を覗いてみる、灰色が募って黒くなっており、その暗黒の中へと落ちていくことが怖くなった。貨幣はまだ増える。社会科教師がどんどん増やしていく。貨幣はより軽さを増して、物である私を底へ追いやっていく。ノートに一字一字の全てを綴っている。
左の二の腕に痛みが走った。忘れかけていた、赤痣から電流がやってきたのだ。
反射的に仰け反る。私が目を向けると、隣の席にいた女子生徒が私の二の腕を触っているところだった。机上の筆箱に小さな熊のぬいぐるみを飾り、唇に薄い色の口紅が塗ってあるのが印象的な子だった。彼女は少し申し訳なさそうな顔をしていた。
「ごめん。痛かった?」
私は何か言葉を言おうとする前に、首を横に振っていた。本当は痛かった。だが、余計な心配をされるのは困る。
「そう。良かった」女子生徒はほっとしてから、私に顔を寄せて囁く。「で、あのね、そこはノートに書かなくて大丈夫だよ?」
虚を突かれる。自分のノートを見て、そして、もう一度彼女を見つめた。
彼女がラミネートの粉末がチラチラ光っている頬を釣り上げてにっこりと笑う。
「そ。今、書いてるそこ。そこはノートに書かなくて大丈夫」
戸惑う。
「な、なんで……?」
私の声はだいぶ掠れて出てきた。戸惑いよりも、急に声を出そうとしたので上手く喉が震えなかったのだ。私は小さく咳をする。漏れた咳が耳元まで伝わったのか、社会科教師がじろっとこちらを見る。彼女は慌てて私の席から離れて、両手を膝に添えると愛想笑いを浮かべた。社会科教師はじっくり私と彼女を睨み通してから話を続ける。横槍を入れられたというのに何一つ変わる様子はない。すぐ饒舌になると、あれよこれよと、曲がりくねった道筋で、二転三転する話を教室に流していった。
やがて、話に夢中になった社会科教師は、黒板にチョークで何事かを綴り始める。そうして、彼が背を向けた隙に、また彼女は私に顔を寄せて喋り出す。「でね――」と切り出したあたり、話の続きを意地でも話したいらしい。彼女の積極さに気圧されて、私はなにも言えない。
「でね、それ、ノートには書かなくていいんだよ。今、先生は教科書とか、授業とは、あんまり関係ない話してるだけだから」
私は彼女に言われて、初めて、それまで広げていただけの教科書をよく読んだ。広げてある頁には、案の定、見開きいっぱいに第一次世界大戦に関するバルカン半島などのことが書いてある。当然だけど、オーストリアの話もある。ドイツの――。そこで手が焦る。何度も頁を捲る。次の頁も、前の頁も、捲って読む。遙か先の頁を開く。読み通す――が、どこにも「ドイツのインフレ」なんて文字は見あたらなかった。
眉を顰めて、彼女を見る。
彼女がもう一度顔を寄せてくる。そっと、耳打ちされた。
「この先生、関係ない話するのが好きなんだよ」
私は彼女の顔を見つめた。
彼女は頷く。
その首肯に促されて私は教室中を見回した。誰もノートなんて取っていなかった。飽き飽きした顔で、ただ座っているだけである。数学の授業で寝ていなかった優等生たちでさえ、ノートになにも書き記すことなく、ぼんやりと黒板以外の物を見つめていた。気になって、自分の後ろも見回す。見たことのある目玉が私を見つめていた。再び視線の交錯した真っ黒い虹彩には見覚えがあった。彼だ。一時間目のとき、私に現実を流入させてきた目玉だった。目玉の瞳孔は、曠に私をフォーカスして見ているのがよく分かって、やはり恐ろしい。射抜くような視線が、私のなにかを見抜き、咎めているようだった。私はあたふたと視線を戻す。
机上を見つめる。ノートや教科書の類、どれもが乱雑に並んでいた。
社会科教師が、あまりカリキュラムと関連性の低い話をしていることも分かった今、ノートに何かを書き留める気もない。私は焦りを隠すように中途半端に書き止まっているノートをそのまま閉じた。ついでに手元にずっと持っていた鉛筆を机に置こうとする。置いた勢いが強すぎたのか、六角のそれが無駄に転がる。机の端から弾かれて落ちそうになり、心臓が跳ね上がった。寸前、手で捕らえる。開けっ放しだった筆箱に鉛筆を入れ、ファスナーを閉じた。教科書の前小口を爪で擦る。教科書がピリリと鳴る。
次第に心が落ち着き、冷静さを取り戻す。今度は今の焦り過ぎている自分が恥ずかしくなって、机の中で落ち込んだ。幾ら視線に怯えたとはいえ、動揺が度を越している。この様子では、余計に周りが私を奇異の目で見るだろう。墓穴を掘るとは、まさにこのことだ。
そして、ふと隣に彼女がいたことを思い出した。「もし、この様子を見られていたら」と思うと背筋が凍えた。もし、彼女が私のこれを見て、後退るようなら、私の心に更なる波が広がるだろう。
私が視線を移すと、彼女はこちらの視線に気づいてにっこりと再び笑った。見られてはいないようだった。
私も返事に意味なく会釈をして、少し微笑む。
すると、彼女が瞳を輝かせて「えーなに? なに?」と尋ねてきた。また気圧されて体が仰け反る。やたら積極的な彼女の勢いに、まったく付いていけない。むしろ、翻弄されていると言えた。そして、「この姦しさは苦手かもしれない」と思った。ラミネートがよく輝いている。相応しいくらいの笑顔も輝いている。瞳も輝いている。笑った唇の隙間に見える白い歯も目立つ。薄く塗った口紅も光沢を持っていた。
総じて、全てが苦手だった。
私は掠れ気味の低い声で「な、なんでもない」と精一杯に応えて、それから、正面を向いて、誰の視線も一切無視することを決めると、机の上で肩を寄せ、膝を寄せ、縮こまり、頭を小さく下げ、延々と授業を聞いているフリをした。彼女は「そう?」と不思議そうな声を上げるとそれっきり、話しかけてこなかった。
社会科教師は、既に古代ローマに話を進めようとしている。そこに至るまでの文脈、脈絡、筋道、経緯は聞いていなかったのでよく分からなかったが、兎も角、何らかの形で社会科教師の中ではドイツからそこまでの道のりが繋がっていることは分かった。同時に話に酔う人の話とは煩わしいものであることもよく分かった。教室の時計によれば、あと五分で授業終了のチャイムが鳴るらしい。あと五分で、この教師がどこまで話すつもりなのか。疑問は絶えない。
昼食になって、自分の特異さをまざまざと感じ、私は困り果てた。今の今まで忘れていたが、中学校の昼食は誰かと一緒に摂るものだ。しかも、弁当制なので、昼食は基本的に持参しなければならない。私にはどちらも無かった。教室の中でぽつんと取り残された机が、私の状態だった。持ってきていなかった弁当は「仕方ない」と、担任が近くのコンビニまで買いに行った。最初は、幸い財布だけは肌身離さず持っていたので、「私自身で買いに行く」と言ったのだが、担任によれば、校則として生徒が下校時間よりも前に校舎から――具体的には校門から――一歩でも外に出ることを禁じているとのことで、無理だった。お金だけを担任に預け、買ってきて欲しいものを指定するしかなかった。
机の上で呆然と待つしかない身にもなって欲しいと思った。買いに行ければ教室で空気のようにただ座ることも無かったのに。時折、目玉がこちらを見ているのが分かる。白目が私を包み込んで、黒目で心を捉えようとする。何度も抵抗をして、逃れようとしても、同じ場所に座り続けるかぎり、目玉は幾らでもこちらを覗く。教室には目玉たちが、端から端まで詰め込まれていた。それらはその場を動くようなことは決してなく、私に襲いかかろうとする素振りも見せず、確実にこちらを捉え続ける。抽象的な視線で私を射抜くくらいなら、物理的に射抜いてくれた方がマシである気がした。それであれば、まだ「痛い」とか「痒い」とか思うべきことを思えるので、自分にある「なにも思わない」という空洞に自分の精神を放り込まずに済む。刺激が、心のなかに沈もうとする自分を、浮き上がらせると思う。浮き上がったところを、ナイフで刳られるかは知らないが、目玉が覗いていて、こちらの気狂いを待ち続けようとしている今より、ずっと楽だと思った。
誰も私のことを一言も口にはしない。教室に流れる言葉は全てが雑言で、〈蓬〉のよの字も、〈はゆ子〉のはの字も、〈不登校〉のふの字もない。私に興味が無いように装う。それは大きな嘘だ。気紛れに教室のあちこちに目を向ければ、誰かの視線と必ずぶつかる。そして、視線のぶつかった相手は、私の視線と相容れない絶対の反発性でもあるかのように、機械的に目玉をぐらんと逸らすのだ。まるで私の目玉に篭っている電荷がマイナスで、自分たちの電荷もまたマイナスなのだと言わんばかりに。考えようによってはマイナスの電荷を持っているならそれでいいかもしれない。反発しあい、絶対に接触できないなら楽だ。もし、人にプラスとマイナスがあったら、触れ合おうとしてない視線すら容易に交錯し、目玉を介して、私にきっとまた現実が頭から足先まで突き抜ける。プラスの目玉が、水晶体から全てがマイナスに電荷が向かっている私の目玉を見てじわじわと近寄ってくる。そちらの方が恐ろしさを覚えた。
私に近寄ってくる目玉が一人だけいる。瞳が爛々と輝いていて、ラミネートの粉末を纏っている目玉だ。黒目に浮く、一つ一つの星を見つめては、この人とは精神の底から一致しないことを私は確信する。彼女の「興味本位」という意識が目玉にはっきりと写り込んでいる。黒目から白目に渡って横向きに流星が通り過ぎる。蛍光灯の明かりを目玉が反射して、顕れたのだろう。彼女は私の目玉に流星を移したいのだろうか。彼女は三時間目に迫ってきたとき以上の短い距離まで私に接近してくる。まるで目玉と目玉をすり合わせたく渦々しているくらいに。屈んで膝の上に手を置くと、彼女は、座っている私の視線に合わせた。
「ねぇ。ひょっとして、誰もお弁当食べる相手居なかったりして?」
教室中の誰もが気まずそうに彼女を見る。頬のラミネート粉末は、時間とともに少しずつ落ちてしまったのか、頬に光るものは少なくなっているが、唇の隙間から覗く白い歯、目の中に見える輝き、綺麗につり上がっている頬、全身から天真爛漫さが滲み出る雰囲気、三時間目に話しかけてきたあの子だった。
私は、屈んだ彼女の肩越し、あるいは腰越しに、彼女の友人たちが戸惑いあぐねているのを、さりげなく目で捉える。私に顔を向けている彼女の背中に、幾度と、手を伸ばす素振りを見せてはやめる。それを繰り返していた。口元が絶えず「ちょっと……」と呟いている。
漂白剤に十年間浸したような、汚れのない、無邪気な質問は教室の緊張を高めた。彼女の友人ではない者たちも昼食の手が止まる。空間を隙間なく詰め込むように埋まっていた会話がその間だけ少なくなった。私という黒点を、教室中に存在する目玉がじっと見つめた。しばし、私を観測すると無感動かつ無関心な表情を見せて、会話はまた多くなり、緊張が残ったまま、目玉はくるりと回転し、昼食の手を進める。
彼女に他意はなく、彼女の言葉は表面に載せられた意味が全てなのだろう。ただ純粋な動機で私に対して一緒に昼食を食べる相手がいるかどうかを確かめたかっただけなのだ。ちょっとした会話の引っかかりにするつもりで、雲のような軽さでふわりと言い放った一言に過ぎない。勝手に捕まえられない雲を捕まえたのは、私なのだろう。しかし、気のせいでも赦し難いものがある。
「ねぇ?」
雪崩れかかりそうな勢いで明るくて甘そうな吐息を吐きかけてくる。なれなれしい彼女の問いに、私は突っぱねてあえて応えない。口を利かず、彼女が不服そうに眉間を寄せるまで無視をした。五回ほど口を利かないでいると、さすがの彼女でも勘付くものがあるのか、渋そうな顔つきになって、ラミネート粉末のキラキラが似合わない不細工が出来上がってくる。それでようやく清々して、私は掠れがちの喉だったので咳きをしながら「居ないよ」と言った。
「居ないの……?」
人間、気持ちが両極に躁鬱を繰り返すことなんて早々なく、彼女も、いきなり私が応えたからって良い顔になるわけはない。私の答えは、彼女が考えた通りの答えであり、ある種、言い換えると彼女の望み通りの答えだったのだろうに、それでも彼女はさっきの鬱憤を引きずって、燃料の切れた機関車みたいに上手く勢いが乗らない顔つきをしている。
「居ないんだ」
「うん、居ないよ。知ってると思うけど」
最後の一言は、余計だったがどうしても混ぜたかったので言葉を強調しながら混ぜた。教室に要らないはずの汗がうっすらと流れる。私のうなじにも、霧よりも細かい汗がじわと吹き出しているのが分かった。言葉を発した後で少しだけだが、「これでは、明日からこの教室に来づらくなってしまうじゃないか」とも思い、後悔の念も襲いかかってくる。
また痛みが走った。同じ二の腕だった。赤い痣を再び思い出す。父親の陰が頭をよぎる。煙草臭のする体から、酒の匂いがほのかに香ってきたときの背筋が凍る体験が思い出された。記憶は現実よりも強い実感を伴い、私は自分の奥底に吸い込まれていく。今の体が嘘に感じる。記憶によぎる、胴体から間接の全てがちぎれそうだと思った、あの痛みの実感が遙かに現実だった。
「ごめん」
教室に現実が戻る。
あれだけ煮え切らない表情だった彼女が、とても心配そうに私の顔を覗き込んでいる。彼女がまた私の二の腕を掴んでいた。
私は眉を顰める。
「大丈夫?」
「なんのこと?」
私が彼女の過剰な心配に不思議がっていると、彼女は溜め息をついて「まあ、いいならいいけど」と控えめに――彼女だというのに、控えめに――身を引いた。それから、はっとすると、私の腕を手に取る。
「まあ、色々はいいから。ほら。こっち、こっち」
手招くような口調で、私を強引に机から引き剥がす。教室の黒点を私は彼女に引っ張られながら見つめる。さっきまで黒点は私であったはずなのに、席を囲まずぽつんとしている机を見ていると、まるで黒点は机のことであり、私はそこに偶然留まっていただけのような気がした。自分がどこにも属さないで浮いていると思う。不安に駆られて「どっちのこと?」と彼女に分かりきった質問をした。
質問の答えが返ってくる前に、私は彼女の席に座らされていた。彼女を囲うように集まっていた机たち、そこに留まっているいくつもの目玉たちが、一斉に虚を突かれる格好になる。私も両手が痺れたように動かなくなる。黒点にぽつんと、そっと居るだけだったはずの者が、こんな局地集合体の中心に座らされるなんて、お立ち台でルンバかジルバかサンバかパラパラかヤッサイモッサイでも踊れと言われているに等しかった。とりあえず、両手は痺れているのでパラパラは無理と思った。
彼女だけが納得した顔をして、頷いていた。私は怪訝に彼女を見る。大きな笑顔で返された。こちらの表情を何一つ読み取ろうとしてくれない。満開の花が、躊躇なく私を一面が咲き乱れている草原へ押し込めているようだった。私が花粉症であるかどうかもよく聞かないままに。
目の前に広がっているのは、食事途中の、赤い二段弁当だった。中に入っているおかずは、プチトマト、タコさんウィンナー、銀紙のカップに入れられているスパゲッティ、隣の銀紙にはコーン、ぎゅうぎゅうになりながら、小さく茹でられたブロッコリーがいくつかある。そこに掛かっているマヨネーズはきっと二段弁当の外にあるミニチュアみたいな空のマヨネーズ容器の残骸から出たものだろう。そして、フォークに突き刺したままの小さいハンバーグは、一口かじられ、中の白っぽいチーズがどろりと糸引いて垂れていた。
食欲がなくなる。
食べかけの食卓に座らされる私の身になって欲しい。ふりかけが表面を覆っているご飯は、弁当下段の、二分の一程度の区画に積められており、残りの二分の一は、透き通るフルーツゼリー二つが光って占めている。ご飯は、右下の隅が綺麗な正方形で食されていた。しかし、彼女が自分の舌からぺろんと唾液を付けた箸をカチカチ鳴らして掘った正方形だ。形が綺麗でも、口にする気はない。
床から甲高い悲鳴みたいな音が聞こえる。弁当から目を離し、横を見ると、彼女が私の横に椅子を持ってきていた。それも、かなり、私に近い位置に椅子を彼女は持ってきていた。ブレザーが肩で触れ合うほどの僅かな距離だ。「これから手と手を取り合って、一緒に食べ合いっこして、接吻でも交わすつもりか」と思うほど、私の間合いに迫る。私はとっさに逃げて少し距離を空けた。
「食べる?」
彼女がなにを言っているのか、一瞬、分からない。すぐに彼女の意図を察して「要らないよ。買ってきてもらっているから」と断りを入れる。彼女は二段弁当を自分の手元に寄せながら「てっきり、食べたそうに見つめていたものだから、食べたいのかなって勘違いしちゃった」と囁く。いや、彼女が私に囁いているつもりはない。おそらく、彼女は独り言を呟いたつもりで、距離が近すぎるから私に声が届いてしまったのだろう。
だが、聞こえたものは聞こえた。ゆえに、私の左眉は少し上がる。
「それにしても、先生、遅いね」
ご飯の続きを美味しそうに頂く彼女が言う。私は肩身の狭さを気にしながら、素っ気なく「まあ……」と返事を並べる。内心は、再び弁当に箸を差し込んで味を堪能できる彼女が理解できず、ひたすら訝しんでいるだけだ。連続的に弁当の残りを最後まで食すならば、多少、糸を引いているチーズや、食べかけのご飯の汚さなんて想像しないで済むと思う。
しかし、間を入れると、麻薬が解けてしまう気がするのだ。帰ってきてみて、己の散らかしようとその惨状をしかと自覚したときは食欲も失せ、口にするときに抵抗感や、飲み込むときに僅かな拒絶があると思う。彼女はそんな素振りを全く見せない。譬えば、ブロッコリーに掛けたマヨネーズが水分と交じり合って、弁当の床を白濁の液体で浸し、折角のウィンナーの先に白い汚れが付いていること。透き通るブルーツゼリーが、透き通っているがゆえに、弁当の赤いプラスチックのせいで色が濁り、まるで美術の時間、絵筆をチャコチャコ洗った末に出来上がった、水彩絵の具溶液を、ゼラチンで固めたような色合いになっていること。ふりかけをかけたご飯が、ご飯と認識すれば白い塊であるが、米粒と認識すると、まるで虫の卵がいくつも蒸気を放っているような錯覚を覚え、ふりかけはふりかけではなく、この蛆たちの餌なのではないかと思えること。
食材は魔法が解ければ、不可解すぎる、奇天烈だ。儚く暴かれるほど危うい、穢れた行為のようで、拒絶は仕方のない事で、抵抗もまた然りだと思う。片鱗でも、その様子を見せない彼女は、よほどの役者か。
教室の扉がガラガラと開いた。間髪入れずに響くのは、彼女の「先生おそーい」「かわいそうじゃない」という声だ。それからだいぶ遅れる形で私は、教師に目をやる。教師は無表情で手にビニール袋を下げている。私を認めると、女子数人の固まっているここまでやってきて、半ば投げつけるような勢いで、私にビニール袋を渡した。中を覗くとリクエストどおりに何種類か、雑多におにぎりがあるのが見えた。それから、ちゃり、という金属音がして、ビニールの中に折りたたんだ紙に包まれた小銭が投げ込まれた。
「レシートとお釣りだ。これで、いいだろう」
教師を見ずに、おにぎりだけを見つめて首肯する。教師は自分の教卓に座り、青い風呂敷の弁当包みをひらりと解くと、弁当の蓋を取る。蒸気が冷めてすっかり低気圧になった弁当から蓋をようよう力込めて取ろうとする姿から、私は教師がまだ弁当に一つも口をつけていなかったことを察した。申し訳ないような気持ちになって、おにぎりを貪ろうとする手は控えめになった。フィルムを剥がすのも、どこか動きがゆっくりした。荒く、開くわけには行かない気がしたのだ。
海苔の香りが刺激になって、その日、初めての一口を咥えた。抵抗感が一瞬、かつ二巡して私はおにぎりを噛む。暫く噛み進めて、具のおかかに突き当たり、噛んだ芯から広がってくる甘味に、頭の中の魔法が充たされていく。人間、鬱で居続ける単純さはない。私も結局、魔法でおにぎりを次々口に入れていく。
あまりに食らいつきが良かったせいか、周りの目玉たちに感心されてしまった。自分でも、全てを食べ終わって、魔法が解けると恥ずかしさが込み上げて仕方なく、詰問されるでも、糾弾されるでもない空気の中、目玉たちの明らか、先ほどとは違う色合いの視線に晒された私は、きゅぅ、と鳴きたい気持ちで体を丸めながら「お腹減ってたの……」と呟くに至るしかなかった。
周りが少しだけ笑った。嘲笑ではなく、ついつい漏れ出た小さな嚏だった。その中で、誰よりもラミネート粉末の彼女が顔を輝かせて笑っている。それについては、少しだけ腹が立った。「私がこの場に溶け込ませたのよ」と言わんばかりの腰を据えた視線に、私をある種の愛玩動物と見ている向きを感じ、心が荒れる。しかし、社交性皆無の私でも、ここで不細工な表情を見せてはいけないのは知っていた。我慢して、錆びついた金属音が高鳴りそうな、ぎこちない笑顔を浮かべる。目玉たちは戸惑ったように、互いの目玉を見合い、「この子、どう」「まあ、うん」「あら、そう」「でも、どう」「ねぇ、そう」「でも、こう」「けど、どう」「それは、こう」「これも、こう」「でも、これは、そう」「だけど、これは、こう」「だけど……」「それより、こう」「あれより、そう」「これより、こう」「でも、どう」と、会話にならない短い言葉を、視線に込めて幾つも投げ合う。私が、目玉の味方であるかどうかを知りたいのだろうか。「危害を加えるつもりはない」と示すため、私ことオンボロは口っぽく縁取られた穴をゆっくり広げ、友好のサインを出すしかなかった。しかし、目玉たちの警戒は解かれない。仕方のないことだと割り切って、私は笑顔を型に嵌めたまま、目玉たちの目ではなく、口で放たれる会話をじっと聞いていることにした。しかし、そんな私を彼女が許してくれない。
「ねぇ、蓬ちゃんもそう思うよね?」とか「蓬ちゃんはどうなの?」とか、次々、会話のボールを私に投げようとしてくる。私に返答なんて高等技術ができるとでも思っているのだろうか。できるわけがない。他人が会話している様子を傍目で眺めているときでさえ、流れを目で追うのがやっと、耳で聞こうとしても半分が入ってこないというのに。
いっそのこと、会話の流れに補助線でも引いて欲しい気分だった。そうしたら、少しは私も会話を余裕で聞けるだろう。「初心者用の、空間線引き型、会話補助定規を誰かこの場に放ってくれないか」と思う。「私が霞の筆で線をしっかり引きたい」と。
そんな私に会話を振るというのは、その場の空気、和やかな雰囲気を破壊したいと言っているも同じだった。きっと口を開ければ、世界の黒い靄を全て集めたような声を放ち、目玉たちが私を敵と見なすだろう。声は出さずに首だけで返事をするしかない。ふる、と一つ首を振ると「そうかも」。ふるふる、と二つ首を振ると「そう」。くらくら、と横に振れば「知らないよ」。困った顔を見せるだけであとは黙して語らない。いずれかでやり過ごす。
目玉たちは私が首を振るたびに、物珍しそうな、怪訝そうな、不愉快そうな視線を私に送る。送ったすぐ後に、また視線だけで会話をする。「ねぇ、どう」「どうでしょう」「これ、どう」「どうでしょう」「どうでしょう」「どうでしょう」
目玉たちは首振り扇風機並の、首振りオンボロと化した私に勘付いているらしい。きっと目玉たちは真意を求めたいのだ。ひけらかそうとしない私は、見ているのも不快な違和感だろう。「私だって、居たくてこの場にいるわけじゃない」と、内心で呟く。彼女が強引に私を連れてきたのだ。それだというのに。
目玉たちの会話はいつの間にか議題が変わっていた。いつ、誰が議事進行をしたのか私には解せず、議題の決定されたプロセスも追えず、書記が誰かも分からないので議論の過去を参照することもできない。目玉たちの会議は、奇妙だった。一般的な常識や倫理に基づいた論理を基底にしている体を装いながら、実際に働く論理は、この休み時間中で独自に積み上げられた、共時性が高く、普遍性の極めて低い、その場限りの規律なのだ。
自明とされる命題――命は奪ってはいけない、とか。犯罪はいけない、とか。和を乱すことの危険さ、とか。本来は自明ではないが自明とされているものだ――を基礎として配置し、そこから、トップダウンで様々な正当的命題を導出しているように見えつつ、実は命題を生み出す過程で、導出する命題にとって都合が悪い、基礎とした命題のいくつかの要素を無意識的に書き換えている。
目玉たちは、さっき言ったことと今言ったことが平気で矛盾するのだ。その上、矛盾するのになぜか誰も矛盾に違和感を覚えない。まるで会話と視線以外に第三の意志疎通方法でも保有しているかのように、さっき言ったことと辻褄が合わないことを、揃いも揃って「分かる、分かる!」と同意するのだ。「あれは嫌だよねぇー」という一言を聞く度に、声と視線の二次元でしか情報を得られない出来損ないオンボロは、声と視線とテレパシーで三次元的に情報を共有する彼女たちに、恐れ多さを感じ、なにもできない。私はこんな国の住人になれない。高次の存在すぎる目玉たちに、私は次第、畏怖を覚えた。
肩が暖かくなる。誰かの腕がしなだれかかるのを感じ、目を向けると、やはり彼女が私の肩に腕を置いていた。途端、目玉たちが私に目を向ける。視線に込めている情報が私にも少し見える。「なにが起こるんだろう?」そして「あの子はなにをしたいの?」
あの子とは、彼女のことではない、私のことだ。今の情報をより細かく分析して、まとめると「これだけ仲良くしようとしているのに、なんで拒絶するの」だろうか。拒絶しているつもりはない。しかし、会話をしたがらない私の姿は拒絶として目玉の瞳に映るのだろう。テレパシーも使えないゆえ、尚更だ。テレパシーがない分、他の情報で補填する必要があった。恐れ多さゆえにとてもそこまでの大きな情報を扱える自信はなかったが。
「ねぇ。もう、蓬ちゃん、さっきから暗いよ?」
彼女が囁きに、場の空間が動転したように思った。目玉たちもキョトン、としか形容しようがない格好で黙っている。単刀直入すぎる言葉に、私もなにも言えず、彼女をじっと見るしかない。
ようやくして、空気がほぐれるに連れて出てきたのは掠れ気味の私の声だ。
「ご、ごめん……。私、その……」
「どうしたの?」
「わ、私……」
「よし、分かった!」
なにが分かったのか、彼女が納得する。
そして、私の肩に手を置いて、
「じゃあ、蓬ちゃん発表! 『蓬ちゃんの身の回りで最近あった面白いこと』はい、どうぞ!」
たちまち私の全細胞が困る。反論する暇を与えず、ニッコリと笑って迫ってくる彼女の顔は、邪念のない、無垢な、私に面白い話をしてほしい以外の意図を持たない純粋な瞳を二つの穴に持っていた。彼女はきっと私が上手く話せないことを鑑みて、渡舟を出したのだろう。私がその舟に飛び乗れるかはよく考えないまま。
「え、あの、面白いこと……面白いこと……え、えっと、お、面白いこと?」
なにを言えばいいのか。面白いことなんて、私の日常に一つとして転がってなどない。今日という日、昨日という日を思い返す。父親の地獄の釜を擦る鼾ばかりが思い出される。父の話をすべきかと一瞬考えてすぐに却下する。飲んだくれで暴れてばかりの父親の話を「面白い」と思う人は少ない。「怖い」と思う人は多いだろう。なにより、私自身が怖い。あの話はやめよう。他の話題を脳から掬い出そう。教室に来てからのことを思い出すべきか。
頭を巡らせているうちに、ふと目玉のことを思い出した。これが面白いのかどうかは分からないが、これを話題に出す以外、出せるような話題もないという判断から私は目玉たちの様子を見ながら、そっと語ることにした。
「あの……勘違いかもしれないけど。私、ここに、あっ、私、教室に来るの久しぶりでしょ。で、そ、その、それでね、久しぶりに教室に来てみてね、授業とか、みんなの様子が気になって、あっ、変な意味で気になってたわけじゃなくて、で、ね、その、単純に『みんなどうしてるんだろう、授業中』って気になって、で、ね、それで、みんなのこと授業中気にしてたんだけど……私、ずっと同じ人から見つめられてるみたいで……その」
なぜか、喋るうちに頬が紅潮する。熱くなってくる。私は今、自分がどういう意味の話をしているのか分からない。声帯が震えるたびに、直前まで喉の手前に控えさせていた言葉が消える。
焦って代替の、インスタントな語を紡いでみるが、嘘みたいに私ではないような口調が出てくる。破綻した文章を撒き散らす。なにを話しているのかは分かるが、これにどんな意味が添付されているのが理解できない。顔が熱い。熱いゆえに意識がどこか浮遊感を持って私を浮き立たせる。酔った状態に近いといえた。魔法の一つでも使えそうな酩酊した感触が気持ち悪い。心臓が加速し、耳が熱くなる。
目玉たちが、私を見て目を輝かせている。視線で会話をする。さっきまで読み取れた視線言語は、もはや理解の範疇を越えていた。ワンセンテンスの簡単な疎通ではない。原理的に複雑な情報を視線に載せることは不可能だが、予め自分の思考の中に、複雑な情報を留めておき、それを符丁の要領で、視線に含まれる短い情報で「自分たちが同じ思いを共有しているか否か」を素早く確認することはできる。目玉たちが行っている視線言語はまさにそれのようだった。
いや、あるいはふやけた脳のせいで、本来なら、理解できる程度の情報しか込められていないに関わらず、解読に必要な楔を私が見失っているのか。不安になる。目玉たちは私に如何なる評価を下したのだろう。自意識過剰か。被害妄想か。
目玉たちはそんな私にお構いなく、私に質問を投げかけてくる。興味という色合いの虹彩を持ち、意外そうに私を見ている。確かに私が、誰かに見つめられていることは奇怪なことだ。私は見つめられるような容姿を持った自覚はない。
「それ本当?」
「ほ、本当……です。なんでか知らないけど、一時間目も、三時間目も」
消えそうな声で返事をする。
私を取り囲んでいる目玉のうち、二つが、席に座る私の体を舐め回して見る。じろじろと見られると、背中が痒くなる。痺れが突き抜けて、体が電気信号的な反射を何度か繰り返した。このままでは、背中も次第に温度を上げていき、そのうち、全身がのぼせたように赤々とするのではないか。
思えば思うほど、思考の擦り合いが起こした摩擦熱で、まず、脳がポケーっとしておかしくなる。おかしくなった脳は体温を狂ったように上げようとし、動悸がした。激しい脈動に乗せられて、暖かい血潮は全身を巡り、不安したとおり私の体は赤々と火照る。そのうち、平衡感覚が曖昧となり、やがて、眠気にも似た陶酔を私は露出させた。体の内側に溜まったそれは、肌や目を介して私から染み出していく。
「ねぇ、誰なのか、指で指してみてよ」
私の頬に頬を近づけながら、彼女は私の目を見る。彼女の瞳孔に私がいるのが見えた。私はいつの間に、彼女の体内に閉じ込められていたのだ。眼球という小さな風船の中に、私が入り込んでいる。ただでさえ、小さいのに、その中でより小さく収まり、可愛気も気迫も負けん気も匂わない表情で大人しくしている。少し、自分の知る私よりも、瞳の中にいる私は柔らかい線で描かれている気がした。第一に、表情が砕けていた。第二に、活発だった。瞳の中に見える私の瞳は、微かながら輝き、好奇心を湛えている。
「迷ってないで、ほら」
彼女の声に導かれるがまま、私は指を浮かせた。指に一つも力が入らなかったので、大体の方向を指す。目玉たちの視線が、一斉、彼まで飛ぶ。彼の目元では、私に私を知らしめる目玉が、まだ光っていた。小さな窓から未だに私を見透かしている。私は、自分の矮小さをまた知って指を下げた。これ以上、見ていると惨めさで落ち込む。
目玉たちが小さく嬌声を上げた。すぐに、彼が気づかないうちにさっと視線を戻し、私を再び見つめる。目玉たちの虹彩は、なにかを言わんとしている。しかし、やはり私には読み取れず、私は瞳を注意深く観察し、そこに秘められた言葉を解読しようと虹彩を見る。白目と黒目、その両方の境目を追った。虹彩の模様が細々と浮かんでいる。模様は、無尽に虹彩を走っており、蜘蛛の巣のようだ。これに法則性があるのか。虹彩の模様は、白目から生え、瞳孔に集中していく。無数の蜘蛛の糸が、中心に向かって伸びようとしているかのようだ。それは一枚の絵になりえるほどの形で。ここに言語があるのか。
瞳孔が大きくなる。小さくなる。そこに含意がある。
ない。少なくとも私には見えない。だから、その視線言語を使わないでくれまいか。この細い腕で瞳を払いたい。目玉を払い落としたい。目玉たちから目玉が取れることがあるとして。取れた目玉が教室の床を転がり、目玉はそこから独り歩きをし、ついに誰かの弁当箱のプチトマトの横に収まる。プチ、という音を立てて、フォークの餌食になり、切断され、切断面に粒の三温糖かショ糖を幾つかまぶされ、美味しいデザートとして召し上がる――空想。細い腕は払うことも出来ず、怯えて震える。私は視線に耐えられずに歯をむき出して笑う。向こうは私の反応を見て、また視線言語を使って、その独自ネットワークに情報を幾つも載せて会話する。読み取れない暗号が目の前を通り過ぎて行く。怖気づいて、座っている椅子から出ていきたくなる――現実。
午後の授業が頭に入ることはなかった。ただ、鉛筆を動かした。黒鉛をノートに擦りつけて、一本一本の罫線の上に文字を置いた。罫線が線香のように割れて、そこから文字が落ちる場面を夢想した。すぐに醒めて、再び鉛筆を動かした。黒鉛をノートに擦りつけた。後ろから聞こえる、囁き声の会話に背中が汗を掻いた。二の腕が痛み、僅かに震えた。それから、自分の被害妄想であることを看破して、やはり鉛筆を動かした。罫線の上に文字を置いた。
その繰り返しをするうちに、時間が浪費されていくことが分かった。時間は派手な遊び人だが、同時に吝嗇家だ。午後の時間は吝嗇家で、時間はなかなか浪費されず、時計の時針と秒針と分針は、ひたすら鈍く回っていった。
私は周りから漏れる一つの息も、耐えられなかった。息一つに入る情報は多様だ。諦めや、呆れや、怒りや、同情でさえ、一つの二酸化濃度が4%から16%ほどに濃くなった空気の一つで表現できるうえに、現に表現している。そして、一息の、諦めも、呆れも、怒りも、同情も、焼き鏝で撫でられたような不快感を背中に与えてくる。目玉たちが私を語っている。私の知らない、私のまったく分からない言語で、また饒舌に、交わし合う。
ならば、「周りは敵ばかりか」と問われると違う。違うから厄介だ。周りは敵になれる、表層的な味方なのだ。彼らはきっと私に親切心を施せる者たちだ。しかし、彼らはいつでも私の敵になれる。隣から一つ囁き合う声が聞こえれば、私の意識は少しだけ浮つくのだ。たとえるなら、魂だけ身体から剥がして、魂の首をひねって、周りを見渡そうとするかのように、全ての神経を外に配るしかない。今、あいつらは私をどのように思っているか、今にも飛びかかろうとしているのか、帰り道に仕掛ける罠の相談でもしているのか、ひょっとしたら私の敵になろうとしているのではないか、勘違いだったらどうする、勘違いだった日にはそれこそ向こうは敵になる。
疑心を抱き、耳を澄まし、耳を澄ましていないフリをして、黒鉛をノートに微妙、載せていく。仕方ない。彼らが敵性を持つ味方であることはどうしようもないことだ。私は彼らではないのだ。優位論ではなく、人種論として、あるいは脳科学的見地として、精神医学的見地として。彼らが一応の味方であることも仕方なし。道徳から基づく倫理学的見地より、私の一時的味方であろうとしているだけなのだから。
授業がまだ終わらない。長針の具合がおかしいのではないかと、夢想し、私は長針の体調を目測で測ろうとする。しかし、ちょっともしない間に、跳ねるような動作で長針は回り、私は機嫌が悪くなり、ノートに書き綴った色々をじっくり眺め、下手くそな字だと溜息をついた。
ホームルームになり、周りが一斉に自分の鞄を取り出して、身辺を整理しながら崩しながら、今にも帰ろうとする様子に、私は身が引けた。さきほどまで吐息さえ響くほどの大人しい空間だったのに、騒音が充ち渡って、教室を破裂せしめんとした。急転ぶりがすさまじく、私の意識さえ騒音に巻き込まれると思った。私は大げさに考えすぎる。
しかし、呆然としたのも事実だ。
教室にいる彼ら、騒音たちの行動は、機械のように整っているわけでもない。有機的で、行動そのものは粗雑だ。同時に、それぞれの行動の本質は同じ。全てが同じ目的を持って蠢きあう。そのさまは、一つの粘菌のようだ。粘菌の細胞一つ一つが活発に動いている。教室にいる者たちはこれから帰るというのに、今が一番、教室が起きているのだ。そして、粘菌の中には、当然のごとく私も存在し、私という感覚のある私は、粘菌の一部だった。この粘菌内にいるかぎり。それが恐ろしかった。得体の知れないものに、昨日まで取り込まれなかった私が、今日は取り込まれ、こうして息づいている。なぜ、息づいている。
しばらく、唖然としていると私は強迫観念から抜け出て、自分の鞄に教科書を詰めた。早く帰ろう、早く帰ろう、と何度も念じる。
「え、はやーい!」
ホームルームが終わって、すぐに教室を出て、昇降口で靴を履き、校門まで行こうとしていた私に、声が降ってくる。上を見上げると、ラミネートの彼女がいた。私を見て笑顔で手を振っている。私は怯えながら「う、うん」とかすれた声を上げる。一応、手を振り返す。
「瞬間移動じゃん!」
私はごく当たり前に歩き、教室を出て、階段を降り、帰宅路につこうとしているだけだが、彼女はそう言った。皮肉げな意味合いは相変わらず籠もっていない。
しかし、話しかけて欲しくはなかった。教室には、みんながまだ屯している。それが規律らしい。勢い詰め込んだ鞄も放置し、誰も彼も教室に浸る。すぐに帰ろうとするのは自分のみ。空間を惜しみつつ離れていくのが常識のようだ。
私だけが勝手に外にいることを知られるのは、苦しい。あの、目玉たちは私の見えないところで、私のなにを見るのだろう。あの、息たちは私の聞こえないところで、私のなにを吐くのだろう。私が「瞬間移動した」と知って、いかに思う。今からでも教室に戻ってみるべきだろうか。私が「焦りすぎている」ことを不本意で語りつつ、自嘲し近寄れば、彼らは笑って私を迎え入れるのか。
「さよーならー!」
彼女が一際大きく手を振る。こうなっては悩んでも仕方ない。帰るべきだ。戻ってはいけない。彼女を尻目に校門を出ていく。少し歩いたところで、思うところあって、私は振り返る。彼女に向かって、自分も三度だけ大きく手を振った。三度というのは、頬にラミネートのない者が許される限界だ。彼女は素直に喜んだ。心の内訳、少しだけ、喜べる彼女が羨ましく思う。心の内訳、大半は、ひたすら彼女を疎ましく思った。
夢を貘に食い荒らされたのかと思うほど、不機嫌な顔が私を出迎えた。眉間が、潰した紙のように皺を立てている。力の入った瞼が、黒い眼を鋭くしている。唇から漏れる息は荒いようで、その実、丁寧に吐き出している。興奮したふりを装っているだけで、内心は冷静なのだ。怒れる猪のような勢いの中には、打算的な行動を隠そうという魂胆がある。暴れつつ、叫びつつ、都合の悪いものを器用に破壊するのである。
まず、私に入ったのは三本の指だった。爪先の立った指が、私の頬を咬むように挟んだ。指は私を引っ張る。顎が自然と上がる。指の力は増し、やがて私は自分の歯が、自分の頬の内壁を引き裂くのを感じた。
口から急速にすきま風のような音が何度も出た。肺が興奮して、出来損ないのポンプのように動いてしまうせいだ。同時に視界がぼやける。世界が突然と煌めくようになる。少しして、目が滲んでいることを自覚した。手が勝手に震える。足が幾たびも、不機嫌な夢食われを蹴る。蹴るたび、私の父親と称される夢食われは、私を自分のもとへと引き寄せた。鼻が、いつの間にか鼻水で詰まっていた。呼吸が薄く、次第に額に痛みが走る。煌めく中で、私はやがて、じらされることの方に嫌気がさすようになり、いっそ、もっと性急で唐突に殴って欲しいと願った。
私が認識している世界ごと叩き潰されたようだった。目には、一瞬の光景が焼き付いたまま残っている。真っ暗な中でそれを見つめ続ける。父はもう寝静まった。あの瞬間、私には世界が壊れたんだと思った。本来なら感じるはずの痛みさえ、後からついてくるような感覚があった。身体は、指先さえ動かせなくなった。視界は、目玉が裏返って、幻影が見えていた。音は父の拳が頭蓋骨を叩く音のみになり、鼻には泥の匂いしかしなかった。だから、私は世界が壊れて崩れてしまったんだと思った。
すぐ後に、頭が少しぬるくなった。原因は、近くにあった扉のノブのようだ。それのせいで、頭に思わぬ外的作用が走った。父は気づかなかった。いつものように、私をせっかく溜まったフラストレーションを解消したというのに、居心地の良くない顔で見下げると、しばらく微動だにしないで私を見つめるだけだった。
夜中に熱が出た。頭が痛くて、何度も殴られたそこを手でなぞった。手が少し濡れる。不思議と舐めると味がした。嬉しいと思う。味がしたことに喜びを感じた。そして、よく分からないのだけど、左手が急に重くなっていることを実感する。左手がベッドに沈み込んでいく。眠りへの誘いだと思って、私は目をつぶった。
朝が来た。朝が来たので、私は、朝が来たことを実感し、朝が来たために台所へ向かうことにした。ベッドから起きあがる。右手で布団を剥ぎ、転げるように出た。左手はずっと動かずに、胴体からにょろにょろと垂れていた。
左手が動かなくなったのかと、私は一瞬驚き、左手に力を入れてみる。左手はびろんと上がった。動くと安心し、安心したので、台所へ向かうことにことにした。台所へ着いた頃には、右手もにょろにょろしていた。両手がびろんびろんと動いて、包丁や、また板を掴む。冷蔵庫の扉を開けて、冷気の中、私に食材を調べさせるのだ。食材たちは冷蔵庫の中で、大きく大きく踊っていた。いちにさんし、ににさんし、のステップは楽しげで、実際楽しいんだろうから、私はそれをじっと眺める。冷蔵庫が次第に、ワルツのテーマを流し始める。冷蔵庫は恥ずかしがり屋なので、楽器らしい音を出そうとしてくれない。電子音の寂しい無機質な音を出すのみだ。メロディもない。ワルツのくせに三拍子でもない。けど、ワルツだった。私は冷蔵庫の中から、獅子唐辛子がこぼれ落ちてきたので拾う。
今日の食材は決まった。作るメニューはきっとカルボナーラの唐辛子和えか。鼻歌を歌いながら、唐辛子をかじる。辛い辛いと騒ぎながら、止まらない涎に私は幸せを感じていた。まな板が歓迎するように、なにも騒がず、じっとしている。まな板に誘われている。
私は大きく頷いて、今日も学校に行こうと微笑んだ。
2014年7月10日 発行 初版
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