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サクセス・ストーリーズ



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  この本はタチヨミ版です。

一 富豪の余命

「ちょうど一年後の今日、午前六時四十三分、ですね」
 白衣姿の長身の男が、カルテを見ながら、呟くように言った。
 それを聞いた老婦人は、黙って彼の顔を見上げた。ちぐはぐな沈黙。だが、そのちぐはぐさを感じていたのは、おそらく、老婦人の方だけだっただろう。
「それは、何のことなの、エガン?もしかすると、私の寿命かしら」
 老婦人は、エガンと呼ばれた男の顔を覗き込むようにして言った。
「寿命ではなく、余命です、奥様。言葉は正確に遣っていただきませんと」
 ふたたび、ちぐはぐな沈黙。老婦人は、しばらく無言でエガンの無表情な顔を見つめ、そっとため息をついた。
「ありがとう、エガン、朝早くから。モーヴをよんでちょうだい」
「かしこまりました」
 エガンは、小脇にカルテを抱えると、軽く一礼して、回れ右をした。
 天井が高いサンルーム。明るい日差しが天窓から降り注ぎ、大小さまざまの観葉植物と、色とりどりの鳥の置物を照らしている。その中を、エガンは、わき目も振らずに、ドアに向かって真っ直ぐに歩いて行った。
 老婦人は、その後ろ姿を、呆れた表情で見つめていた。エガンと入れ替えに、ひとりの小柄な女性が入って来た。老婦人は、それを見ると、幾分ほっとした表情を浮かべた。
「アイリス様、おはようございます」
 小柄な女性が言った。
「ああ、モーヴ」アイリスは、救いを求めるかのように、モーヴに向かって両手を差しのべた。「来てくれて助かったわ。今ちょうど、診察が終わったところなの」
 アイリスは、たった今の出来事を話して聞かせた。
「やっぱり、人選ミスだったかしらね。人に余命を伝えるのなら、もう少し言いようがありそうなものじゃない」
 アイリスが、ため息混じりに言うと、モーヴは答えた。
「奥様らしくもありませんね。 正確かつ効率的、エガンの話し方は最高!って、いつも仰っているではありませんか」
「それはそうだけど、時と場合によるんじゃない?」
 アイリスの不服気な言い分には耳を貸さず、モーヴは続けた。
「それに、彼の宣告は、百パーセント的中します。とても優秀な医師ですよ」
「医師ねぇ…。恐ろしく優秀な、死期専門の予言者と言った方が正解に近い気がするけど…」
「私もこの間診ていただきましたが」モーヴは、アイリスに向き合って座った。「余命が一年以上ある場合は、正確な死期は分からないんだそうです。…というわけで、どうやらアイリス様は、私よりも先に旅立たれることになりそうですから、しっかりお見送りさせていただきますよ」
「まぁ、ありがとう」
 アイリスは、大げさに肩をすくめて言った。モーヴは続けた。
「アイリス様も、いよいよこの世を去る時が決まったのですから、心して残された時間を過ごしませんと。富豪などと呼ばれるほどお金持ちで、数えきれないほど多くの重要な事業にかかわっておいでなのですから、そう簡単には死ねませんよ。覚悟なさいませ」
 アイリスは、再び大きなため息をつくと、ソファの中で姿勢をただした。
「それもそうね、打ち合わせに入りましょう。まず、今日のスケジュールからお願い」
「はい、アイリス様」
 モーヴは、スケジュール帳を片手に、その日の予定について話し始めた。午前中は、ミーティングが一件入っているだけ。昼に、政府健康庁のお役人数名とランチョン・ミーティングがあり、その後は、夜まで途切れることなく打ち合わせの予定が入っていた。
「健康庁とのミーティングは、確か、健康促進事業の支援についてとか何とか、そんな話だったわね」
 アイリスが口をはさんだ。
「さようでございます」モーヴが答えた。「最近になって、我が国は急に、国民にもっと運動の習慣をつけさせなければと思いたったようで」
「一体、何がきっかけなのかしら。何か知ってる?」
「これですよ、アイリス様。これ」モーヴは、外国語で書かれたニュース記事を差し出した。「外国の権威ある雑誌に、ある面白い研究の結果が出たのですよ。いろいろと難しいことが書いてありますが、平たく言えば、便利になりすぎて、運動らしい運動をしない生活は、人間の能力全般の鈍化を招くというのです」
 アイリスは、記事を受け取ると、さっと目を通した。
「…昔から、賢い人たちが言っていることよね」アイリスは呟いた。「運動が不足すれば、体にも精神にも不調をきたすと。それを科学的に証明しようとしている人たちがいるのね」
「お隣の国、マンザニタの研究グループですよ。そんな研究を、四年も前に始めていたなんて、すごい洞察力ですね」
「確かにね」アイリスは、強く頷いた。「それにしても、四年間の調査で、これほどハッキリと差が出るなんてね…抑うつ状態、自殺者増加、対人関係の悪化、知的活動の鈍化…」
 アイリスは、しばらくの間、食い入るように記事を読んでいた。
「その研究結果が本当だとすると、我が国は、相当危険なところにいるんじゃないでしょうかね」
 モーヴが言った。アイリスは、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「後先考えずに、効率ばっかり追求してきた結果がこれじゃ、世話ないわね」
「その記事は、今日お見えになるお役人の秘書の方から送られてきたのですよ。そのお役人も、この記事を読んで、何とかしなければと思ったのでしょう。随分と気の利くお役人さんですこと」
「本当ね。でも、気が利くのは、恐らくここまでで、ここから先は、おんぶに抱っこ…全部こちらに何とかしてくれと言ってくるでしょうねぇ…」
 アイリスは、大きな伸びをして、そのままテーブルの上に顔を伏せてしまった。モーヴは、眉をしかめて、アイリスをにらみつけると、言った。
「お昼寝の時間には早すぎますよ、アイリス様。午後の予定を説明します」
 間髪入れずに、アイリスが答えた。
「午後の予定は、全部キャンセル」
 モーヴは、驚いて、目を見張った。
「どこかの国に、『広げた風呂敷をたたむ』という言葉があるそうよ」
 アイリスは、テーブルの上から身を起して、言った。
「午後は、相続のことを考えなければ。何しろ、三十五人も養子がいるのだから、誰に何を遺すかは重要な問題よ。私が、自分で広げた風呂敷を、きちんとたためるかどうか。それは、この相続問題でどんな決定をするかによって決まるわ。そう思わない?」

 アイリスの館から、電車で二時間ほど走ると、視界には、高層ビルが林立する一角が飛び込んでくる。
 建物が多い割に、街中は静かなもので、歩く人の姿はまばら。時折、ビルの地下から出て来た自動車が、ゆっくりと走り去って行く。
 その中に、十七階建てのグレーの建物があった。ビルの外観には、特徴というほどのものはなく、飾り気のない壁に、巨大なガラス窓がはめ込まれている。ビルの入口には、シンプルなプレートがはめ込まれており、そこには金色で、「カデット」という言葉が刻まれていた。
「随分と殺風景なところだな」
 そのプレートの前で、スーツ姿の男が言った。この男の連れで、同じくスーツ姿のもう一人の男が、答えた。
「このビルなんて、こうやって空に向かって屹立しているところは、スペース・シャトルみたいだ」
「まったくな。ここが、我が国コルドバンの、誉れ高き最高峰エリート・スクール、カデットってわけだ」
 男は、肩から下げていたカメラを手に取ると、カデットのプレートと、校舎の建物を撮影した。
「インタビューは、学長だけ?」
「うん。でも、校内案内は学生にやらせるってさ。その時に、少し話せるだろうって」
「そりゃ、楽しみだな」
 二人は、ガラス張りのロビーを通りぬけて、エレベータ・ホールに向かった。ボタンを押して、エレベータが来るのを待つ。
「学長室は、十七階だったな?」
「ええ」
 エレベータのドアが開いた。と、同時に、中から、男の子が一人、勢いよく飛び出してきた。
「おおっと」
 その男の子を避けようとして、男の一人が身をかわした。が、足がもつれ、体重のバランスを崩して、そのまま尻もちをついてしまった。
「あっ、ごめんなさい!」
 男の子は、慌てて謝ったものの、どこかへ急いでいるらしく、そのまま身をひるがえして、ビルの外に走り去って行った。恥ずかしさでかっとなった男は、走り去る子どもに向かって、大声で怒鳴った。
「どこを見てるんだ、気をつけなさい!」
「まあまあ、ブルージェイ」もう一人の男が、なだめるように言った。「運動不足なんじゃないのか?学生時代のお前なら、あの程度のタックルは、軽くかわしていただろうに」
「大きなお世話だ」ブルージェイは、立ち上がり、スーツの埃をはらった。「お前こそ、エレベータが行っちまうのを、とっさに止められなかったじゃないか。反射神経が鈍っている証拠だぞ。さっさと、も一回、ボタンを押してくれよ」

 エレベータは、一階から十七階まで、音も立てずに上って行った。
 エレベータを降りると、すぐ眼の先に受付のデスクがあり、きちんとスーツを着込んだ青年が、電話で何か話していた。電話が終わるのを待って、二人は名刺を出した。
「ウェブ・マガジン、フラックスの記者で、ファッジと申します」
「私は、ブルージェイ。学長さんと約束があるんですが」
「伺っております。こちらへどうぞ」
 十七階は、フロア全体が、この学校の事務関係の仕事に使う部屋で占められていた。教員用の個室、会議室、喫茶室を通り過ぎて、フロアの一番奥に、学長室があった。
 ドアをノックすると、
「どうぞ」
と、年配の女性の声が答えた。案内の男性が、そっとドアを開けて、二人を中に通した。二人は、会釈しながら、中に入った。
「ターク様、取材の方がお見えです」
「ありがとう。どうぞお入りください」
「失礼します」
 二人は、深くお辞儀をして、中に入った。正面の学長席には、ベージュのスーツ姿の女性が座っていた。
「ようこそお越し下さいました。さ、どうぞ、おかけ下さい」
「ありがとうございます」
 ファッジとブルージェイは、促されるまま、ソファの方に移動した。タークも、学長席を立って、ソファにかけると、にこやかに言った。
「今日は、よいお天気で、何よりですね」
「ええ、全く」ファッジが答えた。「雲ひとつない晴天ですよ。こんな日は、随分久しぶりだ」
「ここに着いたとき、その天気のお陰もあるでしょうが、この学校の建物が、まるでスペース・シャトルみたいに見えましたよ」
 ブルージェイが言った。
「まあ」タークは、静かに笑った。「私も、ここには長年勤めておりますが、スペース・シャトルという例えは、初めて聞きましたわ」
 先ほど、二人を案内してくれた男性が、飲み物を持って来た。彼は、テーブルの上に、コーヒーを三つ並べると、一礼して、部屋を出て行った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 二人の記者が、黙ってコーヒーをすすっているのを眺めながら、タークが言った。
「でも確かに、スペース・シャトルという表現は、言い得て妙かもしれませんねぇ…いかがでしょう、それを、記事のタイトルになさっては」
「ええ?」ブルージェイが、慌てて言った。「それはまた、どういう…」
「スペース・シャトルに乗り込むことができるのは、選りすぐりの人たちだけでしょう」タークは、コーヒーを手に取り、言った。「ここの学生たちも、選りすぐりの者ばかりですから。行先は、宇宙ではありませんけどね」
「なるほど」ファッジが言った。「この学校は、初等教育も行う一方で、ビジネス・スクールで教えるような内容のクラスもあるとお聞きしていますが、そういう学校で学ぶ学生を、どうやって選りすぐっているのでしょうか?」
「選抜の方法は、一つではありません」タークは答えた。「入学してくる段階や、ルートによって、様々です。最初の学校教育をわが校で受ける子どもであれば、この学校で作成した試験を受けます。他の学校で、すでにいくらかでも教育を受けている子どもが編入してくる場合は、その子がそれまでに受けた教育の内容を勘案して、試験の内容をいくらか変えています」
「どのような内容の試験なのでしょうか?差し支えなければ…」
「全く問題ありませんよ、どうぞ、ご遠慮なさらずに」タークは、コーヒーカップをテーブルに置いて、言った。「ご存知かと思いますが、この学校は、実業界に優秀な人材を送り込むために作られた学校です。したがって、試験の内容も、それに即したものとなっています。簡単に言えば、ほとんどがケース・スタディですね。現在、いろいろな会社や、組織で起こっている現実の問題を、いくらか単純化した形で説明した資料を渡し、それについてどう対処するかを問うものです」
「そんな問題に、十歳にも満たない子どもが、ちゃんと答えを出せるものなのでしょうか?」
「ああ、ファッジさん」タークは、くすくすと笑い出した。「こうした問題への対処方法を考え出す能力に限って言えば、基本的に年齢は関係ありませんよ!これは、私の長年の経験からも、確実に言えることです」
 ファッジとブルージェイは、不審気な様子で顔を見合わせた。
「それと同じように」タークは、二人の様子には、まったく頓着せずに続けた。「起業という点でも、年齢は関係ありません。わが校では、一定の条件付きで、年齢を問わずに学内起業をすることが奨励されていますが、学生たちのアイデアの豊富さには、こちらが驚かされるばかりです」
 それから十分ほど、学長と二人の記者は、カデットの歴史や、年中行事、学内起業の例などについて話した。カデットの財政基盤という話になったとき、ファッジが言った。
「確か、あのアイリスさんも、カデットへの出資者のお一人と伺っていますが…」
「ええ、そうですよ」タークは、答えた。「アイリスさんに、多くの養子があることは、お二人ともご存知かと思いますが…」
 ファッジとブルージェイは、軽く頷いた。
「わが校では、アイリスさんのご養子の方が、五人ほど、特待生として勉学に励んでおります。今日は、これから、その一人に、学内を案内させていただきたいと思っています」
「へえ!それは楽しみですね」
とファッジが言うと、ドアにノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
と、タークが答えると、
「失礼します」
 そう言って、一人の男の子が中に入ってきた。
「あっ、君…」
 ブルージェイが、驚いて目を見張った。ここに来た時、エレベータでぶつかりそうになった、あの少年だった。
 その男子生徒は、ブルージェイに気がつくと、静かに言った。
「先程は失礼しました」
「シアン、この方たちに、もうどこかでお会いしたの?」
 タークが、不思議そうな様子できいた。シアンと呼ばれた少年は、答えた。
「済みません、学長。先ほど、エレベータ・ホールで、ぶつかりそうになったのです。外にお昼を買いに行こうとして、今日、この時間に学長によばれていたことを思い出しまして、急いでいたら…」
「まあ、そうだったの」
 シアンは、後ろ手にドアを閉めると、ソファに近づき、深々とお辞儀をした。タークが言った。
「ファッジさん、ブルージェイさん、今日は、これから、こちらのシアンに、校内の案内をさせていただきます。アイリス様のご養子の皆さんは、とても優秀ですが、特にこのシアンは、八つの時にここに編入して以来、七年間、ずっと首席を通しております。彼と直接話していただければ、わが校の素晴らしさを実感していただけるかと思いますよ」

 記者二人は、シアンの案内に従って、校内を歩いた。最上階フロアから始まり、十五階の寄宿フロア、それより下の階にあるいろいろなタイプの教室や、ホール、図書館。地下には、完全防音のミュージック・ホールもあった。
 二人の記者は、物珍しそうに、あちこちでパシャパシャとカメラのシャッターを切ったり、メモをとったりしていた。ファッジが言った。
「しかし、七年間、首席というのは、素晴らしい。アイリスさんも、鼻高々でしょうね」
「恐れ入ります」
 シアンは、静かに微笑んで、会釈した。そして、二人が、物珍しそうに、廊下や、空っぽのホールを歩きまわったりしている間、心の中で呟いた。
(鼻高々…そんなことがあるもんか。この七年間、半年おきに僕の成績表を見ているくせに、メール一つ、電話一本、よこさない。首席で当然だと思ってるんだ。このアイリス様の『作品』なんだから、このくらいできて当たり前ってね。…なに、こっちだって、望むところだ。もともと、これは、ただの取引なんだから。向こうは、優秀な後継ぎがほしい。こっちは、劣悪な環境から出て行きたかった。そこで、互いの利害が一致した。それだけのことだ)
 天上の高いホールの中で、ひとしきり、カメラのシャッターを切る音が響いた。
「僕の友達のお子さんで、ここの学生を家庭教師につけて、成績が上がったっていう話を聞いたことがあるんですよ。すごく喜んでましたよ。やっぱり優秀なんですねぇ」
 今度は、ブルージェイが、そう言って、シアンに微笑みかけた。シアンも、同じく笑顔を作って、
「素晴らしいお話ですね。カデットの一員として、誇りに思います。ありがとうございます」
 そう答えつつ、内心では、また、こんなことを呟いた。
(成績が上がったくらいで喜べるなんて、幸せな人間もいるものだな…。最初から首席の僕には、そんな喜びは無縁だ)
 地下の見学で、記者たちの取材も終わりだった。シアンは、二人を一階に案内し、その後、ビルの外の門のところで、二人の姿が視界から消えるまで、見送った。
 ビルに戻ろうとして、シアンは、門のそばから、改めてこの建物を見やった。
 初めてこの建物を見たときは、この異様に人工的で、人間を寄せ付けないような冷たさに、恐怖さえ覚えたものだった。
 あれから七年。ペットと飼い主は、お互いにだんだん似てくるというけれど、住んでいる場所と人にもそんな関係があるのかもしれない。この灰色の、無機的な空間。グレーのプレートに映る自分の姿が、まるでこの空間を額縁にした絵みたいにはまって見える。
 ガラス張りのロビーを抜け、エレベータ・ホールに来ると、あの記者たちに、最初にここで会った時のことを思い出した。
「どこを見てるんだ、気をつけなさい!」
 あの時、あの記者たちの一人は、そう叫んだ。僕に向かって。それが、どうだろう。僕が、アイリスの養子の一人だと分かった途端、手の平を返したように馬鹿丁寧な態度。
 シアンは、エレベータのボタンを押しながら、皮肉な笑みを浮かべた。
(そうとも、僕はまだ、所詮は、アイリスの虎の威を借るキツネでしかない…)
 エレベータが来た。何人かの学生が、中から出てきた。入れ違いに、シアンは、エレベータに乗り、十三階のボタンを押した。
(だが、いずれ、全てを変えてみせる。その時に、初めて、僕は本当に自由になれるんだ)

 シアンは、十三階でエレベータを降り、そのまま教室へ向かった。今日は、午後一時から、「心を磨く」という科目の試験がある。空いているデスクで昼食をとりながら、軽く試験勉強をするつもりだった。
 買ってきたサンドイッチを食べながら、表紙に「心を磨く」と書かれたノートをぱらぱらとめくってみたものの、心ここにあらずということは、自分でも分かっていた。そもそも、この三ヶ月間、この必修クラスに出ている間中、ずっとそうだったのだ。ノートには、クラスで行われたディスカッションの代わりに、このクラスの存在の虚しさを証拠づけているとしか思えないような、現実の醜さについて書かれていた。

■二月一八日 忘れたころに、またあのTが話しかけてきて、案の定、とても不愉快な話になった。僕のプロジェクトが上手く行きそうなのが気に入らないからって、頼みもしないのに、いろいろと助言を下さって、ありがたいことだ。あれに気をつけろ、これに気をつけろって、要は、足引っ張り。僕に何か助言できる立場だと思っているんだろうか。
■二月二五日 音楽の先生について。何かにつけ印象の悪い人ではあったが、先週、大ヒットの失言あり。発表会で、彼の知り合いのプロのプレイヤーを、ゲストとして招待するとのこと。僕たちの演奏の直後に、そのプロの演奏を聴かせるプログラムにするそうだ。「同じ曲を演奏してもらうつもりなんだ、君たちには悪いけど」だって。何がどう「悪いけど」なのか、この人、自分でも説明できないんじゃないのか?
■三月七日 Aの浅知恵に、いつまで付き合わされなければならないのか。僕が、Xが嫌いであることを知っているので、Xがああ言ったこう言ったと、わざと僕を挑発するような言い方をするのだ。Xをスパイしてくれなんて、誰が頼んだ?Aの創作好きを、僕が知らないとでも思っているんだろうか。物事を、わざわざ、面倒な方向に進むように動くこういうタイプ、この学校には多すぎる。このタイプを、もう少しましなことに時間を使うように、改心させることができるのなら、この学校も、大したものだと思えるのに。

 ノートを読み返して、シアンはため息をついた。自分の記憶力の良さに、嫌気がさす。こんな細々した、くだらない出来事など、その場で忘れてしまえばいいものを。それが、なかなか記憶から去っていかない。去っていかないから、どこかに出さずにいられない。それで、こういう退屈なクラスのときに、メモに書いてしまう。一度書いてしまうと、かなり気分がすっきりする。でも、書いたものは残るから、こうして、何かの拍子に読み返す羽目になる。そうすると、またこの不快な出来事の記憶が鮮明になり、記憶の中に一層深く定着してしまう。実にばかばかしい悪循環だ。
 幸い、この「心を磨く」クラスは、今日で終わりだ。ノートを取っておく必要もなくなるから、テストが終わり次第、破って捨ててしまおう。そうすれば、こうした不快な出来事の記憶も、やがては薄れていくだろう。
 十二時半になると、試験官が教室にやってきた。学生たちが席につき、ざわつきも収まった。試験官が、試験中のルールについて説明し、問題用紙を配布する。そのまま、完全な静寂の中、待機。十三時ジャスト、試験開始だ。
 シアンは、机に裏返しに伏せてあった問題用紙を、表に返した。
「『お金で買えないものはない』という命題について、自分の意見を述べよ」
 この問題を見た瞬間、吹き出さずにいられたのは、日頃の精神修養の賜物としか言いようがない。シアンは、そっと、他の学生たちの様子をうかがってみた。皆、神妙な面持ちで、問題用紙を見つめている。中には、もう真剣そのものの面持ちで、小論文の骨子をメモに取り始めた者もいる。この様子を見て、シアンは、心の中で大きなため息をついた。
(こういう質問の滑稽さに気を散らされることなく、問題に真剣に取り組める君たちって、ある意味、偉大だよ…)
 胸の中で、そう呟くと、シアンも、渋々、答案用紙に向き合った。
 今、この試験を受けている学生たちの九割方は、愛情とか家族はお金では買えない、と書くだろう。この学校の方針として、「愛と思いやりのある人間性をはぐくむ」ということがかかげられている以上、その路線に沿った回答を書くことが、いい成績を取るための妥当な戦略だから。
 僕だって、その戦略には従う。それに、本音の方でも、愛情はお金では買えないというのは、真実だと思っているのだから、こんな楽なことはない。
 愛情は、お金ではなく、努力で買うものだ。嘘を書かずにいられるのは、気楽でいい。

 一時間後、試験を終えたシアンは、早々に荷物をまとめて、教室を出た。試験の結果には、十分に自信があったし、これでこのクラスともおさらばだと思うと、もはや一刻たりとも余計に、この教室にいたくない気分だった。
 廊下に出たところで、一人の学生に呼び止められた。
「シアン」
「ああ、こんにちは。元気かい」
 内心、こんなところで捕まったことに舌打ちをしつつ、シアンは、気安く答えた。
「元気だよ。今晩、今月に誕生日を迎える学生三人のバースデイ・パーティをやるんだけど、よかったらどうだい?」
「へえ、知らなかった。折角だけど、今晩は先約があって…」
「いや、いいよ。シアンは何かと忙しいからな。じゃ、また」
「ごめん。次回は、是非」
 シアンは、済まなそうに軽く頭を下げ、立ち去る学生に手を振って見せた。
(一日中、こうやって、作り笑いを顔に貼り付けているというのに、そこから自由になれる時間まで、なんで他人に邪魔されなくちゃならないんだろう)
 シアンは、体の向きを変え、足早にエレベータに向かった。さっさと寄宿舎に戻り、「心を磨く」の講義ノートを、シュレッダーにかけてしまいたかった。
 ところが、エレベータ・ホールは、学生たちでごったがえしていた。シアンは、やむを得ず、図書館に行くことにした。あそこにも、シュレッダーがある。ついでに、新しく入った本を少し見てくることにしよう…。
 シアンは、元来た道を引き返して、階段につながる廊下を歩いた。すると、後ろから、誰かが彼の肩を、ポンと叩いた。
(またか、今度は誰だ?)
 そう思いながら振り返ると、意外にも、そこには、学長のタークの姿があった。
「シアン」タークは、沈んだ表情で言った。「ちょっと、また、部屋まで来てくれないかしら。大事なお話があるのよ」

二 遺言

 電車で、たった二時間移動しただけで、これほどまでに違った世界が現れるなんて。
 シアンは、電車の窓から外を見て、アイリスの住む街の美しさに目を見張った―石造りの住宅が並ぶ、坂道の多い街で、露店の花市場には、鮮やかな色とりどりの花。そして何よりも、街中にクモの巣のように張り巡らされた運河。場所によっては、電車の窓から手を伸ばせば届くのではと思われるほど水面が高く、ヨットに乗って川を下っているみたいだ。町中に、これほど水が豊富にある風景というものを、シアンは生まれて初めて目にした。
 駅は、かなり古い建物だった。構内の椅子は木で出来ていたし、電光掲示板もない。小さな駅で、ホームも四つしかなく、エスカレータもエレベータもなし。シアンは、意外な気がした。
(あのアイリスが、こんなところに住んでいるなんて…)
 もっとも、彼は、自分の養い親について、それほど多くのことを知っていたわけではなかった。八歳のとき、当時通っていた学校に突然現れた老婦人。なんだか妙に偉そうな様子で、日ごろいばりくさっていた先生たちが、揉み手をしながら、その老婦人に付きまとっている。廊下で遊んでいたシアンは、他の子供たちと一緒に、その様子を、好奇の目で眺めていた。
 やがて、老婦人とその御一行は、シアンの教室へとやってきた。一緒に入ってきた担任の先生が、言った。
「皆さん、こちらの方は、アイリス様といいまして、今日は、みなさんに大切な話があって、わざわざお越しくださいました」

 その「大切な話」を耳にした時の気持ちを、シアンは、七年たった今でも、はっきりと思い出すことができた。
(あのとき、同じ教室で机をならべていた子ども達のなかで、僕くらい明確に、あの話の重要性を理解できたやつなんか、一人でもいただろうか?)
 シアンは、自問してみて、
(いや)
と、即座に否定した。
 脳裏に、あの時のアイリスの言葉が響いた。

「私は、優秀な子どもを探しています」アイリスは、落ち着いた声で、そう言った。「私の事業の後継者として育てるためです。希望者がいれば、一定の審査を行って、合格した場合は、養子縁組をさせていただきます。その後、成人して独立するまでの経費は、すべて私が負担します。事業の後継者になるための高度なトレーニングを積むため、カデットという全寮制の学校に通わせます」

 真っ暗な穴倉の中に差し込んだ、一条の光―このときのことを思い出すと、シアンの頭の中には、決まってこのイメージが浮かんだ。昼というものを知らない世界に、突如として、眩しすぎるほどの光が差し込み、暗闇に慣れた目には、一瞬、何も見えなくなる。が、次の瞬間には、その光が照らす風景が、おぼろげに見えてくる。十分な光がなかったために、自分のすぐそばにありながら、見えていなかった無限の可能性が、少しずつ、目に入って来るのだ。

 アイリスの住む街の薄暗い駅の改札から外へ出ると、眩しい昼の太陽が、ちょうど頭の真上でさんさんと輝いていた。シアンは、目の上に片手をかざした。そして、近くの木陰に入ると、鞄から地図を取り出した。
 道すがら、シアンは、花や木に囲まれた家と街並みを楽しみながらも、自分を待ち受けているアイリスとの久しぶりの対面を思い、緊張していた。
 ちょうど一週間前のあの日、学長の部屋に行くと、
「急に済まなかったわね。かけてちょうだい」
 学長は、シアンに椅子をすすめた。シアンは軽く会釈して、その指示に従った。シアンが座るのを待って、席につくと、学長は言った。
「実は、アイリス様のことなんだけど、今朝、秘書の方から電話があってね」
「はい」

 あと一年の命。そう聞いても、シアンには、ピンとこなかった。続けて、学長が、
「そこで、アイリス様としては、遺産相続というよりは、生前贈与の形で、財産の処理を済ませてしまいたいとお考えだそうなの」
というのを聞いて、初めて、この出来事が、自分にどうかかわってくるのかを理解した。学長は、それから一週間後の水曜日、午後二時に、アイリスの家まで出向くようにと指示した。
 学長室を出て、自室に戻り、考えを整理する間もなく、ドアにノックの音がした。開けてみると、「養子仲間」の一人、オターだった。
「聞いたか?アイリスの話」
「ああ…」
 シアンは、ドアを開けてしまったことを後悔しながら、曖昧に答えた。
「シアンは、いくらもらうことになったんだ?」
「え?」
「遺産だよ。さっき、学長室によばれただろ。僕も、今日の午前中によばれたんだ。そこで、僕への遺産の額を教えてもらった。すごい金額なんだよ、これが」
 オターは、シアンの様子になどおかまいなしに、興奮して喋りまくった。そして、金額の話になると、急に声を落とし、シアンの耳元に口を寄せた。
「へえ!」
 シアンは、思わず声を上げた。確かに、すごい額だった。オターは、眉をしかめ、慌てて言った。
「大きな声、出すなよ!誰かに聞かれたらどうするんだ!」
「誰も聞いてやしないよ。それに、聞かれたからって、なんだって言うんだい」
「馬鹿だな、お前」オターは、あきれ顔で言った。「一生遊んで暮らせるほどの金額だぞ?誰かの耳に入ってみろ、その日から、僕は夜も安心して寝られなくなっちゃうよ」
「まあ、そうかもな」
「他の三人にもきいてみたけど」オターは、続けた。「みんな、ほとんど同じ金額らしい。まあ、僕たちは、成績も五十歩百歩だからな…だけど、お前は違うだろ!何たって、七年連続首席だからな。で、僕たちとしては、興味津々ってわけさ」
「なんだ、そういうことか」シアンは、軽く肩をすくめた。「あいにくと、金額はまだ知らないよ。来週水曜日にアイリスのところに行って、直接話をして来いって話なんだ」
 オターは、目を丸くして、低く口笛を吹いた。
「なんだって、おい!随分、もったいぶったやり方をするじゃないか!」
「全く同感だね」ひそかに、優越感を感じながら、シアンは言った。「僕としては、学長経由で教えてもらった方が、余程面倒じゃなくてよかったんだが」
 オターが、悔しそうな視線を投げてよこした。
「うっかり学長にも言えないくらい、莫大な額なんだろうよ、きっと」彼は言った。「帰ってきたら、教えてくれよ、いくらだったのか」
「さあね」
「なんだよ、さあねって」
「そんなことを聞いたって、何にもならないじゃないか。別に、君の取り分が増えるわけでもないだろうし、増えなくたって、今のままで十分、一生遊んで暮らせる金だって、さっき自分で言ってたじゃないか」
「そりゃ、そうだけど…」
「遺産が手に入ったら、ほんとに遊んで暮らすのか?」
「当然だよ。まず、真っ先にここをやめる」
 シアンは、驚いて、オターの顔を見つめた。
「なんだよ」オターは、シアンの顔を見て、言った。「当たり前だろ?こんなかったるいところ、自由に生きるだけの金さえあったら、すぐに出て行くさ」
「出てどうするの?」
「まずは、世界一周旅行だな」オターは、夢の旅のイメージに、思いを馳せながら、言った。「プライベート・ジェットに、豪華客船での贅沢旅行だ。旅に飽きたら、どこかいいところにプール付きの豪邸を買って、遊んで暮らす」
 シアンは、オターが、まるで何か紙に書いてあるものを読み上げているかのように、スラスラと「夢の生活」を説明できることに、驚いた。オターは、シアンの表情に気がついて、言った。
「お前は?」
「え?」
「え?じゃないよ。遺産が入ったら、どうするんだ?まさか、卒業するまでここにいるなんて言わないよな」
「……」
 シアンは、答えに窮した。イエスとも、ノーとも、なんと答えたらいいのか、分からなかった。
(カデットを辞める?)シアンは、自問してみた。(辞めて、どうするんだ?)

 駅から歩き始めて十五分、地図を眺めながら、シアンは呟いた。
「この辺のはずなんだけど…」
 誰かに道をきこうと思い、あたりを見まわしてみると、左手の十字路のところで、行列ができているのが目に入った。歩いている人にきくより、あの人たちにきいた方がいいだろう。シアンは、行列に向かって足を進めた。
「すみません、ちょっと教えていただきたいのですが…」
 シアンは、行列の中にいた年配の男性に声をかけた。
「おお、何だい」
「アイリスさんという方の家を探しています。地図だと、この辺のはずなのですが」
 男性は、地図にちらっと目をくれると、言った。
「あんたもアイリスさん家に用なのかい。わしもだよ。この行列の人は、みんなそうさ」
「え?」



  タチヨミ版はここまでとなります。


サクセス・ストーリーズ

2014年7月26日 発行 初版

著者:想

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