spine
jacket




  この本はタチヨミ版です。

もくじ

 登場人物
プロローグ
第一部 ナツミ
 第1章 じょうはちまん
 第2章 しおどめと横浜
 第3章 じゃいけ
第二部 マヒル
 第1章 れいほう学園
 第2章 しんれい研究クラブ
 第3章 ゆうれいマンション
第三部 れいほうさい
 第1章 せんめつ
 第2章 じき
 第3章 こうれい
エピローグ
 参考文献
 『天使の街〜ハルカ〜』のご案内
 ひみつのキーワード

登場人物

マヨ………高校教師をめざす大学生。この物語の語り手
ナツミ……県・じょうはちまんにある旅館の娘
サキ………スピリチュアルカウンセラーのお手伝いをしている中学生
ヤヨイ……私立れいほう学園高等部の3年生
ハルカ……同2年生
マヒル……同3年生。しんれい研究クラブの部長
   ★
ミライ……謎の集団〈でもんず〉のメンバー
コユキ……同メンバー
ウララ……同メンバー
   ★
タカコ……スピリチュアルカウンセラー
キヨコ……エステティシャン
フユミ……ナツミの姉
ヒデコ……霊能力者

プロローグ

 あの夏も、私は県・じょうはちまんおとずれた。
 駅から15分くらい歩いただろうか。ふとチョロチョロと水の音がするのに気づいた。大通りから少しはずれると、車のけんそうから解放され、街の中を流れる小さい川の心地よい音が耳に入ってくる。
 郡上八幡が「水の街」と呼ばれていることは、旅行雑誌で読んだ。こんなふつうの住宅地でも、水の音が聞けるとは思っていなかった。
 水の流れる音がさらに大きくなった。目の前に堤防のようなものが見える。心なしか早足になった。
 堤防の階段をのぼると、目の前に大きな川が現れた。なが川の支流・よし川にやってきたのだ。
 私が立っているところは、コンクリートで整地されている。しかし、むこう岸はほとんど自然のままの姿で、大小の岩が転がり、緑がしげっていた。遠くから子どもたちのきょうせいが聞こえる。水遊びをしているらしい。川べりにはあざやかな色のテントもられている。そのむこうにそびえる山の頂上には、お城が建っていた。
 ──へ〜。あれが郡上八幡城かあ。
 非日常的な空間の出現に、気分が盛りあがる。私は無意識のうちに足をみ出し、川のほうへおりていった。
 近くで見る川は、またちがった味わいがあった。水は複雑にうねりながら流れていく。太陽の光がみなに乱反射して、美しい芸術作品のように見えた。
 ふと──。
 吉田川に沿うように人工の川がつくられているのに気づいた。といっても、川幅は1メートル、深さはたぶん50センチぐらい。川というよりみぞというべきかも。でも、きれいな水が勢いよく流れる立派な「川」だと、私は思う。
 上流へ目をやると、遠くのほうに女の子の姿があった。
 この小さい川のへりに腰かけて、両足を水にけている。そうやってりょうをとりながら、本を読んでいるのだ。
 中学生か高校生かな? 髪は肩にかかるぐらい。服は白いワンピースのように見える。
 ──あら? 可愛かわいい。
 そう思った。絵画のような光景だった。知らず知らずのうちに、〈カメラ〉を起動していた。この場面を画像に残しておきたい。一方で、あのコに悪いかも、という罪悪感もあった。これだけ離れていれば本人は気づくはずもないし、まして相手は本を読んでいる。
 ──どうしよう? る?
 目の前に〈カメラ〉の画面があった。いつの間にか撮影する体勢になっていた。
 〈カメラ〉をかまえているのはだれ? 私? 私だよね? 撮るのはいけない、あのコに失礼と思っているのに……。撮りたいのは私じゃない。いや、撮りたいのは私で、撮ろうとしているのは私じゃない。もう。なにがなんだかわからない……。
 ──あ、あれ?
 画面の異変に気づいた。
 あの少女のまわりにはだれもいなかったはず。
 でも、画面には少女のほかに、ふたつ人影がうつっている。
 〈カメラ〉をいったんおろす。
 やはり少女しかいない。
 もう一度かまえる。
 人影は女の子の頭の上にある。
 人影──というのがそもそもおかしい。そんな人間はいない。
 〈カメラ〉をおろす。やはり少女以外になにも見えない。
 またかまえる。人影のようなものは消えている。
 見まちがい──と思うしかないよね、この場合。
 一方で、あの少女を撮影するのをためらっている自分がいた。
 撮ってはいけない。そんな気がする。
 なぜ?
 あのコに失礼──というのとは、ちがう。
 さっきはたしかにそう思ったけども、いまはそうじゃない。
 写真を撮れば、よくないことが起こるのではないか……。
 理由はわからない。
 ──ひょっとして、あの少女はこの世の者ではないのかも……。
 え? なんでそんなことを思う? いくらなんでも、あのコがゆうれいだなんて……。
 ──たしかめれば?
 もうひとりの自分が言う。そうだよ、実際にそばまで行ってたしかめればばん解決。
 ──ほんとうに幽霊だとしたら?
 いい想い出になるんじゃない? 友だちへの土産みやげ話にもなるし。
 ──幽霊かどうかたしかめるなんてこうじつで、ほんとはあのコの顔が見たいんでしょ?
 ちがう! ……幽霊かどうかたしかめるついでに、顔が見られるというか……。
 考えがまとまらないうちから、一歩を踏み出していた。もう歩きだしてしまったのだから、いまさらやめるわけにはいかない。そんなわけのわからない言い訳を自分にしていた。
 女の子は私が歩きはじめるタイミングをはからったように本をとじた。ブックカバーの赤い色が目に飛びこむ。
 ──気づかれた!?
 だからといって、立ちどまるのはおかしい。それじゃ、なんかやましいことをしているみたいじゃない?
 女の子はそばに置いてあったトートバッグに本をしまった。代わりに手帳らしきものを取り出し、ページをめくっている。
 だれかが自分に近づいてくる──のが女の子にもわかる距離まで来ている。でも、少女は意にかいさない。手帳を読んでいるから、私からは顔が見えない。
 ──ダメか……。
 なにがダメなの? もう幽霊じゃないことがわかったでしょ? それでいいじゃない。
 女の子が顔をあげた。
 目が合った。
 心の準備ができていなかったので、私はたぶんおどろきの表情をかべていたと思う。
 女の子が微笑ほほえんだ。
 その瞬間、体のなかを風がきぬけたような感覚がおそった。
 ──なに? どうなったの?
 女の子はしばらく私の顔をながめていた。
 〈おねえさん、さっきからあたしのこと見てたでしょ〉
 心がかされてしまったようで不安になる。
 少女はなにも口にはせず、また自然に手帳へ目線をおとした。
 女の子のそばをとおりすぎる。歩調はゆるめられない。おなかになんともいえない不快感を覚えながら、ゆっくりと少女から離れた。
 激しい運動をしたわけでもないのに、心臓のどうが異様に速くなっていた。十分に距離をとったと思うところで、振りかえった。
 少女の姿は消えていた。

第一部 ナツミ

第1章 じょうはちまん

   1

 〈じょうはちまん旧庁舎記念館(観光案内処)〉のテラスにあるイスに腰かけ、よし川をながめながら、おだんごをほおっていた。
 時刻はお昼どき。当初の計画では、昼食にはうなぎを食べる予定だった。吉田川のせいりゅうで育った鰻の味はかくべつだという。しかし、気がつくと、なぜか〈みたらしだんご〉を6本も買いこみ、ここに座っていたのだった。
 頭のなかはついさっき見た光景でめられていた。
 満面のみの少女。画面にうつりこんだみょうな人影。それが頭から離れない。
 不思議というか、じんじょうでない出来事だと思う。きょうの地にやってきたというこうよう感がみょうなモノを見せているの? あるいは、つかれて頭が働いていないのか……。
 ──少し早いけど、旅館へ行こう。
 そう決心した。
 郡上八幡の見どころはまったくまわっていない。ただ、今日まる予定の旅館のサイトに「美人女将おかみによる観光案内つき」とあった。「美人」というところにひっかかったわけだけど、まあ、美人といっても、ずっと年長の女将さんなのだろうな。それでも、地元の人に案内してもらうのは、とてもゆうな気がする。うん。ぜんは急げ。さっさと旅館へ向かおう。
  
   ○
  
 大きな看板が見えたので、旅館の場所に迷うことはなかった。和風のじょうちょゆたかな建物ではあるけど、古さは感じない。
 玄関に近づくと、なかからほうきを持った中年の女性が出てきた。
 「こ、こんにちは。今晩お世話になります」
 「あら? ようこそ。早いわねえ。もう街を見てまわったの?」
 女性は一瞬おどろいたような表情を見せたけど、すぐにあいのよい言葉を返してきた。この人が「美人女将」なのかな?
 「あの……まだ早かったですか?」
 「いいの、いいの。さ、どうぞなかへ。あそこでちょうをお願いしますね」
 女将さんはやかたの奥のほうを指ししめした。
 「失礼します……」
 そこは純和風といったたたずまいの玄関になっていた。
 昼間なのであかりいておらず、少し薄暗い。壁や柱には高級な木材が使われているみたい。じゅうこうな色合いが空間全体の暗みを増すのにひとやく買っている。さらに一歩なかへ入ると、ひんやりとした空気がはだれた。もちろん、冷房がいているわけじゃない。風が建物のなかを吹きぬけ、熱気を外へ逃がしているという感じ。
 くついで、箱へ入れる。目の前に小窓があり、そこが受付になっているようだ。でも、人影はない。
 「こ、こんにちは!」受付の奥までとどくように、声を張った。
 「あれ? おかしいわね」女将さんが玄関の掃き掃除を中断し、こちらに近づいてくる。
 「フユミ〜っ、お客さんだよ〜」
 「は〜〜い」なかから若い女性の返事が聞こえた。
 声の主はすぐに現れた。半分は眠っているようだった私の頭が、その瞬間、にわかに働きだした。
 ──美人。
 その形容が少しの疑問もなしにあてはまるようなよう姿だった。
 「あ……」思わず小さい声をらしていた。「あの……お世話になります」
 「ようこそ。この旅館の女将です」
 「え……女将? さっきのかたは……?」
 「あれは母です。大女将ですね」
 この人が女将さん? 失礼ながら、女将さんというぜいの人ではないと思う。なんか、この和風の旅館に似つかわしくないというか……。ナチュラルメイクだけど、目鼻のつくりがはっきりしている。くちべにだけがやけに赤いのが印象的。有名企業の社長秘書といったオーラを感じさせる。Tシャツにジーンズというラフな格好なんだけど(それもこの旅館のイメージにそぐわない)、スタイルがいいだけに、みょうに似合っている。歳は30ちょっと前といったところ?
 フユミさんにうながされるまま、記帳をした。
 ──美人女将って、この人のこと?
 うん。きっとそうだ。だれがどう見ても美人だし。ということは、この人に観光案内してもらえるってこと?
 帳面に目をおとしながら、口元がほころぶのが自分でもわかった。
 「あの……『観光案内』を申し込んだんですけど……」
 「はい。うけたまわっています。どうします? すぐに出発されますか? それとも、少しお休みになります?」
 「すぐに行きます。はい、いますぐに」はやる気持ちをおさえきれず、変な言葉づかいになった。フユミさんが小さく「くす」と笑ったので、ずかしくなってしまった。
 荷物を置くために、フユミさんが部屋まで案内してくれた。入口の戸は木のこうになっていて、その奥にもう1枚ふすまがある。そこを開けると、なかのたたみが見えた。中央にちゃぶ台。その上にポットやみなどの「お茶セット」がのっている。かべぎわに小さいテレビがあり、まさに和風旅館といったおもむき。部屋のすみに置かれたじおもそれっぽい雰囲気をかもし出している。
 特筆すべきは、窓からの景色だ。この旅館は川に隣接していて、せせらぎが部屋のなかまで聞こえてくる。岸にえる緑と水面の色彩のコントラストもいい。
 このままながめていたいけど、観光もしたい。なんというぜいたくな悩み。
 受付でフユミさんに声をかけた。さっきはまだチェックインの時間ではなかったから、ラフな格好をしているのかと思ったけど、Tシャツ、ジーンズのままだ。顔だちの印象とは裏腹に、じつはざっくばらんな性格なのかな?
 「これ、どうぞ」フユミさんから小さい団扇うちわをわたされた。「外は暑いから」
 団扇には〈郡上おどり〉という文字が書かれ、浴衣ゆかた姿でおどる女性たちが描かれていた。
 「あの……今日もぼんおどり、やるんですよね?」
 「ええ。毎晩おどりがあるんです。いまはお盆だから朝まで」
 「朝まで!?
 この街の最大の見どころは〈郡上おどり〉と呼ばれる盆おどりだ。7月中旬の「おどり発祥祭」から9月初旬の「おどりおさめ」まで、2か月33夜にわたって、盆おどりがりひろげられる。ぼん(お盆)の時期には〈てつおどり〉といって、午後8時ごろから翌朝5時ごろまでずっともよおしがつづく。
 「もちろん、マヨさんもおどるでしょ?」
 「は?」フユミさんからいきなり下の名前を呼ばれ、不意を突かれた。
 「そうしたいんですけど……浴衣を忘れてしまって……」
 「大丈夫。浴衣はレンタルしてますし、ふだん着でも全然かまわないんですよ。そうだ! あとで〈おどり教室〉に参加したらどう?」
 おどりの教室まであるの? う〜ん。興味がわいてきた。やっぱりおどろうかな。せっかく来たんだし。友だちにおどりかたを教えたりして、ゆうえつ感を味わうのもいいかも。
  
   ○
  
 私も女子のなかでは背は高いほうだけど、フユミさんは私よりさらに身長があった。友だちはみんながらだから、自分より大きい人と歩くのは変な気分。
 道を歩いていると、ちらほら浴衣姿の人が目につくようになってきた。この時期は、その格好のほうがふだん着なのかも。ますます浴衣を忘れてきたことをこうかいする。せっかくお気に入りのいっぴんを買ったのに……。
 「これが〈郡上おどりの像〉です」
 街のかたすみに、ほおかむりをしておどっている姿の銅像があった。
 「盆おどりのルーツって知ってる?」
 「ルーツ……? せんの霊をむかえる儀式とか?」
 「盆おどりはね、もともと恋人を見つけるためのイベントなの。現代でたとえるとお見合いダンスパーティーみたいなものかな」
 ──え……そんなロマンチックなものなの?
 「マヨさんみたいに可愛かわいい人は、ひくてあまたになるんじゃない?」
 フユミさんの手が私の肩に置かれる。そのままやさしくすべるように、指が私のうでへ移動する。そっとでてから、ゆっくりと手を離した。
 思わずぶるいする。ここよさを感じてしまった自分に驚いた。
 「え? そんな……。そんなことありません……」取りつくろうように答えた。
 その言葉は本心だった。私はいつも片想い。相手が振りむいてくれることなんてない。
 ここへ来てからそのことは意識にのぼらなかった。いや、あえて考えないようにしていた。フユミさんのひとことで自分のみじめさが思い出されてしまった。
 盆おどりが始まったころの大昔に生まれていればよかった。こうぜんと出会いの場がもうけられていたのだから。いや、私はそんな時代でも、取りのこされてしまうのかも……。
 「あの……ほんとにそういうことするんですか? 相手を見つけて……そのあと……」
 「ふふ。マヨさんもお年ごろねえ。いまはふつうのおどりのイベントですよ。もちろん、のぞむなら相手を見つけてもいいけど。それは自由なんだし」
 半分は残念に思い、もう半分はあんした。期待をするぶんだけ、裏切られたときに絶望が深くなる。ならば、最初から期待しなければいい──。
 ピピピピピ。
 突然、音がした。〈電話〉の着信音に聞こえた。その音でわれに返った。
 「あ、ちょっとごめんなさい」フユミさんが〈電話〉を取り出しながら、頭をさげた。
 「いいですよ」私はそう言いながら、フユミさんから顔をそむけ、がしらに指をあてた。
 知らない間に涙がたまっていたらしい。
 「ちょっと、いまご案内中。電話しないでっていつも言ってるでしょ!」
 フユミさんの口調がきつくなる。これは少し意外だった。なんとなくおちついているイメージがあったけど、実際はちがうのかな……?
 「じゃあ、ナツミにやってもらうしか……」
 フユミさんは手早く〈電話〉をしまうと、つくり笑顔──さっきまでの強い口調からそう思えた──を私に向けた。
 「ほんとうに申し訳ありません。ちょっとトラブルがあって、旅館にもどります。このあとは妹がご案内しますから」
 「あ、大丈夫です。気にしないでください」
 電話の相手は妹さんだったらしい。これは想像だけど、まいの仲はあまりよくないのでは?
 「ほんとにごめんなさい」
 私はかえってきょうしゅくしながら、フユミさんのあとを歩いた。
 〈郡上おどりの像〉から10分ほどの距離だった。小道に入り、地面がいしだたみになっているところに出た。目の前は急な下り坂だった。
 坂道をおりると小さい橋が見えた。アーチ状で、中央がりあがっている。しんらんかんが独特の雰囲気をかもし出している。橋の下に細い川が流れているようだ。
 橋の真んなかに人がひとり立ちすくんでいた。
 顔を見て、私は息を飲んだ。
 さっき出会ったあの少女だった。

   2

 少女はじっとこっちを見つめていた。顔は笑っていなかった。かといって、うれい顔というわけでもない。強い意志をうちに秘めているという感じ。
 橋の上にいるのはその女の子だけだった。いや、だけだったと思う。ほかの人は目に入らなかったから。
 私たちが近づいていっても、そのコは表情をくずそうとはしなかった。むこうから近づいてくるそぶりも見せなかった。
 フユミさんが少女に声をかけ、なにかを話していた。
 「マヨさん。ほんとうにごめんなさいね。あとはナツミがご案内しますから」
 フユミさんは、頭をさげると、足早にその場を去っていった。
 フユミさんの妹──ナツミと私はしばらくそこに立ちくしていた。ふたりの間に気まずい沈黙が流れた。
 フユミさんの妹だから美形だとは思う。しかし、お姉さんとちがってあいきょうがない。
 「……さっきは、どうも……」沈黙にえきれず私はくちを切った。
 「さっき……?」
 「あ、いや、先ほどお会いしましたよね? あそこの川で……」
 「川……?」ナツミはほんの少しだけ顔をしかめる。
 別人なの? 白いワンピースの少女とは……。あらためてナツミを見ると、顔はそっくりだけど、服がちがっている。それに川では中高生くらいに思えたのに、目の前に立っているのは私とおなじくらいの年齢の女にも見える。
 ──もっと笑ってくれたらはっきりするのに。
 頭に焼きついているのは、満面のみだ。ナツミの笑顔を見れば、人ちがいかどうかわかる。
 「そうぎすい……」ナツミがとうとつに口を開いた。そして、私の後方をゆび差した。それにつられて振りかえると、視線の下に、小さい水路。その先になわかざられたほこらのようなものがある。
 「そうすいは、1985年に、環境庁が、名水百選に選んだわき水で……」またしてもナツミが突然しゃべりはじめた。「室町時代の……えっと、あの……」
 「ひょっとして、緊張してる?」
 「え……? すみません……まだ慣れていなくて……申し訳ありません」ナツミが深々と頭をさげた。そのしぐさはフユミさんにそっくりだった。
 「ぷっ」思わずき出してしまった。「あっ、ごめんなさい」
 「わたしのほうこそ……美人女将おかみの観光案内なのに……姉ができなくなってしまって……」
 「いや、でも……女将さんじゃないけど、美人には変わりないから……」
 自然に出た言葉だったけど、言ったあとに「はっ」となった。しゃこうれいのつもりだったのに、ほんとうに美人だと思っただけに、ずかしくなってしまったのだ。
 「いや、そんなことはないです……」ナツミが小さい笑みをかべながら、そっぽを向く。その顔を見るかぎり、ますます川べりの少女にしか思えないんだけど……。
 「えっと……」ナツミはおもむろにバッグから手帳を取り出し、ページをめくりはじめた。
 「私はマヨです」
 「え?」
 「いま私の名前を探してたんじゃない? その手帳にメモしてあるんでしょ?」
 「あ……すごい、よくわかりましたね」
 「昔からそういうかんえてるの」
 「よろしくお願いします。マヨさん」
 「マヨでいいよ」
 それを聞いたナツミがあっにとられている。
 「あ、その……たぶんナツミさんは私と歳が近いから、友だちみたいな感覚で案内してもらったほうが、気がラクというか、そのほうが楽しいっていうか……」
 「……じゃあ、わたしもナツミって呼んで……マヨ?」
 「わかった、ナ……ナツミ?」
 私たちはしばらく顔を見合わせ、そして笑いはじめた。
 「あ……こんなことしてちゃダメ……お仕事しないと」ナツミがにわかに真顔になった。
 もっとナツミのことを知りたい気持ちもあったけど、それはあとのお楽しみにしてもいいかな。
 「はい。じゃあ、お願いします」
 「近くに行ってみよ?」
 ナツミのあとについて階段をおりていく。
 祠からわき水が出ていて、幅1メートルぐらいのみぞを流れている。その水は橋の下を流れる細い川に注いでいた。
 「宗祇水の宗祇ってなに?」
 「室町時代のいいそうっていう歌人のこと。その人がここにいおりをつくったのがらいとされてる」
 「へ〜。たしかにこの街の水はきれいだよね」
 ナツミが浮かない顔をしている。私といるのが楽しくないのだろうか……。
 「マヨ……お姉ちゃんから変なこと聞かされなかった?」
 「変なことって……?」
 「盆おどりが出会いの場だとかなんとか……」
 「うん、聞いたよ。お見合いダンスパーティーみたいなものだって」
 「そんな生やさしいものじゃないよ。もっと、なんというか、おぞましいもの」
 「……だって、ただおどるだけでしょ?」
 「なんのためにおどるか知ってる?」
 ナツミの表情はさらにこわっていた。なぜそんな顔をしているのか、まったく理解できず、不安になった。
 「なんのためって……そのほうが盛りあがるじゃない?」
 「おどりはね、自分たちをトランス状態にするため」
 「それって、興奮状態ってこと?」
 「ようするに、えっちな気分になるためだよ」
 ナツミの口から「えっち」なんて言葉が出ると、なんでもない単語なのに、あやしくひびいた。
 「お姉さんはいまはそんなことないって……」
 「でも、一部にはそういう風習が残ってる」
 私はこのあと〈おどり教室〉に参加する予定であることを思い出した。
 「盆おどりには行かないほうがいいってこと?」
 「いや……それはいいと思うよ。ここの名物だし、想い出にはなると思う。でも、わたしの言いたいのは『気をつけて』ってこと」
 「なにに気をつけるの? ひょっとして、私がナンパされちゃうとか思ってる? 言っとくけど、そんな軽い女じゃないわっ!」
 ふたりの間に流れていた重苦しい雰囲気を変えたくて、あえておどけた口調で言ってみた。ナツミが表情をくずす。
 「たしかに、マヨはモテそうだしね……それだけの、あれだもん」
 「あれ?」
 「れいってこと」ナツミは早口でそう言うと、下を向いた。私たちはお互いに「美人」「綺麗」と言いあっては、ほおを赤らめているのだった。
 その気恥ずかしさを打ちけしたかった。いや、好きなコにちょっといたずらをしたくなる子どものような気持ちになった。
 わき水に静かに片手をけ、水をすくうと、それをナツミの頭に振りかけた。
 「えいっ」
 「ひいっ」
 ナツミがおどろきのあまり悲鳴を放った。立ちあがって、急いで私から離れる。頭をかきむしるようにして、水をはらおうとしている。
 「ごほ、ごほ、ごほ、ごほ」
 ナツミがむせて、苦しみはじめた。私はナツミに近づき背中をさすった。
 「ごめん。そんなにびっくりするなんて……」
 セキはおさまったけど、まだ苦しそうに胸をおさえている。
 「……この水って……毒なの?」
 ナツミがふうっと、大きく息をいた。少しおちつきを取りもどしたようだ。
 「水はなんでもない……髪がれるのが……」
 「髪……?」
 ナツミはなにかの病気なのだろうか。アレルギーとか?
 「ここでは……髪を濡らしてはいけないの」ナツミがようやく顔をあげ、私のほうを見ながら答えた。
 「どういうこと?」
 「こんなこと言っても信じてもらえないと思うけど……」
 ナツミがなにかを考えこむように下を向く。私はその様子を緊張したおもちで見ていた。
 「やっぱり、ダメ。こんなこと話したらお姉ちゃんにしかられちゃう」
 ナツミがなにを言いたいのかはまったくわからなかったけど、興味がわいてきた。
 「お姉さんには絶対言わない。だから教えて」
 ナツミは答えなかった。私の顔をじっと見つめている。私に話すかどうか迷っているみたいだった。
 「ねえっ! なんなの?」自分でもいやになるくらいきつい口調になってしまった。
 ナツミが意を決したように口を開いた。
 「来て」
  
   ○
  
 ナツミは私の存在を忘れたかのように進んでいく。あとをついていくのに、け足気味に歩かなければならなかった。向かっているのは、街の東側にあるはちまんやまの方角。じょうはちまん城がいただきに見えた、あの山だ。
 ──ねえ、どこに行くの?
 そう話しかけたかったけど、ナツミが全身から発してる雰囲気がそうさせなかった。宗祇水のそばに立っていたときとおなじかた苦しい顔つき。それがいまも感じられる。
 ふもとから山道を歩く。このままお城まで行こうというの?
 私たちはせまい道を入っていった。そうされていないところを見ると、地元の人しか使っていないのかも。
 5分ほど進んだところで、ナツミがとうとつに立ちどまった。かたわらに小さな祠が見える。ほんとうに小さい。高さは1メートルほど。かなり古いものだと思われる。
 「ねえ、なにこれ?」
 話しかけづらい雰囲気はあいかわらずだったけど、重苦しさにえきれなかった。「ここも郡上八幡の観光スポットなの?」
 「いいえ。ここには地元の人もほとんど来ない」
 ナツミが祠を見つめたまま答える。
 「ここにまつられているのは〈テンシ〉と呼ばれるもの……」
 「天使? ……あの羽のえた?」
 「羽は生えてない。白い服は着てるけど……」
 「この街に天使がいるって、なかなかおもしろい組みあわせだよね。ミスマッチというか、それが逆にじょうちょがあるというか……」
 「〈テンシ〉のことを知っている人は、この街にもほとんどいなくなってしまった。わたしの家の人たちと、あとは何人かのご老人だけ」
 「なんかもったいないね。せっかくの伝統が受けつがれてないんだね」
 「わたしはね、正直、こんな伝統なくなってしまえばいいと思ってる」
 「え?」
 「マヨに水をかけられたとき、わたし、すごくおどろいたでしょ?」
 そうだ。そのことをすっかり忘れていた。ナツミが水を異様に怖がる理由を知りたかったのだ。
 「水が髪にかかるとね、寄ってくるのよ、〈テンシ〉たちが」
 「寄ってくる?」
 「ねえ、お風呂で髪を洗っているとき、だれかの視線を感じることない?」
 「それはあるけど、もちろん、だれもいないよ。気のせいに決まってるわけだし」
 「気のせいもあるけど、ほんとにいることもある」
 背中から頭のうしろにかけて電流が走った。同時に、ひんやりとした風がいてきた気がした。いや、実際に吹いたのかも。まわりの枝や葉っぱががさがさと音を立てたから。
 「ちょ、ちょっと、やめてよ。私はホラー映画とか大好きだけど、それは怖いのが好きなんであって、つまり、怖がりってことで……」
 「ごめん。ただ、理由を知ってほしいだけ」
 「でも、お風呂にいたとして、それはゆうれいでしょう? 天使じゃなくて」
 「みんなが幽霊と思っているものが、〈テンシ〉なのよ」
 「いや、それは変。天使だったら怖くないはず」
 「〈テンシ〉は怖いんだって。だから、水がかかってびっくりしたんだって」
 なるほど──。
 ようするに、ナツミは私とおなじ怖がりなのだ。私は怖い映画が好きだけど、幽霊の存在には否定的。もっともらしく語られる怪談も全部つくりものだと思っている。でも、ナツミは幽霊がいると信じている。そういうことだ。
 そんなナツミはなんだか愛らしい。乙女おとめちっくというか……。
 「ナツミは幽霊を見たことがあるの?」
 「だから幽霊じゃなくて〈テンシ〉なんだけど……あるよ。というより、うちはだいだい〈テンシ〉を祀ってきた家系なの」
 「それじゃこの祠は……?」
 ナツミは祠の小さい扉に手をかけた。静かに扉を開け、なにかを取り出した。それを私の目の前にかかげる。
 白い折り紙でつくった着物のように見える。
 「ここに〈テンシ〉のたましいがこめられてる」
 「これが天使なんだね。可愛かわいいじゃない」
 「いいえ。これは〈テンシ〉をめっしたあとの姿」
 「『滅した』って……」
 「うちの家系はね、この〈テンシ〉をきものにする役目を負わされていた。でも、それはわたしのおばあちゃんの世代までで、お母さんやお姉ちゃんは、全然ダメ。逆に〈テンシ〉をもっと積極的に利用しようとしている」
 「え? お姉さんも?」
 お姉さんたちはたぶん本気じゃない。異様に怖がるナツミを母と姉がからかっている。そんな光景が目に浮かぶ。
 「マヨ、お姉ちゃんになにかされなかった?」
 「なにかって?」
 「たとえば……」ナツミはそう言いながら、私のほうへ手をのばす。そのめざす先は私の……胸!?
 「な、なに?」思わずあとずさりをする──いや、しようとしたところで、ナツミの手が止まった。その手はすばやくひっこんだ。
 「たとえば、体をさわるとか」
 驚きのあまり、心臓がたかっていた。
 ──いや、待って。これはびっくりしたから? もっと別の理由があるような気もするけど……。
 「ねえ? どう?」ナツミが私の顔をのぞきこむ。
 ちょっと、待って。かさないで。考えるから。えっと……そういえば、フユミさんは、私の肩に手を置いた。そして、そのまま二の腕のほうへ指をすべらせて……。

 さっきの感覚を思い出して、ぶるいした。そうだ。なんか変な気分になったんだ。
 ナツミにそのときのフユミさんの様子をありのままに話した。
 「で、マヨはどんな気持ちになった?」
 気持ち? そうあらためて聞かれると恥ずかしい。ほんとうのことはとても言えない。
 「えっちな気分になったりしたんじゃない?」
 内心をかされるようなことを言われてどうようした。しかも、またナツミの口から「えっち」っていう言葉が……。
 「う……うん。いやな感じはしなかったよ」けんおちいるぐらい顔が火照ほてっていた。それをナツミにさとられないように、顔をそむける。
 「それが手なの。お姉ちゃんの」
 「へ?」
 「〈テンシ〉を呼びよせる方法はふたつ。ひとつは髪を濡らすこと。もうひとつは性的に興奮すること」
 「え? なに?……お姉さんは天使を私のところに呼ぼうとしたってこと?」
 「お姉ちゃんは『〈テンシ〉ははつじょうした女にさそわれる』ってことを知ってるから、なるべくいろいろな人をそういう気分にさせようとしているの。深く考えているわけじゃない。もう習慣のようになっているだけ」
 そんなことして、お姉さんになんの得があるの?
 「つまり、お姉ちゃんは恋をしてほしいと思ってる。そうすることで人は幸せになれる。いろいろな人を目覚めさせることが自分の役目だと考えてる」
 「あ……」思わず小さい声を漏らした。
 ということは、いま私がナツミに恋してるのは、お姉さんのせい?
 ……ん? あれ? 私、ナツミに恋してるの? 自分でそう思ったよね?
 ──私、ナツミが好き……なの?
 どうして? ついさっき会ったばかりなのに……。
 いやいやいや。冷静に。冷静になろう。ナツミに恋してるかどうかは、置いておこうよ。う……。置いておける? 本人が目の前にいるのに……。
 「あの……ちがうよ。誤解だからね」ナツミがなぜかあわてた口調で言う。
 「ちがうって、なにが?」
 「いや……あの、〈テンシ〉はえっちな気持ちになったから来るとは限らなくて、そんな気分じゃなくても現れることもあるし、そのへんのことはわかっていなくて……」
 ナツミがなぜ急に取りみだしたのか、しばらくわからなかった。ちょっと考えて「あっ」とひらめいた。
 私が水をかけたときにナツミが怖がったのは、天使が寄ってくると思ったから。ナツミの話では、髪を濡らしたり、みだらな気分になったりすると天使が現れる。つまり、あのときナツミはいやらしいことを考えていたってことになってしまう。
 言い訳しなければ私は気づかなかったのに。まさにけつったってところ。
 そんなナツミがとてつもなくいとおしく思えてきて、ナツミのほうへゆっくり手をのばす。
 私の指がナツミの指にれる。
 それまでなにかを一生懸命しゃべりつづけていたナツミが、その瞬間、だまる。
 ふたりの視線が交差する。
 私は微笑ほほえむ。
 ナツミが私の手をにぎる。
 それにこたえるように、私も強く握りかえした。

   3

 私たちは来た道をもどった。
 今度はナツミが先を行くことはない。私のすぐ横を歩いている。
 幸せを感じていた。ナツミのぬくもりがつないだ手から伝わってくるから。
 私はナツミを好きになっている。それは認めるしかない。でも、ナツミはどう思っているのだろう? 手をつないでくれているから、もちろん私のことを嫌いではないだろうし、ただの旅館のお客さんというつもりでもないと思う。友だち……にはなれたのかな?
 「今夜の盆おどりだけど……いっしょにおどってくれるよね?」少し不安になってたずねた。ナツミは、ここの風習をこころよく思っていないみたいだから……。
 「うん。いいよ」ナツミが明るい口調で答えたので、胸をでおろす。
 「誤解しないでね。わたしは盆おどりをやめさせたいと思っているわけじゃないの。その……なんていうか、いろいろな人と同時に付きあうとか……なんかせっそうがないのがいやなだけで」
 「え……? そんなにひとばんにいろんな人と……するの?」
 「いや、だから、いまはもちろんそんなことはなくて……でも、ほら、モテる人もいるでしょ? マヨみたいに」
 「な、なに言ってるの? 私なんか全然なんだから……どっちかっていうと、ナツミのほうでしょ? みんなにかれるのは?」
 第一印象こそ「美人だけどあいきょうがない」とマイナスイメージだったけど、こうして笑顔で話しているのを見ていると、ナツミはとても愛くるしい。それだけでなく、じょうさも持っているから、気軽にれてはいけないような、せいじゅんな雰囲気がただよっている。
 「まあ、自分でも、から嫌われるタイプではないとは思うけど」ナツミが照れくさそうに言う。「だからって、とっかえひっかえっていうのは……」
 「いちってことだね。それって、ふつうでしょ?」
 「ふつうじゃないから困る。お母さんなんか『もっと恋をしなさい。いろいろな人と愛しあいなさい』って言うし」
 おお女将おかみさんも、ずいぶんとあけすけだなあ。まあ、そんな感じの人ではあったけど。
 「お姉ちゃんも『ナツミはもっといろいろな経験をしなさい。そのために〈テンシ〉様がいるんでしょ』って言ってる」
 「ねえ。天使って、愛のキューピッドみたいなものなんじゃないかな。ハートの弓矢を持って、愛をめるみたいな」
 「マヨは実際見たことないからそんなことが言えるの!」
 あらら。またナツミがもうそうモードに入っちゃった。
 「ようするに、だよ。ナツミが言いたいのは『浮気はいけない』ってことでしょ? うん。それは私も賛成」
 「そう! 一度、愛をちかいあったら、その人と一生いとげる覚悟をしなくちゃダメ!」つないでいたナツミの手に力が入るのがわかった。
 昼間から「愛」だの「浮気」だの言ってるなんて、冷静に考えれば、ずかしい。だけど、なぜかこの街では違和感がないから不思議。街全体にただようお祭の前のうわついた雰囲気がそう思わせるのかも。
 「で、ナツミには、愛を誓いあった人は……?」
 なんの計算もなかった。話の流れから自然に出た言葉だった。でも、言ったあとに、全身から汗がき出すのを感じた。
 それに反応したはずはないけど、ナツミが私の手を放した。
 「あ……いや、それは……ご想像におまかせします」ナツミがうつむき加減に答えた。
 いる。残念だけど、これはいるな。ナツミには、相手が。こういうとき、いないなら「いない」って言うはず。こんなふうに答えをはぐらかすのは、恋人がいる証拠。
 「そういうマヨは……?」ナツミが真顔で聞きかえす。
 いるわけないじゃない。もしそうだったら、もっと幸せな人生を送ってる。自分でも外見はそれほど悪くないと思う。おもあるだろうけど、よう姿められることもあるし。だけど、見た目と、幸福度は比例しない。その真実をこの歳になってさとりはじめていたところ。
 「私はフリー。恋人募集中。いや、応募中。相手はナツミ」
 「え?」
 冗談で言ったつもりなのに──いや本心だけど、それを口に出したという行為そのものはおふざけなのに──ナツミはしんこくそうに私を見かえした。
 〈うそ、うそ。忘れて、忘れて〉
 その言葉がのどまで出かかったけど、結局言わなかった。ちゃしてしまうのは、ナツミに悪いと思ったから。それに、否定したら可能性がほんとうになくなってしまうと思ったから。
 「マヨ……」ナツミが私から視線をはずし、前を向きながら話しはじめた。「あのね、お姉ちゃんがマヨの体にさわって、その気にさせたのは、可能性があるからだよ。いろんな人がマヨのことを好きになると思ったから、えっちな気持ちを引き出そうとしたの。お姉ちゃんとはあまりうまくいってないけど、他人を見る目はたしかだよ。こう言ったらアレだけど、マヨがまったくモテなそうな、えない女の人だったら、お姉ちゃんはなにもしなかったはず。わたしも初めて見たときに思ったもの。『あ、この人は愛にあふれている人。そして、その愛を他人に分けてあげられる人だ』って」
 なに言ってるの、ナツミ? めてくれてるんだろうけど、ずいぶんとまわりくどいじゃない? ……いや、たぶんナツミは純粋な気持ちで話している。だから、その言葉は素直に受けとるべきなのだ。
 「ありがとう……」ナツミの手をとり、両手でにぎりしめた。この上ない感謝の意をこめて。
 「愛する人は必要だけど、たったひとりいればいい。たくさんの人から愛されなくても」
 「だけど、ここではそうはいかないかも。もし、〈テンシ〉が現れたら……」
 ナツミはとても真面目まじめなんだと思う。私をからかおうとしているわけではない。それはよくわかる。でも、少しじょういっしている気がする。
 「盆おどりは、性的な興奮を得るための手段。愛が欲しい。そんな気持ちになった人のところに〈テンシ〉は現れる」
 「ナツミの家の人は、その天使様をどうするの? さっき『きものにする』とかって……」
 「いや……」そう言ってナツミは下を向く。
 「うちの旅館にじおがあったのに気づいた?」しばらく黙ったあと、そう切り出した。
 「うん……」
 「あれは、〈テンシ〉が現れたときに退治するために使うの。だから、館のあちこちに置いてるんだけど……お母さんとお姉ちゃんは、逆に〈テンシ〉に来てほしいと思っているぐらいだから、盛り塩をしようとしない。おばあちゃんから言われたはずなのにね。わたしのやることを止めはしないけど……」
 「なんで退治するの? だって天使って歓迎すべきでしょ?」
 「〈テンシ〉が連れていくのは、この世でない世界。つまり、死の世界ってこと」
 天使に出会ったら死ぬ……ってこと?
 「ねえ、なんか怖いよ……もう、やめよ、この話。ナツミさえよければ……」
 「うん、わかった……」
 私が怖いのは天使ではなくナツミ。このままでいいのかな……。なんとかその信念を変えさせたほうがいいのではないか。ナツミの〝信仰〟はナツミ自身に不幸をもたらす。そんな予感がする。
  
   ○
  
 街までおりると、私たちは、浴衣ゆかたをレンタルしてくれるふく屋さんへと足をのばした。盆おどりの浴衣なんて古めかしいイメージをいだいていたけど、なかなかおしゃれなデザインのものがそろっていた。最近は、観光客を呼びよせるために、有名なデザイナーが手がけた浴衣も用意されているらしい。
 私はお気に入りを決め、着替えた。
 「あ……れい……」私の浴衣姿を見たナツミがうるんだような目で見つめる。「やっぱマヨが着るとなんでも似合っちゃうんだなあ」
 それは旅館のお客さんに対するしゃこうれい? それとも友だちとしての本心? 私は後者だと信じたい。信じさせて。
 「よし。次はだね」そう言いながら、ナツミは私の手をひっぱっていく。
 下駄屋さんでは、素材や形、サイズなどが自分の好みで選べた。はなもその場で取りつけてくれる。
 こうしていつでもおどりに参加できる用意ができた。
 ちょっと長身の私よりも、ナツミのほうが浴衣は似合うと思う。
 ──早く見たいな。ナツミの浴衣姿……。
  
   ○
  
 〈じょうはちまん旧庁舎記念館〉にたどりつく。ここで、〈郡上おどり教室〉が開かれている。ナツミは旅館に用事があるとかで、いったん帰ることになった。姿が見えなくなると、急に心細さがおそってきた。
 会場に入ると、2030人ぐらいの人がいた。参加者は、家族連れや恋人同士、まさにろうにゃくなんにょ。ひとりで来ているのは私だけかもしれない……。
 おどりの講習会が始まった。郡上おどり保存会のおばさんが実演する。それを見ながら、手足を動かしていく。最初はきちんとおどるのは大変なんだけど、見よう見まねでやっているうちに、楽しい気分になってくる。まわりの人も笑顔になっている。さっき感じた心細さがうそみたい。
 40分ほどの講習をおえ、〈旧庁舎記念館〉をあとにした。
  
   ○
  
 盆おどりの本番が始まるのは夜だし、旅館に帰るのにもまだ早い。浴衣姿のまま少し歩くことにした。
 〈旧庁舎記念館〉のすぐ北に〈しんばし〉がかかっている。それほど大きな橋ではないけど、人々のおうらいが激しく、車もひんぱんにとおっていく。
 道を歩く人たちは浴衣姿の割合が高くなってきた。仲よさそうに歩く人たちにどうしても注目してしまう。
 ──浴衣姿のナツミといっしょにあんなふうに歩いてみたい……。
 橋の真んなかあたりでそう思いながら川のほうへ目をやると、不思議な光景が広がっていた。
 川岸にあかりが並んでいる。電灯ではない。オレンジ色の小さな光が、ゆらゆらと揺れている。そんな無数の光が遠くのほうまでつらなっている。その灯に視線が吸いこまれた。これも祭を盛りあげる演出のひとつなのだろう。
 空の色が変わり、山の緑も深くなってきた。川の流れも、昼間見たのとはちがっている気がする。人だけでなく自然までもが夜を迎える準備をしているようだ。夜になるにつれ静けさを増していくのではなく、反対に活気づいているように思える。あたりが暗くなることでかえって街全体のぶきが強調される。
 だからこそよけいに、私のやせ細った心がかき消されそうになる。
 このんでひとりでいるわけじゃない。いつの間にか、どくになっているだけ。そして、自分で自分のみじめさに気づかないように──いや、気づかないふりをするために、平気をよそおう。ほんとうは私だって、さびしいんだ。でも、それをまぎらす方法がわからない。……いや、方法は知っている。横にだれかがいてくれるだけでいい。でも、その夢がなかなかかなわない……。
 「なにしてんの?」背後から声がして、われに返る。「遅いじゃない」
 振りむくと、ナツミが立っていた。
 薄い黄色を基調とした浴衣。下駄の赤い鼻緒がぜつみょうなアクセントになっている。手には小さい団扇うちわを持ち、ヒラヒラと動かしている。風を送っているのではなく、形式的にあおいでいるようなしぐさだ。
 「ナツミ……」
 あまりの可愛かわいらしさに、けよって、抱きしめたいしょうどうにかられた。でも、私にはその資格がない。
 「あれ? その顔……おどり教室、つまらなかった?」
 「え? いや、そんなことないよ。楽しかったよ。ただ……」
 ちょっとさびしかっただけ。そう言おうとして、言葉を飲みこんだ。
 「つかれちゃって……」
 「だったら少し早いけど、ご飯食べようよ。もう用意できてるよ」
 ナツミの表情は明るかった。黄色い浴衣だから、よけいにそう思えた。ナツミ自身も浴衣に着替えたことで、昼間とはちがう気分になっているのかもしれない。
 「ほら」ナツミが私の手を握る。手をつなぐのは、自然なことになっていた。ナツミの手のぬくもりが私のこおった心をかしていくみたい。ゆっくりと、少しずつ、確実に……。
  
   ○
  
 部屋にもどると、窓のほうへ近づいた。川岸に並んだオレンジの灯がここからも見える。あたりはさらに暗さを増し、灯の美しさがきわった。
 「おまちどおさま」ノックの音がしたかと思うと、料理をのせたお盆を持って、ナツミが部屋に入ってきた。浴衣の上にエプロンをしている。この和風の旅館に似つかわしい格好だ。
 ナツミは慣れた手つきで料理を並べていく。
 「わお!」あゆの塩焼き、ぎゅうの焼き肉、お刺し身、うどんのばち、魚のフライ、茶わん蒸し、おみそ汁、おひたし……。さまざまな料理がところせましと並べられた。
 「鮎はね、今日れたばかりだから、美味おいしいよ」ぎわよくはいぜんをおえたナツミが言う。
 ナツミといっしょに食べたら、どれほどだろう。でも、ナツミは「じゃあ、あとでね」と言いのこすと、そそくさと部屋を出ていってしまった。まだ仕事が残っているだろうし、ふたりで食事なんて、無理だよね……。

 「いただきます……」さっそく鮎の塩焼きからはしをつける。まだ焼きたてで、口のなかをやけどしそうになる。でも、こうばしさと白身のやわらかさが、なんともいえない風味をかもし出している。無意識のうちに箸がどんどん進む。夢中になって口に運んだ。そういえば、お昼におだんごしか食べてないんだっけ。自覚はしていなかったけど、体は空腹を感じていたのかも。だから、よけいに料理が美味しい。
 「ふう……ごちそうさま」自分でもおどろくぐらいの早さで、たいらげてしまった。和食だから、太ることはないと思うけど。それに、これからおどるんだから、体力をつけないとね。
  
   ○
  
 夕食をおえ、満足感にひたりながらメイクを直したりしていると、フユミさんがやってきた。郡上おどりに行くなら、ほかの宿泊客といっしょに、会場まで車で連れていってくれるという。私は、夜の街を歩きたいからと、その申し出を断った。
 観光雑誌には書いてなかったけど、郡上八幡は夜のほうがおもしろそう。
 部屋を出て玄関に向かう。館内は静まりかえっていた。昼間もさわがしかったわけではないけど、なんとなくほかのお客さんの気配はあった。それがいまはない。みんな会場に行ったのだろう。
 受付にただひとり大女将さんがいた。「いってらっしゃい」と声をかけられる。
 「あの……ナツミさんは……?」
 「みんなといっしょに車に乗っていったと思うけど……」
 そうだよね。私にばかりかまっていられないよね。ナツミはお仕事中なんだし……。
  
   ○
  
 すっかりけていた。ひとも少なくなっている。
 よし川までやってきたので、川のほうへおりていった。くらやみではないけど、慣れない下駄をいているから、足もとがおぼつかない。転びそうになりながらも、遊歩道にたどりつく。オレンジ色のカンテラの灯が、さっきよりぢかせまる。
 橋の上はおどりの会場へ向かう人が多く歩いていたけど、この遊歩道には人影がなかった。自分ひとりだけの世界に入りこんだみたい。私は川下に向かって歩きだす。
 カランカランと下駄がる。私と、うしろを歩く人の音が重なった。
 「マヨ」名前を呼ばれ、振りかえった。
 ──ナツミ!?
 「あれ……みんなと会場に行ったんじゃ……」
 「またお姉ちゃんとケンカしそうになって車をおりちゃった。マヨの浴衣が見えたから、追いかけてきた」
 なるほど。ナツミをよく見ると、息があがっているようだった。そう。私を追いかけてくれたんだ……。
 「ねえ。私といっしょに、ここを歩いてくれない?」意を決して、自分の願望を口にしてみた。
 「うん。まだ時間あるし」ナツミはこころよくOKしてくれた。
 自分ひとりだけだったはずなのに、そこは私とナツミのふたりの世界になった。実際、このとき遊歩道を歩いていたのは、私たちだけだったと思う。
 カンテラは3メートルぐらいの間隔で置かれている。炎は空気の流れに沿ってなびく。照りかえす光で浮かぶナツミの姿も幻想的に揺れていた。
 「綺麗……」ナツミがひとりごとのようにつぶやいた。
 「そうだね。東京にもイルミネーションはあるけど、これはそういうのとはまたちがうね」
 「いや、わたしが言ってるのは、マヨのことなんだけど」
 「ちょっと、やめてよね」
 悪い気はしなかった、ナツミにめられるのは。「ナツミだって綺麗だよ」って言いたかったけど、そんなひとことがいまの私にはとても重く感じられた。だから、口に出すことができなかった。
 「マヨは大学3年生だよね。もう、進路は決まってるの?」
 「うん。高校の教師」
 「わああ。学校の先生かあ。いいなあ。うん。なんかわかる気がする。マヨって、かんろくあるもの。頼れるお姉さんって感じ」
 「ナツミは……?」
 たんにナツミの表情がくもった。
 「秋から東京の会社に……」
 「いいじゃない。なんでそんな顔してるの?」
 「わたしには……」そこまで言って、ナツミは口をつぐんだ。
 「言いたくなければ、無理には聞かない。ごめんね」
 「わたしには、〈テンシ〉を倒すという使命がある。だから、会社はやめようと思う」
 え? 私は驚きを隠せなかった。なんてこと……。ナツミの抱く信念が不幸を招くような予感がしたけど、すでに現実になりかけている……。
 「びっくりしたでしょ? わたしのこと変だと思ってるでしょ? わかるよ。マヨの考えていること」
 「変というか……」げなかった。
 「非常識なのは自分でもわかってる。だから、このことはだれにも話してない。お姉ちゃんたちには適当に言い訳してすつもり……」
 「ナツミにとって、天使を退治することが、それだけ大事ってことだよね……」
 「〈テンシ〉は、この街だけじゃない。日本中にいる。ひょっとしたら外国にも」
 「外国……?」
 宗教? ナツミはしんこう宗教かなにかにはまっているのでは? そう思うと、とてつもない不安感が襲ってきた。
 「いま、わたしが変な宗教に入信しているんじゃないかって思ったでしょ?」
 「い、いや……」ナツミにはすべてを見透かされているようで、ますます不安感がつのった。
 「たしかに宗教といえば宗教かもしれない。でも、〈テンシ〉の存在は真実だし、実際わたしは何人も救ってきた」
 私になにかできることはある? なんとかしなくちゃ。ナツミをたすけなくちゃ。そんな強い想いがわきあがってきた。
 「天使退治って、具体的にはどうするの?」
 「〈テンシ〉はやっぱり人が多いところに現れる。それだけ、恋をする人が多いわけだから。〈テンシ〉が出現する情報を集めて、そこを襲撃するの」
 「情報は、どうやって集めるの?」
 「おばあちゃんのときは、口コミに頼るしかなかったみたいだけど、いまはネットがあるじゃない?」
 「あの……私が手伝えることってある?」
 「え……?」ナツミは黙りこんだ。私の申し出を予想していなかったのだろう。
 「マヨを巻きこむわけにはいかないよ。命をおとすかもしれない」
 いくらなんでもそれはないんじゃない? ナツミがそう思いこんでいるだけ。
 ナツミが真剣な表情で語るたびに、せつなくなってくる。もっと、ふつうの人生を送ってほしい。よけいなお世話かもしれないけど、そんな想いで頭がいっぱいになり、哀しみに襲われた。
 ふたりの間にしばらく沈黙の時間が流れる。
 対岸のほうへ目をやると、そこにも灯が並んでいた。カンテラだけでなく、川沿いに建つ家々の窓から漏れる光もある。こん色の空とおなじ色にまった川。そこに光が揺れながら映っている。
 その光はとてもはかなげだった。夜にしかともされない光。数時間しかかがやいていない光。まるで私とナツミの関係を象徴しているみたい……。
 ふと、視界にナツミの姿が入ってきた。ゆっくりと近づいてくる。両手を私のほうへのばし、そして私の肩を包みこんだ。ふたりの体が密着する。ナツミの髪から立ちのぼる香が私の思考をさせた。
 「ありがとう……」耳元でつぶやくようにナツミが言う。
 「わたしのこと、心配してくれてるんだね。やっぱりマヨってすごい人。すごくやさしい人。ふつうだったら、わたしの話を聞いたら、逃げ出しちゃうのに……」
 私もナツミの肩を抱きたかった。体を包んであげたかった。だけど、できなかった。体が固まって、動けなかった。心のどこかでナツミをこばんでいるの? みょうな信念を持っている人だから? いや、ちがう。私は受けいれている。だからこそ、放っておけないと思ったのだ。だけど、ナツミを救う方法がわからない。それがいまはとてもかなしい。
 「大丈夫だよ、マヨ。わたしは自分の考えが、から見ればとても変だってことは十分にわかってる。それに、だれかに迷惑をかけたり、傷つけたりは絶対にしない。それだけは守るから。心配しないで」
 「それはわかってる……わかってるんだけど」私の目に涙がたまっているのに気づいた。
 「さ。行こ。これから楽しい〈郡上おどり〉が始まるんだから」ナツミが私から離れる。
 私たちは手をつなぎ、会場をめざして歩きはじめた。

   4

 じょうおどりの会場は〈城下町プラザ〉。そこへ向かう人々で道はあふれていた。浴衣ゆかたを着ている人も多いけど、Tシャツにジーパン姿の人もいる。おどりには、そんな格好でも参加できるのだ。
 道のあちこちに、祭を盛りあげるためのギミックがほどこされている。
 たとえば、頭上にある大きな提灯ちょうちん。直径は2メートルほど。「郡上踊」と大書きされている。昼間にも目にしたけど、夜はあわい光を放ち、幻想的な空間をいろどるのにひとやく買っている。
 はやる気持ちがおさえきれなくて、足どりが軽くなる。でも、慣れないいているので、なんだかもどかしい。ナツミは履きなれているはずだけど、歩幅を私に合わせてくれているみたい。
 〈城下町プラザ〉には人だかりができていた。まだおどりは始まっていない。かき氷ややきそばなど、祭には欠かせない出店が並ぶ。
 会場の中央にたいがのったかたが見えた。トラックのだいくらいの大きさで、屋根がついている。そこで三味線しゃみせんふえを持った人が準備を進めている。あそこがおどりの中心となるわけだ。
 会場の背後には山があり、いただきじょうはちまんじょうが見える。かげのような山のシルエットに、ライトアップされたお城が浮かぶ。城下町ならではの光景だ。
 「ねえ、なんか食べる? 買ってきてあげる」
 「いや、いまはいいよ」夕食を食べたばかりで満腹だったし、これからおどると思うとなんだか緊張して食欲がわかない。
 「じゃあ、輪のなかに入ろう」ナツミはそう言って、中心へ進んでいく。私もそれを追う。
 ざわめいていた会場の空気が少し変わった。
 「始まるね」私がそう言うと、ナツミは微笑ほほえみで返した。
 郡上おどりは、1曲をおどりつづけるのではない。「かわさき」「はるこま」「さんびゃく」「やっちく」「げんげんばらばら」「ねこ」「さわぎ」「郡上じん」「調ちょうかわさき」「まつさか」という10曲が演奏される。
 おどりが始まった。「かわさき」。毎回1曲目はこの曲と決まっているそうだ。
 昼間練習したはずなのに、すでにうろ覚えで、出遅れてしまった。ナツミのステップを見ながら、なんとか形にする。
 はたから見ればかっこうだったかもしれないけど、だれかが私に注目しているわけでもないし、べつに気にならなかった。
 「あ、うまいじゃない。ちゃんと練習したんだ」ナツミがおどりながら笑う。
 ナツミはさすが地元の人、旅館の娘だけあって、さまになっている。
 ──かっこいいな、ナツミ。
 まだ「かわさき」がかなでられているのか、それとも別の曲に移っているのかは、よくわからなかった。笛や太鼓や三味線で演奏されているから、いろは純和風なのに、リズムやメロディーはポップスを聴いているみたいだった。
 音楽に合わせて体を動かすのが、これほど楽しかったとは。大げさに言えば、カルチャーショック。
 ここまでくると、昼間マスターしたはずの振りつけは完全に消しとんでいて、ナツミやまわりの人を見ながら、むりやりそれに合わせているという感じ。でも、ここにいる人がみんな慣れているわけではないから、私だけが特別目立っていることはないはず。
 「大丈夫? つかれてない?」
 「うん。平気」ナツミのづかいがうれしい。
 始まってからどのくらい時間がったかわからなくなってきた。もはや体が勝手に動いている。体中からあせき出しているけど、それがむしろここいい。頭が考えるのをやめてしまっているみたい。いつまでも音楽に、そしてこの人の輪のなかに身をゆだねていたい……。
 やっぱり私はさびしかったんだと思う。それをずっとしていたんだ。自分自身を──。
 ほおに冷たい感触があった。
 すいてきがおちてきたような……。
 もう一度、頬に水がかかる。
 手にも同じ感覚を覚えた。
 「雨だ」だれかの声が聞こえた。
 演奏はつづいている。でも、みんなのおどりの動きが少しにぶった。
 「雨」「降ってきたね」そんな声があちこちであがる。
 「ナツミ、雨……」そう言おうとして、ナツミがそばにいないことに気づく。
 ──どこに行ったの?
 異様などく感が急激に心を支配する。なぜそこまできょうれつな感情がわいてくるのか自分でも不思議だった。
 あまあしは急に強まった。演奏がれた。スピーカーからアナウンスが聞こえる。いったん祭を中断するようなことを言っていると思うけど、アナウンスに注意が向かず、うまく聞きとれない。
 ナツミの姿を必死でさがす。
 おどっていた人たちがその場から移動しはじめた。
 私はナツミを捜しながら、とりあえず会場から離れようと思った。
 「ひゃあっ」「うわああ」悲鳴のような声がする。
 雨が本降りになってきた。建物の屋根を水滴が激しくたたく音がする。
 かさを取り出す人もいたけど、ほとんどの人が手を頭にやったり、手ぬぐいをかぶったりして、しのいでいる。そうしながら、あま宿やどりのできる場所を求めておうおうしていた。
 会場近くの民家やお店ののきしたなんしている人もいた。もちろん、それほど大きなスペースはないから、みんながそこに入ることはできない。乗ってきた車に逃げこむ人の姿もあった。
 ──ナツミ、どこ?
 私は会場から旅館のほうへ向かって歩きだした。ナツミはひと足先に旅館にもどったのかも。私を置いていってしまうなんて考えられないけど、あり得ないと思えば思うほど、しょうそう感が高まってくる。
 雨は完全に浴衣ゆかたみこんでしまっていた。早くこの状況からだっしたいと思っているのに、浴衣が体にりついて動きづらい。それがもどかしくてしょうがない。髪の毛からも水がしたたっている。
 ──髪?
 昼間の光景がよみがえってきた。ふざけてナツミに水をかけたら、異様に驚いた。ナツミは雨をおそれるあまり、私のことも忘れて、いちもくさんに逃げてしまったのでは? 私より、自分の髪を守ったの? その可能性もなくはないのだけど、なんとなくナツミのひとがらにそぐわない気がした。そうであってほしくないという自分の願望がふくまれているのだとしても……。
 おどりの会場と旅館はそれほど離れていない。歩いて10分くらいの距離のはず。道をまちがえてしまったのか、なかなかたどりつかなかった。道を行く人の姿もほとんどない。道幅もせまくなっている。いつの間にかどこか裏通りに入ってしまったのかもしれない。
 ──最悪。見知らぬ土地で、それも夜に道に迷うなんて……。
 このときはまだのうてんにかまえていた。じょうはちまんはそれほど広い街ではない。歩きまわっていれば、いつか見覚えのある場所に出られる。
 ふふふふふ。
 女の笑い声がした。
 私のまわりには、もちろんだれもいない。でも、自分の耳のそばでだれかが笑った。
 近くの家から聞こえたのかもしれない。
 ふふふふふふふ。
 まただ。
 きゃああああああああああああああああ。
 とうとつかんだかい声がひびきわたった。おどろいて思わず歩みを止める。まわりを見わたしても、なにも変わったところはない。
 ふふふふふふふ。きゃああああああああああああああああ。
 笑い声と悲鳴のような声がきょうおんを奏でている。何人もの女の声が重なりあっているようだ。
 音は、ヘッドホンで音楽を聴いているときみたいに、頭のなかでっている気がした。
 どっちにしても、ここには長くいたくない。
 私はけだした。
 不協和音は、ときどきおさまったり、小さくなったりしている。頭のなかで音がしているように聞こえるのは変わらず、声が私を追いかけているように思えた。
 だれかに肩をたたかれた。
 ──え? そんなばかな。私は走っているのに、どうやって……。
 たしかめるため、立ちどまって、振りかえる。
 だれもいない。
 うしろを向いた私の背中にだれかがぶつかった。
 たしかにぶつかった感触はあったのに、背後に人がいる気配はない。
 私はふるえていた。れた体が冷えたせいかもしれない。でも、恐怖感もあったと思う。
 ──人間ではないなにかが私のまわりにいる。
 さっかくかもしれない。でも、感覚的には確実に何者かに私は追われている。
 ゆっくりと首を動かして、うしろのほうを見ようとした。
 白い影が視界のはしに入った。
 正体をたしかめようと、影が見えたほうに視点をずらした。
 民家の壁があるだけで、とくに異常はない。
 そのとき──。
 民家と民家の間に白い影が現れたりかくれたりしているのが見えた。
 白い布きれがふわふわっているように思える。
 布きれはひとつではなかった。
 遠くのほうにも2〜3枚の布が動いている。
 いや5〜6枚……ん? もっと?
 きゃああああああああ。
 女の悲鳴が頭にひびく。
 布きれは浴衣のように見えた。
 風もないのにゆらゆら揺れている。これも祭のきょうなの?
 いや、浴衣じゃない。
 人だ。
 人が風になびいている。
 え?
 おかしい。そんなことあるはずが──。
 きゃああああああああ。
 悲鳴はあの人たちが発している──としか考えられなくなっていた。
 いくつかの白い人影が私に近づいてきている。
 道をまともに進んでくるものはなく、民家の壁や屋根をつたってきていた。
 どう見ても、人間のできるげいとうではない。
 〈羽はえてない。白い服は着てるけど……〉
 ナツミの言葉が頭にかぶ。
 もしかして、これが天使?
 私のうでがだれかにつかまれた。
 ──遅かった! もっと早く逃げればよかった……。
 ふふふふふふふ。
 私の耳元で笑い声がする。
 うしろからだれかが私の肩をきしめている。
 腕が胸のほうへまわる。その腕は見えない。
 私は決意を固め、走りだした。腕や肩にあった感触はいつの間にか消えていた。
 人影のほうへっこむことになる。でも走りぬければなんとかなると、理由もなく確信していた。
 ふふふふふ。きゃああああああああ。
 白い人影が発する声があたりに響く。
 腕や足、背中に感触がある。たくさんの人が私のほうへ手をのばし、それがあたっている感じ。私をつかまえようとしている。でも走っているからうまくいかない。そんな状況を想像した。実際には手なんか見えないけど……。
 角を見つけたらとにかく曲がる。これであの人影をまけるはず。
 道がだんだん細くなっていく。
 息があがり、苦しくなってきたので、走るのをやめた。立ちどまらずに、早足で歩いた。
 水が激しく流れる音が聞こえる。街のあちこちにある溝に雨が流れこんでいるのだ。
 むこうのほうで車が横切った。あそこが大通りだ。あそこまで行けば……。
 またしてもだれかが背後から私の肩をたたく。
 ──つかまってたまるか!
 ふたたび走りだそうとすると、うでを力強くつかまれた。
 ──しまった!
 「マヨ!」
 背後から声がした。なぜ私の名前を?
 「ちょっと、マヨ! なにしてるの!」
 うしろを見た。
 ナツミが傘をし、もう片方の手で私の腕をつかんで立っている。民家の窓かられたほのかな光がナツミのけわしい顔をらしている。
 「傘をとりにいってる間にいなくなっちゃって……どこ行ってたの?」
 それはこっちのセリフ!

 「こんなにれちゃって」ナツミが私を傘のなかに入れながら、タオルを差し出した。私はそれを受けとり、頭や顔をぬぐう。タオルのやわらかい感触がそのままナツミのやさしさを象徴しているみたい。私は少し涙ぐんでいた。それもあわててタオルできとる。
 「白い影が……」安心感のためか、私の声はかすれていた。
 「見ちゃったんだね……この街の秘密……」ナツミの顔は厳しいままだった。
 「私、死んでたの? あいつらにつかまったら……」
 「〈テンシ〉におそわれたら、まず意識を失ってしまう。そのままくなってしまう人もいるし、たすかる人もいる」
 「死ぬわけじゃない……?」
 「でも、マヨが無事でよかった。あんなおそろしい姿を見たら、ふつう足がすくんじゃうもの」
 恐ろしい? 姿そのものには恐怖は感じなかった。むしろ未知の存在、理屈で説明のつかない相手に対する不安感のほうが大きい。
 「さ。宿にもどろ? お風呂に入って体を温めないと風邪かぜひいちゃうよ」
 私の右腕にナツミの左肩がみっちゃくした。その腕をそのままナツミの右肩へまわす。強すぎず弱すぎない力で肩をく。
 ナツミが私にもたれかかったような気がした。

   5

 視界があいまいになるほどの立ちのぼる大よくじょうに足をみいれる。玄関やろうとおなじように、こうこうあかりともっていることはなく、薄暗い。床はタイルだけど、ぶねは岩でこしらえてあり、天然の温泉をイメージさせた。
 シャワーのコックをひねり、頭からお湯をびる。自宅のシャワーとくらべてちょっとぬるめだけど、かえってそれが気持ちいい。
 〈お風呂で髪を洗っているとき、だれかの視線を感じることない?〉
 タイミングの悪いときに、よけいなことを思い出しちゃったな。するじゃん。だれかに見られている感じが……。
 カタ。
 いま、音がした? たぶんだつじょうのほう。
 シャワーの湯を頭から浴びたまま、顔を音のしたほうへ向けた。
 脱衣場とお風呂場はりガラスでられている。
 そのガラス戸の向こう側に白い影が立っていた。
 ──天使!? ここまで追いかけてきた?
 ガラガラ。
 ガラス戸が開き、人影が入ってきた。
 ほかのお客さんではない。はだかではないみたいだから。
 ──どうしよう?
 さっきの恐怖感がにわかによみがえる。
 温かいお湯を体に浴びながら、とりはだが立っていた。
 「お客さん、お背中流しますよ」明るい女の声がした。
 ──え……?
 近づいてくるのは、ナツミだった。
 白い影に見えたのは、白いTシャツに黄色いショートパンツを穿いているからだった。
 すらりとのびたナツミの脚の白さに目がくぎづけになる。
 「……背中を流すサービスなんてやってるの?」へいせいよそおいながらたずねた。
 「うん。ほんとは前もって聞いておくんだけど、マヨだったらいいかなって……いや?」
 「嫌なんてそんな……」
 背中をナツミに向ける。
 「わあ……すごいれい
 「え?」
 「マヨのはだ。すごいスベスベ。なにこれ? お手入れとかしてんの?」
 「とくになにもしてないけど……」
 どんなささいなことでも、ナツミにめられると、きょうれつに心にひびいた。
 背中にみょうな感触があって、体がびくっと反応する。
 「なに? なにしてるの?」
 「あ、ごめん。思わずさわっちゃった」ナツミの指が背中をでたのだとわかった。その指はすぐにひっこめたみたいだ。
 いや。いいんだけど。さわっても。というより、もっとしてほしいかも……。
 ふいに別の感触が私をおそう。
 「あ……」思わず声がれる。
 「ごめん、いたかった? まだ慣れてなくて」
 いや、いままで味わったことのない感覚におどろいただけ。
 ナツミのタオルが私の肌の上をすべるように動いていく。
 「あふ……」なんでこんな声が出てしまうのか、自分でも不思議だった。
 「ちょっと! ずかしいから変な声出さないでよね」ナツミの言葉に少し笑いが含まれていた。
 ──恥ずかしいとか言わないで。というより、ナツミ、わざとやってない?
 えきれずに自分の胸を両手でかくした。ナツミからは胸は見えないけど、自分だけが裸でいることに妙な違和感を覚えた。
 ──ここでは、えっちな気分になっちゃいけないんじゃなかった?
 「ねえ、天使に襲われても、死なない人もいるって言ったよね?」自分の気持ちを変えたくて、むりやり話を振った。
 「うん……」
 「死ぬ人と死なない人、どんなちがいがあるんだろう?」
 「おばあちゃんの話では、たすかった人は、あの世で元の世界にもどりたいと思ったんだって」
 「あの世ってどんなとこなのかな?」
 「自分の想っている人と一生愛しあいつづけることができるって言ってた」
 「なんか私のイメージしている死後の世界とちがうな」
 「だからもどりたいって思う人のほうが少ないらしいの」
 「でも、ナツミはやめさせたい。天使の活動を」
 「うん……」
 ナツミの声が暗くなってしまった。この話題を出したのは失敗だった。
 「はい、おしまい」ナツミが私の背中にお湯をかけ、あわを洗いながす。
 「ほかのところは……洗ってくれないの?」
 「え……?」軽いじょうだんのつもりだったのに、ナツミはぜっした。
 「やだ。やめてよね」そう言いながら、そそくさと脱衣場のほうへもどっていってしまった。
 ナツミをおこらせちゃったかと一瞬不安になった。でも、最後にちらりと見せた横顔は笑っていた。
  
   ○
  
 部屋にもどると、すでにとんかれていた。おそらくナツミの用意してくれたものだろう。
 布団の上に勢いよく寝転がり、手足をのばした。日本間独特の木目の天井が目に入った。
 激しく雨の降る音が聞こえてくる。
 体を横たえると、一気にろう感が襲ってきた。同時に、これまでの出来事が甦ってくる。
 じょうはちまんのあちこちを流れる水の風景と音。しんらんかんの橋に立っていたナツミ。郡上おどりのあと出現した天使──。
 すべて今日一日で見聞きしたものなのだ。
 友だちにぜっこう土産みやげ話ができた。ちょっときゃくしょくしたりして話すとおもしろいかも。そう思うと、心のなかにしてきたような気持ちになった。
 ──でも、ナツミのことは話すべき?
 ……そもそも「ナツミのこと」ってなに? 旅館に美人まいがいたこと? 妹さんに観光案内してもらったこと? そのコは天使と呼ばれるバケモノと戦うことに人生をけようとしていること?
 それとも私がナツミを好きになってしまったこと……? それをすでにおわってしまったこととして話すの?
 明日の朝、旅館をあとにするとき、ナツミともさよならをしなければならない。あたりまえだ。私は旅館のまり客、ナツミはなかさんなのだから。
 でも、それでいいの? 私はそれでなっとくできる? すっきりとした気分で東京へ帰れるの……?
  
   ○
  
 いつの間にか、ってしまっていたらしい。記憶にはまったくないけど、部屋の電灯を消し、布団のなかに入っていた。
 雨の音はあいかわらずつづいている。
 ぽた。
 顔にすいてきがおちた感触があった。
 ぽた。
 たたみの上にも水滴はおちた──そんな音がした。
 ──あまり?
 この旅館はたしか2階建てで、この部屋は1階。そもそもお客の泊まる部屋が雨漏りするなんて、考えられるかな……?
 真実をたしかめようと目を開けた。部屋は真っ暗でなにも見えない。かろうじて、天井の中央にある電灯の形だけがうっすらと見てとれる。
 数秒ののち、目がやみに慣れたせいなのか、白いなにかが天井にあるのがわかった。布のようなものがりつけてある。
 ──あれ……あんなの天井にあったっけ?
 突然、白い布が動いた。
 天井を移動し、かべぎわせまった。
 ──え? まさか!?
 ここで、ようやくあの白い影のことを思い出し、一気に目が覚めた。
 布団から飛び出し、白い布とは反対側の壁際まで退避した。
 そこまでは無意識のうちに体が動いた。壁まで来たたんに全身の力が抜けた。恐怖感が一気に襲ってきて、行動する気力をごっそりうばっていった。
 自分のなかにわずかに残っていた勇気を使って、勢いよく立ちあがり、電灯をけようと手をのばした。
 電灯のヒモは見えない。手がなにもない空間を動きまわる。
 ヒモが手にあたる感触があったので、しっかりにぎりこむと、力強くひっぱった。
 一瞬の間のあと、部屋の中が光で満たされる。
 それと同時に、白い影は姿を消して──ない。
 いる。
 まだ。
 壁のところに。
 それは布ではなかった。肉体を持っていた。
 しっかりと存在感のある肉体を白い布がつつんでいるのだった。
 よく見ると、それははくはつの人間だった。
 つんいの格好で壁に張りつき、ヤモリのように床のほうへゆっくりと動いている。
 白くて長い髪がれさがり、顔をおおいかくしていた。
 どん。
 なにかが床におちた。
 おちたのは、私自身で、布団の上でしりもちをついていた。
 白い人の両手が床にとどいた。そのまま両ひざを床に置く。
 私はいずるようにして、壁際へ移動した。
 白い人が顔をあげて、私を見た。
 ろうだった。
 みにくしわが顔にきざみこまれている。
 その目は赤く光っていた。
 いずれにしても、人間ではない。
 私の手になにかがあたった。たぶんまくらだと思う。
 いちの望みに賭けた。この枕を投げつければ、あの人は消える。なぜならこれは幻覚だから。脳がそう認識すれば、目の前の光景は現実のもの──白い人など存在しない──になるはず。
 白い老婆の顔をまとにして、枕を投げた。
 枕が白い人をどおりするのを脳が知覚し、幻覚はすうっと消え──ない。
 消えなかった。
 枕は老婆の顔にぶつかり、そのまま下におちた。
 これは幻覚じゃない。
 しゃがんだ姿勢のままうしろにさがる。
 私の背中が壁につく。
 もうこれ以上さがれない。
 老婆が大きく口を開けた。
 口のなかにきばのようなものが見えた。
 きゃあああああああああ。
 あの不快な声がだました。
 たすけて。
 部屋まで来ちゃった。
 たすけて。
 早くどっかへ行って。
 たすけて。
 私を襲ってもなんの得にもならないよ。
 たすけて。
 まだまだやりたいことはあるんだから。
 たすけて。
 あなたはだれ?
 たすけて。
 なんのために私を追いかけてきたの?
 たすけて。
 なにも悪いことしてないのに。
 たすけて。
 これはなにかのばつ? むくいなの?
 たすけて。
 死にたくない。
 たすけて。
 たすけて。
 たすけて。
 どん。
 左後方でしょうげき音がした。
 勢いよくだれかが部屋に入ってきた。
 なにかを老婆にたたきつけた。白い粉か液体があたりに飛びる。
 きゃあああああああああああ。
 鋭い悲鳴が部屋中にひびきわたる。
 老婆が突然立ちあがり、窓のほうへとっしんした。
 窓は開いていなかったのに、老婆の姿は消えた。
 部屋の中央に立つ人物をぎょうした。
 窓のほうを向いているので顔は見えない。
 その人がその場にしゃがみこんだ。力が一気に抜けたようだった。
 肩で呼吸をしている。息があがっているようだ。
 「なんで〈塩〉を使わないの? なんで枕なんか投げてるの?」
 息もえに、つぶやくように言った。その声でナツミだとわかった。

 「しっかりしてよね……」ナツミが私のほうを見る。疲労が表情にかんでいたけど、口元は笑っているように見えた。
 「ナツミ!」思わずナツミに抱きつく。体を両腕でしっかりと抱きしめる。ナツミの存在がとてもたのもしく思えた。安心感が私のなかに広がった。
 「怖かった……ダメかと思った……」私は泣きべそをかいていた。
 突然、ナツミの体がきざみにふるえだした。おどろいて、ナツミから体を離す。
 「わたしだって、怖かったんだから」ナツミも涙声になっていた。
 「だって、何人も救ってきたって……?」
 「〈テンシ〉と戦ったのは今日が2回目。前のときはおばあちゃんもいたし」そう言いながら、今度はナツミのほうが体を預けてきた。ふたたびナツミの体を包みこむように両腕を背中にまわす。
 私たちはなにも言わないまま、しばらくその状態でいた。ときどき私やナツミが鼻をすする音だけが部屋に響いた。
 「ねえ……」やがて私のほうから口を開いた。「このままじゃ怖くて眠れない。いっしょにこの部屋で寝て?」しゅんじゅんするより先に、言葉が出ていた。
 「うん……」ナツミは消えいるような声で答えた。
  
   ○
  
 ナツミは押し入れにあったもう一組の布団を取り出し、私の布団の横に敷いた。私もその作業を少し手伝ったけれど、ふたりの間に会話はなかった。
 「じゃあ、おやすみなさい」ナツミはそっけなく言うと、そそくさと布団にもぐりこんでしまった。
 「おやすみ……」私は部屋の電灯を消し、布団に入った。
 どうがまだ激しくみゃくっていた。興奮はおさまっていなかった。
 ナツミのほうに目をやる。暗い部屋のなかで、目をつむっているのか、開けているのかわからない。顔はまっすぐ天井のほうを向いていた。
 私は起きあがって、ゆっくりとナツミのほうへ近づいていった。
 そのとき私は、目が覚めていたけど、やっぱり夢を見ていたのだ。自分でなにをしているのか理解していなかったのだと思う。ほんとうは「たすけてくれてありがとう」と、お礼を言おうとしたはずなのに……。
 私が実際にとった行動はちがっていた。
 自分のくちびるをナツミの唇に重ねた。
 長い時間ではない。ほんの一瞬。ちょっと接触しただけ。
 でも、ナツミのやわらかい唇の感触は十分に伝わってきた。
 唇を放すとき、ナツミが小さく息を吸いこんだ。しばらく間があり、ナツミは体をそむけてしまった。
 「ごめん……怒った?」ナツミがそっぽを向くのを見て、こうかいの念が襲ってきた。なんでこんなことをしたの? けんおちいった。
 ナツミから返事はなかった。自分の布団にもどった。
 私は目を開けたまま、天井を見ていた。
 目をつむるのが怖かった。
 一方で、ナツミがそばにいるという安心感もあった。
 ──ナツミがいるから大丈夫。いざとなったら〈塩〉を投げればいい。
 そう思いながら目を閉じたとき──。
 「怒ってない」
 ナツミがきっぱりとした口調で言った。

   6

 朝、目が覚めると、ナツミの姿はすでになかった。ナツミの寝ていたとんは、部屋のすみにきちんとたたまれていた。私を起こさないように細心の注意をはらってくれたのだろう。そのづかいが心にみた。
 昨日のことは夢だとしか思えなかった。部屋に現れた天使。そして、ナツミとのキス……。
 朝食の時間になり、フユミさんが料理を運んできた。昨夜、夕食を持ってきてくれたのはナツミだったのに……。私があんなことをしてしまったから、顔を合わせづらいのかな……。ナツミは、もう私と会いたくないのかもしれない。
 お昼前には、旅館をたなければならない。それは、ナツミとも別れることを意味する。
 ──そんなのいやだ。
 私のなかでしょうそう感が高まる。なんとかしないといけない。でも、どうすればいいの? 他人の気持ちを自由にできるはずはないのに……。
  
   ○
  
 玄関のところまでやってくると、イスに腰かけ、本を読んでいる人がいた。
 ナツミだ。ブックカバーの赤色が目に飛びこんでくる。
 ん? あの川にいた少女もおなじものを持っていなかったっけ? でも、いまはそんなことはどうでもいい。
 会いたかったはずなのに、どうようしてしまう。話しかけていいのかな? ナツミは私が近づいているのに気づいているの? 気づいたら、去ってしまうの?
 無意識のうちに、歩幅をせばめていた。結果をさきばしにしたいという欲求が働いた。
 ナツミが本から目を離した。私に気づいた? ナツミが私のほうを見る。
 「おはよう」ナツミがあいさつをする。くったくのない笑顔。ぎこちなさはじんも感じられない。少なくとも私との関係はこわれていないのだと思う。
 「おはよう……」うれしいはずなのに、しずんだ声になってしまった。
 「今日も観光するんでしょ?」
 「うん、そのつもりだけど……」
 楽しめそうもない。ここで旅館をあとにして、ナツミにさよならを言ってしまったら、そのあとは、ただもんもんとしながらごすしかないのでは……。
 「今日は、じょうはちまんじょうに行こうよ」ナツミが笑顔のまま言った。
 「え? 今日も案内してくれるの?」
 「うん。無理にとは言わないけど……」
 どうする? ナツミと少しでも長くいられるのなら、こんな幸運はない。でも、それこそ重要な結論を先延ばしにするだけかもしれない。そのぶん、悲しみが深くなるだけなのでは……。
 返事ができず考えこんでいると、「じゃあ、待ってて」と言って、ナツミはどこかに消えてしまった。
 「あ……」またどく感がわきあがってきた。
 受付でフユミさんにお金をはらいおわっても、ナツミはもどってこなかった。
 ナツミの座っていた場所に、赤いブックカバーがかけられた本が置きっぱなしになっていた。
 どんな本を読んでいるのか興味がわいた。でも、勝手に見るのはよくない。そんな良心よりも、こうしんのほうがまさった。
 一瞬のちゅうちょののち、本を手にとった。
  
 『テンシが貴女あなたを愛の世界へ導く本 S・タカコ/著』
  
 本の表紙にはそう書かれていた。
 テン使? ナツミはこの本に影響されて、あんな考えを持ってしまったの?
 だれかがばしりに近づいてくる音がしたので、あわてて本を元にもどした。
  
   ○
  
 旅館の玄関を出ると、空気が少しひんやりとした。さわやかな朝だった。
 フユミさんと大女将さんが見送りに出てきてくれた。私はお礼を言いながら、おをして、旅館をあとにした。ナツミという予定外のパートナーをともないながら……。
  
   ○
  
 郡上八幡城をめざして、山道をのぼっていく。昨日、天使のほこらまで行くのにとおった道だ。
 昨日はどうちゅうに会話はなかった。いまもひとことふたことあいもないことを話すだけで、言葉数は少ない。ふだんの運動不足と寝不足がたたったのか、ちょっと歩いただけでも息があがってしまったので、おしゃべりをする余裕がなかったのも事実。でも、ナツミとの間にまだわだかまりがあったのかもしれない……。
 天使のことを話題にする気はなかった。あまりかいな会話にはならないという予感がある。
 昨晩のキスのことをあやまったほうがいいかな、と一瞬考える。「怒ってない」というナツミの言葉は、本心なのか、私を気遣ってくれたのか、それとも、気まずさを取りのぞくためのほう便べんなのか……。
 予想していたより早く郡上八幡城にたどりついた。
 ふたりでてんしゅかくまでもくもくとのぼった。ここから郡上八幡の街がいちぼうできる。
 「この街はね、魚の形をしてるんだよ」
 「へ〜」さすがにこの高さから見ても、魚には見えない。でも、東西に横長に広がる街だということはよくわかった。
 「あ、ごめん」ナツミがそう言うと、おもむろに〈電話〉を取り出した。バイブのしんどうする音が聞こえている。ナツミが画面に表示された発信者をたしかめる。
 「ごめん。いい?」ナツミが申し訳なさそうにたずねる。
 「うん……」私はうなずいた。
 ナツミとの会話をさえぎられたのが気にいらないわけじゃない。いま私の気がれないのは、ナツミの電話の相手がだれなのか、もうれつに知りたかったから。
 「やだ、ダメ、仕事中だよ」
 ナツミの少しはずんだ声が聞こえる。楽しそう。ナツミの幸せそうな表情を見るのは悪い気がしないけど、同時にがい感も覚える。
 「ごめんね」ナツミが〈電話〉をしまいながら言う。通話時間は1分にも満たなかったはずだから、私にえんりょしてくれたのはまちがいない。でも、「仕事中」という単語に引っかかった。
 ──たしかに正しいよね。ナツミにとってこれは仕事なんだから……。
 ナツミにわからないよう息を大きく吸いこんだ。
 「ねえ、ナツミ、私と付きあってくれない?」私は前置きなしに切り出した。
 「……」ナツミは私の顔をじっと見つめたまま、しばらく沈黙していた。
 私にとっては無限とも思える時間が流れた。
 「……わたし、もう付きあっている人いるから……」
 うん、わかってた。そうだと思ってた。だから、ほんとうに付きあってもらえるとは思ってなかった。でも、そのことをちゃんとたしかめずに、東京に帰れなかったから。
 「ありがとう」私はきょせいりながら言った。「きっぱり断ってくれて」
 「わたしも、マヨのことは好き。美人だし、やさしいし、こんなてきな人はいないと思う。でも、ふたりの人と同時に付きあうのは、どっちも傷つけることに──」
 「いいよ、ナツミ。平気だから」私は明るさをよそおって言った。いや、心にくっていたモヤモヤがとれて、なぜかさわやかな風が私のなかに吹いていた。
 「さ、行こう」私はナツミをうながした。
  
   ○
  
 列車が到着するまで、20分ほど時間があった。私たちはえきしゃのイスに腰をおろした。
 「これ……」ナツミがバッグからなにかを取り出した。あの天使の祠で見た、和紙でつくられた人形だった。
 「これって……?」
 「まだ〈テンシ〉のたましいふうじこめていない人形。よかったら記念に……」
 「ありがとう。大事にする」……。
 列車を待つ人たちがホームのほうへ向かいはじめた。
 「じゃあ、私行くね」立ちあがりながら、ナツミのほうを見ると、ナツミの目がうるんでいた。そして、ひとすじの涙がほおつたう。
 「ナツミ……」そうつぶやきかけたとき、ナツミが突然私に飛びついてきた。
 唇が私の頬にあたる。
 「さよなら……」耳元でそうささやくと、ナツミは駅舎を出ていってしまった。
 私はその場にぼうぜんと立ちくしていた。
 列車の近づく音がする。その音でわれに返る。
 「おねえさん、早く! 出発しちゃうよ」駅員さんが私に声をかける。
 「あ……すみません」
 ホームに出ると小豆あずき色の2両編成の列車が止まっていた。
 走って乗車口にすべりこむ。車両の中央付近の席に座ると、列車がてきらし、動きだした。
 郡上八幡の街からじょじょに離れていく。
 窓から見える木の緑や水の青は、私の目には白黒の映画を見ているようだった。
 ナツミにわたされた人形を取り出した。風景ではなく手元のそれをしばらくながめていた。
 私の乗ったなががわ鉄道がゆっくりと、ゆっくりと走る。
 夢見がちな女を、じっくりと、日常の世界へと引きもどすために──。

第2章 しおどめと横浜

   1

 悪夢を見ている。途中でこれは夢だと気づく。自分は朝、部屋で寝ているんだと思いながら、夢のつづきを追いかける。気分が悪くなる。そこで目を開ける。
 睡眠はたっぷりとれたはずなのに、すでに体にろう感がただよっている。一日の活力が悪夢によってすっかりがれてしまった。
 夏休み、私はじょうはちまんで〝夢〟を見た。まだその夢から覚めていないのかも……。
 いまもナツミに対する想いは残っているけど、たった一日の付きあいだったし、しつれんしたとしても、ダメージは少ない──いや、こうしてナツミの名前を出しているのは、まだれんがある証拠か……。
 ベッドから出て、シャワーをびると、さっきよりは気分がおちついてきた。
 簡単に朝食をすませ、たくを整えようとしたときに「やっぱりつかれている」と感じた。
 こう思ってしまったら、もうダメ。負のスパイラル。心に灰色のあまぐもがたちこめたようになって、またベッドに横になってしまう。
 枕元にあった文庫本を手にとる。何度も読みかえしているホラー小説。こういうとき未読の本はダメ。新しい内容は頭に入ってこない。



  タチヨミ版はここまでとなります。


天使の街〜マヨ〜

2014年5月25日 発行 1.05版

著者:夜見野レイ
キャラクターデザイン:イラスト:ミナセ
校閲:鷗来堂
出版者:米田政行
発行所:ぎゃふん工房

bb_B_00125096
bcck: http://bccks.jp/bcck/00125096/info
user: http://bccks.jp/user/129274
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

jacket