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純愛ウイルス

十七色 とみ子

十七色歯車文庫



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純愛ウイルス

 きれいなのかもしれないけど、感動する心さえ、摩滅してしまったかもしれない。日没直後の、紫色の空。昨日も、おとといも、そのまえも。ずっと、ずうっと同じ日常を繰り返す私には、当たり前の光景でしかない。
 まだ街灯が灯るには早いから、薄暗がりの中を部屋まで歩く。薄手のコートは、去年と同じもの。流行とは無縁の、茶色のコート。
 こんな単調な毎日を送るために、私はがんばってきたんだろうか。5パーセントの合格率と言われた、難関の国家試験。大学卒業と同時に手にしたのは、希望への切符なんかじゃなかった。昨日と今日が入れ替わってもきっと気づかない。
 不正入国者の目撃情報を整理して、当該の管轄所に送る、なんていうとかっこいい仕事みたいだけど、結局は単なる事務作業。大切な仕事だってことはわかるけど、警察庁の事務方なんて、ほんとうに試験が必要な業務とは思えない。かといって、現場で大捕物を演じるほどの体力も情熱も、私にはないんだけど。
 次の角を右に曲がって、路地を少し歩けば、私のアパート。都会暮らしに憧れてはいたけど、こんな生活がほんとに、幸せなのかな。誰が待っているわけでもない部屋に戻るのは、正直、少し気が重い。かといって、どこかへ遊びにいけるほど、仲のいい友達も彼氏も、いなかったりして。
 ほんとうは、私自身、いてもいなくてもいいんじゃないかなあ。

 そんな風に考えて、角を曲がった瞬間だった。痛い、と思った直後に、喉の辺りに冷たい感触。身動きが取れない。耳元で、荒い息遣いが聞こえた。
「動くな」
 低い、冷たい声。全身に鳥肌が立って、血が逆流したみたいに。恐怖。とっさに口から、悲鳴があふれた。自分の声だとは思わなかったけど。
「騒ぐんじゃねえ!」
 喉の冷たいものが、さらに強く押しつけられる。これ、きっとナイフかなにかの刃物だわ。吐き出しかけた悲鳴が引っ込む。
「お前には何の恨みもないが、付き合ってもらうぞ」
 私、この男に後ろからつかみかかられて、喉にナイフを当てられているんだ。やっと状況がつかめたけど、どうすることもできない。心臓の音が相手にも聞こえそうなほど、激しく鼓動しているのがわかる。男が、私を羽交い絞めにしたままじりじりと後ずさりをはじめた。きっと私、殺されるんだ。降って湧いた突然の出来事に、私は混乱していた。
 すぐに、複数の足音。私が歩いてきた通りから、数人の男が飛び出してきた。
 助けて。その声を出すのも恐ろしくて、私は知らず知らずのうちに、私を押さえつけている腕を抱きしめてしまっている。
「その女性を放せ」
 言い放った男の手には、銃。助かった、って喜びたいところだけど、業務上の知識として、それが国内にありえない武器だというのがわかってしまった。官給品ではありえない、機関けん銃。警察の人じゃない。第一、服装も顔つきも、どうひいき目に見たところで、バリバリの外国人だもの。
「FBIだ。女性を放し、武器を捨てろ」
 うわあ、FBIだって。そういえば昨日かおととい、この周辺で外国人の凶悪犯を見たとかなんとかいう情報を扱ったかも。興味なかったから、機械的に管轄部署に流して忘れてたんだ。
 私の耳元で、男が小さくうなり声を上げているのが聞こえた。私の背中に、熱いものがしみこんでくる。まさか、血? この人、大ケガしてるんだ。
 FBIを名乗った男の背後で、仲間の数人が小声でなにか話をしている。そのうちのひとりが銃を構えた男に耳打ちした。小さく、男がうなずく。
「放さないのなら、その女性もろとも撃ち抜くまでだ。公安当局に許可は得ている」
 えっ、えええっ!? 私、殺されちゃうの!? 背中の男に刺し殺されるのもいやだけど、いかにも、って権力を振りかざした男たちに蜂の巣にされるのは、もっといや!

「それがてめぇらのやり口か。……なにがFBIだ」
 その声と同時に、私の身体は真後ろに飛び上がっていた。次いで、銃声。さっきと同じトーンで、性懲りもなく私は最大級の恐怖を口から表現した。暗い路地裏を、片腕に私を抱いたまま、男が走っていく。私の背中に、また大量の血がしみこんできた。背後からは散発的に銃声が続いている。ときどき、突き飛ばされたように男の歩調が乱れた。
「……う、撃たれてるの……?」
「ケブラー製のマントだ。お前に当たる心配はない」
「でも……」
 いくら防弾素材だからって、無傷でいられるわけがないじゃない。ハンマーで思いっきり殴ったくらいの衝撃は届いてるはずなのに。
 商店街の人ごみに飛び込んだところで、FBIが銃撃をあきらめたのはわかった。だんだん、どこを走っているのかわからなくなってくる。もともと、アパートの周辺を散策することも少なかったから、近所といってもよく知らなかったんだけど。
 私も、男も、すっかり息が上がっている。男の肩越しに後ろを振り返ってみたけど、もう、追っ手は完全にいなくなっていた。
「……逃げ切れたみたいよ」
 私がそう言ったとたん、男の体勢ががくりと崩れた。私の肩に、男の体重がかかる。握っていた小さなナイフが、乾いた音を立ててアスファルトに落ちた。
 この男から逃げるなら、今なのかもしれない。でも、できないよ。ケガをして気を失っている人を、道端に捨てていくなんて。
 だってこの人は、人質にならないことがわかっていたのに、私を盾にすることも、捨てていくこともしなかった。私を守ってくれたんだ。
 それに、あんな乱暴な外国人たちの思い通りになるほど、この国が甘くないってことを教えてやらなくっちゃ。引き渡すなら、うちの警察。その前に、傷の手当をしてあげるのは、決して悪いことじゃないはずだもの。
 拾いあげたナイフは折りたたみ式で、刃をしまうと、手のひらに隠れてしまうほど小さかった。こんな小さな武器ひとつで、どこから逃げてきたんだろう。
 ひと気のない住宅街の外れ、誰もいない公園に、私は男を背負って入っていった。冷たい街灯の光では、男の顔はよく見えなかったけれど、外国人なのはわかる。肌は浅黒かったし、鼻がすごく高い。レインコートのような、フードつきの黒っぽいマントを羽織っている。そしてやっぱり、おなかの辺りに、べったりと赤黒いしみ。
 すでにとっくに早鐘を打っている私の心臓が、さらに鼓動を早めた。緊張なのか恐怖なのか興奮なのか、自分でもよくわからないけど、とにかく、おなかの傷を診てあげなくちゃ、って思う。思うたびに、心臓の鼓動が自己ベストを更新する。どうしよう、私、グロテスクなのはあんまり得意じゃないんだけど。内臓なんか出ていようものなら、この場で卒倒するんじゃないかしら。
 思い切ってシャツをめくってみると、みぞおちの辺りが真っ赤になっていた。暗くてよくわからないから、携帯電話を出して、明かりがわりに開く。うわ、と声が出かかったのを我慢した。肉がえぐれているのがすぐにわかった。
 でも、止血すれはなんとかなるかも。銃創みたいだけど、直撃したんじゃなくて、おなかをかすめていったみたいだから。
 かすり傷と呼ぶには深すぎるその傷に、私は自分のハンドタオルを押しつけた。本当は、すぐにでも救急車を呼ぶべきなのかもしれない。でも、そんなことをしたらさっきのやつらに場所を教えているようなものだし。私は彼の血で小豆色になってしまった自分のコートを、毛布代わりに彼にかけた。血が止まるように念じながら、傷口を押さえて。コンビニで救急用品を買ってくればよかった、って思いついたのは、日が昇りはじめた、明け方5時ごろのことだった。
「……逃げなかったのか?」
 目を開けた彼の瞳は緑がかったとび色で、やっと落ち着きかけていた私の心臓はまたドキリとした。
「公園か。悪くない場所だが……そろそろ人が来る」
 上半身を起こそうとした彼の眉間に、しなやかな縦皺が刻まれる。フードからこぼれた黒い髪は、やわらかい癖毛だった。
 こんなに美しい人、今まで見たことがない。単調な毎日の中では絶対に逢えない人だ、と、私の直感が判断する。
「家に帰れ、と言いたいところだが……おそらく、お前の家の前にはやつらが待っているだろうな」
 私に代わって自分で傷口を押さえた彼は、そういって目を伏せた。まつ毛が、すごく長い。
「……ケガしてる人、放っておけなかった、から……」
 じれったい。どうしてこんなときに、気の利いた言葉ひとつ紡いでくれないんだろう私の喉は。
「優しいんだな、この国の女性は」
「たまたま、だよきっと」
 自分でもほんとに、なにを言ってるのかわからない。なによ、たまたまって。意味がわからないわよ私!
「じゃあ、優しさついでに、もうひとつ、付き合ってくれるか?」
 苦痛を隠して無理に作った笑顔って、こんなに色っぽいものなのかしら。
「顔を見られず、休んでいても怪しまれない場所、思い当たるところがひとつだけあるんだ」
 こうして私は、生まれて初めて、ラブホテルに誘われたのだった。

 彼の言ったとおり、フロントには目隠しするようなすりガラスがあって、私たちは誰にとがめられることもなく、個室に入ることができた。部屋には大きなベッドがひとつ。ラブホテルなのだから当たり前なんだけど、恥ずかしくて落ち着かない。
「名前くらい、聞いておこうか」
 その大きなベッドに横たわって、彼はつぶやくように言った。
「智子。よくある名前でしょ。……ッていうか、名前を聞くならあなたが先に名乗ってよ」
「ヒューン・イシュ・ヴァーミリオン」
 やっぱり、覚えがあった。国際手配されているテロリストだ。書類に写真がついていたのを見た気がするけど、こんなにきれいな顔だったかしら。
 でも、素性を知っていることは、口にできなかった。怖いからじゃないと思う。たぶん、嫌われたくないんだ。
 防弾マントとシャツを脱いだヒューンの身体には、無数の打撲があった。やっぱり、銃弾は確実に彼にダメージを与えていたんだ。私なんか気にせず、一人で逃げればよかったのに。
「……どうして、あのとき私を捨てていかなかったの?」
「あのままお前を手放していたら、お前はやつらに確実に撃たれてた。……女の子一人守れないやつが、世界を変えることなんて、できないからな」
 私が聞くまでもなかった。ヒューンは自分から、入国の目的を話しはじめた。
「俺の理想は、国境のない世界なんだ。いや、国境はあってもいい。世界に住むあらゆる人たちが、差別されることなく、自由に行き来することができるのなら。人種や性別に関係なく、能力のあるものが自分の力を自由に発揮できる世界だよ」
 外国人を取り締まっている私なんて、ヒューンにとって、まさに天敵なのかもしれない。
「この国には12のチームで潜入した。だが、追っ手が来やがった。おそらく、生き残っているのは俺だけだ」
 どんな作戦を練っていたのかはわからない。でもきっと、ヒューンたちには勝算があったんだと思う。ヒューンの目は、狂信者みたいにギラギラと光ってはいないから。穏やかで知性に満ちたまなざしを、私に向けていてくれたから。
 あらゆるものが、差別されることなく、自由に行き来する世界。そんなのは、すべての国から自治権を奪わない限り、きっと無理な話。だからヒューンはきっと、この国から秩序と法律を奪いに来たんだろう。でも。
 不思議だった。恐怖なんかもう感じない。それどころか、彼の夢に憧れさえ感じている。国なんかなくたって、人は自由に生きていける。人種なんか関係なく、愛し合えるのだから……。
「俺にはさ」
 自嘲するように、ヒューンが言った。
「俺には、生まれたときから、住む国がないんだ。テロリストなんて格好のいいものじゃない。本当は、安住の地がほしいだけなのかもな」
 ただ生きるためだけに、こんなにも傷ついて。温かく迎えてくれる場所を探して、小さなナイフひとつで。
「……ここに、住みなよ。私が……、私がなれないかな、その……」
 安住の地に。恥ずかしくて、切なくて、言葉の代わりに涙がこぼれる。
 ヒューンはしばらく、何も言わなかった。目を閉じて、死んだようにじっとしていた。もしかすると眠ってしまっていて、私の言葉は届かなかったのかもしれない。拍子抜けしたような、ちょっと安心したような気分になったそのとき。
「幸せになんて絶対にできない。それでもいいのか」
 まっすぐに私を見る緑がかった瞳は、心の奥まで透けて見えるかのようだった。
「そんなことないよ。だって私は、ヒューンと一緒にいるだけできっと、幸せだから」
 出会ったばかりなのに、確信があった。私はこの人に出会うために生きてきたんだ、と。この人のためなら、世界中を敵にまわしたっていい。
 ヒューンの笑顔を見て、また涙が出た。傷だらけの腕が伸びてきて、私の顔を引き寄せる。キスをしながら私は、この人の子供がほしいと思った。この人に似た子供たちを、できるだけたくさん。そして、二人の夢を伝えるんだ。いつか、本当に自由な日が来るまで。

「教授、失敗です」
「ウイルスは減少したんじゃなかったのか」
「はい。ですが、完全にHIVウイルスを駆逐するに至らなかったようです。ヘルパーT細胞への感染を確認しました」
「そうか……。頼みのF-BI型も失敗か……」
 教授と呼ばれた白衣の男はため息をついた。どうやら、次の学会までにHIV治療薬を発表するのは難しそうだ。
 骨髄の造血幹細胞で作られ、胸腺で増殖と選択が行われたのちに体循環器系に入ったT細胞の一部は、抗体産生を誘導するなど免疫に不可欠なヘルパーT細胞となる。しかし皮肉なことに、そのヘルパーT細胞こそが、人体の中で最初にHIVに感染するのだ。
 いや、まだ諦めるべきではない。用意している試薬は、他にもあるのだから。
「SWA-T型の試薬は用意できるか。明日から実験を行いたい」
 手早く助手に指示を出し、教授はパソコンに向かう。今回集めたデータを分析するためだ。どうやら、今回のワクチンは特定のPhを持つ場所では効果を発揮できないらしい。調整剤を使って何度か繰り返せば、この試薬でも成功例を作り出すことができるかもしれない。

 新たな恋と新たな悲劇は、そうしてまた繰り返される。たぶん、生命がこの世に存在する限り。

純愛ウイルス

2014年8月1日 発行 初版

著  者:十七色 とみ子
発  行:十七色歯車文庫

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十七色 とみ子

1975年生まれ。東京出身。日本大学芸術学部文芸学科を卒業後、家業の手伝いを経て、コピーライターとして勤務する。結婚後、専業主婦となり、遊び感覚で小説の執筆を再開した。別名義も持つが、比較的性表現の少ないものを十七色名義で発表している。

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