2chとしたらばでの鬼和尚の説法集。2007年2月〜2014年8月。
ページ数調整のため他に、数息観と縁起の法の習熟段階、十牛図の解説を入れました。また、ブログと重複する部分は省きました。
発行日現在、 http://jbbs.shitaraba.net/study/8276/ の「鬼和尚に聞いてみるスレ」で、直接鬼和尚に質問することもできます。
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446 自在:2007/02/12(月) 22:51:42
本来、私はこのような言葉遊びに口を出すことはないのだが、義務として書いておく。
悟りを得ていないのに得たと言うのは止めなさい。
悟りを得ていないのに得たと言うものは、天地を欺く咎を負う。
かつて悟りを得ていないのに得たと言った者がいた。
一人は今、刑務所で死刑を待つ身だ。
一人は若くして命を落とした。
真摯なる修行者を欺き、自らを昂ぶらせてはならない。
ちいさな満足感を得るために、永劫の地獄に落ちるのは愚か者である。
私がこのように説いても、心昂ぶらせたものは聞くまい。
だが地獄に落ちた後に、誰も私に真実を教えてくれなかったと、言うことはもう許されない。
私は確かに真実を教え、警告したのだから。
543 自在:2007/02/16(金) 11:51:23
今後のために自我が観照されてからのことを書いておこう。
自我が観照された時、それはもはや維持力を失って消え去る。
もともとそれはイメージに過ぎなかったのだと修行者は理解する。
そして、沈黙、静寂、安心の境地があらわれる。
これは言葉通りのものではないが、そこに達したものだけに理解できる単語である。
しかし、未だその境地を見るもの、認識が残っている。
これを観照しなければ大悟徹底の境地ではない。
白隠禅師などが「大悟二度」と言っているのはこの自我と認識の二度の観照を意味している。
自我の邪魔がなければ認識の観照は容易い。
修行者は今、この感覚を見ている者は何か、どのようにして見ているのかを観照するか、あるいは空観を用いて見るものは空であり、実体が無く、縁起によって生じたものであると、観じ消滅させよ。
そして認識をも消え去った時、真の悟りが現れる。
その境地に至ってはもはや言葉で表せるものは何も無い。
もはや為す者も為される物もない。
ただ無為にして座せよ。
全ての神秘が目覚めた者の前に開かれる。
ニルヴァーナの喜びは至上のものであるが、目覚めた者は現世に戻り、未だ苦渋に迷う衆生を救うべきである。
目覚めた者よ、願わくば多くの衆生を導かれよ。
586 自在:2007/02/20(火) 12:39:55
発菩提心
悟りを得ようとする者は、初めに悟りを得る強い決意を持たなければならない。
これを菩提を求める心を発するという意味で発菩提心という。
修行の途中で訪れるさまざまな誘惑や、倦怠、恐れなどによって諦めてしまわないように、強い意志を最初に培っておかなければならない。
「私は必ず悟りを得るまで修行を止めない」
と、あなたの信じるものに、出来ればはっきりと声に出して誓いなさい。
大乗の道を行く者なら更に
「悟りを得た後に現世に戻って衆生を導く」
と、いうことも誓うべきであろう。
強い意志を奮い起こし、悟りを得ようと固く決意することが悟りへの第一歩である。
人は意志することで様々な不可能を可能にしてきた。
空を飛び、地を速く走り、海や川も征服して来た。
人の意志に勝る力はこの世にはない。
強い意志を持てば必ず修行を全うすることが出来るだろう。
588 自在:2007/02/21(水) 20:40:38
座法
座法とは座り方を意味する。
座法は修行の基本であり、同時に最後の行でもある。
修行の最後には修行者は全ての技を捨て、ただ座り続ける。
座法を極めた者には三昧も、無想も容易である。
修行者はまず、足の組み方を工夫しなければならない。
必ずしも足を結跏趺坐にしなければならない、ということはない。
背中を真っ直ぐにして、楽に長時間座れるのが一番よい。
片足だけをももの上にのせる半跏坐や、あぐらのように座ってもよい。
ただし背中が真っ直ぐになっていなければならない。
骨盤を床に立て、腹を乗せ、胸を乗せ、首から頭を乗せるように座る。
肩の力を抜き、頭の中心、お腹の中心、下腹の中心が、真っ直ぐに重力の方向に向かうようにすれば、何もせずとも自然に無念無想の境地に入れる。
中国ではこの三ヶ所を上中下の三つの丹田と呼ぶ。
三丹田をいきなりコントロールするのは難しい。
初心のうちは頭の中心、上丹田と、下腹の中心、下丹田だけでも重なるようにしなさい。
592 自在:2007/02/22(木) 19:58:01
座法Ⅱ
三つの丹田を揃える最も良い方法は、正中線を真っ直ぐに整えることだ。
体の前面を通る真中の線、鼻先、胸の中央、臍の三点を合わせる。
部屋にある垂直な柱の線などを利用し、自分の体の正中線が真っ直ぐになっているか確かめても良い。
正中線が真っ直ぐになっていれば、後は体を少しずつ動かして微調整をする。
体を動かして居るうちに、体が気持ち良くもっとも集中する所がわかる。
そこがあなたの座法の正しい位置である。
この感覚が判るようになるまで、座法の研究を続けるべきであろう。
道元禅師は禅とは只管打座であるとして、小賢しい技術は捨ててただ黙々と座りつづけるべきだと説いた。
座ることは修行の基本であり、基本を疎かにする者は大成することはない。
例えば野球やサッカーなどのプロスポーツを教えるコーチなどは、本当に選手を育てようとするなら、まず基本をしっかり教えるであろう。
そしてテクニックなどは、基本を身につけた後で教える。
それが正しい教え方なのだ。
同じように真の悟りを得ようとするなら、まず基本である座法を身につけるべきなのだ。
修行の基本である座法はいくら研究しても、し過ぎということはない。
各自、力を尽くして研究して欲しい。
596 自在:2007/02/23(金) 22:47:21
無常
座法ができるようになったのなら、この世の在り様を知り、悟りに向かう意志を固めるために、無常の観想をする。
無常とは字の通り、全てこの世にあるものは常にあるということが無く、移り変わって行き、止まるもののないことを意味している。
私のこの身も時がくれば滅びる。
そしてあなたの身はどうであろうか。
近親者を亡くしてしまった者は、この無常ということが良くわかるであろう。
人も物も、全て変化し続け、やがて滅びる。
それを逃れるためには修行して悟りを得るしかないと、深く心に思うのだ。
私は修行中は死を思うことに疲れ、修行を止めようかと思った時があった。
私も世の人々のように、死を思うより、限られた生を楽しもうと、そのような事を考えながら歩き、交差点で信号待ちをしていると、一匹の蝶が飛んできた。
蝶は車の行き交う車道に飛び出した。
そして、車にぶつかり一瞬にして消えた。
その体は一枚の羽も残さなかった。
あの蝶は恐らく何も知らずに死んでいったろう。
この世には自動車というものがあり、それにぶつかって自分が死んだという事さえ判らなかったであろう。
自分が死んだという意識さえなかったかも知れない。
何も判らずに生き、何も判らずに死んでいく。
その恐ろしさに私は震えた。
私にはそのようなことは耐えられなかった。
その蝶の最後は百万の経典より、確実に私に無常、死というものの恐ろしさを教えてくれた。
その後、私は修行を続け、悟りを得て死の恐怖を克服することができた。
死を克服しようと言う動機こそ、人を悟りに向かわせる最も強い力になる。
例えばあなた自身が生まれてから成長し、成熟して、やがて衰え、死に至る過程をイメージすることで、無常と死を免れぬ自分というものを意識できるだろう。
精進していただきたい。
605 自在:2007/02/25(日) 20:05:49
数息観
数息観は集中力をつけるために非常に良い。
観察が本道であるが、集中力の無い一般の人間には観察自体が困難だ。
集中力を増し、雑念を静める力を養うために、数息観を止の行としてお薦めする。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていく。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いて二と数える。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻る。
簡単であるが効果は非常に高い。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けてほしい。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなる。
そして、日常生活でも落ち着きが出て、不意の出来事でも慌てないようになる。
精進していただきたい。
606 自在:2007/02/26(月) 22:28:05
数息観 雑念の処理
数息観などの瞑想をしていると、必ずといっていいほど悩ませられるのが雑念である。
瞑想をしていたはずなのに何時の間にか、全く別のことを考えていたという経験は多くの方がしているだろう。
これらの雑念を処理するコツは無視することである。
雑念を止めようとか、抑えようとすればそれが新たな雑念となる。
それよりも雑念が生じても、無視して息を数えることに集中する。
そのようにすれば、次第に雑念は少なくなり消えていくだろう。
雑念ばかり頭に浮かぶからといって、怒ったり、焦ったりする必要はない。
ただ確かな信念を持って修行を続ければ、次第に集中力が付き、雑念を完全に処理することができるようになるだろう。
612 自在:2007/02/27(火) 21:13:55
数息観 三昧(サマーディ)
数息観を熱心にやっていれば、雑念がやがて止まり、完全な無想の状態が現れる。
外部からの刺激にも心が動かされない完全なる集中状態を、三昧(サマーディ)と呼ぶ。
この三昧は昔からよく悟りと間違えられてきた。
悟りを得たと勘違いする者の多くは、この三昧を経験しただけの者だ。
しかし、悟りと三昧は明らかな違いがある。
三昧は一時的な経験に過ぎない。
悟りは精神の恒久的な変化である。
例えば行をする前に借金や、体の痛みに悩まされていた者がいたとしよう。
三昧の途中では世俗の悩みや痛みを忘れていても、三昧から覚めると又、悩みや痛みが戻ってくる。
悟りを得た者は、もはや悩みや痛みには苦しめられることはない。
それらが消えてしまう訳ではないが、もはや目覚めた者を煩わす苦ではなくなる。
これが三昧と悟りの違いである。
悟りを求める者は、三昧に止まらず、真の悟りを求めて更に修行を続けるべきであろう。
631 自在:2007/03/01(木) 21:40:32
観察
心を止める数息観で、雑念を処理することが出来るようになったなら、そろそろ観察を行ってもよい。
観察をしながらも数息観は続けていくべきであろう。
数息観によって集中力を養いながら、観察もしていくと、成長は早い。
観察は初心の者がいきなり心の中をみるというのは困難である。
故に肉体などの外から内へ、粗大なものから繊細なものへと観察していくのが判りやすい道だ。
そうすることによって観察するということも学ぶことが出来る。
まず数息観を行い、雑念が無く、集中力が増した状態で、あなたの手を観察してみなさい。
初心の者は心の中で言葉にして観察してみるのもよい。
手や指という言葉を使わずに表現してみるのだ。
「これには五本の突起がある。それには曲がるための皺がある。先の方には固いものが覆っている・・・」
などというように判りきっているようなことでもよいから、出来る限り細かく、詳しく観察していく。
そのように観察していると雑念が起こるが、数息観によって雑念の処理が出来る者にはすでにそれは邪魔にはならないはずだ。
例えば手にキズなどがあり、それを見て「このキズは子供の頃、車に轢かれたキズだ。あの時は大変だった・・・」などと考えてしまうのが雑念である。
観察は今、ここにある物だけを純粋に見つめる行為だ。
雑念と観察は明確に区別して修行を行わなければならない。
635 自在:2007/03/03(土) 21:12:51
観照
この辺で観照について書いておかねばなるまい。
観照は観察の一種ではある。
しかし、通常の観察と違うところは以下の二点にある。
Ⅰ意識的にではなく、無意識的に行われる。
Ⅱそれは観察者そのものを観察する。
これをまとめると、観照とは無意識的に観察者を観察する行為であると言えよう。
これは言葉にすると難しいが、実際には多くの者が大なり小なり経験している。
例えば旅行などに行った時、今まで悩んでいて結論が出せなかった問題が、状況を離れて自分自身をも客観的に観察した結果、結論を出すことが出来たというようなものでも、小規模だが観照の一種といえよう。
このような場合でも自分を客観的にみようとするのではなく、無意識的に頭に浮かんだ自分自身を含む状況を客観的に見ることによって観照はできる。
前述のように自分を客観的に観察しようとすればするほど、かえって自我の介入を招いてしまうので観照は困難となる。
しかし、この観照を起こしやすくするのは、やはり観察を続けることなのだ。
観察を続けることによって、いずれ無意識のうちにも観察が働くようになるだろう。
そしてその観察が自我に向かった時、観照は起こる。
その時まで、あきらめることなく精進していただきたい。
637 自在:2007/03/04(日) 21:44:30
観察 感覚の観察
感覚を観察するのには、長く響く鐘の音などを聞く方法が良く使われる。
集中力を保ったまま、聴覚を観察できる良い方法だ。
まず、出来るだけ長く響く鐘を用意する。
パソコンなどの音でもよい。
自分で叩かなくとも、定期的に音が鳴るようにするのが理想的だ。
肉体の観察と同じように、数息観を行い、集中した状態で鐘の音を聞く。
その時、音、音に反応する耳、耳からの刺激によって起こる心の動きなどを詳細に観察していく。
その他の視覚、触覚、臭覚、味覚なども、大体同じように、感覚の対象、感覚器、感覚主体を観察する。
各自工夫して観察していただきたい。
638 自在:2007/03/05(月) 22:41:16
観察 感情の観察
観察もこの辺りから困難になってくるであろう。
感情を観察するという行為そのものに、強い反発を感じる者もいるだろう。
その反発自体が、感情を自己と同一化しているせいなのだが、感情の満足を求めて今までの人生を過ごしてきた者にとっては、感情の観察は人生の目的をも破壊されるような感覚を受ける。
その他にも感情を心に起こし、それを観察する間もなく、感情に引きずられてしまう者もいるだろう。
このような時こそ、己が何故、悟りを得ようと決意したのかを思いだし、発菩提心を発揮して集中して修行していただきたい。
感情の観察では心の中にある感情を引き出し、それを観察する。
喜怒哀楽といった感情を呼び覚ますのだが、過去の記憶を思いだし、感情に流されないようにしながら、今の反応を観察するというむずかしいことをしなければならない。
初心の内は悲しみや喜びというような穏やかな感情から、観察をしたほうがいいだろう。
精進していただきたい。
642 自在:2007/03/06(火) 21:38:28
観察 思考の観察
思考を観察するのは数息観で行った、雑念の処理を無視するのではなく、見守るかたちにすればできる。
生じては消えていく思考を、ただ見守る。
そこに批判や意見は付け加えてはならない。
ただそれが生じては消えていくさまを見続ける。
思考の対象、思考という行為、思考する主体を見る。
それがどこから起きて、どのような作用を及ぼすのか、詳細に見つづけて欲しい。
643 自在:2007/03/06(火) 21:48:26
自我の同一化
この辺で自我の同一化について書いておく。
体や感覚、感情、思考、意志、認識などのどの部分に自我を同一化しているのかは、人によってかなり違う。
ある者は自分を感情と同一であると感じ、他の者は思考こそが自分自身であると考えている。
われ思う、故にわれ在りと言葉を残した古代の哲人は、その思考に自分を同化していたのだ。
私自身は認識に自分を同化していたと、悟りを得てから判った。
あなたの自我がどの部分に同一化しているかは、あなた自身が探り出さねばならない。
一度それがわかったら、それをみるだけで、自我の離脱がはじまる。
精進していただきたい。
645 自在:2007/03/09(金) 20:37:18
観察 意志と認識
この意志と認識の観察からは特に難しくなってくる。
この二つはすでに表層の意識をはなれ、潜在意識の部分で働いているからだ。
人間が何かを認識し、選択して意志を発動させるまでの動きは、殆どが潜在意識で決定されている。
認識から意志決定に至るまでの心の動きを観察するのは、非常に困難なことだ。
その原因は早さにもある。
人が例えばリンゴなどを認識すれば、瞬時にそれがリンゴであり、リンゴという名前やリンゴに関しての記憶が蘇る。
その過程を観察するのは非常に強い集中力が必要となる。
真の悟りを得ようとする者は、行住坐臥の全てにおいて己の心を見守り、修行に専念すべきであろう。
これで私の教えは終わりだ。
ここに示したのは、多くの者が悟りを得た古来の修行法の、おおまかな解説に過ぎない。
しかし、それでも真摯に悟りを求める者には、役に立つはずだ。
死から逃れる道は確実に存在する。
愚かな者はそれを笑い、死ぬ時になって泣くが、賢いものは修行を続け、死ぬ時になって笑うことができるだろう。
死は消滅ではなく、永遠への扉であったと知って。
672 自在:2007/03/14(水) 19:48:27
空を観じる行も、やはり己の自我を探り出し、観照が起きるのを促すという手順に変わりは無い。
観察のところで書いたように、観察と空観の違いはテクニックが直接的であるか、間接的であるかの違いに過ぎない。
空観は能動的であり、受動的な観察が苦手な者はこちらを選ぶといい。
仏陀の法は全人類の宝であり、全ての衆生に無償で与えられる。
それはこのネットの上でも変わりは無い。
私はあなたたちにチャンスを与えた。
死から逃れる法を知るチャンスを。
偉大な仏陀・釈迦牟尼が言われた通り、目覚めた者は道しるべとなり、悟りにたどり着く道を教えるのみだ。
そのチャンスを生かして悟りを得られるかどうかは、つねにあなた自身が修行をやりとおすことができるかどうかにかかっている。
673 自在:2007/03/14(水) 20:08:18
無常 死の考察
人間という存在にとって、死は常に前途にそびえたつ壁であった。
その壁の前に全ての者がひれ伏し、消えていく。
この絶望の前には金も、権力も、名声も何の意味もない。
世のものは多くがこの金、権力、名声を求めて止まないが、この死という観点から人の一生を見直してみれば、これらが何の意味もないことが判るだろう。
例えばルールの違うゲームを終わったあとで知らされるようなものだ。
人々がボールを手に持ち、ゴールに入れるゲームをして多くの点を得る。しかし、ゲームが終わってみれば審判がこれはサッカーであり、得点は無効、選手は永久に出場停止とされる。
これが多くの人間の置かれている状況だ。
人々はこの世に生まれていやおう無く金、権力、名声、異性などを争うゲームにまき込まれる。
しかし、死が近づけばそれらが何の意味もなく、ただ失ってしまうだけのものであることに気付かされる。
この世はまるごと大きな罠なのだ。
二度と戻っては来ない貴重な時間を、失われてしまう物のために使ってはならない。
あなたが修行によって集中力を高め、自己の存在の根底まで透徹した時、自己がこの失われていく体に限定されるものではなく、大いなる海のごとき存在であることが実感される。
その時、死は大海のはしでたわむれる波のような小さな変化の一つに過ぎなかったと気づくだろう。
そしてあなたは目覚めた者、仏陀となる。
677 自在:2007/03/15(木) 22:47:20
http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/index.html
クリシュナムルティ学友会
正田大観氏による和訳ダンマパダ(法句経)
第二十二章 地獄
306 事実ならざることを説く者は、地獄へと近づき行く。あるいはまた、為しておきながら「〔わたしは〕為してない」〔と〕言う者も、〔地獄へと近づき行く〕。
彼らは、死してのち、両者ともどもに、下劣な行為(劣業)の人間たちとして、他所(来世)において、等しきものと成る。
仏陀の法において偽りを書いてはならない。
悟りを得る以外に苦しみを逃れる道があると仏陀は説いただろうか?
修行は苦しいものであると仏陀は説いただろうか?
世の快楽を離れ、苦行も離れた道を仏陀・釈迦牟尼は「中道」と説かなかったか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%81%93
中庸は儒教の教えではないのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BA%B8
悟りを得られるものは定められていると真実ではないことを教えた者は誰か?
あきらかに間違っている言葉を真実と認めるのはなぜか?
自分自身の言葉を飾るのか、あるいは同じ邪悪な教えを受けているのか?
目覚めた者の智恵は人の及ぶところではない。
全てを見ぬきながら、あわれみから暴いたりしないだけである。
邪悪な教えをはなれ、真の仏陀の言葉に帰依せよ。
685 自在:2007/03/18(日) 21:01:45
空観と観察の違い。
それは例えば散らかった部屋で物を探す方法の違いと言えようか。
ある者は部屋を詳細に見ることで物を探し当てようとする。
他の者はとりあえず部屋を片付けて、自然に出てくるのを待つ。
部屋をそのまま見るのが観察であり、片付けてからというのが空観と言えよう。
物を探すのであるから、見つめるのが本道であろう。
しかし、片付けてから見つけるというのも悪くは無い。
どちらを選ぶのかは修行者個人の好みや、適性による。
自分にあった方法で精進していただきたい。
706 自在:2007/03/20(火) 20:58:48
自我同一性
観察、又は空観によって自我を見出そうとすれば、さらに自我の同一性について深く踏み込んでいかなければならない。
自我の同一性とは即ち、あなたが何をもって自分であると認識しているかを意味する。
あなたとは一体何だろうか?
体であろうか?
体だけがあなたであり、他に自分と呼べるものはないのか。
或いは他の感覚や、感情、意志、認識などの心の作用があなたの本体であろうか?
この問いに言葉で答えを出す必要は無い。
言葉による回答は何の意味も無い。
それが見られた時、観照が起こり、悟りが得られるのだから。
多くの者が誤解しているようだが、悟りとは何物かの知識や見解を得ることではない。
知識は悟りではない。
見解も悟りではない。
知識や見解には対象があり、それ自体も無常であり縁起によって生じたものに過ぎない。
観察や空観の目的も、自我についての知識や見解を得ることではない。
観察や空観そのものが、対象と自己に及ぼす作用を狙った行為なのだ。
その為には自らの自我を突き止めねばならない。
あなたとは何だろうか?
多くの真の導師達が放った問いを、私も何度も繰り返す。
あなたとは何だろうか?
722 自在:2007/03/21(水) 20:39:59
悟りによって何が得られるのかを、初めに書いて置くべきだったかも知れない。
多くの人は死を恐れ、或いは真理を知るために、悟りを得たいと思う。
死を恐れ、生きることの意味を知りたいという小さな望みだ。
しかし、悟りを得たときに受け取るものは、計り知れないほどに大きなものだ。
これについて昔から伝わる美しい例え話しがある。
あるところに金持ちの息子がいた。
かれは家を出てよその国に旅に行き、とても苦労をして浮浪者、今のホームレスになってしまった。
彼はさまざまな家の前で食を貰い、ようやく生きていた。
そして、彼はいつしか自分が生まれた家に戻っていた。
彼が家の前に立って食を貰おうとすると、父親である金持ちは直ぐに彼を息子であるとわかった。
そして息子を家に招き入れ、全ての財産を譲り渡した。
ただ死を恐れ、悟りを得ようと願う者は一食のご飯を求めるホームレスのようなものだ。
しかし、そのような者も悟りを得た時、自分が全てを受け取っていると気付く。
全てを。
全てなのだ。
今、外に出て上を向けば見える空の全て。
今、人々の足元を支える大地の全て。
そして今、この存在する空間と時間の全てが、本当はあなたのものなのだ。
それは概念や思考ではなく、例えば右手で左の手を触るような確かな実感として認識できる現実であり事実なのだ。
区別の幻想を離れたところには、永遠の喜びがある。
この文を読む全ての者が速やかに悟りを得て、真の喜びに到達するように。
728 自在:2007/03/23(金) 22:56:13
数息観から随息観
数息観を修行していくと、しだいに集中力が深まり、雑念も簡単に流せるようになる。
そして、雑念が止まり、無念無想の三昧に入る。
そこまで行くと、息を数えるのがかえって邪魔になるだろう。
そのような時は、自然に数えるのを止めて、呼吸に集中するだけでいい。
この状態を随息観と呼ぶ。
呼吸に集中しているだけで、意識は深く、深く集中していくだろう。
そして、次第に表面の意識だけでなく、潜在意識と呼ばれるものも感じられるようになっていく。
例えば雑念を無視していると、雑念とは別に呼吸に集中している意識があるのがわかってくる。
意識が二重にあり、それぞれが別に動いているのがわかるのだ。
さらに修行が深くなると、意識は二重だけでなく、幾つもあって別に動いているのが感じ取れるようになる。
人間の頭は普段から多重に動いているのだが、普通の人間にはわからない。
修行によって集中力が深まると、潜在意識も見えるようになるのだ。
ここまで集中力が深くなれば、自我を見るのも可能になる。
精進していただきたい。
775 自在:2007/03/25(日) 22:24:22
止の行
これまでに主に数息観を止の行として紹介してきたが、集中系の行は全て止の行として使える。
天台の止観などでは鼻先に集中する法、胸に集中する法なども紹介されている。
チベット仏教などで教える鼻先に仏陀をイメージする法、日輪や月などをイメージする法も、この集中力をつける止の行として使える。
雑念を処理し、行を深めていく段階は数息観と同じである。
仏教には八万四千の法門があり、各々の修行者が、自分にあった方法をみつけるのが一番近道であるといえよう。
肝心なことは集中力を高め、自らの心の内に有る自我がどのように起こるのかを観ることだ。
これで悟りを得る法の概要は大体説き終わった。
この2ちゃんねるという場所は、人々の言葉と思いが集まる所であり、繁華街のように喧騒の場であるとともに、真実が明らかになるところでもある。
過去にもこの2ちゃんねるで幾つもの真実が明らかになった。
愚かな者の悪言や宣伝にまどわされず、真実を求める者は、ここにおいても真実を見出すことが出来るだろう。
207 鬼和尚 :2007/04/27(金) 10:19:20
わははははははははははははははははは
笑いも必要じゃよ。
肩の力を抜け。
リラックスするのじゃ。
焦りや恐れは必要ない。
己が最高に素晴らしいと知っていれば、全てに余裕が出る。
この社会でも人間関係でも、深刻になるようなことは一つも無い。
世界は笑いの内に変転していくだろう。
580 鬼和尚 :2007/05/21(月) 23:08:10
さてと、ここらでちょっと説法でもしておくか。
ここのスレタイのこれからとは一体どういう意味かとみんな疑問に思っていることじゃろう。
これからとは悟りの道を行く者の心を表しているのじゃ。
いつもこれから、今これから始める、それが悟りへの道じゃよ。
例えばおぬしがまだ修行に入っていないなら、今これから始めるのもよい。
既に悟りを得ている者でもこれから続けるのが良い。
悟りの道を行くのに遅いも早いもない。
失敗も転落もない。
いつもこれから、これから始め、これからやり直すのじゃ。
例えばおぬしがもうよぼよぼのじーさんで、何の修行もしたことがなく、もう自分の人生が失敗だと思っていたとしても、やけになることはない。
人間にとって最大にして最高の成功は悟りを得ることに他ならない。
今までの失敗は最大の成功を得る為にあった。
それを知り今、これから修行を始めるのじゃ。
集中力をつける数息観などの行をし、己の心を見つめる。
それが悟りへの道。
これから始めるのじゃ。
831 鬼和尚 :2007/07/03(火) 21:23:57
みんな頑張っておるな。
さて長々と議論していても仕方が無い。
わしは酒を飲んでいては悟りなどは得られないと言った。
道元も、白隠も同じ意見のようじゃ。
どちらを択ぶかは相談者次第じゃ。
初めに書いたように誰も強制は出来ず、誰も手助けは出来ない。
自ら択び、その結果を受けるしかないのじゃ。
悟りを開いた人のスレ
699 鬼和尚 :2007/07/30(月) 21:58:44
わっはっはっはっはっはっはっはっは。
皆の衆、暗いぞ。
笑うのじゃ、わっはっはっはっはっは。
邪な者が正しい者に勝てるかな?
偽りで人を騙そうと言う者が、正しい導きを妨げる事など出来ようか?
邪悪な教えで人を騙そうと言う者は、多く語れば語るほど、自らの愚かさを曝け出してしまうものじゃ。
そのような者達にあったなら、笑うのじゃ。
わっはっはっはっは。
彼らの愚かさを、矛盾を笑い飛ばしてやるのじゃ。
わっはっはっはっはっは。
そして邪な者達に説教をして、却って正道につかせてやるのじゃ。
885 鬼和尚 :2007/08/03(金) 21:11:31
さて、観の行の事を書くのじゃった。
その前にわしの教えは禅ではない。お釈迦様の教えを再興した仏教じゃ。
止の行によって潜在意識まで見られるようになった者は、観の行に入る。
前スレで紹介したように、小さな鐘の音などを自動で鳴るようにしておくと良い。
強い集中で忘我の状態にあるものが、外部の音などの刺激を受けると、そこに自我が起こって来るのを観ることが出来る。
自我はまさに刺激によって起こるものなのじゃ。
普通の者も朝に起きる時などに、心を詳細に観察すれば、それは判るじゃろう。
朝、未だ寝ている時には自我を忘れている。目が覚めて刺激を受けると、少しずつ己の名前やイメージなどを思い出してくる。自分が何の何という名で、どのようなイメージを持っているか、少しずつ判ってくる。
これと同じような過程を、作り出すのじゃ。
心を集中して忘我の状態にあるものが、鐘の音を耳にする。すると朝の寝起きの時と同じように、自我が起こって来る。
その過程を全て観るのが、観照じゃ。
観照は引き起こそうとしても出来ない。むしろ起こそうとすると、却って遠ざかるものじゃ。
ただ己を虚しくし、ひたすら鐘の音と共に起こって来る自我を、見つめるしかない。
これらの自我が起こって来る過程は、全て潜在意識で行われる。それ故に潜在意識まで観ることの出来る程の、止の行が必要なのじゃ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ【鬼和尚】
34 鬼和尚 :2007/08/07(火) 21:27:31
少し静かになったから、続きを書いておくかのう。
観の行によって見る自我には、個人によって大きな違いがあるのじゃ。
自我をどのように感得しているかは、人によってかなり違う。
例えばデカルトなどは、推論を重ねて疑う自分は疑えないと、思考の中の疑うという部分に己を見出したのじゃ。
もう一つの例は芥川龍之介が、エッセイの中で、「自分は家から離れると自分の境界があいまいになる」と言っておるところから、彼は環境への感覚、感情などによって自我を確立していたことが判るのじゃ。
思想家は思想によって、芸術家は感性によって、それぞれ独自の自我を確立しておることが良く判る。
同じように体を使うものは体が自分と認識し、感覚を大事にするものは、自分を感覚のもとであると、認識しておるやも知れぬ。
自我と言うものが個人によって大きく異なり、本人にさえ定かではない為に、自我を観察するのは真に困難なのじゃ。
師でさえ弟子の自我がどのようになっているか、指し示すことは出来ない。
自らを虚心に観察し、自ら見出す他はないのじゃ。
諸君も頑張って戴きたい。
70 鬼和尚 :2007/08/10(金) 20:53:28
更に続くのじゃ。
お釈迦様自身は禅の道を極めることで、悟りを得られた。
しかし、その道はあまりにも時間と、才能というものが必要となる道じゃった。
例えて言えば、鋼鉄の扉を力ずくで開けるようなものじゃ。
優れた行力を持っている者にしか、悟りは得られなかったのじゃ。
そのような力が無くとも、ドアのノブを回して開けるように、弱い行力でも悟りを得られるようにしたのが、縁起の法や空の法という、心の仕組みを理解し、心を解放する技術なのじゃ。
この方法が観照そのものではない。
しかし、これらの方法を使うことで、心の仕組みを冷静に分析し、客観的な視点を作り出して観照を起こりやすくさせる事が出来るのじゃ。
今日はここまでじゃ。
81 鬼和尚 :2007/08/12(日) 20:59:26
実際に縁起による観察の分析は、次のようになる。
鐘の音を聞いた者が、それを聞いて驚いて次のように考えたとする。
「おどろいた、あの音はなんだっけ。ああ、そうだ鐘の音がなるようにセットしておいたのだった。」
と、ここまでの心の動きを観察し、縁起によって分析すると、
先ず鐘の音によって外部の刺激との接触が、耳に起こった。触に縁り耳識が生じた。
そして、耳からの刺激に縁って、驚きという感情が起こった。耳識に縁って感受、感覚が生じた。
感情によって、疑問を解決する思考が起こった。感情に縁って考えが生じた。
こんな感じで、心の動きを次々に観察し、分析していくのじゃ。
これが縁起による心の観察の分析じゃ。
実際に行えばそれほど難しいものでもない。
馴れれば直ぐに出来るようになる。
そして、心の動きがまさに縁に因って、次々に生じては消えていくさまを観察することが出来るようになるじゃろう。
今日はここまでじゃ。
86 鬼和尚 :2007/08/13(月) 21:00:34
更に続くのじゃ。
観照が起こり、自我が無くなった者は、静寂や安らぎを感じるじゃろう。
それは自我によって、過度の不安や自己防衛を行っていた呪縛が無くなり、心身に不必要な情報を取り入れず、不安が解消されたからなのじゃ。
しかし、それだけでは未だ大悟徹底とは言えない。
未だ静寂や安らぎを認識するものが残っている。
その認識をも消していかねば大悟徹底ではない。
一旦自我が消えてしまえば、認識を消すのは簡単じゃ。
認識をも縁起によって存在し、空であると観察すれば認識も消え去る。
そして、言葉には出来ない境地が表れる。
そこまでくればもはや縁起や空などの、全ての技を捨て、ただ無為に座り続けるのじゃ。
無為にしてただ在るだけで、仏の全ての智恵が表れてくる。
今日はこの位かのう。
【鬼和尚】悟りを開いた人のスレ【辻説法】
43 鬼和尚 :2007/09/22(土) 22:04:19
お釈迦さまが説かれたダンマパダ(法句経)にはこうある。
64 愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。匙(サジ)が汁の味を知ることができないように。
65 聡明な人は瞬時のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。──舌が汁の味をただちに知るように。
真にその通りじゃ。
修行と勉強に励み、真理に近い者はわしが本物であると知り、自ら研鑚を深めようとしておる。
一方で何も知らぬ愚か者は、仏教用語も知らず、自ら愚かさを晒して笑い者となり、真理から遠ざかって、己を更に惨めな生涯に追い込もうとしておる。
昔から悟りを得た者に会う確率は、盲亀の浮木に喩えられるほど少ないものじゃ。
盲いた亀が千年に一度、深海から海上に出る。
その時、丁度穴の開いた浮木が漂っており、そこに亀の首がすっぽり入ってしまうような、何万年に一度の確率しか、真の悟りを得ているものには会えないのじゃ。
お釈迦さまが教えを説き、先師達が東洋に広く仏教を広めたおかげで、この国にも幾人かの悟りを得た者が出たが、今ここに書きこむ者が会うのはやはり難しかろう。
幸いにしてわしが書き込んでおるのじゃから、おぬしら賢い者はこの滅多に無いチャンスを生かし、舌が汁の味を知るように、おぬしらも真理の味を自ら味わうが良かろう。
匙のように汁の味を知ることの出来ない者は、放っておくが良かろう。
彼らにはそもそも愚か者じゃから、真理を知る事が出来ないのじゃ。わしも一度は忠告するが後は華麗にスルーじゃ。
賢い者はこの機会に勉強し、善い事を行い、現世では幸福になり、来世では極楽に生まれるように頑張るがいい。
そのような者は汁の味を知ったことになろう。
更に賢い者は勉強と善い事をしながら修行に入り、不動心を身に付けて現世では人を導き、来世では悟りを得ると善かろう。
そのような者は汁を味わい、飲んだことになろう。
最も賢い者は現世で勉強と善い事をしながら修行に励み、自ら最上の悟りを得て、仏陀となる。そして多くの人を教え、ニルヴァーナへと赴くじゃろう。
そこにはもはや死は無く、永遠の喜びに満ちているじゃろう。
そのような者こそ充分に汁の味を味わい飲み干した者と呼べるじゃろう。
みんな頑張るのじゃ。
104 鬼和尚 :2007/09/24(月) 22:44:39
さて、今回は法華経について書いて置かねばならんようじゃな。
最初に書かねばならんのは、法華経だけを読んでいては悟りは得られず、法華経だけを読んで悟りを得た者はおらんということじゃ。
法華経を読むと、功徳品にはこの経を読むと、直ぐに悟りを得るとか、超能力がつくとか、いろいろと書いておるが、それらは皆方便であり、経を広めるための嘘なのじゃ。
この功徳品に騙されて日蓮や多くの僧俗が法華経だけを読んでいるが、彼らの一人として悟りを得た者も、おかしな力がついた者もおらん。
寧ろ般若経などの経典を読んだ方が、悟りを得る技術を身につけることが出来よう。
法華経の真意は大乗仏教全体を、総括するものとして、三乗の区別が方便であり、ただ一つの悟りの境地があることを記したことにある。
それ自体は良いが、修行の役には立たんのじゃ。
例えば家の屋根だけを作っても、中には住めないように、又、映画などで最後のシーンだけを見ても意味が判らないように、大乗仏教全体を理解し、体得しなければ法華経を読んでも何の意味も無く、役には立たんのじゃ。
残念ながら功徳品に騙されて、多くの優秀な僧や大衆が、無意味な修行に人生を費やしてしまった。
今、このスレを読む者は、方便に騙されてそのような人生を送ってはいかん。
経を幾ら読んでも、ただ読み方が上手くなるだけじゃ。
止観の行、集中と観察こそが悟りへの道であり、他に道はない。
富貴を得たいなら、善を行う以外には無い。
みんな方便に騙されず頑張るのじゃ。
121 鬼和尚 :2007/09/25(火) 20:49:34
今回は前スレでは縁起の法による自我の解体を説いたが、あまりにも難しいと苦情が出たから、もっと単純な観にしよう。
最初は論理的な面から肉体への同化を無くすのじゃ。
先ず己の手について、「この手はものを扱う道具であり、自己ではなく、消え去っていく性質のものである」と観るのじゃ。
同じように足は「この足は歩くための道具であり、自己ではなく、消え去っていく性質のものである」と観る。
同じように胸、背中、お腹、頭に至るまで全て「自己ではなく、道具であり、消え去っていくものである」と、観るのじゃ。
そして、己の体をイメージして、手が自己ではないと観た時には手のイメージから手を消し、足が自己ではないと観た時には、足が消えたイメージを見るのじゃ。
体が消えた後には思考や感情、分別知、認識能力なども次々に「これは自己ではなく、道具であり、消え去っていくものである」と観て、それらが消えると念じるのじゃ。
これは単純な方法だが行力、集中力があればこれだけでも自我は消えるじゃろう。
みんな頑張るのじゃ。
563 鬼和尚 :2007/10/07(日) 21:31:55
いろいろあって説法をしていなかったのう。久しぶりに説法じゃ。
わしはまだ若い頃から死というものを恐れ、真実を求めて修行してきた。
真実を求めて、多くの経を読み、己の心を探った。
真実ではないと思えば、伝統的なものとされる教えも捨て去り、真実であると判れば新しい教えも受け入れた。
真実だけを求めていた。
真実だけを。
真実だけが、人を死から逃れさせ、不死の境地に導く事が出来ると信じておったからじゃ。
幸いにしてわしは悟りを得て、真実を知る事が出来た。
そして、真実を追求していけば、必ず大いなる果報であるニルヴァーナに行くことが出来ると、自らの体験で知ったのじゃ。
例えば木の研究をして居るものが、図鑑や書物などで木についての知識を集め、外に行って本物の木を見たら、知識にあるものと違っていたとしよう。
その者が「これは木ではない、私の知識にある木とは違うから、これはニセモノだ」というなら、その者は無駄に知識を集め、全ての知識は無意味だったと言える。
真実は知識の中にあるとは限らないものじゃ。
真実を告げる目覚めた者に会いながら、己の知識に囚われて見ようとしないのなら、全ての知識とそれを得るための努力は、却って目隠しの役をしているに過ぎないのじゃ。
そのような者達は、目の前に在るチャンスに気付かず、知識を役立たせず、悩んだり、苦しんだりしながら生を終えるじゃろう。
もし、人が多くの知識を得ても、相変わらず悩んでいたり、苦しんでいたりするならば、それは未だ真実に至っていないということなのじゃ。
あくまでも真実を追求し、真実を求めて、目覚めた者の声を聞く者は、やがて悟りを得て、真実を知る事になるじゃろう。
そこに至ればもはや悩みも、苦しみも無くなる。
一切が永遠の楽しみと喜びの表れであると知るじゃろう。
そして、全てであり、平等である永遠の意識が、真の己であったと判る。
真実を追求し続ける者には、間違い無く大いなる果報があるのじゃ。
真実を追求し続ける者には、勝利が約束されている。
真実を追求し続ける者には、永遠の喜びが待っている。
みんなそのような境地に至るまで、真実を追求し続けるのじゃ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ 4 【鬼和尚】
408 鬼和尚 :2007/12/06(木) 21:52:14
何だか久しぶりに説法がしたくなったのう。
みんな一生懸命修行や勉強に頑張っておるようじゃのう。えらいものじゃ。
この世界は決して永遠の安楽な世界ではない故に、善根を積み、修行し、勉強を重ねる必要があるのじゃ。
この国は平和で豊かであるが、よその国では今も多くの者が争い、苦しんでおる。この国でも老、病、死などの苦しみは免れない。
しかし、この世界は正しい法を知る者にとっては、善根を積み、悟りを得るためのチャンスがある世界じゃ。
動物や昆虫などと違い、人間は己の意志で己の行動を決める事が出来る。
そのような人間に生まれ、豊かな国に生まれる事は、とても大きなチャンスなのじゃ。
賢い者はここで多くの良い事をして、更に良い世界に生まれる事を願うがいい。
更に永遠の安楽を願う者は、修行をして悟りを得るがいい。
わしはここで多くの賢い者を知った。
信じられぬ事だが、わしが確かに悟りを得ていると知った者もいる。普通の者には判らぬ筈だが、余程勉強したのじゃろう。そのような者は真の賢者と言えよう。
お釈迦様の教え通りに修行している者もいる。彼らはやがて完全なる悟りを得る事じゃろう。
悟りを得ることを望まぬでも、わしを助けようとする者もいる。そのような者は大きな善を成し遂げた。彼らをわしの子と呼ぼう。
今、ここにおる多くの賢者達よ。
おぬしらの存在が、わしの行いが正しかったと教えてくれる。
本当はお釈迦様は準備の出来ていない者に、教えを説くな、と言われている。無知によって教えを汚す者は大きな罪を犯し、苦を受ける故に。
だがわしはおぬしらにもチャンスを与えたかった。
どのような所にも真実を知り、悟りを求める者はいる筈だと思っていたのじゃ。
今、おぬし達がそれを証明してくれた。
わしはここにいる賢者達を祝福する。千回の千倍、祝福する。
賢者達に常に福楽があるように。
行く道は常に平らかで安楽であるように。
そして、いつかこの文を読んだ全ての者が、完全なる悟りを得て、永遠の至福に辿り着くように。
【仏教】悟りを開いた人のスレ 7 【鬼和尚】
753 鬼和尚 :2007/12/24(月) 21:07:35
さて、みんなは瞑想などを続けておるかな?
中にはもう飽きてしまったという、三日坊主の者も、居るかも知れんのう。
しかし、三日坊主でもいいのじゃ。
三日坊主でも、少し休んで又続けるつもりでおれば、それで良いのじゃ。
いけないのは三日坊主で終わったからと、自分を責めて自己嫌悪に陥り、そのままずうっと止めてしまう事じゃ。
瞑想は自分を責める為の道具ではない。
己を良くしようと、瞑想を始める事が既にえらいのじゃ。
己を高からしめようとする、その決意が貴いのじゃ。
三日坊主で止めてしまった者も、未だ遅くは無い。
少し休んだら、又始めるのが良かろう。
三日坊主を二回もやれば、もう1週間も続けておるじゃろう。
三日坊主でも続けてさえおれば、休み休みやっても集中力はついてくるものじゃ。
己を追及する道に諦めは無いのじゃ。
続けてさえおれば、次第に坐るのが楽になってくるじゃろう。
朝起きた時や、夜の寝る前などに坐るなどと、生活に組み込んでしまえば、今度は瞑想をしないと、何だか物足りなくなってくるじゃろう。
そうなればもう努力もしないで、坐れるようになるじゃろう。
毎日の小さな積み重ねが、大きな人間を作っていくものじゃ。
例えば山登りで一足一足山道を登っていった者が、山頂に辿り着いて遥か下の者を見下ろすように、毎日の瞑想が大きな視野をもたらすのじゃ。
いつかみんなも小さな事で悩んでいた自分を思いだし、以前の自分は何故あんなに小さな事で悩んでいたのかと、以前の自分を遥かに見下ろすじゃろう。
その時みんなは周りの者が遥かに仰ぎ見る、大きな人間になっている事じゃろう。
【仏教】悟りを開いた人のスレ42【天空寺】
506 鬼和尚 :2008/09/12(金) 21:34:34
さて、知識と分別について書いておくのじゃ。
分別とは字の如く、分ける、別にすると言う心の作用じゃ。
これとあれは違う、あれとこれは違うというようにのう。
このような分別は、知識と連動し、密接に繋がりながら作動しておる。
例えば車の両方のタイヤみたいなものじゃ。
片方が無ければ、車としては不完全なものであり、誰も買わない。
そして、車を完全に解体するには、両方ともとってしまわなければならん。
片方が残っていては、完全に解体したとは言えないじゃろう。
知識と分別も同様に、両方がそろって認識の作用を行っているものじゃ。
片方だけで成立するものではない。
そして、完全なる悟りに達するには、両方とも取ってしまわなければならない。
言葉を知らない子供に、母親が言葉を教える時、赤いものを見せれば、それが赤と言うものだと、知識を与えるじゃろう。
すると次に赤いものを見た子供は、それが緑でも黄色でもなく、赤いものだと分別するじゃろう。
そして更に、赤いものが、服や家具や周りのものにあるという知識を得るじゃろう。
このように知識があって、分別があり、分別によって知識がある。
両者は密接にして不可分であり、二つながら一つの認識作用を成立させているものなのじゃ。
それ故に認識をも転換する真の悟りを求める者なら、両方とも捨てなければならないのじゃ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ43【天空寺】
641 鬼和尚 :2008/09/24(水) 21:00:29
さて、そろそろみんなも観察と集中に慣れてきた事じゃろう。
そのような者に、注意をしておくのじゃ。
観察と集中の時間は半分ずつでも良いが、これも自分の好みに合わせて長短を決めると良い。
集中が気持ちいいとか、観察が性に合っているという者など、その性格に従って、止観の長短を決め、日々の修行を楽しくしていくのが、長く続けるコツと言えよう。
そして、観察は集中の行の後に行った方が良い。
集中の行の後ならば、集中力が強くなっており、観察力も大きくなっているからじゃ。
出来れば集中して無念夢想になった時に、そのまま心が動かないように注意しながら、手などを観察すると、驚くべきものがみえるじゃろう。
自分の手がまさに自分の手ではなく、かけ離れた存在であるような、真実の姿が垣間見える。
正に止まった心が、正しい観察をしてくれるのじゃ。
そのような時こそ、観察する眼になりきる事も出来るのじゃ。
更に観察を表現するには、心のままにという事が重要じゃ。
わしがあまり観察の例などを書かないのは、その例を記憶してしまい、記憶した通りでなければならないと、思ってしまうからじゃ。
観察は記憶とは違うものじゃ。
今、ここにあるものを、己の目で見て、そのままに感じる事だけが大事なのじゃ。
最初のうちは、手を観察して言葉にするかもしれんが、慣れれば言葉ではなく、感じる事をそのまま観続けるという事が、言葉にするより大事じゃ。
言葉にならない感情でも、集中し、観察し続ければ、観えて来るものじゃ。
人間の性質として、どうしても記憶したものを再生する事で、今、ここにあるものを見逃すと言う事がある。
わしがあまり観察例などを書けば、人はそれを記憶し、再生するだけになってしまう。
それ故にわしはあまり例を書かないのじゃ。
観察したのならば、ただ心から上がってくる感じを、そのままに表すのが、正しい観察と言える。
観察に大事なのは、やはり記憶というものに纏わされない事じゃ。
観察していたのに、いつの間にか別の事を連想していた、と言うのは良くある事じゃ。
そのような記憶と観察の区別を、はっきり知って集中し、連想に陥らないようにしなければならん。
それが大事な事と言えよう。
【仏教】悟りを開いた人のスレ46【天空寺】
47 鬼和尚 :2008/11/09(日) 20:54:05
人が多くの物を欲しがるのは、それが必要であるというより、むしろ不安や恐怖から逃げる為であるのが多いものじゃ。
生きていく為に、そして死を迎え入れる為に必要な物は、それほど多くはない。
不安や恐怖から眼を逸らす為に、多くのものを欲しがるのじゃ。
世の中には10億円もする宝石などがある。
例え100億円も持っていても、10個も買えば無くなる。
そして、10個手に入れれば11個目が欲しくなるじゃろう。
欲に付き合っていてはきりがないのじゃ。
それよりも少ない物で満足するなら、心が安まるのじゃから、10億の宝石を10個手に入れるよりも良いのじゃ。
心が安まったならば、物によって左右されない、本当の幸福があると判るじゃろう。
556 鬼和尚 :2008/12/02(火) 21:15:11
しばらく修行していて、慣れてくると習慣でやっているだけになってしまう者も居るじゃろう。
集中力が無くなって、坐っている時にも雑念に流されてしまう。
そのような時には、初心を思い出し、改めて集中をし直してみるのが良かろう。
呼吸の一つ一つにしっかり集中し、雑念を眺めるようにする。
そのようにすれば、集中力も戻ってくるじゃろう。
迷った時は、基本に戻るのが良いのじゃ。
基本に戻ったからと言って、修行が後退した訳ではない。
最初の時よりも、確実に集中力が戻る速度は速くなっていると、観察出来るじゃろう。
一度、体で覚えた事は、少し休んでも簡単に忘れるものではない。
例えば自転車などに乗るのを一度覚えれば、しばらく休んでも直ぐに乗りこなせるようなものじゃ。
肉体は確実に修行を覚え、素早く取り戻せるものじゃ。
そのようにして集中力は上下しながら、確実に身についていくものじゃ。
いずれもっと力を抜いて、無努力のまま深い無念無想の境地にまで、至れるようになるじゃろう。
【仏教】悟りを開いた人のスレ48【天空寺】
74 鬼和尚 :2009/01/14(水) 21:23:21
今回は集中と観察の二つを何故やらなければならないかについて、話すのじゃ。
例えば光の全く入らない真っ暗な部屋があるとしよう。
そこに何かを探しに来た者が、ろうそくしか持っていなかったら、探すのにかなり苦労する事じゃろう。
ろうそくは弱々しい光しか出ない故に、見える物は少なく、ちょっとした事で火は消えてしまったりする。
別の者はちょうちんやランプなどで部屋を探したりすると、ろうそくよりは便利で火が消えたりしないが、やはりまだ光は弱いものじゃ。
更に別の者が懐中電灯などを使ったとしたら、光も強く、探すのにかなり便利になることじゃろう。
もし部屋の電気を点けられる者がいたなら、部屋の全てが細部まで見られるじゃろう。
真っ暗な部屋とは、人の心の中の事じゃ。
人は生きる上で恐怖や不安、劣等感などから眼をそむけ、心の中をみないようにして来た。
それ故にまっくらな部屋の中のように、見えなくなっているのじゃ。
75 鬼和尚 :2009/01/14(水) 21:23:53
そこをあらためて観ようとするならば、光に相当する集中力が必要になる。
まだ初心者であまり集中力の無い者の光は、ろうそくのように弱々しいものじゃ。
心の中がちょっと観えたと思ったら、たちまち集中力が消えてしまう。
そのような光ではなかなか心の中は観えないものじゃ。
少し鍛えればランプのように直ぐに光がなくなる事は無いが、まだ弱い。
更に鍛えた集中力は懐中電灯のように、必要な物を探すには十分な強さと、明るさを持っているじゃろう。
そして、強い集中力で無念夢想の段階にまで、達したなら部屋の明かりを点けたかのように、心の中を細部まで観られるようになるものじゃ。
集中力が強ければ強いほど、心の中を探すのは簡単になる。
最初は弱い集中力でも、毎日修行を続ければ強い光になるのじゃ。
それ故に集中力を鍛えてから、観察をするのじゃ。
一度、光が当てられたなら、部屋にあると思っていたたくさんの荷物が、闇の中に浮かんだ影に過ぎず、実際は無かったのだと知れるじゃろう。
恐怖も不安も孤独も劣等感も全ては、闇の中の影だったのじゃ。
怯え逃げ回っているうちは、影は実在の物と同じ力と存在があるように見える。
しかし、一度光が当てられれば、それは心の中だけにある幻であったと判る。
闇の中の影に形があると思い、それが己のものであり、己の存在をも投射していたと知れるのじゃ。
遮る物の無い強い光の中では部屋さえも、無かったと判る。
外と内を隔てる境は無く、全てが開かれていた事を知るじゃろう。
【仏教】悟りを開いた人のスレ80【天空寺】
892 鬼和尚 :2010/05/25(火) 20:25:48
分裂してもよい。
自我を強化してもよい。
分析し、分裂し、自我を強化しても続ければよいのじゃ。
観察とは分析だからいかんとか、分裂してはいかんとか、自我を強化するからいかんという事はない。
観察を続けるならば、分析するものも、分裂しているものも、強化された自我さえも観える。
本当は真摯に観察すれば自我が強化されると言うことはありえんがのう。
観察とはそれほどに強い力をもっておる。
ほんの少し肉体を観察するだけでも人は肉体からの厭離を味わうじゃろう。
行えば必ず効果が現れるのが、観察というものじゃ。
分裂とか分析とか自我の強化とか、気にする必要はないのじゃ。
そのように強い力を持っている故に、お釈迦様も止観を兼ね合わせて修めるように教えられたのじゃ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ83【天空寺】
348 鬼和尚 :2010/07/16(金) 20:35:25
お釈迦様の真の言葉を知るが良かろう。
259 多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人──かれこそ道を実践している人である。
11 まことでないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではなしと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(マコト)に達しない。
530 鬼和尚 :2010/07/20(火) 20:55:33
えるかんたーれもお釈迦様の生まれ変わりというが、真のお釈迦様の教えを知らず、今までの仏教の誤りをそのまま受け入れておるのう。
本人なら判るはずじゃが、おかしな事じゃ。
知識として十二因縁を知ったり、四聖諦を知っても何も起きはしない。
それはお釈迦様は実践すべき法を説いたと語る毒矢の例えと矛盾するものじゃ。
えるかんたーれもここに来れば真のお釈迦様の教えを知る事が出来るじゃろうにのう。
哀れなことじゃ。
563 鬼和尚 :2010/07/21(水) 20:45:14
ダンマパダ(法句経)にはこのように書いてある。
351 さとりの究極に達し、恐れる事無く、無欲で、わずらいのない人は、生存の矢を断ち切った。
これが最後の体である。
もしお釈迦様が本当に生まれ変わったのなら、お釈迦様は嘘をついた事になるのう。
果たしてお釈迦様は嘘をついたのじゃろうか?
それとも生まれ変わったといっている者が嘘をついているのじゃろうか?
権力を求めて選挙に出たり、信者から金を集めたりしている者が無欲といえるじゃろうか?
小学生でも考えればわかるような事も、洗脳されていると判らなくなるようじゃのう。
616 鬼和尚 :2010/07/22(木) 20:23:09
真の悟りにはもはや幸福すらも必要ではないのじゃ。
すでに個人の意識を超越しているから、無欲であり、金も権力も名声も必要ではなくなるのじゃ。
求めずして全ては一体としてそこにすでに在り、自ら為すべき何者も無い。
天も地もあらゆるものが平等であり、空間さえも同じ意識として在るとわかる。
ただ一銭の金がなくとも喜びと共にあり、どのような権力を持たなくとも全てが楽しみとなる。
高価な黄金や宝石よりも、ただ一本の草に同じ意識の美しさを見る事ができる。
どのような事が起きようと常に安らぎがあり、寂静の境地に永遠に止まっている。
もはや必要もないが平等性智、大円鏡智、妙観察智などの智恵が生じ、人々を慈悲の故に、一円の金も求めることなく導くのじゃ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ100【天空寺】
750 鬼和尚 :2011/08/22(月) 20:08:48.64
またえらくのびているのう。
誰がどこに書いたか忘れたが、多くの者が悟りを得られないのは法がおかしいのではないかとかいておったのう。
確かにおかしいのじゃ。
お釈迦様の教えは止観を修行し、1200人もの阿羅漢がおったという。
止観の二つを修行してこそ速やかに悟りを得られるのじゃ。
禅のように止だけとか、南方のように観だけやるのは困難なものじゃ。
そして修行する人間の方も、例えば慧可のように自分の腕を切ってまで悟りを求める求道心がいるのじゃ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ134【天空寺】
960 鬼和尚 :2012/12/25(火) 20:56:21.63
通常の人間がなにものかを認識したという時、それは予め記憶の中にあるものを、外にあるものと照らし合わせて、合っていると思えばそれを認識したとなるじゃろう。
例えばりんごを見れば、赤い色と丸い形から頭の中の記憶と照らし合わせ、それはりんごである、りんごを認識したと成る。
それが記憶に依存した認識なのじゃ。
そのように認識作用が記憶に依存していると、過去の記憶の中に生き、今ここには生きていない事になるのじゃ。
過去に苦しかった事があれば、それを何度も何度も記憶から縁によって繰り返し苦が起こり、自ら止める事も出来ないのじゃ。
それが記憶に依存した認識による苦なのじゃ。
それを滅すれば記憶に依存しない、本来の認識が起こるのじゃ。
それが悟りと呼ばれる現象なのじゃ。
認識が記憶に依存しなければ、世界を記憶によって解釈する事も無くありのままに見えるのじゃ。
さらに記憶から起こる苦も無く、一切の苦を離れられるのじゃ。
それらが目覚めた者の智恵であり、一切の苦から離れる事なのじゃ。
それが既に唯識論によって語られている事なのじゃ。
983 鬼和尚 :2012/12/26(水) 21:16:19.75
最近は唯脳主義が盛んになっておるが、実際は全てが脳ではないのじゃ。
脳が介在しない脊髄反射というのもあるのじゃ。
脳は体の一部として情報を処理する役目を担っているだけなのじゃ。
意識は脳だけでなく、体全体にもあるものじゃ。
心を思考や感情などの他に意識も含めれば、脳だけでは心の働きを全て網羅できないのじゃ。
それが一番よくわかり易いのは、瞑想をしている時じゃろう。
瞑想をして集中状態になった時、意識を下の方に下げて行くのじゃ。
頭にある意識を下げていけば、脊椎から感じる意識があるとわかるじゃろう。
更に下げれば腹や足にも意識はあり、そこから感じる事も出来るのじゃ。
そして体に囚われず、肉体の他にも意識があると感じる事も出来るかもしれん。
それは集中していれば本来は誰にでも出来る事なのじゃ。
肉体だけが意識であると思っていれば、それが出来ても幻覚と認識するだけなのじゃ。
脳は本来心の道具であり、言葉やイメージを扱うための物に過ぎないのじゃ。
自ら観察し、何でも試してみればそれもわかるのじゃ。
仏教】悟りを開いた人のスレ135【天空寺
194 鬼和尚 :2012/12/30(日) 20:44:54.62
世間では多くの知識を持っている者が賢いとされているが、実際にはどれほど多くの知識を持っていても愚かな者が居るものじゃ。
なぜならば自らの知識だけが正しいと思い、それに反するものは間違いだと思うからじゃ。
実際には世には間違った知識が多くあり、それを信じ込まされて、間違いを正せなくなっているのじゃ。
知識や情報は常に正しいとは限らないのじゃ。
そうであるから真実を求める者は、常に自ら試して何が真実なのか、確かめて見なければならないのじゃ。
愚かな者は間違った情報を真実と思い込み、それを訂正できないのじゃ。
賢い者は知識を得てもそれを直ぐに信じたりはせず、自ら試してみるものじゃ。
そのようにして何が正しくて、何が間違っているのかがわかるのじゃ。
確かめないばかりに長い間、意味も無く、効果も無い事を真実と思い込まされている者が世間には多いのじゃ。
お釈迦様は2000年前に苦を滅する法を説いた。
その法を修行すれば、苦は滅すると言う。
しかし、世間で仏教と言われるものはその苦を滅する法を忘れ、一つの苦を滅する事も出来ないのに、経を唱えたり木や金で出来た像を拝んだりしておる。
それが仏教として何となくありがたいものと思い込まされているだけなのじゃ。
そのような何の効果も無い法が1000年も仏教として伝わってきたのじゃ。
真のお釈迦様の教えは、そのようなものではなく、止観の法と共に用いれば確実に苦を滅する事が出来るものなのじゃ。
賢い者は自ら試し、真実を知り、安楽の境地に至るが良いのじゃ。
238 鬼和尚 :2012/12/31(月) 19:59:43.01
人によっては心を観察するという事が、とても難しい事もあるじゃろう。
自分の心を観れば、今まで見ようとしなかった悲しみや苦しみと向き合わなければならないからのう。
悲しい事や苦しい事を忘れようとして、さまざまな世間的な欲に溺れるのじゃ。
そのような者もいつかは自分の心と向き合わなければならないものじゃ。
忘れようとしても忘れられるものではないからのう。
そのような者は大抵は死ぬ時になって、後悔するものじゃ。
本当は欲しくも無いものを、悲しみや苦を忘れるために求めてきたのであるから、死ぬ時になって本当はそんなものは欲しくなかったと気づくのじゃ。
一時的に悲しみや苦を忘れさせてくれるから、それらを欲しがり、長い間求めつづけてきたと、死ぬ時になってわかったりするのじゃ。
欲望というものは大抵がそのようなものじゃ。
孤独や不安や悲しみやさまざまな苦を、一時的に忘れさせてくれるから、その対象を欲しがり、求めつづけているだけなのじゃ。
それを心の中に見て、認めてしまえば今までの人生で意味の無い事をしていて、費やした時間も無意味であったと認めるしかないから、恐れて見ないようにしているのじゃ。
それを一度見てしまえば、人格さえも変化してしまうじゃろう。
長年の習慣によって形作られた性格や人格は、変えてしまえば今の自分が消えるように思う。
そのような自我の習俗も心を見る事を妨げておるのじゃ。
しかし、心の中にある孤独や不安や悲しみや苦が、はっきり観られたならば、それを越える事も出来るのじゃ。
ただ一つの苦や囚われが消えるだけでも全ての世界が変わるのじゃ。
ただつらく苦しいだけのトンネルの中を歩くような人生が、安らぎと幸福に満ちたものに変わる事もあるじゃろう。
それ故に多くの目覚めた者たちは、ただひたすらに自らの心を観る事を勧めるのじゃ。
688 鬼和尚 :2013/01/12(土) 21:29:33.44
本来、お釈迦様の教えとは止観の両方で成り立っているものじゃ。
集中して心を止めるのが止であり、止まった心を観察する観なのじゃ。
しかし、今仏教と言われるものは、止である集中ばかり教えているのじゃ。
禅も密教も阿弥陀信仰も集中ばかりしているという点では同じなのじゃ。
集中はわかりやすくやりやすいから、そのようになってしまったのじゃ。
呼吸や神仏の姿などに集中するというのは、対象があり、行う事もわかっている故にやりやすい。
しかし、観察はわかり難くやり難いものじゃ。
記憶に依存した認識を持つ人間は、一定の反復作業は理解し易く、やり易いのじゃ。
観察は今ここにしかないものを、ただ一度だけ観るという作業であるから、反復は出来ず、理解もしにくいのじゃ。
認識作用が一度、以前と同じものと認識してしまったら、観察はそれで止まり、連想記憶に移る事も観察をやり難くしておる。
観察を教えるとしながら、実際には反復作業を教えている者も居るのじゃ。
真の観察とは、今ここにしかないものを、全ての注意力を集めて、観なければならないのじゃ。
たとえ昨日と同じように見えても全ては移り変わり、二度と同じにはならないものじゃ。
それを生まれて初めて観るかのように、観察するのじゃ。
そうすれば全ての厭離をもたらす気づきが訪れるじゃろう。
【仏教】悟りを開いた人のスレ136【天空時】
101 鬼和尚 :2013/01/18(金) 21:00:24.30
全ての真の目覚めた者達が教えるのは、実はただ一つの事だけなのじゃ。
ただ一つの教えとは、自分の心を観ると言う事なのじゃ。
このただ一つの教えを、さまざまなやり方で説いているだけなのじゃ。
瞑想は心を観るためにあるのじゃ。
神仏を観想するのも心を観るためにあるのじゃ。
縁起を観るのも自らの心の中に観るのじゃ。
空も心の中に観想して効果を発揮するのじゃ。
真我が無である事も心の中に観るものじゃ。
全ては自らの心を観るための技であり、法なのじゃ。
自らの心を観ることこそ目覚めた者たちの教えの真の意味なのじゃ。
自らの心を観る事によって人は苦を滅し、悟りを得られるのじゃ。
それ以外に方法は無いのじゃ。
心を観る事こそ、一切の目覚めた者たちの教えの中の究極の教えと言えるのじゃ。
186 鬼和尚 :2013/01/19(土) 21:43:36.46
忙しい者でも、常に心掛けて自分とは何かという事を追求していくのじゃ。
日常でもいつも自分とは何かを追及していれば、悟りが訪れるかも知れんのじゃ。
人は大体自分のイメージと、自分を感じるものとの間に違いがあったりするものじゃ。
論理的な自己イメージを持つ人間が、実は感情的な行動を止められなかったりするのも、その表れなのじゃ。
親や世間から与えられた自己イメージによって自分を縛ると、自らの実感を失ったりしてしまうのじゃ。
日頃から自分とはどのような者であり、何なのかと追求していけば、答えも出やすくなるのじゃ。
常に答えを求めていれば、認識していない時でも智恵は働き、気づきとして見えてくるのじゃ。
それによって失っていた実感を取り戻し、更には自我が己ではない事も気づける事もあるじゃろう。
世界は心が作り出し、己という観念もまた心が作り出したものじゃ。
世界があり、その中の己があるという観念に縛られれば、その消失である死が苦になるものじゃ。
忙しくとも常日頃から己とは何かという事を追求して行けば、幻影である自我を滅し、偽りの世界もまた消えるじゃろう。
その時こそ何ものにも縛られぬ真の自由が在り得るのじゃ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ137【天空時】
249 鬼和尚 :2013/02/01(金) 21:01:35.13
人が心の中にある苦の原因となる不安や恐怖を観察しようとする時、どうしてもそれから逃げようとしたり、隠そうとする働きが起こるものじゃ。
長年続けてきて習慣となったそのような逃避や隠蔽は、他の心の働きと同じく、思考より素早く起こるものじゃ。
それが起こったから止めようとしても、止められないのじゃ。
そのような時はそのような逃避や隠蔽の働きも一緒に観察するのじゃ。
不安や恐怖を想起して、逃避や隠蔽が起これば、不安や恐怖から逃避や隠蔽が起こったと観察するのじゃ。
それもまた正しい観察と言えるのじゃ。
逃避や隠蔽もまた苦の原因である不安や恐怖から起こる、反応の一つであるから、それを観察するのも正しい観察なのじゃ。
不安や恐怖から逃避や隠蔽が起こるのも、当然の反応なのじゃ。
不安や恐怖から逃避や隠蔽が起こったとしても、それによって観察が上手くいかないと嘆いたりする必要は無いのじゃ。
逃避や隠蔽があったとしても、それは卑怯でも弱いからでもなく、心の反応であるだけなのじゃ。
ただ他の観察をするように、ひたすらにそれも否定も肯定もせずに、観察し続けるが良いのじゃ。
そうすれば今まで上手く行かなかった苦の原因の観察も上手くいくかもしれん。
不安や恐怖があれば、そこにまた逃避や隠蔽があるであろうと常に心して観察すると良いのじゃ。
688 鬼和尚 :2013/02/05(火) 21:29:56.22
例えば道を歩いていて、道の先にでかい岩があったならば、誰でも避けようとするじゃろう。
岩があるのを知りながら、そのまま歩いて行けばぶつかるじゃろう。
大抵の者は未来に起こる事に気をつけ、災難は避けようとするものじゃ。
しかし、多くの者は死と言う未来に起こる事があるのを知りながら、金や権力や名声に執着しておる。
そのような者は年をとってもうすぐ死ぬという時にまで、それらに執着しているものじゃ。
そのような者は根本的に間違った人生を歩んでしまったともいえるのじゃ。
直ぐ未来に死が来るのを知りながら、執着からも離れられないのは、大きな苦を招くものじゃ。
死ぬ時になって執着するものと離れるしかないと知り、死の苦と執着するものと離れる苦が重なって、すでに地獄といえるじゃろう。
そのような無知な者は泣きながら死に行くしかないのじゃ。
人としての智慧や知識があれば、それだけでも死が来る事を予測できる筈であるがのう。
賢い者は死が確実に訪れる事を予測し、死を超える道があると知って修行するが良いのじゃ。
仏教】悟りを開いた人のスレ138【天空寺
485 鬼和尚 :2013/02/11(月) 20:52:08.59
人がものを見る時、見たものに対して記憶が働き、言葉とイメージが浮かんでりんごならりんごと認識されるじゃろう。
それが見る事であり、見て認識すると言われる事じゃ。
そのような認識の働きで、そこにりんごがあると知れば、そこで認識は止まるじゃろう。
観察はそこから始まるのじゃ。
りんごという言葉とイメージを一旦止めて、すでに認識し終えたものを改めて詳細に観察するのじゃ。
そうすれば更にそこから新しい事がわかるじゃろう。
虫に食われているとか、皮が汚れているから古いとか、観察すればいろいろとわかるのじゃ。
そのように既に認識し終えた所から観察は始まり、未知の事柄に気づく事が出来るのじゃ。
心の中も同じように、喜怒哀楽が在ればそれを認識し、更に観察を行うのじゃ。
思考や観念なども同じように認識してから、更に観察するのじゃ。
そうすれば悲しみは自らの心に未だ執着が在ったからであるとか、いろいろと気づきが起こり、苦も厭離されるのじゃ。
そのように言葉とイメージによって認識があり、更にそこから観察をする事が、真の観察なのじゃ。
諸々の苦や障害や自我からの厭離は、そのような観察によって成されるのじゃ。
【仏教】悟りを開いた人wwwのスレ139【天空寺】
474 鬼和尚 :2013/02/21(木) 21:03:15.85
姿勢を正しくして座っていると、自然に気が上昇し、所謂クンダリニーの上昇と言われる現象が起きる事もあるのじゃ。
白隠なども頭に気が上り、眠れなくなったりしたのじゃ。
そのような時は頭に上った気を下に下ろすと良いのじゃ。
気が頭に上って眠れない時等は、自分が滝を浴びているというイメージをして、新鮮な水が体の中まで通って下に流れていくと思えば気が下がるのじゃ。
白隠が行ったように薬が体の中を下りていくとイメージするのも良いのじゃ。
慣れてくればただ単に気が下に下りていくとイメージするだけでも出来るようになるのじゃ。
或いは胸式呼吸なども役に立つのじゃ。
息を吸った時に胸を膨らませ腹をへこませるのじゃ。
そして息を吐いて胸を小さくして、腹を膨らませながら気が下に下りていくとイメージするのじゃ。
胸式呼吸は実際に横隔膜が動き、物理的に血液等を下に下ろす効果もあり、気を下ろすのに役に立つのじゃ。
日中気が余っている時は眉間や胸の中央に集中してみると良いのじゃ。
眉間に集中すると気がコントロールし易くなると、ヨーガでも言っておるのじゃ。
いろいろと試してみると良いのじゃ。
このようなクンダリニーの上昇は起こらないものも居り、それがあるから絶対に正しいとか正しくないと言うものでもないのじゃ。
ただ肉体の現象としてそのような事もあると知り、囚われずに修行していくのじゃ。
仏教】悟りを開いた人のスレ140【天空寺
30 鬼和尚 :2013/02/25(月) 21:20:55.33
人は通常、肉体をコントロールして動かしたり出来るから、自分の肉体であり、自分はその主体であると思っておる。
主体があって知覚も心もコントロールされるから、己のものと思っておるじゃろう。
しかし、よく観察してみればそれも違ったりするのじゃ。
人は誰でも己の心をコントロール出来るならば、自分に不利な事はしないようにするじゃろう。
例えば攻撃欲なども押さえていたりする。
それでも時折、コントロールできなくなったりするのじゃ。
行いで攻撃できなければ、言葉で攻撃したりする。
それが何の得にもならず、意味が無いと知りながらも、攻撃欲を押さえられずに悪い言葉を吐くのじゃ。
そのような時、人は己の心と思いながら、実は己の心をコントロール出来ていないと気づくじゃろう。
他にも物欲や色欲等を押さえられず、苦に陥る例は幾らでもあるものじゃ。
心は自分のものであり、己と言う主体によって生じるものならば、それがコントロールできないという事は無い筈であろうが、実際には多くの者が欲を押さえきれない。
それは心とは自分のものではなく、主体から生じたものではない事を示しているのじゃ。
今自分が自分と思うものは、心や体を所有する者ではなく、その主体でもない。
それ故に心身のコントロールが出来ないのじゃ。
修行者は良く観察してそれを自らの心の内に確かめるのじゃ。
102 鬼和尚 :2013/02/26(火) 21:31:43.35
感情もまた主体によって起こるものではなく、己のものでもないと観察して気づくのじゃ。
人の感情が起こる時、それは主体が無く、機械的に起こるものじゃ。
感情は最も人間的なものであり、人としての在り方を表していると思われておる。
しかし、実は機械的に起きているだけなのじゃ。
人は嬉しい事があれば喜び、頭に来る事があれば怒り、悲しい事があれば悲しみ、楽しい事があれば楽しむじゃろう。
それは自分の自由に変える事が出来ず、決まりきった反応に過ぎないのじゃ。
悲しい事があれば、悲しむしかないという、常に決まっている反応なのじゃ。
機械のボタンを押せば、常に同じ反応があるように、感情も同じ刺激に同じ反応をしている機械的なものに過ぎないのじゃ。
それらの感情が起こり、その後に感情の主体である自己と言うものが想起される事を良く観察するのじゃ。
そのような反応と想起は、非常に素早く起こるものじゃ。
思考よりも早い反応を、止観に習熟した修行者だけが良く観察する事が出来るのじゃ。
それが出来るまで精進あるのみなのじゃ。
304 鬼和尚 :2013/02/27(水) 21:08:38.68
自我を持つ者は、自我は自分を守るものだと想ったりしておる。
自分を守るために自我はあるのだと想い、自我が無ければ自分が守れないと考えるのじゃ。
しかし、実際には自我は自分を守ったりしては居らず、むしろ危険な目にあわせたり迷わせたりしているものじゃ。
自我があり我があるという想いから、人は自我を守ろうと金や権力や名声を求めたりする。
時には不正な手段を使ってもそれらを得ようとするものじゃ。
それはすでに自分だけは何をしても大丈夫だとする謬見によって生じる思いなのじゃ。
自我は自らにとってのみ都合の良い世界を見せる故に、そのような謬見も生じてしまうものじゃ。
自我によって見られる世界が歪んでいる故に、その中を生きる人の行いも歪んでしまうのじゃ。
平等なる智慧によって見れば、不正な手段を使うのは自らを危険な目に合わせる事であり、身を危険にさらすようなものを求める事そのものも、迷いでしかないと判るのじゃ。
そのように自我は己を守っておらず、むしろ危険な目に合わせ、迷いを生じさせているのに気づくのじゃ。
そうすれば観念に因って囚われる事無く、自らを観られるようになるじゃろう。
【仏教】悟りを開いた人のスレ142【天空寺】
588 鬼和尚 :2013/03/11(月) 21:19:54.73
例えば人が最近流行りのゲームに夢中になって、ゲームの中の者が自分と同じだと思い、お金をかけて強化したりするじゃろう。
そのようにお金をかけてゲームの中の者を良くすれば、現実のお金はへって仕舞ったりする。
架空の者がよくなった事に設定されたが、現実には損をしていたりする。
同じように社会の中の地位によるイメージを己と思い、それを良くするために心身を費やすならば、それがよくなったように見えて実は心身を損なったりするものじゃ。
実際にはそれは架空のゲームの中の人間に金を使い、損をしているのと変わりは無いのじゃ。
社会の中での仕事は心身を養うためのものでしかないのに、それで心身を損なうのは本末転倒なのじゃ。
社会的に成功するのが良い事と教えられ、洗脳されてしまうとそのような事さえわからなくなるのじゃ。
多くの者が戦争に参加してしまうのも、同じように社会でのイメージ、強い自分と言うイメージを保とうとするためなのじゃ。
人は自らのイメージを保つために殺し合いまでするのじゃ。
それは自分を自分の主とせず、社会の奴隷としているとさえ言えるのじゃ。
自分が自分の主であるならば、先ずは自分の心身を傷つける事は止めようとするじゃろう。
そして他人の心身も、自分が自分の心身を大事に思うのと同じように思っているのであるから、傷つけるのを止めようと思うじゃろう。
そのように自分を自分の主として、心身を守る者こそ正しく考え、社会の洗脳に囚われていない者と言えるのじゃ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ144【天空寺】
558 鬼和尚 :2013/04/14(日) 20:57:55.50
例えば人が山に登ったりする時、遠くの頂上ばかりを見て、未だあんなに遠くにあるとか想っていると、心も体も疲れてしまうものじゃ。
目標は遠く、先は長いと想うからじゃ。
むしろ目の前の道の景色を見たり、今まで登って来た道を振り返れば、こんなに遠くに来たと分かり、励みになるものじゃ。
そして気がつけば頂上も近くにあるとわかったりするのじゃ。
遠くの頂上ばかり想うより、目の前の楽しみを味わう方が、旅も楽に行く事が出来るのじゃ。
修行の道も同じようなものじゃ。
未だ悟道が来ないとか、いつになったら悟れるのかとか考えてばかりいると、疲れて辞めたくなってしまうじゃろう。
それよりもむしろ今の境地を楽しみ、滅してきた苦の成果を見るのじゃ。
修行が進んでいればかつては乱れていた心も静まり、多くの苦も滅しているじゃろう。
苦を滅した安楽の境地を楽しみ、瞑想による喜びを味わうのじゃ。
そのように楽しみながら行なえば、いつの間にか悟道も寄ってくるものじゃ。
1日1日の瞑想を楽しみ、一つ一つの苦を滅して行けば、安楽が訪れ、自分の道が間違いではないと、知ることも出来るのじゃ。
そのように修行が喜びであり、楽しみであれば、気がつかないうちに悟りへの準備も整うのじゃ。
そのように遠くの目標を想うより、今出来る事を楽しみながらやる事が最も早く進歩する道なのじゃ。
601 鬼和尚 :2013/04/16(火) 21:04:37.74
お釈迦様はこのように言っておる。
186 たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」としるのが賢者である。
187 天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。
真にその通りに人は様々な欲望を抱き、得られなければ苦しみ、得られても苦しむものじゃ。
人がさまざまな欲望を抱き、それを叶えたとしても決して満足できないのは、実は何かを欲しているのではなく、不安や恐怖や孤独から気を逸らすために、それらを求めているだけだからなのじゃ。
それらを追う事で一時的に不安や恐怖や孤独から気を逸らしても、叶えてしまえばもはや逃れられなくなるのじゃ。
それ故に欲望は叶えられても、叶えられなくても苦は無くならないのじゃ。
賢い者はそれを知り、むしろその執着を滅する事を楽しむのじゃ。
欲するものを得ても、得られなくとも苦が生じると知り、完全な満足と安心への道はそれらを滅する事であると理解しているのじゃ。
修行者はこの理を知り、完全な満足と安心の道を歩むのじゃ。
847 鬼和尚 :2013/04/22(月) 21:06:59.37
悟りを求める修行者は、常に自らに自分は本当に悟りを求めているのかと、問い続ける事が大事じゃ。
本当は悟りを求めていないのに、別の目的で悟りを求めている振りをしていては、永久に悟りは得られないのじゃ。
例えば悟りを得て有名になりたいと思う者は、悟りを求めておらず名声を求めているのじゃ。
或いは悟りを得て名声と財産を得たいと思う者は、名声と財産を求めているのじゃ。
そのような者達は自らが消えようとする時、名声や財産を受け取る己がなくなる事に恐れを抱き、途中で修行を止めてしまうじゃろう。
真の悟りを求める者でなければ、真の悟りは得られないのじゃ。
悟りを得るための動機としては、死を超えるため、死を克服するためと言うのが最も強く、確実な動機となるものじゃ。
お釈迦様も老病死を克服するために、家を捨てて修行し悟りを得たのじゃ。
死を完全に克服できる唯一の道が、悟りを得る事しかない故に、死を克服しようと言う動機は悟りを得るためには最も確実な動機となるのじゃ。
他にも真実を知りたいとか、生まれてきた意味を知りたいとか、いろいろな動機があるじゃろう。
それらの動機もただ悟りを得るためのものであるか、修行者は常に己に問い続けなければならんのじゃ。
真摯にただ悟りだけを追い求めてきた者が、真の悟りを得る事が出来るのじゃ。
そして死を克服し、永遠の意識を知ることになるじゃろう。
修行者はその時まで自分が本当に悟りだけを求めているのか、己に問いつづけるが良いのじゃ。
944 鬼和尚 :2013/04/24(水) 21:25:54.82
悟りを得る事とは、何か超人のような者に変身したり、別人に変わってしまう事ではないのじゃ。
むしろ自らの本来の在り方に戻る事なのじゃ。
変化する事より、本来の在り方に回帰する事が不死の境地に至る事なのじゃ。
人が記憶を持ち、言葉とイメージによって己と言うものを認識してしまえば、そこから様々な苦や囚われが生じてしまうものじゃ。
観念である己が在ると想えば、世界から独立した己というものに孤独感や不安感が生じるじゃろう。
それから逃れようとして、金や権力や名声等への欲が生じるのじゃ。
そして欲が叶っても、叶わなくても苦が起きるのじゃ。
誤謬から生じた己という観念から苦が生じ、それが更に様々な欲と苦を起こしていくのじゃ。
このようにして欲と苦によって苛まれる人間が、本来の在り方に帰る時、一切の苦は滅し、智慧も生じるのじゃ。
己という観念が無ければ、孤独や不安もなく、それから逃避しようとする欲もなく、次々に起こる苦も無いのじゃ。
観念に囚われない事で真実を知り、今ここに適応する智慧も生じるのじゃ。
それこそが悟りと言える状態なのじゃ。
そのように修行者は自らの本来の在り方に戻るために修行するのじゃ。
982 鬼和尚 :2013/04/25(木) 21:11:32.21
人が観念に因って世界を見れば、自分や、自分を含む人間や、動物などにだけ意識が在り、他のものは全て無機質なものと見えるじゃろう。
記憶によって生物にだけ意識が在り、知識や観念が無ければ、それすらも見えないと思考した結果そのように思えるのじゃ。
知識や記憶によって人の意識が生まれ、知識や記憶が無ければ、それらが無いと想うのが謬見なのじゃ。
実際には意識によって知識や記憶があるのじゃ。
そして意識は記憶や知識を超えた全てにあるものじゃ。
一切は個々に途切れたものではなく、全て繋がり、意識の表れとして在るものなのじゃ。
記憶に依存した認識を滅し、本来の在り方が見えれば、それが感じられるのじゃ。
実際に今ここにある肉体を詳細に観察してみても、本当は切れ目無く周囲の全てと繋がっている事が判るじゃろう。
肉体は食物や呼吸や空間を通して全てと繋がって居る。
例えば呼吸した空気が鼻に入った所から自己となるとか、肺に入った所から己のものになるという事は無いじゃろう。
本当は真実の在り方として肉体も全てと繋がっているが、人は記憶に依存した認識により、観念を生じて世界から孤立した、個体としての自己の肉体があると想うのじゃ。
そのような観念が無く、記憶に依存した認識による自己と言う想念が無くなれば、全ては無機質な空間ではなく、己と何一つ変わることの無い意識が普遍に存在している事を、知覚するのじゃ。
それこそが平等という言葉の本来の意味なのじゃ。
その不死の境地に至るために修行者は精進するのじゃ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ145【天空寺】
76 鬼和尚 :2013/04/27(土) 20:45:05.67
例えば昔ある地方で水に弱い毒が入っているのがわからなくて、住民はずうっと飲みつづけていたりした事があったのじゃ。
長い間、飲んでいると病気になるが、井戸の水が原因とは判らなかったのじゃ。
今、弱い毒も検出できるようになり、毒だと判るようになったから、医者や学者が警告して飲まないようになったのじゃ。
同じように人々が自我を持ち、それを苦と感じて居なくとも、目覚めた者はそれが苦の因を作ると知っているから、人々にそれを手離すように教えるのじゃ。
人々はむしろ自我は己を守るものであるとか、自我が無ければ精神病になるとか、無いと言う事はありえないとか想ってしまっているじゃろう。
それは毒の水を飲んできた昔の住民が、生活用水が毒であると知らない故に、それが無ければ死ぬとか、生活できなくなるとか思うようなものなのじゃ。
実際には自我は己を守って居らず、負担になり、執着による苦を作り出しているのじゃ。
毒の水が病気を作り出すようにのう。
肉体を守るのは知識や智慧であり、本当は自我とは関係無いのじゃ。
ただ人はその知識や智慧に自我の観念を投射する故に、それが主体である自我であると認識してしまうのじゃ。
それが自我を捨てる事に恐れを抱かせ、悟りを困難にしているのじゃ。
自我とは言葉とイメージによる観念であり、負担でしかないのじゃ。
自分の名前という言葉を守るために人は力を尽くし、怒りを生じ、無意味な消耗をしているじゃろう。
自分のイメージを守るために殺し合いまでするじゃろう。
そのような真実が観察できたならば、自我は不必要なものであり、負担であり、捨て去られるべきものと気づく事もできるじゃろう。
94 鬼和尚 :2013/04/28(日) 21:29:09.75
今ここにいる自分に気づく事が行き詰まりを突破する英知であり、それを押さえて置けばいかなる状況にも対応できるものじゃ。
例えば道に迷ったりした時、先ずは自分が迷ったという事に気づかなければならん。
迷った事に気づかないでどんどん進めば、迷いはますます深くなってしまうじゃろう。
迷ったという自分の今の状況に気づく事が、肝心なのじゃ。
そして自分が迷っていると気づいたならば、次は自分が何処にいるのかを知らなければならん。
地図を見たり人に聞いたりして自分の居場所に気づけば、何処に行けばよいかも判るのじゃ。
そして正しい道を知り、正しい方向に進んでいく事が出来るのじゃ。
この例のように、自分が行き詰まったり、何かの困難な状況に陥ったりしたならば、先ずは自分の状況に気づかなければならんのじゃ。
そして今の自分の状況と、あるべき目的を知って為すべき事に気づき、対応する事が出来るのじゃ。
気づく事によって人は進歩し、苦を滅し、悟りをも得られるのじゃ。
止観の瞑想も全ては気づく事のためにあるのじゃ。
常に自分を観察し、自分に気づくようにする事が、行き詰まりを突破し、全ての状況に対応する抑えておくべき英知なのじゃ。
229 鬼和尚 :2013/05/06(月) 21:25:05.41
人が自分を認識するのは名前とイメージからなのじゃ。
仮に人が名前かイメージのどちらかを忘れただけでも、自分の認識に変化が訪れるじゃろう。
観念は言葉とイメージによって認識されている故に、名前とイメージを忘れれば自己と言う観念も忘れられるのじゃ。
例えば鈴木一郎と言う者が己の名前を忘れたらどうなるじゃろうか?
その者はもはや己の名前に囚われず、名前を他人に知られたいとは思わなくなるじゃろう。
そして誰かが鈴木一郎の悪口を言っても、気にしなくなるじゃろう。
そのように自らの名前を忘れれば、名声への囚われを離れ、言葉によって感情が起こらなくなるのじゃ。
欲から離れ怒りも起こらないのは自我を忘れているからなのじゃ。
更に自分のイメージをも忘れたならば、もはや不安も無くなるじゃろう。
不安とは過去に起きた嫌な事の記憶を、今の自分のイメージに起きはしないかと投射する事であるからなのじゃ。
そして自分を守るための緊張も無くなる。
自我のある人間は気づかないが、自分のイメージを持っている人間は、不安に因って何か起きはしないかと常に緊張しているものじゃ。
不安が無くなれば緊張も無くなり、安心が生じるのじゃ。
更に緊張が無いから、自分を守るために常に行なっている感覚による情報の収集も無くなる。
不安に因る緊張がある人間は、常に周りから情報を収集し、何か起きる兆候を探しているのじゃ。
不安に因る緊張が無ければそれも無く、そこに静寂が生じるのじゃ。
このように己の名前とイメージを忘れれば、欲は無くなり、怒りも無く、安心があり、静寂があるのじゃ。
修行者はそれを知るために修行に励むのじゃ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ147【天空寺】
486 鬼和尚 :2013/06/30(日) 21:40:17.05
人が己の心を観察し、役割について深く調べるならばそれを捨てる事も出来るじゃろう。
身についた習慣により、強固に見える役割も、観察し気づきが起こったならば、容易に厭離する事も出来るのじゃ。
例えば人が仕事をするために会社に入ったならば、己の性格と仕事に役に立つように調和した一つの役割を創り上げるじゃろう。
人との対話や仕事を進めるための習慣の積み重ねが、一定の役割となるのじゃ。
初めは失敗もしたりして不完全なものであるが、次第に修整されてきて完全なものとなるのじゃ。
そして完成してしまえば毎日のように使われ、自己同一化が進んでくるのじゃ。
何年も経って自己同一化が深くなると、仕事が出来る己という社員の役割が完成してしまうのじゃ。
それに対してプライドや欲が生じ、もはや己そのものであると疑いもなくしてしまうじゃろう。
そのように役割は長年使ううちに自己同一化が行なわれ、それを己と思い込んでしまうものなのじゃ。
自己同一化が進めば仕事や会社の為に生きるのが普通に成ってしまう。
そしてそのような者が仕事を失うと何をして良いのかも判らなくなってしまうのじゃ。
役割が迷いと執着を作り出すのじゃ。
そのような役割も詳細に観察することによって、気づく事が出来るのじゃ。
多くの習慣によって形成された役割を観察し、厭離する事で本来の性質を見つけ出すのじゃ。
587 鬼和尚 :2013/07/01(月) 21:00:00.35
お釈迦様はこのように言っておる。
133 荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
134 こわれた鐘のように、声をあらげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。
このように十善の中でも言葉に関する善がいくつもあるのじゃ。
嘘をつくなとか、無意味なおしゃべりはしないとか、乱暴な言葉は言わないとか、他人同士を仲違いさせるようなことをいわないとかじゃな。
人は生まれて来るとき口に剣を持っているとも言う。
言葉による悪はやり易く、善は難しかったりするじゃろう。
常に心掛けていてもつい感情的になって乱暴な言葉を口にする事もあるじゃろう。
そのような事を制して優しい言葉を使う事こそ善事なのじゃ。
お釈迦様の教えを守る者は常に心掛けて、この為し難い善を行うべきなのじゃ。
784 鬼和尚 :2013/07/03(水) 21:51:41.11
自分を見るという事は良く言われているが、実際には多くの者にはとても難しいようじゃのう。
いつも自分を見ているという者も、実は自分のイメージを見ているだけだったりするのじゃ。
人が頭の中で描く自分のイメージは大抵実際の本人よりイケメンで何でも出来るようなスーパーマンみたいなものじゃ。
しかし、実際は鏡を見れば不細工がいて、仕事も全然出来なかったりするのじゃ。
そのような自分の実情を隠すために人は他人には自分の良いイメージを与えようとするのじゃ。
知識が無いのに知ったかぶりをしたり、自分は有名な誰かに認められたとか言ったりする。
そのような者は自分を見ていないどころか、逆に己のイメージの上に、更に他人のイメージを重ねようとしているのは明白じゃ。
それは本当に自分を見るという事からは、全く逆の方向なのじゃ。
本当に自分を見ようと決意したならば、真の己がどのようなものであるのか、受け入れる事から始めなければならん。
不細工なら不細工である自分を受け入れるのじゃ。
それから不細工なりに自分を美しく見せる工夫が出来るじゃろう。
不細工を受け入れずに、自分はイケメンと想っていたら、なぜイケメンの己がもてないのか、いつまでもわからないのじゃ。
そのように自らを受け入れる事から、本当の進歩が始まるのじゃ。
どんなに小さく弱く醜くはかない生き物であろうと、本当の自分自身から道を歩いていくしかないのじゃ。
お釈迦様も修行を志したのは、自分がやがて病になり、年老い、死ぬしかない生き物であると気づいて、それを受け入れたからなのじゃ。
誰もがそのような本当の自分から修行を始めるしかないのじゃ。
自らの弱さ醜さ無知を受け入れ、そこから本当の修行の道を歩むのじゃ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ148【天空寺】
18 鬼和尚 :2013/07/06(土) 15:31:28.00
お釈迦様の教えとは本来、世の中の常識とは外れた道なのじゃ。
それ故に出世間の法とも呼ばれるのじゃ。
世の中の常識が金や名声や権力を求め、それらを積み重ねる道であるならば、お釈迦様の教えとはそのようなものを悉く捨て去る道なのじゃ。
富貴や栄達を捨て去り、乞食となって人家に食を乞うのが出家と呼ばれるのじゃ。
お釈迦様自身も他人の家に食を乞うて歩いたのじゃ。
一切の栄楽を捨て無一文の身になる事が安らぎへの道なのじゃ。
一切の財貨や名誉や権力は死に対しては何の役にも立たないのじゃ。
それらに執着する者は現実に行動しているように見えて、本当は死という現実には対処していないのじゃ。
一切の栄誉と財産を捨て、心を整える事こそ真の現実に対処する道なのじゃ。
死と言う現実に対処し、それを超えて人は目覚めた者と呼ばれるのじゃ。
そのようであってこそ肉体を持った意味もあったと言えるのじゃ。
滅びていくしかない肉体で不死の境地に到達する事が出来たのであるからのう。
修行者は虚仮でしかない栄誉や財貨を捨てて、そのような永楽の境地を目指すのじゃ。
358 鬼和尚 :2013/07/06(土) 15:37:08.00
お釈迦様はこのように言っておる。(ウダーナヴァルガ第23章)
6 先ず自分の身を正しくせよ。次いで他人に教えよ。
7 先ず自己を正しくととのえ、次いで他人に教えよ。
賢明な人は煩わされ悩むことが無いであろうから。
8 自分が他人に教えるとおりに自分でも行なえ。
わたしは常にわが身をよくととのえている。
自分というものはまことに制し難いものである。
大抵の者は他人にこうせよ、ああせよと言うが自分はしてなかったりするものじゃ。
言うは易く、行なうは難しとことわざにもあるのじゃ。
怒りを離れていない者が、他人に怒りを離れよと言っても説得力は無いものじゃ。
自分が怒りを離れていなければ、他人に教える事は出来ず、また他人も納得しないじゃろう。
自分が苦心して怒りを捨て、もはや心が動く事が無くなれば、そのような境地に至った事を他人にも教えられるのじゃ。
そのように知識と経験があってこそ他人にも教えられるのじゃ。
修行者はそのように自ら経験し、行った事だけを他人にも教えたらよいのじゃ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ153【天空寺】
516 鬼和尚 :2013/09/08(日) 22:11:32.24
縁によって起こる心の働きを観察する苦を滅する法に慣れれば、他の心の働きもそれによって滅せる事が判るじゃろう。
心の働きはそのような縁起と呼ばれる記憶の連想によって行なわれているからなのじゃ。
一切の心の働きを滅する事が出来るのであるから、自我の働きもまた滅する事が出来るのじゃ。
自我がある、自分が居ると認識するのも心の働きなのじゃ。
それも縁によって起こるものであるから、原因から起こる事を観察し、原因が無ければ起こらないと観察する事で滅する事が出来るのじゃ。
それには先ず自我の働きを追求し、見つけなければいかんがのう。
一度自我が縁によって起こるのを観たならば、それだけでも無我に入る事もあるが、修行して集中力が身についていなければ難しいのじゃ。
自我の起こる所を観たならば、それが原因から起こり、原因が無ければ起こらないと観察すれば、無我に入るのも容易いのじゃ。
そのように苦を滅する法も十二因縁を観察する法も、全て無我に至る観察の法として繋がって居るのじゃ。
我在りと言う無明の根本的な原因から、苦が起こる瞬間まで観察すれば、それは全体として観察されるのじゃ。
そして自我は滅するじゃろう。
修行者がこれを行なえば確かに無我への道が開くのじゃ。
そのようにして失われていた悟りへの道は、これを見る全ての者の心の中に蘇るのじゃ。
840 鬼和尚 :2013/09/10(火) 22:17:45.86
お釈迦様はこのように言っておる。
31多くの人々は恐怖にかられて、山々、園、林、樹木、霊樹などにたよろうとする。
32しかしこれは安らかなよりどころではない。
それらのよりどころによっては、あらゆる苦悩から逃れる事は出来ない。
心に恐れがある人間は、様々なものに縋り、頼りにしたりするものじゃ。
いわしの頭も信心からと言うが、ただ信じたいから信じているようなものじゃ。
しかし、人の心の中にあらゆる苦から逃れる力が在るのじゃ。
それが人の意志なのじゃ。
人の意志はこの世で最も強いものである故に、さまざまな不可能を可能にしてきたのじゃ。
人が本気で何かをなしとげようとした時、鬼神でさえも避けるというのじゃ。
そうであるから修行者は自分が修行して悟りを得られるか、それとも得られないのかとか、気に病む事は無いのじゃ。
本当に本心から悟りを得たいと意志を奮い起こし、修行に励むならば意志の力によって必ず悟りは訪れるのじゃ。
悟りが得られるか、得られないのかと気に病む必要は無いのじゃ。
むしろ自分の本心が本当に悟りを望んでいるかどうか、何度も確かめてみるのじゃ。
それが本当の希ならば、死を超えようとする本心からの意志は、必ず悟りを招き寄せるじゃろう。
【仏教】悟りを開いた人のスレ155【天空寺】
638 鬼和尚 :2013/09/23(月) 22:14:45.79
お釈迦様の言う心によってものごとが作り出されるとは、更に深い意味がこめられておるのじゃ。
誰でも心の中にあるものごとが世界に反映されるのじゃ。
心に不満が在ればどれほど多くの金や宝があっても世界は不満だらけなのじゃ。
世の中の全ての金を集めても心に不満が在る者を満たす事は出来ないのじゃ。
不満は心にある故に、心の他に満足を求めても得られないのじゃ。
逆に心が満足していれば、例えものが無くとも満足なのじゃ。
乏しい食べ物や飲み物だけしかなくとも、心は満たされるのじゃ。
満足とは心の中に在るものである故に、心に満足が在れば全て満たされるのじゃ。
このように心は人の内にありながら、外の世界にも反映されるものなのじゃ。
それ故に心によって全ては作り出されると言われるのじゃ。
人は自らの心によって世界を作り出している故に、心を制し、整えれば世界も制され、整えられるのじゃ。
自らの心を制し、整える事は決意すれば誰にでも出来る事なのじゃ。
自らの心を制し、整えた者は苦の多い世界で苦を滅し、安楽を手に入れるじゃろう。
この世界では多くの者が苦を抱え、それを滅する法さえも知らないが、幸運な修行者は苦を滅する法を知り、実践すれば苦を滅する事も出来るじゃろう。
この幸運を手離すことなく修行者は、苦を滅する道に励み、安楽の世界を楽しむが良いのじゃ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ159【天空寺】
240 鬼和尚 :2013/11/13(水) 22:09:58.81
人が何か観念を抱いていると、観察でさえも観念に染まってしまうものじゃ。
観念による観察は本当の観察とは言えないのじゃ。
例えば昔の人は地面はお盆のようであり、平であると信じていたのじゃ。
地平線や水平線が丸くなっていても、それはお盆の縁が丸いのだと観念に因って投射していたのじゃ。
このように心に観念があれば、何を見てもその観念を補強するためのものにしかみえないのじゃ。
観念があれば観察でさえ虚しいのじゃ。
心から一切の観念を捨て、あるがままの状態を見るのが真の観察なのじゃ。
集中の状態に入ればそれもまた可能なのじゃ。
そして観察によって自らの弱さが露にされるならば、それすらも受け入れなければならん。
自分の強い所や良い所だけ見ようとするならばそれもまた観察とは言えないものになるのじゃ。
自分は強い者であるとか、いかした奴であるとか言う観念が観察の邪魔になるからのう。
観察が自分の弱さや醜さを露にするならば、それをそのまま受け入れるという決意が必要なのじゃ。
そして心を虚しくし、真摯に自らの心を観るのじゃ。
そうすれば観察により本当の変容が始まるじゃろう。
観察によって自らの本性への気付きが起こり、気付きによって厭離が起こり、厭離によって苦の滅と悟りが得られるのじゃ。
【生活】悟りを開いた人に聞いてみるスレ【全般】4
365 鬼和尚 :2009/01/19(月) 21:17:49
今日は善い事をするとなぜ良い報いが来て、悪い事をすると悪い報いが来るかを話すのじゃ。
善い事とは人を喜ばせるような事をする事、悪い事とは人を悲しませたりするような事をする事じゃ。
人間の心は習慣によって染まりやすいものじゃから、日頃から人を喜ばせるような事をしようと考えている者は、自分も喜ぶような事をしようとするものじゃ。
逆に人を悲しませたりするような事ばかり考えている者は、その考えに染まって、自分にも嫌な事ばかりしたがる。
他人を苦しめておきながら、自分だけは楽になる事を考えようとしても、習慣になっているとそう上手くはいかんものなのじゃ。
実際に観察してみると、他人を苦しめようとばかり考えている者は暗く陰惨な考えばかり浮かび、自分も意味も無く危険を冒そうとする。
そして、自分も他人も破滅に巻き込むような事ばかりする。
故にまともな人は遠ざかり、幸運がつきまとう事も無い。
逆に常日頃から他人を喜ばせようと思う者は、考えが明るく、前向きであり、人にも好かれるものじゃ。
そのような者は誰もが助けたいと思ったり、手助けしようと思う。
それ故に他人からの幸運にも恵まれる。
善い事と悪い事をする者には、このような違いがあり、互いに別の道を行く事を知って、賢い者は善い事をする道を選ぶのじゃ。
【生活】悟りを開いた人に聞いてみるスレ【全般】5
398 鬼和尚 :2009/03/06(金) 21:23:52
わしは何を言われてもかまわん。
もはや言葉に対する囚われからはなれておるからのう。
まずそのような事を書く者が持つ、概念への囚われから話すべきじゃな。
普通の人間は一度、何かに対して概念を持つとそれに囚われ、公平な視点を失うものじゃ。
例えばわしのレスも言葉は同じなのに、納得したという者とでたらめという者がおるように。
わしの言葉が断片的に正しいと感じても、概念を持つ故にいかさまと感じる者も居るじゃろう。
しかし、どの言葉が誰の言葉と照合して同じなのか、詳細に見ていけば、それ故にわしの言葉が正しいと感じる者も居るじゃろう。
例えばオウムの麻原などは自分がグルであり、自分に帰依せよと言った。
わしは各自が自らを灯明とせよと言っておる。
お釈迦様がそのように言った通りにのう。
世の中には無事禅などといい、修行しなくとも良いと語るものもおる。
わしはいつも修行せよと言う。
お釈迦様も精進せよと言っておる。
お釈迦様だけでなく、正しい教えを語る導師は、常に同じ事を言いつづける。
同じ事を語るが時代や人に合わせて違う言葉になる所もある。
わしがいかさま師だと概念を持っている者は、それ故にいかさまだと語るかもしれん。
公平な眼を持って詳細に調べるならば、正しい教えを伝えた導師達と同じ事を言っているに過ぎないと思う者も居るかもしれん。
むしろわしが、わしだけに帰依せよ、修行もしなくて良いと言ったならば、それを非難するべきであると公平な視点を持っている者ならば考えるかもしれん。
しかし、それによってわしの言葉を信じよというのではない。
わしは信じさせる為ではなく、人々を目覚めさせる為に来た。
わしの事はいかさま師じゃが、自分を灯明とするのは正しいからやるとか、修行して楽になるならやってやるというならそれでいいのじゃ。
お釈迦様は自らを道を示す道標であると言われた。
わしも道標であり、道を行くのに利用すれば良いだけなのじゃ。
悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】7
134 鬼和尚 :2011/04/28(木) 20:32:51.69
例えば学校に数学の教師が来て、子供に数学を教えたとしよう。
愚かな子は理解できず、己に理解できないから数学と言うものは無い、数学の教師なども嘘だと思う。
賢い子は難しい数式などはわからないが、1足す1は2であるとか、教師の言う事を己でわかる範囲で確かめてその言葉が嘘ではない事を知る。
愚かな子は数学を知らないために計算が出来なかったり、人に騙されたり、苦労したりするじゃろう。
賢い子は数学を知り、計算が出来て人に騙されることも無い。
目覚めた者に対する人の態度も同じようなものじゃ。
愚かな者は自分に理解出来ないから悟りは無く、悟った者も居ないと思う。
賢い者は目覚めた者の説いた法を自ら試し、真実であると知る。
愚かな者は法を知らぬ故に世において己の心を制する事が出来ず、苦を味わいながら死ぬじゃろう。
賢い者は法を実践し、心を制し、苦を滅して喜びを味わい、死によっても消える事の無い意識に到達するじゃろう。
悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】18
657 鬼和尚 :2012/11/27(火) 21:07:40.18
お釈迦様は無常という事を説かれたのじゃ。
無常とはこの世の全てのものが変化して止まらない事を言うのじゃ。
人が変化しつづければ最後は死に至るのじゃ。
死を思う事が無常の一番の観想なのじゃ。
死は全ての者に訪れ、何もかも消し去るのじゃ。
金も名声も権力も、死によって中断され、なくしてしまうものじゃ。
それらは死には何の意味も無い、無力なものと常に死について考えていれば判るのじゃ。
この世の法則である無常を超えるには、この世を出るしかないのじゃ。
それは出世間の法と呼ばれるのじゃ。
それこそが悟りを得る法なのじゃ。
658 鬼和尚 :2012/11/27(火) 21:17:02.53
続きなのじゃ。
仮設されたものである世間を超越して無常も無くなるのじゃ。
仮設されない本来の世界はなにものかに依存する事無く、一切が一つの意識の表れとなって居るのじゃ。
そこではもはや個体とか個我というものがない故に、変化する事もない。
一切が平等であり、そこで死もまた死ではなくなるのじゃ。
死はもはや消滅ではなく、意識の変化であり、実際には変化もしないのじゃ。
ただ原初から変わらぬ在り様が、永遠に続くのみなのじゃ。
死と言う現実を観る事によって、死は超えられるのじゃ。
お釈迦様が人々に無常や死を説いたのも、絶望を教えたのではなく、それは乗り越えられるハードルであるから教えられたのじゃ。
現実として人には死と言う限界がある。
しかし、それは正しい悟りへの修行によって乗り越えられる。
それこそがお釈迦様の言っていた事なのじゃ。
真の修行者は現実にある死を観ながら、それを乗り越えられるという確信をもって進むのじゃ。
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】21
324 鬼和尚 :2013/03/05(火) 19:46:33.00
ここでは就職に悩む者が多いようであるのう。
仕事を選び、探すには先ずは自分を知ることから始めるのじゃ。
それは回り道のようではあるが、実は一番近道なのじゃ。
誰でも自分が関心の在ることならば、知識も在り、やる気も出て働くのが楽しくなるものじゃ。
特に好きでもなく、関心もないことならば、知識も集まらず、やる気もなく、働く事も苦痛になるじゃろう。
先ず自分が好きな事を知り、自分の能力を知ってから仕事を選び、探したりするのじゃ。
それが本当にやる気があり、長く続けられる成功し易い仕事になるのじゃ。
そのために観察は修行のためだけでなく、仕事を探す役にもたつじゃろう。
自分を知るという事では、仕事を探すのも修行も同じなのじゃ。
とは言え例えば誰もが野球が好きなら野球選手になれると言う訳ではない。
野球選手になれなくとも、野球が好きならば道具を売るとか、いろいろ関連する仕事があるじゃろう。
好きな事に関連する仕事ならば、同じように楽しくやれるじゃろう。
更に自分に計算の能力があると知ったならば、客はどんなものが好きかとか、数字によって統計を取り、より多く儲ける事も出来るじゃろう。
そのように自らの好みと、能力を知り、楽しくやれる仕事を探すのじゃ。
それが自らを知り、自他の利益を図る道になるのじゃ。
【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】23
303 鬼和尚 :2014/01/08(水) 21:32:00.90
(鬼和尚流の十戒ってありますか?)
1 食べるためとか身を守る以外に衆生を殺傷してはいかんのじゃ。
2 盗むのもいかんのじゃ。
3 自分に嘘をついてはいかんのじゃ。
4 暴言もいかんのじゃ。
5 自分の修行を第一にするのじゃ。
6 金は無くとも無財の七施をするのじゃ。
7 今周りにある全てに感謝するのじゃ。
8 毎日修行するのじゃ。
9 出来る限りの苦を滅するのじゃ。
10 自分の修行が済んだ事から人を教えるのじゃ。
瞑想を覚えたら人に瞑想を教え、苦を滅する事が出来たら苦を滅する法を教えるのじゃ。
自分が体得していない法を教えてはいかんのじゃ。
365 鬼和尚 :2014/01/11(土) 20:56:33.27
(鬼和尚さん、数息観に習熟する段階を説明してもらえませんか?)
1 最初は10秒も集中できないじゃろう。
2 10秒間は集中できるようになる。
3 雑念を流せるようになる。
4 思考が止まるまで放って置けるようになる。
5 この辺で不動心が芽生えてくるじゃろう。
6 無念無想になる。
7 快が生じる。
8 忘我のサマーディに入る。
9 対象の無いサマーディに入る。
10 悟りを得るじゃろう。
サマーディの段階についてはヨーガスートラを読むと良いのじゃ。
悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】33
349 :鬼和尚 :2014/02/28(金) 21:15:18.93
(段階1~10に集中力レベルつけてください)
1,2はレベル1じゃな。
3はレベル5位じゃな。
4はレベル10じゃ。
5はレベル15じゃ。この辺から観察をしても良かろう。
6はレベル16じゃ。
7はレベル17じゃ。
8はレベル20じゃ。
9はレベル30位じゃな。
10は集中のレベルと関係はないのじゃ。
わしはレベル30位じゃな。
【宗教板】 悟りを開いた人のスレ の避難所 5
779 鬼和尚 :2010/06/27(日) 20:40:30
悟りという観念に囚われた者に対して悟りは無いと説かれる。
仏という観念に囚われた者に仏は無いと言う。
実際にいくら座っていても悟りも仏もありはしない。
観えるものは己だけじゃ。
己を求め、己を消すのが正解じゃ。
己を観る事も出来ないのに悟りだけはぽんと出てくるものではない。
己を知らない者がどうして仏だけは知るという事があろうか。
自我を知り尽くしその行を見抜いて滅し、それを観るものさえ消した時、先人の言った悟りとはこれであったと判るのじゃ。
【宗教板】 悟りを開いた人のスレ の避難所 6
615 鬼和尚 :2010/07/21(水) 20:58:54
修行の道は学問よりも、むしろスポーツなどの肉体の鍛錬の道に似ておるのう。
知識や思考を積み上げても判らぬ事が、進歩した事によって判って来るものじゃ。
例えば筋肉を鍛えすぎると横になって寝るのが難しいとか、服を着るのに気をつけないとやぶいてしまうとか、或いは水泳や競争の選手が水の抵抗や風圧を感じるとか、そのような単純な知識も一定の境地に辿り着かなければわからないものじゃ。
そして、その境地に至った者の間には、共通の理解があるものじゃ。
それによって実際にちゃんと修行しているのかとか、サマーディにまで至ったのかなどが、判るものじゃ。
そのような事はどれほど経典や先師の言葉を集めても判らない。
ただ知識を集めただけでは、知ったかぶりだけで、実際に何もしていないと直ぐに判ってしまうのじゃ。
そのような了解によって悟りを得た者には、経典に書かれた教えの意図が判るのじゃ。
この教えは何を目的にしているとか、このような経緯を教えようとしていると言うようにのう。
完全な悟りに至った者はそのようにして経典を理解できるのじゃ。
悟りを開いた人のスレ の避難所 23
979 鬼和尚 :2013/04/26(金) 20:54:00
認識するものが自分であるという観念が在れば、認識の主体である自己があると思えるのじゃ。
実は認識に因って自己はあるのじゃ。
自分とは認識されたものなのじゃ。
認識が無ければそこに自分は無いじゃろう。
深い眠りの中で認識作用も無ければ、自分は無いのじゃ。
認識は出来ないが自分はあるという事は無いのじゃ。
記憶された観念が肉体や感情や思考や認識に投射されているから、肉体や認識があればその主体である自己があると想うのじゃ。
実際には自己の無い認識もあり得るのじゃ。
自我を無くしたサマーディや小悟の状態では、未だ認識はあるものじゃ。
そして悟りを得て本来の認識を取戻した時も、自己は無く、認識はあるのじゃ。
自己はそこで在るものではなく、必要なものではなく、己でもなく、己のものでもないと理解されるのじゃ。
それは記憶によって認識された観念であり、確固とした存在でもなく、主体でもなかったとわかるのじゃ。
観念である自己があると認識し、それが肉体や感覚や思考や認識の主体であると想う事が迷いなのじゃ。
そのような見解を離れる事が我見を離れる事なのじゃ。
悟りを開いた人のスレ の避難所 26
89 鬼和尚 :2013/06/20(木) 20:34:25
お釈迦様はこのように言っておる。
1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。
2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う。
影がそのからだから離れないように。
この言葉の真の意味とその価値を味わうのじゃ。
もしも人がこの世が地獄のような所であり、全ての他人が鬼のように見えるのならば自らの心に原因がある事に気づくのじゃ。
この世が極楽に他ならず、全ての衆生が慈悲を以って見られるのならば、それも心に極楽があるからなのじゃ。
人は自らの心にあるものを外に見るのじゃ。
他人が全て敵に見えるならば、自らの心に敵対心が有るのじゃ。
他人に慈悲を施せるのも、自らの心に慈悲があるからなのじゃ。
特に悟りを得なくとも、自らの心に慈悲を起こし、平安を作るならば、全ての世界は慈悲と平安に満ちた極楽になるじゃろう。
極楽はどこか遠くにあるものではなく、自らの心によって作り出すものであり、作り出せるものなのじゃ。
修行者は清らかな心によって自らの心に極楽を作り出すのじゃ。
241 鬼和尚 :2013/06/21(金) 20:44:36
世の多くの者は金がほしいとか、有名に成りたいとか望みを持っているじゃろう。
しかし、そのような望みの多くは周囲の環境からの反応に過ぎなかったりするものじゃ。
親や友達が金持ちを尊敬するから金持ちに成りたいとか、有名になると友人に自慢できるからとか、そのような反応から望みを持っていたりするのじゃ。
そのような者は実際に金持ちになったり有名になったりすると、次は何をして良いのかわからなくなったりするのじゃ。
憂鬱になって酒や薬に溺れてしまう事もあるのじゃ。
それも自分の本当の心や望みを知らず、ただ周囲からの反応によって生きて望みを持っていたからなのじゃ。
そのような事に陥らないために、自らの本心、本当の望みを知る事が大事なのじゃ。
周囲からの反応ではなく、自らの本心からの望みや願いに気づき、それを達成するために生きる事が後悔のない生き方といえるのじゃ。
それを知るためにはいろいろと法があるのじゃ。
法の一つは自分が全ての望みを達成して、満足して死ぬ時の事を思い浮かべるのじゃ。
その時、自分はどのような望みを果たしたから満足したのじゃろうか?とか、どのような事を成し遂げたのかとか考えてみるのじゃ。
そうすれば少しずつでも自分の生涯を掛けて達成したい望みが判って来るじゃろう。
それらは今の自分の性格とは反する事かも知れん。
しかし、十分に考えて自ら受け入れるならば、後悔はしない生き方が出来るようになるじゃろう。
小さな日常の争いは捨てて、自らの真の望みを達成するために努力するのじゃ。
307 鬼和尚 :2013/06/22(土) 21:35:36
原始仏典などを読むと、色彩をイメージする瞑想法とか、脱身について書かれたりしているのじゃ。
これは今伝わるヨーガの修行法と全く同じようなものなのじゃ。
お釈迦様が居た頃の修行者は、仏教とか他の宗教とかの区別は無く、かなり自由に行き来していたのじゃ。
お釈迦様の弟子の迦葉も元は自分の教団を率いていたが、お釈迦様に会ってその弟子になったという。
そのように優れた指導者を探し、また優れた修行法を探す内に、修行者の間で開発されたのがヨーガなどの法なのじゃ。
本来は宗派の別なく修行者の間で自由に行なわれていたのじゃ。
悟りを求めるための修行法は全て仏陀になる教え、仏教としてヨーガも良く研究したら良いのじゃ。
例えば集注の法が進歩したならば、サマーディについて詳しいヨーガスートラ等を読むと良いのじゃ。
ヨーガスートラにはサマーディが対象を持つものから、対象の無いサマーデイに発達する段階が、詳しく示されておる。
そのようにヨーガの経典にも役に立つものがあるものじゃ。
原始仏典に記載されているが、意味の判らなくなっている法などもヨーガの経典を調べれば、判るようになる事もあるものじゃ。
そのようにヨーガの経典も良く研究して修行に役立てるが良いのじゃ。
450 鬼和尚 :2013/06/23(日) 20:55:22
例えば人が赤い色眼鏡を掛けて世界を見るならば、全ては赤く見えるじゃろう。
他人を見れば赤く見えるじゃろう。
それは本当に他人が赤いのではなく、自分が赤い色眼鏡で見ているから赤く見えるのじゃ。
それと同じように人は自分が考えている通りの偏りで世界を見ているのじゃ。
唯物論を信奉する者は本当に全ては物質で出来ているように見える。
唯心論を持つ者は全てが心によって存在するように見える。
最近はやりの唯脳論を主張する者には何もかもが脳によって在るように見えてしまうじゃろう。
それは認識の性質が、記憶によるものであり、記憶にある観念を投射するからなのじゃ。
記憶の中に世界は物質であるという観念があれば、思考も認識もそれを追認するように働くのじゃ。
実際に世界のありようを見るのではなく、記憶の中にある世界を外に見出そうとするのじゃ。
それが阿頼耶識という記憶に依存する認識能力の性質なのじゃ。
そのような観念の投射を止めるために、集中と観察が必要になるのじゃ。
集中によって観念の投射を一時的に止め、観察を行う事で真の在り様が観えるのじゃ。
修行者はそのような観念による投射を知り、観念に囚われずに止観を行なうのじゃ。
573 鬼和尚 :2013/06/25(火) 20:55:15
お金を得るにも法があり、道があるのじゃ。
仏教に頭が凝り固まっているような者は、むしろ金儲けをしてみたらよいのじゃ。
金儲けをしようとする時、人はもの凄く真剣になり、頭を働かせ、真摯に働くものじゃ。
それはいい加減に仏教とか宗教に浸っているより余程身心のためにもなるじゃろう。
人に物やサービスを売るには、人の好む所を知らなければならん。
そして人に尽くせば誰もがその者から買おうと想うのじゃ。
そこには智慧があり、慈悲があるのじゃ。
そのように人を知り、人に尽くすのは仏道にも通じる商いの道があると言えるのじゃ。
ついでに瞑想をして思念を集中し、工夫を増せば智慧はますます磨かれていくじゃろう。
金を儲ける事で自らを磨くのが、道といえるのじゃ。
それはいずれ金儲けから引退し、修行に入った時に役に立つじゃろう。
金儲けに励むが如く修行に励めば悟りも速やかに来るじゃろう。
715 鬼和尚 :2013/06/27(木) 21:01:18
本当に自分に絶望しているならば、それは修行にはいい事じゃ。
なぜならばそのように絶望してこそ真に悟りを得ようと想うからのう。
お釈迦様も老病死という限界のある人の身に絶望して、悟りを求めたのじゃ。
自分にはまだなにか出来るとか想っている者は、なかなか悟りを求めようとは想わないじゃろう。
希望のある人間は自分を変えようとは思わないものじゃ。
自分は変わらないで世間が変わらないかと願っておる。
世間を変えるために能力は身につけるが、性質は変わらないままなのじゃ。
自分に心底絶望してこそ人は己が変わる事を許すのじゃ。
もはや何の希望も無い己を捨てて、本当に新しい自分に目覚めるのじゃ。
そのように絶望し、全ての世間の営みを捨てれば、却って悟りを得て最高の感性を得られるのじゃ。
不死の境地に至り、一切が平等である喜びが溢れ、更にそれすらも必要とはしないのじゃ。
そして一切の智慧を成就する事が出来るのも、自分に絶望したお陰なのじゃ。
そのように自分に絶望したならば、悟りへの修行に入り、最高の完成を目指したらよいのじゃ。
769 鬼和尚 :2013/06/28(金) 21:09:33
神とは人が心から作り出し、心の中にのみ居り、心の中に見出すべきものなのじゃ。
自ら神を作りながら、神を恐れ、神に許しを請うのはおかしいのじゃ。
神とは心理学でも既にわかっているが、親のイメージが投射されたものなのじゃ。
親であるから、自分を含めた全てを作り出し、男の神と女の神がいるのじゃ。
キリスト教なども一神教の筈であるが聖母が居たりするのじゃ。
それも両親のイメージが投射されているから必要となったのじゃ。
そのような自ら作り出したイメージであっても、それを自らの心に見出し、その中に自我を捨てきるならば役に立つものじゃ。
神を自ら作りながら神を恐れ、神に許しを請うような信仰は無意味なのじゃ。
人の認識能力はそれぞれ異なるものであるから、人が神と言う一定の言葉とイメージを抱いていても、他人は別のイメージを抱いていたりするのじゃ。
恐ろしい神のイメージを抱くものは、神の罰が恐くて異教徒と戦ったりもする。
今の大方の日本人には信じられん事かも知れんがのう。
実際に今でもある事なのじゃ。
そのような人を過ちに導くような神のイメージこそ非難されるべきものなのじゃ。
人の心が作り出した神が、人を罰したり、ものを作り出すことはないのじゃ。
ものごとを作り出し、自らを罰する心こそ人が神よりも注目し、観察しつづけるべきなのじゃ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ避難所33
244 鬼和尚 :2013/09/03(火) 21:51:59
全てのものは本来名前が無いものじゃ。
人が勝手に名前を与え、記憶によりイメージをも与えただけなのじゃ。
例えば道端に転がっている固い物を石と呼ぶ。
しかし、それは名前がついたから石になって存在した訳ではない。
名付ける前からそこにあったものなのじゃ。
人が名付けようと名付けまいと関係なく在り続けるものじゃ。
しかし、人が名付け、それにイメージを与えると石と言うものとしか想う事が出来なくなるのじゃ。
名前からイメージが想起され、投射される故に、石は石としてしか認識できなくなるのじゃ。
人間も同じように鈴木家の一郎とか名付けられると、自分は鈴木一郎としか思えなくなるのじゃ。
記憶から過去の体験のイメージが投射され、そのような経験をした鈴木一郎であると言う固体認識がなされるのじゃ。
それが自我というものなのじゃ。
本来の名付けられないものの状態を忘れた習慣による謬見なのじゃ。
観察やサマーディなどによって名前が同一化できなくなると、本来の名前の無い状態が見えるのじゃ。
名前や過去の記憶からのイメージが己であると言う謬見が止まり、真実の姿が垣間見えるのじゃ。
修行者は自我とは名前とイメージでしかないと知り、恐れを超えて行くのじゃ。
鬼和尚に聞いてみるスレ【1】
45 鬼和尚:2013/08/02(金) 21:26:35
お釈迦様はこのように言っておる。
311 茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行僧の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。
312 その行ないがだらしなく、身のいましめが乱れ、清らかな行ないなるものもあやしげであるならば、大きな果報はやって来ない。
313 もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。それを断乎として実行せよ。行ないの乱れた修行者はいっそう多く塵をまき散らす。
世の中に自分は仏教徒であるとか、行学に励んでいるとか言う者は多いものじゃ。
しかし、実は真摯に修行せず、自らを誇るだけのものならば、むしろ悪しき所への道となるのじゃ。
修行そのものは自らのためのものであり、特に善事でもないのじゃ。
それを自ら偽り、自我を補強するために行なうならば、悪事となるしかないのじゃ。
本当に修行していたとしても、それは誰かに告げるべきものではなく、誇るべきものでもないのじゃ。
それはただ自らの為の行いであるからのう。
修行者が真摯に修行し、自らの本心を見極めようと専心するならば、それこそ正しく修行したと言う事になるのじゃ。
そのようであってこそ為すべき事をして、大いなる果報である悟りを得る事も可能となるのじゃ。
91 鬼和尚:2013/08/06(火) 22:09:07
人の能力に限界があるのは、実際の知力や体力の限界より、心の中にある劣等感や過去の記憶によるものが多いのじゃ。
本当は人は自ら思うよりも多くの事が出来るのじゃ。
過去の記憶や劣等感により、無力な自分のイメージが出来てしまうと、実際にも能力が十分に発揮できなくなるのじゃ。
自分が思う以上の事が出来そうになっても、自分から駄目にしたりさえするのじゃ。
そのような自分のイメージによる制限も、集中力によって乗り越えられるのじゃ。
人が強く集中し、己のイメージも忘れる時、本来の能力が発揮され、思う以上の事が出来るのじゃ。
強い集中で我を忘れた忘我の状態をサマーディと呼ぶ。
サマーディに入った時、肉体の力は心の制限を越えて、最大限に発揮されるのじゃ。
その境地を得る為に昔の武士などは参禅したりしたのじゃ。
剣術を上達するために座ったりしたのじゃ。
そのような禅は本来野狐禅として否定されるものであるが、剣術は命がけであったからのう。
上達するためには何でもやるしかなかったのじゃ。
今でも仕事や勉強に集中力を使えば、より多くの事が出来るじゃろう。
仕事や勉強の前に少しでも数息観などを行なえば、強められた集中力で今まで出来なかった事も出来たりするのじゃ。
集中力が増せば時間が短く感じられたり、自分の体が自然に動くような感じがしたりするじゃろう。
そのようであれば確実に能力も発揮できるのじゃ。
未だ世間において活動するものは、集中力を増す法を活用してみるのじゃ。
144 鬼和尚:2013/08/13(火) 21:36:02
絶望とは望みが絶たれると書くのじゃ。
今まで望んでいた事が絶たれてなくなる事なのじゃ。
それはむしろ良い事なのじゃ。
この世に望みがなくなれば、世間を出る法に入るしかないからのう。
お釈迦様も老病死から逃れられぬ世間に絶望し、悟りを求める事にしたのじゃ。
絶望こそ真の希望への門なのじゃ。
悟りを得たいと思う者も、その多くは実は自分が変わりたくないと思っているものじゃ。
今の状態に執着して変わりたくないと思っているから悟りに至らないのじゃ。
自分や世間に心の底から絶望すれば、変わらなければならなくなるじゃろう。
全てを捨てて変容を起こす事を自分に許すのが、絶望という状況なのじゃ。
絶望したならばそれこそが真の安楽への門であると知るが良いのじゃ。
153 鬼和尚:2013/08/14(水) 21:21:52
魔とは悟りの障害になることを言うのじゃ。
お釈迦様が見たような人の形をした魔がいつも現れる訳ではないのじゃ。
人によっては全く魔が現れない事もあるのじゃ。
マハリシには出てこなかったようにのう。
それも死を超えたものを強く求める故に、魔が現れる暇もなかったからといえよう。
そのように人によって出たり、出なかったりするのじゃ。
悟りの障害になるのが魔である故に、今の人にはゲームとか、アイドルとかアニメとかが魔になる事もあるじゃろう。
魔が現れるのは、人が未だこの世に何か執着を残しているからといえるのじゃ。
何か悟りを得る事よりも強く執着しているものがあれば、それが魔になるのじゃ。
悟りに近付けば、このまま一切を捨てて悟りを得るか、世間に戻るか、常に選択を迫られるものじゃ。
何か心に執着する事があれば、それが魔となって、悟りよりもそれを選ぶように迫られるのじゃ。
魔は執着を残す心より起こるとも言えるのじゃ。
お釈迦様のように老病死によって本当に世間に絶望していたり、マハリシのように強く不死の境地を求めていたならば、魔もつけいる隙がないのじゃ。
心に執着が残っているかどうか、自らの本心を良く観察し、魔を超えて悟りに至るが良いのじゃ。
161 鬼和尚:2013/08/15(木) 21:13:50
結婚とか恋人とか、世の中では当然と思われている事も、実は現実的ではない幻想でしかなかったりするのじゃ。
人は結婚したり恋人同士になる時、永遠に一緒だとか誓いをしたりするが、この世ではそれはありえないのじゃ。
無常という法則のあるこの世では、死や別離が何時かは訪れ、別れてしまうしかないのじゃ。
それが真の現実なのじゃ。
苦の多い世の中を忘れるため、幻想に浸っていると、そのような事も眼に入らなくなってしまうものじゃ。
結婚も恋愛も創られた幻想なのじゃ。
例えば目覚し時計をかけて、朝に起きなければならない者が、寝ぼけて永遠に寝ていられるとか思っているようなものじゃ。
何時かは鳴る時計を忘れ、ずうっと寝ていられると思っても、実際には時計が鳴って起きなくてはならなくなるじゃろう。
老病死という苦のある現実の世では、肉体を持つ二人の者が永遠に一緒にいられるという事はないのじゃ。
そのように無常であり、死と言う時間の限界があるという事を知れば、執着も消えていくじゃろう。
ただ一時しか持つ事が出来ない物に、囚われれば苦が起きるじゃろう。
それを何度でも観察し、囚われを厭離出来れば、苦もまた滅するのじゃ。
執着があれば、それを手に入れたいという欲が起こり、得られなければ苦が起こる。
執着が無ければ、それを手に入れたいという欲が無く、得られないという苦も無いと、観察を繰り返すならば、執着も苦も共に滅するのじゃ。
その苦の連鎖が己ではなく、己のものでもないと気づきが起こる故に、厭離も起こるのじゃ。
そのようにして幻想から起こる執着を乗り越えるのじゃ。
491 鬼和尚:2013/09/05(木) 21:44:47
およそ人がある事をしたいと思っても出来ない大きな理由は二つあるのじゃ。
一つはそれをするのに恐れや不安があるためじゃ。
もう一つは能力が無いからなのじゃ。
恐れが無くなり、能力が高くなれば人が行う大抵の事は出来るようになるのじゃ。
修行すれば恐れや不安は無くなり、能力も高まるのじゃ。
その結果大抵の事は出来るようになるものじゃ。
喩えば人が車を運転したいとか思っても、恐れがあり、運転能力が無ければ出来ないのじゃ。
修行によって恐れが無くなり、能力も高くなれば運転できるようになるのじゃ。
そのように実現したいと思って居ながら、出来なかった多くの事も、修行によって心を整える事で出来るようになるのじゃ。
人の存在は心が主であり、心によって肉体は動かされているのじゃ。
それ故に心を制する事が出来れば、多くの事が可能になるのじゃ。
心を直接に扱う修行はただ悟りを得させるだけでなく、多くのことも可能にしてくれるのじゃ。
実践する者は自ら体験してそれを知り、更に修行に励むのじゃ。
509 鬼和尚:2013/09/07(土) 21:10:11
例えば人がでかい鉄の色眼鏡をかけて居たならば、眼鏡のせいで頭が痛くなり、世界も本来の色では見えないじゃろう。
頭が痛いのを治そうと眼鏡を取れば、痛みがなくなると同時に世界も鮮やかな元の色で見えるようになるじゃろう。
そのように普通の人間にとって苦は、ただ苦しいだけでなく、世界の見方さえも変えてしまうものじゃ。
苦があるだけで世界は限定され、灰色に見えたりするものじゃ。
その苦が無くなれば、色眼鏡を取ったように世界もまた新しく見えるのじゃ。
世界の見方が変わり、出来る事も増えるのじゃ。
例えば人が恐いと言う苦があれば、世間に出ることを恐がり、世界も恐ろしい所に見える。
その苦が無くなれば世間に出ることも恐くなくなり、世界も普通に見えるのじゃ。
今苦を抱えている者も、苦によって絶望したり、世界が灰色に見えてしたい事も諦めないで良いのじゃ。
苦は正しい法によって必ず滅する事が出来るものであり、苦を滅すれば同時に世界も変わるのじゃ。
苦を抱え絶望する者のために、目覚めた者は正しい苦を滅する法を説いたのじゃ。
その法によってただ一つの苦を滅しただけでも世界は変わるじゃろう。
全てに絶望していても先ずは一つでも苦を滅してみると良いのじゃ。
そこから世界は変わり、絶望も希望に変わるじゃろう。
602 鬼和尚:2013/09/12(木) 21:44:48
漢訳の経典を見れば諸法無我と書かれているのじゃ。
しかしこれはわしが通常言う自我が無い事とは違うのじゃ。
わしが言う無我はその文字の通り、我と言う認識が無い事なのじゃ。
その境地では一切が充足し、心が静まり、世界が光り輝き全て繋がっている感覚がある。
それは真の悟りではないが、真実の世界を垣間見る小悟の境地なのじゃ。
経典に書かれている無我とはアートマンは無によってのみ定義されるという事なのじゃ。
これを学の浅い学者などはお釈迦様はアートマンの思想を否定したなどと勘違いしているのじゃ。
実際にはアートマンとは思想ですらなく、空と同じように一切がアートマンであり、そのアートマン自体は無で現されるという行法なのじゃ。
それを修めれば執着を去り、認識を止め、自我を滅する事も出来るのじゃ。
そのように定義されるアートマンは我ではなく、真の我、真我でもないのじゃ。
修行の為の方便に過ぎないものであるからのう。
アートマンを我と訳すのが間違いなのじゃ。
バラモン経典にもアートマンは知識などではなく、瞑想されるべきものと記されておる。
お釈迦様が諸法無我といったのは、一切はアートマンであり、そのアートマンは無によって現されるという正しい古の法を示しただけなのじゃ。
お釈迦様は古いインドの聖典を習い、その言語によって法を説いたのじゃ。
大多数の修行者には関係無い異次元の話であるが、本当のお釈迦様の言葉の意味を知ろうと想うならば、その時代の古いギータなどを読んで、意味を理解すべきなのじゃ。
665 鬼和尚:2013/09/16(月) 21:25:19
お釈迦様はこのように言っておる。
38 この世で教えをよく説き、多く学んで、何物をももたない人は、楽しい。
見よ!人々は人々に対して心が縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。
39.この世で教えをよく説き、多く学んで、何物をももたない人は、楽しい。
見よ!人々は人々に対してかたちが縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。
この社会に生きる者は他人よりも多くのものを持てば偉いとか、そのような考えを条件付けされておる。
他人と金やものを多く得る競争をするのが当然であり、競争に勝つ者だけが偉いとされているのじゃ。
しかし、何かを持てばそれを失いはしないかとか、誰かに取られないかとか、壊れはしないかとか考えて安らぎは少なくなるものじゃ。
ものが多くあるから幸せとはいえないのじゃ。
当然ながら生きて行くために必要なものを得るのは良い事じゃ。
生きていくのに必要な量以上に求めるのが、心の安らぎを失う道なのじゃ。
物を多く得るより、少ないもので満足する方が優れているとさえ言えるのじゃ。
物を得ても無くしはしないかと怯える者が、脱税とか違法な事をしてまでもっと多くの物を得ようとするのじゃ。
少ない物でも満足すれば、失う不安は無く、心安らいで過ごせるのじゃ。
もとよりこの世は一時的にしかいられない所なのじゃ。
そのような所で多くの物を得ようとして不安を抱えるより、修行して永遠の安らぎを求めるのが賢者の道といえるのじゃ。
677 鬼和尚:2013/09/17(火) 22:06:58
人の意志は最も強い力を持つ故に、修行する者は自分が本当は何を意志選択しているか、常に知ろうとするべきなのじゃ。
人の心は機械のようなものではないから、意志によって左右される部分が大きいのじゃ。
例えば病を持つ者の中で一番治り難いのは、自分が治そうとする意志が無いものなのじゃ。
病気でいればみんなが注目してくれるからとか、いろいろ楽だと思って病気になる事を意志選択すると、全然治らんのじゃ。
意志が人の肉体をも変える力があるからなのじゃ。
同じように苦を持つ者も、その苦に執着し、苦を持ち続けることを意志し選択していると、苦は滅しないのじゃ。
人は苦を嫌いながら、実際にはその苦に執着している事も多いのじゃ。
孤独が恐いから病苦をわざと長引かせているとかのう。
もし法の通りに修行して苦が滅しないならば、自分が苦に執着し、意志選択していないか観察してみるのじゃ。
観察によって意志を変えるべきだと気付けば、変える事も選択できるのじゃ。
修行も同じようにいつまで経っても進歩しないのならば、自分が進歩しない事を意志選択していないか観察してみるのじゃ。
人は自らが意志によって許した分しか進歩しないものであるからのう。
修行者は自らの本心を探り、意志を正しい選択に向け、進歩しつづけるのじゃ。
709 鬼和尚:2013/09/20(金) 22:03:26
お釈迦様はこのように言っておる。
1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。
2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う。
影がそのからだから離れないように。
最近は巷でも引き寄せの法則などが話題であるが、お釈迦様は2500年も前から、心がものごとを作り出すことを知っていたのじゃ。
悪い事をする悪い者は自分にとって悪い事を作り出し、良い事をする良い者は自分にとって良い事を作り出す。
それが判れば人生を楽しみで満たす事も可能なのじゃ。
心がものごとを作り出すといっても、考えたことが直ぐにそのまま現実になる訳ではないのじゃ。
考えたり、思う事ではなく、自ら意志をして、行った事の報いが現実になるのじゃ。
人から財産を奪えば自ら汚れた心になり、財産が奪われることを作り出す。
人に財産を施せば自ら清い心となり、財産が増えることが作り出されるじゃろう。
人が生きる環境は確かに心によって作り出されるのじゃ。
それを知ればもはや福楽を生み出す事も可能なのじゃ。
死後もまた福楽の多いところにいくじゃろう。
善い事をする清い心であれば生きているときも楽しく、死後もまた楽しいところにいけるのじゃ。
976 鬼和尚:2013/10/11(金) 21:08:13
(鬼和尚による十牛図の解説を聞きたいです。 )
十牛図は元は道教の修行の為のものであったという。
元々道教の聖なる数字である九図であったというが、禅の者がとりいれて一図を足し、十牛図にしたという。
最後に入れられた入鄽垂手図では悟りを得た後、人々に教えを説く事が現されておる。
それこそお釈迦様から連なる仏教徒の姿なのじゃ。
一.尋牛 牛を尋ねる。牛とは人の自我と言えるのじゃ。
牛を尋ねるとは自らを見出そうとする意志を定める事なのじゃ。
二.見跡 跡を見る。未だ自我は見えないが何やら心に残る跡が見えてきたのじゃ。
心に感情や思考などの働きがあれば、主体を起こす事になるのじゃ。
心の働きを観る事によって、その背後にある主体の跡をも垣間見るのじゃ。
三.見牛 牛を見る。自我が見えたのじゃ。
己とは何であったのか、観る事が出来れば気付くのじゃ。
完全に自我が観られたならば、この見牛から忘牛までは一瞬で起きるのじゃ。
四.得牛 牛を得る。自我を確実に捉えたのじゃ。
想起される自我を確実に捉えて観察できたならば、それを滅する事も容易いのじゃ。
五.牧牛 牛を牧する。もはや自我は手名付けられたのじゃ。
好きな時に自我を想起して観る事が出来るようになれば、もはや悟りも近いのじゃ。
六.騎牛帰家 牛に乗って家に帰る。ついに自我とは自己と同一化された観念と気付いたのじゃ。
自我とは観念であり、観念に自分であると言う自己同一化がなされていたと気付けば、偽りの認識が正され、正しい認識に還った事になるのじゃ。
七.忘牛存人 牛は消えたが人はある。自我は観察による気づきにより完全に滅したのじゃ。
しかし、未だそれを認識しているものがある。
その認識さえも滅しなければ真の悟りではないのじゃ。
八.人牛倶忘 人も牛も無くなった。無我を認識するものも無くなれば真の悟りなのじゃ。
無認識にまで至って真の悟りなのじゃ。
そこには言葉でも図でも表されるものが無いのじゃ。
九.返本還源 全部元に還った。偽りの認識が滅してしまえば、世界の真の姿が見えるのじゃ。
赤子の頃に見た輝く喜びの世界に回帰するのじゃ。
十.入鄽垂手 現世に戻り教えを説くのじゃ。大乗仏教では修行に入る時に悟りを得たならば後進の者に教えを説く事を誓うのじゃ。
真の悟りを得たならば誓いを果たすのじゃ。
それすらも肉体が滅するまで続く修行なのじゃ。
鬼和尚に聞いてみるスレ part3
10 鬼和尚 :2014/03/08(土) 21:09:56
(縁起の法の習熟段階表を書いていただけませんでしょうか? )
観察の道では偶然でも一瞬自我が観察できたならば、直ぐに無我になる事もあるものじゃ。
それ故に正しい道とか、誰もが通る段階とかは無いのじゃ。
それを理解した上で、一応の段階を描いておくのじゃ。
① 初心では苦を滅する法を習って縁起の法を体得するのじゃ。
② 次には肉体や心の働きを縁起によって観察し、自我の起こるさまを観察するのじゃ。
③ 自分が最も自分を感じる肉体や心の働きを知り、それを縁起によって良く観察するのじゃ。
④ それがよく観察されれば観照が起こり、自我が観察されて厭離されるじゃろう。
⑤ 無我になった後に、そのような縁によって起こる心の働きそのものを観察するのじゃ。
それが阿頼耶識なのじゃ。
阿頼耶識が観察されて厭離されれば真の悟りに到達するのじゃ。
誰もがこのような過程を経る訳ではないが一応の目安として知っておくと良いのじゃ。
404 鬼和尚:2014/03/31(月) 22:43:55
おぬしは後三時間で死ぬ!!
などと言われれば誰でも驚き恐れるじゃろう。
日頃忘れている死というものを間近で感じるからなのじゃ。
そのように大抵の者は死から逃避し、日頃は忘れてしまっているものじゃ。
しかし死ぬという事は生きていれば必ずやってくるものじゃ。
いずれは最初のわしの言葉は、誰にでも本当になるじゃろう。
もしかするとそれは今かも知れんのじゃ。
今の肉体や思考や感情や自我はいずれ捨て去らねば成らないのじゃ。
もはや後三時間で死ぬ者が、肉体や思考や自我などに執着していれば、死苦の他に執着による苦も負う事になるじゃろう。
自我は悟りを得なくとも、いずれは捨てなくてはならんものなのじゃ。
そうであれば今捨てる事で不死の境地への道が開かれるのならば、速やかに手放すが良いのじゃ。
自我を手放すことに恐れが生じれば、いつでもそれが後三時間で捨てなければならんのかも知れんと思うが良いのじゃ。
自我を手放すとは捨てなければならんものを、今捨てる事なのじゃ。
そうすれば恐れを克服して無我に至るじゃろう。
さらに無我を認識するものも厭離すれば、真の悟りに至るじゃろう。
そうすればもはや一切の苦は無く、死もまた無く、一切が一つである喜びが常に感じられるのじゃ。
一切の仮設された観念から解放され、為すべき事も為すべき己も無いのじゃ。
修行者はその境地に至るまで日々精進するのじゃ。
569 鬼和尚:2014/04/28(月) 22:30:58
己を追及する者は速やかに真の変容を体験するじゃろう。
それは他のどんな修行でも齎されないものなのじゃ。
変容は自分自身が観られ、気付きが起きて厭離されたときにのみ起こるものじゃ。
それには己を追及することが必要なのじゃ。
その他の修行法や方法は変容にまでは至らないのじゃ。
数息観などの集中の修行では集中力が身につくじゃろう。
勉強をすれば知識は身に付くじゃろう。
思考法を知れば論理を操る力が身に付くじゃろう。
しかしそれらの方法では人を速やかに悟りに導く変容は訪れないのじゃ。
集中力を養えばサマーディに到達し、対象の無いサマーディにまで至れば悟りは訪れるが、それには長い時間が掛かるものじゃ。
知識は仮設された事象の記憶であり、それだけでは悟りには至れないのじゃ。
思考も観念の操作であり、囚われれば悟りから遠ざかるものじゃ。
己を追及する事こそそれらの回り道を越えて速やかに悟りに導く道と言えるのじゃ。
修行者は最も近い道である己を追及する道を行くが良いのじゃ。
2014年8月19日 発行 初版
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