spine
jacket

希望していない勤務地——金星は、空中都市を中心に、様々な研究者、技術者が暮らしている。一見平和なこの世界も、地表に眠る資源争いが繰り返されてきた。そこは、地獄の釜の底。様々な思惑が重なる中で、地表降下部隊——アタッカーズの降下が始まる。

───────────────────────



ヴィーナス・アタッカーズ

作:悪紫苑
絵:Arumei

AXION物理学研究所



───────────────────────

 目 次


一、任  務


二、事  故


三、遺  跡


四、降  下


五、発  動


六、帰  還


七、顛  末 ~蛇足のエピローグ~







一、任  務

 
 副操縦士コーパイ湊川みなとがわと共に、単純だが重要ないくつかの煩雑はんざつ定型作業セレモニーをこなして、どうにか自動操縦に切り替えると、俺は操縦卓コンソールに両足を投げ出し、座席を目一杯、リクライニングにした。湊川は『やれやれ』って顔で見ているが、かまやしない。第一、俺が足を投げ出した場所は、塗装が剥がれて下のカーボン繊維が見えている。歴代の操縦士パイロットはこうやって休息を取ってきた筈だ。
 「着任早々、輸送船で回収作業とか……。ったく、俺はまだ、基地周辺の地理﹅﹅さえ頭に入ってないって言うのに。ここはそんなに人手不足なのか?」
 半分は皮肉、半分は冗談だ。少なくとも、僅かな地上部隊を除き、ここの地理を覚える必要はなさそうだった。そもそも基地周辺って場所は常に不確定。俺たちは常に飛んでいる。降りるべき地上は何処にも無い。
 「はは。そう腐るな。三ヶ月も寝てたんだから休養十分だろ。肩慣らしには丁度いいフライトだと思うがな」
 「アレが寝てたって言えるか! 冷凍食品並みの扱いだろうが!」
 湊川とはその昔、一緒に働いた事があるからよく知っている。まさかこんな所で再び一緒になるとは思わなかったが、見ず知らずの土地で知った顔を見れば多少はホッとする。だが、今の俺は——なんと言おうか。そう、不機嫌だった。別に怒っているわけじゃない。不安というのとも少し違う。心の準備も出来ないままこんなところに放っぽり出されて、俺は一体何をしてるんだろうね——と、激しく自己嫌悪におちいり自問自答しているのだ。
 「それにな。上沢かみさわ——」
 湊川は、腕組みをして、こちらをチラリと見ながら話しかける。心無しか、笑っているようにも見える。
 「お前——、ここを希望して赴任ふにんしたって言う話を聞いてるぞ」
 「はぁ?」
 「『俺は大気中をGを感じながら飛びたいんだぁ!』とか何とか大見得切ったと……。違うのか?」
 「…………」
 どこから伝わったデマだ、そりゃ。
 
 確かに、話を要約して嘘をつかない程度﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅に都合よく曲解きょっかいすればそう言う話になる。だが、認識にかなりのズレがあるようだな。確かに俺は、宇宙船の操縦には飽き飽きしていた。あんなのは操縦じゃない。軌道は全て決まっていて、噴射タイミングも、射出量も、噴射時間も、選択の余地がほとんど——いや、全く無い。猿でも出来る仕事だ。やっている事と言えばただひとつ——
 『目標をセンターに入れてスイッチ』
 たったそれだけ。その繰り返し。何が楽しいんだろうねぇ。
 感じられるのは、ONとOFFのスイッチの感覚と、それに伴う、これまたONとOFFの二者択一の慣性力だけだ。全てがスイッチ操作で事足りる。操縦桿の必要が無い。何と言うか、操舵ドライブしているという感覚が全く無い。機械の部品になったようなものだ。
 もともと、空軍のテストパイロットを経て、宇宙局へ配属になった俺だ。自分で言うのも何だが、エンジンで空を飛ぶものは、オートジャイロから、最近計画が始まった核融合ペレット型外宇宙航行実験船『ネオ・ダイダロス』まで飛ばせる自信がある。もっとも、後者は、実物がこの世に存在しないので、あくまでもシミュレーターの中での話だが、妙にフワフワした加速で腰の座りが悪い、お尻がムズムズする——何というか、ビーチボールに乗って小刻みに飛び跳ねているような、奇妙な加速の機体だった。
 より速く、より高く——って言うのが飛行機乗りの心情だ。誰だって同じだろう。だが、宇宙空間まで出てしまうと、少しばかり事情が異なる。大気があれば、速度は肌で感じることができる。マッハを超えれば目でも分かる。円錐形の圧縮された空気層の前後で、風景が少しばかりずれて見えるからだ。空の色と機体の振動、音、それらが一体となって状況を教えてくれる。だが、宇宙空間には大気が無い。そうすると、宇宙船の加速度﹅﹅﹅は感じる事ができても、速度を感じ取ることができなくなる。頼りになるのは計器だけだ。
 宇宙船での初フライトの時、俺は奇妙な既視感デジャブさいなまれた。確か、北アフリカの局地戦だったが、オスロ条約に違反したクラスターミサイルの雨を受けた時だ。こっちは国連UNの偵察機で丸腰だって言うのに、見境が無い。そもそもゲリラ戦に秩序を求めるのもこくって言えばそうなんだが、そん時はそんな事考えている暇はなかった。思うより先に操縦桿を引き、足元の視界ギリギリに盛大な飛行機雲ヴェイパーを作った。エア・バッグが破裂したかのような勢いで耐Gスーツの足元が膨らむ。仮に、そのまま直進していたなら機体が進んでいたであろう空間にミサイルの半数近くが集結し、火球を作った。個々の爆発力は小さいが、この高度でこの速度だ。当たればどうなるか知れたものではない。というか、実際、いくつかの破片は当たっていた。
 その後どう操縦したかはよく覚えていないが、さらに上空に逃げようとして上を見ると、回転する地面があった。いや、おかしい。計器を見ると水準器が逆転している。猛烈なGで機械が狂ったと思ったが、狂ったのは俺の方。典型的な空間識失調バーティゴというヤツだ。空間識失調バーティゴに陥ったのは後にも先にもあの時だけだが、パニックになる事も無く無事に不時着——って、不時着なんだから無事じゃないよな——出来たのは幸いだった。確か、高度300フィート程度まで背面飛行をしている感覚だった気がする。後日回収されたブラックボックスのデータには、途中5秒程度失神していたことが記録されていたが、その記憶の切れ目を俺は認識していない。ただ、診察に関わった軍医の話によると、発生した飛行機雲ヴェイパーを見たと思っている記憶は、失神中だった可能性があるとのことだ。ブラックアウトでもレッドアウトでもない。灰色の霧の中を飛んでいるような感覚らしい。
 
 ——なんで、こんな回想をしてるんだ? 
 そうそう。宇宙船の初フライトだ。基本的に宇宙船の操縦は計器のチェックとスイッチのONとOFFだ。ぶっちゃけ、外を見る必要が無い。だが、そいつは宇宙船乗りがあまりに可哀想だろうってんで、操縦には不必要な窓﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅が申し訳程度についている。360度見渡せる戦闘機とは大違いだ。反対に、完全に閉鎖された操縦室コックピットを持つ空軍機も開発されているのだが、誰も乗りたがらないので実験機止まりだ。いくら、『こちらの方が空力学的に優れた機体で、機動性は保証する』と言われても、乗りたくないものは乗りたくない。そういうのは無人航空機UAV: Uninhabited Air Vehicleだけにしてくれ。
 どうも話がブレるな。
 ——で、宇宙船の初フライトのとき、その小さな窓を見上げて地球を見つけたとき、そのときの情景・感覚がよみがえった。地面が上にある。もちろん空間識失調バーティゴじゃない。そもそも上下感覚のない空間だ。
 むろん、宇宙局勤務で楽しいこともあった。特に大気圏再突入Re-Entryの時など、未だにワクワクする。真空と大気圏との狭間を、時には何度も通過しながら転がり、巨大な松明となって落ちる。衛星軌道から外れてすぐの場所では、大気による減速よりも、位置エネルギーの転換による加速の方が勝っていて、機体が悲鳴を上げながら突き進む。実に楽しい。
 ただ、操作のほとんどがコンピュータ制御で、その点が唯一の不満だった。コイツが壊れれば手動操作の許可が下りるんだが、意外と頑丈だし、バックアップを含めて3台のコンピュータの合議制で判断しているので、それら全てがお釈迦になることは——、まあ、俺の飛行人生の中では発生しない事案だろう。もしもそんな事態が起こることがあるとしたら、それはコンピュータのみならず、宇宙船そのものの大破を意味する事になり、その段階では手動であってもどうにもならない事態だということだ。
 
 そんなこんなで、俺は3年あまりの宇宙局での勤務を終え、『大気圏内を再び飛びたい』と、調書の勤務希望欄に強く書いた。湊川の言っていることは嘘じゃない。
 確かに〝より速く、より高く〟を追求するのなら宇宙空間に出ざるを得ない。だが、速さと高さを自分で体感できないのなら何の意味がある? 数字の上だけで満足なら、地球は太陽の周囲を秒速30キロメートルで移動していることになるから、地上勤務で充分ってことになるじゃないか……。
 だが、人事部の奴らの方が一枚上手だった。『お望み通り——』と受け取った辞令を見て俺は目がテンになった。一度目をつむって、もう一度見返したくらいだ。そんなこんなで半年後。軌道間輸送船OTV: Obital Transfer Vehicleで冷凍食品並の扱いを受けた後、俺が今飛んでいるのは、確かに大気圏内だ。それもかなり濃いヤツ。ただ、少しばかり誤算だったのは、
 
 ——ここは金星なのだ。
 
 一言『地球で』と書いてなかったのが悔やまれる。もっとも、書いたとしてもそれが採用されるとは限らない。どちらかというと反古ほごにされる可能性の方が高いだろう。ただまあ、それならそれで、正当な﹅﹅﹅愚痴が言えるってもんじゃないか。
 そういうわけで、俺のいきどおりは行き場が無く、激しく、そして空しく自問自答する他に術が無いという状況になっている。ざまぁないぜ。
 
 金星にもそれなりの都市があって、研究者を始め、ある程度の人が住んでいることは知っていた。火星にもあるんだから金星にだってあるだろう——その程度の認識だ。ちなみに、火星には、都市間の輸送部隊の一員として、3ヶ月程行った事があるが、あそこはほとんど弾道飛行で、大気中を飛ぶと言う感覚はなかった。輸送機の巡航速度で飛ぶだけなら、何とか空力学的に飛ぶことができるという程度で、それもかなり難しかったのを覚えている。下手に旋回などしようものなら、直ぐさま3000フィート位落ちて、立て直しに時間がかかった。空中戦なんて絶対できない。好戦的な火星人がいなくて本当によかった。
 木星当たりまで行くと、それなりに大気の濃そうな惑星——じゃなかった、衛星がゴロゴロしているようだが、人類が気軽に到達できる距離じゃない。まあ、人類が一万人単位でまともに住めるようになるには、あと百年位かかるんじゃないかな?
 俺は金星に関してはその程度の知識しかなかったから、火星と同じく、ドーム型の都市が地上にポコポコとあるんだろうと思っていたが、その素人考えは全く通用しなかった。何しろ、金星の地表面の気圧は90気圧を優に超え、温度に至っては460度もある、どんな圧力釜もビックリするような環境だ。いやいや、それはいくら屈強な人種でも住めんだろう——よほど月面の方が住み易いじゃないか——と考えていたが、そもそも金星の都市は地表には無かった。正確に言えば、地表にも数地点の極地観測基地があるのだが、ほとんどの人間はそこにはいない。居住区となる都市は地表から55キロメートル程の上空に浮いている﹅﹅﹅﹅﹅のである。
 『空中都市』と言えば何やらカッコイイが、反重力装置みたいな超科学的設備があるわけではないから、気球が空中に浮いているのと基本的には同じ原理だ。基本的なモジュールは一辺が1キロメートル近くある六角形の浮き袋のような形態で、それら数百~数千のモジュールと、そこから腕のように伸びた通路が規則的に絡み合い、一つの巨大な居住区を形成している。何かの分子構造を真似まねているらしいが、化学の素養が無い俺にはよく分からず、網の目が螺旋を巻いて筒になっているようにしか見えない。ちなみに、都市は一つではなく、各緯度帯に分かれていくつか点在している。俺はまだここ——北緯30度帯30 Degrees North——の一地方都市〈レッド・ランタン〉しか知らないが、管轄する国ごとに、人種はもちろん、文化や生活習慣はかなり違うようだ。
 国と言っても、一応金星は、一つの自治権を持った連邦共和国を成しており、地球上のどの国の支配下にも置かれていない——と言う建前﹅﹅になっている。いや、さらに言えば、共和〝国〟ってのも間違いであって、月協定Moon Agreementにより、金星はいかなる国家や団体の支配下にも置かれる事は無い。だから共和国っていうのも、国際的レジームとしての南京議定書Nanjing Protocolによって仮に作られた互助会みたいなもので、どの国にもくみしない事務方の集まりでしかない——と言う建前﹅﹅だ。
 だが、建前は建前でしかない。現実は、緯度帯の都市ごとに主たる開発援助国DAC: Development Assistance Countriesが決まっていて、まあ何と言うか、その国の色に染められている。政治のことは興味がないが、共和国政府——建前上は政府と言っていいのかどうか分からんが、面倒だから政府でいいだろう——としては、無償で居住区や施設を提供してくれる国や団体ならば、公式・非公式の区別無く、来るものは拒まないって段階なんだろう。見返りとして地表の鉱物採掘を見て見ぬ振りをしてもだ。
 衣食足りてくれば、そのうち独立戦争でも起こすんじゃないかな? いや、最初から建前としては連邦共和国——さらなる建前では国ではない——として独立しているから、外国人排斥運動か。だが、そもそも金星には現地民ネイティブってヤツが居ないから、誰が外国人なのか分からん……。

 
     *  *  *
 
 「ところで——」
 俺は湊川にどうしても聞いておきたいことがあった。
 「——後ろの貨物室カーゴルームに乗っている、アレは何だ? 航空貨物運送状Air Waybillは届いてないぜ」
 「あぁ? ああ、アイツか。アイツは止めとけ」
 「はぁ?」
 俺たちが乗っているのは、巨大な飛行船モドキだ。胴体となるような部分は存在せず、〝く〟の字型の翼だけで構成された硬式ハイブリッド飛行船というのがその正体。その形状から〈ブーメラン〉と言う愛称ニックネームで呼ばれている機体なのだが、どう見ても餃子ギョウザが空を飛んでいるようにしか俺には見えない。プラスチックと軽金属の複合体という、無重力空間でなければ作れない素材でできた外骨格を持つプロペラ機で、餃子ギョウザのヒダに相当する部分にモーターが8機ついている。
 海抜かいばつ——じゃなかった、空抜﹅﹅0メートルでの〈ブーメラン〉の比重は周辺の大気より大きく、定義上は重航空機に該当するが、餃子の具が詰まっている部分の大半はヘリウムガスが詰められているので、モーターが2機だけでも、最大出力なら何とか浮いていられる。仮に全てのモーターがストップしても、硫酸雲の雲底——空抜マイナス20キロメートル以下——まで落ちることはない。ちなみに、金星の大気は、地球上の空気より重い二酸化炭素が主成分なので、浮力は地球上の1.5倍程度だ。
 〈ブーメラン〉は地球上のハイブリッド飛行船と同じく、図体の割にはあまり荷物は詰めないのだが、それでも全長——いや、縦より横幅の方が圧倒的に長いので、全幅というべきだが——300メートルもの機体には、テニスコート2面分くらいの貨物室カーゴルームが備わっている。搭乗時にモニターで確認したとき、ヘリウムガスのボンベを除き、積み荷はエンプティだと思っていた。そもそも今回の作戦ミッションは、積み荷を届けるのが仕事ではなくて、積み荷を取っ捕まえて帰る﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅のが目的だから当然だ。
 だが、モニターの片隅。チラッと動く影を見つけた。小さな人影。ズームして寄るとスラリとした肢体の女性がトランクに腰掛けていた。更にズームをすると……芯が強そうな鉄色の眼でにらまれた。数十メートル先の監視カメラの動きなどよく分かるものだと感心しながら、彼女が何者かを考える。
 
 ——と、その前に、今回の作戦ミッションとやらを説明しないと、何が何だか分からないだろう。
 
 金星行きの辞令を受け取って軌道間輸送船OTV——監獄船の間違いじゃないのか——に乗り込み、3ヶ月もの冷凍睡眠コールド・スリープの果てに、俺はあたかも巨大な砂嵐サンドストームに覆い尽くされたかのような乳白色に黄ばんだ星に辿り着いた。映像では何度も見ていたが……なるほど。確かに、雲の切れ目ってものが全く無い。見ただけで憂鬱ゆううつになる星だが、明るさだけは保証する。何しろ夜側も大気のふちが輝いていて、真の闇なんてものは、この星には無いらしい。
 ただ、俺が所属する〈レッド・ランタン〉に到着すると、周囲は思ったほど明るくないことも分かった。多くの空中都市は、気圧と気温の関係で常に雲中にある。太陽からの直射光は全く拝むことができない。もっとも、地球の2倍も明るい太陽はまぶしすぎるので、じかに拝みたいとは思わない。
 到着して3日間は自由行動フリーだが、初日は冷凍睡眠コールド・スリープの後遺症の所為せいで、手足が自分のものじゃないような感覚だった。症状は1日で直りはしたものの、残りの2日間、フラフラと出歩く気分ではなかった。
 「上沢ぁ、そんなのは一時的な筋力の衰えだ! 走れ!」
 と、俺たちが〝おやっさん〟と呼んでいる小隊長殿は、着任当日から元気だった。名は長田源一郎。いかにも隊長っぽい名前だろ。官舎から見下ろした道沿いを、ランニングシャツだけで走る小隊長殿おやっさんに軽く敬礼し、俺は再びベットに腰掛けた。四十過ぎのおっさんの筈なのに何でああも元気なんだろうねぇ。そう言えば、『俺は人を食って生きてるから元気なんだ。ガハハ』とか何とか、それこそ寒いオヤジギャグをかましていたっけ?
 ちなみに気づいていると思うが、上沢——上沢俊介ってのが俺の名だ。
 着任当初は北緯30度帯30 Degrees Northに点在する基地間の挨拶巡りでもするのかと思いきや、初任務ファースト・ミッションは意外と早かった。到着から5日目の作戦会議ブリーフィング小隊長殿おやっさんから聞かされたのは、
 
 『お前ら、ちょっと水汲んでこい!』
 
 ——まあ、一言で言えばそういうことだ。要はパシリだな。
 後で聞いたのだが、この〝水汲み作戦Water-Drawing Mission〟は、金星に着任した新任パイロットが最初に受ける試練だそうで、そいつの技量や度胸、気質などを確認する恒例行事になっているらしい。

 地球に有って金星に無いものと言えば、真っ先に思いつくのが水だ。逆に言えば、地球から水を取り除き、生物が作り出した炭酸塩とやらを二酸化炭素として大気中に戻してやれば、地球も70気圧程度の灼熱の惑星になる。水の有無が2つの惑星をこんなにも変えてしまったわけだ。いや、逆か? 太陽に近く、暑かったことが原因で、水が蒸発して無くなったのだったか? まあいい。ともかくこの星には水が無いのだ。
 で、金星で水を確保する手段は2つ。ひとつはなけなしの大気から搾り取ること。金星に降る濃硫酸の雨を加熱して水と三酸化硫黄とやらに分離するらしいが、機械のメンテナンスまで考えると面倒で効率が悪いらしい。そしてもうひとつは、外から水を持ってくる方法だ。とは言っても、バケツで汲んでくるわけにはいかない。少々荒っぽい方法だが、氷で出来た小惑星——つまり、彗星の軌道を変えて落っことすのである。
 問題は、どうやって受け取るか? ——だ。地表に落ちるまで待っていたら、途中で全て蒸発してしまう。落下時の空力加熱対策として、落とす前段階の彗星前面に炭化吸熱体Charring Ablatorをコーティングしてあるとはいえ、側面からの蒸散を完全に防げるわけではない。それに、そもそも居住区は空中にあるので、上空でキャッチしなければ意味が無い。
 作戦そのものは非常に単純だ。まずは〈ブーメラン〉に乗り、彗星の落下地点へ向かう。コイツは小型核動力炉で飛ぶプロペラ機だから、精々、空抜5千メートルくらいまでしか上昇できない。何しろ大気中に酸素がないので、酸素を必要としない動力で動くプロペラ機か、酸素を含んだ推進剤を最初から搭載したロケット推進機しか、空を飛ぶ事が出来ない。落っことす彗星の大きさにもよるが、空抜5千メートルでは氷のほとんどはバラバラに四散してしまい、広範囲に雨となって降り注いでしまうので、回収は難しい。
 そこで、ロケット推進機付きの高々度迎撃戦闘機——いや、戦闘機じゃねーな。迎しちゃダメだからな。ま、ともかく、そいつの出番だ。
 〈ブーメラン〉には通常、緊急脱出用の複座のプロペラ機体が二機備え付けてあり、〈ブーメラン〉の翼上を滑走路として使い、離発着できるようになっている。今回はそのうちの一機がロケット推進の特別仕様で、腹にビッグ・ハンドと言う強化カーボンか何かでできた丈夫な大風呂敷﹅﹅﹅﹅を格納した〈収水〉という名の機体に換装。コイツで空抜3万メートルくらいまで一気に駆け上がり、ビッグ・ハンドを彗星めがけて発射。ビッグ・ハンドは半径500メートルもの巨大な膜となって広がり彗星を捕獲。上手く言ったら拍手喝采Big Hands。ビッグ・ハンドのへりには衝撃を受けると膨らむ気球が取り付けられていて、彗星をくわえこんだまま空中を漂うことになるから、こいつに紐を巻き付けて〈ブーメラン〉に着艦。後はゆっくりと〈ブーメラン〉で曳航すればイイ——というのが、作戦の全貌だ。簡単だろ?
 話は簡単なのだが、ビッグ・ハンドの発射タイミングが迷いどころだ。彗星まるごと手に入れようとするならば、大気圏での摩耗を減らすためなるべく上空で待ち構え、目前を通過する直前にビッグ・ハンドを広げればいい。ただし、上空に行けば行く程、彗星の速度は速い。ミスって発射前に彗星とすれ違ってしまえば、上空から追いかけても全く間に合わない。速度は彗星の方が圧倒的に速いのである。要は新手のチキンレース﹅﹅﹅﹅﹅﹅みたいなものだ。無難に40%確保を目指し、低空かつ余裕を持ってビッグ・ハンドを展開するか。はたまた、限界まで上昇し、彗星を視認出来る程度まで接近して、交差直前でビッグ・ハンドを展開するか……。
 まあ、俺の方針は最初から迷う余地もないくらいに決まっている。あえて言うまでもないだろう。
 
 ——と、今回の〝水汲み作戦〟は、二名いれば事足りる。〈ブーメラン〉の操縦者と〈収水〉の操縦者だ。だから、彼女が乗っている理由が分からない。もしかすると、水源確保の作戦なんだから、補給処ほきゅうしょの調達処理班の人間かとも考えたが、それになら何故、ここに来ない? 別件で乗っているにせよ、〈ブーメラン〉のコックピットには、操縦士と副操縦士の席以外に、二席の補助席ジャンプ・シートが備わっている。だから、一席は余っているのだ。どうしてここに座らないのだ……。
 何? 二席余っているんじゃないかって? 実は、既に飛行機酔いで青ざめた男が一人、後ろでぐったりしているのだが、あまり話に関係無さそうなので説明は割愛する。野郎のことは興味が無いしな。

 
     *  *  *
 
 「で、誰なんだ、彼女は?」
 「だから、手ぇ出すのは止めとけと言っているだろ」
 湊川は鼻で笑っている。手を出すとか誰もそんなこと言ってないだろうが。
 「まあ、中々の美形なのは認める」
 湊川は何かさとすような顔でこちらを見た。そんなことも誰も言ってやしないし、同意を求められても困るが——まあ、そうかな。美人とは言わず美形と言っている点とかな。
 「だがな、上沢。彼女の興味は〝キン〟だけだ……」
 「ほほぉ……。それはまた、えらく直接的だな」
 何が何だか良く分からんが、ここはこのくらいボケてもいいだろう。湊川は深く深く息を吐き、道に迷える子羊を見るように哀れんだ眼で俺を見ながら——
 「お前……、何か大きな勘違いをしているようだから、俺が懇切丁寧に教えてやる。彼女は地球外分子生物学アストロ・モレキュラー・バイオロジーの学者様だ。あの彗星に細菌とかウイルスとか——そのへんの区別はよく分からんが、ともかく地球外の生命体がくっ付いていないか調べるんだとよ。何でも、その前はボストーク基地の地底湖を調査していたらしい」
 「ボストーク基地?」
 「南極だよ。南極。あとは、深度一万メートル級の深海の熱水鉱床周辺の微生物を調べたりとか。極地ばかり巡っている変人だ。だから、手ぇ出すのは止めとけ」
 「ふふっ」
 俺はつい、鼻で笑ってしまった。
 「どうした。何がおかしい」
 湊川は怪訝けげんそうな顔でこちらを見ている。
 「語るに落ちたとはこのことだな。なあ、湊川。何でお前がそんなに詳しく彼女の素性を知っているんだ。お前こそ気があるんじゃないのか?」
 湊川は一瞬だけ『しまった!』と言う顔をしたが、直ぐに元の子羊のソテー——じゃなかった、迷える子羊を見るような眼となり、
 「作戦会議ブリーフィングの時に、彼女も後ろの席にいただろ。何聞いてたんだ」
 「そうだったか?」
 うーむ。そう言えば、そんな気もする。現に、作戦遂行中の〈ブーメラン〉に乗っているのだから、作戦会議ブリーフィングに出ていない方がおかしい。だが、俺は〈収水〉の機動性能やら、運行管理者ディスパッチャーからの航空気象実況METER予報TAFの情報取得に余念が無かった。既に地球では廃れてしまった、古式ゆかしい音声気象通報VOLMETも金星では流れている。
 俺も金星に来た時は、『水が無いなら気象現象は単純なものだろう』と考えていた。火星がそうであったようにである。ところが、空中都市が点在する高度——金星の地表から55キロメートルあたり——は硫酸の雨が降る。雨は地表までは達しないものの、マクスウェル山などの高山には黄鉄鉱の霜﹅﹅﹅﹅﹅が降りるそうだ。水は無くとも、硫黄化合物がその代役を務め、極めて複雑な気象現象を引き起こしているというわけだ。
 硫酸の雲が出来るなら塔状積雲TCU積乱雲CBもできる。問題は上空の乱気流タービュランスだ。地球上のものは熟知しているが、流石に金星では勝手が違う。
 それにしても、この星では雲・視程共良好CAVOKとか無風Calmって実況は存在しないんだろうな。
 
 ——てなことを考えながら俺は作戦会議ブリーフィングに臨んでいた。こんなに仕事熱心な俺なのに、湊川のヤツは、後ろの席にいた彼女の情報をしこたま仕入れていたってことか。一度締め上げてやらなきゃならんな、コイツは。
 
 「それと、もう一つ」
 こちらの殺気を知ってか知らずか、湊川は少しばかり真面目な顔になり、小声で付け加えた。
 「彼女は、ユークレーンの血が半分入ってる。本当か嘘か知らないが、よからぬ噂﹅﹅﹅﹅﹅も耳に入っている。気を抜かない方がいい」
 「そうか? 気をつけておくよ」
 そう言えば、睨み付けた瞳は、緑がかっていたな——って、えーっと、ユークレーンって誰だ? 有名人か? 良からぬ噂って何だ?

 
     *  *  *
 
 湊川に問いかけようとした矢先だった。キンコンと明るいチャイムが鳴り、頭上の赤ランプが蛍のように点滅を始めた。俺は操縦卓コンソールからゆっくりと足を下ろして、GPS地図を確認する。地図と言っても地表の地形は入っておらず、空中都市の位置だけが表示されている至ってシンプルなものだ。個々の都市は4~5日で金星を一周しているし、相対的な位置も絶えず変化しているから、絶対的な座標基準にはならない。緯度経度だけでなく高度だって時々刻々に変わる。それに、金星で使われる空抜という単位は、0.7気圧平面をゼロ高度と定義しているから、地表からの高さも相対的なものでしかない。
 もっとも、今回の任務で必要なのは絶対的な金星の緯度経度情報だけだ。ランデブー相手の彗星軌道は既に作戦会議ブリーフィングの段階で入手している。風任せの空中都市と違い、彗星の軌道は大気圏に突入するまでは極めて正確だ。何も問題はない。
 
 「〈レッド・ランタン〉から〈ブーメラン〉へ。上沢、湊川。調子はどうだ?」
 眉をひそめてモニターを見ると、小隊長殿おやっさんが腕組みをしてニカッと笑っていた。
 「極めて順調——と言いたいところですが、ずっと雲の中を飛び続けるのは性に会いません」
 「ハハ。そんなこと言っていたら金星ここには住めんぞ。そこから〈収水〉で上がれば雲海の上に出る。金星で青空を見るのはなかなか無いチャンスだ。堪能たんのうしとけ」
 「了解ラジャー
 「それから、分かっているとは思うが——」
 小隊長殿おやっさんは、こう付け加えた。
 「——今回の作戦ミッションは欲張り過ぎると失敗する。何事にも見切りを付けるのが肝心だ。適当な所で受け止めて引き返してこい。限界に挑戦しようなどとは思うな」
 見透かされているな……。
 「分かりました。最善努力ベスト・エフォートを目指します」
 「ベターぐらいにしとけ」
 「ふぅ——、努力します」
 ま。小隊長殿おやっさんも俺の性分くらい分かってるだろう。左目と右の口角を同時につり上げるという器用な真似をしながら、
 「それと——だ。お嬢ちゃんによろしく。『協力しろ』との上からの命令﹅﹅﹅﹅﹅﹅が来ている」
 「何を協力すれば?」
 「彗星中心核の生物探査だそうだ。詳細は知らされていない。何がお望みかは本人に聞くんだな。くれぐれも手ぇ出すんじゃねえぞ」
 言いたいことだけ言って、小隊長殿おやっさんからの通信は切れた。
 〝お嬢ちゃん〟ねぇ……。見た目で判断しちゃいけないが、どうみてもそんな玉じゃないことは分かる。しかし、どいつもこいつも『止めとけ』だの『手ぇ出すな』だの、人のことを、女性と見れば見境なく口説く色情魔か何かだと思ってやがる。
 俺は五点式のシートベルトを外し、操縦輪Yoke handleから手を離して〈ブーメラン〉の操縦を湊川へ預けると、高々度用の与圧ヘルメット片手にコックピットを抜け出した。抜け出す直前に、今一度、貨物室カーゴルームにいた彼女の姿をモニターで確認しようとしたが、彼女が座っていたトランクだけが、口が開いたまま残されていた。彼女がここに向かって来ているのだとしたら途中で鉢合わせするかも知れないなと思いつつ、〈収水〉のある翼上部へのタラップを登る。
 思ったよりコンパクトな機体がそこにはあった。全長6メートル弱、全幅が10メートル程度と幅広の真っ赤な機体。元は緊急脱出用の機体だから、長距離用では無い。オリジナルからの改造点として、二軸の電気モーター式プロペラは取り外され、主として惑星間飛行用に使われる偏極原子状水素シングルH→を燃料とするロケットエンジンに換装。腹部にビッグ・ハンドが収納されたポッドが装備されている。このポッドに、半径500メートルに広がる〝大風呂敷〟が格納されているとは、にわかには信じ難い。
 作戦会議ブリーフィングの時の説明では、こいつは彗星をガッシリ受け止めるのではなく、ほとんど抵抗無く——つまり、彗星の速度を減らすこと無く包み込み、その後ゆっくりと、端についた展開気球バリュートを膨らませて減速させるものらしい。引っ張り強度は恐ろしく強い素材だが、何かに貼付けて拳銃で撃つと簡単に穴が開くから、防弾チョッキには使えないとか……。衝突の衝撃で水漏れしないのかね。
 それにしても、如何にもにわか仕込みの付け焼き刃的な装備だ。換装されたエンジン部は塗装も無く、白いセラミックが剥き出しだし、ポッドは空軍仕様の空色。統一感がまるで無い。カラーリングで空を飛ぶわけじゃないが、赤白青のパッチワークは、まるでオモチャだ。オランダかフランス空軍なら喜びそうではある。
 それに、エンジンだけ強力にしても、この翼形じゃあ超音速時に抵抗が有り過ぎる。推力だけは桁外れにあるから、無理に引っ張っても——ん? この主翼両端の塗装剥げは……なるほど、そういうことか。
 
 「おわっ!」
 ひと通り、機体の周囲を舐め回すように確認し、コックピットに乗り込むため〈収水〉の主翼に足をかけた時、俺は思わず声を上げた。それに呼応するかのように、後部座席の人影が振り向き、緑がかった瞳がこちらを見上げる。顔色は透き通るように白い。
 「何故、——ここにいる?」
 「聞いてないの? アタシはあの彗星に用があるの……」
 彼女がそこにいた。貨物室カーゴルームにいないと思ったら、こんなところにいやがった。
 「一緒に上がる気か?」
 「そうよ。文句ある?」
 初っ端から何故かケンカ口調だ。俺の人を見る目も伊達じゃねーな。そして、彼女の憎まれ口はさらに続く。
 「——本当はアタシが飛ばしてもいいくらいなんだけど、帰りの操縦があるでしょ。だから譲ってあげたの」
 「おいおい。遊覧飛行じゃないんだぜ」
 「分かってるわよ、そんなの。アンタはアタシをちゃんと彗星まで送り届けてくれればそれでいいの」
 なんだ、なんだ。何なんだコイツは? 想像通り——いや、想像以上のツンツン振りだな。その鼻っ柱を折ってやろうかと、俺がさらに問いただそうとした時、湊川からの無線が入る。
 「お二人さん。痴話げんかのまっ最中済まないんだが——」
 「誰が痴話げんかだ!」
 「誰が痴話げんかよ!」
 声がハモった。忌々いまいましい。
 「——そろそろ発進しないと出遅れるぞ」
 時計を見ると、出発予定時刻まで三分を切っていた。確かにここで口論している場合じゃない。
 「ベルトをしろ。酸素ボンベは——」
 「大丈夫」
 彼女はヘルメットをかぶり、酸素用レギュレータや耐Gスーツコネクタ類を慣れた手つきでテキパキと機体に接続して行く。素人にしては出来過ぎだ。いや、どう見ても素人じゃない。
 彼女の衣装は通常のフライトジャケットでは無く、厚手のレオタードの様なものだった。ケブラー繊維の中に固化粉流体ダイラタントを封入した最新の防護服プロテクトスーツ。ロシア軍かどこかが採用していたもので、普段は体の動きに合わせて皮膚のようにしなやかに動き、銃撃など強い衝撃が局所的に加わると、中の粉流体がセラミックのように一瞬で固化する。衝撃が無くなるとまた元に戻るという優れものだが、金星での採用は見送られた筈。その理由をよく思い出せないが、何か引っかかるものがある。背中には一風変わった装備があるようだが、前からは見る事ができない。何にせよ、軍支給品ではない。この女、一体——、いや、詮索は後回しだ。
 主電源、補助電源、その他モロモロのスイッチを二の腕で一気に押し上げ、計器が完全に立ち上がる前に手動操作で必要な油圧のチェック。操縦桿とラダー操作を行う。ジャケットと電子機器との接続をモニターで確認。彼女の後部座席も問題ない。バックミラーに親指で確認済みの合図をすると、同じく親指で回答あり。キャノピーを閉めつつ湊川へ連絡。ここまで一分二十秒。往復動機関レシプロエンジンだとこうはいかない。
 「準備はいいぞ。いつでも上げてくれ」
 「ほい来た。こっちも確認済みだ。今開ける」
 格納庫内の与圧が下がる音がし、ゆるゆると天井が開く。大気密度が違うのか、それとも大気組成の違いの所為なのか、陽炎のような揺らめきが一瞬起こった後、俺たちは昇降機で機体ごと上昇しながら、黄味がかった雲海に出た。晴れ舞台ならぬ曇り舞台だ。肉眼では150メートル先にある筈の翼端すら見えない。
 「彗星ほしは今何処だ?」
 何気なく聞いた言葉に応えたのは、湊川では無かった。
 「〈レッド・ランタン〉から〈ブーメラン〉へ。現在の彗星の位置は、えーっと——、高度8万メートル。ほぼ予定通り。そちらに座標データを転送します」
 「あれ? みのりちゃんも今日が初仕事?」
 「はい! 自立歩行探査機ドローンでの予備降下プレ・アタック操作はこの前行いましたけど——いや、その、〝みのりちゃん〟はいい加減に止めて下さい」
 「おおっと。すまんすまん」
 ——伊川みのり。昨年入って来たルーキーだと言うのに、新人研修もそこそこにいきなりの金星勤め。俺より3ヶ月前の軌道間輸送船OTV金星ここにきている。もっとも、入隊直後の僻地へきち巡りってのは、幹部候補の証でもある。〝みのりちゃん〟っていつまで言えるか分からないが——まあ、言えなくなる時までは言わせてもらいたい。
 みのりは、〈レッド・ランタン〉が管理する空域の管制担当——の見習いになっている。彼女は情報軍採用だから本来の職種とは違うのだが、手始めの仕事としては丁度いい負荷だろう。指示を出すべきなのは一機。敵対する相手も一機——いや、一星か? まあ数え方はどうでもいい。そして、重要なのは、本作戦は戦闘行為ではないという点だ。少々ミスをしても誰も死なない。事故はあり得るが、それは操縦士パイロット——すなわち、俺の判断ミスが原因となる。
 仮に、みのりがいきなり実戦に投入され、彼女の指示ミスで、何名もの命が亡くなれば、亡くなった者はもちろんの事、彼女の精神的ダメージも計り知れない。それは可哀想——という感情論ではなく、それによって優秀な人材が減るのが問題なのである。ドライ過ぎる言い方ではあるが、ま、それが現実だ。
 「座標データは確認した。彗星は……ほお? ちょっと東過ぎないか?」
 「それでいいんです。スーパーローテーションによる気流は、上空ほど強いので……」
 「なるほど。ほんじゃ、いつでも出られるぞ。湊川、そっちは?」
 「問題ない。レーザーガイドに従ってくれ」
 「了解ウィルコ
 
 〈ブーメラン〉の主翼に二列のライトが点くとともに、空中に向かいレーザー光が放たれる。〈収水〉の後方には焦げ跡の付いた噴射偏向板JBD: Jet Blast Deflectorが立ち上がってきたが、どうやらこれも有り合わせの予備品の流用のようだ。どこから仕入れたのか知らないが、色が海軍仕様の青灰色のままになっている。噴射偏向板JBDなんて、高温排気の出ないプロペラ機には、そもそも必要ないからな。
 電子系統を一通り再確認した上で、エンジンに火を入れる。心地いい振動と共に、一瞬だけカタパルトに車軸がめり込む感覚。偏極原子状水素シングルH→を使う大気圏外用エンジンと幾分振動が異なるのは、外気を巻き込んで推力の方向制御を行う吸入器が付いているからだろう。あまり見た事の無い小細工だが、コイツならひょっとすると、単段式宇宙輸送機SSTO: Single Stage To Orbitみたいに、このまま衛星軌道まで上がれるかも知れない。
 出撃時のお約束的な派手なブザー音と共に、赤ランプが三つ。二つ。一つ——。
 「出るぞ。アゴ引いとけ」
 後部座席に声をかけるが返事は無い。俺も、操縦桿から手を離して、キャノピー枠に手をかける。〈ブーメラン〉は上昇から推力を絞り、〈収水〉射出の瞬間はほぼ失速状態。飛行甲板を兼ねている翼は湊川の操舵により、上空への射出を手助けするべく、天空向きに20度程度傾く。この段階では、俺より湊川の方が作業が多い。ボタン一発とは言え、シューター役もこなす必要がある。
 
 緑ランプ点灯。
 
 カタパルトとフルスロットルの力で、俺と彼女——そういや名前を聞いてないぞ——は豪快なGと共に、真っ白な空間へ放たれた。

 
     *  *  *
 
 射出直後、離していた操縦桿を握り左右に軽く振る。レスポンスは悪くない。水先人Bay pilotとしてのレーザーガイドは5秒もしないうちに見えなくなるが、キャノピーに表示された彗星の赤い点は、現在位置と予測軌道を正確に示している。予定では3分かそこらで肉眼でも見えるようになるだろう。
 ——いやいや。そういう話がしたかったわけじゃない。彗星の視認うんぬん以前に、ともかく俺はこの白い闇の中から脱出したかった。今度の人事調書には『青い空を飛びたい』って書くかな——とか思ったが、火星の青い夕日を思い出して考えを改めた。大気内を駆け回る楽しみを考えれば、大気が濃い分、火星よりも金星の方がまだマシに感じられる。
 ただ、大気が濃いだけではなく、金星の雲は、主に硫酸で出来ている。吸い込めば命が危ない。そうでなくても大気中に酸素があるわけではないから、命が危ないのは雲の無い上空でも雲底の下でも同じだ。とかくこの星は住みにくい。
 
 「どうだ。〈収水〉の乗り心地は?」
 ひと仕事終えた湊川が、雑談のように聞いてくる。
 「機体は紙のように軽いのに、推力があり過ぎる。ケツが揺れてるな」
 「はは。そうだろ。俺も着任時にソイツに乗せられたからな」
 ——そいつは初耳だったな。湊川はさらに続ける。
 「何なら、そのままスピード記録更新ってのもありだ。挑戦してみるか?」
 「いや。遠慮しとく……」
 湊川の奴、売られた喧嘩は見境なく買う俺からそういう返事が返ってくるとは、想像してなかったのだろう。ヘッドホン越しにもハテナマークの三連星が聞こえるようだった。だが、実際に聞こえたのはもっと近くからだった。
 「もっとスピード出しなさいよ! なるべく上空で彗星を捕まえないとダメ」
 とがめるような声は、後部座席からだ。
 「そいつは無理だな。この機体はおそらく——マッハ1.4程度が限度だ。それ以上は制御ができない」
 「どういうことよ?」
 彼女の言葉を聞いた直後に短い振動バフェット衝撃波ソニック・ブーンが来る。意外と早いな。確かに加速性能は良さそうだ。後方のブレは相変わらずだが、この不安定さを上手く使えばアクロバティクな機動性も確保出来る。ただし、本当の機動限界を決めるのは、もっとも脆弱な部品﹅﹅﹅﹅﹅——すなわち、人間の強度によるところが大きい。
 「機体の形状が問題だ。コイツは幅広過ぎる。衝撃波が主翼端にかかると何かと厄介だ。可変翼なら良かったんだがな。それと、もう一つ。元の機体がプロペラ機だった所為で、翼形が遷音速せんおんそく以上の飛行を考えていない設計だ。推力だけで無理に引っ張っても、翼が勝手に振動を始めて制御が効かなくなる。そうなると、最短の経路を外れて千鳥足になるか、失速して立て直しに時間がかかるか……。まあ、要するに——そうはならないギリギリの速度を見定めて飛んで行くのが、実は一番速いってことさ」
 「ふぅーん。そういうものなの……」
 「そういうものだ」
 「尾羽おばねの無いカモメみたいだものね。この機体……」
 それっきり、彼女は黙ってしまった。意外と素直だな。
 「ははぁ。バレてたか」
 湊川の声が、開き直る3秒前の悪代官のような調子でヘッドホンにこだまする。
 「当たり前だ。何年テストパイロットしてると思ってるんだ。ま、任せておけ。最短・最速でランデブーしてやっから」
 雲頂高度を抜け、待ちに待った青空に突入する。金星に成層圏って概念があるのかどうかは知らないが、何にせよ気分がいい。上空にはところどころドライアイスの雲が巻雲Ci状に広がっている。地球のものより遥かに高々度でくっきり見える。高度130キロメートル付近——空抜にして75キロメートル程度の上空に、極低温層の雲があると言う。だが、見蕩みとれてる暇はないし、そもそもそういう感情自体、俺はあまり持ち合わせていない。さっさと——しかし確実に任務を遂行するだけだ。
 少々誤算だったのは、二酸化炭素大気中の音速はかなり遅いってことだ。マッハを超えたと言っても、地球上のソレに比べると、三分の二程度じゃないかな?
 
 「〈レッド・ランタン〉から〈収水〉へ。彗星は10時の方向。そろそろ見えると思います」
 みのりの、少し緊張した声が伝わる。
 「了解ラジャー。位置は目視でも確認している。ずいぶんと長い尾だな」
 「それは彗星本来の尾じゃありません。大気圏突入時に出来た水蒸気の——」
 「分かってるって」
 彗星はまだクモの糸の先程度にしか見えないが、その尾は長く伸びていた。大気圏外での彗星の尾は、太陽光や太陽風によって弾き飛ばされて放出されたガスの尾だが、今見えているのは大気圏突入によって発生した水蒸気だ。出ている成分は同じでも、生成の仕方が違う。どちらかというと飛行機雲に近い。
 岩石で出来た彗星ならば、この段階で一気に加熱されてバラバラになってしまうが、氷の彗星は案外頑丈で、形を保ったまま雲頂付近にまで達することが多い。もちろん、大気圏外でコーティングした炭化吸熱体Charring Ablatorの効果もあるが、彗星自身から発生する水蒸気が彗星本体に熱が伝わることを防ぐ効果も大きい。水蒸気の膜が一種の断熱冷却層になっていると言える。焼けた鉄板上を転がる水滴が、意外と長生きなのと同じ理屈だろう。
 飛行機雲の後端。薄く広がりつつある側は、極成層圏雲PSCsのように鮮やかな光を放っており、群青色の空とマッチして、なかなか幻想的な風景を作っていた。もっとも、今はそんな風情に浸っている場合じゃないし、そして——さっきも言ったが——そんな風情を楽しむ心なんぞを、あいにく俺は持ち合わせていない。
 「みの——伊川軍曹。ランデブーまでは一二〇ひとふたまるくらいだと思うが?」
 「はい。彗星の予測進入路修正確認。ランデブーまでは一一八ひとひとはち誤差三セコンド。現時点でビッグ・ハンドを展開しても6割の確率で受け止めることが可能です」
 キャノピーには到達予測範囲が浮かび上がっている。もうちょい右かな。さぁてと、後は度胸と踏ん切りの問題だ。何でも、幸運の女神様は後頭部がハゲているらしい。通り過ぎてからひっ捕まえようにも、つかむ髪が無いそうだ。
 何気なくバックミラーを見ると、彼女が何処からか取り出した双眼鏡——いや、カメラかも知れないが、そいつで熱心に彗星を観察している。搭乗時には聞けなかったが、彼女は何の目的でここにいるのか? 『送り届けて』とか言っていたが、まさか彗星に飛び乗るつもりではあるまい。彗星を観察するだけなら、帰投後に機体の機首カメラの映像をコピーすれば済む。直接、肉眼で見たいっていうのは分からんでも無いが……。
 
 「あっ!」
 そいつは唐突だった。彼女が声を上げるのと同時に、彗星の一部が分裂を始め、リアルタイムで計算されている到達予測範囲もいびつに広がり始める。
 「まずいな……」
 全体の三割くらいが分裂したように見えるが、水蒸気のベールに包まれてはっきりとは分からない。赤外チャネルの最大望遠で見ると、側面が裂けた格好だ。このままなし崩し的に分裂してしまうと、どこを中心にしてビッグ・ハンドを展開すればいいか分からなくなる。自然的不可抗力だからこちらの操縦ミスでは無いにせよ、大部分を取りこぼしてしまう事態は何とか避けたい。
 ——とは言っても、こればっかりは神頼みしかないな。
 

 分裂した三割は、残りの彗星本体とは少しずつ軌道をことにして行く。ランデブー時間は一分を切り、彗星の視野角は急激に大きさを増してくる。それにしてもデカい。形はサツマイモみたいだ。相手がサツマイモならば、こっちはそれにたかるハエくらいの大きさでしかない。
 時間的にも余裕が無かった。ビッグ・ハンドを射出して展開するまでにほぼ十秒。射出後に現空域を一気に離脱しなければ、最悪、彗星と正面衝突だ。眼前で再び分裂する事態などを想定すれば、最低でも十五秒は欲しい。
 だが、それとは裏腹に、なるべく引きつけてからビッグ・ハンドは射出すべきだった。今のところ、彗星がこれ以上分裂する兆候は無さそうだが、射出後にまっ二つに分裂し、ビッグ・ハンドをまたぐようにすり抜けられたら目も当てられない。ギリギリまで射出を我慢して、一番大きな塊を包み込む必要がある。
 彗星が現状のまま落下を続けたとしても、選択肢は2つある。分裂した分も含め、全てを包み込むようにビッグ・ハンドを射出するか、それとも、七割を確実に受け止めるように射出するかだ。彗星の到達予測範囲は、その全てが辛うじて半径500メートル内に収まっている。だが、少しでも射出位置が狂えば、どちらかを取りこぼすことになる。どうせ取りこぼすならば、安全策で七割を確実に受け止めた方がいい。
 二兎追うものは一兎も得ず。一石二鳥ってのもあるな……。この場合どっちだ。
 
 ——なんてな。
 悩んだふりをしているが、実は全然悩んでいない。取れるモンなら全部取りに行く。それで失敗しても後悔は無い。むしろ、安全策を狙って成功しても、ちっとも嬉しくない。ならば道はひとつだ。
 
 「回避限界まであと十秒! 急いで下さい!」
 みのりの声が上ずっている。まだまだだな。お前がテンパってどうするよ。
 「射出後、9時方向に急旋回ブレイクしろ」
 「了解ウィルコ
 小隊長殿からの声が響く。声は至って平静、かつ、必要十分な情報を伝えている。ただまあ、帰投してから結局はドヤされるんだけどな。
 
 危機一髪——と言いたいところだが、俺としては余裕を見た方だ。一髪じゃなくて、髪の毛三本分くらいの余裕はあった。射出後、間髪入れずに——ここは一髪も入らない——機首を持ち上げナイフエッジで左に離脱。右目でビッグ・ハンドが開くのを見ながら、直後に彗星が通過するところを足元で感じる。眼下なので直接見ることはかなわなかったが、俺はこの時、彗星の全てを手中に収めたことを信じて疑わなかった。全てがシナリオ通り——のはずだったのだが……。
 
 半回転して背面になり、頭上の雲海を見上げて、そうではないことを知る。ビッグ・ハンドに包まれたのは七割の方だけだった。残り三割は並走して落ちて行く。目の錯覚ではないかと最初は思った。射出は完璧だった。あの軌道で捕まえられないわけがない。
 水蒸気の雲の中で目を凝らし、俺はひとつのあり得ない結論に達した。
 
 ——三割がビッグ・ハンドを回避した⁉
 
 彗星は、ビッグ・ハンドをバレル・ロールでかわした後、平行移動で再び同じ軌道に戻った——そう考えなければ説明がつかない飛行機雲が残されていた。その証拠は、残り七割の彗星からの水蒸気と絡み合い、直ちに分離不可能になってしまったのだが、絶対に見間違いではない。どういうことだ?
 まあいい。証拠は機首カメラに残っている筈だ。今となっては追いかけても間に合わない。機体を立て直し、降下を始めようとした矢先、後部座席から声がした。
 「ここで降りる﹅﹅﹅わ。これ……開けてくんない?」
 「何だって?」
 彼女は天井のキャノピーを指差している。何の冗談だ? ——と、最初は思った。
 「アタシはあの彗星に用があるって言ったでしょ?」
 「捕獲した彗星はそのうち展開気球バリュートで落下が止まる。今は追いかけるだけ無駄だ」
 下方を見ると、実際に展開気球バリュートが膨らみ始めていた。レーダーに映る彗星の速度も、大気による摩擦以上の減速率を示していて、作戦はほぼ成功だということが分かる。七割しかキャッチできなかったのが多いに残念だが……。
 「どうしても開けてくれないのね?」
 答える代わりに、俺は左手を左右に振った。
 「なら仕方ないわ……」
 さっきと同様、実は見かけによらず素直なんだなと、彼女を見る目を少し変えようと思った瞬間だった。
 
 「なっ⁉」
 
 鈍い爆発音がした刹那、足元から急激な減圧。一瞬、操縦席の空気が白くなり直後に消える。操縦席と後部座席との間には透明な隔壁がある。ただし、一カ所だけ換気口が存在しており、機内雰囲気の循環が行われている。そこから空気が漏れて——いや、漏れているという半端な状態ではない。あわてて後方を振り向くと、後部座席ごと彼女が消えていた。まるでスローモーションのようだった。視線を横に振ると、彼女は射出された座席のベルトを躊躇無く外し、見事なフォームでさらに空中へと、単身ダイブしたのである。
 不覚にも二秒ほど状況が飲み込めなかった。戦場なら死んでてもおかしくないレベルの意識空白だ。要するに、彼女は、緊急脱出用のボルトに点火し、後部のキャノピーを吹き飛ばして座席ごと成層圏に飛び出した挙げ句、座席に備わっている様々な救命装置——当然、パラシュートもだ——すらあっさり捨てて、虚空に飛び出したのだ!

 
 「ばっ、ばかやろう‼」
 とっさに出た言葉はそれだけだった。
 「えっ? 何?」
 ——と、みのり。
 「どうした? 爆発音がしたぞ!」
 ——と、湊川。
 「状況を報告しろ」
 ——と、小隊長殿おやっさん
 いっぺんに言われても、こちとら聖徳太子じゃないんだ。
 「彼女が緊急脱出した。飛行には問題ない。救助に向かう」
 理由を説明している暇はない——って言うか、俺が聞きたい。
 
 索敵用マーカーに映った彼女の肢体を拡大すると、背中に鋭角な翼のようなものが見える。空を飛ぶには小さ過ぎるから、落下中に方向を変えるためのものだろう。後部座席にいた時はそんな大きさのものは背負っていなかったから、脱出後に展開したものだ。アイツ……最初から外に出るつもりだったな。
 地球上なら放っておくところだ。自らの意思で飛び出して、中身はよく分からんがそれなりの装備を背負っているならば、自己責任で何とかしてくれ。俺は知らん! ——と、突き放すこともできる。放っておいても、落ちる場所さえ悪くなければ問題なく生還出来る。だが、金星ではそうは行かない。地表は90気圧で460度。生き残れるのは映画で出てくるエイリアンくらいなものだ。
 いや、それ以前に、濃硫酸の雲海の中に、あの装備で入って無事なのかが分からん。頭部のヘルメットを含めて全身が外気に触れる事は無いとは言え、どこか穴が開いていたらどうなるか? それに、酸素だって十分にはないだろう。仮に雲海の奥にまで落ちてしまったら、目視で見つけ出すのは至難の業だ。GPSビーコンくらいは持っているんだろうな?
 俺は、レーザー・レーダーを駆動させ、彼女をロック・オンした。こいつが追跡していれば、雲海に飲み込まれても何とかなる。だが、場所が分かったとしてどうやって助ける? 下に回り込んで、空中でキャッチとか、まあ絶対に不可能だ。ビッグ・ハンドの予備でもあれば、彗星と同じ要領でキャッチできるが、既に使っちまったわけだし、〈ブーメラン〉に戻って換装してる暇なんてどこにもない。
 現空域にいるのは俺と湊川だけだ。彗星が落っこちてくると分かっている空域なんだから、あらかじめ航行制限が出ている。〈ブーメラン〉を遠隔操縦に切り替えて、湊川が上がってくるのも不可能だ。〈ブーメラン〉にはもう一機、改造されていない緊急脱出用の機体があるが、そいつは何の変哲も無いプロペラ機で、救助機にはなれない。救助される側の機体なんだから、当然だ。
 
 雲頂が迫っている。だが、彼女がパラシュートか空中係留用の気球を出す気配はなかった。持っていないということは無い筈だが……。
 この段になって、俺は彼女の行動に疑問を覚えた。何故に緊急脱出までして飛び出すのかってのが一番の疑問だが、それはこの際、置いておくとして、『あの彗星に用がある』と言ったのだから、ビッグ・ハンドで捕獲した彗星へ降り立つものだと思っていた。おそらく、それ以外に彼女の助かる道は無い。ビッグ・ハンドはそのうち展開気球バリュートを最大限に膨張させ、巨大なプールを吊り下げた状態になる。まさに空中庭園だ。そこで泳ぐのはさぞかし気持ちよかろう。彗星本体も入った〝オン・ザ・ロック〟状態だから、少々冷たいのを我慢すれば——だ。
 ところが、彼女が追いかけているのは、そちらから外れた、残り三割の方のように見える。あちらに着地するのは、落下速度の関係でまず無理だし、仮に着地出来たとしても、行き先は奈落の底だ。明らかに助からない方の道を歩んでいる。1~2分以内に決断してビッグ・ハンド側に着地しなければ、彼女の助かる確率は限りなくゼロになるだろう。
 
 「えっ⁈」
 彼女が追っている残り三割がさらに爆発した——かのように見えたが、それは違った。光ったのは取り損ねた彗星ではなく、さらにその向こう——雲海の向こう側からの光だった。正確に言えば、正面の雲海中から照射された赤外光を〈収水〉のセンサーが拾い、キャノピーに装備されたヘッドマウントディスプレイに、それを知らせるアラート光として表示してくれた——ということになる。俺はとっさに操縦桿を倒し、回避行動に出る。頭で考えるより先に手が動く。この光の動きには見覚えがある。今、俺が照射しているレーザー・レーダーと同じ。ここが戦場なら高確率でこの後に誘導弾が来る。電波欺瞞紙チャフを撒こうとして、〈収水〉が戦闘機で無いことを思い出した。
 こちらの位置を知らせないため、レーザー・レーダーは反射的に切ってしまったが、切る直前まで光点は存在した。ただ、赤外光を照射した筈の機影は雲海に呑まれていて全く見えない。レーザー・レーダーも『何かいる』ということを認識しただけで、形のあるものは何も捉えていない。〈ブーメラン〉が眼下に到着したのかと一瞬だけ考えたが、〈ブーメラン〉は巨大な飛行船モドキだから足が遅い。この空域に到着するまで20分はかかるだろう。それに、仮に〈ブーメラン〉が映っているのだとしたなら、それはそれで巨大な影が映るはずだ。
 ——目からビームを出してる鳩でも飛んでいるのか?
 
 一方、雲海の向こうからの光に反応したのは俺だけではなかった。彼女もまた回避行動とも取れる行動を起こした。すなわち、ビッグ・ハンドへの方向転換である。ただ、ビッグ・ハンドに着地するためには、時間的にもギリギリのタイミングだったから、光を確認した後の動作だったかどうかは定かではない。数秒後、彼女のパラシュートが開く。パラグライダーに近い形状だ。器用に操作してビッグ・ハンドのほぼ中心部に着水。何だか知らないが〝プロの犯行〟としか思えない。とりあえずはこれで一安心だ。酸素残量と濃硫酸の雲海への突入が気になるが、多少の時間的余裕——十数分程度の猶予——はできた。後は彼女をどうやって〈ブーメラン〉まで連れて帰るかだな……。
 ビッグ・ハンドで取り損ねた彗星の残り三割は、その直後に雲海へと消えて見えなくなった。レーザー・レーダーは既に切っているから、雲海の先のことは分からない。赤外線を発した奴の正体を確かめて見たいが、こちらは丸腰の単機だ。光を意図的に放ったのは確かだが、その後のアクションが無いところを見ると、これは〝警告〟の光である可能性が高い。『いつでも落とせるぞ』と言う警告。おそらく、その気になれば、こちらのレーザー・レーダーを探知して、先制攻撃をする事もできただろう。だからこそ、戦闘中は、不必要な能動アクティブレーダーは使わない。闇夜にヘッドライト付けて走っているようなものだから、『狙い撃ちして下さい』と言わんばかりの愚行だ。だが、未確認機アンノーンが攻撃をしなかったのは、そのまま隠密行動を取りたかったのか、それとも攻撃能力が無いのか? どちらにせよ、これ以上深追いするのは無謀だ。
 もちろん、単なるセンサーの異常という可能性もある。機影は確認出来ていないわけだし。もっとも、それならそれで、ありもしない未確認機アンノーンを深追いすることもない。まずは彼女の救出が先だ。
 
 ビッグ・ハンドの落下速度は、予定された終端速度まで遅くなっており、俺はその周囲を何度か廻れる位置まで降りてきた。落下が遅くなったとは言え、彗星はこのままでは落ち続ける。展開気球バリュートに詰められたヘリウムガスは、彗星を空中に静止させるには、まだまだ圧倒的に足りない。〈ブーメラン〉と連結してガスを送り込むまでは落ち続けることになる。
 俺は空中庭園と化した彗星の周囲を回りながら、緊急回線で彼女のレシーバを呼び出し続けたが返事は無い。そもそも、彼女の装備は軍支給品のものでは無かったから、どの回線が繋がるかは最初から未知数だ。ただ、遠目に見てもパラシュートが切り離されているのが分かる。豆粒ほどに見える彼女が何をしているのかまでは分からんが、何らかの意図を持って行動しているのは明らかだった。気絶しているとか、溺れているというような、一秒を争う危機的状況Time-Criticalではなさそうだ。
 「湊川! あと何分でここに到着する?」
 「18分……、いや、15分でなんとかする」
 こちらの状況は、機首カメラの映像で大体は伝わっている筈だ。湊川はさらに付け加える。
 「だか、雲頂高度まで行くのは無理だ。そっちで救助できるか?」
 「わからん。分からんが——やってみるしか無いだろう」
 「上沢。無理はするな」
 小隊長殿おやっさんが会話に割り込んでくる。
 「ビッグ・ハンドを〈ブーメラン〉に繋留するまで待てるなら、その方が安全だ」
 小隊長殿おやっさんの言葉はあくまで冷静沈着だ。ただ、この状況では冷淡と言ってもいい響きがある。
 「しかし……、それでは濃硫酸の雲の中に数十分間、放置することになります」
 「裸で降りたわけじゃない。後部座席の緊急脱出装置は暴発したのか?」
 「いや——。確認したわけではありませんが、おそらく彼女が自らの意思で点火したものと推測されます」
 「それならば、何か考えがあっての行動だ。今回の作戦ミッションの詳細は作戦会議ブリーフィングで彼女も知っている。助かるすべを持たずに飛び降りるとは思えん」
 「それは……、そうですが……」
 確かにその通りだ。無理に助けに行く必要は無いのかも知れない——と納得しかけた時、俺は彼女の着ていた防護服プロテクトスーツ何故なにゆえに金星で採用されなかったかを思い出した。いや、駄目だ。彼女は重大なミスを犯している。
 俺は周囲を飛びながら着陸ポイントを探したが、降りれそうなところはどこにも無かった。彗星はかなり溶けており、水割りならそろそろ氷を追加したい頃合いになっている。飛行艇ならば慎重に降りればあるいは——と一瞬頭をよぎるも、海の無い金星を飛ぶ航空機の中に、その手の機種が存在する筈はない。仮に〈収水〉で降りたとしても、頭を下にし、つんのめってひっくり返るか、尻を下にして水没するかになるのは目に見えている。例えうまく着水出来たとしても、再び飛び上がることができない。ミイラ取りがミイラだ。これ以上救難者を増やしてどうする。
 ——となれば、着水しなければいいわけで……。
 
 「小隊長殿おやっさん! 俺に考えがあります。救助に行かせて下さい」
 「駄目だ——と言っても、お前は行くだろうな」
 「…………」
 短い溜息が聞こえる。
 「では、チャンスは一度キリだ。無理と分かったら引き返してこい」
 「了解ウィルコ!」
 
 濃硫酸雲の雲頂は眼前に迫り、決行時間はあまり無かった。小隊長殿おやっさんに言われなくても、チャンスは一度キリだろう。後々のことを考えて、後部座席との換気口は閉鎖。機器類の情報をキャノピー上のヘッドマウントディスプレイに集め、多くのスイッチ類を無効化する。ビッグ・ハンドの落下速度に合わせてアプローチ開始。まずは失速ギリギリで振動バフェットさばきながら、地面効果を利用して水上スレスレを水平飛行。彼女の位置を確認する。水際にいた彼女に対し、手動でキャノピーを押し上げ、左手の人差し指を突き上げて、氷山と化している彗星の上部に登るよう指示する。ちゃんと伝わってくれればいいのだが……。一旦、通過して旋回。どうやらこちらの意図を分かってくれたようだ。氷山の頂上付近で待機している。
 「さぁて、ここからが本番だな……」
 誰に言うでもなくつぶやく。航空ショーならいざ知らず、こんなシチュエーションに使えるかどうか? 〈収水〉の失速時機動ポストストール・マニューバは未知だが、このエンジンなら大丈夫と確信している。頭の中で何度もシミュレーションをし、侵入経路と切り返しをイメージする。不安というよりは、何かワクワクしている自分を再発見し、少し苦笑。つくづく能天気なヤツだな、俺は。
 先ほどよりはややスピードを上げてアプローチ。彼女を11時の方向に見ながら、位置を確認。時間が異様に遅く感じる。タイミングが早過ぎると届かないが、遅れれば二度とチャンスは無い。
 
 『今だ‼』
 
 機体軸回転ローリングさせながら急激な機首上げピッチアップ。同時にエンジン全開。あたかも暴れ馬が前足を跳ね上げたかのように、機体が上を向く。急激な減速となり失速警報ストール・アラートが盛大に響く。機体はほぼ仰角90度で突っ立ったフリーフォール状態。普通ならお尻から落ちるが、エンジン出力の調整だけで機体を浮かせ、そのまま慣性でゆっくりと前進。最初にかけた機体軸回転ローリングによって機体は突っ立ったままゆるりと回るが、ノズル後方に方向舵が無いから、この段階で機体軸回転ローリングの調整は出来ない。まさに一発勝負。
 コックピットで仰向けに寝た体勢のまま、俺は左手を目一杯上に伸ばし、その先を凝視し続けた。ゆっくりと回転する先に——俺の計算通りなら——彼女が見えてくる筈だ。
 回転はそのまま。機体は突っ立ったまま前進から僅かずつながら後退を始める。こういうアプローチをしないと回転時に翼が氷山にぶつかってお陀仏となる。翼の先端が氷の壁をかすめながら通過したところで、俺は仰向けで左斜め上を見上げる。妙な姿勢で首が痛い。そこに彼女が……。
 
 ——いた!
 
 正確に言えば、それと気づいたとき、彼女は空中にいた。そのままコックピットの淵——翼の付け根部分に着地。機体が偏揺かたゆれする。通常なら偏揺れヨーイング調整は方向舵ラダーの仕事だが、失速時機動ポストストール・マニューバでは推力偏向制御TVC: Thrust Vector Controlで何とか凌がねばならない。俺が手招きをしようとするより早く、彼女の肢体が見える——と思ったら、直後に馬乗り状態。

 
 わぁ~お♥ ——じゃない‼
 
 後部座席は、椅子はもちろんキャノピー共々吹っ飛んでいる以上、この狭い操縦席に2人で乗り込むしか無い——のだが、この体勢は——などと喜んで、では無い‼ 躊躇している場合ではない。キャノピーを閉めつつ再びエンジン全開し、そのまま上昇。演技途中から再会した後方宙返りインメルマンターンのような機動マニューバになる。
 
 「ちょっと‼」
 彼女の声がヘルメット越しに聞こえたかと思うと、ギュッと抱きついて来て、なんだコイツ気があるのか、そうかそうかとヘンに勘ぐったところで、背面飛行になっている事に気づく。彼女はシートベルト無しだから、抱きつくしかないよな……。
 速度が出たところで機体軸回転ローリングをし、上下を戻して水平飛行へ。左手で彼女を抱きかかえつつ、右手で操縦桿を握るという非常に窮屈な状態だが、なんとか視界は保たれている。
 「彼女を救助した。これより帰投する」
 「あっ——。あの。こっ、こちらでも確認できてます」
 「げ!」
 みのりの声を聞いて気づいた。この映像。コックピット内のカメラで、管制室から丸見えなんだ。ガムテープでも貼っとけばよかった。紫外線防御用のヘルメットで表情が見えていない分だけ、まだマシか?
 
 ——で、この絶妙なタイミングで湊川からの無線が入る。わざとだろ。湊川。
 「お二人さん。お楽しみのまっ最中済まないんだが……」
 「誰がお楽しみだ!」
 「誰がお楽しみよ!」
 声がハモった。忌々いまいましい。
 湊川が続ける。
 「ようやくそちらに追いつきそうだ。視界が確保できるのなら、5時方向に進んでくれ。そのうちレーザーガイドが見える。こちらは空抜6千メートルが限界だ。そこまで降りて来てほしい」
 続けて、みのりの緊張した声が聞こえる。
 「〈レッド・ランタン〉から〈収水〉へ。操縦が無理なら、こちらで途中まで遠隔誘導します」
 「大丈夫。ちょっとばかし窮屈だが、操縦は可能だ。有視界VFRで降りる。そっちでも確認してくれ」
 「分かりました」
 ——操縦桿を引くと手に彼女の尻が当たって——、いや、それ以外にも色々と当たるものが○※◆△■——と言うのは、報告しない事にした。
 
 有視界でレーザーガイドを見つけるのには少しばかり苦労したが、みのりの——決して流暢とは言えない——誘導のお陰で、何とか辿り着いた。先ほどのアクロバットに比べれば何と言うことは無い。ガイドに従い直線で入って、フックを引っ掛けて止まるだけ。
 エレベータの上に機体を設置すると、ゆるゆると〈ブーメラン〉内に格納され、ハッチが閉まって、洗浄用揮発テルペンが四方八方から吹き付けられる。後部座席が開いたままだが、仕方が無い。もっとも、揮発してしまうから、匂いはともかく電子機器に損傷は無いだろう。
 一番の問題は、この間、彼女と抱き合ったまま狭いコックピット内でジッとしていなければならないということだ。気の利いた言葉は出てこない。そもそも、この状況を作り出したのは彼女の方だ。何故、俺が気を使わねばならんのだ。幸いなことに彼女も何も言わなかった。ヘルメットがあって本当によかった。
 気まずい数分の後、洗浄中を示す赤ランプが消える。キャノピーを押し上げると、彼女は飛び跳ねるように外に飛び出し、大きく伸びをした。ヘルメットを脱ぎ捨て、ひとつ溜息をついた後、背中に張り付いた小さなバッグを開け、中を確認している。そこには小さなシリンダが冷却装置付きで数本入っており、中には彗星の欠片かけら——要は、氷の塊——が詰まっていた。
 その間、俺は、彼女の行動を横目で見ながら、通常は洗浄中に済ませてしまう機器のチェックやシャットダウン、座席とくっついている諸々のケーブル類を外し、ついでにヘルメットも外して、ゆっくりと降りた。
 一連の終了作業をこなしながら、俺は段々と腹が立って来た。エマージェンシー・モードで脇に追いやられた感情が次第に解放されてきたというべきだろう。単なる〝水汲み〟の筈が、一人のじゃじゃ馬の為に、俺たちは振り回され多大な迷惑をこうむった。迷惑だけならいい。命の危険もあったのだ。
 俺のしかめっ面の意味を知ってか知らずか、彼女は能天気にこう言い放った。
 
 「助かったわ。あそこで数十分ほど待ってるつもりだったけど、雪山でディパークしてるみたいで寒いし、コートでも着て飛び降りれば良かったと——」
 
 後から考えると、気が立っていて冷静さが欠けていたんだと思う。気づいた時には、俺は彼女の横っ面をはり倒していた。
 
 「なっ、何すんのよ!」
 「ばかやろう‼ 命を大事にしろ。ここじゃ、地球の常識は通用しない。勝手な行動は死に直結するんだ‼ ちったあ、周囲まわりの事も考えろ!」
 
 彼女は、頬に手を当てながら、その緑がかった瞳でしばらくこっちを睨んでいたが、やがて表情を和らげ、腰に手を当てながら一言。
 
 「あんた——」
 口元には少しばかり笑みがこぼれている。
 「あんた——。いい人ね」
 
 脱力した。この状況で微笑んでの切り返しは反則だ。ずるい……としか言いようが無い。どっかに吹っ飛んでしまった俺の怒りを返せ。振り上げた拳をどうすりゃいいんだ。
 俺の心の葛藤なぞおかまい無しに、彼女は続ける。
 「あんた——、名前は?」
 「人に名前を聞く時は、自分から名乗るのが先だろう」
 「そうだったわね。あたしは御影恭子。で、あなたは?」
 「上沢俊介だ」
 「上沢俊介ね……。覚えとくわ」
 
 すっかり調子が狂っちまった。ユークレインがどうのこうのと湊川は言っていたが、なんだ無茶苦茶古風な和名じゃないか——。
 説教の続きはとてもじゃないがする気にはなれず、俺はきびすを返して格納庫の出口に向かった。彼女——御影恭子もついてくる。
 おっと、もうひとつ忠告することがあるのを忘れていた。
 「そのスーツは、金星ここでは止めといた方がいいぞ」
 「どうして?」
 振り向き様に言った言葉に、御影恭子は怪訝けげんそうな顔をする。やっぱり気づいてなかったか。
 「確かにそのスーツはカッコいいしセクシーだ。だけどな……。ケブラー繊維は、剣や銃弾には強いかも知れないが、濃硫酸には溶ける」
 「えっ? えーっ!」
 面白いリアクションだな。本気でビックリしている。下調べが甘いんだよ、お嬢さん——。

 
     *  *  *
 
 御影恭子は、その後、貨物室カーゴルームに置かれたままのトランクを取りに行き、彗星の欠片かけらが入ったシリンダーをしまい込むと〈ブーメラン〉の操縦席コックピットにやってきた。俺は既に、操縦卓コンソールに両足を投げ出している。本来ならもうひと仕事——ビッグハンドへのワイヤー掛けと〈レッド・ランタン〉までの牽引——が残っているのだが、もうそんな気にはなれなかった。イレギュラーな救出劇だったが、俺の責務はもう十二分に果たしただろ。疲れた。精神的に……。後は適当に何とかしてくれ——と湊川に任せた。湊川は『しょうがねぇな』と言わんばかりの顔をしていたが、ワイヤーの射出と固定、そしてヘリウムガス注入までをテキパキとこなしている。
 図体のデカイ機種の操縦は、輸送部隊上がりの湊川の十八番おはこだ。もしかすると、巨大タンカーとかの操縦とかも出来るんじゃないかな。俺はどうも、機動力の無い機体は苦手だ。ボケてるのに、ツッコミが5秒遅い漫才のようで、その遅さにツッコミを入れたくなる。
 さらに悪い事に、帰路は往路よりのんびりとしたものになるのは確実だ。いくら巨大な〈ブーメラン〉とは言え、彗星を吊るすために馬鹿でかく膨らんだ展開気球バリュート——ヘリウムガスの追加で直径は3キロメートルを越えている——に比べれば、タグボート並である。要するに自力航行が出来ないタンカーをタグボートで延々と引っ張るようなもので、退屈でしょうがない。俺だけさっさと〈収水〉で帰っちまおうかとか思ったが、アイツは短距離機だから基地まで足が届かない。航空管制の所為で周囲を飛んでる飛行機はいないのだから、こんなの、みのりちゃんに遠隔で操作させればいいじゃん。もっとも、帰りの退屈も含めて〝新入りへの歓迎〟になっているのかも知れないが。
 
 金星の晴れる事の無い雲に囲まれ、心まで晴れ間の無い憂鬱に浸っていると、インカムから秘匿回線で湊川のヒソヒソ声が入る。
 「あれほど『手ぇ出すのは止めとけ』って言ってるのに、人の話を聞かないヤツだなぁ。お前は……」
 「はぁ?」
 ——と、つい大声を出してしまった。後ろに当の御影恭子がいるんだった。
 「誰が手を出すもんか! 救助だよ、救助。お前だって見てただろ」
 「まぁ、そういうことにしといてやろう」
 「そういうことにしとく﹅﹅﹅じゃなくて、そうなんだよ……」
 「分かった分かった。それにしても、垂直離着陸機VTOLでもない〈収水〉で機首上げ空中停止Harrierをするとはな。しかも、前代未聞の機体軸回転ローリング付きだ」
 「アレしか方法が無かったんだよ……」
 「ほほう? 俺には、いわゆるひとつの求愛の舞ってヤツに見えたがな」
 「よく考えつくな、そんなヨタ話……」
 湊川はどうしてもそっち方面の話に持っていきたいらしい。往々にして、この手の話題は尾ひれがついて知れ渡るものだ。先が思いやられる。
 「ところで——」
 こういう時は、強引に話題を変えるに限る。
 「ところで、〈ブーメラン〉のレーダーには何か未確認機アンノーンが映らなかったか?」
 「未確認機アンノーンだと?」
 「そうだ。レーダー照射を受けた」
 「穏やかじゃないな。こっちでは何も感知出来なかったぞ。夢でも見てたんじゃないか?」
 湊川は、こちらを覗き込み、ジト目でわざとらしく『おらぁ知らねぇよ』って顔をしている。
 「そうか……。すまん、それならいいんだ」
 「何か見たのか?」
 湊川は目を細める。
 「いや。機影は見えなかった——が」
 「——が?」
 「いや、何でも無い。忘れてくれ」
 〈収水〉のレーダーも一瞬反応したってことも言おうかと思ったが、それは後でフライトレコーダーを見れば分かる事だ。ここで議論してもしょうがない。隊に戻ってから報告書に書けばいいことだ。
 
 そんなこんなで、3時間。
 風景が変わらない五里霧中の中、3時間だぜ、3時間!
 俺たちはようやく、北緯30度帯30 Degrees Northを統括する拠点〈レッド・ランタン〉まで到達した。〈レッド・ランタン〉とはよく言ったもので、巨体な赤い筒状の空中都市だ。中央は膨れてはいないが、なるほど、赤提灯あかちょうちんに似ている。酒屋はそれほど入っていないがな。
 居住区の基本単位は六角形ヘックスの浮き袋状のモジュールだ。単独でも浮いていられるように設計されているが、実際はそれらが何百、何千と連なって広がっている。浮き輪と言っても中央部分は穴ではなく、予備の酸素とヘリウムガスが詰まった密閉空間であり、周囲の輪の部分に居住空間がある。中央が軽く、周囲が重いという点では、通常の浮き輪と構造が逆だ。
 六角形ヘックスの浮き袋なら、あたかも蜂の巣のように、平面にどこまでも連なることが可能で、現にそういう空中都市もあるのだが、〈レッド・ランタン〉の場合は一周するとひとつ上の階層に繋がるようになっていて、それが螺旋らせん状に積み重なっている。
 この構造については、誰かが言っていたな——えーっと、
 「んー、ら、らせん転位を持つ——、グ……グラフェン構造」
 ——そうそう。グラフェン構造……えっ? 
 
 俺は後ろを振り返った。御影恭子の隣の補助席ジャンプ・シートで青い顔をしている、ひ弱そうな男。どこに売っているのか分からないような、四角い黒ブチの眼鏡をかけている。如何いかにも研究室の一角にひとりこもりっきりで、何か怪しいことを企んでいそうなタイプだ。
 今回は話に加わらないだろうと思ったら、最後の最後で絡んで来た——。
 彼の名は、魚崎すすむ。見たまんまの学者様。宇宙量子物性論とか、何だかジャンルが混ぜこぜの聞いた事すら無い分野の専門家らしい。そういう意味では御影恭子と同類なんだが、何をしに金星までやって来たのかすらよく分からない。——いやまあ、分かろうという気はさらさらないが。
 今回、〈ブーメラン〉に乗り込んだ時も、単なる見学者として搭乗してきた。何処を飛んでも雲中なんだから、目の保養にはならないと思うのだが、魚崎は、それ以前の段階で、既にアウトだった。飛行機酔いのため最初からグロッキーで、外なんか全然見ていられる状態じゃなかったのである。〈ブーメラン〉は飛行機というよりは、飛行船に近いので、振動の周期から考えると船酔いに近いと言える。まあ、どちらにせよ、何の為に乗り込んで来たのかサッパリ分からない。もっとも、わめく訳でも吐くわけでもなかったから、俺らとしてはマネキンが乗っている程度の扱いで良く、気を使う必要も無く、楽な〝お客さん〟ではあった。
 「タバコモザイク・ウイルスみたいな形ね。かなり短いけど」
 御影恭子が眠そうな目で会話に加わる。
 「そ——、それは違うよ。二重螺旋じゃない」
 「RNAは二重でも、外側のタンパク質は普通のらせん構造になるわ」
 「あ——、でも、それは違う……」
 ——なんなんだ。この会話は?
 御影恭子は、ひとつ溜息をつくと、そのまま腕組みをして黙り込んでしまった。納得したわけではなく、これ以上、話をしても無駄だと踏んだようだ。どのみち、たとえ話なのだから、正誤の区別があるわけじゃない。不毛な論議は早めに打ち切るに限る。
 ところで、この2人は知り合いなんだろうか? 今回の軌道間輸送船OTVで金星に着いた研究者同士の筈だが……。
 
 〈ブーメラン〉は可動プロペラを下に向け、最大限に揚力を発生させながら、〈レッド・ランタン〉の上部発着場——提灯を吊るす枠の部分に相当。滑走路を確保するため、この部分だけモジュールが多い——にフワリと舞い降りた。もちろん、俺も操縦卓コンソールからは足を下ろし、発進時と同様、単純だが重要ないくつかの定型作業セレモニーを、湊川と復唱してこなしながらの着陸である。
 〈レッド・ランタン〉に限らず、金星の居住区は中空に浮かんでおり、風と共に流されているが故に、施設全体としてみればほぼ無風に近い状態にある。発着場はその最上部だ。金星は上空に行くほど東風が強くなるから、結果的に発着場には常に弱い東風が吹いている。突然の突風も、風向きの変化も以外と少ない——というか、そういう風にも〝乗って〟しまうから、着陸は以外と楽だ。地球上の空港より簡単だと言ってもいい。深刻なダウンバーストが発生した場合でも、下降流に乗って発着場自身も降下するのだから、機体との相対的な位置関係はあまり変化が無い。
 常に雲中にあり視程が確保出来ないという状況も、赤外線の特定の〝窓〟で見ればそれなりに対処できる。硫酸雨が降っていると粘性が大きくて少々厄介だが、それほど飛行に支障があるわけではなく、人や荷物の搬入出に、脱硫のひと手間がかかるというだけで、技術的テクニカルな問題はなにも無い。
 
 そういう意味では、薄い大気中を地面スレスレに飛ぶことが多い火星より気楽な職場かもしれないなと、俺は漫然と考えていた。
 
 ——ヴィーナス・アタックと呼ばれる、金星地表への降下作戦を除けば……。







二、事  故

 
 謹慎一週間。それが俺に下された処分だった。
 人命救助をしたのに謹慎処分というのは、つくづく割に合わない仕事だと思うが、救助の仕方﹅﹅﹅﹅﹅が危険行為と見なされた。確かに一歩間違えれば、御影恭子は〈収水〉のエンジンでこんがり丸焼けだった可能性がある。さらに、機首上げ空中停止Harrier状態で氷の壁面に機体をぶつけていたら、たちまちのうちに姿勢制御は不可能となり、2人とも助からなかったかもしれない。小隊長殿おやっさんの言うように、あの場面は〝何もしない〟という選択が最もリスクが低かったと考えるのが妥当だ。
 もちろん、俺にだって言い分がある。御影恭子のケブラー繊維で出来た防護服プロテクトスーツは、硫酸で溶ける可能性があったし、酸素残量も未知だった。だが、それを弁明しても、謹慎処分の決定は変わらないだろう。ならば、言わない方がいい。俺の処分に加えて、御影恭子も何らかのおとがめを受けることになるのは本意ではない。何と言うか——チクったと思われるのがしょうに合わん。
 そういうわけで、懲戒委員会においての『〈収水〉洗浄後に御影恭子と何を話していた?』という質問には、『取り立てて何も……』とだけ答えた。ここであいつに恩を売っておくのも、後々何かの役に立つんじゃないかな?
 それに、そんなどうでもいい事は聞いて来るのに、俺の見た未確認機アンノーンからのレーダー照射については、一言も言及が無かった。逆にこちらから質問すると、『フライトレコーダーには何の形跡も見られない』と言明された。不思議な事もあるものだ。
 
 なお、謹慎が七日程度——それも、基地内待機で済んだのは、小隊長殿おやっさんの機転によるところが大きい。小隊長殿おやっさんは、俺が救助に行こうとしたとき、『駄目だ』とは言わなかった。『駄目だ……と言っても、お前は行くだろうな』と補足した。蛇足とも思えるこの付け足しで、俺の行動は命令違反とはならなかった。もしも『駄目だ』だけだったら、二週間程度は営倉で﹅﹅﹅謹慎してたかもしれない。
 とは言え、たった一週間でも謹慎は謹慎だ。せっかくの休みだと言うのに、外を出歩けないというのは少々気が滅入る。それ以上に残念なのは、金星地表への降下作戦——いわゆる、〝ヴィーナス・アタック〟への参加が絶望的になったことだ。作戦は、持ち回りで各分隊単位で行われていて、来週が俺たちの番だった。せっかく金星まで来たんだ。一度は、地表に足を下ろしたいじゃないか。次にお鉢が回ってくるのは、約半年後だから、まだ何度かチャンスはあるものの、少し——いや、かなり残念だ。
 俺は色々な思慮が混ざり合った憂鬱な気持ちで、夕食のカレーを食べながら、そうか今日は金曜日かなどと思いつつ、謹慎二日目の明るい夜﹅﹅﹅﹅を迎えていた。

 
         *  *  *
 
 金星での時間の概念は少々複雑だ。
 そもそも、惑星の自転周期をその惑星の一日と決めるのならば、金星の場合、地球の243日に相当する。金星の公転周期は225日だから、金星の一日は、公転周期のそれよりも長い。すなわち、金星の一日は金星の一年よりも長いことになる。
 だが、我々は金星の地表に住んでいるわけではない。空中都市は地表から55キロメートルほど上空に浮いており、風まかせで移動している。そして、その風がめっぽう速い。スーパーローテーションと呼ばれるその風は、空中都市付近の高度では、秒速60メートルに達し、4~5日で金星を東西に一周している。〝4~5日〟と曖昧なのは、空中都市の高度が気圧によって上下するからだ。
 ただし、空中都市にそんな風が吹き付けられているわけではない。風と共に流されているのだから、外はほぼ無風だ。つまり、風と共に居住区も、4~5日で金星を一周しているのである。
 また、空中都市は北緯30度帯30 Degrees Northにある〈レッド・ランタン〉だけではない。各々の空中都市はそれぞれ高度や緯度が違うため、回転速度も異なる。地球上では都市毎の時刻の違いは時差だけで表す事が出来るが、金星の場合、ある都市はほぼ4日間隔で朝が訪れ、別の都市では5日間隔なんてことはざらにある。ひとつの空中都市だけに着目しても、気流の変化で一日の時間は変化するから、夜明けの時刻さえ正確に予報する事は不可能だ。
 結局、金星では、全ての空中都市に都合のいい時刻基準は存在しないため、地球で使われている世界標準時UTCをそのまま使う事になるのだが、そうすると、深夜なのに太陽が出ていたり、その逆だったり、数日後には昼夜が入れ替わっていたりと、およそ外の景色とは全く異なる時刻表示になる。
 地球上でも、超音速で飛んでいれば、太陽が西から昇る場面に出くわす事があるし、衛星軌道上では、一日に数十回の夜明けが訪れるので、宇宙空間で仕事をしたことのある人間は、この手の感覚には既に慣れっこになっている。軍用の二四時間表示時計の針を見れば、外の明るさに関係なく目が覚めたり眠くなったりするようになるのだ。人間の適応能力を甘く見てはいけない。
 
 まあ、謹慎と言っても、何か重労働を課せられるわけではないため、時間はたっぷりある。懲罰と言うよりは、むしろご褒美に近い。俺は手に入れた時間を使い、御影恭子の素性を調べてみることにした。どう考えても、あの大胆な行動は、いち研究者のソレではない。それに、湊川が言っていた、彼女にまつわる『良からぬ噂』というのも気になる。こちらの方は湊川に直接聞くのが一番なのだが、奴は今回のヴィーナス・アタックに使用される降下母船〈マンタ・レイ〉の操縦を任されていて、模擬訓練シミュレーションやら作戦会議ブリーフィングやらで、何かと忙しいようだ。
 とりあえず、登録研究者ネットワークで調べてみたが、彼女の最新の研究が『硫酸還元磁性細菌の遺伝子操作による微小磁化結晶体の精製について』という、タイトルだけで目眩めまいがしそうな代物だということだけは分かった。それ以上の捜査は俺の手には負えないので、情報軍のエースとして期待され、そのスジの情報検索にはめっぽう強い伊川軍曹に、それとなく頼んでおいた。で、その報告のため、伊川軍曹が宿舎までやって来たのが謹慎二日目の明るい夜である。
 連絡方法ならば色々とあるだろうに、わざわざ出向いて来たということは、口頭で直接伝えなければならないことがあるのだろう。夜中なので——と言っても明るいが——食堂も開いておらず、自動販売機の紙コップのコーヒーとクリームパンをおごった。外出できない俺からの最大限のサービス。『えーっ、夜食べると太るんですけどぉ』とか何とか言いながら、嬉しそうだった。
 

 「みのりちゃん。意外と早かったな」
 「ですから、その〝みのりちゃん〟と言うのはちょっと……」
 「えっ? ちょっと何?」
 「——いや、何でも無いです。頼まれていた御影さんの経歴と研究内容が大体分かりました」
 「手間かけさせてゴメンな」
 「いえ。とんでもない。私も今回の件でちょっと引っかかった部分があって……」
 「ん?」
 「あ。それについては後で話します。御影さんは金星ここに来る前は、南極のボストーク基地で嫌気性細菌の採取と調査をしています」
 「ほぉ⁈」
 ——そう言えば、湊川もそんなことを言っていたな。
 みのりはクリームパンを頬張りつつ、論文のコピーをテーブルに広げて説明してくれたが、学術論文なんてのは見ても眠くなるだけだ。夜中だしな。明るいけど。
 「——で、その前は、マリアナ海溝周辺の熱水鉱床に住むバクテリアの調査に参加してます。御影さんはそこで採取した新種の硫酸還元磁性細菌Sulfate-Reducing Magnetic Bacteriumを調べていて、金星までやってきたみたいです」
 「その——えーっと、ナントカ細菌ってのと、金星がどう関係するんだ?」
 「はい。私も完全に理解したわけではないのですけど、御影さんのこの論文では、新種の硫酸還元磁性細菌は、元々金星にいたものだという仮説を立てているんです。遺伝子構造が金星由来のものに近いと書かれています」
 「なるほど……」
 
 金星には、地球とは別の進化を辿った生命体がいる。発見されたのは金星の硫酸雲の中を漂っている菌類のみだったが『生命は地球上に限定されるのか?』という、有史以来の人類の問いかけに決着がついたことは大きかった。この発見により、火星より遥かに移住が困難と思われる金星に、多数の研究者が住み着いたのは知っての通りだ。
 だが、それも今は昔。現在は研究者ではなく、多くの俗物ぞくぶつが住み着いている。金星表面に大量の鉱物資源が眠っていることが分かったからだ。南極条約Antarctic Treaty Systemの後に生まれた宇宙条約Outer Space Treaty、そしてそこから派生した月協定Moon Agreement南京議定書Nanjing Protocolによって、いかなる国も金星の領有は禁じられており、あくまで平和的利用、科学的調査が目的の筈なのだが、条約遵守のための監視員が各国の軍隊から選抜されて派遣され、結局はそれがある種の縄張り争いをしているという構造的な矛盾——我々もその矛盾の一員なのだが——が生まれている。さらに、その周囲には、各国の資金援助を受けて鉱物資源の調査目的の為の採掘﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅を行う〝なんちゃって研究者〟が多数ひしめき合っていたりする。
 昔から色々とキナ臭い動きが絶えない場所ではあったが、最近になって、各国のヴィーナス・アタックの回数がにわかに増えてきた。それも、地表面全体をしらみつぶしに探すような探査だ。うわさでは、地表で新種の鉱石が発見され、その鉱脈を探しているんじゃないかってのが、大方の見方だ。もっとも、我々下っ端にはそれが何なのか? ——そもそも、そんなものがあるのか無いのかさえ公式には伝わってきていない。
 
 そういう意味では、御影恭子はまともな研究者のようだ。行動はちっともまともじゃないが、動機は俗物的じゃない。細菌を追って金星ここまで来たのであって、かねになる貴金属やレアメタルを求めて来たわけではないようである。
 もう一人の研究者——魚崎ナントカの方は怪しいがな。
 
 「それと、他にも調べものをしたんですけど……」
 みのりの声が少しためらっているように感じる。
 「引っかかった——というヤツ?」
 「はい。御影さんの採取した彗星の氷に関しての報告書レポートがこれなんですけど、細菌類は発見されなかったようです」
 「あれだけやって成果無しか。こちとら、お陰で色々と迷惑をこうむっているというのに」
 「はい……。ただ、報告書にはパンスペルミア仮説のような『生命体は認められず』ではなくて『生命体による汚染コンタミは認められず』って書かれていたんです」
 「汚染コンタミ? 妙な表現だな」
 「そうなんです。後から混入された可能性を調べてみた——みたいな文章で」
 「うーむ?」
 みのりの指し示すコメント欄には、確かにそう記述されていた。報告書もA4一枚の素っ気ないもので、これのために危険を冒して飛び降りたのだとすると、少しばかり不可解な行動ではある。そもそも、彗星の氷を調べたいのならば、金星への大気圏突入Atmospheric Entry前の段階——つまり、宇宙空間で入手する方がよほど簡単だ。これなら、汚染コンタミがどうしたという懸念を根本から払拭ふっしょくできる。
 「ところで……。パンスペルミアってのは何だ?」
 「えっ? ああ。えっと、生命体は彗星や隕石に乗って宇宙からやって来たって言う説です。異端の説なんですけど、結構本気で調べている人がいるみたいなんですよ」
 「ふーん」
 みのりの知識は色々と幅が広くて面白いな。
 「えーっと、それから、御影さんも作戦時の落下事故﹅﹅公聴会で質問を受けているんですが——」
 「あれは事故じゃない。彼女が故意に飛び出したんだ!」
 「え? ああ——ええ。分かっています。でも、公式には事故として扱われていますから……」
 そうなのだ。俺がこんな目に遭っているのも、全ては御影恭子の身勝手な行動によるものなのだが、本件は〈収水〉緊急脱出装置の暴発として処理されている。もちろん、故意にやったとなれば、事故ではなく事件として扱われることになり、色々と面倒な手続きが必要だ。下手すると小規模ながら各国の審議官立ち会いのもとで軍法会議の扱いとなり、時間だけが奪われて誰も得をしない状態となる。我が隊のヴィーナス・アタックも中止となることは確実だった。そこで小隊長殿おやっさんの提案により、事故として扱う事となった。『全ての責任は俺が持つ』と言われたらそうするしかなかろう。
 「もしかして、御影恭子は『自分が勝手に飛び出した』とか何とか言ったんじゃないだろうな?」
 もしそうなら、せっかくの口裏合わせが台無しだ。
 「いえ。それは無いのですが、公聴会メンバーの質問の中に『〈収水〉洗浄後に上沢小尉に何を伝えた?』というのがあったんです」
 「はぁ? で、彼女は何と……」
 「『特に何も』と回答しています——」
 どうして、どいつもこいつも、機体洗浄庫での会話を聞きたがるんだ? 確かに、〈収水〉搭乗中と〈ブーメラン〉コックピットでの会話は録音されているから、会話記録が無いのはここでの会話だけなのだが。
 「何か重要な会話でもあったんですか?」
 「いや、特に何にも無い。俺の公聴会の記録も見ただろ?」
 「ええ……そうですけど」
 「何だ? みのりちゃんまで俺を疑っているのか?」
 「いえ。そういうわけじゃありませんけど……」
 やれやれ。とんだとばっちりだ。
 『その防護服プロテクトスーツは溶けるぞ』
 『えーっ!』
 ——っていう会話に重要な秘密があるとは思えんが、今更、そいつを吐露とろしても『本当か?』っていぶかられるだけで、誰も信じてくれない気がする。
 『○△大統領の暗殺計画は××日と決まった』
 『了解。引き続き任務を遂行せよ』
 ——とかだったら、逆に信じてくれるのだろうか?
 
 「ありがとう、みのりちゃん。恩に着るぜ」
 「あっ、待って下さい。もうひとつ、気になることがあるんです!」
 席を立とうとした俺に、焦った声でみのりが付け加える。
 「〈収水〉のフライトレコーダーに——ほんの僅かなので、私の勘違いかも知れないんですけど——改ざんの痕跡が見られるんです」
 「何⁉」
 「レコーダーメモリの残存電位が少し浮いている箇所があって、その記録時刻が〈収水〉の急速降下時に該当するんです」
 「ということは、俺が見た未確認機アンノーンからのレーダー照射の記録は、誰かに故意に消されたと?」
 「断定はできませんけど……」
 フライトレコーダーの中身は、機密性、完全性共にレベル3で保持されている。そんなものホイホイと改ざんされたらレコーダーの意味が無いから当然だ。だから、データ自身にアクセスできる権限もかなり制限されていて——って、おい!
 「ちょっと待った! 何故それに気づいた? フライトレコーダーの中身なんて、そうそう覗けるものじゃないぞ」
 「えっ? えーっと。それは秘密です。ちょっとした裏技があるんです」
 怪しい……。怪しいが、みのりの能力なら、そのくらいのことはやってのけそうな気がする。というか、それだからこっそり頼んだんだ。だか、それは明らかに軍規違反だと思うが——まあ、いいか。
 「うーん。まあいい。いずれにせよ、この事件——色々と裏がありそうだ」
 「はい!」
 「——何だか、やけに嬉しそうだな?」
 「はい‼ あ、いや。あの……、私ってミステリー小説とか大好きなので、こういう調べものはちょっとばかり興味があって、つい……」
 「なるほどね」
 まあ、ミステリー好きが嵩じて情報処理・検索能力に長けた結果になったというのならば、それはそれで良しとすべきだろうな。実際役に立っているわけだし。
 
 みのりの報告はここまでだった。御影恭子の素性はそれなりに分かったが、どうも全体像がよく分からない。まだまだ謎が多過ぎる。みのりは、『何か分かったら、また報告します!』と、探偵ごっこを楽しんでいるようだった。ほどほどにと建前を言いつつ、引き続きの捜査をお願いしたのは言うまでもない。

 
         *  *  *
 
 それから2日後。俺は、ヴィーナス・アタックの作戦会議ブリーフィングに出ていた。とは言っても、地表降下部隊——ヴィーナス・アタッカーズ——のメンバーからは外されているので、有り体に言えばオブザーバである。いや、謹慎中の身としては、オブザーバにすらなれていない。聞きに行ってもいいという立場じゃなく、むしろ逆だ。出撃——いや、出発できないと分かっているのに、聞く事を強制されている身だ。つまらん。実に、つまらん。
 当然ながら、作戦内容の詳細などには興味が持てなかった。それに今回も、いわゆる資源調査団の輸送が主たる任務だ。調査と言っても、地表に突然現れたモノリスを調査するわけでも、地中深くボーリングするわけでもない。ジオイド異常のある区域の調査——ということになっているが、そこには重い金属塊がタンマリ眠っていると言うことだろう。
 
 研究者によると、金星表面にある重金属の量は、シミュレーション解析で得られた理論値より多いらしい。多いと言っても、理論値の数%多い程度とか言っていたが、ともかく多いらしい。もっとも、地球もそうなのだ——とも言っていた。
 太陽系というのは、そもそもが星間ガスの収縮から始まっていて、中心の太陽がその大部分をからめ取ってしまう。惑星になるのは、辺境に残った搾りカスだ。それらが重力によって収縮しながら火の玉になる。まあ、火の玉と言っても、太陽みたいに核融合を起こすほどの量は無いから、煮えたぎったマグマの塊のようなものが出来る。そういう球体スープ状のものが出来ると、当然ながら中心に重いものが集まる。重いものが沈み、軽いものが浮く。当然の摂理だ。
 辺境の残った搾りカスの素性というのは、未だに原始のままフラフラしている小惑星を調べれば分かる。太陽系が生まれてこの方、太陽にも、木星にも落ちず、ましてや隕石として地球に落ちることもなく、40数億年もの間ひとりぼっちで居た天涯孤独の岩石——それが小惑星だ。コイツを調べれば地球や金星を形作っている元素の割合というのも分かる。だが、一旦、スープ状になって、重いものと軽いものが重力によって分離されてしまうと、表面には軽い元素ばかりが残る。よって、小惑星に含まれる鉄の量は、地球の岩石に含まれる鉄の量より圧倒的に多い。正確に言えば、地球表面の﹅﹅﹅﹅﹅岩石に含まれる鉄の量よりも多い——ということだ。逆に言えば、地球の中心は重い鉄ばかりである。見たわけじゃないけど、そういうものらしい。
 アツアツの味噌汁は、最初はウネウネと対流してそれなりに混ざっているが、冷めてくると具はもちろんのこと、味噌も底に沈殿して、表面には出汁の効いた食塩水しか残らない。もう一度、味噌汁を味噌汁らしくするには、強制的に箸でかき混ぜてやるしか無い。地球の場合、その役目を負ったのは月である。月によって再度かき混ぜられたのだ。
 ——いや、見たわけじゃないけど。
 地球が冷えてそのまま固まろうとした矢先、月が——月の元になった小惑星がぶつかった。一旦は融合したが、反動で千切れた部分が今の月になり、良い塩梅でかき混ぜられた地球が出来た。だからこそ、そのまま冷えていった火星なんかより、地表面に露出する重金属類の割合が多い。
 だが、金星は、そんな再加熱の要因が全く無い。巨大な何かがぶつかった形跡もない。分かっている事実は、地表面がかき混ぜられた年代が異様に新しいという事だ。ほんの——と言っていいのか俺にはタイムスケールがよく分からんのだけれども、ほんの5億年程度前のことらしい。それが証拠に、金星は、地球と比べても、隕石痕クレーターがほとんどないという美肌な星だ。惑星地質学の専門家に言わせると『ゆで卵のよう』なのだそうだ。もっとも、月にあるような分かり易いクレーターは地球にもそうそう無いが、それは風化によって跡が消えているだけで、よく調べるとその痕跡は色々と発見出来る。金星のクレーター痕は、地球の90倍の気圧による風化を考慮しても、あまりに少ない。5億年前に盛大にかき回されたようだ。その原因はよく分かっていないが、そんなことに興味を持つのは純粋な科学者だけ。俗物にとって金星は、貴金属が豊富に露出しているゴールドラッシュの星。飴玉に群がる蟻のごとく、色々と強欲な連中が研究者のフリをしてあちこちから集まってくる。
 別に正義漢ぶるつもりは全くないが、調査と称してお宝をかすめ取ろうという魂胆が気に食わん。正々堂々と『俺は金を掘りに来た。文句があるか!』と言えば良い。欲望丸出しで掘っているならば気にならない。それはそれで、そいつの人生だ。それに、必ずしも鉱脈を掘り当てるとは限らない。山師とはよく言ったもので、正にハイリスク・ハイリターンの世界。運不運も含めて命がけで挑戦するならば、何も言わない。
 何かこう——、最初からそう言えばいいのに、『我々は科学調査を……』とか何とか誤摩化し、建前を取り繕ってまで掘ろうとする心根こころねが気に食わんのである。
 
 ちなみに、俺が気に食わない理由がもう一つある。この長い前振りの話をしているのが、例の魚崎って奴なのだ。魚崎晋。コイツは確か、宇宙量子の物性がなんたらというのが専門だったんじゃないのか? なぜ、地学だか惑星科学だか知らんが、こんな専門外の話を延々としているんだ。それこそ、『この採掘は科学的な目的なんです。本当です』って言いわけを延々としている風にしか聞こえない。それに、いちいち『あー』だの『んー』だの、考えながらボソボソと話す話し方もイラつく。
 本来なら、『そんな話はいいから、ミッションだけ教えろ!』とヤジを飛ばしたい所だし、実際何度かそういうことをやって、その度に小隊長殿おやっさんたしなめられるという、その繰り返しを昔からしている。俺が正式な地表降下部隊アタッカーズの一員ならば、躊躇無く発言したかもしれないが、今はとりこの身——じゃなく謹慎中のオブザーバーだから、流石にそれははばかられる。そこまでKYじゃない。というわけで、始終ジト目で、止めろオーラを出しているんだが、魚崎にはどうにも通じないみたいだ。
 魚崎が登壇したとき、彼女——御影恭子も来ているんじゃないかと見回したが、オブザーバー席も含め、どこにもいなかった。御影恭子の興味は硫酸雲中のウイルスとか何かだから、金星地表面には興味が無いと考えるのが妥当だろう。硫酸の雨は、地表面に届く前に熱で蒸発してしまう。金星表面は暗くて猛烈に熱い乾いた大地なのである。
 アイツとなら——御影恭子となら、色々な方面で色々と仲良くできそうな気がしたのだが……。

 
 まあ、そんな事を考えていても仕方が無いので、今回の地表降下部隊アタッカーズの顔ぶれを見てみる。隊長は小隊長殿おやっさん直々に出撃だ。角のひとつが欠けた座布団みたいな形の降下母船〈マンタ・レイ〉を操縦するのは湊川。副操縦士は——見た事はあるが名前は知らないな。湊川と隣同士、小声で話しているみたいだから、おそらく以前からここに居たヤツだろう。何せ俺はここでは新参者だから、全ての隊員の名前をまだ覚えていない。全体で40人程なんだが……。
 その後ろにいる、角刈りの三人組。姫島と千船と杭瀬。コイツらは知っている。『装甲兵アーマードソルジャー3馬鹿トリオ隊』だ。3と言っているのに〝トリオ〟まで付いているから、馬から落ちて落馬して、頭痛が痛いみたいになっているが、皆からそう呼ばれているのだから仕方が無い。ここは慣例に従って、そう呼んでおこう。
 直接的に行動を共にしたことは無いが、太平洋上の訓練で、シンクロ芸を披露していた。もちろん、装甲服アーマードスーツを装着したままだ。他にも、広報活動の一環として、幼稚園で組み体操のパフォーマンスをしていたとかなんとか……。まあ、実際にやってみれば分かることだが、装甲服アーマードスーツを着たまま、普通の人間のように動くことは難しい。パワーが有り過ぎるのだ。10メートルジャンプするとか、タンクローリーを持ち上げるとかの方がよほど容易たやすい。ちなみに分隊を率いる姫島軍曹は、元々が千船とバディを組んでいた対潜水艦救援のエキスパートであるから、90気圧の地表での作業は問題ないだろう。周囲が液体じゃないから身軽な分、潜水艦相手よりも簡単かもしれない。ただし、金星地表面で問題となるのは気圧の方ではなく、鉛さえ溶ける五百度近い気温の方である。強力な冷却装置が付いてるとは言え、故障すれば三分は持たない。まあ、危険性に関しては気圧も同じで、一旦地表まで降りてしまえば安全な場所など何処にもない。ちなみに杭瀬は機動海兵隊上がり。三人とも実力は折り紙付きである。その隣にも同様の三人組がいるが、こちらはよく知らない。夕べの壮行会で飲み過ぎたのか、多少体調が悪そうで何度か咳き込んでいた。制服は同じだから、同じ装甲兵アーマードソルジャー隊だろう。作戦会議ブリーフィングの前に杭瀬が彼らと親しげに談笑していたから、機動海兵隊上がりの連中かも知れない。
 その席の前に浮揚軽量車エアロスピーダーの操縦士が正副合わせて4人。地面から少々浮き上がって猛スピードで走る浮揚軽量車エアロスピーダーは、エアーホッケーの上に乗っているようで中々面白い操縦感覚だ。地面効果が効いていて、ある程度無茶をやっても以外と地面への接触は無い。ま、肝心な所はコンピュータ制御で、大きな無茶はできない仕様になっている。
 ついでに述べておくと、一番前の席で、甲斐甲斐しくメモを取っているのは、みのりちゃんだ。といっても、彼女は地表降下部隊アタッカーズの一員になっているわけではなく、今回も後方で管制——の補助——を勤めることになっている。情報軍ってのは、管制官の真似事をするのが仕事じゃない筈だか——って、実は彼女の本業というか専門分野を俺は良く知らない。だいたい、紙でメモ取ってる時点で大丈夫かそれって思うところなのだが、みのりちゃんはどんな作戦でも、自分に直接関係ない作戦でも、一生懸命メモを取っている。メモが必要無いくらいの抜群の記憶力と情報処理能力に長けているのだけれど……。
 
 少し話が逸れたが、今回の地表降下部隊アタッカーズ小隊長殿おやっさん以下、総勢13名。
 ——いや、今、目の前でペラペラ——ではなく、何度もつっかえながらボソボソと喋っている魚崎も含めて14名だ。
 俺はこの編成に、少々違和感を感じていた。最初は言語化出来ない、モワモワとした、本当に違和感としか言いようの無いものだったが、魚崎から小隊長殿おやっさんが話を引き継ぎ、部隊員と装備についての話を始めたところで、その違和感の正体に気づくこととなった。一言で言えば、この部隊編成は、科学調査でも資源調査でも、ましてや鉱物採集のための編成でも無いという——うーむ、一言で言ってないな。
 どうも言いにくいことなのだが、これは何かの強襲——いや、急襲部隊﹅﹅﹅﹅だ。そう考えるのが一番しっくり来る。少なくとも輸送機か何かの露払つゆはらい的護衛や誘導の装備ではない。そもそも本小隊中に3分隊しかいない虎の子の装甲兵アーマードソルジャー隊が2分隊も必要な理由が分からない。金星地表面での活動であるから、探査車両のマニピュレータの故障や、地表基地局との通信ジョイントミスなどに備え、即時的に野外活動が可能な1分隊——3名程度を連れて行くだけならまだ分かるが、野外活動そのもの﹅﹅﹅﹅をメインとしない作戦ならば、この配備はオーバースペックだ。
 その逆に、機動力が有り過ぎる反面、防御力は弱い。車輪や無限軌道キャタピラで移動する装甲車両が無いということは、物資を運ぶ為の作戦ではないと言える。襲撃するのが金星地表面の陣地となれば、敵の襲来云々以前に、その環境に耐え得る施設にするという前提だけで頑強な造りになる。ただこれは、ダムの壁が分厚いのと同じで、外圧から守るための構造だから、破壊は以外と簡単だ。一カ所でも亀裂が走れば後は自発的に崩壊して行く。さっと近づき、ガツンとぶっ叩き、そそくさと逃げ帰るのが正しい攻撃法だ。そういう意味では、急襲部隊を編制するのは理にかなっている。軍事作戦であるならば……。
 もちろん、本作戦は表向きは、『ジオイド異常のある区域の探査』であるから、輸送力を必要としないのは当然としても、それを言うなら機動力も必要ないだろう。浮揚軽量車エアロスピーダーのような高速車両——車輪が無いのだから〝車両〟ではないが——を使わずとも、降着車輪ランディングギアでそのまま地面も走れる汎用の地表降下機〈ブラック・タートル〉で事足りる筈だ。探査区域が広範囲にわたる——あるいは区域が、さまよえる湖のように移動している? ——ということならまだ分かるが、探査場所は今、眼前の巨大スクリーンにデカデカと表示されていて、緯度経度高度共に位置情報は特定済みである。つまり、最悪、機器を設置するための小型車両さえあれば事足りる。いや、探査用のセンサーを自走式にしてしまえば、それすら要らない。〈マンタ・レイ〉からセンサーを放ってしばし待ち、データを習得してから悠々と引き上げればよい。これなら、俺の彗星水汲み作戦ファースト・ミッションと同じく、操縦士と副操縦士——あとは探査作業を行う魚崎だけ居れば済む仕事だ。バックアップを考慮しても5名程度。むくつけき男が総勢14名も出向く仕事じゃない。
 
 やはり何か裏がある。そう考えるのが自然だ。ちなみに、この場で裏事情を話せないのは、この作戦会議ブリーフィングが公式のものであり、国連加盟の各国担当者が何時でも見る事の出来る映像資料として保存されるからだ。実際、今この場においても、その筋のお偉方と思われる人々がオブザーバ席でふんぞり返っている。にじみ出ているオーラが明らかに違うので、直ぐにそれと分かるし、それ以前に彼らはそのことを隠そうともしない。むしろ、積極的に自国の監視の目をアピールしに来ているという風体ふうていだ。同時に、共和国政府の代表も来ていて、不機嫌そうにその光景を見ている。どのみち狸と狐の化かし合い。こんな場で、裏向きの——実際はそちらの方が表なのだが——任務ミッションが語られる筈がない。そういう事実は、作戦オペレーション開始後、いくつかの煩雑はんざつ定型作業セレモニーと基地局との公式通信が済んでから、作戦参加要員だけに語られることだ。小隊長殿おやっさんの、
 『まぁ、気づいているとは思うが——』
 から始まる一連の言葉で、本当の作戦会議ブリーフィング——いや、作戦司令コンバットミッションが下される。
 いやぁ、行きたかったなこの作戦オペレーション。絶対に面白そうじゃ無いか! 残念だ。非常に残念だ。もしかすると俺は、実は意図的に外されたのかもしれない——なんて思った。何となくそんな予感がした。だとしたら何の為に?
 いやまあ、置いてけ堀を食らったヒガミ根性から出た感情だ。聞き流してくれたら幸いだ……。


        *  *  *

 「GPS高度計アルティメーターセット確認。無線周波数セット完了。〈レッド・ランタン〉聞こえるか?」
 「〈レッド・ランタン〉より、〈マンタ・レイ〉一番機へ。短波およびレーザー相互受信に問題はありません。衛星経由通信も確認。全て正常オール・グリーンです」
 「このまえみたいに、EUの予備衛星が死んでたりしないの?」
 「大丈夫です。異常箇所は遠隔で焼き切って修理済み——と報告が入っています。通信試験も3日前に終了しました」
 「了解ラジャー。手回しいいね。えーっと、搬入口クローズ&ロック、チェック」
 「チェック」
 「緊急脱出装置有効設定オートマティック大気房バロネットセンサーチェック」
 「チェック」
 「方向舵ラダー昇降舵エレベーター——動いてるな。〈レッド・ランタン〉そっちは?」
 「モニターで確認しました。問題ありません」
 
 作戦オペレーション当日——要するに、作戦会議ブリーフィングの翌日。湊川のヤツ——何だか楽しそうである。あいつが楽しそうであればあるほど、俺はモヤモヤしてくるので、本当ならば発着場脇の管制室など来る気は無かったのだが、いわゆる予備クルーとして降下を見届ける責務がある。仕事の一環だから仕方が無い。まあ、みのりちゃんのテキパキとした受け答えを見に来たと思っておこう。いつもはここから飛んで行くばかりで、ディスプレイ越しの表情と声しか聞けないのだから、たまには送り出す側になるのも悪くあるまい。
 ——そう考えないとやってられない。
 
 そうこうしているうちに、巨大な〈マンタ・レイ〉はゆっくりと滑走を開始する。いや、ゆっくりではない。機体が大き過ぎて距離感が狂うのだ。〈マンタ・レイ〉も〈ブーメラン〉と同様、硬式ハイブリッド飛行船という部類に属する。いわゆる、重飛行船というやつだ。飛行船と名前がついているは言え、船体の比重は周囲の大気より重く、ガスの浮力だけで浮く事はできない。さらに、ヴィーナス・アタック用に調整された機体は、地表面の90気圧まで対応できるように、ヘリウムガスではなく大量の窒素ガスが封入されている。高度10キロメートル以下——気圧にして50気圧以上——で周囲の大気と釣り合うように最適化されていると考えればいい。そのため、空重量であっても最大積載の貨物を満載した輸送機並に重い。離陸時に思わず腰を引いて操縦席を座り直してしまうくらいに重いのだ。もっとも、最悪、滑走路の端から〝突き落とす〟方法でも離陸は可能だ。それを離陸﹅﹅と言っていいかどうかは別にして。
 それにしても巨大な機体だ。炭素繊維強化プラスチックCFRPの骨組みとカーボンナノチューブCNT繊維で作られた船の全長は900メートル。翼端にいくほど急激に翼弦コード長が減少する独特な形状フォルム——〈マンタ・レイ〉という名の由来でもある——の翼幅よくふくは1キロメートルにも達する。
 形こそ違うが、地球上では成層圏上に、同規模の軽飛行船が数機浮かんではいる。だが、眼前で見る機会はほとんどない。誰もそんなところに住もうとしないし、住める環境でもないからだ。一時期、この飛行船モドキを母体とした成層圏プラットホーム構想とか流行ったのだが、構想は構想のままで終わってしまっている。地上に住めるのに、わざわざ空中都市を作る必要は無い——意外と、地球の人々はドライで現実的なのだ。
 これが金星の場合、否が応でも空中に住むしか方法がない。そういう背水の陣がなければ、人は動かないということらしい。逆に言えば、そういう困難な場所に降り立っても、人間は、それはそれで何とか対応してしまうものらしい。
 次第に離れて行く〈マンタ・レイ〉に対し、醒めた目でにこやかに﹅﹅﹅﹅﹅手を振りながら、俺はそんなことを考えていた。湊川のヤツは律儀にも、管制塔の上を一周してから、機体を左右に揺らして〝バイバイ〟してから潜航していった。機体がデカ過ぎて翼のしなりが脈を打って何度も往復するのが見える。〝バイバイ〟は滑走路スレスレの管制塔脇で行うのが慣例というか度胸試しになっている。あんまり近過ぎると後で怒られるのだがな。
 
 潜航後、〈マンタ・レイ〉は直ぐに見えなくなった。晴れることの無い雲中を進む船だから、直ぐに消えてしまうのは当然なのだが、見送る側のことも少しは考えて欲しい。レーザー光で軌跡を造るとかの演出はどうだろうか?
 まあ、そんな悠長なことを考えていられるのは、俺が本作戦に直接は参加していないからだ。みのりちゃんは、出て行く〈マンタ・レイ〉を肉眼で見ることなく、インフォメーション・ディスプレイを凝視して、指示を出し続けている。補助の割にはメインで頑張ってるな。最初から気合いを入れていたら、途中でヘタるぞ——と思う。
 ヴィーナス・アタック——つまり、金星地表面への降下と一言に言っても、〈マンタ・レイ〉は静々しずしずと真下に沈むわけじゃない。スーパーロテーションと呼ばれる秒速100メートルの東風による移動もあるが、そもそも降下地点は南緯16度のセレス・コロナCeres Corona周辺だ。赤道を跨いで南半球に行く必要がある。どんなに急いでも8時間程度の時間はかかる。さらに、風に流されながらの移動だから、ピンポイントで降りられる保証は無い。作戦時間が遅れて、降下可能領域を行き過ぎてしまうと、風まかせでもう一周ということも考えられる。高度が下がればそれだけ気流も弱くなるが、高度30キロメートルでも風速は秒速30メートル。地球上のジェット気流並の速度だ。下手に逆走するよりは、余裕をもって巡回した方がいい。〈マンタ・レイ〉は、地表に近づくほど浮力が増し、航空機としての側面は減り、より飛行船的な機動に近づく。さらに降下を続ければ、要求される機能としては潜水艦に近くなる。事実、地表付近で最も憂慮すべき事故は圧壊あっかいだったりする。まあ、どちらにせよ、浮かんでいるだけならモーターを止めて昼寝をしていても支障はない。
 ただ、考慮すべきなのは水平方向の風だけではない。降下するとなれば、上昇流・下降流も考えねばならず、事態はより複雑だ。モーター駆動のプロペラは腹部に並んで4機、上面後部に2機。全て推力偏向制御TVC付きである。これら推進機の役目は姿勢制御用と考えた方がいい。要するに、風に逆らって飛ぶほどの出力は無いと言うことだ。そもそも、プロペラ数だって〈ブーメラン〉の8機よりも少なく、機動力はハナから期待されていない。こんな鈍亀なヤツが敵に見つかったら、相手がハチドリ並に小型なヤツでもアウトだ。ハチドリは言い過ぎかな。
 
 もっとも——敵などいない筈だが?
 
 レーダーで捉えられるだけとなった〈マンタ・レイ〉は、次第に南東へと進路を変える。実際は降下しながら南に全速前進なのだが、下降するに従って東風が弱くなるから、相対的に〈レッド・ランタン〉より東に進む。正確には、〈レッド・ランタン〉の方がより速く西に進んでいるということで、地上基準にすれば、どちらも西に流されていることに変わりはない。地上座標と空抜﹅﹅座標とがごちゃごちゃになるから、どうもややこしい。ついでに言うと、高度の表現に関しても、30キロメートル——三万メートル以下の表現ではフィートを使う事も多く、これまたややこしい。
 〈マンタ・レイ〉はこれから、アフロディテ大陸の極東部上空からマアト山付近で赤道を超え、一度ルサルカ海——海と言っても水は無いが——に出てから、ダイアナ渓谷の先、セレス・コロナへ向かう。ルサルカ海上空で、地上からの高度30キロメートル、空抜﹅﹅マイナス20キロメートルで雲の下に出る。そこからの眺めが素晴らしい——らしいが、モニターで見ただけの俺はどうもピンと来ない。金星の荒涼とした大地をこの目で見ないと、やはりこんなトコまで来た意味が無いという気がする。実際は荒では無くて、荒——いや、荒ではあるが。ちなみに、高熱ではあるが、熱では無い。金星の地表面は、晴れることの無い厚い雲の下にあり、地球でのどん曇りのように常に薄暗いのである。この空域に〈マンタ・レイ〉が至るまでに、優に3時間。それまでは風速の実況と予報を見て、管制室と連絡を取りながらの微調整の降下が続く。実に面倒な作業だ。
 雲下の金星地表面を眺めてみたい気持ちは当然あるが、この手の——風を読みながらの操縦はどうも嫌いなのだ。9割は風任せ。制御出来るのは、残り1割しか無い。だから、一度タイミングを逸すると、取り返しが難しい。合気道みたいなもので、相手の力をほとんど借りるため、腕力は要らないが、間合いに関しては的確な判断が要求される。決して、苦手なわけじゃない。単に、嫌いなんだ。俺はどちらかというと、推力任せの強引な方が性分に合っている。合気道よりはボクシング——それもヘビー級だな。

 
 3時間後。基地内でだらだらとブランチを食べ、そろそろ雲を抜ける時間だなと暇つぶしに管制室に顔を出すと、みのりちゃんは管制官の任を解かれていたが、別の作業をしていた。浮遊基地フロート・ベースと呼ばれる直径10キロメートルの半球状の風船——無人空中停留所の遠隔操作だ。無人と言ってもそれなりの人工知能AIを備えた設備で、普段は自立的な行動で移動している。彼ら——100機は超えていたと思うが——は、主に雲底直下の位置に適度な間隔を保ちながら漂っている。居住区のある空抜0メートル、0.7気圧面高度と、高熱の地表面との中間地点にあたるこの場所は、10気圧、気温230度程度。生身で外に出るのは無理だが、地表にアタックをかけるか、それとも一旦引くかを判断をするには丁度いい場所だ。逆に、地表面で何かあった場合、緊急避難としてここまで上がってくれば何とかなるだけの設備は整っている。正に、ベースの名にふさわしい。
 〈マンタ・レイ〉はルサルカ海上空で、赤道帯の12浮遊基地フロート・ベースとランデブーする予定になっている。そいつの人工知能AIに指示を出しているのが、現在のみのりちゃんの仕事のようだった。俺としては、何にも手伝えないのがもどかしいのだが、みのりも手伝って欲しいとは思っていないだろう。
 陸に上がった漁師が只の呑んだくれのオヤジになってしまうように、出撃していない操縦士パイロットは手持ち無沙汰ぶさたでやるせない。浮遊基地フロート・ベースの操作は遠隔とは言え、まがいなりにも〝飛行物体〟を操縦しているわけだから、俺にだってできるんじゃないかな? ただ——、機動力も何もあったもんじゃないから、〈マンタ・レイ〉以上に操縦はつまんないだろう。やっぱり、口出しするのは止めておこう。餅は餅屋ということで……。
 
 管制室にある無数のモニターの一つ。〈マンタ・レイ〉の機首カメラ映像に、黒い点が見え始める。同時に、うっすらと地上の風景が、ベールを剥ぐように現れてくる。そうは言っても、うす黄色い大気を通して見る岩だらけの大地だ。目の保養にはならない。みのりちゃんの眼前にあるモニターには、その逆の光景が映し出されていた。つまり、何も無い黄白色の雲間から、キラキラと光る機影が見えて来てくる。〈マンタ・レイ〉の機体は、上下動での温度変化を極力避けるため、多くの輻射を反射するように銀色にコーティングされている。12浮遊基地フロート・ベースとのランデブーは時間的にはほぼピッタリ。気流の予測もそれほどは外れなかったらしい。過度な乱気流タービランスの報告も上がってなかったし、ほとんど、オートパイロットだけで済んだんじゃないだろうか?
 操縦士パイロットでもないヤツは『今回の飛行は楽でよかったな』なんて言葉をかけるのだろうが、突発的な事態に備えてモチベーションを維持し続ける労力は、周囲の気象状況の様相とは直接は関係が無い。事故の多発地帯は、飛行が危険な状況下では無く、そこを切り抜けた後に多いのも周知の事実。特に長時間飛行の場合、事件イベントが何も無いより、数十分おきに何かあったほうがいい。何も無いと、逆に精神的にグッタリする。そういう意味では、最初から最後まで手動操舵の方が、肉体的にはともかく、精神的には楽だ。
 〈マンタ・レイ〉の銀色の機体とは対称的に、常に黄白色の雲海下にある浮遊基地フロート・ベースは、下から見上げた時に視認しやすいよう真っ黒である。赤道帯12浮遊基地フロート・ベースは、かなり年期が入ったベースで、硫酸雨によるスジが、無数に走っている。そう言えば、みのりちゃんは、作戦会議ブリーフィングの後、このベースのことを『禾目天目のぎめてんもく茶碗みたい』とか何とか言っていたが——なんだそれ? という反応しか、俺は出来なかった。まあ、確かに、茶碗のようではある。もっとも、茶を入れるべき碗の上部は平らになっていて、そこに離発着する構造だから、フタが被せてあるようなものだ。ここだけは白っぽい灰色となっている。茶碗として見るなら——なるほど、少し緑がかっている。
 そのフタの上、〈マンタ・レイ〉はさして苦労することなくフワリと舞い降りた。多少は飛行船らしさ﹅﹅﹅﹅﹅﹅が増したらしい。しばらくはここで休憩。機体に異常がなければ、再降下地点まで東風で運ばれた後、地表面へとアタックをかける。
 
 「さてと……」
 俺は、管制室の隅っこに陣取り、〈マンタ・レイ〉との通信回線を開いた。公式ではなく、どちらかというと裏口バックドアの回線。出撃前に湊川に聞いておいたものだ。そのままだとバレバレなので、そこから暗号化して、無線で仮想閉域網VPN接続。個人端末から入り直す為に、管制室を出て、一旦向かいの控え室に入る。
 「よお。元気か——」
 俺は、湊川に声をかける。
 「退屈だったよ。もうもうとしたところを西へ西へと。——途中で引き返そうかと思ったぜ」
 「なんだそりゃ」
 「落語のネタだよ」
 よく分からんことを言う奴だ。
 「それはそうと——」
 俺は早速、本題に入る。
 「——今回の作戦の本当の目的はなんだ?」
 「あん?」
 「小隊長殿おやっさんは何て言ってた?」
 「……調査だよ。調査。岩石のな。お前も聞いてただろ?」
 「……そうだったな」
 湊川はあくまでもシラを切るつもりだ。まあ、俺が反対の立場でもそうするだろう。おおっぴらに出来ない機密事項だからこそ、作戦開始後に知らされる。もしかすると、小隊長殿おやっさんすら出撃前には知らなかった可能性もあるな。出撃後に開封すべき司令とか暗号とか、まあ、そういうものは多い。敵をあざむくにはまず味方から。大抵の機密は、敵スパイの諜報活動ではなく、味方から労も無く漏れるのが通例だ。
 ここは、質問を変えてみるべきだな。
 「〈マンタ・レイ〉はセレス・コロナCeres Coronaの上空で待機なのか? それとも、地上まで降りるのか?」
 〈マンタ・レイ〉の巨体を地面まで降ろすには、平らな場所を探さねばならない。単に人が降りるだけでよければ、〈マンタ・レイ〉を中空に浮かせ、汎用の地表降下機〈ブラック・タートル〉で降下すればいい。浮揚軽量車エアロスピーダー装甲兵アーマードソルジャー隊も出番はない筈だ。ただし、それだと急襲は不可能になる。
 「降りるさ。——だが、セレス・コロナCeres Coronaまでは行かない」
 「何だって?」
 「近づき過ぎるとな——噴火するそうだ」
 「ほほぉ。初耳だな……」
 金星には地球と同様、活火山がいくつか存在している。マグマが流れた地形も多い。それは知っているが、セレス・コロナCeres Corona周辺に火山は無い。妄想をたくましくすると、〈マンタ・レイ〉を敵の砲火の届かない場所に降ろすという意味にもとれる。
 「——となると、調査隊の編成﹅﹅﹅﹅﹅﹅は、装甲兵アーマードソルジャー隊2分隊が浮揚軽量車エアロスピーダーに乗って行くってことだな」
 「少し違うが、まあそんなとこだ。上沢——お前の出番は無い。無い方がいい」
 「……そうか、それは残念だな」
 地上戦のみで空爆は必要ないと言うことか? 急襲ではなく潜入なのかも知れないな。
 
 湊川との会話はそれっきりで、浮遊基地フロート・ベースのラウンジに行くと言って回線を切ってしまった。浮遊基地フロート・ベースは底面に、ラウンジも含め、環状の展望台を備えた待機設備がある。茶碗で言うところの高台こうだいに相当する部位だ。ここは通常は無人だが、避難所として数千人が数日は泊まれる備蓄がある。医療設備や空抜0メートルの空中都市へ向かうための緊急脱出用シャトルなども装備されている。仮眠を取るなら〈マンタ・レイ〉の中では無く、ここに降りた方が断然いい。
 セレス・コロナCeres Coronaまでは行かないということだから、精々2時間程度の休息時間だろう。微妙だな。寝るとかえって疲れる。コーヒーでも飲んでリラックスするのが一番か。まあ、休息の取り方は人それぞれだからな。
 
 俺は自室に戻って、セレス・コロナCeres Corona周辺の地形を探っていた。一応説明しておくと、コロナとは金星特有の円形状の丘のことで、直径は数十キロから数千キロにも達する。何故そんな地形が存在するのかは、実はよく分かっていない。地下のマグマの上昇で出来たというのが、一番もっともらしい説だ。作戦会議ブリーフィングであの魚崎がそう言っていた。大小あるコロナの中でも、セレス・コロナCeres Coronaは直径が600キロメートルを優に超えており、大きな部類に入る。もっとも、金星で最大のアルテミス・コロナArtemis Coronaは2600キロメートルもあるから、それに比べれば幼児並に小さい。
 〈マンタ・レイ〉の本当の着陸ポイントはどこだろうか?
 『セレス・コロナCeres Coronaまでは行かない』という湊川の言葉は大きなヒントだが、着陸ポイントの推測範囲も数百キロ単位に広げて考えなきゃいけない。だが、浮揚軽量車エアロスピーダーも長距離の運用は無理だし、そもそも、小型機の地表面移動には、何らかの冷却装置を背負って行く必要がある。だから、母船となる〈マンタ・レイ〉から大きく離れての運用は最初から無理なのだ。
 身も蓋もないことを言えば、『誘導しているみのりちゃんに聞けばいいじゃないか?』——と言うことになる。だが、ああ見えて機密性2以上の事項は、命令者の許可無しには絶対に喋らない。どれだけ相手が〝身内〟であってもだ。特に今回、俺はこの作戦から外されているわけで、どんなに口説いても教えてはくれないだろう。今のところ、管制室への立ち入りが制限されているわけではないので、後ろから見ていれば、いずれはその全貌が明らかになる筈だが、それだと——えーっと、この〝ゲーム〟に負けたような気がする。
 
 ゲーム。そう、この頃はまだ余裕があった。単なるゲームだと思っていた。
 
 強襲だの急襲だの言っているが、全ては言葉のあやである。金星に持ち込める武器は、拳銃やアサルトライフル、精々重機関銃までの、歩兵が携行所持する小火器のみだ。地球上であれば、地上戦においては危険な武器だが、金星の地表では脅威とならない。理由は簡単で、そもそも、生身の人間である歩兵﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅が、小銃一つで出歩けるような環境では無いからだ。金星の地表で活動する場合、装甲服アーマードスーツを装着した装甲歩兵が最小単位である。そして、彼らに機関銃を撃ち込んだとしても穴が開く事は無い。その程度で穴が開いていては、金星表面の過酷な環境に適応出来ない。それ以前に、例え小火器を携行したとしても、うまく作動しないか、暴発するだろう。何しろ外気温で鉛は溶け、火薬は自然発火する温度である。銃弾の鉛が溶けてしまっては話にならない。
 また、どこからか武器が横流しされていて、ロケットランチャーなど、あり得ない攻撃を食らうということも、地球上なら考慮すべきだが、ここではそれもあり得ない。地球からの物資輸送は、基本的に3ヶ月に一度の軌道間輸送船OTVしかない。荷揚げの際には、各国の検査官が立ち会う。金星に基地を持つ全ての国の検査官が立ち会っているから、特定の国同士が結託して密輸を行うような余地は全く無い。そもそも、軌道間輸送船OTVは往復で半年の間宇宙空間を漂っているのだから、その段階でも全ての積み荷は再度チェックを受けている。武器製造に関わりそうな機器類も、武器貿易条約ATTの何とか条項で、輸送が厳しく制限されている。
 要するに、金星の地表でドンパチするのは、物理的にも、法律的にも無理——一言で言えばそういうことだ。どちらかと言えば、管制室があるこの空中都市の方が危険だということになる。少なくとも、空中都市の居住区内部は生身の人間が歩けるスペースがあるのだから、発砲事件やクーデターが起こるとすればここである。
 
 「さてと……」
 まさか今から2時間も管制室内を熊のようにウロつくわけにはいかない。ともあれ、2時間あれば結論が出る問題なのだ。俺はとりあえず、そのまま自室にこもる事にした。謹慎中の身だしな……。

 
         *  *  *
 
 アラームが鳴っていた。どうやら俺は、自室のベットで仰向けになった瞬間に寝てしまったらしい。床にスッ転がっている目覚まし時計を見つけ出し、頭のボタンを張り手で止めた——が、まだ鳴っている。いや、待てよ? これは、この部屋から鳴っているのではない。俺の知っている目覚ましの音じゃないし……。
 寝ぼけていられたのはそこまでだった。こいつは緊急を知らせるアラームだ。先ほどぶっ叩いた目覚まし時計を引っ掴み、時刻を確認すると、あれから1時間半が過ぎている。〈マンタ・レイ〉御一行は、未だ浮遊基地フロート・ベースでお休み中の筈だ。
 ベッドから跳ね起き、ドアを開けると、アラーム音は更に大きく鳴り響いている。急いで管制室へ飛び込むと、既に緊急事態エマージェンシーを知らせる表示があちこちで点灯していて、オペレータが銘々に対応している。それを取り囲むように、バックアップ組の操縦士パイロット航空士ナビゲーター、1分隊残った装甲兵アーマードソルジャー隊の面々が集まりそれを眺めていた。要するに、俺が最後の参集者だったようだ。緊急出動スクランブルがあるとすれば、主操縦士メインパイロットは俺だと言うのに情けない。
 ただ、言い訳をするなら、緊急参集エマージェンシー アセンブリの場合、各人が個別に付与された緊急参集アラートが鳴る。神経を逆撫でするような独特の音色だから聞き間違える筈はない。そしてアラートに対して一分以内に返答しなければ、あらゆる手段で連絡が来る。現実には、管制室は目と鼻の先なのだから、ドアを蹴破られても文句は言えない。そんな状態でのうのうと寝ていられるわけないだろう。だが、今回はその連絡が無かった。お呼びがかかる程の非常事態では無いのか?
 残念ながら、俺はまだ金星ここに来たばかりで、管制室各人の名前も作業内容もよく分かっておらず、状況が直ぐには飲み込めなかったのだが、一点だけ——正面のメインディスプレイを見て直ちに分かった事がある。
 
 浮遊基地フロート・ベースが——無い! 直径10キロメートルもある半球状の風船の姿が、着艦中の〈マンタ・レイ〉ごと無いのだ。
 
 むろん、モニター類に何も映って無い映像が映っている﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅——のではない。管制室に届く映像は、現地のカメラからのものだ。カメラそのものが消えてしまえば、そこに映る映像がある筈も無い。〈マンタ・レイ〉の機首カメラ映像も、浮遊基地フロート・ベースの無数の監視映像も消えている。双方のカメラが同時に故障する確率は——いや、そんなことを考えなくても、浮遊基地フロート・ベースが消えているという事実はわかる。浮遊基地フロート・ベース自身が個別に出しているアクティブ型の基地識別信号が出ていないのはもちろんのこと、各浮遊基地フロート・ベースが相互にやり取りしている位置情報網からも、12番浮遊基地フロート・ベースは見えなくなっている。さらに宇宙から赤外チャンネルで監視している衛星から見ても消えているのだ。1時間半前までは疑いなくそこに存在した巨大な施設が綺麗サッパリ消え失せている。
 
 俺はみのりちゃん——いや、伊川軍曹の方を見た。彼女は必死で、だが冷静に、〈マンタ・レイ〉のクルー、すなわち地表降下部隊アタッカーズを呼び出していた。眼前のディスプレイには小隊長殿おやっさん以下、14名の顔写真が浮かんでいたが、ヘルメットのカメラ、音声、ボディスーツに取り付けられた各種センサー類の信号は全てNo Signalとなっている。一般人が傍目から見れば、これは最悪の事態だと思うだろう。だがこの場合、最悪一歩手前だ。みのりが名前を呼び続けていると言う事は、生存の可能性が絶たれたわけではないということを示している。仮に〈マンタ・レイ〉が浮遊基地フロート・ベースごと爆発したなどという事態であったならば、クルーの名前が呼ばれ続ける﹅﹅﹅ことは無い。それに、そうした状況で、緊急参集エマージェンシー アセンブリがかからないわけがない。
 何が起こったのか聞きたかったが、そんな雰囲気ではなかった。現在の小隊を束ねるのは、副隊長の谷上中尉になるのだが、何やら難しい顔をして、ホットラインの赤電話——繋がる先は共和国政府の中枢らしい——の真っ最中なので、話を聞ける状態ではない。もちろん、主席飛行管制官、伊川軍曹を含む次席級の管制官3名に、発着オペレータ、運行管理官等々……。管制室勤務の10名程がそこにいるのだが、みのりちゃんを除きほとんどインカム越しにしか会話をした事がない。
 出撃する側とさせる側とは、明らかに仕事の内容も隊員の気質も違う。むろん、同じ釜の飯を食う仲間であり同僚なのではあるが、双方の立場の違いから、しばしば対立もする。そういう場面では、常に小隊長殿おやっさんが良い立ち回りをしていてくれた。当然ながら、今ここにはいない。
 我々飛行機乗り組は管制室の異常な空気を感じてはいたが、遠巻きに眺めているだけ——いや、それで良いわけが無い。
 
 谷上中尉の電話が切れるや否や、同僚をかき分け、俺は中尉の前に歩み寄った。駆け寄ったと言っても良い。こういう馬鹿な役目は俺の仕事だ。
 「バックアップ組で捜索に行きます。許可を!」
 空っぽの頭で、口から出た言葉がこれだった。理由も状況も分からんが、地表降下部隊アタッカーズ忽然こつぜんと消え、連絡が取れなくなったのは間違いない。
 谷上中尉は、座ったままあごの前で指を組み、上目遣いで俺を見た。
 「捜索は、南緯20度帯20 Degree Southのロシア隊が既に展開を始めたそうだ……」
 確かに、セレス・コロナCeres Corona周辺に向かうには南緯20度帯20 Degree Southからの方が近い。北半球にあるこっちの基地と違って、気流の不安定な赤道をまたぐ必要もない。だが、しかし——。
 「消えたのは我が隊です。捜索の先発隊として彼らに頼むのは分かりますが——」
 「——頼む? 頼んでなどいない」
 「は?」
 谷上中尉は指を組んだまま、忙しなく人差し指を動かしている。小隊長殿おやっさんとは正反対で、神経質なインテリタイプ。俺としては、ちょっと苦手な相手だ。中尉は続けた。
 「予定調和だったようだな——」
 「どういう……ことですか?」
 中尉はインテリタイプ﹅﹅﹅ではなく、実際にインテリである。たまに言っていることが分からない。
 「つまりだ——」
 中尉は小声でささやいた。
 「——ハメられたってことだよ」
 『誰に?』と聞こうとしたが、その答えは向こうからやってきた。
 

 「本小隊の責任者は誰か?」
 「現在は、小職ですが……」
 谷上中尉はゆるりと立ち上がり、敬礼をした。俺が後ろを振り返ると、2メートルはあろうかと思われるゴツい体格の将校オフィサーがいた。腕の筋肉が付き過ぎで、両手が真下に下りていない。平らに均された拳頭や、いい色に膨れている耳の形からして、武闘派でかなりの手練てだれと見える。格闘ゲーム以外では戦いたくない相手だ。だが、幸いにも声の主はそっちではない。壁のようなその大男の前に、彼よりもふた回り程小さい、背広組と思われる女性がそこにいた。ブラウンに近い金髪に赤いセルフレームの眼鏡。バーで会ったのなら口説いていたかも知れないが、今はとてもそんな状況ではない。二人とも共和国直轄軍の服装をしている。
 ただし、男の方は、〈レッド・ランタン〉駐在部隊——開発援助国DACの行動監視役のために派遣された現地駐在部隊所属で、女の方は、政府司令部から直々にお出ましのエリートだ。襟元の微妙な違いでそれが分かる。
 
 この女、どこかで? ——と思った瞬間に思い出した。ヴィーナス・アタックの作戦会議ブリーフィング。国連加盟の御歴々おれきれきの面々に混じって一人、腕組みをして不機嫌そうに見ている彼女がいた。その時は、誰かの秘書か何かだろうとそれほど気にも留めなかったのだが——、なるほど。そういうことか。
 彼女は谷上中尉に対し、ピシリと敬礼をした。中々堂に入っている。
 「本件は我々が捜査します。管制室のシステムは現状のまま停止。全データは我々が預かります」
 彼女の声が、自動翻訳機トランスレーターを通して伝わる。実際に喋っているのは英語なのだが、独特のなまりがある。ひょっとすると母国語ではないのかも知れない。まあ、今時、母国がどこかなんて、血液型が何であるか程度の意味の無いことなのではあるが……。
 「ちょっと待ってくれ!」
 つい声が出た。とりあえず厄介事を目にすると口を挟まずにはいられないのが、俺の悪い性分だ。彼女がこちらを見るのはいいとして、後ろの大男の睨みが半端なく鋭い。
 「今遭難しているのは我が小隊のメンバーだ。我々が捜索に加わるのがスジってもんだろ」
 理由の無い怒りが込み上げて来た。——いや、理由はある。何が何だか分からないうちに、無関係な奴らにその捜索の手かがりすら押さえられようとしている。何が起きたのかくらいは知る権利がある筈だ。
 「遭難?」
 彼女はセルフレームをくいっと上げながら、目を細めてそう言った。その後方、吽形うんぎょうの仁王像の様な大男は、ギロリと俺を見下ろしている。
 「はっきり言いましょう。これは重大な国際協定違反だと、我々は考えています。本小隊指揮下の地表降下部隊アタッカーズセレス・コロナCeres Coronaでは無く、〝遺跡〟に向かっている。そうではないのですか? 上沢少尉。貴方にはその情報を提供した嫌疑けんぎがかかっています」
 「なっ⁉」
 俺の動揺を気にも留めず、彼女は半身を右に回し、こう続けた。
 「それと、もう一人。伊川軍曹にも話を聞かねばならないでしょう」
 
 彼女が何を言っているのか分からなかった。それよりも、何故俺の名前を知っている——っていうか、俺が何をした? 今回の作戦で、一番、蚊帳の外に置かれていたのが俺だぞ? そして、伊川軍曹——みのりちゃんは、額に銃口を突きつけられたかのように凍り付いた表情で目を見開いている。
 混乱しているところで、後ろから副隊長——谷上中尉が前に出て、俺と彼女の間に入る格好となった。
 「話は先ほど司令部からお聞きしました。指揮権はお渡しします。嫌疑が晴れるまで調べて頂いて結構です」
 「そう言って頂けるとありがたい。我々も手荒な真似は避けたい」
 双方、穏やかな口調だが、決して気を許しているわけではない。すぐ感情が顔に出る俺には出来そうも無い芸当だった。俺はその間、相も変わらず混乱し、その混乱を押さえるため、仮想敵として大男とにらみ合いをしていた。
 「ただ——、」
 谷上中尉は付け加えた。
 「——地表降下部隊アタッカーズ捜索﹅﹅を優先して頂きたい。その為の協力なら惜しみません」
 彼女はまたも目を細めたが、今度は少し口元が笑ったような気がした。
 「協力の申し入れに感謝します。一刻も早く彼らを発見し、基地に引き揚げさせることを約束しましょう」
 「お願いします」
 
 話はそこまでだった。彼女が左手を上げ、軽く前に振った。大男の後ろ側。管制室の入口には、5~6名の捜査員とおぼしき面々が列を作っていた。軍隊上がりという感じでは無く、どちらかと言うとディスクワークが得意そうな奴らだった。
 管制室は管制業務ATC: Air Traffic Controlの面々だけでなく、地表降下部隊アタッカーズのバックアップ組も自主的にここに駆けつけていたため、あらかた満杯だった。谷上中尉の『各人自室で待機』の号令のもと、まずは我々が外に追い出される形になった。俺とみのりだけを残して。
 
 俺とみのりは、そのまま、階下の計器飛行室IFRルームに連れて行かれた。文字通り連行されたわけだ。後ろ手に縛られているわけではないから、あくまで任意の事情聴取。ご指名﹅﹅﹅を受けた時は少しばかり驚いたが、心にやましい事など何も無いから平気だ。そもそも、俺は嘘をつけない性格だし、嘘をつこうとも思わない。もっとも、『別に言わなくていいだろ』と思ったことを、結果的には隠すことになる場合はあるかも知れないが、それすら〝黙秘権〟の行使なわけだから、自然に振る舞っていれば、何ら罪に問われる事は無い。ただ、問題はみのりちゃんだ。既に涙目になってオドオドしている。真面目過ぎるからなぁ——彼女は。
 計器飛行室IFRルームは非常時に管制室の代わりとなるメイン室と、最低限の装置だけあるサブ室の2つあり、俺とみのりちゃんは別々の部屋へ連れて行かれた。俺の方は、司令部直属の女。階級章はあるものの、文官のソレは俺には分からない。おそらく、彼女から官職名を聞いても、その官位がどの程度のものなのか分かりそうも無く、それを聞いたところで何の役にも立たない。ただ、例の大男は大佐だったから、それを従える程度の地位であることは間違いない。共和国直轄の司令部付文官と地方駐在部隊所属の武官とでは、それ以上に格が違うのかも知れないが……。
 みのりちゃんは——大丈夫かなぁ。その大男が相手なのだが。

 
         *  *  *
 
 「さて、少尉。聞きたいのは他でもない——」
 「ちょっと待った」
 室内奥の作業スペース——普段はここで茶菓子を食っていたりする——の床から椅子とテーブルを立ち上げ、席に付いた途端、性急に話を切り出した彼女を、俺は右手のてのひらで制した。相手がどんなお偉いさんか知らないが、話には順序ってモンがある。
 
 「アンタは俺の事をよく知っているようだが、俺はアンタのことを全然知らない。これは不公平じゃないか? それに……これは何の〝取り調べ〟だ? 俺は金星ここに来たばかりでよく知らないが、緯度帯毎に担当する国が違うということは聞いている。それぞれにそれなりの自治権があるから、コイツは少々越権行為過ぎないか?」
 自治権に関してはかなりグレーだ。共和国の司令部と地域駐留部隊——それも我々みたいな開発援助国DAC外人部隊﹅﹅﹅﹅とで、どちらの権利が優先されるのかは、正直よく分からない。だが、そんな建前は糞食らえだ。何の嫌疑けんぎか知らないが、仲間の隊員13名と、おまけについて行った魚崎って野郎も含めて14名が行方不明だって時に、取り調べなんて悠長なことをしているのに腹が立つ。まずは総力挙げて捜索し、見つかってからじっくり取り調べればいいだろうに。
 ——ともかく、俺は今、非常に不機嫌だ。
 
 「これは失礼。そう言えば、そうでしたね」
 彼女はそう言うと、自動翻訳機トランスレーターを外し、こう言った。にっこりと笑みを浮かべながら日本語で。
 「私の名前は、ソフィアСо́фьяヴォルドリンВолдорин——ソーニャСо́няでいいわ」
 拍子抜けだ。折角の敵対心が腰砕けになってしまった。
 「——で、俺に何の用がある?」
 とりあえず不機嫌そうなフリは続けてみる。
 「御影恭子のことが聞きたい……」
 「はぁ?」
 またか。またアイツの話か。俺はアイツの代理人でも付き人でも、ましてや恋人でもなんでもない。何故、皆、俺に聞きたがるのだ。
 「その話は、この前のじけ——いや、事故の公聴会で何度も聞かれた。議事録ログを当たってみてくれ」
 「それは、ここに到着する前に全て読ませてもらったわ」
 「そうか。それなら、俺から言える事は、それ以上何も無い」
 「そんなことは無い筈——」
 ソーニャは両肘をテーブルについて手を組み、小首を傾げながらあごを載せた。疑り深い目がそこにある。何と言うか、とてもキュートだ。
 ——いや、そうじゃない。そういう話ではない。
 「まさか、アンタも『機体洗浄庫で何を話した?』とか言うんじゃないだろうな?」
 「その通りよ。どうして分かったの?」
 ——やっぱりだ。まさかとは思ったが、やっぱりだった。ソーニャはますます疑いの眼差して見ている。そりゃそうだ。聞きたがっている事柄を一発で言い当てたんだから、何か隠していると思うのは当然だ。だが、逆に考えれば分かる事だが、もしも本当に隠したい事だったら、わざわざこちらから言う分けないだろ。少しは気付け!
 「何度も何度も聞かれたからさ。しかし残念だったな。特に何も話してない」
 嘘をつくつもりは無かったが——みのりちゃんから聞いた話では、御影恭子は公聴会の席で『特に何も』と答えている。まあ、その気持ちは分かる。硫酸雨が降るという金星なら当たり前の現象を知ってか知らずか、その硫酸で溶けてしまうような服を着てスカイダイビングをしたのだ。
 命が危なかった云々ではなく、これは自己の危機管理の問題で、かなり〝恥ずかしい〟出来事だろう。登山をするのにハイヒールで来たような、海水浴で水着を忘れたような——まあ、そんな感じだ。見栄みえ切ってダイブしたのにそのザマだったんだから、ちょっと格好がつかない。ここで俺がベラベラと喋ってしまったら、『なんだあの野郎、恥をかかせやがって!』と嫌われること請け合いだ。
 別に嫌われたく無いってわけじゃない——ふむ? 嫌われたく無いのかな? まあ、どうでもいい。ともかく、ここは知らぬ存ぜぬで通す事にした。
 だが、続くソーニャの言葉は意外なものだった。
 「風邪が——流行っている……」
 「何だって?」
 「南緯20度帯20 Degree Southのロシア基地で、奇妙な風邪が流行っている」
 「どういう意味だ? 風邪?」
 怪訝けげんな顔をするのは、今度はこっちの番だった。南緯20度帯20 Degree Southのロシア基地と言えば、先ほど聞いた捜索隊が所属している基地だ。そこで風邪が——風邪だと?
 
 最初は特に何も思わなかったが、これは一大事だった。金星だけでなく、地球以外で風邪かその類いを発症する可能性は皆無に近い。理由は簡単だ。結果的に菌から隔離されているからだ。
 地球から例の軌道間輸送船OTVに乗せられ、最初の一週間は徹底的な身体検査を受ける。いわゆる、虫干し期間である。冷凍睡眠コールド・スリープのための準備ということもあるが、この場であらゆる病原菌を駆除するという期間でもある。その後、数ヶ月——赴任地によっては数年——は眠りにつくことになるわけだが、その時の低体温は免疫力を極端に低くする——らしい。俺は医者じゃないから良くは知らないが、低体温時に少しでも病原菌が残っていたら、あっという間に肺炎のような感染症を引き起こすそうだ。だから、目的地の星が金星であれ火星であれ、そこまで生きて到達出来たということは、これらの菌は体には付着していなかったということの証明になる。
 また、赴任先で感染するということも考えにくい。運ばれて来た人間も動物も、物資の全てに至るまで、完全に無菌状態で届き、さらに、届いた先には病原菌が居ないからだ。南極とかでもそうだが、周囲に病原菌が居ないと、例えどんなに寒くても暑くても、体調を壊すことはあっても、感染症による病気になることはない。
 おっと。金星には硫酸雲の中を漂っている菌類が居るんだった。だが、心配ご無用。こいつらは、人間には感染しない。人間だけでなく、地球上のあらゆる動植物とは無縁の生き物だ。生物学的には、ちゃんとDNAだかRNAだかを持っていて、どこかの段階で、地球の種と分かれた——という説と、起源は全く異なるという説がある。
 5億年前に金星から地球にやってきて、そのお陰で地球上の生物が繁栄したとか絶滅したとか何とか? これらを研究するために金星に来た科学者も多いと聞く。そう言えば、御影恭子もそうだったか?
 そういうわけだから、金星で風邪をひくというのは、朝日が西から出るくらいあり得ないことなのだ。もっとも、金星のスーパーローテーションと呼ばれる風は東風だから、そこに浮かんでいる空中都市から見た朝日は、西から昇るのだが……。

 
 ソーニャは席から立ち上がり、歩きながら答えた。
 「我々にもよく分からない。幸い致命的なものでは無いから、数日安静にしていれば直ってしまうのだけど……。それでも不思議なのは感染ルート。どこから病原菌がやって来たのか? それが問題だったけど、つい最近手がかりが見つかってね」
 「手がかりとは?」
 「細菌のDNAを調べると、奇妙なものが見つかった」
 「ん? 何だそれは?」
 すっかり、ソーニャのペースに載せられている気がするが、とりあえず今は、興味の方がまさっている。
 「硫酸還元磁性細菌の遺伝子パターン。それも人工的に改竄かいざんした跡がある」
 「それは御影恭子が——」
 「そう。その通り」
 ソーニャは俺の回りをくるくる回るのを止め、こちらに振り向いて右手の指先を俺の鼻っつらの前でピタリと止めた。何だそのポーズは? 決めのつもりか?
 「理由は分からないけど、御影恭子の仕業しわざの公算が大きい」
 「だったら——」
 と俺は答える。
 「だったら、御影恭子に直接聞くんだな。俺なんかひっ捕まえて聞くより、よほど手っ取り早い」
 「それはその通り。我々もそうしたいのだけど、出来ない事情があってね」
 ソーニャは指差した人差し指を、今度は顔の横で左右に振り始めた。
 「ほほう。どんな?」
 「彼女——、今失踪中。正確に言えば逃走中ね」
 「何?」
 「だから貴方に聞いているの……」
 逃走中か。まあ、何か裏がありそうだなということだけは分かる。そもそもあの振る舞いからして、裏が無いわけが無い。だが、しかし——
 「事情は分かった。だが、俺は何も聞いてない」
 「あら? そうかしら?」
 ソーニャはまたまた目を細めて、疑の眼差しを向け、こう続けた。
 「だったら、何故、御影恭子が硫酸還元磁性細菌の研究をしていたことを知っているの?」
 「‼」
 迂闊だった。確かにそうだ。俺は御影恭子とはそんな話は全くしていない。湊川からは『彼女の興味は〝キン〟だけだ』という馬鹿話と、彼女の専門が地球外生命体とかの専門家だと言う事は聞いていた。だがそれだけだ。硫酸なんとか細菌﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅のことを知ったのは、みのりちゃんに御影恭子の素性を調べてもらって初めて知ったことだった。ヤバい。これが誘導尋問って言うヤツか。
 「そ、そんなの調べればすぐ分かるモンだろ」
 「それはそう——。だけど、貴方の端末からはその形跡は無かった」
 「不正侵入ハッキングしてたのか‼」
 「ええ。貴方が——いや、御影恭子がここに着いた時から。もっとも、不正じゃなくて、もともと彼女は要注意人物だったし——」
 その点については俺も同意見だが……。
 「まあ、そうじゃなくても、貴方のその反応を見れば﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、貴方が御影恭子を直接調べていないことはすぐ分かる」
 「くっ‼」
 そりゃそうだ。『端末からはその形跡は無かった』と言われて、素直に『図星です』みたいな反応を取ってしまっている。本当に、俺は嘘がつけない。さて困った。御影恭子をかばうつもりは毛頭ない。そりゃ、彼女も恥ずかしいだろうから、これ見よがしに、その失態を言いふらしたくないのは確かだが、今となってはそれはどうでもいいことだ。問題なのは、みのりちゃんである。
 ソーニャからしてみれば、『俺が御影恭子の研究のことを誰から聞いたか?』を知りたい筈だ。またまた、単に世間話をしている風で、ソーニャの誘導尋問に引っかかり、ポロっとみのりちゃんの名前を、俺が自ら言い出しかねない。それだけは避けたい。
 みのりちゃんはあくまでこの件に関しては部外者だ。俺が彼女の情報収集能力を見込んだ上でお願いしただけのことであって、こんなつまらない話に巻き込みたく無い。そうでなくても、今、みのりは、あの大男に尋問されている真っ最中の筈だ。何の嫌疑かは知らないが、彼女も最初から居残り組の一人である。
 ——となると、俺が取れる行動は一つしか無い。
 「これ以上は黙秘する‼」
 「あらそう?」
 「そうだ!」
 「そう言えば忘れていたけれど、貴方の端末から登録研究者ネットワーク経由で、彼女の論文を検索した結果が残っていたわ。その時に彼女の硫酸還元磁性細菌の研究を知ったのかもね」
 「‼」
 ソーニャは少し笑ったようだった。何と! 『貴方の端末からはその形跡は無かった』という発言そのものが誘導尋問だったとは‼
 今更ながら気づくのが遅いが、おそらく彼女は取り調べのプロだ。彼女の容姿に騙されていたが、捜査にきた共和国直轄で司令部直属の人物が、普通の綺麗なお姉チャンなわきゃないだろうが。もっと早く気づけ、——俺。
 「——まあいいわ。今から言うのは私の独り言と思って聞いてね」
 耳を塞ぎたかったが、そういうわけにもいかないだろうな。
 「〈レッド・ランタン〉発の暗号電文は——完全じゃないけど、ほぼ解読済み。もともと平文ひらぶんも多いけどね。だけど、とてつもなく複雑な電文を作成する人がいてね。データ転送経路も秒単位で分散して送っているから、全く分からない——」
 ——そ、そうなんだ。
 「で、どうもその人物の行動が色々と不可解で。もちろん、データの流れから見る行動だから、実際の動きはよく分からないのだけど、最近、御影恭子のデータを、地球経由で検索した跡があったね。南極での記録とかチェックしていたみたい——」
 ——いや、俺は知らんぞ。何も知らないぞ。聞きたくないぞ。
 「それだけならまだしも、御影恭子の逃亡を手助けした形跡もあるのね——」
 「何だって⁉」
 駄目だ。思わす声が出た。
 「興味ある?」
 と、ソーニャ。
 「いや……別に」
 と、俺。
 そうは答えたが、好奇心には勝てない。
 「ひとつ聞いていいか?」
 「どうぞ、ご自由に」
 ソーニャの悪戯っぽい目が笑っている。
 「彼女は——御影恭子は何故追われているんだ。風邪の菌をバラまいたことが重罪になるのか?」
 「御影恭子は〝遺跡〟が——、〝遺跡〟の石が目当てとの情報が入っててね」
 「遺跡とは? 遺跡とはなんだ?」
 「知らないの?」
 「知らないから聞いているんだ!」
 「じゃあ、いいわ——」
 ソーニャはそのまま、興味がフッと途切れたような感じで、座っていた椅子の背もたれに手をつき、ひとつ溜息をついてから、ダルそうにこう言った。
 「——貴方の嫌疑は晴れたわ。時間を取らせてしまってゴメンなさい。じゃあ」
 「お、おい!」
 そのままきびすを返して出て行こうとするソーニャを、俺は呼び止めた。こんな——、こんな生殺し状態の終わり方があるか!
 「遺跡って何なんだ⁉ 石がどうしたって言うんだ⁈」
 「そんなに知りたい?」
 ソーニャは首だけこちらに向けた。金髪の向こう側からキラリと目だけが覗く。
 「ああ……」
 「じゃあ——」
 ソーニャは振り返って、先ほど溜息をついた場所まで戻って来た。だが、今度は笑顔。蝋人形のような笑顔だ。
 「——御影恭子と何を話したのか教えてくれる?」
 「……わかったよ」
 負けた——。いや、勝ち負けの問題じゃないが、精神的に参った。
 「話すのはいいが、全然面白く無い話だぞ。取り立てて機密事項も何も無い。アイツ——御影恭子からも、口止めされているわけじゃ無いしな」
 事実そうだった。気になるのは、みのりちゃんにまで話が及ぶ事だ。御影恭子には何の義理も無い。
 
 俺は全てを話した。——と言っても、5分もあれば終わってしまう話だ。降りた途端にぱたいた事、彼女の着ていたスーツはケブラー繊維で、硫酸には溶けてしまう事、名前を聞かれた事、そして——
 「『あんた——。いい人ね』と言ったの? 彼女——御影恭子が?」
 「そうだ。おかしいか?」
 ソーニャはしばし考えていたが、ひとりで納得したのか小さく2度うなずいて、
 「分かったわ。どうやらあたしの勘違いだったようね」
 と言って、右手で髪の毛をかきあげた。
 「勘違い?」
 「ええ。彼女、足が無いのよ。遺跡に行くまでの……。だから、優秀なパイロットを探していると思ったんだけどね。当てが外れたみたい」
 何ぃ? 何かムカつくじゃないか。疑いが晴れたのはいいとして、要は、俺が御影恭子のお眼鏡メガネに——メガネはかけていなかったが——かなわなかったみたいじゃないか。
 「俺が……嘘をついている可能性だってあるぞ」
 ——と、言っては見たものの、
 「ないない。絶対ない。貴方ほど正直な——バカ正直﹅﹅﹅﹅って言うんでしたっけ? そういう人は滅多にいないわ。本当はね、脳指紋走査機BFスキャナまで用意してたんだけど、無駄だったみたい」
 ——反論する気にはなれなかった。馬鹿正直なのは自覚していたが、他人から言われるとムカつく。だが、捜査のプロからすれば、赤子の手をヒネるようなものだろう。言えば言うだけ、こっちの自尊心が傷つくのは目に見えている。自尊心なんてものがあればの話だが……。
 
 結局、おれはこの程度の追求であっさりと解放されることになった。時間にして30分も経っていない。だが、立ち去ろうとするソーニャを俺は呼び止めた。そもそも、御影恭子との会話を話したのは、〝遺跡〟が何かを教えるという約束があったからだ。
 「で……、遺跡ってのは何なんだ?」
 「金星人が作った遺跡——と、呼ばれるものがあってね」
 「なんだそりゃ。神殿でもあったのか?」
 冗談で聞いてみたが、返って来た言葉は意外だった。
 「それに近いわね。人工的に作られたと見られる鉱物が規則正しく並んでいるから……」
 「人工的って、——そいつは本当か?」
 にわかには信じられない話だ。金星の硫酸雲の中に漂っている細菌の発見から既に四半世紀近く。地表へのアタックは今でも相当難しいとは言え、既に冒険家の出番は少なくなり、定型業務ルーチンワーク的な調査の段階に入っている。もしも、その途中で、菌類以上の生命体が——例えその痕跡でも——見つかれば、世紀の大発見になるのは間違いない。ましてや、〝遺跡〟である。知的生命体が金星に存在していたならば、例え今は滅びていたとしても、世紀のどころではなく、人類史上で前代未聞の大発見だ。だが、そんな話は噂にすら聞こえてこない。その手の怪しげな雑誌には、いつもチープな話題として登場してくるが、まともな科学サイエンスとして金星人の話が出て来た試しがない。精々、何とかと言う占いの本の中に登場するだけだ。
 「人工的に作られたと見られる﹅﹅﹅﹅だけ——」
 そういって、ソーニャは両手を挙げ、更に続けた。
 「——研究によると、硫酸還元磁性細菌が膨大な時間をかけて結晶化させた鉱物群と考えられている。要は細菌の排泄物のかたまり。ストロマトライトみたいなものね。石垣に見えるから、人工的に作られたと言われても信じる人がいるかも知れないわね」
 「何だ。そう見える﹅﹅﹅﹅﹅だけか」
 「そういうこと」
 ソーニャがニッとわらう。チェシャ猫みたいに。
 
 なるほど。話が繋がった。ストロマトライトというのはよく分からんが、おそらく、地球上で言うところのマリンスノーの堆積物みたいなものなのだろう。硫酸還元磁性細菌というのは御影恭子の研究テーマのようだから、その細菌が作った〝遺跡〟に行ってみたいというのは自然だが……。ん?
 「でも変だな? 研究目的なら正式に申請すればいいだろう。研究者の動機としては充分過ぎると思うがな?」
 「研究目的——ならね」
 ソーニャは目を細めて薄笑いを浮かべている。
 「この〝遺跡〟は研究対象ではなく、エネルギー資源争いの対象になっているわ」
 「ん? どういう意味だ?」
 「さあね。気になるなら貴方自身が調べてみる事ね」
 ソーニャは、それだけ言うと、自分が得た情報にペイするだけの情報は話したと言わんばかりにさっさと部屋を出て行ってしまった。そこはかとなく甘い香水の匂いだけを残して。一人取り残された俺は、しばし頭の中を整理しようとしたが、整理できるほど頭が良く無いのを思い出し、とりあえず自室に戻る事にした。無罪放免になったわけだし、とりあえずは万々歳。みのりの事はバレていな——いや、みのりちゃんはどうなった?

 
 「ふぇぇぇ~」
 情けない声とともにみのりがサブの計器飛行室IFRルームから出て来たのは、それからさらに20分後のことだ。このサブ室は、通常はほとんど使われることが無く、我々が何かミスをしたときに上官に呼ばれて調書を作らされる場所であることから、通称『説教部屋』と呼ばれている。要するに、あまり入りたく無い場所だ。
 俺と例の大男は、時間一杯となった相撲の対戦相手のように、扉の前でひとしきり睨み合ったが、『ふん!』と鼻をならして大男は去っていった。今度会ったら相手をしてやる。素手じゃなく、格闘ゲームでな。
 そのまま自室に帰って待機というのもしゃくなので、いつもの食堂前の自動販売機で、みのりちゃんに紅茶をおごることにした。こういうシチュエーションの時、普段なら常にニコニコしているみのりちゃんも、流石に顔が強ばっている。三口ほど飲んで、ようやく緊張も解けたようだった。
 「怖かったですぅ~」
 「そりゃ、そーだろうな」
 「で、でも、何も言ってませんからね」
 そう言って、みのりは四口目をゴクリと飲んだ。
 「何も言ってないも何も、秘密にするような隠し事は無いだろう……」
 「いえ——」
 みのりは、紙コップを両手で抱え込んだまま、こちらを見上げた。いつになく真剣な表情である。
 「——〈収水〉フライトレコーダーに改竄かいざんの跡があるって言われました」
 「何⁉」
 みのりによれば、あの大男は管制室で家捜ししている連中と常時連絡を取っていて、そこからの情報で、この問いをつむぎだして来たらしい。管制室を調べ始めたのはほんの1時間前程度だから、最優先の事項だったのだろう。まあ、俺への質問が、〈収水〉から降りた直後の御影恭子との会話内容なのだから、彗星の水汲み作戦に余程の興味があると見える。
 もちろん俺だって、あの事件——事故﹅﹅にされちまっているが——に関しては、色々と気になる事が山積みだ。割れた彗星の不自然な動きと、雲中から放射されたレーザー・レーダーらしき光、そして何よりも、御影恭子の挙動——と言うより、今となっては御影恭子の存在そのもの﹅﹅﹅﹅﹅﹅が怪しさ大爆発だ。直接本人に『お前、何モンだ‼』と聞きたいところだが、ソーニャによれば、失踪だか逃亡だかしていて、行方不明らしい。逃亡を手引きしたヤツがいるとか言っていたな。
 「済まなかったな、巻き込んじまって……」
 俺はみのりに謝った。みのりはキョトンとしていたが、直ぐに、
 「いえいえ。そんな事ないです。ほら、クリームパンをおごってもらったし」
 と微笑んだ。まだ表情が硬い。それに、対価がクリームパンだけってのはあまりに釣り合わない話だよな。まさかこんな大事おおごとになるとは思ってなかったとは言え、申し訳ない。
 「でも、これって、やっぱり何かあるってことですよ——」
 みのりは紙コップの底に、三分の一ほど残った紅茶を飲み干して言う。
 「——だって、おかしいじゃないですか? 水汲み作戦drawing water operationsなんてどの基地でもやってます。見学者が乗る事もあります。事故は……、事故は確かに珍しいですけど。でも、そんなことで、共和国エネルギー管理委員会RERC: Republic Energy Regulatory Commissionのメンバーが来るなんて——」
 「ちょっと待った——」
 「はい?」
 「なんだその、共和国エネルギー管理委員会ってのは?」
 「さっきの女の人は共和国エネルギー管理委員会——RERCの方です。制服のマークがそうでした」
 さすが情報軍所属のみのりちゃん。良く知ってるというか、良く見ている。そう言えば、ソーニャの素性すじょうを聞くのを忘れていたな。
 「こういう場合、共和国事故調査委員会RAIC: Republic Accidents Investigation Commissionが来るのなら、まだ分かりますけど——」
 「何故が、エネルギー管理委員会ってトコから人が来たと……」
 「そうです。変ですよ」
 そういって、みのりは口を尖らせている。どうやら、ようやく通常営業に戻ったようだ。今回の件、言われてみれば確かに変だ。と言うか、俺は、小隊長殿おやっさんを初めとしたヴィーナス・アタッカーズの行方不明のことで頭が一杯で、相手が誰でどのような肩書きの者かなんて全く眼中になかった。みのりちゃんはビクビクしながらも、一歩引いた視線で客観的に冷静に見ている。そのへんは抜かりない。10年もしたら良い指揮官になるだろう。いや、情報軍だから、策謀部所属か? 何か、イメージ違うなぁ……。まあ、それはともかく——。
 「ソーニャは『エネルギー資源争いの対象』とか何とか言っていたからなぁ」
 「ソフィア——さん?」
 「俺の取り調べをした女だ」
 「ああ。その、RERCの人ですか」
 「それはそうと、みのりちゃん。金星にある〝遺跡〟って知っているか?」
 「えっ? あっ! えーっと、そのぅ……」
 何とは無しに聞いただけだったのだが、それに続く言葉は、ちょっと驚くものだった。
 「ゴメンなさい。機密事項なので、お答えできません」
 「え⁉」
 ソーニャの言葉を借りると、〝遺跡〟は硫酸ナントカ細菌の排泄物の塊だと言うことだから、珍しいのは確かだろうが、機密——それも軍事機密扱いになるものとは想像もしていなかった。一般人が入れるような場所にある〝遺跡〟なら、下手に知れ渡ってしまうと、観光客が押し寄せて環境が破壊されるというような懸念があり、所在を伏せると言うことは良くある。南極にあるざくろ石のスポットとかも、盗掘を避ける為に大っぴらには宣伝されていない。だが、金星の——、それも重装備の関係者しか行けない場所で機密になっていると言うことは、何かそれなりの理由がある筈だ。
 「教えてくれないかなぁ……。頼むよ、みのりちゃん」
 「ですから、みのりちゃんはちょっと止めて下さい」
 「その機密事項とやらで、RERCがデバって来たのかも知れないぜ」
 「それは——、その——そうかも? いや駄目です。これは機密性3情報ですから」
 「へー。3なんだ」
 「そ、そうです」
 完全なる機密じゃないか。ソーニャの残した言葉は、意外にも重要な情報だったようだ。うーむ。気になる。非常に気になる。
 
 「——そ、そんなことより、地表降下部隊アタッカーズの捜索はどうなったんでしょうか?」
 無理矢理に話題を変えようとしている意図がミエミエではあったが、みのりの場合、これ以上追求しても口を開くとは思えないし、俺も捜索状況は気になる。いや、それ以前に、忽然こつぜんと消えた状況を俺はよく知らない。みのりはずっと管制室にいたのだから、そのヘンのことは良く知っているだろう。
 そうだった。まず、真っ先にみのりに聞くべき事は、〝遺跡〟の話じゃなくて、地表降下部隊アタッカーズが何故消えたのか、何が起きたのかという話の筈だ。
 「そうだな……。ただ、俺は地表降下部隊アタッカーズに何が起こったのか、そもそもさっぱり分かってないんだが……」
 「はい。私も分からないんです」
 「はい?」
 「はい?」
 しばし沈黙。
 「——いやいや、見てたんだろう? モニターで」
 「はい。見てたんですが、消えたんです。忽然こつぜんと——」
 
 みのりの話はこうだ。俺が自室に帰って一時間と少し経った頃。〈マンタ・レイ〉御一行は、隊員クルーの多くが浮遊基地フロート・ベースでくつろいでいた。みのりはその間に、遠隔で〈マンタ・レイ〉と浮遊基地フロート・ベース管理作業ハウスキーピング情報などを集め、気象予報から着氷アイシングが発生しそうな領域を避ける降下最適経路を求めていた。極端に高温で水も無い金星で、着氷アイシングが発生する筈がないだろうと思ったが、硫酸雨の中を降下すると、その粘性から機体の自由が奪われる事があり、それを通称で〝着氷アイシング〟と呼んでいるらしい。そう言えば、みのりは浮遊基地フロート・ベースの硫酸雨のスジを、なんとかと言う茶碗のスジに見立てていたな。
 もっとも〈マンタ・レイ〉は飛行機ではなくハイブリッド飛行船なので、落下の終端速度が遅く〝着氷アイシング〟で地表に激突するような事態になる前に硫酸雨は蒸発してしまい、大事には至らない。というか話は反対で、翼内部の空気房バロネット操作を適切にしなければ、中空に浮きっぱなしになってしまって、地表に着地することが出来ない。ただ、着氷アイシングの影響で着地点がズレてしまうと、軌道修正するのが極めて大変で、最悪、もう一度浮遊基地フロート・ベースに戻って、スーパーローテーションと共に、金星上空を優雅にもう一周ということもあり得る。それだけで丸2日を棒に振ることを考えれば、なるべくワン・アタックで決めたいのは当然の事だ。
 で、それら最適化の計算を終え、〈マンタ・レイ〉に降下軌道情報を伝えようと顔を上げたとき、既に〈マンタ・レイ〉を含め、浮遊基地フロート・ベースは跡形も無くモニター上から消えていたそうだ。そして、表示されているのはNo Signalの文字だけ。最初は何が起こったのか分からなかった。みのりは『勝手にモニター画面を切らないで下さい!』と憤慨ふんがいしたらしいが——実は、みのりちゃんは仕事中は結構怖い——、これには誰からも反応がなかった。一瞬の沈黙の後、現場で指揮をっている谷上中尉が『どうした?』と怪訝そうな顔をしただけ。
 事態が完全に把握されたのは——いや、結局のところ把握などされなかったのだが、異常事態だと気付くのはそれから数分かかった。
 モニターは復活しない。クルー全員の通信の途絶。そして、衛星からの赤外画像でも、12浮遊基地フロート・ベースが発する機体識別信号も、浮遊基地フロート・ベース同士の相互データ交換情報も無くなっていた。みのりの脳裏によぎったのは『大規模サイバー攻撃では?』ということだったらしい。いかにも情報軍所属らしい考えだが、それが不可能なのはみのり自身が良く分かっていた。衛星に侵入ハッキングすることはできても、浮遊基地フロート・ベース管理作業ハウスキーピング情報発信機器は完全にクローズドな環境にあり、部外からの操作・改竄クラッキングは不可能なように設計されている。
 仮に、空中都市と地表との間を結ぶ浮遊基地フロート・ベースの全てが乗っ取られてしまうようなことが起きたとすれば、それは金星地表との全通信網システムを乗っ取ったに等しい。そんな事態が起きない為に、浮遊基地フロート・ベースの基本ソフト群は、意図的にハードウェアに直書きされている。変更はその場に行って基板ごと取り替えねば不可能だ。
 
 ま、細かい事はともかく——。
 要するに、みのりの知っている情報も、俺の知っている情報とそれほど変わらないということだ。何か救出のヒントになるんじゃないかと考えたのだが、これでは、聞いたところで何の役にも立たない。もし捜索に行くなら、消えた地点に向かうのが鉄則だが、そちらには南緯20度帯20 Degree South所属のロシア隊が向かっている。今から俺たちが強引に押し掛けたとしても、半日くらいは出遅れること必至だ。
 南緯20度帯20 Degree Southのロシア基地は、あり得ない風邪が流行っているんだったか?

 
         *  *  *
 
 その後もしばらくジタバタした。管制室の様子を見ようと入り口まで行き、あの大男の武官と再び睨み合戦を演じたり、谷上中尉にその後の捜索情報を聴いたりとか……。分かっていたこととは言え、結局、何も得られなかった。
 管制室を占拠され、捜索に使えそうな予備機体が置かれた待機格納庫アラートハンガーすら封鎖されているこの状況では、手も足も出ない。例え、出せるとしても、どこに行く宛てがあるわけでなく、自室でふて寝するくらいが関の山だった。指揮権が移ったためか、第二種待機命令も出なかったので、突然に降って湧いた休暇と思って街に繰り出す——ことも可能だが、とてもそんな気にはなれない。状況が分かった際にはいち早く行動出来るように自主的に待機するしかなかった。
 みのりちゃんは『基地内では情報監査があって無理なので、外で調べてきます』と出て行ったが、俺にはそんな特殊技能は無いしな——。やはり、基地に留まった飛行機乗りは何の役にも立たんようだ。やれやれ。
 自室に戻った俺は、再びベットにドサッと体を投げ出した。何の気無しにズボンのポケットに手を突っ込むと、小さなメモリがある。
 「こいつは——?」
 そうだ。湊川とバックドア回線で話をした時にブッ挿したメモリ。足が付くと困るから、OSごとシステムが組み込んである。この中にはあいつとの会話も入っている筈だ。管制室のデータが全て押さえられている以上、本作戦中の地表降下部隊アタッカーズの映像はこれだけしか無い。
 早速、端末へ——と手を伸ばしたが、すんでのところで思いとどまった。ここの端末はソーニャに易々やすやす侵入ハッキングを許しているのだ。その時よりも現状は更に悪くなっているだろうし、みのりも情報監査があると言っている。となると、どこか外で——基地の外で調べてみるしかない。外出する気にはなれなかったが、それで何か手がかりが見つかるなら話は別だ。こんなことなら、みのりと一緒におててつないでデートしてくりゃ良かった。
 ——いや、みのりだったら『少尉は謹慎中だから外出は駄目です!』とか言われそうだ。非常事態なんだから、大目にみて欲しい。
 
 〈レッド・ランタン〉と呼ばれるこの空中都市の発着場は最上階の上——つまり屋上にある。その端に駐機場と共に管制室はあり、その数階下までは、軍関係のみならず、保安本部、警察、各国の大使館やさまざまな政府機関の施設が入っている。要するに官庁街が最上部を占めている。最上部だからと言って見晴らしが良いわけではない。
 商業地区は中層部の100ブロック程を占有しており、〈レッド・ランタン〉全体の半分を占める。モジュール数で言えば600区画にもなるから、地球上の都市と比べてもそこそこの地方都市の規模だが、俺はまだほとんど出歩いた事が無い。元々出不精なのと、水汲み作戦ファースト・ミッション後のゴタゴタでとてもそんな気になれなかった所為せいだ。こう見えても、繊細なんだぜ、俺は。——誰も信じてくれないが。
 官庁街と商業地区の間には、市民も利用する公共施設が詰まっている。公園とか野球場とか。軍人とエンジニアと研究者しかいないこんな地に、野球場は要らんだろうと思うが、意外と流行っているらしい。少なくとも小隊長殿おやっさんはよくラジオを聞いているようだった。来た早々どこを応援しているのか——っていうか、何チームあるのかすら、俺は知らないが、小隊長殿おやっさんは金星に何度も来ているから、そのヘンは詳しいらしい。
 
 おっと、そんなことを考えている場合じゃなかった。
 俺が向かったのは、その公共施設が詰まっている階層——具体的には23ブロック下——だ。そこに図書館がある。データ解析や検索ならそこだろう。ネットに繋ぐのは少々危険だが、停電時にはスタンドアロンで働くメインフレームのコンピュータがそこにある。軍用のものが共同で入っていることは一般人には機密事項だが、有事存続計画COOP: Continuity of Operations Planの中でその記述を見た記憶がある。みのりも『機密性C完全性I可用性A共にバッチリです!』とか言っていたような気がする。機密性と完全性は何となく分かるが、可用性ってなんだっけ?
 ともかく、そこに行けば何とかなるだろう……。そこぐらいしか思いつかなかったというのが正直なところだが、何もせずに手をこまぬいているよりは余程良い。
 
 ブロック階を上下に横断するエレベータは〈レッド・ランタン〉の中心——螺旋らせん構造の軸の部分に存在する。正確に言うと、中心軸部分は入るべきモジュールが無く、六角形ヘックスの巨大な穴が〈レッド・ランタン〉の上下に貫かれて空いている。
 ランタン——つまり、〝提灯ちょうちん〟のように中央は空洞だってことだが、どちらかというと、切り分ける前のバウムクーヘンとか竹輪ちくわに近い。この空洞が、〈レッド・ランタン〉という巨大建造物にかかる応力を分散し、構造上の強度を上げているらしい。
 そして、肝心のエレベータは、その内部空間の壁に張り付いている格好だ。六角形ヘックス構造のモジュール壁面ごとに1セット、合計18本のエレベータがある。
 もっとも、エレベータと言うより、上下方向にも走る電車と考えた方がいい。1セット3本のエレベータは、100階おきに止まる特急、10階おきに止まる急行、全階に止まる鈍行があり、数分置きではあるが時刻表もある。そして、何よりかなり揺れる。〈レッド・ランタン〉は空中に浮いており、上下の気流の差によって幾分しなるのだが、そのゆがみをモロに受けるのが、この部分なのだ。その中をガタガタと——リニアモーター駆動のクセに——走って行く。
 もちろん移動は上下だけじゃない。六角形ヘックスのモジュール6つで1ブロックを構成しているから、行き先は同一ブロック内で6つあることになる。エレベータで降りても、中央の空間を挟んで反対側のモジュールに目的地があるなら、モジュール内環状線の左右どちらかに乗り込んで移動しなければならない。短時間とは言え、意外と面倒だ。
 対面に見えているのだから、可能ならひとっ飛びに飛んで行きたいものだが、中心軸の空間は飛行禁止区域となっている。まあ、それはそうだろう。飛行船を飛ばすには狭いし、飛行機では各階への発着が不可能だ。ヘリコプタならなんとかなるかも知れないが、事故アクシデントの危険性を推してまでして飛ぶ理由が無い。飛ぶなら外周を飛べということだ。
 
 ——などと、下らんことを考えているうちに図書館に着く。当然ながらこれまで利用したことは無い。IDパスはあるから、メインフレームの起動は出来る筈だ。利用申請はこの際後回し。『非常事態でありましたっ!』と言う口実は、小隊長殿おやっさんには通用するが、副隊長の谷上中尉には効きそうに無い。まあ、それはそれ、これはこれだ。
 書籍モニター棚は脇目もふれず、パーテションで区切られた視聴席まで移動する。端末からの起動方法は共通基盤認証システムIMAS: Identity Management for Authentication Systemからコードを打って——入った!
 手こずるかと思ったが、意外と簡単だった。まあ、そうじゃなければ、共通認証のシステムとは言えないだろう。だが、起動時間が短過ぎるんじゃ?——と言う疑問は直ぐに氷解ひょうかいした。wコマンドで確認すると、既に起動していているヤツがいる。えっと、M. Ikawa——みのりちゃんじゃねーか。俺の行動も、中々すごいな。情報軍のエース様と考える事が一緒だと言う——
 「おわっ⁉」
 官給携帯が鳴った。こっちに来てから手渡された専用端末。一般回線からは掛かってこない端末。おそらく捜索隊からの報告が入ったのだ——と、勝手に想像して相手も確認せずに出た。
 
 「盗聴の可能性があるから、返事をしなくていいわ。——お久しぶりね」
 「なっ、なっ‼」
 
 人は、〝こうだ!〟と思い込んだまま、行動を起こし、それが見事に外れると混乱する生き物らしい。その昔、コーヒーだと思ってコーラをガブリと飲んで吐き出したことがある。コーラだと思って飲めば普通に飲めるのに、予期せぬモノだった場合に拒否反応を示す。何故なにゆえ、今、こんな話をしているかと言うと、俺は今——まさに今、混乱していて、それを何とか沈めようとしているからだ。
 電話の相手は、捜索隊からでも、谷上中尉からでも、ましてや小隊長殿おやっさんやみのりちゃんからでも無かった。本騒動の元凶とでも言うべき御影恭子からだったのだ。
 どういうことだ。何故、この回線に割り込める? どうして俺の番号を知っている? それよりも何よりも、お前は失踪中と言うか逃亡中では無いのか?
 俺は何か言おうとしたが、言うべき事、問うべき事が多すぎて言葉が出ない。パニックを起こした思念が一斉に出口を求めて動き出した結果、口元で言語化出来ず衝突コンフリクトしている。
 だが、そんなことは構わず、御影恭子は矢継ぎ早だった。
 「そこに伊川さんいるでしょ」
 「な——何故、知ってる?」
 俺は可能な限り冷静に小声で話した。〝そこ〟と言っていることを考えれば、俺が図書館に来ている事はお見通しで、なおかつ、伊川も居ると言う事が分かって——、いやいや、そもそも、伊川のことを何故コイツが知っている? 水汲み作戦の時にしか接点がない筈だし、それも音声のみ。名前も知らない筈だ。
 「細かい話は後で。彼女の命が危ないの——」
 「‼」
 「急いで探して。おそらく、メインフレームの制御室に直に入り込んで操作して——」
 御影恭子はまだ話していたが、俺は携帯を耳元から離し、ある一点を凝視していた。
 いた! 伊川みのり。
 彼女は図書館の玄関に向かって真っすぐ歩いていたが、顔は無表情で強ばっている。その後ろにはピタリと男がくっ付いており、上着のポケットに手を突っ込む振りをして、みのりを——おそらく銃口で——押していた。何だ、この急展開!
 「相手は何者だ?」
 ショック療法が聞いたのか、俺は瞬時に冷静になっていた。この際、会話の相手が誰であろうと構わない。伊川の——いや、みのりちゃんの命が危ない。それを教えてくれる人物は無条件に味方だ。
 「RERCを名乗っている﹅﹅﹅﹅﹅﹅組織。実態はよく分からない……」
 RERC——共和国エネルギー管理委員会Republic Energy Regulatory Commission。みのりの講師で予習をしていた甲斐があった。だが、実態は名前通りの組織ではないらしい。
 「今から助けに行くから、伊川軍曹の身柄を安全な場所に誘導——」
 「いや、既に手遅れのようだ」
 「えっ? 何があ——」
 俺は携帯電話をポケットに仕舞しまい、視聴席から跳ね出た。図書館の外に出てからでは遅い。この場で連行を阻止しなければ、みのりは連れ去られてしまうだろう。こっちは丸腰だったが、それならそれで、この人気ひとけの多い図書館という場所を最大限に利用させて頂く。
 無表情のまま歩いてくるみのりと、その後ろにピタリとくっ付いた男。その行く手を阻むように、玄関の10メートルほど手前で、俺は立ち止まり言った。
 わざとらしく、薄笑みを浮かべて。
 「よぉ。みのりちゃん。こんな所で奇遇だなぁ」
 「あっ‼ 上沢少尉——」
 勝算はあった。まともな組織なら、こんな場所で発砲事件など起こす筈が無い。起こす気があるのなら、みのりを見付けた段階で、既にそうしている。銃を突きつけて玄関まで御同行願うなんて悠長な真似はしない——そう踏んでいた。

 
 甘かった。
 
 背後の男は、躊躇無く銃口をこちらに向けて来た。確かに銃口だった。間違いない。だが、それを確認出来たということは、俺の死期が目前に迫っていると言うことだ。咄嗟とっさの回避行動を取ろうとするが、体を後ろにのけ反らせるのが精一杯だった。男は腕を伸ばしてこちらの胸元を捉えてくる。それもレーザーポインター付きだ。ホントにもう、万事休すだ。図書館の端にある喫茶室のトレイとか服の下に仕込んでいれば、少しは防弾になったかも知れない。——が、時すでに遅い。カッコ悪いが、俺は目を閉じかけた。短い人生だったなぁ……。
 ——が、が⁈
 みのりの動きは素早かった。銃口が自分の背中を離れ、右側面に動いたと見るや否や、右手の甲と言うか、腕全体で相手の腕を地面側に叩き付けた。形としては、ニードロップと裏拳の中間のような所作しょさだ。そこで男の銃弾が一発。俺の足元に穴を残した。
 みのりは全く動じていない。男の手をたたき落とした一連の動作の延長で、右回転をし、左手で男の手首を逆手に掴んだかと思うと、回転しながら腕をねじり上げる。男は右腕を内向きにひねられ、バランスを失い左側に倒れ込もうとする刹那、男と対面状態になったみのりの足払いが追い打ちをかける。男はなす術もなく、右手を後ろ手に取られた格好で、ほぼ顔面から床に落ちた。見ると男の拳銃は、俺と男の間あたりに転がっている。この間、およそ1.5秒足らず。みのりは倒れた男の背後で腕を捻り上げたまま——。
 「銃を取って!」
 と叫んだ。それまで彼女から聞いた事のないような鋭い声で。俺は人生の走馬灯を思い浮かべること無く、我に返った。我に返らされた俺は、言われるまま銃を拾う。銃を拾い上げたのと同時に、みのりは男の手を離しこちらにすっ飛んで来たかと思うと、てのひらを下から俺に出して来た。反射的に銃を渡すと、みのりはそのまま俺の手を掴み、
 「逃げます!」
 と言って玄関へ向けて走り出した。その時になって俺は初めて気づいた。敵は倒れている男一人ではない。何が起こったのか分からず呆然としている人々に混じって、明らかにこちらに向かってくる眼光鋭いやからが数名。
 迂闊だった——そうとしか言いようがない。まずは敵の数の把握が最重要項目じゃないか。玄関から外に走り出るまでに、銃声が1発、いや2発したが、いずれも当たる事はなかった。その後はよく分からない。誰かの叫び声をきっかけに図書館中がパニックに陥っていた。
 
 眼前の道路で、突っ込んでくる電タクを2~3台急停車させながら横切り、右手に折れて走り出す。道を挟んで追っ手も数名来ているが、走るのに精一杯で、銃撃戦には至らない。みのりは右手に持った銃を、銃口を上にしたまま肩の上あたりに構え、上半身はそのままの姿勢で横を見ながら華麗に走っていて、なかなか様になっている。というか、こっちも全速力で走っているのに、みのりの走りには乱れが無い。こいつ、実は凄いヤツなんじゃないのか——と思い始めたとき、思い出した様にポケットの携帯が鳴り始めた。
 「中央三番ゲートに行って。今、そこに向かってる——」
 御影恭子だった。『何故、お前が我々の動きを知っているんだ?』とか、『向かっているって、そこは行き止まりじゃねーか?』とか冷静になれば気づいたものだが、脳に必要なブドウ糖関係の栄養素は、既に手足を動かす分だけで精一杯。その指示に従うしか選択肢は残っていなかった。彼女が現状を知っている理由と方法は即時には理解しかねるが、少なくとも、この状況を把握しているのは彼女だけしかいない。
 「中央三番ゲート!」
 俺は前方を行くみのりに叫んだ。もちろん、この行動は、追っ手にも情報を与えることになり、先回りされる危険も伴うが、ゲートは200メートルほど先。こちらが駆け込むのが速いと判断した。だか、その先の行動が思い浮かばない。
 中央ゲートは、ここに降りて来たときに利用したエレベータの向こう側——すなわち、螺旋らせん構造の中心軸の外側というか内側と言うか、ともかく、中心軸にある中空の空間へ飛び出す為のゲートである。もちろんそこは外界へと通じるゲートであり、生身の人間が飛び出して何とかなる場所ではない。最低でも、全身化学防護服と自給式呼吸器が不可欠だ。ゲート内には何組かの緊急用キットが装備されているから、着替えて外に出ることは可能だが、敵サンはそんな悠長な暇は与えてくれないだろう。いや、そもそも外に出てもどうにもならないことは目に見えている。かえって状況が悪くなるだけだ。つまり、ゲートへ逃げ込むことは、自ら、袋のネズミになりに行くようなものに見えた。
 俺は第二の選択肢を模索し始めていたが、時既に遅かった。銃声一発。みのりの体が横に動いたのを見て血の気が引いた。
 ——撃たれた! そう思った。だが、実際は逆で、みのりが前方の車めがけて撃ったのだ。見事タイヤに命中したらしく、車はバランスを崩し、横向きに止まる。中からは、やはり、そのスジの輩と思われる人が出て来た。前方を塞がれては、もはや逃げ道は無い。袋のネズミになりそう——ではなくて、既になっている。ゲート内に立てこもり、篭城ろうじょうする他なさそうだが、一方通行、出口無しのゲート内で、どう過ごせばいいんだ?
 
 中央三番ゲートは閉まっていた。いや、閉まっているのが当然だ。この施設は何らかの大規模災害とか、他のブロックへの避難経路が絶たれた時だけに利用する施設だから、通常は開いている筈が無い。開いている方が異常なのだ。みのりは拳銃のつかの部分で、非常用開閉レバーのガラス枠を叩き割り、即座にレバーを引っぱり上げる。〝ガォン〟と言う音と共に、高さ3メートル、幅が5メートルはある黄色と黒の縞模様のドアが、赤色灯の回転をお供に緞帳どんちょうの様に静々と開いていく。機械油とともに、放置された工場の倉庫のようなほこりの臭いがした。
 追っ手は眼前まで迫っている。ゲート縁の50センチメートル程の凹みが、辛うじて身を隠す影になっているが、反対側からも追っ手が来ているから、どのみち死角は無い。
 俺がその凹みに体を滑り込ませるか否かのタイミングで、乾いた金属音が外側から聞こえる。もちろん、実弾だ。どうやら、生け捕りにして——と言う考えは彼らには無くなってしまったらしい。くそっ! 本気かよ!
 ゲートが数十センチメートル開くまでの僅か5秒程度が実に長く感じられた。みのりが転がるようにゲート内に体を滑り込ませ、間髪を入れず、俺も入る。開いたゲートの僅かな隙間に体を通すとき、左腕に傷みを感じた。全く気づかなかったが、弾がかすったらしい。
ゲートをくぐったら一安心とはならない。放っておけばゲートはいくらでも開いてゆく。
 「ここ、お願い」
 みのりはそう言って俺に銃を渡し、ゲートの奥——外界へと通じるハッチのある方向——へ駆け出して行く。俺はゲート側に向き直り銃を構えた。ゲートは既に50センチメートルほど開いており、数名の男がしゃがんで見えたところで2発続けて撃つ。命中はしていないが、匍匐ほふくの状態でしか通れないゲートを通過しようと試みる者はこれでいなくなっただろう。問題は、2メートルも開いてしまえば、とてもじゃないが対応し切れないと言うことだ。それまであと20秒もかかるまい。どこかのスーパーヒーローのように、両手にガトリング砲を持って連射できる態勢なら何とかなるかも知れないが、手元にあるのは一見するとハンマーレスに見えるコンベンショナルダブルアクションの拳銃一丁。弾数はそこそこ多そうだが、多勢に無勢ではどうにもならない。
ゲートの開閉ボタンはゲート内にもあるが、開と閉が同時に押された場合、開が優先される。この施設は立て篭る為の施設じゃない。緊急時に外に出る為の施設だから当然だ。期待はしていなかったが、『そこに向かってる』と言った御影恭子は影も形も無かった。万事窮す。
 ——と思ったところで、再び〝ガォン〟と言う音——いや、〝バァン〟の方が正確か? 音の在処は後方だったが追っ手から目を逸らすわけには行かない。だが、音と同時に前方のゲートはゆるゆると閉まって行く。そして、前方から負圧によるであろう風が——風だって⁈
 もしやとは思ったが、その〝もしや〟だった。みのりが外部ハッチを開けたのだ。それも緊急用の発火ボルトに点火しての、ハッチの強制排除だった。
 この場合、有無を言わさずゲートは閉まる。火薬によってゲートに直結したおもりが解放され、重力に従ってゲートが閉まる仕組みだ。完全停電の際でもこの機構は生き残る。どのような場面においても、居住区にまで外気が入り込むことを防ぐための装置を、みのりは作動させた。だが、これで一安心——と言うわけには行かない。むしろ、状況は悪くなっている。ゲートが閉まり切ってしまう前に呼吸器を探し出し、防護服を身につけなければ、1分とてこの空間で生き残ることが出来ない。幸いにも外で硫酸雨は降ってはおらず、短期間なら火傷する危険はなさそうだ。おそらく、顔や手に傷みを感じる前に、窒息で倒れる方が先だろう。
 人は酸素濃度が18%以下になると酸素欠乏症になり、16%の空気を1回でも吸うと脳障害が残る危険が伴う。10%以下なら即座に死が待っている。成層圏での緊急脱出における有効意識時間は約5秒。つまり、無酸素で飛び出せば数秒で意識を失う。この場合、息を止めていた方が良い。10%酸素濃度の空気を吸うと、肺から逆に酸素が奪われてしまう。呼吸をすればするほど酸欠になり、即座に死に至る。喉が渇いた時に海水を飲むようなもので、逆に生存率が低くなってしまうのだ。
 高々度から宇宙空間までの飛行は全て経験済みの俺にとってはそんなことは常識で、硫黄の臭いがした段階で反射的に息を止めてしまったが、みのりはそんなことは知らないだろう。致命的となる呼吸反射が始まる前になんとかしなければとハッチへと駆け出した時だった。
 2メートル四方で切り取られたハッチの向こう。黄色い雲の下から、黒い物体が甲高い機械音と共に姿を表す。双発の円筒推進機ダクテッドファンを備えた垂直離陸機VTOLだ。コックピットは見えないが、狭い貨物室カーゴルームの入り口は開け放たれており、1メートル程の隙間を開け、ハッチの横にピタリと静止。中々の腕前だ。『敵か味方か?』などと考えている暇はない。俺が駆け込んでくる様を確認したみのりは躊躇無く貨物室カーゴルーム目がけてジャンプ。直後に俺も飛び込んだ。貨物室カーゴルームのスライドハッチが急速に閉まり、垂直離陸機VTOLはそのまま上昇して行く。ハッチが閉まると同時に猛烈な排気音が貨物室カーゴルーム内に響き渡った。おそらく空気の急速交換を行っているのだと思うが、俺が呼吸を再開したのは、みのりがケホケホと咳き込み始めてしばらくした後。スピーカーからの声を聞いてからだった。

 
 「——これで借りは返したわよ」
 御影恭子の意地悪そうな薄笑いが、そのまま声に宿っている。まあ、この展開なら操縦士パイロットはアイツだろうなと薄々感じてはいた。コックピットに繋がるドア開閉器がグリーンになったところで、おもむろにドアが開く。操縦士パイロット席には誰もいない——と一瞬勘違いしたが、こいつはヘリコプター扱いらしく、席が逆だった。御影恭子は前方を向いたまま、左手を挙げて左右に振る。そう言えばコイツは、彗星水汲み作戦ファースト・ミッションで〈収水〉に乗り込む際、『あたしが飛ばしてもいい』とか言っていたのだった。冗談だと思っていたが、飛ばせる腕があるのはどうやら本当だったらしい。
 「あいつら——共和国エネルギー管理委員会Republic Energy Regulatory Commissionって何者なんだ? 何故、こんなことをする」
 「あたしはね……、パイロットを捜しているの」
 「パイロット?」
 こちらの質問には全く興味が無い様子で、御影恭子は言う。ソーニャもそんなことを言っていたな。その間も垂直離陸機VTOLは、所々に突き出たエレベータの駆動部を避けつつ、スルスルと上昇していく。このまま行けば数分で〈レッド・ランタン〉の最上部、航空機の発着場まで到達することになる。だが、ここは飛行禁止区域だ。わざわざ捕まりに行くようなことを彼女がするだろうか?
 『実は非常事態を想定して飛行許可を取っていました』という展開はさらにあり得ない。もしそうなら、今回の銃撃戦——単に俺たちが這々の体で逃げだしただけだが——は織込み済みだったことになる。いや、その可能性はあるかな?
 
 御影恭子は続ける。
 「そう。パイロット。本当はね……、この前の作戦の時にほぼ決定していたんだけど、邪魔が入っちゃってね」
 「邪魔だと? お前は奴らから逃げていたんじゃないのか?」
 「——それにね」
 彼女は、あくまでも俺の質問には答える気が無いらしい。
 「——アンタに話してしまうと、どこでペラペラと喋ってしまうか分からなかったから、詳細は伝えなかったの」
 「くっ!」
 そこまで話して、御影恭子はこちらを軽く振り向きニコリと笑った。
 悔しいがその判断は正しい。〈ブーメラン〉の機体洗浄庫で何か聴いていたなら、俺はソーニャの誘導尋問に引っかかり、内容を吐露とろしていたに違いない。御影恭子は振り向きながら、副操縦士コーパイ席の方をちょんちょんと指差す。乗りかかった船——いや、垂直離陸機VTOLだ。促されるままそこに座る。
 「じゃあ、そろそろ詳細を教えてもらえないかな?」
 「そうしてもいいけど、ひとつ条件があるわ」
 始めて会話らしい会話が成立した。
 「さっき言ったように、アタシはパイロットを捜していたの。分かるとは思うけど、その役を貴方が請け負ってくれると言うなら話してもいいわ。無理にとは言わない。嫌ならこの上の発着場で下ろしてあげる。だけど——」
 「だけど?」
 「——貴方達にとっても悪い話じゃない筈よ。これは、消えた地表降下部隊アタッカーズの救出にもつながる話だから」
 「どう言う意味だ‼」
 「もうすぐ発着場よ。どうしたい?」
 操縦士と副操縦士の関係以上に、主導権は完全に彼女に握られていた。選択肢を与えられているようでいて、実は、道は一本しかない。地表降下部隊アタッカーズの救出になるとなれば——仮にそれが嘘だったとしても——手を引くわけにはいかなかった。
 「で……、俺は何を飛ばせば良いんだ⁈」
 「まずはこれをよろしく」
 御影恭子は右目でウインクをしながら、操縦桿から手を離す。
 「行き先は?」
 「発着場」
 「おいおい。俺はパイロットを引き受けたつもりだぜ」
 「分かってる」
 「——ふむ。みの……伊川軍曹を置いて行くと言うことか」
 
 それなら話は分かる。元々俺は、地表降下部隊アタッカーズの捜索に、可能ならば一人でも出て行くつもりだった。ただ、あんな具合に降下中に消息不明となると手も足も出ない。消息不明どころか、浮遊基地フロート・ベースごと消えてしまったという事態だ。ここで闇雲に出撃しても時間の無駄にしかならない。だから、情報を求めて隠しサーバのある図書館に行き、偶然に——いや、伊川軍曹も情報を求めての行動だった筈だから、出会ったのは必然だったと言っていい。
 結局のところ、情報は得られなかったのだが、情報を持っている御影恭子に合う事が出来たのは幸いだった。出会い方が不自然だとか、RERCとの関係はどうなっているんだとか、そもそも、本当に地表降下部隊アタッカーズの救出を考えているのかも怪しいものだが、今は信じるしか無い。彼女の素性については、とりあえず棚上げだ。彼女の情報を頼りに、地獄の底でも何処へでも行くしかないだろう。
 だが、みのりは——伊川軍曹は別だ。元々が情報軍所属のエースだから、地表降下部隊アタッカーズの居場所を突き止めるまでが仕事だ。俺にとっては、地表降下部隊アタッカーズの居場所を突き止めることは、救出へ向かうための〝手段〟に過ぎないが、みのりにとってはそのこと自身が〝目的〟なのだ。欲を言えば、この前の様に管制室から誘導してもらえれば有り難いが、待機命令を無視して勝手に捜索に行こうとしている俺たちの誘導は、ちょいと無理だろう。彼女にまで軍紀違反を犯せとは言えない。

 
 ——と、俺は勝手に納得していた。みのりちゃんを発着場に下し、そのまま何処かで降下艇をチャーターする手筈なのだと勝手に判断していた。だが、御影恭子の計画プランはもっと乱暴なものだった。そうだった。最初に合った時からコイツは——この女はそういうヤツだったじゃないか。
 「いいえ。下ろしたりはしないわ。伊川軍曹は人質﹅﹅よ」
 「何?」
 「えっ?」
 もちろん、『えっ?』と言ったのは、みのりである。みのりは、貨物室カーゴルームから、コックピットへやって来て、副操縦士席の後ろにちょこんと座っていた。心細くてくっ付いて来た——と言うわけではなく、そこが、情報収集機器が集中している航空通信士席だったからであろう。その場所がみのりにとって、何となく落ち着く場所なのだろうと推測する。
 御影恭子は更に続けた。
 「発着場には〈マンタ・レイ〉の副機があるでしょ?」
 「まさか……」
 「ピンポ~ン」
 「——俺はまだ何も言ってないぞ」
 悪戯いたずらっ子のような目がそこにある。何故か知らないが、御影恭子は妙に陽気だった。陽気と言う言葉に語弊があるなら、気が高ぶっていると言う感じかもしれない。徹夜明けのような、ランナーズ・ハイのような……。ともかく、コイツはこういう非日常的な〝イベント〟が大好きなのだ。そうとしか考えられない。
 確かに〈マンタ・レイ〉は正副2機が常備されている。更に言うと、予備機となる3機目もあったのだが、予算的な関係で今は無い。ヴィーナス・アタックが冒険家の仕事のような初期の状況ならともかく、今は定期的なルーティンワークになっている。困難な仕事ではあるが、通常、命の危険まで及ぶことは無い。軍人のみならず、研究者や時には報道関係者もしばしば参加していることを考えれば、それは自ずと分かる。だが、それでも今回のように——いや、今回のような謎めいた〝事件〟はそうそう無いのだが——不測の事態に備えて、ヴィーナス・アタック中、2機目はいつでも飛ばせるように待機スタンバイしている。御影恭子はそいつを奪おうとしているのだ。
 何の事は無い……俺も最初はその方法を考えた。いや、今でもそう考えている。こういう時のための待機スタンバイだ。谷上中尉に捜索願いの直訴をしたのは、〈マンタ・レイ〉による飛行を前提としている。あまりに正攻法過ぎるとは思うが、俺はそれ以外に方法を知らない。その後のソーニャ率いる共和国エネルギー管理委員会Republic Energy Regulatory Commission——RERCの介入で、正攻法だろうがからめ手だろうが、この計画は不可能になった。——なったと思い込んでいた。
 管制室を押さえられ、内部から待機格納庫アラートハンガーへ通じる通路など諸々を制御する手段が失われてしまったからだが……、なるほど、外部から乗っ取れば良かったのだ。もちろん、実際にはその手段が無かったから、手をこまぬいて見ている他になかった——と言うか、そういう発想そのものが意識に上らなかった。そして今、その外部からの進入手段を俺は得たのだ。御影恭子というパトロンと言うかヒモ付きではあるが、意外と利害は一致している。そう言う意味で、『貴方達にとっても悪い話じゃない』と言うのは確かだ。
 貴方……。うーん、みのりにとってははいい迷惑かも知れない。だが、御影恭子が『人質』と言っているのだから、逆にみのり自身の意思ではないことになり、軍紀違反にもならないのではないか?
 『人質なら仕方が無いな……』
 小隊長殿おやっさんならそう言うだろう。俺が怒られるのは構わない。ハナっからそのつもりだった。
 
 「副機は発着場にはあることはあるが、待機格納庫アラートハンガーの中だ。開閉して表に出る前に気づかれるぞ」
 「出撃までは最速で何分?」
 ——コイツ、もう行く気になってるな。
 「最速って言うのは無い。いつだって最速だ。……まあ、3分だな。『2分で済ませて下さい』とか言うなよ」
 この言葉は火星勤務時代に一緒だった某管制官の口癖だ。出来るかってーの。
 「ふ~ん」
 御影恭子は何やら考えている。だが、困った顔はしていない。むしろ楽しんでいる。
 「——要は3分ちょっと、管制官の目をらせばいいわけね。分かったわ」
 「どうするんだ?」
 「とりあえず——」
 御影恭子は狭い操縦席から飛び跳ねる様にして後部に着地し、みのりの手を取った。
 「ひっ!」
 「おい!」
 みのりの顔が恐怖でゆがんでいる。
 「後ろで着替えてくるから、ちょっとホバリングして待ってて」
 「何だって?」
 そういって御影恭子は、怯えるみのりを連れて貨物室カーゴルームの扉を閉めた。ご丁寧にも閉める前に、
 「覗かないでね」
 との忠告付き——さらにウインク付き——だった。そんな暇があるか。誰が操縦すんだよ。あ。貨物室カーゴルームの監視モニターがあるな……。
 30秒程度だろうか? 2人が戻って来たとき、簡易ではあるが、外気活動用のスーツを着て戻って来た。10分程度は持ちそうな酸素ボンベ付きヘルメットもかぶっている。流石に懲りたのか、例のケブラー素材では無かった。俺の名誉のため言っておくが、決して覗いたりはしていない。いや、そもそも着替えではなくて、服の上にさらに着込んだだけだろう。
 「じゃあ、アタシが管制官の注意を引きつけておくから、貴方は〈マンタ・レイ〉を引っ張りだして来て」
 「どうやって注意を引きつけるんだ?」
 「擬傷ぎしょうよ」
 「ぎ……、しょう?」
 どうにかして相手をだまくらかすのかと思ったが、そっちの偽証——あるいは偽称ではなかった。卵や雛を持つチドリなどの親鳥が、外敵の接近に気づいたとき、彼らの注意を巣から逸らすため、自らが怪我をしているフリ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅をして、敵の注意を一身に引きつけると言うアレである。今回の場合、親となるのはこの垂直離陸機VTOL、雛となるのが〈マンタ・レイ〉だ。体格からすると、親子関係が逆じゃないかと思われるが、図体のデカイ〈マンタ・レイ〉を逃がすのが主目的だから、親子関係はこれでいい。
 御影恭子が主操縦席に座り、操縦権をYou haveして即座に、俺は貨物室カーゴルームへ飛び込んだ。彼女の真似をして華麗に後部席に跳んだつもりが、ちょっとつまずいてコケそうになったのはご愛嬌と言うことで許してもらおう。
 一着残っていた外気活動用のスーツを着込みながら、後方にある積み荷を確認する。
 「なるほど……」
 中に入っていたのは発煙装置スモーク・ジェネレータだった。おそらく油脂混合物フォグ・オイル系の発煙装置だろう。詳細は外見を見ただけでは分からない。まあ、この時に御影恭子の性格を少しでも思い出していれば良かったのだが、俺は、貨物室カーゴルームから飛び降りた後﹅﹅﹅﹅﹅﹅の〈マンタ・レイ〉起動のイメージトレーニングで忙しかったのだ。
 作戦はシンプルだった。俺の仕事ジョブは、垂直離陸機VTOLが発着場スレスレまで上昇した段階で発着場に飛び降り、一目散で待機格納庫アラートハンガーへ走る。思うに外側から待機格納庫アラートハンガーへ駆け出す——いや、駆け込むのはこれが始めての経験だ。
 〈マンタ・レイ〉は基本は輸送機で、しかも翼幅スパンが1キロメートル近い飛行船のお化けだから、戦闘機の緊急発進スクランブルとは違い、シートベルトやGホースなどは必要ない。コックピットも宴会が開けるほど広いため、発進してからのんびりと対処すればいい。今回の最優先課題は、兎にも角にも早く出ることだ。だが、これが一番難しい。巨大戦艦にモーターボート並の発進をせよと厳命げんめいされているようなもので、最大推進フル・スロットルでもイライラするほどのろいだろう。いやいや、その前に、〈マンタ・レイ〉に搭乗するため、全力ダッシュで300メートルほど走らねばならないのが一番の問題か? どちらにせよ、通常なら〈マンタ・レイ〉を奪取するような無謀な作戦は行わない。勇敢と無謀は違う。勝ち目の無いいくさはしないと言うのが俺の信条——しばしば、単に無鉄砲なヤツと勘違いされているが、それは断じて違う——だが、擬傷作戦Broken Wingruse Operationは中々面白い。御影恭子の頑張り次第で何とかなりそうな気がする。それに、この作戦——失敗しても、俺だけが罪をひっかぶればそれで済む。

 
 「用意はいい?」
 無線で御影恭子の声が響く。
 「いつでもいいぞ」
 コックピットと貨物室カーゴルームとの隔壁は既に閉じてあり、俺は手動で側面ハッチを開いた。腰に付けたカラビナにザイルを繋げ、準備は万全である。ザイルの先にはレスキューパラシュートが付いている——わけではない。御影恭子の指示で発煙装置スモーク・ジェネレータの起動装置につながっている。文字通り俺がトリガーとなっていて、飛び降りると同時に、擬傷作戦Broken Wingruse Operationは始まる手筈だ。飛び降りる前に煙幕を張られたんじゃ、こちとら堪ったもんじゃない。中々合理的な発想だが、ここまで準備万端用意されていたと言うのが気に食わない。もしかすると、RERCの襲撃の段階から、実は御影恭子もグルなんじゃないか? ——と考えると半分くらい納得出来るが、そんな手間をかける意図が読めない。罠であれ、何であれ、そもそも俺はこういう機会をうかがっていたのだし、そいつにまんまと乗ってやるのも一興だろう。
 延々と続くかと思われる居住区モジュールの海から突然視界が開け、発着場が見えてくる。ただ、金網状の防護壁があって、これを越えるまでは飛び出せない。管制室は〈レッド・ランタン〉の外側方向に向いており、中心軸方向は完全なる死角となっている。元々、ここを上ってくる航空機など想定されていないから、当然と言えば当然である。
 金網を乗り越え、少し高度が下がった時、俺は躊躇無く飛び出した。前転しながら落下エネルギーを分散させたが、左手に傷みが走る。怪我をしていたのを忘れていた。直後に『もう少し躊躇すれば良かった』と思ったが既に遅い。何とか立ち上がって走り出した瞬間——
 「がっ‼」
 爆風にあおられ再び前方に吹っ飛ぶ。
 垂直離陸機VTOL貨物室カーゴルーム後方から盛大に火を噴いていた。発煙装置スモーク・ジェネレータだと思っていたものは、爆発装置ブラスティング・デバイスも込みだったようだ。
 「馬鹿野郎! 擬傷ぎしょうじゃねぇじゃねえか!」
 本物の煙か、はたまた計画通りの仕込み煙か分からぬ煙——おそらく、3対7くらいの割合だろう——を盛大に吐きながら、垂直離陸機VTOLはユラユラと発着場中央に進み出る。状況を確認している暇はない。俺は俺の役割を果たすだけだった。今はそれしかない。吹っ飛ばされたことで2秒のロスタイムだ。
 認証キーロックを操作し、待機格納庫アラートハンガーに入り込む。駆け出すと後方でくぐもった爆発音がする。本物かそれとも擬傷の成れの果てなのか、既に区別がつかない。少なくとも、その後の機体落下音は無い。だだっ広い待機格納庫アラートハンガーの中は幸いなことに無人だった。ここで知り合いに出会ったら全てが終わってしまう。
 「メーデー、メーデー、メーデー。こちらは羽黒蜻蛉Ebony Jewelwing——」
 ノイズと共に無線が入る。御影恭子の声だ。そんな、カッコイイ機体名だったのか。あれは。いや、例えそうだとしても、それは呼出名コールサインではなく秘匿名コードネームだろう。その上、やけに長い。ジュエルウィングだけにしとけ!
 肩で息をしながら〈マンタ・レイ〉のコックピットに飛び込むと同時にヘルメットを投げ捨てる。無駄な動作となるが息が詰まってどうしようもない。慣性航法装置INS量子ジャイロQuantum gyroscopeは既に設定済み。何となれば基地を離れてからGPS誘導で設定し直せば良いからチェックは後回しだ。
 モーター駆動の6機のプロペラを一斉に始動。一過性の過大な電流で回路に負担がかかるから、多少の気休めで0.5秒ずつくらい、タイミングをずらす。だが、これで壊れるようでは緊急発進スクランブルはできない。輸送機が緊急発進スクランブルをすることは通常は無いが、武器類を最大積載で発進した戦闘機は燃料まで満載すると脚が折れるので、空中給油のため輸送機が急いで出撃する事はままある。だが、それは地球での話だ。飛行船の脚が折れる心配は無い。一抹の不安はあったが、モーター六重奏sextetは順調に回転を増加crescendoさせて行く。いい子だ。
 モーター暖機アイドリングの僅かな時間に、重水素と水の積載量、可逆性液体浮揚装置に充填されている熱可塑性液化ガスTLG: Thermoplasticity Liquefied Gas、そして操縦席や貨物室カーゴルーム等を取り囲む相転移吸熱体PTHA: Phase Transition Heat Absorberの状態を確認する。これらが無ければ、出撃後、一度も浮揚すること無く、断熱もままならず、速やかにお陀仏になる。本来ならモーター始動なんか後回しにして真っ先に確認する事項だが、待機格納庫アラートハンガーで待機している機体なら既に充填済みの筈だし、それより何より数秒でも時間が惜しい。そもそも充填されてなければ、擬傷作戦Broken Wingruse Operation——既に満身創痍作戦Broken-down Operationになっている気がするが——はこの段階でアウトだ。更にいつもの流れ作業で無線回線を開こうとして思いとどまる。すぐにバレるにしても、管制官に『ただ今〈マンタ・レイ〉強奪中』と自己申告するつもりは無い。今のところ、管制官からの通信は入っていない。——って言うか、我が隊の仲間は全員、管制室から追い出されているんだから、誰も対処できないんじゃないかな? これはある意味、ラッキーな状況かもしれない。ちなみに、御影恭子とは、飛翔が不可能と判断された時だけ無線で合図することになっている。外がどんな状況になっているかは知る由もないが、受信だけしている会話からすると、まだ飛んでいるようだ。
 モニター類を全て起動し、全方位の確認。外部ケーブル接続等なし。貨物室カーゴルームの油圧シールドOK。サバティエ反応機関正常Sabatier Reaction Engine——武器だけは、武器だけが無いな。巨大な貨物室カーゴルーム内には地表降下機〈ブラック・タートル〉がポツンとあるだけで、その他は小銃ひとつない。拳銃ならひとつだけ、みのりから預かったものが手元にある。
イメージ・トレーニング通り、全てのチェック項目をこなし、ブレーキングを最大にして、モーター回転を少し上げる。力学的なモーメントは船体をうように伝わりながら軸足を軋ませ、少し前のめり状態で安定する。動作がいちいち緩慢なのは性に会わんが、仕方が無い。さてと……こちらは準備完了。後は——。
 後は——待機格納庫アラートハンガー前方の扉が開くのを待つだけだが、はてさて? 御影恭子に聞きそびれた。アイツはどうやってこの扉を開ける気だ? まあ、この扉は硬殻な掩体壕シェルターの扉じゃないので、最悪の場合〈マンタ・レイ〉のずんぐりむっくりの鼻っ柱でグリグリと押し出せば、破ることはできなくとも、暖簾のれんのように押し上げる﹅﹅﹅﹅﹅ことはできるだろう——とは、思ったのだが……。

 
 ——まあ、大方の予想は付いていた。と言うか、『まさかな……』と思う反面、アイツなら——彼女ならやりかねんと思っていただけに、実際にソレが起こった時は不謹慎だが少し笑った。
 もったいぶった言い方を止めて、事実だけを言うと、要するに、御影恭子が羽黒蜻蛉Ebony Jewelwingと呼んだ垂直離陸機VTOL体が、扉に突っ込んで来たのだ。正確に言えば、右から左へと舐めるように扉を壊しながら移動していく。相変わらず、大量の煙を吐きながらの飛行だったから、盛大に煙幕が張られると同時に、あたかもカーテンが引きちぎられるように、扉だったものの破片が落ちて行く。硫酸雨の流入を防ぐのが主な目的の格納庫ハンガーとは言え、隔壁であるべき扉がこんなに脆くて大丈夫か? と、本気で思った。軽量でペラペラなのは仕方が無いが、小型機が体当たりしただけで切れる﹅﹅﹅ようでは——と思ったが、その理由はすぐに分かった。もうもうとした煙が立ちこめる中、俺は視界を確保すべく、風防ディスプレイWS-HUDを熱赤外線チャネルに切り替える。そこに写った垂直離陸機VTOLは——モーター部は当然として——翼に当たる部分に不自然な熱源を有していた。おそらく、プラズマブレードと同じ原理の装置が取り付けられているのだろう。かなり用意周到な感じがする。
 制動をかけたままモーターを離陸推力テイクオフパワーへ。飛行船モドキの〈マンタ・レイ〉でこれをしても、制動の意味なく脚が引きずられるか、はたまた、頭を下にして前のめりに倒れるかにしかならない気がするが、やってみたことは無い。コイツで制動離陸スタティック・テイクオフをするシチュエーションなんて、これまで無かったからな。豪快に前転したら、それはそれで面白いが、それなら5点式シートベルトをちゃんと付けておかないと、天井に5点着地することになる。
 盛大に鳴っているパーキングブレーキ作動のアラートの中、加速度計と機体モニター、それに、もしもの時のための逆推力装置スラストリバーサーの操作をイメージしながら、前方を凝視する。ほどなくして、2人の影——2体の熱源と言うべきだが——が近づくのを確認する。後部貨物室カーゴルームの入り口を開けていては、時間がかかり過ぎるため、前脚軸のメンテナンス口から入る手筈だ。脚部のライトを手動で点滅させて合図をする。脚部モニターは赤外線切替えカメラが無く、煙幕の中ほとんど役に立っていないが、乗り込み時、カメラ前に親指を上げた画像——おそらく御影恭子の中指を突き上げた手と、それに続いて、ピースサインの手が写った。ピースじゃないだろ、みのりちゃん。
 「今入った。出て!」
 御影恭子の声だ。
 「みのりは?」
 もちろん、乗り込んでいるとは思うが、確認する。
 「ここにいます!」
 間髪を入れず、ブレーキリリース。非常用のロケット補助推進離陸RATO: Rocket Assisted Take Off装置を噴かすため、制御システムの入ったガラスカバーを叩き割ろう——かと思ったが、待機格納庫アラートハンガーが丸焦げになるのは本意ではない。本作戦の目的は、地表降下部隊アタッカーズ救出であって、〈マンタ・レイ〉の強奪は手段に過ぎない。万一、ロケット補助推進機によって基地内で怪我人が出たりしたら本末転倒もいいところだ。
 だが、モーター最大出力で移動するも、想像通りのろいのは如何ともし難い。眼前に待機格納庫アラートハンガーの出口が迫ってきた段階で機首を上げ、天井に注意しながらジャンプ。この芸当は飛行船モドキだからこそ可能なのだが、動作がワンステップもツーステップも遅れるのはストレスになる。動作に慣れてしまえば、そして、離陸して空中に舞ってしまえばそんなことは無い筈だ。
 ジャンプ後、不協和音のアラートの鳴る中、再び着地したのは、既に駐機場に出て数百メートルのところだった。離陸に失敗したわけではない。一連の動作としては、機首の上げ過ぎで失速ストールしたことになるが、床面に散らばった、扉——だったもの——を一旦避けるための、織り込み済みの操作だ。こんなデカイ機体でも、失速ストール時にバックせず機首から下がるように設計されている。通常の航空機なら後部胴体接触しりもち事故が発生するが、〈マンタ・レイ〉には幸いなことに〝尻〟に相当する部分が無い。着地前には若干の機首下げとスロットル操作を行い、地面効果グランド・エフェクトも考慮して降りた。軟着陸ソフトランディングとはいかないが、墜落ではない程度の衝撃。何やら、機内の監視モニターから——みのりちゃんの悲鳴——らしきものが聞こえた気がするが、とりあえずは黙殺する。瓦礫がれきに車軸が挟まってつんのめり、身動きが取れなくなるよりは、この飛び出しの方がリスクが少ないという俺の判断だ。
 煙幕の所為で視界はまだ開けていないが、発着場の縁までは、モジュール2つ分強——およそ3キロメートルはあるだろうか? もっとも、常時硫酸雲の中にいる〈レッド・ランタン〉だから、煙幕が晴れたとしても、2キロ先が見通せるかどうかは疑わしい。ここはフルスロットルで駆け抜けたいところだが、1キロメートル近い翼幅スパンがある機体のため、着地による振動がうねりとなり時間をかけて翼先端まで伝搬していく。これを止めずに駆け出すと、翼が暴れだす危険性があった。文字通り羽ばたく﹅﹅﹅﹅のだ。しなりを応力計で確認しながら、これを打ち消す為、羽ばたき﹅﹅﹅﹅が到達する直前にモーター出力を制御する。理屈は簡単だ。動くべき方向に先に動かしておけばいい。だが、この巨体でそれをやるのは難しい。最大推力を殺さぬようにしながらの制御はなおさら難しい。それでも何とか振動を押さえ込み、取っておいたロケット補助推進機を作動させる。
 この間、機銃掃射でもあればそれでオシマイである。ただ、残されたたった1台の大型輸送機が盗まれる寸前とはいえ、状況が分からぬまま、そのような無茶はしないだろうと言う、希望的、楽観的観測に懸ける。少なくとも谷上中尉はそんな司令は出さない。管制室を占拠しているRERCの文民ぽい奴らもそんな判断が出来るとは思えない。小隊長殿おやっさんなら『とりあえず撃っとけ』とか言いそうだが……。
 
 「〈レッド・ランタン〉より〈マンタ・レイ〉二番機へ。貴殿の所属と氏名を述べよ」
 「…………」
 無線が来た。噂をすれば影がさすというか……谷上中尉直々のお出ましだ。緊急発進スクランブルで警告をしたことも受けたこともあるが、身内からの警告は始めてだった。当然ながら気分の良いものではない。いずれバレるのだからと回線を開こうとした時だった。無線回線の電源が一斉に落ちる。おいおい、どうなってる。それだけじゃない。自動応答装置トランスポンダ応答コードSquawkがご丁寧にも7500に……。7777スクランブルじゃなく7600NORDO——通信障害——でもなく7500ハイジャックだって? ある意味それは正しいが、誰がコードを打ってる?
 「統合幕僚監部情報分析部特務情報官付の伊川です。当機は何者かにハイジャックされています。目的は不明。数名の人質が取られています」
 座席後方の内部インターフォンからノイズまみれの声がする。赤外通信か何かを使っているのだろう。となると、俺が何か言う前に無線回線を切ったのはみのりかもしれない。普通は操縦席コックピットからしかアクセスできないが、みのりなら回線ジョイント途中からの割り込みなどは朝飯前だろう。それにしても、所属をフルで言ってしまう律儀さがみのりちゃんらしい。
 ——しかし、その言い方だと、俺がハイジャック犯みたいじゃないか。まぁ、似たようなものか。否定は出来ないな……。
 「行き先は? 犯人の人数は?」
 「地表に降り…です。人数…不明……で……」
 後はノイズだけ。なかなか美味い演出だな。ハイジャック犯の人数は1.5人と言うことにしといてくれ。
 〈マンタ・レイ〉の翼振動を気にしながらも、離陸決心速度ヴィーワンまで到達する。こうなれば、管制室も離陸中止RTO命令を出すことができない——撃墜する気なら別にして。もっとも、滑走路をオーバーランしたとしても被害が出る建物があるわけではなく、防護壁の金網を引きちぎって〈マンタ・レイ〉が落っこちるだけ。更に言うと、モーターを切ったまま速度ゼロで落っこちたとしても、55キロメートル下の奈落の底まで落ちる筈もなく、途中でのんびりとモーターを発動させればいい。それがままならなくとも、最低限〝気球〟としての機能は発揮はっきできる。
 そのまま何事もなく僅かながら機首上げし、ふわりと舞い上がった〈マンタ・レイ〉は、発着場の縁に到達した直後、直ぐさま急下降で速度を付ける。〈レッド・ランタン〉には翼で〝バイバイ〟をしておいたが、見えたかどうかは定かではない。
 
 多少手荒でイレギュラーな格好になったが、第二次捜索隊はロシア隊に遅れること2時間後。盛大な見送りもなく、こうして出撃した。距離を考えると間に合うとは思えないが、この手の作戦はAプランだけでなく、バックアップ用のBプランも用意しておくのがスジだ。徒労で終わったならそれでいい。——いや、その方が断然いいだろう。バックアップが役に立つ状況というのは、本来間違っているのだから。
 
 「そう言えば——」
 俺はこの段になって思い出した。
 「御影恭子の本作戦の目的は何だ?」
 ——詳細を聞いていないことを思い出した。

 
         *  *  *
 
 「降りた?」
 「ああ。密告タレコミ通りだ……」
 谷上中尉は幾分不機嫌そうな顔をして、赤電話に出ていた。
 「積み荷は?」
 「伊川軍曹が人質として取られている。真偽は定かではない。その他人数は不明だが、操縦士パイロットは上沢小尉で間違いない」
 「何故分かるの?」
 「あんな飛び方が出来るヤツは、ここには上沢しかいない。いや、何処を探してもいないだろう」
 「ふーん。取り調べではあの坊や——、口を割らなかったんだけど、その時は何も知らなかったのかもね」
 「あの女は何者だ。御影恭子という生物学者——」
 「それが分からないから泳がせているの。発信器は?」
 「付けてある。内部からでは探知できない場所にだ」
 「OK。後はこちらで追うから」
 「こっちは追いたくても、追うための実機が全て出払っている。これ以上は何も協力はできん」
 「分かっている。状況が分かれば逐次報告するわ。ではまた後ほど……」
 ソーニャはそう言ってホットラインの電話を切ると、
 「遺跡にご招待ってわけね……」
 と、独り言を吐いて微笑んだ。







三、遺  跡

 
 「おいおい。勘弁してくれよ」
 俺は頭を抱えていた。——いや違うな。正確にはあきれていた——というのが正しい。
 
 慌ただしい出発departureの後、航空交通管制圏そして管制区も離れた時点で自動操縦に切り替えた俺は、いつも通り操縦卓コンソールに両足を投げ出し、座席をリクライニングにした。〈レッド・ランタン〉の飛行情報区FIR内ではあるが、無線が使えないNo Radioというていで出て来たから聞こえないフリをすればいい。ちなみに、無線回線の電源を落としたのはやはりみのりちゃんで、今は完全復旧している。
 俺の意識は既に捜索活動の方に移っていて、ロシア管轄空域との捜索救助SAR協定がどうなっていたか、航空路誌AIPを確認していた。航空路誌AIP国際民間航空機関ICAO用であるが、金星ここでは全ての航空機が——表向きは——民間用だ。
 ちなみに、地球上では〝国〟と言う概念が事実上崩壊し、多国籍企業が地を這うつたのように時間と場所を越えて地上を覆っている。国境線は単なる記号に過ぎない。だが、金星ここでは地域毎の支配構造が未だに続いている。他の地域から見れば、今回のゴタゴタは北緯30度帯30 Degrees North地域での内紛でしかなく、区域を超えて勝手な振る舞いをすれば、強制送還か、下手をすれば撃墜される。
 建前上、軍隊はいない筈なのに撃墜されるというのもおかしな話だが、撃墜されても文句は言えない。〈マンタ・レイ〉のような飛行船モドキは、装甲が脆弱だ。——っていうか、無いに等しい。図体もでかくて回避能力も期待できない。重機関銃程度の火力でも簡単に落ちる。だから、地域越えの正式な手続きは面倒だが、重要な手続きだ。可能であればなるべく他国の空域を通過せずに目的地まで到達したい……。
 
 ——目的地?
 
 そうだった。俺は目的地を知らないのだ。湊川との通信により、地表降下部隊アタッカーズの目的地はセレス・コロナCeres Coronaの少し手前の地域だということは分かっている。だが、どう考えても彼らはそこまで到達していないだろう。すると、地表降下部隊アタッカーズが最後に通信を絶った赤道帯の12浮遊基地フロート・ベースに急行するのが良さそうだ——とは簡単にはいかない。12浮遊基地フロート・ベースは忽然と消えてしまったというのも理由のひとつだが、その前に、そもそも浮遊基地フロート・ベースというだけあって、コイツは大気中を漂っている存在であり定点に留まっていない。
 12浮遊基地フロート・ベースは消滅時にルサルカ海上空にあったが、現在は既にセレス・コロナCeres Corona直上か、もう少し先のテチス高地にさしかかる地点まで移動している筈である。もちろん、存在していれば﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅の話だ。つまり、消滅時の地表付近を捜索するか、はたまた、12浮遊基地フロート・ベースを捜索するかで、進路が変わる。ただ、どのみち急がねばならない。〈レッド・ランタン〉もスーパーローテーションにより、4日で金星を東西に一周しており、既にウルフルン諸島上空からアフロディテ大陸のアトラ高地北空域近くにまで進んできている。そのまま放っておけば、おのずとセレス・コロナCeres Coronaと同じ経度に達するが、その時点で地表付近まで降りていなければ、風に逆らって逆走する羽目になる。
 地球上でもジェット気流上の往路と復路で飛行時間に大幅な違いが出るのと同様、風に逆らって飛ぶのは時間と燃料を食う。核融合炉と蓄電池を用いてプロペラで飛ぶ〈マンタ・レイ〉の場合、燃料については配慮する必要が無いが、問題は時間である。金星のスーパーローテーションは地球上のジェット気流がそよ風に感じるほど強風だし、それに立ち向かうのが非力な飛行船モドキとあっては、滝を登ろうとする金魚﹅﹅のようなものだ。とても歯が立たない。〝河童の川流れ〟ならぬ〝〈マンタ・レイ〉のスーパーローテーション流れだ〟。
 ——全然語呂が悪いな。そんなことはともかくとして。
 
 重力を最大限に利用し、落下しながら赤道を最速で通過できる進路をアンサンブルで確率計算しているところに2人がやってきた。御影恭子は堂々と。みのりちゃんはおずおずと。
 「案外簡単だったわね」
 「…………」
 言わなくても分かると思うが、一応言っておくと、それが御影恭子の第一声だった。殴ってやろうかと思ったが、ここで関係が悪化するのも何かとマズい。命の恩人——俺だけでなく、みのりちゃんの命の恩人でもあるのは間違いないわけだし。もっとも、みのりにしてみれば、——どこまで本気か知らないが——人質として無理矢理連れ回されるハメになって、いい迷惑だろう。
 「で——」
 俺は振り向くことも手を休めることもなく、正面の雲海を眺めながら尋ねた。そう言えば、まだ熱赤外線モードだったな。可視にしたところで景色は変わらないが。
 「——で、俺たちは何処に行けばいいんだ。地表降下部隊アタッカーズは何処にいるんだ?」
 「実はアタシも良くは知らないんだ……」
 俺は手を止めた。いや、止まった。ついでに思わず振り向いた。なんだと?
 「まあ、〝遺跡〟の残っている場所﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅はそんなに多く無い筈だから、なんとなく想像は付くけど、地表降下部隊アタッカーズのアプローチの仕方までは分からない」
 「遺跡?」
 そうだった。ソーニャに聞かされた金星にあるという遺跡の話。御影恭子はそれを狙っている。硫酸がなんとか、磁性がなんとかという細菌の話だったか? 確かそれはみのりちゃんに調べてもらったから、後で詳細を今一度聞くとして——ともかく今は行き先だ。
 「いや。遺跡の話は後で聞く。で、何処に行けばいいんだ」
 「とりあえず、南の方かな……」
 「とりあえず? おいおい。勘弁してくれよ」
 
 ——と、冒頭に戻る。つまりこいつは、御影恭子ってヤツは、あんな派手な大立ち回りを行い、引き返せない状態にしておいて、『行き先はよく知らない』と平然と言ってのけているのである。あまりに馬鹿らしくて、逆に腹も立たない。成り行き任せで行き当たりばったり過ぎる。それでよく科学者が勤まるなぁ。
 「……あの、行き先なんですけど」
 みのりが申し訳なさそうに口を出す。話に割り込んでくるのがみのりでよかった。湊川なら『痴話げんかの最中すまないが——』とか言いそうなシチュエーションだ。
 「地表降下部隊アタッカーズが降りた12浮遊基地フロート・ベースは、私が誘導したので、本来の位置はある程度把握出来ています。軍——いや、図書館で調べもの﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅をするために持ち込んだ浮遊基地フロート・ベースの自立航法バックアップデータもありますから、現在位置も特定可能です。まずはそこに行きましょう」
 「それはそうだが、その浮遊基地フロート・ベースが忽然と消えてしまったんだろ? そのまま素直に考えると、もうそこには12浮遊基地フロート・ベースは存在しない——って考えるべきじゃないのか?」
 消えてしまったことにいち早く気づいたのは、他ならぬみのりちゃんである。だから、そこに行ってもどうにもならないことを一番良く知っている筈だ。むろん、そんなことは百も承知で言っているのだろうから、彼女なりに思う所があるのだろう。
 それはそうと、軍のバックアップコンピュータが図書館にあるということを御影恭子に隠すつもりで、『図書館で調べもの』と言い直したのだろうが、残念なことに、御影恭子はそのことをおそらく知っている。何処で知ったのかは定かではないが。
 「いえ。消えたのでは無いと思います」
 みのりは、自らに確認を取るような口調で、更に付け加えた。
 「これは、情報操作です。誰かがGPS衛星回線に侵入ハッキングして、位置情報そのものを変えたのではないかと——」
 「誰かとは?」
 「分かりません。でも、おかしいんです。12浮遊基地フロート・ベースを誘導していた時のタイムラグが感覚と合わないんです」
 「どういうこと?」
 御影恭子が横やりを入れる。
 「操作信号は衛星経由の伝達で行われるんですが、電波の視線大気遅延量がズレていることに気づいたんです」
 「なんだって?」
 「なんですって?」
 ハモった。俺は御影恭子と顔を見合わせた。気に入らない。
 「電波遅延量なんか体感で分かる程には無いだろう」
 「体感じゃありません。操作中のリアルタイムログを見ていて気づいたんです」
 「何? あんなモンずっと見てたのか⁉」
 回線のアクセスログやらタスクログやら、確かにズラズラと出てくる画面はあるが、あんなものコンピュータが嫌がらせで吐き出している取るに足らないつぶやきであって、止まらずに流れていれば正常とばかり思っていた。異常が起きて画面が止まった時に初めて眺めるモノ——俺は眺めても分からないが——なんだろうと。まさかリアルタイムで逐次見ているとは思わなかった。それを見ながらあの浮遊基地フロート・ベースを操作していたとは恐れ入る。
 「うーむ。……だとしても、12浮遊基地フロート・ベースにはロシア隊が向かっている——」
 「違うんです!」
 「えっ?」
 「12浮遊基地フロート・ベースは最初から位置が改竄かいざんされていたんです」

 
 みのりの話を要約するとこうだ。12浮遊基地フロート・ベースはルサルカ海上空で地表降下部隊アタッカーズを乗せた〈マンタ・レイ〉一番機とランデブーする予定となっていた。だが、元々、12浮遊基地フロート・ベースはルサルカ海上空にはおらず、別の場所を航行していて——おや?
 「いや、待てよ。もしそうだとしたら、どうして〈マンタ・レイ〉は浮遊基地フロート・ベースに降りることが出来たんだ。行ってみたら何にもなくて待ちぼうけを食らってた筈だろ」
 「……それは」
 みのりがうつむく。
 「それは簡単な話よ」
 御影恭子が話を引き継ぐ。
 「地表降下部隊アタッカーズ12浮遊基地フロート・ベース本当の位置を知っていた﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅と言うことよ。つまりは——」
 御影恭子は少し嬉しそうに微笑んだ。
 「——つまりは、この作戦は最初から仕組まれていたのよ。あなたもその相棒だったんじゃない?」
 「ちっ、違います!」
 みのりがそんなことをする筈が——と思う反面、12浮遊基地フロート・ベースを操作していたことを考えると、ひょっとするとそうなのでないかと言う気持ちもある。ソーニャ率いるRERCがみのりに目をつけたのは——なるほど、そういうことか。
 ただ、詮索は後だ。
 「もめ事は後にしてくれ。金星表面を周回遅れになる前に、どうにかして地表へ——少なくとも、硫酸雲下の浮遊基地フロート・ベース高度にまで降りていたい。座標は何処に設定すればいい」
 御影恭子はこちらを見ると、そのまま腕組みをした。みのりは少しほっとしたようだ。
 「時間があまり無かったので詳しい位置までは特定出来ていませんが、GPS高度計アルティメーターの干渉測位の解析ではこのへん……、あるいは、このへんです」
 「んん?」
 みのりの示した2点は大きく離れていた。北緯3040度に位置するテルス島Tellus Island周辺と、地表降下部隊アタッカーズが元々目指していた筈の、南緯3040度に位置するセレス・コロナCeres Coronaアルテミス・コロナArtemis Coronaの中間だ。赤道を挟んで北と南の泣き別れ。これじゃあ、体が2つ無い限り行きようがない。
 俺は両手を上げて軽く万歳をした。まさにお手上げ状態だ。
 「すみません。補足した衛星データが2つしか無かったので、これ以上絞り込むことができなくて……」
 謝られても仕方が無い。そもそも、この無謀な計画は、御影恭子によってなされたものなのだから、みのりちゃんが謝る筋合いのものではない。
 で、当の御影恭子は腕組みをしたまま、行き先候補を見比べていたかと思うと、
 「北よ。北で間違いない」
 と言い放った。
 「何を根拠に?」
 当然だ。当然の疑問だ。コイツの言うことはあてにならない。
 「簡単な話よ。南のこの場所には〝遺跡〟は存在してない。巨大なコロナが2つもあるんだし、もう使い切って﹅﹅﹅﹅﹅いて欠片かけらも残ってないわ」
 「……言っている意味が分からんが?」
 「ともかく北に行けばいいのよ」
 「納得できんな」
 「アンタはパイロット何だから、アタシの指示に従えばいいの」
 「何だと⁈」
 「元々、そういう約束だったでしょ。お忘れ?」
 くそ。やっぱりコイツは一発殴って、その鼻っ柱を折ってやらないと——と、頭に血が上りかけた瞬間にみのりが割って入って来た。
 「おそらく、御影さんの判断は正しいと思います」
 「みのりは〝遺跡〟の在処ありかを知っているのか?」
 そう言えば、みのりは〝遺跡〟については機密事項だとか言っていたのだ。俺のあずかり知らないところで、何か色々と企みが進行しているらしい。
 「いいえ。その、詳しくは知らないのですけど——」
 「けど?」
 「そのぉ——」
 「その?」
 ここはひとつ、その機密事項とやらを聞かせてもらおうじゃないか……。
 「その——ですね。南緯30度帯30 Degrees South周辺は既にロシア隊が捜索に行っていて、風に乗ってこの空域もいずれは捜索の範囲になります。だから、私たちが行く必要はありません。もうひとつの可能性のある北緯30度帯30 Degrees Northを捜索すべきだと考えます」
 「なるほど、なるほどね」
 うまくかわされた。だが、確かにもっともな意見ではある。いずれ捜索隊が赴く場所にのこのこ出て行くのは無駄だ。ロシア隊の先回りが出来るのであれば、それはそれで意味があるが、あちらさんの方が先発隊で、なおかつ、近距離からのお出ましなのだから、到底追いつけない。ならば、まだ捜索されていない場所に降りた方が賢明だろう。我々はバックアップ——勝手にそう名乗っているだけだが——だからな。
 「分かった。北だ。テルス島Tellus Island周辺の捜索に向かう。どこまで詳細な位置が分かる?」
 「2000キロメートル四方程度しか分かりません」
 「結構広いな」
 「すみません。衛星データの解析ではそこまでしか……」
 「いや、謝る必要は——ん? 待てよ?」
 「はい?」
 「〈マンタ・レイ〉から映した地上画像とかあれば、位置が分かるか?」
 そうだった。俺は湊川との交信記録をメモリに入れ、図書館に出かけてゴタゴタに巻き込まれたんだった。早速メモリをみのりに渡すと、みのりは手慣れた手つきで、定位置——航空通信士席——のコンソールを叩く。その第一声が、
 「上沢少尉。この記録の保管・所持及び一般住居地域等への持ち出しは、守備隊法第4章第5節服務規程第59条の——」
 「分かった、分かった」
 ここでそれを言うなよ。
 「本来なら破棄すべきメモリですけど、これがあれば地形マッピング同定処理で位置の特定ができそうです。今回は仕方ないですね。活用させて頂きます」
 「はっはぁ。そうこなくっちゃ」
 何故なにゆえここで、このタイミングでみのりちゃんに怒られねばならんのだ? ——と言う疑問も少しばかり脳裏に浮かんだが、まあ、それはいい。結論は意外と早く出て来た。
 「えーっと、モニター越しの僅かな部位にしか地形が映っていないので、有意な一致率水準には達していませんが、該当する場所の上位3地点がここです」
 食い入るように見つめる——までも無かった。テルス島Tellus Island周辺部にある地点は1カ所。そして、他の2カ所は、イシュタル大陸とアイノ海にあり、〈マンタ・レイ〉の巡航速度から考えて、あの時間で到底到達出来る地点ではなかったからだ。

 
         *  *  *
 
 金星で人間の住むことができる環境は限られている。正確に言えば、酸素ボンベひとつだけあれば何も手を加えずに住める環境——などという都合のいい場所は、金星では何処にも存在しておらず、最も少ない経費﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅で自給自足が可能な区域は何処かと考えることになる。地球と同じく、1気圧で20℃程度の環境を探し求めると、地表から50キロメートルちょいの上空に行き着く。もっとも、厳密な1気圧を求めると、気温が60℃にもなりかなり暑い。湿気は無いから爽やかかも知れないが……。逆に気温が20℃の適温の場所——高度57キロメートル程度——は、気圧が0.5気圧となる。
 人間の場合、気温が常時60℃の空間に住み続けるのは難しい。——っていうか無理だ。だが、0.5気圧の空間に住む事は可能だ。地球上で考えれば、高度6000メートルの高地であり、訓練と素養さえあれば何とかなる。ただし、気圧と気温が適切だったとしても、金星の大気中には酸素が無いため、呼吸が出来ない。従って、どのみち居住区は、外気を遮断した閉鎖空間にする必要があり、ならば、内部を1気圧にまで加圧してしまってもいい。熱の方はいくら遮蔽しても外部と勝手に交換されてしまうが、空気の方は遮蔽さえできれば任意に対応出来る。
 しかし、居住区内を加圧すると今度は、居住空間の浮力を得るのが難しくなる。金星の大気はほぼ二酸化炭素100%、地球の大気は窒素8割、酸素2割であり、仮に同圧力の場合、地球大気は金星大気の6割強の重さしか無いため、上空に浮く事ができる。だが、居住空間の圧力を外気の2倍にすれば、質量も2倍になるため、今度は沈んでいってしまう。六角形ヘックスモジュールの中央部には災害時を想定して酸素とヘリウムの混合気体が満載されており、これがモジュール全体の浮力を稼いでいるとは言え、外気圧とモジュール全体の内圧との差が大きいことはあまり良い事ではない。
 外気圧と居住区の内圧の差が大き過ぎる場合、外壁の損傷や事故——みのりのように故意によるハッチの強制排除も含む——によって短期間のうちに急激に居住区の大気が外に吸い出されてしまう。むろん、対応措置の時間も取れず、事故現場の人間が放り出される危険もあるため、大気差はなるべく小さくしたい。
 これら様々な要因が絡み合い、妥協点として高度55キロメートル付近、外気圧が0.7気圧で外気温40℃、居住区の気圧はほぼ同じか若干高めに設定、熱交換機で温度を20℃に保つという方式に落ち着いた。ちなみにこの0.7気圧と言う環境は、宇宙空間で船外活動を行うための予備呼吸プリブリーズ待機時の気圧と同じであり、上るにしても潜るにしても何かと都合がいい気圧である。外気温40℃の基準は、熱交換機の故障を想定して、これ以上暑いと人間のタンパク質が変性して元に戻らなくなるとかなんとか、医学的な要請から決められたようだ。ゆでたまごを冷やしても生卵には戻らないとかいう理屈らしい。
 さらに居住区大気は、地球大気とは違い、無窒素雰囲気内で酸素濃度を濃くしている——ただし、声が変わらないところを見ると、単純なヘリウム置換では無いらしい——とか、居住区上部と下部との温度と圧力差を利用した熱交換および温度差発電による排気機構とか、空中都市の生命維持管理には色々と技があるようだが、詳しいことは良く知らない。まあ、一言で言うと『よく出来たシステム』だということだ。周囲には幾重もの安全対策フールセーフティが施されており、ここに住んでいる限り、大抵の事故は居住区全体に広がるような事態にはならない。我々の住む〈レッド・ランタン〉内に関して言えば、年に数件のボヤがある程度であり、記録としてはブロックごと閉鎖という事態すら起こした事が無いようだ。
 だが、これら事故・事件の記録は、空中都市から離れた場所——つまり、飛行中の航空機や飛行船内では、桁違いに増える。それでも上空へ上って行く方は、比較的安全だ。途中で機体がお釈迦になっても、間違って——あるいは御影恭子のバカのように故意に——飛び出しても、宇宙服を着ていれば即死にはならない。いくら外が真空であったとしても、気圧差は0.7以上にはならないからだ。気圧がマイナスになることは無いから当然と言えば当然のことである。それに、温度が100℃であっても、マイナス100℃であっても、外の大気が薄ければ短期間ならそれほど問題ではない。
 問題なのは、地表へ降りる方だ。地表面の90気圧、460℃という環境に放っぽりだされれば、大抵の人間は即死である。聞いた話だと、高圧環境下での人間の活動記録は70気圧が限界であり、加圧に一週間、減圧に二十日かけないと不可能な作業だと言う。もちろん、通常の空気だと窒素でラリってしまうから、窒素をヘリウムに変更した混合ガスHelioxが必須となる。『装甲兵アーマードソルジャー3馬鹿トリオ隊』の姫島の話では、加圧がキツいと高圧神経症候群HPNS: High Pressure Nervous Syndromeで吐き気がするらしく、痙攣発作を起こした者も何人か知っていると言う。装甲兵アーマードソルジャーが痙攣しているのだから危険極まりない。
 それならば、内部が常に1気圧の装甲服アーマードスーツにすればいい。完全な気密性を保ち、外動力で動く装甲服アーマードスーツなのだから、既に実用化されている大気圧宇宙服ASS: Atmospheric Space Suitと同等の機能を持つ装甲服アーマードスーツにすれば、予備呼吸プリブリーズも必要なくなり一石二鳥なのに——と素人考えでは思うのだが、装甲服アーマードスーツの内圧を1気圧程度にすると、今度は外気圧との差によって圧壊あっかいの可能性が増える。命の危険を考えれば、こちらの方がリスクが高いそうだ。装甲兵アーマードソルジャーは手足を動かす必要があることから、潜水艦のような分厚い装甲を関節部などに使う事ができないので、どうしても内圧を上げて対処することになる。大気圧宇宙服ASSの場合は最大で1気圧の差に耐えるだけでいいが、金星表面に降りる装甲服アーマードスーツの内圧が1気圧の場合、最大で89気圧の差に耐えねばならない点が問題なのだ。
 圧壊あっかいは怖い。全くもって前兆ぜんちょうが無いからだ。もちろん、あちこちがきしむということはあるが、それは序章であり前兆ではない。破壊は一気にやってくる。俺は飛行機乗りだから経験はないが——いや、潜水艦乗りでも圧壊あっかい語ることのできる経験者﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅はいないだろうが——、潜水艦乗りはあんな閉鎖空間でよく精神的に耐えられるものだと感心する。周囲が見渡せないというのは飛行機乗りにとっては苦痛でしかない。
 〈マンタ・レイ〉の巨体は、飛行機というより、潜水艦に近い。機動力が緩慢なのも嫌いだが、どうも、この操縦——いや、操感触が気に入らない。事実、〈マンタ・レイ〉の〝潜航〟は、潜水艦のバラストタンクへの注水と同じ原理で潜る。すなわち、船体に空気房バロネットと言う外気取り入れ口があり、外気を注気して降りて行く。飛行船でも同様な空気房バロネットが船首と船尾に1つずつ備わっているが、〈マンタ・レイ〉は縦長な飛行船と違い、翼の方が長いので、翼全体の前面と後面に横長に空気房バロネットが分散して付いている。これにより、機体上下動ピッチングのみならず機体軸回転ローリングも可能となっているが、何しろ動作が緩慢なので、昇降舵エレベータ補助翼エルロンとは違う機動となる。〈マンタ・レイ〉は飛行機と飛行船の合体というか、どちらでもないコウモリのような存在なので、補助的に——どっちが補助なのかは分からないが——昇降舵エレベータ補助翼エルロンも付いていて、それらは全てコンピュータ制御で操作するのが基本だが、俺としては、マニュアルで操作するのが好きだ。
 いや、『好きだ』というのは語弊がある。どちらも好きにはなれないが、嫌な中でもマシな方——と言うべきだろう。

 
         *  *  *
 
 目指すテルス島Tellus Islandは我々が統括している北緯30度帯30 Degrees Northに属している。どうやって赤道を越えようかと思案せずに済んだだけ儲けものだ。赤道越えは、管轄空域だの捜索救助SAR協定だのという行政的な手続きを考えなきゃならないという政治的な問題だけではなく、物理的に移動が面倒なのだ。
金星では、スーパーローテーションという猛烈な東風が常に吹いている。地球のようにやれ偏西風だの貿易風だの、上空のジェット気流ストリームだなどという様々な風を考慮する必要は無い。50度以上の極域を除き、空抜0メートル付近では秒速60メートルの東風があまねく吹いている。だが、我々は〈レッド・ランタン〉に住んでいる限り、その風をあまり感じない。理由は簡単で、空中都市はその名の通り全て空中にあり、その風に乗って移動しているからだ。風に漂う気球は、風に乗っているからこそ無風だといえる。
 だが、風の動きは、水平方向だけでなく、鉛直方向の上昇下降流も存在する。至極簡単に言えば、夜間で大気が冷えて下降し、日中に上昇するという夜昼間対流という風が赤道ではおきる。太陽で加熱された大気は、熱潮汐波という上下方向に伝わる振動を生み出す。さらに、〈レッド・ランタン〉がある空抜0メートル付近の空域は、硫酸雲のまっただ中にあり、太陽光を大量に吸収する高度でもある。要するに、常に積乱雲の中を飛んでいるようなもので、飛行船モドキの〈マンタ・レイ〉を、赤道を越えて遅滞無く地表の一点に誘導するのは至難の業なのだ。このため、まずは地上からの高度30キロメートル、空抜マイナス25キロメートルの雲下まで降下してからの水平方向移動が得策だが、高圧・高温の場所で長く航行するのはそれなりのリスクがある。相転移吸熱体PTHAによる熱処理も永久に持つわけではない。そこで、地表というアタックポイントへの根拠地ベースキャンプとしての浮遊基地フロート・ベースが存在するわけだ。なかなかうまく出来ている。
 
 ——と、何度も見て来たかのようなことを言っているが、俺も実際に地表に降りるのはもちろん始めてだ。シミュレーションと実際とでは、やはり気持ちが違う。こればっかりは、何度シミュレーションを行おうが、『これは演習ではないThis is not a drill』と言う状況に慣れることはない。ただし、作業自身がシミュレーションと異なっているわけではないから、操作は淡々と進む。要は空気房バロネットの加圧送風機の操作と、自立型航行装置とGPS高度計アルティメーターの確認。機体外周の気圧や温度のモニター。Sバンド・デジタルアレイレーダーAMDR-Sによる索敵——いや、敵は表向きはいない筈だから捜索活動と、翼面下部に取り付けられた位相整合式Lバンド合成開口レーダーPALSARおよび1μm帯近赤外レーザーによる地表面の探査等々……。地味だが気の抜けない作業が続く。半自動化というか99%は自動化されているとはいえ、最終判断は人間が行わなければならない。このへんの処理は、どちらかというと俺よりみのりちゃんの方が専門で、彼女が〝人質として〟であったとしても、〈マンタ・レイ〉に乗っているというのは心強い。
 
 で、当のみのりは、乗り込み直後に御影恭子と共に操縦室に顔を見せ、行き先をテルス島Tellus Islandに決めた後は、作戦指揮室OIC——簡易なものだが、操縦室とは別にある——の端末を使って何やらスクリプトを書いていた。その間、約15分。作品﹅﹅が操縦席右上のモニター内に出てくる。金星地表の地図上に、何かモヤモヤとした、まるで彗星というか、尾を引いた火の玉というか、そういう画像が多数……。
 「何だよ、これ?」
 操縦室内の航空通信士席にみのりが戻って来たのを見て、話を切り出す。
 「えっと、おそらく、この軌跡が浮遊基地フロート・ベースの位置を表していることになる筈です。理論的には」
 「えっ? 近くの浮遊基地フロート・ベースの位置はここに——」
 「それは当てになりません」
 「しかし、GPS衛星追跡情報だと——ああ?」
 そこまで喋ってから気がついた。GPS衛星回線に何者かが侵入ハッキングしたとみのりは考えている。ならば、その情報が当てにならないと考えるのは当然のことだ。
 「じゃあこの、ナメクジがのたうった跡みたいな絵は?」
 「ナメクジじゃないですぅ」
 何か露骨に嫌な顔をされる。ナメクジ嫌いなのか? まあ、あまり好きな奴はいないと思うけど。
 「それは、浮遊基地フロート・ベースにぶつかった大気が起こす内部重力波のエネルギー鉛直伝搬を捉えたものです。浮遊基地フロート・ベースは風に流されていますけど、鉛直に数キロの幅があるので、上下で風速差があります。それと、水平方向でも10キロメートル程度の幅がありますから、波動が上下に伝搬するんです」
 「——えっとだな。もっと簡単にならないか? その説明」
 わけが分からない。
 「簡単に言うと……、えーっと……山岳波です」
 「ほほぅ」
 山岳波Mountain waveならなじみ深い。いや、あまりお馴染みさんにはなりたくは無い。要は、風が山に当たって大きくうねる乱気流の波で、飛行前の飛行計画確認ブリーフィング時では、発生場所を頭に叩き込んでおく必要がある。いつも起こっているわけではないから、衛星での波状雲を見たり、先行部隊の機上気象報告PIREPを参考にする。地形の影響だから、たとえ快晴であっても生じ得る厄介者だ。まあ、悪さをするばかりではない。逆に言えば地形によって生じるのだから、発生箇所が特定し易く、上昇流をうまく捕まえれば、グライダーで数千キロも連続で飛び続けることが可能だ——って、あれ?
 「山の場所じゃなくて、浮遊基地フロート・ベースの位置を表示していると言うことだが?」
 「はい。地形の影響は反射波地図情報クラッター・マップを使ってあらかじめ除去しました。残る巨大な構造物は浮遊基地フロート・ベースだけです」
 「だが、浮遊基地フロート・ベースは普通は風任せに浮いている代物だろ? 阻塞そさい気球みたいに係留されているわけじゃないんだし」
 「そうなんですけど、えーっと——阻塞そさい気球ってなんですか?」
 「いや、何でもない。つまりだ。風にたなびいているなら、風を強制的にせき止めたり出来ないじゃないか」
 「ですから、浮遊基地フロート・ベースは鉛直に数キロの幅があるので、上下で風速差があるのと、発生した内部重力——いえ、山岳波は確かに僅かなんですが、金星の分厚い大気層を上がるにつれて振幅が格段に増幅されるんです」
 「…………?」
 良くは分からないが、ともかくこれを見ていれば、浮遊基地フロート・ベースの位置はある程度正しく分かるらしい。どのみち、硫酸雲下に潜って浮遊基地フロート・ベースが1000キロメートル以内の距離に入ってくれば、〈マンタ・レイ〉のSバンドレーダーで位置特定は可能だろう。
 「ところで、このナメクジ画像の元データは何だ? 衛星は当てにならないんだろ?」
 「ひとつだけ侵入ハッキングできない衛星があるんです。侵入ハッキングして秘密裏に操作してもすぐバレちゃう衛星が……」
 みのりは何故か嬉しそうだった。この手の情報操作はホント好きなんだよなぁ。
 「あったか? そんな軍事衛星」
 「軍事じゃありません。気象衛星です。気象衛星は軍事衛星ではノイズ扱いとされている硫酸雲や硫酸雨を捉えて公開しています。点状の飛行物体の補足じゃなくて、それ以外の広範囲のデータ処理です。点を消したり移動させたりする改竄クラッキングは気づかれにくいですけど、相手が大気層全体だったら、完全に改竄﹅﹅﹅﹅﹅するのは不可能です」
 「なるほど。それで、山岳波Mountain waveか……」
 「山岳波Mountain waveです」

 
 軍事衛星と気象衛星は表裏一体の関係にある。軍事衛星にとって、雨や雲から反射波エコーはノイズ以外の何者でもない。これらの影響を極力排し、航空機のみを捉えようとする。反対に気象衛星は、個別の航空機を無いものとして処理しなければならない。もちろん、航空機と雨粒では大きさが全く違うから、これらを捉えるためのレーダー周波数が違うのだが、航空機側も軍事衛星にやすやすと見付けられることを是としているわけではない。当然ながらステルス技術が発展し、狐と狸の化かし合いが起こる。巨大な航空機であってもレーダー反射強度は小鳥並みとなり、本物の渡り鳥や虫が映るエンジェルエコーやシークラッターと見分けが付かなくなった。まあ、金星なら海面の砕波さいはによる海面反射シークラッターは無いだろう。また、航空機と小鳥なら、速度が全く違うため、ドップラーレーダーで周波数遷移を確認すればなんとかなるが、当然ながら視線方向に垂直な方向——要するに近づくか離れるかの方向——の速さのみが選別対象となる。人工衛星からの視点では、ミサイルのように金星上を急上昇・急下降する物体でない限り、干渉合成開口レーダーInSARを使っても、その選別は難しい。
 そもそも論から言えば、飛行機がステルス化し秘密裏に行動出来るのは、山岳など地形と比べれば、圧倒的に小さいからだ。小鳥程では無いが、入道雲Cbよりは小さい。少々危険だが、視認索敵はもちろんのこと、レーダーから逃れる為にも、雲中に潜るのは常套手段だ。雲と同パターンの反射波を出して攪乱するステルス機さえ存在する。
 敵に見つからない様にするため発達した方法は、敵の目をあざむく方法だけではない。もっと積極的に、敵の目を潰す方法も発展している。戦争のセオリーとしては、まず開戦時に敵の軍事衛星の無力化、レーダーサイトの破壊、通信・放送施設の占拠が真っ先に行われる。レーダーなどは能動的アクティブにマイクロ波を出しているから、そのマイクロ波にホーミングするミサイルARMもある。だからと言って、レーダーの前面に分厚い装甲を施すのは不可能だ。目を守るために目隠しをしてしまっては、目を使う事ができない。総じて、索敵を行う機器は防御が甘い。
 
 みのりの言うように、GPS衛星追跡情報が改竄クラッキングにより当てにならないとなれば、我々の捜索能力は眼鏡を外された近視眼状態にあり、上空を飛ぶ豆粒のような航空機が、近視眼では確認出来ないのと同様、〈マンタ・レイ〉のSバンドレーダーだけで浮遊基地フロート・ベースを発見するのは、奇跡でも起きない限り、まず不可能だ。だが、そんな状態でも航空機を見つけることはできる。飛行機雲を探す﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅のだ。
 衛星を侵入ハッキングし、航空機——今回の場合は、浮遊基地フロート・ベース——の位置情報を消したり移動させたりして攪乱することはそれほど難しくは無い。相手がだからだ。だが、そこから派生する飛行機雲は線であり、条件によっては速やかに面となる。雲粒を見ているのは気象衛星だから、こちらも軍事衛星と同様に侵入ハッキングすることは出来る。むしろ、軍事衛星よりも侵入ハッキング容易たやすいだろう。だからと言って、飛行機雲は簡単には消せない。正確には、不自然にならないように改竄クラッキングすることが困難と言うべきだろう。航空機が一機消え失せようが、撃墜されようが、自然界には何ら影響が無い——と思うのは早計だ。航空機自身﹅﹅の損失は、それほど影響は無いかも知れないが、そこから発生すべき飛行機雲の有無は、自然界の気候を変える。気候と言う表現が大袈裟なら、明日の天気が飛行機雲の有無で変わることがあり得る。こうなると、誤摩化しが効かない。天気の変化は点では終わらず広範囲に渡るからだ。
 
 飛行前の航空予報官による航空気象解説WX-BRIEFの聴講は必須だが、逆に、航空予報官側も、我々の飛行経路をチェックしている。聞いた話だと、その経路情報をスパコンに入れ込んで、予報の修正をしているらしい。我々は安全な飛行のために予報を聞くのだが、予報官は、次の予報のために我々の飛行経路を聞いてくる。こうなると、鶏が先か卵が先かの話なので、その昔、『じゃあ、飛行経路を変えたら、明日の天気が変わるのか?』と冗談まじりに担当の予報官に聞いたら、その予報官は真面目な顔して『その通りだ』と答えてくれたのを覚えている。軍事行動で予めの飛行経路をまともに教えられるわけ無いだろうとも思うが、彼らは大真面目だ。そのうち、『我々の天気予報が当たらないのは、君たちが申請通りに飛行しないからだ』と言われそうだ。——まあ、冗談はともかくとして。
 地球上での天気の話が、ここ金星でどれほど役に立つのか、あるいは役に立たないのかは俺にはよく分からない。ただ、みのりの言わんとすることは分かる。浮遊基地フロート・ベースによって飛行機雲が作られることはないようだが、微小な山岳波Mountain waveを発生させるらしい。発生時は微小でも、上方に伝搬すると振幅が増大し、やがて上空で砕波さいはする。当初は数キロ程度の規模だった揺らぎが、最終的にはおそらく数十キロから数百キロメートル程度の規模になる。こいつをかき消すことは出来ない。衛星のデータをいじり回せば原理的には可能なのだろうが、よほど周到にやらないと一発でその不自然さに気づく。さらに、例え不自然さを全く感じない改竄クラッキングが可能だったとしても、それによって現実の天気と異なる状況﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅になってしまっては修正の意味がない。天気は改竄クラッキングのしようがないのだ。
 
 改めて、みのりの作った〝ナメクジ画像〟と、改竄クラッキングが疑われるGPS衛星追跡情報とを比べてみる。ほとんどは一致しているが——なるほど。地表降下部隊アタッカーズが向かった筈の12浮遊基地フロート・ベースのあるべき地点には、何も無さそうだ。もっとも、GPS衛星追跡情報は、数メートル単位のピンポイントの位置情報だが、ナメクジ画像は数十キロメートル単位のボヤッとした面だし、ノイズも多いので、どこまで正しいのかは何とも言えない。何しろ、気象衛星は、空抜0メートル準静止軌道——地表から10万キロメートル上空を地球時間の4.5日程度で一周——で回っている。地球の静止軌道は3万6千キロメートルだから、3倍くらいの遠さだ。解像度は望むべくもない。ちなみに、金星はほとんど自転していないので、本当の意味での〝静止衛星〟は存在出来ない。正に、無い無い尽くしの感があるが——、それでも、今はこれを信じるしかあるまい。

 
         *  *  *
 
 降下開始から約1時間。硫酸雲の雲底に到達する。肉眼で金星の地表を拝めるのは、状況が状況だとは言え、やはり少々興奮するものだった。風防ディスプレイWS-HUDを透過ガラス同様の可視モードにしても罰は当たらないだろう。
 黄味がかったもやの向こうに、少しずつ黒い大地が現れてくる。実際に黒いのかどうかは、可視モードでは良く分からない。上空から降り注ぐ光は硫酸雲のフィルタにより大きく減衰し、ナトリウム灯で照らされたトンネル内のような光景が広がっている。金星軌道における太陽定数は地球の倍程度。大気外で比較するならそれだけの光量差があるが、分厚い雲下では逆に、地球晴天時の半分以下になってしまう。
 本当の色﹅﹅﹅﹅を再現すべく、可視モードを止め、固定式高度可視・赤外撮像素子FEVIRI : Fixing Enhanced Visible and Infrared Imagerを使ってRGB合成してやればそれなりの色と明るさにはなる。ただ、どのみち肉眼で見た映像とは違ったイメージになるだろう。それなら、可視モードで見た方が幻想的——いや、地獄の一丁目的な雰囲気が出ていて好ましい。——おぞましいかな?
 雲底に達したといっても、空抜マイナス15キロメートル。さらに10キロほど降下しないと、完全にはもやからは抜け出せない。外気温は150℃程度の〝低温〟で、気圧も3気圧程度だから、機体もまだまだ問題なく降下できる。陸地——どこもかしこも陸地だが——も光学系のセンサーで捉えられるようになり、外気が20気圧を越えるころまでは手を抜くことができる高度だ。もっとも、その間に『12浮遊基地フロート・ベースとランデブーする』という大切なミッションがあるのだが、そこまでのエスコートはみのりちゃんに任せておこう。
 で、その肝心のみのりは、ずっとレーダー画像やその他情報満載のディスプレイとずっとにらめっこしている。やれやれ……。
 
 「みのりちゃん。で、俺はどっちの方向に飛べばいいんだ?」
 ナメクジ画像のディスプレイを見ればおよその見当は付くが、わざと聞いてみる。
 「はい。えーっと……このまま西へ。ほぼ真下に晶子Akikoクレーター、9時の方向にヨルカイ・エストサン山Yolkai-Estsan Monsサパス山Sapas Monsが重なって見える筈です」
 「ほお。そのヨルカイなんとか山というのは、てっぺんが赤いヤツか、青いヤツか?」
 「えっ? 色……ですか?」
 みのりが顔を上げて正面左を見てきょときょとし、目をぱちくりさせた。中々いいリアクションだ。
 「——冗談だよ。レーダーばかり見ている監視兵に言う古典的ジョークだ」
 正式には、艦隊の位置をレーダーばかりで確認し、目視をしていないヤツに対して、
 『その艦は赤いファンネルか? 青いファンネルか?』
 ——と聞くのが正しい。ジョークに正しいも何もあったもんじゃないが。
 「あ。すみません」
 みのりは気まずそうに、ペコリと頭を下げる。気の張り過ぎは禁物だ。気概は分かるが、長期戦となった場合、途中でポッキリ折れる。なにせ3人しかいないからな。御影恭子は素性も含めて分かったもんじゃないから、戦力に入れていいものかどうか分からないが、途中で操縦を替わってもらう必要はあるだろう。おそらく彼女も、交代要員が欲しくて『パイロットを探して』いたのだと思う。
 で、その肝心の御影恭子は、〈レッド・ランタン〉から離陸直後は、無線をチェックしたり、後方レーダーを見たりして追っ手の有無を確認していたが、10分もすると、『ここお願い』と、貨物室カーゴルームへ。そう言えば、最初見たのも〈ブーメラン〉の貨物室カーゴルームだったな。あいつは貨物室カーゴルームで一人っきりになるのがそんなに好きなのか。やれやれ……。
 
 乱気流タービランス予測で顕著現象Extreme Eventが無いことを確認した後、俺は操縦をオートパイロットに切り替え、操縦室をみのりに任せて貨物室カーゴルームに行く事にした。もやが完全に晴れる高度に達するまで約30分。特に緊急を要する操作も、見ておくべき光景もない。それよりも、みのりには内緒で——と言うか、みのりは絶対に教えてくれないであろう〝遺跡〟について、御影恭子に聞いておく必要があると判断した。そもそもは、そいつが、地表降下部隊アタッカーズ失踪の直接的な原因だと考えられるからだ。

 
 「今、どのあたり?」
 降りて来た俺を察知して、先に話しかけて来たのは御影恭子の方だった。『操縦は誰が?』とか『何しに来たの?』とか聞かないところが彼女らしい。
 「空抜……いや、高度35キロメートル程だ。30分もすれば完全に雲海から出られる」
 「あら、そう」
 実に素っ気ない。彼女は、貨物室カーゴルーム壁面にある担架のような簡易椅子を引き出して座り、垂直離陸機VTOLから乗り込む際に持ち込んだと思われるバックパックから、スレート端末を取り出して何やら見ている。マイペースなヤツだな。
 「少し聞きたいことがある。〝遺跡〟のことだ」
 御影恭子はスレートから目線を離し、上目遣いでこちらを見る。良いアングル——いや、そんな話をしたいのじゃないな。時間は限られている。
 「〝遺跡〟のことなら、伊川軍曹の方が専門だと思うけど?」
 「彼女は話してはくれない。軍規でな」
 「あら、そう——」
 やはり素っ気ない。それにしても、コイツは何故みのりのことを知っているのだ。
 「——まあ、軍規なら仕方ないわね。パイロットになってもらったことだし、教えてあげる」
 「……それはありがたいな」
 選択の余地はほとんど無いスカウトだったけどな。
 「遺跡とは一体なんだ。RERCの幹部の話だと、お前がその石垣﹅﹅を狙っていると聞いたが……」
 「狙っている? アタシが? まさか。狙っているのはRERCでしょ。それと、貴方達もね」
 「俺はそんなモノは知らん」
 「ははっ。でしょうね。だから、置いて行かれた」
 「何っ!」
 いや、ケンカ腰になっている場合ではなかった。遺跡に関しての情報を引き出せる相手は、今の時点では彼女しかいない。
 「——で、何なんだ。遺跡と言うのは。硫酸なんとか細菌の排泄物とか何とか聞いているが……」
 「良く知っているじゃない。硫酸還元磁性細菌が作り出した磁鉄鉱マグネタイトナノ粒子の巨大な塊。でも、それは半分正解で、半分不正解。遺跡の原料﹅﹅はそれだけじゃないわ。マグネタイトは単なるコーティング材。薬にまぶされた糖衣とういみたいなもの……」
 「言っていることが分からんな」
 掛け値無しに分からん。さっぱりだ。
 「遺跡にあるのはね……。大量のモノポールよ」
 「モノポール! モノポール——って何だ?」
 御影恭子はわざとらしく肩を落として溜息を付いた。いちいちしゃくにさわるヤツだ。
 「磁気単極子。磁石って、普通はN極とS極の2つがあるでしょ。あれが片っぽしかない素粒子。アメーバ並に重いらしいけど……。まあ、アタシも良くは知らないんだけどね」
 何だ、大見栄を切ったくせに知らねーのかよ。けんか売っているのかコイツは。

 「——その分野はDr.魚崎の専門。RERCが狙っているのもモノポールの方……。アタシはそれを取り囲んで保持している磁性体の配列構造と、磁性体を作り出した硫酸還元磁性細菌のncノンコーディングRNA遺伝子の配列構造を知りたいだけ」
 「そのモノポールを手に入れると、何かご利益があるのか?」
 「そうねぇ……。この世のエネルギー問題が全て解決するわね。多分」
 「エネルギー問題が解決?」
 「そう。無尽蔵のエネルギーが手に入る。ルバコフРыбако́в効果でね」
 うーむ。やたらとルバコフРыбако́вの発音が良かった気がするが気のせいか?
 「それは熱核反応の一種か?」
 「陽子崩壊反応だから少し違うみたい。魚崎の話だと、陽子が陽電子とπ中間子パイオンになり、陽電子は電子と対消滅。π中間子パイオンもすぐさま光子になるらしいから、水素原子さえあれば100%の効率で質量をエネルギーに変換出来ると言ってたわ」
 「それは——つまり……、反物質エンジンが作れるってことか?」
 おそらくチグハグなことを言っていると思うが、100%のエネルギー変換効率を持つエンジンは反物質エンジンしか知らない。核融合ペレット型外宇宙航行実験船『ネオ・ダイダロス』のシミュレーション搭乗時に、将来のロードマップとして反物質エンジンを嬉々として語っていた太陽系外宇宙技術研究所NOL: National Outer-space Laboratoryの研究者を思い出す。夢を語るのは構わないが、そんな数十年先の話をされても、俺はそのころは引退してるぜ——とか考えていた。
 「反物質エンジンは文字通り〝反物質〟が必要でしょう? それは自然界にはほとんど存在してない。今は核融合のエネルギーを利用して、反物質を精製、貯蔵しているだけで、エネルギー源はあくまでも核融合炉。エネルギー変換効率は悪いわ」
 「モノポールが反物質に変わるのか?」
 「いいえ。モノポールは触媒だから増えも減りもしない。モノポールがあれば、陽子を連続的に崩壊させることが出来るから、そのへんに転がっている石でも100%エネルギーに変えることができる。まさに究極のエネルギー発生機よ」
 「究極のエネルギーか。百年以上前から言われ続けているセリフだな……」
 どこまで本当かは分からないし、モノポールってヤツの有る無しについては俺は興味が無い。食えそうに無いしな。そういうのは科学者に任せておけば良いと思っている。問題なのは、それが存在すると信じている人がいて、実際に俺たちがその騒動に巻き込まれているという事実だ。要は、資源争いなのだから、貴金属やレアメタルを求めての争奪戦と構造は一緒だ。
 ——いや、相手がエネルギー資源の争奪戦となると、ことさらタチが悪い。そいつは太古の昔から現代に至るまで、主要な戦争の火種だからだ。〝究極の〟なんて枕詞まくらことばがつくほどなんだから熾烈な争いがおこるのは必至だろう。
 RERC——共和国エネルギー管理委員会——がその〝究極のエネルギー〟を狙うのは良く分かる。おそらく共和国政府自身がその遺跡を独占することを狙っているのだ。だが、その先が分からない。
 「うーむ。どうもよく分からんな。そんなのはRERCだけで秘密裏に掘り出せばいいじゃないか。何故、俺たちを巻き込む必要があるんだ?」
 「伊川軍曹から聞いてないの?」
 「むっ? 機密事項だとしか聞かされていない」
 「あら、そう。貴方……よほど信用されていないみたいね——」
 「悪かったな!」
 御影恭子は呆れた様に笑った。くそっ。むかつく。
 「遺跡を発見したのが、あなた達の地表降下部隊アタッカーズだったからよ。前回のね」
 「何っ⁈」
 「そして、その地表降下部隊アタッカーズと最後の交信をしたのが、伊川軍曹」
 「最後の交信⁈ 遭難したのか? そんな引き継ぎは受けてないぞ」
 「遭難——と言えば、遭難ね。もっとも、遭難したのは自立歩行探査機ドローンだけど」
 「自立歩行探査機ドローンか……」
 
 地表降下部隊アタッカーズが降下する前には、あらかじめ現地の状況を調査するため、降下予定地点に緊急避難用物資と共に複数体の自立歩行探査機ドローンが投入される。彼らは人間程には融通が利かない——しばしば人工知能AIを切って遠隔操作が必要になる——が、管制官の指示に従って本番さながらに動くように出来ている。居残り組とはいえ、今回の作戦にみのりが加わっている以上、そのリハーサルにみのりが参加していてもおかしくは無い。
 ——そう言えば、そんなことを言っていたような気もする。どんな場面だったかは覚えていないが。
 「そこであなた達は〝遺跡〟を発見した。本来なら国連と共和国政府に届け出る必要があるけど、あなた達はそれをしなかった。理由は簡単。分かるわよね?」
 「遺跡を——、遺跡を独占すれば、究極のエネルギーを独占出来る……からか?」
 「まあ、そういうことね」
 御影恭子はまた笑った。ただし、今度はかなり冷たい笑いだった。
 
 地表降下部隊アタッカーズ降下前の作戦会議ブリーフィングでは、どの国のどの隊が降下する場合であったとしても、公開されるのが原則だ。逆に言えば、あまり興味の湧かない降下目的であったとしても、緯度別に分割された管理地域別の代表者最低2名は作戦会議ブリーフィングに参加することが義務づけられている。これが結構面倒くさい。
 ——いや、行って帰ってくるだけなら物見遊山で意外と楽しいと聞く。外の景色は何処に行っても同じだが、都市部の飲屋街を歩くのが楽しいらしい。
 問題は、帰って来た後だ。報告書を山のように書かねばならない。ヴィーナス・アタック自身に何事も無ければそれだけで済むのだが、事故があったりすると、その原因についての説明が求められるし、それを作戦会議ブリーフィングの段階で事前に指摘できなかったのかなど、色々と根掘り葉掘り聞かれる。その時には、普段は誰も読みやしない議事録も引っ張り出されてくるから、参加しただけで何にも発言してなかったりすると『お前は何をしに行ったのだ!』と大目玉を食らう。俺は、今回のアタックのための事前資料としてこれらを読まされただけだが、資料をめくるだけで『面倒くさいな』と嫌気がさした。
 だが、公開されているのは、あくまでも地表降下部隊アタッカーズ降下前の作戦会議ブリーフィングであって、予定着陸点の予備降下プレ・アタックについては、各隊に任されている。そもそも、予備降下プレ・アタックの情報を元にして作戦会議ブリーフィングを行うのであるから、予備降下プレ・アタック時には、他機関へ報告するような情報が何も無いのが普通だ。それでこその予備——下調べなのである。
 今回は、その予備降下プレ・アタックの段階で大きな発見があり、それを——にわかには信じられないが——我が隊が機密事項として隠していることになる。では、何故、機密事項である筈の〝遺跡〟の情報が御影恭子やRERCの連中に漏れているのかという疑問は残るが、話のスジとしてはそういうことになる。みのりが何か隠しているのは間違いないのだが、だからと言ってこの話を鵜呑みにできるほど、御影恭子を信用していいとも思えない。そもそも、こいつは——、そう言えば……。
 
 「もうひとつ。聞きたいことがある——」
 俺はソーニャの話を思い出していた。
 「——南緯20度帯20 Degree Southのロシア基地で風邪が流行っているそうだ。硫酸なんとか細菌によってな……」
 「そんな筈はないわ。硫酸還元磁性細菌は……そうね。コンクリートなら腐食させるけど、人間には直接的な害はない菌よ。大量に発生すれば硫化水素が害になるけど、人の体内で増殖する菌じゃない」
 「RERCはお前が犯人だと疑っている。それでお前が姿をくらましたと……」
 「アタシが?」
 「そうだ」
 「ふーん」
 御影恭子は少しばかり考えごとをしている素振りだったが、ひとり言のように、
 「——偽遺伝子Pseudogeneを発現させたのかもね」
 とつぶやいた。
 「何だ? その、〝シュードゲネ〟っていうのは?」
 「ボストーク基地の細菌はかなりジャンク化してたけど、金星の菌の中には特定の遺伝子の発現を促進させかねないncノンコーディングRNAを含んだものもあってね」
 「んん?」
 「ともかく。その仕事をしたのはアタシじゃない。信じるか信じないかはあなたの勝手よ」
 「うーむ……」
 まあ、確かにそうだ。仮にここで彼女が嘘をついていたとしても——、つまり、風邪の原因が彼女だったとしても、それで俺の行動が変わるわけではない。追求しても無意味というものか。
 「しかし、アレだな。その何とか還元菌と言うヤツは、モノポールは集めるし、風邪は起こすしと、色々と多芸な菌だな」
 「いいえ。それは少し違う」
 何の気無しに取り繕った俺の言葉を、御影恭子はにべもなく否定した。
 「金星由来の硫酸還元磁性細菌は、モノポールを包み込んで固定させる揺りかごを作り出すように設計されている﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅だけ。モノポールを作り出すことは出来ない」
 「さっきは、大量のモノポールがあるって言ってたじゃないか」
 「そう。モノポールは人為的に持ち込まれたものよ」
 『人為的? それは一体どういう意味だ』——と、問うことは出来なかった。みのりからの連絡が割って入ったからだ。
 「上沢少尉。浮遊基地フロート・ベースからと思われる信号をキャッチしました」

 
         *  *  *
 
 浮遊基地フロート・ベースは意外にもあっさりと見つかった。まだ肉眼では捉えてはいないが、こちらから捜すまでもなく、向こうから呼びかけてくれていた。高度30キロメートル。外気は10気圧、230℃。硫酸のもやも消散し、ここから下がいわゆる金星の〝釜の中〟と言われている場所だ。もちろん、地上で恒常的に生きている生物はいない。金星の環境に順応した硫酸還元磁性細菌ですら、雲下では短期間しか生存できない。ならば、どうしてそいつの老廃物だか生成物だかのモノポール入り磁鉄鉱の塊が地上にあるのか?
 
 『5億年前までは、地上でもこれら細菌が生息出来る環境だった』
 
 ——と言うのが、他でもない御影恭子の論文の一節に仮説として書いてある。以前、みのりが見つけ出してくれた論文だ。もちろん、本人に聞けばその詳細を微に入り細を穿つように教えてくれるに違いない。あるいは、ハナから教えてくれないかのどちらかだろう。どちらにせよ、俺は詳細など聞きたくはない。知りたいのは、遭難した地表降下部隊アタッカーズの居場所だけだ。それがこうもあっさりと見つかったと言うのは、意に反していささか拍子抜けだが、地表に降り立つ必要がないならそれに越したことはない。——いや、正直に言えば、少し残念ではある。
 もちろん、御影恭子との約束があるから〝遺跡〟には行かなければならないが、人命救助の方が先だ。緊急に〈レッド・ランタン〉に戻らねばならないような事態が発生していたならばそちらを優先するのは当然のことである。
 
 「よう。上沢か。何しに来た?」
 俺は面食らっていた。浮遊基地フロート・ベースからの信号と聞いて、てっきり救難信号SOSだろうと考えていた。だが、実際に俺の耳に飛び込んで来たのは、姫島の陽気な声だった。どうやら千船と杭瀬もいるらしい。要するに『装甲兵アーマードソルジャー3馬鹿トリオ隊』御一行様である。声の陽気さからして、遭難ともまるで無縁のようだ。怪我人がいるようにも思えない。
 「何しにって——無事なのか?」
 無事なのは分かるが、一応聞いてみる。
 「無事? 妙なことを聞く奴だな。無事に決まってる。だから浮遊基地ここに居るんだ」
 
 浮遊基地フロート・ベースはその名の通り、〈レッド・ランタン〉のような空中都市と過酷な金星地表とを結ぶベースキャンプの役目を果たしている。軍事的な拠点という意味でも、登山を開始する——いや、この場合は下山を開始すると言うべきかもしれないが、ともかく、そういう意味においても文字通りベースである。となれば、誰かが地表降下部隊アタッカーズとの中継役としてここに残らなければならない。
 ——と言うのは、実は昔の話で、人工知能AIを搭載した浮遊基地フロート・ベースなら、その役目は浮遊基地フロート・ベース自身に任せておける筈だった。事実、先立って行われた作戦会議ブリーフィングでもそういう説明になっている。第一、残ったところで、地表降下部隊アタッカーズとは違い、浮遊基地フロート・ベースは風に流されるから、再びランデブーするのは最短で一週間後だ。つまり、降下時に立ち寄った浮遊基地フロート・ベースに再び戻るような作戦の場合、地表降下部隊アタッカーズの撤収時刻が著しく制限されるわけで、近頃は〝とりあえず来た電車に乗る〟ように、順繰りに巡って来た浮遊基地フロート・ベースまで戻るのが通例である。そういうわけで、降下時に立ち寄った浮遊基地フロート・ベースには——浮遊基地フロート・ベース自身に必要な備蓄用の資材等は別として——何も残さずに全員が降下する。下手に人員が残ると、そこから引き上げるための追加作戦が必要になって二度手間だ。予算的にも文句を言われるので、特別な事情がない限りそんなことはしない——筈なのだが。
 「はっはぁ。理由か? それはここまで来てみれば分かる」
 不思議に思い、聞き返した俺に対して、姫島は一言そう言って無線を切った。確かに、そっちに行って聞いた方が話が早そうだ。

 
         *  *  *
 
 〈マンタ・レイ〉の高度をじわじわと下げながら、ノロノロとした全速力で浮遊基地フロート・ベースに向かう。外気圧が高くなった分、ヘリウムガスの体積は小さくなるから、空気房バロネットへのバルブを開けておけば、ある程度高度が下がると後は自動で降りて行く。逆に外気を取り入れなければ、気圧差が増し、軽さと強さを兼ね備えた炭素繊維強化樹脂CFRP: Carbon Fiber Reinforced Plasticsの外骨格と言えども、あっという間に崩壊すること必至だ。皮膜となっている炭素微細管CNT: Carbon NanoTube繊維は、引っ張り強度はピカイチだが、圧縮する向きの力には何の支えにもならない。ガス圧の調整や、外気の空気房バロネットへの取り込みはコンピュータ制御だから特に気にする必要は無い。時折聞こえるバルブ開閉音に耳を澄ませるだけでいい。実際には、それさえもモニターに現れているから、耳で聞く必要は無いのだが、異常を検知するには通常の状態を認識している必要があり、これは耳からの情報が意外と役に立つ。『何かおかしい』と第六感が騒ぎだす理由を突き詰めれば、それは超常現象的な何かではなく、かすかな音や臭い、振動がいつもと違うという、元々人間に備わっている五感に対する違和感に帰着することが案外と多いものだ。
 「あ! あそこっ!」
 通信を終えてから30分。みのりの判断は正しかった。GPS衛星追跡情報には何もない空域に、天目茶碗と称された浮遊基地フロート・ベースが見えてくる。例の〝ナメクジ画像〟と位置的にピッタリである。もっとも、画像そのものが数十キロの幅を持っているので、ピッタリというのは語弊があるかも知れない。だが、Sバンドレーダーと双眼鏡と、地形解析データのブリンキング処理まで行って、それを最初に見つけたのはみのりだった。
 ——まあ、実際には俺の方が先に目視で見つけていたのだが、それはそれ。声に出して指摘したのはみのりちゃんが最初だ。
 
 距離にしておよそ300キロメートル。戦闘機なら近距離だが、〈マンタ・レイ〉なら小一時間はかかる距離となる。芥子粒けしつぶほどに見える浮遊基地フロート・ベースは蜃気楼のように平べったく、ユラユラと陽炎かげろうのように浮かんでいた。
 高度は30キロメートル。仮にここが地球上なら、空は青黒く、雲海は遥か下に横たわっている高度となる。ジェットエンジンで飛行するには限界の高度であり、大地が丸いのがはっきり分かる——そういう高度だ。だが、金星の場合、厚い雲が上空をふさいでおり、地球よりわずかに小さい筈の大地が全く丸く見えない。大気差現象で周辺の陸地が浮き上がって見えるからだ。原理的には、視線の先をずぅーっと追って行くと、光が一周して自分の後頭部が見えることがあるそうだ。
 もちろん、使い古されたジョークである……。
 
 浮遊基地フロート・ベースに近づくにつれ、その巨大さに目がいく。実際には〈レッド・ランタン〉の方が巨大な構造物なのだが、そちらは、1平方キロメートルほどある六角形のモジュールが多数組合わさって作られた複合体だ。モジュールだけでなく、多数のジョイント、ケーブル、エレベータ、天頂部分の発着場などが複雑に絡み合っていて、単一の構造物というイメージではない。巨大な都市ではあるが、ひとつの巨大な構造物と認識できない。
 これとは対象的に、浮遊基地フロート・ベース一瞥いちべつしただけでは表面の凹凸に気づかない。まさに半円球の気球そのものである。よく見ると、〝お椀の淵〟に相当する上部側面には、直径30メートル級の巨大なパラボラアンテナが四方八方に配置されており、蒸着ロジウムが鈍い光を放っているのだが、それらは薔薇ばらに埋もれたかすみ草のように目立たない存在である。
 浮遊基地フロート・ベースの頭部を占める発着場へのアプローチは簡単だ。滑走路の方角というものは無い。円形のどこからでも接近アプローチできる。一時的な突風ガストがあれば、風に煽られるのは〈マンタ・レイ〉の方だが、浮遊基地フロート・ベースの周囲には何も無く、一時的に下方に落ちても全く問題がないため、空母への戦闘機の着艦とかに比べて遥かに楽だ。10キロメートルもある発着場なら、着艦フックarresting hookすら必要ない。
 ただ、地上の構造物とは違い、浮遊基地フロート・ベースの巨大さに比べて慣性質量はさほど大きく無く——複合型制振装置は存在しているものの——風による揺れは浮遊基地フロート・ベース内でも結構感じとることができる。また、外気圧も10気圧ほどになっているから、〈マンタ・レイ〉の巨体は、より飛行船らしい動きをするようになっている。このため、制動のためのワイヤーは不要だが、一点に静止させておくための〝もやいづな〟は必要だ。
 係留ワイヤーは着地点に合わせて手動で行う必要がある。〈レッド・ランタン〉のある空抜0メートル高度なら、少々暑いのを我慢すれば酸素ボンベひとつで作業ができるが、ここではそうはいかない。遠隔マニュピレータでワイヤーをたぐり寄せて固定。耐圧ハッチの連結も一部は手動だ。特に図体のでかい〈マンタ・レイ〉ではこれが一苦労で、サイドスラスター無しで10万トンタンカーを港に横付けする技術が求められる。湊川はこの手の操作に滅法強いのだが、俺は苦手だ。第一——なんと言っても地味な作業だしな。
 〈マンタ・レイ〉の壮大な車庫入れを前にして、俺は少しばかり憂鬱になっていたのだが、発着場中央からの発光信号を見つけて安心した。装甲服アーマードスーツを装着した姫島が手を振っている。よく考えれば、湊川が操縦した〈マンタ・レイ〉の正機でも、彼らが先に降りて誘導する手筈だったし、実際、そうしたのだろう。よくよくみれば、数百メートル離れた位置に二体の装甲兵アーマードソルジャーの姿も見える。千船と杭瀬らしいが、どっちがどっちかはよく分からない。姫島の装甲服アーマードスーツは飾り羽が頭部に付いているから、望遠でみれば簡単に識別できる。要は、彼らの間に降り立てば、昇降ハッチの連結から、翼面フック固定の面倒まで行ってくれるということだろう。致せり尽くせりでとても助かる。
 風は無風Calmから精々秒速1メートル程度の東風。地表を基準にするなら秒速30メートルから40メートル近い風が吹いている筈だが、一緒に回っている身であれば、そんなものは感じない。浮遊基地フロート・ベースが巨大で垂直方向にも数キロメートル程度の高さがあるため、その頭頂部はほとんどが東風だ。要するに、金星では下層になるほど東風が弱くなっていくので、相対的に頭頂部が東風、最下層は西風が吹く。お茶碗のように、下にいくほど幅が狭くなっているから、風の釣り合う高度面はかなり上の方であり、発着場近辺では、いつもこんな感じで弱い東風が吹いている。〈レッド・ランタン〉と同様、そういう設計になっていると言ってしまえばそれまでだ。モーターの出力を絞ってバランスを取り、ゆっくりとした東風を身に受けて近づけば良い。実に単純だ。
 姫島らの的確な誘導と、俺の腕——ここ重要——もあり、着地は難なく終了した。百点満点だ。思ったほどは疲れなかったが、ここから地表までには様々な難関がある。それよりも先に、まずは、姫島から地表降下部隊アタッカーズの行方を聞かねばならない。少なくとも先発した〈マンタ・レイ〉の正機はここにはいないようである……。
 停止手順に従い、可逆性液体浮揚装置と気密のチェック。相転移吸熱体PTHAは、この程度の外気温では出番がないから点検をちょっとサボったのは秘密だ。最後のモーター系統の油圧をチェックをしながら、監視モニターに目をやる。姫島は『来てみれば分かる』と言ったが、浮遊基地フロート・ベースの外観に特に変わった点はない。みのりはテキパキと通信機器関連のシャットダウンをしているが、御影恭子はここには興味が無いのか、貨物室カーゴルームから操縦席には顔を出さなかった。名目上だが仮にも副操縦士コーパイだろ——という愚痴は何の効果もない。あいつは一体何者なんだろうか? とても普通の科学者とは思えないが……?

 
 〈マンタ・レイ〉から連結ハッチを通って浮遊基地フロート・ベースへ降りる。みのりちゃんも一緒だ。
 「がらんとしてますねぇ」
 「ま、繁盛しているとは言い難いな……」
 直下のだだっ広い格納庫では、かすかな機械音がするものの基本的に無音で、殺風景だ。何しろ、野球場が4つほど入りそうな空間に、誰一人としていないというのは、あきれるほど淋しい情景だった。施設としては、最大で3千人が一週間寝泊まりできる設備と備蓄がある。浮遊基地フロート・ベースの建造時と国際金星観測年IVY : International Venus-physical Yearにはそういう状態だったと聞いているが、今は見る影もない。共に半世紀も前の話だ。
 姫島ら装甲兵アーマードソルジャー部隊は既に装備を解き、階下の制御室に入っている。〈マンタ・レイ〉の点検は基本的にコンピュータ任せだ。外は生身の人間の活動できる場所ではない。洗車機のようなスキャナが立ち上がり、機体外部のチェックをするのに最低で20分はかかる。機体を完全に格納出来るドックも備わってはいるが、エスカレーターを10台並べたような巨大なベルトがカタツムリのような速度で動いて格納庫が開き、機体を入れるまでに1時間。ドック内を人間が歩けるまでの温度と気圧に引き下げるのに更に1時間もかかるとあっては、とても付き合ってはいられない。降下に致命的な損傷が見つかれば別だが、普段は開かずの扉となっている。
 ——いや、降下できないほどの致命的な損傷があった場合は、無理をせず空中都市まで引き返すのが鉄則だ。行くのも引くもどうにもならず、進退窮まった状態の時しかこのドックは使われないというのが本当のところだろう。だから、メインテナンスをするためのドックなのに、ドック自身の定期メインテナンスの方が多いと、もっぱらの噂である。宇宙空間のドックの方が無駄な気圧調整が不必要な分、まだマシだ。
 搭乗員のメンテナンスも同時に行いたいところだが、降下地点の距離と相対速度からして、それほどのんびりできそうもない。それでも全視界展望ラウンジまで降りて地表を眺めながら、一杯のコーヒーくらいは飲めそうだ。——が、その前に、まず制御室だ。
 
 「上沢。何しに来た?」
 姫島は、無線で聞いたのと同様の陽気な声で、再び繰り返した。直径10キロメートル、総重量40億トン近くにもなる浮遊基地フロート・ベースの制御室は、その図体に似合わず、せいぜいテニスコート半分程度の広さしか無い。格納庫の下、中央エレベータシャフトの上部に位置しているから、外を見る窓すら存在しない。まあ、航空機のコックピットが、その大きさに応じて決められてはいないのと同様で、要は管制に必要な人数が問題であり、図体の大きさは問題ではない。そもそも無人で遠隔でも操作できるように設計された浮遊基地フロート・ベースなら、専用のスペースさえ必要ないくらいだ。ここ——そして、直下にある備蓄品倉庫と待機施設——は、どちらかというと、緊急避難所的な設備であり、上空への緊急脱出用のシャトルも直結されている。
 
 「……そうだな。何から話せばいいものか。とりあえず、コーヒーを飲みにきた」
 「はっはっは。コーヒーCOなら隣に何ガロンもあるぞ。合成品レプリカだがな」
 「賞味期限が心配だな」
 「それは大丈夫。完全無菌の30年保証。俺もさっき飲んだ。もっとも、味のほうは保証しないぞ」
 「そいつは安心だ……」
 姫島は俺とのバカ話に応じつつ、ディスプレイに映る〈マンタ・レイ〉の点検項目に目を通している。杭瀬は向かって左の主制御卓メイン・コンソールに座り、パッシブレーダーのモニターをしているように見える。千船は俺たちの後にここにやってきて、何を考えているのか知らないが、そのまま入り口付近の壁に肩を預けて立っている。
 ちなみに、制御室の入り口から中央の通路を境にして、左側が主操作卓、右側が副操作卓で、完全に二重化されたシステムとなっている。正面の一段高い場所が、いわゆる〝艦長席〟とでも言うべき場所になっていて、姫島はそこの段差にある手すりに手を付き、その手前まで歩んだ俺たちと対峙している格好。みのりちゃんは俺のすぐ右後ろだ。杭瀬は左横。千船は後ろに居る。姫島はいつも通りの笑顔だが、杭瀬と千船は表情がややかたい。
 
 「コーヒーの前に聞きたい。時間もないことだし、単刀直入に言わせてもらう」
 俺がそう言うと、
 「ん?」
 姫島が微笑みをたたえたまま、左眉を上げる。
 「地表降下部隊アタッカーズはどこに行った? 小隊長殿おやっさんはどこだ?」
 「降下作戦遂行中さ。そろそろ地表に降り立つ頃合いだと思うが? ——杭瀬。状況は?」
 「残り1万2千メートル。降下進路を選択中です」
 「——ほらな」
 杭瀬が見守るディスプレイには、確かに、降下中の〈マンタ・レイ〉の識別信号の表記が光っていた。だが、何かがおかしい。胸騒ぎがする。みのりも無言のままだ。
 「降下地点は南半球だった筈だが?」
 「表向きはな……」
 姫島は目を細める。
 「ふん。——で、実際は何の目的の降下なんだ? 目的地は?」
 「目的地、目的地か。それは——上沢。お前のほうが知っているんじゃないのか?」
 ……妙な具合になってきた。何故、こんなところで禅問答みたいな会話を姫島としなければならんのだ。俺は捜索に来たんだ。目的地の追求は二の次、三の次でいい。地表降下部隊アタッカーズが何やら極秘の任務で降下中というならば、それはそれでもいい。確かめる必要もない。
 ——だか、気になるものは気になる。こればっかりは止めようが無い。

 
 「〝遺跡〟——なのか?」
 「そうか、それは残念だ」
 
 姫島の腕の動きは素早かった。背中にあったと思われる銃の銃口は、しっかりと俺の眉間に赤い光点を結んでいる。ほぼ同時に左と後ろから、拳銃のコッキング音が響く。明らかに形勢は不利だった。相手は、装甲を脱いだとはいえ戦闘のプロだ。飛行機乗りパイロットは飛行機から降りればただの人だからな。いやいや、そういう話でもないだろう。そもそも、何なんだよ、このシチュエーションは!
 「どういうことか説明してくれないかな?」
 俺は、ゆっくりと両手を上げながら、なるべく冷静に姫島に聞いた。後ろから千船がゆっくりと歩いてくる足音が響く。背後にいるみのりが例の素早い身のこなしを見せるかと思ったが、それは無かった。むしろ、無くて安心した。この状況で事を起こせば必ず死人が出る。多分、最初に死ぬのは俺だ。それだけは決定している。味方に——味方で良いんだよな? ——殺されて死ぬのだけは勘弁願いたい。
 「いやな。俺も詳しくは知らんのだが——」
 普通ならここは突っ込みを入れるべきセリフだが、この状況で心にそんな余裕はない。
 「——うちにスパイがいるらしくてな」
 「スパイ?」
 「今回の任務は少々イレギュラーな秘匿ひとく任務だ。だが、我々の行動が、金星ここの連邦共和国政府のみならず、国連監視検証査察委員会UNMOVIC: United Nations Monitoring, Verification and Inspection Commissionにも筒抜けのようでな」
 「アンモビック?」
 金属音が気になり、右後ろを少し振り向くと、みのりが後ろ手に手錠をはめられていた。手回しがいい。いや、良すぎる。要するに、俺らは『ここまで来てみれば分かる』という姫島の誘いに乗り、鴨がネギしょった状態でやってきてしまったということらしい。
 「共和国政府はうすうす気づいていたようだが、国連機関に別ルートで通じるものがいるのは少々困る」
 「それで……、そのスパイが俺だと?」
 「いや、そうは思っていない。お前はスパイには向いていない。直情型の気のいいヤツだからな」
 姫島はあっさりと否定した。そして、再び笑った。否定の理由が気に入らないが、疑われ続けるよりはマシだろう。
 「すまんが、これは小隊長殿おやっさんの命令でな。ここに来て〝遺跡〟に近づこうとする奴がいれば、暫くは身柄を拘束こうそくしろとな……。それと、もうひとつ。お前が乗ってきた〈マンタ・レイ〉からは7500ハイジャック応答コードSquawkが発信されている。俺たちではなく、共和国政府の特殊強襲部隊SAT: Special Assault Teamに突入されたとしても文句は言えぬ立場だぞ」
 「……それは、——そうだな。この程度で済んでいることに、むしろ感謝すべきかな」
 
 みのりは千船に連れられて、右側のレーダー席に座らされた。千船はその直後、少し頭を下げてみのりに敬礼をする。危害を加える気は無いらしい。まあ、小隊長殿おやっさんの命令なら仕方が無い。俺でもこうするだろう。とはいえ、姫島のレーザーサイトの光点は、俺の眉間から微動だにしていない。そろそろ眉間から煙が出てきそうな頃合いだ。
 「ところで、女はどうした?」
 「女? ああ……」
 すっかり忘れていた。御影恭子はおそらく貨物室カーゴルームに入ったまま——いや、既にこうなることを予知していたのかもしれない。もしかすると——、
 「そいつがスパイの可能性が高いだろう」
 姫島は、俺の考えを見透かしたかのように応えた。だが、何のために?
 千船は、みのりを席に座らせたあと、俺の身体をチェックし始めたが——あ。ヤバいな。こっちもすっかり忘れていた。
 「ん? これは⁉」
 硬かった表情が幾分和らぎつつあった千船だったが、それが再び元に戻る。俺の左脇のポケットから、見慣れないコンベンショナルダブルアクションの拳銃が一丁。もちろん、軍部から支給された官製品ではない。
 
 「隊長!」
 今度は、左の主制御卓メイン・コンソールに座っていた杭瀬からだ。
 「〈マンタ・レイ〉の第2モーター上部に発信器があります。それともうひとつ。まだ遠地ですが、レーダーに新たな機影が入ってきました。識別信号ありません。こちらに向かってきます」
 姫島は、再び目を細めた。
 「お前ぇ……。ひょっとすると——」
 「それは違います!」
 そう叫んだのは、これまで無言を通したみのりちゃんだった。俺はそのまま後ろ手に手錠をかけられ、その場に座らされる。姫島のレーザーサイトはようやく俺の眉間からおさらばとなったが、この手錠——みのりの場合と違いちょっとキツく締め過ぎじゃないか。
 「私たちは、RERCに——連邦国政府の機関に狙われたんです」
 「ん? 詳しく聞こうじゃないか。杭瀬! 未確認機アンノーンの管制圏内への侵入時間は?」
 「およそ……20分です」
 「なら、10分程の猶予はあるな」
 ここのパッシブレーダーに捉えられて20分で来るとは、足の速い未確認機アンノーンだ。飛行船モドキではこうはいかない。
 「地表降下部隊アタッカーズは——我々の目から消えたんです。〈レッド・ランタン〉の管制室からは全く認識出来ない状態になったんです」
 みのりが強い口調で説明する。
 「全データがNo Signalになった直後に、共和国エネルギー管理委員会RERC: Republic Energy Regulatory Commissionの部隊が管制室にやってきて——」
 
 みのりは、〈レッド・ランタン〉で何が起こったかを的確に説明した。その説明で俺も始めて知ったのだが、みのりはソーニャの連れであった例の大男に尋問を受けた後、俺に『外で調べてきます』と報告してすぐさま図書館に出向いて、そこの端末を操作した——のではなく、一旦、共和国の汎用スパコンの裏口バックドア——裏口バックドアがあるのか——に入ってから、尋問を受けた大男のID——どうやって調べたんだ? ——で、消えた〈マンタ・レイ〉の情報を引き出そうとしたらしい。共和国側が、〈レッド・ランタン〉のメインフレームバックアップの在処を聞き出し、その不正侵入ハッキングに成功したという体を装ったのだ。さすがは情報軍のエースだけのことはある。
 だが、その目論みをぶち壊したヤツがいる。他人事のように言っているが、俺だ。俺のことだ。みのりはそうは言わなかったが、『図書館のメインフレームへのアクセスがバレて……』と言われたら、それは俺が、表玄関から堂々とアクセスしたからに他ならない——ってことは直ぐに分かる。素人考えの行動があだになっていたわけだ。つまりあの時、銃を突きつけられるべきだったのは俺だったことになる。
 俺は妙な事件に巻き込まれたと思っていたのだが、何のことはない。俺がみのりを危ない目に遭わせていたのだ。その対価が、自動販売機の紙コップのコーヒーとクリームパンだけだというのは酷過ぎる。この件が終わったら、いずれフランス料理のフルコースでも奢らねばこっちの気が済まない。
 ——まあ、そんなことはともかく。

 
 姫島は難しそうな顔をしてみのりの——いや、伊川軍曹の説明を聞いていたが、
 「分かった」
 とだけ返事をし、しばらく黙り込んだ後、こう付け加えた。
 「で、あの女——。御影恭子は何者なんだ?」
 「それは……」
 珍しくみのりの目が泳ぐ。みのりが彼女をどう思っているかは、俺も聞いてみたかったことだ。
 「現時点では、分子生物学の研究者という表向きの情報﹅﹅﹅﹅﹅﹅だけしか分かっていません。でも、スパイとも思えないんです。もしそうなら、何と言うか——もっとスムーズに立ち振る舞えると思うんです」
 「——というと?」
 「スパイ行為の目的が、共和国や国連の機関に〝遺跡〟の情報を伝えるものだとすれば、彼女の行動は派手過ぎます。彗星核の氷の採取は無人採集機でも可能だし、〝遺跡〟の調査にしても、正式に地表降下部隊アタッカーズのメンバーに加われた筈なんです——」
 
 確かにその通りだ。現に、魚崎なんとかという科学者は地表降下部隊アタッカーズと一緒に降りている。ヤツの専門は宇宙量子の物性がなんとかと言うわけの分からない分野だったが、御影恭子の研究は硫酸なんとか細菌という、昔、金星の地表に住み着いていた——と彼女が仮説を述べている生物学の分野だ。どちらかと言えば、魚崎某より御影恭子の方が、地表降下部隊アタッカーズに同行するには適役ではないのか?
 彼女は『パイロットを捜している』と言ったが、単に金星地表面に降下したいだけなら、今回の地表降下部隊アタッカーズと共に行くのが理にかなっている。危険も随分と少ない。
 みのりの話はさらに続く。
 「——恭子……いえ、御影さんの行動を見ていると、ワザと注意を引きつけているようにも思えます。スパイなら情報を盗み出すのが目的で、情報を公開するのが目的じゃありません。えーっと——仮に私がスパイなら、もっと目立たないように、意識にも上らないような行動を取りますけど……」
 
 「派手で悪かったわね」
 「ひっ!」
 御影恭子がそこにいた。後方の出入り口。みのりは後ろを向くことなく、そのまま固まっている。例によって姫島の動きは早かったが、御影恭子は無抵抗の意思を表すべく、既に両手を上げていた。
 「私の詮索をするのもいいけど、未確認機アンノーンはここには来ないみたいよ。直接、地表降下部隊アタッカーズを追撃する気じゃない?」
 「た、確かに——、未確認機アンノーンは高度を急速に下げています」
 杭瀬が報告をする。
 「内輪もめしている暇があったら、まずは急いで後を追った方がいいと思うけど?」
 御影恭子が畳み掛ける。
 「上沢!」
 いきなり姫島から俺に声がかかる。この状況でなんの用だよ。
 「——あの未確認機アンノーンは何だか分かるか?」
 「分からん!」
 率直な感想だ。ちらっと見ただけのレーダー画像で分かるほど、俺はスーパーマンではない。
 「——分からんが、移動速度が速すぎる。共和国の装甲兵員投降機APD: Armoured Personnel Dropperじゃないのか?」
 実物は見たことはないが、噂では聞いたことがある。地獄の底まで一直線。片道キップの1時間コースだ。いや、正確には片道では無い。見た目は尖った滑空翼だけが付いた降下専門のグライダーのたぐいであるが、復路用に窒素ガスで膨らむ膨張浮揚翼インフレータブルウイングが内蔵されている。復路の機動性は落ちるものの、これ単独で浮遊基地フロート・ベースまで往復できる優れものだ。ちなみに、ついつい〝兵員〟と言う癖が抜けていないが、正式には救急救命士などの文民も乗るから〝人員〟投降機である。
 「どっちの装甲兵員投降機APDだと思う?」
 「どっち?」
 「まあいい。今から出発して、奴らに追いつくことが出来ると思うか?」
 姫島は奴らの身柄も拘束するつもりらしい。今度はドンパチ無しに拘束できるとは思えないが、そうであっても捕まえろと言うのが小隊長殿おやっさんの命令なのだろうか?
 「〈マンタ・レイ〉では無理だ。巨大で軽過ぎる」
 「〈ブーメラン〉は?」
 「少しはマシだが、飛行船モドキに変わりは無い。空気房バロネットを最大にしてもあの図体だ。フルスロットルでも離される。追いつく方法があるとすれば——」
 「あるとすれば? 何だ?」
 食いついてきた!
 「〈ブラック・タートル〉を使う」
 「こんな高々度からか!」
 「『追いつけ!』と言われれば、ここの装備ではそれくらいしか思いつかん!」
 
 共和国のAPD——装甲兵員投降機が、揚重筐体リィフティング・ボディを採用したグライダーの亜種だとするならば、我が隊の〈ブラック・タートル〉は、滑空時に使用する着脱可能な翼を取り付けた空挺機動兵員輸送車AMPC: Airborne Maneuver Personnel Carrier——有り体に言えば、〝空飛ぶ戦車〟だと思ってもらえば良い。〝空飛ぶ戦車〟は飛行機と戦車が発明された大昔から、高速な移動性能と優れた防御力を併せ持つ機体として幾度となく開発が行われてきたが、亀のように機動性が悪く、紙のように薄い装甲を併せ持つものしかできず、実用化されたものは皆無だった。だが、それは地球の大気があまりにも薄かったからだ。
 ここ金星の地表は90気圧。1立方メートル当たり100キログラムを超える大気は、気体というよりはむしろ液体に近い。実際に高度3キロメートルより下では、気体でも液体でもない超臨界状態というやつになっているそうだ。もっとも、そこに水面みたいな何らかの境界線があるわけではないので、単に大気がとても濃いという認識で間違いはない。
 本当かどうか定かではないが、過去には、わざわざ地球から軽自動車を運んで、パラシュート無しで地表に落っことすCM実験が行われたことがあるという。軽自動車は見事にその形状を維持し、走行に支障ない状態で地表に降り立った。ただし、実際には、地表の途方もない熱によって多くの部品が溶けてしまい、実際の走行は不可能だったらしい。
 要するに、自由落下といっても、金星での終端速度はほんの時速20キロメートル程度。地球上での時速300キロメートルとは比べ物にならないくらい遅い。
 ——などと、見てきたような嘘をついているが、俺の経験は全てシミュレーターで行ったもの。実際に降下し、状況を肌で感じ取るまでは機上の——いや机上の空論でしかない。
 〈ブラック・タートル〉の最終的な終端速度も時速20キロメートル程度になるとは言え、降下初めは気圧が低く——といっても既に10気圧ある——かなりの降下速度となるだろう。俺としては、地表付近の大気密度で最適化された翼が、上空でどのような操作性を持つのかが不安でもあるが、未確認機アンノーンに追いつくにはこの選択肢しか見当たらない。
 ただひとつだけ安心材料もある。姫島は、地上30キロメートルという高度からの降下に驚いていたが、そいつは〈ブラック・タートル〉のオリジナルの姿﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅を知らないからだ。この機体、熱と圧力にはめっぽう強い。少々もろいが——なぁに、敵の弾が当たらなければどうってことはない。

 
 「……分かった」
 姫島は一瞬の逡巡しゅんじゅんの後、杭瀬と千船に指示をし、我々を解放した。
 「我々の任務は、地表降下部隊アタッカーズへ近づくものの報告と、場合によっては撃退だ。お前達にも手伝ってもらう」
 「スパイかも知れないヤツと手を組むと言うのか?」
 拘束の跡がついた手首をさすりながら、皮肉のひとつも言ってみる。
 「俺は本作戦では居残り組だ。地表降下部隊アタッカーズの命に関わるというのなら話は別だが、遅滞なくその……秘匿の作戦とやらを遂行しているというのなら結構なことだ。その情報だけで俺は充分だ。ここに居座るか、あるいは引き返したってかまいはしない」
 「未確認機アンノーンが共和国の装甲兵員投降機APDなら、彼らの目的は〈箱船〉への援護隊か奇襲隊だ。平和的に解決するとは思えん」
 援護と奇襲では意味が真逆だぞ。まもるのかおそうのかどっちかにしてくれ。それに——
 「箱船? 箱船とは何だ?」
 「〝遺跡〟を囲む周辺施設だ。行ってみれば分かる——」
 遺跡の話なら断片的に聞いているが、施設があるという話は初耳だった。
 「——地表降下部隊アタッカーズはそこに向かっている。まずは地表降下部隊アタッカーズに追っ手がいることを警告をせねばならんが、未確認機アンノーンに気づかれずに送信する方法があればな……」
 
 「あのぅ——」
 そんな都合のいい方法があるわけないだろと言おうとした矢先、レーダー席に座ったままのみのりがおずおずと口を挟む。
 「——タイミングによっては可能かもしれません」
 「タイミング?」
 「込み入った話の最中、申し訳ないんだけど——」
 今度は後ろから声がする。御影恭子だ。
 「——もう、手は降ろしてもよくて? それに、そんな重要な話をスパイかも知れないアタシ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅の前で話していいの?」
 御影恭子は呆れた様子で半分笑い顔である。その声を聞いて、みのりはまた微かにビクっと視線を下に落とした。
 「この際、スパイかどうかは問わん。未確認機アンノーンの追撃の方が先だ」
 姫島が応える。
 「じゃ、無罪放免ってこと?」
 「そういうわけにはいかない。事態が収拾するまで、我々の管理下に入ってもらう」
 「何の権限があって?」
 「7500ハイジャック犯の身柄拘束——っていう線で充分だ」
 「ふーん。まあいいわ。アタシは〝遺跡〟の調査ができればいいだけ。何なら監視役にそこのお二人さんを貼付けてもいいわよ」
 『そこのお二人さん』呼ばわりされた、杭瀬と千船が顔を見合わせる。姫島が少し困った顔をしている。こういう相手は苦手なようだ。御影恭子はさらに畳み掛ける。
 「——まさかアタシをここに残して行こうって言うんじゃないでしょうね? そんなことしたら、未確認機アンノーンだけでなく、緊急回線の大出力でここでの話をバラすわよ」
 機密を盗むスパイじゃなくて、そりゃ機密漏洩だ。みのりの考察の通り、スパイとは逆の行動を取っているように見える。御影恭子の話はまだ続いていた。
 「例え無線機を無力化したとしても、ここから緊急脱出用のシャトルを起動させて逃げるわ。そのときは自動で緊急無線標識ELT: Emergency Locator Transmitterから遭難信号が発せられるから、否が応でも皆が知るところにな——」
 「分かった分かった」
 姫島は左手を左右に振りながら面倒くさそうに答えた。
 「——ったく、連れて行けばいいんだろ。そのかわり変な行動を起こしたら、容赦なくはっ倒すぞ」
 「レディに向かって手を上げるなんて、紳士じゃないのね」
 「なんだとぉ。戦場にレディもへったくれもあるか!」
 「たっ隊長……」
 
 千船が思わず仲裁に入る。性格的にどっちも矛を収めそうも無い両者だからな。やれやれ。俺もこのへんで助け舟を出すことにしよう。それに——、実際に彼女を引っ叩いた経験があるのはこの俺だったりする。少しは罪滅ぼしをせねばなるまい。
 「彼女は——御影恭子は、どのみち副操縦士コーパイとして席に着いてもらう必要がある。伊川軍曹のアシストも必要だ。行くんだったら早い方がいい。敵サンはどんどん降下中だぞ」
 実際、ここでモメている暇はそれほどない。そもそも、コーヒー一杯飲む為だけのつもりだった筈なのだ。
 「いいだろう。操縦は任せる。だが、くれぐれも変な行動をするなよ」
 「なんだ。俺もはっ倒すのか?」
 「ハッハッハ。そうして欲しけりゃいくらでもはっ倒してやる。ただし、相手が男の場合は装甲アームでだ」
 「——首がモゲるわぃ」
 とりあえず、スパイの嫌疑は晴れたようだ。いや、そうじゃないかも知れないが、そう思いたい。少なくとも、事ここに至っては、まずは地表降下部隊アタッカーズへの追っ手を見極めるのが先だ。

 
         *  *  *
 
 我が隊の空挺機動兵員輸送車AMPC: Airborne Maneuver Personnel Carrier〈ブラック・タートル〉は、名前の通り、ずんぐりむっくりの、乗員3名、兵員12名まで収容可能な装輪装甲車である。形状は亀というよりカメムシに近い。外径より断面幅の方が広い6輪のタイヤが、さらに虫っぽさを醸し出している。悪路走行時には、車軸を立たることもできる。背中には着脱式の可変翼がついているが、降下時の方向舵になる程度のもので、揚力を得ることはほぼ不可能だと思っていい。その割にはそこそこ立派な翼端板Wingletがついている。ちなみに、〈ブラック・タートル〉の〝ブラック〟の意味は、腹部にあたる部分に、亀甲形の黒茶色のセラミックタイルがみっしりと並んでいることに由来している。このセラミックは〝パヴェ・ド・ショコラ〟とかいうシャレた別名の超耐熱タイルであり、タイルの耐熱温度を超過した際においても融解しながら内部を守る吸熱体Ablatorの役目も果たす。
 実はこの機体、高温に耐えるべく設計された汎用の大気圏再突入機ARES: Atmospheric Re-Entry Shipがオリジナルであり、金星への地表降下船として改造された派生機だ。それが証拠に、機体のあちこちに小型推進機スラスターが付いている。もっとも、金星の濃密な大気中ではその出番はあまり無く、オプションの可変翼に頼るしか無いのだが、正に〝取って付けた〟代物だから、操作性はすこぶる悪い。
 これに対して、敵サンの装甲兵員投降機APD: Armoured Personnel Dropper——まだ、共和国の装甲兵員投降機APDと決まったわけではないし敵かどうかも分からないが——は、とりあえず飛行物体として設計されているから、そこそこの空中軌道マニューバは期待できる。
 もしも降下中の戦闘となったら、こちらが圧倒的に不利だが、どのみち戦闘に供するべき火砲やミサイルなど〈ブラック・タートル〉には何処にも装備されていない。ただし、こちらは〝輸送車〟なので、着地後にそのまま自走できるというアドバンテージがある。相手の着地ランディング後の移動手段はまったく見当がつかないが、装甲兵員投降機APDを乗り捨てて、他の移動手段に切り替える手間が発生するなら、その分の時間ロスは生じるだろう。
 
 〈箱船〉——と言うのは、〝遺跡〟を取り巻く施設であり、〝遺跡〟の処理﹅﹅を行うものだそうだ。とは言っても、〝遺跡〟自身が何なのかがよく分からないから、それを取り囲む施設がどんなものかすら見当がつかない。御影恭子から得た情報と組み合わせれば、おそらく〝遺跡〟からモノポールを取り出す施設のことだろう。
 姫島らの任務は、前衛フォワードとして浮遊基地フロート・ベースに留まり、作戦中に〈箱船〉に近づこうとする勢力を排除することにある。その網に俺たちはまんまとハマったということになるが、足の速い未確認機アンノーンには対応出来なかったというわけだ。いやはや、何とも間抜けな話ではある。ただ、こちらの足が全く無かったわけではない。
 〈ブラック・タートル〉の起動ため、俺とみのり、そして御影恭子の3人が〈マンタ・レイ〉に向かう際、途中で通過した馬鹿でかい格納庫には、地表降下のための熱処理装備が取り付けられた〈ブーメラン〉があった。姫島らはどこかの時点で地表降下部隊アタッカーズの本隊と合流する算段だったと考えるのが妥当なのだが、いかんせん、〈ブーメラン〉はいくら強化したとしても飛行船モドキである。さらに、敵サンの装甲兵員投降機APDは噂の段階の代物で、そんな機体を投入する筈が無いと踏んだのだろう。
 姫島らが未確認機アンノーンを見逃したとしても、装甲兵アーマードソルジャー隊はもう一分隊、地表降下部隊アタッカーズと共に行動しているから、直接的な〈箱船〉の警護は彼らに委ねられていることになる。うまく行けば、前後で挟み撃ちに出来るかもしれない。そういう戦術的なことはさておいて、この作戦オペレーションは好きになれない。俺の一番嫌いな『エネルギー資源の争奪戦』そのものだ。気に入らない。これじゃあ、金星の地表に群がる俗物たちと同じだ。
 
 「〈ブラック・タートル〉のハッチを開けて待っててくれ。10分で来る」
 俺たちが浮遊基地フロート・ベースの制御室を離れる際、姫島はそう言った。
 「俺たち3人がまんまと逃げたらどうする?」
 一応聞いてみたが、姫島はニヤッと笑い——
 「撃ち落とすだけだ」
 と答えた。本当にやりかねない奴だから困る。特殊強襲部隊SAT: Special Assault Teamに強襲された方が、人質の救出を優先するだけまだマシだ。
 
 〈ブラック・タートル〉の操作系は比較的単純だ。マニュアル操作の自動車を運転したことがある人間なら、専門的な知識が無くても地上を走らせる﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅事はできる。操縦も操縦桿Control Stickではなく操縦輪Control Wheelだからイメージし易い。だが、オプションの可変翼による空中軌道マニューバは難しい。直ぐに失速ストールする。特に金星ここでは降下による気圧の変化が半端ないから操作感覚が急激に変わる。そもそも、操縦輪を採用している時点でそれほどの機動性は考えられていないと見ていい。
 もっとも、着地点を選ばないのであれば、着地ランディングは難しくない。機体の水平さえ保っていれば、濃密な大気のおかげで、精々2、3回のバウンドで無事に着地することができる。着地時には衝撃緩衝袋体SABA: Shock Absorbing Buffers of Airbagが自動で展開されるから、ぶっちゃけ頭から突っ込んでも機器等には問題がないように設計されている——らしいが、後々、俺の操縦士パイロットとしての評判がガタ落ちになるので、それだけは何としても避けたい。それに、〝機器等〟が壊れなくても、人間関係が壊れることは良くあることだ。ま、今回の搭乗者6名の中で、俺が今後の人間関係を気にする必要があるのは、みのりちゃんくらいなものだ。一応〈ブラック・タートル〉でも隣に座ることになる御影恭子とも、本作戦が一段落するまでは良好な関係を保っていたい。いや、今が良好かと言われるとなんとも言い難いものがあるが……。
 
 10分と言っても、ただ〈ブラック・タートル〉を起動するだけで良いわけではなかった。飛行に必要な——落下に最低限必要なと言うべきか——可変翼は既に取り付けてあるのだが、相転移吸熱体PTHA: Phase Transition Heat Absorberの取り付けがまだだった。こいつの予備ロットを可能な限り後部アタッチメントにくっ付けておくべきだろう。
 〈ブラック・タートル〉は〈マンタ・レイ〉などとは違い、短距離用の輸送車コミューターだ。本来ならば、着地地点が限られる巨大な〈マンタ・レイ〉を上空数百メートルに浮かべたまま、地表降下部隊アタッカーズを地表へ上陸させる為の輸送車だから、こんな高度からの降下、そして数時間にも及ぶ運用などはハナっから想定されていない。動力にしても、その大きさからして重水素融合炉は使えず、昔ながらのバッテリーで動いている。昔ながらと言えば、原子力熱電池も備わってはいるが、こちらは最低限の生命維持用で、飛行に必要な動力には成り得ない。
 そういうわけで、電力を湯水のように使う可逆性液体浮揚装置は付いていない。そもそも落ちるばかりの〈ブラック・タートル〉に浮揚のための装置は必要ないのだが、この装置と熱可塑性液化ガスTLG: Thermoplasticity Liquefied Gasと組み合わせは機体の冷却——正確には外気との熱交換を行う役割も担っている。金星地表での作業は、熱対策が一番の重要事項だ。もちろん気圧対策も重要だが、地球での深海一万メートル——千気圧の圧力に耐えて潜る潜水艦はかなり昔から活躍しており、気圧対策の方は既に枯れた技術﹅﹅﹅﹅﹅として確立されている。これとは異なり、常時400度を超える場所での作業は、地球上では消防隊が短時間必要とするくらいで、実はあまり存在しない。
 もちろん、もっと熱い火山のマグマだまりや溶鉱炉の中もあるが、こちらは優に千度を超えてしまうため、最初から有人の機械が作業をすることを想定していない。要するに、460度の二酸化炭素雰囲気中での作業は、有人の金星探査が開始されてから発達した分野であり、技術的に未発達な部分が残っている。
 
 高性能冷蔵庫としても機能する可逆性液体浮揚装置が使えないとなると、残るは相転移吸熱体PTHAだけだ。こちらは電気式の冷蔵庫ではなく、言わば保冷剤の一種である。氷が溶けて水になる間は、常に0度を保ち続けるように、形状を変えながらも温度を変えない物質——具体的には超高分子結晶性ポリマーなるものが詰まっている。相手が宇宙船乗りなら、内部循環式の気化蒸発冷却Ablation coolingシステムみたいなものと言えば分かってくれるだろう。
 具体的——とは言いながら、俺はこれがどんな物質なのかは良く知らない。見かけは茶色っぽいロウソクみたいな代物で、コイツが溶けて、最終的に気化して完全に無くなるまでは、温度がとりあえずは保たれる。逆に言えば、コイツが全て無くなってしまえば、我々はオーブンの中のチキンみたいにこんがり丸焼けということだ。
 さらに言えば、〈ブラック・タートル〉の装甲は、砲弾に耐えるための装甲ではなく、熱を極力遮断する為のもので、ハニカム構造の真空空洞Vacuum Cavityと、非結晶断熱多孔質セラミックのサンドイッチ構造で出来ている。全体はかなり厚いが意外と軽い。少々の火器になら充分耐えられるが、へこみが出来ると断熱効果が著しく下がるので、貫通せずとも致命的になる。
 もっとも、金星地表付近での戦闘はこれまで起こったことがない——と、共和国政府の公式見解では発表されているのだが……。

 
         *  *  *
 
 俺とみのり、そして、御影恭子の3人で〈ブラック・タートル〉の操縦席コックピットに乗り込む。5点式のベルトが宇宙軍仕様でいかつい。前面の溶融シリカガラスで出来た風防ウインドシールドも平面的で上下の視野が狭い。後方視界はレーダーとカメラで万全——って言うのは理屈ではそうだが、首を回して肉眼で確認できないと言うのは精神安定上よくない。そういう俺も、〈マンタ・レイ〉とかの巨大機では視野が狭くても全く気にならないから、随分と感覚的なもんだとは思う。小型機になればなるほど、全天の広い視野が欲しいのは何故だろうか?
 
 「待たせたな」
 ——と、やってきた『装甲兵アーマードソルジャー3馬鹿トリオ隊』はフル装備だった。どこで使うんだその4連式装甲兵携帯式地対空ミサイルAMPADS: Armored Man-Portable Air-Defense Systemsは。——っていうか、いつ仕入れたんだ!
 ……まあ、詮索は止めておこう。
 
 〈ブラック・タートル〉のメイン動力に火を入れる。降下目標座標データは、姫島から伝えられた位置をみのりが既に打ち込んでいる。場所はテルス島Tellus Islandの北西。地形的には入り江状になっている場所で、ここから望遠で拡大しても、手前の断崖が邪魔をして見ることはできない。
 地表降下部隊アタッカーズは入り江に既に入り込んだらしく、排気熱の検出もできない状態になっている。未確認機アンノーンはここより10キロメートル程度は下にいるだろうか? 気圧の影響で降下速度は落ちているが、依然として足は速い。可視赤外撮像機放射計VIIRS: Visible Infrared Imaging Radiometer Suiteが捉えた翼は赤く焼けており、何らかの動的熱制御システムAHCS: Active Heat Control Systemが付いているようだ。熱分布がスジ状になっていることからして、放熱羽板Thermal Louverを持った本格的なものらしい。こっちは氷嚢ひょうのうのような吸熱体でなんとかしのごうとしているのに、敵サンは——しつこいが、敵と決まったわけではない——豪華エアコン付きらしい。
 
 〈ブラック・タートル〉の地上走行用アクセルを少し踏み込みながら、同時に申し訳程度の羽を展開する。そろそろと動き出しながら羽を広げる様は、カメムシと言うよりはスズムシみたいだが、羽はスズムシのように上向きには広がらず、水平に展開するだけである。走行音の方は多少の金属音が混じり、スズムシではなくクツワムシのようだ。少々ややこしいのは、コイツは航空機ではなく、基本は輸送車だということだ。地上走行タキシングではつい左手が膝元の操舵輪ステアリングホイールを探してしまうが、実際は正面にある操縦輪がそのまま方向舵になる。ついでに、車軸を立てたり、超信地旋回したり、普通に後退したりしてみる。航空機の地上走行タキシングでは後退することはまずあり得ない——逆噴射を使った後退など余程のことが無いかきりやらない——から、この動きは新鮮だ。シミュレーションでは何度か操作したとはいえ、やはり実機は楽しい。まあ、遊びでやっているわけではなく、機体チェックの一環である——が、隣で御影恭子がジト目でこちらを見ている気がして、確認程度で早々に切り上げる。
 
 「さて。どこから出る?」
 「2時の方向、〇二まるふたハッチです」
 みのりが答える。みのりは、我々の後方中央の情報端末席に陣取って、親機である〈マンタ・レイ〉の遠隔制御をしていた。あらゆるものの遠隔制御の腕前はピカイチなのだから——事実、遠隔操縦する無人航空機UAV: Uninhabited Air Vehicleを標的とした実弾演習で、みのりが操縦したものを撃ち落としたものは、まだ誰もいない——、実機の操縦も巧いだろうと思うのだが、それがそうでもないらしい。というか、操縦席に座ることすら固辞しているそうである。もしかすると、情報端末席からリモート操作すれば、操縦は俺なんかより巧いんじゃないかとさえ思っている。そんなことはともかく……。
 〈マンタ・レイ〉の貨物室カーゴルームから続くハッチは大小合わせて20もある。中央の巨大なヤツは翼幅300メートルある〈ブーメラン〉をそのまま出せるように設計されたと聞くが、そうなると、貨物室カーゴルーム全てに外気が入ることとなり後々面倒なことになる。そうでなくてもここと外では気圧差が9気圧はあるのだから、宇宙で1気圧の与圧よあつを抜くより時間がかかる。もちろん、いきなり開けたら突風でどうなるか分かったものではない。よって、〈ブラック・タートル〉となるべく大きさのピッタリな気閘室エアロックに入る必要がある。
 我々〈ブラック・タートル〉を操る3人は、密閉された棺桶の中で、圧壊あっかいに怯えつつも快適な操縦室コックピット内に陣取っていればよい——というか、この場所に残るしか生きる術は無いのだが、装甲兵アーマードソルジャー隊の場合は、貨物室カーゴルームから地表面に降りることが可能だ。だが、彼らは快適とは言い難いだろう。装甲兵とは言いながら、その装甲は〈ブラック・タートル〉のソレとは段違いに薄い。よって、圧壊あっかいの危険も熱による危険も格段に高くなる。そのため、装甲兵アーマードソルジャー隊が地表面に降りるに際しては、装甲内になるべく与圧よあつをかけ、装甲内外の気圧差を減らして降りる。どの程度かけるかは各軍で色々とノウハウがあるようだ。
 また、降下開始から、活動開始時間の短縮も重要なノウハウだ。基本は〝飽和潜水〟と呼ばれるものの発展形だが、昔のように与圧に数日もかけていてはやってられない。金星で使用する混合ガスは、空中都市を含め最初から無窒素雰囲気だから、時間のかかる脱窒素パージ過程が省けるとはいえ、1時間弱で活動が開始できるというのは驚異的なスピードと言えるだろう。
 ——もっとも、これは加圧時の話で、減圧時には半日くらいかかるらしい。
 
 グリーンランプが付き、静々と上がった〇二まるふたハッチの向こうの空間は意外に狭かった。ハッチ全幅を考えると、可変翼を折り畳んでも車輪が入らない。
 「本当にここでいいのか?」
 「ええ。車軸を立てれば問題ありません」
 「……なるほど」
 まさか俺自身がこいつを操縦するハメになるとは思っていなかったので、気閘室エアロックへの侵入方法まではチェックしていなかった。どうも地ベタをコソコソ走るモノは性に会わん。地面に束縛されている気がする。
 ノロノロと身を屈めて——いや、逆だ。身を延ばして気閘室エアロックに入る。気閘室エアロックの天井もそれほど高くないので、〈ブラック・タートル〉頭上のアクセントとなっている円盤円錐ディスコーンアンテナがぶつかりそうになる。起動時チェックで開いたままなのを忘れていた。うーむ、意外と調整が難しい。なんとか外部ハッチまで辿り着くと、みのりが遠隔で内部ハッチを閉める。どうせなら、〈ブラック・タートル〉の気閘室エアロック入室自身を遠隔で操縦してもらいたかった。外に飛び出してからは俺がやるからさ——と、ねたましく振り返ってみのりの顔をみても、きょとんとしているだけだ。ちなみに、本来なら助けてくれるべき副操縦士コーパイの御影恭子は、姫島ら装甲兵アーマードソルジャー隊と貨物室カーゴルームの加圧操作の手順についてやりとりをしている。本来はみのりの仕事だろうとも思うが、さすがに、〈マンタ・レイ〉の遠隔制御をしながらの対応は酷だろう。
 〈ブラック・タートル〉の貨物室カーゴルーム可搬式減圧室Decompression Chambersも兼ねている。減圧室で数時間から、下手をすると数日過ごすことになる彼らは、しばしばここを〝ベル〟と呼んでいるのだが、何故そんな呼び方なのかはよくは知らない。それにしても、さっきまで銃口を突きつけていた相手に対し、そこまで身を委ねて良いものかと、半ば呆れる。急速加圧は下手すると命に関わるわけだし——。まあ、そこは海千山千の姫島だ。ちゃんと見抜いているに違いない。
 
 気閘室エアロックに外気が入ってくると、かすかにきしみ音がする。〈ブラック・タートル〉の外肋骨式OFS: Outer Framing Systemセラミック装甲のパーツがぶつかりあう音で、一度くっ付いてしまうと地表付近までは音はしない。音が収まった頃に前方のハッチが開きだす。気閘室エアロックの内部ハッチは上部スライド開閉だったが、外部ハッチは壁面がそのまま下開きになり、同時に下界への誘導路となる。
 「外部ハッチ展開終了。いつでも出れます」
 心配性なもので、今一度シールド類をチェック。外部装甲温度は急上昇中で、温度差による陽炎かげろう気閘室エアロック内に渦巻いている。
 「何ならアタシが出そか?」
 みのりの声にしばらく反応しない俺に、貨物室カーゴルームの与圧設定は終わった御影恭子が反応する。
 「大丈夫だ。問題ない……」
 俺はそれだけ言って、スルスルと前方に動かす。バックモニターでハッチが閉まるのを確認しながら、車軸を元に戻して次第に走行速度を上げる。
 「操縦替わってくれ。二七〇ふたななまる電磁射出機カタパルトポイントまででいい」
 「了解ウィルコ
 俺が操縦輪から手を離すと、御影恭子は少し怪訝そうな顔をしたが、それ以上は何も言わず素直に指示に従った。
 「みの——伊川軍曹。降下地点の詳細と、そこまでの風の鉛直プロファイルをくれ。この浮遊基地フロート・ベースで得られたデータだけでいい」
 「あっ、はい」
 間髪を入れずに、メインモニターに3D表示の風向・風速図が出る。浮遊基地フロート・ベースには巨大な風向鉛直分布測定装置フラットアレイ・ドップラーソーダーが付いているから地表までの風が手に取るように分かる。本来ならば衛星経由で、どこからでも同質の画像が得られる筈なのだが、衛星を乗っ取られたとあっては、そちらを参考にするのは危険だった。もちろん、〈ブラック・タートル〉にも簡易的な装置は付いているが、精々数キロ先の進行方向しか分からない。今確認したいのは、飛び降りるタイミングだ。
 
 金星の上空で吹き荒れているスーパーローテーションと呼ばれる風は、高度70キロメートルでは秒速100メートルを超えるが、地表面では1メートルにも満たない。よって、早く飛び降りたからといって早く目的地に到達出来るとは限らない。上空の風に乗り、風任せで近づいた後、おもむろに降下を開始した方が早い場合もある。敵サンは既に降下中だから、空中機動で劣る〈ブラック・タートル〉が先回りするためには、地上走行が可能というメリットと共に、未だ上空に留まっている﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅というアドバンテージを利用する必要がある。金星の高度別の風速は常に一定ではない。特に雲底下では熱潮汐波と呼ばれる大気の波が雲層から地表まで運ばれ、風向・風速ともかなり変化する。高々度からの降下では、いわゆる〝風の読み違い〟で、降下ポイントが大きくずれてしまう。空挺部隊やグライダー乗りなら誰もが知っている事実だ。
 
 「おい。降下はまだか?」
 「もう少し待って下さい。今、最適降下時間を——計算中です」
 モニター越しの姫島の問いかけに、みのりが答えていた。電磁射出機EmALS: Electromagnetic Aircraft Launch Systemポイントには既に着いており、御影恭子の手によって、畳み込まれた翼は展開され動作チェックも終わっている。みのりの『計算中』と言うのは半分本当で、半分嘘である。俺が、モニターを見ながら腕を組んでいるだけだ。要するに、俺のゴーサイン待ちである。
 「よし、出る。発射角は左に——」
 「5度……ですか?」
 俺が振り向くと、みのりは下からうかがうような目で、操作端末パッドをこちらに見せた。大量の仮想降下軌跡群と共に、角度計算の統計グラフがあり、その中央値がほぼ5度を示している。前言撤回だ。みのりの『計算中』と言う言葉は全て本当だった。
 「そうだ、そのとおり。最初からみのりに聞いておけば早かったな……」
 「いえ、今やっと四次元変分法4D-VAR: 4-Dimensional Variational data Assimilationでの答えが出たんです。確認用に走らせているアンサンブル・カルマンフィルタEnKF: Ensemble Kalman Filterの解析結果はまだ出てなくて自信がないのですが——」
 「何か分からんが上出来だ。電磁射出機カタパルトの方は——」
 「最大出力でいつでもOK」
 御影恭子が左手を挙げて合図する。『コイツ、何者?』という感情が再び頭をもたげるが、とりあえず今はそんな詮索をしている暇はない。
 「姫島、千船、杭瀬。準備完了だ。当機はこれから地獄への降下を開始する。キャビンアテンダントは乗ってないから、各自でシートベルトの確認をしてくれ」
 「了解ラジャー。遅いから外に出て後ろから押そうかと思ってたがな……」
 同時に千船と杭瀬の苦笑も聞こえる。問題はなさそうだ。
 「さてと——、カウントダウンだ。5からでいい」
 右手でみのりに合図する。
 「はい。5から行きます。5、4——」
 電磁射出機カタパルト横の3連紅緑灯が赤く灯る。
 「3、2、1——」
 それらが緑に変わってゆき——
 「……!」
 目玉がめり込みそうな加速で、機体は空中に放り出された。一瞬の上昇の後、視野の狭い風防ウィンドシールド全てに暗い地表が映し出される。
 
 サイは投げられた。もはや後戻りはできない。







四、降  下

 
 高度30キロメートル。地球上ならば成層圏に位置し、漆黒の天空と、青く、そして地球の球たる丸みを感じ取ることができる高度だが、金星の場合は全く事情が異なっている。地表には海が無く、玄武岩質の黒々とした大地が広がり、空は黄味がかった乳白色の雲で覆われ、地球の2倍に輝いて見える筈の太陽など、影も形も見ることが出来ない。そして、最大の違和感は、地表が丸く見えないこと——いや、それどころか、中華鍋の底のように、上向きに湾曲しているようにすら見える。これは目の錯覚などではない。地表に近づけば近づくほど、この違和感は増していく。金星の地表面を『地獄の釜の底』と呼ぶのは、その熱さからだけではなく、実際に地の底——四方を囲まれた丸い盆地——に降り立ったように見えるからだ。その異常な光景の原因は、最大で90気圧にもなる外気にある。
 金星に限らず惑星の大気は、下に行くほど圧縮され密度が増す。大気が上から積み重なっているからだ。大気が濃いとそこを通過する光の速度が遅くなる。つまり、上空より地表近くの方が光速が遅い。すると、光が水中に入る時に屈折する原理と同様に、宇宙からやってきた太陽の光は屈折して地表に届く。
 
 ——な~んて話をされても訳が分からん。金星に向かう軌道間輸送船OTVの中。到着直前の解凍作業中﹅﹅﹅﹅﹅に、睡眠学習のような講義で無理矢理詰め込まれた、有り難い知識のひとつだ。結局、どういうことだと聞くと、何のことはない。『地平線が浮き上がって見える』ということだ。
 大気差と呼ばれる現象で、地球上でも地平線は太陽一個分程度は浮き上がって見えているらしい。朝日や夕陽が横に扁平に見えてしまうのもそのせいだ。金星ではこれがもっと極端な形で起こる。惑星の丸みを帳消しにし、凸を凹にしてしまうほど、光をひん曲げてしまう。地表に立てば、地平線は水平より5度上にある。およそ太陽10個分の高さの位置に地平線が来るから、四方を囲まれた盆地に降りてしまったと錯覚しても無理はない。
 さらに、地平線周辺の風景は常時蜃気楼が出ているような状態で、理論的には金星の裏側からの光さえやってくる。特に太陽が地平線付近にある時は異様な光景となる。太陽自身は厚い硫酸雲のため輪郭すら見ることはできないが、光の帯﹅﹅﹅は見ることができる。太陽の像は極端に上下に圧縮され帯になるのだ。また、真夜中の状態でも、360度の地平線上に光の帯がうっすらと見える——らしい。
 金星の一日は地球時間で言うと117日にも相当するため、数日程度の滞在なら、太陽の位置はほとんど変化しない。昼間ならずっと昼間、夜中ならずっと夜中だ。幸いなことに、〝遺跡〟のある降下ポイントは昼間。地球時間でいうところの、15時頃に相当する。曇天時の地球よりは薄暗いが、有視界飛行VFR: Visual Flight Rulesが困難なほどではない。また、高度30キロメートル以下は雲らしい雲もないので、視程もそれなりに良好で、常に有視界気象状態を満たしている。
 ああ、そうだ。一カ所、高度12.5キロメートル付近に放電霧があるとか言う——。
 
 「はい。その放電霧へ未確認機アンノーンが突入する時を狙うんです」
 「放電霧を使うって、どういうこと?」
 みのりの言葉に御影恭子が突っ込みを入れる。悪いが、俺は〈ブラック・タートル〉の操縦だけで手一杯。そちらの話に加わることができない。
 〝遺跡〟があるテルス島Tellus Islandまでの距離を縮めるべく、最良滑空比で〈ブラック・タートル〉飛ばそうとしつつ、しかしながら、スーパーローテーションの風に乗ることを考えればなるべく上空に留まった方が良いので、最小沈下率で進むべきかとか、考えること、見るべき計器類が山ほどある。加えて、〈ブラック・タートル〉は結構な暴れ馬だ。もともとが大気圏再突入機ARESだからなのか、気圧が高いと敏感に機体が揺れる。いや、この機体は、もっと低空——すなわち、70気圧以上の制御に最適化されているのかも知れず、それならば、気圧が低過ぎることになる。どちらにせよ、操縦が難しいことには変わりがない。シミュレーションでは70気圧以上の低高度の場面しか練習してないから、そこまでは感のみで何とか切り抜けるしかない。
 俺は、金星表面のテセラTesseraと呼ばれる地形を目で追いながら、降下ポイントを見失わないように、何とか〈ブラック・タートル〉を飛ばしていた。未確認機アンノーンの位置と状態の確認はみのりが行い、機体状態のチェックや貨物室カーゴルームの与圧確認は御影恭子の担当である。
 
 「金星の地表は鉛が溶けるほどの高温です。だから、金属塩が蒸気として漂っているんです」
 「硫酸塩が蒸気になっていることはありえるわね……」
 「はい。金属塩は高誘電体なので、レーダー波などを攪乱するんです。さらに、降下中の機体が過飽和状態の放電霧に突入すると、金属塩が機体に張り付いて、無線を含む一切の電波発信機器が使用不能になるんです」
 「そ、それって言うのは——」
 いやいや、それはヤバいだろ。つい口が出る。
 「——着氷アイシングと同じじゃないのか? 機体が重くなる。除氷装置Anti-icing Systemは無いのか?」
 硫酸雨の中を降下する時の擬似的な着氷アイシングは知っていたが、地表付近で金属塩がくっ付くなどという現象が起こるとは、ついぞ聞いたことが——いや、確か金星の高山では黄鉄鉱の霜が降りるとか言っていたな。ともかく、それは重要な情報だぞ!
 「大丈夫です。地表面に近づくと急速に温度が上がるので、すぐ蒸発します。操作系統への影響はありません」
 「しかし、そんな話は聞いたことが無い!」
 俺は機体を制御するのに必死で、振り向いてみのりの顔を見ている暇はなかった。
 「急降下する機体だけに発生するんです。〈マンタ・レイ〉や〈ブーメラン〉では降下速度が遅くて全く問題になりません。今回みたいな高々度からの降下は想定外でしたから……」
 「——で、未確認機アンノーンの放射霧突入時に何をするの?」
 御影恭子が割り込む。
 「地表降下部隊アタッカーズ未確認機アンノーンが向かっているという警告を送信するんです。姫島軍曹がおっしゃってました。『未確認機アンノーンに気づかれずに送信する方法』が無いかって……」
 ふむ。確かにそんなこと言っていたな。こっちは今、それどころじゃないが。

 
 高度は地上20キロメートルまで降下。気温300℃、20気圧を越えたあたりから、機体の動きが安定してくる。大気が濃厚になった所為なのか、はたまた、俺が操縦に慣れたのかはよく分からない。水平距離は大方稼げたので、後は着地の心配だけだ。目標地点である〝遺跡〟とそこにあると言う〈箱船〉は、依然として崖の向こう側に姿を隠しており、確認することはできない。そろそろ接近アプローチの仕方を考えねばなるまい。
 多少は振り向く余裕ができたので、後ろのみのりちゃんを覗くと、今度は彼女の方が正念場だった。未確認機アンノーンが放電霧の高度、12.5キロメートルに近づいている。仮に俺たちが〝遺跡〟を視認できる位置にいたならば、メーザー通信とかで未確認機アンノーンに知られずに送信できる筈だが、現実はそんなに甘くない。それに、実際に見通せる場所にあったとしても、メーザーの指向性ゆえ、地表降下部隊アタッカーズがそれに気付く可能性は低いだろう。敵に知られない通信——通信があったことすら知られてはいけない通信——というのは、敵のいる領域に電波が届かない通信というのが最適であるが、同時に受信側もピンポイントで聞き耳を立てていないと気づかない通信となってしまう。みのりが考えた方法は、敵が耳を塞いでいる隙﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅を狙って通信を完了させてしまおうというものだ。
 「電磁波攪乱の時間は? 一分ほど?」
 「いえ、20秒——、いや、現在の降下角度から見て15秒程度だと……」
 「姫島。聞いていたか?」
 操縦席コックピットの中の会話は有線で貨物室カーゴルームの姫島らまで聞こえている筈だ。
 「ああ。聞こえている」
 「電文の内容は何と送ればいい?」
 「そいつは任せる。未確認機アンノーンの情報が地表降下部隊アタッカーズへ伝わるならどんな形態でもいい。それよりもだな——」
 「何だ?」
 「——十数秒間は未確認機アンノーンの目と耳が塞がれるのは確かなのか?」
 「視認の方は分かりませんが、電波系統は遮断シャットダウンされます」
 みのりが答える。
 「それならば話が早い。貨物室カーゴルームを開けてくれ」
 「何をする気だ?」
 「決まっているだろ。撃ち落とすんだよ」
 姫島の不気味な微笑みが見えるようだった。撃ち落とすんなら、『未確認機アンノーンに気付かれないように通信』とか、そんな小細工は全く必要ないだろ……。
 「おいおい——」
 俺としては撃ち落とそうが何しようが、それが命令の一環なら口を挟むつもりは無い。だが、ひとつ確かめたいことがあった。
 「——彼らは地表降下部隊アタッカーズの援護隊か奇襲隊かのどちらかなんだろ? 確認しなくてもいいのか?」
 「地表降下部隊アタッカーズに対する援護や奇襲じゃない」
 「んん?」
 「援護隊でも奇襲隊でも、地表降下部隊アタッカーズにとってはどっちも敵だ。だが、安心しろ。信管は抜いてある。奴らを航行不能にするだけだ」
 「どういうことだ?」
 「詳しく説明している暇はない。ここを開けろ。でなければ後方非常扉を強制的に排除するぞ」
 姫島ならやりかねない。——が、『排除するぞ!』と先に警告してくれるだけマシってもんだ。御影恭子は予告無くキャノピーを吹き飛ばしたからな。
 「今開ける。だが、貨物室カーゴルームの与圧は大丈夫か?」
 貨物室カーゴルーム可搬式減圧室Decompression Chambersになっていた筈だ。外気との圧力差が大きければ、それだけ危険が伴う。装甲服アーマードスーツを来ているとはいえ、無用なトラブルは避けたい。だが、答えが返って来たのは姫島からではなく、右隣からだった。
 「20気圧からは外気圧と連動させている。ハッチ開閉に支障はないわ」
 そうだった。与圧システムの操作をしていたのは御影恭子だった。彼女が指し示す数値を確認して、貨物室カーゴルーム後方の主扉を開ける。気流の流れが微妙に変わるが、操縦に支障が出る程ではない。カメラで確認すると、姫島と千船の2名が主扉左右から側面の手すりにワイヤーを絡めて上に出て行くのが見えた。杭瀬は待機である。あるいは我々の見張り役かも知れない。
 
 姫島らが未確認機アンノーン狙撃の準備をしている間、みのりは、その未確認機アンノーンの位置情報や形状、降下推定経路などモニターに表示させながら、地表降下部隊アタッカーズへの送信のタイミングを見計らっていた。ギリギリまで情報収集すれば正確な情報となるが、送信時刻に間に合わねば意味がない。だからといって、早めにパッキングしてしまうと、有益な情報に成り得ない。事実、未確認機アンノーンは直進コースの崖越えを避けるように左側——10時の方向——へ旋回しつつあり、低地から迂回して接近しようとしているように見える。だが、〝遺跡〟確認後に進路を変えることも考えられるから、進入路はまだ分からない。もっとも、その〝遺跡〟がどんなモノなのか、俺は知らないのだが。
 俺なんか、危機が迫っていることさえ地表降下部隊アタッカーズに伝えられれば、それだけで御の字なんじゃないかと考えるのだが、みのりちゃんはそれでは不満らしい。それに、姫島らが未確認機アンノーンを撃墜すれば——いや、撃墜出来なくとも、未確認機アンノーンはこちらの攻撃によって軌道コースを変えるだろうから、そんなに頑張っても意味ないんじゃないかと思う。まあ、この仕事は彼女のテリトリーだ。黙って見ていることにしよう。——って言うか、それ以上のことは何もできない。
 
 放電霧の高度には、言われてみればそれらしいかすかなベールがある。その昔、南極上空を飛行中に見たことのある真珠母雲Mother of pearl cloudsのようでもあるが、あれより薄い。そして、何よりも綺麗ではない。南極のヤツは極低温で生じた雲だが、目の前に漂っているのは、高温で蒸発した金属塩なのだ。そのベールの中に未確認機アンノーンが突入した瞬間光った——ような気がしたが、錯覚だったかもしれない。光ったとしても極僅かだっただろう。みのりは間髪入れずデータ送信をする。もちろん、敵味方識別信号IFF: Identification Friend or Foe付きの暗号文。送信だけなら5秒あれば足りるが、自動応答装置トランスポンダからの返信が遅れれば未確認機アンノーンにも気づかれる。
 いや、自動応答装置トランスポンダからの返信が遅れるのは問題にはならなかった。返信を傍受しようがしまいが、彼らは必ず我々に気付く。みのりの送信と共に、ミサイルが2本。白い軌跡を残しながら未確認機アンノーンに急接近していたからだ。未確認機アンノーンは距離にして約8キロメートル。装甲兵携帯式地対空ミサイルAMPADSの射程ギリギリだが、〈ブラック・タートル〉の方が彼らより上空にいるため、届かないってことはないだろう。
 
 「自動応答装置トランスポンダからの応答来ました!」
 とのみのりの声とほぼ同時に、未確認機アンノーンのモニターマークにかかっていた電波攪乱のサインが消える。ミサイルはあと少しで届くという段階で、未確認機アンノーンは急激な回避行動に出た。放電霧を抜けたとはいえ反応が早過ぎる。翼が折れるのではないかと思う程の機首上げ制動——コブラHarrier機動——をかけ、そのまま機体軸回転ローリングして2本のミサイルをやり過ごしたのだ。相手は戦闘機じゃない。言ってみれば、たかが硬めのグライダーだ。案の定、そのまま失速ストールしてお尻から落ちて行くが、ミサイルの方も旋回して戻るだけの燃料は残っていなかった。180度旋回した時点で力尽き落ちていく。
 「なんてヤツだ!」
 姫島のうめくようなつぶやきが聞こえる。そうこうしているうちに、未確認機アンノーンは失速の急降下で得た速度を逆に利用し、機首を前にして機体を立て直した。実に手際がいい。一体どんなヤツが操縦しているのか?
 直後に——おそらく、姫島らは第二弾のミサイル照準を合わせている時に——予期せぬ短距離通信がやってくる。
 「地表降下部隊アタッカーズから——長田大尉からの電文です!」
 みのりが緊張した声で伝える。
 「中身は?」
 「それが——、暗号電文で解読出来ません……」
 「なに?」
 「こちらで解読した——」
 姫島の声だった。
 「——攻撃は中止だ。貨物室カーゴルームに戻る」
 姫島は更に付け加えた。
 「電文は本作戦専用の暗号だ。お前達では解読できない」
 「それは……、我が隊——北緯30度帯30 Degrees North居残り組﹅﹅﹅﹅にも秘密なのか?」
 「そういうことだ。時期がくればいずれ分かる」

 
         *  *  *
 
 「どう思う?」
 2者間の秘匿回線を使い、みのりに話しかける。高度は地上18キロメートル。大地はますます湾曲し、包まれているような感覚になってくる。御影恭子は何か気になるのか、未確認機アンノーンを目で追いながら、考えごとをしている風だった。
 「何がですか?」
 「姫島の行動だ。姫島が地表降下部隊アタッカーズ未確認機アンノーンの警告をするのは分かる。相手が何者か、何をするつもりなのか皆目分からないからな。だが、未確認機アンノーンだけでなく、俺たちにまで暗号を使わなければならない理由は何だ?」
 「分かりません——」
 みのりの答えは単純明快だった。
 「——分かりませんが、姫島軍曹は、未確認機アンノーンにも、我々や〈レッド・ランタン〉にいる我が隊の仲間たちにも気づかれてもいい警告﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅ならば、いつでも発信できた筈なんです。浮遊基地フロート・ベースにいる時に……」
 「それは——、それは確かにそうだな」
 
 姫島ら装甲兵アーマードソルジャー隊は、浮遊基地フロート・ベースで〝遺跡〟に近づく機体を見張っていた。金星ここの共和国政府とアンモビックUNMOVICとか言う国連査察委員会のスパイを探しているとも話した。我々の嫌疑は晴れた——実際は分からない——が、未確認機アンノーンの〝遺跡〟への到達を阻止しようとした。
 彼らが本当に前衛フォワードとして残っていたならば、未確認機アンノーンを確認した段階で、即座に﹅﹅﹅地表降下部隊アタッカーズへ警告すべきだ。この警告が未確認機アンノーンに傍受されたとしても、大きな問題はない。もちろん、そっと近づいて不意打ちで仕留めることが出来なくなるという戦術的不利益はある。だが、敵の戦力は小さい。奇襲を考えるよりは、こちらの戦力を示し、『戦わずして勝つ』のが一番だ。
 最大望遠で見る限り、相手は最新の装甲兵員投降機APDと思われるが、単機であることに間違いは無いし、所詮は〈ブラック・タートル〉同様の降下専用小型機のたぐいである。兵員は操縦者も含めて10名程度だろう。フル装備だとしてもたかが知れている。そんな彼らが、後方の浮遊基地フロート・ベースに敵装甲兵アーマードソルジャー隊一分隊、前方の〝遺跡〟には二個分隊がいて、手ぐすね引いて待っていると知れば、そのまま突っ込んで行くとは思えない。
 単機であっても、防護力の無い飛行船モドキである〈マンタ・レイ〉を航行不能にすることは出来る。仮にそれが目的だとしても、地表降下部隊アタッカーズは既に地上で展開されている頃合いだ。駐機中の輸送機を航行不能にしたところで戦力ダウンにはならない。逆に背水の陣で怒りを買い、ボコボコにされるのがオチである。
 ——となれば、敵サンの目的は〝遺跡〟への奇襲ではなく潜入任務Sneaking Missionと考えるのが妥当で、見つかったら作戦中止Mission Abortである。装甲兵アーマードソルジャー一分隊と、既に地上部隊を展開している二個分隊の計三個分隊に対し、火力で圧倒するためには、最低一個中隊は欲しい。みのりはそのくらいのことは即座に気付いたのだろう。ならば『謀を伐つ』戦術に出れば良い。簡単に言ってしまえば、『手の内はバレているぞ!』と知らしめれば良いのだ。
 状況証拠はそうであるのに、何故に姫島軍曹は気づかれてもいい警告﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅を発しないのか? 潜入任務Sneaking Missionをご破算にするためなら、地表降下部隊アタッカーズに対してだけでなく、浮遊基地フロート・ベースから〈レッド・ランタン〉にいる我が隊に対しても情報が筒抜けだというアピールを大々的に行ってもいいくらいだ。
 
 「この作戦は、我々——我が隊の残留部隊にとっても秘密なのか? 地表降下部隊アタッカーズの遭難は偽装で、偽装工作の対象は我々さえ含まれているってことか?」
 「分かりません。でも、そう考えるのが一番しっくりくるような……」
 普段はハキハキしているみのりちゃんが、どうも歯切れが悪い。御影恭子は地表降下部隊アタッカーズが遺跡の独占を狙っていると考えているようだった。俺も最初は半信半疑だったが、確かにこの仮説が一番しっくり来る。姫島の野郎に直接聞いてみてもいいが『時期がくればいずれ分かる』って言うくらいだから教えてはくれないだろう。何か深い事情があるに違いない——程度に今は考えておく。
 
 「で——、」
 秘匿回線を通常回線に戻し、俺は続ける。地表降下部隊アタッカーズの真の目的は分からないまま保留にするとしても、分からないままでは済ませられない問題がある。
 「——俺は……俺たちはどう進めば良いんだ? 装甲兵員投降機APDを追跡する進路を進むのか? それとも最初の計画通り、先回りすることを目指すのか?」
 みのりは未確認機アンノーンが放電霧を通過後も、その軌道を注視しているようだったが、少しだけ顔を上げ、少々考えてからこう答えた。
 「直進しましょう。未確認機アンノーンもそろそろこちらの死角に入ります。後追いすると待ち伏せされるかも知れません」
 「地表降下部隊アタッカーズにもバレているんだ。未確認機アンノーンに逃げ場は無いよ」
 「それはそうですが、姫島軍曹は『奴らに追いつく』ために〈ブラック・タートル〉に乗ったんです。最短ルートで〈箱船〉に向かった方が賢明だと思います」
 そうだな。俺としても装甲アームでぶん殴られるのは御免被りたいからな。
 「姫島? それでいいのか?」
 「好きにしろ。俺たちの任は解かれた」
 姫島は幾分、ふてくされ気味である。
 「そう——なのか?」
 「ああ」
 それでいいなら最短で行かせてもらう。別ルートを選定をする手間が省ける。
 
 「あっ、と、それより先に——」
 と、みのりが話を切り替える。
 「〈ブラック・タートル〉も放電霧に突入します。念のため、アンテナ類の通電を遮断した方が良いと思います」
 「盛大に放電したりするのか? ショートするくらいに?」
 「放電はしますけど、壊れることはまずありません。金星仕様ですし」
 「金属塩ってのは何だ? 電波欺瞞紙チャフが浮遊しているようなものか?」
 「違います。金属片そのものじゃありません。金属塩粉塵ヒュームです。金属塩って言うのは——例えば、食卓のおしおだって立派な金属塩です」
 「しお?」
 「はい。塩化ナトリウムですから……」
 後から聞いた話だが、本当に塩——塩化ナトリウム——が漂っているわけではないらしい。みのり曰く『塩化ナトリウムの融点は800度、沸点は1413度です。金星の気温は低過ぎます』とのことだ。確かに460度じゃあ〝低過ぎる〟かも知れない。実際にはテルルTeとかその他色々と妙な金属の名前を教えてくれたが、全部忘れてしまった。いや、正確にいうと『厳密には金属とも言えない半金属というもので——』というみのりちゃんの御高説が始まったあたりから聞く耳が閉店してしまったというのが正しい。
 
 ついでに、金星仕様﹅﹅﹅﹅というのも説明しておかねばなるまい。地球と金星の大気組成で圧倒的に異なっているのは水の存在だ。正確に言えば、酸素は二酸化炭素という形で大量にあるから、水素が圧倒的に足りない。この宇宙で一番多く、普遍的にそこらじゅうある物質の筈なのに、何故か金星にはこいつが足りない。だから、金星では水は貴重で、彗星を受け止める〝水汲み作戦〟が、新入りの最初の仕事になる。これが出来なきゃ『お前は役に立たん!』という烙印を押される。——少なくともパイロットは。
 大気中に水蒸気が全くと言っていいほどない——分かり易く言えば、湿度が0という大気中で飛行した場合、航空機と大気との摩擦で発生した静電気は逃げ場がない。冬場の静電気のように、年がら年中帯電している状態だ。この状態は非常に良くない。危険回避と言うよりは無線通信機器の物理的障害と電波障害を防ぐため、常に空中に放電させておく必要がある。そのために放電索Static dischargerと呼ばれるとげを翼面に多数装備する。地球上なら精々数十本の棘をぶら下げておくだけで事足りるが、金星の帯電対策はその程度では話にならない。本数もさることながら、帯電圧を逆に加圧して放電させるための強制放電索FSD: Forced Static Dischargerが装備されている。ただ、今回の場合、そいつをどうすべきなのか分からない。
 「みのり……、FSDは最大にするのか、それとも——」
 「全てオフです! DBD-PAも切って下さい」
 こっちの意図することはお見通しだった。——って言うか、オプション翼に装備されている誘電体障壁プラズマ駆動DBD-PA: Dielectric Barrier Discharge Plasma Actuator装置については常時オンなので完全に見落としていた。危ない、危ない。通信機器は全てシャットダウンし、念のため円盤円錐ディスコーンアンテナをたたんて収納する。エンジンはそもそもついて無いので切る必要なし。この際だ、電動機駆動Moter Drive Systemの油圧制御も切っておこう。正確には油圧ではなく、ガリウムなど低融点合金を使った駆動系だ。みのり曰く『油は地表の高温に耐えられない』そうだ。外気に酸素が無いので燃える心配は少ないが、高温で沸騰気化Vapor lockし、操縦が出来なくなってしまう。外気圧が高いから沸騰温度も高くなる筈ではとか質問したら、そのへんの蘊蓄うんちくを沢山聞かされて……。
 あれ? この話はみのりから聞いたんじゃ無かったかな? ——まあいい。とりあえず今問題なのは、無動力だと操縦輪がかなり重くなるという点だ。もっとも、急旋回でもしない限りは何とかなる。戦闘中なら生死に関わる問題だが、今はひたすら直進コースなので問題は無い。

 
 高度は残り13キロメートル。外気は40気圧に達しており、はがねで出来た昔の潜水艦の可潜深度に相当する。それ以上に深刻なのは370度という、油も沸騰する外気温だ。薄暗い大気はやや赤みをおび、陽炎がところどころで揺らめく様をみていると、自分が天ぷら鍋フライヤーに放り込まれたような錯覚におちいる。相転移吸熱体PTHAの消費量は数パーセントでまだまだ序の口だが、どの程度地表に留まるか分からない状況では、なるべく温存しておくしかない。また、三次元交差積層TDCP: Three-Dimensional Cross-Plyされた炭素繊維強化樹脂CFRPの外骨格の本領はこれから発揮されることになる。地表面では90気圧を超えるのだから——
 
 「おっ⁉」
 電力系統が切れて静かになった時、そいつは唐突に現れた。視界の狭い風防ウィンドシールド越しに見える機体から——いや、風防ウィンドシールド自身からも青白い炎が立ち上がる。炎というと文字通り燃え上がるイメージだが、こいつはエアロゲルで包み込まれるような何ともいえない光だ。青白いのに温かさを感じる。音は無い。
 「セントエルモの火——だな……」
 悪天時や火山灰の中を飛ぶと見られるコロナ放電。何度か経験したことはあるが、点火し損ねの小型核融合炉プラズマ放電みたいにチョロチョロした炎しか見たことが無く、こんなに大規模で広範囲に及ぶ放電は早々出会えるものではなかった。だが、それも唐突に終わる。
 
 「あっ!」
 炎の洗礼を受け、円盤円錐ディスコーンアンテナを展開した直後にみのりが声を上げる。みのりの場合、視線の先はディスプレイのことが多いので、何に対して叫んでいるのかがよく分からんことが多くて困る。
 「どうした?」
 「えっ? あっ、はい……未確認機アンノーンが——」
 「未確認機アンノーン?」
 未確認機アンノーンは我々が放電霧に突入する直前に視界から消えた筈——と思っていたら、その消えた先の崖裏から黒煙が上がり始めた。始めやがったか!
 「こちらの警告が役に立ったようだな」
 「えっ? ええ……」
 みのりは浮かない顔である。そりゃそうか。姫島は未確認機アンノーンを攻撃する際『奴らを航行不能にするだけ』とは言ったが、死傷者が出ない保証は無い。操縦室コックピットに少々の穴が開いただけでも気圧と熱で操縦士パイロットは簡単に死んでしまう。だが、姫島は『攻撃は中止』と言っていた筈だ。地表降下部隊アタッカーズからの——小隊長殿おやっさんからの返信があったのだから、この中止命令は地表降下部隊アタッカーズの総意の筈だ。一体どういうことで——
 
 ——と、みのりに何か話しかけようとした矢先だ。警報アラートが鳴る。ミサイル警報装置MAWS: Missile Approach Warning Systemだ。それも、未確認機アンノーンからのものじゃない。12時の方向——つまり真後ろ﹅﹅﹅である!
 
 「このおぉぉっ!」
 
 反射的に操縦輪を引き上げる。が、とてつもなく重い。一生の不覚だった。電動機駆動Moter Drive Systemが死んだままになっている。副操縦士コーパイ席についている御影恭子がそれに気付き、スイッチを入れるが瞬時には作動しない。〈ブラック・タートル〉はもともと機動力の無い機体だ。いや、そもそもこいつは兵員輸送機であって航空機ですらない。それに加えて『ワレ、操舵不能』となれば、もう万事休すである。最善を尽くしての末路ならまだ良いが、こんな馬鹿げたケアレスミスでは死にたくない。
 ここで機体が破壊されたら誰も生き残れないだろう——いや、装甲兵アーマードソルジャー隊は何とかなるかも知れぬ。彼らは貨物室カーゴルームだから、俺の痛恨のミスを吹聴することは無——いやいや、ブラックボックスに行動がしっかりと記録されているっっっ!
 機体後部で爆発音と振動。異常を知らせる別の警報アラートが鳴り響き、貨物室カーゴルームの気温が急激に上がる。——と、ほぼ同時に舵が軽くなる。油圧系統がイカれたとあっては、もはや電動機駆動MDSがどうしたという話ではない。狭い風防ウィンドシールドから上空に散乱した火球と金属の破片が見えた。外気の流入は操縦室コックピット内にはまだ無いが、二発目を食らったら完全にアウトだ。姫島たちはどうなっただろうか?
 
 ——ん? 舵が——効いている? 火球と共に金属片?
 
 冷静さが戻って来た。時間にして2秒ほどだろうか? 眼前にあった陸地は見えず、放射霧と思われる薄いベールを通して雲が見える。おもちゃのような〈ブラック・タートル〉の耐Gスーツの加圧袋Bladderが膨らんで足が締め付けられている。つまり、ちゃんと機首が上がっているということだが……。素早く計器に目を走らせると、それは確信に変わる。何のことはない。俺は先ほど目の前で見た未確認機アンノーンの回避行動とほぼ同じ動作を、反射的に行ったのだった。
 いや、相手の方がローリングコブラRolling harrierになっているだけ高度な技だった。くそぉ、技で負けている。機体の機動力の差があるとはいえ、これは屈辱だ! ——てなことを考えている場合じゃないだろっ‼
 
 気を取り直し、直後に操縦輪を押し込んでコブラHarrier機動状態のまま機体の頭を抑えつつ、貨物室カーゴルームと連絡をとる。
 「姫島ぁ‼ 状況は⁈」
 「初弾はかわした」
 インカム越しに姫島の普段通りの声が聞こえる。流石だ。
 「了解ウィルコ。後方は任せる」
 貨物室カーゴルームの状況はおよそ分かった。被弾したんじゃない。装甲兵アーマードソルジャー隊が貨物室カーゴルームの後方主扉から手持ちの赤外欺瞞弾フレア電波欺瞞紙チャフをバラまいたのだ。
 後ろを振り向く余裕は無かったが、目玉だけ動かして横を見ると、御影恭子は必死の形相でGに耐えていた。写真を撮りたいくらいに。この調子だとみのりは——
 「もっ、もう——」
 失神しているかと思いきや、後部座席でちゃんと生きていた。無人航空機UAVの遠隔操縦ばかりで操縦席に座らないみのりちゃんは、てっきりGに弱いのだと勝手に思っていたが、そうでもないらしい。
 「——もう一機……居たんですね」
 それでも息絶え絶えの様子だ。俺もこの程度の機首上げで、ここまで強力に減速するとは考えていなかった。いや、頭では分かっていたし、演習シミュレーションも幾度かしたので少しは分かっていたが、見込みが甘かった。要は大気が濃過ぎる﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅のだ。
 重力落下に合わせてグライダーのように——〝ように〟ではなく、事実、エンジンの無いグライダーなのだが——落下して行くだけならあまり感じない大気の濃密さも、機体が少し持ち上がるだけで異常な空気抵抗を示す。水中のように粘度があるなら、直進時でもそれなりに感じ取ることができるが、液体とは違い、滑空だけなら地球上での飛行とそれほど変化を感じられない。〝水汲み作戦〟の時と違い——もちろん、火星や宇宙空間での作戦ミッションとも違い——濃密な大気中での機動マニューバはやったことが無かった。逆に機動力が無い機体だったから良かったものの、〈収水〉のような機体だったら6G程度では済むはずもなく、直後に意識消失Blackoutか下手をすると機体が空中分解していただろう。外に脱出することも不可能なこんな場所では、どちらにせよ生還できるとは思えない状況だ。
 機体は、失速ストール寸前になりながらも、なだらかな丘を超えるように機首を下げた。未確認機アンノーンが行ったような木の葉落とし﹅﹅﹅﹅﹅﹅のように尾っぽから後退する事態まで想定したが、何とか持ち堪えた形だ。どのみち、この機体では、そんな機動マニューバをするには重過ぎる……いや、この大気中なら可能なのか?
 ——それは、ともかく。

 
 「くそったれぇ‼」
 ともかく俺はムカついていた。敵はこちらが放電霧で耳を塞いでいる﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅時にミサイルを撃って来たに違いない。おそらくこちらの戦法を見ていたのだろう。既に能動型位相配列レーダーAPAR: Active Phased Array Radarは起動させた。俺自身、いつスイッチを入れたか分からないくらい反射的に。
 状況は最悪だった。敵機は後方3キロメートル上空にあり、こっちをピタリとマークしている。不覚にも、いつから忍び寄って来ていたのか、皆目見当がつかない。未確認機アンノーンばかり気にしていたらこのザマだ。姫島ら装甲兵アーマードソルジャー隊の動きが無かったら、既にこの機体は四散していたと思われるが、装甲兵アーマードソルジャー隊の誰かが我々よりは先に気付いたのだろう。後方主扉が開いたままになっていたのが幸いしたのだ。でなければ、あんなに早く動けるわけがない。
 
 敵機は——いや、敵機と言っているが、今回の相手は未確認機アンノーンではない。敵味方識別信号IFF——じゃなかった、Sモードの応答装置Transponderでは、共和国の民間機﹅﹅﹅という扱いになっている。ただし、相手は共和国エネルギー管理委員会RERC所有の機体であり、相当うさん臭い——って言うか、ミサイルを撃ってくる民間機などあるわけ無い。
 機影を見る限り、先行した未確認機アンノーンと同じ機体に見える。とすれば、一個中隊が分散して降下していたとも考えることができるが、どうも不自然だ。戦力を集中させるべきなのに、個々に戦力を投入する。しかも、奇襲作戦か潜入任務Sneaking Missionでそれを行うという点が全く持って理解出来ない。一個中隊なら投降機は通常三機編隊Kette。もう一機別働隊がいるのではないかと勘ぐったが、その姿は無かった。少なくとも〈ブラック・タートル〉のレーダーAPARの届く150キロメートル範囲は、RERC機以外は、我々が降下を開始した浮遊基地フロート・ベースが見えているだけで、鳥一羽さえ飛んでいない。ま、鳥が飛んでいたら逆に驚くがな。
 そして、そのRERC機はこちらにどんどんと近づいて来ている。相手が速度を上げたというより、こちらが急激な機首上げフレアーを行って減速したからだ。〈ブラック・タートル〉は要はグライダーだから、上昇気流がない限り、水平速度を上げるには降下するしかないが、既に50気圧程にもなった濃密な大気中では、垂直降下をしたとしても終端速度Terminal Velocityから考えてそれほど速度は稼げない。地表までまだ一万メートル近くあるこの場なら、失速しても地面に激突する心配はさらさら無いが、問題は〝遺跡〟までの距離だ。
 〈ブラック・タートル〉の滑空比は5程度だから、グライダーではなく〝空飛ぶ煉瓦レンガ〟並である。直進コース——すなわち、最短ルートの崖越えまで高度が保てるか怪しくなってしまった。かと言って、先行した未確認機アンノーンのような迂回コースを取れば、目標地点から大きく外れた地点に着地することになり、後方のRERC機にすら抜かれる可能性もある。
 直進コースなら〝遺跡〟到着はこちらの方が早い——とも言い切れない。もしも、崖向こうまで高度が保てず、手前に降りることになれば、後は車輪でのたのたと移動しなければならない。当然崖越えは出来ないから迂回することになり、迂回飛行コースよりも時間がかかるだろう。さてどうしたものか? 〝急がば回れ〟か〝巧遅こうち拙速せっそくかず〟か?
 
 ——悩んだようなフリをしているが、実は全然悩んでいない。直進あるのみだ。相手はいつ二発目のミサイルを打ち込んでくるか分からない連中だ。今は奴らが放電霧に突っ込むタイミングだから攻撃はすぐには無い。本来ならばお返しに空中機雷まきびしでも置いて行くのだが、この〈ブラック・タートル〉には対抗し得る火力が皆無だから、我慢して攻撃を回避するしかない。
 回避行動を取るには予め速力が必要で、そうなると、高度を保ちながら迂回するなんてことは最初から不可能だ。ミサイルが当たらずとも、もう一度回避行動を取れば、どのみち崖手前に降りるしか手段が無い。逆に、地面に降りれば岩場に隠れつつ装甲兵アーマードソルジャー隊が動けるから反撃のチャンスはある。〝遺跡〟に近づくRERC機を崖上から狙い打つポジションに付ければ、地表降下部隊アタッカーズと連携して挟み撃ちに出来るかもしれない。地表降下部隊アタッカーズの装備は不明だが、皆無ではないだろう。未確認機アンノーンの黒煙がそれを物語っている。
 とりあえず今は——
 「姫島。撃てるか?」
 ——と、聞いてみる。対抗できる火力を持っているのは彼ら装甲兵アーマードソルジャー隊だけだ。先ほどの赤外欺瞞弾フレア電波欺瞞紙チャフの放出。更には跨乗デサント状態での装甲兵携帯式地対空ミサイルAMPADS発射など、兵員輸送車に乗車したままの戦闘は基本の筈。空中にある空挺機動兵員輸送車AMPCでは勝手が違うとは言え、本質は変わらないだろう。角礫地かくれきちを高速走行中で行う射撃よりは容易たやすいはずだ。
 だが、返って来た回答は意外なものだった。
 「はっはぁ。好戦的な奴だな。我々は平和的に﹅﹅﹅﹅解決するつもりだ。杭瀬が彼らと通信をしている」
 「通信?」
 さっきミサイルをぶっ放した奴の言葉とは思えん。そうでなくとも、『装甲アームではっ倒す』だの、逃げたら『撃ち落とす』だの言ってた奴だ。
 それ以上に通信というのが解せぬ。貨物室カーゴルームには外向けの通信装置は無い。よしんば有ったとしても、電波が発信されていれば——いや、電波による通信はどのみち無理だった。モニター越しに望遠で見たRERC機は、今まさに〝セントエルモの火〟に包まれている。通信系統は全滅だろう。
 「電波は出ていない筈だが?」
 「投光機による発光信号だ」
 「投光機? 投降するつもりか?」
 ——皮肉を入れてみる。
 「そうじゃない。誤解を解きたくてな……」
 「誤解?」
 「そうだ。『我々は敵じゃない』——ということを伝えている」
 「…………」
 妙なことを言う奴だ。確かに俺たちは敵じゃない。誰かを攻撃するためにここまで来たわけじゃない。だが、不意打ちで先に撃って来たのはあっちだ。誤解もへったくれもあるか!
 ——いや、そうじゃないか。先行した未確認機アンノーンを警告なく撃ったのはこちらだから、この戦闘は不可避だったのかもしれぬ。ここまでこじれてしまった状態で『話せば分かる』と言っても通用するかどうか——
 
 「誤解は解けたようだ」
 姫島の声が響く。貨物室カーゴルームのカメラ映像を見ても、杭瀬らしき装甲兵アーマードソルジャーの背中が見えるだけで、送信しているという肝心の光信号は見えない。望遠でモニター越しに見えるRERC機からの返答はただひとつ。
 「• —•ラジャー
 だけだ。『••• —•』すらない。
 もう少し正確に言うとそれだけではなく、機体を左右に揺らしてこちらの要請に答えているように見える。拍子抜けだが平和的に解決できたのであればそれが一番だ。俺たちは——いや、俺は、地表降下部隊アタッカーズの捜索と救助のためにここまで来たのだ。姫島ら装甲兵アーマードソルジャー隊を含めた地表降下部隊アタッカーズ自身の降下目的、共和国エネルギー管理委員会RERCの目的、そして御影恭子の目的はそれぞれだろうが、そんなこと知ったことではない。
 もっとも、地表降下部隊アタッカーズが無事だと分かった時点で、俺の目的は達成されているので、今は御影恭子との約束で降下しているようなものだが、ここまで来たら乗りかかった船——いや、落ちつつある輸送車だ。地表降下部隊アタッカーズと共に〈レッド・ランタン〉に帰投するまで付き合うこととしよう。
 ——というか、それしか帰る手段はあるまい。RERCの装甲兵員投降機APDには付いている復路用の膨張浮揚翼インフレータブルウイングはもちろんのこと、風任せで上昇する浮遊気球すら、この〈ブラック・タートル〉には付いていないのである。

 
         *  *  *
 
 高度一万メートルを切ると、もうそこは死地だ。元来、金星には地上30キロメートルより上の硫酸雲の中を漂っている菌類しかいないが、そこから外れて下まで降りてくる奴もいる。これがすぐ死ぬかと思えば、以外としぶとい。地球の深海でも、海底火山の周辺の熱水鉱床には超好熱菌Extreme Thermophileと呼ばれる微生物が生息していて、150度でも平気な奴がいるらしい。
 金星では、さらに超々好熱菌Ultra-Hyperthermophileというものがいて、300度を越えても生きている奴がいる。面白いことに、同じ温度でも高圧で硫酸塩が多い環境であるほど長生きする特性があり、まさに金星の気候に即した進化をしている——と、みのりからもらった御影恭子博士の論文に書いてあった。ただし彼女の説だと、金星にいる菌がオリジナルで、地球に降り立った菌のほうが退化Degeneratedしてしまった怠け者であるということらしい。
 オーブンで焼いても天婦羅にしても死なない程の、熱に対して抜群の耐性を持つ金星の菌も、高度一万メートル以下の400度を超える高温になるとお手上げらしく、これまでに生きたまま採取された菌は皆無だ。もちろん、〝まだ発見されていない〟究極の好熱菌Ultimatethermophileが存在している可能性はあり得るものの、熱変性とやら——生卵が熱で固まるとかそういうことか? ——を考えると、見つかっている超々好熱菌Ultra-Hyperthermophileをそのまま強化しただけでは駄目で、菌を構成しているタンパク質と代謝系そのものを大幅に変えなければ生きていくことは難しい——と、その論文は続けられていた。
 一体全体、『こんな研究をして何の役に立つんだ』と俺なんかは思ってしまうが、そいつを言い始めると、そういう研究者を守ることが主目的である俺たちの金星勤務が空しくなるので、考えないことにしている。まあ、百年後、二百年後に役に立てば良い。いや、実利に役立たなくてもそれはそれで良いじゃないかとさえ思う。俺だって『何故いつも空を飛んでいるのか?』と問われれば、任務とか使命とか口では言うが、ぶっちゃけ、楽しいからだ。それでいいじゃないか。
 
 高度八千メートル。金星最大の活火山Maat Monsの標高が、このくらいだったはずだ。つまり、場所によっては既に地表に降りていてもおかしくない高度にまで降りて来ているということになる。ピカピカの黄鉄鉱の霜ってヤツを見てみたかったが、周囲には高い山は無く、レーダー反射にもそれらしい信号は映っていない。
 後ろのRERC機は迂回するコースを取るらしく、左へ回頭して行った。姫島はどうやって彼らを丸め込んだのかサッパリ分からんが、向こうで合流すれば分かることだ。俺は愚直に直進で行く。わざわざ時間をかけて回り込む必要は無い。また、RERC機の形状から推測すると、その機体の滑空比は〈ブラック・タートル〉に比べれば明らかに大きい。こっちが空飛ぶ煉瓦レンガなら、あっちは空飛ぶかわらだ。一文字違いだが、神護寺から投げるかわらけはとても良く飛ぶ。もしもRERC機の真似をして同じように迂回したら、崖を回り込む前に地表に落ちてしまい、後はひたすら地面をのたりのたりと走らねばならなくなる。その間に彼らは上空を悠々と飛び抜け、先を越されるに違いない。競争しているつもりはないが、わざわざ後塵を拝するつもりもない。
 問題は崖越えだ。超えられないというのじゃない。超えた後が問題だ。
 
 「みのりちゃん。崖の先はどうなっている?」
 「で、ですから、みのりちゃんと言うのは——」
 「えっ?」
 「——いえ。なんでもありません。その先は高度差400メートルほどの断崖です」
 崖の場所はテルス島Tellus Islandの北西。本来ならばその先は海——と言いたいところだが、残念なことに金星に海はない。よって、海抜何メートルという表現はできず、代わりに金星の平均半径を基準面としている。地球みたいに海面を基準とできれば分かり易いとは思うが、地球の基準海面も、実は実際の海面より1メートル程度下にある。標準高を決めた昔はそこが本当の海抜ゼロメートルだったそうだが、現在は海水が熱膨張していて、実情に合わない。国際度量衡委員会CIPM: Comité International des Poids et Mesuresとかが基準を変えるだの変えないだのと総会で議論しているが、会議は踊ってばかりで全然決まらない。要するに、結局——どちらも分かり辛い。
 で、我々は、テルス島Tellus Island北西の、これまた北西に伸びた半島の付け根部分——西向きに開けた入り江になっている場所を目指している。もしも、基準面から下に海があれば、さぞかし良い漁港になっていただろうと思われる場所だ。背後が断崖で平地が少ないから、漁港というよりは軍港にもってこいかも知れない。
 
 例の〝遺跡〟は、断崖直下ではなく、そこからさらに数百メートル沖合にある。みのりが回してくれた金星軌道メーザー高度計VOMA: the Venus Orbiting Maser Altimeterによる地形図では……なるほど。自然の地形としては不自然で巨大な立方体がそこにあった。
 似たようなものをどこかで見たことがあるなと考え、火星で有名な人面岩Cydonia Faceを思い出す。数少ない火星の観光スポットで、お偉いさんジェネラルが来ると上空を周回するのが習わしだった。ただ、実際にその上空を飛んでみると分かるが、どこが人面なのかサッパリ分からん代物で、『ちっとも顔に見えん!』とか不満を言われたが、そんなことを俺たちに言われても困る。こちとら飽きるほど遊覧飛行をさせられて、その質問にもウンザリなんだって。
 まあ、火星の話はともかくとして——。
 で、肝心の金星のそれは、確かに何らかの意味がありそうな立方体だった。目や口に相当する凸凹が無いだけ逆にリアルに人工物っぽい。ただ、火星のものと比べサイズが小さい。200メートル四方だから、クフ王のピラミッドより少し小さいくらいだろうか? 高さは低く、2030メートルというところだ。翼幅1キロメートルに近い〈マンタ・レイ〉の方が桁違いにデカイ筈だが、ここからまだその巨体が見えないことを考えると、崖と〝遺跡〟の間にすっぽりと収まっているのかも知れない。〝遺跡〟の向こう側にいるのなら、望遠で見えてもおかしくない位置関係だ。
 「不思議なモンだな。こんなものが最近になって発見されたのか……」
 「最近じゃありません」
 俺のひとり言にみのりちゃんが反応する。
 「えっ? それなら何故、今頃調査をするんだ?」
 「半世紀前の国際金星観測年IVYに、上空から調査されています。でも、自然地形だと結論付けられていたんです」
 「自然にこんなものが出来るのか?」
 「はい。マグマが冷えて固まった時にできる方状節理ほうじょうせつりという地形です。金星には割と沢山あります。一見するとピラミッドに見える地形もありますし、地球にもありますよ」
 「ふーん。火星の人面岩Cydonia Faceもそうか?」
 「火星——ですか? それはちょっと調べて見ないと……」
 「ああ、いい。気にしないでくれ」
 なるほど——、地表に剥き出しの〝遺跡〟が今頃発見されるのは妙だとは思っていたのだが、自然にできる地形と見分けが付かない代物だったわけだ。そういうことなら仕方が無い。
 
 ここにきて、炭素繊維強化樹脂CFRPの外骨格が時折〝カーン〟と軋みを上げ始める。直後に外肋骨式OFSセラミック装甲が〝ピキピキ〟と音を立てる。気持ちのいいものではないが、これはこれで想定内だ。怖いのは音がしなくなった後からである。
 大気はいよいよ濃密で、既に60気圧に迫っているが、気圧の絶対量もさることながら、高低差による気圧勾配の大きさが地球とは比べ物にならない。この段階で、降下速度が速くて機体角度が浅い場合は、水面を飛ぶ水切り石のように跳ねてしまうことすらありそうだ。
 幸か不幸か、一度失速ストール寸前までいった〈ブラック・タートル〉の降下速度は遅い。従って、降下進入角も深くして速度を稼ぐ必要がある反面、崖越えを目指す以上、それほど深くできるわけではない。大気圏突入時の大型帰還船ほどではないが、進入すべき〝窓〟がシビアに決まっているわけだ。もっとも、機体角度を間違えると燃え尽きてしまうような心配は無い分、気は楽だ。仮に、崖上に着地でも、その後の〝遺跡〟到着に時間がかかるだけだから、生命の危険は無い。
 ——いや、相転移吸熱体PTHAを使い切ってしまって丸焼けという事態はあり得るな……。

 
         *  *  *
 
 高度六千メートルを切った段階で、地表面のレーザー測量機LIDAR: Laser Imaging Detection and Rangingによるスキャンを開始する。もちろん、金星軌道メーザー高度計VOMAによる地表面データを常時見ているが、軌道上からの観測によって作られたデータであるから、全地表を走査するのに数日はかかるし、格子メッシュ間隔が水平50メートル、鉛直1メートルと大きいのが難点だ。センチメートル単位で情報が欲しいなら、飛行しながらのレーザー測量しか無い。GPS衛星が当てにならないから、金星軌道メーザー高度計VOMAとの絶対値比較はできないにせよ、機体との距離は完璧に分かる。有視界飛行VFRによる着陸ならこれで何ら問題は無い。
 今のところ、降り立つべき崖向こうは残念ながらレーザーが届かないが、とりあえず、もしもの時の測量をしておいても損はない。転ばぬ先の杖だ。それに、こいつは地表面の情報だけでなく、途中の大気状態や風向きも測ることができる。崖の形状はいきなりの断崖ではなく、崖の縁が少し盛り上がっている。丘陵きゅうりょうの先が崖という風景だ。
 ふむ。と言うことは……。
 レーザー測量機LIDARを崖上空の空間に振ってみる。やっぱり……。
 
 「ちょっとだけ進路変更していいか?」
 副操縦士コーパイ席で『何してるの?』と言わんばかりの怪訝そうな顔でこちらを見ていた御影恭子に聞く。〝聞く〟というのは正しくないな。例え『駄目』と言われてもするつもりなのだから、これはお伺いではなく決意表明だ。
 「これ以上、どんな冒険をするの?」
 「最速降下を試みる」
 「最速? この着陸進行ランディングアプローチが最適だと思うけど……」
 「ええ。これ以外に崖向こうに最短で降りられる進入路はありません」
 みのりちゃんまで、後ろから口を挟む。確かにみのりの指示は、衛星追尾型の広域航法RNAV: aRea NAVigationより正確かもしれないが、それはハイウェイのど真ん中を行くような正確さでしかない。
 「最短ではあるが、最速ではないな。それに——」
 御影恭子は眉間にしわを寄せたまま、みのりちゃんは心配顔だ。面白い。
 「——単調でつまらん!」
 そう言って、俺は操縦輪Control Wheelを押し込んだ。崖越え後のことを考え、僅かに左にバンクを切る。機首が下を向き、視界には黒々とした岩肌が入ってくる。見た目には崖越えどころか岩場に激突のコースだ。
 「えっ? 何をするんです?」
 みのりちゃんが慌てた声を出す。大気による抵抗か、はたまた浮力の所為か、どちらにせよ濃密な大気の影響であることは間違い無さそうだが、これだけ傾けても空力制動Air brake——いや、急降下制動Dive brakeがかかりっぱなしであるかのように速度が出ない。主翼に取り付けられた翼端板Wingletは飾りかと思っていたが、高密度大気中では僅かな翼端渦でも降下に支障が出るということだろう。だが、ここまで降りてくると、ロケットエンジンでも無い限り、高速飛行をするのは難しいのかも知れない。速度が出たら出たで制御がとても難しそうだ。もっとも、エンジンの無い〈ブラック・タートル〉には無用な心配事である。
 
 「なるほど……斜面上昇流スロープリフトね」
 怪訝そうな顔をしていた御影恭子は、手元の計器類とレーザー測量機LIDARの観測データを見ながら頷いた。だが、表情はそのままだ。何かを憂いている女性は美しいねぇ。
 「でも、崖向こうは下降流Boraが起きてるはずだし、跳水現象Hydraulic Jumpが起こっている場所までは行けないんじゃないの? 失敗すると手前で落ちることになりそう……」
 「跳水現象Hydraulic Jump? 学者が使いそうな言葉だな」
 言ってから気付いた。御影恭子は学者だった。
 ボーラの方は聞いたことがある。アルプス越えでアドリア海やスロベニアの街に吹き込む寒冷なおろし風だ。そう言えば、コイツはあっちの方の出身だったんだっけか?
 で、吹き下ろしで急激に落ちた風は、確かにその後ジャンプする。俺も南極で何度か見たことがある。あっちは地吹雪でジャンプが視覚化されるから分かり易い。
 だが、御影恭子の考えている跳躍ジャンプのイメージと俺の考えている上昇流リフトのイメージは、どうやら少し違う気がする。まあ、俺は俺の流儀でやらせてもらおう。雇い主は彼女だが、主操縦士パイロットは俺だ。
 「あの先は崖だ。気流が壁面を伝って降りるには急過ぎる。普通の下降流Downslope windにはなってない」
 「ん? ——じゃあどうなってるの?」
 「崖裏で気流が剥離して逆向きの渦巻きを作ってる筈だ。そいつの後面に乗れば、更にその先の上昇流リフトまで行ける。かなり強力で垂直なヤツだ。手前に回転流ローターがある程の」
 「んん? 剥離した渦巻きが回転流ローターになってる?」
 「いやいや、そうじゃない。剥離した渦は上昇流リフト下部までの定期便で、崖下を移動するだけだ。ここからは直接的には見えない。回転流ローターは急激な上昇流リフトの手前にできる。ここから見ればほぼ正面。レーザー測量機LIDARを見れば分かるだろ」
 「いえ。分からないわ。でも——」
 御影恭子はやれやれと言うあきれ顔をして付け加えた。
 「——お任せするわ。好きにやって頂戴!」
 「御影さん!」
 みのりが慌てて制止に入るが……すまんな。今の俺の雇い主は御影恭子で、みのりちゃんは名目上は人質﹅﹅﹅﹅﹅﹅なのだ。
 
 金星の風は上空に行くほど強い東風が常に吹いている。高度四千メートルを切ったこの地点では秒速数メートル程度の弱い風になってはいるが、大気密度が70倍も違うのだから、風速は弱くても、その風力は地球上の比ではない。また、降下時の感触から分かったことだが、地表付近の風の上昇・下降流は弱く、コンパクトにまとまっている。弱いというよりは、のんびりしているというべきか。微小な乱気流タービランスさえなにやら牧歌的で、跳ね馬ではなく、らくだに乗っているようだ。
 原理はよく分からん。軌道間輸送船OTVでの睡眠学習のような講義で、大気が高密度で、かつ、地表面の高温により鉛直方向の気圧傾度が緩やかで、大気の上下振動数が小さいとかなんとか言ってたような気がする。
 目の前にあるのは高々400メートルの断崖だが、地球上の換算すれば、これはアルプス越えの風に匹敵するのではないか? ——というのが、俺の推理、仮説だ。単なる妄想ではない。実際にレーザー測量機LIDARのデータを見ての俺の判断だ。もしも地球上でこの表示を見たなら『誰だ! 表示目盛りスケール10分の1にしたヤツは!』と整備兵メカニックをドヤしつけていたことだろう。
 計器は既に地上三千メートルを示しているが、これは地表基準面からの高度で、崖上までの高度は千メートルを切っている。この高度で高速飛行をすると、翼端の負圧部分で極まれにオレンジ色の水蒸気ヴェイパーを引く——らしいが確認は出来なかった。そもそもそれは水蒸気ヴェイパーではなく、大気の二酸化炭素がそう見えるらしい。固体燃料系の茶色い排気とは違い、翼端から離れた瞬間に見えなくなるそうだが、そいつを確認するには金星は温度が高過ぎる。低温の液体燃料LH2/LOXを使ったロケットなら、そいつの周りには白いドライアイスが張り付き、外側に茶色いガスが渦巻く情景が見られるだろう。
 
 強化型対地接近警報装置EGPWS: Enhanced Ground Proximity Warning Systemの音声が『地形注意Caution terrain』だの『降下するなDon't sink』だのと叫び始める。地表に降り立つ事がほとんどない金星ではなかなか聞けない貴重な警報だ。グライダーにこんな装置つけても仕方ないだろうと思うが、官製の規格品だから仕方がない。
 まさか『機首起こせPull up』とは言わないだろうな。そいつは逆効果だ。
 ——ドミソは鳴らなかったな。
 「このままだと、崖上面に硬着地ハードランディングです」
 みのりちゃんが少し焦って、強化型対地接近警報装置EGPWSに加勢する。総突っ込みの夫婦漫才みたいだ。『墜落です』と言わないだけマシか。
 「分かってる。だが、このままでも山越え気流と地面効果グランド・エフェクトで超えることはできる」
 「そう——なんですか?」
 懐疑的というより、単に不安なだけという顔だ。まあ、それはそうだろう。通常、人は直線的にモノを見るように出来ている。自分の進むべき先に地面があればどうしても機首を上げたくなる。エンジンの付いた航空機ならそれでいいが、グライダーでは逆に失速する。ミサイルが来た時は、ついいつもの癖が出てしまったが、今の俺の頭ん中は完全にグライダー仕様——〈ブラック・タートル〉仕様に切り替わっている。同じあやまちは繰り返さない。
 
 御影恭子に聞いてみる。
 「崖上からの高度は?」
 「920」
 「崖までの距離は?」
 「5000」
 即答したところを見ると、とりあえずはこの状況を気にはしているようだ。もちろん、俺も計器は見ているからこの事実は分かっているのだが、彼女の意見も聞いてみたい。
 「どう思う?」
 「どう思うって? うーん、何とか越えられるんじゃない? 少しお腹をこするかもしれないけど」
 「擦ったら困るだろ」
 「——ええそうね。そのまま崖下に真っ逆さまだから、逆に手前にちた方がマシね」
 「ええっ! そんなぁ‼」
 みのりちゃんの顔がますます青くなる。もうちょっとからかって見るか。
 「このまま墜落だと正常飛行衝突CFIT: Controlled Flight Into Terrain扱いかなぁ」
 「故意にやったと見なされてテロ扱いかもね。あなた——今はハイジャック犯だから。公式には」
 「はっはっは。そうだったなぁ」
 「笑いごとじゃありません‼」
 御影恭子が話を合わせて来たのは意外で面白かったが、さすがにこれ以上やるとみのりちゃんが可哀想だ。——っていうか、既にキレ気味ですらある。一度キレたところを生で見てみたい気もするが、『みのりちゃんは仕事中は真面目すぎて結構怖い』というのは周知の事実なので、第三者的立場で噂を聞いてる程度が丁度いいのだろう。当事者にはなりたくないしな。
 
 「すまん、すまん。大丈夫だみのりちゃん。翼の揚力ってのは速度の二乗と大気密度に比例するんだ。降下のお陰で速度は充分だし——、外の大気密度は説明する必要ないな」
 「えっ? ええ……」
 「〈レッド・ランタン〉や浮遊基地フロート・ベースのある空域でこの状態ならとっくに墜ちてるが、ここまで降りてくると、このくらい遅くても平気なんだよ」
 「そんなもの——ですか?」
 「そんなものだ。おまけに〈ブラック・タートル〉に取り付けてある使い捨ての可変翼には、ご丁寧にも伸展式下げ翼Fowler flapまで付いてる。一度出したらそのままの機械式だけどな」
 「は……はぁ」
 「だから大丈夫。崖上10メートルを切ることはない。俺を信じろ」
 「……分かりました」
 本当に納得したかどうかは分からないが、それでみのりはおとなしくなった。別に色々有ること無いこと並べ立てて誤摩化したわけじゃない。全て本当のことだ。
 ——が、本当に難しいのは崖越えの後なんだけど、それはあえて言うまい。いずれ分かることだ。
 
 事実、丘陵きゅうりょう越えは難しくなかった。日射が無いから熱上昇気流サーマルは無いが、東風の山越え気流は安定している。御影恭子の指摘通りだ。それでも、崖上の高度30メートルを切った時には緊張していた。俺ではなく、みのりちゃんが……。速度は規定の着陸進入速度Threshold speedを大きく超えており、高度を少し上げることは可能だったが、その後のことを考えて高速のまま通過する。〝高速〟といっても、亀が歩むほどにノロい。飛んでいるという感じではなく、むしろ泳いでいる感じだ。地表の黒々とした岩石群も海底の雰囲気を醸し出している。装甲兵アーマードソルジャー隊をここで降下させ、〈ブラック・タートル〉はそのまま着陸復行ゴーアラウンドすることが出来そうな高度だ。幸か不幸か——いや、幸に違いないが、今回は幸いにもそういう作戦局面シチュエーションではない。
 「崖——越えます」
 みのりが安堵の声で地形図を見る。
 「下げ翼フラップは? 出す?」
 「いや、まだだ。崖下の気流が読み切れてない。レーザー測量機LIDARを見てからだ」
 俺と御影恭子はその先を見ている。結局、崖越えまで例の〝遺跡〟は見えずじまいだ。
 
 さて、ジェットコースターは昇り切った。お楽しみはこれからだ。







五、発  動

 
 「なんだこれは⁈」
 崖下にあるはずの〝遺跡〟は無かった。正確に言えば見えなかった﹅﹅﹅﹅﹅﹅金星軌道メーザー高度計VOMAによる地形図からの情報では、水平200メートル四方、5階建てのビルらしきものが見えてくる筈だったのだが、それを覆い隠す何か﹅﹅が存在していた。姫島は〈箱船〉という『〝遺跡〟を囲む周辺施設』があると言っていたので、遺跡を取り囲むように隣接した施設が建てられているのだと思っていた。思い込んでいた。施設は、遺跡に被せられていたのだ。
 同時に、そんな巨大な施設が、我々や共和国政府にも気付かれずにどうやってここに建造出来たのか?
 地球からの物資輸送は、各国の検査官の監視のもと、3ヶ月に一度の軌道間輸送船OTVでしか運搬されないというのに、どうやって建設資材を調達したのか?
 さらに付け加えると、姫島らが所持していた装甲兵携帯式地対空ミサイルAMPADSなど、合法的に入手できる筈のない武器が何故存在するのか?
 それらが一挙に分かった。
 
 「コイツはあんときの——〝水汲み作戦〟の時の取りこぼし﹅﹅﹅﹅﹅じゃないか」
 
 〝水汲み作戦Water-Drawing Mission〟——金星での俺の初任務ファースト・ミッションであったそれは、氷の彗星を空中でキャッチする単純な作戦だった。彗星の全てを大風呂敷ビッグ・ハンドで捕まえたはずが、バレル・ロールでするりとかわした氷の塊。そして、それを雲海の向こうから待ち受けるかのような、レーザー・レーダーの照射。むろん、そんなものが自然の氷の塊のわけがなかった。黒い岩肌に取り付いた白いその周辺施設——〈箱船〉は、おそらく反射する光が雪氷と同じになるような擬装ぎそうをしたあったのだろう。こうして見下ろしても、氷山がそこにあるかのような錯覚に陥る。氷の彗星と共に降下していた時は、実際に本物の氷をまとっていたのかもしれない。
 風防ウィンドシールド越しに上から見た限りでは、崖下に氷山の一角が地中から生えているようにしか見えず、〝遺跡〟そのものは全く見えない。
 先に降下した地表降下部隊アタッカーズのものと思われる〈マンタ・レイ〉はそいつに寄り添うように翼を休めていた。おそらく、アンカーで固定され、下部ハッチから〈箱船〉に与圧連結されている筈である。脇には浮揚軽量車エアロスピーダーが一台見えるが、周囲に装甲兵アーマードソルジャーなどの影はない。もっとも、裸足で出歩ける場所ではないから、他の隊員はほとんどは施設内に留まっているのだろう。
 ちなみに、RERCの装甲兵員投降機APDはまだ到着していない。どうやらこの〝ウサギと亀〟の勝負、俺たち〈ブラック・タートル〉の方が先になりそうだ。
 
 「ひぃっ‼」
 みのりちゃんが切り詰めた悲鳴を上げる。おおっと、そうだった。俺と御影恭子は現在の状況を予想していたが、みのりにとっては不意打ちだったかもしれない。いや、きっとそうだったのだろう。
 平面的で上下の視野が狭い﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅〈ブラック・タートル〉の風防ウィンドシールドで、ほぼ真下の施設が見える状況というのを想像してもらえば分かると思う。俺たちは今、俯角60度程で急降下中なのだ。いきなりの積雲下降流ダウンバーストが発生したわけではない。いや、そもそも積雲が存在しない金星表面でダウンバーストが発生するわけはない。
 ちなみに、実際の下降流はそこまで急に吹き下ろされているわけではない。俯角40度くらいだろう。意図的に操縦輪Control Wheelを操作し、速度を維持している。ここまでくると制御された墜落より、下手に高度を保とうとして起こる失速ストールの方が怖い。
 仮に高度を何とか保ったとしても、正面にある回転流ローターに突っ込めば、頭を押さえ込まれ、バスケでダンクシュートされたボールみたいに地上に落っこちるだろう。
 
 「こっ、高度、300……290……280……」
 みのりちゃんが墜落へのカウントダウを始める。こちらで見ているレーザー測量機LIDARはセンチメートル単位で高度が分かっているから、わざわざ読み上げる必要はないのだが。
 「——ここだな」
 レーザー測量機LIDARが崖下に発生した渦巻きを捉える。崖から離れ、かなり風下まで流されている段階だが、〈ブラック・タートル〉の足が届かないほど離れているわけではない。むしろこの方が好都合だ。少しばかり操縦輪Control Wheelを引き起こし、タイミングを測る。あとは玉乗り﹅﹅﹅の要領で前に移動すればいい。
 「200を切りました‼ 190……180……」
 頭上を回転流ローターが通り抜けていく——いや、逆だ。〈ブラック・タートル〉がその下を通過中なのだ。操縦輪Control Wheelをさらに引き起こし、回転流ローター下部に入る。追い風だから墜ち易いが、降下に伴って貯めた速度の貯金を使って凌ぐ。機体はガタガタと揺れていて、地球上なら〝木の葉のように〟となる場面だが、揺れの質としてはあたかも遊園地の木馬のように優雅だ。
 「170……160……このままだと墜ちますよ! 未確認機アンノーンみたいに」
 みのりちゃんは半ばパニックになっている。こいつが操縦桿を握りたがらないのは、こういう状況が苦手なのだろうと察しがついた。遠隔では冷静に対処出来て優秀な新兵が、現場では取り乱してしまうということは良くある。もちろん、その逆もある。人それぞれだ。
 みのりとは対照的に、御影恭子は落ち着いたものである。俺の操縦と視線の先のデータを確認しながら、やっていることを理解しているようだ。まあ、コイツは〈収水〉から躊躇なく緊急脱出をするようなヤツなのだから、肝が座っていると見るべきだろう。
 「みのりちゃん——」
 「なっ、なんですかっ‼」
 すっかりテンパって、叫んでいるとも怒っているともつかない声でみのりが返す。
 
 「——これが山岳波ウェーブだよ」


        *  *  *

 静寂が来る。
 「えっ?」
 みのりが目を丸く——してたと思う。振り向いてまで確認してはいないが。高度低下は止まった。いや、僅かに降下しているが、この機体でこの降下速度はあり得ないほどだ。もう少しばかり回転流ローターの上なら滑翔ソアリングも可能だったかもしれない。金星の濃密な大気は、この亀のような機体さえ支えることが可能なのかと、少しばかり驚いた。中々面白い——が、今回は遊びではない。安全に地表に舞い降りるのが任務だ。滞空時間を競ってもしょうがない。
 機械式のフラップをここで出す。どうせ使い捨てだ。使わないのは勿体ない。緩く右旋回しながら、着地ポイントを探す。崖下は地面の凸凹もあまり無く、どこに降りても支障は無さそうだ。6輪ある地上走行用のタイヤは、横に展開すると多かれ少なかれ空力制動Air brake効果を発揮するので、とりあえずは胴体下部にくっ付けたままにしておく。本物のカメムシだって飛行中は足を引っ込めている筈だ。——確認はしていないけど。
 本来、〈ブラック・タートル〉の着地時には自動で衝撃緩衝袋体SABAを展開するのだが、気流を読んで軟着地ソフトランディングさせれば、そのまま6輪で走りだすことができ、展開後の袋の回収手順と時間の節約になる。ここは手動で回路を切っておくことにする。
 
 「後方にRERCの装甲兵員投降機APD
 「分かってる」
 みのりちゃんは元の冷静さを取り戻していた。〈ブラック・タートル〉はゆっくりと右旋回して、降下時の時と比べてほぼ直角——山岳波ウェーブによる上昇流リフトを辿りながら崖と平行に飛行している。〈箱船〉と呼ばれる一連の施設は、右手1キロメートル弱の距離に見えているが、側面から見ても〝遺跡〟そのものは見ることができない。〈箱船〉によって完全に覆われているようだ。RERC機は崖を左側に迂回して進入してきたから、現在の位置関係としては〈ブラック・タートル〉の後方から近づいてくることになる。ただし、機影はまだまだ遠く、ここから7~8キロメートルは離れているだろうか……。
 それに、例え彼らが我々と同時に同じ場所に降りたとしても、彼らは地べたを走る足を持っていない。この勝負。やはり俺たちの勝ちのようだ。
 「あれは何?」
 副操縦席の御影恭子が右手9時の方向を指差す。〈箱船〉の手前から土煙が上がっているのが見える。高速移動物体だ。
 「浮揚軽量車エアロスピーダーが、RERC機に向かってます」
 カメラ映像で捉えたみのりちゃんが答える。さっき上空で視認したあの車両だろう。
 「RERC機にだって? こっちじゃないのか?」
 「——いえ。違うようです」
 意外だった。俺たち3人は勝手に押し掛けただけだから、出迎え無しでも仕方がないが、〈ブラック・タートル〉の貨物室カーゴルームには正式な地表降下部隊アタッカーズである姫島ら装甲兵アーマードソルジャー隊が乗っている。そのことは放射霧を挟んだ一連の通信で分かっている筈——なのだが?
 「浮揚軽量車エアロスピーダーはもう1両ある筈だが?」
 確か、浮揚軽量車エアロスピーダーの操縦士は正副合わせて4人いたはずだ。普通に考えれば2両編成で降下していたと考えるべきだし、故障することも考えると、やはりもう1両、どこかにあると考えられる。
 「ここからは確認できません」
 我が軍の〈ブラック・タートル〉ではなく、RERC機に用事があるとするならば、先に撃墜——撃墜でいいのか?——された未確認機アンノーンにもう1両は行っているのかも知れない。
 「RERC機に向かっている浮揚軽量車エアロスピーダーの装備は?」
 「何の装備ですか?」
 「だから、迎撃用の装備は?」
 「えーっと……、表面上は何も——」
 何も……無い? 迎撃目的では無いのか? ああそうか。姫島は、彼らに対する『攻撃は中止』と言っていた。じゃあ未確認機アンノーンは何故落ちたんだ?
 ふーむ。分からん。分からんが、考えるのは着陸してからだ。
 
 「降着装置ランディングギア——いや、走行輪を展開する」
 「衝撃緩衝袋体SABAは?」
 御影恭子は疑問形で聞いて来てはいるが、こちらの意図は理解しているらしい。手動で回路を切ったことも確認しているだろう。
 「いや、必要無い。そのまま地上を走る」
 「了解ラジャー
 「ギア・ダウン」
 「ギア・ダウン」
 〈ブラック・タートル〉の車輪ギアはあくまで地上走行用ではあるが、非整地場も高速で走れるよう、車輪角度をつけることができ、車軸を立てた場合は着地時にそれが開くことで、緩衝装置ショックアブソバーの役目を果たす。車軸は上下だけでなく前後にも動かせるので、前輪を前方へ、中輪と後輪を後ろへと延し、前脚ノーズギア主脚メインギアに分ける。形状としてはますますカメムシっぽくなった感じだ。脚を下方に降ろしたことで少し気流が乱れるかと思ったが、それほどでもない。
 「下げ翼角25度フラップス トゥエンティ・ファイブ……じゃなかった、20ツー
 「フラップス、ツー」
 こいつは小型機扱いか……そりゃそうだな。
 「高度30メートルワン・ハンドレッツ
 「ワン——、決心高度ミニマムはこれでいいの?」
 御影恭子が復唱リピートの代わりに疑問を呈す。
 「気圧が90倍だからな。正直、俺も分からん——」
 嘘をついても仕方がない。偽らざる気持ちを話す。
 「——だが、降下中に大気状態は把握した。これでいい」
 確証はない。だが、これでいいことは分かる。何故分かるのかは俺にも分からないが、これでいい。それに、決心高度ミニマムも何も、〈ブラック・タートル〉はグライダーなんだから、着陸チャンスは一度きりだ。
 「計器正常ノーフラッグス
 「計器正常ノーフラッグス——EGPWSがうるさいけどね。」
 強化型対地接近警報装置EGPWSは崖を越えた後、一瞬だけ黙っただけで、後は喋りっぱなしだ。『高度30メートルワン・ハンドレッツ』も俺と同時に言っている。軍用機にはこんな野暮なものは付いていないのだが、〈ブラック・タートル〉も建前は民間機だから、法律上、付けなければならない。高度確認はもうコイツに任せてもいいんじゃないかな?
 『フィフティ——』
 『トゥエンティ——』
 警報音と共にEGPWSだけが喋り続ける。崖越えでその役を自ら買って出ていたみのりは、既に腹を据えたのか、はたまた気絶寸前なのか、黙りこくっている。
 どうでもいいが、航空機着地の時だけ計器がフィート単位になるとか、いい加減、前世紀までで終わらせるべきだったと思う。
 
 『テン——』
 手探りで機首上げフレア操作を行う。また、通常はあり得ない操作だが、走行輪を空中で回転させ飛行速度と同期シンクロさせる。地表には滑走路があるわけではない。荒涼たる——いや、荒熱たる荒れ地が広がっているだけで、その中に降りねばならない。幸いなことに、接地面の凸凹は数センチ単位に収まっているようで、これなら車軸の緩衝装置ショックアブソバーで吸収できる範囲だ。もしかすると、地表降下部隊アタッカーズ——あるいは施設を作った先遣隊? ——が整地したのかもしれない。滑走できそうな地面は意外と長く数キロメートルは同じ状態だ。着地したと同時に走り出せば、右折しながら〝遺跡〟まで走り出せる。走行輪の同期シンクロはそのためだが、下手に制動ブレーキをかけてしまうと、勢い余って前方宙返り——そこまでいかなくとも数回バウンドした挙げ句に横転という可能性もある。無理に短距離で止まる必要は無い。
 空母に着艦する時のように本気で短距離着地をするならば、オプション可変翼の前面に付いている逆噴射装置が使える。下げ翼フラップ同様、一度使ったらお終いの噴射装置。簡単に言えば固形燃料がノズルに埋め込まれているだけの代物で、正確に言えば逆噴射装置リバース・スラストではなく逆進レトロロケットだ。
 また、もしもバランスを失い、前転や横転しそうになった時は、そもそも使う予定だった衝撃緩衝袋体SABAを展開すればいい。これなら余程の段差が無い限り機体は無傷だ。もっとも、その場合は、RERC機に先を越される可能性が高くなる。RERC機の動向は気になるが、まずはちゃんと降りてからだ。
 地面効果グランド・エフェクトによる〝浮き〟はほとんど無かった。〈ブラック・タートル〉の滑空比が空飛ぶ煉瓦レンガ並みなのと、オプションの可変翼が機体上部に取り付けられているという、いわゆる高翼機に属しているためだろう。走行輪の回転によるマグヌス効果が、地面効果グランド・エフェクトを相殺している可能性もある。最初は揚力減少翼スポイラーの使用も考えたが、全く必要なかった。
 
 機首上げフレア操作後、数秒で右後輪が接地ランディングする。反動で前後に暴れるようなことがあれば、即座に衝撃緩衝袋体SABAを展開するため、誤操作防止カバーが付いたままの手動展開ボタンに軽く手をかける。そのまま軽くジャンプし、再び後部両輪が接地。軽く沈んだ後、前輪も接地した。制動ブレーキがかかっている感覚はない。走行輪の同期シンクロは上々のようだ。いつもの癖で逆噴射装置に手が行くが、状況からして全く必要が無いことにすぐに気付く。
 思った通り——いや、思った以上の完璧な着陸ランディングだった。
 「上沢少尉は——」
 後方から言葉を無くしていたみのりちゃんが声をかけてくる。
 「——無次元化した風が見えるんですか?」
 「何? 何だって?」
 「む——いや、なんでもないです」
 風が見える﹅﹅﹅﹅﹅かと言われれば、飛行機乗りなら多かれ少なかれ誰でも見えている。見えなければ空は飛べない。ただ、俺にはみのりの言っている言葉の意味が見えなかった。
 
 充分にスピードが落ちたところで車軸をほぼ水平にし、通常走行に切り替える。操縦輪がそのまま使えるから簡単。方向舵ラダーを操作する必要も無い。大きく右折しながら〝遺跡〟へと向かうなだらかな丘を登る。オフロード車に乗っているような感覚でもあるが、クッションの効いた無気圧エアーフリータイヤと、1立方メートル当たり100キログラムを超える濃密な大気による浮力の所為で、トランポリンの上を走行しているような感覚だった。翼は広げたままにする。仮に地面の起伏で横転しそうになっても、翼があればそれがつっかえ棒になって防げるだろう。もっとも、実際には横転するような事態は発生しなかった。それどころか、凸凹の極端に少ない丘で、パウダー状の土に多少足を取られる軽微な問題以外は何の支障もなかった。しばらくしてからおもむろに翼閉操作をするが、下げ翼フラップが少しばかりはみ出してしまう。元が使い捨てだから仕方ない。着脱ボタン一発で切り離すことは可能だが、走行に支障が出るわけではないのでそのままにする。
 〝遺跡〟は——いや、それを取り囲む〈箱船〉は、近づけばかなり大きいものであることが分かる。〝遺跡〟自身が水平200メートル四方なのだから、それ以上に大きいのは当然であるが、幅はほぼそれと同じだとしても、崖に平行に500メートル近い壁がそそり立っていた。材質は白い硬質セラミックのように見える。雪氷のように見えたのはそのためだ。ところどころに窓らしきものがあり、銀色の鈍い光を放っている。〝水汲み作戦〟時に取り逃がした塊はここまで大きくはなかったので、彗星に偽装して建材を運ぶ作業は、一度だけではなく、過去に何度も行われたのだろう。そうでなければ、短期間にこれだけのものが作れるとは思えない。
 残り100メートル付近まで近づき、おもむろに貨物室カーゴルームにアナウンスを入れる。
 「当機は間もなく目的地に到着します。皆様、降機こうきの準備を——」
 ネタで言ったつもりが、この段階でハタと気付いた。
 「——俺たち3人はどうやって地面に降りればいいんだ?」

 
         *  *  *
 
 話は単純だった。要するに〝地面に降りなければよい〟のだ。
 
 「よし、そこだ。格納扉が見えるだろ」
 「あの掩蔽壕バンカー口みたいなやつか?」
 「ああ、そうだ」
 姫島はそういうと、俺が〈ブラック・タートル〉を停止させる前に飛び降りた。同時に杭瀬と千船も降車する。バックモニターで確認すると、姫島が正面で杭瀬は左、千船は右に展開する。降車戦闘の教範きょうはんに載せたいくらい基本的で流れるような動作ではあるが、ここに敵はいない。いや、いないと信じたい。
 『装甲兵アーマードソルジャー3馬鹿トリオ隊』の地上実戦の動きを見るのはこれが始めてだったが、なるほど、動きに無駄がなく、それでいて全周囲に目を光らせている。戦車隊の随伴歩兵スカウトとして彼らがいれば百人力だ。もっとも、〈ブラック・タートル〉は兵員輸送車なのだから、歩兵を守りつつ前線に送り届けるのが仕事だ。逆に歩兵に守られていては本末転倒もいいところ——ではある。
 
 我々が止まったのは、〈箱船〉の〝端〟の方だった。見知らぬ巨大建造物を前にしてどっちが端なのかといえば、『よく分からない』と答えるしかないのだけれど、幅200メートル、長さ500メートルの建物ならば、幅の狭い200メートルの方が端であろう。『幅200メートル』と言った段階で、既にこちらが端であると思い込んでいる証拠だ。
 〝遺跡〟は天面が平らな正方形であるらしいのだが、それをすっぽりと隠す〈箱船〉の天井は半円状をしている。一言で言えば、かまぼこの形である。おそらく耐圧のための形状であろう。ただ、かまぼことしては盛りが少なく﹅﹅﹅﹅﹅﹅、端の方から見ればなだらかな太鼓橋の断面のように見える。そこに格納扉が付いていれば、否が応でも掩蔽壕バンカーが連想されるのは当然のことだろう。
 ちなみに、もう一方の端には地表降下部隊アタッカーズの〈マンタ・レイ〉が置かれている。思うにこの施設は、左右対称の構造をしていて、向こう側にも格納扉があり〈マンタ・レイ〉と直結されているのではないかと想像できた。
 姫島は扉脇の操作盤を、手首に内蔵された小型電動肢サブ・マニピュレーターで器用に操作し、十秒もしないうちに扉を開けた。突風が吹かないところを見ると、気圧差は無いようだ。ただ、温度差による陽炎かげろうは僅かに発生している。扉が上がり切ったところで、杭瀬と千船は中に入り、姫島が入り口で手招きをする。スパイの嫌疑をかけられていた身としては、閉め出しを食らうことも覚悟していたが、恩を仇で返すほど姫島は悪いヤツではなかった。もっとも、RERC機からの攻撃を防いだのは姫島らであり、どちらが恩を受けているのかははっきりしない。ここは素直に中に入ることとしよう。
 ——と言うか、入らなければ、数十分で相転移吸熱体PTHAが完全に無くなり、丸焼けになるのは必至だ。
 
 俺は扉の前に横付けした状態で止めていた〈ブラック・タートル〉を超信地旋回させ、中へと向かう。〈マンタ・レイ〉の〇二まるふたハッチの時とは違い、この扉は横幅は広いが上下が狭い。車軸水平のままそろそろと高さ制限マックス・ヘッドルーム3.2メートルの扉を越える。毎回毎回、円盤円錐ディスコーンアンテナが邪魔だな。
 入った先は奥行き10メートル程度の気閘室エアロック——いや、側面にデカデカと洗車場CARWASHと落書きが書いてある。構造上、この部屋は気閘室エアロックの筈だが……なんだこれ?
 〈ブラック・タートル〉が入り切ったところで、外部扉が静々と閉まり、温度と気圧が下がり始め、排気ポンプに直結しているであろう換気ダクト口周辺から盛大に陽炎かげろうが発生する。ここはやはり気閘室エアロックのようだ。ふと見ると、姫島らはメインの内部扉の脇にある小さな非常用あるいは脱出口エスケープ・トランクを開け、中に入ろうとしているところだった。
 「おい! 何処に行く⁉」
 行動が怪しい。施設外に置いてけ堀を食らわなかっただけマシと言うものだが、ここに幽閉されたままというのも困る。ここまで来た意味がない。
 「心配するな。内部扉が開けば、そこから降りられる」
 「お前達は何処に行くんだ」
 「そこで装甲を脱ぐと減圧症になるからな。俺たちは耐圧PP: Pressure Proof人間と違うんだ」
 そう言い残すと、『装甲兵アーマードソルジャー3馬鹿トリオ隊』は回線を閉じ、扉の向こうに消えてしまった。さらに何か聞き出そうと考える前に、〈ブラック・タートル〉の風防ウィンドシールド越しの景色の異常さに気付く。盛大に発生していた陽炎かげろうはそれほど広くはない気閘室エアロック全体に蔓延していた。瞬く間に陽炎かげろうという状態を超え、得体の知れないザワザワとした状態になっていく。それだけではない。換気ダクト口からオレンジ——いや、茶色と黒も混じった気体ガスが流入してきている。4つあるダクト全てからだ。その色は上空の硫酸雲とも明らかに違うものだった。ラマン分光装置で常時計測されている大気組成を確認するも、ほぼ二酸化炭素100%の状態は相変わらずである。
 「何だ! どうなってる⁈」
 ——と騒いだのは俺だけで、みのりにさとされた。
 「温度と圧力が下がっているだけです」
 「いや。これは明らかにヘンだろ」
 「超臨界流体状態……。ケイマン海溝の熱水噴出煙突チムニーで見たことがある……」
 俺の突っ込みに御影恭子がひとり言のようにつぶやく。
 「えっ? 海水の超臨界ですか? じゃあ、水深3000メートルを越えてる場所で?」
 みのりちゃんが興味を示す。
 
 ——面白くない。俺だけ置いてけ堀かよ。
 
 あたりはほぼオレンジ色に染まる。2人が平然としているところを見ると、どうやら極当たり前の状況のようだが、これでいいのか?
 みるみる間に周囲が泡立つような状態になって、どんどん暗くなる。泡風呂に潜ったような状態にも思えるが、泡が見えるわけではない。第一、泡だらけならあたりが白くならなければならない筈なのだが、夕暮れのように暗くなるのはどうしたわけだ。
 「大丈夫——なのか?」
 「〈ブラック・タートル〉の外殻は炭素繊維強化樹脂CFRPと超耐熱セラミックタイルですから腐食はしません——多分」
 「多分かよ!」
 つい本気でみのりに突っ込みを入れる。あたりは一瞬真っ暗になったかと思うと、再び明るくなった。よく見ると風防ウィンドシールドに水滴が付いている。
 「洗車場CARWASHというのはこういう冗談ジョークか?」
 あまり趣味の良い冗談ジョークとは言い難いな。
 「ええっと、おそらくですけど、これは本当に洗浄のための処置かもしれません。臨界蛋白光Opalescenceがこれだけはっきり分かるには、温度と圧力を臨界点付近に調整しないといけませんから……」
 後から聞いた話だが、普通我々が吸っている空気も、超臨界流体と見なせるのだそうだ。いくら圧力をかけても、常温では液体にならない﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅からなのだそうだが、小学生の頃から気体だと教えられている俺にとっては何のことかサッパリ分からない。まあ、今後、死ぬまで役に立たない知識のような気がする。
 「んー。なんだかよく分からんが、これから精密部品工場に入るわけじゃないぞ」
 「そういう実験をしているんじゃない?」
 御影恭子が隣から茶々を入れる。そういえば、〝遺跡〟の御本尊というのは、モノポールとか言う素粒子で、硫酸なんとか菌が作り出した微小磁石に大量に囲われている——とかなんとかいう話だった。細菌が作り出した結晶体みたいなものだとすれば、それは集積回路ICと同じで、それなりの空気清浄室クリーン・ルームが用意されているのかも知れない。この場合、工業製品用途なのかバイオ用途なのかよく分からん。それ以前に、ずっと地表で——5億年もの間! ——埋もれていたものを、いまさらクリーンに保ってどうするのか? 科学者の考えることはさっぱり分からない。
 風防ウィンドシールドにについた水滴は、下に流れ落ちる前に蒸発した。むろん、それは本当の水のしずくではない。液化した二酸化炭素だ。水と違い、湯気のような白いもやが発生しないから分かり辛いが、もうもうと盛んに蒸発している——ようだった。
 モニター画面を見ると、〈ブラック・タートル〉は、知らぬ間に、液化二酸化炭素の中に半身を沈めている。だが、その水位——正確には、液化二酸化炭素位——もみるみる下がって行く。排水溝——正確には、排液化二酸化炭素溝……くどいな——らしきものは見当たらないから、全てが換気ダクトから気体として吸い上げられているようだ。相手が水なら、こんな方法で水溜まりが勝手に蒸発することは無い。
 ——いや、俺がまだ新兵だった頃、地球静止軌道上のステーション事故で、真空中に数秒間放置されたことがある。あの時は瞬間的に口内の唾液が泡立ったのだった。その後数日間、頭痛と関節痛に悩まされた。姫島の言っていた『減圧症』治療のため高圧治療室タンクに入ったのは、後にも先にも、あの時限りだ。
 
 気圧が空抜0メートル高度——すなわち、0.7気圧まで下がり、酸素主体の無窒素雰囲気に換装される。気温20度。センサーでチェックする限り、ヘルメット無しでも問題無さそうだが、用心のため被って出るべきかと思案していた時に、前方の赤色灯が回り、内部扉が開き始める。
 結局のところ、俺はヘルメットを被ることなく外に出ることになる。扉が開いた向こうに、長田大尉——小隊長殿おやっさんが笑顔で立っていたからだ。

 
         *  *  *
 
 「よく来たな」
 それが小隊長殿おやっさんの第一声だった。〈ブラック・タートル〉を降りて直接聞いたわけではなく、スピーカー越しだったが、普段通りの声で安心する。随分と久しぶりに聞いた気がするが、よく考えると地表降下部隊アタッカーズ出立しゅったつしてからまだ2日も経っていない。
 「さっそくだが、3番駐機場に入れてくれ。後続が来る」
 「了解ウィルコ。——後続というのは?」
 「エネルギー管理委員会のお客さんがくる。お前も見ただろ」
 「お客さん? それは、どういう——」
 「話は後だ。降りてから説明してやる。ここまで来たなら、色々と知りたいことがあるだろう」
 「は、はい」
 それは——そうなのだが、話が複雑そうだ。
 そもそも俺は、共和国エネルギー管理委員会RERCのソーニャから尋問を受けた身なのだが、小隊長殿おやっさんの口からRERCの話が出たとなると、遭難を装った﹅﹅﹅﹅﹅﹅地表降下部隊アタッカーズの今回の作戦は、実はRERCにも伝わっていて——いやいや、それなら、ソーニャが〈レッド・ランタン〉の管制室を占拠してまで調べる必要がどこにあるんだ?
 
 駐機場は、洗車場CARWASHという名の気閘室エアロック内部扉の向こうに、左右に分かれて3列。合計で6番まで存在していた。微速前進で洗車場CARWASHから駐機場に進むと1番に浮揚軽量車エアロスピーダが入っている。一機はRERC機を追いかけて外に出ていたから、残りの一機だろう。〈ブラック・タートル〉の赤外線前方監視FLIR: Forwaed Looking Infra-Red装置の見立てでは、帰って来たばかりでまだ温かいようだ。2番は空だが1番と同様、ホバー特有の走行跡が熱として残っている。4番、5番は空き。6番はどこから入れたのか、自走式の人員輸送モジュールPTM: Personnel Transport Moduleが置いてあった。
 直線で中央の通路を走り、超信地旋回。戦闘機の機動マニューバほどではないにしても、楽しいな、超信地旋回。もっとも、これで遊んでいるわけではなく、前方の人員輸送モジュールPTMがはみ出しているので、こうでもしないと3番に入れられない。ピタリと停止させるのが難しい浮揚軽量車エアロスピーダーをここに入れたくないのはよく分かる。
 制動ブレーキをかけてメイン電力を停止。再び乗ることはまず無いだろうが、シャットダウンも手順通り行う。面倒だといいながら、やらずに終わるのは気持ち悪い。操縦席コックピットから外部への出入り口は、後方左側。みのりが座る後部座席の横に、軽い割には潜水艦並に分厚いハッチがある。両手で開閉ハンドルを回すと微かに減圧の音がした。上部手すりに手をかけ、反動をつけて足から飛び出る。ここから外に出るにはこの方法が一番早い。その後にみのりちゃんが、茶室のにじり口から出てくるみたいに、正座しながら行儀よく出てくる。
 さっきまで460度の高温に晒されていた〈ブラック・タートル〉の外壁は、ほんのり熱気を帯びているだけだった。外壁に使われる超耐熱セラミックは、千度を超える高温で赤く焼いても、その直後に素手で掴めるほどの熱遮断能力を有している。とは言え、この急冷却は驚異的だ。おそらく、先ほどの洗車場CARWASHでのブクブク﹅﹅﹅﹅が一役買っているのだろう。
 2人揃ったところで、小隊長殿おやっさんに敬礼——おっとヘルメットは被っていないんだった。小隊長殿おやっさんもおもむろに敬礼を返す。
 「よく来たな——」
 二度目の小隊長殿おやっさんの言葉。
 「——で、ここに来たのは、そこの研究者の調査依頼か?」
 「そこの?」
 と言って振り向くと、御影恭子がハッチから顔だけ出してこちらを見ている。
 「いえ。捜索です」
 「捜索? 誰が行方不明になったんだ?」
 『貴方です』……とは言えなかった。
 
 地上に——いや、上空に残された管制室の面々が地表降下部隊アタッカーズの突然の音信不通であたふたしている間に、遭難者——生死さえ分からない行方不明者とされた当事者がそれを知らないのだ。『大丈夫ですか?』というのもはばかられるほどピンピンしている。
 『管制室が占拠され——』というのは報告すべき事項かもしれないが、その相手がよりにもよって、今ここに来るという共和国エネルギー管理委員会RERCのメンバーなのだから、この場、この時に報告すべきか判断に迷う。しばらく逡巡した後、何か言おうとした矢先、
 「それについては既に解決しました。詳細は後ほど報告します」
 とみのりちゃんが話す。まあ、確かに解決した﹅﹅﹅﹅と言って間違いはない。
 「そうか」
 小隊長殿おやっさんは一言いって、それ以上のことは追求しなかった。どちらかというと、所属がはっきりしている我々2人ではなく、後ろの御影恭子が気になるらしい。この中では唯一の、所属不明の得体の知れない人物だ。俺が小隊長殿おやっさんの立場だったとしてもそう思う。
 ——いや、小隊長殿おやっさんは〝水汲み作戦〟の時、彼女に『協力しろ』との命令が来ていると言っていたから、彼女についてある程度知っているのかもしれない。
 
 「で、そちらは?」
 既に俺たちの後ろに来ていた御影恭子が、ペコリと頭を下げた。
 「国際生物遺伝資源センターIBRC: Internatiomal BioResource Centre遺伝子材料開発室GED: Gene Engineering Division主任研究官の御影恭子です」
 「ああ。彗星に取り付こうとしたお嬢ちゃんか……」
 「あの時は失礼しました」
 そう言えば、彼女の素性を始めて聞いたような気がする。さらっと言っているが、何かとてつもなく高尚そうな組織だな。もし、〝水汲み作戦〟の前に聞いていたら、俺も少しは態度を変えていたかもしれん。いやいや、そんなことより、俺と接するときの態度とえらい違いじゃないか! 俺が彼女のことを『お嬢ちゃん』とでも呼ぼうものなら平手打ちのひとつも飛んできそうな感じなのだが。
 「確か、磁石を作る細菌の追跡調査が目的との報告を受けている。今回もその調査の一環と考えていいのかな?」
 「はい。当センターの情報解析室BID: Bioresource Information Divisionデータベースにある硫酸還元磁性細菌ncノンコーディングRNA遺伝子の発現機構プログラムが使われていると聞いて。少しばかり改良﹅﹅されているようですが……」
 「ふむ。技術的な部分は担当者がいるから紹介しよう。おっと、ここで立ち話は邪魔なようだ」
 小隊長殿おやっさんはアゴで後ろの扉を示す。気密保持のため一度閉じた内部隔壁扉がゆるゆると上がり、その先に浮揚軽量車エアロスピーダーが姿を現す。扉が上がりきる前に、我々は駐機場の最深部まで引っ込む。その直後、浮揚軽量車エアロスピーダーは派手な浮上音と共に4番、5番にスルスルと進入。スイッチバックで2番に停止した。操縦席コックピットの風防から透けて見える操縦士および副操縦士は、我が隊のパイロット。地表降下部隊アタッカーズの正式メンバーだ。彼らがエンジン停止処理をしている間に、宇宙船の脱出ポッドを縦に切ったような後部気密室から2名が降りてくる。
 俺は、みのりと顔を見合わせた。俺の顔にはおそらく眉間に立てスジが3本くらい入っていたと思う。みのりは一瞬目を丸くしたが、観念したのか何かを悟ったのか、一度だけ小さくうなずき、こうつぶやいた。
 「どうしましょう?」
 「いや、どうもこうもないだろ。なる様にしかならん……」
 
 俺たち——いや、御影恭子は直接は面識が無いかも知れないが、俺とみのりちゃんはその2名を知っていた。一人は巨漢で強面こわもて将校オフィサー。共和国直轄軍の奴らが〈レッド・ランタン〉の管制室を占拠したとき、みのりを取り調べたあの将校オフィサーである。みのりちゃんはコイツに尋問を受けただけでなく、その後、コイツのIDをまんまと盗み取り、図書館のメインフレームから共和国側のコンピュータに侵入ハッキングしている。もしも、それがバレていたなら、ただで済むとは思えない。そして、それはおそらくバレているに違いなかった。何故なら、もう一人は、図書館で俺に銃口を向けた男。そして、みのりの投げでなす術もなく顔面から床に突っ伏した男である。横の将校オフィサーが大き過ぎて小柄に見えるが、なんのなんの。眼光鋭く、それなりの武術は習得してそうな奴だ。よく見るとおでこに擦り傷があり、鼻の頭に絆創膏が貼ってある。みのりはこんな奴を投げ飛ばしたのか⁉ もっとも、あの時は小柄なみのりを見てコイツも油断していたのかも知れない。俺だってみのりにあんな特技があったとは知らなかったのだが、実力が知られた以上、今度はそうは行かんだろう。
 案の定、こちらに気付いた2人は、我々を——というより、おそらくみのりなんだろうが——睨みつけた。
 駐機場の奥で固まっていた俺たちを尻目に、小隊長殿おやっさんは降りてきた2人にずかずかと近づき、挨拶をした後、何かしらの話をしている。浮揚軽量車エアロスピーダーの排気音がうるさくて聞き取れないが、途中、こちらの方を指差しながら顔を向けたので、我々の話もしているらしい。小隊長殿おやっさんの表情からすると、図書館でのドンパチの話が語られているとは思えないが、もしかすると、先ほどのミサイル襲撃の話なら話題が及んでいるかもしれない。
 やがて浮揚軽量車エアロスピーダーの停止処理が終わり、降りてきたパイロットと共に、合計5人でこちらにやってくる。

 
 「紹介しよう——」
 小隊長殿おやっさんが外向けのにこやかな顔で話しだす。ワニがアイスクリーム食って微笑んでいるような顔で、全く似合わん。それに紹介して欲しくない。
 「——こちらは、エネルギー管理委員会の監視員だ。——表向きはな」
 「…………」
 神妙な顔で軽く会釈をする。みのりちゃんも同じだ。不意打ちを食らわない為に相手の目を見ながらのお辞儀。昔の格闘家がやってたのを真似てみた。はてさて、どう対応したものか考える間もなく、話は続く。幸いにも、こぶしの応酬には至らなそうな気配だ。
 「実際はこの実験室ラボ——〈箱船〉の提供者だ」
 「——実験室ラボ、〈箱船〉ですか?」
 RERCがこの施設の提供元というのも意外だったが、それを実験室ラボと呼ぶのか?
 「そうだ。で、この2人が——」
 「その節はどうも……」
 小隊長殿おやっさんが我々2人を紹介しようとしたとき、みのりに投げられたほうの男が右手を前に出した。握手だよな。合気道とかの投げ技じゃないよな。もっとも、ここで躊躇しても始まらない。利き手は差し出さないという昔のスナイパーの真似は止めにして、素直に手を出して握手する。意外と柔らかい手だった。
 「なんだ……知り合いか?」
 「え? ええ、まあ」
 俺が言うより前にみのりが曖昧な返事をし、俺の後に奴と握手をした。組み手の練習みたいに見えたとしても、握手は握手だ。ちなみに、もう一人の将校オフィサーとは、最初の会釈だけである。おそらく、こいつこそ、相手に利き手を預けない主義とか、そういうポリシーなんだろうと勝手に解釈した。
 「そして、こちらが御影博士——」
 博士と言われた御影恭子は、『どうも』とだけ言い、そのまま素直に何のためらいも無く2人と﹅﹅﹅握手した。
 前言撤回。このガタイのデカイ将校オフィサーは単にむっつりスケベなだけだ。その女は美形だが性格キツいぞ——と、心の中で忠告しておく。
 
 小隊長殿おやっさんの紹介はそれだけに留まらなかった。
 「既にモノポールの移し替え﹅﹅﹅﹅80%は終了している。初期段階で、マグネなんとかという細菌——」
 「走磁性細菌magnetotactic bacterium
 と、御影恭子が突っ込み。小隊長殿おやっさんは右手人差し指を上に押し上げて『それそれ』と暗黙のうちに言葉を引き継ぐ。
 「——そいつらの培養条件が中々厳しくて手間取ったが、今は酸性度も安定している。数時間もしないうちに最初の実験は行える筈だ」
 「それは良かった——」
 と、むっつりスケベの将校オフィサー
 「——こちらも秘密裏に行動する事が難しくなっている。情報の流出元が特定出来ない現状では、再び同士討ちの危険性も否定出来ない」
 「全くだ」
 小隊長殿おやっさんが目を細めてうなづくが、俺には何を言っているのかサッパリ分からずじまいだ。だが、詳細は後で聞けばいい。おそらく〝同士討ち〟と言うのは、降下時のミサイル攻撃のことを言っているのだろう。いや、その前の未確認機アンノーン撃墜の話かも知れない。撃墜されたのかどうかは分からないが、少なくとも〈箱船〉周辺に未確認機アンノーンは到着していなかった。楽観的に考えれば、1番駐機場に止まっていた浮揚軽量車エアロスピーダーで乗組員は救助されたと見るべきだろう。そうでなければ、こんなににこやかに話が進むわけが無い。
 あるいは〝同士討ち〟と言うのは、俺とみのりの図書館からの脱出劇なのかもしれない。あの時はコイツらとは互いに敵同士だった——って言うか、未だに襲撃された理由が分からないが、コイツら2人は俺たちを勝手に敵だと認識し、今また俺たちを勝手に同士だと思ってくれた——そういうことだろう。
 小隊長殿おやっさんは俺たちがこの実験に関わっている同士では無い﹅﹅﹅﹅﹅﹅ことを知っているが、そこはRERCの2人と話を合わせたと考えるのが妥当だ。俺たちの身の安全のために。
 ならば、ここで『何の事やら、あっしにはサッパリ?』なーんて態度を取るべきではない。折角の小芝居が台無しだ。後でこっそり聞けば済む。
 そもそも小隊長殿おやっさんも、我々がここに来た理由はよく知らない筈だ。捜索に来たとか、御影博士の付き添いとか、そんなことを言われてもチンプンカンプンで、互いに詳細な話をする必要がある。しかし、それは、今、この場所では無い。
 
 俺はその場ではそれ以上の発言をしなかった。というか、出来なかった。下手に推測で話をしてもボロが出る。それ以前に、推測するほど話の材料を持ち合わせていない。駐機場で小隊長殿おやっさんと口裏を合わせるだけの時間も無かったわけだし、ここは知っているような顔をして黙っておくのがいいだろう。みのりも、そして、御影恭子も静かだった。みのりは2人を前にして『どうしましょう?』と言ってたくらいだしな。
 御影恭子が黙っている真意は定かではないが、どちらかというと、口裏を合わせる云々ではなく、実験そのものに興味があるようで、小隊長殿おやっさんとRERCの2人の会話に耳をそばだてているという風に見えた。嘘か本当か知らないが、彼女は硫酸なんとか細菌——いい加減に細菌の名前くらい覚えろよと自分でも思うが、覚えられない——が作り出す結晶体とか細菌そのものの遺伝子配列だとか、そういうものが知りたいという事で俺をスカウトしたのだから、まあ、行動としてはそれで合っている。
 
 俺たち3人と小隊長殿おやっさんとRERCの2人、そして、浮揚軽量車エアロスピーダーの正副操縦士2人の計8名でぞろそろと、格納庫奥の気密ドアから〈箱船〉内部に入る。実験室ラボと称されるだけあって、何処かの研究施設に通じていそうな通路がそこにあった。
 正副操縦士2人は直ぐ横のエレベータに乗り、別行動。地表降下部隊アタッカーズの待機室か何かに通じるのだろう。当初の捜索という任務から考えると、まずはそこに行って全員が無事かどうかを調べるのがスジだと思うが、既にその気は失せていた。
 通路の左側は、恐ろしく厚みのある小窓が並んでいる。銀色の鈍い光を放っていたあの窓だ。そこから見える景色は、窓の存在意義を揺るがすほどに殺風景だ。外はオレンジ色に薄暗く、大気差現象ですり鉢状に見える岩だらけの地形が果てし無く続く。見れば見るほど心がすさむ風景である。こんなことなら、壁面ディスプレイを設置して、地球上のリゾート風景を流していた方がよっぽど良い。実際に、外惑星用宇宙船シャトルはそうなっているのだし……。
 ただ、本当に見るべき窓はそっちの窓ではなかった。通路を隔てて反対側。いわゆる本来の実験室ラボ側にも窓がある。こちらの窓は1メートル四方はありそうなはめ込み式の窓が通路沿いに連なっていて、内部が良く見える。そこにはサッカースタジアム並の巨大な空間があった。グラウンドの大きさじゃなくてスタジアム全体の大きさだ。〝遺跡〟の大きさが200メートル四方であることを考えれば、〈箱船〉がそれ全体をすっぽりと覆っているというのも頷ける広さである。
 外部に通じる窓が分厚いのは、外気が90気圧もあることを考えれば当然であるが、実験室ラボを見渡せる窓も相当な厚さのようだ。単なる防音・防塵窓とは思えない頑丈な作りになっている。窓の向こうには大小さまざまなパイプが縦横無尽に走っていて、何かのプラント——箱詰めされた化学プラントのような風貌であり、科学の実験室っていう感じではない。目を引くのは、中心部に陣取っている幾つもの巨大な水槽群である。おそらく中に入っているのは水だとは思うのだが、少し赤っぽくなっており、さらに、水槽自身にも透明な蓋が被せられていて実際にはよく分からない。ところどころ泡立っているようにも見える。水槽群は大小様々なダクトで繋がれており、最終的には下部でまとめられてさらに床へと続いている。当然ながら床から下がどうなっているのかは分からない。実験室ラボ内で何名か作業をしている人影がいたが、見知った顔は無かった。
 
 「巨大な培養装置ファーメンター……いえ、生体触媒装置バイオリアクターね」
 俺は横目で実験室ラボを見ていただけだったが、御影恭子は鼻息で白い跡がつきそうな程ガッツリと窓に張り付いていた。欲しいオモチャがショーウインドーにあった時の子供のような反応だ。まあ、その気持ちは分からんでも無いが、ここは通路だ。じっくり見るのは〝お客さん〟をどこかに案内した後の方がいいんじゃないか?
 「残念ながら中の見学は難しいな」
 小隊長殿おやっさんが足を止めて、物欲しそうに見ている御影恭子にそう声をかける。
 「なん——、何故ですか?」
 御影恭子は手を窓についたまま、顔だけ横に向けた。
 「そこに入れるのは特別な人間だけでな」
 「特別? ボストークВосток湖から採取したあの硫酸還元磁性細菌の遺伝子構造を調査DNA testingして金星硫酸雲雲核活性細菌CNAB: Cloud Nucleation-Active Bacteriaとの関連性を解明したのはこのアタシなんです! それをチェックする権利と義務がアタシには——」
 「いやいや。そういう意味じゃないんだ、お嬢ちゃん——」
 御影恭子の本来の勝ち気な本性が出たらしく、小隊長殿おやっさんを睨みつけている。まあ、小隊長殿おやっさんがこの程度で、ビクつくことはない。
 「——その実験室ラボ内は30気圧あるんだよ」
 「30気圧ぅ!」
 「30気圧ぅ!」
 やばい。俺まで叫んでしまった。それも何度目かの二重唱デュエットで。
 小隊長殿おやっさんを睨みつけていた御影恭子の深い緑色の瞳が、そのままの勢いでこちらに向いた。とんだとばっちりだ。彼女から目を逸らすべく、俺は改めて実験室ラボを——実験室ラボ内の人を見た。装甲兵アーマードソルジャーではない。普通の人間だ。生身の人間だ。だが、30気圧と言えば、海中300メートルに相当する。とても素潜り﹅﹅﹅で到達できるレベルではない。浮遊基地フロート・ベースのある空域でさえ10気圧しかないのだ。
 「あれは確か……」
 知った顔が見えた。実際には良くは知らないが、ヴィーナス・アタックの作戦会議ブリーフィングの時に姫島——いや違うな。確か杭瀬と親しく話していた3名だ。そうだ、思い出した。杭瀬は機動海兵隊上がりの装甲兵アーマードソルジャー隊だから、彼らもそうじゃないかと類推したのだ。
 その彼らが、揃いも揃って装甲服アーマードスーツを着て作業をしている。だが、耐圧式密閉型クローズドの服ではなかった。開放型作業機械服オープン・マシンナリー・スーツだ。作業用強化服パワーローダーと言うんだっけか? 要するにパワーショベルのような形状の腕を持った機体で、順番に水槽の蓋の調整をしている。蓋をカパッと開けているわけではないが、何らかのベント作業をしているようだ。
 もちろん、彼らだけが作業をしているわけではない。言うなれば、彼らは指示通りに動く鉄の傭兵で、実際に指示を出しているのは、ヘルメットと作業着だけの研究員のようだ。小難しい顔をして水槽に付属のコンソールパネルに張り付いている。クドいようだが彼らは、深海調査で着るような完全密閉の大気圧潜水服ADSを着ているわけではない。驚くほど軽装である。強化服を着た3名のローダー使いも、実際に着ている服﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅は普通の作業着ツナギだ。ケブラー繊維ですら無いだろう。例えケブラーで出来ていたとしても、刃物のような局所的な圧力の分散には効力があるが、全方位的な圧力には何の役にも立たない。要するに、彼らを観察している限り、とても30気圧の中を動いているようには見えないということだ。高圧神経症候群HPNSによる吐き気、ましてや痙攣発作のような動作は一切見られな——いや待てよ。
 「風邪を引いているのか?」
 多くではないが、咳き込んでいるヤツがいる。音声は分厚い窓越しからは聞こえてこないが、肩を小刻みに震わせるその動作からして、まず間違いない。そういえば、作戦会議ブリーフィングの時にも咳き込んでいるヤツがいたような気がする。
 「あれは一種の後遺症だ。じきに直る」
 小隊長殿おやっさんはそう言い残し、ヤモリのように窓に張り付いて離れない御影恭子に愛想をつかしたのか、RERCの2人組と共に先に歩き出した。まあ、子供じゃないんだしと、俺も後に続く。みのりは後ろを気にしながら歩き出す。
 「そう。そうよね」
 ——と、最後に残った御影恭子も、納得したのか、はたまた、酸っぱいブドウのイソップ童話さながら自分に言い聞かせたのか、その場を離れた。

 
         *  *  *
 
 結局のところ、小隊長殿おやっさんから事の詳細を聞けたのは、〈箱船〉到着から小1時間ほど経ったあとの事になるのだが、それまでの間、俺たち3人がどのような行動をとったのかを先に説明しておく必要があるだろう。
 
 俺たち3人は、長い通路の先のゲストルーム——待機室といった方が正しそうだ——に通された後、小隊長殿おやっさんはRERCの2人を連れてさっさと会合ミーティングだか打ち合わせだかに行ってしまった。もう少し歓迎してくれてもいいのにと思う反面、どうやら、基地うえでの捜索騒ぎは全く伝わっていないようだし、本来の作戦通りに事が進んでいるのなら、それはそれで良いか——という気になっていた。イレギュラーな訪問者は我々の方だ。だったら、本来の訪問者——RERCの2人の相手をする方を優先するのは理にかなっている。
 俺としては彼らに殺されかけた事もあり、頭で分かっても心から納得する事はできないが、任務ではこういう理不尽なことはよくある。任務の全貌を知っているのは一握りの幹部だけで、最後まで自分が何をしていたのか分からないことだってある。
 その昔、国連軍でアルバイト﹅﹅﹅﹅﹅してた時は、よく護衛任務が回って来たものだが、自分がまもっている人物がどこの誰だか最後まで知らないってことすらあった。逆に、下手に知ると、肉体的にも精神的にも厄介事が増えたりするから、明示的に知らされないことは知らないままの方が良いことも多い。知ってもどうにもならないこともある。
 
 ——などと、俺とみのりちゃんはそれでいい。軍部に所属している以上『これは命令だ!』と言われればその中身は問わないし問えない。だが、残された3人の中のひとりは『何故?』を問うのが職業ときている……。
 
 「何なのよ! どうなっているのよ! あんな巨大な気泡塔エアリフト生体触媒装置バイオリアクターなんて、セネガルの脂肪酸短鎖アルキルエステル工場くらいにしか置いてないわよ!」
 ——何処だよ、それ? なんだよ、そのエステルってのは?
 「——ったく。そもそも、なんで30気圧の中を人が自由に動いて……いや、そうじゃないわ。そもそも、人が中に入っていたら雑菌混入コンタミするでしょ!」
 ——それを俺に言ってどうするんだ?
 「それに、30気圧、30気圧よ。あれが遺伝子導入トランスフェクションによる効果だとすれば、重大な生物多様性条約CBD: Convention on Biological Diversity違反じゃないの!」
 「何を言っているのかサッパリ分からんが、それを俺に言うなよ、俺に!」
 黙って聞いていればベラベラと喋りやがってコイツは。
 「アンタ——、約束したでしょ。したわよね? 遺跡まで連れてってくれるって。アタシはそこに密集している磁性体と、それを作り出した硫酸還元磁性細菌のncノンコーディングRNA遺伝子のサンプルが手に入ればいいの。早く30気圧の窓の向こうから取って来なさいよ!」
 「俺が?」
 「アンタが!」
 「えーっと……」
 みのりがこのタイミングで口を挟む。
 「長田大尉は『この部屋を出ちゃだめ』とは言ってません。とりあえず、〈箱船〉内を巡ってみるのは……どうかと?」
 ふむ。言われてみればその通りだ。部屋には案内されたが、待機命令は出ていない。
 「それに——」
 みのりの話はさらに続く。
 「——歩いて来た通路から見た限り、遺跡らしきものは無かったと思います。位置的にはあの巨大タンクがあるあたりだと思ったのですが……」
 そう言えば、確かに〝遺跡〟はまだ見ていない。金星軌道メーザー高度計VOMAによる地形図には水平200メートル四方の地形が刻まれていたから、実験室ラボの中に垂直に切り立った一辺が見えていてもおかしく無かった筈だ。実験室の中に入るのは無理としても、その周囲を色々と巡ってみるのも一興だ。
 
 結局俺たちは、不本意ながら御影恭子に追い立てられるようにして、〈箱船〉内を探険することになった。探険と言えば聞こえが良いが、要は遺跡を見つけ出してその一部をかすめ取ってこいという——それこそ理不尽な——命令だ。
 降下前の俺のイメージでは、遺跡は剥き出しの金属とか岩石の塊で、その一部を削って手渡せばいいくらいに考えていたのだが、建物に覆い囲まれているとなると、こっそりと切り取ることが出来なくなる。最悪の場合、何処かを壊して盗み出す必要が出てくるだろう。だが、流石に30気圧の実験室内では、おいそれと手出しが出ない。
 気圧だけを考えるなら、外の90気圧の方が遥かに過酷な環境だ。そこで活動するなら最低でも密閉型クローズド装甲服アーマードスーツ着用が必須であり、それなりの開放空間オープンスペースが必要となる。さらに装甲兵アーマードソルジャーが単独で活動出来る時間と空間は限られているので、足回りとして浮揚軽量車エアロスピーダーが走り回れる作業空間が必要だ。つまり、野外で行動するためには、最低でも数メートル幅の作業空間や道路が必要であり、〝遺跡〟がそこに露出しているのならば、ここまで乗って来た〈ブラック・タートル〉で近づくのも容易。ならば、操縦席から電動肢マニピュレーターを操作して一部を切り出せば良い——そう考えていた。
 だが、実験室ラボは生身の人間が歩いている。当然、通路は人間サイズで、中央にドカドカ置かれた水槽の間隔は狭く、人がようやくすり抜けられる程度の隙間しか無い。実験室ラボ内で使用されていた作業用強化服パワーローダーも、腕の部分は確かに大きいが、脚部はかなり華奢きゃしゃな作りになっており、人の足の側面に駆動装置アクチュエーターが並列で立ち上がっている。〝着る〟と言うよりは松葉杖のように〝添える〟という感じである。要するに、そんな空間に〈ブラック・タートル〉のような、耐圧装甲車を入れ込む余地は無いってことだ。
 まあ、ここには知った顔もいることだし、実験室ラボ内にすんなりと入り込める奴ら——どんな奴らだ? ——に頼み込めばなんとか欠片くらい手に入るかも知れない。
 
 だが、その前に、『遺跡は何処に行ったのか?』——が、現段階で知るべき最初の事項だ。部屋を出る時に、もしや鍵でもかかっているのではと考えたが、ドアはあっさりと開いた。真っ先に大股でズンズンと歩いて行く御影恭子。だが、十歩をほど歩を進めた後にクルッと踵を返してこちらを見る。開口一番、
 「——で、どこに行けばいいの?」
 本当に無計画なやっちゃな。もっとも、俺にも計画があるわけではないが……。
 「そうだな。闇雲に歩くのは無駄だ。手っ取り早く、場所を聞くのがいいんじゃないか?」
 「聞く? 誰に?」
 「浮揚軽量車エアロスピーダーの奴らは気閘室エアロック近くのエレベータで上がって行った。そこに地表降下部隊アタッカーズの連中がいる筈だ」
 姫島らが消えた脱出口エスケープ・トランクも一瞬思い浮かんだが、あそこは気閘室エアロック隔壁の向こうにある。今も気圧が1気圧に保たれているかどうか分かったものではない。それに姫島は、脱出口エスケープ・トランク内にある高圧治療室タンクの中でくつろいでいる頃合いだろうし、どのみち他の地表降下部隊アタッカーズの連中とは別行動の筈だ。すぐに話が聞けるとは思えない。
 「それはちょっと……考え直した方がいいかも知れません」
 「ん?」
 みのりちゃんが、思案顔で話す。
 「確かに長田大尉は『この部屋を出ちゃだめ』とは言ってません。言ってませんけど、『自由にしていい』とも言っていないんです」
 「そりゃ……そうだな」
 「だから、単に言い忘れただけかも知れません。地表降下部隊アタッカーズのいる所だったら、長田大尉も顔を出すでしょうし、そうしたら『何故こんなところでうろついてるっ。戻れ』って怒られるかも知れません」
 「それはそうだが、何か問題があるのか?」
 「そうしたら『この部屋を出ちゃだめ』って言う〝命令〟になっちゃうんですよ」
 「な、なるほど」
 「それに、少しばかり顔を合わせ辛くて……」
 「なんだ? それ?」
 律儀なんだが、したたかなんだがよく分からん。『出るな!』とは言われてないから動けるが、一度厳命されたら動けなくなる。だから、顔を合わせない方がいいってことか。
 ——ま、俺も『そのような命令は出ておりませんでしたぁ!』というのはよく使う手段だから分からんでも無いが。
 
 「で、結局何処に行けばいいのよ!」
 軍規とは一切無縁の御影恭子がイラついている。
 「はい。えっと、元々の遺跡があった場所に戻りましょう」
 「実験室ラボか? あそこには水槽があっただけで他は何も——」
 「そうじゃないんです。——いえ、そうなんですけど……」
 どっちなんだよ?
 「無いことを確認しに行くんです」
 「無いことを——確認?」
 「はい。〝遺跡〟はもう無いんだと思います」
 「どういうことよ?」
 御影恭子のイラツキが頂点に達している。
 「つまり、既に、しとられた後だと——」
 「何言ってんのか分かんないわ! ともかく行けばいいんでしょ。そこに」
 「あ……、はい」
良くは分からないが、良く分かった。ともかく行けば分かるらしい。

 
 実験室ラボへの通路は間違える筈が無かった。来た道を引き返すだけである。部屋から出て十歩程歩くと、御影恭子が立ち止まった階段の踊り場に出る。そこを上に2階分上がる。余談だが、小隊長殿おやっさんとRERCの2人は、この階段を更に下っている。みのりの心情から行けば、なるべく小隊長殿おやっさん——長田大尉——とは合いたくないのだから、上に行くのが常套だろう。だが、みのりは踊り場で少しだけ階下を見下ろし、一瞬だが躊躇する素振りも見せていた。
 2階分上がった先は、〈ブラック・タートル〉を停めた洗車場CARWASHへ続く通路が見えてくる。俺たちが先ほど通った通路だ。階段は更に上へと続いている風だが、セラミック製の扉があり開けることができない。もしかすると、上へ行く階段ではなく別の通路に続いていて、その先は実験室ラボへの進入口になっているのかも知れない。ただし、例えそうだとしても、我々にはそこに入る術が無い。
 実験室ラボが見渡せる一連の窓まで進み、そっと覗き込む。来た時は堂々と歩きながら見ていた窓だが、探険中の身となれば、なるべくバレないように行動したい。窓の近くによって見ると、確かに分厚い窓だ。おそらく透明酸化アルミコランダムで出来た窓だろう。強度的にも耐熱的にも文句無しだが、屈折率が大きいから航空機の風防には向かない。いまさら気付いたが、御影恭子がここに張り付いて中を見ていた理由の一端は、この窓の性質にあるのだろう。正面ではなく横目でずっと見ていると気持ち悪くなってくる。ちなみに、金星の殺風景な景色が見える外側の窓も同じ素材のようだ。
 「上を見て下さい」
 俺、そして御影恭子もだが、下の装置を眺めながら遺跡の痕跡を探していた俺たちは、みのりの言葉に意表を突かれた。上だと?
 天井にはモザイク状にフラットパネル照明が組み込まれているだけで何も無い天面だった。それ以外は本当に何も無い。屋根自体はやや丸まっている気もするが、それは圧力分散のための構造だろう。その他は柱一本、はりひとつない、だだっ広い空間がそこにあるだけだ。外から見た時、この〈箱船〉があたかも掩蔽壕バンカーのように見えた事を思い出した。
 「何も——何も、無いじゃないか……」
 「ええ。そうです。何にも無いんです」
 「えっ?」
 どうもみのりの意図が良く分からん。御影恭子は黙っている。
 「装置に比べて天井が高過ぎると思いませんか?」
 「ほぉ?」
 確かにそうだった。意味の無い虚無な空間が頭上にあり過ぎる。
 「——ひょっとして、ここに〝遺跡〟があったと言うのか?」
 「これを見て下さい」
 俺の質問には直接答えず、みのりはポケットから端末を取り出し、現在位置の地形図を空中に表示した。幾度となく確認した金星軌道メーザー高度計VOMAによる地形図だ。
 「これに、先ほど〈ブラック・タートル〉で上空を通過した時に計測したレーザー測量機LIDARの画像を合わせます」
 「これは……⁈」
 オレンジ色で表された立体地形図に、上から捉えた〈箱船〉の形状が薄い水色で重なる。遺跡はすっぽりと〈箱船〉の中に入っているが、その平たい天頂部は、正にこの位置——実験室ラボの位置——と重なっていた。ただし、遺跡の天頂部と〈箱船〉の屋根の隙間はあまりないことが分かる。
 「ここにあるべき遺跡が消えていると言うことか……」
 「そうです」
 「じゃあ、私の遺跡はどこに行ったのよ」
 『お前のものじゃ無いだろ』——と、心の中で御影恭子にツッコミを入れつつも、確かにそれは気になる。
 「ここに排気口ダクトがありますよね?」
 みのりは少し考えてから、我々が進入した掩蔽壕バンカー口を示した。かまぼこ状の屋根の端、掩蔽壕バンカー口の上に当たる部分に二つの出っ張りがある。
 「排気口ダクトなのか?」
 「ええ。〈箱船〉へ入る時に確認したので間違いありません」
 俺はそんなとこまで見ていなかったが、みのりは意外と冷静に観察している。
 「ふーむ。しかし、これは洗車場CARWASH——いや、気閘室エアロックのための排気口ダクトじゃないのか?」
 「私も最初そう思いました。でもあの気閘室エアロック用にしては大き過ぎるんです。それに——」
 みのりは〈箱船〉の反対側、先行して到着した地表降下部隊アタッカーズの〈マンタ・レイ〉が停まっている場所を示した。
 「——それに、こちら側には排気口ダクトらしき影がありません」
 確かに二つの出っ張りはどこにも無かった。一見すると左右対称にみえる〈箱船〉だったが、細かい部分に微妙な違いがある。
 「それともうひとつ。元々の金星軌道メーザー高度計VOMAの地形図と、先ほど測ったレーザー測量機LIDARの画像とで、〈箱船〉の有無以外にも違う所があるんです」
 「どこだ?」
 「ここです……」
 みのりの指先は、我々が進入した掩蔽壕バンカー口を示していた。なるほど。オレンジ色と水色の地形図が重なっていない。我々が進入した側の掩蔽壕バンカー口は、元のオレンジ色の地形図と比べ随分と上にある。元の地形図が正しかったとすれば〈ブラック・タートル〉は空中を走って〈箱船〉に進入したことになってしまう。洗車場CARWASHから実験室ラボを通過して向こう側に行った際、二階分を下らねばならなかったのは、南北の掩蔽壕バンカー口に二階建て分の段差——いや、小隊長殿おやっさんらがさらに下ったところを見ると、それ以上に段差があったからだ。その段差は確認するまでも無かった。薄い水色の表示は〈箱船〉だけでなく、〈マンタ・レイ〉の機影も含まれていた。その巨大な機体から考えて、2つの掩蔽壕バンカー口の高低差は、優に五階建てビル程度の段差がありそうだった。
 「なるほど。だが、それが遺跡とどういう関係があるんだ?」
 「排気口ダクトから遺跡を捨てた——ということよね」
 御影恭子が口を挟む。
 「ええ。真空凍結乾燥フリーズドライ状態の搾りかす﹅﹅﹅﹅排気口ダクトから排出したんだと思います。そうでなければ、こんななだらかな丘にはなりません」
 そういう目で見て無かったから分からなかったが、水色のホログラムが示すレーザー測量機LIDARで実測した〝丘〟は、我々が進入した掩蔽壕バンカー口を中心にして半円状のぼた山﹅﹅﹅として形成されていた。丘だと思って登っていた崩れやすいパウダー状の土は、遺跡の搾りかす﹅﹅﹅﹅だったということらしい。
 みのりは更に続けた。
 「既に、大半のモノポールは、顆粒状金属系材料BNM: Bulk Nanostructured Metalsに移し替えられているんだと思います」
 「ん? なんだその、顆粒状金属系材料BNMっていうのは?」
 「硫酸還元磁性細菌が作り出す、モノポール貯蔵用の磁気捕捉材料MTM: Magnetic Trap Materialですよ!」
 「うーむ。えーっとだなぁ……。何を言っているのか良く分からないのだが——なぁ? みのりちゃん」
 「はい?」
 俺は、半ば微笑ほほえみながら、懐疑の眼差しでみのりを見た。
 「どうしてそんなことを知っているんだい?」

 
         *  *  *
 
 みのりは最初、うつむいたまま黙っていたが、俺と御影恭子のジト目に耐えきれず、渋々話した。というか、白状した。
 そうでなくても、地表降下部隊アタッカーズ降下前の自立歩行探査機ドローンによる予備降下プレ・アタックで『みのりが遺跡の第一発見者』という話を御影恭子から聞いていたし、確かみのり本人も『機密性3情報ですっ!』とか言っていたので、機会があれば聞き出したかった案件だ。語るに落ちるとはこういうことだろう。
 だが、結論から言ってしまうと、みのりの話を聞いても謎が深まるばかりで、解決の糸口は余計に絡み合うだけだった。もっとも、〝解決〟って言うのが何なのかはよく分からない。何がどうなれば解決するのだろう?
 
 「——確かに、遺跡を発見したのは私が最初かも知れません。けど、その場所は分かっていなかったんです」
 「第一発見者なのに、場所が分からない?」
 「私が呼ばれたのは自立歩行探査機ドローンの操作がうまいってだけで、予備降下プレ・アタック作戦に当初から参加していたわけじゃありません。操作を頼まれたのは自立歩行探査機ドローンが目的地に着地後ですから」
 予備降下プレ・アタックは後で実際に降りる地表降下部隊アタッカーズのメンバーが行うのが基本である。みのりは地表降下部隊アタッカーズからは外され、管制室での後方支援を任されていたわけだが、俺や小隊長殿おやっさんのように予備降下プレ・アタック後の軌道間輸送船OTVで到着するメンバーもいる。この場合、人数合わせで、代役が立てられるが、欠員となっていた装甲兵アーマードソルジャー役としてみのりちゃんが選ばれたという。話のスジとしては矛盾は無い。辻褄は合ってる。
 「しかしなぁ。いくら地上に降りた場面から操作を任されたと言っても、モニター右上にGPS情報が出ているだろ」
 「SECRETになってました——」
 みのりは間髪入れずに答えた。
 「——おかしいなとは思ったんです。画面情報の形式がOSレベルで違ってましたから」
 「んん?」
 「GPS情報が表示されていなかっただけじゃないんです。操作系が全て共和国仕様なんです」
 「我が軍ウチのモノじゃないと?」
 「はい」
 そんなことは通常あり得ない。国連の災害派遣とかでも、自軍の機器は自軍のオペレータが操作するのが当たり前だ。特に情報機器系統は機密が多い。同盟国同士の戦闘機売買にしても、戦闘機自身は輸出の対象になるが——っていうより、それを流通させねば〝輸出〟にはならないが、航空電子機器アビオニクスが鎮座すべき部分は空箱のままということは良くある。体は輸出しても頭脳は輸出しないのだ。〝仏造って魂入れず〟とはこういうことを言うのだろう……少し違うか?
 「で、遺跡は?」
 御影恭子が口を挟む。相変わらずせっかちなヤツだ。
 「はい。その時は遺跡とは思わなかったんですけど。『何か四角い奇岩があるなぁ。節理とも少し違うし、どうしたらこんな形状になるのかなぁ』とか考えてて……」
 天然ボケなのか計算なのか良く分からないが、みのりちゃんはたまに、こういう間の抜けたことを言う。
 「ふむ。えーっと——」
 俺は何か思い出そうとしていた。確か、御影恭子から聞いたような……そうだ、そうだった。
 「——その自立歩行探査機ドローンは最終的に遭難した﹅﹅﹅﹅と聞いているが?」
 「遭難というか何というか——え? 何故それを知ってるんですか!」
 「いや——ちょっと……小耳に挟んでな」
 情報源は目の前にいるのだが、そのことは伏せておこう。御影恭子も『遺跡は?』と、この期に及んで聞いているところを見ると、事の詳細は知り得ていないようだし。
 「遺跡を見つけて遭難するまでの経緯が良く分からないのだが?」
 「実際は、遭難とは少し違います。制御不能になったんです」
 「そりゃあ、人間なら遭難で、自立歩行探査機ドローンなら制御不能っていうだけで、言葉の問題なんじゃないのか?」
 「いえ。そうじゃなくて、光学センサーで調査を始めた段階で操作を乗っ取られた﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅んです。直ぐにタスクマネージャを呼び出して確認したので間違いないです。でも、不慣れな操作系だったので、ハッキング先を追う前に逃げられてしまって」
 「つまり——だ。自立歩行探査機ドローンは壊れたわけではないと」
 「はい。制御を盗まれたんです。勝手に暴走をはじめて、超音波カッターで遺跡の一部を勝手に切り取り始めて——」
 「で、切り取った遺跡は? 遺跡はどうなったの?」
 どうやら御影恭子は遺跡の行方にしか興味が無いようだ。分かりやすいと言えば分かりやすい。
 「えっ? それは分かりません。映像モニターも乗っ取られてしまいましたから——」
 ふむ。みのりちゃんの証言が本当だとすると、第一発見者とは言っても、本当に最初に発見した——という話でしか無く、調査結果もデータも何も得られていないことになる。お宝を発見しただけで、ごっそり横取りされた格好だ。
 「あ。でもですねぇ。自立歩行探査機ドローンのその後の行動記録なら分かります」
 「どういうことだ?」
 「逃げられる前に、探査ウイルスを仕込んでおいたんです。ダミーのロック機能は簡単に外されたんですけど、二重に裏をかいてて良かったです」
 何気に平然と怖いこと言うなぁ……みのりちゃんは。
 「行動記録には何が——というか、誰が操作していたかは分かったのか?」
 「はい。いや。いえ、えーっと……」
 「そこまで言っておいて歯切れが悪いなぁ」
 「自立歩行探査機ドローンは——共和国エネルギー管理委員会RERCの駐在部隊に回収されました」
 「なるほど。ソーニャのとこか」
 「いえ。違います」
 「違う?」
 「司令部付きの部隊ではありません。駐在部隊——〈レッド・ランタン〉管轄域での駐在部隊です」
 「すると、さっきの大男の部隊か?」
 「そうです。それと——」
 「それと?」
 「いえ……なんでもありません」
 みのりは困っていた。まあそうだろうな。その手の話には鈍い俺でも何となく分かる。つまりこういうことだろう……。
 「我が隊の中に、彼らに連絡した内通者がいる——ということだな?」
 「…………」
 みのりはうつむいたまま黙っていた。

 
 ここからは俺の想像だ。話半分に聞いてくれればいい。遺跡にはモノポールが詰まっている。理屈は難しいが、ともかく究極のエネルギーとして使う事ができる。そこにRERCが目を付けた。独占すれば、金星だけでなく地球においても主導権を握れる。
 太古の昔から、争い事は、元を辿れば、水・食料・エネルギーを巡る資源の奪い合いと相場が決まっている。さらに科学技術が発達した今日では、エネルギーさえあれば、水と食料は自在に手に入れる事ができる。地球に限らず、金星でも火星でも同じだ。むしろ、植物が自生しない金星や火星の方が、人工的なエネルギーの依存率は高い。
 遺跡の第一発見者はみのりだったが、それは直後に主導権を奪われた。RERCの連中の仕業——だけではない筈だ。手際が良過ぎる。我が軍に内通者がおり、RERCの連中と繋がっていたと考えるのが妥当だ。今回の金星地表への降下作戦自身が、モノポール強奪﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅最終任務ファイナル・ミッションだと考えることができる。
 ただ、RERCとて一枚岩ではない。今回の件は北緯30度帯30 Degrees North域——〈レッド・ランタン〉管轄域の共和国駐在部隊の一派が首謀者で、共和国司令部側は蚊帳かやの外だった——いや、地表降下部隊アタッカーズ浮遊基地フロート・ベースごと消えた段階で、司令部付きのソーニャが介入し、早々と遺跡の話を始めたところを見ると、本作戦の真の目的にうすうす感づいていたのかもしれない。ただ、ソーニャは遺跡とモノポールの関係は知っていたが、遺跡の第一発見者がみのりだったと言うようなことまでは知らなかったのだろう。知っていたら、ソーニャ自身がみのりの尋問をしている筈だ。
 あるいは、本作戦は、もともとは司令部の発案だったのだが、各地域に駐留して司令部の手足となっている駐在部隊が北緯30度帯30 Degrees North域で遺跡を発見した際、そいつを勝手に自分たちのものにしようとした——ということかも知れない。
 だが、自分たちのものにすると言っても、遺跡をポケットに入れて着服するわけにはいかない。それに、必要なのはモノポールであって遺跡そのものではない。モノポールを取り出すためのプラントが必要だ。地表に構造物を建てて遺跡を取り囲むだけなら、建材の横流しで事足りるかもしれないが、御影恭子が言っていた〝生体触媒装置バイオリアクター〟とか、そういう特殊な装置はその辺に転がっているものじゃない。どうしても外部から持ち込む必要があるが、そのためには連邦共和国の検閲が必要となる。こっそりも何も、惑星間輸送機は軌道間輸送船OTVのみだから、どうしてもバレる。だから、彗星を空中で捕まえる〝水汲み作戦〟が利用された。彗星なら入出国の手続きが不要だ。カルネcarnet申請も要らない。もっとも、入国しても二度と出国はしないだろう。
 余談はともかく、この遺跡強奪作戦﹅﹅﹅﹅﹅﹅がRERCの——さらに言えば、連邦共和国の総意では無いことは明らかだ。トップダウンの司令ならば、生体触媒装置バイオリアクターやらなんやらを、実験装置として堂々と輸入すれば良い。硫酸雲の中を漂っている菌類の培養研究とか、それなりの理由は簡単につけられる。やはり、RERC側の一部の駐在部隊が暴走し、このプラント——〈箱船〉を秘密裏に作ったと考えれば辻褄が合う。
 ただ、そんな特殊で巨大なプラント施設を、中央の共和国政府でなく、たかが一地方の駐在部隊がどうやって手に入れたのか? ——という疑問が残らないでも無いが、金星の外にも協力者がいるのだろう。無尽蔵のエネルギーが手に入るとなれば、食らいつく俗物はいくらでも見つかる筈だ。そう言えば、姫島は、アンモビックとかいう国連視察団に情報が筒抜けと言っていたが、そこが絡んでいるのかも知れない。少し気になる話ではあるが、とりあえず今は、〈箱船〉の入手経路は問題では無い。
 問題は、誰が遺跡を——遺跡の中のモノポールを盗み出す計画に絡んでいるかだ。RERC側はあの大男。むっつりスケベの将校オフィサー。そして、図書館バトルの男。そう言えば、2人ともいまだ名前を聞いていなかった。この2人がRERC側の首謀者であることは疑う余地がない。小隊長殿おやっさんは2人を『この実験室ラボの提供者』と呼んだのだ。問題は、我が軍の内通者だ。状況証拠からして、答えはほぼひとつしかないが、それを口にするのははばかられた。俺もみのり同様、黙るしかない。だが、それは直接本人に問いただすべきだろう。ことの真相を、問いただすべきだろう。俺たちは——少なくとも、俺とみのりは、危険を冒してまで地表降下部隊アタッカーズの捜索のため、ここまで来たのだ。このままウヤムヤに済ませておいて言いわけが無い。
 
 「そんなことより、遺跡は?」
 何度目か忘れたが、御影恭子がまた繰り返す。
 『遺跡、遺跡とうるさいヤツだな。お前は墓荒らしトレジャーハンターか!』と言いそうになったが、すんでの所で思いとどまった。こいつの——御影恭子の興味はそこしかないのだ。彼女は〝遺跡〟に用があるお客さんで、俺はそこまで送り届けるよう頼まれたタクシーの運転手に過ぎない。俺たちの問題は俺たちだけで、後でじっくりと片付けるとして、まずはコイツとの約束を果たすべく、遺跡が濾しとられた絞り汁﹅﹅﹅のありかを探すべきだろう。その方が気も紛れるしな。
 「おそらく床下だと思います」
 みのりが答える。
 「生体触媒装置バイオリアクターはパイプで下部に繋がっているようです。そこに顆粒状金属系材料BNMだけが保管されていると思います」
 「そこへはどうやって?」
 「実験室ラボの中から下るか、あるいは——」
 「あるいは?」
 俺も嫌な性格だな。聞かなくても分かるだろう。
 「先ほどのゲストルームから階段を下ればいいかと……」
 「小隊長殿おやっさんの後を追う——ということだな」
 「は、はい……」
 解はひとつしかない。30気圧の実験室ラボを経由することは到底無理だ。ならば、階段を下りるしか無い。だがその前に——御影恭子との約束を果たす前に、この際だから最優先で確認しておくべき事項があった。そもそも、俺はそれが目的だったんだ。
 「その前に、ちょっとばかり寄り道していいか?」
 「あたしはイヤよ」
 御影恭子は即答だった。すまんな。今回は、まずはこちらの任務を優先させて頂く。
 「何処に行くんですか?」
 「上だ。エレベータで」
 「そう——ですね。先に確認した方がいいかも知れません」
 さすがみのりちゃん。話が早い。
 「何しに行くのよ!」
 やれやれ。
 「地表降下部隊アタッカーズの奴らの捜索だよ。この目で確認しなければ任務終了にはならない。もともとそういう話だったろ」
 「ふん。まあいいわ」
 御影恭子は少し不満そうだったが、それほど抵抗することなく折れた。
 
 この位置まで来たならこのまま実験室ラボ脇の通路を抜け、浮揚軽量車エアロスピーダーの2人が消えて行ったエレベータに乗ることができる。階下の小隊長殿おやっさんに事情を聞く前に、まずは本当に彼らがいるのかを確かめておいても、大きな時間のロスにはならないだろう。
 彼らがエレベータの上ボタンを押したのは確認したが、何階に行ったかまでは見ていないな——と一瞬悩んだが、エレベータに到着してみれば何のことは無い……階表示は3つだけ。つまり、現在のフロアー階と、後は上か下かだけだった。
 「ところで——」
 エレベータに乗り込み、ドアが閉まったところで、俺はふと気付いた。
 「——遺跡にモノポールが含まれているっていう事実はどうして分かったんだ?」
 「コロナの調査です」
 「オボイドovoidね」
 コロナは分かるが、御影恭子が言い換えた『オボイド』は分からん。気泡ボイドを丁寧にいうと『おボイド』になるのか?
 「コロナ? セレス・コロナCeres Coronaとか、あの円形の陸地か?」
 まあ、金星には陸地しかないのだが。
 「そうです。最初に見つかったのはイシュタル大陸の九十九折地形テッセラ周辺にあるパンケーキ群なので、少し違うのですけど……」
 何がどう違うのかさっぱり分からん。大小の違いかな。
 「そのコロナだかパンケーキだかから遺跡が見つかったのか?」
 「遺跡本体ではありません。強いて言えば、四散した遺跡の欠片﹅﹅﹅﹅﹅です。そこから採取された黄鉄鉱の中から僅かなモノポールが見つかったんです」
 「ふーん、全然聞いたことがないなぁ」
 「国際地球物理学連合IGU: International Geophysical Union機関誌JGRに載ってたもので、専門家しか読みませんから、仕方ありません」
 「……みのりは何で知っているんだ?」
 「予備降下プレ・アタックの後に、不思議に思って調べました」
 「なるほど」
 みのりは調べものが大好きである。モノポール貯蔵用の磁気捕捉材料MTMとか、それが例の硫酸なんとか細菌で作られた顆粒状金属系材料BNMだとかは、その過程で調べたものだろう。頭が下がるねぇ……。

 
         *  *  *
 
 天井行きのエレベータが開くと、そこは管制室だった。いやいや、そうじゃない。こんな焦熱——いや、大焦熱地獄の底のような場所に、空を飛ぶための航空管制室などある筈がない。何かの制御室と言うべき場所だろう。一昔前の核融合炉の制御室のような場所だ。モノポールがエネルギー資源となり得るのなら、ここにプロトタイプの発電所があってもおかしくはない。〈箱船〉は元々そういう施設だと考えられる。
 数名は知らない顔だった。服装からしてRERCの連中だと分かる。軍隊上がりという感じでは無く、ディスクワークが得意そうな奴ら——つまり、〈レッド・ランタン〉の管制室を占拠しに来た奴らと同じ臭い﹅﹅﹅﹅がする。おそらく、共和国エネルギー管理委員会RERCという名前からして、彼らみたいなのが本来の委員なのではないかと想像する。文字通り、エネルギーを管理・運営して、安定供給に務めるとかそういうお役所的な仕事。
 その陣頭に立って指揮している、あの女狐のようなソーニャとか、むっつりスケベの将校オフィサーの方が逆に異常なのだ。本来のRERCの委員達は、突然降って湧いたような仕事を上から命ぜられて、仕方なくこんな規定外の作業をしているに違いない。そう考えるのが自然だ。
まったく、軍部が絡むとロクな事が無い——お前が言うなという気もするが。
 
 で、肝心の地表降下部隊アタッカーズの面々は——いた! 壁際のソファで浮揚軽量車エアロスピーダーのパイロット。それから——
 「よぉ!」
 背後から声がする。
 「湊川! 生きてたか!」
 「生きてたかだと⁈ いつも通りわけの分からんことを言うヤツだなぁ。あぁ?」
 湊川は、俺の後ろにいる2人——特に片方——に目をやり、小声でこう付け加えた。
 「あれほど『手ぇ出すのは止めとけ』と忠告したのに、何をしているんだオメーは」
 「分かった分かった。いつものボケで安心した」
 普通ならイヤミの言葉になるが、今回は本心でそう思う。安心した。湊川はいつも通りだった。他にも知った顔が見える。実験室ラボで見かけた顔も含めれば、地表降下部隊アタッカーズの人数は揃いそうだ。
 ——そう言えば、こういう発電所みたいな制御室に一番似合いそうな魚崎某が居ないが、まあ、知ったこっちゃない。その辺で、乗り物酔いか何かで寝込んでいるに違いない。
 「撃墜されたってのはお前か⁉」
 湊川が話を変える。
 「撃墜? 誰が撃墜されたって? 俺はピンピンしているぞ」
 「そうか。落ちたのは無人の未確認機アンノーンか……」
 「無人?」
 「ああ。司令部付き﹅﹅﹅﹅﹅のRERC機と見られる未確認機アンノーンという情報が、敵味方識別信号IFF暗号文で入ってな。迎撃に向かったんだが勝手に落ちちまった。で、中は無人だったとよ」
 「何処かに脱出したとか?」
 「こんな地獄の底で何処に隠れるんだよ。例え装甲服アーマードスーツで逃げたとしても、相転移吸熱体PTHAの蒸気でバレるし、吸熱体無しだと3分も持たねーよ」
 「それは……そうだな」
 
 金星の地表に生身で出たらどうなるかは、地表降下部隊アタッカーズでなくとも知っている。研究者や民間人は別にして、軍事関係者は勤務前に、実際に起きた事故映像とともに、緊急避難法を叩き込まれるからだ。
 金星ならどこでも起こりうる窒息死を除けば、地表で死に至る原因は、気圧と熱によるものとなる。死因が気圧によるものと断定されたケースは、肋骨が折れて心臓を潰したなどあるものの、実はそれほど多くない。高圧神経症候群HPNSだけで瞬時に死ぬことは無い。例え90気圧であったとしてもだ。
 問題はやはり熱——五百度近い外気温の方である。全身がこんがりと焼かれる。時間的には3分どころか3秒持たない。肌は瞬間的な見た目は変化しないが、その外気を一瞬でも吸おうものなら、気道熱傷を起こし、粘膜は全て蒼白になる。基底細胞ごとやられているから、表皮を総取っ替えしない限り再生しない。湿度が無いだけマシとも思えるが、高圧の大気が対流熱の増大を補って余りあるため、地球上の同程度の高温環境より過酷だ。消防服を完全に着込んでいたとしても、10秒保てばいいところだろう。
 完全防備の装甲服アーマードスーツであっても、相転移吸熱体PTHAのような熱処理機構が働かなければただの金属とセラミックの棺桶に過ぎない。装甲服アーマードスーツの断熱遮蔽シールドを飛び越えて熱が伝わった後は、生身で外に飛び出したのと同様の道筋を辿る。例外は無い。持って3分——確かにそんなとこだ。
 
 死んだ後の経過など俺は興味がないが、仕事としての遺体回収作業も、俺たちの重要な任務のひとつである。亡くなった人がどのように朽ち果てて行くかは知っている。
 水分が全て抜け、ミイラ化するまでに時間はほとんどかからない。硫酸の雨は地表までは到達しないと言っても、地表での脱水作用は圧倒的で、ミイラは数日のうち炭化する。その後の変化はあまりない。エベレストや南極で死ぬのと同様、少しずつ砕けるまで何年も、何十年もかかる。重力の井戸の底で永遠に形が残るというのは、ある意味残酷だ。見つからないだけでそこにいる筈——そういう思念が、遺族を過去に引き止める。死んだ後まで生きている人間の足を引っ張るとか、俺はそんな死に方は御免だ。どうせ消えて無くなるなら、宇宙空間がいい。後腐れ無いように、第三宇宙速度以上で頼む。
 
 「ん? 湊川。お前、それは宇宙服……だよな?」
 今更だが、俺は湊川の身なりに気付いた。ヘルメットこそ被っていないが、多層断熱材MLI: MultiLayer Insulationを使った宇宙服に見える。宇宙服の役目は気密はもちろんだが、断熱防護性がなければ始まらない。もちろん、宇宙空間の活動に適した服と金星表面の高温下で使用する服とは仕様が大いに異なる。湊川のそれは、相転移吸熱体PTHA巡回用のバルブ口すら付いてない。衝撃吸収繊維スタッフィングはケブラー繊維も混じっているようだが、金星表面では溶けてしまう可能性が高い。どう見ても宇宙服——つまり、ゼロ気圧の宇宙空間で着るべき装いだ。そういえば、御影恭子の防護服プロテクトスーツと型が似ている。設計者が同じなんじゃないか?
 要するに、何が言いたいのかって言うと、登山中にウエットスーツを来ているヤツに出くわしたような、そんな気持ちに今、俺がなっているってことだ。
 「ああそうだ。お前もそれで来たんじゃないのか? 俺のバックアップで……」
 「バックアップ?」
 「小隊長殿おやっさんも心配性なんだよなぁ。あんな宇宙船、俺だけで充分だってのによぉ。副操縦士コーパイなんていらないって言ったのに。それにお前……小回りの利かない船は嫌いなんだろ?」
 「宇宙船って何だ?」
 「はぁ? じゃあお前、何しに来たんだ? 〝パエトーン作戦〟に参加したんじゃないのか?」
 話が噛み合ない。ここで素直に『お前達が遭難したから助けに来た』とか言っても鼻で笑われるだけだ。いや、湊川のことだ。大声で笑われる。ここはやはり、小隊長殿おやっさんに直接聞くのがいいだろう。
 「小隊長殿おやっさんはどこだ?」
 「ん? ああ、〈スキップジャック〉の最終調整中だろ」
 「スキップジャック?」
 「宇宙船の名前だ。エレベータで地下に行けば分かる」
 湊川は最後まで、『何しに来たんだ?』という顔をしていた。そりゃそうだろう。俺だて、結局、何しに来たのかは分からない。いや、分からなくなっちまった。
 
 「パエトーン作戦って縁起悪いですよね。ヘリオス作戦にしておけばいいのに……」
 再びエレベータに乗り込んで下降中、ポツリとみのりが言う。
 「なんだよそれ。ギリシャ神話とかの神様の名前か?」
 「そうです」
 おお。当てずっぽうが当たったよ。その昔、ネオ・ダイダロスのシミュレーターに搭乗した時に、オリオン計画や元々のダイダロス計画など、古い話がやたら好きな技術者がいて、そいつから色々と聞かされていたから思いついたのだけなのだが。
 「ここは金星なんだから、ヴィーナス作戦にしとけば良いのに」
 「作戦名としては弱々しいんじゃない? アテナならともかく」
 〝遺跡〟に辿り着けずイライラしていた御影恭子が久しぶりに絡んで来たと思ったら、そんなとこかい。アテナならお前にピッタリだろうよ。よくは知らないけど。
 「パエトーンは太陽の戦車をお父さんのヘリオスから借りて暴走させた神様です」
 「太陽の戦車? 暴走させたのか?」
 「ええ。とってもぎょがたい代物らしいです」
 「その暴れ馬みたいな宇宙船が〈スキップジャック〉なのか?」
 「そこまでは——よく分かりません」
 
 そもそも、こんなところに宇宙船というのが、全くもってわけが分からない。ここは大気の底の底。メタンの海並に——は少し言い過ぎだが、オーダー的には同じくらい大気の濃いところだ。そこからの打ち上げはさぞや大変だろう。打ち上げ時の大気抵抗も、当然ながら地球とは桁違いとなる筈で、形状にもよるが、最大動圧Max.Qがどの程度まで跳ね上がるか想像がつかない。
 そもそも、核反応エンジンを用いたロケット——逆に言えば、化学燃料ケミカルでないロケットを地上から打ち上げる話など、ついぞ聞いた事がない。核融合ペレットで飛ぶネオ・ダイダロスもラグランジュ4から打ち上げる計画で進められている。打ち上げ計画そのものは二転三転しているが、これだけは変わっていない。
 モノポールを使った推進機構がどんなものかは知る由も無いが、核反応を使った代物なら制御が難しい——みのり流に言えば〝御し難い〟——のは間違いないだろう。発生する熱量が桁違いだから当然だ。弱火チョロチョロの火加減が出来ない。
 地球上での発進なら、発射時は通常の航空機のようにジェットエンジンを使い、その後、スクラムジェットエンジンに切り替えて一気に加速、成層圏上部で核反応ロケットに点火することも原理的には可能だが、大気中に酸素が無い金星ではそれも不可能だ。法的にも不可能である。
 となると、核融合炉のエネルギーを電気に変えてから自立型のマイクロ波推進MBP: Microwave Beaming Propulsion? レーザー推進? それとも電気推進EPSP: Electrically Powered Spacecraft Propulsion? いやいや、無駄が多過ぎる。それに、比推力はともかく推力が足りない。もしや上空まではのんびりと〈マンタ・レイ〉で輸送するのかとも考えたが、それなら湊川が今現在、宇宙服を着ている理由の説明がつかない。
 それ以上にもっと根源的な疑問がある。宇宙船が何故、地下に置いてあるんだ。上から見た時はこの〈箱船〉以外、宇宙港Spaceportらしい建造物は無かったし、そもそも宇宙港Spaceportの建造をこんなところで行って何のメリットがある? 資材をわざわざ宇宙からここまで落とし、再び宇宙に上げるというのか?
 
 もう何と言うか、ハテナマークしか頭に浮かんでこない。
 
 そう言えば、〈スキップジャック〉ってのは確かかつおの英名だ。そういう名の潜水艇があったような気がする。海中に潜っているのではなく、地中に潜っている宇宙船か?
 それにしても、我が隊の機体の通称は〈マンタ・レイ〉だの〈ブラック・タートル〉だの、空軍だって言うのに海に関する機体名が多いな。もっとも、金星には海は無く、地上には住めないから、最初から空軍以外はあり得ないのだが……。
 
 「上沢少尉? どうかしましたか?」
 「あ。いや……」
 しかめっ面で腕を組んでいる俺を見て、みのりは心配になったようだ。
 「私も長田大尉に何て話していいか分からなくて……」
 「あー。そうじゃ無いんだ——」
 そうか、そっちの方か。
 「——宇宙船だよ。こんな場所から打ち上げる意味がさっぱり分からなくてな」
 「おそらく、モノポールの詰まった顆粒状金属系材料BNMを秘密裏に運び出したいからじゃないでしょうか?」
 「秘密裏って言ったって、打ち上げれば必ずバレるぞ?」
 睨みつけるようなソーニャの瞳が脳裏に浮かぶ。
 「それはそうですけど、一気に宇宙空間まで運び出してしまえば、共和国政府もおいそれと追いかける事は出来ません」
 「モノポールエンジンを搭載した宇宙船を秘密裏に作って、それを使って盗み出すお宝というのが、モノポールエンジンそのものってことか……」
 「おそらく——ですが」
 「だが、何故、地下に宇宙船があるんだ? どこから発射ローンチさせる?」
 「それは……全く分かりません」
 「宇宙船って言うのは隠語なんじゃないの?」
 御影恭子が口を挟む。
 「隠語?」
 「モノポールエンジンの別名。ここに無尽蔵の発電設備があると広まったら困るでしょ。だから、〝宇宙船〟って隠語を使うの」
 「うーむ……」
 宇宙船というあり得ない隠語——秘匿名称コードネームを使うことで、正体を隠すということか。そう言えば、戦車が〝タンク〟と呼ばれているのも、元を正せば戦車のことを水槽タンクと偽って開発していたからだと聞く。——いや、それも変だ。さっきの湊川の反応は、今にも本物の宇宙船に乗り込むっていう雰囲気と格好だった。
 俺はコトの真相を小隊長殿おやっさんに聞きたくてウズウズしていた。この際、内通者だとかスパイだとか、ついでに陰謀や策略とかもどうでもいい。何してんのかを知りたい!

 
         *  *  *
 
 エレベータの最下層——と言っても、3フロアしかないのだが——に到着するまでしばし待つ。エレベータで制御室まで上がった時の加速と時間から考えて、最上階の制御室は、実験室ラボの高い天井の上にある。地下へはその2倍程度の感覚。地下3階に相当しそうな、かなり深い地下だ。地下に宇宙船? やはり全く分からん。
 
 ドアが開くと、地下室の天井に接着された巨大なシャンデリアのようなそれがあった。それが何かは全く分からなかったが、あったのは間違いない。
 これが宇宙船? いや、違う。
 形が変だとかそういうレベルのものではない。ひとつ例を挙げよう。噴射ノズルはどこにある? 宇宙に上がる船だぞ。推進剤やエネルギー源が何であっても、何かしらの噴射ノズルくらいはある筈だ。
 場合によっては磁場ミラー型核融合炉のように、磁場でプラズマを閉じ込めることもある。その場合は目に見えるノズル﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅は存在しないが、特徴的なコイルでそれと分かる。確かに超伝導コイルらしきものは周囲に多数あるが、推進装置のそれとは明らかに形状が違っている。あえて言えば、ネオ・ダイダロスに使われているような、逆円錐型のペレット核融合推進エンジンに似ているかもしれない。そのエンジンの実物は見た事は無いが、超短パルスレーザー発振器がゴツゴツと付いていた筈だ。目の前にある装置もそれが多数付いている。
 ただ、レーザー核融合推進だとしてもどちらに飛ぶのか分からない﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅配置だ。通常、発振器は船体側に付いていて、噴射側には反射ミラーだけが付いている筈だが、そのミラーが何処にもない。これでは核融合ペレットを均等に加熱することができず、爆縮が正常に起きない。
 仮に上手く点火できたとしても、発生したパラズマ流を受ける形状の磁場発生コイルがどこにも無いのだから、爆発するだけで噴射制御ができない。エネルギーが四方八方にダダ漏れだ。下手すると、この装置自身が煽りを受けてぶっ壊れる。それともこれは、レーザー核融合炉と磁場ミラー型核融合炉のハイブリッドとかなのか?
 ああそうだ。こいつは核融合じゃなくて、モノポールを使った——何だったっけか? 陽子崩壊反応とか言っていたな。
 いやいや、そういう話ができるような——そういう話ができる域に達しているような代物じゃないんだ。目の前にあるものは!
 
 「何よこれ⁈」
 それまで、細菌と遺跡にしか興味を示さなかった御影恭子がそれを見上げる。
 「エンジンの部品だけなの?」
 なるほど。そういう見方もあるか。要するに、配管やら何やらが剥き出しのままで、全く宇宙船の体を成していないのだ。俺は噴射ノズルを探したが、御影恭子は装置全体を俯瞰したわけだ。
 宇宙船に限らず大気中を飛び上がる飛翔体は、空気力と空力加熱から貨物ペイロードやエンジン本体を守るため保護外皮フェアリングまとっている。最初から真空中を想定した——真空中しか想定していない飛翔体ならいざ知らず、大気圏を高速移動する物体なら必須のものだ。特にここは90気圧もある場所なのだから、飛翔時の大気抵抗は地球の比ではない。
 宇宙船と呼ばれた装置だけでなく、その周辺にまで視野を広げると、更におかしい点が見えてくる。噴射ノズルが無いのと対を成す話であるが、噴射を受けるべき噴射偏向施設フレームデフレクターも、水流遮蔽装置ウォーターカーテンもここには存在しない。ここは格納庫であって射点ではないと考えるのがもっともらしいのだが、移動させる運搬施設もレーンも無さそうだ。第一、〈マンタ・レイ〉で輸送するにしても、この装置はかなり深い地下にあるのだし、装置だけ切り離して持ち運べるような形状にはなっていない。天井にくっ付いているしな。
 ——何故、下に置かれているのではなく、天井に張り付いているんだ?
 「洋上石油プラントのようにも見えます」
 みのりがポツリと呟く。石油プラントは、俺は歴史の教科書でしか見た事がない。上から吊るされたプラントの図は見た事がないが、確かにこんなゴテゴテと配管剥き出しの構造物だったような気がする。歴史の教科書で思い出したが、昔の加速器の検出器チェンバー周辺とかトカマク式核融合炉実験機とか、こんな感じだった気がする。〝気がする〟ばかりで悪いが、ともかくコイツは——
 「未完成品なのか?」
 そう思える代物だった。少なくとも何かの装置の実験機としか思えない。俄然、御影恭子が言い出した〝宇宙船〟隠語説が真実味を帯びてくる。
 
 「こいつは……完成品ですよ。必要充分の機能を持っている」
 男の声がした。小隊長殿おやっさんではない。この声は——
 「魚崎⁈」
 全く気付かなかったが、腕組みをして横手から装置を見ている男がいた。空気みたいな存在で全然気付かなかった。黒ブチの眼鏡を通し、どこか虚ろな目が見える。
 「こいつは何だ?」
 「あー、見たまんまの実験装置だ」
 「いや——、見て分からないから聞いているのだが?」
 「見て……分からない?」
 魚崎は、何が分からないのかが分からないと言った風に問いかけ直す。
 「ほら、ここが……爆縮炉となるターゲットチャンバーで、周辺に……正12面体に合わせた集光装置。んー、その装置ごと大型螺旋装置LHD: Large Helical Deviceが取り囲み——」
 「そういう意味じゃなくてだな——」
 どうも調子が狂うな。コイツの訥々とつとつとした喋りは。
 「これは宇宙船なんだろ。モノポールを使った核融合で飛ぶとか言う……」
 「核融合? 違うよそれは……」
 『宇宙船』ってところは否定しなかった。魚崎は目線を合わさないまま、装置を見つめ、ひとり言のように呟く。こういうところに厳密さを求めるんだよな。科学者ってヤツは。
 「えーっとだな。なんだっけ?」
 俺は御影恭子に助けを求めた。確か何か言ってたよな。
 「ルバコフРыбако́в効果——でしょ」
 「そう。それだそれ。それを使ったエネルギー実験装置だろ」
 「ルバコフ効果? モノポール触媒の……陽子崩壊反応のことかな?」
 「そうだ!」
 いや、本当にそうなのかは覚えていないが、御影恭子——ソーニャだったかな? ——は確かそんなことを言っていたし、俺が聞きたいのは、そんな子細しさいな部分の厳密な話じゃない。
 「んー、それも違うね。確かに、反応初期の段階で……ルバコフ効果による触媒反応もある程度は生じるだろうが、そいつは……モノポール融合にとっては障害物なんだ。だから、質量差を利用して強制的に超強電場で分離して——」
 「そういう話じゃなくてだな!」
 俺はキレた。キレたと認識しているから、まだキレてはいないのだろうが、一歩手前まではきている。
 「——こいつは違法に遺跡を採掘してモノポールを抽出し、それをエネルギー源に利用した装置だろっていうことだ。違うのか⁈」
 「んー、何か根本的に勘違いをしているようだね。君は——」
 『君は』と来たか。こんちきしょうめ。
 「これはモノポールを使って……んー、エネルギーを作り出すシステムじゃないんだ」
 『違法に』ってとこはスルーらしい。
 「じゃあ、何を作っているんだよ‼」
 「こいつが作り出すのは——」
 魚崎は、眼鏡を上にずり上げながら、始めてこちらを見た。
 

 「——宇宙だよ」
 魚崎は楽しそうに笑っていた。
 
 「なるほど、宇宙かぁ」
 俺もつられて笑った。人間、わけが分からないと笑うものらしい。魚崎の薄笑いと俺の笑いは多分真逆の感情なのだろうが、見た目はそうそう変わらない——筈だ。
 さっきまではぶん殴ってやろうかと思っていたが、その感情はことごとく雲散霧消うんさんむしょうした。魚崎は悪意でこんなことを言っているのじゃない。ヤツは本物だ。本物すぎる﹅﹅﹅のだ。この装置が何なのかは俺にはよく分からないが、少なくとも魚崎は完璧に理解していて、この装置のことしか頭に無い。それ以外には興味が無い。遺跡を壊したことが国際協定違反になるとか、独占的に開発すればエネルギー資源争奪戦が起きて様々な紛争に巻き込まれるとか、そんなことを一切考慮しない類いの人間なのだ。こういうやからを相手にしても疲れるだけで、何も得られないことは経験上分かっている。御影恭子もそのがあるが、彼に比べれば可愛いもんだ。
 ——となると、彼の無邪気な研究を誰が誘導したかが問題になる。この手の視野狭窄型研究者というか猪突妄信﹅﹅型研究者の場合、研究に必要な予算調達や対外的アピール能力は極めて低い。現に、俺の質問に全然答えてない。というか、質問の意図を全く把握していない。とてもじゃないがこんな感じの説明で政府機関パトロンから予算がぶん獲れるとは思えない。装置の設計図だけなら魚崎一人で描けるだろうが、絵に描いた餅の必要性をアピールし具現化させるためには、それ相応のテクニックが必要だ。
 つまり彼の——魚崎の研究を利用しようと企み、各関係機関に働きかけ、こんな巨大な装置を組み上げるだけの人員と金を確保した誰かが別にいることになる。
 
 「説明が必要だな」
 別の男の声が頭上からした。今度は聞き慣れた声。小隊長殿おやっさんだった。
 「大尉。コレは何なんです? 〈レッド・ランタン〉に残った俺たちまで騙して、ここで何をしているんです⁈」
 「騙す? はは。お前らしい言葉だな。上沢。お前を地表降下部隊アタッカーズから外した理由わけが分かるか?」
 「それは——、謹慎中でしたから……」
 「それは表向きの理由だ。——簡単な話だ。お前は正義感が強過ぎる」
 「だからと言って、こんな違法行為が——」
 「まあ話を聞け」
 小隊長殿おやっさんは目の前の〝宇宙船〟へと繋がる中空の渡り廊下からこちらを見下ろしていた。エレベータ口とは反対側。実験室ラボを挟んで向こう側に、小隊長殿おやっさんたちが降りて行った階段側からの出入り口があるらしい。
 渡り廊下にいたのは小隊長殿おやっさんだけではない。その後ろを〝宇宙船〟に向かって歩いて行く人影——宇宙服を来た湊川だった。こちらを見ながら裏ピースをして通り過ぎていく。
 「お前は、このモノポール貯蔵遺跡をどうしたいんだ?」
 小隊長殿おやっさんが諭すように言う。
 「どうしたいって……そのまま保存すべきでしょう。遺跡って言うのなら人類の共有財産だ」
 「なるほど、共有財産か。だがな、この遺跡はプロメテウスの火なんだ」
 「プロメテウスの——火?」
 「ああそうだ。人類全体が共有するには危険過ぎる。それに、共有するほど量があるものでもない」
 「だ、——だからと言って、我々が独占していいものじゃないでしょうに!」
 「上沢。そこがお前の勘違いなんだ。この作戦は国連本部からの勧告リコメンドによるものだ。我々の独断専行ではない。もっとも、非公式ではあるがな……」
 「国連の?」
 「我々だけじゃない。連邦共和国とロシア隊の一部も加わっている」
 「結局は——」
 「ん?」
 「——結局は、独占でしょう。混成部隊であっても、この遺跡を独り占めしようとしていることに変わりはない……」
 「ふーむ」
 小隊長殿おやっさんはポリポリと頭をかいている。
 分かっている。俺が言っていることが奇麗事だって言うことは。ここに遺跡があり、無尽蔵にエネルギーが取り出せる代物が眠っているのだとすれば、その所有を巡り争いが起こるのは必然だということ。数多くの紛争の原因は、食料や飲み水も含めればエネルギー資源の奪い合いだ。その量が限られているのなら、なおのこと。いずれ紛争が起きることは目に見えている。
 だったら、非公式であったとしても、国連の勧告リコメンドによる作戦を遂行した方が良いのかもしれない。お墨付きがある分、ベストでは無いにしてもベターではある筈だ。
 
 「長田大尉。ひとつお聞きしたい事があります——」
 俺と小隊長殿おやっさんの視線に割り込むようにして、みのりが口を挟む。みのりも言わば〝置いてけ堀〟を食らった一人だ。聞きたいことのひとつやふたつはあるだろう。
 「——この装置は宇宙船ということですよね?」
 「ああ、そうだ」
 「目的はモノポールの持ち出しですか?」
 「そうではない。その逆だ」
 「逆?」
 「逆ってどういう——」
 つい言葉が出る。言っていることが分からん。だが、小隊長殿おやっさんはニヤッと笑って答えた。
 「使っちまうんだよ。争いが起こる前にな——」
 全員に行き渡らない資源があれば、奪い合いの紛争が起きる。それを解決するには、全員に行き渡るだけの資源を確保することが一番だが、それが到底無理なら逆の解法がある。捨ててしまうのだ。誰も使えなくなってしまえば、奪い合いは起こらない。実に単純だ。
 紛争が起こる前に消し去ってしまうのなら、非合法に独占するよりはまだマシか——と自らに言い聞かせようとしたのだが、小隊長殿おやっさんの言葉には続きがあった。
 「——うまく行けば無限に増やすことができる」
 資源を増やす作戦なのか、資源を消し去る作戦なのか、どっちなんだよ!

 
         *  *  *
 
 ここからの説明は主に魚崎によって行われた。会話が噛み合ないことが多くイライラしたが、それなりに理解したことをまとめると、こんな感じだ。
 
 モノポールというのは原始宇宙なのだそうだ。もう、初っ端からわけが分からんが、聞いてくれ。俺だって分からないなりに我慢して聞いたんだ。
 で、このモノポールは単独だととても小さい。小さいと言っても比較の問題で、周囲を取り囲む顆粒状金属系材料BNMの原子と比べればアメーバ並にデカく、それを利用して原子核とモノポールを選別するとか言っていたが、どちらにせよ、肉眼で見える大きさではない。
 さらに、モノポールは磁気単極子と言う和名が付いているだけあって、N極のモノポールとS極のモノポールが存在する。これらを交互に立体的に積み上げて行くと、NとSが相互に干渉し合って外部からは磁力は全く検出されなくなるが、内部は原始宇宙の一歩手前﹅﹅﹅﹅になるらしい。だが、実際はそう簡単にはいかない。そもそも、N極とS極は引き合うのだから、放っておくとくっ付いて消えてしまう。
 『電子・陽電子消滅の磁気バージョンだよ』——と魚崎は言っていた。『ポジトロニウムに相当するものを作ることも可能だが、これを〝マグネトロニウム〟と呼べないところが残念だ』とか言って一人でニヤニヤ笑っていたが、どのへんが笑いのツボなのかさっぱりわからん。少なくとも、魚崎は楽しそうだった。何が楽しいのか分からないが、楽しそうだった。コイツ、以外とよく喋るな。いや、そんなことはともかく——。
 モノポール同士が勝手にくっ付いて自滅するのを防ぐため、N極とS極それぞれのモノポールは格子状に区切られた容器に入れておかねばならない。その容器と言うのが、磁鉄鉱マグネタイトナノ粒子を丹念に張り合わせて作られた顆粒状金属系材料BNM。それを作り出すのが、硫酸なんとか細菌——御影恭子が作成したのか発見したのか、はたまたそれを更に改造したのか忘れてしまったが、要するに例のアレだ。
 
 遺跡の状態は良くはなかった。何しろ、遺跡を形作る岩石は、今から5億年前のものだったという。表面のほとんどは元々の磁鉄鉱ではなく、酸素が硫黄成分に置換されて磁硫鉄鉱か黄鉄鉱になっていた。遺跡の中心部にいくほどモノポールの含有率は高く、そこから逆算すると、元々存在したモノポールの85%は消えてしまった計算になるらしい。ま、5億年もこの環境下にありながら、15%も残っていることの方が、驚異的じゃないかと俺は思う。
 5億年前、遺跡を作るのに使われた﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅とされる硫酸なんとか細菌は、南極の地底湖から発見されていたそうだし、その細菌のDNAをイジり倒して、機能が停止している偽遺伝子Pseudogeneを発現させれば、モノポールの寝床というか揺りかごとして機能する顆粒状金属系材料BNMを作り出せることが、実験室レベルで確かめられた。これを突き止めたのが御影恭子だ。性格はキツいが仕事は本物らしい。もっとも、その細菌の生成物がモノポールの揺りかごの役目を果たすことに気付いたのは彼女ではなく、魚崎だ。
 魚崎は今ある遺跡をあえて粉砕し、残った15%のモノポールをかき集めて、小規模ながらも元の完全な状態に戻すことを考えた。だが、そのためには、新しい揺りかごを作りながら、モノポールを格子状に組み直す大規模な再構成リストラクチャリング装置——御影恭子が生体触媒装置バイオリアクターと呼んだ装置——が必要になる。
 この実験を敢行するには巨大な資金を持つ政府機関パトロンが不可欠だ。あの話しぶりでは誰も相手にしないだろうと思った俺の読みは外れた。あろうことか国連UNの〈ニアリーイコール〉という非公認組織が援助協力を申し出たらしい。ニアリーイコールって、〝大体同じ〟とか〝ほぼ同じ〟って意味だろ。『≒』って書く……。
 そもそも国連機関なのに非公認ってどういうことなのか良く分からないが、そういう外郭団体があるらしい。ま、既にそういう非公認の団体が、人類の共有財産である遺跡を壊すことに手を貸している段階で俺としてはムカムカ来ているわけで、小隊長殿おやっさんが『お前は正義感が強過ぎる』と言うのも分かる。分かるが、正義感が強くて何が悪い!
 
 「お前がハズされたのは、正義感じゃなくて、隠しごとが出来ないその性格からだろ」
 湊川が呆れた顔してうそぶく。
 「——ったく、なんでお前がこの船に乗ってくるんだよ!」
 
 言い忘れていたが、あの後、俺は小隊長殿おやっさんの指示で階段を昇り、この宇宙船の操縦席コックピットに乗り込んでいた。みのりは制御室で待機となったが、御影恭子は『アタシも乗る』と言い張り、何故か後ろにいる。魚崎もだ。図らずも〝水汲み作戦〟の時と同じ人員と配置になっている。ただ、ここを操縦席コックピットと呼んでいいのかは定かでない。操縦桿と呼べるものが無いからだ。それに、本当に〝宇宙船〟なのか、今でも半信半疑だ。
 湊川が宇宙服を着ているのに俺たちは普通の服装でいいのか——魚崎に至ってはテカテカのチノ・パンにヨレヨレのTシャツだ——と思ったが、今回の搭乗は何度目かの模擬試験テストで、飛行﹅﹅はしないようだ。ま、そりゃそうだな。本当にこれが〈スキップジャック〉とかいう宇宙船なら、俺たちがエレベータから降りた場所は、まさに射点位置そのもの。下から〈スキップジャック〉を見上げるような位置だ。どのような推進機構であれ、そこに人が自由に入れる状態で、本番の筈がない。
 「言っとくが、この船——〈スキップジャック〉の操縦士パイロットは俺だぞ。そして副操縦士コーパイはいない。お前たち2人は乗客だ」
 2人——というのは、俺と御影恭子のことだろう。魚崎は最初から地表降下部隊アタッカーズのメンバーだ。そして、〈スキップジャック〉の設計者であるならば、いわゆる航空機関士フライトエンジニアとして乗り込んでもおかしくはない。飛行機酔いの激しいヤツが勤まる職種ではないがな。
 「副操縦士コーパイがいない? 〈マンタ・レイ〉の副操縦士コーパイがいるだろう?」
 「〈マンタ・レイ〉の操縦士パイロットが2人とも〈スキップジャック〉に乗ったら、〈マンタ・レイ〉は誰が飛ばすんだ! 〈マンタ・レイ〉が飛ばなきゃ、上の階にいるRERCの技師やバイオ屋達が帰れないだろ」
 「〈スキップジャック〉には乗せないのか?」
 「こいつは試作機。人類初のモノポール・エンジンで動く宇宙船の試作機だ。で、俺がそのテスト・パイロット。お前には譲らない。今回、指くわえて見てるのはお前の方だ」
 「これは——本当に〝宇宙船〟なのか?」
 「はぁ? お前、いまさら何言ってんだ。小隊長殿おやっさんの命令がなけりゃお前なんてここから蹴りだして——」
 「ああ。分かった、分かった。それ以上言うな」
 とてもじゃないが話にならない。それにコイツは、俺と組むといつもバックアップに回されているから、少しばかり卑屈になっているところがある。
 
 「ところで——」
 と、俺は、質問の仕方を変えることにした。
 「——〈スキップジャック〉の推進剤は一体何だ?」
 本来なら、後ろに座って眼鏡を押さえながら計器類を見ている魚崎に聞くべきだが、コイツに話を聞いても要領を得ない。テスト・パイロットになった湊川なら——、そして、〈スキップジャック〉が本当に宇宙船だと言うのなら、そのへんのことは頭に入っている筈だ。
 モノポール・エンジンがどんなものなのかはよく分からない。魚崎はそれを原始宇宙だといい、核融合反応でもルバコフ効果を使った陽子崩壊反応によるエンジンでも無いと言い切った。とりあえずエネルギー源の詮索は放っておいて、単に膨大なエネルギーを生み出す代物——程度に考えておく。
 だが、エンジンがいくら強力でも、宇宙船やロケットはそれだけでは飛ぶことができない。宇宙船後方に何かを投げつけ、その反動で推進力を得る必要がある。俺が噴射ノズルを最初に探したのはそれを知ろうとしたためだ。後方に何を投げつけるかが分かれば、エンジンの原理もそれなりに分かってくる。
 だが、湊川の返答は素っ気なかった。
 「ねーよ。そんなもん」
 「何? 無いわけがあるか⁈」
 それが無ければ、作用反作用の法則って言う、ニュートン力学に反する。そんなことは原理的にあり得ない。
 「ねーもんはねえんだ。『こいつが作り出すのは宇宙だ』と設計者様も言ってるだろ?」
 魚崎はそれを聞いてもニコリともしなかった。計器類のチェックに余念が無いらしい。
 「じゃあ、どうやって飛ぶんだよ」
 「こいつはと飛ばねぇ」
 「と……?」
 想定外の答えに言葉を失う。あるいは、宇宙船じゃないことを認めたのか?
 「——強いて言うなら〝乗る〟んだな」
 「乗る。何に?」
 「へへ。分かんねーか。それはな——」
 湊川はニヤリと笑った。
 「——宇宙だよ」
 要は、魚崎の真似だった。
 
 魚崎にはエネルギー源となるモノポールの精製について聞いたが、宇宙船が〝飛ぶ〟機構については聞いていない。湊川の話は魚崎よりは分かり易かったが、話そのものは逆で、さらにぶっ飛んだ内容だった。
 「我々の宇宙が原始宇宙だったとき、何があったか知っているか?」
 湊川は意地悪そうに質問する。
 「知らん。第一、原始っていつの頃の話だ」
 「それは——俺も知らん」
 何だ、知らないんだ。こいつも魚崎からの受け売りの知識だけだな。
 「インフレーションだ。インフレーション」
 湊川は不機嫌そうに言う。その一方で、コンソールに流れている情報を読み取り、的確に処理をしているようだ。
 「インフレーションって、インフレーションって、——何だ?」
 馬鹿2人組の会話になっているが、仕方が無い。俺らは科学者じゃないんだ。
 「宇宙空間が急激に大きくなったという話さ。〈スキップジャック〉のモノポール・エンジンは、その〝インフレーション宇宙〟を人工的に作り出す装置だ」
 「空間を大きくして宇宙そらまで飛ぶと……」
 「イメージとしてはそんなところだ」
 「湊川……、お前もイメージだけしか分かってないだろ」
 「細けぇトコはいいんだよ!」
 ははっ。開き直りやがった。
 
 話は単純だ。だが中身がぶっ飛んでいる。
 集積されたモノポール——正しくはモノポールを内部に取り込んだ状態の顆粒状金属系材料BNM——を超短パルスレーザーでプラズマ化。大型螺旋装置LHDでそのプラズマ状態を維持すると同時に、揺りかごの役目を終えた顆粒状金属系材料BNMを四散させ、純粋なモノポールのスープを作る。これが正に原始の宇宙なのだそうだ。
 魚崎の話に出てきた、ポジトロニウムだがマグネトロニウムだか——あれ? どっちだ? ——ともかく、詳細は分からなかったが、通常、そいつらの末路は、単に消えて無くなるだけのはかない存在だ。だが、短期間に大量に凝縮され、ある臨界を越えると、急激に巨大化するらしい。爆発じゃない。空間そのものが創造され膨張する仕組みだ。そうすると、あぶった餅の一カ所が急激に膨らむように、その膨らみの上に乗っていた物体も、空間と一緒に移動できる。
 いやいや、移動ではない。移動はしていない。宇宙船は同じ場所にいるのだが、地面と宇宙船の間に新たな空間が創造されるから、座標そのものが変化してしまうだけだ。『こいつはと飛ばねぇ。強いて言うなら乗るんだ』という湊川の言葉はそう言う意味だ。
 
 ——っていうことは、コイツは本物の宇宙船だということだ。
 こんな原理で飛ぶヤツを宇宙船と呼んでいいのかどうかは分からないが。
 
 「インプロージョン・シーケンスをスタートしますか?」
 「何時でもいけるぜ」
 合成音か生身の声か分からないような女の声に、湊川が応える。模擬試験テストは最終段階を迎えつつあるようだ。
 「大型螺旋装置LHD出力正常。磁場漏れ規格範囲内」
 「了解ラジャー。こちらでも確認している」
 「カウントダウンのタイミングはどちらで行いますか?」
 「そっちで頼む。10秒からでいい」
 「分かりました。10、9、8……」
 
 操作は全てタッチパネルで行われている。操縦桿やスロットルレバーが無いのは淋しいが、ネオ・ダイダロスの操縦系統もそうだった。宇宙を作り出して膨らませるなどと言う奇想天外な話に面食らったが、何の事はない。制御系としては核融合ペレットにパルスレーザーを当てて飛ぶネオ・ダイダロスとそんなに変わらない。磁場で封じ込める核融合炉のような機構が、別途加わっているだけだ。
 奇妙なのは、燃料となるモノポールとその推進原理だけ——いやまあ、そいつが一番のキモなのだが——で、制御機構や操縦系が未知の理論で一新されているわけではなかった。これなら、その気になれば短期間のうちに開発できるだろうし、特別なブレイク・スルーも必要なく、既存の技術の寄せ集めでなんとかなるだろう。
 「5、4……」
 「ん? おい、どうした?」
 カウントダウンは唐突に4で止まる。湊川の問いかけに応えたのは、女性の声ではなく、小隊長殿おやっさんだった。
 「湊川。今日のテストは中止アボートだ。お客が来た」

 
         *  *  *
 
 「偵察機は無人の囮だったからな」
 俺と湊川が制御室に戻ると、小隊長殿おやっさんが見据える先のレーダーに三機の機影が写っていた。ふたつは兵員輸送機並の小型機だが、そいつを露払いにして後ろに飛んでいる機体がでかい。〈マンタ・レイ〉程ではないにしても、半分程度の大きさはある。半分だとしても500メートルだから〈ブーメラン〉よりは大きい。大きさと形状から飛行船型艦艇だと思われる。敵が本格的に攻めて来やがっ——いや、敵って誰だ?
 「撃ち落としますか?」
 無線から入ってくる声は姫島だった。普段はにこやかだが、こと戦場においては過激である。職務に忠実と言った方がいいかな。減圧室ベルに入ってガス抜き中かと思いきや、既に浮揚軽量車エアロスピーダーと共に、〈箱船〉外に展開しているらしい。敵大型船までは距離にして20数キロメートルってとこだが、装甲兵携帯式地対空ミサイルAMPADSはそんな長距離射程ではない。精々、半分の射程だ。他の武器があるのだろうか?
 「いや待て。小型機の識別信号IFFを見てみろ」
 「こいつは——」
 大きな方は、連邦共和国の船。例によってRERC絡みの大型船のようだ。
 小隊長殿おやっさんが『無人の囮』と呼んだ偵察機は、我々が浮遊基地フロート・ベースから姫島らと追いかけた、RERCの装甲兵員投降機APDのことだろう。最終的には迎撃する前に地上に落っこちた間抜けな機体だったが、放電霧を利用してみのりが地表降下部隊アタッカーズに連絡を入れた後、仮に装甲兵員投降機APDがそのまま順調に〈箱船〉に接近していたとしたらどうだろう? 地上部隊は迎撃体勢に入ったのだろうか?
 反対に、我々の乗った〈ブラック・タートル〉もRERCの連中——RERCの司令部付きではなく駐在部隊の連中——に撃ち落とされそうになった。だが、姫島の投光機信号で誤解﹅﹅は解け、アイツらと握手までした。つまり、地表降下部隊アタッカーズとRERCの駐在部隊が手を結んでいるということになる。小隊長殿おやっさんはロシア隊も絡んでいると言っていた。南緯20度帯20 Degree Southを拠点とするロシア隊は、地表降下部隊アタッカーズ浮遊基地フロート・ベースごと消えて無くなった時に、真っ先に捜索を開始した部隊だ。実に手際が良いなと思っていたが、最初から陽動や攪乱かくらんとして仕組まれていたと考えれば話は通じる。『風邪が流行っている』というソーニャの話もその一環だったのかも知れない。ただし、ソーニャは攪乱された側﹅﹅﹅﹅﹅﹅だ。
 つまり、本作戦に関して、地表降下部隊アタッカーズにとっての味方は、RERC駐在部隊とロシア隊であり、敵対するのはRERC司令部付き部隊、つまりソーニャのとこの部隊と——
 「こいつは——、我が軍ウチの〈ブラック・タートル〉だ」
 ——そう。〈レッド・ランタン〉に残った谷上中尉以下の残留部隊﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅ということになる。はてさて、俺はどっちに付けばいいんだ?
 
 「浮遊基地フロート・ベースに留まっていれば、もっと早くに察知できたんですがねぇ。それで——、撃ち落としますか? 敵味方識別付探索機IFF-Seekerを外せばやれます」
 姫島はあくまで『撃ち落とす』つもりだ。味方でも容赦ない。
 やってきた二機の〈ブラック・タートル〉は、落ちるしか能のないグライダー装備と違い、傾斜回転翼ティルトローターが左右に一機ずつはめ込まれた立派な翼を付けている。大型飛行船と速度を合わせる必要があるのかも知れないが、単独で持続航行が可能な機体となっているように見える。
 しかし、このオプション主翼は我が小隊には配備されていないものの筈だ。
 「まあ待て。〈ブラック・タートル〉はともかく、大型船の戦力が分からんウチは手を出すな」
 「大型船の方が回避能力が低くて良く当たります。装甲も紙レベルですが?」
 「そんなことはあちらさんも分かってる。分かっているのに大型船でやってくるからには何かある」
 「何ですかね?」
 「それが分かれば苦労しない。相手の出方を見よう。迎撃は放電霧を越えるまで待て」
 「了解ウィルコ
 
 ほどなくして降下部隊から通信が入る。我が軍ウチの専用回線だ。嫌な予感がする。
 「長田大尉。ご無事ですか?」
 予感的中。無線の主は谷上中尉だ。小隊長殿おやっさんは手に取ったマイクを一旦下げ、少し溜息をついてから話し始めた。
 「無事だ。ピンピンしている」
 「それは良かった。そちらに、捜索隊を買って出た﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅上沢小尉と伊川軍曹もいると思いますが……」
 「捜索? そうか、そういう話をしていたな」
 「ところで、降下地点は赤道を越えたセレス・コロナCeres Corona周辺ではなかったのですか? 随分と外れた場所に降りたようですが?」
 「……何が言いたい? 時間稼ぎなら他でやってくれ」
 小隊長殿おやっさんは笑いながら話していたが、もちろん、目は笑っていない。
 「分かりました。単刀直入に言いましょう」
 「そうしてくれ」
 「不法占拠している遺跡から退去して頂きたいのですが……」
 「不法占拠ではない。宇宙に関する国際連合条約UNCLOU: United Nations Convention on the Law of the Universeによる暫定的占拠だ」
 「それは初耳です」
 「公開鍵暗号電文で通知された勧告リコメンドによる国連本部からの公式文書レターもある」
 「なるほど。では、それは後で確認しましょう。ですが、宇宙に関する国際連合条約UNCLOUは、あくまで宇宙空間上での条約。宇宙境界線Kármán line以下では、惑星ごとの連邦共和国政府の法のもとに運用される筈ですが……」
 「ここは北緯30度帯30 Degrees North域のテルス島Tellus Island湾内だ。自治権という意味では、共和国直轄の司令部よりここに駐留する共和国駐在部隊と我々の合議の方が優先される」
 「共和国の駐在部隊……。なるほど、そういうカードをお持ちでしたか。ただ、どちらが優先されるかは、国際宇宙法裁判所ITLOU: International Tribunal for the Law of the Universeでも争われていない事案ですがね」
 「はっはぁ。それこそ宇宙境界線Kármán line以下では司法権限が及ばない話だろう」
 「それともうひとつ。遺跡の占領は、金星環境保護戦略VEPS: Venus Environmental Protection Strategy——」
 「今は金星評議会VC: Venus Councilになっている筈だが?」
 「おっと、そうでした。そこの環境作業部会の決議に反しています」
 
 ややこしい。実に、ややこしい。政治と法律の分野は性に会わない。——っていうか、何故に我が軍ウチの小隊のトップとナンバーツーが言い争そわねばならんのだ。
 「姫島」
 「はい」
 小隊長殿おやっさんが一旦手持ちのマイクを下し、コンソールに映る姫島ら装甲兵アーマードソルジャー分隊の位置を確認しながら別のマイクで短く呼び出す。姫島も瞬時に出る。既に第一種戦闘モードだ。
 「そこから〈ブラック・タートル〉が狙えるか?」
 「いつでも撃てます」
 「狙いだけでいい。こちらの合図でレーダーを照射しろ」
 「こちらの位置がバレますが?」
 「ダミー照射でいい」
 「了解ウィルコ
 姫島ら装甲兵アーマードソルジャーの配置は完璧だった。最初は〈箱船〉近くの岩場を背に身を隠しているだけだと思っていたが、〈箱船〉の廃熱管下の位置に陣取っていて、相転移吸熱体PTHAの排気を隠している。上から見れば陽炎が重なって、区別がつくまい。
 さらに、彼らは敵の誘導弾に備え、多孔電磁波反射体メソポーラス・オプティカル・デコイを要所毎に何体か展開している。これらは単なる受動式パッシブの〝人形〟でしかないが、一方向から照射された光を四方へ拡散させるため、それ自身が敵に向かい照準光を発光しているように仕向けることができる。すなわち、〝人形〟にレーダー波を照射することで、その〝人形〟があたかも照準をつけているように見せかけることが可能だ。
 「らちがあかんな。話し合いに来たわけではなかろう——」
 小隊長殿おやっさんがマイクを持ち直し、再び谷上中尉に話しかける。あくまでもニコやかに。
 「——こちらにも、いきり立っているヤツがいてな」
 小隊長殿おやっさんは左手を上げ、合図をする。ダミー人形からのレーダー照射はこちらからは見えないが、飛行中の〈ブラック・タートル〉2機が回避行動を取りながら大型船の裏に隠れたことで、それと分かる。
 だが、裏に隠れるのか? 露払いとして大型船を守るのでは無く、盾として使うのか? 藁のような盾を?
 「そちらの手の内も見せてもらおうか?」
 「…………」
 一瞬の沈黙の後、谷上中尉は、
 「できれば見せたくは無かったのですが——」
 とだけ付け加えた。
 相手の高度は20キロメートルを切った程度。濃密な大気のため、望遠でも揺らぎが激しく、詳しくはよく分からない距離ではあるものの、大型船の〝腹〟が開くのが見えた。俺は何度目かの既視感デジャブを感じていた。
 「クラスタミサイルとはスマートじゃないな」
 小隊長殿おやっさんはやはり笑っている。
 「いえいえ。オスロ条約には抵触しません。ただのパチンコ玉射出機です」
 「この大気密度では、施設に亀裂が入るだけで自壊する——そういうことだな」
 「そういうことです。ですが、我々の目的は破壊活動ではありません」
 「我々とは?」
 「共和国政府と共に北緯30度帯30 Degrees North域をべる我が軍の小隊のことです。そもそも国連加盟の各国担当者が見守る公式の作戦会議ブリーフィングで嘘の作戦を述べ、遭難を擬装し、秘密裏に遺跡を占拠したのは——長田大尉、貴方の方なのですよ」

 
 それは確かにそうだった。『我が隊に内通者がいる』俺がそう言って、みのりが黙り込んだのも、元はと言えば、その内通者が小隊長殿おやっさん——つまり長田大尉なんじゃないかという疑惑に尽きる。
 国連本部からの勧告リコメンド。その一言で小隊長殿おやっさんは説明したが、俺たちはその内容を見たわけでも読んだわけでもない。エネルギー資源としてのモノポールの独占をたくらんだ者達の非合法的作戦——と見た方が、明らかに分かり易い。
 だが、谷上中尉が〝正義の味方〟かと言うと、これもかなり怪しい。単に状況把握を目的とした偵察だけなら、俺もそう思ったかもしれない。何しろ、奪い合っているのは遺跡だから、移動出来るものではないし、場所さえ特定してしまえば、所定の手続きをとって警務隊Military Policeに通知するだけでいい筈だ。
 第一、クラスターミサイル——ではなく、巨大な鉄球花火を持って来たという段階で、この〈箱船〉を強奪する気満々じゃないか。破壊が目的ではないなら、脅して奪い取ろうということだろう。
 この争い……。どちらにしても正義は無いように見える。
 
 いさかいの理由はさておいて、戦術的なことに目を向けると、この闘いは、圧倒的に小隊長殿おやっさんが不利だ。要するにこれは拠点防衛戦だ。破壊するだけで良ければ、花火を炸裂させるだけで事足りる。おそらく、高々度からバラまくだけでいい。〈箱船〉の数カ所に亀裂が入れば、後は自動的に圧壊する。ダム破壊作戦と同じだ。そんなに大量の爆薬は必要ない。
 逆に、姫島ら装甲兵アーマードソルジャーが下から攻撃して大型船を撃墜するのも同様に簡単だが、攻撃回避が難しいこの手の船は、処理防止装置Anti-handling deviceが付いているのが常だ。攻撃や武装解除の手段を講じれば、その段階で花火が炸裂するだろう。いや、撃墜できたとしても誘爆して鉄球をバラまかれたなら同じ事だ。
 この勝負、小隊長殿おやっさん率いる地表降下部隊アタッカーズは、負けか引き分けしか残っていない。我が小隊全体にとっては引き分けでも負けだ。いや、引き分けこそが最大の負けだ。味方同士で潰し合っているのだから世話が無い。
 ——なにやら、ソーニャの高笑いが聞こえてきそうだな。アイツが後ろで手を引いているのは間違いない。そもそも、あの大型船は我が軍ウチのものではない。連邦共和国の船。RERCの大型船なのだから、推して知るべしである。つまり、この遺跡を手に入れたいのはソーニャ——要するに、ここの共和国政府なのだ。そして、手に入らないのなら、先に見つけた者どもと共に破壊してしまえということだ。
 
 「ふむ……」
 小隊長殿おやっさんは暫く考えていたが、おもむろにマイクを取りとんでもない事を言った。
 「分かった。投降しよう。本施設は放棄する。好きにするがいい」
 「えっ⁈」
 つい、声が出る。湊川も、他のクルーも同様だ。ちなみに言っておくが、小隊長殿おやっさんはいつもはこんな弱気ではない。いや、今も弱気には見えない——のだが……。
 「……そうして頂くと助かります」
 一瞬の間の後、拍子抜けしたような谷上中尉からの声が入る。
 「ただ、〈マンタ・レイ〉に全員が搭乗し、本施設を離れるまで時間がかかる。暫く猶予をくれないか?」
 「分かりました。20分だけ待ちましょう」
 「助かる」
 
 確かに、同士討ちしてまで〈箱船〉の分捕り合戦をしても仕方が無い。無駄な消耗戦をしても我々小隊が損をするだけで、漁父の利を得るのは共和国政府だけだしな。——などと考えていたら、小隊長殿おやっさんはコンソールを叩いて何処かと話をしていた。
 「教授——」
 「んー、なんですか?」
 『教授』と呼ばれたのは魚崎だった。そういえば、制御室には一緒に来ていなかったなと思っていたら、まだ例の宇宙船〈スキップジャック〉に乗っているらしい。ディスプレイを見ると、先ほどと全く同じ席に同じように首を傾げて座っている。そういえば、御影恭子もここには来ていないが、船内には居ないようだ。アイツは何してんだ?
 「発射シーケンスは止めたままか?」
 「あー。いや、一旦、リセットをしている」
 魚崎はカメラを覗き込む様にこちらを見ている。覗き込んでもこちらは見えないだろうに。
 「それなら直ぐに再開してくれ。ただし今回は本番だ﹅﹅﹅﹅﹅﹅
 「はぁ。では、早速……」
 魚崎は驚きもしなかった。眼鏡を押し上げ、少し微笑んでいた。
 「湊川。本作戦は予定を繰り上げて最終段階に入る。強制はしない。やる気はあるか?」
 「ここまで来たら、後には引けないでしょう」
 湊川は嫌々そうなフリをしているが、顔は魚崎と同じだった。早々と敬礼をし、宇宙船へ戻ろうとする。
 「上沢ぁ」
 「はい」
 「お前には本作戦に関わる義務は無い。だが、こういう事態だ。バックアップで湊川と一緒に搭乗してもらえれば有り難い」
 「は——」
 湊川が振り向き、露骨に嫌そうな顔をする。それなら返答はひとつしかない。
 「——分かりました。乗りかかった〝船〟ですし」
 「上手いこと言ったつもりか⁉」
 湊川は迷惑そうな顔をしてそう言った。俺は笑った。魚崎と同じ、薄笑いで。

 
         *  *  *
 
 操縦士パイロットの湊川と共に、単純だが重要ないくつかの煩雑はんざつ定型作業セレモニーをこなした後、座席を目一杯、リクライニングにし——って、どこかで似たような話をしたな。
 「ったく。何でお前が乗ってくるんだよ」
 「小隊長殿おやっさん命令﹅﹅だ。命令には従わねばならん」
 「けっ!」
 
 俺の目算通り、この船は、タンデムミラー型推進ロケットのような、磁場封じ込め型核融合炉と核融合ペレットを使う慣性閉じ込め核融合炉の混成体キメラのような代物だった。操作自体も似たようなものである。
 もちろん、差異はある。まず、直線的なタンデムミラー型ではなく、ドーナツ型のヘリカル磁場装置が使われている点。魚崎曰く『大型螺旋装置LHD』という装置だ。ドーナツ型はプラズマの漏れが少なく、常用のエネルギー動力炉にはよく使われるが、プラズマを噴射して推進する宇宙船用途には不向きだ。制御をうまくやらないとネズミ花火のように回転し、どっちに飛ぶか分からない代物となる。
 もっとも、この磁場装置は、プラズマを封じ込めるのではなく、プラズマと化した顆粒状金属系材料BNMを吹き飛ばすためのものだそうだから、用途が全くの逆である。装置自体も密閉型ではなく、コイルがむき出して、内部空間が丸見えだ。不要となった顆粒状金属系材料BNMが消え去った後、この内部空間をモノポールのスープの元﹅﹅﹅﹅﹅が循環することになる。
 超短パルスレーザーを使った慣性閉じ込め核融合炉の方も、連続使用を想定していないという点が異例だ。その代わり、一度にエネルギーを使い切るフェムト秒単位の超短パルスレーザーの威力はとてつもない。魚崎の言葉を借りれば、モノポールを標的ターゲットとした『爆縮炉』である。
 超短パルスレーザーの発振に合わせて、大型螺旋装置LHDからモノポールを放出。一気に爆縮させるとモノポールスープができる。『インフラントンを作る』——と魚崎は言っていたが、何のことなのか最後まで分からなかった。
 分からないついでに言ってしまうと、一度使ってしまったモノポールを再び回収するには、〈スキップジャック〉が作り出したインフレーション宇宙が再加熱Re-heatingで消えてしまう前に、その一部を取り込めば良いらしい。『何度でも食える只飯フリーランチだ。ふっふっふっ……』——と魚崎は……えーい、気持ち悪いヤツだな。
 そういえば、小隊長殿おやっさんも『無限に増やすことができる』とか言っていたので、何やら複雑で理解出来ないが、そういうことらしい。これ以上は俺に聞くな。
 
 動作原理は複雑怪奇で俺の頭では理解不能だが、実際の点検作業自体は非常に単純だ。外部動力炉との接続と電力流量チェック。スラブ型レーザー増幅器とパルスストレッチャー・コンプレッサーおよび最終段で通過するグラフェン可飽和吸収ミラーGESAM: GraphEne Saturable Absorber Mirrorの動作確認等々……。
 ちなみに、〈スキップジャック〉を動かすための動力源は、〈箱船〉の中に外部動力炉として、別途備わっている。大型螺旋装置LHDも見た目はトカマク式の核融合炉そっくりなのだが、こいつはエネルギーを使う一方で生み出すことはない。兼用すればいいのに——と、素人考えで勝手に思う。
 ただし動力源と言っても、それは始動スターターモーター程度の意味の動力であり、〈スキップジャック〉の宇宙船としての推進動力はあくまでも〝宇宙〟である。外部動力炉のエネルギーゲージを見る限り、スターターにしておくのは勿体ない気がする。これだけで充分に〈スキップジャック〉を宇宙そらに上がるだけの能力はあると思うのだが……まあ、そういう実験﹅﹅ではないから仕方が無い。
 それから、グラフェンなんとかってのは初耳だ。昔、魚崎がグラフェン構造がどうのこうのとか言っていたような気がするが、記憶が定かではない。確か、ネオ・ダイダロスのレーザー駆動系にも、似たような場所にSESAMという似たような名前の回路があったが——、親戚か何かだろうか?
 
 「ところで……」
 俺は湊川に聞いておきたいことがあった。
 「後ろの席の2人は何だ?」
 うーむ。自分の発言ながら、この展開は既視感デジャブがありまくりなのだが、俺と湊川同様、宇宙服を着込んだ2人がそこにいた。1人はさっきまでヨレヨレのTシャツを着ていた筈なのだが。
 「何だとは失礼ね! アタシは——」
 「魚崎博士は〈スキップジャック〉の設計者だ——」
 「——ここに濃縮された磁性体があるって言うから——」
 「——エンジニアとして状況を見てもらうために——」
 「——それを探していたらアンタ達が勝手にやってきて——」
 「——本船の機関士としての役割を——」
 「あーっ、ウルサイわい。いっぺんに喋るな。俺は聖徳太子じゃねー!」
 「準備はどうだ?」
 「だから一度に喋るなと——」
 「その声は上沢だな……」
 「うが‼」
 小隊長殿おやっさんだった。有線回線で割り込んで来ていた。
 横でニヤニヤしながら湊川が応える。
 「動力系統、レーザーとミラー軸合わせ共に調整済み。いつでも起動できます」
 「了解した。こちらの隊員もほぼ〈マンタ・レイ〉に搭乗済みだ。今、連結通路はしけを切り離している」
 「起動しますか?」
 「いや待て。上空で谷上が熱源感知していたなら、起動がバレるおそれがある。〈マンタ・レイ〉上昇時に合わせるんだ。モーター熱と気流で誤摩化せる」
 「了解ウィルコ
 
 モニター画面では、今まさに、〈マンタ・レイ〉のメイン・ハッチが閉まろうとしているところだった。格納された浮揚軽量車エアロスピーダー2台と、装甲兵アーマードソルジャー4~5体は確認出来た。それと、人員輸送モジュールPTMも加わっている。他の人員は、与圧が確保されているサブ・ハッチから入ったのだろう。ということは、人員輸送モジュールPTM可搬式減圧室ベルの役割を果たしていて、中には30気圧下に置かれていた人達が入っている——そういうことになろうか。
 上空二機の〈ブラック・タートル〉は、高度5キロメートルを割る程度まで降下している。だが、花火が仕込まれた大型船は放射霧より下には降りて来ていない。地上からの奇襲に対する防御だろう。少なくとも、撃墜される前に、全ての子爆弾——子鉄球か? ——を投下可能だぞという脅しにはなる。〈箱船〉乗っ取り後も地表まで降りてこないつもりなのかもしれない。
 「全員﹅﹅〈マンタ・レイ〉に搭乗した。これから離昇リフトオフする」
 「了解ラジャー。そのまま25浮遊基地フロート・ベースまで上がって頂きたい」
 「了解ウィルコ
 小隊長殿と谷上中尉との無線交信を合図に、行動を開始する。

 
 「打ち上げ作業をスタートしますか? 本行程は演習ではありません。繰り返します。本行程は演習ではありません」
 先ほど聞いた合成音か生身の声か分からないような女の声。いや、ここには我々4人しかいないから、合成音で確定だ。
 「何時でもいけるぜ」
 これまた、先ほど聞いた言い回して、湊川が応える。
 「生体認証を再度確認します——確認完了。動力炉を接続、起動します」
 このやりとりは、さっきは無かった。本番はセキュリティが厳しくなるのか? それ以外にも『起動します』という言葉は無かったと思う。シミュレーションでは省くらしい。
 ゲージ類は次第に上がって行くが、振動や音は全く感じない。動力炉が外部にあり、足元で核融合ペレットによる連続点火が行われているわけでもないのだから当然だが、起動時に行われる筈の角運動量制御フライホイール動作試験音すら皆無なのは少々淋しい。
 宇宙船の場合、全飛行行程の中で加速時間より慣性飛行時間の方が遥かに長いからこういう静かな状態が多くなる。真空中ではいくら高速で飛んでいても、体感でそれを感じ取る術はない。大気中を飛ぶ飛行体を俺が好きなのは、この静けさが苦手だからかもしれない。今頃になって気付いたのだが、この宇宙船〈スキップジャック〉は、機械式の可動部が極端に少ないんじゃないだろうか?
 だが、進路変更を行う機能——操縦桿ではなくタッチパネル式ではあるが——は付いているのだから、何らかの姿勢制御機構がある筈だが、噴射ノズル無しにそれをどうやって制御しているのかが良く分からない。イオンスラスターくらいはどこかにあると思い、搭乗前に確認したが、それらしいものは無かったのが気になる。
 駆動系の知識は『整備士エンジニアには必要だが、操縦士パイロットには不必要な知識』かといえば、そんなことは無い。航空機でも自動車でも、モーターがフロント側かリア側かで操作性が異なるのは必然。操縦士パイロットも駆動系の細部を熟知しておくことは無駄ではない。いや、むしろ積極的に知っておくべきだ。
 「自律的点検システム作動。全点検終了まで240秒」
 時計を目にやると、20分のタイムリミットまで、あと5分ほど。何とかなりそうだ——が、1分の猶予で離昇リフトオフできるのか? それに——
 「上昇時に撃ち落とされたりしないのか?」
 何しろ上空15キロメートルには花火入りの大型船が睨みをかせている。いや、そうじゃない。その前にもっと根本的な話がある——
 「そもそも、どうやって離昇リフトオフするんだ? 天井が開くのか?」
 天井は開かない。開かないのは分かっている。
 この上には、生体触媒装置バイオリアクターが林立する実験室ラボがある。さらにその上には制御室がある。床や壁の素材が何で出来ているのかまでは知らないが、カパッと開くような作りにはなっていないことは確かだ。
 「んー、あー、それは問題ない。天井はそのままだ」
 魚崎が答える。
 「天井がそのままだとぶつかるだろ」
 「……ぶつからない」
 「何故?」
 「んー、天井も離昇リフトオフする」
 「は?」
 「だからだなぁ——」
 湊川が会話に割って入る。そもそも会話にはなっていなかったが、こんなやり取りが延々と続くのを嫌ったのだろう。御影恭子は隣で目を瞑り足を組んで黙っている。そういえば、コイツは〝水汲み作戦〟の時、魚崎と二、三、会話しただけで直ぐに黙ってしまったのだったっけ? 御影恭子と魚崎晋……ま、どう考えても相性は悪そうだ。
 「——俺たちが乗っているのは……そうだな、エンジン部分そのものなんだよ」
 「じゃあ、やっぱりこの船は未完成品だってことか⁈」
 「そ、そうじゃない」
 魚崎の回答を湊川が手で制する。
 「〈スキップジャック〉がエンジンだとするならば、船体は〈箱船〉全体だ」
 「ん?」
 「〈スキップジャック〉は宇宙を人工的に作り出す装置﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅だと言っただろ。だから、金星の地面と、この操縦席コックピットの間に新しい空間を作り出すんだよ」
 「上に乗っている俺たちは宇宙そらまで飛ばされると?」
 「そういうことだ」
 「管制室ブロックハウスごと打ち上げるわけか」
 さっきも似たような会話をした筈だが——うーん、やっぱり良く分からない。だが、この施設に〈箱船〉という名称を付けた意図は何となく分かった気がする。
 「いや……、飛ぶのではなく、んー、座標は変わらない」
 魚崎のツッコミが入る。こいつのツッコミは、ボケなのかツッコミなのか分かり辛い。
 「ああ、そうだった。そうだった。新しい空間が間に詰め込まれるだけだ」
 湊川も魚崎の〝科学的に厳密なツッコミ〟には辟易しているらしい。そのイライラ顔を横目で見ながら、俺はさらに質問をする。
 「上昇率ROC: Rate Of Climbは?」
 「ROC? 理論上何度でも再生可能だ。周囲の空間ごと持ち上がるってことは、大気摩擦を考えなくて済むから、通常の輸送機よりも——」
 「ああ、すまん。再利用可能軌道輸送機ROC: Reusable Orbital Carrierのことじゃない。上昇する速度が知りたい。上の大型船に蜂の巣にされるのは御免だ」
 「その心配はいらない。〈スキップジャック〉の最高速度は無限だ」
 「何⁈」
 「いや……、無限では無い。理論値上限は、光速の1026乗倍? んー……オーダーで107桁程の誤差がある——」
 「は⁈」
 魚崎のツッコミが再び入るが、それ以前に、お前達はいったい何を言っているのだ?
 「——だが、心配はいらない。んー、スケール因子ファクターが指数的で誤差が増幅されても、インフレーション終了時の……物理的座標距離の誤差には……ほとんど影響が無い」
 「湊川ぁ……翻訳してくれないか? 分かるなら」
 「ああ? そうだな。簡単なことだ——」
 湊川は親指を立てながらこういった。
 「——心配するな、楽しくやろうぜDon't Worry, Be Happy
 ウインク付きだった。余計に心配になった。
 思わず後部座席の御影恭子を見たが、腕組みをして『アタシに聴くな』という拒否の眼差しをしている。逆ギレしている。——いや、コイツは単に、硫酸なんとか細菌が作った特殊な磁性体が手に入らなかったことに腹を立てているだけなのかもしれない。どいつもこいつも、まともなヤツがいない。唯一まともだったみのりちゃんはさっさと何処かに行ってしまったしな。
 
 「湊川、上沢、首尾はどうだ? そろそろお客が到着するぜ」
 有線回線から聞き慣れた声がした。いや、しかし——
 「姫島か?」
 どうして姫島がここに——何処に?——いる。
 「上沢か? 追い払うか?」
 パッシブレーダーを見ると、上空にいた2機の〈ブラック・タートル〉のうち、1機は反転し〈マンタ・レイ〉へと近づいていた。〈マンタ・レイ〉は上昇というより、水平方向へ移動していて、〈箱船〉から距離をとる動きをしている。問題はもう1機の方だ。こちらにゆっくりと接近中である。
 「追い払うって……ここで戦闘を開始したら、鉄球の雨が降るぞ」
 「それが目的なのさ——」
 湊川がわけの分からないことを言う。
 「——可能な限り実験を遂行させる。だが、不可能と判断したならば、奴らに鹵獲ろかくされる前に自沈させる——そういうことだな」
 「悪いがそういうことだ。この場合、連邦共和国の船からの攻撃だから、自沈とは言い難いが、『禁じられている戦闘により遺跡が破壊された』と言うスジで話を持っていくことが出来れば、奴らも国際宇宙法裁判所ITLOUに提訴しようとはしなくなる」
 狐と狸の化かし合いだ。俺が苦手なジャンルだな。
 「こっちには2名の民間人﹅﹅﹅も乗っているんだぞ!」
 俺は叫んだ。どっちも民間人と呼ぶには、少し逸脱している気もするが、軍人ではないという意味では民間人でよかろう。
 「心配するな。そこは地階だ。上が壊れても、そこまでは及ばない。——救出は若干面倒だがな」
 
 「自律的点検システム異常なしオールグリーン。インプロージョン・シーケンスをスタートしますか? 本シーケンスは取り消すこができません」
 また誰かが割り込んできやがった——と思ったら、〈スキップジャック〉の合成音声だった。
 「大型螺旋装置LHD出力正常。磁場漏れ規格範囲内」
 「姫島、残念だったがお前の出番は無さそうだ」
 「分かった。あと30秒だけ待ってやる。それ以上は待てん」
 「了解ウィルコ
 「カウントダウンのタイミングはどちらで行いますか?」
 「そっち——いや、俺がやる」
 湊川は先ほどのシミュレーションの時とは違い、やる気を見せている。
 「分かりました」
 湊川がこちらを向く。
 「今回は俺が操縦士パイロットでお前が副操縦士コーパイだ。いいな?」
 俺の扱いは、小隊長殿おやっさんの命令により、お客さんから副操縦士コーパイに格上げされたようだ。
 「分かった分かった。とっととやってくれ」
 それを聞いて安心したのか。湊川は首を鳴らすとカウントダウンを始めた。——と言ってもスイッチを押すだけだし、そもそも既に周囲に誰もいないのだから、カウントダウン自身の意味がない。そのまま点火イグニッションでいいと思うが? 時間もないことだし……。
 「10、9、8……」
 「——ところで、」
 俺は肝心なことを聞くのを忘れていた。
 「コイツの——、〈スキップジャック〉の目的地は何処だ?」
 「7、6、5……」
 「上空1000キロメートル……ってとこかな?」
 「曖昧だな」
 「4、3……」
 「下手すると火星かもな?」
 「は⁉」
 「2、1……」
 「それはどういう——」
 「爆縮インプロージョンスタート」
 
 ——遅かった。もっと早くに聞くべきだった。







六、帰  還

 
 〈スキップジャック〉が英名でかつおを意味している——というのは、どうやら俺の思い違いだったようだ。もちろん辞書を引けば、〝スキップジャック・ツナ﹅﹅〟という言葉がかつおだと書いてあることは間違いない。実際、潜水艦や掃海艇の名前にも〈スキップジャック〉という単語は使われていて、それは明らかに〝かつお〟から取った命名だと思われる。
 だが、本船の通称〈スキップジャック〉はかつおではなく、米搗虫コメツキムシから取ったものだ。ひっくり返して地面に置くと、手足をバタバタさせた挙げ句、豪快に跳ね上がるアレである。飛び上がる力と速さは確かにすごい。目にも留まらぬ速さで飛び上がる。だが、目標を見定めて跳んでいるかと言うとそうではない。ヤツらはただ闇雲に空へ跳ね上がるのだ。
 
         *  *  *
 
 静かだった。物音ひとつしない。
 ——いや、正確には物音とひとつしなくなった﹅﹅﹅﹅﹅﹅と言うのが正しい。だからといって、爆縮インプロージョン時に轟音がしたというわけでもない。多少の振動と『コーン』と『カーン』の間のような音が瞬間したくらいで、化学燃料ケミカルロケットのような騒々しさはまるで無かった。また、爆縮インプロージョン後のG増加も皆無だった。魚崎の『座標は変わらない』と言う言葉は正しかった考えるべきだろう。つまり、我々は全くもって動いていない﹅﹅﹅﹅﹅﹅のだ。
 通常、このような状況の場合、実験が失敗に終わったと考えれば簡単に説明がつく。だが、それを否定するに十分な数字が、2つの計器のゼロに現れていた。
 ひとつは外気圧計がゼロ——つまり、外が真空であることを示していた。実験が失敗したのなら外気圧は0.7気圧のままの筈。仮に爆縮インプロージョンによって外壁が破壊されたなら90気圧になっていなければおかしい。少なくとも気圧が下がる事態は想定出来ない。
 もうひとつは——いやいや、こちらは計器を見て確認する必要すら無かったのだが、重力計がゼロだった。要するに無重量状態。どうやら実験は成功だったらしい。
 『どうせ消えて無くなるなら、宇宙空間がいい。後腐れ無いように、第三宇宙速度以上で頼む』とか、思っていたっけな? 正夢にならなきゃいいのだが、はてさて。
 
 「ここどこ?」
 誰もが知りたがったことを最初に口走ったのは、御影恭子だった。そういえば、この〈スキップジャック〉の操縦席コックピットには、外を見る窓が無い。制御室との双方向モニターはあるのだが——って、まだ繋がっている⁈ 〈箱船〉内にある外部動力炉は無傷のようだ。
 『〈スキップジャック〉がエンジンで、〈箱船〉が船体』という湊川の言葉を借りれば、外部﹅﹅だと思われていた動力炉は、〈箱船〉という宇宙船の内部﹅﹅電源装置だったということになる。
 ただ、その制御室には誰もいないから外の景色を確認しようがない。制御室から〈スキップジャック〉のカメラを遠隔操作することは可能だが、逆は不可能だ。みのりちゃんならなんとかしそうなのだがな。
 「位置なら分かるぞ——」
 湊川がGPS計の数値を指差した。
 「——東経150……ああ、これはダメだ」
 「どうした?」
 「時刻を見てみろ」
 「ん? あれから3日経ってる?」
 GPSは位置情報と共に正確な時間も表示する。だが、それが3日もずれていては話にならない。——いや、待てよ?
 「なるほど、そうか……そういうことか」
 「何が『そういうことか?』なんだよ?」
 「つまり、GPSが狂っているってことさ」
 「そんなことは見りゃ分かる」
 湊川は憮然した表情で俺を見る。
 「まあ話を聞け。俺が地表降下部隊アタッカーズを追いかけて降下を始めた時には、GPSは既に狂っていたんだ」
 「はあ? そんな話は聞いてないぞ」
 「地表降下部隊アタッカーズは遺跡を確認済みだったから、誰も見ていなかったんじゃないか?」
 「場所は分かっていたからな。で、何故狂った?」
 「GPS衛星回線に誰かが侵入ハッキングしたんだ。おそらくRERCの連中だ」
 「司令部﹅﹅﹅側だな」
 湊川は、RERCの司令部側と駐在部隊側の軋轢あつれきをどこまで知っているのだろうか? まあ、今聞く話ではあるまい。
 「多分な。そういうわけで、GPSは当てにならん」
 「何よ! 結局何にも分かんないじゃないの!」
 「いや、そうとも限らん」
 「何が分かったって言うの⁈」
 「このGPS信号は金星独自のものだ。少なくとも金星圏内から逸脱しているわけじゃないことは分か——」
 「それ、答えになってないでしょ。結局何処なのよ。ここは⁈」
 御影恭子は不機嫌だった。怒っているとかそういうのとは違う。単に不機嫌なだけだ。
 「……だからあの女は止めとけって言っただろ」
 湊川が小声でささやく。
 「手ぇ出してねぇよ。それに、アイツが興味を持っているのは〝キン〟だけだって言ったのはお前だろ」
 
 「んー、移動速度なら分かる……」
 俺たちが馬鹿な話をしている間に、魚崎が、有用な情報を調べていた。とは言っても単純な話だ。GPSの座標に細工がしてあり、正確な位置がずれているとは言っても、その差分である移動速度は分かる。頻繁に座標位置が変更されているとしたら、移動速度も狂う事になるが、その場合は速度が大きく外れる﹅﹅﹅﹅﹅﹅のですぐに分かる。逆に言えば、ハズレ値が確認されないと言うことは、速度は正しいと言うことだ。
 「秒速……4.2キロメートル毎秒」
 とりあえず俺はホッとした。金星の脱出速度は10.4キロメートル毎秒だから、どこか無限遠の彼方を目指して漂流したり、人工惑星になって永遠に彷徨さまようことはなさそうだ。湊川が『行き先は火星』とか何とか言っていたので、多少ビビっていたが、援助信号を出して待っていればいずれは帰ることができ——いや、待てよ? 待てよ、待てよ。
 「遅すぎやしないか?」
 金星を周回するための第一宇宙速度は7.3キロメートル毎秒程度。それに比べれば相当遅い。もちろん、楕円軌道の遠地であったり、金星から遠く離れた軌道なら安定な周回軌道だということはあり得るが、現在位置を知らない状態では何とも言えない。最悪、大気圏内に落ちて燃え尽きる。いや、これほどの巨体が全て燃え尽きるとは考えにくいが、ともかく、ここに残っていればしばらくは安全——とは言い難い。一刻も早く状況を知る必要がある。
 「一度外に出よう」
 外がどういう状態なのかは分からないが、出てみるしか無い。外は真空のようだが、全員が簡易型ながら宇宙服SSA: Space Suite Assemblyを着ており、単独でも二次酸素房SOP: Secondary Oxygen Packが装備されているので、30分は活動可能だ。また、座席下部に常備してある非常用の生命維持装置LSS: Life Support Systemを装備すれば5時間程度の船外活動ができる。
 皆が装備を整えようと、5点式シートベルトを外している時、
 「少し……待ってくれないか——」
 と言い出したのは魚崎だった。
 「——ハッチから……外に出るのは危険だ」
 「そりゃ、危険だろうよ。外の状況が全く分からないからな」
 と湊川。
 「そういう意味ではない。んー、〈スキップジャック〉の下部には宇宙の種火﹅﹅﹅﹅﹅が……完全に制御された形で……存在している。周辺を横切ると、んー、別の宇宙に吸い込まれる可能性が……ある」
 「はぁ?」
 何やら良く分からんが、ヤバそうな雰囲気だけは分かる。
 「——それに……制御磁場の乱れは、んー、微小な密度摂動を引き起こす。……これが、ジーンズ波長を超えると、ぼ、ボイドが——」
 「分かった、分かった。出ない出ない。出なきゃいいんだろ」
 湊川が両手を挙げる。確かにお手上げ状態だ。
 「じゃあ、どうすんのよ⁈」
 相変わらず、御影恭子は不機嫌だ。
 誰だよ、こんなそりの合わない4人を密室に閉じ込めたのは!
 
 八方塞がりの状況で、魚崎はのろのろと右手を上げ、天井を指差した。
 「頭上に……制御室までの、連絡用通路が……ある」
 「それを先に言え!」
 「はぁああ?」
 「早く言ってよ!」
 3人で総ツッコミだ。だが、魚崎は平然と——いや、いつものペースでこう言った。
 「……非常用」
 『いや、だから、今がその非常時だろうがっ‼』
 ——と言いたかったが、これ以上話を延ばしても何も得るものが無いため、そこはグッと我慢し、俺たち3人は制御室を目指す事にした。3人だ。魚崎は、『実験データを取りながら、不測の事態﹅﹅﹅﹅﹅に備えて残る』と主張した。不測の事態というのが穏やかではないが、彼が想定している事態の内容とやらを聞いても分かるとは思えない。そういうわけで、彼を〈スキップジャック〉に残し、3人で状況を調べることになった。
 ——って言うか、コイツと2人っきりで残るとか、勘弁して欲しい。
 
 〈スキップジャック〉の真上には例の実験室ラボがあるから、直線でスイスイと上がっては行けないことは分かっていたが、想像以上に通路は曲がりくねっていた。こんな狭い下水管のような通路を、通常の重力下で移動する気にはなれない。確かに『非常用』と言うだけのことはある。
 ひとつだけ幸いだったのは、迷路のような分岐点が無かったことだ。途中、潜水艦の通路にあるような一斉開閉式の水密扉ならぬ気密扉が何カ所かあったが、全て閉まっていた。おそらく、実験室ラボへ通じる非常用通路も兼用となっているのだろう。下手に開けると急加圧でお陀仏だ。宇宙服には急減圧対策はあっても、急加圧対策は無い。最悪、ヘルメット内に体が押し込まれて死ぬ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅可能性もある。ただ、着ている宇宙服は密着型Skinny Typeではなく、昔ながらの硬上部胴体仕様HUT: Hard Upper Torsoだから、それほど潰されず平気かもしれない。それでも、30気圧なんて想定で作られてはいない筈だ。不用意に扉を開けるような愚行はしない方が良いに決まっている。
 通路の最上階。行き止まりに辿り着くまで、ほんの数分程度だった。無重力なので登りきったという感覚はない。そういう意味では、ここが本当に最上階なのかは一抹の不安があるが、上下方向に出入りするための円形気密ハッチがあるのは、出発点である〈スキップジャック〉の頭上とここだけだった。
 ハッチを開ける前に、3人でヘルメットの気密を再チェックをする。硬式の宇宙服はどうしてもかさ張るから、狭い通路では動き辛い。御影恭子だけでも、例の固化粉流体ダイラタント入り防護服プロテクトスーツを着込めば良かったんじゃないかと思う。あれは宇宙服も兼ねていた筈だ。色々と見た目も良いしな。
 空気音を確認しつつ、ハッチの開閉輪をゆっくりと回す。空気漏れや、その逆の流入も無く、ハッチは開いた。制御室の左後方の隅。デカデカと避難口escape hatchと書かれた壁文字の下から、我々3人は飛び出た。
 当然ながら制御室は無人で、ひっそりと静まり返っていた。総員退去時に、御丁寧にもディスプレイ類も全て含めて、明かりという明かりは全て消して退出している。人工的な明かりは、避難口escape hatchを示す非常灯しかない。
 ——にも関わらず制御室は明るかった。

 
 「これは……」
 俺は窓の外を凝視していた。
 「ああ。ヤバいな……」
 湊川も追従する。
 窓の外には軌道間輸送船OTVから見た時と同様な、黄味がかった金星が見えた。もっとも、あれは3ヶ月間の冷凍睡眠コールド・スリープ後の寝起きだったから、意識朦朧魑魅魍魎曖昧模糊としていて、とてもマトモに〝見た〟とは言えないかもしれないが、到着前のわずかな時間に見た金星と似ている。少なくとも、金星を宇宙から肉眼で見たのは、あの時が始めてで、その一度きりしか無い。明けの明星としてなら何度も見てはいるけどな。
 〈スキップジャック〉が——というより、制御室も含め、この〈箱船〉全体が宇宙船だという主張は、魚崎のうさん臭さも手伝って半信半疑だったが、今ここにめでたく証明されたわけだ。実はまだ、俺は冷凍睡眠後の虚ろな夢の中にいる——なんてことが無ければ、これは事実だ。おめでとう。最初から無茶振りな有人飛行を成功させるとは、スゴいスゴイ——と、褒めてやりたいところだが、お祝いのパーティは後回しにしなければならないほど、事態は切迫しているように見える。
 
 一言で言えば、金星が近過ぎる。二言目が許されるならば、それに加えて相対速度が遅過ぎる——と言うことだ。軌道要素Orbital Elementsを計算しなければ正確なことは言えないが、いずれ再突入Re-Entryする可能性が高い。
 明かりをつけ、端末を再起動し、外部カメラの情報から〈箱船〉の位置情報を取得する。地球の衛星なら、地表面の特徴的な大陸沿岸の画像を元に、自動で位置決めするのが通例だが、金星は陸地が見ないため星図から判断する。もちろん、もっとも使われている手法はGPSに基づいた位置決定だが、改竄クラッキングされている以上、本物の星に道案内してもらうのが一番だ。金星の雲下ではそれもままならず、みのりが即席で作った山岳波Mountain wave検知装置でしのいだが、宇宙空間なら意外と簡単に自分の位置が分かる。
 端末ディスプレイの隅っこに写る〈スキップジャック〉の船内画像に、何か訴える様にカメラを見続ける魚崎の目線を感じ、制御室での作業を〈スキップジャック〉の端末から遠隔制御できるよう、実行許可モードを発効する。もしも、再突入Re-Entryが決定的なら、もう一度モノポール・エンジンを発動させ、更なる高みへ跳んでもらわねばなるまい。
 「あれは……ヤバくない?」
 御影恭子が今頃になって、窓の外を覗きながらそんなことを言い出す。
 『そんな事は一目見れば分かる』——と言おうとして、彼女の視線の先が、金星と反対の頭上を向いていることに気付いた。反射的にレーダー画面を見る。上空15キロメートルの距離に、幅500メートルくらいの塊があった。
 「これは……RERCの大型船か?」
 〈スキップジャック〉の跳躍が、〈箱船〉だけでなく、さらに上空の空間そのものまで持ち上げてしまった——ということになるのだろうが、その影響は一体どこまで続いているのだろうか? もしかすると、たまたま上空にあった浮遊基地フロート・ベースとか、空中都市丸ごととか、さらに上空に浮いていたりしないだろうな? 思わず、レーダーで全方位を索敵する。幸いなことに、100キロメートル全天空でそのような巨大な構造物は存在しなかった。
 「悪い知らせがある」
 湊川にそのことを報告しようとした時——
 「こっちもだ、この〈箱船〉はすぐに墜ちる」
 「⁉」
 湊川はこちらの報告を聞く前に先制攻撃を放ってきた。
 「軌道要素Orbital Elementsが出た。現在の高度は三千キロメートルはあるが、再突入Re-Entry軌道に乗ってる。近地点ペリジーまで30分弱だ」
 「それは……困ったな」
 考え込んでいる俺に対し、湊川は少し楽しそうだ。
 「なぁーに、心配することはない。もう一度〈スキップジャック〉を駆動させればいいんだよ。魚崎はまだ〈スキップジャック〉に居るし、準備が終わった頃までに戻れば——」
 「いや、話はそう簡単じゃないんだ」
 「何だ? 『悪い知らせ』ってヤツか」
 「ああ」
 「何だよ、それは……」
 「〈箱船〉の頭上から鉄球が降ってくる」
 「鉄球⁈」
 「上空に、例の大型船がまだ居るんだよ。空間ごと持ち上がっちまったらしい」
 「爆発したのか?」
 「してたら制御室ここはふっ飛んでただろうよ。ともかく、下に降りた方がいい。最初に潰されるのは最上階の制御室ここだ」
 「それなら、さっさと〈スキップジャック〉を駆動して——」
 「お前、人の話を聞いていないだろ……」
 俺は深く溜息をついた。
 「〈スキップジャック〉のジャンプは空間そのものを移動させるジャンプだ。どの範囲までを持ち上げるかは知らないが、何度ジャンプしても、あの船との位置関係は変わらない——」
 『んー、移動ではない。座標が……』とか、魚崎が文句を言いそうだな。
 「——だが、この軌道のままなら、少し待てばあの船との位置関係がずれる。高度が違うからな。こちらが先に進める」
 「〈箱船〉に何らかの軌道変更装置は——衝撃デルタブイマニューバは無いのか?」
 「無い。湊川……お前の方がこの船には詳しいだろ。〈箱船〉は実験施設だ。宇宙には舞い上がれるが、姿勢制御も含めて推進機スラスター類は周囲に存在しない。さっき確認した」
 
 湊川はここにきて、ようやく事態の深刻さに気付いたようだ。要するに、この〈箱船〉は、将棋の駒で言うところの〝香車〟のようなものだ。前に突っ走ることしか考えられていない。頭を抑えられれば進退窮まってしまう。向こう側に飛び越す事もできない。強いて言えば、相手ごと押し進むことは出来るが、跳ね飛ばしたり回避したりはできない。
 仮に、今一度、〈スキップジャック〉を駆動して跳び上がったとしても、上空の脅威はこのままだ。〈箱船〉がどこまで跳ぶのか、跳べるのかはよく分からないが、湊川が言ったように『下手すると火星』かもしれない。火星近辺ならまだいい。人が住んでいるから救難信号を検知すれば、救助艇の一隻や二隻は飛んでくるだろう。何故こんな施設が宇宙空間に浮いているのかビックリするかも知れないが……。
 だが、そんな都合のいい強運は滅多にない。太陽系のほとんどはスカスカの宇宙空間だ。救援が到着するまでに数ヶ月かかってもおかしくない。もしかすると宇宙空間での漂流に備えて、〈箱船〉には冷凍睡眠コールド・スリープ設備があるのかも? ——と思い、検索をかけて調べて見たが、そんな装置は発見出来なかった。となれば、太平洋の海底に一人取り残れたダイバーのように、酸素が無くなるか、餓死するか、はたまたサメに食われるか……。サメはいないにしても、余程の幸運が無い限り、生存確率は万にひとつもない。
 「どうやって宇宙航行をするつもりだったんだ?」
 湊川がつぶやく。
 「そいつは俺が聞きたいね。無計画にも程がある……」
 実験機としての計画ならあったのだろう。〈箱船〉の実験機としての目的は、そのエンジンとなる〈スキップジャック〉が正常に動作するかを確かめるものだった。動作すれば成功だ。『宇宙まで跳ぶ』ことが目的て『宇宙で活動する』ことは想定されていない。大抵の新型宇宙船の航行実験は、正常に飛ぶこと——飛ばせること自身の確認が第一義の目的で、飛んだ先で何をするかは想定されていないのだ。人類初の宇宙飛行だって、宇宙で何かをするのが目的ではなく、宇宙に出て、そして生きて帰ってくること自身が目的だった筈だ。
 ——〈スキップジャック〉の動作は確認された。となれば、次は、生きて帰ることを目的とすべきだ。

 
 「二手に分かれよう。俺たちは〈ブラック・タートル〉に戻る」
 「〈ブラック・タートル〉だと? 俺〝たち〟とは?」
 湊川が怪訝な顔をする。
 「俺と——」
 そういって、俺は、未だに窓の外を見ている彼女を指差した。
 「——アイツだ」
 「お前、やっぱり——」
 「そうじゃない!」
 そう言うとは思ったが……。
 「ここが何時まで持つかは分からない。お前は今一度、〈スキップジャック〉の起動準備をしてくれ。RERCの船が横滑りして、上空から退いたなら〈スキップジャック〉でジャンプする。計算では20分程度で完全に外れる筈だ」
 「大気圏突入10分前だな……。で、お前達は?」
 「ジャンプが間に合わなかったり、鉄球の雨で〈スキップジャック〉の制御が不可能となったら、その時は〈ブラック・タートル〉で再突入Re-Entryする」
 「そんなことが可能か?」
 「〈ブラック・タートル〉は元々が汎用の大気圏再突入機ARESだ。姿勢制御さえ失敗しなければ降下はできる。それに、〈箱船〉はどう見ても再突入Re-Entry能力は無いが、バラバラになるまで熱避けの盾代わりにはなる筈だ」
 「どっちつかずの優柔不断な策ね——」
 知らぬ間に御影恭子がこちらに来ている。
 「——さっさと脱出したらいいんじゃないの?」
 「それでいいのか? 何とかという磁性体はまだここに——」
 「諦めた」
 「はい?」
 御影恭子は腕組みをしてサバサバした表情で言い放った。あれだけウダウダ言っていたのに、切り替えが早いヤツだ。竹を割ったような性格——と言うのとは少し違うかもしれないが、決断が早い。そう言えば、コイツは〈収水〉のキャノピーを吹き飛ばし、着水に失敗すれば金星の底まで一直線の死のダイブを躊躇なく決行したヤツだった。
 「だからぁ、諦めたからもういいの。〈ブラック・タートル〉で再突入Re-Entryしましょ。こんな機動性も何も無い、ピラミッドみたいな棺桶の中にいるのはもうイヤ」
 「棺桶……ねぇ」
 俺と湊川は顔を見合わせた。まあ確かに、俺としてみれば、そもそもが地表降下部隊アタッカーズの捜索に来たわけで、この〈箱船〉とか〈スキップジャック〉やらを防衛する意思も義務も必然性も何も無いわけだし、何とか細菌とか磁性体とか、モノポールや原始宇宙にも興味が無いから、さっさと撤退するってのは悪くない話だ。
 何とか細菌と何とか磁性体——最後まで覚えられなかったな——は、それを欲していた御影恭子が『いち抜けた』と表明したのだからそれでいい。問題は残り2名だ。
 「湊川、俺はこの案に賛成だ。お前はどうする?」
 「俺もそれでいい」
 即答だった。
 「本当にいいのか? この〈箱船〉を守るのがお前の役目じゃ——」
 「そんな役目は負ってない」
 またまた即答だった。俺が言うのも変な話だが、この船に愛着とか未練とか無いのか。愛着を感じるほど乗り込んじゃいないだろうが……。
 「俺の任務は〈スキップジャック〉の初飛行だ。人類初の超光速宇宙船の操縦士パイロットとして飛ぶことだ。そしてその任務は終わった。後は報告書を書くだけだ。——ま、本音を言うと、もう二、三度、跳んで見たかったけどな」
 そう言って湊川は、データが入っているであろうメモリーを目の前で左右に振った。任務に忠実と言えば聞こえが良いが、これだけの施設を捨て去ろうという間際に、なんの躊躇も無いというのは如何なものか? 捨てるにしても、限界性能を引き出してバラバラになる一歩手前まで出力を上げるとか、フラッター試験——確か魚崎は『スケール因子ファクターの誤差が増幅』云々言ってたから、フラッターに相当する振動現象は〈スキップジャック〉でも発生するんじゃないか? 想像だが——をしてからにすべきじゃないのか?
 クドいようだが、脱出する案にすんなりと賛成した俺が言うべきことじゃないが……。
 「ふむ。となると問題は——」
 「ふむ。アイツだな——」
 「置いて行ったら?」
 「…………」
 「…………」
 御影恭子と魚崎晋。確かに、ソリが合いそうもない2人なのだが、流石に一人だけ置いて行くわけにはいかんだろう。放っておけば、まず間違いなく死ぬ。
 『艦長が艦と運命を共にする』っていう話は良く聞くが、設計者が艦と運命を共にしていたら、技術の進歩もへったくれもあったものではない。
 「仕方がない。最初の計画通り、俺たちは〈ブラック・タートル〉に戻る」
 「おいおい。本当に見捨てるつもりか?」
 「そうじゃない。俺たちが〈ブラック・タートル〉の離陸準備をしているから、お前は魚崎の説得をしてくれ」
 「そんな損な役回りは御免被る」
 シャレのつもりかどうかは分からないが、そう言って湊川は、不機嫌そうに腕組みをした。俺はオーバーに両手を広げながらこう言う。
 「俺たちは、あの〈ブラック・タートル〉の操縦士パイロット副操縦士コーパイだ。で——」
 ここで追加の微笑み。
 「——お前は〈スキップジャック〉の操縦士パイロットなんだろ? 副操縦士コーパイなど要らんと言っていたのはどこのどいつだ?」
 「くっ。後で覚えてろよ」
 湊川は捨て台詞を言い残し、もときた避難口escape hatch——地下の〈スキップジャック〉へと続く円形気密ハッチへ向かった。
 「じゃ、俺たちはエレベータで行くから……」
 軽く敬礼をし、湊川に睨まれながら、空を跳ぶ。時間として、あと25分。まだ切羽詰まってはいないが、お茶を飲む余裕はなさそうだ。それより問題なのは再突入窓Re-Entry Windowの計算と誘導だ。〈ブラック・タートル〉のオリジナルが汎用の大気圏再突入機ARESだと言っても、着脱式の可変翼や6輪のタイヤなど余計なもの﹅﹅﹅﹅﹅が付いている。翼の方は多少使い道があるが、タイヤは抵抗にしかならない。取り外しは可能だろうか?
 また、ざっと計算した軌道要素Orbital Elementsを見る限り、再突入Re-Entryの角度は、御影恭子に棺桶と呼ばれた〈箱船〉にとっては深く、まがいなりにも滑空再突入Glide Re-Entryが可能な〈ブラック・タートル〉にとっては浅いようだ。仮に〈箱船〉に残った場合、バラバラにならなかったとしても、巨大なGが襲いかかる。ざっと見積もって……30G以上はかかるだろう。下手すると100Gを超える。普通の人間なら1214Gに耐えるのが精一杯。下っ腹に力入れて、浅く呼吸をして踏ん張り、精々2~3分持てば御の字だ。人間がプレスにならずに戻ってくるには、やはり、〈箱船〉に残る選択肢は無い。ただし、〈ブラック・タートル〉に乗り込んだとしても、適切な帰還回廊Returning corridorを通らねば同じ結末になる。はてさて、どういう作戦で行きますか?
 それに、ここは金星だ。空力加熱をしのいで大気圏で燃え尽きなければ何とかなるわけではない。金星の地表面まで落ちてしまったら、それこそ元の木阿弥だ。どこかで浮かびつつ救助を待つ必要があるが、〈ブラック・タートル〉には機体全てを浮かばせるための浮遊気球は付いていない。あるのは脱出用浮遊ポッドだけだ。可能ならば、そんなものを使う前にどこかの空中都市か、最悪でも浮遊基地フロート・ベースに降りたい。管制区によっては非常時でも着陸不可を出す管制官がいたりするが、今はえり好みしている場合ではない——ていうか、何処に降りられるか全然分からん。
 ともかく、〈箱船〉から離れればそれでOKという話ではない。やるべき事は山ほどある。
 
 無重力の駐機場で空中にひっくり返っていた〈ブラック・タートル〉に到着後、降下に必要な設定と立ち上げは御影恭子に任せ、俺はタイヤの取り外し作業に向かった。扛重機ジャッキが必要ない分、作業はそれほど苦ではない。〈ブラック・タートル〉のタイヤは700度程度は耐えられる熱硬化性超耐熱エンプラでできた中空Air Freeタイヤだが、大気圏突入時の一千度を超える加熱でどうなるか分からない。気流の乱れも発生させるし、外しておくのが順当だ。
 ただ、車軸の方はそのままにしておく。タイヤと同様、取り外しておいた方が無難なのだが、根元の構造が分からぬ以上、下手に取り外して耐熱タイルに穴が開いてはたまらない。それに、車軸の素材はポリイミド系の熱可塑性エンプラと金属粉粒体を無重力下で複合した何とかだったから、タイヤと違って溶けるだけだろう。少なくとも、塊のまま剥離してタイルにぶつかり、致命的な亀裂を生じさせることは無い筈だ。逆に、〈ブラック・タートル〉腹部の亀甲形超耐熱タイルと共に、炭化吸熱体Charring Ablatorとして働いてくれたりしないだろうか——という発想は、虫が良過ぎか?

 
 「上沢。聞こえているか?」
 「聞こえている。どうした?」
 タイヤ3本を外し終わった時点で、湊川から無線が入る。
 「少し困った状況だ。今の状態のまま〈スキップジャック〉を放棄するわけにはいかない」
 「まあ、魚崎は設計者だからな。そう簡単に手放すとは——」
 「そうじゃない。聞いた話が本当なら、これはかなり危機的クリティカルな状況だ」
 「ん? どういうことだ?」
 「そ、それは私から説明する。……現在、モノポールから生まれた最初期宇宙は……自己組織化……んー、熱力学的不安定性から生じる自己組織化を……制御することで……辛うじて、余剰次元がコンパクト化されて——」
 「手短に頼む。何が、危機的クリティカルなんだ‼」
 「……インフレーション宇宙が制御無しで……我々の宇宙内で……一様等方に膨張する。〈箱船〉の座標が……変わるだけでなく、あー、宇宙全体の座標が変わる」
 「それは——、さっきの〈スキップジャック〉の跳躍と同じじゃないのか?」
 「き、規模が……違う」
 「どのくらい?」
 「十万……」
 「十万キロか? 金星の軌道が変わっちまうな……」
 金星の半径は6千キロメートル強。木星の半径が7万キロメートル。地球と月の距離が38万キロメートル。地球と金星間の距離が、最も近くて4千万キロメートル。
 十万キロメートルは、惑星間スケールでは微々たるものだが、惑星自体の大きさを考えれば、とんでもない距離だ。それだけの空間を、〈スキップジャック〉が作っちまうってことか?
 ただ、〈スキップジャック〉による跳躍は、瞬時に俺たちを宇宙空間にまで運び上げたにも関わらず、〈スキップジャック〉自身はもちろん、〈箱船〉にも何ら損傷は無く、強烈なGも感じなかった。新しい空間を既存の空間の間に作り上げて広げてしまうっていう移動方式だからだと思うが、それならば、金星全体が突然に十万キロずれたとしても、金星そのものに損傷は無いと思われ——
 「そうじゃ……ない。十万光年——」
 「なに?」
 「十万……光年。真空の相転移が終わるまでに、んー、1028乗倍程度の——」
 「詳細はいい。もう一度言ってくれ。どれだけ大きくなるって⁈」
 「……量子ゆらぎの増幅で大きく変わるが……平均で十万光年」
 「十万光年⁉」
 十万光年って……十万光年か? いや、俺は何を言っているんだ。十万光年と言えば……銀河系そのものの直径じゃないか‼
 「んー、指数関数的膨張で……膨張向きが我々の、時空曲面内では無い可能性を考慮すれば、平均値はあまり——」
 「回避方法は?」
 「それは今やってもらってるが、頼みがある——」
 業を煮やした湊川が割って入る。
 「——時間が欲しい。ギリギリまでここで作業するから、〈ブラック・タートル〉を出して外で待っててくれ」
 「分かった」
 「ただし、〈スキップジャック〉の下部には近づくな。何が起こるか分からん」
 「了解ウィルコ
 「それともうひとつ。〈箱船〉を90度ほど回転させられないか?」
 「……それは」
 「仮に——仮にだが、〈スキップジャック〉の制御に失敗すれば、十万光年の巨大な空間が生み出される。空間が星の密集した銀河面Galactic plane内に出来るのは何としても避けたい」
 「天の川を避けるということか?」
 「そうだ。銀河極Galactic polesがベストだ。うしかい座、アークトゥルスの方角」
 「……分からんな」
 「座標を送る」
 「了解ウィルコ。……だが、〈箱船〉の姿勢は——」
 「分かってる。推進機スラスターが無いことは聞いた。無茶なのは分かっている。だが頼む。方法を探してくれ」
 「……約束は出来ない。——だが、何とかしよう」
 「助かる」
 無線はそこで切れた。方法は思いつかない。そもそも話が途方もない。銀河を分断するほどの空間が生まれるってどういうことだ? スケールがデカ過ぎで実感がまるで湧かない。失敗すれば俺たちは——十万光年跳ばされるってことか? あるいは、太陽系を含めて、数千億の星々全てが跳ばされるのか?
 
 ——いや、いま考えるべき事はそんなことじゃない。俺が行うべき任務ミッションは単純だ。必須の目標は最初の計画通り、〈ブラック・タートル〉を大気圏再突入機ARESに仕立て、湊川と魚崎の脱出まで待機すること。もちろん、2人を拾ったら、そのまま滑空再突入Glide Re-Entryを完遂出来ねばならない。再突入Re-Entry時の最大減速度は速度の二乗、加熱率は三乗に比例するが、突入軌道から考えてヘマしなければ充分耐えられる。逆に、進入角をもう少し深くしないと、再び宇宙に飛び出し、帰還出来なくなる怖れの方が高い。上手くいったとしても、その後の着陸ポイント探しは——なる様にしかならん。
 次なる目標は、〈箱船〉の姿勢を変えることだが、湊川と魚崎が巧く——原始宇宙の破棄とでも言うのか? ——を成し遂げれば、無用の手順シーケンスだ。というか、破棄に失敗したなら、〈箱船〉をどう転がそうと、俺たちがどうなるかは分かったもんじゃない。銀河数千億の星々のどこかに居るであろう同胞たち﹅﹅﹅﹅に迷惑がかからないようにする作業だ。姿勢を変える方法は、推進機スラスターを使うか回転輪機構CMG: Control Moment Gyrosによる角速度制御になるが、どちらもそんな装置は〈箱船〉には付いていない。
 確かに、任務ミッションは単純だ。だが、手段がサッパリ分からない。残り時間は20分も無い。考える前に動こう。まずは〈ブラック・タートル〉を外に押し出さねばならん。話はそれからだ。
 
 タイヤの取り外しは、それから2分で終わった。副操縦士コーパイ席にいる御影恭子に手で合図を送りながら、洗車場CARWASHという名の気閘室エアロックへの扉を手動操作で開ける。空気漏れは無い。金星の鍋底90気圧から突然の0気圧に耐えるとは、中々頑丈な作りだ。もっとも、〈箱船〉が当初から宇宙へ行くことを前提にしていたと言うのなら、それくらいはそつなくこなしてもらわねば困る。
 御影恭子があやつる〈ブラック・タートル〉は、反作用輪リアクションホイールを使ってこちらを向き、パン、パンと小気味よい推進機スラスター音を響かせて静々と気閘室エアロックへ微速前進する。上手いもんだ。ちなみに、推進機スラスターの推進薬はヒドラジンではなく、人体に優しいHAN系。大気中でも使う可能性のある機体の小型推進機スラスターとしては定番とは言え、高温・高圧は苦手の筈だが、何とか触媒で誤摩化している。
 さてと——、問題はここからだ。気閘室エアロックの先は真空の宇宙だ。金星では0.7気圧無窒素雰囲気の中で常に生活しているから、予備呼吸プリブリーズ無し純酸素中運動エクササイズも無しで外に出られるが、気閘室エアロックの開放と同時に体一つで外に出るのはさすがに危険過ぎる。宇宙に吸い出されたまま〈箱船〉に戻って来られなかったら犬死にだ。もちろん安全紐セーフティ・テザーは繋ぐが、一気に吸い出され、反動で回転しながら戻り、紐に巻かれて身動き取れなくなった奴を俺は知っている。そんなことで余計な時間を取られたくない。
 また、宇宙服SSAの与圧が0.7気圧のままなのも問題だ。この服は密着型Skinny Typeではないから、与圧が高いと手袋グローブが膨らみ、握力が強くなければ、細かい作業は不可能となる。
 ここは妙な冒険をせず、一旦〈ブラック・タートル〉に戻り、必要あらばいつでも飛び出せるように、操縦室コックピット内を0.3気圧にしておくべきだろう。その作業の間に、宇宙服SSA内も0.3気圧純酸素呼吸に変更しておけばいい。また、湊川と魚崎の素早い回収を考えると、貨物室カーゴルームは真空にしておくのがベストだ。
 次は〈箱船〉を回転させる策——かなり難問だ。
 最初は〈ブラック・タートル〉の小型推進機スラスター反作用輪リアクションホイールを使って〈箱船〉を回転出来ないかと目論んだのだが、何しろ質量比が違い過ぎる。摩擦の無い真空中だから時間さえ気にしなければ回転させることはできるが、少なく見積もっても10時間くらいはかかりそうだ。話にならない。名案は浮かばない。〈箱船〉の外観を見ながら、回転させる手だてを考えよう。
 操縦室コックピットに乗り込み、操縦を御影恭子から受け取る。御影恭子に操縦室コックピット内の気圧系統の操作をしてもらっている間に、まずはリモートで内部ハッチとなる洗車場CARWASH後方の扉を閉める。〈箱船〉の破棄は決まっているので無駄な操作ではあるが、宇宙に通じる外部ハッチを開けた途端、どこまで吸い出されるか分かったものではないし、〈スキップジャック〉にいる湊川と魚崎に影響が及ばないとも限らない。ここは安全策を取る。
 「貨物室カーゴルームの与圧も抜くんじゃないの?」
 「それは後だ。そこの空気にはまだ出番がある」
 「出番?」
 気閘室エアロック内の気圧調整は、安全のためリモートでは操作出来ない。内部ハッチのロック確認信号が緑になった直後に、〈ブラック・タートル〉の電動肢マニピュレーターを展開し、手動で与圧調整装置を最大速減圧に設定して操作する。船外活動者はいないから、減圧症などの問題は出ない。それこそ0.5気圧程度になったら外部ハッチを非常用点火ボルトで吹き飛ばパージしてやろうかと思ったが、点火方法が良く分からなかった。今こそ非常時だってのに、迂闊だな。
 「気閘室エアロック内与圧ゼロ」
 外部ハッチも電動肢マニピュレーターを使い手動で開ける——と、その時だった。気閘室エアロック内の緊急事態アラートを示す赤色回転灯が回り始めた。監視用モニターを確認すると、制御室と〈スキップジャック〉内でも赤色灯が点灯しているのが分かる。多分、音付きだが、真空になっているので聞こえてこない。それと同時に、30センチメートルほど開いた外部ハッチが勝手に閉まり始める。
 「おいおい。どうなってる?」
 外部ハッチを開けるのは手動が必須だが、閉めるのはリモートで可能だ。緊急事態アラートボタンを押せば、とりあえず、主要な隔壁はリモートで閉まる。
 ただ、〈箱船〉に乗っているのは〈ブラック・タートル〉の俺たちと、〈スキップジャック〉の湊川と魚崎合わせて4人しかいない。俺たちは緊急事態アラートボタンなど押していないから、湊川と魚崎のどちらかが発動させたことになるのだが、モニターに映し出される湊川もあちこちキョロキョロと見回しているところをみると、彼らが操作したものでもないらしい。
 一体誰が——、
 
 「湊川、上沢!」
 第5番目の人物——男の声がした。
 「姫島⁈」
 「上沢か? ——今は出るな。鉄の雨が来る‼」

 
         *  *  *
 
 閉じかけた外部ハッチの向こう。姫島の装甲服アーマードスーツが下方に向かうのが見えた。その直後。〈箱船〉が僅かにきしんだ——気がする。赤色灯の回転は止まったが、代わりに黄色の非常等が付く。外部ハッチは20センチメートル程度開いたままで止まっている。
 「姫島? 姫島⁈」
 「上沢⁈ 何が起こった?」
 答えたのは姫島ではなく湊川だった。湊川が大写しになったモニターの横。制御室の映像は、画面が霧で白くなった状態で死んでいる。カメラが壊れただけでなく、制御室全体が破壊されたと見るべきだろう。
 だが、この程度で済んだのは幸いだった。金星で見た時の炸裂弾の数はかなり多かったから、衛星軌道の違いによる着弾のずれが功を奏したのだろう。さらに、外気が90気圧なら、破壊は〈箱船〉全体に及んでいた可能性も高かった。〈スキップジャック〉のある地下——既に地下ではないが——まで被害が無くとも、洗車場CARWASHにいる俺たちがどうなっていたか分からない。この手の攻撃にありがちな波状攻撃も無さそうだ。
 「例のRERCの大型船からの攻撃だ。制御室がやられた」
 「あっちにも生存者がいるのか?」
 RERCの大型船は、基本的に柔らかい膜で覆われた飛行船だ。炭素繊維強化プラスチックCFRPの骨組みが内部にあるのは間違いないが、それは加圧に耐えるためのもので、急激な減圧——それも90気圧が瞬時にゼロになるような状況は想定していない。おそらく宇宙に出た瞬間、空気房バロネットその他の与圧部が破裂BBした筈だ。制御室でレーダー画像を見た時も、周辺に大小様々な破片が認識できた。少なくとも航行能力は失われている。
 「分からん。——だが、姫島がいた」
 「姫島? 何故?」
 「分からんが……一緒に跳ばされたんじゃないか?」
 確か姫島は、RERCの大型船を撃ち落とす気満々で、〈箱船〉周辺に最後まで残っていた筈だ。一緒にここまで跳ばされたとしてもおかしくはない。そんなことより——
 「被害は?」
 「動力炉からの電力が切れた」
 「じゃあ〈スキップジャック〉の——」
 「大丈夫だ。電力は等分の間、蓄電装置EDLC: Electrical Double-Layer-Capacitorsでまかなえる」
 「駆動時間は?」
 「30分」
 「なら——、問題は無いな」
 「ない」
 元々、作戦の残り時間は15分程度だ。それ以上あれば問題ない。それ以上あってもどうにもならない。問題は俺たちの方だ。洗車場CARWASHから宇宙に通じる外部ハッチの動力が死んでいる。このままでは外に出られない。手回しの非常用開閉装置があるにはあるが、これを〈ブラック・タートル〉の電動肢マニピュレーターで回すと、〈ブラック・タートル〉の方が回っちまう。思案している間に、外部ハッチの僅かな隙間の向こうから光がさす。
 「姫島?」
 「上沢無事か? 他は?」
 「4人——、御影と俺はここに。湊川と魚崎はわけあって〈箱船〉の最下部に残っている。全て無事だ。そっちは?」
 「俺だけだ。一体どうなってる? ここは何だ。何故宇宙空間にいる?」
 「〈箱船〉の周辺の空間ごと跳ばされたんだよ」
 「跳ばされた? 何だそれは?」
 コイツは——、俺以上に何も知らないようだな……。
 「時間がない。詳しい話は〈レッド・ランタン〉に戻った後だ。姫島。この外部ハッチを点火ボルトで吹き飛ばパージしてくれ」
 「二度と使えなくなるぞ。いいのか?」
 コイツは——、本当に分かってねぇな。
 「放っといてもこの〈箱船〉は20分もしないうちに、大気圏内で焼却処分になる」
 「何⁈」
 「一緒に灰になりたくなかったら、早く開けてくれ」
 「分かった。少し待ってろ」
 納得したのかどうかは定かではないが、姫島のそこからの行動は早かった。床に光っていたサーチライトが見えなくなった直後、四方の留め金が爆薬で座屈。フリーとなった扉がバネ仕掛けで上にスライドして上がって行く。半分くらい上がったところで、〈ブラック・タートル〉の貨物室カーゴルーム後部扉を開ける。溜まっていた空気が開放され、その反動で外へと滑り出す。
 「空気の出番ってそういうこと……」
 御影恭子がひとり頷く。
 「ああ。推進機スラスターを今後どれだけ使うか分からないからな。なるべく節約したい」
 飛び出した先は真っ暗な宇宙空間——と言いたい所だが、足元は黄色じみた白い金星の雲で覆い尽くされていた。お尻がムズムズするこの感触はいつまでたっても慣れない。
 
 宇宙空間に浮かんでいる姫島の肩には、例の4連式装甲兵携帯式地対空ミサイルAMPADSが付いていた。武器を手にした姫島は物騒だ——が、それを見てひらめいた。今回はその物騒なブツが幸運をもたらすかもしれない。
 「姫島。もう一つ頼みがある」
 「何だ?」
 「〈箱船〉の一点を破壊して欲しい」
 「何? 〈箱船〉は放っておいてもお陀仏なんだろ」
 「その前に銀河——いや、金星の空中都市を巻き込んで破壊する可能性がある」
 10万光年だの銀河系の危機だの、今の姫島に喋っても話がこじれるだけだ。それに、俺だって全て理解したわけじゃない。
 「それは一大事だな。何をどうすればいい?」
 「〈箱船〉の底面を銀河極GPに向ければいい。アークトゥルスの方角だとか湊川は言っていたが——」
 「分かった。だが破壊したって方向は変わらないぞ」
 「分かった——のか?」
 「何がだ?」
 「方向だ」
 「あん? うしかい座のアークトゥルス。乙女座スピカの隣だろ」
 「ほほぅ。お前に星を見る趣味があったとは知らなかったぞ」
 「馬鹿野郎。趣味なんかじゃねぇ。星を覚えなきゃ宇宙空間で闘えねぇ。最低でも全天21ある一等星は必須だ。恒星追跡装置STT: STar Trackerなんてあてにしてたら出遅れるんだよ!」
 姫島のドヤ顔が目に浮かんだ。大気圏中心の俺とは違い、海中から宇宙空間までオールマイティに闘う戦闘屋は格が違う。
 「それは……悪かった」
 「で、何処をどう破壊すればいいんだ」
 「〈箱船〉の中心には巨大な実験室ラボ空間がある。その中には30気圧の空気が未だ詰まっている」
 「そいつを開放して回転させようって魂胆だな」
 「そうだ。だが、電力系統の破壊はマズい。湊川と魚崎が〈スキップジャック〉で爆破物処理﹅﹅﹅﹅﹅をしている。そいつの解体に、暫くは電力が必要だ」
 「了解ウィルコ。破壊箇所はこっちに任せろ。ただひとつ問題がある」
 「何だ?」
 「回転を始めさせるのは壁面を破壊すれば出来るが、止める方法が無い——」
 「……そうか。そうだな」
 〈箱船〉の底面を銀河極GPに向けることは出来ても、銀河極GPで止めることが出来ないということか。
 「姫島、上沢。それについては問題ない——」
 湊川が会話に割り込んでくる。
 「——今、こちらの作業が終わった。後はプログラムを作動させるだけになっている。〈スキップジャック〉が銀河極GPを向いた瞬間に爆縮インプロージョンさせればいい。成功率は五分五分ってとこだ」
 何がどうなれば成功なのか分からなかったが、それは今聞くべきことじゃないだろう。
 「お前達の脱出方法は?」
 「作動後、そっちに——〈ブラック・タートル〉の貨物室カーゴルームに乗り移る。〈スキップジャック〉に横付けして待っててくれ。ただし、作動後だぞ。それまでは〈スキップジャック〉の下面には近づくな」
 「了解ウィルコ
 「姫島は壁面破壊後に、上沢の〈ブラック・タートル〉の貨物室カーゴルームに先に入って待っててくれ。時間がない。俺たち2人の誘導エスコートをお願いしたい」
 「了解ウィルコ
 「いよいよ大詰めって感じだな」
 湊川がつぶやく。
 「いや、まだだ——」
 俺はそれを否定した。
 「——大気圏に突入して生きて帰るまでが任務だ」
 「……ああ、そうだな」

 
         *  *  *
 
 姫島が上方へ飛び去った後、暫くはその場——外部ハッチ前——で待機することにした。最終的には、下方にある〈スキップジャック〉と同じ水平面で待機すべきだが、〈箱船〉が回転し、底面が銀河極GPを向くならば、〈箱船〉の側面が勝手に上昇してくる筈だ。下に降りるのではなく、むしろ上昇しなければならない計算になる。また、姫島がどの部位に穴を開けるかによって回転速度と回転軸が変わるから、現段階で合流位置を特定するのは難しい。こういう場合は無駄に動かないことだ。慌てても良い事は何も無い。
 座席をリクライニングにして、頭の後ろで腕を組む。本当は操縦卓コンソールに両足を投げ出したいところだが、如何せん〈ブラック・タートル〉の操縦室コックピットは狭い。膝を折って足を上げることすら苦労する。
 「あら? ずいぶんと余裕があるみたいね」
 隣の御影恭子が声をかける。そういう彼女も、俺につられてか、腕を上に上げて伸びをしている。
 「慌てる乞食は貰いが少ないってね……」
 「アタシは何にも手に入れて無いけど——あ」
 「どうした?」
 こちらを向いて気だるそうにしていた御影恭子の緑かがった瞳に星が輝く。これは——危険な兆候だ。
 「実験室ラボに穴を開けるのよねぇ?」
 「そ、そうだが——」
 ——あ、ヤベぇ。そういうことか。
 「それなら、中に入れるじゃない!」
 「いや、ちょっ——」
 
 ——遅かった。
 
 御影恭子の判断は早い。それも躊躇が無い。止めようとした時には、〈ブラック・タートル〉側面のハッチは開かれていた。既に、宇宙服の中は0.3気圧の純酸素呼吸に切り替わっていたし、『必要あらばいつでも飛び出せるように、操縦室コックピット0.3気圧にして』いた——してしまっていたので、減圧による宇宙服の膨張も想定内ではあったのだが……。
 先を見越しての行動が悔やまれる事態になろうとは思いもよらなかった。
 「アタシは実験室ラボに入って、磁性細菌Desulfovibrio Magneticus取ってくるから、ここで待ってて! 10分で帰る」
 「お——」
 『——い』を言う暇もなかった。無鉄砲にも程がある。それは承知していたが、そのさらに上手を行くヤツだ。その直後に振動。正確には、〈箱船〉全体の微振動が視認できた。姫島の仕事に違いないが、ここからは火炎やガス流出は確認出来ない。だが、仕事は成功したようだ。僅かずつだが、〈箱船〉が回転し始めている。
 そのまた直後。洗車場CARWASH奥からガスの流出を確認する。こちらは御影恭子の仕業だろう。大量ではないから内部扉を点火ボルトで吹き飛ばパージしたわけではないようだが、吹き飛ばした際に生じる気流で突入のタイミングが遅れるのを嫌ったという判断だと思われる。アイツは、もしもその方法が最速なら躊躇無く爆破するだろう。そういうヤツだ。
 〈箱船〉の回転速度は思ったより遅く、底面が銀河極GP方向を向くまでに10分少々かかりそうだ。箱船の回転に合わせて推進機スラスターを吹かすのは勿体ない。出しっ放しだった電動肢マニピュレーターで〈箱船〉の外壁に取り付く。
 数分後、先に戻って来たのは姫島だった。開け放たれた操縦室コックピットの外部ハッチから中を覗いてくるが、装甲服アーマードスーツを着たままでは、ハッチから頭を入れる事すら不可能だ。
 「どうした? 姫君は外出中か?」
 どうしたもこうしたも、無線で聞いていただろ。
 「忘れ物を取りに行ったよ。貨物室カーゴルームに乗ってくれ。後部扉は開いてる」
 「おう。夫婦喧嘩は犬も食わぬと言うからな」
 勝手に決めつけるな。それに、用法が違うぞ。
 「ところで、姫島」
 「何だ?」
 「鉄球が降ってくることに良く気付いたな」
 「ああ? ああ——RERCの大型船まで行って来たからな」
 「行って来た?」
 「人命救助だよ」
 「お前の口から人命救助という言葉が出るとはな。で、誰も連れて来ていないというところを見ると——」
 「違う違う。中は無人だった」
 「無人?」
 「ああ。破損箇所から中へ入って見た限り、誰もいなかった。自動操縦モードになっていたしな。リモートで操作されていたようだが、電波が遮断されるとタイマーで鉄球が発射されるようになっていた。多くは解除したんだが、防ぎ切れなくてな」
 「それで波状攻撃が無かったってわけか……」
 制御室が破壊された後、今一度鉄球が飛んで来ていれば、実験室ラボまで亀裂が達していたかも知れず、その先の展開はまた変わって来ていただろう。これが吉と出るか凶と出るかはまだ分からない。
 
 〝姫君〟と言われた御影恭子が戻って来たのはそれから5分後のこと。時間内に戻ってくるとは思わなかった。遅れることを期待していたわけではないが、こういう場面では、ギリギリ、あるいは多少は遅れるパターンが多い。
 〈箱船〉から飛び出してきた彼女は、右手の親指を上に立てながら、得意満面で出てくる。——実際には、ヘルメットの紫外線防護用シャッターが作動していて、表情を確認することは出来ないのだが、笑っているのはまず間違いない。高々と上げた右手首に取り付けられたテザーには、ランチボックス程度の小箱が付いおり、どうやら採取はうまく行ったらしいからだ。
 「大漁、大漁。生きの良いヤツが沢山!」
 御影恭子は超ご機嫌である。そのなんとか細菌というのは、イワシか何かなのか?
 「ベルトをしろ。これから〈スキップジャック〉横まで降下する」
 「了解ラジャー!」
 時間的には残り2分。タイミング的にはピッタリだ。降下と言ったが、金星を下と見た場合、〈箱船〉は既に横倒しに近い状態になっており、横滑りと言った方が正確かもしれない。〈ブラック・タートル〉の下に巨大な〈箱船〉。さらにその下に金星という状態になっているから、先ほどまで下方に見えていた金星の姿は、ここからは見ることができない。反作用輪リアクションホイールを使って方向転換をし、推進機スラスターを一発放つ。
 「ケチケチしてるわねぇ。パァ——っと使わないの?」
 上機嫌な御影恭子が言う。さっきまで死んだフナみたいな目をしていたヤツに言われたくはない。ただ、俺としても、地表降下部隊アタッカーズの捜索と交換条件バーターで、細菌採取の道案内を請け負ったという経緯があるから、ひとつの作戦ミッション終了コンプリートしたことは喜ばしいのだが、この後、死んでしまっては元も子もない。
 「推進剤は使えば無くなるんだ。無駄に噴かしても良いことは何も無い。それに、停止時にも同量の推進剤を食う。急ぐ理由がなければセーブするのが鉄則だ」
 「ふーん、そんなものなの?」
 「そんなものだ……」
 宇宙空間では、回転式のステーションから投げ出されるとか、デブリに遭遇するとか、何が起こるか分からない。できるだけ推進剤は残しておきたいのが人情だ。推力が無ければ、ほんの数メートル先に浮かぶ仲間を助けられないこともある。大気圏突入までは慎重に、突入後は大胆に動かねばならない。
 「残り30秒だ」
 湊川の声が無線で届く。
 「了解ラジャー。こちらも〈スキップジャック〉が視認できる場所で待機している」
 〈スキップジャック〉の下方にあった構造物は、切り取られた様に何もかも無くなっていた。元々、〈スキップジャック〉自身は天井に支えられていたもので、そこから下方に向かって伸びた柱などは最初から無かったのだが、〈箱船〉自身を支えていた柱や壁面、エレベータ等は鋭利な刃物で切り取られたような状態だった。
 〈スキップジャック〉底面。大型螺旋装置LHDの開放型コイルの中には原始宇宙﹅﹅﹅﹅が封印されている筈だが、そんなものは何も見えなかった。その下の金星の雲が目映まばゆいだけである。それとも、今あるのは原始宇宙のスープの元﹅﹅﹅﹅﹅状態だったか? どちらにせよ、見えないものは見えない。
 明るさに慣れてくると、超短パルスレーザー発信器の列が鈍い光を放っているのが分かる。レーザーが見えているわけではない。発振部の熱放射だろう。発振回路のレーザー変換効率はすごぶる良い筈なので、その数千倍のエネルギーが、ゲートが開くのを今か今かと待っている。
 
 「自律的点検システム異常なしオールグリーン。インプロージョン・シーケンスをスタートしますか? 本シーケンスは取り消すこができません」
 例の合成音声が響く。だが、その後にあるべき『カウントダウンのタイミングはどちらで行いますか?』は無く、そのまま——
 「201918……」
 ——とカウントダウンを始めた。時刻起動で制御しているらしい。
 「湊川。この実験の成功はどうやったら分かる?」
 魚崎に聴くべき話だが、話が長そうなので、湊川に聞く。
 「何も変わらない。爆縮インプロージョン後、何も変わらなければ成功だ」
 「——失敗は?」
 「そうだな……。足元に銀河が見えるだろう。我々のな」
 「天の川でなく、全景が見えるってことか? そりゃ——、見て見たい気もするな」
 「はは。そりゃ、そうだな」
 もちろん本心ではないが、見てみたい気がするのは本当だ。ただ、それが現実になった時、その感動を伝えられる相手は近くにはいなくなる。
 
 「爆縮インプロージョンスタート」

 
         *  *  *
 
 作戦は成功とも失敗とも言えなかった。
 限りなく成功に近い失敗。あるいは、多少の失敗を含んだ成功。二択で言えば成功だろう。だが、俺の想定している成功とは少し違っていた。
 
 成功したなら『何も変わらない』——湊川はそう言った。だが、爆縮インプロージョンの瞬間、俺たちは背景となっている金星の雲が丸くひしゃげるのを見た。雲がひしゃげたわけではない。超短パルスレーザー発信器の焦点の位置から何者かが飛び出し、球形に拡大しながら広がったようだった。そのナニモノかは透明か、もしくはやや黒い物体で、周囲の光を曲げながら、そして多少の光を吸い込みながら、広がった。一瞬だったので何処まで大きくなったかは覚えていない。『ヤバい! 飲み込まれる‼』と思った瞬間には収縮に転じ、完全に消え去った。消え去ってしまった。
 実際には、収縮に転じてから『ヤバい!』という感情が湧いて来たのかも知れない。それほどまでに一連の動作は早かった。まばたきをしていたら気付かなかったかも知れない。
 ——いや、例え瞬きしていても、その変化に気付かないことはありそうもなかった。その得体の知れないモノが消え去った直後から、機体は猛烈な振動と炎に包まれたからだ。
 「くっ‼」
 瞬間的に事態を把握した。理屈じゃない。理屈は分からない。分かってたまるか!
 
 これは——、再突入Re-Entry真っ只中だ。
 
 大気圏再突入Atmospheric Re-Entryは、金星に対して横倒しになった〈箱船〉の最上階。破壊された制御室を突入前面として進行していた。〈ブラック・タートル〉の位置は〈箱船〉の最下層——、最後方に位置している。ただし、〈箱船〉の下に潜り込んでいたわけではない。『〈スキップジャック〉下面には近づくな』という湊川の忠告に従い、〈箱船〉最下層のへりに頭を突っ込んだ程度の状態で、〈スキップジャック〉の側面を眺める位置に付けていた。
 操縦室コックピットの正面に〈スキップジャック〉が見える位置だから、〈箱船〉の天面と〈ブラック・タートル〉の天面は同じ向きを向いている。〈スキップジャック〉のさらに向こうには金星がデカデカと見えており、金星に対しては頭を下にして倒立している格好だ。
 当初の計画ではこの状態で待機し、湊川と魚崎の仕事が終わったなら、後面推進機スラスターを噴かして〈スキップジャック〉の下部に滑り込む——そういう算段だった。
 ところが、突然の再突入Re-Entry。〈箱船〉の天面が突入前面であるということは、〈ブラック・タートル〉の天面も突入前面となったことになる。だが、滑空再突入Glide Re-Entryを行う大気圏再突入機ARESの当然の仕様として、再突入Re-Entryを行うための熱防御が施されているのは底面なのである。〝パヴェ・ド・ショコラ〟というシャレた通称を持つ、亀甲形の黒茶色超耐熱タイルがみっしりくっ付いているのは機体の腹部であり、天面——すなわち、背中では無いのだ。
 さらに悪いことに、〈ブラック・タートル〉の位置は、〈箱船〉側面の縁であり、〈箱船〉再突入Re-Entryによって生じた後方気流の境界層——自由剪断層Free Shear Layerを横切るような位置となってしまった。簡単に言えば、操縦室コックピットがある頭部に当たる風は弱く、姫島が乗っている貨物室カーゴルームには強い風圧がかかる。再突入Re-Entryに気付いた時、この圧力差によって機体は既に回転を始めていた。反射的に貨物室カーゴルーム底面の推進機スラスターを噴かすと同時に、後方へ流されるのを防ぐため、後部推進機スラスターも噴かす。出し惜しみ無しの最大噴射だ。最初の位置から90度傾いた状態——機体腹部が金星を向いた状態——で、今度は操縦室コックピット天面にある推進機スラスターを3割程度の推力で噴かす。これで〈ブラック・タートル〉の機体は〈箱船〉の下になんとか潜り込む。
 〈箱船〉の下に潜り込んで刹那、貨物室カーゴルーム底面と後面の噴射を切り、操縦室コックピット側面にある推進機スラスターを使い、全力の制動をかける。自由剪断層Free Shear Layerの内側では渦流が生じていて、〈箱船〉直下の中心部は、弱いながらも〈箱船〉へ近づく方向の風が吹いているため、外とは逆の操作をしなければならない。あわや〈スキップジャック〉に頭から激突するかと思われる間際、何とか相対速度を殺すことに成功する。
 全ては5秒程度の出来事だ。少し判断が遅ければ、自由剪断層Free Shear Layerで文字通り真っ二つに剪断せんだん破壊されたか、きりもみで制御不能のまま航跡ウェーキの遥か後方まで追いやられ、〈箱船〉に二度と追いつけなくなるかだった。
 現状でも〈箱船〉直下のフロー内に存在する、実に狭い安全地帯に辛うじて留まっている状態で、気を抜けば前方に激突するか、はたまた後方の航跡ウェーキ再圧縮部分——ネック部分——に捕まり、乱流に呑み込まれて散るかの瀬戸際である。こんな制御で推進機スラスターの推進剤がいつまで持つか分かったものではない。——いや、それ以前に、いつまでこの〈箱船〉が形を保っていられるかすら分からない。事態は急を要する。
 
 「姫島‼ 2人を——」
 ——と叫んだ時には、操縦室コックピット上部から姫島の装甲服アーマードスーツが発進して行く様が見えた。本来なら前後を入れ替えて、貨物室カーゴルームを〈スキップジャック〉にくっ付けたいところだが、機体の姿勢制御だけで精一杯。また、下手に回頭すると彼らの誘導の邪魔になる怖れもある。
 姫島は装甲服アーマードスーツ補助推進機バーニア・スラスターを器用に動かしながら、最短で〈スキップジャック〉に取り付き、出て来た2人を手際よく腰の連結器テザーに結びつけて戻ってくる。〈箱船〉外周は細々としたデブリが枝垂しだれ花火のように落ちて行く。
 「再突入Re-Entry軌道速度が速い。このままだと再び宇宙へ出るわ」
 「分かってる……」
 御影恭子の忠告をジョークで返す余裕は無かった。
 速度が速いというより、突入角度が浅過ぎる。〈ブラック・タートル〉の非力な推進機スラスターで何とか〈箱船〉の底部に潜り込めたのは不幸中の幸いだったが、逆に言えば、まだその程度のGしかかかっておらず、大気圏上層を上滑りしていると言うことを意味している。
 〈スキップジャック〉の爆縮インプロージョン前の計算では、〈箱船〉は金星に落ちる軌道の筈だったが、爆縮インプロージョンによって図らずも生じてしまった僅かな跳躍は、〈箱船〉を再び宇宙へと投げ出す軌道に変えてしまったようだ。コバンザメの様に寄り添っていた〈ブラック・タートル〉もその巻き添えを食って、同じ軌道中を飛んでいる。
 このまま宇宙に出たらどうなるか? 軌道間輸送船OTVのような大型船ならいざ知らず、水と食料の備蓄すら——いやいや、それよりも何よりも、酸素ボンベの予備すら満足に無い〈ブラック・タートル〉内で5人が数日間生き延びるのは難しい。何とかして下に降りるしか生きる道はない。

 
 永遠とも思える1分近くが過ぎ、3人が貨物室カーゴルームに辿り着いた時、俺の帰還作戦はほぼ固まっていた。上手くいくかどうかは分からないが、やって見るしかない。
 「残りの推力全て使っても、降下は無理よ」
 御影恭子はその間、〈箱船〉の予測軌道とそこから離脱する最適ポイントを計算し、推進剤の残量と照らし合わせて結論めいたものを導きだしていた。
 「無理? だったら金星とここで泣き別れフライバイするってのか?」
 「それは——」
 御影恭子は珍しく弱気だった。
 「上沢! 回収完了。出せ‼」
 姫島の声を合図に、〈ブラック・タートル〉天面にある推進機スラスターを全開放。航跡ウェーキの再圧縮部分をやり過ごし、外部衝撃波Outer Shock Waveを超えない位置を保持しつつ〈箱船〉の後方へ下がる。機首を大きく上げ、今度は逆に機体底面の推進機スラスターを全開放。〈箱船〉は遥か上空に去って行く。
 推進剤を9割使い切った後も、軌道速度はほとんど落ちていない。高度が落ちると速度が上がる。しごく真っ当な結論だ。それでも大気制動Aerobrakingだけで再突入Re-Entryを敢行するには、まだまだ高度を下げねばならない。ここで一旦、機体を水平にする。
 「降下を諦めたの?」
 「何寝ぼけたことを言っている」
 「でも——、もう減速に使える装置は残ってないわよ」
 「いや。まだ2つある。隠し球は最後まで取っておくものだ」
 俺は、不格好に下げ翼フラップがはみ出したままのオプションの可変翼を開いた。
 「ああ! なるほど」
 彼女も気付いたようだ。
 オプションの可変翼には、使い切り固形燃料が詰め込まれた逆噴射装置リバース・スラストが付いている。まさかこんな場面で使う時が来るとは想像だにしていなかったが、無駄弾を撃たない精神がこういう時に役に立つ。
 「逆進開始Retro Start
 遠地点推進機AKM: Apogee Kick Motorほどの推力は無いが、姿勢制御用の小型推進機スラスターとは段違いだ。5点式シートベルトに体が食い込む程度のGと共に、高度がみるみる落ちる。噴射ノズルを前方に固定した20秒の噴射が終わると、用済みになった可変翼を切り離す。

 減速のためには空気抵抗を受ける面を出来るだけ大きくする必要があるので、この翼を最後まで残しておくという選択肢もあったが、もともと大気圏再突入Atmospheric Re-Entry用ではないので、翼の末端が鋭角過ぎる。当然ながら極超音速飛行Hypersonic Speedも考慮されておらず——それどころか、金星地表面近くの高圧下低速飛行用だ——最速降下時には衝撃波の外側に翼のほとんどが出てしまうだろう。どのみちこの翼はぶっ壊れる運命にある。
 もちろん、最大減速の前段階まで使い倒すという方法もある。それは、〈箱船〉のケツにくっ付いていた1分の間に考えた。だが、そこまで翼が保つのかというのと、その段階まで引っ張った挙げ句、着脱装置が壊れて切り離し不能になるという可能性もあった。壊れた状態でくっ付いたままでは、逆に操縦がし辛くなる。ここは潔く切り捨てる判断をした。
 「まだ減速が足りない——あと少し」
 御影恭子の報告と共に、上部モニターには予測軌道が描かれる。先ほどよりは軌道高度は落ちたが、まだまだ速度は速い。さらに減速しなければ宇宙へ逆戻りだ。同時に表示されていた〈箱船〉の軌道は、金星の大気圏を既に脱しつつある。
 ちなみに、進入角度が浅いと水切り石﹅﹅﹅﹅のように大気圏で弾かれ、宇宙へ再び放り出される——というのは良くある誤解で、実際は、減速が足りないまま大気上層をほぼ直進し、地球の丸みのために再び宇宙へ出てしまうというのが正しい。だから、大気中にいる間﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅に更なる減速を試みねばならない。そして今が、通過する大気の最下層に近い位置だ。
 俺は、衝撃緩衝袋体SABAの誤操作防止カバーを跳ね開け、手動展開ボタンに手をかける。隠し球2球目だ。
 「姫島、湊川、魚崎。少々揺れるぞ」
 今更ながらアナウンスをしてみる。
 「了解ラジャー
 「了解ラジャー
 「…………」
 「——魚崎はとっくに気絶してる、構わん」
 姫島の補足を聴いた後、御影恭子に親指を立ててニカッと合図する。
 「了解ラジャー。いつでもOK」
 御影恭子もニッと笑った。
 
 「衝撃緩衝袋体SABA展開!」
 
 ——この緩衝体アブソーバーも本来の使われ方は別にある。こいつは金星地表面へ硬着陸ハードランディングせざるを得なくなった時、〈ブラック・タートル〉を包み込む気袋バルーンの集合体である。通常のエアバッグは、機内の人を守るため、機体内部で膨らむものだが、こいつは機体そのものを守るのが目的だから、機体の外周全てを包み込むように膨らむ。膨らんだ後の形状は、全方向からの衝撃に耐えるため、一面当たり6つの小袋で作られた正八面体構造だ。当然ながら、〈ブラック・タートル〉の風防ウィンドシールドも包まれ、視界はゼロになる。駆動系も制御不能——というより、緩衝体アブソーバーに包まれた状態で動かしても役に立たない。
 要するに、衝撃緩衝袋体SABAを展開すれば、まさに手も足も出ない亀状態になる。〈ブラック・タートル〉という機体名にはピッタリな状態だと言えなくもない。
 本来なら、膨らみつつ軌道変更も可能な、再突入Re-Entry専用の膨張型再突入輸送装置IRV: Inflatable Re-entry Vehicleを使いたい。この装置は、開いた松茸のかさみたいな形状で気袋バルーンが膨らみ、何もしなくても笠が下になり、安定した降下が可能な優れものだ。だが、そんな御立派な装置は本機には付いていない。無い袖は振れぬ。代わりに使った衝撃緩衝袋体SABAは正八面体であるため、前後の区別が無い。必然的に——
 「ちょっ! 回転し過ぎ! 何とかならないの⁈」
 ——となる。
 「傾斜回転負荷装置Pendulum Rotating Chairに座ったと思えば、大したことない」
 と、眉間にしわを寄せている御影恭子にうそぶく。この程度で空間識失調バーティゴになるようでは、宇宙飛行士はおろか、戦闘機パイロットにはなれない——って、いやいや、彼女は学者だった。湊川と姫島はこの程度のことでは平気だと思われるし、魚崎はとっとと御就寝なので、この状況で一番辛いのは彼女かもしれない。とはいえ、一定速度に減速するまでは耐えてもらうしかない。
 「お腹に力を入れて、小刻みに呼吸しろ。高Gもそれで凌げる」
 「ひっ、ひっ、ふぅー」
 「……いや、それじゃない」
 ——それでもいい気がしてきた。

 
         *  *  *
 
 不規則な回転で目が回る状態がしばらく続いた後、ようやく帰還回廊Returning corridor赤絨毯レッド・カーペットに辿り着く。衝撃緩衝袋体SABA吹き飛ばパージし、操縦輪Control Wheelを引く。仰角40度に固定。操作性に問題はない。
 問題なのは着陸ポイントだ。本来ならば、これから訪れる最大減速時——G最大、最大加熱時でもある——を乗り切った後、無線標識施設VORTACを睨みながら手近な基地に受け入れ要請を行うものだが、如何せん、こういう状態で受け入れ拒否されたら、次を探すまでに奈落の底まで落ちかねない。金星では、奈落の底は文字通り地獄の底を意味する。なるべく早めに落ち着く先を確保したい。
 引っ込めていた円盤円錐ディスコーンアンテナを展開し、無線標識局ビーコンの受信と通信を試みる。〈ブラック・タートル〉の背中が焼かれた段階でダメージを受けたのではないかと心配したが、動作に問題はないようだ。この仰角を保ちながらの降下なら、背中のアンテナは大気プラズマの影響を受けることなく、衛星を経由して通信することができる。
 
 「メーデー、メーデー、メーデー。こちらは、北緯30度帯30 Degrees Northの〈ブラック・タートル〉、〈ブラック・タートル〉、〈ブラック・タートル〉。位置は……不明——」
 GPSのデータを読み上げるところだったが、コイツは当てに出来ないんだった。下手に言って混乱させては、逆に救助が遅くなる。風防ウィンドシールドもオレンジ色のプラズマに覆われて向こうが見え辛い。もっとも、大仰角で降下中なので、どのみち肉眼では地面は見えない。いやいや、そもそも、雲上から金星の地面を見ることは不可能だ。
 「——訳あって再突入Re-Entry中だが、着陸地点から外れた。乗員は5名。緊急着陸を——」
 「こちら〈レッド・ランタン〉。上沢少尉ですか?」
 ノイズの中から、名指しでご指名。それも聞き慣れた声だ。
 「み——、みのりちゃん⁈ どうしてそこに?」
 みのりはまだ金星地表面付近でジタバタしている筈。一時間程度ではどうあがいても、近場の浮遊基地フロート・ベースまで上がれればいい方だ。
 「え? あ⁉ その話は後で。こちらで進路誘導します」
 「分かった。だが、GPS装置が——」
 「値は正常です」
 「正常?」
 言い切った。言い切りやがった。みのりがそう言うんだ。なら、間違いなかろう。
 GPSが示す金星地表面からの高度はおよそ140キロメートル弱、空抜で80キロメートル程度だから、風防ウィンドシールドから見たプラズマ流の状況とも辻褄が合う。事実、この少し後、高度130キロメートル付近にあるドライアイスの雲層も確認できた。
 さて、これから数分がG最大の山場だ。計算では5G、空力加熱は1500度にはなると出ている。温度的にはこの程度なら問題無い。超耐熱タイルだけでも何とかなる上に、相転移吸熱体PTHAによる気化蒸発冷却Ablation coolingシステムもまだ機能している。Gの方は俺は8Gまでなら余裕で大丈夫だが、御影恭子は分からん。もっとも、気絶してもらっても一向に構わない。
 みのりの示した進路に添って進みつつ、左右にバンクを切りながら減速する。空抜70キロメートルでG最大。眼球だけ動かして右を見れば、御影恭子は先ほどの『ひっ、ひっ、ふぅー』を続けているようだ。ただ、振動と騒音で実際に声を発しているかどうかまでは聞き取れない。
 空抜60キロメートルを切り、重力が3Gまで下がった段階で仰角を下げ、滑空体勢に移行する。白い雲が眼前にあるだけで、何も見えてはこない。〈レッド・ランタン〉もそうだが、大抵の空中都市は雲の中にある。見えないのが普通だ。だが、おかしい。視認出来ないのは良いとしても、〈レッド・ランタン〉にある無線標識施設VORTACからの信号を受信出来ていない。
 「みのりちゃん。〈レッド・ランタン〉の位置をこちらでは識別できない。進路は正しいか?」
 「進路上に〈レッド・ランタン〉はありません」
 「なんだって⁈」
 おいおい。まさかの着陸拒否じゃないだろうな? そういえば、俺は人質を取って逃げているハイジャック犯ってことになっているし……。
 ——不安になってきた。
 「そちらには〈ブーメラン〉が待機しています」
 「〈ブーメラン〉だって?」
 「はい」
 「さすがに俺の腕でも〈ブーメラン〉の背中に〈ブラック・タートル〉を着艦ランディングさせることはできんぞ」
 既に逆噴射Retro-rocketも使ってしまい、オプションの翼も投げ捨てた。こちらの速度を〈ブーメラン〉に合わせるまで落とし込むことは出来ない。もちろん、飛行船モドキである〈ブーメラン〉の速度を上げてこちらに合わせることも不可能だ。衝突コリジョンはできても、着艦ランディングはできない。
 「はい。分かっています。着艦ランディングする必要はありません」
 「それはどういう——」
 前方に金属的な反射光が一瞬見えた。
 『ミサイルか‼』
 ——と思った。回避のタイミングは既にない。やられた‼
 
         *  *  *
 
 結論から言うと、確かに着艦ランディングする必要は無かった。そして、前方から飛んでくる物体を回避する必要も無かった。更に言えば、反射光が見えた段階で最大限の回避行動を取ったとしても結果は同じだっただろう。
 俺たちは今、〈ブラック・タートル〉ごと展開気球バリュートに吊り下げられ、〈ブーメラン〉に曳航えいこうされている。前方から飛んで来たのはビッグ・ハンド——俺が〝水汲み作戦〟で〈収水〉に乗り、氷の彗星にぶっ放した例のアレ——だった。
 何のことは無い。俺たちは、宇宙から降って来た彗星と同じ扱いを受けたのである。そして、曳航されながら〈レッド・ランタン〉に戻るまでの5時間。俺は何することも無く操縦室コックピットに缶詰にされた。
 ——ま、その間は寝てたんだが、足が伸ばせない分、目覚めたら足がむくんで大変だった。操縦士パイロットがエコノミー症候群で死んだりしたらシャレにならない……。

 
         *  *  *
 
 あれから2週間。俺は軍法会議での証言やら、報告書レポートの作成やらに追われていた。
 テストパイロットとして必要な資質の中で、最も重要なものは操縦技能ではない。機体やその周辺に起こったことを的確に把握・処理し、最終的な結果を正確に報告書レポートに書き残すことだ。主観ではなく客観的に。推測を付加せず事実のみを書く。推測は推測として書く。自分では苦手な方だと感じているが、他人からの評価は以外と良い。
 事件に関わった人々からの様々な報告書レポートが上がってくる中で、ヴィーナス・アタックに絡んでどんなたくらみが進行し、誰と誰が敵対し、そして、何が起こったかがおぼろげながらも分かって来た。
 
 連邦共和国の司令部と北緯30度帯30 Degrees Northの我が軍、さらには共和国自身の駐在部隊との間に深い軋轢あつれきはない。ついでに言えば、南緯20度帯20 Degree Southべるロシア隊との関係も良好だ。いやまあ、全く無いと言えば嘘になるのだろうが、それは中央と地方との確執、在住者と移住者による牽制みたいなもので、どこにでもある話だ。それ以上でもそれ以下でもない。
 事件の発端は〝遺跡〟の発見だ。これはみのりの——伊川軍曹の報告書レポートに書かれている。内容は〈箱船〉内で聴いたものとほぼ同じ。ただ、最初に〝遺跡〟を見つけたのはみのりでは無いだろういう推測が付いている。これは小隊長殿おやっさん報告書レポートとも絡むのだが、金星地表への降下作戦——いわゆる、ヴィーナス・アタックの予備降下プレ・アタックの段階で、連邦共和国の中枢が率先して自立歩行探査機ドローンを提供するなど、今から思えばおかしな話だった。
 ヴィーナス・アタックは主に研究目的で行われるのが建前﹅﹅で、その実、鉱物資源開発が真の目的であったりするわけだが、建前は建前として、そのスジの研究者が共和国科学振興財団RSPF: Republic Science Promotion Fundationに研究目的と調査内容の申請をする手筈となっている。連邦共和国は後援にはなっているとは言え、直接的な手続きは財団が行い、財団が窓口になって、地表降下部隊アタッカーズを編制するのに適切な地方自治体に話を振ってくる。
 共和国政府と財団は——内情は知らないが——別の組織であり、予算枠も全く違うから、財団が共和国政府の自立歩行探査機ドローンを借り受けるには、そこで新たな申請が必要だ。更に、実務を行う部隊——今回の場合は我が隊——にも地表降下部隊アタッカーズ編制の打診・要請や、必要機材の徴発——じゃなかった、調達・提供など書類上の処理だけでも面倒なことが多い。通常なら、申請書は一枚で済ませたいから、『金は払うので、手持ちの自立歩行探査機ドローンで調査してくれ』と頼まれることが多い。共和国政府の自立歩行探査機ドローンを別の部隊に提供するなど、別途に雑務が増えるような仕事はしたがらないものだ。
 ところが今回は、財団の方から自発的に自立歩行探査機ドローンの提供を申し込んでいる。それも、どうやら、我が隊だけに行われたものでは無いらしい。各緯度帯ごとに同様な調査が行われたようで、我が隊がたまたま当たり﹅﹅﹅を引き当てたということのようだ。今から考えると、どうみてもハズレ﹅﹅﹅としか思えないのだけどな。
 
 そして、実際に、我が隊の地表降下部隊アタッカーズの降下が決定された時、地球から説明にやってきたのが、魚崎晋である。ヴィーナス・アタックはそれほど頻繁にあるものではないが、オリンピックほど珍しいものではないから、こんな調査のためにわざわざ地球から3ヶ月かけて専門家がやってくるほどの案件ではない。それに、財団に対して研究申請をしたのは魚崎本人ではなく、共和国所属の研究員。それも、共和国エネルギー管理委員会RERCの組織下にある研究部門に属する研究官なのである。
 もう、この段階で資源争いの臭いがプンプンするのだが、今回の事故報告書にはそのへんの話は含まれていない。もしかすると、もっと高次ハイレベル報告書レポートには書かれているのかも知れないが、俺にはそこまで読む権限がない。
 共和国政府——とりわけ、RERCの〝遺跡〟に対する執着は強かった。ここからは完全に推測になるのだが、〝遺跡〟の存在というか役割に気付いたのは、最初に調査依頼の申請をしたその研究官だろう。彼らはおそらく、ルバコフРыбако́в効果を使った無尽蔵のエネルギー資源として〝遺跡〟を捉えていたに違いない。これは、ソーニャと御影恭子との会話からの憶測だ。
 
 〝遺跡〟の役割は、あちこちにある遺跡の欠片﹅﹅﹅﹅﹅から分かった。みのりは確か、惑星科学関係の雑誌か何かに載ってたとか言っていた気がする。調べたわけではいないが、RERCの研究官もこの研究に関わっていたのだろう。完全な形での〝遺跡〟の場所や規模は分からない。いや、そもそも本当に存在するのか否かも分からない。だから、金星中を調べ回った。そして見つかったのが、北緯30度帯30 Degrees Northテルス島Tellus Island
 だが、この情報はRERCの中枢——共和国政府の中枢には届かなかった。現地の駐在部隊——例のむっつりスケベの将校オフィサーがいる部隊が、この情報を独り占めしたのだと思われる。そりゃ、巨大な利権が絡むからそういうことがあってもおかしくない。ってことは、直轄の司令部からやって来たソーニャと共に〈レッド・ランタン〉の管制室を彼が占拠しにやって来た時には、内心ヒヤヒヤものだったと考えられる。〈箱船〉での小隊長殿おやっさんとの会話からして、地表降下部隊アタッカーズの計画と降下地点は既に分かっていた筈だからだ。
 
 要するに——だ。あの時、ソーニャが尋問すべき相手は、何にも知らなかった俺じゃなくて、隣にいた身内の将校オフィサーだったということだ。俺が図書館でみのりと共に殺されかけたことだって、俺が不用心に機密のメインフレームにアクセスしてしまったため、秘密裏に事を進めていた駐在部隊の奴らに、俺たちがRERC中枢の人間かあるいは内通者と勘違いされたと考えれば合点がいく。巨漢の将校オフィサーと図書館でみのりに投げ飛ばされた男は顔見知りだったわけだし……。
 つまり、RERC組織の内輪揉うちわもめのトバッチリが、要請を受けて行動しただけの俺たちに降ってきたわけで、もう『勝手にやってくれ!』と言いたい。
 
 ——いやいや、RERCの内輪揉うちわもめだけでは話が完結しない点がある。小隊長殿おやっさんの存在だ。小隊長殿おやっさんがRERCの駐在部隊側に買収された﹅﹅﹅﹅﹅と考えれば一応スジは通るのだが、小隊長殿おやっさんが主張した国連本部からの勧告リコメンドは確かに存在し、国連UNの〈ニアリーイコール〉という非公認組織からの援助の記録も残っていたのである。
 で、その内容は——って言うと、俺たち下っ端には開示されていない。だが、たかが一地方のRERC駐在部隊が国連UNを言いくるめて味方に付け、非公認とは言え、支援を受けるまでを内密に行えるとは到底思えない。何か別軸での作戦が展開されていたと考えられる。もちろん小隊長殿おやっさんはその作戦を知っていたのだろう。知っていたと考えねば辻褄が合わない。下手すると、軌道間輸送船OTVに乗る前から魚崎と共にこの任務を託されて来たんじゃないだろうか? RERC組織内のエネルギー資源争奪戦に、国連組織が〝漁父の利〟を得ようとして首を突っ込んだ。おおむね、そんなところだろう。
 そして、小隊長殿おやっさん国連UNの関与を知っていたが、副隊長の谷上中尉は知らなかった。知らせてはいけなかったのかも知れない。よって、谷上中尉は共和国政府中枢からの『地表降下部隊アタッカーズの独断行動』というホットラインを信じ、小隊長殿おやっさんの行動がクーデターに近いものだと判断。〝遺跡〟の奪還を試みたということになる。
 この行動は軍規に基づいても間違っておらず、軍法会議でも何ら罪に問われることは無かった。小隊長殿おやっさんについても国連本部からの勧告リコメンドが本物であったことが証明され、無罪放免。どちらも正規ルートの指示で動いており、指示系統の混乱が今回の事態を招いたということで処理された。
 ついでに言うと、俺の〝ハイジャック〟の件もウヤムヤのまま処理されることになった。今回のことは、全て事件ではなく事故——上層部はそういう事で話を進めようとしている。仮に、俺の件を事件として扱うと、部外者を呼んで聴聞会を開かねばならず、そこで俺が何を言うか分からない﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅という懸念があったらしい。何しろ正直者の上に馬鹿が付く程だからなぁ、俺は。これはこれで良かったのか悪かったのか分からんが、まあ良かったと言うことにしておこう。
 
 自らの罪がご破算になり、つかの間ホッとした後、俺は、小隊長殿おやっさんに、国連から示された勧告リコメンドが一体どんな内容で、どんな作戦命令だったのか訊いてみたくなった。だが……訊いても答えてはくれないだろうなぁ……。
 そうそう。この点は、話を知ってそうな姫島にも訊いてみた。だが、姫島は『〝遺跡〟に近づくヤツがいれば阻止しろ。ただし、〈レッド・ランタン〉を含め、上空の奴らに気取られるな』という命令しか受けていなかった。だから、俺たちのことを——同じ部隊だというのに! ——完全に敵と認識していた。姫島が、未確認機アンノーンに対して、その処遇に苦慮したのは、通信を〈レッド・ランタン〉に傍受されるのを嫌ったという背景があったわけだ。結局、先行した未確認機アンノーンは墜落し、俺たちを攻撃した2機目のRERC所属の装甲兵員投降機APDと交戦する前に、小隊長殿おやっさんからの攻撃中止命令が出された。『そいつは味方だ』——と言うわけだ。では、1機めの未確認機アンノーンは何だったのか? これに対する明確な答えは未だに無い。
 同様に湊川にも話を訊いてみたが、アイツは『俺は人類初の超光速宇宙船の操縦士パイロットになるんだ。スゲーだろ!』ということしか頭に無かった。背後にある色々な陰謀など全く考えていない。お気楽なヤツだ。まあ、浮遊基地フロート・ベース消失とか、〈レッド・ランタン〉管制室の占拠とかを知らずに、何事も無く金星地表面まで降りた地表降下部隊アタッカーズの一員だから仕方が無いことかも知れない。
だが、残念な事に、人類で始めて超光速船を操縦ドライブした男という称号は闇に葬り去られることになりそうだ。今回の事故報告書が公に公開されることは無い。よって、湊川の実績も表沙汰にならない。遥か未来を思えば、情報公開法によって全関係者の死後50年経ってから知られる事になるだろうが、刹那に生きる湊川にとってはそれでは不満だろう。慰めにはならんが、『お疲れさん』と言うしか無い。
 そう言えば、〈スキップジャック〉が宇宙船のエンジンだったと正しく認識していた人物は、以外に少ない。共和国政府はもちろん、例のむっつりスケベの将校オフィサーすら、ルバコフ効果を使った陽子崩壊反応炉だと思っていたようだ。まあ、そう思ってもらわないと、協力はしてもらえなかっただろう。この点は御影恭子が言っていたように、〝宇宙船〟という言葉をほとんどの人間が隠語として理解していたようだ。戦車のことを〝タンク〟と言っているのだと思ったら、本当に水槽タンクのことだった。あらビックリ——みたいな展開。
 それにしても小隊長殿おやっさんは、連邦共和国の司令部と味方である谷上中尉には作戦を秘匿し、共に行動している共和国の駐在部隊には、作戦の目的を偽って行動していたわけだから、とんだ二枚舌、三枚舌っぷりだ。俺には無理だし、俺を地表降下部隊アタッカーズの一員にしなかったのは正しい判断だと言えるだろう。
 今回のヴィーナス・アタックの裏で何が起きていたのか? 何の目的があったのか? 俺が理解出来たのはこのくらいだ。これでもほんの一部だろうが、それでも頭が痛くなる。

 
 さて、頭が痛くなる知略・謀略はこのくらいにして、では、金星地表面で〈スキップジャック〉が作動した時、一体何が起きたのかも説明しておこう。〈スキップジャック〉の中の俺たちは、その爆心地に居ながら——いや、爆心地に居たが故に、何が起きたかを正確に把握できていない。外から見ていた地表降下部隊アタッカーズの面々の方が、その状況を把握している。その中でも姫島は、〈箱船〉の外に居ながら宇宙にまで舞い上がっており、装甲服アーマードスーツに取り付けられたカメラがその一部始終を記録していた。
 ——とはいっても、ほんの一瞬の出来事だ。俺たちが宇宙で見たような、少し暗めの透明な球が一瞬で広がる。周囲に居た他の地表降下部隊アタッカーズとRERCの2機の〈ブラック・タートル〉はその向こう側に押しやられると同時に、〈箱船〉は上昇する。発生した球はそのままオレンジ色の火球になり、その上にまた2段目、3段目の球が次々に形成されたところで、次の瞬間はいきなり宇宙空間だ。この間およそ0.5秒。静止画像にして60枚程度である。
 地表降下部隊アタッカーズが乗った〈マンタ・レイ〉からの映像も残っている。こちらは球体が広がったというより、急速に〈箱船〉が遠ざかったかと思えば、数段の球が発生して〈箱船〉がパッと消えていた。俺たちは一旦消えたのだ——この世から。これは決して誇張ではない。姫島の映像ではその直後に宇宙空間に出現したことになっているが、みのりらの報告書レポートでは、俺たちが宇宙空間に現れたのは、その3日後なのである。これは、〈スキップジャック〉から取り出されたブラックボックスのGPS記録にも残されている。宇宙に飛び出た瞬間までは連続的に時が刻まれていたが、宇宙でGPS信号を受けた瞬間に、3日後の時間へと書き変わったのが記録されている。つまり、俺たちは、場所を跳躍しただけでなく、時間も跳躍したのである。湊川はますます悔しがっていた。『俺は人類初のタイムトラベラーでもあるんだぞっ!』ってな。ま、それが公式に認められるのは死後50年経ってからだ。もう一度繰り返そう。慰めにはならんが、『本当にお疲れさん』と言うしか無い。
 ちなみに、〈箱船〉は金星の外大気をかすめた後、金星とほぼ同じ長軸軌道を持つ人工惑星になった。調査隊も向かったが、実験室ラボまでは完全に破壊されており、モノポールが詰まっているという顆粒状金属系材料BNMは影も形も無かった。ソーニャの悔しそうな顔が目に浮かぶ。〈スキップジャック〉はほぼ原型のまま残っていたが、当然ながら電力は死んでおり、圧縮された原始宇宙﹅﹅﹅﹅はどこにも存在していなかった。
 その原始宇宙はどうなったか? どう処分したのかは、魚崎の報告書レポート非常に詳細に書かれている。はっきり言おう。全く分からん。一言で言えば、俺たちと平行の別の次元へ切り離して捨てたのだそうだ。分かるかそんなの。で、その宇宙はおそらくその後インフレーションを起こし、現在も膨張中であるらしい。つまり、魚崎は別の宇宙の創造主になったのだ。もしも、そっちの宇宙﹅﹅﹅﹅﹅﹅に知的生命体が生まれたら、教えてやりたい。『お前達の宇宙を作った神は、黒ブチ眼鏡の変なオッサンだぞ』と。
 
 さてさて。では、そもそもの諸悪の原因となった〝遺跡〟とは何だったのか?
 
 〈レッド・ランタン〉に戻った翌日。実際には4日後になるが、俺は湊川に一枚の写真を見せられた。北緯30度帯30 Degrees Northテルス島Tellus Island全景。〈箱船〉があった場所の最新画像だ。
 「なんじゃこりゃ⁉」
 「〝パエトーン・コロナ〟と命名されるだろうな」
 「コロナって……あのコロナか?」
 〈箱船〉があった入り江は跡形も無かった。それどころか、手前の切り立った断崖すら消えていた。代わりに、半径30キロメートルはある円形の丘——金星特有の円形状の丘が出来ていた。〈箱船〉が跳び上がった後、ここには巨大な円形状のくぼみが出来た。そこに地下からのマグマが沸き上がり、あたかも穴を塞いでカサブタを作るかのようにマグマの丘が出来たらしい。直径30キロメートルはコロナとしては非常に小型であり、どちらかというと、もっと小型の〝パンケーキ〟と呼ばれる地形に近い。
 これは魚崎の立てた仮説だが、〝遺跡〟はまさしく、外宇宙へ飛び立つための宇宙船の燃料庫であり、その宇宙船の発射痕がコロナなのだと……。つまり、かつて金星には金星人が住んでおり、今から5億年前、彼らは故郷を捨てて何処かに行ってしまったのだという。金星の地表は5億年より前の古い地層が露出した場所がほとんどない。金星人の移住計画が、金星の地表面を、ことごとくマグマの海にしまったのではないかという仮説だ。
 『そんなアホな!』と切り捨てるのは容易い。だが、5億年前に何らかの天変地異が金星全体で同時多発的に生じ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅て、今の状態になった——と考えるのも、また同様に不自然な仮説である事に変わりはない。
 「じゃあ、その金星人とやらは何処に行ったんだ?」
 「あんなものを操れる連中だ。銀河系全体に広がっているだろうよ」
 ——確かに、金星最大のアルテミス・コロナArtemis Coronaは2600キロメートルにも達する巨大な丘だ。そいつが宇宙船の発射痕なのだとしたら、億単位の金星人が乗っていたとしても驚くには値しない。だが、コロナは金星全土のあちこちにある。もしかすると5億年前に戦争が起き、宇宙に出て行く前に死に絶えてしまったのではないかとも思える。あるいは、個別にあちこちに飛び去ってしまったのかも知れない。
 ひとつ言えるのは、残された〝遺跡〟はあれが最後だったということだ。地下深くに埋まっている〝遺跡〟とかあれば話は別だが、再実験を行う機会は永遠に失われたことになる。もともとが他人——金星人——の置き土産なのだから、そんなものあてにせず、人類が自力でモノポールを作り、貯蔵出来る技術が発達するまで、追実験は出来ないって方が健全だろう。
 
 争いの種は泡と消えた。これで良かったのだ。

 
         *  *  *
 
 ——さらに1週間後。3ヶ月に一度の軌道間輸送船OTV交代日。俺たちは小隊長殿おやっさんを先頭に、儀礼用肩章を付け、一列に並んでいた。どうもこういう堅苦しいのは苦手だ。俺たち——小隊長殿おやっさんに俺と湊川、そして装甲兵アーマードソルジャー3馬鹿トリオ隊など——は金星居残り組だが、伊川みのり軍曹は帰ることになった。本来ならば、残り半年ほど勤務する予定だったのだが、今回のような事故が起きて、急遽、地球に逆戻りと相成った。もう少しからかって——いやいや、指導してやろうと思っていたのに残念だ。
 「オメーも一緒に帰りたいんじゃねぇのか?」
 隣の湊川が、あごで乗船タラップを示す。その先はみのりではなく、御影恭子だ。
 「言っとくがな——。俺は手は出しとらんぞ」
 「分かった、分かった。そういうことにしておこう」
 「勝手に納得するな!」
 手を出していないのは本当だ。正確に言うと、手を出しているような暇が無かったと言うべきか? 仕事で付き合うには、御影恭子のような、何をやらかすか分からん相手は困り者だが、プライベートなら話は別だ。彼女が帰ってしまうのも、ある意味残念ではある。ついでに、魚崎なんとかも、役目が終わって帰るようだが、こっちは全く無問題だ。とっとと帰ってくれ。
 
 衛星軌道上にある軌道間輸送船OTVへの運搬船トランスポーターのドアが全て閉まる。俺たちは貨物上屋Transfer Shedsの展望デッキに並んで敬礼。〈レッド・ランタン〉最上階の発着場。そのまた端にある、垂直離着陸機用の発射台Launch Padから轟音とともに運搬船トランスポーターが上昇していく。地球と違って、ここは万年雲の中。機影は直ぐにオレンジ色の火球だけになり、それもまた直ぐに見えなくなる。残るのは遠雷のような音だけだ。——にこやかに笑って帽子を振る儀式は、金星では止めてもいいんじゃないだろうか?
 
 「さてと……」
 俺は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。来た早々、色々あり過ぎた。音すら聞こえなくなった雲の彼方を見ながら、俺は帽子を被り直し、きびすを返した。二、三歩歩き、また振り返る。窓の外は黄色がかった白い雲以外、なにも無かった。







七、顛  末 ~蛇足のエピローグ~







 ——知らない方が幸せという事実もある。
 ——聞かなければ良かったと後悔することもある。
 ——そして、今ならまだ間に合う。考え直せ……。

 
 「あーあ。もう少し観光したかったなぁ」
 次第に遠くなる、幾分黄ばんだ白い惑星を窓越しに眺めながら、みのりは唇をへの字に尖らせた。こういう仕草がいちいちカワイイ。そして、それを素でやってしまうところが恐ろしい。いや、素じゃないか……。
 「観光って……。金星には名所旧跡は全然ないでしょう?」
 「そりゃそうですけど。だって、3ヶ月ですよ。3ヶ月! 往復を考えて1年以上かかった仕事ですよ。それなのに滞在が3ヶ月も無いなんて!」
 「最短で済んで良かったんじゃない? 少し遅れたら次の便までさらに3ヶ月よ。その間、何してるの?」
 「そりゃあ——。えーっと、そうだ! 精神的に疲れたフリ﹅﹅をして、有給取って傷心旅行をするんですよ。各緯度帯の浮遊都市全部回って」
 「はぁ? 何よそれ?」
 「もちろん、恭子さんも行くんですよ。一緒に」
 「いや、遠慮しとく……」
 
 大抵、この子とペアを組む時はこんな感じ。アタシがいいように振り回されている。でも、騙されちゃいけない。彼女は天然なんかじゃない。とてつもなく腹黒——あ。
 「思い出した! ケブラーの防護服プロテクトスーツを用意したのはあなただったわよね」
 「えっ? そうでしたっけ?」
 「とぼけないで! あの後、作戦資料を確認したんだから」
 「だ、ダメですよ。資料は来る前に全部消去しとか無いとぉ」
 「ふふん。国連本部ジュネーブにいる査問委員会の友達から聞き出したのよ」
 「あ。ズルい」
 「どう? 言い逃れはできないわ。つまりアンタは、あたしの服がボロボロになるのを承知でスカイダイビングさせ、それにあの熱血漢が気づいて急降下するのをはかったでしょう。そして、彗星の正体を気付かせようとした……」
 「ま、まあ。結果オーライだったわけだし——」
 「それだけじゃない! アンタ……降下時に無線も意図的に切ったでしょ。遠隔で」
 「え? そんなことは——」
 「何なら、帰ってから事後報告用として操作記録の開示請求をしてもいいのよ」
 「えーっと。あのぉ——てへ♡」
 「そんな顔が通用するのは腑抜けた男相手だけ。同性にやってもムカツくだけだからね」
 「……チッ」
 本性が出た。みのりは〈ニアリーイコール〉の中でもかなり腕利きの活動員エージェント。合気道の腕前も中々らしい。でも、彼女の得意なジャンルは、良く言えば頭脳戦。身も蓋もなく言えば騙し合いの策謀。そういうのを身内に発動するのは、ホント——止めて欲しいわ。
 
 「それに——アタシの事をスパイだとか何とか言い触らしてたでしょ!」
 「あれは仕方ないんですよぉ。共和国側の首謀者も不明だったし、ウチの部隊に内通者がいた可能性もあったし。——揺さぶりをかけてみるしかないでしょ」
 「南緯20度帯20 Degree Southの風邪騒動も同じ理由?」
 「あれは耐圧PP遺伝子核酸導入トランスフェクションの副作用です」
 「ウイルスベクターはアデノ随伴ウイルスAAV: Adeno-associated Virusでしょ? 危なっかしいもの使ったわね」
 「発現は一過性だから大丈夫ですよ。科学諮問委員会SAG: Scientific Advisory Groupの承認も得てます。なんなら、魚崎博士に尋ねてみて下さい。委員会に出席してた筈ですから……」
 「えっ⁈ あの人、SAGのメンバーなの? じゃあ、今回の作戦の立案者なの?」
 「あれ。言ってませんでしたっけ?」
 そういって、みのりはペロリと舌を出した。腹立つぅ。
 
 国連UNの非公認組織〈ニアリーイコール〉。その前進は遠い昔、核兵器の製造方法を敵国に渡した科学者集団にまで遡る。軍事力はもちろんのこと、新エネルギーや飛躍的な科学技術の進歩など、国家間、地域間のパワーバランスが崩れる状況は過去に幾度となく生じ、そのたびに世界的な危機が訪れてきた。〈ニアリーイコール〉はそれらの地域間のバランスを取って、文字通り『ほぼ同じ』状態を作り出すための組織。
 簡単に言っちゃえば、最新技術を横流しする組織﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅なんだけど、企業レベルはもちろん、国家レベルだと複雑な利権が絡み合い、その行為自身がキナ臭い紛争の種になっちゃう。だから、『各国はセッセと仮想敵国を出し抜く最新技術開発に精を出しなさい。バランスが崩れそうになったら、超法規的な世界機関が勝手にガス抜き﹅﹅﹅﹅するから』っていう仕組み。
 今回の任務は特に厄介だった。技術を再分配するのは簡単だけど、数量が限られる資源の分配は難しい。それも今回は、人間が——人類が作ったモノじゃないと来た。
 
 今回の件が全てが終わった後、帰りの軌道間輸送船OTVの中でみのりから始めて聞かされたのだけど、〈ニアリーイコール〉で対処方針を決める科学諮問委員会SAGの決定はこうだったそうだ。
 
 『捨てちまおう——』
 
 勿体ない——と思うのは簡単だけど、この決定にはアタシも賛成。人類の今の技術が順調に進んだとしても、あの〝遺跡〟の製造には数百年かかるというのが科学諮問委員会SAGの見解。確かに、ルバコフРыбако́в効果による陽子崩壊反応は無尽蔵のエネルギーを生み出して、人類にとってはとても魅力的なものなんだけど——って、あれ?
 〈箱船〉の部品として連邦共和国が秘密裏に発注した陽子崩壊反応炉を、〈スキップジャック〉に作り替えてしまったのはDr.魚崎だけど、共和国側の計画や行動を逐次伝えていたのはみのりよねぇ?

 
 「ひとつ尋ねていい?」
 「なんですか?」
 みのりはニコニコと笑顔で応える。やっぱり、この子、ちょっと腹が立つ。
 「みのりは〈スキップジャック〉の本当の機能を知ったのはいつなの?」
 「本当の機能って?」
 「宇宙船のエンジンとか言う……」
 「ああ。えーっとですねぇ——。怒りませんか?」
 両手を合わせて上目遣い。媚び仕草が堂に入っている。
 「う。うん、怒らない……」
 「実は、最初からでーす」
 「アンタと言う奴は!」
 「これは私の所為じゃないんですよ。恭子さんはおとりの役回りだったから、もし共和国政府に捕まって尋問を受けたら脳指紋走査機BFスキャナで調べられる可能性もあったわけでしょ。そこで、『〝水汲み作戦〟で運ばれた〈スキップジャック〉はモノポールを消し去るための装置だぁー』とか『宇宙に飛び出した後は何も残らないぃ』とか白状されたら計画丸つぶれじゃないですか。だから、『陽子崩壊反応装置だ』っていう事だけ脳内に入力インプットしてですね——」
 「だ・か・ら——」
 頭に来た!
 「——アタシを勝手におとり役にしたのは、アンタでしょ‼」
 「あれー。怒らないって言ったのにぃ」
 悪びれる様子も無く、どちらかというとアタシを咎めるような言い方で、また、唇を尖らせる。
 「私は〈レッド・ランタン〉勤務だから自由に動けないんですよ。どうしても引っ掻き回すおとり役は恭子さんにやってもらわないと駄目なんです」
 「それでアンタは座ったまま遠隔操作で指図してたってわけ?」
 「それが仕事ですから」
 言い切っちゃってるし。
 「これでも大変なんですよ。色々と……」
 「ふーん。例えば?」
 「例えば——、そうですねぇ。〈収水〉で写されたレーダー画像を、消した痕跡が微かに残るように消去したり——」
 「面倒くさそうな作業ね……」
 「GPSのサーバにハッキングかけたりとか——」
 「はぁ。自演乙って話ね。——なるほど、分かったわ。そういう腹黒い謀略はアンタにしかできないわね」
 「あ。何か、すごーくイヤミに聞こえるんですけどぉ」
 実際、イヤミが9割なんだけどね。
 
 「で——」
 今となってはどうでもいい事だけど、興味があったので聞いてみた。
 「——共和国側の〝遺跡〟強奪の首謀者って誰だったの?」
 「ああ。グラシアGracia大佐ですよ」
 「……誰? それ?」
 「えーっと、あの体がとても大きな……。〈箱船〉に後から乗り込んで来た……」
 「ええっ‼ あの巨漢筋肉男⁈」
 「そうです」
 吹き出しそうだった。名前から女性だと想像してた。
 「何で分かったの?」
 「直接聞いたんですよ」
 「そんな——。答えるわけ無いでしょ……」
 「尋問されたんです」
 「どうやって尋問したの?」
 「いえ。尋問された﹅﹅﹅んです。尋問したんじゃなくて」
 「それは——どういう意味?」
 「管制室にソフィアさんと一緒にグラシア大佐も来たんですよ。12浮遊基地フロート・ベースの擬装位置情報を元に戻した時に」
 「ええっ! 作戦がバレたの⁉」
 「いえ……。私も最初はそう思って血の気が引いたんですけど——」
 「アンタでも血の気が引くことがあるのね」
 「えー。酷いなぁ。私のことを血も涙も無い、冷血美少女みたいに言ってぇ……」
 『うん。そう思ってる』
 ——と言いたいトコだったけど、グッと我慢した。っていうか、この期に及んで自分のことを〝美少女〟とか言ってるし。確かに見た目はそうだけどねぇ。
 ちなみに、ソフィア——ソフィアСо́фьяヴォルドリンВолдоринは今回の件の最重要監視人物のひとり。共和国エネルギー管理委員会——略称RERCのエネルギー開発推進官Senior Officer for Energy Development Programだ。彼女が金星の遺跡の欠片を〝遺跡の欠片として〟認識したところから、この騒動は始まったと言っていい。金星に駐留する各国の部隊を巻き込んで、金星中の地表を捜索させたのも彼女だ。
 「——でも、『そう思って』と言うことは、そうじゃ無かったってことでしょ?」
 「ピンポン! 当ったり」
 ムカつく奴。仕事中のカマトト振りを見せられているから、余計にムカつく。
 「で? ソフィアに尋問されて何で分かったの?」
 「ソフィアさんに尋問されたのは上沢小尉です。私が尋問されたのはグラシア大佐です」
 「ふぅーん。で?」
 「大佐はですねぇ、『遺跡の場所に気付いたのか?』——と聞いてきたんですよ」
 「そこ。声色真似しなくていい。似てないから」
 「でも、それって変なんですよ。ほら、あの時点では、共和国政府の自立歩行探査機ドローンのGPS情報は暗号化されSECRETになっていて、グラシア大佐率いる駐在部隊はおろか、RERCの司令部 ——ソフィアさん達も知らなかったんじゃないかなぁ?」
 「へぇー。ってことは、『GPS情報がSECRETだった』——とか言う話はアンタの創作じゃないのね?」
 「あ。また酷いこと言ってる。私はそんな嘘つきじゃありません。それにその、ぶりっ子な声真似も似てませんから」
 自分のことを嘘つきじゃないっていう人が一番の嘘つきでしょ。まったく。でも、みのりの場合、嘘をつくのが仕事だからね。しょうがないか……。
 「ハイハイ、わかったから。んー、でも変ねぇ?」
 「何がですか?」
 「GPS情報の暗号化がアンタの仕業じゃないとしたら、誰の仕業なの?」
 「自立歩行探査機ドローンを提供したソフィアさん達です」
 「でもおかしいじゃない? ソフィア達がGPS情報を暗号化したのなら、さっさと解読デコードして読み出せばいいじゃない」
 「読み出しましたよ。場所はセレス・コロナCeres Corona周辺。でも、そこには〝遺跡〟は無かったんです」
 「えっ? その場所は——」
 「はい。地表降下部隊アタッカーズ表向きの﹅﹅﹅﹅降下目標ポイントです。ソフィアさん達が秘密裏に散々探した場所に降下しようという計画でしたから、ソフィアさん——それはそれは、とっても怖い顔して作戦会議ブリーフィングに出て来てましたよ」
 その話をニッコリしながら話すアンタの方が怖いわっ!
 「それで南緯20度帯20 Degree Southのロシア隊が出張でばって来てたわけね? でも、なんでそこに〝遺跡〟は無かったわけ?」
 「グラシア大佐率いる北緯30度帯30 Degrees Northの駐在部隊が、自立歩行探査機ドローンの暗号化されたGPS情報に、さらに疑似情報を付加したんですよ」
 「暗号を解こうとせずに、別な暗号を付加したってこと?」
 「まあそういうことですね。司令部のソフィアさん達は〝遺跡〟の位置が特定出来たら、自分達だけでコッソリ採掘にいくつもりでしょ? 汗だくで働いた各地の駐在部隊には、その情報を教えず、多分、見返りも無いわけです。そりゃ、グラシア大佐もいい気はしませんよね?」
 「それは——そう、そうよね」
 アタシはアンタに散々振り回されて、同じ気分を味わっているんだけど。ちょっとばかり、あの大男に同情するわ。
 「——でですね。グラシア大佐はその大事なお宝を奪い取ってやろうと考えたわけです」
 「どうやって?」
 「暗号化された位置情報に更に細工をして、間違った場所を掘らせるんですよ。そして、間違った場所から正しい場所を導きだす——」
 「どういうこと?」
 「座標変換ですよ。GPSの暗号化でA地点はB地点と変換される。ソフィアさん達は暗号を解読出来るから、B地点と聞けば『A地点が正しい場所』と答えを出せる。だから、B地点と出た情報に予め(B+1)地点と偽った情報を付加するんです。すると、ソフィアさん達は『(A+1)地点が正しい場所』と答えを出す。でも当然そこに〝遺跡〟は無い。グラシア大佐達はソフィアさん達が(A+1)地点を掘り始めたことを確認して、『正しい場所はA地点だ』と突き止めたんです」
 「ややこしい話ね。——で、アンタはそのことに言及したと?」
 「はい。〝遺跡〟の正確な位置と、『自立歩行探査機ドローンに探査ウイルスを仕込んだのは私だから、何でもお見通しよ』って」
 この子、本当に楽しそうに言うわね。
 「でも、自立歩行探査機ドローンの操作を乗っ取られる間際に、よくそんなウイルスを仕込めたわね……」
 「ああ。あれは嘘です」
 「はぁ?」
 この子……本当に楽しそうに嘘を言うわね(怒)。
 「自立歩行探査機ドローンの提供が各部隊に始まった段階で、サッサと解析して暗号形態も解読してました。金星各地に散った自立歩行探査機ドローンの作業内容は、ソフィアさんより私の方が把握してたと思いますよ。ちなみに、私が操作した自立歩行探査機ドローンを乗っ取ったのはソフィアさん達司令部の仕事で、その後の回収作業はグラシア大佐率いる駐在部隊の仕事です。司令部は位置情報だけ手に入れたら、その後の尻拭いは全部、現地の駐在部隊に任せちゃってるんです。そりゃ、怒りたくなりますよね」
 ——アンタが言うな、アンタが!
 「でも、私のこの交渉術で、強硬手段は回避されたんですよ。グラシア大佐にIDを白状さ——いや、教えてもらって、〈箱船〉に我々地表降下部隊アタッカーズ支援のため﹅﹅﹅﹅﹅向かうって情報を出したんです。上沢小尉が図書館にやってきたのは想定外で、ちょっと危なかったですけど、結果オーライだったでしょ?」
 『交渉術? 脅迫じゃないの?』と思わずイヤミのひとつも喋りそうになったけど、結果的にみればそういうことになる。
 もともと今回の作戦は、完成間際だった〈箱船〉の強奪作戦だった。国連本部から最初に出された勧告リコメンドは確かにそうなっていて、作戦の実務を担当することになった長田大尉は、そのつもりでメンバーを構成している。単に〈箱船〉を破壊するだけなら簡単なことなんだけど、完全消滅が必要。さらに消滅の事実を、〝遺跡を〟奪おうとした双方の陣営——いや、今後参入するかも知れないあらゆる組織に対して『もはや〝遺跡〟はどこにもない』と最初から諦めさせなければならない。ホント……面倒くさい仕事よね。
 「結果オーライだったからいいけど、そのタイミングで強奪作戦の中止は難しかったんじゃない? 〈レッド・ランタン〉から通信したら、私たちの作戦がソフィア達にバレちゃうし……。第一、電波が届かない位置だったでしょ」
 「はい——って言うか、中止命令を出したのは恭子さんですよ」
 「アタシが? いつ?」
 「浮遊基地フロート・ベースに降りた時に……」
 「あ? あれがそうなの?」
 「はい。私からのお願いでした♡」
 「ええっ⁈」

 
 思い出した。浮遊基地フロート・ベースに着陸し、アタシが〈マンタ・レイ〉の貨物室カーゴルームから降りようとした時、〈ニアリーイコール〉で使う暗号電文がスレート端末に届いた。『どうやって、こんなとこまで命令書が届くの?』と思ったものだが、同乗してたみのりからのものだったんだ。いいようにこき使われてるなぁ——アタシ。
 確かに浮遊基地フロート・ベースのパラボラアンテナから暗号文を出せば、他の浮遊基地フロート・ベース経由で地表の何処へでもピンポイントで通信できるし、出力も大きい。通常なら、それらの通信は無条件で〈レッド・ランタン〉を始め、上空の浮遊都市にも送信されるのだけれど、それをカットできる裏通信モードのパッチも含まれていた。その時は疑問に思わなかったけど、今から考えれば、そんな事出来るのは、確かにみのりくらいしかいない。
 アタシはその電文を、みのりが作ったものとは気付かないまま指示に従い、浮遊基地フロート・ベースの補助通信室に潜り込んで送信した。受け取り先は分からなかったけど、長田大尉宛だったんだろう。
 「え? それって、もしかして、国連本部からの修正勧告エディット・リコメンドをアタシが出したってこと?」
 「えーっと、そういうことになるかなーって思——ううっ」
 アタシはみのりの首を絞めた。
 「アンタは、そういう重要な決定事項をアタシにやらせて、失敗したら、『私は止めたのに恭子さんが勝手に——』とか言って逃げる気だったでしょ‼」
 「そ——そんなことするわけがないじゃ、うう、無いですかぁ」
 みのりなら、得意の護身術でアタシの首締めなんて直ぐに外せる。現にアタシの掌の中に指を挟み込んで血流が止まらないようにしながら、首を絞められて苦しんでいる〝か弱き乙女のフリ〟をしている。手を離すとケホケホと咳き込むフリ。
 
 ああぁぁーー、腹が立つ。
 
 「ちゃんと理由があるんですよぉ。中止命令は浮遊基地フロート・ベース地表降下部隊アタッカーズには伝えられるけど、浮遊基地フロート・ベース内には伝えられないんです」
 「アンタが直接伝えればいいじゃない」
 「そんなことしたら、姫島軍曹に私達の正体がバレちゃうじゃないですかぁ!」
 「…………」
 ——それは確かにそうだった。
 「だからですねぇ。姫島さん達にとっては、修正勧告エディット・リコメンドによって取り消されるまでは最初の勧告リコメンドが——長田大尉の命令が生きているんです。その中にわざわざ飛び込んで行ったらどうなると思います?」
 「拘束されるか、運が悪ければ……」
 「でしょ、でしょ。だから私は、強奪作戦中止の修正勧告エディット・リコメンドを恭子さんに任せて、より危険な任務の方を買って出たんですよ。それなのに恭子さんは——」
 「そこ。泣きマネしない」
 「——あれ? バレちゃいました?」
 はあぁ。怒りを通り越して、笑いが出てくる。こうやって相手の心のやいばを曇らせるのもこの子の常套手段なんだけどねぇ。
 「ハイハイ。——って言うことは、あの未確認機アンノーンはアンタが飛ばしてたってわけね」
 「〈マンタ・レイ〉中で自律飛行経路を算定してました。恭子さんの修正勧告エディット・リコメンド送信をトリガーにして発進するようにしておいたんです」
 「ふーん」
 
 結果的には、みのりの策謀がまんまと当たり、地表降下部隊アタッカーズによる強奪作戦は中止されて、グラシア大佐率いる駐在部隊への支援作戦——見かけ上は——に切り替わり、私達は、姫島軍曹が未確認機アンノーンの処理が最優先と判断したために開放されたわけで……。
 確かに無血でこの難局を乗り切ったんだから、あんまり怒るわけにもいかない——か。
 「——ということは、あのミサイルを避けた操作も、アンタの仕業?」
 「そうです。巧いでしょ!」
 この子は遠隔操作は何でも巧いのよねぇ。彗星に偽装した〈スキップジャック〉降下時の、ビッグ・ハンド回避操作なんて神業だったし。でもね——。
 「ふふーん。でも、着地には失敗したようだけどね」
 「えっ⁉ あれはワザとですっ!」
 「へぇー。そうは見えなかったけど?」
 「えーっと……風を読み切れませんでした」
 「やっぱり」
 ヘンなところで、見栄を張る子ね。
 だけど、〈マンタ・レイ〉みたいな飛行船ならともかく、気流が乱れた90気圧大気中の崖越えで、通常の輸送機を無事着陸させるのは誰でも至難の業。逆噴射装置も衝撃緩衝袋体SABAも無しで〈ブラック・タートル〉を着陸させた上沢少尉の方が異常なのよね。
 「でもですねぇ、あの未確認機アンノーンのお陰で、私たちは無事に〈箱船〉に辿り着けたんですから」
 「無事——とは言い難いけど」
 「いいえ。〝無事に〟です」
 「グラシア大佐の乗るRERC機からミサイル攻撃を受けてても?」
 「ええ。グラシア大佐が私たちの〈ブラック・タートル〉を攻撃したのは、先行する未確認機アンノーンを攻撃した私たちを、司令部側のスパイか何かと思ったからです」
 「それなら尚更、アンタが遠隔操作する未確認機アンノーンの所為で、私たちは危険な目にあったんじゃないの?」
 「えーっと、じゃあ、反対に考えて下さい」
 「反対に?」
 「もしも、未確認機アンノーンが無くて、最初にグラシア大佐のRERC機が浮遊基地フロート・ベース脇を通過したとしたらどうなります?」
 「——未確認機アンノーンの時と同じように、姫島さん達を乗せて〈ブラック・タートル〉で追撃に行くことになるでしょうね」
 「その時、姫島さん達が同じように、放射霧の中のRERC機を攻撃したら?」
 「RERC機は回避しきれないかも……」
 「例え一撃目を回避したとしても、当然、反撃してくるでしょう。双方で撃ち合いになるのは避けられません」
 「それは、先行する未確認機アンノーンがいてもいなくても同じじゃないの?」
 「姫島軍曹は後続のRERC機を攻撃してません。飛んで来たミサイルを回避するため、フレアとチャフをバラまいただけです」
 「あ——」
 確かにそうだった。あの好戦的とも思える人が、防衛に徹していて反撃していない。
 「——どういうこと?」
 「先行する未確認機アンノーンへのミサイル攻撃は、〈箱船〉にいた地表降下部隊アタッカーズにも察知され、長田大尉もそこで気付いたんですよ。姫島さん達に修正勧告エディット・リコメンドによる作戦変更が伝わっていないって言うことが」
 「それを伝えたのが、あの暗号電文ね」
 「そうです。だから、ミサイルを回避した後、『我々は敵ではない』ことを、後続のグラシア大佐たちに伝えることが出来たんです。もしも、未確認機アンノーンがいなくて、姫島さん達がRERC機と交戦を開始したのが先だったら、姫島さん達に修正勧告エディット・リコメンドが届く前に、どちらかが——下手をすると双方が被弾していたと思います」
 「そう——かもね」
 「そうなんです」
 そう言われてみればそんな気もするけど、何か騙されている気がする。
 「ただまあ、本当のことを言うとですねぇ——」
 「なに?」
 「——グラシア大佐のRERC機がくるのが、予定時刻よりちょっと早過ぎたんですよねぇ。思わず『もう来ちゃったんですかぁ』って言いそうになっちゃいました」
 「予定時刻って、アンタが呼んだの?」
 「もともと、グラシア大佐たちは〈箱船〉の試運転時にはやってくる予定だったんです。それに合わせての強奪作戦でしたから。ほら、『遺跡を奪おうとした双方の陣営』に、遺跡は完全に消えてしまったということを示さないと、今回の作戦は終わったことにならないでしょ?」
 「ははぁ。じゃあ、もう一方の陣営——ソフィア達司令部側を呼び寄せたのはアンタの仕業ね?」
 「何のことです?」
 「私たちの乗った〈マンタ・レイ〉に発信器を取り付けたでしょう? それでソフィア達に位置情報を伝えた……」
 「そんなことしてませんよ。あれは谷上中尉が付けたんですよ」
 「谷上中尉って副官の人ね。へぇー、そうなんだ」
 「そうです」
 「——じゃあ、質問を変えるわ。谷上中尉に『謀反を起こした﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅地表降下部隊アタッカーズに合流するため〈マンタ・レイ〉二番機を強奪する計画があります』とか言って、発信器を取り付けさせたでしょう?」
 「そんなことして——」
 「通信記録見る?」
 「——しました」
 息するように嘘をつくな! それに、仲間を騙してどうするのよ。
 「それが元で、最後は死にそうな目に会ったじゃないのよ‼」
 「てへっ♡」
 「『てへっ♡』じゃないわよ。アンタはさっさと『私は人質だったんですぅ』見たいな感じで〈箱船〉から逃げ出しちゃうし……。ホント——自分の逃げ道は、抜け目無く確実に確保するのね」
 「でも、その後の長田大尉と谷上中尉の誤解を解いたのも私なんですよ。大変だったんですから」
 「それは自業自得っていうものよ」

 
 「ところで——」
 アタシは作戦の初期から気になっていたことを聞いてみることにした。
 「——今回の件で、上沢小尉を巻き込む必要はあったの? アタシが研究者として地表降下部隊アタッカーズに参加すれば、それで事足りるじゃない。あるいは、最初から長田大尉に全部任せちゃっても良かったんじゃないの?」
 「それはですねぇ。どちらにも属さない中立的ニュートラルな人物が必要だったんですよ」
 「中立的ニュートラル? 上沢小尉は北緯30度帯30 Degrees North所属でしょ?」
 「上沢少尉は今回、初の金星勤務なので、金星の共和国政府と何のしがらみもありません」
 「それを言うなら湊川少尉も同じでしょ? 3ヶ月前から勤務しているとは言え、身辺を洗った結果では共和国政府とは特段の接点は無かったようだし……」
 「実際に接点が有ったか無かったかじゃないんです。そう見られる可能性があることが問題なんですよ」
 「そんなもんなの?」
 「はい。仮に——、仮にですよ。今回の件が何らかの形で公になった時、裁判で中立的ニュートラルな立場で証言してくれる人が必要なんです。上沢小尉は共和国政府、RERC司令部、その駐在部隊、そして、ある意味、北緯30度帯30 Degrees North所属の我が隊にとっても〝部外者〟足り得るんですよ。もちろん、〈ニアリーイコール〉との接点も全くありません」
 「え? じゃあ、彼は裁判対策なわけ?」
 「そこまで言うと言い過ぎなんですけど——、要するに、どの陣営から見ても〝抱き込めない人物〟が必要なんです。損得で動かない人物って言うか、説得や買収が面倒くさそうで、そういうことをすると、買収工作が全部外にバレちゃいそうな人物が……」
 「それって——」
 アタシは深く溜息を付いた。
 「——単に馬鹿正直ってことじゃない」
 みのりはにっこり笑ってこう言った。
 「えーっと、一言で言えばそういうことになりますねぇ」
 「……分かったわ。アンタの腹黒さは底なしだわ。心底、彼に同情するわね……」
 「愛情じゃないんですか?」
 「何馬鹿なこと言ってんのよ‼」
 「あれー? 違うんですか? 上沢小尉とは息ピッタリって言うか、よくハモッてたじゃないですか。そっか、行動心理学のミラーリング効果ですね。そういう手口で接してたんですね」
 「いや——、アンタとは違うから」
 ——わ、話題を変えた方がいいかしら?
 
 「そっ、それにしても——」
 「それにしても?」
 「——〝遺跡〟が完全消滅しちゃったのは勿体なかったわね。ちゃんと管理できるなら、人類の宝になった筈なのに……」
 「それは大丈夫です」
 「何が——大丈夫なの?」
 「今回の作戦は、『遺跡の完全消滅』が目的じゃありません。『遺跡の完全消滅』を関係者全員に知らしめること﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅が目的です」
 「同じことなんじゃないの?」
 「厳密には違います。要は、信じ込ませれば﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅いいんですよ」
 そういって、みのりは首から下げていたペンダントをヒョイっと持ち上げた。金色の、多分黄鉄鉱の塊らしき——えっ?
 「それは、もしかして……遺跡の欠片⁉」
 「えへっ♡」
 そこで笑顔はいらない。
 「どこから持って来たのよ」
 「予備降下プレ・アタックで切り取った遺跡から抽出しました。モノポールの格子間吸蔵率が90%を超える逸品ですっ!」
 「それってRERCの駐在部隊に、自立歩行探査機ドローンもろとも回収されたんじゃないの?」
 「自立歩行探査機ドローンは回収されましたけど、その前に切り取ったのは私です」
 制御系を乗っ取られて勝手に自立歩行探査機ドローンが動き出したって言うのは——嘘?
 「また——自作自演をしたってわけね」
 「仕事ですから」
 そこも笑顔はいらない。
 「いーや、違う。それは仕事に入ってない。その遺跡の欠片がまた争いを生むわよ」
 「大丈夫です。このことは私と恭子さんしか知りません。それに——」
 「それに?」
 「恭子さんが〈箱船〉から回収した、改造ncノンコーディングRNA遺伝子を持つ磁性細菌Desulfovibrio Magneticusを活用しないと、モノポールは有効に取り出せません。で、ですねぇ——」
 「何?」
 「——私と手を組みませんか? 個人的に」
 背筋が凍った。みのりは笑顔のままだけど、策謀家の目になってる。背中から悪魔のような闘気オーラが見える。これがこの子の本性なんだ。
 「い——、いいえ——、え、遠慮しておくわ」
 「そうですか。それは残念ですぅ」
 闘気オーラは一瞬で消え去った。
 「分かってもらえて、う、嬉しいわ」
 「手を組みたくなったらいつでも言って下さいね。それと——」
 「それと?」
 「——このことは2人の秘密ですよ♡」
 
 これから3ヶ月間の冷凍睡眠コールド・スリープの後、アタシは再び起きられるのだろうか?

 
   あ と が き
 
 最後まで読んで頂いた方、誠にありがとうございます。本作が二作目になります。
 前作の場合、物語のアイデアから執筆までの期間が数年かかっているのに対し、本作は数ヶ月しかかかっていません。もっとも、前作は途中放り投げていただけで、深く推敲していたわけじゃない——ということで、まあ、期間を比べてもしょうがありません。
 でも、結局は書き終えるまでに2年ほどかかっちゃってますから、遅筆であることは同じですね。まあ、趣味で書いているのだし、それはそれでいいんじゃないでしょうか?
 
 さて、今回の物語を書いていて気付いたんですが、物語って、『創作する』ものだと普通思うじゃないですか。でもですねぇ、書いていると、これは『思い出す』ものなんだなと感じました。無いものを作り出すって感覚ではなくて、あった事の詳細を思い出すって感覚。『あれ~、ここはどういう経緯だったっけ?』と一生懸命思い出そうとして、やっと思い出すという感覚です。
 思うに、スケッチに似ています。下書きの線はいい加減で、輪郭のみなんですが、ディテールは段々と出来上がってくるという……。彫刻でもそうですかね。彫刻したことはありませんけど。
 
 今回は特に調べものが多くてとても疲れました。科学考証が有り過ぎです。小説とか読んでいるだけなら気付かなかったのですが、実際書いてみると、『ファンタジー』や『魔法もの』とかは、アイデア次第で、好きなように設定すれば良いので、数ヶ月で単行本一冊とか書けるのも分かります。アイデアを出すまでが大変なんですがね。
 誰かをディスっているわけではなくて、ジャンルによっては大量に書けるジャンルもあれば、中々先に進めないジャンルがあるということです。ページ数だけで、速筆だとか遅筆だとか決められては、作家さんはたまらんなぁと言うことが分かってきました。
 
 で、物語の内容については、本文を見て頂くとして、特に「あとがき」で解説は致しませんが、一言だけ言わせて頂ければ——
 
 「みのりちゃーーーーーーーん‼」
 
 でしょうかね(汗)。
 
 ……で、次は何を書こうかと——いや、書くと決まったわけじゃないですけど——考えるに、科学考証を考えすぎなくていい話を書きたいです(ちょっとだけ疲れている)。実は、「時間旅行ネタ」のヤツを3分の1ほど既に書いてはいるのですが……。そう言えば、前作の続きも頭の中にはありますが、まだまだ、山のものとも海のものとも……。
 そういうわけで、今まで通り、テキトーにやります。コメントとか感想とか頂ければ嬉しいです。

 それから、最後になりましたが、今回、どうしても表紙絵が欲しくて、ツイートで知り合った〝あるめい〟さん(http://www.pixiv.net/member.php?id=368617)に無理をお願いして描いて頂きました。とても躍動感ある構図で気に入ってます。また、中の挿絵も〝あるめい〟さんに描いて頂きました。忙しい中本当にありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。

 さて、ではまた、次がありましたら……。

ヴィーナス・アタッカーズ

2014年11月24日 発行 初版

著  者:悪紫苑
挿  絵:あるめい
発  行:AXION物理学研究所

bb_B_00127334
bcck: http://bccks.jp/bcck/00127334/info
user: http://bccks.jp/user/112383
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

作:悪紫苑

単なる物理好き。「なるほど、わからん」と言ってもらえると、うp主は喜びます。Twitter: https://twitter.com/AXION_CAVOK



絵:あるめい

普段は名作劇場のようなかわいい雰囲気の絵を描いています。今回は初SFモノ。
Pixiv: http://www.pixiv.net/member.php?id=368617

jacket