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私が小中学を過ごしたシンガポール日本人学校の音楽の授業では、どの学年も「マレーソング」という副読本を使っていました。覚えやすいメロディと、マレー語のリズミカルな響きで、小学生でもすぐにマレーソングを覚えたものです。高学年になって歌詞の意味もわかるようになると、曲ごとにつけられた辞書が役立ちました。いまでもマレー語で挨拶や買い物ができるのは、マレーソングのおかげでしょう。
私たちが中学を卒業して30年が経ちました。同期の友人に会うと、時にマレーソングの話題になります。『ゲィ ラン』や『チャン マリ チャン』あたりは、皆いまでも歌えるようです。でも、肝心の「マレーソング」の本が見当たらない、という人が少なくありません。当たり前のように持っていた本なのに、実家に帰ってももはや出てこないだろう、と。現在の日本人学校ではマレーソングが歌われることはないようで、最近の卒業生はこの本の存在すら知りませんでした。
「マレーソング」で東南アジアのメロディに触れた私たちの世代が、この本を残してゆかなければならない、という思いを強く持つようになりました。そう考えると、「マレーソング」がどのように作られたのか、がぜん興味が湧いてきたのです。
手元に持っている一冊から、採譜者にクレジットされている玉利先生を見つけ、連絡をとってみました。そして、鹿児島でお会いして、この本が作られた経緯を伺うことができたのです。貴重な経験談を共有し、玉利先生をはじめとする当時の日本人学校の先生方の思いを伝えることができれば、と考えてこの冊子を企画しました。
二〇一五年一月 桟 卓哉
———赴任された頃の日本人学校の様子を教えてください。
私が赴任したのは31歳からの三年間です。ウェストコースト時代の日本人学校で、赴任した当初は小中合わせた児童・生徒数が三百人。それが在籍中に六百人までになりました。教員は外務省から派遣されていて、市中では大使館料金で食事ができたような時代です。
私は担任をもつとともに、小一から中学までの音楽を担当していました。中学生の中にはビートルズに夢中でバンドを組んでいる子たちもいて、新しく日本から来た音楽の先生を試そうとしていたんでしょうね。初めは斜に構えていましたが、最初の授業でビートルズをジャズ風にアレンジして弾いて聴かせたら、一気に打ち解けてきましたよ。
日本人学校では、近くのマレー人の子供たちを運動会などの行事に招待していました。ここで生まれた交流から、全校朝会でマレーソングを紹介したり、マレーカンポンに訪問するようになったのです。全校朝会は忘れられない思い出ですね。毎週一曲マレーソングを紹介しながら、
「歌は友達になれるよ」
と子供たちに教えていました。
———マレーソングはどのように採譜されたのですか。
学校行事に子供たちを招待したのが縁で、近所のマレーカンポンを訪問するようになりました。週に一回は遊びに行っていたでしょう。言葉はほとんど通じませんが、子供たちは面白がって近寄ってきてくれました。
そこで、まず私が日本語で歌を歌うのです。坂本九や美空ひばりの歌を口ずさんだ後、手真似であなたの歌を、と促すと今度は子供たちが誇らしげに歌ってくれました。それを採譜していったのです。家に持ち帰った録音を聞きながら、英語-マレー語、英語-インドネシア語の辞書をひきひき、歌詞の言葉を一語ずつ探っていきました。「マレーソング」に一曲ずつ単語集をつけていますが、こうやって調べた言葉を挙げたものなのです。
マレー半島を家族旅行した時には向こうでも同じ手法で採譜しましたし、日本人学校の日高先生から話を聞いて、野呂先生・岩城先生と私の三人でスマトラ島まで採譜旅行にも行きました。昔は首狩り族と呼ばれていたバタック族の村にも行きました。シンガポールでさんざん脅されていたので恐るおそる訪問しましたが、『シン シン ソ』(p.122)は高床式の三角屋根が並ぶ村で、現地のコーラスグループが歌ってくれたものなのです。
『Sayonara』(p.128)のような日本語の言葉がマレーシア、インドネシアの歌に歌われていることには気づいていました。戦時中に日本兵から聞いた言葉が歌になっているのでしょう。マレーシアでは日本人に対する反応は悪いものではありませんでしたが、ジョクジャカルタを訪れた時は厳しい視線にさらされたこともありました。
チャイニーズスクールとの音楽交流会を開くようになり、マレーソングを演奏しました。『ゲイラン』(p.6)や『ブロン カカ トゥア』(p.16)は、その頃のレパートリーです。また、星日文化協会の合唱団「シンガポール ユースクワイア」を始めたところ、メンバーがマレーソングを持ってきてくれるようになりました。『サリナンデ』(p.126)はそんな一曲で、ヴィクトリアホールでの発表会でユースの合唱団が歌いました。
カンポンや地域によって同じ曲でも少しずつ歌われ方が違っています。どれが正しい、ということはありませんが、結局は初めに日本人学校と交流のあったカンポンでの歌い方を採用することが多かったです。
———日本人学校の校歌も玉利先生の作曲になっていますね。
日本人学校の中学生は、修学旅行にマレーシアに行っていました。ある年の修学旅行でKLの日本人学校と交流会があり、先方はKLの校歌を歌って迎えてくれたのに、こちらは別の歌で済ませるしかなく、寂しい思いをしたそうです。
このことからシンガポール日本人学校にも校歌が必要という気運が高まり、やるからには自分たちの手で作ろうということになりました。しかし私には離任が迫っており、公募制になるなら私も候補に入れてほしい、と頼んで日本に帰りました。マレーソングもまだ本にできる前段階で、楽譜や資料を揃えて残られる先生方に託していました。
私はシンガポール国歌の前向きな曲調と、太陽がさんさんと照るシンガポールのイメージを込めて作曲しました。歌詞は十人以上の一般公募作品から選ばれたそうですが、曲も複数の候補があったと聞いています。
複数の候補曲から一曲に絞るために、NHKに選考を依頼したそうです。当時のNHK音楽部長を藤山一郎さんが務めておられたことから、藤山さんが審査され、補筆の末に校歌ができあがりました。それが私の作曲したものだったのです。藤山一郎さんの直筆が加わった楽譜は、我が家の家宝になっています。
校歌を作ろうという発案から、三年が経っていました。当時の松嶋校長は、校歌を作り、「マレーソング」を作られたのです。
———「マレーソング」に込められた思いを教えてください。
マレー語の歌詞に加えて、日本語の詞をつけていますが、これはマレーソングを日本に広めていきたいと考えたからです。日本語で作詞していただいた久保けんお先生は、「南日本民謡曲集」を作られた方で、私に採譜の喜びを教えてくれた恩師でもあります。マレーソングの話をしたところ、こんな素敵な歌詞を作ってくださったのです。
私は子供たちにいつも「歌は友達になれるよ」と伝えています。音楽で協調性や思いやりの心を育くみ、世代を越えた連帯を築いていきたいと考えています。

玉利先生は、現在は鹿児島市内にお住まいです。
楠声会(鹿児島大学男声合唱団フロイデ・コールOB合唱団)に積極的に携わっておられる他、「われは海の子」歌唱コンクールの窓口を務められています。鹿児島の海岸を詠んだこの歌を通じて、子供たちに童謡・唱歌の素晴らしさを伝える活動です。幼児から大人まで、「われは海の子」だけを一日中歌い続けるという実にユニークなコンクールだそうです。
この記事は2014年9月21日、鹿児島市内にて伺った話を元に作成しました。
ヒアリング担当:桟(かけはし) 卓哉
1976年4月 クレメンティ校入学
1985年3月 ウエストコースト中学部卒業
tkake@pf7.so-net.ne.jp
※玉利先生の許可を得て、「マレーソング」全ページを転載しています。
※本冊子発行に伴う損失・不利益に対して、桟 卓哉は改善を以て対処する方針ですが、それ以上の責任は負いかねます。























2015年1月15日 発行 初版
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