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拝啓 お父様

 今日もコルシカ島は快晴です。
 この間、とても美しい女性を見ました。
 あの人はもっと淑やかな方が、と言うけれど
 生命力溢るる姿も素敵だなぁと思うのです。


     目 次 



 第四章 星の降る村  ・・・・・・・・・・・・・ 4



     1


「あの山たくさんのぶろっこりみたいだね。おいしそう!」
「ブロッコリーな。危ないから窓から顔出すなって」
 オンボロの車、すすけた紅色をしたビートルは緩やかに曲がりくねる山道をのんびりと走っていた。ホリゾンブルーを塗り広めたような空に浮かぶ雲の流れもゆったりとしている。昨夜の嵐が嘘のような快晴だ。
 ルカは窓越しに流れる景色を眺めた。レヴィの森に生えていた木とはまた違う、少し背の低い、ずんぐりむっくりとした木々が並んでいる。そんな並木を両脇に、ポルトヴェッキオへ向かう道のような荒々しい道ではなく、きちんと舗装された山道がリボンのように続く。全てはルカが初めて見る景色だった。
「アダムがまさかついて来てくれるなんて」
 助手席に座るルカは独り言のように呟いた。
「思ってなかったって? 嘘だな。俺がついて来たいって、知ってたくせに」
 アダムがにやりと笑う。つられてルカも微笑んだ。
「ねぇ、どうしてアダムは旅をしてたの?」
 前席のヘッドシートの間からひょこりと顔を出してニノンが尋ねる。どうやら助手席はルカ、後部座席はニノンという席順が定着したようだ。アダムは少し考え込んで、そうだなぁ、と首を捻った。
「俺はカルヴィって町でずっと暮らしてたんだけどさ。この島には他にもっと見るべき町や、景色や、人なんかがたくさんいるんだって気付いたんだよ。狭っくるしく生きる人生なんて勿体ないだろ?」
 アダムは道路の上に広がる青空を見上げた。どこを切り取っても絵になる風景は、コルシカ島が《最後の楽園》と呼ばれる所以ゆえんなのだろう。
「意外とロマンチックなんだね」
「『意外』ってなんだよ。こんな素晴らしい車に乗れることを感謝してくれ諸君」
「何か企んでるわけじゃない?」
 お金儲けとか。と、ルカも冗談気味に話題に乗っかる。すぐに否定の言葉が飛んできたが、ルカは自分の読みがあながち間違っていないのではないかと踏んでいる。
「食い逃げ事件の時は悪かったって。正直言うが、俺はあの時胸を打たれたんだぜ。ルカ、お前の腕は本物だよ。素直にすげぇって思った。まるで魔法みたいだったんだよ」
 アダムは興奮気味にまくし立てた。ボードレールのポスターの修復作業を見ていた人は皆一様に「魔法だ」もしくは「奇術だ」と思ったことだろう。それほどに修復とは物珍しく、人目に触れる機会が少ないのである。
「修復は魔法なんかじゃないよ。化学的根拠と綿密なる調査に基づいて行われるから、むしろ真逆の存在だと思う」
 少しでも手間を省いたり作業を怠れば、完成度にまともに響くのが修復作業の実態だ。裏を返せば修復家によって出来栄えががらりと変わるということだ。リスクを負ってまでオリジナルの絵画を修復する物好きなど、今の世の中にはそう多くはいない。
 ふぅん、とアダムは聞いているのかいないのか、よく分からない相づちを打った。
「でもやっぱ凄ぇよ。なんつーか、ワクワクしたんだよな。俺もまた絵描いてみようかなって気になったし」
「え! アダムって画家だったの」
 アダムの発言に、ニノンは驚き目をまるくした。途端にビートルが揺れる。ハンドルを握るアダムの手に力が込められている。その顔は恥ずかしさからか火照ったように朱色に染まっていた。
「な、何だよ。笑うなって。別に修道士に不満があるわけじゃないぞ。画家はただの夢だよ、夢」
「修道士!」
 と、二ノンは叫んで次こそ笑い声を上げた。
「おい! ニノン、てめぇは笑いすぎだ」
 修道士のイメージはと問われればおそらく皆一様に、穏やかで物腰が柔らかく、俗にまみれていない、落ち着きのある人物像を思い浮かべることだろう。間違っても暴言など吐かず、ましてや食い逃げなど企てるはずもない。二ノンはひぃひぃと喉に何かがつっかえたように息継ぎをした。
「二ノンの反応は普通だと思うよ」
 ルカの口から思わず含み笑いが漏れた。「ルカ!」とアダムの悲痛な叫び声が飛ぶ。断髪していない髪の毛、町中の女性を口説き倒す様はもはやただのチャラついた若者である。
 運転手の心情が影響してか、ビートルの揺れはいっそう激しくなった。ルカは思わず頭上の手すりにすがりつく。
「でも画家って夢、素敵だね。いつか絵を見せてよ」
「笑うやつらには絶対見せねぇ」
「笑ってないよ! 夢があるのは素敵なことだもん」
「……いつかな」
 そう言ってアダムはぷいっとそっぽを向いてしまった。しかし、その声色に照れが含まれていることを、二ノンはちゃんと分かっていた。
 そんなやり取りを微笑ましく眺めながら、ルカは膝に乗せられた自身の右手に目線を落とす。薬指にはめられた指輪が鈍く光った。それは夢を語るアダムの瞳に垣間見えたような輝きだった。


――時は二時間前にさかのぼる。

「ん……、うんん」
「父さん、大丈夫?」
 程なくして光太郎はベッドの上で目を覚ました。丁度ルカの指にはまっている指輪と、二ノンの持つ首飾りに掘られた模様が同じだということが判明した時だった。
「ルカ、おはよう。今日も早いじゃないか。……ところでこちらの方々は?」
 ルカはどこから話せば良いのかしばらく思案したのち、順序立てて話し始めた。ベニスの仮面にさらわれたマリーを救出したこと、工房の地下室のこと、扉につけられていた謎の機械、そしてその地下室に保管されていた損傷の激しい絵画が盗まれたこと――色んなことが一夜に起きすぎて、話している当の本人でさえ混乱しそうなほどだった。
「あの絵画は一体何? それからこの指輪――そうだ、父さん。指輪と同じ紋章がこの首飾りの裏に」
 二ノンは首から外したペンダントを光太郎に手渡した。その紋章を見て光太郎が息をのんだ。驚きに瞳を見開き、じっとラピスラズリを見つめたまま微動だにしない。
「父さん、これは」
「ああ。僕も実際見るのは初めてだ。ルカ、約束は覚えているね」
 ルカは静かに頷いた。それ以上の説明はなかった。ルカも深くは言及しなかった。光太郎が自ら口を開かないということは、それ以上の追及は不要であるということを理解していたからだ。アダムとニノンは、親子のやり取りの意味を聞けないまま二人をじっと見守っていた。
 『約束』について深く語らぬまま、光太郎はベッド脇のサイドボードの引き出しを開けた。ノートブック数冊と長さの違う鉛筆二本、それから何かのおまけで付いてきたようなチープな造りのくまのクリップ、大昔の書類などなど無造作に突っ込まれていたガラクタをサイドボードの上にぶちまける。中身がきれいさっぱり無くなった引き出しに残ったのは、端からはみ出た紐だけだった。その紐を引っ張れば底板が外れ、中から古びた手紙が姿を現した。きなり色をしたその手紙はところどころを虫に食われているようだった。
「大事な話をしよう」
 ベッドに戻り、光太郎は手元の手紙が破れないように丁寧な手つきで封を開けた。しわだらけの手紙は二枚。一枚目には文字が、二枚目には地図らしきものが描かれている。
「あの絵画は、四枚繋げてはじめて完成するものなんだ」
 ルカは絵画に残された痛々しい切断跡を思い出した。上部分と左側面がボロボロだったところを見ると、盗まれた絵画は右下のパーツに当たるようだ。
「絵画が隠されている場所はこの地図の通りだよ」

 光太郎は三人によく見えるようにきなり色の地図を広げた。コルシカ島の地図上に四点の●が記されている。それぞれ下部に〈レヴィ〉、左部に〈フィリドーザ〉、中央部に〈コルテ〉、そして上部には〈カルヴィ〉と町の名前が記されていた。まるで海賊たちが持っている宝の地図のようだ。
「仮面の男がどうしてレヴィに絵画の一部があることを知っていたのかは分からない。けれど、情報がどこからか漏れていることは確かだ」
「おじさん、その絵画が盗まれるとまずいの?」
 光太郎の瞳はいつになく真剣味を帯びていた。深く頷き、再び地図に目線を落とした。
「この絵画が善意なき者の手に渡ってしまったら、きっとコルシカ島は滅びてしまう」
 三人は息を呑んだ。空気が滞ってゆく。隠された絵画の四分の一に描かれた少女の微笑みを、ルカは思い出していた。天使のように見える羽織り、やわらかな色合い。とてもじゃないが恐ろしい絵画には見えなかった。全てのパーツが集まったとき、はたしてそこにはどのような絵が描かれているのだろうか。
「そうならないように、人知れず僕たちは世間の目から遠ざけるように厳重に隠してきたんだけどね」
 ため息をついた拍子に傷口が開いたのか、光太郎は右手で下腹部をさすった。
「残りの三枚、集めるよ」
 ルカが呟いた。
「俺も一緒に行っていいよな? ルカにはたっくさんお世話になったことだし」
 アダムはにっかりと笑ってみせた。
「私もルカと一緒に行く。そうしたらきっと、色々と思い出せる気がするの」
 ニノンの首飾りのラピスラズリが窓から差し込む陽射しにあてられて輝いた。ルカと出会ってから度々失くした記憶の夢を見るようになっていたニノンは、確信にも似た思いを抱いていたのだった。
 賑やかな声を聞いて、光太郎はココアに溶けたマシュマロのような笑顔で己の息子を見つめた。もうおぼつかない足取りで自分の周りを歩いていた赤ん坊ではない。すくすくと成長し、今や自らの足で旅立とうとしているのだ。
 光太郎はルカの両手をそっと握った。
「頼むよ、ルカ。あの絵画はコルシカ島の運命を握ってるんだ。って、全て任せてしまって申し訳ないけど」
「うん。大丈夫だよ。父さんは怪我の治療に専念して」
 ありがとう、と光太郎は自分とよく似た真っ黒の髪の毛をくしゃくしゃと撫ぜた。
 たった二人、村の離れの丸太小屋で過ごしてきた。しばしの別れは心寂しいけれど、そんな気配を微塵も見せることなく父親と息子は見つめあった。そこには寂しさを凌駕りょうがする未知なる世界への希望と、大きな使命感が渦巻いていた。
「ベルナールの末裔の少女を護ってあげるんだよ」
「うん。行ってきます、父さん」


     2


 再び路上に小石が目立ち始めた。舗装のされていない道路に差し掛かり十分ほど進んだところで、木製の看板が立てられた村の入り口に到着した。白いペンキで『フィリドーザ』と書かれた看板には、真ちゅうでできた枠とガラスによって作り出される立体的な形の星々が、いくつも連なりあってぶら下がっていた。中に電球が見える。夜になると灯りがともり、看板を照らす役割を果たすのだろう。
 可愛らしい看板のすぐ後ろにもう一つ、簡素な木製看板が大々的に建てられている。
「『星の降る村へようこそ!』……?フィリドーザってそんな村だっけか」
 アダムは聞き覚えのない宣伝文句に首をかしげる。
 すると突然、少女の声が村の方から聞こえてきた。
「いらっしゃいませ、ようこそ星の降る村、フィリドーザへ! 宿は決めてますか? お食事は? 観光案内なんかどうですか?」
「だー、ちょい待てって」
 猛スピードで迫りくる質問の嵐に、アダムが規制をかける。そこにいたのはニノンよりも背の低い、ぱっちりとしたヘーゼルの瞳が特徴的な幼い少女だった。肩より伸びた芯の太い赤毛を耳の下で二つに結わえていて、ボーダーのシャツに、明るいジーンズのオーバーオールという出で立ちをしている。良くも悪くも田舎娘という印象だ。
 その少女は三人を頭のてっぺんからつま先までよくよく観察した後、一番話を聞いてくれそうと判断したのか、ルカの両手を勢いよく握り込んだ。
「お兄さん、名前は?」
「え? あ、ルカです」
「ルカさんね。ここで出会ったのも何かの縁。ってことで、今日はゆっくりこの村で過ごさない?」
 ずい、と少女がルカに顔を寄せた。それを見たニノンの眉間にしわが寄る。
「ええと、ここに泊まる予定は無いんだけど――って、あの」
「私はジルダ! 十二歳、この村に住んでるの。大丈夫大丈夫、宿の手配とか面倒ごとは全部私がやっちゃうから」
「ダメダメ、私たち急いでるんだから。もう、ルカの手を放してよ」
 荒げるニノンの声はジルダには届いていないようだ。手を捕まれたルカは引きずられるようにして村の中へと足を踏み入れた。

 フィリドーザは随分と小さい村だった。レンガ造りの古びた建物はたっぷりと距離を置いて立ち並び、歩いても十五分ほどで全て回れるほどこぢんまりとしている。人通りも少なく、そのくせ先程から『宿屋』と書かれた看板が多くぶら下がっているのが目につく。時折出くわす人々の顔はどれも土気色をしていて活気がない。ずいぶんと寂れた村だなぁ、とルカは思った。
「ねぇルカ、まさか本当に泊まるの?」
 ニノンは声をひそめて尋ねた。困り顔のルカに代わって口を開いたのはアダムだ。
「とりあえず『ゾラさんの家』を探さなきゃいけねぇんだし、このままついていって情報貰うのがいいんじゃねぇの」
 光太郎によると、破れた絵画の二枚目の在り処はフィリドーザに住まう『ゾラ』という男の家だという。それ以上の情報は何もなかったが、非常に小さい村での捜索はそう難しくはなさそうだ。村と名のつく集落は、名前を出されればその人がどこに住んでいるのか、誰もが周知していることが多いのだ。
「今日の宿屋はここね。私の両親が経営してるの。とっても寝心地の良いベッドが売りなんだ」
 到着した宿屋はやはりレンガ造りの小さな二階建ての家で、屋根はジルダの髪と同じ真っ赤な色をしていた。さぁ入って入って、とジルダに促されて三人はしぶしぶと宿のドアをくぐった。
「なんとまぁ、お客さんなんていつぶりだろうねぇ。道に迷われたんですか?」
 質素なカウンターの奥からエプロン姿の女性が顔を出した。ジルダと同じ赤い色の毛を後ろでお団子の形にまとめている。おそらくジルダの母親だろう。その頬はこけていて、やはり土気色をしていた。
「あなた。お客様が来ましたよ。あなた」
 カーテンの奥から流れてくるのはバラエティ番組の司会者の饒舌じょうぜつなトークと、それに時折混じる中年男性の掠れた笑い声。奥の部屋でジルダの父親がテレビを見ているのだろう。
 ジルダはつかつかと足音を鳴らしてカウンターの奥へ近づき、深緑のカーテンを勢いよく開け放った。
「お父さん、お客さん来たんだよ、この村に! 聞こえてるの? どうしてそんなにダラダラしてるの?」
 ジルダの拳は怒りにぶるぶると震えていた。瞳にたまった涙を流すまいと歯をくいしばっているが、涙はみるみるうちにあふれ出ててしまう。それらはぽろぽろとこぼれてジルダの頬を濡らした。
 娘の剣幕に驚くも黙ったままの父親に、ジルダはいっそうその情けない姿を睨みつけて、勢いよく宿屋を飛び出していった。
 ルカ達は顔を見合わせた。そして、呆気にとられている夫婦を見比べて、とりあえずジルダの後を追おう、と頷きあった。

「ぐすっ……」
 そこは村の外れ、一本道の続く通りの脇に置かれた古びたベンチだった。赤い髪の毛をしなびさせ、俯き加減にジルダは腰かけていた。
「ジルダ」
「うっ……ご、ごめんなさい。普段はもっとちゃんとした宿、なんだ、けど。ひっく」
 嗚咽おえつの止まらないジルダの背中を、ルカは優しくさすってやった。
「ジルダは悪くねぇよ。おやっさんもなぁ、これだけ村が寂れてちゃな……」
 アダムは辺りを見渡した。こんなへんぴな村なのに、やたらと同業者が多いのでは、需要と供給のバランスが悪いのは目に見えている。村人に生気がないのも頷ける。
「ここは、本当は、すっごく綺麗な村なの……だけど大人は皆諦めてる……私は、そんなのは嫌だよ」
 すん、と鼻をすする音が聞こえる。泣きはらした目は真っ赤に充血しており、それでも油断すれば涙は溢れるばかり。今まで溜めこんできたものが一気に溢れ出ているようだった。
「私たちでよければお話聞かせて? 悩みごと、たくさんあるんだよね」
 そう言ってニノンが微笑むと、ジルダの目からまたぽろぽろと涙が溢れた。手の甲でそれらを拭って、ジルダは話し始めた。


     3


 その昔、一人の男がこの村に住んでいた。
 男の名前はレナルド・トレミー。しがない画家だった。
 トレミーはフィリドーザをこよなく愛していた。駆け出しの内は、描くものといえば決まって村の風景か、あちこちを走り回る子どもたちだった。やがて彼はとある対象に心惹かれることになる。フィリドーザの星空である。彼は友人にこんな言葉を残している。「この村の星空の、なんと美しいことか」と。
 晩年、彼はフィリドーザの夜空をテーマにした連作を描き始めた。『アルマゲスト』と命名された連作は絵画十枚にものぼり、死ぬ間際まで書き連ねられたという。
 そしてついに天空の画家は、この世で一番美しい風景に出会う。辺境の地、フィリドーザに降り注ぐ数多あまたの星々。まるで宇宙を眺めているような不思議な光景。彼は連作最後の完結作として、また人生最後の作品としてこの神秘的な光景を書き残すことに決めたのだ。タイトルは『星の降る村』――そして最後の一枚が完成し、筆を置いた時、彼は満足したように永い眠りについた。
 それから間もなくして『星の降る村』はたちまち話題となった。この世とは思えない幻想的な景色を一目見ようと多くの観光客が村に押し寄せたのだ。元々収入の少ない家が多かったフィリドーザでは、千載一遇のチャンスを逃すまいと次々に観光客向けの宿屋が開業された。
「そういう訳でこの村には宿屋が多いんだ。おかしい話さねぇ」
「……あの、どちら様です?」
 アダムは目の前に佇む老婆を訝しげに見つめた。両目はぎょろりと飛び出し、肌はシワとシミだらけ。背骨が曲がりきり背中がこぶのように膨らんでいた。その老婆はどこかで拾ってきたような太い木の枝を杖替わりにしており、藤色のオーバーコートを羽織って、春だというのにグレーの冬用マフラーを首に巻いている。ジルダが話を始めたすぐ後に、どこからともなくやってきて勝手に昔話を始めたのである。少し、いやかなり怪しい。
 すっかり泣き止んだジルダはいかにも怪しげな老婆を三人に紹介した。
「南のばぁばだよ。この村いちの物知りなの」
 フィリドーザの一番南に住んでいるから『南のばぁば』。皆がそう呼ぶので、もう誰ひとりとしてこの老婆の名前を知る者はいなかった。
「南のばばぁが言った通りなら、どうしてこの村はこんなに閑散としてるんだ? 村の外から来た人間って今のところ俺たちぐらいしか――いてっ!」
「こりゃ、誰が『ばばぁ』じゃ、失礼な子だね」
 老婆は木の枝でアダムの太もも――本当は頭をぶちたいところだったが、あいにく老婆の身長では太ももが限界だった――をぶった。『ばぁば』は問題ないが『ばばぁ』はご法度らしい。
「確かにこの村の星空は綺麗だけど。でもどうやってもトレミーの描いたような景色を見ることはできなかったの」
 その景色を唯一観た人物はもうこの世にはいない。だからいつ、どこで、どのようにしてその景色を見たのか、一切の情報もなかった。残されたのはたった一枚の絵画だけだった。はじめは足しげくフィリドーザに通っていた観光客も時が経つにつれてまばらとなり、ついには誰一人として訪れることのない、元の寂れた村に戻ってしまったという。
「ふぅん。それって画家が空想の景色を描いてたってことなんじゃねぇの?」
 ばっさりと言い捨てたアダムに、ジルダは少し俯きながら続けた。
「観光客はそう――ううん、この村の皆もそう。ただの空想を本物の景色だと勘違いしたって思ってる。でも……」
 ぎゅう、とジルダは両手を握りこんだ。確かに『星の降る村』は老画家トレミーの夢見た景色だったのかもしれない。だけど、その絵画を一目見てジルダは信じることができたのだ。いつかきっとフィリドーザに星が降り注ぐ日が来るということを。
「私は本物ならいいなって思うよ。だってトレミーさんはその景色を見て感動したから、最後の絵画を描いたんだもんね、南のばぁば?」
 ニノンはふふ、と笑って老婆に視線を送った。飛び出た目玉はあべこべな方向を向いていて、何を見ているのか分からなかった。だがその口元には三日月のような笑みが浮かんでいた。
「そうさね。信じるか信じまいかは人の自由。ばぁばはもうずっとずっと長いこと生きているがねぇ、一つ言えるのは、夢のない人間ほどつまらないものはないってことさ」
 老婆は伸びきってくすんだ人差し指の爪先を、ルカの鼻先に突き出した。
「蒼い目の坊や、お前さんにはどう見える? トレミーは哀れな夢追いの老人だったのかねぇ」
「……」
 ルカにはトレミーが本当の景色を描いたのか、それとも空想の世界を描いたのか見当もつかなかったし、そんなことはさして問題ではなかった。ルカを突き動かすのは、薄汚れ、歴史に埋もれてゆく絵画たちの悲痛な叫び声だけなのだから。
「俺は絵画修復家です。この村に助けを必要とする絵画があるならば、それを修復するだけです」
「ふぉっふぉっふぉ。その眼差し、お前さんのおじいさんによく似ているねぇ」
「祖父に会ったことがあるんですか?」
「あるともさ。随分昔に居間に飾ってあった絵を治してもらったことがあるよ。コースケは素晴らしい修復家だったねぇ」
 素晴らしい修復家だった――ルカはその言葉を何度も何度も頭の中で繰り返した。心の中で次々とつぼみが花開くように、嬉しさと気恥ずかしさがこんこんと湧き上がった。
「あの、その話――」
 と、ルカは言いかけたが、老婆はそれを遮ってジルダに話しかけた。
「さぁさ、この少年に絵画を治してもらうんだよ。なに、きっとうまく行くよ。この村の事も、あんたの夢の事も全てねぇ。心配はいらないよ。何しろ南のばぁばの言うことだからね」
 そうしてくぐもった笑い声を漏らしながらくるりと背中を向けると、杖をつく度背中のこぶを揺らしながら、老婆は再び南の家に戻っていった。


 ビートルのトランクからリュックサックを引っ張り出したルカは、その足で宿屋の二階にある一室に上り込んだ。
「これで連作『アルマゲスト』は全部だよ」
 ベッドの上に所狭しと並べられたトレミーの絵画には全てきらめく星空と、変化してゆく月が描かれていた。
 ルカは顎に手をあて一枚一枚を眺めて回った。長年客室に飾られていたにしては比較的傷んでいない。おそらくしっかりとした額縁に入れられていたか、所有者が保存方法を心得ていたからだろう。絵画の最も天敵となるのは『時』を除いて『乾燥』だ。
「……ん?」
 ルカは一番最後に並べられた絵画の前で目を止めた。明らかにその絵画だけ他のものよりも傷みが激しかったのだ。湖畔を画面の下四分の一ほどにたたえ、左右には少しばかりの黒い木々の影、そして大きくひらけた星空という構図。しかし画面は暗く、星の光がかすんでしまうほどに汚れている。月明かりのない闇夜は美しさよりもおどろおどろしい恐さを思い起こさせる。まるで光化学スモッグが夜空を覆ってしまっているみたいだった。
「今回は数が多いから時間がかかりそうだね」
「数は多いけど綺麗な状態のものが多いから、言うほどじゃないよ」
「俺たちも何か手伝うぜ」
 ルカは絵具や洗浄液で汚れたままの黒いエプロンに袖を通すと、手慣れた手つきで両袖をまくった。アダムとニノンも一階からエプロンを借りてきて、それを身に着けた。準備が整ったのを見計らってルカは深呼吸をした。そして、
「よろしくお願いします」
 と十枚の絵画に向けて丁寧にお辞儀をする。
 修復作業始まりの合図だ。

「筆を優しく持って。そう。毛先で空気を動かすように」
「うわ、結構難しいのな」
 初心者の二人に与えられたのは、絵画の表面に積もりたまった埃を払い落とす作業だった。絵画保護の目的で塗り被せられたワニスの上にも年月が経てば埃が付着し層になる。その汚れを絵画が傷つかないように柔らかい筆で取り払う作業は、修復を進める上で最も初歩的な、しかしとても重要なステップなのである。
 ルカは指示を出しながらも己の手を止めない。リュックサックから小型の懐中電灯のようなものを取り出すと、その光を絵画へと当てた。
「ルカ、それは何?」
X線だよ」
「えっくす線?」
 ニノンの声にアダムも顔を上げる。
「絵具とかワニスの成分を調べることができるんだよ」
 ライトから照射されたX線は目には見えない。しかしその光は絵画を貫通し、絵具やワニスがどんな成分から出来ているのかを知らせてくれる。言わば医者が患部のレントゲンを撮るのと同じだ。治療をする為には調査が必要不可欠なのだ。
 二ノンが覗き込もうとするのを制止して、危ないよとルカは諭した。
「汚れたワニスがどの薬品で溶けるのか、絵具を溶かさない為にはどうすればいいのか、この調査でだいたい分かる」
 ルカが「魔法とは真逆だ」と言った通り、地道な作業を積み重ねていく修復は、しかし初めて見る者の目にはやはり奇術のように映る。目の前で展開されてゆく不思議なパフォーマンスに目を瞬かせていたジルダははっと我に帰り、机に手を付くとルカをじっと見据えた。
「ルカお兄ちゃん、私も何か手伝いたい」
「いや――依頼者に手伝ってもらうのはちょっと」
 それは真っ当な断り文句だったが、ジルダは己が手持ち無沙汰になるのが嫌だったのだ。彼女の瞳が潤んでゆく様を見て察したニノンが慌てて取り繕う。
「そうだ、ジルダの夢のこと聞かせてよ!」
「私の夢?」
「うん。南のばぁばが言ってたでしょう。ジルダの夢がどうって……」
「ああ、それ、俺も聞きてぇな」
 夢というワードが出た途端、ジルダの顔には複雑な表情が浮かんだ。ワクワクした希望の光が表れたかと思えばすぐさま影が差して、両の眉尻が下がる。何度かそんな葛藤を繰り返した後、ジルダは意を決して口を開いた。
「フィリドーザの星空には本当にたくさんの星が輝いていてね。私、いつもメンヒルの遺跡で星を見てるの」
「メンヒルの遺跡?」
 フィリドーザの南の果てに湖畔があり、その向かい側には三〜四メートルもの長大な巨石群が地面から突き出すようにして垂直に立てられている。湖畔を見守るようにして立ち並ぶそれらの列石をメンヒルと言うのだと、ジルダは語った。そして、その遺跡で見せたいものがある、と続けた。
 そこではじめてルカは作業の手を止めた。ジルダの瞳はキラキラと輝き、まるでフィリドーザの星空が写り込んでいるようだった。
「今夜行こう。星空を見に」



     4


 夜のとばりが下りた頃、宿屋を抜け出したルカ達はこっそり遺跡へと向かった。風のない穏やかな夜だった。日中の快晴が夜まで続き、空にはちぎれた綿のような雲が少し浮かぶだけだった。それに加え、削ぎ落とされた木クズのような三日月は月明かりも弱く、木々の影からでも宝石のように光り輝く星々を望むことができた。
 寂びれたケモノ道をしばらく行くと、開けた土地に湖畔が広がっていた。そしてその向かいには確かに長細い巨石がツノのようにいくつも地面から突き出している。
「メンヒルってのは、話に聞くより随分ド迫力だな」
「大昔からここにあるらしいんだけど、全然崩れないの。それにこの平らな岩、すごく座りやすいよ」
 ほらほら、とジルダは三人を手招きした。五体の大きなメンヒルに囲まれるようにして平らな岩が置かれている。古代の遺跡を座椅子代わりにしてしまうことに多少の罪悪感を感じながらも、アダムたちは言われるがままに腰を下ろした。
「わぁ、すごい。星がキラキラしてる」
 三人は頭上に広がる広大な夜空を見上げた。瞬きするたびにいくつもの星の発見がある。終わることのない星の海。そこには昼とは違う明るさがある。トレミーが取り憑かれたようにフィリドーザの星空を描き続けたのも頷ける。
 そこでルカはおもむろに両手のひらを伸ばして人差し指と親指でL字型を作ると、画家や写真家がするように二つのLで夜空を切り取った。空中のキャンバスには下四分の一に湖畔をたたえ、左右には真っ黒な木、残りは広大な星空といった構図が浮かび上がる。まさしく『星の降る村』と同じ構図だ。
「トレミーさんはここで絵を……」
 年老いの画家が命を削ってまで完成させた絵画だ。もし本当にその絵画を描く原動力が彼の空想ではなく現実の風景だとしたら、一体この村にはどれほどの美しい景色が隠されているというのか。
 考えに耽っているルカの隣でアダムがあ、と声をあげ、
「ふたご座見っけー」
 と人差し指を夜空に掲げた。
「どれどれ? ふたご座って何?」
「ほらあれ、赤い星と青い星が並んでるだろ」
 ルカと二ノンはアダムの指先を追って星の海を目線で泳いだ。無限の輝きの中で隣り合う星を探すのは大変だとルカは思っていたが、それらは案外簡単に見つかった。
「あった!」
 そう叫んで二ノンもアダムと同じように広大な夜空に寄り添うようにして輝く二色の星を指さした。
「左の赤い星がポルックス、右の青い星がカストルって名前だ」
「この二つの星が双子みたいだから『ふたご座』っていうの?」
「そ。ふたご座にはある神話があってさ」
 アダムは輝く双子の星に目線を移して話しはじめた。

 その昔、スパルタ王国にカストルとポルックスというとても仲の良い双子の兄弟がいた。二人は瓜二つの容姿をしており、スパルタ王国の英雄と持てはやされるほど、共に武術や馬術に秀でていた。しかしたった一つだけ異なる点があった。それは兄・カストルは命に限りある人間として生まれたということ。弟・ポルックスは不死身の身体を持って生まれた神の子だったのである。
 別れは突然だった。カストルは戦いの最中、心臓を矢に貫かれて命を落としてしまう。ポルックスは兄を亡くした悲しみに、死という深い溝を超えることができないもどかしさにひどく打ちひしがれた。カストルの死後、ゼウス神は息子のポルックスを神界に招き入れようとしたが、ポルックスはそれを拒否する。己だけが神となり天に昇ることが耐えられなかったのだ。

 ニノンはうら悲しげな表情でアダムの語る一部始終に耳を傾けていた。アダムは続ける。
「そこでポルックスはゼウスに言ったんだ」
「……なんて言ったの?」
「『兄なくして私は存在しえない。私たちは二人で一つです。どうか兄の後を追わせてください』ってな」
「ってことは」
「ポルックスの思いに動かされて、ゼウスは二人がずっと一緒にいられるようにふたご座として天にあげたんだよ。な、ハッピーエンドだろ」
 ニノンの顔にはたちまち笑顔が舞い戻り、うん、と大きく頷いた。一方ルカは青い瞳をパチパチと瞬きながら、アダムの顔をあっけらかんと眺めていた。
「なんだよルカ、その顔は」
「いや――アダムってたまにロマンチックなこと言うなって思って」
「あ? 別にロマンチックでもねぇだろ」
 こういった類の話は弟や妹が喜ぶからたまに話してやってるだけだ、とアダムはぶっきらぼうに続けた。
「星空にはたくさんお話が眠ってるんだね。素敵だな」
 古代から人々は夜空に輝く星を繋げてはおとぎ話を語り継いだり、また旅の道しるべとしたのだろう。時の移ろいの中で変わらない存在が一体どれだけあるというのか。少なくとも星は、人々の頭上で変わらず輝き続けている――。ニノンはうっとりと星空を眺めた。その時、ふいに覚えのない映像が彼女の脳裏を過った。
『お星さまってこんなにあるんだね!』
 そこは外灯も何もない暗闇だった。足元に広がる草原が風にたなびいて擦れる音だけが聞き取れる。それから遠くの方に波の音。あとは目の前いっぱいに広がる星空。隣で誰かが動く気配。
『ダニエラさんに見つかる前に帰らなきゃ』
『――ってばいっつもそれ。そんなことよりほら、星がきれいだよ』
『僕が怒られるよ。ああでも、きれいだな』
 少年は怒るのも忘れて星空に見入った。星座など知りもしない少年と少女は交わす言葉もなくただただその広大な星空を見つめるばかりだった。
――あれはいつのことだっただろう。
 ニノンは蘇った記憶を辿ってみたが、映像以上のことはなにも思い出せなかった。分かったことと言えば、傍らにいた少年がいつかの雨の日に自分の手を引いてくれた人と同じであるということだけだ。

「おまたせ! フィリドーザの星空楽しんでます?」
 三人が星空に見入っている間中、せこせこと何かを運んでいたジルダは、準備が終わるとルカの手を引いた。平らな岩の前に置かれたたいそうな三脚と、その上部に設置された大きな筒のような装置。ジルダは筒の先端を覗き込んでダイヤルを微調整する。
「覗いてみて。きっと、もっとすごい物が見られるよ」
 促されるままにルカは筒の先端を覗きこんだ。分厚いレンズがはめ込まれている。その奥に一際輝く光の塊がいくつも見えた。
「『望遠鏡』か――すごいな。初めて見た」
「マジかよ、ちょっと俺にも見せろって」
「私も見たい!」
「おい、俺が先だ!」
 望遠鏡は夜空の星を観察するために人類が開発した装置だった。観察や計算を駆使して宇宙を知る〈天文学〉の分野は長い間人気に富んだ学問だった。
 しかしそれも時代の流れと共に衰退すいたいの一途をたどることになる。五十年前のエネルギーショック――地球に埋蔵されたエネルギー源が枯渇するという、地球史上類をみない未曾有みぞうの事態――はあまりにも多くの人間の価値観をひっくり返してしまった。人は皆エコロジカルな考え方に傾倒けいとうし、人類の知的欲求を満たすための研究はむざむざと優先順位を下げていった。
 そんな背景もあって、ルカやアダムはたった十二歳の少女が望遠鏡を持っていたことに驚きを隠せなかったのだ。
「私の夢は天文学者になることなの」
 ジルダは天を仰いでいた。その声はわずかに震えている。
「でもきっと私の夢は叶わない。お父さんやお母さんは反対するに決まっているし、第一天文学者になったところで働き口があるわけでもないから」
 それはひどく悲しげな声色だった。地上からいくら手を伸ばしても、頭上に輝く星を掴むことはできないのだ。ジルダは相変わらず星々を見つめていた。
「まぁそう言うなって。必要ないとか決めつけるのは良くねぇよ。絶対叶うって分かってりゃそれは夢じゃなくてただの現実さ。もしかしたら将来、別の星に引っ越しするなんてことがあるかもしれないだろ? そうしたらお前の天文学の知識は引っ張りだこじゃねぇか」
「お月様とかにも行けちゃうの? それ、とっても素敵だね」
 瞳を輝かせるニノンの横で「要するに」とアダムは続けた。
「どんな夢でも叶う可能性はあるんだよ。自分が信じ続けてさえいればな」
「自分が、信じ続けてさえいれば……」
 その言葉は水のように優しく体に沁みわたって、がさがさに乾いていたジルダの心を包みこんだ。
「しっかし本当にこの村の星空はすげぇよな。普通に観光客呼べそうなんだけどな」
「でもお客さんは『星の降る村』に描かれていた景色を見にやってくるんでしょう? この星空よりも綺麗な風景って、あんまり想像つかないなぁ」
 しばらく岩の上であぐらをかいて物思いにふけっていたルカが、ふと頭をもたげた。
「ジルダ、その望遠鏡はどこで手に入れたの?」
「え、これ? 家の物置にずっとしまい込まれてたんだよ。掃除をしていた時に見つけたんだ」
 ふむ、とルカはあごに手をあてて再び考え込んだ。フィリドーザの星空、大きな湖畔、月が描かれることのなかった『星の降る村』の構図、望遠鏡――。ルカの頭の中で次々と単語が浮かびあると、それらはまるで星座のように結び合い、やがてひとつの仮説が浮かび上がる。
「星の降る村――なんとなく、分かった気がする」
 ぽつりと呟かれた言葉に一同は驚き、未だにあぐらをかいたままの少年を凝視した。
「分かったって、画家のじいさんの空想じゃなかったってことか?」
 ルカはこくりと頷いた。よくよく考えればフィリドーザの夜を愛する画家が連作の最後に架空の風景をねじ込むはずがない。トレミーは確かにここで、奇跡の瞬間を目の当たりにしたのだ。
「あと一つ分かったことがある」
「あと一つ?」
 尋ねるニノンにルカは再度頷いてこう続けた。
「画家トレミーのもうひとつの姿だよ」



     5


 その後ルカの口から詳細が語られることはなかった。言葉で説明するよりも実際に見た方が理解しやすいと判断したのだろう。普段から口数の少ないルカのことだ。加えて表情の変化も乏しいとあれば様々な誤解も招くだろうに、とアダムは度々他人にもかかわらず心配になることがある。
 しかし、やはりルカにはそんな心配事は無用だし、周りにどう見られても傷つくことなどないという風に生きてきたので、問題無いのだ。彼の関心ごとといえば専ら絵画の修復に尽きる。
 夜遅くに宿へ帰ってきた三人は順にシャワーを浴び、特にお喋りすることもなくふかふかのベッドにダイブするとすぐに眠りについた。といっても深夜一時を過ぎた頃だ。朝にはめっぽう弱いアダムや睡眠時間の長い二ノンが寝息を立てる中、ルカだけは朝六時きっかりに目を覚ましいそいそと修復作業を再開していた。ルカの朝はいつも早い。
「ボンジョルノ。厚切りのベーコンはいかがかしら」
 ジルダの母に起こされてようやく目を覚ました二人を引きずって、ルカはダイニングテーブルの席についた。トチの木の一枚板でできた大きなテーブルには焼きたての栗のパン、ウッドボウルから溢れそうなほどのグリーンサラダ、スクランブルエッグにフルーツの盛り合わせが所狭しと並べられている。
  久しぶりの客だから少々張り切ったのだろうか、とルカは考えたが、どうにもそうは見えないやつれた表情をしている。
「娘から話を少し聞いたんですけれどねぇ。なんでもあの連作の修復をしてくださってるとか……」
 話題は唐突に切り出された。口調は穏やかだが、どうにも和やかな雰囲気ではなさそうだ。
「ええ、まあ。おそらく今夜じゅうには終わるかと」
 ルカはグリーンサラダを口に運ぶ。採れたてなのか、苦みがまるでない。
「そうですか。あの絵は、特に最後の一枚の痛みがひどくて。修復すればさぞ元の美しい絵画に戻るとは思うんですがねぇ。ジルダが無理にお願いをしたのでしょう?」
 自分の名前が出るとジルダはびくりと肩を揺らし、テーブルの隅の方で縮こまってしまった。
「ほら、うちも周りと同じ寂れた宿屋でしょう。だからその……あまり稼ぎも良くないのよ。本当に申し訳ない話なんだけど、修復代金は用意できないの。その代わりといってはなんだけど、宿代は要りませんから」
 ジルダの母は焼きたての分厚いベーコンを各々の皿に乗せると、一気に話を終わらせた。
 夢見心地だったアダムは代金というワードを耳にしてぱっちりと目を覚ました。思わずフォークですくったスクランブルエッグがテーブルの上にぼたぼたとこぼれ落ちる。ルカはジルダの母の発言に目を瞬かせると、けろりとした表情で口を開いた。
「代金はもともといただくつもりはなかったんですが」
「おい! 何でだよ、それじゃ商売にならねーじゃねぇか」
 誰よりも早くアダムが反論した。それを無視してルカは続ける。
「でも、宿代がタダになるならそれはそれで嬉しいですけど」
「待て待て、考え直せよルカ。世の中ってのはギブアンドテイク――」
「私もルカに賛成かな。だって朝ごはんこんなにたっぷり食べさせてくれたんだもん」
「そこ、余計な相づちいらん!」
 ルカの意外な返答と騒々しい朝食風景に、今度はジルダの母が口をぽっかりと開ける番となった。

  *

「本当に……ありがとう、ルカお兄ちゃん」
 ジルダのお礼の言葉を聞いてルカは微笑み、再び修復作業に着手した。
 表面のワニスを溶かす溶剤を湿らせた綿棒をキャンバス上でくるくると転がしながら汚れを取っていく。それなりに大きい画が十枚も並ぶと単純作業も骨が折れる。
「ルカ、お前欲が無さすぎるぜ。もっとさぁ、金持ちになりたい! とか無いわけ? 人間なら誰だって富に憧れるもんだろ」
「アダムってさ、絶対修道士じゃないよね」
 二ノンはアダムに疑いの目を向けた。アダムの言動を目にする度、彼が修道士であるという信憑性は二ノンの中で急降下していくのである。
「俺は孤児院で育ったんだって。だからいくら口が悪かろうが肩書きは修道士なの。っつか俺の親父はもっと口悪いしオマケに人相も悪い」
「なにそれ……本当に孤児院?」
 ヨーロッパの国々と同じようにコルシカ島にも村によっては孤児院が設立されているところが多い。協会に所属し修道士になる者もあれば、孤児院で育ちそのままそこで修道士になる者もいる。でもそれとこれとは別の話だけどなぁ、とルカは思ったが別段口に出すようなことはしなかった。
 ルカはそれから一言も口を開かず集中して修復作業をこなしていった。アダムたちが傍らで休憩している間も作業を止めることはなく、昇りきった太陽が西に傾きいよいよ空がオレンジ色に染まり始めた頃、ようやくルカは絵画から目線を外して一息ついた。
「修復完了です。ありがとうございました」
 そうしてルカは十枚もの連作に向けて深々とお辞儀をした。終始ゆったりとした作業風景だったのは、トレミーのゆっくりと絵を描くスタイルが作業中のルカに無意識にうつり込んだからかもしれない。
 生まれ変わった『アルマゲスト』は昨夜の夜空を切り取ったかのように精巧にキャンバス上に再現されていた。一枚一枚を丁寧に眺めていき、ジルダはついに最後の絵画の前で目線を止めた。
「『星の降る村が』……蘇ってる!」
 そこには夜空を翔かける数多の流れ星が描かれていた。澄んだ湖畔に流星群が映り込む様は、まるで村に星が降っているように見える。幻想的なその景色は現実に起こったと思い難いほど美しかった。
「でも、これがどうして実際の風景を見て描かれたって分かるの?」
「それをこれから証明するんだよジルダ、君が――天文学の力で」
 ルカは三人を手招いた。X線照射装置とよく似た小型のライトを持ち出すと持ち手の付け根にあるスイッチを入れ、目に見えない光を絵画に照射した。すると不思議なことに、キャンバス上に乗せられた絵具とは別の線画が浮かび上がってきた。ニノン達は驚きの声を上げる。
「赤外線をあてるとキャンバスの最下層、線画を見ることができるんだ」
 ルカはキャンバスの右下に焦点を合わせた。やがて浮かび上がってきたのは線ではなく、謎の計算式の羅列だった。
「cosθ……π……これ」
 何かに感づいたらしいジルダに、ルカは「話して」とそっと促した。
「天文学で使う、計算式よ。星と星の距離を出すための。どうしてこんなところに――」
 ジルダははっと息を呑んだ。そしてすぐさま客室を飛び出すと、自室からたくさんの本を抱えて戻ってきた。背表紙には全て天文学に関するタイトルが記されている。ジルダはその中のひときわ大きい一冊をおもむろにベッドの上に乗せると、パラパラとページをめくりだした。
 開かれたページには一面に星空の写真が印刷されている。星と星が線で結ばれ、傍らには星座名、下側には撮影された日付と時刻が明記されていた。星座の早見表だろうか。
 大きな本を両手で抱えるとジルダはアルマゲストの一作目まで戻り、ページと絵画を見比べながら息つく間もなく話し始めた。
「一枚目、四月、夜の九時、しし座。二枚目、六月、夜の九時、おとめ座。三枚目、七月――」
「おい、一体どうしちまったんだよ」
 一心に何かを呟くジルダを見てひ弱な声をあげるアダムに「静かに」とルカは注意した。
「この絵画全て、風景画ってだけじゃない。星の位置がものすごくしっかり……計算されたように描かれてる」
「そう。計算されてるんだ。トレミーさんは正確に星の位置を記すことにこだわってたみたいだから」
「どうしてこだわってるって分かったの?」
 ニノンが尋ねると、ルカは再度赤外線を絵画にあて、線画を浮かび上がらせた。そこには細やかな縦線と横線で作られたマス目があった。計算で出した距離を正確に描写する為だ。
 しかし、そこまでして正確さにこだわる理由は何だろうか、とアダムやニノンは首をかしげた。
「ジルダはもう分かってるんじゃないかな。おじいさんの正体に」
「おじいさんだって?」
 アダムは素っ頓狂な声をあげた。
「見づらかったけど、この宿屋の門に『トレミー』ってプレートが貼られてたよ」
 そもそも稼ぎの少ない宿屋に一つの欠けもなく連作が全てそろうことなど珍しいのだ。トレミーは画家であり、またジルダの祖父でもあった。そして、この家の倉庫に望遠鏡が眠っていたという事実から考えられるのはひとつだけだ。
「おじいちゃんは――天文学者だったんだ」
 ジルダは両手で口元を覆った。肉親に、自分の夢を叶えたものがいるということ。そしてその信念が絵画に込められ今も残っているということ。心臓のドクドクという音が耳元で聞こえるくらい、ジルダの心拍数は上がっていた。
 ルカは『星の降る村』を持ち出してアダム達に見えるように掲げると、ある一点の空を指差した。
「この星座ってふたご座かな」
「ああ、言われてみればそうだな」
「なんだか私たちが昨日見たのと同じような場所に描かれてるね」
 ルカはこくりと頷くとジルダに大いなる信頼を寄せた目線を送った。
 興奮と感激に上気したジルダの頬は桃色に染まっていた。今だにバクバクと脈をうつ胸に手をあて、ジルダは気持ちを落ち着かせた。そうでもしないと喜びの気持ちを叫びだしてしまいそうだった。
「そう、そうなの。『星の降る村』は春の終わり頃に描かれた絵。春の終わりはふたご座が湖畔の上あたりに輝く時期だから。そして今日の夜――フィリドーザの夜空に流星群が現れる」
 毎日望遠鏡で夜空を眺め、天文学の本を読みふけり、いつしか星の動きを目で追わずとも理解できるようになっていたジルダには、今日の夜一体何が起こるかなど全てお見通しだった。
「でも、たまに流星群は夜空に現れるけれど、おじいちゃんの描いたような水面に映るほど鮮明なものじゃない」
「そうだろうね」
「教えろよ、ルカ。どうすればトレミーのじいさんと同じ景色が見れんだよ?」
「今夜メンヒルの遺跡に行けばきっと見られるよ」
 ルカは確信をもってにやりと笑った。
 その傍らにはニノンが抜け殻のように虚ろげに立ち尽くしていた。焦点の合わない瞳でしめやかに絵画を見つめている。異変に気付いたルカが声をかけようとした時、少女は薄っすらと口を開いた。
「この絵画からね、伝わってくるの。イメージが――胸の内から込み上げてくる……喜びと、興奮……まるで隠されていた宝箱を見つけた子どもみたい。それから焦りも……皆と分かち合いたいという想いも」
「ニノン、お前さ、ポスター見たときも不思議なこと言ってたけど……ビアンカさんの声が聞こえるとか何とか。それってつまり超能力?」
 アダムの訝しげな物言いに、二ノンは目を覚ましたようにぱちぱちと目を瞬いた。
「自分でもよく分からないんだけど、声というか――絵画からこう、感情がイメージとなって頭の中に流れ込んでくる感じ」
 それはモデルになった人物の感情であったり画家の想いであったり様々だが、要するに強い気持ちの念が絵画に染み込んだものではないか、と二ノンは言った。アダムは小さく相づちを打った後、「そうだ」と呟いて何かをひらめいたように瞳を大きく見開いた。
「良いこと思いついたぜ」
「良いこと?」
 すっくと立ち上がったアダムは座り込む残りの三人を呼び寄せて、客室のドアを開け放った。
「この村を救う方法だよ」



     6


 昨日と同じ風のない穏やかな夜だった。ただ一つ違うのは、弱々しくも輝いていた月の姿がどこにも見当たらないことだ。そのせいでメンヒルの遺跡は普段よりも闇夜に紛れていたが、人々のにぎわう声が辺りに響くことで不気味さなどみじんも感じることはない。「遺跡に来たのなんていつ振りじゃったかね」や「暗いわねぇ」などと囁きあっているのは皆フィリドーザの村人だ。
 あの後アダム達は散り散りになり、村人に今夜メンヒルの遺跡に集まるようにと説得を試みた。
 はじめは三分の一ほどの人数でも集まれば上出来と踏んでいたのだが、蓋を開けてみれば遺跡には溢れんばかりの村人達が集まった。その中にはジルダの母親と父親の姿も見てとれた。
「南のばぁば、来てくれたんだね」
 二ノンは冬用のグレーのマフラーを首に巻いた老婆の姿を見つけると嬉しそうに側まで駆け寄った。
「ええ、ええ、来るともさ。なにやら面白そうなことをするんだって?」
「うん。今からここで、トレミーさんの描いた景色を皆で一緒に見るんだよ」
 湖畔に背を向けて立ったアダムは一つ咳払いをして村人の注意をひくと、仰々しく、
「えー、皆さん。今夜はお集まりいただきありがとうございます」と宣言して軽く頭を下げた。
「なぜ皆さんに集まっていただいたかと言いますと、あの名高きトレミーの名作『星の降る村』の元となった景色をその目でご覧頂くためです」
 途端に民衆はどよめいた。暗がりでも落胆の表情を浮かべる人々が多いことは声のトーンではっきりと分かる。まだそんなことを言っているのか、と厳しい声まで飛ぶ始末。アダムは期待に反する否定的な圧力にぐっと耐えるべく足を踏ん張った。
「だ――大丈夫だって。信じてくれよ。今日こそは絶対幻の景色が見られるんだって。な、そうだろルカ?」
 話を振られたルカはゆっくりと一歩踏み出し、ぐんと空を仰ぎ見た。雲一つ無い快晴だった。辺りは無風。湖畔の水面に波風ひとつ立ってはいない。完璧な夜だ、とルカは思った。
「『星の降る村』の元となった風景を見るための条件は三つです」
 ルカが口を開いた途端、民衆のざわめきは一瞬にして沈下した。そんな彼らに示すようにルカは指を一本立ててみせた。
「一つ目は『雲一つない快晴』。二つ目は『新月の夜』。そして三つ目は『無風』です」
 ルカはジルダに目くばせした。説明は任せた、という合図だ。ジルダはこくりと頷いて、ルカの後に続けた。
「雲のない夜は星の輝きが隠されない。新月の夜は月明かりがないから星の輝きが一番明るく見える。それからフィリドーザはもともと風のあまり吹かない村。風がない日は湖畔の水面も揺れないの。この三つの条件が揃ってはじめて夜空は湖畔にはっきりと映し出される。まるで鏡のように」
 そこまで言いきって、ジルダは腕時計で時間を確かめた。午後十時を過ぎた頃だ。ジルダが頷くのを合図に、ルカ達は村人が前方の景色をよく見渡せるよう脇にはけた。
 ジルダははやる気持ちを抑えるために深く息を吸った。焦らずとももう、希望の光はそこまで来ている。
「三つの条件がそろった夜に流星群が重なった――それが『星の降る村』の正体よ」
 ジルダは人差し指を天高く掲げた。その瞬間、せきを切ったように流星が夜空を駆け巡った。幾千の流れ星が弧を描いて光の線となり地平線に飛び込んでゆく。光の雨は湖畔になだれ込み、水面が鏡となって星空を映し出す。まさに村に星が降っているような光景だった。
「まぁ、何ということ……あなた、これは」
「ああ――『星の降る村』と同じ景色だ。まさか現実にこのような幻想的なことが起こるなんて……」
 村人はその美しい光景に息をのんだ。トレミーの描いた景色は空想などではなかった。フィリドーザの宝とも言うべきこの景色を、彼は皆に知らせたかったのだろう。
 そしてその願いは長い年月を経て今まさに叶ったのだ。しがない絵画修復家の少年と、小さな天文学者の信念によって。
「皆、聞いて」
 今だ星空を眺め続ける村人たちに向かってジルダは声を張り上げた。
「この夜空は偶然でも奇跡でもなんでもない。地道な観察と計算を重ねればいつ見られるのか予測ができるの。つまり、フィリドーザが本物の、、、綺麗な星空の村だって証明できるんだよ! ……もう一度、皆でがんばろうよ」
 言い終わって、ジルダは言葉を詰まらせた。暗がりの中で星の光が反射したのが見えたのだ。ジルダの父が泣いている。その瞳を濡らしていたのは己に対する恥であり、先祖を信じきれなかった悔いであり、また娘がいつの間にか大きく成長していたことへの喜びでもあった。
 村人たちはざわめき始めた。痩せこけた大地に水が降り注がれるように、彼らの心に希望の光が射しこんだ。先のない寂れた村の、再起復興のビジョンがありありと浮かぶ。そうだ、ここは星の降る村フィリドーザだ、と村人たちが口々に囁きはじめた頃、アダムが今度こそ自信たっぷりの笑顔で「ひとつ提案がある」と言った。
「トレミーの連作をAEP発電所に送るんだ」
「AEP発電所に……ですか」
 ジルダの母は自信なさげに呟いた。それほど有名でない昔の画家の絵はたいしたエネルギーにしかならないことが多く、輸送料の方が高くつくため発電所に送る例は少ない。トレミーは決して有名な画家ではない。しかし、修復作業を施した今ならば、と思い至ったところでジルダの母は頷いた。
「せっかく修復してもらったんですものねぇ。あなた、送ってみましょうか」
「うん。うん。そうしよう」
「ちょっと待った。俺の提案はここからだぜ」
 ヨレヨレの袖で目元をごしごしと擦るジルダの父親から目を離し、アダムは民衆に向き直った。
「あの絵画がどれぐらいのエネルギーになったかを宣伝ポイントにするんだよ。詳しいことは解明されてねぇけど、AEPが高い絵画ってのは似通ってることがあるって話を耳にしたことがある。もちろん例外もあるけどさ」
「ええと……つまり?」
 と、難しそうな顔をして二ノンはアダムに尋ねた。
「つまり、フィリドーザの星空を描いた絵画が高いAEPに還元されたとなると、この村に絵を描きにくる画家がわんさか増えるってことさ」
「なるほど、そりゃええですな」
 白髪混じりの小太りの男性が嬉しそうな声をあげた。
「だが、それだけじゃ駄目だ。肝心なのはこの景色を確実に見られるようにすることだからな」
「して、それはどうすれば?」
 すると、今度は二ノンがにんまりとした笑顔で答えた。
「この村には素晴らしい天文学者がいるじゃない! そうだよねぇ、ルカ?」
「うん。ジルダ――君の力が、この村には必要だと思う」
「……!」
 ジルダはルカの瞳を見つめ返した。そしてこの遺跡に集まった村人の顔を見渡して、最後に両親を見た。はじめから、恐れるものなど何もなかったのかもしれない。二人は微笑み優しく頷いていた。
「うん……うん、皆、ありがとう……私、がんばるね」
 夜空を翔ける流れ星が人々の瞳に飛び込んでいった。そこにはいくつもの『星の降る村』が描かれていて、これがトレミーの見たかった本当の景色だったのかもしれないな、とルカは思った。

「南のばぁばの言った通りだったね。この村のことも、ジルダの夢のことも全部うまく行っちゃった」
 大きなメンヒルのたもとに腰を下ろした老婆に歩み寄ると、二ノンも隣にそっと座り込んだ。
「ふぉっふぉっふぉ。それはあの子らが信じ続けるだけじゃなく、ちゃあんと努力したからだよ。それよりもほら、あんたには星の声が聞こえるかい?」
「星の声?」
 すると老婆はシワだらけの手を耳に当てると、星空からこぼれ落ちる声を拾うため耳を澄ました。二ノンもそれにならって右手を耳の裏にあててみる。
「こうやってじっと耳を澄ましているとねぇ、たまぁに元気な流れ星が『シュン!』って声を出すのさ」
 二ノンはそっと目を閉じた。村人のざわめきが遠のいていく。そして――
――シュン!
『こっちだよ、こっち!』
『二ノンったら、そんなに急かさないで』
『だって、早くしないとお星さま全部流れちゃうよ』
 透き通るようなベージュの長い髪の毛をなびかせながら、その女性はふふ、と笑った。
『大丈夫よ。だってお星さまの数はこの海岸の砂の粒より多いもの』
 それでも二ノンは女性の手を引き暗闇の中を目的地へと急いだ。柔らかな草が風になびく丘で二ノンは終わりのない流星群の群れを目にした。
『わぁ、すごい、すごい!』
『うふふ、二ノンったら。ほら、耳を澄ましてごらん。星の声が聞こえてこない?』
『星の声?』
 二ノンは言われるがままに目を伏せる。その時、星が空を擦るシュン、といった音が聞こえた。
『ほんとうだ! 星の声!』
 はしゃぐ二ノンを優しく見守りながら、女性は続けた。
『私にはもっとたくさんの星たちの声が聞こえるわ』
『二ノンも、姉さんみたいにもっと星の声が聞きたいな』
『いつかきっと聞こえるわ。ここよりもっとたくさんの流れ星が見えるところなんて、この島にはいっぱいあるもの』
『じゃあ一緒にそこに行こうね、約束だよ』
『ええ、約束』

「二ノンや」
 老婆の心配そうな声に、二ノンははっと我に返った。
 白昼夢を見ていた。いつのことだか分からない、だけど今日みたいな流れ星のたくさん流れる夜だった。二ノンの傍らには美しい女性がいて、その女性を『姉さん』と呼んでいた――そうして二ノンは心の中で呟いた。私には姉さんがいたんだ、と。
「大丈夫かい」
「え……」
 気がつくと二ノンの頬には一筋の涙が伝っていた。
「あ、うん。なんでだろう、勝手に涙が……」
 まばらに蘇る記憶の中で出会う人たちはいつも笑顔で、側にいると温かい気持ちになったことを思い出させてくれた。しかしそこで二ノンはふと我に返るのだ。まるで自分だけが世界に取り残されて、独りぼっちになってしまったかのように感じる時がある。自分のことを誰も知らない。自分でさえ自分のことを知らない。真っ暗闇に放置されたかのような孤独と恐怖。漠然とした寂しさは、記憶の欠片に触れるたびにぶくぶくと膨らんでいく。
 ぽたり、と二ノンの瞳から涙が落ちた時、老婆のからからに干からびた骨と皮だらけの手がその頭をゆったりと撫でた。
「ばぁばはいつでもここにいるからねぇ」
「私のこと、憶えていてくれる?」
「憶えておくともさ。それにね、心配することはないよ。お前さんの側にはコースケの孫がいるんだから」
 そして老婆は三日月のような笑みを絶やすことなく、子どもをあやすように優しく囁いた。
「「なにしろ、南のばぁばの言うことだからねぇ」」
 老婆の声に被せるように二ノンが真似をする。二人は笑いあって、終わることのない流れ星を気のすむまで眺めていた。


     7


「ゾラさんという方の家を探してるんです」
 寝ぐせの残る黒髪を揺らしてルカは尋ねた。一枚板のテーブルには今日も所狭しとサラダやフルーツやチーズ、パンが並べられている。流星群の観測が夜遅くまで続いたということで「是非夜ご飯でも」という夫妻のお言葉に甘えて、ルカ達はありがたく連泊させてもらうことにしたのだ。
 何だかんだでタイミングを逃していたが、本来の目的は隠された絵画の所持者を訪ねることである。爆睡するアダム達を叩き起こしたルカは、朝食もそこそこに本題を切り出した。
「ゾラさんですと?」
 昨日は眠りこけて朝食の席に姿を現さなかったジルダの父も、今日ばかりはヒゲもさっぱりと剃り切った状態で席につき、焼き立てのクリのパンをほおばっていた。頬がぱんぱんの状態で口を開いたので、パンくずやクリがぼろぼろとこぼれ落ちた。隣の席に座っていたアダムが思わず眉をしかめる。
「失礼。ゾラさんと言えばもうこの村にはいないよ。なぁ、母さん」
「ええ、もう何十年も前に出て行きましたよ」
「引っ越した……ということですか?」
 ルカの問いにいいや、とかぶりを振ってジルダの父はその短い手をぞんぶんに伸ばして分厚いベーコンにフォークを突き刺した。弾みで飛んだ油をアダムはすんでのところで避ける。
「サーカス団を結成します! とかなんとか言ってね、出て行っちゃったんだよ。今もどこかでサーカスを開きながら各地を点々としてるんじゃないかなぁ。ほほっ、このベーコン本当にジューシー!」
 かぶり付いたベーコンから飛び散った油を避けて、アダムはついに「さっきからキタねーんだよおっさん!」と暴言を吐いた。
「この人が言ってるのは『虹のサーカス団・アルカンシェル』のことですよ」と、ジルダの母がにこやかに答える。
「俺、聞いたことあるぞその名前」
「サーカス団って?」
「人間とか動物がテントの中で色んな芸をするショーみたいなもんだ」
 そこへヤマモモをかじっていたジルダが混じる。
「アルカンシェルには動物はいないよ。人間だけで極芸をやってのけるすごいサーカス団なの!」
「そのアルカンシェルの団長がゾラさんなんですか?」
 ルカは会話の流れを元に戻した。ジルダの母は、そうねぇ、と首を傾げて続けた。
「この村にサーカスがやって来てからもう何年にもなるし、はっきりとは言い切れないけれど……。そういえばアジャクシオにいる姉が今度サーカスを観にいくと言っていたわ。もしかしたら今頃アジャクシオにいるのかもしれないわねぇ」
 アジャクシオといえばここから北西に進めばすぐの、フィリドーザと目と鼻の先に位置するコルシカ島最大の港町だ。そうと決まればもたもたしてなどいられない。ルカはすっかり気に入っていたグリーンサラダを目一杯かき込むと、夫妻にお礼を言って席を立った。
「ルカ君、もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「そうだよ。ルカお兄ちゃんもう少しここにいてよ。宿代はタダだよ!」
 ジルダは駄々っ子のようにルカの腕に巻きついた。
「お気持ちはありがたいんですが、やらなきゃいけないことがあるんです」
 迫る親子の顔をやんわりと遠ざけて、ルカは苦笑いした。
「あ、そういえば、ついでに私も聞きたいことがあるの。ダニエラさんって人を知らない?」
 二ノンの問いに三人は一様に首を捻った。そして同じように期待する答えの返ってこなさそうな表情をしている。はじめに言葉を発したのはジルダの母だ。
「どこのダニエラさんかよねぇ。ただのダニエラさんならおそらくチラホラいるのだろうし」
 それもそうだなぁ、と二ノンまでもが首を捻ってしまった。ダニエラという四文字だけでは圧倒的に情報量が足りないのだ。
「南のばぁばなら何か知ってるかもね」と、ジルダは呟いた。


 後部座席に大きなリュックサックを乗せるとルカはバタンと音を立ててドアを閉めた。
 村の入り口では村人が総出でルカ達のお見送りをしようとずらりと立ち並んでいた。初めてフィリドーザを訪れた時のような、土気色をした顔はもはやどこにも見当たらない。
「そうだ、コレ。良かったら使ってくれよ」
 アダムはA4サイズ程の紙袋をジルダに手渡した。取り出してみるとそれはキャンバスで、昨夜の流星群が絵本のように柔らかいタッチで描かれていた。上部には白抜きの文字で『ようこそ星の降る村、フィリドーザ』と書かれている。どうやら村の入り口に設置する新しい看板のようだ。
「可愛い! これ、アダムお兄ちゃんが描いたの?」
「あ? そ、そうだよ。悪かったな、可愛い絵で」
 俺はそういう絵が好きなの、とふてくされるアダムにジルダはぶんぶんと首を何度も振った。
「私この絵とっても大好き! 本当にありがとう」
 満面の笑みに嘘はない。気恥ずかしさに耐えきれなくなったのかアダムはぷいっとそっぽを向いてしまった。
 人だかりをかき分けて、ルカとニノンもようやくアダムの描いた看板を目にすることができた。
「アダム、とっても上手だよ!」
「まるで絵本の挿絵みたいだ」
「そ――そうか? 本当はお前らに見せてやる義理はねぇんだけど」
「アダムがこの絵を描いてるところを想像すると、なんだか可愛いよね」
「うん」
「お前らやっぱり見るの禁止!」
 三人が言い合っていると、村人の山の奥から聞きなれた笑い声が聞こえてきた。季節外れのグレーのマフラーとぎょろりと飛び出た二つの目玉はどんな人混みの中でもよく目立つ。
「南のばぁば! 良かった、ちょうど聞きたいことがあったんだ」
 老婆はえっちらおっちらとニノンたちの前まで歩いてくると、太い木の枝をずしんと地面に突き立てた。
「何が聞きたいって?」
「ダニエラさんって人を知ってる?」
 相変わらずどこを向いているか分からない目玉でしばらく空の方を見つめていたかと思うと、いきなり伸びきったくすんだ爪をニノンの鼻先に突きつけると、「ダニエラって名前は多くはないが探せばその辺にいるよ。でも、そうさねぇ」としばらく考え込んだ。
「昔、同じ名前の人間を探している若人わこうどに会ったことがあったかねぇ」
「それはどこで? なんて人? どこにいるの?」
 すると老婆は笑い声をあげて、「そうせかせかするんじゃないよ」と諭した。
「あれはサーカス団がこの村にきた時だったね。名前は確か……《ニコラス》、だったと思うよ」
 ニコラス、というフレーズをニノンは繰り返した。
 聞いたことのない名前だったけれど、今ダニエラに続く手がかりは一つしかない。しかもサーカス団といえばこのあと向かう目的地もサーカス団だ。結局のところ次の行き先はアジャクシオで変わりはない。話がまとまったところで三人はフィリドーザを出発することにした。

「本当に、お世話になりました」
「そんな、こちらこそですよ。あなたたちはフィリドーザを救ってくださったんですから」
「気が早いぜおかみさん。もしトレミーのじいさんの絵画がものすごいエネルギーになったら教えてくれよ。俺、こっそりここに絵を描きにくるからさ」
「こっそりだなんてアダム君、この村にやってきたら僕たちの宿屋にぜひ泊まっていってね」
「おう。そんときゃおっさんと別のテーブルで朝食頼むぜ」
 そんなやりとりを交わす中、ジルダはルカの前で寂しげに立ちすくんでいた。
「本当に行っちゃうんだね……寂しいなぁ」
「これから忙しくなるんだから、寂しさなんてすぐ忘れるよ」
 そう言って微笑むルカの手をジルダはぎゅうっと握りしめた。
「本当にありがとう。まさか本当に夢が叶っちゃうなんて――本当は、私が一番自分の夢を信じてあげられてなかったんだなって、今は分かる。だから、次の夢はちゃんと信じてあげようって思うの」
「次の夢?」
 もう次のことまで考えてるのか、とルカは感心した。ジルダはうつむいていた顔をがばっと起こした。頬はりんごのように真っ赤に染まり、大きなヘーゼルの瞳は水分をたっぷりと含んで潤いに波打っている。ルカは握られた手をそのまま下へぐいっと引っ張られ、思わず体制を崩した。そして――
「次の夢は、ルカお兄ちゃんのお嫁さんだよ!」
「え?」
 ちゅ、と音を立てて少女の唇がルカの頬に当たった。ほっぺたにキス。それは少女の精一杯のアプローチだった。ジルダはぱっと手を離してそのまま老婆の影へと隠れてしまった。
「だ、だめだめ! だめだよ! ルカには大切な用事があるんだから!」
 真っ先に声を上げたのはニノンだった。隣では、何が起こったのかやっと理解したルカが珍しく頬を染めて呆然と立ち尽くしていた。

「待ってるからね、ルカお兄ちゃん!」
 待たなくていいよ! とニノンが言い残して、今だ賑わう村の入り口からビートルは抜け出した。次第に遠のいていくフィリドーザの入り口には、それでも元気に手を振り続ける村人たちの姿があった。
 生まれ変わった村の姿を、トレミーもきっとどこかで眺めていることだろう。

コルシカの修復家2

2014年9月22日 発行 初版

著  者:さかな
発  行:水族館出版

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さかな

地中海に浮かぶ美しい島〈コルシカ島〉と、〈絵画修復家〉という職業を知ったのは最近のことですが、この二つにインスパイアされてお話を楽しくつづっています。 好きなジャンルはミステリーやSF、謎解きなど。尊敬している作家は星新一先生です。

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