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あらすじ
あおぞらカフェは若会市某所に店を構える地域密着型の小さなお店。お世辞にも賑わっているとは言えないカフェで、主にカウンター業務を担う鏡石杏璃は不幸な出来事が原因で以前働いていた飲食店を辞めざるを得なくなり、現在に至る。
一つしか年齢が違わず反りの合わない同性の上司と、歴史上の人物と同じ渾名の店長に同性の新人のときどき斜め上をいく発言に驚かされ辟易する一方、私生活はいろんな意味で充実しているなあと感じていて……?
序章 六
第一話 一〇
第二話 三九
第三話 七五
第四話 一〇三
第五話 一三八
最終話 一六九
番外編 二〇〇
登場人物
鏡石杏璃
あおぞらカフェの店員。二十二歳。
田畑玲
あおぞらカフェの店員で杏璃の上司。二十三歳。
石平賢二
あおぞらカフェの店長。三十五歳。
中林彩花
杏璃の中学時代の同級生。訳あって訓練所に通いながら社会復帰を目指している。下の名前の読みは「あやか」。二十二歳。
高那サキ
神奈川県出身で父親が若会市出身ということに興味を持ち、首都圏の大学を中退して引っ越してきた変わり者。
時折気に障ることを口走るところは玲と似ている。二十一歳。
鏡石律子
杏璃の父方のいとこ。東中高校に通う高校生。細かいことは気にしない性格。あること叶えたいがために、杏璃の家に居候することを堂々と宣言する。十七歳。
序章
「ありがとうございましたっ」
レジ対応をし終えて元気よく挨拶。頭もしっかり下げたから問題ない。
中学卒業と同時に就職。社会経験六年の実績は伊達じゃない、と鏡石杏璃は内心でほくそ笑んだ。
「アンちゃん、ちょっと」
レジのすぐ後ろで呼ぶ声がした。
近所の優男みたいだなと思うが、上司が気に入ってるので仕方がない。文句を言った時点で問題視される。
杏璃は素直に返答して同僚の男性にレジを交代して隣の個室に移動した。
そこに待っていたのは、杏璃より対して年齢は変わらないだろう同性の上司が、テーブルに両手を組んで座っていた。
「疲れるでしょ。座って」
「はい」
素直に従い、正面に座った。一体、何が問題だったのか見当がつかないと思いながら。
「お疲れ様」
「お、お疲れ様です」
儀礼的な挨拶から入って問題点をネチネチ責めるんだろうなあと身構えていると、
「アンちゃんの苗字、長いし言い辛い。どうにかなんない?」
「…………はあ?」
予想と斜め上をいく問いかけに思わず素が出てしまった。
「う、嘘。嘘だよ」
げほん、とわざとらしい咳払いをして、女性の上司は本題を切り出した。
「さっきの挨拶、とても良かったんだけど、ちょっと勢いあり過ぎじゃない? もう少し力抜かないとやってけないよ」
常識が通じないところがあるからね。この業界は。
そう言って上司は溜息を吐いた。
「それだけですか」
「んん? そうだよ。だって嫌じゃない? 勢い余っておでこぶつけたら、アンちゃんがここの笑い者になっちゃうんだよ」
場所が場所だからねえ、と女性上司は組んだ両手の親指を絡ませながら言う。
嫌味ですか、と言いたいのを抑えて、
「田畑さんの長話につき合ってる暇はないんです。戻りますね」
立ち上がって言う杏璃に上司の田畑玲は呆気に取られた表情をして杏璃を見上げていたが、
「いいねえ。実にいい。上司に反航するってこともこの業界ならではだ。……他の職種だったらコレだよ?」
にやあっと眼鏡のレンズの奥の眼を細めて玲は首元で親指を立てたまま左にスルーさせた。
初めて見たわけではない。でも、この表情を見ると社会人四年目に出会った男を思い出すのだ。
脅しですか、と言おうとしたけど、私は大人だと自分に言い聞かせてやめた。
「ごめんね。名前の件は悪かったよ。ああ、挨拶の件についてはちゃんと直すこと。これはどの職種でも第一印象が大事だからね。深々と下げるのはいいんだ。だけど、下げ過ぎには注意すること」
家に帰ったら鏡の前で練習ね、と上司の田畑玲は言うとブラウンのハンチングのつばを軽く掴むと左右に揺すった。
我ながらいいこと言った、と満足して立とうとしたとき。
「田畑さんは他の職業に就いた方がいいんじゃないですか」
最低ですね、と非難の言葉を残して杏璃は個室を出た。
直後、ありがとうございましたー、とさっきとは違って杏璃の柔らかい挨拶が聞こえ、
「そうそう、それでいいんだよ」
玲は椅子にドスンと腰を下ろし、再び悪事を考えてる時の人間よろしく笑った。
第一話
一定のリズムを刻む目覚まし時計が朝の静けさをぶち破り、杏璃はもそもそと上体を起こした。
時刻は午前六時二十分。
「……寒い」
三月初旬と言え、まだまだ冬の気候が完全に抜け切れてない東北地方はまだ寒い。
杏璃はベッドから出ようとしたが、温かい毛布の中から出ることを躊躇ってしまい、
「出たくないわー」
再び横になり包まってしまう。春だけど、寒いのは身に堪える。
いつまでもヤドカリみたいにしているわけにいかないので、のそのそと起き上がり身支度を整え、朝食にスポーツドリンクをコップ一杯飲んで家を出た。
見送る家族は誰もいない。
三年前に両親は家を出ていった。一人娘の杏璃を置いて。成人していたし生活能力は充分にあったので困らなかったが、理由がわからない。ちょうど勤務先の飲食店を辞めた時期と重なる。出て行く時に見せた父親と母親の優しい笑顔が今も瞼の裏に焼きついて、忘れさせてくれない。
まるで責めてるみたいだな、と横を出身校の女子高生二人が楽しげに話しながら抜いて行くのを杏璃は見ながら思った。
途中、コンビニで昼食用のサンドイッチと紙パックのイチゴジュースを買って、あおぞらカフェへと向かった。
杏璃の役割は主にレジ打ちが多い。これは上司の田畑玲が勝手に決めたことなので、どうしようもない。普通ならレジ打ちの他にオーダーを取ったりするものなのだが、杏璃が採用されて間もない時その姿を見ていた玲が渋い顔をしていた、と常連客の女性がこっそり教えてくれた。
渋い顔、とは聞き捨てならなかったが、
――アンちゃんの声、大き過ぎ。お客びっくりしちゃうでしょ?
納得したくないけど、してしまった。
過去、杏璃は芸能界デビューを夢見て俳優養成所で演技レッスンを受けていたことがある。中学一年生の時で休みの日を利用してレッスンに励んでいた。しかし、それも長くは続かず、クリスマスの日に辞めてしまった。あまりにも演技の方にのめり込むあまり、学業が疎かになってしまい、両親が待ったをかけたというわけだ。
抵抗はしたが徒労に終わり、それでも諦めきれず練習はしていたが、結局は何の役にも立たなかった。
「アンちゃん大丈夫? 出すもの出しとかないと後が大変だよ」
「……下品なこと言わないでください。ちょっと自分の将来を考えてただけです」
「本当に?」
あと一ミリで顔と顔が降れるんじゃあないかというぐらい近づけて言う。
「いいじゃないですか。私が何を考えてたって。田畑さんの知る必要はありません」
杏璃は顔を離しながらきっぱりと告げ、ハンチング帽と同じカラーのショートエプロンを腰に巻く。
「確かにねえ。どっかの国と違って、何を考えようと自由だもんね……あらやだ、ハンチング破れてる」
見て見てと言わんばかりに玲が自分のハンチング帽を杏璃の顔の前でぶらぶらさせる。
「ほんとですね。しかもど真ん中」
杏璃は顔を顰めながら言うが、反りが合わない上司の制服がどうなろうと知ったことではない。
「アンちゃん他人事みたいに言わないで。仲間じゃない」
女優じゃないよ。
「……」
寒い冗談を飛ばす上司を無表情で見つめ、
「仲間……って、誰ですか?」
本当にわからなかった。この人を小馬鹿にしてるような上司の口から『仲間』などという単語が出てくるとは思ってもみなかったから。
その当人はボケてくれなかったのが面白くなかったのか、
「社会には時として臨機応変さが求められるものだよ」
アンちゃんは今までどうやって乗り越えてきたのかな? と薄く笑みを浮かべながら言って、穴の開いたハンチング帽をぽいっと自分のロッカーに放り投げ、出入り口の横に置かれた段ボールの中から新品のハンチング帽を取り出して被った。
その一部始終を見ていた杏璃は咎めることもできず溜息だけ吐いて、
「すみません。私、鈍感なのでわからないです」
頭を下げて更衣室を出た。
「こんなはずじゃなかったのに……」
弱音が口を衝いて出る。だけど下から聞こえた「いらっしゃいませ」の挨拶に気を引き締めて、杏璃は遅れたことを男性の同僚に詫びてレジに立った。
あおぞらカフェで働く前は、市内の飲食店で働いていた。ラーメン店だった。従業員の雰囲気も良くてこのまま順調にいけば昇給も夢じゃない、と思った矢先、あの震災が東北三県を襲った。市内は家屋が半壊、学校の門が全壊するという被害が出たものの、死者は出なかったが、一番酷いのは沿岸地域だ。津波で家屋は押し流され、後に残ったのは瓦礫だけとなり、いつ終わるともしれない悪夢が幕を開けた。
全ては原発が水蒸気爆発を起こし、杏璃の生活は一変した。
杏璃が無職にならざるを得ない状況に陥った要因だ。
全国展開している県内のラーメン店に対抗できる店として期待されていたが風評被害で経営は逼迫。店は倒産し杏璃は無職となり、職探しの生活が始まった。
「こっちはほとんど関係ねえのに、脱原発派の馬鹿どもが煽るから苦労すんのよ」
茶の間の炬燵に入りながら毒を吐く。それに対してツッコミを入れる者はいない。
両親がいたらどちらかが「乱暴な言い方はやめなさい」と注意するだろうが、どちらの実家に行ったのか、確かめる気も起きない。
「……」
テレビの電源を入れてチャンネルを回してみるが、どれもぱっとしない番組ばかりだったので切った。
次に新聞を読んでみるが杏璃には興味のないニュースばかりで、これもつまらない。
携帯電話に着信がないかと確かめてみるもののなかった。第一、電話帳に登録してあるのは両親と職場のみ。
先月まで職探しをしつつネット三昧の日々を過ごしていた杏璃に愛想尽かした両親がかけてくるはずはないし、反りが合わない上司がかけてくるはずもない。どちらに共通するのはよほどのことがない限りだろう。
最後に着信があったのはいつだろうと履歴を確認すると、
「……去年」
ちょうどあおぞらカフェから採用の連絡がきたときだった。
日付は二○一二年七月七日。七夕。
「現実の織姫と彦星は天候に左右されず去ったわ」
厳格な父と母を織姫と彦星にたとえることに無理はあるだろうが、就職が決まる前に家を出ていった。杏璃に言わせれば、何て惜しいことをしたのかしら、だろうか。
あともう少し待ってくれれば、嬉しい報告ができたのに。それをしようにも両親は娘の着信を拒否しているので、今日までできずにいる。
いいけどねと諦めて独り暮らしを満喫してるわけだが、実の娘をそこまでして拒絶しなくてもいいのではないか、と呆れる。
やっとの思いで『再就職』先を見つけたのに。
「もう少しタイミングが早かったらよかったのかな」
夕食のうどんに七味を少し多めにかけて、口に運ぶと出汁よりも辛さが先に口中に広がる。
「辛っ。い、入れ過ぎたかな……」
普段、あまり刺激物を口にしないので、神経がびっくりしたのだ。多分。
その後も辛いを連呼しながら麺と蒲鉾を平らげた頃には味覚が麻痺しかけ、顔中が汗で大変なことになっていた。
「な、慣れないことはするもんじゃないわね……」
ハンカチがなかったのでティッシュで顔を拭いて、ついでだからシャワーを浴びて自室に直行。
後片付けは明日にしようと決めて、就寝時間まで大学ノートに日頃の鬱憤を書くことにした。
内容に悩む時間はなかった。
頭に浮かんだ憎ったらしい上司の顔。
ほとんど歳が変わらなくて、美人で同僚からの信頼も厚い。
大学生時代は合コン三昧の日々を過ごしていたと、噂好きの同僚がぺちゃくちゃ話しているのを耳にしたことがある。
そんな人でもカフェのマネージャーを任されるのだから、何かが間違っている。
かきかきかき……と怨念のこもった二文字を延々と書き連ねていると、玄関のドアを激しく叩く音がして、「おふっ」と鳩尾にパンチを喰らったボクサーよろしく悲鳴を上げながら、椅子に座ったまま引っくり返った。
「く……だ、誰よ。人ん家破壊する気……。はいはい、今行きますってば」
四つん這いで部屋のドアまで向かい、開けると、立ち上がって階段を急いで下りて玄関ではなく食堂に向かう。そして壁に設置してある五型ほどのモニターのボタンをぽちっと押した。
そこに映し出されたドア連打をする傍迷惑な犯人は。
「何やってるんですか」
「あ、いたの?」
「いますよ。当たり前じゃないですか。田畑さんみたいに従業員ひけらして飲みに行く気なんてないですよ。激辛うどん食べて悶絶して、田畑さんの――」
悪口書いてました、と言いそうになったのを抑えて、上司に疑問をぶつける。
「嫌がらせですか? 私、何か気に障るようなことしました?」
何秒か間があったが、苦笑いの後、
「状況がさっぱり掴めないけど、嫌がらせじゃないよ。近くを通ったから寄ってみようと思ってさ。普通にチャイム鳴らしてもつまんないじゃない? だから驚かそうと思ってアレな行動を取ったのさ。それにしても、アンちゃんは私のことを男にだらしない女って見てたのねえ。ショックだわ」
「ショックなのは私ですよ……」
成人してる女性が突飛な行動を取って迷惑を被るのは自分だけではない。近所の住民も同じだ。それならまだいいかもしれないが、あそこの家の誰々さんの知り合いは危険だから、近づかないようにしよう、なんてレッテルを貼られたら最悪だ。
「帰ってください」
「ケチだなあ。入れてくれたっていいじゃんか。お腹空いてんのよ。今月馬鹿彼氏を養ったものだから、財布の中がすっからかん」
――あんたの頭の中もすっからかんだってば。
突っ込みたくなるのは当然だ。
通りかかったのはまだいい。だが、ドアを激しく連打するわ、彼氏を養って手持ちがないので何か食わせろと、精神的に病んでいるのか心配になったし、自慢と図々しさに腹が立った。
だけど、家に入れるわけにはいかない。
こんな反りの合わない上司と時間をともにするのは仕事の時だけで充分だ。
「帰ってください。じゃないと警察呼びますからね」
もう一度警告して、手に持ってるガラケーをパカッと開き、一一〇にいつでも通報できる状態にしておく。するとどうだろう。外の玲には見えないはずなのに、
「わ、わかったよ。ごめんね、悪さが過ぎました!」
通じたのか慌てて去って行った。
また明日! と言い残して。
「何だったの……」
騒ぐだけ騒いで嵐のように去って行った上司の相手をしてるだけでまた汗を掻いてしまった。
あんたの相手してる暇はないのよ、と内心で呟き、
「今月の生活費、稼がなくちゃ」
虚ろな目をしながら壁に爪を立てて決意表明して、
「シャワー浴びよっかな。水道代無駄になっちゃうよ。まったくもう」
壁から離れて頭を掻いて独り言を口にしながら脱衣所に向かった。
「スコーンとコッペパンのセット? 誰が食べるんですか」
「客だ。俺たちが食っても店の利益に繋がらん」
当たり前のことを訊くな、と言わんばかりに店長の石平賢二は胸を張って言う。
「いえ、店長の利益重視の意見はどうでもいいんです」
「ど、どうでもいいのか」
「はい。私が言ってるのはセットの問題なんです」
「俺の髪型が?」
「ぶちますよ」
「嘘だよ。乱暴はいかんぞ、鏡石」
あんたがイライラさせるんでしょ、と杏璃はこめかみを人差し指で軽く揉んだ。
翌日出勤すると、杏璃の上司でマネージャーの田畑玲と、三十代半ばにしては少しだけキテる店長の石平賢二がレジカウンターを挟みながら話していた。
昨日の今日で顔を合わせにくいと内心で思っていたのだが、玲は昨日のことなど何もなかったという態度で接し、セットメニューの工夫を持ち掛けられたと教えてくれた。
それを聞いた杏璃は首を傾げた。
あおぞらカフェにセットメニューなんてあったかしら、と。
この一ヶ月間。単品メニューしか見たことがないので疑問に思うのは当然だったが、今日から始めるんだよ、と賢二が教えてくれたのはいいのだが、スコーンとコッペパンという組み合わせはちょっとないのではないかと賢二に疑問を投げかけ、不毛なやり取りが続いたというわけだ。
杏璃と賢二の緩い論戦が収まったのを見計らって、
「いいんじゃない。ここにスープとサラダを付ければ客だって納得するっしょ」
そこじゃねえ、そんなのそこら辺のファミレスのメニューパクったようなものじゃないの、ともう一方のこめかみを揉んだ。
「いい歳して一休さんごっこか。新人は気楽でいいねえ」
「違いますけどね!」
「反論するところが図星じゃないの?」
「違います」
冷静に否定。無意識に両方のこめかみを揉んでしまったことは問題だ。この上司のことだ、絶対ネタにする可能性は排除できない。
「それより、考えましょう。スコーンとコッペパンを皿に盛って提供するなんて大問題ですよ。どうするんですか、口の中ぱさぱさになって、店中、年寄りだらけになっちゃいますよ」
杏璃の言葉に玲が顔を逸らして「ふっ」と笑う。
客が皆同じメニューをオーダーするわけがないのに、その光景を思い浮かべるだけで笑いが込み上げてきてしまう。
「ごめんごめん。アンちゃんが面白いこと言うからさ」
「別に構いませんけど。田畑さんが笑おうと泣こうと私には一切関係ないので。……それでですね」
話を戻そうとした杏璃だったが、上司二人から「関係なくないだろう。鏡石の上司なんだから」とか、「アンちゃんって冷血女だったんだ……」と、批判の声が上がり気圧されてしまったが気を取り直して、
「スコーン一個デザート付ければ充分じゃないですか」
と、提案。
「む。なるほど。それじゃあ、シチューも付けよう」
「お願いします」
これで新メニューは決まったと思ったら、
「何二人で決めちゃってんの?」
私の存在忘れてない? と言いたげな顔をして玲が杏璃と賢二の間に入って抗議した。
「すまんっ。鏡石と話す機会があまりないものだから弾んでしまってな」
「いくらでも話せる時間はあるでしょ。私じゃ駄目なの?」
「田畑は年下のくせにタメ口だし鏡石より一つ年取ってるだろう」
賢二が杏璃と玲を見比べながら言う。
「たった一歳の差に拘るあんた――じゃなかった、店長が理解できない……」
これだから昭和生まれの男は嫌、と玲はうんざりした様子で言い、
「いっけない、開店の時間過ぎてる。……そこで隠れて見てないで準備しな! ほらあんたも早く着替えて!」
ホールと通路に繋がるドアの隙間から一部始終を見ていたらしい数人のスタッフに檄を飛ばし、杏璃の背中を押して入れ替わりになる形で追い遣った。
「う、うわっ。ち、ちょっと、何するんですか!」
ドアの向こうに叫んでも返事はない。杏璃は「もうっ」と悪態を吐いて更衣室に向かった。
若くしてあおぞらカフェのマネージャーに就けたのは持ち前の若さ……ではない。
石平賢二に頼まれて、嫌々ながら引き受けたのが始まりだった。
その前のマネージャーは居酒屋の看板娘とも言うべき女性で、市内の個人経営の書店の店員と結婚するのを機に辞めてしまったという。
田畑玲は純粋にカフェで接客業をしたかっただけなのに、何故、こんな面倒なことをド素人の自分がやらなきゃならないのか。
今日なんて下っ端の一つ年下の女性店員に新メニューの提案をされて、石平が採用、何人かの客が注文していたのを憶えている。
正直、悔しい。
誰が採用してやったと思ってる? 店長の目の保養にちょうどいいだろうと採用したのがそもそもの間違いだったか。
「まったくアンちゃんは……」
鏡石杏璃。
一つ年下でさらさらロングヘアが素敵だと感じて仕方ない女性。彼女をからかうのは玲なりのスキンシップ。決していじめてるわけではない。だけど、そこを勘違いされてしまうのが辛い。
「仕事は楽しくしようじゃないか。あ、時間だ」
休憩室を出て、一階に駆け足で向かう。小さな店でこれといって繁盛してるわけではないけど、繁盛する時はする。
「アンちゃん。交代しよっ」
レジで接客対応していた杏璃になるべく明るく言ってみたのだが、
「熱でもあるんですか?」
早めに帰って休んだ方がいいんじゃないですか、と非常に冷めた眼で見つめられながら言われ、固まった。
「な、ないよ。あるわけないじゃん。ははははは……」
それでも杏璃の視線は変わらない。いきなりフレンドリーに接しても上手くはいかないようだ。
「仕事の邪魔なので、注文を取りに行っていただけませんか?」
「え。わ、私が?」
「うちのカフェって人員が足りないじゃないですか。マネージャーだろうと店長だろうと関係ないですよ」
お客さん待ってるので早く注文取りに行ってください。というか行けよ、と低い声で命令され、
「は、はいっ。ただいま!」
背筋がピンっと伸び、何故かわからないが条件反射というのだろうか、軍人よろしく敬礼してホールに向かった。
――こ、怖かった……。ん? 何で私がアンちゃんに指図されなきゃならないの?
むしろ指示するのは私……と思ったが、それどころではない。
一部始終を見ていた客は何事かという顔をしていたが、そこはとびきりの笑顔で乗り越えてオーダーを訊いた。
――立場が逆転してるのは気のせい?
内心で疑問に感じたけど、帰る頃には忘れていた。
数日後の帰り際。
「新人さんですか?」
「そうなの。うちはほら、居酒屋並の広さしかないし、人件費もかかるし、アンちゃんを拾ってからは一切アルバイトの募集かけてないんだ。うん」
「公園に捨てられた犬猫みたいに言わないでください」
杏璃の抗議に玲は意地悪く笑って、
「上手いたとえだね。いやでも、これ本当なんだよ? 経営は順風満帆じゃないし、赤字続きだし、店長の小遣いは減る一方だし」
最後は知る必要のない情報だな、と杏璃は嘆息して、
「田畑さんが採用したってことは、個性的な人なんでしょうね」
皮肉を込めて言った。
しかし玲はまた意地悪く笑って、
「ま、できるだけ一人にさせとくのがいいかな」
「……どうしてですか?」
首を少し傾げながら訊ねる杏璃だったが、玲は憎ったらしい笑みを浮かべるだけで答えてはくれなかった。
「何かそれ、私にも当てはまりそうなんですけど」
「…………そうでもないよ?」
「今の間が答えなんですね……」
そう言ってロッカーの扉を閉め、
「え? いや、アンちゃんの場合はさあ、金に飢えてんのが顔に出てたんだよね」
「そうでしょうね。田畑さんと違って親と同居してませんもん」
「え、何で知ってんの?」
じゃあ帰ります。お腹減って死にそうなんで、と言って頭を下げ更衣室を出て行こうとする杏璃に、
「食べてきなよ。賄い食ってあるの知ってるでしょ? お金浮くしさ」
親切に提案した玲に、
「結構です。後になってお金請求されそうなので」
杏璃はきっぱりと拒絶。ドアを閉めて通路を進み外に出ると、大通りを学校帰りの学生たちが何組か歩いていた。
同性同士、異性同士、そのどちらも楽しそうで眩しい。
「……ふん」
鼻で軽く笑い、独り言を呟き駅方面へと向かった。
つい熱くなって新人が男なのか女なのか、年上なのか年下なのか、いつ配属されるが詳細を訊きそびれたけど、仲良くする気になった? とか言われそうなので仕方ないと諦めて、再び歩き出した。途中、コンビニに寄って今夜の夕食を買った。
カツ丼弁当と野菜のミネストローネ。
レジ係の杏璃より年下だろう男性が、これだけで足りんの、と言いたげな視線を向けてきたのが杏璃には痛かった。
金に貪欲なわけではない。どちらかといえば無頓着なほうで、あれば使うし、なければどうにかなるだろう、と思っている。
でも最近は頭の中の大半を金が占めているような気がして、自己嫌悪に陥ることが多くなっている。
顔に書いてあったのが顔に出ていたと、上司の田畑玲に見抜かれた時は、正直、「何この電波女」と思ったが冷静に質問に答え、乗り越えた。
それに人のことを公園に捨てられた犬猫を拾ってきたかのような表現や、一人にさせといた方がいいと思っていたなんて、非常に侵害だ。
あそこが職場でなければ。万に一つあり得ないが友人だったら、頭を思いきりぶっ叩いていたかもしれない。
「性格が悪過ぎんのよ」
そう独り言を口にして大学ノートに上司の悪口を書き込んでいくその様は、数年前にアニメ化された『死神ノート』さながら。
実際に気まぐれな死神がいて、好物の桃をありったけくれたら、反りの合わない一つ年上の上司とおさらばできるのかしら、と非現実的なことを妄想して、溜息を吐いてシャープペンを置いた。
人間関係に悩むことなど、以前の職場では考えられなかった。
たぶん、毎日が充実し過ぎていたのかもしれない。若くはない店長の下で杏璃を含め四人が協力し合っていた。
あの時が懐かしいと思っても、時間は戻ってくれない。
未来志向で行きましょう、と言いながら、蓋を開けてみれば憎しみ全開でした、みたいな自虐被害妄想に縛られた某国ではない。
杏璃が過去を懐かしみつつファストフードの袋からチーズバーガーの包みを取り出して剥がし、大口を開け、今まさに齧りつこうとした、その時。
チャイムが鳴った。
数日前もこんなことなかったっけ、と思いながら玄関に向かう。モニターで誰が訪ねてきたのかは確認せず、ドアを開けた。
「……危ないな。そそっかしいところは誰に似たんだか」
「さ、彩花っ。中林彩花じゃない! 何、どうしたの? 東京に行ったんじゃないの? あ、寂しくなって戻ってきたんだ?」
杏璃は早口で捲し立てながら、ダッフルコート越しに中林彩花という女性の肩を揺さぶった。
「こ、こらっ、や、やめなさいってば! 舌噛むっ」
「ああ、ごめんね。えっと、記憶が正しければ私と彩花は中学校が三年間同じクラスで、でも、話したことって一回もなかった気がするんだけどなあ」
数年前の記憶を掘り下げる杏璃に、
「中に入らせて。寒い」
ダッフルコートの裾に隠した両手を口に当て、洟を啜る彩花。どうでもいいじゃないそんなこと、という声は杏璃に聞こえなかったみたいだ。
杏璃は彩花を居間に通さず二階の自室へと案内した。
「大胆だ」
階段を上りながら杏璃は苦笑して、
「だって、これから夕食ってところを邪魔されたんだもん。居間で時間潰してたら冷めちゃうよ」
「悪かったわね。間が悪くて」
彩花が子どもっぽい仕草をして言う姿が、後ろを振り向かなくても思い浮かぶ。
「そんなことないよ。私は寛容だからね」
「……自分で言うか普通」
不毛な会話をしてるうちに杏璃の部屋に到着。中に入るよう促して彩花が放った第一声は「寒っ!」だった。
「えー。寒くないよ。ほら、ストーブ点いてるよ」
そう言って杏璃が指差した先にあるのは、
「電気ストーブじゃないっ。こんなん電気代無駄に消耗するだけで役立たず!」
お邪魔しますの一言もなしに部屋にずかずかと入っていき、こじんまりと床に置いてある四角い物体を足で踏みつけながら言う。
杏璃は踏みつけられた猫よろしく悲鳴を上げた後、
「ちょちょちょちょっと! あ、危ないじゃない!」
慌てて後ろから羽交い絞めにして引き離した。二人して床に頽れ、少しは温まっただろうと思ったのだが。
「電気ストーブはねえ、邪道中の邪道中なのよ。時間かかるし」
まだ文句を垂れえていた。
「あ、あのね。あのね、彩花」
「気安く名前で呼ばないで」
うわ、面倒くせえ、と思いつつ、
「中林さん。足で蹴っちゃ駄目。子どもでもわかることだからね。住むとこ無くしたら両親に殺されちゃう」
「殺されてしまえ」
子どもだ。同級生が幼児返りしてらっしゃる。
人気作家の小説の題名じゃあるまいし、大人げない。
「我慢してよ。貧乏なんだから」
「そんなの私だって同じだよ。つか、世の中大富豪ばっかだったら貧困撲滅できるわ」
「う、うん。そうね」
まともなこと言った、と思ったところで、
「何しに来たの?」
疑問をぶつけた。同級生だったけど、話したことなど一度もない彼女が、誰かに家の場所を訊いて訪ねてきたのには理由があるはずなのだ。
「決まってんじゃない。ご飯奢ってもらおうかなって思って」
「……は?」
このオナゴは何を言ってんだろうかと聞き直してみると、
「だ、だから……ご飯奢って。つーか食わせろ!」
えいやっ、とカルタ取りよろしくテーブルに置かれたチーズバーガーに手を伸ばし、見事に掴み取って自らの口へ持っていき、はむっと漫画の吹き出しにあるような声を上げて齧りついた。
「あああっ!? 久しぶりに買った二百二十円のチーズバーガー返せこら!!」
奪われたチーズバーガーを取り返そうと犬猫よろしく両手を振り下ろす杏璃だが、彩花はチーズバーガーを咥えたまま後退。
結果、床に顎を強打。神を崇めたまえ……みたいな恰好になってしまい、難を逃れた彩花に「無様」と罵られた。
「ぶ、無様だろうがたまに食べたくなったんだからしょうがないでしょ。あんたね、人様のモノ奪うんなら買いに行きなよ」
呆れながら言う杏璃に、あっという間に残り僅かになったチーズバーガーをはむはむと咀嚼して飲み込んだ彩花が、
「お金ないもん。今月の給料全部食費に使っちゃった」
と言って笑う。
全然、可笑しくない。
「ちょっと待ってよ。中林さん。失礼だけど一ヶ月の給料いくら?」
その問いかけに彩花は顔を曇らせる。当たり前だ。給料をいくらもらっているのかなど親しくもない人に教えたくはない。だが。
「七千円」
「…………え?」
「だから、七千円って言ってるでしょ」
「な、なな……七千円?」
何その金額、と仰け反った。
それは一般社会でいう給料と呼べる金額ではない。
よからぬ企業に不当に雇われて、長時間労働を強いられているのではないか、と杏璃は勘繰ったが、
「く、訓練所に通ってるの」
「訓練所?」
「うん。社会復帰が目標なの」
「へえ……」
何だか話の方向が重たくなってきた。
「……私、高校行ったんだけど、嫌な思いばかりして、二年に進級してすぐニートになっちゃって……それで治るかなって思ったんだけど、治んなくて、結局中退しちゃったの」
彩花が言う「嫌な思い」というのはだいたい見当がつく。問題は、
「何が治らなかったの?」
これだろう。
彩花は膝に置いた両手をぎゅっと握り、
「か、鏡を見ることができないの。ううん、自分の顔が映るものは全て駄目。消したままのテレビも」
苦しそうに答え、布を掛け自分の顔が映らないようにしていることを付け加えた。
どう言葉を返していいのかわからない杏璃は、天井を見上げ、案外シミとかで汚れてるじゃん、未知の生物が生息してそう、と若干現実逃避した。
だが、中学時代の同級生が困ってるのを見て見ぬふりはできない。
「中林さん。話を聞かせて?」
その言葉を待ってましたとばかりに、彩花は訓練所に通うまでの経緯を話した。
関西のおばちゃんも顔負けのマシンガントークで。
彩花の話を簡単にまとめると、高校を中退してニートになり、十八歳になるまで無職の生活を送り、誕生日を迎えると同時に職探しを開始。一発で見つかると思いきやその壁は分厚く、なかなか職にありつけない。
二十一歳の誕生日を迎える数日前、見かねた両親が知り合いの雑貨屋を紹介してくれたものの、一週間で辞めてしまった。
原因は簡単。他の店員にコネだと陰口を叩かれ、私物が紛失する事態にまで発展。
両親の知り合いは彩花を庇ってくれたが、限界だった。
再び職探しをしようとした時、その両親の知り合いが勧めたのが、社会復帰を目的にした訓練所だった。
今年で通所二年目。社会復帰目標年と言われているが、その見通しは限りなく低い。
「引きこもりって面白そうじゃん」
杏璃のその言葉に、
「全然面白くないわよ!」
彩花は詰め寄りながら反論した。
第二話
「チーズケーキ? パッとしね」
「胸にグサッとくる言葉を直球で言わないでくれ、鏡石」
最近キャラが固定されてないぞ、と店長の石平賢二のツッコミ入り。杏璃は顔を曇らせながら「余計なお世話です」とつっけんどんに返してコーヒーカップを手に取り、口に運んだ。
口中に温くて苦い味が広がった。
閉店後、慎二が新メニューを新たに追加したいと持ち掛けてきて、他の従業員を帰らせ杏璃と玲の二人だけ残して会議を開くことにした。下っ端の杏璃が何故残らなくてはならないのか不満を訴えたが、前回の新メニューの提案が採用されたので残ってもらったと賢二が理由を述べ、好意を持ってるのではないのかと玲は鋭い変化球を投げ、慎二は咽り、こんな暑苦しい体育会系は好みではないと無情にも杏璃は拒絶した。
そんなやり取りがあったのだ。用意されてたコーヒーが冷めるのも肝心のシロップとシュガーを入れ忘れるのも無理はない。
「あはははは。ザビちゃんはアンちゃんの尻に敷かれてるねえ。私はケーキの王道、ショートケーキがいいなあ」
チーズケーキ好きじゃないんだよね、と言ってコーヒーを飲む玲に、
「ザビちゃんてなんですか? それにこの場は田畑さんの好みを述べる場じゃありませんけど」
正面に座る杏璃が鋭く注意し、
「お、俺の髪は薄いがあんな外国人司祭みたく禿げてないぞ」
賢二が頭に両手を乗せながら実在した外国人にたとえながら反論した。杏璃は何となくではあるが、「ザビちゃん」が誰なのか検討がつき、ああ、と内心で納得した。
「と、とにかく。話を戻すぞ。……田畑いつまで笑ってんだ」
「すいませんねえ。人間、正直が一番って言うじゃないですか」
勝手に決めないでください、と杏璃は言って溜息を吐き、
「正直者が馬鹿を見る、って故事知ってますか? 田畑さん」
そう続け、何故か憐れむ視線で玲を見た。まるで、あなたのことですよ、と言ってるかのように。
しかし玲は気づいておらず、自分の発言がツボにはまったらしく不吉な声を上げながら笑っていた。
「駄目だ。こいつは放っておくとして……何か良い案はないか」
「そうですね、ショートケーキなんてイチゴケーキみたいなものですし」
「言ってる意味がわからないぞ、かがみん」
「あぁ?」
「ごめんごめんっ。冗談だよ冗談……。で、もう一度訊くが、どういう意味?」
お前の苗字長いから可愛らしく省略して言ってみたのに、そんなヤンキーみたいに睨まなくてもいいじゃないか、と賢二は内心で不満を吐露。
だが、成人女性に配慮が無さ過ぎだという自覚は残念ながら無かった。
杏璃は今度「かがみんって言ったらぶちますから」と前置きして、
「クリームの上にイチゴ載せるのはわかるんです。だけど、スポンジとクリームの間にイチゴを挟むじゃないですか」
「挟むなあ。酸っぱくて美味いんだ」
「腐ってるんじゃないですか」
「おいおい。不気味なこと言わんでくれ。今日知り合いの農家から届いた採れたてを食べたんだぞ」
そうなのか、と言いたげな顔をして額に浮かぶ汗を掌で拭いながら言う。
「尚更じゃないですか。はずれの一つくらいありますよ。結婚する前と後の女と一緒じゃないですか」
上司を汚らわしい目で見た後、さり気なく上体を横にずらした。
「意味わかんねえよ。七変化すんのか」
杏璃は鼻で笑い、
「お笑い番組の企画ですか? 店長は歴史上の人物と河童しか変化できないですよ」
あ、二変化ですね、と厭味ったらしく言う杏璃に賢二は顔を引き攣らせ、いつの間にかこちらをにやあっとエロ親父よろしく見つめていた玲と視線が合い、すぐに逸らす。
無視すんなよー、という玲のふざけた声は無視して、
「ケーキなら抹茶ですね。苦味と甘さが絶秒ですよ、きっと」
提案。しかし。
「日本と西洋が融合していいと思う。思うが……注文する客いるのか?」
賢二の意見は懐疑的なものだが、
「店長の発言は宇治金時を誰も注文してくれないって言ってるのと同じですね」
「えっ。ち、違うぞっ。鏡石、俺をはめようと――」
「すいません、そろそろ帰らないと同居人が煩いので」
失礼します、と頭を深く下げホールを出て行った。
引き留め損ねた賢二は椅子に座り直し、それまでアホ面丸出しで笑っていた玲と顔を見合わせ、
「「彼氏と同棲生活?」」
見事に声をはもらせながら通路に出るドアに視線を向けた。
そのドアの少し離れたところで、
「んなわけないだろ」
杏璃は毒吐いて壁を拳で軽く叩いた。
十年近く廃墟と化してる団地の小さなスーパーマーケット前でバスを降りると、道路を横断して住宅地を歩くこと数秒。築三十年以上は経ってるだろう戸建ての家に到着。
最新式と言えば在京球団『兎』の終身名誉監督がイメージキャラクターの警備システムのみ。
頑固な両親に『建て替え』の文字は辞書になかったのだから、今更どうこう文句を言ったところで仕方ない。
ここに独りで暮らしているというのは贅沢と言っていいのか。そんな小さなことで悩む暇があるなら生活費を稼ぐ時間と『同居人』の存在だ。
「ただいま。元気にしてた? 『可愛い同居人』さん?」
茶の間出入り口から首だけ覗かせてこちらを窺っていたのは、四足歩行で茶色の毛並の動物。正しくは人ではなく犬。
先月の終わり頃、仕事の帰り道に何気なく立ち寄った大通り公園の出入り口の右隅っこに置物よろしくお座りしていて、首輪にはメモ用紙が一枚下げられており、
『無理です。飼えないです。誰か拾ってください』とスポーツ解説者みたいなメッセージが添えられていた。
怒りが湧くどころか笑った。
よほど切羽詰った事情があってこういう方法に打って出たんだろう。
この置手紙を読む限りでは元の飼い主は学生だろうと杏璃は推察する。バラエティ番組を観過ぎてるような、ごく普通の、どこにでもいそうな未成年。
気にはなるが探偵ではないので探し出そうとは思わない。
一つ困ったことは、生活費を稼ぐことで精一杯だったのが、ペットの餌代が追加されたことで負担が増したことなのだが、それは我慢するしかないとして、柴犬に餌を与えなければならない。
柴犬なのでシバと名前を付けたのだが反応が薄かった。神様みたいでカッコイイのにと思ったが、よく考えてみると某携帯電話会社のイメージキャラクターの犬みたいで、自分よりこの柴犬のほうが賢いのは気のせいだろうか。
残念な気持ちになりながら柴犬のもとに行くと、
「ただいま、コタロー」
と言って左耳の付け根を擽った。
コタローは「フンッ」と鼻息を荒く返事した。擽ったかったのか、続けて首を激しく振って「フンッフンッフンッ」と鼻息を荒く三連発。
人語に略すれば、「お帰りなさいっお帰りなさいっお帰りなさいっ」だろうか。杏璃は笑って台所からドッグフードのクッキーを持ってきた。それを見たコタローはくりんとした目をどんよりとさせた。
まるで「またそれなのかよ」と言ってるみたいだ。
「ごめんね。貧乏な杏璃お姉さんはにはこれが限界なのよ」
申し訳なさげに言う杏璃を余所にコタローは「フンッ」と鼻息を一つして、掌からクッキーを掻っ攫っていった。
「しょうがないですか。コタローは何が食べたいんだろうね」
犬語が理解できそうで自分が怖いと思いながらクッキーをもう二個、コタローにくれながら背中を撫でた。
一般的なドッグフードは値が張る。
「しばらくはクッキーで我慢してもらうからね」
そう言った途端、コタローが最後のクッキーを口に咥えたまま杏璃を見上げた。さっきと違ってびっくりした顔で、「正気か?」と言ってるかのようだ。
そんなことに気づく様子もなく、杏璃は自分の夕飯の用意をする。と言ってもメインの主食は数秒で用意できた。
買い置きのカップ麺(味噌味)にお湯を注ぎ、帰宅途中に立ち寄ったコンビニで買った惣菜を小皿に盛り、同じくコンビニで買った五百ミリリットルのお茶のペットボトルのキャップをひねってコップに注いだ。
カップ麺が出来上がるまで惣菜で空腹を凌ぐ。
こういう食卓は今日が初めてではないが、完全に男の独り暮らしと化している。
一つ違いがあるといえば、コタローの存在だ。この広くもない家に独りで住んでいるとはいえ、寂しかったのは事実だ。
いつまでも職に就かない娘に愛想尽かして家を出ていった薄情な両親に文句はあるが、今は食事を優先しなければならない。
「そろそろいいかな」
時間を確認して独り言を口にすると、ワンッと一鳴き。まるで「いいんじゃね」と言ってみたいで、杏璃はくすっと笑った。
「いただきます」
蓋を外して麺を箸でよく解して、口でふうふう冷まして啜った。
味噌のコクが箸を動かす手を止めてくれない。気づいたらカップ麺を完食していた。
「ごちそうさまっ……おっと、野菜食べなきゃね。……な、何?」
それを不思議そうな顔をして見ていたコタローと目が合った。
その目が「女にしては食べっぷりが豪快だな」と言っているような気がしたのだが、相手は犬。恐らく「何だその奇妙な食い物は。どんな味?美味いのか?」と思ってるに違いない。
「食べたかったの?」
ワンッ、と一鳴きするコタローに、
「ラーメンはちょっとねえ。うーん……あ、うどんとかだったら大丈夫かな。今度食べさせるから、それでいい?」
ワフッワンッ、と一瞬躊躇った素振りを見せたコタロー。「ほ、本当だろうな?」と言ったのか、「人間の『今度』は信用できないんだよ」と抗議したのかは定かではない。
惣菜を平らげて後片付けして、面白い番組やってないかとテレビの電源を点けてチャンネルを回すが、これといって特になかったので、不貞腐れているコタローを少し構ってから風呂に入り、少しネットで調べものをしてから就寝。コタローは床で寝た。拾われた当初からこうなのだが、一緒に寝たいと思ってる杏璃にとっては残念で寂しい。
「何だい何だいアンちゃん、いつにも増して顔色のお艶がいいじゃない?」
「褒められてるのに全然嬉しくないし、普通に艶でいいじゃないですか。勝手に殺さないでください」
休憩中、ホールで接客をしてるはずの玲がスタッフルームに入ってきて、いきなりそんなことを言うものだから、杏璃はカチンときてつい反論してしまう。
「日本語って難しいよね。日本人の私でさえ理解できない時があるもん」
「それは田畑さんに充分な理解力が備わってないからじゃないですか」
言い過ぎたかな、と内心で冷や汗を垂らすが、
「辛口だねアンちゃん」
「その言い方、やめてくれませんか。知らない人が聞いたら男だと思われるじゃないですか」
「えー。だって、かがみんって呼ばれたくないんでしょ?」
痛いところを衝くな、と下唇を噛んだ。
そんな呼び方をされるなら今の方が断然マシだ。
「とにかく、田畑さんは社会人としてもう少し自覚を持ったらいかがですか。上司なんですから。毎日毎日、下っ端の私相手に嫌がらせしてストレス発散するのはどうかと思いますけど」
話を戻した杏璃に玲は苦笑して、
「そんな言い方はないよ。私は上司だなんて一度も思ったことないし、皆と同じ目線に立って楽しく仕事していきたいだけだもん」
テーブルに置いてあった一口サイズのワッフルの袋を開け、ひょいっと口に放り込み、杏璃の前に置いてあったマグカップを手に取り口をつける。
その様子を呆気に取られながら見ていた杏璃は、マグカップが返ってきてようやく、
「何するんですか! 非常識です!」
抗議したものの、当の本人は満腹感でほくほく顔。聞いちゃいない。
これがと言っては大変失礼だが、職場の上司とは呆れる。
「まあまあ。減るもんじゃないし」
「そういう問題じゃないです! 田畑さんはモラルが欠如してると思います」
「言ってくれるねえ。……いいよ、そういうの、嫌いじゃあない」
そういうの、ってどういう意味? と杏璃は困惑して言葉が見つからない。そこを玲は槍で突くが如く、こう言った。
「真面目にやってればいいってもんじゃあないんだよ」
その言葉は衝撃的であり、新鮮で杏璃は頬を拳で思い切り叩かれた錯覚に陥った。
だけど、真面目にやらなと社会人として終わりだと思うのだ。何か言わなくちゃと口を開こうとしたのだが。
「はめを外すって大事だよ? お堅い態度ばかり取ってると、逆に悪印象を与えちゃう」
特に上司にね、と言いながら人差し指で自分を指す玲の顔には笑みが浮かんでいた。
「んじゃ、私は仕事に戻るよ。アンちゃんはゆっくり休んでていいからね」
コーヒーごちそうさまー、と言い残して去って行った。
「……っざけんな」
茶菓子のアップルパイの袋をスライドドアに向かって投げたものの、勢いを失ってテーブルのすぐ下に落ちた。
むなしさだけが後に残った。
「嫌な上司なんてどこの業界だっているもんよ。訓練所だっているんだから」
自室のデスクチェアに反対向きで座りながら言う彩花をベッドに寝転がりながら見つめる杏璃はそういうものなのかと思った。
気を落としつつ帰宅すると、玄関先で見知った人物が体育座りしているのが見えた。
――住宅地でぼっちごっごしてんじゃないわよ……っ。
と内心でツッコミながら、どうしたのか訊ねると、訓練所で男性の同僚と揉め、、そのまま出てきたという。
脱走の二文字が杏璃の脳裏に浮かんだが溜息を吐くだけに留め深く追求はしなかった。
「中林さんの上司はどうなの」
「教えてもいいけど、杏璃の目死んでる」
余計なお世話だ。
こっちは毎日毎日、一つしか年齢が違わない同性の上司に腹立ってんだよ、と言いたかった。
「煩いな。いいから教えなさい」
あんた自分のことは気安く名前で呼ぶなって言ってたくせにと文句を言いたかった。
彩花は上体を背もたれに預け、
「優しいよ。だってさ、訓練所だもん。厳しくしたら保たないでしょ?」
笑いながら彩花は言う。
「……皮肉?」
じっとりした表情で問いかける杏璃に、
「言ったでしょ。訓練所だって。いろんな人達が集まって、一つの目標に向かって頑張ってんの」
彩花は苦笑いして言った。
自虐的だなと思うが訓練所の実態を把握していないので何とも言葉を返しようがない。大変だね、と労うのは安易過ぎるし、気持ちを逆なでするかもしれない。
「ふうん。私の上司も優しけりゃよかった」
できるだけ刺激しないよう慎重に言葉を選んで言う。
「優しくないんだ?」
「全然。一つ上ってだけなのに嫌な奴なの」
「へえ。それは大変」
あんたが一番大変なんだってば、と内心で突っ込みつつ、「お気遣いどうも」と気だるげに言ってのっそりと起き上がる。
「ご飯食べる?」
「ううん。杏璃が買ってきたこれで充分」
そう言って指差したのは行きつけのコンビニで買ったクリームパンだ。
「足りるの? ていうか、ご両親心配してるでしょ。早く帰りなさいよ」
時刻は午後二十時。帰宅して三時間が経過している。一階の茶の間では愛犬のコタローが腹を空かして待ってるだろう。飯寄越せと抗議しに来ても不思議ではないのだが。
しかし彩花は鼻で笑って、
「心配? それなら問題ないわ。家じゃあ空気みたいな存在だから」
そう言うとデスクチェアから腰を上げ、
「杏璃。世間は上っ面だけ。愛想よく振りまいても嫌われるんじゃ救われない」
「えっと……」
中学の同級生が説法を解く宗教論者に見えたのと、そんなこと言われてもと困惑。言葉に詰まった。
だけど、言ってることは理解できる。商売柄、愛想よく接しなければ客の気分を害するだけ。しかし難しいもので『身内』に接する際は慎重に判断しなければ天国ではなく限りなく地獄に近いグレーゾーンを這うはめになりかねない。
「あなたのことだから真面目にしてるんでしょう? でもね、皆自分のことで精一杯。他人のことなんて考えてないわ」
猫被ってるだけ損するわよ。
「ま、待って。猫なんて被ってないよ。媚びたって得しないし」
それは本当だ。あの上司に媚びたって何の得にもならない。
店長の石平賢二に抱かれたいとは思わないし、第一、頭の薄さが気になってある意味耐えられないだろうし、マネージャーの田畑玲に関しては問題外だ。
あんな性悪女とは親しくならない方が身のためだ。命がいくつあっても足りない。
「中林さん。さっき家では空気みたいな存在って言ってたけど……」
「そうね。訓練所通いをしてる人間って、結構厳しい目で見られるのよ。二年までは温かい目で見られるの。お金の面とか、いろいろね。そういうことがあって、世間体を気にしちゃう親は空気だと思って扱うことにしたみたい」
「……」
「通いたくはない。でも、どんなに安くてもお金を稼がないと生きる喜びを感じない。生きる死人なの。私はね」
中二病っぽいな、と言って苦笑する姿を杏璃は笑うわけでもなく見ていた。
『生きる死人』という発言は矛盾しているのではないか。その前に『安くても賃金を稼がないと生きる喜びを感じない』と、彩花は発言している。
もしかしたら自分を見失いかけているのかもしれない。
そんな中学時代の同級生を見てると、両親が離れていったこと、必死に就職先を探していた自分を重ねてしまい、大変に失礼なのだが、不快だと杏璃は思った。
彩花が帰った後、一人寂しくコンビニ弁当で夕飯を済ませてベッドに入った。
まだ九時にもなっていないけど、早く寝たい気分だった。
「らしくないねえ」
「人間ですから。間違いますよ」
「開き直るのも早いねえ。いつものアンちゃんじゃあない気がしたよ。何かあった?」
勘が鋭い上司だと悟られないように杏璃は努めて平静を保ちながら、
「何もありませんけど」
つっけんどんに否定した。しかし玲は追及の手を止めなかった。
「噓くさい。ショックなことがなければ四回も会計間違うわけないじゃん。CDなら初回限定生産価格のシフォンケーキ一ホールを一万円で購入した客にさ、会計いくら請求したと思ってんの。三万だよ?」
「……」
「二百九十円のショートケーキの時は千円でしょ」
「……」
「同じく二百九十円の抹茶ケーキの時は六百円」
「……」
「んで最後は、四百円のアボカドバーガーに千円。これでまともな精神状態ならどじょう踊りしながら謝罪するよ」
ほれ説明してみろ。
テーブルに肘をつきながら借金取りよろしく説明を求める一つ年上で上司の田畑玲を杏璃は、俯いたまま見ることができない。
昨日の彩花の話が頭から離れなかったことと、愛犬のコタローが一緒に寝たいと自室のドアを破壊する勢いで体当たりし始め、仕方がないので部屋に入れたのはいいものの、部屋の中を目的もなくうろちょろし落ち着かなく、寝かしつけるのに朝方までかかった。そういうこともあり、寝不足で頭の回転が鈍っていた。
しかし、ミスはミス。出勤して早々やらかした大失態に同僚は騒然。店長の石平賢二は気を利かせて休憩するよう指示。現在、休憩室に玲と二人きり。聞こえはヤラシイが傍から見ると取り調べ中の警察官と被疑者という印象を受ける。
――あんたのどじょう踊りなんか見たくないってば。
杏璃は内心で毒吐き、マグカップを手に取った。中身は甘いココア。コーヒーが切れてるからと玲が用意したのだが、ココアはあまり好きではない。こんな甘ったるい飲み物をよく飲めるものだなと不思議でならない。
杏璃はいつも微糖を好んで飲むが、充分甘いだろと指摘された時は「コーヒーとココアの甘さは違う」と反論し、詭弁だと反感を買うことが多い。
そう言われても違うものは違うのだからしょうがない。というか、明らかに違う。
いっぺん舌交換して味見し直してみろと何度思ったことかしれない。
「つまんないジョークはいいんですけど」
「ジョーク? 私がいつジョークを言ったのさ。ミスを説明しろって言ったんだよ?」
言われてみれば。
どじょう踊りから始まって、ココアとコーヒーの甘さは一緒だ発言ですっかり忘れていた。
しかし説明も何も寝不足としか言いようがないので、他の言い訳を考えるしかないのだが思い浮かばない。
愛犬が寝かせてくれませんでした、と言ったら、この上司はどんな反応をするのか一瞬興味が湧いたが、自分の立場が今以上に危うくなりそうな予感がしたのでやめた。
「ま、私は鬼じゃないからね。あと十分休んだらレジ交代ということでお願いね」
そいじゃ、と軽く手を振って休憩室を出ていった。
「……充分鬼だよあんた」
ぼそっと呟いてマグカップを口に運ぶ。
「……コーヒー飲みたい」
ココアよりコーヒーが自分に合ってると思いながら室内の時計に目を遣ると、午前十一時を過ぎていた。
通常ならあと一時間弱で休憩だが、失態をやらかした手前、交代後は閉店後まで休憩なしだろう。
「鬼」
怨念を込めて再び呟くと杏璃はホールへと向かった。
「可愛いなあ……食べちゃいたい」
「大事な息子を食用にされて堪るか」
ひょいっと息子――もとい愛犬のコタローを彩花の魔の手から救出。コタローは知ってか知らずか、舌を出して息を荒くしている。怖がっているのではなく悦んでいるようで、杏璃の心境は複雑だ。
嘘だよと苦笑いして、
「犬を息子って変なの。杏璃に子ども出来たら親馬鹿っぷり発揮するんだろうね」
コタローに視線を遣りながら手を振ると、ワンッと一鳴きした。まるで共鳴してるみたいで面白くない。
「……余計なお世話。結婚願望なんてないし子どもは嫌いなの」
「そうなの? でもさ、あんた綺麗なんだからもったいないよ。恋愛して、気に入った男は逃がさないように捕獲しとかないと」
あんたは親戚のおばさんか、と内心で突っ込み、
「恋愛は狩猟じゃないって」
大人気ハンティングゲームと勘違いしてるんじゃないのかと危機感を覚えつつ、
「中林さんはどうなの」
コタローを解放しながら訊いた。
「私? 私はほら、今の状況から抜け出すことで精一杯だから」
えへへ、と笑う。
「逃げたわね」
「逃げてないよー。事実を言っただけ。嘘吐いたって何の得にもならないじゃない」
「そりゃあそうだけど……」
何か胸がスッキリしない。
立場がどうであれ、恋愛の一つや二つしとかないと腐る、と脅してやろうかと思ったが中林彩花の意思を尊重することにして、話を元に戻す。
「中林さんじゃないけど、今の生活で充分かなって、最近思うの」
コタローが家に来てからかな。
撫でながら言う杏璃を彩花は笑う。
「何よ?」
「やっぱり、鏡石さんはいいお母さんになるよ」
何を根拠に言ってるのかわからないので、礼を言う気にはなれず、
「地獄の一丁目に足を踏み入れる気はないけどね」
結婚はしませんよと、諺を使って言ったつもりだったのだが、
「鏡石さんも逃げた」
彩花は勘違いして笑い、杏璃は深い溜息を吐き、コタローはそんな二人を交互に見て、クゥン? と小首を傾げた。
「歳ですか? こう見えて二十一です」
――喧嘩売ってんのこの子。
四月も五日が過ぎ、あおぞらカフェに新人が一人入った。
ショートカットと目が一重、身長は杏璃より一センチほど低いだろうか。
名前を高那サキと言い、神奈川県出身の二十一歳。首都圏の大学を中退後、父の生まれ故郷に興味があるという理由で若会市に単身引っ越してきたという強者、悪く言えば変わり者だ。
現在は昼休み中で、年齢を訊いたのは杏璃だが、「こう見えて」が協調されてるように聞こえ、気に入らない。
「鏡石さんは何歳なんですか?」
満面の笑みで訊ねられ、答えないわけにはいかない。
「あと四ヶ月で二十三よ」
「わわ、私より上じゃないですか!」
それがどうしたのと視線で促すと、
「てっきり下かと思っちゃいました。十九歳ぐらいかなあって」
そりゃあいくら何でもねえべ、と内心で突っ込む。
――どれだけ童顔なんだ。……おちょくられてんのかしら。
入ったばかりの新人に。同性の、女性同士の争いほど熾烈なものはない。
学業にしろ、恋愛にしろ、仕事にしろ。
偏見かもしれないが、杏璃の周りの女性はそうだった。
「そう。一度眼下に行って診てもらったほうがいいわ」
わかり易い牽制を一つお見舞いしたが、
「やだあ。変なジョーク言わないでくださいよー」
サキはそう言って笑い、杏璃がよく利用するコンビニで買ったというシーチキンサンドを美味しそうに頬張る。
効果なし。
その年齢相応に見えないあどけなさからして、大人と表現するにはまだ早いかもしれない。
――これだからゆとりは……。
杏璃も充分ゆとり世代だが、サキは社会を甘く見過ぎているかもしれない。
「バイト経験は?」
「ないです」
口の端に具を付けたまま振り向き、即答。
「したかったんですけど、親が許してくれなかったんですよ。学生は勉強に集中してればいい、って聞かなくて」
やんなっちゃいますよねー、と同意を求めるサキに、
――知らんがな。
関西弁で否定した。
「それでですね、大学に進学して恋愛も同時に――」
「訊いてないから」
恋愛の話題に及んだ瞬間、遮った。
「あ、え、そ、そうですか?」
戸惑うサキに恋愛の話はなしの方向で続きを促した。
「……。今年大学三年に進級して、進路も考えなくちゃなって思い始めた時、お父さんに故郷の話を聞いたんです。上手く言えませんけど、東京には及ばないけど、地方には地方の良さがある、って言葉はよく憶えてます」
「……」
若会だけではなく、日本全国に言えることだわねと思いつつ、缶コーヒーを飲む。ほどよい甘さが口の中に広がる。
思わずほうっと息を吐き、「それで大学を中退してこっちに来たわけ? もったいないわね」と言う。
高校も大学も行っていない杏璃にとって、サキの話は同情できない。
「思いついたら即行動ってやつですよー。アルバイトで貯めたお金とお母さんから少し借りたお金で来ちゃいました。あー、でも、まだちょっぴり寂しいですかねー」
一体、母親からどのくらい借りたのか問い詰めたかったが、恐ろしい金額だったら後悔しそうなのでやめた。
引っ越して不慣れだろうが知ったことではない。
これからまた入ってくるだろう後輩たちの模範になるようにならなくては困るのだが、そこはサキ自身が気づき、改善していかなければ意味がない。杏璃はあくまでも指摘する側で支えることが役目だ。
この子はあの上司よりはマシだろうけど手が掛かりそうだと思っていると、
「いつまで休んでんだい! 人手不足なんだから手伝っておくれよ……」
噂をすれば影と言うのか、田畑玲が休憩室のドアをノックもなしに勢いよく開け、そう言い残して去っていった。
心なしか後半は声に力が無かった。
「あんなに必死になって馬鹿みたい」
呆れ口調で言いながら伸びをして席を立ちながら、
「行くよ。あんたの身の上話聞いたって得しない。……お金は返しなさい」
そう言ってドアに向かう。
「うっわ、酷いっ。話振っておきながら説教だなんて」
サキは勢いよく立ち上がりながら抗議するものの、
「酷くないでしょ。無計画ほど危険なものって決まってんのよ」
そう話を躱した。
図星なのか何も言えないサキが少し可哀想であったが、甘やかしは禁物だ。
再度促してホールへと向かった。
「うちもハンバーガーを提供しようと思うんだが、意見を聴かせてくれ」
「いいじゃ――」
「駄目です」
「早いねー」
サキの言葉を遮った杏璃を挑発するかのように、ふざけた口調で言う玲。新人を交えての新商品会議(形だけ)は初っ端から荒れ模様気味だ。
「ん、んん? どうして駄目なんだ?」
「そうですよ。新鮮じゃないですか」
疑問を問いかける店長の賢二に追随するサキを一睨みすると、杏璃は溜息をして、
「カフェですよ? バーガーなんて必要ないじゃないですか。それならドーナツ食わせたほうがいいですよ」
そう思いません? と理由を述べ、マグカップに口をつけた。
「……いや、鏡石の説明は矛盾してるぞ。ハンバーガーを提供しちゃ駄目でドーナツはいいって、ドーナツ店は大喜びだろうが、バーガー店は大激怒。喧嘩を売ってるようなもんだぞ……」
「そのザビちゃんは複数のバーガー店に喧嘩を売ろうとしてるんだけどねえ」
痛いところ衝かれたという顔をする賢二をサキが見つめ、「ザビちゃん?」と首を傾げる。それをつまらなさそうに見ていた杏璃が賢二の頭を指差し、
「おい余計なことを教えるな指を差すな! それから俺の渾名を勝手に付けんな!」
当の本人は杏璃と玲に非常に理不尽極まりないと抗議。
「煩いなあ。ザビちゃんのせいでサキちんが怯えてるっしょ」
おーよしよしとサキの頭を撫でる玲に、
「俺のせいかよ。というか言ってる側からその渾名で呼ぶのやめろ。滞納した家賃取り立てに来る大家並みにしつけえぞ」
賢二がいやに生々しいたとえを交えながら玲に食って掛かるのを杏璃は冷めた視線で見つめ、
「言っても無駄だと思いますよ。新人にもさっそく渾名付けてますし、学習能力が備わってない上司を持つと苦労しますよね。わかります、その気持ち」
一息に言いたいことを口にしてお茶を飲む要領でマグカップに注がれたコーヒーをずずーっと飲む。
そんな部下を賢二は、複雑な気持ちで見ていた。学習能力の面で言えば、玲のことは批判できないからだ。
――この女、超危険人物。
怖いねえ、と内心で震えた。
「とにかく、鏡石の意見は却下だと」
「はい」
「しかし高那は賛成なんだよな?」
「大賛成です! メニュー増やして客層を引き下げましょう!」
ウゼ、と小声で毒吐いた杏璃を咎めようとしたものの、本格的なファストフード店と化してしまい、他店に喧嘩を売ることになりかねない。
鼻息荒く提案してくれたサキには申し訳ないが、「いろんなことで困るから却下な」と理由を濁して拒否。
サキの後ろで笑いを堪えていた玲を見て賢二は殺意が湧き、そんな彼女を冷徹な表情で見つめる杏璃に鳥肌が立ち、提案を拒否され怒りの形相でこちらを見つめるサキに溜息を漏らした。
結局、この日の新商品会議は玲が提案した「パスタとパンのセットメニュー」を採択して終わった。
一名の反対を除いて。
「学校の購買で売ってる焼きそばパンと変わらないじゃないですか。却下」
杏璃のこの説明にサキと賢二が妙に納得してしまい、危うく却下されそうになり、慌てた玲が時事ネタを持ち出して騒ぎ出しそうになり、それを危険と見た賢二が冗談だ何だと笑って誤魔化してその場を乗り切った。
杏璃はそんな店長にイラッとして、
「しょうがないですね、私が再現します」
と言って席を立つ。
「再現て。お、おいおい、何もムキにならなくても……」
「なってません。知っていただきたいだけです」
ツンとしながら言う杏璃に賢二は頭を掻きながらお手上げの様子で玲を見る。その彼女は意地悪そうな表情をして、
「いいねえ、いいよ。実にいい。反抗的な態度があなたのキャラだよ」
独り言を呟いている。
「……どこのエロ親父だよ。勝手にキャラ設定すんな。反抗的なのは田畑、お前が原因だろが」
冷静にツッコミと分析をする賢二を玲は心外だと言わんばかりの表情をしたが、珍しく何も言い返さず杏璃の後を追い、しばらくして戻った杏璃が右手に持つ小皿に盛ったパスタを見て、
「いくつも種類がある中から明太子……チョイスを間違ってるだろ」
麺に絡まる物体を見て、そして杏璃を見てあり得ないと賢二は率直に感想を述べた。
「……いいじゃないですか。ちょうど今日が期限切れのこれがあったから、ぱぱっと調理したんですよ」
非難されたのが癪に障ったらしく、顰め面で言う杏璃を背後で玲が「あっはっ」と笑い出してしまい、杏璃に睨まれたものの、さっきと同じで気にした様子は一切見せず、
「ほらほら、アンちゃんがせっかく作った試食品なんだから、食べないと天罰が下りますよん」
もう片方の手に持った皿をひょいっと取ってテーブルに置きながら言う。
「私は神様ですか。それなら田畑さんは悪魔ですね」
パスタを持った皿をテーブルに置きながら杏璃が言い、
「えー。堕天使の方がいいなあ」
それに玲が意見し、
「……もっと駄目な気がしますけどね。……はい、どうぞ」
パスタをフォークで盛り、バーガーサイズにカットされたパンに挟んだ。
「どうぞって……。これ、どっからどう見てもラーメンバーガーじゃねえか」
完全にパクリだぞ。
差し出された明太子パスタだけが挟まれたハンバーガーもどきをあらゆる角度から観察しながら賢二は感想を口にした。
蔵の街で有名な、ラーメンで全国的に有名な、若会市と同地域の某市で商品化されたラーメンバーガー。最近では野球チームと同じ名前のファストフード店が商品化している。
杏璃が投げやり的に差し出したこのバーガーは、明太子パスタだけが挟まっていて、ネギもメンマもナルトも挟まっていない。
「そうですよ?」
「いや、即答すんなよ。客に「パスタバーガーです」なんて出せっかよ」
「店長の熱血さはいいんですけど、突拍子もないことを言わないでください。無駄な労力使いたくないので」
呆れ気味に言う杏璃の後ろで玲が笑いを堪えきれず「ぽおっ」と噴き出す。
「わあ、玲さん象の鳴き真似上手ですね!」
サキが斜め上の感想を述べ、これには杏璃ムスッとしていた杏璃も表情筋がひくひくして、危うく笑いそうになった。
――この子、人を挑発することも得意だけど……天然なのかしら。
百歩譲って玲の笑い声が象の鳴き声に似ているとは思えない。強いて挙げるなら、中国人の戦闘態勢の掛け声だろうか。
何か言おうとしていたのだろう賢二は口を開けたまま女性三人を見ていたし、玲は鳩が豆鉄砲を喰らったみたいな顔をしていた。
戸惑い気味の賢二は明太子パスタだけが挟まれたバーガーを半分くらいまで齧りつき、口をもごもごさせ、よく咀嚼して嚥下。
「何だよこれ、見た目の割に美味えな!」
嬉しいお言葉なのだが。
「ラーメンバーガー敵に回しましたね。それに汚い。ガキですか」
冷めた表情で賢二の口許を指差しながら杏璃は言う。
最初は何のことかわからないといった表情だった賢二も、
「撤回しますすみませんでした」
頭を下げ、口の周りをハンカチで拭いた。
こんなザビ……もとい、男がよく店長やってるものだと不思議に思いつつ、杏璃は溜息を吐いた。
結局、この日の会議はぐだぐだのうちに終わり、新メニューは日の目を見ることはなかった。
一つの疑問として、何故、市販の明太子パスタが厨房にあったのかについては、謎のままで、パスタとパンを別々に出したのは失敗だったと、杏璃は家の玄関のドアを開けた時に気づいたのだった。
第三話
「明日からゴールデンでしょう? 杏璃は休み取ったの?」
半袖、ショートパンツと夏本番といった服装の中林彩花が、愛犬のコタローの喉を擽りながら訊いてきた。
「名前で呼ばな――もういいわ。あんたと違って休みゼロ。たかが三日でしょ。休んだ気がしないから、体動かしてた方がいいわ。ていうか、ウイーク付けなさい。それだけだとドラマの放送時間になっちゃうから」
「細かいなあ。ま、それはいいんだけど、無いんだ?」
どこか小馬鹿にした言い方に杏璃はイラッとして、
「無いわよ。労働者に感謝してほしいくらいだわ」
と答え、マグカップを口に運ぶ。
中身は彩花が買ってきた午前の紅茶。好みを知らないから文句を言うわけにいかない。
「失敬な! 私だって労働者だもん! 杏璃はコーヒーばかり飲んでるから味覚が麻痺してんのよ。そのうち味噌汁にコーヒー混ぜたりして」
社会復帰目指しながら、如何に訓練所で重労働させられているのか語り始めた彩花を適当にあしらい、
「何が労働者よ。あんたが訓練所で何してんのか知らないけど、延長線上よ。……薄っ。店長の頭以上に薄いっ」
舐めんなと遠回しに牽制。ほとんど隔絶されて実態が知れない訓練所という特殊な場所が、杏璃にとっては巨大な闇組織に思えてしまうのだ。ネットで検索してもいまいちよくわからないし、偏見を持ってしまうことはいけないが、どうしようもない。
紅茶を口にしてみたら美味しくない。そして何故か店長の石平賢二の禿げかけた頭が思い浮かんだ。
「たまにコーラ飲むわよ。それにね、味噌汁にコーヒー混ぜる馬鹿がいたら、私の前に跪いてほしいくらいだわ」
いくらコーヒーが好きだからといって、そんな奇行は絶対にしない。日本人の恥だ。
だが世の中、偏食が存在する以上、否定はできない。
コタローを見れば床に仰向けに寝そべって腹を撫でられている。嬉しいのかなと思ったら、非常に迷惑そうな表情で杏璃を見つめている。しかも息が荒い
《助けろ……今すぐ助けゴホゴホゴホッ!》
そんなコタローの叫び声が聞こえてきそうな感じがした。
「コーラねえ。骨ボロボロにするじゃない」
ここにも世界的ブランドと言って過言ではない商品に喧嘩を売る奴がいた、と杏璃は頭を振り、
「私の勝手でしょ。そういう中林さんは何を飲むの」
反撃に出た。
彩花は天井を見上げうーんと呻り声を上げたかと思えばすぐに元に戻し、
「紅茶の他だと、ジュースね。あとお酒」
くふふ、と笑う姿は同性から見ても可愛いと思った。
ジュースと聞いてお子様だなと思ったものの、
――酒呑む暇あるなら職探せよ。
酒と聞いて何故かもう一人の自分が杏璃の意思とは無関係にツッコミを入れた。
自分の立場おわかりで? と。
どんな立場の人間であろうと、酒を呑んではいけないという法律はない。
中林彩花が何を食べようが飲(呑)もうが自由だ。
ただ、諺で【働かざるもの食うべからず】とあるぐらいで。
「お酒を呑むとさあ、頭がふわっとして嫌なことも忘れられるからね」
それはある意味逝く手前だと呆れた。
「……話戻すけど、連休はどこに行くの」
「んー。市内をぶらぶら」
それはもしかして徘徊というやつかしら、と身を案じた。
「あなた、自分の顔が映るのはNGなんじゃないの」
そういう発作があるって言ってなかったっけ? と疑問をぶつけた。
「あー、うん。そうなのよ」
いっけね忘れてたという風な様子で言う彩花を疑惑の目で見る杏璃に、
「本当だって。そうじゃなければ訓練所なんて通ってないよ。外出するのは医者と職員に『慣れることが大切だ』って言われ続けてるからだよー」
やだもう、と笑う。
本当かしらと首を傾げる。だって、彩花の言い方だと今まで拒否し続けていたようにしか聞こえない。
「ほら、ニートと同じ。家出たいのに出られないって感じ?」
「知らないわよ」
素っ気なく答えたものの、心の中を読まれた気がして焦った。
ニートもいい迷惑だろう。
あえて職に就かい者と経済事情で職に就きたくても就けない者の二種類が存在する。彩花の場合は後者だろうか。持病の『鏡を見ることができない』という奇病? が原因でニートになり、そのまま高校を中退。二十一歳の時に雑貨屋で働いてみたものの、一週間で辞めてしまい(他の店員にコネだとばれた)、訓練所に通っている。
「あ、ねえねえ」
「何よ」
「今日ね、誕生日なの」
「ふうん。……で?」
だから何なのと冷めた目で彩花を見ると、伏せの態勢をしたコタローがブフッと、くぐもった声を漏らした。
「もうっ、冷たいな。二十三歳だよ? またおばさんに近づいちゃったんだよ?」
「慰めてほしいって?」
杏璃の言葉に彩花は正解だと首を激しく上下させた。
子どもねと溜息を吐き、自分自身も八月で二十三歳になる。まったく同い年でこうも違いが出てくるとは、人間面白い。
「どうしたの?」
撫でてもらうのを待っていた彩花が顔を上げ、聞いてくる。
「……煩い。何でもないわよ」
不機嫌そうに言ってコタローを一撫でし、立ち上がると、
「シャワー浴びてくるから、コタローに変なことしないでよ。あと絶対に私物に触らないこと。わかった?」
「わかってるって。コタローは私がちゃんと面倒見てるから、安心して」
ねえ、とコタローを覗き見ながら言う彩花にブルッと一震えするコタロー。物言いたげな目を杏璃に向けるが、大丈夫よ、と一言残して部屋を出た。
「これがカップルだったらベッドにイン! インなのよコタロー!」
部屋から何やら彩花の興奮溢れる独り言が漏れ聞こえてきた。コタローの声は聞こえないので、どういう反応を示しているのかはわからないが、九割の確率で困っているに違いない。
「……馬鹿」
よほど欲求不満なのかと呆れながら、脱衣所に向かった。
ゴールデンウイーク期間中は、あおぞらカフェも通常の倍以上の客入りがあり、レジ打ちをすることが多い杏璃もオーダーを訊いたりメニューを運んだりと、これまでにないくらい体力を消耗したと思う。そう言うと普段はあまり真面目に働いていないんじゃないのかと不審に思われるだろうが、そんなことはない。決してそんなことは。
「アンちゃんしっかりしてよー。あと一日残ってるんだから」
休憩室のテーブルに突っ伏していた杏璃がむくりと顔を上げ、
「何かに理由付けて職場内ニートの田畑さんに言われたくないですね。ここで何してるんですか。出勤してるんですから、働いでください。人手不足なんです」
連休に突入した途端、出勤はするが働かないという暴挙に出た上司を杏璃なりの真剣さで説得したつもりが、玲はくくっと笑い、
「アンちゃんがブラウン管テレビから出て来る妖怪に見えて怖いよー」
と言ってふざける。
人をあんな得体のしれない妖怪と比べるのは屈辱だが、髪伸びたなあと思っていたのは事実。
「よ、余計なお世話です。切る余裕がなかったんですよ。お金が無くて」
杏璃の説明に玲はだらしない表情で「ほんとかなあ?」とふざけ口調で言う。
上司でなく身内で、なおかつここが家だったら頭を一発引っ叩いてるところだ。
生活費の他に犬の餌代が嵩んでお金が無いんですよと反論したいのを抑えて、目の前に置いてある紙コップを手にする。玲が用意したもので中身は烏龍茶。暑い日には最高の飲み物だ。
彼氏とイチャイチャしてばっかいたんじゃないの云々と妄想に走っている上司を無視してぐいっと飲み干し、
「うわまっず」
率直な感想を即答。あまり冷えてなかったのが直接的な要因ではあるが、もう一つの要因として考えられるのは、コーヒーの飲み過ぎだろうか。
玲は驚きに目を見開き、試しに烏龍茶を一飲み。
「……不味くないよ、アンちゃん。あ、コーヒーばっかり飲んでるから味覚が死んでるんだよ」
おい眼鏡黙れ、と言うのを必死に抑え、
「似たようことを最近友人に言われました」
棒読みに近い口調で言って、再び烏龍茶を飲む。口には出さないが、漢方薬を飲んでいるみたいだなと思った。
その時休憩室のドアが開き、店長の石平賢二が姿を見せ、杏璃にレジ交代する旨を伝えてドアを閉めた。
気のせいだろうか。一瞬、二人の上司の視線がぶつかり、室内の温度が急速に下がったような気がした。そのため、返事をすることを忘れてしまい、慌ててハンチング帽を被って立ち上がりドアを開けホールに向かう。
「お疲れ様。あとお願いね」
ぽん、と軽く肩を叩いてホールから出て行く女を杏璃はぽかんと見た。
あんな店員うちにいたっけ? と言いたげに。
気にしても仕方がないので、仕事に集中する。
会計時、何々のパスタが美味しかった、何々パンの味がもう少し濃ければよかった、新メニューが美味しかった、という意見がある一方、インスタントの方が美味しい、という厳しい意見もちらほらあり、へこんだ。
以前より増えてる? と疑問に感じながら仕事に集中し、ひと段落したところで、
「会計」
その声に俯いていた顔を上げた。二十歳は過ぎているだろうか。ショートヘアに顔立ちは良いのに化粧気はない。少々勝気な感じがした。
「認めたくはねえけど親だよ」
ぶっきらぼうな男口調で女性はわかり易く教えてくれた。どういうことだろうかと気にはなるが、野次馬根性全開にして聴き出そうとはしない。
カフェラテの代金を清算して、レシートを渡す。すると、
「あんたが休日の時にシフトを入れてたんだと。何でか知らねえけど、たぶん、同じにおいを感じ取ったんじゃねえかな」
「同じ、におい?」
目の前の女性の言ってる意味がわからないと目を瞬。かせる杏璃を余所に、女性は薄く微笑んで店を出て行った。
目で呆然と出入り口を見ていた杏璃は、「あ」と間の抜けた声を出し、
「やっべ、挨拶するの忘れた」
女性が口にした意味を考えるあまり、失態を犯してしまったことに気づき、一人あわあわして、数人の客から不審な見られていた。
「ストロベリーラスク、残りましたね」
「そうだなあ。こんな大量に売れ残ると思わなかったなあ」
顔を曇らせ、頭を掻きながらテーブルに視線遣る賢二の後を追うと、テーブルの中心に置かれたトレイにはラスクが大量に盛られ、何個か零れ落ちている。そのうちの一枚はへの字に曲がっており、見ようによっては芋虫が地面を這っているようだ。
「汚いわね」
思わず声に出してしまった杏璃に、
「汚いとはなんだ! 俺が考案したラスクが憎いのか鏡石は……」
賢二はテーブルをドンッと叩いた。結果、ラスクの山が崩れ更に多くの量がテーブルに落ちた。
「こういうのを考え無しって言うんだよ、店長さん」
嫌味な笑みを浮かべながら言う玲には何と言っていいのかわからなかったようだ。
「違うんです。味がめっちゃ薄いんです」
「う、薄い?」
「頭じゃないですよ」
「し、知ってるわ! お前らが余計なストレスさえ与えなければ、これ以上抜けることはないんだ……っ」
「責任転嫁は見苦しいですよ。……そんなことはどうでもいいんですけど」
どうでもよくねえよ、という賢二の抗議を無視して杏璃はストロベリーラスク欠点をわかり易く指摘する。
「焼成する際の温度に問題があるんじゃないですか」
「……馬鹿言うな。百二十℃の温度と十五分内で仕上げたぞ。どんなに遅くても二十分。それ以上でも以下でもない」
確かに生地自体は焦げていない。
「誰が焼成しましたか?」
「あ? 誰って俺――」
「あ、私、店長さんがトイレ行ってる間に焦げてないかチェックしました」
と、賢二の言葉を遮ったのは、
「お、サキっち」
新人の高那サキだ。
不安が的中したね、と声を潜ませて耳打ちしてくる。どこか楽しそうだったのは気のせいかと思いながら顔を歪ませ、
「どのくらいの頻度で確認したのかわからないけど、頻繁に繰り返すと温度が下がるし味も落ちるのよ」
「そうなんですか?」
「そうなの」
サキに説明した。あまり家庭用オーブンはともかく、業務用も同じ仕組みだと知ったのはつい最近のこと。なので、あまり強く言えない。
賢二は明日仕切り直しだと気持ちを入れ替えて、この日のミーティングは終了。
着替えて外に出ると、連休中ということもあってかいつもより人通りが多い。
――あと一日なのに。
明日で連休は終わる。それなのに人々は街に繰り出して思い思いに過ごしている。
それは別にいい。でも、杏璃自身は楽しいと思った試しがない。ただの一度も。
両親は一人っ子の杏璃を可愛がり、時間があればどこにでも連れて行ってくれた。
だけど、写真に写る自分の顔はムスッとしているものばかり。
反抗期はあったし、ニート生活に入ってからはかなり荒れた。それでも職探しは忘れていなかったのだが、両親は娘を家から追い出さず自分達の方から出て行った。
「ありがとうございましたー」
もはや常連となっているコンビニで夕食のカツ丼と惣菜と缶コーヒーを買って駅方面に歩いていき、途中、『高橋書店』に立ち寄り普段読まないジャンルの小説を数冊ずつ手に取ってはレジに持っていく。
目つきの鋭い男性店員が、
「これ、三十冊はありますけど」
本当に買うのか? と訝しげな視線を向ける。
「ええ。今日はそんな気分なの」
「はあ。そうですか。何か、俺の知り合いと似てますね」
「それは複雑ね」
でしょうね、と男性店員は苦笑しながら同意して袋を渡した。礼を言って店を出た。
「……読まないんだけど」
無駄金を使ったことに後悔はない。ただ無性に何でもいいから本を買いたかった。
ストレス発散に衝動買いをする人がいるがそれである。
駅前の有料駐車場手前の横断歩道がちょうど青信号だったので走って渡る。数分歩くと全国展開しているファストフード店が見えてきた。
コタローにご飯くれなくちゃなあと思うが小腹が空いてきたので許してねと内心で謝って、杏璃はファストフード店に入った。
「納豆ラスクなんてどう?」
「絶対嫌。あの独特のにおいが厨房に漂うって考えただけで鳥肌が立つわ」
「そう? いいアイデアだと思うんだけどなあ」
そう言って中林彩花はコタローの腹を撫でた。ストロベリーラスクは好評なのだが、新たに一品追加したいと賢二が提案。
何もそんなに急がなくてもいいのではないかと、杏璃と厨房組が消極的な雰囲気を漂わせる中、マネージャーの玲とサキが賛成に回り、可決された。
「あ、市販のふりかけをラスクにちゃちゃっとかけちゃうってのは? あとはオーブンで焼くだけでいいわけだしさ」
私天才だと胸を張る彩花を実に可哀想な人を見る目で一瞥し、
「手抜きしてどうすんのよ。美味しいって保証もないし」
しかもそれ思いっきりパクリじゃない、と顔を顰めながらポトテチップスを二個口の中へと持っていき、咀嚼。嚥下した。
「ばれた」
棒読み口調で彩花が言うと、コタローが、クヒン? と情けない鳴き声を上げながら彩花を見上げた。
「当たり前でしょ。レンジでチンして客に提供できると思う? それができたら苦労はしないわ」
あんた社会甘く見てるでしょ、と杏璃は言って缶コーヒーを一口飲んだ。
あの面々ならやれそうな気がする。というか、玲なら大喜びでやりそうだ。
「んなわけない。訓練所で実際にやってみたら結構ウケたんだもん」
「訓練所とカフェは違う――中林さん」
「彩花」
「……彩花。あなたが通所してる訓練所では主に何をしてるの?」
前々から気になっていた。訓練所に通いながら社会復帰を目指しているというのは聞いていたが、活動内容を把握していなかった。
「パンとかピザとか作ってるよ」
それを福祉施設とか直売所に配達してるんだよ、と屈託のない笑みを浮かべながら説明してくれた。
杏璃は眉間を揉み、数秒間沈黙し、口を開いた。
「何か、一般の卸売業と変わらない気がするのは私だけかしら……」
彩花が言ったことに関しては、それは遊びの範囲で披露したんでしょ、という言葉を吞込み、毎日その繰り返しで社会復帰に繋がるのか、いささか疑問だと思った。
「杏璃が言ってることわかるよ。私もこれでいいのかなって感じてるからね」
ギクッとした。まさか、内心で思ったことを読んだのか? と。
「でも、だんだん麻痺してくるんだよね」
「麻痺?」
「うん。今してることが本当の『仕事』なんだって、思い込んじゃうの。だから、このまま安い賃金でもいいかなって」
「馬鹿ね」
と即一蹴し、
「彩花が通ってる訓練所の質が良いか悪いかは別として、あなたは特殊な障害を抱えているけど、社会復帰したいんでしょう?」
「う、うん。したい」
「それなら、職員の言葉はあまり信じないこと」
その言葉に呆然とする彩花だが、杏璃は続ける。
「全ての訓練所がそうとは言わない。でも、職員の言葉って宗教の教祖様みたいな強制力を持ってると思うのよ。だから、安易に信じるのは危険かなって」
私なりの独断と偏見だけどね。
「杏璃の自論、もの凄く説得力があるなあ。でも、馬鹿は余計だよー」
「余計じゃない。訓練所も人間関係厳しいでしょうけど、一般社会なんてもっとドロドロしてるんだから。職員の言葉を真面目に受け取って後悔するはめになるのは彩花だし、抜け出せなくなるわよ」
蟻地獄に落ちた哀れな虫みたいに。
うう、と顔を引き攣らせる彩花は悔しいかな、反論できなかった。
「仕事、探してるんでしょ?」
「紹介してくれるの!?」
ぐいっと身を乗り出してきた彩花を押し止め、
「甘えんじゃないの。うちは定員オーバー。いくら優しいザビ店長でもコネは受け付けないわよ」
「それで失敗したんでしょ、と言いたいのを飲み込み、缶コーヒーを飲み干す。彩花は首を傾げながら、「ザビ店長?」と聞きなれない単語に困惑しつつ、連休中は訓練所の知り合いと一緒に新潟県の水族館に出掛けことを嬉しそうに話した。
「へえ。それは良かったじゃない。発作は出なかったの?」
「うん。私はイルカショーだけ観たから」
うっわ金の無駄! と内心で突っ込み、
「引きこもってた方が良かったかもね」
当たり障りのない言葉を口にして、二本目の缶コーヒーのプルタブを開けた。
「私が眼鏡の分までですか。嫌ですよ」
「こらこら。いくら憎いからって先輩をそんな風に呼んじゃ駄目だ」
「すみません。でも仕方ないですよ。こんなクソ忙しい時にぶっ倒れる眼鏡が」
「だからな? だからやめような」
鏡石はそういうキャラじゃないだろ、と諭され、杏璃は渋々口を閉じた。
五月も終わりに差し掛かろうとした今日、田畑玲が風邪をひいて欠勤。従業員数は足りるが、ホールスタッフは杏璃とサキしかいない。普段は厨房に詰めてることが多い賢二がヘルプで入ることでどうにかなったが、小さなカフェなので、一人が欠けると調整が大変なのだ。
それに、ただでさえ、仕事に不慣れな従業員を抱えていると、使わなくてもいい体力をも消耗する。
高那サキが連日のように些細なミスを仕出かすことに対して、正直、限界を感じているのは確かだが、失敗して成長するのも事実。大目に見ることが如何に大変か、風邪で休んだ上司に教えてやりたいと、杏璃は賢二に無言で頭を下げながら思った。
開店までまだ時間があるとわかると、休憩室に向かった。すると。
「先輩、いいですか?」
サキが後を追いかけて入ってきた。来ないで、と言うわけにもいかず、無言で頷く。
杏璃はテーブルに用意してあった紙コップにサキの分の麦茶を注いで渡した。
サキは礼を言うと一口飲み、先輩、と口を開く。
杏璃は学生時代一度も先輩と呼ばれたことがなかったので、何だか新鮮でむず痒く、
「先輩じゃなくて他の呼び方でいいから」
ちょっと突き放す言い方になってしまったが、恥ずかしさを隠すためには仕方ない。
「いいじゃないですか。昔の歌手も歌ってるじゃないですか」
何故にそんな古いネタをあんたが知ってるんだと突っ込もうとしたが、先輩じゃなくて先生じゃなかったっけ、と、自身も人のことは言えないなと溜息を吐いた。
「……んなことはいいのよ。私に用があるんじゃないの」
「そうでした。あの、先輩はどうしてこの仕事を選んだんですか?」
「どうして?」
鸚鵡返しに聞き、
「必死だったからよく憶えてない」
と一言。
「はぐらかされた気がするんですけど」
「気のせいよ。必死だったのは嘘じゃない。別にパンが好きだからこの仕事を選んだってわけじゃないわ」
「何気なく酷いこと言ってますね……」
「そう? それじゃああなたはどうなの」
「えっ。わ、私ですか?」
他に誰がいるのと言いたいのを抑え頷く。
「私は……」
サキが答えようとしたところで、賢二が呼びにきて聞くことはできなかった。
聞いても得はしない。
嫌な上司がいないと仕事が捗るもので、時間もあっという間に過ぎていく。
限られた人員で対応して乗り切り、あとは帰るだけだ。
今日の夕食は何を食べようか。そんなことを考えていると。
「先輩、一緒に帰りませんか」
着替えを終えて更衣室から出てきたサキが前に回り込みながら言う。
有名ブランドのロゴがデザインされた半袖とレザーミニスカート姿。正直、全然似合ってない。無理に大人の女を演出してるところが痛い。
「遠慮しとく」
痛さに呆れたからではなく、帰りくらいゆっくりしたい。そう思っただけなのだが、
「ま、待ってくださいっ。わ、私、何かしましたか!?」
壮大な勘違いをしている。
もしかして断り方が素っ気なくて、それがサキの不安定な心をダイレクトに直撃してしまったか。
どこの保険会社のキャッチフレーズだと一人ツッコミながら、
「してない。してないから。ほら、いい歳した女の子が泣かない」
面倒くせえ、と思いつつあやしながら歩き出し、コーヒー喫茶に入る。カフェに勤務している身としては変な気分だが、今はサキの機嫌を取りつくろわなくてはならない。
窓際の出入り口に近い席に座り、杏璃はコーヒー、サキはチーズケーキをセットで注文した。
「嫌いじゃないですよね……?」
うるんとした瞳で訊いてくる。
何、この少女漫画に登場してきそうな感じは……、と若干引きながら、
「嫌いじゃないわよ。嫌う理由がないじゃない」
あるっちゃあるけどね、と言いたいのを抑えて杏璃は笑みを浮かべる。
時たま空気が読めない(KY)発言をすることがあるので、それを直してもらえば文句はない。
杏璃の発言を素直に受け取ったサキは目頭をハンカチで拭いて、笑みを浮かべ、フォークでチーズケーキを一口サイズにカットして口に運んだ。
「塩辛いけど、これはこれで美味しいです」
サキの発言にカウンター内で派手な音がした。
「あんたさあ、塩辛食ってるんじゃないんだから、その感想はないでしょう。涙が口に混ざってるのよ。コーヒーで口直しして、もう一回トライしてみ」
食べて確かめてみたかったが、店員の手前それは憚られた。サキは杏璃の言う通りコーヒーで口の中を軽く濯いで、再度チーズケーキを口の中へ――
ゆっくり、ゆっくり咀嚼して嚥下。
「あ、美味しい」
その感想に杏璃はもとよりコーヒー喫茶の店員たちも安堵の色を浮かべていた。
爆発発言は帳消しにしてくれたようだ。
胸を撫で下ろしてコーヒーを飲んでいると一人の白髪交じりの紳士然とした店員が近づいてきて、
「もしかしてと思いますが、あおぞらカフェにお勤めではないですか」
同業者のにおいを嗅ぎ取ったのか、笑みを浮かべながら訊いてきた。しかし何故か杏璃には店員の目の奥が笑っていないように見えて、素直にはいそうですと答えていいのか迷ったのだが。
「そうなんですよ! 小っちゃいんですけど頑張ってます!」
サキが代わりに? 答えた。
するとどうだろう。カウンター内にいた二人の若い男女の店員が言っちまったという顔をしているではないか。紳士然とした店員に限っては表情筋が微妙にヒクついている。
「サキ、謝りなさい」
空気を察知した杏璃がサキに謝罪促したものの、
「え? どうしてです?」
事態がまったく読み込めていなかった。
「自分で考えなさい。私の口からは言えないわ。怖くて」
そう言ってコーヒーカップを口にする。
自分で言っときながら気づかないことは珍しくない。しかし、それをいちいち教えてやるほど親切ではない。特に同業者の前で「店が小さいからね」などと、言えない。
それを平気で口にしてしまったサキは良く言えば無邪気、悪く言えば大馬鹿。
「あ、あの。本当にわからないんですけど……」
オロオロするサキに杏璃はもう一度、同じ言葉を繰り返し、コーヒーを啜る。さっぱりわからぬまま、「す、すみませんでした」と謝罪するサキに、紳士然とした店員は笑顔を崩さぬまま、
「いやいや、いいんだよ。小さかろうと気にはしないからね」
めちゃくちゃ気にしてるじゃない、と杏璃とサキは思ったが、紳士然とした男性店員の目の奥が先ほどより優しいそれに変わっていることから、どうやら、許してもらえたようだ。
「あおぞらカフェさんがすぐ近くに店を出した時はね、潮時だと思ったけどねえ」
「そ、そうなんですか」
笑えねえ、と思いながら笑うしかない。
「はい。二十年、ここで喫茶店を営んでおりますが、初めて路頭に迷うのではと思いましたね。二度目は――」
「まだあるんですか?」
思わず訊ねたのはサキだ。
「ありますよ。明神商店街にドイツ人の姉弟を売りにしてる『ヴィヒティヒ』という喫茶店があるんですがね」
そんな風俗みたいな言い方しなくてもと思うのは私だけかしらと、目の前の紳士然とした店員をちらっと見て愛想笑いした。
杏璃もその喫茶店は知っている。何度か行ったが、姉の方が明るく店の人気者といった感じで、弟の方はそんな姉を引き止める感じだった。一つ気がかりだったのは、店のオーナーもドイツ人なのかと思ったら日本人で、弟に限ってはロシア人だとローカル掲示板で見たことがある。
どんな事情があるのか知らないが、姉が不在の時は店の売り上げは芳しくないのだというから不思議だ。
――うちならあの女がいなければきっと売り上げが伸びるわね。
脳裏に浮かんだのは反りが合わない同性の上司。
首を左右に振って、田畑玲の意地悪い表情を打ち消し、コーヒーを飲み干し、サキがチーズケーキと紅茶を全て胃に収めたところで席を立った。
会計を済ませてコーヒー喫茶を出るとすっかり陽は落ちていた。
「先輩、ごちそうさまでした」
礼を述べるサキの声がいやに遠く感じる。というのも、
「コタローにご飯くれなくちゃ……」
飼い犬のことが脳裏を過り、軽くパニックに陥った。時間は午後八時。あおぞらカフェを出たのが一時間前で、サキを宥めるために近所のコーヒー喫茶に寄ったのも同時刻くらいだから、二時間は経っている。
今から駅に戻っても自宅方面にバスが出てる可能性は限りなく低い(地方にありがちなことだ)。それに時間の無駄だ。
ここから近い明神商店街でタクシーに乗ることにしようと決めた杏璃に、
「先輩って結婚してたんですか?」
サキが約二時間ぶりに壮大な勘違いを問いかけてきた。
杏璃は溜息を吐いて、「飼い犬」と短く答えて歩き出し、サキがその後を追う。
「何でついてくるの。もうあなたにくれるご飯はないわよ」
お前にくれる担々麺はねえ!
お笑いコンビのギャグが脳裏を過った。
「いいじゃないですか。見てみたいです、先輩の飼い犬」
「……」
この娘、図々しい。
後ろで手を組みながら上目遣いで言う様は彼氏に対してお願いするのと大差ない。
まさかとは思うが、そういうことなのだろうかと一瞬考えてしまったが、時間が押していることに気づき、
「もうっ、勝手にしなさい」
自棄になりながら言い、明神商店街に向かって走る。
「先輩、下着見えちゃいますってば!」
「煩いわね、あなた人のこと言えないでしょうが!」
サキに指摘されて思い出したが、デニムのミニを穿いてきたことを忘れていた。でも、今はそんなことを気にする余裕はない。
タクシーに乗り込むと自宅の住所を運転手に告げ、二人同時に深い溜息を吐いた。
あんたが溜息吐いてどうすんの、と言いたいを抑え、たまには、こういうドタバタもいいものだと、杏璃は思った。
第四話
六月に入り、夏がそこまで迫ってきているような暑さと。
「痛って……うっぷ……気持ち悪い……」
頭痛と吐き気で目を覚ました。原因は普段あまり口にしない日本酒を訪ねてきた彩花に無理矢理勧められた。
テーブルと床に無造作に転がる地元の酒造メーカーのワンカップ酒が五個(テーブルに二個、床に三個)。
時刻は午前六時十分。
いつもなら身支度を済ませるが、今日は休日。二度寝はできそうにない。ベッドから降りて覚束ない足取りで部屋から出て、そんなに長くない廊下を歩き、階段を下りようとしたところで、迷惑顔をした愛犬のコタローの姿があった。どうしたのだろうかと慎重に一段ずつ階段を下りていく。
こんなコタローを見るのは初めてだ。頭を撫でて、リビングを覗くと、
「何でいるのよ」
帰ったはずの友人がソファにうつ伏せになって熟睡している。しかも下着姿のままタオルケット類などはかけていない。
杏璃は頭を押さえ、彩花を起こす前に頭痛と吐き気をどうにかしたかったので、薬を飲んで床にへたりこむと、心配したコタローが寄ってきて控えめに「ウォフ」と一鳴きして伏せした。
「……苦労かけるわねえ」
長年連れ添った夫に言うみたいだな、と内心思いながらコタローを撫でていると、
「おはよ――あいたたた。うー。いつもはこんなことなんないのに」
頭を押さえながら彩花が上体を起こした。
あ、おはよ、と杏璃に気づいて挨拶するのはいい。だけど、その格好では風邪をひく。杏璃は床に落ちていた彩花の半袖をぽいっと放り投げ、着るように促す。今は言葉で伝えるのは辛い。
「着たよー。杏璃、お薬」
あんたは私の娘か、とツッコミたくなるのを抑え、力無く薬のケースを投げたが、彩花のもとまで届かず、テーブルの上に落ちた。
「下手くそ!」
キレる彩花。堂々と無断宿泊しておきながら大物ぶりを発揮してくれる。
こんな状況でなければ怒鳴りつけてやるのだが、今はそんな体力はない。
「それだけ吼えられるなら大丈夫よ。自分で取りな」
あー吐きそう、と口許を押さえるが嘘である。彩花はぶうぶう文句を垂れながらもゆっくりとした動作でテーブルに腕を伸ばし、ケースを取るとカプセル錠剤を二錠口の中に放り込み、飲みかけのピーチウォーターで嚥下した。
それを見届けた杏璃は安堵したのと、親御さんは心配していないのか、ということだった。
「いいのいいの。私が家にいても居場所なんてないんだから」
「そういう問題じゃないでしょ。相手にされなくても両親がいるだけ恵まれてるのよ」
「え、杏璃のご両親って死んだの? これなの?」
そう言って彩花は胸の前で両手を下向きにした。
「死んでないから。出てったの。あんたは両親がいるだけマシなんだから」
なかなか職にありつけない娘に愛想尽かして出て行ったことは省いた。
杏璃の説明につまらなさそうな表情をする彩花を見て、罰当たりな子と引いた。
「それより彩花、訓練所は?」
「休む!」
即答してソファに寝転がった。
「駄目。行きなさい」
休みを邪魔されたくない杏璃はそう言うのだが、
「行ったってつまんないんだもん」
と言って頭を押さえた。
その姿を見て、
――小学生かあんたは。
杏璃は嘆息して、ゆっくりと立ち上がり、
「好きにしなさい……」
そう言い残してリビングを出て二階の自室に向かった。その後をコタロー追ってきたが特に注意することはなかった。
二度寝から目を覚ましたのは正午過ぎ。何かを引っ掻く乾いた音。
コタローがドアを前足で引っ掻いていたのだ。初めてのことではないので、慌てず落ち着いてドアを開けた。
賢いコタローもこればかりは無理だとわかると、可笑しい。
カップ酒の容器とお菓子類の袋を片付けて一階に降りると彩花の姿はなく、ピーチウォーターの缶だけがテーブルにぽつんと置いてあった。
「……片付けろよ」
男口調で呟き、缶専用袋に叩きつけるように捨てた。
昼食はカップラーメンに決めて、味噌ラーメンを選択。お湯が切れていたので沸かしてその間、コタローに餌をやる。今は便利になったもので缶詰タイプのペットフードがあるので、頻繁に買わなくて済む。生活費が以前と比べてかさむけど、それは我慢。
お湯が沸いたところでカップに注いで蓋を閉め、液体スープの銀紙を重石代わりに載せて三分待つ。
テレビの電源を点けてチャンネルを回してみるが、芸能人たちの自己満足バラエティ番組ばかりで面白くないので電源を消した。
「お肉、美味しかった?」
ワンッ、と大変元気のいい返事をしたということは、気に入ったのだろう。
「よかった。それ高かったんだからね。残したら彩花に引き取ってもらおうと思ったんだから」
にやり、と意地悪く笑うと、コタローは杏璃が言ったことを理解したのか、「ワ、ワンッ、ワワンッ」と、犬としてどうなのとツッコミたくなりそうなぐらい動揺した鳴き声を上げ、ソファから下りると杏璃の上体に頭を撫でつけた。まるで「捨てないで!」と訴えるみたいに。
そんなコタローの反応が珍しくて、可笑しかった。
嘘よ、と言ってコタローの頭を撫で、カップラーメンの蓋を開け、箸で麺を解してから液体スープを入れ、よく混ぜる。
「いただきまーす」
ずるずるずる、と豪快に麺を啜っていく姿は男顔負け。
ラーメン店でアルバイトしていた時のことが脳裏を過る。今、皆はどうしているだろうか。震災で店を閉めることになったことがとても悔しい。
こんなことになるなら、一人でも連絡先を交換しておくんだったと後悔するが、時すでに遅し。
今一度あの時代に戻りたいなあ、と思いながら完食。こればかりでは腹持ちはしないけど夕食が食べられなくなってしまう。
スポーツドリンクを飲んで後片付けをしようとした時、インターフォンがなった。
また上司が悪戯したのだろうか。それとも訓練所をズル休みした彩花が再び戻ってきたのか。
杏璃はモニターで来訪者を確認。
「ん?」
そこに映っていたのは、メジャー球団の野球帽を被った女性、いや、少女の姿。
誰だろうと訝しげに思いつつ、玄関のドアを開けた。
「あ、こんにちは! お久しぶりです、杏璃お姉ちゃん!」
「…………は?」
いきなりそんな風に言われたら誰だって同じ反応をするだろう。
「私に妹はいないわよ」
一人娘の杏璃は少女にそう言い、話は終わりとばかりにドアを閉めようとしたのだが。
「ま、待ってください! 杏璃さんのお父さんの弟に祐一っているでしょ?」
「焼きそばぐらいしか知らないわ」
後ろでコタローが「ワオーン」と吠えた。どうやら面白くなかったらしい。目の前の少女もどんより眼で杏璃を見つめていた。
「……知ってる。律子ちゃんでしょう?」
少女は満面の笑みとともに返答し、何故長く会いに来なかったのか問いかけてきた。
面倒だから、引きこもっていたから、と言いたいが、納得してくれなさそうだ。
とりあえず上がってもらい、コタローに標準を合わせたのを契機と見て、
「大きくなったよね」
と、ソファに座ってちびちびオレンジジュースを飲む律子の全身を見ながら言う。
「こ、高校生相手にセクハラですかっ」
意味不明なことを口走る律子を無視して、どこの高校に通っているのか訊くと、隣市の東中高校に通っているのだという。
「わざわざ電車通学なんて面倒ねえ」
「いいんだもん。憧れてたんだか」
上体をくねくねさせながら言う律子に、
「どうせ漫画に影響されたんでしょ」
良く言えば冷静、悪く言えば冷淡に指摘。
「ち、違うもん。友達が受けるって言ったからわたしも受けてみたんだもん」
先生に渋い顔されたけど、と微かに聞き取れる声で続けた律子は動揺していたが、追及するのはやめた。
この時期の男女は難しく、漫画に限らずタレントなどからの影響を受け易い。
杏璃自身、そういうことに対して憧れを抱いたことが無いわけではない。
隣で「お母さんと同じ漫画に偏見持ってるなんて認めない!」と意気込みながら言う律子に、「口が滑ったの。悪気はなかった」とため息交じりに謝罪。
律子は唇を尖らせ睨んでいたが、「いいけど」と不満顔で許してくれた。
扱いに困る。
杏璃が困っていると、更に爆弾を投げてきた。
「今日からここに住むから。よろしくね」
「……は」
何を言ってるのか理解できなかった。コタローは二人の顔を交互に見て「フンッ」と鼻息を荒く吐き出して床に伏せた。
「き、急にそんなこと言われても困るわ。祐一さん心配するでしょ?」
「心配いらないわ。杏璃お姉ちゃん。お父さんとお母さんには許可もらったから」
期限付きでね。
ニコッとしながらピース。
「寛容だな!」
今時珍しいくらい甘過ぎじゃないのかと思ってしまった。
いやいや、待て待て、感心してどうすると杏璃は自分に突っ込む。内心で。
泊まるということは居候することであり、同居人が増える。そうなると金銭的余裕がまた一つ無くなる。主に食費が。
自分の食費ぐらいバイトして稼げと言うのは簡単だが、未成年だし役所の諸々の手続きは済んでいないはず。
「マジか」
そう言って項垂れた。
「あ、杏璃お姉ちゃんアニメ観るんだね。面白いよね、魔法少女マジカ☆まどか!」
金銭面で悩んでるところに突然、知りもしないアニメのタイトルを振られ、言葉が出ない。魔法少女といえば、何が流行っていただろうなあと思い出してみるが、無理だった。というか、高校生にもなって魔法少女もののアニメを観るのかと衝撃のほうがずっと大きかった。
原作は既刊全て持ってるだの、グッズが欲しいだの、DVD全巻揃えたいけどお金が無いだの、律子の物欲全開のトークが続く中、杏璃は生活費のやり繰りをどうしようかと、それどころではなかった。
「炭を使ったラスクなんてありました?」
「ああ、あれはザビちゃんが外国の番組からアイデア丸パクリした、いわくつきの新商品だよ」
「おいこら、人聞きの悪いことを言うな。客の視線が痛いだろうが」
「だって、いっつもアンちゃんに新商品提案されて店長の面子が立たない、って昨日力んでたじゃない。ま、徹夜して試行錯誤した甲斐があったんじゃないの」
ねー、とオーダー取りから戻ってきたサキに玲は同意を求めるが、何の話をしていたのか理解できてない様子で首を傾げ、再びオーダーを取りに戻っていった。
「お前の言い方、下品だな。想像しちまっただろうが」
トイレでこう、と具体的にその様子を述べようとしたとき、「仕事してください」と杏璃が横から抑揚の欠けた声で横から制止。
「……へい」
固まった表情で回れ右をして厨房に戻る上司を最後まで見送ることなく、レジに立つ。
「ちょっとちょっと。冷た過ぎない?」
ケンケンしながら訊いてくる玲は如何にも面白がっていて、癪に障る。
「そう感じるだけです」
一蹴。
「厳しいねえ。それでも同じゆとり世代?」
「一緒にしないでください。店長はともかく田畑さんはふざけ過ぎです」
ちょうどそこにOL風の女性が来たので会話は終了。去り際、「仲がいいんですね」と笑顔で言われ言葉に詰まった。
あのやり取りの中に仲がいい要素など一つも無かったと思うのだが。
釈然としない気持ちでいると、
「さっきのことなんだけど」
「はい?」
「ふざけ過ぎってどういうこと? 頭ん中空っぽの馬鹿じゃないんだからさあ」
と言いながらにやにやしてる時点でどうなんだ、と恐怖にも似た感情が込み上げてきたのだが、今は我慢するしかない。
杏璃は怖気を覚えつつこう答えた。
「存在じゃないですか」
「そっ」
まさかそんな言葉が返ってくるとは予想できるはずもなく、玲は引き摺った表情のままその場に立ったまま固まってしまった。
「田畑さん、邪魔です。用がないなら出ていっていただけますか」
「……そ、そうだね。ちょっと休んでくるからあとよろしく……」
よろよろしながら出て行く玲を見送り仕事に戻る。会計中、全ての客から「仲が良いんだね」と言われたが、正直、全然嬉しくなかった。
「おい炭入れ過ぎだろ腹黒にさせる気かボケッ」
厨房から賢二の怒声が聞こえ、笑いそうになったがどうにか堪えた。
開業して一年経つと、時間が空いた時に賢二が言っていたが、頻繁に新メニューはないかと訊ねられても下っ端としては困る。
ご近所さんにライバル店が二軒あるからなのだろうが、利益を重視するあまり周囲が見えなくなるのは危険だ。
客への細やかな対応、食材の管理など、一つのミスが評判を落としかねない。
杏璃としてはそういった儲け主義的なことしか考えない経営者は好かない。賢二がそうかといえば違うだろうが、危うい気がしてならない。
初心忘るべからず。
「一気に禿げるわよ」
ぼそっと呟いたつもりが、いつもは流れている有線放送が流れていなかったため、ホールまで聞こえたらしく、近所の高校の制服を着た外国人の少年と杏璃と同世代だろう少年と同じ外国人の女性が咽ていた。
「大丈夫ですか!?」
サキが二人のもとに駆けていき、布巾を渡そうとしたが、女性が咳き込みながら、「優しいお嬢さん、ありがとう」と笑みを浮かべながら言って、やんわりと断った。
オヤジみたいなこと言うわね、と静観していた杏璃の後頭部に鈍痛が走った。
「痛っ」
「誰が禿げるんだ?」
振り向くと片手をチョップの形にしたままの賢二がいて、眼光鋭く睨んでいた。
地獄耳め、と一瞬表情を曇らせたが、
「何のことでしょうか? 新しいシューズを買ったので、履けるのよねって独り言を言ったんですけど……。禿げるなんて言ってません。よほど気にしてるんですね」
自意識過剰にもほどがありますね。
冷静に否定した。
「いや言ってたじゃねえか! 確かにこの耳で聞いたぞ」
そう言って右耳に手を添える賢二に、
「うわ汚い。ちゃんと洗ってます? 耳垢がこびり付いてますよ」
ひう、と奥のテーブルで新作の炭ラスクとチーズケーキを交互に頬張っていた女子高校生が変な悲鳴を上げた。
「こびり付いてるってお前……。鏡石、こう言っては何だが、田畑に似てきたぞ」
これに杏璃は即反応。
「どこがですか。似るわけないじゃないですか、あんな人格破綻者」
「そこまで言うな。俺も庇いきれん」
諦めを含んだ口調で言う賢二に言い知れぬ迫力を感じたような気がした。
もしかしたら従業員全てが玲に手を焼いているのかもしれない。
サキはどうなのかわからないけど。
「とにかく、今回だけは見逃すから業務に戻れ」
これだからゆとりは嫌いなんだ、と独り言を呟きながら賢二は厨房に戻って行った。
子どもみたいなセリフだなと思いながら会計待ちの客に笑顔で挨拶を交わした。
六月某日の昼下がり。
「散歩行ってきましたよ」
「お疲れー。どうだった?」
「リード思いっきり引っ張られて軽いランニングさせられて疲れました……」
「嬉しかったのよ。私以外の女の子と散歩に行けたから。夕食までゆっくり休んで」
へなへなと空気が抜けた風船よろしく床にへたれ込む高那サキを労い、
――下に見られてるのよ。
内心で毒吐いた。
「お金が底を尽きまして、親からの仕送りも打ち切られてしまいました……。家賃払えなくてアパート追い出されて野宿生活するしか選択がない私を救ってくだい……!!」
昨日、前触れもなく家を訪ねてきた高那サキが丁寧に自分の懐事情を説明し、居候させてくれと懇願。
別に構わないのだが、既に先客が一人。恐ろしいことに何もしない。ナマケモノもびっくりするぐらいの怠け者。食べるだけ食べ寝るだけ寝て、学校に行く。それの繰り返し。
――疲れてるんだからご飯の用意ぐらいしてくれてもいいんじゃない?
何回そう愚痴ろうとしたことか。だが、相手は高校生。大人げない態度は見せるものではない。
そしてそこにやってきたのがサキだ。料理を作れとは言わない代わりに、
「……コタロー――飼い犬の散歩ぐらいしてくれるなら」
そう条件を付けて居候を許可した。
「そ、そうなんですか? とてもそんな風には見えなかった……」
長い溜息を吐きながらしょんぼりするサキはお年寄りみたいだ。
そうなの、と軽く受け流してシャワーを浴びてくるよう勧め、返事をして立ち上がろうとしたサキのところに廊下を彷徨っていたコタローがとことことリビングに入ってきて横面をひと舐めした。
「きゃあっ」
驚いたサキが悲鳴を上げながら床に尻餅を尽き、エクソシストばりの速さで杏璃のもとに避難した。
「……大袈裟ね」
「お、大袈裟? いやいやいや、絶対驚きますって!」
嘆息交じりで言う杏璃に身振り手振りで反論するサキ。状況を理解してるのかしてないのか、首を傾げながら二人を見つめるコタローというシュールな光景が出来上がった。
「コタローはゴキブリじゃないんだから、そんなに驚く必要はないでしょ」
「そういう問題じゃ……」
ないと思います、と続けようとしたところに、
「賑やかねえ。見なよ、イチロービビッてんじゃん」
学校から帰ってきた律子がコタローを指しながら言う。
「律子、コタローって何回言えばわかってくれるの? コタローの「またかよ」って心の声が聞こえてきそうだわ」
「お姉ちゃん細かい。イチローでもキタローでも同じだって。動物なんて適当に名前呼べば振り向くの」
黒い部分を隠しもせずペラペラ喋る目の前の女子高生に杏璃は溜息を吐き、サキは口をあんぐりと開けたまま固まった。
杏璃は玲という反りが合わないひねくれ上司を相手に何度も口戦しているので、それなりに免疫はできているが、サキの場合は昨日の自己紹介の時「今度は考え無しかあ。勘弁してよね」と酷い言われようで怒りより驚きの方が大きかった。その後律子は杏璃に頭を叩かれて何も間違ったことは言ってないと逆ギレ。
違った意味で大物になるかも、と少々心配になった。
「ごめんなさい、サキ」
「い、いえ、私は平気ですから」
そう言うサキの目は虚ろだった。律子の言葉がショックだったことがバレバレ。杏璃は内心で手を合わせた。
「そういえばさ」
「接続詞が変」
「もうっ、杏璃お姉ちゃんほんっと細かいんだから! この前の自称フリーター穀潰し女はお姉ちゃんの友達な痛っ」
もう少しで言い終えるというところで再び杏璃に頭を叩かれた。視界がぶれたことからさっきより力の加減が強いのは確かだ。
「あのね、あの子はスポーツにたとえるなら二軍。いえ、三軍で一軍昇格を目指して奮闘してるひよっこなの。そう思えばいいの。口が滑っても穀潰しなんて言っちゃ駄目」
上手いたとえだなあとサキは思ったが、
「無茶苦茶……」
律子は理解できなかったようで、頭を擦りながらコタローに近づき撫でようとしたが、怯え声を出しながら杏璃の背後に逃げた。
律子は苦笑いして、「懐かないなあ。嫌われてるのかな」と独り言を漏らしリビングを出ていった。
「あの……」
「気にしないで。そういう年頃なの」
「は、はい……」
サキは律子が出ていったほうを見て思い、杏璃は律子が彩花に対して一方的な敵意を抱いていることに不安を覚えた。
「あ、あの、律子ちゃは先輩の――」
「妹じゃないわよ」
サキが言いそうなことを先読みして、ソファに座るよう促した。
「じ、じゃあ、いとこ……とか?」
「そうね。だいぶ前に会ったきりだから、誰だって警戒しちゃったわ」
「はあ」
「突然「お姉ちゃん」って言われたら、混乱するでしょ。私一人っ子だし、父が他所で作ったんなら、話は別だけど」
「あ、あはは……」
笑って誤魔化すしかないサキの隣にコタローが寄り添い、フーン、と鼻息を吐いた。
「あの」
「何? 子作りの方法なら知ってるでしょ」
「ち、違います! り、律子ちゃんとどうやってコミュニケーション取ればいいのかなあって」
その質問に杏璃は二度大きく瞬きをし、
「話せばいいじゃない。びくびくして対話を拒んでいたら、前進しないわよ」
こんな簡単なこともわからないのと少々戸惑った。
「そうなんですけど、苦手なんです。ああいう感じの子」
杏璃を目の前にしていとこの律子を拒絶するサキをコタローが尻尾をゆっさゆっさと振って賛同の意を示した。
「慣れるわよ」
それに対して杏璃はその一言で片づけた。
「な、慣れません」
「じゃあ、出てく?」
一杯呑んでく? みたいな調子で言われたものだから、「えっ」とサキにとってはまさかの変化球を投げられたようなもの。驚くのも無理はない。
杏璃はそんなサキを無視して冷蔵庫から牛乳のパックを取り出し、コップに注ぐと一気に飲み干し、「不味い」と顔を顰めた。
牛乳自体あまり飲まないのだが、律子に頼まれて買ったのだが、当の本人は口にしないで炭酸飲料ばかり飲んでいる。
骨溶けても知らないからね! とツンデレ風に内心で突っ込んだものの、年齢に合わない痛々さに独り悶絶しそうになった。
「大丈夫ですか? 私が迷惑ばかりかけてるからストレス障害起こしてるんですよ」
すみません、と頭を下げる。
「違うから。そりゃ、舌もストレス障害起こすけど、味覚が麻痺するっていうのはいくら何でも聞いたことは――」
「ええっ。先輩、味覚障害なんですか!?」
詰め寄るサキに、
「違う違う。友人にね、言われたことがあったの。味覚は正常なんだけどね、コーヒーの飲み過ぎで麻痺してるんだって」
失礼しちゃうわよねえ、と牛乳パックをゴミ箱に捨てながら言う。
サキはコーヒーの飲み過ぎで味覚が麻痺するんだろうかと不思議そうな表情をして杏璃を見ていたが、
「年齢は関係ないと思いますっ」
「……」
斜め上をいく回答を意気込みながら言うサキを杏璃は無表情で見つめるしかなかった。
「夏本番って気がしないかい、アンちゃん」
「その言い方やめてくださいって何度言えばわかるんですか。もしかして学習能力備わってないんですか? ……田畑さんに訊く方が間違ってました」
「ちょいちょい。それはいくら何でも傷つくよー。んじゃあ「アンさん」のほうがいい? 何かこっちのほうが筋の人っぽくない?」
にやにやしながら訊いてくる上司を、お頭が足りないんですね、とはさすがに言えず、
「そういう問題じゃないです。普通に「杏璃さん」でいいじゃないですか。親しくもないのに馴れ馴れしく呼ぶほうが不自然だと思いますけど」
冷たく突き放してロッカーの扉を閉めた。玲とは仕事上だけのつき合いであり、友人ではない。いずれ顔を合わせることもなくなるのだ。杏璃にしてみれば上司の言動はパワハラに等しいのだが。
「そうかなあ。同じ職場で汗水流して働いてるんだし、気にすることなんてないと思うけどなあ」
一緒にすんな。
内心で毒吐きながら更衣室のドアノブに手を掛け、出て行こうとした。その直後。
「きゃっ」
「ははっ。アンちゃん、可愛い声出しちゃって……喰ったりしないから安心しなよ」
「……本性現しましたね」
まるで恋人にそうするように、背後から抱きつく玲に、杏璃は険しい声で言う。
「本性? アンちゃんドラマの見過ぎ。これはね、私なりのスキンシップ。男なんか大喜びでさ、すぐ発情しちゃうんだよね」
要は男なんか単純で馬鹿な生き物と言いたいのだろう。前を向いているので表情をうかがい知ることはできないが、にやついているに違いない。
「ごめんね、話が脱線しちゃった。私が言いたいことはね、信用してほしいんだ」
「……」
何を今更なことを言っているんだと眉間に皺を寄せたくなる。
この上司との間にあっただろうか、と。
反りが会わないのに信用できるわけがない。そのことに気づけ。
「アンちゃん、我慢は体に毒だよ」
「っ」
見透かしたような玲の囁きに胸の鼓動が大きく脈打った。
意固地になってるとでも言いたいのか。
杏璃には、何が何でも仲良くしましょう、と押し付けてるようにしか思えない。変に馴れ合うつもりは一ミリもないのに。
「は、放してください!!」
気がつけば大声を上げ腕を揮って玲の拘束から逃れていた。その反動でドアに右半身を打ちつけ、更に背中を打ちつけ顔を顰め、その場にしゃがみ込んだ。
「あ、アンちゃん、大丈夫? ごめんね、私が悪か――」
「触らないでっ」
玲の言葉を遮り強い口調で拒絶の言葉を口にしながら、ゆっくり立ち上がるとバッグを拾い上げ、玲を一睨みしてドアを開けて更衣室を出て行こうとしたが、
「お、おい、どうした? 揉め事か?」
騒ぎを聞きつけた賢二に呼び止められた。その後ろには興味半分について来たのだろう店員たちの姿があり、中にはカメラ付携帯電話で撮影しようとする者までいる。
「最低」
短くそう言ってその場を後にした。
再び呼び止めようと賢二の声は聞こえていたが、億劫だった。
いつも立ち寄るコンビニで買い物をし、ふと我が家事情を思い出す。愛犬コタローといとこの女子高生の律子、今日は休みのサキが待っている。
「居候が二人ね……」
惣菜と弁当を適当に手に取りながら小声で呟き、溜息を吐いた。会計を済ませると明神商店街方面に足を向ける。全国展開しているコーヒーショップで一休みした後、タクシーで帰宅した。
コンビニ弁当を与えられた二人のうち一人からは「節約って言わない。手抜き」だと、手厳しいお言葉を頂戴したが、今はゆっくり休みたかった。
サキが何か言いたげに見ていたのはわかっていたが、あえて気づかない振りをして、コタローに餌(缶詰タイプで中身は牛肉)をやった。
「人間関係で拗れたんだ?」
「もともと拗れてたわ。ていうか、あっちから構ってくるんだから、キレる権利ぐらいあって当然よ」
「初めて聞く言葉だね。で、その上司と顔合わせたくないからってスト中なのね」
応援してるよっ、と彩花は杏璃の背中を軽く叩いて焼酎のカップを口に運んだ。
「……彩花に言われると無性に腹立つ」
幸せそうな表情をしながら日本酒を呑む彩花を半目で見ながら杏璃は言う。毎日反りの合わない上司に視姦されながら仕事をこなしているというのに、方や彩花は訓練所で模擬労働。言い方は厳しいが世間の訓練所に対する評価は高いとはいえない。
様々な事情を抱えた人達が共存しながら社会復帰を目指しています、とキャッチコピーを付ければ聞こえはいいだろうが、徹底的な透明化を図らなければ世間の理解を得ることは難しい。
巨大掲示板などではアフリカ大陸の某国が特定の人種に対して行っていた政策を引用して『アパルトヘイト』と揶揄されている。それにはいろんな意味があるのだが割愛する。
彩花が症状を克服し、次の段階へと進むのか立ち止ったままなのかはわからないが、中学時代の同級生としては応援したいが、今は自分の取った行動を後悔する日々。
あの更衣室の一件以来、杏璃はあおぞらカフェのアルバイトを休んでおり、彩花が「スト中」と言ったのはストライキのことだ。
別にそういうことではないのだが、セクハラ同然の行為をされて喜ぶ人間など存在しない。存在してはいけない。
「失礼しちゃうな。心から思ってることなんだから、素直に受け止めてよ」
そう言われても困る。
反応が無いのが面白くなかったので、
「サキちゃんに養ってもらっちゃって、杏璃ってば鬼だよね」
もう一突きしてみたら、
「う、煩いっ。真昼間に酒呑んでる彩花に言われたくないわ」
反応があった。覿面だった。
杏璃としてみれば図星で、そう反論するのが精一杯だった。事実、仕事を休んで一ヶ月が経つ。
その間いとこの律子には散々非難の言葉を浴びせられ、サキには気を遣わせ、コタローには餌が缶詰から激安の骨付きカルビに変わったことに対する不満が日に日に強くなり鼻息が荒くなる一方だ。
暫定無職。
失職したわけではないが、その表現が現在の杏璃には合っているだろう。
「バイト変えないの? このまま休んでたら復帰した時辛いよ」
「重みがある言葉ね」
「褒めてくれてありがと」
「褒めてない」
あんたこそ就職考えなさい、と言ってポテトチップスを一枚口に運んだ。
彩花は唇を尖らせ、溜息を吐いた。杏璃の言う通りなのだから仕方ないけど、簡単に言わないでほしいと言いたかった。一般就職するまでの道のりは簡単ではない。
特にハンデを背負っていると尚更。
「あ、それとさ、律子ちゃん言葉遣い荒くなってない? 怖いんだけど……」
カップ酒を両手で包み込みながら言うサキに、
「反動だと思いなさい。それか環境の変化とかね」
そう言って残りワンカップの酒を手にして蓋を開け口に運んだ。
リビングの出入り口で律子が聞いていたことなど二人は気づかなかった。
「お待たせ」
「その言い方やめてよ。元彼思い出すから」
じゃあ何て言えばいいんだと、杏璃を睨む律子を見ながら思った。
七月某日。世間の学生は夏休み。一方、杏璃はニート生活を送っている。職場からの連絡はない。当たり前だ。一人欠けたところで業務に支障が出ることはないし、補充要員で穴埋めすればいい。杏璃の我儘につき合っている暇などないのだ。
今日はハローワークに行こうと昨日から決めていたのだが、心細いので律子に無理言って付き添ってもらった。中に入ろうとはしなかった。こんなTシャツとミニスカートなんて露出度が高い服装で一時間も玄関先で待っていた勇気を称えたい。
だけど、下手に褒めて逆鱗に触れたら厄介だ。理不尽だと思いつつ謝罪して、若会駅方面に足を進める。
「ねえ、何か見つかったの」
律子の問いかけに、
「なかった」
杏璃は振り向かず苦笑交じりに答えるしかなかった。
「なかった? ちょっとヤバくない?」
今時の女子高生っぽい口調で後ろから言ってくる律子に、
「そうだね。ヤバいね」
前を向いたまま他人事のように言う。
案の定、律子に「他人事みたいに言わないでよ」と咎められ、まずかったかなと無言でその場をやり過ごす。
まだカフェを辞めると決めたわけではないが、生活を安定させるためにも他の職に就こうと決めている。
ハローワークに来たのはその『保険』を見つけるため。
「……そんなに嫌な人なの?」
「私はね。生理的に受け付けないの」
「そこまで言うか……」
「言うわよ。会った瞬間、拒絶反応が出たんだから。……最初は我慢してたけど、人間言葉や態度に出るのよ」
「ふうん。そういうものなの?」
「そういうものよ。人間関係なんて脆いものなんだから。ちょっとしたことで壊れるし、修復できても壊れちゃ意味がない」
「でも最初から拗れてたんでしょ」
「まあね」
その通りなので素直に答えた。相手から拗らせたようなものだ。杏璃は静かに仕事をしたいだけなのに、田畑玲という上司はそれを許してくれない。
嫌がらせでストレス発散してるのだろうかと、思ってしまう。
「ねえ、サキさんとか、同僚の皆とは仲が良いの?」
思わぬ変化球に杏璃はすぐに答えられなかった。そう言われてみると、いつも一方的に絡んでくるのは反りの合わない同性の上司だけで、店長とは新商品会議の時を除くと挨拶時と休憩時に時々世間話を交わしてるだろうか。後は同僚というか後輩のサキとしか話していない。
ひょっとして、これはコミュニケーション障害なのではないか。
杏璃の脳裏に『コミュ障』という文字が浮かび、頭を振った。後ろで見ていた律子は眉を寄せた。
若会駅まであと数メートルという距離まで来たところで、
「温泉いいよね。入ろうかな」
「出費抑えないといけないんでしょ」
日帰り温泉施設前でそんな会話を交わし、更に数メートル先のスーパーではコタローの餌と飲料水だけを買い、外に出て、
「ハチローって神様か何かなの?」
十缶は買っただろうペットフードを見ながら律子は言う。
「コタローって何回言えばわかるのよ。というかわざとでしょ」
「つまんない」
「やっぱしね。コタローは息子同然なの。可愛くて仕方ないのよ」
自慢げに答える杏璃を痛々しそうな目で見つめ、
「外科と内科と眼科行ってきたほうがいいよ。人間より犬優先って絶対変だもん」
そうアドバイス。
「冗談が通じないって怖い」
だが軽く受け流された。
「夕食サキに作らせるのは酷だし、ハンバーガー買って行こうか」
「いいけど、冷めちゃうよ」
「レンジでチンすりゃいいの」
「味が落ちちゃう」
「ちょっと弾力がなくなるだけで、死にはしないわよ」
「うわー最低」
職場の人間関係なんてこんなもんよと言いたげな表情に律子は本気で引いた。
杏璃は悪役を演じてしまったと内心で苦笑した。
テリヤキバーガーを三個買って帰宅すると律子はコタローの散歩に出かけてしまい家の中は杏璃一人になった。
エアコンの駆動音以外聞こえない室内は静かで、独りがこんなに寂しいものなのか。
捨て犬だったコタローを飼い始め、それだけで充たされていたと思っていた。だけど、そうではなかった。いとこの律子と職場の後輩の高那サキが同居し始め、こういうのも悪くないかも、と少しばかり充実している自分がいる。
もしかしたら気づかなかっただけなのかもしれない。
そうだとしたら、そんな鈍感な自分を蹴飛ばしてやりたい。
身近に最高の『仲間』がいるじゃないの、と。
律子は女子高生でほんの少し面倒くさがりやだけど、自分よりしっかりしてる。
彩花は性格も将来も不安定だけど、努力家だ。
サキはちょっと空気が読めない発言をするけど、カフェの看板娘的存在で明るく客層からの人気が高い。
多くなくたって自分を案じている人がいるということは名誉なことではないか。
そう思うのは自意識過剰だろうか。
テレビを点けると公共放送の男性アナウンサーが無表情で「お昼のニュースです」と口にして、欧州の某国のホテルで開催中の宝石展示会に何者かが押し入り、日本円で数十億円相当の宝石が盗まれたという事件を淡々と読み上げていた。
第五話
今日は終戦記念日で、日本が先の大戦で敗戦した日とされ、国家のために命を捧げた英霊を弔う日。だというのに。
「人間は学習しないんだよな」
「どしたの? ザビちゃん」
新商品会議の席上、賢二が開口一番にそんなことを言うものだから、玲が売れ残った炭ラスクを両手に不思議そうな顔をしながら言った。それに対して賢二は呼び方にクレームを入れた上で、
「毎年毎年、何で隣国の「祖国が解放されて何年目」「参拝しないでね」っちゅうニュースを報じるのか」
「そんなこと言われてもねえ。嫌なら観なければいいじゃん」
解決した。
「今に始まったことじゃないじゃない。気にしてたら禿げの進行が加速するよ」
「田畑お前な、禿げ禿げって、俺の髪は少し薄いだけだ。あんまし言うな。本当に禿げるだろうが」
賢二の抗議に炭ラスクを交互に頬張っていた玲は一旦中断して、
「本当のこと言っただけだもん」
「言っていいことと悪いことがあんだろ。どんな教育受けてきたんだお前は。……ま、観なけりゃいいってのは、もっともな意見だよな」
「……何の話だっけ?」
本題を忘れている玲を信じられない気持ちで見て、溜息を吐いた。
と。
「あのう」
「お、おう。すまんな、つい素が」
「素なんですか」
「素ですが何か?」
濁った眼で言われ、杏璃は恐怖のあまり何も言えなかった。
「まあまあ、堅苦しいことは横に置きましょうよ」
助け舟を出したのはサキだ。若干眉が下がっているのは、怖がっているか引いているかのどちらかだろう。
「そうそう。頭の中がお花畑の連中のことなんかほっといて、アンちゃんの復帰を素直に喜ぼうじゃないか」
パチパチパチ、と効果音付きで拍手する玲を杏璃は全力で無視し、
「すみませんでした。我儘言って迷惑をかけてしまって……」
「気にするな。鏡石が休養中の間は、高那が頑張ってくれたし、こちらとしても大変助かったよ。……ほとんど何もしないで店内を徘徊していた誰かとは大違いだ」
謝罪する杏璃に賢二が簡潔にそう説明し、ジト目で隣の玲を見た。
「ちょっと、徘徊って失礼じゃない? ちゃんとオーダー取ってたじゃない」
「オーダーだけ、な。それ終わったら休憩室に引っ込んでたろ。ノック無しで部屋におやつ運んでくるお袋思い出したわ」
あははっ、とサキが噴き出したが、杏璃も玲も笑っていなかった。
「ユニークなお母さんだね」
「俺には珍獣としか聞こえんがな。……とにかく、失恋した腹いせに鏡石をからかうのはやめろ。わかったな、田畑」
「あれあれ? 珍獣発言火消ですか? しかも私の失恋をネタに」
「蒸し返すなよ。あ? 別れた?」
「わ、悪い?」
珍しい。いつもヘラヘラしている上司が同様している。しかも赤面して。
「アンちゃん何携帯こっち向けてんの?」
「いえ、こんな田畑さんあと何年したら見られるのかわからないので、記念に撮っておこうかなあと」
「それをネットに拡散しようとしてる!?」
「しませんよ。ブログもつぶやいたったもやってませんから」
「掲示板があるじゃないっ。そこで日頃の恨みを画像付きで晴らそうとしたり……」
「自意識過剰ですね。田畑さんの赤面顔なんて誰得なんですか。閲覧した人皆瞳孔拡がっちゃいますよ」
縮まないんだ……、とサキが呟いたのは完全無視された。
収拾がつかなくなりそうだったので、賢二が止めに入り、新商品としてチョコクリームクロワッサンを提案したものの、
「高カロリーの上に新鮮さがないですね。よって却下」
杏璃の鶴の一声によりお蔵入りが決定。
玲とサキは賢二の支持に回ったが、杏璃は聞く耳を持たなかった。段々と賢二の求心力が薄れていくことに本人はもとより玲とサキは不安を隠せなかった。
着替えてカフェを出ると、終戦記念日ということもあるのか、いつもより厳粛な雰囲気が漂っているような気がする。
仕事をしたまではよかったが、その後の下らない馬鹿話は国のために命を懸けて戦った英霊に失礼だったかなと思った。
こういう時、嫌でも意識させられる。家を出ていった両親の娘なんだと。
過激な思想団体に所属していたわけではないが、日本のために尽力した人を中傷する個人や団体、国家を毛嫌いしていた。テレビで日の丸が燃やされるシーンが流されるたびに両親は罵詈雑言をテレビに向かって浴びせ、杏璃は怖がるというより不思議な気持ちで見ていた。
「先輩、目が死んでますよ」
いつの間にか正面にやってきたサキが覗き込みながら言った。
「……そういうこともあるわ」
溜息を吐いて若会駅方面に歩き出す。
「どんな時ですか?」
そこ訊くのかよと思いつつ、
「今後の生活とか」
嘘を吐いた。すると。
「わ、私、邪魔でした?」
「邪魔じゃないから」
「ほ、本当ですか」
「ええ。一人よりはいいし」
それは事実だ。一人娘だから余計、依存心が強いのかもしれない。
自覚はなかったが、コタローを飼い始め、同居人が二人になってどこかホッとしてる自分がいる。寂しくはないと思っていたが、気づかないだけだったみたいだ。
「サキはさ」
「はい?」
「この仕事を続けようって思う?」
「どうしたんですか、急に」
「どうしたんだろうね。訊いといてわかんない」
本気で心配顔で訊いてくるサキに杏璃は苦笑い混じりで言う。どうも反りの合わない上司との一件以来、精神がまいってる。長期休暇という名のズル休みをしていた間、何度となくあの場面を夢に見るのだ。そして決まって飛び起きる。
復帰早々に玲から謝罪はあったが、あの時の行動を「悪ふざけ」で片づける辺り、相当肝が据わっている。もしかしたら罪悪感というものが欠如してるのかもしれない。
「もしかして、田畑さんですか?」
こういう時に限って人というのは言い当ててしまうのだろうか。
杏璃は苦笑い混じりで「正解、かな」と言ったもののそれ以上は言わなかった。
それを察したサキは納得したのか、「三日間休みを頂いたんです」と話題を変えた。
「催促したんじゃないですよ? 店長に故郷に一度は帰れって言われちゃって」
照れ笑いするサキに、
「帰ってないの?」
本気で言ってるの? という信じられない思いで訊ねた。
「だって、シフトの都合があるじゃないですか」
そこは無理を言ってでも帰るべきではないかと思う。あの店長なら鼻の下を伸ばしながら了承するだろう。だが、もう一人のほうはどうか。サキが杏璃のもとに居候していることは知らないが、こうやって話してるところは多く見られている。賢二が許可しても玲がしつこく却下と主張すればそれまでなのだ。しかし賢二から休めと命令されたという。
反りの合わない上司が越権行為を行使したとしか思えない、と空を見上げ、正面を向いた時、横断歩道の信号は青に変わっていた。
「先輩、赤になっちゃいますよ!」
行きましょう! とサキの子どもっぽい笑みとともに手を引かれ、躓いて文句を言いつつ渡る。どこの青春小説だと思ったが、両親以外の他人と手を繋いだのは何年ぶりだろうか。しかも同性同士。
「先輩?」
「な、何でもない。あ、ほら、バス乗らなくちゃっ」
首を傾げながら訊ねるサキから逃げるように自宅最寄り行きのバスに乗車した。
考えてみれば異性と手を繋いだことはあっても、同性とはなかった。運動会とか、行事以外では。
――バタバタな誕生日ね。
皆には教えていないが、今日は二十三回目の誕生日。
神様には感謝しなきゃ、と思った。
「この暑い中、路上に突っ立って商品売れって言うんですか」
「いやいや、何も球場の売り子みたいなことをやれとは言ってなくてだな……」
「ザビちゃんはたとえが下手だねえ。駅弁売りって言えば充分じゃない」
「似たようなもんだろうが! 屋根があるかないかだけだろ……」
「やっぱし炎天下の中で売り子を……」
「させねえよ。というかお前ら二人して店長を責めてんじゃねえ。打ち合わせしたのか」
指摘されてようやく気づいた杏璃と玲が顔を見合わせる。杏璃はしまったという表情をして顔を逸らし、玲は照れなくてもいいのにと言いたげに笑う。いや、嗤う。
「落ち着いたか? 落ち着いたな。よし、それじゃ、鏡石と田畑でここに行って販売してきてくれ」
そう言って差し出されたのはA四サイズの紙切れ一枚。それを一目見た瞬間、
「嫌です」
杏璃は即答した。
「早押しクイズかよ。何だ、別れた彼氏が働いているのか」
「面白くないたとえの上にセクハラですか」
「どこがセクハラだ。こんなもんがセクハラになっちまうなら、世の中に言論の自由はないわ」
「ザビちゃんにはなくていいと思うよー」
援護するように玲が口を挟み、賢二はシッシと野良犬を追い払う時のようなジェスチャーをした。
「……で、理由は」
「駅じゃないですか」
「駅だな」
「何で東中なんですか」
「二位じゃ駄目なんです――いやいや、ごめんごめんっ。ノリで言っただけじゃないか。だからな? その右手に持ってるフォーク置いてくれないか?」
反射的にテーブルに置いてあったフォークを手に握り締め賢二に向けている。
「あ、いつの間に」
「白々しいことを……」
フォークを見つめながら言う杏璃に表情を引き攣らせながら言った。
賢二は気を取り直し咳払い一つして、若会駅ではなく東中駅を選んだ理由を一言で説明した。
「エキナカだ」
「駅の中がどうしたっていうんですか」
「アンちゃん天然ボケキャラ似合わなーい」
賢二の言葉をそのまま受け取った杏璃に玲が余計なツッコミを入れ、存在感ゼロだったサキが「駅ビルのことです」とわかり易く教え、意味を理解した杏璃は顔を真っ赤にしながら、
「最初から駅ビルって言ってください!」
と言ってフォークを賢二めがけて勢いよく分投げたが、ギリギリ右に逸れた。
「うわ馬鹿野郎!! 危ねえだろうがっ」
そりゃ怒るよねー、と煽る玲を一睨みし、
「言葉が足りないからです」
澄まし顔で逆ギレ。しかし内心はかなり焦っていたがやっちまったものは仕方ない。
「とにかく、お前ら二人で売ってくること。目標は全商品完売」
「鬼だねえ」
「いいんだよ。つかな、マネージャーのお前がネガティブなこと言うな」
「市内のあちこちで散々試して、完売した試しがないのに?」
そうなの? と問いたげな杏璃とサキの視線から逃れるようにして、テーブルに置いてある業務用番重をひと叩きし、
「こん中のパンと諸々完売させるまで帰ってくるな」
人差し指を杏璃と玲に向けた。
玲が「禿げの分際で生意気な」と小声で毒吐いたのが聞こえ危うく噴き出しそうになったがどうにか堪え、賢二が手配したレンタカーで玲の運転で東中に向かった。
残るよう指示されたサキが、もの凄く不満な様子だったことは言うまでもない。
「売れませんね」
「そうだねえ。売れないねー」
「場所が悪いんじゃないですか」
「あのねアンちゃん。場所は最高なの。売れないのが可笑しいの」
「田畑さん喋り方がちょっと変ですよ」
頭も変ですけど、とは言わない。
「そんなことないよ。ザビちゃんが足りない脳味噌フル活用して交渉したお陰で、こうやって販売できてるんじゃないかい」
「失礼ですよ。でも、何でこんな狭い場所で売らなきゃならないんですか。晒し者の気持ちですよ」
エキナカと言いつつ案内されたのは駅ビル三階。つまり最上階のエスカレーターとエレベーターホールの反対側の僅かなスペース。隣が書店だから大声を出すことは躊躇われ、通行人にスマイルで買ってくれとアピールするが無視されてしまう。一個も売れずに帰ったら日に日に薄くなってきている店長の髪の毛が一気に抜け落ちるのではと心配してしまう。
「若会でも売れなかったんですよね?」
「そうだねえ。まったくってわけじゃあないよ。何かのイベントが開かれるたびに、お菓子の付録みたいについて行って売ってたの。でも、この業界にも縄張りってもんがあってね、稀にいるんだよ、出しゃばり好きのパンの移動販売が」
震災前までラーメン店で働いていた杏璃は飲食店の世界にも縄張りが存在するということを知ってはいた。
何も動物や暴力団や諸々の勢力に限ったことではないのだ。
「田畑さんみたいですね、そのパン屋」
やっとこさ訪れた客(東中高校の女子生徒)の対応をしながら言う。女子生徒は同伴の男子生徒に、何の話してるんだろうねと言いたげな視線を向けていた。
「何でそっち方向に脱線するかなあ。私そんなに出しゃばりじゃないよ?」
話をふられて答えたのに、それはないんじゃない? と不満を漏らす。
同情してほしいわけではないが、外でモノを売るというのは勝手が違うということを知ってほしかったのだ。
杏璃はありがとうございましたー、と言ってから、
「そんなに? じゃあ、少しは出しゃばりだって自覚があるんですね」
子どもですね、と言って口を噤む。
「……アンちゃん違うから」
否定したものの館内放送に重なり杏璃には聞こえていなかった。
交代しながらの休憩を挟み販売を続けたものの、客足は芳しくなくほとんど残ってしまった。
「禿げるね」
「どれだけ禿げさせたいんですか……」
まいったなー、と少しもまいっている様子には見えない玲を横目に片付けをし、責任者に挨拶をして、駅ビルを出た。
「うっわ暑いねー」
「……」
時刻は夕方の四時を過ぎているものの暑さはまだ和らぐ兆しはない。
夏休み中ということもあり、親子連れや友達同士わいわい騒ぎながら二人の前を通り過ぎていく。休みでも、抹茶スコーンを買ってくれた東中高校の生徒みたいに、補習か他の用事があって登校している高校生や中学生だっているのだから感心してしまう。
「ぼうっとしてるね」
「してません」
「素直じゃないなあ。心配してるのに。あっちのベンチで休んでこうか?」
そう言って玲が指を差した方向は駅前広場のだいたい中央付近。そこに円形の木製のベンチが二脚。
気遣いは有り難いのだが。
「殺す気ですか。紫外線バンバン浴びるじゃないですか。放射線より有害ですよ」
屋根が無いため、炎天下の中に放置されるようなもの。座ってる者は一人もいない。
「自然界にだってあるけどね……。ほんじゃま、帰ろうか」
はー、気が重い、と少しもそんな感じではない口調で言い、玲は歩き出した。杏璃は番重を持ちながらその後をついて行った。
「どうするんですか」
「何が?」
「このまま帰るんですかって訊いてるんですけど」
杏璃の言葉に番重をハイゼットカーゴの荷台に置き、ドアを閉めようとしていた玲は手を止め、首だけ振り向かせ、
「帰るよ。売れなかったものは仕方ない。そうだねえ、処分するのは勿体ないから、アンちゃんたちにくれるよ」
傍からはドアの縁にしがみついてるようにしか見えない体勢で言った。サキなら喜んだかもしれない。だが杏璃は、
「要らないです」
きっぱりと拒否。上から目線の言い方が気に入らない。玲は「アンちゃんらしいね」と苦笑い交りに言って荷台のドアを閉めた。どういう意味だろうと思ったが無言で助手席に乗り、「冷たいねえ。あんまりだよ」と言いながら運転席に乗ってきた。
訊いておきながら断ったのだから、その指摘は間違ってはいない。だけど、この上司にだけは拒絶反応が出てしまう。
だいたい、この上司はスキンシップと抜かして襲った『前科』がある。こうやって二人きりでいること自体が危険なのだ。
「そんじゃあ、私が全部貰おうかね」
そう言ってキーを回して発進させる。にんまりとした横顔が不気味で鳥肌が立った。
「全部? 一人で食べるんですか? 彼氏にドン引きされますよ」
「別れたって言わなかったっけ?」
「そうでしたね。彼氏は懸命な判断をしましたよ。失恋の穴を食欲で埋めるなんて、今時流行りません」
さらっと玲の爆弾発言をして失恋をしたら食欲に走る風潮は時代遅れだと指摘。
「酷いな。ま、いいけど」
いいんだ……、と呆れながら外に目を向けた。
「変態は」
「ん? 変態? 店長のことかな?」
思ってたことが口をついて出てしまったが本人は気づいていない。それどころか賢二のことを挙げている。
――あんただ、あんた。
内心で突っ込みながら気を取り直して問いかける。
「あおぞらカフェを辞めたいって思ったことはないんですか」
「どしたのアンちゃん。引きこもり中に何かあったの?」
馬鹿野郎。その前にあんたが襲ったじゃないか、と言いたいのを抑えて同じ問いかけを繰り返した。
「そうだねえ。ないと言ったら嘘だね」
「どんな時ですか」
「どんな? いやあ、具体的に言えっていうと言葉が出てこないね」
「店長をおちょくるのに飽きた、とか」
杏璃の言葉に「ぶはっ」と玲は噴き出し、車体が一瞬左右に揺れた。
「ち、ちょっと、危ないじゃないですか!」
「今のはアンちゃんが悪いよー。危うく宮城方面に行くところだったよ」
「……」
私が悪いの? と思いながら「すみませんでした」と謝罪。
「いいよいいよ。わかってくれたらねー」
何その上から目線の言い方、と聞こえない程度に舌打ち。最近この上司の言動が癪に障って仕方がない。
「そういうアンちゃんはないの?」
顔を振り向かせながら訊いてくる玲に「危ないですよ」と注意して、
「終わったんじゃないですか」
まだ続けるの? と驚いた。
「何言ってるの。これも、アンちゃんが振ったことだよ?」
餌を補足した虎みたいに目を細めながら、再び振り向いて言う玲に指で前を向くよう促す。玲は前を向きながら訊いてきたので、杏璃は簡潔に「ありますよ」と答えた。
「えっ。あるの?」
「はい。生活苦しいので」
「それは私も同じだけど……」
「セクハラ上司と一緒に、いつまでも仕事する気はないです」
「それはザビ――」
「あなたですよ。ふざけるのもいい加減にしてください」
静まる車内。高速道路を乗り換え数分が経った時、
「ごめんね。ふざけてたつもりはなかったんだ。それに、アンちゃんにした行為については本当に申し訳なかったと思ってます」
「……」
正直信用できない。内心では舌を出しているかもしれないし、そう考えると素直に受け入れることは難しい。
少しの沈黙の後、玲が口を開いた。
「簡単に許してもらえるなんて思っていないよ。だけどね、できるだけ長くアンちゃんと仕事がしたいの」
「私は思いません」
「アンちゃん辛辣だねえ。それじゃあ、もし私が辞めたらカフェの雰囲気がぱあっと良くなるって思う?」
大型トラックが追い越し車線を猛スピードで通り過ぎ、数メートル先でハイゼットカーゴの前に出た。
平日の夕方でそれほど混んでいないのに何を急いでいるのだろうかと、杏璃は思ったが、上司の問いかけに答えないわけにはいかない。
ジュースホルダーに手を伸ばし、スポーツドリンクを一口飲んで口を開いた。
「思いませんよ」
「だよね!」
「だけど。だけど、嫌がらせをして悦ぶような人は職場にいてほしくないですけど」
「い、嫌がらせ……」
「自覚がないんですね。受け流せる人と流せない人がいるんです。前者はふざけてるって勘違いして、後者は嫌がらせだと受け取ってしまう」
私は後者ですけどね。
子どもでも理解できるようにわかり易く説明して、再びスポーツドリンクを飲んだ。
「ふざけてるかなあ」
「毎日ふざけてますよ。というか、ふざけ過ぎです」
「真面目だねえ」
「いけませんか?」
「いやいや。悪くはないよ。でもさ、あんまし力み過ぎると失敗するよ? 仕事もそうだけど、人間関係とか」
あんたがそれを言える立場かと杏璃は横目で玲を一瞥して、
「大丈夫です。田畑さんと違って良好な方なので」
それを聞いた玲は、「それは自意識過剰ってもんだよ」と苦笑い交りに言って続ける。
「アンちゃんはそう思ってても、ザビちゃんとサキちゃん、他の従業員は違うかもしれないじゃん」
「何の根拠がって」
「ないよ」
あっさり即答されて言葉が出ない。
「ないけど、信じるなってことだよ」
最低だけどね、と言って玲は続ける。
「この世は戦場と同じって思うんだよね」
「紛争地で苦しい思いをしてる方々に失礼ですよ」
「失礼なのはわかってるよ。でも、そう思わない?」
悔しいが認めざるを得ない。他人の考えていることなどわからないし、知ろうとは思わない。もしかしたら彩花も心の底では嫌っているのかもしれない。
「言葉ってどんな武器よりも残酷だよ。取り返しがつかなくなって初めて気づいたよ」
杏璃には何のことなのかわからない。教えてはくれないだろう。玲がこういう性格なのは、今話したことが影響しているのかもしれないし、元からかもしれない。
杏璃は黙って横に顔を向け、高速道路から遠くに見える猪代湖を目にして瞼を閉じた。
「髪切っちゃったんだ?」
「うん。いちいち結うのが面倒でね」
「似合うね、ショートカット。私もしようかな」
「誰でも似合うってもんじゃないわよ」
九月某日の月曜日。杏璃は休日を利用して午前中、美容院に行ってきた。いつだったか玲に某ホラー映画の登場人物に例えられたことがあり、早くどうにかしなければと思っていたものの、何だかんだで行くのが伸びたので、やっと切ることができた。
「そりゃあそうだけど。あ、ねえねえ、あの生意気女子こいでででっ」
「言いたいことはわかるわ。でもね、ああ見えていとこだから」
杏璃は彩花の口の端を軽く引っ張りながら言う。
誰でも身内を悪く言われたら嫌なものである。
彩花は杏璃の手を振り払って頬を高速で撫で擦った後で、
「嫁入り前の顔を台無しにする気!?」
訳のわからないことを叫び、隣でツナ缶を夢中で貪っていたコタローがフガッと咽た。
「息子を殺す気かあんたは」
杏璃はそう言いながらコタローのもとに行くとひょいと抱え、テーブルを挟んで彩花と向き合う。
「大袈裟ね。ほんっと、杏璃は結婚したら親馬鹿になるよ」
「だから私は子どもが嫌いだって言ったでしょう。酒ばかり呑んで頭のネジが何本か外れてんじゃない?」
「知ってて言いましたー。浅漬けじゃあるまいし、毎日酒浸りなわけないでしょ」
子どもみたいな言い方に、何故に浅漬けを持ち出したのか意味がわからない。そこを突いても仕方ない。嫁入り前云々に関してもそうだが、彩花を拾ってくれる猛者がいるかどうか。自分の結婚すら未定なのに人の心配してどうすると、コタローの背中を撫でながら杏璃は思った。
「結婚か……」
「するの?」
「うわヤラシイ」
「そう連想する杏璃がヤラシイと思う」
欲求不満は毒だよ、と何故か諭された。
「違うし! 人をヤリマンみたいに言わないでほしいわ」
二十三年の人生で初めて下品な言葉を口にした。いや、学生時代は何度か下ネタを口にしたことはあるが、相手の反応が芳しくなかったのでやめた。後に残るのはむなしさだけだ。
「そういう彩花はどうなのよ」
杏璃の問いかけに彩花は鼻で笑い、
「できるわけがないじゃない。あんたね、隔絶された社会の超底辺よ? 彼氏見つける段階で絶望の選択肢しか残されてないわ」
と酷い言い様。
「変わり者が多いの?」
「そこに私は含まれるのかしら?」
「……」
答えられない杏璃に「意地悪な質問しちゃってごめん」と謝り、
「そりゃあ、ね。どちらかっていうと上司に多いよ」
具体的には言えないけど、と苦笑いした。どんな人達が多いのか気になるが、笑えなかったら気まずいだけだ。
そんなものなのだろうかと思いながら、
「そういえば、律子に何か用?」
というか、いつ知り合ったの? 首を傾げながら話を元に戻す。
「別に用はないんだけどね。……ほら、ここの近所に放置してるスーパーマーケットがあるでしょ? 終戦記念日前日だったかな。隣の広場で休んでたら、声をかけられたの。えっと、確か――」
「穀潰し女、でしょ」
「そうそう、それ! 酷いと思わない!?」
そう言われても親と同居し飯を賄ってもらっているわけだし、律子の指摘は間違いではない。
巣立ちという自立ができない点では杏璃も同じ。あまりこの話題を広げるのはよろしくいと判断した杏璃は、二人の接点をわかっただけでもが一つあっただけでもいいやと、ポテトチップスを食べようと、一個手に取り口に運ぼうとしたその手が止まる。
「どうしたの?」
「ううん。何でもない」
親と同居している身近な人を思い出し、その人物が反りの合わない上司だとは言えなかった。
うすしお味のポテトチップスは、キャッチコピーに反してかなりしょっぱかった。
「今日もハードでしたね」
「火曜日は客足が結構多いのよね。謎だわ」
「私たちが知らないところで、店長さんと田畑さんが頑張ってるんですよ!」
「サキの言い方だと、私たちサボってるみたいね」
「え? あ、す、すいませんっ。そんなつもりで言ったわけじゃ……」
「大丈夫よ。それぐらいで怒らないから」
あの眼鏡に「頑張ってる」なんて似合わない、と杏璃は内心で思った。
「それよりも移動販売を本格導入するって本気なのかしら」
「そうみたいですよ。先輩、凄く嫌そうな顔してましたよね」
サキの言葉に杏璃は溜息を吐いた。
今回の出張販売の失敗を教訓にして来年から実施する、と賢二が意気込んでいたことを思い出し、嘆息する。
移動販売で売り上げが芳しくなかったのは前回もでしょ、と反論したかったのは山々だったが、余計なことを言って場の空気を乱すことになりかねないのでやめた。
ロッカーの扉を閉め、
「当たり前よ。聞いたでしょ? アポなしで移動販売したことが数回あったって」
「言ってましたね」
「あり得ないわ。アポを取ってからするのが常識よ」
「まあ、それはそうですね」
「他人様の敷地で勝手に移動販売したらどうなるか……言わなくてもわかるわよね」
「叱られちゃいます……」
「下手したら警察沙汰ね」
「け、警察!?」
サキが大声を出して驚く。「声が大きい」と杏璃は言って頭を小突いて更衣室を出る。その後をサキが追いかけてきた。
「今度は大丈夫ですよね?」
「私に聞かれてもわからないわよ。ま、周りがそれとなく教えればいいんじゃない?」
「こ、子どもみたい」
「子どもでしょう。店長はともかく、マネージャーは」
言葉が返ってこないところを見ると杏璃の意見に同意のようだ。
サキから次の問いかけがあったのは、外に出てしばらくしてからだった。
「お時間、よろしいですか」
「居候してるんだから、家ですればいいじゃない」
「り、律子ちゃんがいますし……」
「肩を持つわけじゃないけど、あの子はあなたに慣れようって努力してんのよ」
暑っち、と言って手で顔を扇ぐ。
再び沈黙した後輩を横目でちらりと見て小さく嘆息し、「話してみ」と促した。
サキは小声で「はい」と言って少し間を置いてから続きを口にした。
「実家に戻ります」
「……急ね」
サキは苦笑いして「そうですね」と言い、
「家族がですね、減ってたんです」
と続けた。
妙な言い回しだなと思いつつ、話の続きを促す。
「お姉ちゃんが旅立ってました」
どういう意味なのか理解できても、言葉が出てこなかった。呆れたわけでもない。
隣の同い年の「後輩」が、微かに微笑んでいたから。重い話なのに、何故そんな表情を見せることができるのか。
「双子のお姉ちゃんなんですけど、先月の四日に家の浴槽で死んでるのをお母さんが見つけたって、この前帰った時に聞いたんです」
「……」
「実感がないんです。こっちに来る数分前までしょうもない話をして笑わせていたお姉ちゃんに、もう会えないんだな……て」
淡々と話すサキを杏璃はそっと抱き締め、
「思いつきで行動すると後悔するでしょ?」
慰めるのではなくからかった。
「もう、先輩っ。これでも真剣に話してるんですよ」
「いいじゃない。辛気臭いよりも。あなた、全然悲しそうに見えないもの」
そう言われて、
「悲しいとか寂しいって思う気持ちはあるんですよ? でも、泣けないんです」
変ですよね、と訊ねられても返答に詰まってしまう。
「お姉ちゃんの葬式でいっぱい泣いたから泣けないのか、親を泣かせたくないから泣かないように意識してるうちに泣けなくなったのか……忘れちゃいました」
また、さっき見せた笑みを浮かべる。
眼前の後輩は傷つけることを恐れるあまり『哀』の感情を殺してしまったらしい。それが正しい選択とは思わないし、悲しいことだと思う。
反りの合わない上司の次に憎たらしい存在だったはずが、その感情は消えていた。
「寂しくなるわね」
だから、こんな柄でもない言葉をすらっと言えたのかもしれない。
「就職のあてはあるの?」
お節介にもそんな心配までしている。意識してないだけで、無意識に心配していたのかもしれない。
杏璃の問いかけにサキは全国展開している衣料販売店の名前を挙げた。
「そっか。ブラックじゃなさそうね」
「先輩、冗談きついです」
二人揃って笑い、
「短い間でしたけど、先輩と一緒に働けて楽しかったです」
ありがとうございました、と深く頭を下げるサキに、
「またおいで。この街はあなたの故郷なんだから」
いつ戻るのか詳細は訊かず、ちょっと古臭いことを口にして、地下歩道に入った。
帰宅後、律子にもサキが神奈川に戻ることを伝えたのだが、「あっそ」と短い返事で済まされてしまい、「先輩っ、やっぱり現役女子高生って苦手です!」と抱きつかれた。
律子の初めて見せる困惑顔は一生忘れることはないだろう。
その翌日、サキは家から姿を消した。
最終話
初詣は十日頃に行くと決めている。特に理由はないが、明神商店街が年に数回活気づく最初の日に参拝すると、一年間不幸に遭わず過ごせるのではないかという気がしてそうしているのだが、実際はそんなことはない。
神様だって暇ではないのだ。
今日は翌日の十一日。昨日のお祭り騒ぎが嘘みたいに、普段通りの明神商店街を取り戻していた。
「昨日行ったんじゃなかったっけ」
「忙しくて行けなかった。店長とマネージャーは十日祭の出店に出張っててね。私と厨房班で対応したの。疲れたわ……」
「それはご愁傷様だね。で、どうだったの」
「余った」
「ふふっ。呪われてるねー」
「彩花にだけは言われたくない」
杏璃はそう言うと横断歩道を渡り、しばらく歩くと『ミュージック・ヒル』というCDショップに入り、店員の挨拶に軽く頭を下げると二階へと向かう。一人がやっと通れる階段を上がると、すぐ左横がレジカウンターになっており、目的の人物が暇そうに頬杖をついていた。
「いらっしゃいま――何だ、杏璃お姉ちゃんか」
「お客に向かって失礼ね。今日はもう一人いるわよ」
「こ、こんにちは、律子ちゃん」
杏璃の後ろに隠れるようにしていた彩花が恐る恐る姿を見せながら言うと、
「あっ、穀潰し女!」
律子は指を差しながらそう叫び、すかさず杏璃がバッグで頭を引っ叩いた。
「痛ったあ……。ちょっと、いきなり何すんのよ!?」
頭を両手で押さえ目に涙を溜めながら抗議する律子に、
「失礼でしょ。初対面じゃないんだから名前で呼びなさい。その前に謝って」
事実でも言っちゃいけないことってあるんだから、と続けようとしたがやめた。
律子は素直に謝罪の言葉を口にし、彩花は苦笑いしながら「いいのよ」と言っていたがその目に薄らと涙が浮かんでいたのを杏璃は見逃さなかったが、見ぬ振りを通した。
「どう? バイト」
「楽しいよ。だってさ、一日中鑑賞してられるんだもん。夢みたいじゃない?」
何を? と問い返そうとして、壁沿いに目をやって「なるほど」と納得した。
棚に収納されているのはアニメのDVDとCDばかりで、レジカウンターの脇にはアニメタイトルのラベルが貼られたポスターが段ボールに入れられて置いてあることに今気づいた。
『鑑賞』という表現は適切なのか疑問だが、業務に支障がなければ問題はないだろう。考えてみれば何かに没頭したことがなかった。だから趣味に没頭できる人が羨ましく不思議だと思っていた。それが今はコタローの世話に夢中になっている。没頭とまでいかないが律子の気持ちが少し理解できる。
そのコタローを家に放置しっ放しにしているので早く帰らないと機嫌を損ねさせてしまう。
「アニメは詳しくないけど、趣味に夢中になれるのはいいんじゃないかしら」
勉強も忘れないでよ、という姑じみた小言は口にしない。
「だよね! あ、穀じゃなくて彩花さんの趣味は何? あったら聞かせて」
「えっ、趣味……? ええと……全国のお酒を通販で取り寄せて呑むことかな」
「夢も希望もない」
他人様の趣味を即答で一刀両断する律子に杏璃は内心で拍手を送った。
趣味が飲酒というのは寂し過ぎるし、何だかオヤジ臭い。とはいえ、友人(と言っていいのか判断しかねる)の趣味にケチをつけると律子に言った意味が無くなる。
内心で同意しつつ項垂れてる彩花の背中を軽く叩いた。
「で、お姉ちゃんたちは何をしに来たの?」
「お参りついでに律子が仕事してるか見に来た」
「何それ。ちゃんとしてるよ」
「暇潰しになったでしょ」
「こっちはよくない。今のお姉ちゃんたちは迷惑な客だよ……」
確かにそうね、と内心で苦笑いした。
何も買わずに店を出ようとした際、一階のレジカウンターで作業をしていた杏璃たちより少し年上の目つきが鋭い女性店員が、「何も買わないの」と小声で呟くのが聞こえ、申し訳ない気持ちで立ち去った。
その後向かったのは杏璃の職場だ。
「コタロー餓死しないかな?」
「するわけないでしょ。でも心配だから早く済ませて帰る」
そう言って、あおぞらカフェの玄関のドアを開けた。
「いらっしゃいませ!」
と、元気よく出迎えたのは、
「もう少し抑えてもいいと思うわ、サキ」
去年の自分を見ているようで杏璃は恥ずかしかった。
「そ、そうですか? ブランクがあると忘れちゃうというか……」
手をもじもじさせながら言い訳するのは、去年の九月下旬頃に地元の神奈川に戻ったはずの高那サキだった。
「焦らないでゆっくり取り戻せばいいのよ。このぐらいの挨拶なら彩花だってできるんだから」
矛先を向けられた彩花はどういうことだと睨んでいたが、何も言わない。
代わりにサキが彩花に視線を向け、
「中林彩花さんですね? 初めまして、高那サキです」
自然な笑顔で簡潔に自己紹介した。
「あ、ど、どうも。中林彩花です……」
緊張気味に自己紹介した彩花の肩をポンと叩いた。よくできました、と言ってるみたいだ。
杏璃は昨日若会に戻ってきたサキに、以前と同じ待遇を与えることを伝え、店を後にした。いや、しようとした。
「私一人だけじゃ心細いじゃないですか。待っててくださいね、着替えてきます」
そう言い残してホールから出て行くサキを見送り、彩花は口を開いた。
「昇進したの?」
「違うわよ。急だったから、店長に相談して結果を代わりに伝えただけ」
「へえ。優しいんだね」
その言葉は杏璃か店長に向けられたものなのかは、訊かなかった。
そのうちサキが姿を現し、店を出た。
彩花とサキが打ち解けるのにそう時間はかからなかった。
訓練所がどういうところなのか彩花が教えると、サキは何度も頷きながら真剣に聞き入っていた。
「辛いことは何ですか?」
というサキの問いかけには、
「いっぱいあるけど、履歴書とかの職業欄に無職って書かなきゃならないことかな……」
彩花は苦笑い交りで答えた。
「えっ。無職なんですか?」
職業区分に含まれると思ってたのか、目を丸くして驚くサキに、「無職って響きが最近じゃ心地よく感じるね」と諦めきった表情で言う彩花が杏璃には神々しく見え、目の錯覚かと掌で擦った。
「そりゃあねえ。早い話が職業訓練だもん。だから工賃だって考えられないぐらい激安だもん」
「激安なんですか。バーゲンみたいですね」
ついでとばかりに毎月いくらもらっているのか訊いたサキは、そのあまりの超激安さに「マジで!?」と素で驚いた。
「マジなんだよー。頑張っても一万円いくかだねー。……一体何しに行ってるのかわからなくない時期があったよ」
それはそうだろうと二人の会話を聞いていた杏璃は思う。最低でも一ヶ月五万円は支給されないと生きてる実感が湧かないのではないだろうか。
社会復帰を支援します、とは謳っても訓練所全てがそうなのかといえば違う。一般社会と同じで、上司と部下が馴れ合い、派閥を作り、貶めるようなことばかり考えていては目標を達成することは難しい。
アットホーム過ぎる関係は非常に危険だ。
「演じればいいのよ」
杏璃の言葉に彩花とサキは同時に首を傾げた。
「だからね、訓練所では普段の彩花らしくない、お馬鹿さんを演じればいいんじゃない、って言ってるの」
「あ、杏璃、それ洒落になってない……」
「……?」
彩花は気づいたがサキはまだわからないようだ。
「難しいかな」
「難し過ぎて無理……。それに今はそれほどじゃないから大丈夫。いい加減にしろって職員はいるけど、どうにもならないしね」
「いるんですか?」
「いるよー。これはどこの業界も同じだと思う。私の場合は社会復帰が目的だからね、職員からしてみれば、「手助けしてやってんだから素直に言うこと聞いてりゃいいんだよ」っていうことだと思うんだ」
「そ、そうでしょうか……」
困惑しながらサキが答え、
「引いたら終わりよ。偉ぶってる勘違い上司なんて山ほどいるんだから。人間指摘しないと悪癖は治らないわ」
杏璃が怖気づく必要はないと主張する。
「で、でも、間違いを指摘して中林さんが孤立したら?」
「いいんじゃない。孤立しても」
彩花が苦笑い交りに「酷いなあ」と言う。
「酷くないわ。指摘されて相手を孤立させたほうが負けなんだから」
「どういうことですか?」
若会駅前の有料駐車場手前の横断歩道を渡ってから杏璃は口を開いた。
「簡単に言うとね、間違いを指摘されると誰でも恥ずかしいって気持ちになるでしょ? それを認めようとしないで、相手が間違ってる、自分が正しいって触れ回って支持を得る。そうすることで安堵感を得られるってわけ」
説明を終えて短い息を吐く杏璃に対して、彩花とサキの反応はいまいちといった感じ。
「いい歳した大人がそんなことする?」
「甘いな彩花は。策略なんてそこら辺に転がってるんだから」
大袈裟と言いたげな彩花に、
「親しい友人に裏切られた時のショックほど辛いものはないよ」
「…………」
心当たりがあるのか、彩花の顔が強張るのを見逃さなかった。
「あ、あの、お腹空きません? 雪降ってきましたし、避難も兼ねてどこかで何か食べましょうよ」
場の空気を察したサキが提案し、前方に見えてきたファストフード店で間食することに決めた。
コタローのことが気がかりだが、急なことだ。仕方がない。
律子のために何かテイクアウトしようか考えたが、ややこしくなりそうな気がしたのでやめた。証拠は残さないに限る。
「春だよ、アンちゃん」
「そうですね」
「素っ気ないなあ。どうしていつも素直じゃないんだい」
「唐突に言われても困るんですよ」
ロッカーの扉を閉めながら杏璃は言う。
季節は四月中旬。まだ寒さは残るものの日に日に気温は上昇傾向にあり、桜の開花も近づいている。
「春だからどうしたんですか? 田畑さんの頭の中は年中春じゃないですか」
「……い、言うねえ。いくら優しい私でも怒るよ」
玲の言葉を鼻で笑い、
「嫌がらせすることのどこが優しいって言うのか理解できませんね」
と言ってハンチングを被った。
「それはアンちゃんの理解力が高校生並みだからだよー」
あ、高校行ってないんだっけ、と杏璃を馬鹿にするような口調で言って玲もハンチングを被る。
学歴社会の世の中。低学歴者は見下されてしまうのは必然と言っていいかもしれない。だが、中には総理大臣を務めた者や企業家なども存在する。前者の場合は時代が時代で家庭環境が特殊なのだが。
「田畑さんは学歴至上主義なんですね」
「あっはは。違うよ。高校が緩くてつまんなくて、でも楽しい場所だっていうのを味わってないんだなあって思ってさ。つい、言っちゃったんだよ」
絶対嘘だろと思いながら、
「緩いのは田畑さんの頭のネジですよ。つまんなくて楽しい? 失礼します、と言い残して杏璃は更衣室を出て行った。
考えてみれば挑発したのは自分だ。朝から無駄な体力使ったなと嘆息して、ホールに続くスライドドアを開けた。
嫌な上司がいようと、蹴飛ばしたい気持ちを抑えながら結局は働くしか選択肢は残されていない。
「待ってよアンちゃ~ん」
「や、やめてくださいっ。皆見てるじゃないですか」
「そんなの気にしなーい」
「私は気にするんです」
「お前らは毎日毎日、厭きないのか……」
ガヤガヤ騒がしい二人のもとに、店長の石平賢二が姿を見せ、挨拶もそこそこに二人を交互に見ながら言った。
「厭きないよ。これが私のコミュニケーションの取り方だもん」
「私は嫌ですよ。こんな嫌がらせがコミュニケーションだなんて、田畑さん学生時代ぼっちだったでしょ?」
「失礼だねえ。いっぱいいたよ。これでも超が付くほどの優等生だったの」
「……劣等生の間違いじゃないですか」
杏璃のツッコミに賢二が笑い、従業員の一人は「そういうタイトルのアニメあったっけ」と独り言を呟いた。
玲は賢二と従業員の男性を一睨みして口撃を再開。
「アンちゃんはよほど私が嫌いなんだね」
「今更気づいたんですか?」
「正直過ぎてショック」
全然そう見えません、といつの間にか出勤していたサキがぼそっと呟いた。
サキの言葉通り玲の目は嗜虐心剥き出しの目をしていた。まさに愉しんでいるという表現がぴったりだろう。
「好かれなくても構わないけどね。上っ面の関係っていうのかな? 案外どこの職場もそんなもんだよ」
「……」
化けの皮が剥がれてる……、と賢二が本気で引きながら言った。
「でもね、このカフェを優良店にしようって気持ちは変わらない。そのためには利益を徹底的に追及するよ」
杏璃がもっとも嫌う利益重視を引き合いに出し、賢二に同意を求めるが、状況が最悪なため頷くにも頷けず、
「そこまでにしとけ。ミーティングして開店の準備するぞ」
そう告げて一旦ホールから出て行った。
あとに残された杏璃と玲、サキと従業員たちは一言も発さず立ち尽くしていた。
「なあ、鏡石、昨日のことなんだが」
「なんのことですか」
「田畑との一件だよ。お前ら顔を突き合わすとスイッチ入るだろ」
「知りませんよ。私は相手にしたくないんですけど」
「そうなのか……」
どう言っていいのか言葉が見つからず、賢二は腕を組み直しながら呻った。
市内の高校に宣伝広告を配布し終えた帰りで、明神神社の境内で話している。出入り口との距離はそれほどないので商店街を行き交う人達に二人の姿は目視できてしまう。
「その、何だ。田畑が言っていたことを憶えてるか」
その問いかけに杏璃は怪訝な顔をする。
「店をよくしたいってことだ」
何だか中坊みてえなことだよな、と苦笑いする賢二だったが、杏璃の反応はそれほど芳しいものではない。
「……謝ってただろう?」
「あの人の謝罪は信用できないですね」
それを聞いた賢二は大きく息を吐き、
「鏡石って見た目より頭固いのな」
見習おうかな、とふざけ口調で言う。
「セクハラですか。禿げますよ」
「禿げ言うな。そこまで禿げてないわ」
そう言って足を動かす。
「まったく。鏡石は知らんだろうが、田畑はあれで気にかけてんだぞ。……ま、あんなことされたんじゃ不信感しか残らんわな」
いつぞやの更衣室での過度なスキンシップが杏璃を恐怖に陥れ、仕事を一ヶ月近く休んだことがあった。
「思い出させないでくださいよ。あの人、本気で私をレイプしようとしたんですから」
「レイプ……って。もう少しオブラートに包んでくれるとありがたいな」
「他にどう言えっていうんです?」
「そ、それは……」
言葉に詰まる賢二を横目に無言で、杏璃は歩き続ける。
「話を戻すぞ」
「禿げはタブーですか」
「関係ないだろ。とにかく、田畑が店を良くしようって鼻息荒くしてたことは事実だ」
「興奮するとこ間違ってますよね」
「意味が違うしツッコミどころ間違ってるし興奮しない……。どれだけ田畑のことが嫌いなんだお前は」
「仕方ないじゃないですか。ああいうノリで生きてる人って嫌いなんです」
「そうは見えんがな……」
はて、と賢二が疑問に思ったところであおぞらカフェに到着。裏口から入って厨房に向かう賢二と別れ杏璃は更衣室に向かった。
「……がんばろ」
自分に言い聞かせて更衣室を出た。
「入るよー」
「どうぞ」
「こんにちは、杏璃。またニートになったんだって?」
「ちょっと彩花、違うから。休暇をもらったの。誰から聞いたの。あ、律子ね」
彩花は答えなかったが、その不敵な笑みが真相を語っている。
杏璃は膝に抱いているコタローと視線を合わせ嘆息した。
「大丈夫なの?」
「大丈夫。考えてみればほとんど休んでないんだよね」
「引きこもってた時以外は?」
それを言われると痛い。
賢二と高校から営業に戻って着替えて更衣室を出たところまでは憶えているのだが、その後の記憶がない。気づいたら病室で、そこで初めて倒れたと知った。
検査をしたところ頭などに異常はなく、過労とのことだった。
無理はしないようにと医師からの助言通りニート生活を満喫、もとい送っている。
杏璃は肩を竦め、口を開く。
「店長が好きなだけ休めって言うから、お言葉に甘えちゃった」
「甘いなあ」
「でしょ」
「ほんと甘いよ。私も休みたい……」
「彩花は訓練所脱出できないんだ?」
「見込み薄いね……。利用者同士が派閥作っちゃって肩身狭いのよ」
「面白そう」
「面白くない! 全然面白くない! 無派閥の利用者をどう自分達の派閥に取り込むか、水面下であの手この手で交渉が繰り広げられてんだから!」
あり得なくはない。慰めるのは簡単だ。
「彩花、被害妄想だよ」
杏璃は温かい目をしながら否定した。
「ぐっ……あ、杏璃に職員と同じこと言われるなんて思わなかった……」
まさか同じ発言を二度も言われるとは思わなかったらしく、彩花には衝撃だった。
「長い人生の中の一つのイベントだと思えば気が楽になるよ。訓練所で根を上げてたらメジャーではやってけない」
そう言う杏璃ではあったが、中学時代は女子生徒の下らない派閥間闘争で肩身の狭い思いを経験した苦い過去がある。それを彩花が知っているかは不明だが、他人にあれこれ言える義理はない。
「うー……そうだろうけど。杏璃は気にならないの?」
「なるよ。そうじゃなかったらニート経験しません」
「……自慢にならないからね」
「わかってるわよ。あーあ、暇だなあ」
休暇を満喫してるとはいえ、することがない。あるとすればコタローの散歩と買い物くらいだろうか。
「文句言うな贅沢者!」
彩花の悲痛な叫びにコタローがビクッと体を震わせた。
「いきなり大声出さないでよ。ほら、コタローを見てみなさい。年寄りみたいによぼよぼがたがた……」
「それはあんまりだよ、杏璃。とにかく、私の訓練所のスケジュールは日曜日を除いて利用日なんだよ! 酷いと思わない?」
「世の中そんなもんだって。練習だと思えばいいじゃない」
あっさり否定されてしまった。
訓練所に通っていることをカミングアウトした当初は、その工賃の安さにブラック企業で酷使されているのではと心配した杏璃が、仕組みを理解したのかちょっと冷ややかになっている気がする、と彩花は思った。
「そうかなあ」
「そうだよ」
むー、と呻りながら首を傾げる彩花の顔は明らかに納得していなかった。
「だから訓練所って言うんでしょ?」
「いや、まあ、うん、そうなのかな……」
確かに社会復帰が目的のための訓練所だから、間違ってはいない。
「わからないんだよね」
「何が」
「本当に社会復帰に繋がるのかなって」
「疑うのは悪くないけど、深く考え過ぎない方がいいわ」
「うん。ありがと。でも、疑っていいのかな……」
「いいのよ。信じ過ぎるとろくな目に遭わないから」
「それ、杏璃の体験談?」
茶菓子のビスケットを口に運びながら彩花が訊いた。
「まあね」
杏璃はコタロー腹を撫でながら即答した。裏切られて惨めな思いをするくらいなら、慎重になった方がいい。臆病だと後ろ指をさされようと構わない。
「彩花、お見舞いに来たっていうより、これじゃ人生相談だよ」
「ごめんね。ストレス溜まってるもので」
「私もなんだけど」
「知ってる」
「もう、彩花のくせに」
「何、その青狸にベッタリな小学生みたいな言い方」
青狸って何? と両人差し指をこめかみに当て首を傾げつつ考えていると、
「杏璃ったら、一休さんみたい」
「ちがっ……彩花が青狸なんて意味不明なこと言うからでしょ!」
いつだったか玲に言われたことと同じ指摘を彩花にされ、杏璃は顔を赤面させながら反論。驚いたコタローは「フゴッ」と咽た。
「嫌だなあ。未来のネコ型ロボットだよ」
「……答え言ってんべや」
「笑うって大切」
「面白くなかったんですけど。そろそろ律子帰ってくるわよ。からかわれないうちに退散することをお勧めするけど?」
時刻は午後七時になろうとしている。家に来たのが約二時間前。話してる間に二時間経ってしまったようだ。今日は平日で律子は学校だ。バイトは休みだと聞いている。地元の東中で友達と会っているのだろう。
「そうだねえ。杏璃に何度も注意されても穀潰女の渾名で呼ばれるんじゃ、ちょっときついしね。長居しちゃってごめんね」
「そんなことないよ。ま、あの子にそう呼ばれないように努力しなさい。あ、サキは帰りが遅くなるんだって」
「えー。会いたかったのに」
そう言って唇を尖らせる。ここ数日の間に彩花は急接近。共通の話題なんてないはずと首を傾げ、何気なくサキに訊ねたら、
「気になっちゃうじゃないですか」
笑顔で残酷な一言が返ってきた。
中学時代の同級生を珍獣扱いするとは、大した度胸である。
彩花が可哀想なので軽くサキの頭を小突いといたのだが、何故小突かれたのか理解できていなかった。当然だが。
「しょうがないでしょ。仕事なんだから。営業時間九時に変更になったから、閉店まで働いでくるよ」
遠回しに諦めて帰れと促す杏璃に、
「杏璃が休まなければ会えたってこと?」
「何でそうなるの」
昔の芸人みたいなツッコミをしながら頭を片手で押さえた。
会ったとしてサキは喜ぶのだろうが、それは彩花を観察できるからだと杏璃は思った。
「だって、律子ちゃんは気が強すぎて……」
「努力してるって、ずっと前教えたでしょ。難しい時期なんだから、彩花も努力すればいいの」
簡単じゃない、と言ってコタローを床に下ろした。不満そうな顔を向けられたがビーフジャーキーを一個与えて注意を逸らした。
「簡単に言うよねえ。それができたら苦労しないよ。杏璃はどうなのさ」
「できると思う?」
「うわっ、できないことを私にやれって言ったのか! 悪魔だね」
「人間そんなもんだって」
「決めつけちゃ駄目」
「決めつけてはいないよ。でもほら、友達の前とか上司や後輩を前にすると、強気になったりするでしょ? できないことを無理にしようとしたりさ」
確かにそうだと彩花は首肯したものの、
「撤回撤回!! やっぱ決めつけだよ!」
両腕を交差させながら宣言。コタローが奇妙な動作に首を左右に何度も傾げ、その人間くさい仕草に杏璃は引きつつ、
「努力しなさい。社会は広いよ?」
コタローの頭を押さえながら言った。
「……三回もニート経験してる杏璃に言われても説得力に欠けるけど、悔しいから努力する」
子どもみたいな宣言に苦笑いして、
「よく言えました」
塾の先生よろしく杏璃は言い、空いた方の手で携帯を器用に操作し、
「鏡石です――」
勤務先のあおぞらカフェに電話を入れた。
「アンちゃん大丈夫?」
「平気です。何もすることがなくて暇だったので」
「それにしては一週間かかったね」
「心の準備が必要なんです。……問題児の相手をしてると疲労が蓄積するので」
「問題児ねえ。ザビちゃん可哀想」
あんただ、ロンゲ眼鏡、と早速上司に暴言を吐く寸前、
「自覚症状が無いって怖いな。ある意味尊敬するわ」
賢二が玲に聞こえるように独り言を口にした。
「ザビちゃん少し黙っててね。感動の再会ぶち壊したかないから」
「どこが感動だよ」
「あのー……。もうそろそろお店開けませんか? お客さん外で待ってますよ」
申し訳なさそうにサキが三人の会話に割り込んで言う。
「……お前らが下らねえ言い合いしてっからミーティングし損ねたじゃねえか。さっさと準備しろ」
「あれのどこがミーティングなのか未だにわからないなあ」
にやにやしながら玲は厨房の奥に引っ込んでいった。
「……」
杏璃は嘆息してレジ前に立つ。
サキが出入り口のドアを開け、挨拶をしながらプレートを「CLOSED」から「OPEN」に裏返すのを見つめながら、また騒々しい日々が始まるのかと辟易するが、生活費を稼がなければならないので仕方ない。相変わらず律子は居候中だし、コタローの餌代は人間のそれよりかかるし謎だ。そして、出身地の神奈川に帰ったサキが一ヶ月と経たず戻ってきて居候中。独り暮らしの時と比べたら負担は相当なものだ。
「先輩、顔が死んでますよ?」
それはもう人として使い物にならないのではと思いながら、杏璃はサキの足を踏んだ。
「あ痛っ」
そんなに強く踏みつけてないのに、サキには充分に堪えたらしい。
高校生と思しき少年少女二人が何事だとこちらを見ていたので、何でもないのよと言う代わりに杏璃は手を振って応じた。
「ひ、酷いです……」
「あんたが一番酷いわよ。目が死んでるならわかるけど、顔が死んでるはないわ」
「それは……言葉のあやで……」
嘘吐け、と内心で突っ込んだ。
言えたことではないが、上司の悪影響が伝染しているのではないかと不安になった。
オーダーを運び終えたサキが戻ってきて次のオーダーを杏璃が運ぶ。滅多に繁盛しないから苦ではない。それもどうなんだと首を傾げたくなるが、賢二が何も言わない限り、あおぞらカフェは安定しているということだろう。品揃えの面は改善が必要だけど。
「先輩」
「顔が死んでるんでしょ。サキに言われたくないのよねー」
「いえ、違います」
「じゃあ、何」
「彼氏を見つけましょう」
反射的にサキの頭を引っ叩いた。
痛ったあ、痛ったあ、と口にしながら両手で頭を押さえ、しゃがんで悶絶。その様子を高校生と思しき少年少女と他の客らが今度は何だという顔をして見ていた。
「……やっべえ」
さっきはどうにか誤魔化すことができたものの、今度は無理そうだ。どうやって乗り切ろうか模索していると、
「衛星管理はしっかりしないとだねー。ハエの侵入を許しちゃ駄目だよー」
足音もなく玲が姿を見せ、そんなことを口走る。それは食品を扱う側としてどうなんだろうと思うが、玲の目が合わせろと言っているので「そうですね。これ以上田畑さんの心をどす黒くしないためにも」と言って、年配の男性の会計を済ませた。
「先輩酷いです……」
のそりのそりと立ち上がったサキが力無い声で言う。
「ごめんなさい。でもね、余計な心配はしなくていいの。家で気まずい思いしたくないでしょ」
「はい……。すみませんでした」
「なになに? 何の話?」
杏璃に詰め寄りながら訊ねる玲を汚物でも見るような目で見ながら、
「食いつかなくていいですから、引っ込んでてください」
冷淡にそう言ってひょいっと離れた。
「ありゃ。アンちゃん冷たいぞ?」
「ずっと前から変わりませんけど?」
いらっしゃいませ、とコンマ一秒で冷淡な表情から笑顔に変え、来店客に対応する技術はプロ並み。その様はまるで……
「京劇のお面の早業ですよ! 杏璃先輩凄いです!」
サキが興奮気味に指摘。客の数人が笑いを堪えるのに苦労してるのが見て取れた。
「サキちゃん、それは悪乗りし過ぎ。ほら、アンちゃんが睨んでる」
視線の先には虚ろを通り越して濁ったという表現が適切だろう杏璃がこちらを見つめていた。薄暗闇で見たら恐怖倍増である。
「いっ」
サキは変な悲鳴を上げつつも、死んだ魚の目を再現してくれるなんて凄すぎです! と斜め上をいく独り言を内心で呟いた。
「何だって賑やかだな。トリオ漫才でも始めたか」
騒ぎを聞きつけた賢二が厨房から姿を見せたが怒ってはなかった。
「すみません。こいつらが煩くて」
「こらこら。何度も言うが鏡石はそういうキャラじゃないだろ?」
「……」
キャラとかそういう問題じゃなくて、今回は本気で頭にきてたんですよ、と言いたかったが、客の手前、黙っていた。
「田畑、高那も仕事しろ」
「えー。してるよ、ザビちゃん」
「……その呼び方はやめろ。ザビザビ言うもんだから、本当に頭頂部が危ないんだよ……っ」
ぷふっとサキが吹き出し、賢二に頭を引っ叩かれる寸前、躱した。
避けんな、と賢二に小声で抗議されたが上司として問題だし、客の視線がさっきよりも生温かい。可哀想な人を見るまさにそれ。
「……仕事しろ。おい田畑、お前は俺の手伝いに回れ」
「えー。ザビちゃんの助手なんてしたら、私まで禿げちゃうよー」
へらへらしながら言う玲の腕を強制的に掴み厨房に連行。
放せ、腐る、禿げると悪態を吐く玲を見送った杏璃とサキは同時に溜息を吐いた。
反りの合わない上司と毎日顔を合わせて嫌な気持ちになるが、割り切らなければやってられない。仲良しこよしだけ求めるのは学生時代で卒業しなければいけないと、杏璃は思っている。
ニート経験はもうたくさんだ。もう少しだけ、あおぞらカフェで働いてみようじゃないかと思いながら、
「いらっしゃいませ!」
杏璃はいつもより数倍増のスマイルで来店客を出迎えた。
人間笑顔の裏では何かしら隠し事の一つや二つあり、嘲笑っていたりする。
社会の荒波に乗って生きるということは、それだけ過酷ということだと、厨房の奥から聞こえた上司二人の舌戦を耳にしながら、来店客のオーダーを取り終えたばかりのサキはまた始まったという顔をした『先輩』と視線を交わし、
――くだらない。
内心で毒を吐き、笑った。いや、嗤った。
番外編
社会人の杏璃に夏休みは関係ない。だけどほんの少し羨ましいと思う。去年の今頃は反りの合わない同性の上司にレイプ紛いの『スキンシップ』を受け、一ヶ月仕事を休んだことがあった。
いとこの鏡石律子を連れてハローワークに行ったこともあるが、結局、現在の職場で落ち着いている。生活を安定させるための保険だと自分に言い聞かせて探してみたものの、このご時世だ。目ぼしい求人は見当たらず、律子に呆れられた。
「あった?」
ハローワークの玄関先で待っていた律子が訊いてくる。服装はTシャツとデニムのショートパンツ。二十分間よく平気で待ってられるなと感心し、
「なかった」
笑顔を浮かべて短く答えた。リベンジだと内心でははりきっていたのにこの結果。笑うしかない。
「……お姉ちゃん、可愛いって思ってるんだろうけど、歳考えようよ」
頭を思いきり叩かれた。本当のことを言ったのに、何がいけないのか、律子には理解不能だった。周囲の視線が痛いので涙目で頭を擦るいとこの腕を強引に引っ張って敷地内を出たところで腕を離した。
「もう、お姉ちゃんいきなり何すんの!?」
「律子が変なこと言うからでしょ」
「事実を言っただけなのに……」
「社会に出たら消されるタイプね」
「そんなドラマみたいなこと――」
「あるわよ。私たちが知らないところで。この瞬間もどこかの誰かが深い闇に葬られてるわ。きっと」
「疲れてるんだよ」
あっさりと否定された。
「やっぱしお姉ちゃんにはニート生活をしてもらわないと」
「いやですー。ニートは廃人にしますー」
杏璃の小馬鹿にした口調に律子はムッとしたが、二十三歳の女がこれじゃあ先が思いやられるわ、と内心で思ったことは秘密だ。
ハローワークの前で漫才を披露していても仕方がない。気温は恐らく三十℃は超えている。強烈な日差しが肌を刺し、感覚としては痛い。動いていないと危険と刺した律子は杏璃の手を握って歩き出した。
それに驚いた様子の杏璃は、
「そっちの趣味だったの」
サキと同様、斜め上の発言をして律子に睨まれた。
「違うよ。女の子だって手ぐらい握るもん。お姉ちゃんの時代は無かったでしょ」
同じ平成生まれのゆとり世代なのに、勝手に格差を作るなと不満に思う。
「私はなかったけど、いたわよ。でも、そういうのを男子が見ると茶化すのよ。考え方が未熟だから」
「馬鹿だかって言っちゃえばいいのに」
この子は家に来た時と随分変わったと杏璃は残念な気持ちだった。
「否定はしないけどね。律子は抵抗感ってもんないの?」
「ないかな。友達とじゃれ合ってると楽しくてしょうがないんだよね」
その光景を想像してみるが、どうしても人間ではなく犬猫に変換されてしまう。
いったいこの子は学校で、友達とどんなコミュニケーションを取っているんだろうと杏璃は不思議でならなかった。
「今のうちだけだよ。勉強ばっかしてたら逆に変になっちゃうもん」
「勉強してるとこ見たことないんだけど」
「お姉ちゃんが大鼾かきながら寝てる夜中に頑張ってるんですよーだ」
「お、大鼾……っ。嘘言いなさいっ。鼾なんてかかないわよ!」
断じて否定すると言わんばかりに強制的に繋がされていた手を振り解いた。
律子は短く息を吐くだけで驚く素振りを見せることはなく、「冗談だって」と苦笑い交りに宥める余裕を見せ、杏璃を余計に挑発する結果になり、若会駅構内のファストフード店で律子が奢るという前代未聞の事態に発展し、店員には未成年に代金支払わせる大人ってどうなのと冷ややかな視線を向けられ、フライドポテトをはむはむ頬張っていても美味しく感じなかった。
「お姉ちゃん」
「……」
「怒ってる?」
「笑って見えるなら眼科に行きなさい」
「冗談だって言ってるのに」
そう言われても、「はいそうですか」と認めたら負けのような気がして嫌だった。
「無視するんだ? じゃあ、お姉ちゃんが鼾かいてる証拠動画見せれば納得してくれるのかな」
「撮ったの!?」
それこそ冗談でしょと言わんばかりに律子の肩を掴む。
「痛い痛い。お姉ちゃん嘘だよ。だから手を離してよ。……周りの目が気になるから」
ファストフード店内だということをすっかり忘れていた自分を殴りたい衝動に駆られながら、杏璃は咳で誤魔化して手を離して律子に謝り、残り少なくなったフライドポテトをぽそぽそ口に運んだ。
そうして店を出たところで反撃することにした。
家に来てから化粧気のなかった律子が、薄く控えめに化粧をしている。考えられることは一つしかない。
「恋してるでしょ」
「…………」
無表情でこちらを見るいとこが可笑しくてつい笑ってしまう。
「相手はどんな子なのかしら」
「こ、恋なんて、してないけど」
狼狽えるところが答えではないかと嘆息した。
「どんな子なのよ」
「……年下で」
「年下!?」
これはこれは珍事だと言わんばかりに杏璃は目を真ん丸にして驚いた。
すれ違った気の弱そうな高校生ぐらいの少年が「ひょっ」と奇妙な悲鳴を上げた。
「い、いけない? 犯罪じゃないでしょ?」
「そうね」
おどおどするところが図星だ。平静を装いながら答えつつ、内心では笑っていた。
これ以上からかっては可哀想なので、もう一度同じ質問をした。
律子は顔を赤面させながら、東中在住の一年生の男子で、部活は野球部に入っているがサボってばかりいるのだとか。つき合い始めてまだ一週間で、告白は律子からしたのだという。相手の男子からの返事は二日経ってもらったのだとか。
「二日も待たせるなんて信じらんないって思わない?」
「初めてだったから、パニックになったんじゃない?」
「……まともな意見過ぎて反論できない」
「失礼ね。面識もない相手に告白されたら誰だってパニクるわよ。ないんでしょ?」
「……ない」
律子は顔を曇らせながら、自宅近くの路線バスに乗車しながら言う。
「年下のくり坊主のどこがいいんだか知らないけど」
「くり坊主じゃないよ! 髪ふっさふさだもん!」
律子は力強く反論したが、乗降口側の真ん中の席に座っていた、まさしくツルッパゲという表現がぴったしの四十代ぐらいのスーツを着たサラリーマン風の男性が、おっほおっほ、とわざとらしい咳をしながら睨んできたので、地雷を踏んだことに気づき、愛想笑いをして奥の席に杏璃の背中を無理に押して急いだ。
杏璃とバスの運転手から言葉は若干異なるが、危ないと注意されてしまった。
本当のことを言ったのに理不尽だと律子は思いつつ座席に腰を下ろし、それを横目で見ていた杏璃は小さく嘆息した。
「告白された子が可哀想ね」
「う、煩いな。関係無いじゃん!」
「そうだけど。でも、つき合ってるうちに化けの皮って剥がれるものよ」
「……お姉ちゃん相当歪んだ恋愛ばっかしてきたんだね」
「さあ。それはどうかしら」
はぶらかした杏璃だが、つき合った男性が片手で足りるとは言えなかった。
十分近くバスに揺られ、自宅近くの停留所で降車した二人は、借り手が見つからないまま十年近く放置されたままの団地のスーパーに隣接する広場に向かい、お世辞にも綺麗とは言えないベンチに並んで座った。
「お姉ちゃんカフェ辞めるの?」
「いずれはね。そのためにハローワークに行ったりしてるんじゃない」
「現実主義者だね」
「それもあるけど、世の中不況だし」
その論理だと辞めてはいけないのではないかと律子は思ったが黙っていた。
「律子は高校卒業したらどうするの」
「地元の女子大受験する」
「へえ。地方っ子にありがちな上京するパターンじゃないのね」
「……すっごい偏見だね」
何か恨みでもあるのかと思ってしまう。
「ま、考えたことはあったよ。でも、よく考えてみると興味なくて」
「おっさんだねえ」
「やめてよ。さっきの禿げ思い出すから」
腕を擦る律子に思わず苦笑してしまう。
「本当に興味ないの?」
「そりゃあ、ないわけじゃないよ。アニメ見放題だもん」
そっちかいとツッコミたくなった。
「二次元の聖地に行き放題! こんなマニア延髄必至の街を放っておくのはもったいないじゃない!?」
「知らないわよ……。アキバは電気街でしょう。二次元の聖地だか何だか知らないけど、そう決めつけたのはマスコミだと思うんだけど」
「細かいな。いいの。アキバ=二次元ってのが世界の常識なんだから」
「……せめてアニメにしなさい」
間違ってはいないが、二次元の聖地だと違和感がある。かと言って訂正を促すのはどうなんだと自分に呆れた。
いとこの東京への多少の憧れが学業ではなくアニメだということにはがっかりしたが、上京する気はないというのは珍しいかもしれない。
「どうでもいいじゃん。ねえ、お姉ちゃんはどうなのさ」
「何が」
「好きな人いるの?」
いとこの問いかけに視界が急速に狭まってきたのは気のせいか。ああ、これは眩暈かしらと目許を抑え、
「あんな職場環境で恋人ができたらね、神様に感謝するわ」
今度は律子が首を傾げる。
「店長は男だけど頭部の寿命がキテるし、タイプじゃない。他の男の従業員にもいないのよね。早生まれの同性の上司とは反りが合わないし、サキとは仲が良いってだけで私にそっちの気はない」
どういう職場環境なのか想像するだけで胃が痛くなってきそうだ。
ザビちゃんが歴史上実在した人物だろうことは見当がついたので、そこは突っ込まないでおく。反りの合わない上司に関しても下手に突いて地雷を踏みたくない。何故なら、同じく居候の身である高那サキが毎日のように愚痴を聞かされているから。
それを上手く受け流してケロッとしているのだから、神経が図太いというか恐ろしいと思う。
「誰も「百合なの?」なんて訊いてないってば……。お姉ちゃんさ、そろそろ彼氏の一人や二人作らないと適齢期過ぎちゃうよ」
鏡石杏璃、来月の終戦記念日に二十四歳。
「うっせうっせ。そんな蛆虫みたいにホイホイ彼氏が作れるなら苦労はしねえんだよ」
けっ、とサンダルで地面を蹴った。
「わ、お姉ちゃんが不良になった」
律子は驚いた口調で言いながら上体を少し横にずらし、危うくベンチから落ちそうになった。
どうやら踏んではいけない地雷を踏んでしまったようだ。
恋バナに蛆虫という表現を用いるのはどうかと思うが……。
「適齢期過ぎて価値が無くなるって、誰が決めたのよ? 彼氏作って気に入ったら結婚申し込む? 断られた時の惨めさを考えたら怖いわね」
「お姉ちゃんなら大丈夫だよ」
「何が大丈夫なの……」
律子の言ってる意味がわからない。満面の笑みで言われたものだから、若干恐怖心があった。
その時、ワンッ、と犬の鳴き声がし、
「こんなところで油売ってたんですね」
そう姿を見せたのはサキだ。
出勤時の服装のままということは、帰宅してすぐにコタローを連れて来たのだろう。
「合鍵持ってて正解でしたよ。コタローちゃん、玄関でみっともない恰好でノビてたんですよ」
こんな風に、と白目を剥き、舌を出し上体を反らす。どうやら、その時のコタローの状態を再現したようだが、ワンワンッ、とコタローにクレームをつけられた。
杏璃は注意してからコタローを抱き上げ、
「ごめんね。クーラー点けておいたんだけど夏だもんね」
クゥン? と舌を出しながらコタローは首を傾げた。視点がずれてんじゃね、と言いたげに。
死にそうだったってことだよ、と教えようかと思った律子だったが、犬を『息子』と呼ぶ杏璃に正論で返しても通じないような気がした。
「サキさんは彼氏いないんですか?」
「は、はい?」
「だから、彼氏ですよ」
質問の意味が理解できていないサキに、もう一度質問する律子の頭を杏璃は容赦なく叩いた。
「きゃっ……ちょっと、お姉ちゃんいきなり何すんの!?」
最近暴力多過ぎない? と抗議するいとこは無視し、
「そういうことはもっと交友を深めてから言いなさい」
コタローを膝に抱きながら年上の女性としての意見を述べた。
「ふ、深めたよ? お姉ちゃんがいない時に」
「律子ちゃん、その言い方は誤解されちゃう……」
顔を赤くしながらサキが言う。
何故そこで赤面するの? と素朴な疑問が湧いたが、追及して変なことを暴露されたらリアクションに困るので、当事者同士に任せることにした。
コタローの耳を触りながら、ぷにぷにして気持ち良いわ……と内心で思いつつ耳を澄ます。
「わ、私は去年別れたから……」
「どうして?」
「それは……遠距離恋愛って面倒だし、時間がないもん」
「ふうん。そうなの?」
「……何で私に訊くのよ。遠距離恋愛なんて経験ないんだけど」
「あ、そっか。お姉ちゃん、恋愛したことないっけか」
聞き捨てならないことを口走った律子に天誅をと、再度頭を引っ叩いた。それを見ていたコタローは体をもぞもぞさせ、ひょいっと杏璃の膝から飛び降りて、ベンチの端に伏せた。
「せ、先輩、可哀想ですよ」
「いいのよ。もう、人のこと馬鹿にして。男とつき合ったことくらいあるわよ」
律子が目頭に涙を浮かべ、頭を擦りながら「何人とさあ?」と声を震わせながら訊いてきたので、
「二十人かしら」
即答した杏璃に律子とサキ、コタローまでもが、「「「マジかこいつ」」」と言わんばかりに顔を向け、それを世間で何と言われているか知らないわけではないだろうと本気で思った。
「私のことはいいから、二人でどうぞ」
と言って立ち上がり、歩き出す。あまり長く居過ぎたら茹ってしまう。
「お姉ちゃんのカミングアウトが衝撃的過ぎるんですけど」
「そんなんでもないでしょ。じゃあ、律子はどうなの」
「私は……九人」
「少ね」
さらっと流され、
「酷っ。え、少ないの? 高校に進学してからだよ?」
「うーん……少ない」
「ちょっと、お姉ちゃん可笑しいよ? 多いんじゃない?」
「自覚してんじゃん」
「あっ、嘘吐いた!」
「煩いな。何気にインした男の数言って恥ずかしいわよねー」
「え、男? イン? ……ち、違うから! 全員となんかやって――」
「律子ちゃん、言葉が下品だよ」
ナイスだサキ、と表現するかのように、杏璃はウインクし、サキは嘆息した。
下品な会話を繰り広げる職場の先輩とそのいとこの女子高生二人の姿をサキは初めて見たような気がした。
玄関のドアを開けると、もわっとした熱風が三人と一匹を襲った。
これではコタローが野たれ死ぬ寸前なのも頷けるなあと、杏璃は暢気に思うのだが。
「変ね」
「お姉ちゃんの頭が?」
「あとで憶えときなさいね」
「冗談なのに」
世の中には冗談が通じない人が存在する。それが原因で取り返しのつかない事態を引き起こすこともある。
杏璃はそこまで重症ではないだろうが、昔から冗談が通じないとよく両親や連絡の取れない友人に言われたことがある。
「先輩も律子ちゃんもそこまでにしときましょうよ……」
これ以上身内同士の恋愛暴露大会など聞きたくない。この二人のことだから、斜め上をいく発言があと三十個は出てきそうだ。
サキがうんざりした様子で止め、リビングに入りソファとテーブルの間に視線を向けてみたら、白く四角い物体が視界に入り、
「先輩、ありました!」
駆け寄りながらそれを手にして言った。
「あら、ほんとだ。テーブルに置いたんだけど、地震でもあったのかしら」
「いや、そんな一箇所を集中攻撃するような天変地異なんてないから」
すかさず突っ込む律子に言葉が見つからないが、心当たりがあるとすれば。
「涼し過ぎて、コタローが停めたんじゃないの?」
ハローワークに律子を連れて行き、サキは仕事。寄り道したことも考えると優に四時間以上は点けっぱなし。温度は低めに抑えたつもりだが、タイマー設定はしていなかったような気がする。いや、していなかった。
「お姉ちゃん……」
残念な人を見るような目をしながら律子は杏璃に視線を遣り、
「犬だよ? そりゃコタローは賢いけど、いくら何でもそれはあり得ないって」
「そうかしら。コタローって賢いから、「さっみ、うっわさっみ」って、電源切ったかもしれないじゃない」
「それはないって」
律子に否定されて杏璃は唇を尖らせ、傍で二人のやり取りを見ていたサキは尊敬している先輩の恋愛事情にドン引きし、いとこの女子高生の恋愛事情にもドン引きしながら、
「た、たぶん、何かの弾みで落ちたんじゃないかと思います……」
中立的な立場で意見を述べた。
杏璃は首を傾げ、そんな馬鹿なと、納得いかない顔をしていたが、これ以上考えても結論は出ないと思い、「かもね」と言って冷蔵の扉を開けスポーツドリンクの缶を人数分取り出して渡した。
本当のところはどうなのよ、と目でコタローに問いかけるが、ワンッ、とひと吠えしただけ。「そうだよ」と肯定したのか、「違うよ」と否定したのか。それは定かではない。
「あーあ。明日は仕事かあ。……田畑に会いたくないんだけど」
それを聞いたサキが笑った。
上司を呼び捨てにしているが、家ではこうだ。もちろん本人を前にしては言えない。いくら反りが合わなくても。
姑みたいに文句をたらたら言われ、面白くもない話を聞かされる身になってみと、笑いごとじゃないのよと言いたかった。
「また嫌がらせされてんの? 大丈夫、そういう人は結婚できないから!」
律子が杏璃の肩をばしばし叩く。結婚云々は関係ない気がするが、あえて指摘しなかったし、サキは何も聞かなかったという顔をしてスポーツドリンクを飲んでいた。
「お姉ちゃん、何にやけてんの」
「先輩、疲れてるんですか?」
一瞬、憑かれてるんですか? と聞こえた気がした。
「にやけてないよ。それに疲れてなんかないから、大丈夫」
ほんとかな、と律子がコタローを抱っこしながらじーっと見つめてくる。
コタローは「何で俺まで……」と言いたげにフガフガと鼻息を吐きながら身を捩っていた。
明日のことを考えると気持ちが沈む。
お客の笑顔が一番の癒しです、なんて謳い文句は真っ赤な嘘だとは言わないが。
もしもあおぞらカフェを辞めたら。
その先のことがまったく思い浮かばないから不思議だ。もしかしたら、本格的にハローワーク通いすることに意味はないのかもしれない。でも、大きなチャンスはどこに転がってるかわからない。選択肢はいくつもあるということだ。
人生、まだまだこれから。
「いろんなことがあると思うけど、これからもよろしく!」
親指を立てながら言って悪ガキっぽく微笑んだ。
二人はきょとんとした表情をして、
「こちらこそ」
「よろしくお願いします、先輩」
律子は少し呆れながら、サキは杏璃と対照的に女性っぽく微笑んだ。
2015年7月4日 発行 初版
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福島県会津若松市在住
このままでいいのかなと、人間関係に悩む毎日。