慶應義塾體育會水泳部水球部門百周年の記念誌を電子用に構成しなおしたものです。フォントは一番小さいサイズで調整してあります。
水球するなら慶應へおいで 慶應日本の草分けじゃ
あらえっさっさ こりゃえっさっさ
水と球とで夕日が落ちりゃ かすむまぶたに星笑う
あらえっさっさ こりゃえっさっさ
練習練習で鍛えた体 たたきゃ鋼の音がする
あらえっさっさ こりゃえっさっさ
水に濡れても恥には濡れぬ 男一匹晴れ姿
あらえっさっさ こりゃえっさっさ
皆そろって勝ちどきあげりゃ 水に開いた若桜
あらえっさっさ こりゃえっさっさ
慶應義塾體育會水泳部水球部門
オール三水会運営委員会 委員長 峰岸直人
今般、塾水球部門は設立百周年を迎えました。誠に喜ばしい事です。
夏の全国高校野球大会が今年で第九七回ですから、その年月の重みは充分に推し量れます。
塾體育會の創設が一八九二年(柔道、剣道、弓道、器械体操、端艇、陸上競技、野球)で、その当時としては水球と言う全く異質な競技を始めた事は画期的な事です。また創設時、ルールの翻訳、プレイの把握、適切なる練習方法の確立等、全くの手探り状態であったにも拘わらず、艱難辛苦を乗り越え、遂に横浜外人クラブとの試合に漕ぎ着け、現在の日本水球界の礎を築いた、塾の偉大なる先輩には敬意を表します。まさに先達はあらまほしき事也。
これこそ塾水球部門の誇れる第一の点であり、水球部門OB全員の精神的拠り所と言える事実です。
発足後三〇年以上経過後の戦後、強豪校が増える中、互いに切磋琢磨し、覇権を分け合い、塾も五輪代表選手を多数輩出しましたが、昭和五〇年代以降は率直に述べ未だ低迷期に在り、と言う残念な状況です。
我々には競技会での成績向上(或る意味、大先輩たちの苦労以上の高いハードルかも)が課せられています。OB諸兄、現役学生、共に苦労を厭わず、いつか(例え向う百年に一~二回であっても)学生選手権を獲れる様なチームにすべく立ち向かわねばなりません。それこそが創設して下さった、今は天上に在られる大先輩方への恩返し、謝意であり、同時にOB会員全員の悲願なのです。
是非共、OB皆様の継続ご支援を賜ります様、紙上ながらお願い申し上げます。
百周年の慶事に相応しく無い挨拶文でしたが、次なる目標、二百周年記念へ向け、頼もしき後輩達が、塾水球部門の精神を受け継ぎ、前進し続けてくれる事も併せ祈念します。
慶應義塾體育會水泳部 部長 井上逸兵
慶應義塾體育會水泳部水球部門が創立百年を迎えられましたことを心よりお慶びを申し上げます。この百年の間、慶應水球を支えてくださったすべての皆様、すべてのライバルチームの皆様に御礼を申し上げたいと存じます。
近代黎明期の我が国において義塾が果たした多くの事績と同様、慶應水球も日本におけるこの競技の草創期の中心にいました。『慶應義塾体育会水泳部一〇〇年誌』(二〇〇二年刊行)等によりますと、一九〇二年(明治三五年)創部の義塾水泳部において、一九一〇年(明治四三年)に水球の活動が始められ、まさに水球部門の先達中の先達が一九一五年(大正四年)にウォーター・ポロチームを部内に結成し、葉山の特設フィールドで横浜外人クラブと試合を行ないました。この年が水球部門の創立の年ということになります。この試合は我が国最初の水球の国際試合として日本水球史の記憶に刻まれています。また、当時の義塾水泳部員たちは、のちに「水球」とよばれるこの競技を外国の書物の中に見いだし、義塾の外国人教員や横浜に居留していた西洋人の力を借りて、競技の説明書とルールブックを翻訳したと伝えられています。
ところで(多分に私が言語学者であるがゆえの興味かと思われます)、「ウォーターポロ(Water Polo)」を「水球」と訳した経緯には文献上たどり着けませんでしたが、水球部門のOBの方々がしばしばこの競技を「ポロ」と呼ばれるのを耳にします。日本水球界全体でもある程度普及している呼び方だとは思いますが、日本水球を創生期から支えた慶應水球としての矜持を私は感じます。というのも、少なくとも新聞記事上では「水球」ということばよりも「ウォーターポロ」ということばの方が先に登場しているからです。現存する新聞の中で水球関連の最古の記事は一九二五年七月三日の朝日新聞(東京・朝刊)の「オリムピック競技種目決定」という見出しの一九二八年開催のアムステルダム五輪関連の記事の中に出てくる「ウォーターボロ」(「ボロ」です(笑))で(ちなみに、同年の八月三一日の記事(朝日新聞東京・朝刊)でもまだ「ウオーターボ(・)ロー」)、一〇月三一日の記事(同上)でようやく「ウオーター・ポロー」とされますが、「水球」の文字が初めて登場するのは「ボロ」からおよそ五年も後の一九三〇年五月二九日の「極東水上」大会に関わる記事です(朝日新聞東京・夕刊)。この記事は「慶應対帝大の水球戦」というものでした。
「ベースボール(Baseball)」が明治期の教育者中馬庚によって「野球」と訳され(「野球」の訳語創出者は俳人正岡子規という通説もある)、いわば教育の手段として普及していったのとはいささかちがう様相を呈したということです。これは私の推測ですが、激しい身体接触があり、プールというお金のかかる設備のいるこの競技は、西洋のスポーツのいくつかが学校教育の手段として取り入れられた明治のこの時代にあっては、野球よりも普及しづらかったところがあったのでしょう。
しかし、そのような状況であったからこそ、創生期から水球(ウォーターポロ)に携わってきた義塾水泳部水球部門の先人たちには、ヨーロッパスポーツのハイカラさと格闘家にも通ずる迫力とを自負をもって身に纏っていたのではないでしょうか。おそらく誰にでもかんたんに関われる競技ではなかったものと思われます。「野球」や「水球」などという野暮ったいことばではなく、やはり「ポロ」なのです。上述の『百年誌』の数々の水球の先達の写真から、そのような精悍さと進取の精神を読み取るのは容易です。
そしてその伝統が現在まで脈々と受け継がれていることも、現役部員、OBの皆さんを見れば明らかです。たしかに、一九五〇年代前半に慶應水球が打ち立てた四八連勝の大記録の時代、オリンピック選手を幾人も輩出した時代などから見れば、戦績的には厳しい状況が続いていると言わざるを得ません。学生水球が置かれる状況も時代とともに変化します。しかしながら、これまで述べてきたような慶應水球の真髄はいまも慶應水球に通底していると私は確信します。
言うまでもなく、このような慶應水球百年を築いてきたのは、義塾の人間だけではありません。切磋琢磨し、またご指導をいただいたライバル校、他校、他チームの皆さんのお力添えなくてしてはいまの義塾水泳部水球部門もなかったことでしょう。この百年を期に直接間接にお支えくださったすべての皆様に最後にあらためて御礼を申し上げたいと思います。これからまた二五年、五〇年、さらに一〇〇年と、日本水球、さらには世界の水球がさらによい時代を迎えられるよう、そしてそれに少しでも貢献できるよう研鑽のお力添えをいただけますようお願いを申し上げます。
水球競技は一八七〇年(明治三年)にイングランドで「Football in the water」の名称でルール制定されたのが起源とされている。一八八八年(明治二一年)、英国において統一ルールが制定され、スポーツ競技として確立した。その後ドイツ、オーストリア、ハンガリーなど欧州や米国などに伝播していき、一九〇〇年(明治三三年)の第二回パリオリンピックで正式種目として採用された。日本においては、明治三一年(一八九九年)には外人クラブチーム内で水球がプレイされていた。ゲームは外国人クラブ内で行われていたので、付近の日本人にも水球を教えたとは思うが、日本人の間で本格的に水球がプレイされる状態ではなかったようである。
明治三五年(一九〇二年)、幼稚舎から大学まで、塾の有志達三四名が神奈川県葉山町で一か月の水泳合宿を行った。これが塾水泳部の第一回目の練習会である。この練習会で葉山~逗子間の団体での遠泳を成功。この成功により、塾水泳部は體育會に正式加盟となった。慶應義塾體育會水泳部の発足である。
翌年には、葉山~江の島間一〇マイルの遠泳を実施。二二名中五名(一小隊)が七時間二〇分かけて成功させ、大きな話題となった。このように当時の水泳は、現在の競泳競技のような速さを競うものではなく、古くからの武術として伝わる日本泳法であり、その技を駆使して、海洋遠泳を成功させることがステータスだったようである。
明治末期になると、この傾向が一変する。一つは、近代泳法として「クロール」が海外から伝わり、泳ぎの速さを競う「競泳」という新しい競技が日本水泳界にもたらされた。
もう一つは「水球」の登場である。明治四二年(一九〇九年)の塾水泳部の日誌において、「水上運動会に水中蹴球をやり非常に愉快なので、毎年これをやりたい」という記述がある。その後、塾水泳部員は、外国の書物から「水球」を見つけ出し、塾の外国教授や横浜に居留していた外国人の力を借りながら、苦心の末に競技の説明書とルールブックの翻訳に成功。合宿の練習などに取り入れていたようである。
大正四年(一九一五年)、塾水泳部が実施した葉山~江の島間遠泳に横浜在住の外国人が参加したことで、同年八月一五日、横浜の外国人スポーツクラブである「横浜アマチュア・ローイング・クラブ(YARC)」と試合が実施されることになった。試合は0―8で敗れはしたものの、このゲームはわが国初の水球試合として歴史に記録されることとなった。塾水球部門の誕生の瞬間でもある。この試合の批評が翌日のジャパン・タイムスに掲載されている。
その後、塾水球には日本人チームの対戦相手がおらず、もっぱらYARCとの対戦を数年続けていた。最初は大敗をしていた塾であるが、練習の成果も現れ、だんだんと接戦を行うようになっていく。そして、大正一二年(一九二三年)八月一二日、YARCとの一〇回目の対戦において、2―0で初勝利を掴んだのである。
塾水球はその後も活動を続けていたが、水球の一般的な普及は遅々とした状態であった。
大正一三年(一九二四年)府下金子プールの中等学校水泳大会にて、デモンストレーションとして紅白戦を行い、水球の存在が広く紹介された。このような塾水球の活動が一因となり、次第に日本各地で大学チームやクラブチームが発足されていくこととなった。
大正一四年(一九二五年)第二回明治神宮大会において水球競技が加えられた。水球が日本水泳界の表舞台に登場したのである。この大会は、塾、帝国水泳会、東京ウォーターポロ・クラブが決勝に進み、東京ウォーターポロ・クラブが優勝。塾は二位となった。
大正一五年(一九二六年)に入ると、早稲田大学が急速に力をつけてきた。これには、競泳界で活躍していたスピードのある選手たちの加入が大きかった。当時は、競泳と水球を掛け持ちするのが普通であった。
昭和二年(一九二七年)、塾水泳部にとっても重要な行事である早慶対抗水上競技大会が始まった。日本初の水泳対抗戦であり、今日に至るまで、綿々と続いている伝統行事である。記念すべき第一回大会で、塾水球は二―〇で勝利を収めた。
その頃は、帝大、明治、日大、立教などの各チームも力をつけていったが、頭一つ抜ける形で、塾と早稲田が日本学生選手権、日本選手権と優勝を常に争う二強として日本水球を牽引していった。
当時の水球は、戦略的には乏しく、皆がボールの方に泳ぎ、とにかくゴール前でノーマークの選手を作って、ゴールキーパーと一対一で相対することが攻撃のすべてであった。泳力のみが物をいう展開だった為、泳力で早稲田に劣る塾は早慶戦を連敗、部員たちはどうしたら勝てるのか悩んでいた。そんな中、ふとしたことから見かけた、南瓜運びからヒントを得て、ボールのパス回しの練習を強化。ハンドトゥハンドを習得し、翌年の早慶戦で勝利を収めたというエピソードもあった。
昭和五年(一九三〇年)三田・綱町プールが竣工。塾水泳部は待望のプールを持つこととなり、ますます充実した練習をすることができるようになる。
昭和七年(一九三二年)第一〇回ロスアンゼルスオリンピックが開催。日本からも水球代表を送り込んだ。代表には当時最強だった早稲田チームが中心となっていたが、塾からも、沢梅東助、木村清兵衛の二名が代表に選ばれた。しかし、世界と日本の実力差は著しく、彼らのハンドトゥハンドから繰り出される、いわゆる「ボールが水に濡れない得点」を目の当たりにした沢梅、木村両氏は、先に述べたパス回しを強化しようとした先輩の先見性に驚くと同時に、そのレベルの差を痛感したようである。世界の水球を知った日本は、より高度な近代水球の道を歩み始めた。
しかし、日本水泳界へと視野を広げてみると、このロスアンゼルスオリンピックで日本競泳陣は金メダルラッシュ。一躍世界の水泳王国であると知らしめた大会でもあった。そのため、より優秀な水泳選手が生まれてきたが、より専門性を高めていったため、競泳と水球の掛け持ちが難しくなってきた。
昭和一一年(一九三六年)第一一回ベルリンオリンピックに出場。塾からも和田幸一、高橋三郎が日本代表に選出された。日本代表は、世界のトップチームにはかなわなかったが、いくつか善戦した試合もあった。この頃、世界の水球ではフローティングシステムが主流となっていた。このシステムは、これまでの水球の様相を一変させるシステムであった。世界からの遅れを知った代表選手たちは、帰国後、いかにこのシステムをチームに取り入れていくか苦心していたようである。
昭和一二年(一九三七年)日本選手権において、塾は早稲田を破り優勝を果たした。この数年間、塾と早稲田は決勝を争っていたが、どうしても早稲田に勝てず、二位に甘んじていたことに、一矢報いたのである。翌年の早慶戦では6―0の大差をつけて塾の勝利。同年の学生水球、日本選手権も優勝し、塾は黄金期を迎えた。この要因となったのが、ベルリンオリンピックに出場した和田幸一と名取正也を中心とした、フローティングシステムの完成に他ならなかった。
ひとつ優れたシステムができると、それを研究し、対策が生まれた。各チームとも、独自のフローティングシステムを作り上げ、対抗策としてのゾーン・ディフェンスが考案されるなど、日本水球全体が急速にレベルアップしていった。
その中で、頭角を現してきたのが、日本大学である。日本水球は慶應、早稲田、日大のビッグスリーの戦いとなり、来る昭和一五年(一九四〇年)に開催される東京オリンピックに邁進するはずであった。しかし、日中戦争の勃発により中止となってしまった。
昭和一六年(一九四一年)、主力選手が多く卒業となった早慶を尻目に、主力選手が残った日大が王者となった。塾は選手層が薄くなったとはいえ奮闘し、日本選手権を勝利。五連覇を果たした。
昭和一八年(一九四三年)、塾は一二戦一二勝の完全勝利を手にするが、その後、戦況が悪化。文部省により全ての競技会は禁止され、学徒出陣により、選手たちも戦地に向かった。
塚本太郎レリーフ
塾在学中の一九四〇年一二月に学徒出陣にて海軍に入隊後、特別特攻隊を志願。一九四二年一月二一日グアム島東方のウルシー環礁沖海戦にて、回天特別攻撃隊として出陣した。
一九三八年極東大会で最年少の日本代表メンバーとして出場。ポジションはゴールキーパー。戦前の塾黄金期を築いた選手の一人である。このレリーフは、忠犬ハチ公銅像の制作者としても名高い、安藤士彫刻家の制作による。現在水泳部合宿所に飾られている。
◇南瓜とポロ
プールのない悲しさ、塾の水球は早大定期戦に2連敗を喫してしまった。昭和5年の早春、東大プール(工学部造船科実験タンク)で練習を終った故吉本袷一、笹島彦次郎(6医、埼玉病院)、坂倉隆吉(7経、日本信号旗)の3君は6月中旬行なわれる対早大戦の対策を語りあいながら京橋大根河岸の辺りにさしかかった。3人は同時に立ち止った。舟から南瓜を放り上げると河岸の1人はこれを片手で受けとり、見る間に南瓜の山を積んでゆく。期せずして3人の胸に浮んだのはポロのことだった。東大に引き返した3人はボールを片手で受け、片手でパスする練習をはじめた。何十回もこれを繰り返し、その翌日からは全員でこの練習を重ね、ついにhand to handに成功した。
早稲田の水球選手は競泳兼任の選手が多いので、プールを持たない塾の選手はどうしても泳力に劣り2連敗を喫してしまったのだ。
この年、泳力に優る早大をボールワークで制圧し2―0で勝った。2年後のロスアンゼルス・オリンピックに初出場した沢梅東助、木村清兵衛両選手は欧米先進国選手のハンドリングを見て、先輩の苦心とその着意に感心した。
(体育会顧問照井伊豆)
※『慶應義塾體育會年表』より抜粋
終戦後、焼け野原となった東京・三田に水泳部員の声がこだました。昭和二〇年(一九四五年)一二月にフィリピンから復員した神田明善を中心に、翌昭和二一年(一九四六年)から綱町プールで活動を再開した。敗戦後の混乱の中で、彼らがともかく水球を再開したのは、青春時代の自分たちの財産である水球を一日でも早く取り戻したいという一心からだったに他ならない。のちに神田明善は次のように語っている。
「復員して数十日経ったら、もうボールと暮らしていましたから、これはもう気狂いの部類ですね」
この言葉からも、水球をプレイしていた時間を取り戻したいという、強い気持ちの一端が窺われる。
昭和二一年(一九四六年)七月七日。戦後初の水上競技会として、第一四回早慶戦が開催された。しかしながら、失われた三年間の代償は大きく、試合としては甚だお粗末なものであったようだ。結果は一-七で塾の大敗であった。再び基礎強化の必要性を痛感したと選手たちは語っている。
戦後、日本におけるチームスポーツの特徴として、OBたちの活躍が目立つ。水球も同様で、慶應OBの三水会、早稲田の稲泳会、関西で集まった混成OBチームである近畿水球クラブなど、戦前に活躍した選手たちが社会人チームを結成し、日本水球界を牽引していった。戦後の混乱期にもかかわらず、戦前水球に打ち込んでいた選手が、再び水球をプレイしたいという気持ちが強かったことがうかがえる。
学生チームはOBからの指導をうけ、メキメキと力をつけていき、戦前のような慶應、早稲田、日大によるビッグスリーの時代が再来した。OBチームが牽引していたころは、戦前の古い水球を引きずっていた部分は多々あったが、学生の成長に伴い、新しい方向の模索が進められていった。同じ頃、世界においても水球ルールにおける問題点が顕在化し、よりスピーディーでフェアなプレイの方向へのルール変更が余儀なくされていった。このような時代背景のもと、このルールの変更にあわせ水球の戦術は変化していった。ポジションが明確な分業化されたシステムから、全員で攻防を行うオールラウンドプレイヤーが中心のシステムに再び移行していった。これに伴い、日本水球は再び学生チーム中心に移っていった。
昭和二六年(一九五一年)塾は関東学生リーグ戦で王者日大を破り優勝した。これを皮切りに、再び黄金期を迎えることとなる。翌昭和二七年(一九五二年)は、全戦全勝の完全勝利。昭和二八年(一九五三年)の関東学生リーグで日大に敗れ、連勝記録こそ四〇で止まったものの、同年の関東学生トーナメントでは、同大会六回連続優勝という偉業を成し遂げた。原動力となったのは、昭和二四年(一九四九年)から二年連続で日本一となった、塾高水球部のメンバーであった。
日本水泳は、昭和二七年(一九五二年)の第一五回ヘルシンキオリンピックに、水球代表を派遣できなかった。当時、植中耕一、田島直季、平井顕吉、松本梭、神田明善、小谷敏二、小谷保二と七名もの塾水球選手が日本代表に選ばれていた。
昭和二九年(一九五四年)にマニラで開かれた第二回アジア大会には、監督に和田幸一。選手としてOBの神田明善、現役の田島直季、市毛弘文、佐藤孝尚、荒川八郎の計五名が代表チームに選出された。しかし、シンガポールに破れ二位となり、昭和三一年(一九五六年)の第一六回メルボルンオリンピックの出場権を得ることが出来なかった。
昭和三二年(一九五七年)の世界学生選手権(のちのユニバーシアード)には、卒業したばかりの佐藤孝尚が代表となり、翌昭和三三年(一九五八年)に東京で開催された第三回アジア大会では、佐藤孝尚、荒川八郎が代表入りを果たし、日本水球界初の国際大会での優勝を果たした。これにより、ローマオリンピックの切符を手に入れたのである。
昭和三五年(一九六〇年)第一七回ローマオリンピックにおいて、日本水球は念願の代表を派遣。塾からは佐藤孝尚、山本健、清水洋二の三選手が選ばれ、神田明善もコーチとして代表に加わった。
ローマオリンピック後、日本中が東京オリンピックの成功を目指していた。塾水球も代表輩出を目指し、日々練習を重ねていた。しかし、上位に食い込むことはできても、優勝まで手が届かない状況であった。
昭和三六年(一九六一年)ソフィアで行われたユニバーシアードには、清水洋二、井上宏の二名が代表となり、翌昭和三七年(一九六二年)のジャカルタで開催された第四回アジア大会では、荒川八郎、清水洋二、井上宏が代表入りし、優勝を飾った。
東京オリンピックの前年である昭和三八年(一九六三年)には、欧州遠征軍として荒川八郎、清水洋二、小山欣也の三名が選ばれ、ポルト・アレグレで開催されたユニバーシアードには、井上宏、住谷栄之資が代表入りを果たした。また、塾は同年、韓国遠征を実施、三戦全勝で帰国した。
昭和三九年(一九六四年)第一八回東京オリンピックが開催された。塾からは荒川八郎、清水洋二の二選手が日本代表に名を連ねた。
しかし、東京オリンピックにおいて、日本水泳陣は惨敗を喫してしまう。水泳界は、これを機に抜本的な改革に乗り出すのである。塾水球においても、早稲田、日大から一歩遅れるようになり、三位に甘んじるようになっていった。
水球を始められたきっかけは何だったのですか?
国民小学校の時、戦時中の疎開先(稲取)で地元の人に海にほうりこまれて初めて泳げるようになり、四年生で東京の大森の水泳大会で初優勝、それから水泳にはまりましたね。
中学は慶應商工(二年から中等部)で水泳部に入部し、六尺ふんどしを締めて、タオルなど無いのでプールサイドで甲羅干しですよ。中等部三年で東京都大会の五〇mと一〇〇mで優勝し、チームも全種目で二位に大差をつけて優勝しました。私はいつも言うんですが、幼稚舎の子たちは六年生まで水泳をしたほうがいい。すごくハードだから心臓が強くなるでしょ、それと体の柔軟性ができますから。
それで、当時の三田綱町プールは水球部が使っていたのでいつも水球を見ていました。こんな楽しいものはないと思いましたよ。泳ぐだけの競泳と違ってケースバイケースの展開が、自分の性格に合っていましたね。
どんな練習をされていたんですか?
当時、大学部員は三〇人から四〇人は常に在籍して、AからC組までありましたよ。四月末にプール掃除をして五月から練習でしたが、水温は一三度~一七度でしたから飛び込むと肌が針で刺されるようにチクチクして次第に歯の根が合わなくなりましたね。一レッスンが一時間で、途中お風呂に入りながら三時間から四時間ぐらいの練習でした。お風呂の薪焚きは一年生の役目で、先輩達を風呂から早く上げさせるのに必死で風呂焚き名人になりましたよ(笑)
土、日曜日の練習では、午前の四時間が泳ぎ中心、午後の四時間がボールワークとゲーム。夕方になるとOBがぞくぞくと集まってきて、あの頃のOBはなぜあんなに暇だったんだろう(笑)と思います。
プールにはライトがないので裸電球を点けて練習していましたし、今のように濾過器がないのでゲンゴロウが住みつき、水スマシが目の前を泳いでいるという、そんな環境でした。冬場のシーズンオフは陸上トレーニングとマラソンは毎回、ラクビーの練習で早稲田とよくゲームもしましたね。
「いつ勉強していたか」って?
それは一番怖い質問ですね(笑)
練習道具はどうだったんですか?
ボールは革製でした。下級生は練習の一時間前にプールでボールの中のチューブに空気を入れ、それをニードルで縫っていくのです。練習が終わるとボールの空気を抜いて皮の間にグリスを塗るのが毎日の仕事でした。板ぶつけをするとボールの皮がのびてタヌキのお腹のようになり、ボールが異常に重くなって大変苦労しましたね。ニューボール等は板ぶつけに使うと先輩に怒られたもんです。ビート板は重い板でしたし、ゴーグルもない時代でした。
ルールや戦術は今とどう違ったんですか?
高校二年のときに、南米ルールの時代がありました。「相手がボールを持っていてもタックルをしてはならない」というルールでしたが、一年で変更になり元のルールに変わった時期がありました。また、チームの人数は今と同じ七人ですが、前半と後半に分かれていてよほどの怪我人が出ない限りメンバー交代は出来なかった。
それは大変ですね!
試合時間が一時間ですから大変でしたよ。それに一点取るごとにセンターボールはその都度ゴールラインに戻ってスタートで、点が入るたびにボールを取りに行かなくてはならない。私はセンターフォワードでしたので毎回取りに行かなくてはならないから過酷でしたね。
戦術面では今のようにオールラウンドプレーヤーでなくフォワード三人バックス三人で、自分のポジションに忠実に行う戦法でしたね。
サッカーみたいな感じですか?
そうです。その中に動きが出てきてチャンスを生かしていく戦術の水球でした。ゴール前にゴールゲッターがいて、そこにボールを集めてシュートする戦法なので、自分だけが出来るシュートを模索したもんです。そうすると花形選手になり多数のファンが素晴らしいプレーを観戦に来てくれたんです。
当時は慶應大学は連勝連勝、黄金時代でしたので、卒業まであまり負けた記憶がなかったですね。
大学二年の時に初めてナショナルチームに選ばれ、それから一二年間ナショナルチームの選手を続けました。第二回アジア大会決勝で負けましたが、昭和二七年のことで、まだマニラ湾に日本の軍艦の沈んだマストが多数海上に出ている状態でした。バスに乗ると後部席にピストルを腰に差した警官が必ず二人は乗っていて、治安もあまり良くなかったです。試合が始まると日本の選手が反則をしようものなら観客は大騒ぎ、笛が相手に有利になってしまい、大変苦労しました。
卒業後、大阪の会社に就職しましたが世界学生選手権(現在のユニバーシアード)がパリで行われる事になり、会社を辞めて水球のキャプテンとして、また日本の選手団の旗手として参加したことが生涯忘れる事の出来ない経験でした。ユニバーシアードですからオリンピックより規模が小さいのですが夜に開会式があり、行進は旗手と選手団の二つのライトが煌煌と照らす神秘的な行進で、生涯良き想い出になりました。
第三回アジア大会は日本で行われて主将として出場して優勝。日本の戦前戦後を通じ国際試合の初優勝でした。当時はキャプテンだけが一位の表彰台に上がることができたので、君が代を聞いて感激に打ち震えましたよ。
海外の選手と相対して感じたことは?
ヨーロッパの選手は体格、シュートの威力はすさまじいですが、大きい選手は動きの悪いのもいたので、日本独特の早い動きで先を読んで動くことを学びました。大会後はハンガリーとかオランダとの遠征では毎日四〇キロのバッグを持って転々とし、旅役者のようで(笑)、夜の一時ごろから試合をしてきました。
これから日本を強くするにはどんどん海外遠征で試合をし、体験と経験をすることが、日本が世界のレベルに達する近道になるんじゃないですかね。
私達の時代は勝つことに大変恵まれた時代でした。監督を引き受け黄金時代の塾をもう一度と思い頑張りましたが出来なかった事が今でも心残りです。
これからの選手達に言いたいのは、塾に在籍しているのですから自分たちのチームとして皆で考えなさい、ということです。全員のミーティングの時間をとり、相手チームの強力な選手や弱点のある選手への対策や、高度な戦術などを分析するミーティングに特に時間を掛けてほしいと思います。今の塾チームはスタミナが無いことが目立ちますね。海外や他校などと試合をしてぜひ経験を積んでください。
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佐藤 孝尚
慶應義塾大学 一九五六年卒
慶應義塾高等学校出身
一九五四年 アジア大会出場
一九五七年 世界学生選手権出場
一九五八年 アジア大会優勝
一九六〇年 オリンピックローマ大会出場
その後、塾高・大学監督、総監督を長きにわたり従事し、多くの選手の育成に携わった。
「三水会」の名は昭和2年11月に命名されたものである。
春、夏、秋の合宿で我々水球チームは常に行動を共にして居た。
それが10月の明治神宮体育大会(現在の国体)後、納会の時を最後に冬期練習にはいるわけである。日吉、三田の連中は学校へ行けば仲間の誰かに会えるし、連絡も取れる。私が予科に居た時は校舎が三田であった為何も不自由はなかったが、医学部本科になって校舎が四谷信濃町に移ったとたん、淋しくて仕方無くなった。一年の大半を一緒に暮し、苦楽を共にした仲間から、たった一人別れてしまい、孤独感に強くかられていた為、当時のリーダー故吉本氏に申し入れて、月1回でも水球メンバーの会合を催してもらう事になった。月例の会合の事とて、何しろ呑ん気な連中が多かったので、会合の日を定めておく方が無難であった。何日と決めると日曜日に当ったりして都合が悪くなるので、躍日で決める事になった。土曜、日曜は避けて、一番学生の暇な水曜と言う事になった。当時、何となく水曜が暇だったのである。更に月の初めと終りを避けて、中旬に決めた。すると自然に第三水曜日と言う事になった。会合の名称を決める事になって「第三水曜日の会合」であるから、それが「三水会」になった訳である。
決して「三田水泳会」の略称ではなく、以上の様に私の個人的わがままから出た注文で出来上がった会合であり、名称である。
※笹島彦次郎「オール三水会だより」より抜粋
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余談:
塾水泳部80年誌の故名取正也氏の寄稿文によると、三水会は「三酔会」「三粋会」「撒水会」とも書くらしい…
東京オリンピック後、欧米若手選手の爆発的な活躍を目の当たりにした日本水泳界は、各地にスイミング・クラブを発足させるなど、長期的な視野にたった選手育成に力を入れはじめた。
大学水球では慶應、早稲田、日大のトップスリー体制から、慶應が一歩遅れるようになり、早稲田と日大の二校が優勝を争うようになった。昭和四一年(一九六六年)バンコクで開催された第五回アジア大会には、OBである清水洋二、住谷栄之資の二名が代表に選ばれた。しかし、現役学生から代表に選ばれたものはいなかった。こうしている間に、中央、法政が実力を伸ばしていき、昭和四三年(一九六八年)塾水球は関東学生リーグ六位にまで低迷してしまった。その後、昭和四七年(一九七二年)までの間、五位と六位の間を行き来することとなるのである。
しかし、この塾低迷期間において、塾高水球部が昭和四三年(一九六八年)に関東大会優勝、日本高校で上位に食い込むなど、将来に向けて、明るい兆しが見えていた。
昭和四五年(一九七〇年)欧州遠征日本代表に峰岸直人が選ばれた。峰岸は同年バンコクで開催された第六回アジア大会にも代表入りし、優勝を果たした。昭和四六年(一九七一年)塾水球は香港遠征を行い、香港ナショナルチームの対戦含め、五戦全勝で帰国。翌年への手応えを感じていた。
昭和四七年(一九七二年)ついに塾は怒涛の快進撃を始める。早慶戦を勝利し、日本選手権では準優勝。関東学生リーグでは一〇戦全勝の完全勝利で優勝を果たし、日本学生選手権も優勝したのである。同年開催された第二〇回ミュンヘンオリンピックには、峰岸直人が日本代表として出場を果たし、再び塾の黄金期を迎えることとなった。
昭和四八年(一九七三年)も塾の快進撃は続いた。早慶戦勝利、関東学生リーグ優勝・日本学生選手権優勝と大会連覇を果たした。しかし、この頃急激に力をつけてきたチームがあった。日体大である。前述した、日本水泳界による若年層強化の影響もあり、若手の強力な選手が育ち、日体大に集まりつつあったのである。同年の関東学生リーグで、唯一慶應に土をつけたのも、日体大であった。
昭和四九年(一九七五年)関東学生リーグ、日本学生選手権、日本選手権と塾は二位となった。唯一、日体大にだけ勝てなかったのである。日体大は、初優勝の年に、三大大会全てを全戦全勝で手中に収めた。後にギネス認定された二一年間三七六勝無敗記録の始まりである。
同年、テヘランで開催された第七回アジア大会に大貫利和が代表に選ばれた。四回連続でアジア大会を優勝していた日本チームだったが、五連覇ならず、三位という結果であった。
昭和五〇年(一九七六年)以降、塾水球は苦しい試合を続けることとなる。昭和五三年(一九七八年)には、学生選手権のシード権を失い、関東学生リーグでは入替戦を戦うまでに低迷した。苦しい時期が続く中、昭和五五年(一九八〇年)欧州遠征の日本代表に竹末泰士が選ばれ、翌昭和五六年(一九八一年)の日中対抗水泳競技、ブカレストで開催されたユニバーシアードにも竹末は出場を果たした。
昭和五七年(一九八二年)には、創部以来初の二部降格となった。塾の低迷の要因の一つとしては、部員不足が挙げられる。東京オリンピック以降、選手獲得が次第に難しくなり、部員不足が顕在化してきた。部員数の減少により、ゲーム形式の高度な練習が困難になり、練習の質が他校より劣っていく、といった悪循環に陥ってきたのである。慶應義塾は、いち早く推薦制度を復活させるなど、対策を講じていたが、選手争奪戦が激化する中で外部からの選手獲得は難しかったのである。
次に練習環境の変化がある。一部校の多くが年間通じての練習ができるように、水球対応の室内もしくは、加温照明設備付きのプールを持つようになり、施設面でも遅れをとっていた。
第三には、水球のルールの方向性である。戦後、よりスピーディーにフェアにという方向で、水球のルールは改変されていったが、その結果、全員攻撃、全員防御のオールラウンドプレイヤーを中心とした戦術が有効となっていった。全盛を極めていた日体大は、この戦略を柱にカウンターアタックを繰り出すプレイスタイルであった。この戦術には、全員が高いレベルのオールラウンドプレイヤーでなくてはならず、選手層の薄い塾には困難な状況であった。
このような苦しい環境下のもと、塾水球は長期的な視点に立ったチーム改革に乗り出した。塾高では、佐藤孝尚監督の号令のもと、部員の拡大を図り将来の選手層の拡充に乗り出した。また、水球部員が慶應スイミングスクールで幼稚舎生に水球を教えるなど、さらに先の選手育成にも乗り出した。
戦術面では、個々の特性を活かし、往年のフローティングシステムを採用し、当時キーパーであった濱田竜哉をフローターに据えるなど、選手の大胆なコンバートなども行った。当時の大学監督は、戦前、フローティングシステムを完成させ、塾の黄金期を築き上げた故名取正也であった。
限られた戦力の中で、より個性を活かしていく戦略を立て、戦術としては伝統のスタイルであったが近代水球にも対応できるよう、守備システムなども工夫を重ねていった。練習面においては、科学的アプローチを導入し、より効率的な練習を模索。代表や一部チームとの合同練習など積極的に出向き、部員の少ない中でも質の高い練習方法を積極的に取り入れていった。
水球を始めたきっかけを教えてください
中学生の時太っていまして、肥満対策ですね。修道高校は黄金時代に全国制覇を二回しましたが私が入ったころは部員が少なく、一時期二人しかいない時もありました。ポジションはずっとフォワードです。今のフローティングスタイルと違い、速攻で行ったり来たりするのでどちらかと言うと前の方にいて、バックスは苦手でしたね。
得意なシュートはなんですか?
今はあまり流行らないですけどワンタッチシュート。僕は特に体が小さくスピードで勝負するしかないので、ボールが来たらすぐ、相手が準備する前に相手のゴールに突き刺さっている。肩もそんなに強くないし握力もないし、振れば振るほど威力も弱まるので、クイックとループが武器でしたね。それとあとは水面下の魔術師と呼ばれてましたね(笑)。
小さいのでいろいろ工夫しましたが、結果的に得点ランキング上位にいたのはチームと先輩方のおかげです。慶應のチームでなければ全日本に入っていなかった。先輩、後輩への感謝の気持ちと期待に応えなきゃいけないと思って一生懸命練習しました。
どんな練習方法だったのですか?
チームとしてはスイム・シュート・ワンサイド等が中心の練習でした。自分がほかに練習したのは泳ぎながらのバックシュートですね。またファラゴシュートという、ハンガリーの当時世界最高峰の選手がよくやっていた技も真似たりしました。それだけにしておけばよかったんですが、外人選手のマネをしてボールを無理して振り回すシュートを練習したら肩を壊してしまいました。
他校は高校時代の有名選手がどんどん行っていますが、塾は塾高からの人が中心で、外部は少なく戦力的に不利でした。チームワークを大事に最後まであきらめない強い気持ちで、決してスマートではない水球をしていました。とにかく泳ぎまくってクロスして、相手を邪魔したり、泳ぎプラス工夫を重ねるチームでしたね。
主将としては、同学年が自分一人で必要以上に頑張らなきゃいけないと気負っていたと思います。チームの成績があまり芳しくないことにずっと責任を感じていました。決して懐の深い主将じゃなかったんですが、チームをなんとかせなあかんということでいろいろ研究はしましたね。名取先輩から提案された、到底現代では考えられないような戦術も試しましたよ。
どのような戦術ですか?
プールの一番右端に人が泳いで行って、オフサイドゾーンの中までボールを持って入って、そこからボールをゴール前にふんわり上げるんです。そこに背の高い選手が飛び上ってシュートする、まさにサッカーのセンタリングですね。何回も練習しましたよ。でも見え見えだから背の高い選手がよってたかって潰されて(笑) ただ普通にやっても勝てない相手には、そういうこともやりましたね。
全日本代表で一番印象に残っているのは、当時世界最強のハンガリーとの親善試合ですね。東京と広島で試合をして、広島では私も得点しました。抜け出して思いっきり浮き上がって打つふりをしたまま左に倒れて左隅に軽く入れる。地元のニュースで取り上げられ、「故郷に錦を飾る」ことができ、改めて周りの方々に感謝しました。
ユニバーシアードはルーマニアでしたが、当時のチャウシェスク大統領に敬礼をしたり、強化合宿の時には同じホテルに体操のコマネチさんがいてエレベーターで言葉を交わしたりとか、貴重な体験をしました。
ただ試合では、日本と世界の差は歴然としていました。中国に勝てず、アジアの壁も突破できなかったですね。欧米となると体格・体力・シュート力等、すべてにおいて圧倒されました。
水球をしていて良かったことは、まず素晴らしいOB、先輩、後輩に恵まれたことですね。本当に痛いほど可愛がってもらいました。そして、最後まであきらめない気持ちを教えてもらったことですね。必ず勝ちにつながると信じて努力すること。投げたら負けだということ。自分がどれだけのことをやり遂げたか、チームにいかに貢献できたかが大事で、その精神は社会人になっても大切にしています。
何事も努力して一生懸命取り組むことはもちろん、得意分野を磨き、特徴を持ちなさいということも学びました。
百周年の大きな節目を迎えるに当たり、我が塾チームが心身共に本当に強くなってほしいと願うばかりです。チームワークと個性を発揮して総合力のあるチームになってほしい。そして三年計画でもいいので、チームが一部の上位争いをする中で、ぜひ日本の将来を背負って立つ選手を輩出するよう期待しています。そのためにもさらなる精進と工夫が必要だと思います。塾水球部の今後ますますの発展を心から祈念しております。
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竹末 泰士
慶應義塾大学工学部 一九八二年卒
修道高校出身
一九八一年 ユニバーシアード ルーマニア大会出場
東京海上日動火災保険株式会社 東東京支店担当次長
1930年三田綱町プール竣工。塾水球は念願の活動拠点を持つことになる。このプールの存在が、昭和初期の塾水球黄金期を迎える一因であったともいえよう。1960年日吉に50mの第一プールが竣工。1964年には日本初の水球専用プールである第二プールが竣工された。
春になると藻と土で汚れたプールの水を抜き、部員全員デッキブラシを持ってプール掃除をするのが、水泳部の新学期行事であった。その後プールに水が張られ、水温13℃くらいになると、雄叫びをあげながらのプールに飛込み練習。手がかじかんで、身体が動かなくなってくると、お風呂に向かって駆け上がる。このプール風呂間を往復した記憶があるOBも多いことだろう。他校では屋内プールが普及し、水泳競技が年間通しての練習が必要となっていく中で、日没後も練習ができるように照明施設が設置され、その後温水施設も導入するなど、なんとか他チームとの練習量の差を埋めようとした。
2008年8月、塾150周年事業の一環として協生館が竣工され、現在は屋内プールで年間通して練習ができるようになっている。
長期計画で改革を進めてきた塾水球だが、その努力が実を結んだ。昭和六一年(一九八六年)悲願の一部復帰を果たしたのである。強力な選手を獲得できていないながら、伝統とも言える猛練習により、その後も一部の座を死守していた。
当時の大学リーグは、日体大が圧倒的な強さを誇り頂点に君臨し、それを追うように、筑波大、専修大、中央大、法政大などが二位の座を奪い合っていた。一部の中でも上位と下位の実力差は大きく、更に一部と二部の実力差も大きく開いていた。
話は脱線するが、圧倒的な強さの日体大に追いつかんと急成長したのが、筑波大であった。筑波大は昭和五四年(一九七九年)の室内プール竣工とともに急激に強くなったが、高い泳力のうえ、緩急のある頭脳的な水球をするチームであった。
筑波大水球部出身で現慶應義塾幼稚舎教諭である藤本秀樹は、学生時代に健志台クラブと激戦を繰り広げたことで、水球継続を決意、大学院に進学し、昭和六二年(一九八七年)に幼稚舎の教員となった。合わせて塾水球のコーチに就任し、塾水球に新しい風を吹き込んだ。更には、水球プールには日が落ちても練習ができるようにと照明設備が設置された。まさに昼夜問わずの練習体制となり、塾は古豪復活に向け邁進していった。
昭和六三年(一九八八年)、塾水球は空前の入部希望者を迎えることになった。新入部員が二〇人を超えるなど、過去最大規模の部員数となった。その要因は、一〇年前に、水球部員が教えた幼稚舎生達が、ここ数年に塾水球部を目指して進級してきたことである。当時主将であった峰岸克行は「部員数が多いことにより、効率よく練習するのに様々な工夫をした」と後日語っている。
同年、塾水球出身である平井顕吉が国際水泳連盟(FINA)水球委員長に就任した。日本人ではもちろんのこと、アジア出身者の初の委員長就任であった。
平成元年(一九八九年)塾水球は、再び二部降格となった。翌平成二年(一九九〇年)入替戦に出場するも一部復帰には手が届かなかった。
平成三年(一九九一年)関東学生リーグ一部昇格、五大学対抗戦連続優勝を果たした。同年、塾水球は韓国遠征を行い、韓国ナショナルチームと対戦した。昭和四六年(一九七一年)以来の一八年ぶりの海外遠征であった。
翌平成四年(一九九二年)には、再び二部に降格。その後数年間、オーストラリア遠征なども行い、戦力強化を図ってきたが、入替戦を戦うもあと一歩のところで、一部昇格とはなれず苦汁をなめていた。平成一一年(一九九九年)には、日吉プールを温水化し、早い時期から練習ができるようになった。同年、ハワイ遠征を実施し、現地で開催されたハワイ国際大会で優勝を飾った。
ここ数年、部員不足に悩みながらも、平成一三年(二〇〇一年)再び一部昇格を果たした。しかし、その後一部と二部の行き来を繰り返す状態が続いていた。
平成一五年(二〇〇三年)ナポリで開催されたFINAジュニア国際選手権に河原邦夫が代表として選ばれた。カテゴリーはU―20であるが、昭和五六年(一九八一年)の竹末泰士以来、二二年ぶりとなる塾からの代表入りであった。
平成一八年(二〇〇六年)協生館建設のため、日吉プールが閉鎖となった。活動拠点を失った塾水球は、練習場所の確保や、部員不足などに悩まされ、よい結果が出せなかった。
平成二〇年(二〇〇八年)協生館が竣工し、塾は念願の室内プールを持つこととなった。これにより、年間を通して練習ができるようになり、長年の懸案だった、練習環境は好転した。
平成二一年(二〇〇九年)東日本水球リーグ一部昇格。平成二四年(二〇一〇年)には、日本選手権で全中央を倒し、三二年ぶりとなるベスト4入りを果たした。平成二三年(二〇一一年)には、関東学生リーグにおいて一部に返り咲いた塾は、その後、一部と二部のきわどい状態が続く中、現在は一部リーグに所属している。
近年、塾高水球部の部員が増え、塾水球の選手層が厚くなってきており、峰岸隆監督のもと、戦力は確実に上向いている。
古豪復活に向け、選手一同練習に励んでおり、これからが期待される。
水球を始めたきっかけを教えてください
僕らの時代は、スイミングスクールで水球を始めた世代で、小学生のころからプレーしていたわけです。日吉のプールに行くと、大学生が水球をしているのを見ていたので、その頃から、なんとなく高校に入ったら、水球をやるんだろうと思っていました。
ところが、高校に進学して水球部に入ったころは部員は同級生が三、四人と上級生が一人。全員で五人くらいでしたから、競泳から何人か借りて早慶戦に出るほどでした。
高校二年生になって佐藤孝尚さんが監督になってから「先ずは部員を入れろ」と気合いを入れられ、勧誘活動をおこなって一気に人が増えましたね。
峰岸さんご自身はどのような選手だったのですか?
ポジションは大学生からはフルバック。泳ぎは当時の中ではそこそこ速かったと思いますが、完全に不器用な選手でした。あまりセンスのいい上手な選手ではなかったのですが、シュートの決まる確率は高かったと思います。試合中は、あまりシュートを打たせてもらえませんでしたが、打つときは自信を持って投げていましたから。
当時はどのような練習をされていたのですか?
佐藤さんが監督になられてから基礎練習のウェイトがすごく増えました。基本的にはシンプルな水球をしていたと思います。午前中は基礎練習ばかりで泳いで、あとは下半身の強化です。ほとんどボールに触らないで、おもりを持って巻き足をするとか、飛び付きをするとか。午後は三時間から四時間、ゲームを中心の練習をしていました。今と比べたらもっと個人で練習をしていましたね。全体練習が終わっても一時間とか二時間、すぐ帰らないで、皆で遊びながらも自主練をすることが多かったですね。
僕が四年生の時は、水球部の歴史で一番部員数が多かったんじゃないでしょうか。合わせて四〇人以上の部員がいて、一年生の入部が多すぎて「やめてください」ってお願いしてやめてもらったこともありました。練習時間も一軍と下級生とで分けて、プールでは朝から晩までずっと誰かが練習していました。
当時は屋外のプールで、練習がきついかどうかということよりも寒さがきつくて。日吉のプールは四月から泳ぎ始めるのですが、水温が一五度くらいですから三〇分も入っていたら、みんな「助けてくれっ」となるので、お風呂に入って体温を戻し、また練習を繰り返す。体にいいわけないですね。
主将や監督として心がけたことはありますか?
部員数も多くなり練習をどうしようかということには気を遣いました。チームは一部でしたがなかなか上位にいけないことも悩みで、ここは、チャンピオンの日体大と練習させてもらうのが一番いいだろうと、週に三回通いましたね。十六時に健志台に集合して、練習して終わるのは遅いときは二二時になることも。結局、リーグ戦で上位には行けなかったんですが、格上の明治に引き分けたことが印象に残っています。あとは四年生のときに、当時は格下の早稲田に負けましたが、リーグ戦の入替戦では勝ったことも印象深い思い出です。
監督としては、僕自身若かったこともあり、上位を目指すためにちょっと焦っていたかもしれません。厳しく指導していましたね。あの頃、早稲田がすごく強くてインカレでも優勝候補だったのですが、その早稲田に勝ったことがうれしかったですね。また、当時UCLAのキャプテンが慶應に留学していて、その伝手でハワイにも遠征に連れていったんですが、そこでいわゆるローカル試合に慶應義塾としてエントリーして優勝したことも思い出ですね。
現在は日本水泳連盟水球委員会の副委員長ですね
現在の日本の水球は相当レベルが上がっているので、二〇二〇年のオリンピックで成果を出したいと思っています。男子女子ともに十二月に中国でリオデジャネイロ五輪予選があるからそれに勝つことです。女子は強化はまだまだこれからですが、二〇二〇年に向けて戦略的に取り組む必要があります。二〇一八年の福井国体から女子水球も正式種目の候補となり、現在、鋭意検討いただいています。今年度は女子を軌道に乗せるため、女子全体の活性化を特に重要視してやっています。
大学の水球については二〇年前と状況が違ってトップの二~三チームとそれ以外との差が大きくなっています。ナショナルチーム全体の強化と大学の活性化とはある程度分けて考えないと。大学の中でも本当に上位のチームと、上位に接近するようなチーム、そして少しでも水球に親しんでいく集団とに分かれていくと、今の立場からは考えています。
慶應にはなるべく上位に接近できる予備軍に何とかいてほしいと思っています。そのためには慶應らしさを考えていかないと、他のチームと同じことやっていてスキルの差で負けてるのではなく、もうちょっと展開を考えないといけない。例えばマイボールになってから、三回くらい展開してシュートまで行くとすると、少なくとも二投目以降は上で回す、ゴールキーパーからボールが前に出て、次は上でもらえと言っています。三投目で上に来てハンドトゥハンドでシュートを打てたら、決まる可能性は相当高いですよ。上からたくさん振ってシュートとか、そういう技量の差が出るようなことをするなと、もうちょっとボールのスムーズな展開をいかにしてやるか、ぜひ課題としてもらいたいですね。
次代の選手たちへメッセージをお願いします
一生懸命しているというだけでなく、何を目指しているのか考え、具体的な目標に落とし込む必要がありますね。それがやりがいにもなるし、伝わってくるようにしてもらいたいです。トップ選手を見て理想型を追い求めるのもいいですが、シュート力をアップしたいからシュートの練習をしますという素人的な発想では絶対無理ですから。どうやってワンチャンスを取るのか、どういう捨て身のプレーを見せるのか。自分たちのパターンをいくつか持つことですね。そういうことをビデオを見て研究して、学生同士で考えていくのが「慶應らしさ」だと思うんですね。ある程度の上位校は個人技で得点を取っていますから、そういうのではない、慶應らしい得点パターンを、慶應らしいやり方でやってほしい。もうちょっと具体的な目標設定をして、データをとって課題設定してもよいと思います。
徹底した目標設定をして熱く議論しているのか。僕が監督のとき、だいたい一ピリオドで十回攻めて、そのうち何回シュートまでいって何回得点が決まったか、全部データを取りました。自分たちの目標を作り、慶應らしい裏付けを持ったプレーをして、OBに何か言われたら「いや、こういう意図を持ってプレーしてるんです」と言えるようにしてほしい。そういうのがあると目の色が変わってくると思います。目標設定をどういう風にするかというところが大事だと思います。
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峰岸 克行
慶應義塾大学商学部 一九八九年卒
慶應義塾高等学校出身
日本水泳連盟水球委員会 副委員長
株式会社峰岸 代表取締役社長
一九五五年卒 元国際水泳連盟水球委員長 平井顕吉
我が母校の慶應義塾大学に水球がスタートしてからと云うのは、日本に水球が始まって百年が経ったというのは驚ろきです。私が今年で八二才と云う事は、私の生れた一八年前に既に日本に水球が根付いて居たと云う事になるからです。
昭和二二年夏、中等部の前身、慶応工業に疎開先から復帰し、何もせずゴロゴロして居る私を親父(大正一三年経済学部卒、柔道部)が見るにみかねてプールに行って水泳部にも入って来いと、どなりつけた。その頃の親の権威は今の比ではなく、私は水着をもって三田の綱町のプールに参上した。上級生が泳いでみろと云うので25m泳いだが泳いでいる間、聞えてくる会話は「こりゃ使いものにならん」でした。それでも25m泳いで顔を上げた時にその上級生(自由型で早かった小松さん、平泳ぎの近藤さん、後々迄御世話になりました)は気の毒と思ったのか「まあ、明日から練習に来い」と云って呉れました。親父に報告をすると「それはよかった。練習は休むな」と喜んでくれました。これが私の水泳との出会いです。
その後は、休まず練習に励んだせいか、平泳ぎが結構早くなりました。中学から高校に進学する時は木村監督が「お前は競泳、お前は水球」と振り分けてくれました。私は「お前は一人っ子だからチームスポーツがよいだろう」と水球をすゝめられました。これが私の水球との出会いの第一歩となりました。
慶応高校に入ると慶応普通部卒業の部員と一緒になり練習をしましたが、普通部は中学の時から水球の練習をしていたので上手のなんの。こちらはボールは手につかず大分差がありました。唯、毎日練習をしていると段々と格好がついて来ました。二年になると新田監督からお前達、インターハイに出るぞと云はれ、練習も更に厳しくなりました。東京都予選では後に慶応大学でチーム・メートになる市毛君、寺田君がいる成城高校に一点差で敗れましたが、取り敢えず出場権はとれたので、大阪で行はれた全国大会に出場し、勝ち進み決勝戦で予選で敗れた成城高校と再び当り、今度は勝利を納め優勝しました。その翌年のインターハイは呉市で行はれましたが順調に勝ち進み決勝で熊本・済々黌高校を破り二連勝しました。
その後、大学に進み水球を続け、その頃は温水プールと云う洒落たものが無かったので、シーズン・オフには柔道部にも籍を置き高校時代の二年間と併せ六年間、寒稽古にも真面目に出て、修業に励みました。大学時代は日本選手権を二回、その他四〇勝の連勝記録等、小学校時代の友人が、あのうすのろの平井がヘルシンキのオリンピック候補と驚いた記録を残しました。
卒業後、漸く水球の世界から離れて居ましたが、一九六四年東京オリンピックが決り世の中が騒々しくなって来た折、私の結婚式でスピーチを御願いした名取先輩が、平井は英語が出来るから水泳連盟の仕事を手伝えと云はれ、水球委員会の仕事を手伝う事になりました。
東京大会は本当に多忙でした。高校三年生の時に選択したフランス語迄動員して朝から夜迄、オリンピック用のステッカーを付けた自分の車で飛び廻りました。終った後、暫くの間ボヤーっとしていました。
そうして居る内に、当時の外国委員長河田さんから外国委員会の仕事を手伝う様にとの依頼があり水球委員会の仕事と併行して他種目の仕事迄手伝う様になりました。東京の次のオリンピックは一九六八年のメキシコオリンピックでしたが、どうしても行ってみたくて知人が計画したツアーでヨーロッパ、アメリカ経由でメキシコに入りました。その折、東京オリンピックで会ったFINAの役員、国際水球委員会のメンバー、そして現役選手と再会しスポーツの絆を強く意識すと同時に何となく世界の水泳界の一員になれた様な気がしました。
一九七二年のミュンヘンオリンピック、選手村が襲われ犠牲者が出ました。私は審判員の一人として参加しました。その時の国際水球委員会のアジア選出委員は先輩の神田さんでした。大会中の或る時、神田さんが、私に自分が委員会に出ても英語が得意ではないので、君がメンバーに入って呉れと云う話でした。そう簡単な話ではないので、何度か神田先輩の意向を確認しましたが「君が入れ」の一点張りでした。こちらも腹を決め外国委員長の役職の折の親しいアメリカのヘニングFINA会長、水球界の大物ユーゴスラビアのランバサ氏等に働き掛け、無事に水球委員会(TWPC)のメンバーになる事が出来ました。これがFINAとの永い付き合いの始まりと云えます。
メンバーになってからは大会の都度、競技運営に携わる為、海外に出張りました。FINAのTWPCのみでなく、アジア水連のTWPCにも籍を置いていたのでアチコチの大会に顔を出しました。
皆様御承知の一九八〇年のモスクワオリンピックは、ソ連がアフガニスタンに進攻した為、西側諸国がボイコットをしました。日本もそれに同調して選手派遣を見送りました。唯、我々FINAのTWPCは競技運営のため全員出席となり、私もモスクワに行きました。少しロシア語を勉強した事があったので行く前には復習をして現地に到着しました。二度目の訪問でしたが、オリンピックと云うスポーツの祭典のせいで街はにぎやかでしたが、少し橋の近くに行って河を見ようとすると自動小銃を持った兵士に「そこから中には入らないでくれ」と云はれ、追い出されました。「オリンピックの役員でも駄目なのか?」と聞くと、すまなそうな顔をして「命令なんで申し訳ありません」と人の好さそうな顔をしてあやまられました。ロシア人は、一人一人はとても人が良くてフレンドリーなのですが、一度利害が絡むとすごいかけ引きをすると、旧衛星国の人が云ってました。
当時、TWPCのセクレタリーをしていた、現FINA専務理事のマルクレスク氏がスペインの水球のテクニカルディレクターに転出する事になりTWPCのセクレタリーに空きが出ました。FINAはその候補に私を指命して来ました。古橋国際水連副会長と相談しましたが結局「誰かやり度い人がいたらその人にやらせて下さい。若し、誰もやり手が居なければ私がやります」と云う事になりました。私の親友でカナダ出身のリチャードソン氏が手を挙げたのでその人に決りました。多少ホッとした感じがしました。処が半年経った後、パンアメリカン大会でリチャードソン氏が心臓の病で急死をし、最終的に私に御鉢が回って来ました。今回は、積極的に受け入れました。何事も経験です。一九八四年のロスオリンピック迄議題の作成、議事録の作成、試合結果、審判評価の整理、現在のルールが正常に機能しているかのチェック等山程の仕事があり、よい勉強になると同時に多くの人脈を作る事が出来ました。その後、一九八四年のロスオリンピックでTWPCの副委員長に指命され、再びTWPCの三役の一角を占める事になりました。
一九八八年はソウルオリンピックです。私は飛行機に乗らず新幹線を使い、下関に行き、連絡船で釜山に行き、そこからセマウル特急でソウル迄行くルートをとりました。汽車で見る韓国の田舎をのんびりと楽しみながらソウルの中央駅に着きましたが、何処にもオリンピック用のデスクが無く、仕方なく旅行会社に飛び込み聞いた処、汽車で来る人は居ないので皆、空港で受け入れをしているとの事でやむを得ずタクシーを拾い指定のホテルに着きました。大会も進み後半に入ると次期TWPCの選考の話が湧き出して来ます。次の委員長は誰がなるのか、色々な候補の名前が取り沙汰されていました。私は連日の試合の運営で多忙であった事と、知人との会食等があり誰が委員長になっても今迄通り協力して行ければよいと思って居ました。ところが、最終日近く、FINAの理事の一人が「平井御目出度う」と握手を求めて来たので「何か目出度い事あったのかい」と聞くと「理事会は平井をFINAの水球委員長に決めた」との話でした。それから会う人皆から御目出度うと云はれましたが当の本人は「御苦労様ですね」と云はれる方が実感でした。
前代未聞のアジアからの委員長とあって風当りは強くなるのは覚悟していましたが皆、非常に協力的でホッとしました。一番困るのは大会がある時の演説ですが、短か目にまとめると意外に好評でした。ベルリンでFINACUPがあった時、出て来たのは市長、双方のスピーチが終った後、私は「市長はどの政党の出身ですか?」と聞くと「社民党」との返事でした。昔、第二次大戦で片足を失ったシューマッハーと云う名の左派の闘士の話をした処、その人は私の師匠です。よく御存知ですねと云はれ話がはずみました。出席した関係者が「お前市長と何話してたのか」と云はれる位盛り上った話でした。ベルリンではその時のスポーツ大臣(緑の党)の小柄の御婦人にも気に入られ楽しく過しました。幾つもの大会を皆の協力で無事乗り切って、一九九二年バルセロナオリンピックでTWPCを引退しました。唯、その後もFINAとの縁はアトランタ、シドニーオリンピック迄続き一九六四年東京大会から10回参加した事になります。この他、アジア水連のTWPCも設立以来メンバーでしたが引退しました。
振り返って見ると水球から得た経験は私の人生に素晴らしい影響を与えてくれました。誌面に限りがあるのでこの辺で終らせて戴きます。
一九八六年卒 濱田竜哉
司会
みなさんこんばんわ。「その時歴史は動かなかった」の時間です。
今夜は一九八二年から一九八六年にかけて慶應義塾體育會水泳部水球部門で活躍された濱田竜哉さんをお招きしています。ところで、八二年から八六年というのは計算があわないですね?
濱田
すみません、一年落第しておりまして・・・本当にすみません
司会
それは不躾なことを伺いました。失礼しました。
司会
早速ですが、濱田さんは優れた体格と腕っぷしが監督に認められ、大学一年のシーズン後に、ゴールキーパーからフローターへとコンバートされています。
その後は並々ならぬフィジカルと腕っぷしで関東学生水球リーグをはじめ多くの公式戦を戦い、さらにオリンピック代表候補選手に選ばれフジヤマのセイウチの異名をとるなど、その将来性と前人未到の僭越ぶりで水球界の注目を集めました。
濱田
いえいえ、要所要所にかなり悪意のある嘘と誇張があります(苦笑)。そんな異名は初耳ですし、なんか腕っぷしだけの僭越選手みたいで。そもそも僕は有名な選手でも有力な選手でもなかったですし、当時のチームは一部リーグと二部リーグの双方を経験する苦しい状況でした。
司会
それでも、オリンピック代表候補選手の合宿に招集されたのは間違いないですね。
濱田
それは、確かに代表候補として強化合宿に呼んでいただきましたが、実はその先には進めず、自慢できるような経歴ではありません。僕らの周囲や諸先輩方の中には、オリンピックやユニバーシアードなどで活躍された、錚々たる名プレイヤーが目白押しで、そういった綺羅星のごとき先輩や水球部の歴史から見たら僕などはやはり三流選手です。 ただ自分にとって強化合宿にお声掛けいただいた体験は水球に励んだ日々の小さな誇りですし、何よりそこには僕のいいところを少しでも引き出してくれようと熱心にご指導いただき、チャンスを授けていただいた先輩や先生方のご恩があるのも確かです。
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司会
それでは、当時の監督から得られた薫陶、プレイヤーとしての成長、周囲の皆さんとの交流など、選手時代のエピソードをお話しいただけますか。
濱田
選手時代は、とにかくたくさんの指導者の方に恵まれました。かつて塾水球部黄金時代を築かれた名選手で、監督も務められた名取正也先輩(ジュニア時代からご指導頂きました)、ミュンヘン・オリンピックで大活躍され、名取先輩の次の監督としてご指導頂き、今も僕が水球哲学の師として仰ぐ峰岸直人先輩、全日本コーチを務められた神田明善先輩、大学時代にご教授頂き、高校監督を経てその後大学の監督も務めらた際、コーチのお手伝いをさせて頂いた佐藤孝尚先輩、そして数え切れないほどの諸先生諸先輩、いずれも私にとっては忘れがたい水球の恩師です。
現役時代、最初の転機は一年時のシーズン終了後でした。僕はそれまでゴールキーパーをしていたのですが、当時の名取監督から突然フローターへの配置転換を指示されたのです。これは相当思い切ったコンバートで周りも私自身もたいへん驚きました。僕は決して泳ぎの速い選手ではなかったのですが、名取監督はチームや選手個人の欠点を戦略や得意技術で補う指導法でチームを導かれました。ところが馴れないポジションで日々シュート練習を重ねているうちに僕は右肩を故障して、激痛のあまり水の入ったコップすら持てない状態になってしまったんですね。それで左手でペンや箸を使っていたところ、意外と器用だったせいか、気がつけば両手とも利き腕のように使えるにようになっていました。当時のリーグ戦で両手を使ってパスだけでなくシュートを打つ選手というのは珍しく、仲間からのパスで多くの得点を挙げる事が出来ました。
次の転機はそれから間もなくのことです。三年目の大学二年生のとき、今は無き神宮プールで行われたインターカレッジでの試合です。相手はセンターバックとして既に全日本選手だった若吉浩二選手を筆頭に有力選手がひしめく筑波大学です。この試合はオリンピック・チームの選考時期という事も有り、清原伸彦全日本監督はじめ関係者の方々もプール・サイドにおられました。試合は、激しいコンタクトが続く熱戦で、最終的に勝負には負けましたが、試合後は両校互いの健闘を称え合いました。春の合同合宿で、二人だけの居残り練習にもお付き合い頂いた若吉選手からも「今日は何本かやられたよ!」と声をかけて頂きました。試合に敗れた悔しさと少しですがフローターとして認めて頂いた喜びが入り交じった複雑な思いでプールを後にしようとしたその時でした。突然、清原先生が声をかけてくださったのです。
「濱田、今日よかったじゃないか。近いうちに“召集令状”学校と合宿所にいくからな」
と。代表候補選手による強化合宿招集通知が来たのは数日後でした。また合宿に伺った時コーチの方から「こいつは三流選手だが、肘から先だけは一流かも」
と仰っていただいた言葉が忘れられません。ただ残念ながら力不足でその後選考に残ることはできませんでした。
司会
ふーむ、その時歴史は動かなかった・・・
というわけですね。
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司会
最後の質問になりますが、
濱田さんにとって、オリンピックは夢だったのでしょうか。
濱田
はい。子供の頃から歴代の諸先輩名選手を目の当たりにして育った僕には遠い遠い夢で、結果的にはやはり私は、それほどの選手ではなかったのです。
・・・時々、私は夢を見る。水球に励んだ若き日々の夢だ。つらく厳しい練習の明け暮れ、輝かしい勝利の記憶、そして幾度もの敗北とともに飲んだカルキ臭の水の味の記憶。周りを見渡せば世界で戦った名選手や名監督が居並び、その息吹に直に触れることで心の底から闘志や勇気が漲ってきたこともある。さらにその向こうに「世界の舞台」という華やかなステージを蜃気楼のように見つめたのも嘘ではない。情熱と挫折、夢は今もリアルに昔日の姿を描き続けている。しかし夢はそこで終わっている。夢の続きはない。
しかし、と思う。一〇〇年に及ぶ塾水球部の歴史の中に自分を置いて見る時、自分が水球に打ち込んだ日々とさまざまの思いは、僅かながらも何かの役割を果たしたのではないかと思っている。ひとりひとりが抱いた情熱と挫折感は個人史のドラマではあるが、塾水球部にはより大いなるドラマが今にいたるもなお継続している。歴代監督、コーチ、諸先輩から教えを授かった私の、そのささやかな奮闘史と背中を見つめて次の世代は育つ。我々の魂を震わせた先輩の教えは我々の生き様を通じて次の世代に伝えられる。常にフェアプレーを貫く精神、切磋琢磨し練習によって不可能を可能にするという体験、そして夢を同じくする者同士の友情、それらは今も縷々綿々と受け継がれているのだ。
最後になりましたが、塾水球部創立一〇〇年という大いなる節目を迎えるにあたりお祝い申し上げます。同時に、偉大なる歴史を築かれた諸先生、諸先輩、関係者の皆様に心より感謝を申し上げます。今後も塾水球部のさらなる興隆と活躍を期待してやみません。
※なお冒頭のインタビュー部分は構成上の演出であることをお断りしておきます。
慶應義塾幼稚舎教諭 藤本秀樹
私は筑波大学大学院修士課程を修了後、一九八七年四月に慶應義塾幼稚舎教諭に就任致しました。回顧すれば就任当初、義塾往年の五輪選手である故名取正也先輩、故神田明善先輩、佐藤孝尚先輩、清水洋二先輩、峰岸直人先輩をはじめとする多くの方々に、小生は家族のように温かく迎えられました。不安は全くなく、心強く安堵に包まれたことが昨日の事のように甦ってまいります。加えて、體育會水泳部水球部門のコーチにも任命されました。駆け出しコーチの頃に早くも現在の小生の指導基盤が形成されたような気がしております。それは、峰岸克行君を筆頭として幼稚舎出身者がチームのリーダー的存在として、他の部員たちと融合して逞しく練習しているからです。塾生としての誇りと品格の高さ、そして何よりも目標に向けてコミュニケーションを円滑に進める指導力の強さには目を見張りました。彼らは、教育と水球によって、世の中の先導者に相応しい、「独立して生きる力」と「協力しながら生きる力」が自然に醸成されていたと感じております。小生にとりまして、體育會水泳部水球部門のコーチ経験は、愛塾心と自尊心が常時育まれていったように感じており、大変感謝をしております。
古豪復活に向けた義塾独自の強化
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さて、今年度は慶應義塾體育會水泳部水球部門が、記念すべき百周年を迎えました。慶應義塾の水球には、我が国のルーツとして、独自の歴史や文化があり、他国・他校それぞれの価値を認識しながら先人が確立・発展させてきた実績があります。ルーツ校として、これまで歩んできた道のりに関しては全世界の関係者に感謝をしなければなりません。節目を迎えるに当たり大切なことは、日本水球の創始者として、歴史と伝統を踏まえて精神を継承し、叡知を結集して検討しつつ体現化していくということが大切であると思われます。場合によっては、今までの枠組みを取っ払ってでも新しい試みに気概を持って挑戦する必要があるかもしれません。我々にとって、二〇二〇年のオリンピック東京開催を控えてチームの強化、さらなる日本水球界への貢献(ひいては社会貢献)、ジュニア水球普及に努める等、いよいよ慶應義塾復活の底力を見せつける時が来たのではないでしょうか。国内では名実ともに豊富な人材を誇る日本体育大学が圧倒的な戦力を誇っているのが現状でありますが、我々は創意工夫し、小泉信三先生の言葉「練習は不可能を可能にす」を信じて気概を持って目標に向かって歩んでゆこうではありませんか。慶應義塾独自の強化に向けて更にその一助として幼稚舎が関係できることを記させていただきます。
一貫教育としての種蒔
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a オープン水球大会の開催
b 中学生大会の梃子入れ
現在、幼稚舎ではオープン参加型の行事があり、スポーツでは「オープンテニス大会」「オープン卓球大会」等があり、それぞれ慶應義塾體育會主催の下で実施されています。水球は、十年継続した特別水球授業(六年対象、全員参加)、現在進行中の水球教室(自由参加)が開催されており、幼稚舎は體育會水泳部水球部門と大学体育研究所に大変お世話になっております。近い将来、これが発展して「オープン水球大会」に移行できれば、前述の如く、一貫教育として育成のみならず、幼稚舎出身者の将来の水球先導者育成にも繋がると考えております。ある意味、幼稚舎生の頃から体育会の雰囲気に触れることは、長い目で見た塾風の涵養にも繋がる大切な側面であると思われます。また、現在、中学生大会も充実しておりますので、幼稚舎代表チームの試合を導入していくことによって、総合的にさらなる充実化が図れ、長期的に一貫教育校での連携にも繋がるように感じております。さらには、(財)日本水泳連盟水球委員会でもアクアゲームの普及活動をされているので、次世代の強化や水球メジャー化への一助となれば幸いと考えています。
慶應義塾創設者である福澤諭吉先生の言葉「活用なき学問は無学に等しい」の如く、小生が義塾で学んだこと、そして自身を成長に導いてくれた水球というスポーツは小生の生涯を支える宝になっております。一重に関係各位との邂逅とそのご縁に由るお陰と感謝致しております。
それ故、古豪復活に向けてOB各位の夢である日本一の実現、五輪選手輩出を実現すべく中・長期的な視点で独自な強化に努める一助として、将来、我が国のルーツ校として幼稚舎から大学まで水球を通して一貫教育で水泳文化としての水球競技、精神、健全性を育んでいけるよう、及ばずながらそのお手伝いが出来れば無上の喜びであります。
二〇〇六年卒 河原邦夫
慶應義塾体育会水泳部水球部門の創部百周年を心からお祝い申し上げます。また、これまで塾水球部の発展にご尽力されてこられました諸先輩方に、改めて敬意を表したいと思います。
私は二〇〇五年度卒ですので、二〇〇六年より協生館建設に向けての工事が始まったことを考えますと、日吉の外プールで塾水球部の丸四年間を過ごした最後の代と言えます。春~秋の間しか練習できず、また藻が生えたり、落ち葉が水面をプカプカ浮いていたりといった環境の外プールは、今の協生館プールと比較しますと、もちろん劣悪な練習環境ではありました。しかし、競泳や葉山などが使用していた50mプールとは別に、独立した水球専用の30mプールであったため、他部門と練習時間を調整する必要がなく、大変のびのびと練習できた印象がございます。そして何より、協生館のできる二〇〇八年までの三年間、白河、古矢、牛島の各代においては、練習場所の確保に苦労し、部員不足に陥ったこともあると聞いております。その時代のことを思えば、私が在籍した四年間は現在と同じほどの部員数もいましたし、贅沢に練習させて頂いたとも言えます。
高校で水球を始め、高校三年間で一度も全国大会に出たことのなかった私ですが、高校の県大会の試合会場で原・現水球委員長の目に偶然留めて頂き、当時の日本代表の練習拠点であった修善寺・サイクルスポーツセンターや、完成してまだ間もなかった国立スポーツ科学センター(JISS)で高校二年次より、田中宏児さんや青柳勧さんといった海外のプロリーグでのプレー経験のある選手らと一緒に代表合宿に参加させて頂きました。
そんな中、縁あって塾水球部と出会い、四年間を過ごしたわけですが、その中での一番の思い出は、大学二年次の二〇〇三年に、イタリア・ナポリで開催されたジュニアワールドにおいて、ハンガリー相手に得点したことです。国際大会で191㎝の私より大きい海外の選手相手に試合をしたことだけでも十分貴重な経験であったわけですが、フローターバックというポジションの性質上、決して多くはないシュートチャンスの中で、唯一の得点となった時の相手が、水球に携わっている者なら誰もが知っている水球大国・ハンガリーだったのです。パワープレー中の今で言うところの四番(左サイド)の位置から放ったシュートがゴールネットを揺らしたシーンは、一〇数年経った今でも深く脳裏に焼き付いております。
代表での練習も多かったため、塾水球部での練習を欠席することも度々あり、当時の主将であった吉田、鳥海、猪野各氏には多大なるご迷惑をおかけ致しましたが、代表での練習で習得した戦術や練習メニューは効果的なものであり、塾水球部の強化に必ずや繋がると考え、それらは日吉に帰ってすぐさまフィードバックすることに注力しました。例えば、パス練習において九〇秒ごとに区切って、何種類ものパスの練習をする手法は、今でこそ塾水球部の練習でも当たり前のように採用されていますが、当時は私がJISSで取り組んだものを塾水球部の練習に取り入れたように記憶しております。
慶應義塾としての試合で最も印象的だったのは、大学三年次の関東学生リーグ戦で、中央大学相手に7─4で勝利した試合です。中央大学といえば、ベスト四となった二〇一〇年日本選手権の一回戦で後輩たちが勝利したことが記憶に新しいですが、実はその少し前に我々が一度勝ったことがあったのです。その当時は一部六チームで総当たりを二周するという制度で、我がチームは専修、中央、東大、国武、学習院と共に二部リーグに属していたように記憶しております。その中でも、専修と中央が現在と同様に頭一つ抜けており、一周目は両校相手にトリプルスコアで負けました。仕切り直しの二周目、専修には点差は縮まったもののやはりダブルスコアで敗退し、迎えた中央戦。普段の我々のパターンは、私の同期の河口や佐藤といった攻撃的な選手が点を量産し、私は今と同じようにフローターバックとして守ることに専念するスタイルだったのですが、なぜかこの日は違いました。相手の絶対的エースが怪我でベンチにすら入っていないという状況も手伝ったのか、効果的にカウンターがかかり、そして積極的に打ちにいった自分のシュートが面白いように入ります。それでいて、ディフェンスはチーム一丸となってゴールマウスを守り、終わってみれば我々が理想としていたロースコアの試合展開で終始リードし、中央相手に一〇数年ぶりに公式戦勝利を収めたのでありました。
ここまで一見すると自慢話ともとれる体験談をさせて頂きましたが、オリンピアンである諸先輩方からしてみれば、「その恵まれた体格を以ってして、なぜフル代表に入ってオリンピックに出場できなかったのだ!?」とお叱りを受けるかもしれません。それは、まさにその通りでして、単に私の努力が足りなかった次第でございます。是非、現役の大学生の皆さんには、日本一素晴らしい大学プールと言っても過言ではない協生館プールで切磋琢磨して頂き、近い将来、塾水球部所属のオリンピック選手が輩出されることを願って止みません。
また、これから卒業予定の現役生も含め、塾水球部OBは、社会に出てから活躍することは当然の責務であって、それだけで満足しているようでは甘く、我々が学生時代にお世話になった塾水球部は当然のこと、さらには日本水球界の発展に、もっと積極的に寄与する必要がある、と私は考えております。日本でメジャーなスポーツは日本の国際競技力が高く、必ずと言っていいほど、その背景には慶應義塾の関係者がその競技団体に深く関わっております。私も微力ではありますが、昨年放送されたフジテレビ系ドラマ「水球ヤンキース」に水球指導・監修という立場で、水球の露出拡大に関わらせて頂きました。これも、私がフジテレビと同じグループ会社に現在務めている中で、プロデューサー、および監督が慶應義塾OBであったため起こり得た、まさに偶然の産物でした。財界をリードする存在であるべき我々塾水球部OBが、日本水球界を引っ張るくらいの気概を示すべきだと思います。
最後になりましたが、慶應義塾体育会水泳部水球部門の益々のご発展・ご躍進を心よりお祈り申し上げまして、創部百周年に寄せる言葉とさせて頂きます。
一九九三年卒 大学監督 峰岸隆
本年、慶應義塾體育會水泳部水球部門は創立百周年を迎える事になりました。この記念すべき年に監督させて頂いている事を光栄に思いつつ、改めて、伝統の重さと奥深さを感じ、そして未来への持続的成長に繋げていく重要な役割として、身が引き締まる思いであります。
私は、幼稚舎六年生(慶應スイミングスクール)の時に水球の楽しさを覚え、高校入学から大学卒業までの七年間、まさに水球漬けの学生生活を送りました。その間の思い出は数え切れず、高校三年生の時は十六年振りのインターハイ出場、二部降格と一部昇格を繰り返した関東学生リーグの戦い、三年生の時、打倒日体大を掲げて結成された、筑波・中央・明治・塾の連合軍〔TCMK〕の一員として参加した日本選手権(予選)、四年間(高校を含めると七年間)負け知らずの早慶戦。そして、春先・梅雨時は水温二十度を下回り、また真夏の炎天下では水温三十度を超えるプールでの過酷な練習。この毎日の練習が、どれだけ自分を心身共に鍛えてくれたことか。そんな『塾水球』生活の全てが、今の自分を形成し核を為していると言っても過言ではなく、今日、一社会人として人生を送ることが出来ているのも、『塾水球』があったからこそと確信しております。(現役学生には、何度も話していることですが、)私が今、監督を引き受けさせて頂いているのも、そんな『塾水球』に対する〝恩返し〟であり、是非、現役学生にも、『塾水球』の素晴らしさを体感して貰い、一緒に喜びを分かち合い、そして未来へと継承していって貰いたいと願っている次第であります。
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そこで、改めて、監督として現役学生と接する中で、私なりに感じていることを述べさせて頂きたい。
水球は、時代と共にルールは変わり、プレースタイル・戦術なども進化し、それに合せてトレーニング方法も変えていく必要はある。が、然し、それは枝葉の部分であり、幹となる部分が変わることはなく、やはり、その幹をしっかりさせなければ立派な枝葉は成り立たず、当然、その先に見事な果実を得ることも出来ない。近年、その幹が、変化し細ってはいないだろうか。
先ずは、練習量。最近〝最大のパフォーマンスをあげる為の合理的な練習〟なんてフレーズを耳にしたりもする。しかし、歩留まりを良くすることを意識し過ぎ、そもそもの量が減っていては意味がない。効率良くやるにこしたことはないが、しっかりと量をこなすことが重要であることは時代を問わず不変なはずである。次に、水球への思い。もっと水球に正面から向き合い、貪欲に取り組んでほしい。世の中にモノ・サービスが溢れ、そして他にやるべき事も増えたとはいえ、〝水球は四年間(或いは七年間)没頭するもの〟、〝卒業したらリセット〟と割り切ってはいないだろうか。それでは、水球に対する真の愛情は湧いてこないし、伸び代も限られてしまう。確かに、大学を卒業してしまうと、本格的にプレーする機会が少ないのも事実だが、もっともっと水球に愛情を注ぎこみ、「水球バカ」になって欲しい。この点は、若手OBの方々にも同様のことが言えるであろう。卒業後、自分を育ててくれた『塾水球』に対する気持ちが不足しているのでは、と危惧している。先輩方の後姿を見て、現役学生は学んでいることを意識して貰いたい。百年の歴史は、現役時代のプレー・結果の蓄積だけではなく、『塾水球』を通過していった全ての人が、卒業後もしっかり夫々の役割を果たすことで、その重み・深さは何倍にも何十倍にも、いや何十乗にもなるはずである。
『塾水球』の幹となる〝練習量〟〝水球への思い〟をしっかり太く出来なければ、ライバル校が強豪高校から有力選手を推薦で獲得している中、持続的成長を遂げていくことは出来ない。その意味において、塾及び諸先輩方の思いが詰まった、この協生館のプールには大変感謝している。二十四時間・三百六十五日、ひたすら水球に打ち込むことが出来るだけでなく、全国から、大学・高校・中学問わずチームがやってきて、『塾水球』強化をサポート頂いている。幹を太くするには格好の施設である。これからも、OBの方々からお知恵をお借りし、また、あらゆる水球関係者の協力を得ながら、より良い練習環境を創造し、立派な枝葉を実現させていきたい。
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最後に、現在の『塾水球』ですが、早慶戦については、私が四年生の時に勝って以来負けが続いており、また関東学生リーグにおいても一部と二部を行ったり来たりと、パッとしない状況が続いております。
何としてでも現役学生には、「早慶戦勝利」というあの格別な思いを味わって貰いたいし、再び、『塾水球』が日本の水球界を牽引していくような存在へと復活することを目指し、道のりは長く遠いものかもしれませんが、チームとして個人として、日々、精進していかなければなりません。ここ数年、高校監督の鈴木君や松本君の献身的な活動が奏功し、高校水球の部員数が飛躍的に増え、そして、その多くが大学でも水球を続け、萌芽は着実に育っております。まさに百年の節目の年、これを機に、諸先輩方の輝かしい実績に少しでも近づくべく、「『塾水球』の反転攻勢」を仕掛けていきたいと思います。
色々とご意見もあろうかと思いますが、現役学生は頑張っております。是非、次の百年を展望した『塾水球』の持続的成長に向け、現役学生とOBが一体となって、ひとつひとつ階段を駆け上がっていけたらと願っております。
二〇一五年主将 入内嶋祐太
塾高から水球を始め、入部当初は泳ぐこともままならなかった私ですが、水球部創部百周年という記念すべき年に主将を務めさせていただくことになりました。水球を一から教えていただき、時には厳しい指導も受け、苦しく辞めてしまいたくなるときもありましたが、これまで水球を続けてこられたのも、常に周りで監督・コーチをはじめ諸先輩方が丁寧に面倒を見ていただいたおかげです。改めて、感謝したいと思います。
記念すべき本年のスローガンは『飛躍』です。今こそ「常に一部リーグで活躍できるチーム」への『飛躍』の時だと思い掲げました。一部リーグの大学は、推薦枠などで経験年数が長く強豪校出身の選手を入部させることで強化を進めていますが、我々慶應水球部は、慶應水球だけを見てきた内部進学者が多く、その他、日本各地で水球を地道にやっていた地方からの受験者、競泳出身者など多様な選手によって構成されています。そのため、絶対的なエースやパワフルなフローターはいません。そこで私たちは、メンバーの力を活かし、相手チームとの実力差を埋めるため、個人ではなくチームが一丸となって戦っていく「堅守速攻」を目指すべきプレースタイルとしております。「堅守」としては、全員がゴール前に帰ってくるDFで粘り強く泳ぎ、失点を最小限に抑え、「速攻」としては、全員で飛び出す六―五のカウンター、一対一ではなく全員が流動的に動き、中で仕掛けるスクリーンに重きを置き、スピードを活かしたロースコアなゲーム展開を目指しています。そのために、日頃からミーティングを重ね、プレー中もお互い指摘し合うことで、次第にこの意識が共有され深まってきました。シーズン序盤で「全員で戻ってきて中から固める」という一つのベースができてきたことを実感しており、このスタイルに一層磨きをかけ、百周年という節目で慶應水球の『飛躍』を実現させたいと考えています。
先ずは、関東学生リーグ。ここ数年、二部から一部への昇格に苦しみ、もどかしい思いを抱えてきましたが、二〇一四年、二年間の厳しい練習が身を結び、私たちは三年ぶりに、念願の一部リーグへの昇格を果たしました。このチャンスでしっかりと結果を残すため、私たちはこれまで以上に辛抱強く、自分を追い込んで練習に取り組んでいます。一部リーグでは日本一の日体大を筆頭に早稲田、日大、筑波、専修、中央、明治と戦うことになります。目標としては下位リーグトップとなる一部五位を目指しています。※1
次に、伝統の一戦ともいわれる慶早戦。塾生として最も重要な試合だと考えています。現在は二二連敗中であり、選手それぞれの経験年数だけを見れば劣勢は否めませんが、私は慶應水球であれば、日々の粘り強い練習によってその差を克服できると確信しています。この確信を、慶早戦勝利を持って表現したいと考えています。
第三に、インターカレッジ。現四年生はこれまでの三年間、インカレで勝ち星を上げることが出来ていません。これまでの努力を結果として記録に残す意味でも、今年こそは何としても勝利したいと考えています。そしてベスト四に入り、来年のシード権を獲得し、今後の水球部の『飛躍』につなげたいと考えています。
最後は、水球日本一を決める日本選手権。今年から選手権の出場条件も変更になり、より一層狭き門になりましたが、水球選手あるいはチームとして、日本の最高峰の大会に出場することを目指さない者はいません。今年こそ、三年ぶりの本戦出場をめざし、熱い戦いで成果を残したいと思います。
二〇〇八年に、一年を通じて練習が可能となる協生館プールが完成しました。これにより、屋外プールが使えない季節にも、様々なチームを迎えることが可能となり、特に日体大とは冬場に週二~三日合同練習を行っています。日体大との現在の強いつながりは、慶應水球OBの方々の日体大に対する支援無しには成立しなかったものでしょう。日体大の清原先生をはじめとする皆様からこのつながりについて伺う機会があり、積み重なった歴史の重みを感じております。現在の日体大には実力で大きな差をつけられておりますが、練習の際に日本のトップ集団から学ぶことはとても多く、いつも強い刺激を受ける大変貴重な機会となっております。一方で、全国各地の高校生が一年を通して練習試合や合宿に訪れることも可能となり、我々にとって良い勧誘の機会にもなっています。今後、更なる『飛躍』を見せるためにも、彼らが自ら手を挙げて入学そして入部してきてくれる、そんな魅力あるチームにしていきたいと考えています。
関東学生リーグ、慶早戦、インターカレッジ、日本選手権と大事な試合が続いていきます。日々の鍛練を怠らず応援してくださっている方々に対して恥じない戦いをしていきますので、ぜひ現役部員による『飛躍』を楽しみにしていてください。
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※1リーグ戦の方式
一巡目は総当たり、その結果を踏まえ上位、下位4チームずつ分かれ順位決定戦を行います。
二〇〇三年卒 高校監督 松本悠
本年、慶應義塾體育會水泳部水球部門は創部百周年を迎える事となりました。伝統の塾水球部の歴史を繋いでいることに誇りを感じるとともに、記念すべき年に微力ながら運営に携わっていることを大変光栄に思います。
私の現役時代を思い返せば今回に先駆けて水泳部創部百周年の際には大学水球部員として式典に参加していました。高校時代に目を移せば、塾内中学生水球大会が復活した翌年に中等部から高校水球に入部し、主将として大所帯化する高校水球部門をまとめたり神奈川国体があったりと色々な出来事がありました。
ジュニアチームのない塾水球部にとって高校三年間で全国レベルのチーム作りをして塾全体の強化に繋げることを考えるにあたり、塾内中学生大会は競泳経験者を効果的に勧誘する重要な大会となっており、現在も大会経験者が大学高校の現役部員として活躍してくれています。私自身、現役時代に想像もしなかった高校部門監督として現場に戻り、継続的な塾水球部強化のため日々育成に知恵を絞っている現状に時の流れを感じて感慨深いものがあります。
現在私は精神科医として働いておりますが、医局の厚意で一昨年常勤病院を外してもらい、折笠先生、松坂コーチ他コーチ陣のサポートを得ながら日々高校生の指導に当たっております。近年離れているインターハイ出場、そして大学へ繋げ常勝慶應大学の復活、さらに二〇二〇年の東京オリンピックに日本代表として活躍するような選手を一人でも多く育成することが現在このタイミングで高校監督を務めている私の責務だと思っております。
そのような中で大学水球の下部組織として、また慶應義塾高校の一部活として選手達に何を伝えなければならないのかを日々考え、都度話すようにしていますが、二年間かけて大事に思えることはおぼろげながら次の三点に集約されてきました。即ち、姿勢として「自ら考え、行動する(独立自尊)」「真剣に愉しむ(冷静と情熱のバランス)」そして心の持ちようとして「克己(目的意識と粘り強さ)」です。
日本には数多のスポーツチームがありますが、それぞれのチームにそれぞれの目的、役割があるのだと思います。しかし、慶應義塾の水球部の目的は福澤先生の言われた慶應義塾の目的そのものにある通り、やはりまず「社会の先導者たる」人間を育てることにあり、それを部活動を通じて会得、体現することが部に求められる役割なのだと思っています。では先導者とは何か。私は、「時代を俯瞰し、自らを省み、新たな着眼点で道を切り拓き、社会を誘導する」人々だと思います。そのような人になるためには、常に自分で情報を収集し、分析し、考え、たった一人でも自分で行動し、責任をとらないといけません。まさに「独立自尊」が求められます。
そのため、現在高校の練習では我々指導者からただ練習内容を強制するのではなく、試合毎にききちんと課題を分析し、メニューはコーチのアドバイスに基づき自分たちで考える、そして出た結果を責任を持って自分たちで受け止め、さらに分析し、挑戦するという手順を大切に考えています。
入部したての高校一年生はまだ未成熟ですし放置しても独立自尊ではとても出来ませんが、指導者側が愛情を持って選手のレベルに合わせてきちんと方向づけ、サポートをしながら自立と自律を促すことで、三年目には下級生を指導出来るような、年を重ねれば自然に自立し重なった屋根瓦のように次々と下級生を育てていく独立自尊のチームになることができると考えています。
また、そもそも私は体を動かすということは愉しいことであり、スポーツは愉快なものだと思っています。しかしその一方で、相手に勝ち、厳しい試合に勝利することを目指すためには、ストイックに練習し、最後のひとかき、一本のシュートに自分のすべてを賭けられる時に狂気にも似た真剣さが必要になります。楽しくプレーすることと、命を賭けるかのようにプレーすること。興奮し熱狂してがむしゃらにプレーする本能と、そのような自分を客観的に眺めつつ戦局を冷静に判断し楽しみながらベストのプレーを選択する理性。一見相反する二つの感情をスポーツの種類によっても、プレーの瞬間ごとによっても、バランスをかえながらうまく制御することが勝利のために重要だと思っていますが、私はこれを理性と本能という斜面に挟まれた尾根を進むことに例え、「エッジを生きる」と表現しています。物事に熱中しつつ、達観して行く末を眺める。ある瞬間には一〇〇%没頭して獰猛にゴールを狙いながら、次の瞬間には冷静にディフェンスする。このメンタリティーとバランス感覚も時代の先導者に必要な資質であり、選手たちに会得して欲しいと思っています。直情的な選手には自制を学ばせ、冷静なふりをした逃げ腰の選手には闘争心を奮い立たせることを学ばせないといけません。
「克己」とは何でしょうか。孔子の論語に出てくる克己復礼が語源ですが、「己に克つ」ということです。例えば競泳と水球では、取り組み方や結果の出方が違う、全く違うスポーツのように思っている人が多いように思います。しかし私の考えでは個人競技も団体競技も結局、準備期間、練習期間、さらに休養期間も含めて、個々人が「自分に勝ったのか、負けたのか」という一瞬一瞬の積み重ね、積分として、それが最終的な試合結果という形で現れるに過ぎず、その観点からは同じものだと思います。自分のプレーや怠けが他人のプレーにも影響してしまうという意味で、団体競技はより複雑に見えるだけです。指導者がいくら言っても個人の意識そのものには他人の強制力は及ばず、そのときに「やるのか、やらないのか」を決めるのは常に自分です。どんなスポーツでも相手に勝つためにはまず自分に勝たなければならず、怠惰を排し自分独りで自分と戦う「克己の一瞬」を常に積み重ねるしかありません。孤独で厳しい戦いですが、それこそが勝利に必要です。
かつて人間はアフリカの草原のか弱い哺乳類に過ぎませんでしたが、脳を発達させ理性を獲得し、現在の巨大な人間社会を形成しました。そもそも原始的な動物は自らの命をつなぐのに精一杯の利己的で身勝手な生物です。しかし人間は子孫繁栄のためにあえて自制し、同種で協調することを選び、成功しました。この人間社会を維持、発展させるためには将来を見据え目的意識を持って今の欲望に克つ克己心、自制心が重要であり、これは人間が社会を維持するために獲得した人間としての重要な武器だと思います。いかに自分の単純な欲望や怠け心を抑えて克己するか、これも時代を創る先導者のために必ず教えなければならないことだと思っています。
運営側に入って運営委員会に出席してみると、私の現役時代の監督の方々がいらっしゃり、さらにその監督の現役時代の監督がいらっしゃる。元日本代表の錚々たる面々が、数ヶ月毎に顔を合わせて塾水球部の行く末を論議している。これを見ると、改めて塾水球部の厚さと広がりに驚くと共に、諸先輩方が積み上げてきた歴史に畏敬の念を禁じ得ません。日本最古の水球チームの百年の歴史を引き継ぎ、また未来へ向かって伸ばしていく。その繋ぎ目として、私も引き続き尽力したいと思っています。皆様のご指導、ご鞭撻、温かいご声援を賜れれば幸いです。塾水球部の次なる百年の発展を祈念して、結びと致します。
大正四年 (一九一五)
対横浜外人戦(八月一五日)
● 塾 0─9 横浜外人(YARC)
日本初の水球の試合であり、
慶應水球チームの誕生である。
大正六年 (一九一七)
対横浜外人戦
● 塾 1─7 横浜外人
大正七年 (一九一八)
対横浜外人戦
● 塾 2─5 横浜外人
● 塾 5─7 横浜外人
大正八年 (一九一九)
対横浜外人戦
● 塾 不明 横浜外人
大正九年 (一九二〇)
対横浜外人戦
● 塾 1─6 横浜外人
大正一〇年 (一九二一)
対横浜外人戦
● 塾 不明 横浜外人
大正一二年 (一九二三)
対横浜外人戦
● 塾 1─3 横浜外人
● 塾 0─2 横浜外人
対横浜外人戦(八月一二日)
○ 塾 2─0 横浜外人
塾の初勝利
大正一三年 (一九二六)
中等学校水泳大会(府下金子プール)
エキジビションとして紅白戦を行う
この試合が国内普及への導火線となった
大正一四年 (一九二五)
明治神宮大会 関東予選
優勝
○ 慶應A 5─2 慶應C
○ 慶應B 8─1 誘披会
○ 慶應A 7─1 慶應B
明治神宮大会 兼 日本選手権
二位
○ 慶應A 5─1 帝国水友会
● 慶應A 2─5 東京WPC
昭和二年 (一九二七)
第一回 早慶対抗水上競技大会 (六月一二日)
○ 塾 2─0 早稲田
日本初の水泳対抗戦
日本学生選手権
優勝
○ 塾 10─0 日大
○ 塾 2─0 早稲田(早慶戦)
○ 塾 10─2 商大
対横浜外人戦
● 塾 1─5 横浜外人
明治神宮大会
二位
● 三田水泳倶楽部B 1─3 東京WPC
○ 三田水泳倶楽部A 9─3 神奈川
○ 三田水泳倶楽部A 2─0 東京WPC
● 三田水泳倶楽部A 1─3 東京WPC
昭和三年 (一九二八)
第二回 早慶対抗水上競技大会
● 塾 0─2 早稲田
日本選手権 東京予選
○ 塾 7─0 京橋倶楽部B
○ 塾 5─4 稲泳会A
日本選手権
優勝
○ 塾 3─0 大阪海王水球
○ 塾 7─1 京都武徳会
対京大定期戦
○ 塾 7─0 京都帝大
日本学生選手権
二位
○ 塾 7─0 商大
● 塾 0─2 早稲田(早慶戦)
昭和四年 (一九二九)
第三回 早慶対抗水上競技大会
● 塾 0─2 早稲田
日本選手権
二位
○ 塾 8─0 三田倶楽部
● 塾 1─3 KRAC(神戸外人)
日本学生選手権 兼 明治神宮大会予選
二位
○ 塾 12─0 商大
● 塾 0─2 早稲田(早慶戦)
明治神宮大会
優勝
○ 塾 ─ 名古屋(不戦勝)
○ 塾 2─0 早稲田
対横浜外人戦
○ 塾 5─1 横浜外人
対京大定期戦
○ 塾 8─0 京都帝大
昭和五年 (一九三〇)
三田綱町プール 竣工(四月三〇日)
第四回 早慶対抗水上競技大会
○ 塾 3─0 早稲田
極東選手権競技会
○ 塾 6─1 東京帝大
● 塾 2─4 早稲田
日本選手権 兼 明治神宮大会
二位
○ 塾 8─0 三田倶楽部
● 塾 1─3 KRAC(神戸外人)
関東学生水球 秋季リーグ戦
七勝一敗 二位
○ 塾 16─2 法政
○ 塾 19─0 拓大
○ 塾 10─0 一高
○ 塾 3─2 明治
○ 塾 8─0 立教
○ 塾 5─1 日大
○ 塾 4─2 東京帝大
● 塾 2─3 早稲田
昭和六年 (一九三一)
第五回 早慶対抗水上競技大会
● 塾 2─6 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
五勝一敗 二位
○ 塾 16─0 立教
○ 塾 7─3 東京帝大
○ 塾 ─ 法政(不戦勝)
● 塾 2─6 早稲田(早慶戦)
○ 塾 25─0 拓大
○ 塾 16─0 商大
関東学生水球 秋季リーグ戦
六勝一敗 二位
○ 塾 15─0 日大
○ 塾 10─0 商大
○ 塾 不明 明治
○ 塾 6─0 東京帝大
○ 塾 12─0 法政
○ 塾 5─0 立教
● 塾 1─3 早稲田
昭和七年 (一九三二)
第六回 早慶対抗水上競技大会
○ 塾 3─2 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
二位
関東学生水球 秋季リーグ戦
五勝一敗 二位
○ 塾 7─2 立教
○ 塾 17─0 法政
○ 塾 13─0 明治
○ 塾 10─0 商大
● 塾 0─4 早稲田
○ 塾 8─1 東京帝大
──────────────
第一〇回 オリンピック大会 ロスアンゼルス
沢梅東助・木村清兵衛
昭和八年 (一九三三)
第七回 早慶対抗水上競技大会
● 塾 1─2 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
五勝一敗 二位
○ 塾 3─0 明治
○ 塾 3─0 立教
○ 塾 10─0 東京帝大
○ 塾 8─2 商大
○ 塾 7─0 日大
● 塾 1─2 早稲田
関東学生水球 秋季リーグ戦
六勝一敗 二位
○ 塾 15─1 法政
○ 塾 18─0 拓大
○ 塾 10─1 明治
○ 塾 10─1 商大
○ 塾 4─3 立教
○ 塾 4─1 東京帝大
● 塾 0─6 早稲田
日本選手権
二位
○ 塾 4─2 横浜外人
○ 塾 4─0 早稲田
● 塾 1─2 稲泳会
昭和九年 (一九三四)
第八回 早慶対抗水上競技大会
● 塾 1─2 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
二位
日本選手権
三水会 二位
○ 三水会 17─0 稲泳会
● 普通部 0─10 稲泳会B
○ 三水会 7─0 稲泳会B
● 三水会 1─3 稲泳会
関東学生水球 秋季リーグ戦
二位
昭和一〇年 (一九三五)
第九回 早慶対抗水上競技大会
● 塾 0─4 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
五勝一敗 二位
○ 塾 7─1 日大
○ 塾 9─2 明治
○ 塾 11─0 商大
○ 塾 6─0 東京帝大
○ 塾 4─2 立教
● 塾 0─4 早稲田(早慶戦)
関東学生水球 秋季リーグ戦
五勝一敗 二位
● 塾 1─5 早稲田
○ 塾 7─0 東京帝大
○ 塾 9─0 日大
○ 塾 3─2 立教
○ 塾 7─0 一高
○ 塾 3─0 明治
日本選手権
三位
● 三水会 0─10 学生連合A
○ 学生連合B 10─0 全横浜
○ 学生連合A 3─2
学生連合B
○ 三水会 3─1 全横浜
学生連合A 和田幸一、勝修三出場
学生連合B 山内哲、黒川武夫出場
昭和一一年 (一九三六)
第一〇回 早慶対抗水上競技大会
● 塾 0─1 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
五勝一敗 二位
● 塾 0─1 早稲田(早慶戦)
○ 塾 12─0 日大
○ 塾 8─0 商大
○ 塾 3─2 立教
○ 塾 10─1 明治
○ 塾 2─1 東京帝大
関東学生水球 秋季トーナメント
優勝
○ 塾 20─0 中央
○ 塾 14─1 明治
○ 塾 10─1 拓大
日本選手権
二位
○ 塾 6─3 弦泳会
● 塾 0─2 早稲田
──────────────
第一一回 オリンピック大会 ベルリン
和田幸一・高橋三郎
昭和一二年 (一九三七)
第一一回 早慶対抗水上競技大会
● 塾 0─4 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
五勝一敗 二位
○ 塾 5─1 日大
○ 塾 19─0 一高
○ 塾 8─0 明治
○ 塾 7─0 東京帝大
○ 塾 9─5 立教
● 塾 0─4 早稲田
日本選手権
優勝
○ 慶應A 3─2 茨木水球
● 慶應B 0─8 稲泳会
○ 慶應B 1─0 茨木水球
○ 慶應A 1─0 稲泳会
関東学生水球 秋季トーナメント
二位
○ 塾 21─1 文理大学
○ 塾 20─0 一高
○ 塾 9─1 東京帝大
● 塾 1─4 早稲田
昭和一三年 (一九三八)
第一二回 早慶対抗水上競技大会
○ 塾 6─0 早稲田
学生水球 春季リーグ戦
六勝〇敗 一位
優勝
○ 塾 23─0 明治
○ 塾 7─0 立教
○ 塾 6─1 日大
○ 塾 19─0 拓大
○ 塾 2─1 早稲田
○ 塾 7─0 東京帝大
東西学生対抗水球
○ 塾 2─1 関西学院
学生水球 秋季トーナメント
優勝
○ 塾 3─2 早稲田
日本選手権
優勝
○ 慶應B 1─0 今宮中学
● 慶應B 0─3 稲泳会
○ 慶應A 11─0 稲泳会
昭和一四年 (一九三九)
第一三回 早慶対抗水上競技大会
○ 塾 7─4 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
五勝〇敗 一位
優勝
○ 塾 27─0 文理大学
○ 塾 7─5 日大
○ 塾 10─0 立教
○ 塾 7─4 早稲田(早慶戦)
○ 塾 12─0 東京帝大
日本選手権
優勝
○ 塾 10─0 明治
○ 塾 9─0 稲泳会B
● 三水会 2─8 稲泳会
○ 塾 3─1 稲泳会
関東学生水球 秋季トーナメント
優勝
○ 塾 20─0 商大
○ 塾 10─0 成城高校
○ 塾 8─2 東京帝大
○ 塾 3─2 早稲田
東西学生対抗水球
○ 塾 8─0 関西学院
昭和一五年 (一九四〇)
第一四回 早慶対抗水上競技大会
● 塾 1─2 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
四勝一敗 二位
○ 塾 13─0 文理大学
○ 塾 23─0 一高
○ 塾 4─2 東京帝大
○ 塾 5─3 日大
● 塾 1─2 早稲田(早慶戦)
日本選手権
優勝
○ 塾 10─0 関西学院
● 三水会 1─2 日大
○ 塾 3─2 稲泳会B
○ 塾 4─2 早稲田
関東学生水球 秋季トーナメント
優勝
○ 塾 20─0 国学院
○ 塾 17─0 浦和高校
○ 塾 3─2 日大
○ 塾 2─0 早稲田
明治神宮大会
優勝
○ 塾 5─2 日大
○ 塾 2─0 早稲田
昭和一六年 (一九四一)
第一五回 早慶対抗水上競技大会
○ 塾 3─1 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 五勝一敗 二位
○ 塾 17─0 立教
○ 塾 28─0 一高
● 塾 1─5 日大
○ 塾 3─1 早稲田(早慶戦)
○ 塾 13─1 文理大学
○ 塾 5─0 東京帝大
明治神宮大会 東京予選
○ 塾 14─0 青山学院
○ 塾 11─1 立教
日本選手権
優勝
○ 塾 2─1 日大
明治神宮大会
○ 塾 4─2 早稲田
● 塾 1─3 日大
昭和一七年 (一九四二)
第一六回 早慶対抗水上競技大会
○ 塾 5─0 早稲田
関東学生水球 秋季トーナメント
優勝
○ 塾 10─0 立教
○ 塾 5─2 早稲田
○ 塾 4─3 日大
日本選手権 兼 東亜競技大会選抜
二位
○ 塾 2─1 稲泳会
● 塾 3─4 学生選抜(日本代表)
東西学生対抗水球
○ 塾 14─0 関西学院
──────────────
東亜競技大会 日本代表
塚本太郎、西谷彬、松本梭
五百木貞三郎
昭和一八年 (一九四三)
第一七回 早慶対抗水上競技大会
○ 塾 4─0 早稲田
関東学生水球
一二勝〇敗 一位
優勝
昭和二一年 (一九四六)
第一八回 早慶対抗戦
● 塾 2─7 早稲田
戦後、初めての水泳競技大会
関東学生水球 秋季トーナメント
○ 塾 11─0 東京高校
○ 塾 4─2 東京帝大
● 塾 4─5 早稲田
昭和二二年 (一九四七)
第一九回 早慶対抗戦
● 塾 2─3 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
四勝一敗 二位
○ 塾 12─0 東京高校
○ 塾 8─1 日大
○ 塾 9─1 東京帝大
○ 塾 10─1 立教
● 塾 2─3 早稲田
関東学生水球 秋季トーナメント
優勝
○ 塾 6─0 日大
○ 塾 5─3 早稲田
日本選手権
二位
○ 塾 8─5 東京OB
● 塾 2─5 近畿水球クラブ
第一回 国民体育大会
塾 三位
● 三水会 2─4 稲泳会
● 塾 5─7 稲泳会
○ 塾 4─2 三水会
昭和二三年 (一九四八)
第二〇回 早慶対抗戦
○ 塾 7─2 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 五勝〇敗 一位
優勝
○ 塾 10─1 東大
○ 塾 15─1 立教
○ 塾 5─4 日大
○ 塾 15─0 成蹊
○ 塾 7─2 早稲田(早慶戦)
日本選手権 予選
○ 三水会 7─6 稲泳会
日本選手権
三水会 三位
● 三水会 3─5 近畿水球クラブ
● 塾 2─5 稲泳会
● 塾 4─5 三水会
東西学生対抗水球
○ 塾 8─0 立命館
関東学生水球 秋季トーナメント
優勝
○ 塾 10─2 立教
○ 塾 7─0 早稲田
昭和二四年 (一九四九)
第二一回 早慶対抗戦
● 塾 2─7 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 二勝二敗 三位
○ 塾 15─0 東大
○ 塾 9─1 立教
● 塾 2─12 日大
● 塾 4─7 早稲田
日本選手権
慶應A 三位
○ 三水会 11─2 靜水会
○ 三水会 6─3 桜泳会
● 三水会 3─5 早稲田
○ 慶應B 5─1 福岡水泳クラブ
● 慶應B 1─5 近畿水球クラブ
○ 慶應A 6─1 稲泳会
● 慶應A 0─6 近畿水球クラブ
○ 慶應A 5─2 三水会
関東学生水球 秋季リーグ戦
三勝〇敗 一位
優勝
○ 塾 11─0 東大
○ 塾 7─6 日大
○ 塾 3─2 早稲田
──────────────
日本高校水球選手権
優勝
○ 塾高 4─3 成城高
昭和二五年 (一九五〇)
第二二回 早慶対抗戦
● 塾 9─10 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 二勝二敗 三位
○ 塾 17─4 立教
● 塾 2─14 日大
○ 塾 29─3 東大
● 塾 9─10 早稲田(早慶戦)
日本選手権
慶應A 優勝
○ 慶應B 11─5 稲泳会
● 慶應B 9―13 近畿水球クラブ
○ 慶應A 17─1 立命館
○ 慶應A 8─8 近畿水球クラブ(反則勝)
○ 慶應A 8─5 早稲田
東西四大学水球対抗戦
優勝
○ 塾 13─0 同志社
関東学生水球 秋季トーナメント
優勝
○ 塾 19─2 東大
○ 塾 17─2 日大
○ 塾 10─3 早稲田
日本高校水球選手権
優勝
○ 塾高 7─5 都立大附属
○ 塾高 4─2 済々黌
昭和二六年 (一九五一)
第二三回 早慶対抗戦
○ 塾 8─5 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 四勝〇敗 一位
優勝
○ 塾 10─1 立教
○ 塾 10─7 日大
○ 塾 3─1 早稲田
○ 塾 16─0 中央
日本学生選手権
優勝
○ 塾 22─0 立命館
日本選手権
優勝
○ 三水会 46―1 淡泳会
○ 三水会 12―1 桜泳会
○ 塾 17─3 同志社
○ 塾 6─6 三水会(反則勝)
● 三水会 3─6 早稲田
○ 塾 6─3 近畿水球クラブ
関東学生水球 秋季トーナメント
優勝
○ 塾 32─0 日体大
○ 塾 24─1 東大
○ 塾 7─3 早稲田
○ 塾 11─3 日大
──────────────
日本高校水球選手権
● 塾高 5─7 済々黌
昭和二七年 (一九五二)
第二四回 早慶対抗戦
○ 塾 5─4 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 五勝〇敗 一位
優勝
○ 塾 12─0 東大
○ 塾 9─2 立教
○ 塾 12─2 中央
○ 塾 4─3 日大
○ 塾 4─2 早稲田
日本学生選手権
○ 塾 10─0 同志社
日本選手権 兼 オリンピック最終予選
慶應A 優勝
○ 三水会 14─1 桜泳会A
○ 慶應B 4―2 稲泳会B
○ 慶應A 13―0 日泳会
○ 三水会 4─4 桜泳会B(反則勝)
○ 慶應A 13―0 慶應B
○ 慶應A 8─5 三水会
● 慶應B 3―7 桜泳会B
関東学生水球 秋季トーナメント
優勝
○ 塾 24─1 法政
○ 塾 20─0 東大
○ 塾 7─4 早稲田
○ 塾 5─2 日大
──────────────
東部高校選手権
優勝
○ 塾高 9―0 都立大附属
○ 塾高 9―0 学習院高
○ 塾高 14―1 岩手高
○ 塾高 4―0 成城高
日本高校水球選手権
● 塾高 1─10 鴨沂高校
──────────────
第一五回 オリンピック大会 ヘルシンキ
水球は選手団を派遣しなかったが
当時代表に選ばれていた選手
植中耕一、田島直季、平井顕吉
松本 梭、神田明善、小谷敏ニ
小谷保二
昭和二八年 (一九五三)
第二五回 早慶対抗戦
○ 塾 3─2 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 五勝一敗 二位
○ 塾 16─0 学習院
○ 塾 19─0 東大
○ 塾 11─0 立教
○ 塾 14─0 中央(40連勝)
● 塾 4─5 日大
○ 塾 3─1 早稲田
関東学生水球 秋季トーナメント
優勝
○ 塾 12─0 立教
○ 塾 3─1 日大
日本選手権
慶應A 優勝
● 慶應B 1─3 同志社
○ 慶應A 3─1 早稲田
○ 慶應A 2─1 日大
昭和二九年 (一九五四)
第二六回 早慶対抗戦
○ 塾 8─1 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 五勝一敗 二位
○ 塾 26─0 成城
○ 塾 11─2 学習院
○ 塾 17─0 立教
○ 塾 16─0 中央
○ 塾 8─3 早稲田
● 塾 2─4 日大
関東学生水球 秋季トーナメント
○ 塾 11─3 中央
○ 塾 9─3 早稲田
日本学生選手権
優勝
○ 塾 5─1 日大
○ 塾 8─0 早稲田
日本選手権
二位
○ 塾 10─2 桜泳会
○ 塾 8─1 稲泳会
● 塾 3─4 日大
──────────────
第二回 アジア大会 マニラ
神田明善、荒川八郎、田島直季
佐藤孝尚、市毛弘文
和田幸一(監督)
昭和三〇年 (一九五五)
第二七回 早慶対抗戦
○ 塾 5─0 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 七勝四敗 三位
○ 塾 12─0 学習院
○ 塾 13─2 学習院
○ 塾 5─3 中央
● 塾 1─2 中央
● 塾 5─7 中央
○ 塾 15─0 立教
○ 塾 9─0 立教
● 塾 1─4 日大
● 塾 3─6 日大
○ 塾 9─2 早稲田
○ 塾 10─0 早稲田
関東学生水球 秋季トーナメント
● 塾 6─7 日大
日本選手権
二位
○ 全慶應 20─0 立川高校
○ 全慶應 9─3 稲泳会
○ 全慶應 14─0 学習院
○ 全慶應 7─1 稲泳会
● 全慶應 3─6 日大
日米対抗エキジビション水球
○ 全慶應 6─0 全早稲田
● 全慶應 2─5 全日大
──────────────
日本高校水球選手権
○ 塾高 16─0 立川高校
● 塾高 1─8 鴨沂高校
国民体育大会
○ 塾高 6―2 修道
● 塾高 2─18 鴨沂高校
● 塾高 3─7 日大二高
昭和三一年 (一九五六)
第二八回 早慶対抗戦
○ 塾 4─2 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 七勝四敗 三位
○ 塾 2─1 成城
○ 塾 5─2 成城
○ 塾 3─1 中央
● 塾 0─2 中央
● 塾 2─4 中央
● 塾 0─9 日大
● 塾 0─8 日大
○ 塾 4─3 早稲田
○ 塾 5─2 早稲田
○ 塾 7─1 立教
○ 塾 8─2 立教
関東学生水球 秋季トーナメント
○ 塾 8─0 成城
● 塾 0─2 中央
日本学生選手権
三位
● 塾 2─3 日大
日本選手権 兼 オリンピック最終予選
二位
○ 全慶應 5─2 桜泳会
○ 全慶應 2─1 中央
○ 全慶應 3─1 稲泳会
● 全慶應 4─6 日大
──────────────
日本高校水球選手権
優勝
○ 塾高 15─0 学習院高
○ 塾高 4─3 日大二高
○ 塾高 3─3 済々黌(反則勝)
○ 塾高 6─5 鴨沂高校
昭和三二年 (一九五七)
第二九回 早慶対抗戦
○ 塾 7─3 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部六勝五敗 三位
○ 塾 12─0 立教
○ 塾 10─0 立教
● 塾 1─3 中央
● 塾 0─3 中央
○ 塾 1─0 成城
● 塾 3─5 成城
○ 塾 2─1 成城
○ 塾 7─5 早稲田
○ 塾 5─4 早稲田
● 塾 2─10 日大
● 塾 0─14 日大
関東学生水球 秋季トーナメント
三位
○ 塾 20─0 東大
● 塾 3─9 中央
○ 塾 5─2 日大
日本選手権
二位
○ 塾 14─2 済々黌
○ 塾 2─1 白水会
○ 塾 6─2 成城
● 塾 1─10 日本代表
──────────────
日本高校水球選手権
優勝
○ 塾高 17─1 立命館高
○ 塾高 6─1 城北高
○ 塾高 3─3 済々黌(反則勝)
──────────────
世界学生選手権 パリ
佐藤孝尚
昭和三三年 (一九五八)
第三〇回 早慶対抗戦
○ 塾 3─2 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 四勝六敗 四位
○ 塾 6─1 早稲田
○ 塾 9─2 早稲田
● 塾 3─8 成城
● 塾 4─7 成城
● 塾 1─14 中央
● 塾 5─10 中央
● 塾 2─15 日大
● 塾 6─12 日大
○ 塾 8─6 明治
○ 塾 5─1 明治
日本選手権
○ 塾 16─3 桜泳会
● 塾 5─7 白水会
関東学生水球 秋季トーナメント
● 塾 2─8 日大
──────────────
日本高校水球選手権
二位
○ 塾高 18─7 山城高
○ 塾高 22─1 筑紫ヶ丘
○ 塾高 19─2 城北高
● 塾高 2─4 鴨沂高校
国民体育大会
二位
○ 塾高 14─1 筑紫ヶ丘
○ 塾高 12─5 成城高
● 塾高 4─5 鴨沂高校
──────────────
第三回 アジア大会 東京
優勝
佐藤孝尚、荒川八郎
昭和三四年 (一九五九)
第三一回 早慶対抗戦
○ 塾 13─2 早稲田
日本学生選手権
○ 塾 32─0 立命館
● 塾 4─5 日大
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 八勝三敗 二位
● 塾 3─4 日大
● 塾 2─5 日大
○ 塾 12─1 明治
○ 塾 7─3 明治
○ 塾 14─0 早稲田
○ 塾 11─3 早稲田
○ 塾 7─6 中央
○ 塾 3─2 中央
● 塾 2─4 成城
○ 塾 6─1 成城
○ 塾 6─4 成城
日本選手権
二位
○ 塾 16─1 明治
○ 塾 3─1 白水会B
○ 塾 5─2 白水会
● 塾 5─7 桜泳会
関東学生水球 秋季トーナメント
○ 塾 21─0 学習院
○ 塾 13─1 明治
○ 塾 5─3 中央
● 塾 3─4 日大
関東学生水球新人戦
○ 塾 16―6 明治
● 塾 4―8 日大
──────────────
日本高校水球選手権
三位
○ 塾高 17─1 大谷高
○ 塾高 14─3 早稲田学院
● 塾高 5─8 済々黌
● 塾高 2─4 鴨沂高校
○ 塾高 7─6 山城高
昭和三五年 (一九六〇)
日吉第一プール 竣工(六月二五日)
第三二回 早慶対抗戦
○ 塾 4─1 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 八勝三敗 二位
○ 塾 5─1 早稲田
● 塾 8─9 早稲田
○ 塾 5─3 早稲田
● 塾 3─4 中央
● 塾 5─6 中央
○ 塾 9─1 明治
○ 塾 3─2 明治
○ 塾 3─2 成城
○ 塾 1─0 成城
○ 塾 6─4 日大
○ 塾 3─2 日大
関東学生水球 秋季トーナメント
三位
○ 塾 13─3 成蹊
● 塾 3─6 中央
○ 塾 8─3 早稲田
日本学生選手権
三位
○ 塾 22─0 立命館
● 塾 4─4 成城(反則負)
○ 塾 7─3 早稲田
日本選手権 兼 オリンピック予選
○ 塾 8─1 稲泳会
● 塾 1─6 桜泳会
関東学生水球 新人トーナメント
優勝
○ 塾 12─1 明治
○ 塾 8─4 日大
○ 塾 11─3 法政
○ 塾 7─3 中央
末広記念室内選手権
三位
● 全慶應 1─2 日大
○ 全慶應 6─1 成城C
──────────────
日本高校水球選手権
○ 塾高 ― 城西高(不戦勝)
● 塾高 2─11 成蹊高
──────────────
第一七回 オリンピック大会 ローマ
佐藤孝尚、山本健、清水洋二
神田明善(役員)
昭和三六年 (一九六一)
第三三回 早慶対抗戦
● 塾 5─6 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 六勝四敗 三位
○ 塾 4─2 早稲田
○ 塾 8─4 早稲田
● 塾 4─7 中央
● 塾 2─3 中央
○ 塾 13─2 明治
○ 塾 13─1 明治
● 塾 2─5 日大
● 塾 0─1 日大
○ 塾 10─0 成城
○ 塾 7─0 成城
日本学生選手権 予選
○ 塾 20─2 法政
● 塾 5─7 早稲田
○ 塾 8─3 中央
日本学生選手権
三位
○ 塾 15─2 法政
● 塾 6─7 早稲田
● 塾 1─2 中央
日本選手権
○ 塾 7─4 中央
● 塾 4─13 稲泳会
● 塾 1─5 桜泳会
○ 塾 6─5 白水会
──────────────
ユニバーシアード ソフィア
清水洋二、井上宏
名取正也(審判員兼コーチ)
神田明善(役員)
昭和三七年 (一九六二)
第三四回 早慶対抗戦
○ 塾 6─5 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 八勝一敗一分 二位
○ 塾 11─1 法政
○ 塾 13─0 法政
○ 塾 3─2 中央
○ 塾 6─3 中央
○ 塾 10─3 日大
○ 塾 6─5 日大
○ 塾 11─2 成城
○ 塾 9─5 成城
△ 塾 2─2 早稲田
● 塾 2─4 早稲田
日本学生選手権
三位
○ 塾 18─1 明治
● 塾 1─1 日大(反則負)
○ 塾 5─3 中央
日本選手権
● 塾 3─4 法政
○ 全慶應 19─0 済々黌
○ 全慶應 23─0 承泳会
● 全慶應 4─4 白水会(反則負)
● 全慶應 3─3 稲泳会(反則負)
末広記念室内選手権
三位
● 塾 3─4 五八クラブ
○ 塾 9─2 日大
関東学生水球 新人リーグ
● 塾 3─10 早稲田
○ 塾 14─1 学習院
● 塾 3─4 成城
──────────────
第四回 アジア大会 ジャカルタ
優勝
荒川八郎、清水洋二、井上宏
神田明善(役員)
名取正也(審判員)
昭和三八年 (一九六三)
第三五回 早慶対抗戦
● 塾 2─5 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 二勝三敗 四位
● 塾 5─8 成城
○ 塾 2─1 日大
○ 塾 4─1 中央
● 塾 2─3 法政
● 塾 2─4 早稲田
大学選抜水球 新潟大会
● 塾 0─9 早稲田
● 塾 2─5 日大
● 塾 4─6 法政
日本学生選手権
三位
○ 塾 4─2 成城
● 塾 4─9 日大
○ 塾 4─2 早稲田
日本選手権
三位
● 塾 4─8 五八クラブ
○ 全慶應 9─0 中央
○ 全慶應 17─1 済々黌
● 全慶應 4─8 日大
○ 全慶應 12─4 法政
──────────────
韓国遠征
三勝〇敗
──────────────
欧州遠征日本代表
荒川八郎、清水洋二、小山欣也
ユニバーシアード ポルト・アレグレ
井上宏、住谷栄之資
昭和三九年 (一九六四)
日吉第二プール 竣工(六月一四日)
第三六回 早慶対抗戦
● 塾 2─7 早稲田
新人戦
● 塾 4─8 成城
室内選手権
○ 塾 16─0 東大
● 塾 2─11 成城
● 塾 0─7 日大
日本学生選手権 予選
○ 塾 6─6 日大(反則勝)
日本学生選手権
三位
● 塾 2─5 日大
○ 塾 3─2 成城
日本選手権
全慶應 三位
● 塾 2─3 柏崎高校
○ 全慶應 11─2 白水会
○ 全慶應 2─1 桜泳会
● 全慶應 2─7 五輪候補
● 全慶應 2─3 稲泳会
関東学生水球 秋季リーグ戦
一部 二勝一敗二分 三位
△ 塾 1─1 早稲田
○ 塾 10─2 中央
△ 塾 0─0 法政
○ 塾 2─1 日大
● 塾 2─3 成城
──────────────
日本高校水球選手権
○ 塾高 9―1 中大高
○ 塾高 4―3 成蹊高
● 塾高 3―8 早稲田学院
○ 塾高 14―0 茨木高
○ 塾高 4―3 濟々黌
● 塾高 1―3 関西高
● 塾高 0―8 柏崎高
○ 塾高 5―2 成蹊高
──────────────
第一八回 オリンピック大会 東京
荒川八郎、清水洋二
神田明善(役員)
昭和四〇年 (一九六五)
第三七回 早慶対抗戦
● 塾 3─6 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 六勝四敗 三位
○ 塾 4─1 成城
○ 塾 4─2 成城
● 塾 4─7 日大
● 塾 3─9 日大
● 塾 3─6 早稲田
● 塾 2─9 早稲田
○ 塾 4─2 法政
○ 塾 6─5 法政
○ 塾 4─2 中央
○ 塾 5─4 中央
日本選手権
全慶應 二位
● 塾 3─4 駿台クラブ
● 慶應B 4─8 桜泳会
○ 全慶應 9─4 法泳会
○ 全慶應 11─0 柏崎高校
○ 全慶應 13─3 稲泳会B
● 全慶應 2─3 稲泳会
日本学生選手権
● 塾 1─1 法政(反則負)
──────────────
関東高校水球選手権
● 塾高 3ー3 城北高(反則負)
昭和四一年 (一九六六)
第三八回 早慶対抗戦
● 塾 4─8 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 六勝四敗 三位
○ 塾 3─2 中央
○ 塾 3─2 中央
● 塾 2─7 日大
● 塾 0─4 日大
● 塾 2─6 早稲田
● 塾 3─6 早稲田
○ 塾 4─1 成城
○ 塾 4─1 成城
○ 塾 3─2 法政
○ 塾 3─2 法政
日本選手権
全慶應 四位
○ 塾 3─1 臼杵高校
○ 全慶應 10─3 成蹊
● 塾 3─13 稲泳会
● 全慶應 3─4 桜泳会
○ 塾 6─1 大垣南高校
● 全慶應 2─7 稲泳会
△ 塾 3─3 法泳会A
● 塾 1─3 稲泳会B
△ 全慶應 3─3 全日大
日本学生選手権
三位
○ 塾 8─5 成蹊
● 塾 1─3 日大
○ 塾 4─2 中央
関東学生水球 新人リーグ戦
二勝四敗 五位
○ 塾 6─0 日体大
● 塾 3─6 中央
● 塾 1─9 早稲田
● 塾 2─9 日大
○ 塾 7─5 成蹊
● 塾 2─6 法政
──────────────
第五回 アジア大会 バンコク
優勝
清水洋二、住谷栄之資
昭和四二年 (一九六七)
第三九回 早慶対抗戦
● 塾 4─5 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 七勝六敗 三位
○ 塾 3─1 明治
○ 塾 9─8 明治
● 塾 1─6 日大
○ 塾 3─2 法政
○ 塾 4─3 法政
● 塾 10─11 中央
● 塾 2─1 中央
● 塾 1─5 日大
● 塾 1─5 日大
● 塾 2─4 早稲田
○ 塾 7─3 早稲田
● 塾 3─8 早稲田
● 塾 1─3 法政
● 塾 5─4 中央
日本学生選手権
四位
○ 塾 4─3 明治
● 塾 3─7 早稲田
△ 塾 2─2 中央
日本選手権
全慶應 四位
○ 三水会 3─2 早稲田学院
● 三水会 1─17 稲泳会
● 三水会 2─8 駿台クラブ
● 三水会 5─6 成蹊
○ 塾 6─0 関西高校
● 塾 3─5 全日大
○ 塾 9─2 三水会
○ 塾 8─6 成蹊
○ 塾 6─0 駿台クラブ
● 塾 2─6 法政
○ 塾 6─5 日体大
● 塾 2─5 早稲田
○ 全慶應 5─1 稲泳会B
○ 全慶應 9─2 成蹊
○ 全慶應 2─1 五八クラブ
● 全慶應 3─11 全日大
● 全慶應 6─7 稲泳会A
関東学生 新人リーグ戦
五位
● 塾 1ー8 日大
○ 塾 10ー2 学習院
● 塾 2ー5 中大
──────────────
第三九回 早慶対抗戦
● 塾高 0─3 早稲田学院
関東高校選手権大会
● 塾高 4―5 都立北野高
国民体育大会
● 塾高 1―8 関西高
○ 塾高 8―1 豊橋商業高
○ 塾高 4―3 竹原高
昭和四三年 (一九六八)
第四〇回 早慶対抗戦
○ 塾 3─2 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 一勝九敗 六位
○ 塾 5─1 明治
● 塾 3─4 明治
● 塾 2─4 早稲田
● 塾 3─5 早稲田
● 塾 3─6 日大
● 塾 5─7 日大
● 塾 4─5 法政
● 塾 2─7 法政
● 塾 2─8 中央
● 塾 3─8 中央
入替戦
二勝一敗 一部残留
● 塾 2─4 成蹊
○ 塾 6─3 成蹊
○ 塾 6─3 成蹊
日本選手権
○ 塾 4─3 東教混成
● 塾 2─5 明治
● 塾 3─7 白水会
○ 塾 5─4 成蹊クラブ
──────────────
関東高校選手権
優勝
○ 塾高 9―0 成城高
○ 塾高 7―2 城北高
○ 塾高 4―4 城西高(反則勝)
○ 塾高 6―4 川口高
日本高校選手権
● 塾高 5―7 臼杵高
国民体育大会
○ 塾高 10―1 福井高
● 塾高 3ー5 修道高校
● 塾高 4―4 諫早商業(反則負)
○ 塾高 6―5 関西高校
△ 塾高 3―3 茨木高校
昭和四四年 (一九六九)
第四一回 早慶対抗戦
● 塾 0─6 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 一勝九敗 五位
● 塾 2─9 早稲田
● 塾 3─12 早稲田
● 塾 2─5 法政
● 塾 1─5 法政
● 塾 2─6 中央
● 塾 2─10 中央
● 塾 1─10 日大
● 塾 5─10 日大
○ 塾 6─4 明治
● 塾 5─6 明治
日本選手権
○ 塾 7─3 早稲田学院
○ 塾 3─2 全明治
○ 塾 9─3 成蹊クラブ
● 塾 2─7 稲泳会
△ 塾 4─4 高校選抜
● 塾 2─7 全日大
● 塾 2─7 法政
日本学生選手権
● 塾 3─7 法政
関東学生水球 新人リーグ
● 塾 5―10 早稲田
● 塾 2―9 中央
● 塾 4―7 法政
● 塾 5―9 日大
○ 塾 8―6 日体大
──────────────
第四一回 早慶対抗戦
○ 塾高 3─1 早稲田学院
関東高校選手権
三位
○ 塾高 4―3 北野高
● 塾高 1―2 城北高
○ 塾高 4―0 川口高
日本高校選手権
六位
○ 塾高 2―1 前橋商業
● 塾高 2―8 臼杵高
● 塾高 1―6 関西高
○ 塾高 8―2 柏崎高
○ 塾高 5―1 鴨沂高
昭和四五年 (一九七〇)
第四二回 早慶対抗戦
● 塾 2─3 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 二勝八敗 五位
● 塾 4─5 早稲田
● 塾 5─7 早稲田
● 塾 3─11 中央
● 塾 4─12 中央
● 塾 0─9 法政
● 塾 3─8 法政
● 塾 3─11 日大
● 塾 4─6 日大
○ 塾 7─6 成城
○ 塾 7─5 成城
日本選手権
○ 塾 8─5 学習院
△ 塾 3─3 法泳会
○ 塾 3─2 稲泳会B
● 塾 1─13 桜泳会
● 塾 1─11 全中央
日本学生選手権
● 塾 3─5 法政
──────────────
第四二回 早慶対抗戦
○ 塾高 5─2 早稲田学院
関東高校選手権
● 塾高 4―5 北野高
──────────────
欧州遠征日本代表
峰岸直人
第六回 アジア大会 バンコク
優勝
峰岸直人
昭和四六年 (一九七一)
第四三回 早慶対抗戦
○ 塾 5─4 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 四勝七敗 五位
○ 塾 3─2 日大
● 塾 2─4 日大
○ 塾 4─3 日大
● 塾 6─8 中央
● 塾 2─3 中央
● 塾 3─6 早稲田
● 塾 3─5 早稲田
● 塾 5─6 法政
● 塾 7─8 法政
○ 塾 6─1 日体大
○ 塾 5─4 日体大
日本学生選手権
二位
○ 塾 3─2 早稲田
○ 塾 4─4 日大(反則勝)
● 塾 1─6 中央
──────────────
香港遠征
○ 塾 9─5 全香港
○ 塾 11─4 香港A
○ 塾 5─1 香港A
○ 塾 16─1 全香港
○ 塾 9─4 全香港
──────────────
第四三回 早慶対抗戦
○ 塾高 5─1 早稲田学院
日本高校選手権
○ 塾高 6―3 柏崎高
● 塾高 2―9 鹿児島高
○ 塾高 5―4 日大三島高
○ 塾高 4―4 前橋商業
○ 塾高 6―4 臼杵高
昭和四七年 (一九七二)
第四四回 早慶対抗戦
○ 塾 10─5 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 一〇勝〇敗 一位
優勝
○ 塾 5─4 早稲田
○ 塾 6─4 早稲田
○ 塾 10─8 日大
○ 塾 7─4 日大
○ 塾 4─2 法政
○ 塾 5─2 法政
○ 塾 5─2 中央
○ 塾 12─4 中央
○ 塾 5─4 日体大
○ 塾 5─3 日体大
日本学生選手権
優勝
○ 塾 4─4 日大(反則勝)
○ 塾 7─4 早稲田
──────────────
第二〇回 オリンピック大会 ミュンヘン
峰岸直人
昭和四八年 (一九七三)
第四五回 早慶対抗戦
○ 塾 8─4 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 一三勝一敗 一位
優勝
○ 塾 9─1 早稲田
○ 塾 9─4 専修
○ 塾 7─1 法政
● 塾 6─7 日体大
○ 塾 5─3 日大
○ 塾 22─1 教育大
○ 塾 6─3 中央
○ 塾 10─0 早稲田
○ 塾 5─1 専修
○ 塾 14─2 法政
○ 塾 8─6 日体大
○ 塾 3─1 日大
○ 塾 6─1 教育大
○ 塾 5─4 中央
日本学生選手権
優勝
○ 塾 16─1 成城
○ 塾 5─5 中央(反則勝)
○ 塾 6─5 日体大
昭和四九年 (一九七四)
第四六回 早慶対抗戦
○ 塾 5─3 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 一二勝二敗 二位
○ 塾 13─2 法政
○ 塾 8─6 専修
○ 塾 3─1 中央
○ 塾 3─0 早稲田
○ 塾 11─3 教育大
○ 塾 6─3 日大
● 塾 4─5 日体大
○ 塾 8─4 法政
○ 塾 7─3 専修
○ 塾 7─2 中央
○ 塾 2─0 早稲田
○ 塾 16─3 教育大
○ 塾 6─2 日大
● 塾 1─6 日体大
日本学生選手権
二位
○ 塾 3─1 早稲田
○ 塾 5─4 専修
● 塾 3─6 日体大
日本選手権
二位
○ 全慶應 6─5 全日大
○ 全慶應 7─3 稲泳会
● 全慶應 5─8 全日体大
──────────────
第七回 アジア大会 テヘラン
大貫利和
昭和五〇年 (一九七五)
第四七回 早慶対抗戦
○ 塾 5─2 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 八勝六敗 四位
○ 塾 11─4 教育大
● 塾 5─8 中央
● 塾 5─7 日大
○ 塾 8─3 早稲田
○ 塾 9─6 専修
○ 塾 6─0 法政
● 塾 8─11 日体大
○ 塾 9─4 教育大
○ 塾 8─5 中央
● 塾 1─7 日大
○ 塾 7─3 早稲田
● 塾 5─6 専修
○ 塾 7─6 法政
● 塾 3─6 日体大
日本学生選手権
三位
○ 塾 8─4 法政
● 塾 1─3 中央
○ 塾 7─7 日大(反則勝)
日本選手権
● 塾 4─5 欧友会
○ 全慶應 9─2 桜泳会
○ 全慶應 8─3 上野クラブ
● 全慶應 4─6 全日大
昭和五一年 (一九七六)
第四八回 早慶対抗戦
○ 塾 4─2 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 六勝八敗 五位
○ 塾 6─2 早稲田
○ 塾 10─0 法政
● 塾 3─4 専修
○ 塾 7─3 成城
● 塾 1─6 日体大
● 塾 2─6 中央
● 塾 4─7 日大
○ 塾 7─3 早稲田
○ 塾 4─2 法政
● 塾 1─3 専修
○ 塾 6─3 成城
● 塾 2─4 日大
● 塾 1─6 中央
● 塾 1─8 日体大
日本学生選手権
三位
○ 塾 6─3 法政
● 塾 2─7 日大
○ 塾 3─3 成城(反則勝)
日本選手権 予選
● 塾 4─6 成城クラブ
日本選手権
四位
○ 全慶應 5─3 海上自衛隊
○ 全慶應 5─2 稲泳会
● 全慶應 6─9 欧友会
● 全慶應 7─9 全日大
──────────────
対オーストラリア学生選抜
● 塾 2─4 AUS学生選抜
△ 全慶應 5─5 AUS学生選抜
● 慶應OB 1─3 AUS学生選抜
──────────────
第四八回 早慶対抗戦
△ 塾高 3─3 早稲田学院
関東高校選手権
○ 塾高 5―2 川口高
● 塾高 0―9 安房高
昭和五二年 (一九七七)
第四九回 早慶対抗戦
○ 塾 12─5 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 五勝九敗 五位
● 塾 2─8 専修
● 塾 4─5 専修
○ 塾 5─4 東大
○ 塾 7─4 東大
○ 塾 7─4 法政
● 塾 6─7 法政
○ 塾 9─4 成城
○ 塾 10─4 成城
● 塾 1─16 中央
● 塾 2─12 中央
● 塾 1─13 日体大
● 塾 1─14 日体大
● 塾 3─7 日大
● 塾 4─6 日大
日本学生選手権
四位
○ 塾 8─6 早稲田
● 塾 0─14 日体大
● 塾 3─5 専修
日本選手権
全慶応 三位
──────────────
第四九回 早慶対抗戦
○ 塾高 6─1 早稲田学院
関東高校選手権
● 塾高 3ー10 安房高
昭和五三年 (一九七八)
第五〇回 早慶対抗戦
○ 塾 8─4 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 四勝九敗一分 六位
○ 塾 6─3 専修
● 塾 4─8 専修
● 塾 3─14 日大
● 塾 3─10 日大
● 塾 4─11 中央
● 塾 3─13 中央
● 塾 3─16 日体大
● 塾 3─12 日体大
○ 塾 4─2 早稲田
○ 塾 7─5 早稲田
○ 塾 5─3 東大
△ 塾 6─6 東大
● 塾 4─5 法政
● 塾 6─7 法政
日本学生選手権
● 塾 1─10 中央
シード権失う
日本選手権
● 塾 1─9 法政
○ 全慶應 8─5 三水会
● 塾 1─9 法政
● 全慶應 3─7 全日大
──────────────
第五〇回 早慶対抗戦
● 塾高 1─5 早稲田学院
関東高校選手権
○ 塾高 4―3 川口高
● 塾高 0―19 明大中野
昭和五四年 (一九七九)
第五一回 早慶対抗戦
○ 塾 11─2 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 一勝九敗四分 八位
△ 塾 5─5 専修
△ 塾 6─6 専修
● 塾 1─3 日大
● 塾 1─2 日大
● 塾 1─5 中央
● 塾 2─8 中央
● 塾 3─21 日体大
● 塾 7─13 日体大
● 塾 4─6 筑波
● 塾 8─9 筑波
△ 塾 2─2 東大
○ 塾 4─3 東大
△ 塾 5─5 法政
● 塾 4─7 法政
入替戦
二勝〇敗 一部残留
○ 塾 9─2 学習院
○ 塾 8─4 学習院
日本学生選手権 予選
○ 塾 8─4 明治
○ 塾 5─2 法政
日本学生選手権
● 塾 5─11 日大
日本選手権
○ 全慶應 8─3 稲泳会
○ 三水会 7─3 早稲田学院
○ 全慶應 11─5 学習院
○ 三水会 7─5 筑波
● 全慶應 4─11 中央
● 三水会 1─6 体泳会
──────────────
第五一回 早慶対抗戦
● 塾高 0─10 早稲田学院
関東高校選手権
● 塾高 2―20 水城高
昭和五五年 (一九八〇)
第五二回 早慶対抗戦
○ 塾 10─6 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 三勝九敗二分 六位
● 塾 3─8 日体大
● 塾 2─13 日体大
● 塾 7─9 中央
● 塾 2─8 中央
● 塾 6─12 日大
● 塾 4─7 日大
△ 塾 10─10 法政
○ 塾 6─5 法政
● 塾 5─11 筑波
● 塾 7─10 筑波
△ 塾 3─3 専修
● 塾 3─5 専修
○ 塾 6─4 東大
○ 塾 21─0 東大
○ 塾 11─5 学習院
日本学生選手権 予選
● 塾 8─10 筑波
○ 塾 15─5 東大
日本学生選手権
● 塾 5─7 日大
日本選手権
○ 塾 12─4 法泳会
● 三水会 0─20 健志台クラブ
● 塾 2─24 全日体
──────────────
欧州遠征日本代表
竹末泰士
昭和五六年 (一九八一)
第五三回 早慶対抗戦
○ 塾 13─12 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 二勝九敗三分 七位
● 塾 5─26 日体大
● 塾 4─12 日体大
● 塾 2─15 日大
● 塾 4─11 日大
● 塾 7─9 筑波
● 塾 6─13 筑波
● 塾 10─16 法政
● 塾 5─17 法政
△ 塾 7─7 中央
△ 塾 8─8 中央
△ 塾 7─7 専修
● 塾 6─9 専修
○ 塾 19─11 早稲田
○ 塾 16─7 早稲田
入替戦
二勝〇敗 一部残留
○ 塾 9─8 明治
○ 塾 10─8 東大
日本学生選手権
● 塾 12─15 筑波
日本選手権
● 塾 6─10 専修
──────────────
日中対抗水泳競技
竹末泰士
ユニバーシアード ブカレスト
竹末泰士
昭和五七年 (一九八二)
第五四回 早慶対抗戦
● 塾 12─17 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 〇勝一三敗一分 八位
● 塾 10─24 筑波
● 塾 9─20 筑波
● 塾 6─21 日体大
● 塾 4─19 日体大
● 塾 8─22 法政
● 塾 8─19 法政
● 塾 7─19 日大
● 塾 8─14 日大
● 塾 8─9 専修
● 塾 6─21 専修
● 塾 7─17 中央
● 塾 9─11 中央
● 塾 8─13 明治
△ 塾 11─11 明治
入替戦
〇勝二敗 二部降格
● 塾 8─12 早稲田
● 塾 6─8 早稲田
日本学生選手権 予選
○ 塾 18─15 明治
○ 塾 10─0 学習院
日本学生選手権
○ 塾 24─1 京大
● 塾 6─14 日大
日本選手権
○ 全慶應 26─2 ヒポポタマス
● 全慶應 9─16 体泳会
──────────────
第五四回 早慶対抗戦
○ 塾高 7─5 早稲田学院
昭和五八年 (一九八三)
第五五回 早慶対抗戦
● 塾 9─12 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
二部 八勝二敗 二位
● 塾 7─9 仙台
○ 塾 11─3 東工大
○ 塾 13─2 学芸大
○ 塾 26─2 成城
○ 塾 18─3 東大
● 塾 6─8 仙台
○ 塾 16─6 東工大
○ 塾 18─6 学芸大
○ 塾 25─4 成城
○ 塾 12─7 東大
入替戦
〇勝二敗 二部残留
● 塾 11─19 早稲田
● 塾 7─10 早稲田
日本学生選手権 予選
○ 塾 12─4 仙台
○ 塾 23─7 学芸大
日本学生選手権
○ 塾 21─8 学習院
● 塾 8─14 筑波
日本選手権
● 塾 9─13 専修
──────────────
第五五回 早慶対抗戦
● 塾高 5─3 早稲田学院
昭和五九年 (一九八四)
第五六回 早慶対抗戦
○ 塾 10─9 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
二部 一〇勝二敗 二位
○ 塾 11─5 一橋
○ 塾 17─5 学芸大
○ 塾 16─7 東工大
○ 塾 17─10 学習院
○ 塾 10─7 東大
● 塾 7─19 仙台
○ 塾 12─7 一橋
○ 塾 10─9 学芸大
○ 塾 18─7 東工大
○ 塾 19─3 学習院
○ 塾 15─13 東大
● 塾 13─17 仙台
入替戦
〇勝一敗一分 二部残留
△ 塾 7─7 早稲田
● 塾 7─8 早稲田
日本学生選手権
● 塾 7─17 法政
日本選手権
○ 塾 15─2 浜寺水練学校
● 塾 5─22 法政
昭和六〇年 (一九八五)
第五七回 早慶対抗戦
○ 塾 12─10 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
二部 七勝四敗一分 三位
○ 塾 11─7 東工大
△ 塾 10─10 一橋
● 塾 8─15 東大
○ 塾 21─2 学習院
○ 塾 12─5 学芸大
● 塾 5─16 明治
○ 塾 11─8 東工大
○ 塾 14─3 一橋
● 塾 10─14 東大
○ 塾 12─5 学習院
○ 塾 14─12 学芸大
● 塾 1─9 明治
日本学生選手権
○ 塾 8─7 早稲田
● 塾 2─17 日体大
日本選手権
● 塾 5─15 専修
──────────────
第五七回 早慶対抗戦
● 塾高 3─5 早稲田学院
○ 塾 14─12 学芸大
● 塾 1─9 明治
日本学生選手権
○ 塾 8─7 早稲田
● 塾 2─17 日体大
日本選手権
● 塾 5─15 専修
昭和六一年 (一九八六)
第五八回 早慶対抗戦
○ 塾 5─4 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
二部 一〇勝二敗 二位
○ 塾 22─2 一橋
○ 塾 24─6 成城
○ 塾 11─7 東工大
○ 塾 9─5 東大
● 塾 6─7 早稲田
○ 塾 13─4 学芸大
○ 塾 30─5 一橋
○ 塾 16─6 成城
○ 塾 6─5 東工大
● 塾 8─9 東大
○ 塾 6─5 早稲田
○ 塾 10─7 学芸大
入替戦
一勝〇敗一分 一部昇格
○ 塾 10─7 日大
△ 塾 9─9 日大
日本学生選手権
● 塾 5─8 早稲田
日本選手権
● 塾 6─9 大阪商業高校
──────────────
関東高校選手権
○ 塾高 13―11 上郷高
● 塾高 11―13 川口高
昭和六二年 (一九八七)
第五九回 早慶対抗戦
○ 塾 6─5 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 〇勝一四敗 八位
● 塾 7─13 筑波
● 塾 2─19 日体大
● 塾 2─9 専修
● 塾 2─9 中央
● 塾 3─6 法政
● 塾 4─15 仙台
● 塾 4─8 明治
● 塾 5─15 筑波
● 塾 0─18 日体大
● 塾 8─11 専修
● 塾 3─18 中央
● 塾 5─19 法政
● 塾 2─10 仙台
● 塾 6─9 明治
入替戦
一勝〇敗一分 一部残留
△ 塾 4─4 早稲田
○ 塾 9─6 早稲田
日本学生選手権
○ 塾 16─1 神戸大
● 塾 8─12 中央
○ 塾 13─4 成蹊
● 塾 5─16 筑波
● 塾 7─11 法政
● 塾 8─12 仙台
● 塾 9─12 明治
日本選手権
○ 慶應A 17─2 JUSTIS
○ 慶應A 14─6 全日大
● 慶應A 3─14 健志台クラブ
○ 慶應B 22─7 成城クラブ
● 慶應B 9─15 全筑波
──────────────
第五九回 早慶対抗戦
○ 塾高 18―4 早稲田学院
昭和六三年 (一九八八)
第六〇回 早慶対抗戦
● 塾 5─10 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 〇勝一三敗一分 八位
● 塾 3─22 日体大
● 塾 5─21 筑波
● 塾 5─13 専修
● 塾 5─21 中央
● 塾 0─16 法政
● 塾 6─9 仙台
△ 塾 4─4 明治
● 塾 1─22 日体大
● 塾 4─14 筑波
● 塾 6─8 法政
● 塾 3─19 専修
● 塾 6─23 中央
● 塾 6─10 明治
● 塾 ─ 仙台
入替戦
一勝〇敗一分 一部残留
○ 塾 7─5 早稲田
△ 塾 8─8 早稲田
日本学生選手権
● 塾 4─6 仙台
日本選手権
● 塾 7─19 専修
──────────────
第六〇回 早慶対抗戦
○ 塾高 18―6 早稲田学院
関東高校選抜
○ 塾高 5―3 八千代高
● 塾高 3ー10 川口高
関東高校選手権
○ 塾高 21―2 神奈川大付属
○ 塾高 28―2 水城高
○ 塾高 16―4 市立川口
○ 塾高 7―4 君津高
● 塾高 0―16 前橋商業
● 塾高 3―12 埼玉栄高
高校総体
○ 塾高 10―5 青森商業
● 塾高 4―14 埼玉栄
平成元年 (一九八九)
第六一回 早慶対抗戦
○ 塾 10─8 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 〇勝一四敗 八位
● 塾 2─27 日体大
● 塾 5─13 筑波
● 塾 5─9 中央
● 塾 6─11 専修
● 塾 9─11 法政
● 塾 8─12 明治
● 塾 6─11 仙台
● 塾 1─14 日体大
● 塾 0─13 筑波
● 塾 5─12 中央
● 塾 7─13 専修
● 塾 4─12 法政
● 塾 6─9 明治
● 塾 6─11 仙台
入替戦
〇勝一敗一分 二部降格
△ 塾 5─5 日大
● 塾 5─6 日大
日本学生選手権
● 塾 5─10 筑波
日本選手権
● 塾 5─7 柴田水球クラブ
五大学対抗水球競技大会
四位
● 塾 8─9 明治
● 塾 10─11 法政
● 塾 8─10 早稲田
△ 塾 ─ 東大
──────────────
関東高校選抜
● 塾高 2―25 秀明英光
平成二年 (一九九〇)
第六二回 早慶対抗戦
○ 塾 8─5 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
二部 八勝一敗一分 二位
○ 塾 21─0 成蹊
○ 塾 16─6 国際武道
○ 塾 12─5 東大
○ 塾 15─4 学芸大
△ 塾 5─5 明治
○ 塾 24─9 成蹊
○ 塾 13─4 国際武道
○ 塾 10─4 東大
○ 塾 16─2 学芸大
● 塾 5─10 明治
入替戦
〇勝二敗 二部残留
● 塾 9─12 日大
● 塾 7─10 日大
日本学生選手権
○ 塾 14─13 東大
● 塾 5─8 筑波
日本選手権
● 塾 8─12 稲泳会
五大学対抗水球競技大会
優勝
──────────────
第六二回 早慶対抗戦
○ 塾高 8―18 早稲田学院
関東高校選抜
○ 塾高 5―4 川口高
○ 塾高 16―6 前橋南高
● 塾高 5―14 埼玉栄
神奈川高校
○ 塾高 14―6 神奈川大付属
平成三年 (一九九一)
第六三回 早慶対抗戦
○ 塾 9─8 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
二部 一〇勝〇敗 一位
○ 塾 13─5 国際武道
○ 塾 10─7 東大
○ 塾 11─2 成蹊
○ 塾 16─2 一橋
○ 塾 10─8 早稲田
○ 塾 14─5 国際武道
○ 塾 11─5 東大
○ 塾 9─8 早稲田
○ 塾 9─2 一橋
○ 塾 12─1 成蹊
入替戦
二勝〇敗 一部昇格
○ 塾 8─1 仙台
○ 塾 9─6 仙台
日本学生選手権
○ 塾 16─1 名古屋学院
○ 塾 13─10 早稲田
● 塾 8─10 筑波
日本選手権
○ 塾 11─6 桜泳会
● 塾 3─13 体泳会
五大学対抗水球競技大会
優勝
○ 塾 6─5 明治
○ 塾 8─7 法政
○ 塾 17─4 東大
△ 塾 ─ 早稲田
関東学生水球 秋季リーグ戦
○ 塾 10─9 中央
● 塾 7─8 明治
──────────────
韓国遠征
○ 塾 11─10 韓国体育大
● 塾 4─20 韓国代表チーム
● 塾 7─15 韓国体育大
平成四年 (一九九二)
第六四回 早慶対抗戦
○ 塾 6─5 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
一部 〇勝一四敗 八位
● 塾 4─18 日体大
● 塾 4─6 筑波
● 塾 4─14 中央
● 塾 4─5 日大
● 塾 5─9 専修
● 塾 2─9 明治
● 塾 5─7 法政
● 塾 4─12 日体大
● 塾 1─12 筑波
● 塾 3─10 中央
● 塾 4─15 日大
● 塾 4─9 専修
● 塾 6─10 明治
● 塾 6─7 法政
入替戦
〇勝一敗一分 二部降格
● 塾 6─8 早稲田
△ 塾 9─9 早稲田
日本学生選手権
○ 塾 13─3 東大
● 塾 2─21 日大
日本選手権
△ 塾 8─8 宮崎工業高
○ 塾 8─6 健志台クラブ
● 塾 7─8 山形工業高
○ 三水会 17─6 スイスイ会
○ 三水会 20─5 柏崎
● 三水会 0─15 筑波
五大学対抗水球競技大会
三位
● 塾 7─8 明治
○ 塾 21─4 東大
○ 塾 7─3 早稲田
△ 塾 8─8 法政
平成五年 (一九九三)
第六五回 早慶対抗戦
● 塾 6─10 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
二部 一一勝一敗 一位
○ 塾 20─4 学芸大
○ 塾 22─4 成城
○ 塾 16─4 成蹊
○ 塾 11─5 学習院
● 塾 6─7 国際武道
○ 塾 13─11 東大
○ 塾 17─5 学芸大
○ 塾 14─1 成城
○ 塾 20─4 成蹊
○ 塾 20─4 学習院
○ 塾 9─5 国際武道
○ 塾 14─4 東大
入替戦
一勝一敗 二部残留
● 塾 5─12 中央
○ 塾 11─7 中央
日本選手権
○ 塾 13─1 国際武道
● 塾 1─11 稲泳会
● 塾 8─12 明治
○ 塾 11─1 成城
● 塾 4─11 法政
五大学対抗水球競技大会
● 塾 11─14 明治
○ 塾 18─3 東大
● 塾 4─12 早稲田
○ 塾 8─6 法政
関東学生水球 秋季トーナメント
△ 塾 ─ 仙台
○ 塾 12─7 学習院
● 塾 4─7 早稲田
日本学生選手権
● 塾 7─17 筑波
──────────────
オーストラリア遠征合宿
大学・高校合同
平成六年 (一九九四)
第六六回 早慶対抗戦
● 塾 8─9 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
二部 四勝二敗 三位
○ 塾 25─0 東工大
○ 塾 11─6 成蹊
○ 塾 21─5 東大
● 塾 8─11 仙台
○ 塾 8─6 国際武道
● 塾 7─12 法政
日本学生選手権
○ 塾 6─1 京大
● 塾 2─14 筑波
日本選手権
○ 塾 10─9 柴田水球クラブ
○ 塾 12─2 法球会
● 塾 2─8 学習院
● 塾 9─13 駿台クラブ
● 塾 6─9 日大
○ 塾 10─8 駿台クラブ
● 塾 1─11 用賀クラブ
関東学生水球 秋季リーグ戦
二部 四勝二敗 三位
○ 塾 18─6 東大
○ 塾 15─7 国際武道
○ 塾 9─5 成蹊
○ 塾 8─4 学習院
● 塾 7─13 仙台
● 塾 7─12 中央
五大学対抗水球競技大会
三位
○ 塾 22─4 東大
● 塾 9─14 法政
● 塾 7─10 明治
○ 塾 14─9 早稲田
──────────────
オーストラリア遠征合宿
──────────────
第六六回 早慶対抗戦
△ 塾高 6―6 早稲田学院
関東高校選抜
● 塾高 3―6 取手松陽高
神奈川高校総合
○ 塾高 20―3 神大附属
平成七年 (一九九五)
第六七回 早慶対抗戦
● 塾 7─10 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
二部 二勝三敗 四位
● 塾 11─12 成蹊
● 塾 7─11 国際武道
○ 塾 9─8 学習院
○ 塾 17─7 学芸大
● 塾 5─6 仙台
関東学生選手権
● 塾 7─22 法政
日本学生選手権 予選
○ 塾 17─2 成蹊
日本学生選手権
○ 塾 9─6 成蹊
○ 塾 16─5 東工大
● 塾 3─15 筑波
日本選手権
○ 塾 10─0 NASWPT
● 塾 6─16 中央
● 塾 0─10 専修
関東学生水球 秋季リーグ戦
二部 四勝〇敗一分 一位
○ 塾 6─3 成蹊
○ 塾 14─2 国際武道
△ 塾 9─9 仙台
○ 塾 12─10 学習院
○ 塾 13─9 新潟産業大
入替戦
〇勝一敗 二部残留
● 塾 7─14 日大
──────────────
第六七回 早慶対抗戦
○ 塾高 11―2 早稲田学院
平成八年 (一九九六)
第六八回 早慶対抗戦
● 塾 4─15 早稲田
関東学生水球 春季リーグ戦
二部 四勝一敗 二位
○ 塾 20─1 東工大
○ 塾 11─6 成蹊
○ 塾 10─8 国際武道
○ 塾 12─6 新潟産業大
● 塾 4─13 仙台
入替戦
〇勝一敗 二部残留
● 塾 9─12 中央
日本選手権
○ 塾 10─0 IBUSC
● 塾 5─9 仙台
○ 塾 13─3 柴田高校
● 塾 6─16 早稲田
日本学生選手権
○ 塾 18─10 新潟産業大
○ 塾 12─10 早稲田
● 塾 7─16 筑波
関東学生選手権
● 塾 6─12 日大
関東学生水球 秋季リーグ戦
二部 四勝一敗 二位
○ 塾 15─8 新潟産業大
○ 塾 17─8 成蹊
○ 塾 13─5 国際武道
○ 塾 16─3 東大
● 塾 6─17 日体大
入替戦
〇勝一敗 二部残留
● 塾 5─15 明治
平成九年 (一九九七)
第六九回 早慶対抗戦
● 塾 9─13 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
一部 二勝九敗 一〇位
● 塾 11─15 専修
● 塾 3─11 筑波
● 塾 4─15 法政
● 塾 8─10 早稲田
● 塾 5─16 日大
○ 塾 11─2 新潟産業大
○ 塾 12─7 国際武道
● 塾 2─6 中央
● 塾 4─16 明治
● 塾 9─14 仙台
● 塾 5─16 日体大
決勝リーグ
二勝一敗 一部残留
○ 塾 8─3 国際武道
○ 塾 6─4 新潟産業大
● 塾 4─9 明治
東日本水球リーグ戦
二部 五勝二敗 三位
○ 塾 22─4 全一橋
○ 塾 14─2 全学習院
○ 塾 14─10 蹊泳会
○ 塾 12─7 東水会
● 塾 11─12 新潟産業大
○ 塾 10─3 国際武道
● 塾 6─14 全中央
日本選手権 予選
○ 塾 15─5 国際武道
● 塾 6─10 明治
○ 塾 13─9 緑泳会
日本選手権
● 塾 2─12 用賀クラブ
日本学生選手権
○ 塾 19─4 神戸大学
● 塾 8─11 仙台
平成一〇年 (一九九八)
第七〇回 早慶対抗戦
● 塾 6─11 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
一部 四勝六敗 六位
● 塾 1─13 法政
● 塾 3─16 専修
○ 塾 19─4 東大
● 塾 3─11 早稲田
● 塾 7─12 中央
● 塾 5─9 筑波
○ 塾 8─7 日大
● 塾 5─21 早稲田
○ 塾 25─2 東大
○ 塾 12─1 成蹊
東日本水球リーグ戦
二部 六勝一敗 二位
○ 塾 16─1 成蹊
○ 塾 15─2 国際武道
○ 塾 13─1 学芸クラブ
○ 塾 15─10 学習院
○ 塾 11─8 新潟産業大
● 塾 3─10 日大
○ 塾 19─9 東水会
日本学生選手権
● 塾 8─10 筑波
日本選手権
○ 塾 10─0 学芸クラブ
● 塾 3─8 専修
平成一一年 (一九九九)
第七一回 早慶対抗戦
● 塾 5─6 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
一部 二勝七敗二分
△ 塾 9─9 仙台
● 塾 5─9 筑波
○ 塾 7─6 国際武道
● 塾 5─13 日体大
● 塾 2─10 専修
● 塾 3─4 明治
△ 塾 4─4 国際武道
● 塾 2─9 仙台
● 塾 5─7 中央
○ 塾 8─7 新潟産業大
● 塾 1─16 筑波
日本学生選手権
● 塾 1─16 筑波
東日本水球リーグ戦
二部 五勝二敗 三位
○ 塾 11─3 学芸クラブ
○ 塾 18─6 蹊泳会
○ 塾 17─0 学習院
○ 塾 15─6 国際武道
● 塾 8─10 新潟産業大
○ 塾 10─3 東工大
● 塾 2─24 筑波
日本選手権 予選
○ 塾 10─3 東水会
○ 塾 12─2 緑泳会
○ 塾 10─0 東工大
● 塾 5─10 三建30CLUB
神田杯争奪水球競技大会
○ 塾 10─0 新潟産業大
○ 塾 17─2 KWPT
● 塾 8─9 日体倶楽部
──────────────
ハワイ遠征
Hawaiian Invitational
Water Polo Tournament
● 塾 4─10 Melbourne
○ 塾 10─3 Rainbow
○ 塾 5─4 ASU
○ 塾 8─5 SCRIPPS
○ 塾 5─4 Santa Barbara
○ 塾 5─4 Melbourne
──────────────
第七一回 早慶対抗戦
○ 塾高 22─0 早稲田学院
関東高校選抜
● 塾高 3─9 取手松陽高
関東高校選手権
○ 塾高 9─5 市立川口
○ 塾高 17─5 前橋南
● 塾高 3─9 城北
平成一二年 (二〇〇〇)
第七二回 早慶対抗戦
● 塾 2─7 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
一部 二勝八敗 一一位
● 塾 3─15 筑波
● 塾 5─15 仙台
○ 塾 6─3 東大
● 塾 1─17 早稲田
● 塾 6─15 法政
● 塾 3─10 明治
● 塾 1─17 中央
● 塾 3─18 法政
● 塾 4─6 東大
○ 塾 10─4 学芸大
東日本水球リーグ戦
二部 一勝五敗
● 塾 0─13 日体大
● 塾 2─15 日大
● 塾 3─10 中央
○ 塾 7─3 新潟産業大
● 塾 6─19 法政
● 塾 2─7 新潟産業大
日本学生選手権
● 塾 3─10 中央
──────────────
関東高校選抜
○ 塾高 21─2 伊奈総合高
関東高校選手権
○ 塾高 21─4 伊奈総合高
平成一三年 (二〇〇一)
第七三回 早慶対抗戦
● 塾 1─15 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
二部 八勝〇敗一分 一位 一部昇格
○ 塾 14─3 防衛大
○ 塾 25─0 武蔵大学
○ 塾 20─0 一橋
○ 塾 15─3 成蹊
○ 塾 8─1 学習院
○ 塾 14─2 東工大
○ 塾 6─4 成蹊
△ 塾 9─9 防衛大
○ 塾 16─3 学芸大
日本選手権 予選
○ 塾 14─4 蹊泳会
● 塾 6─13 全中央
● 塾 5─9 柴田水球クラブ
日本学生選手権
○ 塾 16─1 京大
● 塾 0─15 日体大
東日本水球リーグ戦
二部 五勝一敗一分 二位 一部昇格
○ 塾 12─1 team01
△ 塾 6─6 蹊泳会
○ 塾 22─7 荒鷲会
○ 塾 7─1 学芸クラブ
○ 塾 7─5 東水会
● 塾 4─6 日白組
○ 塾 4─3 国際武道
──────────────
第七三回 早慶対抗戦
○ 塾高 9─2 早稲田学院
関東高校選抜
○ 塾高 9─5 花咲徳栄高
● 塾高 3─7 伊奈総合高
関東高校選手権
● 塾高 9─11 拓大紅陵
神奈川県高等学校総合体育大会
○ 塾高 11─8 神大附属
平成一四年 (二〇〇二)
第七四回 早慶対抗戦
● 塾 4─14 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
一部 二勝六敗 一〇位
● 塾 2─22 日大
● 塾 5─15 筑波
○ 塾 14─7 防衛大
● 塾 3─19 仙台
● 塾 1─11 専修
● 塾 3─4 東大
● 塾 2─18 明治
○ 塾 9─5 新潟産業大
日本学生選手権
● 塾 4─12 専修
東日本水球リーグ戦
一部 一勝六敗 一〇位
● 塾 5─6 日体倶楽部
● 塾 6─20 三建30CLUB
● 塾 6─12 専修
● 塾 7─13 日大
● 塾 3─20 全仙台
○ 塾 5─1 目白組
● 塾 5─17 日大
日本選手権 予選
● 塾 0─10 全中央
──────────────
第七四回 早慶対抗戦
○ 塾高 6─4 早稲田学院
関東高校選抜
○ 塾高 11─0 宇都宮工業
● 塾高 1─4 前橋商業
神奈川県高等学校総合体育大会
○ 塾高 7─5 神大附属
関東高校選手権
○ 塾高 6─3 甲府東
○ 塾高 18─0 水海道第一
● 塾高 1─16 前橋商業
平成一五年 (二〇〇三)
第七五回 早慶対抗戦
● 塾 3─8 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
二部 六勝四敗 三位
○ 塾 9─3 東大
● 塾 9─20 専修
● 塾 3─19 中央
○ 塾 9─5 国際武道
○ 塾 21─0 東工大
○ 塾 5─2 国際武道
○ 塾 21─1 東工大
● 塾 4─14 専修
● 塾 2─12 中央
○ 塾 8─4 東大
東日本水球リーグ戦
一部 一勝六敗 一一位 二部降格
● 塾 4─13 全早稲田
● 塾 6─16 三建30CLUB
● 塾 6─16 プロミネンス
● 塾 9─10 中央
● 塾 6─8 全明治学
● 塾 8─17 専修
○ 塾 14─2 国際武道
日本選手権 予選
○ 塾 13─3 国際武道
● 塾 1─8 全中央
● 塾 3─13 全明治学
日本学生選手権
○ 塾 9─4 関西学院大学
● 塾 3─15 日体大
──────────────
第七五回 早慶対抗戦
○ 塾高 4─1 早稲田学院
関東高校選抜
○ 塾高 3─2 前橋南
○ 塾高 21─0 明大中野
神奈川県大会
○ 塾高 62─0 向の岡工業
関東高校選手権
○ 塾高 8─5 千葉敬愛
○ 塾高 9─6 宇都宮工業
● 塾高 0─36 秀明英光
──────────────
FINAジュニア国際選手権 ナポリ
河原邦夫
平成一六年 (二〇〇四)
第七六回 早慶対抗戦
● 塾 3─11 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
二部 六勝三敗一分 三位
○ 塾 8─1 東大
○ 塾 23─5 学習院
● 塾 4─21 中央
● 塾 2─14 専修
○ 塾 7─4 国際武道
○ 塾 8─5 東大
○ 塾 15─5 学習院
● 塾 5─12 専修
○ 塾 7─4 中央
△ 塾 5─5 国際武道
東日本水球リーグ戦
二部 五勝一敗 二位
○ 塾 9─1 蹊泳会
○ 塾 21─0 荒鷲会
○ 塾 20─0 多摩倶楽部(不戦勝)
● 塾 7─10 国際武道
○ 塾 9─7 新潟産業大
○ 塾 8─4 DROPPERS
入替戦
一部昇格
○ 塾 20─0 明治(不戦勝)
日本学生選手権
○ 塾 11─5 成城
● 塾 3─23 日体大
日本選手権 予選
○ 塾 15─5 フリーダム
○ 塾 10─7 ジョージベンチ
● 塾 5─15 早稲田
● 塾 8─12 プロミネンス
──────────────
第七六回 早慶対抗戦
● 塾高 4-6 早稲田学院
関東高校選抜 神奈川予選
○ 塾高 19-1 桐光学園
○ 塾高 11-6 神大附属
○ 塾高 32-1 向の岡工業
関東高校選抜
● 塾高 5-16 幕張総合
神奈川県大会
○ 塾高 30-2 向の岡工業
○ 塾高 30-1 桐光学園
関東高校選手権
○ 塾高 5-21 幕張総合
県高校新人戦
○ 塾高 7-6 神大附属
○ 塾高 15-2 桐光学園
平成一七年 (二〇〇五)
第七七回 早慶対抗戦
● 塾 4─18 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
一部 〇勝一〇敗一分 八位
● 塾 6─18 日大
● 塾 8─14 日体大
● 塾 8─16 早稲田
● 塾 8─11 仙台
● 塾 6─9 専修
● 塾 5─13 中央
● 塾 8─14 国際武道
● 塾 7─15 中央
△ 塾 12─12 仙台
● 塾 6─12 国際武道
入替戦
〇勝一敗 二部降格
● 塾 9─15 新潟産業大
東日本水球リーグ戦
一部 二勝六敗 一一位
● 塾 3─22 日体倶楽部
● 塾 8─14 専修
○ 塾 10─7 プロミネンス
● 塾 5─15 早稲田
● 塾 6─14 全筑波
● 塾 7─8 目白組
○ 塾 13─12 国際武道
入替戦
〇勝一敗 二部降格
● 塾 15─16 DROPPERS
日本学生選手権
● 塾 7─9 筑波
日本選手権 予選
● 塾 2─12 早稲田
○ 塾 15─5 IBUスイミングクラブ
● 塾 4─12 仙台
──────────────
第七七回 早慶対抗戦
△ 塾高 6-6 早稲田学院
関東高校選抜
○ 塾高 11-3 宇都宮工業
● 塾高 3-12 前橋商業
神奈川県大会
● 塾高 5-7 神大附属
関東高校選手権
● 塾高 7-10 千葉敬愛
県高校新人戦
● 塾高 3-14 神大附属
平成一八年 (二〇〇六)
第七八回 早慶対抗戦
● 塾 1─23 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
二部 五勝四敗一分 四位
● 塾 4─24 筑波
○ 塾 22─5 学習院
○ 塾 23─5 首都大学東京
△ 塾 8─8 東大
● 塾 5─8 成蹊
○ 塾 8─7 成蹊
● 塾 8─14 東大
● 塾 4─24 筑波
○ 塾 20─10 学習院
○ 塾 18─5 首都大学東京
日本選手権 予選
● 塾 8─13 目白組
● 塾 0─15 日大
東日本水球リーグ戦
二部 三勝三敗 七位
● 塾 3─20 明治WP
○ 塾 14─5
CLUBPISCINA静岡
○ 塾 12─4 燕水会
● 塾 7─9 蹊泳会
● 塾 6─12 全東大
○ 塾 9─8 UNITED
日本学生選手権
● 塾 4─17 国際武道
──────────────
第七八回 早慶対抗戦
● 塾高 1-7 早稲田学院
関東高校選抜
● 塾高 1-8 伊奈学園
神奈川県大会
● 塾高 5-9 神大附属
関東高校選手権
○ 塾高 7-5 神大附属
○ 塾高 4-1 前橋高
● 塾高 1-25 明大中野
県高校新人戦
○ 塾高 6-5 神大附属
平成一九年 (二〇〇七)
第七九回 早慶対抗戦
● 塾 6─31 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
二部 三勝三敗一分 四位
● 塾 7─11 東大
● 塾 5─20 新潟産業大
○ 塾 18─3 防衛大
○ 塾 19─5 学習院
● 塾 1─6 成蹊
△ 塾 15─0 防衛大(不戦勝)
○ 塾 21─7 学習院
東日本水球リーグ戦
二部 四勝一敗一分 五位
○ 塾 19─4 全学習院
○ 塾 28─9 防衛大
● 塾 5─6 三菱CLUB
△ 塾 8─8 DROPPERS
○ 塾 7─4 全東大
○ 塾 22─2 UNITED
日本学生選手権
○ 塾 16─6 九州大学
● 塾 1─23 筑波
日本選手権 予選
● 塾 10─22 専修
──────────────
第七九回 早慶対抗戦
○ 塾高 6-5 早稲田学院
関東高校選抜
○ 塾高 14-2 土浦第二
● 塾高 2-13 埼玉栄
神奈川県大会
○ 塾高 16-7 神大附属
関東高校選手権
○ 塾高 14-13 武蔵
● 塾高 4-17 埼玉栄
県高校新人戦
○ 塾高 9-8 神大附属
平成二〇年 (二〇〇八)
協生館 竣工(八月六日)
第八〇回 早慶対抗戦
● 塾 9─24 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
二部 二勝三敗一分 三位
● 塾 7─14 成蹊
● 塾 10─20 新潟産業大
● 塾 16─23 明治
○ 塾 10─4 学習院
△ 塾 12─12 東大
○ 塾 13─12 学習院
入替戦
一勝一敗 二部残留
● 塾 8─9 明治
○ 塾 19─4 防衛大
東日本水球リーグ戦
二部 四勝三敗 三位
○ 塾 24─4 鴎水会
○ 塾 23─5 多摩倶楽部
○ 塾 12─6 蹊泳会
● 塾 7─10 目白組
○ 塾 20─14 DROPPERS
● 塾 10─12 全東大
● 塾 5─20 中央
日本学生選手権
○ 塾 13─8 金沢工業大学
● 塾 3─23 早稲田
日本選手権 予選
● 塾 7─17 桜泳会
──────────────
第八〇回 早慶対抗戦
○ 塾高 4-3 早稲田学院
関東高校選抜
○ 塾高 10-3 甲府東
● 塾高 4-14 前橋商業
● 塾高 4-9 千葉敬愛
関東高校選手権
● 塾高 1-27 前橋商業
神奈川県大会
● 塾高 10-12 神大附属
県高校新人戦
● 塾高 1-26 神大附属
平成二一年 (二〇〇九)
第八一回 早慶対抗戦
● 塾 2─14 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
二部 八勝一敗一分 一位
○ 塾 20─6 成蹊
○ 塾 12─6 新潟産業大
● 塾 8─9 東大
○ 塾 12─11 明治
○ 塾 18─3 成城
○ 塾 18─4 成蹊
○ 塾 14─5 新潟産業大
○ 塾 14─6 東大
△ 塾 5─5 明治
○ 塾 18─3 成城
入替戦
〇勝一敗 二部残留
● 塾 10─12 国際武道
日本学生選手権
○ 塾 16─6
大阪府立工業高等専門学校
● 塾 12─18 中央
日本選手権 予選
○ 塾 17─9 全東大
● 塾 5─14 桜泳会
● 塾 4─18 三建30CLUB
東日本水球リーグ戦
二部 五勝〇敗一分 一位
○ 塾 15─0 全学習院
○ 塾 14─9 多摩クラブ
○ 塾 10─6 蹊泳会
△ 塾 10─10 目白組
○ 塾 10─4 山形シャークス
○ 塾 15─6 新潟産業大
入替戦
一勝〇敗 一部昇格
○ 塾 16─9 全東大
──────────────
第八一回 早慶対抗戦
△ 塾高 0-0 早稲田学院
神奈川県大会
● 塾高 4-10 神大附属
関東高校選抜
● 塾高 0-5 甲府東
● 塾高 2-3 宇都宮東
関東高校選手権
● 塾高 4-20 城北
県高校新人戦
● 塾高 0-10 神大附属
平成二二年 (二〇一〇)
第八二回 早慶対抗戦
● 塾 10─20 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
二部 四勝二敗 五位
○ 塾 20─0 一橋
● 塾 8─12 新潟産業大
○ 塾 19─4 東工大
● 塾 5─6 成蹊
○ 塾 19─4 学習院
○ 塾 18─3 東工大
日本選手権 予選
○ 塾 11─4 全東大
● 塾 8─20 全筑波
○ 塾 11─5 碑文谷倶楽部
日本選手権
ベスト4
○ 塾 11─8 中央
● 塾 4─13 全筑波
● 塾 5─31 ブルボンWPC
──────────────
第八二回 早慶対抗戦
● 塾高 2-3 早稲田学院
関東高校選抜
● 塾高 0-19 明大中野
● 塾高 2-3 前橋高
神奈川県大会
● 塾高 2-8 神大附属
関東高校選手権
● 塾高 2-5 県立船橋
県高校新人戦
● 塾高 5-7 神大附属
平成二三年 (二〇一一)
第八三回 早慶対抗戦
● 塾 7─26 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
二部 六勝一敗一分 一位
● 塾 7─10 東大
○ 塾 16─0 一橋
○ 塾 13─11 仙台
○ 塾 20─7 防衛大
△ 塾 9─9 国際武道
○ 塾 13─6 東大
○ 塾 11─8 明治
入替戦
一勝〇敗 一部昇格
○ 塾 9─7 成蹊
日本選手権 予選
○ 塾 9─6 東大
○ 塾 12─8 ジョイフルAC
● 塾 0─15 稲泳会
日本選手権
● 塾 3─21 ブルボンWPC柏崎
東日本水球リーグ戦
一部 A3 一勝五敗 一二位
● 塾 6─8 全東大
● 塾 6─21 ブルボンWPC柏崎
○ 塾 19─14 プロミネンス
● 塾 11─12 プロミネンス
● 塾 10─11 全東大
● 塾 15─17 国際武道
入替戦
〇勝一敗 二部(B1)降格
● 塾 6─15 明治WP
日本学生選手権
● 塾 9─21 専修
──────────────
第八三回 早慶対抗戦
● 塾高 3-4 早稲田学院
関東高校選抜
● 塾高 1-2 宇都宮東
○ 塾高 7-2 土浦第二
神奈川県大会
○ 塾高 7-3 神大附属
関東高校選手権
○ 塾高 4-2 神大附属
○ 塾高 14-2 前橋高
● 塾高 2-9 城北
県高校新人戦
○ 塾高 4-5 神大附属
平成二四年 (二〇一二)
第八四回 早慶対抗戦
● 塾 6─14
関東学生水球 リーグ戦
一部 二勝七敗 七位
● 塾 4─19 早稲田
● 塾 1─19 日体大
● 塾 8─17 筑波
● 塾 11─18 日大
● 塾 12─18 中央
● 塾 10─16 専修
○ 塾 21─10 国際武道
● 塾 10─16 中央
○ 塾 14─13 国際武道
入替戦
〇勝一敗 二部降格
● 塾 8─12 新潟産業大
日本学生選手権
● 塾 11─22 日大
東日本水球リーグ戦
二部 B1 四勝一敗 一位 一部(A3)昇格
○ 塾 13─9 目白組
● 塾 7─9 UNITED
○ 塾 13─11 国際武道
○ 塾 9─6 目白組
○ 塾 11─10 UNITED
日本選手権 予選
○ 塾 11─7 霞城クラブ
● 塾 2─17 日大
○ 塾 11─10 新潟産業大
● 塾 6─7 桜泳会
日本選手権
● 塾 7─22 全筑波
──────────────
第八四回 早慶対抗戦
○ 塾高 5-1 早稲田学院
関東高校選抜
○ 塾高 7-1 甲府東
● 塾高 1-2 明大中野
● 塾高 1-4 埼玉栄
神奈川県大会
○ 塾高 5-3 神大附属
関東高校選手権
○ 塾高 6-4 神大附属
○ 塾高 6-4 甲府東
● 塾高 3-20 秀明英光
県高校新人戦
○ 塾高 3-9 神大附属
ジュニアオリンピック 春季大会関東予選
● 塾高 1-18 前橋商業
● 塾高 1-9 東京
平成二五年 (二〇一三)
第八五回 早慶対抗戦
● 塾 7─17 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
二部 六勝一敗 二位
○ 塾 19─2 成城
○ 塾 20─2 一橋
○ 塾 19─11 東工大
○ 塾 18─3 東大
○ 塾 7─6 成蹊
○ 塾 15─9 東工大
● 塾 7─11 明治
入替戦
〇勝一敗 二部残留
● 塾 6─18 中央
東日本水球リーグ戦
一部 A3 三勝二敗 三位
● 塾 8─12 プロミネンス
● 塾 5─13 明治WP
○ 塾 12─6 全東大
○ 塾 13─11 国際武道
○ 塾 13─5 全東大
日本選手権 予選
○ 塾 6─2 明治WP
● 塾 7─17 日大
● 塾 9─11 グリーンウェーブ
日本学生選手権
● 塾 4─14 成蹊
──────────────
第八五回 早慶対抗戦
○ 塾高 4-2 早稲田学院
関東高校選抜
○ 塾高 8-1 並木
● 塾高 3-10 明大中野
● 塾高 2-8 千葉敬愛
関東高校選手権
○ 塾高 10-2 前橋南
○ 塾高 6-3 並木
● 塾高 1-14 秀明英光
静岡県大会(トビオカップ)
○ 塾高A 5-2 稲生
○ 塾高A 10-3 浜松東
○ 塾高A 12-3 秀明英光女子
△ 塾高A 7-7 磐田西
● 塾高A 3-7 芝浦工大柏
● 塾高B 0-13 中大附属
● 塾高B 3-6 早稲田学院
● 塾高B 4-8 FM静岡
● 塾高B 3-8 全掛川西
○ 塾高B 4-3 甲府東
神奈川県大会
● 塾高 5-12 神大附属
県ジュニア
● 塾高 2-6 千葉敬愛
○ 塾高 6-1 甲府東
● 塾高 4-8 カワサキSC
ジュニアオリンピック 春季大会関東予選
○ 塾高 6-5 宇都宮東
● 塾高 3-19 AMATIAS
● 塾高 3-15 東京クラブ
平成二六年 (二〇一四)
第八六回 早慶対抗戦
● 塾 11─19 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
二部 六勝一敗 二位
○ 塾 20─2 首都大学東京
○ 塾 18─3 一橋
○ 塾 19─9 東大
○ 塾 19─5 学習院
○ 塾 15─1 東工大
○ 塾 12─6 東大
● 塾 9─10 成蹊
入替戦
一勝〇敗 一部昇格
○ 塾 14─8 国際武道
東日本水球リーグ戦
一部 A3 二勝三敗 二位
○ 塾 10─6 プロミネンス
● 塾 8─11 明治WP
○ 塾 12─8 全東大
● 塾 10─19 新潟産業大
● 塾 7─16 中央
日本選手権 予選
○ 塾 8─7 Integral
● 塾 2─11 日大
日本学生選手権
● 塾 3─13 中央
──────────────
第八六回 早慶対抗戦
○ 塾高 11-2 早稲田学院
関東高校選抜
○ 塾高 13-2 前橋高
● 塾高 2-7 秀明英光
○ 塾高 8-3 武蔵
関東高校選手権
● 塾高 13-14 芝浦工大柏
神奈川県大会
○ 塾高 23-0 海洋科学
○ 塾高 21-3 神大附属
県ジュニア
○ 塾高 19─0 海洋科学
○ 塾高 8─4 神大附属
○ 塾高 6─4 桐朋
● 塾高 6─10 川崎コンバット
静岡県大会(トビオカップ)
○ 塾高 14-1 藤枝東
○ 塾高 8-3 磐田西
○ 塾高 12-3 岐阜農林
○ 塾高 10─2 早稲田学院
○ 塾高 6─4 岡崎城西
● 三水会 7-9 Riega和歌山
○ 三水会 5-1 FM静岡
○ 三水会 9-3 磐西Z
○ 三水会 9-7 山梨水球
● 三水会 2-11 Riega和歌山
平成二七年 (二〇一五)
第八七回 早慶対抗戦
● 塾 8─12 早稲田
関東学生水球 リーグ戦
一部 一勝八敗 八位
● 塾 6─19 日体大
● 塾 7─15 早稲田
● 塾 5─18 筑波
● 塾 10─12 中央
● 塾 8─21 専修
● 塾 4─19 日大
○ 塾 9─7 明治
● 塾 5─12 中央
● 塾 4─5 明治
入替戦
一勝〇敗 一部残留
○ 塾 5─2 成蹊
東日本水球リーグ戦
一部 A2 四勝一敗 三位
○ 塾 12─8 明治WP
● 塾 7─8 新潟産業大
○ 塾 12─7 全東大
○ 塾 13─6 プロミネンス
○ 塾 8─6 グリーンウェーブ
──────────────
第八七回 早慶対抗戦
○ 塾高 8-3 早稲田学院
関東高校選抜 兼 関東春季
● 塾高 2-6 城北
○ 塾高 3-2 並木
神奈川県大会
○ 塾高 29―2 海洋科学
○ 塾高 19―5 神大附属
【参考文献】
『慶應義塾体育会水泳部八十年誌』、『慶應義塾体育会水泳部九十年誌』、『慶應義塾体育会水泳部一〇〇年誌』、『慶應義塾百年史』、『慶應義塾体育会誌』、『慶應義塾體育會年表』、『若き血燃ゆ(慶應義塾体育会百年の軌跡)』、『月刊水泳(1~163)』、『體育會雑誌』、『体育会月報』、『体育会の歩み』、『わがウォーターポロ(小さい選手達と指導者の為に)』、『水球(新版)』、『レクイエム・太平洋戦争(愛しき命のかたみに)』
【編集後記】
「塾水球百年の記念誌を作る」相談を受けた当初は、私が「誰でも簡単に本が作れるネットサービス」のプロジェクトに参加している事もあり、「水泳部の記念誌は沢山あるし、なんとかなるだろう」と高を括っていた。だが、想像以上に編集作業は難航した。なにせ、塾は日本最古の水球部。正確な記録や情報が乏しかったからである。過去の「體育會誌」「月刊水泳」など情報をかき集め、恐らく四百冊以上の会報や書物を読んだ。結果、戦績についてはこれまで記載がなかった百試合以上の記録を載せることができた。少しは、一〇〇年のまとめとして体を成したと思う。また、分かりやすく塾水球の歴史を伝えたいと思い、百年を四区分しテーマをつけてまとめた。多少強引だと思われる点もあるかもしれないが、ご了承願いたい。
最後にインタビュー、寄稿、資料提供をしてくださった皆様、編集作業を手伝って頂いた皆様にお礼を申し上げ、今後の塾水球の発展を切に願い、編集後記といたします。
編集担当 一九九二年卒 武重康平
2015年7月10日 発行 初版
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