猿岩石や沢木耕太郎に憧れ、念願叶ってのインド旅行から帰国した著者だったが、帰国から一年、再び旅への衝動に駆られる。今回の行先はインドシナ四カ国(タイ、カンボジア、ベトナム、ラオス)。旅日記シリーズの待望の第二弾。
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八月六日 タイムスリップ
八月七日 ちっぽけな世界、でっかい世界
八月八日 バンコク観光
八月九日 チャイナタウンの酔っ払い
八月十日 ムエタイ
八月十一日 背伸び
八月十二日 アンコール・ワット
八月十三日 献血
八月十四日 舗装
八月十五日 キリング・フィールド
八月十六日 メコンの国境
八月十七日 ブツブツ
八月十八日 ビザをめぐって
八月十九日 同い年
八月二十日 善哉のバクハイ
八月二十一日 路上の耳かき職人
八月二十二日 ドロドロな日
八月二十三日 シュノーケリング
八月二十四日 足にするのがフットマッサージ
八月二十五日 トランジットビザ
八月二十六日 漫画漬け
八月二十七日 旧市街散策
八月二十八日 DMZ
八月二十九日 海外安全情報
八月三十日 水上人形劇
八月三十一日 プロジェクトX
九月一日 かぶりつき
九月二日 買い物は効率的に
九月三日 ホーチミン廊
九月四日 ショック!
九月五日 首都ヴィエンチャン
九月六日 十分の町
九月七日 洞窟探検&チュービング
九月八日 我に光を
九月九日 VIPバス
九月十日 バイバイラオス
九月十一日 世界一のコンビニ
九月十二日 痛い式マッサージ
九月十三日 旅の理由
眠い・・・。
バンコク経由ムンバイ行きのエア・インディア三〇五便はなかなか飛び立とうとしない。十二時だった出発時刻が十一時四十五分に早まったので、おいてかれないように搭乗したのだが、いつまでたっても巨大な機体は休憩中なのだ。
いつかのインド旅行と同じように、目が覚めると機体は空の上だった。
エア・インディアの客室乗務員はほとんどがインド人で、男性は髭をはやし、妙に年配の人が多い女性は美しく赤いサリーを身にまとっている。
並みの機内サービスこそ提供されるが、インド人らしくニコリとも笑わない。念のため書いておくが、今回の目的地はインドではなくタイである。
音楽でも聴こうと思い、備え付けのヘッドフォンをセットすることにした。
「なんだこれ?」
プラグが二手に分かれており、しかも先端は金属じゃない。最新のインドモデルだろうか。そんなプラグをジャックに差し込んだものの、何も聴こえてこない。隣は空席なので、隣のシートのジャックにも差し込んでみるが応答なし。
音楽は諦めることにし、プラグを抜くためにヘッドフォンを引っ張ると、座席に埋め込まれた基盤もろとも外れてしまった。相当古い機体のようだ。
仕方ないので、出発前に親友から餞別代りにもらった文庫本を読むことにした。リンドバーグ夫人の『海からの贈物』という本だ。
読み始めて間もなく、機内食がスタートした。
ここでこの旅最初の英会話。「チキン、オア、フィッシュ?」の質問に「チキン、プリーズ」とスマートに返答。出足は順調だ。
メニューはチキンカレー、野菜カレー、コッペパン、パリパリとした薄焼きパン、あえ物、ヨーグルト、ババロア、そしてエビ。米はインディカ米なのでパサパサしており、カルダモンと一緒に炊いてあるせいか、少々刺激が強い。加えて、カレーが辛い。ババロアは今回のメニューの中ではピカイチにおいしく、あっという間にたいらげた。エビは嫌いなので手をつけず。
二時間ほど眠っただろうか。
途中、タイの出入国カードが配られたので記入した。やはり今回も、到着後に泊まるホテルなど決まっていないので、定番の『地球の歩き方』から「ノイ・ゲストハウス」という宿を選んで記入した。
今回は陸路でカンボジアに移動するつもりなのだが、間違えて帰りの便名を記入してしまった。二重線でなかったことにしたが、国境で面倒なことにならないよう今から願う。
前方のスクリーンでは、インドのクイズ番組や歌番組が放映されている。髭をはやしていないインド人男性になんとなく違和感を覚える。
エア・インディア三〇五便は、タイ時間の午後四時二十四分に首都バンコクのドン・ムアン国際空港に到着した。
着陸の衝撃で頭上の荷物ケースが開いたのには驚いたが、エア・インディアでは日常のことのようだ。
入国手続きを済ませ、ターンテーブルからバックパックを拾い上げた。そしてそのまま、申告するものは特にないので「申告なし」のゲートをくぐって外へ出た。
出口は大勢の人が混み合っていたが、しつこいタクシーの客引きなどはまったくおらず、インドのときのような不安も感じることはなかった。
片隅に置いてあった無料のバンコク市内地図をいただき、インフォメーションカウンターへ。係員にカオサンロードまで電車で行きたい旨を告げたところ、エアポートバスを利用しろと言われた。言われるがままに、空港前から出ているエアポートバスに乗り、カオサンロードを目指した。
タイに来たのは今回で二度目。
前回は、中二の夏休みに知人との一週間弱の滞在だった。覚えているのは、昼食で食べたエビにあたり、病院に連れて行かれ、おしりに注射を打たれたこと。五年の間でバンコクはどう変貌しただろうか。
バスから街並みを眺めると、五年前とは比べものにならないほど道路の渋滞が緩和されているのに気付いた。
バンコクはここ数年で目覚しい経済発展を遂げ、多くの外資系企業が入り込んでいるという。実際、馴染み深い日系大手企業の看板が至る所に設置されている。また、高層ビルも乱立しており、東南アジアの途上国というイメージとはかけ離れた現実だ。
そんな発展の裏で、五年前は街中を猛スピードで走っていたトゥクトゥクと呼ばれる三輪タクシーだが、ここ数年の間に激減したそうだ。交通渋滞が緩和したわけもそのあたりにあるようだ。とはいえ、このトゥクトゥクの締め出しは、先進国入りを目指す国家の策略なのかどうかはわからないが、ここまで激減すると寂しいものである。
車中、隣の席に座っていたユミさんという日本人女性と言葉を交わした。
彼女は昨年、タイ南部のソンクラーという村でホームステイをし、現地の小学生に英語を教えるボランティアをしたそうだ。今回は、そのときのホームステイ先に遊びに行きつつ、タイ、カンボジア、ベトナムを旅するそうだ。
エアポートバスは一時間弱でカオサンロードに到着した。
カオサンロードは世界中のバックパッカーが集まる有名な安宿街だ。
三百メートルほどの通りの両脇には、ゲストハウスや旅行代理店、レストラン、インターネットカフェ、土産屋、コンビニ、両替屋などがずらりと並び、露店や屋台もたくさん出ている。至る所から音楽が大音量で流れ、常にお祭のような場所だ。
一日、一〇〇〇円。
これが今回の旅の予算だ。
一〇〇〇円で宿代、食事代、インターネット代などをまかなうとなると、宿代は一五〇バーツ以内に収めたいところ。ちなみに、一バーツはおよそ二・五円なので、一五〇バーツはおよそ四五〇円ということになる。
宿探し一軒目は、シングルルームで一泊三〇〇バーツと予算オーバー。
二軒目は、一〇〇バーツと予算内なのだが、部屋が狭く、カオサンロードから少し離れているので不便。
三軒目もやはり予算オーバー。
四軒目は、一五〇バーツと予算ギリギリだったが、宿はカオサンロード沿いの便利な場所にあり、加えてオーナーが一二〇バーツにまで値引きしてくれたので、ここに泊まることにした。宿の名前は「ユーロ・イン・ゲストハウス」だ。
ゲストハウスのベランダからカオサンロードを眺めた。
ついついニューデリーのメインバザールと比較してしまう。カオサンロードとメインバザールの大きな違いは、ゴミの量だ。きちんと清掃が入っているのか、メインバザールよりも圧倒的に道端のゴミの量が少ない。また、マクドナルドやバーガーキング、セブンイレブン、ファミリーマートがあることも、メインバザールとの大きな違いだろう。
逆に言えば、それ以外の部分に関しては、メインバザールと大差はない。とても懐かしく、眺めているだけでなんだかワクワクしてくる通りだ。
少し休んだ後、先ほどのユミさんと夕食を食べにくり出した。
カオサンロードには数多くのレストランがあるのだが、今回はタイの屋台料理を堪能することにした。レバーの串焼きや平たい麺で作るタイ風焼きそば、そして肉ボール入りのトロトロとしたおかゆ。これだけ食べて日本円で一五〇円ほどだ。もちろん腹は十分満たされる。
食後、通り沿いの商店や露店を覗いているうちに、周りはあっという間に暗くなり、気温も急に低くなってきた。
夜十時を過ぎても、カオサンロードでは、かなり多くの店が大音量の音楽と共に元気に営業している。賑やかな夜だ。
ユーロ・イン・ゲストハウスでの僕の部屋は三階にあるので、ベランダからの眺めはなかなか素敵なものだ。
なかなか眠ろうとしないカオサンロードには、まだまだ面白いことがたくさんありそうだ。ようやく始まった今回の旅だが、その出足はなかなか順調で、一年前にタイムスリップした感がある。
明日はイミグレ探しだ。
エアポートバス 一〇〇バーツ/ゲストハウス 一二〇バーツ/水 五バーツ/夕食 四五バーツ/ジュース 一三バーツ/インターネット 二五バーツ/果物 一〇バーツ
昨夜はとてもよく眠れた。
外では一晩中、原因不明のゴォーゴォーという音がしていたようだが、それでも疲れから熟睡。六時ごろに一度目が覚めたものの、二度寝、三度寝と繰り返し、最終的には十一時になってようやく体を起こした。
ゲストハウスの近くの屋台で朝食を買った。名前はわからないが、ホウレン草と平麺の炒め物だ。肉ボールの入ったとろみのあるスープもセットでついてきた。そのスープは、金魚すくいのお持ち帰りのように、ビニール袋に入れられて出てきた。そのままでは食べづらいので、露店で急遽お椀を購入。黒く色付けされた側面にシンプルな模様が彫り込まれた木彫りのお椀だ。
買ってきた朝食をゲストハウスのベランダでさっそく食べてみた。
炒め物はお酢のような調味料がかかっているので、さっぱりとした味わい。そして、おわんに移したスープは最高に美味! 味が濃い目のドロドロとしたスープだ。中に入っている肉ボールは、日本では食べたことのない歯ごたえだった。
昼間のカオサンロードを眺めていて、一つ気付いたことがある。それは、カオサンロードでは、日中のみ通りへの車両の進入が許されているということだ。つまり、日中は通りを車両が走る一方、夕方にはそれらは締め出され、通りは歩行者天国となる。
僕がカオサンロードに着いた昨日の夕方は、常に通りは歩行者天国と化していたので、ここは常に歩行者専用の通りだと思っていたが、どうやら違ったようだ。今の時間、通りにはタクシーがズラリと並ぶので、道端には屋台がほとんど出ていない。減ってしまったトォクトォクも多く見られ、それらを利用する旅行者もいる。
話が変わるが、日本人がタイに入国する場合、三十日以内の滞在で、出入国共に空路ならば、ビザは必要ない。しかし滞在が三十日を越える場合や、陸路で出入国する場合は、ビザが必要となる。僕の場合、タイからカンボジアへは陸路で抜けるつもりなので、ビザが必要であり、更に旅の最後にタイに再入国するときにも、やはりビザが必要になる。
日本でシングルビザを取った僕は、カンボジアへの出国に関しては問題ないが、タイへの再入国時にビザが必要となる。但し、今のうちにタイのイミグレで、リエントリービザというものを取得しておくと、隣国で再びタイのビザを取らなくても、再入国することができるらしい。
今日はそのリエントリービザを取りにイミグレへ行くつもりだった。が、昨日知り合ったユミさんは、僕と同じように陸路でタイを出て、その後タイに再入国するにもかかわらず、リエントリービザを取るつもりはないらしい。その理由は、タイのイミグレは、日本人であればビザの有無に関係なく入国させてくれるという噂があるからだ。この噂については、僕もガイドブックやウェブサイトを通して知っている。但し、最終的には入国管理官次第の部分もあり、絶対にビザなしで国境を越えられる保障はない。
リエントリービザの取得に関しては、少し考えてみることにし、今日は先にカンボジアビザを取ることにした。
カオサンには、ビザの申請を代行してくれる旅行会社が山ほど存在する。料金に差はほとんどないようなので、ゲストハウスから程近い「ベスト・トラベル」という旅行会社で頼むことにした。担当者に手伝ってもらいながら申請書を記入し、日本から持ってきた証明写真をホッチキスで申請書にくっ付けた。これで手続きは終わりだ。嬉しいことに明日には受け取れるらしく、料金は日本で申請するよりも安い一〇五〇バーツだった。
ゲストハウスに戻る途中、インターネットカフェでホームページを更新・・・しようとしたが失敗。動作の不安定なパソコンで、一時間もかけて入力した文章が、送信ボタンを押す直前に消えてしまった。ショックはでかい。何の成果もなく三〇バーツを払い気分を害す。
リベンジとばかりに、別の店でもう一度入力した。今度の店はパソコンが使いやすく、スムーズにホームページを更新することが出来た。
昼寝。
三時間ほど眠った。
夕方、ゲストハウスの二階にあるインド料理レストランで日記を書いていると、突然大雨が降り始めた。スコールというやつだ。バンコクの人々にとってはいつものことのようで、通りの様子を眺めようと僕が窓際に近づいた時には、既に屋台や露店は撤収されていた。
ゲストハウスの従業員であるガジェンドラさんが僕の電子辞書に興味を示したので、どんなものなのかを説明してあげた。かなり小型のポータブルCDプレーヤーが出回っているタイだが、電子辞書のような商品はないようだ。
高橋歩の『LOVE & FREE ~世界の路上に落ちていた言葉~』という本を読んだ。昨夜、ユミさんが貸してくれた本だ。
妻であるサヤカさんと共に、二年近くに渡って世界中を旅した著者が、旅先で出会った言葉を、自らが撮りためた大量の写真と共に紹介した一冊だ。印象的なフレーズはいくつもあるが、一番はこれだ。
「サヤカの喜んだ顔が、好きだ。ごちゃごちゃ能書きをたれる前に、まずは、この女性を喜ばせることから始めよう。」
昨日と同じタイ風おかゆを食べに行った。
今日は、卵入りのおかゆに加えて、甘い煮込み系のスープもいただいた。とても安くておいしいのだが、欧米人はあまり好まないようで、客はもっぱら日本人や韓国人、仕事帰りのタイ人ばかりだ。
食後はカオサンをブラブラと歩いた。ポストカードや洗濯紐を購入。
今夜もこの通りは賑やかで、多くの旅行者がそれぞれの夜を楽しんでいる。酒に酔う者もいれば、露店で買い物をする者もいる。時にはおかまとも遭遇するが、有名なハッポン通りには、もっとたくさんいるのだろう。
ゲストハウスのレストランのテーブルを借りて、ユミさんと明日の計画を立てた。バンコク市内だけで三千以上もある仏教寺院を訪れつつ、チャイナタウンにも行ってみるつもりだ。
ところで、従業員のガジェンドラさんの故郷はネパールのポカラの方らしく、ポカラトークで盛り上がった。加えて、ゲストハウスとレストランのオーナーであるロシャンさんは、カンボジアビザの取得方法や国境の超え方を丁寧に教えてくれた。ここの人たちは本当に親切だ。
去年は、夢だった一人旅ができたことに感激した。
今年は、そんな去年の旅に戻れたという感動がある。
一年のうちのほんの一カ月余りの間だけれど、この短い期間に外国を旅する僕が、本当の自分なのだと思ってしまう。かっこつけた表現だが、旅の感動は僕にこうまで思わせてくれる。
一年の大半を、なんてちっぽけな世界で過ごしていたのだろう。日本の外には、こんなにでっかい世界があるというのに。
ゲストハウス 一二〇バーツ/朝食 二〇バーツ/お椀 一二〇バーツ/カンボジアビザ 一〇五〇バーツ/インターネット 六六バーツ/水 一〇バーツ/レターセット 二〇バーツ/ジュース 一三バーツ/ポストカード 三〇バーツ/洗濯紐 一八バーツ/夕食 四五バーツ
今日も十一時頃起きた。
朝食は昨日と同じ屋台へ。
お気に入りの店ができると、そこに通うことが楽しみになる。
昨日と同じメニューを注文し、ベンチに座って待っていると、相席の客がおいしそうな料理を食べているのに気付いた。白米の上に、タレに付けて焼いた肉と野菜オムレツがのったものだ。あまりに食欲をそそるので、勢いでその料理も追加注文してしまった。焼肉もオムレツもとてもおいしかったが、二人前の朝食のせいで、朝から少し胃が苦しい。
今日は、ユミさんとバンコク市内を観光する。
待ち合わせの十二時半、ゲストハウスのレストランで彼女を待っていると、ユミさんが一階から勢いよく駆け上がってきた。興奮する彼女の話によると、道端で出会ったタイ人が安く市内を案内してくれるらしく、ゲストハウスの前にトゥクトゥクを止めて待っていてくれているので、今すぐ出発しようとのこと。話の流れがつかめないままユミさんに連れられてゲストハウスを出ると、そこには一人のタイ人男性が立っていた。
トゥクトゥクのドライバーも出発の準備は万全のようだ。
ネコというかわいいニックネームのその男性は、ムエタイをやっているというだけあって腕がかなり太い。留学で日本に来たことがあるらしく、日本の街の名前をいくつか知っていた。
とにかくトゥクトゥクに乗れとのことなので、半信半疑、というよりも完全に彼を疑いながら乗り込んだ。
そういえば、トゥクトゥクに乗るのはこれが初めてだ。
乗り心地はインドのリキシャと変わらず、決して悪いものではない。
バンコクの排気ガスは時として強烈だが、窓のないトゥクトゥクには常時風が吹き込むので、案外排気ガスは気にならない。
最初に訪れた、というか連れていかれたのは、ワット・シタラムという小さな仏教寺院だ。
カオサンから東の方向へ走り、民主記念塔やゴールデン・マウント過ぎたところにある。
観光客は全くおらず、寺院内には特に見所はない。出くわした中年男性が長々と解説してくれたが、耳に残ることは何もなかった。
次に連れて行かれたのは、「ヴィーナス」という名のスーツ屋。
やはりタイもこのパターンなのだろうか。何かを買わせようったってそうはいかない。
店内は冷房が効いて快適だったので、説明を聞きつつ、「オーダーメイドのものは何日で仕上がる?」「日本人の客は多いの?」などと適当に質問をして店を出た。特別しつこくないので助かった。
インドでもタイでも、乗客をどこかの土産屋に連れていく習慣があるようだ。ドライバーは乗客を連れて行くことで、店から紹介料をもらえるのだろうか。どうあれ、このパターンは観光地に多い。
ネコさんは、
「今夜、オレのムエタイの試合があるから観に来てくれ。いい席で観せてやっからよ」
と言いながらも、途中でトゥクトゥクを降りて、どこかへ消えてしまった。
その後、同じとトゥクトゥクで、バンコクで最も有名な観光地であるゴールデン・パレスへ向かった。
ゴールデン・パレスに着き、トゥクトゥクのドライバーに料金を精算してもらうことにした。チャーターと変わらぬ乗り方をしたので、かなりの高額を覚悟していたのだが、意外にも二人で三〇バーツと安かった。このトゥクトゥクは、料金を受け取るとどこかへ消えていった。
ゴールデン・パレスは一七八二年に建設され、歴代の王族が生活してきた巨大な宮殿だ。
二〇〇バーツと非常に高い入場料を払い中へ。
敷地内には、派手な装飾を施した建物ばかりが並ぶ。金一色の建物や宝石が埋め込まれた建物、ほとんどの材料をイタリアから輸入した建物などなど。武器博物館なんてものも併設されていた。
今日は日差しが強かったので、日陰で休憩をとりながら、一時間ほどかけて宮殿内を一回りした。
ちなみに、この宮殿は五年前にも訪れているので、なんとなく見覚えのある建物が多い。
次に、巨大な寝釈迦仏があることで有名なワット・ポーへ行くことにした。
ゴールデン・パレスからは歩いていける距離にあるようなので、炎天下の中、ユミさんと歩道を歩いていると、突然、タイ人の中年のおじさんが話し掛けてきた。
「日本人かい?」
こんな切り出し方で接近してきたおじさんは、観光ガイド顔負けのバンコク情報を次から次に長々と話し続ける。
おじさんによると、ワット・ポーは現在閉鎖中とのこと。
そして、代わりにここへ行けと言って、僕の持っていた市内地図に印を付けた。その後、おっちゃんは通りすがりのトゥクトゥクを止め、タイ語で「この人たちを○○と△△へ連れてけ」とドライバーに指示し、僕らが言われるままに乗り込むと、さっさとその場を去っていった。不思議な人だ。
トゥクトゥクに連れて行かれたのは、ムエタイの練習場だった。
始めに訪れたワット・シタラムに程近いその練習場では、十代から二十代半ばほどの年齢の男たちがムエタイの練習に励んでいた。
練習場の奥に設置されたリングでは、一番強そうな男が、日本で流れているタイピングソフトのCMのごとく、力強いキックを連打していた。
リングの周囲では、若い選手たちが腕立て伏せや縄飛びで体を鍛えている。皆、筋肉はムキムキだ。
その後、マーブル・テンプルと呼ばれるワット・ベンチャマボーピットへ。
ここは、敷地内に川が流れている静かな寺院だった。パイナップルを食べながらのんびりと見学。
その後、今度は「トップテン」というスーツ屋に連れて行かれたが、今回も見るだけで店を出た。
カオサンに戻ってきたのは、夕方の五時過ぎだった。
何時間もトゥクトゥクを走らせてくれたのに、今日の料金はたったの二〇バーツでよいらしい。
ドライバーによると、タイ政府は外国人観光客の増加を狙い、タイ観光の象徴ともいえるトゥクトゥクの利便性向上に力を入れているそうだ。その政策の一環として、トゥクトゥクはガソリンを無料で補充でき、その分、運賃を低くしているという。観光客にはとてもありがたい政策だ。
後半のトゥクトゥクの運転手だったショクチャイさんは個性的な人だった。「日本語で○○は何て言うの?」と頻繁に質問し、僕やユミさんが教えてあげると、信号待ちの間にノートを取り出してメモを取るほどの勉強家。
しかし、性格はとにかく明るく、そんな彼のせいか、ユミさんを含めた僕ら三人はトゥクトゥク内でハイテンションな状態に。
サイドミラーに映る彼の笑顔は印象的だった。ただ、そんな彼でも、僕とユミさんが土産屋には行きたくないことを告げると、しょんぼり悲しい顔をする。彼がしょんぼりすると、なぜか僕とユミさんもしょんぼりしてしまう。だから、彼には笑顔が似合っている。
炎天下の中、半日外にいたので、肌はかなり焼けてしまった。
シャワーを浴び、屋台へ夕食を食べに行った。今日はタイ風ラーメンと焼きそばを堪能した。アジアの屋台は病みつきになる。
九時頃、ゲストハウスのベランダからカオサンの様子を伺うと、今日もたくさんの外国人旅行者が大騒ぎしていた。ここは一年中お祭りだ。
ちなみに、今日、無事にカンボジアビザを取得できたので、これでいつでも国境を越えられる。
ゲストハウス 一二〇バーツ/朝食 五〇バーツ/水 三五バーツ/ジュース 一六バーツ/ゴールデン・パレス入場料 二〇〇バーツ/ワット・ベンチャマボーピット入場料 二〇バーツ/果物 二〇バーツ/インターネット 三九バーツ/夕食 四〇バーツ/切手 七二バーツ/トゥクトゥク 二五バーツ
夜も眠らないカオサンは、時として容赦なく睡眠を妨害してくる。
昨夜十二時頃、あまりの騒音から部屋を飛び出し、ベランダからカオサンを眺めると、道を埋め尽くすほどの人が遊び歩いていた。真夜中でもたくさんの店が開いているので、日中より涼しい夜は、遊ぶのにもってこいなのだろう。
明け方五時に目が覚めたので、再びカオサンを眺めてみると、通りは静まり返っており、道行く人も数えられるほどだった。
十時に目覚まし時計が鳴ったようだが、無意識にアラームを止めていたらしく、正午近くまで眠ってしまった。この癖は、日本でも旅先でも変わらないようだ。
水シャワーを浴び、外に出た。
郵便局で手紙を投稿し、屋台へ飯を食いに行った。
初めて利用したその屋台は、目の前に並ぶ料理から好きなものを選ぶ方式のものだった。春雨に似た料理と鶏の唐揚げを選んだ。
テーブルに空きがなかったので、とある男性のテーブルに相席させてもらうことにした。相席した男性は、カトマンズ出身のラムさんといい、カオサン沿いの服屋で働いているそうだ。家族は九人もおり、ラムさん以外はネパールで暮らしているらしい。
家族は好きかと質問すると、自信満々に「もちろん!」と言っていた。
今後の旅のルートをガジェンドラさんと考えた。
当初、バンコクの次は、タイ有数のビーチリゾートであるパタヤに行こうと考えていた。しかし、パタヤからカンボジアへ抜けるルートは、存在はするもののあまり一般的ではないらしく、交通手段が確保しづらいそうだ。それならば、パタヤを含めたタイの観光地は、カンボジアやベトナムを訪れた後に、改めて検討すればよい。
とりあえず、バンコクの次は、カンボジアとの国境近くのアランヤプラテートへ行き、国境を越えた後、アンコール・ワットに程近いシェム・リアプという町を目指すことに決めた。アドバイザーのカジェンドラさんも、それがよいと賛成してくれた。
さっそくカンボジア行きのバスを予約するべく、先日カンボジアビザの取得代行でお世話になったベスト・トラベルへ。
シェム・リアプ行きのバスは、拍子抜けするほど簡単に予約することができた。出発日は明後日で、朝七時半にベスト・トラベル前に来ればよいそうだ。
ベスト・トラベルは、ラオスビザの取得代行も格安で行っており、是非ともここでお願いしたかったのだが、今日申請しても、受け取りは僕がカンボジアへと出発する明後日以降になってしまうそうなので、仕方なく断念。日本では一万五〇〇〇円以上かかるラオスビザの取得も、ここではわずか八〇〇バーツほどだった。
軽いジョークで、偽造国際学生証を作ってみた。
カオサンには、一〇〇バーツほどで、本物そっくりの学生証やプレスカード、トフルのスコアカードを作ってくれる露店がたくさんある。
都合よく、日本からお気に入りの証明写真を持ってきていたので、それで国際学生証を作ってもらうことにした。名前と生年月日、大学名を紙に書き、スペルやスペースを確認すると、あとは職人が偽造してくれる。もちろん、名前や大学名は偽りでも問題ない。大学名は悩んだ末に「KEIO BANKOK CAMPUS」としてみた。略して「KBC」だ。
偽造国際学生証は十五分程で完成した。完成度は高い。しかし、完成してからバンコクのスペルは「BANKOK」ではなく「BANGKOK」だということに気が付いた。一瞬がっかりしたものの、多少おかしなところがあった方が、偽造品らしいということで納得した。なかなか貴重な自分への土産ができた。
昼寝をした後、夕食を食べにユミさんとチャイナタウンへ。
トゥクトゥクで走ること約十分、ネオンに包まれたそこは、異様な活気を帯びたバンコクのチャイナタウンだった。至る所にタイ語と中国語の看板が出ている。
チャイナタウンの歩道は、どこもかしかも屋台に埋め尽くされているので歩行者は車の行き交う道路を歩かねばならない。
チャイナタウンでは、今は魚介類が旬なようで、エビやカニ、貝、さまざまなな魚が至る所に並び、注文が入るとその場で調理されている。一見したところ、客層はアジア人が多い。
何軒か見て回った後、なかなか活気のある一軒の店に入った。
ユミさんとテーブルにつき、メニューを読みながら四品ほど料理を注文する。
あっという間に出来立ての料理が運ばれてきた。
シューマイ、フカヒレ(だと思われるもの)のスープ、チャーシュー、ワンタンスープ、カキと卵の炒め物。
中国人は世界一の料理人といわれるだけのことはあり、どれもこれもうなるほどのおいしさだ。ちなみに、カキは当たるのではと心配したが、意を決して一気に食い尽くした。
チャイナタウンのよいところは、水の代わりに冷たいお茶をいくらでも飲ませてくれるところだ。お茶が底を突くと、店員がよく冷えたお茶をグラスに並々と注いでくれる。
終盤はやけくそに料理を口に入れなければならないほど、量が多かった。
別腹にデザートを収めるべく別の店に入った。
店内が日本のファミレスに似たその店は、鍋物の専門店だったらしく、僕とユミさんが席につくや否や、テーブルの上にだし汁がグツグツと煮えたぎる鍋が運ばれてきた。
構わずデザートのみを注文。温めたココナッツミルクの中に、正体不明の丸い物が入っているデザートだった。
デザートを食べていると、白髪のおじさんがビールを片手に近づいてきた。
「日本人か?」
「そうです」
「歳は?」
「十八です」
「若いね!」
「あなたは?」
「えっと・・・・六十四歳だ!」
大声で話しかけてくるおじさんは、酔いが回っているせいかとても機嫌がよい。
大声トークは長々と続き、だんだん店員から冷たい視線が飛ぶようになってきた。しかし、誰も注意しないところからすると、このおじさんはこの店のマネージャー級の人のようだ。その証拠といえるかはわからないが、おじさんは僕らを気に入ったらしく、近くの店員を呼び寄せ、記念撮影を撮らせた。
さんざん店に迷惑をかけた末、店を出る際、店員に先ほどのおじさんの正体を尋ねると、「あなたたちと同じよ」との答え。つまり、店内で散々好き放題やっていたあのおじさんは、ただの客だったようだ。
おじさんに手を振りつつ、僕とユミさんは足早に店を出た。
トゥクトゥクを拾い、カオサンへと戻る。
今回のトゥクトゥクは、今まで乗った中で最速のトゥクトゥクだった。夜のっ比較的すいた道が運転手に火をつけたのか、トゥクトゥクは猛烈なスピードで夜のバンコク市街を走り抜ける。三輪ということもあり、 カープでは車体が横転しそうだ。
「気をつけろ! 安全運転してくれ!」
と叫ぶが、逆効果だったらしく、運転手は調子に乗ってアクセルを踏み込んだ。
振り落とされないように必死になって車体にしがみつき、頭の中では旅行保険がどうなっていたかという小さなことを考えている間にトゥクトゥクはカオサンに到着。
ジェットコースターよりもスリリングだ。
しばしのチャイナタウンツアーは、かなり楽しいものだった。
チャイナタウンは、横浜の中華街のように世界中に存在するようだが、バンコクのチャイナタウンは規模も活気も世界有数ではないだろうか。華僑はどこへ行っても元気一杯で商売上手だ。いつもの数倍も僕にお金を使わせたことがそれを物語っている。
明後日の早朝にはカンボジアへと出発するので、明日が実質的にバンコク前半戦の最後になる。冷房で涼みながら日記を書くためではなく、たまには本来の食事という目的でゲストハウスのレストランを利用してみようかと思う。
ゲストハウス 一二〇バーツ/朝食 二五バーツ/切手 二八バーツ/ジュース 一五バーツ/昼食 二〇バーツ/バスチケット 二〇〇バーツ/偽造国際学生証 一〇〇バーツ/インターネット 四〇バーツ/お菓子 三五バーツ/夕食 二八五バーツ/トゥクトゥク 五〇バーツ
ユーロ・イン・ゲストハウスの人々はとても親しみやすい。
従業員のガジェンドラさんに至っては、その気さくさから一番の仲良しだ。
ネパール出身の二十五歳。バンコクで働き始めて、間もなく二カ月が経つ。
七人の家族はネパールで暮らしているとのこと。仕事に対してはとても真面目だが、だからといって頭の固い人ではない。僕のような旅行者と話をするのが楽しみのようで、僕がレストランで座っていると、しゃべりたそうな顔で近づいてくる。
タイの生活に関しては、まだまだわからないことが多い。トゥクトゥクの運賃の相場がわからないければ、街中の近づくべきではない、危険なエリアもわからない。露店で買ったものが高いのか安いのかも見当がつかないこともある。
しかし、そんな時こそ、ガジェンドラさんの出番だ。たとえ二カ月とはいえ、この街で暮らしている先輩として客観的にアドバイスをしてくれる。信頼できるガイドであり、頼れるお兄ちゃんのような存在でもある。
そんな彼と、ユミさんも加わった三人でおしゃべりをしていたとき、彼は突然、こんなことを口にした。
「僕は恋をしたことがない。でも・・・恋がどんなものかは知ってるつもりさ!」
興奮気味にそう口にした彼は、そのままどこかへ消えてしまった。おもしろい人だ。
屋台で買ってきた鶏肉入りの麺スープをゲストハウスのベランダで食べようとしていると、ガジェンドラさんが「おいで! おいで!」と冷房の効いたレストラン内に招き入れてくれた。レストランに食べ物まで持ち込ませてくれるなんて、なんて親切なのだろう。ユーロ・インが大好きだ。
その後、露店で腕時計を買った。
というのも、目覚まし時計は日本から持ち込んでいたものの、腕時計は持参していなかったからだ。暗闇でも文字盤が読めるバックライト機能付きのその時計には「GEO―STAR」という謎のメーカー名が刻まれている。店主の言い値は三八〇バーツだったが、最終的には三〇〇バーツにまでまけてくれた。
後に、ガジェンドラさんにその時計を値踏みしてみらったところ、四五〇バーツと言っていたので、今回はいい買い物ができたようだ。
ところで、タイ人やタイに暮らすネパール人やインド人は、外国人の中でもとりわけ日本人に対してとても優しい。日本人に対して何か特別な感情を抱いているように思う。それがなぜなのかはわからないが、とにかく、ふとした場面でタイの人々の優しさを感じるのだ。
このことを日本の友人にメールで伝えたところ、「日本にいるタイの人々にも親切にしなきゃね」とのメッセージが返ってきた。ごもっともだ。僕が接したタイの人々の日本人に対する印象は、僕の言動に少なからず左右されるはず。だからこそ、僕のような旅行者は責任ある行動をしなければならない。
夕方、ユミさんと一緒に、タイの伝統武道であるムエタイの観戦に行った。
カオサンからトゥクトゥクで五分、ラーチャダムヌーン・ボクシングスタジアムはそこにある。
平日は夕方六時に試合が始まるようだが、今日は日曜なので四時に始まった。
客席はリングに近いところから一五〇〇バーツ、八〇〇バーツ、五〇〇バーツと分かれている。日本語を話せる案内係の女性は、「八〇〇バーツと五〇〇バーツの席はリングから遠いし、周囲で現地人が暴れることもあるので危険です。一五〇〇バーツの席にしてください」と繰り返す。そうなのかなと思いつつも、一五〇〇バーツは高い。でも、何度も警告されると、不安になってくるのは確か。結局、間をとって八〇〇バーツの席にした。
ゲートをくぐりスタジアム内へ。
既に試合の始まっているスタジアム内には、客たちの歓声が響き渡っていた。
八〇〇バーツには、危険な雰囲気などまったくなかった。むしろ、リングからわずか五メートルほどの距離から観戦できるので、ものすごく贅沢なVIP席だといえる。選手の表情や飛び散る汗までもを確認できるほどだ。そんな席から迫力のあるムエタイを観戦した。
選手たちは若く、年齢は十代後半が中心のようだ。中には十五歳にもなっていないであろう、ややあどけなさの残る選手もいた。しかし、年がいくつであろうと、試合は真剣勝負であることには変わりない。
ムエタイの試合は、次のよな流れで行われる。
始めに、場内アナウンスで選手が紹介され、対戦する二人はリングに上がる。
その後、選手は上着を脱ぎ、パンツ一枚、両手にグローブの姿になる。そして、ここからムエタイ特有の試合前の儀式が始まる。
太鼓と笛と鐘の生演奏に合わせて、二人の選手は始めにゆっくりとリングサイドをロープに沿って一周する。
次に、リング中央でひざまずき、おでこをリングにくっつけて、何やら祈りを捧げる。
その後、二人は立ち上がり、全身を波のようにくねらせつつ、足を高く振り上げ、リング中央付近を歩き回る。そして、その動作が数分間続いた後に、ようやく試合は始まる。というより、この儀式も試合の内に入っているようだ。
試合は三分の五ラウンド制で行われる。激しい打ち合い蹴り合いはあるものの、ノックダウンで決着がつくことはまずなく、ほとんどが判定で決まる。
今日は一試合だけKOがあった。その試合では、第一ラウンドは青いグローブが一方的に赤いグローブを打ちのめしていたが、第ニラウンド開始二〇秒、一瞬の隙に赤いグローブの膝蹴りが青いグローブの顔面を直撃した。青いグローブはリングに沈み、立ち上がることなくタンカで運ばれていった。一方で、逆転勝ちした赤いグローブは、ロープに上って大喜びだ。生活のかかった戦いでは、一瞬の油断も許されない。
全部で八試合ほど観戦した。リング上で戦う二人は確かに観ごえたがあるが、ムエタイは他に3つ、見るべき部分がある。
一つ目は、リングサイドにいる選手のコーチたち。実際に戦う選手以上に、彼らはリングサイドで拳を振り回し大声を張り上げている。自分の選手が相手のパンチを食らうと、口を大きく開けて飛び上がっている。
二つ目は、客席の一画で音楽を演奏する人々。ムエタイの試合中は、太鼓と笛と鐘のリズミカルな音楽が途切れることなく生演奏されている。太鼓は叩いていればいいが、笛の人は三分五ラウンドを十試合以上も吹き続けなければならなく、もちろん交代などいないので、ものすごくつらそうだ。
三つ目は、スタジアム内で公然と行われている賭博だ。
スタジアム内のタイ人(若干の旅行者も)の九九%は、賭けのためにここに来ているようだ。システムの詳細はわからないが、どうやら第一、第ニラウンドで選手の様子を見て、第三ラウンドで賭ける選手を表明するようだ。試合が終わりに近づくにつれ、彼らの声にも熱が入り、最後にはほぼ全員が総立ちで選手を応援する。
ちなみに、そんな彼らは一番安い五〇〇バーツ席におり、八〇〇バーツ席との間には金網のフェンスがある。きっと暴れるのはこの人たちなのだろう。
スタジアム内には多数の案内係がおり、席を移動したり、食べ物を買いに行ったりするときなどにはとても親切にしてくれる。きっとムエタイファンをもっともっと増やしたいのだろう。また、女性の案内係も多いので、女性客は安心して観戦することができる。
席に関しては、リングに最も近い一五〇〇バーツの席より、賭けに燃えるタイ人の大声を背に、選手と同じ目線から観戦できる八〇〇バーツの席が絶対にお勧めだ。
真剣勝負の伝統武道ムエタイと、それと同じくらい見ごたえのある賭けに興じるタイ人たち、そして優しく親切に案内してくれる案内係の人々。タイの伝統や優しさ、面白さがたくさんつまったムエタイ観戦だった。
ゲストハウスに戻り、皆でおしゃべり。いよいよ明日はバンコク出発の日だ。
ユミさんとメルアドを交換し、皆で記念写真を撮った。オーナーも写真に入るよう勧めたが、照れくさいようで、結局入らず「ありがとね」とだけ言っていた。
一ヵ月後、再びここに戻ってくるのが楽しみだ。
ゲストハウス 一二〇バーツ/朝食 三〇バーツ/インターネット 四〇バーツ/ポストカード 三〇バーツ/水 一〇バーツ/腕時計 三〇〇バーツ/ヨーグルト 一〇バーツ/昼食 二〇バーツ/ホットドック 一〇バーツ/トゥクトゥク 五五バーツ/ムエタイ 八〇〇バーツ/夕食 七〇バーツ
六時過ぎにアラームの音で目覚める。
シャワーを浴び、朝のカオサンへ。
早朝のカオサンを歩くのは初めてだ。人通りは少なく、早朝営業のカフェでお茶を飲んでいる旅行者がちらほらいるぐらいだ。ほとんどの商店や屋台はまだ準備中なので、セブンイレブンで菓子パンとジュースを買って朝食とした。
七時半、五日間世話になったユーロ・イン・ゲストハウスをチャックアウト。
宿泊料は日払いで払っていたので、インド人オーナーに鍵を返すだけの簡単なチェックアウトだった。そのオーナーからは「ありがとね」の一言。こちらこそありがとう。
カオサンの一画にカンボジアのシェムリアプを目指す旅行者が集まりだした。
三十人ほど集まったところで一行は旅行会社の兄ちゃんに連れられてバスの待つ大通りへ移動。
バスは一階が荷物入れと少しの客席、二階は全て客席になった背の高いものだった。こういった大きなツーリストバスはバンコク市内の至る所で目にでき、見かけるたびに乗ってみたいと思っていただけに、朝からわくわくする。
バスの最後部の座席に腰を下ろした。
八時八分、バスはゆっくりと動き出す。
高層ビルや寺院の多いバンコク市内を二十分ほど走った後、バスは高速道路に入った。高速道路は一般道の上を通っており、バスの背の高さも重なってか、バスからの眺めはとてもよい。右にも左にも高層ビルが立ち並び、改めてバンコクの発展振りを実感する。対照的に、線路沿いには乱立する貧困層の家々も見られる。インドで見たのと同じ光景だ。
バスの乗り心地だが、これが予想外に悪い。座席のスペースが狭いのはある程度許せるが、冷房がかかっているのに車内がちっとも涼しくならない。窓から差し込む日差しがむしろ車内の温度を上げている気さえする。
一番かわいそうなのは欧米人だ。このバスには欧米人も多く乗っているのだが、誰もが巨体の持ち主。それにも関わらず、狭くて暑いバスに詰められて、まるで小人の国に迷い込んだ巨人のようだ。
午前中はひたすら高速道路をひた走る。その間、僕はずっと眠っていたので、すぐにお昼になった。
昼食場所は、カンボジアとの国境の手前数キロにあるレストランだった。
カンボジアビザを取得していない人はここで取れるのだが、代金は一二〇〇バーツと少し高くなっている。
昼食は一人でいた日本人女性と一緒に食べた。
カズミさんと名乗るこの女性は、既に一ヶ月近くこの辺を旅しており、九月までにカンボジア、ベトナム、ミャンマーを周るらしい。
年齢的には結構先輩のようだが、性格はとてもフレンドリーなので食後もバスの中でいろいろと話しながらに一緒にカンボジアを目指した。
午後一時過ぎ、ベトナムとカンボジアの国境に到着。
国境手続きがあるので、ここで一度バスを降りなければならない。
バスを降りると、小さな子どもたちがたくさん集まってきた。皆、何かちょうだいといったジェスチャーをし、片言の日本語を話す子もいる。
弟だろうか、小さな子どもを抱いた五歳ぐらいの女の子がやってきた。お金がほしいのか、何でもいいからほしいのか。そんな彼女を見ていて、ネパールに向かう途中で出会った、ビスケットをねだる女の子のことを思い出す。
バスに乗っていた旅行者一行が、ズラズラとイミグレの建物へと歩き出す。すると、待っていたかのように、背丈が僕の腰ほどしかない子どもたちが大きな傘を広げて、精一杯の背伸びをしながら旅行者に日傘をさし始めた。本当に小さな子が、巨大な欧米人の横を背伸びして歩く様が印象深い。
SARSに関するアンケートに答えたこと以外はいたって普通の国境越えだった。
カンボジア側の国境ゲートはアンコール・ワットをイメージさせる遺跡のような造りで、それをくぐると通りの両側には驚くほど巨大で豪華なカジノやホテルが並んでいる。建設中のものも多数あった。
午後二時過ぎ、違うバスに乗り換えて国境を出発。
最初の数キロは、バスが揺れはするものの、一応舗装された道路だった。道の左右にはどこまでも平原が続き、時々高さ数十メートルの岩山が見える。景色も悪くない。
しかし、三十分も走ると赤褐色の土のデコボコ悪路が地平線まで続くようになった。かなりしんどい。横で熟睡している韓国人が信じられない。
途中何度かトイレ休憩をはさみつつ、そんな悪路を進むこと五時間。目的地のシェムリアプには夜の八時頃に到着した。辺りは既に真っ暗だ。
飛行機で到着したデリーも、激走ドライブの末に着いたスナウリーも、ラフティングの末にトラックをヒッチハイクしてまでして着いたカトマンズも、到着はすべて夜だった。
夜の到着はいつだってドキドキする。眠る場所が見つかるか不安だからだ。
だが今回は心配なかった。シェムリアプには安宿が多く、それ以前にバスは旅行会社が提携する「サーティーンス・ヴィラ」というゲストハウスの前に止まったからだ。
どこに泊まるかは各自の自由だが、旅行会社提携のゲストハウスは小ぎれいで、バスやトイレも各部屋についている。しかも一泊三ドルという値段は、予算的にも都合が良い。今夜はここに泊まることにした。
部屋に荷物を置いた後、同じバスに乗ってきた数人の日本人旅行者と一緒に夕食を食べた。
メンバーは、先ほどのカズミさんと、仕事休みを利用してタイとカンボジアを旅行しているタロウさん(もちろんかつてネパールで知り合った太郎さんではない)とヨウスケさん。タロウさんとヨウスケさんは共に二十台半ばで、同じ会社の同期とのこと。
とりあえず冷えたビールで乾杯。潤いのないバス移動だったので冷えたビールは格別にうまい。そして、それぞれ好きなものを食べた。
タロウさんとヨウスケさんはタイバーツと日本円しか持ち合わせておらず、両替は店が開く明日までできないということで、とりあえず僕が二〇ドルを貸してあげた。
カンボジアにはリエルという独自の通貨があるが、米ドルもリエル同様に使うことができる。ゲストハウスやツアーの料金は、リエルよりもドル払いの方が一般的のようだ。
夕食を食べつつ、旅の話に花が咲く。皆いろんな所を旅しているので、各自の面白いエピソードを披露し合った。ラオスで射殺されそうになったカズミさん。インドでマラリアにかかり死にかけたタロウさん。旅先でトイレに困り、ヒルトンホテルに駆け込んだヨウスケさん。みんな懐かしそうに語ってくれた。
もちろん、旅行者は旅先で旅の話ばかりをしているわけではない。会社や学校のことも話すし、自分の故郷の話などもする。例えば、ヨウスケさんは、僕の出身高校に近い神奈川大学の出身だったので、「六角屋のラーメン食べました?」などとローカルトークで盛り上がったりもする。
そんな会話の途中、同じバスに乗っていた謎の男性旅行者も会話に加わった。
その彼は、本当に謎めいている。年齢は五十代。中国生まれだが、フランスのパスポートを所持している。そして、中国語やフランス語はもとより、イタリア語、ドイツ語、アラビア語、タイ語、若干の日本を操る。しかし、基本的には英語を話すようだ。職業は医者らしく、旅に出てからはもちろん仕事をしていない。これまでに六十カ国以上を旅してきたそうだ。
彼の話は哲学的で、中身も幅広い。人生から相対性理論まで、あらゆることについて語りだす。
「平行線は決して交わらない。でも、もし東京とカンボジアに、空に向かって垂直に伸びる棒が立っていたら? 空に向かって垂直なら、二本の棒は平行なはず。しかし、実際には地球の中心で交わる。地球は丸いからだ」
何を暗示するのか、僕の頭では理解できないのだが、どうあれ面白い話を次から次にしてくる。
この人はすごい人なんだなと感心したものの、
「私は四万人の生徒を抱えるカンフーマスターだ」
などと突然言ってくるので、ただのおかしなおっちゃんなのかなとも思ってしまう。
とはいえ、話は盛り上がり、日付が変わっても皆でワイワイとしゃべり続けていた。
今日出会ったばかりの人たちと、こんなに大笑いしながらおしゃべりできるのはなぜだろう。
朝食 三六バーツ/インターネット 一〇バーツ/パイナップル 一〇バーツ/ジュース 二五バーツ/昼食 四〇バーツ/ヌードル 四五バーツ/水 二〇バーツ/ゲストハウス 三ドル/夕食 三ドル
移動の疲れもあり、十時起床。
シェムリアプに大きなホテルやゲストハウスが多い理由は何か。それは、世界遺産であるアンコール遺跡があるからだ。
シェムリアプの中心部からアンコール遺跡までは約七キロ。遺跡は広大なエリアに点在しているため、旅行者はチャーターしたバイクやタクシーで訪れるのが一般的だ。
しかし、僕はあえてそこを自転車で行く。自転車だと、チャーターした運転手に気を使うことなく、自分のペースで見学できるからだ。
ゲストハウスの従業員は「きついぞ」「不可能だ」なとど警告してくるが、実際に過去に知人が自転車でアンコール遺跡を回っているから問題はないだろう。
自転車は、ゲストハウスが貸してくれた。料金は一日二ドルという安さだ。フレームに「埼玉県警察」と書かれたシールが貼ってある所から、昔は日本で使われていたなかなかの年代物であることが伺える。
帽子をかぶり、タオルを首に巻いた農作業スタイルで元気に出発!
アンコール遺跡へと続く一本道をひたすら漕ぐ。
鼻歌を歌いながら、追い抜いていくバイクやタクシーに手を振りつつがむしゃらに漕ぐ。
途中のゲートで、二〇ドルもする一日入場券を購入し、更に先へと漕ぎ進める。
出発から三十分、ようやくアンコール・ワットに到着した。
アンコール・ワットは、十二世紀前半にアンコール王朝のスーリヤヴァルマン二世によって、ヒンドゥー教の寺院として建てられた。建設には三十年以上の歳月が費やされたという。
その敷地は一辺が約一・四キロの正方形の形をしており、その周囲には幅一〇〇メートルほどの濠(いわゆるお堀)が設けられている。敷地内には、中心部に五つの塔が建ち、更にそれを囲むように三つの回廊が敷かれている。
そんなアンコール・ワットは、実は日本とも少なからず関係を持っている。一七世紀、当時の将軍徳川家光の命を受け、長崎の島野兼了という男は、当時無人だったアンコール・ワットに足を踏み入れた。そして、彼は寺院を仏教修行者の住居である祇園精舎と思い込み、寺院の図を描いたという。その後、肥前の武士だった森本右近太夫一房は、この祇園精舎に思いを託し、父の菩提を弔うために仏像四本を寺院に奉納し、その柱に墨書を残したという。(以上、ガイドブックからの受け売り)
それから二百年後の一八六〇年、フランス人博物学者のアンリ・ムーオが密林に眠るアンコール・ワットを再発見し、それによってアンコール・ワットは世界中に知られる物となったという。今では、カンボジアの国旗に描かれていることからもわかるように、アンコール・ワットはカンボジアを代表する遺跡だ。
とりあえず、そんなアンコール・ワットの前に自転車を置き、敷地内へ向かう。
すぐさま、小さな子供たちが本やポストカードを売ろうとまとわりついてくる。いちいち相手をしていられないので、漫画のごとく「あれは何だ!」と遠く指差すと、案の定子供たちは顔をそらしたので、その隙にアンコール・ワットに突入した。
遺跡の第一印象だが、アンコール・ワットはかっこいい。というのも、石造りの寺院は長い年月の間に変色し、苔が生え、とても落ちついた色合いなっているのだ。アンコール・ワットは色が良い。
二〇〇メートルほどの参道を歩くと、順に三つの回廊とぶつかる。その先には高さが六〇メートルほどの中央塔と、それを囲む四基の塔が建っていた。
中央塔に上ってみたが、側面の階段は非常に急で、手すりなしではとても上り下りできない。足を滑らせでもしたら、石造りなだけに即死するだろう。手すりにしがみつき、下を見ずに一気に上った。
塔の上にも回廊のようなものがあり、所々から外を眺めることが出来る。その眺めは印象的だ。足元には先ほどの三つの回廊と参道が見え、その先は深い森が地平線まで続く。空には雲が多く、青空の部分もある一方で、雨が降り、雷も鳴っている。
遺跡周辺には、直径が二メートル近くある巨木がある一方で、高さが二〇メートル以上で、先端にだけまん丸と枝や葉のついたマッチ棒のような木もある。そして、なぜだかトンボが多く、雨の中でも飛び回っている。
塔の上に腰を降ろし、手紙を書いた。何か贅沢をしている感がある。
ふと気付くと、近くにオレンジ色の布を体に巻いた三人の仏教修行僧がいた。遺跡までの道中、彼らは、自転車で走る僕をバイクで追い越していったので、顔は知っている。
最年長の青年が、僕の手紙を覗き込んできた。そして、不意にひらがなを読み始めた。僕が驚き、顔を見ると、彼は「どうだ、驚いたか!」とばかりに笑っている。
ひらがなを読んだ彼のビゲンといい、現在二十二歳。そのビゲンの弟分のような残りの二人の名はトーイとティーといい、見た目は十二歳だが、実際は十七歳だという。英語はあまり出来ないものの、簡単な単語と身振りで多少なりともコミュニケーションをとることはできた。僕のガイドブックを見せたところ、ビゲンはひらがなのみならず、カタカナと数字も読むことができた。いったいなぜ読めるのだろうか。
アンコール・ワット遺跡には石が欠けたり、崩れたりしている箇所が多く、現在もその修復作業が行われている。修復された部分は、周囲と色が違うのですぐにわかる。敷地内には「アンコール・ワット修復調査団」と日本語で書かれたトラックも止まっていた。
参道を戻っていると突然ドシャ降りになった。仕方がないので、参道の脇にて雨宿り。
現地の子供たちも雨宿りにやってきた。
しばらくすると、石の隙間から雨漏りが始まった。石の床にある直径三センチから五センチほどのクレーターのような小さなへこみは、雨漏りのせいだと気付く。一滴の雨でも、何世紀にも渡り同じ箇所にポタポタと落下すれば、石をも削る力となるようだ。
よっかかっていた石柱をよく見ると、表面に細かな文字が彫り込まれていた。何と書いてあるかはわからないが、膨大な数の文字だ。寺院の入り口付近の壁に描かれているレリーフも非常に繊細なもので、九〇〇年近く前に人間が手作業で彫ったものとはとても信じられない。そんなレリーフの一画には、その辺の石でひっかいたのだろうか、落書きも少しだけあった。まさか日本人の落書きはないよなと探したところ、今回見た限りでは見つからなかった。
アンコール・ワットは、寺院全体のバランスが良く、見ていて安定感がある。長い回廊と変色したその色が、あるいはそもそもの石という材質が、そう感じさせるのかもしれない。
アンコール・ワットはここまでにし、アンコール・ワットのすぐ近くにあるプノン・バゲンという小山に登った。高さは六〇メートルなので、わずか十分で登頂できた。頂上にも遺跡があり、九世紀末に建てられたものそうだ。
ちなみに、プノン・バゲンの頂上からはアンコール・ワットの全貌が眺められるとガイドブックに書いてあったが、実際にはアンコール・ワットまでは少し距離が遠く、遺跡周辺の木々が生い茂っていることもあり、全貌ではなく部分的に眺めることしかできなかった。
続いて、プノン・バゲンの隣にひっそりと存在するバクセイチャム・ロングというピラミッド型の遺跡へ。
ここは観光客に見落とされやすい場所らしく、係員が一人ポツンと寂しそうに立っていた。軽くおしゃべりして仲良くなり、自転車を屋根の下に置かせてもらう。アンコール遺跡を自転車で回ると、なぜか係員が優しくしてくれる。
バクセイチャム・ロングの階段は、アンコール・ワット同様に命に関わるほど急だが、手すりの一つも付いていない。なので、四つん這いで一気に上りきった。
頂上には誰もおらず、遺跡を一人占めしているようで何だか気分が良い。頂上から先ほどの係員に手を振ると、ニコヤカに手を振り返してくれた。
そろそろ下りるかと思ったときに気が付いた。上りはともかくとして、手すりのないこんな急な階段を下るのは無理だということに。悲劇だ。
自転車を漕ぎ、アンコール・ワットの北にあるアンコール・トムへ。
ここはクメール王国最盛期の十二世紀末から十三世紀初めにかけて、ジャヤヴァルマン七世という人物が築いた城砦都市だ。アンコールはサンスクリット語で「都市」を意味するナガラという言葉に由来し、トムはクメール語で「大きい」を意味する。
その名が示す通り、アンコール・トムはアンコール・ワットよりも大きい。その敷地は一辺が約三キロの正方形の形をしており、面積に関してはアンコール・ワットの四倍以上ということになる。
ただ、遺跡自体はアンコール・ワットと似たようなものなので、遺跡マニアでない僕はそれを横目に先へと進んだ。
周囲に点在する遺跡を目指して、雨でぬかるんだ一本道をひたすら自転車で進む。
しかし、何かおかしい。さっきまでたくさん走っていたバイクや車が、前からも後ろからも来なくなった。変だなと思いつつも、それ以上は気にせず、先に進んだ。
だんだん道のぬかるみがひどくなり、タイヤがとられるようになってきた。
左右には樹海が広がっている。
アンコール遺跡周辺には、未だに地雷の撤去作業が済んでいないエリアが多いという。観光客が行くような場所は問題ないだろうが、こういった樹海内にはまだまだ地雷が埋まっているかもしれない。そう考えると、自分がいかに無防備の状態でアンコール遺跡を見学していたかを思い知る。同時に、日本の生活がどれほど安全かということも実感できる。
薄暗い一本道を数キロ進むと、巨木が道をふさぐように倒れていた。だから車が走っていないのだろう。
後々考えると不思議に思うが、巨木を前にした僕は、わざわざ自転車をかついで巨木を乗り越え、さらに先へと進んだ。なぜ後戻りしなかったのだろうか。
しばらく行くと、何やら遺跡が見えてきた。小さいながらも立派なアンコール遺跡の一部だ。
長く厳しい道を漕いできたせいか、自分がこの遺跡の第一発見者だと勝手に決めつつ、今日はこの辺で勘弁してやるかとばかりに同じ道を戻った。しかし、正直なところ、道中武装ゲリラに襲われるのではと不安に思い、もしものときの対処法まで考えていた。
本線に戻り、タ・ケウとタ・プロームという二つの遺跡を見学。
タ・プロームはひどく崩れていた。ここまで修復作業が来るのは数十年後かもしれない。
「シェムリアプ 十二・五キロ」という衝撃的な標識に従い、雨の中をがむしゃらに漕ぎ進んだ。服はびしょ濡れで、日焼け止めを塗った腕は白くなっている。寒さからか睡魔にも襲われた。
結局、ゲストハウスに戻れたのは夜七時近く。レンタル代のニドルを払ったとき、一日を共にした自転車が苦難を乗り越えた相棒に思えた。
アンコール遺跡よ、また訪れる日までさようなら。
ゲストハウス 三ドル/水 一ドル/駐輪代 〇・五ドル/朝食 一・五ドル/昼食 一ドル/夕食 三・五ドル/インターネット 二ドル/アンコール遺跡入場料 二〇ドル/レンタサイクル 二ドル
目が覚め、枕元のアラーム時計を見ると午後二時。
半日無駄にしてしまったと思い、慌てて部屋を飛び出した。
ゲストハウスのレストランで朝食をとっているとき、再度時計を見ると朝の八時だった。不思議に思い、ゲストハウスの従業員に時間を尋ねると、やはり朝の八時だという。日差しの強さからしても、昼過ぎとは思えない。どうやらアラーム時計を逆さまに見ていたらしい。
今日も自転車を借り、ゲストハウスを出発しようとしていたら、日の出を見てきたのだろうか、タロウさんやカズミさんが帰ってきた。
タロウさんたちから貸した二〇ドルを返してもらい、再出発。
カンボジアには子供のための無償の病院がある。
首都プノンペンにある二つのカンタボパ病院と、ここシェムリアプにあるジャヤヴァルマン七世病院だ。なぜ無償かというと、カンボジア国民の九十五パーセントは、貧しさから子供の医療費や健康維持費を払うことができない。しかし、だからといって医療を受けさせなければ子供たちは健康に育たず、場合によっては病気で死んでしまう。そこで、子供達が健康に育つための道として、この三つの病院が創設されたのだ。
この三つの病院の創設者であり、今も監督者として現役で活動しているのがスイスのチューリッヒ生まれのビート・リッシナー医師だ。
彼は一九七四年にチューリッヒ大学を卒業し、すぐにカンボジアに派遣された。当時のカンボジアは戦時中だったので、しょっちゅうロケット砲が飛んできたり、外国人に対して退去勧告が出されたりと大変だったそうだ。
その後、彼は一九九一年に再びカンボジアを訪れ、その時にカンボジアの国王から直々に病院の復興を依頼された。最初は建物をきれいにすることから始め、徐々に設備を整え、翌年の十一月に小さな小児科医院を開院したという。
当時のスタッフは、外国人十二人と現地人六〇人。現在は、外国人二人と現地人一二六〇人にまでなった。外国人スタッフと現地人スタッフの比率からわかる通り、この病院は現地人医療従事者を育てるためのトレーニング施設としても大成功している。
そんなこの病院の運転資金は年間一三〇〇万ドル。ほとんどが個人からの寄付によるものだそうだ。資金の五〇パーセントは薬剤購入に、三〇パーセントは現地人スタッフの給料に、一五パーセントは医療器具の補充や光熱費に使われているという。
カンボジア政府がこれら三つの病院に全ての運転資金を支給できるようになるまでの今後十年間、病院は寄付を必要としている。同時に、子供たちの命を救うことは一つの義務であると訴えてもいる。更に、カンボジアを訪れる若い旅行者には、金銭的な寄付の代わりに、献血によって子供の命を救う手助けに参加できる道を提供している。
そういうわけで、今日は献血に行くことにした。
ジャヤヴァルマン七世病院はアンコール遺跡を向かう一本道の途中にあり、ゲストハウスからだと自転車で五分ほどだ。
入り口の係員に献血をした旨を告げると、笑顔で案内してくれた。
院内にはさすがに子供が多く、たくさんの親子が診察のために順番待ちをしていた。
献血をする部屋は冷房が効き、子供が叫ぶ待合室とは対照的にとても静かな空間だ。
初めに体重を計った。若干痩せた気がする。
その後、いくつかのアンケートに答え、いよいよ献血に移る。
昨年インドを旅行したことで、日本では一年間献血を禁止されていたので、血液をとられるのは久しぶりだ。
日本と同様に血圧を測り、腕を消毒する。二日前に痒さからかきむしった箇所について少しだけ尋ねられたが、献血に影響はないらしく、採血針を刺された。一瞬痛い。
今回提供したのは三五〇ミリリットルのとても健康で、知的で、貴重な若者の血液。その採血はあっという間に終わり、謝礼にもらったファンタを飲みながら少しだけ休憩した。
その後、なぜかポラロイド写真を撮られ、続いてビスケットとステッカーと記念Tシャツをもらえた。記念Tシャツは真っ白で清潔だ。最後に、一日一回飲むようにとピンクと茶色のタブレットを一週間分渡され、今回の献血は終了。
献血室を出ると、生まれたばかりだろうか、見たことのないほど小さな赤ちゃんが泣きながらベッドに寝ていた。しばらく観察する。
のんびり自転車を漕ぎ、郵便局でポストカードを買う。十枚で四八〇〇リエルだった。リエルといえば、今日一〇ドルを両替したら三万八五〇〇リエルになった。大金のようだが、減るのは早い。
ゲストハウスでポストカードを書き、切手を貼って投稿した。十日ほどで日本に着くとのこと。
インターネットカフェに寄った後、ゲストハウスに戻ろうと自転車に乗ると後輪がパンクしていた。誰かのいたずらか、あるいは単に寿命だったのか。どちらにせよ、修理代を請求されると面倒なので、静かにゲストハウスに返却しておいた。
昼寝。四時間ほど眠った。
夕方、ゲストハウスのテレビでNHKを見た。ブラスターワームというコンピュータウィルスが世界中に広がっているらしい。明日の神奈川は雨らしい。阪神のマジックは二十三らしい。
明日の朝のプノンペン行きのバスチケットをゲストハウスで購入した。
チケットには八ドルと書かれているが、四ドルでいいとのこと。チケット代を払うついでにゲストハウスの宿泊料金と食事代を精算した。全部で二五・一ドルだった。
プノンペンについて予習しようとしたが、ガイドブックが見当たらない。どうやら、インターネットカフェに忘れきたようだ。仕方なく、取りに行った。時間は夜十時近いので外を歩くと少し怖い。
部屋に戻り日記を書いていると誰かがドアをノックした。
ドアを開けると、タロウさんとヨウスケさんとカズミさんが立っていた。三人は一日観光し、帰りに軽く呑んできたようだ。「呑み直しますか」ということで、部屋まで誘いに来てくれたらしい。そんなわけで行ってきます。
ゲストハウス 三ドル/朝食 二ドル/インターネット 二ドル+一〇〇〇リエル/昼食 一・五ドル/パイナップルシェイク 〇・八ドル/ポストカード 四八〇〇リエル/切手 二五五〇〇リエル
昨夜は結局二時頃まで呑んでいた。
日本では出会うことなどないであろう者同士でも、旅先では深夜まで酒を酌み交わせる。旅先の出会いはいいものだ。
四時半起床。シェムリアプ最終日ということで、アンコール・ワットの向こうから昇る朝日を拝むことにしたのだ。
タロウさんとヨウスケさんを起こしに行った。二人ともかなり眠たそうだ。カズミさんも間もなく現れた。
ゲストハウスの前にはバイクタクシーが待機している。前日に言っておけば、こんな早朝でも迎えに来てくれるのだ。その忠実さには頭が下がる。
まだ暗いシェムリアプの街をバイタクで行く。
アンコール遺跡からの日の出や日の入見学は有名な観光アトラクションのようで、自分たちと同じようにアンコール遺跡を目指す旅行者がちらほら見られる。
アンコール遺跡には、警備員が二十四時間体制で駐在しており、観光客に対しては入場券の有無を確認してくる。
僕以外の三人は三日間有効の入場券(六〇ドル)を持っているので問題ないのだが、僕は既に有効期限の切れた一昨日の一日券しか持っていない。もしかして入れないのかなとも思ったが、日の出は遺跡の敷地外から見るらしく、入場券が必要な寺院内に入ることはないので警備員も通行を許可してくれた。
日の出は気球に乗って空から見ることができる。
その気球はアンコール・ワットの西方一キロほどのところに固定されており、料金は一人一一ドルだ。少し高い気もするが、今しかないチャンスを逃すのも嫌だ。絶好のタイミングで日の出を見られるように、四人で寒さに震えながらテイクオフのときを待った。
係員からオーケーサインが出たので気球に乗り込む。ちなみに、気球は地上とロープで繋いであるので、空を自由気ままに漂えるわけではない。それでも、かなりの高さまで上昇するようだ。
午前五時四十三分、気球はゆっくりと地上を離れた。
みるみると高度が上がり、あっという間に地上二〇〇メートルの地点へ。四人とも子供に戻って大はしゃぎだった。
アンコール・ワットを足元に、オレンジ色に輝く東の地平線を眺める。
地平線は次第に明るくなるのだが、地平線付近に雲がかかり、なかなか太陽は顔を出さない。
静かに数分待つと、とうとう眩しい太陽が顔を出した。
感動!
僕は地球にいる!
大自然の神秘!
カンボジア万歳!
言い過ぎだろうか。しかし、その光景は確実に僕の脳裏に焼き付いた。
正味二十分のフライトは、あっという間の出来事だった。
七時過ぎ、三日間世話になったサーティーンス・ヴィラをチャックアウトし、タロウさんとヨウスケさんとは握手で別れた。ちなみに、カズミさんと例のカンフーマスターは同じバスでプノンペンへ向かう。
プノンペン行きのバスは座席が一つ足りていなかった。しかも、最後に乗り込んだのは僕だったので、僕は自動的に運転手の真横の補助席に座ることとなった。大きなバスなので眺めはいいが、運転手はスピード狂で、何度も人を引きそうになる。落ち着いて座っていられない。しかも、太陽の強い日差しが正面から差し込んでくるので、暑くてたまらない。
シェムリアプからの数キロは平らな道だったが、途中からはひどくデコボコした悪路となった。バスも時速一〇キロ程度しか出せない。
そんなデコボコ道に揺られていたら、突然あることを思い出した。大陸横断ヒッチハイクの旅で有名な「進め!電波少年」というテレビ番組の中でやっていた「電波少年的アンコール・ワットへの道の舗装」という企画だ。もう三年以上前のことだと思う。
その企画は、日本で選ばれた二十人ほどの男達が、最終目的地をアンコール・ワットとし、そこへと続く一〇〇キロのデコボコ道をスコップやリヤカーといった単純な道具だけでひたすら舗装していくというものだ。
当時それをテレビで見ていた僕は自分にもできると意気込んでいたが、(実際の道とは違うかもしれないが)今その現場に来てみると、あの企画は生半端なものではなかったということを実感し、果たして本当に自分にもできたかどうか疑問に思う。
まずなにより、日差しが強い。外はジリジリとした暑さで、運良く雲が太陽を隠す以外には悪路に日陰を作るものは何もない。
そして、悪路の程度がひど過ぎる。直径三メートル、深さ五〇センチほどのクレーターのような穴がそこら中にあるのだ。故意の掘ったのではと思うほど大きな穴だ。
こんな道を一〇〇キロにも渡って舗装し続けることは、正直人間のなす業ではない。参加者たちは並外れた忍耐力の持ち主だったのだろうが、それにしても、いったい彼らのやる気を支えていたのは何だったのだろうか。
プノンペンが近くなるにつれて、道の状態は良くなっていった。
夕方五時、バスはカンボジアの首都プノンペンに到着した。
マスターとはホーチミンでの再会を信じて、ここで一度お別れだ。彼とはバスの中でたくさん話をしたが、正直惚れてしまった。今まで会った中で一番尊敬できる旅人だ。只者どころではない。
バスを降りると大勢の客引きが「うちのゲストハウスに来い!」と腕を引っ張ってくる。久しぶりに味わうインド級のうっとうしさだ。
カズミさんはこの強引な客引きがショックだったらしく、少し元気がない。
とりあえず宿で落ち着くことにした。
見つけたのは静かな路地を入ったところにある「テキン・ゲストハウス」。部屋がきれいで、料金も一泊三ドルと安い。何より、若い従業員のさわやかな接客が決め手だった。
チェックイン後、プノンペンで有名なキャピトルツアーという旅行会社に行き、ベトナム行きのチケットを手配した。カズミさんはバスでベトナムのホーチミンへ。僕は船で国境を越えてみたかったので、ボートでベトナムのチャウドックへ。二人とも明後日の朝出発だ。
夕方、市内のセントラルマーケットを見学した。
ドーム型のマーケット内には所狭しと時計や宝飾品が並び、屋外には衣服や雑貨、ポストカード、食品と何でもあった。
いろんな物の値段を聞きまくる。
クッキー(八〇〇グラム)ニドル、ゲームボーイカラー三五ドル、プレイステーション六〇ドル、VCDプレーヤー四五ドル、DVDプレーヤー八〇ドル、ポータブルMDプレーヤー四五ドル、MD五枚八ドル、ワイヤレスマイクニ本一一ドル、デジタルカメラ八〇ドル、スマートメディア(一二八メガバイト)五〇ドル、スーツケース五〇ドル、歯ブラシ二〇〇〇リエル、かつら一五ドル、ヘルメット一三ドル、三十二型平面ブラウン管テレビ四二〇0ドル。
もちろん、同じ商品でも店によって値段はまちまちだ。
ゲストハウスでベトナムビザの申請代行をお願いし、カズミさんと夕食へ。
ゲストハウス近くの屋外レストランで鍋料理を食べた。カズミさんはビール、僕はスプライトで渇きを癒す。
鍋の中には肉も入ってはいるのだが、それ以上にとにかく葉っぱが多い。その辺の草むらに生えている、いわゆる葉っぱだ。
そんな大量の葉っぱを昆虫のように食べ続けたので、腹はパンパンだ。周りの客も同じく葉っぱで満腹になっている様子。
一方で、そんな屋外レストランの客席を、残った料理を貰おうと静かに歩き回る貧しい人々もいる。
今日はゆっくり休みたい。
気球 一一ドル/バイクタクシー 二ドル+一五〇〇リエル/ボートチケット 六ドル/ゲストハウス 三ドル/フランスパン 五〇〇リエル/水 二〇〇〇リエル/サンドイッチ 二〇〇〇リエル/昼食 六〇〇〇リエル/イヤホン 一五〇〇リエル/ポストカード 三〇〇〇リエル/夕食 一六〇〇〇リエル/ジュース 二〇〇〇リエル
今日軽くプノンペンを観光する。しかし、中身は重いかもしれない。
九時にゲストハウスからバイクに乗って出発。目指すは市内から西へ一二キロ程行った所にあるキリング・フィールドだ。
一九七五年から七九年にかけて、カンボジアを掌握していたのはポル・ポトという政権だった。
ポル・ポト政権はカンボジア全土に恐怖政治を敷き、都市住民の多くを農村へ連行し、強制労働に従事させた。その後、以前政権を握っていたロン・ルノ派の処刑を皮切りに、多くの知識人、技術者、そして一般人を虐殺した。四年間で国民の三分の一が命を取られたという。
そんなポル・ポト政権は、七九年にベトナムの侵攻によって倒れ、カンボジアには親ベトナムのヘン・サムリン政権が誕生した。それにより、四年間に及ぶポル・ポトの恐怖政治は幕を閉じたのだが、その歴史は今も忘れられていない。
キリング・フィールドは、その名の通りポル・ポト派により約二万人の住民が虐殺された現場だ。
一帯は一見小さな公園のようになっているが、敷地内のガラス張りの塔を見ると目を疑う。おびただしい数の人間の頭蓋骨が積み上げられているのだ。その数は九〇〇〇近いとのこと。
塔の周辺には直径四、五メートル、深さ一・五メートルほどの穴が無数に存在する。連行された人々は、ポル・ポト派に散々傷つけられた後、生きている者も死んでしまった者も一様にこれらの穴に放り込まれ、そのまま埋められたという。
穴の周囲には今でも、虐殺された人々の衣服の切れ端が散らばっている。足元に埋まっていた切れ端の頭を引っ張ってみたが、とても固くて引っ張り出せなかった。相当深くまで埋まっているのだろうか。
人骨の多くは掘り出されたが、それでも未だにかなり多くの人々がこの地に埋まっているそうだ。
なんとも異様な世界だ。ここへ連行される人々は、自分達が殺される事を知っていたのだろうか。移送トラックの中では何を思っていたのだろうか。
一旦ゲストハウスに戻り、併設のレストランで昼食をとる。
カンボジアでは、川や湖で獲れる魚がおいしいと聞いていたので、魚料理を注文した。クメール語でトライチュラーと呼ばれる白身魚とパイナップルの炒め物が出てきた。身はやわらかく、油ものっていて確かにおいしい。嬉しい事に量も多かったので、ライスと一緒にバクバク食べた。
午後はカズミさんと共に、プノンペン市内にあるツール・スレーン博物館へ。
ここはポル・ポト政権が多くの一般市民を収容し、拷問し、処刑した場所だ。元々は学校だったらしく、施設は三階建ての建物が三棟並んだ造りになっている。
一階の拷問室には、錆びたパイプベッドがポツンとあり、収容者の腕や足を固定するための金属の鎖が所々に落ちている。壁には当時の写真が展示されており、写真には拷問によって身体を傷つけられ、ベッドに倒れてしまった収容者が写っていた。腕や足には鎖が巻かれ、体が動く気配はない。
建物の二、三階には、独房や集団収容室がある。
独房は教室内をレンガや木材で十部屋ほどに区分けした造りになっており、一部屋の広さは畳一畳程度だ。用をたすために使うのだろうか、小さなフタ付きの金属製箱が無造作に置いてある。
集団収容室の壁には、等間隔に数字が書いてある。説明書きを読んだところ、収容者はこの部屋で奴隷船のように隙間なく床に寝かされていたようだ。
ある展示室には数千人の収容者の顔写真が貼られていた。皆、無表情で目が死んでいる。もちろん、写真に写るのは、老若男女を問わない全ての一般市民だ。周囲には、拷問の様子を描いた絵も展示されている。むごい。
屋外には、鳥居のような形をした木製の台があった。絞首刑に使用したものかと思ったが、そんな甘いものではなかった。
説明書きによれば、収容者はこの台から逆さまに吊るされ、意識を失わされる。すると、台の下にある汚水の入った壺に頭を入れられるのだ。あまりにも衝撃が強いので、収容者は意識を取り戻す。すると、再び逆さまに吊るされ、失神させられる。これをひたすら繰り返えさせられるそうだ。
ポル・ポト派はこれを何年も続けていた。人間のやる事ではない。
この収容所で拷問された人々は、やがて先ほどのキリング・フィールドへ連行された。約二万人が収容されたこの施設から生還したのは、わずかに数人だったという。
理解できないことは、このような拷問や大量虐殺が七〇年代後半という比較的最近に行われていたことだ。四年間も続いた異常な事態を前に、他国は何をしていたのだろうか。当時のポル・ポトには、そんなにも強い力があったのだろうか。
夕方、ゲストハウスの近所にあった映画館に行った。
四〇〇〇リエルも払って観た韓国語映画は、クメール語に吹き替えられていた。まったく面白くない。タイトルさえわからない。
夜、明朝でお別れのカズミさんと屋台で夕食をとった。
地元石川県でアジアン雑貨店をオープンさせるために、その買付けをしながらアジアを旅しているカズミさん。市場で熱心に商品を観察していたのが印象的だ。姉さんというあだ名がぴったりの、優しく面倒見の良い人だった。またベトナムかバンコクで会うかもしれないが、それまで元気でやっていてもらいたい。
旅行中は毎日日記を付けているが、書きたいこと全てを書くことは難しい。日々いろいろなことがあるので、とても全ての感動や悔しさなんかを覚えていられないのだ。メモをとるようにはしているが、それでも間に合わない。
旅の記録という点で、この日記は自分にとって大切なものになるだろう。しかし一方で、忘れてしまった記憶があるのも悔しいことだ。
その時、その一瞬を確実に頭に焼き付けねばならない。ボーっとできるのはいつになるのやら。
旅で大切なもの、それは一に記憶、二に命、三にビザとスタンプで埋まったパスポートだ。
キリング・フィールド入場料 二ドル/昼食 二ドル/切手 三ドル/ツール・スレーン博物館入場料 三ドル/国立博物館入場料 三ドル/夕食 二ドル/ゲストハウス 三ドル/ベトナムビザ 二六ドル/水 三〇〇〇リエル/切手 五〇〇リエル/バイクタクシー 二〇〇〇リエル/ジュース 二〇〇〇リエル/映画 四〇〇〇リエル/菓子 三〇〇〇リエル
朝起きると、既にカズミさんはホーチミンへと出発したらしく、従業員が彼女の部屋を掃除していた。
八時にキャピトルツアーへ。
出発まで時間があったので、併設するレストランで朝食をとった。野菜とキノコの麺料理だ。
キャピトルツアー前に「チャウドックボート」と書かれたワゴンが止まったので乗り込んだ。
しばらくするとワゴンは出発。自分以外の乗客は、小奇麗な服を着た同年代の女の子だけ。顔つき荷物から見て、旅行者ではなさそうだ。
ボートには、プノンペンを流れるトレンサップ川から乗るのだと思っていたが、いつまでたってもボート乗り場に着く様子はない。乗り場は離れているのだろうか。
なぜか途中で、赤ちゃんを抱いた二組の女性がワゴンに乗ってきた。そしてしばらくて、同乗した後、お金を払って降りていった。
結局ワゴンは、プノンペン市街から二時間も走り続けた。一時は、このままワゴンでベトナムへ連れて行かれるのかと思ってしまった。
同乗していた若い女性は、相当に車酔いしたらしく、かなりつらそうだ。これからボートに乗るのに大丈夫なのだろうか。
ボートは船体が黄色く、長さ二〇メートル弱、幅三メートル程の比較的大きなものだった。
乗り込むとボートはすぐに出発し、インドシナ最大の河川メコン川を下り始めた。目指すはベトナムのチャウドックだ。
メコン川はその源をはるか彼方のチベット高原に持つ。そこから中国、ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジアを旅してベトナムへと流れている。全長は約四五〇〇キロだ。
ボートは揺れが少なく、とても快適だ。
添乗のおっちゃんが、ベトナムの出入国カードと健康調査書を渡してくれた。同時に二〇ドル分の両替をしてもらった。一ドル一万四五〇〇ドンのレートなので、合計で二九万ドンになり、一枚の二〇ドル札が札束と化した。
穏やかなメコンをのんびりと下る。
空はよく晴れ、遠くでは輪郭のはっきりした雲が綿菓子を作っている。
本を読んだり爪を切ったり。パチンッパチンッといい音だ。
ここに来て、ガイドブックも『地球の歩き方』の東南アジア版からベトナム版へとチェンジだ。元々、インドシナ旅行というよりもベトナム旅行を企てていたので、胸が弾む。
十二時過ぎにボートを降り、川沿いにあるカンボジアのイミグレで出国手続きをした。
そこから一キロほどさらに川を下ると、今度はベトナムのイミグレがある。健康調査所を提出し、手数料らしき二〇〇〇ドンを払った。
その後、パスポートを添乗のおっちゃんに預けて、近くの店で昼食をとった。ベトナム最初の食事は、ソウメンよりももっとやわらかい麺の上に、野菜や肉がのり、それに酸味のあるスープがかかったもの。ベトナム流によく混ぜてから食べる。いよいよ、夢のベトナム料理満喫生活が始まったのだ。
しばらくするとおっちゃんが戻ってきて、パスポートを返してくれた。昨日取得したばかりのベトナムビザの横には、既にベトナムの入国スタンプが押されていた。入国手続きは本人がしなくてもよいようだ。
長さ一〇メートル、幅一・五メートル程の細長いボートに乗り換えて、一路チャウドックを目指す。
次第に川幅は狭くなり、川岸には民家が見られるようになる。草を刈る人や船から荷を下ろす人、その船を直す人。子供達は必死に手を振り、それに応えると大喜びする。
途中、川の十字路があった。二本の川が直角に交わり、道路の交差点と同じようになっている。いったいどういう流れになっているのだろうか。
油断していたら、大きな船の波が自分らの乗るボート内に飛び込んできた。大声を出した時にはもうびしょ濡れだ。ベトナムからの挨拶と受け取ろう。
適度な揺れと、意外に心地良いガーというエンジン音に包まれて、ボートの上で昼寝をしてしまった。ボート内を吹きぬける風が気持ち良い。が、だんだん寒くなってきた。
国境から一時間、ボートはチャウドックに到着した。
川沿いに見てきた民家とはうってかわり、チャウドックの町並みはよく整備されている。町の所々にニセミッキーマウスの置物があり、なんだか楽しい世界だ。
同乗していた女性はベトナム人だったようで、ボートを降りると、バイタクを捕まえてさっさとどこかへ消えてしまった。
今夜は添乗員のおっちゃん紹介のゲストハウスに泊まることにした。
シャワー、トイレ、ファン付きで一泊三ドル。即決だ。真っ白なシーツが敷かれた柔らかいベッドが気持ちいい。
ところで、ベトナムでは外国人がホテルやゲストハウスに泊まる場合、宿側にパスポートを預けなければならない。従業員曰く、警察に持って行くそうだが、その理由は明らかではない。
部屋に荷物を置き、すぐに外に出た。明日にはホーチミンへ移動したいので、バスのチケットを買うのだ。
ゲストハウスの従業員の女性にチケット売り場の場所を尋ねるが、あまり英語が通じなかった。身振り手振りも交えて、なんとかホーチミンに行きたいことを伝えると、ゲストハウスから出るミニバスを勧められた。しかし、料金は一〇ドルもするそうなので、仕方なく断った。
チャウドックは小さな町なので、たいていの場所へは歩いて行くことができる。ただ、バスターミナルだけは離れたところにあるので、今日この町に到着したばかりの外国人には少し難しい課題だ。
道を歩くと、たくさんの看板を目にするのだが、どれもこれもベトナム語なので全く理解できない。文字はアルファベットだが、英単語との関連性はなさそうだ。
道行く人にバスターミナルの場所を英語で道を尋ねても、まったくといっていいほど通じない。ベトナムはどこにいっても英語が通じないのだろうか。
ガイドブックに載っていた「バスターミナル」という意味のベトナム語を見せると、一人のおっちゃんがわかってくれ、方向を教えてくれた。
その方向へ一人歩いていると、サイクルリキシャのような自転車が近づいてきた。漕いでいる青年が、後ろに乗れと言っているような気がするが、なにしろ言葉が通じないので本当のところはわからない。
そんな状況に困っていると、後ろから先ほどのおっちゃんがやって来て、明らかに「乗れ!」という身振りをする。その後、おっちゃんは一〇〇〇ドン札を指し示し、青年に対して何やら強い口調で言っている。どうやら「おい! この人をバスターミナルへ連れてってやれ! 一〇〇〇ドンでだぞ! わかってんのか!? このバカタレが!」と言ってくれたようだ。
そんなおっちゃんのおかげで、一〇〇〇ドンでバスターミナルに行くことができた。ちなみに一〇〇〇ドンは日本円で一〇円ぐらいだ。
バスターミナルの窓口でチケットを買ったが、やはり言葉が通じず大苦戦だった。
ガイドブックには、ホーチミンまで三万二五〇〇ドンと書いてあったが、実際には五万二〇〇〇ドンもした。しかも、六万ドンを渡すが、釣り銭をくれない。僕なりに文句を言うと、窓口の人は困った顔をする。
すると、偶然居合わせた英語を話せるバイタク運転手が間に入ってくれた。彼によれば、釣り銭は僕をここまで連れてきてくれた青年が持っていったという。その青年はもうどこかへ行ってしまっていたので、どうしようもない。
せっかくなので、英語が話せる彼に、バスチケットの説明をしてもらった。ホーチミン行きのミニバスは、明日の午前一一時出発とのこと。
バイタク運転手のおかげでチケットも手に入ったので、帰りは彼のバイタクを利用した。しかも、五〇〇〇ドンを三〇〇〇ドンに負けてくれた。
英語が話せる彼には、明日もバスターミナルまで送ってもらうことにした。明日は五〇〇〇ドンを払ってやると約束する。彼の名前はワン。日本に友達がいると言っていたが、おそらく嘘だろう。
小腹が空いたので、道端の屋台で軽く食事をとった。
目の前の料理の中からおいしそうなものを指差すと、屋台のおばちゃんがどんぶりによそってくれた。
現地の人は皆、道端にしゃがんで食べているので、僕もそれをマネすると、おばちゃんが百円均一で売っているようなプラスチック製の小さな椅子を出してくれた。さらに、手が熱いだろうとどんぶりを二重にまでしてくれた。
あっさり味のスープがうまい麺料理。上にはネギや鶏肉がのっている。これでたったの三〇〇〇ドンだ。
近くで同じように食べていた男性が「こっちへ来い」と手招きしてきた。近づくと「そこは道路で危ない。ここで食べなさい」というようなことを身振りで言ってきた。なんて優しいんだろう。
帰り際に「コンクァー!(おいしい)コモン!(ありがとう)」と言ったところ、無事通じたらしく、屋台のおばちゃんは笑顔になった。
ゲストハウスに向かって歩いていたら、とある親子が家の庭でバドミントンをしていた。
「やりたい・・・」
家の前に立ち、やりたいオーラを必死に出した。
オーラは二〇秒で親子に達し、父親がラケットを貸してくれた。
しばし息子と打ち合う。素晴らしい国際交流だ。
一発鋭いスマッシュを打ったところ、突然のことに子供はビックリ。すると父親が息子からラケットを奪い取り、「俺がやる!」とばかりに打ってきた。
二人で夢中になって打ち合う。チャウドックではドライブの打ち合いが流行っているようだ。
今日はこの旅で一番言葉に困った日だった。けれど、この旅で一番たくさんの親切に出会った日でもある。
ベトナム入国果たしたぜぃ!
バイクタクシー 一〇〇〇リエル+四〇〇〇ドン/朝食 二〇〇〇リエル/水 二〇〇〇リエル/昼食 一万三〇〇〇ドン/健康調査手数料 二〇〇〇ドン/バスチケット 6万ドン/コーラ 八〇〇〇ドン/屋台の面料理 三〇〇〇ドン/夕食 六〇〇〇ドン/ジュース 四〇〇〇ドン/ゲストハウス 三ドル
数日前から気になっていることがある。腕に何やらブツブツができているのだ。今日は特にはっきりとブツブツが現れている。蕁麻疹かもしれない。
九時頃起き、朝のチャウドックを散歩しがてら市場で朝食。
まだチャウドックしてか見ていないのだが、ベトナムの女性はよく働く。市場や屋台で商売しているのはほとんどが女性だ。そしてそこで買い物をしているのも女性ばかり。
そんな彼女らの多くは、美しい服を身にまとっており、アオザイを着ている人もいる。ベトナムらしい円錐形の傘のような帽子を被る人も目立つ。
昨日のワンは、約束した十時半になっても現れなかった。約束を破ったので彼のことは忘れ、自転車タクシーでバスターミナルへ。
ミニバスは十一時過ぎにチャウドックを出発した。車内には運転手の他に十人程のベトナム人が乗っており、旅行者は自分だけ。
バスは快調に田舎道を飛ばす。
途中で雨が降ってきた。が、故障なのかワイパーが動かない。助手席の男性が強引に手動で動かしていたら、直に直った。
泥で濁ったメコン川を左に見ながら、ホーチミンを目指してバスは走る。
途中、バスごとフェリーに乗っかり、メコン川を渡る一面もあった。メコン川の川幅は、広いところでは五〇〇メートルをも超える。
本を読んだり、昼寝したり、バスが停車すれば外の空気を吸いに出たり。
地図上ではわずかな距離に思えたが、チャウドックとホーチミンは意外に離れており、到着したのは夕方の六時過ぎだった。
道中、生々しい事故現場を五回以上も目撃した。あれだけ皆がスピードを出し、追い越ししばかりしていれば、事故も増えるだろう。
ホーチミンにはデタム通りという安宿街があるそうなので、とりあえずバイタクでそこまで行くことにした。
料金の相場がわからず運転手には一ドルを渡したが、今思えば払い過ぎだったように思う。そもそも、ベトナム通貨ではなく、ドルでの支払いに応じた時点で僕の負けだった。
デタム通りは、バンコクのカオサンロードほど大きな規模ではないが、そこには旅行者には嬉しい一通りの店は揃っている。というより、ホーチミンはベトナム経済の中心地だ。チャウドックとは発展のレベルが違う。スポーツバーやレストランは欧米人だらけだ。アジア系の人はほとんど見かけない。
今夜はデタム通りにある小さなゲストハウスに泊まることにした。英語を話せる小柄なおばあちゃんがやっているゲストハウスで、客室は五部屋ほどしかない。しかし、各部屋にトイレとシャワーがついており、料金も三ドルだ。
チェックイン後、チャウドックにはなかったインターネットカフェへ。
一分一〇〇ドンという料金システムになっており、二時間余り使って一万三〇〇〇ドンだった。なんと一ドルもしていない。この辺りのインターネットカフェの相場は他よりもかなり安いようだ。
夕食は、屋台にてベトナムを代表する麺料理であるフォーを食べた。付け合せのエビが少し気になった。僕はエビが嫌いだ。
ゲストハウスに戻り一息。やはり腕のかゆみが気になる。背中もかゆくなってきた。
ところで、今朝チャウドックのゲストハウスでパスポートを返してもらったとき、入国スタンプの下に「PERMITTED TO REMAIN UNTIL 31/8/03」というスタンプが新たに押されていた。まさかと思いゲストハウスの女性に確認すると、案の定ベトナムに滞在できるのは八月いっぱいだとのこと。それを超えて滞在すれば、いわゆる不法滞在者になる。
今月いっぱいでいくつかの街を訪れつつ、ハノイまで北上するのはあまりに忙しない。ホーチミンのイミグレでビザの延長をしなければならないようだ。
それにしても、入国カードには滞在期間を三週間と記しておきながら、それを真正面から裏切ってくるなんて、ベトナム恐るべし。
やっぱりかゆいな。
朝食 六〇〇〇ドン/コーラ 八〇〇〇ドン/水 二〇〇〇ドン/自転車タクシー 二〇〇〇ドン/サンドイッチ 五〇〇〇ドン/インターネット 一万三〇〇〇ドン/夕食 五〇〇〇ドン/バイクタクシー 一ドル/ゲストハウス 三ドル
今日は昨日発覚したベトナム滞在期間問題を処理する。
八月三十一日までの滞在しか許可されなかったということで、ビザを延長しようと思う。そうすれば最大で一カ月長く滞在できるはずだ。
バイタクでホーチミン市内のイミグレーションオフィスへ。
イミグレは人でごった返していた。
オフィス内にはいくつも窓口があり迷ったが、総合窓口らしき所があったので、そこでビザを延長したい旨を告げた。すると、窓口の職員が申請用紙を渡してきたので、傍らで記入した。
記入した申請用紙を窓口に提出すると、女性職員(以下職員A)は、僕のパスポートをチラッと覗き、「なんで延長したいの?」と尋ねてきた。いくつかの街を訪れたく、そのためにはもっと滞在期間が必要であることを告げると、彼女は「二週間で十分よ」とあっさり僕を切り捨てた。
イミグレがだめなら旅行会社を通して延長してやろうと思い、ベトナム中に支店を有する旅行会社シンカフェへ。
担当者に事情を説明すると、ビザの延長は所要五日で二五ドルかかるとのこと。料金は比較的安いが、所要五日だと週末をはさむ関係で一週間以上ホーチミンから出られなくなってしまう。そんなに長くこの街でのんびりする気はないので、シンカフェでの延長は断念した。
その後、ガイドブックに所要三日と紹介されていたICCトラベルサービスという旅行会社に電話してみた。ベトナム人が日本語で対応してくれ、確かに所要三日、料金は三五ドルで延長代行をしてくれるらしい。
さっそくバイタクを捕まえ、ICCのオフィスへ。
オフィス内には電話で話した女性がおり、さっそく延長申請の手続きをしてくれた。今週末には延長したビザを受け取れるらしく、これで一安心だ。
が、すぐに新たな問題が発覚した。
ベトナムビザには数タイプあり、僕のはDタイプのものだそうだ。そして、そのDビザは延長ができないとのこと。よって、今あるビザの延長ではなく、新たなビザの申請をしない限り、制度的に滞在期間を伸ばすことはできないそうだ。
再申請すれば済むことかもしれないが、それには延長以上の料金がかかってしまう。予算に限りがある僕にとっては無視できない問題だ。
どうすればよいか悩んでいると、新たな事実が発覚した。
その事実とは、僕のビザには、有効期限は八月十五日から十月十五日までの二カ月間であることが明記されていたのだ。
ICCの女性スタッフ曰く、このことからすると、今月一杯しか滞在許可が下りていないので、明らかに滞在許可を出した公安側のミスだそうだ。
すぐに女性スタッフは、「この旅行者は二カ月間有効のビザを保有しているにも関わらず、二週間しか滞在許可が下りていません。一週間のビザの延長をお願い申し上げます」という内容の書類をベトナム語で作ってくれ、それを持って公安局へ行くよう後押ししてくれた。
すぐに公安局に行き、男性の公安官に先ほどの書類を見せた。公安官は書類をじっくりと読んだ後、「ここへ行け」とどこかの住所を教えてくれた。
住所の場所へ行くと、なんとそこは今朝行ったイミグレオフィスだった。本日二回目の訪問となる。
再度職員Aの窓口へ行き、書類を見せた。彼女もじっくり読む。そして、これでビザ問題は解決だと思い、内心ホッとしていた僕に向かって、「これを書いた人をここに連れてきなさい」と一言だけ言い、あっさりと次の人の対応に移ってしまった。
何だか僕が外国人であるが故に、対応がお粗末な気がしてならない。
ICCに戻り、公安局とイミグレでのことをスタッフに伝えた。書類を作ってくれた女性はイミグレへ出向くことを了解してくれ、今は昼休みということで、午後一時に改めてICCに来てほしいとのこと。
一時になり、再びICCへ行くと、午前中はいなかった日本人の女性スタッフが出勤していた。名前は藤田さんという。
彼女にこれまでの経過を日本語で説明した。すると、やはり二週間しか滞在許可が下りていないのは公安のミスなので、滞在期限は延長されるはずだとのこと。既に、問題はビザの延長ではなく、公安のミスに移っている。
藤田さんが日本語の話せる通訳を雇い、イミグレで滞在期限の修正を要求するよう勧めてきた。そして、イミグレで話をするときは、憤慨した態度をとるようにとアドバイスをしてくれた。ベトナムでは、こういう場面では攻め気が大切らしい。
二時間後、通訳のクンさんが現れ、いよいよ出陣となった。
本日三回目のイミグレへ。
職員Aの窓口に立ち、ビザについて話をしたいことを伝えた。そして、事前に打ち合わせた通り、クンさんが公安のミスを指摘し、滞在期限の修正を主張してくれた。
しかし、女性Aも何やら反論してきた。その勢いにクンさんは一瞬ひるむ。
藤田さんの言葉を思い出し、僕も立ち上がり、頭に血が上ったふりをして主張した。
「二カ月間有効をビザに明記しておいて、なんで二週間なんだ!」
「たった二週間でこの広いベトナムをどうやって回るんだ!? ハノイまで行くんだぞ? ハノイがどこかわかるか?」
「大学でベトナム文化を研究してるんだ! はるばるベトナムまで来たのに、これじゃあ調査も何もできやしない!」(これは嘘)
「入国カードの滞在期間欄には三週間と書いたぞ! あんたらはそれを読んだ上でスタンプ押したんじゃないのか!? スタンプ押したのはあんたらだろ? 同僚だろ? 責任取ってくれよ!」
ここぞとばかりに、眠っていたブロークンイングリッシュで攻めたてる。帽子をテーブルに叩き付け、職員Aの顔をにらみつけた。
この状況に職員Aは困り果て、上司らしき男性職員を連れてきた。
事態を理解した男性職員は、ゆっくりと説明を始める。
「あなたのビザはDタイプのものです。Dビザは二週間のみ有効なので、ビザに記されている二カ月間という有効期間は間違いだといえます。ですから、申し訳ありませんが、やはりあなたは二週間しかベトナムには滞在できません・・・」
そんなことを言われても、こっちは二カ月間有効のビザを申請し、受け取ったビザには二カ月間有効と記されているからベトナムに来たのだ。これでは納得がいかない。負けじと強く言い返す。
クンさんは既に通訳兼仲裁者になっていた。
結局男性職員は「次の方が待っているのでお引き取りを・・・。次の方どうぞ!」と強引に話を終わらせた。
クンさんは「もうダメです。戻りましょう」と一言。
悔しすぎる。
ICC作戦本部へ戻り、結果を報告した。
やはり根本的には公安に非があるはずだが、例ええビザに有効期間が二カ月と記されていても、前提としてビザがDタイプである以上、どうにもならないという結論に至った。
こうなってしまった原因としては、一つはカンボジアでベトナムビザを受け取った際、きちんと内容を確認しなかったことが挙げられる。もちろん、僕は確かに有効期間二カ月のビザを申請した。しかし、当局のミスなのか、故意になのかはわからないが、結果として二週間だけ有効のDビザをつかまされた。
もう一つは、チャウドックで「PERMITTED TO REMAIN UNTIL 31/8/03」というスタンプを見た際、それを問題視せず、まして間違いではないかということを主張することもなかったことが挙げられる。
スタンプが押されて間もないあの時点で間違いを主張しておけば、ビザはすぐさま修正されたかもしれない。
二週間でハノイまで行き、三十一日までにベトナムを出国することは可能だ。ただ、訪問都市はかなり減らす必要がある。
一方で、書類を作ってくれた女性スタッフと藤田さんとクンさんからのアドバイスをまとめたところ、たとえ三十一日を過ぎても、一週間程度の不法滞在なら、さほど問題なく出国できてしまうそうだ。
ただ、出入国管理官次第のところもあり、場合によっては袖の下を使う必要もあるとのこと。相場は一〇ドル。
この不法滞在を袖の下で解決する秘策について、ベトナム人と日本人では反応が対照的だったのが面白い。
書類を作ってくれたベトナム人の女性スタッフは「大丈夫! 大丈夫! 一週間過ぎても国境通れる! ベトナム人、あまりパスポート見ないよ」と楽観的な姿勢。
一方、日本人の藤田さんは「もしものこともありますし・・・、今後ベトナムを訪れる際にも影響を受けるかもしれませんので・・・」と慎重な姿勢。
話をまとめると、道は二つ。
一つは、ベトナムビザを延長ではなく新たに申請し、合法的に三十一日以降もベトナムに滞在する。この場合、国境は気兼ねなく通過できるが、新たにビザを申請するために六〇ドルを払わなければならない。
もう一つは、クンさんたちの言うように、三十一日以降は意図的に不法滞在をし、国境は先ほどの秘策で通過する。国境では、ベトナム語はおろか英語もわからない外国人を装い、ビザに記された二カ月という有効期間を信じていたふりをする。この場合だと、追加で払うお金は袖の下に使う一〇ドル程度で済むが、三十一日以降はやや後ろめたい日々となり、更にはいつか再びベトナムに入国する際、今回の不法滞在歴が多少なりとも影響するかもしれない。
憎き職員Aに屈した形になるのは嫌だ。
僕は迷わず後者を選んだ。
それにしても、僕のトラブル処理に一日中協力してくれた通訳のクンさん、そしてICCの皆さん、心から感謝します。
バイクタクシー 八〇〇〇ドン/朝食 七〇〇〇ドン/昼食 一万三〇〇〇ドン/ビザ延長申請用紙 一〇〇〇ドン/ポストカード 三万三〇〇〇ドン/切手 二万四〇〇〇ドン/アイスコーヒー 一万三〇〇〇ドン/インターネット 七〇〇〇ドン/ボールペン 二万ドン/水 四〇〇〇ドン/古本 三万ドン/夕食 六〇〇〇ドン/サンドイッチ 四〇〇〇ドン/ゲストハウス 三ドル/通訳 一〇ドル
気が済むまで眠り、眠れなくなったら朝食へ。
朝食はデタム通りの路地裏にある屋台でとった。しかし、不幸にもその屋台のフォーははずれだった。トマトベースのスープが極めてまずい。肉は入っておらず、付け合せは豆腐や皮をむいたトマトらしきもの、そして何かの内臓。残すのも悪いので無理して食べたが、しかし、本当にまずい。にもかかわらず、屋台はベトナム人客でそこそこの賑わいをみせていたから不思議だ。味覚の違いだろうか。
今回の旅では、一つだけやらなければならないことがある。それは、とあるベトナム人を訪ね、その人がホーチミンでやっている善哉屋の写真を撮ることだ。
東急東横線の菊名に「ベンタイン」という小さなベトナム料理屋があるのだが、ベトナム料理に興味があった僕は、大学に入学してから友人たちと時々その店に行くようになった。
店にはインチキくさい怪しい雰囲気が漂うが、ベトナム人の店長はとても気さくで優しく、金のない僕らにはよく料理をおまけしてくれる。もちろん、料理人はベトナム人なので、味は文句なしだ。
今回僕がベトナムを旅することになり、そのことを店長に話すと、それなら弟の店の写真を撮ってきてくれとお願いされたのだ。つまり、ホーチミンで善哉屋をやっているベトナム人というのは、店長の弟なのだ。善哉屋は最近オープンしたばかりだという。
ベトナムには店長の弟が二人いるらしく、一人はその善哉屋さん、もう一人はヒエンさんといい、同じくホーチミンで日本語のガイドをしているそうだ。
ヒエンさんの電話番号は事前に店長から教えてもらっているので、ホーチミンに着いた今、ようやく連絡をとることができる。
デタム通りの公衆電話から電話をかけてみた。
電話はすぐに繋がった。しかし、ノイズが多い上に、日本語を話せるはずのヒエンさんはわけのわからないベトナム語で話してくる。会話にならない。
旅行会社の固定電話を使わせてもらい、再びかけてみた。しかし、やはり言葉が通じない。日本語ができるのではなかったのだろうか。
隣にいた旅行会社のベトナム人スタッフが電話に出て、ベトナム語で話してくれた。すると、ヒエンさんは不在で、僕が話していた相手はヒエンさんの職場の同僚だったことがわかった。その上で、旅行会社のスタッフはヒエンさんと連絡のとれる携帯電話の番号を聞きだしてくれた。
すぐにその番号にかけてみるが、繋がらない。しばらく間をおいてみることにしよう。
ゲストハウスに戻る途中、背後から「あー!」という声。
振り返ると、プノンペンまで一緒だったカズミさんがいた。隣のゲストハウスに泊まっているらしい。
旅のルートが似ているので、再会は驚くべきことでもないのだが、それでも会話は弾む。
彼女はプノンペンにて、僕と一緒にベトナムビザを申請していたので、気になるビザを見せてもらうと、やはり彼女も二週間有効のDビザになっていた。しかし、滞在期限を示すスタンプは、きちんと十月までの二カ月間になっていた。羨ましい。
カズミさんはこれからホーチミンで知り合った日本人旅行者数人とバインセオがおいしい店に行くという。バインセオとは、ベトナム風のお好み焼のことだ。なかなか興味をそそるイベントなので、僕もご一緒させてもらうことにした。
バインセオがおいしいその店は、デタム通りからタクシーで数分のところにあった。軒先には、バインセオを焼く大きなフライパンが八枚ほど並んでいた。
席について間もなく、名物のバインセオが運ばれてきた。
バインセオは菊名のベトナム料理屋でも食べたことがあるが、ここのはサイズがでかい。薄くパリパリに焼いた卵の中に、モヤシやエビ、豚肉などがたっぷりと入っている。ここでの正しい食べ方は、まずレタスのような葉を手にとり、そこに熱々のバインセオと数種類の香りの強い小さな葉をのせる。そして、それらをそのままレタスでくるみ、レモン汁と酢を混ぜたようなタレにつけて口に放り込む。
本当においしい。皮のパリパリ感がたまらない。
バインセオと一緒に生春巻きと揚げ春巻きも食べた。大勢だといろいろ注文できてお得だ。
昼過ぎ、デタム通りから程近い、有名なベンタイン市場に行ってみた。
ここはホーチミン市最大の市場だそうだが、これまでにもいくつもの市場を見てきたせいか、ベンタイン市場に限って特別に大きいとは思わなかった。
市場に入ると、まずは布地と衣類を扱う無数の店が目に入ってくる。その奥には生活雑貨店が並び、隅には食堂がある。さらに奥へと進むと、生肉や魚貝類、生鮮野菜を売る店が並び、市場らしい活気が漂う。やはりここでも、商売の主役は女性のようだ。土産にコーヒーを一袋だけ買った。
デタム通りに戻り、再びヒエンさんに電話をかけたが繋がらず、延々としゃべる女性オペレーターの声だけが聞こえてくる。
インターネットネットカフェにいると、突然スコールが始まった。この辺りは降るときと振らないときとがはっきりしている。降れば必ずどしゃぶりだ。
鉄道チケットの販売代理店で、明日のニャチャン行きのチケットを買った。空席状況はコンピュータで管理されており、とてもハイテクだ。
ベトナムには昨年まで、外国人料金というものがあり、鉄道の場合、外国人はベトナム人の数倍の料金を払わねばならなかったという。しかし、今では外国人料金は撤廃され、誰もが同じ料金で鉄道を利用することができる。しかし、地方のバスなどには、未だに外国人料金があるそうだ。
再びヒエンさんに電話したところ、ようやく本人と繋がった。
ヒエンさんは僕のことを知る由もないので、日本からの旅行者であることや、お兄さんのベトナム料理屋に行ったことがあることなどを話し、一度ヒエンさんにお会いしたいことを伝えた。するとヒエンさんは、今はホーチミンから少し離れたところにいるものの、明日には市内に戻るので、明日の午後二時にデタム通りのシンカフェ前で待ち合わせましょうと言ってきた。もちろん了解し、受話器を置いた。
電話越しの声からすると、ヒエンさんはお兄さん同様に穏やかな性格のようだ。
昼にバインセオを食べたメンバーにさらに二人が加わり、合計八人の日本人旅行者で夕食を食べに行った。
今夜はヤギだ、ヤギ料理だ。
前半は七輪に網を敷き、ヤギの焼き肉を食べた。ヤギ肉は白いタレにつけ、野菜と一緒にライスペーパーで包んで食べる。
後半はヤギ鍋。グツグツ煮えたスープに、ヤギ肉や野菜、麺、キノコなどを入れて食べる。ヤギ肉の歯ごたえは鶏肉に近い。
一緒に夕食をとった日本人の中に、同い年の青年を見つけた。
上から下まで黒い服の彼は、大阪に住む十八歳。美容師を目指しており、美容院で働きながら通信教育で美容師の資格取得のための勉強をしているとのこと。身体は細身で、見た目はすごく大人っぽい。既に二週間程ベトナムとカンボジアにおり、今夜の飛行機で日本に帰国するそうだ。
口数の少ない彼だが、目指すところはきちんと持っている強い印象を受けた。事実、何か他の人にはない強い目の輝きがあった。
別れ際に一言。
「名前なんていうの?」
「タケシ」
「タケシね。俺、健太。じゃ、がんばってね」
「おう! バイバイ」
朝食 四〇〇〇ドン/タクシー 二万四五〇〇ドン/昼食 一万七〇〇〇ドン/ジュース 四〇〇〇ドン/電話 3万ドン/インターネット 六〇〇〇ドン/鉄道チケット 一〇万七〇〇〇ドン/夕食 四万五〇〇ドン/コーヒー 二万ドン/ゲストハウス 三ドル
朝から雨が降っている。ヒエンさんとの待ち合わせの二時までにやむだろうか。
雨に濡れないように商店の軒下を移動して両替屋へ。
訪れた両替屋はレートが良く、一ドルが一万五四五〇ドンだった。三〇ドル分両替すると、ついに一〇万ドン札が現れた。その紙面には、ベトナムの独立運動を主導した政治家であるホーチミンの肖像と藁葺き屋根の家が描かれている。
郵便局でポストカードを投稿した。切手が大きくて、スペースの限られたポストカードには貼りづらい。訪れた国々で様々な切手を目にするが、大きな切手というのは貼りづらい野でやめてもらいたい。
朝食は大衆食堂でとった。
ベトナムでは大衆食堂をクアンコム・ビンザンと呼ぶ。目印は店先の「COM(コム)」という三文字だ。このコムの店先には、ベトナムのおふくろの味ともいうべき料理が数種類、多いところでは二十種類程並んでいる。
注文は、店先で好きなおかずを指差すだけなので、言葉が分からなくても問題ない。料理にはいちいち値札などついていないのだが、だいたい野菜料理が一品三〇〇〇ドンから、肉や魚料理が一品五〇〇〇ドンからのようだ。大盛りのライスと漬物やスープはたいてい無料で付いてくるので、おかずニ、三品の食事でだいたい一万から一万五〇〇〇ドンになる。決して味は裏切らない。
少しだけ昼寝をし、二時にシンカフェ前へ。
約束の時間を過ぎてもヒエンさんが現れないので、携帯に電話してみると、シンカフェの店内でのんびりとアイスコーヒーを飲んでいた。
初対面ということで、握手でご挨拶。
ベンタインの店長と一緒に撮った写真を見せると「おー!」と声を上げて驚いていた。
その後、僕の旅行についてやヒエンさん個人についてなどを話した。ヒエンさんんは菊名のベンタインで二年間働いていたことがあり、そのせいもあって日本語が上手なようだ。体格は小柄だが、なかなかの筋肉質。
しばらくして、ヒエンさんのお兄さん(店長にすれば弟)がやっている例の善哉屋に行くことにした。
その善哉屋は、デタム通りからタクシーで十分程のとても閑静な場所にあった。なんと、つい五日前の八月十五日に開店したばかりだという。
昼過ぎで客はいなかったが、とりあえず店内に入り、善哉を食べさせてもらうことにした。出てきたのはライチの善哉で、ところてんのようなのが入っている。
その善哉を食べながらヒエンさんと話していると、奥から店主であるお兄さんが出てきた。せっかくなので、ヒエンさんに通訳をお願いし、お兄さんとも話しをした。
お兄さん曰く、開店から二日間は繁盛していたが、ここ三日は少し客が減ったらしい。善哉屋は午後からやっており、朝と昼はいわゆるコムをやっているとのこと。そして実は、善哉屋は道楽でやっているようなもので、本職は金や銀を加工してアクセサリーを作る仕事だそうだ。
ところで、ヒエンさん兄弟はなんと総勢十三人もいるそうだ。男九人、女四人で、両親はホーチミン市から二〇キロ程離れた所に住んでいるという。
一番上である長女のお姉さんはもう五〇歳ほど。間をはさみ、菊名のベトナム料理屋の店長はワックさんといい、上から五番目。ワックさんと共に菊名のベトナム料理屋で料理人として働いているベトナム人がいるのだが、実はその人も兄弟の一人で、上から九番目のディンさん。そして善哉屋の店長はヒフさんといい十一番目。そして、日本語のガイドをしているヒエンさんは末っ子の十三番目で、現在二十五歳とのこと。
日本にいる二人はともかく、兄弟のほとんどはホーチミン周辺に住んでおり、孫の誕生日などには大勢が集まるそうだ。兄弟の仲は良いと言っていた。
途中からベトナムの食べ物の話になり、日本では見ることのないいろいろな果物を食べさせてもらった。さらに、生春巻の作り方も見せてくれ、僕にも作らせてくれた。
その後、話題はビールになり、ベトナムで有名な「三三三(バーバーバー」というビールをわざわざ買って来て飲ませてくれた。さらにさらに、僕がホビロンを食べてみたいと言うと、またもや買いに行ってまで食べさせてくれた。
ホビロンは孵化寸前のアヒルの卵を茹でたものだ。一個二〇〇〇ドン程度と安く、ベトナムでは酒のつまみとして食されることが多いらしい。
外見は普通のゆで卵であるホビロンをスプーンで叩き、上の方だけ皮をむく。中身は少々グロテスクだ。卵なので黄身と白身もあるのだが、なにせ孵化寸前の状態を茹でたものなので、血管や内臓も確認出来る。さすがにこれには「うわ~!」と声が出たが、レモン汁に塩コショウをふったものを付け、キウイのごとくスプーンですくって食べると、これが予想外にうまい!
味は基本的にゆで卵と同じなのだが、孵化寸前効果で味に深みがあり、塩コショウも絶妙にマッチしている。
「健太さん珍しいですね。日本人、これ見るとたいてい食べないのに、健太さん食べる。パクチーも食べる」
そんなことを言われたが、結局のところ問題は見た目であって、味は日本人に好みだと思う。
店の奥にあるヒフさんの仕事場も見学させてもらった。仕事場では、四人の若い職人が金や銀を削ったり、型作りをしたりしていた。
店の写真もしっかり撮らせてもらい、土産にフルーツももらってヒフさんとお別れ。ヒエンさんも含めた三人で、何度も何度も「ヨー!」と乾杯したのが印象的だった。
ちなみに善哉屋さんの名前は「タクチェー・バクハイ」という。タクチェーが善哉、バクハイが店の名前なので、日本語訳は「善哉のバクハイ」ということになるのだろう。
ヒエンさんのバイクでデタムまで戻り、ゲストハウスをチェックアウト。親切なヒエンさんは、僕をサイゴン駅まで送ってくれた。
ほんの数時間だったが、とても楽しい時間を過ごすことができた。今度ベトナムに来た時にはガイドをよろしくと伝え、ヒエンさんと駅で別れた。ホーチミン最終日に、数時間とはいえヒエンさん兄弟に会えて本当に良かった。
サイゴン駅は意外に小さい。列車も一日に数えるほどしか停まらないようだ。
十両目の九番シートに座ると、列車は出発した。
エアコンがよく効いており、車内は少し寒いぐらいだ。女性客も多く、スリなどの危険はあまりなさそうにみえる。危険があるとすれば、それは右斜め後ろのベトナム人カップルだ。出発寸前に彼女が怒り出し、彼氏の隣から後方の座席に移動。もう三十分以上も彼氏がご機嫌をとっているのに、関係は改善されないようだ。
ベトナムで最も美しいリゾートビーチといわれるニャチャン。そこに着くまでに二人の愛は復活するのだろうか。しない方が、こっちとしては面白い。
朝食 一万五〇〇〇ドン/インターネット 六〇〇〇ドン/タクシー 3万二〇〇〇ドン/電話 三〇〇〇ドン/バクハイ 五万ドン/切手 三万四〇〇〇ドン/夕食 一万ドン/ゲストハウス 三ドル
ベトナムの鉄道は冷房が強い。おかげで、バックパックの奥底に眠っていた長袖シャツがようやく役に立った。
昨夜喧嘩していたベトナム人カップルは縒りを戻したようで、今は大人しく一緒に眠っている。
まだ外の暗い午前四時過ぎ、列車はニャチャンに到着した。
前に座席にいた二十歳程のベトナム人女性が教えてくれなければ、ニャチャンに着いたことに気付かなかっただろう。車内放送はベトナム語なのでさっぱりわからない。僕は彼女の荷物の上げ下ろしを手伝ってあげたこともあり、持ちつ持たれつだ。
早朝にも関わらず駅前はバイタクだらけ。
とりあえず海岸沿いの大通りまで歩いて行った。
ニャチャンはベトナムを代表するリゾート地。人口は三十万人程。街の東を約五キロに渡ってビーチが続く。ビーチに沿った海岸通りにはホテルやレストラン、ツアーオフィスなどが並んでいる。ネパールで知り合った太郎さんがニャチャンを強く勧めてきたので、今回はルートに入れてみたのだ。
ビーチには、まだ日の出前だというのにたくさんの地元人が集まっていた。
子供たちは海で泳いだり、砂浜でサッカーをしたり。若者は砂浜に腰を下ろし、仲間たちとしゃべっている。そして、年配者は何やら一メートル三〇センチ程の細長い木の棒を手に集まっている。その数、ニ百人ぐらい。
しばらくすると、ラジオ体操らしきものが始まった。年配者たちはいつの間にやらきれいに等間隔で並び、不思議な掛け声とともに先ほどの木の棒を使って身体を動かしている。
せっかくなので、一緒に並んでやってみた。効果があるのかわからない妙な動きばかりだし、かなりテンポもスローだ。僕は十分程でやめてしまったが、年配者たちは三十分程続けていた。
日の出を眺めた後、宿にチェックインした。
客引きにバイクで連れて行ってもらった「シー・ムーン・ゲストハウス」という宿だ。部屋は三階にあり、部屋から海は見えないものの、大きな窓がいくつもあり、とても清々しい。料金は一泊四ドル。
狭い座席の夜行列車のせいで寝不足気味だったので、昼頃までベッドで眠った。
ビーチリゾートに来たものの、海で泳ぐ元気はない。夜行移動明けはだるいのだ。なので、とりあえず、屋台でフォーを食べて腹を満たした。ちなみに、ここ数日はあまりおいしいフォーに出会えていない。
意外にする事がないので、部屋でガイドブックに目を通す。
最近、自分はこのガイドブックに頼った旅をしているなと思う。
ガイドブックに紹介されている宿に泊まり、交通手段で移動し、レストランで食事をする。実際は行き当たりばったりのことの方が多いのだが、それでもガイドブックのチェックは欠かしていない。自由に旅していると言うよりは、決まったルートを辿るウォークラリーをしているのではとも思ってしまう。しかし、だからといって、今このガイドブックが手元からなくなったら、どんなに不安になるだろうか。
使い方次第では旅を面白くするガイドブックだが、一歩間違えると旅を支配してしまう。
ニャチャンには「タップバ・ホットスプリングセンター」というベトナムで唯一の泥スパを兼ねた温泉プールがあるということで、ゲストハウスにてそこへのツアーバスを予約した。
バイタクを捕まえて自分で行くよりもツアーに参加して行った方が安上がりになる場合が多い。明日の午後は、のんびり泥に埋もれることにしよう。
ついでに、明後日の観光ツアーも予約した。それというのは、ニャチャン周辺の島々をボートで巡りつつ、シュノーケリングをしたり、船上でシーフードを食べたりできるツアーだ。六ドルはお手ごろ価格だが、ツアーの中身が実際どうなのかはわからない。
飲み水の入ったボトルを片手に、市街地を散歩した。
とある通りを歩いていると、歩道に突き出た木の下に、何やら鏡と椅子が置いてある。どうやら、路上の床屋のようだ。しかも、耳かきもやっている様子。
実は、僕は前々から、職人の技術でしっかりと耳かきをしてくれる店を探していた。以前、テレビでそういった職人の技を見て、一度試してみたいと思っていたのだ。そういうわけで、この路上の耳かき屋に耳掃除をお願いすることにした。
八種類程の用具を使い分け、職人は黙々と僕の耳を掃除する。
金属の細いピンを耳に入れ、引っかいたり、回したり。時々痛いが、耳の中は確実にきれいになっている。きちんと耳くそを見せてくれるからわかるのだ。
痛みに慣れると、なんとも気持ちいい。目をつぶっていい気分でいたところ「だー!」と声が出るほどの痛みを感じた。職人は少しだけミスをしたようだ。あまりの痛さにちょっとだけ涙が出た。「ごめん! ごめん!」と言うように、二十二歳の職人は耳をマッサージして痛みを和らげてくれた。さすがにマッサージ一つをとっても上手だ。
両耳で締めて十五分。
路上の耳かき職人のおかげで、ずいぶんと気持ちよい思いをさせてもらった。あまりに満足度が高かったので、代金の一ドルに上乗せして、この旅において最初で最後になるかもしれないチップを渡した。本当に、今日一番の満足だ。
夕方、ビーチを散歩した。
日中と違い、この時間帯は外国人旅行者の姿はほとんど見られず、ビーチにいるのは地元の人たちだ。皆、海に入って遊んでいる。
このビーチの砂は若干粗めだが、貝の殻などが散らばっていないので、裸足で歩いても怪我をしない。ゴミもほとんど落ちておらず、ビーチはきれいだ。
ビーチに沿ってひたすら南へと歩き、誰も泳いでいない静かな砂浜に腰を下ろした。
水平線には舟の明かりが見える。数えてみると五十近い。
波の音は心地良い、が、後ろではレストランや観覧車のネオンが輝き、大音量の音楽が流れている。それでも、夜の浜辺は比較的静かなので、のんびり涼むにはちょうど良い。バックを下ろし、足を伸ばして物思いにふけた。
夕食は少しだけ贅沢をした。小さなレストランにて、サイゴンビールで一人乾杯だ。料理はというと、チキンステーキとポテトはまあまあだったが、ライスは固くていまいちだった。
食後、レストランのテーブルでポストカードに宛名だけ書き、今日の活動はおしまい。
バイクタクシー 七〇〇〇ドン/朝食 五〇〇〇ドン/昼食 五〇〇〇ドン/水 四〇〇〇ドン/インターネット 八〇〇〇ドン/ポストカード 1万二〇〇〇ドン/耳かき 一万七〇〇〇ドン/夕食 四万九〇〇〇ドン/タップバ・ホットスプリングセンターチケット 七万ドン/ゲストハウス 四ドル/シュノーケリングツアー 六ドル
朝一で洗濯物をランドリーに出しに行った。部屋の水道で洗うこともあるが、面倒くさいのであまり丁寧に洗わずに終わってしまう。だから、たまにはプロにやってもらうことで、普段落ちない汚れを落とすのだ。それに、乾きづらいバスタオルなどの洗濯は、自分でやるよりランドリーを利用した方が効率がよい。
今日は泳ぐことにした。
スーパーのビニール袋にタオルと文庫本を詰め込み、ビーチへ。
ビーチには思ったよりも人がおらず、泳いでいる人は確認できる限りで四、五人だ。
リゾート地らしく、ビーチには丸太と葉でできたパラソルと、日光浴用のベッドが並んでいる。試しに値段を聞くと「テンサウザンド」とのこと。
「一〇万ドンは高いなぁ。やっぱリゾート地だしなぁ。金持ち多そうだしなぁ」
そんな風に諦めかけたが、ふと計算違いに気付いた。テンサウザンドは一万ドンではないか。一ドルもしない。安い!
大きな葉を合わせて作られた、直径四メートル近いパラソルの下に快適なベッド。そこに寝っ転がると、目の前にはニャチャンの海が広がる。バカンスの始まりだ。
さっそく海パン一枚になり海の中へ。
最初こそ水が冷たく感じたが、時間が経つとなんてことない。
海水は驚くほど透明で、肩までつかっても足がはっきり見える。
唇についた海水をなめてみた。けっこうしょっぱい。
波打ち際から十五メートル程奥へ進むと、もう足が届かなくなってしまった。急激に深くなっているようだ。
十分程泳いだ後、ベッドに横になった。
涼しい日陰。手元には7upと文庫本。ふと顔を上げれば、そこには奇麗な海。
来てよかった。
このビーチには物売りが多く、食べ物や土産物を売り歩くおばちゃんがしょっちゅう近づいてくる。あまり魅力的な物は売られていないが、一つだけ、ついつい買ってしまったドーナツはおいしかった。
その後、ウトウトしだし、とうとう眠りこけた。
「うわっ!」
誰かが僕の腹に砂をのせた。いたずら好きのベトナムのガキめと目を開けると、そこにいたのはベトナムのガキではなく、日本のおばさん、そうカズミさんだった。
そういえば、ホーチミンで会った時に、彼女もニャチャンにも行くと言っていた。せっかくの優雅なバカンスを邪魔されてしまった。
カズミさんはニャチャンまでのバスで知り合ったのだと思われる、二十五歳ぐらいのカメラを首から提げた男性を連れていた。
次はホイアンという場所に行くそうで、僕はそこに行く予定がないことから、もう再会することはないだろう。さらばカズミさん。
ベッドでゴロゴロし、時々海に入る。それを繰り返し、今日のバカンスは終了した。
ゲストハウスで一休みした後、午後は昨日予約したタップバ・ホットスプリングセンターに行った。
ゲストハウスから車で十分弱のそこは、最近日本でも多い日帰り温泉宿のような施設だった。
海パン姿になり、荷物をロッカーにしまう。そして、案内されるまま山の斜面に段々畑のように造られた浴槽へ。
浴槽内は空なのに、中で腰を下ろすように言われた。
黙って従うと、係員の男性は何かのスイッチを入れた。すると、傍らの太いパイプから、ものすごい勢いで泥が吹き出し始めた。みるみるうちに浴槽内には泥がたまり、あっという間に僕の身体は泥の中に沈んでしまった。全身ヌルヌルだ。
この泥浴は、泥の色にしても触り心地にしても、ほぼ溶けてしまったゴマアイスに浸かっている気分だ。泥は水ほどさらさらではなく、かといってシャーベットほど固くもない。顔の高さから垂らしても、水面で跳ね上がることなく浴槽内の泥と一体化する。砂も混じっているのか、ツブツブのものの感触もある。
この泥、意外にも、浴槽内で僕の体を完全に浮かせるほどの浮力がある。腕を泥の中に沈めても、力を抜いた途端にスーっと腕は浮かび上がる。
これまで泥浴などしたことないので、夢中で泥と戯れた。
日差しが強いので、日焼け止めがてら顔に泥を塗った。少し口に入ったが、気にはしない。
二十分程泥と友達になり、係員から「はい、終わりでーす!」と告げられ、泥浴は終了した。泥だらけのまま、日差しで温まった岩に十分ほど腰を降ろし、それからシャワーで泥を流した。皮膚表面の泥こそ流れ落ちたが、ベトナムの泥は確かに僕の体の中に吸収された気がする。泥パワー全開だ。
続いて、いわゆる普通の温泉へ。
効能はわからないが、湯加減のちょうど良い温泉だった。湯につかるとリラックスするのは、やはり日本人の証拠なのだろうか。
その後、最後に水温三十八度の温泉プールで泳ぎ、今日はおしまいにした。
やはり、何よりも泥湯が気持ち良かった。泥だけボトルに詰めて持ち帰りたいぐらいだ。
コムにて夕食を食べ、ツアーオフィスで明日の確認をした。
十五人の参加者が集まったらしく、明日の島巡りシュノーケリングツアーは決行されるようだ。八時にツアーオフィス集合とのこと。
朝食 六〇〇〇ドン/ベッド&パラソル 一万ドン/ドーナツ 二万ドン/せんべい 五〇〇〇ドン/ジュース 六〇〇〇ドン/水 三〇〇〇ドン/インターネット 七〇〇〇ドン/夕食 八〇〇〇ドン/サンドイッチ 七〇〇〇ドン/泥浴記念写真 二万ドン/ゲストハウス 四ドル
ニャチャン周辺島巡りシュノーケリングツアーに参加した。
集合場所のツアーオフィス前から、ワゴン車でニャチャンビーチを南方へ。
着いた先には船着き場があり、各ツアーオフィスが所有する船が停められていた。全ての船はその船体にベトナムの国旗を付けていたが、法律で決まっているのだろうか。
今回のツアー参加者は日本人女性一人、欧米人カップル二組、五人家族一組、個人参加のおばさん一人に僕を含めた計十二人。これに船長やツアーオフィスの人も加わった十五人程を乗せて、船は出港した。
木造の青い船は、ニャチャンの海を東へ進む。
景色がきれいだ。揺れもあまりなく、快適な船の旅。
二十分程進んだ後、船は名も分からぬ島の沖合二十メートル程のところに停泊し、シュノーケリングが始まった。
足ヒレをつけて海へダイブ。水は心地よい冷たさだ。
シュノーケルなど小学生以来だ。
この場所は魚もだが、たくさんのサンゴ礁を見ることができる。時々テレビで見られるような色鮮やかなものはないものの、花のような形をした美しいものが多い。意外に固いものもあるようで、僕がバランスを崩して岩場から滑り落ちた時、足元のサンゴ礁は割れてしまった。
海底では、波立つ水面を通り抜けた太陽の光が、とてもきれいな影模様を作りだしている。
海中には小魚が多く、青色のような暗めの色のものが中心だ。人間慣れしているのか、五〇センチほどの距離まで近づいて、ようやく魚たちは逃げ出す。あまり警戒心がないようだ。黄色い派手な魚や妙に細長い魚も見ることができる。
シュノーケルを口からはずし、息を止めて深くまで潜ってみると、ほんのニメートルほど潜っただけで耳が痛くなってしまった。落としたシュノーケルを拾うために三メートル近く潜ったときなどは、かなりの痛さだった。
シュノーケリングは想像以上に体に負担があるようで、十五分程潜って船上に戻ると、既に体はヘトヘトだった。
それにしても、海の中というのはきれいなものだ。生まれてこの方、海の中の自然とはあまり接したことがないので、とても貴重な経験になった。
船はシュノーケリングスポットから移動し始めた。僕はヘトヘトだったので船上で熟睡。目が覚めると、再び名も分からぬ島に着いていた。どうやら昼食のようだ。
島に上陸し、海の家のようなレストランでシーフード料理を食べた。どの程度のシーフードかと思えば、イカが少し入った野菜炒め、魚の煮物、手をつけなかったエビ程度だ。他に揚げ春巻と麺料理、大盛りライスが出たので、腹はとりあえず満たされたが、期待したほどの昼食ではなかった。
島のビーチで少しだけ昼寝をした。今日は念入りに日焼け止めを塗ってきたが、既にモモが真っ赤になっている。
船に乗り込み、新たな名も分からぬ島へ。
島の沖合で再びシュノーケリングタイム。
今度の場所はそれほどきれいな海底ではなかったが、体を海面にプカプカ浮かせていると気持ちが良い。
海も場所によってずいぶんと水温に差がある。温かく感じる場所でも、突然冷たい海水に身を包まれたりする。
更にヘトヘトになり、船に戻る。
一緒にいる欧米人ファミリーの両親や個人参加の女性は、それなりに歳がいっていそうなのに、意外にも元気一杯に潜っている。ファミリーのパパに限っては、誰よりも長く海に入っていた。
その後、フィッシングビレッジという場所を目指して移動した。
移動中、船上でフルーツパーティーが始まった。パイナップルやスイカに加えて、名も分からぬフルーツが五種類程出された。パイナップルが一番うまい。
フィッシングビレッジに着くと、直径ニメートルほどのザルのような造りの不安定な舟に乗った島の人が船を囲み、うちのザルに乗れと客取り合戦を始める。このザル舟こそフィッシングビレッジの名物らしいので、試しに乗ってみた。舟を漕ぐ子供があまりにも生意気だったので、海に落としてやりたかった。
ザル舟は沖合を十分ほど漂い、それで料金は四〇〇〇ドン。
このフィッシングビレッジをもって、今日のツアーは幕を閉じた。
九時過ぎに始まり、ビーチに戻ってきたのが午後四時過ぎなので、時間的にはもちろん、内容的にもなかなか充実したツアーだった。特にシュノーケリングはとてもいい思い出になった。
ニャチャンの海は基本的にきれいだ。ただ、今日潜った場所ではいくらかのゴミが浮いていた。島の間を船で移動するときも、海面にポツンと浮くゴミや、海面を漂う油を見た。
噂では、こういったツアー船が、ツアー中に出たゴミを海に捨てているらしい。あくまで噂だが、こういった美しい海は貴重なだけに、これ以上悪い方へはいかないでもらいたいものだ。
夕方、とある両替屋から出たところで、見知らぬ女性が話し掛けてきた。じっくり英語を聞き取ったところ、「私は一昨日あなたが夕食をとったレストランのスタッフです。あの時、あなたはビールを一本しか飲んでなかったのに、私は間違えて二本で勘定していました。ごめんなさい」というようなことを言っている。
両替屋は、そのレストランの二軒隣りなので、ちょうど店の前を歩いた僕に気づいて、謝りに来てくれたようだ。きちんとビール一本分の代金も返してくれた。
突然のことだったので僕の方が越し低く「サンキュー、サンキュー」と繰り返し、恐縮してしまったとはいえ、正直なレストランスタッフのおかげで、何だか気分が良くなった。
夕食はゲストハウス近くの「レッドスター」という店で焼き肉を食べた。
店主こだわりの焼き肉のようで、七輪と炭火で丁寧に焼いてくれた。肉を焼く時の店主は、片時も肉から目を離さず真剣そのものだ。相当自信のある肉なのだろう。
目の前で炭が燃えているので、体から汗が噴き出してきた。しばらくすると、ようやく店主が暑がる僕に気づき、扇風機のスイッチを入れてくれた。一安心して肉を食べていると、店主はせっかく入れた扇風機を切ってしまった。
「なんで~?」
店主を見ると、彼の目は暑がっている客ではなく、七輪の中の炭を捕らえている。つまり、彼は炭の火加減を調節するために炭に風を送ったのであって、客のことなど何も考えてはいなかったのだ。それほどこだわりがあるのなら、こちらも文句など言わずに食べるしかない。
ゴマがたっぷりふりかけられた牛肉を焼き、ピリカラのレモン汁につけて、ライスと一緒に食べる。最高だ。明日も来ようかな。
水 二五〇〇ドン/切手 二万八〇〇〇ドン/インターネット 六〇〇〇ドン/ランドリー 一万五〇〇〇ドン/夕食 四万ドン/ジュース 一万ドン/ザル舟 四〇〇〇ドン/ゲストハウス 四ドル
十時にトイレで目覚める。良く眠った。
今日は日中、特に予定がないのでのんびりと過ごすつもりだ。毎日のんびりであるには変わりないが。
ゲストハウスの一階に降りると、ゲストハウスの奥さんがダナン行きの鉄道チケットを渡してくれた。
というのも、昨日鉄道チケットを買いにいこうとしたら、奥さんが代わりに買ってきてくれると言ってきた。ニャチャンの駅は大きな駅ではないので、英語の通じる外国人窓口もない。だから、ベトナム語のできない僕がいくと相当に苦労する。そんなこともあり、親切な奥さんが代行を申し出てくれたのだ。
列車はエアコン付きソフトシートの夜行列車で、今夜九時二十四分に発射する。
余談だが、ゲストハウスの奥さんはとびきりの美人だ。
コムで朝食をとり、とりあえずゲストハウスをチェックアウト。荷物は預かってもらい、ロビーで奥さんの息子と遊んだ。
息子はビュー君といい、とても、いや、かなり元気な男の子だ。歳は八歳ぐらいだろうか。
そのビュー君と、風船遊びをした。今回、どこかで役に立つかと思い、日本からバルーンアート用の細長い風船とそれを膨らますポンプを持ってきていたのだ。まさに喜びそうな子供が目の前にいるので、いよいよそれを使うときがきた。
さっそく、細長い風船をねじりまげて、簡単な犬を作ってあげた。ビュー君は不思議そうに眺めている。突然変わったことをし始めた日本人に動揺しているのかもしれない。
今度は一緒に作ることにした。風船をポンプにつけて、ビュー君に空気を入れさせる。まだ力がないので、両手両足を総動員させて、なんとかポンプを上下させる。風船の口は僕が結んで上げ、あとは僕がねじる箇所を教え、ビュー君が力一杯に風船をねじるだけだ。彼は調子がでてくると、僕の指示を待たずに、自分から積極的にねじろうとする。ちょっとバランスが悪いものの、立派に犬を作り上げた。
バルーンアートのネタはほとんどないので、早くも一番自慢の花を作ることにした。すると、作る最中に風船が「パーン!」と割れ、一瞬ビュー君の中で時が止まった。
ビュー君は風船を気に入ったらしく、ポンプで膨らますだけ膨らまし、まだ口を結ぶことができないので、口をねじるだけねじって、結んだ気になっている。僕が口を結んであげると、一本の長い風船を剣のように振り回して遊び始めた。ねじって動物を作るより、単に剣に見たて、ちゃんばらしている方が彼には楽しいらしい。
持ってきた二〇本の風船はあっという間になくなった。ほとんどは割れてしまい、残ったのは花瓶にさしてある花のバルーンアートだけだ。
ちなみに、奥さん曰く、ベトナムにもバルーンアートをする路上パフォーマーはいるらしい。
ネパールの太郎さんがニャチャンでのフットマッサージを勧めてくれていたので、太郎さん推薦の店を探してみた。その店は海岸通りにあると聞いていたので、ひたすら浜辺を歩いて探したが、レストランやダイビングクラブばかりで、マッサージ屋など見当たらない。諦めて、ゲストハウスに戻ろうとしたら、帰り道でようやく店を発見した。
店には複数のマッサージコースがあり、僕は太郎さんがやったと思われる四十五分間のフットマッサージに挑戦することにした。
ベッドに仰向けになると、女性スタッフが何やらヌルヌルした液体を手につけ、僕の足をマッサージし始めた。揉んだり、さすったり、引っ張ったり、叩いたり。一言にマッサージといっても、いろいろなやり方があるようだ。気持ちよくて眠ってしまうほどではなかったが、それなりにリラックスできたひと時だった。
ちなみに、初めてフットマッサージという言葉を聞いたとき、僕はてっきりマッサージしてくれる人が、その人の足を使って客の背中やモモを踏んでマッサージしてくれるものだと思っていた。どうやら勘違いだったようだ。フットマッサージは足でするマッサージではなく、足にするマッサージだ。
砂浜ではビーチバレー大会が行われている。ニャチャンに到着した日から毎日行われており、今日が大会最終日らしく、女性部門の上位を決める試合が行われている。僕もやりたいが、悲しくもペアがいない。
夕食は、昨日に引き続きレッドスターへ。
店の前に行くと、昨日のおっちゃんが「今日もか?」と言ってきた。
今日は鶏の焼き肉にした。タレのついた鶏肉を、汗をかきながら、やはり七厘で焼いてライスと一緒に食べる。大満足だ。
ちなみに、この店は焼肉だけでなく、蟹のスープもうまい。二日連続で飲ませてもらった。
砂浜に腰を下ろして時間を潰す。日が沈むと辺りの気温も下がるので、とても涼しい。
この辺りは賑やかな音楽がかかっておらず、聴こえてくるのは波の音と人々の話し声ぐらい。日中の透き通るようなニャチャンの海もいいが、暗い夜の水平線に見える船の灯りと心地よい波の音だけのニャチャンの海が僕は一番好きだ。
しばらく涼んでからゲストハウスに戻った。
日中に木の下で床屋と耳かき屋をしていた二十二歳の彼は、もう店じまいをしたらしく、既に姿はなかった。彼の店の前を通ると、いつも誰かしら客がいるので、意外に人気の店なのかもしれない。
夜八時半、ゲストハウスの若い男性スタッフにニャチャン駅までバイクで連れて行ってもらった。彼は携帯電話で話しながらバイクを運転するので、何度も「気をつけろ! 病院は行きたくないぞ!」と注意した。ちなみにベトナムの携帯電話はカメラなどついておらず、本体はとてもコンパクトだ。カメラ付きが当たり前の日本でも、こういったコンパクトな機種を少しは発売してほしい。
待合室で三十分程待つと、列車がホームに入ってきた。
列車が止まると、乗客たちはもの凄い勢いで車内に突入しだした。あおられて僕も参戦。
車内では荷物置き場争奪戦が繰り広げられており、なかなか列は進まない。
しばらく待たされた後、ようやく自分の座席に辿りついた。座席には大きなバックパックを置けるスペースがあったので、一安心。
今回の車両は、前回と違って日本の特急に似た造りだ。ちなみに、前回のは車両の中部のみが二階建て構造という変わったものだった。
缶ビールとつまみも買い込み、出発準備は万全だ。
ところで、競争心をあおられてこの列車に乗り込んだのだが、果たして本当にこの列車でよかったのだろうか。朝起きたらホーチミンに戻っていなければよいのだが。
朝食 一万五〇〇〇ドン/インターネット 一万二〇〇〇ドン/ポストカード 三〇〇〇ドン/切手 九〇〇〇ドン/あっサージ 五万ドン/夕食 四万一〇〇〇ドン/鉄道チケット 一六万二〇〇〇ドン/ビール 一万六〇〇〇ドン/つまみ 五〇〇〇ドン
早朝四時にはダナンに着くと思い、寝過ごさないようにと列車が停車するたびに神経を尖らせていたが、ダナンにはなかなか到着しない。
ベトナムの列車には、一車両につきニ、三人の飛行機でいう客室乗務員にあたる人たちがいる。僕の車両の乗務員は、体格のよい男勝りの女性一人と、対照的にひ弱そうな男性二人だ。三人とも青いシャツの制服を着て仕事をしている。
太陽が昇り、外の景色が見え始めた。夜行列車なので車窓からの景色は諦めていたが、到着が遅れたおかげで、ベトナムの田園風景を見ることができた。耕作されていない土地も多い。
六時頃、質素な麺料理の朝食が配られた。腹が減っていたので、予期せぬ朝食に救われる。
八時にどこかの駅に停車。
男勝りの女性乗務員が「ダナンよ! さっさと行きなさい!」と言っているような視線を送ってくれた。
ダナンは人口九十万人の商業都市。街の東をハン川が流れ、そこに巨大なソンハン橋が架かっている。
街の中心部は駅の東二キロ程のところにあるフンブオン通り周辺なので、まずはそこに行くことにした。方向感覚は麻痺していたが、太陽の位置からだいたいの方向は推測できる。さっそく、太陽に向かって歩き出した。
街の中心部を歩くものの、ホテルやインターネットカフェが全く見当たらない。路上の看板もベトナム語表記ばかりで、英語はどこにも見られない。ガイドブックにはそれなりに大きく取り上げられていたダナンだが、実際は旅行者の来るような場所ではないのだろうか。
面倒くさいバイタクが何台も近づいてくるが、全て無視してやり過ごす。しかし、本当に泊まるところが見つからないので、適当なシクロに「ハイヴァンホテル」というガイドブックに紹介されていたホテルまで連れて行ってもらった。
意外にもシクロは今回が初体験だ。自転車の前部に客席がついた独特な形のシクロ。客は路面スレスレの席に座るので、感覚としては車椅子移動に似ている。リスクは、事故にあったとき、運転手以上に客が痛い目にあうことだろう。しかし、料金はバイタクなどよりもずっと安い。
ハイヴァンホテルは一泊八ドルもしたが、他に宿を見つけるのは大変そうだし、ダナンに長居するつもりもないので、チェックインすることにした。
部屋に荷物を置き、すぐにラオス大使館へと出かけた。ラオスのビザを申請するためだ。
ハイヴァンホテルからラオス大使館までは、地図上ではたいした距離がないのだが、なぜだか着かない。道行く人に場所を尋ねても、英語が通じないので会話にならない。
英語が話せる人を求めて、次々と歩行者に話しかけた。すると、小林幸子似の頭にサングラスを引っかけた中年女性が、英語でラオス大使館までの道順を教えてくれた。小林幸子に見えたと同時に、女性が天使にも思えた。
ホテルを出発してから三十分以上も歩き回り、ようやくラオス大使館到着。後々気付いたが、なかなか着かなかったのは、単に僕が地図を読み間違えていたからだったようだ。
街の外れにひっそりと建つラオス大使館。館内には同じようにビザを申請しに来たのだと思われる日本人らしき青年がいた。
ビザの申請用紙を記入し、顔写真を貼り付けて窓口に提出。即日受け取りだと四九ドルもかかるのだが、翌日受け取りだと三六ドルで済むので、旅費節約のために翌日受け取りにすることにした。
しかし、職員にそのことを伝えると、「すぐできるから十五分待ってな」と言われる。高いのだから翌日受け取りでいいことを再度言うと、「同じ三六ドルだよ」との一言。これはラッキーだ。十五分静かに待ち、難なくラオスのトランジットビザを取得した。
このトランジットビザがあれば、ラオスに最長で七日間滞在することができる。観光ではなくトランジット(通過)する旅行者のためのビザなので、滞在期間が短く設定されている。しかし、それ故に取得料金は安い。一カ月間滞在可能な観光ビザは七〇ドル以上もするのだ。
パスポートにはベトナム滞在期限が八月三十一日と記されているのだが、その上でラオス入国予定日を九月四日と書いても、特に何も言われなかった。大使館員からすれば、他人事なのだろう。
大使館からの帰りは、行き以上に道に迷った。
市場らしき場所でフォーを食べ、一休みしてから再出発。日中は太陽の位置もあまり当てにあらない。
途中、ヌックミアと呼ばれるサトウキビジュースを飲んだ。このジュースはベトナムでは至るところで売られており、前々から飲んでみたいと思っていたのだ。ジュースは氷の入ったグラスにその場で絞り出される。冷たくて、ほんのり甘い。
道端の喫茶店の店主にハイヴァンホテルの方向を教えてもらい、さらに歩く。
しばらくすると、先ほどの店主がバイクで追っかけてきて、「乗りなさい」と言ってバイクに乗せてくれた。もう、本当に申し訳ない。人間一人では生きていけなければ、ホテルにも帰れない。こんな出来事一つで、ダナンの印象は良くなる。
とはいえ、やはり長居は無用だ。目的であるビザを取得できた以上、明日にはフエへ出発しよう。
とあるバス会社のオフィスで、明日のフエ行きのバスチケットを買った。ダナンからフエまでは一〇〇キロ程度なので、列車ではなくバス移動にしてみた。
外出しても、うるさいバイタクにまとわり疲れるだけなので、午後はホテルで静かにしていた。五時間眠る。
夕食は、ダナン名物のミークアンという料理にした。ダナンで一番ミークアンがおいしいと紹介されている「ミークアン」という料理名そのままの店へ。
ミークアンは黄色い平麺を使った料理で、一般的なフォーと違って、スープがほとんどないのが特徴。メニューにはエビ入り、鶏肉入り、両方入りの三種類があったので、鶏肉入りを注文した。
運ばれてきたミークアンには鶏肉が山ほど入っていた。パリパリのエビせんを割り入れ、よくかき混ぜて食べるらしい。全体としてベトナム風冷やし中華だといえる。
食後、ハン川沿いを散歩した。
川沿いにはネオン輝く賑やかな店があり、周辺にはほのかに光る街灯が並ぶ。とてもきれいだ。
巨大なソンハン橋も美しくライトアップされていた。雰囲気に酔いながら手紙を書き、そのまま近くの郵便局で投稿した。
その後、ホテル近くの映画館でアメリカのアクション映画を観た。台詞はベトナム語に吹き替えられていたのだが、声優が不足しているのか、どの登場人物の声も同じ女性の声一色だった。長く聞いているとイライラしてくる。
昼食 四〇〇〇ドン/バイクタクシー 四〇〇〇ドン/切手 一万六五〇〇ドン/夕食 一万三〇〇〇ドン/映画 一万五〇〇〇ドン/菓子 八〇〇〇ドン/ヌックミア 二〇〇〇ドン/インターネット 一五〇〇ドン/ラオスビザ 三六ドル/ホテル 八ドル/バスチケット 三ドル
午前九時、バスでダナンを出発した。
今回のバスは、十年以上前に日本で使われていたと思われる中古のバスだ。乗客は六人しかおらず、車内はガラガラ。座席前後のスペースが広めなのが嬉しい。
目的地のフエまでは、海岸に沿うように一〇〇キロ程走ることになる。このダナンとフエの間のコーストラインは、ベトナムで最も美しい風景が見られる場所だと何かに書いてあった。
右に海、左に山を見ながら、バスは山肌を低速ギアで進み行く。道がきれいに舗装されているからか車体の揺れが少ないので、景色をゆっくり眺められた。
その景色だが、一年前のスノウリ・ポカラ間の山間を髣髴とされる素晴らしさ。あの時は山と川が織り成す景色だったが、今回は山と海。よく晴れた空の下、海はキラキラ輝き、山は深い緑に覆われている。ビューティフル・ジャーニーの再来だ。
景色に見とれていたこともあり、あっという間にフエに到着した。フエはベトナムの主要都市のはずだが、バスから眺めた限りはいたって静かな街にしか見えない。
バスは、バス会社と提携しているゲストハウスの前に最終停車した。そして、そのゲストハウスは、偶然にも僕が泊まろうと考えていたところだった。
さっそく部屋を見せてもらった後、一室を三人でシェアする小さなドミトリーに泊まらせてもらうことにした。ベッドはとても清潔で、トイレとシャワーも共同使用ながらしっかりしたものが付いている。
このゲストハウスの名前は「ビン・ズオン」。
何人かの従業員は日本語が達者で、そのせいか宿泊客の多くは日本人旅行者だ。ロビーには過去の旅行者が残していった日本の漫画や文庫本、情報ノーとなどが置いてある。ちょっとした日本人宿のようだ。
ロビーで居合わせてア日本人と軽く話したが、皆親しみやすい人だったので、フエでは毎日楽しく過ごせそうだ。
ちょうど昼時だったので、ビン・ズオンから歩いてすぐの「ハン」という店へ、ミニバインセオを食べに行った。ハンはガイドブックに紹介されている程の店なのだが、最初店内には客が一人もいなかったので、店を間違えたかと思ってしまった。
席に付き、バインセオを注文すると、店員はガスに火をつけ、小さなフライパンを温め、バインセオを作り始めた。
この店のバインセオは直径十五センチ程のミニサイズ。挽肉、エビ、うずらの卵、そしてモヤシが入っており、パリッとした皮の食感がたまらない。二つ食べて、お勘定は八〇〇〇ドンだった。
宿で昼寝をした後、インターネットカフェへ。
訪れたインターネットカフェは、一時間三〇〇〇ドンというかつてない安さだった。通信速度もそこそこ速いので、フエでは恵まれたネット環境の下で生活できそうだ。
夕方、ロビーでひたすら漫画を読んだ。ビン・ズオンにはあだち充の『H2』がほとんど全巻揃っているのだ。フエにいる間、毎日が漫画漬けになる予感がする。
その後、日本人旅行者のグループが近くのインド料理レストランに行くというので、御一緒させてもらうことにした。
レストランはインド人が経営しているようで、味はかなり本格的。
僕はマトンカレーを注文したのだが、辛すぎない程度にスパイスの効いた味わい。マトンの肉がたっぷり入っていたので、かなり食べ応えがあった。メニューには懐かしのビルヤーニーもあったので、そのうちもう一度来て味わってみたい。
食後、ビリヤード台のあるカフェに入った。
このカフェは、一品でも注文すれば自由にビリヤード台を使わせてくれるので、僕はアイスコーヒーを注文し、一緒に食事をした日本人四人と二時間程ビリヤードを楽しんだ。前半はエイトボールをチーム戦で、後半はナインボールを個人戦でした。古くて反りのあるキューだけど、そんな古びた道具でやるビリヤードもなかなか楽しい。
十時頃ビン・ズオンに戻り、ロビーで日本人同士集まっておしゃべりした。
一人の日本人がどこからかスイカを持ってきたので、その場で切って食べたりもした。
おしゃべりしつつ、『H2』をひたすら読み進める。フエにいる間に必ず全巻読破する、というより、読破するまで移動はしないと心に決めた。
気付けば時刻は〇時を回っており、きりがないので漫画はストップし、シャワーを浴びて寝た。
ところで、ビン・ズオンにいる日本人のおかげで、今日はいろいろな情報が手に入った。ハノイ・ラオス間のバスのことや、タイ再入国時のビザのことなどだ。いろいろな情報をもらう一方、僕も去年のインドでの経験を、旅情報として多少なりとも提供することができた。とはいえ、皆僕なんかよりずっと旅慣れており、僕の知らない旅の醍醐味をたくさん知っていた。
同じドミの日本人二人に悪いので、そろそろ明かりを消して眠ることにする。
朝食 一万ドン/昼食 八〇〇〇ドン/水 七〇〇〇ドン/インターネット五〇〇〇ドン/夕食 三万九〇〇〇ドン/アイスコーヒー 三〇〇〇ドン/ゲストハウス 三ドル
昨夜はなかなか寝付けなかった。
二週間半後の帰国、その後の生活を考えていたら、いろいろな想いが頭をよぎり、気付けば午前三時近くになっていた。
十時起床。
さっそく『H2』を一冊読む。
今日はフエの旧市街を回る。
出発前に水道でシャツを洗い、宿の三階に干した。
ロビーに戻るとそこには見慣れた女性、カズミさんだった。
ビン・ズオンは一日一万ドンで自転車を貸してくれるので、今日はそれを利用することにした。変速ギアとサスペンション付きの見た目は上等なマウンテンバイクなのだが、ブレーキが効かず椅子も固くて乗り心地は悪い。
宿を出発し、まずは腹ごしらえへ。
訪れたのはビン・ズオンから三分程の近さにある「フォー・サイゴン」という食堂。ここは店の名の通りフォーの店なのだが、それとは別に、一万二〇〇〇ドンという格安のビーフステーキを出している。よく叩いて柔らかくされたステーキは少し小さめだが、塩コショウで食べるととてもいける。ライスやポテト、野菜も付いて一万二〇〇〇ドンはお得だろう。
フエはベトナム最後のグエン王朝の都があった街だ。日本でいえば京都のような古都の街だといえる。
街の中心をフォーン川が流れ、それを境に西に旧市街、東に新市街が広がっている。旧市街にはグエン王朝時代の王宮やフエで最も活気があるといわれるドンバ市場、それに博物館や大学などが点在する。一方、新市街にはホテルやゲストハウスを始め、レストラン、郵便局、教会などがある。そして、これら二つの地区を分けるフォーン川には、チャンティエンとフースアンと呼ばれる二本の橋が架けられており、現地の人々は自転車やバイクでこの橋を渡り、両地区を行き来している。
右側通行のベトナムの道路をマウンテンバイクでのんびり走り、チャンティエン橋を渡って旧市街へ。
旧市街側の川沿いは公園として整備されており、木々の木陰は涼しそうだ。
王宮の城壁に沿って進むと、巨大なベトナムの国旗が目に入ってきた。フラッグタワーだ。
一九〇八年に建てられたフラッグタワーは、高さ一七・四メートルの三段ピラミッド構造の台座の上に、塔が建った造りになっている。塔の先端には赤地に黄色い星が輝くベトナム国旗が掲げられており、全体の高さは三〇メートル近くある。
王宮正面に自転車を止め、入場料を払って王宮内へ。ちなみに入場料はベトナム人一万五〇〇〇ドン、外国人五万五〇〇〇ドンだ。
王宮敷地内に入ると、まず正面に太和殿という平屋の建物が見える。天井が何本もの太い丸太によって支えられたその建物の内部は、ひんやりと涼しく、皇帝の座っていた椅子などが展示されている。その椅子は特別に面白いものでもなかったが、周囲の装飾はなかなかのものだった。当時、この場所では皇帝の即位式が行われていたとのこと。
奥にある一室では、当時の都のジオラマが展示されていた。いつかの日本のように、各家は塀で仕切られ、庭には池がある。どの程度の身分の人がこのような家に暮らすことができたのだろう。
個人的には何かの間違いだと思うのだが、この王宮はユネスコ世界遺産として登録されており、それを誇示する資料や写真も展示されている。
しばらくすると、王宮内をフラフラさ迷うカズミさんと遭遇した。別の日本人女性も一人いる。あまりに外が暑いので、日陰にて三人で一休み。
休んでいると、建物内から日本人が盛り上がる声が聴こえたので、中を覗いて見た。
中には六人程の年配の日本人旅行者がおり、王朝の衣装を身にまとって、先ほどの椅子に座った形で記念撮影をしていた。ちなみに、衣装付きの記念撮影は二万ドンかかるらしい。
その光景を三人で眺めていると、一行のリーダー格らしきじいさんが「女性のも見たいなぁ」と言いだした。そして、案の定近くにいたカズミさんに白羽の矢が立った。
金は出してくれるとのことで、カズミさんも調子に乗って快諾し、王朝姿で椅子に着席。「やっぱ若い子はいいのー」とじいさんは満足気だ。
「カズミさんはほんとは○○歳なんだけどね」
そんなくだらないことを内心つぶやきながら、僕はその光景を見ていた。
ちなみにこの一行、新潟にある大学の研究会の研修としてベトナムに来ているらしい。ともすれば、あのじいさんは研究者ということか。
王宮は巨大だが、見るに値するところは少ない。
カズミさんたちと今後のルートなどを話してから、王宮を後にした。
ところで、この王宮は、よく見ると城壁の至るところにへこみや崩れた跡が確認できる。というのも、ここフエはベトナム戦争時、南と北が最も激しくぶつかり合ったテト攻勢の舞台なのだそうだ。戦闘は王宮内にも及び、その時の銃弾の跡が今も残っているというわけだ。
それに関連して、王宮周辺には大砲や戦車なども展示されている。僕はベトナム戦争に関してはまだまだ無知なので、もっと勉強が必要だ。
王宮の跡はドンバ市場を訪れた。
ここでもベトナムの女性は働き者だということが証明された。ただ、暇な店が多いようで店の片隅で昼寝している女性が多かった。
屋台で冷たいものを飲み、市場を去った。
ポストカードを買ってから、昨日の喫茶店で一人ビリヤードをした。冷たいフルーツシェイクと大好きなビリヤードを好きなだけ楽しめるフエは居心地がいい。
しばらくすると、昨日一緒にビリヤードをした日本人の一人が来たので、一対一で勝負をした。今日は絶好調で、圧勝だった。
ビン・ズオンでひたすら『H2』を読み続ける。
野球漫画に触発されてか野球をしたくなってきた。が、もう甲子園を目指せる歳ではない。歳をとるにつれて「もう○○できないなぁ」を感じる機会が増えそうだ。
ところで、ビン・ズオンは経営が好調なようで、次から次に客がやって来る。日本人に限らず欧米人客も多い。おかげで友達には不自由しない。
夜中、急に食欲が出てきたので、屋台のおかゆを食べに繰り出した。
朝食 一万六〇〇〇ドン/水 八〇〇〇ドン/王宮入場料 五万五〇〇〇ドン/ジュース 一万五〇〇〇ドン/自転車レンタル 一万ドン/昼食 一万五〇〇〇ドン/インターネット 六〇〇〇ドン/ポストカード 一万八〇〇〇ドン/おかゆ 五〇〇〇ドン/菓子 二万二〇〇〇ドン/ゲストハウス 四ドル/DMZツアー 七ドル
眠い。
が、起きねばならない。今日はDMZツアーだ。
DMZはDEMILITARISED ZONEのの略で、ベトナム戦争時、北ベトナムと南ベトナムを分けていた北緯十七度線近くのベンハイ川沿いに設けられた非武装地帯のことだ。それはベンハイ川沿いに幅約一〇キロに渡って広がっており、一九五四年からベトナム戦争終結の七五年まで存在していたという。
DMZツアーは、このDMZの南を走る国道九号線沿いに、点在するベトナム戦争の激戦地跡を訪れるもので、フエで最も人気のあるツアーらしい。日帰りながら移動距離が長いので、朝六時に始まり、解散は夕方の六時だ。かなりのハードスケジュールになるらしい。
一緒に参加するビン・ズオンの日本人宿泊客四人と共にツアーバスへ。
エアコンの効いた三〇人乗りのバスの車内では、既にたくさんのツアー参加者が出発を待っている。
六時半、出発。
バスは市街地から西に向かって走り出した。
車内でオクノさんとサコウさんという二人日本人と知り合った。
サコウさんは大学で中国のウィグル地区問題を研究していたので、そのことを含め、チベット問題、毛沢東、共産主義、台湾問題などをキーワードにいろいろな話をしてくれた。
最初にバスが止まったのは、国道沿いにポツンとある教会。
ベトナム戦争時、この辺りで激しい戦闘が行われたため、教会の屋根は崩れ落ち、壁には銃弾の跡が数多く残っている。なんとなく空爆を受けたイラクの建物を連想させる。
朝食をはさみ、バスは山道を登り、とある村落へ。
ここは少数民族の村のようで、辺りには高床式の住居がいくつか建ち、女性と子供がたくさんいる。子供たちはかわいいのだが、写真を撮ると「マネー」と言って手を差し出す。驚くことに立ち上がるのがやっとの一歳ほどの子供でさえも、手だけはきちんと出すのだ。
村に大人の男性がいないことに気付き、そのことをガイドに尋ねると、男性は山で狩をしたり、木を切ったりしているそうだ。男が働いている点で、ベトナム人とは違うななどと思ってしまった。
バスは景色のきれいな山道を進んでいく。
今日のバスはあまり性能がよろしくないようで、山道を登るときはエアコンを切り、バスの全エネルギーを登ることに集中させねばならない。
朝早かったので眠たくなってきた。前方ではガイドが一生懸命に何かを解説しているのだが、僕の耳には届かない。
続いて、とある川の近くでバスが止まった。
話によると、かつてこの川には橋が架かっていたのだが、戦時中、アメリカ軍がそれを爆破したそうだ。戦略的にその必要があったのだろう。今では、既に新しい橋が架かっており、話を聞かない限り、そんなことがあった場所だとは気付くこともないだろう。川では水牛がのんびりと水浴びをしているように、辺りはひっそりと落ち着いている。
続いて、アメリカ軍のケサン基地へ。ここだけは入場料として二万五〇〇〇ドンも徴収された。
ケサン基地は、戦争中、アメリカ軍が重要な拠点としていた場所。資料館には当時の写真が展示されており、また、兵士のヘルメットや戦闘服、装備品なども置かれている。それらの状態から、戦争の激しさをうかがい知ることができた。
資料館の外には、ヘリコプターや戦車、ミサイルなどが展示されていた。ヘリコプターの機体に触ってみたが、意外に軽い素材でできていた。でないと飛ばないのだろうが。
今日のツアーで最も印象深かったのは、北ベトナム軍が掘った秘密トンネルだろう。その資料館にはトンネル内の地図や写真が展示され、そして資料館の横には、実際に使用されたトンネルが残っていて、中に入ることができる。
トンネルは入り口から既に狭く、通路幅は大人がなんとかすれ違える程度。床から天井までの高さは、一八〇センチの僕では常に中腰でいなければ頭を打ち続けてしまうほどに低い。
トンネル内は意外にも涼しかったが、それは最初のうちだけで、狭いトンネルを奥へと進むのは体力的にかなりしんどいため、気付けば軽く汗をかいていた。
トンネルは地中深くまで続いている。本当に人間の手で掘ったのかと思う程に深い。所々に分岐点があるので、案内板がなければ迷って出られなくなりそうだ。また、通路脇にはいくつかのかまくら程度の広さの部屋がある。これは会議や兵士の生活ための場所として使われていたそうだ。内部はまさにアリの巣だ。
狭いトンネル内を数百メートル歩き、ようやく外に出ることができた。すると、そこは南シナ海を目の前に臨む海岸だった。
ツアーは合計七、八箇所の戦争跡地を巡って幕を閉じた。
わりと移動時間が長いので、バスの中でしゃべるか眠るかしている時間が多かった気がする。しかし、最後のトンネルは一見、一通の価値ありだ。
夕方六時過ぎ、フエの市街地に到着。
仲良くなったサコウさんとオクノさんと共に、ライトアップされた王宮を見に行くことにした。
本来、王宮は週末の夜だけライトアップされるのだが、今年は王宮がユネスコ世界遺産に登録されてから一〇年目の年らしく、その関係で昨日と今日だけは、平日にも関わらずライトアップされているのだ。
期待して行ったにもかかわらず、王宮のライトアップは大したことなかった。逆に、期待もしていなかったフラッグタワーのライトアップと、フォーン川をまたぐチャンティエン橋のイルミネーションの方がよっぽどきれいだった。
その後、無理矢理にシクロに三人乗りし、四つ星ホテルのレストランへ。
今日は一日お疲れ様ということで「フェスティバル」という地ビールで「ヨー!」と乾杯。ビールはうまいが、料理はいまいち。帰りに立ち寄った屋台のおかゆの方がうまかった。
十時過ぎ、ビン・ズオンに戻り、『H2』を読み進めつつ日本人旅行者とのおしゃべりを楽しんだ。
明日の夜、列車でハノイに向かう。なんとかそれまでに『H2』読み切ってやる。
朝食 一〇〇〇ドン/昼食 一万五〇〇〇ドン/水 一万五〇〇〇ドン/ケサン基地入場料 二万五〇〇〇ドン/シクロ 二〇〇〇ドン/夕食 五万七五〇〇ドン/おかゆ 二五〇〇ドン/ジュース 四〇〇〇ドン/デザート 一五〇〇ドン/インターネット 一〇〇〇ドン/ゲストハウス 三ドル
目覚まし時計をセットしないで置くと、たいていは十時に目が覚めるのはなぜだろう。
シャワーを浴び、荷物を片付ける。干しておいた洗濯物はパリパリに乾いていた。
朝食をとりに宿の近所の食堂へ。道すがらの喫茶店に、同じドミに泊まっている二人の日本人がいたので挨拶。食堂では、日本のチャーシュー麺に限りなく近い麺料理を食べた。
インターネットカフェでメールの返信やらをしていたら、ふと時計を見ると時刻は十二時を過ぎていた。たいていの宿のチェックアウト時刻は十二時なので、慌ててビン・ズオンに戻りチェックアウト。多少の遅れを問題にするほど小さな宿ではないようで、追加料金を取られるようなことはなかった。
ビン・ズオンのロビーにはたくさんの日本人旅行者が集まっていた。僕自身を含め、今日は多くの日本人がフエを出発するため、皆出発の時までロビーで談笑しているのだ。
ニャチャンやホイアン、ホーチミンなど南へ向かう人もいれば、僕と同じようにハノイや中国など北を目指す人も、そして西へ向かいラオスに入ろうとする人もいる。さすがに東の海を渡ってフィリピンへ行く人はいないようだ。そのようなルートが存在するかどうかもわからないが。
とはいえ、そんな旅行者たちが集まっているだけに、ロビーで流れているNHKサテライトの海外安全情報を見ているだけでも、あーだこーだと話し合いが始まる。特に最近は、インドのムンバイだかで起きたイスラム過激派によるものと思われるテロ事件が話題の中心だ。近々現地へ行くつもりでいる人もいたため、そのニュースが流れると「まじかよー!」とどこからともなく聞こえてきた。
そんな人たちの横に腰を下ろし、僕は『H2』を読み進める。完全にこの漫画にはまってしまったようだ。全体的に似た部分が多いが、『タッチ』より『H2』の方が面白い。そして、個人的にはキャッチャーの野田くんがお気に入りだ。
漫画を読んでいるうちに、一人、また一人と旅行者が出発していく。
「それじゃ、またどこかで」
「いってらっしゃーい!」
「海賊に気をつけてねー」
旅行者同士のこんな言葉の掛け合いが気持ちいい。
皆、旅が大好きなのだ。だから同じように旅する人を暖かく見送るのだ。
さらに『H2』を読み進める。
気付けば、今日発つ旅行者は残すところ僕一人となっていた。十九時五〇分発の夜行列車なのだから、出発が最後になるのも仕方がない。
「千川高校の国見比呂、少年時代からの親友であり最大のライバル明和一高校の橘英雄を三振に押さえて甲子園決勝進出!」
ここで物語は完結する。『H2』、全三十四巻を読破。
気分いい。
時刻は夕方の六時四十五分。出発が近くなってきたので、忘れ物がないか荷物を確認していたところ、時計がないことがわかった。
実はバンコクの露店で買った腕時計は、ホーチミンでイミグレともめた日に落としてなくしている。今回なくなったのは、日本から持ってきていたアラーム付きの小さな置き時計だ。
従業員に手伝ってもらいドミトリー内を探すが、見つからない。バックパックに入れた記憶もない。どこかへ行ってしまったのやら。
時計はもう持っていないので、屋外では時間がわからなくなってしまった。分刻みのスケジュールで生活しているわけではないものの、少なからず時計を基に生活リズムを保っているし、バスや列車に乗るときは時間に遅れるわけにはいかないので、やはり時計は必要だ。近いうちに適当な露店で新しいものを買うことにしよう。
七時過ぎ、ビン・ズオンの従業員にバイクで送ってもらい、フエ駅へ。
待合室で待っていると、一人のベトナム人男性が近づいてきた。
「お客様の列車は何ですか?」
「S4だよ」
「何号車ですか?」
「九だよ」
懐疑心から無愛想に答えた僕に対して、男性は「じゃあ、もう中へどうぞ」とホームへ案内してくれた。しかも、このベトナム人はすべて流暢な日本語でしゃべっている。
九号車の停車位置に着くと、男性は言った。
「私は今、日本語を勉強しています。もしよければお話し相手していただけませんか?」
断る理由もなく、むしろ日本語を勉強していることに好感を持ったので、快く話し相手役を引き受けた。
男性の職業は駅員ではなく、列車関係のツアー会社の従業員らしい。愛知大学の大学院に兄が通っているとのこと。日本語以外にも中国語、スペイン語、フランス語、ドイツ語を勉強しているそうだ。
男性は五分ほど僕と話した後、再び先ほど僕にしたのと同じように新たな外国人に近づき、また別の言語で会話をしていた。外国語の達人のようだ。
「もしこれから韓国人がたくさんフエに来るようになったら、韓国語も勉強する?」
こんな僕の質問に対して、男性は
「もちろんでございます」
と答えていた。
列車に乗り込み、自分の座席を探す。今回はこの旅で最後の列車移動なので、これまでより奮発して寝台車を選んだ。これまでのソフトシートより料金は高いが、その分快適に眠れるだろう。
今回の列車は、一車両に七つのコンパートメントがあり、各コンパートメントには二台の三段ベッドが向かい合わせに設置されている。つまり、各コンパートメントの定員は六人だ。
僕のベッドは三段の内の中段だった。
ベッドにバックパックを載せ、さっそく横になる。ベッドには表面の柔らかいソフトベッドとやや堅めのハードベッドがある。今回はソフトベッドが満席だったのでハードベッドだ。ハードベッドは、堅い寝台に薄いクッション財とシーツが敷いてあるだけなので、当然だが堅い。しかも、中段は上段までの高さがあまりないので、ちょっと窮屈だ。冷房も無駄に強く、予想外に寒く辛い。本も読みづらく、日記も書きづらい。
いいことがあまりないので、少しだけお菓子を食べて、さっさと眠った。
快適なソフトベッドに寝転がり、お菓子を食べながら本を読み、時々車窓からの美しい風景を眺めるつもりだったので、この現実は残念だ。こんなはずじゃなかった。
朝食 八〇〇〇ドン/インターネット 八〇〇〇ドン/鉄道チケット 二四万九〇〇〇ドン/昼食 二万八〇〇〇ドン/菓子二万二〇〇〇ドン/切手 四万二〇〇〇ドン/水 六〇〇〇ドン/バイクタクシー 一万ドン/鉄道チケット手配手数料 二ドル
明け方、窓の外を見るたびに、外の景色が明るくなっていった。本当にきれいな景色だ。寝ぼけていたにもかかわらず、その美しさはしっかりと覚えている。
車内は冷房が強かったので、体を起こしたときには足がひんやりと冷たくなっていた。自分の体温で暖める。
時計がないので現在時刻はわからないが、まだ外は田園風景なので、ハノイまではもう少しかかるだろう。
同じコンパートメントでは、八歳ぐらいの少女が元気に騒いでいる。早朝から少女のキンキン声は耳障りなので、正直どこかに行ってほしい。
一時間程すると外の景色が変わり、都会に近づいていることをうかがわせるような建物が増えてきた。線路沿いの看板には「HANOI」の文字が見え始める。
車内放送が間もなくハノイとのことを伝えている。しかも、妙に長々とした言い回しで伝えている。ハノイの歴史でも語りはじめたのだろうか。
しばらくするとベトナム語放送が終わり、続いて英語での車内放送が始まった。よく聞くと、案の定ハノイの歴史を語っていた。フランスの植民地が云々と言っている。
十時頃、列車はハノイに到着。
外は暖かく、冷えた足がじわじわと体温を取り戻す。
バイタクを無視して、ビン・ズオンで紹介してもらった、ドミトリーが三ドルというゲストハウスを目指す。
ハノイ駅の東側にはホアンキエム湖という大きな湖があり、その北側にはホテルやレストランの集中するハノイの旧市街が広がる。
その旧市街を目指して歩いていると、とある客引きが近づいてきた。いつものことなので適当な返事で流す。
「一泊六ドルです。来てください」
「いいよ。ドミは三ドルだから」
「そんな~! テレビもシャワーもトイレもあります!」
「別にテレビはいらないし、シャワーなんかも共同でいいよ」
「待ってください! 四ドルでいいです! 来てください!」
「だからドミなら三ドルなんだよ」
「頼みますよ~」
「あなたが四ドルのうちの二ドルを払ってくれるならいいですよ」
「そんな無茶な! あーもー、三ドルでいいですよ!」
ビン・ズオンへの感謝の意味で、紹介してもらったドミに泊まろうとしていたが、客引きの料金が三ドルにまで暴落した瞬間、心が動いてしまった。
「元は六ドルの部屋だ。それに三ドルで泊まれるなんてラッキーだなぁ。この客引きはバカなことをしたなぁ」
そんなことを内心思いつつ、「とりあえず部屋を見るよ」とまだ半信半疑であるように装って客引きに着いていった。
部屋、六ドルするだけのことはあり、当然ながら清潔で設備も充実していた。
「しかたない、泊まってやるよ」
強気の姿勢でチャックイン。自分の性格の悪さを感じた。
シャワーを浴びた後、飯を食いに外へ。
近所にコムがあったので、食事はそこで済ませた。が、いまいち足りなかったので、さらにフォーを食べ、ようやく満腹に。
ホーチミンはベトナム経済の中心である一方、ハノイはベトナム政治の中心だと言われている。同時に、ハノイはベトナム文化の中心でもあるらしい。
そのせいなのかは知らないが、通りには民芸品を扱う店が多い。店頭に並ぶ民芸品の種類もホーチミンとは比較にならない。そんな民芸品だらけの旧市街は、街路が迷路のごとく入り組んでいるので、地図なしではすぐに迷ってしまう。
そして、案の定道に迷っているうちに、大きな市場にたどり着いた。せっかくなので、時計を買おうといくつかの店を回るが、これぞというものは見つからなかった。
ホエンキエムという湖を目指して歩いた。
首都だけのことはあり、ハノイは交通量が多い。交通事故に気をつけねばならない。
ちなみに、ベトナムの路上交通の大半を占めるのはバイクだ。男女問わず誰もが乗っている。車とバイクの比率は、日本とベトナムでは正反対になるのではないだろうか。信号待ちしている大量のバイクは、レースでも始めそうな勢いだ。しかも、運転手の九九パーセントはノーヘルだ。
ホアンキエム湖を臨むベンチに座り、湖から吹いてくる風にあたって涼む。
しばらくすると、物売りがやってきた。一〇枚セットのポストカードを見せてもらう。まとめ買いした方が安いと思い、値段を尋ねると、一セット九万ドンとのこと。こっちは何度もベトナムでポストカードを買っているので、相場ぐらいは知っている。相場より安い二万ドンを提示すると、物売りは七万ドン、五万ドン、三ドルと次第に値段を下げてきた。
一休みのつもりで、ポストカードは一枚いくらするのかと尋ねると、「五〇〇〇ドンだ」と言ってきた。本当は三〇〇〇ドンのはずだ。五〇〇〇ドンでは高すぎると言って値段交渉を止めようとすると、すぐさま物売りは、元は九万ドンだったポストカードのセットを二万ドンにした。彼にとっては売れないよりは、たとえ二万ドンでも売ってしまった方がプラスになるようだ。
夕方、タンロン水上人形劇というのを観に行った。
二〇〇人程が入れる劇場に入り、チケットに記された指定席につく。文化公演ということで、客の大半は外国人旅行者だ。
しんばらくすると、民族楽器の演奏と共に幕が開けた。
ステージ上には巨大な水槽があり、水中やカーテンの奥から、コミカルに動く大小様々な人形が現れる。
劇全体はベトナムの民話や習慣、伝説などをベースにした十七の短編ストーリーから成っており、一編は三分から五分程だ。
カーテンの奥から登場する人形は、まるで本当の人間であるかのように、人の動作の特徴を押さえた動きをする。人形は『サンダーバード』や『ひょっこりひょうたん島』に出てくるものに似た造りだが、それらとは違い、人形を支える棒や糸は全く見えない。しかし、実際はカーテンの奥で劇団員が何かしらの方法で人形を操っているのだ。
人形同士は度々複雑にすれ違う。人形に棒や糸がついているとすれば、かなり難しいことのはずだ。カーテンの奥での動きが気になる。
さらに、人形の動きはとてつもなく速い。水中から人形を操作しているとすれば、動きが速くなるほど水の抵抗も強くなるはず。にも関わらず、人形の動きはコミカルだ。
気付けば、前のめりになって見入っていた。
最後に、人形を操っていた劇団員がカーテンの奥から登場し、大歓声と共に閉幕した。わずか九人でやっていたとは思えない素晴らしい人形劇だった。水槽内の水が劇団員の腰近くに達していることを考えると、水槽はかなりの深さがあるようだ。
帰り際、劇中に演奏されていた民俗音楽が収録されたカセットテープが土産にプレゼントされた。
文化の中心地だけのことはあり、素晴らしいベトナム文化に触れることができた。
そして、さんざん迷いながらゲストハウスに帰った。
昼食 一万二〇〇〇ドン/水 四〇〇〇ドン/インターネット 一万五〇〇〇ドン/ポストカード 二万ドン/デザート 三〇〇〇ドン/水上人形劇チケット 四万ドン/夕食 一万六〇〇〇ドン/ゲストハウス 三ドル
時計がないのでフロントに行って時間を確かめる。まだ九時だった。
ポストカードを出しに行った帰りに朝食を食べようとしたが、周りに適当な店がなく、屋台でも言葉が通じず、あえなく断念。一食抜いたところで死ぬことはない。
ゲストハウスをチェックアウトし、市街地の北にあるロンビエンバスターミナルへ。
バスターミナルまでは少し距離があるので、バイタクを使うことにした。
始めに捕まえたバイタクは二万ドンも吹っかけてきた。そんな奴は相手にせず、四〇〇〇ドンでよいというバイタクに乗った。
程なくしてロンビエンバスターミナルに着いたものの、バス乗り場はいくつもある上に、案内掲示はベトナム語なので、目当てのバス乗り場がわからない。しかも、立ち止まれば次々とバイタクが近づいてくるので、余計に疲れてしまう。
結局、チケット売り場で暇そうにしていた男性に目的地の「バイチャイ!」という地名を言い、乗り場を教えてもらった。
乗り場はわかったものの、いつバスが来るのかも、どのバスなのかも、チケットはどこで買うのかわからない。既に疲れていたので、「バイチャイバイチャイ・・・」と小声で繰り返しながら、椅子に座っていた。その間にも、次々とバスが到着する。
二〇分程すると、忙しそうなおっちゃんが「お前はどこ行くんだ!」と遠くから聞いてきた。「バイチャイ!」と返事すると、「こっちだ! 早く来い!」と呼び寄せてくれ、バックパックをトランクに入れてくれた。
バイチャイ行きの小型のミニバスには、三十人近くがぎゅうぎゅう詰めで乗っていた。明らかに定員オーバーだ。幸運にも席は確保できたが、それでもかなりつらい。しかし、ツーリストバスではないので我慢しなければならない。車内で運賃の三万五〇〇〇ドンを払い、外を眺めることで車内のきつさを忘れようとしながら時間を潰す。
出発してしばらくすると、窓の外の都会の景色はいつの間にやら田舎の景色に様変わりしていた。DMZツアーのときにも感じたが、ベトナムの田園風景は日本のそれとよく似ている。田畑に囲まれた自分の祖父母の家が突然見えても、周りとの違和感はない。ちなみに、ベトナムはタイに次ぐ世界第二位の米の輸出国だったはず。
途中、人々が笑顔で同じ空を眺める看板が目に入ってきた。ベトナムの政治体制と関係があるのだろうか。北朝鮮を連想させる。
狭い車内で四時間過ごし、ハロン湾のバイチャイに到着。
ハロン湾はベトナムきっての自然美を有する湾。
海面からニョキニョキと突き出す大小の様々な形をしたの岩山が特徴的な場所だ。ユネスコ世界遺産にも登録されている。
小さな宿を五軒程見て回ったが、どこも一泊八ドルから一〇ドルと高い。
さらに探し歩くと、バイクに乗った兄ちゃんが「四ドル! 四ドル!」と言って近づいてきた。素直に案内してもらう。
案内された先は、老夫婦が経営している宿だった。客室は五部屋程の小さな宿だが、丘の上という立地のため部屋からの眺めは抜群によい。
四ドルの部屋は海に面していないので、海に面した部屋をリクエストしたところ、そちらは六ドルとのこと。お茶を飲み、ジョークを交えながら交渉し、結局五ドルで手を打った。
寝床を確保したので、さっそく泳ぎに行った。
ジュースを注文すればパラソルと椅子は無料で使わせてくれるらしいので、ココナッツジュースを注文。その場で大きなココナッツの実をナタで割り、ストローをさしてくれた。ココナッツジュースを飲むのは初めてだったが、味の感想はメロンの汁と同じ味。冷えていればもう少しおいしかったかもしれない。
ハロン湾の海の水温は高めだ。しかも、海はかなりの遠浅なので、波打ち際から五〇メートルほど海に入っても、水面は肩のあたりまでにしか達しない。海水の透明度はニャチャンほどではないが、ビーチからの景色は素晴らしい。
しばらく水遊びし、日焼けが恐いので早々と海水浴を終えた。
ポストカードを書き、丘の上に登り、昼寝をしていたら夕方になった。
手元に時計がないので、今日はほとんど時計を見ていない。時計を見ない生活というのは、案外落ち着かないものだ。毎日時計に合わせて生活してきたせいだろう。
夕方、海辺のレストランで食事をしていたところ、隣のテーブルから「日本人?」と日本語で声がかかった。振り向くと、歳が四十代と五十代ほどの二人の男性が食事をしていた。
「こっちおいでよ」
二人は僕をテーブルに招待してくれたので、何かあると思い、二人のテーブルに加わった。
話を聞くと、二人は大阪の真珠卸会社の社員で、今はハロン湾で真珠の養殖をする関連会社に出向しているらしい。若い方のナカオさんは技術者で、ベトナム生活は五年目とのこと。年上の方のイマイさんは、最近こちらの会社の社長に就任したばかりらしい。
二人が手がけている事業は、ベトナムの安い人件費で、日本で取れるのと同じかそれ以上の質の真珠を養殖するために十年前にスタートしたそうだ。
デリケートな真珠は、様々な自然環境の小さな変化にも影響を受けやすいため、その養殖は非常に難しいそうだ。事業は長く赤字だったそうだが、それでも最近はよくなってきたとのこと。
せっかくなので、いろいろなことを聞いてみた。
人件費が安いというが実際どのくらいかと聞くと、ベトナム人一人の人件費は月一〇〇万ドン(約八〇〇〇円)程らしい。ベトナムでは月一〇〇万ドン稼げるのはかなり良い方で、普通は五〇万から六〇万ドン、農業従事者となると月の収入は四〇万ドン程度だという。
僕は一日一二万ドンぐらいの予算でベトナムを旅しているが、そう考えると月一〇〇万ドンで一家を養うというのは、なかなか大変だということがわかる。
二人はビールと夕食をご馳走してくれた。
イマイさんはもう眠いとのことでホテルに戻ったが、ナカオさんはまだ飲み足りないらしく、「もう一軒付き合ってよ」と誘ってきた。おもしろそうなので、もちろん着いて行った。
連れていってもらったのは、高級ホテルの中の高そうなバー。
カウンター席や半円のソファー席があり、若い姉ちゃんがたくさんいるような店だ。
二人でカウンターに座り、ビールを飲んだ。
そしてさらにいろいろなことを聞いた。
事業のことやベトナムへの出向が決まったときのこと、ベトナム一年目の仕事のことなど。
確かに、ベトナムという言葉も文化もよくわからない場所で働くのは大変だが、給料が二倍になるし、なにより今まで失敗続きの真珠事業を自分の手で成功させてやるという思いがあったからこそ、ここで働くことを決意できたそうだ。
女遊びがいくらでもできるのも魅力だと冗談交じりで話していた。
実際、ハロン湾にはホーチミンやハノイの若い女性が売春目的でやって来ているそうだ。五年前は一晩五ドル程だったが、最近は三〇ドルから五〇ドルするらしい。
月一〇〇万ドン稼ぐ人がいる一方で、一晩で五〇ドル(約七五万ドン)稼ぐベトナム人もいるのだ。若い人がどんどん豊かになり、貧富の差は広がっているとのこと。ベトナムで働いていても、日本人は日本の相場で給料がもらえる。それだけに、過去には女遊びに没落してしまった事業関係者も多かったそうだ。ナカオさんは大丈夫なのかなと考えつつ、家族のことを尋ねると、日本に奥さんと三人の子供がいるという。
赤字ながらも、試行錯誤で進められているハロン湾の真珠養殖事業は、なんとNHKの『プロジェクトX』の取材も受けたそうだ。しかし、まだ表に出せるほどの成果を出していないということで、社長がストップをかけているらしい。
「ニ年後には絶対映るから、俺と社長のこと覚えてときな」
そんなナカオさんの一言は、酔っ払いの言葉とはいえかっこよかった。
ここでもご馳走になり、いい気分のままナカオさんと別れた。
別れ際、なんで僕に声をかけたのかを尋ねると、
「いや~、日本人がここに来るのが嬉しいんだよね」
と言っていた。
日本でハロン湾産の真珠を見かけたら、それはおそらく彼らが作ったものだ。
『地上の星』を口ずさみながら、ほろ酔いで宿に帰った。
宿に着くと、すぐに警察へ連行された。
実は、チェックイン時にパスポートを預けるように言われたのだが、ビザのことで面倒になると嫌なので、きちんと訳を話して預けないでよいようにしてもらっていたのだ。
しかし、夕方出かける時に、別の若い従業員にどうしてもパスポートを預けるように言われたので預けてしまった。そして、どうやら僕のパスポートは警察の手に渡り、やはりビザの点が引っかかったのか、僕は呼び出されたようだ。
何も酒を飲んだ後の人間を呼び出すことないのにと勝手に愚痴りながら警察へ。
通された部屋には一人の男性職員がおり、彼は各ホテルの従業員が持ってきた今夜バイチャイに滞在する外国人のリストらしきものをチェックしていた。ちなみにその職員は映画『フォレストガンプ』に登場するダン中尉に似ている。
三十分程待たされた後、事情聴取が始まった。
さっそく「英語はわかるか?」と聞かれたので、わざと下手な言い方で「少し」と返事をした。その後、ビザの期限が今日までのこと、イミグレで延長手続きが必要なことなどわりとわかりきっていることを説明された。そして旅行の目的や職業などいくつか質問された。
「明日の朝一でハノイに戻ってイミグレへ行きなさい」
そう指示されたが、明日の午前中はハロン湾をボートで回りたいので、ハノイへ行くのは午後でよいかと尋ねる。しかし、職員は、
「君はあと二時間で不法滞在なんだよ? そうなったらもしボートに乗ってる間に何か事件が起こっても責任が取れない。そうなれば君をハノイに行かせなかった私に責任が来てしまう」
などと言っている。
しかし、どうしてもハロン湾を見たいので、悲しい顔をして更にお願いする。が、答えは変わらなかった。
これ以上話しても無駄だと思い、最後は素直に「わかりました」と言い、明日の朝一でチェックアウトし、バスでハノイへ行くことを了解した。パスポートもその場で返してくれた。
バックには、もしものために五ドル札を入れておいたが、彼が賄賂を望んでいるのかどうか判断できなかったので、結局五ドル札の出番はなかった。賄賂がほしいなら、きちんと合図がほしい。
夜十一時、ようやく宿に帰還。
なんだかたくさんの人に迷惑をかけてしまった。ゲストハウスの人には往復バイクで送ってもらい、取り調べ中もずっと待っていてもらい、更に、明日僕を朝一でハノイに帰らせますという旨の誓約書を書いてもらうことになってしまった。ゲストハウスの年配のおじいちゃんも、僕が帰ってくるまでずっと起きて待っていてくれた。取り調べをした職員だって、僕の安全な旅を思って、ビザの延長を指示してくれたはず。
「こんなに人に迷惑かけてまですることなのかなぁ」
そんなことをベランダで考え、少し反省しつつ、イミグレでビザの延長なんかするものかと心に近い、明日ハロン湾へボートで行く作戦を練った。
今夜は雲が出ているにも関わらず、星がよく見える。
バイクタクシー 四〇〇〇ドン/ゲストハウス宿泊税 五〇〇〇ドン/切手 七万一〇〇〇ドン/バス 三万五〇〇〇ドン/ポストカード 一万五〇〇〇ドン/昼食 五万ドン/ココナッツジュース 一万ドン/インターネット 三〇〇〇ドン/ゲストハウス 五ドル
お父さん、お母さん、今日から僕は不法滞在外国人です。こんな息子を誇りに思ってみても、いいんじゃないでしょうか。
相変わらず時計がないので、目覚めても時間がわからない。少なくとも外は明るいので、シャワーを浴びて荷造りをした。
そして、そのまま宿のフロントへ行き、チェックアウト。まだ六時だった。
昨夜の警察職員に言われた通り、朝一のハノイ行きのバスに乗るためにバスターミナルへ行く・・・と見せかけて、逆方向へ歩く。
重いバックパックを背負って三十分近く歩くと、ボート乗り場に到着した。
さっそく「ボート乗らないか?」と声をかけられたので、料金交渉の末乗船。七時から十一時までのハロン湾クルーズだ。
比較的大きなクルーズ船には、十代後半の女学生団体が既に乗っていた。修学旅行だろうか。
「何? あのリュック背負った人。なんで同じ船なの?」
そんなことを言っているかのようなするどい視線が痛い。
七時過ぎ、出航。
船はのろのろとハロン湾を進む。
太陽の光がとびきり眩しい。
よく晴れ、眺めは最高。いい出足だ。
三十分程すると、船は海から突き出たひときわ巨大な岩山に停泊した。ここで船から降り、洞窟探検となる。
「この女の子達に着いていきなさい」
船長にそう指示されたので、はぐれないように女学生一行にくっついていく。が、似たような女学生の団体が多く、さっそくはぐれてしまった。
彼女らはどこかと辺りを探していると、同じ船に乗っていた一人の女の子が英語で話しかけてくれ、再びはぐれることがないようにと一緒に洞窟内を回ってくれた。
巨大な岩山にできた洞窟。その内部は、足元から天井までの高さが三〇メートル近くあるほどにでかい。
頭上からは水滴がぽたぽたと垂れ、その水滴が岩を削り、また、水滴が長い年月で固まり、独特な形状の洞窟内部を作り出している。所々にカラフルな照明によるライトアップがなされているが、そんなことをしなくとも、洞窟外の光が小さな穴から内部に入り込み、不思議な青い光を浮かび上がらせている。
一緒に回ってくれた女性は、以前にもこの洞窟に来たことがあるということで、ベトナムの歴史を交えていろいろと説明してくれた。しかし、難しい英語を話すので、部分的にしか理解できなかった。
ちなみに、同じ船の女性たちは学生ではなく、繊維工場で働く従業員一行で、年に一度の社員旅行でハロン湾に来ているとのこと。歳は皆十九歳から二十一歳くらいとのことなので、女学生に見えても仕方ない。
一緒に回ってくれた女性は二十三歳の大学生で、妹だかが工場の従業員なので、一緒に旅行についてきたそうだ。
蒸し暑い洞窟を一時間近く歩き回り、ボートに戻る。
のんびりとハロン湾の自然美を楽しんだ。
帰りは眠たくなってしまい、操舵室で横にならせてもらっていた。
ハロン湾クルーズを終え、バイタクで一気にバスターミナルへ。
ちょうどハノイ行きのバスが出るところだったので、駆け込み乗車。
そこそこきつい車内で四時間辛抱し、再びハノイに到着。ずっと座りっぱなしだったので、お尻が痛くてたまらない。
ホアンキエム湖に近い「クイーンズ・カフェ」という老舗のツアーオフィスが経営しているホテルにチェックインした。一泊三ドルで簡素な部屋にありつけた。水圧の高いホットシャワーが使えるのが何よりもありがたい。
チェックイン時にパスポートを出すように言われたが、今はビザの申請中で持っていないと嘘をつき、入国カードを見せると、それはそれでOKとなった。なんとも後ろめたい生活だ。
汗だくで汚れた体をシャワーで洗い流す。ずっとサンダルを履いていたので足が汚い。
ホテルに併設されたインターネットカフェで、三日分の日記を更新した。量が多く、ずっと座って作業していたので、腰を痛めてしまった。
近くのツアーオフィス、シンカフェで明後日のラオス行きのバスを予約した。
よくよく考えてみれば、ラオスの通過に一週間かかるというのに、ベトナムを九月六日前後に出国していたら、十三日のバンコク発の帰国便には間に合わない。よって、不違法滞在は当初予定していた一週間から四日間に短縮された。後ろめたさが三日分減るのはいいことだ。
明後日三日の夜にハノイをバスで出発し、四日の朝に国境が開き次第ラオスに入国する。そしてその日の夜に首都のヴィエンチャンに着く予定だ。あくまで国境でトラブルがなければの話だが。
二十四時間以上のバスの旅ということで、心と食べ物の準備が必要だ。
夕食は、ホアンキエム湖の南にある「アル・フレスコ」というイタリアンレストランにて。
ガイドブックに、この店のジャンボリブステーキを食べきった日本人はいないと書いてあったので、それならば自分がとチャレンジしに来たのだ。
さっそくそのステーキを注文したところ、店員は「お腹すごくすいてますか? 何人かで分けて食べるほどの大きさですよ? ハーフサイズにしては?」と言ってきたので、素直にハーフサイズに切り替えてしまった。チャレンジ精神が弱かったようだ。
出てきたリブステーキは、ハーフサイズとはいえ冗談のごとくでかい。亀の甲羅のような形をしており、頭にかぶれるほどだ。
フォークがついてこなかったので、「手で食べるの?」と店員に聞くと、その通りらしい。かぶりつけというわけだ。そして、テーブル上の水の入ったボールは、汚れた手を洗うためのもののようだ。ボールにはレモンが入っていたので、それに肉をつけて食べるのかと勘違いしていた。
味は大味だが、大きな肉にかぶりつく食感がたまらない。肉は柔らかいので、ボリュームのわりにどんどん腹の中に収まり、わずか十分ほどで食べ終えてしまった。確かに、ハーフサイズで満腹になる。
サラダとポテトもついて六ドルとは、日本では考えられない安さだ。日本人に人気の店らしく、今日も店には日本人客が三組程来ていた。店員も話しやすく、気さくないい人達。腹も気持ちも満足のかぶりつきディナーだった。
さて、明日はベトナムの英雄、ホーチミンに会いに行く。
水 八〇〇〇ドン/バイクタクシー 九〇〇〇ドン/インターネット 一万二五〇〇ドン/ジュース 六〇〇〇ドン/ハロン湾クルーズ 一〇ドル/ホテル 三ドル/夕食 八・二五ドル/バスチケット 一八ドル
予定変更。今朝はホーチミンに会うべくホーチミン廊へ行くつもりだったが、寝坊した。七時に一度目覚めたものの、二度寝してしまい、次に目覚めたのは十時。ホーチミン廊が開いているのは十時半までなので、もう間に合わない。
そんなわけで、のんびりと身支度をして、ホテル一階の喫茶店でフルーツシェイクを飲みながら、土産購入計画を立てた。今回はベトナムがメインの旅だったので、ベトナム土産を日本に持ち帰りたい。ともすれば、今日と明日が土産を買う最後のチャンス。買い物は効率的にしなければならない。
ホアンキエム湖の西にあるハンザ市場へ徒歩で移動。
ハンザ市場は二階建ての造りで、一階には酒、お菓子、野菜、魚、陶器など、二階には衣料品が並んでいる。
コーヒー豆を探し歩くが見当たらない。ホーチミンのベンタイン市場にはたくさんあったのに、なぜかここでは一軒も見つけることができなかった。市場周辺も探したが、やはり見当たらない。
しかたなく一キロ程離れたドンスアン市場まで足を運んだ。しかし、こちらでもやはり見当たらなかった。
今日は日差しが強く、外を歩いていると汗が噴き出してくる。そんな状況下、コーヒー豆を求めて一時間以上屋外をさまよっているので、もうフラフラだ。なんだかイライラしてきた。
自分のいる場所もわからなくなり、適当に歩いていると、夕飯の買い物をしに行くベトナムのおばさん、いや、日本のカズミさん登場。偶然にしても、四度の再会は多すぎる。しかも、このごちゃごちゃしたハノイの街で会うというのは奇跡に近い。
カズミさんはレンタルのママチャリに乗っていたので、二人乗りさせてもらった。
カズミさんの両替と航空券の予約に付き合ってから、ホアンキエム湖のすぐ近くにある「インティメックス」というスーパーマーケットへ。
この店は、いわゆる日本の中型スーパーと同じで、店内は冷房ガンガンだ。
入り口には買い物カゴがあり、一階には食料品、二階には食器や台所用品、生活雑貨、衣類などが並んでいた。店内だけ見ていれば、ベトナムにいることを忘れてしまう。
探し続けていたコーヒー豆は無事見つかり、しかもホーチミンの市場で見たのと大差ない値段だった。コーヒー豆以外にも土産を買い、涼しいスーパーを後にした。
ちなみにこのスーパーでは、入り口で手荷物を預けなければならない。万引きGメンなのかは知らないが、店員も不自然なほど多かった。
加えて、スーパーには日本でお馴染みの酒やインスタント食品、調味料などが多数あった。外国人客が多いのも印象的だ。こっちに暮らしている外国人だろうか。
その後、再びハンザ市場に行こうとしたが、道を間違えてドンスアン市場に到着。ベトナム式コーヒーフィルターを十セット買った。あと、いい加減時計が必要なので、市場内でアナログ腕時計を四万ドンで買った。少し文字盤が見づらいのが難点だ。
一度カズミさんとは別れ、ホテルの部屋で買ってきた土産をどうやってバックパックに収めるかを考える。かさばるコーヒーフィルターは分解し、同じ種類ごとに重ねたらコンパクトになった。割れ物はコーヒー豆をクッションにした。バンコクまで運ぶことさえできれば、あとは手荷物として何とか日本まで運べる。それまでは土産は頑張って背負って行こう。
夜、再びカズミさんと会い、夕食を食べに行った。
今夜の店は「ハノイガーデン」という高級レストラン。外国人旅行者と共に、金持ちそうなベトナム人ファミリー客も多い店だ。
脱皮して間もないカニを油で丸揚げしたクア・ロットや、ひき肉やキクラゲの入った揚げ春巻、皮をむいたナスを使ったサラダ、鶏肉と野菜の炒め物を注文。ハリダというベトナムのビールも初めて飲んでみた。味がどうというより、よく冷えていておいしい。
食後、レストランから十五分程歩いて「チェー・タップカム」というチェーの店へ行った。チェーとは、グラスに大豆や寒天、フルーツ、かき氷などの入った冷たいデザートのことだ。
店名にもなっているタップカムというメニューが一番人気らしく、グラスにたくさんのフルーツや寒天、かき氷を入れたそれは暑いハノイの夜にはたまらなくおいしい。かき氷は入れ放題なので、食べては入れ、食べて入れとなるのだが、当然ながら味がどんどん薄くなっていく。腹のことも考えたが、目の前の冷えた氷の誘惑に負け、満腹まで氷を食べてしまった。きっと後でひどいことになるだろう。
今日、九月二日はベトナムの祝日らしく、夜にも関わらずホアンキエム湖には、大勢の人が何をするわけでもなく集まっていた。交通量も半端なく多く、今夜は歩道にまでバイクが入り込み、暴走している。暴走族の集会が始まるかのようだ。この国の交通ルールは「ぶつからなければOK」らしい。たまにぶつかりもするが。
明日こそはホーチミン。
朝食 四〇〇〇ドン/フルーツシェイク 六〇〇〇ドン/バイクタクシー 四〇〇〇ドン/土産 一三万一〇〇〇ドン/腕時計 四万ドン/ジュース 六〇〇〇ドン/水 七〇〇〇ドン/インターネット 四〇〇〇ドン/夕食 一一万五〇〇〇ドン/チェー 七〇〇〇ドン/ホテル 三ドル
今日から一日一つずつ、旅行中に気づいたことを書こうと思う。旅行中、いろいろな発見をするが、それを書き留めずにそのまま忘れてしまうのは惜しい。だから旅行を通して気付いたことを日記の冒頭に記録していく。
旅行中に気付いたことその一、欧米人は年をとってもリュックを背負う。
旅先、特に旅行者の集まるツーリストエリアでは、世界中の旅行者を見かける。その時に思うのは、欧米人旅行者の年齢層の広さだ。日本人旅行者は二十代前半が最も多く、あとは年齢が上がるにつれて減っていく。中心となるのは二十代ぐらいで、三十代以降はほとんど見かけないのが実情だ。中国人や韓国人も同じで、二十代の旅行者はいても、年配の個人旅行はほとんど見ない。
しかし欧米人は違う。欧米人バックパッカーは三十代が一番多く、しかしながら、四十代や五十代も決して少なくない。彼らは夫婦や友人同士で、僕と同じようにバックパックを背負って、Tシャツに半ズボン姿で歩いているのだ。
「何も四十、五十でバックパック背負ってアジアなんかに来なくてもいいのに・・・」
一見そう思ってしまうところもあるが、彼らは彼らなりに楽しんでいる様子。日本人の中高年がバックパッカー風にアジアの街を歩いていたら、何か不自然で少し心配してしまうが、欧米人の場合は全くそんなことなく、むしろ絵になっている。長い間生きてきた経験から、リュックを背負って歩くのにも余裕が感じられる。
旅に年齢は関係ないのはわかっている。けれど、年を重ねてもかっこよく旅している欧米人は素敵だし、アジア人には真似できないのではとふと思う。
我こそはという四十、五十代の日本人、是非バックパック背負って旅しに来てください。
今日はきちんと七時に体を起こした。
バイタクを拾ってハノイ駅の西側にあるホーチミン廊へ。
入り口を入ると、日本武道館のような形をした巨大な建物が視界に入ってくる。これはホーチミン博物館。ホーチミン廊はこの博物館の北東数百メートルに位置している。
ホーチミン廊の敷地内に入り、手荷物を預ける。廊内では写真撮影も禁止だ。
入り口から百メートル程進むと、教会のように長いすが並んだ縦長の部屋がある。部屋の前方では、ベトナムの歴史やホーチミンに関するビデオが流れている。
この部屋で待つように言われたので、他のベトナム人たちと同じように、椅子に座ってしばし待つ。退屈している周りの子供たちは、互いにちょっかいを出し合っている。僕も退屈だ。
五分程経つと、突然室内の全員が立ち上がり、建物の外に二列で並び始めた。どうやら、間もなくホーチミン廊が開くようだ。
遅れをとらぬよう、僕もその列に加わる。
二列を維持したまま敷地内を歩き、ホーチミン廊の正面へ。
ホーチミン廊は、石造りの濃い灰色の建物で、立方体の形をしている。そして、その廊を囲むように何本もの円柱が立っている。
廊の周囲はよくきれいな庭園になっており、噴水や池、花壇などがある。
正面入り口の赤い絨毯を踏みながら廊内へ。
至るところに白い制服の警備兵がおり、ぴくりとも動くことなく、じっと訪問者を監視している。
低温に保たれた廊内に入り、左手にある階段で二階に上がる。すると、その先には薄暗い一室がある。
部屋は正方形で、部屋の中心付近は一段低くなっている。そして、その低くなった部分に、ガラスケースに入ったホーチミンの遺体が安置されていた。ガラスケース内のホーチミンは目を閉じ、黒っぽい服を着、下半身には布がかぶせられている。両手は骨盤の上辺りにあり、頭はまくらで支えられ、顔はオレンジ色のライトで照らされている。あまりに自然な表情で目を閉じているので、突然目覚めても不思議ではない。
訪問者は、ホーチミンの周りを反時計回りに一周することができる。私語や、立ち止まることは禁止だ。
大人も子供も静かに中央のホーチミンを眺め、一分弱ほどで強制退出となる。
室内には、訪問者のゾロゾロとした足音のみが響く。
通路に五、六人、ガラスケースの四隅に一人ずつ警備兵が立っている。天井には赤外線センサーが設置されていた。
本当に眠っているだけで、突然目覚めそうなホーチミンの表情が印象的だった。
廊を出て、そのまま廊の裏にあるホーチミンの家へ。
高床式の驚くほど質素な家は、ホーチミンが一九六四年に亡くなる時まで暮らしていた場所だそうだ。八畳ほどの窓の多い部屋が二部屋。一室は書斎らしく机や本棚が、もう一室は寝室でベッドと多少の家具が置かれていた。
これほど有名な人物であり、住んでいたのが六十年代とはいえ、あまりに質素な住居で驚いた。きちんとした家ではあるが、贅沢という言葉は浮かんでこない。本当に質素な家だった。
その後、ホーチミン博物館をさらりと見学してホテルに戻った。
夕方まで時間を潰し、七時前にホテルを出発。わざわざシンカフェのスタッフがミニバスでホテルまで迎えに来てくれた。そのミニバスで、ヴィエンチャン行きのバスが停車する場所へ。
大型バスに乗り換えると、いよいよヴィエンチャンへの移動が始まった。
車内には、僕以外にも二〇人程の旅行者がおり、日本人も二人いるようだ。
さて、ラオスとはどんな国なのだろうか。
朝食 八〇〇〇ドン/昼食 一万六〇〇〇ドン/水 六〇〇〇ドン/インターネット 一〇〇〇ドン/バイクタクシー 一万一〇〇〇ドン/博物館入場料 五〇〇〇ドン/スイカシェイク 八〇〇〇ドン/ランドリー 一万二〇〇〇ドン
旅行中に気付いたことニ、旅行中は人に頼ってはいけない。
大きな大きな、本当に大きなミスをした。体も心もヘトヘトだ。
夜行バスに揺られ、ラオスの首都ヴィエンチャンを目指していた。悪路のためバスの揺れは激しく、車内はとても眠れる環境ではなかったが、エアコンがよく効いて涼しく、外を見ながら時間を消化していた。
深夜に一度、小さな街でバスが止まり、数人の旅行者がバスを乗り換えた。同乗していた日本人旅行者も含め、大多数の乗客はまだバスに残っていたので、自分もそのままバスに残っていた。
そしてバスは再出発。深夜のベトナムを更に走り続けた。
予定では深夜二時頃に国境の手前で停車し、国境が開く朝の七時を待つのだが、バスはそのポイントに着く様子もなくひたすら走り続けている。
「このバスはヴィエンチャン行きですか?」
近くのベトナム人に尋ねると、とりあえず頷きはするが、僕の質問を本当に理解しているのか疑わしい。
しばらくし、窓の外に恐ろしい標識が見えた。
「HUE 八十五キロ」
いつの間にか、バスはフエ行きに変わっていたのだ。
他の乗客が眠る中、運転手に行き先を確認すると、やはりフエとのこと。
どうやら、先ほど数名がバスを降りた地点が、ヴィエンチャン行きとフエ行きの分岐点だったようだ。僕はあのとき、バスを乗り換えねばならなかった。乗り換えるように支持された覚えはないが、きちんと乗り換えた人もいるのだから、僕のミスには変わりない。
僕一人のためにバスがUターンするはずもないので、仕方なくフエで降りることにした。
もっときちんと英語を聞き取れていたら・・・。
回りの日本人に行き先を確認していたら・・・。
深夜にバスが止まった時に、運転手に状況を尋ねていたら・・・。
そんな後悔の念ばかり浮かんでくる。
目指していた場所にたどり着けないばかりか、既に旅してきたルートを後戻りするというのは、精神的ショックが大きい。悔しくて、悲しくて、涙は出なくとも心は泣いている。
朝六時半、不幸中の幸いか、バスは以前泊まったビン・ズオンの前に停車した。
ビン・ズオンで状況を話すと、日本語の上手なオーナーは同情してくれ、すぐに今夜のヴィエンチャン行きのバスを予約してくれた。さらに、シャワーやトイレを自由に使わせてくれ、休憩場所としてソファーも提供してくれた。
不幸にも辿りついた街が、ラオスへの直通バスが出ている数少ない街であり、親切なビン・ズオンのあるフエで本当にラッキーだった。
トラウマになりそうな自分のミスを悔やみながら、ソファーに倒れこんだ。飯を食いに行く気にもなれない。そもそも、さっき水を買ったことで、手持ちのお金は四七〇〇ドンだけだ。
とにかく何もしたくない。お金と時間と心を削った自分のミスを忘れたいだけだ。常に「なんとかなるさ」と楽観的できたが、今回ばかりは元気を取り戻すのに時間がかかりそうだ。
ひたすら眠る。
無理矢理眠る。
がむしゃらに眠る。
夕方五時半、心優しいビン・ズオンの従業員に見送られ、ヴィエンチャン行きのバスに乗り込んだ。今回はヒサタカさんという二十歳前後の男性も一緒なので、心なしか安心できる。
そしてバスは出発した。
乗客はベトナム人とラオス人ばかり。外国人旅行者はヒサカタさんと僕の二人だけのようだ。バスは少し古いが、車内はエアコンが効いているので、乗り心地は悪くはない。
暗い夜道をバスは走る。
昨夜のことがあり、なんだか安心して眠りにつけない。もしやハノイに向かっているのでは・・・。そんな心配を夜中までしていた。夜行バス恐怖症になったかもしれない。
深夜一時、バスは国境の手前で停車した。
ようやく安心でき、僕も眠りについた。
今度こそ、ラオスに入れるといいな。
インターネット 一〇〇〇ドン/水 五〇〇〇ドン/夕食 二万ドン/バスチケット 一七ドル
旅行中に気付いたことその三、日本人はアジアの売春産業を支えている。
これまで訪れた国々では、若い女性の売春が多い。それなりの規模の都市には、売春街とでもいう売春する女性やその女性を買う男性が集まる場所があるようだ。そして、売春する女性を買う男性には、日本人旅行者も含まれている。彼らは一晩数ドルで、現地の女性を買っている。
日本人旅行者には売春女性を買う人が多いというデータがあるわけではないが、しかし、旅行中に出会った日本人を思い出すと、かなり多くの人が、自分は女を買ったというようなことを言っていた。
憧れのバックパッカーたちが、時として自慢げにそんなことを口にしているのを見るとがっかりする。たくさんの女性を買うことはすごいことなのだろうか。
日本国内と比べ、東南アジアでは安く女性と寝ることができる。そのこともあり、日本の中年男性の団体が、東南アジアへ売春旅行に出かけていたとの話しを聞いたことがある。しかし、今では比較的若い日本人男性も、同じようなことをしているようだ。
「プノンペンの女はいけてるでしょ!」
「ニャチャンの女買ってみな」
「あの国は女が安い!」
「女は地方に買い付けに行くもんだよ!」
こんな言葉を聞いていると、同じ日本人であることが恥ずかしくなってくる。気持ちが大きくなってしまう外国にいるとはいえ、よくああいったことをためらいなく口にできると思う。
インドとネパールではドラッグが蔓延しているが、インドシナではそれよりも売春問題が深刻かもしれない。
六時過ぎに目が覚めた。乗客も運転手も死んだように眠っている。夜中にベトナム人が大声でうなされたり、突然バスのスピーカーから大音量の音楽が流れたりと刺激的な夜だった。
六時半頃、バスが走り出した。
途中、小さな食堂で朝食をとり、その後さらに山道を進んだ。
山間を覗くと、目線より下に薄い雲が漂っている。いつの間にかずいぶんと標高の高いところに来ていたようだ。
七時半、ベトナム側の国境であるカオチェオに到着。
この国境は非公式なものらしく、そのせいか、ベトナム人やラオス人が時々利用する程度の静かな国境だ。
いよいよわけありビザでの出国のときがきた。賄賂を渡す決心はついている。
イミグレの窓口では、人々が我先にとパスポートを差し出していた。窓口の内側では、二人の管理官が差し出されたパスポートにスタンプを押している。
出国カードと共に一〇ドル札を一枚だけパスポートに挟み、管理官の前に置いた。管理官はベトナム人を優先して処理するので、ドキドキしながら数分待った。そして、管理官が僕のパスポートを手に取り、事務処理を始めた。
管理官はパスポート番号などをノートに写し、ビザを確認。そして、挟んであった一〇ドル札に気付くと、それを机の引き出しに投げ入れた。その後、しばらくビザを眺めた末、僕を見て「ケンタ~? テンダラァ~」と一言。
一〇ドルでは足りなかったのだろうか。パスポートを返してくれと指差すが返してくれない。
仕方なくもうさらに一〇ドルを渡すと、パスポートを返してくれた。戻ってきたパスポートには九月五日付の出国スタンプが押されていた。
これはどういう結末だったのだろうか。
おそらく、最初の一〇ドルは出国税として徴収され、次の一〇ドルは賄賂あるいは滞在期限超過に対する罰金として徴収されたのではないだろうか。ベトナム人や他の外国人が出国税として二万ドンないしは二ドルを払っていることからすると、その可能性が高い。
こういった小さな国境管理事務所では、釣り銭がないことが多い。だから、本来なら八ドルのお釣りがもらえるはずだが、一〇ドルまるまる出国税になってしまったのかもしれない。だとすれば、始めに挟むのは二ドル程度でよかったのだろうか。それとも、どちらにせよ二〇ドル近く払わなければならなかったんだろうか。
タイの場合、滞在期限を一日超過するにつき二〇〇バーツ(約五ドル)の罰金が課される。今回の場合は、超過五日で合計二〇ドル払ったのだから、一日につき罰金は四ドルとなる。高いのか安いのか、今は判断がつかない。
やや後味は悪いが、とりあえずベトナム出国だ。
橋を一本渡り、百メートル程進むとラオスのイミグレがあった。
こちらは出入国カードを提出するだけで、すんなりと通過することができた。許可された滞在期限は、今日から一一日までの七日間。
いよいよ四カ国目のラオス、謎の国だ。
九時頃、バスは国境を出発した。
急な山道や小さな村落、広大な田畑の間を、バスは出せる限りの馬力を出して猛スピードで進んで行く。朝からぐずついていた天気は昼には回復し、晴れ間が見えてきた。
水牛やニワトリを横目にラオスの山岳地帯を駆け抜ける。ひどい揺れにもだいぶ慣れ、眠ることさえできた。
ラオスに入って一つ変わったことがある。それは、看板に英語表記が増えたことだ。ベトナムでは看板は全てベトナム語表記だったが、ここではラオス語とともに英語でも使われている。
バスは「ヴィエンチャン」と書かれた看板を通り過ぎ、いよいよラオスの首都に入る。窓の外の街並みもだいぶ洗練されてきた。
とはいえ、まだ田舎っぽさが十分にあるうちに、バスは最終停車した。「ここが首都?」と思うほど、ほのぼのとした街だ。
ラオスの人口は六百万人弱。そのような国では、一国の首都でさえこの程度の賑わいなのだろうか。高層建築物などなく、背の高い建物はせいぜい三、四階建てだ。未舗装路も目立つ。
街中では外国人旅行者を比較的多く見かける。日本人旅行者もそこそこ滞在しているようだ。
ヴィエンチャンの現実を受け止めて、トゥクトゥクでゲストハウスの多い地区へ。
今夜は韓国人女性が営む「RDゲストハウス」のドミトリーに泊まることにした。メコン川沿いにある宿で、一泊二ドルの安さだった。
夕方、ヒサタカさんと食事をしてから、ドミのベッドで体を休めた。ハノイからフエへの望まぬ長距離移動の後、すぐさまフエからヴィエンチャンまでの二〇時間にも及ぶ国際長距離移動だったので、もうクタクタだ。
ヴィエンチャンの市街地にはスーパーマーケットやインターネットカフェがあるので、生活環境は悪くない。しかも物価はこれまでの国より安い。トゥクトゥクの客引きもしつこくなく、とてものんびりと過ごせそうだ。
街の賑わいは、バンコクやホーチミンといった大都市というより、シェムリアプやバイチャイのような地方都市に近い。僕の好みのところでもある。
夜、外を歩いていると、交差点で数人の女性が次々と声をかけてきた。アジアの売春だ。彼女たちと話す度胸もないので、無視して宿に戻った。
朝食 一万ドン/夕食 二万七〇〇〇キップ/バスチケット 二万五〇〇〇ドン/トゥクトゥク 七〇〇〇ドン/水 一〇〇〇ドン/菓子 六〇〇〇ドン/インターネット 一万二〇〇〇ドン/出国費 二〇ドル/ゲストハウス 二ドル
旅行中に気付いたことその四、欧米人バックパッカーは荷物が多い。
旅先で見かける欧米人バックパッカー。アジア人に比べて体の大きな彼らは、荷物もずいぶんと大きく、量が多い。背中には巨大なバックパック、肩には膨らんだショルダーバック、さらに胸の前にも中ぐらいのリュック。いったい何をそんなに持ち歩いているのだろうか。体がでかいから衣類もでかくて、それ故に荷物が多いというわけではなさそうだ。
ある日本人旅行者がこんなことを言っていた。
「前にドミで一緒だった欧米人なんだけどさ、そいつ『俺はいつもこれで音楽を聴くんだぜ』とか言いながらバックパックの中からでかいラジカセ出してきたよ」
小型の音楽プレーヤーを持参して旅する人はたくさんいるが、ラジカセをかついだ旅行者は見たことない。持っていける物は無理にでも持っていって、旅を最大限に楽しむのが、欧米人旅行者の地球の歩き方なのかもしれない。
移動のバスではすぐに眠りにつく欧米人。その理由は、単に重い荷物を背負ってきたせいで疲れていただけなのかもしれない。
昨日ヴィエンチャンに着いたばかりだが、今日すぐにヴィエンチャンから国道一三号を一〇〇キロ程北上し、バンビエンという小さな町に移動する。僕がラオスで唯一行ってみたい場所だ。ラオスに滞在できるのは七日間と限られているので、時間を有効に利用するためにも、すぐにバンビエン入りしてしまう。
六時に起き、朝食をとるために近くのパン屋へ。
パン屋は、まだパンが焼けておらず、食べ物はケーキ類しかなかった。ひどく甘いエクレアとラオティーという紅茶をいただいた。メニューに合わせれば会計は一万三〇〇〇キップ程だが、釣り銭まだ用意してなかったらしく、ジャスト一万キップにしてくれた。
七時前にRDゲストハウスをチェックアウト。
「スカンジナビアベーカリー」という地域で有名なパン屋にて、コッペパンとクロワッサンとチーズをテイクアウトし、市街地の東にあるバスターミナルまで歩いた。徒歩二十分の距離だ。
ターミナルに着くと、都合よくバンビエン行きのバスが出発するところだった。
七時四十分、バスはヴィエンチャンを出発。
外国人旅行者の多い車内はエアコンが動いていなかったものの、窓を開けると天然のエアコンが作動し、てとても心地よい。
外を眺めながら、パンとチーズを食べる。
走ること三時間余り。僕が最後のクロワッサンを飲み込むと同時にバスは止まり、誰かが「バンビエン!」と叫ぶ。到着したようだ。
バンビエンは、周囲を山に囲まれた小さな小さな田舎町だ。
町の中心には、レストランやゲストハウスが何軒かあるので、適当なゲストハウスにチェックインした。一人には十分過ぎる広い部屋が一泊二ドル。最近は朝晩が寒いので、ホットシャワーがついているのが何よりも嬉しい。
一休みしてから町を歩いてみた。
通りにはゲストハウスやレストラン、ツアーオフィス、商店などが並ぶ。一通り揃ってはいるが、何か寂しい。市場もあるが、旅行者の目を引くような物はない。一方で、商店で売られている飲み物がよく冷えていたり、インターネットの通信速度が意外に速かったりと、嬉しいこともある。とはいえ、小さな町であることには変わりないので、町内観光は十分で終わってしまった。
こんなバンビエンの町だが、外国人旅行者の間ではなかなか人気がある。その理由は、周囲に広がる自然環境を活かした各種アクティビティーにある。
例えば、町の横を流れる川を、カヤックやチュービングで下るアクティビティーは、特に人気があるようだ。僕自身、ここまでの道中、何人もの旅行者にバンビエンでの川下りを勧められたので、この町にやってきたという経緯がある。そうでもなければ、こんな小さな町を訪れることなど思いつかない。
川下り以外にも、町の周辺では洞窟探検やトレッキング、ボートトリップなどができるようだ。
数軒あるツアーオフィスを見て回り、明日の洞窟探検&チュービングツアーに申し込んでみた。
午後はポストカードの宛名書きをした後、部屋で昼寝をした。
観光ツアーはいろいろあるが、参加しなければ何もない町だ。旅行者自体少ないので、友達もできない。どこかの宿に若い日本人旅行者が集まっていたが、あまり付き合いたくないタイプの人たちだったので、声はかけなかった。
外は小雨が降っていたが、夕方もう一度町を一周した。
屋台で、クレープに似た生地にバナナとチョコレートを挟んだ甘いお菓子を食べた。店主の手際のよい調理技術が印象的だ。
夜はずっと部屋でぐったりしていた。したことといえば、時々洗濯物の乾きを確かめたぐらい。
ふと「ビアラオ」というラオスのビールを飲んでみた。体が疲れ気味だからか、妙においしかった。
朝食 三万四五〇〇キップ/ポストカード 二万キップ/水 一〇〇〇キップ/菓子 六〇〇〇キップ/缶ビール 五〇〇〇キップ/つまみ 二〇〇〇キップ/インターネット 二万一〇〇〇キップ/
ゲストハウス 二ドル/洞窟探検&チュービングツアー参加費 七ドル
旅行中に気付いたことその五、韓国の中古バスはインドシナで大活躍している。
タイでは印象にないが、カンボジアやベトナム、ラオスでは車体にハングル文字の書かれた韓国の中古バスがたくさん走っている。特にローカルな長距離バスでは韓国の中古バスが使用されている確率が高く、ツーリストバスでも時々使われている。たいていの場合、車体のハングル文字は消されることなく残されているので、見ればすぐに元は韓国で使われていたものだとわかる。
しかし、なぜ韓国なのだろう。車の性能を考えれば、日本の中古バスがあってもおかしくない。しかし、今のところ日本の中古バスはダナンで一度見ただけだ。陸路を走らせてインドシナまで中古バスを運んでくる場合、韓国はユーラシア大陸にくっついているから都合がいいのだろうか。しかし、韓国とインドシナではあまりに距離があり過ぎる。
妥当な考えとしては、性能はそこそこ良く、日本車よりも価格が安いから韓国車なのだろう。
いずれにせよ、使われなくなったバスがこちらで再利用、しかも韓国での現役時代よりも激しく使われているのは、決して悪いことではない。バスも大切に使われて喜んでいるはずだ。
今日はバンビエンの自然環境を利用した洞窟探検&チュービングツアーに参加する。
十時にゲストハウスの二軒隣のレストランに集合。
参加者は日本人のヤヨイさん、イギリス人のイアンさんとシュビータさん、主催者でありツアーガイドのケオさん、それに自分を含めた五人だ。
軽トラの荷台に屋根を付けただけのラオスラクシーに乗り、国道一三号を北上する。車内では自己紹介をし合う一方、ケオさんがラオスの少数民族などについて説明してくれた。
小さな村でタクシーを降り、五〇歳であるケオさんが、自分の妻だと主張する十八歳の女性と会った。ケオさんの奥さんは二年前に亡くなったらしく、最近になってこの若い女性と結婚したそうだ。しかし、年の差からして本当かどうかはわからなかった。
川沿いを歩いて移動。
周囲には植物が多く、「この葉はマラリアに効くんだ」「この花はラオス語で○○と言うんだ」などとケオさんがそれらを説明してくれる。そして、その都度イアンさんが細かく質問し、「写真を撮らせてくれ」と皆を待たせ、「ラオ後でこの花の名前を書いてくれ」とケオさんに頼み、ツアーはなかなか先に進まない。
辺りには植物だけでなく、色鮮やかな蝶やトンボがこれでもかというほどたくさんいる。蝶は人の足にとまるほど人懐っこい。
とある村に着き、ラオス料理を試食した。
スティッキーライスと呼ばれる硬めに炊かれたもち米を、牛肉と豚肉の炒め物に付けて手で食べる。質素ながら、うまい。
その後、は村人の機織作業を見学し、イアンさんが写真を撮ったりあれこれ質問したりし、岩山の中にある神社を見学し、イアンさんが細かく質問し、忘れ物を取りに戻るイアンさんを皆が長々と待つといった具合。この時点で参加者たちはイアンさんに半分あきれていた。
そして、いよいよ洞窟探検。
タイヤのチューブに乗り、川の片隅に存在する洞窟に入っていく。洞窟内にも水の流れがあるので、タイヤチューブに乗って移動するのだ。
中は暗く、天井は低い。ガイドロープを握りながら三〇メートル程奥へ進むと、砂地が現れた。ここでチューブを降り、この先は徒歩移動に。
この徒歩移動は、もう二度と経験したくない程に辛かった。高さ五〇センチもない隙間を、自衛隊のごとく身をかがめて前進する。ごつごつした岩の地に膝をついて移動し、幅が三〇センチもない岩と岩の間に体をねじ込んで、無理矢理通過する。膝や肘はすれ、中腰姿勢が続くので腰が痛い。
洞窟内を二〇〇メートル程進み、「また来たルートを戻るのか・・・」と愕然としていると、その場所は既にスタート地点だった。いつの間にやら戻ってきたらしい。不思議な洞窟だ。
昼食は先ほどと同じスティッキーライスと小さなオムレツ、ぜんまいの炒め物、辛めのココナッツサラダ、そしてバナナとラオスの米から作る焼酎ラオラオ。ぜんまいの炒め物は日本人好みの味付けで特においしい。
食後、田んぼ道を通って次のポイントへ。歌を歌いながらのほのぼのとした移動だ。
着いた先は、ラオスの少数民族であるモン族の小さな村。
学校の校庭では、モン族の子供たちがセパタクローをしていた。せっかくなので仲間に入れてもらう。
モン族はラオス語とはまた違う言語を使う。どっちにしろ言葉はわからないのだが、セパタクローを通じて結構盛り上がった。
その後、村人たちの居住地区へ。
二十人以上の子供たちが押し寄せてくる賑やかさだった。子供たちは僕のように観光で訪れる旅行者と遊ぶのが好きなようだ。
それにしても子供が本当に多い。元々途上国は子沢山だが、都市より地方の方が子供が多いということも証明している気がする。別れ際、子供たちはニコニコしながら手を振ってくれた。
道端のサトウキビを引っこ抜いてかじってみた。かなり甘みがある。この辺は至る所にこうした食べ物や薬草があるようで、サトウキビをかじってるモン族の子供もいた。
タクシーで十分程移動し、最後のイベントであるチュービングが始まった。
参加者は、それぞれが大きなチューブに乗っかり、冷たい川をバンビエンの町目指して下っていく。はぐれないように四人で手を繋ぐよう指示されていたが、途中で僕とヤヨイさんが岩場にお尻を強打し、そのあまりの痛さに手を離してしまい、一行は二手に別れてしまった。
川を下ること三十分。バンビエンの市場の裏手に到着した。普段は川沿いに「STOP POINT」と書かれた巨大な黄色い旗が出ているらしいが、今日は出ていなかった。以前、旗に気付かず、さらに先まで川を下った旅行者が滝から落ちて死んだという話を聞いていただけに、ちょっと恐ろしい。
びしょ濡れのまま、朝のレストランまで歩いて戻り、ケオさん始め参加者にお礼を言ってツアーは終了した。チュービングで打ったお尻が痛い。
夜は、ツアーを共にしたイアンさんとヤヨイさんと三人でインド料理を食べに行った。なぜインド料理かといえば、イアンさんがベジタリアンだからだ。なんでベジタリアンなのか尋ねたら「自分の体にも自然環境にも良いから」とのこと。食べ物には気を使っているようだが、彼は昼間、プリングルスを満足そうに食べていた。ジャンクな物もOKらしい。
チキンカレーを食べながら、それぞれの旅行、自分の国での活動などを話し合った。
途中、この旅で初めての停電が起きた。なかなか復旧しないので、店員がテーブルに一本のローソクを立ててくれ、それはそれでいい雰囲気になった。他の店もローソクをテーブルに立てているので、今夜のバンビエンはポツンポツンと灯るローソクに彩られている。ちなみに、インターネットカフェは諦めて閉店していた。
ゲストハウスに戻ると、停電は復旧したのか、電気がついた。その灯りの下で日記を書いていたら、またしても停電。諦めてベッドに入った。
室内は真っ暗なのでカーテンを開けると、驚くほど明るい月光が室内に入ってきた。ベッドの上に窓ぶちの影ができるほどの明るさだった。
朝食 五〇〇〇キップ/水 一〇〇〇キップ/コーヒー 三〇〇〇キップ/インターネット 四五〇〇キップ/ランドリー 一万三五〇〇 キップ/夕食 三万六五〇〇キップ/缶ビール 五〇〇〇キップ/つまみ 二〇〇〇キップ/ゲストハウス 二ドル
旅行中に気付いたことその六、インドシナ諸国では想像以上に携帯電話が普及している。
もちろん、日本のようにほとんど一人一台とまではいかないが、例えばベトナムでは、二十代以上の男性の大半は携帯電話を持っていた。
バスや列車に乗ると、日本と同じように突然着信音が鳴り、通話を始める人がいる。メールも利用されているのか、カチカチとボタンを押している人も多い。市場やツアーオフィスでも、携帯電話をいじっている人を見かける。その光景は、日本のそれとなんら変わりない。主婦にも携帯を持っている人がいるようで、子供を抱えながら通話している女性をカンボジアで見かけた。
携帯電話を売る店も多く、そうした店は看板に「ノキア」と書いている。インドシナではノキアが独占状態のようだ。ガラスケースの中には、コンパクトな携帯電話が二十種類程並ぶ。
驚くことに、この大自然に囲まれたバンビエンの町でも携帯電話は使われている。こんなところまで電波を飛ばしているとは、恐るべしラオスの携帯会社。
十時半、起床。今日は、昨日強打したお尻をかばい、一日静かにしているつもりだ。
食事をしに市場へ行こうと部屋のドアを開けると、廊下にはちょうどゲストハウスのおじいちゃんがおり、何やらジェスチャーで言おうとしている。左手はおわんを持つ手をし、右手はスプーンで何かをすくって食べる素振り。朝食を意味しているんだと思い、「イエス! イエス!」と言って僕は市場の方向を指差す。すると、おじいちゃんは何やらラオス語をしゃべり、空を指差す。しばらくすると、おばあちゃんも出てきて、二階に来いというような素振りをする。これは朝食を出してくれるに違いないと思い、彼らのジェスチャーに従った。
二階のベランダで椅子に座りしばらく待っていると、甘いミルクが沈殿したコーヒーが出てきた。とりあえずのんびりと飲む。
その後しばらくしても朝食は出てこないので、席を立ち、コーヒーはいくらかと尋ねると、おばあちゃんが「フリー! フリー!」と言う。どうやら、おじいちゃんのジェスチャーは朝食ではなくコーヒーだったようで、二人は一杯ご馳走してくれたようだ。
改めて、市場でフォーのような麺料理の朝食をとった。麺を二玉にしてほしいとリクエストすると、店のおばちゃんは快く応じてくれ、しかも一玉分の料金しか受け取らなかった。コップチャーイ。
ゲストハウスの前にある「サイホーカフェ」という喫茶店でバナナシェイクを飲みながら、ポストカードを十枚書いた。
カフェ内では、町の男性陣が熱心にビリヤードをしている。その中には、昨日のケオさんも一人年配ながら混じっていた。かなり真剣なようで、台を囲んで六人の男たちが激しく言い争う場面も。仕事もこのくらい熱心にやっているのだろうか。
書き終えたポストカードを郵便局で投稿しようとしたが、ちょうど昼休み中だったようで、十分待ってくれと言われる。十分も待てないほど今日は暑いので、切手を売っているレストランで投稿した。
部屋のベッドに寝転がりながら読書。
その後、日も陰って涼しくなってきたので、明日のヴィエンチャン行きのバスチケットを買いに出た。店により値段が違ったので、一番安い三・五ドルで売っている店で買った。往路は約二・五ドルだったのに、復路は一ドル高いのはなぜだろう。明日の十時に出発だ。
通りのレストランの軒先を見ると、「今夜の映画」と題された映画の上映案内が掲示されている。どうやら、食事をしながら映画を観られるようだ。どうせすることもないので、四時半から『マトリックス・リローデッド』を上映する一軒のレストランに入った。
映画は観られるかと店員に尋ねると、店員はプレーヤーにディスクを入れ、さっそく上映開始となった。スパゲティを食べながらマトリックスを楽しむ、が、最初数秒見ただけで何かおかしいことに気が付く。
一応、この映画は日本で既に観ているのだが、日本で観たのと比べて明らかに映像の質が悪い。何だかコンピュータ上で圧縮された動画のようだ。しかも、時々映像が止まるし、音も割れている。どうやら海賊版のようだ。
この海賊版、意外に多言語字幕機能がありタイ語、ベトナム語、中国語などにも対応していた。店員が英語字幕にしてくれ、それで観ていたのだが、どうもこの字幕は複製者が後から挿入したものらしく、おかしなところが盛りだくさんだ。
例えば、基本的に表示されるのが遅い。字幕が出るのは、登場人物が台詞を言った三秒後だ。そのタイムラグを利用して、英語の聞き取りの練習ができるので、便利といえば便利でもある。しかし、そんなリスニングトレーニングにもすぐに飽きた。
次におかしいのは、単純に字幕が所々間違っている点だ。例えば、thatがtuataになっていたり、wemustのように本来あるべきスペースがなかったり。さらに、主人公のネオのスペルも本来はNeoのはずだが、NewだったりNilだったりと落ち着かない。ある場面では、ヒロインのトリニティーがInternityという謎の人物になっていた。
究極の問題は、字幕挿入者が自分の都合で字幕を放棄している点だろうか。どういうことかというと、おそらく登場人物の台詞をどうしても聞き取れなかったのだろう。しゃべりが速かったり、理解が難しかったりする台詞は、字幕が表示されないのだ。確かにマトリックスには難解な会話が多い。けれど、海賊版を作るつもりなら、何度聞き直してでも理解しろよと言いたくなる。
スペルミスや違う内容の字幕が時間差で表示され、しかも気まぐれで消えてもしまい、画質も音質もいまいちのマトリックス。それでも、慣れれば普通に楽しむことができ、結構熱中して見入っていた。
しかし、ストーリーが盛り上がってきたところで、バンビエンを突然のスコールが襲った。それも、今まで経験したことないほど激しいスコールだ。
最初は構わず映画を観ていたが、次第に雷が光り始め、店内では雨漏りが発生。さらにしばらくすると、「ゴゴーン!」「バチャーン!」といった、日常では聞かないものすごい音の雷が鳴り始め、とうとう映画はストップとなった。
雷で電気製品が壊れないように、店員は店内の照明を消し、全てのコンセントを抜いた。そのせいで、周囲は真っ暗になってしまった。しばらくすると、今日もローソクがテーブルに登場した。
雨は勢いを増すばかりで、時々通るバイクのドライバーはすでにパンツ一枚で運転している。
十分経ち、三十分が過ぎ、五十分待ったが、映画は再開しない。
後にスコールは治まり、雷も光りはするが鳴りはしなくなった。
店員に映画はいつ再開するのか尋ねると、「電気がないのよ!」と言われた。いつの間にか停電していたようだ。
映画は諦め、真っ暗な道を雷の光を頼りに歩いて帰った。
部屋に着いても、電気がつかないので、室内は真っ暗。昨日のような月明りもない。
我に光を。
朝食 五〇〇〇キップ/切手 三万キップ/バナナシェイク 五〇〇〇キップ/インターネット 一万一〇〇〇キップ/封筒 五〇〇キップ/ジュース 五〇〇〇キップ/夕食 二万二〇〇〇キップ/菓子 五〇〇〇キップ/バスチケット 三・五ドル/ゲストハウス 二ドル
旅行中に気付いたことその七、日本の紙幣はとってもきれい。
インドシナ四カ国では、当然それぞれの国の通貨を使用してきたわけだが、そうしていると日本の紙幣が何とまたきれいなのだろうと感動する。きれいというのはデザインについてではなく、紙幣の状態についてだ。デザインに関していえば、歴史上の人物や富士山程度の日本紙幣より、こちらの国々の方が面白いものをたくさん載せている。
日本の紙幣は一〇〇〇円、五〇〇〇円、一万円札の三種類。この額面から、日本では、紙幣は硬貨に比べて高額なものであるという認識があるのではないだろうか。そして、そのせいか紙幣と聞くと、日本人はより大切に扱うのではないだろうか。さらに、その紙幣はしっかりと財布に入れておくものであって、折り曲げるとしてもせいぜい四つ折りまでではないだろうか。
しかしインドシナ諸国ではちょっと違う。
タイ以外の三カ国では、硬貨は流通していないので、通貨は全て紙幣だ。だから、日本同様に高額紙幣がある一方で、限りなく価値の少ない、それこそベトナムの二〇〇ドン紙幣のように二円の価値もない紙幣もある。そして、そういった少額紙幣ほど、こちらの人々は手荒に扱う傾向があるようだ。
人々は財布をあまり使わず、紙幣をそのままポケットにつっこんでいる。だから紙幣はくしゃくしゃになる。商店などで支払われた紙幣も、日本のように種類別に束ねるわけでもなく、引出しや壺の中に投げ込まれる。依然としてくしゃくしゃのままだ。
紙幣には、あらゆる方向に折り目が付いており、手触りはフニャフニャ。それでも紙幣は紙幣。お金としての価値があればいいではないかと思うかもしれない。しかし、あまりにフニャフニャだったり、汚れたりした紙幣は、商店などで受け取ってもらうことができず、ただの紙切れになってしまう。日本では考えられないことだ。
そんなフニャフニャ紙幣の多いインドシナ諸国を旅行中、ふと日本から持ち込んだ日本の紙幣を見ると、その状態の美しさに脱帽したくなる。
ちなみに、紙幣状態の悪さでランクをつけるならば、1位はダントツでベトナム。まるで大事に扱わない。2位がカンボジア、3位が同率でタイとラオスといったところだ。
昨日同様に市場で朝食をとる。
市場に向かって歩くと、正面に大きな岩山がそびえているのだが、今日は上方三分の二程が雲で完全に隠れている。同じ所から見る同じ景色でも、日によって違う表情を見せてくれる。
ゲストハウスのおばちゃんと別れ、バス停へ。
今回のバスはVIPバスと聞いていたので、どれほど快適なのかと期待していたのだが、蓋を開ければただのマイクロバスだった。ただ、「VIP ヴィエンチャン」と書かれた厚紙が車体に貼ってあるから、詐欺ではないかもしれない。
バックパックを屋根の上に載せて車内へ。窓際の良い座席を確保した。
バスは十時出発の予定だったが、日本人二人を含む三人の乗客が遅刻してきたので、二十分遅れの出発となった。
バスには二十五人程の旅行者が乗り、補助席は全て使われている。補助席も席には変わりないが、VIPバスなのだからもっとゆとりがほしい。
エアコンの効かないVIPバスは、客を乗せ過ぎのせいか、大きなエンジン音のわりには加速しないまま、国道一三号を南下する。
一時半頃、バスはヴィエンチャンの中心地であるナンプに到着した。
バックパックを背負い、以前泊まったRDゲストハウスを目指す。
途中、電話屋があったので、帰りの便のリコンフォームに挑戦。エア・インディアのバンコク支店に掛け、名前と便名、出発日を告げて終了。
RDゲストハウスのドミトリーにチェックインし、近くの土産屋を物色。お目当ての品はなかった。
インターネットカフェで、滞っていた日記を更新。料金はバンビエンよりは安いが、それでも一分二〇〇キップもする。
その後、ゲストハウスでバンコク行きのバスを予約した。今回もVIPバスとのこと。今度は車体にペンキで「VIP バンコク」とでも書かれているのだろうか。バーツ立てで料金を支払い、その場でチケットを受け取った。
ところで、いよいよ帰国便を除けば、これが最後の長距離移動となる。ヴィエンチャンから国境の友好橋を通り、タイはバンコクのカオサンまで。およそ十二時間の夜行移動だ。
宿に置いてあった日本の本を読んだ後、夕食を食べにメコン川沿いのレストランへ。
レストランと言っても屋台村のようなもので、辺りにはいくつものテントがあり、その中で調理された料理をメコン川沿いのテラスのような席で食べられるようになっている。
メニューを読んでもピンとくるものがないので、何でもいいから魚料理をリクエストする。すると、体長三〇センチ程ある大きな川魚の塩焼きと、ラオスのもち米が出てきた。魚はアユに似た味だ。魚ながらボリュームがあったので、最後はフォークを置き、手を使ってかぶりついていた。
これに挽肉のサラダとレモンジュースをつけて四万二〇〇〇キップ。少し高くついたが、ラオスでの最後の晩餐ということでよしとしよう。
ゲストハウスに戻りポストカードを四枚書き上げた。
朝食 五〇〇〇キップ/菓子 一万七〇〇〇キップ/便箋 八〇〇〇キップ/昼食 五〇〇〇キップ/電話 九〇〇〇キップ/インターネット 二万一〇〇〇キップ/夕食 四万二〇〇〇キップ/ポストカード 七五〇〇キップ/水 一〇〇〇キップ/ゲストハウス 二ドル/バスチケット 六五〇バーツ
旅行中に気付いたことその八、ベトナム人は道を譲らない。
三週間近くベトナムにいたので、当然ながらたくさんのベトナム人を見てきた。そして、何度も彼らと道ですれ違ううちに、一つ気付いたことがある。それは、ベトナム人は道を譲らないということだ。
これまで訪れた国の人々は、道を歩いていてぶつかりそうになれば、さらりと避けてくれた。日本人にも、他人とぶつかりそうなときは避けるという習慣があるせいか、僕も無意識のうちにぶつからないように避けている。
だが、ベトナム人というのは本当に避けない。大人も子供も男も女も、決して譲ろうとしないのだ。だから僕は自分から率先して避けるのだが、なんとなく後味が悪い。
狭い路上で輪になって立ち話をするベトナム人。近づいてくる人にもおかまいなしに道を遮断する。近づいてくる人が目の前で通りたそうに立ち止まっても動くことはない。強引に一歩踏み込むと、ようやく少しだけ避けてくれるありさまだ。欧米人の発する「イクスキューズミー!」も聞こえていないようだ。
なぜベトナム人に限って、道を譲らないのだろう。
足元に虫除けマットを置いて寝たのだが、効果がなかったようで、かゆみに悩まされた夜だった。
明け方、目を覚ますと大雨が降っていた。
「市場行くのに降るなよー」
起きるのが面倒くさくなり二度寝すると、次に目覚めたときには空は晴れていた。
スカンジナビアベーカリーで朝食。トーストセットに菓子パンを一つ付けた。これだけでは足りないかと思ったが、コーヒーを飲みながらのんびり食べていたせいか、意外に腹は満たされた。
十一時にRDゲストハウスをチェックアウト。
前にも書いたが、ここは韓国人女性が経営しているドミトリーのみのゲストハウス。そのせいか、最近あまり見かけなかった韓国人旅行者がたくさん泊まっていた。フロントの脇には韓国の本やマンガがたくさんあり、よく韓国人たちがゴロゴロと寝転がりながらそれらを読んでいた。
経営者の女性はラオスのお母さんといった感じで、とても頼りになる。バスチケットを手配するときも、いろいろとアドバイスをくれた。なんとなく、存在がインドはバラナシのクミコハウスの久美子さんのようだ。
バンコク行きのバスは夕方に出発するので、それまでRDゲストハウスに荷物を預け、身軽な格好でタラート・サオというヴィエンチャンで一番大きな市場に行った。
市場はさすがに広かった。コの字型の二階建ての建物内には、布や貴金属製品、文具、電子機器、バッグや時計などを扱う店がずらりと並ぶ。隣には国営デパートが隣接しており、品揃えは市場と大差ない。ただ、国営デパートは値引きが効かないのが難点だ。
両者を見て回り、無事土産を購入。国営デパートはエアコンが効いているので、買い物が快適だ。
その後、市場近くのフルーツジュース屋へ。
ドラゴンという迫力ある名の果物のジュースを飲みながら、手紙を書いた。そして、そのまま市場の隣にある郵便局で投稿し、ゲストハウスに戻った。
バスは五時頃迎えに来てくれるので、それまでゲストハウスの一階で本を読んで過ごす。木村武のなかなか難しい本を読んでしまった。
五時になり、バスが来たので乗車。
今回は確かにVIPバスのようで、シートが今までで一番柔らかく、エアコンんも効いている。
バスは市街地のゲストハウスやホテルで乗客を次々とピックアップした後、タイとの国境を目指し始めた。
間もなく、ヴィエンチャンの南一八キロにある国境でバスは止まった。
バックパックを背負い、出国審査を受ける。意外に時間がかかり、三十分も待たされた。
前の人は何も聞かれずに出国審査を通ったが、僕は昨夜の滞在先を尋ねられた。何か疑いでもあったのだろうか。
出国手続きが済み、バスを乗り換えた。次のバスはさらにVIP! 背の高い二階建てバスで、リクライニングはよく倒れ、テレビもついている。エアコンも寒いぐらいパワーがある。
国境を出発したVIPバスは、ラオスとタイ間の友好橋という長い橋を渡ってメコン川を横断。橋の先はもうタイになっている。
しばらくして再びバスを降り、今度はタイの入国審査。男性の審査官がニコニコしながらスタンプを押してくれた。一応タイに陸路で入国する場合は、手前の国でビザを取得しなければならないのだが、旅行者から得た情報通り実際はビザなしでも簡単に入国することができた。それだけ日本のパスポートには信頼があるらしい。
入国審査では審査官がコンピュータに情報を打ち込むのだが、何やらコンピュータから僕の生年月日を引き出し、パスポートと照合していた。タイのコンピュータには僕の個人情報がインプットされているのだろうか。
無事タイに入国し、近くのレストランで夕食。この食事はバス代に含まれているサービスで、ピラフの一品料理だったものの味はよく、しかも食べ放題だった。フィリピン人のおばちゃん一団もこれには大満足の様子。
VIPバスに揺られ、バンコクのカオサンへ向けて夜のハイウェイを突っ走る。タイの道路は、ラオスやベトナムよりずっときれいに舗装されている。タイの豊かさが反映されているのだろうか。
夜は車内でホラー映画が上映された。ほとんどの乗客は見ることなく眠っていたが、フィリピン人のおばちゃんと僕は最後までしっかりと見た。
座席の前後間隔は決して広くないが、揺れは少なく、エアコンも効いたVIPバス。これに乗っているだけで、明朝にはカオサンに着くなんて夢のようだ。
一カ月ぶりのカオサンロード、なんだか妙に楽しみだ。
朝食 二万二〇〇〇キップ/切手 一万二〇〇〇キップ/便箋 一万七〇〇〇キップ/土産 四万六〇〇〇キップ/インターネット 三〇〇〇キップ/ジュース 五〇〇〇キップ+二〇バーツ/水 一〇〇〇キップ/昼食 五〇〇〇キップ/出国税 二五〇〇キップ/菓子 五〇バーツ
旅行中に気付いたことその九、日本はODA(政府開発援助)を行っていた。
別に日本がODAを行っていないのではと疑っていたわけではない。ただ、政府広報などが「日本はこんなODAを行ってきました」などと発表しても、現場を見ることが難しい国民からすれば、ODAの実状はわかりづらい。
今回の旅先は、日本との繋がりの太い東南アジア。この地域は日本のODAの重点地域なだけに、この一カ月間、ほんのわずかにではあるが、日本のODAの実態を垣間見ることができた。
例えば、ベトナムのハロン湾。ハロン湾はバイチャイとホンガイという二つの半島に囲まれているのだが、以前は両半島を移動するにはフェリーに乗らなければならなかった。しかし、現在、日本のODAによって両半島を結ぶ橋が建設されている。完成すればフェリーの時間に縛られることなく、両半島を自由に行き来できるようになるそうだ。
ハロン湾は、その美しい湾が世界遺産に登録されている有名な場所だが、発展レベルに関していえば、いわゆる田舎町だ。そのような町の橋建設においても活躍していた日本のODAに良い意味で感動し、いいことしているじゃないかと思った。
この案件以外にも、日本のODAによって建設された建造物をいくつか見ることができたのだが、嬉しかったのは、現地の人々が「この建物はあなたの国の援助によるものです」というように、建造物が日本のODAによるものであるということを認識していたことだ。このように言われると、日本のODAを誇りに思える。
今回の旅行中、何気なく通った道路や橋などにも、日本のODAによるものがいくつかあったかもしれない。もしかしたら、今まで僕が払ってきた消費税で、タイの道路が一メートルぐらいは舗装されているかもしれない。
VIPバスは予定より一時間半早い午前四時半、バンコクのカオサンロードに到着した。VIPバスと名乗るだけのリクライニングシートと、タイのきれいに舗装された道路のおかげで、夜行バスながらよく眠ることができた。
一カ月振りのカオサン、なんだかとても懐かしい。今はまだ早朝なので、カオサンが一日で一番静かな時間だ。
六時半頃、一月前に泊まったユーロ・イン・ゲストハウスにチェックイン。インド人のオーナーが「ハロー!」と言って迎え入れてくれた。案内されたのは、三階の狭くて窓のない運動部の部室のような部屋だが、しかし、一足先に自分の家に着いたかのように落ち着ける場所でもある。
朝が早かったので、しばし眠る。
正午に目覚め、二階のレストランで一カ月前と同じように進んでいると、従業員がやってきた。仲良くなったガジェンドラさんはいるかと尋ねると、彼は祖国ネパールに帰ったとのこと。理由は特に聞かなかったが、一番よくおしゃべりした彼がいないと寂しい。
ドルをバーツに両替し、民芸品などを扱う土産屋へ。木彫りのカップや箸などを一軒の店でまとめ買いしたので、かなり割引してくれた。しかも、一時間近く商品を選び、値段交渉をしていたので、結果的に店員とも打ち解け、おまけの商品をつけてくれた。
カオサンを歩いていると一月前にはなかったような看板をチラホラと見かける。この一カ月間でも、入れ替わり立ち代わり新しい店がオープンしているようだ。一カ月にいた客引きのおかまは、相変わらず「ハロー、サー!」と高く怪しい声で道行く人に声をかけながらビラを配っていた。おかまなので一瞬引いてしまうが、冷静に見るととても仕事熱心な人だ。
おかまからビラを受け取り、近くの店を物色していると、おかまが近づいてきて「あなた、ハンサムね」とタイ語で言われた。おかまに言われると、女性から言われるのとは違った嬉しさを感じる。
カオサンの露店では公然と海賊版CDが売られている。買ったとしてもプレーヤーがないので、帰国するまで聴くことはできないのだが、とにかく最近は音楽に餓えていたので、試しに一枚買ってみた。
露店に並ぶCDジャケットの中からビートルズのものを指差す。店主は「十分後にまた来てくれ」と言い、店の奥へと入っていった。
言われた通りに十分後に再び尋ねると、きちんとケースに入ったビートルズのCDが用意されていた。どうやら十分の間にCDをコピーしていたようだ。
その後、別の海賊版CD店をみていると、店内で前から気になっていたが、アーティストもタイトルもわからないでいた曲が流れた。店員に曲のことを尋ね、すぐにそのCDを買うことにした。ボブ・ディランの「ブローウィン・イン・ザ・ウィンド」という曲だ。早く聴きたい。
一度ゲストハウスに戻ると、一カ月振りにユミさんと再会した。最初のエアポートバスで知り合ったユミさんとは、バンコクにいる間はよく遊んでいたので、とても嬉しい再会だ。
僕がカンボジアへ出発した後、彼女は飛行機でハノイへ飛び、そこからホーチミンまで南下し、カンボジアを経由して、五日程前にバンコクに戻ってきたそうだ。本当は今日のバスで、去年彼女がホームステイしたタイ南部の村へ行くはずだったのだが、バスに乗り遅れたらしく戻ってきたらしい。そんな乗り遅れのおかげで、久しぶりの再会を果たすことができたということになる。
それぞれの旅行話をしたのだが、進む方向が逆でも、似たようなルートを辿っていたので、同じゲストハウスに泊まっていたり、同じ名物料理を食べていたりするので、話も盛り上がる。彼女はベトナムを南下していたということは、僕とはどこかの街角ですれ違っていたかもしれない。
夕食は屋台でラーメンやギョウザ、焼き鳥、ココナッツジュースといろいろなものをつまんだ。この屋台天国カオサンとのしばらくの別れはかなりつらいものがある。できるものなら、味も値段もそのまま、そっくりそのまま日本へ持ち帰りたいぐらいだ。
夜、ユミさんと、ユミさんが旅の途中で知り合ったという日本人旅行者たちとおかゆ屋台へ行った。
この九月半ばという時期は、日本人大学生旅行者の帰国ラッシュのピークにあたる。そのため、個人旅行の拠点であり、日本への帰国便の多いバンコクには続々と大学生旅行者が集まってくる。皆それぞれの思い出と共に帰国していくのだが、中にはチケットを捨ててそのまま旅を続ける人もいる。僕はそのつもりはないが。
久々のカオサンの夜。人でごったがえす十時を過ぎても、気のせいか一カ月前ほど騒がしくないように感じる。
どうあれ、やはりカオサンは居心地がよい。インドシナには珍しくコンビニがあるからだろうか。いや、むしろ旅行者に必要なものならなんでも揃っている、世界一の安宿街カオサン通り自体が、旅行者にとってのコンビニだからだろう。
朝食 九五バーツ/水 五バーツ/スポンジ 一一バーツ/昼食 二〇バーツ/ジュース 三六バーツ/ココナッツジュース 二〇バーツ/土産 二九〇〇バーツ/CD 二〇〇バーツ/夕食 五五バーツ/おかゆ 二五バーツ/ピタ 五〇バーツ/インターネット 七五バーツ/ゲストハウス 一五〇バーツ
旅行中に気付いたことその十、予定が狂ってこそ旅は面白い。
予定通りのバスに乗り、予定通りの街に着き、予定通りの宿に泊まり、予定通りのレストランで食事をする。これほどまでに旅がスムーズに進んだらどんなに気が楽だろう。全て計画した通り完璧に事が進むのだから、きっと大きな達成感を得られるかもしれない。だけどそれ以上はあるのだろうか。
こんな言葉がある。
「旅をするなら、まずはバンコクのカオサンへ行け。後は着いてから考えろ」
カオサンには旅行者に必要なあらゆる物と情報が集まっている。そしてバンコクからは、世界中のあらゆる国へのアクセスが可能だ。だから、旅行をするならとりあえずバンコクのカオサンに行けばよい。あとは、その場その場で考えながら進めばいいのだ。
その場の流れで行き先を決め、気が変わったらルートを変える。トラブルがあったら柔軟に予定を変えていく。そうしていくとなんともオリジナルな旅ができるように思う。変化があるからこそ記憶に残る。「バンコクからホーチミンへ行きました」より、「ホーチミンへ行く途中、ハロン湾がきれいだと聞いたんでバイチャイまで飛んじゃいました」の方が僕には魅力的だ。
今回の旅を振り返ると、僕はまだまだ予定通りに旅を進めることに意識がいっていたように思う。一方で、カンボジア・ベトナム間をボートで越えたり、ベトナムビザが切れて後ろめたい不法滞在をしたり、バスを乗り換えられなくてラオスに入国できなかったりと、予定にはなかった新鮮な部分も数多くあった。そしてそんな部分こそ帰国間際の今、強く記憶に残っている。
予定を立てるのは悪くない。ただその予定に固執しないことが大事だ。予定は狂う。むしろ狂わせるつもりで旅をする。それがおもしろい旅をつくりあげる、と個人的には思っている。
十時過ぎに起きる。インドシナ最後の朝だ。
シャワーを浴びてすっきり。どんな時でも洗顔後というのは気持ちがいい。
一度バックパックの中身を全て出し、改めてパッキングしてみた。重い酒は衣類をクッションにして下の方に。壊れやすいベトナムコーヒーのフィルターは上の方に。もう読まないだろうガイドブックもバックパックに詰め、パッキングは完了。日本出国時と比べてどのくらい重くなっているのだろう。
ぶらぶらとカオサンを散歩した。
昨日から何往復もしているのだが、何度歩いても飽きがこない。歩く度に面白いものを見つけられる。そして歩く度についつい屋台で買い食いをしてしまう。あの誘惑にはかなわない。
ゲストハウスに戻り、従業員たちとテレビを見たり、ユミさんと土産に買ったジェンガをしたりして時間を潰す。
夕方、再びカオサンを歩くと、いつの間にか空が暗い雲に覆われていた。気付けば露店の人たちは忙しそうに店を撤収したり、商品にシートをかぶせたりし、雨対策に追われている。そしてしばらくすると、実際に雨が降り出した。雨季を強く実感する旅だ。
タイ式マッサージに行ってみた。シェムリアプで会ったタロウさんとヨウスケさんが、帰国前に是非と勧めてくれたからだ。
カオサンにはいくつものマッサージ屋があり、だいたいどこも三〇分、六〇分、九〇分、一二〇分の四コースがある。料金はどの店も大差ないので、カオサン沿いの真新しい看板が目立つ一軒に入ってみた。
女性の従業員が迎えてくれ、一二〇分コースを選択。小柄な中年のおばちゃんが担当してくれた。
まず靴を脱ぎ、足を洗う。おばちゃんが丁寧に石鹸で洗ってくれた。
その後、二十畳近くありそうな大きな部屋へ。室内はやや暗めの照明で、ハーブや鹿の木彫りなどが置いてあり、なんとなく高級感がある。
布団より少し固めのマットに仰向け寝転がると、タイ式マッサージはスタートした。
最初は足なのだが、片足に三十分近くかけるので、足だけで一時間もかかる。足先に始まり、もんだり押したり、指を引っ張ったりしながら、徐々におばちゃんの手はももや股関節の方へと上がっていく。
おばちゃんはニコニコしながらマッサージしてくれるのだが、実際のところはとても痛い! おばちゃんの力が強いのか、僕の体がマッサージに合っていないのかはわからないが、とにかくうまい具合にいろいろな痛みを与えてくれる。
痛いのだけれど、これがタイ式マッサージなのだと無理矢理納得し、ひたすら耐える。だけど、やはり痛いもの痛い! ほぐれるはずの筋肉も、痛さに耐えるために力が入り、硬直していく。
その後、腕のマッサージへ。これで少しは楽になるだろうと思ったら、また痛い! なんだか痛いところにわざとゴリゴリと圧力をかけられている気がする。実はこのおばちゃんは僕のことを嫌っているのだろうか。痛いのだけれど、やはりここでもじっと我慢する。これがタイ式マッサージなのだ、きっと。
隣でマッサージを受けている欧米人を見ると、なんとも気持ちよさそうに目をつぶってリラックスしている。僕も目をつぶることはできるが、痛さに耐えるあまり眉間にしわがよる。辛い時間というのは、なぜ時間の経過が遅いのだろう。
腕の後は背中や首筋、頭など。首筋を強く圧迫された時は、もう早くこの試練が終わってほしいと願っていた。辛くて辛くて、だけど訴えることができない。痛い・・・、辛い・・・、帰りたい・・・。
なぜ僕は一二〇分コースを選んでしまったのだろうか。タイ式マッサージの痛みが少しでもわかっていれば、迷わず三〇分コースを選んでいたはずだ。「すごく良かったよー。体が軽くなった!」などと言う経験者の言葉が信じられない。
耐えに耐え、地獄の一二〇分コースはようやく終わった。
気持ちいい二割、普通三割、くすぐったい一割、痛い三割、本当に痛いから一刻も早くその手をどかしてください一割。
全体的な印象としては、「もうタイ式マッサージは結構」なのだが、二時間も頑張ってくれたおばちゃんにそんなことを言えるはずもなく、一応笑顔で礼を言い、気持ちよかったよという振りをした。
タイ式マッサージの本質は、痛い式マッサージだった。
このまま終わるのも嫌なので、例の仕事熱心なおかまの店で、もう一度マッサージを三〇分だけ受けることにした。ただし、今度はタイ式ではなくスウェディッシュマッサージという、オイルを使って筋肉をほぐすタイプのマッサージだ。
先ほどの店よりもさらに暗く怪しい室内で、若い女性がマッサージしてくれた。上も下も脱ぎ、パンツ一枚の姿にされ、背中、腕、足の順にオイルを使った滑らかなマッサージが施される。少しだけ痛いときもあったが、先ほどのタイ式と比べれば天と地の差。タイ式マッサージでカチカチに凝り固まった筋肉は、スウェディッシュマッサージでほぐされた。
店を出ると、笑顔のおかまが迎えてくれた。なぜか知らないが、このおかまとは随分と仲良くなっている。まわりの店員も温かくおかまと僕を見守るようになった。「また来てね」と握手までしておかまと別れる。
仕事熱心で愛想も良いいい人だ。おかまでいるのはポリシーなのだろうか。そこを打ち明けてもらえるほど仲良くなるのは、また次回にしよう。
最後の夕食は、今までさんざん涼むためだけにテーブルを借りてきたユーロ・イン・ゲストハウスのナマステ・レストランにて。
食べたのはノンベジのスペシャルターリー。マトンカレーやトウモロコシのダル、それにサラダとライス、窯で焼いたナンもついてかなりボリュームがあった。
食事を終え、食休みをしているところに空港行きのミニバスが迎えに来た。荷物を確認し、ゲストハウスの従業員に何度も礼を言ってから出発。本当にいい人たちだった。また泊まりたい宿だ。
ミニバスは定刻より二〇分遅れでカオサンを出発したものの、運転手がとにかくスピード狂で、対向車線まで走ってくれたおかげで、十時過ぎにドンムアン国際空港に到着した。
帰りの便は、十三日〇時十五分発のエア・インディア三〇六便。ちょうどチェックインの始まったカウンターに行くと、まさかの一言。
「フライト時間は午前五時変更されましたので、二時にもう一度お越しください」
なんと飛行機は五時間も遅れていたのだ。エア・インディアは遅れのお詫びとして空港内のフードコートで使える一五〇バーツ分のクーポン券をくれた。しなしながら、五時間とは・・・。
しかたないのでひたすら待つ。
今夜は大韓航空ソウル経由大阪行きと、エジプト航空マニラ経由東京行きの便もあるので、空港内には日本人が多い。そして、そのほとんどは若い個人旅行者だ。
昨日カオサンで知り合った日本人数人とおしゃべりしたり、ジェンガで遊んだりしながら時間を潰す。そして大韓航空、エジプト航空利用者が一人、また一人とゲートをくぐって出発していく。本当はエア・インディアが最初に出発するはずだったので、少し悔しい。
ターミナルの床に座り込み、三時間以上ずーっと待つ。
そしてようやく二時になり、チェックイン開始。
預けるバックパックをX線に通し、エア・インディアのカウンターに並ぶ。日本行きの便なので、当然ながら乗客には日本人が多く、その半分以上が二十代前半の旅行者だ。
無事に搭乗券を受け取り、先ほどもらったクーポンで夜食をとる。
もう時間も時間なので、意識がもうろうとし、まっすぐ歩くことさえできない。
四時になり、五〇〇バーツという以上に高額な空港使用料を払い、出国手続き。
ターミナル内の運行スケジュールを見ると、三〇六便の出発時刻は、更に一時間半遅れ、朝の六時四十五分になっていた。飛行機が遅れなければ、もうとっくに成田についている時間だ。もし保険の遅延特約に入っていたら、二万円の補償を受けられたことになる。惜しいことをした。
免税店をフラフラ見るが、ポケットに入った最後の八八バーツで買えるものは少ない。結局、何も買うことなく、ベンチに倒れこんだ。
外が明るくなってきた。三〇六便はようやくインドからバンコクに到着したらしく、エア・インディアの従業員たちは忙しそうに次の離陸に向けた準備にとりかかっていた。
空港に到着してから待つこと八時間。ようやく搭乗開始。
最後はゆったりと飛行機に乗って帰国することを密かな楽しみにしてきたが、見事にその期待は裏切られてしまった。
一晩待たされた体はくたくただ。早く飛びたて!
朝食 三五バーツ/ジュース 一七バーツ/電話 三三〇バーツ/お茶 三三バーツ/インターネット 三四バーツ/昼食 二〇バーツ/土産 一五〇バーツ/マッサージ 三八〇バーツ/夕食 一九五バーツ/夜食 二〇バーツ/空港使用料 五〇〇バーツ
カンボジアのシェムリアプからプノンペンへ移動するバスの中で、例の四万人の弟子がいる謎の旅人マスターにこんなことを聞かれた。
「なんで一人旅をしているんだ?」
なんでだろう? とっさに口から出た僕の答えは「他に一緒に旅する人がいなかったから」だった。
今思えば、これはなんて消極的な答えだったのだろう。確かに一緒に旅をする人はいなかった、というよりも、特に誰を誘うこともなく出国したのが実際だ。僕はなぜ誰をも誘わず、一人で旅をしていたのだろうか。
このマスターとの会話から約一カ月間、僕は自分の一人旅の理由を考えてきた。そして今、僕の答えはかなり固まっている。
なぜ一人旅をするのか。それは、一人で旅することによって、強制的に一人きりになる時間を作り出せるからだ。そしてその時間を使って、自らのこれまでの生活を見つめなおし、帰国後の生活に勢いをつけられるからだ。
旅行中、日本での自分は一時的にストップする。大学に通うことも、バイトをすることも、サークルに顔を出すことも、そして携帯電話をいじることも、全ての自分がストップする。そうすると、日本での自分がこれまでどんなものだったのか、とてもよく見えてくる。
日本にいては、自分をここまで客観的に見られる自信ははっきり言ってない。自分の全てをストップさせる余裕がないからだ。旅先にて湖の近くのベンチに座っていたり、バスの中から外を眺めていたり、宿のベッドに寝転んでいたりしている時こそ、日本での自分が見え、自身を見つめ直すことができる。
昨年インドを旅したときも、あまり意識はしていなかったが、やはり一人の時間を利用して自分を見つめ直していた。そして、今年も同じように自分を見つめ直すことができた。そして、次に進むべき方向も見つけられた。その方向に進めるかどうかは別として、次の目的地がわかったということは大きな収穫だ。
次の目的地までの道は相当にデコボコな未舗装道路だ。バンコク・シェムリアプ間のデキボコ道なんか比にならないかもしれない。だけど、一メートルでも先を目指し、進めるところまで進んでみようと思う。
七時間遅れでバンコクのドンムアン空港を離陸した三〇六便は、日本時間の十三日午後三時過ぎ、パイロットのやや下手くそな着陸によって成田空港に到着した。
2014年10月8日 発行 初版
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1984年、神奈川県綾瀬市生まれ。県立神奈川総合高校を卒業後、慶應義塾大学総合政策学部へ進学。卒業後はホテルや旅館の運営会社に入社。モットーは「everyday creative !!!」。