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jacket

拝啓 お父様

 コルシカ島の夜空は今日も綺麗です。
 星には様々な色があるって、ご存知でした?
 赤くなるほど長く生きているようです。

 どんなものにも、寿命はあるのですね。

     目 次 


 第一話 虹のサーカス団  ・・・・・・・・・・・ 5

 第二話 サーカステントの亡霊  ・・・・・・・・ 52

 第三話 スパイ作戦  ・・・・・・・・・・・・・ 90

 第四話 天架ける虹の橋  ・・・・・・・・・・・ 120

 最終話 カーテンコール  ・・・・・・・・・・・ 152

 あとがき     ・・・・・・・・・・・・・・・ 172

第一話 虹のサーカス団


     1


 息が詰まるとはまさにこのような状況を言うのだろう、とルカは思った。石造りの建物と建物の間にできたわずかな隙間に少年少女が四人、すし詰め状態で押し込まれている。その狭さは目の前の石壁が鼻先につきそうなほどだ。右に続く細道は暗闇に包まれていて先が見えない。
 日の当たる通りからは「どこに隠れた!」といった男達の声や、どすどすと石畳の路地を駆けまわる足音が聞こえてくる。四人はこれ以上ないくらいにお互いの体をぴったりと寄せ合い息を潜めた。
「おい、ルカ、もうちょっと奥に行ってくれ」
 連なった列の左はじからアダムがたまらず声を殺して訴えた。
「これ以上はリュックがつっかえて無理だよ」
「何で全部持ってくんだよバカ! 車に置いときゃ良かったじゃねぇか」
「うん。それは俺も反省してる」
 ルカは何とかもう少し路地の奥へ進めないかとパンパンに膨らんだリュックサックを押してみたが、道幅と同じ程に膨らんでいるそれはいくら力を込めて押したところで動くはずもなかった。
「すみません皆さん、僕のせいでこんなことに……」
 まん丸の眼鏡の奥で気弱そうな瞳を伏せると、アダムの隣に立つ青年は申し訳なさげに肩をすぼめた。
「あなたのせいじゃないよ。ほら、元気出して」と励ます二ノンにすかさずアダムが「いやあなたのせいだろ」と突っ込みをいれる。力なく笑った青年はもう一度「すみません」と頭を下げた。
 アダムは少しでも身を隠そうと、これ以上小さくならない身体をいっそう折り込める青年にぐいぐい押し迫りながら、なぜこんな面倒毎に巻き込まれてしまったんだろう――と、小さくため息をはいた。

〈アジャクシオ〉――コルシカ島の西南に位置する最大の港街で、人口も島内でトップクラスを誇る大きな街だ。別名の《帝都ていと》とは、かの英雄ナポレオン・ボナパルトが生まれ育ったことに所以ゆえんする。

 一行はフィリドーザを去った『ゾラ』という人物の足取りを追ってアジャクシオを訪れていた。港に停泊する漁船やヨットはイワシの群れのように所狭しと浮かんでおり、アジャクシオがいかに大きな港町であるかを物語っていた。港から山間にのびる大通りはそのまま街中を突っきっており、その通りに沿って繁華街が栄えていた。行き交う人の数はパッと見ただけでも同じ港町であるポルトヴェッキオより数倍はある様子で、髪の毛の色がバラエティに富んでいるかと思えば服装もどこか趣きの異なるものが多く目につく。
 はしゃぐニノンの隣で不思議そうに人々を眺めるルカに、ここは有名な観光地でもあるから外国人が多いんだよ、とアダムが手短に説明した。
 普段マシンガンのように質問を口にするニノンの存在によって埋もれてしまっているが、実はルカも往々にして無知なのだ。それは十五年間山に囲まれた村から出たことのない箱入り息子だったからという理由が大きいけれど、それだけではないとアダムはふんでいた。この少年は興味のあるものに対しては積極的だけれども、その他については点で関心がない。そんな場面に遭遇する度にアダムは「こいつは正真正銘の修復バカか、重度の職業病だ」との思いを強くするのだった。
「ねぇ、これ、サーカスのポスターだよね」
 ふと立ち止まりニノンが指さした。そこには町の掲示板が立てられており、白いペンキの塗られた木製のボードに版画刷りのポスターが何枚も貼り付けられていた。斜めに大きくかかった虹の元で、二股の赤と青の帽子を被ったピエロが笛を吹いている。真っ赤に刷られた『虹のサーカス団・アルカンシェル あらわる!』という文字は遠目にもよく目立っていた。
「やっぱりこの町に来てたんだ! えっと……『開催場所:ドゴール広場(この先まっすぐ)』」
 ニノンはポスターの先を人差し指で辿ってみた。大通りと垂直に、伸びるような小路地が石造りの建物の間に続いている。まっすぐね、とニノンが再度ポスターを確認した後、三人はぞろぞろと細い小道に足を踏み入れた。
 大通りから一歩外れただけで、その通りは先ほどまでの賑やかさが嘘のようにしんと静まり返っていた。高い建物に太陽が遮られて日陰になっているからか、どこか漂う空気もひんやりとしている。アダムは訝しげにあたりを見渡した。そんなアダムの様子などどこ吹く風と、ニノンとルカはずんずん先へ進んでいく。
 と、どこからか人の話し声が聞こえてきた。姿は見えないがそれは複数の人間が発するもので、何やら揉めている様子だった。
「やめとけって」
 声のするあたりを覗きこもうとするニノンを制してアダムは続けた。
「ガラの悪い奴らが喧嘩でもしてんだろ。関わらない方が良いぜ」
 通り過ぎようとした脇道からひ弱そうな男の悲鳴が聞こえた。二ノンはとっさにアダムの腕を振りほどき声のした方へ飛び込んだ。「あいつ、俺の話聞いてたのか?」と呆れた声が彼女の背中を追いかける。

 脇道は入り組んで更に細長い路地へと繋がっていた。飛び込んだ先では、石壁に追い詰められるようにして、茶色いくせっ毛の、緑色の丸眼鏡をかけたひょろ長い――おそらくあのひ弱な悲鳴をあげたであろう――男性が、薄汚れたガタイの良い数人の男達に取り囲まれている。
「ちょっと、何やってるの!」
 突然放たれた声に男達は眼鏡の男から少女へと視線をを移した。
「何って、商売だよ。このお坊ちゃんに似合いそうなブローチを売ってやろうと思ってね」
 男達はにたにたと下品な笑みを浮かべて手の中でちんけなブローチを転がした。
「ぼ、僕、そんなものいらないですし……! しかも、ご、五十ユーロなんてボッタクリにも程がありますよ……!」
「うっせぇ! あんたは黙って金出しゃいいんだよ」
 男が一喝するのを見て、二ノンは思わず地面に転がる石ころをむんずと掴むと、そのまま男の頭に向かって投げつけた。コツンと音をたててそれは見事に男のこめかみにぶつかった。
「嫌がってるじゃない、やめてあげなよ」
「ガキが調子のりやがって――」
 額に青筋をうかべて大男がゆっくりとニノンに歩み寄った。じりじりと後ずさるニノンに向かって握り拳を振りかざし、その屈強な腕をぶんと振った。ニノンはおもわずぎゅっと目をつむる。
――バキッ!
「っ……!」
 しかしその拳を受け止めたのはニノンではなく、彼女を寸でのところで庇ったルカだった。左頬に思いきり拳をぶつけられた衝撃で、ルカはそのままドサリと音を立てて石畳へ倒れ込んだ。
「ルカ!」
 ニノンはすぐさま駆け寄って、殴られた頬をのぞき見た。ひどくうっ血している。握りしめた拳を震わせながら、ニノンは悔しさの混じった瞳で男達をきっと睨み付けた。
「お嬢ちゃんが俺達の商売の邪魔するから悪いんだよ。自業自得ってやつだ。顔に青アザ作りたくないだろう? 大人を怒らすとこわいんだ。ホラ、分かったら大通り戻んな」
「自分の利益の為に子ども殴るのが大人ってか……よく言うぜ」
「なんだと? そこのオレンジ頭のガキ、何か言ったか?」
「そ、その通りです!」
 男の背後から、絞り出したような声があがる。アダムは驚いて目をぱちぱちと瞬き、奥で膝をぶるぶる震わせる痩せこけた青年を見つめた。こめかみから伝い落ちる冷や汗を拭うこともせず、その青年は枝の様な細長い両腕をぐいっと前方に伸ばして前へならえの体制をとった。
「がはは、なんだぁその恰好? 降参なら手は上だろう?」
 その場にいた薄汚い男達が口々に笑い声をあげる。
「僕の尊敬する偉人が、こんな言葉を残しています」
「あ?」
 青年は静かに息を吐くと、ぐっと表情を引き締めた。
「『ひとたび戦いを決意したならば、その決意を継続しなければならない』と!」
「うわ、危ねぇ! なんだコイツ、おい、こっちに来るな!」男の一人が叫んで逃げ出す。
「な、あれ、と、止まらない……! ああっ!」
 嵐の中はためく旗のように、体を両腕に引きずられながら青年は石畳をかけ回り、ついに最後の男を跳ね飛ばした後、勢い余って向かいの石造りの建物に激突した。途端、水しぶきがあがる。噴水のように湧き上がる水は青年やルカたちをずぶ濡れにした。壁に伝っていた水のパイプが青年の衝突により破損したのだ。
「…………」
 突然の大惨事にあ然と立ち尽くしていたアダムたちは、大通りから発せられたホイッスルの音ではっと我に返った。騒ぎを聞きつけた警官たちだ。
「やべ、逃げるぞ。ルカ立てるか? おい眼鏡、走れよ!」
「そこの君たち、待ちなさい!」
 ニノンはルカを引っ張りおこしてアダムの後に続く。
「こら、逃げるんじゃない!」
 噴き出す水が二人の警官の行く手を阻む。ピーピーと吹き荒れるホイッスルの音を気にも留めず、水浸しの石畳を四人は脱兎のごとく駆け出した。


「それにしてもお兄さん、凄かったね。その腕の……怪物?」
 やや考えてからニノンは尋ねた。目深に被った真っ赤なフードから青年の袖をちらりと覗き見る。あれほどまでに暴れまわっていた両腕が、今は死んだように動かない。
「ああ、あれは『怪物』じゃなくて僕の『発明品』です。マックスパンチャー十号って言うんです。自信作だったんですけど、あはは。情けない姿をお見せしました」
「なんだよ、マックスパンチャーって……」
 なんてダサい名前だ、とアダムが呆れたように呟いた。
 その時、すぐ近くの通りで警官の声が響いた。四人は再び口を噤つぐみ、身を縮こまらせる。
「この辺で声がしたぞ」
「ああ、石畳も濡れている。近くにいるはずだ」
 直ぐ近くまで警官の足音が迫っている。ニノンはフードの裾を握りしめて視界をいっそう狭めた。どくんどくんと心臓が早鐘のように鳴るのが耳元で聞こえるようだった。――コツン、コツン。細い通路の先に警官の姿が見えた。アダムが肩を強張らせる。今、警官が背後を振り返れば確実に見つかる。身動きの取れない四人は追い詰められたネズミと同じだ。一か八か、今ここで飛び出した方が得策だろうか――アダムがめまぐるしく頭を回転させている時だった。
「!」
 ふ、と視界が陰る。見ると誰かが細い路地を覆い隠すように立ち阻んでいた。
「声っていうのは私のことじゃないかい、警官さん」
 それは低くもなく高くもない、しかし深みのあるしっとりとした声だった。
「お騒がせしています」警官は丁寧に頭を下げた。「この辺りで四人の少年少女を見かけませんでしたか」
「さぁね……あの水パイプの騒ぎだろう?」
 警官の立つ路地からまっすぐ行くと先程青年がパイプを破壊した現場がある。そこには既に騒ぎを聞きつけた野次馬が群れを作り、作業員が必死でパイプの修理にあたっていた。
 通路をふさいでいる人物はポケットをまさぐると数枚の札束を取り出して警官に押し付けると、ふぅとため息をついた。
「私が見た限りじゃあ正当防衛だったけど……。まぁ、あの子らを見かけたら叱っておくよ。ちょっとした知り合いなのさ。悪かったね。――それよりも先に、あの下品なゴロツキを取り締まった方が良いんじゃない?」
 それから警官が握っている札束をとんとんと指でつついて、パイプの修理代を差し引いても余るぐらいだから、と付け加えた。

「あの、ありがとうございます」
 警官が踵を返して現場に戻っていったのを見届けて、アダムたちはやっとすし詰め状態から解放された。すると、待っていましたとばかりにその人物はぐいっと顔をかがめてアダムに詰め寄った。
「あんたたち、ここが貧民街と知らずにほっつき歩いてたんじゃないだろうね? 観光にしたって不用心にもほどがあるよ」
「あ、いや……俺たち、」言いかけたアダムの言葉を遮って「今回は助けたけど、次はないよ」とぴしゃりと言ってのけた。その勢いに四人は背筋を伸ばしたまま小さくなった。
 右半分に流したウェーブのかかった長い前髪は不自然な蛍光黄緑に染められており、反対側は耳の後ろにかけて刈り上げられている。両耳には金色の大きな輪のピアスがぶら下がり、同じような金属の輪っかが連なったブレスレットを右手首につけている。濃いピンクの大ぶりな花がプリントされたシャツに、スラッとしたシルエットの鮮やかな緑色のズボンという出て立ちはよくよく見なくとも随分と派手である。
「この街で遊ぶなら新市街地へ行きな。大通りに沿ってまっすぐ行くだけさ」
 じゃあね、と左手を振りながらその人物は人だかりとは反対の方向へ歩いて行った。ぽかんと口を開けながらその姿を見送った四人だったが、ややあって、アダムはぽつりと疑問を口にした。
「あれ……男の人、だよな?」
 日陰の路地には強い香水の残り香が存在を主張してたゆたうばかりだった。


     2


 壺の表面をまるくくり抜いた様な陶器の中で、固形燃料が小さな炎をたたえて燃えていた。陶器の上に乗せられたオレンジ色のココットの中では羊のチーズがとろとろに溶かされている。
「ニノン、これやるよ」
 アダムは目の前の皿に山盛りに乗せられた温野菜の中から湯気のたちのぼるブロッコリーをつまみ出すと、ニノンの皿にぽいぽいと放り投げた。
「ええ、こんなにたくさん良いの? 私ブロッコリー大好きなんだぁ」
「ふ、ありがたく食えよ。俺にはそんな草のかたまりは似合わねぇからな」
 正確に言えばブロッコリーは草のかたまりではなく花のつぼみのかたまりである。チーズを絡めたじゃがいもを口に運びながら、ルカは言いかけた言葉をそのまま呑みこむことにした。
「まだ痛む?」
 食べづらそうにするルカの顔を覗きこむニノンの眉は八の字に下がってしまっている。その怪我が自分を庇ってできてしまったものだったからだ。触ればじんじんと痛む程度だったので放っておけば治るだろうと安易に考えていたルカだったが、だんだんとどす黒くなる肌の色に気の動転した彼女は、大袈裟なくらい分厚いガーゼで傷口を覆い隠した。実際のところ、痛いから食べづらいのではなく、この大きなガーゼが邪魔なのだ。
 じゃがいもを飲みこんでからルカは痛くないよ、と微笑んだ。
「皆さん、この度は本当にお騒がせしました。それと助けてくれてありがとうございます」
 そう言って茶色いくせっ毛の少年は何度も頭を下げた。それから、真緑のプラスチックでふち取られた眼鏡を中指で元の位置に戻すと、申し遅れましたが、と前置いた。
「僕の名前はロロ・ブーシェ。十九歳、北の街バスティアの出身です」
 十九歳と聞いてアダムはせき込んだ。背は高いがひ弱そうな外見からすると自分より年下だとふんでいたのだ。
「俺はアダム・ルソー。カルヴィ出身の修道士だ。アダムって呼んでいいぜ」
 アダムの言葉を聞いて今度はロロがせき込んだ。く、と笑いを堪えるルカや、笑いを隠そうともしないニノンを見て、アダムは自己紹介に修道士というワードを使うのは今回かぎりでおしまいにしようと心に決めた。
「私はニノン。出身地は……記憶がないから分かんないの」
「え! ニノンさん、記憶喪失なんですか?」
「うん。年齢も覚えてないんだよ。でも、ルカと身長が同じくらいだから十五歳ってことで。で、そのルカっていうのが――」
「俺です」抑揚のない声がニノンの言葉を遮る。「道野琉海。ニノンと身長が同じくらいの十五歳、アルタロッカ地方出身です」
 むすりとした口調で淡々と自己紹介を終わらせて、ルカは再び温野菜に手を伸ばした。日本人の血を四分の一受け継いだことは、残念ながら身長の伸びに影響を与えた。やっかむほどではないにしろ、ルカも例にもれず思春期の少年なのだから、少しは気にしたりもするものだ。
 ロロは話題を変えるべく、慌てて口をひらいた。
「皆さんは観光でこちらに?」
 するとアダムはバゲットを頬張った口をもごつかせながらうんん、と曖昧に頷いてみせた。代わりにニノンがぐいっと顔を近づけにっこり笑いながら答える。
「私たち、サーカスを観に来たの。ロロは? サーカス目当て?」
「ああ、アルカンシェルですか。彼らは人気がありますからね。僕はちょっと用事で各地をまわってるんです。……実はですね」
そこで一旦区切りをつけると、ロロは三人に顔を寄せ、声をひそめて呟いた。
「僕、エンジニアを目指してるんです」
「はぁ、それであのなんとかパンチャーってわけ。見かけによらず頑張るな、あんたも」
 アダムは感心したように呟いた。そんなあっさりとした様子に、ロロは目をぱちくりさせた。
「わ……笑わないんですか?」
「どうして? なぜ笑うの? それよりもエンジニアって何?」
 ニノンの質問の嵐に気圧されて、ロロはかろうじて「物を開発する人のことです」と答えた。
 五十年前のエネルギーショックを機にほとんどの人間の価値観はぐるりと百八十度変わってしまった。その変化に巻き込まれたのは芸術家や天文学者だけではない。目に見えない存在意義を主張するありとあらゆるものが対象だった。例えばそれは科学者であったりエンジニアだったりした。しかしそれに別段意義を唱える者などほとんどいない。仮にいたとしてもそれは物好きか単なるひねくれ者、あるいは頭のイカれた異端児とさえ思われた。不満をもらすには十分すぎるほど潤った世界だったからだ。極大な危機を経験した者同士の絆は深い。高望みをしないエコロジーな世代に、未来への過剰な投資は不要なのだ。
「大抵の人は僕みたいな人間をバカにして、笑いものにするんですよ」
 ロロはぎゅうと握り拳に力を込めた。
「だけど、僕は! エンジニアという夢を諦めたりしません……!」
 興奮気味にまくしたてるロロの声は思った以上に店内に響き渡った。思い思いに食事を楽しんでいた客たちは次々と顔をあげ、発言した青年の顔を訝しげに見つめる。傍のテーブルではマダムたちが顔を寄せ合いひそひそと何かを囁いていた。途端にロロの顔は耳まで真っ赤に染まり、たらりと冷や汗が額を伝った。
 アダムはコップの中の水を一気に飲み干すと静かに席を立ち、この店を出ようと三人に声を掛けた。
「気にしなくていいさ。こんなご時世だからな」
 恥ずかしげに肩をすぼめながらロロは小さく頷いた。


     3


 大通りを山間にずっと進んだ先にあるゴードン広場には、海を背景にして大きな銅像が立っている。前足で地を蹴り上げる迫力ある馬と、それにまたがる英雄、そして彼が従えるのは袈裟けさを身にまとった三人の僧侶たちだ。緑青におおわれた瞳の見つめる先には、赤と青のストライプ柄の大きなテントが張られている。テントの頂点では虹色の旗が潮風にヒラヒラとはためき、観光客や地元民が代わる代わる物珍しげな眼差しをテントへ向けては去っていった。
「ウィグル、ウィグルー!」
 男の声はテントの中に響き渡りこだました。天井に吊るされたライトが照らし出すステージの上で、楽器の弦を調整していた手を止めて、二股帽子をかぶったピエロがひょこりと顔を上げる。その途端、プツンと音を立ててブリッジから弦が弾け飛ぶ。ピエロは慌てて弦を押さえ込んだ。
「ああ――悪いね、グリエルモ。続けてちょうだい。まったくどこ行ったのかしらあのバカ息子は……」
 男が困ったように頬に手をあてた時だった。ステージ傍の深紅の垂れ幕がゆらりと動いたかと思えば、中から美しいシルクのドレスに身を包んだ女性が微笑みをたたえて現れた。
「ウィグルなら今朝街の方へ出ていきましたわよ、団長」
「そう。ありがとうヴィヴィアン」
 ヴィヴィアンと呼ばれた女性はにこりと笑うと、観客席に向かってしずしずと歩き始めた。腰まで伸びる漆黒の絹のような髪の毛を一つに結わえながら、黙りこくってしまった男の横顔をちらりと覗き見る。ゆるやかにしな垂れる黄緑色をした前髪の奥に、悩める複雑な表情を浮かべている。
「あんまり考えすぎるとお肌に悪いわ」
「……そうね」
 男はぼんやりとテントの出入り口を見つめるばかりだ。
「あの子には時間が必要なのよ」
「ええ、分かってる。だけど、そんな甘ったれたことを言っていてはね」
「団長――」
 ヴィヴィアンが口を開きかけた時、ほの暗いテントの中に一筋の光が射しこんだ。出入り口に掛かる幕を手で押しのけながら、肩幅の広い男が乱暴な足取りでテントの中に入ってくる。いばらのように立たせた金色の髪の毛が日に当てられて金属のようにてらてらと光った。しかしよくよく見ると、根本の部分は地毛の焦げ茶色がのぞいている。
「ウィグル、ちょっと待って!」と、慌てて後を追ってきた青年が両手に荷物を抱え込んでテントに滑り込んだ。「こんなに買い込んで、ウィグルはちっとも持ちやしないし」
 ウィグルはステージの下に佇む男を見つめると、後ろでぶつくさ文句を言う青年の片方の手から荷物をぶんどり、わき目も振らずにステージ裏に向かって歩き始めた。
「ウィグル。あんた練習はどうしたの」
 男の怒気を含んだ声を耳にして、ウィグルと呼ばれた男はぴたりと歩をとめた。
「はぁ、帰ってきてそうそうにお説教か。練習なら昨日やっただろ。俺は街で遊んでくたくたなんだ。そこどいてくれ」
「待ちな! 話は終わってないよ」
 ウィグルはぴくりと片眉を動かした。片手に掴んでいた荷物を再び青年に押し付けると、肩をいからせて男の元へ歩み寄った。
「ウ、ウィグル!」青年が叫ぶ。
「ハビエル、黙ってろよ。今日こそきっちりケリつけてやる」
 二人はぴったりと間を詰めると、仁王立ちの状態で向かい合った。火花を散らしながら睨み合う様子を、ハビエルはハラハラした面持ちで見守ることしかできなかった。その真向いでは、困ったわねぇとヴィヴィアンが人知れずため息をついた。


「僕はしばらくこの街に滞在する予定ですから、またよければご一緒しましょう」
 大通りでロロに別れを告げたルカ達は、今度こそサーカス開催予定地のゴードン広場へ向けて歩き出した。看板から飛ばされてしまったポスターを拾い、道行く人に尋ねれば『この先まっすぐ』という案内がいかに不親切なものだったかを思い知らされた。何しろゴードン広場はアジャクシオでも最も有名な部類に入る観光スポットで、大通りを数分も歩けば誰でも見つけられるようなひらけた場所にあったのだ。ニノンが自信たっぷりに進んだ道は九十度も違う方角だった。
「うわぁ大きい! お菓子の包み紙みたいでかわいいね!」
 幼い子どものように広場を走り回るニノンは、そのままテントの間近まで駆け寄ってそれを見上げた。青空に映える虹色の旗に、瞳がいっそう輝きを増す。
 はしゃぎ続ける少女を見やりながら、ルカはすたすたとテントの入り口へ歩いていく。〈WELCOME!〉と書かれたカラフルな看板の下、入り口と思しきカーテンの傍には、小柄な少女と熊のような大男が立っていた。少女は近づくルカに気が付くと、パッと笑顔を作ってビラを片手に「はぁい」とあいさつをした。
「アルカンシェルへようこそォ! 公演は一週間後だから、チケット買って、首をながぁくして待っててネ」
 少女は人形のような大きな瞳でウィンクをすると、同時にチュッと音を立てて投げキッスまでしてみせた。反応に困るなぁという顔をして、ルカは頭をかいた。わた菓子のようなふわふわの髪はピンクや水色が交じり合って遠目にはうす紫に見える。雪のように真っ白な肌とは対照的な真っ黒のチュチュ――花のようなスカートが特徴的な、バレリーナの衣装――を身に着けた少女の身長はルカの頭一つ分以上は低い。とても小柄なのに存在感があって、垢ぬけた表情をしている。
 ぐいぐいと押し付けられるビラをやんわりと断ると、ルカは少し屈んで少女と目線を合わせた。
「ここの団長の『ゾラ』さんという人に会いにきたんだ。中に入っても?」
 すると少女は、まぁ! と声を上げ、途端に眉を吊り上げると顔を真っ赤にして隣に立つ大男にぴょんと飛びついた。
「ルー、この人私を子ども扱いする! 信じられない! しかも客じゃあないって言うのよ! 信じられない!」
 首元に顔をうずめてわめき散らす少女の頭をぽんぽんと撫で付けると、大男はルカに向かって小さく一礼した。
「すまない、客人。シュシュはすぐ癇癪を起こす。許せ」
「あ、いえ。おかまいなく……」
 ルカは大木のような男を見上げた。近くで見れば見るほど山から下りてきた熊にそっくりだ。地鳴りのような低い声、黒に近い茶色をした前髪の奥に見え隠れする小さな瞳からは男が何を考えているのか読み取りづらい。しかし男が発した言葉から少なくとも怒ってはいないことが伺える。ルカはふ、と肩の力をぬいた。
「なーに女の子泣かしてんだよ」
 傍から様子を伺っていたアダムが茶化すように声を掛けた。いつの間にかナポレオン像の方まで足を延ばしていたニノンも騒ぎに気が付きこちらへ駆けてきた。
「しばし待て。団長に掛け合ってみよう」
 そう短く言い残し、ルーと呼ばれた大男は首元に巻きついたまま離れない少女の背中を撫でてやりながらテントの中へと姿を消した。
「なぁ、何言って泣かせたんだよプレイボーイ」
「さぁ……俺が聞きたいよ」
「ねぇルカ、プレイボーイってなに?」
「…………アダムみたいな人のことだよ」
「こらこらこら」
 三人はしばらくテントの入り口の前で他愛もない話を口にしながら時間を潰した。
 が、しかし、いくら待てども大男が入口から顔を出す気配はない。それどころかテントの中から微かに男の言いあう声が聞こえてくる始末。面会など揉めるほどの話でもない気がするが、もしそれが原因ならなかなか気が重くなる。
 意を決してアダムは「ごめんください……」と声をかけて入り口のカーテンをめくった。その瞬間、バキッという人を殴る嫌な音がテント内にこだました。次いで「ウィグル!」と叫ぶ女性の声が響く。あっと声をあげている内にアダムは全速力で駆けてくる男性とぶつかり、跳ね飛ばされた。男は周りに目もくれずそのままテントから出て行った。
「待ってくれよ、ウィグル!」
 一歩遅れて青年が後を追うようにテントから飛び出していった。
「アダム、大丈夫?」
「いってぇ……猪かよ、あいつは」
 尻もちをついたアダムを引っ張り起こしたルカは、そのまま開け放たれたテントの入り口へ足を踏み入れた。ステージの下で見覚えのある男が頬を抑えて倒れているのが見えたのだ。花柄のシャツに緑のスキニーパンツ。午前中に警官から三人を守ってくれた男だ。
 大男の肩からぴょんと飛び降りた少女は男に駆け寄り「団長!」と金切り声をあげている。――この男が虹のサーカス団、アルカンシェルの団長なのだ。ルカはゆっくりと観客席の間の通路を進み、黄緑色の髪の男の前で立ち止まった。「何勝手に入ってきてんのよ!」と喚く少女を、ルーは優しく担ぎあげなだめた。
「ゾラさん——ですね」
 ルカはゆっくりと口を開いた。男はそれをじっと見つめていた。その右手に光る鈍色の指輪をも。
「道野家の長男、琉海です。あなたに会いに、この街までやってきました」
 そう言いきった時、ルカは非常に安心に心を包まれた。今回はベニスの仮面に奪われることなく絵画を回収できるのだ、と。
 しかし目の前の男はゆっくりとかぶりを振ってそれをやんわり否定した。
「私の名前はニコラス・ダリ」
 黄緑色の髪の奥で哀しげな瞳が伏せられた。
「ゾラさんは死んだよ。二週間前にね」


     4


 真っ昼間だというのに、その部屋はまるで夜中のリビングのように闇色があちらこちらに色濃く漂っていた。というのも、分厚いビロードの布で仕切られた、部屋というには歪なその空間には、窓がひとつも見当たらないのだ。太陽の代わりに室内を照らし出すランプは、エネルギーが切れかかっているのか時折ちかちかと点滅を繰り返している。
 ここはサーカスのメインテントの傍に併設された小さなテントで、おそらく倉庫として使用されているのだろう。そこかしこに様々な布切れや丸められたポスター、ちぎれたロープ、用途の分からないガラクタなどが散乱しており、お世辞にも綺麗とは言いがたい有り様だった。ぷんと鼻につくカビの臭いに、アダムは思わず顔をしかめた。
 三人は用意された椅子代わりのペール缶に腰掛け、アルカンシェルの団長が怪我の手当てを終えるのを待っていた。手持ち部沙汰になった二ノンは真紅のフードを被り、首元をしぼったりゆるめたりして暇をもてあそんでいる。大きなあくびをしているアダムの隣で、ルカは目だけを動かして薄暗い室内を見渡した。
 隅の方に積み上げられた木箱の上に、古ぼけた絵画が立て掛けられている。繊細な細工の施された額縁は、かつては金色だったのだろうが、今やくすぶって輝きを失っている。キャンバスには向かい合う首だけの人間が描かれていて、二つの横顔には細い三日月のような笑顔が浮かんでいる。ひどくおどろおどろしい雰囲気の絵だ。にごった泥のような背景も、不安を掻き立てられる要因の一つだった。
 不気味な絵画からふいとルカが目線を逸らした時、唯一の出入り口からニコラスが姿を現した。
「悪いわね、待たせちゃって」
 頬に充てられた、ルカと同じような分厚いガーゼを気にしながら、ニコラスは使い捨てのプラスチックカップに入ったミネラルウォーターを簡素なテーブルに並べると、空いているペール缶に腰を降ろした。
「メインテント目当てのお客ばかりだからね、グラスの用意もなくて」
 ルカはお構いなく、と頭を下げた。よく冷えた水をひと口飲んだところで、もう一度絵画へ視線を移し、また直ぐにニコラスへと向き直る。二つの生首に見つめられている気がして気味が悪かったのだ。
 ルカの視線に気がついたニコラスは「ああ、あれね」と、首をまわして絵画を見やった。
「不気味な絵だろう。『擬態』ってタイトルの絵でね、どこの画家が描いたのかも分からないけど、生前ゾラさんが大切にしていたものなんだ。発電所にも送らないでね……。どうしたもんかって言ってるうちに倉庫のガラクタと一緒にホコリを被っちまったんだよ」
 ニコラスはコップの中の透明な液体に視線を落とした。
 ゾラさんが死んだ。そう告げられた瞬間、ルカの心を覆っていた安心感は突風にあおられて飛んでいってしまった。けれど手掛かりはきっとあるはずだ。日夜を共にした旅仲間であり、後継者でもあるこの男なら、何かしら話を聞いているかもしれない。ルカは意を決して口を開いた。
「父からことづかってきたんです。大きな絵画から切り取られた一ピースをゾラさんが保管していると。そんな話を聞いたことはありませんか?」
 ニコラスはしばらく目を伏せて記憶の海に潜り込んでいるようだったが、程なくして首を横にふった。
「そういうことは、息子に聞くのが一番なんだけど」
「なんだって?」アダムが小さく舌打ちをした。「フィリドーザにトンボ帰りかよ」
「いや、息子もアルカンシェルの一員だよ」
「なんだ」
 移動の手間が省けたと安堵するアダムに、ニコラスは「ただし」と付け加えた。
「今訪ねたところで話なんか聞けやしないと思うよ。ゾラさんのこともあるし、一週間後には公演も控えてる。ヘタに手を出すと噛みつかれるかもしれない」
 ニコラスはゾラの息子を『野に放たれた手のつけられない狂犬』と評した。そこでアダムは自分を跳ね飛ばした猪のような男を思い出した。ウィグルと呼ばれていたあの男こそがゾラの息子で、ニコラスを殴った張本人なのだ。
「息子さんに話をうかがうチャンスはないでしょうか」
 手に負えない暴れ犬だと言われたところで、はいそうですかと食い下がるわけにもいかない。
「ううん……協力してあげたいのは山々なんだけど」
 こんな状態で言うのもね、とニコラスは自嘲気味に笑った。
 その時、二ノンが世紀の大発見でもしたようにぽんと手を叩いて、
「良いこと思いついた!」と自信満々に言い放った。
「何だよ、良いことって」
 二ノンは両の瞳を、濡れたガラス玉のように目一杯輝かせた。
「スパイだよ、スパイ。サーカス団の一員になって、こっそり絵画の在り処を探すっていうのはどうかな」
 アダムは盛大にため息をついて、どこから突っ込んでやろうかと考えを巡らせた。
「まず、俺たちはサーカスなんかできねぇ。それからお前、『スパイ』って言葉使いたいだけだろ? いつの間に覚えてきた? そもそも使い方間違ってんだよ。そういう場合は『潜入捜査』って言うの。……何だよその目は。その無駄な自信が一体どこから湧いて出てくるのかぜひ聞きたいね」
「勘!」
「やっぱりスパイって言葉使いたいだけだろ、お前!」
 アダムの言っていることはあながち間違っていないな、とルカは思う。
 二ノンの記憶は、でたらめに切り抜かれたスクラップブックのようなものだ。それが、山道をほど走る車の中で、ルカとアダムが彼女から聞いた話の印象だった。
 彼女の直近の記憶は森の中から突然はじまっていた。それ以前の記憶はおろか、己の名前さえ分からなかった。しかし、言葉を話すことはできた。また太陽を太陽と認識し、茂る葉を緑色だと形容できた。つまるところ、二ノンの頭から抜け落ちていたのは、彼女の歩んだ人生を記したページということになる。彼女は二人に、ふとしたことでそのページが見つかるのだとも言った。それは夢の中であったり、街を歩いているときであったり、夜空を眺めているときであったりした。見つかるページがあまりにもちぐはぐなので、スクラップブックというわけだ。
 アジャクシオのメインストリート、人通りの一番多い一角には大きな看板が設けられている。そのうちの一つには、スパイの男が活躍するシリーズものの新書の宣伝ポスターが掲げられていた。ルカは、ニノンがポスターに書かれた疾走感のあるあおり文を食い入るように見つめていたことを知っていた。
 今の彼女は記憶が無いからなのか、単なる無知だからなのか、言葉を覚え始めた幼児のようにそこここに転がる単語に興味を示しては、しきりに使いたがった。
「もー、何よう。こんなチャンス滅多にないのに!」
 言い合いにらちのあかなくなった二ノンは、うっとおしくなったのかフードをばさりと取り払い、勢い余ってペール缶から立ち上がった。
 撫子色の髪の毛があらわになった瞬間、ニコラスはむせ込んだ。そして、飲みかけていた水のコップを乱暴に机に置くと、急いで二ノンにフードを被せ直した。
「うわわ、ど、どうしたの?」
「どうしたってアンタ、迂闊にフードなんて外すもんじゃないでしょうが」
「どうして?」
 ぎゅうぎゅうに絞られたフードの穴から不満そうな顔がのぞく。まるで巣穴から外界を伺っているイタチのようだ。
「どうしてって……その桃色の髪の毛、『脱色症』だろう?」
 脱色症という単語を耳にして、アダムは小さく笑った。
「それはただの迷信スよ。昔は信じられてたんだろうけど——それともこの地域にはまだ迷信を信じる風習が残ってるとか?」
 ニコラスははっと息を呑んだ。
「そ、そうね。流浪の生活だから、迷信とか噂話がごちゃ混ぜになっちゃってたわ。ごめんなさい」
 それからニコラスは、マッチ棒の先みたいに丸まっていた二ノンのフードを慌てて外した。撫子色の髪の毛をさらさらと揺らしながら、二ノンが脱色症とは何かを問おうとしたが、それよりも先にアダムが口を開いた。
「たまーに変わった色の髪の毛を持った人間が生まれることがある。皆同じように薄い色でさ、太陽に当たるとだんだんと色が抜けていって、抜けきったら死んじまうってのが脱色症だ。まぁ、ただの迷信なんだけどな」
 アダムは『迷信』という言葉を強調した。脱色症と呼ばれる人々が死に怯えて生きていた時代もかつてはあったのだろう。それがいつから迷信に変わったのか定かではないが、少なくとも彼らが太陽の光を浴びて脱色することはないし、普通の人間と同じように生きて死んでいくことに変わりはない。稀にアルビノが生まれるように、脱色症もまた遺伝子の問題だと、今でははっきりと分かっていることだ。しかし、地方に行くと未だに根拠のない迷信を信じる人々がいるのも事実だった。
 横顔に垂れる、一房の髪の毛をつかんで、二ノンは透きとおる朝焼け色の髪の毛を眺めた。脱色症という響きに、心の中で薄墨色のインクが滲んでいくのを感じた。
 会話が途切れた。妙に重たい空気がテント内を漂う。ニコラスは一瞬にして笑顔をつくり、沈黙をかき消すように一つ前の話題を引っ張り出した。
「良いじゃない、スパイの提案。うちも丁度人手が欲しかったんだ。アジャクシオに滞在する間だけでもアルバイトしてみる?」
 スパイ行為への好感触な反応に、アダムはニコラスを二度見した。「アルバイトって、金が出るんスか」
「そんなにたくさんは出せないけどね。公演開始までの一週間と、公演期間中三週間、合わせて一ヶ月」
「どんなお仕事をすれば良いの?」と、二ノンが尋ねた。
「メインは掃除とビラ配りかしら」
 でしょうね――アダムは今一度テント内をぐるりと見渡した。クモの一匹や二匹、箒ではたけば簡単に飛び出てきそうだ。
「アダムちゃん、だったかしら」
「――はい?」
 突如ぬるい風のような声色で名を呼ばれ、アダムはぎょっとした。ちゃん付けで名前を呼ばれた。しかも、男に。ニコラスの熱っぽい眼差しに、アダムの肌はたちまち粟だった。
「私の専属アルバイトなら、少しはお給料はずんであげてもいいけど」
 足を組んで、膝に両手を乗せながら、ニコラスは獲物を定めた獣のように瞳をギラつかせている。
「さ、三人で……お掃除、頑張ります」
 からからになった喉からかろうじて絞り出た声はあまりにも滑稽だった。喉を潤すために生唾を飲み込んだ、ごくりという音が静まり返ったテント内に響き渡る。
「そう、残念」
 ややあって、ニコラスは女豹のごとくにやりと笑った。どうやらハントは失敗に終わったようだ。


 ニコラスという男はとても綺麗な字を書く。それに、地図を描くのが上手い。手元にある手書きのメモ用紙を眺めながら、ルカは父親の書いたミミズの這った跡のような地図を思い出していた。
 後頭部で手を組みながら、ふらふらとルカの後ろを歩くアダムは、
「確かに俺はイケメンだし、昔から結構モテてきたけど、カマ野郎に迫られたのは初めてだぜ」
 と、未だに少し青ざめた顔をしてぶるりと肩を震わせた。
「俺は良いと思うけどな。だってホテルまでの地図がすごく見やすいし」
「適当なこと言いやがって……」
 ルカは大通りから少し外れた石畳の小道を、更に右へと折れた。地図がなければ絶対に踏み入ったりしないような、細い路地が続いていた。
「それにしても、息子があの暴れ猪じゃあ情報聞きだすのも骨が折れそうだよな」
「案外話せば分かってくれる人かも知れないよ。あんなに怒ってたのも、なにか理由があるのかもしれないじゃない?」
「どうだかな。あの金髪イガグリ、ガラの悪ぃチンピラにしか見えねーよ」
 ウィグルさんもアダムにだけは言われたくないだろうな、とルカは思ったが、面倒だったので言葉にするのはやめた。
 そうこうしている内に一行は目的地の建物にたどり着いた。石壁の背の高い建物がぴっちりと並んだうちの一つに、ひときわ年季の入った木製の扉がある。取り立てて看板があるわけでもなく、特徴的な置物があるわけでもない。ここ本当にホテルなのか、と疑問に思いつつも、三人は壊れかけのドアノブを回して中へと足を踏み入れた。
「……ここ本当にホテルなのか」
 心の中で思っていたことを、ついにアダムは口にした。
 ロビーと思しきフロア——といっても、六畳あるかないかぐらいの、本当に小さな部屋——は真っ暗だった。壁伝いにどうにか照明のスイッチを見つけて明かりをつける。
「!」
 室内に明かりがともった瞬間、三人は一様にびくりと肩を強張らせた。フロントのカウンターに大きな足を乗せ、椅子に腰掛けた状態の、人間がいたのだ。顔には船乗り用の帽子が被さっている。
 死体かもしれない——そんな最悪の可能性は、カウンターの上に立てられたカードによってあっさりと消え去った。
「『休憩中、起こさないでください』だぁ?」
 よく見ると、組まれた屈強な腕の下で規則的に体が上下している。帽子からはみ出ている髪とも髭ともつかないもじゃもじゃした白髪も、それに合わせてわずかに揺れていた。
「爆睡じゃねーか……どうやって部屋に入りゃいいんだよ」
「予約した人のみ、ご自由に」
 ルカが何かを読み上げるように言葉を発した。
「あ?」
「鍵、自由に持って行ってって書いてある」
「おいおい。適当すぎんだろ、このおっさん」
 テントを出る前に、ニコラスが電話で三人分の部屋を予約してくれていて本当に良かった、とルカは思った。
 時折地鳴りのようないびきを立てて眠りこける男を起こさないように、ゆっくりと後ろのボックスから三〇〇~三〇三号室までの鍵を抜き取った。鍵に刻印された〈トリトン〉というのがこのホテルの名前なのだろう。壁に掛けられた木製のかじや、カウンターに置かれたミニチュアの船の模型など、海を連想させるものが多い。壁紙も白と青のストライプで埋め尽くされている。よくよく見ると、男は帽子だけでなく、服装までセーラーだった。よほど海が好きなのだろう。
「なぁーん」
「あっ、猫ちゃんだ」
 フロントの奥からひと鳴きした後、黒猫はぴょんとカウンターに飛び乗った。その頭には、主人と同じセーラー帽が無理やり括りつけられている。黒猫はもうひと鳴きすると、今度は右手にある階段までとことこと歩いていき、三人を振り返り柔らかく尻尾を振った。
「案内してくれたの? ありがとう」
 階段の柱に何かが貼り付けられている——『猫の餌やり、大歓迎』。アダムは黒猫を哀れむように見下ろした。
「お前も苦労してんのな」
「なぁーん」
 道中の大通りで買ったビスケットを黒猫に分け与えてから、三人は自室で準備を整えた。
「よーし、スパイ作戦がんばろうね!」
「潜、入、捜、査、な」
「そう、潜入捜査!」
 足取り軽く階段を降りていく二人の背中を追いかけながら、やはり目的が少しズレてるよなぁ、とルカは小さくため息をついたのだった。


第二話 スパイ作戦


     1


 あいも変わらず薄暗いテントの中で、扇形をしたステージがいくつものスポットライトに当てられて輝いていた。背景には大きくて真っ白な垂れ幕が掛かり、それを囲むようにビロードのカーテンが重々しくのし掛かっている。
 ステージ上では早朝から集められたアルカンシェルのメンバーが、まだ眠そうな顔をして円形に並んでいた。その輪の中に混じるメンバーではない三人を興味津々に見つめるのはピエロのメイクを施した男ぐらいのもので、後のメンバーは様々にあくびをしたりつまらなさそうに髪の毛先を弄ったりしている。
「ウィグルが朝礼に出るなんてネ。何か良いことでもあったのかしら」
 ねー。と可愛らしく首をかしげながら、シュシュはルーグの左肩へ子猫のように身軽に飛び乗った。聞こえているのかいないのか、大あくびをしているウィグルの隣で、困ったように笑いながらハビエルが答える。
「今日は大事な話があるって団長が言ってたからね」
「ふぅん。ハビは本当にお人よしさんなのネ」
 苦笑いを浮かべるハビエルの隣で、すっかり目を覚ましたウィグルが、獲物を見つけたハイエナのような目つきでじろりと少女を睨んだ。
「聞こえてンだよ、シュシュ。ぶん投げてやる」
「わ、ウィグルが怒った! 投げられちゃうー! ルー、助けてー!」
 きゃあきゃあとはしゃぐシュシュはルーグの巨体から引っぺがされ、ウィグルの手によってボールのように天高く放り投げられた。それを見事にキャッチしたルーグが、同じようにその小柄な体をぽーんと放り投げる。キャッチボールの玉になってしまっている少女からは、この状況には似つかわしくない楽しげな声が聞こえる。
「な……何だこりゃ」
 ルーグが何を考えているのかさっぱり分からないのは昨日と同じだが、ウィグルが怒っているのか、シュシュがはたして拷問を受けているのかさえ分からない。いきなり始まった謎のショーに、三人は目をきょろきょろさせるしかなかった。
「驚いた? いつものことだから気にしなくていいよ。急に始まるんだ、こういう訳分からないスキンシップは大抵ね」
 ひどく落ち着いた青年の声が背後から聞こえて、三人は一様に振り向いた。昨日ウィグルを追いかけてテントを出ていった青年だった。たれ目が印象的な、とても優しそうな顔をしている。
「えっと――」
「ハビエルだよ。皆にはハビって呼ばれてる」
「ハビ、さん」
 名前を呼んでみたものの、気恥ずかしくなったのかニノンは慌てて語尾に「さん」を付け加えた。ハビエルがまた笑う。元々のたれ目が、笑うことによって更にたれ落ちた。
「よろしくね。団長の話っていうのは、多分君たちのことだよね」
「うーん。多分そうだと――」
 そこへ突如、パンパン、と手を叩く小気味良い音が響く。「その辺にして」という声と共に、ステージの脇から蛍光黄緑の髪の毛を揺らして、団長のニコラスが姿を現した。
「いつもより少し早い時間の集合だったけど、さすが優秀ね。だれも朝寝坊してない」
 ニコラスは満足げに笑うと、ぐるりと輪を作っているメンバーを眺めた。アダムとニノンが不自然な笑みを作っている。それもそのはず、朝早くにルカに叩き起こされていなければ、今この場に二人の姿はなかったのだから。陰に隠れるようにして、アダムはルカに「サンキュ」と耳打ちした。
「朝礼を始める前に伝えておくわね。新しい仲間が――といっても期間限定の雑用係だけれど、三人加わったので、その紹介を。さ、こっちにいらっしゃい」
 ニコラスは手を叩いて三人を呼び寄せた。
「アダム・ルソーです。縁あってお世話になることになりました。アルカンシェルで働けること、とても光栄に思います。短い間ですが一生懸命お掃除などしますので、ぜひよろしくお願いします」
「私の一押しのイケメンよ。はい、次」
 真面目な挨拶に横やりが入り、黒髪の美女がくすくすと笑いをもらした。
「道野琉海です。よろしくお願いします」
――え、それだけ?
――俺は真面目にコメントした上にオカマに邪魔されたのに?
 とアダムは突っ込みたかったが、前に出て立っていることを思い出し、ぐっと口を真一文字に結んで我慢することにした。
「ニノンです。サーカスとっても楽しみです」
 ちょっと待て、と喉まで出かけた言葉を呑みこんで、アダムはぐっと踏ん張った。踏ん張って、この朝礼が終わったら絶対言ってやろうと心に決めた。「お前はただの一般客か!」と。
「ということで、この可愛い三人には私たちの代わりに掃除やビラ配りなんかをやってもらう予定です。必要であればいつでも他のお仕事押しつけちゃってちょうだい」
 さて、とニコラスは三人に向き直り、続けた。「軽くメンバーの紹介をしておくわね」
 つやめく絹のような黒髪の美女ヴィヴィアンは、そのなまめかしいボディを存分に使った魅惑的なダンスを得意とする踊り子だ。また、驚異的な身体の柔らかさを駆使してコントーション――体を自由自在に曲げる芸――を行う軟体曲芸師でもある。
「よろしくね、坊やたち」
 ウインクしたまぶたに乗せられた、ヴァイオレットのシャドウが大人の色気を最高にかもし出している。鼻の下を伸ばしっぱなしのアダムを引っ張って、ルカたちは説明を続けるニコラスの後に続いた。
「このピエロはグリエルモ。音楽家なの」
 グリエルモと呼ばれたピエロは返答の代わりに、アコーディオンで陽気な音楽を奏でてみせた。道化師の恰好をしてはいるが、特別芸をするわけではない。しかし一度に六つの楽器を操って、プログラムの進行に欠かせない音楽を一人で演奏するという。
「とっても恥ずかしがり屋だし、喋ることができないけれど、彼は言葉の代わりに音楽で答えてくれるからノープロブレムよ」
 グリエルモは恥ずかしげにうつむくと、短い小節の中に音符を詰め込んで、アコーディオンをかき鳴らした。そこで三人はニコラスの言っている意味を理解した。演奏された音楽が、まるで「よろしく」と言っているみたいだったからだ。
 次にニコラスは、動物の親子のように重なり合っている男と少女を指差して、
「あの熊みたいな大男がルーグ、小さいふわふわの方がシュシュよ」と説明した。
 二人は個々に玉乗りやトランポリン、火吹き芸などしてみせるが、ペア技の人間ジャグリングが彼らの一番の得意芸であり、人気があるのもペアでの演目だった。彼らの強みは瞳を合わせずとも意思疎通のできる類稀なる同調率にある。阿吽あうんの呼吸を体得した彼らの曲芸は、見るものに息をすることすら忘れさせる。
「チャオ~。私たちの分までビラ配り、頑張ってネ」
 そう言い終えると直ぐに、巨木の枝のような腕を使って大車輪を始めるシュシュを気にもとめず、ルーグは三人にぺこりと頭を下げた。
「それから、あのたれ目がハビエル。金髪のツンツンがウィグル。彼らは主に空中曲芸を担当してるわ」
 鍛え抜かれたしなやかな筋肉を使い空中を舞う曲芸は、サーカスの花形と言っても過言ではない。しかしそれと同時に、おそらくどの演目よりも危険と隣り合わせの芸でもあった。落下すれば死に繋がる可能性があるからだ。
「彼らの最も輝いている曲芸と言えば、何を隠そう空中――」
「なぁ、自己紹介はこれくらいで良いだろ。先に練習やらせてもらうぞ」
 ニコラスの言葉を遮ってそう言う切ると、ウィグルは不機嫌そうな顔をしながらステージ裏へと消えていった。
「なんなんだ、アイツ?」
 不機嫌になるタイミングだっただろうか、とアダムは彼の消えていった方を凝視しながら首をかしげる。
「気にしないでちょうだい。思春期をこじらせた子どものようなものだから」
 ため息をつくニコラスの隣で、ハビエルは苦笑いを浮かべた。
 しばらくぼうっとビロードのカーテンを眺めていた三人だったが、「最後になってしまったけれど」というニコラスの言葉にそれぞれが向き直った。彼は咳払いをひとつして、身なりを整えた。
「ダンスと司会クラウンを務める虹のサーカス団団長、ニコラスよ」


 その日の三人はゴミというゴミに追われ、掃除に明け暮れることとなった。各地域に長期間停留することのないテントの中に、一体どうすればこんなにもゴミくずを溜めこむことができるのか、アダムにはほとほと疑問だった。
「今でゴミ袋何枚使った?」
「二十三枚」
「……引っ越し前の大掃除かってんだよ」
 はじめのうちこそ意気揚々とほうきを振り回しては掃除に勤しんでいたアダムも、時間が経つにつれぶつくさ文句を言う回数が増えた。なにしろゴミの出てくるペースが、数時間経った今でも変わらないのである。
 こういった地味で忍耐力の要る作業を得意とするルカは、もくもくと掃除を続けながら「アダムは愚痴をこぼさないと死んでしまう病気にでもかかったのかな」などと半ば本気で考えていた。しかしその直後、アダムは別の病にもかかっていることが判明する。
 しばらく平穏に掃除が進められていた中、一人の情けない叫び声がテント内にこだました。
「おい、ルカ、ちょっと! ヤツが、ヤツがいるぞ――暗闇に隠れて俺たちを狙ってるんだ」
 ごくりと生唾を呑みこむ音が聞こえた。アダムは微動だにせずある一点を凝視し続けている。みすぼらしい叫び声を上げた張本人の顔は、今までに見たこともないほど青ざめていた。ルカは怯えるアダムの目線の先に広がる暗闇に目をこらした。夜目にも、そこに何かが動いているのが見えた。
「なんだ、ゴキブリか」
「シッ! ヤツに聞こえるだろ」
 いや、聞こえないよ。と心の中で呟いて、ルカは無駄のない動きでポリ袋を被せると、動き回る『ヤツ』をみごと捕獲した。何食わぬ顔ですたすたとテントの入り口に向かって歩き出すルカを、アダムが慌てて追いかける。
「待て待て待て」
「なに?」
「それをどうする気だ」
「どうって……入り口から逃がす」
「はぁ!? そんなことしたら家族を引き連れて戻ってきちゃうだろ、ここに! 『ツルノオンガエシ』よろしくヤツは復讐する為に――おいやめろ、そのゴミ袋を俺の顔に近づけるな!」
 無表情の青い瞳でしばらくアダムを見つめた後、ルカは踵を返してステージに向かった。そうして、ペアの演目を練習している大男に近付くと、お願いがあるんです、と手招きした。
「こいつをテントに戻ってこれないくらい遠くに放り投げてくれませんか」
 アダムは突っ込もうとルカの顔を覗き込んだが、そこには真剣な眼差ししかなかった。
「具体的な場所を言ってくれなきゃネ。ルーはどこまでだって飛ばせるもの」
「じゃあ……バヴェラ鋭峰の彼方まで」
「待て待て。俺が悪かったよルカ」
 バヴェラ鋭峰とは、ルカの生まれ育ったレヴィの村からよく見える、標高の高い岩山のことだ。当然ながらアジャクシオからその姿は望めない。
「了解した」
「マジで? 了解しちゃうんスか」
 ルーグは無表情のままポリ袋を掴み取ると、そのままテントの外へ出ていった。その後『ヤツ』がバヴェラ鋭峰の彼方へ到着したかどうかは定かではない。

 細かな一悶着はあったにしろ、それは些細な問題に過ぎない。一番やっかいだったのはニノンだ。
「私、モップかける!」
 と、自信満々に言い放ち、バケツとモップ片手に暗い客席へ消えて数十分。事態に気が付いたのはルカだった。どこかで雨漏りでもしているのかというほど床が濡れていたのだ。
 もちろん犯人はニノンで、バケツに付いている絞りの使い方が分からず、べちゃべちゃの状態でモップをかけたという。
「ニノン、お前、掃除クビ! ビラ配ってこい」
「ええー」
「ええー、じゃありません。これ全部配り終わるまで帰ってくんなよ!」
 ドングリを頬張ったリスのように頬をむくれさせた二ノンは「アダムのケチ!」と言い残して、しぶしぶテントを出ていった。対してアダムは片手をヒラヒラさせて、野良犬を追いやるような仕草をとった。彼らの精神年齢はほぼ等しいのだ。
「頑張ってるわねぇ」
 流れる川のような美しい声が背後から降ってきて、二人は顔を上げた。ゴミ袋を三十枚消費した頃だった。
「ヴィヴィアンさんの声で疲れも吹きとびました」
「あらあら、嬉しいこと言ってくれるのねぇ」
 ヴィヴィアンはにこりと微笑むと、おもむろにプリーツドレスを脱ぎはじめた。
「え、あの、なにを……?」
 とっさに両手で顔を覆い隠しうろたえるアダムを余所に、ヴィヴィアンはするりするりとあっけなくドレスを脱ぎきった。
 しばらくして、おそるおそる人差し指と中指のすき間から様子を覗き見ると、そこにはショルダーレスのレオタードに身を包んだヴィヴィアンがストレッチをしている姿があった。残念なような、ほっとしたような複雑な気分のアダムに、ヴィヴィアンが声をかける。
「もし良かったら、休憩がてら私の演技を見ていかない? 観客目線のアドバイスをくださいな」
「は、はい! よろこんで」
 腹八分目のゴミ袋を放り投げて、アダムは意気揚々とステージによじ登った。とぼとぼとその後をついてきたルカはステージには登らずに、ぞんざいに扱われた可哀想なゴミ袋を拾い上げた。
「ルカ、見ねぇの?」
「残りのゴミを片付けるよ。あと少しだし」それからヴィヴィアンに向き直り、ルカは続けた。「彼の意見は参考になると思います。時間ができた時にまたぜひ見せてください」
 二つのゴミ袋を引っさげて、ルカはステージから遠ざかっていった。
「あー。気にしないでください。あいつ、クソ真面目なんです。サムライのソウルが混じってるんで」
「あらあら、律儀で良い子なのねぇ」
 再び袋の中にゴミくずを掻き込む後ろ姿を、二人はしばらくの間照らされたステージの上から眺めていた。


     2


「虹のサーカス団ー、アルカンシェルでーす……」
 歩くマッチ棒は大量のチラシを手に、ふらふらとアジャクシオのメインストリートをさまよい歩いていた。楽しげな笑い声をあげながら傍を通りすぎるのは、二ノンと同じくらいの歳の少年少女たち。どこの国からの旅行客かは分からないが、色鮮やかな服やおしゃれな帽子を身につけている。そのすぐ後を追うのは駆けていった子どもたちの両親だろう。あっという間に過ぎ去っていった親子に、二ノンは出しかけていたチラシを元の束に戻した。
――姉さん。姉さんは今、どこにいますか?
 二ノンはふと、心の中で呟いてみた。流星群が流れた夜、まるで流れ星が連れてきてくれたみたいに鮮明に蘇った記憶を、忘れないよう脳裏でなぞる。柔らかくて優しそうな声や、自分とは違う普通の毛色、繋いだ手の温かさ。それらはまるで、ほんの昨日の出来事のようにも、遠い遠い昔のようにも感じられた。それから、私のお父さんとお母さんは元気だろうか、と二ノンは思う。
 閉じていたまぶたを押し上げると、そこにはやはり誰も居ない。ただありとあらゆる人種の群れが、大通りを行き交う景色が広がっているばかりだ。
 二ノンはすっかり宣伝する意欲も失くし、ショーウィンドウ越しにディスプレイされたきらびやかな商品をぼんやり見て回ることにした。
「お嬢ちゃん、ちょっと見ていかないかい」
 そう声をかけられたのは、道端にぽつぽつと露店が現れはじめた頃だった。気の良さそうな小太りの男はワゴンいっぱいに積まれたアクセサリーを鷲掴みにすると、ミサンガだよと言って天高くそれらを掲げた。二ノンはポケットに眠っていた、何ユーロあるか分からない小銭を全てほじくり出して、男に全て渡した。おまけとして多めに貰ったミサンガをありがたくポケットにしまいこみ、再び歩き出す。
 ガラス越しに映される自分の姿がひどくちんけに思えて、二ノンはたまらず赤いフードをばさりと外した。
 一人でいるとろくなことがない、と二ノンは思う。考え込めば考え込むほど自ら暗い方へと歩いていってる気がしてならない。それならば、どんなにつまらない話でも、誰かと語り合っている方がましだ、と。
 しばらくして、ニノンは周りが妙にざわめいていることに気がついた。歩みを止めずに人々の様子をうかがうと、数人の女性たちが耳を寄せ合って何事かをささやきあっていた。珍しい物でも見るような表情で通り過ぎていく人々や、遠くでは指さすカップルまでいる。そのどれもが、少女の珍しい髪色に注目しているようだった。
 すると、突如後ろから子どもたちの駆ける足音とともに騒がしげな声が近付いてきた。
「うわぁ、おねえちゃん色ナシなの?」
「はじめて見た! ホンモノの色ナシだー」
 みるみる内に子どもたちに囲まれてしまったニノンは、口々に喋りだす彼らに「色ナシってなぁに?」と尋ねた。子どもたちは目をぱちくりとさせて、互いに顔を見合った後、「そんなことも知らないの?」と笑う。
「ヘンな色の髪のことだよー」
「……そうなんだ」
 脱色症のことだ、とニノンはすぐに気がついた。子どもには難しい名前だから『色ナシ』という分かりやすい名称が浸透したのか、それとも別の意味が含まれているのかは分からない。純粋な子どもたちの笑顔を見ていると、そこに他意などないように思える。けれど、なぜだかニノンの心は細い縫い針に刺されたかのようにチクチクと痛んだ。
「暇をもてあそんでるガキども、もっと珍しいもんを見たくないか?」
 ふと背後から降ってきた男の声。途端に子どもたちは「見たい!」と騒ぎはじめる。ニノンの肩越しににゅっと伸びた筋肉質の腕が、チラシを数枚つかみ取った。
「変てこなピエロとか体がグネグネのチャンネーがいるぞ。一週間後だ。かーちゃんに頼んでこい」
 チラシをもらうために夢中になっている子どもたちに、男は「あとオカマもいたわ」と付け加えた。
 子どもたちが嵐のように過ぎ去った後、ニノンは背後を振り返った。
「ウィグルさん」
「何やってんだよ新人。てっきりビラ配ってるのかと思ったが」
 全くと言っていいほど厚さの変わっていないチラシの束を見るなり、ウィグルは面倒くさそうに頭をかいた。
「ウィグルさんはどうしてここに? お散歩?」
「そりゃこっちの台詞だ」
 彼は手に小さなポリ袋を提げていた。中にはくしゃくしゃに丸められた包み紙。袋には『ブラボーカバブ』と印字されている。ここに来る途中に並んでいた露店のひとつに、同じ名前の看板があったことをニノンは思い出した。大きな肉の塊がくしに刺さっていて、観光客が前を通り過ぎるたびに、陽気なトルコ人がのこぎりのような包丁を使ってこれみよがしに肉を削ぎ落としていたお店だ。
「……よだれをふけ」
「はっ、ごめんなさい。かぐわしい香りを思い出して、つい」
 そう言いながら、腹からきゅるきゅると情けない鳴き声をあげるニノンを見て、ウィグルはこめかみを押さえた。


「ウィグルさんってもっと恐い人なのかと思ってた」
 ウィグルは本日二度目のカバブサンドを頬張りながら「こういうの、餌付けって言うんだよ」と笑った。二人は大通りに比べてずいぶんと人気の少ない港までやって来ていた。表の大きな港から少し離れたこの場所に停泊する船は小ぶりなものが多く、針金のような穂先に邪魔されずにすっきりと水平線を眺めることができた。
「それから、もっと元気がないと思ってた」
 ニノンは地面から突き出た巨大なネジのような形をしたボラードに腰かけながら、ウィグルに奢ってもらったカバブにかぶりついた。
「親父のこと、聞いたのか」
「二週間前に亡くなったってことだけ」
 ヘビの鱗に似た細かな雲の間を、ぼやけた太陽が水平線に向かってゆっくりと落ちていく。たった二週間。そんな短い時間で親しい人との別れを理解できるということが、ニノンには不思議でたまらなかった。
「――持病だったんだ。俺も含めて、あいつらも皆、その覚悟はできてたんだろ」
 ウィグルは水色とオレンジ色の混ざった奇妙な空を眺め続けた。晴れているとも曇っているとも言えない、どっちつかずの空を。
「あんなクソ親父。いなくなって清々するぐらいだ」
「ウィグルさん、お父さんが嫌いだった?」
 ニノンの問いにウィグルは海から顔を背けて振り向いた。その瞳には、憎しみや苦しみが混ざり合ったどす黒い感情が溶け込んでいて、ニノンは少し寂しくなった。
「嫌ってたのはあっちの方だろ。こんな出来損ないの息子を選んじまったんだからな」
「選ぶ?」
 すると、ウィグルは一瞬口をつぐみ、先に続く言葉を探した。
「俺の親父はお袋と離婚してサーカス団を結成したんだよ。そン時の俺はまだアルファベットも書けねぇくらい小さくてさ。訳も分からずに気付けばサーカス団の一員として各地を点々としてた」
 冷めきったカバブに被りつきながら、ウィグルは「今でもアルファベットは間違うし、学校にもほとんど行かなかったから、バカに育った」とぶっきらぼうに言い捨てた。
「だったら私もバカだよ。だって記憶がないもん」
 一足先にカバブを食べ終えたニノンは、包み紙を手の中で丸めながら、今までのことをウィグルに話した。ウィグルもつられてぽつぽつと思いで話を話した。それはぼやけたままの太陽が水平線に重なり始めるまで続いた。
「ねぇねぇ、あの時どうして団長を殴ったりしたの? 喧嘩でもしたの?」
「お前本当に質問ばっかりだなぁ。俺の妹にそっくりだ」
「妹? 私と同じくらいの?」
「いや、今はもう立派な大人だと思う。俺の記憶の中の妹って意味さ」
「女の子はお喋りなんだよ」
「まったくだ。けどな、シュシュ――あいつは駄目だ。マセてるばっかでまるで可愛げが無ェ」
 ウィグルは立ち上がると、うんと伸びをしてからニノンの腕に抱かれていたチラシの束を奪い取った。
「ぱぱっと配っちまうか。日暮れまでに帰らねぇとお前、団長に怒られちまうだろ」
「ウィグルさんだって怒られちゃうよ」
「俺は慣れてるからいいんだよ」
 夕暮れの中歩き出したウィグルの背に、ニノンは一際大きく声をかけた。
「私ね、少し不思議な力があるの。絵画の声が聞こえるんだ」
 突拍子もない話題に、ウィグルは振り返る。
「絵じゃないんだけど、あのサーカステントにいるとね、たくさんの幸せな気持ちと、嬉しさ、楽しさを感じるの」
 それらの感情を包み込む、大きな感謝の気持ちがイメージとして頭の中に流れ込んできたことを、ニノンは思い出していた。そして、それと同じくらい膨らんだ不安な気持ちも。たくさんの夢と希望を吸い込んだテントの中に渦巻く感情は様々で、もはや誰の思いだったのかニノンには分からなかった。
「でもね、一番に浮かんだイメージははっきりしているの。ゾラさんの『ついて来てくれてありがとう』って気持ちだよ。ウィグルさんに対するね」
 熱弁をふるうニノンを見て、ウィグルは笑った。
「新しいなぐさめ方か? 面白いな、お前。もう一度言っておくが、俺は別に落ち込んでるわけじゃねぇよ。――分かったらさっさと行くぞ」
「あ、待ってよ」
 夕日を背にさっさと歩きだしてしまったウィグルを、ニノンは小走りで追いかけた。そして、いつかこの男が父親の気持ちを信じられる日がくれば良いな、と願うのだった。


     3


「えっ、お前マロンビール飲んだことねぇの?」
 ヒゲのように白い泡をつけたアダムは素っ頓狂な声をあげた。向かいの席に座るルカは、少し不服そうに頷いた。
 十六歳以下はお酒を飲んではいけない、という法律の年齢が引き下げられて数十年。今や十三歳を過ぎれば誰でも酒を飲むことができる。コルシカ島が特別そうだということではない。おおよそどの国においても言えることで、それは就学期間を早期にシフトさせることにより、効率的に労働人材を増やそうという社会の動きによるものだった。大抵の子どもたちは十三歳で修学を終え、働くのだ。
「こんなに美味いモンを知らずに生きてるとは……二年無駄にしたな、ルカ」
 マロンビールは後味に甘みがふんわりと広がる、苦みの少ない飲みやすいお酒だ。コルシカ島は栗の宝庫であり、栗の粉を使ったパンが主食なのは当たり前、デザートにも栗のクッキーやケーキが出され、羊や豚などの家畜たちはその辺に落ちている栗を気兼ねなく食んで育つ。そんな島で作られるビールもまた例にもれず、栗を使って作られるのだ。
 にんまり笑うアダムを無視して、ルカはしゅわしゅわと発砲するビールを一気にあおった。
「……にがい」
「ばっかだなぁ」口元の泡をぺろりと舐めてアダムは笑った。「こういうのは喉で美味さを感じるんだよ、喉で」

 今夜は雑用係の歓迎会だ。ニコラスの何気ない思いつきで、急きょ行きつけのバールにて開かれることとなったのだ。
 アジャクシオのメインストリートにはレストランやバールも多く並ぶ。路上にはカラフルなクロスが掛けられたテーブルが置かれ、陽気なウェイトレスが道行く人々を迎え入れるためニコニコと笑顔を作っていた。
 とっぷりと日も暮れた頃、家族連れで賑わっていた大通りは夜の街へと姿を変える。ほろ酔い気分の大人たちが鼻歌まじりに石畳を闊歩かっぽし、手をつないだ男女は熱い視線を交わしながら薄暗い路地へと消えていった。
 そんな中、二人掛けのテーブルを横長にくっつけた即席のパーティーテーブルを、アルカンシェルの面々は窮屈そうに囲んでいた。
「どうして私だけ違う飲み物なの! 信じられない!」
 一人だけオレンジジュースを手渡され癇癪を起こす小さな少女を、ルーグはいつもの手順でなだめすかした。マロンビールを一瓶あけて、ほろ酔い気分で頬をほってりさせたアダムは、
「そんなに泣いたら明日の朝おめめがりんごみたいになるぞ。せっかく可愛い顔してんだからさ」
 と、朗らかに笑いかけた。
 すると、シュシュは巨木のような首元にうずめていた顔を上げ、泣きはらした目できっとアダムを睨んだ。
「同情なんていらないんだから、このスケコマシ!」
 突然の反撃に目を瞬かせることしかできないアダムに、ルーグが無言でぺこりと頭を下げた。彼らのやり取りを聞きながらどっと湧くニコラスたちから離れた席で、ウィグルは「マセガキ」と、ぽつりと呟いた。
「スケコマシがマセガキなの?」
「また質問かよ」
 ニノンのちぐはぐな質問にウィグルはに、と笑みを作った。
「スケコマシはプレイボーイって意味だ。マセガキはそんな言葉を使うガキのこと」
「なるほど。ちょっとかしこくなった!」
「そりゃ良かったな」
「……あの、二人はいつからそんなに仲良く?」
 まるで兄弟のように仲睦まじいやり取りが、ルカには不思議に思えてならなかった。しかも一方は暴れ猪とか狂犬などと称された、一見恐そうな人物なだけになおさらである。そんな考えが表情に出ていたのか、ウィグルの向かいに座るハビエルがふふ、と笑いをもらした。
「恐い人ってイメージあるよね。分かる分かる。質問なんかしたら胸ぐら掴まれそうとか」
「口答えしたら、メリケンサックで鼻の骨折られそうとか」
「おいコラ」
「実は腹に見せられないような傷跡があったりして」
「ハビ、てめぇ」
 ハビエルは笑いを堪えながら、ごめんごめんと両手を合わせて謝るしぐさをした。
「でも見た目と違って小動物が好きでさ。僕たちが宿泊しているホテルに黒猫が住み着いてるんだけど、わざわざ餌付け用のフードまで買うんだよ。昨日なんかカバブサンドをあげてたみたいだし」
「全部言うなっつの」
「良いじゃん、悪いことじゃないし」
 あのカバブサンドのゴミは黒猫にあげた後のものだったのか。と、一人合点しているニノンに、ルカはこっそりと耳打ちした。
「ウィグルさんから何か話を聞いたりした?」
「うん。お父さんは病気で亡くなっちゃったんだって。それから自分はバカだって言ってた」
 ニノンの記憶のようなちぐはぐな情報を聞きながら、ルカはちらりと目線を前方に向けた。二人は既に別の話題に興じており、ビールをあおりながら笑っていた。
「絵画のことは?」
「聞けるタイミングがなくて、まだ……」
 そうか、とルカは頷いてみせた。そして今一度目の前の席に座る男を見つめた。骨付きのチキンにかぶりついているウィグルは、アルコールが効いているのか頬が上気している。この雰囲気なら、すんなりと情報を吐く可能性は高いはずだ。ルカは泡の消えかかったマロンビールをぐび、と流し込んだ。相変わらず苦い。空になったグラスを机に置き、絵画について問いただそうと口を開いた、その時だった。
「おい、ニコラス」
 ウィグルの一言に、一同がしんと静まり返った。先ほどの陽気な雰囲気とはうってかわった、どすの利いた低い声。研ぎ澄まされたナイフのように鋭い目線を、対角線上に座る男に突き刺している。
「団長、でしょう。ウィグル」
 ヴィヴィアンが優しく諭す。隣ではグリエルモが、緊迫した空気に耐え切れずごくりと生唾を呑みこんだ。
「全部聞こえてンだよ。俺はそんな馬鹿げた無償席作るなんて、断固反対だからな」
「ウィグルさん……無償席って?」
 今にも暴れ出しそうな形相の男に果敢に立ち向かう少女を、アダムは「どうか喰い殺されませんように」と固唾をのんで見守った。彼は未だにウィグルのことを血も涙もない冷徹な鬼だと勘違いしているのだ。
「浮浪児の為の席だよ。高い金払って観に来てる客の隣には無償の席もある。そんな不満の種をまくような行為、普通に考えてありえないだろ? ところがコイツは日中にアジャクシオの旧市街地にいるガキどもに無償のチケットを配ってまわってやがる。頭がイカれてるんだ」
「ウィグル、少し落ち着きなさいな」
 ヴィヴィアンの言葉を遮って、ウィグルは声を荒げながら叫んだ。
「毎日毎日、何のために鍛えてると思ってんだ? 一体何のために命を懸けてる? 俺たちはボランティア団体じゃねぇ。金稼がなきゃ死んじまうんだぞ!」
 ウィグルの中で怒りの感情がふつふつと煮えたぎり、体を巡る血流を加速させる。
「私たちが命を懸けてステージをこなすのは、観客に夢と感動を与えるためよ。そしてそれらを今最も必要としているのは、将来を担う子どもたち――これは私個人の意見じゃない。アンタの父親、ゾラさんの遺言さ」
「だったら証拠を見せろよ!」
 ダン、とテーブルに手をついてウィグルは勢いよく立ちあがった。あまりの振動に驚いたグリエルモが、思わず席から転げ落ちた。
「毎回親父の遺言だって大ホラ吹いて、本当は全部アンタの戯言なんだろ? 結局、同じ境遇のガキどもに同情してるだけなんだよ。アンタは俺の親父に拾われたからまだ良いが、この街のガキは違うもんな。かわいそうだもんな」
「ちょっと、いい加減にしなさいよ!」
 と、シュシュは喚きたてたが、もうそんな言葉では変えることができない程に、空気が熱を持ってしまっていた。ニコラスは何も答えない。冷え切った鉄のかたまりのような眼差しを、逸らすことなく男に向けるだけだった。
「アンタの掲げているものはただの『偽善』だ。そんなものに囚われて大切な仲間のホームをぶっ壊す奴のことを、俺は絶対『団長』とは認めねぇ」
 そう一気にまくし立てると、ウィグルは店のテラスから飛び出し、闇夜のストリートへと消えていった。
 再び静けさを取り戻したテラスには、まだ熱のこもった空気が充満していた。それらをかき分けるようにしてハビエルはおずおずと席を立つと「僕……行ってきますね」と言い残し、後を追ってストリートに消えた。

 限りなく引き延ばされた気まずい空気がちくちくと肌を刺した。どうにも居心地が悪くて、アダムは二人が走り去った暗闇を意味もなく見つめた。しかしそこにはただブラックホールのように闇が広がるだけだった。
「ハ、ハビさんって、本当に人が良いよな。まるでお世話係の人みてぇだ、はは」
 口調が明るくなりすぎて、逆に不自然になった。それを気にする風でもなく、オレンジジュースをぐびぐびと飲み干してから、シュシュは相づちをうった。
「だって二人は大切な相棒だもん」
「相棒?」
 シュシュはチーズのたっぷりつまったキッシュに手を付けながら「知らなかったっけ?」と、首をかしげた。
「プログラムの最大の見せ場、エンディングを飾るとっても大事な技『空中ブランコ』を担当してるのヨ」
 そう言えば朝礼の時、ニコラスが何かを言いかけていたなぁとアダムは今朝の出来事を思い返していた。空中ブランコのことだったのか。しかし、あの時どうしてウィグルは不機嫌になったのだろう。
「ゾラさんが亡くなる前に、あいつったら大喧嘩しちゃったの。今までちょっとした喧嘩は絶えなかったけど、あれは凄かったなァ。百年ためて爆発した火山みたいな勢いだった。――話の続き、聞きたい?」
「うん。聞きたい、教えて」
 ニノンが急かす。シュシュはふふん、と得意げな顔をして続けた。
「昔っから怠けぐせが絶えない奴だったんだけどネ。とうとうそれがたたって、本番一ヶ月前を切ったってのに通し練習の時にミスして、ハビをブランコから落っことしちゃったの!」
「ええ! ハビさん、大丈夫だったの?」
 今度はぶどうジュースに口をつけながら、シュシュは焦るニノンを制した。
「練習だから当然下にマットは引いてるわヨ。でも本番だったら命取りになってたでしょうね。もうそれでゾラ親子は大喧嘩。それで、仲直りしないうちにゾラさんは――」
 そこでシュシュは一旦言葉を区切った。三人が耳をそば立てて話の続きを待つ。もう誰も料理に手を付けようとはしなかった。
「きっと次の団長は俺だ! って思ってたんじゃないの? インガオウホウよ。結局はアイツの八つ当たりなのよネー」
 鼻高々に語るシュシュを、ルーグは軽々と担ぎ上げた。
「少し喋りすぎだぞ」
「ムゥ。……ごめんなさい」
 ニノンはもう一度暗がりに目をやった。そして、夕暮れの中でウィグルと話した光景を思い浮かべた。父親に嫌われていると言った彼の言葉に嘘偽りの気持ちはなかった。それが解けることのなかったわだかまりによるものであれば、打てる手立てもあるはずだ。テントの中で感じた、父親が息子を思う感情もまた、本物なのだから。


第三話 サーカステントの亡霊


     1


 規則正しく並ぶ外灯のたもとを、夜空に星が無いことにも気づかないぐらい、ハビエルは足早に進んだ。
 ずっと一緒に鍛えてきたパートナーのことを、ハビエルは誰よりも分かっているつもりだった。失敗したことを誰よりも悔しく思っているのはウィグル自身だと、ちゃんと理解していた。だから彼がミスを犯した時、ハビエルは別段怒ったりしなかったのだ。
 そこから二人は一度も空中ブランコを成功させていない。
 単なるトラウマなのか、それともスランプなのかは誰にも分からない。しかし、あの日を境に、二人を隔てる薄いプラスチックの膜のようなものが現れたことに、ハビエルは薄々感づいていた。それは日を追うごとに分厚くなって、いつかきっと破ることができずにそのまま壁となり、一生空中ブランコが跳べなくなるのではないか――という不安を抱かせるようになった。
 ハビエルは夜の石畳を駆けはじめた。焦りが体を動かしていた。
「ちょいとそこのお兄さん」
 あと二つ先の通りを右に折れればホテルに辿り着く、という時だった。急ぐハビエルに、ふいにしゃがれた老婆の声が掛けられた。
「あんたさん……大変な苦労の相が出ているよぉ」
 老婆は黒いローブで全身を覆い隠しており、薄汚れた木箱を机代わりに路上に座り込んでいた。
「おばあちゃん、僕急いでるんだ。それに占いはあんまり信じない方だから。ごめんね」
 ポケットをまさぐり取り出した金貨を一枚老婆に手渡そうとした時、ローブからぬっと出てきたしわだらけの手がその手首をつかみ取った。驚くハビエルを尻目に、老婆は外灯の明かりを頼りにして大きな手のひらをまじまじと見つめては「ほぉ」やら「ははぁ」などと独り言をもらした。
「おばあちゃん……チップならあげるから。放してくれないかな」
「最近、近しい者が死んだね」
「え?」
 老婆は干した柿のような顔をひしゃげさせ、にやりと笑った。
「未練を残して死んじまったのかねぇ。生前の記憶もほとんどなくして、地上に縛りついておる。それの臭いがあんたさんからぷんぷんするよ」
「そ、それって――」
「多分、良くないことが起こるよ。近々ね……」
 老婆はヒヒヒ、と気味の悪い上擦った笑い声をあげた。そして、顔色の優れない男の顔に人差し指をつきたて言い放った。
「死者と一番近しかった者がいるね。そいつが持ってる――あれは何だろうねぇ、何か四角いモノ、に憑りついているようだねぇ。不思議な鍵のついた不吉な箱さ。もしも見つけたら、手放した方が身のためだと思うよ。自分の命が惜しけりゃね……」
 再び気味の悪い笑い声をあげると老婆は金貨をぶんどって、顔まですっぽりと黒いローブを被ってしまった。ハビエルは後味の悪い表情を浮かべたまま、ホテルへと向かった。老婆の単なる血迷い事だと頭をぶんぶん振ってみても、予言とも取れる不吉な言葉が彼の頭を離れることはなかった。


「相変わらずばーちゃんのマネ、上手だねー。気持っち悪い笑い声。ヒャヒャヒャ!」
「……ペストにだけは言われたくない」
 ローブをぐるぐる巻きにしたまま路地裏に駆け込んだ老婆を出迎えたのは、鼻が顎よりも下に伸びたカラスのような仮面をつけた、ペストの不気味な笑い声だった。不満そうにつぶやく声は先ほどのしゃがれた老婆ではなく、凛とした少女の声だった。
「オペラの変装にはいつも感心する。コイツとは比べ物にならない」
 路地裏の影に佇んでいたもう一人の仮面の男がペストを指差して言った。オペラと呼ばれた老婆は、手を顎の下にかけるとそのままぐ、と力を込めて『老婆の顔』を剥がした。そして、白地に黒の模様と、真っ赤なルージュが加えられた仮面ですっぽりと顔を覆い隠すと二人の仮面の群れに合流した。
「……ボルトに褒められるのは嬉しい」
「そうか。今回の作戦が成功すれば、うんと褒めてやる」
「ねぇ、僕にも褒めてほしい? 褒めてほしい?」
「……ペストは別にいらない」
 ボルトは仮面の奥からくつくつと笑い声をもらすと、黒いマントを翻して路地の奥へと歩き出した。後を追う二つの仮面も暗闇に紛れずにぼうっと浮かび上がり、まるで亡霊のように闇夜に揺れていた。


     2


 事件が発覚したのは翌朝のことだった。ルカたちが身支度を整えてテントへやって来ると、中では既に騒々しいアコーディオンの音がジャカジャカと鳴り響いていた。「どうしよう、どうしよう」と言っているみたいだった。
 グリエルモの他には、深刻そうな面持ちで腕を組んだままつっ立っているニコラスや、昨夜の癇癪がたたって腫れぼったい目をしたシュシュと、彼女を荷物のように担ぐルーグの姿があった。
「何かあったんスか?」
 おそるおそる尋ねる。反応の鈍い彼らの様子を伺うと、まるでお通夜の参列者のような顔をしていたのでアダムはぎょっとした。
「サーカスで使う大事な機材が壊れたのよ」
「大事な機材?」
 それは入り口から入って間もない、観客席最後列のすぐ後ろにあった。ルカたちはルーグの大きな体とニコラスの間に割って入ると、その惨劇を目の当たりにしてひっそりと息を呑んだ。ぐしゃぐしゃの状態で床に散乱している、大きなレンズ付きの長方形をした装置。プラスチックでできた箱はひび割れ、ガラスの破片が辺りに飛び散り、中にしまわれているはずのメカニックな基盤はあらわになってしまっている。
「ひでぇな……」
「経年劣化なのか、取り付けが甘かったのか、それとも誰かのいたずらか」
 ニコラスは入り口の真上にある骨組みを指差した。
「機材を乗っけてた土台ごと落っこちたみたいでね。根元のボルトが外れてたのさ」
 額を手で押さえると、ニコラスは長い長いため息をついた。お通夜が終わり、いよいよお葬式が始まってしまったみたいに、空気はどんどん重くなっていく。
「おはよう……って、あらあら皆集まって。どうかしたの?」
 程なくしてやって来た他のメンバーも、入り口付近の悲惨な状態を見るや否や一様に顔を青ざめさせた。破損した機材を囲む顔々の全てから、この世の終わりを目の当たりにしたかのような空気が放出されている。
「何に使うものだったの?」
 ずっしりとした空気をふり払い、二ノンは思いきって尋ねた。
「昨日アダム君には話したんだけれど、これは真っ白いバックカーテンに映像を投影する装置なのよ」
 アルカンシェルのパフォーマンスはいちサーカスとしては申し分のないレベルを誇っている。
 しかし、彼らの人気を支えているのはそれだけではない。綿密に練られた脚本と、それに沿うように繰り広げられるパフォーマンス。各々が何役もこなす魂の吹き込まれたキャラクター。観るものを不思議な世界へ誘う極彩色の衣装。独特な世界観を大いに盛り上げる壮大な音楽と、そんな世界に相応しいめくるめく美しい背景。それらの織り成す一つの物語は、サーカスやあるいはショーの域を超え、もはや『芸術だ』と言う者があとを絶たないのだ。
「代用とかじゃ駄目なんですか? 今から、例えば、頑張って紙かなんかで背景を作るとか」
 アダムの提案に、彼女は黒い髪を揺らすだけだった。
「私たちのサーカスにはどれか一つでも欠けてしまってはならないの。仮にもプロだもの。未完成の作品をお客様にお見せするなんてねぇ」
 ヴィヴィアンの憂える言葉に、ルカは静かに耳を傾けていた。幾度となく美術品を修復してきたルカにはその気持ちが十分理解できた。
 まだルカが学校に通っていた頃のことだ。とある抽象画が高いAEPに還元されたことが話題となり、芸術家の間で抽象画がブームになった時期があった。AEP還元には法則性があるのではないか、とまことしやかに囁かれ始めた頃だったからだ。
 舞い込む修復依頼も抽象画ばかりだった。しかも、頼み込んでくるのは絵画で一攫千金を狙う『芸術家まがい』――昔の芸術家たちに敬意をはらって、光太郎はたまに皮肉を込めて現代の芸術家をそう呼んだ――ばかりだった。中には抽象画を幼児でも描けるものと考える人間もいる。しかし、修復を進めるとそうでないことが分かってくる。芸術とは何重にも計算を重ね、試行錯誤を繰り返し、定められた運命のように色や形が決まるものなのだ。はっきりとした意志を持って。伝えたい思いや、忘れたくない気持ちをキャンバスに託して。
 だから、何か一つでも欠けてしまってはならないのだという気持ちが、ルカにはよく理解できる。
「……ゾラさん」
 先ほどから無言で立ちすくんでいたハビエルがふいに漏らした独り言は、あまりにも小さかったので誰の耳にも届かなかった。その顔は青白く血の気がない。今にも倒れそうなんじゃないかとウィグルは心配になった。
「ハビ、顔色が悪いぞ」
「うん……。数日後の、公演のことを考えてた」
 血の通っていない顔を上げて、光の届かないテントの高い所を見上げた。
「ちゃんと開催できるのか、ってことを」
 ハビエルの言葉は静まり返ったテント内に響き渡り、今度こそ皆の耳に届いた。言葉を続ける者はいなかった。皆一様に口を噤み考えていた。――公演を中止にするか、続行するか。
 虹のサーカス団発足以来、一度として公演を中止したことなど無かった。どんなトラブルも一丸となって全て解決してきたのだ。
 ニコラスはかつての師匠の姿を祈るように思い返した。彼はメンバーを心の底から奮い立たせる術を知っていた。空気が重たくなった時はいつだって、まるで未来を見通す力を持っているみたいに「心配するな。全て上手くいく」と、魔法の呪文のように唱えてみせた。
――今の私にそんなことができるとでも言うのですか。ゾラさん。
 黙祷のように長い沈黙を破ったのはハビエルだった。
「僕は、中止にした方が良いと思う」
「もそう思いますわ。機材だけの問題じゃあないの。今回ばかりは……バラバラ、、、、なんですもの」
 切断された布の先端から繊維がほころぶように、ひとつに束ねられていた心は支柱が無くなればあっさりとバラバラになってしまう。人間は大抵が弱い生き物だ。親しき人の『死』を知るということ――どれだけ鍛えた肉体を持とうとも、その衝撃を和らげることは難しい。そしてそれはいつだって、一瞬の隙をついて人の心を蝕んでいく。
「いや――公演は予定通り行うわ」
 再び沈みかけた空気は、ニコラスの研ぎ澄まされた声によって一掃された。
「団長、それ本気? ……機材はどうするのヨ?」
「無理はしない方が良いと思いますわ」
「アンタらの言ってることはただの泣き言だよ。ゾラさんがいなけりゃ何もできないサーカス団だったのかい? そんなの、あの人は望んでないはずさ」
 最後の一言は自分自身に言い聞かせた。無理にでも奮い立たせないと、心が闇に引きずり込まれてしまいそうだった。
「だったら、機材のことは俺ら雑用係に任せてくれよ」
「俺『ら』?」
 突如自信満々に宣言したアダムに、ルカはいぶかしげな顔をした。
「任せてって言われてもね。それはゾラさんが所有してた機械で、どこで手に入れたかも分からない。代用品なんか売ってるわけもない。なにしろメカを扱うお店なんてそうそう無いからね、この時代じゃあ」
「大丈夫だよ。アテ、、がある」
「アテだって?」
「……あ。そうだ。いるいる、メカに詳しい人!」
 めぼしい人物を思い出したニノンは、アダムと視線を交わしてニッと笑った。この人たちなんで色んなことに首突っ込みたがるんだろう――ルカはそんな二人の様子を他人事のように眺めていた。
「ってことで、機材のことは俺たちに任せて、アルカンシェルの皆さんは練習に専念してください。何てったって俺たち、プロの『修復家』ですから」
 調子に乗って勝手に修復家を名乗りだすアダムを、ルカは思いきりひじで小突いてやった。


「……で、僕がここに呼ばれたと。それは分かります。分かるんですが、アダムさん」
「なんだよ、眼鏡」
「そ、その拳は一体なんですか? 僕に殴りかかろうとしてるようにしか見えないんですが」
 まぶしい笑顔に似つかわしくない拳を振りかざしてにじり寄ってくるアダムに「僕たち、友達ですよね」とロロは念を押した。すぐさま「ったりめーだろ」と全く信用できない返事が飛んでくる。
「出会ったその日にゃ友達だ。明日も明後日もその次の日もな。で、今頼んだ修理の件だけど」
 言うや否や、白けた顔でつっ立っていたルカの首に手をまわして側まで引き寄せ、頬にうっすらと残った青あざを見せつけるように、ロロの顔へと近づけた。
無料タダで頼むよ、親友!」
「そ――それ、僕、絶対断れないやつじゃないですか!」
「その通りだ。てめぇは俺らには逆らえねぇ」
「く、あなたって人は悪魔ですね。修理ったって、部品とか結構高いんですから」
「悪魔じゃない。修道士だ」
「余計タチ悪いですよ!」
「うんうん、分かるよ。すっごく分かる。この人サイテーな修道士だよねぇ。でもね、今回ばっかりはロロの力が必要なの。ぜひ私たちに手を貸してくれないかな?」
 語尾に「無料で」と付け加えたニノンの言葉は聞こえなかったらしい。ロロは唇を尖らせながらしぶしぶといった形で了承した。
「で、どれですか。その問題の機材というのは」
「これだよ。想像以上にバッキバキだけど、直せそうか?」
 そう言ってアダムは機材にかけられていた布を取り払った。その途端、不機嫌そうな顔をしていたロロは驚きの声をあげて床に這いつくばった。ポケットから取り出した小型のライトを焦る手つきで点灯させ、無残な姿の機械を隅々まで照らしだす。
「やっぱ無理か。上から落ちちゃったからな」
「いや――大丈夫です。直りますよ。むしろぜひ修理させていただきたいです」
 その声は喜びにうち震えていた。同じく震える右手で眼鏡をくいと持ち上げると、ロロは立ち上がってアダムの手を取り力の限り握手をした。「いってぇ」と叫ぶアダムの手を放し、ニノン、ルカと順々に握手を交わしながら、ロロは鼻息を荒くした。
「どうしてここにこんなものが? いや、そんなことはどうでも良いか。地上にまだあの人の製造物が残ってること自体が奇跡なんだし。まぁ型番が相当古いから、きっと昔から使ってたなごりなのかな。でもそれも十分凄いことですよ。ああ、こんなことが起こるなんて、まるで夢みたい!」
「落ち着けよロロ。ぶつぶつ独りごと言って、気味悪ぃぞ」
 心の内に煮えたぎる歓喜の感情を噛みしめていたロロは、ハッと我に返ると恥ずかしげに頭を下げた。ここはあまり照明も当たらず日中でも薄暗い。だけど、そわそわと揺れ動く体を見ると、彼が今どんな表情をしているのかが手に取るように分かる。
 ロロはもぞもぞと身じろぎした後、こほん、と小さく咳払いした。
「この機械の製造者は、僕のお師匠だった人の父です。時代の闇に葬られた――偉大なエンジニアでした」
 ロロは再びしゃがみ込むと、床に散らばった部品を丁寧に拾いはじめた。ステージ上から、心の軸を優しく揺するコントラバスの音色流れてくる。足で器用につままれたバチで弾かれたバスドラムの音と共に、ルーグがシュシュを天井に届きそうなほど高くまで放り投げる。パフォーマンスに合わせてくるくると回転するスポットライトが一瞬、観客席の奥の方までを照らし出した。
 ロロの瞳は機械を通してどこか違う場所を映していた。遥か遠くの、ここではないどこか。もう会えない誰か。ルカはそういった瞳を以前にも見たことがあった。父親が時折見せる眼差しと同じだった。
「どれくらいの時間を費やすれば、人は悲しみを超えられるのかな」
 グリエルモが忙しなく二股帽子を揺らしながら打ち鳴らしたシンバルの音で、ルカの言葉はかき消された。
「あ? なんか言ったか?」
「――いや、人って、ずっと一緒にいればいやでも多少感化されちゃうんだなって驚いてた」
「え、ルカ、驚いた顔してた? 私にはぼーっとしてるようにしか見えなかったんだけど」
「確かに」とアダムは噴き出した。つられてルカも笑う。
 少しお人よし気分が移ってしまったのかもしれないな、なんて思いながらルカはテントを見渡した。数日後に完成するはずだった芸術を修復するためには多くの力が必要になる。だったら自分の出来ることを、その修復の一端を担ってみよう。
 絵画修復家の少年の心に少しずつ、焔が灯りはじめていた。


     3


 機材の修理に希望が見えたところで、三人は今回の本業の掃除――もとい絵画の捜索活動を再開することにした。床上浸水の被害を拡大させまいとアダムがモップのしぼり方を教えてやったので、ニノンの手に握られているモップから水が滴り落ちることはもう無い。
 開演まで残るところ数日となった今、日中の練習時間は貴重だ。相談した結果、ウィグルには練習時間外に話を聞くことにして、今はなるべく自分たちで手がかりを見つけよう、ということになった。彼らの拠点はメインテントと倉庫テントの二つしかない。ざっと見て回っても一日もかからないだろうとふんだのだ。
「探すって言ってもな。何か手がかりはあるのか?」
 手を首の後ろに回してアダムは倉庫テントをぐるりと見渡した。懸命に掃除をしたおかげで少しは小奇麗になったけれど、やはりどこか埃っぽい。
「一つ目の絵画は、厳重にロックされた扉の向こうにあった」
 ルカは右手の薬指にはめられた指輪をかざしてみせた。ゆらめくランプに照らされて、ベルナールの紋様を作り出すわずかな溝に影が落ちる。
「この指輪が鍵になってるんだ。多分、二枚目も同じように厳重に管理されてると思う」
「そうだけどさ。あの時みたいに地下室があるって訳でもないだろ。とりあえず、それっぽい鍵つきの箱か何かを探せば良いんだな」
「一概には言えないけど……」
 ルカが言いかけた時、カサカサ、とテントの奥で何かの物音がした。三人は口を噤んで音のした辺りをじっと見つめる。倉庫に備え付けられているランプは相変わらずぼやけたようにしか発光しないので、物陰になっているところは暗く、何が潜んでいるのか分からない。
 もしかしてこの世の者ではない何かかも――そんな恐ろしい可能性に、ニノンはルカの袖をぎゅっと引っ張った。一方アダムは首だけを回して「絶対ヤツだ。復讐しにきたんだ」と口をぱくぱくさせた。
「…………」
 まるで両腕に重りを吊るしてトレーニングに勤しむアスリートのように、ルカはずるずるとぶら下がる二人を引きずって物陰に近付いた。
「ハビさん。こんなところで何してるんですか」
 積み上げられた木箱の裏で、ハビエルが身を屈めて隠れていた。「なんだぁ、ハビさんか」と安堵のため息をもらす二人に苦笑いを向けると、膝をついて立ち上がった。
「君たち、一体何者なんだ?」
 一転してハビエルの表情が険しくなった。今朝ほどではないが、まだ血の気の悪い顔色をしている。
「な、何者って。俺たちただの雑用係っすよ」
「鍵の付いた箱のこと、君たちも何か知っているのか?」
「え? 君たち『も』って……」
 ハビエルはきまりが悪そうにがしがしと頭をかいた。そして、放置されていたペール缶に静かに腰を下ろすと、重々しく口を開いた。
「昨夜、大通りであやしいおばあさんに会ったんだ」
 近いうちに災いが起こること、ゾラの霊が行き場を失くしてさまよっていること、それが謎の箱に憑りついていること。「最初はただの物乞いで、でたらめを言ってると思っていた」とハビエルは言った。しかし翌朝のトラブルがどうにも引っかかっているという。
「あの辺を組み立てたのは僕なんだ。枠組みとして使用する部品はちゃんと確認してから使ってる。だからボルトの経年劣化はあり得ない。組み付けも……僕自身はしっかりやったと思ってるんだ」
「それでゾラさんの亡霊が憑りついてる鍵付きの箱を探してたんだ」
「そんな話を鵜呑みにするなんて馬鹿げてるって自分でも思う。だけど君たちも同じような話をしてたから、もしかしたらと思ったんだ。路上でおばあさんに会ったのか?」
「あー、ええと。おばあさんには会ってないんだけど」
「じゃあどうして箱のことを?」
「それは……」
 三人は目くばせした。そして、言葉なく頷きあうと、ハビエルに今までの経緯について洗いざらい話すことにした。


「とりあえず、僕たちの目的は一致していると考えていいんだね」
「絵画が鍵の付いた箱に入ってるならば、です」
 ハビエルは頷き、立ち上がった。顎に手を添え辺りをうろうろすると、背が高いので吊るされたランプに頭が当たりそうになる。フードの紐先をいじっていた手を止めて、ニノンはハビエルを見上げた。
「手分けしようよ。ハビさんは、ウィグルさんに話を聞く担当ね」
「ウィグルにはもう聞いたさ。これが『知らない』の一点張り」
 ハビエルは肩をすくめてお手上げのポーズをしてみせた。
「でもそれは多分嘘だ。あいつ、きっと何かを隠してる」
「どうして分かるの?」
「分かるよ。ずっと一緒に組んできたからね。それにウィグルは単純だから嘘が下手くそなんだ」
 そう言ってハビエルは笑った。できる限りの優しさを精一杯つめ込んで。
「君たちにはテントの中の捜索を任せても良いのかな」
 ニノンは右手の親指を突き立てると、自信満々に自分の胸をトントンと突いてみせた。同タイミングでアダムも同じ仕草をした。するとお互い顔をつき出して、「真似すんな」「真似じゃないもん」とまたしても幼稚な喧嘩が始まった。そこへすかさずルカは右手をつき出す。そして、二人の間を裂くようにその右手でざくざくと空気を切る。幾度となく繰り返されるルーチンワークだ。
「あはは、君たちは面白いね。何だか予定通り公演をスタートできるような気がしてきたよ」
「弱気なこと言ってないで、ハビさんはきっちりウィグルさんと空中ブランコ成功させてくださいよ」
 励ましのつもりかアダムは遠慮なくハビエルの背中をばしんと叩いた。「それが一番の難問かもしれないなぁ」と苦笑いを浮かべながら、ハビエルは三人に見送られて倉庫テントを後にした。

 再び静けさを取り戻したテントは光が少ないからなのか、どこか不気味さが漂う。きっと物乞いの老婆が亡霊などとのたまっただなんて話を聞いたせいだな、とアダムは己に言い聞かせた。気合いを入れるためそそくさと腕まくりをする隣で、ニノンがふいに呟いた。
「何か――感じる」
「ニノン、そういう冗談は言うもんじゃねぇよ。寄ってきちまうだろ。ほら、さっさと探そうぜ」
 顔を青くさせながら、アダムは呆然と立ち尽くすニノンの肩を引っ張った。しかし彼女はある一点から目線を外そうとしない。おそるおそる視線の先に目を向ける。そこにあったのは――
「うわ! ……って、この間の不気味な絵画かよ。まったく、ビビらせんなよな」
 男と女の、横を向いた生首が一体ずつ暗闇にぼうっと浮かんだような構図は、初見でなくとも気味悪さを覚える。ニノンはアダムを振りほどき、引き寄せられるように絵画の前に立った。
「この絵画、何か言おうとしてる。でもイメージにモヤがかかってて、うまく読み取れないの。――何かメッセージが込められてるみたいなんだけど」
 ルカもその不気味な絵画の前に立って生首をじっと見つめた。ニコラスは生前ゾラが大切にしていた絵画だと言っていた。そのことと、探し求めている絵画には何か繋がりがあるのだろうか。
 木箱の上に立てかけられていた絵画をそっと持ち上げ、テーブルへと移した。ぱっと目につくほどに埃をかぶっている。額縁の部分に積もった埃の層を手で払いのけてやった。
「まさかルカ、その気味悪ぃ絵画、修復するとか言うんじゃねぇだろうな?」
「うん。そうだけど」
「やめとけやめとけ。探してる絵画と関係ねぇんだろ? それに頼まれてる訳でもねぇんだし」
「ニコラスさんに許可はもらう」
「良かったね。ルカが治してくれるんだって」
 ニノンは絵画に優しく語りかけた。
「はぁ……ほんと、この修復バカは」
 ほとほと呆れるぜ、とアダムは盛大にため息をついた。
 関係あるか無いかは問題ではない。ルカにとって重要なのは、そこに修復を望む絵画があるかどうかということだけだ。目の前の絵画は今まさに助けを求めている。ならばそれを救うのが修復家の定めであり、修復家と名乗る者のプライドなのだ。


「痛いところはない?」
「団長ってば、大げさなのヨ。ちょっと擦りむいただけなんだから」
 ステージの上でうずくまるシュシュは強気だった。膝が少し擦りむけ血が滲んでいる程度で、大した怪我ではなかった。
「すまない、シュシュ」
「ルーのせいじゃないわ。私のミスだもん」
 普段の練習でも滅多にミスをしない彼らのアクシデントは、メンバーたちに一抹の不安を残していく。
 トランペットのピストンバルブにせっせと注油するグリエルモの脇を通り過ぎ、ハビエルはウィグルの元へやってきた。
「シュシュ、なんだか元気ないね」
「珍しくミスしたから、しおらしく落ち込んでんじゃねぇの」
「そうなのかなぁ。朝から元気がなかったから、もしかしたら体調が悪いのかな」
 さぁな、と空返事をして、ウィグルは右足をめいっぱい伸ばしてストレッチを始めた。それにならってハビエルも屈伸を始める。筋肉を引き伸ばして、深呼吸。目の前で黙々と準備運動をこなす男の様子をチラチラと伺いながら、ハビエルはいつも通りの口調で話しかけた。
「ウィグルはどう思う?」
「なにが」
「その――公演をやるかやらないかって話だよ」
 足の裏側をぴったりと床につけて肺の中の空気を全て吐き出す。まるで服がたたまれるみたいに上半身を足に沿って折り曲げながら、ウィグルは「分からない」とだけ答えた。
「やりたいからやる。やりたくないならやらない。そんな単純なことじゃ駄目なのか? 難しいことは俺には分からん。大人ってのは面倒な生き物だ」
「単純に生きられるのは多分、言葉も知らない赤ん坊くらいだよ。僕たちの人生は自分のものだけじゃないんだから」
 その言葉を耳にして、ストレッチを終えたウィグルがゆっくりと顔をあげた。
「最近、俺、お前のこともよく分からない」
 放り出された言葉はガラスの破片のようだった。目に見えないのに、踏むと皮膚にざりざりと刺さる。そして、体内に入り込んだたくさんの破片は再成型されて、二人の間に隔てられた壁を分厚いものにしていく。
「俺は馬鹿だし、エスパーでもない。だから、言葉からしか気持ちを探し出せない」
「それは僕に対する文句なのか? 悪いけど、ウィグルの言いたいことが分からないよ」
「――悪い。ちょっと外出てくるわ」
「ウィグル!」
小さくなっていく背中を追いかけることはできなかった。胸の内にくすぶる苛立ちをどうすることも出来ずに、ハビエルは床をだん、と蹴りつけた。
「分からないのは僕の方だよ……」
 今回のプログラムでは、ラストのシーンでバックカーテンに大きな虹がかかる。その虹を渡るようにして空中ブランコのパフォーマンスが行われ、プログラムは大団円を迎えるのだ。
 経験は人を大人へと成長させる。しかしその過程で、失敗を減らすためのフィルターが体にどんどんへばりついてがんじがらめになっていく。保身的な考え。危険予知。汚れてしまった角膜では七色のアーチを見つけられない。そうすればもう、二人で宙を飛ぶことはできないだろう。
――僕たちの目ではもう、虹を見つけられないのでしょうか。ゾラさん。
 誰もいないテントの入り口を呆然と眺めながら、ハビエルは心の中で呟いた。


第四話 天架ける虹の橋


     1


 翌朝、まだ大通りが閑散としている時間帯のことだった。昨日にも増して血の気のない顔がステージ前にズラリと並んでいた。空中演技で使用する布製の紐が、ズタズタに裂かれた状態で発見されたのだ。
 幸いなことに紐の予備はあったものの、昨晩の不可解な事件と相まって、朝からテント内の空気はひどく重たかった。
「そんな辛気くさい顔しないでくださいって。機材は何とか直りそうなんだ。開演はできるよ」
 アダムはなるべく明るさを声色に取り入れてそう告げると、観客席の後ろの方で影を潜めていた人物を手招いた。少年はぎこちない足取りで一同の前にやってくると、少しばかり緊張した面持ちで、何度か眼鏡の位置を正した。
「エンジニア見習いのロロと申します」
「はぁ……たまげた。まだエンジニアってのはいるもんなんだね」
 その返答にまごつくロロを見て、ニコラスは慌てて話題をそらした。
「機材が直るってのは本当の話なの?」
 途端に少年の表情につやが戻った。眼鏡の奥で瞳がぎらりと輝いた瞬間をアダムは見逃さなかった。
「ええ、もちろん直ります。むしろあれはとても古い型番でしたから、性能は飛躍的に向上するでしょうね。まずレンズは最新式のものに換えます。ランプは一種類から二種類に変更することで最大一〇〇〇〇ルーメンの高輝度を実現させることが可能です。液晶デバイスは新しい無機素材のものを使用、今より確実に高画質な映像を投影できます。それから冷却装置ですが、フィンからエアポンプに置き換えて――いたたた、何するんですかアダムさん!」
「まぁ、よく分かんなかったと思うけど、要するに『直る』ってことなので」
 ロロの右足を己の足でぐりぐりと踏みにじりながら、アダムは口早に会話を終わらせた。


「さっきのロロ、すごかったね。魔法使いが呪文を唱えてるみたいだった」
 褒めているのかけなしているのか分からないニノンの言葉に照れる少年を尻目に、アダムとルカは床に置かれた機材を覗きこんだ。損害の激しかったケースやレンズは全て取り払われ、人間の頭から脳みそだけを摘出したような状態で、機械の大事な中身の部分だけがきっちりと静置されていた。
「あとは部品が届けばそれを組み立てておしまいです。二日後のリハーサルまでには十分間に合いますよ」
「届く?」
 その時、ピルピルと可愛い電子音が鳴り響いた。ロロは慌ててポケットに手を突っ込み、小さな機械を取り出すと、取り付けられたボタンをプッシュした。
「はいロロで――」
『出るのが、遅い!』
 キイイン、と余韻を残して甲高い男の声が響いた。耳をピストルで撃ち抜かれたような顔をして、ロロは思わず機械を耳から引っぺがした。
『まぬけなお前を三コール分も待つほど俺は暇じゃないぞ』
「はい、ごめんなさい」
『生意気にもこの俺に発注などかけてきた勇気に免じて今回は許してやる。次やったら費用は全てお前の給料から天引きする』
「そんなぁ……。って、待ってくださいジャック、切らないで! 部品はどこに到着するんですか!」
 負けじと声を荒げた瞬間、スピーカーから「一番でかい港だ!」とつんざくような声がとどろいて、そのまま会話は途切れた。
「すっごい怒ってたね」
「ああ。なんつーか、まぁ、頑張れよ」
「ジャックは短気で怒りっぽいんです。いつものことですよ」
 慣れた口調でそう言うと、ロロは慌てて港へと駆けていった。パラシュートに括りつけられた小包みが空中からふわふわと落ちてくるはずだから、騒ぎになる前に回収しないとまた怒られてしまうのだと言う。
 少年の背中を見送っていた三人の耳に、グリエルモの奏でるトランペットの音色が聞こえてきた。アダムはうんと伸びをすると振り返って、さぁ、と気合を入れた。
「俺たちもうかうかしてらんねぇな。捜索再開だ」
「ハビさんお話聞けたかなぁ。ルカはどう? 絵画の修復、進んでる?」
「うん。あと丸一日あれば終わると思う」
「何かあったら手伝うから、いつでも言ってね」
「助かるよ」
 昨日、ニコラスは不気味な絵画を修復することを快諾してくれた。倉庫テントを自由に使っても良いという許しまでもらったので、ルカは早速修復作業に取りかかった。
 キャンバスのサイズが六号と比較的小さいものなので、今回の修復はルカ一人で行うことにした。お馴染みの黒いエプロンをきっちりと身に着けて、お馴染みの埃取りをもくもくとこなしていく。一旦作業がはじまるとその世界に没頭できるのがルカの強みだ。同じ体制で、同じような作業を何時間行ったところで彼の口から「疲れた」の「つ」の字も出てきはしない。そんな職人気質の男を見る度に、アダムはいつも感心する。そして時に羨ましく思ったりもするのだ。「自分にもこんなひたむきさがあったなら」と。
 二人は時折ルカの作業風景を覗きこんだりしながら、なるべく埃をたてないように慎重にテント内を探して回った。しかし出てくるのはやはりショーで使うようなロープや小道具、終わった公演のチラシばかりで、鍵の付いた箱が出てくる気配は一向になかった。
 舞い上がった埃を手で払いのけた時、隅の方でニノンが何かを読みふけっていることに気が付いた。飽きて他事をやっているのかと、眉根を寄せながらアダムはこっそり近づいた。
「なーにさぼってんだよ」
「あ、アダム。こんなもの見つけたよ」
 覗きこむとそれは古びたアルバムだった。ニノンがページをめくると、引っ付いていたフィルムが剥がれるバリバリといった音がした。もう何年もこの倉庫でガラクタの下敷きになり、忘れ去られていたのだろう。
「ヴィヴィアンさん、変わらないなぁ」
 並ぶ写真はどれも色あせたものばかりだ。今と変わらないヴィヴィアンの姿や若かりし頃のルーグ、あどけなさの残るシュシュ。相変わらずべったりとメイクを施した――おそらくグリエルモであろうピエロ。育ち盛りの少年二人はやんちゃな笑顔をカメラに向けて肩を組み、大きくピースサインを掲げている。ページをめくる度に髪色の違うニコラスは、時おりド派手な化粧をしていたりする。そして、メンバーたちの傍らにいるシルクハットの男が、アルカンシェルの創始者、ゾラだろう。
 最後の数ページには幼い子どもの写真がたくさん詰め込まれていた。生まれたばかりの布に包まれた赤ん坊にはじまり、捕まり歩きをしながら無邪気に笑う男の子、大きなカブトムシを掲げて自慢げに笑う少年。傍らには良く似た笑顔の少女もいる。
 ニノンはこの笑顔をよく知っている。ウィグルが時折見せるものと同じだ。
「ウィグルさんは、自分が落ちこぼれだからお父さんに嫌われてるって思ってるみたい。そんなはずないのにね……。どうすれば誤解が解けるんだろう。ゾラさんの気持ちは感じ取れるのに、それをうまく伝えきれなくて」
 悔しいんだ、とニノンは唇をかんだ。あとほんの少しで手が届きそうなのに、それができない。もどかしい気持ちは心の中に積もっていくばかりだ。
「俺にはニノンみたいな力はないけどさ、この写真見てると分かるよ。それがただの誤解だってことくらい」
 アダムはすっくと立ち上がると、ニノンの膝に乗っていたアルバムをばたんと閉じた。勢いが良すぎて埃が宙に舞った。
「俺にだって分かったんだから、きっと伝わるさ。結局は意固地になってるだけなんだよな。だったらちょっと工夫してやればいいんだよ」
「工夫?」
「そ。たまにはココ使わなきゃな」
 そう言ってアダムは人差し指で己の頭をトントンと突いてみせた。

 夜になると大通りはたくさんの明かりに包まれて、人々の熱気や賑わいに包まれる。対してドゴール広場はというと、外灯が少ないので見上げれば夜空にぽつぽつと星の輝きを見つけられた。遠くに人々の笑い声が、反対側からはザァザァという波の音が聞こえてくる。大きく帆をはったテントも近付かなければ見つけられない程暗く、まるで世界から切り離されたように静寂に包まれている。
「アダムたちは先にホテルに戻ってくれてて良いのに」
 トリトンからこっそり拝借したタオルケットを抱え込んでやってきたアダムに、ルカが声をかけた。
「あのホテル、夜中うるさくねぇ? こっちのテントの方がよっぽどグッスリできるぜ」
 どうやらあの宿屋の店主は体内時計が昼夜逆転しているらしい。日中は仕事を放りだして眠りこけているのに、夜中になると、どこからかカンカンカンカンとおかしな物音が聞こえてくる。トリトンが本当にホテルなのか、アダムはまだ疑っていた。それは置いておいて、と彼は続ける。
「今日は見張りをするんだよ」
「見張り?」
「うん。犯人を捕まえるんだ!」
 ニノンがタオルケットを羽織りながら、意気揚々と答えた。
「犯人って、あれは呪いなんじゃなかったっけ」
 無表情な顔で言うルカにタオルケットを投げ渡し、アダムはぶっと吹きだした。
「お前、呪いとか信じるタチだっけか」
「言ってみただけだよ」
 もちろんルカは幽霊だとか呪いだとかのオカルト話は一切信じない人間だ。むしろそういった類を信じる人間が「犯人」などと口にしたので、少しからかってみただけだった。
「目星はついているんですか?」
 自前のエネルギーランタンを点け、床に腰を下ろして作業にふけっていたロロが顔をあげる。アダムは自信たっぷりに首を横に振った。「その自信の持ちようは、もはや才能ですね」と呆れるロロにタオルケットが投げられる。取り損ねたそれが床に落ちて、綺麗に並べられた部品をぐちゃぐちゃにした。
「とにかく、皆が安心してサーカスを開演できるようにしなきゃね。それが雑用係の仕事だもん」

 静寂を取り戻したテントの中で、ルカとロロは機械のように作業を進めた。
 酸化してにごってしまったワニスが取り払われ、画面は鮮やかな色を取り戻した。干ばつに見舞われた大地のようにひび割れていた絵具も充填され元の状態に戻っている。ルカは小瓶を取り出し、その中に詰められた真っ赤な粉を皿にあけた。エンジムシから採れる顔料だ。ニノンと出会った次の日、ルカは彼女を探す途中で偶然にもエンジムシを見つけていたのだ。
 今や希少となったエンジムシの顔料を油で練る。漂うオイルのにおいを嗅ぎながら、ルカはこの絵画を描いた画家のことを思った。そして、それを手元に置き続けたゾラのことを。
 この絵画に隠された謎が、あと一筆描き加えることによって蘇る。
 笑いあう二つの顔の意味。
 そしてタイトルに込められた想い。
「……できた」
 小さなルカの呟きは、ニノンの「誰かきたよ!」という声に被さって消えた。エネルギーランプのスイッチをOFFにして、音をたてないように倉庫テントの入り口カーテンを少しだけ開けた。月明かりに照らされたゴードン広場に人影はない。
「メインテントに入っていった」
 四人は頷きあって、足音を立てずにメインテントに忍び込んだ。中は真っ暗で、人はおろかどこに何があるのかさえ分からない。暗闇に目が慣れるまで待つこともできないので、手探り状態のまま歩きはじめる。
 その時、ロロが観客席の椅子を蹴飛ばして、ガシャンとけたたましい音が鳴った。
「眼鏡、何やってんだよ!」
「すっ、すみません……」
 前方で人の気配がした。犯人はステージの方へ走っていく。裏の非常用出口から逃走を図っているのだろう。ロロはとっさにポケットからライトを取り出すと、スイッチに力を込めた。
「超拡散ハイパーライトです!」
 ロロの叫び声と共に、小さなライトがステージ全体を一気に照らし出す。明るさに目が眩んだ犯人は腕で顔を覆い隠し、観念したのかその場にうずくまった。
「お前が色々いたずらしてた犯人だな」
 黒いマントで何もかもを覆い隠している犯人はぴくりとも動こうとしない。アダムは顔に被さった黒い布に手をかけて、一気にばさりとはぎ取った。
 その瞬間、一同は驚きに目を見張った。そこに居たのが、見知った少女だったからだ。
「どうしてここに? ――シュシュ」


     2


 事故だったのだと、少女は瞳に涙をめいっぱい溜めて言った。
 歓迎会が開かれた夜中のことだった。飲酒ができなかった腹いせに、テーブルに並ぶ料理を端から端まで食べつくしたせいか、胃もたれを起こしたシュシュは中々寝つけずにいた。夜風にあたろうと部屋を出た時、ホテルを抜け出すハビエルとウィグルを見たという。
「なんで二人が?」
「私も気になったから、ちょっと後を追ってみたのヨ」
 辿り着いたのはサーカステントだった。明かりがついてしばらく経った。ほどなくして灯りは消え、二人はテントから出てホテルへと戻って行った。ニコラスに反発しているウィグルが、ハビエルを誘って何か企んでいるのかもしれない――そんな憶測を立てながら入り口に足を踏み入れた時だった。シュシュは何かに足をとられ、けつまづいた。その直後、けたたましい音と共に上から装置が落下してきたと言う。
「それが大切な投影機だって気がついたら、パニックになっちゃって……わざとじゃなかったのよォ……ぅっ」
「分かってるよ。あなたがわざと大切な機械を壊すわけないもん」
 湧きだす泉のように止まらない涙を、ニノンはポケットにしまってあった真っ白なハンカチでふき取ってやる。
「じゃあさ、どうして紐を切ったりしたんだよ。今日だって、何かするつもりだったろ?」
「機械を壊したところ、誰かに見られちゃったの」
 その少女は暗闇と同じ色の真っ黒なローブを羽織っていたという。不気味な仮面をつけていたから顔は分からないが、気配もなく突然現れたので、シュシュは亡霊か何かだと思ったらしい。
「不気味な仮面?」
 ルカがぽつりと呟いた。
「その子に、バラされたくなければ明日の夜中に紐をズタズタにしなさいって言われたの。そして次の日はボールに穴を開けろって……」
「なんでそんな奴の言うことに従ったんだよ。機械は事故だったんだろ? だったら隠すことも――」
「知られたくなかったのよぅ!」
 と叫んで、シュシュはむせび泣いた。
「ゾラさんも死んじゃって、ウィグルと団長は喧嘩したままで、ただでさえサーカスができるか分からない状況なのに、機械を壊しちゃったなんて……ひっく。小さなものを壊していけば、あとは私が幽霊の仕業だって仕立ててあげるって、言われたからァ……うぅ」
 しゃくり上げながら、シュシュはステージの上でうずくまるように土下座をした。
「お願い、このこと、皆には言わないで……私、ルーに嫌われたくないよォ……!」
 その時、ステージの裏から大男がぬっと姿を現した。シュシュが、今この場に最も居てほしくないと願った男、ルーグだ。彼は無表情のままずんずんとステージ上をうずくまる少女の元へと進む。シュシュはまるで息の仕方を忘れたかのように静かに男を見つめた。
「ルーグさん、これは、その。とりあえず話を――」
 アダムの言葉を通り越して、ルーグは張りつめて壊れそうな少女に手を伸ばした。そしてその大きな腕で、優しくシュシュを抱きしめた。
「全て知っていた」
 ルーグはめいっぱいの優しさを込めて頭を撫でると、わずかに口角をあげて微笑んだ。「お前が隠しごとなど、出来たためしがないだろう」
「――ご、ごめんなさい……!」
 シュシュは息を吹き返した。そして温かい腕の中で、壊れたおもちゃのように声をあげて泣いた。ルーグがそれ以上言葉を掛けることはなかった。心が通じ合った二人に、着飾った言葉は必要ない。
「ねぇ、ルカ。不気味な仮面って言ってたよね。それってまさか……」
「ベニスの仮面だ」
 ルカは暗闇を見つめた。やはりどこからか絵画の情報を嗅ぎつけて忍び寄ってきていたのだ。しかし、逆に言えば、どこかに必ず絵画が隠されているということになる。
「ルーグさん。明日の朝、皆さんをここに集めてもらえますか」
「了解した」
 小さな背中をさする手を止めずに、ルーグは頷いた。


 サーカス開演まで残り一日。
「皆さんにご報告があります」と、アダムは一歩前に踏み出して取り仕切った。「投影機が無事直りました!」
 意気揚々と言い切って、自ら拍手をぱちぱちと打つ。ヴィヴィアンやグリエルモも続いてぱらぱらと拍手をした。
「これでなんとか開演できそうね」
 ニコラスは頬に手をあてて安堵のため息をもらした。しかし、テント内の空気は雨降りの日が続いたみたいにしっけて、くすんでいる。良かったわねぇと口々に言い合うのに、その笑顔はどこかぎこちない。ウィグルは笑ってさえいなかった。
「問題は解決したってのに、何でそんなに浮かない顔してんだよ」
 耐え切れなくなったアダムがおもむろに切り出した。答えたのはニコラスだった。
「ただの緊張だよ。色々ハプニングもあったからね」
「そうじゃないですよね」
 ルカがはっきりと言い切る。
「……あんたらに何が分かるって言うの」
 ルカは用意していた絵画をそっと持ち出すと、掛けられていたタオルケットを取り払った。そこには血の通った男女の、笑いあう横顔が二つ。背景は淡い色が何重にもかさなって柔らかい虹色を表していた。ゾラが生涯手放すことなく大切にしていた絵画の蘇った姿は、不気味でもないし、恐ろしくもなかった。
「ここを見てください」
 そう言って、ルカは両手の人差し指で、絵画の二ヶ所をさした。
「〈ファン・ブラック〉――サインが二つ?」
「そうです。片方のサインは劣化により埋もれていました。修復中に見つけたんです。しかもそのサイン、よく見ると向きが逆なんです」
 これがどういう意味だか分かりますか。ルカはそう問いかけるように、一人一人に目線を送った。そして、掲げていた絵画をくるりと反転させた。下に書かれていたサインは逆向きになり、逆向きに書かれていたサインは正常な向きになった。
「これは――」
 ルカはこくりと頷いた。男女だった顔は性別が逆転し、笑顔は悲しみの表情に変わった。嘆き、泣いているようにさえ見える。
「ファン・ブラック――大昔の巨匠が『擬態』というタイトルに込めた願いです」
 イメージが伝わってきた、とニノンが隣で呟いた。絵画からイメージやメッセージを受け取るとき、彼女は神が降りたシャーマンのように空気をがらりと変える。今だってそうだ。少しだけ伏せた瞼の下に覗く瞳は何も映し出していない。少女の身体を介して、ブラックの言葉が口から溢れだす。
「どれだけ笑顔を作ったって、心から笑えないとそれは悲しみが擬態しただけの偽物だよ。人間は、悲しい時にはうんと悲しまなきゃいけない。じゃなきゃ悲しみはしこりとなって心にたまって、いつか心を壊してしまう」
 うんと悲しむ――ヴィヴィアンはニノンの言葉をそっと繰り返した。
「ゾラさんや、ゾラさんのお父さんはこの絵画を違う風に見ていたみたい」
 そう言って、ニノンは虚ろ気な目をしたままルカの掲げていた絵画を再び反転させた。二人の顔に笑顔が戻る。
「どんなに悲しい思いをしている人でも、いつかは笑顔にすることができる。ゾラさんはそういう人になりたくてサーカスを始めたんだよ」
 雨上がりの空に掛かる虹を見つけた。それだけで人は訳もなく幸せになれる。ほんの少しの非日常が、日々の辛い出来事から一瞬でも逃れることができるなら。人間というのは不思議なもので、心に少しでもゆとりができるとこんこんと力がみなぎってくるものだ。
 ゾラはそれを知っていた。だから、自分たちが少しでもそんな存在であればと願って――〈虹のサーカス団〉という名前をつけた。
「ふん。そんなこと言ったって、結局一番身近にいた俺はないがしろだ。細かいことばっか言って、褒めたためしもねぇ。親父の理想のサーカス団に、言うこと聞かない落ちこぼれのクソ息子は邪魔なだけだっただろうなぁ。お望み通り抜けてやるよ、こんなサーカス団!」
「待てよ、ウィグルさん! あんたは親父と本当に向き合ったことがあるのか?」
 出口へと足を向けたウィグルの眉がぴくりと動いた。アダムは呆然としていたニノンの腕を掴むと、投影機の前まで引っ張っていった。ニノンは完全に意識が戻ったようで、ぱちぱちと目を瞬いた。
「言っておくがこれから起こるのは、ちょっとばかり不思議な体験だ。こいつには変な力があって、さっきので分かったと思うけど、絵画に染みついた気持ちを読み取ることができるんだ」
 アダムはニノンの背中をばしんと叩いた。バトンタッチ、という具合に、今度はニノンが喋りだす。
「今回は絵画だけじゃないの。このテントからたくさんの感情が伝わってくる。例えば、ゾラさんとか」
 一瞬周囲がざわめいた。すかさず冗談めいた口調でハビエルが口をはさむ。
「そんな映画みたいな話があるならぜひ聞いてみたいけどな」
「嘘じゃないって皆に信じてもらいたい。だから――ステージにゾラさんの気持ちを映し出すよ」
「そんなことできるはずが――」
 ハビエルが言いかけた時、テント内の照明が全て落ちた。ニノンは叫ぶ。「今から読み取ったイメージを、投影機を通して現すから」と。ロロが投影機のスイッチをONにする。一筋の光が白いカーテンを明るく照らし出した。
「あ……これは…………」
 ルーグに抱きかかえられていたシュシュが呟いた。その隣でヴィヴィアンは小さく息を呑んだ。
 ステージの壁いっぱいに広がっては消えていく、メンバーの姿。まだつぎはぎだらけで日の光が透けるほどちんけなテントでショーを開いていた日々。必死になって練習したメンバーたちの顔。雪の積もった日に作った大きな雪だるまと並ぶピエロや、些細なことで喧嘩をしている最中の親子。初めて大きな街でサーカスを成功させた時の、ステージ上に並ぶ誇らしげな顔。夏の夜皆でたき火を囲って語り合う姿。
 そのどれもが溢れんばかりの笑顔を称えていた。心から幸せだと分かる笑顔。同じ時を過ごし、血を超えた繋がりを持った人間たち。そして彼らを見守ってきたゾラの、走馬灯とも言える記憶の欠片。
「ずっと一緒に過ごしてきた人がいなくなって、平気なわけないよ」
 彼らは師を失った悲しみに背を向けているのだ、とニノンは思った。気丈にふるまっているだけで、心の底から大丈夫と言える状態じゃない。だから演技もどこかちぐはぐで、テント内の空気がこんなにも湿っぽいのだ。
「分かっていたの。でも、いったん現実を受け入れてしまうと、元に戻れなくなりそうだったのよ。もう、泣きわめくような年でもないのだし」
 言いながら、ヴィヴィアンは目の端から涙をこぼした。
「悲しみを我慢するのが大人じゃない。それは強さじゃないよ。皆にはもっと悲しむ時間が必要だと思う」
「悲しむ時間……か」
 ニコラスはまぶたを伏せた。それをメンバーに促したのは自分自身だ。ゾラが消えればアルカンシェルも終わる、などと思わせたくなかった。だから、何が何でも今回の公演は成功させたかったのだ。それが仇となってしまった。
 まだまだあなたの足元にも及ばない――ニコラスは心の中でそっと呟いた。
 映し出されるイメージは更にさかのぼり、それは一人の青年にクローズアップされた。青年は少年になり、おぼつかない足取りで歩きはじめ、やがて、泣きじゃくる赤ん坊とそれを抱きかかえ幸せそうに笑う男の姿を映しだした。
「これは、俺と――親父、なのか」
「お父さんはウィグルさんをないがしろになんかしてない。少し気が張っていただけだよ。一人前にしなきゃって。でも、ずっと迷いの心が残ってた」
「迷いの心……」
 ロロは静かに投影機のスイッチを消した。テント内に再び照明が点った。
「ウィグルさんをこっちの世界に道連れにして良かったのかって。本当は歩むはずだった普通の人生を、自分は奪ってしまったんじゃないかって。ウィグルさん、最後に喧嘩した時に言ったんでしょう?」
『サーカス団になんて入りたくなかった』――それは口からついて出ただけの、ただの喧嘩言葉だ。だけどそれはゾラにとっては非常に辛い言葉だった。ウィグルは「そんなつもりで言ったわけじゃない」と呟いた。
「言葉ってそんなものだよ」
 ニノンは微笑んだ。
「便利だけど、誤解も生まれやすい。ゾラさんの厳しさの裏にはちゃんと愛情があったこと、ウィグルさんに知ってほしかったんだ」
 返す言葉もなく、ウィグルは床に膝をついた。しんと静まり返った中、ニコラスはゆっくりとウィグルに近づいた。そしてある封筒を差し出した。何の変哲もない真っ白なそれには、達筆な字で〈ニコラスへ〉と書かれている。
「最後にゾラさんに会った時に渡された手紙だよ。『私に何かあったら読んでくれ』ってね」
 ウィグルは無言でその手紙を受け取ると、ぎこちない動きで手紙を広げた。その内容は数枚にも及んでいた。「あんたたちも読みな」とニコラスが言ったので、他のメンバーたちもウィグルの持つ手紙を囲んで輪になった。
 そこにはやはり達筆な字で、遺書のような文章が書き連ねられていた。新プログラムに導入する新しい試みについて。取り入れたい今後の技術について。虹のサーカス団のこれからの方針について。その中には、ニコラスとウィグルの衝突の話題であった無償席についての言及もあった。
 そして最後に、次期団長にウィグルを就かせたいこと。その為の力を養うまで、代役としてニコラスに団長を務めてもらいたいことが書かれていた。
「無償席を作るのはゾラさんの意見だけど、私の希望でもある。それは否定しない。同じ境遇だっていう私情があるのも否定しない。でも、少しでも幸せを必要としている人たちに、楽しみを与えたい。それが虹のサーカス団の存在意義だって私は思ってる」
 ウィグルは押し黙った。誰も口を開こうとしない。ニコラスの決意は固かった。これが、彼の最後の仕事になるからだ。
 その時、「ぼくは、ぼくは」という聞いたことのない声が上がった。パイプに穴が開いて、空気が漏れるような、おかしな声だった。
「エッ、もしかして、グリエルモ?」
 シュシュは驚いてピエロメイクの男を見つめた。グリエルモはふごふごと口を動かし、必死に言葉を紡いだ。
「僕は、こんなに変な声だから。フガ、小さい頃から喋らないで生きてきた……。でも、言葉にしてつたえたいから、がんばる」
 グリエルモはフガフガといっそう力を込めて声を出した。
「僕は、もう一度、フガ、みんなと全力で、サーカスがしたい! ゾラさんがっフガ、安心して――旅立てるように」
 その言葉に、メンバーたちははっとして顔をあげた。
『皆ともう一度、全力でサーカスがしたい』――色んなことが起こりすぎて、そんな単純な思いを誰もが心から失くしていたのだろう。その言葉は優しくアルカンシェルの心を繋いだ。
 激しい嵐が過ぎ去った青空。ちょうど七色の、天架ける大きな虹のように。
 ニコラスはふ、と小さく息を吐き出すと、何かが吹っ切れたようにパンパンと軽快に手を鳴らした。
「じゃあここで最後の採決を取るよ。明日のサーカス開演に賛成の者は挙手!」
 はいはい! と率先してシュシュが左手をつき出した。それにならって他の面々も手を挙げていく。最後に、俯きながらウィグルが小さく手を挙げた。「満場一致だね」とニコラスはにんまり笑い、もう一度手を鳴らした。
「そうと決まればホラ、ぐずぐずしないで、リハーサルの準備するよ。雑用係! リハーサルの準備頼むよ!」
「はいはい、了解! ほんと、人遣い荒いんだよなぁ、あのオカマ」
「アダム、私の専属アルバイトする気になったのかい」
「スイマセン!」
 しゃあねぇな、と呟きながらもステージ裏に向かうウィグルに、それを追いかけるハビエル。興奮気味に話かけるシュシュに、再び顔を真っ赤にして口を閉じてしまったグリエルモ。そんな彼らを見守るルーグとヴィヴィアン。先ほどの重たい空気が嘘のように、今や彼らの顔は晴れ晴れとしている。
「成功して良かったですね」
 ロロはほっと胸を撫で下ろした。
「助かったぜロロ。お前ってホントはすっげーエンジニアなんだな」
「そ、そうですか? いやぁそれほどでも」
 投影機に繋がれたパソコンの画面には、取り込まれたアルバムの写真が映し出されていた。頭を使うというのは、そういうことだったのか、とルカは思った。確かに、目からの情報は他の器官よりも何倍も影響力がある。
「皆、元に戻って良かったね」
 画面から目を離し、アルカンシェルの団員たちを眺めた。迷いの無くなった彼らは何倍にも輝いて見えた。
「皆で力を合わせれば、変えられないことなんて無いんだって思えちゃうよ」
「なにそれ。ニノンは、変えたいことがあるの」
 そう言ってルカは笑った。言ってみただけだよ、とニノンは笑われたことに少し頬を膨らませた。
「ルカは無いの? そういうの」
「……うーん。漠然となら」
「えっ、教えて」
「秘密」
「なにそれ。けち!」
 ニコラスからの催促の言葉が飛ぶ。アダムと、なぜか雑用係にカウントされているロロは慌ててステージ上へと駆けていった。ニノンの手を引いて、ルカも彼らの背中を追った。

最終話 カーテンコール


 ショー用のスパンコールが散りばめられた衣装に身を包み、今日もばっちりと髪の毛を立たせた男が、忙しなくあたりを行き来していた。思わず蹴っ飛ばしてしまったシマ模様のボールが、せっせこ準備に勤しんでいたグリエルモの尻にヒットした。
「落ち着きなよ、ウィグル」
「はぁ? 俺はいつだって落ち着いてるだろうが」
 明らかに落ち着いていないのだけれど、本番前になるとウィグルはいつもこうなることをハビエルは知っている。苦笑いを浮かべながら今日のショーの段取りについて考えていると、背後からぬっと飛び出てきた拳が、ゴツン、とウィグルの頭に落ちた。
「なに緊張してるんだい。みっともない」
「やめろよ、セットが乱れるだろ!」
「ふん。それだけ元気があれば、今日のラストは大丈夫そうだね」
 ニコラスはにやりと笑ってステージ裏の奥の方へと消えた。不器用だけど、誰よりも団員に目を配り気遣うことができる。そんな彼の、本来の姿が戻ってきて本当に良かった、とハビエルは心から思った。だからこそいつにも増して緊張してしまうウィグルの気持ちもよく分かる。
 今回の公演は新生・アルカンシェルにとってひとつの節目となる、大切な公演なのだ。
「スッキリしておきたいから今聞いちゃうけど」
 ハビエルは、きゃんきゃんと犬の鳴くような声のする方へ顔を向けた。今日のシュシュはやけにカラフルなチュチュを着ていて、いつも以上にファンシーな仕上がりだ。
「あんたたち、夜中にコソコソとテントで何してたの?」
「え、どうしてそれを」
「どうしてって……べ、別に何も悪いことなんてしてないんだから! 夜中に目が覚めてたまたま目撃しちゃっただけヨー!」
 やけに焦るシュシュをいぶかしげに見つめていると、少女は小猿のようにぴょんぴょん跳ねながら「さっさと白状しなさいよ!」とあおり立てた。
「空中ブランコの練習をしてたんだよ」
 うろついていたウィグルがぴたりと足を止め、ぶっきらぼうに言ってのけた。
「なーんだ。悪さじゃなかったのネ」
「誰がそんなことするかよ」
「で、で、成果はどうなの?」
「あーもー、人のことつべこべ言わずに自分たちの準備しろよ!」
 はーい、と元気よく両手を広げて、シュシュはルーグの大きな体を駆けのぼった。その傍から淡いパープルのシルクドレスに身を包んだヴィヴィアンがゆったりと体をくねらせてやって来る。漆黒の髪を金色の髪飾りでひとつに束ねながら、そういえば、と口を開いた。
「結局、投影機が壊れたり紐が切られたりした事件は何だったのかしらねぇ」
 ぎくりと肩を震わして、シュシュはさっとルーグの首元にしがみついた。まるで大男が虹色のフォックスファーマフラーを巻きつけているみたいで、ひどく不格好だ。
「あれ、お化けの仕業ですよ」
 何食わぬ顔でアダムは言った。
「でももう大丈夫です。俺たちがやっつけちゃったんで」
「あらあら、アダム君は悪魔祓いもできるの? それは頼もしいわねぇ」
 世の中真実を知らない方が良いこともある。嘘も方便とはまさにこのことだなぁ、と端の方で一部始終を見ていたルカは、小さい頃に祖父が教えてくれた日本語を思い出した。そっと顔を上げたシュシュに、アダムは小さくウインクしてみせた。

「ウィグル」
 相変わらず行ったり来たりを繰り返している男に、ハビエルは声を掛けた。
「最後の、空中ブランコのことだけど」
 一旦言葉を区切ってこくりと唾を呑みこんだ。シュシュやルーグのように、言葉がなくても気持ちが伝わるほど器用な性格ではない。だったら、思っていることはしっかり口に出すべきだ。
 ハビエルは昨日の出来事から一晩、ずっと考えていた。そして、二人の間に隔てられていた透明な壁の正体にやっと辿り着くことができた。ウィグルが怒っていたのは、あの日――空中ブランコを失敗した時に、その事について自分が何も口に出さなかったからなのだと。
「僕は今回の公演、絶対成功させたい」
 分厚いカーテンが揺れて、隙間からちらちらと照明の光が漏れる。ハビエルはその光から目を逸らさずに、空中で華麗に舞う自分たちの姿をそっと思い浮かべた。
「だから、空中ブランコは絶対つなげる。何があっても」
 静かに聞いていたウィグルは、にっと笑うとハビエルの背中をばしんと叩いた。
「ったりめーだろ。俺らがどんだけ練習してきたと思ってるんだ」
「そうだったね。うん……そうだったよ」
「おう」
 二人は照れ臭そうに笑って、パチンと手を叩きあった。

「さ、皆集まって」
 パンパンと手を打ち鳴らして、ニコラスは団員をステージ裏の一角に集めた。ルカ達雑用係も加わり、十一人はぐるりと大きな輪を作った。
「もうすぐ本番だけど、準備は良いね?」
 ニコラスは一人一人の顔をゆっくりと見つめた。厚みのあるカーテンの向こう側から、観客たちの期待をはらんだざわめきが聞こえてくる。途端に一同の鼓動は早まった。緊張もある。だけど、それを超えた興奮。そして純粋な嬉しさ、サーカスができるという喜び。
 もはやこのテント内を埋め尽くす感情は、明るいものばかりだった。冷たい嵐は過ぎ去ったのだ。
「大丈夫。私たちなら絶対、大丈夫さ。自信を持ちな――さぁ、行くよ!」
 団長の後に続いた全員の掛け声と共に、重ねられた手のひらが、ぐっと押しこめられた。輪は散り散りとなり、それぞれの定位置へと向かう。そして、ニコラスは顎を引くとマイクを握りしめ、さっそうとカーテンの向こう側へ飛び出した。

「レディースアンドジェントルメン!――……」

 ホテル・トリトンの一階部分はロビーを除いて全てが食堂にあてられている。といっても、普段このホテルに客が入ることは極めてまれな上に、食堂の存在を店主がアナウンスすることも無いため、その存在を知る者は少ない。しかし、店主の粋な計らいで、虹のサーカス団・アジャクシオ公演の大盛況を祝うパーティーはこの食堂で夜通し行われることになった。
 三週間という長い公演期間中、大した問題も起きずにサーカスは大団円を迎える事ができた。もちろんラストの空中ブランコも一つのミスも出さずに全て成功させた。そして、最終日。亡きゾラの意向により、全席無償の招待プログラム開演が実現したのだった。
 メンバーたちは思い思いに酒を飲み、料理をつまんだりしながら、尽きることなく話に花を咲かせた。
「お疲れさま」
 ハビエルとグリエルモに折り重なるようにして眠りこけているウィグルのタオルケットを掛け直しながら、ニノンはそっと呟いた。
 連続公演は想像以上に体力の消耗が激しい。朝方にもなると皆が皆、糸がぶつんと切れて動かなくなった人形の様にぐっすりと眠りこんだ。団員が目を覚ますのはおそらく日がすっかり昇った頃になる。ロビーのメモ用紙を勝手に拝借し、メッセージを書き終えると、ニノンは一人一人の枕元にそれを差し込んだ。
「本当に良いんですか? 挨拶しなくて」
 身支度をすっかり整えたニコラスは、アルバムとにらめっこしていた。じっくり吟味した後、一枚の色あせた写真を抜き取ってかばんに大切に仕舞い込む。彼がゾラに拾われてから初めての公演――それが成功したあと、馬鹿みたいに騒ぎ立てた夜の写真だった。
 ニコラスは顔をあげ「良いのよ」と微笑んだ。
「それより私こそ無理言って悪かったわね」

 まだ団員が興奮冷めやらぬ雰囲気で話に興じていた頃。ニコラスはルカ達にある相談を持ちかけていた。
『ごふっ……と、唐突な話だな。旅に同行したいなんて。サーカス団はどうすんですか』
 肉の塊がのどに詰まり、アダムは思わずせき込んだ。すかさずニコラスが「声大きいよ」と人差し指を唇に押しあてる。
『次期団長は決まってるから問題ない。まだ青臭い部分は抜けてないけど、ウィグルはもう立派にゾラさんの意志を継いでいけるよ』
 グラスに残った生ぬるいワインを一思いに飲み干して、ニコラスは楽しそうに笑いあうメンバーたちを眺めた。今までの思い出が、蓋をしたはずの心から溢れ出そうになる。
『つらそうな顔してる』
『そりゃあ、別れはいつだって辛いもんだよ』
『じゃあどうしてつらい方を選ぶの?』
 すると、ニコラスの大きくて暖かい手が、ニノンの頭をくしゃくしゃと撫でた。
『人にはやらなきゃいけない時ってもんがあるからさ』
 持てあましていた空のグラスを机に置いて、ニコラスはおもむろに胸元からネックレスを取り出した。細いチェーンに通された銀色の指輪。それを見た瞬間、ルカは驚きにあっと声をあげた。
『ベルナールの指輪――どうしてそれを』
『あんたをずっと探してたんだ』
 ルカの右薬指にはまった指輪と瓜二つのにぶい輝きを放っている。何から尋ねれば良いのか、とルカが思案している間に、ニノンが胸元からラピスラズリのペンダントを手繰り寄せた。今度はニコラスがあっと息を呑んだ。
『私はニコラスさんを探してたんだ。ダニエラさんについて聞きたくて』
『ダニエラ――それは、私の弟の名前だよ』
『え?』
 詳しいことは後でゆっくり話そう。ニコラスはその言葉を最後に、テンション高く跳ねまわっていたシュシュに引っ張られるようにして、賑わう群れの中へと入っていった。


「そういや、結局テントから絵画は見つからなかったな。どうすんだよ、ルカ」
 アダムは机や床に散らばった小包装タイプのお菓子をせこせこと拾い集め、ありったけかばんに詰め込んでいた。ついでに皿に残った生ハムやチーズを仕事のように口に放り込んだ。
「それなら問題ないよ」
「は? 見つかったのか?」
 相変わらずパンパンに膨らんだリュックサックを背負込むと、ルカは頷いてにやりと笑った。

 山道を歩く男が二人と、少女が一人。姿を隠す必要がない今は、黒いフードを目深に被ってはいるが、息苦しい仮面で顔を覆うことはない。
「ネジ緩めてトラップ仕掛けたり、わざわざ男に絵画を探させたり、オペラは小細工がほんと好きだよねー」
 一番背の高い、分厚い瓶底眼鏡をかけた男がおどけた口調で言った。すぐ隣で少女はムッとした表情をした。その手には長方形の箱がたずさえられている。ちょうど丸められた絵画が一つ入るくらいの大きさだ。箱の開閉部分には、雲母のようにきらめく、つるりとした長方形のプレートが貼り付けられている。道野家の地下室に通じる扉に施された鍵と同じものだ。
「でかしたぞ、オペラ。中身は確認したんだろうな?」
「……解除用のキーが無いから、まだ、……?」
 長方形の箱を探っていた手がぴたりと止まる。鍵が開いている。プレート式の鍵は、対になる鍵でしか開けることができない。不思議に思いながら、少女はゆっくりと箱を開けた。
「…………きゃあぁ!」
 か細い叫び声が森に響き渡った。少女は思わず箱を放り投げ、背が低い方の男にしがみついた。高く上がった箱をキャッチした背の高い男は、箱の中から飛び出た『あるもの』の触覚を器用につまみあげて「ひゃっひゃ」と笑った。
「ふん。まだまだ詰めが甘いな、オペラ」
「……ごめんなさい、ボルト」
「まぁ良い。最後に笑う者が勝つんだからな」
 がっくりと肩を落とす少女を気にする風でもなく、ボルトは再び歩き始めた。
「ねぇねぇボルト、コレ飼ってもイイ? イイよね?」
「さっさと捨てろ」

 アダムはばしんばしんと自分の太ももを叩きながら腹を抱えて笑った。「えげつねぇ」とか「やっぱり『ヤツ』は戻ってきたんだな!」などと遠慮なくはしゃぐので、ニノンは団員の眠りの妨げにならないだろうかと心配になった。
「ハビさんが見つけてくれたんだよ。中身はちゃんとここにある」
 結局絵画はウィグルが所持していたという。それも、ホテルの自室にしっかりしまい込んであったらしい。どうして知らないなどと嘘をついたのか。ハビエルが問いただすと、ウィグルはバツが悪そうに顔を背けて「親父の形見を大切にしまってるなんて、恥ずかしいだろ」と言った。
「ま、何にせよ絵画も回収できて一件落着だな」
 古びた木の扉を開けると、きしんだ音がした。そびえ立つ壁のような建物に切り取られた空が白みはじめている。まだ冷たい朝の空気に、春の終わりの匂いが混じる。
 ニコラスは最後に扉の向こう側にいる団員をじっと見つめた。ルカたちはそんなニコラスを、言葉もなく見守る。
「行きましょう」
 何かを吹っ切るようにしてニコラスは踵を返した。後を追う三人。
 その時、入り口で黒猫がにゃあと鳴いた。カンカンカン、とけたたましい音が鳴り響いたのは、ニノンが振り向いたのと同じタイミングだった。
「な……何?」
 入り口にセーラー帽を被った屈強な男が、フライパンと金づちを持って仁王立ちしていた。店主が起きている姿を目の当たりにして驚くルカたちに、男は再び金づちでカンカンとフライパンを打ち鳴らした。
「あんたは、挨拶もろくに覚えずに育ったのか?」
 ひどく気だるげな顔をもたげて、ウィグルがのそのそと通りに出てきた。後に続いて他の団員もぞろぞろと集まってきた。
「何も言わずに去るなんて、水くさいのヨ!」
「ふがっ……ウンウン……さみしい」
「団長、どうしても出ていかなきゃならないのか?」
出来るならば留まってほしい。それは誰の胸にもある思いだった。
「ええ。ごめんね、ハビ」
 寂しげに笑うニコラスにしずしずと歩み寄り、ヴィヴィアンは同じ程の背丈の男を優しく抱きしめた。
「寂しくなるわ……でも、自分で選んだ道ですもの」
「ヴィヴィアン、たくさん世話になったわね」
 彼女の瞳からこぼれる涙を手でぬぐってから、ニコラスはゆっくりとウィグルに向き直った。
「アルカンシェルを頼んだよ――団長」
「……ニコラス」
「大丈夫、あんたなら出来るよ」
 絶対の信頼を込めて笑いかけた。
 しばらくしてニコラスは再び背を向けて歩き出した。温かい場所から遠ざかっていくその背中に、ふいに仲間たちの声が突き刺さった。
「今まで――ありがとうございました!」
 新しい団長の声と共に、団員の声が重なった。
 七人は過ぎ去った日々の尊さを思った。まぶたを閉じれば、スポットライトに照らし出される煌びやかなステージがすぐそこに広がる。沸きおこる歓声。高鳴る鼓動。隣には苦楽をを共にしてきた仲間達の笑顔――その全てを、生涯忘れることはないだろう。
「それは、こっちの台詞だよ。こんな奴について来てくれてありがとうね――これからも頑張るんだよ」
 振り返らずにそう告げた。見上げれば青みがかった空。白くなり始めた三日月が建物に隠れるまで、ニコラスは明けの空をずっと見つめ続けた。瞳にたまった涙がこぼれてしまわないように。

「またー会おうねー!」
「眠りこけてる眼鏡にも言っといてくれー!」
 ニノンたちは振り返り、叫んだ。そして、彼らが見えなくなるまで手を振り続けた。

 *

「ええ! 皆さん、もう行ってしまったんですか!」
 太陽が昇りきった頃、起き抜けの顔でロロは叫んだ。ごっちゃりした荷物の中から小さな機械を取り出しながら、「どうして起こしてくれなかったんですか」と唇をとがらせた。
「僕も最後のあいさつぐらいしたかったですよ……って、え?」
 ロロは咄嗟に画面に顔をくっつけて、そこに映し出される解析結果をまじまじと見つめた。
「お前らさっさと片付けろよ。広場の貸切期間は今日までだからな」
「何なのウィグルってば、ちょっとしっかりしちゃって」
「ブン投げてやろうか、チビ!」
 お決まりの、意味不明なスキンシップが始まる様を見つめながら、ハビエルは痛む頭を押さえた。人知れず吐き出された重たいため息は、ロロの素っ頓狂な叫び声にかき消されてしまった。
「あの人たち、どこに向かったって言ってました?」
「さぁ……そう言えば、行き先は聞いてなかったな」
「そんなぁ!」
 ロロは解析機と通信機を握りしめてホテルを飛び出した。画面にはここ一ヶ月の日付とグラフが表示されている。グラフ上にぽつぽつと光り輝いている部分が二ヶ所あった。日付を見るとちょうど三週間前――サーカスが開演する前日を指している。ロロは慌てて通信機のボタンをプッシュした。コール音が一つなったところで『どうした』と機嫌の悪そうな声が機械から発せられる。
「ジャック! エネルギーの反応がありました!」
『いつ、どこで』
「場所はアジャクシオ。反応が大きいのでとても近いと思います。時間は、三週間前で――」
『遅すぎる!』
「すっ、すみません……」
『で、発生源は特定したのか』
「は、はい。目星は……でも、その」
『はっきり言え』
「ええと……今どこにいるのか分からな――」
『この、まぬけ眼鏡! 探せ! 追え!』
 けたたましい怒号とともにブツリと音を立てて通信は途切れた。あまりの剣幕にうっすらと浮かべた涙をぬぐいながら、ロロは慌てて荷物をかばんに詰め込んだ。そして、二日酔いにガンガンする頭をさすりながら、賑わいをみせるアジャクシオの大通りを駆け抜けた。
「どこに行っちゃったんですか、皆さんー!」
 彼の悲痛な叫び声がルカたちの耳に届くことはなかった。

あとがき


 コルシカの修復家第三巻、お読みいただきありがとうございます。
 サーカス団編は、おそらく全編通して比較的長い部類の章になります。そもそも団員が七名でしたので長くなるのは当然なんですが……。このお話の中で、団員一人一人がちゃんと問題を解決して、無事に新しいサーカス団として生まれ変わることができたんじゃないかなと思っております。

 この章で書きたかったテーマは「意思疎通の仕方」、それから「出会いと別れ」です。前者ですが、ルーグとシュシュのように空気で相手の気持ちを読むっていう力が必要になる場面もあるし、ウィグルとハビエルのように言わなきゃ伝わらないという場面もある。またゾラ親子のように言ってもすれ違いになることもある。意思疎通って難しいけれど、人間はうまくその能力を使い分けて日々コミュニケーションを取っている。失敗しながらも、そこから学んでだんだん意思疎通の測り方を増やしていく。それってすごいなぁ、という事が書きたかったのです。
 後者の「出会いと別れ」というテーマ、書きたかったのは「身近な人の死」への対処、それから「死ではない親しい人たちとの別れ」への対処です。特に死によらない別れは、人が生きていく上で何度かある経験かなと思います。楽しい日常を捨ててまで、選択しなきゃいけない時というのは誰にでもあるものですが、そこで自分にどう折り合いをつけるか。大変に難しいことです。どっちを取っても、きっと取らなかった方の道を羨む日も来るでしょうが、大切なのは自分の決めた道を信じ続ける強さだと思います。ニコラスにはきっとそんな強さがあるんでしょう。リーダー気質の人間です。ちなみに作中ではオカマと呼ばれてますが、彼はオカマではなくエックスジェンダーです。そんな細かなことを気にする人ではないので、周り(といってもウィグルやアダムだけ)は好き勝手言っています。


 最後に、本当のカーテンコール!
 第五章に出てきた「虹のサーカス団・アルカンシェル」の団員をご紹介します。アルカンシェル(フランス語で「虹」の意味)のメンバーは、虹の色にちなんで七名です。それぞれにイメージカラーがあります。ちなみに、亡くなってしまいましたが、ゾラさんは八人目なので、色のイメージは黒。いつもシルクハットを被った、よくいる息子に厳しいお父さんのイメージです。

〈ニコラス・ダリ〉
 団長。司会クラウンとダンサー担当。根が真面目なXジェンダー。姉御気質。
〈ウィグル・ゾラ〉
 空中曲芸師。思春期から抜け出せない男。小動物に弱い。見た目がヤクザ。
〈ハビエル〉
 空中曲芸担師。スペイン人。垂れ目で優柔不断な優男。ウィグルと同い年。
〈ヴィヴィアン〉
 軟体曲芸師と踊り子。実は三十路過ぎ。ニコラスとは美容の話で盛り上がる。
〈シュシュ〉
 地上曲芸師。十二歳。おませだけど行動原理はまだ子供。はっきり物を言う。
〈ルーグ〉
 地上曲芸師。人間ジャグラー。無口な大男。シュシュの精神安定剤。
〈グリエルモ〉
 音楽家。変な声だと苛められて喋らなくなった。恥かしがり屋のイタリア人。

コルシカの修復家3

2014年11月1日 発行 初版

著  者:さかな
発  行:水族館出版

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さかな

地中海に浮かぶ美しい島〈コルシカ島〉と、〈絵画修復家〉という職業を知ったのは最近のことですが、この二つにインスパイアされてお話を楽しくつづっています。 好きなジャンルはミステリーやSF、謎解きなど。尊敬している作家は星新一先生です。

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