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皮膚を溶かし人類を苛む雨が降る世界で、人々を救うために死ぬ運命を背負った六人の子供たち【マキナレア】。彼らは束の間の救済を求めて人類に背を向ける。歩む先に広がる蓮華草の花畑で得た束の間のモラトリアム。しかし、【魅了】のマキナレア・モンゴメリは忘れていた【始まりの記憶】を取り戻して――。全三巻。

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都に霞むアムリタ(上)

星撫めれ

空檪出版



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 僕が出会った世界の話をしよう。

 誰も覚えていないずうっと昔の話だよ。

 世界を救ってくれた、六人の子供たちの物語。

 彼らが救世主だと言えるかどうかなんて僕にはわからない。

 けれど確かに、彼らの思い出は僕をこの世界で救ってくれたんだ。


 ねえ、聞いてくれる? シシー。



第一章 逃避行

 目 次

一、始まりの物語

二、凍える世界

三、傷だらけの世界

四、囚われの世界

五、風降る世界

六、眺めぬ世界

七、解れる世界

八、色褪せる世界

閑話、或る子供の記憶

九、瞼閉じる世界にて

十、繋ぐ旅路

十一、謳う世界

十二、森に削れる


一、始まりの物語

 パリシアは生まれたときから奇妙な個体だった。

 その足は決して、人々の踏みしめる大地に触れることはない。母親が手を放すと、やがて遥か彼方の海空へ吸い込まれそうになってしまう。
 数えきれないほどの医者が彼の身体を調べたが、有意義な答えは何一つ見つからなかった。

 最後に彼を診た医師は、とあるお伽噺を語りだした。

 その昔、この世界は地球と言う大きな星だったのだと。その地球で栄えた、我々の祖先、人類はその数を鼠のように増やしていき、やがて星そのものを侵食していった。戦争は絶えず、大地は毒の霧を噴き上げるようになった。やがて空からはあらゆる生命の皮膚を融かす雨が降り注ぐようになり、止むことはなかった。生き物は生きていくための飲み水を失い、次々と絶えていった。人類は地下水脈を利用し細々と暮らすようになったが、やがてそれも尽きていき、残されたわずかな水源を巡って再び争いが起きた。
 ある錬金術師アルケミストは予言した。いつかの未来、六人の使徒が現れ、新たなる世界へ我々を導く救世主となるであろうと。果たして六人の使徒は長き眠りから覚め、深海はサグゼオナと呼ばれる閉ざされた世界に、南極の凍土は緑豊かな世界エルロンドに、そしてかつての空は、我々の住まう小さな星、シェパルカに姿を変え、人々はそれぞれの世界へと旅立っていった。我々の世界で空と言われるものは、かつての世界(中ツ国)の大地であり、我々が大地と呼ぶものは中ツ国の空だったのだ。我々にとっての重力は、中ツ国ではさかさまの力だった。

 彼は、パリシアは中ツ国の重力の元で生きる、生まれながらにして稀有な存在なのではないかと語った。

 誰もそんなお伽噺は信じていなかった。けれどパリシアは、中ツ国への強い憧憬を抱いた。彼はいつだって気味悪がられ、煙たがられた。ただ地に足がついていないと言うだけで。それはパリシアにはどうすることもできなかった。けれど、苦しむ母を恨むことはできなかった。中ツ国が本当にあるのだとしたら、そこが本当の僕の居場所なのではないか。僕は偶々、偶然に、不幸にも、生まれてくる世界を間違えてしまっただけなのではないか。
 その空想は、パリシアの心を慰めた。周囲と比べて自分は特別な存在なのだと、自信を持つことができた。けれど、母はついに自ら命を絶った。この世界は、人と違うものに対してあまりにも非情すぎるのだ。
 パリシアは生きていく希望を無くした。もとよりなかったのかもしれない。それでも、世界からはじき出されようとする自分を世界につなぎとめてくれていたのは、ただ一人の家族、母だけだったのだ。それがなくなった今、彼を引き留めてくれる者は誰もいなかった。
 死に損なった彼は、ゆっくりと空という名の海に堕ちていった。

     *

 目を覚ますと、じめじめとした土の上で、見たこともない紅紫色の花に包まれていた。体を起こそうと腕に体重をかける。手は泥の中にのめり込んだ。そうして初めて、パリシアは自分が土の上にいることを知った。今までは家の天井にしか足がつかなかったというのに。
 見渡す限りの緑。水の匂い、花の香り、緑の香り、土の匂い。
 こんなに生い茂った木々を、パリシアは初めて見た。大地の泥は水と混ざり合い、べたべたとパリシアを汚していった。見渡す限りの紅紫色の絨毯は全て、この泥の中で咲き誇る花の色だった。
 息を吸うのがとても楽だった。空気がおいしいだなんて初めての経験だ。パリシアは泥に足を取られながら辺りを散策した。
 どれくらい彷徨っただろう。上を仰ぐと、かつて自分がいたはずの世界は一面真っ青に広がっていた。まるで青い花の花畑のような世界だったのだなあとぼんやり考える。
 近くで耳をざらつく音が鳴った。びくりと肩を震わせ振り向くと、それらはただの鳥たちの羽音だった。けれど、パリシアの目先には彼の目を奪うに十分な景色があった。
 それは、地面に生えているものと同じ花を、体中に咲かせている美しい人の姿だった。艶やかで瑞々しい若葉色の髪、陶器のように白い肌。大木に寄りかかって眠るその姿は、痛々しいのに魅力的で、艶やかだった。聖書に載っているどんな女神よりも美しいと思えた。
 身動きもできずにいると、それは長い睫毛を震わせてこちらを見た。
「おや」
 静かな低く優しい声で、彼は言って微笑した。
「来訪者だなんて珍しいね。どうしたの? 迷い込んでしまったのかな」
 声の出し方を忘れてしまったかのようだ。パリシアが立ち尽くしていると、彼はもう一度言葉を向けた。
「小さいね。お母さんとはぐれたの?」
その言葉にはっと我に返る。
「母は……死にました」
「そう。悪いことを聞いたね」
そう言って彼は長い手をあげて伸びをした。
「けれど、こうして人間がここに居るということは、ここもやっと浄化が追い付いたってところなのかな。僕が解放される日もようやっと、近いのかもしれないね」
「あなたは……?」
やっとそれだけ言うと、彼は笑った。
「多分、君の世界のお伽噺の人だよ」
 パリシアは混乱してしまって、それ以上彼について聞くことができなかった。代わりに、足元に敷き詰められた花を見つめた。
「あの……この花、なんという花なんですか」
「ああ、知らないの? 君の世界では咲いていないのかな」
「はい」
 彼はとても幸せそうに、そして哀しげに笑った。そして、自分の左目を覆うように咲く花弁を愛おしそうに撫でた。
「これはね、蓮華草という花だよ。僕が……僕の大好きだった子が僕に残していってくれた花だ」
「それ……痛くないの?」
 痛々しい彼の肌を見つめて、そう尋ねずにはいられなかった。けれど彼はふにゃりと、人間らしく笑った。
「痛いけれど、苦しいけど、これがあるから僕は生きていられるんだよ。この花は僕を栄養としているけれど、僕もこの花に生かされている」
 そうして彼はパリシアの傍に歩み寄り、頭を撫でた。
「見たところ、もう君は元の世界には帰れなさそうだね……僕には他にどうすることもできないけれど、僕の話し相手になってくれる? もう何千年も、人と話していないんだ。そろそろ疲れてきていたところだよ」
 パリシアは彼の蓮華草色の瞳を見つめた。自分の身体に生まれたときから悩まされてきたけれど、こうして元の世界から抜け出して彼に出会った。それなら、もしかしたら彼に出会うのが自分の生きる意味だったのかもしれないと思う。心は既に、今を受け入れていた。もとより空に未練はない。

 こうして、人類はようやく、最後の使徒と出会った。
 生まれ変わった美しい世界で。



     ***

 時は幾千年前に遡る。

 世界が唯一王レデクハルトに統一され、長きに亘る戦争と荒廃の歴史にようやく終止符が打たれたと思われた刹那、世界を針のような雨が包み込んだ。
それは生き物の皮膚を融かしていく雨だった。

 瞬く間に地上は人の住めない地と化した。人類は地下に施設を造り、地下水脈を糧として新たな住処に移り住み、生を永らえた。しかし、際限なく湧くと思われた地下の水も、やがてぴたりと流れるのをやめ、水源は瞬く間に枯渇していった。限りある元素で実験を繰り返していた王の御世の錬金術師アルケミストは、世界の法則をようやく解き明かすことに成功したが、彼に残された時間はもう長くなかった。彼は人々に予言を残して、王の後を追うように死んだ。

【いつか遠くない未来、六人の使徒が世界に降り立つ。彼らは新たな大地を創造し、我々を楽園エデンに導くだろう。】

 それが、アルケミストの遺した言葉だった。

 やがて、世界の水脈はレグド、マグダ、サラエボの三つを残すのみとなり、人々の争いは激化していった。そしてようやく、それぞれの地にて使徒が長き眠りから目覚めたのだ。

 彼らは自らを機功マキナレアと呼んだ。

 人類は、人よりもはるかに強靭な肉体を持ち、神に与えられた未知の力を有する彼らを戦争の道具にすることで生存を図った。
 彼らはマキナレア同士で、雨の中殺し合いに耽ていくのだった。まるで彼ら自身のモラトリアムを惜しむかのように。
 戦いこそが、彼らにとっての救済でもあったのだ。













二、凍える世界

 その日は珍しく雪が降っていた。

 雪と言っても、生物に与える恐ろしさに何ら変わりはない。離れて眺めるには美しく、ひとたび触れれば雨と変わらず皮膚を焦がしていく。

 互いを殺す勢いで戦い合っていた仲だというのに、モンゴメリは何故か今、敵であるはずのケイッティオと共に洞窟に避難していた。
 とは言っても、元は同じものから造られ、目的も未来も同じくして生まれてきたのだから、敵だの味方だの、そんなことは些末な問題だ。醜悪な人間どもが勝手に自分達を救世主扱いし、命惜しさにマキナレアを土地争いの道具にして高みの見物を決め込んでいるだけの話なのだから。
 それでも彼らは殺し合いをしていた。殺し合いとはいえ、彼らには良くも悪くも生物の死はなかった。瀕死の重傷を負ったところで、異常なほどの生命力が機能してその傷を何事もなかったかのように修復してしまう。それなのに彼らが人間の言いなりになっていたのは、戦い続けるその刹那だけは、使命から目を背けて生きていられたからだ。
 使命と言っても、自分たちが望んだことではない。どこまでも勝手な人類の願いのために、利益のために、勝手に生み出され勝手に押し付けられた役目だった。けれど、たとえただの傀儡だとしても、一度生まれてしまったからには当然個々の自我も手に入れてしまう。一度手にしてしまえば、それを手放してしまうのは死よりも恐ろしい恐怖だった。

 モンゴメリは前髪の僅かな隙間から、隣に座って雪を一心に見つめているケイッティオを透かし見た。彼女のことはどうにも苦手だった。表情も乏しく、声を出したところも今までほとんど聞いたことがない。白金色の絹糸のような髪に榛色の瞳。静かな美を備えた彼女を見ていると、人を惑わせるためにしかないような自分の容姿にますます嫌気がさした。モンゴメリは自分の柘榴色の瞳が大嫌いだった。薄紫色の髪も好きではなかったが、前髪を伸ばすことで目をすっぽりと覆い隠していた。視界がはっきりしなくても生きていける。それよりも、自分の目を見て身も心も奪われていく人間達にこの目を晒していたくなかった。

 外に比べれば幾分かましとはいえ、洞窟の中は冷えた。そもそもここに二人で居つくことになったのも、モンゴメリが寒さに耐えきれなかったせいだ。少しでも暖を取ろうと雪を避けたわけだが、皮膚がただれないと言うだけで冷たさはさして変わらない。

 モンゴメリが生物の本能や精神を惑わす性質を備えているように、ケイッティオはあらゆるものから熱を奪う、強奪の性質を持っていた。そのせいかケイッティオは寒ければ寒いほど生き生きとしているように見えた。彼女と共にレグドで目覚めた、全てに傷と痛みを与える力を抱えたギリヴと合わせれば、危険極まりない。
 マキナレアはそれぞれ特異な性質を持っている。モンゴメリは誘惑、ケイッティオは強奪、ギリヴは破壊、レレクロエは修復、ハーミオネは浄化、そしてミヒャエロは混沌と秩序を司っているのだ。いずれも全ての事象の持つ業を六つに分け与えられたに過ぎない。
 それぞれの組み合わせで生き物の感情は成り立っていた。そして、六人が同じ場所にいれば均衡が保たれているが、今はレグドにケイッティオとギリヴ、マグダに自分とミヒャエロ、サラエボにハーミオネとレレクロエがそれぞれ縛られているような状況だ。強すぎる力の偏りはやがて周囲に影響を及ぼす。事実、レグドでは暴力が絶えないし、マグダの民は快楽を貪っている。サラエボの民だけが平安を得ている。このままではマグダもレグドも滅びるのにそう時間はかからないだろう。そしてサラエボの二人は、このままの平和を維持したいからと人間側の都合で軟禁されているようなものだ。
 正直モンゴメリにとっては二つの地で人間が滅びようが自業自得でどうでもいいと思うのだが、共に過ごした情が無いわけではない。それに、マキナレアは人類を救うことを本能として植えつけられているのだから、自分の我儘な感情だけではどうしようもできないことでもあった。数日前から組み合わせを替えて新たに二人一組で行動しているのは、力の偏りを別方向へ向けさせて少しでもの均衡を図るためだ。
 しかし結局のところ、ギリヴとミヒャエロの組み合わせでは、行く先々で天災が次から次へと起こっていた。組み合わせ大失敗だ。このままでは世界を再建するどころではない。一刻も早く無理矢理にでもサラエボの二人を連れ出して、平衡状態に戻す必要があった。

 その道中でこの大雪だ。本当にろくなことがない。モンゴメリは舌打ちをした。

「ごめんなさい」
ケイッティオは静かに言った。
「あんたが謝ることじゃないでしょ。俺と一緒にいるからこうなっているんだろうから」
「そうかもしれないけど……」
ケイッティオは表情を変えないまま淡々と呟く。
「あなたがわたしと心通わせてくれれば、わたしの性質ばかりが強調されることもないかもしれない。あなたは魅惑の性質をもつ。そしてわたしは略奪。二つを合わせれば人の業の一つである愛欲だわ」
「何それ。恋の病熱とでも? それくらいでこの雪がやむなら苦労しないだろ。大体、俺は愛だ恋だは吐き気がするくらい嫌いだ」
 ケイッティオはそれ以上何も言わなかった。そのままおもむろに立ち上がり、外に出る。
「おい」
 ケイッティオは空を仰ぎながら、くるくると踊るように廻り続けた。彼女の白い肌に雪が落ち、そこにやけどや切り傷の痕を残していく。
「おい、やめろよ」
 その光景は目をそらせないほど綺麗だった。雪に愛されるべき少女が、雪によって血の痕を残していく。真っ白な雪原に落ちる紅の雫。
 身体が内側から焼け付く思いがした。今まで何度も、お互い雨の中で対峙し合ってきた。彼女の皮膚が焼けただれていく様など嫌と言うほど見飽きている。なのに、どうして今はこんなに痛々しく見えるのか。見せられていることが辛いのか。
「やめろって言ってるだろ!」
 ケイッティオはようやく動きを止め、静かにモンゴメリを見つめた。
「雪がきれいなのだもの」
 淡々とした声で応える。
「平気よ。明日には治ってしまうし、直にレレクロエにも会えるでしょう。そしたら手当してもらうわ。あの人はそれが役目だもの」
 そう言うと、再びケイッティオは雪原の上で静かに踊り始めた。モンゴメリは長い簾のような前髪を一束こっそりと手で掻き揚げた。ケイッティオは少しずつその顔をただれさせながら一心に踊る。まるでその痛みも愛おしいかのように。それはモンゴメリにはやはり理解できない行動だったが、その姿に目を奪われ、いつしか寒さは忘れていた。

 花弁のような雪はケイッティオと共にひらひらと舞っている。美しさを嗤うように。





三、傷だらけの世界

 泣いてばかりの自分が、本当は嫌いだ。

 心のどこかでまだ甘さを捨てられないでいる。そんなことは許されない身なのに。

 誰よりも壊し殺し尽くす、そんな欲求に支配されているのに。そんな力など欲しくはなかったのだと、あたしは何も悪くないのだと、そう言い訳を繰り返している。

 あたしはとても汚い。血で濡れるこの手が汚いんじゃない。どれだけのものを殺してもなお、これは自分が望んだ事なんかじゃないんだ、勝手にそう造られてしまっただけなんだと言い訳をしている。ごめんなさい、ごめんなさいと泣いて謝って泣き続けて、それで楽になろうとしている。楽になんかなるわけがない。あたしはこの後悔を、恐ろしさを、あたし自身に手向けているだけなのだ。そうすれば、悲劇の主人公でいられる。レレクロエはあたしに会う度に、「また悲劇のお姫様ぶってるね」と嘲る。それがとても辛くて涙が止まらない。胸の内がえぐられていく。彼はとても意地悪だ。そしてきっと、あたしに甘すぎる人だ。彼はそうやってあたしのことを貶し責めたてて、あたしが自分の心を閉じてしまうように仕向けている。そうすればあたしは自分の力を、望みもしないのに背負わされたこの業を、そしてそんな自分自身を可哀相だ、可哀相だ、と慰めて陶酔できるのだから。

 けれどそんなものは、ちっとも幸せじゃないのだ。あたしは、責めるんじゃなくて叱ってくれる人を求めているのだ。弱くて狡いあたしを、この汚い泥の中でちゃんと自分の力で歩いていけるように、生きていけるように、あたしにあたしの逃げを気づかせてくれる人が欲しい。けれどそう言うと、きっとレレクロエはあたしを蔑むだろう。そして他のみんなは、あたしを甘やかし慰めてくれる。レレクロエったら、言い過ぎだよ、と言って、かばってくれる。悪くないよ、仕方ないよ、と言ってくれるのだ。優しすぎる。どうしてそんなにみんな優しいのだろう。強くあれるのだろう。

 レグドで目覚めたとき、隣にいたのがレレクロエでなかったことにあたしはとっさに安堵した。そして、それがケイッティオだったことにも安心した。そこでもあたしは変わらず狡かった。ケイッティオが好きだから嬉しかったんじゃない。彼女は、マキナレアの中で潜在能力が一番高い子だった。あたしの力はたしかに人を傷つけるための嫌な能力だが、ケイッティオの力は本気を出せばあたしなんかよりもずっと残酷なのだ。だって彼女の力は、目の前のものから生きている証をすべて奪ってしまうのだから。跡形もなく。あたしよりも無慈悲な力を持った子がいるから、あたしだけが悪いと思わないでいられると思った。数えきれない生き物たちを何のためらいもなく殺していった挙句、その血に染まった手を自分の偽善的な涙で濡らすばかりのあたしに、ケイッティオは「大丈夫。あなたよりもずっと、わたしの方が醜悪で残虐な性質なのよ。あなたは人を傷つけるけれど、痛みは人の精神にも本能にも必要なものだわ。あなたはまだ制御が効かないだけで、正しいことをしているのよ」と言った。「わたしがもし制御が効かなくなったら、その時はギリヴがわたしを止めてね。あなたとなら安心して戦えるもの」と笑った。
 あたしはだから、ケイッティオが好きだ。優しさをくれたからじゃない。あたしよりもずっと残酷な運命に浸り続けるあの子を、あたしの力で守ってあげたいと思った。だからあたしは強くなりたい。泣かないあたしになりたい。あたしはケイッティオといて幸せだった。二人でいることでたとえ周囲の人間達が感化されてしまって暴行を働いていても、そんなことはどうでもよかった。人を殺すのは今でも辛い。けれど、自分が生き延びるために、別の人間を殺せだなんてあたしたちに命令するような人間なんか、みんな死んでしまえばいいんだ。あたしはケイッティオの傍にいたいだけだった。
 けれど、そんな時間も長くは続かない。人を救い導くために植え付けられた人間への情は、抗いようなどなくどうしても滅びゆく人たちを救わずにはいられない。だからあたしはケイッティオと別行動をとらざるを得なかった。サラエボの人間は、レレクロエとハーミオネを監禁している。あの二人がいればきっとサラエボは最後まで残ることができるだろう。彼らはそのせいでレグドとマグダが滅びてもどうだっていいのだ。あたしよりも醜い。そんなやつらのところに、どうして二人が縛られなければならないだろう。マキナレアの使命は人類と言う種族を途絶えさせないように尽くすというだけのことだ。ならば最終的にその目的が達成されればそれで済むじゃないか。あの二人を連れてみんなで逃げよう。残された時間は少ないのに、人間のくだらない争いに利用されて終わるだけだなんてまっぴらだ。

 そう思っていたのに。

 あたしは今も、何の役にも立たない。

 辛くなった。あたしをかばう様にして、雪崩も落雷も崖崩れも竜巻も、すべてその身一つで受け止めてぼろぼろになっているこの人を、あたしは癒してあげることもできない。あたしはやっぱり、傷つけることしかできないのだ。守らなくていいのに。あたしに罰を与えてくれればいいのに。
「ごめんね……ごめんね……」
 そう言って泣くだけのあたしの頬を、ぼろぼろに皮膚がめくれ上がった潰れた手でミヒャエロは撫でようとする。そんなことしてくれなくていい。あたしはただ自分可愛さに泣いているだけなんだ。あなたの傷を増やすだけ増やして、治せやしない自分を憐れんでいるだけなんだから。この胸の痛みも、あなたの受けた痛みに比べたら本当に小さい。
 それでも彼は、爛れた喉から一生懸命にかすれた声を振り絞る。
「だい……じょうぶ、だよ。少し眠れば、おれは、治る。あなたの、せいじゃ、ないから」
 ミヒャエロはあたしの涙を拭って、くすりと笑った。ケイッティオと同じことばかり言う。そんな優しさなんていらない。もっとあたしを詰ってくれたらいいのだ。
「ごめん……すこ、し、寝る……」
 ミヒャエロはすう、と静かに眠りに落ちた。あたしは彼の手を握っていることしかできない。確かに彼は、彼自身の持つ驚異の生命力によって、今も驚くほどの速さでぼろぼろになっていた身体を修復していった。けれど、どんなに早く傷が治るからって、彼が全ての災害を身体でたった一人で受け止めることなんてない。確かにあたしは回復が遅い。それは傷つけることしか知らないあたしの性質の代償だ。けれど痛みを受け止めることはあたしにだってできるのだ。あたしとミヒャエロの行く先行く先で、次々と天災があたし達を襲ってくるのは、ミヒャエロの混沌の力があたしの力を助長しているからだ。あたしの、破壊の性質を。あたしがいなければ、彼はこんな傷を受ける必要なんてなかった。なのに、それなのに。
 彼はこんなにもあたしを大事にしてくれるのだ。
 あたしは、この危うい人を、ケイッティオによく似た優しい人を、守れるようになりたいと思った。けれど今は、あたしは足手まといになるだけだ。
一刻も早くレレクロエ達を助け出さなければいけない。あの二人の力は癒しと浄化だ。あたしなんかよりもよほど、今のミヒャエロの役に立つだろう。これ以上彼に傷ついてほしくはなかった。
「ふふっ」
 ミヒャエロは笑った。短い金色の睫毛が震えて、瞼が薄く開けられる。彼の傷はいつの間にか全て修復されていた。それでもあまりにも早すぎる。きっと、治ったように見えるのは表面だけで、内側はまだ治りきっていないだろう。それなのに、彼はゆったりとした笑顔で優しく笑った。
「どうしたの?」
「夢を見てたんだ。すごく面白かったから、早く書き留めないと忘れちゃう」
「夢日記までつけているの?」
 ミヒャエロは毎日日記をつけている。まるで、いつか消えていくあたしたちの軌跡を残そうとでもいうかのように。
「夢日記というか、なんでも書くよ。これは覚えておきたいなって思うことは全部書いてるんだ」
 そう言って体を起こし、胸から小さな手帳を取り出して楽しげに筆を動かしていく。
「何の……夢を見たのか、聞いてもいい?」
「うん、君とケイッティオがさ、蓮華草の花畑に立っているんだ。雨を気持ちよさそうに浴びてた。けれどその雨は、なんの害もない、ただの水なんだ。二人ともはしゃいで遊ぶもんだから顔中泥だらけでさ、それがすっごく笑えるんだけど、花冠とかつけちゃって二人とも可愛いんだ。そしておれはそれを眺めてたんだけど、ふと振り返ったら、レレクロエが君のことを一心に見てた」
そう言って、ミヒャエロはにこにこと笑っている。
「え? そこで終わり……?」
「うん、それだけだよ。面白いじゃん」
「ど、どこが面白いのかさっぱりだわよ……しかもレレクロエに見られてるとか怖いじゃないの」
「だって、レレクロエって君と話してるときはいつも下種な笑顔しかしてないじゃない。それがすごくまじめな顔してたんだよ。それがもうおっかしくてさ」
 レレクロエに下種だなんて、案外ミヒャエロは肝が据わっているのかもしれない。あたしだったら怖くて無理だ。どんな意地悪をされるかわからない。
「真面目な顔してて笑われるなんて、ある意味レレクロエも難儀ね」
「そう? でも、ああこんな顔もするのかって微笑ましくてさ」
「微笑ましい?」
「うん。まあ夢だったけど、案外本当のことだったりしてね」
「何が?」
「内緒」
 つい、むっとしてしまう。ミヒャエロはいたずらっぽい微笑を浮かべていた。そして、あたしのぼさぼさの髪をそっと手に取る。ぼさぼさと言っても、ミヒャエロの髪も、あたしに負けじ劣らずとぼさぼさなのだから、案外髪への悩みは共有できるのかもしれない、とぼんやり考えた。ただ彼の髪は黒味がかった綺麗な品のいい金髪だ。あたしのど派手な色とは比べ物にならない。
「あなたは蓮華草のような人だね」
 ふと、ミヒャエロがそんなことを言った。
「そう?」
「うん。あなたは自分をよく責めているし、自分で自分の後悔とか嫌な気持ちでがんじがらめになって泥沼にはまってしまう。けれど、その中でも綺麗に咲き誇るんだ。きっといつか、あなたは僕たちの希望になるんだろうなって。その髪や眼の色もそっくりだよ。僕たちは暗闇に飲まれても、きっとあなたのその鮮やかな色を見て、道を見失わないでいられるよ」
 言葉が出なかった。ミヒャエロはとても感覚的にものを言う人だ。だから、彼の言葉の意味なんてちっとも伝わらないことの方が多い。けれど、訳が分からなかったけれど、あたしはその言葉に胸が詰まる想いがした。
「れ、蓮華草はそんなたいそうな花じゃないわよ。雑草だもの」
「でも、おれは好きだよ」
 希望だなんて。
 道を照らす光というのなら、それはむしろあなたの方でしょう。
 混沌と秩序。闇と光に愛された人。
 あたしは今、あなたにきっと救われた。
 あたしはいつの間にかまた泣いていた。ミヒャエロは黙ってあたしの頭を撫でてくれていた。年下扱いしないでよ。悔しい。本当に、悔しい。
 あたしはいつまで経っても泣き虫だ。けれどいつか涙にまみれた泥の中でも生きてていいというのなら。
 あたしでも、誰かの希望になれるだろうか。誰かの心を守れるだろうか。
 そんな日が来たら、きっともう死んでもいいのだ。









四、囚われの世界

 頬を玉のような汗が連なり撫ぜていく。世界に溜まった穢れは多すぎて、均衡が崩れている今は浄化も間に合わない。それでも、ほんの少しでもいいから抗いたいとハーミオネは思っていた。レレクロエは非効率的だと言って嗤うけれど。今日も今日とて、ハーミオネは自分にできる精一杯の力を解放する。あまりたくさん力を使うことはできない。自分の体が持たないからだ。今倒れる訳にはいかないのだ。私の力を必要としている人がまだ残っているのだから。けれど、この力は世界を癒すごとに彼女の身体を蝕んでいった。きっと、水溜り程度のものしか浄化されていない。そして、その努力も虚しく、世界はそれ以上の速さで崩れて行く。
 不甲斐ない。これほど粘っても何も成し遂げられない自分が、恨めしくて笑えてきさえする。一人きりでは余りにも無力だ。
「そんなにしかめ顔していると、いつかくっきり皺の痕が残って消えなくなるよ?」
 振り返ると、事の元凶が澄ました笑顔で眉間を指さしてにこりと笑った。
 ハーミオネは聞こえるようにため息をつく。
「誰のせいだと思ってるのかしら」
「ごめんね?」
 悪びれることもなく笑う。その紅紫色の眼には、好奇の色しか浮かんでいない。
「おかしいなあ。君は皆といる時はいつだってへらへらしているのに、僕といる時はあまり笑ってくれないんだね」
「あなたが面倒事を増やさないでいてくれるんだったら、私だっていくらでも笑ってあげるわ」
 ふう、と静かに息を吐く。今日はもうこれが限界だろうか。自分の体力の無さには辟易してしまう。
「というか、虐める対象がいないからっていつもいつも私で鬱憤を晴らさないでくれる? 私はあなたのお母さんでもお姉さんでもないのよ。甘えるのもいい加減にして」
「だったら、僕は一体どうやってこの苛つく気持ちを解消すればいいんだよ」
「知らないわよ。そもそも苛々をため込まない努力をしなさいよ」
「無理に決まってるからこうして君に八つ当たりしてるんだろ」
 そう言って、まるで小さな手のかかる子供みたいにレレクロエは膨れ面をする。全く、そんな顔をして可愛いとでも思っているのか。苛つくのはこちらの方だ。口の端がぴくぴくと引きつってくる。
「大体ね、あなたがここの人たちに余計なことを言わなければこんなことにもならなかったのよ。あなたは何にもしないし。人の仕事ばっかり増やして、悪いとはこれっぽっちも思わないわけ」
「いいんだよ、これはこれでさぁ。直にあの四人が僕らをここから連れ出してくれるだろうさ」
 まるで興味なさそうに言うと、レレクロエは急ににやりと笑って、右手で右目を覆い、左手をさっと前方に掲げて伸ばす。
「計・画・通・りっ」
 げんなりとした。なんなのだろう、その格好は。格好いいとでも思っているのか。決まってない。どや顔をするんじゃない。
 レレクロエのこういう訳のわからない性格を知っているのは、自分くらいのものなんじゃないかとハーミオネは思う。何故かはわからないけれど、まるで愛玩動物になつかれているようなものだ。それも小物感たっぷりの。
 他の人といる時は彼は鬼畜ぶることしかしない。いや、それも彼自身の性格ではあるというか、彼の趣味ではあるのだが、実際にはこういうしょうもない男なのだ。けれども見た目だけは、草色の髪に紅紫の瞳、睫毛はばっさばさで小顔で天使みたいな美少年だから、どうにも惜しい。惜しすぎる。
「計画通りって……。どうしてわざわざ人間同士の諍いに拍車をかけようとするの? 私達は彼らを救うためにここに居るのよ?」
「拍車? 君こそ何言ってるのさ。元々彼らは争っていたじゃない。それが、僕達っていう便利な道具が現れたから利用してるだけだろ? 僕がそれを利用したっていいじゃないか。ていうか、別に僕達の目的は人類っていう種を絶滅させないようにするってだけのことなんだから、人類に縛られとく必要はないでしょ。僕達は僕達で好きに生きていいじゃない。どうせいつかは消えてなくなるんだから」
 そう言ってレレクロエは歩みを進めて雨を浴びた。
「この雨だって、元はそのためのものだろうさ」
「そんなことないでしょう。たまたまよ。錬金術師の雨を利用しただけに過ぎないわ。この雨に融けることで世界を救えるように、私達の身体をそう作っただけ」
「どうだかね」
 レレクロエは嘲るように空に嗤った。この人は時々こういう表情をする。偶に、彼が本当はどういう人なのかわからなくなる。けれど深くは考えたくなかった。いくら同じマキナレア同士とは言っても、踏み込んでいけない領域と言うものはある。

 レレクロエとハーミオネが目覚めた地は、恐らく他のどの地よりも荒れ果て、人々は流行病に怯えながら暮らしていた。
 この世界でマキナレアが目覚めたのも、サラエボが最初だった。彼らは地下の奥深くで棺に入れられ眠り続ける二人を見つけ出した。最初に目を覚ました時、目に映ったのは自分たちの前で跪きひたすらに祈りを唱えるぼろぼろになった人々だった。彼らと共にあったのが自分達であったことが、サラエボにとっての救いだっただろう。他の四人の持たない慈愛の力を二人だけが持っているのだから。
 ハーミオネは彼らを哀れに思った。戦争で若い男を次々と無くし、女子供と老人だけで、この埃にまみれた廃墟で怯えるように生きるこの人間達を。助けてあげなければ――母性のようなものが強くハーミオネを支配した。ハーミオネの力で彼らの病や穢れを洗い流す。そこにレレクロエの修復と涵養の力が働いて、人々を癒していく。サラエボの民は少しずつ元気になっていった。それでも、残りの二つの地から兵士たちが攻め入ってくるから、その間は戦わなければいけない。戦いにハーミオネとレレクロエは無力だった。人々と力を合わせて戦わざるを得ない。
 レレクロエの緑を繋げる能力はいささか役には立った。今の防壁も、レレクロエが編み直した蔦の絡み合う簾を、ハーミオネが周囲の岩石や土と融かし合わせて強固にしたものだ。人間からの攻撃くらいはなんとか防ぎきることができる。けれどレグドとマグダは、自分たちの力が及ばないと知るや否や、今度はマキナレア達を利用し始めた。マキナレア同士で戦うだなんて馬鹿げている。けれど四人はそれを受け入れていた。戦うことは確かに人々にとって一時しのぎの救済に見えるだろう。その錯覚に付け込んで、彼らは戦うことでいつか来る終焉までの時間を先延ばしにしようとしている。見ないふりをしようとしている。

 そんなことは許されない。けれど、ハーミオネには四人を止める術がなかった。


 そんな状況の中でレレクロエが唯一やったことと言えば、サラエボの民に、本来人類にが必要のない知識を付けさせたことだ。
 このままマキナレアをばらばらにしておけば、世界の均衡はいつか崩れてしまうこと。六人は六人いることによって世界の均衡を保つのだ。だからいつかは自分たちは一つの地に集う必要がある。けれど、だからこそこれは好機なのだと。

『レグドとマグダにいる四人は、攻撃的な力を持つ者達なんだ。レグドの二人の力は破壊を助長するし、マグダの二人は人間の快楽と、そしてそれに伴う破滅に繋がっていくだろう。このまま放置していれば、あの二つの地の人間が自滅するのもそう遠くない。僕たちは二人で癒しを司るから、あなた達に害はない。あなた達をこんなにも苦しめてきたやつらなんだ。滅びていいじゃないか。新世界にそんな醜い人間など必要はないよ』

 サラエボの民は、防壁を固めて籠城を決めた。事実上の自分達の軟禁だ。今、彼らは二人を外に出すことをひどく恐れている。失うことに怯えているのだ。


 そうして、世界の歪みはもはや無視できないほどに膨れ上がっていった。ハーミオネにはそれを放っておくことはできない。常に全体を見渡せるようにと、使命に忠実に造られた。それはハーミオネにとっての業だ。だからハーミオネは、自分の受容と交錯の力を使って、毎日のように世界の力の偏りをどうにか融け合わせようと努めている。
 それでもやはり、強すぎる傾きはハーミオネ一人の力ではどうにもならなかった。ただの気休めだ。大地は見る見るうちに荒廃を悪化させていく。それなのに、それを唯一正しい姿に直せるはずのレレクロエは何もしない。

 ――何を考えているのかわからない。

 人類を選別するとでもいうのだろうか。かつて神が作り出した箱舟の世界のように。そんな権利は自分達にはない。許されない。
 たかが絡繰り風情に何ができる。
「本当に、あなたは何がしたいの? そろそろいい加減にしてよね」
 怒りさえ込み上げてくる。その言葉に、レレクロエはぞっとするような美しさで口の端をにやりと釣り上げた。
「そうだなあ……ここからミヒャエロ達が囚われの僕達を救い出してくれる、とかいう場面があったら素敵だと思わない? まるで昔のお伽噺のお姫様の様にさ。塔に囚われた美しい姫。長い金髪を編みこんで縄にして、ずっと助けを待っていたけなげなお姫様の話があったでしょ? ほら、君も同じじゃないか、綺麗な三つ編みのお姫様だ」
 そう言って、芝居がかった動作でレレクロエはハーミオネの薄青がかった白金色の三つ編みの房を手に取り、口付けた。
「ラプンツェルのこと? あなた馬鹿なの? 馬鹿なんでしょう。その妄想、本当に気持ち悪いんだけど」
「ひどいなあ。君のために用意した台本なのにさ」
「嘘ばっかり。自分のためでしょ? 正直に言いなさいよ。大体、そんなことじゃあギリヴがあなたを助けに来るなんて思えないわよ」
「誰もギリヴとは言ってないだろ」
 レレクロエは顔をしかめる。
「あら、そういうところがまだ餓鬼だって言ってるのよ。もう少し大人の返しを覚えることね。ばればれなんだから」
「勝手に誤解しないでくれる。もういい。興がそがれたよ」
 レレクロエは棘のある声でそう言うと、ハーミオネの三つ編みを払いのけ、踵を返した。
 ハーミオネもその後ろ姿を睨みつける。苛々しながら三つ編みを撫でていると、ふと違和感に気付いた。
 芥子色のリボンだった。いつの間につけたのだろう。
 それを手慰みながら、ハーミオネは嘆息した。ギリヴの鮮やかな髪色に、きっとよく似合うのだろう。

 ――本当に、いくじなし。

 けれど、それは自分もそうかもしれない。
 ハーミオネは今は会えない人を想った。また無理していないといい。あの人はすぐ無茶をするから。思い出の中の彼はいつも笑っている。このリボンと同じ色の優しい眼をした優しい人。あの人は泣かない人だから、私も笑っていたい。レレクロエといると苛々するけれど、それは結局自分も大人になりきれていないからなのだ。私は、混沌の狭間で全てを受け入れたように揺蕩うあの人を支えられる私になりたい。そのための成長だと思えば、レレクロエといるのも悪くはない気がした。

 雨は容赦なくハーミオネの頬を焼いていく。ハーミオネは瞼を閉じた。このくらいの痛み、どうということはない。





五、風降る世界

「手を貸す?」
「煩い」
 ぜえぜえと息つき汗をだらだらと流しながらあくまで自分を拒絶するモンゴメリを、ケイッティオは憐みのこもった面持ちで見つめる。
 マキナレアとは言っても、全員身体が頑強だったり身体能力が超人的であるというわけではない。それぞれの能力に特化した身体を持っているというだけのことだ。戦闘向きなギリヴは跳躍力も含めて運動能力が著しく高いし、外界からの様々な影響を受けやすいミヒャエロは、傷つく分早く回復できるように強い生命力と免疫力を持っている。強奪のケイッティオは、他者からあらゆるものを奪う代わりに、自分は奪われにくくなっている。だから、ケイッティオは体力も人並みだというのに、体力の目減りが小さく、めったなことでは疲れを感じずに済んでいる。
 ケイッティオは自分以外の者の疲れや具合いの悪さにあまり共感することができない。当然、痛みにも鈍い。そのせいで、以前瀕死の傷を負っていたのに気付かず戦っていたことがあった。痛みを感じにくいからと言って、回復力は普通の人間とさほど変わらない。かといって死ぬわけでもなく、死にそうな状態にあっても、具合いの悪さをあまり感じないで済む。
 けれどそれは、生き物としてはおかしいことなのだと知った。子供と言うのは聡く、そして残酷だ。レグドの小さな子供達は、血を流し肉をえぐらせた状態でも平気で歩くケイッティオに、それは変だと言った。おかしいよ、おねえちゃん、と。痛いならもっと痛がっていいんだと言った。けれど、ケイッティオにとっては痒いくらいの痛みでしかない。
 だから自分は、とても異常な生命体なのだ。こうして瓦礫の山を額に汗をにじませながら懸命に上ってくるモンゴメリが、実際にどれくらいの無理をしてどれくらいの苦しさを感じているのか、知ることができない。共感してやることもできない。モンゴメリのせいでなかなか思うように進めないことにわずかな苛立ちを覚えるだけだ。
 そして、モンゴメリと言えば、誘惑と扇情の力を持っているのだから、人の母性や庇護欲をかきたてる性質があるはずなのだ。彼の能力は特に何か役に立つわけではない。いつか新世界へ旅立つ人々が感情を喪失することのないよう作られた特異なマキナレア。言うなれば彼は赤子のようなものだ。これと言って特化した身体能力があるわけでもない。彼は人の庇護欲を掻き立て、それによって守られ生き延びるようにできている。
 けれど、彼は己のそれをひどく憎んでいた。だから彼は自分のための自分の能力を無意識に封じてしまっている。おかげで、元々感情が希薄なケイッティオは今現在ますます彼に対して思いやりを持ってやることができない。

 長年の雨に晒され風化した建物の墓場は、砂のように崩れやすくなっている。時に雨の止むような日には、その砂を風が上空へと巻き上げていく。それは雨上がりのこの灰色の世界でしか見られない閑散とした光景だ。砂は喉の奥に張り付いていく。ケイッティオは反射的に咳をしながら、雨を恋しく思った。たしかに雨は痛いものだ。けれど、空も地も空気も、全てが水に満たされた世界の方が好きだった。凍える冷たさ、むせ返るような湿気。苦しい世界は、自分も等しく生きているのだと感じさせてくれる。
 モンゴメリが酷く咳込んだ。長い前髪の奥に、ケイッティオは湿るものを見た。ほんの僅かに胸の奥が傷んだ。ケイッティオは彼の手を掴んだ。
「やめ、ろ」
 咳込みながらそれでも拒絶しようとするモンゴメリを引っ張る。やがてモンゴメリは抵抗をやめて、大人しくケイッティオの手に引かれて頂上へ座りこんだ。
 ――どうしてあなたはそんなに悔しいの。
 わからない。彼が自分の瞳をそんなにも嫌っている気持ちも理解ができない。どうして、人に愛されることを許されたこの人が、こんなにも人を、自分を拒むのだろう。
 顔に張り付く前髪を剥がしてやろうと手を伸ばすと、鋭くはねのけられた。
「触るな」
 ――綺麗なのに。
 悲しいと思った。ケイッティオは、一度見たきりの彼の紅玉のような瞳が嫌いではなかった。初めて造られ、棺に入れられるまでのほんの少しの間。
 彼はその時はまだ、目を隠してはいなかった。手負いの獣のような鋭い眼差し。
 あの美しい眼で、憎しみや恨みや色んなものがないまぜになった敵意の眼差しを向けられたとき、痛みに鈍いはずの自分の心が、痛いと叫ぶのを聞いた気がした。
 ――どうしてそんな目で私を見るの。
 久しぶりに会った彼は目をすっかり隠してしまっていた。心も見えなくなった。
 なぜだか傷ついている自分に、戸惑いを感じた。
 ――あなたのことが知りたかったのに。
 サラエボへ向かうまで、世界の均衡を少しでも元に近づけるために別々の組み合わせで行動しようと言い出したのはミヒャエロだった。目の前が紅くなった。血が体中をぐるぐると巡っていった。気が付いたら、ケイッティオはモンゴメリの袖をつかんでいたのだ。
 あとは何を言ったのか覚えていない。よく回る頭が、よく回る言い訳をひねり出していた。
 彼の唇は、いつも血が滲んでいた。唇を噛むのは癖だった。彼が笑ったところなど、見たことがない。
「おい、その真新しい蔦の壁がそうなんだろ。早く行かないのかよ」
 モンゴメリはぶっきらぼうに言う。よくまあその前髪で見えているものだと思う。
「あんたがあの蔦の生命力を奪ってしまえば事足りるだろ」
 ――残酷なことを言うわ。
 いつだってあなたはわたしを無自覚に傷つけるのね。わたしはあなたの言葉に傷つくのね。
 それが植物だろうと動物だろうと、誰が好き好んで命を奪いたいだろう。
「じゃあ……あなたは、あなたの命をわたしが奪えば笑ってくれるの」
 風の音も聞こえない。
 呼吸の音だけが耳にまとわりつく。
「何言ってんの?」
 戸惑うようなモンゴメリの声が、どこか遠いところから聞こえてくる。

 ケイッティオは焦っていた。どうしてあんな変なことを言ってしまったのだろう。そんなこと思ってもいなかったのに。変な子だと思われてしまう。気持ち悪いと思われたらどうしよう。
「い、嫌味よ」
 我ながらお粗末だ。声が震えた。けれど表情一つ変えずに言えたと思う。誰かに褒めてほしいくらいだ。
 モンゴメリはしばらく黙っていた。しばらくして、にやっと口元が歪んだ。
 どきっとした。心臓がどきっとするようなものだなんて知らなかった。どきってなんだろう。訳が分からない。そもそもわたしが見たかったのはそういう顔じゃない。あと、目が隠れているから意味がない。
「何か? 俺に笑ってほしいとでも言ってんの?」
「い、言ってない。笑ってほしいだなんて言ってない」
「じゃあどういう意味?」
「意味なんかない」
「へえ。命を奪いたいほど笑ってほしいんだ。へえ」
「ち、ちがう! たまには笑えばいいのにって思っただけ……」
「なんであんたのために俺が笑わなきゃいけない? それで何か俺に得はありますか」
「と、得はないかな!」
 くはっ、と吐き出すようにモンゴメリは笑った。こんなに声を押し殺して、肩を震わせて笑うのを初めて見た。ついでに目も見せてくれたらいいのに。何が面白かったのかわからない。
 ――ああ、これだからわたしはだめなんだわ。
 人の気持ちにまったく共感ができない。
 本当は共感したいのだ。みんなと気持ちを分かち合いたい。
 モンゴメリは何度か息を整えると、片手を額に当てた。
 あまりにも自然すぎて、掻き上げられた前髪の後ろから覗くその柘榴の色が自分に向けられていると気づくのに時間がかかった。
「はは……おまえ、顔が真っ赤」
 そう言われて初めて、ケイッティオは自分が見つめていたものが彼の瞳だったことに気付いた。あ、と声が漏れそうになる。けれど彼はすぐに前髪を下ろしてしまった。夢だったのかもしれないと思ってしまう。
「ほら、早く行こうぜ」
 心なしか、声が優しくなっている気がした。小さく呼吸を整えてから、ケイッティオは首を振った。
「まだ、だめ。ギリヴ達が来てから」
「は?」
「あの……多分、だけど、ギリヴが最初に行った方が、多分喜ぶ、から」
 舌がうまく回らない。何度も口の中で噛んで、痛みはあまりないのに泣きそうになってしまった。
 モンゴメリは鼻で笑うと、外の景色を見つめた。風が二人の髪を撫でていく。
 言葉を交わすことはもうなかった。けれど、この荒廃した世界で、砂を巻き上げていく風の中で、静かに大地を見つめる時間が、好きだと感じていた。









六、眺めぬ世界

「あれ? 待ってたんだ?」
 瓦礫の山を登りながら、ミヒャエロがそう声をかける。手を貸しながらケイッティオは頷いた。大きくて武骨な手。彼と手をつなぐとどこか安心する。ミヒャエロはありがとう、と言ってふにゃりと笑った。
「ケイッティオー! 会いたかったよー!」
 わぁん、と泣き叫びながらギリヴが勢いよく跳躍してケイッティオに抱きつく。ケイッティオは嬉しそうににっこりと笑う。
「ギリヴ、大丈夫だった? 仲良くできた?」
「うんうん!」
「あんたもガキのお守りで大変だな」
 モンゴメリはミヒャエロに言って、ふん、と鼻で笑った。
「ちょっと、それどういう意味よ」
「まあまあ」
 ミヒャエロはギリヴの頭を撫でる。そして、そっとケイッティオに耳打ちした。
「大丈夫だった?」
「何が?」
「うん……何もなかったならいいんだ」
 ミヒャエロはどこか悲しげに笑う。
「ミヒャエロは? また無理してない? 自分の回復力にあまり甘えないで」
「あー……えっと、えへへ」
「ケイッティオからも言ってやってよー……この人自分から怪我しに行っているようなものだったんだから……」
「あっ、それは言わない約束――」
「何のこと」
 ケイッティオはにっこりと笑った。
「あ、その、これは、ね」
 ミヒャエロはたじたじとしている。これではどちらが年上かわからない。
「わたし言ったのになあ。今度隠したら絶交するって言ったのになあ」
「わーっ! ごめん、ごめんって! 後生だから見捨てないでください!」
「……あんた本当に俺の年上かよ……」
 モンゴメリが呆れたように呟く。
「見捨てるなんて言ってないわ」
 ケイッティオは苦笑する。こんなに危なっかしい人を見捨てられるわけがない。
「えへへ」
 ミヒャエロは何故だかとても嬉しそうに頬を掻いた。
「で、どうするの? 大勢で押しかけちゃって、怖がられないかしら」
 ギリヴが腕をまくりながら言う。
「あんたら攻撃班がさっさと破壊すればいいんじゃないの」
「ちょっともー。あんたはすぐそうやって実力行使に出ようとするわね!」
「当たり前。その方が俺が楽できる」
「うわ、最悪……」
「ふふ」
 ミヒャエロが言い合う二人を見ながら柔らかく笑った。ケイッティオは首をかしげる。
「なあに」
「ああ、なんか嬉しいよね、こういうの。つい最近までさ、敵みたいにして戦ってたじゃない。そういうのなんか悲しいじゃんか」
「そう……そうね」
 ケイッティオも静かに頷く。
「それで、結局どうするつもり」
 モンゴメリが先を促す。
「元々、軟禁されているあいつらを連れ出すためにここまで来たんだろ。話し合いにやつらがやすやすと応じるとは思わないんだけど」
「それは…あたしもそれは思ってたけど…」
 ギリヴは唸る。
「ケイッティオはどう思うの?」
 ミヒャエロが優しく言った。
「あなたこそどうなの」
 ケイッティオはミヒャエロを見つめた。
「おれ? おれは別にどうでも構わないよ? みんなに合わせる」
 その返答に、ケイッティオは思わず深く嘆息した。
「またそうやって人任せにするんだから」
「あはは」
 あまり反省していない風でミヒャエロが頬を掻く。
 ケイッティオはしばらく考えた。強硬手段に出るのは一見容易いが、サラエボの人々に恐怖を植え付けてしまうかもしれない。それでなくとも、敵が攻めてきたと怖がって心を開いてくれなくなってしまうのではないかと思う。
 かと言って、話し合いをしても、二人を正当に連れ出す理由をうまく思いつかない。正直に話してしまえば六人は一緒にいないとだめだから、という単純な理由でしかないのだが、そのあたりを説明するのにも、人間に余計な真実を伝えなければいけない。
 そしてそれはとても残酷な真実だ。今まで信じていたものがまやかしだったと知った時、彼らがどれほど絶望に落とされるのか想像はつかなかった。苦しい思いをするのは自分たちでいいのだ。そのために造られたのだから。彼らが知らなくていいことが、世界にはたくさん残っている。
「レレクロエは……」
 ケイッティオは、あまり考えのまとまらないまま呟いた。
「あの人は、多分わたし達が壁を破壊して乗り込んでくるような集団だと思っているだろうし、それを望んでいるような気がする」
「ケイッティオ、それはちょっと語弊があるわよ。あの人はさらにその上で本当にそれをやったらあたしたちを物凄い嘲り笑いで罵るのよ……あの人のことだからケイッティオがそういう結論に至ることも想定済みだと思うの……」
「うん」
 そうだろうなと思う。レレクロエはそういう人種だ。彼が彼にとって【退屈なもの】を虫けらのように見下していることも知っている。彼はもし自分たちが大人しく登場したら、途端に興味を無くすだろう。

 レレクロエは一人だけ特殊だった。ケイッティオがそう感じているだけかもしれない。まるで役割も何もかも、すべて自分たちと違う組成でできているかのような――。同じ機功であるはずなのに、巧妙に隠された差で、異質さを秘めているように感じる。彼は本当は、自分たちのことを仲間だとは毛ほども思っていなのではないかと、不安になる。その不安が何に由来するのか、ケイッティオには判別がつかないけれど。

 一線を引いている、というようなものだろうか。

 ケイッティオにはレレクロエが、彼自身が誰とも違うものだと、同じものではないからと一歩引いた世界を歩いているように思えた。同じものになりたかったものが、とうの昔に諦めてしまったような。
 だから、レレクロエの望みは叶えてやらなければいけないような気がしていた。彼はいつ見ても渇いていた。その渇きを癒す術をケイッティオは知らない。そしておそらく誰も、そんなことすら彼に対して考えてはいないのだろう。
 ケイッティオは、異質な欠陥品であったから。
 なんとなくわかるのだ。みんなと同じなはずでいて、同じになれないとどこかで悟らざるを得ない。そういう時の気持ちが、わかってしまう。皆の中で最後に造られた彼の、どこか隔てられた気持ち。
「サラエボは、他の二つの地と比べて非力で、流行病に苦しんでいる魔の地だと誰かが言っていたわ」
 ケイッティオは静かに言う。
「それが本当だとすれば、ハーミオネがそれを放っておけるとは思わない。多分彼女は、今もあそこに居続けることが自分の役目だと思って囚われているかもしれない。あの蔦壁は……ただの岩に絡みついた蔦じゃないわ。石膏に精密に編みこまれている……あれはレレクロエだけでなくて、ハーミオネも力を使ったのだわ」
「いいように言いくるめられてるんじゃないの」
 モンゴメリはだるそうに言った。
「レレクロエなら、ハーミオネの正義感を煽るくらい簡単にできるんじゃない」
「つまり」
 ギリヴはわなわなとこぶしを震わせた。
「またあの人がハーミオネを言いようにたぶらかしたってことね」
「いや、まだそう決まったわけじゃないだろ」
 ミヒャエロが静かにたしなめる。
「多分、何か考えがあってのことだと思うよ。レレクロエは俺たちが考えるよりもずっと色々抱えてるから」
「でも、」
 ギリヴは言いつのった。
「でも、あの人がただの子供じみた人だってことには変わりないもの!」
「その餓鬼にいいように遊ばれてるからってムキにならなきゃいいじゃん」
「モンゴメリったらもう黙っててよ!」
 ギリヴがかんしゃくを起こす。ケイッティオは嘆息した。
「まあ、あの壁一つみても、ハーミオネが相当に参っているには違いないと思うよ」
 ミヒャエロは静かに言った。
「追い詰められてるというか」
「わかった、もう許せない」
 ギリヴは口をぎゅっと引き結んで飛び降りた。
「あーあ。どうするの。血が上ってるじゃん。あいつも大概餓鬼」
「君が相当に煽ったのもあると思うけどね」
「俺の主張は一貫してるよ。楽したい」
「あ、うん……そうだったよね」
 ミヒャエロは嘆息して、ケイッティオを見つめた。
「どうする? 止める?」
 ケイッティオは俯く。
「わからない……人の話、最後まで聞いてくれたらいいのに」
 ミヒャエロは苦笑して、ケイッティオの頭を撫でた。
「まあ、あんな岩壁で固めてたら空気の通りも悪いよ。新鮮な空気を入れてあげるのも悪くはないよね」
 いつのまにか、モンゴメリはギリヴの後を追って飛び降りていた。体力がない割に行動力だけは人並みだ。
 ミヒャエロがケイッティオの手を引く。二人は急いで後を追った。












七、解れる世界

「おい、使徒さま。これどうやればいいんだ」
 可愛くない口調で、絡み合った赤い毛糸の塊を押し付けられる。レレクロエはそれをじっと凝視してから、小さく嘆息した。
「ねえ、聞いていいかな。これは一体何のなれの果てなのかな?」
「う、うるさい!」
 毛糸と同じ赤い頭をした幼い子供は、顔を真っ赤にして頬袋を膨らませた。
「僕は貶してなんかいないんだけどなあ。何を作るつもりだったのかわからない限りは直してやりようもないからね」
 レレクロエは整った笑顔で言う。嫌味を込めている。餓鬼相手というのに、だ。
「…………くま」
「くま」
「そ、そうだよ!」
「へえ、赤いくま、ねえ」
「な、なんだよ! 他に色がなかったんだよ!悪いか!」
「さっきから突っかかるねえ。僕は悪いだなんて一言も言ってないじゃないか」
「……なんか嫌な感じする」
「そう? 君は聡い子だね。将来有望だ」
「ゆうぼう?」
「将来いい僕の遊び相手になってくれそうだよ」
「それはえんりょしたいんだぜ…」
「あれ、遠慮なんて難しい言葉は知ってるんだね?」
「う、うるさい! これでもおれはゆうしゅうなんだからな!」
「へえ~。その割に手先は不器用なんだねえ。何これ。毛虫にしか見えない」
「うわぁん!」
 子供はついに泣き出す。レレクロエはつまらなさそうに彼を見つめる。
「馬鹿だなあ、泣くなよ。正直な感想を言ったまでじゃない」
「使徒さまはいつもしんらつなんだよ!」
 確かに色々と難しい言葉を知っているようだ。案外、ハーミオネの言葉を真似しているのかもしれない。
「というかさあ、これ誰にあげるの?まさか君の可愛い弟とか言わないでよ」
「使徒さま……ジゼルは確かにおれが見てもかわいいけど……まさか使徒さまにそんな趣味があったなんて……」
「君それ意味が分かって言ってんの?」
 レレクロエは嘆息する。似合わず大きな声を出してしまった。少年――アビゲイルは至って真面目な顔をして答えた。
「今度何か使徒さまに言われたらそう言えってもう一人の使徒さまに言われた」
 ――あの女……!
 レレクロエは歯ぎしりする。普段の仕返しのつもりか。そちらがその気なら、手加減は無用と言う事か。
「ジゼルが、くまのぬいぐるみが欲しいと言ったから。昔の絵本に載ってたんだ。誰も欲しがらなかったくまの話。ジゼルは『僕が大切にしてあげるのに』って泣いたんだ。だからあげたかったけど……この辺にはもうそんなものは残ってないから……作れるかと思って……」
「そんなの、そこら辺にいる婆さんに教わりなよ。みんな編み物得意じゃない」
「く、くまの作り方は知らないって言われたんだ」
 レレクロエは何度目になるかわからない大きなため息をついた。
「あのさあ、確かに僕は才色兼備で天才だけど、なんでもできるとか思わないでよ。めんどうくさい」
「使徒さまにも無理なのか……」
 アビゲイルは露骨に肩を落とす。
 ――くそ、調子狂うな。
 レレクロエは苛々としながら前髪を掻き上げる。
「できなくはないけどさあ……」
「えっ」
 アビゲイルが勢いよく顔をあげる。
「でもさあ、これって兄貴である君が作るから意味があるんでしょう。僕が素晴らしいものを作ったって意味がないでしょ」
「作ってくれるの!?」
「話聞いてた? ああもうめんどうくさいな!」
 レレクロエは頭をがりがりと掻く。
 人のために何かをするのはまるで性に合わないのだ。なのに、アビゲイルを筆頭に、ここの餓鬼共にはなんだか調子を狂わせられる。アビゲイルは最初からレレクロエに馴れ馴れしかった。物怖じしないというのか。それ自体はいいことかもしれない。レレクロエは干渉されるのは好かないのだ。それなのに、アビゲイルのせいでいつのまにかレレクロエは子供たちに異常に懐かれるようになっていた。
 餓鬼どもは嫌いだ。すぐ零すしすぐに転ぶ。めんどうくさいのに、結局何度服の解れを縫ってやったり、怪我した足を洗ってやったかわからない。そして、子供たちの中でも特にアビゲイルはいらない時でもレレクロエに話しかけてきた。
 確かにレレクロエは一通りの生きるための所作は叩き込まれてきたから、何でもそつなくこなせるけれど、かといって万能な神様のように困った時の神頼みされても困る。

 レレクロエは子供達に対して作り笑いをするのをとうの昔に諦めていた。

 どんな嫌味を言っても通じない。どんな酷い言い方をしても、泣くのは一瞬だけ。次の瞬間にはけろっと忘れたようにまた付いてくる。

「作ればいいんでしょ……作れば」
「まじか! ありがとう使徒さま! ジゼル連れてくる!」
「は? 待て、やめろったら! ああ……もう……」
 子供はそして、行動も早い。
「ああもう……」
レレクロエは苛々と髪を掻きむしる。
「くそ……」
 絡まった糸をほぐす。
「あーあもう。なんでここまでひどく絡ませるかな。信じらんない。不器用でできない屑なら最初っから何にもやらないで寝とけばいいのに」
 ぶつぶつと悪態をつきながらちくちくと針を動かす。
 見る見るうちに、それはくまの頭の形を為していった。こんなことですら天才的に作業の速い自分に若干辟易する。
「レレクロエ!」
 頭上から怒鳴り声が聞こえてきた。ああもううるさいな。今日は僕機嫌が超悪いんだけど。
「レレクロエェ! そこにいるのはわかってんのよ! 出てきなさい!」
 うるさいな。うるさいなうるさいな。なんでいるんだよ。なんでここにほんとに来ちゃうんだよ。馬鹿なんじゃないの。救いようのない馬鹿なんじゃないの。
「さっさと出てこないとこの壁を壊してやるわよ!」
 勝手にしろよ。知らないよ。
 レレクロエは鼻をすすった。顔をしかめながらちくちくとせわしなく針を動かす。
「レレクロエェ! あとハーミオネ、大丈夫? 酷いことされてない?」
「呼んでるけど」
 いつの間にかハーミオネが傍らに立って、声をかける。
「というか、あなたは何やってるのよ……」
「優しい優しい使徒さまが、今可愛い子供たちのために人形を編んで差し上げてるところだよ。邪魔するなって言ってきて」
「……自分で言いなさいよ。ギリヴったらなんだかすごい剣幕よ」
 ――知らないよ、あの馬鹿。
 レレクロエは舌打ちした。なんなんだあの女は。いつもいつも僕に苛められてべそかいてるくせに。僕に敵うとでも思っているの? 雑魚風情が。
「ちょっと……その手の動き気持ち悪いんだけど……速すぎて……あなたもうちょっと人間規格でいなさいよ」
「うるさいなぁ。気安く話しかけないでよ。僕は優秀なマキナレア様だよ」
 頭上の蔦壁からは、まだギリヴの怒鳴り声が響いてくる。サラエボの住民が、何事かとざわめき始める。
「使徒さまー! 何が起こってるの? ジゼル連れてきたよ……ってすげえ! 何これ! ほらジゼル、お前のために使徒さまがくま作ってくれてるぞ!」
「うわぁ……すごい……っ。使徒さまありがとう…! あれ? でもこのくま手足がないよ……」
 アビゲイルと同じ真っ赤な頭をした一回り小さい少年がか細い声で鳴いた。
「後で作るんだよ。黙ってみてなよね」
 レレクロエは吐き出すように言って、立ち上がった。壁が轟音を立てて崩れ落ちたのと同時だった。
 石の粉が埃となって巻き上がる。
 咳込みながらこちらを睨むギリヴと、案山子のように突っ立っているだけのモンゴメリ、呆れたような顔をしているケイッティオと、おろおろしているミヒャエロ。
 レレクロエは作りかけのくまを片手で握りながら、裂けるような笑みを口に浮かべた。隣でハーミオネがびくっ、と肩を震わせたがどうでもいい。
「やあ、ようこそ。相変わらず畜生にも劣るおつむだ。君は猪か? それともただの豚だったかな。ああ、そんなこと言ったら豚に失礼だね。彼らはもっと綺麗好きだ」
「う、うるさいわね! そっちこそなんなのよ! こんな周到な壁用意しちゃって!」
「君ね、僕に口答えしていい身分だとでも勘違いしてるの? レグドで崇められて調子に乗っちゃったかなあ? 君みたいなできそこないでも、ただの人間にとっては神様みたいに見えるだろうからね。特に君はその派手な容姿がまるで空想話の女神のようにも見えたんだろうねえ? 僕はこんな娼婦みたいな女神はごめんだけどね」
「み、見た目のこと言わないでよ! あたしが一番気にしてるって知ってるくせに」
「ああ、でも僕は娼婦は嫌いじゃないよ? 君にお似合いだ」
「レレクロエ」
 ケイッティオが静かな声でたしなめる。
「あなたのその口は罵倒しか出てこないの? いい加減にして」
 レレクロエはにっこり笑った。
「ああ、汚い言葉を聞かせてすまなかったよ。いい? 僕は今取り込み中なんだよ。可愛い可愛い僕の子供たちのために玩具を作ってあげてるの! わかったらちょっとそこで黙って突っ立っててくれる!?」
 レレクロエは右手を振りかざした。

 全員がぽかんと口を開けて絶句しているのが見える。耳がかっと熱くなった。

「大体ねえ君たち。仮にも人間様を救い給う神様気取りの馬鹿どものくせにさあ。これは何? その重い石壁を破壊して、下に人がいたらどうするつもりだったの? それともそんなことも思いつかない外道だったかな? 自己本位の行動しかできないこの塵屑。ああ、こんな言い方は失礼だったね。塵屑は少なくとも灰として人様の役に立つよ。灰はいいものだ。いつになったらそのお粗末な思考回路を改めるの? それとも僕に説教でもされに来たのかな。僕が説教なんかして差し上げると思ったら大間違いだよ。伸びしろもない底辺の君たちに聞かせる僕の美声がもったいない!」
 思いのほか、声を荒げてしまった。息が荒くなる。自分らしくない。
 どっと疲れた。ギリヴに会えたら嬉しいと思っていた。けれど、まさかこんな時に来なくてもいいじゃないか。いつも君を苛めている僕への報復か。
「し、使徒様……で、ございますか……?」
恐る恐る、老婆が声をかける。ハーミオネががはっと我に返った。
「あ、ああ、ごめんなさい。彼らは私達と同じマキナレアよ」
「おお、皆の者聞くがよい! 使徒様がこの地に集われた! 世界が救われる日が来たのじゃ!」
 わあっ、と歓声が上がる。涙を流し赤子を抱きしめる女たち。手を取り合い肩を震わせる老人たち。そして、状況をよく飲みこめてもいないくせにはしゃぐ餓鬼共。
 レレクロエは人間のことなんて好きでもなんでもない。けれど、嫌いというわけでもない。そしてそれは、人間を救うという業のためでもない。
 ほんの短い間でも、彼らと過ごして培ってきた、名もない想いだ。
 レレクロエは視線をマキナレア達に戻す。そうして、少し埃っぽい空気を小さく吸った。
「ねえ。君たちには本当にあの人たちのことが見えてるの?」
 レレクロエは微笑した。
「モラトリアムは十分に堪能したかい? ピーターパン気取りのがらくた」
 誰も何も言わなかった。何かに怯えたように立ち尽くすだけだ。単に自分の剣幕に怯えただけかもしれない。彼らは本当に、何もわかっていない餓鬼なのだから。抱えているものの重さも、儚さも、何も見えていないのだ。

 ――人間の子供にも劣るよ。

 レレクロエは頭を振って髪についた埃を払うと、また座ってくまの続きを編み始めた。














八、色褪せる世界

「何しに来たのさ」

 赤い毛糸を編む手をふと止めて、レレクロエがぽつりと呟く。ちらりと寄越された彼の射抜くような眼差しに、ミヒャエロは息苦しさを感じていた。

 レレクロエは笑っていなかった。いつだって、たとえそれが嘲笑であろうと笑みを絶やさない彼が、その言葉を吐き出して、笑っていない。

 そのことが、ミヒャエロの心を深くえぐった。お前たちは何もわかっていないのだと言われたようで。
 ――お前達には、僕の背負うものなんかきっと一生わからないんだよ。
 そう言われたようで。

 ミヒャエロはレレクロエの前に生まれた。マキナレアを造った錬金術師アルケミストは、当初ミヒャエロを最後にするつもりだと言っていた。なのに、最後の最後になって、錬金術師かれはミヒャエロを切り捨てた。

 ――ミヒャエロ。お前は恐らく、全てを抱えきることができない。

 そうして、彼はレレクロエを造った。これが最後だと、今度こそ終わりにするのだと何度も自分に言い聞かせるように呟きながら。ミヒャエロには、何も理解ができなかった。ただ一つわかったのは、自分が彼の願いに沿わなかったのだ、と言う事だけだった。

 ――僕ももう長くはない。

 たくさんの毒された実験で蝕まれた身体を抱えて、彼は呟いた。
 レレクロエは生まれ落ちたその瞬間に、ミヒャエロがついぞ彼から聞くことのできなかった物語を聞かせられた。そして、彼が死んでいった後も、それを決して語らなかった。
『早く棺に入ってよ。僕はこれに蓋をしなきゃいけないんだからさ』
 あの砂の世界で最後に見た彼は、無表情にそう言った。ミヒャエロはレレクロエと行動させられることが多かった。彼が言い残したように、他の四人を二人で全て棺に入れて眠りにつかせた。
『君はどうするの。君を眠らせる人がいない』
『自分の心配だけしてなよ』
 レレクロエは鼻で笑った。
『君は……よく笑ってられるね』
 レレクロエの呟きに、ミヒャエロは顔をあげたのだ。
『ごめん……おれ、そんなに笑ってた?』
『いや、いいんだ』
 いいんだ、とレレクロエは繰り返した。
『次の世界でまた会おう。その時は、僕も笑顔を覚えておくことにするよ。あのヤブは、僕に笑顔の機能だけはつけていかなかったみたいだからね』
『そんなことはないはずだよ』
『うん』
 レレクロエはそこで初めて悲しげに笑った。
『わかってるんだ……わかってるんだよ』
『どうして、自分だけ残ろうとするんだよ』
 ミヒャエロがそう尋ねると、レレクロエは静かに目を閉じた。
『僕は、覚えていなきゃいけないんだ』
 それが何のことを言っているのか、ミヒャエロにはわからなかった。ただ、悟ってしまったのだ。
 レレクロエは、細胞の一つ一つに記憶を刻み付ける機能を埋め込まれている。
 それは、彼が生前ぶつぶつと呟いていた計画だった。必要な機能だけど、これを抱えられる子が一人もいない。そろいもそろって欠陥品だらけだと、悪態をついていた。
 きっと彼は、レレクロエを造ることでそれに成功したのだ。
『そんなこと、する必要はないよ』
 気が付いたら、言葉が口をついて止まらなかった。
『そんなの、彼が勝手に押し付けたことだろ』
『勘違いしないでよ。僕はあいつの言いなりに生きる気はないよ。僕は僕なりに……その、色々と消化したいだけだ』
『だったら一緒にいるよ。一人で残る必要なんかないじゃないか』
『黙って僕のいい通りにしろってば』
 レレクロエは嘆息した。
『でも、おれなら少しは分け合うことができるだろ? おれはそのために元々造られたんだから』
『僕に役目を取られて悔しいだけのくせに』
 レレクロエは蔑むように言った。
 ミヒャエロは、とっさに反論できなかった。自分が請け負うはずだった【最後の使徒】を、何の苦労もなく手に入れたレレクロエに、焦りを感じていたことを、否定できなかった。
 役に立ちたい。おれだってできるんだって。役に立てるって。
褒めてもらいたかった。よくがんばったねと、あの優しい手で撫でてほしかった。

 ――誰に?

 ミヒャエロは、いつの間にか、自分の頬を涙が伝っていたことに気付いた。自分の心を占めていた優しい笑顔。小さな手。おれを、いつも引いてくれた手だ。
 遠い記憶だった。こんなものは知らない。
『おれは……おれは、守りたかったんだ。そうだ……守る、ために…』
 レレクロエは憐れむようにミヒャエロを一瞥しただけだった。
『そういうことも、直にきれいに忘れるだろう。そのために僕たちは眠りにつくんだ』
『君は知る必要もない。思い出す必要もないんだよ。いいじゃない。君は幸せだよ。大事だったたった一つのものが、生まれ変わってもなお傍にあるんだから。僕やギリヴとは違う。君たちは恵まれてるんだよ。ある意味残酷な仕打ちだけどね』
 レレクロエは棺の蓋を閉めた。
『だから、それを僕が覚えているんだ』
 くぐもった声が暗い棺の中に染み入った。多分、レレクロエはその言葉もミヒャエロは忘れてしまうと思っていたのだろう。最初で最後の、レレクロエの本音だった。
 目覚めて最初にやったことは、紙にその言葉を書き留めることだった。忘れたくなかった。鉛筆を持つ手が震えた。いつの間にか、そこでも泣いていた。モンゴメリはそれを怪訝そうに見つめながら、けれど何も言わなかった。目覚めて数日して、モンゴメリはどこからか古びて黄ばんだ手帳を見つけ出してきた。そしてそれをミヒャエロに渡したのだ。
『ほら、これでもいいか』
 頼んでいたわけではない。だから、その気持ちが嬉しかった。初めて書いた日記は、最初の数項はモンゴメリのことばかり書いていた。やがて、ケイッティオとギリヴと再会することになった。互いに、互いの地の人々を守るために。
 戦うことは辛かった。自分が傷ついても意に介さない二人の少女が、痛々しかった。だから、全て書き留めた。書く度に涙が出た。ケイッティオ。おれは君に、こんなことをさせたかったわけじゃない。あの薄暗い電球色の箱の中で、一緒に生まれた優しい彼女を守りたかった。けれど、世界の歪みに中てられほとんど動けない自分を、彼女は自分のことのように懸命に看病した。放っておいてもすぐに治るのに。彼女は自分の付けた傷を、必死で治そうとした。彼女には癒しの力なんてないのに。けれど、そんな彼女を見ていられるのは嬉しかった。一つ一つ噛みしめるように文字に起こした。
 きっと、彼女のこんな表情も、レレクロエは知らない。けれど、それもこうして書いておけば、彼女のことは文字としてずっと残ってくれるだろうと思った。いつか、本当に信頼できる人に預けて消えよう。この記憶はおれだけのものであればいいんだから。

 レレクロエは今も、一心に編み物を続けていた。子供のためにそんなことをやっているレレクロエは、ある意味とても滑稽で、そしてとても穏やかだった。
 まるで、がらくたじゃなくて、一人の人間であるかのように。
 久しぶりに見た彼は、今もなお、自分とは違う何かに思えた。一人だけ違うものを背負った子供。託された者。そして、何かを得た者。

 ――おれのやっていることなんて、無駄なのか。

 何も見えていないだなんて。

 そうして初めて、ミヒャエロは自分が今もレレクロエに負い目があるのだと気づいた。劣等感のようなもの。届かないもの。
「わたしたちは馬鹿だから」
 ふいに、ケイッティオが静かな声で話し始めた。
「言ってもらえないと、わからないわ」
 レレクロエは何も答えない。
「わたし達は、あなたとは違うの」
 ケイッティオのその言葉に、レレクロエは口の端に嘲りを浮かべ、ゆっくりと顔をあげた。
「で?」
「え?」
 ケイッティオが戸惑ったように肩を跳ねさせる。
「それで?」
 レレクロエは鼻で嗤った。
 二人の様子に、ギリヴとモンゴメリが顔を見合わせた。ハーミオネははらはらと青ざめた顔をしている。
「わからないから何?」
「それは……」
 口籠るケイッティオに、レレクロエは馬鹿にしたような眼差しを向けて吐き捨てる。
「違うから、何?」
 レレクロエは立ち上がって、丁度出来上がったくまの形のそれを、見守るように傍に座っていた小さな赤毛の二人の子供に投げる。
「ほら。糸の始末は婆さんにでもしてもらいなよ」
「ありがとう!」
 子供たちは奥の方へと駆けていく。大きい方の子供が、一人だけ不安げにこちらを振り返り、そして去って行った。レレクロエは小さく息を吐いて、五人に向き直る。
「言っておくけど、僕だって君たちと変わりのない馬鹿だからね。ちゃんと言ってもらえないとわかんないんだよ。ほら、言ってごらんよ。『わたしは何もわからない馬鹿だから、懇切丁寧に一から教えてください』ってさ」
 そう言って、レレクロエはケイッティオに詰め寄るように笑顔を向けた。それを庇うようにモンゴメリがケイッティオの肩を引き寄せて唸った。
「おい、いい加減にしろよ。人を小馬鹿にしたその態度、いい加減改めろ。不愉快だ」
「はあ? どうして?」
 レレクロエはふん、と鼻を鳴らす。
「君たちとは違う? だから何? だからこうやって僕がかんしゃくを起こしても逆らえない? どこか遠慮でもあるの? 負い目でもあるわけ。くだらないなあ。そういうのが嫌だって言ってるんだよ。僕だって君たちとなんら変わらないんだよ。それで? 心優しい僕から聞いてあげるよ。君たちは何をしにのこのことここに来たわけ」
「それは、あなた達をここから連れ出すためじゃない。あたしたちは六人で一つなんだから、一緒にいないとだめじゃない。そうしないと、世界の荒廃が進んじゃう――」
「それさあ、あのくだらない発明馬鹿が言ってた理想論をそのまま言ってるだけじゃん」
 ギリヴの小さな反論にも、うんざりしたようにレレクロエは言葉を被せた。
「六人一緒にいないとだめだって誰が言った? この世界を荒廃させちゃだめだって誰が言った。みんなを救わなきゃいけないって誰が言ったよ。全部受け売りだろ。おまえは何かを自分のその陳腐なおつむで少しでも自分なりに考えたことはなかったの? それで? 街を守る尊いマキナレアの皆様は、こうしてはるばるこんな辺境の土地までお越しいただいたわけですけど、なんて言って来たの?」
「な、なにが……」
 ギリヴは口籠った。レレクロエは構わずまくし立てる。
「だから、君達の守ってる二つの街の人たちにだよ。ちゃんと説明したの? しばらく街を離れる言い訳はちゃんとしたんですか」
「そういえば……」
 ケイッティオは俯いて首を横に振った。それを見てレレクロエは深く息を吐いた
「ほらね、すぐそうやって思いつきで行動する。人間を守るため守るためって言って。目の前の人間一人守れなくてどうするの? それで、もし君たちがいない間に二つの地でまた紛争が起こってたらどうする? それで誰かが死んでも諦める? じゃあ今まで死んで来た人たちは? 仕方なかったんだと言い訳する? ちゃんと考えてる?」
「あ……あ……」
 ギリヴは頭を抱えた。目を逸らしていたことだ。特にギリヴには酷な話だろうなとミヒャエロは思った。ミヒャエロ自身も、胸を槍で何度も何度もえぐられているような心地がしたのだから。
「大体さ、今更なんじゃないの? 六人一緒にいなきゃいけない? ならなんで目覚めてすぐに集まろうとしなかったの。散々くだらない戦闘を繰り広げといて、よく言うよ。人間を守るために戦う? そんなことするより、僕たちが目覚めたからもう安心ですね、あとは世界の再建までしばしお待ちください、って言ってさっさと世界のために消えればいい話」
 レレクロエは首をかしげた。
「なのに、どうしてくだらないモラトリアムに身をうずめたの? ちゃんと考えてるの? 何とか言いなよ」
 レレクロエはそう言って、モンゴメリの傍につかつかと歩み寄ると、彼の前髪を強い力で引っ張った。モンゴメリはその場に崩れ落ちる。
「ほら、なんか言ってみなよ。こんなくだらないことやってるのは何故? 何なのこの髪は。自分で滑稽だと思わない? 君は自分の能力が嫌いだとでもいうの」
「……っ、煩い」
「煩い? 馬鹿なの? 被害者ぶってる? こんな能力好きで持って生まれたわけじゃないとでも思ってる? どうしようもない屑だね。そんなのおまえに限ったことじゃないよ。マキナレアだろうが人だろうが一緒だよ。誰がこんな世界に好き好んで生まれてくるものか」
 レレクロエはモンゴメリを突き飛ばした。
「おまえたちは自己本位なんだよ。それなのに人のため? 冗談いうならもっと洗練された冗談言ってよ。耳が腐る。自分の気持ちに向き合わないで、人の言った理想論を自分の言葉にして、滑稽だと思わないの? 君たちの本当の気持ちは何? 僕の気持ちを教えてあげようか」
 レレクロエは口の端を歪ませた。
「僕は、君たちさえ覚悟を決めるならいつだって使命を果たす準備はできてるよ。端からそのつもりだ。逃げる気もない」
「あなたは……強引すぎるのよ」
 ハーミオネが静かに諭す。
「よく言うわよ。自分が一番天邪鬼なくせに。あなたこそ言ってない気持ちがあるじゃない」
 レレクロエは黙っている。
 ふと、レレクロエはミヒャエロを目に留めた。
 お前も何か言えよ、と言われている気がする。
 けれど、自分の気持ちになんて向き合ったことがない。
 ケイッティオともっと一緒にいたい。自分と彼女以外は皆いなくなったっていいとさえ思っている。けれど、皆を好きな気持ちも本物だ。こんなこと、言えるわけがない。

 ――違う。言わなきゃいけないんだ。向き合わなきゃいけないんだ。

 ミヒャエロは俯く。手は汗で酷く濡れていた。
「だ、誰も聞いてないんだよ」
 声が震える。
「だ、誰も……見てないんだから」
 レレクロエは黙って聞いていた。こんな時だけ、狡いと思う。

 レレクロエはいつだって、ミヒャエロの話を蔑にしたりはしなかった。

「ここにアルケミストはいないんだよ!」
 ミヒャエロは、心に巣食っていた恐怖の塊を吐き出すように叫んだ。

 いつの間に、彼を怖いと思っていたのだろう。彼の定めた使命から逃げることを、罪のように感じていたのだろう。
 そう育てられてきた。造られたのだ。逆らわない様に。疑問を持たない様に。
「お、おれは……まだ消えたくない……もっと、みんなと、一緒にいたい」
 顔をあげると、レレクロエがまだ自分を見つめていた。けれど、そこに棘はない。張り詰めていた糸が切れたような気持ちで、ミヒャエロは続けた。
「おれは、どうだっていいんだ……ケイッティオや、みんなが、笑って暮らせるなら。だから……」
「じゃあ、逃げればいいじゃない」
 ハーミオネが手を合わせて、笑った。
「私達、逃げればいいのよ」
「そ、そんなの……」
 ギリヴが狼狽える。
「そんなの、だめよ……だって。だって……」
「おまえは?」
 モンゴメリがケイッティオをつつく。
「そんな……あなたこそ」
「知らない。俺は別に楽できればいい」
「逃げるなんて。目を背けるのはとても気力のいることだわ。わたし達は、使命に忠実であるように埋め込まれているのだから」
 ケイッティオは戸惑うように視線を彷徨わせる。レレクロエはそれを見遣りながら、なんでもないことのように呟いた
「でも、ミヒャエロは君と逃げたいって今言ってたよ」
 ミヒャエロは顔がかっと火照るのを感じた。
「レレクロエ!」
「そう。それなら、わたしは彼を守るのみだわ」
 ミヒャエロの動揺にも構わず、ケイッティオは静かに言った。
 ――やめてくれ。
 叫びたくなった。そういうことを言わないでくれ。
 色々と辛くなる。
「でも、逃げるならレグドの人たちに説明しないと……」
 ケイッティオがぶつぶつと呟く。
「は? あんた馬鹿なの……最初から逃げ出したようなものだろ。俺達は何も言わずに飛び出してきたんだから」
 モンゴメリが呆れたように言う。ケイッティオはきゅっと口を引き結んだ。
「そ、そうだけど……でも……きっと待ってると思うし」
「あたしは……裏切れない」
 ギリヴが俯きながら言う。
「あたしのせいで傷ついたのに、それでもあたし達を信じてくれた人を、裏切れない」
「偽善だね」
 レレクロエは嗤った。ギリヴは声を荒げて叫ぶ。
「違うわ!」
「君の性格は一番僕がよく知ってるよ。逃げたい気持ちと、それは許されないことだという理性がせめぎ合ってるんだろ。本当は一番人間を恨んでるのはおまえのくせに」
 レレクロエは緩やかに首を傾ける。
 ギリヴは頭をかきむしった。
「どうしてそんなひどいことばかり言うの! だったら逃げろって言うの!」
「知らないよ。自分で決めなよ」
 レレクロエは吐き捨てるように言う。
「僕は、人間が嫌いじゃないよ。だから、僕はここにいるんだ」
 そしてレレクロエは、振り返ってハーミオネの顔を覗き込んだ。
「それにしても、君が真っ先に言い出すなんて思わなかった」
「そうね。私もびっくりだけど……でも逃げたところで使命から逃れられはしないのよ、きっと」
 ハーミオネは静かに笑った。
「だったら、みんなで一緒に少しでも長く居たいじゃない。お互いを理解しあえるのはたった世界に六人しかいないのよ」
 ハーミオネはどこか悲しげで、そして晴れ晴れとしたように柔らかく言った。
「レレクロエは?」
 ミヒャエロはそう声をかけて、レレクロエを見つめた。彼の本心だけ聞いていない。尋ねたところで、言ってくれるとは思わないけれど。
 それでも、聞きたかった。あの時一人残った彼が、何を考え何を感じたのか、聞きたかった。
「僕はみんなと一緒にいるよ」
 レレクロエは静かに言った。
「僕のたった一つの、我儘さ」

閑話、或る子供の記憶

 昨日、彼が見舞いに来たらしい。

 僕は生憎熱にうなされていて、彼が僕の手を握っていてくれていたのだということも気づけなかった。

 僕は何の役にも立たない。彼は生まれながらにして世界に愛されている。そして彼はそれをとても重いと、息苦しいと感じている。

 当然だ。一体どんな子供が望んであのような力を得るものか。

 僕たちはただの子供で、世界はもっと広くて、空はもっと高くて。

 なのに彼は、望みもしない力のせいで鳥籠に飼われている。きっと世界で一番、彼こそが自由に愛されるべき人だったのに。

 そして僕は相も変わらず役立たずだ。彼は僕を暇つぶしの相手に選んでくれたのに。暇つぶしにさえなれていない。僕は塵以下だ。こうして体調を崩してばかりで、彼と遊ぶこともままならない。僕は僕の役割さえ果たせていないのに。

 昨日彼が来たのだというのなら、あの言葉は夢ではなかったんだろうか。

 ――僕はもう疲れたよ。
 ――世界なんていらない。国なんていらない。
 ――僕が欲しいのは、僕を安らかに眠らせてくれる死だけだ。

 君が欲しいものはそんなものなのか。それすら君にとっては願いなのか。
 僕は何をすればいい?僕は君に何ができる。

 あの実験を……やはり進めるべきだろうか。

 君は僕を軽蔑するだろうか。それともやっと解放されると笑ってくれるだろうか。
 けれどあれはきっと、僕にしか、僕だからこそ、できることだ。

 人並みの生も暮らしも与えられず、倫理の崩壊した世界で、ただ生きるためだけに藁でも貪ってきた貪欲な僕だからきっと、何の抵抗もなくできるだろう。
 君は僕よりずっと育ちがいいから、もしかしたら僕を憐れむかもしれないね。
 けれど僕は、君の拠り所になりたい。縋れる場所になりたい。僕だけが、君を終わらせる人間でありたいんだ。こんなのは歪んでいる。そんなことはわかっている。

 けれど止められない。この怒りも、この執着も、この恍惚も。何も手放せないんだ。

 僕もまた、あの日、暗い路地の片隅で君に見つけてもらえたあの日から、
ずっと君に魅了されているだけなのかもしれない。

 だとすれば、僕は君と居てはいけないね。
 君を世界と、僕から解放しなくちゃいけないね。















九、瞼閉じる世界にて

【使徒が行方を眩ました。恐らく脱走したものと見られるが】
【こちらも同様だ。彼らは我々人類をお見捨てになったようだな】
【使徒とは言え、先代のアルケミストが発明した唯のがらくたではないか。世界を救うとは名ばかりで、一向に世界は元に戻らない。人の死が減ったわけでもない】
【ただ徒に土地を破壊しただけのようなものですな】
【彼らがこの地に現れてからというもの、天災に幾度も見舞われた。いい迷惑だ】
【しかし、これは忌々しき事態でありますぞ。彼らが我ら人類と道をたがえたということは彼らは我らの敵も同然】
【然り。以前からあの気味の悪い力は気に食わなかった。大体夢想家のアルケミストが作った玩具など、胡散臭いにもほどがあろう】
【あの力を我々人類に向けられては危険ですぞ】
【否。よもや、あれは正しく兵器よ。人類を救うとは戯言。人類を滅するために作られたに相違ない】
【違いない、違いないぞ】
【どうしたものか】
【ふん、簡単なことよ。あれもただの絡繰り、人の手による機械だろう。ならば我らの軍事兵器もその威力は引けを取るまい。破壊しつくせばよいこと】
【人の手に負えぬ兵器など人類に必要ない】



     ***


 逃げる。
 ここから逃げ出すんだと。
 その言葉を聞いたとき、何か頭の片隅に巣食っていた靄に気付かされた心地がした。

 この世界にマキナレアとして産み落とされ、自我を持ったその時から、他と自分の埋めようのない溝を感じていた。それが何なのか、はっきりとはよくわからなかった。
 例えばそれは、使命感であったり。
 閉塞感であったり。
 絆であったり。
 他の五人に備わっているものが自分にはなく、彼らが持っていないものは自分が持っている。
 例えばそれは、感情だったり、憎しみだったり、焦燥だったり。
 それは力についてもそうだった。
 他とは異質の力。何の役にも立たない、それでいて自分にとっては一番欲しくなかった力だ。

 モンゴメリはこの世に生まれ落ちた瞬間から、本能的に人の視線を厭っていた。それがなぜなのかはわからなかった。
 生まれた瞬間から、生きることを酷く厭っていた。けれど自分の能力は人を惹きつけるもので、死にたがりの自分を世界にとどめようと、証を残させようとするばかりだった。
 それがとても恨めしくて、憎くて、けれどその煮えたぎるような想いもやり場はなかった。やがてそんな感情にも疲れて、目を背けることを覚えた。
 一旦覚えてしまえば楽だった。どうしてもっと早くに思いつかなかったのだろうと思った。前髪で目を隠す。視界を遮る。ただそれだけのことで、この世界はとても居心地がよくなった。見たいものだけ見ればいい。見たくないものは見えなくしてしまえばいい。

 例えばケイッティオは、どうしてそんな風に瞳を隠すのかと尋ねた。レレクロエはそんなことをする自分を馬鹿だと嘲った。ミヒャエロは、面白いことをするねと不思議そうに首を傾げる。

 誰もが口々に言うのだ。そこまで自分の能力に対して好きだ嫌いだという些細な感情を膨らますのは奇妙だと。

 奇妙なものか。モンゴメリにとっては当たり前の感情だった。むしろ彼らの方がその点では異常だったと言っていい。それなのに彼らは口をそろえて、【私達はマキナレアだから】と不思議そうに首を傾げる。
 その態度に苛立ち、考えるのをやめた。これ以上こんなくだらないことで気持ちをかき乱されるのは不快だ。けれどそれは間違いだったのではないかと。

 逃げるということを思いもつかなかった自分に気付かされて、ふとそう思った。

 ――俺は、いつから逃げることを忘れてた?

 思いつかなかったのではない。思うことを諦めていたというのが正しい。そんな事実さえも忘れていたのだ。
 それ以上考えてはいけないと、頭の片隅で誰かが言う。聞き覚えのある声だ。そうだ、自分はこの声をよく知っている。
 アルケミスト。
 最後の王、レデクハルトを陰で支えた世紀の錬金術師。
 けれど、響いてくる声は、記憶にあるやつれた彼の低い声ではなく、もっと若々しい少年の声だ。
 アルケミストに造られたからこの世に生まれた。そう信じてきた事実は果たして本当に事実だろうかと。

 俺はこの光景を知っている。

 逃げようと言ってくれた友。そして二人で逃げた黄昏の闇。けれど逃げ切ることはできなかった。待ち構えていたのは、人の羨望に囚われた純白の箱の中。けれど別に悲しくはなかった。逃げたのも気まぐれだったのだ。元より逃げる世界なんてないと知っていた。そんな風に生まれついてしまっていたのだから。それでも必死に自分を自由にしようとする彼が面白かったのだ。
 けれど再び閉じ込められて知った。ああ、自分はこの眼差しの集合体からずっと逃げたかったのだと。逃げられなかったのだと。

 頭が混乱していた。これは俺の感情なんだろうか。覚えていないのに、こんなにも恨めしい。

 アルケミストは新しい世界を創ると言った。そのために機功マキナレアを造りだしたのだと。だから彼らには世界の全ての元素と物理法則が細胞の一つ一つに埋め込まれている。だからこそ彼らは時に自然さえも動かす力を持っている。

 けれど人の心は。
 感情は、憧れは、羨みは。
 錬金できないということをモンゴメリに教えたのは誰だったろう。遠い昔の記憶だ。幼い頃に、誰かが。

 幼い頃?

 モンゴメリは混乱していた。自分たちは、生まれた瞬間からこの姿で生きてきた。機功だから成長もない。
 そうしてふと気づいた。隣にはケイッティオがいる。こいつはこんなに小さかっただろうか。ついこの間まで、目覚めたばかりの時は、俺とほとんど目線の高さは同じだったはずだ。
 その時のぐちゃぐちゃになった感情をなんと名づけたらいいのかわからない。けれど、一番強かったのは恐怖だった。気づいてはいけないことに気付いてしまったのだ。この先隠し通せるだろうか?もしもこのまま背が伸びていったら?ある日誰かは気づくんじゃないだろうか。どうしてマキナレアのくせに、一人だけ成長しているのかと。

 ――それとも、こいつらは馬鹿だから、案外気づかないんだろうか。

 気づかないでくれたらいいと思う。レレクロエと目が合う。彼だけは、欺けない気がした。最も、目があったと感じているのは自分だけで、向こうにはこちらの目も見えていないはずだ。
『モンゴメリ』
 レレクロエは声には出さず、唇だけを動かした。
『後で話がある』
 ぞっとする。話なんかしたくもない。元々個人的にもレレクロエは苦手だ。そりが合わないのだから。

     **

「おい、使徒様」
 レレクロエとモンゴメリが二人きりになってすぐに、アビゲイルが近づいてきた。
「なんだよ煩いな。僕達はこれから大事な大人の話をするの。子供はあっち行ってな」
「おれだってだいじな話だよ」
 アビゲイルは静かな表情で言った。
「使徒様、いなくなるのか」
「うん? そうだよ。僕達はこんなぼろぼろの世界を直す旅に行かなきゃいけないわけ。あーあ、面倒だなあ。感謝してよね」
 レレクロエは大げさな身振りで言う。
「うん」
 アビゲイルは頷いた。
 しばらくレレクロエはアビゲイルと見つめ合っていた。レレクロエの瞳に困惑の色が宿る。アビゲイルの眼は、どこまでも真っ直ぐだった。
「使徒様。無理するなよ」
「は?」
 レレクロエは虚をつかれたような声を出した。
「楽しくないことなんかしなくていいんだぜ。使徒さまはおれよりは兄ちゃんだけど、おとなじゃないだろ」
「僕はもう大人みたいなものだよ」
 レレクロエは静かに笑う。
「だから、楽しくないことも、やりたくないことも、全部やらなきゃいけないのさ。大人になるってそういう事だよ」
 レレクロエはしゃがんで、アビゲイルと目線を合わせる。
「おまえも誰に似たんだか知らないが、子供のくせにませててそういう綺麗な眼をするからね。今のうちにたくさん遊んでおきなよ」

     *

「僕にはできなかったからね」
 レレクロエの言葉に、その柔らかくて悲しい笑顔に、アビゲイルは目を見開かずにはいられなかった。
 何故かはわからない。レレクロエが何を考えているのかも、アビゲイルにはわかりゃしない。どうしたって彼は自分よりも大人なのだから。
 けれど、初めて、アビゲイルはレレクロエの嘘にまみれた真実を見た心地がしたのだ。レレクロエの言葉はいつだって半分は嘘で、半分が本音だった。それが分かっていて、そしてそういうレレクロエは一緒にいてとても落ち着いた。アビゲイルもまた、少しひねくれていたからかもしれない。
「いってらっしゃい」
 やっと、それだけを言えた。他に言葉なんて思いつかなかった。
 胸が締め付けられる。アビゲイルは、自分が捻くれもので意地悪な兄貴分が大好きだったのだと気づいた。ずっとここに居てほしかったけれど。きっと楽しかっただろう。
 いつか、旅が終わったら。
 いつか、長い旅の話を、レレクロエの本当の話を、聞かせてほしいと子供ながらに思った。
 ここがアビゲイルやジゼルにとっての故郷であるように、レレクロエ達にとっての帰る場所になってくれたらいい。

    **

「それで?」
 アビゲイルが離れてから、モンゴメリは低く呟いた。レレクロエは柔和に小首をかしげた。
「相変わらず低い声だねえ。声変わりしたんじゃないの?」
 びくり、と肩が跳ねかける。モンゴメリは前髪を掻き上げ、レレクロエを睨みつけた。
「おお、怖い怖い。せっかく天から授かった瞳なんだから、そうやってちゃんと世界を見てればいいんだよ」
 レレクロエは大仰に言う。
「無駄口はいい。何の話だよ。さっさと言え」
 モンゴメリの言葉に、レレクロエは目を細める。
「君はきっと嫌がると思うんだ」
 静かに、そう紡ぐ。
「でも、僕は君に君の本分を果たしてほしいんだよね。守られてるばかりじゃ君だって癪でしょ」
「だから、何が言いたいんだよ」
 レレクロエは目を伏せる。
「僕らが逃げたとしよう。そうしたら、追手が来るのは目に見えている。ただで逃げられるわけがないんだ。僕達は神の使いでもなんでもない。一人のアルケミストの発明品であり、兵器だ。それが六体も人間を守る使命から逃げて逃亡するとなれば、それは人間にとっては脅威でしかないだろう。例え僕達にその気はなくとも、ね。君にだってわかるだろう? 僕らはもともと人間だったのだから」
 モンゴメリは息をのんだ。
「それじゃあ、あんたも……」
「君だけじゃない。僕だけでもない。僕達はみんな、元は人間だった。そして、僕達の遺伝情報だけが書き換えられた。それを壊さないように、外界の刺激から守るように、僕達の身体は内部から機功に守られている。この皮膚の下には青い絡繰りの身体があるというわけだ。緻密に設計された、神様の設計図で作られた、ね。僕達はもう人間でもなければ機械でもない。文字通り神の使いだ。けれど、そんなことは人間にとってはどうでもいいことだろうさ。彼らにとっては、自分たちの身を守ることの方が大事だ。実に単純な、当たり前の生存本能だ。そして僕達の役目は、この雨と共に消えること。この雨は、そのためにある周到な罰なのさ。そしてこの力は、確かに書き換えられた僕達の遺伝情報に由来はしているけれど、ここまで力が具体的に具現化しているのも、すべてこの体の奥にある機功。増幅装置のおかげだ。そしてこの力は、」
 レレクロエはモンゴメリを見据えた。
「人間を守るためじゃない。僕達が我が身を守るためにある」

 ――それじゃまるで、最初から人間と戦うために仕組まれていたみたいじゃないか。

 モンゴメリは歯を軋ませた。ならば最初から、自分たちは人と共にあってはならなかったのだ。

「そして、ミヒャエロと僕、君以外の三人はそもそもが、君を造るための実験台、いわば失敗作だよ。僕から見ると彼女達は最大の成功品だと思うけどね。マキナレアとしては最高の。そしてミヒャエロは、君が作られた後、最後の仕上げのために造られた。けれどアルケミストは考えたのさ。彼は最後を任せるには不適当だった。何故かってミヒャエロは彼の心情を彼の望むように受け取ることはできないから。彼には、彼の人生を、客観的に、そしてかつ同情的に、冷徹に受け止める最後のマキナレアが必要だった。それで僕が造られた」
 モンゴメリは黙っていた。何かを口に出すと、止まらなくなりそうだった。
「何も反論してこないところを見ると、薄々感じてたみたいだねえ、君だけ特別扱いだってことにさ。逆に言えば、君だけ特別扱いせざるを得なかった、とでもいうべきかな。君は人であった時に既に人たりえなかった。だからこそ君のその眼がある。その眼はアルケミストが君に与えたんじゃない。君の生まれ持っての才能だったんだよ。神の申し子さん」
「それで、俺だけにこんな話をして、俺に何をさせたいんだ。あんたは結局、なんでも知ってるんだろ」
「何でもは知らないよ。君の知らないことを知っているだけのこと」
 レレクロエはつまらなさそうに言う。
「僕達の能力は自己防衛のためにある。けれど、それを使いすぎているとすぐに摩耗してしまう。それは終焉を早めるということさ。それはちょっとばかり都合が悪いんだ」
「いったい誰に都合が悪いんだ? 自分にか?」
 モンゴメリは鼻で笑った。レレクロエは何でも知っているくせに、全てを教えない、掌の上で転がして遊んでいる。
「どうとでも解釈してもらって構わないよ。とにかく、僕は皆が自分の能力を使いすぎる前に、まずは君にどうにかして欲しい、だからさっさとそのうっとうしい前髪を切ってくれないかなあと思うね」
「それとこれとは別。つまり何か? 俺がこの目を使って来る人間来る人間惑わせて追い払えとでも言いたいわけ」
「ご明察。君の能力に関しては僕達と違って本物だからね。後で植え付けられたものじゃなくて、君自身が持っているものだ。使いすぎればもちろん君自身もいつか摩耗するだろうね。けれど僕達よりは君は執行猶予が長いのさ」
「それで? 俺に何か得はあるわけ」
 ふと、同じような言葉をケイッティオにかけたことを思いだした。眉をひそめて、膨れ面で口答えした変な可愛くない女。
「君にも守るものができるってことくらいじゃないの? 言わせないでよ気色悪い。美談は嫌いなんだよ」
「よく言う」
 モンゴメリは鼻で笑った。
「自分こそ、慣れないことばかりしてるくせしてな」
 前髪を下ろす。
「あんたは嘘吐きだ」
「そうかなあ」
「演技だらけ」
「心外だなあ。僕は君に本当のことをちゃんと言ったんだけどなあ」
「あんたはすぐ自分の言葉を嘘で塗り固めて、自分を嘘に仕立て上げる。そんなやつは嫌いだ」
 モンゴメリは踵を返す。
「勘違いしてるみたいだから言っておくけど、あんたはあんたであって、あの馬鹿錬金術師じゃない。未だに一番振り回されてんじゃねえよ、気色悪い」
 モンゴメリは鼻を鳴らすと立ち去って行く。
「そんなこと知ってるよ」
 レレクロエは、見えなくなった背中に呟いた。
「だからこそ僕の我儘くらい叶えたいんだよ。どうせわかってるくせにさ。性格悪いのどっちだって話。ほんっとに、……君とはそりが合う気がしない」
 光と影。蔭と光。
 最初の子供と最後の子供が、相容れるわけがないのかもしれない。
 それでも、頼れるのはきっとお互いだけだった。
 他の四人に背負わせるわけにはいかないのだ。

「気は合わない……けど、君の目つきは嫌いじゃないよ」
 レレクロエはぽつりと呟いた。



十、繋ぐ旅路

 白い砂地が続いている。
 それらは雨によって削られていった、人間の家々の名残だ。雨を吸い込んでなお、さらさらと宙に舞う。
 吸い込めば喉を傷める。けれど砂が霧に溶けていく様は、とても儚くて、寂しくて、辛い。
 緑なんてとうの昔に途絶えている。だからこそ水が消えていくのかもしれない。汚染されたまま、巡ることもないまま。
 小さく咳込みながら、ハーミオネは歩いてきた道を振り返った。
 降りしきる雨の中、立ち込める灰色の霧のせいで、何も見出すことはできない。
 確かにそこにあったのに。
 生きている証が。笑い声が。怒鳴る声が。泣き声が。慟哭が。
「……っ」
 ハーミオネは唇をかみしめた。泣かないと決めた。皆の前で涙だけは見せない。それが私の誓いだ。私だけのルールだ。
 逃げると言ったのは私だ。全てを捨てると唆したのも私だ。私だけは泣いてはいけない。
 ハーミオネは、前を歩くミヒャエロの広くて細い背中を見つめた。
 今もなお、ミヒャエロはケイッティオを庇いながら歩いている。後ろから、そっと彼女が砂に侵されないように、濡れてしまわないように、庇っている。自分のフードを被せ、彼女が砂に足を取られたらそっと手を引く。裾についた砂を払ってやる。目に砂が入ったら抱きしめる。
 ケイッティオはそんなこと望んでいないのに、と思う。
 彼女はミヒャエロを置いて羽ばたこうとしている。それなのに、未だに彼だけがそれを受け入れられていないのだ。彼女はもう一人で歩いている。ギリヴと笑いあい、モンゴメリの毒舌にむくれている。レレクロエのギリヴへの暴言に顔をしかめる。表情が乏しくても、ずっと見ていれば気づける些細な変化。
 ハーミオネでさえ気づくのに、ミヒャエロに見えないはずがないのに。

 ――いつまでもあなたは路地裏の子供のままなんだわ。

 ハーミオネは彼をとても痛々しく思った。彼のことはずっと前から知っていたのだ。馬車の窓から見えた小さな骨ばった汚れた腕。

 ――妹が病気なんです。どうか、パンを恵んでくれませんか。

 パンの一つくらい腐るほどあった。あげたってよかったのだ。それなのに、ハーミオネの父はそれをしなかった。彼は突き飛ばされ、足を馬車輪に踏みつぶされた。
 その光景を、ハーミオネはどうしても忘れることができない。
マキナレアとして造り替えられるとき、人であった記憶はほとんど置き換えられてしまった。それでもその日のことだけが鮮やかなまま頭から離れない。

 あの子供はどうしただろう。死んでしまったのだろうか。病気の妹はどうなったのだろう。

 再会して間もなく、ケイッティオはハーミオネの後を追うようにマキナレアとして生まれ変わった。彼女が彼の妹だと知るのに時間はかからなかった。そしてミヒャエロもまた、ケイッティオの後を追うように、人間だった自分を切り捨てた。ハーミオネは永遠に、あの時の少年に懺悔する機会を失った。混沌のマキナレアが世界に生まれ落ちる。目覚めた彼の姿を忘れることなんてできない。汚れているのに鮮やかな黄金の髪、濃い隈の上に光る獣のような金の瞳。ケイッティオしか見えていない瞳。その人だけしか映さないのだと、決めてしまったかのような眼差し。

 彼のそんな姿がとても痛かった。少しでも、もっと広い世界を見てくれたらいいと願った。彼はあの黄色の砂の世界で、暗い汚れた路地裏で、ケイッティオと二人きりの世界で生きてきたのだ。血もつながっていない、捨て子の彼女を、自分の生きる糧とした。そうしなければきっと生きていけなかったのだ。愛されず捨てられ生きることも死ぬことも許されない、そんな生き方をハーミオネは知らない。理解ができるはずもない。
 何度話しかけても何一つ聞いてくれない。目を見ようともしてくれない。見えてすらいない。彼の瞳に映るのはただ一人、彼の作り上げた妹だけだ。
 それがとても辛くて、悲しくて。
 マキナレアになってもなお、食べるものを盗みに街を彷徨うそんな彼に、こっちを向いてほしかった。私を見て。お願いだから。
 ケイッティオはマキナレアとなった代償に感情を奪われ、彼の生きる希望だった笑顔も絆も忘れ去っていた。残酷以外の何があるだろう。それでも彼はケイッティオに食べ物を運んだ。もう空腹で苦しむことはないのに。
 何がきっかけだったかは覚えていない。けれどある日、堰を切ったように自分の眼から溢れて止まらなくなった涙は、ミヒャエロの頬を濡らしていった。そして初めて、彼はハーミオネを見た。

 ――どうしたの。

 それがどれだけ胸が痛くて、辛くて、悲しくて、苦しかったか、きっと彼はこれから先も理解ってはくれないだろう。思い出してもくれないだろう。

 私はあの時、確かに幸せだったのだ。

 それからの彼は、ようやく外の世界を見るようになった。生に困らなくていいんだとようやく理解した。彼は次第に穏やかになっていった。元来そういう人だったのかもしれなかった。やがて笑顔を覚えた。貼り付けたような笑顔だ。彼はきっと本心から笑ったことなんてない。
 それでも嬉しかった。ミヒャエロの笑顔は好きだった。ミヒャエロの全てが好きだった。
 彼の幸せは、ケイッティオにしかない。ケイッティオが彼を選ばない限り、彼は幸せになることはできない。
 けれど。

 ――それは無理なことなのよ。
 ハーミオネは唇をもう一度噛む。

 ミヒャエロを好きだと思ってから、色々なことが見えるようになった。

 ケイッティオはとても強い子だ。
 弱いと見えていたのはきっと、病気のせいだった。

 それでもミヒャエロにとっては守りたいたった一人の人なのだ。けれど、そんなことをしていたってきっと二度と彼女に想いは届かない。
 風のように彼女の周りを漂うだけだ。

 ふと、背中を優しく押された。
「レレクロエ」
「早く歩きなよ。置いていくよ」
「うん」
 レレクロエはそれきり黙り込んだ。ずっとハーミオネの背中を押したまま、静かに歩き続ける。砂に足は埋もれていく。踏みしめなければ先へは進めないのだ。
「……泣いていいんだよ」
 ふと、ぽつりとレレクロエが言った。
「なあに? らしくないわ」
「そう? 僕しか見てないよ」
 レレクロエは柔らかく笑う。
「あいつはいつだってあの子しか見てないんだから」
「あはは。人のこと言えないでしょ」
「なんのことだよ」
「ほら、そうやって――」
 ずるい。
 ずるいわ。
 体中が痛かった。手の指先から熱が奪われていく。こんなにも苦しいものだとは思っていなかった。ハーミオネは唇をさらに強く噛んだ。
「私は、泣かないわ」
「そう? じゃあいつ泣くのさ」
「そっちこそ。いつ泣くつもりよ」
「僕は男だよ?」
「その割に女々しい格好だわ」
「美貌と言ってよね」
「ほら、その発言が気持ち悪い」
 ハーミオネは笑った。レレクロエが泣かないのに、自分が泣けるわけがない。
レレクロエもつられる様にくすくすと笑う。いつしか二人は手を繋いで歩いていた。きっとこの痛みは他の誰にもわからない。
 モンゴメリがふと振り返った。ハーミオネはなんとなく笑いかけた。彼の眼は見えなかったけれど。彼が背中を押すギリヴも、唇をかみしめながら涙をぼろぼろと流していた。目を擦りすぎて涙が雨水と混ざり合い、瞼が爛れるのも臆しないように前だけを睨みつけながら。

 雨がハーミオネの顔を焦がしていく。隣を歩くレレクロエもぼろぼろだった。

 けれどそれよりも何よりも、目の前を歩くミヒャエロの髪がところどころ抜け落ち、頭や首がただれていくのを見るのが辛かった。ミヒャエロが血を吐いてよろめく。回復力は高いけれど、彼の体自体は恐らく一番脆弱だった。耳が爛れて、膨れ、縮れた皮膚が落ちた。この笑い声も聞こえないほどに、ぼろぼろになって。

 その背中を二人で押した。笑いながら。大丈夫、もうすぐ辿りつくよ、と笑いながら。

 辿りつく場所もわからないまま。





十一、謳う世界

「まだなの」
 ギリヴは歯を食いしばりながら吐き出した。
「もうみんな限界だわ。早く休んで回復しないと」
「だめだ。まだ……まだだ」
「何が? 何がだめだって言うの!? もう十分逃げた。少しくらいいいじゃない。このままじゃ……」
 ――みんなが死んでしまう。
 死という概念はもはや自分達には存在しない。それなのにこの焦る気持ちは何なのだろう。

 もう六日になる。休まず絶え間なく歩いた。人間ではない自分達には、食事も睡眠も必要なかった。だから、降りしきる雨の中、ひたすら先へ先へと歩んできた。
 こんなにも長い間、雨に打たれたことなんてなかった。人の皮膚はこんなにも簡単に雨に崩れていくものなのだと知った。この雨の中で、人々は生きてきたのだ。
 何十年も、暗い洞の中で。
 こんな雨は世界に残していてはいけないのだ。
 それなのに自分たちは使命から目を背けて逃げている。
 使命を遂げるということは、この世から今度こそ本当に消えてしまうということだから。
 消えかたもわからないままに、ただ逃げるだけ。

 ――こんなの意味なんかない。

 ギリヴは唇を噛みしめる。
 レレクロエが必死で皆の傷を修復しているけれど、それも全然追いつかないのだ。それでもモンゴメリの言うとおりにひたすら歩き続けた。
「もう少し……もうすぐ……きっと、このあたりに……」
 モンゴメリは爛れた唇で朦朧と呟く。
 この辺りに安全な場所があるからと。そこなら大丈夫だからと。
 そう言って、彼は歩みを止めない。まるで何かに追われているように。その訳も話してくれない。
「お願いだから、ミヒャエロ。私は奪われにくいんだ。だから、あなたがこれを着て。お願いだから」
 すぐ後ろでは、ケイッティオが何日もずっとミヒャエロと揉めている。ケイッティオがどんなに拒んでも、ミヒャエロが彼女を庇うのをやめないのだ。何かに追い詰められているみたいに、頑なにその手を拒む。
 怖い、と思った。
 先刻から血を口からぼたぼたと落としながら皆の回復を続けるレレクロエ。大好きな娘を守りたい独善でただ自分を痛め続けるミヒャエロ。周りの見えていない、何かに怯えるように先に進むモンゴメリ。
 ――私達は守ってもらわなくたっていいんだ。
 雨を洗い流し続けるハーミオネ。けれどその浄化は到底追いつくことはない。この雨の毒性に、マキナレアはどうしたって適わないのだ。ケイッティオがどれだけ雨の毒を奪おうとしても、気休めにしかならない。
 何の役にも立たない自分が歯がゆい。

「お願い、何か、喋ってくれない」

 ふいに、レレクロエが息を切らしながらギリヴの顔を覗き込んでそう言った。他人の回復を優先して自分は真っ赤に皮膚を染め上げている。胸がつぶれるかと思った。
「う……う……」
 泣くつもりなんてない。けれど、涙が止まらない。目をこするけれど、雨に溶けてぐちゃぐちゃになる。
「僕は、泣けなんて、一言も言ってない。だから、なんか、しゃべってよ。気が、まぎれるから」
「紛らわせてどうするのよ! 自分の回復をしなさいよ…! あたしは何もできないのよ! できないんだから…」
 だから、お願いだからこれ以上そんな姿を見せないで。
 お願いだから。
「あっはっは。君さ、自分が役に立たないことが歯がゆいの? その偽善はどこからくるの? 思いやりだなんて安直な言葉使わないでよ? どうせ自分が辛いだけだろう。いいから、僕の言うとおりにしてれば、いいんだってば」
 何て言い種だろう。ギリヴは唇を噛んだ。
 そんなこと言わなくたっていい。あたしはそんなことじゃもう傷つかないんだから。あなたにひどいこと言われ続けて、もうすっかり麻痺したんだから。
「そんなの決まってるじゃない! あたしはあたしが辛いし痛いから言ってるのよ! あなたのそんな姿なんかあたしでなくても誰も見たくないわよ、いいから早く自分の身を大事にしてよ……! お願いだから」
「はは……随分と素直になったなあ」
 レレクロエはなんだかはにかむように笑った。悲しげに、苦しそうに、そしてどこか幸せそうに。
 どうしてそんなことを言うんだろう。そんな顔をするんだろう。
 いつだって、レレクロエは訳が分からなくて、ギリヴの心をかき乱した。
「素直ついでにさ、たまには僕のいう事も聞いてくれよ。こんな時だからこそ、君のその口からとめどなく出る無駄話を聞きたいんだよ。すっごくどうでもいい話をさ」
「馬鹿ね。そんなのできないからギリヴなのよ」
 ハーミオネが言う。
「それだから、あなたは――でしょう」
 そうして何か呟いたが、雨の音で聞こえなかった。
「私達を叱ってくれるなんてギリヴだけじゃない」
 泣きそうな表情で言う。
「あなたはもっと怒っていいんだから。この、どうしようもない馬鹿どもめ! ってね」
「やめてよ」
 ギリヴは唇を震わせた。
「そんなこと、冗談でも言わないでよ。そんな顔で、そんなこと言わないでよ」
 笑わないで。辛いのに、お願いだから笑わないで。

 ギリヴには泣くことしかできなかった。誰も泣かないから。誰かが泣いてくれればいいのに。誰も泣いてくれないから。

「どこに行こうとしているの?」
 ケイッティオが不安そうな声でモンゴメリに尋ねる。ミヒャエロの手を引きながら。体を支えながら。もう何度目になるかわからない。
 ケイッティオはミヒャエロに服を被せられ、手はぼろぼろに爛れていたけれど、顔には殆ど傷がついていなかった。それを幸せそうに見つめているミヒャエロが痛々しい。

 ――大事にされてていいな。

 ふと、そんなことを想ってしまった。きっと彼女にとってはとても嫌なことだろうと思った。ケイッティオはミヒャエロに笑ってほしいのだ。ミヒャエロを守れるようになりたいとずっと言っていた。けれど、彼がそれを許さない。
 二人の絆の深さはギリヴにはわからない。けれど、ミヒャエロはとても危うかった。ケイッティオさえ無事ならそれで彼はいいのだ。自分を守ってくれたのも、ケイッティオがギリヴを好きでいてくれるからだ。
 モンゴメリは唇を引き結んで、しばらく何も言わなかった。この人は最近よくこんな表情になる。雨に打たれて抜け落ちた髪の隙間から、彼が厭っている柘榴の眼も見えるようになっていた。とても荒んだ眼差しで、口をきゅっと引き結んで。ケイッティオが話しかけるたびにこんな顔をする。
 ――馬鹿だなあ。
と思った。欲しいなら欲しいと素直に言えばいい。気づいてさえいないなら、自分にもっと素直になればいいのだ。それなのに、彼もまた、頑なに見ようとしない。

 ――醜いなあ。

 私は醜いなあ。

 ギリヴは涙が渇いていくのを感じた。
 こんな、大変な時に、こんなことしか考えられない、こんな想いしか抱けない、自分が、大嫌いだ。
 レレクロエはハーミオネには優しい。ミヒャエロはケイッティオに過保護で、モンゴメリもまた、きっと自分の気持ちを持て余している。いつからだったのかはわからないけれど、きっと何でもよかったのかもしれない。
 モンゴメリはいつでも心を閉ざしていた。声さえ出すのも厭うように、生きることを拒んで。けれど、いつしかケイッティオには毒舌だとしても、話すようになっていた。そのうち、段々ギリヴとも話してくれるようになった。それだけだ。それだけのことだ。
 ――あたしもケイッティオが好きだもの。
 これが嫉妬だと知っている。自分の業そのものなのだから。
 ――けど、あたしはきっと、本当は誰も好きじゃないんだ。
 好きになれるわけがない。自分だけが可愛いのだから。
 いつだって、愛されたいと思っていた。きっと、マキナレアになる前から。
 人間だった頃の記憶はほとんどない。けれど、愛されたくて、それだけのために、愛でもないものを喜んで、与え受け取っていた。
あたしは汚いんだ。
 生きていくために誰かにすがることが必要だった。体だけが唯一持っているものだった。けれど、それをどんなに投げ出しても、愛してはもらえなかった。
 貪ってきたのだ。色んなものを。それなら今、与えることもできず、癒すこともできず、ただ傷つけて壊すことしかできない自分にも納得ができる。
 ずっと、自分を痛めつけて生きてきたのだから。

 きっと今も、皆を心配する気持ちは、自分可愛さの裏返しだ。

 それを見抜いているから、レレクロエは自分に辛く当たるのだと知っていた。

「……ほら、答えてあげなよ」
 ギリヴはモンゴメリの背を押した。
 モンゴメリはギリヴを睨みつける。
 ――そんな顔したって、傷つかないよ。
 ギリヴは口角をあげた。笑えたかな。ちゃんと、笑えたかな。
「花畑が、」
 ようやく、モンゴメリが低い声で呟いた。
「この先に、花畑があるんだ。雨をしのげるわけじゃない。けど、あそこは……俺達を造ったあいつにとっても大事な場所だから、きっとあそこなら、大丈夫なはずなんだ。あれが残っているとしたら、そこは雨に打たれても溶けない何かを施されていることになるから」
「そう……なの」
 ケイッティオが静かに言った。
「でも……」
「残ってるよ」
 ギリヴは遮るように言った。ちゃんと笑えているかな。大丈夫かな。
 ギリヴはケイッティオに抱きつく。
「きっと、残ってるよ」
 モンゴメリがどうしてそんな場所のことを知っているのか、わからないけれど。
 もう追い詰めたくなかった。
 ケイッティオはようやく柔らかく笑った。
「うん……そうだね」
 ――この笑顔にやられるんだろうなあ。
 ふと、そう思う。
 ギリヴだって大好きで、見ると優しい気持ちになれるようなこの笑顔に、やられない方がおかしいじゃないか。
 ギリヴは笑った。つられるようにミヒャエロが笑ったのを、ケイッティオが少し悲しげに、そして嬉しそうに見守る。
 モンゴメリがふと、けたけたと笑った。目を片の掌で覆いながら。
「あったね」
 レレクロエが静かに、息を吐き出すように呟く。
 灰色の空の下で、鈍く、けれど鮮やかに透けて光る、枝の向こうの深い緑。
 その木々の根本を縫うように敷き渡る、紅紫色。
「はは……あいつ、本当に何がしたかったんだよ」
 モンゴメリが嗤った。
「大嫌いだ、あんなやつ」
 モンゴメリはずっと嗤っていた。レレクロエはその場に崩れるように座り込んだ。深く息を吐いて。
「だめよ。あと少しじゃない。ほら、歩いてよ」
 ギリヴはその袖を引っ張った。レレクロエはただ微笑するだけだ。それが、とても綺麗だと思った。
「安心したらどっと疲れたよ。起こして」
 手を広げて伸ばす。ギリヴは嘆息した。
「子供じゃないんだから」
 手を繋いで初めて、ギリヴはレレクロエの手がとても大きくて、堅くて、男の子の手なのだと気づいた。
「なに?」
 レレクロエが優しく首を傾げる。絵になると思った。彼は顔だけは本当に美人だ。
 ――ほっとしたから、ちょっとだけあたしにも優しいのかな。
 少しだけこそばゆい気持ちになった。どうせすぐにまた暴言を吐かれる日々に戻るだろう。けれど、今日だけはこの優しい微笑を見ていたい。
 ――たとえ、あたし一人のためのものじゃないとしても。
 そう思う。
「浅い沼地だから、足元気を付けて」
 モンゴメリが言う。靴なんかもう意味はなかった。ギリヴは靴を脱ぎ棄てる。濡れた泥は、温く皮膚にまとわりついた。
 足を踏み入れて、言葉を失った。

 蓮華草の花、花、花。

 何処までも続く紅紫の絨毯。ひんやりと冷えた空気。水の匂い。花の香り。緑の香り。

 こんな命の場所が、まだ、この世界にも残っていたなんて。

「なあに、これ。ギリヴがそこらじゅうにいるみたいで気持ち悪」
 レレクロエが呟く。むっとして振り返ると、けれど彼は柔らかく笑っていた。
 その表情に、虚をつかれる。

 ――あなたは蓮華草のような人だね。

 ふと、ミヒャエロの言葉を思い出した。

 たまらなくなった。ギリヴはわっと泣き出した。その背中をハーミオネが優しく撫でていた。







十二、森に削れる

 喉の奥がひゅう、とざらつく嫌な笛の音を鳴らした。
 モンゴメリは小さく咳込みながら泥を踏みつけ草木をかき分ける。
 この森は冷たくて温くて、とても瑞々しい。
 霧のような緑の香りに、肺が苦しげに息をする。
 木々の広い葉たちは、雨の毒を濾すように、少し舌の先がピリッと痛む程度には浄化された雫を土に還していた。けれど、その雫でさえも、今のモンゴメリには体中に染みるのだ。
 太いざらついた木の幹にもたれ、右腕の裾をまくる。
 青く透明な骨が、肉の向こう側に見えていた。
 体中に穴が開いている。まるで、人の身体はただの着物だとでもいうように。

 ――限界だな。

 モンゴメリは深く静かに息を吐いた。ここまで早く来るとは思わなかった。
 皮膚が爛れ落ち、肉が削げ、再生しなくなってもう長いこと経っている。この剥けた体は、レレクロエの力を使ってしても、もう戻ることはない。
 自分がもし消えたら、他の五人はどうなってしまうだろう、と考える。
 今は、自分の眩惑の力でこの場所を人間の眼から眩ませている。けれど自分がそれをできなくなったら、すぐに人間に見つかってしまうだろう。現に、今でも時折ミサイルが降ってくることがある。ミヒャエロがそれを混沌の中に取り込んで事なきを得ているだけだ。それもミヒャエロにとっては多大な負担だった。爆弾を自ら体の中に飲みこむようなものなのだ。その毒性をミヒャエロは、自分の身体で代謝している。
 レレクロエとミヒャエロと三人で、このことは自分達だけの秘密にしようと約束した。どこまで隠し通せるかはわからない。それでも、後の三人をなるべく巻き込みたくないというのが、自分たちの一貫した想いだった。
 そんな想いを自分が抱くようになったことが不思議だった。守ってやりたいだなんて、そんなこと、未だに思えているわけではないのに。
『それは、君が少なからずあの子たちに消えてほしくないからなんじゃないの』
と、レレクロエは言った。
『力を使えば使うほど、終わりがやってくるんだから。僕達の身体はそういう風にできてるでしょ。君が元凶なんだから嫌って言うほど知ってるだろ』
それでも、とレレクロエはひねた笑顔で言った。
『最後まで僕は残るから。女の子に最期を見届けさせるわけにはいかないんだよ』
 だから、せいぜい僕に力を使わせすぎないようにしてよね、と。

 ――あいつも難儀だな。
 モンゴメリは小さく笑った。
 こんなに早く、消えるわけにはいかない。自分が消えた後の、マキナレアの末路が瞼の裏に映るようにわかる。
 ――でも、無理をしないわけにもいかないしな。
 随分とぼんやりとしていたのだと思う。目を開けた瞬間、そこにあった顔に心臓がつぶれるかと思った。
「お……驚かせんなよ」
「気づかないのが悪いんだわ」
 ケイッティオは静かな声で言った。
「いや、近いんだって。なんでここまで近づく必要があるんだよ」
「わたし目があまり良くないのよ」
「知らねえよ」
「だって、あなたの眠っている顔なんて珍しいから」
「それはあんたがいつもさっさとぐーすか寝てるからだろ」
 そんなことない、とケイッティオは眉根を寄せた。その肩を押して顔を遠ざける。
「心臓に悪いからあんまり近づかないでくれる」
 そう言うと、ケイッティオは首を傾げた。
「わかった」
 ――いやに聞き分けがいいな。
 モンゴメリは嘆息する。
 ケイッティオは体の前で手を組んでしばらくその場にじっとしていた。ややあって、口を開く。
「やつれたのね」
「は?」
「少し、痩せたと思う」
「あんたが?」
「違うわ。モンゴメリが」
「ああ……」
 そうかな、と思いながら顎に手を当てる。
「あと、背も高くなった」
「ああ」
 やっぱり気づかれたか、と苦々しく思う。
「羨ましい?」
 少しからかうようにそう言うと、けれどケイッティオは静かに首を振った。
「それを嬉しいと思っていない人に聞かれても、羨ましくなんて感じない」
しばらく二人は見詰め合っていた。
 ――調子狂うんだけど。
 モンゴメリは嘆息する。
「無理しないで」
 ケイッティオは静かに言った。
「あなた達が何を考えているかわからないけれど。女だからってわたしたちを甘やかさないで。何のためのこの力だと思ってるの。それだけはどうしても言いたかった」
 ケイッティオは手をぎゅっと握りしめる。そして、ややあってにこり、と笑みを作った。
「それとも、奪ってあげましょうか? あなたの熱を」
 モンゴメリの身体が一瞬固まる。
「あなた達の熱を根こそぎ奪って、勝手なことできないようにしてあげましょうか」
 ――心臓に悪い台詞だな。
モンゴメリは嘆息する。
「おまえさ、そういうことを男にほいほい言うのはちょっとどうにかした方がいいと思う」
「どういうこと?」
「いや、別にわからなくていいけどさ」
「そういうのが嫌いなの」
 ケイッティオは顔をしかめる。
 そうして、距離を詰めた。
 モンゴメリの腕をつかんで、袖をまくる。
「それで、何、これ」
 ケイッティオは静かな声で言う。
「隠してるつもりだったの」
 水滴が葉を伝ってしとしとと降り零れる。
「そんなに、俺のことをいちいち見てるなんて思わないしな」
 何でもない事のようにさらりと言うと、ケイッティオは少し顔を赤らめてむっとした。
 心臓が痛い。
「見てないと思うからだめなの」
「え、何それ。俺が悪い感じ」
 モンゴメリは肩をすくめた。ケイッティオの力は弱弱しくて、振りほどこうと思えばできた。なのに、動けなかった。動きたくなかった。
「これ、ミヒャエロもレレクロエもなってるの」
「レレクロエはまだそこまで力使ってないからな。ミヒャエロのことは知らない。自分で聞けば」
「聞いたって……言ってくれないから……っ」
 苛立ちをない混ぜてケイッティオが唇を引き結び、目を伏せる。
 ――苛つくな。
 モンゴメリはケイッティオの腕を振り払った。けれどケイッティオはまたその手首を掴む。
「しつこいんだけど」
「じゃあ話してくれるの」
「何を」
「わたしたちはどこへいこうとしてるの」
「知らねえよ」
「あなたたちがこうやって、それで嬉しいとでも思ったの」
「嬉しい嬉しくないは関係ないだろ。ミヒャエロはあんたのためだろうけどな、俺は別にあんたらのためにやってるわけじゃないんだよ。放せ」
「自分で払いのければいいんだわ。その度に捕まえるから」
「何、その自信」
「知らない!」
 ケイッティオは声を荒げた。
「だから、ミヒャエロのことが知りたければあいつに構えよって。もっとあいつと話しろよ。幼馴染だか何だか知らないけど、あんたら意思疎通がぜんっぜんできてないじゃん。こんなとこで俺に構ってる場合じゃないだろ」
「構ってもらってる自覚はあるの」
「……いちいち煩い女だな」
 睨み合う。
 ケイッティオは口をきゅっと結んだ。
 ふと、それが自分が苛ついている時の癖に似ていることに気付く。
「煩くしなかったら……嫌わないでいてくれるの」
 ケイッティオは涙をにじませながら声を震わせた。
 ――は。え、ちょっと。は。待て。何。
「泣く、なよ」
「まだ泣いてないわ」
「まだって……」
「じゃあ泣いたらその前髪あげてくれる」
「待て。何の話だよ」
「大人しくしてればいいの。それとも怒鳴る方が好き。わたしがどうしたらあなたはちゃんと話してくれるの」
「怒鳴るって……おまえそんな小さい声で怒鳴るも何もないだろ」
「怒鳴れるもの!」
 ケイッティオはか細い声で叫ぶ。
 ――わ、わけわかんないんだけど……。
 変な汗さえ滲んでくる。
 顔を真っ赤にしながら眉間に皺を寄せるケイッティオをしばらく見つめる。口元が緩みそうになった。慌てて口を引き結ぶ。
「あのさ、何に癇癪起こしてるんだか知らないけど、ミヒャエロに対して苛立ってんならあいつに当たってくれない?俺に八つ当たりされても困るから」
「今ミヒャエロは関係ないじゃない。あの人のことはまた別よ。わたしが甘いからいけないだけなのだもの。そうじゃないもの。今はあなたと話してるのに」
 そう、悲しげな声を出す。
 ――ああくそ、何したいんだよ。
 身体がかっと熱を帯びる。目の前にいるこれは、意思の通い合わない動物だ。かき乱されるのは嫌いだ。こういう衝動は知らない。モンゴメリはケイッティオの腕を捻ってその身体を容易に木の幹に押し付けた。ケイッティオが戸惑ったように上目遣いで見上げてくる。

 背中がぞわりと鈍く泡立った。手首を掴む手に力が加わっていく。

「痛い……モンゴメリ、痛い……」
 ――あれ?
 こんな感覚は知らない。
 もっと痛がらせてやりたくなる。体が熱い。ぞわぞわと体を巡って行く情動。
「あのさあ、おまえ、何がしたいの? 俺を苛つかせたいの?」
 心と裏腹に、上ずった声が口から漏れ出て行く。口元が緩んでいく。
「違う、わたしは、ちゃんと話をしたいと思っただけ」
「へえ。話をしたいだけなのに俺をこんなに苛つかせるんだ。作戦失敗だな」
「な、なんで怒ってるの」
 ケイッティオが泣きそうな声で言う。ふと、我に返る。俺は腹が立っているんだろうか。わからない。何に対して苛ついているんだ。
「近い……」
 ケイッティオの柔らかそうな赤い唇から目が反らせなかった。心臓は破裂するんじゃないかと思うほどに鼓動を荒げている。震える手で、その唇に触れた。指を口内に食い込ませる。
「いらい、やめれ……」
 ケイッティオがもがく。指がケイッティオの口の中で濡れていく。
「う……」
 ケイッティオが涙をにじませた。鼻頭の赤ささえ、どこか艶めいて見える。いつしかモンゴメリは、空いている片の手でケイッティオの頭を抱えこんでいた。唇が微かに触れ合うほどの距離。ケイッティオの唸る声さえ、脳を痺れさせていく。ケイッティオの左の目から涙が筋となって零れ落ちていく。
 ――だめだ、これ以上は、だめだ。
 急に血の気が引いて、モンゴメリはぱっと身を離した。ケイッティオはぐすっと鼻を鳴らし、目をこする。
 ――だめだ、どうしよう。
 モンゴメリは髪を両の手で掻き上げた。
 思い出した。
「俺は……あんたが、いつもあいつにべったりだから」
 だから、苛ついて。
 ずっと、こっちを向かないかなと思っていた。
 助けてやったのに。いつまでも自分を見てはくれない。
 だから、同じ存在になれば、同じ世界に立ってくれるんじゃないかと思って。だから。
「あ……、あ、あ……」
 歯がガチガチと音を立てる。
 嘘だ、そんなの、嘘だ。
 自分の我が儘が、たった一つの、たわいのない、餓鬼じみた所有欲が。
 彼女の未来を壊したのだ。
 こんな、肉体が削げ落ちて、青い世界の殻になって、世界から消えてなくなるだけの未来のために。
 道連れに、しようと。

「俺は、あんたが、ずっと、あの時からずっと、欲しかったんだ」

 モンゴメリの声が、空に吸い込まれていった。










都に霞むアムリタ(上)

2014年11月14日 発行 初版

著  者:星撫めれ
発  行:空檪出版

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