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失われていた記憶を取り戻していくマキナレア達。綻びを縫うように世界が終焉へと時を刻む中、遂に明かされる最後のマキナレア・レレクロエの壮絶な過去。それは全ての悲しみを受容した、一人の平凡な少年の物語――。

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都に霞むアムリタ(下)

星撫めれ

空檪出版



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或る少年の景色

 雨が降っている。

 何年も何十年も、もしかしたら何百年も、この世界を飢えさせてきた水が、ざあざあと砂の大地にぶつかる。
 それはきっと、少し前なら誰もが望んだ光景だった。

 恵みの雨なんてものが、まだこの世界にあったのなら。

 人々は泣き叫び、苦しみ、痛みにうめき声を上げた。
 阿鼻叫喚。


 降りしきる雨は、全て人々の皮膚を溶かし、食らい尽くしていく。血は止まらず、水たまりは紅さを増していく。痛いよ、痛いよ、と声が聞こえる。助けてと誰かが小さな声で喉を枯らす。誰もどうしてやることも出来ない。助けようにも、外に出ればたちまち同じ目に遭うからだ。人々は家の中で震えながら踞る。けれど雨は容赦がない。少しずつ、けれど確実に、全ての建造物を削り落としていく。人々が逃げ場所を失うのも時間の問題だ。

 僕は蝋燭の灯りだけで薄暗く、砂を固めた地下の誰もいない部屋の中で、フードで顔を覆ったまま黙々と革に針を刺し、糸を縫っていた。
 革も糸も、全てあの雨とほとんど同じ成分が含まれている。いわば、僕と同じ成分だ。僕には科学やら錬金術やらはよくわからない。ただ、あの雨にも耐えられる革と糸を作ってくれと頼んだら、出てきたのがこれだったというだけだ。

【君ならそう言うと思ったよ】

 そう言って、錬金術師は僕にこれを渡した。予定調和のように。雨に溶けにくい布地も作ろうとしていると言う。綿の種に薬を混ぜて品種改良をしているそうだ。あの雨よりも毒性の濃い雨に植物を晒し、植物が耐性を持つように変化することも、実験済みだと言っていた。けれど彼は、まだ今の段階では、人々にそれを公表するつもりはまるでない。人の暮らしは人自身が生きる術を見つけ、足掻いていくもの―そう、彼は言った。

 僕からすれば、単に用意周到なだけだ。彼はこの雨を―人災でしかないこの雨を、人々には天災だと錯覚させようとしている。

 僕は唇を噛み締めた。だとしても、僕はこの靴を作らなければいけない。
 人のために、なんて綺麗事を言うのは諦めた。僕にその資格はない。僕だって、この雨が生まれた一端なのだから。
 ただひたすらに、いつか僕と、僕と同じ五人の子供達が、この世界での死に少しでも抗えるように。
 少しでもいいから、出来るだけ長く生きてくれるように。
 僕には靴を作ることしか出来ないから。
 僕は、あの雨にも負けない靴を遺そうと、せめて足掻いていた。

「マキナレア殿」
 低い声が響く。僕は振り向かずに針をひたすらに動かす。
「グラン・アルケミストが民衆に向けて演説をなさいます。貴方様もいらっしゃるようにと言う事です」
「なぜ?」
 僅かに振り返って彼を睨みつけると、そいつは楽しげに笑みを深めた。
「理由など、お聞きになるまでもなくわかっていらっしゃるでしょうに?」
「僕が行って何になるというの? まだ世間に僕らの存在を公にするわけにはいかないだろ? なら僕は、黙って地下に幽閉でもされておくさ」
「本当に……、」
 そいつ――エル・ブライシアは口角を釣り上げて笑った。
「頑なんですね、貴方は」
 モルモットを眺めるような視線が気に食わない。
「お前みたいなやつを協力者に選んだあいつの気が知れないよ。この気違いめ。僕に近づかないでよ。何度も言っているけど、僕はお前が嫌いだ」
「むしろ、ここまでよくあの方は独りきりで全て背負っておられましたよ。何もかも一人でやるのは無理に決まっている。だからこそ、あの方の体ももう長くない今、私と貴方が彼の両腕になっているのだから」
 僕は針をしまって、立ち上がる。
「一緒にしないでくれる? 大体、僕はあいつの腕になった覚えはないよ。お前も、腕にすらなれてない。馬鹿だね。あいつは君のことをこれっぽっちも信じてない」
「構いませんよ」
 エルはにやりと笑った。
「私はただ、この世界が朽ちていくのを見られればいい。その過程などどうでもいい。それに、あの方の軌跡は貴方が全て背負っているのでしょう? なら私のやることは無いに等しい――あの方にとってはね。少なくとも、貴方もこれから永い眠りにつくだろう。その時、後始末は誰がするんです? どうせあの方ももうじき死んでしまうだろう。私しかいないでしょう? この秘密を誰に明かすこともなく、ただ己の欲望のためだけに無償で貴方方に協力するような人間は」
「無償だって?」
 僕は眉をひそめていた。
「よくまあ、それだけでたらめを言えるよ。何度でも忠告するよ。逃げるなら今だよ、エル・ブライシア。君は僕達と同じ世界を歩めない。歩む必要もない。いいから、こんな計画からは足を洗って、せいぜい人並みに幸せに生きておくれよ」
「人並み? 無理に決まっているでしょう? というか、俺は幸せですよ?」
 エルはくつくつと肩を震わせて笑う。僕は首を振って、深く息を吐いた。

 まったく、ヨーデリッヒは、どれだけの人間を犠牲にするつもりなんだろう。

「僕は、少なくとも……ヨーデリッヒが死ぬまでは安心して眠れないよ」


 それが僕の役割だから。
 僕はぽつりと呟いた。
 科学に関しては誰よりも知識はあるけれど、馬鹿な頭しか持ち合わせていないこの哀れな、自分の行く末さえ見えていない人間を哀れに思いながら、僕は砂の階段を踏みしめた。


 見届けなければならない。僕は、

 ヨーデリッヒが歴史に名を遺す瞬間を、
 彼が世界につく嘘を、

 この目に焼き付けなければ。


 雨が降る。ざあざあと。いつまでも。きっとこの先も。止むことなどないままに。
 全ての命を苦しめて、降り続ける。たった六人の子供の未来を守るためだけに。
 たった一人の、願いを守るためだけに。






 目次

閑話、或る少年の景色

第四章 六人目のマキナレア

二十九、黄昏に咲く
三十、枯れる向日葵
三十一、真珠を吐く
三十二、鉄葉に沈む
三十三、鐘を抱える
三十四、針を呑む
三十五、木偶の坊
三十六、塔
閑話、或る科学者の苦悩
三十七、白砂の棺
閑話、或る少女の手紙

第五章 終焉の方舟

三十八、花舞う世界
三十九、蒼撫ぜる世界
四十、青に歩む世界
四十一、星降る世界
四十二、花降る世界
四十三、愛された少女

終章
 花捧ぐ世界


二十九、黄昏に咲く

 サリ、サリ、と音が響く。

 僕は黙々と木の塊を削る。僕はまだ、木型から靴を作ったことはなかった。木型作りはとても大事な工程だ。履く人の足の魂を木の中に映し出す作業。およそ靴作りに一つとして無駄な過程などないけれど、これがなければ靴は始まらない。

 僕はじいちゃんが作った木型を見よう見まねで作ることしか出来ない。木型からの型取り、革を裁ち、漉き、釣り込み、底を作り…木型以外は、僕はもう、じいちゃんの助けを借りなくとも一つの靴を作り上げることが出来る。

 本来は、靴職人であれば、木型を作ることから始めるのだ。何年も何十年もかけて、始めから一つ一つ身にしみ込ませていく。本底を縫い、コテをかけて、靴を艶めかすように磨く。そこまでの一連ができるようになって初めて、靴職人として地に立つことを許される。けれど勿論、そこで終わりではない。何もない土地に一人放り出されても、生きていけるとは限らないのだ。そこから一歩一歩踏みしめて歩き続けなけらばならない。地味かもしれないけれど、靴職人はとても【生】の詰まった天職だ。

 けれど僕は、そこにある木型を使って革を裁つところから始めたのだ。理由はいくつもある。一つには、僕の父がー正しくは両親が、流行病で死んでしまったこと。そして、じいちゃんが、病に冒され無理が出来なくなったこと。職人がいなければ靴屋は成り立たない。こんな時代だからこそ人々は靴を必要としていた。雨もほとんど降らず、砂埃が常に舞い、かつてはアスファルトというもので美しく整備されていたであろう道も、今では裸足で歩けばその皮膚を貫いて怪我を負わせ、感染症を蔓延させる茨の刺でしかない。

 僕はまだ幼かったけれど、どうにかして、この、じいちゃんと両親の愛した店を守りたかった。じいちゃんの誇りを守りたかったのだ。じいちゃんの手を凝視して、目が潰れてしまうのではないかと思うほどに目を凝らして、見よう見まねで革包丁と金槌を抱え、何度も何度も手を傷だらけにしながら靴を作ろうとした。初めて作った靴は不格好で、履くとすぐに壊れてしまった。僕は泣いた。けれどじいちゃんは、どこが悪かったのか静かな声で諭した。それ以来、決して僕に靴を作らせようとしなかったじいちゃんは、僕に最低限の靴の作り方を仕込んでくれた。僕はひたすらに、じいちゃんの作った木型から型を取って、安くで売れる、けれど丈夫な靴を作ることに没頭した。時には靴の修理もした。ありがとうと言って笑う人達を見ていて僕は、無性に、僕の作る靴を履いてほしいと思ったのだ。

 僕が一から作った靴を。

 けれどじいちゃんには、僕に木型を教えられるほどの体力は残されていなかった。木を削るのは、集中力と握力、そして時間が必要だ。勿論他の過程にだって言えることだけれど、靴の命を吹き込むという点では、木型を作る以上に辛く苦しい作業はないのだ。じいちゃんでさえ、昔作った木型を使って革を裁断する。もうじいちゃんには、木型を作ることが出来ない。
 だから僕は、あれやこれやと頭を悩ませながら、目の前にある出来上がった木型を見ながら自分なりに木を削っていくことしか出来ない。けれど一度としてうまく出来たためしがない。僕はとてつもない劣等感に苛まれて俯いていた。僕は何をやっているんだろう。

 物心ついた時から、僕は靴と共にあった。靴を作るじいちゃんと父さん、二人を支えていつもおいしい料理を作る母さん。僕は小さい頃から手伝いをするのが好きで、絶対に何も触らせてもらえない男達の作業場よりは、母さんの働く台所に居着いていたと思う。おかげで僕は、両親が死ぬまでは、台所をまかされていた。男が料理なんて、とじいちゃんは顔をしかめていた。どこかに嫁にでも行くつもりか、と父さんは笑った。お前が女の子だったら良かったのにね、と母さんは言った。

 僕は、手先は器用な方だったと思う。

 今は食事の支度とじいちゃんの手伝いをして一日を過ごしている。けれどたまに、じいちゃんは具合が悪くて動けない時もあった。そう言う時は僕が店の番をし、お客が来たら対応をして、注文の入っている靴の製作を続けた。一日はそうやってわりと忙しいのだけれど、時々――ほんの時々、こうしてなんにもすることがない時もあった。僕はそう言う時でしか――誰も見ていない時でなければ、木型の練習が出来ないのだ。

「はあ……」

 僕は手元の木の塊を作業台にそっと置くと、椅子の背にもたれて天井を仰ぎ見た。
 埃が隙間に詰まっているな、今度掃除をしないと…だなんて、今はどうでもいいことを考えたりする。
 木屑のついた指で、前髪を一房つかむ。顔を隠すように伸び放題にしたままの細っこい砂色の髪。何の珍しいこともない。僕は溜め息を一つついて、鏡を見る。靴の試着用の鏡だ。毎日のように磨いている。奇麗に磨かれているせいで、嫌でもはっきりと目の前のものを映し出してくれる。
 そばかすだらけの、肌の荒れた、大して美男子でもない僕の顔。
 十五歳になった頃から(遅すぎるかもしれないが)僕はそれなりになんとなく近所の女の子達の目が気になってしまうようになっていた。僕を見る時の「うわっ」と言わんばかりの目。恐らく恋人と思われる男の子に対する蕩けたような目。
 それを見ていると、無性にどきどきして、僕は店の中に閉じこもってしまうのだった。母さんが持っていた古ぼけた恋愛小説なんか読んじゃったりして、たまに店にきてくれる奇麗な女の人が僕に一目惚れなんて――そんなことあるわけないか、と落ち込んだりして、僕はここのところ、誰に相談したら良いのかもわからないもやもやとした期待と落胆を抱えながら、そわそわとして落ち着きがなかった。

 鏡を見て、黒いリボンで縛った長い後ろ髪をつかむ。
「……櫛で梳かさないから野暮ったく見えるのかな……」
 誰も聞いていないのに独り言ちながら、僕は母さんが使っていた櫛で自分のしっぽを梳いてみる……抜け毛が酷い。あっという間に、くすんだ金色なのか淡い茶色なのかさっぱりわからない地味な色の糸玉ができて、櫛にぐちゃぐちゃと絡みつく。櫛に挟まった抜け毛をぶちぶちとつまんで取りながら、僕は再度嘆息した。
「髪が長いのがいけないのかなあ」
 髪が長過ぎることは自分でも気にしたりはしている。じいちゃんも髪を縛る人であるせいなのか、今まで僕の周りで誰一人として【その髪切った方がいいんじゃない?】と言ってくれた人がいない。そのせいでいまいち髪を切る勇気が持てないのだ。それに、どうせ切るならお金を貯めていい床屋でちょっと格好良さげに切ってもらいたいと言う下らない見栄もあるせいで、忙しさにかまけてなかなか切りにいくことが出来ないままぼうぼうと伸びた髪を毎日後ろ一つに縛っている。ぼうぼう、と言っても、髪の量が少ないのでそこまでうっとうしくは見えないはずなのだけれど。僕の目下の悩みは、こんなに髪は薄いんじゃ将来禿げるんじゃないだろうかということだ……じいちゃんも父さんも髪はふさふさしていたのに……こういうところばかり母さんに似てしまった。
「あー……僕も恋人の一人くらいほしいなあ……いいなあ……」
呟いて、はっと後ろを振り返る。なんて危ないんだ……! こんなの、たとえじいちゃんでも誰かに聞かれたら恥ずかしくて死ねる。そうだ。僕はどっちかというと今現在、木型のことよりも自分に笑いかけてくれる可愛い女の子が一人もいないことの方が深刻な悩みなのだった。

 カラン、と扉につけた鈴が鳴る。頬を両手でぱちん、と挟んで、僕は頭を振ると、店の玄関に赴いた。
「いらっしゃいませ」
 黒髪の、がっしりとしたなかなか美男子の青年が、店内を一通り見渡す。
「あの……どういった靴をお探しですか? これとか、」
 僕は棚から、新しく仕入れた革で作った靴をいくつか取り出す。
「こちらなど、履き心地もよく、おすすめですが……履いてみられますか?」
「ああ、いや、別に」
 男はつっけんどんに言った。背が高い背もあるけれど、僕を頭上から見下ろしてきて、目つきもさほど良くないために僕は蛇に睨まれている心地になる。
「今日は、連れに似合う華やかな靴が欲しいと思ってだね。しかしこの店にはそう言ったものはないなあ」
「はあ……女性ものですか」
 僕は男の影に隠れるように立っていた、僕より少し背が低いくらいの女性を見つめる。水色の淡い透けた布で頭を覆っているので、顔はよく見えない。
「店内には並べておりませんが、ご注文戴ければ作ることは可能です。元々店内にも並べていたのですが、女性ものは装飾を考えて作る分日光に弱い面もありまして、ご注文を受けてからお作りする形を取らせて頂いています」
「なるほどね。どうする?」
 男が振り返ったが、女性はそこにいなかった。あれ?と二人で思わず顔を見合わせる。かたん、と音がして、振り返ると、なぜか女性は奥の作業台の前で立ち止まっている。僕は慌てて走った。
「あ、あの、そこは関係者以外は立ち入り禁止にさせていただいていまして、」
「これ……靴?」
 女性は――いや、むしろ少女と言った方がいい若さだ。彼女は木の塊を指差して言った。その指先には、先刻放り出した僕の格闘の跡が鎮座している。
「うわわわわ……」
 僕は慌ててそれを背中に隠して、引きつった笑みを浮かべた。
「こ、これは靴ではなく、靴の型となるものです……その、足に合わせて木で型を取って、それに合わせて革を裁断するので……」
「ふうん」
 少女は首を傾げる。
「で、でもこれは、その、まだ途中と言うか、まだ試行錯誤してて、その」
「これ、男物? にしては、なんだか小さいみたい」
「へっ!?」
 気づけば少女は僕の後ろ側に回り込んで、木型の出来損ないを凝視してる。僕は手のひらから耳までだんだんと紅潮していくのを感じていた。
「いや、えっと、その」
「でも、なんだろう、これあんまり可愛くないのね。どちらかというと男物っぽい形……」
 あああああああ。
 僕は頭を抱えたかった。やめてください、死んでしまう。
 僕のセンスのなさを暴露されてしまった。
 そうだ、これは、その、女の子に僕があげる靴……を気持ち悪い顔で妄想しながら削っていたのだ。でもそもそも女の子が喜ぶものなんて、お客様以外の女の子としゃべったこともないのにわかるはずもないのだ。
「おい、いい加減にしないか、ギーズ。店主が困っているじゃないか」
「はぁい」
 ギーズ、と呼ばれた少女はひらりと立ち上がって男の元へ戻る。
「それで? どうしたいんだ。お前が靴が欲しいと言うから連れてきてやったんだぞ」
「え〜? あなたが店の外で会いたいって言うから、それならあたしの買い物に付き合って、って言っただけよ〜? 特に何もないし、やっぱりいいわ。気が変わった。別のところいきましょ!」
 甘ったるい声で少女は言い、男の腕に自分の白く滑らかな腕を絡ませた。その腕に僕はどきりとして、思わず目を反らしてしまった。
「……だ、そうだ。すまないね」
「はい、またのご来店、お待ちしています……」
扉が閉まる。
 僕は嘆息した。こんな時代に、あんな上等の服を着て、何の苦労もなさそうに歩いている人間がいたなんて思わなかった。貴族だろうか、とぼんやり考える。貴族にはちょっと不満足な店だったかもしれない。
 じいちゃんは、貴族だろうが王族だろうが、満足するような素晴らしい靴が作れた。だけど、今はもっぱら庶民のための安くて丈夫な靴を作ることに専念している。それは、この生き辛い世界で、少しでも人々の支えになれるようにと、じいちゃんが考えた結果だ。
 歯がゆい想いを抱え、僕は手作りの木型を眺めると、作業台の棚の奥にそれを隠した。
 僕は何気に、結構傷ついていた。作業台に突っ伏す。
「くっそ……」
 僕は頭を振って立ち上がると、倉庫へ向かい、じいちゃんと父さんの木型の中から女物の木型を見繕った。
 その中で一つ、心を惹かれたものがあった。
「これ……」

【愛するエルゼに 真心を込める】

 そう、書きなぐったような字で小さく書いてある。紛れもなく、父さんが母さんのために作った木型だった。日付は、僕の生まれる3年前だ。
 僕はそれ以外を棚に戻すと、型取りの作業を始めた。型に沿って布を貼付けていく。
 固く布で型を包み込んでいるうちに、涙が溢れた。
 手が止まり、僕は震えて拳を固く握りしめていた。


     *


 僕がギーズと言う少女に再会したのは、それからほとんど日を置かない、ある曇りの日の黄昏時だった。
 そろそろ店を閉めようと床を箒で掃いていると、玄関の鈴がカラン、と鳴る。
「ごめんなさい、もう閉店?」
 ちょこん、と扉の隙間から少女が顔をのぞかせる。フードの奥から見えたマゼンタ色の瞳にどきり、とした。
「あ、はい……すみません」
「ちょっとだけ」
 少女は眉を八の字にした。
「お願い、ちょっとだけでいいの……! あたししばらく来られそうにないから……今日も実は店抜けてきちゃったのよ。だって店主が最近あたしをこきつかうんだもの。でもあたし、ちょっと謝りたくて」
 何の話だかわからず、僕はどぎまぎとしながら首をひねっていた。
「ええと……と、とりあえず入って……その、カーテン閉めてくれる……あ、そう、ありがとう」
 僕の言う通りに、少女は中へ入るとカーテンを閉める。これで、外からは閉店していると伝わるだろう。
「あつーい! こんなに熱籠るの!? 涼しくしないと倒れちゃうわよ!?」
「え……あ、うん……」
 ぷはあ、と苦しげに息を吐くと、少女はフードを取った。
 そこから現れた、瞳よりも少し桃色がかった明るいマゼンタに目を奪われ、息が出来ない。
「うわ……」
 僕の呟きに、少女は釣り気味の大きな目できっ、と僕を睨みつけた。
「人の顔を見て【うわあ】とはどういう意味?」
「え? いや、違うよ!?」
「ふーん。まあいいわ」
 少女はふん、と言った後、ぺこり、と思い切り頭を下げた。
「え? な、何ですか!?」
 僕は慌てふためく。ぴんぴんと跳ねた、馬の鬣のようにふさふさとしたマゼンタの髪が、さらりと少女の肩を撫でて滑る。心臓はまたどきりと跳ねた。
 僕とは全然違う、ふさふさで、どこか硬そうなパサついた髪。それなのにどこか艶めかしく、どこか愛らしかった。
「この間は、このお店に特に何もないとか言ってごめんなさい」
「え?」
「あ……えっと、覚えて、ないか……この間結構背の高いおじさんと来たでしょ、ここに」
「お、おじさん……」
 あれをおじさんと言ってしまうのか。若く見えたのに。
 まじまじと目を合わせられて、またどぎまぎとする。ああ、そうだ。この瞳には覚えがあった。
「えっと……はい、覚えて……ます」
 そう言うと、少女はぱあっと顔をほころばせた。
「よかった!」
「えっと……ギーズ?さんでしたっけ……」
 言ってしまって、しまったと青ざめた。どうしてたった一度会っただけの、しかも名乗られていないような相手の名前を憶えているんだと気持ち悪く思われたらどうしよう。僕は自分が気持ち悪いとは大いに自覚している。彼女はあまりにも印象的で、もやもやとした気持ちを抱えながらも、しっかりと僕は名前を覚えてしまっていたのだった。
 案の定、少女は首を傾げる。
「あれ? あたし名乗ったっけ……」
「へ!? えっと、その、連れの方がそう呼んでたから……」
 あわわわわ、と口をもたつかせながら僕は必死で言い訳する。
「あ、そっか。そうだったかしら。それにしても記憶力いいのね! やっぱりお客様を抱える身となるとちゃんと一人一人の顔と名前を憶えてたりするのかなあ~……あたしも気をつけないと。でも顔と名前覚えるの苦手なのよねえ」
 少女は一人で何かを納得する。た、助かった……。
「でも、それ、源氏名だから……一応あなたあたしのお客ではないし……どうなのかな……ああ、でもむやみに本名教えちゃだめなんだっけ……」
「げ、げんじな……?」
 なんだろう、聞きなれない言葉が聞こえた。お客、というからには、この子もどこかのお店で働いているのだろうか……どこのお店だろう、と僕は一人悶々と考える。
「まあ、いいや。あなた地味だし友達いなさそうだし! 言ったって広がることは無いわよね、まあ別に広がってもあたしは構わないんだけど――ってどうしたの?」
 さらりと酷いこと言われた。もう生きていけない。
 僕は壁に手をついてうなだれた。結構なクリティカルヒットだ。もう瀕死だ。
「だ、大丈夫です……」
「えっと……ご、ごめんなさい……?」
 悪気がないだと。
 僕はそっと嘆息して、もう一度少女に向き合った。
「えっと……それで、何の御用ですか……?」
「そんなかしこまらないでよ。どうせあんまり歳も変わらないでしょ? あたし今日はお客じゃなくて謝りに来たの。この間このお店を少し貶すような感じで言っちゃったから……」
「ああ……」
 僕は記憶を辿る。
「別に……地味なのはその通りですし」
 僕はへら、と笑う。笑わざるを得ない。けれど少女は首を振った。
「違うわ。あたし……このお店、素敵だと思った。だからあんなやつにあたしの靴をここで注文してほしくなかったの……」
 よくわからない。けれど、褒められたのだとわかって、急に――ここ数日僕の心に巣食っていた苛立ちが、まるで霧のように霞んで消えた。僕は頬を染めてしまった。褒められることには慣れていない。けれど、やっぱり嬉しい。
 僕は俯いて唇を噛みしめた。目頭が熱くなる。じいちゃんの店を褒められたり、好きだと言ってもらえると、どうしようもなく泣きたくなるのだ。僕はこの店が好きだから。大切だから。
「その……もしよかったら、靴をひとつ注文させてほしいの。それから、できれば、でいいんだけど……」
 少女は俯いた。
「その……靴ができるまでここに何度か来てもいいかな……その……あのね、どんなふうに靴が出来上がっていくのか見たくて」
「へ?」
 僕は顔をあげた。少女の顔は真っ赤だ。なんだろう。いったい何が起こったんだろう。およそ女の子とこんな密室で(一種の密室であることに僕はたった今気づいたのだった)こんなにも長い時間話し込んでいる上、目の前には頬を染めた愛らしい少女。しかも僕に会いに来たいと――正しくは靴に会いに来たいと言っているのだがこの際どうでもいい――震えた声で言う少女。
 なんだろう、この状況は。だめだ、勘違いしちゃいけない。そんなことはありえない。こんなかわいい女の子が僕に実は一目惚れしてくれてたとか――いやいやいやいやいやいや。何を考えているんだ。馬鹿か。阿呆か。埋まれ。さあ僕よ、今すぐ埋まるのだ。
「ええっと、ご注文ですね! じゃ、じゃあその、足のサイズなど測りますので……それからお名前を念のため……あとそうだ、どのような感じで……」
 僕は半ば混乱しながら無理矢理まくしたてる。
 少女は頬に指を立てて何かを考え込んでいた。
「うーん……今日は実は店を抜け出してきたからあまり時間がないの。だから、いつになるかはわからないのだけど、絶対に来るから、その時きちんと注文させてほしいの。ゆっくり決めたいの」
「あ、そうです……?」
 僕は羽ペンと紙を手に持ったまま呟いた。というか、よく考えたらそっちの方がこちらとしても助かるのだ。時間的にもう店は閉店しているのだから。
「えっと……本当に、いつになるかわからないのだけど、絶対に来るから……それだけは信じてほしいの……あって間もない人間を信じろって言うのは無謀な話なのだけど……」
「し、信じるよ」
 僕は少女の目を見てぎくしゃくしながら答えた。
 また来てくれると言ってくれるだけで本望だ。靴を頼みたいと言ってくれた。それだけで、僕は幸せなのだ。ついでにこんなに可愛い子に――たとえただの靴職人として、仕事として会わざるを得ないだけだとしても、また会えるとしたら、僕だってなんだか嬉しかった。
 少女はひだまりのように笑った。
「ありがとう。信用のためにも、やっぱり名前を……本名を教えるわ」
「本名……?」
「うん。あたしの名前は全部でギーズ・ギリヴ・ギーズリグよ。ギーズリグが苗字ね。ギーズが源氏名で……本当の名前はギリヴだけなんだ」
「え、えっと……」
 僕は紙とにらめっこしながら唸る。つまり、注文票にはどう書けばいいのだろう。
「えっと……ギリヴ、でいいのかな?」
 僕が悩んだ末にそう言うと、少女は――ギリヴは、にっこりと笑った。
「うん、あなたにはそう呼んでもらいたいわ。だってこれ、あたしのプライベートだもの」
「う、うん……」
 僕はどぎまぎしながら、綴りを聞いて、注文票に【ギリヴ・ギーズリグ様】と書いた。
「ギーズリグも後でつけられた名字だから微妙なところだけど……まあいっか」
 ギリヴはそれを見ながらそう言った。
 僕は気になったけれど、聞かないことにした。一応これはお客様との関係だ……個人的に立ち入っていいわけじゃない。
「じゃあ、注文お受けしますね。また後日ご来店ください」
「はい」
 ギリヴは微笑む。
「じゃあ、あたしそろそろ帰らないと。あなたがいてよかったー。実はずっとここに来るタイミングを見計らってたんだけど、怖そうなおじいちゃんがいたから、なかなか近寄れなくて」
 はは、と僕は苦笑した。じいちゃん、強面だもんな。
「あれはうちの店長で、僕の祖父だから、頑固だけど意外と怖くないよ」
「そうなんだ。えっと……ユーフェミル・フェンフさんだっけ? お店の名前に自分の名前つけてるのね。てっきりあたし、これあなたの名前なんだと思ってた」
 名前を呼ばれて、一瞬どきりとする。
「えっと……まあ、僕も、かぶってるかな……」
「どういうこと?」
 ギリヴがきょとんとする。
「僕……エスト・ユーフェミル・フェンフって言うのが、僕の名前。祖父から名前を一部もらってるんだ」
「なるほど」
 ギリヴはそう言って、ふにゃっと笑った。
「えへへ……名前教えてもらっちゃった」
「ぐ……」
 僕の喉からくぐもった声が漏れる。なんだその破壊的な可愛さの笑顔は。僕は真っ赤になった顔を悟られないように俯き気味になってギリヴに手を振った。
「じゃ、じゃあ、お待ちしていますので」
「またね」
 ギリヴは花のようにひらりと扉の向こうへ消えた。
 僕は少しばかり呆けて、また恥ずかしくなって赤面していた。暑くて顔を煽ぎながらぐるぐると意味もなく歩き回る。
 僕は浮かれていた。

 幸せな日々の中で、ささやかな時間の中で、何も知らずに、浮かれていた。



     *




 ギリヴが店に訪れたのは、それから半年近く経った頃だった。

 厳密に言うと、僕はそれ以前にギリヴと再会はしていたことになる。僕は街の片隅で、彼女を数回見かけていた。あの鮮やかな色の髪の毛を見間違えるはずはなかった。彼女は殆どがフードを被って顔を隠していたけれど。そのわずかに見える赤紫だけで彼女を目で追ってしまうだなんて、僕はどうも、相当に気持ちが悪い人間だったらしい。
 彼女は常に知らない男と一緒にいた。時には甘えるように腕に寄り添い、時には控えめにその後をついていく。僕は無性に苛ついていた。けれどそんなの、彼女には本来関係なんかないことのはずなのだ。僕は何を勘違いしているというのだろう。彼女はただ、僕のじいちゃんの店で、靴を一つ注文したいと言って来た一人のお客様だった。ただ年が近いと言うだけ。僕が気恥ずかしいことにも、あのできそこないの木型を見られてしまったというだけ。彼女に何の悪気はないだろう。僕はただ、じいちゃんにでさえ隠してきた自分のみっともない足掻きの跡を彼女に見つかってしまったことで、僕の心の一番柔らかい部分を彼女に見つけてもらったような勘違いに浸っているだけなのだ。あの笑顔が、僕に向けられる特別なものだったらいいのにとどこかで考えていなかったと言えば嘘になる。
 二度目に会ったあの日。彼女が店に来て、この間はごめんなさいと頭を深く下げた。本当はこの店の靴が――じいちゃんの作った靴が、好きだと言ってくれた。この店が、僕の大事なじいちゃんの店が褒めてもらえたようで嬉しかったのだ。つくづく僕は単純な人間だ。そして本当にどうしようもない人間なのだ。次はいつ会えるかと、ただの客に心を跳ねさせ、彼女は「必ずまた来る」と言った、その言葉だけを羽の折れた小さな虫をそっと抱えるように馬鹿みたいに守り続けて、ずっとずっと執着するように待っていた。時間が経てば経つほど、彼女が僕に会いに来てくれることに焦がれていった。なんて馬鹿なんだろう。彼女は僕に会いに来るわけじゃない。そんなことはわかっているはずなのに。
 あんな男どもと会うなら、店にちょっと顔を出してくれたっていいじゃないかと、不相応な苛立ちさえ抱えた。あの男たちが君を見る目は、僕にだってわかる。君をそういう対象としか見ていないじゃないか。でも、わかるということは、僕だって似たようなものなのだ。
 焦がれることと、欲しいと思うこと、独り占めしたくなること。
 四か月が経つ頃には、僕はふと彼女が誰もいない時間帯に一人でそっと店に入ってきたことを思い起こしていた。
 彼女は、初めて店に来た時も、あの男の前では店で買い物なんかしようとはしなかった。
 彼女の中で、きっと何か理由があるのだ。
 あの子が約束を破るとは思えなかった。僕が今感じているどうしようもない焦燥感や苛立ちは、僕なんかが抱えてはいけない分不相応でみっともない欲だった。
 信じて待とう。
 僕は店先を箒で掃きながら、次第に影っていく空を見つめた。
 じいちゃんがいつも言っているじゃないか。お客様を信じることから始まるんだって。
 自分を信じなければいけないんだって。
 あの子の靴を作りたいと願っている僕を、信じられなくてどうするというんだ。
 隣の店――手袋屋から、娘が出てくる。看板を下げようとして、突っ立っていた僕に気が付いてぎょっとしたように肩を跳ねさせた。僕はいたたまれなくなって顔を隠すように背筋を曲げ、慌てて店の中へ戻ろうとする。
「いったいいつまでそのぼさぼさ頭を晒しておく気?」
 不快そうな声が追いかけてくる。僕は思わず振り返った。
「何、を」
「だから、その頭よ! いっつもどこかに引っ掛けてぶちぶち千切れてるじゃないの。あんたがいつも目をしぱしぱさせてるのも理由分かってんの? あんたのその長すぎる前髪に砂が引っかかってて目に入ってんの。いい加減に切ったらどう? そしてその根暗な顔をさっさと晒しなさいよ。見てて苛々するのよ!」
 僕は何を言われたのかよくわからなくて、箒と塵取りを抱えたまましばらくぼうっと突っ立ってしまっていた。
「え、エリーゼ。つまり君は、髪を切れって言ってるの?」
「そう! 苛々するのよ。あんた男でしょ? 男ならもっとしゃきっとしなさいよ! なんでそんないつまでも女々しい格好でいるのよ。大体ね……そんなんだからあんたのおじいさまがいつまでたってもあんたにお店を任せきらないでいるのよ。少しは安心させてあげなさいよ。その店の大黒柱にならなきゃいけないんでしょ。じゃあもっと男らしくしゃきっとしてよ。私も張り合いがないじゃないの。隣の店を切り盛りしてるのが女々しいあんただとか」
「か、髪を切ったくらいじゃ何も変わらないよ……」
「はあ? じゃあ、髪を切らないこだわりに理由でもあるの? 言ってみなさいよ!」
「う、うるさいな……」
 僕は勝気そうなエリーゼの翠の目を前髪の隙間からそっと見た。エリーゼ・ディル・フォルダ。隣の手袋屋の一人娘だ。小さい頃は話すこともあったけれど、最近は会っても嫌な目でじろりと見られるのがおちだったのに。珍しいこともあるものだ。彼女なりに、何か思うところがあったのだろうか。僕よりもずっと鮮やかで綺麗な金色の髪。少し前は腰くらいまでの長さだった。けれど、彼女も先月母親が倒れてから、僕と同じように店をほとんど任されている状態にある。それからだった。彼女が肩にかからない長さに短く髪を切ったのも、それまでは男との恋人ごっこにうつつを抜かしていたのをきっぱりとやめたのも。
 その潔さは、僕にはなくて、なんだか僕には眩しすぎた。
 僕は彼女を尊敬していた。僕はあんなふうにはなれない。けれど、僕の口から出たのは別の言葉だった。
「急にやる気出して、今度は僕に説教? 今まで……遊び歩いていたくせに、よく言うよ。僕は君とは違うよ。華やかでもないし、君のように潔く生きることもできない。だらだらと家に籠って、惰性でこの店に留まって、じいちゃんの役にも立てなくて、それでもこの店にいるだけだ。変わるなんて……僕には荷が重いよ。僕は今は、自分のことなんかよりもこの店をせめて守ることと、じいちゃんの明日のことを考えるだけで精いっぱいだよ。髪を切ったからって何が変わるわけじゃないよ」
 エリーゼは少しだけ傷ついたような目をした。僕は逃げるように目を逸らす。
「なんで……そんなこと言うのよ」
 エリーゼの声が震えて届く。
「なんで……なんで、あんたの生き方をそんな言葉でしか否定できないの? 私はそれが悪いだなんて言ってないわよ。……私が今まで母さんに甘えて生きていたことは認めるわ。どんなに後悔しても後悔しきれないのよ。でもね、あんただってそれは一緒でしょ。私達はもう、誰にも甘えられないんだよ。自分だけでどうにか生きていかなきゃなんだよ? 早く……私の母さんも、あんたんとこのおじいさまも、安心させてあげなきゃいけないんだよ。髪を切る切らないなんてこの際どうでもいいんだよ。私がもどかしいのは、あんたがいつまでも変わろうとしてないことなんだよ。どうして……私達、同じようなものじゃない。ねえ、がんばろうよ。一緒に頑張ってよ……!」
「何を……」
 僕は暗い声で呟いた。
 僕が視線をエリーゼに戻すと、エリーゼはびくり、としたように肩を震わせた。
 僕はどんな顔でいるんだろう。
 どんな酷い顔をしているだろう。
「今まで僕を虫けらを見るみたいにしていたくせに、今更なんなの? 急に僕に仲間意識でも芽生えたの? それとも……君をちやほやしてた男共が、君が店を継ぐと決めた途端離れていって寂しいの? 余所をあたってよ」
「な……」
 ああ、こんなこと言うつもりじゃなかったのに。エリーゼは何も悪くないのに。
 エリーゼがきっ、と僕を睨みつける。目元が赤く色づいていた。僕はけれど、どろどろとした想いでエリーゼを見ていた。
「な、に、勘違いしてんの? 私はそんな意味で言ってんじゃないのよ! 人の話もちゃんと理解できないの? 私は幼馴染としてあんたのこと心配してんの!」
「それこそやめてよ。あのさ、本当にやめてよ。今更だよ。僕の両親が亡くなった時だって君は遊び歩いてた。幸せだったじゃない。僕はあれからずっと、店で、どうにかして父さんがいなくなった分を埋めようとして、じいちゃんの助けになりたくて、少しでもなりたくて生きてたんだ。君よりはわかってるつもりだよ。でも君だって別に悲観することもないだろ。君は気づいたんだし、今からがんばって君のお店を守っていけばいいじゃない。でも僕には関係ないよ。君も関係ない。君は僕にないものをたくさん持っているだろ。君はそこにいればいいよ。今更僕に関わろうとしないで、お願いだから」
 僕は吐き捨てるように背を向けた。中に入る瞬間、そっとエリーゼの方を見た。エリーゼは、耐えるように唇を噛みしめて俯き、それでも涙が零れ落ちているのが見えた。僕はそっと扉を閉める。鈴がちりん、と鳴る。
 椅子にどさっと座りこんで、僕は目元を覆った。
 あんなことを言うつもりじゃなかった。最低だ。肉親を失うかもしれない悲しみも、突然降りかかってきた責任の重さに感じる息苦しさも、何もできない自分への失望も、もどかしさも、全部僕こそよく知っていたじゃないか。
 あんな細い腕で、女の子なのに、それに耐えようとしている。それなのに僕は自分のことばかりだ。嫉妬や苛立ちや、図星をつかれた焦りで、自分を守ろうとしてばかりだ。
 からん、と音がする。
 僕は重たい身体をどうにか動かして、音の鳴った方を見つめた。
 橙に伸びる光の向こうから、ひょこりと赤紫の髪が跳ねて覗く。
「こんにちは!」
 ギリヴだ。
 鮮やかな色の、ぴんぴんと跳ねた髪の毛。
 不器用に編まれた三つ編み。
 栗鼠の目のように愛らしい輝きで、こちらを覗き込む赤紫の綺麗な瞳。
 明るく、夕方でも咲き誇る向日葵のように笑う。
「……いらっしゃいませ」
 僕は泣き疲れた心地で、弱々しく笑っていた。
 会いたかった。
 あなたに、とても、会いたかった。

     **

 それからの日々は慌ただしく、そして、どこか幸せな時間だった。
 当たり前のことだけれど、ギリヴとの関係は、お客様と靴職人という以上のものになるわけでもなかった。 それでも、黄昏時にギリヴが来てくれることを、僕はいつしか心待ちにしていた。
 ギリヴは僕が靴を作る作業を、目を皿のように丸くしてじいっと見つめていた。僕はそれがなんだかこそばゆくて、ギリヴの靴をゆっくりと作り続けた。一度、じいちゃんが「いつまでかかっているんだ?」とギリヴの靴を不思議そうに手に取って眺めていたが、それ以上は何も聞かないでいてくれた。
 ギリヴは初め、僕が作っていたあの木型で作ってほしいと言ったが、僕は曖昧に笑った。「あれで作ったら、怪我してしまうよ」と言うと、どこか不満そうに頬を膨らませただけで、ギリヴはそれ以上何も言わなかった。やがて僕はギリヴの靴を作り終えてしまった。けれど、ギリヴはそれからも店に来るようになった。まるで当たり前の日常のように。僕が作る他の靴を眺めたり、なぜか床を拭き掃除してくれたり。埃がたまっていると怒ったり。
 僕はもう何も聞かなかった。彼女がどうしていつも違う男といるのかとか、どうして閉店間際にばかりくるのかとか、どうして誰も他にいない日にだけ来てくれるのかとか、どうして、
 どうして、ずっとここにいてくれるのかとか。
 そういうのは、もう聞けなかった。
 彼女が教えたくないなら、詮索することはできない。僕にはそんな権利はない。
「あっ、やだ、ほどけちゃった」
 ある日、ふいにギリヴが小さく叫んだので、僕は手元から顔をあげて首を傾げた。
 ギリヴは店に来るようになってから、僕の作業に酷く興味を示して、自分も革を縫ってみたいと言い出した。けれど初めてやるには危ないからと、僕は母さんから習った布刺繍のやり方を教えていた。ギリヴは思った以上に不器用だった。糸をすぐぶちっと千切ってしまうし、しょっちゅう指を針で刺した。縫い目もガタガタで、すぐに縫い方を忘れた。それでも一生懸命に手元と睨めっこする彼女が、なんだかかわいかった。二人でいるときは、僕が靴を作り、ギリヴが裁縫をする。何も話さない静かな時間だけれど、僕にはそれがなんだかとても居心地がよかった。じいちゃんも、なぜかギリヴがいる時だけは呼ばない限り作業場に入ってこなかった。なんだかすべてお見通しなようで、少しだけ気恥ずかしかった。
「どうしたの?」
「え? あ、いや、髪がほどけちゃって」
 ギリヴは左のほどけたおさげを見せて困ったように笑う。
「これ編むのすごく時間かかったんだけどなあ。仕方ない。普通に縛るか」
 そう言って、ギリヴは反対側もほどいてしまう。
 ぴんぴん、と跳ねた髪の毛が、ほどくと思いの外長くて、僕はどきりとした。
「そう言えば……いつも髪の毛編んでるね」
「うん」
 ギリヴははにかむように笑う。
「かわいいでしょ?」
 その言葉にまたどきりとしながら、僕はごまかすように作業に戻る。
「そう言えば……いつもここに来る時は編んでくるよね。普段は下ろしているのに」
 僕はぽつりと呟いた。ギリヴのことだから、髪を編むのも苦手だろうと思う。それなのに一生懸命編んでいる姿を想像したら、なんだか可笑しくて口元に笑みが浮かんだ。
「貸して。やってあげる。いつもぼさぼさだから」
「酷い」
 ギリヴは少し拗ねたように言う。
「髪の毛編めるの?」
「まあ、母さんのを昔編んであげていたし」
「ふうん。自分のをやっているのかと思ってた」
「はは……さすがにそこまでは……」
 僕はするするとギリヴの髪を指で梳く。滑らかなのに太い髪の毛。鳥の巣があちこちにできている。絡まりやすいから、余計に下手すれば千切れやすいんだろうな、と僕は思いながら彼女の不揃いな髪の毛を編んでいく。
「あの……」
 ギリヴがふと、呟く。
「どうして、私が普段髪を下ろしていること、知っているの?」
 一瞬、言われた意味が解らなかった。
 首がぼっと音を立てそうに赤くなる。
 冷や汗が滲む。
「あ、えっと……」
 けれど、うまい言い訳なんて思いつくはずもなかった。最近少し忘れかけていたけれど、そもそも僕は同世代の誰かとまともに会話をしたことなんてなかったのだ。
 なんて言いようもなくて、僕は唇をぎり、と噛みながらギリヴの髪を二つに編む。
 そうして手を放して、僕がようやく口に出せた言葉と言えば――、
「ごめん」
――だなんて、何の変哲もない言葉だけだった。
 ギリヴは髪の毛を撫でながら、しばらく黙っていた。
「あたしが仕事してたの、見られてたんだ。気を付けてたつもりだったんだけどなあ。これだから嫌なのよね、店の外にまで連れ出そうとする客なんて。お金が入るから嫌とも言えないし」
 どこか冷めたような声で、ギリヴが呟く。僕は身動きもできず、呼吸も止まってしまった心地でギリヴのつむじを見つめていた。
「ひとつ、聞いてもいい?」
 ギリヴの声はどこか冷たかった。
「どうして、エストはあたしのこと受け入れてくれてるの? 友達と思ってくれてるから? それとも……もっと違う理由?」
 そう言って、振り返る。
 マゼンタの瞳に僕が映っていた。そんな、虚ろな目で見られたら、僕はどうすればいい。
 心臓を握りつぶされているようなんだ。
「き、君こそ、」
 僕は熱でくらくらする頭で、のろのろと呟いていた。
「どうして、いつもここに来てくれるの? 大体、さ。警戒心無さすぎだよ。僕だって、男なんだよ。いくら君にその気はなくたって、いつも来てくれて、こんな…大して女の子と話もしたことの無いような奴が、勘違いしたって、責めないでよ。こういうの初めてだからわからないんだよ。それに、その……君はかわいいし……ちょっとだけ夢見たっていいじゃないか……だとしても、でも、別にそれ以上どうこうなろうとか思ってもないよ。君はかわいいし……」
 ――僕なんかよりもずっと似合う人はいるだろうし……。
 かわいいと二回も口に出してしまった。僕はただ焦るばかりで俯いたままだらだらと汗をかいていた。違うんだ。僕が伝えたいのはそういう事じゃなくて……。
「で、でも、とにかく、僕はその、君にその気がないのは分かってるから……その、こうしてたまに来てくれるだけで嬉しいから……ほら、僕って友達もいないだろ?」
 言っていて、段々痛々しい気がしてきた。何を言っているんだろう。僕は。どんどん自分で墓穴を掘っている気がする。
「何言ってるのかよくわかんない」
 ギリヴはけろりとした顔で言った。相変わらずずけずけ――いや、正直だ。
「あたしね、体を売ってるんだ」
 何でもないように、そう言う。
 薄々感じていたことだったのに、僕は体が軋むように音を立てるのを感じていた。
「でも、あなたはそういう世界とは関わりがないと思ったの。だから、あえて知られたくもなかった。そういうの知らないままでいいと思ったの。あたしは…自分の持ってる全てでお金を稼いでいる。持って生まれたもので。この派手な髪も、顔も、身体も、別にあたしの努力で勝ち取ったものじゃないわ。でもあなたは違う。あなたの指は傷だらけで、全然綺麗な手じゃないけど、でもその手で作る靴は、生きてると思った。派手でもないし、煌びやかでもないけど、でも素敵だと思った。あたしは、自分と違う生き方をしてる人をもっと知りたいと思ったの。あたしはあなたになれないけど、あなたの在り方を見たいと思った。だからあたしはここに来るのが楽しかった」
 ギリヴは僕の手をとって、少しだけ撫でた。だから、そういうのが勘違いさせるって言っているのに。
 僕はギリヴから目を逸らした。こういう仕草一つとっても、身に染みてしまっているのだ。この子は。
 僕には、この子がどんな生き方をしてきたのか、何も想像ができないけれど。
「言わないつもりだったのに……」
 僕は小さく呟いた。
「君を見たことは言わないつもりだったんだ。だって、気持ち悪いだろ? いちいち気にしてるなんて」
 ギリヴは首を傾げる。
「そう? でも、知り合いだと目に入ってしまうなんてことはよくあることでしょ?」
「うん、まあ、そうなんだけど……」
 ――だから、そうじゃないんだってば。
 僕は嘆息した。
「大丈夫だよ、ギリヴ。僕は絶対そういう目で君を見ないようにするから。だからこれからもう来ないなんてやめてよ? そんなことされたら、僕、うっかり不用意に君に言ってしまったことを後悔してずっとひきずっちゃうじゃない」
「そうね、あなたの性格ならさもありなんだわ」
 ギリヴは少しだけ悲しそうに笑った。
 僕も笑った。ギリヴがそんな顔で笑うのを、見ていたくなかった。
 かき消すように。冗談でごまかすように。
「あ、でもねギリヴ。僕は、僕やじいちゃんの靴をいつも楽しそうに褒めてくれるあなたは、好きだよ」
「まるでそれ以外はそうでもないと言いたげね」
「さあ?」
 僕がそう言うと、ギリヴはようやく、穏やかに笑った。そうして、鏡に映った自分の三つ編みを見て、嬉しそうにくるりと笑った。スカートが花が風に舞うように広がって揺れる。
 ――可愛いなあ。
 僕は、苦い気持ちでそれを見つめていた。
 好きにならないと告げた。だから、これ以上は。
 自分の気持ちに蓋をしなくちゃならない。
 棺にくぎを打つように。
 いつかあなたに花を手向けられるように。



     *


「まだ起きていたのか」
 じいちゃんが、作業場の扉を閉める。
「お前は風邪をひきやすいんだから、そんな薄着でいるなといつも言っているだろう」
 そう言って、僕にブランケットをかけてくれる。
「じいちゃんだって人のこと言えないだろ。寝てなきゃだめだろ」
 僕が苦笑すると、じいちゃんはにやり、と笑って金槌を手に取った。
「手が寂しくてかなわん」
「そっか」
 僕は笑って、作りかけの靴をじいちゃんに渡した。
 静かな夜の闇に、虫の声がちりちりと透き通る。
 僕はふと、糸を切る鋏をじっと見つめた。
「どうした?」
 ふいに立ち上がった僕に、じいちゃんは手元に目を向けたまま静かな声をかけた。
「髪、切ってくる」
「そうか」
 じいちゃんはそれ以上僕を引き留めなかった。
 僕はそのまま水場へと歩いた。
 じゃきり、じゃきり、と音を立てて、髪の毛が床に散らばっていく。
【あたしね、体を売ってるんだ】
 ギリヴのことは好きだ。好きにならないなんて嘘だ。だけど僕は、彼女を買う男たちと同じでいたくない。
 約束しているわけじゃない。それなのに、あの日からずっと、暇を見てはこの店に来てくれる。じいちゃんと父さんが大事にしてきたこの空気を、好きだと言ってくれる。他に何が必要だなんて言えるだろう。充分じゃないか。僕ができるとすれば、あの子が嫌いにならないように、この店を嫌いにならないように守ることだ。じいちゃんのためでも、父さんや母さんのためでも、あの子のためでもなく、僕のために。
 僕はやっと、生きる意味を見つけられた。
 最後の房が床に零れ落ちる。
 もう、砂で隠した目で世界を見るのはやめよう。
 誰に何を想われてもいい。他の誰に好かれなくても構わない。ギリヴにでさえ、愛してもらえなくても構わない。
 この世界で、僕は生きていくんだ。じいちゃんのように。
 たとえじいちゃんの寿命を削ったとしても。それでも、じいちゃんや父さんの生きた証を、僕が受け継いで行けるように。
 鏡を見つめる。短くなった砂色の髪。前髪も短くなって、顔がすうすうとどこか寒くて慣れない。
 そばかすだらけの荒れた肌。いつも砂や埃のまとわりついている長いばかりの睫毛。血色の悪い唇。
 僕はこんなにみすぼらしいけれど。母さんが生んでくれた身体だ。
 僕は作業場に足を踏み入れる。蝋燭の灯りがじいちゃんの顔を淡く橙に照らす。
「じいちゃん」
 じいちゃんは顔をあげる。そうしてにやっと笑った。
「ど、どうかな?」
「ふん、幼くなったな」
 口悪く、けれど温かな眼差しで目を細めて、じいちゃんは言った。
「じいちゃん。木型。教えてくれ。僕は作れるようになりたい。じいちゃんがいなくなっても、作っていけるように」
「馬鹿もの。俺はまだ死なんぞ」
 じいちゃんは笑った。そして、立ち上がり、小さな丸太を一つ手に取る。
「泣き言を言うなよ?」
「うん」
 僕は、こんなにも嬉しいと思ったことは今までなかった。
 籠の中からようやく自由になれた心地で、僕は木に触れる。
 木の匂いに、僕は笑っていた。
 幸せだなあと、泣いていた。








     ***



【そいつのこと好きなの?】
【違うわ。あっちが……あたしに気があるのよ】
【難儀だなあ】
【そうよ】


 ヨーデリッヒの体温は、いつだって死んでいるように冷たかった。
 あたしはその身体にしがみつきながら、ふと、掌を擦れた視界で眺める。
 あの人の手も、冷たかった。
 細い身体で、あたしなんかよりもずっと恵まれていなければおかしいのに。
 食べるのも面倒だという。
 そう言って、ひたすら靴を作り続ける。
 あたしはあの人が羨ましい。
 自分の手で他の物を作るあなたが羨ましい。
 あなたはあたしを向日葵の様だと言って笑うけれど。
 もしあたしが向日葵なら、きっとあなたの世界は夕焼けだ。
 あたしはいつだってきっと、あなたの居る世界に焦がれるだろう。
 橙に色づく木の家を、羨ましいなあと言って泣くだろう。
 こんな、乱れた臭いの充満した、蒸し暑い世界で、あたしは生きていくのだ。
 あたしはあなたの世界にいられない。
 こんなにも、寂しさを埋めるように誰かに抱かれて鳴くあたしを、
 抱きしめてだなんて言えない。
 あたしは裁縫も料理も何もできない。
 あたしは女なのに。
 こうやって、何もできない。ただ生きているだけ。通り過ぎるのを待っているだけだ。何も作りだせないのだ。
 辛い。
 あなたといるのが、とても辛い。
 あたしはヨーデリッヒの胸に顔をうずめて泣いていた。
 ヨーデリッヒは何も聞かない。興味がないのだ。そういう人なのだ。
 ああ、ヨーデリッヒ。あんたがあたしをここから連れ出してくれたらいいのに。
 世界で一番の金持ちに買われたんだから。それくらいしてくれたっていいのに。
 あたしはもう、抱かれるのが辛い。










三十、枯れる向日葵

 ぽつり、ぽつりと申し訳なさそうに雨粒が落ちて睫毛をかすめる。
 僕は汗をぬぐいながら空を仰いだ。朝焼けの空は、色んな色が混じりあってとても綺麗だ。
 今日は珍しく雨が降るらしい。恵みの雨。
 僕は一旦家の中に入って壺を持って出てくる。
 少しでも雨水を貯めるのは大事だった。僕はふっと息を吹きつけて埃をどかす。
「エスト?」
 背中に声がかけられる。僕は振り返った。ぽたり、と壺の口の淵に僕の汗が落ちる。とても暑い。
 エリーゼが眉を不思議な形に歪ませて僕を凝視している。僕は首を傾げて思案した後で、思い出したように前髪を少しだけつまんだ。
「髪、切ったよ」
「見ればわかるわよ……」
 エリーゼは呆れたように言う。
「いったいどうしたの?」
「酷いなあ。切れ、って言ったのはそっちでしょ」
「馬鹿ね。私が何度言っても頑なに切らなかったのに、急にどうしたのって、聞きたいのはそこよ」
 ふん、と言ってエリーゼはそっぽを向く。僕は頬を掻いた。
「まあ、色々」
「そう」
 聞いたわりに、追及はしてこない。エリーゼも頬に当たる雨粒を感じたのか、目を細めるようにして空を見上げた。
「肌が荒れすぎ。前髪が長すぎるからそんなことになったのよ。せいぜい、これからは肌をきれいにする努力をすることね。見てらんないから」
「肌をきれいに……って……女じゃないんだから」
 僕は苦笑する。店先の花壇の雑草を少しだけむしり取って、僕は腰を上げた。
 さあ、他にも仕事は山ほど残っている。一日は始まったばかりだ。
「そう言えば、エリーゼ」
 僕は、看板を立てる横顔に声をかける。
「何」
 エリーゼは振り向きもせずつっけんどんに言った。
「この間は、ごめんな。ありがとう」
「は?」
 エリーゼは眉をひそめる。
「何それ。やっと今更謝るの? ずいぶん時間経ってるわよ」
「そうだね」
 僕は笑う。
「しかも、今思い出した」
「何それ、酷い」
 エリーゼはむすっとして僕を睨む。
「結構……この間の、傷ついたんだから。あんたって結構そんなひどいこと考えてたんだ……って思って。何も知らなくて、馬鹿みたいじゃない、私」
「僕は結構酷いんだよ。知らなかった?」
「知ってますよーだ」
 エリーゼはふん、と鼻を鳴らす。
「よく考えたら、小さい時からあんたは結構ひねくれものだったわよ。大人しいからいっつも怒られないですんでたけどね」
「まあ、母さんにはよく叱られてたけどね」
 僕は苦笑すると、店の横に佇む井戸の傍へ歩いた。今日の分の水を汲む。
「なんか……浮かれてる?」
 エリーゼの声が耳を撫ぜる。
 僕は一瞬どきりとして振り返った。
「え、なんで」
「なんとなく……」
「そんなことないけど」
 僕はそう言って、汲んだばかりの水で顔を洗った。切ったばかりの紙の束が棘のように先をとがらせ、ぼたぼたと雫を落とす。
「なんでもいいけど……怪我とかしないようにしなさいよ。浮かれてる時って失敗しやすいから」
 エリーゼはそう言って、店の中に戻った。
 僕は、水面に映る自分の顔をじっと見つめながら、しばらく動けないでいた。
 ――煩いな。
 わけもわからない苛立ちが、心を波立たせていった。


     **


 髪を切った自分を見て、ギリヴがなんというのか楽しみだなんて、そんな下心がないと言えば嘘になる。
 実際、僕は心のどこかでギリヴが来るのをそわそわと待っていたけれど、ギリヴはそれからなかなか来なかった。けれど逆に、待たされた時間のおかげで、僕は少しだけ冷静になった。
 恋人でもないのに、髪を切ったからって何が変わるわけでもないのだ。
 そもそも、髪を切ったくらいで僕が美男子になれるわけでもなし。
 そういう関係にはならないと、そういう目で見ないと決めたのだから。
 僕は、とても穏やかな気持ちだった。
 じいちゃんへの遠慮も少しずつほぐれていった。僕は一つ一つ、できるだけじいちゃんの無理にならないように、木型の作り方を教わった。いつか自分の作る靴が、店に並ぶ時を想像すると、とても楽しかった。
 久しぶりに来たギリヴはどこかやつれたような顔をしていた。僕はふと、顔を歪めそうになった。無理をしたのかな。無理をさせられていたのかな。そう思いかけて、振り払った。僕が詮索することじゃない。そういう目で見てはいけない。見たくない。
「うそ! 髪切ってる!」
 ギリヴはぱっと顔を輝かせた。まるで面白いものを見たかのように。好奇心を輝かせるように。
「う、うん……。実はちょっと前から切ってて、これでも少し伸びたんだ」
「なんだあ。似合うじゃない」
 ギリヴはふわりと笑う。
「ぐ――」
――と言う、くぐもった声が僕の口から微かに漏れた。可愛いと思ってしまうのくらいは許してほしい。
「なんだあ、じゃあ上手な三つ編みのやり方教われないなあ。ちょっとだけ残念」
「はは……」
 僕は苦笑した。今日もぼさぼさに編まれた赤紫の房を手に取る。
「別に僕の髪が短くても教えてあげられるよ?」
 ギリヴは不思議そうに僕を見つめて、笑った。
「そうね」


     *


 ギリヴの顔色は、その後もなんだかすぐれなかった。よく見ると目の下に隈ができていた。酷い顔だ。
「ギリヴにしては珍しいね」
 僕が頬杖をついたまま、目元を指でとんとんと叩くと、ギリヴは少しだけぼうっとして僕を見つめて、急にはっとしたように自分の目元を覆った。
「や、やっぱり酷い……?」
「うん、黒い」
「酷い! そういうのって気づいてても言わないものよ!」
「生憎僕はそんなに優しくないから」
 僕が笑うとギリヴはむくれる。そうして少しだけ僕を睨みつけた後、深く嘆息した。
 僕は声を出す代わりに、首を傾げてギリヴを見つめる。
「あたしの……友達が、」
 友達って、女だろうか、男だろうか、とふと考えている自分に気が付いて、僕は首を振った。
「うん」
「なんだか、その……だめなことしてる気がして」
「だめなこと?」
 ギリヴは説明に困っているかのように、しばらくきゅっと口を引き結んで黙っていた。
「わからない……けど、なんだか、自分を痛めつけてる気がするの」
 僕は黙ってギリヴを見つめていた。泣きそうな顔をしている。とても大事な人なんだろうと思った。彼女をここまでかき乱すくらいの。
「いいよ」
 僕はギリヴにそう静かに言った。話していいよ。
 それくらいじゃ、君から逃げたりしないから。
 ギリヴは戸惑うように視線を彷徨わせて、やがてぽつりぽつりと、降り始めの雨のように言葉を吐き出した。
「友達、というか……お店で一緒に働いていた人なの。あたしと同じ境遇で…ううん、もっと酷いかもしれない。あたしは男にいじられただけ。でもあの人は、男にも女にも、誰にでもいじられた。でも、それを辛いとさえ思ってなかった。いつも死んでるみたいに冷たいの。生きてないみたいに生きてる」
 ギリヴは俯く。
「でも、ようやくあの人を【買ってくれる】人が現れた。あたし達は皆、相応のお金で誰かが買い取ってくれない限り、あそこから出られない。あたしは最初、ちょっとだけ心配だった。良心的な人もいるけど、身体が目的で買い取る人もいる。一生籠の中に閉じ込められるように。そうなったら、もっと自由はない。
 でも、あの人を買ったのは、そういう人じゃなかった。あの人は、ニヒルだけど、なんだか楽しそうに笑うようになったの。ひねくれものだから正直には言わないけど、でも……多分、買ってくれた人が、あの人にとっても大切な人になったんだと思う」
 ギリヴは膝の上できゅっと手を握りしめる。
「でも、今度はあいつ、その人のために何かしようとしてる。あたし、自分だって同じだからわかるんだ。あたし達はね、多かれ少なかれ何かに飢えてるの。あいつにとってはきっと、対等でいてくれる、友達……が、それだった。そしてあの人を買った人は、あいつにとってそう言う人だった。あいつは…その人のために何かやろうとしてる」
「何かって?」
 僕が静かに尋ねると、ギリヴは荒んだような眼差しをあげた。
「わかってたら……こんなに悩んでない。でも……多分あの人、人を――」
 ギリヴは言葉を切った。ひゅうひゅうというどこかざらつく音が、ギリヴの喉から漏れ聞こえる。
「昨日、あたしを抱きに来た。誰か違う男の人の匂いと……血の匂いがした」
 ギリヴの声は震えている。かたかたと、肩が小刻みに震える。
 僕は、それに手を伸ばすことはできなかった。
「男の人なんだ」
 僕は、靄のかかる頭で、そんな頓珍漢なことしか言えなかった。ギリヴがはっとして顔をあげる。
「ごめん……!」
「なんで謝るの。そんなのはいいんだよ。それより……」
 僕はのろのろと考える。
「ギリヴは、どうしたいの?」
「わから、ない……」
 ギリヴの声は泣きそうだった。
「あいつが、何を考えて……何のために、動いているのかわからない……多分自分でもわかってない。あたし、怖いんだ。どうしたらいいのかわからない。どうしてあげたらいいのかもわからない。あたし……」
 ギリヴは唇を噛みしめて何かを堪えるように震える。
「あたし、なんとなくわかるんだよ。まだあたしにはそこまで……気が狂ってしまうほど誰かに執着したことがないから、ああはなれない。でも、でも……わかるんだ……あいつがあんな風になってしまうのはなんだかわかるんだ」
 ぽた、ぽた、と雫がその大きな目から零れて、ギリヴの服を濡らしていく。
「それなのに……何もしてあげることができない……怖い……」
 僕は、ギリヴが泣くのをただ静かに眺めていた。
 少しだけ、嫉妬していた。少なくとも彼女を泣かせるくらいには、彼女にとって意味のある存在であろうその人に、羨ましさを感じて持て余した。きっとこの子は、僕のことでも何かあれば泣いてくれるけど。この子はそういう子だ。
 自分のことは嫌いだと言う癖に、自分の好きな人のためには泣いてしまうのだ。どれだけ堪えようとしても。泣くまいと我慢しても。
「力になってあげたいんだろ?」
 僕はギリヴの顎に手をかけて、上を向かせた。
「答えは出てるじゃない。そいつの力になりたいんでしょ? だからそんなに泣くんじゃない?」
 ギリヴはくしゃくしゃに顔を歪めた。
 もう、声にならなかった。
 ギリヴはひゅうひゅうと音を立てる喉で、震える唇を動かした。
 『ごめ、んね。』
 僕は一瞬、目を伏せた。胸に響いた棘のような痛みに、顔をしかめてしまいそうだった。どうして僕が謝られるのかわからない。気づきたくない。それでもどうにか笑顔を浮かべて、僕はギリヴの頬に手をかけ、涙を拭った。
「力になれる、のかな」
 ギリヴは、どこか視点の定まらない目で呟いた。僕は眉をひそめる。
「どうしたの?」
「ううん」
 ギリヴは力なく笑う。
「もう、あたしは――」
 それ以上は、何も言ってはくれなかった。ギリヴは僕の両手を握って、ずっと耐えるように俯いていた。


     **


 ギリヴがそいつを連れて来たのは、翌日の、日差しの強い日の下だった。
「この人……昨日話した人だよ。ヨーデリッヒ、この人はエスト」
 ヨーデリッヒは、葡萄色の目でじっと僕を見つめていた。その瞳の奥は深い闇で、僕は眉を少しだけひそめた。
 ――まるで一人だけ、違う世界にいるみたいだ。
 僕は、がんがんと痛む頭を振り、震える手首を抑えて、ヨーデリッヒに笑いかけた。
「こんにちは。エスト・ユーフェミル・フェンフです」
 張り合っちゃいけない。僕は敵わない。最初から、同じ土俵にすら立てていない。
 僕は何も気づかなかった。
 ギリヴが一瞬だけ、ヨーデリッヒと同じ闇を瞳に忍ばせた。僕はそれを確かに見たのに、その理由を考える余裕なんてなかった。
 僕は嫉妬していた。
 好きにならないなんて嘘だ。
 僕は怖かったのだ。
 笑っていれば、嫌われないような気がしていた。僕はただひたすら、今となってはもうただ、ギリヴに嫌われたくないと、それだけだった。
 たわいのない話をして、いつものようにギリヴが向日葵のように笑って――明るい日差しの下、はっきりと見えるはずのものも見えていないふりをして、僕はヨーデリッヒにもいい顔をした。
 枯れかけの、向日葵が風に揺れている。砂をまき散らかして、風は空に帰ろうと足掻いている。
 ヨーデリッヒは、別れ際にふわりと笑った。穏やかに。そして、寂しげに。
「じゃあ」
 ヨーデリッヒはそう、一言言葉を零す。
「会えてよかった」
 それだけ言って、砂の向こう側へ行ってしまった。ギリヴが一度だけ振り返って、大きく手を振った。
 泣きそうな顔で。
 まさか、もう会えないなんて、そんなことあるはずないよね。
 今日だけは、「またね」と言ってはくれなかった。
 それなのに、僕はすべてを忘れた。
 今日なんて日はなかったことにした。
 きっと来てくれる。
 明日でも、明後日でも、半年後でも、一年後でも、何年後だっていいから。
 きっと、終わったら。
 僕は全てから耳を、目を塞いだ。砂の音からも、太陽の光からも。
 僕はただにこにこと笑いながら日々を過ごした。じいちゃんにいつも通り食事を用意し、木を削り、革を貼り、糸を繕い、エリーゼの小言にも時々言いかえし、壺にたまった水を濾し、
 僕は、眩む視界の中で、ただ笑っていた。

三十一、真珠を吐く

「調子はどう?」
 深く暗い、色を持たない言葉が耳に触れる。
 ヨーデリッヒは、あたしを後ろからそっと抱きしめた。なんて白々しいんだろう、と、呆れて、それでいて傷ついているあたしは、身動きすらできない。
「悪くはないわ」
 あたしは笑った。そっとその手をどけるようにして笑った。
 こんなの、あんたの好きな子にしてあげればいいのに。
「また吐くの?」
 抑揚のない声が追いかけてくる。あたしは何も答えなかった。吐き気が込み上げてきたのは本当だ。
 結局、ヨーデリッヒの飲ませる得体のしれない粉薬は、あたしを確実に蝕んでいくのだ。


     *
「ああ、なんてことだろ」
 あたしは、鏡に映る自分の顔を見て、自分を嘲笑う事しかできない。
 顔が醜く腫れている。腕も、首も、体中に固い大きなしこりのようなものができて、あたしの体をずきずきと拍動させていた。
 零れそうになる涙を堪えようと、あたしは唇を噛みしめた。もう、口の中でさえ、痛くて痛くて、何も喉を通らないのだ。
 どうして、どうして。
 あたしが、こんな目に合わなければいけないんだろう。
 どうして、少しでも情を持ってくれていたのなら。
 あたしを使おうなんて思ったの。
 あたしはヨーデリッヒが憎らしくて憎らしくて。
 こんな記憶も、痛いのも、全部忘れてしまえればいいのに、と思った。
 なんにもわからなくなれば、幸せなのに。
 もうそれ以上何も望まないのに。
「やっぱり、痛いんじゃない」
 ヨーデリッヒの声が背中にかかる。
「痛み止めくらいあげるのに」
「あんたに助けてもらう義理なんかないわ!」
 あたしは叫んだ。ヨーデリッヒは、冷たい眼であたしを見下ろす。
「どうして……」
 声が震えた。
「いつの間に、そんな目で見れるようになったの?」
 あたしは泣くまいと、必死で口角を釣り上げるように言葉を振り絞った。
「どうして……? そんなに、」
 喉がひゅうひゅうと音を立てる。
「あたしより、あんたの飼い主の方が、そんなに大事?」
「……答えを聞いて楽になるとでもいうの?」
 ヨーデリッヒは冷たい声で言った。
「聞いてもどうしようもないなら、聞かない方がいいと思うけど」
「はは……」
 あたしは笑った。
 嘘をつかれてでも騙される方がましだと言ったのはあたしだ。けれどあたしにはもう、痛くて苦しくて、ヨーデリッヒが憎くて、自分が憎くて、あんたの言葉の嘘を探す余裕なんかないのだ。
 あたしが彼を受け入れてしまったから、彼は――ヨーデリッヒは、ずっと嘘ばかりをつき続けている。
 あたしが拒んでしまったから。
 真実なんて、傷つくなら知りたくないと言ってしまったから。
 もう、ヨーデリッヒはあたしに真実を告げてはくれない。
「はは………」
 なんてことだろう。
 そんな、たった一度の過ちで、失敗で、取り返しがつかないだなんて。どうしてそんな風にできているんだろう。そんなの、生きてて辛いばかりじゃないか。
「お願い……一人にさせて」
 あたしは声を振り絞った。
 ヨーデリッヒはあたしの傍に何かを放って、何も言わずにその場から去って行く。
 あたしは、その袋に入った小さな白い錠剤を震える手でつまみ、飲みこんだ。
 どれくらいじっとしていただろう。痛みが引いていく。
 あたしは泣いた。
 辛くて、痛すぎて、泣いた。
「どうしたらよかったの」
 誰もあたしの声なんか聞いてはくれない。
 偽善なんか振りかざした罰だろうか。あたしは、ヨーデリッヒの力になりたかった。役に立って、あの人に好きになってもらいたかったのだ。そうしたらあたしは幸せになれる気がした。同じ世界を知っているから。少なくとも、ヨーデリッヒといる時は、あたしは苦しくはなかった。例えあたしが醜い魚で、それが濁った湖だとしても、彼の傍では息ができたのだ。
「馬鹿ね……」
 あたしは嗤う。
「あんたの大事な人の、大事な人を好きになんかなるくらいなら、あたしで妥協してたらよかったのに」
 そしたらきっと、あんただって、幸せではなかったかもしれないけれど、少なくともこんなことしなくてよかったわ、ヨーデリッヒ。
「エスト…………」
 あたしは、震える声でその名前を呟いた。
 それはあたしにとって、どんな言葉よりも、儚くて、壊れやすくて、いつかこの牙で噛み砕いてしまいそうで、怖くてたまらないのだ。
 あたしは、宝物を抱えるような心地で、震える手に涙を溜めた。指の隙間から流れて、床を濡らしていく。
「エスト……」
 助けて、とさえ、声にならない。
 そんなこと、言う資格がない。
「エスト……」
 あたしはどうしようもできなくて、その名前を呼び続けた。
 あたしの陽だまり。あなたに言えばよかった。連れ出してって言えばよかった。
 おじいさんも、お店も、あなたの大事な木靴も、全部捨てて、あたしを連れ出してと。
 お願いだからと。
 偽善なんか貼りつけないで、言えばよかったのだ。それが本心だったのだから。
 あたしは、あたしを連れ出してくれるなら、誰でもいいのだと思っていた。
 でも、あたしはただ、
 幸せになりたかったのだ。


     **



【ギリヴ、もうわからないみたい。あなたのこともはっきりとは覚えていないわ。不思議ね、私は記憶が混乱なんかしなかったのに】
【ギリヴには、毒の方を先に摂取させたから……】
【あら、どうしてそんな顔をするの? そんな顔をしていいとでも、許されるだなんて、まさか馬鹿みたいなこと思ってないでしょうね。あなたに、縋るなんてそんな甘えたこと、誰も許さないわ】
【……何、怒ってるの?】
【怒るわけがないじゃない、ヨーデリッヒ。あなたが一番わかっているんだから、私ができることと言えば、あなたに釘を刺すくらいだわ】
【はは……つくづく、貴女は信用できる人だよ、ハーミオネ】

 瞼の向こうで声が反響する。
 ぼんやりと、ああ、あいつ、あたしには何にも言わないのに、あの子には話してるんだ、と諦めにも似た気持ちがあたしを蝕んだ。
 薄く瞼を開けると、白くて長い三つ編みが揺れている。
 ああ、綺麗なおさげだな、とあたしは溜息をついた。
 ついぞ、あたしは、あんな風にきれいな編みこみはできなかった。
 いらないものは持っているのに、持て余すのに、本当に欲しいものは何一つ誰にももらえなかった。
 あたしのごわついた、綺麗でもない髪を、そっと梳いてくれた指先の温もりが、急に恋しくなる。
 あれは誰の手だったろう。
「ギリヴ?」
 ハーミオネ、と呼ばれていた女の子が、あたしの頬にそっと手を当てた。冷たい手。あたしはようやく、自分の体が熱を帯びていたと気づく。
「あなたのこと、よくわからないわ」
 あたしは正直に言った。ハーミオネは、水色の目を柔らかく細めてあたしを撫でてくれた。
「気にしないで。元々、会って間もないもの」
 ふわり、と笑う。
 どうして、あなたみたいに優しい女の子が、綺麗な女の子が、あたしと同じ場所にまで堕ちてきたの。
 あたしは声にならない言葉を飲み下した。
「ハー、ミオネ」
「うん?」
「あた、しの、頭、撫でて」
 あたしは擦れた声で言う。
「もちろん」
 ハーミオネは温かな笑みを浮かべて、あたしを撫でてくれる。
「違う……もっと、髪をね、梳いてほしいの」
「こう?」
 ハーミオネはあたしの髪を指で梳く。
 同じだけど、違う温もり。
「違う……違うよ……そんなんじゃ、なかった………」
 あたしは、両腕で目を覆い隠して、唇を噛みしめた。喉から、呻くような声が漏れて止まらなかった。
 もう、誰だったか思い出せない。
 あたしは、もう、


     *



 ヨーデリッヒは、あたしとハーミオネの記憶を改竄すると言った。ハーミオネは不快そうに顔をしかめる。
「私はいいとして……ねえ、この子までそんなことしなくてもいいんじゃない? ギリヴは……ただでさえもうほとんど何も覚えてないのよ。あなたが手間取ったせいで」
 そう言って、ハーミオネはあたしの手を握った。あたしはそれを、どこか凪いだ気持ちで見つめていた。
「構わないわよ」
 あたしがそう言って笑うと、ハーミオネは戸惑うように目を見開いて、その水色が水面のようにさざめいた。
「もう、ほとんど覚えてないから。中途半端に覚えてるより、ずっと楽になれるわ」
 そう言って、ヨーデリッヒを見ると、初めて、
初めて、ヨーデリッヒは、あたしから視線を逸らして、その顔を歪めていた。
「ふふ」
 あたしはとても静かな気持ちでそれを眺めた。
 ああ、あんたのその顔、見れたから。
 ちゃらにしてあげる。
 ごめんね、あたしばっかり、辛かっただなんて、
 目を背けたりして、ごめんね。



     *

「最後に聞くけど、」
 あたしの頭に電極を取り付けながら、ヨーデリッヒが静かに言った。
「何?」
「何か、願い事はないの? したかったこととか、欲しかったものとか」
 そんなヨーデリッヒの声はどこかこそばゆい感じがして、あたしは笑っていた。
「急に何? びっくりするわ」
「こんなの聞いてあげるのは、お前が特別だよ。一応……苦労かけたから」
 ヨーデリッヒは静かな声で、消え入るように言う。
 あたしは笑ってしまった。苦労かけた、だなんて。そんなんじゃ言い表せないに決まってる。
「何もないよ。覚えてないもん」
「そう」
 ヨーデリッヒは小さく嘆息すると、黒いレバーを下ろした。
「じゃあ、ね。ギリヴ」
 ごめん、という声が聞こえた気がした。
 高く細い音が聞こえる。耳を澄ましていると、心地よい眠りに包まれていくのだから、なんだか笑えてしまう。
 ふと、あたしの体は小さく跳ねた。
 心臓が痛い。
「だめ……」
 あたしはいつの間にか、目を見開いて、泣いていた。
 砂色の天井が、あたしの視界を埋め尽くす。シャンデリアは橙の光を淡く照らしていた。
「だめ……」
 声が、ざらつく。
 誰だったか思い出せない。あたしを大切にしてくれた人を、あたしはもう思い出すことができない。
 ――嫌……。
 お別れを言っていない。
 またね、って言えばよかった。たとえもう二度と会えなくても。言えばよかったのだ。いつか会いに行くからって。会いに行きたいって。
 あなたに会いたいって。
「会いたい……よ」
 あたしは痙攣する手を砂の天井に伸ばした。
 待って。行かないで。行きたくない。行きたくないよ。
 けれど、あたしの意識はそこで途切れた。
 脳に鈍い熱を残して。
 最後に、ヨーデリッヒの、捨て置かれた子供の様な目が飛び込んで、終わった。

 何もかも、ようやく。







三十二、鉄葉に沈む

 その日、僕は店の裏の屋根の下で玉葱の皮を剥いていた。
 じいちゃんが歩くこともできなくなってから数か月が経っていた。僕はいよいよ小さな覚悟をしていた。
 いつか、僕は置いて行かれてしまう。
 父さんと母さんが死んだ時、僕は心の剥がれ落ちた人形のようにただ床に座り込んで、泣くことすらできなかった。じいちゃんは一人で二人の墓を作り、花を活けて、僕を抱きしめた。僕はじいちゃんの温かい体温でようやく、自分だけはまだ生きているのだと知った。両親はもう死んだのだとようやく理解した。そうして初めて、僕は泣けたのだった。
 けれど、もしじいちゃんが死んでも、今度は僕に胸を貸してくれる人はいない。甘えてはいけない。
 じいちゃんが安らかに逝けるように、僕は今から少しずつ心を柔らかくしておかないと。
 でも、僕はずっと、地に足がつかないような、狭間の世界でふわふわと漂って、へらへらと笑っているだけのような心地がしていた。
 こんなにも、いつ会えるかわからないのが堪えるなんて思っていなかったのだ。今まではいつまでも待てたのに。振り払おうとしても、どんなに忘れようとしても、ギリヴの眼差しが――最後の眼差しが、瞼の裏に焼き付いて離れない。
 僕は何か見逃してしまったんじゃないだろうか。もっと何か、しなければいけなかったんじゃないだろうか。
 僕は何も知らないのだ。知ろうと思えばできたはずなのだ。あの子がいた店の名前も、行ってしまった先も。そんな目で見たくない、と拒んで、知るのを躊躇ったのだ。ただ僕は、傷つくのが怖かっただけだ。あの子が体を売っていると、目の当たりにするのが怖かっただけだ。いつか自分も、そういう男たちと同じ目で彼女を見てしまいそうで、目を背けていたかった。
 皮を剥き終わった玉ねぎを桶に溜めた水の中に放り込む。はあ、と嘆息しながら、別の玉葱を手に取って皮を剥いでいると、陰が降りてきた。顔をあげると、フードの奥の暗い闇が目の前に迫っていた。
「うわっ」
 びっくりして仰け反ると、そいつは不思議そうに首を傾げた。何の表情もない瞳。葡萄色の――。
「あ、お前……」
 僕が呟くと、ヨーデリッヒは口元を布で覆ったまま、細く低い声で呟いた。
「こんにちは」
「あ、うん……むしろ朝だけどな………」
 しばらくじっと見つめ合う。ヨーデリッヒの瞳は微動だにしない。瞬きさえしない。その暗闇に吸い込まれそうで、ぞくりとして僕は顔をそむけた。
「な、何か用?」
 そう聞いたけれど、結局ヨーデリッヒはそれから一言も話さなかった。僕は諦めて、ヨーデリッヒの痛いほどの視線を居心地悪く感じながら、今日の食事の準備をした。


     *


「で、何なの? どこまでついてくる気だよ……」
 ヨーデリッヒはずっと僕の後ろに張り付いている。店の中だろうと、台所だろうと。気味が悪いほど不気味に。
「あのさ……それ、日差しを避けるためにつけてるだけだろ? 部屋の中でくらい脱いでよね。暑苦しいんだってば」
 僕が嘆息すると、ヨーデリッヒは小さくため息をついて、震える手で外套を全て脱いだ。
 綺麗な、子供には似つかわしくない白髪がさらりと零れる。
「君……そんな色の髪だったの」
「まあ」
 ヨーデリッヒは一言、ようやくそれだけを言う。僕は嘆息する。
「で、何? いつまでいる気? それとも食事でもしていく? ていうか、君がり痩せすぎるよ、僕も人のこと言えないけどさ……ちゃんと食べてんのかよ」
 ヨーデリッヒは、僕をじいっと見つめていた。やがて、僕が野菜を煮込んでいると、ヨーデリッヒのお腹からきゅう、という音が鳴る。相変わらず彼の表情はぴくりとも動かない。
 僕は深く嘆息した。
「食べてけば」
「……ありがとう」
 ヨーデリッヒは目を伏せた。聞きたいことは沢山あったのに、結局僕は何も聞けなかった。


     *


「じいちゃん、ご飯できたよ。食べれる?」
「馬鹿もの。食べられるに決まっているだろう」
 そう言って、じいちゃんは顔を歪めながら体を起こそうとする。じいちゃんは、まだ僕に頼ってはくれない。寝台の横にとりつけた手すりに捕まって、額に玉のような汗を滲ませる。僕は、気持ちをごまかすように笑った。
「ねえ、じいちゃん、今日は母さんが昔作ってた料理作ってみたんだ。なんだか急に食べたくなってさ。どうかな?記憶を頼りに作っただけなんだけど……」
「ふん」
 じいちゃんはどこか温かな声で鼻を鳴らした。
「もう少し、エルゼの味は甘かったぞ」
「えー」
 何が足りないんだろう、と僕が悩んでいると、じいちゃんはふと手を止めてどこかを見つめていた。
 視線の先を追うと、棚に飾っていた、二人の黄ばんだ写真があった。僕の記憶よりも若い母さんが、父さんの肩に頭をもたせ掛けている。父さんは豪快に笑っている。
「エスト」
 じいちゃんは静かに言った。
「すまないな。俺は、お前より先に、あいつらに会いに行くことになりそうだ」
「何言ってんの。僕よりじいちゃんの方がうんと年食ってんだから当たり前だろ」
「ふん、お前も言うようになったな」
 じいちゃんは笑うと、またスープを口に運んだ。
「お前は……エルゼに似ているな」
「そう?」
「ああ。ロベルトはお前ほどなよついてはいなかった」
「酷いなあ。じゃあ、母さんがなよなよしてたとでも言うの? そんなこと言って、母さんに叱られても知らないよ?」
 僕が母さんの真似をして腰に手を当てると、じいちゃんはくっく、と楽しげに笑った。
「エルゼは強い子だったよ」
 ふいに、じいちゃんはそう静かに言う。
「俺も、ロベルトも、豪快なのは見た目だけだ。実際には婆さんと、エルゼに支えられてきた。二人がいなければ、俺達の幸せはみすぼらしい代物だったろうな。俺はお前がエルゼに似ていて嬉しいよ。幸せだ。こんなガタの来た身体でもな」
 そう言って、ふっと目を柔らかく細める。僕はそんな穏やかなじいちゃんの横顔を見ながら、胸の締め付けられるような痛みを思い出していた。
「じいちゃん……僕は、僕は、そんなに、強くないよ」
 息をするのが苦しい。泣いてはいけない。もう、じいちゃんの目の前で泣かないと決めたのだから。
「ふん」
 じいちゃんは鼻を鳴らした。泣きそうになる時のじいちゃんの癖だ。
 置いて行かないで、じいちゃん。
 言葉が零れそうになるのを、必死で堪えた。
「そういや、あの嬢ちゃんは最近見かけないな」
 ふと、じいちゃんがそんなことを言った。
「え?」
 僕は間の抜けたような声を出してしまった。じいちゃん、お願いだよ。
 お願いだから、僕の心をえぐらないで。
「あの、コスモスのような色をした嬢ちゃんだよ」
 お願いだから。
 じいちゃん、僕は。
 きっとあの子に会うまでだったら、あなたのその言葉にこんなに辛くなることは無かったんだ。
 僕はもう、あなたと同じ世界にいられない。
「あの子は、弱い子だ」
「そ、そんなことないよ」
 僕は言葉を重ねた。
 ギリヴが弱い? そんなわけがないよ。だって、あの子は、自分が弱いと知っている。それでも自分ができることを探して、歩いて行ける子だ。僕とは違う。僕みたいに、置いて行かないでとしか言えない人間とは違うんだ。だから、
 だから、好きだった。
「ふん、お前も少しは正直になれ。お前があの嬢ちゃんに惚れていたことくらい知っている。ああいう子は、ちゃんと追いかけないと届かなくなるぞ」
「そんなの……わかってるよ」
 僕は、唇を噛みしめた。
 どうしろって言うんだよ。
 どうしようもできないんだ。もう、
「じゃあ、じいちゃん。僕、食事してくる。友達が来てるから」
「そうか」
 じいちゃんはそう言った。僕は扉を静かに閉める。




 どうしてあの時、じいちゃんを一人にしたんだろう。
 どうして、いつもみたいに、じいちゃんと同じ部屋で食事をしなかったんだろう。
 後悔しても、もう足りないんだ。
 僕はあの日、あいつを帰すべきだった。
 じいちゃん。
 僕は、あなたが思うよりずっと、あの子に囚われてたんだよ。
 あなたより、あの子を選んだ。
 僕は今でも後悔しています。
 僕は、あなたと、生きたかった。

 最後まで、あなたと、生きたかった。










     **

 手にぶら下げたランプを壁に掛ける。
 夕暮れの薄紫が差し込む部屋の中で、ヨーデリッヒはただじいっと窓の外を見つめていた。
「何やってるのさ。食べなよ、ついでやってるんだからさ。冷めちゃうだろ」
 僕は嘆息して、彼の向かいの席に腰を下ろす。
 ヨーデリッヒはそれでもしばらく空を見つめていた。やがて震える手でスプーンを手にする。
 かたかたとスプーンが震えて、皿にかちん、と零れ落ちる。赤い雫が飛び散った。
 ヨーデリッヒは、ただじっと、感情のない眼でそれを見つめている。
 銀色に、映る眼差し。
「君……もしかして、」
 僕が擦れた声で呟くと、ヨーデリッヒは目線だけを僕に向けた。
「持病だよ」
「え?」
「ここ数年、無計画に身体を使いすぎた……もう少し生きられると思ってたんだけど」
「え……って、ちょっと待ってよ」
 僕はスプーンを置いて、ヨーデリッヒを見据えた。
「君、病気だったの?」
「そうだよ」
「そうだよ、って……じゃあ、なんであの子を買ったんだよ」
 声が震える。
 ヨーデリッヒはにやりと口角を釣り上げた。荒んだ眼差しで、隈の深く刻まれた目で、僕を見透かすように見つめる。
「僕がただ、あの子を単に傍に置くだけの目的であの子を買ったのなら、お前、僕が死んだあとで自由になったあの子とまた会えたのにね」
 何を言われているのか、わからなかった。
 まるで、別の目的があるみたいに。
 ぞっと背筋が泡立つ。
「ギリヴは……元気なの」
「生憎」
「なんだよそれ!」
 僕は拳でテーブルを叩いていた。がちゃん、と陶器が擦れ合う音が響く。
「ギリヴが、最後にお前に会いたいと言った」
 ヨーデリッヒの声は、とても凪いでいた。
 どうして、そんな酷い言葉を、そんな穏やかな、
重荷から解放されたような眼差しで、言えるのだろう。
「どうして……」
 信じない。
 信じない。信じない信じない信じない。
 僕は必死で耳を押さえた。何も聞きたくない。何も知りたくない。何も信じたくない。嘘だ。そんな……理解なんて絶対にしたくない。
「馬鹿だな、人の話はきちんと聞きなよ。誰も死んだなんて言っていないでしょ」
 ヨーデリッヒは抑揚のない声で、ぎぎ、と首を傾げて言った。
「君……もしかして、身体がもう動かないの……?」
 僕が擦れた声で言うと、ヨーデリッヒは小さく嘆息した。
「僕のことはどうだっていい」
「君が死んだら何も聞けないだろ。ふざけるなよ。死んでいいとでも思ってるの」
 僕が暗い気持ちで睨みつけると、ヨーデリッヒは目を伏せた。
「お前に教えるまで、死ぬ気はないよ」
「じゃあ、さっさと話せよ!」
「煩い……頭に響くからやめて」
 僕は怒りで震える体を抱きしめるように抑えた。なんて、なんて腹立つやつだろう。
「僕は、僕のエゴで、実験を始めた」
「は?」
 いきなり何の事だかわからず、僕は棘のある声を出していた。
「そして、」
 ヨーデリッヒは、機械のように抑揚のない声で続ける。
「実験台として、ギリヴを使った」
 何を言っているのかわからない。
 実験台? 実験? ギリヴ? どうしてそこでギリヴが出てくるんだ?
 どうして、そんな、日常とは無縁の言葉と、ギリヴが結びつくと言うんだ?
「理由は、色々あるけれど、単に僕が、これ以上良心の呵責を受けたくなかったからだ。良心なんてものが僕にもあるのなら、だけど。知っている子を使うことで、僕はなんだか救われる気がしてた。多分僕は……僕を知っている人から、ちゃんと理解してくれる人から、賛同でもいい、異論でもいい、僕に言葉をぶつけてほしかった。何も知りやしない人間から、何にもわからないくせにあれこれと口出されるのは我慢がならなかったから。だから、ギリヴが一番都合がよかった。あの子は僕のいう事に逆らわない。優しい子だから。愛情に飢えているから。僕を……自分と同じだと、馬鹿みたいに思い込んでいるような人間だから、都合がよかった。それで、あわよくば、彼女で実験が成功すればいいと思っていた。むしろ、僕はあの子を死なせたくはなかった。責任が重くのしかかった。ギリヴを実験台にすることで、僕は絶対に失敗してはいけないと思えた。最低限の犠牲で済ますために、僕にとっては必要だった、ギリヴが」
「もっと僕にもわかるように説明しろよ。お前の気持ちなんてどうでもいい、理由だってどうだっていい。僕は……僕が知りたいのは、あの子がお前にどんな仕打ちを受けたのか、今どうしているのか、今……」
 僕は唇を噛みしめた。
「今、あの子が、生きているのか、それだけだ。だらだら話すのをやめろよ。お前が死にかけだろうが知ったことじゃないよ。今僕は怒りでお前をめちゃくちゃにしてやりたいくらいなんだよ……そんな頭で、そんなどうでもいいこと理解したいわけないだろ」
「そう、だね」
 ヨーデリッヒはどこか悲しげに微笑する。
「でも、僕は……お前と友達になれたらよかったな、って思うよ」
「ギリヴに手を出した時点で、」
 僕はどす黒い気持ちを抱えながら吐き出す。
「そんな可能性、もう綺麗に消えたよ」
「そう、残念だ」
 さして残念そうでもない口調で、静かにヨーデリッヒは言う。
「端的に言えば、僕は彼女にある薬を飲ませた。その結果……紆余曲折はあったけれど、実験は成功。彼女は、人間ではなくなった。生きてはいるけれど、もう年老いることは無い。彼女の心ひとつで、彼女は壊したいものをいくらでも破壊することができる。どれだけ傷ついても、身体は嘘のように修復される。命自体は恐らく有限だけれど、少なくとも彼女は僕達と比べれば不死に近い」
「は……?」
 どういう事なのだろう。さっぱりわからないのだ。
 つまりこいつは、ギリヴを不老不死にした、と言う事だろうか。
「なんの、ために……」
「僕の友達を……一人にしないために」
 静かな声が響く。
 ヨーデリッヒの瞳は、どこまでも澄んでいた。暗闇の中でさえ、蛍のように鈍く輝いて、どこかへ消えていく。
 まるで、旅人を惑わせるように。知らない森へ誘うように。
「正直に言うよ。僕は、僕の友達の恋を叶えてあげたかった。そのために、その女の子を彼と同じ存在にしたかった。だから、そのための実験台が必要だった。ギリヴを死なせたくなかったのは嘘じゃない。だけど、その女の子だけは絶対に死なせるわけにはいかなかった。その子が死なない方法を探すために、色々なやり方を試す人間が必要だった。僕にとっては、その女の子よりは、ギリヴは死んでもいいと思っていた、その程度だった」
 僕は、テーブルの上に飾っていたブリキの花瓶を、ヨーデリッヒに投げつけていた。
 水と花弁をかぶって、ヨーデリッヒは俯くように身動きさえしなかった。怒りが止まらない。
 滅茶苦茶にしてやりたかった。こんなにも、人の首を絞めてしまいたいと思ったことは無い。
「憎いでしょ」
 ヨーデリッヒは涼やかに呟く。
「でも。僕は、お前に理解してほしいんだ。僕のことを。僕の生きてきた世界を。これから僕が遺す世界を。お前にだけは、知っていてほしいんだ」
 僕は必死で震える体を押さえた。
 どんなに憎くても、病人だ。自分でほとんど動けないくらいの、病人なのだ。殴れない。傷つけられない。僕は、こいつから、まだギリヴのことを全て聞いていない。
「お前を選んだのには、色々と理由はあるんだけど、」
 ヨーデリッヒは淡々と、色の無い声で言う。
「僕は、お前に出会いたかったなあ」
 ヨーデリッヒの声が震えた。ひくつく頬で、笑おうとする。その表情に、目が離せなくなった。どうして、こいつは、あの子と同じ笑い方をするんだろう。本心を口に出すときの癖。
 僕は酷く嫉妬していた。一方で、頭蓋の中は急速に熱を失い、次第に僕は冷静になっていた。
「レデクハルトに拾われるよりも前に、お前に出会いたかったよ。使えないなあ、エストは。もっと早くにギリヴを見つけて、捕まえていてくれたらよかったのに。僕はきっと、お前達が世界から逃げるのを手伝ったよ。どんな手を使ってでも。僕は、そんな未来なら、欲しかった。悪くないなと思ったよ。馬鹿だなあ、エスト。本当に、愚鈍なんだから」
「何がだよ。自己完結しないでよ。意味が解らない」
 僕が睨みつけると、ヨーデリッヒは荒んだ目ではは、と笑う。
「もう、取り返しがつかないんだ」
 そう言って、震える手で両頬を包み込むように触れて、ただ笑う。
「どうすればいいか、わからなかったんだ……だって、僕は、僕は……どのみち、いつかは死んでしまったんだから。あの二人を置いて。死ぬしかなかった。僕には時間が足りなかったんだ。あの人が笑って生きられる世界を作る時間なんてなかったんだ。だったら……誰に恨まれてもいいから、こうするしかなかったんだ……他に、思いつかなかった……だって、だって、どいつもこいつも、使えなくて、自分のことばっかりで、何にも見えてなくて、目先のことばかりでさ……誰も……誰も……僕に聞いてくれなかった…どうしたのって。何をやってるのって。どうしてそんなことしてるのって……止めてくれなかった……誰も……僕を……僕が僕の言葉で伝えるまで……待っていてくれなかった……」
 僕は、雨に濡れた鴉のように震えて蹲るヨーデリッヒを、ただ見つめることしかできなかった。
 腹が立っているのは本当だ。だけど、だけど。
 こんなに、震えている人を、どうして今罵倒することができるだろう。
「少なくとも、ギリヴは君のことをわかりたいと思っていたのに」
 僕は小さく呟いた。
「そう言っていたよ。あの日……君に連れて行かれる前の日に」
 ヨーデリッヒはしばらく何も言わず、耐えるように震えていた。
「無理だよ」
 ようやく、そう小さく鳴いた。
「気持ちを伝えるなんて、慣れていないんだ。受け入れることも、慣れていなかったんだ。時間がかかるんだよ。追いつかないんだ」
「それでも、きっとギリヴなら待っていてくれたよ。なんだよ、僕よりあの子のこと知ってるんだろ?」
 言葉は棘を巻きつけて、僕の喉から零れ落ちる。
「そうだね」
 ヨーデリッヒは、擦れた声で、静かに言った。
「多分、ケイッティオもそうだったはずだけど、僕が……拒んでしまったんだから、仕方ないね。レディは……あいつは馬鹿だから、期待したって損なばっかりだったのだし」
「ケイッティオ……?」
 僕が眉をひそめると、ヨーデリッヒは僕に暗い葡萄色の目を向けた。
「レディ――僕の友達が、執着した女の子だよ」
 そう言って、はは、と笑う。
「はは……おっかしいや。ひたすら知り合いばかり巻き込んで実験を繰り返して、犠牲にしたのに、結局僕が僕を吐露できるのは、中途半端に顔見知りで、何にも知らないただの一般人なんだ」
「それ、僕のことを言ってるの?」
 僕が眉間に皺を寄せると、ヨーデリッヒは穏やかに微笑する。
「ねえ、エスト」
 月明かりが、涙の跡みたいに、ヨーデリッヒの頬を一筋照らす。
「何も言われないまま騙されるのと、嘘をつかれて騙されるのと――君は、どちらがいい?」
「はっ……」
 僕は顔を背けた。嗤わずにはいられなかった。
「何? その馬鹿みたいな質問。質問ですらないじゃないか。僕がそんなものに真面に取り合うとでも思ったわけ?」
「ギリヴはこう答えたよ。【嘘をつかれて騙される方がずっとまし】」
 ヨーデリッヒは微笑んでいる。試すような眼差し。僕はかっと頭に血がのぼるのを感じた。
「それは答えになんかなってない! 答えじゃないだろ! なのにお前は、あの子に嘘をついて騙したんだな!」
「騙すことは決まってた」
 ヨーデリッヒは淡々と答える。
「他に、何を聞いたらいいのか、わからなかった」
「ふざけてるよ……」
 僕はずきずきと痛む頭を押さえた。目の奥がどくどくと波打つ。そんな馬鹿げた質問に踊らされた馬鹿なギリヴに、腹立ちさえ覚えた。
 わかっていたはずなのに。そんなものに答えを出したって、幸せな未来なんかない。何も知らない僕でさえわかるのに。
「いいよ、答えるよ。僕は、【騙されるのはまっぴら】、それが僕の、お前への答えだ」
 僕が睨みつけるようにそう吐き捨てると、ヨーデリッヒはふにゃり、と笑った。
 泣きそうな顔で。どこまでもギリヴとそっくりな表情をするから、本当に憎たらしい。
「そんな風に答えたの、お前が初めてだよ。馬鹿だよね、みんな。みんな、お前みたいに少しは頭が回るやつだったらよかったのになあ」
「僕はそんなに頭なんてよくない。こんなの、頭が回るだなんて言えない」
 僕はそう静かに言った。
 ヨーデリッヒはへら、と笑ったまま、しばらく床の、どこともない場所をぼんやりと見つめている。
 本当に、気違いだと思う。
 狂ってる。僕は、見ていられなくて、顔を背けた。
 なんだって、ギリヴはこんなやつ、助けようとしたんだ。
 もう、どうしようもないじゃないか。手遅れだよ。
 自分でも言っているじゃないか。
 なんて痛いんだ。
 自分で狂っているって、誰よりも自覚しているだなんて。
「お願いがあるんだ」
 ヨーデリッヒは、へらへらと笑ったまま言った。
 僕はその表情に顔をしかめながら、彼の瞳を睨みつけた。
「僕になってくれないか」
 ヨーデリッヒの言葉が、零れて落ちる。

 僕にはよくわからなかった。

 けれど僕は、嫌だと答えることもできなかった。

 きっと、ヨーデリッヒも僕の答えは分かっていた。

「ギリヴを見て、それからだ」
 震える声が、僕の喉から苦しげに漏れて落ちる。
「ギリヴに、会わせて」

 僕は、蛇に騙された。

 それが自分の意思だと知っていて、
 じいちゃんの眠る部屋の、橙色の灯りを捉えた視界でさえ暗く閉ざして。
 僕は、結局、あれこれと理由をつけたところで、深く暗い好奇心に負けたのだ。
 空っぽのブリキの瓶を拾って、僕はヨーデリッヒの手を取った。

 イチジクが床にぐちゃりと零れ落ちて、僕の靴に雫が跳ねた。

三十三、鐘を抱える

「じいちゃん」
 僕はそっと扉を開けた。
「寝てる?」
「いや」
 じいちゃんは長い溜息をついた。
「僕、ちょっと散歩してくる」
「そうか」
 じいちゃんは静かな声で言った。
「煩くして……ごめんな。寝れなかったでしょ」
「生憎、耳の方もガタが来ていてな」
 じいちゃんは小さく笑った。
「お前がどんな音を立てていようと、よく聞こえんさ」
「うん」
 僕は力なく笑った。
「じゃあ、行って来るから、寝てて」
「あまり遠くまでは行くなよ」
 じいちゃんは大きな欠伸をする。
「うん」
 僕は灯りを消した。
「おやすみ」

     *

 扉を閉め、鍵をかける。ヨーデリッヒは月明かりを見つめてじっと佇んでいた。外套を羽織らず、重たそうに抱えている。
「着ないの? それ。夜は冷えるよ」
 僕が顎で指し示したけれど、ヨーデリッヒは小さく息を吐いて、首を振った。息が白く舞って、どこかへ消える。
「いい。もともと、あまり着こむのは好きじゃないんだ」
「そ。持つよ」
 僕は、ヨーデリッヒから外套を奪うように取って、歩いた。ヨーデリッヒは僕をじっと見つめていた。
「お前は変な人間だね」
「君にこそ、言われたくない」
「そうだね」
 ヨーデリッヒはまた息を静かに吐いて、空を仰いだ。
「ギリヴに会わせるとは言ったけど、遠くから見せるだけだ。話はさせられないよ」
「どうして」
 僕が不機嫌な声を出すと、ヨーデリッヒは目を伏せた。
「お前は、僕になるかどうか決めていないだろ。秘密を全部さらけ出すことはできないよ、今の段階では」
「だから、なんだよ、その【僕になる】ってやつ。意味が解らないんだけど」
「僕の記憶を、全部受け入れてほしいんだ」
 ヨーデリッヒは静かに言う。
「僕の記憶を抱えて、僕と同じように生きてほしい」
「何それ」
 僕はなんだかもう、笑えてきて、前髪をくしゃりと握りしめた。
「そういうこと? 僕はどうなるの? 見ただろ、僕にはじいちゃんもいるし、店もある。なんで僕がエストって名前を捨てなきゃいけないんだよ。なんで……気色悪い君にならなきゃいけないんだよ。ふざけないでよ」
「いっそ、そうずけずけと言ってもらえて楽だよ」
 ヨーデリッヒは微かに笑った。
「おかしいな、あの子たちの前でも、レディの前でも、弱気になんかならなかったのにな」
 そう言って、悲しげに笑う。
「ギリヴは、もうお前のことを忘れてしまったよ」
 僕の足が止まった。
「辛い?」
「煩い」
 僕は、それだけ言うのがやっとだった。
「なん、で、だよ」
「言っただろ? 薬の副作用ってやつだよ。真っ先にお前のことを忘れたよ。そのうち、殆どのことが分からなくなった。最終的に、催眠をかけて、他のことも、僕が全部忘れさせた。もうギリヴは、自分を人間だとも思ってない」
 なんて酷い話だ。
 足がすくむ。それが現実だなんて、知りたくない。こんな夜の闇も、ヨーデリッヒの葡萄色の目も、全部忘れてしまいたい。
 ギリヴがそんな姿になったのを、見るのは辛い。
 僕には、大好きな人から忘れられてしまうことが、どれほど辛いのだか、実感さえわかない。
 背中に雪が降り積もるような心地がした。
 どうして僕は、こんな夜に、こんな風に、歩いているんだろう。
 じいちゃんの傍で、たとえうなされたとしても、眠りの中に逃げ込めばよかったのに。
「人間の脳って不思議だよね」
 ヨーデリッヒが零す。
「大切な人ほど、先に忘れるようにできているんだってさ。ギリヴは真っ先にお前を忘れたけど、最後の最後で、会いたいと願ったのは、お前だったよ。お前の髪と同じ色の砂を追いかけて、後は全部忘れた」
「それを……僕に、聞かせて、」
 僕は、再び湧き上がった怒りで肩を震わせた。
「何が、したいわけ。僕を、僕の心臓を抉りたいの? 僕の心臓なんかいくらでもくれてやるよ。ギリヴを……ギリヴを、これ以上利用するのをやめろよ」
「だから、心臓なんかいらないけど、くれるなら僕になってってば」
 ヨーデリッヒがどこか苛立つように言った。
 どの口が、そんなこと言えるのか。
 お前に、僕に苛つく権利でもあると思ってるのか。
 僕は震える体を必死で抱きながら、ヨーデリッヒの背中を睨んで歩き続けた。
 僕は、まだ縋っていた。
 なんとかなるんじゃないかって。
 どうにかして、ギリヴを逃がすことができるんじゃないかって。
 僕が代わりになってもいいからと。
 甘いことを考えていたのだ。


     *

 真っ黒な針金を編み合わせたような螺旋階段。
 その階下に、彼らはいた。
 思い思いに、床に座り込んで、格子窓から漏れる白い月明かりをじっと眺めて、彼らは座っていたのだ。
 僕は一歩も動くことができなくなった。
 同じ人の姿をしているのに。
 この感覚を、僕は知っていた。
 小さい頃から、知っていたのだ。
 ステンドグラスの光に包まれた、オーロラのように鈍く光る、十字の刑具。
 覚えてもいないような遠い昔、殺してごめんなさいと、許してくださいと、人々が泣いてすがらずにはいられない鼓動の音。
 肌をびりびりと震わせるような、畏怖。
 僕らは誰もが、神様が僕らを責める声が辛くて、オルガンの音で耳を壊した。
 かき消すように。見えないように。彩りに満ちた硝子細工を窓に張り付けて、誤魔化して。
 怖い。
 僕は震えていた。
 年端なんて変わらないはずだ。
「ヨーデリッヒ……」
 僕は震えながら、その名前を呼んでいた。
「なん、で……平気、なんだよ」
「何が?」
 ヨーデリッヒが本当にわからないといった様子で、首を傾げる。
「どうして、恐ろしく思わなかったんだよ」
 僕はかちかちと鳴る歯の音を抑えようと、唇を噛みしめた。
「何が」
 ヨーデリッヒは困惑したような声を出す。
「あんなの……まるで、神様じゃないか。人間が……僕達みたいな子供が、勝手にいじくっちゃいけないものだよ」
「どうして?」
 ヨーデリッヒは不快そうに眉をひそめた。
「あれ、僕が作ったんだよ。そして、そもそも、あの中にいるあの子供…紫頭の子供は、神様から放り捨てられた子供だ」
 ヨーデリッヒは指をさす。
「神様が、彼に、人々を惹きつける、魅了の力を与えた。かつての救世主のようにね。聖書に残る、彼のように。まあ、本当にそんな人がいたのかすら怪しいけれど」
 ヨーデリッヒは嘲るように口を歪めた。
「彼はその力を持て余した。神様は彼の潜在意識に植え付けた。いつか世界のために死になさいと。お前が死ぬことで、世界は救われるのだと。神様とやらにとって都合のいい、勝手な理想郷が、お前の死によって導かれるのだと」
 ヨーデリッヒが指差す少年は、前髪をいつまでも引っ張るようにいじっていた。無表情に。鬱陶しそうに。
「彼は、その運命を知っていた。そして、それを叶えたいとも思っていた。本心だ。けれど一方で、どうして死ななければいけないのだろうと、恐怖を抱えていた。彼はこの世界中で、誰よりも死にたいと願い、誰よりも死にたくないと泣きながら自傷を繰り返した。けれど彼の体は、傷つけても傷つけても、人間ではないみたいに再生を繰り返した。彼は死にたくても死ぬことができなかった。死ねと定められているのに、神様は死に方すら教えてくれない。再生を繰り返す体に、彼は自分が人間ではないのだと毎日のように嫌と言うほど知らされた。そして何も知らない馬鹿な人間どもは、彼に【早く世界を救ってくれ】と乞う。早く、早くと。どうしていつまでも救ってくれないのかと。もう沢山だと。こんな世界まっぴらだと。何が沢山なものか。彼は知っていた。仮に自分が死んで、世界が救われたとしても、それはかつての方舟と同じだ。全てを洗い流し、一からやり直すだけの世界だ。今生きている全ては、死に絶える。それは救いとは言えない。そんな救いは誰も望んでいない。それでも彼は、生きればいいのか死ねばいいのか、どうやって死ねばいいのか、わからないと言いながら、自分を切り刻んだ」
 ヨーデリッヒは笑っていた。月明かりがヨーデリッヒの頬を照らす。白い涙が、その骨ばった手を筋となって照らす。
「そんな人が、たった一人の女の子を好きになったとして、誰が責められる? その子と共に生きたいと、でも許されないんだ、それでも一緒にいたいんだと、愛してほしいと泣く彼を、どうして否定できる? それでも世界は彼に死ねと言い続けた。あまつさえ、その馬鹿な女は、彼ではなく僕に懸想する。どうでもいい僕を。直に死んでしまう、ぼろぼろの体を持て余すだけの木偶の坊を。僕はレディに生きてほしかった。でも彼は死にたいと言った。じゃあ、僕にできることなんて、あの子の記憶を消してでも、レディの記憶さえ消して、あの子がレディの傍に居る未来を作ることだけじゃないか。僕は愛されなくったってよかったんだ。馬鹿な女。本当に馬鹿で苛つくよ。あの子に好かれたりしなければ、僕は、あの子にだけは好かれないようにしようと心を閉じる必要もなかった。そんなことしないでいられたら、僕は自分の気持ちを持て余すこともなかった。レディを恨むようになってしまうなんて、そんなことなかったんだ。こんな僕は、消えてしまえばいい。だけど僕は、ただ……ただ、本当に、レディの望む世界を造りたかった」
 言葉が溢れて、止まらない。
 僕は、ヨーデリッヒが壊れた発条ぜんまいいのように喉を震わせ続けるのを、ただ見ていることしかできない。鼓膜がびりびりと音を立てる。裂けそうなくらい、棘で満たされた空気。
「僕はね……僕は、僕だけは、レディを責めないたった一人の人間でありたかった。友達だから。初めての、友達と言える人だったから。友達だなんて響きは、こそばゆくてたまらなかった。それでも、僕には、それはただ一つの宝物だった。生きていて、よかったと、初めて思ったんだ。だけど、だけど……僕はレディを恨んだんだ。恨んだんだよ。僕がここまでして、あなたの力になろうとしているのにって。僕は初めて……初めて好きになった女の子を、その気持ちも気づかない振りして、見ない振りして塞いで、ケイッティオが……僕を好きだと言ってくれたけど、それすら苛つく想いに変えて、ひたすら、あの子がレディを見るようにって遠ざけて遠ざけて遠ざけて! 僕だって不安だった。本当にこれでいいのかとか、僕は結局何が欲しかったんだろうとか、もう何もわからなくて、でも僕は、レディが死ぬのだけは、幸せだったと言えないままに世界から消えてしまうのだけは、我慢がならなかったんだ。だから僕は、たとえ他の何を失ってもいいからって、ここまでやったんだよ。なのにレディはずっとケイッティオのことばかりでさ、僕だって死にかけてて、苦しくて、辛いのに、全然気にかけてもくれないし、思いついてもくれなかった。僕は、レディがいつか見る世界が、あの子と二人で残る世界が羨ましくて憎らしくて、もう僕は、レディの友達ではいられなくなってしまった。きっとずっと前から、とっくにそんなもの、なくなってしまっていたんだ。レディは僕よりケイッティオを選んだんだから。僕がずっと傍に居たのに、僕と居ても幸せじゃないんだから。だから僕は二人の記憶を消したんだよ。僕なんか忘れてしまうように。僕が【ヨーデリッヒ】だったことを忘れてしまうように。二人の記憶を消すんだ。じゃあ、他の子供の記憶だって消さないわけにはいかないじゃないか。いっそ、神様の子供を作ってしまえばいいんだ」
 ヨーデリッヒは、ひゅうひゅうと喉の奥から擦れた音を出した。
「君の言っていることは、滅茶苦茶だよ……」
 僕は、ようやく、それだけを呟いた。ヨーデリッヒは穏やかに笑った。
「わかってるよ。誰もわからないよ。僕だってもう、ぐちゃぐちゃで、わからないんだ」
 そう言って、渇いた笑いを漏らす。
「僕は、この実験が……救世主レデクハルトと、まったく同じ子供たちを作る実験が、うまくいくとわかって、ふと考えたんだ。僕は今までずっと……レデクハルトに飼われてからずっと、彼の幸せに憑りつかれていた。でも、だとしたら僕の幸せは何だろうって。僕だってもう長くないのにって。少しだけ考えたんだ。やっぱり、ケイッティオを攫ってしまおうか。どうせもうレディも覚えてない。いつか思い出したとして、恨まれたって構わない。そうすれば少なくとも、僕はケイッティオと一緒になれる。皮肉にも僕が僕自身の手で、ケイッティオが僕を好きでいてくれた記憶でさえ、彼女から奪い取ってしまったけれど。でも、そんなことどうでもいいじゃないか。僕はやっと、何の柵もなく、あの子を愛せる。あの子だけ愛してあげられる。でも、」
 ヨーデリッヒは目を見開いて、狂ったように笑みを浮かべていた。その目から、ぽたぽたと雫が零れて落ちる。石の床に、濃い影を落としていく。
「でも、僕の幸せは、あの二人の背中を見つめていることだったんだ。馬鹿だろ? ずっとそうして生きてきたんだ。おかげで、そうしていないと、生きているって実感できなくなってしまった。ずっとずっと思い描いてきた未来がまさか、僕個人の幸せもかき消してしまうだなんて、そんな悲劇、馬鹿らしくて笑えてしまう」
 ヨーデリッヒは、はは、と呟いて、鼻を鳴らした。
「でも、もう僕は生きているのが辛いんだ。どうせもうすぐ死ぬのだし。あの子たちに飲ませた薬を飲めば、あの子たちにしたことと同じことをすれば、僕も同じように、死ななくなるだろう。けれど、もう耐えられない。もしそうするとして、僕の記憶は誰が消す? どうして……どうして、僕に残された、たった一つの証を、僕のこの記憶を消さなきゃいけない?」
 僕は、蹲るヨーデリッヒの背にそっと手を置いた。
「馬鹿だな……でも、君はあの子たちの記憶は消したんだろ。同じように、生きてたのに。どうせ、全員人間だったんだろ」
 僕は、そう言う事しかできなかった。
「馬鹿だな……そんな風にまくしたてられても、これっぽっちも理解できないや。なんでそんなにこじらせちゃったんだよ。そんなに、君のレディは信用できなかったのかよ。もっと早くに伝えていればよかったじゃない。わけわかんないけど、結局君は、レディの一番の親友でありたかっただけだろ。親友と同じ子を好きになってしまっただけだろ。一緒に生きていたかっただけだろ」
「そんな、簡単に言ってしまえたら、楽なんだけどね」
 ヨーデリッヒは力なく笑った。
「僕にはもう、自分の気持ちを整理するような気力もないよ」
「だからってそれを、他人に押し付けるってわけ? 僕に?」
「別に誰でもよかったんだよ」
 ヨーデリッヒは苦しげに床に額をつけた。
「最初は、ミヒャエロ……あの子、あの金髪のぼさぼさ頭。あいつを、僕の容れ物にするつもりだったんだ。あの子は、ケイッティオが好きで、でも選んでもらえなかった子供だ。僕の気持ちも少しは分かってくれるんじゃないかと思った。でも、だめだね、僕は、僕のいない世界で、これからもケイッティオと一緒に傍にいられるあいつに嫉妬して、もうだめだった。僕の気持ちなんか、知られてたまるかって、変な傲慢をどうしようもできなかった。でも僕はただ……あの二人が、ケイッティオとレディがいる世界を一緒に見たいんだ。僕の記憶を持って、誰かに、僕の代わりに、そんな世界を見届けてほしいんだ。僕自身はもう、疲れてしまったから、無理だけど。それが……それだけが、僕の幸せなんだ」
「だからって、ギリヴを巻き込んだ言い訳にはならないよ。僕を巻き込む言い訳にはならない」
「うん、そうだね……、全くその通りだ」
 ヨーデリッヒは瞼を閉じる。
 ――重いなあ。
 僕は、鳥籠のような天窓の向こうに広がる、藍色の星空を仰いだ。
 僕はギリヴに恋をした。
 彼女と居られる未来を、想像しなかったと言えばそれは嘘だ。
 それと同じくらい、僕なんかどうでもいいから、幸せになってほしいと思った。
 花のように、笑っていてほしいと思っていた。
 馬鹿だなあ。
 花は枯れてしまうのだ。
 同じ目に遭った子供が、この、狂ってしまった少年のために、人でなくなってしまった子供が、
 五人もいるのだ。
 神様のせいで狂ってしまった子供が、泣いているのだ。
 ――僕のエゴで、ギリヴだけ助け出すなんて。
 できないや。
 僕は、はは……と乾いた笑い声を漏らしていた。
 ヨーデリッヒと同じくらい狂えたら、ギリヴだけでも助け出すことができただろうか。
 それとも、僕もあてられて、狂いかけているのだろうか。
 こんな願い、抱えてしまうのは、欲張りだろうか。

 じいちゃん。
 父さんが、母さんをどんなふうに愛していたのか、ちゃんと見ておけばよかった。
 大好きな人を、どうしたら守れるのかわからない。
 どうしたら、ちゃんと愛してあげられるのか、わからない。
 僕は、ヨーデリッヒの記憶を知りたいと思ってしまった。
 もう、あなたと同じ生き方はできない。

「決められないよ」
 苦しそうに呼吸を繰り返すヨーデリッヒの頭を膝に乗せて、僕は呟いた。
「君の抱えているものが重たすぎて、ギリヴのいる世界が遠すぎて、僕には何も決められないよ。このままじゃ」
「そう」
 ヨーデリッヒは、微かに笑った。
「君のしてきたことを見ないと、決められないよ。僕は、君とは違う世界で生きてきたんだから」
「そう、だね」
 ヨーデリッヒは、深く淡い息を吐いた。
「構わないよ。全部、受け止めてくれるなら。その後逃げ出しても、構わない。僕ももう、疲れた」
「無責任だなあ」
 僕は笑った。
「僕って、馬鹿だったんだなあ」
 ふと、ヨーデリッヒが零した。
「どう見ても馬鹿じゃないの?」
 僕が応えると、ヨーデリッヒは薄く笑う。
「いつだったか、僕が死にかけたことがあったんだ。熱が一向に下がらなくて、苦しくて、もう、だめだな、と思ってた。その時、レディが僕の手を握っていてくれたんだ。僕は朦朧としていたけれど。それで、こう言ったんだよ。【僕はもう疲れたよ。世界なんていらない。国なんていらない。僕が欲しいのは、僕を安らかに眠らせてくれる死だけだ】ってね。死にかけている人間の、死の淵で言うようなことじゃないよ。おかげで、僕は結局死に損なってしまった」
「そこで死んでれば、こんなに他人に迷惑かけなかったのにね」
 僕が言うと、ヨーデリッヒはどこか楽しそうに笑った。


 僕はヨーデリッヒの額を撫ぜた。熱を帯びて、汗が滲んでいる。時々痙攣する体を抱えながら震える彼を、撫でてやることしかできなかった。ふと、僕は、ギリヴもこんな気持ちだったのかもしれないと、ぼんやりと考えていた。

 君の痛みを知りたい。君と同じものになりたい。そうでなければ、きっと僕は、君と同じ場所へ行けない。君の苦しみを知りたい。

 君の見てきた世界を、忘れてしまった世界を知りたい。君の隣に立つことを許してほしい。
 たとえ、君の背中だけを見つめることになっても、いいから。





三十四、針を呑む

 朝日が昇る頃に目を覚まし、身支度を整える。
 裏庭に植えてある氷草――砂漠でも容易に育つ、それでいて瑞々しい植物だ――と、西瓜の葉にたまった朝露を小さな瓶にかき集める。一日で取れる朝露なんて微々たる量だけれど、それでも二週間も溜めれば飲み水として申し分ない。
 硝子窓についた霜を、別の瓶で集める。これは溜めれば手洗いに使える。髪だって洗える。日差しの強い砂の街では、硝子窓なんて取り付けるのは自殺行為と言えるほどだけれど、こうして昼夜の寒暖の差を利用して霜と言うわずかな水を集めることが出来るのだ。
 そうして一通り集めた水を部屋に戻し、布で濾し出す。
 次第に空気が熱を帯び始める頃、今度は家中に張り付いた細かい砂の粒を――無駄だとはわかっていても、払う作業に入る。床を乾拭きし、窓も磨いて、最後に布で覆う。

 何も変わらない朝。何も変わらない一日。

 けれど、【それ】は確実に僕の体を少しずつ蝕んでいた。
 突然、視界が眩んで、胃液が迫り上がる。
 僕は、いつまでも胃液と唾液を吐き続けた。体中がずきずきと痛く、叫び出したくてたまらない。体温は人間のものではないみたいに冷えていく。日に日に冷えていくのだ。紫色の唇と爪。僕は母さんの古い化粧を借りて顔色をごまかしていた。目は落ち窪んでいる。もう何も食べてすら居ないのだから、ますます酷い。でも、どうせ吐いてしまうのに、どうして食べることが出来るだろう。どうして水を飲んだり出来るだろう。そんな風に無駄にしてしまうくらいなら、じいちゃんに栄養をつけてあげたい。けれどじいちゃんがそんなこと望まないだろうことはわかっていた。僕がこんなことをしているのをもしも知ってしまったら、じいちゃんは絶対に止めるだろう。でも、これくらいじゃ足りないんだ。

 僕は、あの日から、ヨーデリッヒが作った薬を飲み続けていた。
 こんなにも苦しいものだなんて、知らなかった。
 本当は、救世主の骨を体に埋め込んでから、薬を飲むのだと言う。
 そうすれば、ほとんど苦しむことなく、僕は人間ではなくなる。神様の使徒になる。
 恐ろしい話だ。そんな簡単なことで、人間をやめてしまえるのだ。
 ギリヴは、この薬を飲む実験台だった。
 飲み続けた結果、苦しんで苦しんで、記憶も失ってしまうほどに蝕まれて、死にかけて。
 そうして、他の使徒から、救世主の骨を埋め込まれたのだと聞いた。
 救世主の骨は、体を癒し修復する力があるのだそうだ。
 ギリヴのおかげで、薬から飲んではいけないのだとわかったよ、とヨーデリッヒはどこまでも無邪気に笑っていた。その後の四人には、先に骨を移植した上で、薬を飲ませたのだと言う。結果、彼らは誰一人として、ギリヴのように苦しまずに済んでいる。

 そんな馬鹿な話があるだろうか。苦しんだのはギリヴだけだなんて。

 僕はヨーデリッヒが憎かった。何もかも憎くて憎くてたまらないけれど、何より、そんな話を僕にしたことが殺してやりたくなるくらい、本当に憎らしかった。誰かを殺してやりたいだなんて、そんな醜い気持ちを持ってしまうだなんて、思ってもいなかった。僕はきっと、ヨーデリッヒに会ってしまった時から変わってしまったのだ。もう自分がどんな人間だったか思い出せないでいる。いや、もしかしたら、ギリヴと出会ってしまった時点で――彼女に惹かれてしまった時点で、もう僕は僕ではなくなっていたのかもしれない。

 そんなことを話して、一体ヨーデリッヒはどういうつもりだったのだろう。

 わからない。わかるわけがない。理解したいとも思わないけれど、それでもあまりに理不尽なことばかりで、恐ろしいことばかりで、僕は結局、ヨーデリッヒしか知らないことを知りたいと思ってしまっているのだ。どうしたらギリヴを助けることが出来るだろう。どうしたらまた笑えるようにしてあげられるだろう。僕は何も知らなさすぎて、何も出来ないのだ。結局、全ての元凶を、全ての真実を抱えた、もうほとんど自力で動くことも出来ないような脆弱な人間たった一人のことを知らなければ、僕はもう進むことが出来ないのだ。

 僕は、ヨーデリッヒの記憶を受け入れるよ、とは伝えなかった。ただ、薬をくれ、と言ったのだ。

 ギリヴだけが苦しむなんて、そんなのは可哀想だ。けれどこんな気持ちでさえ、もうとっくにヨーデリッヒに浸食された、気色の悪い考えなんだろう。これは僕のただの自己満足だ。彼女が味わった苦しみを、ちゃんと知りたい。そんなのは綺麗事だ。だけどヨーデリッヒは、僕がそう考えてしまうだろうと恐らく誰よりもわかっていた。それが恐ろしくて憎らしくて、僕はもう、自分自身の体を蝕むこの苦しみに耐えることでしか、鬱憤を晴らせないでいる。

 ギリヴは体中に腫瘍ができたとヨーデリッヒは言っていた。だとすれば僕も直に、人前に出せない顔になってしまうだろう。可哀想に。あんなに綺麗だった顔が、そんな姿になっていくのをあの子は見ているだけしか出来なかったのか。どんなに「あなたは綺麗だよ」と伝えても、あの子はそれを幸せだと思っていなかった。綺麗な色だったのに、愛らしかったのに、いつだって、髪のことを気にして、落ち込んでいた。あの子は劣等感の塊なのだ。僕ときっと似ていたのだ。手にあるものは、本当に欲しかったものではないのだと、そう感じてしまう。だから劣っているという気持ちに苛まれるのだ。きっとヨーデリッヒが、あの子にとってはこんな体になってでも本当に欲しかったものだったのだろう。あの子の考えた自分の居場所だったのだろう。ヨーデリッヒのために自分を犠牲にすることが、それだと信じたんだろう。馬鹿な子だ。
 最後の時、記憶を失ってしまう時、彼女は気づいただろうか。そんなものは欲しいと思う価値もないものだったって。

 ああ、でも、僕も人のことを言えない。

 どうして僕は、じいちゃんがいるのに、こんな薬に手を出したんだろう。

 どうして、待てなかったんだろう。

 こんなの、じいちゃんを捨てようとしているようなものじゃないか。

 じいちゃんが愛してくれた僕自身を、僕は捨てようとしているのだ。ただあの子と同じものになるためだけに。ヨーデリッヒの要求を飲むためだけに。

 本当に、僕はこれで良かったんだろうか。

 そんなこと思ってしまう時点で、おそらくこれは、間違いなのだ。

 じいちゃんのことを思えば、僕はギリヴのことを忘れなければいけなかった。ヨーデリッヒについていくべきじゃなかった。あの日のことは全て悪夢だったんだと言い聞かせて、耐えるべきだった。それでも目を塞げないのなら、じいちゃんが死ぬまで待てば良かったのだ。死んだ後で僕がこんなことをするのを、じいちゃんが喜ぶとは決して思わない。だけど、少なくとも、生きている間に哀しませることはないはずなのだ。でも、ああ、これだって、結局我が身可愛さなのだ。僕はただ、僕自身の罪悪感から逃れたいだけだ。僕は、じいちゃんがいつ死ぬのかなんて考えたくなかった。じいちゃんが死ぬのは見たくない。そうだ、見たくなかったのだ。僕は、僕は……。

 口元を拭って、ぜえぜえと喘ぎながら、僕はまた今日も玉葱の皮を剥いた。何も考えたくない。何も考えられない。取り返しがつかない。もう止めることが出来ない。どんどんどんどん糸が解れて零れていく。縫っても縫っても間に合わない。糸を縫う針も、もう折れてしまっているのかもしれない。僕はもう、針のない手でどうやって綻びを直せばいいのかわからない。

 魔が、さしたのだ。

 僕は震える手で鍋をかき混ぜる。体は日常をまだ覚えている。頭の中は混乱していても、いつも通りに動く。日常を続けようと震えている。ふいに、震えが止まる。薬を飲む時間が来た。飲み続けなければいけない。苦しみ続けなければならない。そうだ、僕は懺悔し続けなければならない。どうしよう。どうしよう。

 どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。

 鏡に血色をわずかに取り戻した僕の冴えない顔が映る。僕はそれをぼんやりと眺めながら、紙の袋を契って、粉を喉に流し込んだ。

 【何をしているんだ】

 僕は動けなくなる。嘘だ。じいちゃんはもう動けないはずだ。どうして。どうして。

 振り返ると、誰もいない。本当に? 確かに声は聞こえたのに?

 僕は怖くなって、そっとじいちゃんの寝室の扉を開けた。じいちゃんはまだ横になっていた。僕のたてた物音に、顔をゆっくりとこちらへ向ける。

「どうした? 顔が真っ青だ。具合でも悪いのか」

 じいちゃんが優しい声でそう言う。

「な、なんでもないよ」

 僕は口の端を引きつらせた。

「もうすぐ、朝食が出来るから、待ってて」
「ああ」

 じいちゃんはゆっくりと頷いて大きく息を吐くと、また目を閉じる。

 ああ。

 僕は扉を閉めた。

 本当に、これは現実なんだろうか。じいちゃんはどうして気づかないんだろう。それとも気づいているんだろうか。何も言わないでいてくれているんだろうか。何も、もう言えないんじゃないのか?

 見限られたらどうしよう。そんなことあるはずがない。じゃあ僕は? 僕はどうしてたった今もまた薬を飲んだ? じいちゃんを見限ろうとしているのは誰だ? じいちゃんはもう動けない。いつからだ? いつからこうなってしまった? あんなに、一緒に木を削っていたのに。どうして? そうだ……僕は、いつから、木を、革を触るのをやめてしまった? この家に、背を向けてしまったんだ?

 頭が、割れるように、痛い。

 踞って、頭を抱えるけれど、痛みは一向に収まらない。僕はふらふらと立ち上がって、食事を装った。
「じいちゃん、ご飯だよ」
 僕は、力なく笑って、じいちゃんの寝台の横に取り付けた小さな台に食器を乗せる。じいちゃんの体を支えて起こす。もう、じいちゃんは、自分でうまく起き上がることも出来ない。
「エスト。お前、痩せたな。ちゃんと食べているのか」
 じいちゃんが僕の腕を見て眉をひそめる。僕はへら、と笑う。
「最近、バテ気味なんだ……そのうち食欲も出ると思うから」
 じいちゃんは何も言わずに、パンを契る。
「あのお嬢ちゃんのことは、いい加減に諦めなさい」
 ふいに放たれたじいちゃんの言葉に、僕は身を固くした。まさか、知っているはずはないのに、どうしてそんなことを言うのだろう。
「あのお嬢ちゃんと会うと、お前はいつも楽しそうだった。若いうちはいくらでもいい。そう思って、お前のことを見守っていた。だがな、エスト。あのお嬢ちゃんに、あまりのめり込むな」
「な……、んの、こと?」
 僕は擦れた声で応える。
「お前は俺たちに似て、平凡な男なんだよ、エスト。あのお嬢ちゃんはお前と住む世界が違う。恋に落ちるのはいい。愛するのも構わない。けれど、のめり込むことは、愛ではないよ、エスト。お前より長く生きた俺だからこそ言える、お前への忠告だ。お前のそれは、愛ではない。自分に浸っているだけだ。酔いしれているだけだ。あのお嬢ちゃんに恋する自分に、浮かれてしまって、引っ込みがつかなくなっているだけだ。それは愛じゃあないよ。その程度の想いでは、お前も、そしてあのお嬢ちゃんも幸せにはなれん……。そしてお前にはあのお嬢ちゃんを愛してやることは出来ないよ。諦めてやるのも思いやりだ。もう、忘れなさい。いつか、そうしてよかったと思える日が来る。今突然こんなことを言われたところで、すぐには納得出来ないかもしれんがな」

 あ、い……?

 僕は戸惑っていた。愛? 愛ではない? 自己陶酔? 引っ込みがつかない、だけ……?

「そう、だね……」

 僕は絞り出すように応えた。なんのことはない、冷静に考えれば、たったそれだけのことなのだ。女の子とまともに話したこともない、もてない、冴えない子供が、華やかで愛らしい女の子とお近づきになれた。浮かれない方が無理だ。そして僕のこれは、ただの自己陶酔、自己満足。自己犠牲……自己犠牲? それが、ギリヴと、どう違うと言うんだ。

「でも、じいちゃん、僕には、あの子を忘れるのは、難しいよ」

 僕は、擦れた声で零した。

「若いうちはな。誰だろうとそう思うものだ。俺だって、覚えているよ。だがな、それも、そんな別れも、必要だったと思う日も来たんだよ。俺は今幸せだ」

 じいちゃんは、静かにスープをすすった。

「それしかない、と若いうちは狭量に考えがちだな。狭い世界しか知らないから、狭い世界しか見えない。それしかない、もう他にないと思い詰めてしまうものさ。しかしなあ、これが、いったん諦めてみると案外世界は広いと知らされるものでなあ。選択肢はいくらでもあると気づかされたのさ、俺もな。思い詰めているときほど、目の前のことしか見えないし、それしか知らないのだから手放すのだって恐ろしいさ。お前が今、あのお嬢ちゃんに苦しい気持ちを抱えているんだとすれば、それはお前が思い詰めている何よりの証拠だよ。神様が、いったん捨てなさいとおっしゃっているんだ。俺は今になって思うんだよ。ずっと、この店で、ちっぽけな狭い世界で生きてきたがな、そして何度も諦め、手放してきたよ。婆さんを亡くしたときも、ロベルトやエルゼが先に逝ってしまった時も、俺はもう死んだ方がいいとずっと思ったさ。だがなあ、今となっては、そうやって一つ一つ諦めてきたことで、俺は今、広い世界を知ったと自負出来るさ。悲しみも喜びも、幸福も、不幸せも、全て手に入れた。俺は今まで、生きてきてよかったよ」

 じいちゃんは、そう言って、穏やかに家族の写真を眺めた。

 胸が痛くて、僕は涙をこらえた。そうか、じいちゃんは、幸せだったんだね。それでも幸せだと、本当に、本心から思えているんだね。

 じいちゃん、僕が、間違ってた。

 でも、もう、僕は――。

「じいちゃんにしては、なかなかに詩人だね。どうしたの?」
「こいつめ」
 僕が笑って言うと、じいちゃんは穏やかに目を細めて僕を見つめた。そして、また静かにその視線は離れていった。僕は、別れを自覚していた。

「それから、そうさなあ、」
 じいちゃんは考え込むようにゆっくりと言う。
「この間、お前の友達が来ていたろう。俺は姿を見ていないが、あんまり深入りするんじゃないぞ」
 僕は、全くその通りだと内心思いながら、聞かずにはいられなかった。
「どうして?」
 じいちゃんが、何と言うのか、知りたかった。
「喧嘩を出来る友達はなあ、いい友にもなり得るだろうなあ。だが、お前を一方的にいからせるような人間は、友達ではないよ」
 僕は頷いた。
「そうだね、全くもって、その通りだ」
「わかっているなら、いいさ」
 それ以上、じいちゃんは何も言わなかった。


 僕はそっとじいちゃんの部屋を後にする。
「はは……」
 渇いた笑いが漏れる。
 ああ、もう、取り返しがつかない。
 やめることは出来るだろう。なんならいっそ、骨を埋めてもらってからでも構わない。人間の振りをして暮らし続け、いつかひっそりと自ら命を絶つことも恐らく不可能ではないはずだ。薬だってもうやめればいい。そのうち僕は死んでしまうだろうけど、少なくとも人間で居られる。あまりに早く死んでしまう僕に、じいちゃんは哀しむだろう。きっと、生きていたら、死んでいても、父さん母さんだって。でも、仕方ないな、と、きっと受け入れてくれる。

 それでももう、取り返しはつかないのだ。

 僕はギリヴを諦めることが出来ない。あの子をあの場所に置いていくことに耐えられない。僕は別のものを諦めたのだ。いつの間にか、すんなりと諦めてしまっていたのだ。
 僕は、もうヨーデリッヒを責めることが出来ない。そんな資格もない。
 僕は、家族を諦めたのだ。家族と居る未来を諦めた。じいちゃんの孫であったことを、父さんと母さんの息子であったことを諦めた。あんなにも焦がれていた靴作りさえ、手放してしまえるほどに。結局、僕の付け焼き刃なんて、その程度のものだったのだ。きっと、父さんやじいちゃんなら、靴を手放すくらいなら死を潔しとするだろう。僕だって同じなのだと信じていた。僕は、【エスト】であることを諦めた。僕に芽生えた、否、僕に寄生して膨らんだこの醜い想いを、新しい僕を捨てることの方が、僕には辛い。

 なんて、薄情な人間だったのだろう。

 考えてしまえば、簡単だ。僕はじいちゃんの死だって、直視したくなかった。いつだって逃げたかった。逃げられなかった。いい子で居なければと思っていた。この店を守ることが、僕の存在意義だった。じいちゃんがそう望んだ訳ではない。僕自身が、そんな意味付けをすることでしか、僕の存在意義を認められなかったのだ。僕はとうの昔からずるかった。いつだって、他己に言い訳を求めているのだ。

「あと、どれだけ、一緒に居られるかなあ」

 僕はどこか凪いだ気持ちで、胸にぽっかりと穴が開いたような心地で、呟いた。

 不意に、壁にかけた鏡に映る自分の姿が、目の端を捉える。





 真っ白な髪に、紅い瞳をしたもう一人の僕が、僕を虚ろな目で見返していた。



「う、そ……でしょ」

 鏡に触れる。目の前の僕は、相も変わらず空洞の目で僕を見ていた。
 髪の毛を摘む。いつの間にか体中の痛みさえ鈍く滅多に知覚出来ない。
 色を枯らしてしまった髪の毛。いくらか抜けて、それは床にはらりと落ちていった。

 顔中に広がる紫がかった茶色の染み。

 まるで老人のようだ。落ち窪んだ目。

「ああ、」

 僕は、まるで他人事のように呟いていた。

「もう、ここにはいられない……」



 短慮なことはわかっている。そしてただのいい訳だということもわかっている。

 育ててもらった恩を、こんな仇で返すことになるとは思っていなかった。
 最低の孫だ。

 それでも僕は僕自身に言い訳し続けるだろう。こんな姿を見せるわけにはいかなかった。見せて、心配させるわけにはいかなかった。もう僕にじいちゃんを看取る資格はない。
 僕はもう、化け物になるから、と。
 小刻みに震える手で、最後の手紙を書く。宛名はじいちゃんではない。僕にはもう、じいちゃんにかける言葉なんてない。そんな資格もない。

 コートを羽織り、フードで頭を隠す。扉の鍵をかけ、鍵を植木鉢の下に隠す。
 ガラス窓の向こう側で、エリーゼが今日も花のように笑ってお客の相手をしているのが見えた。
 僕はその窓枠の隙間にそっと手紙を差し込む。少しだけ窓が揺れたせいで、エリーゼがはっとこちらを見るのが見えて、僕は頭を隠すように俯いた。

 固く目を瞑って、背を向ける。


 もう、戻らない。





 僕がじいちゃんを見たのは、声を聞いたのは、それが、最後だった。

三十五、木偶の坊

 ――笑っちゃうよね。これが物語なら、たとえ記憶を消されたって、どんな障害があったって、愛した人とまた巡り会うのが運命なのに。

 声が聞こえる。

 ――でも、その記憶を消したのも、僕なんだし、仕方ないか。

 擦れた声の音が、ふわふわと僕の夢の中を羽ばたいている。

 ――あーあ、結局、一つ間違ったら全部間違えてしまうんだよ。ドミノ倒しみたい。取り返しなんてつくはずがない。止められたところで、歪んでしまってるよ。もう、幸せな時には戻れない。

 目を、覚まさなければ。

 僕は背を向ける。夢の中に。僕を優しく見守る眼差しに。

 彼らの表情は、白い靄に霞んで見えなかった。それでも僕には、彼らが誰なのか、予想はついていたのだ。

 だって、これは僕の夢なのだから。

 【人】でなくなったら、もう二度と夢は見なくなるのだと、あのイカれた錬金術師は言っていた。

 だとすれば、これは僕が最後に見る夢なのだ。

 後悔に塗れた、終わりの夢。

 ――今の僕は、なんだかとても不幸せな気がするんだよ、エスト。

 そりゃあ、そうだろう。
 僕は空から雨のようにぽつぽつと擦れて届く彼の声に耳を澄ませて毒吐いた。

 これだけの人間を不幸せにできるような人間は、そうそういないよ、ヨーデリッヒ。

 君は、君の不幸を抱えきれないんだよ。だから零して、ひび割れて、勝手に僕達を染め上げてしまうんだ。

 可哀相な、人。
 僕は夢の中の体で目を固く瞑って、俯いた。
 頭が痛い気がするのは何故だろう。

 がんがん、がんがん、と、まるで僕の幸せな繭を金槌で割るように、その音は僕を苦しめた。

 ――僕は今まで、生きてて幸せだったと思ったことはなかったんだよね。でも、今はとても不幸せな気がするんだよ。それって、僕は幸せだったってことなのかもしれないじゃないか。だとしたらもう僕は幸せにはなれないよね。もう、色々と、外れてしまったから。

 だからって、それを更に肩代わりする僕の人生はどうなるのさ。
 僕はあんたに出会って不幸だとは思わないよ。でも、僕のせいで、
 一番大事な人を、不幸せにしてしまったよ。

 僕は振り返る。誰かが木の椅子に座って、膝に温かな赤いブランケットをかけて、僕を見つめていた。
 白いひげの奥。じいちゃんが笑っているのか、そうでないのか、ぼやけた視界に映るじいちゃんの瞳からだけは、何にもわからなかった。そんな長い時を、まだ生きていなかったのだ、僕は。

 誰かの想いをくみ取れるほどにも、自分の想いに整理をつけられるほどにも、生きられなかった。

「ごめんね、じいちゃん」

 あなたと、最後に、話したかった。

 僕は空を仰ぐ。青い空はひび割れて、小さな破片がゆらゆらと揺蕩い零れ落ちる。割れ目から紫色の霧が滲んで、降り注いだ。世界が毒に侵されていく。豪雨。僕の最後の夢は、毒々しい紫で破壊されていく。

 ――結局、女の友情とやらも男に壊されるかもしれないが、男の友情も女一人で崩れていくんだよ。

 ヨーデリッヒの悪態が聞こえる。
 それは君の意見だ、ヨーデリッヒ。僕はそうは思わない。
 でも、
 僕も不幸せで、君も不幸せなら、僕達はいい共犯者になれるよ。
 僕は、笑っていた。
 もう、何も悲しくはなかった。不幸せですら、もう愛おしい。

 ――ほら、君の朝だ。いい加減に、目を覚まして。

 その言葉を合図に、僕は霞む世界から息を吹き返した。



 さあ、僕の、朝だ。



     *



 身体を起こす。
 砂めいた部屋の壁に、ちっとも磨かれていない大きな鏡が見えた。僕はその鏡に映る誰かを覗き込む。
 僕と同じ顔なのに、まったく違う自分。
 髪の毛は草のような緑で、目はまるで――まるで、ギリヴの髪の毛のような、鮮やかなマゼンタに色づいていた。
 ふいに、じいちゃんがギリヴのことをコスモスの様だといったことを思い出す。
 まるで僕は――場にそぐわない浪漫じみた言い方をするのであれば、そういう花のような姿に生まれ変わっていた。
 僕は首を傾げる。
「……変な、色」
 自分の髪を一房つまむ。
 おかしいなあ。
 白髪だったはずなのに。
 目の色だって、こんな綺麗な色じゃなくて、気味の悪い真紅だった。
 僕は答えを求めるように、傍に佇むヨーデリッヒを見上げた。
「救世主と同じように作ったのにね。まるで反対色だ。目の色だけはよく似ているけれど」
 要領を得ない。
「救世主に?」
 僕は小さく呟いた。
「違うよ。むしろこれは……あの子と同じ色だよ」
 首を振り、僕は自分の左瞼に手を当てた。視力が上がっている。前は、眼鏡がないと周りが少しぼやけて見えていたのに。
 鏡の向こう側から、戸惑うような顔で僕が僕を見つめている。あんなに僕を悩ませた吹き出物も、そばかすも、肌からはきれいさっぱり消えてしまった。まるで別人みたいだ。
「はは……」
 僕は擦れた笑い声を漏らした。
 何もかもリセットされてしまったってわけだ。
 目が悪くなる前の僕。肌が荒れる前の僕。
 人の心を知る前の僕。
 愛情に、幸せに包まれる前の僕に。
「そんなこじつけをしたところで、もうあの子は何も覚えてやしないよ」
 ヨーデリッヒは、そんな僕の自己嫌悪なんて興味もないように意地の悪いことを言って来た。
「知ってるよ」
 もう、苛立ちさえわかない。
「でも、それはあんただって同じだろ。偉大なるグラン・アルケミスト?」
「何のこと?」
 ヨーデリッヒは鼻で笑い、受け流す。
「僕にとってはそんなもの、感傷にもならないよ。それに、たとえそれが僕の苦しみの一つだったとして、」
 ヨーデリッヒは僕の髪を指で梳いた。
「お前が僕の記憶も思い出も想いも痛みも、全部代わりに背負ってくれるんだから。僕はもう何も苦しくはないんだ。そう、僕はもう何も覚えていなくていい。忘れていいと許された。だからもう、苦しくない」
 僕は、鏡に映るヨーデリッヒを眺めながら、どう足掻いたところでこいつを傷つけることはできないのだとなんとなく理解していた。
 僕の受けた痛みを、ギリヴにした仕打ちを、この酷薄な錬金術師にぶつけてやりたい。そうして、滅茶苦茶にしてやりたい。こんなにも憎悪の感情を抱いたのは初めてだ。でも僕には、きっとどうしたってこいつを傷つけることはできない。僕がどんな言葉を吐いたところで、たとえ暴力に任せたところで、きっと彼はもう痛みなんて感じないのだ。
 死にたいと、ただそれだけを望んでいるような人間に、何ができるだろう。
 そんな風に夢見ているくらいなら、さっさと死んでくれていたらよかったのに。
 誰も巻き込むことなく、ひっそりと死んでいてくれたらよかったんだ。
 そうしたら、きっとあんたの好きだった女の子くらいは、あんたの親友くらいは、きっとあんたのために涙を流してくれただろうさ。
 つくづく、死ぬ時まで幸せになれないやつだ。
「さあ、レレクロエ。お前の記憶に植え付けよう」
 ヨーデリッヒは、どこか高揚したような声でそう言った。僕は眉をひそめる。
「レレクロエ? 何それ」
「お前の新しい名前だよ。もう、過去は捨てるんだろう? 僕のお人形」
 僕は唇を噛みしめた。
「待ってよ。僕はまだ何にも聞いてないよ。なんで僕はこんな姿になってるのさ。一体何が起こったんだよ」
「そんなの、僕の記憶を受け取れば全部分かるだろうに」
 ヨーデリッヒは首を傾げる。
「違うよ。レレクロエ? 僕がそのレレクロエとやらになるのは、もう今更だ、別に拒むつもりなんてないよ。でもだとしたら尚更、僕がまだ僕自身であるうちに――僕がエストであるうちに、せめて僕が知りたいことだけは教えてくれないか。頼むよ」
 僕は頭を下げた。屈辱だ。だけど、僕はこれだけは、これだけは叶えてもらわなければならない。
 僕は、ただの人形になる前に、僕自身を弔わなければいけないのだ。じいちゃんに、母さんに、父さんに、愛されてきた幸せな僕を、この砂の街に埋めてしまわなければならない。
 【エスト・ユーフェミル・フェンフ】だけはせめて、幸せに死なせてあげなければならない。
 沈黙が続く。僕は震える指をぎゅっと握りしめた。
「まあ、いいけど」
 無感動な声が降る。
 僕はほっとして、顔をあげた。ヨーデリッヒは、不思議なものを見るような眼差しで僕を見つめていた。
「で? 何が知りたいの?」
「僕に何をしたら、こうなったのか」
 僕が真っ直ぐにヨーデリッヒを見つめると、ヨーデリッヒはうっとうしそうに目を細めた。
「へーえ。別にいいけど、でも簡単なことだよ。単にアダムからエバを造ったようなものなんだから」
「アダム……?」
 僕は、馴染み深いその名前に眉を寄せる。
「それは、旧約の創世記のことを言ってるの?」
「もちろん。僕は聖書だとかそもそも宗教なんてこれっぽっちも信頼に値しないと常々思っていたんだけどね、でも、一概に嘘っぱちでもないのかもしれないと今は思うよ」
「嘘っぱちって……、そんな罰当たりなこと言うなよ」
「主が本当におはしますなら、僕みたいなのが未だに生きているわけないじゃないか」
 ヨーデリッヒは自嘲気味に笑う。
「自覚はあるんだね」
「そりゃあね」
 ヨーデリッヒは目を伏せた。
「救世主レデクハルトの骨は、神様から与えられた魔法の骨だった。彼はその骨を身に宿すが故に、肉体は再生し、強い魅了魅惑の力を有していた。彼と他の人間との違いは、その骨だけだったんだ。青い骨だよ。まるで母なる海のような深い深い蒼の色。そして面白いことに、その骨の一部を怪我をしている別の人間に移植すると、その人間の傷は修復した。どんな傷でもだ。だけどその人間はレデクハルトと同じにはならなかった。青い骨は人間のカルシウムに溶け込んで、ただの骨になった。ちなみに、これはレデクハルトが誰にも教わらずともやっていたことだけど、彼は人間に与えるために欠けた骨を、別の人間の骨で代替していた。そして、彼に収まった人間の骨は、全て青い骨と同じものに変質した。
 彼と同じ子供を作るために、一体どうすれば彼と同じように人間が青い骨を持つようになるのか色々と試した。彼の骨から作られた薬を飲ませるだけでは、変化はなかった。次に骨を埋めてみた。最初は小さな骨から……変化がなければ次々と大きい骨を埋めていった。だけど何の変わりもなかった。あまりにたくさんの骨をいっぺんに移植しても、今度はレデクハルトに害があっては困るし。骨盤でさえ効果がなかった時、僕はふと創世記を思い出したんだよ。エバは神様が最初に作った人間アダムの肋骨から造られた。これを暗喩と考えればどうだろう?
 僕は彼の肋骨を実験台に埋めてみた。まずは一本。一番下の肋骨だ。それも片方だけ。するとどうだろう。嘘のように、彼女の骨の大半が青く染まって、そのまま戻らなくなった。僕は、先に埋めた肋骨と対の肋骨も彼女に埋めてみた。彼女の骨は全て青く染まり、彼女はやがて、【浄化】の力を手に入れた。後に彼女自身が、苦しむギリヴに自らの肋骨を一対埋め込むと、ギリヴの身体もまた、救世主と同じものになった。ギリヴはやがて【破壊】の力を手に入れた。結局、神様が作った救世主の肋骨一対で、エバが作れるってことさ。まあ、聖書には肋骨は一本と伝えられているはずだけれど、左右一対が正解と言うのなら、エバは本来、半分しかアダムと同じものではないんだろう。ねえ、エスト。君は人の胸郭と脳神経がどんな形をしているか知っている?」
「胸郭?」
 僕は顔をしかめていた。ヨーデリッヒはどうも難しく説明するところがある。
「肺と心臓を包み込む、胸の骨格だよ。ねえ、エスト。面白いことがあるんだよ」
 ヨーデリッヒはにやりと笑った。
「人間を人間たらしめる……いや、生き物を生き物たらしめる、というべきかな、そういうものである脳神経って言うのは、脳を頭部にして神経と言う長いしっぽのような体がある。その尻尾はまるで植物の根のように、左右に腕のような枝を出して、まるで人の体を背中から抱きしめるように枝を伸ばしているんだよ。そうやって体中に神経が張り巡らされて人は生きている。背骨はそれらの神経の束である脊髄を包むように構成されている。そして、胸郭だ。
 胸郭は、胸骨柄という頭に、胸骨体という身体がくっついている。そしてそれらの横に、まるで左右に伸びる手のように全部で十二対の肋骨が伸びて、心の臓を守っているんだ。まるで人を正面から抱きしめるみたいにね」
 ヨーデリッヒは口の端を、口が裂けてしまいそうなほどに釣り上げていた。
「つまりね、僕は思ったんだけど、結局肋骨っていうのは、胸郭を作る骨って言うのは、人の脳神経を模した人形のようなものなんだよ。だからこそ、神経を模した肋骨によってエバは生まれる。同じようにお前達マキナレアがレデクハルトの肋骨から生まれていくんだ。なんて簡単なことなんだろう。たったそれだけで、僕はお前達を作ることができた。お前に飲ませた薬があったね? あれは、レデクハルトの骨と似た成分で作った毒薬だ。あれを飲むことで、不死の体であるお前達は、いつか死ぬことができる。ちゃんと死ぬことができるから、安心してよ。あれは即効性はないけど、いつかお前達を蝕んでいくよ。僕はちゃんと、レディの死にたいという望みを叶えてあげることができるんだ!」
 ヨーデリッヒはどこか恍惚とした表情で言った。その目の端から音もなく涙の筋が伸びる。
 笑っているのに、泣いている。
 なんて、狂っているんだろう。僕はそれを、恐ろしいとは思わなかった。ただただ、哀れだなと思ったのだ。もう、僕自身が人ですらないからなのかもしれない。
「ああ、それで、お前にもそういう風に肋骨を埋めてやったんだよ。そうしたら、不思議だね? お前の髪や眼はそんな色になってしまった。元々ここに来た時点で、お前の髪と瞳の色素は抜け落ちたような状態だったから、青い骨の作用によって新しく色が付けられたんだろう。レデクハルトと反対色だって言うのが興味深いよ。彼は紫の髪に、赤黒い眼だからね。それに、あの薬を飲んでギリヴは腫瘍だらけになったのに、お前にはそんなものはできなくて、色が抜けただけだった。大げさだね? たったそれだけで、お前は家を捨ててきたんだもの。大したことではなかったろうに。もう少し、それこそ、体がぼろぼろになるまで耐えてもよかったかもしれないのにね」
「大したことなんだよ」
 僕は瞼を閉じた。
「でも、これじゃますます、会いにいけないや」
 溜息が零れた。
「元々帰るつもりはなかったんでしょう?」
 ヨーデリッヒは薄らと笑いながら言った。
「他は? 何が聞きたいの?」
 その言葉に、僕は緩やかに首を横に振った。
「いい。もう、十分わかった。あんたがどれだけ狂っているか……あんたの抱えたものなんて、ただの【エスト】には到底理解できやしないってことが、わかったよ。十分だよ。糞喰らえ」
 僕は何故だか凪いだ気持ちで、ヨーデリッヒの貼りつけたような笑顔を見据えた。
「さあ、さっさとしろよ。【エスト】とはおさらばだ。好きにして」
 ヨーデリッヒはふっと笑みを消して、しばらく僕を見つめていた。
 どこか哀れなものを見るような目で。そんな目で、あんたみたいな気違いに見られる筋合いはないよ、ヨーデリッヒ。
「ギリヴに……会わなくていいの?」
 ヨーデリッヒの唇から言葉が零れ落ちる。僕は目を見開いていた。
 そんなことを言われるなんて、思っていなかった。
 彼がそんなことを言うなんて、思っていなかったのだ。
 僕が、そんなことも思いつかなかったなんて、信じられなかった。
「いい、んだ……」
 僕は震える声で呟いた。たまらなくなって、顔を思い切り伏せる。
「はは……」
 膝の上で、震える拳を握りしめていた。
 ああ、僕は。
 なんだ、僕は、

 あの子のこと、もう、【僕が求めたギリヴ】だと、思っていない。

 ぽたり、と雫が落ちて、膝を濡らす。

 悲しい。
 悲しい。

 僕は人でなくなってしまった。

 それをきっと、誰よりも理解している。

 だからこそ、あの子だって、

 あの子だって、もうあの時のギリヴではないんだって。


 だったらなんだと言うのだろう。愛する価値なんてないとでも思っているのだろうか。
 僕は一体何を考えていたんだろう。
 僕が、この、僕が、いつの間にか、とうに、あの子への気持ちを失ってしまっていたなんて。

 ああ、なんてことだろう。


 なんて、取り返しのつかないことを、してしまったんだろう。

 僕はもう、誰でもなくなってしまった。

 あの子のために人でなくなったのに。
 あの子のために人でなしになったのに。
 家族を置いてきた。未来を置いてきた。
 あの子のため、だなんて、なんて醜い自己顕示欲だったんだろう。
 罰が当たってしまった。

「ああ…………ああ、あ……」

 僕は震える手で顔を覆う。指の隙間から見える床は、木目を汚く色づかせ、その渦が僕の視界から脳を掻き毟る。
 気持ち悪い。気持ち悪い。
 もう僕はいない。僕なんていない。こんなにも、自分がいなくなってしまったことが辛いなんて思わなかった。
 こんなにも虚しいものだなんて、思いもつかなかった。

 僕はしばらく汚らしく泣いていた。ヨーデリッヒがどんな顔でそれを見ていたのか、わからない。けれど僕は、ひとしきり泣いた後、ヨーデリッヒとそっくりの気味の悪い笑顔を浮かべて、かたかたと壊れた機械のように震えて、さあ、早く、と乞うていた。

 早く。早く。

 僕を僕でないものにして。

 レレクロエ。レレクロエ。


 受け止めよう。手に入れよう。捨て去ろう。逃げ出そう。消えてしまおう。

 こんな僕が、ただ何も考えず生きられる未来を。
 どうか。

 僕は、脳に埋め込まれていくヨーデリッヒの、むせ返るような狂気を、虚無を、空白を、貪るように喰らった。
 僕のものになるように。僕だけのものになるように。
 僕がレレクロエになれるように。


     *


 全ての記憶を蝕んで、体を起こした僕を襲ったのは、とてつもない気怠さだった。
「あはは」
 僕は小さく笑った。
 なんてことはない。
 なんてことだ。僕は嗤えるくらいに、あの気持ち悪いヨーデリッヒと同質だった。
 他人の感情を、記憶を受け取ったのに、僕は僕を見失わない。
 同化してしまった。融けあってしまった。同じものになった。僕はヨーデリッヒ。ヨーデリッヒのレプリカ。彼の大好きな大好きなお友達の、大事な大事な名前を預かるだけの、木の人形。
 ぐるぐると、決して交わることのない年輪が、螺旋して僕を蝕んでいく。
 苦しい。苦しい。こんな苦しみを抱えていたのかよ。そりゃ気も狂うだろ。
「ははは、ははは……!」
 この苦しみは僕が削られていく証。僕がヨーデリッヒになれる証。どんどん削ってほしい。どれだけでも削ってほしい。鉋屑が散らばる。これはエストだ。舞い上がる。舞い上がる。砂と一緒に飛んで、どこかへ行くだろう。それでいい。それでいいんだ。ここに残ったのは、削られた木の操り人形だけ。

 まだ鈍く痛む頭を抱えながら、僕はくつくつと笑っていた。ヨーデリッヒが僕の背を押した。マキナレアの子供たちが、不思議そうな眼差しで僕を振り返る。
「さあ、みんな。これが最後のマキナレアだよ。レレクロエだ」
 無機質なヨーデリッヒの声が脳髄に染みわたる。
 僕は眩む視界の中で、大好きだったはずの女の子を、僕にとってはただ唯一であるはずの少女を眺めた。
 ギリヴは少し戸惑ったように僕を見つめる。
 ああ、何も見えない。他の誰も見えない。渇いている。とても渇いている。
「こんにちは……」
 ケイッティオ――ヨーデリッヒの想い人の声が、耳に届いた。僕は込み上げてくる愛おしさに、苛立ちを覚えた。邪魔しないでほしい。君への想いが、ヨーデリッヒの想いが、目を眩ませてしまうじゃない。
「よろしく」
 僕はにっこりと笑って、霞む白い靄に向かって笑いかけた。瞳がその姿を焦がれるように揺れる。やがて視界が徐々に晴れ、僕の目はケイッティオを捉えていた。そうして、その視界の先に、部屋の隅の方で僕を見もせずにどこかを眺めている、前髪で瞳を隠したモンゴメリの姿が見えた。
 ああ、どろどろとして、気持ち悪い。
 甘くて、甘ったるい。
 僕はこんなにも、この二人が好き、というわけだ。
 僕は乾いた笑い声を漏らして、ギリヴに近づいた。ギリヴがびくっと肩を跳ねさせる。よほど僕が気持ち悪い顔をしていたのだろう。そんな風に怯えたような顔に、愛情なんて湧くはずもない。
 僕はギリヴの瞳を覗き込んだ。せめて、せめて。
 その色を僕にちょうだい。
「お揃いだね?」
「え?」
 僕の言葉に、ギリヴが戸惑うように小さく言葉を零す。
「目」
 僕が指差すと、ギリヴは、はは……、とよそよそしく笑った。
 こんなに、可愛くなかったっけ。
 僕は気色悪い笑みを浮かべながら首を傾げていた。
 こんなにも、可愛いと思わないものだっけ。
 ケイッティオを振り返る。
 とても可愛いと思うのに。
 どうして僕は、ギリヴのことを愛おしいと思えないんだろう。
「はは……」
 僕はギリヴの両頬をつまんだ。
「い、いひゃい! やめへ!」
 ギリヴがしかめ面で僕を睨んでくる。
「不細工だなあ」
 僕はけらけらと笑っていた。
「ひどい……」
 頬を抑えて、ギリヴが僕を睨みつける。
 嫌われてしまう。嫌われてしまう。
 こんな、何もなくなった僕を、
 あなたへの愛情でさえ失ってしまった僕を、好きになってもらえるわけがない。
 僕の心はケイッティオとモンゴメリのもの。そのために生きるもの。そのために犠牲になる五人のマキナレアを守るもの。
 好きになりたい。好きになりたい。好きになりたい。
 許されるというなら、もう一度だけ、あなたのことを好きになりたい。
「可愛くないなあ。本当に可愛くないなあ」
 僕は笑いながら、苛立ち紛れにギリヴに言葉をぶつけていた。
「どうして君はそんなに可愛くないの? 信じられない。苛々する」
「なっ……!」
「ちょっと、言い過ぎだし、ギリヴは不細工でもなんでもありません」
 ハーミオネが、険しい顔で僕の腕を引く。僕はハーミオネに笑いかけた。
「煩いなあ。僕が苛立ってるだけなんだから、放っておいてよ」
「いい加減にして」
「やだよ」
 ハーミオネの腕を振り払う。
 僕はギリヴをもう一度だけ見て、顔を背けた。
 もう、見ていられない。
 どうして。
 どうして、僕に笑ってくれないの。どうして僕を忘れたの。どうしてそんなにも可愛くないの。どうして僕はあなたをもう可愛いと思えないの。どうしてもう好きだと幸せになれないの。
「ああ、苛々する」
 僕は毒吐きながら、嗤っていた。
 ヨーデリッヒは、ただそれを静かに眺めている。
 無性に、腹が立って、彼を殺してやりたくなった。
 僕の手は霞を掴む。
 できるわけがないのだ。

 どうせ、ヨーデリッヒはもうじき死んでしまうのだから。
 幸せも不幸せも捨てたまま、逝ってしまうのだから。

 置いて行かないでよ。

 僕を、こんな世界に、一人きりで置いて行かないでよ。

 僕はまた泣いていた。崩れ落ちるように泣いていた。心配そうにミヒャエロが僕の背中を撫でていた。ハーミオネは「しょうがないんだから」とお姉さんぶっている。ギリヴがどんな顔をしているのか見えない。こんな時まで我関せずなモンゴメリが腹立たしい。お前が、そんなだから、僕とヨーデリッヒが苦しかったんだ。畜生。畜生畜生畜生。
 ケイッティオがギリヴに何か言っている。「別に気にしてない!」と、明らかに拗ねたような声でギリヴが吐き捨てるのが聞こえた。その拗ねた声だけは、なんだか可愛いな、と笑えた。ただそれだけのことが、どうしようもなく僕を満たした。ああ、ここで生きていかなくちゃ。

 僕はもう二度と泣かないと誓っていた。もうこれきりだ。誰のためにも、もう二度と泣くまい。だから、どうか今だけ。






 あなたを愛した僕を悲しむのを、許してください。神様。










三十六、塔

 僕がレレクロエとして、最初に五人と別れたのは、それから幾月も経たない頃だった。
「とりあえず、全員棺に入れよう。それで、幾つか分散して地下に安置する。僕の体がまだ少しは動くうちがいいからね」
 ヨーデリッヒは淡々と僕と、エル・ブライシアに告げた。
 エル・ブライシア――ヨーデリッヒが科学側から引っ張ってきた人材だ。恐らくヨーデリッヒと歳が変わらないか、年上であろう青年だけれど、僕は彼のことがあまり好きではなかった。
 ヨーデリッヒとはまた別の方向で、狂っているのだ。自分の知識欲を満たすこと以外に、極度に興味がない。人を人とも思わないし、手段も選ばない。そして何より――ヨーデリッヒを盲信していた。
 まあ、無理もない話だ。知識欲に飢えているような、生命の神秘とやらに渇いているような人間にとって、ヨーデリッヒのもたらす知識は喉から手が出るほどに欲しいものだろう。つくづく、都合のいい人間を見つけてきたものだ。後にも先にも、ヨーデリッヒが僕以外で利用した協力者は、彼一人だけだった。
「安置、ね」
 僕がぼそりと呟くと、ヨーデリッヒは黒縁の眼鏡を外して首を傾げた。
「何?」
「別に」
 ――マキナレアは物レベルってわけだ。
 僕は静かな諦めにも似た感情に身を任せた。
「じゃあ、棺に入れるのはレレクロエが指示して。エル、君は配置先の手配を。内密にね。頼むよ」
「かしこまりました」
 エルが恭しく頭を下げる。僕はおええ、と吐く真似をした。いちいち行動が臭いやつだ。
「棺ね」
 また僕がぼそりと言うと、ヨーデリッヒは少しだけ眉根を寄せた。
「いちいち何? 何か言いたいなら言えばいいじゃない」
「別に。ただ、死人みたいだなって思っただけ」
「死人みたいなものでしょう」
 ヨーデリッヒは事もなげに言った。僕は頭を掻いた。
 僕に記憶をすべて移してから、ヨーデリッヒは冷酷さを増していた。
 まるで、憑き物が落ちたかのように、彼は、人間であった自分も捨て去って、今はただ、後処理という目的だけのために生きる機械の様だった。
 ――これがやりたくて、僕に明け渡したんだな。
 僕は静かにヨーデリッヒを見つめる。無機質な葡萄色の目はまるで硝子球の様で、僕はただ哀しく思った。
 こういうことがやりたくて――やらなければならなくて、そのためにきっと、彼には彼自身が邪魔だったのだ。


     *


「じゃあ、棺に入って。目覚めた時のものがあるでしょ。今から、救うべき世界が来る日まで僕達は眠ることになっているから」
 僕が気怠くそう言うと、ギリヴは眉をひそめた。
「それ、お父様が言ったの?」
 おえ、と僕は舌を出す。記憶を塗り替えられてから、彼らは皆総じてヨーデリッヒのことをお父様だとか呼んでいた。いい趣味をしている。気色悪い。
「何よ!」
「何もないよ?」
 ギリヴの癇癪をいつも通りに受け流す。
「もちろん、彼が言ったに決まってるでしょ? 僕って信用無いなあ」
「あんたみたいなのをどう信用しろってのよ?」
「まあまあ、落ち着いて」
 ミヒャエロが苦笑しながら間に入る。
「でも、今救わなくていいの? 本当に眠っていいのかな」
 そう、ミヒャエロも戸惑うように言う。
「さあ? 彼の考えは僕なんかにはわからないよ。彼が眠れって言ってるんだからとりあえず眠っておけばいいんじゃない?」
「まあ……それもそうだね」
 ミヒャエロは煮え切らない返事をした。
 ――ほんっとに、馬鹿しかいないんだな。
 僕は気づかれない程度に嘆息した。
「さあ、蓋をするから、準備できた子から入って。まあ準備って言っても身一つしかないけどね」
「髪を編みなおすくらいしかやることがないわね?」
 ハーミオネが肩をすくめた。僕は思わず吹きだした。
「あはは、何それ」
「あら、大事なことよ? これでも女の子なんだから。ね?」
 そう言って、ハーミオネはケイッティオの髪についている黒いベルベットのリボンの形を整えた。
「ありがとう」
 ケイッティオが控えめに微笑む。
 ヨーデリッヒが唯一ケイッティオに残してやったものだ。
 僕は、あいつが彼女の髪にそれを結んだ時の、狂おしい葛藤も、渇望も、全部知っていた。だからこそ、それが揺れるのを見ると、手を伸ばしたい衝動に駆られる。
 結局、僕はもうヨーデリッヒ自身の現身でしかない。
「ねえ、モンゴメリ。君もその鬱陶しい前髪切りそろえたら? 未来で切れ味のいい鋏があるとは限らないでしょ」
 僕が背中を逸らせて椅子の背の向こう側に佇むモンゴメリに声をかけると、彼は明らかにむっとしたように口をきゅっと引き結んだ。
「嫌だ」
 ――わかりやすいやつ。
 僕は小さく、気づかれないように舌打ちした。ああ、うっとうしい。
 ふと目線をあげると、ギリヴがなんとなくそわそわと落ち着きなかった。ハーミオネが僕を肘で小突く。
「何」
「自分で考えたら?」
 ハーミオネはにやにやと笑いながら踵を返した。
 不快な気持ちが広がって、僕は大口を開けて椅子の背に仰け反った。


 ミヒャエロが、ケイッティオの髪を綺麗に整えてやっている。
「ミヒャエロ……そこまでしなくていい……あ……くすぐったい」
「そう? でも、こうしていたら目が覚めた時綺麗だよ」
 ミヒャエロは屈託なく微笑む。
 僕は溜息をついた。過保護にもほどがある。本当に、僕からすれば、こんなにも義理の妹にべた惚れな兄がいるのを知っていてなお、彼女を求めた二人の気違いの気がしれない。
 ――元凶は全部綺麗さっぱり忘れてるしね。
 僕は目の端で前髪をいつまでもいじり続けるモンゴメリを捉えて、舌打ちした。
 なんでこいつは、そういつまでも僕を苛々させるんだろう。
「ほら、早く入ってよ。後が詰まってるだろ」
 僕が見下ろすと、モンゴメリはまたきゅっと口を引き結んだ。
「煩いな。今入るところだよ」
 僕はあからさまに息を吐くと、足でモンゴメリの棺を閉じた。
 ケイッティオの棺を閉じ終えたミヒャエロが、不思議そうに僕を見つめている。
「レレクロエはモンゴメリが嫌いなの?」
「はあ?」
 僕はうっとうしく思いながら目を細めた。
「別に嫌いじゃないよ? 好きでもないけど」
「そう? ならいいんだ」
 何がいいのかわからないけれど、ミヒャエロは穏やかに笑った。
「うーん」
 ハーミオネの唸り声が聞こえる。
「今度は何だよ?」
「ちょっと、キンキン声を立てないで、レレクロエ。今気を張ってるんだから……」
 ハーミオネがむっとした声を投げてくる。
「ご、ごめんね……もういいよ、ハーミオネ」
 ギリヴがものすごく項垂れていた。
 ――ああ、そういうこと。
 そのぴんぴんと跳ねた頭を見て、合点がいく。
 馬鹿なギリヴは、ハーミオネのいつもの気まぐれな軽口に踊らされて、髪を整えようとしたらしい。そして結局自分ではどうしようもできず、ハーミオネに助けを求めた、と。
 そんなところだろうか。つくづく踊らされやすい子だ。
「別に、そんなちょっと編みなおしたくらいで器量は変わらないよ」
「ひどい!」
 ギリヴが泣きそうな顔でむくれる。ハーミオネが呆れたような眼差しで僕を生温かく見つめた。
「ほんっとうに、あなたってお子様ね……?」
「何それ、その生ぬるい目やめてくれる? 僕は永遠の美少年だから別に子供でも構わないよ」
「引くわー。自分で美少年とか言うの引くわー」
 ギリヴが口を尖らせて言う。僕は冷めた眼差しでそれを眺めた。
「ギリヴ煩い」
「煩いとは何よ!」
「うーん……櫛がもっと細かい方がいいわね……」
「ああもう! 貸して!」
 僕は苛つきながらハーミオネの手を向こう側へどけた。
「な、何!? なんでレレクロエがあたしの髪触ってるの!?」
「煩い黙れ」
「その口何とかならないの!」
「だから黙れって……」
 僕は嘆息しながら、ギリヴの髪を指で梳いた。
 その手触りに、腰のあたりがぞくり、と疼く。
 初めての感覚に、僕は一瞬ためらって、その手を放した。
「レレクロエ……?」
 ギリヴがむすっとしたまま首を傾げて見上げてくる。
 僕はしばらく、その暗い赤紫の瞳を凪いだ気持ちで見つめていた。
「……固いね」
「……~~~~~~~~っっっっ!!!!」
 ギリヴが、気にしてるのに!と言わんばかりの涙目で睨みつけてきた。僕はもう一度、そっとその髪の束に触れた。
 覚えている。指先が、この固さを、滑らかさを、覚えている。
 ぼさぼさで、どこかちくちくする痛み。
 僕はしばらく、ぼんやりとしたままギリヴの髪を指で梳いて撫でていた。
 いつしかハーミオネは、棺の中に隠れてしまっていた。つくづく、腹の底が見えない飄々とした子だ。
「ね、ねえ……」
「何?」
 心なしか、僕の声はいつもよりは優しく零れていた。僕はただ、そんな些細な変化にも戸惑う事しかできない。
「レレクロエはあたしの髪を編んでくれる気はあるの? それとも、そ、その、ただ触りたいだけ?」
「ああ、」
 僕は一瞬口をつぐんで、けれど抑えられなくて、素直に答えていた。
「両方」
「え?」
「編んであげるよ。これでも僕は才色兼備だからね。なんでもできるんだよ」
「なにそれ」
 ギリヴが笑う。初めて、笑ってくれた。
 どうしてだろう、それがこんなにも、胸をしめつけるんだ。
 僕はギリヴの髪の束をぎゅうと握りしめていた。
「いたっ、ちょっと、ひっぱらないでよ」
「鳥の巣なんだよ」
「うそ!?」
 僕は、ギリヴが好きな位置で、ギリヴが好きな緩やかさで、ギリヴの髪を小さな二つの三つ編みにした。覚えている。指先が、彼女がこういう髪型が好きだったと、覚えていた。
 変わらないことがあったなんて、知らなかった。
 僕は喉の奥に息苦しさを感じて、動けなくなった。顔を見られないように、ギリヴの頭を後ろから抱えるような形で、額をそのつむじに乗せた。
 苦しい。痛い。苦しい。
 息ができない。
「れ、レレクロエ……?」
 ギリヴが戸惑ったように言う。
「貧血?」
 ミヒャエロと言えば、見当違いなボケをかましてきた。というか、ずっと見てたのかよ、このやろう。
 恥ずかしい。
 恥ずかしいだなんて気持ち、もう、忘れていたと思っていた。
 はあー、と、長く息を吐く。
「どう?」
「うん……ありがとう」
 砂埃の被った手鏡を見て、ギリヴは嬉しそうにはにかんだ。
「すごいわ。あたしずっと、髪はこんな風にしたかったの。自分じゃなかなか思うようにできなかったから嬉しい! レレクロエどうしてわかったの?」
「別に……君の髪質的に、それが一番やりやすかっただけ」
「ふうん」
 ギリヴはにこにことして、ぼすん、と音を立てて棺の中で横になった。
「あなたのことちょっと嫌いだったけど見直したわ! 嫌いは取り消してあげる」
「そりゃ光栄なことだね」
 僕は興味なさげに言った。ギリヴが長い睫毛を震わせて瞼を閉じるのと、ミヒャエロが閉める蓋の輪郭が彼女の顔に影を落とすのを、僕は静かに見つめていた。
 ――可愛いな。
 とても素直な気持ちで、そんなことを考えていた。そうか、あの子が髪を編んでいなかったから、違和感があったんだ。
 そう言えば結局、どうしてそんなに三つ編みが好きなのか、聞いたことがなかった。
 たわいもないことだ。
 僕はしばらく床を見つめて、小さく息を吸い込むとミヒャエロに向き直った。
「さあ、早く棺に入ってよ。僕はこれに蓋をしなきゃいけないんだからさ」
 そう言うと、ミヒャエロは困ったように眉尻を下げた。
「君はどうするの? 君を眠らせる人がいない……」
「はあー……何それ。自分の心配だけしてなよね」
 呆れてしまう。けれど、どこか心は穏やかだった。
「そっか。うん、そうだね」
 ミヒャエロはふにゃりと笑った。僕はそれを静かに見つめた。記憶の中の彼の顔は――ヨーデリッヒの記憶に残る彼は、いつでもどこか思いつめたような顔をしていた。
 こんな風に、柔らかく笑える人だったのかと、どこか新鮮な気持ちだった。
「君は……よく笑ってられるね」
 僕の口から、可愛くない言葉が漏れる。いつから僕は、こんなに捻くれてしまったろう。いや、多かれ少なかれ、元からだったのかもしれない。
 ミヒャエロははっとしたように顔をこわばらせた。
「ごめん……おれ、そんなに笑ってた?」
「いや、いいんだ。別に、いいんだよ、そんなの」
 僕は苦笑した。
 記憶で知る彼らと、僕が対話する彼らに、些細だけれど、滲むような差異がある。
 よほどヨーデリッヒの目が曇っていたのかもしれない。あるいは、僕がヨーデリッヒそのものじゃないからだろうか。同じものだから。君たちと同じ、哀れな羊だから。
「ね、ミヒャエロ」
 僕は首を傾けて、幾分穏やかな声で言った。
「次の世界でまた会おう。その時は、僕も笑顔を覚えておくことにするよ。あのヤブは、僕に笑顔の機能だけはつけていかなかったみたいだからね」
 ――まあ、実際、あいつは骨を埋めただけの簡単なお仕事しかしてないし、あいつこそ笑顔を覚えるべき筆頭のような人間だけどね。
「そんなことはないはずだよ」
 ミヒャエロが戸惑うように言う。
「うん。わかってるんだ……わかってるんだよ」
 僕は、この優しい、人のいいマキナレアの最期も、見届けなければならないんだなあ。
 とてつもなく、空洞のような虚しい感情が僕の周りを回るように浮遊した。
「ねえ、レレクロエ。どうして、自分だけ残ろうとするんだよ」
 ミヒャエロがそんなことを聞いてきたので、僕は微かに驚いて、そして、嗤うしかできなかった。
 ――残ろうとしてるんじゃないよ。残らざるを得ないんだよ。
 でも、残ると決めたのは僕だ。

 いつかさよならを言うために。

 僕とヨーデリッヒの二人分、大切だった人にさよならを言ってもらうために。

 残される痛みに苦しむことだけが、きっと罰で、救いだった。

「僕は、覚えていなきゃいけないんだ」
 幸い、ヨーデリッヒが僕の脳をいじってくれたおかげで、僕は忘却する術を無くした。
 これからは何でもかまわない、どんな些細なことだって、僕は忘れてしまう事さえ許されない。
 全てを、覚えて、抱えて生きていかなければならないのだ。
 だから僕は、今眠るわけにはいかない。
 僕は僕自身の意思で、ヨーデリッヒの最期を、哀れであろう最期を、目に焼き付けようと思っている。
「そんなこと、する必要はないよ。そんなの、彼が勝手に押し付けたことだろ?」
 ミヒャエロがどこか震えたような声でそう呟いた。僕ははて、と首を傾げる。彼は何を知っているのだろう。何も知らないはずだ。だけどもしかしたら……彼なりに、何か勘付くところはあるのかもしれない。僕は、明るい笑顔を貼りつけた。
「勘違いしないでよ。僕はあいつの言いなりに生きる気はないよ。僕は僕なりに……その、色々と消化したいだけだ」
「だったら一緒にいるよ。一人で残る必要なんかないじゃないか」
 ――えらく食い下がるな……?
 僕は顔をしかめていた。ふと、思い至ることがあった。この表情はよく知っている。
 取り残されると知った時の、僕自身の表情。
 あのむせ返るような熱い日差しの下で、もう二度と来るはずのないギリヴをただ待ち続けて、待ってなんかないと自分に言い訳をし続けた、僕のやつれた顔。
 ――ああ、そうか。お前、単に置いて行かれるのが、用無しになることが、怖いだけか。
 僕は、どこか落胆にも似た気持ちを抱えて、ミヒャエロを見下ろした。
 でも。
 たとえ彼らに何度となく失望しても、呆れたとしても、苛立ちを抱えても、それでも、
 僕は、彼らをきちんと見送るのだと決めた。
 だから僕は、せめて僕自身のその願いのために生きよう。
 この感情も、すべて覚えておこう。
「黙って僕のいい通りにしろってば」
 僕が気怠く言うと、ミヒャエロはどこか不服そうに顔を背けた。
「でも、おれなら少しは分け合うことができるだろ? おれはそのために元々造られたんだから」
「僕に役目を取られて悔しいだけのくせに」
 着飾ったって一緒だよ。偽善なんて嫌いなんだ。僕はもう、そんな偽物はいらないよ。
 ヨーデリッヒの感情ほど醜いものなんてきっとない。ないから。
 だから、君や君達の弱さや醜さだって、なんてことはない。何の躊躇いもなく、覚えていられるだろう。でも、君自身は、君自身が忘れたかったその想いは――。
 「君は知る必要もない。思い出す必要もないんだよ。いいじゃない。君は幸せだよ。大事だったたった一つのものが、生まれ変わってもなお傍にあるんだから。僕やギリヴとは違う。君たちは恵まれてるんだよ。ある意味残酷な仕打ちだけどね」
「ギリヴ……? ギリヴが、どうして」
「はいはい、つべこべ言わず入んな」
 僕は足でミヒャエロの背を押した。
「とにかくね、だから、それを僕が覚えているんだ。だから安心して。さよなら。またね」
 僕は、その蓋を閉めた。

 崩れ落ちる。

 長い溜息が、漏れる。

 ああ、こんなことが、これからも続くのだ。


 僕は静かに立ち上がると、モンゴメリの入った棺を蹴り飛ばした。

 がたん、と音が鳴って、蓋がずれる。

 モンゴメリは戸惑うように、眠そうな目をこすりながら起き上った。
「何……? もうそんなに時間が経ったのか?」
「まあ、そんなところだよ。お仕事だよ、モンゴメリ。君にしかできないこと。グラン・アルケミストがお待ちだよ」

 ――後始末の、お手伝いだよ。

 僕は微笑んだ。恐らく、生きてきた短い人生の中で一番酷薄な笑みを浮かべていたのだろうと思う。

 僕はヨーデリッヒの駒でしかない。ヨーデリッヒが植え付けた記憶に、それがあるのだから、僕はその通りに行動する必要があった。僕しか理解してあげられない。僕しかしてあげられないのだ。

 ヨーデリッヒ。あなたは未だに、この親友もどきに執着心があるから。

 あなたは、できないから。





     *


 雨が降っている。

 何年も何十年も、もしかしたら何百年も、この世界を飢えさせてきた水が、ざあざあと砂の大地にぶつかる。

 それはきっと、少し前なら誰もが望んだ光景だった。

 恵みの雨なんてものが、まだこの世界にあったのなら。

 毒の骨粉を雨雲に混ぜ込んで、世界に毒の雨を降らす。

 ヨーデリッヒは容赦がなかった。まるで、僕がどう行動するのかわかりきっていたかのように、用意周到だった。

 人間が――教会が、救世主を殺した。

 だから、天罰が下った。

 そういう筋書き。ただそれだけの話。

 僕はモンゴメリを騙して、エルは教会の人間を唆して。
 殺すように仕向けたのだ。最も惨い方法で。ある意味では、最も恐ろしい方法で。

 モンゴメリは、かつての救世主のように十字の架に縛り付けられ、串刺しにされた。
 一向に世界を救おうとしない、裏切り者の救世主。
 救世主を騙った悪人として、彼はその小さな体で断罪を受けた。

 僕は、暗いフードの奥でそれをただ静かに眺めていた。

 馬鹿馬鹿しい。

 聖書が記されて、もう何千年もたっているというのに、何も変わらないのだ。
 勝手に祀り上げて、勝手に憎しみの矛先を向けるのだ。

 でも、僕達と何が違うんだろう。


 大差なんてない。僕は、僕は、人を殺したのだ。殺したのと同じなのだ。モンゴメリは死ぬことは無い。僕の力があるから、すぐに回復させることができる。なんて惨いんだろう。ただ、【救世主が人間に殺された】というシナリオを用意するためだけに、彼は串刺しにされているのだ。

 これを、君のかつての友達が、考えたんだよ?

 僕は心の中でモンゴメリに囁いた。

 苦しいでしょう。憎いでしょう。痛いでしょう。もう、何もかも嫌になるでしょう。
 君の魅惑の力のせいで、君は憎しみを一身に背負うんだね。

 僕は、ヨーデリッヒの気持ちがわからないでもないけど。

 君の気持ちも何となく、わかるよ。

 僕もまた、君の目に惑わされてしまったみたいだ。

 死んだように眠るモンゴメリの心臓に触れる。
 少しずつ、少しずつ。無理のない速さで、修復していく。
 どうして僕が、修復の力なんて持ったのかわからない。
 まるで、こうなるためにあったみたいだ。
 こんなところまでヨーデリッヒの思い通りなんだろうか。

「ねえ、モンゴメリ。僕、もうわからないや」

 色と一緒に、熱も、温かさも、温もりも、寂しさも、全部置いてきてしまったみたい。

「僕は君の色に染められたんだよ。でも、君は責任なんて取れないでしょう? 大丈夫、わかってるよ、わかってる……」

 はは、と笑って、僕は傷を閉じ終えたモンゴメリを抱えて、引きずるようにして処刑場を後にした。

 雨が、ぽつ、ぽつ、と降り始める。

 頬に、切り傷ができる。

 僕は、自分の着ていたコートをモンゴメリに被せた。
 せめて君は、未来で目覚めるまで、この雨に当たる必要なんてないよ。
 もう、十分痛かっただろうから。




     *

 雨が降る。ざあざあと。しとしとと。毒の雨が降る。

 人々の皮膚を溶かし、血を舐めとっていく雨が。

 人々は泣き叫び、苦しみ、痛みにうめき声を上げる。
 阿鼻叫喚。

 雨の形に裂けた人々の皮膚から血は止まらず、水たまりは紅さを増していく。痛いよ、痛いよ、と声が聞こえる。助けてと誰かが小さな声で喉を枯らす。誰もどうしてやることも出来ない。助けようにも、外に出ればたちまち同じ目に遭うのだ。誰もかれも、家の中に籠城を決め、震えながら踞る。けれど雨は容赦がない。少しずつ、けれど確実に、全ての建造物を削り落としていく。人々が逃げ場所を失うのも時間の問題だ。どうせそのうち、いられなくなる。地上でなんて、生きていけなくなるのだ。

 薄暗い、蝋燭の灯りだけを灯した、砂を固めた地下の誰もいない部屋の中で、フードで顔を覆ったまま黙々と革に針を刺し、糸を縫う。
 いつか、雨の降りやまない世界で、あの子の足が傷つかないように。君は自分を汚れていると言っていた。だけど、君は汚れてなんかいないよ。僕に比べたら、とても綺麗だ。君の足に合う、僕の靴をついぞ作ってあげられなかった。今こうして靴を作っているなんて、縋るように作っているだなんて、馬鹿だ。誰に顔向けできるんだろう。

 願わくば、この靴が残って、未来の人々の足を守ってくれたらいい。でもこんなこと、望んじゃいけないんだ。なんて偽善を僕は未だに抱えているんだろう。背を向けたくせに。捨てたくせに。エゴだけを選んで、壺に押し込めて、逃げ出したのに。

「マキナレア殿」
 低い声が響く。こいつは、僕を名前で呼ばない。よほど恐ろしいのだか、それとも、ただの気持ち悪い趣味なのか、僕にはわからないし、わかりたくもない。
「グラン・アルケミストが民衆に向けて演説をなさいます。貴方様もいらっしゃるようにと言う事です」
 エルは、琥珀色の瞳を暗く輝かせて笑った。
「なぜ?」
 僅かに振り返ってエルを睨みつける。エルは楽しくてたまらないとでも言うように満面に笑みを浮かべている。
「理由など、お聞きになるまでもなくわかっていらっしゃるでしょうに?」
「僕が行って何になるというの? まだ世間に僕らの存在を公にするわけにはいかないだろ? なら僕は、黙って地下に幽閉でもされておくさ。僕の役目は終わったでしょ? 救世主は無事処刑、人間様には天罰が下った。可哀相な羊は処刑の記憶を消されて楽しい楽しい微睡の中。僕はもう何もやることは無いんだよ?」
「本当に、頑なんですね、貴方は」
 エルは笑みを深める。僕は嘆息した。
「お前みたいなやつを協力者に選んだあいつの気が知れないよ。この気違いめ。僕に近づかないでよ。何度も言っているけど、僕はお前が嫌いだ」
「むしろ、ここまでよくあの方は独りきりで全て背負っておられましたよ。何もかも一人でやるのは無理に決まっている。だからこそ、あの方の体ももう長くない今、私と貴方が彼の両腕になっているのだから」
 僕は針をしまって、立ち上がる。
「一緒にしないでくれる? 大体、僕はあいつの腕になった覚えはないよ。お前も、腕にすらなれてない。馬鹿だね。あいつは君のことをこれっぽっちも信じてない」
 知っているのだろうか。わかっているのだろうか。お前が辿るであろう結末を、この男は、少しでも予想できているのだろうか? きっと、何もわかっていないに違いない。だって、それは僕しか知らない計画だもの。
 狡くて残酷で、人でなしの僕達しか、知らないことだもの。
「構いませんよ」
 エルはにやりと笑う。哀れでたまらない。僕は思わず心の内側からせりあがってくる何か苦くて不味い感情に顔を歪めていた。
「私はただ、この世界が朽ちていくのを見られればいい。その過程などどうでもいい。それに、あの方の軌跡は貴方が全て背負っているのでしょう? なら私のやることは無いに等しい――あの方にとってはね。少なくとも、貴方もこれから永い眠りにつくだろう。その時、後始末は誰がするんです? どうせあの方ももうじき死んでしまうだろう。私しかいないでしょう? この秘密を誰に明かすこともなく、ただ己の欲望のためだけに無償で貴方方に協力するような人間は」
「無償だって?」
 僕は眉をひそめていた。
「よくまあ、それだけでたらめを言えるよ。何度でも忠告するよ。逃げるなら今だよ、エル=ブライシア。君は僕達と同じ世界を歩めない。歩む必要もない。いいから、こんな計画からは足を洗って、せいぜい人並みに幸せに生きておくれよ」
「人並み? 無理に決まっているでしょう?というか、俺は幸せですよ?」
 エルはくつくつと肩を震わせて笑う。僕は首を振って、深く息を吐いた。

 本当に、どうしようもない。いい加減にして。


 本当に、頼むよ。いい加減にしてよ。

 どれだけ、犠牲にすれば君は満たされるの? 君の命は終われるの?

 ヨーデリッヒ。


「僕は、少なくとも……ヨーデリッヒが死ぬまでは安心して眠れないよ。だってそれが僕の役割だから」

 僕はぽつりと呟いた。
 科学に関しては誰よりも知識はあるけれど、馬鹿な頭しか持ち合わせていないこの哀れな、自分の行く末さえ見えていない人間を哀れに思いながら、僕は砂の階段を踏みしめた。

 見届けなければならない。

 空が見える。灰色の空。銀色の雨雲。どこか絵画的で、けれど眼前に広がるのは処刑場につまれる屍しかない、そんな景色。

 雨が降る。ざあざあと。いつまでも。きっとこの先も。止むことなどないままに。
 全ての命を苦しめて、降り続ける。たった六人の子供の未来を守るためだけに。
 たった一人の、願いを守るためだけに。

「唯一の王、唯一の救世主、レデクハルト様は、ご逝去なされた!」

 ヨーデリッヒの声が、雨をかき分けるように響き渡る。

 鐘のように。教会へと誘う、死者を墓場へと誘う鈍い音色が。

 錆びた金色の装飾をちらつかせた、大仰な衣装に身を包んで、人々を見下ろすヨーデリッヒは、
 どうしてだろう、とても厳かで、威圧的で、そして穏やかな慈愛に満ちていた。

「天変地異の雨。これは主が我々に与え賜うた裁きの雨だ。救世主を我々は殺した。二度もだ! かつてのイエス様のように、同じ姿で、まるで呪いのように彼を教会は処刑したのだ。冒すべからざる、もっとも貴き人物を我々は見殺しにした。主の怒りが分かりますか。主は試されたのです。今一度、人類は救いを与うに足るものであるか。かつての過ちを真に悔い改め、教えを繋いできたのかどうか。我々は試されたのです。そして、我々は負けた。否! 我々は、我々自身の手で、我々自身の信仰が誠ではなかったことを主に示してしまった。主の怒りが分かるか? 我々は負けたのだ。主の漸く差し伸べて下すった御手に、泥を塗ったのです」

 悲鳴や怒号、咽び泣く声、醜く朱い声が波となって押し寄せる。けれどヨーデリッヒは怯まない。錬金術師の長は、人々をただ穏やかに見つめ、その言葉を朗々と響かせるだけだ。

「我々は、主の怒りにこれからも悔い改め生きてゆかねばなりません。私は、レデクハルトの唯一の錬金術師アルケミストとして、この世界を守ってゆきましょう。レデクハルトは私に一つの救いを遺してくださいました。いつか彼が世界を置いて逝った時、我々が救われる様にと、遺してくださったのです。私は、自身の知識の全てを使って、レデクハルトの使徒を生み出すことに成功しました。しかし、あくまで錬金術は人の術。神の術には到底及ぶまい。だからこそ熟するためには歳月が必要でしょう。しかし、彼ら使徒――六人のマキナレアは、いつの日か必ず、我々の未来を救ってくださることでしょう」

 人々の泣き叫ぶ声。救いを求める声。グラン・アルケミスト。グラン・アルケミスト。レデクハルト。レデクハルト。人々の声がやがて、まるで雷鳴のように連なって、大地に降り注ぐ。

 ヨーデリッヒはどこまでも穏やかに笑っていた。
 僕は理解した。たった今、ヨーデリッヒと言う人物は死んだのだ。

 あそこに残っているのは、あそこに佇むのは、ただの醜悪な抜け殻だ。そして僕は、その醜悪な抜け殻にかしづかなければならない。あれの最期を看取るためだけに、僕はまた一つ罪を犯さなければならないのだ。ああ、神様。許してください。僕はあなたを信じることができません。僕の神はあの抜け殻だけなのです。僕は、あの抜け殻を棺に入れる死神になるために、生きてきたのです。それに、ようやく気付いたのです。

「あ、はは……」
 僕は腹を抱えて笑った。
「ははは……はははは……!」
 なんてことをしてくれたんだろう、ヨーデリッヒ。やっぱり君は、レデクハルトを恨んでいたんじゃないか。
 君の大事な親友の大事な名前は、僕によって汚される。僕と、僕を操る君自身のせいで、もう二度と救われることは無い。
「素晴らしい……素晴らしい……! ああ……!」
 隣で、エルが恍惚とした表情で泣いている。
 僕はその横顔を、醜悪な笑みで見つめた。

 さあ、次は、お前の番だよ。











或る科学者の苦悩

 俺は誰よりも優れている。

 誰よりも知識を蓄えていると自負している。

 幼い頃から、俺は周りの人間全てが家畜に見えていた。自分と同じものだと思えないのだ。彼らは俺と意思を通わせることができない。彼らの言動は常に他愛なく、意味ももたないまま鳴くばかりで、彼らは俺の言葉を決して解さなかった。俺は孤独だった。顔をもたない白く柔らかな奇妙な生き物達の中で、揉まれるように流され、息が苦しくてずっと空に手を伸ばしてきた。けれど彼らは、俺は彼らと同じ【人間】だと言うのだ。俺は幾度となく混乱し、彼らを豚や鼠だと罵ったことがあった。その度に俺は殴られた。誰かが汚い唾液や涙を俺の顔面に塗りたくった。俺は怖くて怖くて、気持ち悪くて、呼吸が出来なくて、神様だけを信じて生きてきたのだ。これはきっと俺の受難だ。これに耐えればきっと、俺は天国へ行ける。神様や天使を描いた数々の芸術は、俺の心を支えてくれた。ああ、この絵に描かれているその人は、俺と同じ姿をしている。だとすれば俺は、この命を耐え忍べばきっと天国へ連れて行ってもらえるだろう。そこで、ようやく同じ姿をした神様に会えるだろう。

 そう、祈ってきた。しかしそれは、俺の気を狂わせる程度には辛く苦しい日々だった。耐えなければならないと思うほどに、いつまで待てばいいのか、本当に迎えはくるのだろうかという不安が俺を苛んだ。何故俺は、こんな醜い生き物達に、こんな醜い赤と青の痣を刻まれ続けなけらばならないのだろう。違う姿なのだから意思が通うはずがない。それなのに、彼らは俺が一人だけ異端なのだと、人の心を介さず、良心ももたない、親不孝もので人でなしなのだと罵って、俺を苛んだ。良心とはなんなのだろう。俺にはわからない。良心がわからなければ人でないのだろうか。だとすれば恐らく神様にも天使にも良心はないはずだ。俺と同じ姿をしているのだから。こんな、平べったい絵に無機質に描かれているだけの存在なのだから。そんな存在に、ああしてくださいこうしてくださいお守りください赦してください、だなんて日々泣き叫ぶ彼らが、とてつもなく滑稽に思えた。そうして、ふと思ったのだ。

 俺は、こんなにも感情があるのだ。痛いと思う、憎いと思う、寒いと思う、苦しいと思う。それでは、一向に天国から迎えなど来ないんじゃないだろうか。

 俺は怖くなった。空に手をのばす。けれど、誰一人俺を助けてはくれない。そうやって祈り続ける日々に疲れきった頃、俺はようやく理解した。

 神様の世界に行く手段を自分から見つけない限り、こんな風に罰を受けるに甘んじているばかりである限り、きっと俺はあそこへは行けない。

 俺が科学にのめり込んだのはその頃からだ。科学は神の領域を求めるために発展している。あんな豚どもでさえ、多くの業績を残してきた。それならば、俺はもっと神様に近づけるはずだ。
 実際、俺はいわゆる天才というやつだったらしく、次々に功績を上げていった。家畜達は俺を誉め称えてかしづいた。まるで、手のひらを返したように。けれど俺は満たされなかった。何も、何も変わらない。
 俺は科学の限界を感じていた。世界を滅ぼそうとしている科学が、天国への道標となるだなんて、到底思えなくなっていた。俺は無駄なことをやっているんじゃないのか。一体どうすればいい? もう、死んでもいいだろうか。もう、死ぬことを赦してもらえるだろうか。自殺なんてすれば天国へは行けない。それでも、もう、楽になりたい。

 そうやって、絶望し、只管楽に死ぬための方法ばかり考えていた頃、彼は現れた。

 グラン・アルケミスト。救世主がたった一人側に置いた、アルケミストの長。

 正直、彼に実際に会うまで、俺は錬金術を馬鹿にしていた。科学の真似事だと。救世主のことだって、どうせ作り事のでたらめ、お粗末な神様の真似事だろうと思っていた。

 けれど初めて俺は、この世界で俺と同じ姿をした人に会ったのだ。彼は俺の知らない世界の神秘を知っている。誰にも頼らず、たった一人で、神の領域に触れている。なんて魅惑的で、危険だろう。彼の作ったと言うマキナレアは、俺と同じ姿をしていながら、俺に畏怖を抱かせた。ああ、なんて素晴らしい。グラン・アルケミスト。貴方は神さえ作ったのか。貴方だけが、神様だったレデクハルトを知っているのか。なんて俺は無駄に生きてきたのだろう。錬金術とはなんと素晴らしい。彼は俺の知識と腕を欲した。初めて求められた。俺自身を、俺と同じ姿をした人に初めて、求めてもらえた!

 俺は彼にどうしようもなく惹かれていった。溺れていった。役に立てることが嬉しかった。彼のために働く自分自身にのめり込んだ。俺は初めて、嬉しいだとか楽しいだとか言う感情を知ったのだ。ああ、いつか、動かなくなるであろう彼の片腕になりたい。彼に頼られたい。なんでも言ってほしい。教えてほしい。貴方のその美しい瞳に、どんな世界が映っているのか。世界は美しいか? それとも醜いだろうか? 貴方は俺と同じ姿をしているけれど、貴方の目に映る俺はどうなんだろう。家畜だろうか。人になりたい。ああ、人になりたい。貴方にとってのただ一人の人になりたい……!

 ああ、グラン・アルケミスト。貴方の抱える世界が欲しい。それすらも手に入れて、俺は貴方と同じものになりたいのです。俺は貴方に求められたいのです。貴方だって孤独を抱えていたはずだ。才能はいつだって世界へ通じる門を狭く小さく閉じてしまう。誰も侵入など叶わない。俺だけが、貴方と同じ土俵に立てる。俺達は対等になれる。貴方が俺を求めてくだされば。

 その瞳に俺を映してください。

 さあ、なんでも、お尋ねください。
 なんでも言いつけてください。

 俺は貴方に見てもらえるのなら、なんだってしましょう。

 そうして、いつか本当の――、に。


























 そう、思っていたのです。































 ああ。ああ。どうして。どうして。

 どうして貴方は、俺をもう頼ってくださらないんですか。どうして、そんな家畜どもと馴れ合っているのですか。貴方が彼らを救う術をこの世界に残そうとする心理は俺には未だわからないままです。けれど貴方が望むのなら、なんだってしましょう。そんなこと、そんなこと俺が出来るのです。今まで通り、俺が何でも出来るのです。どうして俺にさせてくださらないのか。どうして俺をその瞳に映してくださらない? どうして急に、変わってしまったのですか。どうして急に、俺ではない家畜共に頼るのですか? 彼らは貴方を理解しない。彼らは貴方を理解出来ない! 俺だけが、俺だけが! どうして、

 どうして? どうして。助けて。行かないで。俺は役立たずですか? 貴方のために尽くしてきたのに。こんなにも尽くしてきたのに!





「ばぁーか」
 嘲笑うような声が聞こえて、俺は灰色の視界を向ける。

 何もかもが霞んだ視界の中で、彼は色鮮やかに笑っていた。

 ああ、マキナレア様。俺とあの方の秘密をただ一人知っているマキナレア様。ああ、どうか、どうかあの方に伝えてください。あの方は俺をもう近寄らせてもくださらないのです。どうか、どうか俺がまだ役に立つのだと、どれだけでも貴方のために尽くすのだと伝えてください。どうか、どうか。俺のただ一人の神様。どうか、俺のただ一つ欲しいものさえ奪わないで。もう天国にだっていけなくて構わないから。どうか。どうか。

 俺は、俺を同情的な眼差しで見下ろすレレクロエという名の、最後のマキナレアに縋るように手を伸ばした。
「無駄だよ、エル。僕は君の神様でもヨーデリッヒの神様でもないのさ。彼の信じる神様はただ一人だけ。レデクハルトだけ。けれどそのレデクハルトも、僕と君で殺してしまったじゃない。もう君は用済みなんだよ。だって、君はヨーデリッヒにとって誰よりも大事なレデクハルトを貶め穢した存在なんだから。僕にはなんの力もないよ。だって僕はヨーデリッヒに作られた。僕は君が役に立つってことを伝える術はもたないよ。残念だったねエル。君はね、もうヨーデリッヒにとって用済みだしもう関わり合いたくもないし、汚らわしいし、何の感情も持てないような家畜さ。ああ、家畜とさえ言えないね? だって君はもう、ヨーデリッヒに優しく飼ってもらうことさえできないんだよ。だって、」
 レレクロエ様は、裂けるような口で笑みを深めていった。
「だってさあ、エル。君、ヨーデリッヒに見捨てられたんだよ?」



 何も見えない。

 もう、何も色がない。


 手探りで、自分の爪を顔に突き立てる。けれど、何の痛みも感じない。


 ああ。あああ。

 あああああああ。



 ああああ。


 どうして。どうしてどうしてどうしてどうして






「ざーんねんだったね? エル。もう少しで君のものになったのに。でももうヨーデリッヒは君を選んではくれないよ。二度とね。もう愛してはくれない」
「どうすれば……どうすれば……」

 俺はうわ言のように繰り返す。何も見えないけれど、レレクロエ様はそっと僕の耳に柔らかな唇を近づけて、囁いた。

「そうだなあ……心中でもしちゃえばいいんじゃない? 殺しちゃえ」

 甘く可憐に囁く。俺の脳髄に。愛らしく残酷な妖精が、天使が囁いた。

「殺しちゃえ。人間がイエスを殺したように。レデクハルトを殺したように。殺しちゃって、永遠にしちゃえばいいんだよ」



 永遠。





 そうだ、俺が、あの人を殺せば、あの人は、永遠、に








 俺の、永遠に、













三十七、白砂の棺

 灰色の煙が、体中にまとわりついている。
 苦しく咳込みながら、ヨーデリッヒは霞む視界に目を凝らす。
 汚れた硝子窓。その向こう側に映る姿に、はっとした。
 ――レディ。
 なぜ、あなたが、ここに。そう呟きかけた瞬間、身体がぐらりと後ろへ傾く。ポチャリと音がして、目の前を揺れる青い水面が覆った。
 揺れる視界。青の向こう側で、どこかわからないところを見つめるレデクハルト。
 水面越しに映る彼の姿と、その隣に影を落とすもう一人の人物には、見覚えがあった。
 ――あれは、僕だ。
 レデクハルトは水面を見つめている。けれど、決してヨーデリッヒと視線が交錯することは無い。ヨーデリッヒは気づいた。これは、僕が彼と共に乗った電車の窓だ。それを、海の中から見つめている。ヨーデリッヒの体は海の中でただゆらゆらと揺蕩った。
 時折耳に擦れて届く柔らかな汽笛。
 視界が鮮やかな青に彩られる。水の中に居るはずなのに、ちっとも苦しくはなかった。
 あれは、僕とレディが、最初で最後の逃避行をした思い出。
 あの時、僕は、とても暗い感情に包まれていた。あの旅は、ちっとも幸せじゃなかった。レディが死にたいがための、静かな死に場所を探すためだけの旅。僕達は何もかもから逃げ出した。僕は逃げることなんかできないとどこかで思っていた。そしてきっと、レディもそれをわかっていた。それでも、最後の旅に僕を連れて行ってくれたことがどこか嬉しくて、けれどそれが幸せな旅でないことが悲しくて、僕はずっと、あの汚れた透明な窓を睨みつけていたのだ。
 この記憶は、僕にとって、不幸の始まりだったとずっと思っていた。
 この青が滲む風景で、レディはようやく生きる意味を見出したのだ。依存ではなく、怠惰でもなく、慢心でもなく、自棄でもない、希望を見つけた。
 そして僕は、それが嬉しくて、どこか苦々しかった。それを叶えてあげられる世界でないことが悲しかった。彼のための世界を造ってあげたいと思った。けれど僕には時間がなかった。きっと、彼にも時間はなかった。希望を抱けば抱くほど、失望は膨らんでいく。いつでも弾けてその毒をまき散らす準備をしたためているのだ。レディが希望を抱いた分だけ、彼は直に絶望するだろう。失意のまま死を選ぼうとする彼を、もう二度と見たくなかった。
 だから、僕は自分自身の幸福を対価としたのだ。
 自分の幸せと、レディの幸せ。二つを天秤にかけて、それでも僕は、レディの幸せを望んだ。天秤は歪に歪んで、僕の望みを叶えた。僕はこの時の選択を、とてつもなく後悔した。間違っても、レディを恨む日が来るなんて思っていなかったのに。僕は、大切なものを幾つも取り零してしまった。青い水を掬い取ったはずの掌には、もう何も残されていない。
 僕にとって、この海の記憶も、どこか間の抜けるような汽笛の音も、咳ばかり強いる灰めいた煙も、潮の香りも、全てが、苦々しさだけを呼び起こす硝子だった。
 けれど。
 僕は、水の中で思うように動かない腕をゆっくりとレディへと伸ばす。その手が届くことなんてないと知っているのに。僕はあの思い出に手を伸ばしていた。ああ、青。なんて綺麗な色だろう。なんて、美しい色だったんだろう。僕は、初めてこの記憶を愛おしいと思った。小さな波を抱えた水面のような心が、僕に泣く必要はないと告げる。
 あの僕は、確かに幸せだった。


     *


 はっと目を覚ます。天窓から、灰色の光が射しこんでいた。
 もう、この窓が青い空を映すことは無い。あの青にずっと救われていたのだと、僕はようやく理解した。けれど、もうあの空さえ曇らせてしまった。僕にはもう、何も幸せになる術が残されていない。
「起きたの」
 生意気そうな声がする。けれど、首さえ思うように動かすことができない。僕は、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。声の主は深く嫌味を多分に含んだ溜息をついて、その腰を上げる。
「日に日に、動けなくなってるね、ヨーデリッヒ」
 レレクロエは、事もなげにそう呟いた。けれど、僕の額を撫でるその手は小さく震えている。
 難儀な子だ。そして、そんな子を選んでしまって、申し訳なかった。
 僕は、静かに瞼を閉じる。暗闇の中で、くちゃくちゃ、と音がした。レレクロエが、薬を食んでいるのだ。僕のための薬。僕が、短時間だけれど、少しだけ動けるようになる劇薬。
 レレクロエは僕の口を大きく指でこじ開けた。この辺りが、エルと違ってぞんざいだ。ぐちゃり、と苦くて匂いの強いものが、僕の咥内へと流れ込む。
 レレクロエの唾液が混じったそれを、僕はごくり、と飲みこんだ。
「別に、エルみたいに口移しする必要はないんだよ? レレクロエ」
「口移しなんかしてないよ。あんたの口の中に吐いてるだけ」
 レレクロエは鼻を鳴らした。
「こんなことまでさせてたら、そりゃ君に執着するようになるだろうさ。本当に、どこからどこまでも計算ばかりだよ」
「そんなこと言っても、それは唾液が混じらないと、溶けないのだもの。僕はもう、自分で噛むことさえできない」
「そんな麻薬を使ってまで生きようとしなきゃいいじゃない」
 レレクロエは暗い声で呟く。
「もうすぐ、死ぬから大丈夫だよ」
「何が、大丈夫だよ。それだって僕をけしかけることが前提だろ。ほんっとうに、どこまでも、どこまでも……誰かを巻き込むのが好きなんだな」
「どうだろう」
 よくわからない。考えたこともない。
「青い色って、綺麗だったんだね。忘れてた」
 僕が、不意にそう呟くと、レレクロエはしばらく訝るように黙っていた。
 どう反応したらいいのか、わからないのかもしれない。
 僕は青い色が嫌いだった。レディを苦しめた色だから。僕の手に罪を抱えさせた色だから。
 だけど、あれはきっと、とても美しい色だったのだと思った。
 あの景色は、確かに美しかった。青い海の真ん中で、白い砂の上に咲く小さな王冠のような花。錆びたトタン。灰色の煙。
 あの場所は、残そうと努力している。レレクロエに、雨を吸い込む葉を茂らせる木を植えさせた。僕は、その木が育っていく未来を見ることはできない。それでも、あの場所がいつか、彼らが目覚める未来で残っていればいいと思う。そして、願わくば、あの海を、またレディが見てくれたらいい。
 もう忘れてしまったその瞳で。
 閉ざしてしまったその目で。
「木は……育ちそう?」
 僕が静かにそう尋ねると、レレクロエはどこか嫌そうに答えた。
「育つんじゃない? 知らないけど。大体、本当に残したいなら、僕なんかじゃなくて他のアルケミスト達にでも協力を頼めばよかったんだよ。何かもっともらしい理由をこじつけてさ。君たちの思い出の場所で、僕以外に踏み込まれたくないのもわかるよ? だけど、僕はもうすぐ眠りにつくんだ。あの木の世話はできない」
「いいんだ」
 僕は応えた。
「種を、撒くだけだから。絶対じゃなくてもいいんだ。いつか、いつか、レディがあの場所を見つけて、そして、またあの日のように、あの青い海を――あの人を苦しめたあの青さを、君達と眺める未来があったらいいな、と思うだけだ。きっと、そこは美しいから。それだけは、信じているから」
 僕はそう言って、天窓からの光に目を細めた。

 眩しい、世界だ。








     *







 ずぶずぶ、と体の内側から鈍い音が脳髄へ響く。
 ――ああ、痛いなあ。
 僕は、僕の脇腹に深く刺さったそれを見つめながら、微かに笑っていた。
 まだ、躊躇いがあるようだ。
 僕が翻弄し、無残に捨て置いた哀れな赤毛の青年は、どこか置いて行かれた子供の様な目で僕を見つめながら、がちがちと歯を震わせていた。
 僕を殺したくなるほどに狂わせたのに、まだ、躊躇いがあるのだ。
 僕を死なせることに。
 僕が目の前で死ぬことを、見てしまうことに。
 周りの声が、遠くで聞こえるような錯覚。
 誰かがエルを僕から引き離した。恐らく、つい先刻まで話をしていたアルケミスト達の一人だろう。
 エルは、泣き喚いて、僕を恐れるように見つめていた。
 馬鹿な子。僕なんかに捕まって。
 僕が愛するのは、一人だけだよ。君なんか、いらない。
 この時を待っていたんだ。これを、待っていた。
 このためだけに、君を傍に置いたんだ。過剰なほどに、置いたんだ。
 僕は、床にふらりと崩れ落ちた。その時、刺さる短剣の柄が床にぶつかるよう、体勢を変えることをちゃんと忘れなかった。
 ばきり、と何かが砕ける音がする。
 ずぶり、と奥深く、それは埋め込まれるように、僕の中へと侵入した。
 ああ、痛い。痛いなあ。
 僕は、脇腹を抑えるような恰好のまま、もう動くことはできなかった。

 さようなら。
 さようなら、僕の大事な、マキナレア。

 僕の意識は、そこでとうとう、消えた。























     ***



 白い砂と、塩を混ぜた棺。
 緑色の、ステンドグラス越しの光が射しこむ部屋で、ヨーデリッヒが眠っている。
 白い棺の中、色とりどりの花が、その体中に添えられ、ヨーデリッヒは花に包まれる様にして、瞼を閉じていた。
 蝋燭の光が、揺らめく。
 僕は、誰もいないその静かな空間で、ヨーデリッヒをフードの下から見下ろした。
 もう、動かない。
 肌はどこまでも白いまま、まるで人形のように、固くなった皮膚が花の隙間から見えている。
 僕はそっとその頬に触れてみた。
 温度が、ない。
 ヨーデリッヒは、もういない。
 僕は、懐に隠していたオルゴールをそっとその手に包ませた。
 ヨーデリッヒの自室にずっと置いてあったものだ。
 古びた、木箱の、手巻きのオルゴール。
 そっと、錆びかけたそのねじを巻いた。
 新世界より。
 新世界より、貴方の幸せを願う。
 貴方の見たかった世界から、今日、この日の記憶を眺めよう。
 どこまでも用意周到だ。ヨーデリッヒは、志半ばで暗殺された、悲劇のアルケミストとして、死んでゆく。
 人々を救おうと手を差し伸べたグラン・アルケミストの死。人々は彼の遺志を継ごうとするだろう。そうして、彼を死に至らしめた狂気の科学者は、最も惨い方法で処刑される。
 僕は、それも見届けなければならない。
 僕が唆し、罪へと引きずり込んだ彼の死をも、見ておかなければならない。
 止めることもできた。ヨーデリッヒの思い通りにしてやる必要はなかったのだ。
 僕が、エルを逃がしてやることもできた。
 けれど僕は、そうしなかった。
 僕は偽善者でも、善人でもない。
 ヨーデリッヒが殺されることを、望んだわけでもない。けれど、ヨーデリッヒはそれを誰よりも望んでいた。ここまでがシナリオ。全てヨーデリッヒの計画通りだ。彼は、彼の死を以て、全ての計画を完遂した。全てが思い通りだ。何一つ、何一つ綻びはなかった。恐ろしいほどに。僕は神様なんていないのだと知った。僕の神様はヨーデリッヒだった。僕は、僕の神様を失った。
 「あ……う……う……」
 僕はいつしか、泣き崩れていた。
 逝ってしまった。逝ってしまった。止められなかった。止められたかもしれなかったのに、そうしなかった。ヨーデリッヒは逝ってしまった。もう、僕のことを知っている人は、いない。僕のことを誰よりもわかってくれる人はもういない。僕は、永遠に、彼を失ってしまった。もう分かち合えない。わかってやることもできない。受け入れることもできない。僕はたった一人きりで、この記憶を抱えていかなければならない。たった一人で、眠り、目覚めなければならない。
 いつしか、こんなにも、僕はヨーデリッヒに依存していたのだと知った。本末転倒だ。僕は結局、ヨーデリッヒを超えることはできなかった。恨みさえ、流れて、溶けていく。僕はただ哀しいと思った。僕は、ヨーデリッヒの死を悲しんでいたのだ。

 ぐすっと鼻を鳴らして、僕はゆっくりと立ち上がり、彼の棺に背を向けた。緑の光に背を向けた。もう泣かない。二度と、僕は泣かない。ヨーデリッヒがそうしたように。ヨーデリッヒにとってレデクハルトがそうであったように、僕にとってはヨーデリッヒが神様だったのだ。僕は、僕の神様のためだけに、涙を流そう。僕は、そのための祈りだけを抱えて、生きなければならない。ヨーデリッヒがただ一度だけ、レデクハルトの記憶を消したことを泣いたように。そしてその後、一度も泣かなかったように。


     **

 エルは、最期まで泣き叫んでいた。狂ったように。助けを求めるように。殺される恐怖と、向けられる憎悪への恐怖、ヨーデリッヒを失った恐怖に怯えて、泣いていた。僕はそれをとても哀れだと思った。殺すにしても、もっと他の方法があっただろうに。どうして、誰もが見ている前でヨーデリッヒを刺したりなんかしたんだろう。思っていた以上に、エルは馬鹿で、歪な子供だったのだ。
 人々の憎悪は、留まることを知らなかった。無慈悲にも、下ろされる大きな錆びた鎌。
 エルの首は、ごろりと石畳の上に転がった。人々から歓声が上がる。どうせ、そんな憎しみも、そんな歓喜も、すぐに霧散してしまうのに。本当に馬鹿な生き物だ。まるで、僕みたいだ。
 僕は、喧騒に紛れて、エルの首と体を引きずって、闇に隠れた。
「僕が、首をちょん切られればよかったのにね」
 静かに呟く。
 僕は、ごとりと首を置いて、首を失った身体に継ぎ合わせる。
 死体さえも修復できる自分に、嘲りしか浮かばない。
 僕は、ゆっくりと神経を、肉を、破損した脳を、血管を、血の巡りを、繋ぎ合わせた。
 ぴくり、とエルの指が動く。全てが終わるころには、空は赤く焼けていた。
 僕は、自分よりも背の高いエルの体を引きずって地下の部屋に戻る。
 エルは眠っていた。
 まるで何もなかったかのように、眠っていた。
 それでも、僕がどうにか寝台にその体を横たえた頃、彼は飛び起きるように目を覚ました。
 カタカタと震えながら、首の後ろを庇うように両手で押さえている。
 やがて、その虚ろな目は何度か宙で彷徨った後、僕をその視界の端にとらえたようだった。
「ま、マキナレア……さ」
「痛い?」
「い、え……」
 そう言って、ひいっ、と悲鳴をあげると、エルは頭を抱えてがたがたと震えた。
「入る?」
 僕が腕を伸ばして指差した先を、エルは震えながら見つめる。そうして、再び声にならない悲鳴をあげた。
 空っぽの棺。白い砂と塩で固めた真っ白な棺。
 それは本当は僕の棺だったのだけれど、当然、彼は勘違いに恐怖した。
「あれ、僕の棺。僕がこれから入る、棺。君が代わりに入ってもいいよ」
「い、や……い……」
 エルは頭を抱えた。琥珀色の瞳の中で、瞳孔がまるで針の穴のように震えている。
「ねえ、エル。聞いて」
 僕は、ゆっくりと語りかける。
「君は死んだよ。処刑されたんだ。ヨーデリッヒを殺したから。グラン・アルケミストに手をかけたから。エル・ブライシアは死んだ。わかるよね? 頭のいい君なら、君がもう死んだことはわかるね?」
「は、い……」
 エルは怯えるように僕を見つめる。
「僕はね、それで、君を生き返らせたんだよ。僕は君の神様だから。君の神様に、なってあげることにしたから」
 僕は、エルの手をとった。
「ねえ、僕の願いを、三つだけ、叶えてくれる?」
 エルは震えながら、けれど奇妙なものを見るような眼差しで僕を見つめていた。僕の言葉の意図を、図りかねているようだった。
「そうしたら、僕は君の神様になるよ」
 エルは、しばらく黙っていた。やがて、体の震えは小刻みになり、凪いでいく。
「あの方は……死んで、しまわれたんですね」
「君が殺したからね」
「そう、ですね」
 エルは、静かな声でそう言った。ぼんやりと、僕の棺を見つめる。
「なん、ですか。なにを、叶えれば、」
 そう、途切れ途切れに紡がれた言葉に、僕はようやくほっとして、微笑んでいた。
「一つ。エスト・ユーフェミル・フェンフと言う名で生きること。僕が生きられなかった普通の人生を、科学や錬金術からなんか手を洗って、まっとうに生きること。二つ。エストとして、エストの祖父母と両親の墓に、花を添えること。いつか君が死にゆくまで。その日まで、ずっと、花を手向けること」
 エルは、困惑したように僕を見つめていた。
「他言はなしだよ。これは願いじゃない。契約だ」
「貴方、は……」
「僕は、かつてエストというただの普通の地味な人間だった。そして幸せだった。だけど僕は、神様のからくり人形になることを選んだ。だからこれは僕のエゴだ。僕のただの欺瞞、自己満足だ。それでも、どうか、どうか。僕はね、君を、ヨーデリッヒの言いなりになって、ただそれだけのために殺したわけじゃないんだよ。僕はただ、自分のためだけに君を死に至らせた。エル・ブライシアが邪魔だった。僕の抜け殻が欲しかったんだ。その器が」
 僕は微笑んだ。
「絶対に、死んでも、死ぬまで、誰にも言わないこと。誓える? 僕はヨーデリッヒのための人形だった。そしてその人形は、自分も人形が欲しいと駄々をこねた。これはそんな物語だ。そんな理不尽でも、君は誓ってくれる? 僕の代わりに、僕が得られなかった世界を、見てくれる?」
 エルは、黙っていた。戸惑うように、けれど決して僕から目を逸らさなかった。
「貴方、が……」
 エルは静かに言葉を紡ぐ。
「俺の、神様、なら、俺が貴方に願いこそすれ、貴方が俺に願うだなんて、不思議な話だ。そんなもの、嫌だなんて言えるわけがないでしょう」
「そうだね。僕もそうだったよ」
 僕は、胸の内から沸き起こり、僕を苛むような暗い苦しみを吐き出さないよう、堪えた。
「もう一つは、何ですか」
 エルが静かに問うた。もう彼は、震えていなかった。けれどどこか、少し年を取ったかのように、疲れているようだった。ふと、その赤毛に白い髪が混ざっていることに気付く。本当に、恐ろしかったのだろうな、と僕はぼんやり眺めていた。
「僕が入ったこの棺を、他のマキナレアと同じ場所に埋めて。たしか、ハーミオネのところが一人だけだったでしょう。ヨーデリッヒは僕をここに埋めておくつもりだったけれど、こんな場所、もうまっぴらだ。僕はもう、あの子たちと同じ場所で生きたいんだ。同じ場所で目覚めたい」
 エルは、顔を伏せた。
「俺は、貴方のことをよく見ておくべきでしたか」
 そんなことを、言う。
「まさか」
 僕は笑った。
「誰かの想いを抱えるときに、誰かの記憶なんて必要ないよ。そんなもの、君を縛り付けるだけだろ」


























     ***

 雨が皮膚を焦がしていく。僕達は、どこへ行くのかもわからないまま、暗い霧の舞う砂漠を歩み続けた。
 僕達は、と言うのは語弊がある。何故なら、僕は知っていたからだ。その場所を。きっとモンゴメリが、その場所へ行こうとするだろうことも。予測していたのだ。だって、だからこそヨーデリッヒが、あの場所に木を植えさせたのだから。
 ヨーデリッヒには、何もかも、わかっていたのだから。
「花畑が、」
 ケイッティオの小さな問いに、モンゴメリが消え入りそうな声で漸く答えていた。
「この先に、花畑があるんだ。雨をしのげるわけじゃない。けど、あそこは……俺達を造ったあいつにとっても大事な場所だから、きっとあそこなら、大丈夫なはずなんだ。あれが残っているとしたら、そこは雨に打たれても溶けない何かを施されていることになるから」
「そう……なの」
 ケイッティオが静かに言う。
「でも……」
「残ってるよ」
 ギリヴがそれを遮るように言った。から元気だなあと思う。こんな顔をする時は、この子が劣等感に苛まれている時だ。けれど僕には、手を差し伸べることもできない。それだけの時間、僕はこの子の手を振り払い続けた。拒み続けたのだから。
 ギリヴがケイッティオに抱きつく。
「きっと、残ってるよ」
「うん……そうだね」
 ケイッティオの微笑みに、ミヒャエロも微かに、どこか疲れたように、笑っていた。僕はただ、地平線の向こうを見つめていた。手を繋いでいたハーミオネが、どんな表情をしていたのかはよくわからなかった。
 その向こうに、赤紫の帯が見える。
 思った以上に、広くなっていた。木は生い茂っていて、その根元を縫うように、蓮華草は咲き誇っている。僕はモンゴメリの背中に目をやった。いつ気づくかと、待ちわびながら。
 モンゴメリがやがて、箍が外れたように笑い出した。僕は息をそっと吐き出して、ようやく、その一言を言えたのだった。
「あったね」
 あったのだ。ヨーデリッヒが夢見た場所が。けれどそれは、ヨーデリッヒの願いを悲しむように、砂に覆われていた。かつてこの場所を染め上げた青はどこにもなかった。海はすべて、アムリタが削りとった砂の山積で、埋もれてしまっていた。
 ヨーデリッヒのアムリタ祈りは、彼の願いさえ埋めてしまったのだ。
 この世界のどこかで眠ったまま、もう溶けてなくなってしまったであろう、彼自身の業で。
「はは……あいつ、本当に何がしたかったんだよ」
 モンゴメリが嗤った。
「大嫌いだ、あんなやつ」
 モンゴメリはずっと嗤っていた。僕は、崩れるようにその場に座り込んだ。
 とてつもない、疲労感に苛まれた。薄々気が付いていたことだ。もう、海なんてないのだ。この世界には、あの青なんてどこにも残されていない。
 それだけのことをしたのだから。なのにどうして、こんなに悲しいんだろう。体中が、痛いんだろう。
「だめよ。あと少しじゃない。ほら、歩いてよ」
 ギリヴが僕の袖を引っ張った。こんな時ばかり、聡い子だ。どうしても、僕を一人にしてくれない。
「安心したらどっと疲れたよ。起こして」
 僕は、自棄になって、抱きしめてとでも言うように手をおおきく広げて伸ばした。ギリヴは困ったように眉をひそめていた。
「子供じゃないんだから」
 そう言いながら、僕の手を引いてくれる。僕がゆっくりと立ち上がると、彼女は僕をじいっと見つめていた。
「なに?」
 首を傾げる。ギリヴは何も言わず、さりげなく僕の手を放して蓮華草畑を見つめる。僕は自分の掌を眺めていた。
 苦しい。その手で思わず首を軽く締めていた。苦しかった。
 蓮華草の花、花、花。その香りが、僕を苦しめた。僕は、こんな景色を見たかったわけじゃない。でも、こんなものしか残っていないのだ。これを守っていかなければならない。いつかこの子たちが、消えてしまうまで。僕を置いて行ってしまうその時まで。
 僕が気が狂ってしまう、その時までは。
 何処までも続く紅紫の絨毯。ひんやりと冷えた空気。水の匂い。花の香り。緑の香り。それはどこか僕の頭を麻痺させた。痛い。体中が、心臓が、痛むのだ。僕を苛んで、慰める。
「なあに、これ。ギリヴがそこらじゅうにいるみたいで気持ち悪」
 僕は白々しく、そんなことを呟いた。
 抗議するようにギリヴがばっと振り返ったが、結局彼女は何も言わなかった。
 そうして、泣いていた。ほっとしたのかもしれない。ようやく、緊張の糸が、切れたのかもしれない。
 僕はどこかで、ようやく僕の役目は終わったような心地がしていた。
 覚悟なんて、きっとその時に、アムリタと一緒に流れ落ちてしまったのかもしれない。
 ハーミオネが不意に、僕の肩をとんとんと叩いた。
 彼女が、何かを僕の手に握らせる。そうしてハーミオネは、泣いているギリヴに駆け寄って、その背をあやすように撫でた。
 手を広げる。
 芥子色のリボンが、雨に濡れていた。少し、糸が解れかけている。
「はは……」
 僕は、雨に濡れないように、それをポケットに入れた。
 渡せるわけがないじゃないか。だから君にあげたのに。

 僕は、僕の名前ですらあの場所へ置いてきた。
 だからもう、エストの贈り物は贈れない。
 そんな思いを込めて、ハーミオネを見つめる。けれどなぜだか、ハーミオネは何もかもわかっているかのように目を細めて僕を見つめ返した。
 蓮華草畑を見つめる。ギリヴの色。レデクハルトの色。ヨーデリッヒの思い出。僕の、捨ててきた思い出。
 僕はまた、この子を愛せるだろうか。好きになってあげられるだろうか。
 この色も、香りも、またいつか、僕を苛むのだろうか。

 僕は静かに、灰色の空を見つめていた。








或る少女の手紙

拝啓


 あなたがどこでどうしているのか、どうしていなくなったのか、わからないことばかりです。
 私は、あなたを許せませんでした。どうして、おじいさんを置いて行ったの? おじいさんは結局、あの後間もなく亡くなってしまった。あなたがいつか帰ってくると信じて。私は、言えませんでした。あなたからの手紙に、あなたがもう二度と戻ってこられないのだと告げられていたこと。私は、言えなかったのです。だって、おじいさんは、いとも容易く信じたのですから。エスト。あなたが病気になってしまって、医者の所に居るのだと。少しだけ、家を空けるだけだからと。そんなわかりきった嘘に、おじいさんはわかっていて騙されてくれたのです。あんな嘘をつかせたあなたを、私は恨んでいました。どうして、もう少しだけ待てなかったのかと。あなたが花を手向けないで、誰が手向けるのだと。あのお店に残された、あなたの大事な靴を、どうするのと。

 私は、あなたの帰れた場所が失われていくのを、黙って見ていることしかできませんでした。どうして、私にあんな手紙を残したのかと、恨んでいました。とても辛かった。あなたと違って、私は結局、たくさんのお別れを告げなければなりませんでした。私はあの後、母も失って、一人で、景色の様変わりした世界で生きていました。あなたの手紙にあったただ一つのお願い事を叶えるために、生きていました。
 私は、いつだって、家を出れば見えるあなたとあなたのおじいさんに、あの古ぼけた小さな木の家に、救われていたのよ。

 不思議なことがありました。ある時、私が供えていないはずのお花が、お墓に供えてあったのです。四つの花束。それは、お墓には似合いそうもない鮮やかな黄色の向日葵でした。私は待ち続けました。誰が、あなたの家族のお墓にそんなお花を置いて去って行ったのだろうと。私はどこかで期待していたのです。縋っていたのです。いつかあなたが、帰ってきてくれることを。このお墓の前で、悔やんで悔やんで、嘆き悲しむのを、見たかったのです。あなたにおかえりと言いたかったのです。

 けれど、現れたのは、知らない人でした。
 知らない人なのに、その人は、私のよく知っている名前を持っていました。頑なに彼は、自分があなたなのだと言っていました。
 不思議なことだらけです。私は彼が大嫌いでした。あなたの名前を騙って、まるであなたのように花を摘んでくる。そんな人が、大嫌いでした。
 そんな人を寄越したあなたのことが、大嫌いでした。

 でも。

 ねえ、エスト。私ね、普通のお母さんになったわ。普通に結婚して、普通に子供を産んで、普通に、ごく普通に、お母さんのこの店を守っていくのよ。針で自分の指をぼろぼろにしながら。生きていくのよ。信じられないでしょう? 私も、笑ってしまうわ。
 だけど、私ね、決めたのよ。
 この子と一緒に、私はあなたのために生きるわ。私はたしかに、あなたとあなたとおじいさんがいた景色が、大好きだったのよ。あなたの閉じ込めたかったその景色を、私は忘れない。
 私、この子と、あの人と、一緒に生きていくわ。
 いつか、いつか。
 私の子供たちと一緒に、あなたのおじいさんに、お花をあげて。
 それまでは、私があなたの帰る場所を守っていくから。

 あなたのこと、少しだけ、愛していたわ。










三十八、花舞う世界

「ばあちゃーん、この辺に咲いてた白い花どこ行ったぁ?」
「ああ……それはもう、枯れてしもうたよ。時期が時期じゃからのう……」
「えー。去年は生えてたのに」
 アビゲイルは口を尖らせた。その不満そうな顔を、まだ小さな弟ジゼルが不思議そうに見上げる。
「じゃあ、別の花でもいいや。どこか生えていないかなあ」
「にいちゃん、にいちゃん」
「ん? 何?」
 小さな手を伸ばすようにして語りかける弟に微笑ましく思いながら、アビゲイルは腰をかがめてジゼルと目線を合わせた。
「あっちの岩の隙間に、紫の小さなお花、咲いてた」
「まじで。じゃあそれにしよっか」
「うん」
 ジゼルは花のように笑った。老婆は二人を穏やかに見つめている。
「そう言えば、お前はずっとそうやって一年に一回、花を集めているのう。お前達の母親も、ずっとここでそうしていた。懐かしいのう。その父親も、そのまた母親も、ずっと、そうしておったのう」
「あ、そう言えばばあちゃん、おれのばあちゃんのこと知ってるんだっけね」
「ずっと、この場所で共に生きてきたからの」
 そう言って、老婆は眩しそうに天井に敷き詰められた岩の隙間から零れ落ちる日の光に目を細める。
「これはね、約束なんだよ、ばあちゃん」
「約束?」
「そう。ずっと遠い昔に、おれとジゼルのご先祖様が託したお願い事なんだよ。必ず毎年、同じ日に、四つの花束を手向けるんだよ。まあ、もうそんなに花なんて生えてないし、おれなりに四本花を用意することにしてるんだけど」
 そう言ってアビゲイルは――少しだけ大きくなった手でジゼルの頭を撫でた。
「誰かのじいちゃん、ばあちゃん、お母さん、お父さんの分なんだって。その人の代わりに、ずっとおれ達は死ぬまで花束を用意するんだ。ずっと。それが、その人の願いだから。まあ、おれが知っているのはそれくらいだけど。でも、大事なことなんだ」
「そうか」
 老婆は穏やかに笑った。アビゲイルはジゼルを抱っこして、奥へと歩いていく。
 埃っぽい、涼やかな洞窟の中。
 六人の使徒がこの土地を去ってから、もうすぐ二年が経とうとしていた。使徒様は――レレクロエ様は、結局おれが花束を手向けるのを一度も見ることなく行ってしまった。
 なんとなくだけれど。
 アビゲイルは、自分がこうして花を摘むのを、自分にとって大事なこの一つの慣習を、レレクロエには見てもらいたかったな、と思った。レレクロエには、自分の大切なものを全部見てほしかった。寂しかったのかもしれない。父親も、母親も早くに亡くして、ジゼルと二人きりでこの小さな洞窟で生きてきた。レレクロエと過ごした時間は短かったけれど、アビゲイルはレレクロエのことが好きだった。宝物を何も持っていない、人とは違う使徒様に、自分の宝物をたくさんみてもらいたかったのだ。
 そんな風に思うのが、どうしてかだなんてそんなことはわからなかったけれど。
 あの寂しそうにしていた二人の使徒様が、幸せだったらいいと思った。そんなことを願うのは間違っているかもしれない。けれどアビゲイルは、二人のことが好きだった。二人がいた時間が、大好きだった。
 岩の隙間に、小さな菫が咲いている。
「摘むのはもったいないけど……ごめんね。ほらジゼル。お前も一本摘んでやって」
「うん」
 ジゼルはおとなしくその細い茎をぶちり、と契ろうとした。一緒に、土を纏った根っこがついてくる。アビゲイルは思わず微笑んでいた。
 アビゲイルが母と一緒に過ごした時間は、あまりにも短すぎた。けれど、アビゲイルは幼い記憶を辿るように、母親の思い出を抱きしめて生きてきた。母親がしていたように。話してくれていたように。
 殆どはっきりとは思い出せない思い出の中で、不思議なほどにはっきりと、母が毎年この日に四つの花束を作っていたことだけは覚えていた。誰かのために捧げる花束なのだと。それが約束だからと。
 ――私のおじいちゃんも、おばあちゃんも、そのおじいちゃんやおばあちゃんも、ずっとずっとそうしてきたのよ。それが、フォルダ家に生まれた人間の、ずっとずっと続いていく大事な役目なの。
 だから、その唯一の思い出を、母の愛を、ジゼルにも少しずつ教えてやらなければならない。ジゼルを守れるのは、自分しかいないのだから。
 ジゼルの手から、菫の花がぽとり、と落ちる。
 地響きだ。恐ろしい音が耳をつんざいて、心臓を震わせる。ばらばら、と音がして、小さな石のかけらが降り注ぐ。アビゲイルは必死でジゼルの頭を庇うように抱きしめ、岩の割れ目から少しずつ滲んでくる青空を睨みつけた。
 何が、起こっているというのだろう。
 サラエボに取り残された無力な人々は、身を寄せ合って、それを眺めるしかできない。
 上空に、恐ろしいほどの鉄の塊が幾つも飛んでは消えた。
 その遠い向こう側で、黒く輝く靄が見える。
 ぞくり、とする。
 反射的に、アビゲイルは駆けだしていた。ジゼルを抱えたまま、石の壁を這い上る。爆弾は、次々にその靄の中へと吸い込まれていった。爆弾だけでない。地上のあらゆるものが、破片となって、大地から削り取られるように空へと舞いあがる。それらは帰る場所を見つけたかのように、その黒い靄へゆっくりと揺蕩ってゆく。ジゼルが、空を舞う花弁を手に取ろうと小さな手を伸ばしていた。
 ――どうして、あれを攻撃しようとするの?
 信じられなかった。あれは人間がどうこうできるものなんかじゃない。神様の力。大自然の力。子供でも分かる。あれに近づいてはいけないと。どうして大人にはわからないのだろう。どうして、そんなにも、悪意を向けようとしているのだろう。
「アビゲイル! 危ないわよ!!」
 足下で、幼馴染のメリーが不安そうに叫ぶのが聞こえる。けれど、アビゲイルはどうしても世界から目を逸らせなかった。何か恐ろしいことが起ころうとしている。世界が割れていく。切り取られていく。吸い込まれていく。
 悲鳴が聞こえる。
 振り返るのと、ぐらりと傾く身体を必死で繋ぎとめようと壁に掴まったのは同時だった。吸い込まれていく。体が。あの黒い靄が呼んでいる。絡め取ろうとしている。人々の体が、塵が風に舞うように軽やかに浮かんでいく。逆さまの世界で、誰もが怖がって叫び、怯えた。
 必死で壁を掴むけれど、片手が塞がっている状態では、いくらも耐えきることができない。
 他の人々と同じように、空へと吸い込まれていく。なす術がなく、恐ろしくて、どうしようもなくて、アビゲイルはジゼルをただ抱きしめた。
 悲鳴。唸り声。風の音。花の香り。緑の匂い。頬をかすめる花弁。土の匂い。睫毛にまとわりつく、石の粉。
 地面がどんどん離れていく。頬に何か冷たいものがあたる。目を開けると、ジゼルが大泣きしている。その涙が、唾液が頬にひたひたとぶつかる。けれど、もうどうすることもできない。
 黒い靄が――光の帯が、雫となって二人を包み込む。嫌だ、死にたくない。おれは、まだ花束を手向けていない。ジゼル、ジゼルだけでも、どうか。
 ジゼルは少しだけ泣き止んでいた。見慣れない紅紫色の花を、掴もうと手を伸ばしている。
 ――蓮華、草?
 はっとする。その視線の先に、遠くに。
 忘れもしない姿が、孤独に佇んでいた。
 草よりも明るい、黄緑色の髪。
 汚れた茶色の外套。この強烈な引力を、まるで何ともないみたいに地面にそっと佇んでいた。
「使徒様!」
 アビゲイルは叫んだ。
「使徒様あ!!」
 気づいて。どうか。
 どうして、そう呼び続けたのか、自分でもわからない。
 助けてほしいとは思わなかった。助からないと、頭の隅でいつしか理解してしまっていたのだから。
 けれど、ただその姿に。何かを堪えるようにただ一人で立つその人に、手を伸ばしたかった。
「使徒様!! 使徒様!!」
 いつしか、ジゼルもつられたように同じ言葉を叫んでいた。けれどジゼルはもう、彼のことなんて覚えていないかもしれない。幼い子供は、忘れるのも早いのだ。アビゲイルは初めて、自分がこの年まで無事に生きてこられたことに感謝していた。
 あなたのことを、覚えていられる。
「使徒様! レレクロエ様!!」
 ふと、彼がこちらを振り返ったような気がした。そんなはずがない。だって、到底、子供のおれの声が届いてくれるような距離ではないのだから。
 レレクロエは、再び歩き始めた。どこかへ、まるで、いつか消えてしまうみたいに。
「いつか会いに行くから! 使徒様! おれ、まだ話してないことあるよ! おれ、まだ花を集めてない……」
 ふわり、と花の香りがする。
 どこに、これだけの花が生えていたのだろう。
 世界中の花が、アビゲイルを包んでいた。独りにはしないよと、慰めてくれるみたいに。
「花束――」
 こんな花束、見たことがない。
 ジゼルを抱きしめて、堪えるように顔をその肩に埋める。
 黒い光の帯の手は、二人を鳥かごに閉じ込めるように編み合わさった。
 母さん、ごめんなさい。
 これが、おれにできる精一杯だった。

 いいんだよ、と言うみたいに、柔らかな白い腕がおれを引っ張った。

 息苦しさが、消えていく。








     *


「あなたは、レレクロエに懐いていたわね」
 どこか七色に揺れる暗闇の中で、鈴のような、綺麗な声がアビゲイルを包み込む。
 だれ、と問いかけようとして、その声はただの擦れた音になって零れてしまった。
「覚えてる。だって、とても綺麗な赤毛だった」
 優しく微笑んでいる。聞き覚えのある声。だけど、記憶にあるその声は、もっと無機質だった。
 微かに瞼を開ける。睫毛の向こう側で、真珠のような白い髪の少女が、おれの顔を覗き込んで、頬を撫でてくれている。
 彼女の頬についた小さな針の孔のような火傷の跡を、おれはそっと撫でていた。とても、痛そうだと思ったら、涙が出た。
「あなたに、お願い事をしてもいい?」
 その人は、儚い声でそう言った。
「いつか、レレクロエを迎えに行ってあげて。それまでどうか、命を繋いであげて。わたしには、それができないから。あの人が、独りぼっちにならないように」
 そう言って、その人は微笑んだまま、ぽろぽろと真珠を零すように涙を流した。
「それが……わたしと、モンゴメリの、願い」
「使徒、さま……」
 おれは、記憶の中で、青空の中にいたその人に、震える声でいいよ、と言った。
「あなたの大事なものを、あなたの子供たちの大事なものを、わたしが奪ってあげましょう。そうしたら、きっといつか。いつか新しい世界で、あなたの誰かが彼に会えるように」
 使徒様はそう言って、僕の体に触れた。
 僕は腕の中に抱いたままのジゼルを見つめる。気を失っているだけの様だ。ほっとする。
「でも、ジゼルだけはあげられないよ、使徒様」
「構わないわ」
 使徒様は、そう言って笑った。
「さようなら、アビゲイル。いつか目覚めるその時まで」
 使徒様が、おれの手を放す。
 おれは、再び黒い手に奪われた。
 そうして、何もかもわからなくなって、夢の中に堕ちていった。





     ***



 その日、世界はすべて、闇に呑まれた。
 広大な更地を残して。全てを洗い流して。全てを、箱舟に閉じ込めて。


三十九、蒼撫ぜる世界

 重力に身を任せ、大地を目指す。
 頬を切る風は、身体をただ凍えさせるように熱を奪っていく。
 ギリヴはぎゅっと自分の体を抱きしめた。
 腕の中に、レレクロエの温もりと、血の匂いが残っている。
 思わず、抱きしめていた。
 そんなことをしたのは初めてだった。自分は、一線を引いているつもりだった。ハーミオネやケイッティオならともかく、他の三人に抱きつくなんてこと、したことがなかった。
 けれど、レレクロエのことを、躊躇うことなく抱き寄せている自分がいた。そして、そのことに、とても安堵していた。不思議なほどに。まるで、そうすることが、当たり前だったように。望んでいたかのように。
 あたしは、レレクロエを誤解していたのかもしれない。
 結局、彼の言った言葉の意味を、それ以上聞くことはできなかった。彼は口を噤んでしまった。あれはきっと、照れていたと思う。絶対に、恥ずかしくなっていたのだと思う。レレクロエにもそういうところがあったのだと、どこか安堵していた。

『ねえ、さっきの、どういう意味? レレクロエって偽名なの? そういうこと?』
『あー、そうなんじゃない?』
『何それ。それじゃわからないわよ。どういうことよ』
『煩いよ。さっさとモンゴメリでも迎えに行って来れば』
『かっわいくな……じゃなくて、ねえ。もしかして、照れてる?』
 レレクロエは黙っていた。気まずそうに顔を歪めると、あたしを振り切るように踵を返して、ミヒャエロの下へと向かったのだ。
『ほんと……君と居ると、本当に、飽きが来ないよ』
『ねえ、それ、褒めてんのー?』
『褒めてるんじゃないの。知らない』

「はは……」
 あたしは乾いた声で笑った。
 あまりにも、時間が少なすぎる。
 ハーミオネは逝ってしまった。ミヒャエロも……多分、死ぬつもりだ。
 時告げ鳥が、終焉おわりを嘆いて鳴いている。
「短い、逃避行だったなあ」
 あたしは笑った。
 あたしは、あの人レレクロエに別れを告げられるほど、あの人と心を通わせていない。
 あたしには、何ができるだろう。
 胸のポケットに入れたミヒャエロの日記を抱きしめる。
 あなたの死を、見捨てるあたしを許してね。
 あたしは、どうしようもない人間だ。
 あたしのことを好きでいてくれるかもしれないレレクロエを、好きになりたいと思った。
 本当に、都合のいい、気が多いばかりの、どうしようもない女だなあと自分で思う。
 でも、レレクロエはいつだってあたしのことをそう言って貶していた。だから、もう、今更だ。
 きちんとお別れを言えるように、考えるから。
 あなたに、ちゃんと、お別れを言うから。
 どうか、もう少しだけ。


     *

 レレクロエと別れてから、三回大地を蹴った頃、探していた二人の姿を見つけた。

 まるで、見えない線路の上をどこまでも歩くかのように、そこだけ時がゆっくりと揺蕩うみたいに、手を繋いで歩いていた。
 あたしは、今更二人の邪魔をするべきかどうかとても迷った。だって、その線路は、マグダへと続いているような気がしたから。
 最後のお別れをするために、二人は歩いている。
 まるで、今から幸せになるために。
 あたしは、堪らずに泣いていた。風が、涙を忙しなくふき取ってくれる。
 あの邪魔をする意味はあるのだろうか。
 あたしは、二人が手を繋いでいるその景色に、ただ喜んでいた。
 よかったね、よかったねと。喜んでいたのだ。
 あたしはそのまま落ちて行った。風の流れに任せて。二人を邪魔しないように。あたし自身はただ、泣き顔を見られないように。
 二人とも無くすかもしれない。どちらか一人は残るかもしれない。早くお別れを言わなければならない。けれど、あたしにはまだ心の準備ができていなかった。あたしはそのまま、逃げるようにあの蓮華草の咲く森へと帰った。
 そのまま、崩れ落ちるように泥に埋もれて、声をあげて泣いた。
 あたしには無理だよ。見送るのなんて、無理だ。
 もう終わってしまうなんて、心の準備が間に合わない。
 いつまでも一緒に居たかった。何も言いださなければ、ずっと続いていられると思っていた。
 だけど、皆、あたしと違って、ちゃんと覚悟をしていたみたいだ。
 あたしはただ、駄々をこねるように泣いていた。
 終わってしまう。いなくなってしまう。
 もう、戻れない。
「嫌だよ。嫌だよ……」
 声が、吸い込まれていくようだ。あたしはいつしか泣き疲れて、震えを増す大地の上で、体を起こして、梢を見上げた。
 ぶちり、ぶちり、と音がする。木が、根っこから剥がれて、空へと吸い込まれる。蓮華草も、まるで絨毯の端切れのように連なって、泥も水も、虫も花も、全て吸い込まれていく。あたしを泥の竜巻が包み込む。吸い込まれていく。吸い込まれてしまう。剥がれて、手の届かないところへ行ってしまう。待って。やめて。この場所だけはどうか、奪わないで。お願い。お願いよ。
 あたしは手を伸ばして、蓮華草を掴んだ。
 体が熱を持つ。あたしは目を見開いて、空の向こうを睨みつけた。
 許さない。あたしはまだ、許さないわ。

 あたしは初めて、ミヒャエロとモンゴメリに、抗った。
 あなた達なんかに、惑わされない。
 この場所だけは、まだ。
「うああああああああああああああああああ!!!」
 あたしは全力をかけて、あたしを纏う引力を、黒い雫を破壊した。
 あんた達の方舟に、この場所だけは乗せない。新世界にだって、この場所は必要ない。これは、あたし達だけのもの。譲らない。あげない。渡さない。
 まだ、帰ってくるから。
 きっとまだ、あたしを見送ってくれる人が、帰ってくるから。
 やがて、引力は止まった。地鳴りはまだ続いている。この場所だけが、世界の異変から切り離された。
 あたしは森の入り口に佇んだ。
 青。

 見渡す限りの、海が見える。

 全ての命を食らった黒い方舟は、海の表面を撫ぜた。
 もう何も、残っていない。
 残っているのは、わずかばかりの大地と、砂と、海だけ。
 青い世界だけ。


 あたしは新世界に立っていた。
 いつか、誰かが願った世界に、佇んでいた。



 しばらくそれを呆然と見つめて、やがて、その白い地平線の向こうに、二つの人影を見つけた。
 水面の上を歩いている。
 壊れかけの線路を踏みしめるように、歩いている。
「ケイ……ティオ」
 あたしは足を踏み出そうとして、やめた。
 ケイッティオは、レレクロエを支えるようにして歩いていた。
 あたしは、一言も発することができなかった。ただ、祈るように、思いつめたような気持ちで二人を見つめ続けた。レレクロエが、伏せていた顔をあげた。色もなく、その瞳であたしを見つめる。
 やがてレレクロエの顔は、歪んだ。レレクロエは、空いた左の手で自分の顔を隠そうとする。
 あたしは、レレクロエが泣くのを不思議な気持ちで見つめていた。
 こんな顔を、もう一度、残された二人分、彼に強いるのだ。
 ケイッティオはあたしに気付いて、花が開くように笑った。
 あたしも笑い返した。
 新世界で、あたし達は寄り添った。

 青い海。青い空。ぽつんとのこされた、紅紫色の絨毯。空に浮かぶ、生き物のように蠢く黒い光の渦。

 世界が、産声を上げる。






四十、青に歩む世界

 誰かが、わたしを呼んでいる。
 わたしは真っ白に輝く世界にいた。
 真っ白なワンピースを着て、空を踏みしめて、佇んでいる。
 雲が頬を霞めて通り過ぎる。
 こんな世界は、嘘だ。頭のよくないわたしにだってそれくらいは分かる。
 どうしてこんな夢を見ているのだろう。七色の虹が透けている。誰かの姿が、影が、遠くにぽつんと見えた。五つの影。わたしは、あの影へと走っていかなければならない。
 わたしは何をしに、この場所へ来たのだろう。
 夢なんて、見ないはずだった。だって、わたしはもう、人ではないのだから。
 人の必要とする安息を、必要としないのだから。
 空に、何を探しに来たのだろう。誰を、探しているのだろう。
 ――ケイ……ティ……。
 まただ。
 誰かの声が聞こえる。声が反響して、蜂の巣のような六角形のプリズムが、わたしの足元に流れ星のように降り注いで跳ねる。
 わたしは瞼を閉じた。
 これは夢。わたしが造りだした、わたしにとって都合のいい世界。
 だとすれば、会いたい人なんてたった一人のはずだった。
 思い出せないその名前だって、夢の中なら。
 思い出せるはずだ。喉から、零れ落ちるはずだ。喉が今ここで焼け落ちてしまってもいい。もう、この手が、足が、灰になって崩れ落ちても構わない。
 あなたに、わたしは伝えなければいけないことがある。
「……ーデリッヒ」
 わたしは、弓で飛ばした矢のように、自分の声が色となって弧を描き空の世界を舞うのを見た。
「ヨーデリッヒ!」
 姿が見たい。わたしが覚えているあなたの姿で構わない。わたしは結局、あなたが死ぬのを見届けられなかったのだから。
 どうか、夢なら、覚めないで。
「ヨーデリッヒ!」
「馬鹿な子」
 わたしの声が落ちて弾けた先で、彼は陽炎のように揺らめいて、苦しげに微笑んで、立っていた。
「せっかく、思い出さないようにしてあげたのに」
 ヨーデリッヒはどこか、穏やかに笑っていた。
 あちこち包帯で巻いて、杖に寄りかかるようにして、儚く佇んでいた。
 わたしは黙っていた。
 彼が何を言うのか、聞きたかった。
 わたしに何を伝えたかったのか、聞きたかった。
 ヨーデリッヒは後ろを見やって、口を歪める。
「行かなくていいの?」
「すぐに、行くわ」
「そう」
 ヨーデリッヒとわたしは、しばらく見つめ合っていた。わたしの心は、とても穏やかだった。痛くはない。悲しくもない。嬉しいと思っていた。たとえこれが偽物の王国だとしても、そこで、もう一度あなたに会えたのは、とても嬉しい。
 わたしは、あなたからようやく離れられるわ、ヨーデリッヒ。
「ありがとう」
 ヨーデリッヒは、静かに言った。わたしは笑った。そうだ、きっと、こんな他愛のない言葉をわたしは望んでいたのだ。きっとあなたがわたしにそう言ってくれると、信じていたかったのだ。
 わたしは、あなたに愛されたかったわけではなかった。
 あなたの願いを叶えて、ありがとうと、ただそれだけを言ってもらいたかった。
 ありがとうと言ってもらえるだけで、わたしはあなたの願いを叶えることができたのだと、喜ぶことができる。
 馬鹿な子。本当だ。わたしは馬鹿な子供だった。
 答えなんてわかりきっている。彼がそう言ってくれるだろうと信じたかった、それが、わたしそのものの業だった。
 ミヒャエロを引きずり込み、ハーミオネを孤独に埋め、レレクロエを苦しめ、モンゴメリの心を閉ざし続けた、業だった。
「わたしは、ヨーデリッヒに認められたかった」
 わたしはヨーデリッヒの幻想に話しかける。ただ伝えたかった。わたしの心に、伝えたかった。
「わたしを馬鹿な子だと、気持ち悪い子だと、嫌いだとばかり言うあなたに、ただ認めてほしかった。あなたに、ちゃんとわたしはわたしなんだと、見てほしかった。我儘だったわ。そして、確かに、わたし馬鹿な子だったみたい」
 ヨーデリッヒは、何を今更、とでも言うように鼻で笑った。そのニヒルな笑顔が、なんだかとても好きだった。あなたと話すのはとても楽しかった。あなたと居る時間は、あなたはどうだったかわからないけれど、わたしは楽しかったのだ。
 何度も突き放されて、何度も嫌な言葉を言われた。嫌な顔をされて、貼りつけたような笑顔で白々しく微笑まれた。けれどわたしは、それらを今愛おしいと思う。
「大好きな時間を、ありがとう、ヨーデリッヒ」
 わたしは笑った。
 もう二度と、会うことは無い。この夢が、モンゴメリが見せてくれた夢だと言うなら。もう二度と見ることは無い。
「わたし、モンゴメリが好き。大好き。遠回りさせてくれて、ありがとう。時間を作ってくれて、ありがとう。モンゴメリを好きになれて、嬉しい。好きになってもらえることが、こんなに嬉しいんだって知らなかった。あなたのおかげだった。ありがとう。この世界を守ってくれてありがとう。ここまで、守ってくれてありがとう。わたし達はもう、大丈夫だから。あとはもう、大丈夫だよ」
 わたしのために、わたしの身勝手な我儘のために、あなたの身勝手な我儘のために、この世界未来は造られた。
 ヨーデリッヒは、ようやくほっとしたように、嬉しそうに笑った。その顔はまるで、悪戯が見つかった子供みたいだった。
 そうしてヨーデリッヒは消えた。わたしの夢から。偽物の世界から。わたしの想いから、解放されて。
 わたしは空の上を見上げた。涙が零れそうで零れない。夢なのだから、零れるわけもない。
 泣きたくなるような気持ちを、初めて知った。
 さあ、目を覚まさなければ。
 わたしは皆の背中を追いかけて、足を踏み出した。



     *


 瞼を開けると、瑞々しい梢の影が見える。
 鳥籠のよう。わたし達を、守ってくれた。
 まだどこかだるさの残る体を動かそうとして、わたしは左手に感じる温もりをぎゅっと握りしめた。それに気づいて、体を起こして座っていたモンゴメリがこちらへ顔を向ける。
 モンゴメリは、何も言わなかった。ただ、わたしの額をそっと撫でて、露を拭いてくれた。
 モンゴメリはもう目を隠そうとはしなかった。わたしは、その瞳をずっと見つめていた。
「眠れた?」
 モンゴメリが不思議そうに首を傾げる。
「うん」
「そ」
「ねえ、モンゴメリ」
「ん」
「わたし達が、世界を造り替えるのね」
 わたしの言葉に、モンゴメリはただ穏やかな眼差しで返す。
「わたし、あなたについてきてよかった」
「なんで?」
「だって、世界を造るだなんて、なんだかとても楽しそう」
「変なやつ」
 モンゴメリは笑った。
「そう言えば、前にも言ってたな。俺が世界を救う人なら、自分も同じことがしたいんだってさ。本当に変なやつ。あんなの、告白みたいじゃんか」
「告白?」
「病める時も健やかなる時も、って知ってる?」
「知ってるわ、それくらい」
「そう言われた気持ちがした」
 モンゴメリはくすくすと笑う。
「そう? だって、本当に、あなたがわたしの知らない世界を教えてくれる気がしたの。友達になりたかった。一緒に世界を造れるなら、楽しいなって思ったの」
「それ、俺もヨルダに言ったよ」
 モンゴメリは穏やかに呟いて、空を見上げた。
「お前って、本当に変なやつだな。普通そう言うのは、何も知らない子供の無邪気な空想ゆめものがたりって言うんだぜ。仮にも俺はあの頃お前が好きだったってのにさ、友達って思ってたわけじゃないのに。あんなこと言われたら、毒気も抜かれてしまうじゃん」
「わたし、欲張りみたい」
「貪欲すぎて、笑っちゃうよ」
「ひどい」
「つまり、恋人より、友達が欲しかったわけだ。馬鹿がやれるみたいな、さ」
 モンゴメリが、子供の様に悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「そう。そうかもしれない。わたし、あなた達がうらやましかった。あなたと彼は、本当に仲が良かった」
「はは、そうだな、そういう未来だったら、造ればよかった。お前と、ヨルダと、俺でさ、ああでもないこうでもないって言いながら未来の世界を空想してさ、一緒に遊べばよかったな。俺、もったいないことした。多分きっと、その方がずっと楽しかった。でもそうなってもきっと、俺もヨルダも、結局お前に振り回されるんだろうな。お前、意外とじゃじゃ馬だもん」
「心外だわ」
 わたしはむっとしたけれど、モンゴメリが幸せそうに笑うから、それ以上何も言えなかった。
「知ってる? 空想ってさ、終わりのない世界なんだよ。だから、想像するだけならただだよ。変なの。ようやくお前とこうして話せるようになったってのにさ、なんだかずっと三人で一緒にいたような気がする」
 モンゴメリはそう言って、わたしの隣にごろんと横になった。
「好きだよ」
「うん」
「ケイッティオ」
「何?」
「ありがとう」
 わたしは一瞬、何も言えなかった。モンゴメリの腕がわたしを包み込む。わたしは素直に、彼の胸へと頬を寄せた。
「わたしこそ……」
「ん?」
「ありがとう」
「はは、何それ」
「ひどい。モンゴメリが先に言ったんだから」
 モンゴメリはからからと笑った。わたしは、とても不思議な気持ちでそれを眺めていた。
 この人は、こんなにも明るく、元気に笑う人だったのだ。
「どうしようかなあ」
 不意に、モンゴメリが呟いた。
「何、が」
 わたしの声は震えていた。身動きが出来なかった。モンゴメリが、わたしを隙間なく抱き寄せていたから。
「ん? いや、どうしようかなって」
「それじゃわからない」
「むくれるなよ」
 モンゴメリは相変わらずくすくすと笑っていた。
「どんな世界にしようかなあ」
「どうして?」
「だって、好きにできるじゃない。六人もいるんだから」
 わたしは、何も言えなかった。もう、ハーミオネはいなくなってしまったよ、なんて。
 言えなかった。だって、そういう事だから。
 世界を造るって、そういう事だから。
「そう言えばね、」
 わたしは、声が震えないように、身体が震えないように、モンゴメリの胸に顔をこすりつけた。
「ハーミオネは、南極が豊かな森になればいいのになあって、言ってた」
「は? 南極が? なんで」
「なんかね、南極は、地球の端っこで、冷たすぎて、誰もいけない厳しい不思議な大地だからって。もしも森になったら、南極は素敵な世界になるに決まってるって。誰も知らなかった世界を、歩けるようになるからって」
「なんだろうなあ」
 モンゴメリはどこか呆れたような、そしてどこか、憧れたような声で言った。
「女って、男より冒険心に溢れてるのか?」
「それ、誰と比べて言ってるの」
「さあ?」
 モンゴメリはわたしの髪をそっと指で梳いた。
「それもいいけどさ、俺は、空を歩けるようになったらいいなと思うけど」
「空を?」
「うん。ほら、お前って重力をうまく利用して、まるで階段を上るみたいに空へ上がっていくじゃん。空を歩くことができるじゃんか。羨ましいなって思ってたんだ。小さい頃から思ってた。こんな砂だらけで喉が渇いてばかり見たいな世界じゃなくて、あの青空で、瑞々しい世界で、眠ることが出来たらいいのにって」
 そう言って、モンゴメリは空に手をかざした。
「まあ、空の青色もー目の錯覚なんですけどー。結局雲だって、人間は触ることもできないんですけどー」
 そう、大声で言って、ぱたり、と腕をおろす。
 拗ねたようなその仕草がなんだかかわいく思えて、わたしは笑っていた。やがてモンゴメリもつられて、わたし達は随分と長い間、大笑いをした。止まらなかった。温かな気持ちと、苦しい気持ちがどこまでもどこまでも湧いては流れて、止まらなかった。
 風が、森を吹き抜ける。
「行かなきゃ」
 モンゴメリが、静かに、低い声でそう言った。
 わたしもわかっていた。
 二人で、手を取り合って体を起こす。しばらく二人で見つめ合っていた。森の滲むような深緑の中で、モンゴメリの紫の髪が、とても綺麗だと思った。モンゴメリの唇が、わたしのそれとわずかに触れて、離れた。わたしは目を閉じた。泣かない。泣いてはいけない。
 後は何も言葉を交わさなかった。わたしは、モンゴメリに手を引かれる様にして、森を出た。

 さようなら。

 そう呟いて。

「変なの」
 モンゴメリがそっと呟く。わたしは何も言わずに、彼の言葉を待っていた。
「ヨルダと逃げるために線路を辿って、あの場所を見つけたのに」
 モンゴメリの髪が、日の光を透かしてわたしを瞬かせる。
「同じ線路を、今度はケイッティオと一緒に歩くんだな。今度は、本当に、世界に帰るために」
 この白い砂の大地を歩く足跡を、線路、という気持ちはよくわからなかった。
 けれど、もし線路だというのなら。
 必ず終わりがあるだろう。
 わたしは、もう、この人と同じ道を歩くことは無い。
 ふいに、ふわりと風がわたしの頬を霞めて通り過ぎた。わたしははっとして後ろを振り返る。小さくなった森が見える。
「どうした?」
 モンゴメリが優しく呟いた。わたしは首を振った。
 誰かが――わたし達が置いてきた誰かが、あの場所へ帰ったような気がした。線路を正しく進んで。砂の線路を逆走するわたし達を、送り出すように。
 わたしは、モンゴメリの広い背中を見つめ続けた。その紫も、ゆれる髪も、風が運ぶ匂いも、覚えておきたかった。もっと一緒に居たかった。あまりにも、一緒にいられる時間は少なすぎた。神様の砂時計は無慈悲に傾いて、時を刻んでいく。世界中に揺れるこの砂は、いつだってわたし達と共にあった。過去にだって、今だって――そして、これからだって。だとすればきっと、この砂はわたし達の時間そのものだ。いつかどこかへ吸い込まれて、戻ってこないだろう。それでも構わない。わたしはこの砂の世界に生まれ落ちたことを、生きてきたことを、幸せに思う。

 わたしは、青空の中に蠢く黒のオーロラを見つめた。

四十一、星降る世界

 得体のしれない、気味の悪い虫のように、それは蠢いている。
 レレクロエは、空に浮かぶ、黒い光の手が絡まりあった糸玉を見上げた。
 こんな姿になるまで人の作った毒を飲みこんだのかと、哀れにさえ思う。
「何が君をそこまで追い詰めるの。何がしたいの。こんなことをしたって、ハーミオネは喜ばないよ。大体、そこまで絶望することでもないんじゃないの。僕には理解ができない」
「よく言うよ」
 ミヒャエロが、毒々しい黒の隙間からレレクロエを見下ろす。
「君も、おれと同じ立場になってようやくわかるだろうさ。だっておれ達はよく似ているから。まあ、君の方が幾分かましか。君は認めているものね、自分の気持ちを」
「なんのこと」
「……ねえ、こんな時まで、そうやって君の心を騙すつもり?」
 ミヒャエロは苛立った声をあげた。レレクロエは目を細める。
「君ったら、随分と性格が悪くなったね」
「お生憎だよ。元からだ。単におれは、ケイッティオに嫌われたくなかった。だからいい顔をする癖がついてたんだ。でも、そんなのって杞憂だったかもしれない」
 そう言って、遠くを見つめるミヒャエロの視線をレレクロエは追った。小さな二つの影が、揺らめいている。
「こんな時でも、こんな風に自暴自棄になっただけのおれを、ちゃんと迎えに来てくれるような子だったんだ。大事な妹だった。おれ、なんで見失ってたんだろ」
「自暴自棄だって自覚はあるんだね」
「もちろん。そこまで馬鹿じゃない」
「馬鹿がよく言うよ」
「君には言われたくない」
 ミヒャエロは棘のある声で答えた。
 ミヒャエロの体は、融けかけていた。崩れていく身体を繋ぎとめるように、混沌のオーロラが彼の体を侵食する。再生が追い付かないのだろう。彼は、何かを伝えるためだけに、必死で【ミヒャエロ】という個を保っている。
「ねえ、そんな姿になってまで、君は何がしたいって言うの」
 レレクロエは、もう一度尋ねた。ミヒャエロは、レレクロエを小馬鹿にしたように笑った。
「いつか、君は言ったよね。おれ達が、モラトリアムを引き延ばそうと足掻く滑稽な道化だって。ピーターパン気取りのがらくただって。そのモラトリアムを終わらせてあげようとしているんだよ。もう、あの雨は降らないからね」
 そう言ってミヒャエロは、隈の深く刻まれた目をすっと細めた。
「誰かが、はじめなきゃいけないだろ? 誰も、こんなに楽なモラトリアムを終わらせる勇気なんてないんだろ? だからおれが、創めてあげるんだよ。臆病なばかりの君達のために。ずるいだけの、おれ自身のために。レレクロエ、君だって結局臆病者だ。君はただ、残していく辛さに耐えられないだけでしょう? 残していく勇気がないだけでしょう。だから残ることに甘んじようとするんだ。君はいつか言ったね? 『僕はみんなと一緒にいる』って。どこまでも一緒にいる、ついていくってさ。それって、ただの驕りだよね? 君はただ、終わらせることも始めることも怖がっているばかりの、そしてそれを巧妙に隠そうとするだけの卑怯者だ。散々終わりの準備をしておきながら、自分では何もできない。可哀相な人だね、レレクロエ」
「随分な言いようだよね」
「君にこんなこと言ってやれるの、おれしかいないでしょう? 君と同じように、世界に自棄になっているような、おれくらいしか」
「僕は、自棄になんか、なってない」
 レレクロエは声を震わせて、ミヒャエロを睨みつけた。
「どうだか。本当にそう言える?」
「君こそ、自棄の果てに死んだって、そんなの誰も望まない。君を想う人を蔑にするなよ。何がしたいんだよ!」
「じゃあ、誰がこんな役、してくれるってんだよ!」
 ミヒャエロは叫んだ。
「誰が好き好んで、やってると思ってんだよ! 誰が真っ先に消えたかったよ! 君は知ってたんだろ? ハーミオネが、一番最初に死ぬんだって、知ってたんでしょう! あの人が死んだことも、いなくなってしまったことも、悲しむのは後にして今やれることをさっさとやれって言ったのは誰だよ! お前らは、お前らは……結局、誰かが動かないと、動いてくれないじゃないか。誰が一番辛かったと思ってんだよ。おれが一番、時間が欲しかったに決まってるだろ!」
 泣きそうな顔で、そう叫ぶ。
 レレクロエは、顔を背けて唇を噛みしめた。まだ何も始まっていない。これくらいで辛いだなんて思う資格はないのだ。
「別に……おれは……自棄で消えようだなんて、してないよ……するわけが、ないじゃないか」
 ミヒャエロは、疲れたように笑った。レレクロエを憐れむように、自分を蔑むように。
「おれなりに考えた……だけだよ。おれにしかできないことを、考えただけだよ」
「君のその姿は、結局ただの何の役にも立たないがらくたのままだよ。馬鹿」
 レレクロエはミヒャエロを睨みつける。けれど、ミヒャエロはそれさえも受け止めるようにレレクロエに笑いかけた。
「そんな、悲しそうな顔しなくていいよ」
 そう言って、深い溜息をつく。
「これは、おれ一人じゃできないんだ。だから、待ってる。だからギリヴに頼んで、君とモンゴメリを呼んでもらったんだ。二人に、最期のお願いがあるから」
「……っ、最期とか言うなよ!」
 レレクロエが叫ぶ。俯いたままのその顔にどんな表情が浮かんでいるのかなんて、ミヒャエロには推し量ることはできない。
「あのさ、レレクロエ。おれね、ハーミオネの力をもらっちゃってんだ。さすがにそんなところまで君は知らないだろ」
 レレクロエが顔をあげる。ミヒャエロは思わず吹きだした。
「そんな、捨てられた猫みたいな顔してんなよ。本当に、変なやつなんだから」
 ミヒャエロは深く息を吐く。
「だからね、つまりさ、おれ達は、死んでいく度に、残された誰かに自分の力を残して逝かなければいけないんだ。それって酷だよね。それにさ、その人の感情も、思い出も、全部受け取るんだよ。おれ、ハーミオネがおれのこと、あんな昔から知ってたなんて知らなかったんだ。ひたすらに、おれを助けなきゃ、傷を洗ってあげなきゃって。苦しんでいるんだ。死んでしまう、死んでしまうって。おれに只管懺悔を繰り返す彼女の声が聞こえる。そんなにも苦しめていたって知らなかった。あの感情が、この力の源だったのかな。だとしたら、おれのこの力だって、おれの毒みたいな感情の賜物だよね。おれは、それをさすがにケイッティオとギリヴには託せやしない。少なくとも、今は」
「だから………僕に、貰ってほしい、ってわけ?」
「そうだよ。できるだろ。だって、最後まで残るんだから。どうせ、全部君のものになるんだから」
「はは」
 レレクロエはくしゃりと頭を押さえて力なく笑った。
「そんなの……お願いですら、ないじゃないか」
「残酷なことを言ってごめんね」
 ミヒャエロは穏やかな眼差しでレレクロエを見つめる。レレクロエはかっとなった。
「だから、そんなこと、お前に言われたくなんかない……!」
「はは。レレクロエっていつもすましてたから、どんな子なのか不思議だったけど、案外ただの短気な小物だったね」
「お前……」
「でも、嫌いじゃないよ」
 ミヒャエロは穏やかに目を細めながら、地平線を見つめた。
「君がおれ達を叱ってくれなかったら、こうして一緒にはいられなかった。こうして、逃げることはできなかった。いつだって君は、おれ達を引っ張っていてくれたよね。あれはとても負担だったんだろうなと、今ならわかるよ。いつも、君にばかり背負わせて申し訳なかった」
 レレクロエは何も言えなかった。ミヒャエロは、疲れたように、悪戯の成功した子供の様に、笑った。
「おれ、意外とちゃんと考えているでしょう?」
「馬鹿じゃ、ないの……」
「馬鹿だよ。馬鹿だから、大事なものも守れない。大切な人も……失った」
 ミヒャエロは、いつかも呟いた言葉を零した。
「ねえ、レレクロエ」
「なんだよ」
「君は、結局、何者だったの」
 ミヒャエロはもう、レレクロエを見てはいなかった。体は淡い輪郭だけを残して、黒い靄と同化していく。
「おれはね、方舟になりたいんだ。いつか、生まれ変わった世界に放たれる命を、しばらくの間守ってあげる、しばらくの眠りを、暗闇を与えてあげられる、方舟になりたい。ハーミオネはこの世界を愛していたから。あの子は別に、人間だった自分や世界を厭ってマキナレアになったわけじゃなかった。あの子はこの世界を愛していたからこそ、自分にできることをしたんだ。それが本当は、初めて好きになったおれに近づきたかったからっていう、ちょっとした我儘だったとしても、可愛いものじゃない」
 声はくぐもって、くすりと笑う。
「だからおれは、おれ達が生きたのと全く違う新しい世界よりも、綺麗になった世界で、息を吹き返した世界で、また同じ命が生きていくことを望むよ。そのために、すべてをおれの中に飲みこむんだ。だけど、おれだけじゃ足りないや。おれには引力を造れないから。世界の全てを惹きつける力は、まだおれのものじゃないから」
 レレクロエは、ミヒャエロの声の届く先を見つめた。モンゴメリは、前髪を引きちぎったようなていで、ケイッティオの手を引いていた。その柘榴色の瞳は、宝石のように瞬いた。もう、揺らがない、そう決めたみたいに。
 モンゴメリは、レレクロエに笑いかけた。
「なんだよこれ。気色悪いな」
 そう言いながら、楽しそうに笑っている。
「気色悪いとは随分だね。君も大差ないよ」
「はは、違いないや」
 ミヒャエロの悪態に、モンゴメリは笑う。
「で? どうすればいいの? 呼んでたろ、俺のこと」
「よく言うよ、白々しい。だからあんたのこと嫌いなんだよ。最初の子供なんだから、何だってお見通しだろ、おれなんかの思いつくことくらいさ」
 ミヒャエロも笑った。
「助けてよ、モンゴメリ」
 言葉が降る。
 モンゴメリは静かに振り返って、ケイッティオを見つめた。ケイッティオは、いつものような無表情で、必死で笑おうとしていた。それをどこか悲しげにモンゴメリは見つめる。モンゴメリは何も言わなかった。やがて、二人の手は、指先を触れさせ、離れていく。
「ミヒャエロ」
 モンゴメリがにやりと笑った。
「何」
「ごめんな」
「何それ。それは何に対して謝ってんの? ケイッティオのことなら、別にどうでもいいよ。あんたのことは嫌いだけど、別におれは、あの子の幸せまで厭ったりしないよ」
 ミヒャエロは柔らかい声で言った。
 モンゴメリは、黒い光の手に腕を伸ばす。光はモンゴメリを絡め取った。体が宙に浮いて、黒い渦に飲まれていく。
「モンゴメリ」
 レレクロエは、小さな声でその名前を呟いた。
「何?」
「君の名前を、返すよ」
「はぁ? んなの、もういらないよ。それより、お前こそ、名前返してもらったら?」
「違う。……いや、そう、だね。じゃあ、返してもらうよ」
 モンゴメリは、レレクロエを見て、ただ笑っていた。
「エスト」
 レレクロエは、そう呟いた。
「エスト、だよ」
「そっか」
 モンゴメリは嬉しそうに歯を見せた。
「じゃあな! エスト!」
 モンゴメリは、誰も見たことがないような、心から楽しげな様子で笑って、世界を見つめた。その瞳から、紅い輝きの欠片が、流れ星のように弾けて降り注ぐ。世界が芳しい香りで満たされる。雨を降らすことを忘れた世界に、星の雨が降り注ぐ。
 ぱらぱらと。ばらばらと。ぼろぼろと。
 やがて世界は淡く色づいて、ゆっくりとその身体をもたげた。
 吸い込まれていく。
 かつての救世主に魅せられて、惹かれて、世界が彼を愛すように、吸い込まれていく。
 世界の破片を、ミヒャエロは次々に飲みこんでいった。
 やがて、モンゴメリもまた、その黒に侵食されていく。
 花が降る。花が降る。
 空を、たくさんの色が覆い尽くす。
 ずぶずぶと頬を染め上げる黒の中で、モンゴメリはケイッティオを探した。
 榛色の目は、瑞々しく震えて、モンゴメリを見つめていた。
 笑いたくても、もう、笑う口がない。
 手を伸ばしたくても、その腕が、もうない。
 触れた指さえ、もう感じることができない。
 モンゴメリは、目を柔らかく細めた。そうして、睫毛を震わせて、目を閉じた。
 意識が、黒に滲む。

 二人の意識は、そこで途絶えた。


     *


 レレクロエはくるり、と背を向けた。
 耐えられない。
 まだ僕には、耐えられない。
 酷いじゃないか。
 せっかく、僕が僕なりに準備していたのに。
 そんなの全部ぶった切って、勝手な行動ばっかりして。
 心の準備が、追いつかない。
「どこへ行くの」
 ケイッティオの静かな声が追いかけてくる。
 それに一瞬だけ足を止めて、またレレクロエは歩き出した。
 空を仰ぐ。人間も、家畜も、植物も、有機物も無機物も。
 みんな、吸い込まれていく。
 抗いようのない力で。
 何かに惹かれるような心地がして、レレクロエは振り返った。
「化け物みたい」
 何もかも呑みこんでいく黒い方舟を見つめて、レレクロエは呟いた。
「化け物みたい……」
 喉の奥からせりあがってくる何かを堪えるように、その景色に背を向ける。
 馬鹿みたい。馬鹿みたい。
 こんなもの、わからなかったなんて。覚悟が追い付いて行かないなんて。
 僕ってなんて、役立たずなんだろう。
 ――使徒様。
 誰かが、呼んだ気がした。
 もう一度、今度はどこか諦めたような心地で振り返る。
 ふわりと、水と泥の匂いがした。
 蓮華草が、はらはらと風に舞って、泥を零しながら飛んでいく。
 何もかも、残した世界が壊れていく。
 ――ギリヴは、どこにいるだろう。
 ぼんやりと、そんなことを考えた。
 レレクロエは鼻を鳴らしながら、世界から目を逸らして歩き続けた。砂が頬を切り裂く。砂さえも吸い込まれていく。足が沈んでいく。ずぶずぶと。このまま砂に呑まれて、あの方舟に紛れてしまうのもいいかもしれない。もう、疲れた。何も考えられない。僕はまた置いて行かれてしまう。置いて行く覚悟も、置いて行かれる覚悟も持てきれないまま、取り残されてしまう。
 長い月日、埋もれていた海が、濃紺の海が顔を覗かせる。
 水面はレレクロエの体を支えることはできなくて、レレクロエは海に呑まれていった。水面がゆらゆらと光の網目を浮かべて揺れている。
 それを、目頭に熱を感じながら、喉を震わせながらぼんやりと睨みつけていると、誰かの白い手がレレクロエの腕を掴んで、引き上げた。
「何してるの」
 ケイッティオが、柔らかく言って首を傾げる。
 両手を繋いで、向かい合うように水面に降り立った。
「目を逸らさないで」
 その声に思わず顔をあげると、ケイッティオはその瞳にレレクロエを映していた。子供の様な、寄る辺の無い姿。
「君――」
「ミヒャエロの意見なんか、知らない。わたしにさよならも言ってくれない。わたしにとっては、いつまでもあの人は、大好きなお兄ちゃんなのに」
 そう言って、少しだけむくれたように、けれど晴れやかに、笑った。
 痛いだろうに、苦しいだろうに。そう言って、笑った。
 モンゴメリは確かに、この子の笑顔を残していった。
 レレクロエはその場に崩れ落ちて、肩を震わせる。
 信じられない。
 守るつもりだったのに。見届けるつもりだったのに。
 ヨーデリッヒの未来を守るつもりで、その覚悟で、この世界を選んだ。
 ケイッティオの最期を看取ることは、自分の役目だった。
 けれど、この少女は。
 モンゴメリと同じ光を瞳に浮かべて笑う少女は。
「わたしはあなたを世界に置いて行くから。だからせめて、最期まで、あなたに何かを返させて。わたしの生きる意味は、それなのだわ」
 ケイッティオはそうやって笑う。
 ――僕は結局、レデクハルトから贈り物をもらったってわけだ。
 笑えて来た。
 彼の願いをかなえるために、ヨーデリッヒが彼女を差し出したのに。
 そんなヨーデリッヒの代わりに、この世界に来たのに。
 なのに、逆に与えられてしまった。
「ずるいよ、それ、その二つ、僕が貰うことになってたのに」
「逃げ出すから、悪い」
 ケイッティオはそう言って、水面を踏みしめた。
「さあ、帰ろう。ギリヴが待ってる」
 僕は乾いた笑いを浮かべながら、真っ青な海を渡った。
 緑が見える。紅紫の、淡い絨毯が見える。
 見渡す限りの、何もない海の上で。
 その場所だけが、残っていた。
「馬鹿みたいだ」
 ヨーデリッヒが、彼らに遺したつもりの宝物は、彼らの手で、ヨーデリッヒに贈られたのだ。
 僕は初めて、ヨーデリッヒの呪縛から解放されたような心地がした。
 僕という誰かが、二人の死を悲しんでいる。
 僕は確かに、あの二人のことが好きだった。
 ミヒャエロが僕のことを卑怯者だなんて言ったのは、あながち間違いでもなかったらしい。
 結局僕は、ヨーデリッヒを言い訳にして、自分の心から目を逸らしていたのだ。
 僕なんかよりもずっと、二人の方が、わかっていたのだ。
 僕は、彼らといる時間が好きだった。
 六人でいられた時間が、宝物だった。今更気が付くだなんて。
 案外、ミヒャエロの叱咤が、堪えているのかもしれない。
 今なら、僕はギリヴを素直な気持ちで見れるだろうか。
 緑の隙間から、ギリヴの鮮やかな頭が小さく覗いている。
 青い海に、とてもよく映えている。
 ギリヴは、二人をずっと見つめていた。思いつめたように。安堵したように。
 目が合う。ギリヴが苦しげに顔を歪める。
 たまらなくなった。
 レレクロエは、掌で顔を覆った。爪を皮膚にくい込ませるように、強く。
 止まらなかった。
 泣かないと誓ったあの日が懐かしい。
 ――泣き虫エスト。
 エリーゼが、幼い頃の声でそう囁いた気がした。そうだ、そもそも僕は、泣き虫だったのだ。
 死なせてしまった。逝かせてしまった。始まってしまった。もう止まらない。止めることができない。
 随分と、柄にもないことばかりしてきたものだ。今なら、ギリヴに触れられる気がした。心を曝け出す怖さも、この痛みに比べたら、どうと言うことは無い。
 君が、無事でいてくれてよかった。まだ、生きていてくれてよかった。
 ギリヴ、僕は、まだ君に何も伝えていない。
 どうか。どうか、もう少しだけ。僕に、時間を頂戴。
 ケイッティオの指先に、力が込められたような気がした。


四十二、花降る世界

 ケイッティオと二人で、空をふわふわと漂う。
 ケイッティオは眩しそうに空を仰いでいた。あたしはといえば、目に飛び込んでくる風に瞼を屡叩かせていた。
「何かいいこと思いついたー?」
 あたしは、轟々と耳元で唸る風の音に負けないように叫んだ。
「まだー」
 ケイッティオも、ケイッティオにしては大きな声でそう言った。
「空に生き物が住めるようにするには、どうしたらいいんだろう」
 ケイッティオが嘆息する。
「というか、それって、結構無謀なんじゃないのー? だって結局空って空気だよー? この色だって、日の光なんだってよー? 昔誰かが言ってたー」
「それなのー」
 ケイッティオが、お手上げだ、と言うように腕を伸ばした。あたしは水の中を泳ぐようにぱたぱたと足を動かして彼女に寄り添い、その手に指を絡めた。
「でもねー、モンゴメリが空を歩きたいって言ってたから。わたしも、それは素敵なことだろうって思うからー」
「だよねー」
 あたしも、空の王国を作るだなんて、なんて素敵だろうと思った。
 あれからずっと、二人で頭を悩ませていた。せっかく世界を造り替えるのだ。これくらいの我儘は許してほしい。あたし達が、子供じみた夢の世界を造ろうとするのを、許してほしいのだ。
「ねー、ケイッティオー」
「なにー?」
「空の上を歩こうとする発想がだめなんじゃないー? だってほら、地球だって、球体なんでしょ? だから重さがあるんでしょー? だから歩けるんでしょー? 違ったっけー?」
「わからないよー」
 途方に暮れたように、難しそうな顔をしてケイッティオは眉をひそめた。その顔があまりにも可愛げがなくて、だからこそ愛らしくて、あたしは笑ってしまった。
「じゃあ、球形にすればいいのー? でも、どうやってー?」
「それこそわかんないーっ!」
 二人で大笑いをする。
「そうだ!」
 あたしはいいことを思いついて、にかっと笑った。
「なにー?」
「発想の転換ってやつ! ねえ、空を歩くんでしょ? つまり地面が空なんでしょ? だったら地面が空になるんだよね? そういうことだよね?」
 ケイッティオは、またあの難しそうなしかめ面になる。
 しばらくして、花が咲くように顔を輝かせた。
「そう! それだわ、ギリヴ! 頭いい!」
「えへへー、でしょー」
「そう、だって、空の上を歩くのに、空の空がまた空だなんて、気が狂っちゃいそうだもの」
「あはは! 空の空の空? あはは!」
「そうだわ、空の空の空があるのよ、変」
 二人でお腹を抱えて笑い転げる。
 どうしてだろう、空の中で、明るい青に囲まれて、二人でふわふわと浮いているからだろうか。なんだって面白くて、楽しかった。笑ってばかりだ。ハーミオネったら、なんてもったいない。今、この場所に居てほしかった。この、澄み切った、晴れ渡った空の中で、三人で笑いあえたらどんなに楽しかっただろう。
 ひとしきり笑った後で、二人で顔を見合わせる。
「で、どうしよっか?」
「わからない……」
 二人して、途方に暮れる。同時にまた吹きだす。
「あははははっ」
 あたしたちは、自由だった。
「レレクロエに、聞いてみよう」
 ケイッティオが、涙の滲んだ目尻を拭いながらそう言った。
「うん、それがいいかも!」
 そう言って、二人で輪を作るみたいに手を繋ぐ。
 ケイッティオが力の拘束を解いた。あたしたちは、勢いよく落下していく。
 それがまたどうにも可笑しくて、あたしたちは笑いっぱなしだった。
 きゃー、だとか、さむーい、だとか、痛い、だとか、色んな悲鳴をあげて、くるくると回りながら落ちていく。
「あっ、しまった。どこに落ちる?」
「うーん……」
 ケイッティオは眉根を寄せる。
「海に落ちるのと、枝をなぎ倒すのと、」
 ケイッティオは、とっても真面目な顔をして選択肢をあげていく。
「……レレクロエに、ぶつかる、とか……?」
「あははははっ」
 あたしはたまらず吹きだして、ケイッティオも表情を崩した。
「それいいわ! それにしよっ」
「怒られそう」
「知らない知らない!」
 笑い続ける。二人で、笑い声をぽろぽろと零していく。
 かくして、あたしたちは二人して勢いよくレレクロエの背中に突進した。
 もちろん、手加減は忘れずに。


     *


「もう……これだから女は……」
 レレクロエが頭を抱えている。
「ごめんってば! ちゃんと謝ったじゃない」
 大して反省もしていないけれど、とりあえず謝ってみる。
「ねえ……君たちが空に飛ぼうが海に潜ろうが知ったことじゃないけど、頼むから僕を巻き込まないでよね……君たちと違って頑丈じゃないんだけど」
「男なのに頼りないわね?」
 あたしの言葉に、レレクロエはむっとする。
「別に暇だからいいじゃないの。レレクロエったらなんにもやってないじゃない。たまにはあたし達に付き合ってよ」
「やだよ……僕は二人のノリにとてもじゃないけどついていけないんだって……」
 心底疲れたようにぼやくレレクロエに、ケイッティオがくすり、と笑った。
「ねえ、レレクロエ。空を地面にして地面を空にするにはどうすればいいと思う?」
 ケイッティオが至極真面目にレレクロエに尋ねる。レレクロエは、恐らく過去最高に面倒くさそうな顔になった。
「……は?」
「あ、えっと…だから、青い空を踏みしめて、見上げたら大地があるような……」
「いや、言い換えてるけどそれ殆ど変わってない」
 レレクロエは半眼であたし達をじとりと見つめる。
「なんか馬鹿なことしてるなと思ってたら……そんなことしようとしてたわけ?」
「だめ?」
 ケイッティオがどこかしょんぼりとしたようにそう言う。あたしはケイッティオの肩に手を乗せた。
「ちょっとー。他は何もしてないんだから、こういう時くらい何かいい案だしてよー」
「そのとんがり口うっとうしいからやめてくれる……」
 レレクロエは、はあ、と深いため息をつく。
「簡単じゃないのさ。重力を逆さまにすればいいじゃない」
「あっ、そうか」
「でも……どうやればいいの?」
 ケイッティオは不安そうに言う。
「え? だって君、いつも重力打ち消してるじゃない。できるんじゃないの」
「わたしのは、そう、重力を打ち消しているだけなの。でも、重力の基準は変わってないの。もし逆さまにするなら、別の重力が必要でしょう? どうしたらいいんだろうって……」
「はあ……」
 レレクロエは微妙な顔をした。
「結局、重力だってどんな力だって、ベクトルっていう方向の集合体なんだよ。その方向を逆に収束するように捻じ曲げればいいじゃない。ギリヴがいるんだから、できるでしょ」
「へ?」
 あたしは、自分でも間抜けな声をあげてしまった。
「なにその間抜け面。だから、ギリヴの力は破壊だけじゃなくて、大きな作用を及ぼす力なんだ。破壊はその一部だよ。うまく調節すればいいじゃない。ギリヴの力でうまく捻じ曲げるんだよ。ギリヴ一人ではやりすぎるって言うんだったら、ケイッティオが助けてやればいい。ギリヴの力を、適度に分散してやればいいんだよ。君の言うところの、【奪う】ってやつ」
「な、なるほど……」
「……本当にわかってんのかな……」
「あんまり」
 レレクロエはあからさまな溜息をついた。
「え? それで、君達はこの世界をひっくり返したいの? そういうこと? 全部?」
「全部、じゃないわ……あのね、ハーミオネの言ってた、南極の森も作りたいから」
 ケイッティオは華やかに笑う。とてもわくわくしたように顔を輝かせる。レレクロエはあからさまに絶句した。
「は? ……なんだって?」
 先を聞きたくなさそうに、そう呟いてくる。
「南極の氷を溶かして、緑豊かな土地にしたいんだって」
 あたしがそう補足すると、レレクロエはまた微妙そうな顔になった。
「……女って変な子ばっかりだね……頭おかしいんじゃないの……」
「あら、何か聞き捨てないことを言われたわね?」
 あたしはにっと笑う。
「はあ……。それだったら、空に別の球体――星でも作れば? 空を歩くのとは違うけど、でも、この地球の大地は空になるよ、その星から見るとね」
 まあ本当は引力的に近すぎるとまずい気もするけど、とかなんとか、レレクロエはぶつぶつと難しいことを呟く。
「うーん……わかった、やってみる」
 ケイッティオが唸る。
「材料はいくらでもあるだろ、ミヒャエロの混沌の中にさ。好きなだけ使っていいんじゃない」
「そうね」
 ケイッティオは、少しだけ強張った顔で、儚く笑った。あたしは、胸のあたりをぎゅっと握りしめていた。


     *



 力を受け継ぐと、元の持ち主の記憶や感情が流れ込んでくるのだという。
 ケイッティオがはっきりと言ったわけじゃない。
 なぜあたしがそんなことを知っているのかと言えば、そのことが全て、ミヒャエロの日記に書いてあったからだ。
『ハーミオネの感情が、おれの中で何度も何度も巡り続ける。
 ハーミオネは、おれが彼女と出会うずっと前からおれのことを知っていたのだ。おれは一度死にかけたことがあった。馬車の下敷きになったのだ。その時の馬車に乗っていた少女が、ハーミオネだった。ハーミオネはその時、ぐちゃぐちゃになったおれの体を見ている。目に焼き付いて離れなかったのだろうと思う。彼女の声がずっと、「ごめんなさい」と繰り返す。「あの子の傷を洗ってあげないと」「治してあげないと」「砂が入ってしまう」「ばいきんが入ってしまう」「死んでしまう」――そればかりを繰り返している。
 彼女がおれに遺した記憶と感情は、それが全てだった。あまりにも偏りすぎていると思った。おれは、彼女のそんな悲痛な声を聴き続けるのが辛かった。きっとこの記憶と感情は、ハーミオネの力の源なのだろうと思う。ハーミオネはただひたすらに、自分のせいで死ぬかもしれない一人の乞食を、助けたいと苦しんでいた。きっと、おれ達が再会した時ですら、その想いは消えなかったのだと思う。』
『だとすれば、おれはもし、この力を失う時、おれ自身が死んでしまう時、この力を受け取る誰かは、おれの記憶と感情を――恐らく、おれがずっと隠してきた、一番汚くてどす黒い感情を、嫌がおうにも見てしまうんだろう。おれ達は、死ぬ時まで楽に死なせてはもらえないみたいだ。
 でも、おれはそうだとするなら、おれ自身の力をケイッティオやギリヴに渡すことはできない。ケイッティオにはおれのそんな醜い本当の姿なんて知られたくない。知られるのが怖い。ギリヴはきっと弱い人だから、こんなものを受け取ったらずっと泣いてしまうだろう。そんなことはできない。』
『惜しいことをしたなあと思うのは、レレクロエと、モンゴメリのそれを、おれは観ることができないってことだ。
 レレクロエは本当に変な人だった。あの人が何を抱えていたのか、結局彼は何も話してはくれなかった。少しだけ寂しいなと思う。おれは、あの人のことを友達だと思っていたから。あの人は、おれにいつだって痛い言葉を投げたけれど、それはどれも図星だった。言われるのは本当に悔しかったけれど、言ってもらえたから、おれはおれなりに考えて、死にゆくことができるんだと思う。
 モンゴメリは……単純に、気に入らなかった。でも、あいつもまた何かを抱えていたのなら、それを少しでも知っていたら、おれはあいつと仲良くしてもいいという気分にくらいはなれたかもしれない。まあ、どうしたって気に入らないんだけど。
おれ達は、こんなに一緒にいたのに、結局誰一人お互いのことをよく知らないまま逝ってしまうんだ。それはとても、悲しいことだったなと思う』

 ケイッティオは何も言わなかった。けれど、ミヒャエロの遺した言葉が本当なら、今あの子は三人分の想いと記憶を抱えているはずだ。しかも、恐らくは最も強烈で、残酷な遺志を。それなのに、彼女はそれをおくびにも出さなかった。あたしがミヒャエロから日記をもらったことは誰も知らない。そして、ミヒャエロが日記を書いていたことを知っているのも、おそらくあたしとモンゴメリだけだった。それくらい、ミヒャエロは、ケイッティオやレレクロエ、ハーミオネにそれが見つかるのを嫌がっていたのだ。何故かはわからない。けれど多分、彼らには自分の弱いところを見られたくなかったのだろう。
 だとすれば、あたしはそのことをケイッティオに悟られてはいけないのだと思った。ケイッティオが彼らの記憶を抱えて苦しんでいたとしても、気づいているそぶりをしてはいけない。ケイッティオ自身が、知られることを拒んでいるのだから。
 だからあたしは、ケイッティオがモンゴメリとハーミオネの夢物語を叶えようと一生懸命になっているのを、見捨てることはできない。せめて、それがあの子にとって慰めになるのなら、あたしにできることはなんでもしたかった。
 同時に、あたしには考えていることがあった。
 あたしは、どう死ぬべきか、と言うことだ。
 残された三人での暮らしは、まるであの悲しみが――壮絶さが嘘だったかのように、穏やかで、明るくて、希望に満ちていた。いつまでもこの時間が続けばいいだなんて、少し前のあたしならきっと縋っていたはずだ。あたしは弱虫だから。お別れさえ言えないほどに、狡いから。
 あたしは、ミヒャエロに感謝していたし、恨めしくも思っていた。こんな日記をあたしに遺して。あたしがどうすればいいか考えるように、あの人はこれを残したのだ。あんなにのんびりとして、何も考えていないみたいにして、本当は色々と巧妙に考えているような人だったのだ、あの人は。すっかり騙された、と思った。案外、だからこそ、ハーミオネとは相性がよかったのかもしれない。ハーミオネがあの人に惹かれたのかもしれない。  
 あたしは結局、何もわかっていなかった、ということだ。

 あたしには確信があった。
 レレクロエには、あたし達を置いて行く勇気がない。あの人は臆病だ。弱虫なのだ。冷たい言葉で、自分を守っているのだ。いつか傷つく自分を隠すように。
 ケイッティオには、始める勇気がない。彼女はきっと、恐れている。手に入れた二人の大事な人の記憶を手放してしまうことも、この穏やかな青空を再び曇らせてしまうことも、全て恐れている。
 二人は、逃げている。目を逸らしているのだ。あたしという、もう一人がいるから。だから二人は、現実から、未来から目を逸らし続けることができる。それはとても楽なことだ。幸せとさえ言えることだ。あたしだって、終わらせたくない。消えたくない。二人を残していくことが辛い。きっとあたしは、誰の記憶も抱えないままでいられているからこそ、自由なのだ。あの二人と違って、あたしだけが、柵を持たないのだった。それを見越していたから、ミヒャエロはあたしを選んだのだ。あたしに託したのだ。

 ――自棄になったふりなんかして、ほんっとうに、狡賢いんだから。

 記憶を受け取るのは、どんな心地なのだろうと思う。
 あたしには、それをすんなりと受け入れているミヒャエロが、ケイッティオが、おそらくそれさえ知っていてなお残ろうとしているレレクロエが、信じられない。
 それはきっと、あたし達が一番見られたくない心の奥深くの闇なのだ。
 あたしは、それが暴かれてしまうのは辛い。それでも、その痛みさえ、必要なことなのだろうか。穏やかな死を迎えるために。神様の代わりに世界を守っていくという使命のために。
 あたしには、わからなかった。
 だからあたしは、向き合わなければならない。
 あたしはずっと、誰かに愛されたかった。
 あなた一人だけだよと、大切にされたかった。
 あたしは、きちんと伝えなければならない。
 あたしをこんな未来まで追いかけてきたのだという、男の子に。
 何も覚えていなくても、思い出せなくても。
 今のあたしの言葉を、伝えなければならない。

「やっぱりね、」
 一人でつらつらとそんなことを考えていると、ケイッティオが躊躇うようにそう呟いた。
「星を作るのは、なんだか違う気がするの」
「ああ、レレクロエの言っていたあれ?」
「うん」
 ケイッティオはゆっくりと言葉を選ぶように言った。
「空がただの空気だったとしても、いいの。だって、やっぱり青く見えるじゃない。日が陰れば赤くなる。朝日が昇れば白む。そんな変化の中で歩くのが、空の国だと思う」
「でも、やっぱり足をつけるための土台は要ると思うよ、ケイッティオ」
 あたしも答える。
「今はあたし達、ケイッティオの力で空の中を歩くことだってできるじゃない? でも、ミヒャエロの中にいる生き物は足場がなければ歩けないよ」
「うん……」
 ケイッティオは小さく嘆息した。
「あのね……」
「うん、何?」
「考えたんだけど……いいのかはわからないのだけど……」
「うん?」
 ケイッティオは、躊躇うように口をもごもごさせていた。
「大きな半球を造ろうと思うの」
「半球?」
「うん。空が全て覆われてしまわない程度の半球。それで、端っこには壁を作りたいの。見えない壁。生き物がそれ以上先に行けないように。できると思う。レレクロエが言っていたでしょう? 力にはすべて方向があるって。だから、半球の淵だけ力の方向を逆に曲げておくの。それ以上行けないように。それなら、空を歩くことができる。大地が、新しい空の国の空になれる」
 ケイッティオは、しばらく目を泳がせた後、消え入りそうな声で言った。
「だ、だめかな……?」
 あたしは一瞬、何も言葉が思いつかずぽかんと口を開けていた。
「や、やってみよう……! なにそれなにそれ! 全っ然想像つかない! ごめん! でも、やってみようよ。あ、あとその半球?の周りはちゃんと空気の方向も変えておかないと、だよね。ここは空気が薄すぎるから。普通の生き物は生きてけないよ」
「うん」
 ケイッティオはどこか安堵したように笑った。
「ありがとう、ギリヴ」


 ケイッティオが、空に浮かぶ黒い靄――ミヒャエロの遺したオーロラの集合体から、大地の材料を取り出して、巧妙に組み立てていく。かつてミヒャエロのものだったオーロラの手をうまく使いながら。
 あたしはそれを不思議な気持ちで眺めていた。あんな風にいつか、レレクロエも六人分の力を使いこなして、仕上げをするのだろうか。こうして、あたしとケイッティオが残していく玩具の跡を、きちんと世界の一部にしてくれるだろうか。
 レレクロエなら、できる気がした。レレクロエはあたしなんかの知らないことをいっぱい知っている。
 だとすれば、あたしの力は、やっぱり必要だろうか。あの人に、残さなければいけないんだろうな。
「ど、どうか、な」
 少し疲れたように息を切らして、ケイッティオが言った。
「すごい……」
 あたしは、ケイッティオの作った半球型の大地を見つめて、息をついた。
 岩石を組み合わせて、なじませて作った土台。そこに並べた土と砂。もちろん、緑や花の苗を植えるのも忘れてはいなかった。
「歩いてみようよ」
 あたしは重力を捻じ曲げる。
 二人で、新しい大地に降り立った。静かに、歩き回る。一面を包む空。地球の大地ははるか遠くにぽつんと見える。あれは海の青なのだ。それなのに、まるで空に見える。
 新しい空が、見える。
「すごい……。すごいよ! ねえ、海が空だよ? 海が空だ!」
 二人ではしゃぐ。
「でも……ここに暮らす人たちにとっては結局あんまり変わらないのかも、ね」
 ケイッティオは少しだけ悲しそうにそう言った。
「結局、雲が傍にあると言うだけで、あんまり元の場所と変わっていない気がしてきた……」
 わかりやすく落ち込んでいる。
「な、何言ってるの! 流れ星がもし落ちても、雨が降っても、この大地から見れば上に吸い込まれていくのよ? 空に吸い込まれていくの。それって素敵じゃない? 十分意味はあるわよ!」
「うん……」
 ケイッティオは力なく笑った。
「でも、雨の降る向きは逆にしておかないとね。だって、水がないと困るわ」
「あ、そうね……」
 それ以上、あたしはなんて声をかけたらいいのかわからなかった。
 二人して、しょんぼりとして海に浮かぶ森へと帰り着いた。


     *


「はあ、それで、あれを作ったわけね」
 レレクロエが、怠そうに腰に手を当てて、新しく空に浮かんだ半球の大地を眺める。
 今日は三人で空へと登っていた。もう、二人ではどうすることもできなくて、結局あたし達はレレクロエに泣きついたのだ。
「はあー……」
「ご、ごめんね」
 ケイッティオが泣きそうになりながらおろおろとして言った。レレクロエはこめかみを押さえている。
「いや、というか、別に発想は悪くなかったんじゃない? ただ、結局さ、逆さまの世界を造るってことだろ? 場所は空だけど――ていうかそこは譲れないんだろうけど、地上とは違う世界を造りたいんだろ? そこ重要なんでしょ?」
「う、うん」
「じゃあ、それを優先させなきゃ。君達ってば、優先順位を間違ってる」
 レレクロエが肩をすくめる。
「どういうことよ?」
 あたしは首を傾げる。
「とりあえず…もったいないけど、これ全部壊してよ。そしたら言うから」
「わ、かった……」
 ケイッティオはしゅんとして、あたしを見た。
 あたしもまた、溜息をついて、一度作ったその半球を崩しにかかったのだった。
 レレクロエは、何かを思案するように腕組みをして海を見つめていた。


 全て元通り――何事もなかったかのような状態に戻して、あたし達は再度レレクロエに向き合った。
「で? 何をすればいいの?」
「塩」
「塩?」
「あと、水」
「えっ?」
「ど、どういうこと……」
「だから、ありったけの塩と水。出して」
 レレクロエは短く言葉を零す。
 首を傾げながら、お皿のようにゆがめたオーロラでケイッティオは水を汲み上げた。
「水と塩をよく混ぜて」
「え?」
「あー……もう……」
 レレクロエは頭を掻く。
「面倒だなあ……ミヒャエロの力だけでも僕もらえないの?」
「えっ、だって、やり方がわからない……」
「何のための自分の力だよ。何も、君のその奪う力の有効範囲は他己だけじゃないでしょ。自分から奪うことだって、可能だろ」
 ケイッティオは、ぽかん、としてレレクロエを見つめていた。レレクロエは肩をすくめる。
「悪かったよ……。ミヒャエロの記憶とか思い出、ケイッティオも見たかったんだろ? 知りたかったんでしょ。だから、受け取ったんだろ。だけど、ここからは僕の仕事だよ。ちょうだい。今度からは……僕も傍観を決めないで、ちゃんと努力するから。君たちと一緒に世界を造るから」
 ケイッティオは戸惑うように視線を泳がせていた。やがて、唇を噛みしめると、くしゃっとした笑顔で笑った。
 そうして、レレクロエと手を繋いだ。ただそれだけのことなのだけど。なぜか、胸がちくりと痛んだ。
 あたしには、何が起こったのかはわからなかった。力を受け取ったことのある人でなければわからないものなのかもしれない。
 レレクロエは、ケイッティオ以上に器用にオーロラを蠢かせて塩と水を捏ねていった。
 静かな表情で、そうやって力を使っているのを見ると、なんだかとてつもなく彼がかっこいいように思えて、こそばゆい変な気持ちになった。
 あとで聞いたことだけれど、ケイッティオの力でも、今のケイッティオ自身の力やあたしの力、レレクロエの力は奪い取れないのだそうだ。「一回手放されて持ち主がいなくなったものじゃないと、奪えないようになってるんじゃない? ていうか、そうでないと六人もいた意味ないでしょ」と、レレクロエはさして興味もなさそうに言った。


     **

「どう?」
 日も暮れ泥む頃、茜色の世界の中で、レレクロエが短く呟いた。
「すごい……」
 あたしは、ため息交じりにそう言うしかなかった。
 塩でできた、大きな球体の星。
 その星は、海しか持たなかった。
 一面を、水で覆われていた。
 まるで鏡のように空を映す。
「すごい……すごい……!」
 なんて綺麗なんだろう、と思った。
「これ……」
 ケイッティオもまた、それ以上何も言えないようだった。それくらい、あたし達は二人とも感動していたのだ。
 鏡のような星。大地。ひとたび降り立てば、足元も周りも全てが空だった。
「塩原、ってやつだよ。塩湖ともいうかな。雨が降って、こんな風にこの塩の大地が水を被ったら、周りの景色を反射して鏡みたいになるんだよ。これだったら、まるで空を歩いているみたいだろ? まあ、雨が降って水で満たされていないとみられない景色だし、これだと土とか何にもないから植物も育たないし、生きていくには向かないな……もう少し、色々手を加えないとだけど。まあ、おおざっぱに言えば、こんな感じ」
 そう言って、レレクロエはふう、と水の鏡に腰を下ろした。ぽちゃん、と雫が跳ねて、水面が円を描く。
「……どう?」
 レレクロエが、急に不安そうにあたし達の顔を覗き込んでくる。あたしは笑ってしまった。
「文句なんてあるはずないわ! こんな世界が……あったなんて、知らなかった」
「うん」
 ケイッティオも穏やかに微笑む。
「ありがとう、レレクロエ」
「どういたしましてー」
 疲れた、と呟いて、レレクロエは大口を開けて空を仰ぐ。
 レレクロエの癖だった。変なの、と思う。だけど、そんな仕草でさえ、今は覚えていたいと思っていた。
 やがて空は次第に暗くなって、星が瞬いた。
「夜空の真ん中で、こうやって座っていられるなんて素敵」
 あたしは笑う。
「さいですか」
 レレクロエはそっけなく言った。きっと照れているのだろうと思った。生憎、暗くて彼の顔色なんてわからないのだけど。
「レレクロエったらすごいのね。かっこよかったわよ、ちょっとだけ」
「はいはい」
 ますます気の無いような返事でそう返される。
「本当。レレクロエってすごい」
「褒めても何も出ないからね」
 ケイッティオの言葉に、どこかむすっとしたような声でレレクロエは応えた。
 温かい時間が流れていく。
「本当に」
 ケイッティオが、小さな声でため息交じりにそう零した。
「レレクロエに任せておけば、安心できるのね」
 そう、小さく。
 レレクロエにその声が届いたかどうか、あたしにはわからなかった。
 あたしは、胸に刺した痛みを抱えて、俯いていた。


    **


 レレクロエはそれからしばらく、どこかへふらりと居なくなった。
 あたし達は森の中で、ああでもないこうでもないと言いながら、尽きないお喋りに勤しんでいた。こんなにも他愛のない話をしたことも、笑い転げたことも、きっと今までなかったと思う。とても楽しかった。どうしたって、ここにハーミオネがいないことが悔やまれた。ミヒャエロも、モンゴメリも――、皆がいてくれたらいいのにと、どれだけ思っただろう。
 終わりが近づいているのに、あたし達は漸く柵から解放されていたのだった。不思議な話だ。皮肉な話だ。あんなにも一緒にいたのに、あたしたちはずっと怯えていた。終わりをただ怖がるだけの子供だった。
 久しぶりに姿を見せたレレクロエは、少しだけ疲れていて、けれどどこか楽しそうな顔でにやりと笑っていた。
「なあに、どうしたの?」
 あたし達が首を傾げると、レレクロエはくすりと笑った。
 まるで、種明かしをするのが楽しくて仕方がないと言う風に。
「ついてきて」
 あたしとケイッティオは、顔を見合わせた。

 あたし達は、ミヒャエロのオーロラに――今はレレクロエのものとなったそれに乗って、長い時間を移動した。
「こんな使い方もできるのね」
 ケイッティオが感慨深く呟く。
「便利だよねえ」
 レレクロエが応える。
「あいつ、もったいないことしたよな。色々使い道があったんだろうに」
 まあ、そう仕向けたのも僕だけど、とレレクロエは呟く。あたしはその背中を静かに見つめていた。
 ふと、その首筋に小さな双葉の芽がくっついているのが見えた。
「いたっ!?」
「あ、あれ……? 取れない……」
 あたしはそれを引っ張ろうとしたけれど、それは取れなかった。レレクロエの体に根を張っている。ぞっとした。
「あー……その、ミヒャエロの力の影響でさ、気をつけないと、草の種とかが根付くようになっちゃってるんだよ。元々僕の力って植物の成長を助ける働きもあるし、ミヒャエロの力は、境界を曖昧にして溶かしてしまう力でもあるし……って、いたっ! なんで抜くんだよ! 痛いんだってば!」
「こんなの、体に害にしかならないでしょ? 安心して。根こそぎ破壊してやった」
「……たまに怖い」
 レレクロエは嘆息する。
「まあいいや……ほら、見て。下」
 レレクロエは指を差した。ケイッティオと二人で乗り出して見る。

 海の真ん中に、広い緑の大地が浮かんでいた。
「森がある……」
 ケイッティオが小さく呟く。目をまんまるにして。
「あれ、南極」
 レレクロエは事もなげに言った。
「は? え? 南極? え、南極って氷で覆われてたんじゃ……」
 あたしは少し混乱する。
「なんだよ、君達が言ったんじゃない。南極を緑で覆われた大地にしたいんだってさ」
 レレクロエは少しだけ不機嫌そうな声でそう言った。
「うそ……」
 あたしは口をぽかんと開けることしかできない。
「これが、そうなのね」
 ケイッティオは、なんだか泣きそうな表情で笑っていた。
「君たちがずっと気にしてるからー、作っといてあげましたよー。感謝してよね」
 レレクロエがそっけなくぼやく。
「うん」
 ケイッティオは目尻を指で拭った。
「うん……ありがとう、レレクロエ」
 あたしは、なんだかどうしようもなく複雑な気持ちで、その大地を眺めていた。
「まあ、まだ緑は生やしたばかりだから、生き物が生きていけるようになるのはもう少し時間がかか――聞いてる? ギリヴ」
 レレクロエが、あたしの顔を窺うように覗き込む。
「えっ、あ、うん。聞いてる」
 レレクロエはなんだか気分を害したように眉をひそめて、ふい、と顔を背けた。

 あたし達のいる意味が、なくなってしまった。

 あたしは苦しくて、胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
 きっと、レレクロエはただあたし達を喜ばせたかったのだ。喜んでいる顔が見たかったのだ。だって、レレクロエはあの空の星を作った時も、そして今だって、ずっとあたし達の反応を気にしていた。あたし達を、こんなにももう何もなくなってしまった世界で、まだ彼を見捨てないで傍に居るあたし達を喜ばせたいとでも言うように。ケイッティオは素直に喜んでいる。だって、それがこの子の留まる理由だったのだから。せめてもの、いなくなった三人への、手向けだったのだろうから。
 でも、あたしはどうしたって、素直に喜べないのだ。
 レレクロエ一人で、なんでもできるのだと、大丈夫なのだと言われたようで。示されてしまったようで。
 一人でも大丈夫だからと。この優しい世界を守っていけるのだと、目の当たりにしてしまったようで。
 レレクロエが、またあたしを見ているのがわかった。けれどあたしは振り返ることができなかった。
 なんて優しい人だろう。弱い人だろう。こんなことできなくったって、してくれなくったって、あたし達はあなたのことを嫌いになったりなんかしない。いらないだなんて言ったりしない。あたしは、ただ、もう少しだけあなたといたかっただけなのだ。
 涙を堪える。肩が震えた。いっそ泣いてしまってもいいのかもしれない。あまりにも感動してしまって涙が出たのだと、誤魔化せるかもしれない。でも、それでも。
 あたしは、ようやく自覚したのだった。
 この不器用な人のことが、好きなのだと。
 あたしだけが、この人を大切にできるのだと。たとえそれがあたしの思い込みだったとしても。
 あたしだけがこの人に、痛みを残してあげられるのだと。


     *


『ハーミオネの心を抱えて、とても苦しいと思った。何日くらい、そうしていただろう。蹲っていただろう。とてつもなく長い時間だと思った。気が遠くなりそうだと思った。だけどきっと、大した時間は経っていないんだろうなとも思っていた。

 これを、あと四人分、抱えるのだ。
 もっとずっと長い時間を、長い未来を、抱えて、生きていかなければいけないのだ。

 最後のマキナレア。

 最後に遺される、マキナレア。

 そりゃ、おれには荷が重かっただろうなと思った。おれが最後の子供になれなかったのは当然だった。だっておれは、ハーミオネだけで手一杯だと思っているのだから。
 ハーミオネ以外の心なんてもう抱えきれないと、こうして愚痴をこぼしているのだから。』


     *


 考える。考えている。
 あたしにできることは何か、考えている。
 あたしにしかできないことが、あればいいと願い続けている。
 あたしは泥に浸って、蓮華草の茎を無造作に握りしめる。
 どうしたらいいのか、まだ答えは出ない。
 ケイッティオが笑うのが聞こえる。穏やかな時間だ。きっと二人は、あたしがいなくても大丈夫だろう。ケイッティオは、ちゃんとお別れを言える子だ。踏み出す勇気が、まだないだけ。
『君達ってば、優先順位を間違ってる』
 そう。レレクロエは、そう言っていた。あたしの本当の気持ちは何だろう。何が一番大切だろう。優先順位を間違ってはいけないのだ。もう二度とやり直せないのだから。あたしはもう二度と、彼の下へ帰ってくることはできない。
 あたしの正直な気持ち。本当の気持ち。
 あたしは、レレクロエに、あたしを好きになってくれたレレクロエに、同じだけの心を返したいのだと。
 そう、思っていた。

 あたしは、レレクロエが好きだ。
 今更過ぎる。遅すぎる。どうしてこの心は、もっと早くに気付いてくれなかったんだろう。馬鹿だ。本当に馬鹿だ。傷つけられるのが怖くて、きっと嫌われているんだろうと思い込んで。好かれないと好きになっちゃいけないんだと思い込んで。あたしはただ、自分が傷つくのが怖かっただけだ。誰かを好きになることがこんなにも痛いだなんて、苦しいだなんて知らなかったのだ。あたしは何も知らなかった。こんな未来まで、あたしを追いかけてきてくれただけ、それだけの彼の痛みを返さなければならない。けれど、それは本当にあたしの願いだろうか? 一番の願いだろうか。
 レレクロエはいつだって、あたしに偽善者だと言っていた。恐らくそれは本当のことだ。あたしは偽善ばかりを抱いて生きている。それがあたしの弱さだ。そしてきっと、この力の本懐だ。あたしは目を背けてはいけない。醜い部分を。あたししか知らない、あたしだけが分かってやれる、この自分自身の醜さを。
 あたしはただ、レレクロエをあたしだけのものにしたいのだ。
 他の誰かと同じになりたくない。もしかしたらレレクロエは、とっくにあたしが特別だと言ってくれるかもしれない。思っていても、言わないような性格だけれど。でも、それじゃ意味がない。あたしはあたしの自己満足で、彼を独り占めしたいのだ。忘れてほしくない。酷く、傷を残したいのだ。痛みという形で、彼の中に残りたいのだ。

 ああ、そうだ。あたしは――。

 大好きになった人を、いつか大切な人を、思い切り傷つけてやりたいと、思っていたのだ。
 そうやって、ただ一人の特別になりたかった。
 好きになるということは、傷つくことなのだと思い込んでいたから。好きな人から傷をつけられてしまうのが恋なのだと、思っていたのだ。
「何してるの」
 レレクロエの、呆れたような声が降る。あたしはばっと体を起こした。
「泥でも飲みたいの? 変な子」
 本当に、不思議そうな顔で、眉をひそめてそう言う。
 我慢しようとしていたのに。
ぼろぼろと、涙がこぼれた。
 レレクロエがぎょっとしている。それでも止まらなかった。あたしはただひたすらにレレクロエを見上げながら、声も上げられずに泣いていた。
 この人は、知っていたのだ。
 あたしが、そういう痛みしか受け止められない人間だったことを、知っていたのだ。
 こんなにも優しい人を、見たことがない。あたしが出会った全ての人で、きっとあなただけが、優しすぎる人だった。だからあなたはずっと、あたしに棘を向け続けたのだ。あたしが痛いと言ってあなたを恨めるように。あなたはいつだって、あたしに心を向けてくれていた。
 気づかなかった。取り返しがつかない。あたしはあなたを置いて行かなければならない。
 ああ、ミヒャエロ。
 あなたも、こんな気持ちだったの?
 あたし達は確かに、似た者同士だったわ。
「どう、したのさ……なんなの? 発作? わけわからないんだけど」
 レレクロエが戸惑ったようにあたしの顔を覗き込む。そういえば、これだって癖だった。
 レレクロエはいつだって、あたしの顔を覗き込んだ。あたしの心を、きちんと受け止めようとしていた。誰よりもよく、あたしのことを見ていてくれた。
 あたしは目を固く瞑った。ぼろぼろと、収まりきらなかった涙が零れ落ちる。レレクロエの手に指を絡めて、ぎゅっと握りしめた。温かい。あたしよりも骨ばって、けれど男の人にしては小さな手。華奢な手。そんな手で、守る力もなくて、ただ追いかけてきた。
「レレクロエ…って…雛鳥、みたい」
「はあ? 何それ……」
「なんて、伝えたらいいのか……わからないよ……」
 レレクロエは、あたしに目線を合わせてくれるように、腰をかがめた。
「あーあ。泥だらけ。どうすんのさ」
「へへ……どうしよう」
「知らないよ」
 レレクロエは小さく嘆息する。
 ああ、なんて優しいんだろう。声音だって、この掌だって、あたしを見てくれる眼差しだって。冷たい言葉さえ、優しさに溢れている。
 こんなに大事にされる資格なんて、あたしにあるのだろうか。
 何をどう返していいのか、わからない。
 レレクロエは、何度目かの溜息をついた。そうして、泣きじゃくるばかりのあたしの手を引いて、立ち上がらせる。
 二人で手を繋いで、ただ手を引かれるままにあたしは歩いた。黒く光るオーロラが、あたし達を包みこんだ。


     *


 降り立った場所は、あの塩の星だった。
 オーロラが雲を模した形になって、雫を降らす。
 星が、夜空を映す鏡になる。
 月明かりの中で、レレクロエの顔は半分しか見えない。
 あたしは、鼻が詰まってしまって、鼻をぐすぐすとすすりながらぽかんと口を開けていた。
 レレクロエは何も言わずにあたしの手を引いて、のんびりと星の大地を歩いた。
 裸足の裏に当たるひんやりとした、すうっと胸のすくように香る塩の床。
 足をあげる度に跳ねて飛ぶ水の雫。
 ぱちゃり、ぱちゃ、と音を立てながら、二人で歩く。
 あたしは足元を見つめるのをやめて、僅かに欠けて少しふっくらとした月を見つめていた。
 淡い光、濃紺の世界。白い星屑。
 あたしは、無性にたまらなくなって、レレクロエの背中に抱きついていた。
 あたたかい。
 いい匂い。
 大好き。
 大好き。
 他に、伝える術を知らない。
 あなたは名前を教えてくれたけれど、あたしは思い出すことができない。
 あたしが元は人間だったこと。本当は違う人間だったこと。なんとなく、薄々と感じてはいた。だって、みんなそんな話ばかりするから。なんとなく、覚えていたから。だけど、どうしても実感だけが沸かないのだ。あたしは、マキナレアであるあたししか知らない。レレクロエしか知らない。
「な、に」
 レレクロエの声が震えている。
 あたしはレレクロエの手を取った。くるりと向かい合わせる。レレクロエは戸惑う。あたしは彼の右手をあたしの腰にあてさせた。彼の左手に指を絡める。音楽はないけれど、右に、左に、体を揺らす。
 レレクロエの、ものすごく困っているような表情が新鮮で、どこか懐かしいような心地がする。
「ダンス。してみたかったの」
「はぁ? ていうか、僕やったことないんだけど」
「いいの」
 くるくると回る。
「いいの。こうしてるだけで」
「あっそ」
 不満そうにレレクロエは応えた。
 レレクロエがよろける。もちろん、支えきれるはずがない。あたしたちは、塩湖の水面にぱしゃりと倒れこむ。
「ちょ、」
 レレクロエが戸惑うけれど、あたしは笑っていた。レレクロエの髪が濡れている。あの雨が降っていたころは抜け落ちていた髪。もう今は、濡れたって千切れることは無い。
「もう……やめてよ、こういうの」
 レレクロエは困ったように目を伏せた。ぽつ、ぽつと、雨の雫のように、レレクロエの髪を伝ってあたしの頬に雫が零れる。
 あたしは笑うばかりで、何も言うことができない。
 胸が痛くて、声が出ないのだ。
 いっぱい伝えたいことはあるのに。
 どう言えば、あたしがこんなにもあなたに惚れてしまっただなんて、大好きだって、伝えることができるんだろう。
 笑い続けるあたしの手を引いて、レレクロエが二人分の体を起こした。あたし達は二人で、水の中にぺたんと座り込んでいる。
「ほんと、変な子」
「毒舌にキレがないわよ、レレクロエ」
 あたしは笑う。
「うるさいな」
 顔をしかめる。
 体が温かい。
 熱があるみたいだ。
 レレクロエはいつまでも困ったような顔で戸惑っていた。月明かりなのが惜しい。けれどきっと、日の下だったらこんなに素直にもなってくれないのだろう。
 身動きができないほどに、睫毛が触れ合うほどに。
 レレクロエは目を泳がせていた。あたしはその目をずっと見ていたいと思った。
「近い」
「うん」
「ギリヴ」
「何」
「近い」
「うん」
「熱い」
「うん?」
「ギリヴ、熱い」
「手が?」
「うん」
「あたしも」
「何が?」
「ねえ、レレクロエ」
「何」
「あたしのこと、好き?」
 眉が、ぎゅっと寄せられる。
「あのさ、」
「うん」
「そういうことはもう、言わないって――」
「言わないの?」
 レレクロエは唇を噛みしめた。
「だから、」
 苛立たしげに。
「近いんだって!」
 腹立たしげに、そう言って。
 レレクロエの手があたしの頬を包んで、強く引き寄せた。
 涙がまた零れ落ちる。
 泣かないようにしてたのに。
 泣いたら、だめなのに。
 啄むように口付けないで。
 くすぐったい。
 あたたかい。

 あたしはようやく、本当に幸せなキスをした。








     *



 あたしにできること。
 あたしがしたいこと。
 あたしだけが、できること。
 あたしは、花冠を編んでいた。
 静かな時間だ。独りで編み続ける。あたしは思いの外不器用だったみたいで、全然うまく編むことができない。
 何本も何本も無駄にして、指先を緑色に染めながら、祈るように蓮華草を折り続ける。
「何をしてるの?」
 ケイッティオが、レレクロエみたいにそう尋ねるから、つい吹きだした。ケイッティオは不思議そうに首を傾げる。その表情が、とても可愛いと思う。
 残していくのが、この二人でよかった。
「花冠をね、作りたくて。でもだめだ、下手すぎて」
「……貸して」
 ケイッティオが小さくため息をついて、そっとあたしからそれを受け取る。
「ねじらなきゃ、だめ。ほら、こうして、」
 ケイッティオはぶつぶつと零しながら、手伝ってくれる。
「すごい。ケイッティオ、作れたんだね」
「うん……昔は、こういうことしか、することがなかったの」
 どこか遠いところを見つめるように、目を細める。
「はは、なんだかいっぱい無駄にしちゃった」
「無駄なんかないわ」
 あたしが笑うと、ケイッティオは重ねるように呟いた。
「無駄なんか、ないわ」
「うん」
 わたしは穏やかな気持ちで笑いながら、何度も何度もケイッティオに教わって、ようやく一つの花冠を作り終えた。
「さ、行きますかね」
 花冠を夕焼けにかざしながら、あたしは呟いた。
 幸せだ。
「うん……」
 ケイッティオが目を伏せる。
 あたしは、花冠を潰さないように彼女を抱きしめた。
「ありがとう、ケイッティオ。置いて行くの、許してね。あたし、一緒に目覚めたのがあなたでほんっとうによかった。不安定で、ごめんね。しょっちゅう癇癪起こして、あなたを困らせちゃった」
「なんてことないわよ」
 ケイッティオがあたしの背中をそっと撫でる。
「楽しかったもの」
「先に行くね」
「うん」
「レレクロエのこと、よろしくね。あ、でも、長居はだめだよ。すっぱりぱすっと切っちゃってね」
「もう」
 ケイッティオは笑った。そうして、穏やかに目を細める。
「いってらっしゃい」
 あたしは頷いた。
 足元に散らばった蓮華草たちを抱えて、花冠を手首にかけて、背を向ける。
 ごめんね、最後に、
 あなたを選ばなくてごめんね。

     *

 レレクロエの姿はすぐに見つけられた。本当に、往生際の悪い人だ。
 ここ最近、ずっとあたしのことを避けていた。失礼してしまう。
「見つけた」
 あたしがにやりと笑うと、レレクロエは目を伏せた。
「何か用」
「うん」
 あたしはレレクロエの頭に、その冠を乗せた。
「……何、これ」
「あげる」
「は?」
「いつだったか、この蓮華草畑、あたしみたいで気色悪いって言ってくれたわよねえ? これからもあたしに塗れて暮らすといいわ!」
 満面の笑みで笑うと、レレクロエはくしゃりと髪を掻き上げて溜息をついた。
「ほんっとに……変な子」
 そう言って、あたしの手を引いて、膝に乗せた。
「何?」
「別に」
 瞼にレレクロエの唇が触れる。頬に、唇に、首に。
 そうしてレレクロエは、あたしの首に顔を埋めた。
 震えている。あたしはきつく抱きしめられて、身動きが取れない。
「失敗した」
 不意に、レレクロエが低く呟く。
「何が?」
「先に消えとけばよかった」
 その声がとても甘えたような声で、あたしは体を震わせた。
「ごめんね」
 レレクロエはもう、何も言わなかった。
「ごめんね、あたしの力は、あげられない」
 レレクロエは腕を緩めて、あたしの瞳を覗き込む。困ったような、戸惑うような顔をして。
「あのね、この間海に潜ってみたの。思った通りだったよ。まだ海の中にたくさん、嫌なものがあるの。たくさんの兵器が眠っているの。きっと、見つけられないくらい眠っている。それもそのはずだわ。だってたくさんの国が海に沈んだんだから」
 レレクロエはすっと目を伏せて、あたしの髪を撫でる。
「もしかしたら、もう使えはしないかもしれない。だけどね、あたしは……無駄なあがきかもしれない、また誰かが同じものを作ってしまうかもしれないけれど、この世界にあったそれは、もう全部消してしまいたいの。あたし、嫌いなんだ。随分苦しめられたから。嫌だったから。あんなもの」
 レレクロエは、せっかく編んだあたしの三つ編みをほどいてしまった。少しむっとしてしまうけれど、もう気にしないことにした。
 この髪を好きだなんて言ってくれるのは、この人くらいだ。
「だからあたし、海に行くよ。あたしの力の全てを使って、必要のないものを壊していくよ。あたしは海に帰る。だから、あなたの力にはなれない」
「構わないよ」
 初めて、レレクロエは穏やかに笑った。
「むしろ、君の力なんてもらったら僕が一生苦しめられそう」
 あたしはレレクロエに対抗して、彼の若草色の髪を指で梳いた。
「綺麗」
「そう?」
「うん」
「別に、男が綺麗って言われても嬉しくないけど」
「ひねくれてるなあ」
「うるさい」
 レレクロエはあたしを拒絶するように、遠ざけた。
 もう、彼は立ち上がることはしない。
 あたしは立ち上がって、唇を噛みしめた。
「じゃあね」
 彼は、何も言わない。
 ただじっと、あたしの姿を見つめていた。
 あたしはこの瞳を、忘れないだろう。
 今度こそ。
「じゃあね、エスト」
 そう言って、あたしは大地を強く蹴った。
掌に抱えていた蓮華草を放す。
 はらはらと、レレクロエに花が降り落ちる。
 どうか、どうか。
 あたしの遺した痛みが、あの人を苛みますように。
 あの人が生きていく力になりますように。
 空を仰ぐ。
 青の中にぽつんと浮かぶ白い塩の星。
 見渡す限りの青い海。
 赤く色づく蓮華草の絨毯。
 この世界に生まれて、よかった。
 風であたしの髪がゆれる。
 ――あれ? 三つ編み……?
 解かれたはずのあたしの髪は、綺麗に編み直されていた。
 二つの房の先に結ばれたそれに、あたしは唇を噛みしめる。
 綺麗な、向日葵みたいな色の、リボンだった。
 ――馬鹿。
「遅いよ。もっと早くにくれたら、お礼が言えたのに」
 可愛くないこの口は、そんな言葉ばかり零して落とす。
 ――嬉しい。嬉しい……!
 あたしは声をあげて泣いた。
 涙は海に融けて、消える。
 あたしは、自分自身を、跡形もなく破壊した。
 二つのリボンを握りしめて。
 融けていく。融けていく。
 あたしが最後に目に焼き付けたのは、どうしようもないほどの海の青と、
 向日葵のような黄色だった。



四十三、愛された少女

「ヨーデリッヒ。どうしてミヒャエロとレデクハルト様は、わたしなんかのことが好きだと言うの」
「……は?」
 ヨーデリッヒは、呆れたような声を漏らした。
 冗談でも言っているのかと思って彼女と視線を合わせれば、当の本人はいたって真面目な質問だったらしく、いつも通りの無表情でまっすぐに自分を見つめてくる。
「あのさ、今、君に質問しているのは僕だよ。これの意図分かってる? どうして質問に質問で返そうとするかな……」
「あなたの質問にちゃんと関連しているつもりよ」
 ケイッティオは静かに言った。
「あなたは、わたしのこの力が――奪う業が、わたしの心理的なトラウマから来るのではないかと言ったわ。だったら、それは避けては通れない疑問なの。だってわたしは――、わたしにとっては、それがずっと疑問だったのだから」
「はあ、そうですか」
 さして興味もないようにヨーデリッヒは羽ペンを指で回した。
「ていうか、何? ちゃんと君はあの二人が自分に懸想してるって知ってたわけだ。それでそれを何故かと聞いてくるわけだ。僕に。よりにもよって、この僕に」
 ヨーデリッヒの投げやりな声に、ケイッティオは眉根を寄せて首を傾げた。
「どうしてなんだか拗ねているの」
「拗ねてねえよ」
「口が悪いわ。レデクハルト様の言葉遣いはあなたから移っただなんて、本当のことだったのね」
「は? 何の話」
 ヨーデリッヒは嘆息する。
「一応、レデクハルト様の気持ちは、つい最近になって知ったの。だから、それまでは本当に……ただの物珍しさでわたしに構うのだと思って、嫌だった」
「で? だから何。嫌だったのが嫌じゃなくなったからなんなの。話が見えない」
「だから……どうしてわたしは、あの二人に好かれているの」
「……それを僕になぜ聞くの」
「あなたなら、わかると思ったからよ。あなただって、同じでしょう?」
 そう言って、ケイッティオはまっすぐにヨーデリッヒを見つめる。
「ふざけんなよ」
 ヨーデリッヒの喉が低く震える。
「二人には聞けないけど、僕になら聞けるって? その根拠とやらを教えてほしいもんだね。君の言っていることは正直、自分が愛されていることをひけらかしているようにしか聞こえないよ。とんだあばずれだ」
「それは、あなたがそう言う気持ちで聞いているからだわ。あなたならわかると思ったから聞いたの。二人の気持ちが、じゃなくて、わたしがこんな風にしかこのことを尋ねることができないことを」
 ヨーデリッヒは苛々しながら机を蹴った。ケイッティオはまた眉をひそめる。
「ものに当たる人は嫌い」
「お前に嫌われても痛くも痒くもないよ」
 ヨーデリッヒは窓の外を見つめる。
「ほんとに、どういう意図でその質問を僕にしたの?」
「どうしてそんなに苛々するの? わたしにはその方がわからないわ」
「お前は一旦生まれ変わって人間の気遣いを勉強してこいよ、この家畜」
「だから、」
 ケイッティオは掌を膝の上でぎゅっと握りしめた。
「それがわからないから、だからこそ聞いているのよ」
 ヨーデリッヒはケイッティオをしばらく睨みつけていた。
「知らないよ。僕は二人じゃないんだから」
「何のためのカウンセリング? もう、わたしの前に二人とは話したんでしょう。だから聞いたの」
「は? これはあくまでお前達の力の原因を予想するために話を聞く場を設けただけであって、お前に関する話を聞くためじゃないよ。そんなこともわからないの? 自意識過剰もいい加減にすれば」
「そう……」
 ケイッティオは目を伏せる。
「わたしは、そういうのが、わからないのよ」
「何が」
「人の心が、わからない」
「そんなの、自分の決めつけでしょうが」
 ヨーデリッヒは鼻で嗤う。
「そんな風に思ってるからますますわからなくなるんだよ」
「そうかもしれない」
 ケイッティオは静かに応える。
「けれど、わたしは、本当にわからないの。わかりたいと願っているのに、わからない。あなたが言うように、わたしはあばずれなのかもしれない。けれどそれでも、わたしには二人がどうしてわたしにこだわるのかわからない。わからないことが辛い。わからない自分が苦しい。だからこそのこの力なの。わたしが今まで見ない振りをしてきたもの、目を逸らしてきたもののせいで、わたしはこんな力を手に入れてしまった。あなたの言うように、わたし達の力が私たち自身の心に由来するというのなら、わたしはそれしか考えることができない。二人に愛される自分がわからないからこそ、わたしはこんな、嫌な力を手に入れたの」
「そんなの、自業自得だろ。いつまで悲劇のお姫様ぶっているの」
「ぶっていないわ」
「言い返すってことは図星ってことだよ、馬鹿」
 ヨーデリッヒは鼻を鳴らす。
「そんなに、虐待されていた自分に縋りたいの?」
「……それ、誰から聞いたの」
「ミヒャエロがぺらぺらと喋ったんだよ」
「そんなはずない」
「何が? お前の信じているミヒャエロって何? お前があいつの気持ちがわからないのは、単にお前があいつをちゃんと見てやっていなかったことの証拠でしかないんだよ。それを、虐待を受けていたせいにするなよ。自分の過去に酔ってるんじゃないよ。お前くらいの痛みは多かれ少なかれ誰だって抱えて生きているんだよ」
「わたしは、虐待なんて受けていない」
 ケイッティオは静かな声で言った。
「は? 認めたくないくらい図星だったわけ?」
「違う。あなたは誤解している。ミヒャエロも、誤解している。けれど、わたしはその誤解を解くことができないままここまで来てしまった。どんなに説明しても、ミヒャエロはなぜかわかってくれなかった。わたしの言葉は届かなかった。だから、わたしは……この人には届かないんだな、と思ったの。わたしは、あの人が求める妹であることが役目なのだと思ったのよ。そんな、意地の悪いことしか思えないわたしを、あの人はどうして好きだと言うの。レデクハルト様だってそうだった。わたしはあの人が大嫌いだった。わたしに、わたし自身の惨めさを突き付けてくるばかりで、一方的な思いやりのない人だと思ったの。わたしは心からあの人を恨んでいたの。あの人からわたしなんかに関わってこないでくれていたら、わたしはこんな風に醜い気持ちで苛まれなくて済んだのにって。どうしてそんなわたしを好きだと言うの? それは、どういうことなの?」
 ケイッティオは睨むような眼差しで言った。
「わたしはいい子でもなければ、可愛い子でもない。わたしは愛されるには相応しくない。わたしは虐待なんか受けていないわ。虐待は、痛いから虐待なのよ。痛くて、辛くて、愛されたいのに愛してもらえないから、虐待なの。おかあさんはいつだって泣いていたわ。愛してほしいのに殴られる日々に、ずっと悲しんでいた。痛いと言って泣いていた。けれどわたしは違う。わたしは一度だって痛みを感じたことは無かった。痛くないのなら殴られたことにはならない。苦しくないのなら首を絞められたことにもならない。助けてほしいと思わないのなら、おかあさんがわたしをかばって殴られたって、そんなのは嬉しいだなんて思わない。わたしはね、痛くなかったのよ。だって、あの男、全然痛くしないんだもの。おかあさんは殴るのに、わたしには痛くしなかったの。だからわたしは別にあの日、――おかあさんが死んでしまった日、殴られたままでもよかったのよ。だってわたしは痛くないから。あの男はなんだかんだでわたしには手加減をしたのだから。なのにおかあさんはわたしを庇った。そうして死んでしまった。わたしはおかあさんのことを恨んだのよ。どうして、わたしを苛むのって。おかあさんが死んだのはわたしのせいだってわたしはずっと自分を責め続けなければならないのかって。今考えたらとてもくだらない論理だわ。論理ですらない。けれどわたしは子供だったから、そうとしか思えなかったの。こんな汚い感情しか持っていないわたしを、どうしておかあさんは愛したのだろうって。ミヒャエロは誤解しているわ。どうせ、わたしのこの力は、わたしが虐待を受け続けていたから、痛みを何も感じたくなくて心を閉ざした結果だとでも言ったんでしょう。彼はずっとわたしにそう言い続けていたわ。慰めているつもりで。そうして、どうせあなたも、そう捉えているのでしょう。知っているわ、あなたって、意外といい人なのよ。根はいい人だから、意地の悪い考え方ができない。そんなことができる人なら、こんなことはしていない」
 ケイッティオは荒んだように目を細めて笑った。
「あなたは、知っていたんでしょう? だから、わたしのことを嫌おうとした。あなたはいつか、わたしのことを気持ち悪いと言ったわ。だからわたしは傷ついた。だけど同時に嬉しかった。ああ、この人はわたしのことをちゃんと見てくれるって。惑わされたりしないって。だからわたし、あなたに好かれてみたかったの。そうしたらわたしは、やっと幸せになれる気がした。人を表面だけでしか判断できない、浅はかで、嫌な人間であるわたしに気付いていたのはあなたくらいだった。そしてあなたは、わたしとは真逆だったのだわ。嫌な言葉を吐いて、意地が悪いように見せかけて、本当はただの弱い人だった。あなたの心は綺麗だわ、ヨーデリッヒ。わたしはそれがわかっただけでも、こうしてあなたに出会えてよかったと思うわ。あなたのことを本当にわかってやれるのは【最後の子供】だけなんでしょう。知っているわ。あなたはモンゴメリに、『すぐに追いかけるよ』と言ったわね。でもあなたがわたし達と来る気がないことくらい知っているわ。あなたは、あなた自身の代わりをわたし達に寄越すんだわ。ねえ、ヨーデリッヒ。どうして、あなたはわたしをレデクハルト様と同じ場所へ送ろうとしたの? こんな人間だってわかっていたでしょう。あなたが、わたしなんか彼に相応しくないって思っているのは知っているわ。彼のことが大好きなことも知っている。それなのに、どうしてわたしを彼と同じものにしようとしたの? 彼が喜ぶから? 記憶をすべて奪われるのに、彼が喜ぶなんてことあり得るの? どういうこと? あなたの気持ちも、ミヒャエロの気持ちも、レデクハルト様の気持ちも、わからない。どうして、そんなことをしてわたしを苛むの? わたしはね、そのことをあなたに言いたかったの。だからわたしは、わたしもマキナレアになることを望んだのよ。ただのアルケミストとその発明品の関係になったら、あなたは教えてくれるんじゃないかと思った」
「御託は終わった?」
 うんざりしたように、ヨーデリッヒは言う。ケイッティオはむっとした。
「言っておくよ、僕は本当に、君なんかに興味はない。だから君自身の浅はかで自己中心的で偏った毒を僕に吐きだされたところで、僕は君をどうしてあげることもできないし、どうしてやる気もない。結局だらだら言ったところで君が性格が悪いことも、ただの馬鹿で浅はかな女だってことも何にも変わらない。僕の中での君の評価は寸分たりとも変わらないよ。レデクハルトとミヒャエロがなぜ君を好きかと言ったね? 答えはただ一つだよ。君みたいな悪女にたぶらかされるような馬鹿だったってだけさ。ただそれだけの話。わかった?」
 ケイッティオは目に涙を溜めてヨーデリッヒを見つめていた。案外、本人は今自分が泣きそうになっていることすら気づいていないのかもしれないとヨーデリッヒは思った。
 単純なことだ。レデクハルトやミヒャエロと、この子が、どれほどに違うと言うのだろう。
 ヨーデリッヒはケイッティオのことを素直に気持ち悪いなと思った。正直、関わり合いになりたくないタイプだ。面倒なことばかり考えて、ただがんじがらめになっているだけだ。彼らと何も変わらない。その望みはただ一点しかない。そして、その理由を問われたところで、ヨーデリッヒは答えなど持ち合わせていなかった。
「誰かを愛する理由なんて、僕が知りたいくらいだよ」
 ヨーデリッヒは静かに呟く。
「だからそれを、僕の代わりに君が見てきてくれるんでしょう? そのために君の記憶も消してあげるんだから。まっさらな状態で、やり直してきなよ。君は単に、自分で膨らませ過ぎたその妄執に囚われて、捨てることさえできないでいるだけだよ。捨て方がわからない、と途方に暮れて駄々をこねているだけの子供ってだけだ。そんなの、僕みたいな人間が分かるはずないだろ。馬鹿だね」
「じゃあ、質問を変えるわ」
 ケイッティオは本当に泣きそうだった。
「泣かないでくれる? 面倒くさいから」
「この顔のどこが泣きそうに見えるの」
 怪訝そうな顔をする。
「あなたは、どうして、わたしのことが好きなの」
 好きじゃない、と言うことができなかった。
「僕は、」
 ヨーデリッヒは震える声で呟いた。
「レディが好きだから、君のことが嫌いなんだよ」
「知っているわ」
「そんなの……僕がただ、君に――」
 ヨーデリッヒは俯いた。
「ただ君に、救われたことがあったからだよ」
 ケイッティオは黙っている。ヨーデリッヒは深く胃の中のものを吐き出すように息を吐いた。
「別に、君じゃなくてもよかっただろうさ。それでも、救われたことがあったら、ただそれだけの理由じゃ、好きになるのもいけないっていうの。君が言っているのはそういう事だよ。残念ながら僕は君を救えない。僕は君と違って浅はかじゃないから、君とは根本的に反りが合わないんだよ。浅はか同士、せいぜいモンゴメリと仲良くしてやってよ」
「彼のことを好きだと言う癖に、随分な言いようね」
 ケイッティオは顔をしかめる。
「気は済んだ?」
 ヨーデリッヒもまた、荒んだ眼差しでケイッティオを見つめた。
「僕には君を助けられない。そんな気も端からない。君も僕を救えない。君の最優先はあくまで君自身だ。僕のことは二の次でしょ? それくらいじゃ君に僕は救えない。どうしても、どうしても救いたいって言うんなら、」
「あなたの救いになるなら、何だってやるわ」
 ケイッティオは、凪いだ声でそう応えた。
「じゃあ、僕のものになって」
 ヨーデリッヒがそう言った瞬間、ケイッティオの顔が歪んだ。苦しげに俯く。ほらね、だから君は、だめなんだ。そんな風に僕が、君を見限らないといけなくなるんだ。
「どうせ、『そんなことを言うくらいならどうしてこんなことをしたの』とか思ってるんだろ」
「人の気持ちを決めつけるのはやめて」
「もう人じゃないでしょう?」
 ケイッティオは唇を噛みしめた。固く瞑った瞼から、睫毛の合間を縫って涙がぼろぼろと零れて落ちる。
「そんな風に、すぐ考えるような子だから嫌なんだよ」
「そうね。わたしも、そう、思うわ」
 ケイッティオが鼻をすする。ヨーデリッヒは机の引き出しから、黒いベルベットのリボンを取り出した。
ケイッティオの傍に寄って、その髪に結び付ける。
「な、に……」
「はい、これで僕のもの」
 ケイッティオは顔を両手で覆う。肩が震える。ヨーデリッヒは再びケイッティオから遠ざかって、椅子に静かに腰を下ろした。

 それが、さよならだった。


     *


「結局、あのリボンあげたんだね。やるつもりないとか言ってたくせに」
「言ってない」
「嘘ばっかり。君の心はそう言ってたよ」
 レレクロエの生意気そうな声に、ヨーデリッヒは顔をしかめた。窓の外を眺める。
「もう、それで、終わった?」
「全員棺に入ったよ。あとはあんたの部下がやってくれるんでしょ? あの蓮華草の咲く場所を囲うようにして、眠らせるんでしょう。本当に用意周到だよね。よくその口からもっともらしい言い訳がすらすらと出てくるなと思うよ」
「嘘は得意になったんだ」
 ヨーデリッヒは静かに応える。レレクロエは首を傾げてヨーデリッヒの顔を覗き込んだ。
「どうかしたの」
「何が」
「さっきからずっと上の空だよ」
「ここのところずっと上の空だよ」
「……返答がいちいち捻くれてるよな」
 ヨーデリッヒは鼻で嗤う。
「僕には……やっぱり、荷が重かった」
「は?」
 レレクロエが素っ頓狂な声をあげる。
「今更? ここで? それをいう訳? もっと早くに気付けよ!」
「違えよ。ケイッティオのことを言ってんだよ。お前らのことは言ってねえよ」
 ヨーデリッヒが不機嫌そうに声を荒げる。
「僕にはあれくらいが精いっぱいだったんだよ。僕はあの子を重いなあと思ってしまったから」
「はぁ? 君がそれ言う? 僕は君ほど重い人間を見たことないけど」
 ふん、とヨーデリッヒは嗤う。
「ねえ、レレクロエ」
「何」
「もう一回、記憶を受け取ってくれないか」
 静かなその声に、レレクロエは訝しげに眉根を寄せた。
「なんで」
「お前に預けたいから」
「何それ。重たいから? 抱えきれないって?」
「違う」
 ヨーデリッヒは椅子の背にもたれて、これから失われていく青い空を見つめていた。
 小さな雁が飛んでいる。
「あの子の、幸せを願うから」
 ヨーデリッヒは静かな声で呟く。
「案外、僕も、ミヒャエロも、レディも、結局は似た者同士なのかもしれない」
 レレクロエは黙っている。
「それで、いつかあの子が道に迷った時、君が預かったその名前は、レディの名前だったって教えてやってほしいんだ。きっとレディは、あの子に何も残してやらないから。あいつ、気が利かないから」
 レレクロエはわざとらしく深々と息を吐いた。
「わかりましたよ、わーかーりました」
 ヨーデリッヒはその声にくすりと笑った。
「最後に、気づくといいなあ」
 小さく、レレクロエにでさえ届かないような声で呟く。
「結局、僕達は皆、愛に飢えているんだ」




     **




 何も音が聞こえない。
 蹲ったまま、動くこともできない。
 喉が痛くて、息が苦しくて。えずいたりするけれど、気持ちの悪さだけは一向になくならない。
 周りに散らばった蓮華草と、濡れた草の葉を眺めていると、そこに灰色の影が伸びた。
 べちゃり、と泥を踏む音。音が帰ってくる。風が囁いている。
 顔をあげると、ケイッティオが表情のない顔で僕を見下ろしている。
「行っちゃったね」
 僕は、ようやくそれだけを言った。
 ケイッティオは笑わない。けれど、どこか不気味に目だけを細めた。
「苦しい?」
 その声は、とても低く擦れている。
 僕は、ああ、ついにこの日が来たんだな、とぼんやり考えていた。
 皆を見送る日が。
 この子を終わらせてあげる日が。
 ケイッティオはただ笑っていた。それは、僕らが六人だった頃には一度も見せなかった表情。彼女が彼女自身の狡さで、巧妙に隠していた感情の泥。
「もしも、あなたが、痛くて、辛くて、苦しいと言うのなら、」
 ケイッティオは歪んだ口元を小さく開いて僕を見つめていた。
「わたしなら、奪ってあげられる」
「生憎」
 僕はにっこりと笑った。意外にも穏やかでいられるものだ。ギリヴは確かに、最後の最後で、僕の心の空洞を埋めてくれたのだ。
「そう」
 ケイッティオは目を更に細めた。
「あなたにも、伝わらないのね」
 泣きそうな顔で言う。
「あなただけが残るなんて狡いわ」
 ケイッティオは震える声で言った。
「わたし達は誰もそんなこと頼んでいないのに、あなただけが残ろうとするのね」
「それが、僕の役割だからね」
「でも、そうだとしたら、わたしはモンゴメリのこの記憶でさえあなたに奪われてしまうのね」
 ケイッティオは胸を押さえるように掌を握りしめた。
「ミヒャエロも奪ってしまったのに、モンゴメリまで奪うのね」
「あれは仕方なかったでしょ。だって君は下手くそなんだもの。それとも、あの空の星は気に食わない?」
「いいえ」
 ケイッティオは、目を細めて、涙を一筋零した。
「いいえ、あんなに、あんな風にちゃんと叶えてくれる人なんて、あなたくらいしかいないわ」
 レレクロエは柔らかく笑った。
「奪ったりしないよ。君じゃないんだから。君がくれるんだよ。そう、決まってる」
「誰が決めたの? そんなこと」
「僕と、ヨーデリッヒだよ」
「馬鹿」
 ケイッティオは背を曲げて、蹲るように肩を震わせた。
「ミヒャエロの声が聞こえたの。力を受け取った時に。モンゴメリの声も聞こえた。わたしね、あんなにも、あの二人が愛されたがっていたこと、気づかなかった。ううん、本当は知ってたの。だけどね、他人事だった。わたしにはそんなのわからないと思っていたの。でもね、違った。わたし達は、最初から、ずっと最初の方から、一緒だった。同じ願いを抱えていたの。わたし、気づくのがなんて遅かったんだろう」
「じゃあ、それを君に気付かせてくれたのは、やっぱり君を大好きだったミヒャエロとモンゴメリだったってわけだ」
 レレクロエは穏やかに笑う。
「あいつら、最後の最後でとんでもないもの残していったね」
「本当」
 ケイッティオは泣きながら笑った。
「わたしは、愛されたかった。それを認めることができなかったのが、わたしの業」
「僕だって大差ないよ。僕はね、ケイッティオ。ギリヴに心をもらえなくてもいいって思ってたんだよ。ただ僕は僕自身のエゴで、彼女の最期を看取りたいだけなんだって頑なに思っていたんだ。傷つきたくなかった。傷つくのが怖かった。だけど、やっぱり心がもらえないのは辛いや。僕は結局、それが欲しかっただけなんだから。まあ、結局、最期も看取らせてはもらえなかったけど。お相子かな。僕はやっとあの子に好きだと言えたから。誤魔化したりしないで。本当に大好きだったんだって」
「わたし、は」
 ケイッティオは顔を歪める。
「ちゃんと、伝えられたかな」
「どうだろー? 僕はさすがに、君とモンゴメリがどんな話をしたのかよく知らないし」
 ケイッティオは笑う。
「わたし、いつも遅すぎるのね。本当は置いて行かないでって言いたかったの。もう少し待ってって言いたかった。だけど言わなかったの。言えなかったんじゃなくて、言わなかった。そんなこと言ったら困るかもしれないからって、勝手に決めつけてしまった。わたしって本当に、決めつけてばかり。恥ずかしかったの。わたしはあの世界で確かにヨーデリッヒが好きだったはずなのに、記憶がなくなったことを言い訳に、あんなにも嫌いだった人を簡単に好きになった。そんな自分が恥ずかしかったの。でも、そんなのやめて、もっとちゃんと伝えてお別れすればよかった」
「あーあ。ほんとにケイッティオって馬鹿だね。でも、これでわかったでしょ? 好きになるとか、そんなのに理由なんてないんだよ。いつの間にか好きになっちゃってる。そう言うものだろ」
「うん」
 ケイッティオは涙を拭いた。
「ねえ、レレクロエ」
「何?」
「もう一度聞くよ。どちらが残る?」
「僕に決まってる」
 レレクロエは笑った。
「ていうか、君が耐えられるような気がしない」
「そうね、そうかもしれない」
 ケイッティオは目を伏せて笑った。
「せっかく、猶予をあげたのになあ」
 そう言って、ケイッティオは笑った。
「猶予? 何の?」
「あなたが、残るか、やっぱり辛いと諦めるか、よ。だってみんな、レレクロエに押し付ける気持ちしかなかったんだもの。わたしはね、別にあなたが望むならわたしが残ってもいいなあと思ったの。皆の思い出を抱えて生きることは辛いかもしれないけれど、わたしは痛みが嬉しいから」
「歪んでるなあ」
「ふふ」
「それに、後始末をするからちょっとそっちに逝くのが遅くなるだけだよ。どうせ僕も、また君達を追いかける。まあ、待っててくれるなら、だけど」
「待つに決まってるわ。ギリヴだって、そのためにその花冠を残したんでしょう?」
 ケイッティオは、レレクロエの頭に乗せられたそれにそっと触れた。
「本当に、変な子。あなたに種が根付くのを怖がってあの時小さな草の根を抜いたのに、自分からあなたに遺そうとするなんて」
「だよねえ」
 レレクロエは海を見つめる。
「この場所に残り続ける限り、僕の体に蓮華草が芽吹くのは時間の問題だ。だからきっとあの子は、自分で残そうとしたんだろ。ほんっと、浅はか」
「口元が笑ってるわ」
「へへ」
「じゃあ、もうわたし、行くね」
「うん」
「今行かないと、ずるずる残ってしまいそう」
「そうだね、君の性格ならね」
 ケイッティオはレレクロエに手を差し出した。
 レレクロエもまた、その手をそっと握る。
「じゃあね」
 ケイッティオは笑った。
 モンゴメリの色。ハーミオネの色。
 ケイッティオ自身の声。
 全てが流れてくる。
 レレクロエは目を閉じた。
 染みこんでくる。滲んでくる。
 僕が僕でなくなるような――。
「…………ケイッティオ……!」
 レレクロエははっと瞼を開いた。
 ケイッティオはもう泣いてはいなかった。凛とした眼差しでレレクロエを見つめている。
 頬の皮膚が、腕が、白い真珠のような花弁になって舞い上がる。
 吸い込まれていく。吸い込まれていく。
「ケイッティオ……!やめ……」
 最後にケイッティオは、可憐に笑った。

 その場に膝をついて、崩れ落ちる。
 最後の最後で、一番大事なものを奪われてしまった。
 本当に、小狡い子だ。ヨーデリッヒが惹かれたのもよくわかる。レデクハルトが騙されたのもさもありなんだ。あんな笑顔で、何も言わないで。さっさと消えてしまった。
 僕は結局、君のどれが本当でどれが嘘なのか、よくわからないままだった。
「はは……」
 レレクロエは前髪をぐしゃりと握って乾いた声を漏らす。
「ほんっとうに、油断がならないや」
 最後の最後で、ケイッティオはレレクロエを目に留めた。
 ヨーデリッヒの記憶を、心を抱えて。
 ヨーデリッヒの記憶に映る、レデクハルトの姿を手に入れて。

 漸く僕は、解放された。

 捨て置かれた子供の様に。

 生まれ落ちたばかりの赤子のように。

 僕となった者達が、僕自身が、

 愛してくださいと哭いている。

 これはそんな、愛の物語だった。


 歪で小さな、愛の物語だった。


















終章 花捧ぐ世界

 砂浜に寄せる波に足を浸す。
 ぴちゃり、ぴちゃりと雫が跳ねて、七色に煌いた。
 この海の水が、こんなにも青くて綺麗なのに、かつては毒の水だっただなんて信じられない。
 こんな風に素足をつけてしまえば、皮膚が爛れてしまうくらいの猛毒だったなんて。
「アムリタを吸い込んでいたからね。元は海の水だって害のないものだったんだよ。まあ……辛からいけど」
 口元まで跳ねた波の雫に顔をわずかにしかめて、エストがそう言う。
「これだから外に出るの嫌だったんだけど」
「何言ってんだよー。ていうか家の中じゃないんだから、森の中に居ても海に来たって外に変わりないじゃん。変なこと言うなあ」
 僕がそう言って笑うと、エストは嘆息した。
「まあ、そうだけど」
「ていうか、世界を造り替えたようなそんなすごい神様みたいな人なのに、波でびしょ濡れになったからって不機嫌になるなんて……なんだかほんとに変なの」
「子供は無邪気でいいね」
 エストは憮然とした表情でそう言って顔にかかった海水をを袖で拭う。それを、なんとなく楽しい心地で僕は眺めていた。
 彼はかつて救世主だった。
 彼自身はそれを否定する。ただ巻き込まれただけだと言う。何も救ってはいない。世界を救いたかったというわけでもない。ただ、やるべきことをやっただけ。
 それでも、僕はこの世界を綺麗だなと思う。
 空を仰ぐと、僕がかつて住んでいた空の星が見える……はずだ。実際にはどこにそれがあるのかよくわからない。だってたしかに、僕の住んでいた世界は空色で、地面と空の区別なんかつかなかったのだから。
 僕はしゃがみこんで海の水面に指で触れた。この先に、この遠い深い向こう側に、一人の少女が眠っている。
「ねえ、エスト。僕達の国では、海の世界はサグゼオナって言うんだよ。本当に、ここに生き物がいるの?」
「そりゃ、いるでしょう」
「え? 知らないの?」
「僕は海に関しては何もしていないよ。ギリヴに任せたから。まあ、浄化はしたけれど」
「ふうん。ねえ、人魚とかいるかなあ」
「は?」
「人魚。体が半分魚で、半分が人なんでしょ? お伽噺にあるよ」
「……まだそんなものが残ってるんだ」
「なんだよー」
 エストはくすり、と笑った。
「でもさ、もしも頭の方が魚だったらどうする?」
「えー……」
「むしろ、海の中で生きるならえらがないと」
「えー……」
 とことん子供の夢を壊してくれる。
「でも、そっか、」
 エストは空を見上げて呟いた。
「あの星では、海の中も一つの新世界なんだね」
「まあ……海なんてなかったからさ。本では読んだことあったんだ。魔法の世界だって。知らない生き物が沢山いる、人間のいない幻想世界だって。本当に、海の底はどうなってるんだろう……?」
「あんまりお勧めしないよ。どうせ君、大して泳げもしないでしょう。人間なんだから」
「エストは? 泳げるの」
「……やったことがないからよくわからない」
「あれ? エストも海なんて見たことなかったの?」
「そう、だね」
 エストは水平線を見つめる。
「僕自身は、ミヒャエロが砂まで吸い込んでしまうまで見たことは無かったかな。僕の生まれた場所は全部砂で覆われていたし、僕はそれ以上の世界へ足を向けたこともなかったから」
「ふうん。全然想像つかないなあ。僕もエストの記憶が欲しい」
「馬鹿なこと言わないで」
 エストはそう言って僕の頭を撫でた。
 僕よりずっと年上なのに、ずっと長い時を生きてきたのに、僕と一緒に話してくれる人。綺麗な人。優しい人。孤独な人。
 この綺麗な――綺麗すぎる世界で一人きりで生きるのは、どんな気持ちなんだろう。
 僕は、いつか来る一人きりの未来を想った。
 エストは――かつてレレクロエと言う神様の使徒だったその人は、もうじき死ぬと言っていた。世界を全て綺麗にしてしまったから。もう、世界は救世主なんて必要としないから。
 皮肉な話だ。それを、彼は僕が彼の下へ辿り着いたせいで知ってしまったのだ。僕はようやく見つけた大事な人を、僕自身が彼を見つけてしまったせいで、やがて失ってしまう。
 僕はあの空へは帰れない。だから僕は、この世界に一人きりだ。この、海に囲まれた世界に一人きりになってしまう。
 エルロンド――かつて南極と呼ばれた世界には人間もいるそうだから、いつか行ってみるのもいいかもしれない。とてつもなく遠いのだそうだけれど。
 エストは、レレクロエと呼ばれるのを躊躇う。僕はレレクロエと言う響きがとても好きだったのだけれど、彼は「それはもう僕の名前じゃないから」と困ったように笑っただけだった。
 ケイッティオと言うもう一人の救世主に、預けたからと。
 彼の語った物語は途方もなく長く深く、苦しくて、僕は何度も暗い夜空が薄く明るく色づくのを見た。
 彼が全てを語り終える頃には、僕はどうしようもなく泣いてしまっていた。ついでに母さんを亡くした悲しみも一緒に洗い流してしまったことは僕だけの秘密だ。
 始まりの救世主レデクハルト。彼の本当の名前は、彼がその声で呼んで欲しかった女の子の手にちゃんと渡ったのだ。僕はそのことだけがどうしようもなく辛かった。他にもたくさん、辛い話はあったというのに。
 どうしてだろう。僕にも誰か好きな女の子が、大好きな女の子が見つかったら、わかるようになるだろうか。
 まあ、僕にはもう、そんな人と出会う機会はなさそうだけど。
 僕の気持ちに、エストは「まあ、それが始まりと言うか、きっかけだったんだろうしね」と言った。つくづくいい加減だ。
 エストの皮膚は、もう殆ど蓮華草の花と葉で覆われ尽くそうとしていた。彼が世界の土に還る未来も、もう遠くはないだろう。
 僕はただ、間に合ってよかったと思っていた。
 本当にぎりぎりのところで、彼を見つけることができてよかった。
 けれど、不思議な話だ。僕の落ちた先が海ではなくて、あの蓮華草畑だったこと。
 こんなにも海が広いのに。
 まるで引き寄せられるように、僕は彼の下へ辿りついた。
 まるで導かれたみたいに。
「そう言えば、つくづく僕は赤毛の子と縁があるな……」
 不意に、エストがそう呟く。僕はよくわからなくて眉を思い切りひそめてしまった。
「急になんだよ?」
「いや、そうやって海にいると、君のその真っ赤な赤毛がとても目立つんだよ」
「……なんか嫌な感じがする」
「そう? 別に嫌みは言ってないよ」
「これでも僕、この赤毛気にしてるんだからな」
「ふうん」
 エストは全然興味がないように言う。そうしてにっこりと笑った。
「青い海にその夕焼けのような赤が映えてとっても綺麗だよ?」
「うわやめて」
 なんだかぞぞぞ、ときた。エストは半眼で僕を見る。
「だろ? 下手に言葉を飾るよりも、素直に端的に言う方が物事はうまくいくんだよ」
「それにしたってもう少し言い方があるじゃんか」
 エストは楽しそうに笑った。
 陽が落ちる。
 世界が一気に茜色に染まる。
 空も、海の水面も、深い赤に染まる。まるで、世界が本当に僕一人になってしまったような、そんな感覚。
 僕は目を閉じて、潮の香りを思い切り胸に吸い込んだ。
 さらさらと聞こえる波の音。
 ふと、違和感を感じた。
 体が、軽い。
 足の指先が、ぽたぽたと雫を垂らす。冷たさが抜けていく。風が吹く。風が吹く。ふわりと、まるで、羽根のよう――。
 僕ははっとして目を開けた。エストは笑って僕を優しく見上げている。エストの姿が小さく見える。離れていく。どんどん離れていく。花が枯れる。エストにまとわりつく蓮華草の赤い花が黒ずんで、落ちていく。砂が染まる。黒でどんどん染まっていく。エストの頬がまるで花弁みたいに――。
「なにやってるんだよ!」
 僕は叫んだ。
 エストは笑っている。ずるい。こんなの、聞いていない。嬉しかったのに。あなたに会えて嬉しかったのに。あなたの痛みを教えてもらったから、僕はあなたを見送ろうと思ってたのに。こんなの聞いていない。こんなことができるなんて聞いていない。このための逆さまの力だったなんて聞いていない。
「やめてよ! 置いて行かせないでよ! 帰る場所なんてないよ! この世界から離れたくないんだ! こんなことしなくていいよ! 消えないで……消えないでよ!」
 エストの口が、ありがとう、と動いた気がした。
 砂の花びらになって、霧散する。
 緑の馴染んだ砂が、ふわりと風に乗って、海へと落ちていく。染みこんで、沈んで、海の底へと零れていく。
 僕はそれを、何も言えないままに見つめていた。
 どうしようもない。
 僕はまた泣いていた。本当に、何度も何度も僕を泣かせるどうしようもない救世主様だ。大嫌いだ。
 吸い込まれていく。吸い込まれていく。空が僕を引き寄せる。
 僕は遠ざかっていく紅紫の花畑を見ていることしかできない。
 やがて、広い海が僕の視界を覆い尽くす。こんなにも、この世界は大きかったのだ。これをたった一人で、六人で抱えてきたのだ。
 この痛みをどうしたらいいのかわからない。誰にも伝える術はないと思っていた。だって僕は独りきりでも生きていく覚悟をしたつもりだったから。こんなの聞いていない。笑えない。本当に笑えない。どうして彼はあんなに笑って逝ってしまえたのだろう。僕にもいつか解るんだろうか。彼と同じように長い時を生きたら、少しはあなたの気持ちに近づくことができるんだろうか。
 泣き疲れて、蹲る。
 あの世界の砂浜のような、浅い水底にふわりと足が届いた。

 僕は、帰ってきてしまった。

 泣いていた。どうすることもできなくて、泣いていた。道行く人々が、珍しいものを見るかのように僕の周りへと集まってくる。僕は泣くばかりで何も話すことができない。喉から零れ落ちるのは嗚咽ばかりだ。痛い。痛くてたまらない。心が痛い。胸が痛い。
 誰かが僕の名前を呼ぶ。僕は顔をあげることができない。こんなに短い時しか彼と一緒に居られなかった。この空の星で、誰かが僕の名前をまだ覚えていられるほどのわずかな想い出時間にしかなれない。
 夕暮れを告げる鐘が鳴る。家に帰りなさいと誰かが言っている。帰る家なんかない。帰る家なんかないのだ。どうやって生きて行けと言うんだ。どうしたらいいんだ。
 ふと、誰かが、とても温かな手で僕の指を握りしめた。
 涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげる。
 小さな女の子が、不思議そうに僕を見つめて、僕の顔を――涙の貼りついた顔をぱしぱしと叩いた。
「痛い、痛いよ」
 痛い。痛いんだよ。
「どこ行ってたんだよ。探したんだぞ」
 学校の友達の声が聞こえる。顔をあげてと。さあ、立ち上がって、と。
 誰かが僕の体を抱きしめる。涙で滲んで誰なのかわからない。
「探しましたよ。よかった、無事で」
 ああ、そうだ。これは先生の声だ。学校。僕の、居場所。僕が、生きていかなければならない、世界。赤い世界。空と同じ色の夕暮れの世界。あなたはそれを僕のようだと言った。だとすればこの赤い髪も暮れなずむ世界もただ泣くためだけに生まれたのだ。僕はただあなたを哀しいと思った。僕を哀しいと思った。結局僕はこの赤さをこれからも到底好きにはなれそうもない。それでも赤い色が僕の瞳に滲んで消えてくれない。さようなら、さようならと泣いている。
 僕を見つめる知った人たちの、辛そうな眼差しが僕を取り囲んでいる。
 何も知らないくせに、と僕は憤って、また泣いた。
 この心を伝える術を、僕はまだ知らない。


     *

「そうですか、君はもう、逆さまの力はなくしてしまったのですね」
 かかりつけだった医者が、ふむ、と考え込むようにそう言う。
「ええ。だから、もう僕は医者は必要ありません」
「ふふ。君も言うようになりましたね」
「先生、中ツ国はありました」
 先生は首を傾げた。
「僕の心にあります。僕の心に、飛び込んできたんです。だからもう僕には、あの世界の力は要らなくなったんです。そういうことなんです」
 僕は笑った。
 先生はよくわからないと言ったように眉根を寄せたままだ。戸惑うような顔。僕は笑顔で頭を下げると、病室を後にした。
 青空が広がっている。硝子窓の向こうで、一面の青に埋もれてはしゃぐ子供たちの姿が見える。年はそう変わらないはずだ。だけどもう僕には、彼らは酷く幼く見えた。僕はもう、何も知らなかった頃の僕には戻れないのだ。元々、悲しみを抱えていたような人間だったかもしれないけれど。
「パリシア。退院するの?」
 背中に、可愛らしい声がかかった。同じ病院に入院していたシシーがお花を抱えていた。車椅子の隙間からぽろぽろと零れていく。
「シシー。お花がたくさん零れてる」
「あっ」
 シシーは体を思うように動かすことができない。僕は彼女の代わりに零れた花達を集めて彼女に返した。
「今日、退院するんだ。まあ元々大したことなかったんだけどさ、皆が心配するから」
「ふうん。そうなのかぁ。いいなあ、じゃあパリシアはもう学校に行けるわね」
 シシーはどこか寂しそうに笑った。彼女は生まれつき体が弱くて、この病院からほとんど外に出たことがないのだと言った。学校にも憧れているのだと。
「これからどうするの?」
 シシーはどこか遠慮がちにそう尋ねてくる。彼女でなくても誰でも知っているのだ。僕がもう、親のいない、家なき子だと言うこと。
「とりあえず施設に入るよ。学校はそこから通わせてもらえる。いつまでも居るわけにはいかないから、直に働くよ。そうなると、もう学校は行けないかな」
「あまり急いで大人にならないでね」
 シシーはどこか不安そうに言った。
「僕、そんなに焦っているように見える?」
「うん」
 シシーは困ったように笑った。僕は目を伏せた。この、少女のあどけなさを残したまま、死んでいくだろう女の子のことを見ているのが辛かった。彼女の命は長くないと聞いている。大人になるまで生きられるかわからないと。
「僕は、大人にはなれないよ」
 僕はようやく、それだけを言った。
「大人になるなんてできない」
「うん」
 シシーは笑う。
「あなたのお話は楽しいから、また聞かせてね」
 シシーはそう言って僕に花束を差し出した。退院のお祝いだと言って。
 お話だなんて。本当に他愛のないことばかりを聴かせていただけだ。なのにこの子は楽しかったと言ってくれる。胸が痛んだ。心が行き場所を無くしたまま、どうでもいいことばかりをぽろぽろと零しただけの僕に、楽しかったと言ってくれる。
 僕はいつか、僕の心の整理がついた時、この女の子になら、あの世界の話を、
 幸せに消えた草色の救世主の話を、僕の痛みを、話してもいいような気がした。
 きっと、柔らかい微笑みを浮かべて、最後まで聞いてくれるだろう。この子なら。
 何も知らないまま死んでしまう事しかできない、この可愛い女の子なら。
 シシーはどこかはにかんだような顔をして、僕が花束を受け取るのを嬉しそうに眺めていた。
「お花を風に乗せて飛ばすんでしょう? あなたはいつもそうしているんでしょう? だから、そのお花を使ってね」
「それ、誰に聞いたの?」
「あなたの学校の先生がそう言っていたわ。あなたは小さい頃からそうしてたんだって。お花を集めるのが好きだったって。だから、喜ぶと思ったの」
「そう」
 僕は、また鈍く痛み始めた胸を押さえるようにして、微笑んだ。
「母さんがやっていたんだ。母さんの母さんもやっていたんだってさ。楽しそうだから、僕も真似をしていたんだ」
「素敵だわ」
 シシーは柔らかく笑う。
「じゃあ、ね」
 僕は彼女に背を向ける。シシーはいつまでも僕を見守っていた。
 僕は初めて、彼女がいつか死んでいくことを哀しいと思った。



 風が吹いている。
 青いペンキで塗られた風見鶏がくるくると回る。
 白い羽根を伸ばして、風車が穏やかに回り続ける。
 もうこの世界では、あの世界の色も、音も、何も感じることができない。

 僕は空に向かって、彼女からもらった花束を解きほぐした。
 ふわふわと舞っていく。空へ吸い込まれていく。まるでかつての僕のように。

 空があの世界の海だというのなら、届けばいい。
 僕に普通をくれた救世主。

 あなたは確かに、僕の大切な救世主だった。






(完)

都に霞むアムリタ(下)

2014年11月14日 発行 初版

著  者:星撫めれ
発  行:空檪出版

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