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銀杏BOYZ『光のなかに立っていてね』
初音階段『恋よ、さようなら』
Bombay Bicycle Club『So Long See You Tomorrow』
Especia『GUSTO』
NOPPAL『SUMMER EP 2015』
菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール『戦前と戦後』
印象派『(NOT)NUCLEAR LOVE(or affection) かくれんぼ』
OGRE YOU ASSHOLE『ペーパークラフト』
The fin.『Days With Uncertainty』
吉田ヨウヘイgroup『Smart Citizen』
Aphex Twin『Syro』
BORIS『NOISE』
Shiggy Jr.『LISTEN TO THE MUSIC』
Spoon 『They Want My Soul』
Lee Gamble 『Koch』
人間椅子『無頼豊饒』
Gotch『Can’t Be Forevr Young』
スカート『サイダーの庭』
The War On Drugs 『Lost In The Dream』
矢野顕子『飛ばしていくよ』
Lillies and Remains『ROMANTICISM』
Andersons『Stephen & Emily』
赤い公演『猛烈リトミック』
FKA twigs『LP1』
Lana Del Rey『Ultraviolence』
Mac DeMarco『Salad Days』
昆虫キッズ『BLUE GHOST』
SWANS『To be kind』
Temples『Sun Structures』
ザバダック『プログレナイト2014』
tofubeats『First Album』
ROTH BART BARON『ロットバルトバロンの氷河期』
THE NOVEMBERS『Rhapsody in beauty』
st. Vincent『st. Vincent』
stillichimiya『死んだらどうなる』
Royal Blood『Royal Blood』
BUMP OF CHICKEN『RAY』
蓮沼執太フィル『時が奏でる|Time plays – and so do we.』
GORO GOLO『Golden Rookie, Goes Loose』
Perfume Genius『Too Bright』
シャムキャッツ『AFTER HOURS』
坂本慎太郎『ナマで踊ろう』
柴田聡子『いじわる全集』
どついたるねん『どついたるねん BEST HITS』
BABYMETAL『BABYMETAL』
SHAKALABBITS『Hallelujah Circus Acoustic』
Hi, how are you?『?LDK』
ゆるめるモ!×箱庭の室内楽『箱めるモ!』
Kindness『Otherness』
くるり『THE PIER』
Flying Lotus『You’re Dead』
Andy Stott『Faith In Strangers』
磯部涼×九龍ジョー『遊びつかれた朝に―10年代インディ・ミュージックをめぐる対話―』
大坪ケムタ&田家大知『ゼロからでも始められるアイドル運営』
佐々木敦『ex-Music<L><R>』
冨田恵一『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』
南田勝也『オルタナティブロックの社会学』
発行にあたって 編集長 梶原綾乃
本書、『Year In Music 2014』はオトトイの学校・岡村詩野音楽ライター講座2014年9月期開始と同時にその制作がスタートしました。2013年4月、電子書籍という形態で『Year In Music 2012-2013』をはじめてリリースし、続いて2013年末には『Year In Music 2013-2014』を製作。本書はその2014年版ということになります。
また、この本書はもともと音楽ライター講座の受講生の皆で3ヶ月に1度というペースで制作している音楽フリーペーパー『asatte』の増刊号という形態をとっています。5月にはVol.9として「エロスと音楽」特集、7月には禁断の多数決・ほうのきかずなり氏を迎えてVol.10をリリースし、10月には「イケてるロックT」特集でVol.11をリリースしました。2014年でasatteは記念すべき10号を迎え、内容もこれまでの評論形式から少しくだけたエンターテイメント・フリーペーパーへ路線を変更してお送りしました。そして、本書は『Year In Music 2013-2014』の制作における反省点を踏まえ、昨年から参加しているメンバーから新しく参加したメンバーとともに忌憚なく意見をぶつけ合いながら、編集会議を続けようやくリリースにこぎつけたといった次第です。『asatte』を読んで頂いている皆様も、あるいは本書で初めてお目にかかる皆様も、改めまして、本書をご覧になっていただき、誠にありがとうございます。
本書はその名の通り、2014年のベストディスク50枚をあつめたものになります。選盤からライティング、入稿作業までライター講座受講生の手によるものです。音楽の趣味/嗜好が異なる者たちで作り上げたものであり、やや偏りがあるかもしれません。読者ご自身のご意見と比較しながら、時には議論の素材としてもお楽しみいただければと思います。また、今回は新たに特集企画として「音楽書評」「再発盤レビュー」もお送りいたします。多方面から2014年の音楽シーンを感じていただければと思います。
さらに、昨年のOGRE YOU ASSHOLEおよびイベンター仲原達彦氏への巻頭インタビューに引き続き、本書では、シャムキャッツのメンバー全員インタビューをお送りいたします。彼らは2014年、アルバム『AFTER HOURS』を発売、ロック・イン・ジャパンフェスへの出場、自主企画「easy」など精力的な活動を続けておりました。これを書いている現在、ミニ・アルバム『TAKE CARE』が発表され2015年の活躍も非常に楽しみになってまいりました。本書ではそんな彼らの音楽性・精神性を『AFTER HOURS』製作の視点から浮き彫りにしたものとなっております。充実したインタビューとなり、読み応えのあるものとなりました。この場を借りてではございますが、改めて御礼申し上げます。
では、最後までどうぞじっくりゆっくりお楽しみください!
2015年1月 編集長 梶原綾乃
ここ数年、徐々にその盛り上がりが大きくなりつつある東京のインディ・シーン。cero、ミツメ、森は生きている…などなど素晴らしいバンドは数知れず。そんな中でも、この2014年、ひときわ大きな存在感を放ったバンドのひとつがシャムキャッツだ。
改めて2014年の彼らの活動を振り返るとそのバイタリティには目を見張るものがある。年明けにリリースされたシングル『MODELS』、それに伴うVJを加えたバンド初のワンマン・ツアー「GO」の東名阪開催に始まり、3月には、彼らが育った街の「景色」や「場面」を美しく描いた作品として絶賛で迎えられたアルバム『AFTER HOURS』をリリース。さらにその全国ツアーを成功させ、同時に「ROCK IN JAPAN」を含む数多くのフェスへも出演。10月にはバンドの自主企画フェスである「easy」を開催するなど、ほとんど矢継ぎ早とも言えるペースで多くの音楽ファンの耳目を集めてきたのは、今さら強調するまでもないだろう。
今回はそんなシャムキャッツに、メンバー全員で集まってもらい話を聞くことができた。件のアルバムのことはもちろん、現在のバンドを取り巻く状況や、音楽制作に対するアイデア、あるいは周囲の音楽シーンや、目下作成中とされる新作EPのことまで、話題は実に多岐に渡ることとなった。躍進のバンドの1年を締めくくるインタビューとして楽しんで頂ければ幸いだ。

——まずはメンバーの皆さんにお聞きしたいのですが、今年1年で気に入った作品などあったら教えてください。
菅原慎一(以下、菅原):同じようなものをずっと聴いてたかな~。
夏目知幸(以下、夏目):バンビ(大塚)は新譜を一枚も買ってないですから(笑)。
菅原:ああ、でもディアンジェロの新作!(※インタビューはディアンジェロの新作がiTunesでリリースされた翌日に行われました。)
夏目:前に好きって言ってなかったっけ?
大塚智之(以下、大塚):ああ、まあまあ(笑)。
——藤村さんはどうですか?
藤村頼正(以下、藤村):いや、特に新しいのは聴かないですね(笑)。でも、レコード・プレイヤーを今年買って、それでちょいちょい聴いてます。
菅原:何を聴いてるの?
藤村:一番最初に買ったのはスティーリー・ダン。昔ハタチくらいの時に、「バンビ・ミックス」みたいな感じでCDにまとめてその辺のミュージシャンを聴かされたんだけど、その時はそんなにハマらなくて。でもあらためてレコード・プレイヤーで聴くと、すげーいいなあって。今の方が(気分的に)そういうのが合ってるからかもしれないけど。ドラムとベースの感じとかちょうどよくて。
——シャムキャッツはその時自分たちが聴いている音楽が作品に反映されるバンドだと思いますか?
夏目:まあするよね、それはね。
大塚:うん。
——どちらかというと古いものを掘り下げていくような聴き方をすることが多いですか?
夏目:俺は新しいもの聴くけど。まあ、みんな掘り下げてるよね。
菅原:僕も音楽すごい好きで、掘り下げて聴くんですけど、自分のプレイにはほとんど反映されてないと思います。
——自分のプレイは自分のプレイとして、何かしら改良していってるという感じですか?
菅原:そうそう。自分の出来ることをしっかりやっていくっていう。機材も限られているから、いきなりギターで最近ハマってるのとか出そうとしても難しいし。
——それはソロ活動の方でも変わらないですか?
菅原:あ、ソロは入れます!(笑)
夏目:(バンドでも)入れてよ、もっと!
菅原:いや、バンドはバンドのことちゃんと考えて、すき間でやってるから。
——じゃあ、バンドのどっしりとした方向性はまた別であると。
菅原:全然別ですね。
夏目:いま聴いてるものに影響されるっていうか、『AFTER HOURS』を作る前まではいつも天然で出してたんですよ。それこそ、聴いてるものと出すものが全く別っていう感じで。聴くほうは趣味で、そっちはそっちで楽しんで、出すほうはもっと自分の生活のこととか考えてて、「音楽」から「音楽」を作るっていうタイプじゃなかったんですけど、『AFTER HOURS』からは、もう完全に好きなアーティスト、好きな曲の構成・コード進行から、どこにどういうオカズがあるからこういうことになるんだっていうところまで、全部データで書き出してから曲を作ってたから。そういう意味では聴いている音楽がそのまま糧になって、最近は自分たちの曲になっている。
——それは意識的に変えたんですか?
夏目:そうですね。これ以上自分の天然に頼っても曲は出来ないかなって思って。俺の才能は出切ったなって。よく考えると、大学で論文書くときとかも、イチから「さあ、この経済はどういうことになっているのか考えてみよう」って、経済のことを頑張って考えて論文書く人はいないじゃないですか。いろいろな文献を漁ってそこから自分なりの答えを出すから、それと同じ作業をやってる感じ。
大塚:わかりやすいね(笑)。
夏目:でしょ、慣れてるでしょう?(笑) 例えば、悲しい曲だったらなんでその曲が悲しいか、イマっぽい曲だったらなんでイマっぽいか、その曲の中に絶対秘密が隠れてるじゃないですか。それがちゃんと自分の中にアーカイブされていれば、「あの悲しい感じがやりたいんだよな。」ってときに参考文献として引っ張ってこれるから。そこから自分たちの色に変えたりも出来る。まあ、便利ですよね。そうすると自然とオマージュ的なものになっていくし、自分たちがちゃんと音楽の歴史の中にいる感じがするから、いまのやり方がいいなと思ってます。
——なるほど。作り方がそういう風に変わると、作曲という行為も自分が表現したいことに対して、アーカイブの中からどう組み立てていくのかという作業になってくると思うのですが、『AFTER HOURS』は当時、どういうものを作りたいと思っていましたか?
夏目:自分から出すっていう作業に疲れたんで、とにかく疲れないことをやりたいと思ってました。それと、それまで天然でやってたから、その時の気持ちとかを歌ってきてたんだけど、もっと「景色」みたいなものを表現したいなっていうのがすごく大きくて。『たからじま』までは、自分が納得いってない社会や人とかのフラストレーションで曲を書いていたところもあったけど、そういうのは一旦全部排除して、自分がいいなと思った景色をバンドで作るって感じになりました。
——そういう脱力感というか、「疲れた」とか「盛り上がりたくない」みたいな感情は時代的なものだと思いますか?それとも個人的なものだと思いますか?
夏目:僕にとっては個人的なものですね。時代的にはそれこそEDMみたいに盛り上がってるじゃないですか。でも、きっと僕みたいに思っている人もいるんじゃないかなとは思っています。それこそ、博多華丸・大吉がこのあいだ「THE MANZAI」で優勝したじゃないですか。あれはちょっと僕らには希望だなって。そういう価値観でも優勝できるっていうのはいいなあと。だから「ROCK IN JAPAN」とかは華丸・大吉的な感覚で出ました。みんなはしゃべくり漫才で何分間のうちにいくつ笑いを入れられるかってところで勝負してるけど、こっちはすごい柔軟な芸で、ゆったりやって笑わせられればいいなっていう。
——それは何らかのカウンター的なイメージもあるんですか?
夏目:いや、全然ないです。作りたいものがたまたま主流じゃないってだけで、別に主流じゃないものを作りたいわけではない。
——「盛り上がりたくない」みたいな気持ちは他のメンバーの方も共感していますか?
藤村:いや、共感してないですね。たぶん全員が同じことを思ってたらシャムキャッツみたいなバンドにはならないと思う。
大塚:でも、共感はしてないけど、(夏目が)こういうことを考えてるんだろうなとは思うよね。
夏目:俺は俺で他のメンバーはこう思ってるんだろうな、っていうとこを思って作ってるところはあるけど。
菅原:だから共有はしてないけど、お互いに想像して気を遣い合ってるっていう感じですね。
夏目:でも、『AFTER HOURS』を作る時に常々言ってたのは、わざとらしい展開とか「はい、盛り上がりそうだね」っていうスイッチを押したくないっていうことで。そこは共有していたと思います。
——とはいえ、シャムキャッツの音楽って、ポップに作られてるじゃないですか?
夏目:うん、そうですね。
——例えば、「MODELS」のサビの前のSE的なギターの使い方とか、すごくポップス的な作り方をしていると思うんです。となると、スイッチを押さないっていうのがどういうニュアンスなのかなと。
菅原:自分たちの感覚の中でってことだよね。
夏目:たぶんね。
——自分たち的にナシなことはやらないっていう感じですか?
大塚:でも、あまりにもやらな過ぎるのも…。
夏目:そうそう。やらな過ぎるのも自分たちにとっては違うってなるんですよ。だからちょうど良いところを見つけてるって感じなんですけどね。いつも。
藤村:いい塩梅のスイッチを探して押すというか。
大塚:押すっちゃ押す。
夏目:でも、これは僕のクセなんですけど「これベタじゃない?」っていうのを練習中とかもよく言うんですよ。でも、音楽って基本的にベタなものだからね。
——みんなでクチを出して軌道修正して、ぎりぎりベタじゃないものにしていくみたいな。
夏目:そうですね。あとは思いっきりベタなものをベタじゃなく聴かせるとか。

菅原:「SUNDAY」って曲とかは結構最後まで葛藤があって。で、形になってからも結局どうなんだろうねって言ってます。
夏目:なんて言うか、『AFTER HOURS』に限って言えば、「コンクリートに捧げるバンド音楽をやる」っていうのがテーマとしてあって。人とかじゃなくて、自分たちが生まれた埋め立て地の地面とか橋とかに捧げる曲っていうのがテーマだったから。豊かな感じ、森とか海とか、人々の会話とか愛情とかそういうのだと豊かさが出てくるじゃないですか。芳醇な感じが。そういうのはなるべく排除したかったんですよ。そういう自分たちが思ってるヒューマンな感じっていうのを出さずに、でも、どうやって豊かな音楽にするかっていうのがテーマだったんです。そういう部分でちょうどいいスイッチを探していたっていう感じ。だから少しのっぺりしてたりとか、少し無機質っていうか、少し無表情っていうか、そういう展開とか盛り上がりじゃないと、テーマとして成立してないわけですよ。だからそういうのを探してたって感じです、『AFTER HOURS』は。やっと分かった、自分でも。
——2014年の出来事でバンド以外のことでも何でも良いので、なにか印象に残っていることがあれば教えてください。
夏目:個人的には、僕は今まであんまり死というものを考えずに生きて来たんですけど、今年はすごく近い大事な人の死がすごく多くて。だから、今まで考えてなかった死ぬことについてすごく考えるようになったかもしれないですね。でも、震災からちょっと経って、社会的にも自民党が強くて、このままやっていくっていうときに、良いタイミングで死について考えなきゃいけなくなったな、という気がしています。
——年齢的なものも多少あるんでしょうか。
夏目:そうですね。今年になってすごく周りの女の子たちが、女子っていうよりは女の人になっていっているような感じなんですね。喋る内容とかが。いや、変わってきたなあ、って思う。まあ、時代の事は僕は全然よくわからないけど、そういうフィルターを通して世の中を見るようになった感じがして、大人になってきたかなって思います。
——あと、周りのバンドがどう見えてるのかも気になります。
藤村:僕が最初に思ったのは、周りのバンドがデカい会場でやるようになったなってことですね。知り合いのバンドとかが、昔だと考えられないようなハコでやってたりする。
夏目:そうだね。音楽的な東京の現場で言えば、よくなってきているよね。昔よりは全然。若者も多いし。
菅原:大学生か、そのちょっと上くらいでいいなあ、と思える人はいっぱいいるなーという感じはしてますね。
夏目:やりやすくなったんだと思うけどね、きっと。それこそ僕は、そういうところの価値を、みんな昆虫キッズに対して言い忘れてると思う。昆虫キッズが居たからやり易くなっている、東京は。あのバンドが居なかったらもっともっと大変だったと思う。そういう価値でも実は一番評価されるべきバンドだと思うんですよ、昆虫キッズは。
——バンドとしての活動の仕方が下の世代とか、周りの人たちに良い影響を与えたということですね。
夏目:うん。あと、ああいうスタンスとか、ああいうスタイル、ああいう音楽性でも自分たちでやっていいんだよっていうのを多分最初にやってた。俺らより早かった。
——昆虫キッズを皆さんが最初に知ったのはいつ頃ですか?
藤村:シャムキャッツのファースト・アルバムの『はしけ』を出した時に、昆虫キッズの『MYFINAL FANTASY』が同じくらいの頃に出てて、俺はそれで知って、試聴したりしてた。
菅原:俺は2007年くらいに知って、当時はマイスペースがあったじゃないですか。それが何か気持ち悪い壁紙だったんですよ、確か。めちゃくちゃアングラ臭がするのに、音楽はポップで、何だこれみたいな。で、調べるとジョンのサンと仲良くて。「あ、ジョンのサンと仲いいんだ」って印象に残りました。
——なるほど。
夏目:うん。あとコースがあるから、今は。別に、昆虫キッズとか自分たちの苦労話をしたいわけでは全然ないし、そうも思ってないけど。俺たちがやり始めたときは、もっと自分たちぐらいのバンドがどういう風に活動したらいいのか、っていうコースはなかったもん。むしろ、もっとデカい感じのコースは用意されていて。
——「メジャー・デビューして、それから…」ということですか?
夏目:いや、メジャーじゃなくても、結局用意されてるコースは一緒。それのちょっとお金がない版みたいなものだったから。でも、やっぱりそれは違うぞって思ったバンドが、20代前半とかでインディーズからやるんだったらどうするのかっていうコースを模索して、実験してきましたよね。07~08年辺りから。
——具体的にはどういう活動の仕方ですか?
夏目:簡単にいうと、自主で盤を作って、それを流通だけどこかにお願いして、タワレコに少し置いてもらって展開して…っていうこととかですよね。
——そういうことが当時から始まった?
夏目:もちろん、それをずっとやってきた人たちは居たんだけど、もっともっとカジュアルな、それこそ家で出来る形でそれを始めたのが、多分俺らとかあの頃の若者たちだったのかもしれないなと。今はそれが普通だけど。
菅原:何か日本各地でイベンターさんも増えた気がするよね。あと、イベンター側の偏見が無くなった。07年ぐらいとかは、好きなバンドとかもそっちに気を遣って言えない空気とかあったもん。
夏目:うん。開けているよね、今は。
——そういうやり易さみたいなものは実感として今後どのくらい影響すると思いますか?例えば、今後自分たちや周りのバンドがメインストリームまで行けると感じたりしますか?
夏目:いけるんじゃないすかね、うん。
全員:(笑)。
夏目:っていうか、もうやるしかないですよね。やれるかやれないかって考えるより。やるって決めてやってるからもうそれに向かってますから…。『まぁやるんだろうなって』感じです、自分は。ね?
大塚:いけると思ってやんないといけないからね。
夏目:でも、本当に昔からいけないって思ったことは一分もないんですよ、ほとんど。癖というか、そういうのが好きだから「大丈夫かなぁ?」とかは言ったりするんですけど(笑)。基本的には、自分達が世の中に出ないなんて、もう、絶対おかしいと思ってるから。出るのが普通くらいの感じです。
菅原:ああ、でもこんぐらい希望を持ってるバンドってあんまいないかも知れないですけど。その質問への返しとしては、シーンから全員がメインストリームにばーっと行けるとは思わないけど、まあ、俺らは行けるっていう(笑)。
夏目:俺も全員いけるとは思わないね。でも、もっと状況良くなる気はしてる。例えば、まあ、海外の話ばっかりしてもしょうがないけど、やっぱサイズが違うじゃないですか。USのインディーっていうと全然日本のインディーとサイズが違う。プロモーションにかけるお金とか、PVひとつ見てもちゃんとお金かけて作ってる。
――分かります。
夏目:でしょ? だからもっともっとサイズを大きくしてかないといけないなあというのはあって。後輩も先輩も巻き込んで、そのサイズを大きくすることはできるんじゃないかなと思います。
――インディーのシーンのサイズってことですよね?
夏目:そうですね。まあ、気が変わって僕らもメジャーに行くかもしれないけどね。まあメジャー / インディーとか、そういうことを抜きにしても、要はこういうタイプのバンドたちで、全国的に少しキャパを広げていくっていうのは可能なんじゃないかと思います。
――そういう意味で、日本国内で、ロールモデルになるようなバンドって思いつきますか?
夏目:いやあ、いない。ロールモデルってなんすかね?
――たとえばトクマルシューゴさんとかどうですか?
夏目:ああ、勉強になりますけどね、トクマルさんの活動を見てると。
――トクマルさんとかもUSインディーとかを参考にしつつ、自分たちの手の届く範囲っていうことも保ちつつ、シーンを大きくしていくっていうのをかなり意識的にやっている方だと思いますが。
夏目:そう、だいぶやってる。びっくりするくらい全てを計算してますから。だから、ほんと勉強にはなります。でも、ロールモデルってのは無いかな。(他のメンバーに)ある?
菅原:うーん…ない(笑)。こういうことやってる人もいるっていう感じで、ロールモデルってわけではない。
夏目:そうそうそう。あ、でも、わかった!やっぱ、カクバリズムみたいのとは違う方向であれくらいのポピュラリティを得ないといけないとは思ってるんです。だから参考にはしてないですけど、全く違う成功例として、やっぱカクバリズムとか角張さんのやり方はいいなあとは思います。
――カクバリズムというと、既存の芸能的な仕組みをうまく使いながら成長していってるレーベルという印象があるんですが、そういう部分にあまり深くコミットせず大きくなりたいという感じですか?
夏目:いや、そこは上手く使いながらですよね。チャンスがあったらやっぱりやったほうがいいですから。
――ちなみに、「easy」のときに「新作EPを作る予定がある」とおっしゃっていたと思うんですけど、そのEPは今作ってる段階ですか?
夏目:そうです。
――音楽性はがらりと変わりそうですか?
夏目:いや、今回は変えたくないと思って。テーマも変えてないですね。『AFTER HOURS』でやった音楽性を用いて、まだ曲がたくさん書けるので、これで変えちゃうの勿体ないなって。バックボーンとか参考にしてる音楽は多少足されてはいますけど、骨組みっていうか下地は割と一緒です。
――作品のコンセプトが結構できてるということなので、歌詞もそうなのかなと思ったんですけど。
夏目:イメージとか、シーンとかそういうのはわかってるんですけどね。その同時進行がすごいつらいんですよ、やっぱり。歌詞の事を考えつつ、曲のアレンジも考えてると、やっぱりちょっと似ちゃうっていうか。ペタってくっついちゃう気がするから。そこに距離感が無いと、あんまりと曲としてふくよかににならないから。
――スキマを作るっていうのは面白い表現ですね。
夏目:日本人は言葉そのものをメロディとして聴いてるから、基本的にメロディと歌詞がセットでくっついちゃってるんですよ。なんとなくのイメージなんですけど。例えばそのわらべ歌って呼ばれるものとかほとんどそうだと思うんです。それをちょっと離したいっていう気持ちがあるんです。
――そのほうが面白い?
夏目:そうですね。J-POPって、まるでその歌詞が準備されてるかのように、歌詞とメロディが出てきたりするじゃないですか。「あなたに~会いたい~」とか、もう「あな~」くらいで全部わかるじゃん。それだとやっぱりロック・バンドでやる意味がないですよね。そういうとこです、メロディと展開と言葉をちょっと離すっていうか、隙間を持たせるっていうのは。「あなたに~」の後に「会いたい」って言ってもしょうがねえよなって時に、どうすんの?...ってところで勝負っていうか。
――言葉を更新するっていうか、新しい言葉みたいな感じですかね?
夏目:まあ、自分たちらしい感じっていうか。海外の歌詞を見

ると勉強になりますね。こんな固有名詞を入れるんだ、とか。向こうの歌って、歌われてる範囲がすごい広いじゃないすか。日本人の歌詞は歌われてる範囲とか使われてるイメージってのは、多分辞書にしたらすごい小さいですよ。英語の歌詞はすごい色んなところから言葉を引っ張ってくるから、日本語にしたときに、日本人が書くような歌詞とは全然違うものになってる。
――そうした違いはなぜ起きると思いますか?
夏目)ほんとに単純な話、たとえば、Laundryって言葉が英語の歌詞に入ってたら、次の歌詞では、Slowlyと韻を踏めるかもしれないし、言葉遊びもし易いし、響きからして、ダサくないというか。逆に洗濯機って日本語で入れるとしたら、やっぱりちょっと入れづらい、扱いづらいものが出てきちゃうと思うんです。あと、景色の違いもある。家感が出る言葉って、四畳半フォーク的な匂いが必ずしちゃうと思うんですよ。洗濯物って言ったり、サンダルがどうのこうのとか言うと、都会で暮らしてる人とかビルの中で生きてる人をあまり思い浮かべないんですよね。むしろ、その辺の杉並のこじんまりした家っぽい感じになっちゃうんですよ。だからそういうのをいかに避けるかって感じじゃないすかね、きっと。歌詞の四畳半問題は結構ありますね。
――日本語で生活感を出そうと思うと四畳半っぽくなってしまう。
夏目:うん。で、四畳半っぽい雰囲気っていうのは、オルタナにはご法度なんすよ。青春パンクみたいになっちゃうんで。だから使われる言葉も狭まっていくと思うんですよ。
――特定のイメージに収斂されちゃうということですか?
夏目:もしくは、結構散文的になるか、だと思いますけどね。
――シャムキャッツでは、そのどちらでもない感じをやろうとしてる。
夏目:うん、だからその辺は遊んでるよね。漫画だと、例えば、つげ義春って言ったらあの雰囲気じゃないですか。サブカルっぽい感じがすごくして、四畳半っぽい感じがして、畳だで、アパートで、杉並の感じがする。だけど、岡崎京子ってなるとフローリングの部屋で、若者たちがお洒落な服を着てっていう風に変わるじゃないすか。僕は岡崎京子の雰囲気をやりたいから。そこの折り合いをどう付けるか? ってとこですよね。しかも、生活感を出すことを避けずにやるっていう感じ。避けてやるのは全然できるので。まあ、分かんないけど。
――そういう歌詞を書こうというときに、洋邦関係なく参考になったものとかってありますか?
夏目:うーん、まあスミスかな? モリッシー。あとアズテック・カメラとか。正直、読めば何でも参考になるんですけど、特に影響を受けたものっていったらやっぱり、その二つ。しかも、彼らは全然、今の自分よりも若い年齢でそれをやってるから…自分もやっていいんだなって。
――レコーディングはどれくらいでする予定なんですか?
夏目:レコーディング期間はもう5日しかないです。
――じゃあ、今アレンジとかを詰めてるような感じですね。
夏目:そうですそうです。あと、まだ歌詞もメロディも出来てない感じ。結構全部ですね。
――作り方も今まで通り?
夏目:でも構成とかについては、曲をもう一度見直してポップスってこうして作られるよねってとこからやり直しました。だからアクロバティックな事はあんまりないんで、聴く人によってはもしかしかしたらちょっと地味って感じるかもしれないけど。音色とかの持ってる美しさがなるべくわかりやすくなるように曲が構成されてるって感じ。音色とかリズムの特徴っていうか、それがもたらす効果みたいなものがより直接伝わりやすいようになるんじゃないかなという感じです。
――よりポップスのスタンダードに近くなりそうってことですか?
夏目:たぶんそうだよね。
菅原:うん。
2014年も良い音楽に恵まれた1年でした。
みなさまはどのような音楽が印象的でしたか?
岡村詩野ライター講座生がセレクトしました
2014年のベストアルバム50枚
レビューをご覧ください。
銀杏BOYZ(以下銀杏)による9年ぶりの新譜『光のなかに立っていてね』は、彼らが大人になったことを指し示す、音楽愛とロマンに溢れたアルバムだ。これまでの銀杏は峯田和伸(Vo/Gt)が抱える性愛のコンプレックスを、俗情的な歌詞や、バンドのホモソーシャルな関係で表現することを目指していた。そこで生まれた音の塊は、聴き手の欲求不満をスカッと晴らしてくれたのである。しかし、それはあくまで青春の再現・体現であった。
本作を出すにあたり峯田は「青春が終わり、音楽が始まる」と語っている。その言葉から伝わるのは、銀杏が大人になり、自分たちの音楽をはじめて素直に鳴らすことが出来たということだ。キーとなったのは打ち込みとノイズである。銀杏はライヴにおいて客の欲求不満を受け止めんと、自らを異常なテンションに追い込み、常軌を逸した行動に出るときがあった。本作における打ち込みは、その体力的な限界を補わんと実施されたものだ。またそのテンションは、これまで逼迫感を演出するために、割れたアンプの音、メンバーのがなり、峯田の叫びとして表され、音楽を阻害していたが、本作ではその部分をノイズにまで圧縮することで、音楽と並存することを可能にした。その結果様々な音楽的要素―アイドル歌謡、ハード・ロック、ラップ、EDM、ガバ、エクスペリメンタル、アンビエント、ファンク、教会音楽―が浮かび上がることとなったのだ。このバラエティが本作をシネマティックに仕立てている。
その方向性を最も端的に表したうえで、次なるフェーズを指し示すのが「新訳 銀河鉄道の夜」である。ゆったりとした引き語りからはじまり、重奏なサビ、間奏の語り、荘厳なギターソロからドラマティックなアウトロまで緊張を緩めない。全編に渡って歌声にエコーがかかっているのは、青白い光と紫煙に巻かれたステージ、つまり峯田が最もカリスマティックである瞬間を再現するためである。このメタ的視線こそが彼らの大人になった証だ。また音ひと粒ひと粒の絢爛さ、その過剰な美しさはまるで記憶の美化作用を模しているようであり、それが青春の終わりを感じさせもする。他のアーティストではこのような作品は生まれ得なかっただろう。9年もの制作期間と、それを稼ぐほどのコンテンツ足り得たピュアネスが音楽に向いたことで、またそのような若者たちが青春時代の終わりを受け入れたことで、この作品は生まれたのだ。 (ヒロノ ユウスケ)
非常階段による他アーティストとのコラボの一つ、“初音階段”(=ボーカロイド“初音ミク”+キング・オブ・ノイズ“非常階段”)のスタジオ3作目は初となる洋楽カバー集。鮮烈なデビューを飾った前年に続き、2014年も新作リリースや海外公演など活発な動きを見せた。
前作『からっぽの世界』は、佐井好子や裸のラリーズらのマニアックなものからアイドル・ソング、アニソンまで多彩な邦楽のカバー集で、ノイズとボカロの意外な邂逅によって相性の高さを示した彼ら。初音ミクでは初となる英語版ライブラリーが2013年9月にリリースされたということで、洋楽カバーの制作は半ば必然で、早くも2014年2月にリリースされたのが本作『恋よ、さようなら』だ。
今回取り上げられた楽曲は、バート・バカラック、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、パティ・スミス、スラップ・ハッピーらの多彩なジャンルの10曲。なかでも、ケイト・ブッシュの個性的なボーカルにも負けることなくボカロが違和感なく聴けてしまう「嵐が丘」や、バックで鳴り響くギターによるノイズがむしろ美しくさえ聴こえる「風に語りて」は、斬新な解釈と原曲への愛が感じられる秀逸な仕上がりだ。トッド・ラングレンの名曲「瞳の中の愛」、リンダ・ロンシュタットの「愛は惜しみなく」もオリジナルの雰囲気を損なわずに初音ミクの魅力も引き出すボカロのトラックの完成度が高さに驚く。
アートワークは、曲では取り上げていないエマーソン・レイク&パーマーのアルバム『LOVE BEACH」のレコード・ジャケットへのオマージュ。しかも青春胸キュン・イラストレーターのわたせせいぞう“風”タッチで、という念の入れようだ。
ボカロPによる各トラックの好プロデュース、出すぎず引きすぎないノイズを絶妙に被せるJOJO広重の天才的名演などが相まって、違和感ないどころか、こんな新解釈による洋楽カバーはかつてないのではないかというくらいの完成度。JOJO広重が主催し非常階段の作品をリリースしてきたレーベルの名が“アルケミー(錬金術)”だが、ボカロ+ノイズで想像以上の価値を提示し、バカラックとヴェルヴェッツとクリムゾンなどあり得ない組み合わせに違和感を覚えさせない洋楽カバー集となった本作は、まさに“錬金術”のなせる業だ。そして、この斬新な錬金術の根底にあるのはJOJO広重の原曲に対する愛であることはもはや言うまでもない。 (夏梅 実)
本作『ソー・ロング、シー・ユー・トゥモロー』でついに全英一位を獲得し、いまや名実ともに英国のシーンを代表する存在となったボンベイ・バイシクル・クラブ。デビュー時と比べると4人のルックスもすっかり垢抜けたし、何よりも『ソー・ロング…』に込められた音楽的情報量のゆたかさと、その洗練された楽曲の数々には驚かされるばかりだ。しかし、その一方で彼らが15歳の頃に気まぐれで付けたというこのバンド名には、結成当時の彼らの面影がそのまま残っているようでもある。そのむず痒さが今はとても愛おしい。
初ライヴ直前、近所のインド料理レストランからその名前を拝借したというエピソードは、当時の彼らがどこにでもいるようなインディー・バンドのひとつに過ぎなかったことをほのかに物語っている。実際、彼らが2009年にリリースしたファースト『アイ・ハド・ザ・ブルーズ・バット・アイ・シュック・ゼム・ルース』の魅力も、今にして思えばその若さゆえの勢いによるところが大きかったのかもしれない。しかし、それからわずか一年後にリリースされた2作目『フローズ』では、それまでのダイナソーJr.やピクシーズあたりを思わせるUSオルタナ然としたギター・ロックから、さらにそのルーツを探っていくようにして牧歌的なカントリー/フォーク・サウンドへとシフト・チェンジ。そしてその翌年のサード『ア・ディファレント・カインド・オブ・フィックス』ではエレクトロニクスを大胆に導入し、ダンス・ミュージックとしての側面を強めていく。そのあまりにも極端な音楽的変遷には戸惑いを感じなくもなかったが、それが決して迷走ではなかったことを、『ソー・ロング…』は見事に示している。
アコースティックの演奏でも十分に成立するような気骨あるソング・ライティングはそのままに。マリンバや管楽器を適所に配したアレンジでバンド・アンサンブルのふり幅を拡張しつつ、ループを駆使した楽曲構成は、アルバム全編を高揚感のあるダンス・ミュージックに仕立てている。ちなみにジャック・ステッドマンはこれらの楽曲を旅行先のオランダ、トルコ、そしてインドで書き下ろしたらしい。その影響は“フィール”で使用されているボリウッド音楽のサンプリング等にも表れているのだが、もしかするとそれは必要に駆られて15歳の頃に付けた「ボンベイ・バイシクル・クラブ」という名前が、このバンドの音楽性と意図せずして結びついた瞬間だったのかもしれない。 (渡辺裕也)
2012年にデビューしたガールズ・グループEspeciaは、大阪堀江を拠点に、いずこねこなど関西のインディー・アイドルとも結びつきながら活動を続けてきた。同年のミニ・アルバム『DULCE』リリース以後、ヴィジュアル/サウンド両面での彼女たちの大きな武器は、フューチャー・レトロとでも言うべき、現在妄想される80年代を具現化したようなイメージだ。1stアルバム「GUSTO』もまた、その延長にある作品といえるだろう。
具体的に彼女たちの楽曲は、AORやニュー・ジャック・スウィング、シティ・ポップといったジャンルが参照されているが、そのルーツを辿るのではなく、むしろ徹底的に当時の音色やフレーズが持つイメージを拝借して、現在的な観点から楽曲に落としこむことが意識されている。きらびやかなカッティング・ギターやムーディーなサックスといった特徴的なサウンドは、おしゃれとか都会的といった上記のジャンルが持っていたムードを呼び起こすために使用されるのである。こうした点から本作で印象的なのは、ファンキーなギターとのびやかなホーン隊が掛け合う「アビス」。作曲を担当したインドネシアのバンド、イックバルは山下達郎やキリンジら様々なカバー音源を発表するなど、日本のポップスに強く影響を受けた活動をしており、彼らが思い抱く、幾重にも記号化されたイメージに基づくシティ・ポップを聞くことができる。また、異色とも言えるのが、複数のシンセサイザーとシンコペーションするベースによるキメが連続しながら進む「No1 Sweeper」。サウンド・プロデューサーのシュテイン・アンド・ロンガーが自身のサウンドクラウドに投稿したデモ・バージョン『No1 Super』で示したとおり、とびきり豪華に装飾されたショッピング・モールのBGMのような楽曲。記号化されたイメージを再構築してきた彼女たちの音楽が、何重にも毒気を取り除かれた商業施設のBGMと類似しているのは偶然ではないだろう。
Especiaは15年2月にメジャー・デビューが決定。湘南ノ風の若旦那のプロデュースによる「We are Especia~泣きながらダンシング~」は彼女たちのサウンドが郊外的な感覚とも結びつきつつ、ストレートなポップスとなった。また、その他収録曲では従来よりも本格的なソウル・サウンドにも挑戦。これを契機として更に彼女たちの活動が振り幅を広げていくことを期待したい。 (小林 翔)
トークボックスやシンセ、リズムマシンにギロ、様々な音がエコーがかって緩やかにとろとろと流れていく。レイドバックしたトラックの上に乗るラップはそれを受けてリラックスしてはいるが、どこかひんやりとしている。NOPPAL『SUMMER EP 2015』は、LUVRAWにより2013年秋に発足したレーベル、-IMAGE CLUV-(イメクラ)初のCDリリースとなる。
NOPPALは富山在住の女性ラッパー。東京から実家のある富山に戻った後、その富山を拠点に活動していたウェブ・メディアSQUIDS magazine(2014年4月に休止)へ参加。先行し音楽活動していたCarios/DKXO(2012年リリースの今夜が田中「Local Distance」におけるMCなど)等と2013年1月YouTubeにアップロードした「こちらSQUIDS magazine編集部」が彼女の初めてのラップとなる。それをきっかけにディム・ファンクのトラックの上で緩くラップする「One week cycle」を皮切りとして複数の音源を発表してきた。本作はLUVRAWからのアプローチにより実現。彼が富山のNOPPALを尋ねたのは2013年のようで、イメクラ発足当初からの念願のリリースと言うこともできるだろう。LUVRAWプロデュース、トラックはDorianやVIDEOTAPEMUSIC等と今回制作体制が大きく変わったものの、楽曲が作り出す雰囲気は驚くほど変化していない。それは、彼女がラップのためにつけてくるトラックのレイドバック感がLUVRAWのセンスとも非常に近いことによるものだろう。収録曲ではDorianが提供した「Summer Night Party」が出色。昨年彼が発表した『midori』の延長にあり、きらびやかなサンプリングがリラックスした雰囲気のまま大量に継ぎ接ぎされループする一方、ベースはキメが多くグルーヴィーだ。全編を通し彼女のラップの言葉数は抑え気味で、ラップと歌唱の中間をゆらゆらと辿り、進んでいく。そのメロディー・ラインにはうっすらと影がある。それはリリックで取り上げられる週末限定のパーティーの持つ一抹の寂しさと共振しているかのようだ。
さほど長くない夏の週末をつなげ、少しでも長くとレイドバックする『SUMMER EP 2015』。次の夏を心待ちにして過ごすためのサウンド・トラックだ。 (小林 翔)
戦争。過去、菊地成孔がDCPRGなどでテーマとしてきたものの延長として『戦前と戦後』を見ていくには、今から10年ほど遡らなければならない。
オペラ座の二階席の最前列。菊地は左に体をひねったまま大して面白くもなさそうにステージを眺めている。場所は日本の真裏、アルゼンチン、ブエノスアイレス。菊地のソロ・アルバム『南米のエリザベス・テイラー』のジャケットに映るのは異邦人としての彼の姿だ。遠く南米の地にて、かつてエリザベス・テイラーに例えられた女優が存在していたかもしれないと妄想するアルバム。このライブのために結成されたのがペペ・トルメント・アスカラール(以下ぺぺ)である。いわゆるラテン・オーケストラとも異なるバイオリン、チェロ、ハープ、パーカッション、バンドネオンを含む特殊な編成、録音自体は東京とパリで行われたというエピソード。そのどちらからもラテンというジャンルを周辺的(異邦人的)視点から捉えようとするぺぺのアプローチをみることができるだろう。
こうしたぺぺの活動は、3rdアルバム『ニューヨーク・ヘルソニック・バレエ』において一段と広がりを見せる。それまでの中央/周辺という関係性の中でのラテン音楽の制作とともに、”広義的なラテン”を足場として、”その他のジャンル”(ここではバレエやオペラ)をモチーフとする作品の制作が試みられたのだ。(しかも、それはぺぺの異邦人的編成によって行われる。)いくつもの関係性の中でくるくると姿を変えていくぺぺの音楽。本作『戦前と戦後』ではそうした前作の流れを踏まえた上で、”歌もの”をモチーフとした結果、ぺぺの複座的視点が言葉についても張り巡らされることとなった。例えば木琴のぽろぽろした音とバンドネオンによる50年代風の「大人の唄」では、<”私の過去がかき混ぜられた>”<”いつなのかいつかなのかわからなくなる>”と時間感覚が淀む様がシンプルで軽快なメロディーに乗せてフランス人の少女と菊地のデュエットで歌われる。キップ・ハンラハンとの共作による「ミケランジェロ」「カラヴァッジョ」はラップにOMSBを迎えた。抑制されたラテン・サウンドの上を昼から夜、酩酊へとリリックがいつの間にか流れていく。
戦争の周辺として必ず存在するであろう”戦前と戦後”の風景。菊地はペペの異邦人的性質を押し広げ、その姿を、現在・過去・未来と幾多の地点を飛び回る複雑系として提示している。 (小林 翔)
印象派の2ndミニ・アルバムである。それまで極端に情報が少なく、容姿さえほとんど確認できなかった彼女らの素顔がジャケットに載った。ある大型CD店ではエスカレーターを上った先、正面にディスプレイされていて、ついに本格的活動を始めるのかと期待し、笑ってしまったことを覚えている。
情報が少ない彼女らなので補足しておくと、印象派はmicaとmiuからなるOL2人のユニットである。タワーレコード限定で発売されたシングル『HIGH VISION/ENDLESS LOVE』、『SWAP』において打ち込みかと思わせる見事な人力シーケンサーをバックに、声質の似た透明感のある二人の歌声が魅力である。ドラムの4つ打ちを基本とした、ディスコ・ビート・サウンド色の強いユニットだ。
ところが本作では人力シーケンサーを抑え、バンド感を前面に出した作品となっている。1曲目「BEAM!」から各楽器が温度を持っているのだ。歌詞に見られる言葉選びも、バンドらしい音をバックに聴くと、今まで以上に言葉遊びの面白さを感じてくる。4曲目にはまるでアナログ・レコードのA面の終わりであるかのように、インスト曲「フェアリーはご機嫌ななめ」が配され、「ライ!ライ!ライ!」から切れ目なく繋がって、一つの世界を締めくくる。5曲目からは世界観を変え、ANATAKIKOU 松浦正樹の作詞をラップ曲調に仕上げた「MABATAKIしないDOLLのような私」で始まり、2つのいかにもバンドらしい曲が続く。ラストの「温泉」なんて、まるで結成したばかりのバンドみたいな曲だ。オーバードライブの効いたギターのフルコード・リフに、思い付きのような歌詞がのる。少年たちが露天風呂で女性を覗こうとしている。女性は少年たちに気づいていて、気配を面白がっている。滑稽な日常風景の一コマだ。適度に力の抜けた、噛めば噛むほどのアジ曲である。そういえば、ルノワールに代表される印象派って日常風景を絵に描くのだったっけ。淡い光に彩られたジャケットはそんな印象派のイメージなのだろう。
ここまで変化を見せた彼女らなので、ライブの変化を見たいのだが、いくつかのフェス出演以降、活動情報が少ない。壁の角から顔を覗かせ、変化途中の報告となったような本作であった。ここまで魅せておいて翌年へ持ち越しになるとは思ってなかったが、さらに大きな変化で2015年も楽しませて欲しい (北原’きっちぃ’裕一郎)
「うつし世は夢 よるの夢こそまこと」――“この世は夢で夜の夢こそが現実”と江戸川乱歩が言ったように、オーガ・ユー・アスホールも我々の常識感覚を大きく混乱させるような音楽を鳴らし始めた。夢、現実、時間…人間の意識のなかをとりまく概念をぐちゃぐちゃにかき回した、現在地の分からない音楽。それが『ペーパークラフト』の正体だ。
近年の彼らの潮流には、非常に興味深いものがあった。楽天的な音作りとシニカルな終末観を併せ持った『100年後』、ドープで実験的なリアレンジ音源集となった『Confidential』。口数は少なく、音は機械的になっていく楽曲からは次第に人間の体温を感じられなくなり、気味の悪さが漂っている。そして今回彼らが目指した次なるものは、先述2作の中間点のような、新譜でありながらリミックス音源をも思わせる音だった。
たとえば、「他人の夢」の終盤を覆うヘリコプターのような音や、「見えないルール」で均等にならされるホイッスルのようなループ音。これらのサウンド・エフェクトが味付けとして不穏に耳に訴えかける。これらの作用は時間軸をリミックスすることであり、時間を分断/リセットさせ、リスナーの正常な感覚を奪っていく。ライヴ・ハウスで見るVJのような、ずっと同じ映像の繰り返しを見せられている気分だ。全編を通しアナログ盤のようなぷつぷつとした音も挿入されていて、ラスト「誰もいない」ではついに大きなノイズとなり息絶える。
この音楽は現代の政治、事件への皮肉を歌っているのだろうか…なんて、それらしい答えを見つける気持ちなどは起きない。まともな感覚がつかなくなるほどの浮遊感と後味の悪さ。そして深い悲しみの迷路で宙ぶらりんとなった自分の存在を確認する。どうしてオーガはここまで巨大な虚構を作り上げてしまったのだろうか。私は未だにこの世界から抜け出せずにいる。
しかしただ一つ思うのは、たとえ今が本当の現実じゃなくて、自分の居場所がわからなくても、自分という存在は自分の意識があれば確認できるということ。出戸学(Vo./Gt)は、『ペーパークラフト』という巨大なレイヤーを張ってまでこんなことを言いたかったんじゃないだろうか。でもそんなことが分かったくらいで、この世界から抜け出すことはおそらくできない。簡単に倒れそうで、意外としっかりできているこの世界の縮図を、人間の意識と絡めて巧みに表現した作品である。 (梶原 綾乃)
神戸出身、平均年齢22歳の若手ロック・バンドだ。今年3月にEP盤『GLOWING RED ON THE SHORE EP』を初の全国流通でリリースし、本作は1stアルバムとなる。彼らの愛するチルウェイヴ以降の音楽はもちろん、UK/USのインディ・ロックを彷彿とさせるスタイリッシュさを持ち、シューゲイザー、ドリーム・ポップといったカテゴライズが適した、幻想的なサウンドを得意としている。加えて、筆者が初めて見たライヴでは、青紫色のスモークが焚かれ彼らのシルエット姿だけが見える状況で演奏を披露し、音楽性を含めさながら来日アーティストのようであったことを覚えている。
さて、その音楽性はEPの時点でしっかりと確立していて、本作はその延長線をゆくいくつかの味付けが見られる。マス・ロック感のある音で丁寧に切り刻まれた「Illumination」、寄せては返す波のようなループが艶めかしい「Night Time」など、特に80年代シンセ・ポップを随所に思わせるアプローチもあり、ほぼアカペラなほど音数を削ぎ落とした「Thaw」「Veil」など新境地もある。いずれも低体温でさっぱりした楽曲ながら、それらにグルーヴの強いベースが敷かれており、フロアで静かに踊れるナンバーばかりだ。
本作において彼らが成し遂げたのは、ザ・エックスエックスやドーターのような余白でもって、チルウェイヴの空間を作り上げるということだ。「引き算で音楽を作る」と過去のインタビューでの発言や、本作発売前の11月にアコースティックにてUstream配信を行うなど、ここ最近の彼らは、一音一音への配慮はそのままでも「音の多さ」や「形態」という概念はないことを証明しているかのようだ。それは、繰り返しになるが空間が大事だということ――ギター1本、いや人間の声だけでも海外に立ち向かえる可能性があるのをちゃんと理解しており、上記のようなUK/USのシーンを、ほぼリアルタイムで日本の音楽シーンにうまく落とし込み伝えるセンス――において、丁寧で非常に長けているのだ。
日本のバンドにおいて、あまり語られることのない「世界進出」を早いうちから掲げ、その目標が大きすぎず近いところに感じられる新人はそうそういないと思う。日本のインディ・ロックは既にここまでのレベルに到達しており、彼らはその何よりの証明だ。来年は国境を超えた活躍が期待できるのは間違いない。 (梶原 綾乃)
今年、東京のインディ・シーンを象徴したのは吉田ヨウヘイgroup(以下YYG)だった。森は生きているやROTH BART BARONら、このシーンを代表するバンドが出演したイベント「20140420」でトリを務め、フジロック・フェスティバルのルーキー・ア・ゴーゴー、One Music Campなどのフェスへ参加、ルミナス・オレンジの新譜への参加。そして何よりも、活発な活動の中リリースされた本作がそれを物語っている。
彼らはその名の通り、吉田ヨウヘイ(Vo,gt,A.sax)を中心とする8人組ロック・バンド。ロック・バンドといっても、サックス、フルート、ファゴットら木管楽器のウエイトが高いのが特徴的だ。特にファゴットという楽器はソロから伴奏まで高低音を問わない音域を持ち、音量の小ささというネックがあるにも関わらず、バンド内で骨組となるメロディを担当するなど生き生きと鳴らされている点は素晴らしい。
ファースト・アルバム『From Now On』以降1年3か月ぶりとなる本作は、OK?NO!!のriddamを含むメンバー・チェンジ後、初作品となる。ジャズから始まりファンクやニュー・ソウル的アプローチもあり、彼らの音楽は複合的で例えるのが難しい。具体的なコレというものは挙げにくいが、あえて言えば彼らの音作りはロネッツやカーデッツのようなコーラスにルーツがあると考える。YYGでは、メンバー8人のうち女性3人全員が楽器の他にコーラスを担当している。”ラララ” ”ハハハハ”のような、スキャット的コーラスと楽器が絶妙な間を持って掛け合い、対話することで完成する流れは心地がよく、声も楽器の一部として組み込まれている様子をしっかりと感じられる。そういった手法を総括すると、音楽性は違えど方法論としてはルミナス・オレンジと近いものを感じた。先述の新譜ゲスト参加は必然的か。
本作収録曲を引っ提げたフジロックでの公演以来、木管の音量やバンドのバランス共に絶好調で今めきめきと成長を感じられる彼ら。ファゴット・内藤彩の脱退は残念であったが、不景気な現代社会で鳴らされる彼らのアットホームで豊かな音楽は、今年のインディ・シーンが好景気であるという何よりの証拠となった。今年は東京インディを象徴したが、来年以降の彼らが、東京インディという言葉では描き切れない新たなシーンを形成してくれるのを楽しみにしている。 (梶原 綾乃)
唐突だが、イギリスの音楽家、音楽批評家であるデヴィッド・トゥープが編んだ『オーシャン・オブ・サウンド』というコンピレーション・アルバムをあなたはご存じだろうか。エリック・サティからマイ・ブラッディ・バレンタイン、サン・ラなどをアンビエントという観点で同一線上に並べ、選曲のみで新たな音楽を作りだすという流用の創造力の結晶ともいえる作品だ。この作品には、リチャード・D・ジェームズことエイフェックス・ツインのデビュー・シングル「アナログ・バブルバス」も収録されている。そのリチャードが13年振りとなる新作『サイロ』をリリースするという報を知ったとき、私は一つ思い浮かんだことがある。それは、この無邪気な曲と入れ替えて新たな『オーシャン・オブ・サウンド』が生まれる曲があるか、ということ。はじめて聴いたエイフェックスの作品が『ドラックス』だった私にとって、そこに漂う感傷的な気分は今でも受け入れ難く、アンビエントを軸にした『オーシャン・オブ・サウンド』の中で聴いた「アナログ・バブルバス」の多幸感こそが、私にとってのエイフェックスだったからである。
そして、『サイロ』に恐る恐るレコード針を落としてみると、そこで鳴っているのは紛うことなく、エイフェックスの音だった。しかもポップで、纏まっている。メランコリックな電子音と朴訥とした美しい旋律、弾力性の強いビートとファニーなリズム、継ぎ目なく乱れ打たれるハイハットとスネア、そして鳴り響くサブベースの重低音。それらを韜晦することなく、天真爛漫に合成し、丁寧に配置している。それは明るく開放的ですらある。まるで音を出す楽しさ、音に運ばれていく恍惚感に抵抗することのできないリチャードがいるようだ。ひたすら音楽を作り出す中、この『サイロ』のファイナル・ミックスを決定することで、サイケデリックな『セレクティッド・アンビエント・ワークス 89-92』の頃の彼の無垢な感性を取り戻したようにも思える。そして何よりも、どの曲にも新たな『オーシャン・オブ・サウンド』が生まれるポテンシャルを感じることができ、私は非常に嬉しかった。クライマックスに炸裂するナンセンスで獰猛なドラムンベースの2曲はちょっと違うかもしれないけど。
この『サイロ』をテクノとかアンビエントとかいった文脈一切関係なく、ただのヘンで奇妙な、はじめて体験する音楽として聴けた人は、本当に幸福であると思う。(坂本 哲哉)
『NOISE』はこれまでのボリスの歴史を総括するように非常にバラエティに富んだ内容だ。その音楽的豊穣さはそのまま情報量にも繋がり、ボリス史上最も情報量の多い作品となった。本作にはドゥーム/ドローン/ノイズから出発したバンドがアニソンやヴィジュアル系、歌謡曲と言った日本的音楽要素を飲み込むまでの歴史が極めて濃度と強度の高い音を持って詰め込まれている。ボリスの膨大な諸作の中で中央に位置する指針となる作品と言えよう。
更に本作はいよいよ日本のロック史に踏み切った作品と言えるのではないか。「Vanilla」や「太陽のバカ」のようにJ-ROCK的なメロディがあり、日本的な抒情性のある歌はイースタン・ユースやブラッドサースティ・ブッチャーズのような日本のオルタナティヴ・ロックの巨匠等に通ずるものがある。また、先鋭的なギタリスト栗原ミチオ離脱を逆手に取るように隙間を生かした有機的なバンド・アンサンブルは彼らが《バンド》に戻った事を強く印象づける。元々演奏の引き出しが多いとは言えないバンドだっただけに新鮮味を感じさせる。以前までは轟音で埋め尽くし楽曲の輪郭を曖昧にすることによって一種の暗号化するという手法をとっていた。しかし、本作は以前とは異なり楽曲の輪郭がはっきりしていることによって、より《音楽的》に感じられるのだ。全曲をシングルにしても差し支えないぐらい分かりやすく、且つ質が高い。「Angel」のような大曲でも極めてキャッチ―だ。「Quicksilver」のような疾走感溢れるハードコアな楽曲でも歌が耳に残る。ギターフレーズも極めてJ-ROCK的である。全曲比較的コンパクトな仕上がりとなっている。
ボリスがここにきて日本のロック的なアプローチを強めて来ているのは、日本のバンドでありながら海外活動を主としてきたのが大きいのではないか。外から内を見ることによって日本のロック、音楽の面白さに気づいたのではないか。これまでのボリスに日本の音楽的要素が感じられなかったわけではない。己の中に流れる日本の音楽的素養を持ちながら『NOISE』にはまるで海外のバンドが日本のロックを解釈したような、ある種矛盾を内包したユニークさがある。
本作でボリスはこれまで海外の文脈で語られてきたものから、日本の音楽シーンの文脈で語られるべき存在となった。『NOISE』は日本のロック史に新たな金字塔を打ち立てたのだ。 (佐久間 義貴)
フロントマンの池田智子(Vo)と曲作りの核を担う原田茂幸(Gt)は僕と同じ25歳だ。
僕らと同世代である人がこの「LISTEN TO THE MUSIC」を聴いたなら、初めて出会った音であるにも関わらず「どこか聴きなじみがあるな」と感じるかもしれない。それは90年代を通過してきた僕らが暮らしのなかで意図せずに聴き、浴びるようにして育った音楽―つまり「J-POP」を血肉に変えて、現代のシティ・ポップへと再構築したものこそがこの作品だからだ。
90年当時、オリコンチャートを席巻しミリオンを連発したTKサウンドやビーイング系の楽曲は若者たちの間でこぞってカラオケの十八番として歌われ、夜通し盛り上がるBGMの定番だった。「今が楽しければいい」というある種の刹那主義/現場快楽主義とでもいうものが90年代の空気であり、この時代のJ-POPの良さだったのではと僕は思う。
『LISTEN TO THE MUSIC』はこうした楽天的な部分に突き抜け、音楽が持つ快楽の要素が弾けんばかりに溢れている。はつらつとした歌詞や打ち込みとテクノ感のある音の粒から構成され、まるでJ-POPの無垢な部分を抽出したようなポップをふりまくタイトル曲「LISTEN TO THE MUSIC」や、ホーンのリズミカルな掛け合いが楽しい「day trip」、〈アイスクリームみたいに溶けそう〉と恋する乙女の心情をストレートに歌う「Baby I Love you」など、全編を通してキュートで迷いのない歌声。楽しく歌おう。楽しく聴こう。それだけに振り切っている、その潔さが気持ち良い。誰もが口ずさむことができるキャッチーな楽曲たちは360度全方向に瞬間を楽しむ幸せを放出している。また彼らの青春時代を彩ったチャットモンチーなどのバンドから影響を受けていることや、現代のクラブ・ミュージックの要素が盛り込まれたことも大きい。それが今作を「この時代のシティ・ポップ」へ昇華させ、90年代への回帰に留めるのでなく四半世紀の成長過程を経て作られたものに仕上げている。
―2014年、今ありきとして消費された90年代の音楽たちは街の片隅で忘れられたように投げ売られ、いっときのブームとして命を終えたかに見えた。だが僕らの音楽の原体験であり、僕らを形造ってきたこのJ-POPたちは今、シギー・ジュニアの手によって再び現代に定義されようとしているのだ。 (森 勇樹)
音像が世の中にあまりにも多く溢れていたのではないだろうか。00年代後半NYインディーに端を発し、ハウスからアフリカン・ミュージックまで多くのジャンルを飲み込んで混淆的な様相を見せていたのが近年のロックだった。過剰に音を塗りたくり、複雑さを増していったそれは”大衆的な”という意味を含むポピュラー・ミュージックの本質から私たちを置き去りにしつつあったかもしれない。
そんなシーンを知ってか知らずか、20年超のキャリアを持つスプーンの新作『They Want My Soul』は骨太な60年代的メロディを基幹にロックの伝統的な初期衝動を感じさせる。それでいて、10年代の潮流となりつつある緻密な曲構成や質の高い録音を用いて革新性を提示することも忘れていない。タイトル曲「They Want My Soul」の〈ああ、やつらは俺の魂が欲しいのさ!〉というソウルフルな叫び。自らを取り巻く泥濘としたものを蹴散らす力強さには思わず拳を握った。
冒頭の破裂音を思わせるスネアから始まり、ドライな硬さと美しいリフを携えたミドル・ナンバー「Rent I Pay」。かき鳴らされるギターは頼もしくも、恍惚感を湛えたコーラスは輝きを放つ「Do you」では繰り返されるサビを思わず一緒に口ずさみたくなる。気の抜けたカントリー調のイントロが特徴的な「Let Me Be Mine」は、近年復権を見せつつあるスラッカーな空気との共振を漂わせるようだ。ラストに流れ込む「New York kiss」はNYの街角での古い恋人と交わした接吻がありありと浮き上がり、センチメンタルな思いに締め付けられる―。
先には初期衝動と述べたが、多くに絡めとられたロックが蔓延した現代において本作は単なる過去の引用に留まらない。ブルックリンで00年代の音楽を方向付けた代表格のTV・オン・ザ・レディオが本年『Seeds』で新たに見せたフィジカルさにも通ずるような、理性よりも本能に訴求する―そんな魅力を秘めているように思う。時代の空気に触れつつ、決してトレンドに逸って作られたものではない。「色々な新しい音楽を見つけよう」というバンドが従来から持つスタンスがもたらした会心の一撃は、見事に全米四位の座を再び射抜いた。この功績はスプーンがオルタナティヴ=唯一無二なロック・バンドであることの何よりの証であろう。まだまだロックの未来は捨てたものじゃない。 (森 勇樹)
身体的なダンス・ミュージックと実験主義に根差した前衛音楽の間に存在する壁は幻でしかなく、そもそも存在する必要はないということを理解する上で、ベルリンを拠点にするレーベル<パン>は今最も必要不可欠であり、時代の半歩先を進んでいるレーベルである。もともと<パン>はローファイなノイズやミュージック・コンクレートなどの実験音楽を重心に置いた作品をリリースしていたが、その方向性がより身体性を伴うものに接近していると決定的に実感したのは、リー・ギャンブルの登場だった。彼は『ディヴァージョンズ1994 - 1996』でルーツの一つであるジャングル/ドラムンベースをドロドロに溶解しながらインダストリアルなムードを表現していたが、続く『ダッチ・トゥヴァッシャー・プルームス』に彼のもともとの抽象的な実験音楽の作風からは考えられないほどダンスの肉体性を反映させている。それはダンス・ミュージックと前衛音楽の予測不可能な衝突であった。そんな彼の背景にあるジャングルやテクノのグルーヴは、それらの作品のリリースや、それに伴って増えたリミックスやDJの活動を通し、不可逆的に前景化していくように思えた。
だが、今年リリースされた新作『コッチ』で彼が想像したのは、スモーキーな音響と不明瞭なノイズでそのグルーヴを覆い尽くすことであった。サブベースの重低音、軋んだキックドラム、高周波数のヒスノイズ、盤上を走るレコードのチリチリした音やグリッチ音の精緻な連なりが生み出すグルーヴは、劣化したようなシンセが鳴らすぼんやりとした音響の中で、亡霊のように蠢いている。まるでポーター・リックスの『バイオキネティクス』とリュック・フェラーリの奇怪なミュージック・コンクレートが同時に再生されているようだ。そんな中でもダンスの身体性は維持されており、特に背後で鳴るノイズを味方につけ、重心の低いビートが揺れる「Jove Layup」のダンスフロアに対するポテンシャルは相当のもので、ハイハットの音の連鎖だけで、プラスティックマンの「スパスティック」と余裕で脳内ミックスできる。
私はそんな『コッチ』を、暗黒レイヴ化したミリー&アンドレアやベースの重みを際立たせたアンディ・ストットの新作ではなく、リヴァプール出身のトラックメイカー、スラックのアンビエントとグライムの狭間で揺れる異形の新作『パーム・ツリー・ファイアー』と続けて聴きますよ。 (坂本 哲哉)
人間椅子はデビュー25周年にして、時代に更に寄り添うバンドとなった。子供たちは妖怪体操にいそしみ、大人たちはアイドルに思いを馳せる昨今。人間椅子といえば、2013年の「Ozzfest Japan」において、ももいろクローバーZと共演したことも記憶に新しい。筋肉少女帯を率いる大槻ケンヂの別バンド・特撮でもギターを担当し、アイドルに曲を書くNARASAKIが、和嶋慎治(gt/vo)を推薦したことが契機となっている。人間椅子は海外のHR/HM勢から影響を受けつつ、これを日本の風土になじませた。和嶋と、鈴木研一(ba/vo)の出身地である青森の津軽三味線由来のコードも取り入れている。ギターの譜面を読むのに一苦労する複雑さ。曲のタイトルには江戸川乱歩などの怪奇文学本のタイトル。日本的な耽美と日常の慈しみが詰まった楽曲が並ぶ。筆者の好きな宮沢賢治の作品からの曲も新譜に収められている。
人間椅子のもう一つの要素といえば、「おどろおどろしい」「妖怪」「怪談」の世界。ブラック・サバスの初期のコンセプトは「音で人を怖がらせよう」ということだった。HMとホラーなどの世界は、切っても切れない関係となった。対して人間椅子は、怖がらせるとしたら、あくまで「怪談」。狂気を表すとしたら「日本的な美しさ」。新譜の歌詞カードの最後に載っている骸骨絵は、歌川国芳の『相馬の古内裏』に出てくる骸骨絵から拝借したものと推測される。バンドのFacebookにも国芳の絵は載せられ、この絵の大ファンであった筆者はデジャヴを感じた。歌詞カードのほうは国芳の絵を少しいじり、骸骨がメロイックサインまで出している。非常にファニーで滑稽で、可愛らしさまである。
歌詞についてみていくと、枕詞(たらちねの母、あらたまの年など)、童謡(かごめかごめ、達磨さんが転んだなど)、「無」や「諦め」「地獄」といった仏教的世界観を織り交ぜた語り口が独創的だ。新譜からの曲「なまはげ」では<泣いでるわらしは いねが>と、民俗行事としてのなまはげそのものを歌にしている。音圧・音質が上がったこともあり、新作は全体としてメタリックな印象が強くなった。長い活動のなかで、料金未払いで電話を止められた時期まであったのだそうだ。人間椅子が少数でも喜んでくれる人たちに届ける喜びを追及し続けたことに、改めて敬意をこめて大きな拍手をおくるとともに、今後に更に期待したい。 (板垣 有)
初めてこの作品を聴いたときは、どちらかというと期待を裏切られたような気持ちのほうが大きかった。なぜなら、私の知っている後藤正文はアジカンのフロントマンであり、パワーコードに乗せて力強く歌っているイメージだったからである。
この作品はアジカンではなかなか見られないGotchこと後藤正文のキャラクターが全面に出されていて、その要素がいろいろな方面から組み込まれているのである。まず、ヴォーカルの他にも、アコギ、ハーモニカ、パーカッション、シンセサイザー、プログラミングなどほとんどの音を自らが演奏している。アコギやパーカッションなどわざとアコースティック楽器を多用したり、あえてシンセサイザーを手で弾いたりして、彼のヒューマニティを存分に出している。サポート・メンバーには、日頃から交流のあるホリエアツシ、下村亮介、井上陽介、TORAが参加している。仲の良いミュージシャンが参加することで、より一層温かみのあるアットホーム感漂う作品になっている。
一番彼のヒューマニティが表れている部分、それはやはり歌詞であろう。アジカンの曲にはないようなストレートな表現が印象的である。彼が「A Girl in Love / 恋する乙女」なんてドストレートにラブソングみたいなタイトルをつけていることにとても驚いた。この曲以外にも恋について歌っている曲もあるのだが、この作品は全体を通して、生きることや死ぬことについて歌っている。「Sequel to the Story / 話のつづき」の最後に<今日のことは忘れないだろう>という歌詞がある。この文面だけ見ると、「誰でも言いそうな言葉だよな~」と思ってしまうのだが、それを彼が歌うとなぜこんなにも心に沁みるのか。時間が経てば薄れてしまうこと、命には限りがあること。まるでそのことを彼に話しかけられているかのように、言葉が自然と染み込んでくるのだ。
人同士の出会いもそうであるように、最初はあまりしっくりこない作品であった。しかしなんとなく何回も聴いているうちに、自分と馴染んできて、聴き心地の良い音楽に変わっていった。優しく奏でられているアコースティック楽器の音やノリのいいリズムなど、すべてがこの作品にとって大事な要素であるが、一番の魅力はやはり彼の人間性なのであろう。この作品には音楽に一番大事な”心”が込められている。きっと聴いたすべての人にそれが伝わるであろう。 (日高 玲央奈)
スカートはVo.Gt.澤部渡を中心に、Ba.清水瑶志郎(マンタ・レイ・バレエ)、Dr.佐久間裕太(昆虫キッズ)、Key.佐藤優介(カメラ=万年筆)と、それぞれインディで活躍しているミュージシャンで結成されたポップ・バンドである。これらのメンバーはあくまでサポートで、スカートは実質澤部のソロ・プロジェクトだ。彼は真の意味でインディペンデントでなければ自由な音楽創作は出来ないと考え、この『サイダーの庭』に至るまで、制作から流通までを自力で行っている。そんな彼だからこそ、アートワークにおける漫画家とのコラボ、これまでのリリース作品(サイダーの庭以外)のアナログ・プレス、など楽曲制作以外にも強いこだわりを示してきた。彼の制作におけるDIYな姿勢と、諸々の趣向における強いこだわりから、僕は澤部にとても職人的な印象を受ける。
スカートの音楽はポップスとして非常にウェルメイドなものだが、それでいてハンドメイドな耳触りも持っている。60~70年代のポップスにルーツがあり、非常に凝ったソングライティングをしているにも関わらず、とても親しみやすい。『サイダーの庭』に収録された8曲はどれも非常によく練られた佳作であるが、その親しみやすさの秘密はアナログ録音による温かい耳触りにあるだろう。その音像は古いビデオテープのようにどこかおぼろげで、記憶の淡い部分を沸々と呼び起こす。また、一発録りという制約も、バンドの勢いを閉じ込め、ジャケのイメージ通りの爽快感を生むのに一役買っており、名匠エンジニア近藤祥昭の力添えで、理想的なバンド・アンサンブルが切り取られている。
最新シングル『シリウス』は、とうとう外部のレーベルからリリースされた。『サイダーの庭』をインディとして出来る最良のものだと判断したのだろう。澤部は一発録りを決めた理由として、今以上にバンドが良い状態でグルーヴできるタイミングはないからだと語っている。制作を手がけるマイスター(職人)として、バンドを束ねるマエストロ(指揮者)として、次なるステップが見えたのだ。今後の作品が、これまでにも増してクオリティの高いものになるのは自明である。しかし、『サイダーの庭』の空気感、まるで工房で作られた工芸物のように、人肌を思わせる温かみはこれまでかもしれない。だからこそ僕は、彼の孤独な歩みと、積み上げた音楽的成果の結実としてこの作品を記憶したいのである。 (ヒロノ ユウスケ)
「何て自分は孤独なんだ」、「何で自分ばかりこんなツイてないんだ」なんて、こうしてネガティブな穴に嵌ってしまい、悲観的なことばかり考えてしまう時期というのがいろんな人にあるだろう。実際そんな時期でも、ただ一人にならず、生身の人間と触れ合ってみると意外とあっさりと気持ちが晴れてしまったりもするのだが。
本稿の作品の主人公ともいうべき人物、ザ・ウォー・オン・ドラッグスのフロントマン、アダム・グランデュシェルは2012年の秋に長年付き合ってきたガール・フレンドと別れることとなった。彼は誰かと過ごすことで悲しみを忘れたり、鬱憤を晴らすでもなく、一人部屋に閉じこもり、孤独に苦しみ、眠れぬ日々を過ごし、パニック発作も経験した。アートワークでのアダムの俯く姿はそんな過去を象徴しているようにも思える。本作は約2年に及んだレコーディング・プロセスの中の、そうした「絶望」ともいえる心のうちが反映されている作品だ。
そんなテーマなだけに、全体的に暗いトーンの曲が多いのは間違いないのだが、本作の中には絶望の中から希望の光を探そうとする場面が何度も確認できる。落ち着いたトーンの曲と交互になるように、ブルース・スプリングスティーンを代表する80年代のUSロックやアメリカーナを思わせるシンセやホーンが華やかさを添える、「バーニング」などのナンバーが登場する。そんなところからは、まだ脱し切れてはいないものの、暗闇から這い上がろうとする、一人の勇敢な男の姿を見て取れるだろう。中でも7分超の「アン・オーシャン・ビトゥイーン・ザ・ウェイブス」は本作のハイライトになり得る大作だ。この曲の中で彼は、ヴェールに包まれたままの、真の彼女の姿に対して葛藤する。しかし、3分近くのインストゥルメンタルのアウトロの言葉にならぬ声とエモーショナルなギターソロには、彼の何とか答えを見つけようとする姿が感じられてくる。
前作『スレイヴ・アンビエント』でも批評家からの賞賛は受けていたものの、バンドの元メンバーであるカート・ヴァイルはソロ2作でアダムを上回る成功を収めていた。残された彼は、3年の歳月の中で、かつての盟友の成功を横で見ながら孤独と葛藤の戦いを経験し、それをエモーショナルに表現することで作品を作り上げた。社会を見てみても、日本もアメリカも世界も希望で溢れているとは程遠い雰囲気だ。先が見えなくても、戦い、光を探すしかないのだ。 (山本 大地)
矢野顕子がラジオに生出演し、生演奏を披露したことがあった。曲目は「いい日旅立ち」。遅ればせながら、これが筆者と矢野顕子との出会いとなった。独創的で、息をのむ…のみ続けてしまうかのような、“ものすごい”展開に、感動しすぎて頭がぼうっとしてしまった。この演奏の音源は残っていないようなのが残念だ。YouTubeの音源であれば、「ちいさい秋みつけた」で彼女のクリエイティヴィティが確認できるだろう。
矢野顕子の音世界は、普通の音楽家が考えうる世界を一歩超えている。彼女の“ものすごい”部分は、ジャズの理論のなかで誰もが考え付かない突拍子もない一音をひねり出すことだ。(いつメインのフレーズに戻るのだろう)と聴き手が気を揉むなか、彼女は飄々と歌ってみせる。彼女なりの「いい日旅立ち」「ちいさい秋みつけた」の“解釈”を。その展開は聴き手を不可思議な世界へと誘う。誰もが予測不可能なその世界で、私たちは音に溺れたり浮かび上がったりしながら、向こう岸へたどり着くのだ。
NYに住み、スタインウェイのグランド(ショート)ピアノと、猫と共に暮らす矢野顕子。郊外には「パンプキン」というスタジオがある。矢野の才能の周りには、これまでも自然と他の才能が集まってきた。新譜『飛ばしていくよ』でも、矢野は自身が“カッコいい”と思ったアーティストと組み、はつらつと楽しんでいる。シンセサイザーやコンピューターナイズされた音が多いのも特徴の一つ。それもそのはず。今回はボカロPのsasakure.UKと組んでもいるのだ。「ごはんとおかず」「Captured Moment」ともに、ボーカロイドの作者が手掛けたとは思えない、メロディのたった楽曲だ。更にはyanokamiで、当時リリースされなかった音源をアレンジして発表した曲も(「YES-YES-YES」)。BOOM BOOM SATELLITESとの共作曲「Never Give Up on You」。ロック色が強いが、ハッとするプログレッシヴな展開が特徴だ。ボーカロイドであれ、ロックであれ、テクノ(砂原良徳との共作)であれ、最終的には矢野顕子色に染められていく。ピアノと対等に渡りあう歌心とともに、音源では音が“自然に”流れるように入ってくることも、矢野の“ものすごさ”を表している。ライヴではアレンジを変えて歌うことが多い矢野。“ぶっとんだ経験”をしに、ライヴに足を運びたい。 (板垣 有)
ああ、いつもそうだ。ゾクゾクするくらいクールでいて、またどうしようもなくなるほどに切なくさせる。焼け付くくらいに胸を焦がされる。こうしていつも私の心をかき乱していくんだ。Lillies and Remains (以下リリーズ)、彼らの音楽にはいつも良い意味で翻弄されてばかりだ。今回、約3年半ぶりのフル・アルバムとなったリリーズの新譜『ROMANTICISM』は、聴いたものの感情を狂おしくなるほどかき乱す。曲から、そして歌詞から溢れる切なさと、やるせなさ。今作の彼らはまた、今までの作品とは違う新たな新境地にたどり着いている。
今年は6月に約5年、バンドでベースを務めていたNARA MINORUが脱退し、KENT(Vo./Gt.)とKAZUYA(Gt.)の新体制が始動した年であった。今作『ROMANTICISM』は新体制後、初のアルバムとなる。制作するにあたって、元SOFT BALLET、現minus(-)の藤井麻輝がプロデューサー兼、レコーディング・エンジニアとして参加した。従来はバンドのソングライターであるKENTを中心に曲作りをしていた彼らだが、今回新たに藤井が加わったことで曲層の幅が広がりを見せ、楽曲から人間味が垣間見えるようになった。
10月12日に盟友PLASTICZOOMSと共催したオールナイト・イベント「BODY」で今作の楽曲を初めて聴いた時は、彼らの見せる新境地に強く胸が躍った。アルバム1曲目の電子音バキバキ、且つギターが唸りをあげるインダストリアルなナンバー「BODY」は、聴いたものの本能を解放させ、踊らずにはいられなくさせる。メロウなメロディーが醸し出す寂寥感が胸をしめつけるのが2曲目の「Go Back」。ラストにかけて、80年代感のある煌めくシンセサウンドにのるKENTの高音域の歌声、そしてコーラスワークが、さらに胸をしめつける。これがたまらない。さらに特筆したいのが4曲目、「Like the Way We Were」。これまでのリリーズでは聴いたこともない特徴的なギターのリフ、疾走感のある爽快なメロディーとサウンドが癖になる。
『ROMANTICISM』という新たな礎を元に、今後も新体制で進んでいく彼らのポテンシャルに期待しかしていない。そして、私はこれからも彼らの何者にも侵されない意志を、今までと変わらずに貫いていく美学と矜持を、見届けていきたい。 (小泉 里菜)
2013年3月にBandcamp上でミニアルバム『Andersons』をリリースしてから約1年半。お互いに80kidz主宰のKidz Rec.より楽曲をリリースしていたKentaro(a.k.a. Scottish Fold)とDominikaのふたりによるAndersonsが今年9月、待望のアルバム『Stephen & Emily』を発表した。
アメリカの片田舎に住む冴えない兄・ステファン=Kentaro(Gt.)と妹のエミリー=Dominika(Vo.+Piano)兄妹が退屈な日常を変えるために音楽を始めるというストーリーを結成のコンセプトに持ち、シンプルなサウンドとメロディ・ラインにより展開される全9曲を聴いていると、自由に自然体で音楽を楽しむふたりの姿が目に浮かぶようだ。
Kentaroのメロディ作りのセンス、またソロ活動時の作品にもあらわれているDominikaの歌唱力と表現力の光るこのアルバムの中でも、2曲目に収録された「Young Love」には特に注目してほしい。幼くて心が締め付けられるような恋心をDominikaが豊かな表現力で歌い上げている。また、イントロのメランコリックなメロディ、ベースのシンプルな進行も気分を盛り上げてくれる。相手のことが好きすぎてクローンを作ってしまった女性が主人公の映画『さまよう小指』のテーマ曲としてこの楽曲が起用されたことには必然を感じずにはいられない。また8曲目の「Last Summer」では、過去にScottish Fold名義で発表された楽曲やリミックス作品にも共通して感じとれるメランコリックさやノスタルジックさをいっそう感じられ、当時からのファンである自分もおおいに喜ばせてもらった。
Webメディア〈インディーズライフ〉でのインタヴューによると今年某有名女性J-Popアーティストに楽曲提供を行っているのだが、なんと今年9月のアルバム発表前、Bandcampでのみ音源を発表していた段階でアーティストのA&Rから声が掛かったという話もおもしろく、今後はどんなところから声が掛かってしまうのか僭越ながらとてもわくわくしている。11月に渋谷で観たライブでは、タイトで眩しい衣装に身を包み表現力豊かにリズムに合わせダンスしながら歌うDominikaの姿から目を話すことができなかった。2015年の彼らの飛躍が楽しみでならない。 (太田 あゆみ)
ここ数年、新たなJ-POP観を示す若いクリエイターが現れはじめている。tofubeatsや赤い公園のリーダー津野米咲にとってのそれは、単にヒットチャートに集合する音楽を意味するに留まらない。彼らはそれを自分たちの無意識に流れる音楽、青春時代に街で流れていた記憶の音楽とし、批評的目線で再構築している。90年代が無意識化にあり、00年代のヒットチャートを眺めながら育った世代にとってJ-POPは、街の喧騒であり、広告であり、文化の猥雑なのだ。
『猛烈リトミック』の1曲目、超王道のギター・ポップ「NOW ON AIR」はまさにその事を示している。この曲のFMを模したノイズとキャッチーなメロディは、街の喧騒の中でも聴こえてくるメロディアスなヒット曲をパロディしているのだ。そして、直後に殴り込んでくる「絶対的な関係」の暴力的な三連符イントロ、この振り幅こそが『猛烈リトミック』の本質である。おどろおどろしいストリングスを聴かせる「ドライフラワー」、リズムがバラバラに切り刻まれた「ひつじ屋さん」、プログレッシヴな展開の「風が知っている」など、本作に収録された全15曲は、1曲とて同系統の音楽がなく、それぞれのジャンルが持つポテンシャルを最大限まで発揮されたものとなっている。これらの多要素にも関わらず、『猛烈リトミック』が非常に耳馴染みの良い作品であるのは、その中心をメロディのキャッチーさが占めているためだ。それはまさしく「NOW ON AIR」で示された街の喧騒をすり抜けてくるヒット曲の鳴り方と協調しており、そのような聴こえ方がするのは、J-POPのメロディが総じて似ているという側面が批評され、J-POPという言葉に溶けてしまいルーツが不明になった、どこか叙情的でメロディアスな「らしさ」が再現されたためであろう。
最近はYoutubeでどのような音楽でも聴くことができるが、そういった現代の過剰なフットワークと、『猛烈リトミック』のある種の節操のなさは非常にリンクしている。この作品が極めて現代的であるのは、90年代生まれの若者だからこそ持ちうる、J-POPの歴史を俯瞰する目線が感じられる点にあるだろう。また、本作でほのかに感じる懐かしさは、彼女らの無意識に刷り込まれた20年の産物なのかもしれない。そういった意味でも、このアルバムは「今」そしてこれまでのJ-POPを象徴していると言えるのだ。 (ヒロノ ユウスケ)
穏やかで、しかしながら燃えるような情熱を感じるアルバムだと思う。ここ数年静かな盛り上がりを見せているインディR&Bシーンにおいて、これほど待ち望まれたデビュー・アルバムもそうはないであろう。FKAツイッグスは、10代のころからUK・ロンドンでキャリアを積み上げているダンサーだったが、2012年に最初の音源をBandcampにて発表したことを契機にシンガー・ソングライターとしても注目を集めた。彼女が2013年に発表したEPに続いて発表したフル・アルバムが、本作『LP1』にあたる。このアルバムは、高いアート性と同時に強靭なポピュラリティーをも備えた2014年を象徴する作品である。
この作品にプロデューサーとしてクレジットされているのは、ビョークの次回作を手掛けるアルカや、ブラッド・オレンジ名義で知られるデヴ・ハインズなど、現代のエレクトロ、R&Bシーンをリードするトップランナーばかり。そんなシーンを代表する才能を曲ごとに起用しつつも、それぞれの曲で散漫な印象は皆無だ。むしろ作品を貫く繊細な感覚が印象的で、ミニマルで宇宙的なトラックの上を泳ぐ彼女の声は、自由に私的な内容を打ち明ける。プロデューサーの起用に関しては、自身の得意でない部分を埋める存在としての起用であると彼女自身は語っており、自らや作品をコントロールする存在としてではなく、作品制作における一要素として主体的に起用しているということであろう。そこには、シンガーでありダンサーである表現者としての「身体性」の彼女と、作品の世界観を形成する「精神性」の彼女がそれぞれ別に、しかし互いに関係しあいながら存在していることを強く感じる。
FKAツイッグスというアーティストは、最初の音源をインターネット上にアップしてシーンに登場した、いわゆる”インターネット出身”のアーティストで、この作品に収録されている「Video Girl」や「Two Weeks」をはじめとした奇抜で印象的なMVの存在からも、そのビジュアルイメージや音楽をインターネット経由で十分に知ることができる状況にある。しかし、それでもまだどこか掴みきれないような神秘性をたっぷりと残しているように思う。この感覚は、ライブという場において「身体性」の彼女を目の当たりにしたときにまた変化するのだろうか。音楽作品として高い完成度を示しながら、それを上回る強い引力を秘めた稀な作品である。 (堀中 敦志)
曲が書けて、ロックも含めた音楽への造詣もある。メインストリームで次々と消費されるポップソングを歌う歌手とは違った意味で女子からの憧れの対象となれるアイコンとして、時にエイミー・ワインハウスやアデルなどとも比較されながら、彼女は10年代のシーンの中で大きな存在感を残してきた。本作は、世界中から熱狂的なファンを獲得し、500万枚近くを売り上げた前作『ボーン・トゥ・ダイ』に続く3枚目だ。
「シネマティック」とも評される50年代や60年代のポップス風サウンドがベースにあるのは前作と変わらないが、今作で顕著なのは、ブラック・キーズのダン・オーバックがプロデュースに大きく関わったことによる、生音中心のロック的なサウンドへのアプローチだ。例えば「シェイズ・オブ・クール」に見られる泣きのギター・ソロ、「ウエスト・コースト」の音数の多いスネアなど。これが絶妙に、ラナ独特のロマンチックかつどこか厭世的な世界観にマッチしているのが素晴らしい。様々なプロデューサー陣を揃えた前作に対し、本作ではプロデュースの中心をダンに一任、それによって、ブレずに作品全体の焦点を絞ることができている点もプラスに働いているだろう。
相も変わらずラナが表現するのは、悲しみに浸るペルソナだ。例えば、表題曲の「ウルトラヴァイオレンス」では、ザ・クリスタルズの曲名「He hit me and it felt like a kiss」を何度も引用しながら、暴力的な愛に浸ってしまう女を演じる。そしてそのボーカルは曲の中で時にエモーショナルになり燃えていく、何ともラナらしく、美しいものだ。やはりこうしたテーマが彼女のいまの才能を生かすには一番のものなのだろう。
彼女はその個性の強さもあり、メディアから厳しめの批評を受けることもあれば、些細な発言が物議を醸すこともある。(最近では「フェミニズムなんかより宇宙の方が興味ある」、「もうとっくに死んでいればよかった」など。)熱狂的なファンを獲得する裏では、敵も多く作ってきたのだ。しかし、それこそがポップスターの証ではないだろうか。例えばそれはマイケル・ジャクソンにしても同じだった。巧みにサウンドの幅を広げることで確立された音楽的な実力と同時に兼ね備えたスターの風格。もう彼女は10年代のポップ・アイコンの一人となるのに文句なしだ。本作はそれを確証させるような作品と成り得たといえる。 (山本 大地)
音楽のファンクネスが成立するためには、適度なクサビと遊びが必要で、ただキツキツしていても、逆にただダラダラしていても上手くいかない。弾力が生む律動が必要なのだ。
では、このどうにもだらしない、“スラッカー=怠け者”という呼び名が似合う(実際のところは働き者だと思うけど)マック・デマルコなる青年の、とてもファンキーな音楽における“クサビ”は何かと考えてみる。“遊び”の方はそれほど難しくない。一曲目から「ああ、ママ/もう人生がもう終わったような感じにふるまってるよ」とのたまう極度のやる気の無さはわざわざ探すようなものじゃない。歌詞に出てくる<Let>という語の多さも特筆に値する。諦念、なんてかっこいい言葉すら似合わないダラシのなさは、しかし、彼の美点でもある。
そうした歌詞の印象からすると、サウンド面では本作は意外に奥深いと言える。トランペット風のシンセの音色をヘンテコに歪ませた「パッシング・アウト・ピーシズ」、ヴォーカルを何重にも重ね、エフェクトのつまみで遊ぶアウトロが印象的な「ブラザー」、本人がスティーリー・ダンをルーツに挙げるのも納得の冴えたギター・プレイの聴ける「グッバイ・ウィークエンド」など、ひと筋縄にいかない楽曲の数々は、シンプルで人懐っこい歌メロと相まって、本作を魅力的なロック・アルバムへと仕立てている。
その全てに共通するのは、シンプルな宅録スタイル——本作は彼が近年移り住んだブルックリンの自宅スタジオにて録音されている——の一貫によるスカスカのプロダクションだ。本作の持つファンクネスをお膳立てしているものの一つが、そのシンプルな空間性にあることは間違いない。だが、それ以上に重要なのは、どこまでもゆるくなっても、どことなく切なく無気力な歌を歌っていても感じる、ある種の“気品”のようなものの方だろう。ペイブメントやアリエル・ピンクの露悪性とは逆の、「何はともあれ、まずはファンキーじゃなくちゃ楽しめないよね」とでも言いたげな、分厚いホスピタリティ。本作の“クサビ”になっているのは、そんなものなんじゃないだろうか。
ウダウダやる気なく全てを捨てた結果、思いやりと“音楽”だけが残った。ロマンチストを気取って言えば『Salad Days』はそんな風に評することのできるレコードだ。無気力を抱きしめた時に聴こえる音楽の心音に身を委ね、去りゆく週末にキッスを送ろう。 (佐藤 ユウタ)
昆虫キッズといえば、僕と君という孤独な若者がロックンロールで救われるファンタジーとスリリングな快感を、パンクの初期衝動とともに歌っていた。まさに、青春そのもの。しかし今年メンバー全員が30代を迎えた年に放たれた本作『BLUE GHOST』は、初期とは全く違った世界観が窺える。僕と君という登場人物より、曲ごとに主人公と物語の軸が存在する。まるでSFのショートショートのようだ。
そしてその世界観は、バンドが培ってきた経験とスキルが手伝ってより一層の内面的充実を諮っている。例えば1曲目の「GOOD LUCK」で高橋翔(Vo&Gt)が息を吸うタイミングから始まる歌い出しは、かつての不安定な音程の印象を払拭するくらい美しいし、続く2曲目の「Metropolis」では、 冷牟田敬(Gt)のリフレインがまるでメトロポリス(近代都市)という異世界のきらめきを描くように華麗に展開されている。また、5曲目「COMA」に代表される歌詞の情景を楽曲が増長させる表現も本作ならではであり、全体的にロマンティシズムが溢れている。極め付けはなんと言ってもリード・トラックの「Alan Delon」だろう。流れるようなドラムと追憶の彼方へ誘うギター・ストローク。そこにそっとヴォーカルの歌が溶け込み、ベースが深みを与え、そこからサビに向けて一気に展開される。バンド至上最も軽快かつ躍動感に溢れる曲だ。これらの内面的充実は、ところどころに余韻を含むフランス映画のようでもある。
フランス国旗の3色のうち青は、《自由》という意味を指す。フランス映画『トリコロール 青の愛』において主人公ジュリーは、愛する作曲家の夫と娘を亡くした喪失感という呪縛から自由になるために、未完成の協奏曲を完成させた。もしかしたら、このバンドの核であり作詞作曲を手がける高橋は、過ぎてしまった青春、時限が決められたようなバンド名である"昆虫キッズ"という呪縛から自由になるために、本作『BLUE GHOST』を完成させたのではないだろうか。成熟したバンド・サウンドだからこそ表現できる余韻から、青春のGHOSTを感じられずにはいられない。
この作品を発表したのち、昆虫キッズは来年1月のライブをもっての活動終了を宣言した。活況する現在のインディーズ・シーンを築く一役を担いながら、独特の存在感があった彼らの不在は、ただただ惜しい。 (藤森 未起)
ドローンとは即ち反復であり、音を引き延ばすという意志の表れである。幾度も音は反復され、永遠/永続性を強調する。初期スワンズが提示した音もまたドローンであった。メカニカルでマシナリーなハンマー・ビートにノイズまみれのリフの執拗な反復は正しくノイズ・ドローンの形態をとっている。では、スワンズ=マイケル・ジラにとっての反復とは何を指しているのだろうか。
来年1月に再来日が決定しているスワンズの再結成後3作目となる本作でも根底にあるのは反復=ドローンにあると言っていい。しかし、それでいて、おおよそインプロヴァイズを軸としたであろうと推測できるアルバム構成は各音のパートの分離と隙間が非常に生かされた、有機的で立体的なアンサンブルが特徴だ。言い変えるならば、スワンズ史上最もライヴ感溢れる作品である。強靭な反復のリズムを基調にしつつも、ギター・ノイズは自在に、時に多彩に暴れまわる。ジラのヴォイスはジム・モリソンを彷彿させるように情念を湛え、歌い、叫び散らす。初期のスワンズの反復は脊髄反射的なものであったが、本作におけるスワンズの反復は極めてフィジカリティなものである。リズムの躍動感は呪詛的でプリミティヴですらあるのだ。また長尺が占める楽曲群の構成と展開はスワンズ流の演劇=音劇を鑑賞しているようである。「Bring the sun/Toussaint L’Ouverture」はその象徴であろう。本作の要素を全て凝縮し、展開され、繰り返される。スワンズ流の演劇=音劇は永遠に終わりのない反復なのだ。
ここで冒頭の問いは繰り返される。スワンズ=ジラの反復とは何を指しているのか。結論から言えば、スワンズの反復は初期の頃から何も変わっていない。即ちスワンズの反復とは愛憎の反復なのだ。徹底した愛憎がジラを反復に掻き立てるのである。愛と憎しみは相反しない。ジラにとって愛することと憎むことは同義であり、愛するが故に憎み、憎むが故に愛する。その愛と憎しみの反復によって、生まれる軋轢がスワンズの反復の根源なのだ。本作でもメビウスの輪のように終わりなき愛憎はグルーヴとなって貫かれていると言っていい。
仮にマルグリット・デュラスのテキストにサウンドトラックをつけるのならば、本作ではないか。『To be kind』は永遠に繰り返される愛と憎しみの間で反復し、そして逆転し続ける愛憎のリヴァース・ショットなのだ。 (佐久間 義貴)
イギリスのミッドランズ出身の4人組、テンプルズ。彼らを始めて目の当たりにしたのは昨年11月のHostess Club Weekenderでの初来日公演だった。2012年に結成したばかりのバンドとは思えない完成された音像、メンバーの優雅な佇まい、新人らしからぬ風格と雰囲気に惚れ込むのに時間など必要なかった。筆者にとって、“サイケデリック”といえば、強烈に歪んでいる音像、そして独特の浮遊感と、醸し出されるキラメキに酔ってしまう音であるが、まさにテンプルズの音に触れたあの瞬間は、初めて生で感じた“サイケデリック”という音の原体験であると言えた。
バンドのフロントマンであるジェームス・バックショー(Vo./Gt.)の自室ですべて宅録したという『Sun Structures』。宅録ならではの自由度の高さを生かし、往年のピンク・フロイドやバーズから、最近のテーム・インパラに至るまで、新旧のサイケデリック・ミュージックや、プログレ、フォークなどあらゆる音楽性を飲み込んで昇華させている。あらゆる音楽性を巧みに調理したことで、まるで万華鏡を見ているようなキラメキと、霞がかった艶めきと妖しさのあるテンプルズ独自のサウンドに仕上がっている。
『Sun Structures』は、1曲目の「Shelter song」からイントロの12弦ギターのリフより聴くものを幻想的なテンプルズの世界へ引き込ませていく。タイトル曲である2曲目「Sun Structures」以降も、色気のあるムード感たっぷりな「The Golden Throne」、曲から漂う哀愁感がいたたまれない感情を呼び起させる「Move With The Season」、1曲目とはまた異なる、甘美でうっとりとさせる12弦ギターの響きが印象的な「Colours To Life」など、テンプルズの楽曲は、1曲1曲の中毒性がかなり高く、聴く者を幻想世界にトリップさせてくれる。と同時に、どこかスマートさに感じる楽曲たちに陶酔せずにはいられなくさせる。
彼らは今現在で既に4度目の再来日が決まっている。そして既に世界各地のフェスへ引っ張りだこであったし、スウェードやカサビアンなど大物バンドの前座を務めたりもしていて、ここ最近で数々の大きな場数を踏んできているテンプルズ。今後もさらに躍進していくだろう。彼らは間違いなく大きなバンドへなっていく逸材である。 (小泉 里菜)
福島県の民謡「相馬二遍返し」の火を噴くような凄絶なカバー。アルバム最後に収録されたこの曲はメンバーの小峰公子の出身地である福島のいわばトラッドで、最近のライブではお馴染みの曲だ。初期ザバダックはケルト音楽やトラッド・フォークの影響が色濃く出ており、オリエンタルな要素を加えた日本風フォーク・ロック的な曲もあるが、日本のトラッドを正面から取り上げ、かつ大胆なプログレ/ハードロックアレンジで聴かせるこの曲はそれらとは一線を画す。今後もライブを重ねるごとに研ぎ澄まされていく予感を抱かせ、小峰自身が「ザバダックにとっても大切な曲」と語るとおり、代表曲の1曲に数えられることになるだろう。
本作は、2014年7月12日に東京キネマ倶楽部で開催された“プログレナイト2014”公演を収録したライブ盤。難波弘之、鬼怒無月ら手練のサポートメンバーを加えた総勢8人編成のバンドが繰り出すアンサンブルには驚愕の連続だ。複雑な難曲をそう感じさせないベテランならではの風格。スタジオ最新作の組曲「夏秋冬春」をバラして順序を変え間に別の曲を挟むことで新たな組曲としても聴ける「秋」「KIMELLA」「夏」の大曲3曲は中盤のハイライトだ。観客のリコーダーとの合奏「POLAND」を経てラスト「相馬二遍返し」に続く。
CDの収録時間の関係もあってかライブの完全収録ではないが、逆に良い意味で当日と異なる印象を与えている。会場の盛り上がりをリアルに伝えるなら外せないはずのアンコールを含む終盤やライブ定番曲はカットし、まだ5曲を残す13曲目に演奏された「相馬二遍返し」で締めてしまうという大胆な編集。ライブ自体は終盤からアンコールで演奏された定番曲で大いに盛り上がってお祭り騒ぎとなるわけだが、それは“プログレナイト”には無用な陽気さだ。前半のストイックで重厚長大なプログレ部分だけを抽出して凝縮したことで、国内外の近年のプログレ系ライブ作品の中でも出色の出来となった。
ザバダックは、吉良知彦と小峰公子のメンバー2人に毎回多彩なゲストを迎えてのライブに定評がある。2014年は3年目となる“プログレナイト”開催に続き、秋には“プログレツアー”を敢行するなどライブでもプログレに注力。結成以来30年、幅広い音楽性を取り入れて新たな価値を提示してきたザバダックが今あえて挑むプログレ。ここでも固定観念を壊して新境地を拓くだろう。 (夏梅 実)
まず音楽があり、世界があった。その世界にヒトが生まれ、幾代か営み、いずれ途絶えた。そして最後に、音楽だけが残った。
<音楽サイコー!>という女神の天啓から始まるこの聖典には、およそ18の詩篇が収められている。その多くは、俗世の悲喜交交を描いているようで、その実、常に音楽への言及がその中心にある類のもの。本典に登場する、あらゆる動機の起点と終点に音楽はあり、音楽は手段であると同時に目的でもある。更に、音楽とは、そうした全体を包括する状況のことでもあり、フェティッシュ極まりない細部でもある。J-POPとクラブ・ミュージックのフィルターを通して、tofubeatsはある種の宗教的な全体としての音楽の像を浮かび上がらせているのだ。
例えば、第3番に置かれた「Poolside」は象徴的な一篇だ。2012年の発表作のリメイクでもあるこの詩における<プールサイド>は、探し求める対象<プールサイドは一体どこにある?>であると同時に、逃避の起点<プールサイドから飛び込んで/光の中きえていく>でもある。もちろん、この曲を知る人には言うまでもないことだが、この<プールサイド>とは、ギークの青年にとっての(あらかじめ)失われた青春期のメタファーであり、この国においては、もはや未来永劫かなうことのない概念として存在するように思われる好景気というタームの比喩でもある。だが、その失われた時の果実へ手を伸ばすことを夢想しつつ、なお最後はプールサイドに留まるのではなくプールそのものへ、水しぶきの中へ飛び込むことをtofubeatsは願う。ここでのプールとはもちろん音楽のことだ。
そうやって(音楽への)逃避への欲望を垣間見せたかと思えば、「Don't Stop The Music」では、<逃げちゃいたいことたくさんあるけど/少しやってみよう/音楽が聞こえるとき/気持ちは/いくつになっても変わらない>とも森高千里に歌わせている。そう、ここでは逃避を止めるものもまた音楽なのだ。そのパラノイアすれすれの信仰心、その強度こそが、この若き現代の聖典の中に最後に見出されるべきものだろう。
tofubeatsと彼の音楽が体現するこうした全方向性を、若気の至りと見る向きもあるかも知れない。たしかにそうとも言える。だが、それは震え上がるほどの若気の至りだ。それを嗤う者は、自らの音楽への信仰心もまた問われることになる。 (佐藤 優太)
今年もだいぶ冬めいてきた。子供の頃は、冬の訪れにとてもワクワクしていたし、雪が降らないかな、なんてうずうずしながら過ごしていた私も今や成人を過ぎ、大人になってしまったな。今やもうあの頃感じていたはずの豊かな気持ちなど薄れて、感受性が鈍くなっていくのを日々感じながら、私は去年の今頃に生まれたこの作品を手に取る。
東京出身の2人組、ROTH BART BARON(ロットバルトバロン、以下RBB)待望の初アルバムである『ロットバルトバロンの氷河期』。この作品を作るにあたり、彼らは念願であった海外でのレコーディングを行った。場所はアメリカのペンシルヴァニア州フィラデルフィアにある名門スタジオ、マイナー・ストリート・レコーディングス。またミックスはザ・ナショナルなどを手掛るジョナサン・ロウ、2曲のプロデュースと録音は、ザ・ウォー・オン・ドラッグスなどを手がけるブライアン・マクティアーが手掛けている。
作品全体からは、冬の明け方から、早朝にかけての時間帯のような、ひやりとしていても、どこか温い日の光を感じる独特の空気感が漂っていて、不純物の無い、まっさらで澄み渡った世界が広がっている。そして、RBBを象徴する三船雅也(Vo/Gt)の美しいファルセットが響く歌声と、時に優しく爪弾かれ、時に強い意志を持って刻まれるアコースティック・ギターの音を軸に、中原鉄也(Dr)の大地を這うようなドラミングと、トランペットやトロンボーンをはじめ、バンジョーやピアノ、グロッケンなどの多数の楽器たちが、聴く者を壮大で美しいRBBの世界に誘う。また、なにも取り繕わない、感情をむき出しにしている歌詞は、まるで子供の頃のような、まっすぐで純粋な気持ちをぶつけてくる。作詞はすべて三船が担当しているが、彼の紡ぐ歌詞は、非現実のようでいてどこか現実味もある、不思議な感覚に陥る歌詞を書く。日常とお伽話の境界線を溶かしていくストーリー・テラー、三船はその目でどんな世界を見ているのだろうか。RBBの紡ぐ”物語”にどんどん惹かれていく。
大人になっていくにつれ、日々を早々と過ぎる時間に急かされ、煩雑な人間関係に神経をすり減らす。偽りの自分を演じていくたびに、心はすり切れ、凍りつく。そんな凍りつく心に、RBBの音楽は染み込んでいく。まるで雲間から降りそそぐ薄明光線の光のような荘厳で美しいその音は、心の蟠りを溶かしていく。 (小泉 里菜)
“ノイズ” とは、人間が定義した規則から外れたもの。不要なもの。過剰なもの。あるいは居心地の悪いもの。そう考えると、我々の日常はノイズの中に存在しているように思える。そのノイズは果たして醜いものだろうか。「美しさ」と「醜さ」、「調和」と「不協和」がそれぞれ表裏一体だとして、必ずしも「美しさ」と「調和」が同じ対象に宿ることはなく、ノイズの中にだって美しいものは存在するに違いない。そんなことを、本作の幕開けとなるノイズ・オーケストラ「救世なき巣」を聴きながら考える。THE NOVEMBERSが前作『zeitgeist』に引き続き自主レーベル”MERZ”からリリースした『Rhapsody in beauty』は、ノイズで美しさを表現した作品だ。
作品を支配する耳をつんざくギター・ノイズ、それはさながら猛獣のようだと思う。容易に手懐けることはできない暴力的な猛獣を、完全にコントロールする戦い。思えば、ジミ・ヘンドリックスやケヴィン・シールズは卓越した猛獣使いだろう。そんな猛獣にTHE NOVEMBERSは戦いを挑んでいる。彼らが尊敬の眼差しを向けてきたBORISやdownyもそうして来たように。コントロールを誤れば、音楽はたちまちノイズに飲み込まれてしまう。しかし、本作には重厚なノイズにも埋もれない存在感を主張するメロディーがある。地を這うように疾走するロック・ソング「Blood Music.1985」や、ムーディーな「Romancé」は、ノイズを楽曲の一要素としながら、豊かな力強さを持った歌だ。この作品におけるノイズとは、ジョン・ケージの「4分33秒」で日常の雑音が音楽として扱われるように、日常そのもののモチーフなのだ。
アルバムは<どこの誰がなんと言おうと 僕らはただひとつの幸福だったんだよ>というフレーズで締めくくられる。幸福、それは例を挙げるなら、この作品のリリース前にバンドの中心人物である小林祐介が娘を授かったように、身近で手触りのあるものだろう。そんな日常の中にある美しさの表現が、ノイズとのコントラストによってより一層際立っている。この作品におけるノイズとは、不穏さや邪悪さをもたらすエフェクティヴなものとしてではなく、あくまでモチーフとしてのもの。だから、このロック・アルバムには強烈な存在感がある。2014年の音楽シーンにおいても、全く埋没する余地もないほどに。 (堀中 敦志)
アニー・クラークという女性がセイント・ヴィンセントになるとき、そこにはまた別の異なった顔を見せるキャラクターが存在する。奇抜な衣装を身に纏い、マネキンのような無表情、ロボットのような動きの意味不明な振り付け、そして時には派手なギターの演奏も熟す。それは偶像である「ジギー・スターダスト」を演じるデヴィッド・ボウイとも比べたくなるほどだ。そんな誰にも真似することの出来ないステージングに関しては、今年のフジロックでのライブを見た方なら頷いてくれるだろう。
セイント・ヴィンセントというキャラクターを演じるからこそアニー自身の本心はそう簡単には掴みづらいものでもあった。しかし、4作目にして初のセルフ・タイトルがつけられた本作には彼女自身の強いメッセージが今まで以上に現れている。昨今のデジタルネイティヴのSNSなどに囲まれたライフスタイルに痛切な疑問符を呈した「デジタル・ウィットネス」、病気を患った母に捧げられた「アイ・プリファー・ユア・ラヴ」をはじめ、エモーショナルで、正に赤裸々だ。
これまでは、自身のポップなメロディセンスを、ストリングスを中心とした美しいオーケストレーションで装飾してきた彼女。そこに、強烈なファズとトリッキーなギターサウンドが加わることで、それだけでも十分に彼女のサウンドには個性が感じられていた。しかし、本作を何より今までのどの作品とも異なるものにしているのはエレクトロ色とファンキーなグルーヴの強さだ。この変化はデヴィッド・バーンとの共作、『ラヴ・ディス・ジャイアント』を経たからこそのアプローチであろう。一聴すれば耳から離れないホーン・リフが印象的な「デジタル・ウィットネス」も、『ラヴ・ディス・ジャイアント』に収録された曲、「フー」からの影響を感じずにはいられない。
こうしたファンキーなグルーヴが加わることで、彼女のサウンドは現シーンにおいて唯一無二のものとなった。またそれは、エクスペリメンタルな音のつくりであるにも関わらず、ポップなメロディとも相まって、聴きやすく、より広いリスナーに届きやすい作品とすることを可能にさせた。奇しくも4ADを離れて初のメジャー・レーベルからの作品であるが、これまで以上に大衆に届きやすいポップな曲を書く能力がつき、それが個性的なキャラとも重なったことで、インディだけには留まらない広い意味でのポップ・アイコンの一人となったといえる。 (山本 大地)
懐かしのフレーズや時事・地元ネタをパロディと風刺で包んだ言葉遊びの楽しさが伝わるリリック。ニヤニヤが無限に襲いかかってくる。それと同時にどす黒い真理も。それを山梨県の今はなき一宮町出身の男たち5人が自由なサウンド・メイキングにのせて達者にラップしまくる。その5人とはソロで大活躍の田我流を含む結成10周年のstillichimiyaだ!
「うぇるかむ」は三木道三がどうしても頭によぎる地元激励レゲエだと思ったら衝突音で曲が終わり、丹波哲郎の死生観を語る声が流れこのアルバムが一筋縄ではいかぬ作品であることを宣言する。そして次の楽曲である「Hell Train」に私たちは乗車して戻ることはできない。<何なら神様に送るワイロ 可愛いコンパニオン雇うガイド 天国にはマットヘルスとかないの? じゃこのまま地獄でどんちゃん騒ぎ><キング・クリムゾン聞くジャック・ニコルソン キム・ウィルソンと飲むウィルキンソンで>などのリリックでカオスと真理が伝わる地獄の描写を描く。
零心会以上の大きな衝撃を持って虚実混じった自己紹介を5人マイクリレーする「ズンドコ節」。意味不明だけどもとりあえず生!!な感じは伝わる「生でどう?」。95年に山梨県のローカルCMで使われたことにより県内で大ヒットを飛ばした「だっちもねえこんいっちょし」をラップした原田喜照と、MC HAMMERの「You Can’t Touch This」をネタにして共演した「だっちもねえ」。過去のヒット曲のタイトルとスケベ心でノリまくる「竹の子」。〈土偶〉というキーワードから地元への思いを伝える「土偶サンバ」。などその他にも衝撃的な楽曲とスキットが聴いているあなたにクエスチョン・マークを浮かばせ、大きな感動を与えさせる。
映画への出演や単独での音楽活動でメンバーの中でも目立った活躍を見せる田我流と、その相方でありサウンドを手掛けると共にラップもするDJのYoung-G。12年に出したソロの傑作『B級映画のように2』では震災後のシリアスな現実世界を描写していたが、今回がっつり制作に参加したBig BenやMMM、Mr.麿によるクルーでの作品はパロディと自由な世界観で強力なユーモアに包まれる。元来クルーはこのような作風であるが、より外にも開いた高いクオリティの作品になった。さて、このアルバムを聴いてあなたは死んだらどうする?! (小泉 創哉)
冒頭の「アウト・オブ・ザ・ブラック」、「カム・オン・オーヴァー」から、頭を振り始めてしまったが止まらない。足踏みも休ませてくれる隙すら与えてくれない。10曲32分間の間、一度突き動かされてしまった僕の体は、そのヘヴイなベース・サウンドとパワフルなドラミングに夢中になり、そこから解放させられることもなかった……。
英国で「人気が落ちた」、「セールスが落ちた」などロックの現状が問題視されるようになってから3年くらいが経った。その間、若者たちの耳を賑わせていたのはワン・ダイレクションを初めとしたボーイバンド、EDMとその周辺のダンスミュージックであり、少し背伸びしても、エド・シーラン、サム・スミスを初めとしたアダルト寄りのポップであっただろう。そんな中2014年のシーンに登場したロイヤル・ブラッド、そして彼らのデビュー・アルバムは、ロックを若者の手にもう一度戻してくれそうな、数少ないそういう意味での希望を持てる一枚なのだ。
マイク・カーの、「ベースにギターの弦を組み込むことで、ベース特有の和音の響きとギターにしかできないソロやメロディの強い旋律を同時に奏でる」という方法こそフレッシュではあるかもしれないが、彼が放つリフ自体、実のところそこまで新鮮なものでもない。レッド・ツェッペリン、クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ、『オリジン・オブ・シンメトリー』期のミューズなどに影響を受けた、これまでのロック史のいいとこ取りをしたようなものだ。しかし、そのヘヴイなリフに圧倒的なパワーを持つベン・サッチャーのドラミングが加わることで、彼らのサウンドはわかりやすさとハードさを同時に備えたものになった。そして、それは2014年のシーンにとって十分新鮮に感じられた。
歌いやすいコーラスに、体を突き動かすリフとパワフルなサウンド、これこそがエネルギーの有り余った若者たちの求めていたものであり、多くの層を取り込んで、ロックの醍醐味であるこちらの肉体に訴えかけてくるようなパワフルで骨のある音を体感させてくれる。今後もしっかりと新たなアイディアのもと次に進めるかがカギになるではあろうが、彼らがバンドを始めるキッズたちを鼓舞する存在になり、アークティック・モンキーズ以降なかなか出てこなかった、“フェスのヘッドライナーを張れるクラスのバンド”となってくれるのもそう遠い未来の話ではないかもしれない。 (山本 大地)
バンプ・オブ・チキンは曲を鳴らしたいバンドじゃない。藤くん(藤原基央)から生み出された曲が「こう鳴りたい」と願う姿を実現する4人組なんだ。この数年彼らは今までのスタンスからすれば「らしくない」と思われることに次々と踏み切った。その理由は「曲が望んだから」。藤くんが作った歌を一人でも多くの人に聴いてほしい―この思いは彼らが音楽を世界に向けて鳴らし始めたそのときから一貫して変わらない。本人達としても賛否を呼ぶだろう新たな一歩を躊躇なく歩んでいるわけではないようで、藤くんは「ガタガタ震えながら―それでも”やろうね!”ってなるんですよ」と語っている。これってまさに「臆病者の一撃」を冠す彼ららしいよね。
『RAY』に関しても『FLAME BAIN』や『THE LIVING DEAD』のころを知っている人からすれば、いわゆるギター・ロック・バンドらしかぬシンセや同期を盛り込んだサウンドに「変わったなバンプ」と思うかもしれない。けれど年齢を重ね円熟味を増した4人の思いは音楽があるべき形で響くためにもはや手段を選ばなくなってる。その結果、光量の多い眩しいアルバムが届けられた。プログラミング音と共に優しいアコギが僕らを温かく包容し、祝祭感が空まで高らかに鳴り響く「虹を待つ人」。色彩豊かな光が周囲を駆け廻り〈生きるのは最高だ〉と藤くんに言わしめたタイトル曲の「ray」を始めとしたエネルギーと多幸感に満ちた楽曲は僕達の日々を明るく照らし出してくれる。一方で震災を契機に作られた「smile」は静謐な歌い出しから生命力溢れるプログレッシヴ・サウンドが一気に展開し、力強い光で僕らを呑み込む。「(please)forgive」が放つのは切なく淡い光だ。起伏の穏やかなこの歌は安寧とした日常の不自由さ、しかしそれすらも自らが自由に選んだものだ、ということを粛々と紡ぎだしている。
音の質感や活動のアプローチこそ変われど、芯の部分に耳をすませば愚直なまでにバンプは変わらないんだっていうのがわかる。藤くんの中の体験や感情が干渉し合って生まれたものが歌になり、それを伝えたい4人が愚直なまでに歌に向き合い、寄り合ったものが一つの作品になる。そこで歌われる言葉は本人達の意思を越えて、いつしか僕らのために鳴り、生きるために僕らの背中を押してくれるんだ。いつも助けてくれてありがとう。そして、また新しい光をありがとう。 (森 勇樹)
「ONEMAN」の始まりはこうだ。”一斉に振り向く光の中、一緒に行こうと言ったのは誰? 熱烈なノックの中、僕はうまれる時を、たずね、たばね” —。
15名の錚々たる顔ぶれを束ねるコンダクターの蓮沼執太とコーラスの木下美紗都の声から奏で始められるイントロに、私の中の時は一瞬静止する。アルバムタイトルを初めて目にした際も同様の現象が起こった。それまでに出会ったことのない”時”の表現だったからだ。この文章を読んでいるあなたは、”時”という言葉に対してどのような印象をお持ちだろうか?筆者の場合、生物がこの世に生を受けてから最期を迎えるその瞬間まで、意思とは関係なくただ流れていくものだと認識していたため、”時が奏でる”って一体どういうことなのだろう?と驚いた。現代では多くの場合、“音楽や楽器を鳴らす”というような意味で使用される”奏でる”という動詞がついているのがただただ不思議だった。しかしこのアルバムに収録されている合計8つの楽曲を聴き納得させてもらったと同時に、新しい”時”に対する見方を与えてくれることになる。
朝初めて外に出る際耳にすると心地良く1日の始まりにぴったりな曲たちの中でも特に5曲目「YY」の場合、イントロのピアノとベースのメロディラインが明るく心地良く、また四拍子を刻むハイハットのリズムがうれしい。その後少しずつ加わるホーン隊や鍵盤楽器の音色も最高だ。あえて引用はしないでおくが、歌詞の言葉の選び方も素敵なので是非チェックをお願いしたい。シンプルな楽器たちの音色や抑揚がほとんどされない上質な声による音楽が、こんなにも心地良く爽快にさせてくれるなんて。
各楽器の音色からコーラス、ラップまでもが合わさり届けられたフィルの音楽は、普段電子音楽を好んで聴く私にとって新たな発見だった。ただ流れていく時をこんなにも楽しい気持ちにしてくれる音楽を聴くという行為が最高の歓びであること、またそれがエネルギーとなり意識を変え、どう生きるかについて考えさせてくれるきっかけになると気づかせてくれた。音楽は聴き手の時の流れを変えてくれるパワーを秘めている。せっかくこの世に生まれることができたのだから、少しでも楽しく生きたい。そのために私には刺激をくれる素敵な音楽に出会うことが必要不可欠だ。自分の意識次第で時は奏で始めてくれるかもしれない。生きてみない?と誘ってくれるかもしれない。 (太田 あゆみ)
約22分の音楽しか入っていないCDはプレイヤーに入れて再生すると、都市生活者の変化が激しいメンタルを癒して整え肉体を揺らす。聴いた途端に素敵なBGMとして、鼻歌・エア楽器演奏・ダンス必至の作品である。それは紆余曲折を経て再びシーンに戻ってきた彼らの人生と音楽の深みが生み出したものであるからか。
12年ぶりにフルアルバムとして出した本作。2002年アルバムを一枚だけ出して解散したバンドGORO GOLOが復活してスガナミユウ(Vo)主催の制作クルー音楽前夜社結社や、同じメンバーによるでぶコーネリアスの藤田千秋(Vo,Sax)を迎えたバンドのジャポニカソングサンバンチ結成。現在も行う新宿ロフトのバースペースでの2時間千円飲み放題の余興「ロフト飲み会」と、バンド同士の勝敗付きのトーナメント形式のライブ「ステゴロ」の開催も交えながら完成させた。こんなにも洒落た演奏なのに歌える高速パンクは実に奇跡的だ。
音しかなくてもメンバーたちが楽しく演奏する姿が目に浮かぶ今作。J・ガイルズ・バンドの演奏が気付いたらハードコア・パンクになっていて、ハイ・スピードなソウル・レビューになってしまっていたみたいな構成である。スガナミ、きむらかずみ(Ba)、しいねはるか(Key)が創った楽曲はインストゥルメンタル6曲と歌が4曲。速くタイトでスウィング&ロールしまくるリズムに、暖かくテクニカルなキーボードとギターは様々なジャンルを呑み込む。「More Japanisch」ではオリエンタル。「theme#4」では民謡からのヒゲダンスといった具合だ。しかし「MONKEY SHOW」では黄色人種・日本人として踊る意志、「GOD SAVE THE DANCING QUEEN」では風営法とシリアスなテーマな歌詞の曲も。それすらも高速で明るく洗練された形で見せてしまうのが凄い。それは洋楽に近づくのではなく、日本人としてのアイデンティティを持ったうえでのミクスチャー感覚の音楽とパーティーを敷居低く伝えたいからといえる。
2014年はロフトでの定期的な完全無料ライブ開催や、ジャポニカのアルバムリリース、下北沢THREEで行った数々の面白い試みなど、スガナミにとって大きく痛快な1年となった。1月8日にリリースされたこの作品は、果報を練って待った彼の中に存在するパンク性のスピード力の勝利を印象づけた14年最初の一撃だった。 (小泉 創哉)
同性愛のシンガー・ソングライターとして知られ、これまで2枚のアルバムをリリースして来たマイク・ハドレアスことパフューム・ジーニアス。その新作は、前2作までの成功によって得た静謐なシンガー・ソングライターという自己イメージ、そして、これまで願って止まなかった幸福を得るために問題をすっかり解決した“フリ”をして過ごす自分自身を辞退(=Decline)するところから始まる。続く2曲目「Queen」の出だしで、ハドレアスはこう続ける。「まさかアナタ、クイーンを知らないの?」。そう、『Too Bright』は怒りと解放のアルバムなのだ。
50sのポップスやソウル、そしてゴスペルからの影響が彼の音楽から消えることはないだろうが、今作で導入されたヘヴィなシンセサイザーはその表現の幅の拡張に貢献している。新たに今作からプロデューサーとして参加したのはポーティスヘッドのエイドリアン・アトリーで、なるほどそのサウンドは、ドローンやドゥーム・メタルの影響下にあったポーティスヘッドの『サード』にも通じるものだ。その意味で『Too Bright』は、ある種のドローン歌曲集と呼ぶこともできる作品だ。あるいは、3曲目「Fool」に透けて見えるように、80年代生まれの彼の原体験とも想像される、80sのポップスへのオマージュという意図もあったのかも知れない。
その「Fool」は、シンセ・ポップ風のイントロに始まり、途中、荘厳な宗教歌風パートが突如挿入されたかと思うと、最後はドゥワップ調のコーラスも印象的なロックンロール・スタイルへ展開するという、印象的な構成を持った曲でもある。前作までのシンプルなピアノの弾き語りを中心とした手法が制約となっていた、ということはこの人に限ってはないだろうが、サウンドの自由度が増えた結果、作曲やアレンジはより直感的なものとみなされるようになり、ユニークなアイデアが目立つようになった。
白眉なのはアルバム中でも最初に完成したとされる「Mother」。ゴスペルとブルースがドローン状に溶け合いながら残す異形の音像を通して、自責と屈託の堆積によって行き場を失った怒りが、美しい祈りの念へと昇華されて行くその曲は、"怒り"というともすれば直接的な表現を引き出しがちなテーマを持ったアルバムが、いまだにナイーヴで複雑な内面性を抱えた青年のための厳かなソウル・ミュージックとして成立していることの象徴でもある。それを聴き終えたとき、誰もが心の震えを覚えずにはいられないだろう。 (佐藤 優太)
“おわっていくもの”を意識することが増えた。いつの間にか、なんとなく疎遠になった友人たち。肉親の老いや疾病。そろそろ30になろうという筆者のトシのせいもあるだろうし、そのせいばかりでもないだろう。生まれた時からあって、前提として享受してきたこの国の“豊かさ”も朽ち掛けてひさしい。人口の減少とそれに伴うマイナス成長。貧すれば鈍する、10年前には考えられなかったレイシズムの社会化も不穏このうえない。戦後体制の転換点という切羽詰まった言葉にも見慣れた。多くは2011年の震災をきっかけに顕在化したものだが、火種はそのはるか昔からあったのだと思う。
シャムキャッツの『AFTER HOURS』は、“おわっていくもの”に意識を向けられた作品だ。それは彼らが育った千葉県浦安市――1960年代、その面積の大半を埋立てによって開発され、そして、まさに先の地震で大きな被害を受けた地域――に捧げられる形で制作されている。本誌のインタビューでフロントマンの夏目智幸は一度ならず「盛り上がりたくない」と話していたが、本作がある種のレクイエムとしても想定されていることを思えば、それも当然だろう。
ポップスでありレクイエムである。そんな矛盾した表現に集約される、独特の所在の無さが作品にはつきまとっている。前作『たからじま』の時よりもはるかに落ち着きを増したアンサンブルは、ネオアコやヒップホップも参照しつつ、最終的にはUSオルタナティブ・ミュージックの系譜に連なる後継者としての端正な趣を強調している。一方、ギターやドラムのアレンジが洗練された結果、アンサンブル内での異質性がますます露になったドス黒いベース・ラインは、作品の持つ所在の無さのもっとも有能な代弁者たり得ている。
所在の無さはフットワークの軽さにも言い換えられる。一人称を大きく離れ、カメラ・ポジションを頻繁に変えながら、猛々しくもどこか優しげな視線によって、その風景を美しい“フィルム”に残そうと計算された歌詞はその象徴だ。全てのものに寄り添わないことで、全てのものに寄り添うことができる、とは現実に則せば単なるクリシェだが、音楽の中では真実であり得る。慈愛、というバンドの若さに似合わぬ言葉も浮かぶ。おわっていくもの・おわってしまったものを<思い出したり/忘れたり>(「AFTER HOURS」)しながら、無情な時間の流れに軽やかに抗している。 (佐藤 優太)
結構な時間が経っていたんだなと思う。ゆらゆら帝国が2010年に解散したあと、ギター/ヴォーカルの坂本慎太郎は、自然にやりたくなるまではと音楽と距離をとるようになったらしい。実際それから1年くらいギターを触ることはなかったようだが、その間に彼はコンガとベースを練習するようになる。理由自体はコンガの入った曲が好きだったとか、シンプルなものだったよう。2011年ソロ名義でリリースされたアルバム『幻とのつきあい方』はそのコンガの音から始まる。歌うように変化しながら跳ねるベースを中心に適度な隙間を持ったままコンガやギロ、ホーン隊が登場する本作はひやっとした手触りのポップスとなった。2年経ち、制作された2ndアルバム『ナマで踊ろう』にはどこか居心地の悪い穏やかさが充満している。
制作の過程から見るに、その穏やかだが不穏なムードをどのように構築するか自体が今作の目的と言えるだろう。「スーパーカルト誕生」などで聞き手を脱力させるとろーんしたスティール・ギターや「あなたもロボットになれる」をむやみに陽気に演出するバンジョーなど、楽曲の印象を決定づける音色の楽器については坂本が演奏。自身のイメージした音を具現化することに重きが置かれ、例えばスティール・ギターの音色から想定されるハワイ音楽的なニュアンスは慎重に抑制されている。(ムード歌謡曲的な使われ方とも近い)その一方で、前作でも楽曲制作のメインとなっていたベースは、自身でベースラインを作った上で演奏にAyA(OOIOO)を迎えた。これについて坂本は「タイム感が自分と違う人が自分の変なノリに一生懸命合わせようとしてくれる感じが欲しかった」とインタビューで語っており、各楽曲の根幹であるベースには微妙な違和感を持ちこむことが意図されている。こうした各パートの要素を適切にコントロールして、あくまでも日本語の歌ものとして編曲していく。収録曲では、上述したスティール・ギターの音色に乗せ破滅的な内容の歌を虫声とデュエットする「スーパーカルト誕生」が特にメロディアスで、際立って不気味。
『ナマで踊ろう』は新たな音色を持つ楽器の導入と演奏者の変更によって、坂本が今想起するムードを構築している。前作から楽曲の作り方が変わっているわけではない。サウンド的な断絶もない。ただリスナーは耳を澄まし、緩やかに移ろう本作のムードから各々の日常の変化を考えるだけである。(小林 翔)
大きな眼鏡がトレードマークになっているがゆえに、ユーモラスで飄々とした風合いが持ち味と思われがちだが、柴田聡子というシンガー・ソングライターは常に内包する孤独や死を意識した歌を綴り続けている。特にこの2作目は、たった一人歌とギターだけで制作したとあって、ギリギリのところまで自分自身と対峙して追い込んだプロセスと結果がここに落とされることとなった。アナログのシングル盤で先行発売された収録の「いきすぎた友達」などはまさにその突端にある1曲と言える。
2年前のデビュー・アルバム『しばたさとこ島』は、三沢洋紀と現在セクシーキラーと名を改めたDJぷりぷりがプロデュース。その二名に加えて、植野隆司、ジム・オルークや前野健太らをサポートする須藤俊明や山本達久らが、音楽制作にまだ慣れていない柴田をしっかりとバックアップしていた。本作も一度はその延長線上のプロダクションで制作を開始していたそうだが柴田本人の一存でリセット。恐らく、その理由も、声とギターだけで形成された本作の仕上がりが物語っていると言っていい。一人で自分自身と向き合った時に見えるもの――それこそが孤独、死、狂気…。そして、それはエゴとの葛藤に他ならないわけだが、柴田はそうした自分のエゴが出っ張ってきた時に意識する死、自覚する孤独を作品として表出させたかったのではないか。だから、ギターと歌という自分が露になりやすいスタイルを選んだのではないか。
「いきすぎた友達」という曲では、“盆も正月も一緒だけど、実はそれほど仲よくないかもしれない”友達との関係を淡々と綴っているが、それは彼女の中のもう一人の自分、すなわちエゴと戦っている様子を描いているようにも思える。いきすぎた友達は、すなわち、いきすぎた自分であり、いきすぎることで起こる孤独が意識する死を見つめることであり。結論は出ない。出ないけれども、そこに孤独と死がある以上逃げるわけにはいかない。この曲で柴田が顕在化させたかったのはそうしたメッセージではないかとさえ思えるのだ。そう、作詞作曲は自分、プロデュースも自分、歌うのもギターを弾くのも自分という自分だらけの中から浮き上がる真理だ。
以前、柴田は故人の生前、それも晩年の姿や作品に触れることにとても興味があると話してくれたことがある。死がすぐそこにある場所に向けて、このアルバムは放たれているのかもしれない。 (岡村 詩野)
2014年もそのスカムバンドの精神性で数々の話題を提供しながら、圧倒的なライヴパフォーマンスで着実にファンの心を掴んでいるどついたるねん。パンク、ハードコアからニューウェイブ、または日本のJ-POPからテレビを賑わすネタまで、さまざまな要素をジャンクフードのごとく取り入れ大量の曲をマシンガンのように発表。今年2月から3ヶ月連続でリリースされたアルバムは、順に12曲、198曲、6008曲収録という凄まじさ。ちなみに6008曲収録されたアルバムは、あのナタリーも掲載は451曲まででお手上げだが、曲のタイトルだけでも楽しめる作品になっている。
しかし11月に発売された、これまでの人気曲等すべて新録して作られたというベスト的アルバム『どついたるねん BEST HITS』を聴くと、過去の大量の作品郡が単なる話題作りや言葉遊びだけでなかったことがわかるだろう。限りある時間の中、他のどのバンドよりもバンド活動でできるエネルギーすべてを彼らが面白いと信じることに注ぎ込んで来た結果が先述を例とする活動であり、そうやって生まれた無数の曲の中には、私たちをはっとさせるような名曲やファンに愛される曲が必然のごとく生まれていたのだ。
まず、1曲目に収録された「遠浅の部屋」は等身大のラブソング。クリアな音質にワトソン(Vo)の真っ直ぐな歌声が純粋に胸に響いて私たちの心を掴む。かと思えばファンにはお馴染みの「カズダンス」「MY BEST FRIENDS」等のリズミカルなナンバーが続き、ドツノポリス期に発表された「Long Hot Summer」「ハイタッチ」といったラップナンバーはアップテンポに昇華され、どついたるねんのBESTといえる内容をよりわかりやすく、一気に聴くことができる。また、終盤16曲目「静かなるドン」では、1曲目の「遠浅の部屋」に続く真っ直ぐなラブソングで結んでおり、最後の17曲目「such a sweet lady」では突如ベースマン木本がメインヴォーカルを担当。ソフトでメロウなナンバーが、17曲というボリュームにふんわりと軽さを持たせ仕上がっている。とにかく聴きやすい。どついたるねんの曲のバラエティの豊かさと自由でユニークなリリックを堪能できる作品だ。
今年はリキッドルームワンマンも成功させたどついたるねん。今後の彼らの躍進とスカムな活動にますます目が離せない。 (藤森 未起)
ジャパニーズ・カルチャーはBABYMETALの活動で、世界へ輸出できる産業として大きく成長したと言える。2014年のBABYMETALの成長はアイドル・カルチャーの成長とも言えるのである。
このアルバム『BABYMETAL』は彼女たちの初アルバムであり、ベスト・アルバム、自身の名を冠する名刺代わりのアルバムとなった。iTunes Store7ヶ国のチャートでベスト10に入り、その後はワールド・ツアーおよびレディー・ガガのアメリカ公演ツアーでサポート・アクト、カナダの「HEAVY MONTREAL」に出演し、いずれも大成功を収めている。まさに「アイドルとメタルの融合」をテーマに掲げる彼女らにふさわしい、アイドルらしからぬ一年であった。
それらを踏まえた上で、改めて『BABYMETAL』を聴いてみる。ライブさながらに「BABYMETAL DEATH」から始まる作品群は、ヘッドホンをして大ボリュームで聴くと、客電が落ちライブがスタートするところから、疑似体験させてくれる。神バンドと呼ばれるバックバンドの重低音はヘヴィメタル王道の音だ。そのテクニックから繰り出される演奏はある曲は和風に、ある曲はX JAPAN風に、と多様なアイドル・ソングを確実に料理していく。そこにSU-METAL、YUIMETAL、MOAMETALら3人の少女の声が乗る。あどけなさが残る澄んだ素直な歌声は、ゴシック・メタルのようでもあるが、激しい音の中でしっかり伝わる歌詞は、アイドル曲そのものだ。80年代90年代に隆盛したメタルを聴いた世代は今や、彼女らのじぃじ・ばぁば、パパ・ママの世代となって、思わず耳を傾け歌詞まで聴き込んでしまう。まるで甘えられているかのようだ。実際これらの世代のファンも取り込んでいるのだ。
海外では、PV「ド・キ・ド・キ☆モーニング」がSNSで話題になり火がついた。ヘビメタで”踊ってみた”の動画のようである。日本の人形のような少女の代名詞、”kawaii”の体現のようであるし、ライブで見せる赤・黒のゴシック調ドレスに身を包む姿はコスプレ的でもある。またメタルはアニメとも親和性が高く、アゲる曲のオンパレードだ。彼女達のライブは「聴く、観る、感じる」の揃ったエンターテインメント・パッケージなのである。アニメで爆発したジャパニーズ・カルチャーがBABYMETALによって体感するライブとして昇華したのだ。 (北原’きっちぃ’裕一郎)
SHAKALABBITSといえばパンク・ロックというイメージが強いであろう。しかし、この作品はなんと彼等にとって初めてのアコースティック・アルバムである。彼等とアコースティック音楽というのは意外な組み合わせに思えるかもしれないが、メンバー自身、アコースティックの音楽を聴くのが好きで、いつかはアコースティック・アルバムを作りたいなと話していたとUKIのブログに綴られている。それがとうとう完成したのだ。
最初に流れてきたのは、アコギが奏でるノリのいいイントロであった。一曲目の「MutRon」は、原曲はおどろおどろしいイントロから始まり、奇妙で不思議な歌詞が印象的な曲であったが、その印象はまったく消え去っていた。UKIの歌い方も少しかわいらしい感じになっていて、奇妙な歌詞がなんだか楽しく思えた。アレンジによって、こんなにも原曲の印象を覆されてしまい、一曲目からこの作品の魅力に引き込まれてしまった。「モンゴルフィエの手紙」のような、原曲がアコースティックっぽい曲もアレンジされている。初めて収録曲を知ったとき、アップテンポな曲が収録されていることよりも、このような曲があえて収録されていることのほうが驚いた。この曲も自然と身体を横に揺らしたくなるリズム感で、UKIが吹いているハーモニカの伸び伸びとした音色が心地良い。そしてさりげなく奏でられているヴァイオリンの音色が、この曲の切ない雰囲気にぴったりである。「ROLLIE」はライブで演奏すれば絶対に盛り上がる彼等の代表曲であるが、それがもうよくもこんなにやってくれたな!というくらい別世界になっていた。エコーの効いたアコギの音色と子守唄のように優しいUKIの歌声が、まさに夢の中にいるかのようにただただ広がっていく。おちゃめな小さい女の子のような原曲が、綺麗な大人の姿に生まれ変わったように感じられた。
「Jammin’」という曲に〈ハレルヤサーカスの鳥たち波に乗った〉という歌詞がある。このアルバム名はこの歌詞からきていて、同じ名前を彼等が立ち上げたレーベルにも名づけている。この歌詞のように、この作品は彼等にとって思い入れのある記念すべき作品であり、今後に繋がる大事な作品でもあるだろう。これが新たな彼等の出発点なのだ。たくさんの想いが詰まったこの作品を、ファンはもちろんSHAKALABBITSの音楽を聴いたことのない人達にも聴いてほしい。 (日高 玲央奈)
何の変哲もない日常。ドラマチックな出来事なんて滅多に起きやしない青春時代だったけれど、このアルバムを聴けば、あの退屈な日々はとても愛しいものだったと思えてくるだろう。Hi, how are you? (略して、ハイハワ)の記念すべきファースト・アルバム『?LDK』は、青春のほろ苦ムービーのような温かくて愛しい作品だ。
京都の大学に通う男女2人組、Hi, how are you?。永遠の青春のきらめきと切なさを潜めたギター・ポップをネオアコのような手触りで展開する原田晃行(Gt&Vo)と、その楽曲に彩りとイマジネーションを添える馬渕モモ(Key&Vo)から構成される。『?LDK』に登場するのは、将来に漠然とした夢や不安を持ち合わせながらも、退屈な日々を過ごす若者。特に何をしたいわけでもなく、ただ自分の部屋で君とコーヒーを飲みたいと歌う「僕の部屋においでよ」から曲は始まり、梅雨の退屈な日々に物思いにふける「6時と7時」、秋の夜長にレンタルビデオを借りに行く「ビデオインアメリカ」、そして昨年シングルリリースもされたクリスマスソング「バンホーテン」と、季節は夏から冬へ、自分の部屋と半径数百メートルほどで繰り返される日常のディテールを歌いながら駆け抜けていく。その中でも4曲目「空気人形」や6曲目「近鉄」に挿入される疾走感ある演奏からは、さまざまな登場人物の青春の日常を走馬灯のように見ているような気分になるだろう。原田はきっと大学生活のさまざまな交流や退屈な時間の中で、酸いも甘いも備忘録のように切り取って、時には誰かになりきり、ひたすら自分の部屋の中で曲を作っていたのではないだろうか。だからこそこのアルバムは部屋というテーマで作られていながらも、早送りで青春のほろ苦ムービーを見ているような気分になるのだ。その突出した情景描写のセンスと親しみやすさに、気づけば私たちも感情移入して自らの青春もそこに投影してしまう。
尚、彼らは現在大学4年生。卒業を控えているが故か、今年はフルアルバムを怒涛の如くリリース。2月に本作、8月に『さまぁ~ぎふと』、12月に『にこいち白書』を発表している。また、この3部作は今年12月末での閉店が決まった南池袋ミュージック・オルグで録音されていることも記しておきたい。オルグは閉店してしまうが、ハイハワの2人には卒業後も活躍して欲しい。 (藤森未起)
アイドル戦国時代と言われている今、日本には数えきれないほどのアイドルが存在している。その中で輝きを増してきているのが、ゆるめるモ!というニューウェーブ・アイドル・グループである。ゆるめるモ!は2012年10月に結成。「窮屈な世の中を私たちがゆるめるもん!」をコンセプトに、サブカル界隈を中心に話題を集める。ニューウェーブ、パンク、ヒップホップ、エレクトロなど多彩なサウンドの楽曲は音楽好きの間でも話題になっている。
そんな彼女たちはさまざまなアーティストとの共演やコラボレーションを積極的に行っている。今回の作品では、ジャンルレスなバンド・アンサンブルによる高スケールな楽曲を提供し続けているバンド、箱庭の室内楽とのコラボレーションを果たした。アイドルとロック・バンドという異色のように思える組み合わせだが、どちらも独創的で高い音楽性を持ちつつ、馴染みやすい楽曲をリスナーに提供してくれるという点においては共通していると思う。
この作品は作曲、編曲をすべて箱庭の室内楽のハシダカズマ(Vo/Gt)が担当していて、ヒップホップ、シューゲイザー、ポストロック、オルタナなど、あらゆるジャンルの音楽が詰め込まれており、ゆるめるモ!の魅力が最大限に引き出されている。一曲目「manual of 東京 girl 現代史」は、爽快に駆け抜けるような勢いのあるサウンドと、「みなさん、こんにちはー!」という元気なMCから始まり、リスナーのテンションを一気に上げてくれる。ラッパーのDOTAMAがリリックで参加した「木曜アティチュード」は、グロッケンなどのサウンドが組み込まれている軽やかなアンサンブルと、ゆるめるモ!のメンバーの個性が生み出した脱力系ラップが見事にマッチしている。「木曜アティチュード」以外の曲は、他作品の楽曲も含め小林愛が作詞している。これはどういう意味だ?と考えてしまう不思議な歌詞が、少女達の複雑でもやもやしているような気持ちを上手く表現している。
アイドルらしい、リスナーをハッピーな気持ちにしてくれるゆるめるモ!のパフォーマンスと、箱庭の室内楽が奏でる疾走感と切なさを感じられるサウンドが融合し、青春の甘酸っぱさがぎゅっと詰め込まれている作品となっている。儚い少女時代を生きている彼女たちと、人の心を捉えて離さないような魅力のある箱庭の室内楽だからこそ生み出すことができた音楽であろう。 (日高 玲央奈)
チルウェイブの尾ひれ、そして、ディスコ・リバイバルの先駆として10年代の初頭に登場したカインドネスは、2012年のデビュー・アルバムにおいて、ディスコやAORといったスムースな音楽にアンビエント音楽のサウンドを取り入れた洒落た作風で大きな注目を集めた。
2年ぶりとなった新作は、前作以上に多くのゲストが参加した作品となったが、思いのほかパーティ感が薄く、とても内省的な作品となった印象がある。もはやディスコ・リバイバルではない。かと言って、彼の持つ広義のワールド音楽志向がーー例えば、本人がMVの監督もつとめたウィリアム・オニーバーの経由などでーー直接的に開花した作品とも言い切れない。たしかにそうした要素は多くの曲に見られるが、それよりも、その要素同士をつなぎ合わせるパッチワーク的な手法や感覚に本作の本質はある。一聴では分かりにくいレコードだが、本人にも分かり易くプレゼンする意図はないだろう。その意味で、非常に実験的なポップスのレコードと言える。
タイトルの『Otherness』は、“似てなさの質”とでも訳せばいいのだろうか。その音楽は、ゴスペル、ソウル、ファンク、アフロ・ビート、ディスコなど、元からつながりがありそうで、実はそれぞれのジャンルにおける技術の高度化によって、つながりの希薄になった音楽同士の様々な要素をパッチする過程に生じる、一種の異化効果まで含めて提示する意図があるように思える。その意味でも、あるインタビューにおいて、本作を作るにあたり最も影響を受けた作品として、グライムとハウスの接合を――本作よりも更にアヴァンな手法で――試行したジャム・シティの大傑作『クラシカル・カーヴス』を挙げていたのがとても印象的だった。
何故そんなしち面倒くさいことをやろうとしたのか。おそらくはカインドネスなりの世界平和の像というものを提示しようとしたのではないか、というのが筆者の見解だ。本来的につながりの無い、あるいは歴史の過程で分断されてしまった複数の文化の間に、あらためて接点を作ってみる作業。そこに生まれる困難や、困難ゆえの奇妙な美までも表現されたレコード。もはや牧歌的でファシスティックな“ひとつ”を謳う時代じゃない。文化の多様とその必然としての差異を引き受けつつ、それでもその接合を試みる、その困難がまさに僕らが目指すべき平和の前提なのだということを示した美しい作品だ。 (佐藤 優太)
『THE PIER』は超私的な空間を創出するアルバムだ。完璧な演奏は聴き手の記憶や感情を誘発する。まず、精査されたグルーヴ。『ワルツを踊れ』以降、ロックと馴染みのない音楽を取り入れつつも、決してバンド・グルーヴに妥協しなかったこだわりの集積は、SF調インストゥルメンタル「2034」におけるタイトなリズム、クラシカルなロック・バラード「Remember me」におけるバンドと弦管楽器のアンサンブルにて聴くことができる。そして、その生演奏のダイナミズムを活かしつつも、取り入れることに成功した無数の電子音。その音楽的成果は、「日本海」~「ロックンロールハネムーン」の流れで度々登場する海や航海のモチーフや、「There is (always light)」におけるレイ・ハラカミを踏襲したシーケンサーの響き、「Liberty & Gravity」にて蠢くシタールの通奏低音や、「Brose & Butter」の中東を思わせるシンセサイザーのアルペジオに明らかだ。
これら細部への拘りは音楽に対し畏怖すら抱かせる。その佇まいは楽曲が作り手の支配から逃れ、さもそれだけで成立しているかのような存在感で、そういった楽曲が並ぶとまるでスライドショーのようである。中の絵は非常に有機的で躍動感に溢れているが、それらの間には文脈がなく、遠い未来で昔こんな景色がありました、と紹介するのに使われそうな無機質さが漂う。その絵の1つ1つは意味付けされず、そのままの形で聴き手の前に現れるのだ。ここで聴き手は、その楽曲をどう解釈するかを委ねられる。意味がありそうでないような歌詞や、狙いを容易に読ませない多国籍サウンドは、1つの楽曲にアンビバレントな要素を含ませ、安易な誘導をせずに、解釈の余地を与えるのだ。似たような音楽で溢れる業界を憂いているのか、活動の集大成的な作品にしたいのか、世界中の音楽をパッチワークしたいのか、そのどれでもあるのかないのか、作り手の視点が不明であるということは、それだけ作品世界に奥ゆきを生むということでもある。
ただ、確実に理解されるのは完璧な音楽への執着心だけだ。無駄を削ぎ落とした音楽は、聴き手にとって、極私的な存在足り得る。細部が徹底的に研磨され、ピカピカに磨き上げられた楽曲は聴き手自身の姿を映し出すからだ。その隙のない有り様は神々しさすら放っている。まさしく神は細部に宿るのである。 (ヒロノ ユウスケ)
スティーヴ・エリソンことフライング・ロータスの2年振りの新作『ユー・アー・デッド!』は、彼のエディターとしての――コンセプトを明確に打ち出し、それに傾注する。そして、情熱的かつ精緻にプロセスを築きながら、ファイナル・ミックスで過剰を削り取る――側面が今まで以上に際立っている作品であると思う。確かに今作は、彼が制作に当たってマイルス・デイヴィスの新たな『ビッチェズ・ブリュー』をやりたかったというように、60年代末から70年代前半のジャズ/フュージョン――ソフト・マシーン、ジョージ・デュークなどを参照しながら、ヒップ・ホップ、ビート・ミュージック、エレクトロニカの抽象的なリズム・コンポジションを自由に行き来し、ジャズが本来持っている前衛性を取り戻そうとしている。荘厳なオープニングから、異様にスピード感のあるハード・バップが続き、ケンドリック・ラマーの獰猛なラップをフィーチャーした「ネヴァー・キャッチ・ミー」までの多くの要素が複雑に絡み合う様を聴いたとき、彼は今作で緊張感とスリルをはらんだジャズの異形の未来を描いているように思えたのだ。
だが、冷静になって繰り返し聴くうちにうっすらとみえてきたのは、そうしたジャズの未来を描くために必要だったのは、あくまでもエリソンの、コラボまでも含めた優れた音のエディターとしての資質ではないかということ。多くの人が指摘しているように、相変わらず彼のトラックには、今作でも、ほぼ5分以上の尺のものは存在しない。むしろ、1分から2分前後の曲が中心だ。その中に異様なまでに含まれる情報、自由連想のように移り変わるリズム(オッド・ノスダムの『ノー・モア・ウィッグ・フォー・オハイオ』を彷彿とさせる)、また、ハービー・ハンコックやスヌープ・ドッグ、キンブラなどのこれまで以上に多様なミュージシャンの参加は、一見すると過剰さを孕んでいるように思える。だが、私にとって本作は何度聴いてもすんなりと聴き終える作品であり、想像以上に汎用性が高いものであった。それは「死後の世界」のコンセプトのもと、多数のミュージシャンをあくまでも音そのものとして用い、リズムをスムースに変化させ、ミックスでギリギリのバランスを保ちながら、19曲38分の構成まで整然と導く彼の才能があったからではないか。彼はもっと長い曲を作れると思うが、今も、そして未来でも、彼にとってそれは不要なのだろう。 (坂本 哲哉)
アンディ・ストットが紡ぎ出すモノクロームな音像と彼のリズム・エディット感覚は、一体どこから来てどこへ行こうとしているのか、全く以て判然としない――そう書くと消極的と思われるかもしれないが、私はその予測不可能性こそが、彼の魅力の一つだと思っている。メアリー・アン・ホッブズが編集したダブ・ステップのコンピレーション『ウォリアー・ダブズ』に収録された「ブラック」はベーシック・チャンネルの物真似にしか思えなくてスルーを決め込んでいたら、『パスト・ミー・バイ / ウィー・ステイ・トゥゲザー』(11年)ではBPM100辺りのミニマルで骨太なリズム・ストラクチャーに奇怪なカット・アップを組み込み、暗黒ファンク化。続く『ラグジュアリー・プロブレムス』(12年)ではそこにアリソン・スキッドモアによるヴォーカルの断片をループさせながら、見事に漆黒のアンビエンスとダンスの享楽性を併置していた。そこでは紛れもなく彼は新しい音楽を捕まえたように思えた。
そして、2年振りの新作となる『フェイス・イン・ストレンジャース』で彼はまたしても期待を鮮やかに裏切ってくれた。今作ではベーシック・チャンネルを祖とするミニマル・ダブの文脈から脱却したというよりも、牽強付会を承知でいうが、アーサー・ラッセルが『ワールド・オブ・エコー』でみせた寂寞としたヴォーカリゼーションと生気に満ちたエコーの生成を基調にし、そこに頽廃的なボディ・ミュージックを推し進めるロンドンの<ブラッケスト・エヴァー・ブラック>を筆頭とする一連の流れを踏まえた音楽的視座を注入している。前作でのイーブン・キックが中心だったリズムがグライムやボディ・ミュージックのリズムに移行したのも注目すべきだが、その変移よりも際立っているのがスキッドモアの気だるく甘美なヴォーカルだ。それからはリズムではなくメロディと和音を中心に曲を組み立てていることを窺わせる。また、ビートとヴォーカルとを繋ぐアナログ・シンセによる霞がかったドローン/ノイズの単純ではないレイヤー構造もさることながら、それらを含めた音全体に奥行きを作るリヴァーブによる音響処理は、暗闇に沈んでいくというよりも、どこか心地よい浮遊感を感じさせる。やはり、私は彼のそんな音楽の捕まえ方に、耳がざわめくのを抑えることができない。アンディ・ストットの音楽を表現するのに、もうインダストリアルという言葉は必要ない。 (坂本 哲哉)
本企画は音楽に対する思考と見聞を広げる為にも極めて重要な2014年に発刊された音楽書籍を紹介するためのものである。2014年も数多くの音楽書籍が発刊されたが、その中から5冊を選抜した。選ばれた書籍は決してベストという観点から選んだものではない。しかし、ジャーナリスティックな視点から言っても、一人のリスナーや読者としても重要な位置を占める音楽書籍であることは間違いないのである。社会学からロックを考察した『オルタナティブロックの社会学』。ゆるめるモ!のバイオグラフィー的側面以上の濃密さを持つ『ゼロから始められるアイドル運営』。「The Nightfly」を解体・分析した『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』。音楽と広義のテクノロジーの不可避的関係性が通底する『ex-music‹L›‹R›』。インディミュージックから社会問題に踏み込んだ『遊び疲れた朝に-10年代インディミュージックをめぐる対話-』。いずれも言語で音楽を思考=試行し、読者に音楽に対する見聞と感慨を与えるものだ。本企画がリスナーの音楽生活を更に豊かにする機会となれば幸いである。
メインストリームには乗らないような音楽を語ることによって描き出される時代の総評。人気ライターの九龍ジョーと磯部涼が、インディ・ミュージックから社会を見つめ、対談したものを綴ったのが本書である。コミュニティの豊かなあり方から、ネットカルチャー、隣国韓国インディの現在や風営法や原発をめぐる運動、あるいはシティ・ポップ再評価を通した都市の考察など、たくさんの話題が登場する。また、今年9年ぶりにアルバム『光の中に立っていてね』を発表した銀杏BOYZについて、ネット普及において現代ではデフォルトとなっていることを2000年代には彼らがやっていた、と再評価している点は、本書ならではある。銀杏BOYZの空白の約10年のうちに、非正規雇用問題や格差社会は顕在化し、震災も起きた。本書は、第1章を銀杏BOYZについて割き、残りの章において、ここ10年の社会で起こったトピックと密接に絡み合って生まれた音楽やカルチャーの問題点や社会的可能性について、明確な結論が導き出されるわけではなく、終わりのないような議論が展開される。気づけばその2人の対談に参加しているような錯覚を覚えるほどに、問題意識が生まれる一冊。(藤森未起)
楽曲やジャケット・デザインに織り込まれたノイ!、ディーヴォへのオマージュによりアイドルマニアだけでなくクラウトロックやニューウェーブのファンからも注目される7人組女性アイドルグループ、ゆるめるモ!。本書はプロデューサー田家大知によるゆるめるモ!のいわばバイオグラフィー的な内容であり、読者の多くはファンだと思われるが、入門書という体裁でファン以外に読者の間口を広げている点がうまい。インディーズ・アイドルに関心がある読者にとってはアイドル運営の裏話は大いに興味をそそられるだろうし、アイドル・プロデュースを事例にしたマーケティングのケーススタディーという深読みさえもできる。そして、軽妙だが丁寧で真摯な語り口も戦略的だ。読者は、わかりやすい入門書を読み進めているつもりが、ゆるめるモ!の結成から今までの軌跡を追体験することで、自然とゆるめるモ!に好感を持つことになる。そうなるともはや著者の術中にはまったも同然。従来アプローチができなかった潜在層を入門書フェイクで引き寄せファン化する妙手。ゼロから始めたアイドル運営を成功させた策士が次にどんな手を打ってくるかと、今後もゆるめるモ!から目が離せない。 (夏梅 実)
テクノロジーとポスト・ロックという二つのテーマで振り分けられた本書であるが、両書に通底するのは、音楽と広義のテクノロジーの不可避的な密接な関係性。次に端的に言って、音楽とは何かという本質的な問いであろう。従ってそれは佐々木敦の音楽批評の根底にある批評観でもあるということだ。
本書で取り上げられているアーティストも正しく音楽と本質的な領域まで対峙し、音楽を発明/更新し続ける/続けたアーティストばかりだ。オヴァル、ジム・オルーク、トータス等、全て名前を上げたら切りがないが、佐々木敦はそれらの音楽(家)を通じて音楽を思考=試行し、各音楽と音楽家の本質をついている。時には音楽の概念さえも発明しているのだ。
広義のテクノロジーが進歩させるのは何も音楽だけではない。人もまた広義のテクノロジーによって進歩してきた。本書で氏が述べているように90年代は正にテクノロジーの発展と進歩によって急速に耳が進化した時代である。00年代以降はネットの全面化により、音楽とテクノロジーの関係性は根底から変わってしまった。しかし、だからと言って音楽も音楽批評もまだ可能性は秘めている。本書はその可能性を肯定しているのだ。 (佐久間 義貴)
60~70年代の生演奏の音質が好きな自分にとって、80年代のサウンドは硬過ぎる印象があった。その頃はPCが音楽制作に取り入れられたばかりで、どうしてもそういったサウンドにならざるを得ず、またその完璧なリズムの精度が流行だったという。『The Nightfly』はまさにその様な黎明期にリリースされ、その生演奏のグルーヴと機械によるリズムの完全な支配のせめぎ合いが、当時では考えられないほど質の高いものだと見なされているのにはそういう理由がある。本書は約半分の分量を『The Nightfly』の各曲解説のために割き、なぜその音楽が良いのかをミクロな視点で解剖している。その情報の高密度たるや興奮冷めやらず、音楽に対する価値観が変革してしまうほどだ。打ち込みと生演奏の区別がつかぬほどに技術が進化した今だからこそ、『The Nightfly』の時代性と普遍性に立ち返り、本当の名盤を聴き分ける力を養おう、というのが著者の主張である。音楽プロデューサーがリスナー視点を織り交ぜて解説しているので、普段知る由もなかった制作現場への理解も深まり、また新たな聴き方も啓発してくれる。全リスナーにお薦めの一冊。 (ヒロノ ユウスケ)
2001年に社会学の視点でロックを読み解いた『ロックミュージックの社会学』。価値観の体系としての三指標―〈アウトサイド〉〈アート〉〈エンタメ〉がロックであることを成立させる考え方を示した。あれから13年を経て続編ともいえる本書はこの三指標に当てはまらない90年代以降の変化したロック観と分断について考察されている。カート・コバーン登場とその自殺によって起されたロックの終わりと始まりの衝撃。レコードからCDに移行する時期に起きたサウンドが波にのる感触から渦に浸る感触と変貌。そしてライブも鑑賞から経験へと移行し、観客の層も含めて全体的にロックの黒人的要素が減少していったという事実。これは「何度も死んでリセットされるロック」から転じて、より「自分自身に目を向けるものとしてのロック」になったという結論になる。そしてスポーツ化とテクノロジーの進化が進んだのだった。前作と同じように日本のロックにもページが割かれており、J-POPという音楽とその象徴としてのMr.Childrenの特異性や、他バンドの動きや問題も触れている。コーチェラやサマーソニックのラインナップや、世代論ではくくれない音楽の価値観に生じる違和感の正体はきっとこの本で分かるはずだ。 (小泉創哉)
通常の年間ベストのレビューに加えて、今回asatteでは再発盤の選出・短評も行った。ここでは言及できなかったものも含めて、近年は再発盤の企画にも本当に優れたものが多い。再発による過去の遺産のアーカイブ化はおよそ90年代から進んできており、既に一巡も二巡もした印象もあるが、それでもなお興味深いリリースが絶えることはないのだから、音楽/ポップ・ミュージックの海はどれだけ深いのか、と驚嘆せざるを得ない。短評でも触れている『Light Mellow』シリーズをはじめ、近年の“現在進行形の”ポップ・ミュージックのトレンドによって評価の再浮上した作品や企画もあれば、これから新時代の音楽家にインスピレーションを与え、次の潮流を形作っていく作品もあるだろう。もちろん影響を受けるのは作り手だけじゃない。過去の作品が再発を通して現在のリスナーの耳と文脈に接続されることで、私たちの感性もまた新しい時代を迎える。その意味で、過去を聴くということは等しく未来を聴くということなのだ。音楽に対して真にアクチュアルで居る鍵は、実は過去の音楽に対しても常に真摯でいることなのかも知れない。
マーク・フェルとマット・スティールから成るグリッチ・ミニマルの開拓者、SNDが90年代末に発表したEPに未発表音源を加え、ラシャド・ベッカーがリマスターを施したリイシュー・シリーズの第一弾。このシリーズを今のUKガラージ/グライムを通過した耳で聴くと、ミニマル・ハウスを骨抜きにして残った要素とグリッチ音を抜き差ししながら構築されるリズムの跳ね方が異常に新鮮。ダンス・フロアでの殺傷力は極めて高いと思う。(坂本哲哉)
2013年に増補改訂版が出た同名のディスクガイド本と連動したシティポップスのレーベル別コンピレーション全13枚の内の1枚、ビクター編。J-AORの至宝『ミスティー・アワー』(伊東ゆかり)収録の『マリコ』や、プリズムをバックに山下達郎提供曲を歌う堀江マミの『LOVING YOU』など初CD化3曲を含む18曲収録。曲の発表年度は1977年から2013年までと幅広いが、まるでこのCDにこの曲順で収まることが運命付けられたかのようなセレクトの妙が光る。(夏梅 実)
1998年の活動休止以来、15年振りに復活を宣言したCo/SS/gZ(コーパス・グラインダーズ)のオリジナルアルバムがリマスターで再発。bloodthirsty butchersの吉村秀樹をはじめ、ZERO、名越由貴夫のトリプルギターが絡み合う凶暴なハードコア・パンク・サウンドが、サブタイトルに”音圧鬼盤”とある通り、オリジナル盤と比較しても特に低音を中心にブーストしたリマスタリングによって、ベースレスのバンド構成とは思えない圧倒的な破壊衝動を今に蘇らせている。(堀中敦志)
日本の3LAからクラウドファンディングを経て再発されたスペインの伝説的ハードコアバンドの完全ディスコグラフィ。凡庸なデスメタルと言えるが、迸る激情の軋轢で押し切る初期曲から、芸術性を湛えた後期の曲までIctusの音楽の変貌と進化を十二分に堪能できる。特筆すべきはハードコアを高次元の域まで押し上げた唯一無二の芸術品である『IMPERIVM』。1曲約39分のこの曲はハードコアのみならず、音楽史に残るマイルストーンである。(佐久間義貴)
海外でも活躍したハードロックバンド、ヴァウワウの全盛期を支えた厚見玲衣がそれ以前にキーボード奏者兼リードシンガーとして率いたバンド、タキオンの唯一のアルバムが30年ぶりに再発売(初CD化)。洗練された構築美はプログレやハードロックに位置づけられるが、歌謡曲的なキャッチーなサウンドをマニアにだけ独占させておくのはもったいない。14年秋に出た当時のデモ&ライブアーカイブなど再評価の機運が高まるのも確実だ。(夏梅 実)
2004年の解散から10年経った今年、BURGER NUDSは復活した。それに伴って廃盤していた5枚の音源を3枚に編成し、再発。解散したかなり後に彼らを知った私にとって、当時は僅かにしか触れられなかった彼らの音に、今、触れられていることが本当に嬉しい。高校生の頃、「AM 4:00」や「自己暗示の日」のMVをYoutubeで縋るように見ていた頃が懐かしくなった。昔も今も、彼らの音楽は胸に響いている。(小泉里菜)
95年リリースのマリア観音の代表作『犬死に』が再発売。怨念こもった呪詛にも聴こえる情念的で時に暴力的な唱法と、意外にポップなメロディーやアレンジとのミスマッチが異様さを増す。バンドルされた当時のライブDVDは、低画質ながら、20年を経た今、ライブで真価を発揮するこのバンドの凄絶なステージを映像で確認できる価値は高い。14年にバンド活動を再開。一新されたメンバーによる”トゥー・マッチ”なパフォーマンスに期待。(夏梅 実)
デビュー15周年記念の再発盤。かつてデイヴ・フリッドマンがプロデュースしたセカンド・アルバムだが、リマスターも彼自身が担当しており感慨深い。以前より90~00年代以降のバンドマンの多くがその影響を公言しているだけではなく、今年はアジカンがロッキング・オン・ジャパン・フェスにて「透明少女」のカヴァーを披露。しかしその反応の薄さから、現代の若者にはあまり浸透していない印象を受けるのはやや残念である。 (梶原綾乃)
オランダのキンドレッド・スピリッツより復刻された77年の西アフリカ・マリ南東部シカソで活動していた楽団による電化された伝統音楽音源。60年の独立後、隣国ギニアに倣い芸術振興策が推し進められた70年代も後期になると、埃っぽいオルガンと単音弾メインのギターに力強いホーン隊という取り合わせは既に整然としている。その下を自在に這うリズム隊は後のアフリカ音楽に比べても非常に複雑で豊かであり聞き所。(小林翔)
予約が規定数に達すると再発売が実現するというサイトにおいて予約開始後1週間で再発売が決定。待ち望むファンが多かった証だ。プログレ人脈によるバックアップやシュールな歌詞、ケイト・ブッシュを思わせる透明感溢れるハイトーン・ヴォイスでマニアの支持を受けてきたが時代を超えた普遍的価値のある作品だ。ナチコは80年に本作でデビュー後2年で3枚の傑作アルバムを残しシーンを去ったが、13年に約30年ぶりに活動再開した。(夏梅 実)
本書の執筆を行いました、岡村詩野ライター講座生の紹介と各自のベストアルバム5枚をご紹介します。
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梶原 綾乃
社会人1年目をしつつ、ライターにasatte編集長と今年も大忙しの1年でした。今年も関西インディ・シーンから良い音楽がたくさん届いておりますが、東京の魅力についてもお伝えできるよう勉強を重ねたく思います。
Yogee New Waves『PARAISO』
Wild Cub『Youth』
Luminous Orange『Soar, Kiss The Moon』
銀杏BOYZ『光のなかに立っていてね』
佐久間 義貴
批評家養成ギブス三期生。同有志による批評同人誌『エクリヲ』にて執筆。今年は最も音楽を聴かなかった年かもしれない。しかし、音楽の事は最も考えた年。来年はスワンズの来日公演とゴダールの新作で始まる。
ハチスノイイト『Universal Quiet』
古川麦『Fer / Close』
Scott walker & Sunn O)))『Soused』
杉本圭一『Play music』
Mamiffer『Statu nascendi』
山本大地
大学4年、Hard To Explainというホットな洋楽を扱うメディアでいろいろやらせていただいています。
今年は他の年と比べれば後世に残るような作品の数は少なかったかもしれないですが、ArcaやPC Music周辺など、そして徐々に息を吹き返しつつあるUKギターロックなど来年に繋がる動きに注目するのが楽しかったです。
The War On Drugs 『Lost In The Dream』
シャムキャッツ 『AFTER HOURS』
St. Vincent 『St. Vincent』
Run The Jewels 『RTJ2』
Spoon 『They Want My Soul』
小泉 里菜
大学3年。ライター講座初参加。2014年も音楽と二次元充しました。音楽方面では多くの新しい音楽に出会ったり、夢にまで見たあのバンドの復活に立ち会ったり、また様々なことに挑戦したりして、刺激的な年となりましたなぁ。携わったことを通して自分に関わってくれた皆様に感謝です。
ROTH BART BARON『ロットバルトバロンの氷河期』
Temples『Sun Structures』
Lillies and Remains『ROMANTICISM』
Lillies and Remains『LOST』
踊ってばかりの国『踊ってばかりの国』
佐藤優太
今年は数年ぶりにアメリカのメインストリームものへの関心が減りました。ベストライブは、オルグと「easy」で観たハイハワ、フジのアーケイド・ファイア、DUM-DUM PARTYで観たトリプルファイアー。来年はより視界を広く、音が面白い人に注目したいです。
森は生きている 『グッド・ナイト』
ボブ・ディラン『ザ・ベースメント・テープス・ロウ:ブートレッグ・シリーズ第11集』
Mac Demarco 『Salad Days』
パフューム・ジーニアス 『トゥー・ブライト』
エイフェックス・ツイン 『サイロ』
小林翔
本講座のイヤー・イン・ミュージックに寄稿させて頂いて3年目。この1年間はまるまるアイドル・オタクとして過ごしたのですが、それを極力抜きにしてもNegicco「光のシュプール」は今年ずば抜けて素晴らしいシングルでした。
クリープハイプ『クリープハイプ名作選』
昆虫キッズ『BLUE GHOST』
Rinbjo『戒厳令』
OMSB『OMBS』
TADZIO『TADZIO II』
藤森未起
86年生まれ会社員。検索広告のお仕事してます。『Tokyo Loco magazine』なるサイトを立ち上げてしまったので、インディーズシーンの相関図を作ってちょっとずつ広げていきたい。
昆虫キッズ『BLUE GHOST』
ayU tokiO『恋する団地』
Hi, how are you?の3部作
蓮沼執太フィル『時が奏でる』
thai kick murph『Beauty and Youth』
ヒロノユウスケ
今年のベストMVは三代目JSB「R.Y.U.S.E.I」Block B「HER」フェアリーズ「BLING BLING MY LOVE」どつ「such A sweet lady」エビ中「ハイタテキ!」でした!
スカート『サイダーの庭』
森は生きている『グッドナイト』
ayU tokiO『恋する団地』
銀杏 BOYZ『光のなかに立っていてね』
くるり『THE PIER』
坂本 哲哉
今年はPANに始まってPANに終わった一年でした。12インチとカセットばかり買って、相も変わらずニッチなものを聴いていたように思います。来年はポップなものも沢山聴きたい。
Valerio Tricoli 『Miseri Lares』
Shinichi Atobe 『Butterfly Effect』
Kassem Mosse 『Workshop 19』
V.A. 『African Gems, Recorded In Central Africa Between 1965 And 1982』
SNDのリマスター・シリーズ全部
森 勇樹
自主企画『Shit Seed Seedling!』を始め、とても音充した年でした。ただの消費者でなく「背伸びしたリスナー」になれるよう音楽との関わり方を模索してます。syrup16g再結成嬉しすぎた。
BUMP OF CHICKEN『RAY』
Shiggy Jr.『LISTEN TO THE MUSIC』
秘密のミーニーズ『おはなフェスタ』
OGRE YOU ASSHOLE『ペーパークラフト』
give me wallets『Looking For The Spetial』
板垣 有
渋谷系で音楽に本格的に目覚め、今はメタルの歴史を遡るアラフォー。フリーペーパーで音楽コラムを書いています。音楽の知識は未熟ゆえ、更に貪欲に聴きこみたいところ。来年はもっと小さなハコのライヴにも足を運びたい。
人間椅子『無頼豊饒』
矢野顕子『飛ばしていくよ』
銀杏BOYZ『光のなかに立っていてね』
Chiodos『Devil』
Opeth『Pale Communion』
小泉 創哉
生まれも育ちも渋谷区の大学3年生。お笑いも好き。人生で最も様々な音楽を聴きライヴに足を運ぶ年になりました。特に音楽前夜社関連のイベントとNATURE DANGER GANGのライヴにはよく行きました。
GORO GOLO『Golden Rookie, Goes Loose』
stillichimiya『死んだらどうなる』
リンダ3世『VIVA!リンダ3世』
吉田ヨウヘイgroup『Smart Citizen』
The Drums『Encyclopedia』
日高 玲央奈
大学3年生です。音大に通っていて、みんなで演奏したりして楽しく過ごしています。今年はアイドルを聴くようになりました。アイドルのライブ一緒に行ってくれるお友達が欲しいです。
told『Early Morning』
0.8秒と衝撃。『いなり寿司ガールの涙、、、EP』
妄想キャリブレーション『妄想少女00』
ゆるめるモ!『Unforgettable Final Odyssey』
SHAKALABBITS『Hallelujah Circus Acoustic』
太田あゆみ
RBMAが東京に上陸した今年、音楽に関わるおもしろいことを可視化させたい気持ちをこじらせた1986年生まれの非理系。IAMASで勉強したい。趣味で某キュレーション型音楽メディア上で曲を紹介しています。
Dorian Concept『Joined Ends』
Kyoka『IS(Is Superpowered)』
N.O.R.K.『ADSR』
蓮沼執太フィル『時が奏でる | Time plays -- and so do we.』
綿めぐみ『災難だわ』
夏梅実
英伊仏独西、北欧・東欧・南米・日本及びアジア各国のプログレを新旧問わず愛聴するプログレファン。目白新宿の専門店巡り、神保町での音楽古雑誌漁り、ヤフオクでの珍盤探しが日課。マニアというほど究めてません。
ザバダック『プログレナイト2014』
初音階段『恋よ、さようなら』
エレクトリック・アストゥーリアス『エレメンタルズ』
金属惠比須『ハリガネムシ』
ムーンダンサー/タキオン『トリロジー-クロニクル(1977-81 デモ&アンリリースド・ライブ)』
堀中 敦志
今年は、北は北海道から南は鹿児島までアイドルを追いかけた1年でした。BiS解散おめでとう。そろそろ個人経営のレコード屋を始めたいなぁとか、いろいろ画策中の30歳。普通の会社員。
PLASTIC GIRL IN CLOSET『eye cue rew see』
大森靖子『洗脳』
ANTEMASQUE『ANTEMASQUE』
THE NOVEMBERS『Rhapsody in beauty』
White Lung『Deep Fantasy』
北原'きっちぃ'裕一郎
細胞が震えるような音を聞くのが好きで、ライブハウスへ通うおっさんです。しかし寄る年波に勝てず、呑みすぎては大音量のスピーカーの前で立ったまま寝ていることも。見掛けたときはやさしく声をかけて起こしてくださいね。
tricot 『爆裂トリコさん』(再販)
SALTY DOG 『Goodnight, Cruel World』
硝子越しの暴走 『musiQua』
チャラン・ポ・ランタン 『テアトル・テアトル』
ぐしゃ人間『鬼の形相(亀盤)』
監修
岡村詩野
スペシャルサンクス(敬称略)
渡辺裕也
中島みち子
梶山春菜子
オトトイ株式会社
岡村詩野ライター講座生のみなさま
読者のみなさま
本書をお読みいただきまことにありがとうございました。
みなさまにとって、良い音楽体験へのきっかけとなりますように。
編集長 梶原 綾乃
2015年1月15日 発行 初版
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