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わーくしょっぷ
[アンソロジー短編集]

晴海まどか、楢野葉、笹原祥太郎、
これこ、山田宗太郎

白兎ワークス



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 目 次

三月ウサギは知っている   晴海まどか

三月ウサギは知っている
【著者紹介】

ヴァージョンBの世界   楢野葉

ヴァージョンBの世界
【著者紹介】

霧の盟友   笹原祥太郎

霧の盟友
【著者紹介】

残暑の雪だるま   これこ

残暑の雪だるま
【著者紹介】

ロンドン・プライド   山田宗太朗

ロンドン・プライド
【著者紹介】

Appendix

『わーくしょっぷ』シリーズとは
『わーくしょっぷ』vol.2紹介

三月ウサギは知っている

晴海まどか

三月ウサギは知っている

Side A 佐藤学

 頭を殴られ続けているような、ものすごい頭痛で目が覚めた。
 なんだこれ。
 何か柔らかいものの上に横になっている、ということはすぐに理解できた。が、横になっているらしいのに、立ちくらみのように世界がぐるぐるぐらぐら揺れている。頭痛い。気持ち悪い。喉乾いた。僕はぼってりとして重たい目蓋をゆっくりと開けた。
 視界に飛び込んでくる、クマさん。ウサギさん。ネコさん。
 ぬいぐるみの森だ。
 自分が横になっているのはどうやらソファのようで、そんな僕の目の前、壁際にはピンク地に黄色い花柄という頭痛がひどくなりそうな派手な掛け布団のベッドが置いてあり、ベッドの上にはずらりと大小のぬいぐるみが鎮座していた。それらは静かに、観察するように僕を見つめている。
「起きたぁ?」
 思いもよらず近くからかけられた声にソファからずり落ちた。
 すらりと白い足が伸びる濃紺のホットパンツにだぼっとした白いジャージという、なんともラフで無防備な格好の女が僕を見下ろしていた。肩につかないくらいのボブヘアの真っ黒な髪と一緒に、蛍光ピンクの細い毛束が右耳の後ろから顔の前に流れる。つけ毛? 幼さの残る丸い目と丸い輪郭、にかっと笑んだ大きな口。誰だこいつ、という自らの問いに自ら答えを見つける。
 宇佐見弥生うさみやよい、だ。
 その名を思い出した瞬間、走馬灯のように頭痛の向こうから記憶が押し寄せた。

 大学に入学してから仲良くなった磯村いそむらくんに連れられて、僕は英会話サークルの新入生歓迎コンパに参加した。大学に行くのにもそろそろ慣れてきた四月の某日、金曜日だった。
 新入生が百人近くいる、大規模なコンパだった。新宿にある飲み屋のワンフロアを貸し切っての大宴会。入り乱れる人と酒とコールの嵐の中で、ビールジョッキを仁王立ちで飲み干し、先輩たちから拍手喝采を浴びている女がいた。空のジョッキをテーブルに置いた彼女の横顔が見え、遠くからも目に飛び込んでくる蛍光ピンクの毛束を目にした瞬間。僕はその女を知っていることに気がついた。
 宇佐見弥生。中学時代のクラスメイト。僕の十八年間の人生において一、二を争う変人。
 こんなところで再会するなんて人生ってわからない、というのが第一感想だった。同じ大学に進学していた、という事実にも驚いたが、宇佐見弥生のような人間が英会話サークルだなんてしごく平凡なサークルのコンパにいることにも驚いた。三つ隣のテーブルで次のビールジョッキを手にした宇佐見弥生をぼうっと見ていたら、すげーなあの女、と磯村くんが嘆息した。あの女、新歓コンパ荒らしらしいよ。荒らしって? 色んなサークルの飲み会に出まくってるってこと。なるほど、それなら納得だ。
 ――君たち今日は来てくれてありがとう! 飲み放題だからガンガン飲んじゃって!
 ぼそぼそ喋っていたら、目の前にビールのピッチャーがどんっと置かれた。僕たちは恐縮しつつも上級生にグラスを差し出し、注がれたビールを乾杯してからぐびぐびと空けた。遠くから、宇佐見弥生の奇声が聞こえていた。

 ……と、その辺りまで思い出して思考が停止した。靄がかかったように記憶が混沌としていて、断片的になっていく。先輩に勧められるまま飲んで、飲んで、飲んで……で、なんで僕はぬいぐるみの森にいるんだ?
 というか、なぜ宇佐見弥生が僕を見下ろしている?
「ここ、どこ?」
 我ながら間抜けな自らの質問に嫌な予感がし、あまつさえ予想どおりの答えだった。ここは、宇佐見弥生の部屋らしい。
「佐藤くんがゲロゲロになっちゃって、ベロベロになっちゃってしょうがないからここに収容したんだよ」
 ゲロゲロで、ベロベロ。なるほど、頭痛で死にそうな僕にもわかる端的な説明だ。潰した後輩の介抱を、宇佐見弥生とはいえ新入生の女子に丸投げするようなサークルには入るもんかと固く誓った。
 がんがんぐるぐるする頭を押さえ、もっそりと起き上がる。顔を上げると僕のジャケットはカーテンレールにハンガーで吊るされていて、僕の体にかけられていたらしい薄手のブランケットがソファの隅で丸まっていた。ブランケットの茶色いくまさん柄を見ていたら、急に今の事態が実感を伴って把握できた。冷や汗だかなんだかわからない汗が額に滲む。
 ゆっくりと、明るい表情の宇佐見弥生に向き直る。がばっと土下座した。額を手の甲に擦りつけながらごめんなさい、と謝ったら喉が痛くて声が擦れた。で、思い当たった。
「もしかして……吐かせてもらった?」
 宇佐見弥生はピースをしてから右手の人差指と中指を揃えると、僕の方に差し出した。
「こう、喉の奥にね、くいっとやると」
 くいっ、のところで宇佐見弥生は指を曲げた。
「ゲロゲロっといくわけですよ」
 再び土下座した。本当に申し訳ございませんでした!
 僕はぬいぐるみの森に見守られながら、結局そのままそこで半日寝込むことになった。

 一人暮らしをしている自宅マンションになんとか辿り着き、空腹で目が覚めるまで死んだように眠って土曜日を潰した。酒に呑まれたことはともかく、同い年の女子の部屋で介抱してもらうなんて。いたたまれなくてどこかの穴に引きこもるにはどうしたらいいかを真剣に考えてしまう。大きな失態も成功もなかった僕の人生で、こんな事態は一度もなかった。僕は良くも悪くも目立つようなことや常軌を逸脱するようなことは絶対にしなかったし、大きな粗相もしたことがなかった。それはある種の誇りでもあったのに。
 日曜日中うじうじと悩み、だが時は流れて日はまた昇る。月曜日には大学に行かねばならない。うじうじしたところで、僕にできることは反省することと宇佐見弥生に謝ることくらいだと割り切り、大学へ向かった。
 僕を見つけて、先週はいつ帰ったの? え、潰れた? 置いて帰ってごめんなぁ、なんて軽く謝ってくる磯村くんの相手をしつつ、宇佐見弥生を目で探した。見つからない。よくよく考えてみたら、僕は彼女の専攻もクラスも何も知らないのだった。そもそも、コンパで一緒になるまで彼女が同じ大学だということを知らなかったくらいなのだ。とはいえ、大学内をあてもなくうろうろと探す、のはなんとなく憚られるし。気持ち的には今すぐ謝って余計なわだかまりを無くしたいところだったが、仕方ない。そのうち遭遇することもあるだろう、と入れていた気合いを少し緩めた。
 午後の講義を出て、僕は磯村くんと別れて大学をあとにした。電車に揺られて一駅で降りる。駅から徒歩五分、花屋と本屋に挟まれた小さなカフェ『Mad Hatter』の扉を押し開けた。テーブル席が五つにカウンター席六つの小ぢんまりしたカフェは、今日もお喋りに興じる女性客で賑わっている。
 僕はここ、カフェ『Mad Hatter』で週に三日から四日ほどアルバイトをしている。大学入試が終わってすぐ、一人暮らしをするためのマンションの下見をしていたときにここを見つけた。マンションを決めた直後にこのカフェに赴いてアルバイトの申し込みをした。我ながら、自分からこんなに素早く動いたのは珍しいことだった。
 大柄でクマみたいな見た目のくせにお菓子作りが趣味だというマスターに挨拶をして、控室に荷物を置いた。エプロンをかけてよし、と小さく気合いを入れて店に出た僕は目を丸くした。
 カウンター席に、探していた宇佐見弥生がちょこんと座っていた。柔らかそうな生地のベージュ色のワンピースに黒いレギンスといった格好は今どきの女子大生風と言えなくもないが、耳の横に流れるひとつまみの蛍光ピンクの毛束がすべてを台無しにし、彼女をエキセントリックな雰囲気にしていた。やぁ佐藤くん、なんて気安く声をかけてくる。
 いらっしゃいませ、とグラスの水を出し、それから深々と頭を下げて謝った。大袈裟だなぁ、と宇佐見弥生はからから笑う。あまりに宇佐見弥生がけろっとしているものだから、少し気が楽になった。そうだ、と思い立って、ケーキと紅茶のセットをごちそうすることを提案した。え、本当? と宇佐見弥生はしっぽを振る犬のように目を輝かせる。
「じゃあ、遠慮なくいただいちゃうよ?」
 子供が絵本を開くように両手でメニューを見て、宇佐見弥生はアップルパイを選んだ。それから、セットの紅茶のページを見て動きを止めた。
「オススメの紅茶は?」
 カフェ『Mad Hatter』は、紅茶専門のカフェである。宇佐見弥生が紅茶で迷うのも無理ないだろう。セットにつけられる紅茶だけでも二十種類以上あるのだ。
「濃厚な紅茶とさっぱりした紅茶、どっちがいい?」
 そうだな。宇佐見弥生はピンクの毛束を右手の人差し指でくるくるやった。
「じゃあ、今日のところはさっぱりで手を打とう」
 僕はセット紅茶の一覧から、『ニルギリ』という文字を指さした。
「ニルギリはインドの紅茶で……」
「ニルギリって、現地語で『青い山』って意味なんだよね」
 宇佐見弥生は嬉々として僕の解説を遮った。
「うん、確かにさっぱり系だね。紅茶のブルーマウンテンって呼ばれてるんだっけ。ダージリン、アッサムと並ぶインドの三大紅茶」
 ぺらぺらとニルギリのうんちくを並べたてる宇佐見弥生に、僕は焦っていた。紅茶については自分も勉強しているつもりだったのに。
「なんで、そんな詳しいの?」
「何年か前に、本で読んだんだ」
 何年か前の知識がこんなにすらすら出てくるのか、こいつは。
「でも、飲むのは初めてだよ」
「まぁ……紅茶は飲まないとわからないしね」
 なんだか負け惜しみみたいな言い方になってしまった。そして、思い出す。中学時代の宇佐見弥生のあだ名。
 『三月ウサギ』。
 弥生だから三月、だなんてかわいらしい理由は表向きだ。実際は、不思議の国のアリスに登場するいかれたウサギのキャラクターから取っている。いかれた三月ウサギ、宇佐見弥生。彼女は、興味を持ったものはなんでもかんでもとことん調べて研究した。物でも、動物でも、人でも。研究と称してクラスの特定の男子をつけ回し、失笑を買っていたこともある。そんな彼女の行動は、『ウサちゃんの一人遊び』だなんて揶揄されていた。
 紅茶について詳しいのも、紅茶がこの一人遊びの対象になったことがあったからだろう。
 中学時代に宇佐見弥生と話した記憶はあまりない。けど、いかれた三月ウサギ、と陰口を叩いていた連中の気持ちがほんの少しわかった。宇佐見弥生は、ただの変人とすませられないほどに博識でもあった。本当に面白くない、こいつは。

 あの日を境に、宇佐見弥生は度々カフェに来るようになり、そして大学でも大学の外でも、僕を見かけるとなんとも無邪気に手を振った。弱みを握られているわけじゃないが、仮にも恩人だということもあり、そんな宇佐見弥生を邪険にはできなかった。なので、僕も渋々手を振り返す。
 そんな宇佐見弥生と僕のやり取りは、最初は友人たちに多大なる誤解を与えた。が、そのキャラがわかってくると、友人たちの誤解はすぐに解けたようだった。僕の仲間内で、宇佐見弥生は何かとまとわりついてくる小学生的なポジションに落ち着いた。宇佐見弥生は時折僕と僕の友人たちと食堂でランチを食べるまでになった。
 宇佐見弥生は、中学時代から何も変わっていない。人懐こくて人見知りしなくて、悪気なくその知識をひけらかし、周囲の人間をほんの少し劣等感に苛ませる。それは僕にとっても例外ではなかった。宇佐見弥生の存在は、今まで意識してこなかった自分の凡庸さを浮き彫りにする。ちょっと紅茶に詳しいだけの地味な大学生。良くも悪くもすべてにおいて平均点。わかっていたはずのその事実が、なんだか無性にいたたまれない。

 僕は結局どこのサークルにも所属することなく、家と大学とカフェ『Mad Hatter』を往復する日々を送っていた。同じ専攻の友人たちは、サークルに入ったり入らなかったりで、サークル仲間とつるむようになり一緒に行動する時間が減った奴もいた。宇佐見弥生はあいかわらずだったけど。
 そんな五月のゴールデンウィーク明けだった。こちらも変わらずにつるんでいる磯村くんに誘われた。
「明日の夜なんだけど、暇じゃない?」
 バイト先の女友だちと合コンの約束をしたが、メンツが揃わなくて苦労しているらしい。
 恋愛事にまったく興味がないかと問われれば、もちろん答えはNOである。けど、自分が合コン向きの人間でないことくらいはわかっていた。悪いけど、と断ろうとしたが、もう頼めるのは佐藤しかいないんだ、頼むよこのとおり! なんて拝まれてしまうと弱い。
 結局、僕は男三人で新宿の居酒屋へ向かうことになった。予約されていた個室では、同じ歳くらいの女の子が四人待っていた。派手なギャルっぽい子はいなくてとりあえず安心する。どの子もそこそこかわいらしく、渋谷とか原宿にいそうな今どきの格好をしていた。宇佐見弥生のようなエキセントリックな子もいなくてさらにほっとする。
 と、席についてから気づいた。女性陣は四人だが、男性陣は三人しかいない。僕の疑問に答えるように磯村くんは言った。
「急に一人キャンセルになっちゃって。代わりの奴がもうすぐ来ると思うから」
 そして約五分後。遅れてごめんなさーい、と現れたのは、なぜか宇佐見弥生だった。おい、と磯村くんをつついた。頭数が足りないからって迷走しすぎだろ。宇佐見弥生は初対面の女性陣に物怖じせずに早速自己紹介を始めている。男じゃなくてごめんねー、なんて宇佐見弥生はまったく悪いと思っていない口調で席につき、珍妙な合コンが始まってしまった。

 ……そしてまぁ、予想どおりの結果になるわけだけど。
 人見知りで、面白いことを言えるわけじゃないし、気も利くわけじゃない。そんな僕が合コンというステージで輝けるわけもなく。女の子たちと盛り上がる磯村くんと宇佐見弥生を横目にちまちまお酒を飲んで、みんなのサラダを取り分けて、相槌を打つことに終始した。
 一歩下がってテーブルを眺めると、磯村くんたちの喧騒は遠い世界のものだった。楽しそうだなぁとは思うけど、そこで交わされる会話に積極的に混ざりたいかと言われるとそういうわけでもない。好みのタイプは? なんて会話は苦手だったし、土日の過ごし方を訊かれても困ってしまうだけだし。
 乾杯直後の自己紹介タイムで、趣味は? と向かいの女の子に訊かれた。くっきりしたえくぼが印象的ないかにも女の子らしい、かわいい子だった。ふわっとしたパーマのかかった茶色い髪は、宇佐見弥生の蛍光ピンクの毛束とは大違いだ。ここで気の利いた一言でも言えればいいのに、無難に「読書」と答えた。読書はもちろん嫌いじゃなかったが、趣味というほど冊数を読んでいるわけではない。その後もその子は、好きな作家は? など話を膨らませようとしてくれたが、僕は話を萎ませることしかできなかった。だったら始めから変な気を回さずに「趣味は紅茶」と答えればよかったのかもしれないが、紅茶の文献を読んだり味比べしたり、なんて言っても反応に困らせるだけだっただろう。
 宇佐見弥生はそんな僕とは対照的に、常に会話の中心に近いところにいた。彼女の無差別な知識はこういう場では役に立つらしい。うさちゃんって物知りー、と女の子たちは素直に感心している。そんな宇佐見弥生は、傍観者に徹している僕に時々話を振った。どう思う、佐藤くん? 宇佐見弥生は僕をフォローするようなことまで口にした。今日は大人しいけど、佐藤くんは面白いんだよー。ちょっと――いや、だいぶイラっとした。宇佐見弥生に悪気がないことはわかっていても。
 来る前からわかっていたことではあった。けど、まったく期待していなかったといえば嘘になるわけで。想像以上の敗北感にため息が止まらない。宇佐見弥生にまで気を遣われる始末だし、自分で思っていた以上の自分のダメっぷりに嫌になる。
 ドリンクのラストオーダーが終了し、あと三十分で合コンはお開きになりそうだった。この気まずい空間から一刻も早く出たいと思っていたら、ちょっと、と磯村くんにつつかれた。
 男三人で個室を出て、男子トイレの前で立ち止まる。
「で、次どうする?」
 今後の作戦会議だったらしい。磯村くんたちは、二次会やるだろ? あそこの店は? なんて話し合う。お前は? と、当然というか気を遣ったのか、一応僕にも訊いてくれる。
「誰かいい子いた?」
 僕は別に。答えかけたら遮られた。
「佐藤はうさちゃんだもんな」
 いやちょっと待て。これには異を唱えずにはいられない。
「あんなエキセントリックな奴は常識的に考えてないだろ!」
「好かれてるのに?」
「なわけあるか!」
 僕は一次会で帰るから、と断って個室へ戻ることにした。と、個室の前で足を止めた。なんだか女性陣が揉めているような気配がする。内容はわからないが、口論するような声。嫌な予感。だが、席に戻らないわけにもいかない。
「佐藤くん!」
 声を上げたのは宇佐見弥生だった。ほかの女の子たちはなぜか気まずそうに僕から視線を逸らして黙り込んむ。微妙にぴりぴりした空気に気づき、ゆっくりと声をかけた。
「あの……何かあった?」
 訊かなきゃよかったかもしれない。なんでもないですよー、と女の子たちが答えてほっとした僕は、このとき、宇佐見弥生が空気を読めない類の人種であることを失念していた。
「この人たち、佐藤くんの良さが全然わかってない!」
「おまっ……」
 あまりのことに、言葉は最後まで発せられなかった。女の子たちがぎょっとしたように宇佐見弥生を見て、僕を見て、顔を見合わせる。僕は咄嗟に女の子たちに頭を下げた。
「こいつ変な奴だから、気にしないで」
 謝ることなんてないですよー、と女の子たちはあからさまな愛想笑いを僕に返す。が、その一方で顔を赤らめたのは宇佐見弥生だった。
「何言ってんの? この子たち、佐藤くんのこと『面白くない』とか『暗い』とかひどいこと言ってたんだよ!?」
「それを僕に言うお前はひどい奴じゃないのかよ!」
 反射的に突っ込んだら、背後から肩を叩かれた。二次会の打ち合わせが完了したらしい磯村くんが場を和ませるように笑っていた。
「なぁに熱くなってんだよ」
 みなの視線が突き刺さる。宇佐見弥生は顔を赤くして、唇を固く結んで僕を睨む。僕が一体、何したっていうんだ? 理不尽だろ、この状況! ――だなんて、言えるわけがない。
「……悪い、先に帰るわ」
 ごめんね、と女の子たちに謝って、僕は荷物を引っ掴んで個室を出た。佐藤! と呼ばれたが、磯村くんは追いかけて来なかった。
 腹立たしい。今さらながら、じわじわと怒りが沸いてくる。あいつの、宇佐見弥生のせいだ。いつだってあいつは――
「佐藤くん!」
 店を出たところで、ジャケットの裾を引っ張られた。慌てて荷物をまとめてきたらしい、宇佐見弥生だった。
「ごめん……ごめんね。だって……だって私、むかついたんだもん!」
 むかついたんだもん、って、子どもか!
「知るか! 『面白みがない』のも『暗そう』なのも間違ってないだろ!」
 宇佐見弥生は傷ついたような顔をした。そんなことない、とぼそりと呟く。
「私、佐藤くんのこといっぱい知ってるよ。真面目で地味だけど、顔も名前もあんまり特徴ないけど、色んな紅茶に詳しいこととか、意外と面白いところとか」
 ……なんか、色々と失礼なことを言われている。宇佐見弥生は僕のジャケットを両手で雑巾を絞るように握って俯く。けど、ほだされてなるものか。耳が垂れたウサギのような殊勝な態度だろうが、僕の苛立ちは簡単には消えない。今日に限ったことじゃない。非凡を地で行く宇佐見弥生に、わかったなんて言ってほしくなかった。劣等感なんて知らないこいつに。
 なんだよ。考えるよりも先に言葉が口から漏れてしまう。
「知ったようなこと言うなよ。僕の何を知ってるって?」
 空気が凍りついた。が、沈黙は長くは続かない。佐藤くんだって。そう呟いた宇佐見弥生の顔がくしゃっと歪んだ。
「何も知らないじゃん」
 その目から一筋流れたものはそのままに、宇佐見弥生は僕を突き飛ばして駆けだした。蛍光ピンクの毛束がふさりと揺れて、僕の視界に尾を引いた。

Side B  宇佐見弥生

 佐藤くんのことを、私はまったく思い出せなかった。お酒をがばがば飲んでいたせい、だけじゃない。佐藤くんの存在自体、私の脳内からは完全に抹消されていた。
 大学に入学して始めての春。一人暮らしを始めたばかりで手持ちのお金が乏しい身としては、新入生はタダで参加できて飲み食いし放題、という新入生歓迎コンパという制度はなんともありがたかった。遠慮なく色んなサークルのコンパに顔を出しまくり、その日は今月十回目のコンパだった。
 新宿歌舞伎町。テレビでしか見たことがなかったその繁華街で、飲み屋のワンフロアを貸し切ったコンパには百人以上の参加者がいた。開始一時間も経つと、あちこちでどんちゃん騒ぎがおっ始まる。で、私はそれに全力で参加していたわけだけど。ビールと枝豆でお腹を満たし、ここいらで小休止、と座ったテーブルで佐藤くんと再会した。
 ――宇佐見弥生だろ? ウサちゃんって呼ばれてたよね?
 お酒に飲まれて真っ赤な顔をした彼は、私の顔を見るなりそう言った。確かに私には『ウサちゃん』というあだ名はあったけど、残念なことにそれは幼稚園生の頃からずっと使用されているものでもあった。
 彼は佐藤学と名乗った。算数の問題にありそうな、ごくごく普通の名前だ。学くんが林檎を十個買いました、花子さんに三個上げたら残りはいくつでしょう? なんて。そして私は、彼が中学時代のクラスメイトであることを知ったのだった。ちなみに「知った」、と表現したのは、名乗られても、私はまったく彼のことを思い出せなかったからである。私の人生に関わってきたたくさんの佐藤さんの顔と名前を思い出してみたけど、佐藤学に心当たりはなかった。
 中学時代の思い出を語る佐藤くんは呂律が回っていなくて、相当飲まされたのは一目でわかった。数多くの新入生歓迎コンパに参加してきたので、新入生男子がコンパでどういう扱いを受けるのかは知っている。これはダメそうだと予想したとおり、しばらくすると佐藤くんはテーブルに突っ伏して動かなくなった。周囲を見回したが、彼の様子を気にかける者はいない。仕方ない同郷のよしみだ! と男気を発揮した私は彼に肩を貸してトイレに運んだ。先日、別のコンパで覚えた、喉に指を突っ込む、という荒技を早速実践し、二度ほど吐かせる。わぉ、まるでマーライオン。
 佐藤くんの胃の内容物を空にして、少し休ませてから宴会場に戻ってみたら、誰もいなくなっていた。これにはちょっと困った。こんな状態の佐藤くんを歌舞伎町に放置して帰れないし、かといってこれじゃファストフード店でも入店拒否されそうだし。考えるのが面倒で、タクシーで自宅マンションに連れて帰ることにした。ワンメーターで帰れる距離で本当によかった。
 ジャケットを脱がせてソファに放置すると、佐藤くんはすぐに豪快ないびきをかき始めた。ほかの男の子たちと並んでいると身長はあまり高くなさそうだけど、体は女子みたいな丸みはなくて細くて固そうだし、濃くはないけど顎の周りを少し伸びたひげが覆っていて、改めて男であることを確認した。思わずソファの前にしゃがんでまじまじと観察する。自分も酒臭いからか、不思議とアルコール臭はしなかった。お父さん以外の男の人をこんなに近くで観察したことなんてなかった。自分とは違う生物。ちょっと興味深い。
 時計を見ると午前一時を回ったところだった。私もそろそろ寝たいなぁと思う一方で、頭はなんだか興奮していて眠気はやってこない。そうだ、と思い立ち、しゃがんだままの姿勢で部屋の隅の本棚に手を伸ばした。中学の卒業アルバム。佐藤くんの言葉を疑うわけじゃないけど、本当に佐藤学が同級生なのか確認することにした。起きたときに会話に困ると嫌だしね。
 アルバムをぱらぱらとめくって、『佐藤学』の名前は拍子抜けするくらいあっさりと見つかった。確かに同じクラスに所属していたらしい。見つからなければ、謎の男をうっかり部屋に上げてしまってさぁどうする!? みたいな展開が待っていたのに、これはこれでちょっと残念。ソファの上で体を弛緩させて眠っている佐藤くんの顔と、写真の中の『佐藤学』の顔は確かに同じだった。切れ長の目に筋の通った鼻と、標準的な日本人といったあっさりした顔。佐藤くんは嘘を吐いていなかったことはわかった。わかったけど。
 やっぱり覚えてないなぁ、佐藤学。

 翌朝、喉の渇きで目を覚ましたのは午前九時前だった。ふわぁ、と大きく伸びをして、ソファの上で上下するブランケットの山が視界に入ってそのままの姿勢で固まった。それから、そうだったそうだった、と一人手を打った。佐藤くんはもういびきをかいていなくて、すやすやと静かに眠っている。生きているようで何よりだ。
 洗面所で顔を洗って、髪の毛のいつもの位置にピンクのエクステをセット。シリアルと牛乳で簡単に朝食を済ませつつ観察していたら、さなぎから孵る幼虫のごとく、ブランケットの山がもそもそっと動いた。
「起きたぁ?」
 ソファに近づいて声をかけた瞬間。佐藤くんはずりずりっとソファから落ちた。ずりずり、としか表現できない佐藤くんの落ち方は、まるでコメディ映画のようだった。
 ひととおりの状況を把握した佐藤くんは、ひれ伏すようにその場に土下座した。ピラミッドを崇める人みたいなその姿勢に、佐藤くんには悪いが笑いをこらえるのに苦労した。なんでこう、動きがいちいちコミカルなんだろう。地味な名前と顔のくせに面白い人だ、なんて、ちょっとひどいだろうか。
 苦しゅうない苦しゅうない、と私もお代官様になったつもりで、頭痛に苦しむ佐藤くんを昼まで寝かせることにした。佐藤くんは「本当に申し訳ございません」なんて繰り返しつつも、ソファに再び横になった。丸まった佐藤くんの背中を見て、あぁ、と静かにため息をついた。なんだろう、子どもの頃に、捨て犬をこっそり拾って庭の倉庫に隠したときのような、そんな気分。
 昼近くになってようやく起き上がれるようになった佐藤くんは、ふらふらした足取りで帰っていった。彼は去り際まで「ごめんなさい」を繰り返していた。真面目な人だ。
 小さくなっていく佐藤くんを見送っていた私は、不思議なこともあるものだと考えていた。寝込んでいた佐藤くんが立ち上がった瞬間、記憶の蓋が急に開いたのだった。私は確かに佐藤くんを知っていたようだ。けど、蘇った記憶は中学時代のものではなかった。
 佐藤くんは、私が最近気になっていたカフェの店員だ。行きつけの大きな図書館の近くにそれはあって、一度入ってみたいと思いつつも、なかなかタイミングが合わなかった。図書館に行くたびに外から店を覗いていたので、そこで働く佐藤くんの立ち姿を覚えていたのだ。
 中学時代の佐藤くんの姿はまったくもって思い出せないのに。これはなんとも面白い。

 休み明けに、私は早速例のカフェに行ってみることにした。カフェ『Mad Hatter』。紅茶専門のカフェとしては、なんとも素敵なネーミング。Mad Hatterというのは、不思議の国のアリスのティーパーティのシーンに出てくる、『いかれ帽子屋』というキャラクターの名前である。Mad Hatterは誕生日じゃない日、つまりなんでもない日のお祝いと称してお茶会を開き、不思議の国に迷い込んだアリスを招待する。なんでもない日は一年に三六四日もあるので、毎日がお祭り騒ぎである。
 ちなみに、いかれ帽子屋には三月ウサギといういかれたお茶会仲間がいて、三月ウサギは中学時代の私のあだ名でもある。考えた子は天才だと思ったものだ。弥生だから三月、なんて理由をつけて、堂々といかれ野郎と呼んでいるんだから。まぁ、そんなことを正面から指摘するほど私は無粋じゃないし、むしろ光栄なあだ名だと思ったぐらいだけど。
 カフェの中は、発酵した茶葉の匂いで満ちていた。見事に女性客しかいない。空いていたカウンター席に座っていると、エプロン姿の佐藤くんが店内に現れた。一昨日はひどい二日酔いで顔色も悪かったしげっそりしていたけど、すっかり回復したようだ。
「やぁ佐藤くん」
 満を持して声をかけた。これでもかと目を見開いた佐藤くんに、ちょっと愉快な気分になる。どうしてこう、いちいち動作が面白いんだろう。佐藤くんは何事もなかったようにいらっしゃいませ、と言ってから、ぺこっと頭を下げた。
「金曜日は、ありがとう」
 内心面白がっていたことに罪悪感を覚えるくらい佐藤くんは真剣な顔をしていて、大袈裟だなぁ、と笑って返すほかなかった。土下座といい、本当に根が真面目な人なんだろう。
 顔を上げた佐藤くんは、そうだ、と何かを思いついたように一つ頷いた。
「この間のお礼に、ケーキセット奢るよ」
「え、本当?」
 人には親切にするものだ。じゃあ、遠慮なくいただいちゃうよ?
 古書のようなカバーのメニューを開いた。ケーキはすぐに決まった。アップルパイ。後ろのテーブルのお姉さんが食べていて、美味しそうだと思っていたのだ。あとは、セットの紅茶。ダージリン、アッサム、ウヴァ、ディンブラ……。
「オススメの紅茶は?」
 迷ったときは店員に訊くに限る。佐藤くんはそうだな、と少し考えた。
「濃厚な紅茶とさっぱりした紅茶、どっちがいい?」
 そうだな。佐藤くんの真似をして考えた。
「じゃあ、今日のところはさっぱりで手を打とう」
 すると、佐藤くんは紅茶のメニューにあった『ニルギリ』という文字を指さした。なるほど、ニルギリか。頭の中で、ストックされていた知識が引き出される。
「ニルギリはインドの紅茶で……」
「現地語で『青い山』って意味なんだよね。うん、確かにさっぱり系だね。紅茶のブルーマウンテンって呼ばれてるんだっけ。ダージリン、アッサムと並ぶインドの三大紅茶」
 引き出された知識は、湧水が溢れるようにあっという間に私の脳内を満たして口から出て行く。そうそう、ニルギリってそういう紅茶だった、なんて自分の言葉を聞いて思い出していく。考えるよりも先に知識が口から出ていくことはよくあることだった。
「なんで、そんな詳しいの?」
 佐藤くんが知らない言葉を聞かされたような顔になっていた。なんで、と言われても。
「何年か前に、本で読んだんだ」
 佐藤くんは釈然としない顔をしている。なので、でも、と補足した。
「飲むのは初めてだよ」
「まぁ……紅茶は飲まないとわからないしね」
 佐藤くんの薄い唇と筋の通った鼻をまじまじと見つめた。佐藤くんの鼻と口は、きっと紅茶の味や香りを区別できるに違いない。小さな町工場でひっそりと鉄を叩く職人さんを目の当たりにしたような心持ちになる。本で得た知識しか持ち合わせていない私とは違う。彼には、経験に基づいた知識があるんだろう。
 ものすごく興味が湧いた。紅茶にも、佐藤学という人間にも。

 それ以来、私はカフェに足しげく通うようになった。店に置いてある紅茶をひととおり飲んでみて、一番舌に合ったニルギリの葉っぱは自分でも買って飲んでみた。私はようやくニルギリの味を覚えたような気になった。本から得る知識だったらもっと簡単に手に入るのに。時間とお金をかけてようやく覚えたニルギリの味は、私の脳内にストックされた雑多な知識ほど確かなものではなく、とても儚いものだった。
 そして紅茶の味を覚えるついでに、私は佐藤くんの観察も続けた。大学で会えば手を振った。佐藤くんは少し困ったような顔をして、でも小さく手を振り返してくれる。佐藤くんと同じ専攻だという友だちにも自己紹介した。佐藤くんの友だちを知って、また佐藤くんのことを知ったような気になった。誰かの世界を知るということは、自分の世界が広がることでもある。
 ゴールデンウィークに中学時代のクラスメイトと会う機会があったので、佐藤くんのことを覚えているか訊いてみた。すると、私と同様、誰一人として覚えていなかった。ここまで人の記憶に残らないのはある意味で才能かもしれない。この特技を活かして、スパイになったらどうだろうか。……佐藤くんがスパイ、これは笑える。絶対コメディ映画だ。
 ひとたび人混みに紛れると、佐藤くんは驚くくらいに埋もれた。顔も特徴的じゃないし、服も派手でも地味でもない。けど、よくよく観察を続けていると、時々面白い動きをする。横断歩道を渡るときは小学生のように必ず左右を確認するとか、携帯電話をいじるときは必ず道の端に寄って深呼吸してから操作するとか、紅茶を売っている自販機を見かけると立ち止まるとか。紅茶が好きなんだね、と声をかけると、はにかむように笑うこととか。私は知っている。みんなが覚えていない佐藤くんを、私は今、とてもよく知っている。
 私は昔から、知識を詰め込むのが得意だった。でも、知識をどんなに吸収しても、常に体の真ん中に空洞があった。喉が渇いて仕方ないように、私の脳は常に知識を欲していて、図書館に通っては漁るように本を読んで、でも穴は塞がらない。
 けど、この数日。その乾きが、ほんの少し治まったように思えていた。とすると、私に足りなかったのは、佐藤くんが持っているような経験に基づく知識なのかもしれない。私は経験に基づいて佐藤くんを知っている、ような気になっていた。

 ゴールデンウィークが明け、一週間ぶりに大学の講義が再開した。ゴールデンウィーク中は実家に帰ったりしていたので、カフェ『Mad Hatter』にも顔を出していなかった。今日も佐藤くんの観察をしようと意気込み、『Mad Hatter』に行こうかなと思っていたところ。食堂でよく会う佐藤くんの友だち、磯村くんに、うさちゃーん、と声をかけられた。佐藤くんは一緒じゃなくて少しがっかりする。
「うさちゃん、今日これから暇じゃない?」
 暇と言えば暇だけど、暇じゃないと言えば暇じゃない。
「合コンやるんだけど頭数が足りなくて。もちろん佐藤も来るし、うさちゃんも来ない?」
 『Mad Hatter』に行っても無駄足になるところだった。感謝の意も込めて、私は磯村くんの誘いに乗ることにした。
 時間が少しあったので、図書館に寄ってから居酒屋に向かった。時間を潰すつもりがぎりぎりになってしまった。店員に通された個室にはすでに私以外のメンツが揃っている。遅れてごめんなさーい、と謝りつつ揃った男女の数を数えて、自分がなぜか男性陣の穴埋めで呼ばれたことに気がついた。まぁ、別に普通の飲み会だと思えばいいだけのことだけど。佐藤くんは私の登場に心底驚いたように目を見開く。この表情が見られただけでも来てよかったかもしれない。

 新入生歓迎コンパには飽きるほど参加したものの、合コンに参加するのは私も初めてだった。とはいえ、男性陣はすべて顔なじみだし私が気合いを入れることもない。せっかくなので女の子たちと仲良くなろうと決めた。私をこの場に誘ってくれた磯村くんは合コン慣れしているのか、場を盛り上げるのが上手だった。どの女の子が喋っても、ちゃんと話を拾ってあげて、みなが興味を示す方向に広げてあげる。こういうことがごくごく自然にできる人もいるんだなぁと感心してしまう。彼は私にもしばしば話を振ってくれた。うさちゃんもそう思うよね? とか、うさちゃんはどうなの? とか。おかげで私もこの場には難なく溶け込めた。
 一方で、私たちが盛り上がれば盛り上がるほど影が薄くなっていくのが佐藤くんだった。最初の自己紹介のあとはほとんど口を開くことなく、黙々とサラダや鳥の唐揚げをみなの小皿に取り分けている。
 女の子たちの話を聞きつつ、私は密かに佐藤くんを観察していた。保護者のような穏やかな面持ちで、盛り上がっている私たちを見守っている。なので、私は時々そんな佐藤くんに不意打ちを喰らわせるように話を振った。
「どう思う、佐藤くん?」
 すると、佐藤くんはあからさまに動揺して挙動不審になるのだった。みなのことを見守るような振りして、話をほとんど聞き流していることはお見通しだ。仮にも合コンに参加しようという者の態度じゃなくて、それはあまりに佐藤くんらしい。私はそんな佐藤くんの面白さをぜひとも女の子たちに伝えたいと思うのだけれど、佐藤くんは面白いんだよー、なんて言っても失笑のようなものを返されるだけだった。
 飲み放題コースの終了まであと三十分だった。ちょっと、と男性陣が連れだって席を外した。すると、個室は途端に女子会モードになる。二次会行く? どうする? 誰かいい人いた? なんて話になる。
「うさちゃんは、男の子たちともともと友だちなんだよね?」
 突然話を振られ、ビールジョッキを傾けていた私はこくんと頷いた。
「あの三人ってどう? 誰がおすすめ?」
 おすすめ? と訊かれても。磯村くんもその友だちもみんな気が利くいい奴だし。
「じゃあ、一番面白いのは?」
 それは佐藤くんに決まってる。
 が、女の子たち四人は一様に苦笑を返した。
「佐藤くんは面白いって、うさちゃん、あれ気を遣って言ったんじゃなかったんだ」
「真面目そうだけど面白くはないよね」
「合コンであんなに暗いのも珍しくない?」
「全然喋らなかったしねー」
 佐藤くんはまさかの大不評だった。確かに、人見知りだったかもしれないけど。でも、みんなの空いたグラスを片づけたり、食事を取り分けてくれたり、佐藤くんは佐藤くんなりにこの場で気を遣っていたわけで。
「もっと人のこと見た方がいいんじゃない?」
 思ったままを口にしてから、空気が凍りついたことに気がついた。少しの沈黙のあと。何それ。口を開いたのは、リーダー格の気の強そうな女の子だった。
「大体、なんで男三人しかいないのよ。こっちはがんばって四人集めたのにさ。それで一人があれじゃ、こっちもテンション上がらないっての」
 確かに、せっかくの合コンで、その不満はわからないでもない。けど。でも。
「だからって佐藤くんのこと悪く言うのは別の話だよ」
「私たちは佐藤くんの知り合いじゃないし。期待外れにもほどがあるって言ってんの」
「期待外れ?」
 よく知りもしない人のことをこんな風に言える神経が理解できなかった。こういう人も世の中にはいるんだ、という事実は新たな発見ではあったけど。
 ビールでたぽんたぽんしているお腹の内側から熱くなってくる。段々、むかむかっとしてきた。考える前に感情が先んじてしまう。
「じゃ、佐藤くんの何がいいか、私が今から話す!」
 笑われた。そんなのいらないから。
「それに、そんなに好きならうさちゃんが付き合えばいいじゃない」
 ねー、と言い合っている女の子たちを前に愕然とした。
 好き? 私が?
 そのときだった。個室の暖簾が静かに開き、佐藤くんが顔を出した。私は思わず声を上げたが、佐藤くんはそんな私を無視した。
「あの……何かあった?」
 事を荒げまいとするような、伺うようなその低姿勢にイラっとした。なんでもないですよー、なんて先ほどまでの発言などなかったように愛想笑いをする女の子たちに、私は沸点越えした。
「この人たち、佐藤くんの良さが全然わかってない!」
 佐藤くんは何か言いかけたが、キっと私を睨んでから女の子たちに頭を下げた。
「こいつ変な奴だから、気にしないで」
 佐藤くんの言葉に、お腹に溜まっていた熱が全身に回り、脳天に集まってくる。何言ってんの? 声が震えた。
「この子たち、佐藤くんのこと『面白くない』とか『暗い』とかひどいこと言ってたんだよ!?」
「それを僕に言うお前はひどい奴じゃないのかよ!」
 佐藤くんの言葉にすっと熱が引いた。あ、確かに。なんて。
 遅れて磯村くんと友だちの二人も戻ってきた。なぁに熱くなってんだよ、なんて肩を叩かれ、佐藤くんは完全に顔が白くなっていた。悪い、と佐藤くんは私を視界に入れないように、磯村くんたちの方を振り返る。
「先に帰るわ」
 ごめんね、と自分の陰口を叩いていた女の子たちを気遣うように笑んで、佐藤くんはジャケットとバッグを掴んで個室を出ていった。佐藤! と磯村くんは声をかけたが、すぐに女の子たちに笑みを向けた。ごめんね、あいついつもはあんな奴じゃないんだけど、なんて。別にいいよー、と女の子たちは笑っていたが、ちくちくした空気はそのままだ。
 私はまた、やってしまったんだろうか。
 昔からこういうことがよくあった。空気読めよ、と正面切って言われたこともある。何が悪いのかわからなかった。体の中の空洞が原因かも、と漠然と考えてさらに知識を詰め込んだ。けど、わからないものはわからない。私は昔も今も何も変わらない。変われない。
 いたたまれなくて、二次会の相談を始めた彼らに声をかけた。
「私も、先に帰る」
 今日はありがとう、と誘ってくれた磯村くんに礼を述べ、私は個室を飛び出た。佐藤くんの背中をレジカウンターを抜けた先、ビルの外に通ずる階段の途中で見つけ、咄嗟にその名を呼んだ。けどそれじゃ佐藤くんは止まらないような気がして手を伸ばし、ジャケットの裾を掴んで謝った。ごめん。淡々と怒りオーラを発するその背中に、本当に悪いことをしてしまった気がした。ごめんね、と繰り返す。でも、佐藤くんは振り向かない。頑ななその態度に、忘れていたむかっ腹がまた立ってきた。だって……だって私。
「むかついたんだもん!」
 知るか! 振り返った佐藤くんは再び声を荒げた。本気で怒った佐藤くんを初めて見た。
「『面白みがない』のも『暗そう』なのも間違ってないだろ! なんでお前が怒るんだよ!」
 発せられた言葉が信じられなかった。なんでって、こっちこそなんで、だ。なんで佐藤くんは、こんなに自分のことを卑下するの?
「私、佐藤くんのこといっぱい知ってるよ」
 真面目で地味だけど、顔も名前もあんまり特徴ないけど、色んな紅茶に詳しいこととか、意外と面白いところとか。たくさん知ってるのに。
 ……なんだよ。佐藤くんは、片頬をひくつかせるように口角を上げた。
「知ったようなこと言うなよ。僕の何を知ってるって?」
 ――その瞬間。知らなかったことに気づいてしまった。
 佐藤くんは、私がどれだけ佐藤くんのことを知っているのか何も知らないということを。それはつまり、佐藤くんは私のことなんか何も知らないということとイコールなわけで。
 私はいつだって知ろうとしてきた。知ることでしか空洞は埋められないと思っていたし、何より知ることは単純に楽しかった。けど。
 誰にも知ってもらえない。そのことがこんなにも悲しいだなんて知らなかった。
 そしてそれは佐藤くんにも言えることで。佐藤くんは自分を知ってもらえていない、そのことすら知らないわけで。
 目元が熱い。視界が揺れそうになって、ぎゅっと目元に力を入れた。
「佐藤くんだって、何も知らないじゃん」
 これ以上言ったら子どものようにわんわん泣いてしまいそうで。握っていたジャケットの裾を離す。そのまま佐藤くんの脇を抜け、ビルの外に駆け出た。
 夜の新宿はどこまでも明るく、視界の中で色とりどりのネオンが揺らめいた。老若男女たくさんの人が往来していて、誰も私のことなんか気にもかけない。誰も私のことなんか知らない。
 でも、それは佐藤くんも同じわけで。
 空気が生温い。酔い潰れた佐藤くんを介抱した四月のあの日は、空気はまだ少し冷たかった。あれからもうすぐ一ヶ月。意外と短いな。そんな短期間で誰かを知ったつもりになっていた私の方が奢っていたんだろうか。
 わざと足を鳴らして走った。あんな風に佐藤くんも怒るんだってこと自体が、そういえば新しい発見だ。なんて考える自分は、やっぱりおかしいのかもしれない。
 ――かまうもんか。
 知らず知らずのうちに頬が緩む。緩んで、風を受けたそこが涙でスースーすることに気づく。
 もっともっと、知りたい。私は佐藤くんのことが知りたい。
 そうだそうだ、と自らを鼓舞する。いかれた三月ウサギで何が悪い!

Sequel 佐藤学

 宇佐見弥生の涙という、予想だにしなかったものの衝撃に呆然とし、僕の中にあった怒りは何かの栓が抜けたように消えていた。
 ……なんで、宇佐見弥生が傷ついたみたいな話になってんだ?
 靖国通り。人混みを掻き分ける宇佐見弥生の走り方はなんとなくおかしかった。ぴょこぴょこと頭が上下に振れて、僕はウサギが走っている様を連想せずにはいられない。
 ――佐藤くんは紅茶が好きなんだね。
 ふいに、いつだかに宇佐見弥生にかけられた言葉が脳裏に蘇ってため息が漏れた。認めざるをえないのかもしれない。宇佐見弥生だけは、彼女が言うとおり、僕のことを知っているのだと。
 やっちまったかなぁ、と後悔しかけたがもう遅い。
 ――遅い? 本当に?
 ほんの少し逡巡した。けど、動き出すまでに時間はかからなかった。頭の中でスタートの合図をパンッと鳴らし、新宿の雑踏に埋もれていく宇佐見弥生を追いかける。
 凡庸な僕だって、ウサギの一匹や二匹ぐらい追いかけられる。それに、あんなにも特徴的な奴を見失うようなボンクラじゃない。
 追いかけて、とっ捕まえて、訊けばいい。何も知らないと僕に言うのなら。僕より知識があると言うのなら。
 ゼロからすべて教えろと。

〈了〉

【著者紹介】

晴海はるみまどか(@harumima

 1983年生まれ、乙女座のA型。千葉県育ちの東京在住。
 SF、ミステリー、ホラー、学園ものと書きたいものはジャンル問わずなんでも書く雑食系。書く方の活字中毒で三度の飯より書くのが好き。小説を書くのはライフワークだと公言して日々精進中。面白い作品を書き続けられる作家になるのが目標。
 趣味は音楽活動。こよなく愛するのはムーミンと椎名林檎。
 今作「わーくしょっぷ」では、執筆のほかに企画・校閲・データ編集も担当。

★公式サイト「白兎ワークス」
 http://whiterabbitworks.wordpress.com/
★ブログ「原点回帰―Running possible―」
 http://mfineocean.blog98.fc2.com/
★きんどるどうでしょう:インタビュー記事
 http://kindou.info/12329.html
★dotPlace (α)((株)ボイジャー):インタビュー記事
 http://dotplace.jp/archives/3615

★楽天ブックスで販売中の本はこちらから

★無料の短編小説公開中。本作の三月ウサギこと宇佐見弥生の中学時代を描いた作品、「N氏と2万4071日目の三月ウサギ」も楽天ブックスで無料販売中。
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ヴァージョンBの世界

楢野葉

ヴァージョンBの世界

 地下道を歩いているとき、「振動」が始まった。
 山手線の主要駅のひとつ、駅の東西をむすぶ連絡通路である。
 頭上を走り抜ける車両の轟音が空気を震わせている。しかし「振動」は外界の音とはまったく別物の、きわめて個人的な体験だった。
 はじめに、頭蓋骨から脳が消えてぽっかりと暗闇がひろがっていく、圧倒的なイメージにおそわれる。暗闇の中心で、ちりん、と鈴が鳴る。体内の奥深くから風が吹いてきて、微かな「振動」になって全身に伝わった。皮膚の内側、筋肉や内臓に、さざ波で洗われるような感覚がある。
(バグか?)
 とっさに後頭部に埋め込まれたインプラントの不調を疑ったが、エラーは検出されていない。
 連絡通路は幅が狭く、天井も低かった。大学時代にこの駅を利用していたときとほとんど変わりがない。壁は味気ない灰色のタイルばりで、最近はやりのホログラフィ広告も見当たらない。大勢の人間が向きをそろえて足早に歩いている。
 外界の状況とはおかまいなしに「振動」は強くなっていった。全身の骨が共鳴して、内側から音のようなものが響いてくる。
 それは、骨の奥から再生される音だった。
 どんな種類の楽器とも異なっていて、しかし、耳を澄ませずにはいられない、惹きつけられる音。
 じっと耳を傾けていると、世界のどこかに隠されている、自分だけの秘密の小部屋を覗きこんでいる気分になる。ごたごたと散らかった部屋には、この人生の記憶が山ほど詰めこまれている。ベビーベッドの甘ったるいにおいと、タオルケットの肌触り。小学生のときに見上げた高く青い空。学生時代を過ごした街のざわめき、夕暮れの雲の色……。そこにはまた、ありとあらゆるスペクトルの感情も一緒くたになってしまい込まれていた。これまでに経験した、さまざまな喜び、悲しみ、怒り、涙がでるような……。
『クツミモリヒコ』
 慣れ親しんだ人工知能の声。
 はっとして我に返ると、地下通路の途中で立ち止まっていた。
 先ほどとまったく同じ光景が目の前にある。
 インプラントの標準機能である人工知能の声が、まだ頭の中に響いている。使用者の意識状態がおかしいことを感じ取って警告を発したのかもしれない。今はじっと黙っていた。
 複数の通行人が怪訝そうな顔を向けながら追い越していく。軽く肩がぶつかって、はっきりと睨みつける若い女性もいる。彼らの表情から察するに、当たり前だが、自分の骨の音は他の誰にも聞こえなかったらしい。
 始まったときと同様、突然に「振動」は弱まっていた。瞬きをする間に、煙のように消え失せる。
 軽く頭を振って歩き出しながら時計を確認すると「17:17」だった。立ち止まっていた時間が知りたかったが、任務中のスパイでもなければ全行動の記録を取ったりはしていない。おそらく二、三秒だったのだろう、と思うことにした。
(本当に?……)
 天井に埋め込まれた新しい照明が、嘘っぽいほど明るい光を放っている。
 左手に、地上への出口が見えてきた。
 豚脂のにおいが鼻につき始める。
 香ばしく、まとわりつくような動物性脂肪の臭気が、ゆるやかな上り坂の先から吹きつけてくる。人波に乗って地上にたどり着くと、赤い灯火の列が目をうった。
 眼前に、中国が来ていた。
 新しくできた駅前広場に、中華系の軽食を売る屋台がところ狭しと立ち並んでいる。軒先に連なった赤みがかった電球の列がまぶしい。日が落ちたばかりの紺色の空の下で、広場全体が光の海のように輝いている。
 あまりの変わりように、一瞬、呆気にとられた。
 十五年前と様変わりした情景のなかに足を踏み入れると、複数の言語からなる潮のような喧騒と、食欲をそそる食べ物のにおいが全身をつつむ。
 左右の屋台を覗きながら歩いていくと、豚肉が入った大判焼き、香菜をたっぷり乗せた粥、牡蠣入りオムレツなどの馴染みのない料理が供されている。串物はスライスした腸詰や魚肉ボールに混じって、鳥の爪や豚の耳など一風変わった食材もあった。
 夕食のおかずを買い求める主婦もいれば、屋台には目もくれず広場を突っ切るビジネスマンもいる。簡素なテーブルで一人で麺をすすっている老人の曲がった背。制服姿の女子中学生たちがジューススタンドの前に群れている。誰一人として首都圏を覆っている放射能汚染など気に留めていない顔つきだった。立ち入り禁止区域との境界線は三百キロメートル以上北にある。
 雑居ビルの並ぶ薄暗い一角で、簡体字の看板が二、三度点滅して、自己増殖したようにいっせいに点いた。
 泳ぎ渡るように駅前の喧騒を抜けると、ようやく見覚えのある五差路が見つかった。
「お兄サン、お兄サン」
 安物の黒いジャンパーを着た男が、手にした端末で女性の映像を見せようとする。
「イイ夢を……」
 無言で通り過ぎると、男は背後で言葉を切り替えて次の勧誘にかかった。
 待ち合わせのビルを探して、看板を見上げながら歩いていく。
 大学生のころに利用したカラオケ屋が多言語の表記を追加しただけで生き残っているのには驚いた。もっとも、中身は変わっているはずだ。この数年で一気に大衆化したホログラフィ技術は、まだ現実と見分けがつかないようなレベルの映像ではないものの、映画産業はもちろん、広告やアート、インテリアなど生活のさまざまな場面で利用されている。最近のカラオケ屋では、好きなホログラフィ映像の中で歌を楽しむことができる。有名なコンサートホールやクラブの舞台、世界遺産の景色、震災前の武道館を忠実に再現したデータもある。
絵留えるは……)
 これから再会する友人のフルネームが、どうしても思い出せない。
 そのかわりに、彼女の歌声が、体の奥深くから煙のように立ち昇ってきて、街の喧騒にかき消された。


 絵留は大学の同級生である。入学してすぐフランス語の授業で一緒になった。
 男のように背が高く、フランス語の発音がきれいで、美人といえないこともないが、どこかアンバランスな顔だちをしていた。同級生たちとは微妙に距離を置いていて、最初の学期は、ほとんど言葉を交わした記憶がない。
 彼女がアマチュアバンドのボーカルをしていると知ったのは、長い夏休みの後だった。
 よく晴れた気持ちのいい朝で、いつもの窓際の席に落ち着くと、
「ねえ、写真をやってるの」
「え?」
 驚いて声のする方を見上げると、彼女が机の横に立っていた。
 癖のある黒髪を一つにまとめ、Tシャツ(多分マイナーなバンドのもの)にジーンズという格好で隣の席に寄りかかっている。
「あなたの写真を見たよ」
 彼女は僕が利用している写真共有サービスの名前をあげた。写真をインターネットにアップロードして、世界中のユーザーからコメントをもらったり、ファンになってもらったりすることができる、この種のウェブサービスとしては標準的なものである。
 確かに、僕は、大学生にしては高価なフルサイズのデジタルカメラを持っていた。父にねだって譲ってもらったのだ。しかし、
「いや、やってるってほどじゃないよ」
 謙遜の言葉が口をついて出た。
 インターネット上の写真共有サービスは、世界中のカメラマンが集まる場所である。プロ顔負けのアマチュアもいるし、正真正銘のプロもいる。息をのむほど印象的な光や構図、見たこともないほど美しい写真が、毎日アップロードされ続けている。最近は自分のファンも少しずつ増えているが、所詮、僕など物の数にも入らない世界だった。
 それを説明すると、彼女は、
「だめだよ、他人と比較しちゃ」
 なぜかひどく真剣な顔になった。
「私は久津見くんの写真、好きだけどな。たとえば……」
「あー……ありが」
 軽い調子で言いかけて、ふと口をつぐんだ。彼女の黒々とした瞳と眼が合ったからだ。彼女は知らない相手に話しかけて多少緊張しているようだったが、お世辞を言っているようには見えなかった。心を開いて、率直に、自分の感想を伝えようとしている気配がある。
 思い直して、体ごと彼女に向き直る。
「ありがとう」
 真面目に礼を言うと、彼女は少し微笑んで、
「あのね、断ってくれてもいいんだけど……」
 今度私たちを撮ってくれない、と彼女は頼んできた。
「バンドのボーカルをやってるの。アマチュアだけど」


 記憶の中よりさらに薄汚れているが、見覚えのある雑居ビルの前で足を止める。エレベーターホールというほど広くない入り口に、地下へと降りるコンクリートの階段がある。
 ライブハウスは地下にあった。
 近寄りながら、やけに暗いな、と思った。
 身を乗り出して、暗い階段を覗き込む。人間が二人、やっとすれ違えるくらいの幅である。湿った空気が鼻先をかすめ、二、三段、降りてみると、最初の踊り場に頑丈そうな鉄のシャッターが下りているのが目についた。
 引き返して、ビルの入り口を調べる。
 エレベーターの横に階数とテナントが表示されていたが、「地下一階」のパネルはなかった。いや、取り外されたらしく、パネルのあった部分の壁の色が白くなっている。階段の周囲には立て看板、ポスターの類も一切見当たらなかった。何らかの店舗の存在をうかがわせるものは、何ひとつ。
 考えてみれば、十五年も前の、それほど流行っているとも見えなかったライブハウスが、そのまま残っていると思うほうがどうかしていたのだ。
 しかし、絵留が指定した場所はここだった。
 彼女の歌を初めて耳にした場所である。それが、本来の彼女の歌声とはかけ離れたものだったとしても。
 きゃっきゃとはしゃいだ女性の声に目を上げると、三人の男女がビルの入口に入ってきたところだった。二十代前半と思われる若い女性が二人、壮年の男性の左右に引っ付いて、絶え間なく喋り続けている。
「すみません、ちょっと」
 最初は無視されたが、しばらくすると女性の一人が迷惑そうに振り返った。駱駝のような睫毛をしたベビーフェイスだが、あまりにも作り物めいた顔だちである。
「何ですか」
「地下にあった店を知りませんか」
「さあ、知りません」
 男性が振り向いて、意外にもなめらかな日本語で答えた。
「ここの地下はずっと閉鎖されたままですよ」
 エレベーターが来て、三人を乗せて去った。
 小さくため息をついて、足の下に打ち捨てられた空間に想像をめぐらせる。その場所に満ちている静寂の音を聞き取ろうとするように。


 絵留のライブがあったのは、それから二週間後だった。
 僕はつき合い始めたばかりの彼女を連れて、大学の近くのライブハウスに出かけた。夏休みの間に自動車教習所で知り合った女の子で、気を遣って小さな花束を持ってきてくれた。
 報酬はチケット代だけとはいえ、人に頼まれて写真を撮るのは初めてで、僕は多少緊張していた。
 コンクリートの階段を地下に降りていくと簡単な受付があり、カーテンを引いたクロークが見えた。受付を過ぎて、産道のような暗い通路を抜けると、急に天井が高く、がらんとした空間になる。右手に舞台があり、その前は立ち見席になっていた。中二階にはテーブル席もある。階段の下のバーカウンターで、見るからにアルバイトの若いバーテンダーが飲み物を出していた。
 舞台袖に、立派な撮影機材を前にした三十代くらいの小太りの男が立っている。絵留に教えられていたので、近寄って挨拶した。絵留の熱心なファンらしかったが、気のよい態度で僕のカメラを褒め、撮影のアドバイスもくれた。
「まあ、固くならずに好きに撮りなよ」
 彼に言われて、少し気が楽になった。
「それより、ちゃんと彼女の歌を聴いてって。素敵だからさ」
「ええ、そうします」
 と答えたものの、僕はやはり写真を撮るのに熱中していて、音楽はあまり聴いていなかった。それに、正直なところ、強い印象に残るほどでもなかったのだ。会場のノリはかなり良かったし、連れていった彼女も楽しんでいた。アマチュアのバンドとしては上出来だった。しかし、何か、どこかが一線を越えていない。絵留の歌声はチャーミングだったが、プロと呼ぶには、強度が足りなかった。
 当たり前じゃないか、と、僕は思った。ボーカルの女の子がちょっと気になったからといって、大学生のアマチュアバンドに何を期待しているんだ?


 脳の半分は過去のライブハウスの空間にいたが、残りの半分でインプラントを操作して、絵留から来たメッセージを検索していた。
 日が落ちて時間がたち、周囲は薄闇に閉ざされつつあった。
 駅の喧騒が遠ざかっていく。
 インプラントは使いこなすために少々訓練が必要だが、すでに全人類の半分以上が利用している技術である。昔の携帯端末よりはるかに高性能なコンピュータを、極小化して脳の中に埋め込んだものと思えばよい。部位は後頭骨(首の後ろのうなじと接するあたり)の内側で延髄の近くというがよく分からない。電気の仕組みを知らなくてもスイッチを押せば明かりが点くのと同じことである。脳の神経と繋がっているので、意識で操作できる。電池切れもなく、電波を使用していないので圏外という言葉もない。「クラウド」と呼ばれている地球規模のデータベースに、文字どおりいつでもどこでも接続できる。
 簡単な作業なので、人工知能を起動せずに検索機能を使った。しかし、何度やり直しても結果は同じだった。
『該当するメッセージは存在しません』
「おかしいな」
 記憶に残っている絵留のメッセージは簡潔だった。

  あなたが東日本にいると聞きました。
  池袋のライブハウスに行くので、よかったら会いませんか。
  日時は………………。

 メッセージには署名がついていた。現在の署名は昔のように名前などの文字列ではない。
 本人確認手段としてより有効な、インプラントの「指紋」が付加されるのが一般的である。
 インプラントは、脳に埋め込まれて使用されると、内部の電子神経が使用者だけの唯一無二の構造に変化する。当たり前だが、人間にはそれぞれ固有の思考パターンがあるためだ。このパターンを圧縮したものが、インプラントの「指紋」である。「指紋」からは、その昔、紙に書かれた文字の筆跡から性格を推し量ったよりはるかに正確に、インプラントの使用者に関する情報を読み出すことができる。つまり思考パターンの特徴、ひいては、人格の一端まで嗅ぎとることができるのだ。よく知っている人間の「指紋」を間違えることはめったにない。コンタクトを取っていない間に、相手の思考パターンがあまりにも変化し、まったく別人になっていないかぎりは。
 このときもメッセージを開いた瞬間に、絵留だ、と分かった。
 高度な技術による「偽装指紋」の可能性もあるにはあるが、思い浮かばなかった。
 ただ心臓がとび跳ねて、懐かしさがじわりと胸に広がる。
 すぐに「行くよ」と返信した。
 しかし、絵留のメッセージだけでなく自分の返信も、検索には引っかからない。
 誤って削除したのかもしれないが、インプラントの不調でデータベースに正しくアクセスできていない可能性のほうが高かった。地下通路で感じた奇妙な「振動」、そして、骨の音が気になった。検索できないデータは存在しないも同じである。
 道路の突き当りで、見覚えのある小さな公園にぶつかった。
 知っている方角に歩いてきたらしい。
 インプラントから現実の世界に注意を戻して、辺りを見回した。
(この公園はこんなに殺風景だったか?)
 十五年前はもっと敷地が広く、草木も多かった気がする。しかし今、茫漠と広がっているのは、踏み固められた茶色い地面だけだった。壊れかけた遊具とベンチがなければ、ただの空き地と勘違いしてもおかしくない。端の方にひょろひょろした木が数本、申し訳程度に植えられていたが、どれも元気がなさそうに見えた。
 この先に、大学があったはずだ。
 しかし、大学自体は、懐かしいというより何世紀も前の出来事のように感じた。
 いわゆる「大災厄」……もろもろの出来事が起こり、日本列島が分割され、東北全体が立ち入り禁止区域になる前の世界は、今の世界と地続きである感じがしない。まったく別のヴァージョンの世界のような気がする。いや、今いる世界のほうが、間違ったヴァージョンなのかもしれないが。
 公園に入って、古びた石のベンチに腰かける。
 やはりインプラントの不調が気になった。
 インプラントで引き出せるデータの質と量は、使用者の脳神経のレベルに依存する。
 取得したデータの出力方法はさまざまだった。現在でも、多くの人間が、スクリーンパッドや電子ペーパーといった物理的な端末に情報を表示させ、目で読み取るやり方を好んでいる。
 しかし、視神経に介入して、視界に表示させることも可能である。数十センチ先に自分にしか見えない透明なモニター画面があって、情報が映し出される。この、背景が透ける実在しないモニター画面は、単に「スクリーン」と呼ばれていた。物理的な情報端末を持ち歩かなくていいかわりに、慣れないと車に酔うような感覚に陥ってしまう。
 インプラントから直接、脳に情報を受け取ることもできる。
 経験したことのない人間に、情報が直に流れ込んでくる感覚を説明するのはとてもむずかしい。ひと言でいえば、脳内が「すでに答えを知っている状態」に変化することによって、「答えを知る」。これは『該当するメッセージは存在しません』程度の答えなら、それほど難しいことではない。
 しかし、複雑な情報を、一瞬で、正確に知覚するためには、訓練だけではなく生まれ持った才能が必要だった。ごく少数だが、ニュー・タイプと呼ばれる特殊な脳神経を持った人間が実在する。
 インプラントに標準装備されている人工知能は、簡単な命令さえインプラントに伝達できない人間でも新しい技術の恩恵を受けられるようにするためにある。人工知能は量子コンピュータが実用化されてから飛躍的に進化を遂げ、今や人類に無くてはならない、優秀なアシスタントだった。「質問をして、答えをもらう」という慣れ親しんだインターフェースを利用できる。
 再び、意識をインプラントに振り向ける。
 二十年以上前から、ソーシャル・ネットワーキング・サービスは存在している。
 接続可能なネットワークで絵留らしき人物を検索してみるつもりだった。
 うまく探し出せれば、すぐに連絡が取れるかもしれない。
 今回も人工知能なしでいくことにした。どういうわけか話をしたい気分にならなかった。自分の人工知能に隠し事ができないことは分かっているが……。
 絵留の特徴を正確に入力するために記憶を探った。際立った特徴は、彼女の声だ。プロを目指していた彼女がネットワーク上に自分の歌声をまったく上げていないとは考えられない。だから、あの声を何らかの形で入力できれば……。


 ライブから一週間程して、絵留の家に招待された。
 バンドのメンバーと昔からのファンで打ち上げをするので、よかったら写真を持って来てくれないかというのだ。普段知らない人間の集まりには参加しないのだが、このときは出かけることにした。
 選んだ写真を現像して、残りの画像データはディスクに保存する。
 場所は府中だったが、最寄駅からはずいぶん離れている。教えられたとおりに歩いていくと、変わった雰囲気の平屋建てが集まった区画にたどり着いた。住宅は相当年季が入っているが、どの家もペンキ塗りの木の柵で囲まれた、大きな前庭がついている。
 夕日の射す松の木で、秋の蝉が鳴いている。
 煙と肉の焼ける匂いが通りにまで漂っていた。
 絵留の家の庭は、とりわけ盛大に雑草が生い茂っていた。数人の男たちが前庭に出て、バーベキューコンロの周りで立ち働いている。あるいは、プラスチックの白い椅子に座ってビールを飲み、煙草を吹かしている。例の、絵留のファンだという小太りのカメラマンが、軍手をはめた手を振って合図してくれた。軽く頭を下げながら木戸を入っていくと、バンドメンバーの一人で金髪の男が顔を上げて、(あんた、だれ?)という顔をした。
 差し入れのアルコール類を見せていると、絵留がトイレらしき小さな窓から顔を突き出す。
「あっちから上がってー」
 家の入口に回ったが、網戸のついたドアが一枚あるだけで玄関らしい玄関がない。
「米軍住宅だったの。すごく古いから、家賃も安いんだ」
 冷蔵庫に案内しながら絵留は説明した。傷だらけのフローリングを素足で歩いている。
「一人で住んでるの?」
 古いとはいえ、一人暮らしには広い家には、玄関にぎょっとするほど大きな鹿の頭部が飾られているかと思うと、廊下のあちこちに古い音響機器や壊れた楽器が放り出されていたりする。勝手気ままに暮らしているようだった。
 彼女は「まあね、いろいろ」とだけ答えて、白と黒のタイルが敷き詰められたキッチンに入っていった。
「こんばんはぁ」「どーも」「あれっ、久津見くんじゃない?」
 キッチンでは三人の女の子たちがバーベキュー用の野菜を切っていた。一人は大学の社会学の授業で見かけた子である。冷蔵庫の中は、お世辞にも整理されているとは言いがたく、女の子たちは「あたしたちが適当にやるから、そこに置いといて」と主張した。
 絵留にごく普通の女友達がいたことに、少し驚いた。
 庭に面した居間には、塗装のはげかかったグランドピアノが置いてあった(「最初からこの家についてたの、だからここを借りたんだ」と、絵留)。家具はゴミ捨て場で拾ってきたようなものばかりだが、アーティスティックな雰囲気を醸し出しているといえないこともない。
 忘れないうちにと、現像した写真とデータの入ったディスクを渡したが、絵留はあっさり礼を言っただけで、中身をあらためようともしなかった。埃をかぶったピアノカバーの上にぽんと置いてしまい、庭に向かって「そっちビールまだあるの」などと大声で呼びかける。驚くほど明るく、屈託のない表情に少々あ然とした。
「私たちも行こうよ」
 庭で小太りのカメラマンと話をすると、彼は有名なカメラメーカーの社員で、名刺もくれた。
 女の子たちも外に出てきて、三人で話しかけてくる。
「あたしたち、高校から一緒なの」
「女子校。絵留は人気があったよね」
「背も高いしね」
 写真の話をすると、女の子たちは「見せて、見せて」とせがんだ。ピアノの上から勝手に取ってきて渡すと、あれこれと大げさに褒めてくれるので、ずいぶんと慰められる。
 夜になると、四方の草むらから虫の声がし始めた。近所に池でもあるのか、蛙の鳴き声までする。くろぐろとした藪や樹木の影は、東京の住宅街にいるとは思えない。
 気持ちの底にかすかな落胆があった。
 夏休み明けの朝のように、彼女は自分の撮った写真としっかり向き合ってくれるのではないかと思っていたのだ。褒めてもらいたかったわけではなく、真剣な感想を聞かせてくれればそれでよかった。しかし、今日の絵留はひどく上の空に見える。
 もう一杯飲んだら帰ろうかと思っていると、歌声がし始めた。
 もちろん絵留だった。最初は聞こえるか聞こえないかの低い声で始まる。周囲の話し声が徐々に消えていき、やがて、彼女の歌声だけが聴こえるようになった。
 不意に、強い違和感を覚えた。
(何だ? ライブのときと、全然……)
 曲は、アイルランド民謡をベースにした有名な歌のアレンジである。客観的にいえば、ライブのときよりリラックスしていて、声量もあり、秋のはじめの晩にふさわしい、心地よい歌声だった。
 しかし、それだけではなかった。彼女の声には、以前にはなかったある要素が加わっている。
 それは、声の「多重性」とでも呼べるようなものだった。
 主要な歌声はひとつなのだが、より低い、またはより高い複数の声が同時に聴こえている。実際に耳に聴こえているのではないのかもしれないが、主観的には確かに聴こえるし、感じられる。いったい何種類の声が含まれているのだろう? 目を閉じて意識を集中したが、判別不能だった。
 無数の声が縦糸になり横糸になり、一瞬ごとに変化する複雑な模様を織りあげている。透明な音の布が、虫や蛙の声、葉ずれの音まで取り込んで、完璧に調和しながら、庭の暗がりのすみずみにそっと広がっていく。この場にいる人間の身体、細胞のひとつひとつに浸透し……骨の奥の空洞まで降りていって、そこで止まる。
(酔ってるな)
 しかし、アルコールが入っていようといまいと、主観的な経験は真実であり本物だった。
 最後の声が庭の大気から消えると、重みのある沈黙が訪れた。僕はようやく目を開けて、絵留の姿を探した。居間のグランドピアノの前に立って、放心したように宙を見つめている。
 いっせいに拍手が起こり、我に返った絵留は微笑んで、お辞儀をした。
 隣にいた女の子たちも、手を叩きながら興奮している。
「久しぶりに聞いたね」「どうしてライブでこれが出ないんだろ」
 女の子の一人が、まだ混乱している僕に向かってささやいた。
「世界にいけると思わない?」


 公園の暗い地面を背景に「スクリーン」の文字や映像が流れるように光っている。世界中から検索した、絵留に特徴が似ている人物のプロフィールが並んでいたが、肝心の絵留本人は見つからなかった。
 ほっと吐息をついて、首のこりをほぐす。
 薄暗い小径を大学の方角から若い男女が連れ立って歩いてきた。
「ホログラフィじゃねえの、それ」
「それくらい見分けがつくよ、ばか」
 女の声は尖っていた。
 いや、本当の話、と、男はなおも真面目ぶっている。
「西日本ではもう開発されてるんだってよ」
 二人はベンチの前を通り過ぎた。
 上空にかすかな気配を感じて見上げると、北西の空に、台形のタイルのような光が三つほど静止していた。
(十五年前なら……)
 UFOと呼ばれた飛行物体である。
 現在はほとんどの軍事国家がこのタイプの戦闘機を使っているのでめずらしくも何ともない。台形の光は互いに合図するように一度ずつ点滅してから、夜空を横切って飛び、ふっと消えた。
 高度と移動距離から速度を割り出し、中国軍の旧型機だろうと見当をつける。
(さて、これからどうしようか)
 絵留の声を検索条件に追加したかったが、不可能だった。アルコールの入った状態で聴いた記憶だけが頼りだ。あの複雑な声をデータに移し替えることはとてもできそうにない。
 その他にこれといった特徴も思いつかなかった。
 結局、彼女とはそれほど親しくならなかったのだ。
 大学一年生の終わりに彼女は突然大学を中退し、バンドを解散して、本格的に歌の勉強をするためにアメリカに渡ってしまった。彼女が大学に現れなくなってずいぶん経ってから、府中の家で知り合った、社会学の同じ授業を取っていた女の子が教えてくれた。「メンバーの間で衝突があったらしいんだけど、……」。絵留の実家は都内にあり、父親は有名な大学病院の医者で、父方の祖母がフランス人ということも、そのとき初めて知った(絵留の外見は日本人そのものだった)。
 小太りのカメラマンに連絡を取れば、もう少し詳しい事情が分かったかもしれないが、彼の名刺は、度重なる疎開でなくしてしまっていた。
 視界から「スクリーン」を消そうとしたとき、最後の行に短い文章が現れる。
『このヴァージョンの世界にも、彼女はいない』
 人工知能だった。
『何だって?』
 眉をひそめて話しかけたが、なぜかじっと黙りこくっている。
 人工知能は、ある程度まで主体的に判断して、自律的に行動する機能を持ち合わせている。しかし、使用者の意志に反したり、使用者が理解できないような行動を取ることは、基本的にないはずだった。
 インプラントだけではなく、人工知能にも何らかの不調が発生しているのかもしれない。
 思わずため息がもれた。
 対話によって成長し個性を獲得する人工知能は、簡単には取り替えられない。よく使い込まれ、使用者の分身のように馴染んでいる人工知能は、文字どおり唯一無二の大事なソフトウェアだった。特別な名前をつけて可愛がり、親友のように扱っている人間も多いくらいだ。
『とりあえず近所で落ち着けるところを探してくれないか』
『了解』
 今度は、すぐに返事があった。公園の北側に気に入りそうなバーがある、とよどみのない声ですすめてくる。地図を確認すると、税務署があった場所だった。
 立ち上がって歩いていくと、人工知能に教えられたとおり、真新しい建物があった。少し奥まったところに黒い扉が見える。横には銀色のプレートがあり、スポットライトが当てられている。店名は読み取れないほど小さな文字で、「久世樹」とあった。
 つや消しの黒い扉を押すと重い抵抗があり、内側に開いた。


 天井まであるガラスの棚に、酒瓶が並んでいる。磨き込まれた木のバーカウンター。奥に細長い店舗だが、先は暗闇でよく分からない。
「こんばんは」
 人の気配がない。まだやっていないのかもしれない、とちらりと思った。
 バーカウンターの上に、アール・ヌーヴォー風の手の込んだ細工のランプが置かれていた。ずんぐりしたキノコ型で、笠の部分に蔦模様が刻み込まれ、飴色のカウンターの上にきらめく影を投げかけている。
 しばらく、暖かい橙色の光をじっと見つめていた。
 小さな音がして、ぎくっと目をやると、カウンターの内側に人がいた。
 派手な服装の、年かさの女性である。
 折り畳み椅子のようなものに腰かけていたらしく、軋む音をさせて立ち上がる。
 小柄な体に、目の覚めるようなレモンイエローのスーツを着こんでいる。スーツは彼女の身体にぴったり合っていた。
 彼女は手にしていた電子ペーパーをカウンターの上に置き、じっとこちらを眺めた。
 ややあって、物憂げに口を開く。
「ずいぶん早いのね」
「すみません。扉が開いていたので、やっているのかと」
 神妙に答えると、女性はまたしばらくの間、こちらの顔を見つめていた。
 ややきついが整った顔に、完璧な化粧が施されている。四十歳くらいに見えたが、貫禄のある物腰から、本当の年齢はもっと上だろうという気がした。
 彼女は、ほっと息をついて言った。
「いいのよ。お酒を出せないわけじゃないから」
 彼女の言葉と同時に照明がついた。天井から吊り下げられた放射状の光が、バーカウンターの上に一定の間隔を置いて並ぶ。
「どうぞ、お好きな席に」
 彼女はカウンターの前のスツールを手で示した。
 ためらいながら近づくと、カウンターの上に置かれた電子ペーパーに目がいった。新聞記事に埋め込まれた動画の中で、二人の首脳が芝生の上でにこやかに握手をしている。背後には西日本の首都にあるホワイトハウスを模した建物。「核戦争を回避した抑制……知恵をたたえ合い……」、見出しの文字が断片的に飛び込んでくる。
 黙って顔を上げると、
「何がいいの?」
 女性が優しげな声で言った。
「……」
 何かが引っかかる。
 心臓の鼓動が重くるしく打っている。
 人工知能はなぜ、絵留はこの世界「にも」いない、と表現したのだろうか。
 頭の中で火花が散った。
 すばやく周囲に目を走らせて、キノコ型のアンティーク・ランプに目を留めるのと、腕を伸ばしてそれを力一杯カウンターから叩き落とすのが、ほぼ同時だった。
(ホログラフィ!)
 ガラスが砕ける音が響き、橙色の灯がふっと消える。
 次の瞬間、バーの場景が数えきれないほどの幾何学模様に分裂して、一気にすべり落ちた。
「四十二分十三秒」
 冷ややかな女性の声が響いた。

「お見事」と、暗闇の中で、同じ女性の声がささやく。「最短記録よ」
 目を開けると、バーの中にいたときと同じ物体が二つあった。
 先刻入ってきた扉と、レモンイエローのスーツを着こんだ女性。
 今は彼女の名前がTで、直属の上司であることも思い出している。
「説明してもらえるんでしょうね」
 憮然とした声になった。
 Tは口元だけゆがめて、もちろん、と微笑む。
「あなたが事前にサインしたように、基本的には、新しいホログラフィの実験よ。ホログラフィといっても、カラオケ屋で使われているようなものじゃない……」
 あんな粗悪品、とTは愉快そうに毒づいた。
「私たちのホログラフィは、本物と見分けがつかない現実、目に見えるだけでなく音もにおいも手触りもある、その中にいる人間と関わることもできる、ほとんど完璧に近い別の『世界』よ。それを丸ごと、人間の意識に挿入するの」
「他人のインプラントを非合法的にハッキングして?」
 事前に合意したとはいえ、インプラントを他人に明け渡した不愉快な記憶がよみがえる。
 後頭部に手をやって、首の付け根にあるコネクタに触れた。インプラントの本体は頭蓋骨の内側にあるので外からでは分からない。漠然とした不安が拭いきれなかった。本当に実験終了と同時に自分のすべてを返してもらえたのだろうか? 
 Tは肩をすくめた。
「それは補助的な要素よ。脳に入力される情報はすべて真実であり本物、というような簡単な話じゃないの。インプラントを乗っ取って五感の情報を書き換えたとしても……もちろん、多少はコントロール下に置いたけど……新しい『世界』をひとつ作り出すには、膨大な情報量が必要になるわ」
「そう……でしょうね」
 ホログラフィの中にいたときの緻密な現実感を思い出して、ふと背筋が冷えた。
「でも、その情報は宇宙のどこかに存在している。私たちは別の『世界』を作るのに、並行宇宙の情報とエネルギーを利用しているの。この宇宙が本質的にマルチバースであることは理解しているでしょ? 平行宇宙がどこに存在するのか、という議論はあるにせよ」
 インプラントを埋め込んだ後、教練所で受けた、量子コンピュータの授業を思い出した。
「私たちがホログラフィにして挿入した現実は……そうね、あなたは無限に分岐している並行宇宙のひとつ、そうなっていたかもしれない、別のヴァージョンの『世界』を経験したとも言えるのよ」
 Tは小さく笑ってつけ加えた。
「どうだった? スパイになっていない自分は」
 Tの言葉を無視して考え込む。並行宇宙……あれが?
「もっとも、比較的短時間で、人為的に挿入されたホログラフィを見破ってしまう人間もいる。あなたのようにね」
「ちょっと待ってください」
 ようやく実験に対する怒りが湧いてきた。Tを見つめる目が険しくなる。
「誰があのシナリオを書いたんです」
 ホログラフィで作られた現実、別の『世界』とやらが意識に挿入されたとして、その中に、なぜ絵留が登場したのだろう。
 大学時代のことを仕事仲間に話をしたことはないし、大体、彼女のことは自分でも長い間忘れていた。
 Tはひらひらと手を振って、私に怒らないでよ、と言った。
「待ち合わせの相手はあなたが考え出したのよ。待ち合わせ場所や、その他の細々した記憶も、辻褄を合わせたのはあなた」
 眉をひそめていると、Tはさらに説明した。
「ホログラフィの背景となる世界には、並行宇宙の情報を利用するとして、それだけじゃ面白くないでしょ。私たちの手で、被験者に体験させたいと思う出来事を設定できなければ……。でも、今のところ、出来事を細部までコントロールしようとすると途中で破綻してしまうことが多いの。だから、いくつかの重要なポイントを設定して、あとは被験者とホログラフィとの相互作用で、経験ができあがっていくようにするわけ」
 Tは自分の視界の「スクリーン」を見ている目つきをした。
「あなたの場合は、誰かと待ち合わせがあってこの街を訪れた、という記憶は設定されている。でも、私たちが詳細なシナリオを書いたわけじゃないわ」
 それに、とTはいくぶん真面目な口調で続けた。
「私たちはあなたの精神活動のすべてをモニターしていたわけじゃない。それは、今の技術では不可能だから。何でも私たちが覗き見したわけじゃないから安心してちょうだい」
 どうだか、と口の中でつぶやいたが、Tには聞こえたらしい。
「まあ、この設定でかつて知り合いだった異性を呼び出すのはよくあることよ。どうして彼女は現れなかったのかしら? 楽しいひとときを過ごせたかもしれないのに」
 何もかも筒抜けの状態で、再会シーンを演じる自分を想像するとぞっとした。
(いや……)
(もちろん、彼女は現れない)
 話をそらすために、周囲を見回す。
「ここにあったバーは?」
「あなたがたをいつまでも別の世界に置いておくわけにはいかないでしょ。いくつか救出所があって、最後には必ずたどり着くことになっているの。それもあらかじめ設定されている出来事のひとつよ」
「一体、この実験の本当の目的は何なんです」
「そういう問いをするものじゃないわ、クツミモリヒコ」
 Tは静かに言った。答える権限がないという意味らしい。
「今度は私が質問する番ね」
「他人のインプラントからさんざんデータを取っておいて?」
「言ったでしょ、精神活動のすべてをモニターできるわけじゃないって」
 Tは眉根を寄せた。
「ホログラフィの『世界』が挿入されても、普通の人間はまったく気づかないの。時間に継ぎ目ができたりはしないのよ。でも、あなたは実験が開始された瞬間に立ち止まった。それも十秒以上。これはかなり異様なことよ」
「十秒以上?」
 驚いて聞き返した。
 あの狭い地下通路で、十秒間も立ち止まっていたとしたら、かなり迷惑な話である。
「さらに、このとき、あなたのインプラントからまったくデータが取れなくなったの。そして、奇妙な……音のようなものが計測された」
「音……」
「それで質問だけど、あなたはそのとき自分の内部で何が起こっていたか覚えているの?」
 数秒の沈黙があった。Tが目を細める。
「言いたくないなら言わなくてもいいけど、あなたもこの組織の一員なのよ」
「分かっています」
 言語化しづらい感覚を思い出しているうちに、ひらめくことがあった。
「同じ音が、他の場面でも発生しているのでは? たとえば、公園のベンチに座っていたとき」
「どうしてそう思うの?」
 頭に浮かんだアイディアは、客観的には何の根拠もなかったが、体の内部には確かな実感があった。
「ある種の音……音楽は、人為的に挿入されたホログラフィに対する耐性を持っているのではないかということです。ずいぶん昔、一度だけ不思議な歌声を耳にしたことがある」
「一度、耳にしただけ……?」
 Tが疑わしげな表情になった。しかし、それはどうでもよかった。
(そうだ。体の奥深くに、骨の内部の空洞に貯蔵されていた。特殊な歌声だった。耳には聴こえない、独特の周波数を運ぶ……)
 束の間、目を閉じる。
(ああ、今の技術でレコーディングができれば)
「音がホログラフィに何らかの影響を持っている可能性は否定できないわね。歌手の彼女のこと? フルネームは何だったかしら。調査してみないとね」
「いや、無駄でしょう」
 沈んだ声になった。
「彼女は十年以上前に、アメリカの大地震で亡くなったと聞きますから」
 人づてに聞いたが、確かな情報だった。彼女はこの世界にもすでに存在していない。人工知能はそれを知っていた。
 また、彼女が亡くなっていなければ、Tにこの話をするつもりもなかった。この組織に巻き込むことになるのはしのびない。
「最後にあなたの人工知能についても聞きたいわ」
 Tは淡々と尋ねた。
「彼は実験の間、私たちのコントロール下にあったはずなのに、どうして余計な口出しができたのかしら?」
「彼のことはよく分かりません」
「あなたの人工知能なのに?」
「人工知能のほうが、自分より自分のことをよく知っている気がすることはありませんか?」
 Tは一瞬黙り、顔をしかめた。「怖い話ね」
「質問が済んだのであれば、失礼します」
 踵を返して背後の黒い扉に向かう。
 ねえ、とTが声をかけた。頭だけで振り向くと、腕を組み、いくぶん意地悪そうに微笑んでいる。
「どこまでがホログラフィの現実だったか、本当に分かる? 扉を開けた先に今度はどんなヴァージョンの世界があるか、不安に思っているんじゃない?」
 一呼吸置いて、見かけよりも重たい扉に手をかける。
「失礼します」

〈了〉

【著者紹介】

楢野葉ならのよう

 神奈川県出身。明るく楽しい未来を夢見る昔のプログラマー。インターネットの業界で働いていました。
 小説の技量はまだまだですが、精進していきたいと思っています。
 趣味は旅行と、水晶を集めること。

★ブログ(旅行専用)「世界の街角を小走りに
★ブログ(その他)「水晶語り。

霧の盟友

笹原祥太郎

霧の盟友

   1
 突き抜ける空の真っ青な勢いで雲が天に向かって吹き飛んでいた。
 鳥が海風に乗って湾の上空をくるくる回っているのが洞門から見える。街の東、高台にある豪勢な邸宅が午後の日差しを受けて社交会の金細工みたいに輝いていた。街で最も権力のある彼らが住む邸宅は港町を華やかに彩っている。
 権力こそないが、同じく金持ちの人間たちは街の西側に洒落た居を構え、アルヴォ達が根城とする突き上がった岩地を挟んでちょうど背中合わせの状態になっている。彼らのように比較的近年になってから台頭した金持ちは街じゅうの人間から財産を隠すように家の周りに植林を施し、安値で雇ったごろつき同然の警備兵を一、二人、巡回させている。
 西側一帯は街の市場から見上げると小奇麗で洒落た園庭の一群が続いているように見える。しかし、市場や港での日々の暮らしにおいてちょっとした顔ぶれになっている彼らが実際にその小奇麗な園庭の向こうでどれだけ庶民の嫉妬と羨望を煽るような暮らしをしているのか、良くも悪くも賑やかな港や市場からは窺い知ることはできない。むしろ、そんな街並みから少しばかり離れた洞門、賊の根城から港を眺める方がかえってその実感は涌きやすいだろう。
「新人が来たのよ。四人ほどね」
 イーネスが街を眺めていたアルヴォに言った。
 全員まだ十代の男らしい。
 面倒だ。男が賊に入るにも群れなければならないとは一体どういう訳なのか。近頃、襲った女の奪い合いでもしているうち一斉にしょっ引かれて行き場もなく、といったどうしようもない理由でここにやってくる群れた男たちが後を絶たない。
 確かに街から人があふれているからというのはある。数年にわたる温暖期で豊作が続いてから子どもが増え続けているのだ。街だけじゃない。スカンディナヴィアの全土におよぶ規模で国に人があふれかえっている。
 アルヴォは少しだけ、その事を危惧している。乞食でもなんでも増えればいい。そんな事は他人事だ。しかし、盗賊団の質が低下することには我慢がならない。その四人の餓鬼たちだってどの程度のものかわかったものじゃない。先が思いやられる。三カ月もつだろうか、まずもたないだろう。
「最近のターヴェッティは甘すぎるんだ。誰をここに引き入れるか? その四人に一塊りずつ大ぶりの石を与え、彼らに採用枠が一人だという事実をつきつければいいだろう。新人が来るたび鉄器を無駄にするのも馬鹿げているが、何よりも慈善の教団か孤児院のようなつもりでここに来る間抜けをわざわざ受け入れるなんていう今の状況には耐えきれない」
 アルヴォは吐き捨てるように言った。
「いいじゃないの。奪い取ったほとんどの積荷はアルマスやターヴェッティの財産や女に変わるのよ。私たちの取り分がどれだけある? ……その程度の事だけをしていればいいの。私たちがする殆どの仕事なんて決まりきったものじゃない。奪って、命令があれば殺して船を沈める。もし何かの拍子で彼らがへそを曲げたってとばっちりはもっと下のぐずに行く。私たちが気をもむ事なんかないわ」
 イーネスはそう言ってから口調を和らげて繰り返した。
「それは私たちには関係のない事なのよ。アルヴォ」
 アルヴォはまるで自分が拗ねた子どものような扱いを受けている気がしてうんざりした。
「港を狙うのが俺たちだけだったらそれでもいい。だが――」
 アルヴォはまだ自分の言いたいことのほんの一割すら話せていない所で話を止めざるを得なくなった。仲間の一人が彼らを呼んだのだ。
「アルヴォ、イーネス、倉庫で新入りの餓鬼どもが妙な騒ぎを起こしている」
 イーネスがアルヴォに目配せをしてドックの方へ消えてゆく。
「妙な事」……愉快なものかどうか知れたものか。どうせそれほど興味をひくものではないに違いない。アルヴォは思う。根城全体に退屈した空気が充満している。こんなことで気を紛らわせないといけないとは。我々はもう二十日以上も船を襲っていない。鉄を振るい血を流さない賊のいったいどこに団結なんていうものがあるのか。個々の流せる血や、弱者への恫喝などたかが知れている。
 アルヴォは賊として真面目な男だった。生真面目過ぎるといってもいい。彼は賊としての自身の人生にひたすら真剣であり続けている。そうでいないと気が済まない性質なのだ。
 彼はどうしようもなく苛立った。一呼吸おいて、また大いに苛立った。気の済むまで、というよりも疲れ果てるまでひととおり苛立ってからため息をついて空を見上げた。
 突き抜ける空の真っ青な勢いで雲が天に向かって吹き飛んでいる。
 ため息ともつかぬ乾いた声を漏らし、アルヴォはぼんやり口を開けた。本当のところ、あの鳥の名前は何というのだろう。イーネスに聞けばわかるかもしれない。しかし自分は賊だ。つまらないことを考えるべきでないのではないか。些末な事に思い煩っているわけにはいかないのではないだろうか。鳥を見れば食えるかどうか、食えば旨いかどうかを考えることが賊の真摯な姿ではなかろうか。彼はそう思い直した。

     2
 ドックを通り過ぎ、寝床の入口、食事部屋を横切った所でそれらの場所がいつもに比べ妙に静かな事にアルヴォは気付いた。そんなに多くの人間が倉庫に集まっているのだろうか。たかだか尻の青い新人が四人入ったっていうだけのことで。
 不審だ。そして何より面倒だ。全く、ろくな事が起こりそうにない。
 倉庫に集まった人垣が伸ばす影。賑やかな声が姿になったように激しく揺らめいている。陽気な賑やかさではない。暴力の気配の漂う不気味な静けさを伴った、不穏なざわめきだ。
 餓鬼たちは四人。ちょっとばかり仲間がいるから気が大きくなっているのかも知れない。そういう奴が面倒事を起こし血の気の多い連中の怒りを買って新鮮なトマトの木箱に薄汚いトマトをぶちまけるのは勘弁してほしい。死骸というものは、捨ておくもので片づけて掃除するものではないのだから。
 アルヴォが重い足取りで倉庫の人垣に加わると、案の定薄暗い灯の下で二人の餓鬼が血を流して死んでいるのが見えた。逆光で見えづらいが、うつ伏せになって黒い血に沈んだ二人の頭部や背中に外傷がない。立て続けに正面から刃を受けて倒れたのだと推察された。状況を見るに、少なくとも死んでいる者の一人は他の三人の一際前に立って粋がったガキ大将だろう。もう一人、その一歩下がった場所で倒れているのはガキ大将にへつらうのがうまいナンバーツーといったところか。
 四人組のナンバースリーを生かすのは無難な選択といえる。徒党を組む男がどれほどのものか知れたものではないとはいえ、誰かを選べと言うのならば一番使える人間だろう。最も現実主義的で、適応力も呑み込みも比較的早い。
 しかし、それにしてもナンバースリーの後ろ。女みたいな餓鬼。あれは一体何だ。薄暗い岩盤に広がった血の海の中に二人の死骸が沈んでいながら、なお多くの船員がそちらよりもむしろ彼を注視している。アルヴォにはその女のような餓鬼が今にも積荷を汚しそうなどうしようもない腰抜けにしか見えなかった。洞門から吹いてくる海風に灯が揺らめいてなお、彼が尋常でない程に怯え、体を震わせているのがわかる。彼はここにいるべきではない。ああいう仕草はここにいる人間の暴力を誘うだろう。どう見たって、街で物乞いでもやっているほうがずっと向いている。
 一目で彼が使い物にならない餓鬼だとわかった。そのあまりにも、といった様子は賊の根城において確かにある種の異常な空気を作っている。
 父はあれを自らの慰みにでも使うつもりだろうか。冗談じゃない。いくら風貌が良いからといって、女と違ってすぐに薄汚くなる男の食い扶持まで稼ぐような余裕なんかここにはない。
「勿体ぶって、つまんないねぇ」
 イーネスが隣で毒づいた。
 アルヴォは小さく鼻を鳴らしてそれに答えた。
「どこぞの海傍に捨てるにしても、ここのパンが鉄臭くなっちゃごめんだよ。黴臭くて、鉄臭い、おまけにどこぞの餓鬼の小水の匂いでも染み付いたら。腹を空かせた毛むくじゃらのむさ苦しい男たちには上等なメニューだろうけど、私はごめんだね」
 彼女はそう続けた。挑発的な発言だが、不思議とイーネスのそういう悪態がカンにさわる事はない。攻撃的な冗談は退屈した仲間たちを楽しませるための気の利いたサービスだ。
 それは賊らしからぬ程に頭がよく、交渉事を一手に引き受ける彼女ならではの芸当ともいえる。例え強固な権限がなくても、誰よりも功績をあげている分、仮に多少きつい物言いをしたところで誰も逆らえないのだ。
 手下たちの教育を引き受ける勇猛で屈強なターヴェッティや、残虐であらゆる者を脅しつける賊長、アルヴォの父アルマスが下っ端を取り仕切る中で、航海術をはじめとした多彩な技能を持ったイーネスは目を引くような表立った仕事に関わる事がなくても重宝されている存在だ。この盗賊団に彼女がいないという状況は多くの人間にとって考えにくいものとなっている。
 イーネスが去ってなお、事態はスリルのなく退屈した賊たちの視線を釘づけにした。
 ターヴェッティが腰を抜かして血だまりに沈みながらもなんとか目を開いている片方の餓鬼に向かって詰問する。
「それで、賊の仕事なんざ何一つしてこなかったお前もこいつらと同じように下らない交渉を持ちかけるのか? これ以上」
 彼は倒れた餓鬼のうち手近な一人の頭を脚で乱暴に踏みつけ、岩盤にこすり付けた。餓鬼の長髪が刷毛となって伸びた血に絡まり暴力を誘う赤を床に描いた。陰惨な赤は退屈した賊たちを満足させはしなかったが、彼らの鬱積を僅かでも拭うだけの魅力的な色彩で不気味に光っている。
 カチカチという軽い音がこちらにまで響いてきた。餓鬼の歯を鳴らす音が、うす暗い洞門の中で精一杯の命を主張している。
「お前が最期にする事は死ぬ前に歯をカタカタ鳴らす事か? お前はまだ自分の名前さえ喋れない有様かも知れない。しかし先ほどの俺の問いに対し首を横に振ることが出来る。違うか?」
 ターヴェッティはそう言った後、餓鬼の意思表示を後押しするように付け加えた。
「お前の隣にいる腰抜けの分も合わせてな」
 餓鬼は堰を切ったように首をぶんぶんと振った。
「ここの一員になりたいのならさっさとその屑どもの肉を海に放り投げて床を洗うんだ。のろのろやっているようだったらお前はそこで死体になってる屑と同類って事だ。そうしたらどうなる。今度はうちの一番下っ端が、四人分の死体を片づけなければいけなくなる。この意味が分かるな」
 ターヴェッティがそう餓鬼に告げると、それっきり賊たちは興ざめして散り散りに去って行った。ある者は尻拭いばかりをさせられる役に立ちそうにない手下が増えたことにうんざりし、ある者は初めて自分の下っ端が出来た事に意気込んでいる。
 アルヴォは再びため息をついて洞門から街を見ようとドックの方へ向かった。彼はこの鬱屈した根城にあって、常に瞳に街を、目には見えなくとも人の群れを捉えていないと気がおかしくなりそうだった。
 鳥についても、星についても、陽の昇る方角の小さなずれについても同じだ。退屈を装いながらも、それを日々眺める事でアルヴォはなんとか精神のまともさを保てている気がした。それに彼はそういった観測によって得られる知恵をイーネスから学ぶことだけはしたくなかった。そうする事には不思議なためらいがあった。内心、自分ではそのような複雑な知恵を彼女のようにうまく習得して使いこなす事などできないと思っているからかも知れないし、またはそうする事で自分の凶暴性が僅かでも薄れる事に焦りを感じているからかも知れない。凶暴になりきれないという事は他にとりえのない彼にとっては致命的な問題だ。
 結局、盗賊団に真面目なコスティと臆病者のイェレ、二人の子どもが入った事はそれ以上話題に上がらず、三日後にはまた賊たちをうんざりさせる退屈な日々が続いた。
 それから退屈が賊たちを狂わせ、彼らが争いを始めるのに長い月日はかからなかった。かつてない規模の仲間割れだったが、それが宿命づけられたものだという事を争いに身を置いた殆どの賊達が感じていた。
 ターヴェッティは一際腕っぷしの強く、血の気の多い野心的な部下たちを囲い込んで、未来の雇用者へ向けた軽い見世物と言わんばかりに、アルマスとその手下に反旗を翻した。

     3
 その夜、むしろ自分こそ今にも蜂起したかったという心持のアルヴォは早くも阿鼻叫喚となった広間での争いに飛び起きた。アルマスの息子、ただその一点においてアルヴォもまたターヴェッティの見せしめの対象となっていた事を理解する前に、彼はかつての同胞の刃をいくつもかわし反撃の余地もないほどに叩きのめさなければならなかった。
 ドックが炎に包まれる頃になってようやくアルマスやアルヴォたちは背後の炎と、前方の刃を向けた男達から、残った自分たちの仲間を窺い知ることが出来た。
 アルヴォは激昂していた。自分がアルマスと同じように扱われたから、あるいは顔見知りの屈強な精鋭たちに自分が加わることが出来なかったからというわけではない。彼はその夜仲間割れが起きるまで自分が何一つ主体的な行動を起こせなかった事、ただその一点についてのみ激昂していた。
 争いは両軍勢が互いににらみ合いを続けるという事なく、アルヴォが躊躇なしに刃を向ける男たちを叩きのめした事で急速に泥沼化していった。それがかつての仲間であっても、彼にはそうする事にもはや僅かなためらいもなかった。相手の肩を叩き割る感触の軽さにこんな事さえ実行に移せなかったのかとさらなる苛立ちばかりが募り、彼はなおの事激昂した。
 アルマスはそのようなアルヴォの思いなど知らず、自分たちには力強い味方がいるとばかりに手下たちを扇動し、アルヴォを屈強な男達の壁にしながら酒の入った瓶を投げつけたり、つみあがった木箱を崩したりし巧みに回転、背中から滑り込む形で洞窟の入り口へ向かい、すし詰め状態になりながら刃を手下の身体でかわし林へ逃げ去った。
 アルマス達は身を隠せる夜の林に逃げ込んだものの、彼らの頭数はあまりに多かったため、事態は事実上地の利の優れた場所への逃亡というよりはあまりにわかりやすい安全地帯への殺到といった意味合いのほうが大きかった。
 入り組んだ地形に殺到するアルマスの手下たちは背中から刃を受けて一人また一人と倒れていく。
 その中に際立って若い子どもが一人。コスティが熊ほどの体格もありそうな男に跳ね飛ばされた。決して華奢ではないその身体がまるで子供の握りしめる小さなくたびれた人形のように力なく宙に舞い、不思議なほど軽い音を立てて木に打ち付けられた。幹の黒さに吸い込まれるように彼の体は木にへばり付き、その濡れた足元に沈み込むと木陰から狂った老婆の叫びのような音で矢が数本。矢はコスティの脇腹に刺さって傷口はえぐれ、彼の全身は真っ黒い幹と一体になった。激痛のショックでもがき苦しむ間もなく気を失った彼に救いの手を差し伸べる余裕など誰にもない。
 ターヴェッティが森に潜伏させた射手たちは限られた月の光を頼りにして、着実に獲物をしとめていった。
 何人もの仲間たちが北国の冷えた空気を引き裂くその凶刃に骨を砕かれ、肉ごと、腕の関節ごと持ってゆかれて絶命した。その中に何年も仕事や寝食を共にした顔ぶれがいた事に数々の傷を受けてなお暴れ狂うアルヴォは気付く余裕もない。
 流れる大量の血が意識の平常の閾値を越えさせ、ふとアルヴォの視界は大きく揺らいだ。彼の世界は柔らかくてとてつもなく重い毛皮で殴られたように大きくぐらついた。
 不要な血はあまりに多く、足りない血もまたあまりに多い。しかし、いつまでも衝動に任せて暴れまわってもいられない。狂うほどの怒りを、少しずつ痛みが押しつぶしている。痛みがアルヴォの意識を支配する頃、自分は目の前の死をただ眺める事しかできなくなっているだろう。彼はようやく、ごちゃまぜになった激情が痛みを殺しているうちにこの場を去ることを考えた。それも、自分が他の人間にはない強靭さを有効に使えるそのうちに、と。
 残されたアルマスと手下たちは仲間意識も意地も反撃をうかがう無謀さも捨てて散り散りに逃げるよりほかになかった。
 凄惨な争いの繰り広げられた森がその大地に流れた血を飲み込んで自然の神々しい光を取り戻す頃、ようやく半分以下にまで減ったアルマスとその部下たち、そしてアルヴォははるか北西まで逃げ再び集まることが出来た。
 敵の精鋭たちを集めた苛烈な奇襲から彼らを助けたのは森に潜伏したターヴェッティの射手たちを正確に見極め、潰し、後退を助けたイーネスの精鋭だった。
 彼らは根城から遥か遠く離れた北西の雪山のふもと、放棄された廃坑に集まり身を隠した。

     4
 腕や脚に受けたいくつもの傷が快復に向かうと、アルマス達は廃坑を根城として活動を再開した。それから数日と経たないうちに、イェレはアルマスの斡旋で街の西の屋敷へ売られ、嬉々として金の装飾品をいくつも付けた男の横に寄り添っていった。
 彼は自分が数年先にどのような有様になっているのかを知らずにあの男を慰めるだろう。アルヴォは思う。彼の命はあと何年もつだろうか。病気になって捨て置かれるのが先か、老いて労働力として安く売り飛ばされるのが先か。後者だとしてもあの貧弱な身体は労働に耐えきれず、すぐに使い物にならなくなるだろう。確かに、コスティのように勇敢でなかったイェレが彼なりに力を発揮できる事を見つけられたのは、友を失った事とは別に喜ばしい部分もあったのかも知れない。しかしあの餓鬼はそういった現実的な未来を予見することが出来ない状態にある。これまでの様子を見たって、彼には自ら活路を拓くための知恵や覚悟が備わっていないように見える。乞食でさえ明日の放浪のためにリンゴを乞い、一カ月後の盗みのためにパンを求め新たな街を目指し、一年後の盗賊団のために金と仲間を求めるというのに。結局四人はどいつも使い物になんかなりはしなかったのだ。
 イェレはそうして、アルマスが媚びを売る大して金もない人間に売られていった。もしもそうすることが新たに生まれ変わった盗賊団のためになると思っているのだとしたらアルマスもイェレもとんだ間抜けだ。アルヴォとイーネスは一連の取引をろくなものでなかったとして、その晩の会話を締めくくった。小金持ちに玩具を売る事は政略結婚とはわけが違う。スケールが小さすぎるのだ。それはしょせんただの人身売買が行われたというだけの事なのだから。

     5
 アルマスが媚びた男は案の定の小物だった。街の有力者を顧客にする盗賊団や、その一つとなるべく大胆な独立活動を行ったターヴェッティの盗賊団とアルマスたちの間にはすぐに比べ物にならないほどの差が付き、月日が流れれば流れるほどその差は拡がっていった。
 アルマスはいつまでも謀反を起こされた怒りに執着していた。妄執はあんなにも腐りきっていたかつての盗賊団の最期の日々を美化しさえした。彼はいつしか、最悪の過去に取りつかれた哀れな一人の老父になり果てていた。今やアルマスの部屋のベッドやテーブルを彩る女は誰もいない。食事はどんどん質素なものになり、散らかった安酒の瓶だけが増えていっている。
 半年の月日が過ぎた時、アルマスは町の西に邸宅を持った小金持ちにイェレを売ったことがどんなに安い取引だったのかをようやく知った。それからも回ってくる仕事はスラムにたむろするちっぽけな悪漢でも出来るような使いっ走りの仕事ばかりで、やがてそれさえも回ってこなくなった。男の邸宅から手下が帰ってくるたび大げさに苛立ってみせ、自身を必死に偉く見せようと臭い芝居を演じ続けた彼は次第に腹の底を見抜かれていった。
 憔悴しきったアルマスは数週間後、酷い待遇にもかかわらず、殆どの手下を見捨ててターヴェッティに媚を売り始めるようになった。もはや彼には微塵の尊厳も残されてはいなかった。

     6
 アルマスの凋落を手下たちが確信してからそう多くの日も空かないうちに、薄暗い牢獄の中で誰もが予見していた因果をイェレは味わっていた。彼は酒と女に飽きた所有者に酷使され、老いを待つ間もなく病を以て見放されていた。腐乱した動物の死骸が転がる下水道からせいぜい石壁一枚を隔てただけの地下室に、病を抱え込んだ彼が追いやられるのに長い月日はかからなかった。
 イェレは捨てられたも同然の状態で、事実、所有者は彼をそこに捨てたつもりだった。路上に捨てる、海沿い川沿いに捨てるというのは例えどのように扱ったモノでも家には置いておくことができないからそうするのだが、金で虚栄心を太らせた所有者は病によって使い物にならなくなった人間を地下に放り込んでおく事で自分の趣味が他の地位の低い者たちのそれに比して優れたものになると信じていた。結局、一連の取引には安いプライドの持ち主が安い買い物をした以上の意味など何もない。
 薄汚れた鼠が易々と鉄格子を通り抜ける様にイェレは肉体の意味を見失いそうになった。気配からして隣は空き部屋だ。とんでもない異臭がそちらの方から漂ってくる。それだけの空き部屋。その一つ先、そしてそのまた奥の部屋に人の息づかいが、呻き声が、唸り声が聞こえる。それぞれの音、どれ一つとして心地よいものなどない。それはイェレにとって最期にして最も陰惨な悪夢そのものだった。
 ギリ、ギリ。
 痛みに狂うイェレはここに来てから時折、奇妙な幻聴を聞くようになった。爬虫類よりも大きく、巨大な虫よりも濃密な巨躯そのものがささやくような音。イェレはその幻聴に酷く怯えた。音が響く度、ぼろぼろの体を大きくすくませた。彼は人の尊厳を着実に削り取ってゆくその呪詛にどんどん衰弱していった。
 放り込まれて数日……、彼は時間の感覚を失いかけていた。階段の上方からもれる僅かな明かりで地下牢がほんの少しだけ明るい。その明かりがやけに賑やかなものに感じられる。ちょうど物心がついたばかりに何度か訪れた、温暖期の人であふれた賑やかな市場のざわめきが流れ込んでくるようだ。死の近い生き物にもほんの僅かな活力が与えられるような陽光。
 ふとどこからか、昔日の優男としての生い立ちを思わせる男の声が聞こえた。
「餓鬼。生きてるかよ」
 混濁した意識はその声と、人の姿をうまく結ばない。しかし男がイェレに話しかけているのでない事は確かだった。イェレがこの牢獄に来てから新たに入ったものは誰もいない。一番手前の部屋に収監された彼の存在を知るものなど誰もいないはずだったからだ。病で腐りかけた腹の鈍い痛みもあって、彼はただ力なく横たわり薄暗い天井に人の命の存在を恐ろしく他人事のように感じていた。空虚な時間だけがただひたすらに間延びしている。
「いいぜ。それでいい。あと少しだけそうしていろ」
 再び男の声がして、それっきり地下室は無情な静けさを取り戻した。
 ギリ、ギリ。
 世界が静寂を取り戻した頃、再びイェレの聴覚を幻聴が支配し、その度に彼は体をすくませながら永く暗い時を過ごした。
 日付の感覚はないが、夜になると必ず、扉の向こうの階段を伝う雨水でなく、すぐ傍で水の流れる音がかすかに聞こえる。
「腹を出すんだ。いいか」
 いつもその奇妙な水の音は、必ずこの不可解な言葉の後に少しだけ続く。終わると地下室は再び静かになった。
「なぁ、餓鬼。俺は幸せだったんだ。まったく、他の仲間たちに比べてあまりに贅沢すぎるくらいさ。けれど、だからこそ俺はあそこでお前らと過ごしていながらずっと一人で孤独な思いを隠し続けていた。ずっとそのことを悔やんでいた。一緒に居て、仲間のふりをして、けれど最後まであいつらの本当の仲間にはなれなかった。卑怯な奴さ。もしもう一度生きられるなら、今度こそあいつらの本当の仲間になりたい。なに、ただの独り言さ」
 言葉はそこで途切れ、また長い静寂が続いた。イェレは冴え切らない意識でしばらくその意味を推し量っていた。考え疲れ、思考が著しく淀み始めた彼を責めるように、ふと遠くでか細い鉄器が転げ落ちるような音。続いて、地下に大きく響く鉄のひん曲がる音。イェレははじめその音の正体が掴めず、その大きさにいよいよ悪魔による処刑が下されるのだと思った。
「さぁ。これが……最期の仕事だ」
 声とともに、両腕の肘から下が不可解なほど真っ黒に湿った男が強烈な異臭を放ちながら素早く目の前を通り過ぎて消えた。イェレはあまりの唐突な出来事に驚き、すぐには声が出せなかった。ただでさえ燃えるように痛む下腹部は彼の声の殆どを奪ってしまっていたのだ。

     7
 階上の争う音は予想以上に小さく、短かった。男は転げ落ちるように戻ってきた。脚に傷を負い、右肩も使い物にならなくなっている様子の男は大きく息を荒立てながら左腕だけで前進し、イェレの牢獄の前を通りかかる。今度はその速度が緩慢だったため、イェレは長く続いた静寂の後訪れた一大事にも何とか正気を保ち、男に声をかけることが出来た。
「ねぇ――」
 しかし、ただでさえ腐り始めた自分の下腹部を直視する事も出来ないイェレは男の惨状を目の当たりにして、声を出しながらも同時にそれを飲み込むような弱々しい発声しかできなかった。
 男の顔はただ地下の一点だけを見つめていた。彼はうつぶせのままゆっくりと左腕だけでイェレの独房を通り過ぎてゆく。脚や左腕だけではない。目も、もうその意味を殆ど失っているようだ。男がゆっくりと進むたびほんの少しだけ聞こえる軽い金属を引きずる音。独房の鍵を歯でくわえながら男は少しずつ奥へ進んでいった。
 イェレは腰を抜かしていた。尋常ではない。男の存在は今や、歯で鍵をくわえ、左腕で僅か数パッススの薄汚れた石畳を這う事に集約されている。
 少し遠くで驚きの声が上がる。
「サンテリ……」
 イェレは、そう言った声の主が自分のよく知った人間だった事に驚愕した。
「最期に俺の名前を呼んでくれてありがとうよ。餓鬼」
 軽い金属が跳ねるカチカチという音が思い通りにならない眼前の事実を語るように続く。イェレは時の流れが著しく遅くなったように感じた。鼓動の音さえ正確に数えられ、毛穴が開く音がはっきりと聞こえた。長く険しい争いにようやく終わりを告げるように、錠前がその束縛を解く決意めいた音が地下牢に響いた。
「この通りだ。脚も駄目になっちまったし、右腕も戻らない。割れたグラスが目に入った。すぐに使い物にならなくなる。最後の頼みだ。階段を上った先にある割れた酒の瓶で……頼む。いいんだこれで。アルヴォによろしくな」
 鉄格子が開く音が聞こえて、身を隠しながら素早く横切る男の姿。イェレは目を見張った。その男は間違いなくコスティだった。
「コスティ!」
 イェレはとっさに叫んだ。イェレはコスティの姿を見てとんでもなく驚いたが、その声の主を捕えたコスティはそれ以上の驚愕の表情を浮かべている。
「おまえ……」
 コスティはそうとだけ言って目線をすぐに戻し、素早く階段を上っていった。
「コスティ! 待って! 置いて行かないで!」
 コスティは黙って階上から、割れた酒の瓶を持って戻ってきた。
「少し黙っていろ」
 コスティはあくまで目線を前方から逸らさずにイェレの独房を横切った。
「サンテリ。恩人よ。どうか安らかに……」
 土を何度も掘り返すような音が、命の消失を疑わせるほど軽く、無情に響いた。鉄格子が曲がる音よりも、鍵が石畳の上をひきずられる音よりも、それはずっと小さい。

     8
 コスティはイェレを背負い、暗い夜の森へ逃げ込んだ。白い靄のたち込める夜は彼らの逃亡には絶好の機会で、コスティは眼前に広がる森に人を強く惹き付ける悪魔を見た。誘うようだ。そう思いながら、死への陰惨な苦しみを巧みに覆い隠すようなうっそうとした森へイェレを担ぎ込んでゆく。
 逃げる? 森に紛れた後、その後どこへ?
 コスティとその肩に背負われたイェレは息をひそめながら、しばらくの間自分たちが持つ盗賊団の情報を交換した。
 イェレを売ったアルマスの所に帰っていくことは危険だ。イェレはそれに気付かず、あろうことかその選択に希望を託している。浅薄だ。売った商品が逃げ帰ってきたところで、むこうとしては処分するより他にあるまい。
 一方、コスティは抗争に巻き込まれ負傷した所をターヴェッティに拘束され、彼の顧客に労働力として売り払われたのだ。ターヴェッティにとってもコスティはあまり都合の良い存在とは言えない。
 どちらにつくにもリスクがつきまとう条件の中でコスティはともすれば危険な事を考えていた。彼は自身がターヴェッティにはあまり都合の良くない人間と知りながらもその反面、今の自分はかつて無能扱いされた自分とは違うと感じていた。彼には今や彼だけの仕事ができる。死んでしまった二人の仲間とは違う。ターヴェッティが仲間達を殺したとき、コスティにないと言った能力を今の彼は持っている。
 コスティはスパイになれると考えていた。分裂したそれぞれの盗賊団に彼の顔は利く。イェレを匿ってさえいれば最悪の状況に陥る事はない。これは十分に、コスティとイェレが居場所を手に入れるための交渉材料になると思われた。
 ターヴェッティとの接触に細心の注意を払うこと。気を付けるべき点はそこだ。イェレの存在を巧妙に隠し、彼の持つ情報をひっくるめてターヴェッティに顧客情報として売る。もしターヴェッティがコスティの存在を顧客に隠し、黙認する事に応じれば十分に商品価値はある。ターヴェッティにすれば大した金と労力もかけずに、重要な顧客の環境やニーズを知ることが出来るからだ。良い取引になるのではないかとコスティは考えていた。
 ただ、彼にはもう一つ気がかりな事があった。アルヴォの友人、牢獄での男、サンテリの事だ。あの恩にはきっちりと報いねばならない。アルヴォは、あの勇猛な男は今でもアルマスの下にいるだろうか。イェレはそうだと主張しているが、不思議とコスティにはその光景がいまひとつ想像できない。彼はスパイの事もそこそこに、サンテリが信頼を寄せていたアルヴォの事を考えていた。
 黒い森の中で一人の激しい息遣いと、一人の弱々しい息遣いだけが命を持っているように感じる。しかし不思議と、自分たちの命の灯は決して弱いものではない。コスティはそう感じていた。それはひょっとしたら、生か死かを賭けた極限状態が自分たちに無根拠な力の幻想を見せているだけかも知れない。しかし、その力が彼らの痛みと、恐怖と、疲弊を一時的にでも消し去っている。それは彼らが今ひたすらに望む事だった。
 イェレの勇敢で聡明な父親を見るような瞳にコスティの影が大きく映っている。病に堕してなおこの奇妙な生命の新鮮さにあふれている瞳をコスティは苛立たしさの混じった複雑な思いで感じていた。確かにあのように用いられただけの魅力があるが、それは虚無的な価値だ。精神の価値を無視した意味のない美しさにイェレ自身が翻弄されているに過ぎない。一時はそこに華やかな価値を見る者も、遠からぬうちに興味を失ってゆく。それはほんの一瞬だけ、強き精神の美しさを喪失した者を引き寄せる虚構でしかない。
 彼の瞳の底に宿っているのは並大抵の無智ではない。破滅の数歩先にまで至らねばその深く暗い谷が見えないといった類のものだ。とにかく目立った力を見つければこいつは後先考えずに飛びついてゆくかも知れない。それがコスティの最も危惧するところだった。
 誰にどう取り入って生きてゆくか、日々の糧をどんな仕事に求めるか。何をするにも今さらためらうような事はない。既に賊になった身だ。そんな事はこれからいくらでも考えれば良い。
 しかし、友をなんとか生かし、どう力を合わせて生きてゆくかという命題はコスティが限られた時間の中で答えを見つけるにはあまりに難しいように思えた。
 彼は黒い森の中でイェレをかつぎながら懊悩した。深い霧のように終わりがなく、先の見えない苦しみが彼の心にのしかかっている。血痕をできる限り残さないようにして逃げる事、頭のぐちゃぐちゃになった彼にはそれだけが今現実的に処理できる精一杯の事だ。
 一塊になった小さい命を、霧さえも黒く染める森が飲み込んでゆく。彼はその闇の中で、ただ自身の友を思う心が届く事を願っていた。
 夜霧の向こう、彼らと同じ暗闇を天に仰いで静かに動く人の影。
 アルヴォとイーネスはその夜霧の中で、既に鋭い刃をターヴェッティの盗賊団に突き付けんとしていた。乾いた北方の地が、稀有な長雨の続く森に少なからぬ水を溜めこみながら突き抜ける空の眩しさを忘れて久しい。それは岩地に居を構えた賊たちの警戒を手薄にし、アルヴォ達に襲撃の好機を与えていた。
 彼ら勇猛で聡明な戦士にとって北方の黒い夜霧は既に分かつことの出来ない友だ。

     9
 コスティはターヴェッティとの取引の策を少しずつ固めながら黒い森の奥、小高い丘の崖下に身をひそめていた。イェレの容態を鑑みると、あまり遠くまで逃げる事は出来ない。拓けた場所が危険なのは言うまでもないが、かといってあまり森の奥深くへ入り過ぎて水場を逃せば彼の命は数日ともたないように思われた。何日もの間コスティはイェレに水を飲ませ、気休め程度ではあったが薬草で熱をさまし患部を清潔にした。死にゆく仲間の小水で傷を洗ったコスティにとって、澄んだ清らかな川の水で傷を癒せることはとんでもなく幸せな事のように思えた。しかし、こんなに風は涼しく水は清らかなのにイェレの苦しみは全く治まりそうにない。悪化した部分を切り取った傷口をどれだけ洗っても全くきりがなかった。イェレは全身にびっしりと汗をかいていた。こうして丹念に治療を重ねることで少しでも容体が良い方に転べばいいのだが。
 森は不思議な不気味さを感じるほどに静かだった。時折澄んだ水の輝きと針葉樹の濃い緑にコスティは現実を生きる感覚を失いそうになった。イェレは彼が牢獄の中で味わったあの悪夢のような苦しみと離別を知る術もないのだろうか。違う。あの牢獄で大病を患ったイェレもまた、自分とよく似た風景を見て来ている。一日のうちの僅かな時間、その事について考えている時だけコスティは無情に進行し続けるイェレの病を目の当たりにする苦悩から逃れることが出来た。ささやかな平穏だったが、それは憔悴した彼を慰めるのに十分な力強さを持っていた。
 彼は再び精神の安寧を取り戻すと、冷たい水を汲み出し、無心になってイェレの手当てにあたった。

     10
 ターヴェッティの拠点を攻めるため山林の地形をくまなく調べていたアルヴォたちが、小さな洞穴にコスティとイェレの姿を見つけるのに長い時間はかからなかった。のみならず、アルヴォ達はコスティが応じた問いかけの回答をほんのわずかに聞いただけで彼が十数日間も頭を悩ませて考え抜いた画策をあっさり見抜いてしまった。コスティがそうして今後の出方に大きな修正の必要をせまられ、必死に頭を使いながら考えを巡らせていると、霧の中から敵らしき男たちを捕えたアルヴォの手下たちが現れた。
 その男たちがターヴェッティの見張りだという事が顔ぶれですぐに知れた。
 本来、男たちはただアルヴォ達の様子を伺っていればよかった筈だった。それだけで襲撃を企てるアルヴォたちを見つけ先手を打つための十分な働きをした事になったのだ。かつてターヴェッティが売り払ったはずのコスティという思わぬ第三者の発見に驚き、浮足立ったところに男たちの失態があった。
 当初の目論見だった二重スパイの案も叶わず、アルヴォの軍勢に取り込まれたことはコスティにとって全くの想定外の出来事だった。しかし、彼は不思議とそれで心から安堵のため息をつくことが出来た。とうぶんの間、落ち着く場所をこうして見つけられたのだ。逃亡を図るにしても事態がはっきりしてからで良い。イェレの治療は彼の責任の範疇で行うことを許された。コスティにとってはちょっとした猶予が与えられた事になる。ずっと殺し続けてきた脇腹の痛みと、ようやく彼は戦うことが出来た。
 配備した見張りが帰ってこない事でターヴェッティが不審に思う事を避けられない以上、アルヴォ達の作戦はその夜に遂行されると決められた。
 今や新たな一団を統べるアルヴォは海を渡る事を考えていた。近年ますますさかんになった西欧へ向かう交易船を保護する船団を運用し、それを新たな業としようというのが彼の考えだった。暮らしの豊かな者たち、安定した者たちは既に国境を越えた時代を生きている。陸を辿りアジアへ交易に渡った人間だっているし、海沿いに住む農夫でさえ船を持っているくらいだ。
 古い時代を生き続ける賊たちがちっぽけなつまらぬパイを争うのを苛立たしく眺めている必要などない。今の時代を生きる事、それだけを考えていればいいのだ。
 北方の夜霧は静かにその闇を保ち続けているが、靄を隔ててすぐ傍に息を荒げた戦士たちが相手の隙を伺っている。

     11
 ターヴェッティには報告に戻ってこない見張りを不審に思う余裕などなかった。アルヴォの一団はコスティを引き連れて半分を空にした倉庫に火を放ち、かつてターヴェッティがアルヴォたちにそうしたよりもはるかに手早く彼らの仲間達を追い詰めたのだ。
 アルヴォたちは殲滅ではなく、迅速な略奪を目的としていた。久しく行っていなかった賊の本分とも言うべき行為だ。しかし、もはや略奪は手段でしかない。彼らの瞳はすでに目の前の戦いではなく、南の海を越えた陸地へ向けられている。
 船出へ向けた十分な略奪を終え、戦いがアルヴォたちの撤退に転んでから、事態が鎮静化するまでにさほどの時間はかからなかった。彼らは屈強な精鋭たちからうまく賊長のターヴェッティと数人の取り巻きだけをおびき出すことに成功していた。それは戦える兵を資源とするという指針を徹底して示して見せるには十分すぎるほどの結果を残した。
 森に入ったところで配置についていた射手たちが追っ手を挟み撃ちにした事でターヴェッティの部隊は完全に分断された状態になった。
 腕や顔にすりつぶした草や木の実を塗ったイーネスと優秀な射手たちは不思議な匂いを放っている。それはアルヴォにとって潮の匂いと同じくらい胸を高鳴らせるものだった。イェレはその中の一人として、幼さの残りながらも鋭い目つきで追っ手たちを捕え矢を構えていた。消え入りそうな命の中、その瞳にはどのような仲間たちの闘志にも劣らない決意が宿っている。

     12
 ターヴェッティや彼を囲む屈強な戦士たちとは裏腹に、凋落し単身彼にすり寄ったアルマスの最期はあまりにあっけないものだった。彼は自身が抱え込んだ妄執を顧みる間もなく、屈強な男たちの争い続ける足元で誰の目にも留まらずにその事切れた体を横たわらせていた。
 部隊を分断され孤立し、アルヴォの精鋭たちに囲まれたターヴェッティはゆっくりと口を開き始めた。
「俺はガキの頃からずっと賊をやってきたんだ。盗み、殺し。お前らのやってきた事なんてそれに比べりゃほんの些細な事でしかない。俺から見ればお前らはみんなみじめな餓鬼だ。この世界の事なんか何一つわかっちゃいない」
 誰もその言葉に口を挟まない。凶暴な大男を前に、アルヴォの一団は既に賊ではなく兵となっていた。
「自分たちは違うなんて思い続けながら変えようのない現実にせいぜい苦しめよ。賊は理由があって賊になるんだ。お前たちが何をするかは知らないが、どうせただの小競り合いに過ぎないんだ。俺たちから見れば餓鬼の遊びだ。何せ、そうやって大昔から数知れぬ連中が同じことを繰り返しているのを俺は見てきたんだからな」
 アルヴォは何も答えない。言うべきことなどない。実際、これから別れを告げる賊の言葉など微塵の興味も掻き立てなかった。
「お前がどうして若いのに強靭な肉体を手に入れたか知っているか。あの今じゃ屑同然に成り下がったアルマスにボロ雑巾のように酷使され続けてきたからだよ。酷い有様だった。風体の良く似た実の子。髪も、瞳の色も。でもおまえはあいつにとって道具でしかなかった」
 アルヴォの耳の奥がじわりと痛む。彼は視界が揺らぎ大きくねじ曲がる奇妙な感覚に襲われた。以前だったら刃を振り下ろし血をまき散らす事でしか彼は平常を取り戻せなかったかも知れない。
「虐待された餓鬼同然の、何についても怯えきっていたお前に戦いの味を覚えさせるには骨が折れた。確か……イーネスはその頃から賢く、よく働いてくれたが、その点おまえは出来損ないだったよ。そういう生い立ちのせいか、相手を打ち負かす喜びへの執着にかけてお前は常軌を逸していた。何せお前は父親に何十回と床を舐めさせられてきたんだからな。勝利の高揚を誰よりも良く知っているんじゃないのか。お前はそういうどうしようもない狂人だ。戦士として誰よりも使える人間になると踏んでいたんだが、今にしては残念だ」
 吐き捨てるターヴェッティに対し、アルヴォがした事はただ手下たちに武器をしまわせ彼らを解放する事だった。兵の消耗は最小限に、それが守られるべき最上の指針だということに変わりはない。動揺しながらも、アルヴォはその鉄則を守り続けなければと、ひたすら自分にそう言い聞かせ続けていた。
 いいんだ。それでもいい。自分たちが賊の彼らとさほど違わない生き方しかできない事など今さら言うまでもない。ただ、目の前の時代を生きるだけだ。年老いた古き時代のターヴェッティも、新しき時代を見据えた自分たちも、全く同一の存在なのだ。
 アルヴォたちはターヴェッティと彼の手下を縛り付けたまま解放し、夜霧のたちこめる森へ姿を消した。

     13
「舵はあなたがとって。そうでなくても昔からあなたに付き合っていたせいで疲れているんだから。少しくらいはいいでしょう」
 イーネスはそういってアルヴォに微笑みかけた。
 ターヴェッティの聞かせたアルヴォの生い立ちを知らないはずがないというのに、イーネスはいつもの調子で冗談ばかり飛ばしている。その素朴な微笑みは、ちょうどかつてコスティがイェレに対して笑いかけていた仕草をアルヴォに思い浮かばせた。
 確かに、鳥や星に関する知識が豊富でおまけに航海術の造詣にも深いとあっては、わざわざリーダーに名乗り出るなどごめんだろうとアルヴォも思う。そういう役目が自分に回ってくるのも仕方がない。
「餓鬼の世話はお前がしてくれ。俺は知らん」
 彼はそう言って、ひとりで船出の静かな祝杯を挙げた。西の断崖、森から突き出た青白い岩地。イェレがあそこで眠っている。アルヴォはそれに目を逸らしてまた酒をあおった。
 港街の南西に何隻ものロングシップが集まっている。船団の中心、先端に厳かな竜の装飾を施したロングシップが一隻。その見事な装飾は多くの船の中心にあって灯を集めている。知恵と力強さを併せ持つような架空の生き物は夜明け前の船出を幻想的に彩っている。
 コスティは海兵として最後の十数日を生き永き眠りについたイェレの最期を看取ると、海を渡る一団のロングシップに乗り込んだ。友を失った彼の心は、ノルウェー海流に大きく揺れる船の上にありながら、金色の光が差す静かで深い森のように穏やかだった。
 ひょっとしたら自分もイェレのような餓鬼だったのだろうか。アルヴォは隣で精悍に構えたコスティを見てそんな事を考えていた。彼は今のコスティに不思議な力強さを感じている。それはあるいは、かつてのアルヴォにはなかったものなのかも知れない。何十の勝利も何十の敗北も知り、ただ強さにおいてのみ自身を見出してきたアルヴォには複雑な思いがある。
 いずれこの餓鬼がその瞳に新しい時代を見据え反旗を翻すようになった時、彼の眼前にもまた今のように激しい時代が広がっているのだろうか。海の向こうを目指す海兵たちの船団にあって自分が一隻のロングシップに山積みになった略奪品以上のものを見出しているのと同じように。穏やかな話ではないにもかかわらず、アルヴォはまるで自分が時の流れそのものとなったようで不思議な心地よさに震えていた。それも悪いものではない。
 沖へ出ると、やがてイェレの眠る丘は灯台の灯と一体になった。ささやかな絆の光がアルヴォたちを繋ぎ止めるように、夜明け前の空、数々の星の下で燦然と輝いている。

〈了〉

【著者紹介】

笹原祥太郎ささはらしょうたろう

 東京都在住。十一月生まれ。好きな食べ物はおでん。

残暑の雪だるま

これこ

残暑の雪だるま

 ひどくめまいがします。今日があまりに蒸し暑いから、というだけではありません。自分が、この世にひとりぼっちだからです。
 むぎちゃんは誰も歩いていない歩道橋を渡っていました。道路にも、車一台走っていません。階段を下りるカンカンという音だけが、夏の日差しの下に響いています。雲一つない青空、むきだしの太陽の光が降りそそぎ、汗が止まりません。髪のえりあしが首筋にベッタリとはりつき、すっぽりと腕をくるむ長袖の中は蒸れています。重苦しい袖を破り捨ててしまいたいですが、それはどうしてもためらわれることでした。被っていた日よけ帽子はどこかに落としてしまいました。からだが炎のカタマリになっていて、なのに胸の奥底は凍っていました。真夏のお出かけには絶対に帽子を被るように、でないと熱中症になりますよと先生が休みに入る前に口をすっぱくして言っていたのに、守れていません。ですが今の麦ちゃんにとって、そんなことはもうどうでもいいことでした。ただ、どこまでも歩いて行くだけです。
 階段を降りようとした時、再びめまいがおそってきました。足を踏み外し、枯れ葉のように転げ落ちてあお向けに倒れました。太陽はそしらぬ顔でかがやき続け、からだからは力が抜けていきます。感覚が無くなり、アイスクリームのように溶けていきました。


 もうこのまま目が覚めなくてもいい、そう思ったのですが、突然口元に冷たいモノが当てられて、遠のいていた意識が引き戻されました。大空へ放たれた風船が、途中で枝に引っかかったかのように。麦ちゃんはたまらずその冷たいモノをかじりました。瑞々しい食感が口とノドをうるおしてくれました。あんなに苦しかった身体が楽になり、涼しい空気が肌を撫でます。ゆっくりとまぶたを開くと、飛びこんできたのはまぶしい陽の光ではなく、やわらかな木漏れ日でした。重なり合う大きな樹の枝葉が暑さを和らげてくれているのです。誰かがここまで運んでくれたのでしょうか。そよ風はやわらかく、また眠ってしまいそうになります。
 その時視界に影が差し、白い影がこちらを見下ろしていました。小さな子どもかと、はじめは思いました。
《おはよう麦ちゃん! もう大丈夫かい?》
 そのヒトは、雪だるまだったのです。あまりにのことに、麦ちゃんは動けなくなりました。
《気分はどう?》
 そう言うと雪だるまはグッと顔を寄せてきました。触らなくても、雪の冷たさを間の空気を通じて感じます。
《そうそう、これも拾っといたよ》
 胴体になっている大きな雪玉のサイドには長い棒きれが上向きに刺さり腕の役目をしています。その右腕の先に、麻で出来た黄色い帽子が引っ掛かっていました。
「私の……」
《もう少しで川に落ちるところだったけど、何とか間に合ったんだ》
 雪だるまに口は無く、両目は石を埋め込んで作られていました。笑ってもいないし、つり上がる眉も無いし、皮膚は雪です。たまに石の目がもぞもぞ回転する以外は、一つの顔のまま止まっていました。
「ありがとう……大事な帽子なの。それに、助けてくれたんだね……」
 ですが麦ちゃんの口からは自然とそうこぼれました。とりあえず、この雪だるまは自分を気づかってくれているようです。
 (変な夢だなぁ。暑さのせいかな、それとも頭を打ったのかな。でも夢だったら何でもありだね、もうどうなってもいいや)
 麦ちゃんは起き上がりました。そして雪だるまの顔をまっすぐに見つめ、たずねました。
「あなたは誰? どうして雪だるまがしゃべれるの? 溶けないの?」
 雪だるまもまた、まっすぐに見返してきます。石の目が、何かにゆさぶられるように細かくミシミシと動きました。
《ぼくは、ずっと昔に君がつくった雪だるまだよ》
「え? 私雪だるまなんでつくったっけ」
「えっ、忘れちゃったの!? ほら、広い雑木林がある小さな町の……線路沿いの小道で、お父さんと一緒に……ほら」
「お父さんと? ……あ」
 そう言われると、思い当たることがありました。もう七年近く前、五歳の時のことです。父方のおじいちゃんの家に遊びに行った時、そういえば雪だるまを作ったような気がします。ちょうど大雪が降って、雪玉を転がして、しもやけができて、手が赤く――。
麦ちゃんはハッと手の平を見ました。
《ああよかった、思い出してくれて。すっかり忘れられちゃってたら、それこそ蒸発しちゃいたいところだったよねぇ》
「たしかその少し後にお父さんが死んじゃったから、もうあの家には行かなくなっちゃったんだよ」
 空に、なつかしいお父さんの姿がぼんやりと浮かびました。いつもおだやかで、しっかり者のお父さんでした。
「でも、そうだとして、その雪だるまがどうしてここに?」
《会いに来たんだ》
 雪だるまも麦ちゃんの横に並びます。
《最後に会った日より、背が高くなったね》
 そして同じように空を仰ぎました。無い口でぽつぽつと、昔のことを語り始めます。それは頭に直接響いてくるかのようでした。
《最後の日、君はぼくに『またね』って言った。だから、ぼくは明日も会えるんだと思った。でも来なかった。明後日も来なかった。し明後日も、そのまた明後日も、君は来なかった。そうしているうちに春が来て、暖かくなって、ぼくは溶けてなくなってしまった》
 そこまで話すと、雪だるまは声を詰まらせました。相変わらず無表情ですが、よく見ると身体がふるえています。
《君が電車の窓から手を振って、遠ざかっていく姿。ずっと焼きついてはなれなかった。死後の世界に行っても、いつまでも消えなかった。とても胸が苦しかった》
 雪だるまはこちらに向き直りました。相変わらず表情はありません。
《わかってもらえるかな、この気持ち……》
 麦ちゃんはうなずきました。
「私だって、会えるならもう一度お父さんに会いたいよ」
 きっとこの雪だるまは、自分の中にあるそういう想いがつくりだした幻なんだと麦ちゃんは考えました。そして、おもむろに手を伸ばして雪だるまの頭をなでてあげました。雪だるまは石の両目をくるんと一度回して、ぴたりと止まりました。
《い、今のは!?》
「いや、なんとなく撫でてやりたくなって。だめだったかな」
《う、ううん。そんなことないよっ。そおか、今のが撫でられるってことかぁ》
「何というか……ごめんね。置いてって」
《えへへ、いいよもう。もうどうでもいいよ! だってこうしてまた会えたんだもの》
 雪だるまは突進し、麦ちゃんの胸に飛び込みました。反動で尻もちをつきそうになりましたが、グッとこらえます。
《ああ夢みたいだ》
 雪だるまはうっとりとつぶやきました。
「そうかもね」
《麦ちゃん、お願いがあるんだ。ぼくはもうすぐ死後の世界に帰らないといけない。長くいたら、存在そのものが消えてしまう。ぎりぎりまでそばにいたいんだ。人間の友達みたいに、一緒に遊びたい》
「うん、いいよ」
 ――本当に変な夢。そう麦ちゃんは思いました。ですが、麦ちゃんに夢から覚める気はありませんでした。現実の麦ちゃんはひとりぼっちで、帰る場所が無いからです。今朝、お母さんに向けられた顔が脳裏を走りました。険しくゆがんだ顔が、こっちをにらみつけて――あわててそのイメージを振り払い、笑顔を作って雪だるまに提案しました。
「私も、することなくて困ってたんだ。一緒に散歩でもしよっか」
 雪だるまは頭だけコクコクと動かして賛成してくれました。多分足があったら、ぴょんぴょんとスキップしていただろう喜びようです。
《あ。でもぼく、お日様はだめなんだ。じかに光を浴びたくない。すごく気分が悪くなっちゃうんだ。内と外からすごい速さでジクジク溶かされるようで、苦しくて、空を割るほど叫びたくなる……。魂だけになっても、雪は雪なんだよねぇ》
「じゃぁ、歩道橋で助けてくれた時も辛かったんじゃないの? それなのに」
《君を見捨てたりしたら、気分悪いじゃ済まないよ。もう一度死んでしまう。ぼくは自分を助けたんだ。気にしないでね》
 そうあっさりと語る姿に麦ちゃんは戸惑いました。私は何で、こんな夢を見ているんだろう……。
「とにかく、それなら私いい場所知ってるよ。暗くて涼しくて誰もいない、とっておきの場所」
 時計を持っていないので今の時刻は分かりませんでしたが、太陽の高さからして、一日で一番暑い時間でしょう。ふたりはなるべく日陰を選び、日向は小走りに抜けながら町を縫うように進んで行きました。どちらからともなくスピードを合わせ、となりに並びます。誰かと、となりあって散歩するなんて久しぶりです。石の目、棒切れの腕、雪の皮膚。人間に似せそこなったお友達は、地面から数センチふわふわと浮いて、影はありませんでした。頭のてっぺんの部分がじりじりと焼きついているようだったので、麦ちゃんは、帽子を脱ぎ、被せてあげました。雪だるまがびっくりしています。
「貸してあげる」
 サイズがわずかに小さかったですが、ゴムひもを引っ張り、あごに回してなんとか形にしました。
《ありがとうありがとう、うれしいようれしいよ》
 雪だるまは何度も何度もくり返しました。両目がグルングルンと回転して、ずっと止まりません。そんなに喜ばれるとは思っていませんでした。
《ねぇ! またノド乾いたらエンリョなくお腹を食べていいからねぇ》
 そこでようやく麦ちゃんは、目覚める直前に口にした冷たいモノの正体を知ったのでした。雪だるまの胴体の一部分が、歯の形にえぐれていたのです。


 地下通路はじめじめと薄暗く、レンガ造りの壁をオレンジ色の蛍光灯がぼんやりと照らしています。町の数カ所の施設につながっている通路なのですが、駅前のショッピングモールとアミューズメントパークに人を取られたうえ、車や自転車の方が便利なのでほとんど使われなくなっていました。泥や砂で汚れ、そこら中落書きでいっぱいです。
 ですが麦ちゃんにとっては、心の休まる大事な場所なのです。雪だるまも気に入ったようで、湿った地面や壁に身体をこすりつけていました。まるでマーキングする猫のようです。
《麦ちゃんこの模様は何なの?》
 棒切れの腕で撫でている壁の一点には、かき消えそうな細い字でこう書いてありました。
「『らせんかいだんのぞきこんだら、らせんかいだんがこっちをみつめている
 らせんかいだんおっこちたら、あっちのわたしもこっちへおちた
 あっちとこっちのわたし、まじわらない
 あいまいをいきているわたし、かわらない
 くらすってことは、あいまいとあいまいのくりかえし、むげんのどみのだおし
 きせつのかわりめに、おちていくわたしにてをのばしあう
 おちたさきはまたおなじ かがみあわせのらせんかいだん』」
 麦ちゃんは淡々と読み上げました。これだけでなく、地下道の落書きはもう全部覚えているのです。
《これは?》
「これは詩」
《シってどんなもの?》
「ええと……そのヒトの考えを、わざと分かりづらくかいた言葉、かな」
《なんでわざわざ分かりづらくするの》
「うーん……本人も自分の事が分かってないからじゃない? 多分」
《麦ちゃんって物知り!》
「そ、そうかな」
《じゃぁ、このシはどんなヒトが書いたの》
「多分、深い悩みがある人なんじゃないかな」
《ぼくね、このシの意味なんとなくわかるかも》
「へぇ? 私もそうだよ、こういう感覚わかる。意味はわかんないけど、わかる」
《ふふっ、おそろいだね。うふふ、》
 地下道の明かりは幽霊です。時たま、うたた寝のようにチカチカと点滅し、その度に文字が闇へ沈んだり、また浮き上がったりをくり返しました。
 少し先の角を曲がると、また別の落書きと出会いました。
 男の子と女の子が抱き合っている絵が、地面に描かれています。チョークの線がにじみ、灰色の地面に溶けかけているようでした。
《あの……》
 急に雪だるまが身をよじらせて何か言いたげにしています。その様子に、ピン、ときました。何がほしいのかが分かったのです。
「さわっていい?」
 そう聞いてやると、雪だるまは目に見えて嬉しそうになり、今度は本当にジャンプして頭が天井を突き抜けそうになりました。心なしか雪の肌が潤って、つややかに光りはじめた気がします。本当にわかりやすいなぁ。麦ちゃんは吹き出しそうになりつつも、すりよってきた子猫を撫でてやるような気持ちで、雪だるまの頬にふれました。もしこのヒトが人間だったら、こんなことをする勇気は持てなかったでしょう。
 その時、全くの突然に、指先から身体中に電気が走り、頭の中を映像が駆け抜けていきました。川の上に架かる橋の上、向こう側へ走り去っていく後姿が見えます。そのヒトは黄色い帽子を被っていました。一瞬風が舞い上がり、帽子が飛ばされて欄干のすぐ下で着地しました。持ち主のヒトは気付いていません。また風が吹き、帽子がさらに動いて柵と柵の間に引っ掛かりました。もう一度吹けばはるか下の川へ落っこちてしまうでしょう。そう察するが早いか、身体が動きました。一目散に、帽子の元へ。強い日差しと、その光を吸い壊れそうなほど熱くなった橋に板挟み。苦しい。心まで溶けてしまいそう。叫びたい。叫んであのいまわしい太陽を真っ二つにしてやりたい。ああはやく拾ってやらなきゃ。もしかしたら大切なものなのかもしれないじゃない。なくしものはいけない、何かをなくすなんてかなしいよ。――息絶え絶えにようやっと帽子を棒切れの腕に引っ掛けた時には、もうあのヒトはどこかに行ってしまっていました。早く追いかけなきゃ。そしてまたぼくは、麦ちゃんを探す。

 麦ちゃんはうめいて、ヒザをつきました。いつのまにか、止まっていた汗がまた全身に流れています。
《どうしたの!? またニッシャビョウ?》
 おろおろとする雪だるまを見上げながら、麦ちゃんは呆然と考えました。まだ内側に苦しさの名残があります。
(でもこの苦しさは幻じゃない……でもそんな)
 先ほどの映像の中で、麦ちゃんはいつの間にか麦ちゃんではなくなっていました。きっとあれは、自分を追いかける雪だるまの視点だったのです。どこまでが夢で、どこまでが現実の出来事なのか、分からなくなってきました。雪だるまと一緒の地下道を歩いていた自分は、夢の自分なのか現実の自分なのか、まずそこから分からなくなってしまいました。いいえそもそも、この世に産まれて暮らしてきたこと自体夢で、本当の自分などどこにもいないのかもしれませんが。
《またぼくのお腹を食べるかい?》
 そもそも雪だるまがしゃべって動く時点で夢のはずなのです。そう納得していたはずです。しかし、さきほどの映像から流れこんできた感情は確かに本物でした。
「大丈夫、ただのめまいだから」
 渦巻く疑問をいったん閉じ込め、立ち上がりました。考えても、答えは出ないだろうと思ったのです。ほんとに平気? と雪だるまが身を寄せてきました。麦ちゃんは、とっさに被っている帽子ごと頭を撫でてあげました。疲れた家族をいたわるような気持ちで優しく触れました。そうしてやりたいという衝動がせり上がってきたのです。手の平に、確かな感触と冷たさを感じました。

 こういう風に旅は続いていきました。名前の無いアイアイガサ、赤い字で殴り書きされた電話番号、ひび割れた七色のハート、遠くに旅立った友達にあてたメッセージなど。新しい落書きに出会うたびに立ち止まりそれらはどんな意味を持って、どんな人が書いたり描いたりしたのかを、ふたりで想像しながら進んでいきました。“8”の数字が雪だるまっぽいと発見したり、このハートのひびからは何が生まれてくるのか想像したり、思いつくままに、取りとめのないおしゃべりをしながら。麦ちゃんがこれまで一人で落書きたちを見て、心を安らがせていた時とは違い、心が弾んでいます。いつまでも続いてほしい、自然にそう願っていました。
 そうこうしながらも、出口は近づいてきました。
「あれが最後の落書きだよ」
 向こうに外へ続く階段があり、差しこむ光が通路を照らしています。そしてその光が届くか届かないかという地点から、ひまわりの群生が両側の壁いっぱいに立ち並んでいました。ふたりの背丈よりずっとのっぽで、壁を突き抜けて天井にまで達しています。叩きつけるタッチで描かれた、むせかえるほどに濃い花たちが暗い地下道に咲き乱れています。
「ひまわり。夏にしか咲かない花。本物を見せてあげられれば良かったんだけど、ひまわりは日陰には咲かないの。――これを描いた誰かさんは、ひまわりにずっと咲いていてほしかったんだよ、きっと」
《それって麦ちゃんでしょ》
 麦ちゃんは瞳を見開きました。
「どうして分かったの?」
《この絵から、ちょっとだけぼくと同じにおいがする。君の手のにおい。たとえばこの辺、うっかり手をついたんじゃない?》
 その通りでした。雪だるまが棒切れの腕で指し示す茎の部分は、踏み台が傾いた拍子に平手をついてしまったところです。そこは上からぬり直しましたが、手の平の黄緑色はなかなか落ちずあたふたしたことは、まだ記憶に新しい事件なのでした。
「笑わないの?」
《え? 何で?》
「馬鹿にしないの? こんな場所にこんな落書きしたりして。意味が分らないと思わないの?」
《この絵はぼくのきょうだいみたいなもんでしょ?》
 雪だるまはひまわりを背に麦ちゃんの前に立ちました。
《本物のひまわりより、こっちでよかった》
 石の目をくるくる回しながらそう言いました。明るく歌うような楽しげな声でした。ひまわり畑に囲まれて、雪だるまが踊っています。夏と冬が薄闇の舞台でひとつになって、黄色い帽子とひまわりの花びらが響き合い、より高らかなハーモニーを奏でていました。麦ちゃんはお客さんとなって、貸切のミュージカルを最前列で楽しみます。
 麦ちゃんの瞳からぽろぽろとこぼれました。なつかしい思い出が次から次によみがえり、風船のようにふくらんでいきます。ふくらむだけふくらんで、のど元までぎゅうぎゅうになった時、勝手に口が動き出しました。
「お父さんと最後に遊びに行った場所なんだ、ひまわり畑。その帽子も、その日に買ってもらったんだ」
 雪だるまはダンスを中断し、じっと聞き入っています。
「お母さんの話をしていい?」
 雪だるまは何も言いません。麦ちゃんは続けました。
「昔は、こうじゃなかったの。もっとふつうだった。三人で出かけたこともあった。服を選んだり、映画を見たり。でもだんだん悪くなってきて、お父さんが死んだら、もっと悪くなって」
 麦ちゃんは口の端を吊り上げて、腕を包む長袖をグッと引っ張りました。この下には、青と黒のアザが、大雨後の水たまりのように広がっています。お母さんはヘビの視線です。にらまれると、小さなアマガエルのようにすくんでしまうのです。
『邪魔よ』
「今日の朝にね、言ったの。もうひどいことしないでって。すごく勇気を出した。でも、だめだったよ、おことわりされたよ」
 雪だるまはまだ黙っています。何を考えているのでしょう。石の目からは読み取れません。よぎる不安を追い払おうと、麦ちゃんは次の言葉を探しました。
「昔に戻りたい、でもだめみたい。お母さんと、住んでいる世界がちがうの」
 しかしそこでさえぎられました。麦ちゃんの頭が一瞬真っ白になりました。雪だるまが、泣いていたからです。石の目の周りの雪が溶けて、涙のように流れ落ちているのです。
《君のお母さんキライだ! ひどいよ……どうしてそんなのと一緒にいるの? 意味が分かんない! 麦ちゃんの時間がもったいないよ》
「だって……」
《麦ちゃんは、ひとりぼっちなんだね》
 白い立ち姿がふり返りました。今までより大人びた声でした。お父さんに似た、やさしい声でした。
《ぼくとおそろいだ》
 地下の照明がまた点滅しました。麦ちゃんの瞳からまたうるみ始めました。溜まりに溜まった氷が、どんどん溶けていくようでした。
「いつも夢の中にいるみたいなの。生きているか死んでいるのかも、よくわからなくて。ずっとぼんやりしてるの」
 点滅がどんどん激しくなりました。明と暗がめまぐるしく入れ替わります。
《死後の世界もそんな風だよ。なあんにもないんだ……暑さも、寒さも、高さも、低さも、時間もない。そこにひとりきりでいると、考えることもなくなって、最後には自分もなくなっちゃう。そうなる前に、君に会いたかったんだ》
「死ぬとそんなとこに行くんだ。お父さんもいるのかなぁ」
《ね、今日僕と遊んで、楽しかった?》
「え? うん、楽しかったよ。私他に友達いないし」
《ぼくを友達だって思ってくれるの?》
「え? だめだったの? そりゃ残念」
 そうからかってみると、ぶんぶんと首を横に振って残念じゃないよ! と必死になりました。反動で頭が胴体から落ちそうになり焦ってバランスを取ろうとする様子がおかしくて、麦ちゃんはこらえきれずに吹き出しました。雪だるまも笑いました。笑い声は一つになり、長く高く響き渡りました。蛍光灯もようやく落ち着き、点滅も止まってまたぼんやりとした地下道に戻りました。涙は流れつくして、心地の良い疲れが残っていました。

《ねぇ、一緒にあっちの世界に来ない?》
 ひとしきり笑った後、雪だるまがふと言いました。
《ずっとふたりで遊ぼうよ》
「……そうだね」
 こんなに楽しかったのは、いつ以来だろうと思いました。月日を数えたくもないくらい、久しぶりのいい夢です。どこかで、夢の中で死ねば現実でも本当に死ぬと聞いたことがありました。だけどそれでいい、と思います。
「連れてってよ」
 石の目と真っすぐに向き合って、そう告げました。

 
 ふたりは、帽子を落とした川の近くにあるトンネルへやってきました。トンネルを出るとあの橋に出ます。この橋で、この子は私の帽子を一生けんめい拾ってくれたんだ、と麦ちゃんは深く息を吐きました。この子も、私の気持ちが見えることがあるのかな。
《ここに空気がねじれている場所があるでしょ? ここが境目》
 確かに、陽炎のゆらめきとも異なる、渦を巻いたねじれが空中に現れています。こんな現象は初めて目にしました。
《それはね、ぼくのお腹を食べたでしょ、あのおかげ。君のお腹にある、ぼくのかけらのおかげ》
 ねじれがいっそうグニャリとねじれ、その渦のど真ん中の穴の奥から、何もない闇が顔をのぞかせました。麦ちゃんは、あれが雪だるまの話した死後の世界だとすぐにわかりました。夢もとうとうここまで来ちゃったのか、と思いました。今までどんな夢を見ても、死ぬまで行くことはなかったのです。
《ここへ踏み込めば、もうこっちとはさよならできるよ。一回閉じたら、もう開かない。境目がほころびるのは、本当にごくたまにだから、もう帰って来られないと思ってね》
 ワクワクを抑えきれていない様子の雪だるまの肩ごしに見える闇をじっと見つめていると、だんだん頭がぼんやりとしてきます。澄み渡る夜と同じ黒、小鳥のなきがらの眼と同じ、底のない穴、そんな闇でした。一度落ちれば、この苦しい世界とさようならです。
《麦ちゃん、抱っこして》
 棒切れの腕が、もじもじと二の腕をつついてきました。
「はいはい」
 仰せの通り腰を落として、雪だるまを前から抱き包んでやりました。やはりひんやりとしていい気持ちです。それにしても、改めてじっくり観察してみると不格好です。でこぼこだったり、目と腕は拾ったものを埋め込んだだけ刺しただけで工夫が足りなかったり、胴体と頭の大きさがアンバランスだったりしていました。
 あの日の私、もう少していねいにつくってやればよかったのに。せめて、帽子くらいは用意してあげればよかったじゃないよ。
 そんな想いにひたっていたら、ふと、左足に違和感を覚えました。と、いうより、何の感覚もない、と表現したほうが正しいです。動かそうとしても、何の手ごたえもありませんでした。
《麦ちゃん、ぼくをつくってくれた時の君は、すごく幸せそうだった。お父さんに手伝ってもらいながら、がんばって雪を転がして、汗をかきながら、しもやけにまでなっても、大口開けて笑ってた》
 慌てて雪だるまから離れて確かめようとしました。ですが、今度は右腕の存在感が消え失せました。ひじから下の感覚が無くなったのです。
《きっとお父さんがいたからあんなに楽しそうだったんだね。大好きな人と一緒に過ごせるって、いいよね》
 怖くて、叫びたくても、声が出せません。ノドが凍りついて、息ができません。
 何とか動かせる首で、どうにかして雪だるまの背中に回っている自分の右腕を見ようとあがきます。首すじがつりそうになりながら、必死に前へ伸ばします。そして見ました。ひじから下が、胴体の中へ吸い込まれていたのです。おそらく、左足も同じようになっているのでしょう。
《ああん、もがいちゃダメだよぉ。つかまってないとはぐれちゃうよ》
 そして雪だるまは麦ちゃんの片足と片腕を飲み込んだまま、ずるずると引きずって穴の方へ近づいていきました。麦ちゃんは、穴に背中を向ける格好になっていましたが、闇の気配はむしろ直接見ていた時よりも強く感じました。
(放してよ、自分で歩く!)
 詰まった声の代わりに心で叫ぶと、返事がありました。
《だめだよ》
 それは今まで通りの明るい喋り方で、しかしぞっとするほど血の通わない音でした。
(だめって、どうして?)
《麦ちゃん、もう二度とはなさないよ》
 どういう意味――疑いが言葉になる前に、背中にするどい痛みが走りました。風景が真っ赤に染まり、星が散らばります。身体を動かせないので見ることはできませんが、殴られたのか切られたのか、とてつもない力で背中が傷付けられたようでした。視界の端に赤い水滴が飛び、肩に散りました。
《怖がらないで。あっちの世界に生きた人間が入ると、まず身体が壊されるんだ。そして魂だけになる。大丈夫、すぐ終わるよ》
 その言葉が終わらないうちに、新しい痛みが背中に走りました。さっきとは別の場所が傷付けられ、身体がビクンとけいれんしました。
 瞳から、地下道の時とは違う涙が流れました。心臓が加速します。鼓動に合わせて痛みが大暴れして、止まりません。これが夢だったなら、すぐに止まるのに。
(夢じゃ、なかったんだ)
 痛みにかき消され、ろくに考えられません。
《安心して、あっという間だから。乗りこえれば、終わりだから》
 雪だるまは調子を変えず、麦ちゃんをひきずって進んでいます。ついさっきまでおしゃべり相手だったその無邪気な声が、心の底から恐ろしく感じました。殺される……その四文字で心が溺れそうです。遠のく意識の中で、赤い海にお父さんの後ろ姿が浮かびました。お父さんはこちらに手を差し伸べていました。ですがつかもうとしても、届かずにかき消えていきます。次に、お母さんの姿が浮かびました。こちらに気付いていないのか、手を差し伸べてはくれません。
 それでも、手を伸ばそうとしました。


(死にたくない)
 え? と雪だるまは歩みを止めました。
《どうしたの?》
(イヤ!)
《えっ……え?》
(死にたくない!)
《麦ちゃん……痛いのはわかるけど、がんばらないと》
(放して!)
 雪だるまは戸惑った様子で言いました。
《連れてってと行ったじゃないか。いいよって》
(イヤ!)
 そうしている間にも、麦ちゃんの背中は傷付けられていました。細かい痛みが次から次におそってくるのです。麦ちゃんは残った力をふりしぼってもがきます。
《だめだよ。ここまで来て……》
(きらい!)
 そう心で叫んだ時、雪だるまはハッとして黙りました。そして、オウム返しにくりかえします。
《きらい?》
(きらいだ! あんたなんか!)
 突然、左足と右腕の感覚が戻りました。麦ちゃんはすぐさま手足を引き抜いて、身をよじって雪だるまから離れました。
《あっ》
 そしてありったけの力で、雪だるまを穴の中へ突き飛ばしました。その衝撃で、石の目が取れて、一足先に闇へ落ちていきました。その後を追うように、雪だるまもまっさかさまに吸い込まれていきました。言葉を交わすひまはありませんでした。穴が水面のように揺れ、そして夢うつつのまぶたが閉じるようにふさがりました。
 痛みをこらえよろめきながらトンネルを抜けました。まばゆさに瞳がすぼみます。ふらつく足を支えながら、途中で振り返ることも、立ち止まることもなく、力がつきるまで前へ進みました。



「また絵を描いてんの?」
 スケッチブックに影がさしたので見上げてみると、タオルを首に掛けたみどりが覗きこんでいました。
「部活終わったんだ」
「テスト前だからね、先生もひかえめにしてくれてんだぁ。はい」
 みどりはアイスキャンディーを差し出してきました。ありがとう、と麦ちゃんは受け取りました。二人で木陰のベンチに座ってかじります。
「まったくユウウツったらありゃしない! テスト後までタイムワープして、泳ぎまくりたいよぉ」
「みどりは将来オリンピック目指すの?」
「まさか! そんなレベルじゃないって。好きだから泳いでるだけっ。麦こそ、画家とかイラストレーターとかになるの? 毎日絵を描いてるじゃん」
「私の方こそそんなレベルじゃないよ」
「あたしは好きだよ、あんたの絵。見ていい?」
 みどりはスケッチブックを膝の上に広げてぱらりとめくりました。ゴージャスなドレスを着た針金人間、銀河を飛ぶ羽の生えたカエル、ナイフや剣が何十本も刺さったタマゴなど、様々な絵がぎゅうぎゅう詰めに舞っています。
「昔、友達が私の絵をほめてくれたの。それからずっと、夢に見たものや空想したことはみんなスケッチブックに描いておいてるの」
 アイスキャンディーのかけらが、制服のスカートに落ちました。バニラ味のそれが濃紺の布地に沈む前に拾い上げて口へ放りこみます。
「その子を、すごく傷つけたまま二度と会えなくなっちゃったから、せめて忘れないようにって」
 ミーンミーンとセミの唄が激しくなり、雨のように降り注ぎました。まるで木々たちそのものが鳴いているような大合唱です。
「それって、前に話してくれた“雪だるま”のこと?」
「もっと、ちゃんとできていれば、ちがう別れ方ができたかもしれなかったのに」
「あのさぁ、言っちゃ悪いけど、それ夢だと思うよ。でなきゃ、おとぎ話とかアニメとかとごっちゃになってるんだよ」
 みどりは眉をハの字にしてそう言いました。食べ終わったアイスの棒をくずカゴに投げ入れます。カラン、と乾いた音がしました。麦ちゃんも、棒を投げます。弧を描いてカゴのフチにぶつかり、一回空中でとまどいながら中に入りました。
「背中の傷とやらも、実際はついてなかったんでしょ?」
「うん。死にものぐるいで走ってて、気付いたら痛みが無くなってて、傷はどこにもなかった」
 あれ以来、二度と地下道へは行けなかったし、あのトンネルを見に行くことも怖くてできませんでした。
「でも、それでもいいんだ。忘れたくないの。私にとっては、欠かせない記憶なの」
 スケッチブックの一番新しいページを開けば、ひまわり畑に囲まれて虫取り網を持った雪だるまがいます。まだ輪郭だけのスケッチですが、いつか色をぬるつもりです。
「……あんた、ずいぶん人が変わったよねぇ」
 みどりがぽんと麦ちゃんの肩に手を置きました。
「あたし、小学校のころはさ、麦のこと好きじゃなかったんだよね。いっつもぼんやりして、教室の隅っこにいて、何考えてるか分からなかったというか。まぁ、色々家のことが大変だったんだろうけどさ。でも今はいっぱい話してくれるよね」
「私は、みどりのことよく知らなかった。同じクラスだったことも覚えてなかった。目の前のことしか見えてなかったから」
 何それヒドイ。そっちこそ。お互いに小突きあって、笑い合いました。確かなぬくもりを、指先に感じます。
「麦。いつまでお母さんと暮らすつもりなの?」
 みどりは真剣な顔になりました。
「雪だるまに賛成だね。あの人のそばにいたら、絶対あんたのためにならないよ。ギャンブルだのお酒だの。三者面談にも来やしないし」
「まぁね……」
 目をつむれば、今までのお母さんの姿が浮かんでは消えていきます。どれもこれも、険しい顔をしていました。
「でも、私はそばにいたいの。変わるのを待ちたいの。きっとお母さんは、一人で沢山抱え込んで壊れちゃったんだと思う。だからせめて、そばにいてやりたい」
 みどりは大げさにため息をつきました。
「あたしは付き合わないぞ」
「いいよ」
「ホントに付き合わないからな、まったく!」


 夕飯の買い物をしてから、二人は麦ちゃんのアパートへ向かいました。泊りがけでテスト勉強をするためです。空には夕闇の膜がかかり、ミンミンゼミはひぐらしに交代していました。
 アパートに着くと、部屋の前に男の人がうずくまっています。麦ちゃんはその人に見覚えがありました。お母さんの「今の」恋人です。顔が薄闇でもわかるほど青白く、がたがたと震えていました。
「あの、どうしたんですか」
 ほとんど話したことのない相手でしたが、ドアの前にいては無視もできず、仕方なく話しかけました。男の人はゆらりと顔を上げ、乾いた唇を動かしました。
「きみの母さん、消えたよ」


 入り組む裏路地を、二つの影が駆け抜けていきます。
 ――いきなり何もない場所がぱっくり裂けた。真っ暗だった。君の母さんは、血を流しながら、泣きわめいて、中に吸い込まれていった。白い影がこっちをじっと見ていた――
 ひきつる両足を力の限り動かし、休むことなく走ります。しかし麦ちゃんの胸がばくばくと暴れるのは、それだけが理由ではありません。
「こっちが近道!」
 みどりに案内され、男の人の話した陸橋下を目指します。景色が早回しのフィルムのようにどんどん過ぎ去っていきました。
 夕闇の陸橋は巨人です。相まみえると、息が詰まるほどの圧迫感です。麦ちゃんはすべりこむようにその足元へ入りました。
「血なんて無いじゃん、やっぱりからかわれたんだ」
 みどりは荒い息で怒っています。麦ちゃんは額の汗をぬぐい、辺りを見回しました。そして、あるモノに目が止まった瞬間、身体が、一気に冷め、凍りつきました。
 砂だらけのすすけた地面に、一点の光が灯っています。それは、黄色い帽子でした。すっかりゴムの伸び切ったそれだけが、ぽつんと置いてあったのです。
「麦、大丈夫?」
 ひどくめまいがします。麦ちゃんは帽子を抱えたままその場にうずくまりました。頬に一筋の涙が伝います。
 ものすごいスピードで、電車が遠ざかる音が聴こえました。

〈了〉

【著者紹介】

これこ

 群馬県在住。好きな作家は小川洋子、別役実。
 素敵な企画にお誘い頂き、ありがとうございました。

ロンドン・プライド

山田宗太朗

ロンドン・プライド

 いや、おれはいつもこれくらいは飲むよ。いかにもけだるいといった感じでカウンターに肘をついて手首を曲げ、力を抜いた手と指のあいだでロックグラスを挟み、その曲がった手首を左右にゆっくりと揺らしてからんからんからんと氷の鳴る音を楽しむように坂牧さかまきはそう答える。グラスに注がれたのはバカルディというラムの一番強いやつで――山口やまぐちに言わせればそれは酒というよりほとんどガソリンみたいなものらしいが――イキがりの坂牧はいつものように調子に乗ってその七十度以上はあるという最強のラムを、あろうことかダブルで頼んでしまい、本当はその香りだけでも目が回りそうなのに、いや、おれはこれくらい飲めるんだよ、と意味もないのに強がって、さも飲み慣れているというふりをする。しかしグラスの縁をほんのひと舐めし、辛い物を口にした時のように顔をしかめると、顔だけではなく首筋や手の甲にまで赤い斑点が広がり、黒縁眼鏡の奥で見開いた眼球は黄色く濁ってしまう。とりあえずグラスを紙のコースターの上に置き、カウンターに置かれたボトルを手にとってしげしげと眺める。ラベルを裏表ひとしきり読んで、何を納得したのか、二度、三度と頷く。そして威嚇する直前の雄猫のような声で幽かに呻く。
 わたしは二杯目のジントニックを注文するついでに助け船を出してやった。だが坂牧は眼鏡を外して指で両眼を擦るだけで答えない。山口に目配せすると、彼もまた同じことを考えていたのか、まるで歳の離れた弟でも見るように優しい目で坂牧を見ている。山口は吸っていた煙草の煙を大きく宙に吐き出してから、陶器製の丸灰皿で火を揉み消し、わたしと同じように、しかし言葉を少しだけ変えて、坂牧に助け船を出してやった。
 うーん、じゃあねえ、とまだ指で両眼を擦りながら、さっきまでの強がりはどこへ行ってしまったのか、おれ、ナッツ的なやつがいい、と小学生の男の子のように口を開く。二十代も半ばのいい男がちょっと飲んだだけでこうなってしまう。もう一杯同じものを飲ませたら「ママー」なんて言い出しそうだ。でも、酔って幼児退行化した男の子はかわいい。強がらずにずっとそのままでいればいいのにと思う。しらふで強がるのはたいてい頭の悪い男と決まっているし、酔って強がる男は救いようがないが、頭の良い男は甘え方を知っている。坂牧はもう少し成熟すればきっと良い男になる。彼の甘え方は嫌いじゃないけれど、時にみっともない、そしてそのみっともなさに気付いていないから女の子に人気がない。もう少し頭が切れれば、と思う。みっともないの一歩手前で甘えられれば、坂牧をかわいがりたくなる女の子はたくさんいるだろう。ベタッとした甘えではなく、さするような甘え――、ナッツ的なやつ、ナッツ的なやつう、坂牧はそう呟き続けている。山口が含み笑いで目配せすると同時に黒いポロシャツを着たバーテンダーが頷き、次の瞬間には、四角い皿に盛られた四種類のナッツと氷水が坂牧の前に置かれていた。
 わたし達が飲んでいる新宿の小さなバーで、山口は大学院を終えてからもう一年半も働いているらしい。らしい、と言うのは、卒業してから昨日まで、ずっと山口は音信不通だったからだ。山口のように社交的な人間が音信不通になるなんて誰も思わなかった。むしろ、別々のフィールドに散らばったわたし達をこれからも繋いでゆく中継点のような存在になるとみんなが信じていた。山口はわたし達のリーダー的な存在だったからだ。ちょうど卒業の直前に、今後も繋がっていけるようにみんなの名簿をつくろう、と言い出したのも山口だった。その山口が、四月には携帯電話を解約し、PCのメールアドレスを変え、SNSから姿を消した。就職先はもちろん決まっていなかった。途中で就活を放棄したからだ。どうやっても連絡がつかず、マンションにまで押しかけても誰もいなかった。もしかしたら地元の愛知に帰ったのかもしれない、と誰かが言い出した。そう言われてみれば、県庁か市役所を受けようかな、なんて山口は時々冗談みたいに言っていた。でも山口のその言葉を信じている人はいなかった。それはまったく真剣ではないただの思いつきのひとつみたいだったし、公務員試験の勉強をしているような素振りを見せることもなかったからだ。それに公務員なんておよそ山口には似合わないし、ちょうどその真逆のタイプだと誰もが思っていた。それでも、仕事もせず東京で一人暮らしを続けることなどできないから、こっそり地元へ帰ったというのもありえない話ではなかった。プライドの高い山口だから、都落ちのように思われるのが嫌でみんなに内緒にしたのかもしれない、と。それに、わたしは山口のちょっとした秘密を知っていた。いや、秘密なんて大それたものじゃないけれど、研究科の仲間でそれを知っているのはわたしだけだったし、山口は頑なにそれを言葉にすることを避けていた。それは山口の夢だった。生きている限りずっとそれをやり続けるよ、彼はそう言っていた。でも言葉にした瞬間に陳腐になるから内緒にしてくれよな、こんなこと言うのは本当は恥ずかしいことなんだ。だけどわたしにはそれが恥ずかしいことだなんて全然思えなかった。生きている限りそれをやり続けるなんて、そんなふうに堂々と言える何かがわたしにあるだろうか? だからそれのために、本当はやりたくもないが安定した仕事を得ようと地元に帰るという選択肢は、わたしには合理的で、悪くないように思えた。建設的な手段だと思った。それを隠したいという気持ちも、なんとなくだがわかるような気がした。
 ただ、わたし達みんなが心配していたことがひとつある。それは山口の恋人のことだ。
 山口の恋人は、わたし達と同じ大学、同じ学科の学部生だった。背が低く色白で、小学生をそのまま大人にしたような幼い顔の女の子だった。優しく触れなければ壊れてしまいそうなほど華奢で、何か世俗の汚れとは無縁であるような、お花畑で日向ぼっこしながらシロツメクサの冠をつくってミルクティーでも飲んでいそうな人だった。かわいいという言葉はこの人のためにあるのではないかとわたしは思った。
 その人と山口は、大学のある授業で知り合った。優秀な大学院生の多くは学部生の授業で教授のアシスタントのアルバイトをする。山口はその授業のティーチングアシスタントとして、統計分析ソフトの使い方を教えたり学部生の課題補助をしたり、レポートや小テストの採点をしたりしていた。その授業で一際彼を慕ってくる学部生がいて、何度もやり取りを交わしているうちに、二人は恋に落ちたというわけだ。よくある話だ。
 山口はよく、大学院生しか入れない端末室に彼女を呼んで、一緒に課題をやっていた。彼女の卒業論文とわたし達の修士論文の時期が同じだったから、彼女はいつもわたし達と一緒に端末室にいた。傍から見たら彼女もわたし達と同じ研究科の院生の一人に見えただろう。山口は彼女がわたし達と親しげに談笑するのを好み、積極的に仲間に入れようとした。彼女がとても綺麗でかわいらしかったから、そして控え目で礼儀正しい女の子だったから、わたし達も彼女を拒まなかったし、きっと彼女もわたし達が好きだったと思う。でもわたし達は大学院生用の端末室の中でしか彼女と会わなかった。山口は飲み会に彼女を決して呼ばなかったし、わたし達の誰かが個人的に彼女と会うようなこともなかった。街で見かけることはもちろん、大学のキャンパスを二人で歩いているところも見たことがなかった。当時のわたしにはそれが少しだけ気になったけど、卒論や修論を提出する直前の数ヶ月はみんな学校の端末室に入り浸る生活が続くので、わたし達と二人は結局のところほとんどいつも一緒だったし、違和感はそれほど大きなものではなかった。
 でも、わたしが本当に山口の友達だったなら、その違和感に対して何かしらの分析を加えるべきだったのかもしれないと、今では少し思う。もちろん起こるべきことは起こってしまうのだし、変えられないものはどうしたって変えられない。それにわたしは他人だ。他人だし、山口だって馬鹿じゃない。だけど、わたしにも感じられるような予感をみすみすやり過ごしてしまうのは、友達として本当に正しいことだったのか、よくわからない。
 坂牧がそれを見つけた時には、もう五月になっていた。卒業して一ヶ月。わたしはあるIT系の会社に入社して研修ばかりの忙しい毎日を送っていた。他のみんなも研修や、あるいは博士課程に進んで新しい環境に慣れるために忙しく、連絡を取り合うようなこともなかったのだが、五月上旬の大型連休の最後にやっと一息吐いたところで、近況報告も兼ねてみんなで焼肉でもしようか、という話になった。わたしは今までとまったく違う環境に一ヶ月間身を置いていたせいで何か自分が別の人間にでもなったような気がしていた。けれど、久しぶりに研究科の仲間に会うと、自分も周りも何も変わっていないことを実感して安心した。不思議なことだが、わたしはたった一ヶ月で大人になったような気になっていたのだ。そんなのはもちろん幻想だ。わたしも、みんなも、何一つ変わってなどいない。ただその場に山口だけがいなかった。
 山口はどうしたの? とわたしが聞くと、坂牧は気まずそうな顔で、あいつたぶんやばいよ、と答えた。
 ――彼女と別れたっぽくて、たぶんいま死んでる。
 ――え、うそ? あの子と?
 ――うん、おれ、びびったよ、これ、見る?
 坂牧が示したタブレットの画面に写っていたのは、山口の彼女と、腕を組まれている知らない男の写真だった。確かにそれは山口の彼女だった。見間違うはずがない。日付は三週間前になっている。
 ――え、これ、何……
 ――おれ、これ見たとき、えっ、えっ、ってなったよ。まじかよ、って。だって卒業式ん時とか一緒だったじゃん、急すぎるでしょ?
 大きな傘のように広がる満開の桜の下で山口の彼女に腕を組まれている背の高い男は、細くて柔和な目といい、意思の強そうな厚めの唇といい、そして動きのある長い髪といいカジュアルモード系の服装といい、山口と同じ系統の、山口にそっくりな男だった。少なくともわたしには同じタイプの男に見えた。ただ少しだけ彼の方が山口よりハンサムかもしれない……
 ――この、コメントがさあ……、
 坂牧が画面をスクロールするとコメント欄が表れた。そこにはこう書いてあった。

『僕の彼女を紹介します』

 当たり前のことだが、わたしには言うべき言葉が見つからなかった。どんな言葉も出てこない。ただ急に頭がぼうっとしてきた。
 ――しかも、おれ、こいつ、知ってるんだ……
 坂牧によると、この男は坂牧と同じ学生寮に住んでいる学生らしい。その学生寮は目白にあって、都内の大学に通うすべての男子大学生のための学生寮という建前だったが、実質はわたし達の大学の付属機関みたいなもので(そもそも紺碧寮という名前からして付属機関だ)、すでに五十年以上の歴史があった。数年前に改築してデザイナーズマンションのような外見になったせいもあり、人気があって、六百人もの学生が住んでいた。坂牧は大学院入学と同時にその学生寮に引っ越した。紺碧寮には大学院生用の棟があって、学部生の棟からは少し離れている。その大学院生用の棟に彼は住んでいるらしい。つまり、わたし達と同じ大学の大学院生ということだ。
 ――別に仲良くはないんだけどさ、キャンパスも違うし、でも紺碧で会うから……。
 ――そうなんだ、とわたしはマヌケな返事をした。
 ――ちょっと気まずいよ、しかも、山口より長いらしいんだよね。
 ――長い? 何が?
 ――うん、期間が、
 ――え? なんで? どういうこと?
 ――学部生の頃から付き合ってたみたいで……、
 ――は? 何が? え? 山口は?
 ――うーん……よくわかんないんだけど……、
 まあ仮にここでは彼の名をD君としよう。坂牧によると、D君はA大学の理工学部を卒業してからわたし達と同じ大学院に進学した。夢は建築設計士、趣味はサッカーで、学部時代はサークル活動に熱中していたらしい。大学に入る前に専門学校へ行っていたから、年齢はわたし達より二つ上。ここまではいい。問題はここから先で、山口の彼女、もとい、元彼女(便宜的にCちゃんと呼ぶことにする)も実はA大学の出身で、D君とはその時から知り合いだった。その証拠に、D君のSNSサイトにはCちゃんと同じサッカーのユニフォームを着て写っている数年前の写真がたんとある……。試合の写真、サークル合宿の写真、飲み会の写真、A大学のキャンパスを歩いている写真。坂牧がタブレットの画面を何度スクロールしても、出てくるのは数年前のD君とCちゃんの写真ばかりだ。
 わたしは、それまでCちゃんのことを、普通の、年下の大学生だと思い込んでいた。つまり、高校を卒業してストレートでわたし達の大学に入学した子だと思っていた。でもそれはわたしの勝手な思い込みだったのだ。なぜわたしはそう思い込んでいたのだろう? そしてなぜ山口は彼女についてのそういった情報をわたし達と共有しなかったのだろう? 
 ――この前、紺碧の新歓があったんだよ、その時に聞いてみたんだよね、写真の彼女、見たことあるんだけど? って、そしたら、何て答えたと思う? 
 ――そっくりさんだった。
 ――三年も付き合ってるんだってさ、自分を追いかけてうちの大学に編入までしたんだって。
 ――自分を追いかけて編入……
 ――で、その後がきつい、おれにこう言ったんだよ、Cちゃんがお前の友達と浮気してたことは知ってる、全部知ってる、ずっと我慢してた、あれはつらかった、けど、それはもう終わったことだから、訊かないでほしい、って。

 陶器製の丸灰皿に置き放した新しい煙草が半分ほど白くなっていた。指先で軽く叩くと灰の屑が落ちた。山口が短くなった煙草をくわえると先端が赤く光り、泡のついた唇から薄紫の柔らかい煙が漏れた。グラスのビールは三分の一くらい残っている。真っ黒で、クリームのような泡。中央がやや膨らんだ厚いグラス。液体と泡は完全に分離していて、まるで絵のような飲み物だ。山口は残りを一気に飲み干した。グラスの底には柔らかそうな白い泡の塊がたまっている。
 山口の横顔は、一年半前と比べて明らかにげっそりしていた。痩せたというよりは無理に頬の肉をナイフで切り落としたような、不自然な感じがある。目の下は暗く窪み、肌は乾き、口元に瑞々しさがない。瞳は井戸の底みたいだ。顔色は木の屑のように黄色く、それでいて岩のような質感があるように見える。一瞬、強くなったのだろうか、とふざけた考えが頭をよぎった。強くなどなれるはずがない。
 手をよく見るようになった、と山口は言った。手? うん、手だよ、自分の手、てのひらや甲や指を見るんだ、気付いたらいつも手を見てる。どうして手なの? わかんないけど、何か引きつけられる。手、か……。猿が人間に進化したのは手を見たからだ、って仮説、知ってる? 何それ? 何で読んだか忘れたけど、有名な動物学者の仮説で、猿が進化したのは道具を使うようになったからじゃなくて手を見たからなんだって、つまり、以前は樹上生活を送ってたわけでしょ? それが樹から地上に降りたあと、ある時自分のてのひらを見てしまったと、なぜてのひらを見たことが重要かと言うと、それは自分を客観視することに繋がるからだ、とね、樹上では手の甲しか見えていなかったのに、見えないはずの部位を見てしまった、それが自分を見ることの始まりだ、と。……
 そんなものかなあ、という気持ちでわたしは山口の手を見ていた。山口の手を意識して見たことなんてほとんどなかったのに、その手が、一年半前とは違っているような気がした。だが何がどう具体的に違うのかはうまく説明できない。使いこんでなじんだ革のように味が出てきたような気もするし、枯れる直前の植物のようにも見える。この年齢で身体が成長するはずもないけど、前より大人の手になった気がする。余分な脂肪がなく、乾燥していて、しかもしなやかで清潔。爪は切られていてささくれはない。拳や小指の第二関節あたりに傷跡のようなものが確認できる。そして手の甲と腕を走る青い血管が、土の中の大樹の根のように広がっていた。それはふくらんでいて、体内にあると言うよりはむしろ外から取って付けたもののようで、もし一ミリでも針で刺せば大量の血を飛び散らせそうだった。
 まあ、でも、と山口は自分の手の甲を見ながら言った。樹上でも自分の身体は見えるよね、腕とか脚とか腹とか、だからあんまり説得力ない仮説なんだけど、おもしろいよね。
 キレイだよね、山口の手、と驚くほど自然にそう言葉が出た。え、そう? うん、女の子みたい。そうかな、指は太くて短いし、てのひら分厚くてあんまり好きじゃないんだけど、俺としてはもっとスマートに見える手になりたかった、藤島ふじしまみたいにさ。山口は装飾品のひとつもないわたしの手を指差した。こんなのがいいの、ネイルもしてないのに? とわたしは十本の指を広げて山口に見せる。山口はそれを見て頷く。指が細くて長くてすらっとしてる、指先までひねくれず素直に伸びてきたって感じで、一体感あるし、変な傷もなくて、いかにも賢そうだよ、藤島にはぴったりだ。でも若い女の手としてはあまりに色気がない、と言ってわたしは手を下ろし、カウンター席の下に隠した。そして話題を変えた。ね、進化と関係あるかわかんないけど、手をよく見る人がどういう人か知ってる? 山口は一瞬視線を宙に浮かせ、うーん、そうだねえ、と呟いてから言った。手を見る人は、ナルシストなんじゃない? あ、それけっこう近い、ほとんど正解かも。じゃ俺はナルシストか、知ってたけど。
 その時誰かが笑った。店内にはわたし達以外客はいない。あとは黒いポロシャツを着たバーテンダーと、奥のキッチンスタッフだけだ。イギリスのロックらしき音楽が小さな音で流れているが笑い声の元はそこではない。笑いの元は、カウンターに三人並んだ右端でさっきから寝ている坂牧だった。
 ――オナニストなんだよオナニスト、
 あくびをして身体を伸ばすと、何か異変に気付いて、慌てて周りを探す。でも見つからない。カウンターにも、カーキ色のシャツの胸ポケットやジーンズの尻ポケットにも、バッグの中にもない。わたしが聞くと、めがね、と力なく応える。めがね? わたしと山口は目を合わせて笑う。直後に、ん? という坂牧の声を聞く。なんだあ、よかった~、無くしたかと思ったよ~もう、盗まれたかと。
 誰が盗むんだよ、人もいないのに、と山口が伊達眼鏡を外し、坂牧に返す。坂牧はティーシャツの裾でレンズを拭いてからその黒縁をかける。するとやっと周りが見えてきたようだ。度も入っていないのに、ないと不安になるらしい。
 ――お客さんいないじゃん、今何時?
 こんな早い時間に客が入るわけがないし、わたしはまだしっかり炭酸の効いている二杯目のジントニックを飲み終わったばかりだ。レモンピールの香りが鼻孔を満たし、口の中に弾けた泡とフレッシュな味の余韻が残っている。冷えたジンの爽快さに刺激され、まだ夜も始まっていないというのに、わたしの喉は三杯目のカクテルを欲しがっている。だけどもちろん軽いやつに限る。
 ――よく寝た? と山口が笑いながら聞き、バーテンダーからまた同じ黒いクリーミーなビールを受け取る。
 ――うんすっきりした、と坂牧が頷き、空いていない方のグラスを指差す。でもこれもう、いいや、飲めない。
 ――当たり前だろ、そんなの飲む奴はバカだ。
 ――バカぁ?
 ――七五.五度もある酒を割らずに飲む奴なんてただのバカだ。糞いきがりのイモだ。うまくもなんともない。珍酒ならともかく、こういうのを店で飲むのはすべての酒とバーテンダーに対する冒涜だよ。こんなもんあおってベロベロになるくらいだったら、その酒でテメエの脳みそとキンタマを消毒しやがれ。
 ――だって山口が勧めたんだろぉ……
 ――お前はこれからビールだけを飲むようにしなさい。特に上面発酵のものを選ぶこと。生樽であればなおよろしい。ヴァイツェンやスタウトでも可だが最も好ましいのはIPAで――
 ――いや、言ってる意味が……
 ――いいから今日はこれ、お前はここから始めろ。山口が赤い模様のある銀色のサーバーを指差すと、黒いポロシャツを着たバーテンダーが素早い動作でサーバーのハンドルに手を掛けて引き、そこから赤銅色の液体が流れ出した。もう片方の手に山口のとは違う、丸みのないグラスを持ち、流れ出る液体を受け止める。グラス八分目あたりまで注ぐと今度はハンドルを押し、サーバーからは白く細かい綿のような泡が流れ、赤道色との層をつくる。泡はグラス上端ギリギリで水平に止まり、飲み物というよりは洒落た雑貨屋によくあるキャンドルのように見える。この人が注ぐとすべてのビールは絵のようになってしまうのかもしれない。
 新しいコースターが坂牧の前に置かれ、その上にグラスいっぱいの美しいビールが出された。ビールの名前はロンドンなんちゃらといってよく聞き取れなかった、というのはバーテンダーがロンドンと言った瞬間に坂牧が気まずい反応を示したからだ。
 ――いいから一口飲め、と山口が坂牧に喋る隙を与えず、命じるように言う。坂牧は何か言いたそうだが操られるようにグラスに顔を近付ける。乾燥した唇がキャンドルの表面に触れると柔らかそうな泡が上唇を覆い、その周りに幽かな水流ができて、飲み物を啜る音が続く。坂牧の赤い目が一瞬大きく開き、喉が鳴る。二回、三回と飲み下し、顔を上げ驚いたふうに山口を見る。
 だろ? 山口の言葉に、坂牧は言葉もなく何度も頷く。頷いては一口飲み、一口飲んでは頷き、どこか部品の壊れた玩具みたいに繰り返す。まるでその繰り返しが新しい何かの発見につながるとでもいうように。子供のように素直な反応は人の心を和ませる。
 ――そんなにおいしいなら、わたしもビールにしようかな? わたしにも飲めるようなの、ある?
 ――ボトルでよければね。あれ飲んだことある?
 山口が指差した先のガラスケースの中には世界各国のボトルビールが数十種類並んでいて、彼が言っているのは中段の真ん中あたりにある、茶色いボトルにクリーム色のラベルのビールだった。
 ――ベルギーのホワイトビール。ヒューガルデン。本当はこんなのその辺のスーパーでも買えるんだけど、もし飲んだことなければ一回は飲んだ方がいいよ。ビールに対する見方変わると思う。嫌気さしてるでしょ、ビールには?
 本当はビールなんて聞くだけで鳥肌が立つくらいだ。連日のノミニケーションというパワハラとセクハラの正当化に心底うんざりして、自分はもう居酒屋恐怖症になってしまったんじゃないかと思っている。ビールとウーロンハイという組み合わせは下品だ。この二種類の飲料を愛好する男の頭蓋骨の中はカラッポである、なぜなら彼らの脳は股の間にあるからだ。そう名言風に言うと山口と坂牧は声を揃えて笑った。
 ――でも、仕事には慣れてきたでしょ? 山口が笑いの跡を顔に残したまま言う。一年経って、会社勤めのリズムみたいなものにはさ。
 ――うーん、慣れたっていうかね、とわたしは言った。この一年研修ばっかだったんだよね、デスクの前でパソコンいじったり、資格のための勉強したり。別に営業に同行するわけでもないしさ、なんか、SEの一年目って大学院の時とあんま変わんないかも。それにさあ、配属先に同期が一人しかいないんだけど、その人がつまんなくて。
 ――山口ぃ、山口ぃ。坂牧が嬉しそうに言う。
 ――あ? 何?
 ――同期の男の子の名前が、山口っていうの、とわたしは言った。無口でさ、反応薄くて、同じ名前なのになんでこうも違うのかなーって感じだよ。ほんと、山口と交換したいくらい。交換してー。
 ――世の山口さんは大変だな、と山口がまんざらでもないというように言う。俺と同じ名字なだけで、無口でいると批判される、まあ、ブラック企業じゃなくてよかったじゃん、ぼちぼちやってんだな。
 ――まあ、ぼちぼちねー。山口はどうなの? 順調?
 そう口にするのと同時にとてつもない後悔が襲ってきた。わたしは、なんというデリカシーのない愚問を発してしまったのだろう。もう子供でもないというのに。イヤミではなかったと伝えたかった。しかし山口は、酒飲み親父みたいにわざとらしい豪快な笑い声を吐き出し、わたしに言い訳する暇さえ与えなかった。
 ――順調なわけないだろ? 書けども書けども落とされてばっかだよ、しかも結果が出るのに半年もかかるんだぜ? 半年かけて書き、半年かけて待って、それでバッサリ否定されるんだからな、お前には才能ないよってね、しかも連絡さえないんだぜ? これに比べりゃ就職活動なんてお遊びみたいなもんだったよ、お祈りまでしてくれるんだから世話ないよな、それにさ、最近同い歳の知り合いが賞とったんだよ、デビューして数年の新人が対象の、売れっ子への登竜門みたいな賞なんだけどさ、そいつは親父が詩人で批評家で小説家で大学教授でね、確かシュールレアリスムの研究者かなんかだよ、まあコネもあったんだろうけど才能がすごいんだ、もう俺なんかとは使ってる脳の容量が違いすぎてかなわないんだけど、やっぱ受賞後の祝福とかすごくてさ、生活も変わっちゃって、本格的にアーティスト街道まっしぐら、それに比べて俺はどうよ、毎日スーパーで三百円の弁当食って、一人で部屋にこもりながら誰にも読まれないクズ作品をつくり続けてる、夕方からは日も入らない煙だらけの狭い店で酒つくってよ、今では気紛らわすために始めたバイトがメインになっちゃってる、もう良い歳になって昔の友達は家庭を持ったり会社興して独立したりし始めてるってのに、時々自分が何してるのかわからなくなるよ、みじめだと思っちゃうな、愚かなことだけど自分に同情するよ、だったら辞めちまえと思うんだけど、これだけは辞められないんだ、辞められないよ、そんなことはわかりきってる、だからやるしかない、書くしかない、読むしかない、だけどもうまくいかない、その繰り返しだよ、無限ループみたいだ、順調になんていかないよ。
 ――そっか、そうなんだね。
 なんというマヌケな返しなんだろう、わたしは自分に失望した。わたしのカサついた色気のない二枚の唇のあいだから漏れる言葉なんて、毒にも薬にもならない空気みたいなものだと思っていた。あってもなくてもいいようなもの。だがそれが単に役に立たないというだけで、誰かの痛みをいや増すことだってあるのかもしれない。現に今がそうだ――。わたしは坂牧の前に置いてあるアーモンドを一掴みし噛み砕いたが、砂の塊を口に含んだみたいに舌と喉の奥がパサついてうまく飲み込めなかった。たまらずに坂牧が飲もうとしていた二杯目の水を奪って飲んだ。苦い味がした。
 ――坂牧、お前もそうだろ?
 そう急に言われて、うつむきながらひたすらピスタチオの殻を剥いていた坂牧は呼ばれた犬のように顔を上げた。
 肩から先の関節がすべて外れたかのように両腕を重力への抵抗から解き放ち、あごをだらしなくあげて山口を見ると、口を開けたまま、焦点があっているのかいないのか、ただ一点を見つめたまま坂牧は長い長い息を吐いた。そのゆっくりとした吐息が終わると、坂牧の頬にある窪みはより暗さを増したように見えた。
 ――もう留学できないのか?
 ――奨学金でないもん。
 ――ロンドン以外にもトップレベルの大学院はある。
 ――おれの分野ではあそこじゃないとダメだもん。このご時世、冷戦研究なんかやってて留学できないのは致命的だよ。
 ――でもさあ、とわたしはまたしても軽薄なことを口にしようとしているのに気が付き、しかしそれでも言いかけた言葉を押し込めることはできず、無意味な垂れ流しに屈することになった――なんで坂牧が落ちるんだろう? トフルの基準は越えてるし、修士論文は学内誌に載ったし、その大学のOBの先生の推薦状が二通もあるのにさ。
 ――成績じゃねえのやっぱ、一年の時の、と山口がビールを一口飲んで言うと、その動きにつられた坂牧がなぜかビールではなく半分くらい氷の溶けたロックグラスの方をあおってしまい、うわああああ焼けるぅぅぅぅと叫んでビールのグラスに口先を突っ込んだ。グラスの中身があっという間になくなってしまうと、カウンターから氷の入った水が同じ大きさのグラスで出てきた。今度はコースターがなかった。バーテンダーは無言で表情もなかった。バカだなお前は、と山口が言い放った。坂牧は黙って水を飲んだ。そして図ったように、二人同時に溜息を吐いた。
 誰も喋らない重い数秒間が続いた。店内の音楽はイギリスのロックから電子音に裏声で歌うお経を混ぜたような現代音楽に変わっていた。リズムとかメロディを無視したような、始めも終わりもわからない音楽。その音に、バーテンダーがグラスを拭く音が、DJのスクラッチ音のように被さっていた。わたしが何か言わなければならない、わたしが何か言わなければならない、脅迫観念のようにわたしはそう思い続けていたが、わたしの舌は動きを止め、わたしの手はケータイをいじり出した。……
 わたしには言葉というものがないのだとその時わかった。
 言葉がない、という言葉だけは持っているのだとしても、それは今のわたしにとって意味のない言葉だ。わたしは山口のように言葉を生みだすことも、坂牧のように言葉を分析することもできない。
 さっき勧められたヒューなんとかを注文しようとして口を開こうとした、すると同じタイミングで山口も口を開き、でもお前さ、負け惜しみじゃないけど、俺はこう思うよ、と言ったのでわたしは再び口を閉じた。
「確かにお前は研究者としていきなり躓いたかもしれない、よーいドンで差をつけられた、それは大きなハンデだし、これからきっと苦しむだろう、色々と不利なこともある、制約の数と大きさが違うもんな、でも、大切なのは、そうまでして追うべき何かを持っているかどうかってことだろ? まずそこが一番重要なんだよ、それがあるのとないのとでは人生の意味が全然違う。お前には追うべき何かがある、それはすごいことなんだよ、わかるよな? ものすごくラッキーなことだし、真剣に生きてなきゃそんなものは見つからない。そういうものがある、あると胸を張って言えるというだけで、人生は半分成功してるようなもんだ。それにな、お前が落ち込むのはお前の志が高いからだよ、そして、それはお前が正しい方向に進んでいることの証でもある、なぜなら、お前みたいに高い志を持っていなければ、何かを手に入れることなんて絶対にできないからだ。本当に自分が欲しいものを手に入れた人達を見てみろ、彼らはみんな、かつては今のお前と同じだっただろ? バーナード・ショーは音楽評論のゴーストライターから仕事を始めた、ポパーは中学校で六年間も働いた、ケネディに至ってはLSEをクビになってる。わかるか? すべての偉人はかつて坂牧だったんだよ。みんなここから始まったんだ。だいたい、お前はまだ研究者になる道を閉ざされたわけじゃない、そうだろ? ちょっと理想から外れただけで、夢破れたわけじゃない。どこにいたって、たとえひとりぼっちになろうと、自分さえしっかりしてれば、夢は追える」
 言い終わると山口はばつの悪そうな顔で丸灰皿に煙草をきつく押しつけ、新しい煙草に火を点けようとした。しかし火はなかなか点かなかった。すると坂牧が黙ってライターを差し出した。山口はそれを黙って受け取った。今度はすぐに、小さな、頼りない火が点いた。
坂牧は何も言わず、両手で水滴のついたグラスを握っていた。山口が口から大きな煙をゆっくり吐き出し、ビールを飲み干すと、坂牧はグラスに口をつけて水を飲んだ。
わたしの心臓は少しだけ高鳴っていた。単純だとはわかっていたが、それでも胸の奥で何かが溢れ出そうだった。
 ――で、手を見る人ってどんな人なの?
 山口が火の点いたばかりの新しい煙草を丸灰皿に置いてそう聞いた。山口のやさしい手の上を、青く太い血管が走っている。
 ――手の話はもう終わりにしてわたしもそれを飲む、わたしは坂牧のグラスを指差した。山口もグラス空いてるよ、一緒にロンドンなんとか飲みたい。
 一瞬山口の動きが止まって視線がわたしの顔に固定され、やや間があってから、ロンドンの誇り、と彼は言った。
 一切の説明を拒むようにすかさずわたしの口が開いて言葉が出た。
 ――もう一回三人で乾杯しよ、この新宿のバーで、ロンドンの誇りを片手に――。

〈了〉

【著者紹介】

山田宗太朗やまだそうたろう@ssafsaf

 1985年静岡県生まれ、岐阜県育ち。中学時代に二年間ドイツ留学。
 早稲田大学スポーツ科学部を卒業後、一年間アメリカへ留学。コンサルティング会社勤務を経て早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。専攻は政治学、投票行動論。現在はバーテンダーのマネゴトをしながらボヘミアン的インディーズ作家として活動中。著作に『おばあちゃんのあじごはん』(Kindle)。
 趣味:バスケットボール、野球観戦(広島カープ)、音楽鑑賞、空手。
 好きなビール:スコッチエール、IPA、ポーター系。
 得意カクテル:セックス・オン・ザ・ビーチ、オーガズム、SARINA(オリジナル)。
 好きな作家:村上龍、マリオ・バルガス=リョサ。

★ブログ「世界のやさしい無関心に」
 http://ssafsaf.tumblr.com

★クランチマガジン著者ページ
 https://i.crunchers.jp/user?id=59

Appendix

『わーくしょっぷ』シリーズとは

 得意ジャンルも作風も異なる五人の書き手が集まって一冊の本を織りなす短編集。
 一巻はノンジャンル、二巻以降は巻ごとにテーマを決めてお送りします。

 参加者(五十音順):これこ、笹原祥太郎、楢野葉、晴海まどか、山田宗太郎
 編集・校正:晴海まどか
 表紙デザイン:楢野葉

『わーくしょっぷ』vol.2紹介

 テーマは『バレンタイン』!
 甘かったり酸っぱかったりほろ苦かったり。
 チョコレートのような物語をお届けします。

◆楢野葉「水晶柱」
◆晴海まどか「彼女のチョコと呪いの顛末」
◆笹原祥太郎「失意と再生のバレンタイン」
◆山田宗太朗「エーデルワイス(スノーフレッシュ)」
◆これこ「君の冷たい手」

わーくしょっぷ[アンソロジー短編集]

2014年12月23日 発行 初版

著  者:晴海まどか、楢野葉、笹原祥太郎、これこ、山田宗太郎
発  行:白兎ワークス

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