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いつでも薄い膜を一枚隔てて話をしているような気がする。いつでも薄い膜を一枚隔てて触れ合っているような気がする。並んだ布団に寝転がり、おれに背中を向けて泣く女。あれから二年が経った。
昨日、この街でも梅雨入りが宣言された。五年履いたコンバースを燃えるゴミの日に捨てた。五年の間に、住んでいる部屋も仕事も付き合っている女も何度も変わった。最近は毎朝、若い知的障害の青年と一緒に池の鯉に餌をやっている。鯉の稚魚は黒く小さく、十数匹の群れを成して機敏に泳ぎ回っている。このうちのほとんどは夏がくるまでにカラスやサギに食われて死んでしまう。
「毎朝餌なんかやってるとさ」
「はい」
「愛着湧いてくるよね」
「かわいいですね」
「おれが? 魚が?」
「魚がです」
「あっそ」
何かに慣れるなんてことは少しも立派なことじゃない。おれは何かに慣れることと引き換えに笑わなくなり、怒らなくなり、泣かなくなった。歌わなくなり、踊らなくなった。いずれは書かなくなる時がくるだろう。愛さなくなる時がくるだろう。
「もう寝ちゃうの? あたし何しにきたか分からないんだけど」
部屋には洗面所のコップと湯飲みがふたつあるだけだった。彼女が持ってきた白ワインを、おれは湯飲みに注いで一杯だけ飲んだ。残りは全て彼女が飲んだ。美しく伸びた彼女の白い足、その指先がおれの唇をなぞる。彼女は気が狂っている。
感動はまだ残されている。彼は新しい詩や歌や物語に触れることができる。山から吹く土の匂い、夜の海に降る黒い雨、あらゆる種類の生命と人、キスやセックス、輝くような恋の喜びが残されている。彼はキャラメルやチョコレートの刺さるような甘さに噎せ返り、血反吐を吐いて崩れ落ちるだろう。彼の方がおれなんかより人生ってやつを分かってる。冷蔵庫に寄りかかり、煙草の煙を燻らせながら女が言う。キャミソールの肩の紐、強がって涙目。
「あなたには」
おれはまだ書ける。
「きっと深い闇がある」
冗談じゃねえ。
彼女の取柄は歌とセックスだけだった。時々は絵や物語を書くこともあったが、どちらも歌とセックスに比べれば子供の遊びにも等しい無価値なものだった。おれは「絵本作家になりたい」という彼女を一笑に伏し、聴いている音楽にケチをつけてくる彼女を「センスがねえ」とこき下ろした。セックスは一晩に三回も四回もやった。彼女の男は彼女のアパートから電車で三十分のところに住んでいて、彼女はセックスが終わるたびに携帯電話に着信がないかを確認していた。おれはそんなことはどうでもよかった。彼女は後ろから髪の毛を引っ張られながら犯されるのが好きだった。犯されながら顔面を床に押しつけられるのが好きだった。二人ともまだ若くて、実験でもするみたいにあらゆる種類のセックスを楽しんだ。
おれも彼女もとにかく金がなかった。彼女はインスタントコーヒーを麦茶みたいに薄めて飲むのが好きだった。たまにハンバーガーを奢ってやるだけで泣いて喜んでいたし、おれにとってもそれが精一杯の見栄だった。二人とも陽の当らない安アパートに住んで、毎日途方に暮れていた。いつだって金がない若者にとっては、セックスが最も手頃な暇潰しだ。
彼女は「幸せになるのが怖い」とよく言っていた。何もかも満たされてしまったら歌が歌えなくなってしまう。私は私の抱えている欠落についてよく知っている。この欠落が満たされてしまったら、きっと何かを生み出すことができなくなる。だから幸せにはなりたくない。幸せになるのが怖い。そう言って携帯の電源を切り、おれを薄い布団に引き込んで、分厚い舌を突っ込んでくる。「幸せになりたくない」と言っている女が、おれと何度も何度もセックスをしたがる。安心しなよ。お前みたいなやつが幸せになるなんてことは、これから先も永遠にない。
三キロ先のゴキブリの足音を聞くことができたのは、その頃の話だ。今のおれにそんな真似は到底できない。彼女の歌は真に素晴らしいものだったが、今ではパチンコ屋のBGMに成り下がっている。おれは見ての通り、色んなものと引き換えにあの頃大切に抱き抱えていた何かをこうして見失っている。
目覚めて最初に目に入ったのは薄らぼやけた天井、暗くて分からないが恐らく色は白。自分の部屋ではない。カーテンが日光を遮っているせいで時刻の想像がつかない。服は一枚も着ていない。脳味噌が少しずつ思考を紡ぎ始め、失われた昨日の記憶が薄皮を剥かれるようにして少しずつ露わになっていく。まず、この街はどこだ。歯を磨かずに寝た。最後に飲んだ酒はウォッカトニック、その前はジンジャーエールで割ったカティサーク、その前も同じ、その前はビール、ビール、ビール、その先が思い出せない。耳鳴りがする。多分、騒音性の難聴。原因は分かってる。キャバレーの地下室で見た下手糞なラモーンズのコピーバンド。ラモーンズをラモーンズよりも下手糞に演奏するには血の滲むような努力が必要だったに違いない。枕元の時計を見ると、デジタルの角張った数字が午前五時を示している。なるほどね。脳味噌の何か重要な機能が動き出す。時刻を知る前と後では、モノクロの風景に色がつくくらいの違いがある。部屋を見渡し、テーブルの上に服が畳んで置いてあるのを見つける。当然、自分で畳んだわけがない。ようやく一番肝心なことを思い出した。顎髭が背中をくすぐるたびに小さく声を上げる女。笑うと目が切傷みたいに細くなる。血のついたシーツ、潰れたサッポロの缶、水の入ったペットボトルが倒れてる。他に忘れていることはないか? 何か思い出すべきことは? それにしても、なかなかの吐気と頭痛だ。関節も軋む。カーテンを開ける。ビルの輪郭と電線が、まだ眠ったままの街の空を切り取る。この時間でも薄ら明るい、濁った都会の青。もうぼちぼち夏ってことか。女の言葉が側頭部で疼く。黙ってろ。おれのセックスはあんなもんじゃねえんだよ! 頭痛が一層酷くなる。頭を二、三発殴って調子を整える。シャキッとしろ。まずは歯を磨き、服を着ろ。水を飲んで、財布の中の金を数えろ。ヤニで黄色くなったシャワーカーテンを引っ張って、蛇口を捻る。ここまでは何の問題もない。順番にひとつずつ片付けていくだけだ。床に落ちていたコンドームを拾ってゴミ箱に捨てる。冷蔵庫を開けて酒を探す。大丈夫か? 大丈夫に決まってる。簡単なことだ。どうってことない。だからおれを愛すな。もう誰もおれを愛すな。
部屋にいても気が滅入るだけだから外に出ることにした。食器と洗濯物は溜まっていく一方で、狭いユニットバスからはアンモニアとカビの混ざった酷い臭いがする。床には薄い布団が敷きっ放しになっていて、その周りに空になった酒の瓶やビールの缶が散乱していた。外に出たって行くところなどないが、この部屋で寝転がっているよりはいくらかマシに違いない。締め切ったカーテンから差し込む微かな光が、おれをそういう気分にさせた。外に出れば何かいいことが起こるかもしれない。洗濯物は三時間後のおれが何とかする。
平日の昼間、かつて関東一の風俗街と謳われたその町は、夜間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。車の往来はあるが歩行者の数は極端に少ない。潰れたコンビニエンスストアの前を横切り、河原のある方に向って歩いた。伸び切った寝巻のTシャツにサンダル履き、ケツのポケットにはギルビーの小瓶を入れ、手にはカバーを外して丸めたサローヤンの文庫を持っていた。空は曇っているが、雨が降るのはまだ少し先だろう。僅かな酒と文庫本の他には、金も食うものも何もない。次の眠りがやってくるまでの数時間をいかにマシな気分で過ごすか、それだけが重要だ。生活は、過ぎたところから石のように凝り固まって、人生そのものに姿を変えていく。時間は一秒たりとも無駄にはできない。だから、さっさと酔っ払う必要がある。
石造りの階段を上って土手を越えていく。町中と同じく、河原に人の気配はない。犬の散歩で土手を横切る者の他には、錆びた鉄橋を走る電車が遠くに見えるだけだった。土手を下り、自分の身長ほどもあるススキの群れを掻き分けて、川がある方へと近づいていく。湿った土と植物の匂いがする。
コンクリート製の堤防は曇天のせいでひんやりと冷たかった。脱いだサンダルを枕にして、そこに寝転がった。太陽は自分の真上にあったが、灰色の分厚い雲がその全てを覆い隠している。瓶の蓋を捻って、透き通ったウォッカを一口飲む。脳味噌が冷たくなって思考の輪郭がぼやけ、閃きが鋭くなっていく。サローヤン、パパ、ユーアークレイジー。マリブの海辺で暮らす父と子の物語。父は息子に自分自身を主人公にした小説を書かせる。こんな素晴らしい本が古本屋に行けば簡単に手に入る。酔っ払っている時と物語に没頭している時だけが、人生における有意義な時間だ。脈打つ活字を黒眼の真ん中で受け止めて、奥歯で噛み砕いて全身に伝えていく。他に価値のあることなどない。やるべきことなどない。
太陽が斜めに傾き、湿った風が吹き始めた。本を読んでいる間は気付かなかったが、珍しく対岸に釣り人の姿が見える。こんなところで何か釣れるのだろうか? 読んでいた本を開いたまま顔の上に乗せ、鼻と口を塞ぐ。古びた紙の匂い。携帯電話にメールが届く。
「いま家の前にきてるんだけど中にいないの? 食べるものある? おにぎりと果物持ってきたから置いておくよ」
彼女はかつての勤め先の同僚だった。高校を卒業して、進学するでも就職するでもなく、アルバイト先の百円均一ショップでおれと知り合った。おれはさっさと辞めてしまったけど、彼女は今でも働いていて、こうして時々廃棄になった食べものを運んでくる。おれが空腹で野垂れ死ぬのを、彼女が阻止している。おれの人生の幕引きを、彼女が引き延ばしている。だけど一体、何のために?
本を閉じ、ウォッカの瓶に透かして太陽を見上げた。もはや酒すらも残り少ない。三時間前のおれのせいで、そろそろ洗濯のことを考えなければならない。雨が降りそうだが、明日履く靴下のためだ。おれは結局、まだ死にそうにない。
彼女に電話をかけて「今から帰るから少し待っててくれ」と伝えると、彼女は声を弾ませて「わかった」と言って電話を切った。まったくわけが分からない。彼女は何を考えているのだろうか。おれを生き長らえさせて、どうするつもりなのだろう。父と子の物語は佳境にさしかかっている。穏やかに吹く夏の風、海に沈む夕陽、貝を使ったメキシコの料理。今日という今日は確かめた方がいいのかもしれない。まず彼女に礼を言う。髪に触れ、首筋に小さくキスをする。本を何冊か売れば、二人分の小さなケーキくらいは買えるかもしれない。彼女の匂いに包まれて眠るのは、きっと素晴らしいことだ。立ち上がり、ケツについた砂を払ってサンダルを履き直す。酒の最後の一口を飲み、文庫本を丸めて歩き出す。対岸の釣り人はまだ糸を垂れている。鉄橋の上を電車が走り去る。雨が降り始める。
彼女のキスは滑らかさや繊細さとはかけ離れている。キスのたびに、舌が筋肉でできていることを思い出すことができる。粘膜と粘膜が接しているとは思えないほど、舌の輪郭は蛇でも呑み込んだみたいにくっきりと明確なままだ。おれの口の中で、何か不吉な生き物が唾液に塗れて蠢いている。地下から生温かい悪臭が漏れ出す。渋谷。
バーだかヘチマだか知らねえが、酒はビールとテキーラさえあればあとは何でも構わない。さっきから奥の席の関西弁の女とやけに目が合う。華奢なグラスを摘まむ彼女の指を、根元から噛み千切って飲み込む。血の涙を流して卒倒する彼女のマンコに指を突っ込んで、片手で全体重を支えてやる。安心しろ! おれがおまえを支えてやる! 噛み千切った指を吐き出して、胃液と一緒に唇の間に捻じ込む。客はおれたちの他には誰もいない。これは一体、何の話だ。笑える。
彼女の髪は雨で濡れている。耳から昆虫みたいなでかいピアスをぶら下げて、どこの国の言葉だか分からない刺青を鎖骨に沿って入れている。おれはキスをしながら、その言葉の意味を想像する。彼女は目を細め、やけに力強い舌を何度も何度も絡めてくる。くだらない。おれはただ、酔っ払っていたいだけだ。ビールを飲んで、何かに腹を立てていたいだけだ。
いつもこれが最後の一杯だと思って飲んでいる。グラスの底に沈んでいる何かと目が合うまでは、飲み続けなければならない。今のおれは搾りカスみたいなものだから、どれだけ飲んでも昔みたいに何かに火がつくようなことはない。ただ唇が焼け、舌が渇く。不満なことは、もうそれくらいしか残っていない。
あらゆる深夜に飽きた。二時にも三時にも四時にも飽きた。五時にはもう駅のホームにゲロが吐き捨ててあるし、六時はとっくに犬の散歩の時間だ。気がつくと部屋の隅に二人分の服が脱ぎ捨ててある。とにかく、お前も飲めよ。まったく新しい、これとは別の深夜が必要だ。暗過ぎて何も見えず、何も聞こえない、まったく新しい別の深夜に逃げ込まなければならない。
小説を書こうと思ってノートを開いた。登場人物に名前をつけているうちに、何もかも嫌になってしまう。彼女は電車の中でセックスをしたことがある。田舎の電車で、彼らの他には誰も乗客がいなかった。身体を触り合って、駅に停車するたびに着ている服を直して、男は今にもイキそうで、窓から夕陽が差し込む車内でとうとう彼女の中に射精した。彼女は今でも同じ電車に乗るたびに思い出す。若い自分の無軌道さと、歳下の男の汗の匂い。
画面に映った自分と目が合って、足りないものがなくなっていることに気づく。もう血は流れていない。傷口は塞がった。少しは喜べよ。貰いものの詩集のページを開いたら女物の香水の匂いがして、おれは誰かに謝りたくなって母親に電話をかけた。ラム酒の底にバニラ、瓶を開けると同時に瘡蓋が疼いて、結局おれは安心してしまう。画面の中の男が言う。
「この前の一杯がお前を殺してしまうべきだったのかもしれないな」
女に会うために香水をひとつ盗んできた。紫色の小瓶に金色のリボンが巻いてある。彼女は悪女扱いされるのを喜ぶ。狂人扱いされるのを喜ぶ。清潔なシーツに寝転がって、まずは電気を消す。音楽をかける。彼女を膝の上に乗せ、ワインのコルクを抜かせる。服は着たまま、劣情を手懐けて、沁みったれたロマンチックとかいうクソの頭にてっぺんから酒をドボドボかけていく。
水と変わらない見た目のこの透明な液体が、飲んだら飲んだだけ脳味噌を使い物にならなくしていく。今日は日本酒を飲んだ。自分が酔っ払っているのかどうかが分からなくなる瞬間がある。だけどそれ自体、まだ酔っ払っていることの証拠に他ならない。とっくに死んでいるはずの音楽家がまだ生きているという話を聞かされた。その音楽家のレコードは擦り切れるくらい何度も聴いた。ブラジルの刑務所で録音された狂乱のサルサ。二千人の受刑者の興奮と黒いブラスのポリリズム。だけどこれが夢なのか現実なのかは、酔いが覚めてみないと分からない。彼は確かに死んだはずだ。
「誰かに慰めてもらおうとか甘えさせてもらおうとか、よくないのは分かってるよ。だからもうやめよう」
「クドクド景気が悪いんだよ馬鹿野郎が! さっさと服を脱げ、クソったれ」
こういう夜がいちばん危ねえ。何度も想像した新しい裸、ブーツの中にストッキングが丸めて捨ててある。もう足の先まで酔っ払っちまったよ。だから気をつけろ。セックスされるぞ。怯える女、目を真っ赤に充血させて、キスもフェラチオも酒の味。空の冷蔵庫からモーターの音がするのが悲しくて、残った缶ビールを突っ込んでやった。それでまたこの部屋で孤独なのはおれだけになった。
大阪、場末のライブハウス。ステージ前方にカメラを抱えた華奢な男がいるな、と思っていたら彼女の知り合いだった。アマチュアの写真家で、前の職場が同じだったのだ、とバンドの転換中に紹介された。身長はおれより二十センチは低そうで、体重も二十キロは軽そうだった。両腕に刺青が入っていて、ボサボサに伸びた髪の毛の右半分が黒髪、左半分が金髪だった。
彼女に「なんて紹介したらいいの?」と聞かれて、おれは「普通のサラリーマンだよ」と答えた。彼はおれより五歳年下だった。目が細く、笑うと人懐こい顔になった。彼は「これ、もしよかったら」と言って一枚のチラシをおれに手渡した。彼が自費出版した写真集のフライヤーで、マイクを握ったモヒカンの男の横顔が表紙になっていた。おれは素直にそれを格好いいと思ったし、いつかその写真集を買いたいと思った。立派なもんだ。酒の味がついた氷を頬張って噛み砕き、空になったプラスチックカップを握り潰してゴミ箱に捨てた。
バーカウンターで新しい酒を買って、隅にあるソファに座った。遠くで彼と彼女が話しているのが見えた。何を話しているかは分からないが、おれの知らないことについて話していることはよく分かる。今日は少し飲み過ぎたかも知れない。見慣れたはずの彼女の睫毛や唇が、今まででいちばん美しく見えた。彼女のキャミソールから覗く胸の谷間が、今まででいちばん深く見えた。まったく、おれも焼きが回ったものだ。
バンドの演奏が始まると、彼はカメラを抱えてステージの前方へと消えていった。おれは彼女に近づいていって、腕を掴んでトイレに連れていった。個室の鍵をかけて、そこでセックスをした。
四ヵ月前にかけた強めのスパイラルパーマが伸びに伸びて、葉加瀬太郎かブルーザーブロディのようになっている。明日食う飯もないのになぜパーマなんてかけてしまったのだろう。今は床屋に行く金もない。髪を切ろうにも家には文房具の黄緑色のハサミしかない。ハサミの柄のところには平仮名で自分の名字が書いてある。小学生の時に学校に買わされたハサミ。油性マジックで書かれた文字は薄く消えかかって、まるでおれの預金残高のようだ。店からかっぱらってきた茶色い輪ゴムで髪を束ねて後頭部でまとめ、目クソをほじってパンツにこすりつけた。なんとかギリギリで外を出歩けるツラになった。
冷蔵庫を開ける。開けるたびに今日が昨日からの連続であることを思い知らされる。今日は夢を見た。自転車で行ける距離に品揃えのいいレコード屋があって、そこに通い詰めているという夢だった。当然この辺りにそんな店はない。冷蔵庫には味噌とマヨネーズと白ワインが入っている。昨日のおれは今日のおれに、味噌とマヨネーズと白ワインしか残さなかった。酒があるだけ慈悲深い方かもしれない。安物のワインの栓を開け、ボトルに口をつけて何口か飲んだ。酔っ払いながら働くわけにはいかないが、店に着く頃には酒は抜けるているだろう。とにかく今日一日、身体が動くってことの方が重要だ。味噌を舐めて水道水をガブガブ飲む。マヨネーズは明日のおれのために残しておく。
服は床に散らばっているもので全てだった。ズボンは数年前の誕生日に女に買ってもらったジーパンしかない。頑丈で気に入っていたのに最近ケツのポケットに穴が開いてしまった。上着は数枚、近所の紳士服屋で三枚数千円の白いワイシャツを買ってきて、それを着ている。本当はスーツに合わせて着るものなのだろうが、構うことはない。服なんてものは乳首さえ隠れていれば充分だ。何なら乳首が隠れている必要もない。ブルージーンズに白シャツだから、江角マキコと大して変わらない。何の問題もない。
この街に引っ越してきた時に乗っていた自転車は、駅前に置いていたらあっという間に盗まれた。今乗っている自転車は河原に落ちていたのを拾ってきたもので、サドルもハンドルも錆びついて高さを調節することができない。カゴは底が抜けて使いものにならなくなっているが、金を出して買ったわけではないから文句は言えない。防犯登録のナンバーがやけに鮮明に残っているのが時々不安になる。ある日突然持ち主が現れて、おれを窃盗で刑事告訴するかもしれない。冗談じゃねえ。そもそもこいつを河原に捨てたのはどこのどいつだ。おれは錆びて朽ちていく運命だったこいつを拾ってきて大事に使ってるんだから、むしろ感謝して欲しいくらいだ。自転車が言葉を話せたら、裁判ではおれを擁護するに違いない。だけど自転車は喋らない。だから誰もおれを擁護しない。
分厚い鉄扉を開けて外に出た。やはり朝からワインなど飲むべきではなかったのかもしれない。店に向かうはずが、何もかもどうでもよくなっている。上司にどやされることや同僚に小言を言われることは普段から気にならないが、職を失うことや来月の給料のことまでどうでもいい気分になってしまった。駅に向かう労働者の群れから離れて自分勝手に振る舞うのは愉快なことに違いない。破れていない方のケツのポケットに全財産と定期券、改札をくぐって行けるところまで行ってみるってのはどうだろう? 三時間も電車に乗っていればひとつくらいは無人駅がある。JRは儲け過ぎだから、おれひとりの無賃乗車くらいは見逃してくれるだろうし、見逃すべきだ。できれば海の見える駅がいい。
定期券を使って改札をくぐり、残ったわずかな小銭でビールを一本買った。通勤時間帯のホームは人で溢れ返っていたが、そのほとんどが上りの満員電車に吸い込まれていく。おれは彼らと逆方向の空いた電車に乗って、自分の一日がわけの分からないところへ転がっていくのを待った。
不労収入で生きているやつなんてのはどうしようもない怠け者に決まっているから、おれ一人が少しばかり家賃を振り込まなかったからって気づかれはしないのではないか。という考えに基づいて、家賃の振込日を毎月少しずつ遅らせていって、半年かけて振込日を「ちょうど一ヶ月遅れ」にした。パッと見るといつもと同じ日に金が振り込まれているが、実は一年で十一カ月分しか振り込んでいない。ちょうどロックフェスの時期だ。浮いた家賃でフジロックに行くってのはどうだ? などと考えていたら大家から督促の電話があって、結局いつも通りに家賃を振り込んだ。金がなくなった。
女が出ていって一ヶ月が経った。スーパーに米を買いに行く途中、女がいた頃に一緒になって可愛がっていた野良猫がいるのを見つけた。目つきの悪い三毛猫で、おれにはちっとも懐かなかった。遺伝の関係で三毛猫のほとんど全てが雌だってことは彼女から教わった。まだしばらくは、何を見ても彼女のことを思い出してしまうだろう。今頃はあの三歳年上の自動車ディーラーとカーセックスでもしているに違いない。まるで弾けるようだったあの乳と尻は、今はもうおれのものではない。
米と缶詰が入ったビニール袋をぶら下げてコーヒー屋に入った。若い女の店員はおれの顔を覚えていて、何も注文していないのにいつものアイスコーヒーを作り始める。おれだって温かいコーヒーや牛乳の混ざったカフェオレみたいなものが飲みたい日もあるが、彼女があまりに張り切って気を利かせてくれるものだから、いつも黙って出されたアイスコーヒーを飲む。アイスコーヒーという飲みものはどう考えても苦い。ビールも同じだが、どうしておれはこんな不味い飲みものが好きなのだろう。時間をかけて不味い飲みものを少しずつ飲む。アパートに帰ったってやるべきこともやりたいこともないから、飲み終わるまでに時間がかかるように、なるべく不味い飲みものを選んで飲む。そして、この辺りではこの店のアイスコーヒーがいちばん不味い。
アパートに戻る途中、古本屋の前に大型のトラックが停車しているのを見つけた。古本の他に中古CDやゲームソフトも取り扱っている店で、トラックの荷台には清潔そうな段ボール箱がうず高く積み上げられていた。どうやら今日は新作ゲームの発売日らしい。運転手が段ボールを抱えて店とトラックを往復している間、おれは荷台から段ボールを盗み出す自分の姿を想像していた。運転手が店の中に入った隙に、段ボールを一箱かっぱらって中身を全部売り飛ばす。一ヶ月分くらいの家賃にはなるだろう。うまくいけばフジロックにも行けるかもしれない。よほど不審そうなツラだったのか、おれに気付いた運転手が荷台の扉を閉めて鍵をかけた。本当に盗むつもりなんてなかったから、少し悲しかった。タイヤの陰から三毛猫がこっちを見ていた。コーヒー味の痰を吐いて、アパートに帰った。
誕生日プレゼントに欲しいものを聞かれて「なんでもいいから食べるものをくれ、できれば保存ができてあとから食べられるものの方がいい」と伝えたはずが、何をどう間違えたのか彼女はケーキと一緒にお歳暮みたいな箱に入ったインスタントコーヒーのセットを持ってやってきた。ケーキはその場ですぐに食べた。残されたインスタントコーヒーはドリップコーヒーが小包装になっているタイプのもので、厚紙でできたボックスをマグの縁に引っかけて豆が入った袋にお湯をかければコーヒーが滴り落ちてくるはずなのだが、何度やってもうまくいかなかった。パックに書かれた説明を見ながら作っているにもかかわらず、どうしても「ちょっと苦いだけのお湯」になってしまう。パックはブルーマウンテン、ケニア、バリ、ハワイコナの四種類があったが、どれで試しても同じだった。何度作っても全部「ちょっと苦いだけのお湯」ができる。まるでおれの人生のように苦み走って薄っぺらい味だ。と言いたいところだが、おれの人生は言うほど苦み走ってはいない。確かに預金残高は三桁と五桁を往復し続けているが、それだって借金があるよりは遥かにマシだ。
実家の姉からメールで「タケダ写真店のホームページに娘の七五三の写真が載ったから見て欲しい」と連絡があった。タケダ写真店はおれが子供の頃から地元にある古い写真屋で、近所の小中学校で遠足や運動会があると、学校で依頼をかけて写真を撮りにきてもらっていた。おれの学年は県内でも有名な不良が集まっていて、他校の生徒と揉めたり教師を殴ったりするやつがざらにいた。写真屋の親父は眼鏡をかけた人の好さそうなおじさんだったのに、彼らは大人と見れば見境なくちょっかいを出してしまうから、運動会の時もグラウンドの端に駐車してあった写真店のライトバンを十人くらいで囲んで蹴っ飛ばしていた。意味が分からない。
姪っ子とは去年の正月に会ったきりだ。「叔父貴」と呼ばせたかったので一日かけてそう仕込んだのに、笑っているのはおれと姪っ子の二人だけで、他の親族からは汚いものでも見るような目で見られてしまった。あの頃の姪っ子はまだ二歳になったばかりでようやく言葉を話し始めたくらいだったから、一年以上前のことなどとっくに忘れてしまっているだろう。次に会ったらもう一度ゼロから仕込まなくてはならないが、面倒くささを考えるともう「叔父さん」でいいような気もする。というか「叔父さん」でいい。「叔父貴」と呼ばせる必要は最初からない。全然ない。
セックスのあと彼女に「子供とか欲しいと思う?」と聞いたら「一人ずつ欲しい」という答が返ってきた。この「一人ずつ」が意味するものは恐らく「男と女を一人ずつ」ということだと思うが、保存の効く食べものを買ってきて欲しいという注文にインスタントコーヒーの詰め合わせを買ってくるような女の言うことだから、油断はできない。男の子と女の子の兄妹が欲しいと思って彼女と結婚したはずが、気がつくとオスのウサギとメスの孔雀を飼っていた、というようなことになる可能性は充分にある。彼女といるとそういうことがよく起こる。不思議でならない。彼女と付き合う男は誰でもそうなってしまうのだろうか。それともおれだけがおかしいのだろうか。おれは「彼女がどんな顔をするのか見てみたい」というだけの理由で無性に別れ話がしたくなった。そしてその衝動を抑えることができなかった。彼女は他の女と同じように驚き、他の女と同じように泣き、他の女と同じように呆然として、服を着て、荷物をまとめて出ていった。彼女は思い出と謎とインスタントコーヒーを残して消えてしまった。おれはおかしいのだろうか。テーブルの上のコーヒーは冷めきって「ちょっと苦いだけの水」に姿を変えている。おれは小皿の上に乗せられた食べかけのケーキを眺めながら悲しくなるのを待った。だけど全然うまくいかなかった。もう一度コーヒーを淹れるために、ヤカンを火にかけた。スマートフォンでホームページにアクセスして、写真屋の親父が今も生きていることを知った。
クリスマスイブ、テーブルの上には彼と彼女が食い散らかしたナシゴレンや春巻が冷め切ったまま散乱していた。何を何杯飲んだのかまったく思い出せない。汚れた皿と空いたグラスの間を縫うようにして、彼女の上半身が赤いテーブルクロスの上で突っ伏している。彼は彼女の髪を引っ掴んで頭を揺らし、目を覚ますように促した。彼らは三度だけセックスをしたことがある。
場末のアジア料理店、普段はガラガラに空いているのに、その日は若い男女と忘年会のサラリーマンの集団で珍しく賑わっていた。こんな店にクリスマスに合うようなメニューは何もない。サラリーマンの集団は顔を真っ赤にしてビールばかり飲み続けているし、何組かの若い男女は途方に暮れたような顔で互いの杏仁豆腐とマンゴープリンを一口ずつ交換している。クリスマスだってのに、あいつらの店のチョイスはおかしい。イカれている。彼はそう思いながらテーブルの上の唐揚げを指で摘まんで、眠っている彼女の頭の上に乗せた。まったく目を覚ます気配がなかったので、何個も何個も、余っていた唐揚げを次々に彼女の頭に乗せていった。少し面白かった。
「二度抱きたくなる女はなかなかいない」とデューク東郷が言っていた。彼は二度目のセックスのあとで彼女にその話をした。彼女は何も言わなかった。三度目のセックスは彼女の部屋でした。脱ぎっ放しの服と古くなった化粧品が床に散らばっていた。彼が十年前に読むのを止めてしまった漫画が全巻揃っていて、セックスのあとにそれを読んだ。彼女は裸のまま眠ってしまい、次の日に熱を出して仕事を休んだ。
彼女の頭の上に積まれた唐揚げは奇跡的なバランスを保っている。彼は別に、クリスマスが好きでも嫌いでもなかった。ちゃらけたライトアップも浮かれた雑踏も、彼にとってはゆるキャラの着ぐるみや右翼の街宣車とさほど変わらなかった。彼はただ、四度目のセックスがしたかっただけだ。そして肝心のセックスの相手は目の前で酔い潰れている。彼は彼女が頭に唐揚げを乗せて眠っているのを見て、恐らく出会ってから今まででいちばん彼女のことを好いた。足を斜めに組んで散らかったテーブルに頬杖をつき、酔い潰れる前の彼女との会話を思い出した。
「人の死に意味があるとしたら、それは残された者に『人は必ず死ぬ』ということを伝えることかもしれない」
彼は近くにいた店員に声をかけて唐揚げをもう一皿注文した。残っていたぬるいビールを流し込み、二人の未来についてほんの少しだけ想像して、すぐにやめた。
あとがき
カメラを持って歩き回ることはとても楽しい。
かつてカメラの良さをポチータブリガンテさんはこう言った。
「シャッターを押せば写るところがいい」
押せば写る。記録の必要なんてなくても、構図なんて決まってなくても、芸術作品を作るつもりなんてなくても、押せば写る。ただ当たり前でシンプル。ただのそれだけ。
だから、ここに載ってる写真をアートなどとは呼ばないで欲しい。アートと呼ばれるくらいならパクリ・資源の無駄遣い・ゴミもしくはアートかぶれと呼ばれたいと思う。文章を書いてくれた吉田さんだって文学だなんて呼ばれたくはないだろう。
僕たちはインターネットで生まれ、それからずっとインターネットを無駄に遣ってきた。次はリアルな紙の本を無駄遣いしてやろうと思った。そう、遊びたいと思った。
喪字男
2015年1月14日 発行 初版
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