spine
jacket

───────────────────────



夢の中のノンフィクション

幸坂かゆり



───────────────────────







                             デザイン=幸坂かゆり




         目次


   夢の中のノンフィクション
   Innocence イノセンス

    「あとがき」
    「さらに、あとがき」
    ヴィジュアル・イメージ








       二○十三年七月 第四十九回「Mistery Circle」投稿作




「すごいです。来生さん、挑戦されてるんですね!」
 年下で、アルバイト先の後輩、麻生桃子が大きな声で、大きな目で、来生(きすぎ)にまっすぐと言う。街の中、更には路地にある小さなレストラン、従業員数名と来生はそこで仕事をしている。麻生桃子とはそこで知り合った。仕事以外での関係はない。

 麻生桃子が放った言葉の意味。それは、先日来生が受けた映画のオーディションの事だ。来生はその映画の役を獲得するべく、オーディションを受け、一次審査の書類選考をパスした後、二次審査の結果を待っていた。その通知書が入った封筒を業務用エプロンに入れたままにしてしまい、何かの拍子に落とし、店内で麻生桃子が拾ってくれたのだ。差出人の欄に書かれた名前で、麻生桃子は映画会社と知り、興味から、ごく僅かに話を聞いてきたのだ。
「来生さん、受かったんですか!すごいです!」
「本選じゃないから」
 何となく気恥ずかしくて、ぼそぼそとくぐもった声で話した。
「それでもすごいです!」
 麻生桃子の方が受かったように興奮している。店には客がいて、来生の顔をちらちら見るので若干の気まずさを感じた。それに 〝挑戦〟 なんて言葉を持ち出すには大げさすぎる。
「…じゃ、僕はそろそろあがります。」
「あ、本当。もうこんな時間。」
 麻生桃子はすぐにやりかけていた仕事に戻った。来生は恥ずかしさを隠す為、仏頂面になりながら2階にあるロッカールームに行った。来生は悔やむ。どうして今朝、封筒を鞄に入れておかなかったのか。朝、時間がなかったので自宅の郵便受けからとってきて、封筒はこのロッカールームで開けた。二次審査を通過したと分かり、動揺したせいか、鞄ではなく、業務用エプロンのポケットに入れてしまったのだろう。それがあの言葉の発端。エプロンを外し、鞄に押し込み、上着を羽織った後、下に戻った。

 店内は夕食時になり、混み始めていた。交代のバイトが入っていたので挨拶をし、引き継ぎ業務を知らせた。
「それじゃ、お先に失礼します」
「はい、お疲れさまー」
 幸い、話は広がっていないようだ。僕はすぐ店を出て、数歩先を歩き、信号待ちをしていた。その時、店のドアベルが大きくカラコロと鳴ったので思わず振り返った。
「来生さん!」
 大きな声で僕を呼びかけたのは先ほどの麻生桃子だ。
 彼女は制服である白いシャツと黒い業務用エプロンのままで走ってきた。
「あの、さっきはたくさんのお客さまの中、大声でごめんなさい」
「あ、いや、気にしなくていいよ」
「でも本気で思うんです。夢は大事だと思うんです」
「まぐれだよ」
「そんな事ないです!でも来生さんが俳優さんを目指しているなんて知らなかった」
 麻生桃子は少し子どもっぽさを残す高い声と、大きな黒い瞳で来生を見つめながら言う。
「誰にも話した事ないから…それより店に戻った方がいいよ。今混んでるから」
「あ、そうですね。それじゃ、お疲れ様でした!」
 麻生桃子は大きな声で挨拶をすると来生に礼をして、小走りで店に戻って行った。

 一つに結んだ髪が左右に揺れる。白いシャツから透ける、軽やかに躍動する背中の動きが、彼女の若さと無邪気さで、とても美しかった。
 それほど年の差に開きがある訳でもないのに、通知書一枚で動揺して、夢に酔っ払って、大事な封筒を落としてしまうような自分を思うとやっぱり恥ずかしくなる。麻生桃子はアルバイトから正社員へと昇格したので、来生とは労働時間が違った。来生にも正社員にならないか、とチーフから打診はあった。けれど断った。それはやはり麻生桃子の言うように俳優になる事を望んでおり、劇団に所属し、エキストラの募集が出ればすぐに駆けつける。そのため、時間が不規則になるというのが理由だ。
 道すがら、コンビニに寄った。何種類かの惣菜とペットボトルに入ったミネラルウォーター、そして、少々ためらったが、表紙の可愛いブロンドの女の子に魅かれて、青年雑誌もカゴに入れた。うさぎの付け耳に下着、両手にカフスだけ、という奇妙な出で立ちをしていて、纏った小さなブラジャーから胸が零れ落ちそうだった。

 目覚まし時計が鳴って目を覚ました。
 一応とは言え、大学を出たのに家にいるのは両親に忍びないし、もう大人なのだから例えバイトでも自分で生計を立てなくては、と一人暮らしをしている。当然、起こしてくれる人はいない。目覚ましを止め、顔を両手で乱暴にこすり、体を起こした。トイレに行ってから、歯を磨き、洗顔し、その辺に置いてあるTシャツを着てスウェットを履いた。
 コーヒーメーカーでコーヒーを淹れて飲む。頭がしゃっきりと目覚めた頃、冷蔵庫から昨夜買った惣菜、鶏肉のトマト煮込みを取り出し、電子レンジで温め、炊飯ジャーであらかじめ炊いておいたごはんをたっぷり茶碗によそって、野菜サラダ、インスタントの味噌汁と共に食べた。食欲は、今の生活の命綱だ。食事だけはきちんと摂ると決めていた。しかし、食後の煙草がやめられない。これだけは個人の趣向だ、と言い訳をしている。しかし吸おうとして箱を見ると空だった。確かめておけば良かった。短くため息をついて、店に行く前に買おう、とぼんやり思った。
 ふと、確かめておけば良かったと言う言葉の端に浮かぶ、悔やむような、妙に後ろ向きな思考は、本選に行こうかどうか来生を迷わせていた。まだ一ヶ月先ではあるが。書類選考が通った時は、根拠のない自信を持ち、絶対に最後まで残ってやる、めちゃくちゃに個性的な俳優になるのだ、と、意気込んでいたと言うのに。どうしたものだろう。その事すらどうでもよく感じている自分がいる。二次審査通過の封筒は画鋲で壁に貼り付けてある。その封筒を来生は、じっと見つめた。隣に貼ってあるカレンダーが目に入った。

 そこには今日の日付けに『休み』と自分の字で大きく書いてあった。
「やっぱ、オレだめだ…」
 どうしても悪い方に関連付けてしまう。今日は劇団も大きな舞台を控えた稽古のため、開いておらず、実質上、一日休みだ。部屋にいてもきっと、うだうだと考え事をしてしまうだろう。

 結局、来生は部屋にいると考え込んでしまいそうだからと思い、いつも仕事に行く時間にバスに乗り込んだ。今日は休み日和の良い天気だ。街の中まで乗って行って本屋で立ち読みでもしよう。来生は読書が好きだった。昨日衝動買いした雑誌も、多少言い訳は入るが、気に入ったのだから来生にとっては良い買い物だと思っている。
 バスは来生の他に何人か客を乗せていたが、次々に先に降り、来生一人のみを残した。揺れ方が心地良い。もうすぐ停留所だぞ、寝るなよ、俺。と、来生は独り言で自分に喝を入れつつ、首が、がくんと前後に動くのは止められなかった。どうにかその眠気と闘いながら、窓を見ると驚いた。

 夜になっている。慌てて時計を見たが数十分しか経っていない。思わず立ち上がろうとしてよろめいた。めまいがする。床がトランポリンのようになっていてうまく進めない。
 なんだこれは。動揺だけで何もできない。

「お客様」

 低く響く声で話しかけてきた運転手を見て、来生は息を飲む。
 にやり、と笑いながらこちらを向いた運転手はいつもの顔なのだが、昔の個性的な芸術家のように生やした髭の先をくるん、とカールさせ、おまけに、うさぎのつけ耳と大げさな蝶ネクタイをつけ、白い手袋をはめたまま、シャツの袖をだらしなく捲り上げていて、昨夜買った雑誌の美女の格好を思わせた。もちろん、こちらは美女ではない。
「まあ、落ち着いて下さい。これは貴方の世界なのですよ」
「オレの世界?」
「お客様、お心に戸惑いを抱えたまま乗車されたでしょう。このバスはその人の心の景色を表してしまうのです。貴方は今、真夜中の真っ只中にいらっしゃいますね。いけませんね。心配です。そして解決しないことにはバスから降ろせないのです」
 うさぎ運転手はまたしても、にやりと笑う。
「冗談はやめてくれ!降ろせ!」
「降りられるものなら降りてごらんなさい。無理でしょう?今の状態では」
 来生の体は、ぼよんぼよんと跳ねてしまって一歩も前に歩けない。
「今日はお仕事もお休み。劇団も大きな舞台を控えていて貴方が行く必要がありませんね」
「なんで知ってるんだ?」
「貴方の心の中が教えてくれるのですよ」
 うさぎ運転手、にやり。
 頼むから生きて返してくれよ、と、恐る恐る思う。
「大丈夫ですよ。貴方次第ですがねえ」
 心の中が読めるのか。なんて不気味なうさぎなんだ。そんなふうに思いながらも疲れて何となく抵抗するのも疲れて、来生はトランポリンのような床に座った。

 改めて外を見る。夜の景色。田舎だから灯りが少なくて夜景としてはあまりきれいじゃない。けれど嫌いではなかった。感傷的にさせてくれるもの、それはどこか感情として必要だと思えた。幼い頃から、一人で空想する事が好きだった来生にとって、夜は怖いものではなかった。たくさんの想像をして楽しんだ。あの頃の想像がそのまま今の自分を形成している。そんな想像という夢の中から、オーディションは現実へのドアをひとつ開いたように感じていた。
 すると、急にまためまいのように眼前が回転した。

 夜から、いきなり夕方になった。今にも沈みそうな太陽の光はバスの中に届かない。魚が空を飛んでいる。金魚だ。大きな。憶えている。幼い頃、両親と露店で金魚すくいをして手に入れた金魚。思い出したくなかった。その日、はしゃぎ過ぎた来生の手から、金魚の入った袋が離れた。暗かったのと人波に押し出された事で、すぐに探せなかった。両親はそんな来生の頭を撫でて慰めてくれた。来生は泣いた。だからと言って、もう一匹は買ってくれなかった。
 次の日早朝、金魚を手放してしまったであろう路地へと急いだ。淡い朝の陽射しの中、土の上で金魚を見つけた。金魚は、少しの間住み家としていたビニール袋の中で、水が流れ出してしまい、そのまま空になり、動けないままラミネート加工されたように袋にぺったりと張り付いて死んでいた。目をまんまるに開けたまま。僕のせいだ、ごめん。そう言って土の中に埋めた。こんな思いをするのならもう買おうなんて思わない。悲しかった。何もしてあげられなくて、ただ、死に向かわせてしまった事が。今でも、来生の心を締め付ける辛い思い出。
 泣き出しそうになるのを堪える。

 それからずっと金魚すくいはしていない。
 祭で露店を見つけるたび、金魚の方は見なかった。ひよこなんてもってのほかだった。あれほど泣いた事はないほど、来生は泣きに泣いた。
 数日経つと、家族はみんな金魚の事が頭にないかのようだった。それが悲しく、また、数人のクラスメイトに話すと泣いた事をからかわれた。それ以来心を閉ざした。内に篭もった訳ではなく、本音を話さなくなった。大事な友達、恋人、その想いとは別の心の場所で、仄暗く、しかし熱く語りたい思いが積もり、どうして良いのか判らず持て余すようになっていた。

 すると、どこからか音楽が聴こえてきた。
 かすかな音が少しずつ少しずつ大きくなっていく。
 来生が小学生の時、初めて目にした映画の音楽だった。あの景色。大きな色彩豊かな観覧車。やけにひん剥いた目を持つ馬が特徴的だったメリー・ゴー・ラウンド。主人公は中年に差し掛かった男だったが、その表情はくるくると変化し、女たちとキスを交わし、物語が進むにつれ、魅力的に映った。今思えば、成人指定にあたる作品だったのだろうが、小さな町にやってきたフィルムはそんな事に構っていられなかったらしい。一度映画館に入ってしまえば何度も何度も席を立つまで繰り返される上映。あの時の映画館は天国だった。あの時、初めて自分の中にある情熱を放出させる術を発見できた気がした。
 帰りがすっかり遅くなり、真っ暗になった映画館の外で、怖がるどころか気分が高揚し、まっすぐ家に帰れなかった。内側から感動が噴出しそうになる。きっと家に帰っても母親に遅い時間になったのを叱られるだけだ。もう少し余韻に浸っていたい、そう思い、歩道橋を一気に駆け上がり、上がりきった橋の真ん中で大の字になって空を見た。暗く怖いはずの空は満天の星が照らしていた。歩道橋の手すりはファインダーとなり、その瞬間だけ星空は、来生だけの物になった。それからは、映画が幼い自分を認めてくれる唯一の存在になリ、いつしか自分も役者になりたいと思うようになった。あの中年男の存在は、常識を常識でなく捉える事が、粋にも成りうるのだと言う事を教えてくれたのだから。


 気づくと目を閉じて音楽に聴き入っていた。外を見ると、早朝になっていた。深い鶏肉のトマト煮込みの匂い。コーヒーを落とす音がする。今朝だ。
 うさぎ運転手は改めて言う。
「貴方の世界なのですよ」
 来生は、もう無言になり、息を整え、改めてバスの窓を見る。
「貴方は非常に感受性が強い。今までの記憶をまるで昨日の事のように呼び出せる。そのレーダーを外に発する時期に来ているのでしょう。迷っていたら永遠にこのバスの中です」
「それは」
「はい」
「本選に行けって事?」
「どう思いますか?そうそう、昨日チャーミングな女性からもらった言葉はどうお感じになりましたか?」
「昨日?ああ、麻生さんの事?」
 あの言葉は、本来なら喜ぶべき言葉のはずだった。なぜ素直になれなかったのか。
 理由は一つ。怖気づいていたからだ。バスの外の景色は、今や流れるように夕方の眩しい夕陽に変化していて、もう来生は驚かない。この風景は、バイト帰りの道。慣れなくて先輩に怒られてへこんで、このままでいるもんか、と歯を食いしばって歩いた日の夕陽だ。そうして働きながら夢を実現させるんだと、あの中年俳優を思い出していた。
 一日一日は長かった。体力もきつく、険しくなり、時折、演劇なんか続けてどうなるとも思ったが、そんな悩んでいる日の夕方にも、夕陽は変わらずこちらの気持ちも考えず、のほほん、と辺りを照らしていて、天気は心を読んでくれないんだな、と当然の事に気づき、なぜだか笑えて来た。それが、今の自分が見ているものすべてで、周りを気にしているのは自分だけで、誰も来生の夢を知らず、ただいつの間にか、時間をかけるうちに不安は不満になり、自分自身と周りとの思考の乖離を怖がるようになっていた。
 大きな一歩じゃないか。夢を掴めるかもしれない事を怖く感じるのは当然じゃないか。大切な事なのだから。そんな当たり前の事すら見えなくなっていた方が怖いと思った。
 明日、麻生桃子に話しかけよう。あの言葉に礼を言おう。どこまで行くか判らないけど精一杯やってみると。来生がそんな思考に持って行った時、うさぎ運転手は自慢の髭をぴん、と弾くと、バスは、がくん、と音を立てて止まった。その瞬間、我に返った。


 辺りを見渡すと、バスの中ではなかった。
 静まり返った自分の部屋に来生はいた。カレンダーを見るとやはり『休み』と記入してあリ、二次審査の書類が入った封筒は壁に画鋲で留めてあった。夢じゃない。瞬時にわくわくと胸が躍り出し、やってやるぞ、と心が沸々とたぎる。久しぶりの感覚で。その勢いでもう一度奇妙な体験をしたあのバスに乗ってみようと思った。もしも同じ事が起こったら、自分の夢や生活以前の問題だ。不安は抱えたくない。同じ日の朝の行動を繰り返した事になったが、用意をして外に出た。
 バスは、いつものようにたくさんの通勤客を乗せ、その中に自分もいて、たくさんの人を降ろし、そして何事もなく、自分の降りる場所でバスは止まった。ちらりと覗き見た運転手は、うさぎの耳もカールした髭もなく、真面目な風貌だった。バスの中を歩いても床はトランポリンにならなかった。

 街の中を歩いた。みんなが仕事に出かけているであろう時間帯、バスの車窓から見た幻想のような自分の思い出の場所を一箇所ずつ、来生は歩いてみた。あまりきれいじゃない夜景の見える場所も、金魚を手離してしまった路地も、エネルギーが満ちた映画の帰り道、寝転がったあの歩道橋の階段も。歩道橋に着いた時には既に夕方になっていた。あの頃のように寝そべりはしなかったが、手すりに腕を凭れ掛け、胸ポケットを探った。やはり煙草はないままだった。夕陽は、今にも街の中に消えてなくなりそうだったけれど、沈むものか、と意地のように光を放っているように眩しかった。目を細めると雲をかぶったように輪郭があやふやになる。まるで、夕陽が泣いているように。来生は自分に似ている、と思った。
 自分は今、どんな顔をしているのだろう。決してドラマティックではない人生でも、諦めずに生きてきて、まだまだ夢も始まっていない。けれど動き出している。そんな、不器用に出発しようとする男の顔つきは、一体どんな。

「来生さん?」
 いきなり現実に戻す声がした。声の方に目をやると麻生桃子がいた。髪は長さそのままに下ろしていて、職場で見るより大人びて見えた。
「あれ?麻生さん?」
「あ、やっぱり、こんばんは」
「こんばんは。仕事以外で会うの初めてだね。驚いた」
「私もびっくりしました。お休み、一緒の日だったんですね」
 麻生桃子がにっこりと笑う。うさぎの運転手が言うようにチャーミングだった。
「急に話しかけてごめんなさい。来生さん、すごく雰囲気があって、びっくりしちゃって」
「雰囲気?僕が?」
 思わず吹き出した来生に、麻生桃子は少しだけムキになって言う。
「だって素敵で、本当に俳優さんみたいだったから」
 来生は思わず言葉をなくした。
「ご、ごめんなさい、私、昨日から余計な事ばかり言っちゃって…」
「余計な事じゃないよ、麻生さんの言葉、焼きついてたよ、それなのに感じ悪い言葉を返しちゃって悪いなと思って、明日、きちんと君に話しかけようと思ってたんだ」
 麻生桃子は、やはりまっすぐな瞳で来生を見つめる。
「落ちたらかっこ悪いけど、本選、がんばろうと思う」
 麻生桃子は一瞬、ぱぁっと華やかな笑顔を浮かべた。
「かっこ悪くなんかないです。挑戦してる来生さんはかっこいいです!」
 癖なのか、また大きな声で言う。
「照れるね。でも、ありがとう」
「いいえ!」
 麻生桃子は大きく首を左右に振る。黒髪が揺れる。言えた。彼女にありがとうが。これで大丈夫だ、と来生は思う。一人の人間として。麻生桃子の笑顔は、弾力のある頬が夕陽に照らされてつやつやとしていた。その笑顔が来生にはとても感動的で、確信はないけれど、大きな力になる気がした。例え落ちたって次がある、と、強い心で思える。

 明日、また元気に麻生桃子が挨拶をしてきて、仕事が始まる。夕方まで。
 そしてくたくたになるまで働いて、疲れた体でコンビニに寄って、少しスケベな雑誌なんかも買ったりするのだろう。そんな現実に、ふとため息が出る。しかし、どれほど疲れた心に埋没して、やりたい事を見失い、時に忘れたとしても、どうしてもはみ出してしまう熱さが胸に刺さっているのなら、心は蘇る。何度でも。情熱で。
 来生はクセでポケットの中を探ったが、煙草がなかった事を思い出し、諦めた。
「まったく…日常ってのは厄介だな…」
 自分勝手な、台詞のような言葉とは裏腹に、来生は微笑んでいた。








       二○十四年七月 三十二のお題より 二十四作目




 五感をくすぐる旋律とその声に魅かれたのが最初。
 くんくん、と、良い匂いの声音に導かれ、地上へと舞い降りて来た天使は、真っ先にその声を持つ人物の元へと急いだ。声の主である彼は、歌を職業としている人。幸せそうに目を閉じて歌うハスキーな声は天使を紛れもなく天使、という気分にさせてくれる。しかし裏腹に、普段誰の目にも見えなかった天使が、あまりに人間的な意識を持ったので、途端に人目につくようになり、彼にもすぐに見つけられた。

 それはほんの偶然だった。
 海辺で、憶えたての彼の歌を一生懸命歌っていたところ、本人が現れた。それがきっかけ。天使と彼は仲良くなった。天使は彼の歌の素晴らしさを体一杯に表現していて、この世で言うところのダンス、天使には身体表現なのだけど、彼は天使のそれがとても気に入ったらしい。
 彼は仕事に煮詰まると、気分転換に海辺にくるので、人懐こい天使とは、たびたび海辺で会うようになった。天使は彼のことをとても気に入っているのに、なぜかいつも海辺にやってくる彼の姿に気がつかない。そして無意識にダンスしている所を彼に後ろから見られ、拍手の音に驚いて、やっと気がつくのだ。彼は、そのかのじょの驚き方がまったく天使のように見えて微笑ましく思う。もちろん、本物の天使だとは知らないけれど。
 同時に、かのじょが驚くほど彼の曲に精通しているので感激する。おまけに曲に合わせて創作のダンスを踊ってくれるのだ。海辺でかのじょに会うのが楽しみでしかたがなかった。

 彼は言う。
 さあ、今日は何を歌ってくれるの?かのじょをせっつくと、スローナンバーを歌いだした。しかしこの曲は。
「ちょっと待ってくれ」
 かのじょは驚いて歌をやめる。
「なぜ知ってる?まだ発表していない僕の作りかけの曲だ」
 明らかに彼も、そしてかのじょも戸惑う。
「すきなひとの、こころのなかのうたは、きこえてしまうの」
「好きな人…僕のことかい?」
 間抜けな質問をしてしまった。かのじょは頷く。頬をぽっとバラ色に染めて。
「それは…とてもありがたいな。けど、君は一体誰?」
「だれ、といわれても、こまるわ」
 その答え方に、何だか彼は拍子抜けしてしまう。
「ええと、さっきの曲なんだけど、僕がいいと言うまで他の誰にも聞かせないでもらえるかな」
 著作権だの、盗作だの、小難しい事をかのじょに説明しても何となく意味がないように思えたので、彼はこうして伝えた。かのじょはこくり、と頷く。巻き毛がふんわりと揺れる。
 問題は去ったようだ、と嗅ぎ取ったかのじょは、歓喜にむせび、軽やかになり、彼の腕を抱きしめる。
「すき、とてもすき」
 かのじょは言って、ますます腕に絡みつく。
「うわ、ありがとう。うん、僕も嬉しいよ」
「いつも、いっしょに、いたい。わたしをあいして」
 子供のような愛らしさを持つかのじょを、そのまま子供のように好いていた彼は戸惑う。そういう感情の「好き」だとは思わなかった。見るとかのじょは嬉しそうに目を閉じて彼の腕の中にいる。ああ、誤解させてはいけない。傷つけてしまう。
「ごめん。そんなに思ってくれているとは知らなかった。僕には、恋人がいるんだ」

 一瞬の空白。まるで、時が止まったような。
 かのじょはそっと、彼の腕から離れる。心細そうな目を向けて。彼は胸が強く痛む。なぜだかこの子には辛い思いをさせたくなかった。何なら嫌いになってくれたっていい。むしろ、それで辛さが消えるのなら忘れたっていい。そうした彼の心の中は、天使であるかのじょにすべて伝わっていた。
「そんなこと、おもわないで。すきなままでいたい。あなたがだれをすきでも」
 彼はかのじょを見る。
「なぜさっきから、心の中がわかるんだ?」
 かのじょは、はっとする。
「君は、誰?」
 彼はもう一度聞く。思わずかのじょは後ずさりする。明らかに彼の態度に変化が見える。背中がむずむずとしてくる。羽根が顔を出す合図だ。彼と会ってからと言うもの、人間そのものになっていたから羽根の存在すら忘れていたのに。天使の意識になったせいか、羽根が背中を突き破って出てきそうになったのだ。これまでか。海辺を突風が吹く。強く砂嵐が巻き上がる。彼は瞬時に目を閉じ、両手で風をふさいだ。一瞬の出来事。突風が過ぎ去ったあと、その場にかのじょはもういなかった。足跡も、影も形も。何も。

 彼はその場にしゃがみ、かのじょがいたはずのところの砂をさらりと手に取る。
 狐につままれたようだった。彼はしばらくそうしていたけれど、時間と仕事のことを考え、立ち上がって、何度も振り向きながらそこから部屋へと帰って行った。
 本当はずっと、彼の前に天使はいた。しかし羽根が立派に顔を出し、天使そのものの姿になると、人間である彼からは見えなくなってしまった。天使の頬を涙というものが転がり、慌てる。
天使は傷つきすぎてしまい、もう地に足をつけていられなくなった。
 光の梯子が下りてきて、天上界が天使を呼んでいた。人間に恋をするなんて、愚かなことをするからそんなに痛んでしまうのだよ。羽根が血だらけじゃないか。かわいそうに。さあ、手当てをするから戻っておいで。神様が言う。ごめんなさい。でも、愚かなことではありません。そう告げたが、天使はそのまま天国へと連れて行かれた。もう会えないの?会うためには、最も純粋な最初のような気持ちにならなければ。人間の姿にすら成ってしまうほどに。今の天使には到底無理だ。今のままだと傷だらけのままだ。

 夜。

 彼は、あのまま消えてしまったかのじょが気になって海辺に来た。
 微妙に揺れた感情の機微を、かのじょは感じ取っていた。あのとき、見間違いかも知れないけれど、体が透けて行った。驚いていると例の突風と砂塵。余裕がなかった。彼は今もここにいるのかわからないかのじょに問いかける。
「なあ。愛にも色々な形があるよな。恋人を愛する。家族を、友達を愛する。そして、君のように僕のかけがえのないものを、何の計算もなく受け入れてくれる愛。僕は君に感謝してる。君は好きでいたいと言ってくれた。それは、既に新しい愛の形だと言う可能性を信じたい。なぜなら、僕にとっても君は大切な存在だから」

 その時、どこからともなく、ぱさりと砂の上に何かが落ちるような軽い音がした。
 音がする方を向く。寄せる波のすぐそば。そこに落ちていたのはちぎれたような片足だった。気配に、また音がする方を見る。今度は腕。血のようなものは付着していない。次々と細かくばらばらになった人体模型のようなそれらが落ちて来る。さながら降ってくるように、すべては空から。胴体、胸、首、鼻、唇、閉じた両目、そして巻き毛の揺れる頭部。ああ、波にさらわれてしまう。彼は急いで駆け寄り、拾い集めようとした。最後に降って来たのは大きな白い布と、何か。暗くてよく見えないからとにかく早く。

 彼は、それらを白い布に包み、安全な砂の上に移動させると並べ替えることにした。
 まずは足、これはわかりやすい。胴体も胸も並べられると自ら吸われるようにくっついていき、繋がった。彼は喜びが隠しきれない。そして驚く。案外子供ではなかったのだ。胸と胴体だけで腕のない姿はヴィーナスのように艶めかしかった。しかしそんな感傷に浸る間もなく、腕を、首を、頭部を並べる。そして唇、鼻、閉じた目。
 この目が開くことを祈りながら。完成したのはかのじょの姿。彼は眠っているようなかのじょの頬に触れる。冷たい。関節が外れたりしないように、慎重に上半身を起こし、布をそっと衣服のように巻きつけた。腕はだらりと垂れたままだった。彼は思い出す。最初に会ったときのことを。かのじょの歌声で彼はここに来たのだ。あれほど自分の歌を憶えていてくれたのだ。

 必死に、思いを込めて彼は歌う。最初こそ声が掠れてしまったけれど、メロディーへと繋げた。あのバラード。かのじょをあの場で傷つけたきっかけになってしまったあの曲。ばらばらになって降ってきたかのじょは間違いなくこの世の人間ではない。それはもうどうでもいい。もう一度、つやつやと光り輝く頬で笑うかのじょが見たい。幼いようなたどたどしい喋り方が聞きたい。サビへと向かうバラード。美しく、海辺に似合う。
 彼は思わずかのじょの細い首筋に口づける。そうして、唇をつけたまま歌う。体温が戻ってくる。首筋から、鼓動のような動きが唇を伝ってくる。ああ、名前を聞いていなかった。呼びかけたいが、何て呼んだらいい。
「目を開けて。一緒に歌おう。僕はここにいるよ」
 彼は呼ぶ。かのじょを抱きしめる。
 かのじょの睫毛が、彼の頬に当たる。僅かに震えている。こんな言い方じゃないのかもしれないけれど、息を吹き返してくれたのだ。夢中で彼はかのじょを腕に抱き、目に、唇に口づける。身体の繋ぎ目のぎざぎざな場所は、彼が触れると滑らかになってゆく。彼はかのじょの身体に触れて、愛撫する。口づける。やわらかく、やわらかく。腕も腋も指も腰も足の間も。届く限りのすべてに。彼の指で、かのじょが吐息を漏らした。透明な、潤いのある声。続いて、美しい賛美歌のような声が波のように、しかし静かにうねり、彼の耳に再び吐息となって消え入る。その柔軟性と機能を見て、かのじょの身体は完全に蘇った、と彼は確信する。

 かのじょはうっとりと目を開けた。
 目の前にいる彼に驚き、慌てる。彼にも、自分の身体の変化にも。恐れおののいている。そして恥じ入るように顔も身体も仄かに赤く染まる。だらりと開いていた足をぴたりと閉じる。かのじょには初めての忘我の体験。
「あなたがいるの、なぜ。ああ、みないで。わたし、おかしい。はずかしい、はずかしい」
 かのじょはか細く言葉を発する。彼は呼吸を乱しながらも微笑む。
「会いたかったから歌ったんだ」
 かのじょは、身体をもじもじさせていたが、こくん、と頷き、真剣な目をする。
「きこえてた。わたしなんかがうたうより、ずっとすてきだった。それから、からだじゅうがとろけそうだった。やっぱりわたし、あなたがすき。どんなふうでも、すき。きに、しなくていいの。すきなだけでいいの」
 その言葉の端々に、かのじょの柔らかな優しさを感じ取る。いとおしい、と彼は思う。
「どんなふうにでも、好きでいて。僕も君を好きでいる。大切な人だ」
「ひと」
 彼は、そう言えば、と、訊ねた。
「君を何て呼んだらいい?」
「ひとじゃ、ないの」
「人じゃないの?何だって構わないんだけど」
「わたし、てんし」
 ああ。彼は深く納得する。
「だからこれがあったのか」
 彼の傍らには真っ白な羽根がふたつ。
「慌てて、どこにつけていいのかわからなかった。背中か」
 天使は新ためて、やっと微笑む。その顔は、まぶしいほどに天使そのもの。


   あとがき



 この小説の一文字目を書くまで、私の周りはいつになくがしゃがしゃと目まぐるしく、書く、という事すら奪われてしまいそうな家族介護のど真ん中におりました。色々な事が起こっては過ぎ、その日暮らしの体力と感情だけで毎日を支え、もう自分はダメかな、と思いながらそれでも自分自身を諦める事もできず、日々の生活に埋まっておりました。
 執筆中、先述の実母の入院、施設入所手続き、役所などを駆け巡り、そちらに頭をフル回転させており、この原稿も書いては消しを繰り返し、やっと小説らしい形になり、終盤を迎える頃、母の施設入所が決定し、締め切り日であった七月二十六日、母を施設へと送り届ける事ができました。

 くたくたになったその日の夜、小説のラストを書き入れ、自分の書いたものなのに何度も繰り返して読みました。タイトルのとおり夢のように通り過ぎる時間とノンフィクションというどうしようもない現実が占め、書けて良かったと、これほど安堵した事はありませんでした。文字の如く様々な終わりを迎えても、また新しく生まれてくる事を願います。今回の小説はどれほど愛していた物事も体を通り過ぎてしまい、空っぽの、迷子になりそうだった自分の唯一の支えでした。小さな一歩をなかなか踏み出せない登場人物の来生は自分の分身のようでした。
 声をかけて下さったMistery Circleの管理人様、心から感謝致しております。


   二○十三年八月                       幸坂かゆり


   さらに、あとがき



 ちょうど一年後の七月「Innocence」を書きました。
 物語自体は二十年以上前から在ったのですが、推敲したのは二○十四年に入ってからでした。少々重いテーマを書き終え、ほっと一息ついた頃、長らく寝かせていたこの物語が頭に浮かびました。二十年前にはなかなか言葉に変換することができず、とても表に出せるような代物にはならなかったため、そのままお蔵入りしておりましたが、今なら書けると思い、プロットを思い出し、大げさな感情表現は極力排除して書きました。
 表紙は家のそばで撮った写真なのですが、ちょうど糸を紡いだような羽が浮かんでいるように見えて、表題作「夢の中のノンフィクション」と一緒に載せても違和感がないように思いました。爽やかな夏の匂いを残す本になれば嬉しいです。

 作中の天使が如く「無垢」に愛する心を失わず、見えない羽を背にこれからも書いて行けたらと思います。忘れても忘れても思い起こせるように今現在の純粋な想いを本という形にできたこのタイミングにも、大変感謝しております。


    二○十五年七月                真夜中のリビングにて
                                幸坂かゆり

Salvador Dalí











「夢の中のノンフィクション」イメージ。

ダリの時計。揺らめき、羽ばたく数字。
たくさんの寓意が散りばめられている。
『うさぎ運転手』のモデルがダリ。











「Innocence」ヴィジュアル・イメージ。

眩い青。空から降ってきたような繊細なヴェール。
天使はそこに存在する。

夢の中のノンフィクション

2015年1月21日 発行 初版

著  者:幸坂かゆり
発  行:夜長出版

bb_B_00131499
bcck: http://bccks.jp/bcck/00131499/info
user: http://bccks.jp/user/131717
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

幸坂かゆり 

1969年北海道生まれ。ウェブを中心に小説、エッセイ、コラムなどを寄稿。言葉を紡ぐことで色々な可能性を見出したいと考えております。なだらかな文章の美を追求中。

jacket