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何よりも心に効く、
冷えた心を温めるといわれる、これをご覧のあなたしか知らない秘湯です。
泉質はあらゆる養分が溶け込んだ万能泉、湯の色はお客様のお好みの色、温度は良い加減、PHは丁度いい具合という、お客様にとって何よりの都合よさ。
適応症として、陰気・憂鬱・閉塞感などの一般的適応症。禁忌症として、臆病・弱気・怖いもの見たさ心などの一般的禁忌症がありますが、気にするほどではありません。
何といっても気楽なのは、タオルや料金はいらないということです。
それどころか湯に入る必要さえありません。
だらだら読むだけでいい、読む温泉なのです。
ただし長湯は禁物です。
肌に合わないと感じられたり、飽きてきたと思われた場合は早めにおひきとり下さい。
青火温泉は奥羽山系につながる国立公園の中にある。居並ぶ山脈の狭間、ほとんど深い深い谷底に位置し、入り口の峠から見下ろすと、その一軒家の屋根は今にも山脈に埋もれそうに、小さくはかなげで、同時にそこまで行くのさえ一苦労だろうと思わせる。 はたせるかな、やっと車が一台通れる程度の曲がりくねった一本道をそろそろと下りていき、
海溝の底に着いた思いで、やっと到着する。
ここまで来ればさすがに社会とは隔絶され、世界のざわめきは聞こえては来ない。さながら別の惑星にいるような、ただならぬ孤立感に浸れる。いわゆる陸の孤島だ。古来よりこのあたりには、効能あらたかといわれる温泉が湧き、さびれた小さな宿はあった。
近年、親の遺産でこのあたり一帯の土地を買占め、この温泉宿の新しい主人となった若い経営者は、逆にこの孤立感を宿の個性として売り出し、それにあわせて宿を昔ふうに改築しようと思いたった。水洗トイレ以外は極力宿の環境を原始のままに置き、なるべく文明の利便を拒否するのだ。通信手段は公衆電話一台だけ、もちろん携帯電話は通じない。できるだけ電気を使わず、冷蔵庫もエアコンもなし、冬は当然閉鎖する。デジタル時代をアナログ以前に戻す。ここだけ過去が厳然と生きている。したがってここの最大のウリは電気ではない明かり~ランプが照らす密湯ということになった。
ランプの明かりとは思いのほか暗く、字も満足に読めないものだということが、ここに来てはじめてわかった。
ここにこようと思ったのは単なる気まぐれだ。退職まで一年を切り、もはや有給休暇の消化期間に入ってしまった身としては、さして目的もあてもない暇つぶしのつもりだった。テレビか何かでここの紹介を見たことと、沈みがちな私に対し、妻が、二、三日気分転換をしてらっしゃいとこずかいを渡してくれたためだ。
若いオーナーの作戦が図に当たり、春から夏場にかけては連日満室というこの宿も、秋の初めの今頃は閑散としていた。
ここに来てはじめて、自分がいかに現代の喧騒に浸ってそれに染まっていたかがよくわかった。テレビやラジオがないというだけでも、これほど人は穏やかな気分になれるのだ。さらに、音のない闇や薄明かりは自分をあたりから切り離し、宙に浮かんだ一人、羊水の中の自分にもどしてくれるのだ。そんな自分を見つめなおす環境に置かれても、単に退屈になってしまうのは、やはり俗世の凡人だからなのだろう。冷えたビールがないのに閉口しつつも、闇の中でじっくり考えてみようと思った矢先、テレビのない慣れない穏やかな環境に、たちまち寝入ってしまった。
年のせいと早く寝入りすぎたせいで夜中に目が覚めた。時計の電光表示は0時過ぎを指していた。すぐには寝付けそうにないので、せっかく来ているのだし、もうひとっ風呂と浴場へ向かった。
ここは屋外の屋根つき露天風呂と屋内の浴場との二種類あるが、ねぼけたまま外へ行く気もせず、部屋に近い屋内の風呂場にすることにした。
昼間も私一人で深閑としていたが、夜は周囲の山々の音~鳥の声、木々のざわめきがまったく聞こえず、ちょろちょろと湯の流れる音以外は無音だった。今にして思えば、秋口だというのに虫の音がひとつも聞こえないのも妙だったが、そのときは寝起きのこともあって気にとめなかった。
確かに虫とは脅威に敏感で、息をひそめたりするものなのだ。
建物のはずれに造られたこの浴場は、プールほどではないにしろ、けっこうな広さで、長方形の湯船には満々と湯があふれ、音もなく立ち上る湯気が天井の梁のあたりを曇らせていた。ここもまた、たったひとつのランプの明かりの下、洗い場周辺以外は闇と明るい場所との境い目がはっきりせず、昼間とはうってかわって四隅の壁は底なしの闇にかすんでいた。
裸になった私は湯に入るでもなく、湯船のへりに腰をかけ、両足を湯の中にたらして、ぼんやりと湯の面を見つめていた。 無色透明の単純泉という泉質、小波ひとつない表面は、湯気が出ていなければ泉と見間違えそうだった。
湯船の底に敷かれた色とりどりの平べったい石が浮き上がって大きく見える。
ぼんやりと湯を見やっていた私は、ガラリと戸を開ける音にハッとなった。続いて
失礼します。
と、甲高い声がして、誰かが私の隣に腰を下ろす気配に、さらにハッとなった。
見ると、女だった。
腰から胸まで隠れる白いバスタオルを厚く巻いた娘がとなりに腰掛けていた。
そういえばここは混浴だったのだ。入り口と脱衣所こそ男女別だが、そこを出ると浴場は同じだった。昼間入ったときも一人だったのですっかり忘れていた。
うわー熱い、やっぱり熱い‥
などとつぶやくように言いながら、娘は私と同じように脚を湯にたらす。背の高い娘だった。座っても肩の高さが私と同じくらいある。むき出しの肩や腕の白さが湯気ににじむ。ちらりと見た限りでは、わりと整った丸顔で長い髪を長い首の後ろで束ねている。
旅のかたですか?
娘は私のほうを見るとはなしに見て、聞くとはなしに聞いてきた。つりあがった大きな目と大きめの口がなんとも愛嬌がある。鼻は高くはないが、自尊心が高そうにつんと上を向いている。現代的なのにどこか古臭い野暮ったさがあり、人なれしていない子供のような人なつっこさがあった。
私はといえば、じつは答えるどころではなかった。こんな状況はまったくの初めてだった。裸の若い娘と二人きり、こっちも丸裸‥男なら、こうあってほしいと日ごろから誰もが思い描きそうな理想的な状況だが、私個人としては、まさか現実に出くわそうとは思ってもいなかった。なんの心構えもなかっただけに、年甲斐もなくあがってしまい、
え、ええ‥
と言うのがやっとだった。幸か不幸かこのときやっと気づいて、頭に乗っけていた小さなタオルを礼儀として下腹へもっていった。
娘は、私のどぎまぎぶりも、子供のように意に介すふうもなく、両足を動かしてさかんにバシャバシャやりはじめた。
えーと、あなたはどちらから‥
つとめて平静を装いながら私もさりげないふうに聞いてみた。
あたしは、ここのものです。
娘は答えながら、落ち着きのない子供のようにあたりを見やり、さかんに湯をバシャバシャさせる。誰もいない浴場に二人きりの若い娘と初老の男は、見る人がいたとすればどう見えたのだろう。
父と娘か。
そろそろ入ろうかな。
娘は言うと、湯から脚を上げて洗い場に立ち上がり、いきなり胸のタオルをむしり取ると、羽織ったケープを投げ捨てる決闘前のフランス貴族のように、洗い場のすみに投げ放ち、同時に髪もほどいて、一糸まとわぬ姿でずんずん湯の中へ入りはじめた。
私はまたしても度肝を抜かれた。
混浴とはこんなものなのかもしれないが、恥じらいを見せつつ、なんとなくその場の様子をうかがうために、洗い場の木の桶を使って流してみて間を持たせることなどしないのだ。なんと大胆な娘だろう。
娘の見るからにのびのびした白い裸身、白壁のようにすべすべした白い背中が湯の中に沈んでゆく。その後姿をよくできたショーでも見る思いで見入っていた。
やがて娘はそこがプールでもあるかのように泳ぎだした。白い裸身をくねらせ、湯船せましと泳ぎ回る。湯の中にもぐったかと思うとまた出てくる。湯の面に出るたびに濡れた白い肌がなめらかに光る。
ひとしきり泳いだのち、娘は動きを止め、湯船の中央にとどまると、上半身を表面から出したまま、私のほうを見て言った。
入らないんですか?寒くなりますよ‥
娘の固そうな乳房と、その先の、咲き始めの桜のつぼみのような色の乳首が、荒い息のため大きく上下している。
私はいたたまれなくて、本当はすぐにでもここから逃げ出したい気持ちだった。こんな状況は私には向かない。この歳まで万事にまじめで控えめ、はずれたことを一度もしてこず、それが当たり前であった私にとっては、どうにも刺激が強すぎる。とてもついていけない。
しかし、こんな機会は今後望んだとしても、そうは巡ってくるものではあるまいとわかってはいたので、ふと、ここは成り行きにまかせてみよう、という気になった。若い女と二人で湯船にいるだけだ。何も起こりはしない。何も変わらない。話の種くらいにはなるだろう。
私は恐る恐る湯に入って、娘のほうに向かっていった。
いままで裸でいたせいだろうか、全身を浸すと、この湯は熱い。息が止まりそうなほど、思いのほか熱かった。
熱すぎる、こりゃ、あんまり長く入っていられないね‥
苦笑いしながら娘に向かって言ったつもりだったが、娘はいなかった。
首をめぐらして見ても娘の姿は見えない。
きょろきょろ浴場内をすかして見たが、どこにもいない。
ふいに娘は消えてしまった。
あるのは鏡のような湯の面と、ちょろちょろ流れる音だけ。気づかないうちにそっと出て行ってしまったのか。 振り返って、洗い場のほうを見ようとしたとき、ザバッとすごい音がして、すぐ近くの湯の底が爆発でもしたように、目の前の湯が白いしぶきの柱となって盛り上がり、その中から娘が現れた。
私のすぐ前、肌が触れそうなところに、顔から湯をだらだらしたたらせ、髪を首や胸にへばりつかせた娘がいた。
なんと娘は素もぐりのように湯の中を潜り、いきなり私の前に浮かび上がったのだった。
つりあがった目を大きく見開き、大きめの口をあけて、そろったきれいな歯を見せながら、
びっくりした?
と笑いかけた。いたずらをする小学生のように屈託がない。
びっくりするどころではなかった。心臓に持病があったら悪化させていたかもしれない。
それにしてもなんと子供じみた、意表をつく真似をしてくれることか。これがこの地方のならわしでもあるのだろうか。
裸の若い女が肌が触れ合うほどに迫ってきても、私はひたすらまごつく以外なかった。
娘は私の狼狽ぶりを楽しむようにさらにけたけた笑う。
娘と間近に向かい合っているためか、その口元や目じりにしわがあるのが見てとれた。この娘は、思った以上の年齢なのかもしれない。
娘は笑い顔のまま、はたと私を見据えると、
じゃあ、もっとびっくりさせてあげる‥
とそのまま後ろへいくぶん反り返りぎみになった。それと連動させるように、両脚を前方へ突き出してくる。と、思う間もなく、その両脚でいきなり私の胴をはさんだ。さらに、あっという間に脚を私の背中に回し、両のつま先を上げて、私の腰のところでカギのように組んだのを感じた。娘はプロレス技のように、両脚で私の胴回りを挟み込んでしまったのだ。
娘のあらわな下腹部が、信じられないくらい大胆に私の下腹に押し付けられてくる。
しかし、娘と初めて肌が触れ合ったというのに、感動も興奮もない。そのあまりの大胆さに驚くにしては、娘の肌は冷たすぎた。甘い期待を吹っ飛ばし、心まで冷やす冷たさだった。そのうえ固かった。プラスチックのような異質な硬さと、エナメルのようなよそよそしい感触。
私は衝撃を受け、ただただとまどっていた。
続いて娘はプロレス技そのもののやり方で私の腹を締め上げてきた。
すごい力だった。連続してやられると、呼吸が止まってしまいそうだ。
娘は、私のあわてぶりがいよいよおかしいらしく、さらに口を大きく開け、舌を出して笑う。笑うほどに顔の小じわも不気味にゆがむ。
しわは増えていた。気がつくと、私の胴をはさんでいる太ももにもしわが見える。
しわではない、ひび割れだった。娘の顔といわず、体といわず、縦横に無数のひび割れが走っている。
ウロコだ。ウロコだった。娘の肌はびっしりと白いウロコでおおわれていたのだ。
いきなり娘は上体を倒し、ざぶんと湯の中へ倒れこんだ。
そのまま両脚に力を込めて私を引き倒し、湯の底へ引きずり込もうとする。娘の両脚はひとつにとけ、私の腹に巻きつく太い管となっていた。
もはや娘には手も足もない。のっぺりした白い円筒だった。巨大な白いヘビが私の腹に巻きついていたのだ。
かま首をもたげ、つり上がったガラス球のような目でしっかり私をにらみながら、しゅっしゅっと赤緑色のとんがった舌を出す。
すさまじい力にさからう間もなく、全身を湯の中へ引きずり込まれた。
と、湯が私の肌とヘビの皮の間に入り込み、滑りはじめた。
ようやく我に返った私は、この機を逃さず手足をばたつかせ、ヘビの捕縛から抜け出そうとした。これはなかば成功し、私はどうにか洗い場へ這い出したが、そこでまたしても強い力で引き戻されてしまった。 私は必死で何かにつかまって抵抗しようとしたが、つかんだのは一個の洗い桶だけだった。
ヘビはいよいよ勢いをつけ、私を自分の方、湯の中へと引き寄せる。 ならばと私は、反射的にその勢いに合わせ、振り向きざまに桶をヘビの頭めがけて投げつけた。
グワッという動物のうなる声がして、ヘビが動きを止めた。
桶はヘビの頭のど真ん中に命中したのだ。ヘビの目と目の間の白いウロコから、赤黒い血が一筋たれてきた。
ヘビはあきらかに、思わぬ反撃にたじろいでいた。その場に立ちつくすように、かま首をもたげたまま、私を締め付けていた胴もゆるませてきた。
私は、自分でも意外に思うほど、土壇場の勇気を奮い起こして逆襲した。
ヘビの胴を振りほどき、そのかま首めがけて突進した。太い首を両手でつかまえると、思いきり締め上げ、全体重をあずけて湯の中へ倒れこんだ。そのままヘビの首を湯の底へ押しつけ、なおも締め上げる。おぼれろ、おぼれてしまえ‥‥白い大蛇は苦しそうに、私を振りほどこうともがく。
どれくらいそうしていたろうか‥
どこかで、
大丈夫ですか?
と声がした。なおも
大丈夫ですか、
と問いかける。私に対してのようだ。
思わず振り返ると、心配そうに私をのぞきこむ、湯に入ろうとしかけたままようすの、客らしい老夫婦がいた。
私は
これを見てください、
と夫婦に見せようとしたが、夫婦はあいかわらず妙な表情のままだ。
私はのびたヘビを引き上げて見せてやろうとして、自分が湯の底の白い石のひとつを両手でつかまえていることに気づいた。どうにか自分を取り戻して、あたりを見回したときには、湯船にも洗い場にも、あの白い巨大なものは影も形もなかった。
気分転換どころののんきな気分ではなく、そのまままんじりともせずに過ごして、翌朝、帰り支度もそこそこに、ほうほうのていで宿代を清算しようとしていた私は、自らレジの前に座って金勘定をしていたこの温泉宿の若主人の,何の責任もなさそうなのんきな顔を見て、にわかに腹立たしさがこみ上げ、取り合わないだろうとは思いつつも、ゆうべの一部始終を話さずにはいられなくなった。
話を聞いた主人は、
そりゃ湯あたりでしょう、湯の中で眠り込んで、夢でも見たんでしょう、おぼれないように気をつけてくださいよ、
と、案の定、二言三言でかたずけた。
言い返そうとする私に、ふと思いあたったように言った。
でも白いヘビか‥お客さん、もしかしたらこれに好かれたのかもしれないね。 そして座を空けると、主人が座っていたレジの後ろの壁に掛かっていた大きな絵馬が見えた。
それには、水の中をかま首をもたげて泳ぐ、一匹の白いヘビが描かれていた。
それは‥!?
ここの守り神、竜神様ですよ。昔からこのへんにはヘビが多くてね。湯の神としてヘビを祭ってるんです。お客さんが入った内湯のすぐ外にこの神様の祠がある。この絵馬は、前からこのあたりに住んでいたばあさまからもらったものだが、ずいぶん昔からあるものらしいのに、描きたてのように新しく見える不思議な絵馬なんですよ‥そうだねえ、この旅館は昔のままの状態にしてあるから、もしかしたら昔のいろんなものも出てくるのかも‥おや、誰かいたずらしたな?!こんなところに誰かが落書きを!きのうまでなかったのに!
にわかに怒り出した主人が指差す絵馬の、白いヘビの額の部分に、流れ出した血のような赤黒い線があった。
場所や名前は架空のものにしてあるが、これは私が遭遇した出来事のうちでも比較的新しいものだ。こういう話を収集していると、どういうわけか実際に遭遇することがままある。収集した話と遭遇した出来事を、物語ふうにまとめたのが次ページからの文だ。
私に限らず、温泉宿などへ宿泊したおり、夜中にふと目が覚めて、ひとりで浴場へ向かい、広い大浴場を独り占めにして悦に入った経験のある人もいるだろう。そんなとき、人っ子一人いないはずの浴場内で、どこかで突然バシャッと湯の音がするのを聞いたり、隅の暗がりで、一瞬誰か、あるいは何かが動いたのを確かに見た、という程度の経験のある人もいるはずだ。
そのときその人は、やはりちょと怖いこともあって、音の源を確かめようとしたり、暗がりをのぞきこもうとしたりはしなかったに違いない。もちろんそれで正解だ。気持ちのいいのにゾッとする、旨いのにワサビが利き過ぎているといった格別な感覚を味わいたい人ならば別の話だが、快楽の満ちるところにはとかく計り知れないものも棲みつきたがるものだから。次からの諸々のページでわかるように‥‥
白い、どこまでも白い底無しの深淵の奥から、光る眼がぐんぐん近づいてくる。
それは初め、ふっと現れたオレンジ色の明るみだったが、たちまち大きくふくれあがり、光り輝く二つの眼となった。
このままではまずいことになるかもしれない…
頭の中のどこからか自動的に警戒警報が鳴りだし、しだいに大きくなる。
わかっていながら啓介は何もしようとはしなかった。 なんだか現実感がない。
こうもまわりりが、前も後ろも上も下も真っ白だと、自分が別な物体にでもなって、別な世界にでもいるようで、身体のどの部分もゆっくりとしか動かない。
心のどこかで、これから起こるかもしれないことを、肯定するところがある。
…すこしぐらいまずいことになったっていいじゃないか…どうなったっていい…
啓介はアクセルをゆるめない。
じつは、今、いやかなり前から今にいたるまで、啓介をとらえて離さない実体は、ある種の恐怖だった。
ぎらつく眼の恐怖…
すべては(単に)啓介自身の〈脅え〉に原因があるのだが‥
あの‥あの眼に見つめられると、怖くて瞬間的に硬直してしまう…まただ、いつもそうだ…
…脅えたって…怖がったっていいじゃないか…僕のような弱い者に、脅える以外に何ができる…誰が僕を責められるというんだ…
卑屈に開き直っても、事態は変わらない。
ポルシェは雲海に突っ込んだジェット戦闘機の様に、視界のきかない中を、光源に向かってナイフのように突き進む。
脳の右だか左だかがもう麻痺している。行動を起こさなければとわかっていながら、何もしないままでいる。
光る眼は、グングングングン、啓介に向かってまっしぐらに突進してくる。
そいつの、恐ろしい、妥協の余地のない意志の様なものを感じる。
自分には恐怖に身を任せる以外出来ることは何もない。あるいはなすすべもなく、朝霧のしずくのようにに消えていくのが僕の運命というやつではないのだろうか…
いつものように、悟りめいたあきらめが心をよぎる。
ママ、ママ、そうなの?そういうものなの?それでよかったの?どうなのか僕に教えて…
光る眼をもつそいつの荒い息遣いと、踏みしめる地鳴りが聞こえ、ひときわ甲高い、竜巻のような咆哮が響き渡る。 そいつの前に転がっていた松の木の枝は、音もなく踏み潰され、細かい粉となって消えた。
そいつは地上を滑るように、いや飛んでやって来た。
どこから…地獄の底から…?!
何のために…啓介を…啓介だけを一呑みにするために…!?
圧倒的な重量が容赦なく空気を押しのけ、そいつの側面にいくつもの小さな風の渦を巻き起こし、その後方には真空地帯さえつくっている。滑らかな曲線を描く、そいつの途方もなく太い、巨大な胴体の表面では、水蒸気が凝結して液体となり、皮膜のようにその表皮を覆いつくし、そののち汗のような水滴となって弾き飛ばされていく。
いかなるものも、その行く手を阻むことはできないように思われた。そいつの前に立ち塞がろうとするものは、ひとつ残らず紙コップなみにくしゃくしゃにされる。
啓介は、そのぎらぎらする、太陽にも似た、二つの目玉に見入ったままダミー人形のように身じろぎもしない。 ポルシェは何のためらう様子もなく、一直線に巨大な竜の顎の下に向かって飛び込んでいく。
すくみあがっていた。
恐怖は啓介の全身を一瞬のうちに氷の塊に変えてしまったのだ。
ギラギラする、表情のない、黄色みを帯びた眼…
啓介の頭の中は空洞だった。またしても…
このところ啓介の頭の中、いや心の中も断続的にこの空洞の状態になることが多かった。
時として、椅子に座ったまま、口を開けたままの状態でマネキンのように動きを止めてしまい、誰かから再三促されて、ようやく我に帰るのだ。
困難が立ちはだかったとき、とにかく克服しようと努力し始める、ある程度の意志の持ち主であれば、取るに足らないほどのストレス………しかし若い、手管に長けた世間の前では悲しいほど幼い(と自分でも思い込んでいる)啓介にとっては、抱えきれないほど重く感じられ、その重圧が心を蝕みはじめていたのだ。
啓介の内部が空洞でないとき、そこに居座っているものは、主に不安と悩みであり、その裏側には恐怖が隠れていた。
啓介は甲地の有形無形の圧力に脅え、あっと言う間に、崖っぷちまで追い詰められるところまできていたのだ。
「坊ちゃん、いや社長、ここのところはひとまず、筆頭株主として、会長の座についていただけませんでしょうかね。今までよりも一段高い、トップの中のトップです。いやいや隠居なんてとんでもない。そんなふうにうけとられてしまうのは心外です。最終決定権はあくまで坊ちゃんにありますとも。ただね、ただ対外的な面でね…
経営はとりあえず、これまでのいきさつを知り尽くしている我々取締役会のメンバーに全部任せていただきたいんですよ。
もちろん、もちろん暫定的に、ですよ。あくまで暫定です。(社長の役はとりあえず私が努めますよ。無論暫定的にね)」
甲地の横暴を断罪することは、啓介にはとてもできなかった。知らず知らず面と向かい合うことさえ避けようと努めていた。
たてまえの上では、啓介は甲地をクビにすることさえできる。なにしろ自分は社長なのだ。しかし、世の中の実際はたてまえどうりにいったためしがなく、理論は現実の前に骨抜きになりがちだ。
啓介は、甲地の前に出ると、いつも自分が卑小なネズミになったように思え、萎縮し、知らず知らず背中を丸めてちぢこまってしまうのだ。
百戦錬磨の成果を口の端の笑いじわに刻みつけている甲地は、才門グループの経営のすべてを知りつくしている。それにひき変え、啓介は、脳天気な大学生のように何も知らなかった。パソコンの画面を見ても、数字が眼の上を素通りするだけだ。
他の多くの社員も、啓介のことは、ひな人形の内裏様にでも見えるらしく、グループの後継者として本格的に実務に乗り出してもらいたいなどというそぶりは、毛ほども見せたことがない。いや、ことさらに見せまいとしている。
啓介は、彼らに対して異論を唱えるこができなかった。彼は、生まれてこのかた人と対決したことが一度もなかったのだ。それはママの仕事だった。ママは偉大な巨人だった。自分はママのあとについてさえいれば、それでよかった。
いや、対決しようとしたところで、甲地をやりこめ、自分の力とはいわないまでも、せめて存在を思い知らせてやろうとしたところで、より情けない失敗に終わることはわかりきっていた。
役員はすべて甲地の味方、というより取り巻きだった。
才門グループには、方針や意見の違う二種類の人間たち、つまり派閥が存在した。欲望をどこまでも拡大再生産させていこうとする主流派と、日々の糧に重きを置き、それを守り続けていこうとする反主流派がそれで、専務の甲地真之介を頂点とする主流派に対し、反主流派のメンバーは、ほとんど、社長の才門啓介本人くらいのものだった。我勝ちに勝ち馬に群がろうとする恩知らずどもの中で、啓介はまったくの孤立無縁だった。
ママ、ママ、どうして僕をひとりにしていってしまったんだ、ママずるいよ、うそつきだ、いつまでもいっしょにいてくれるっていったじゃないか……
「甲地さんは、いや専務はタヌキです、それもかなりの。あの人があそこの地位までいけたのはそのためです。思えば、奥様は専務を信用しすぎていました…」
啓介にはタヌキよりヘビに見えた。
あの黄色みがかった白目には物理的な嫌悪感を覚えずにはいられない。あいつがすり足で歩くさまは、ヘビがはいずり回るのに似てはいないか…
甲地はニシキヘビのようにじりじりと啓介を締め上げてきた。
「坊っちゃん、失礼ながらその判断はまちがいです……幹部会でこのように決まりましたので、承認をお願いします。はい、承認さえしていただければ、それで……
例の買収の件ですが、時間にも迫られておりましたので、私と、信頼できる二、三の取締役の方針で進めることにしました、異存はありませんよね……いやいやこれはリベートなんかではありません、接待費ですよ。ここは私に任せて下さい、このベテランに……坊っちゃんはそこで黙ってご覧になってて下さい、坊っちゃんはご存じないから。その、滞るんです、あれこれとね。社内にいくらか放っておけない『声』もありましてね……
そうだ、海外視察を手配しましょう、坊っちゃんはこの機会に(なんの機会だというんだ)充電したほうがいい、じっくり見聞を広めて、リーダーの修行をするべきです。そうとも、社長修行だ、これはいい……」
ものごとの多くがそうであるように、最大の敵はいつも内側にいた。
甲地はママの葬儀のその日から本性を現しだした。悲しみの儀式を、社員すべてに指図して細部に至るまで自ら取り仕切り、盛大な祭典にしたてあげたあげく、その翌々日には、こんなときだから機構を強化する必要があると言い出して、ママの側近だったスタッフの半分を新規の部門に出向させてしまったのだ。この脅しに、残った臆病者たちは安々と屈し、たちまちのうちに外堀はすべて埋められてしまった。
そして甲地は、じわじわと自分が全権を握っていることを、内外の隅々に誇示しはじめた。
ドアの内側に啓介がいることを知りながら、聞こえよがしに、我らが秀頼公はどちらにおられるのだ、やれやれ困ったお殿様だな、またお隠れかい、誰かあのお坊っちゃまくんを教育しなおさなきゃならないんじゃないか、などと無視できないような暴言を吐いたのも二度や三度ではない。
そんなとき、あきれたことに社員のほとんどが、この甲地に調子を合わせ、苦笑してみせるのだった。 啓介の部下であるはずの社員の目は、すべて甲地のほうに向いていた。指導者に対して当然払われるべき敬意というものが、啓介に対しては欠落していた。かわりにあるのは、憐れみと嘲りの入り交じったさげすみの視線‥。
啓介が、少しでも指導者らしさを発揮しようと焦るとき、きまって彼らが見せるのは、わざとらしいとまどいの表情だった。
ママ、ママ、誰も僕の言うことを聞いてくれないよ、僕、どうしていいかわからない…
どうすればいいの、
耐えられないよ、みんなで僕をばかにしている、
僕を追い出そうとして…
「大丈夫、坊っちゃん、あなたは大株主でいらっしゃる。
株を握っているかぎり誰も手だしは出来ません。くれぐれも……」
啓介はつっぱった。
蒔田のいいつけどおり、必死で踏ん張った。
しかし、その、ほとんどたったひとりといえる味方だった蒔田も、時を置かずに甲地の策略で追われてしまった。
「蒔田くんには沖縄に行ってもらうことにしました。いま沖縄の営業はいちばん大事なときですから。」
「なんだって?!そんなこと……僕は聞いていない……」
「現場サイドでの判断です。テコ入れの小規模な移動ですよ。」
そんなことは誰でも知っている歴史上の既成事実だろうとでも言わんばかりに、自信たっぷりに言い切る甲地の前に、啓介はなすすべもなく押し黙るだけだった。
その目に射貫かれ、その場に張りつけにされてしまっていたのだ。
あの目が怖かった。
表情のない、黄色がかった、油で淀んだようなぎらつく目。
「…お任せ下さい、すべて私に。なに、悪いようにはいたしませんとも。」
穏やかに重厚に断言するその目は、しかしはっきりと啓介に最後通牒を突き付けていた。
お前に用はない、目障りな小僧め。ホテルも才門グループも、もうすべて俺のものだ。
お前には早いとこ消えてもらう。消えるということは、跡形もなく消えるということだぜ。わかっているのかい、脳なしのマザコン坊や。
「専務のことだ、必ず何かしら手を打ってくると思います。
坊っちゃん、くれぐれもお気をつけて……専務にはよからぬ交流の噂もあります。
そのう……身辺のご用心も怠りなく………」
気をつけるって…どうすればいいんだい、蒔田?!僕には何もできやしないよ。
何も知らないんだ、何ひとつ……
ママ、ママ、助けて、僕を助けて、僕怖いよ、あいつの目が怖い…
あいつに睨まれると足が震える。動けなくなってしまうんだ…
あいつは今にも僕に食らいつこうとしている。
その、人間の皮を脱ぎ捨てて、ぎらつく目と灰色の歯で僕に頭から食らいつく…
あいつと向かい合っていると、大きな爬虫類に見つめられているように怖い…
力が抜けて、ダミーのように無力になってしまう…
ちょうど今のように……
そう、まさしくそれは啓介に食らいつこうとしていた。
ぎらつく二つの眼は、衝突を決意したすい星のように、ものすごいスピードでポルシェのフロントグ ラ スに迫ってきた。
たちまち黄色い輝きが、啓介の視界を覆いつくし、彼の顔面を黄銅色に染め上げる。
その、なんと巨大で敵意に満ちていることか。
啓介は声のない叫び声を上げた。
二つのぎらつく眼はふいに上へいき、遥かな高みから一瞬啓介を見下ろしたとみるまに、ぐわっとその巨大な金属の口を開け、銀色の歯で、ポルシェをこなごなに裁断しようとした。
啓介が無意識のうちにハンドルを切ったのか、あるいは土壇場になって、そいつのほうが気が変わったのかはよくわからない。
突発的な、ものすごい、張り裂けるような金属音と、ゴムの焦げる臭いがし、啓介は、上のほうに、怒り狂って青ざめながら悪態をつく運転手の姿を見たような気がした。
ポルシェは突如巻き起こった風圧にあおられ、大きく車体を浮かせた。
啓介は反射的に、狂ったように逆方向にハンドルを切る。
すんでのところで、啓介を乗せたまま薄く引き伸ばされた鉄板片になる運命を免れたポルシェは、四つのタイヤすべてを鳴かせ、車体を激しくきしませたのち、前輪の一方を薮の中に突っ込ませて路肩に止まった。
右へ左へ巨体を揺すって蛇行した揚げ句、これまた危ういところで体勢を立て直した巨獣のようなタンクローリーは、啓介に対して怒りの警笛を鳴らしたまま、走り去り、霧の彼方へと消えていった。
啓介はよろめきながら車を降りた。
思わず両手で自分を抱き締める。
タンクローリーが消えて行った方を見やりながら、震えが止まらなかった。
何だ、どうなったんだ、今のは何だ………?!僕は何をしていたんだ………
脂汗が頬を伝う。
死ぬところだった。
ほんの一ミリ先を死がかすめて通っていった。
僕はたった今死の実体というものをかいま見たのだ。鋭利な刃を振りかざした、残忍な死の使者の姿があそこにあった。
逃れられたのは奇跡だった。
なぜ……
甲地に対して臆病であるように、死に対しても臆病だったからか、運命に対してまともに立ち向かうことを避けていたからか………
もしかしてここで死ぬというのが僕の運命だったのか………
乳白色の彼方から忽然と現れた巨大なタンクローリーは、予約されていた死に神のように妙に必然的に思えた。 運命は僕を見かねて断を下そうとしたのか、好意で永遠の平安を与えてくれるつもりだったのか……
ああ、ママ、僕いまママのいるところへ行くところだったよ。ママが僕を呼んだの……?
できれば…できれば僕もそうしたい、ママのところへ行きたい、何もかもほうり出してママのところへ行きたい、そしたらどんなに楽か……
「ルルル、ルルル、ルルル、ルルル…」
不意にどこからか、思考を遮断する電子音が沸き起こり、啓介はたった今目が覚めたようにびくりとした。
「ルルル、ルルル、ルルル、ルルル…」
人を苛立たせるいななきは、止む様子もなく続く。車の中に置いた携帯電話だった。
押し付けがましく、執拗に啓介を促し続ける…甲地のように。
電話……
僕を呼んでいる人がいる……
誰……?
いや、考える間でもない。甲地の手下どもだ。海外視察の準備が整いました、午後にでも出発できます、ご希望でしたらそのまま留学することもできます、何日、何年でも滞在は可能です、とかなんとか言ってくるにきまっている。
啓介は無視した。 電話はかなりの間不満そうに泣きわめいたのち、鳴り始めたときと同じようにふいに止んだ。
ふっと静寂が訪れる。
冷たい水蒸気に覆われたひっそりとした静けさ。
霧の降る音のない音がする。
啓介は辺りを見渡した。
ミルク色の中に浮き出た、赤く光るポルシェが妙に生々しい。
そもそも自分はなんでこんなところにいるのだ。どうしてこんなところまでやってきたのだ。
高速を降りたところまではかすかに、かすかに覚えがある。だが、それから先は……記憶の断片すらない……頭の中も霧のように白かった。
ジェト機のように自動操縦になっていた。目は見、耳は聞いて運転してきたが、単にそれだけのことだった。目的も意識もない。ただ単に車を前に進ませて来ただけだ。
赤信号で止まり、カーブを曲がり、坂を上ったり下りた理、純粋にハンドルを回すのとアクセルを踏む行為を繰り返してきただけ。
ここがどこかもわからない。
なぜこんなことを……
……ママだ。
ママは、ゆきずまって身動きがとれなくなるような悩み事を抱えたとき(啓介はその内容や原因を細部まで理解することはできなかったし、もちろんママは話しはしなかった。しかし啓介はどんなときでもママの感情の動きだけは正確に感じ取ることができた)、いきなり車に飛び乗って、やみくもにどこまでも飛ばすことがたびたびあった。啓介ひとりがよくそのお供をさせられた。
一心に前方を見つめながら、ママは、ひとりごとのように啓介に話しかけてたものだった。
啓ちゃん、頭の中がモヤモヤしたときはね、車に乗るのがいちばんよ。それもこのポルシェに限るわね、こいつ速いから。
こうやってスピードを出すとね、頭のすみっこにあるモヤモヤが、だんだん後ろのほうへ追い出されてくるの。
もっとスピードを上げると、そいつは車の外へほうり出される。
そしたら、もっともっとスピードを上げて、そいつを振り切って逃げちゃうの………
それでもモヤモヤが追いかけてくるときは………
霧がさきほどよりも薄れかけていた。あたりの明るさが増し、太陽らしい暖かそうな光りが、霧のベールの陰にうごいている。
道路の行く手とおぼしき方向の、霧の上のほうの一部分がどんどん薄れ、ぽっかりと窓のように穴があいて、その先にあるものの影を小さく映し出した。
白い筒状のものの先端………
………灯台らしかった。
ポルシェは再び啓介を乗せて走りだしていた。
啓介はひとまずあの灯台を目指して行ってみるつもりだった。
啓介には、いま自分が置かれている状況と、会社での自分の立場が、どことなく二重に重なって見えていた。 右も左も見えず、どうしていいかわからない。これから先、どんなことになるか予測もつかない。
しかし、いま自分は進むことはできる。
あの、小さく、頼りなく、一瞬だけ見えた灯台を目指して行くことで、少なくともいま自分はどこにいるかわかるだろうし、あるいは、これからなすべきこともわかるかもしれない。
啓介の願いどおり、進むにつれ霧はいよいよ薄くなっていった。
このままだと霧を抜け出すことができる。
同時に潮の匂いが強くなっていった。自分はどうやら、かなり海に近い道路を走っいたらしい。 はるか下のほうから、微かに波の音らしいのも聞こえてくる。
少しスピードを上げようとしたとき、またしても携帯電話が鳴った。
啓介は思わず舌打ちをし、さらにスピードを上げる。
電話もそれに合わせるように、負けじとうるさく鳴り響く。
とうとう啓介は根負けし、車をゆっくりと路肩に寄せた。
苦々しげに受話器を見やる。
小さな機械は、生命あるもののように勝ち誇ってその全身を打ち振るわせ、啓介に応対を強いてくる。
受話器を取り上げた瞬間、啓介は再び、悪意に満ちた、よそよそしい現実と直結し、取り込まれてしまうのだろう。
けしてそんなことはないはずだとわかっていながら、世の中すべてが啓介に対して、好意ではないものを持っている、と思えてしかたがなかった。
僕ひとりだけ別の惑星に来た異星人のようだ……
あらゆる人、あらゆる物までが、甲地と同じ考えを持ち、阻害という武器を持って啓介を追い回し、狩りたてる。
対決することはおろか、そこから逃げだしてしまうということさえ、決断できない自分の、あまりに弱すぎる実態を思い知らされるのも最低だった。
かけらほどの気力も備わっていないではないか。 生きるに値しないな、という嘲りがいつもどこからか(なんと自分の中からも)聞こえてきそうだ。
結局はどうにもならないのだ。
鉛の重りが付いたような右手を虚ろな気持で延ばしかけたとき、電話は啓介の耳に反響を残したまま、またしてもすっと鳴るのをやめた。
拍子抜けしながらも、あわてて手をひっこめる。
電話は止まったのだ。出ることはない。電話に出るよりはまだしも霧の中で方向を見失っているほうがはるかにましだ。
電話は二度と鳴るそぶりをみせなかった。
啓介は肩で息をすると、頭をシートにもたせかけ、額にうっすらとうかんだ汗を手のひらでぬぐった。
さらに、見るとはなしに目を上げ、しばらくの間窓の外を見やる。
霧が渦を巻いて後方へ去っていきはじめている。
電話よりは、そして電話に繋がるこの世のすべての事柄よりは、霧のほうがまだやさしい。啓介に何も言わないし、追いつめたりしない。そこにいるだけだ。
飽かず霧の流れるのを見ていた啓介は、やがて気を取り直し、のろのろと車の外へ出た。
湿気と入れ違いに、乾いた爽やかな風が鼻先を撫でた。
霧は急速に押しやられようとしていた。啓介と車のいる場所を境目に、濃密な水蒸気の集まりは、すっぱりと切断され、切り立った広大な霧の壁が、二方向に別れて後退していく。
乳白色の中にできた原色の裂け目はどんどんその面積を広げていた。
遥か高みには、晴れやかな青空も見えはじめる。
啓介がいる道路端には畑が続いていた。
道路は、茶色く豊かに波打つ広々とした畑の中を走っていたのだ。
霧が退いていくにつれ、啓介と車のいる側の畑の、はずれらしいところに、ぼうっと黒い巨大な影が現れたかと思うと、若々しい葉を繁らせた、枝振りのいいコブシの木が一本、霧の中から抜け出てきた。 それは乳白色の背景の前で、計算された舞台装置のようにわざとらしくそそり立って見えた。と、その前、木と啓介との中間のあたりの畑の上に、農夫が一人うずくまっているのに目がいった。
農夫は畑の中にかがみこんで、一心に何か仕事をしている。
気がつかなかった、すぐそばに人がいたなんて……
とすると、このへんは意外と人家の近くなのかもしれない。 誰に対しても、人嫌いになりかけている啓介ではあったが、ふと声をかけてみたくなった。 自分がいまどこにいるのか、とりあえず知るためにも、やはり聞いてみる必要がありそうだった。
「あの……、……」
啓介は口をもごもごさせながら話しかけた。
農夫は気づいたそぶりはまるでなく、作業を続けている。
「…え、えーと、ですね……」
気後れがちになりながらも、なおも声をかけるが、その、お年寄りらしく見えるお百姓は、当然のことのように背中を向け、何事かに没頭したまま、気をそらそうとしない。
啓介は農作業のことは何一つわからないので、このお爺さんあるいはお婆さんが何に熱中しているのか見当もつかなかったが、この人にとってはよほど大事なことの最中なのだろうということぐらいは推察できた。
首を伸ばしてそっとうかがうと、畑の一カ所を掘るか埋めるかしているようだった。
さらに見ていると、かい出した新しい土が見えた。
掘っているのだ。
わき目も振らず、身体中あちこち泥だらけにして頑張っている。土で半分茶色に染まった灰色の手ぬぐいで頬被りをし、その、くたびれてあちこち毛羽だった、手ぬぐいと同じ色の、弛んだ着物とモンペの作業着が、袖といわず裾といわずさらに土に覆われていくのも、
おかまいなしだ。 作業がひとくぎりするまで待つとするか……
啓介はあっさりあきらめると、所在なさのため、意味なく車のほうを振り返った。
知らぬ間に霧はなおも後退し、道路をはさんで、啓介がいるのとは反対側の畑も、その先に連なる青黒い森もはっきりその姿を現しはじめていた。
森の上に灰白色の太い円筒の先端―灯台の上半分が浮かんでいた。
灯台は真正面から啓介を見下ろしているように見えた。
さっき見た灯台だ。
もうこんな近くまで来ていたのか。
灯台というものは、ただそれだけで青々とした海の広がりと、ものういカモメの鳴き声と、潮気を含んだ爽やかな空気を感じさせてくれるものだ。
少しく冷たい水のような新鮮な空気を頭に吹き込まれた思いで見守るうち、霧はさらに後退し、その中から、まるで生み出しでもするかのように、
するりともうひとつのものを視界に押し出した。 啓介はおやと目をしばたいた。
灯台だった。
同じような灯台がすこし後方にもうひとつ、忽然と姿を現したのだ。
現れた灯台も、前のある灯台とじつによく似ていた。
同じようになめらかな灰白色で、同じように下界を超越して慄然とそそり立っている。
啓介のほうから見ると、よく似た背の高い兄弟が肩を並べて突っ立っているように見えた。
啓介はカメラを持っていないことを悔いた。双子の灯台なぞそう毎回目にできるものではなかろう。灯台はたいてい、海にせりだした岬の先端にひとつだけ孤独に立っているもののはずだ。これはいったいどうしたことなのだろう。
去り行く霧を背景に屹立する二本の円柱はちょっとシュールな光景だった。
見方によっては、カメラやテレビなどの作為的な二重映しの特殊効果のようにも見える。
そうか、建物の更新というやつなのかもしれない………きっとそうなのだろう。 建っていた灯台が老朽化してきたために、その隣に新しいものを建築している最中なのだ。
新しいのが完成しだい、古いものは取り壊される運命にある、といったところなのだろう。
啓介のこの解釈に、そのとおりといわんばかりに後方の灯台が返事をし始めた。
小刻みに震えている。
そうだそうだとうなずくように全体を揺らし始めている。
啓介はハッと足を踏ん張り、大地に目をやった。
地震ではない。
地面も自分も揺れてはいない。
顔を上げると、灯台はなおも揺れを増し、頭を振り回すように、先端を大きく左右に、振り子のように振り回し始めている。
と、大きく後方に反り返ったと思う間もなく、その反動ででもあるかのように、大きなカーブを描いて、こちら側にゆっくりゆっくり倒れかかってきた。
このままだと、いまにも前の灯台にぶつかり、二つともこなごなに崩れ去ってしまうだろう。
大きな建物が倒壊するすさまじい音……
……………………は、しなかった。
音はなにもしない。
倒れかかった灯台は、すこし傾いて、前方の灯台を巧みにかわしていたのだ。
危ないところだった………
いや、そうではない、今度はそいつは、そのまま森の上に倒れかかってくるではないか!
木が何本もなぎ倒される音、巨大な円柱が大地にたたきつけられてばらばらになる音…………………………も、しなかった。
なんとしたことか、灯台は倒れかかったまま森の上で静止していた。
完全に斜めにかたむいたままで、ぴたりとその動きを止めていたのだ。
啓介は目を丸くして見守るだけだ。
…………!?
………これは…………いったいどうなっているのだ!?
ピサの斜塔だってこんな芸当はできやしない………
僕はいったい何を見ているのだ!?
と、傾いていた灯台は、今度は再び起き上がりはじめ、なんともとの位置へと直立しはじめるではないか…………
そのとき啓介は見た。
その灯台の先端の部分、何万カンデラとかのライトがあるべき場所に、探照灯などはなく、かわりに小さな黒い目があったのを…………
そしてその最先端には紫色の舌がはみ出していたのを…………!
舌はしっかり木の葉を巻き込み、まさに口の中へくわえこもうとしていた。
おそろしく巨大なヘビがカマ首をもたげていた…………!
…………いや、ヘビではない……………
ヘビのもつ悪意を秘めた不気味さは感じられない。あのいやらしいウロコも見えない。
…………どちらかというと象に似た印象…………すべすべしたなめらかな皮膚、浮き出た太い血管、草食動物のようなおとなしい目…………
…………恐竜だ!
映画やテレビで見た(つまり正確にいえば、人間の推測力だけで再現された、その生きている姿という虚像は見たことがあるので、たぶんこれではないかと推測できる)巨大な胴体の、首の長い恐竜、アパトサウルスというやつではないか!?
もちろん啓介は自分の目が信じられなかった。
なぜ、なぜ、なぜ、どうして、こんなところに…………
…………地球上にいないはずの前世紀の動物がのうのうと草をはんでいるのだ?
映画か…………!?
もしかしてハリウッド映画のロケかなんかなのか…………!?
いや、そんな理由づけのほうこそ、無理があるし、かえって現実離れして思える。目の前にいるのは、どう見ても―においまで嗅げそうなほど―正真正銘の本物なのだ…………!
恐竜は啓介などには目もくれず、あたりを睥睨しながら、悠然と草をはみつづける。
意外にも啓介は怯えてはいなかった。
怯えてはいなかったが、かつてないほど驚いてはいた。その驚きは、見上げる恐竜の大きさとあいまって、啓介を見事なまでに圧倒した。
いつのまにか足のほうが勝手に反応し、逃げの体勢をとりはじめる。目は恐竜に向けたまま、自動的にそろそろと畑の中へ後じさりしだしていた。
ママ、ママ、僕、なんだか変なところにいるみたいだ…………
「ね、ね、あ、あのあの、あれ、あれ、…………あれ、何ですか!?………あ、あ、あんなの、見たことあります!?」
啓介は恐竜を見つめたまま、上ずった声で農夫に話しかけた。
近くに誰かいたのは幸いだった。誰でもよかった。それだけで天の助けといってもいい。ひとりぼっちでいきなりこんな巨大な怪物と向かい合ったら、下手をすればショックで発狂さえしかねない。 しかし農夫はまだ啓介の呼びかけにも気がつかない。
「…………あっ、あれ、あれですよ、お百姓さん、あれ!…あれ、見えませんか…
あいつ…………あいつ、その、あの、もしかして恐竜じゃありませんか………!?
ど、ど、どうして、あんなのが、ここにいるんですか…………」
農夫は答えてくれない。
震える啓介なぞ頭から無視し去り、あいかわらず背をむけて農作業に熱中している。
啓介は味方してもらいたかった。農夫の陰に隠れて、一刻も早くその老人の体を盾に、頭を抱えて顔を覆って小さくうずくまりたかった。
農夫ひとりではとても恐竜の相手ではなかろうが、ともかく自分は恐竜の視線から外れるところにいたいと思った。
刺すような恐怖が急速に頭をもたげる。
「おっ、おっ、お百姓さん、あれですよ、あれを見て下さいよ…………」
たまらず農夫の袖にすがりつこうとした。
「カアアアアアアアアアアアアッ!」
頭骸骨を割って、その割れ目から発するようなかん高い叫びとともに、農夫はいきなりその場で飛び上がった。
すごい勢いで、啓介をはるか下に見下ろす中空の高みまで舞い上がったかと思うと、そこへ静止するようにぐるぐると二回転回り、次の瞬間には、隕石のように一直線に落下して、土埃をあげながら、どすんと畑の表面に勢いよく着地した。
何が起こったのかわけがわからず、あっけにとられている啓介を尻目に、今度は両手をぺたりと地面につけると、四つん這いになり、そのまま手足を目覚ましいスピードで動かして、走りだす。
たちまちのうちに畑を横切ったかと思うと、そのはずれのコブシの大木にしゅるしゅると這い登り、あっと言う間にてっぺん近くの枝まで達したあげく、その枝に両手でぶら下がって、体操選手よろしくぐるぐる二回転したのち、ようやくその枝の上に腰を下ろして、啓介のほうを睨みつけた。
声をかけた啓介を、激しくなじるように歯を剥き出し、怒りの叫びをあげる。
しわのよった赤ら顔と、牙のような鋭い歯、ぎろぎろした凶暴そうな目。
「…………あ、あ、あの、あの……………………」
啓介は愚かにも、なおも声をかけようとしていた。
猿だった。
灰色の長い毛で覆われた、かなり大きな猿だった。
猿は、鯉のように口をぱくぱくさせている啓介に、断を下すような鋭い威嚇の一声を投げかけると、登ったときよりも早く、するすると枝を滑り降り、たちまち灰色の背を向けて、畑の外へと駆け出した。
畑に連なっている草原の斜面を、走るというよりぴょんぴょん跳びはねるように小さくなっていく。 茫然と猿を見送りながら、いまだによく事態がのみこめないままの啓介は、誰かの賛同でも得ようとするように、あてもなく振り返った。
灰白色の灯台があった。
恐竜の姿は見えなかった。
え…………?!
あれ…………?!
灯台を見たまま立ち尽くす。
あくまで灯台だけだった。下のほうの森もがさごそ揺れ動いたりしない。
それよりもなによりも、この絵のような光景の中に、他の何者も存在した気配がない。青空の下に灯台が静かにそびえているだけだ。
何事も起こらなかった。なんと『こちらも』だ(おかしいのはこちらもだ)…………………
啓介は急に力が抜け、ぺたんと畑の土の上に座り込んだ。
やれやれ、ママ、僕なんだかちょっとおかしいよ、おかしくなっちゃったよ、
目かな、それともアタマかな…………
とにかくヘンだ…………
いまのは何だったんだ…………
さっき確かに見たと…………
恐竜を…………………どこにも見えないや。
猿もそうだったのか、あの猿も…………
もしかして見まちがい…………?
猿はいた。
確かにいた。現にいまも走っている。どんどん遠ざかっている。
猿は、急に傾斜した草原をどこまでも降りていっていた。
猿の前方には岩が見え、そこに白く砕ける波が見える。
ここは、啓介がいまいるところは岬の突端だった。
茶色の畑には緑の草原が連なり、それはある部分から急に傾斜して海へと落ち込んでいる。海と陸の境は岩の絶壁。それから先は、黒く見えるほど濃い、群青色の海だ。無限のガラス板の広がりのように遥か彼方までつづき、同じように広大な青空と、妥協することなく向かい合っている。 午後の日ざしが、海面のそこここに、ダイヤをちりばめたような輝きを与えていた。 凝縮されたような風景の中にひとつ、いまや灰色の点となった猿の背中だけが躍動的に動いていく。
啓介はその灰色の点の行く手に、つまり、ずっと下の波打ち際のほうに、家の屋根らしいものをみとめた。 古風な造りの、かなりの大きさの屋根が、陸と海の境の崖下にひっそりとへばりついていたのだ。
ポルシェは乱暴に、しかしどこかぎこちなく車体をきしませて止まった。
啓介は足がもつれ、よろける思いで車から降りた。
まだまだ納得がいっていなかった。いましがた自分が見たはずのものが理解できず、不安でいる自分にどう折り合いをつけたらいいかもわからなかった。(幻などではない、『あれ』は確かにいた、そして『あれ』は前は確かに農夫だった………)
〈猿ケ蔵温泉〉と、年輪が黒い渦になって見える板に、墨で描かれた看板がひさしの下に掲げられていた。板は風雨の歳月にさらされたためか、すっかり灰色に変色している。
建物全体も、同じ塗料で塗られでもしたように、色あせた木の色一色だった。
が、全体としてはなかなか古風な、堂々とした旅館ではある。
啓介の位置からだと、平たい屋根が二重三重に重なって見え、横の広がりは視界に入りきれないほどだ。どこか昔の成り金の御殿を思わせるところもあり、屋根の一角に望楼のようなものもとびでている。
明治のころにでも建てられたものだろうか、いや、それほど古くはあるまい。しかし、経験はないが知性はある若者に、ある程度の気おくれを感じさせるには十分の古さだった。ただ単に歳をとっているというだけで風格の備わっている老人に似ていた。
建物は横側が海に面していた。すぐ下の岩だなが波打ち際になっている。こんなに海が近いと満ち潮のとき半分くらい水没してもおかしくはない。
建物のもう片方の側面と後方は、岬の崖につらなる切り立った巨大な二個の岩柱だった。
即ち、結論としていえば、岩に押し潰されもせず、波にさらわれもせず、今の世まで原型をとどめてきたのが、この世の不思議のひとつに数えてもいいと、誰もが感慨を抱くほどの建物ではあったのだ。
啓介はここの看板を見たときから、ここに一夜の宿を頼むつもりでいた。
それはきわめて当然、かつ自然な成り行きであり、啓介にとっては迷う余地もないほどあたりまえの帰結だった。
幼いころから馴染んで、啓介の中に組みこまれてしまったママのパターン…… さんざん車をぶっ飛ばしたあげくの果てのママの終点は、決まってどこかの温泉宿だった。
いま思えば、二、三のきまった宿があったような気がする。いつ行っても(予約などした様子はなかった。ママはいつでも発作的に飛び出した)、どこでもママと啓介は、丁寧にかなり上等と思われる部屋へ通してもらったのだ。
啓ちゃん、困ったときはね……
いくら車を飛ばしてもどうしてもモヤモヤがついてきて離れないときは、オンセンに入るの。
服とか下着とかいう布切れ、つまり世の中と上っ面だけでつながっているもの、他人のいる通りや会社の中を歩くための絶対条件みたいなものを、とにかくみんなひっぺがして、湧き出しているお湯っていう、自然のものの中にすっぽり浸かっちゃうのよ。
そうして、そのままじっとしてると、何も考えないし、考えられない。
温まって、いろんなことを忘れて、疲れが抜けていくのがわかるだけ。モヤモヤだってついには流れていっちゃう。モヤモヤなんて身体に付いた汚れとおんなじよ。簡単に流れていっちゃう。カンタンよ。これにおいしい夕食でもあれば、もうそれでオシマイね。
それにね、啓ちゃん、これはとっても大事なことなんだけど、お風呂から出たときは│あの、色や匂いのするお湯に入って出たときはね……………少しだけ、少しだけ世の中が変わってるの………
なんと、ちょっと別の世界になってるのよ。信じられる?ホントなのよ。
ママは《ここ》が好きなのよ。
うまくいかないことが、そりゃ急によくなったりはしないけど、どうにかできるようになる、たとえうまくいかなくても、それはそれで価値のあることなんだと思えてきちゃう………
「ええ、ええ、よろしゅうございますとも。いいですよ。よくいらっしゃいました。そんな、予約なんて、あなた……
いまはお客さんがいない時期なんですよ。先週あたりからパタッと少なくなって、もうガラガラ。よくやってるよね、アハハハハハハ。
きょうもいままで、お客さん(啓介の顔を見て)、お客さんがひとりだけ。たぶんお客さんでオワリじゃないかな……
サービスに一番いい部屋にお通ししますよ。ま、どれも同じようなもんだけどね、アハハハハハ………」
応対に出てきたのは、女将だか中居さんだか区別がつかない、そのどちらの仕事もしていそうな小柄で小太りのおばさんだった。 啓介を案内しながら陽気に言う。おひとりですかとか、お若いですねとか詮索めいたことを何ひとつ言わないのが、すこし気に入った。いまのところ、どうやら従業員はこのおばさんだけらしい。
「料理はいいですよ、ウチはこれが評判いいの。
都会から来た人にはとくにね。捕れたてなんだから。
まもなくウチの(亭主)が沖から戻って来ますよ、魚をいっぱいのせてね。」
自由自足のペンションふうだ。
あたりまえのことだが、世の中には啓介とはまるで関係なく暮らしている人が大勢いる。啓介や甲地とは全く無関係に、各個の社会の中で、各個の思いで生きている。 啓介の世界も結局のところ、地球上に無数にある各々の世界の、ちっぽけなもののひとつでしかない。啓介の悩みなども、さらに小さな、大半の人からみれば取るに足らないことなのだろう。
つまるところ僕は、世界の九割九分以上の人が気にもとめようとさえしない取るに足らないことで悩んでいるのかもしれない…………
そう思うといくらか気が楽になり、おばさんの陽気さに引き込まれた。
「ここの…このあたりは、なんというところなんですか?」
「ここ?この海岸?………『夢見崎』。
昔の人がね、ぽかぽかした日に、この上のほうの草っ原で昼寝をしたんだって、そうしたらいい夢が見られたんだって。誰も彼もいい夢を見たんだって。見たこともないような不思議な夢も見られるんだって。ま、言い伝えだけど。
住んでるあたしにはよくわかりませんけど。だいいちあんまり夢見ないからね。よく眠っちゃって、アハハハハハ…………」
「夢見崎の猿ケ蔵温泉ですか…………」
「そう、このへんは野生の猿が多いんですよ、これはホント。 猿が来らあっていうところから猿ケ蔵という名前になったんですよ。温泉に入る猿だっているんですよ。
お客さん、来る途中一匹でも見かけませんでしたか?ひっかかれませんでした?
このへんの猿はタチが悪くてねえ、ホント、用心しないと。ひっかくだけじゃなく、人をたぶらかすんですよ。ボーッとしてるとやられますよ。
猿ってやつはなんだか人さまの気持ちがわかるらしくてね。つけこむんですよ、これが。」
「それじゃあ、あの、もしかして、さっき僕が…………」
「あっ、こちらです」
啓介が言おうとしたとき、おばさんは突然廊下の真ん中に立ち止まり、啓介のほうへ向き直りながら片手で指し示した。
そこは廊下が交差している十字路だった。
おばさんは一方の廊下の奥を指さしている。
「はあ?」
「こちらです。
あの…………お風呂ですよ。
ウチはお風呂もまた評判がいいの。
単純泉だけど、もう、江戸時代の前からこのへんに湧き出しているものでね、あんまりキクんで霊泉って言ってくれる人もいるんですよ。 それにね、浴室は、海に面しているほうが全部ガラス張りで、バーッと広い海が見えるんです。
もう、波しぶきがかかるぐらい近く見えますよ。もちろんホントにかかりゃしないけど。
お客さん、お風呂に入りたいでしょう、ねえ、なんだか疲れてるみたいだから。早く入ったほうがいいみたい、スカーッとしますよ。
今日は誰もいないから貸し切りだね、アハハハハハ…………」
風呂の中は、おばさんの言ったとおり最高の視界だった。
浴場に一歩足を踏み入れた瞬間、大海原が目の前に展開する。
正面の壁全体が大きな窓ガラスになっていた。波打ち際に降り立ったような感覚さえ抱かせる。シネマスコープサイズの窓は、横に広がる紺色の海と、その中のあちこちで青く盛り上がり白く砕け散る波を、すこしづつライブで書き換えられていく絵のように、見事に装飾的に、現実感を取り去って映し出していた。
浴槽は、窓のすぐ下に、ほぼ窓くらいの大きさで、プールのように掘りこまれていた。
旅館全体は、吹かれれば飛んでもいいくらいのもろそうな印象なのに、浴場はそれとは反対に、まことに頑丈に、がっしりと見えた。
浴槽も洗い場も、床全体がひとつの鋳型にあてはめて造られたように、のっぺりとむき出しのコンクリートで、その上に長年の湯あかが漆のように塗りたくられたおかげで、一種ある作品のような落ち着きが備わっている。 年月を経て、粗さがとれ、ぬるぬるとしたその表面は、妙に人間の肌に馴染みそうに見えた。
海の色よりは薄いが、海水のようにも見ようにも見える、いかにも塩気のありそうな水色の湯の中へ、歓声をあげながらダイビングしようと足を踏み出しかけた啓介は、思わず「おっと……」と驚きの声を上げそうになった。
先客がいたのだ。
首がひとつ湯の真ん中に浮かんでいる。
ごましおの、肩まではないが、ほどほどの長髪。老人だろうか。
その人物は後頭部を啓介のほうに向け、視線を窓の外の海へ走らせたまま、ひっそり靜かに湯の中に沈んでいる。
気勢をそがれることおびただしかった啓介は、一瞬気後れし、思わず回れ右をしてしまった。
ママに言われていた入浴の作法がよみがえったこともある。
入る前にはよく身体を流して、洗ってからにしてね、いきなり飛び込んだりしたら、お湯に失礼でしょう…
人が見ているところでは言い付けを守ろう。
それにしても、これはいったいどうしたことだろう、いまさっき、今日は僕ひとりの貸し切りだと聞いたばかりじゃないか………
心の中で軽く舌打ちし、図らずも沸き起こされてしまったちょっとばかりの気まず思いをかわそうと、老人に背を向けたまま、浴槽と反対側にある、カランがずらりと並んだ壁に向かい、ひとつの蛇口の前の席のプラスチック製の腰掛けに腰を下ろした。
それぞれの蛇口の上にはタブロイド新聞大の縦長の鏡が据え付けられていて、これまた横一列にずらりと壁面を埋めている。
それぞれの鏡はひと続きの長い窓のように、向かい側の窓と、その外の海の景色を、そっくり逆にコピーして映し出し、併せて、窓の下の浴槽の様子まで映し出してくれる。
蛇口から湯を出して、身体を洗う動作をしながら、啓介は顔を上げ、ちらちらと鏡の中をのぞき込んで、老人の様子をうかがった。
老人は据え付けられた人形のように動かない。
あのおばさん、客に対して嘘を言うようには見えないので、少なくとも客ではあるまい。おばさんのご亭主も漁に出ているところだというので、そうでもない……
従業員だろうか。従業員が客を差し置いて、昼日中からのうのうと風呂なんぞに入っていていいのか。
啓介は、おばさんから宿泊客は自分ひとりだと聞かされたとき、ならばちょっとやってみたいと、ふと思い立ったことがあった。
だれもいない広い浴槽で泳いでみたい、子供のころのように……
あのころはよくママにたしなめられた、風呂場はプールじゃないと。
でも、誰もこないうちは、まあいいか、と自分も啓介といっしょになって泳ぎだしたものだ。
ママの長い手足………ママは水泳選手のように泳ぎがうまかった。
ママは何でもうまかった。
顔を上げると、鏡の中の老人は湯から上半身を出し、啓介に背を向けたまま浴槽の縁に腰を下ろしていた。
灰色の頭に比較してみると、なんともなめらかな肌だった。湯から出たばかりのせいもあるだろうが、なめし革のようにつやつや光っている。
啓介は手や足に湯をかけて洗い流すふりをしながら、次はどうしようかと、ちょっとだけ考えた。 何も臆することはあるまい、何を考える必要があるのだ。僕は正真正銘の客なんだし、いつもの行動をとればいい。温泉にやって来た人が普通すること、すなわち、湯に浸かってのんびりしていればいいのだ。啓介よりひと足先にここにいたというだけの人物に気兼ねしなければならない理由はない。どこの誰ともわからぬ老人のことなどいちいち気にする必要はない。普通に、自然にふるまうだけでいい。
再び顔を上げると、老人は鏡の中からこちらを見ていた。
顔は確かに老人だった。 正面から見ると、長髪は手入れが行き届いていず、ものぐさな老人特有の脂っぽいざんばら髪であることがわかる。さらに遠くからでも、眼の下の皮膚のたるみがはっきりと見てとれる。
ときおりぱちくりさせる眼も、どこか年老いた大ふくろうを思わせた。鼻の下の、口を覆い隠すくらい伸びた灰色の髭も、長年風雨にさらされた暖簾のように擦り切れぎみ。
にもかかわらず、老人は妙に若々しかった。
老人はそのもじゃもじゃの髭を動かし、モゴモゴと何事かしゃべろうとしていた。
誰かに―といっても啓介しかいないのだが―話しかける気なのだ。
啓介は暇な話し好きの老人と話をしたい気分ではなかった。話なら、あのおばさんので十分足りた。今は静かに湯の中に沈みたかった。そしてもう一度ママとの思い出にひたる…………早く出て行ってくれないか…
老人は今にも呼びかけてきそうに身体をこちらに向けた。
そうか、この人が若く見えるのはその身体のせいなのだ。張りのある濃い色の皮膚は老人にそぐわない。そのせいか、動きもなめらかで敏捷に思えてくる。
顔と身体のアンバランスがなんとも形容しがたい、妙な、油断できない雰囲気をかもしだしている。びっしりつまった筋肉も、いまだその役目を終えていそうには見えず、なんと啓介に引けを取らないくらい若々しいではないか。
「いやあ、若く見られるのは嬉しいことです。
歳とともに、いつまでも若くありたいという気持ちが募ってくるものでね。人間ができていない証拠でしょうか。
そんなに若々しいですか。
いやね、じつは毎日このへんの丘を上ったり下ったりして長い間散策しているんです。
ときには年甲斐もなく、手足だけで崖や木を登ったりもしますんで、肉が締まっているのかもしれませんですよ、ハハハ…」
「ああ、そうだったんですか」と言おうとして啓介はハッと顔を上げた。
目の前の鏡の中に、丸く見開かれた眼の自分の顔と並んで、老人の顔が大きく映っっていた。 びくっと飛び上がる思いで隣を見る。
なんと老人は啓介のすぐそばの席に座っていた。
老人は鏡の中から、啓介本人のほうに顔を向け、啓介の顔をまじまじと見始める。
と、目と口でひとなつっこそうに笑いながらうなずいた。
啓介もつられて、口をあんぐり開けたままこくりとうなずく。
………こっ、こっ、この人いつの間に……!?いまっ…たったいまっ、風呂の中にいたはずなのに………!?
「いや、年をとるにつれて、すり足でこそこそ歩くようになりましてね。音をたてないようにと。
年寄りってとかく、うるさいの目障りだのと煙ったがられるでしょう。やれ鼻をかむ音がうるさいだの、ものを食べる音がいやだの、しまいには息をする音までうるさいって言われるんですから………おかげで忍び足で歩くのが習い性になってしまいましたよ。
それにしても………それにしても、音もせず気配もなく近寄ってくるなんて、猫みたいじゃないか…まったくどきっとしたよ………
「どうも、あいすみませんねえ、驚かすつもりはなかったんですが………やれやれまた失敗だ。 こうなんです。私のやることはいつも裏目に出て、
回りのひんしゅくをかってしまう………
歳はとりたくないものだ、またまた若い人に嫌われてしまった………」
いや、そんな………べつに、それほどというわけでもありませんが、ただ、そのう、ちょっと驚いたので…………と、ここにきてまたしても啓介はハッとした。
啓介は何も声に出して言ってはいない。
これまで老人に対して話しかけてはいないのだ。あいづちさえうってはいない。返事すらしていない。老人が一方的に啓介に向かってしゃべっているだけ。
にもかかわらず、二人の間に自然な会話が成立しているのは、どういうわけだ。
「いやいや、きっとそう思ってらっしゃるだろうと思いましてね。私はよくみんなに言われるんですよ。音もしないで近づいきて、気味悪いってね。」
まただ、またしても老人は啓介の無言の問いかけに答えている。こいつは一体何者なんだ…… 「私は近所の者です。」
近所?近所だって?
「はい、この上のほうに住んでまして……」
「ちょっと!……ちょっと待って下さい……!」
ついに啓介は口を開き、老人をさえぎった。
息を切らしぎみに、ついつい声が大きめになる。
「僕は何もしゃべっていない………何も口をきいていないのに、どうして僕の言いたいことがわかるんです?……なぜ返事ができるんです?………
これ、おかしい………ヘンだ………」
老人は一瞬息を飲み込み、きょとんとした。それからはっと気が付いたように、
「あっ、これはどうもすみません、失礼しました。またひとりで勝手なおしゃべりをしてしまった。ついついまた悪いクセが………いい気になってしゃべり続けてしまって………」もごもごと言葉を飲み込もうとする。
「どうしてですか? なぜ僕の言おうとすることが、わかるんです?
あなたはひょっとして、僕の心を読むことができるんですか?」
「心を読むなんて、そんな…………とんでもない…………
私は仙人じゃありません。………その、お気にさわったようでしたら、
謝ります…………失礼しました…」
老人はまごついた様子を見せ、なんとかとりつくろうとするが、いささかわざとらしく見えている。 啓介は追求しようという疑惑の眼で老人を見守り続ける。
老人は落ち着かなげに、あちこち視線を移動させたのち、再び啓介のほうを見て、
「………その、あのう………話というのは顔を見ていればだいたいわかります。あなたのお顔に言いたいことが現れていたと思ったもんで、その、私はその、早とちりしてべらべらしゃべり続けてしまいました……。 …それに私はよく風呂場で、初対面の人このテの話をするんです。たいてい、私の歩き方に始まって、お互いの身の上話になっていくんですよ。いつものことなんです、ハハハハ………」
いつものことと一方的に言われても、啓介にとっては、
とても納得のいく説明にはならない。
老人はそれっきり押し黙り、ぷいと下を向くと手桶に湯を注ぎ、バシャバシャと顔を洗い始めた。 啓介は、憤然とした鏡の中の自分の顔と向かい合う。
しばらく続いた気まずい沈黙を、一方的に破ってきたのは、やはり老人のほうだった。
「失礼ですが……こちらへはお一人で……?」
「…ええ」
よけいなことだと言わんばかりに、啓介はぶっきらぼうに答える。
老人は啓介の不興などまるで気づかないそぶりで、たちまち前の話し好きな調子に戻って、べらべらと一方通行ぎみにしゃべり始めた。
「いや、嬉しいですな。若い人が、しかも男の人が、温泉というものを理解してくれるというのは、じつに嬉しいことだ。同志ができた思いですよ。
じっさい、困ったときには温泉にくるのがいちばんですからな。温泉でのんびりすると、いい知恵も湧く。」
「……はあ?」
「あ、いやいや、べつにあなたが困っているように見えるというわけではありませんよ。一般的な話ですよ…」
老人はうっかりもらしてしまった失言を補うように、あわてて話を続ける。
「ひところブームとかで、若い女の人たちが、よく温泉にきたでしょう。あれはよくありませんな。あのひとたちは、ただのぼせて、汗をかいて、たらふく食らって―グルメというんだそうですが―帰るだけですからな。
あれでは獣より劣ります。温泉の何たるかを理解していませんな。温泉に来たら、そのほんとの姿を理解しなくてはいけませんですよ。」
「……ン? その、ホントの姿って何ですか?」
「温泉はね、生き物なんですよ。私はもう、これといって仕事をしなくなった、身寄りもいない年寄りなんですが、日に一回は必ずここに来て、入れさしてもらうのは、ほかにすることがないからというだけじゃないんです。
ひとりでいると、やはり寂しいので、日に一回友達に会いに来るというわけなんです。私を理解してくれる心のやさしい友達に。
つまりこの熱い水ですな、こいつは生きているんですよ…………」
老人は正面を向いて、鏡の中の啓介に向かって雄弁に話かける。
啓介もまた鏡の中の老人の口の動き、眼の動きを見つめつづける。
話の内容は退屈に思え、一本調子な老人の声は、啓介にものうい眠気のようなものを覚えさせ、頭の中に遠くこだまする。
眼の焦点が老人の顔の輪郭に合わなくなり、老人の後ろに見えている窓、その窓のむこうの海へと移っていく。
海のむこうには半島があったのだということを啓介はいま初めて知った。遥か彼方に、高い山脈の長い連なりが青く霞んでいる。
にわかに天候が変わりはじめていた。
さっきまで晴れ渡っていた空が、どんどん陰ってきて、白い雲が吹き飛ばされるように追いやられ、灰色の雲が渦を巻いて集まってくる。
それと同時に半島の山脈がはっきりと見えてきた。
かなり高い峰峰が海と同じくらい、長い窓の端から端まで広がっている。
不思議なのは彼方の山脈は、すこしづつ近づいてくるように見えるということだった。
それに合わせるように、手前の海はすっかり鉛色に変色し、その表面はあちこちトゲかイボのようにしきりに逆立ち始める。
近づいていた。
半島の山脈は、信じられないことに、事実どんどん近づいていた。いまや海と同じくらいの広がりで、窓いっぱいをおおいつくしている。
峰峰の雪をいただいた山頂の部分まではっきり見える。
いや、ちがう!
啓介はようやく気づいた。
これは山じゃない、半島なんかじゃない、………波だ………!
とほうもなく大きな波、その上が白く砕け散って逆巻く大波だ!
津波だった。
啓介が、いや陸上に住むほとんどの人が誰ひとり見たこともなかったような大津波が、いままさに襲いかかろうとしていたのだ。
これほどの大波では、ひとつの都市でさえも壊滅させられてしまう。ましてやこんなおんぼろ旅館などひとつのかけらすら残るまい。
眼を皿のように見開いた啓介が、叫び声をあげる間もなく、大波は旅館を、浴場をひと飲みに飲み込んだ。
あたりはたちまち色を失う。
浴場は海水の中に沈んだ。
窓ガラスの外を灰色の濁流が、狂ったように渦を巻く。黒く見える小さな石や海草、なにかの引き裂かれたものの切れ端が、しきりにガラスに打ち付けられながら、くるくると舞う。
巨大な洗濯機の中にいるような気がした。
と、その怒り狂う灰色の渦巻きの奥から、黒い、ひときわ大きな岩が、はじかれたうに窓に向かって飛んできた。
それはまっすぐに、一直線に、恐ろしいスピードで海水の中を進んでくる。
ものすごい大きさの岩………
ぶつかると同時に、窓は木っ端みじんに砕け散り、こなごなのガラス片と海水を浴場内になだれ込ませることだろう………
いままさに岩が窓を直撃しようとした寸前に、
意外にも、そいつはくるりと反転して白い腹を見せた。
巨大な鮫だった。
見る間にそいつは来たときと同様に一直線に遠ざかっていく。
鮫に引っ張られるように波もまたどんどん引いていった。
たちまち青い空が見え、浴場内も明るくなる。
波はなおもぐんぐん引いていき、もとの海へ戻っていく。
眼も口も開いたマンホールみたいに広げさせてその場に凍りついていた啓介は、だっと鏡の前から身体を回し、窓のほうを振り向いた。
窓の外には、紺色の海と青い空が静かに広がっていた。
………どうした!
今の津波はどうしたんだ!?
海は啓介を笑うようにゆったりと凪いでいる。
そのとき啓介は、窓ガラスの上のすみから、ツーッと水の滴が一筋、二筋、下へつたっていくのを見た。
確かに、いましがたこの窓は海水でおおわれていた。
その名残のしずくがあそこに見える…………
「ウソじゃありませんよ。思い違いでもない………ホントですよ、これは…………
……生きているんです。
………ああ?どうかなさいましたですか………?」
激しい驚きから立ち直れないまま、表情をストップモーションにさせて、後ろを見つめ続けていた啓介は、その声にぎくりと向き直った。
すぐとなりに老人の顔があった。
灰色の髪とひげにもっさりとおおわれた、目を覚ましたばかりのフクロウのような顔。その平和な表情が、なぜかすこし懐かしく感じられた。
「………なみ………、波が、いま波が…………」
啓介は、こわばってよく動かない舌をふるわせて、うわ言のようにしゃべろうとする。
「波ですか、ああ、きょうの波は穏やかですねえ。」
老人は鏡に写った海に目をやって、おあいそのようにこともなげに答えた。
………そんなバカな………!
………あの大波を…………山脈のような巨大な波を…………ものすごい鮫を見なかたというのか…………!
ここが海の底になって、真っ暗になったのも、話に夢中で気が付かなかったとでもいうのか…… この年寄りは眼が悪いのか、ボケているのか………
「いまあの………!」
啓介は鏡の中の海を指さそうとした。
鏡には、すこし青ざめ、額に汗をかいている―なんとまだ湯にも入っていないのに、啓介は汗をかいていた―啓介の顔と、その彼方の、陽の光をキラキラと反射させている輝くような海が写っている。
波はもはやかけらもなかった。
今の海からは、あの逆巻く灰色の渦巻きなど思いもよらない。
もしほんとうに、この老人が、あのすさまじい事態に気づいていなかったとすれば、僕の言うことを信じるだろうか?
いや信じはすまい。自分でも信じられないくらいなのだ。
それくらい突然にはじまって、突然消え去ってしまった。
「……な、なんでもありません………」
啓介は思わず口ごもってしまった。
老人のなんとものどかな表情、海のものういくらいの平穏さ………
二人を取り巻くいまの状態の、一万年間も変化などしていないよとでもいいたいようなあまりの穏やかさに比較すると、自分がさっき見たものは、掛け離れてとっぴで、どうにもそぐわない。日本庭園でいきなり誰かがロックコンサートをし始めるのと同じくらい、理解しがたく場違いなものに思われた。
ちょっと待ってくれ…………!
だとすれば、自分はいったい何を見たのだ…………あれは…………
「…………はあ、そうですか…………
えーと…………で、なんでしたっけ……おやおや私は何を言おうとして…………
ああ、そうだ、生きてるってことでしたな、そうそう、そうですとも…………」
老人は、ほんのすこしだけ、話の腰を折られた程度にしか感じていない。
自分だけの世界にひたりはじめている今、何者であれ、この御仁の意志を妨げることはできないのだ。けして話を中断したりすることなく、予定でも消化するように話し続ける。
啓介はおそるおそる、鏡の中の海の奥をちらちらとうかがうわずにはいられなかった。
海も空も、悠久の時をきざむがごとく、一点の変化もなく静まり返っていた。
そして老人は、悠久の時を生き抜くようにとうとうと語っていた。
「………どうにもうまく言えませんが、なにか、こう……感じるんですな、そう、感じるんです…… コレ(温泉)は生き物だって………私の友人だって………
コレはいつだってやさしい。
ことによると、私の家族―今はもういませんが―よりやさしい。
………そうじゃありませんか、いつでも私をやさしくつつんでくれるんですから…………
コレにつつまれて暖まっていると、気持ちまで暖まってくる………
私はお金も身寄りもない年寄りですが、えらく満ち足りた、豊かな気分になるんです。
知ってますか………コレはね、いつだって人を裏切らない、私は一度として裏切られたことはない………コレにだけは。
コレの前では隠し事はなし…………コレは何だって許してくれる、それを感じるんです。
………そう、助けてさえくれるんです。
コレは味方なんですよ…………
啓介は何も聞いていなかった。
うつろな気持ちでしきりにさっき見たことを反すうしていた。
老人は啓介のあいづちを待ったりせず、話を無限に広げようとしていた。 単に、人恋しく、誰でもいいから話をしたいだけの孤独な老人なのだろう。それだけなのだ。
衝撃もさめやらず、不可解さも消え去らない啓介は、少しくいらだってきた。
「…………こんな、なんていうか………観念的とでもいうんでしょうか、こんなこと、私がいくら言っても、おわかりにならんでしょうなあ…………無理もないことですが………… …………そうだ、ご参考までに、私がよく知っている話をお聞かせしましょう。
実際の話なんですよ。
これを聞けば、きっとなるほどと納得がいきますよ。
たまたまある温泉宿に、一夜の宿をとることになった、ある人の話なんですけどね。
まあ、聞いてください…………」
雪はやまない。それどころかしだいに激しくなっていくようにさえ見える。
ワイパーが必死の思いで運動しているのだが、振り払っても振り払っても、あとからあとからべたべたとフロントガラスにへばりついてくる。
耳慣れない番組ばかりの中で、やっと捜しあてた天気予報は、「ところによっては雪は降り続くもようです。サンカンブではスベリドメが必要でしょう。」と、いかにもそっけなく、無責任なことを明るく言って、何のフォローもないまま、さっさとCMにかわってしまった。
サンカンブとは山の間のあたりのことか…、スベリドメとは何だ?滑り止めのことか?少なくとも第三志望校のことではあるまい、雪で滑らないようにするためのものにちがいない。だからそれは何のことを言っているというんだ…
以前―だいぶ以前―何年も前―テレビのニュースかなんかで、雪の降る地方では、車がスリップしないためにスパイクのついたタイヤを使っている、それがアスファルトを削るという、なんだかすごい話を聞いた記憶があるが、それだけだ。 したがって、彼―蒔田正三は、雪の道路がこれほど恐ろしいものだとは考えたこともなかった。
彼はいましがた滑ったのだ。
スリップしたなどというなまやさしいものではない。それはまさしく『滑った』のだった。
すでに紺色の夕闇が幕を降ろしはじめ、厚いゼリーで包むように人間の感覚を鈍らせはじめる夕暮れどきだった。大地はといば、道路も畑も、畑らしきものも、雪のシーツで正体不明なまでに覆われてしまっている。
そのうえへばりつく雪で前方はやたら見通しが悪いときていた。
そこでカーブを曲がりそこねそうになって、あわててブレーキを踏んだ、瞬間、車は彼の制御を離れ、ほぼ360度、一回転した。
いままで自分が慣れ親しんできたものが瞬時に手のひらをかえしたように手に負えなくなる不可解さ、なすすべもなく座席ごと揺り動かされる気味悪さ、そして何よりも、タイヤから、ハンドルから伝わってくるズルリとした感触…
彼はしばし茫然としたものだった。
もし前から車がきていたら、もし道端を人が歩いていたら……
ちくしょう、なんで俺はこんな日に、こんなところまで、車なんかでやって来たんだ。
出張は飛行機か列車、タクシーを乗り継いで、というのがあたりまえの、人並みの サラリーマンのやることじゃないか。
「蒔田君、社用車でたのむよ、このご時勢だろう、部長ときたら食事の内容にまでチェックをいれてるんだ。何かつけこむスキはないかと、鬼検事なみに目を光らせているんだよ、経費節減ゲシュタポといったところさ…」
わかっているとも。こいつは、部下の出張旅費をいくらかけちることが自分の点数稼ぎにつながると、本気で思っているのさ。
「蒔田さん、そのかわり、私がいい宿をとっておいたわ。蒔田さん、温泉が好きでしょう。だから、ゆっくりくつろげるようにって、温泉旅館をさがしたの。」
加代ちゃんが、いい宿というのは、係長にとっていい宿という意味だ。つまりやたら宿泊費が安い宿ということだ。
前回の出張で予約しておいてくれた―社員には絶対宿を選ばせない、出張前に加代ちゃんが係長の意を忠実にくんで、あらかじめしっかり決めてしまう―いい宿とは、たしかに駅に近く、部屋も普通の広さのビジネスホテルだったが、フロントから自分の部屋まで行くのに、同じビルを二度出たり入ったりしなければならないという、複雑に建て増しされたビルで、そのうえひとつしかないエレベーターが故障中とのことで、七階まで、なんと七階まで歩いて上り下りしなければならなかったというしろものだった。
「蒔田さん、温泉が好きでしょう。」
ああ、好きだとも。
「いい宿をとっておいたわ。」
ありがとう、加代ちゃん。
こうして蒔田は、半日近く、左のドアにサビが浮き出たワゴン車を運転して、北国までやって来たのだ。
目指す、冬枯れの畑の真ん中にある、やたら小ぎれいな外観の工場までたどり着いて、「おたくさまからサンプルを送っていただきました、例のブラックベリーワインですけど」ときりだすと、あいにく当社の社長は得意先の招待旅行で海外に行っておりまして、しばらく帰りませんので、今の段階ではどんなことに関しても、責任あるご返事はできません、ときた。
九時間も車を運転してきたあげくの果てに、用件は三十秒もしないで終わった。
蒔田の陰鬱な気分に合わせるように、あたりの景色も、本格的な冬を前にした陰鬱な、沈んだような山や畑が広がりだし、加えて空もますます雲を厚くしてのしかかってきだしたかと思うと、ついにはぽつりぽつりと白いものが落ちてきはじめた。
仕事は、無駄骨だった。まだ係長には連絡していない。(ここはきっと電波状態が悪い、きっと携帯は役にたたない、きっと係長は他のこと―たとえば加代ちゃんを口説いたりすることで忙しい、きっと連絡を待ってはいないだろう)
何よりも疲れていた。
そうとも、こんなときは休むにかぎる。
ひと休みして、気分をかえて、係長にどう切り出したらいいか、ゆっくり考えるとしよう。ともかく加代ちゃんの予約してくれた、かの『いい宿』へと急ぐことにしよう。
ひさしぶりに見る雪……はじめはもの珍らしかったが、それが行く手の道路をしだいに白いアスファルトのように固めはじめると、不安になってきた。
蒔田は地図を頼りに、加代ちゃんの宿―『道祖神温泉』というところだった―に向かっているつもりだったのだが、畑だか田んぼだか変化のない平地がいつまでも続いてわかりにくいうえに、降り積もる雪は道路の識別さえ困難にしそうだった。
冬の午後は急速にしぼんで、夕方と夜の区別がつかないまま闇が広がってくる。人家のあかりもどんどんまばらになり、行き交う車ももうほとんどない。めざす温泉宿はいっこうに見えてこない。
彼はあせりはじめていた。そして、ズルリとすべって、フィギュアスケーターよろしく車ごと一回転したのだ。
ワイパーの動きが鈍くなった。降りしきる雪は、タイヤばかりか車の機能をマヒさせようという意志があるようにさえ思える。見ると、ねばつく雪がワイパーにからみつき、それがコブのようになって動きを鈍らせているのだ。ワイパーはいかにも重そうで、苦しげで、今にも止まりそうだった。
一瞬ワイパーに気をとられて、その先の道路に気づくのがおくれた。
行く手の道の真ん中に何かがうずくまっていた。
まさか人間ではあるまい、人間であるはずがない。こんな雪の日に道の真ん中に座りこんでいるなんて。
車はぐんぐん近づく。
雪の盛り上がりだった。
あるいは人間くらいの大きさかもしれない。何かがうずくまって、それに雪が積もっているのか… いや、そんなことはない、あれはただの雪のかたまりだ。
蒔田はブレーキを踏むのをためらった。
この距離からブレーキを踏んで車を止めようとすると、急ブレーキになる。ここで急ブレーキを使えば、容赦なくスリップする。車は彼もろとも雪の道で大きくダンスして、華麗に飛んだり撥ねたりしたあげく、こんどこそ彼も車も動きがとれなくなってしまうかもしれなかった。
この雪の中でそんなことになるのはごめんだ。
もしここでブレーキを踏んでいたら、これから先何時間かの蒔田の運命は、あるいは変わっていたかもしれなかった。(あるいはあれほどの目にあわなくてすんだかも……)
すべては一瞬のことだった。
雪のかたまりはすぐ目の前にあった。
誰かが作った雪の像のようにも見える。
丸い胴体にちょこんと頭のようにもうひとつの雪のかたまりが乗っている。雪でできたダルマだ―絵本にある、かわいいスノーマンの雪ダルマではない。彼が以前、掛け軸か何かの中で見た事がある禅の開祖の達磨大師…真理は空、自分自身はわからぬもの‥だっけ?‥丸い身体に丸い頭、ギョロ目で難しい顔をした達磨の姿に似ている。親しみやすさと慈悲も伺えるが、容赦ない意志の強さは隠しようがない、不気味な威厳を漂わせた達磨の画―
白い達磨は車の直前で身じろぎもしない。
車に彼が予想した以上の衝撃があり、雪の塊はこなごなに砕け散った。粉のようになった雪が、あたかも白い血でもあるかのように、車のフロントガラス全体にぱっと広がり、視界を完全に覆いつくした。
ワイパ―は止まった、というよりワイパ―がどこにあるかさえわからなくなった。
やれやれ、とんだことだ、これではどうしようもない…
彼はしかたなく恐る恐るブレ―キを踏んだ。
車の外の空気は湿っていて、冷たかった。雪が容赦なく顔に吹き付けてくる。
蒔田が跳ね飛ばした雪の塊は―やっぱりただの雪の塊だった―フロントガラスにごてごてと厚くへばりついている。
しかし、それがなぜか、轢き殺されてばらばらになった生き物の残骸―内臓やら肉片やらを思わせて、彼はなんともいやな気分になった。
この雪を素手で―手袋なんか持っていない―
ひっぺがすのは骨の折れる仕事になりそうだ。
雪が、彼の着ている薄いコ―トにべたべたと張り付くとたちまち溶け、冷気となってしみ込んできた。ようやく雪を取り除いたころには両手はすっかりかじかんで、満足にハンドルも握れないようなありさまだった。
降る雪はいつのまにか吹雪もようになっていた。怖くなるほど視界が悪い。すかして見ても5メ―トル先も見えない。ぐるり四方にあるのは細かく舞う雪だけだ。これでは、もはや地図などなんの役にもたたない。
くだらない出張にとんだオチがついたものだ。目指す道祖神温泉とやらが、はるか彼方の天国に思えてきた。
蒔田の嘆きを聞きつけたかのように、なにやら上のほうで、奇跡のようにぱっぱっと光がともった。 見ると、蛍光灯の光が雪のベ―ルのむこうに、
いままさに安定して灯るところだった。
それは長方形の蛍光灯の看板で、中に、
黒いごくあたりまえの文字で『道祖神温泉』とかかれていた。
「蒔田さん、温泉が好きでしょう」
やれやれ、だ。
「ごめんください」の五回目を大声で言おうとしたところへ、のっそりと老人が現れた。
痩せて背が高く、青白い顔の、どことなく突っ立ったホウキを老人で、黒ぶちのメガネの奥がなんとも無表情だった。よれよれのぼてぼてしたシャツに、よれよれのズボンで、どう見ても旅館の番頭にも従業員にも見えない。
「あ、あのう、きょう宿をお願いしている蒔田というものですけど、どなたか旅館のかたは…」
「どうぞ」
老人はぼそりと言うと、くるりと彼に背を向けて中へ歩きかけた。
どうやら番頭さんらしい。彼はあわてて靴を脱ぐと、老人のあとを追った。
「あの、車は玄関の真ん前につけたんですけど、よかったんでしょうか?」
「はい」
振り向きもしない。
田舎の老人とはすべからく無口なものなのか。なんとも愛想のない温泉宿だ。
「お部屋へいくんですか?」
「はい」
「(チェックインとか、宿帳とか、俺の名前の確認とかしなくてもいいのかい?ま、ホテルじゃないからね…俺は煩わしくないからいいけど…)
いやー、すごい雪ですね。吹雪で道がわからなくなってねー、まいっちゃったよ、ここの看板を見つけたときは、ホントに地獄に仏って感じで……」
蒔田は老人の背中に向かって話しかけていた。老人は彼を部屋へ案内していっているつもりなのだろう、すたすたと足早に歩いていく。
部屋はずいぶん入り口から遠いんだな…
彼らは長い薄暗い廊下を歩いていた。木の床は磨き込まれてはいるが、キズだらけで、歩くたびにみしみしと音がする。この旅館は建てられて何年くらいたっているのだろう。まるで期待はしていなかったが、加代ちゃんの選んでくれた宿は、
まさしく 予想どおりのしろものだった。
吹雪の中でよくは見えなかったが、この建物は、ひび割れたモルタルで覆われた木造の二階建だ。情緒などかけらも感じられない。温泉旅館というよりは長屋といったほうが正しい。ひなびたというより、さびれたといったほうがぴったりする。廊下の長さからすると、建て増しのおかげで、建物全体が不自然に細長くなっているようだ。
どうやらここは昔の、そして今も、湯治場だ。地元のお年寄りたちが民謡でも歌っているというわけだ。
しかし、ここまで歩いてきた中に人の気配はあまり感じられない。
話し声も歌声も聞こえない。
きしむ階段を上って二階ヘ上がり、またまた長い廊下を歩く。片側にまさしく長屋のように部屋が続いている。
どの部屋からも人の気配というのは感じられない。
きょうはすいているみたいですね、と言おうと思って、やめた。
廊下のどんづまりまでくると、突然老人は、そこにあったふすまのような木の戸を開けて、どうぞと蒔田をうながした。
ここが彼の部屋というわけだ。
見たところ宿泊客は蒔田ひとり。こんなにすいているのなら、もっと入り口に近い部屋にしてくれればよかったのに…それともここがこの『旅館』の賓客用の孔雀の間だとでもいうのだろうか。それにしちゃ色褪せた畳の、使い古された感じの、ただの日本間じゃないか。
まあ、しかし、なにはともあれ、ごろりと横になれるのはありがたかった。慣れない雪道のドライブと寒さで、やけに肩がこっていた。
さてと、ここで係長への言い訳を考えるとするか。子供の使い並だと受け取られないような、ごまかしに聞こえないような、うまい言い回しで…
「お食事の用意ができておりますので、案内します。食堂は七時までです。」
老人はまだそこにいて、寝ころがった彼を見つめていた。
「あ、はい。」
蒔田はあわてて、すこし気まずい思いで立ち上がると、再び老人のあとを追った。
食堂は入り口のわきのちょっとした広間だった。まるで社員食堂のようなそっけないテーブル式で、彼ひとりぶんの夕食がすみのテーブルの上にのっていた。
驚いたことに、反対側のすみに、宿泊客らしい浴衣姿の二人がいて、しきりに何ごとか話しながら夕食を食べていた。
泊まっていたのは蒔田ひとりではなかったのだ。
この連中は旅館の別な棟にいるのだろう。アクセントからして、どうも地元の人間らしく、方言らしい言語で展開されている話の内容はさっぱりわからない。また番頭のように無愛想な態度に出られてはと、話しかけるのもためらわれた。
料理は、どう見ても温泉旅館の名物料理には見えない。しかもことごとく冷えきっていて、寒々とした食堂の蛍光灯の白い光に照らされて、見るからに食欲をそそらないものであったが、昼から何も食べていなかったせいで、蒔田はがつがつと夢中でたいらげた。
「…うーん、なかなかうまかった。いや、ごちそうさま。あの、お茶はどこに…」
顔をあげると食堂には誰もいなかった。
いつのまにか天井のあかりも、食堂の半分は消えていて、彼のいるところのみが、スポットライトでもあてられているように明るかった。
「あのー、すみません……」
声が暗がりに吸い込まれていった。
今や食堂の中は水を打ったように静かで、コトリという音さえしなかった。
蒔田はしらけた思いで立ち上がった。
なんだかここの土地は、自分に対してよそよそしいようだ。
昼間の陰気な気分がぶりかえし、急に寒さと、それに孤独も感じて思わず身震いした。風呂にでも入ろう。
風呂は食堂に近い。脱衣所はいかにも安っぽいむき出しのベニヤ板張りで、誰もいず、なんとも冷え冷えとしていた。
ガタガタと、なかなか開かない浴室の戸を、天の岩戸でも開けるようにして開けると、浴室はやっぱり予想したとおり、これが温泉とはあきれるしろものだった。どう見てもちょっと大きめの家庭の風呂でしかない。
すっかり茶色に変色し、しかもあちこち剥げかかった壁や床のタイル。洗い場の蛇口もすみっこにひとつしかなく、鏡さえない。前は鏡はあったのだろうが、壊れてしまったらしく、四角い鏡のあとだけが残っていた。
湯船というよりは水たまりに見える浴槽が壁にへばりついている。二人も入れば身動きができないだろう。
「蒔田さん、温泉が好きでしょう。」
中の茶色の液体はほんとうにお湯なのか…
おそるおそる右足から忍び込ませた。
熱い。
快くしびれる熱さが足からはい上がってくる。ゆっくりと身を沈めた。
湯はいい、じつにいい。やわらかい熱さが全身から疲れを吸い取っていくようだ。
ぼうっとして、虚脱のおももちで、十分あまり同じ姿勢でいた。
あたりは静かで、かすかに吹雪らしい音が聞こえる。
「正直、宿はひどいもんだが、湯は悪くないぞ」
思わず声に出して言っていた。
この土地のことはよくしらないが、温泉はみんなこんなに気持ちがいいのかな…いやもしかしたら、ここが最高なのかもしれないぞ。心底いいものってのは、見かけじゃわからないもんさ。食べ物しかり、女の子しかり、温泉しかり、だ。
知らず知らずのうちに陽気になっていた。
「蒔田さん、温泉が好きでしょう」
ここは意外な拾い物だったってわけだ。くだらない出張も、思わぬひどい雪も、そのおかげで沈んだ気持ちになっていたのも、これで帳消しだ。
「ぐうっ、ぐうっ、ぐぐぐぐ…」
突然のくぐもった音にぎょっとして、あたりを見わたした。
「ぐぐぐぐ…ごほおっ、ごほおっ」
音は彼のいる浴槽のすぐ上から聞こえていた。
浴槽のすみに、石をわざとらしくくっつけあわせて岩に見せかけた固まりがあり、そこから赤錆びた小さな管が突き出ていた。
音はここからだった。
管は再びうなりだすと、細かく震え、見るからに苦しげに、やっとの思いでチョロチョロとお湯を吐き出した。なんのことはない、ここが湯口だったのだ。
それにしても痛々しいまでにお湯の量が少ない。
と、見るまに、咳き込んだような音とともに、一瞬どっと勢いよくお湯がでて、
たちまち出なくなった。
昔は豊かな泉源だったのだろうが、いまやすっかり年老いてしまい、お湯を出すのさえ、やっとの思いのようだ。ここが温泉でなくなるのも、そう遠いことではあるまい。
湯口になんとなく人間的なものを感じて、
「無理しなくていいよ、これだけのお湯で充分だよ」
と声をかけた。
これだけで充分あったまったよ。あんたはなかなかいい温泉だ。
部屋へ帰ると、もう布団が敷かれていた。やけにきちんと敷かれていて清潔感があふれている。そういえばいま彼が着ている浴衣も、ノリがきいていて、肌触りがいい。
風呂に入って以来、いろんなことが心地よく感じられる。以前は気づかなかった小さな電気ストーブも、あかあかと灯っている。
風の音がしないので、もしやと思い、ガタつく窓の戸をそっと開けてみた。
吹雪の唸り声がほてった頬を打った。雪はさっきよりもっとひどい。ほとんど完全な吹雪となり、細かい雪をすかしても何も見えない。もっとも、このへんは何もないところなのだろう。…ふと、心細さが頭をもたげる。
あわてて窓を閉めると、古びたテレビをつけてみた。さいわい、地方の旅館によく残っているタイプの、硬貨を入れないとつかないというけちくさいしろもの(あれに出くわすとなんだか寂しくなる)ではなかったが、チャンネルは二か所しかうつらない。もちろん公共放送にした。こんなところでは、いつも見慣れた全国共通のものを見るにかぎるというものだ。
建物全体をゆるがしそうな吹雪の音で、目が覚めた。事実このくたびれた旅館は風で揺れているようだ。見ると、テレビは灰色の砂嵐になっている。テレビを見たまま眠りこんでしまったようだ。小さなストーブもつけられたままになっていた。
起き上がって反射的に窓を開けてみた。
またしても強い寒気が顔を叩いた。雪はもう断固として積もる覚悟を決めたらしく、ほとんど白い幕を降ろしているように見える。明日はどうすればいいのだろう…車以外の交通機関をよく調べておくべきだった…
ま、いまこんなことを考えたところではじまるまい。すべては明日のことさ。今日のところは腹を決めてもうひと眠り……と思ったが、冷たい空気で顔をなでられたおかげで、すっかり目が冴えてしまった。
いっとき、なすすべもなく、冷気に顔をなぶられるがままにされていたが、風の音にまじって、なにか別の音が別の方から聞こえたような気がしたので、窓を閉めた。
何も聞こえない。
寒々とそっけない、宿の一室。ザーッというテレビの音。
「おっと失礼」
自分でも意味がないと思いつつ、ひとりごとを言ってテレビを消した。
すると、吹雪の音にまじって、遠くのほうでかすかな物音が、
……みし………
気のせいかな、
……みし………
聞こえるような気が、
……みし、みし………
なんだか聞こえるぞ……
蒔田は動きをとめて耳をすました。
……みし、みし………
聞こえる。
……みし、みし………
建物の外ではない、中から聞こえるのだ。こんな夜更けになんだろう?
この部屋の両隣の部屋には誰も泊まっていないと思っていたが……つまりはこの棟にはいまは自分以外誰もいないのかもしれないということに思いあたって、急に孤独感が腹の底から胃を上に押し上げてきた。
……みし、みし………
番頭の、あの老人でも歩いているのだろうか?
そういえば、誰かが歩いている足音のようにも聞こえる。
……みし、みし、みし………
それもすり足で、やけにもったいぶってゆっくり歩くような足音だ…
……みし、みし、みし………
なんだか音がすこし大きくなったようだ。何か重いものをひきずるような音…
……みし、みし、みし………
誰かが廊下を歩いてきたのだろうか?
このおんぼろ建築では、どんな音でも大きく響いてしまうのだろう…
……みし、みし、みし………
それにしても、なにか人を落ち着かなくさせる音ではある。
ともかく、いちおう部屋の外を見ておこうと思い、廊下に通じる戸を開けた。
「うっぷ!」
ここは外だっけ?……たしか廊下のはずだが……
さっき窓を開けたときより、もっと鋭く冷たい風が頬をたたいた。
見ると、細かい雪まで舞っている。
どうやら廊下の窓のどれかが風で壊れ、そこから盛大に吹雪が吹き込んできているようだ。部屋の前の黒く磨かれた床には、小さな雪だまりまでできている。
目をしょぼつかせてあたりを見回した。
雪の舞っている廊下は、明かりがすっかり消えて、右も左も、果てのないトンネルのように暗い。
みし……
右のほうで音がした。
目をこらして、すかして見ると、はるか廊下の果てに、
白いものがうずくまっているのが見えた。
あの老人か。夜間の見回りをしていたんだな。
「おーい、番頭さん、寒いですね。どこか窓でもこわれたんですか?」
返事はない。白いものは身うごきもしない。
「おー……」
声がしりすぼみに消えた。
うずくまっているように見えたのは、雪のかたまりだった。廊下の真ん中に雪の小山ができていたのだ。
なるほど、あそこの窓がこわれて、雪が吹き込んでいたのか。この調子だと、どんどん雪が吹き込んできて、廊下をふさいでしまうかもしれない。
ともかく、あの老人に、いや宿の誰かに知らせなければと、部屋へとって返して、丹前をはおって再び勢いよく廊下へ出た。
思わず目を見開いて立ちつくした。
さっきずっと遠くにあったと思っていた雪の小山が、ずいぶんと近いところにあったのだ。
さっきはたしか廊下の奥にあった。
それに……もっと小さかったはずだ。
この大きさ…小山なんかじゃない。廊下をふさぐほどだ。でんとそびえるほどの雪の山。ごつごつした雪ながら、上にいくほど小さく、円錐形になっている。模型のエベレストかアルプス……いや、この形は前に見たような気がする。どこかで…
なにかの絵で…、掛け軸かなんかの中で…
でんと構える達磨みたいなかたち…
蒔田は魅せられたように、目の前の白い達磨から目をはなすことができなかった。
と、雪の山の、床に接している部分の右側の雪が崩れだした。いや、崩れだしたのではない。ふくらんでいるのだ。ムクムクと突起のように膨らみだしたかと思うと、山全体がぶるぶると震えた。
みしみしみしっ…
と、こんどは左側の床についている部分がふくれあがりだした。ふたたび細かい雪をまきちらしながら山が震えた。
みしっみししっ…
また右側がふくれだす。
みし、みし、みし…
この雪の山は、右足、左足と交互に出しながら、廊下をはいずって、じりじりとこちらにやってきているのだ。
みし、みし、みし、ずずずずず…
蒔田は、どういう行動をとったらよいかわからず、いや自分の見ている光景に反応することすら思いもよらないまま、ただ目も口も真ん丸にして、その場に凍りついたように、その初めて見る景観に見いっていた。
子供のころ…はるか子供の頃、こんなことがなかったか。口も足も動かず、空洞になったように、その場に突っ立ったまま…
秋の山のキャンプ…友達の歓声…焚き火…役目の水汲みにいった途中…目の前の太い茶色い枯木がもそもそ動いて、彼のほうへやってきた。枯木が首を上げると蛇だった。濡れたようになめらかに光る白い腹まで見えた。蛇はじりじりと近づき、彼は声をあげることさえできない。口も足も動かず、空洞になったように、その場に突っ立ったまま。ただ黙って蛇にくらいつかれるのを待っているだけだ。あのときと同じ…
しかし、あのとき蛇は、突然気が変わったように、
彼の横をするりとすりぬけていってしまった。
雪の山の右側の真ん中へんがボロボロとふくれあがると、廊下の壁にぶつかった。
いや、そのありさまは、叩いたといったほうがぴったりする。
事実、壁を叩いたのだ。ちょうど右手で叩くように、ひっんではぶつかり、ひっこんではぶつかり。そのたびに、この古びた木造の家屋は全体がきしみ、すさまじい音をたてた。
蒔田ははっと我に帰ると、部屋へかけこんだ。必死で戸を押さえる。
カギ、カギ、そうだ!カギを掛ければいいんだ!カギはどこだ!
先の曲がった小さい針金、これが鍵だったのか、薄い板戸のすみにはこんなものしか付いていない。なんてこった!ボロ旅館め!セキュリティも戸締りも気にかけずに眠りこけてしまった自分の油断を呪ってももう遅い。
とにかく針金を、壁側の、似たような針金の輪に入れる。さらに戸を押さえる。
彼は、あの雪はこの部屋に入ってくると思った。きっと入ってくる。押し入ってくる、そして…
ドーン!
すさまじい勢いで戸が叩かれた。衝撃で蒔田は部屋の中央へはじき飛ばされた。
ドーン!
木の戸が内側へたわむ。
なにか戸を、入り口をふさぐもの、つっかい棒になるもの……
ない!ない!なにもない。この部屋には小さなテーブルと、テレビと、こんなときには何の意味もない床の間やら、安っぽい山水の掛け軸やら、花びんやら…
ドーン!
さらに戸が大きくたわみ、針金の鍵が弾丸のように吹っ飛んで、蒔田の顔をかすめると、向かい側の窓のガラスを割って穴をあけた。あいた穴から吹雪が吹き込み、細かい雪が、床に置かれていた小さな電気ストーブの上に落ちてシューッと音をたてた。
戸はバリバリと悲鳴をあげると、まるで紙でできてでもいるように、上から下へとくしゃくしゃに折りたたまれ、雪のかたまりの中へ飲み込まれた。
こいつはいったいなんなんだ?!夢の中なのか?
その白い、雪の化け物はいまや部屋に入ろうとしていた。
しかし戸口をくぐるには図体が大きすぎた。狭い戸口からは、その白い顔の一部分しかのぞかせることはできない。
白い巨大な塊は、そのことを苛立つように、全体を戸口にぶつけ、部屋をゆるがした。
クマみたいだな…。蒔田はふいに、そのありさまから、場ちがいな、いつか見たのどかなアニメの一場面を思い出した。図体の大きいクマがハチミツを採ろうと、岩の割れ目から中をうかがう…笑わせる試行錯誤ののち、しかし、結局のところ、クマはハチミツを手に入れ、食ってしまうのだ。
化け物雪はクマよりも柔軟で、やることが素早かった。こいつはアメーバーのように一部分を伸ばしたり縮めたりできるのだ。
白い生クリームでも絞り出すように、戸口から部屋の中へ、たちまち雪がするするとあふれるように出てきた。
蒔田は悲鳴にならない、吐く息だけの悲鳴を上げると、まわりにあるもの―花びんやら、彼自身の書類ケースやら、テーブルの上の茶碗やら灰皿やらを、手当たりしだいに雪にむかって投げつけた。
驚いたことに、雪はそれらのものを、海綿が水を吸収するようにするりするりと自らの中に飲み込んでしまった。
雪はすでに蒔田の視界のほとんどを占めるくらい、部屋に入り込んで、なお膨張を続ける。
蒔田は、最後に残った足元の小さな電気ストーブを両手で振り上げた。
雪のかたまりが一瞬動きを止めたように見えた。
そうだ、たしかに止まった。
あらゆるものがいきなり沈黙した。
ストーブを振り上げた蒔田と、雪のかたまりは、『ポーズ』のボタンを押されでもしたように動きを止め、にらみあっているようなかたちになったのだ。
たっぷり一分間ぐらいそのままの姿でいた。雪はまったく動かず、あらゆるものが零下の寒さで瞬時に凍り付いてそのまま石像になってしまったようになった。
こいつはいったいどうしたんだ?
いままでのすさまじさはどうなったんだ? この化け物はなぜ動かないんだ?夜中だというのに突然昼寝でもはじめたってのか…
両手がストーブの熱で熱くなってきた。
熱い!?熱いだと…!?
ちょっとまてよ…こいつは、もしかして…
彼はそろそろとストーブを降ろすと、胸の前にかまえて、ゆっくり雪の前にさし出した。
雪の壁は、表面ががさがさと震えるように波立つと、あわてて飛びのきでもするように、ストーブの正面にあたる一部分がくぼんで後退した。
たじろいでいるように見える…
そうとも、こいつはたじろいでいるんだ!わかったぞ!
蒔田はストーブを突き出したまま、じりじりと前進してみた。
雪はいままでの勢いなどうそのように、全体が後退しはじめた。
しめた!こいつはストーブに怖じけづいて逃げはじめたのだ!雪は熱さに弱い。あたりまえのことじゃないか!
雪のかたまりはほとんど部屋から出ようとしていた。
「これでもくらえ!」
蒔田は渾身の力をこめてストーブを雪の壁の真ん中へ投げつけた。
雪のかたまりは、ジューッというひときわ高い悲鳴のような音をあげると、ストーブを投げられた部分が、表面が大きく丸くく溶けた。
そのまま全体がたちまち溶けて、水たまりとなって、畳の上にだらしなくきたならしく広がる、はずだ、と彼は思った。そうだろう、雪は熱に弱いし、雪は溶けるものだから。気づかなかったほうが不思議というものだ。
しかし、がさがさという音とともに、あっというまにストーブのまわりを純白の雪が囲みはじめ、たちまちその中に飲み込んでしまった。
なんてことだ、投げたひょうしに電気ストーブのコンセントが抜けていたのだ。
雪は、まるで解き放たれたように、逆流するように、すさまじい勢いで部屋の中へなだれこんできて、たちまちのうちに部屋のほとんどを隙間なくうずめつくした。
蒔田は背中をほとんど窓に押し付けられた。(つかまってしまった…)
雪は、彼から一メートルもないところで、
上から下から彼の回りを取り囲んで、動きを止めた。
ストーブを向けられたときの止まり方とはちがう。明らかに、ひと呼吸おいているのだ。
捕獲した獲物を観察している…
これから俺はどうなるのだろう、この雪にのしかかられて押し潰されるのか、周りを雪で固められ、マグロのようにコンクリートなみの硬さに冷凍されてしまうのか、口から雪を、身体が破裂するほどつめこまれるのか…
この日常ならざる、信じがたい状況の中で、蒔田が本能的に、確信を持って理解していたのは、目の前の白い怪物は、自分に対してけして好意を持ってはいないということだった。
こいつは明らかに俺をどうにかしようとしている、俺に、恐ろしい思いとはどんなことか思い知らせようとしている……
そもそもこいつはいったい何なんだ!俺はどうしてこんな目にあうんだ!
夢なのか、いまは夢の中なのか?
夢なら早めに醒めてくれ!もうたくさんだ…
「蒔田さん、温泉が好きでしょう」
ああ、なんて出張!
「社用車でたのむよ」
蒔田はのどに鋭い刃物を押し付けられたように震えることさえできなかった。
まわりの、冷気を発散する白い壁は岩のように無機的だ。
だが、そこここが、がさがさきゅっきゅっと、白い骨が触れ合う音ともとれる音をたてて、少しづつもりあがったりへこんだりするのは見てとれる。白い獣の背中のようでもある。
(表情があるみたいだ…)
さらに、あちこちぼこぼこ膨れ上がったりへこんだりしたのち、蒔田の顔の真ん前にある雪が、突然触手のようにふくれあがり、彼の顔をずるりと撫でた。
つめたい…
あまりの冷たさに、蒔田は思わず首をすくめた。
蒔田のこの反応に、雪の壁のほうもさらに反応した。忙しく、さざ波のようにふくれたりへこんだりを繰り返す。
(なんだか笑っているようにもとれる…)
ここにいたって、蒔田がやらなければならないことはひとつだった。ぐずぐずしていては、とりかえしのつかないことになるのだけは確かだ。
身内にかすかに残っていた気力のかけらをかき集め、自身を瞬間的に奮い立たせると、声をふりしぼって、いきなり意味不明なときの声のような大声をあげ、両手を挙げて目の前の恐るべき雪の壁に突進する、
と、見せかけて、くるりと反転すると、窓に体当たりした。
ガラスやら窓の木枠やらが身体に叩きつけられる。
宙を飛んだ、
と、実感する間もなく、たちまち白い大地が迫ってきて、両足に強い衝撃を感じると、つづいて顔をいやというほど白い地面に激突させた。
白い地面は灰色に変わり、やがて真っ黒になった。
暗闇の中で誰かが口笛を吹いている。
いやな曲だ。
顔が冷たい。寒い。ここはどこだろう。
上のほうでバリバリという音がする。
口笛と思ったのは吹雪の音だった。
彼は夜の闇と吹雪につつまれていた。顔が痛い、足も痛い、なぜだ?いましがた目を醒ましたような気分だった。
長い間眠っていて、ヘンな夢を見ていた…雪のかたまりが襲ってきて…ああ、加代ちゃん、君がとってくれた温泉宿でね、じつに変な夢を見てさ…
蒔田ははっと我に帰った。一瞬気を失っていたのだ。
上のほうでまたしてもバリバリという音がした。
見上げたちょうどそのとき、雪のかたまりは窓をこなごなにはじき飛ばし、彼の上に破片の雨を降らせた。
いままで窓があったところには白いかたまりができもののようにふくれだし、
蒔田を見下ろしていた。
追いかけてくる気だ!
そのとおり、雪は外へどんどん身を乗り出してきた。
ここにいればやられる、早く!
足が動かない、動けないのだ。
飛び降りたときの衝撃はかなりなものだったらしい。両足がすっぽりと雪の中に埋まっていた。こんなにも厚く雪は積もっていたのだ。
必死で脚を動かそうとした。びくともしない。バランスを失って前に倒れそうになった。素足の先から冷たさが挟みつけ、締め付ける。
寒い!
落ちたときに、着ていた丹前はひんむかれ、帯もどこかへ吹っ飛んでいた。かろうじて羽織っている浴衣一枚が風にバタバタと煽られる。裸の胸に腹に吹雪が雪を塗りたくる。
恐ろしい目にあって、気も動転しているはずなのに、憎たらしいことに寒さだけはしっかり感じるのだ。さらに顔からは冷や汗も吹き出してきた。両足を半分雪の中に埋めて、半裸で案山子のように突っ立っているさまは、はたから見ればまことに異様な光景だったろう。だが、しかし、このざまではほかに何ができよう。
見上げると、雪は窓から、チューブから歯磨きが出るように長くぶら下がり、彼の頭のすぐ上に、白い、敵意に満ちたかたまりが迫っていた。
死に物狂いで身体を前後に動かすと、勢い余ってしりもちをついた。そのひょうしにスポンと両足が抜けた。丸太のように横に転がる。
そのとき、彼がいままで埋まっていた場所に、
唸りをあげて雪のかたまりが次々に落ちてきた。
雪はなおも窓から滝のように流れ落ちてきて、たちまち山をつくりはじめる。
蒔田はふらふらしながらも立ち上がると、この温泉宿の長い宿泊棟に沿って走りだした。
雪は深く、足をとられ、思うように走れない。よたよた歩くのがやっとのありさまだ。何度も転び、頭から雪に突っ込んだ。冷や汗で濡れた顔に粉のような雪がへばりつき、さらに、解けてぐしょぐしょになる。
「おーい!だれか、だれか、いないのかー…」
かすれた声をしぼり出した。
「たすけてくれー、だれかー、殺される…、あいつに…、
雪が…来る…、雪が、雪が…ヘンなんだ、おかしいんだー…」
我ながら意味をなしていない言葉だとわかっていたが、ほかに言葉が出てこなかった。
長い棟は彼の必死の呼びかけにも、沈黙したままだった。どこにも明かりは見えない。窓という窓は、黒い墓石でもはめこまれたように真っ暗だった。
吹雪が舞う闇の中に旅館がやたらと長く巨大に見える。
後ろを振り返った。
あの雪は、いまや窓からすっかり下に出てしまい、部屋の中にいたときよりもはるかに大きな山となっていた。またしても白い達磨の形になろうとしている。
蒔田は建物の壁を両手で叩いた。
「だれかいないのかー、おーい、きいてくれー」
闇のような沈黙。
手で建物の外壁を伝いながら、宿泊棟をまわりこむ。
目の前に別な二階建の棟がぼうっと広がる。なんとこの旅館は彼が思っていたよりはるかに大きかった。しかし、どこにも明かりはなく、人の気配さえ感じられない。
このときはじめて彼は、自分が、ときおり目の焦点が合わなくなるほど震えているということに気づいた。寒い。なんて寒さだ。このままこうしていたのでは、雪につぶされて殺されるまでもなく、凍え死んでしまう。
棟のすみに、勝手口のように目立たなく、見過ごしそうなくらい小さく据え付けられていた朽ちかけた木の戸を、ひっぺがすように開けて中へ入った。
吹雪による寒さはやわらいだが、震えは止まらない。
静寂。
彼の荒い息遣いだけが、木造の建物の内側にこだまする。ここは長い廊下だった。
トンネルのような廊下。外から見たときと同じように、人工の明かりはどこにも見えないが、廊下に沿った窓からは、白い弱い光がぼんやり射している。
窓の雪か…
蒔田は気を取り直し、ふらふらと歩きだした。
「…管理人さん…、番頭さん…、誰か…宿の人…、誰もいないのか、どうしたんだ…、返事をしてくれー……」
深夜の墓場よりも、乗り捨てられた大型客船よりも静かだった。歩いても歩いても同じ廊下が、同じ闇が続いているように見える。
「だれかー」
ようやく曲がり角らしい。
「いませんかー」
さっき通り過ぎた、より深い奥行きのある暗がりは、あの食堂ではなかったか。
「おーい」
目の前にはまだ廊下が続く。 後ろのほうで足音がした。確かに足音だ。彼はあわてて振り向くと、手まで振り回して叫んだ。
「おーい、おーい」
真っすぐに伸びた、長く暗い廊下の果てで動きがあった。
白い動き。それがだんだん大きくなってくるのがわかる。
ちくしょう、まただ、思ったとおりだ。やっぱりやって来やがった。
「いいかげんにしろ!…たのむ、いいかげんにしてくれ…
お前はいったい何なんだ!…なんでおれがこんな目にあわなきゃならないんだ…
なんで…なんで…こんな…こんな…」
かすれた声で叫んだ。自分でも涙声になっているのがわかった。その場にへたりこんでしまいそうだった。
彼の泣き言などいっさい気にとめるふうもなく、廊下の奥の白い広がりは、同時に起こるすさまじい音とともに、ずんずんその大きさを増していた。
何かが潰れてひしゃげる音、木がねじ曲がって折れる音…
つぶれている、建物が潰されている。廊下の端から、ものすごい力で押し潰されてきているのだ。この旅館よりはるかに大きい雪の塊が、巨大な戦車のキャタピラがそうするように、巨人の引くローラーが地ならしをしていくように、建物を端から圧し潰してきたのだ。
彼は何も考えることも、行動することもできなかった。それほど破壊のスピードは速かった。たちまちのうちに頭の上の天井の梁がめりめりと音をたてた。そして雪煙があたりをおおいつくした。
吹雪は止んで、雪は小降りになっていた。
静かだった。もうどこにも破壊の音は聞こえなかった。
蒔田はゆっくり頭を上げた。頭にも背中にも一センチ以上の雪が積もっていた。分厚い雪がギブスが剥がれるように頭の後ろを滑り落ちる。
あの猛烈な、瞬間的な破壊の中で、自分が生き延びられたとは、にわかには信じられなかった。彼ははじめ、自分が見ている光景が天国か地獄のものではなかろうかと思った。それほど彼のまわりは荒涼としていた。
旅館の建物は影も形もない。あたりにはでこぼこの雪のふくらみやへこみがあるだけだ。その先は平らな雪の平原がどこまでもどこまでも果てしなく続いていて、遥か彼方で漆黒の空とぶつかっていた。音は何も聞こえない。無に近い静けさだった。
「…おわったのか、いってしまったのか…」
あの邪悪な雪のかたまりは、その気配すら、どこにも見当たらなかった。
何もかも、彼ひとりを残し、潮が引くように去ってしまった。
終わったのだ、蒔田は助かったのだ。
「やった、やった、助かったぞ、おれは生きている、…助かった、助かった…」
蒔田は声にならない乾いた笑い声をあげ、全身をこきざみに震わせてヒステリックに小躍りした。ほっとして、うれしくて、気がへんになりそうだった。肩や背中に積もっていた雪がばさばさと足元の雪の原に落ちた。
「ざまあみろ、いっちまったぞ、いっちまったんだ…」
五分近くも、飛び上がったり、ころがったりして奇声を発したのち、突発的な狂喜はすぐにしぼんだ。
こんどは、いっとき忘れていた寒さが全身にのしかかってきたのだ。おまけに疲れている。ひどく疲れている。
興ざめした思いで、浴衣の前をあわせた。
思えば、こんな砂漠みたいに広い雪原に、ひとりぽつんと浴衣一枚でいるのだ。なんとも常軌を逸した話だった。いいや、そういえば、いまさっき自分が経験したことのほうこそが十二分に常軌を逸している。誰に話しても信じてもらえる話ではなかった。いまの自分でさえ、半分は信じられない。あのね、加代ちゃん、君が予約してくれた温泉旅館だけどね、悪くはなかったけど、ひとつ困ったことは、夜になると雪ダルマが襲ってきてね…
夢だったのだろうか。旅館で寝込んで、夢を見て、夢遊病者のようにふらふらと雪の原へさまよい出てきたのか…
寒い!
雪原にひとり、雪でぐしょ濡れの浴衣を着て突っ立っているのはまぎれもない現実だ。
ともかく何かしなければ、何か行動を起こさなければ…
凍え死ぬ―凍死するというほどの寒さはテレビや映画あたりで漠然と見知ってはいたが、まさしくテレビや映画にとどめておくべきものだ。
ここの正確な場所がわからなかった。こんな広い平原だとは思っていなかった。彼は地図に沿ってやって来ただけだ。
地図!……車の中だ……車は!……この雪の下か……
あのすばらしい車―左のドアにサビが浮き出た社用車を壊してしまった。係長はどんな顔をするだろう。きっと、狂ったようにわめきたてる。きみの責任だ、なにもかもきみ個人の責任なんだ、これは大事だぞ、きみはことの重大さがわかっているのか 、どうする、どうすればいいんだ、私は知 らないぞ、私が社長だったらきみなんかま ずクビだ…ふん、お前が社長だったら会社 はとっくに倒産してるさ…しかし、正直な ところただではすみそうにない。いや、車 が壊れてしまったとは限らない。春になって雪が解ければ、その下から、キズひとつないサビが浮き出た社用車が…
そんなことはどうでもいい!震えが止まらないじゃな いか!もたもたしていると、このまま凍って銅像みたいになってしまう。
ともかく、歩いてみよう。どこでもいいから人家を、家の明かりを探そう。
遠くで雷鳴が聞こえた。
雪のつぎは雷か。つぎは火事にでもなるっていうのか。
雷はずっと遠くで鳴っている。白い地平線の遥か彼方の黒い空。
蒔田は重い足取りで歩きだした。足の感覚はいいかげんなくなっていた。こんな調子であと何メートルくらい歩けるだろう。
雷鳴がすこし近くなった。彼が進んでいく方向から聞こえてくる。
顔を上げて前を見やった。
あいかわらずの白い平野。稲妻の光さえ飲み込んでしまったのかと思わせる墨のような空。しかし、雷の音は確かに高くなっていた。
いや、雷というよりは何か別の音。
暗闇の地の底から響いて来るような音。何かがうねるような。地鳴りのような、妙に重々しい音。心なしか地面が細かく揺れているような気がする。自分自身が震えているだけなのか。
音はますます大きくなり、はっきりと、彼の行く手から響いてきた。
思わず目をこらして前を見た。
彼方の白い地平線と黒い空との境目がぼやけている。なんだか揺れ動いているように見える。 蒔田ははじめ、吹雪がこちらに向かってきているのだろうと思った。
ちがう。それはまさしく揺れ動いていたのだ。
線のように真っすぐだった白い地平線は、山になり谷になり、とほうもない広さ、長さで大きくうねっていた。白い巨大な山脈が浮き上がったかと思うとたちまちつぶれて谷となり、再び別のところが大きく盛り上がる……
波だった。
前方に広がる地平線は、地鳴りのような音とともに壮大な雪の波となっていた。
蒔田は口を開けて見とれていた。
それはまさしく、かなりの見ものだった。漆黒の空を背景に踊る純白のウエーブ。ライブで見るシュールリアリズム絵画だった。
これは、雪崩なのか。
いや、雪崩ってやつは山の斜面を上から下へ滑り落ちてくるものではなかったっけ。平らな平原を滑ってくるこれは、どう見ても波だ。満ち潮のときの波だ。
そう、こっちへ向かって押し寄せてくる波だ。
こっちへ向かって…
これまでのことがなければ、彼ははじめて見るこの奇異な自然現象に感嘆し、拍手さえしていたかもしれなかった。しかし、巨大にうねるこの雪の波からは、同じくらいに巨大な邪悪な意志が風圧のように伝わってきた。
「……そんな!?」
雪の津波は真っすぐに彼を目指してきていたのだ。
「おいおい、たのむよ、もうたくさんだ、かんべんしてくれ、
お願いだ、こいつはいったい何なんだ…」
蒔田はその場にがっくりとへたりこんだ。怖いというよりなにより、ただあきれ、力が抜けていた。
「ちくしょう!、俺は知らない、もう知らないぞ、
こいつはきっと夢なんだ、いまに覚める、きっと覚める……
覚めなくてもかまうものか、殺すなら勝手に殺せ…」
彼は雪の上に大の字に転がると、目を閉じた。新たに湧き上がったすてばちな感情が、身体中の気力を吸い取り始めていた。
雪のうねる音は着実に大きくなる。
あるいはここで死ぬのかな…。死というものを経験するのか…。わけがわからないところで、わけがわからないままに死ぬ…
何も準備ができていない…
「蒔田さん、温泉が好きでしょう」
そうとも、うれしいよ、加代ちゃん、ぜんぶきみのおかげだ…
雪のうねる音は、いまや空気を震わせていた。それと同時に彼が寝転がっている雪原の大地も地震のように揺れはじめた。思わず目を開けた。
なんと雪の津波の高さは、高層マンションほどに見えた。上のほうが海の波そっくりにくだけ、逆巻いてこっちへやって来る。
古来より人間を動かしてきた根源的な力―恐怖感が、たちまち投げやりな感情を押しのけた。 逃げるんだ、とにかく逃げなくては。
ほとんど本能に導かれるように、よろけて立ち上がると、ふらふらと走りだした。
後ろから耳をつんざくような音が追いかける。さらに、雪の津波が巻き起こしているであろう密度の濃い風が、波しぶきのような細かい雪とともに、彼の背中を押しつけてきた。
すぐうしろだ。すぐそばまできている。
目の前に雪のでこぼこが見えてきた。つぶされた旅館の跡に戻ってきたのだ。
高いところだ、高いところに逃げれば、なんとか……高層ビルのような‥‥
圧倒的な質と量の雪の雄叫びを前にしては、ほとんどの抵抗は無意味ではあったが、蒔田には自分の思いつきを自嘲したりしている余裕はなかった。
前にあった、なだらかな傾斜の、広い雪の盛り上がりを登りはじめた。
足を雪にとられ、転がりそうになる。足場が悪いうえに、体力はもうほとんど使い果たしている。自分でも動きがスローモーション画面のようになっているのがわかった。
傾斜がいくぶんきつくなった。もはや走ってはいなかった。雪の上に足を右、左、と一歩一歩やっとこさ前に出しているだけだ。
荒れ狂う雪の轟音にまじって、うしろのほうで、それとは別の、何かがつぶれる音がした。きっと旅館のほかの残骸だろう。
傾斜はますます急になった。この雪の盛り上がりは、彼が思っていたよりも高かった。高ければ高いほうがいい、高いほうがいくらかは……
これはどうやら旅館の屋根の残骸のようだった。
傾斜がさらに急になる。彼は四つん這いになり、ほとんどしがみつくように登りだしていた。カメの登山ってやつさ、一歩一歩着実に……
しかし、しかし、もうダメだ、あと一歩も、あと一歩も……
突然傾斜がなくなり、台地のようなところにはい上がっていた。
彼はその場につっぷしてころがった。
手も足も石のようになり、まったく彼のいうことをきかなかった。全身の震えだけが止まらない。流れた冷や汗が凍りついてしまったのか、顔や胸が痛い。
膝と肘をかろうじて動かして、下をのぞきこんだ。
雪の大波は傾斜まで来ていた。傾斜のふもとにぶつかり、砕け、白い渦を巻いていた。雪の逆巻く轟音は、声高に蒔田を呼ぶわめき声のようにも聞こえる。煮えたぎる地獄の鍋をのぞきこんでいるような気分だった。
しかし、雪の渦はまだ傾斜を登ってきてはいない。この傾斜は蒔田が思っていたよりもはるかに高く、広かった。傾斜というよりはちょっとした山だ。いってみれば、彼は白い巨大なピラミッドの中腹にいた。
よくこんな高いところまで登ってこれたものだ。
蒔田はあらためて回りを見渡した。
彼がいまいるところは、人が十分歩き回ることができるくらいの、そこだけ削り取ったような、ちょっとした広場だった。漆黒の空間に浮かぶ白い床と、
そこからなおも上へと続く白い壁。
下のほうからは、雪の渦巻く響がいよいよ高く聞こえる。
もっと、もっと、もう、少しでいいから、高いところまで登れたら…
彼は見上げた。彼がいる中腹から上は、さらに切り立ったような急な傾斜だった。しかも、上にいくほどとがっていて、ピラミッドの先端のように暗黒の空を突き刺している。
やれやれ、とても登れるなんてしろものじゃないな。この険しさはまるでエベレストかアルプスのような……というより、このかたちはどこかで見たことがある。どこだっけ…
まるで白い達磨の頭みたいな……………
ぎくりとした。罠にかかったのだ。
彼はとほうもなく巨大な白い達磨のふところにいたのだ。
自らの胸の上に小さな獲物を捕まえた巨大な雪のかたまりは、落ち着いて、満足げに彼を見下ろしていた。
頭の、顔の部分の雪がぼこぼこと動いた。
笑いだ。間違いない。これは笑いだ。彼はまたしても雪の笑いを見たのだ。こんどこそ、満足しきって、余裕にあふれた、邪悪さむき出しの笑い。
蒔田は反射的に立ち上がった。
傾斜を降りて逃げる。しかし、手遅れだった。
たちまち、彼の足元の雪がやわらかくなったと思う間もなく、彼はつま先から雪の中へ沈みはじめた。
あっというまに腰まで雪に埋まる。手掛かりになるもの、つかまるもの、と探す暇もなく、胸まで埋まってしまった。流砂にのまれる哀れなベドウィンのように叫び声をあげる暇さえない。
空しく両手を動かしても、つかむのは、砂のように細かく固い雪。彼の回りにあるのはざらめのような雪だった。もう首しか出ていない。 彼は上を見た。この世で最後に見るのが、嘲るように見下ろしている、歪んだ雪の塊だとは。 彼はきつく目を閉じた。耳の穴にも鼻にも口にも細かいざらめに雪が容赦なく入りこんでくる。
頭はもう埋まってしまったのだ。 顔じゅう身体じゅうを細かい氷のつぶが押さえ付けてきた。顔が痛い、切られるように痛い。氷のつぶに押し潰されて死ぬのだろうか。それとも窒息するのが早いか、すぐにわかるだろう。いや、わかるまで意識がもつまい。もう、薄れかけている。もう頭の中に靄が広がりだしている。
彼はとどまることなく沈んでいった。
ざらめの雪はどこまでも深い。こういうのを奈落というのだろうか。
沈む速度が遅くなったような気がした。が、もうどうでもいいことだ。何も見えず、何も聞こえない。 落下は止まっていた。
自分の頭の中の血管を血が流れる音が聞こえる。
耳鳴りが頭を破裂させるほど大きくなっていく。
ふいに苦しくなった。全く経験したことのない激しい苦痛がたたきつけるように襲ってきた。
これが断末魔というやつか。頭の霞はどんどん広がる。
早く終わらせてくれ、一秒でも早くあらゆるものを消してくれ‥‥
ずんずん消えかけていく意識の中で、自分が死にかけていることだけがわかっていた。
身体はもうすでに死体だ。石のように何も感じない…
…つま先だけが熱くなっていた。
死ぬときは足が熱くなるものなのか……
頭の中はほとんど靄におおわれていた。
もう苦痛もない。まもなくだ……
熱さが脚にはい上がってきていた。この熱さが全身をおおったときが、死なのだろうか。
なんだか懐かしい熱さ。ずっと前に感じたことのある、心優しい熱さ……
蒔田はつま先を動かしてみた。彼の足は何かの上に乗っていた。ごつごつした丸みを帯びた管のようなもの。
頭の内部全体を満たした霞の中で、思考がスローモーションで動いていた。
つま先が熱くなるのはなぜだろう……
ざらめの雪で全身びっちり固められているのに……
この管のようなものは……
脚をはい上がってきた熱さは、ふたたび下へさがりはじめた。と、またふたたび登りはじめる。また下がる。そして咳き込むように登ってくる。
たしかに覚えのあるこの熱さはいったい何なのだろう。どこで経験したのだろう……
すっかり靄に閉ざされた頭の中の遥か彼方で、かすかにきらめくものがあった。
思い出した、思い出したぞ、
足が動くのもあたりまえだ、
雪が解けているんだ。
彼は残り少ないかすかな意識のすべてをふりしぼって、つま先を動かした。
お願いだ、助けてくれ……
足首を動かして、乗っている管を叩く。根気よく叩く。さらに雪は解けた。今度は蹴る。
おまえならできる、おまえなら、きっと……
管はぶるぶる震えると、咳き込むように
どっと湯を吐き出した。一瞬、湯の出るのが止まったかと思うと、つま先の湯口の管の感じがなくなった。と、みるまに熱さがぐいぐい下から全身に這い上ってきて、彼の身体をすさまじい勢いで上へ上へと押し上げた。
「蒔田さん、温泉が好きでしょう」
彼の回りにざらめの雪はなかった。彼はものすごい勢いで上へ上へと流れる温泉のお湯の奔流の中にいた。
ふいに、閉じたまぶたの後ろが明るくなったような気がすると、お湯の感覚がなくなり、ほうり出された。つぎの瞬間には全身をしたたか打っていた。
顔にあたる温かいお湯のおかげで、目が覚めた。
見ると、いちめんに明るく、いままさに朝日が昇ろうとしていた。
蒔田の前には、巨大な湯柱がうなりをあげ、かなりの高さまで吹き出し、あたりに温泉の、濁った茶色の湯と、もうもうたる湯気とをまき散らしていた。
吹き上げるお湯は、彼のまわりの雪をすっかり融かしていた。
あの雪の山は、達磨は、影も形もない。
彼はがれきの中にいた。雪に押し潰され、ねじまがった木や、灰色の壁の残骸が湯に濡れて、グロテスクに広がっていた。
朝日はゆっくりと昇りだし、どこまでも続く雪原の広がりや、青白い彼方の山々、そのふもとに散らばる人家らしい影を照らしだした。
蒔田はよろよろ立ち上がると、澄みきった冬空に勢いよく吹き出す湯の柱を見上げた。
「蒔田さん、温泉が好きでしょう」
ああ、そうだとも。大好きだ。
「そんな話、信じられない……聞いたこともない……」
聞くとはなしに聞いていた―否応なく一方的に耳から入ってきていた―老人の話に、いつのまにか引き込まれ、結果として、啓介はすっかりそれに振り回されていた。
「あなたは、たいへんしっかりしていらっしゃるようだが、かなりお若く見えます。
お若い方にとって、信じられない話はたくさんあるものですよ。」
「いや、若いのなんのというより、誰が聞いてもおかしいと思うに決まっている。
だいいち説明がつかない。単なるオバケ話じゃないですか……」
啓介には、老人が啓介をからかっているとはいわないまでも、老人特有の思い込みの激しさで、一種妄想みたいなものに取り憑かれて、
らちもない与太話をしているとしか思えなかった。
「まあ、人間というものは、とかく科学的根拠だの、論理性だのと、自分たちで長い時間かけて勝手に定義した原則に、勝手に好んで縛られてしまい、
何でもそれにあてはめようとする………
……さも、それがあらゆる術のすみずみまで当然のことのように行き渡っているかのように、宇宙のすべてまで支配してでもいるかのように錯覚しがちです。
ハエが自分たちで独自の哲学をつくりあげ、すべての行動を、自分たちで、哲学にそって抑制しているのを事実として目撃したとしたら、あなたはどうしますか。たいした本能の力だ、自然界には不思議がいっぱいだ、といったひとことでかたずけつつ、ハエの哲学じゃたかが知れてるとか、ハエごときが何をとか、笑うでしょう。
古代の因習や古めかしい伝承のことも、もちろん、ほとんど信じたりはしますまい。やはり原始の人間の考えることはおくれているものだと優越感をかたわらにほほえむでしょう。
いかがですか。
しかし、それらと現代とは根本的にそんなに差はありません。結局同じことなんです。
現代人の原則にあてはまらないことは常にたくさん起こっています。信じられない、というだけで無視されているだけのことなんですよ。
いやさ、人の心こそ、いちばんあてはまらないものの典型ではありませんか。心は常に不可解で、定義などできないものです。そうではありませんかな……
『廃湯の温泉、雪の重みで倒壊』 これだけがローカル新聞の社会面の隅に小さく載りました。それだけでかたずいたことです。」
「……しかし、僕には、どう考えてもほら話としか思えませんね。ワイドショーの、夏の、ご近所の怪談のネタのレベルですよ。」
「おやおや、温泉のよさをわかってもらおうとして、温泉は人助けをするのだということを納得してもらおうとして、どうやら納得どころか、かえって逆効果になってしまったようだな……
よし、それでは、こんどは私の友人の体験をお話しましょう。これも聞いた話ではありますが、今度こそわかっていただけますよ。ただし、これは、温泉には好意的な面ばかりでもないという教訓めいた話です。そう、教訓めいたね、ハハハハハ………
いかなるものも利用のしかたしだいでは毒にも薬にもなる、温泉にしても例外ではないという、わかりやすい例です………」
老人は語り慣れた講釈のように、よどみなく話し続けていく。
啓介はまたしても、鏡に写った老人の顔、目に口に吸い寄せられ、
視線を動かせなくなっていく。
「女性と同じですな。そう、女性とね…………」
女性?なんだかよくわからないが、女性?
啓介の視線が、老人の顔からすこしずれて、奥の湯船のほうへひいた。
奥のほうで、何か声が聞こえたと思ったからだ。
聞こえる。
叫ぶような、笑うような、かん高い声………
どんどん大きくなり、二重三重に重なって聞こえるようになったかと思うと、鏡の中では右手の、入り口と思われる方角から、白い影が躍り出た。
啓介ははじめ、ビーナスの大理石像がそのまま動き出してきたのかとさえ思った。
それほどなめらかで、しなやかで、動きにためらいがなかった。
白く輝く肌が、かすかに湯気ににじむ。
裸の女だった。
彼女は啓介に側面をむけながら、自分の若さを楽しむように、飛ぶように歩みを進める。
続いてひとり、またひとり。
笑いさざめきながら、次々と、全裸の若い女が、何人も鏡の中へ登場してくる。
若々しい、しみひとつない乳白色の肌。張りつめたいく組もの乳房が、その重みで揺れている。なめらかなヒップと、後ろで束ねられた黒い長い髪……
啓介はあっけにとられていた。
なぜ、…………この女性たちが…………
自分のほかに、新しい客がやって来たのか…………
ここは…………混浴だったっけ……………?!
いや、ちがう、入り口に男湯とあったのを確かに見ている。
女たちはプールにでも飛び込むように、次々と湯船に飛び込む。
嬌声をあげながら、湯をはねらせて泳ぎだす。
ふざけて互いに湯をかけあう。
ところどころ湯気でかすむが、みんなすばらしく美しく見える。
突き立ったピンクの乳首、湯のしずくをしたたらせる黒い豊かな陰りまで美しい。
女たちは、その全身を啓介にさらしていることなど知らぬげに、こちらを気にもとめず、天真爛漫な天女の舞いを続ける。
啓介はのどがかわき、頭の芯が熱くなる。
女たちのひとりが動きを止める。
啓介を見ている。
みとめたのだ。
つりあがりぎみの目が、鏡の中から啓介をじっと見つめる。
美しい。なんて美しい……
女の肌の輝きが、まわりの湯気ににじみ、光彩のベールでその全身が包まれる。
女の表面を湯(か、あるいは汗か、またはその両方がまじったものか)のしずくがいく筋もしたたり落ちる。
女はあらためて正面を向き、全身を開くように啓介の前にさらす。
なめらかな肌をすべる湯の玉は、白い長い首すじをつたい、かたく大きく盛り上がった乳房を迂回して、その谷間をすり抜け、なだらかな腹部を転がり落ちて、いったんへそのくぼみへとどまったのち、たちまち次々にその下の濃い繁みへと吸い込まれていく。そこで、たっぷり溜まってから、より密度の濃い液となって溢れ出し、ももの内側からふくらはぎまで、細い流れとなってすべっていく。
女の目が、見つめる啓介を、すべて見透かしたように、ちょっとはにかみ、
いたずらっぽく誘う。
女はついに湯から出て、さらにこちらへ近寄ろうと見せかけて、なぶるようにぷいと振り向き、入り口のほうへ走っていく。
あとの連中も次々にそれにつづく。
「あっ、あの………!」
呼びかけようとして、鏡だと気づき、あわてて振り返った。
入り口から、最後のひとりだろう、
白い足首がさっと逃げるように走り出ていくのを見たと思った。
「どうかしましたか?」
啓介ははじかれたように向き直る。
けげんそうな老人の顔。
「え!?、あの、いま………!」
老人は何も気づいたふうはない。
「あの、女の人が………」
「そう、女の人と同じと言ったんです」
老人は何も見ていない。またしても自分の話に夢中だったのだ。
「………お顔が赤いようですが………」
啓介はハッと気づいて、ますます顔を赤くし、あたふたと両手で前をおさえた。
裸の女性を目の前にして、気づかないうちに自分の身体に変化があらわれたのではないかと、あわてたのだ。
「いっ、いや、なんでもありません、ほんとに、なんでも、ないんです………」
急いで取りつくろう。
老人はほんとうに何も見ていない。
何も気づいていないのか、ほんとうに…
……?いや、それならそれでいい。
「ふむ、………」
老人は語りを続ける。
「私の友人に江戸という奴がいるんですが、こいつ・江戸丈揚がたびたび不思議な目にあってるんですな、温泉で。
しかし彼がひとりでいるときじゃない。どうも、彼の友人・行方才三という人と一緒にいるときにかぎって、妙なことに巻き込まれるというんです。
この行方という人物には、モンスター・コレクターみたいな要素があるんじゃないかと、江戸は言うわけですよ。なんと大仰な言い草じゃありませんか。
確かに、聞くかぎりでは、なんとも信じられない話の連続です。ことによると温泉そのものよりも、わき道にそれるべからずという教訓として受け取ったほうがいいのかもしれないが……。まあ、参考になるとは思います。江戸の話をそのままお伝えしましょう……」
私と才三の話をしよう。
奇怪なことが起こるのは、いや、奇妙な事態に立ち至るのは才三と一緒のときだった。
当初は才三自身に、何かしらどこかしら不可思議な影を感じていたものだ。
才三とはやたらと親しいというわけでもない。今に至るまで生い立ちや家庭環境など詳しいことはよく知らない。にもかかわらず、妙にウマが合うとでもいうのだろうか。常に一定の距離を置いた
乾いた間柄ではあるが、相手を思いやり気づかう気持ちがある。
うまく表現できない〝友情〟というやつなのかもしれない。
はじめ才三はまことに近寄りがたかった。なにぶんにも気難しいと評判の男だったし、それほど人当たりがいいほうではない私から見ても、見るからに、そのとっつきにくさは群を抜いていた。
一見すれば、なかなかの二枚目ではある。長身痩躯で、ひきしまった長い顔は、スポーツマンよりもモデルあたりのほうに似合いそうだった。しかし多くを語らない、ヌーボーとしたたたずまいは、
陽気でないものをたたえ、どこか墓場の番人めいていた。長髪ぎみで、ともすると表情が髪に隠れることもあり、黒い服を着せるとドラキュラに似てきそうだと、誰かが陰口をたたいたことがある。
とっつきにくそうな外見どおり、妥協しない男だった。それがもとで副部長だったスキー部を辞めたという。我々の同好会に加わってからは、ほとんど客分といった感じで、運営や方針には一切口出しせず、一目置かれてはいたものの、目だたなく参加しているといった程度にとどめていた。
同好会がこの山へ合宿にきたのは、二年ぶり二度目、私が三年生の春休み中のときだった。
この山が選ばれたのは、この年は全国的な雪不足で、この時期になると他にまともに滑れるところが少なくなっていたためだ。
前に来たときもそうだったが、またまた来てみて驚かされた。
世は春先で、そぞろ桜の便りも聞えるというのに、この山は断固として冬のさなかにあった。
来る道は雪の回廊であり、スキー場の山頂ともなると、樹木のてっぺんしか雪の上に出ていない。
いったん山に入ると、そこは隔絶された別世界で、平地のルールは通用しない。山ならではの掟が支配し、余人には計り知れない冬山だけの営みが営々と続けられていたのだ。
寒さもまたすさまじいと、あらためて思い知らされた。まじりっけのない透明な寒さだ。
ここにいると、言われはじめている温暖化などは、どこの惑星の風聞だと疑いたくなったものだ。
思えば私は、この冷酷な自然を甘くみすぎていた。わかっていながら、人間の能力を過信して
いたのかもしれない。(山を支配するのは人間ではないのだ。)
そのおかげで、吹雪に顔をなぶられて、雪をかぶった木の幹の下で目を覚ますことになったというわけだ。
同好会はもちろん部のように厳しい練習をしたりしない。単なる愛好者の集まりで、いわばお坊ちゃん遊び仲間のお気楽活動集団だ。だからスキー合宿といっても、朝から晩までワイワイ楽しく滑るだけのことだ。誰がどう滑っても文句を言われる筋合いはない。
そこで私は単独行動をする気になった。
じつは、スキーは好きだが、それほどカッコいいものだとは思えなくなりはじめていたのだ。
このところスキー人口はじわじわとだが明らかに減ってきているし、スキー場へいけば、往年のスキーヤーであるじいさんとオバさん、そして小さな子どもたちばかりが妙に目につくような気がしていた。私をスキーにつれてってなどというのは、もはや昔の話で、この頃、若者の興味の主流は、あのスノーボードにむかいつつあったのだ。
私は今回の合宿でスノーボードをマスターしようと密かに決めていた。おおっぴらではやはりスキー同好会の手前つごうが悪いので(いまだにメンバー全員スキー信者である)、秘密に練習する。完全にマスターしてから、メンバーたちをアッと驚かせる。
そのためにこの日は、みんなとは一便遅れて、スノボをかついでロープウェーで山頂まで行き、
みんなとは反対側、山頂から北側の、スキーヤーの少ない、急な単一の森林コースを、快晴の青空のもと、目にしみる白銀のただ中を下りはじめたのだ。
スノボはまったくはじめてというわけではなく、乗るという程度には滑れるし、結局のところテクニックはスキーと同じようなものなんだろうとタカをくくっていたのがまちがいだった。おまけにこのコースはやたらと急で、プロでも難渋するのではないかというしろものだったと、滑りはじめてからわかった。
滑りはじめて間もない頃のことだ。制御するまもなくコースを飛び出し、林の中へ突入してしまった。
次々に迫ってくる樹氷の塊をどうにかかわして、しばらくは自分でもおどろくほど快調に滑り降りていたが、かわそうとしてかわしきれない一本の樹氷が前方に出現し、ついにはその雪の塊に乗り上げた。一瞬真っ青な空が見え、それがたちまち白い地表にかわったかと思うと、頭をしたたか殴られでもしたような衝撃を受け、さらに空が見え雪が見えを数限りなく繰り返したのち、目の前に、樹氷ではない、雪をかぶっただけの裸の幹が迫り、頭にさらなる衝撃を受けて、わからなくなった。
目を覚ましてしばらくの間、自分がどこにいて何をしていたのかわからなかったが、衝撃を受けた頭のにぶい痛みとともに、記憶がもどってきた。
しかし自分がいる場所にはまったく見覚えがない。しかも太陽の光や雪の輝きはどこにもない。黒と白のベールに包まれているようだった。夜になっていたのだ。滑りはじめたのは正午に近かったのに。
あのまぶしい春の初めの陽の光は、裏返しでもしたように一変し、季節が二ヶ月あまり逆もどりしたような、あきらかな横殴りの吹雪模様となっていた。
早く来た道を戻らなければ、宿へたどりつけなくなると、ようやく思い当たり、とにかく行動を起こそうとしたが、どこへどう向かえばいいのかまったくわからない。右も左も雪の大地と底知れない暗がり。どっちを向いてもその奥行きに、木の影らしいものがぽつりぽつりと見える程度だ。少なくともスキーコースではない。コースから転がり落ちたのだ。
合宿初日のガイドの、おおまかなブリーフィングの中に出てきたひとつ~危険区域~絶対に立ち入らないで下さい~と言っていた、なんとか沢という沢のことが頭をよぎる。そういえば、吹雪をすかして見ると、斜面ではなく、平らな沢のようでもある。
試みに「おーい!」と呼びかけてみたが、答えたのはもちろん吹雪のうなりのみだった。
このとき、じっと樹のたもとにうずくまって、体力を温存しながら夜を明かし、救助を待つという選択肢は私にはなかった。初めての経験~遭難?!~にいささかパニックとなり、深みにはまる、逆効果になると感づきつつも、何か行動を起こさずには、歩き出さずにはいられなかったのだ。
ときたま、誰にともなく呼びかけつつ、吹雪をついて歩き出した。
しかしこれがまた難儀だった。積もった雪は思いのほか深く、膝まで埋まり、一歩一歩足を出すのも容易ではない。吹雪と闇で視界は悪い。寒さは身体の芯まで浸してきて、動きをにぶらせる。
あてのない、なんとも絶望的な歩行だった。
はじめはボードをこわきに抱え、その先端で雪をかきわけて進んでいたが、持つのにも疲れてきた。このときになって、歴史の浅い、必然性なくスポーツ界に登場してきたスノーボードとは、スキーに比べ、まことに役に立たないしろものであるとわかった。斜面を滑り降りるとき以外は、重い板切れでしかないのだ。スキーならば、履けば、深い雪のときでも雪に沈むことなく、すいすい歩いていくこともできる。とにかくどんな状況でも雪の上を移動できる。(のちにそれほどかいかぶったものでもないこともわかったが)その多様性がスノボにはないのだ。
あてもなく先を急ぐ私は、ついに足手まといなボードを雪の中にうっちゃってしまった。
歩きはじめてどれくらい時間がたったろうか…一時間か三十分か…今は夜中の何時なのだ…
時計を見ようとして、腕に時計がないことに気づいた。
忘れたか。
メンバーのみんなに秘密に練習するという企みに、注意が散漫になり、時計は宿の部屋に置きっぱなしになったのかもしれない。
(あの時計には磁石もついていた)
状況はいっこうに変わらない雪と闇。あせっても事態は少しも好転せず、寒さは厳しくなるばかりだ。
こんなときはすこし気を落ち着かせて、考え直そうと、一服つけようと思い立った。食料らしい手持ちはまったくもってきてはいなかったが、なぜがまぬけなことに、腹の足しにならないタバコだけは、ポケットに3パックも押し込んであった。
しかしこの吹雪では火もつけにくいかもしれない。いや、火はあったっけ…まさか…ライターもマッチも忘れて…
歩きながらポケットを探って前方不注意になった。いや注意していてもどうにもならなかったのかもしれない。足元の雪がちょっと上り坂になっていた。気がつかずなおもポケットを探っていたとき、いきなり前方へ放り出された。
足もとの雪面がぱっくり割れ、一瞬暗い闇の中へ体が浮かんだ、と、たちまち落下して、雪の大地へ全身がめりこんだ。
思えば私は、崖の上へせり出した雪のひさし=雪庇の上を歩き続けていたのだ。薄い雪庇は私の体重で割れ、私は崖下へと落ちてしまったというわけだ。
新しく積もった雪の中なので、思ったほどの衝撃はないのは幸いだったが、しかし、これまでと別な段階の、どこだかわからないところに落ちてしまった。
そこは、樹氷とまではいかない、雪をまだらにかぶった木々が林立する林の中だった。最前までいた沢よりはさらに樹が混んでいて、行く手をさえぎるように、高い木々がそびえている。
…しかたがない、引き返そうにも、もはや方向もわからない。
どこを行っても同じだろうと、このままの流れで林をぬって進むことにした。
風が、木々の抵抗でその円滑な進行を妨げられるせいか、林の中は吹雪がいくらか弱まっていたのは幸いだった。そのせいかあたりがいくらか明るく、行く手も今までよりははっきり見えている。白い紙でできた切り絵の中にいるようで、雪をその形どおりに白く張りつかせた、落葉樹のオブジェが延々と続いている。
しばらく進んで、ハッと思わず立ち止まった。
前方に何か…いや、誰かいる。
すかして見ると、はるか向こうに人影が見えたような気がしたのだ。
思わず「おーい!」と叫んでみる。
答えはない。
なおもどんどん近づいていってみる。
白いシルエットになって浮かび上がるのは、一本の大木のそばに立つ、スキーを持った人の影のようだ。
いた!
自分と同じ仲間がいた!
あの人はスキーをしていて方向を見失ったのかもしれない。あるいはどこかへ帰る途中なのかも…
これはどうやら助かるかもしれないと、走るように雪をかき分け、よろけながらも必死でそのスキーヤーに近づく。
二メートルぐらい前まで近づいたとき、ぎょっと立ちすくんでしまった。
近づいてみると、それは人間の形はしているようだが、ほとんど雪像だった。
腰から下は雪に埋まった人型が大木の横に直立している。全身が雪でおおわれ、胸の前に立てているらしいスキーもすっぽり雪でくるまれている。
もしかしたらこれは大変なことになっているのかもしれない。
この人(人のかたちに見える)は、明らかに私よりも長く雪の中にいる。ここに立ち止まってからだいぶ時間がたっているはずだ。だからこれほど身体に雪が積もっているのだ。
…ここまで雪におおわれていては、もはや生きてはいないかもしれない。
ともかく雪をはらってやることにした。
頭らしいところ、肩らしいところから雪をはらいのけていく。
しかし雪は意外に厚く、硬い。なかなか中身が出てこない。
人間なのか…ただの雪の塊ではないのか…と思いはじめたとき、腕らしいところから布切れのようなものが見えた。ジャケットのきれはしのようだ。
さらに雪をのける。
ジャケットだった。防寒用にしては薄めだが、確かにジャケットだった。
ジャケットを着た人だ。
どんどん雪をはらう。
姿が見えてきた。がっしりした肩幅。どうやら男らしい。しかしジャケットはバリバリに凍っている。その中身もまた岩のように硬く感じられる。
「もしもし…大丈夫ですか…」
つい声をかけながら頭の部分をはらった。顔にもびっしり雪がはりついている。
「…し、しっかりして下さい…」
再び声をかけるが、相手はまったく答えず、ぴくりとも動かない。
ついに頭の部分の雪がなくなったため、黒い髪が見えた。帽子さえかぶっていなかったのだ。風で飛ばされてしまったのだろう。
ようやく顔が見えてきた。注意しながら慎重に雪を落としてやる。
顔はブロンズ像のように硬くなっている。そして見えてきた肌も、ブロンズ像のように濃い灰色だった。
「…大丈夫ですか…大丈夫ですか…」
私はもちろんこのとき、遭難した人を救助しているつもりでいた。相手はまだ息がある、息があってもらいたいと願っていた。
目がよく見えるようにと、目の部分にたまっていた雪を落とす。
しかし閉じられた目は出てこず、ぼっこりへこんだくぼみから雪をほじくり出していたのだ。
と、顔の下半分から雪が落ち、この人の口らしいところ、歯が見えた。長い白い歯が並んでいた。口の中にも雪がつまっている。
これはいけない、窒息する!鼻は…鼻の穴は…鼻からあわてて雪をはらう。
灰色の高い鼻が見えてきた。
と、私の、雪をはらおうとする手の動きが激しすぎたのだろう、手がその鼻にぶつかり、ひょうしでぽろりと鼻がもげた。
鼻のなくなった鼻腔が、破れてぽっかり穴の開いた灰色の皮膚の内側に見えた。
このときガサガサと音がして、殻がはがれ落ちるように、おおいかぶさっていた雪が、次々にぱらりと落ちた。
スキーからも落ちて、中身が現れたが、スキーだと思っていたものは、灰色の縄のようなものだった。一本の縄が、この人の首のあたりから上へ上へと真っすぐに伸び、その先にあった、幹の横に張り出した木の枝につながっている。この人は首と枝を縄でつながれていたのだ。
全体が現れたその人の顔は、皮膚が雪明りでもわかるどす黒くにごった灰色で、干物のように表面にしわがよっていて、骨にへばりついていた。
大きく開かれた口は、今にもはずれそうに、アゴがだらんとぶら下がり、片方の目は、そこに目玉が存在しない黒い穴で、もう片方の目のところには、黒く腐ってしまったクルミのような目玉の成れの果てが見えた。
もちろん生きてはいなかった。
肉がほとんど腐って落ちた、できたてのミイラだった。
しかし大きく開いた口は、今にもなにか語り出しそうで、目は人恋しさに私をのぞきこみそうで、たれ下がった両手は今にもしがみついてきそうだった。
思わず声にならない叫び声をあげ、そこから飛びのいて、雪の上にしりもちをついてしまった。
前方の、木の枝から縄でぶら下がり、足もとを雪で固められた死体は、吹雪まじりの風になぶられ、その木が大きく揺さぶられると、全身が前後に揺れ、私のほうに倒れかかりそうになった。
「…アアア、アアア…!」
再び意識せずに大きな叫び声をあげると、瞬間的に回れ右をして、両手両脚を振りまわして、必死でその場から逃げようとした。パニックになっていた。とにかくこの場を離れたかった。
雪に足をとられ、雪の中をつんのめって、雪まみれになるのもかまわず、這うように逃げる。
〝あれ〟が追ってくるような気がしてならなかった。
めちゃめちゃに雪をかきわけ、来た道かどうかもわからない、上りか下りかさえわからない雪の原野を、転がりながら逃げる。とても振り返ることはできなかった。
助けを求めて、人影を求めて雪の中をさ迷い歩き、とんだ人影にめぐりあったものだ。
あの人は、何ヶ月か前、あるいは何年か前かもしれない、ここがうっそうとした森林だった季節に、樹海に分け入って、一本の木の枝にロープをくくりつけて、自らぶら下がったのだ。そして何ヶ月か何年かそのまま、捜査もされず、深い山中に放置されて、半ば忘れ去られ、見つけたくもなかった私によって偶然発見されたのだろう。
死体は何も仕掛けるわけがない、生きているある種の人間に比べれば相当無害なはずなのだが、とにかく必死でその場から逃げずにはいられなかった。
風に乗って、ガサガサと雪をかき分ける音と同時に、待ってくれ、という空気がもれたようなかすれ声が聞えたような気がした。
振り返って確かめたりしたくなかった。もし後ろを見たら、そこに、ほとんど骨だけのような両手両脚をぎくしゃく動かして、雪の上を泳ぐように追ってくる姿が見えるような気がしたからだ。
事実、背後で音がしているではないか!
あれは雪を踏む音?!かき分ける音?らしい音が聞えてくる。
冷たさも寒さも忘れて走った。いや、実際は、よろけて夢遊病者のように歩いていただけかもしれない。
いくつかの林のような木の連なりを抜け、さしかかった丘らしいところを越えようとしたとき、意識せず、ほとんどはずみで振り返ろうとした。
目が前方からそれたとき、宙を飛んだ。
と、すぐに腕や肘を雪に叩きつけられて、落下が止まった。
下は暗い。まわりは雪の壁だった。
そこは、人がどうにか入り込めるくらいの狭い雪の狭間だった。
雪の壁にサンドイッチのようにはさまれていた。
穴に落ちた。
何だこの穴は?!…誰がこんなところに落とし穴を…
クレバスか!これはあの、聞いたことはあるが、見るのははじめての、クレバスというやつか…。
いつもだと四月以降にできるという雪の亀裂、スキーヤーやガイドも落ちて骨を折ったりすることもあるという恐ろしい雪の亀裂…と、かすかに記憶している。
なんて多彩なんだ、北極じゃあるまいし。ただのスキー場の山に、なんでこんなものまで…
しかし見下ろしてみると、恐ろしいことに、このクレバスはさらに深かった。
私は幸いなことに中ほどに引っかかっていたのだ。
底まで落ちてしまったら、這い上がれないかもしれない。
思わず上方を見上げた。穴の入口の雪の地上まで二メートルはないようだ。これはどうにか這い上がれそうだった。上方の雪の裂け目からは、暗い空と横なぐりの吹雪が見える。
そのときそこに、あの灰色の小さな顔が、こちらをのぞきこんだのが、一瞬見えたような気がした。
まさかとは思ったが、このまま這い上がるのはちゅうちょした。
しばらくそのままでじっとしていたのち、このままこうしていては事態はいよいよ絶望的になると、勇気をふるいおこし、クレバスから抜け出そうと上りはじめた。
が、うまく上れない。
雪の壁は意外に硬く、のっぺりしていて、手や足のとっかかりになるところが、なかなか見つからないのだ。
片方の雪の壁に背中をおしつけ、もう片方の壁を両脚で踏ん張って、じわじわ上がろうとする。
これは案外うまくいき、もうすこしで地上へ頭が出るというところまでっきたとき、ズルリと背中が滑った。あわてて両手を手前の壁に伸ばして、あるかなしかの雪のでっぱりをつかまえようとする。
どうにか雪のコブをつかまえたとき、その雪が砕け、全身がズルズルと落下しはじめた。虚しく両手を伸ばしたが、空をつかんだだけだった。
このまま奈落に等しいクレバスの底まで落ちていってしまう…恐慌と絶望の悲鳴がのどをはいあがったとき、右手が何かにつかまえられ、落下が止まった。
右手を誰かの手がとっている。ひとまず助かったとは思ったものの、新たな恐怖が頭をもたげる。
私の手をとるこの手はもしや…
と、予想外の力で引っ張り上げられ、雪の地上へと引き上げられた。
地表に出たとたん、またしても横なぐりの風と雪の猛攻にさらされ、首をすくめ、目を細めたまま、ついその場にうずくまる。
しかし、自分を救ってくれた人物にともかく一言、感謝の言葉をかけようと、上体を起こし、その人の気配のするほうを見やって、吹雪の雪と一緒に叫び声をも飲み込んだ。
吹雪の中にゆらめくように立って、こちらを見下ろしていたのは、まさしく、まぎれもなく死神だったのだ。
枯れ木のような長身に、長い黒いコートのような上下をまとい、顔がほとんど隠れる、頭巾のようなフードをかぶっている。それに、なんと両手には、あの死神の象徴、長い柄の鎌までもっているではないか!この時点ではミイラよりも恐ろしい死神だ。いきなり最後のときがやってきてしまったのだ。
「ギャアアーッ!」
悲鳴をあげ、腰が立たないまま後じさりしはじめたとき、死神の一方の手が光り、電灯がまばゆく光りだすと、死神が低い、押し殺した声で語りかけてきた。
「おいおい、江戸くん。」
聞き慣れているというわけではないが、聞いたことのある声だった。落ち着きはらって、人を説得するような声。
思わず吹雪をすかして見た。風にひらめくフードの下に見えてきたのは、青白い顔色には見えるが、白いされこうべではなかった。目のあたりにあるのは、洞窟のような眼窩ではなく、細めた両目であり、こちらをしっかり見つめていた。
「…なんと、行方くんか…!」
そこにいたのは、あいかわらずやや神秘的で、近寄りがたい雰囲気を漂わせてはいるものの、あの同好会の異端児・行方才三その人だったのだ。
才三はフードつきの黒い上下のヤッケを着込み、両手に持っていたのは鎌ではなく、ストックだった。スキーに乗ってここまでやってきたのだ。死神どころか福の神だったというわけだ。
このときの私の喜びは、雪の中を転げまわりたくなるほどだった。
同好会が、仲間たちが救いにきてくれたのだ。
「なんともないかい、江戸くん…無事だったか、よかった…」
才三も、より目を細めて喜んでくれているようだ。同好会のメンバーの中の、ほかの誰よりこの才三という男に親しみを感じた瞬間だった。
しかしちょっとだけ不思議に思った。
来たのは才三ひとりだけなのだろうか?
当然、メンバー総出で私の〝捜索〟に出たのだそうだ。
才三は説明してくれた。
夕方、暗くなりかけても、私が連絡もなくもどらないために、迷ったのかもしれない、とにかく連れにいこうということになった。私がいそうなところで最も可能性が高いのは、一番大きいファミリーゲレンデの下のほうだということで、メンバーの意見が一致した。下りすぎて、林の中で迷ったのだろうと判断したのだ。そこで、その方面にメンバーが散開して捜すことになった。
しかし、このとき才三は賢明にも、私のものかもしれないスキーが、まだ、宿となっているホテルのスキー置き場のすみにあったことに気づいた。そこで同好会の会長に話し、自分だけは別コースを探すことにした。
ロープウェーに乗って山頂駅まで行き、そこの係員に聞いたところ、この日はフォレストコースの客が少なかったために、係員は、ひとりのボーダーが昼頃フォレストコースへ向かったことを覚えていた。係員の話したそのボーダーの体つきが私と似ていたために、才三はフォレストコースを下ってみることにしたのだと言う。
才三は読みが鋭い、なかなか切れる男だと知り、ますます好感を持った。
「しかし、ここで逢えたのは偶然かもしれない。」
と、謙遜するように、控えめなことを言った。
「ここはコースを大きくはずれているし、正確な場所はどこだかわからないからね。」
深い山の中で、普通であれば、手がかりもなく人ひとりをみつけられるような場所ではない、というのだ。
「確かに僕には、鼻がきくというところもある。においというか、こう、感じるんだよ。前からこんなことはあった。ヘンな能力といったらいいのか、まあ、一種の取り柄だね。」
それはそうなんだろう。クレバスの中までのぞいてみるという丁寧なことまでしてるんだから。
ところが…
「じつは、僕も、捜しているうちにコースをはずれてしまって迷ってね。あてもなく歩いていてクレバスに落ちそうになったというわけさ。」
この言葉には吹雪の中でそのまま雪像になってしまいそうな思いがした。
なんと状況はまったく変わっていなかったのだ。ミイラとりがミイラになり、迷子が増えただけのことだった。
「会のメンバーは、もういったん引き揚げてしまったんだろうなあ…」
「この吹雪ではね…二次遭難になっても困るしね…まあ、もう地元の警察にも連絡しているだろうから、明日になれば捜索隊が大規模に捜しはじめると思うんだけどね…」
「…それまで僕たちがもつかな…捜索隊か…えらい大事件を引き起こしちゃったなあ…ああ、申し訳ない…僕の勝手な気まぐれが、みんなにも迷惑をかけ、君のことはえらい目に遭わせることになってしまったね…」
才三に対しては、結局、救いの神になってくれなかった失望よりも、巻き添えにしてしまった申しわけない思いのほうが大きかった。この吹雪と寒さの中に孤立しては、能天気な大学生とはいえ、さすがに命の危機を覚悟せざるを得ない。
携帯電話が国民ひとりひとりに普及する前のこと、無線トーキーでさえ、持っている人は少なかった頃のことだ。誰にも連絡のとりようがなかった。
しかし、このときの才三は、危険にも寒さにも妙に超然としていた。その、どこかしら才能ある猛禽のような顔には不安はうかんでいなかったのだ。
「少しなら携帯食料はある。」
と背中のリュックをたたいてみせる。
「僕にもタバコぐらいはあるよ。食料ほど役には立たないかもしれないけど…」
「それに…」
と才三はリュックの横のポケットから、小さなものを取り出した。
「これがある。」
緑色の小さなコンパスだった。
「リュックの中にこの山の地図も持ってきてるんだ。この吹雪では地形もわかりにくいが、つまりこれから僕たちがやるべきことは、ともかくこっち(コンパスを見ながら、一方向を指さす)、北東へ向かってみることだ。もしかしたら地図にあった温泉宿らしいところに行きつくかもしれない。」
才三の指揮でふたりの遭難者は、ともかく目的に向かって行進しはじめた。
吹雪は小止みになったかと思うと、たちまち強まりだしたりして、止む気配だけはみせない。
才三はスキーで、ストックをつきすいすい進むが、私のほうは一歩一歩足が雪にうずまり、引く抜くのさえスムーズにいかないため、のろのろした歩みになりがちだった。才三もこれに気づき、私のほうを振り返り振り返りするため、行進はまことにはかどらなかったが、そのままある程度進んだところで、林を抜け出、木々が途切れたくぼ地に出た。
吹雪をすかして見ると、そのくぼ地は帯のように彼方に続いているようだ。
どうやら道路らしかった。夏であれば木立を走り抜けるアスファルト道路なのだろう。
私たちは少し元気を得た思いで、この道に沿って歩き出した。
しかしこの道のなんとカーブの多いことか。うねうねと曲がりくねって、同じようなパターンがいつ果てるともなく続く。
行進をはじめて一時間くらいたったろうかというところで、さすがに私は疲れ果て、足が雪から上がらなくなった。思えば、才三と出会う前もさんざん雪の原を歩き回っていたのだ。なおも前を進もうとする才三に私は呼びかけた。
「行方くん、少し休まないか。僕はくたびれてしまった。足がなかなかあがらないよ…」
聞いた才三はたちまち引き返してきた。近づく顔に、一瞬いらだちのようなものがよぎったように見えたが、すぐに思いなおしたようだ。
「そうか、君はスキーじゃなかったな。これは悪かった…よし、君はここで休んで待っててくれ、僕はもうちょっと先まで行って見てくるよ。」
「ああっ、待ってくれ、ひとりにしないでくれ…」と、言おうとする間もなく、才三はスキーごときびすを返すと、ストックを振り上げ、解き放たれたように滑って、吹雪の中へ消えた。
このときの心細さといったらなかった。またしてもひとりぼっちになってしまったのだ。しかも、前よりもさらに奥地、深い山ふところへ入り込んでしまっていた。
あいつはいったいどういうつもりなのだ。再びここへ戻ってこられるのか、正確にこの場所まで、行った道を帰ってこれるというのか、この同じような、目印ひとつない景観の中を。
私は大いに不安になり、ろくに上がらない足をそのままに、両手を動かし、イモムシのように這って才三のあとを追いはじめた。
「…おーい、待ってくれ…」雪の上を泳ぎながら叫ぶ。降り積もった雪が口の中まで入ってくる。
と、前方の雪の中から、黒い影が弾丸のように飛び出、私の顔のすぐ前に、雪煙をあげてスキーのエッジが止まった。
「あったぞ、江戸くん、この先だ!宿らしい建物がある!」
尾根からすこし離れたなだらかな斜面に、ぽつんと見えてきたその建物は、一見して、建物らしい建物には見えなかった。ましてや温泉宿などにはとても見えない。雪に埋もれて今にもつぶれそうな小屋だった。
しかし、近づくにつれ、我々のほうに向いているのは正面の入口であり、実際にはそこから奥に向かって長い棟になっていることがわかった。そのとなり、斜面の下側に奥まって、もうひとつの棟らしいものもやや低く見える。
正面までくると、意外なことに、この建物は二階建てだということがわかった。平屋の入口の部分だけ前方に突き出ていたが、両の棟とも全体としては総二階ふうのつくりだった。昔の小学校の校舎と似たところがある。ウナギの寝床が二列に並んでいるような感じだった。
どちらも屋根にはかろうじて雪はないが、建物の一階の部分の両翼の壁は、屋根から落ちたものか吹きつけられたものか、石膏ギブスのように厚い雪で固められていた。
「冬季間は閉鎖の宿か…」
「いや、ほら、奥のほうに小さく明かりが見えるだろう。」
才三の指さす方を見ると、確かにこの〝本館〟とおぼしき棟の、奥の中ほどに、ぽつんとオレンジ色の明かりが見える。
「もしかしたら、誰かいるかもしれない。」
正面入口も、雪よけらしい厚い何枚かの板が立てかけられ、半分しか見えないようになっている。
その雪よけのひさしにもぐりこみ、大きな一枚ガラスをはめた、古めかしい木枠のガラス戸を開けようとする。戸は鍵はかかっていなかったが、やたらとしぶい。
ふたりでこじ開けるようにして、どうにか開けた。
ふたり競うように、すき間から中へころがりこむ。雪と風から解放され、ともかくホッとした。
明かりひとつない暗闇だが、あたりを見渡すにつれ、目が慣れて、うっすらとりんかくが見えてきた。ふたりはコンクリートの土間に立っていた。旅館の玄関を思わせる広がりが感じられる。ここから前方に続いているらしい暗闇は廊下だろう。
もしかしたらここは、才三が言っていた温泉宿かもしれない。
「ごめんください!」才三が前方に大声で呼びかけた。
「あねがいします!」私もそれに続く。無人かもしれないが、とにかく呼びかけてみる。
何も答えなかった。闇の気配のみが感じられた。外から見えたあの明かりは、消し忘れの豆電球かもしれないし、非常灯だったのかもしれない。さらに二度、三度呼びかけてみたが、同じように、反応はない。
「やはり誰もいないらしいな。」
「ここにこうしてずっと待っているわけにもいかないし、悪いが、ずかずか上がらしてもらおう。」
ふたりが靴を脱ぎかけたとき、なにやら声のようなものと、小さな物音がかすかに聞こえた。
私も才三も思わず顔を上げて見やる。
前方は思ったとおり、真っすぐ続く廊下だった。そのはるか果ての奥に、ぽつんと小さな明かりが見えていた。外から見たオレンジ色の明かりのようだった。
見ていると、その明かりはゆれながら近づいてくる。すこしづつ大きく見えてくる。同時に何かをひきずる音も聞こえてくる。
近づくにつれ、その明かりは、ひとつの燃えている炎だとわかった。
ポッと燃えている炎が、ゆらゆらゆれながら、闇の中をこちらへ向かってくるのだ。
中空を飛ぶ鬼火が、ゆっくりとこちらへやってくるように見え、ふたりとも息をのんだ。
しかし、さらに近づくにつれ、この炎自体が生命のようなものを持って飛んでいるのではないことがわかってきた。誰かの手にかかげられているのだ。
「ファーィ」
と音がした。人の声だった。炎の陰に人がいるのだ。
ようやくそのりんかくが見えてきた。
坊主頭に、長い着物のようなドテラのようなものを着たシルエットがうかんで見える。男のような、しかも年寄りのようでもある。
この前方の人物には害意や悪意の雰囲気はない。急に起こされたような、寝ぼけたような、のん気な気配がある。
この人が我々の前まで来て立ち止まったとき、ちろちろと揺れるロウソクの明かりで、全身がはっきりとは見えないものの、ロウソクを置いた燭台を手に持った、丸刈りの年輩の男であることがわかった。
突然現れた我々二人に驚いたように目を見開き、人が良さそうに白い歯を見せて笑いかけてもいる。
「…これは…おきゃくさんか…」
空気がもれるようなしわがれ声で言った。
「…でも…いまは…ここは…やってないよ…」
老人らしくスースー息つぎをしながら、聞き取りにくい声で言う。
管理人らしい、人のいいお年よりがいたということに安堵して、才三も私も息せき切ってわけを話した。
「一晩だけでも宿を…」
「泊まる分くらいのお金と手持ちの食料はありますんで…」
それは大変だったろうと、管理人は大いに同情してくれた。
何もないが雪はしのげる。二階のどの部屋を使ってもいい。二階のほうが湿気がない。フトンもある。旅館が営業していないので、電気も水道も止めているが、湧き水の出る水道はある。ストーブはないが、寒ければ温泉へ入ればいい。芯から温まるいい湯がいつでも湧き出ている…
と、山の仲間に見せるような好意を、フガフガした口調で示してくれた。
私たち二人は大いに喜んで、ありがたい厚意に甘えるべく、さっさと上がりこんで、ではさっそくと礼を言って、暗い中を部屋へ向かおうとした。
階段はこっちとじいさんは左手で廊下の奥を指した。
そのときロウソクの明かりの中に、じいさんの左手がはっきり浮かび上がった。
その手はボールのように丸い、つまり指がなかった。
我々は思わずハッと見つめる。
つい右手にも目がいく。
右手も同じだった。
この人はロウソクを立てた燭台を手で持っていたのではなかった。曲げた手首の上に、ロウソクの立った皿を置いていたのだ。
両の手に指がない。手首から先がすっぱり切り落とされでもしたかのように消えていた。
私たちはその手に目がすいよせられ、そのまま立ち止まってしまった。
さずがにじいさんはこれに気づいたようで、いくらかきまり悪そうに、言い訳するようにムニャムニャと言った。
と、とうしょう(凍傷)だよ…ここはあんたがたもわかったとおり、さむいところでな…まえにうっかりしていて、とうしょうにかかってしまってな…じつはあし(足)もやられたんだ…りょうほうともき(木)でできたぎそく(義足)だよ…
両脚を軽く踏み鳴らす。
コンコンと木が木の床を打つ音がした。
私と才三は心なしか半歩くらい後じさりをした。
ふたりの目がようやく管理人の足から離れ、再びその顔にいったとき、ロウソクの炎はさっきよりもだいぶはっきりとこの管理人の顔を照らし出し、ふたりともさらにハッと息をのむことになった。
どちらかがギャッと声をあげてしまわなかったのは幸いだった。
管理人は昔ふうに頭を刈り上げた丸顔の男だった。しかし思ったほどの年寄りではないようだった。皮膚にはそれほどしわがよっていず、よく雪焼けしてなめし皮のように光っていて、どこか年齢不詳に見えた。
なんとも驚いたのはその目だった。
両目がほとんど飛び出していた。
見開いていたのではない、眼球が飛び出ていたのだ。
さらに、あろうことか、必要以上に大口を開けて笑っている。
微笑んでいたのではない、獅子舞の獅子のように、上下の歯をむき出しにして笑っていたのだ。 しかもそのままの表情で笑いが消えない。そのうえなぜか笑い声はない。
呆然と立ちつくす我々に、その管理人は、またしてもよだれをすすりあげるようなズルズルした音響をひびかせて、解説してくれた。
…こ、これもとうしょうなんだな…まぶた(瞼)をりょうほうともやられてな…き(切)りとらなければならなくなってな…くち(口)はな…いまよりもっとさむいひにらっぱ(ラッパ)をふ(吹)こうとしたんだ…そしたらな…くちびる(唇)が…あはは、くちびるがらっぱにくっついて…はがれてしまってな、あはは…
極寒の中で凍った金属に触れると、そこがくっついてしまい、皮がはがれることがあると聞いたことはあるが、実際の被害をこの目で見るのははじめてだった。雪の中でラッパだとは…トランペットかトロンボーンか…このおっさん、なぜそんな物好きな、意味不明なパフォーマンスをやらかしたんだ。
わらを布でくるんだカカシの頭、その目と口の部分が破れて、中から血走った眼球と、白い歯だけが飛び出ているような、この管理人の顔を見て、私はすぐにでもここから逃げ去りたくなった。
が、才三は私よりしっかりしていた。驚きを飲みこんで、
「そうでしたか、大事にして下さい。」
と、落ち着いて、気づかう言葉をかけたのち、
「では朝までお世話になります。」
と、階段があるという廊下の奥へ向かいはじめた。
私は追いすがるようについていくしかなかった。
相当な雪が積もるとはいえ、さすがにこの建物の二階までおおいつくすほどではないらしく、二階の窓には雪よけの板が打ち付けられていなかったため、雪明りでうっすらあたりのようすがわかった。二階もまた廊下にそって、片側に部屋が並んでいるという、学校のような造りだった。
才三と私は以心伝心したかのように、期せずして同じ部屋、一番手前の、階段を上がってすぐの部屋を選び、ものも言わずに入った。
ここも窓の雪明りでぼんやりとりんかくがわかる。広めの和室で、床の間や押入れらしきものがあり、奥にひとつある大きな窓の下の床は板張りになっていて、差し向かいのイスが二つと小さなテーブルが置いてある。旅館営業時には新緑や紅葉を見るための窓なのだろう。
才三はリュックから小さな懐中電灯とポータブルラジオを取り出し、ラジオのスイッチを入れてみたが、どう回しても雑音しか聞こえてこなかった。あきらめて、こんどは小さな包み=チョコレートを取り出し、ひとつを私に放った。私は夢中でがつがつと、飲み込むようにたいらげてしまった。
この間、ふたりともほとんど無言だった。助かったとはしゃぐ気分になどなれなかった。あの管理人のありさまが、どうにも目に焼きついていたのだ。
声をたてては誰かに聞かれる、誰かが聞き耳をたてている、そんな気の許せない何かが、どこかにあるような気がしてしかたがない。才三も同じ気持ちだったのだろう。
「さっさと寝るか。」
才三の言葉を合図に、そそくさと押入れからフトンを取り出し、ジャケットや帽子をつけたままでくるまった。何時間かじっとしていれば朝がくる、朝になれば事態は大きく好転するのはまちがいない。もうすこしのしんぼうだ…
湿気があがりにくい二階とはいえ、雪に埋もれた木造家屋の押入れに長時間しまいこまれていたフトンは十二分に湿っていた。こんなものにくるまったこと自体、失敗だった。防寒ジャケットのままのほうがまだましだったのだ。湿気がまわりからじわじわしみこんできて、しまいには防寒ジャケットを通して冷気を感じるようになり、眠るどころの話ではない。いよいよ目がさえ、身体が震えだすしまつだ。
眠れないまま、寝返りをうって才三のほうを見ると、才三はフトンの上に起き上がり、あぐらをかいて懐中電灯で何かを見ている。
「君も眠れないのかい、行方くん?」
「まあね、意外と寒かったね、ここは。」
「何をしているんだい?」
「起きているついでに、ここがどこか確認しておこうと思ってね。」
才三は地図を見ていたのだ。
「ここからだと南西の方に、我々の合宿所のホテルがあるようだ。山を迂回して西へ向かえば、バスが通っている国道へ出るかもしれない…」熱心に検討している。
「そうだ、行方くん!ここは確か温泉宿だったな…」
「そうだよ、昔は湯治場でもあったようだ…」
「あの管理人さんも言ってたよな、寒ければ風呂に入ればいいって。温まるいい湯が湧き出てるって…風呂へ行こう、こう寒くちゃかなわないよ、風呂で温まらないと…君も行かないかい?」
「…そうだな…もうちょっと地形を調べてからにしたい。僕たちは、どうやら因縁の場所にいるみたいなんだ。先に行っていいよ、後から行く。タオルがないなら僕のを使っていい…」
私は才三の返事を聞き流し、ありがたくタオルを拝借すると、そそくさと浴場へ向かった。
たいていの浴場は旅館の奥にあると見当をつけ、暗い階段を下りると、窓の雪よけ板のすき間から差し込むわずかな雪明りの中、廊下のさらに奥から、渡り廊下を渡って、別棟のまた奥へと向かった。
しだいに湯の香りらしい、なにやら心をなごませるにおいがしてきて、どんずまりのガラス板戸を開けると、果たせるかな、そこが浴場だった。
湯の流れる音が聞こえる。暗がりでもそれとわかる脱衣場には、もちろん人の気配はない。誰もいなくては男女別を気にする必要はあるまいと、さっさとジャケットから下着にいたる何枚もの衣服を脱ぎ捨て、目の前の、湯殿に続くはずのこれもガラス板戸を開けた。
もうもうたる湯気がわっと鼻をつく。これだけでこわばった顔の筋肉がゆるんだ。
浴場付近一円は熱があるせいか、雪よけの必要はないらしい。雪囲いのない窓から差し込んだ雪明りで、それほど広くない湯殿全体が見渡せた。
旅館の規模にしては小さな浴場だと感じたが、この湯量はそれをおぎなってあまりある。床に掘り込まれた湯船の壁側に岩を模したつくりものがあり、そこの上にある湯口から滝のように湯が流れ落ち、湯船の湯はとめどない泉のように勢いよくあふれ出ている。
熱湯のような見かけで、身体をひたした当初は飛び上がるほどに感じたが、すぐにやや熱め程度の熱さだと気づいた。冷え切って、すさみかけた体と心をほぐすような、まことにやさしい温かさだった。過剰なほどの湯量が、こちらの心まで満たしてくれる。雪明りの中でも、透明な湯だとわかる。そして思わず飲み干してしまいたくなるほどに、豊かで気持ちいい。
温泉とはなんていいものだろう。なえていた気持ちがどんどん立ち直っていくのがわかった。私は心身ともに元気を回復していたのだ。
すっかり落ち着いて、余裕を持ってあたりを見渡すことができるようになったとき、この湯殿の奥まったところに、アルミサッシの戸らしいものがあるのに気づいた。予想したとおり、そこは露天風呂への入口だった。十分ほてった体を、ちょっと冷やしてみるのもいいと外へ出てみることにした。
大きな庭石を円形に並べてくっつけて、中に湯をためたような、中ぐらいの大きさの露天風呂があり、ここからも豊かに湯気が立ちのぼっていた。
この露天風呂は、四方からの雪明りにてらされ、屋内よりさらに明るかった。露天風呂の周囲は温泉熱で雪はないが、盆地の外輪のように、一段高く雪が取り囲んでいたのだ。
湧き上がる湯気と熱で、さしもの吹雪もここだけは弱められているらしい。冷たい雪と風はほとんどなくなり、さわやかな空気とまわりの雪景色がなんとも気持ちよく、湯の温度も内風呂よりさらに柔らかめときては、眠気がさすほどにさらにくつろいでしまい、見ず知らずのところにいるという孤独感も、あの管理人のうす気味悪さも忘れて、すっかり休暇で露天風呂につかる温泉客気分になって、岩に頭をもたせかけてしまった。
このまま朝までうとうとしていたいと思いかけたとき、あの内風呂からの戸が開いて、もうひとり入ってきた。
「遅かったな行方くん、こいつはけっこういい湯だよ。思わぬ掘り出し物に出合ったって感じだね。入ってると元気が出てくるよ、いやホントさ…」
と言おうとして、相手は才三でないことに気づいた。男の体格ではあるが、才三ほど背は高くないし、もっと痩せ型のようだ。坊主頭でもなく、若そうに見えるため、あの管理人とも違う。
しかしどこかしら見知った人間であるかのように、よそよそしさを感じさせず、こちらに警戒心を抱かせなかった。この宿の、新たな夜中の訪問者か、はたまたあの管理人の家族か何かではないのだろうか。
男は、私と向かい合う対岸の湯船のふちに身を沈め、顔をこちらに向けて、雪明りでは表情はよみとれないが、私のほうを見ているように見えた。
そのまま話しかけることもなく、しだいに思いのほか陰気な感じがしてきた。
こちらからも声をかけそびれるまま、そのまま時間がたち、さすがにややのぼせ加減になり、気まずくもなってきたので、もう出ようと立ち上がって、湯船を横切り、出しなに男のわきを通り過ぎて、 「お先に」
と声をかけていこうとした。男は最前のポーズのまま、銅像のように、ぴくりとも動かない。こちらへ目を向けることさえしない。
さすがに湯あたりでもしているのかと気になり、
「もしもし大丈夫ですか?」
と声をかけようとしてハッとした。男はさっきより太っていた。全体がぶわっとふくれていたのだ。
暗がりの中で、男の顔中に、ぼこぼこといくつものコブができているのがわかった。
それはコブではなかった。ひとつひとつが大きな水泡だった。ヤケドのときにできる水ぶくれの巨大なものが、顔といわず、肩、胸、背中=湯の表面に出ているところすべてにあらわれていた。
その水泡は、どれもどんどん大きくなってふくれていっている。見る見る表面の皮はぱんぱんに張り切って、張り裂けそうになる。どんどん薄くなっていく皮の表面に、細かい血管が走っているのが見える。その皮と、水泡の中にたまった半透明の液体を通して、肉の表面にも青黒い血管が走っているのが見える。
と、風船のように張り切った皮はついに裂け、中から液体が流れ出す。
水泡は次々にぱちんぱちんとはじけて、どれからも半透明の、中には血らしい色のまじった液体が流れ出し、男の表面を伝って湯の中へと流れ落ちた。
と、皮膚の下の肉も、崩れるようにどんどん裂けて落ちていくのが、皮膚ごしに見えた。男のまわりの湯はたちまち、白い混濁した色へと変わってゆく。
あらかた肉が流れ落ちると、破れた皮膚はそのまま骨にへばりつき、見る見る灰色へ変色する。
肉と同時に目玉も流れ落ちていた。片方の目は眼窩の穴ぼことなったが、もう片方には目玉の残がいが、腐ったクルミのようになって残った。
見覚えがあったはずだ。
あの首吊り死体だった。
悲鳴をあげたはずだが、声が出ない。
逃げようとしても身体が動かない。
「おい、江戸くん!丈さん!」
目の前にいたのは死体ではなく、才三だった。私をゆすりながら顔をのぞきこんでいる。
「湯の中で眠りこんじゃいけないよ、おぼれたりすると大変だ。」
眠る?!
あたりを見渡すと、私は露天風呂の湯船の中に座りこんでいた。洗い場からジャケット姿のままの才三がこっちを見つめている。その顔は真剣で、心配そうではあるが、ほっとしたようすで、
「遅いから見に来てみたんだ。思ったとおり湯の中で眠ってた。疲れてたろうからな…うなされているようでもあったけど…」
「…今のは夢か?!夢だったのか…?!うーむ、おかしな夢だ…才三くん、じつは今見た夢ってのはね…」
「夢の話はあとで聞くよ。さっさと出たほうがいい、ほんとにのぼせてしまうよ。」
実際、私は風呂に長くつかりすぎていたらしい。才三にささえてもらってようやく廊下を歩くしまつだった。
「いやね、行方くん、あれが夢とはどうにも信じられないよ…」
私は夢の話を聞いてもらいたくて、またまだ才三には話していなかった、実際に見た首吊り死体のことも話しておきたくて、渡り廊下を歩きながら話しかけたが、本館の玄関がむこうに臨める廊下にさしかかったとき、思わず口をつぐみ、ふたりとも立ち止まってしまった。玄関の方に明かりが見えたのだ。
ゆれるロウソクの明かり。ぼそぼそと話し声も聞こえる。
我々ふたりは期せずして押し黙り、渡り廊下の陰に身をひそめると、用心しながらそろそろと首を伸ばして、玄関の方をうかがった。
あの管理人がまたしてもロウソクをかかげている。その後ろ姿がシルエットになって見える。
この夜中に、吹雪の中に、私たち以外に新たな訪問者がいたのだ。その人物が、ロウソクの明かりに揺らいで、見え隠れする。管理人と話しこんでいるようだ。
そのひとりの訪問者は、いかにも吹雪の中を長時間歩きづめできたらしく、上から下まで雪だるまと見まがうほどに、雪まみれだった。やたらと丈の長いフードつきの、毛布でできているような、見るからにぶ厚いコートを着ていた。もとは黒地だったように見えるコートだが、雪がびっしりと貼りつき、白いコートにしか見えない。腰にベルトを巻き、肩からカバンのようなものをさげているので、昔ふうの郵便配達人のようにも見える。
雪をよけるためなのだろう、フードを深くかぶっているので、顔はちらちらとしか見えないが、昔の学生帽のようなものをかぶっているようだ。なにやら全体に警察官に似た雰囲気を漂わせている。
不思議なのは、その顔まで白く見えることだった。顔に雪がへばりついているとすれば、さっさとはらわなければ、それこそ管理人のような、凍傷になってしまうだろう。
話し声が低く聞こえてくる。管理人のしゅうしゅうもれる声に比べ、訪問者は底から響くようなしわがれ声で、私と才三は息を殺して耳をすました。
この二人はどうやら顔見知りのようではあるが、訪問者のほうが格上らしいぞんざいさが感じられる。
「…ふたり、きました。いま、ふたりともうえのへやで、ねむっているようです…」
空気がもれる、すするような声は、聞き覚えのある管理人のものだ。
「…我々と…行動を…ともにしてくれるかな…我々には…そろそろ…仲間が…必要だ…」
聞き取りにくいしわがれ声だが、妙にはっきりした言い方は、訪問者のものだ。
「…もはや…そうなんしゃも、おなじです…つれていってもいいでしょう…」
「…そうだな…ここにいる限り…我々の命令に…従ってもらおう…」
はじめは何のことを話しているのかわからなかったが、どうやら私たち二人に関することとも受け取れた。
「…どんな…連中だね…」
しわがれ声。
管理人が答える。
「…ふたりとも…わかいだんしです…くっきょうそうにみえます…だいがくせいらしいです…しかんこうほとしても、しんぺいのしかくじゅうぶんです…」
私たち二人は聞きながら顔を見合わせた。私は小声で才三に聞かずにはいられなかった。
「ふたりって、僕たちのことか…しんぺいってなんだ?自衛隊員の募集か…?」
「いや、違うな。これは早く逃げたほうがいいってことらしい…」
才三はさらにせっぱつまった、ひきしまった表情で言うと、壁にへばりついたまま、本棟の廊下へ出、玄関の方を気にしつつ、抜き足差し足で階段のほうへ向かった。私もあわててそれに従った。
ネコのような忍び足で二階の部屋へたどりつくと、才三は持ち物をすべてリュックに放りこみ、さっとしょいこむ。
ふたりとも、ジャケットはじめ衣類は来たときのまま身につけていたが、私は大変なことに気づいた。
「靴がない!靴は玄関に置いたままだった…靴下だけで雪の中は行けないよ!」
「大丈夫。君が風呂へいったあとで、下へおりて僕がここへもってきておいた。」
と才三は部屋のすみを指した。なるほど私の靴もちゃんと置いてある。
「なんだか妙なカンが働いてね。スキーまでは持ってこなかったけど。」
才三は動物の本能のようにカンが働くことがある、ということについてはだいぶ後になってその理由がわかったものだ。
「それにしてもあの人はいったい誰なんだい?君はわかっているようでもあるけど…」
靴をはきながら才三に問いかけたとき、ザッ、ザッと音が聞こえてきた。
棟の外からの音。雪を踏みしめる音だ。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ…
大勢が規則正しく雪を踏みしめている。
窓の外から聞こえる音は、ずんずん、ひと足ごとに大きくなっている。
行進はこちらに向かってやって来ている。
何人かのかなりの人数の集団が窓のすぐ下へと近づきつつあるのだ。
もう二人とも話はせず、とにかく急いで身じたくをした。あきらかに我々にとってよくない何かが迫ってきつつあるのだ。
私たち二人は振り返ることもなく廊下に出、そのまま二階の奥へ奥へと忍び足の急ぎ足で移動した。
廊下のどんづまりは全面のガラス板戸になっていて、小止みになってきた吹雪を通して、山の稜線が見える。この戸には雪よけの板もなく、ありがたいことに鍵はかかっていなかった。
戸がきしまないように用心して開け、するすると外へ抜け出る。
ここへ着いたときほどでないものの、冷たい風と雪が頬を打った。そこは木造のかなり広めの物干し場だった。こちら側、棟の裏側には誰もいず、何の気配もない。広がるのはなだらかな山の稜線。物干し場に外への階段はなく、乗り越えるしかない。
才三はためらいなく、物干し場の木製の手すりにひらりと乗ると、私のほうをちらりと見て、いくぞと押し殺した声でうながした。すぐにさっと視界から消える。下へ飛び降りたのだ。
私も考えることなくあとへ続く。風を切る音がしたかと思うと、すぐに雪の大地にぶつかった。
二階まで雪が積もっているので、そんなに高い距離を落下したわけではなかった。しかも雪のクッションがあるので、衝撃などはなかったが、腰まで雪に埋まってしまった。
すでに雪を抜け出していた才三が、私の手を引っぱり、雪の外へと引き上げる。
ここでふたりは無言で顔を見合わせた。どっちへ行く?
この棟から離れるのが一番だろう、奴らに気づかれないように。山の斜面を稜線に沿って迂回するようにしていこう。
ふたりはうなづき合うと、才三が先頭に立って雪原を進みはじめた。
ここではもう、あの行進らしい音は聞こえてはこないが、かわりに何か別の、声のような音が散発的に聞こえてくる、我々を捜してでもいるかのようなようすの。
ともかく早くあの建物から、得体の知れない者どもから離れたいとあせるものの、無垢の雪原は進行の手助けはしてくれない。春も近いこのごろでは雪が凍り、雪の上を楽々と歩く〝雪渡り〟ができると聞いたこともあるが、ここは凍った雪の上に、さらに、このところ降り続いた新雪が積もったらしく、太ももまで埋まり、ふたりともよろけるようにしか進めなかった。
吹雪がだいぶ弱まり、見通しがいいのは救いだった。さらにこのあたりは、かなり前方まで林が途切れ、木々がまばらに点在する程度なのも、動くのにはつごうがいい、と私は思った。
斜面を横切って進み続けるうち、才三は意識してかせずか、斜面を上へ上へと登りはじめていた。前を行く才三は、私からいくらか離れてはいたが、見失うほどではない。それほど見通しがよく、雪原に黒いヤッケの背中がくっきりと目印のように浮きあがっていた。
見通しがよいということは、離れたところからでも、我々の姿はよく見えるのだということに、このとき私ははじめて思い当たった。
風に乗って声のようなものが聞こえてきたのだ。
…逃げたぞ…上だ…と言っているような声にならない声だった。
そして後方から聞こえてきたのは、あのザッ、ザッという音の変化した音、バラバラ、ザクザクと各個に散開した音だった。しかもテンポがあがっている。急ぎ足だ。
私は思わず振り返った。
斜面の下側、あの温泉宿の建物から、いくつもの雪のかたまりがかなりの広さにひろがって、こちらへ向けて這い上がってくる。岬へ向かって四方から押し寄せる波頭を思わせた。
そのかたまりはひとつひとつが人間のように見えた。上から下まですっかり雪まみれの、雪像のような人間だ。雪の斜面をいくつもの雪の影が、うようよ動いて私たちを追ってくる。
どの影もあの新たな訪問者と同じような格好をしている。長いオーバーのようなコートを着、フードをま深にかぶり、そしてひときわ大きく見える手は、白い手袋=軍手でもしているのだろう。背中に、これも雪まみれのリュックのようなものを背負い、アンテナのような長い棒が、肩のあたりから上へ突き出ているのがわかる。
追跡者たちは全部で三十人あまりもいただろうか。誰もがひとことも発することなく、ザクザクと雪をかき分ける音のみを響かせて、機械じかけのように我々の背後に迫ってくる。
しばしこのありさまを呆然と立ちつくして見ていた私は、追跡者のひとりが予想外に早く雪の中を進んで、たちまち私の目の前に迫り、フードの下から雪まみれの白い顔がのぞけるようになったとき、ようやく我に返り、恐怖にかられて回れ右をして、雪原を走りはじめた。
その追跡者は、私よりもはるかに雪に慣れたような動きで、雪上を難なく飛ぶように走り、どんどん私の背中に近づいているのが、その足音からわかった。
そいつの息づかいのような風のうなりと、氷のように冷たい吐く息を首の後ろに感じるような気がした。
と、雪に足をとられ、つんのめって、雪の上にうつぶせに倒れそうになった。
倒れはしなかった。バランスを失って、後ろに蹴り上げた私の足首を、がっきと誰かがつかまえて
くれたためだ。
ぶ厚い軍手をはめた手。
私の靴や靴下を通して、その冷たさが伝わってくる。おそろしく冷えきった手。
その手はぐいと私の足を後ろへ引っぱる。
私は自らうつ伏せに倒れ、四つんばいになって、這って逃げようとした。
手はなおも私の足を引っぱり、後ろへ引き戻す。恐ろしい力に引きずられた。こいつは私の足を引っぱってあの建物の方へ連れ戻すつもりなのだ。
私は叫びながら、この男の方を見やる。
フードの陰の、白い、雪でおおわれた表情のない顔が見えた。こいつが私を連れていこうとしているのは、温泉棟ではない。奈落の底だ。地獄へ引っぱりこもうとしているのだ。
後方から、他のこいつの仲間が、私めがけて集まりはじめる気配がわかる。
この追跡者が、両手で私の背中をつかまえ、ついに押さえこまれてしまいそうになったとき、バシッ!と音がして、私は戒めから解放された。
振り返ると追跡者は仰向けにひっくり返っている。そばに才三が拳を振り上げ身構えていた。
引き返してきた才三が、こいつを殴り倒し、私を救ったのだ。
倒された男はしかし、たちまち起き上がった。
今度は仁王立ちの才三につかみかかる。
才三は歯をくいしばって、この屈強な雪の男を振りほどくと、そのままパンチをくり出した。
男はいったん押しもどされはしたものの、ひるむことなく逆に突進して、才三に組みついた。
才三は自ら倒れかかって巴投げの要領で男を投げ飛ばそうとしたが、男は石のようにしがみついていて離れない。二人とも組み合ってごろごろ雪の上を転がるうち、ついに男が才三を組み敷き、馬乗りになって、才三の首をそのぶ厚い手袋の両手で、絞めにかかった。
あっけにとられて見ていただけの私は、ここでようやく行動を起こし、横から男に体当たりした。
予想していなかった側面攻撃に、さしもの男もたまらず才三を放し、私と一緒に雪の上に転がった。男が横に飛ばされるのと、才三が素早く手を伸ばして、男が背負っていた棒を抜き取るのが同時だった。
男と才三がほとんど同時に起き上がったとき、才三は、棒を右手で剣のように構え、男の胸に向けていた。男は思わず動きを止める。
このとき男の背後には、残りの仲間たち三十人くらいが集まり、私と才三はこの一団と対峙するかたちとなった。
一団はほとんどコピーのように同じ格好をしている。フードの中が、お面をつけたように、表情のない雪の顔であるのも同じだ。目の動きどころか、目があるのかどうかさえわからない。
才三は棒を男に、一団のほうに向けたまま、左手で私に行けと合図をした。才三が進んでいた方向、斜面の上の方を指している。
私は指示に従い、油断なく一団から離れはじめる。
一団はこれに気づき、全員そろって身構えて、私を追おうとするが、才三がまた棒を構えなおし、一団は再びぐっと動きを止める。
棒を構えたまま、そのままのポーズで、才三も私に続いて後じさりしはじめる。一団が動こうとすると、才三は再びあの先頭の男に棒を構えなおす。これを繰り返して、私たちと一団がある程度離れたころ、ついに一団は我慢しきれなくなったようで、先頭の男が手をあげ、全員いっせいに私たちの後を追いはじめた。
と、才三は右手を高々とかかげ、持っていた棒で山頂の方を指した。
次の瞬間、ばあん!と轟音がして、棒の先端に大きく火花が散った。
私が棒だと思っていたのは、ライフルのような銃だったのだ。
銃声は山頂から稜線にとどろくように、長く尾を引いてこだました。
一団は一瞬ひるんだが、たちまち態勢を立て直し、本気になって私たちの後を追いはじめた。
才三は銃を放り投げ、私に追いつくと、ふたり全力で斜面を駆け上がりだした。
急げ!急げ!早くここから離れるんだ!雪をけたてて才三が叫ぶ。
言われるまでもない、私も悪い足場をいっさい無視して、夢中で雪をかき分けた。
しかしやはり追っ手のほうが有利だった。もともとそんなに離れていないうえ、奴らのほうが明らかに雪上歩きに慣れている。三十人あまりの追跡者はあっという間に背後に迫ってきた。
大勢の氷の息づかいが聞こえてくる。今度捕まったらもはや二人とも抵抗のすべはない。
「まだだ、タケさん!もっと走れ!」
才三が必死でうながす。
「もうすこしのしんぼうだ!」
もはや奴らの手が背中に触れるところまできていそうだ。
「しんぼうしたら、どうにかなるのか!」
いいかげんやけくそで叫び返そうとしたとき、
ドドドドドドドドドド…と地鳴りのような音がし、走っている雪原が揺れるような気がした。
「もっと、もっと急げ!」
才三がなおも叫ぶ。
「あとひといき!止まるな!」
その声をかき消すように、大地が裂けるような音がおおいかぶさり、上から落ちてくるような吹雪が吹いてきて、同時に雪の煙があたりをおおった。
すさまじい量の雪のかたまりが、強風を巻き起こして、私たちのすぐ後ろをかすめて滝のように落ちていった。
私たちに追いすがる寸前だった追跡者たちは、すべてがこの白い急流にのみこまれ、押し流された。
雪崩だった。
才三の撃った銃声が表層雪崩を引き起こしたのだった。
雪煙はしばらくおさまらず、その中に、壮大な雪崩の音響が、山全体に長くこだました。
私たちの後ろ一メートルにも満たないところで、雪面が大きくえぐりとられ、新しくできた雪の崖となっていた。私たちは雪崩が落ちた方向を見やって、しばし呆然としゃがみこんでいた。
「助かった…あの連中…雪崩に巻き込まれたらしいな…」
私は言わずもがなのことをつぶやいてから、才三に問いかけずにはいられなかった。
「あいつら!いったい何だったんだ?!僕たちをどうしようとしていたんだ?!」
才三は答えるかわりに、
「(崖になってしまったので、)これではもう後戻りはできないな。ともかくこの尾根を越えるとしよう。」
とうながした。思えば才三にもはっきり説明できるような事態でなかったことは確かだ。
私たちはせかされるように斜面に沿って進みはじめた。
もうあの連中は追ってはこないだろうが、不安は消えない。雪山は何が起こるかわからない。できれば早くこの山から脱出したかった。まともな人間のいるところ、同好会の仲間が待つ宿へたどりつきたい。小止みになっている吹雪もぶりかえしてきそうな気配もある。
あいかわらず足場は不安定なものの、このあたりに林はなく、開けているので、どうにか進み続けることはできた。
地図とコンパスを持っているはずの才三に、そろそろ場所を確認しちゃどうだい、と言いかけたとき、行く手にひとつの雪のかたまりが現れ、ふたりともハッとしたが、すぐにそれが樹氷だとわかった。
立ちつくす雪のかたまりは生きもののようにも見えるが、雪をかぶっただけのトドマツにすぎない。この山は冬の後半、あちこちに樹氷ができるのだ。
と、行く手にもうひとつ樹氷が現れたと思うと、進むにつれてひとつふたつと増えていった。
晴れた昼であれば、樹氷の並びをぬってスキーでいくのは、またとない爽快な気分だろう。しかしそれが異様な巨大シルエットとなる夜間に、横目に見ていくのは、スノーモンスターの名前が実感を帯びてきて、あまり気持ちのいいものではない。
根拠のない不安をあおるように、進むにしたがい樹氷の数はさらに増えて、混み合うようにさえなってくる。樹氷の林だった。
樹氷の数に合わせるように、吹雪もしだいに勢いを盛り返してきて、すこしづつ進行をさまたげはじめる。
樹氷はなおも増え続け、ひとつひとつよけながらようやく前進するようになる。
人間のようにも大熊のようにも見えるまちまちな形、まちまちな大きさの樹氷が、あっちに傾き、こっちに反り返りながら、そびえ続ける。
明らかに我々の前進は困難になりはじめていた。
さらに強まっていく吹雪の中、私たちは樹氷をどうにかすり抜けるように進んでいったが、ついにいくつかの樹氷が、柵のように肩をよせ合って並んでいるところで立ち止まってしまった。
あたかも、これ以上先へ進ませないという意思でもあるかのように、立て込んで行く手をさえぎっている。
吹雪と樹氷の間をすかして見ても、前方にびっしり樹氷がひしめいているようだ。
私たちは思わず顔を見合わせた。どうにも行き止まりだった。
よけては行けないかと、それぞれ横を見たが、どちらも大きな樹氷が壁のようにびっしりと立て込んでいる。袋小路に入りこんでしまったようだった。
「しかたがない、退きかえして別ルートを捜してみよう。」
才三の言葉にうなずいて、振り返ってみて驚いた。
後ろにもぎっしりと樹氷が並んでいたのだ。
吹雪の中を来たせいで、出口のない穴ぐらのような空間に迷いこんでしまったらしい。
いくら見回しても、まわりはすべて、二重三重に取り囲まれた樹氷の壁。息苦しささえ感じるほど樹氷が間近だった。
いつの間にか身動きさえできないほどに思えてくる。取り囲む樹氷が迫ってくるようにさえ見えてくる。
じつは実際迫ってきていたのだ。
私は足もとを、ひとつの樹氷の根もとを見て、目を疑った。
その樹氷は地表の雪をかき分け、私のほうにじりじりと近づいてきているではないか!樹氷が自分で動いているのだ!
この樹氷だけではない、そのとなりも、まわりの樹氷すべてが、すり寄るように私たち二人に迫り、どんどん包囲網をせばめてきている。
たちまち我々は背中合わせになり、ほとんど身動きができなくなってしまった。
この巨大な雪と氷のかたまりの群れは、圧倒的な重量で私たち二人を押しつぶそうとしていた。
我々は悲鳴をあげながら必死の抵抗をした。両手を振り回して雪に殴りかかり、樹氷を壊そうと試みるしかなかった。
なんともむなしい抵抗。拳はぶ厚い雪に手ごたえなくめり込むだけだった。
しかし、両手でこの雪をひっぺがして、樹氷の芯のトドマツをあらわにしてやると、手前のかたまり
を引っぱったとき、雪は意外にもコロモのようにはがれ、その正体があらわになった。
雪柱の中から出てきたのはトドマツではなかった。
それは、少し前に我々ふたりを追いかけ、雪崩に巻き込まれたのとそっくり同じ格好の、雪まみれの軍用コートを着た兵士だった。
間近に見るフードの下の顔は、白というより灰色に凍っていた。凍結し、磨かれた金属のように見える頬。これも凍結し、ガラス球のようになってしまった両の目玉。軍帽のひさしからはいくつもの小さなつららが下がっている。
と、この兵士は両腕を上げた。これもつららの下がった軍手をはめた両手を私のほうに伸ばしてくる。つかみかかる気なのだ。
私はあまりのことに声も出なかった。
なんといつの間にか、まわりにあった樹氷すべてが、雪がはがれ落ち、凍った兵士が次々と姿を現しつつあったのだ。
次の瞬間、私たちのまわりを何重にも取り囲んだ氷の亡者が、いっせいに私たちに襲いかかってきた。
必死の思いで才三の方を見る。
しかし才三はすでに何本かの氷の手で首を絞められ、亡者と同じように、凍りはじめてさえいるようだった。
たちまち私の顔も凍った軍手でおおわれた。
叫びも凍りそうな冷たさ。頭の芯まで凍りそうな冷たさに、意識が遠のいていくのがわかった。
同時にあたりが真っ白になり、光に満たされていく。
私は強烈な光の中にいた。
もしかしたら、これがお迎えというやつか。
天国が近づいているのか。ずいぶん早いな、まだ意識の失いかけだというのに。
たぶん天国は上にあるのだろうと、目を上に向けてみた。
頭上のはるか天上に、白色の輝きがあった。さながら白い太陽だった。
その太陽はどんどん私の方に、地上へと接近してくる。
目がくらみ、正視することはできず、目をしばたく。
輝きはなおも私に迫る。猛烈な風も吹いていた。太陽から私に向かって吹きつけてくる。吹雪さえも、あたりのものすべてを吹き飛ばしてしまいそうな勢いだ。
地上の雪をも、竜巻さながらのように巻き上げ、吹き飛ばす。地鳴りのような轟音もひびく。
その音の端々に機械的なうなりがある。
まさか、UFOか?!
なにやら意外な思いにとらわれ、目を細めてさらに天空の光を凝視する。
光の中に点が見えてきた。
それは黒い影となり、どんどん地上に接近してくる。影の上に垂直に伸びた線が見える。なんだか糸を引いて降りてくるクモのようでもある。
その影は私の視界をおおうところまで降りてきて、ついに頭の上に乗るかと思うと、頭をかわして背中にとりついた。まさに獲物を捕まえるように私を捕らえたのだ。
と、そのクモは、私をはがいじめにしたまま、上へ上へと引っぱり上げる。気がつくと私は空中に浮かんでいた。
私とクモは吹きすさぶ風の中、なおも上昇を続ける。白色光に照らされ、私を捕まえているクモの手が見えた。白い布におおわれた手。それは白い外套におおわれた人間の腕だった。
誰かが私を捕まえている。あの凍った、雪におおわれた兵士ではないかと、一瞬パニックにとらわれたが、白い布を通して感じられる人間の肌と筋肉の温もりに落ち着きを取りもどした。
白い衣装を着た人間が、私の身体を捕まえ、樹氷の中から救い出してくれたのだ。
白い人物と私はさらに上昇し、同時にバタバタという機械音がさらに激しくなった。
下を見ると、樹氷の海が流れるように過ぎていく。
樹氷が視界から消えたと思うと、私は狭い区画、性能一点張りの無機的な物置を思わせる、揺れる荷台のようなところにいた。ヘリコプターの後部座席だった。
私を助けた男は、上から下までまばゆいばかりに白かった。白いヤッケのような長めのジャケットに、白いベルト。ズボンも白い。靴まで白い。しかし見るからに軽そうで、温かそうな外装だった。こう白くては、雪原に降り立てば、雪にとけこんでしまうだろう。よく日焼けした精悍な顔の上にあるヘルメットまで白い布でおおわれていた。
この男の降下の手助けをするらしい、同じ格好をした二人が、大きく開け放たれたスライドドアのわきに待機している。
私は簡易な座席に座らされ、くだんの男は息つく間もなく再び降下していった。
ようやく助かったと実感し、我に返った思いの私は、おそるおそる、風の吹き込むドアから少し身を乗り出して見ると、私を助けた男が、今度は才三をかかえて上がってくるところだった。我々は二人とも危ないところを救われたのだった。
「大丈夫ですか?危なかったですね。」
助手席の男が振り返りながら、ローターの回転音がまじる声で言った。これもよく日焼けしひきしまった、そしてドラマの主役にしたいような二枚目だ。
このヘリには前部座席にパイロットともうひとりが座り、フロントの風防から暗い山脈の上空を凝視しつつ運行を続けている。助手席の男がメンバーの中で一番ランクが上だということがすぐにわかった。この場を仕切る指揮官の心配りが態度ににじみ出ている。
「…いや、ほんとに助かりました。まったく、正直なところ、もうだめかと思いました…」
私はホッとした反面、まださきほどの恐怖から抜けきれず、声の震えがおさまらないまま言った。
才三は、呼吸は乱れていたが、私よりまだ落ち着いた口調だった。
「…まったくだ…ありがとうございます…何とお礼を言ってよいやら…あの、あなたがたは…?」
「第9師団、第五普通科連隊のものです。」
助手席の指揮官はローターの音を意識しつつ、いちいち顔をこちらに向け、
「私は鳴神一尉です。」と答えた。
「…あ、あの…あれを見ましたか…あれはいったい何だったんですか…?」
落ち着きを取りもどしてきた私は、ここぞとばかり聞かずにはいられなかった。私たちを襲ったあの怪異の正体を、上空から見たら…あの樹氷はどう見えたのだろう。
「雪崩ですよ。」
一尉はこともなげに言ってのけたが、的を得ていない。
「いや、そうじゃなくてですね…」
私はつい身を乗り出して、一尉をのぞきこむ。
「ほら、ごらんなさい、まったくのところ間一髪でしたね。」
一尉は目を下にやる。
下からゴロゴロ轟音が聞こえ、何かの動きがうかがえる。
私も一尉ごしにフロントの風防を見やると、地上の山の斜面はまさに、雪崩の急襲を受けている最中だった。山腹の雪が断層のように横に割れたかと思うと、巨大な帯となって下にずり落ちはじめ、すぐ下に続いていた樹氷の林を雪煙とともに飲み込んでいた。
あの樹氷群が見えなくなっていく。なぎ倒されたのか、下敷きになってしまったのか。
「いやその、僕が言っているのは、僕たちが見た…」
「それにしても僕たちは運が良かった。」
才三が私の話をさえぎるように、身を乗り出して言った。
「自衛隊の皆さんがここにいてくれたとは。今時分演習しているとは思いませんでした。」
「雪中演習の一環ですよ。」
一尉は解説するように話してくれた。
「我々が行っているのは夜間訓練。いつもこの時期に、このあたりで演習しています。」
「夜間はキャンプかビバークをするものとばかり思っていました。」
才三は自衛隊に詳しいのかもしれない。一尉は素人のわずらわしい問いかけにも、民間人にも知っておいてもらいたいとばかり、ていねいに答えてくる。
「夜間飛行訓練は公けにはしていません。軍の秘密事項になっています。そこでお願いなんですが、お二人の救助の見返りといってはなんですが、このことは内密に願います。」
なるほどていねいな説明の必要があったわけだ。
「この時期、この山ではよく遭難者が出る。ちょうど我々の訓練とぶつかるため、我々は何度か遭難者をお助けしているが、その皆さんには、救助の事実と我々の活動を口外しないでいただいている。」
いかにも軍人らしいはっきりした口調だが、言い方に思いやりが感じられる。人望のある指揮官なのだろう。私はこの一尉をどこかで見知っていた。なんだか見覚えがある。新聞か雑誌か、隊員募集のポスターか、あるいは中東へ派遣された隊員へのインタビューVTRだったろうか。
「たい…いや、一尉。」
突然パイロットが一尉に話しかけた。
「内山三佐がお呼びです。いま流します。」
とスイッチを入れる。
コックピット前部に仕込まれた小さなスピーカーから、機内に声が響き渡った。ローターの音さえ圧するようなだみ声だ。なんだかいやな予感がした。
「…一尉、君は予定より遅れているぞ。」
「遭難者を救助しておりましたもので。」
一尉はわけを説明した。民間人の救助こそ、優先されるべき自衛隊の本分だろう。当然のことだ。ところが相手は何の感銘も受けていなかった。
「そんなことのために作戦が遅れたらどうする!さっさと持ち場へ向かうことだ。」
「しかし大隊長、遭難者を見過ごすわけにはいきません。」
一尉も落ち着き払って抗弁する。しかし三佐は頑迷で執拗だった。
「君は今回の演習を何と心得ているんだ!今度こそ31連隊に遅れをとってはならん!」
「心得ております。ただちにそちらへ向かいます。」
一尉は素直に応じた。三佐は返答もせず、いきなりマイクをオフにする音が聞こえた。パイロットが、さもあきれたといった調子でヒューッと口笛を吹く。私と才三は思わず顔を見合わせた。
なんだか雲行きがよくない。一難去ったと思ったら、また新たな一難がやってきそうだった。
一尉は眉を吊り上げると、
「まったくうるさいお人だ、お聞きの通りなので、お二人には、市内の基地ではなく、この先のホテルの近くで降りていただかなくてはなりません。」
とため息まじりに言った。私たちはホッと肩で息をした。
眼下に、フロントの風防のすみに、同好会の宿舎となっている、いまやなつかしく思えるホテルの明かりが小さく見えてきたところで、ヘリはそのだいぶ手前の、林が途切れたところへ着地した。
「あくまで極秘訓練なので、我々の姿は見せられません。ここからだとちょっと歩かないといけませんが、道もちゃんと除雪されているし、もう吹雪もないので大丈夫でしょう。」
と、白と灰色に迷彩されたヘリから降ろされるときに言われた。
確かに、あのすさまじかった吹雪はウソのように止み、あたりの気配は、闇の漆黒から、夜明けの予感の群青へと変わろうとしていた。
ふたりに続いて一尉もヘリから降りてくると、
「あっちがホテルです。」
と、雪の道がカーブになっている方向を指した。
「悪く思わんで下さい。大隊長は優秀な軍人なんだが、厳格すぎるところがあって、なかなか融通がきかんのです。」
と、きまり悪そうに、白いジャケットの懐に手を入れると、今どきめずらしい銀色の薄いシガレットケースを取り出し、パカッと開いて、おわびのしるしとばかりに、二人に煙草を勧めた。
ケースの中には煙草が二本しかなかったうえに、このごろの軽さ志向の若者は吸いたがらない両切りの煙草のようであったが、一尉の好意に応えて私も才三も一本づつ受け取った。
一尉はここで三人で一服しようと思ったらしかったが、自分の分がないことに気づいた。
「なんと、私の分がなかったか…まあ、いいだろう。じゃあ、このへんで…」
帰りかけようとした一尉を私は呼び止めた。
「あの、一尉、お礼といってはささやかですが、僕の煙草をさし上げます。じつはたくさんあるんです。」
私はジャケットの中をさぐり、三箱のラッキーストライクを取り出すと、一尉に差し出した。
一尉は思わず顔をほころばせる。
「ほう、これはアメリカの煙草ですな。じつは煙草をきらしてましてね、ここにいるとなかなか買いにいけないものだから。これはうれしい。」
「じゃあ、ついでに僕も。」
と才三は言い、
「記念にこれも持っていって下さい。」
とライターを差し出した。
「はあ、これはジッポオというものですな。ライターを持つのも初めてなので、これまたとてもうれしい。とんだ戦利品ですな。」
と満面の笑みを見せると、全隊員の模範になりそうな見事な敬礼をして、背を向けた。
たちまちヘリは暁のせまる空を彼方へと飛び去っていった。
あたりは吹雪や降雪の気配すらなく、空気はどまでも澄み渡っていた。
明るいオレンジ色から白、濃い群青色へと高みにいくにしたがって変化していく暁の空に、音がするほど凛として、切り絵のような大岳が浮かんでいる。その山頂を横目に、私たちは雪道を歩いていた。
まもなくホテルが見えてくるだろうし、スキー場へと向かう車も行きかうようになるだろう。
「(同好会の)みんなは驚くだろうな。僕たち絶望視されてたりしてな。ひょっこり出ていったら、死んだはずだよ、お二人さんってことになるかもな。」
私はさわやかな空気にふさわしく、喜びでいっぱいだった。これまでの疲れも忘れて声がはずんだ。体験した、説明のつかない数々の怪異の影は残るものの、ともかく今無事にいる、危機は抜け出したという喜びが、ともするとトラウマにさえなりかねない、受けた衝撃や恐怖の思いを遠くへ押しやっていた。
「今いくと、今日の僕たちの捜索開始には間に合うだろうね。この上よけいな手間と費用をかけるのは申しわけない。」
並んで歩く才三はむっつりと黙りこんでいる。
「それにしてもよかったなあ、地獄で仏とはあのことだ。自衛隊を見直しちゃったよ。あんなにつごうよく訓練をやっててくれていたとはね。」
「雪中訓練は今の時期じゃない、とっくに終わってるよ。」
才三はぼそりと言った。
「え?じゃ、どうして?そうか、やはり極秘の訓練だからだな。もしかして僕たちって国家機密を見たのかも。」
「猛吹雪の中を飛ぶ訓練なんてあるわけがない。危険すぎるよ。それに自衛隊員は軍だの、軍人だのという言葉は使わない。」
「…ん?どういうことだい、行方さん?サイくん?」
「まだわからないのかい。ここがどういう山か忘れたわけじゃないだろう、タケさん。僕は一尉の顔を見てピンときた。写真にそっくりだ。まさか実物を見られようとは思ってもみなかったが…。軍服は違っていたけどね。」
「…???…君は…何が言いたい…?」
「君もどこかで見たかもしれない。鳴神という名前は神成という名前に似ていないかい?内山三佐だって、山口少佐のもじりじゃないのか…」
神成?…山口少佐…だって?…いったい何のことを…
…でも…しかし、まてよ…言われてみると…そうだ、そういえば…たしか…見ていた!
なんということだ、私は以前あの一尉を見ていた!
最初にこの山へスキー合宿に来たとき、山の由来やら出来事を簡単に教えてもらった。
その事件の記録を、歴史の教科書なみにパラパラ流し読みしていたとき、あの…大尉の写真を見ていた。軍人らしくひきしまった、ドラマの主役にしたいような二枚目…。
「…もしかして…あの…小説にも、映画にもなったという…」
「そう、明治35年にここで起こった悲劇だよ。軍人199人が訓練中に死んだ、名高い雪中行軍。あのとき遭難した第五連隊の指揮官だったのが彼らだ。」
「…そんな?!…ありえない…温泉宿で見たのは、そういわれれば、そうかもしれないが…」
「僕らを襲ったのも、助けたもの、百年以上前のあの連中さ。」
「…ま、まさか…げんに助けてもらったじゃないか!あれはどう見ても自衛隊のヘリだったぞ…」
「確かにそう見えたが、どこの自衛隊に問い合わせても、僕らのアタマがおかしいと言われるだけだろうな。」
「…ど、どうすりゃいい?!どう考えればいいんだい?!」
「そうだな。遭難して、寒さで、悪い夢、恐ろし危険な幻覚でも見ていた。幻覚から助け出してくれたのが、あの〝亡霊〟だと、そんなふうに思いたいな。」
才三の話は妙に確信に満ち、私の動揺を抑える効果を発揮した。
「…そんな?!…そんなことって…でも…うーん…」
私は、不可解の中にいるうちに、不可解さをしだいに納得しはじめていた。
「…いや…あるいはそうかもしれない…そんなこともあるのかもしれないな…もしかしたら、あの人たちは今でも訓練していて、遭難者を助けたりしているのかもしれない…」
ここで才三は、ふっと笑いをもらすと、いたずらっ子のように言った。
「君が一尉に煙草をやったのを見て、僕もふとちょっかいを出してみたくなってね。だから思い立ってライターを進呈したのさ。明治の軍人がジッポでラッキーストライクに火をつけるなんて、想像するだけで愉快じゃないか。」
「なるほど、そりゃ面白いかもしれない。」
私もつられてにやりと笑い出さずにはいられなかった。
「そろそろホテルが見えてくるぞ。タケさん、元気を出して歩こう。」
才三がふっきれさせるように言った。
「そうだよな、ここはひとつ軍人みたいに行進調でいこうか。」
私も答え、イチニ、イチニ!と両手を振って歩き出す。
「あわせて歌でも歌うとしよう、軍歌 『雪の進軍』!いくぞ!
♪ 雪ノ進軍 氷ヲ踏ンデ…」
才三はいきなり歌いだした。
「♪ ドレガ河ヤラ 道サエ知レズ…」
私も合わせデュエットのように歌いだす。
「♪ 馬ハ斃レル 捨テテモオケズ…」
「♪ 此処ハ何処ゾ 皆敵ノ国…サイさん、古い歌を知ってるねえ、これ、どうみても明治時代の軍歌だぜ。」
「こんな歌聞いたこともなかったが、なぜか歌える。曲も歌詞も自然に出てくるんだ、おかしいね。そういう君も知ってるじゃないか。」
「僕だってぜんぜん知らなかったよ、軍歌なんか歌ったこともない。でも、どうしてだか歌えるんだ。不思議だな…」
「まだ歌は続くよ!」
「あっ、そうだね…」
「♪ ママヨ大胆 一服ヤレバ…」
「♪ 頼ミ スクナヤ…」
と、私も続けて、ここで二人は思わず顔を見合わせ、声をそろえて最後の歌詞を同時に歌った。
「♪ 煙草ガ 二本!」
雪の進軍
作詞・作曲 永井建子
一、
雪の進軍氷を踏んで
どれが河やら道さえ知れず
馬は斃れる捨ててもおけず
ここは何処ぞ皆敵の国
ままよ大胆一服やれば
頼み少なや煙草が二本
二、
焼かぬ乾物に半煮え飯に
なまじ生命のあるそのうちは
こらえ切れない寒さの焚火
煙いはずだよ生木が燻る
渋い顔して功名噺
すいというのは梅干ひとつ
三、
着の身着のまま気楽な臥所
背嚢枕に外套かぶりゃ
背の温みで雪解けかかる
夜具の黍殻しっぽり濡れて
結びかねたる露営の夢を
月は冷たく顔覗き込む
四、
命捧げて出てきた身ゆえ
死ぬる覚悟で吶喊すれど
武運拙く討死せねば
義理にからめたじゅっ兵真綿
そろりそろりと頸締めかかる
どうせ生かして還さぬ積り
(明治28年の日清戦争時、軍楽隊員として、厳冬の中国・山東省に
従軍した作者が、体験をもとにつくった軍歌。多くの将兵に愛唱された。)
2015年1月30日 発行 初版
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屋根裏文士です。
青森県を舞台にしたホラー、アクション、コメディー、ファンタジーなどを中心に娯楽ものをいろいろ書いてます。
◇青火温泉 第一巻~第四巻
◇天誅団平成チャンバラアクション
第一巻~第四巻
◇姫様天下大変 上巻・下巻
◇無敵のダメダメオヤジ 第一巻~第三巻
◇アメブロ「残業は丑の刻に」