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淋しい家に住んでいる。今年も冬を迎えて、ますます厳しい淋しさとなったこの家には、僕以外の誰も住んでは居ない。床がしんとしている。窓から差し込む白い光がありがたい。陽だまりの中に入っていると、体から少しだけ、空白感が抜けていく。温かみのせいだろうか。僕の中に何もないという、どうしようもなさが、少しだけ脱するのだ。
柱の瘤を数えているような生活だ。普段の、仕事もなにもないときの僕である。部屋の四隅に剥きだした、この部屋を支える柱には歪んだ年輪が入っており、それが島のようになっていたり、ときどき節くれだったように、瘤を持っていた。年輪を目で追う。視線でなぞる。瘤にぶつかるたび、僕は「一つ、二つ、三つ」と口ずさむ。この手になにもないことが、それほど怖かったのだ。
この手の、未来をときどき見透かすことがある。眠る前に、少し自慰をして心持ちが落ち着いて、全て洗って、そのままへたり込むように床に座ったとき、そして、両足をだらしなく伸ばしたとき、何気なく掌を見つめ、この掌がこれから追うであろう将来を予見する。一日後の掌には、なにも握られていない。十日後の掌には、なにも握られていない。百日後の掌には、なにも握られていない。千日後の掌には、なにも握られていない。万日後の掌には、なにも握られていない。億日後の掌は、もう掌自体がない。
期限としては短く、服役としては長すぎる。
陳腐な文句に、文句も言えず、ただ黙る。稚拙さには真実さえ宿らない。その悔しみを述べたところで、掌になにも握られていない未来は一つとして変わらない。現実は陳腐である。ありきたりだから、現実なのだろう。ただ、ありきたりと、頭から叩き割るには形は歪で、粗が目立つ。現実の粗に期待する愚かさを許して欲しいと乞う。
恋を当分していない。そもそも、僕の人生を振り返って、あれが恋だと言える明確な体験が果たしてあったのかは分からない。空白の中に一つある。知らない名前を呼ぶ。誰でもいい。空白の名前を誰か。
あの名のとおりに演じてくれないか。
強い思いが駆け巡り、少し後で、なんて身勝手なことを思うのだろうと反省する。
その繰り返しの中で、淋しい家に住んでいる。
嚥下したシロップが、喉に引っかかって今もちょっと苦しい。一緒に空を飛んだはずの彼女は、抵抗ないように平然としていて、不公平を味わう。シロップは透明だったと彼女は言う。僕はそうは思わなかったので、とりあえずブルーのようだったと答えた。限りなく――と言葉を続けそうになった僕を、「ありきたりね」と一笑に付した。ありきたり、まあ、そうだね、うん、うん、まあ、まあ、こういうこと書いてるからありきたりになるんだな、と、まあ、なにも言えない。
また、シロップを飲む。
見つめるのだ。そっと見つめ続けるのだ。そうして、グラスの向こうにある景色を、与えられるようにではない形で見出すのだ。例えば、色のついた硝子でもいい、真っ黒な烏でもいい、誰かのツマミの唐墨でもいい、色の澱みから上澄み取っただけのような発色をする殻でもいい、とにかく、見つめるのだ。誰かが言う。常に真実は、現実に映されてなどいない。それは生活の中にはなく、常に芸術の心にしか宿らない。真実とは常に芸術家の魂の叫びの中に、幾分か含まれるものなのであると。
グラスを通してそれを見ることに、そういった意義があるとか思ってんじゃねぇよ馬鹿。
死体が腐らなくて困っていたのだという。某国の話である。そこは基本的に死体は土葬であった。手厚く、丁寧に葬ることが死者への手向けという、国だった。だが、丁寧に葬っていたのがまずかったらしい。無菌状態の棺では、死体が腐らず、次の死体が入れないのだという。そこで、妙案として、腐っていない死体を腐らせるため、墓に特製のストローを刺したという。そこから、気体の薬剤を入れ、ゆっくり死体を溶かして、スペースを空けるのだ。無事、どの死体も溶けてくれたという、腐ってくれたという。喜ぶ人たちを前に、なにか、強烈に根本から間違っている違和感を拭えないが、しかし、違和感がなんだ。世界には無駄しかない。黙って飲み込むのみである。
冷たい指を触れてみる。指紋の微妙な凹凸があり、その指紋は、私の指紋と時折噛み合うような、ズレるようなこそばゆさだった。私は肩を震わせた。手の甲に、ゆっくりと円を描く、真円ではない。幼児が描く撥条のような、曖昧な螺旋を書き付けた。反応はない。私がため息をついて、首の後ろに手を回す。小さい突起の感触があり、爪先で引っ掛けて、それを引っ張った。電源が入る。
「おはようございます」
「おはよう」
「はじめまして、お名前は?」
「全部やり直しなのね」
欠陥品はこれだから困る。
朝起きたときにはもうとっくに飼い犬のボン・ボン・ボンくんが隣の雌犬と盛っていて犬さえ出来てるのになんで僕だけは未だにこうも童貞なんだと悲しみながら顔を洗ってみると鼻から血が出ていることに気が付いてティッシュで何度か拭っているうちに治まったのでそんなに僕は朝に興奮してたっけそんなにハッスルハッスルな年頃でもないんだけどと思って横を見ると犬はハッスルしているので嫌な気分になって朝飯の邪魔だなと思いながらも食べないわけにはいかないのでトーストを焼いてマーガリンを溶かしてカリカリ食べているとそういえばトランス脂肪酸がどうのってネットで言ってたけどなんで僕普通にマーガリン食ってるんだろうなんて疑問が湧いてきたのでついでと思ってトランス脂肪酸についてネットで検索をかけてみると書いてあることが難しすぎてよく分からなかったのでやっぱりどうでもいいやって思って会社に行くための準備をしていると行為を終えた犬が好意なんてないやってばかりに雌犬に冷たいのでそれはないだろって我がバカ犬を叱っているとピンポン鳴ってハイハイって犬を抱えながら出ていくとお隣のオバサンであちゃーと思っていると我が家にいる隣の犬がへらへらと出てきてあらあらモモちゃんたらまた安木さんちのボンくんのとこにいたのねもうラブラブねお邪魔しててすみませんねって僕に笑いかけてきて犬がこんなに仲いいなんて不思議な縁を感じますねなんていうものだからえーオバサンとの縁なんて欲しくないよこれが女子大生なら人間同士も交尾って話になるのになって思っていることは一切見せないままいやいやモモちゃんかわいいワンちゃんですからねって答えるとオバサン嬉しそうに出て行ったのでボンを家に置いてじゃあそろそろ会社に行くからなって言い聞かせているうちに隕石が降って世界が滅亡したんです。
トンネルを抜けると、拔ける前に私はとっくに死んでいた。なぜだろうか。
そうだ。
なぜかと言えば、殺されていたからだ。
殺された理由は、簡単で私が彼の財産を奪ったからである。
いくらほど奪ったかというと十億だ。これほどの大きい金額ならば納得だろう。
誰に殺されたかというと、客として紛れていた健吉である。
健吉は誰かというと、敵である。
互いに職を失ったときに、手元に残っていた莫大な財産を奪い合い、最終的に私が十億円奪ったのである。
互いに企業したときには彼の会社を真っ先に潰した。
彼とは、一人の声を取り合ったこともあったと思う。
そういう敵であった。生涯の敵であった。
いつから出会ったかと聞かれれば、中学生の頃である。
その前は彼とは知り合わなかった。
ともかくとして、私は死んだ。彼に殺されたのだ。
さらばだ。
抜けることのできなかったトンネルの中、ここは真っ黒である。
とにかく、仰ぎ見ろと人は言う。なぜ、仰ぎ見るか(――ような信じるようなものをするか)、そこは重要ではない。仰ぎ見ることで救いがあると信じることがなによりも重要で、救われると信じることが核心で、自分を救ってくれる、そんな都合のいいもの(――が、存在してくれるの)だと信じることが、仰ぎ見るその人にとっての、大事なことだった。干してある白い布が、よく風に靡いている。あれさえ、人に言わせれば、対象とすることが出来る。ある特定の人種はそういうだろう。芯(――無形的な一つの超越)になにがあるかなど、誰も気にしていない。気にするとて、それは変わったで、まず社会では見かけないので、居ないのも同然だと見做して、無視(――だいたいの共同体においては、事実的な抹殺に等しい現象)をすればいい。透明ということで、納得すればいい。ともかくとして、人々は芯など気にしていない。気にしているのは、芯ではなく、芯が齎す、ごりやく(――利益)得こそが彼らの行動の源泉である。然し、彼らは同時に、得を己だけが受ける事は、己への恨みを買うことを知っている。ゆえに、上面は得を避けようとする。得を避ける、が得は取りたい。そのジレンマが齎した結果こそが、仰ぎ見よということだ。仰ぎ見る者の一部はこの事実に気づき、ゆえにそれを隠蔽するために、敬虔であろうと様々な考えや論理を積み上げた。しかし、ならば、元々無いほうがよっぽどマシだ。だが、出来てしまった限りは仕方ない。郷(――業)に入っては郷(――業)に従え。
崇めよ、崇めよ(――くそくらえ、くそくらえ)。
これはよく出来ている(――出来てはいない)と画廊(――ここは暗喩である)の絵(――同左)を見て呟く彼(――存在していない、大勢の一人を指した三人称)は、大げさに絵を褒め称える。素晴らしき名言が、飛び交う。大河を渡るような心地を持っている、一つのあるシーンを描いている、饒舌な彼は比喩が上手いのだ(――という、比喩。実際の彼は「とても良いと思いました」としか言えない人形で、そもそも文章など読んでいない)。
自分を理解してくれる人がきっと世界のどこかにはいて、だからこそ、ニッチな方法論で、これからの世界は自分の収入を得ることが出来る(――嘘つきは泥棒の始まり)のです。
当然ながら、僕はそんなもの信じているはずがない(――嘘つきは泥棒の始まり)のだけど。
それでも、僕がつらつらと小さい文章を綴るのは、醜い自己承認要求がさせている、極めて知性に欠けた行いである。
同時に、こうやって自己を過度に貶すのは、防衛本能の働きであり、これによって、人からの批判を避けているのだ。
では、避けないようにしよう。さあ、みんな、僕を叩いてくれ。
僕だって心の片隅に、それくらいの覚悟ならば残っている(――嘘つきは泥棒の始まり)と信じている(――嘘つきは泥棒の始まり)のだ。
だから、さあ。お願いだ。批判をしてくれないか。正直に言えば、批判されれば傷つくのは当然のことだ。
しかし、僕は甘んじて受け入れたい(――嘘つきは泥棒の始まり)と思っている(――嘘つきは泥棒の始まり)。
僕は両手を広げて(――嘘つきは泥棒の始まり)、みんなの前に(――嘘つきは泥棒の始まり)立とう(――嘘つきは泥棒の始まり)。
殆どの人が、僕になど注目していないかもしれない。
事実、あまり、人目に晒されていないようだ。
なんて悲劇(――嘘つきは泥棒の始まり)なんだろう(――嘘つきは泥棒の始まり)。喜劇(――嘘つきは泥棒の始まり)とも言えるかもしれない(――嘘つきは泥棒の始まり)。
注目してもらえたら、喜ばしいことに(――嘘つきは泥棒の始まり)批判だって貰える。
僕にはそれすらない。
だからこそ、(――嘘つきは泥棒の始まり)注目が欲しい(――嘘つきは泥棒の始まり)と願っている(――嘘つきは泥棒の始まり)。だが、同時に注目されるのは(――嘘つきは泥棒の始まり)どこか怖い(――嘘つきは泥棒の始まり)。ジレンマに悩んでいる(――嘘つきは泥棒の始まり)。
そうだ。
盗みを働こう!(――嘘つきは泥棒の始まり)
血を吸われていることに気が付いて、僕は目を開ける。彼女がいた。またかと溜息を付く。これで何度目になる。よく覚えていない。ともかくとして、月下、彼女は僕の首筋を噛んでいた。やがて、血を吸っていた彼女は、吸い込まれるように僕の血管の中へと、しゅるしゅると入っていく。不気味だった。しかし、いつものことだった。意識を失う。
「あんまり、はしゃいで走り回るのはやめなさい。みっともないわ。ほらほら、あなた、あんまり走り回るものだから、音程が変わってるじゃないの。あなた、キャーッでしょ。キャーッの黄色い悲鳴なのに、ちょっと音程上がって、それじゃどちらかというと、キィーッよ。あなた、キィーッさんになってるわよ」
「はぁ? キィーッとか、マジ、ウケるし。言ってることイミフじゃん。私、キャーッだし。キィーッじゃないし。知らねーっつーの」
「本当になってるのよ。いいから、ちゃんと人の話は聞きなさい。キィーッって聞こえてるわよ今のあなた」
「うぜー。バカじゃないの。ババアの方こそ、喋りすぎて、クスクスじゃなくて、ゲスゲスって感じだけど」
「まあ、ゲスゲスとはなに? それが親に向かって言う言葉なの?」
「言葉ぁ? はぁ? マジウケるし。言葉とか。ウケるわ」
「ちょっと、ちょっと、話はちゃんと聞きなさい」
「話はぁ、ちゃんとぉ、聞きぃなさぁい~とか、ぷっ。ぷっ」
「いい。そんなんじゃ、外に出たときキャーッだって思われないわよ。本当にキィーッと思われちゃうのよ。それいいわけないでしょ」
「別にぃ。私、友達の間でちゃんとキャーッだって解ってるし、別にそれで問題無いじゃん。うっぜーな。きめーんだよ。あー、きめぇ。うぜー。ははっ、ババアのゲスゲス、クソウケる」
「もういいかげんにしなさい。なんて子なの」
「うるせーな。騒音のくせに、マジウケるし」
「あ…」
「あ…」
二人とも、ボエーッってなって、出て行った。
薄暗闇から男がぬぅっと現れた。出で立ちを言えば、中折れ帽にコート、常に濁った瞳で鋭くあたりを見回し、皮肉の上手そうな口が、得意気に折れ曲がっている。葉巻を咥えて、吸う。香りを噛んで、ゆっくりと舌を回す。口から零れた、白い煙は亡霊のように空気へと消えていく。
ところ変わって、薄汚いヤクザの事務所。
焦りを見せているのは、宝石のあしらわれた指を、せわしなく蠢かせている、巨漢だ。
ダブルのスーツ。釦は今にも銃弾のように跳ね跳んでしまいそうだ。
「お前、何をしてくれたんだ」
机を靴でドンと叩き割って、巨漢は床に土下座する三下を、驚かせた。
「ひぃっ…すんません。すんません。そんなつもりじゃなかったんです。ちょっと、弱そうな老人を脅すつもりで。なんの変哲もない爺さんだと思ったもんでして」
「言い訳はいい。ともかくとして、お前が奪った爺さんは、ただの爺さんじゃないんだ。不味いぞ。これはあいつらに、ウチを荒らす口実与えたようなもんなんだ。お前、それ分かっていってるのか」
「分かってます。分かってます」
「分かってるなら、責任取れ。こんな事態にした責任を取って……」
ガツガツと、激しい音で靴を鳴らす。喋っている途中だったが、突然思い立ったように、巨漢は三下を蹴り飛ばす。顎から蹴り飛ばされた彼は、その、くるりとアーチを描いて、回転し、元の土下座した姿に戻った。
もう一度、ぺこぺこ頭を下げる。
「分かってます。分かってます。本当に。本当に。本当にすみませんでした」
「すまないなら、責任を取れって言って……」
また、途中で言葉を切って、叩き割れた机をもう一度叩き割った。
これで四分に割れた。
「責任責任責任責任月火水木金土責任」
巨漢が言う。
「肉饅くん。こういう場合、組織の親球というのは、責任の所在よりも、先に問題の解決を先に済ませるものだよ。親玉ならね」
事務所に響く声に巨漢、肉饅は驚く。
「その声は」
「最も、その程度の器の親玉だからこそ、その程度のチンピラを雇ったとも言える。似たもの同士というやつだね。ま、結論から言えば、自業自得だよ。責任を問うならば、お門違いというやつだ」
「貴様ぁ」
肉饅は苦々しく、その名を呟いた。
「松阪牛背中男」
「いかにも、松阪牛背中男――もとい、焼き飯蓮華刑事だ。さあ、組長・肉饅及び、つみれ汁組の組員たち。皆、おとなしく、手首にワッパを通してもらおうか」
松阪牛背中男――もとい、焼き飯蓮華刑事の活躍はいかに。
とりあえず、僕は鍋が食いたい。
背中を埋め込まれたと、君は後悔してゴミ箱を出て行く。
眼孔には、背骨が入っていて、それが絶えず動き回っている。
しまった。
なんてことだ。
もともと、君は背骨のある人だったが、数年前にそれは捨てていた。
捨てた理由は、当然だが、背中なんてものがあるのは不自然だったからだ。
誰も背中なんて持っていない。その中で、背中と背骨を持つことは、とても恐ろしい。
例えば、背中に石をぶつけられたとしよう。
石をぶつけたやつは逮捕されて、投獄されるだろう。
しかし、背中に石をぶつけられただけだが、言うのだ。
背中を持っている方も悪い。
その論理は、皆、背中を持っていないために通用する。
背中を取り除かなければ。
焦った君は、眼孔に指を入れた。人差し指の第二関節までが、孔の中へと、沈んでいく。探る。指を曲げ、伸ばし、孔の中のあちこちに、指を伸ばした。指先が背骨にあたった。感触の気持ち悪さに指を離す。
眼の調子がおかしくなっていた。
眼孔に指なんか入れるからだ。
それと、背中が入っているせいだろう。
君は、眼をナイフで割ろうとした。うんざりしたせいだった。
ナイフで割った君を見て「バカだな」と人々が嘲笑する姿が浮かんだ。割る必要なんて無いのに、わざわざ割るなんて、頭がどうかしているな。あいつは、そういうやつなんだ。
割れない。
落ち込んだ気分で、君は、眠る。
もう考えるのはやめた。
空を掘って、抜け出すことを考えたのはいつのことかよく覚えていない。ともかくとして、その日、僕は空が土塊のように、ベタッとした質感のなにかであることに気づき、そして、長いスコップでコツンと先を啄いてみたりしたのだ。
ボロボロと取れていく空。僕の顔に、青いそれがいくつも落ちてきて、すっと冷える。あまりにも体が冷えてしまうので、これは風邪を引いてしまいそうだった。実際、数時間後には、用もないのに体が震えてきて、芯から妙な熱が込み上げてくるのが分かった。風邪を引いたのだ。
三日後には、ベッドの上で寝ていることになった。白いシーツの中、僕は鼻水を垂らして沈黙する。時折、啜る。基本的には、マスクを付け、頭には冷たいアイスシート、体温は上がり続け、夢うつつの中、朧気な視界、だんだんと緑色に染まっていく、自分の認識を覚えながら、夕靄色の窓から空の光景を見る。陽が沈もうとしているのだ。
それは困ると思いながら、布団の中に入る。
眠い。
困るが眠い。
やがて、睡眠に入り、僕は目が覚めた。
そうだ。やろう。
犬が駆け寄ってくる。彼に触ろうとした途端、後ろから、祈祷師が呪文を唱えてしまった。残念。犬はゾンビになった。猫を見かけたので、触ってみようかな。彼女に触ろうとしてると、背後から、呪術師がおまじないを掛けてしまった。残念。猫はゾンビになった。女性が駆け寄ってくる。残念。ゾンビになった。金髪の髪だけが、やってきているじゃないか。残念。それもゾンビになった。家電が、空から降ってきた。残念。ゾンビ。檻の鍵はいつ手に入るの。残念。ゾンビ。
色彩を帯びた音たちに囲まれて、温かい気持ちで眠れ。ときに明るくも暗くも冷たくも熱くも全てを帯びるが、色彩の全てを感じて、明日への夢を見ろ。言語の混じった色を見るべきだ。温度の混じった音を触ってみるべきだ。
例えば、クリノリンだけを付けた少女の、クリノリンの先には操り人形が付いている。その人形一つ一つが絶えず、細々と動きまわり、見ている人たちを惹きつける。パンプキンの不気味な顔に照らされながら、夜の薄暗さでそれを見つめる、住人たちは全て、黄色い目で現実を呼び寄せたがっている。
感じるとはかくあることだ。であるべきだ。
虹を食べる。病みつきにさせる泥のマスクを被って舞踏会の壁に、足を付けてみる快感に等しい行為によって、(――舞踏会の壁は嘘だ。本当は鉄骨の芯に含まれる鉄の、吸い付きやすそうな心の中に、それは存在すると考えられている。存在するというのは、つまり、カモメの飛び立つ瞬間を捉えた雫のことで、東京の上空に伸びやかなアーチを描いて、ファッツ・ドミノのピアノ高らかに線を切って、指を弾こう。鐘が告げるのは、先人たちの教えと超えたバラードの名演がなせる、罪のオトシゴを負った、あのナックスの衝撃なのだ。先生! バナナを忘れました。それではバナナを入れよう。鐘が告げるは、ばーなーな。あっちを向くとトマトが見える。しかし、カボチャの種はいつも取りづらい、そもそも、包丁で斬ることにいかに向いていない植物かという疑問は絶えることがなく、パスタの麺と絡む、絡むついでに思い出したが、女優のカラミはまだか。あれは楽屋で、ハードディスクに、己を刻む作業の真っ最中。ところで、今は何時だっけ。汝は、山田。山田太郎。いいから、早くボール拾えよ。なんだ、このふざけたカップ麺。いい加減に注ぎ線はないのか。底が抜けてて、底抜けに明るいってオチはどうだ、すごいだろう、何もかかってないんだぞ。掛かってない、素のうどんが一番上手いんだよ。でも、まずいな。アルエット、セニョリータ、早く、下着を着ておくれ。クローゼットの中に隠れる前に、防虫剤を抜いた方がいい。あーこれは、)死んだほうがいい。
そうかな。
私の手は、現在、雲の上にある。対して、私の足は椅子の下にある。心は遠い海の向こうにある。頭脳は地中深くに眠っている。耳はビルの屋上にある。目は全てを見渡している。
手はやがて落ちて、誰かの頭を撫でていた。気味悪がられて、乱雑に道路へと投げ捨てられ、トラックのタイヤに危うく轢かれそうになった。親指とその他四本の指でぺたぺたと、道路の上を逃げていく。ふと、誰かのお尻を触ったらしく、地中深くにある頭脳が目覚めた。椅子の下にある足の裏が、つーっと真っ直ぐに立った。遠い海の向こうから、鼓動がずんと伝わった。女性が大口を開ける。叫んでいるようだが、耳は、ビルの屋上、ビル風の強いびょうびょうという音しか聞こえない。手に痛みが走る。なにかが突き刺さったようだ。椅子の下の足が、どんと跳ねる。心が申し訳無さを思うが、遠すぎてこちらに伝わらない。頭脳が口はどこかと探し始める。いやいや、そもそも体はどこなのだ。
体、つまり、腕や、腹や、臓腑や、とにかく、体だ。
腕は……あぁ、なんだ、頭脳と同じ地中にある。腹は海中で沈んでいるようで、魚に食べられそうなのを、必死で、ふとももが防いでいる。腹筋を使って、ウヨウヨと逃げまわる。口は……なんと、まだ空中に浮いているではないか。そうか。
ところで、体はどこだ。ないな。
六十九階でも構わない。僕らの先は、既にそこに決まっているなら、もう進むしかないだろう、と、彼女は冷淡に言った。「痒いのだ」という、羨ましくも、妬ましくも、うっとおしくもあってだから痒いと、よく爪を立てて、肌を撫でていた。慰め合いも、励まし合いも、傷の舐め合いも、全てが痒くて仕方なかった、と彼女は吐露したことがあった。
憎んでいるわけではない。ただ、痒くて痒くて、そこには居られないのだ。勝手に生きるならば生きてくれればいい、と、ボヤくこともあった。それは彼女の本音なんだろうと僕は思う。
今日はちょっと動きすぎたな、と僕は呟いた。あんまり、普段動いてないもんだから、急にこんなに動きまわると体のあちこちが言うこと効かなくなるや。僕は、ダメだなぁ。もうちょっと、もっと、頑張っておけばよかったよ。先に。
彼女が目深に被っている帽子を持ち上げて、僕を見た。いつもどおりの鋭い瞳だった。十分じゃないの、別に。これくらい動ければ、と彼女は言う。僕を励ますつもりなんだろうか。あれ、僕を励ましてくれるの、と訊くと、バカじゃないのと返ってきたので安心した。いつもどおりだ。これなら、六十九階でも構わないな。いつもどおりじゃないと、少し不安だった。
彼女がうずくまる僕の背中に、自分の背中をくっつける。
温かいなぁと感じた。
口から赤を吐く。彼女が僕の異変に気づいて、肩を押さえる。僕を揺らす。もうすぐ、六十九階、地下六十九階だ。だんだんと近づいていく。だんだんと遠ざかっていく。どこから? ああ、知ってる。あそこだ。目的地が見える。いや、見えなくなっている。目が見えない。音しか聞こえない。六十九階、六十九階がもうすぐ。
彼女がエレベーターの中で、耐え切れないように息を漏らした。僕は嬉しいなと思った。
名 称 アトランティック・マム
原材料名 鶏肉、蟹、夢見灰色のなに
かに相当するもの、水あめ、
アトランティズム、水酸糖れ
ん乳、食用マヒマヒ、香料、
カラメル色素、乳化剤
内 容 量 50g(個別紙込み)
賞味期限 欄外三親等先に記入
保存方法 染毛態外気の付着はおさけく
ださい。
製 造 者
プラゴ・ミズレーバ・ブルー製造株式会社
――アトランティック・マムの味は深い。表象をコマ一つ一つに焼き付けた映画のごとく、ある種の社会性とある種の個人性、ある種の宗教性、ある種のサナトリティックな、かつ、二つに割れた――いや、三つかもしれず、四つかもしれず、それは個々の感性次第であるところだが――足で手を捌いたような快感を備えて、一種の「ココにある」という瞬間を呼びさます装置として機能している。
――ウョヒ・ヒメダチ・ガリア
捉えられない街の中を歩いていた。この文章はそこで記されていたものを、私がそっとメモをし、それから、しばらくして、外にだすべきか否かを迷い続け、そうして、今ココに記すことにした文章である。この文章は街の空に、貼り付いていた。そして、夢を見るように、ふわりとした気持ちで腕が伸びて、私は回収できたのだ。
いんこは鳴かない。
抱きすくめられて、声を上げた赤ん坊は、やがて夕日の背中に乗って旅立っていった/きっと、明日の午後には雨降りの中で、サーカスの傘を差した無邪気さに支えられて、一人で無事に目を閉じるだろう/浅い眠りの中で、曇天を見上げて、忘れてしまったはずの遠い人形を、掌に握りしめる/いや、この掌は赤ん坊の、ではなく、僕の、を指しているのだが/そして、取り戻すように、僕もまた眠りにつくのだ/浅い静寂、虹が足元に見えるような光景を抱いて、同じ場所へ回収される/
「僕はまたきっと、周りの目を気にしながら『自分の意志でやりました』と、そう言い放って、周りを喜ばせるのさ。くだらない」
「実際は周りが怖いだけなのに」
今年のサーカスの一団は奇妙だ。ピエロがまずいないのだから、そして、ライオンがいないのだ。次にバレリーナもいない。体操選手、いるわけもない。団長がそもそもいない。酢を好んで飲んでもいない。空中ブランコの曲芸師たちも、見当たらない。そして、なにを思ったか、ただ、普通の人だけがいて、ボールの上に乗ってわざと転んでみたりしてピエロのフリをしたり、爪をむき出して柱を引っ掻いたりしてライオンのフリをしたり、足を真横に広げたままくるくると回ってバレリーナのフリをしているのだ。曲芸師のフリをして、高さ二メートルのブランコに足を下げる者もいる。そして、統率を取るかのようなフリをして、腕組みし、見守る団長が居る。
しかし、悪いが、私が見てきた限り、ピエロもライオンもバレリーナも曲芸師も、そして団長も、去年のサーカスではそんなことなどしていなかった。
烈火を乗せた気球が飛んでいる。撃ち落としたくて、仕方ない烏たちは、必死に啄いて気球の膨らみを割ろうとするが、しかし気球の皮は思ったよりも厚く、まず破れない。パチンコを飛ばす子ども、戦闘機の機銃、対戦車ライフル、雷、様々を持って気球を撃つが、しかし割れずに飛んで行く。そのうち、誰も興味を失なったころに、ふと割れた。
人はみな、ファーベラルティンのせいだという。ファーベラルティンとは、誰かが事故で生成した、概念であり、それは絶え間なく、陽青色をしながらも、時折には黒天色と化していると言われる。概念的かつ、物質的で科学者の興味も突きず、哲学者の心も満たし、社会学者はひっきりなしに引用をしている。このため、ファーベラルティンは、様々な場所で用いられている。例えば、吸い込む空気の中、水中、歓びの迸り、隔たり、文字の中、あの丘の向こう、天の采配、地の湿り、虎の子走り、蝶の舞い、明日への祝い挙げればキリがない。悪事の中にも、ファーベラルティンはあり、しばしばファーベラルティンの危険性は説かれる。だが、危険性の中にファーベラルティンがあっても、ファーベラルティンの中に危険性はない。ファーベラルティンは概念としてファーベラルティンであるゆえだ。
だが、危険性があると言いたいのだ。
節くれだった指が、そっと伸びていって一つの実を摘む。口に入れた途端に、存在は消えて、やがて、雲の隙間から降りてくるものを胸に留める。
もはや珍しくもなくなった。何気なく朝に感じる事が多いが、それでもどうでもいい。瞳がこちらを覗いていることは、いつでも気がついていたし、そして、それが大した発見になっているわけでもなかった。青い虹彩を最初は珍しいと感じてはいた。僕たちは黒いそれしかないし、それに他の青い瞳にしたって、淡青程度のものだ。そうではないほどに、真っ青に塗られた瞳だったので、面白いとさえ思っていた。が、もう珍しくもない。
新宿の昼間は何も起こらない。確信を持って言えるが、ここは、昼間、なにも起こらない街だ。人が大勢居て、行き交っている一番の時間が昼間だが、同時に、昼間は滅多にはなにも起こらない。各丁目の住人たちは寝静まり、ビルの隷属は目を痛めている。被服の者達は、ただ、流れるように歩いて行ってはどこかへと消えていく。なにも起こらない。全てが、だらだらと流れていき、全てが、どこかを目指している。建物さえ動かないようで動いているように見える。毎月2センチほどの速度で、それぞれがゆっくりとズレていき、いつしか、新宿の街並みは、他所へ移るような気がする。
黄色い目薬をさす。赤い蜘蛛の背中に染み入って、蜘蛛はだんだんと身を細くした。徹夜明けの体に、朝は辛い。体のバランスがだいぶ狂っていた。椅子に座っていただけだというのに――いや、座っていただけだからこそ、節々がこわばってしまっていた。ほぐれるまで、関節を動かす。だが、完全にほぐれた感じはしない。そのうち、足の付根が折れる。こわばりすぎたせいか、あっさりと体から外れてしまった。眼鏡を手にとって掛ける。外れた足は床に転がっていた。小さいネジが外れた足元に落ちていた。眼鏡を支えているネジだった。気がついた途端に、眼鏡が落ちていく。乗用車のホイールがそれを潰して行ってしまった。
「どうかな…それ、美味しいかな」
「それって、ビーフシチュー? それとも、このサラダの方?」
「サラダの方かな。ドレッシングの味を変えてみたのだけれど、分かるかなと思って……でも、あぁ、自分で食べてみて気がついたけれども、あんまり印象が変わらないかもなぁ。酢にレモンを足してみたのだけれど、レモンの風味はあまり出てないような気がするんだよね。だから、これ、失敗かもな」
「そう。美味しいからどうでもいいけど」
「美味しいんだけど、アレンジとしては失敗しているような気がする。料理の幅を広げたかったんだけどなぁ」
「レモンを足しただけで、広がる幅ってなに? 料理ってそういうものだったっけ。それよりも、このシチュー、そういえば久しぶりに作ったような気がするんだけど、前は、いつ作ってくれてたっけ。よく覚えてないわ」
「シチュー? え、でも、この間も作ったよ」
「作ってないよ。作ってない。この間には作ってない」
「いやいや、この間、作ったよ」
「この間、っていうほどの最近には食べてない気がする」
「僕の中では、この間なんだけどなぁ。そっちの言ってるこの間が、想像以上に最近すぎる気がする」
「じゃあ、具体的にはいつ作ってくれた?」
「それは……ゴメン。覚えてない。いつも料理作ってると記憶に残らないね」
「いつもは、尻尾が真っ黒に焦げた魚ばっかりだしね」
「それ、まだ根に持ってるの」
「食い物の恨みは恐ろしいの。釣った魚をあんなふうにされるとか、ムカつくでしょう」
「あれは……まあ……あれは、確かに目を離して焦がした僕のせいだから、反論はできないんだけど」
「ま、ともかく、そこは妥協してあげましょう。で、話を戻すけど、シチューの話」
「あれ、シチューの話だったっけ。シチューよりも、元の話があったような」
「え、そうだっけ」
「そうじゃなかったっけ」
「うーん。……まあ、ともかく、レモンを足しただけで料理の幅が広がることはないと思うよ。こういうシチューみたいに、こう、シチュー!ってもののレパートリーを増やさないとダメだと思う」
「あ、そうそう。それが元の話だったんだ」
「あ、そかそか。――で、サラダだけど」
「あ、サラダ。どうかな」
「レモンの風味するけど」
「え、そうかな。しないと思うんだけど」
「するわよ。すっごいする」
「僕の中では、この程度はレモンの風味がするって言わない――」
「そっちの中では、どうだろうが、私の中では――」
「背景はいると思う?」
「いると思うって、私の目の前に絵なんて特にないのだけど。映画もないし」
「でも、背景があるものはあるでしょ」
「絵でも、写真でもなくて?」
「うん」
「それで、背景があるもの――あぁ、そういうこと」
「そういうことなんだけど、で、それで、背景はいると思うか。いらないと思うかについて聞いてみたいなって思うんだよね」
「まあ、必要でしょ。そんな絵でも、背景が無いと言いつつも真っ黒い背景なり、真っ白い背景なりが必ずあるものだから、つまり、それについても、背景というものは必要でしょう」
「けど、真っ黒い背景と真っ白い背景の絵って、なんだか幼稚な気がしてしまう」
「模様くらいはあった方が格好いいとは、私も思う。幾何学的でなくても、場合によってはランダムでもいいかもしれない。縞模様のようなものでもいい。筆で乱雑に書き殴ったようなものでも十分かもしれない。ともかくとして背景は必要なものだと確実に言えるわね。これがないかぎりは、その物は、この世界にキチンと存在として存在できていないと言っても過言ではない」
「もっと言えば、勝手に物があれば、物の背後は全て勝手に背景になるとも言えるのかもね。キチンと物として作られていれば、その後ろはほぼ自動的に背景と化している。それが例え、地球の最後の瞬間であっても、例え、天国の門の前であっても、煉獄の最下層であっても、サーカスの天井であっても、大津波であっても、胃の中であっても、潰れた心臓であっても、物があるかぎりはそれは背景になっているはずだし、物がなければそれは背景になっていない」
「お為ごかしが長すぎると思うし、それは良くないと思う」
「勝手にしてくれ。老人が説教するのが好きのと一緒だよ。僕はお為ごかしを語っているのが好きなの」
「物事を解体しているように見える革新的な行いは、実は、老人の説教と同じくらい行為としては、退屈で頑固で保守的なのかもしれないわね」
「前の会話に比べて随分、IQが上がっていると思わない? 僕たち」
「説明的すぎて、かえって下がっているとも言えるかもしれない」
「そうかな」
「そもそも、頭が良いかどうかなんて価値基準は、金曜に出しておくべきゴミよ」
「金曜のゴミ? そういえば、プラスチック系の包装ゴミを出す日にちが最近変わったってさ」
「そうなの?」
「土曜になったんだって」
「それ、絶対嘘でしょ。回収車来ないんじゃない?」
「かもね」
「だよね」
「回収車は、月火水木金土日のうち、月火水木金で活躍するから、つまり、アレの背景は月火水木金なわけだね」
「更に、ちょっとおバカになったかな。私たち」
「さっき、どうでもいいって言ったじゃん」
「言ったけど、でも、気になる」
「そういえば、明日、遊園地に行くって話さ――」
「あぁ、それ。気になるの? 気になるの? あぁ、気になるんだ――」
あまりにも実体がなさすぎるとはどうしたものか。それでいて、大した意味も存在していない(――実体のなさと相関しない形で、物事の重要性が担保されていることも十分ありえるわけで)のだから、実にどうでもいい話をしていると言えた。そのため、こちらが飽きるまでに(――あくび)、そっちは、こちらが(――あくび)納得しないまでも聞いていられるくらいの速さで、全てを語らないといけないのだから、残酷というものだ(――あくび)。いや、実に残酷だ(――あくび)。
冷たい……ソーダ水なのだから当たり前だ……氷……入っているので、なおのことだ……手が痛い……触れすぎていればそうなる……頭痛……ちょっと急いで飲み過ぎたからだ……爪が……ちょっとだけ紫めいている気がする……そんなに触っているから、氷がだいぶ溶けている……薄い……味が薄くて困っている……当然……コップを握りしめすぎていたせいだから……遠い……ちょっとストロー長さが長くて、コップに遠い……眩しい……ここの店は日差しが当たりすぎている……生きた……いや、死んだ……いやいや、運ばれた……それで、私はどこへ行くの。
「最近、ココアにハマってるんだよね」
「なにこれ、苦いんだけど」
「それは純ココアだから仕方ないよ。砂糖を混ぜてゆっくり練って、自分好みの味に仕上げて牛乳で解いて飲むものだからね。自分好みにできるあたりが、僕のお気に入りなんだよね。とても美味しいんだ」
「自分好みにしてるんだから、当然だよね」
「まあね」
「と言いつつ、ココアを差し出すあたりが鬼畜の所業」
「いいから飲みなさい」
「へいへい」
「一口飲んでみたら、世界が変わるから飲んでみるといいんだよ。このココアはちょい酸味が強めなやつでね。苦味が強めのものもあるんだけど、僕としてはこちらのほうがお気に入りだね。砂糖で甘ーく味付けしてみると、この酸味がアクセントとしてよく利いてくれ」
「世界が変わった!」
「突然、どうしたの?」
「飲んでみたのよ」
「だからって、叫ばなくても」
「さっき自分で世界が変わるって言ったくせに? 言ったくせに、人が言うと引くパターン? それ、どんな罠なの? ねぇ、どんな会話の罠なの?」
「だって、叫ぶのはさすがに引くって」
「世界が変わった!」
「……まあ、それはそうとして、そのコップ僕のやつだから、飲み終わったらちゃんと洗ってね」
「え、私、あんたと間接キス?」
「そんなこと気にする年齢?」
「思春期は、十年前に過ぎました」
「じゃあ、いいじゃん」
「世界が変わった!」
「世界が変わった!」
たまに、心の中で少女が疼く。僕は男だというのに、そして、性同一性障害のようなものを持っているわけでもないのに、なぜか、ふと、少女が芽生える。街を歩いていると、女性を目で追う時がある。性的な対象として見たためではない。憧れを持って見たためだ。彼女の服は、洒落た色使いがなされていて、スカートが格好良かった。かわいいのではなく、格好良かった。そのためについ、目で追ったのだ。
幼い記憶を思い起こしてみる。自分は、同い年の女の子に、弟のように扱われていた。背が低いこと、当時は人形のような容姿であったことが作用して、女の子にとっては、この上なく、弟として扱いたかった存在だったのだろう。そして、案の定、僕は弟としていつも扱われていた。だが、思い返すと僕自体は、弟というより妹のつもりで居たような気がする。当時の僕に、自らの性別がどうのなんて意識はない。
少し時は後になるが、初めて小学校に通う前、母親がランドセルを買おうとしているところ、横で、赤のランドセルがほしいとねだったこともあった。性別の意識なんてそんなものだ。女性として生まれるのではなく、女性になるのである、とは誰の言葉だったか。実存的な言葉だ。
間違ってはいない。確かに僕らは、そのとき天使の性別を持っていて、あとで男になっているだけだ。だから、きっと、あのときの僕は本当に妹であったのだろう。そして、天使のときに得たそれは、未だに、ふと僕の中から飛び出すのだ。
ふああああああ……ああ……うううううううん……ああ……うーん……うーぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅん……よしっ……よしっ……やろう、やんないとな、やらないとマズイんだよな、うん……頑張って……頑張って……くわああああああああああ……ふぅ……うーん……はぁ……アメないかな……アメ……アメ……ないな……ないかぁ……ん、んんっ……んん、んんーーーっ……ふぅ……歯磨きしてないや……まったく……まったく…………まったくぅ…………うお……いけない、いけない、書かないとな……書かないと……書かないとぉ……………………ぅ………………………………。
月の真似をして、水面に映るつもりだった。
月の真似をして、輝くつもりだった。
月の真似をして、夜中にいるつもりだった。
月の真似をして、寡黙でいた。
月の真似をして、ただ存在していた。
月の真似をして、白くあるつもりだった。
月の真似をして、カメラには小さく写った。
月の真似をして、朝には沈むつもりだった。
月の真似をして、ときおり、青空に浮かぶつもりだった。
月の真似をして、いない。
月の真似をして、いるとは言い訳くさい。
月の真似をして、いるのは難しい。
月の真似をして、いるつもりなのだろう。
月の真似をして、いるそちらもまた。
月の真似をして、いるのは言い訳だ。
でも、月の真似をして。
雑草の味を噛んでみるのは、一つの実験だった時期もあったと思う。一つの草は酸っぱくて、一つは苦いのだ。そういう時期があったと思う。今にしてみると、どれも無味な上に、なんだか食べられたものではないのだけれども。あの日、僕らはなにかを発見したかのように、それをやりたかったのだ。そうすることが、それとなく、憧れへの物真似だった気がして、しかし、今になってみるとなんでアレを物真似と思えたのかは全く分からない。ただ、琴線に触れるものがあったのだ。
蚊に刺されてないけど、なんか痒い気がするのは、なぜだ。そういえば、小さい頃は夜中に蚊に刺されたのだろう、夜中に蚊に刺されたのだろうと、ぷっくり膨れた僕の肌を見ながら呟く両親を見て、僕はひそかに「夜中、僕の肌だけチクっと刺していく蟹」を想像していたことがあるし、これは、意外に誰しも多い経験だと思うけど、いつの間にその蟹のことを忘れてしまうのか。
完成の期限が迫っていることに焦りを覚えて、僕は何を思ったのか、おもむろにストラテンポ7号を作り上げ、そして、バイウンの天井へとスリヤツクラの穂先を捧げることにしたのだ。ストラテンポ7号の勢いや良し、バイウンの天井に届きかけたが、しかし、上手く行かずに穂先はポロリと地面と落ちた。仕方なしに、再び、私は7号を大空から地中をサインカーブのように描いて飛び回る、7号――いや、7号は落ちたので、準7号だ――を飛ばした。バイウンの天井に届き、スリヤツクラの穂先は届いてくれたものの、で、期限が伸びたかというとそんなことはなく、電話は鳴り止まないし、そして、こういうことはよくあることなので、私は寝た。
クリーム色に染めてしまえ。
「頭の悪いことを言いたい。私は頭が良すぎると思うのよ」
「お、その言葉でもう十分じゃないかな」
「なんだ、それ。なんだと、それ」
「頭の悪さは保証できたよ。さすが、頭良いね」
「頭良いと言われるのは嬉しいけれど、同時に頭が悪いと言われるのはムカつくわ」
「で、僕は君のことを頭悪いって言ったのかな。頭良いって言ったのかな。どっちか、そっちなら分かるよね。頭が良いんだったら」
「分かるわけ無いでしょう」
「じゃあ、頭が悪いんだな。頭が良いのに、頭が悪いなんて大変だね」
「ねぇ、おちょくってる?」
「おちょくってないよ。おちょくるにしては、僕はずいぶん君を頭が良いと褒めているじゃん。おちょくりたいなら、もっと僕が『頭が悪いなぁ』って、思ってることがハッキリと伝わるもんだよ。で、君には伝わった? 伝わってない?」
「伝わってない」
「伝わってないよね。というわけで、おちょくってないわけだ。まったく、そんなことも分からないなんて、頭が良いくせに悪いんだね」
「やっぱり、おちょくってる」
「ないない」
「ってる!」
「ない!」
2015年2月4日 発行 初版
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