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青火温泉 第二巻

北村恒太郎

北村恒太郎出版



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  この本はタチヨミ版です。

 目 次

第五章 女湯

第六章 熊湯

第五章 女湯

再び才三に会ったのは、それから十年近くたった初夏のころだった。
 風の便りで才三は警察官になったと聞き、さらに風の便りでそれを辞めたと聞き、また風の便りで結婚したとも聞き、またまた風の便りで別れたとも聞いた。
 私はといえば、意に沿ったか沿わぬか自分でも判断できないまま、地方の新聞社に入社し、支局ばかりを転々とまわされ、他に何か自分に合う仕事を探すべきか、またそもそも自分は何をするべきかなどと、ぼんやり考えながら、流されるように日々を送っていた。
 どうにも腰が定まらず、不安定に漂っているように見えるらしい私を心配した両親が、しきりに見合いを勧めてきて、それまでつきあった女性もいないわけではなかったが、ここらで何かしらふんぎりをつけるか、所帯を持ったら、ものごとや人生はどうにかなるものなのかと、ぼちぼちその気になりはじめていたとき、才三から連絡があった。しばらくぶりに会ってみないかということだった。
 お互いに気楽なひとり身で、さしたるしがらみや、厳重に守らねばならぬ予定などあるわけもなく、拘束するほどに自分を必要としてくれる人とていない身とあっては、会って旧交をあたためる分には何の障害もない。
 しかし、もうスキーや雪山はけっこうだった。もはやこれらには関わるまいということでも、幸い意見が一致していた。
 が、やはりお互い山好きというところは変わっていない。山を長く愛するためには、危険なことをしない、危ない場所に近づかない、ということも悟っていた。何事にも両面がある。山にも陰と日向がある。良いところだけを評価してやればいいのだ。そうすれば山はまたとない友でいてくれる。(これもまた悠長な思い込みかもしれないと、このあと知ることになるのだが。山には、そして山の中にはいろいろある《いる》のだ。)
 期せずして、お互い単なる山歩き程度を趣味にしていると確認した。やはり会うのも山がいいだろう。
 才三の提案で、このところ才三がしばしば訪れているなだらかな山、豹ヶ岳と呼ばれている山がいいだろうということになった。寝ている豹の背中程度の高さしかないとのことだが、豹の体長のように奥行きはあるという。
 低くて短いロープウェーまであり、休日ともなれば、ハイヒールの登山客までが、どやどや押しかける、気勢をそがれるほどの、観光の山だそうだ。なんとも気楽な休日気分いっぱいの再会になりそうで、心が躍った。
 しかし、豹には爪も牙もあり、この山にはもうひとつの呼び名があったのだとは、このときは思いもよらなかったのだ。

 才三は、以前よりも精悍に見えた。青白かった顔はよく日焼けして、身体はひきしまり、長髪だった髪は整えられているものの、豊かで黒々としている。十年の歳月は目じりのしわにいろいろなものを刻んだようだが、友を見る目には親しみがあふれている。
 私はといえば、すでに中年のただ中にあるのを必要以上に自覚しているような状態で、額も後退かげん、胴回りもだぶつきかげんだった。にもかかわらず、変わっていないなあ、と顔をほころばせている才三ほど、自分はさほどに変化していないと感じることができるのは、幸せなのか、そうでもないのか。
 山歩き客にまじってだらだらと歩きながら、世間話や身の上話をした。
 才三は、これまで国内や世界をあちこち旅行して歩いたという。興味本位の物見遊山や(行き詰まることの多かった日常から)気分を転換したいという目的もあったそうだが、さりげなく打ち明けたのは、根底に自分とはそもそも何なのか、答えを見つけたいという思いがあったからなのだそうだ。
 よくある自分探しというやつらしいが、才三はもうすこし真剣にとらえていたらしい。自分は何をすべきか、いつも自分に問いかけているという。
 私だってそうだ、と答えてやった。自分の目的や生きる意味なんて、はっきりわかっているやつがいたらお目にかかってみたい。たいていの人がそう思って生きているんじゃないか。そのうち、こんなもんだ、これでいいんだと悟るのさ。いつまでも自分探しをしていられるのは、若い証拠でもある、大学生なみに。
 つきつめていえば、人は日々の糧を得て、未来へ自分の遺伝子をつなぐ、種を残すという、動物と同じところに落ち着くんじゃないか、それが人の存在意義だろう、できれば種が繁栄し、増えるのが望ましいって程度じゃないか。田舎新聞社で人々の(農家の)取材をしていると、そんな気になると言うと、才三は、君にかかると哲学というやつも犬のエサなみになるかもしれないと笑いながら、仕事も人生観を変えるほどではなかった、平和な世の中では繰り返しと継続以外何もないとつぶやいた。
 平和でもいいじゃないか、だからこそ、俺たちの、あの雪山での体験が精彩を放っていると思うよ。確かにあれはすごかったな、いまだに今まで生きてきた中で一番強烈な思い出だよと、顔を見合わせて笑いあったものだ。
 何に対しても興味を持てない、心を動かされないという才三だが、山歩きは好きだと言った。山を歩き、木々や土のにおいをかぐと生き返るような気がすると。たまに山中を走ったり、動物の足跡を捜したりするという。そのせいか動物にも植物にも詳しくなったと言った。
 山歩きの途中、私たちの前を勢いよくジャンプして過ぎようとしたリスをひょいと捕まえ、まじまじと見たうえで、ふつうのニホンリスだなと言って放してやったものだ。また、歩きながら、いろいろな木の実や葉っぱを採取して、もちろん大事な高山植物なんかとったりしないよ、などと言いながら、せっせとリュックに詰め込んだりもした。リュックはしだいにふくれていった。
 歩き続けるうち、才三は、行きかう観光客の登山者がわずらわしくなったのか、これじゃ山歩きじゃなくて、公園の中の散歩だなと言い出し、コースを少し変えようと言い出した。一般道をそれて、横道を少し奥へ行ってみようというのだ。
 なるほど、ちょっとそれて狭い小道へ入ると、人通りは格段に少なく、ほとんどなくなる。人というのは、ほんとうに決められた道しかいかないものなのだ。(確かにそれが一番安全なのだが)
 これは何、これは何と解説しながら木の実をすこしづつ採取する才三についていくうち、この山ではもとより不案内な初心者である私は、しだいにどこを歩いているのかわからなくなってきた。上ったり下りたりで、疲れてもくる。
 汗びっしょりになりながら、これで終わりにしたいと思う上り坂を上りきって、青空の中、さわやかな風の吹く、見晴らしのよい峠に出たときはホッとした。見渡すと、幾重にも続く山並みが、はるかまで望める。意外に深い山ふところへ来ていたのだ。
 峠の端に地名を示す木の標識があり、『愁嘆峠』と書かれている。
 面白い名前だが、名前の由来を説く立て札などはなかった。確かに登りつめるとため息が出、山並みを見渡して、その深遠さにうんざりさせられる思いにとらわれる峠ではある。
 どこまでも続く青空と、果てしない緑の山脈の連なり。中空から眺めるようなここからの景観に心を奪われ、ふたりともしばしその場に座りこんで見とれていたが、私は早くも里心がつきだしていた。広大な景観の中に、動くものは私たち二人しかいないという心細さが、いささか頭をもたげはじめたのと、山歩きに飽きてきて、明日の仕事=取材予定が頭のすみにちらつきだしたためだ。
 「それにしても妙な名前だなあ。」
 「そうだな、愁嘆ホテルというのは聞いたことはあるけどね。」
 「なんだい、それ?」
 「ほら、ハートブレイクホテルってあるじゃないか。」
 「なるほど。じゃあ、ここはハートブレイクパスってことになるのか。」
 「確かにね、でもそれだと絶望峠とも訳せるな。」
 「なぜこんな名前がついたんだろうね、悲嘆にくれながら峠を越えるって意味かな?それともここから下を見て覚悟を決めるってことかな?」
 「いずれにしても、何らかの、もしかしたら運命の別れ際って意味があるんじゃないか、ほら、見てみろよ、分かれ道になっている。」
 見ると、峠のもう一方の端にもうひとつ標識があり、そこから二つに分かれる道しるべとなっていた。同じような道が下っているが、一方が『豹ヶ岳入口4キロ』、もう一方が『バス停留所1・5キロ』となっている。
 もう歩きたくない私は、当然バス停方向を主張し、才三は、まだまだ余力はあったらしいが、私に気を回して同意してくれた。
 確かに愁嘆峠は分かれ道だったのだ。
 勇んで峠を下りはじめたのだが、おかしなことに、1・5キロぐらい過ぎたと思われるところまで来ても、バス停には行き当たらず、細いけものみちもどきの山道が延々と続くのみだった。
 そのうちまた二股の分かれ道に行き当たってしまった。山のこちら側へは来たことがない、愁嘆峠もはじめて知ったという才三だが、その、私よりはいいだろうと思われる土地勘に従って、進行方向を決めることにした。
 しかし、才三についていけばいくほど、まるで深みにはまるように、バス停が見えるどころか、車が走れそうな道にさえ行きつかない。とっくに峠は下りきってしまって、道は平たんになり、行く手は、まわりが雑木や生い茂った草などの林ばかりが続いた。
 まだ日はずいぶん高く、心細さがいや増すほでではない。また、遭難するような山だとも思ってはいなかったが、私は何よりもくたびれ、いいかげん切り上げたいと思いはじめていた。さっさと屋根のあるところ、できれば人間のいるところで足を伸ばしたいものだ。
 さしもの才三も首をかしげはじめた。どう考えても、そろそろ着きそうなものなのだと言う。どう歩いたって、もう山からすら出ているはずだ、それくらいの距離は歩いているというのだ。
 と、いきなり視界が開け、我々はヤブから出るように、いくらか広い道へ出た。舗装されてはいないが、明らかに車が通っていると確信できるほどの道だった。
 やれやれやっと出た。これはどっちへ行ってもバス停には行き着くだろうと、どちらへともなくだが、ふたりそろって同じ方向へ歩き出す。
 しばらくいくと、道はカーブし、ゆるい上り坂になる。と、道はそこで終わっていた。いや終わったのではない。続いてはいるが、山門の中へと消えていたのだ。
 まさしく山門というべき立派な構えの門だった。奥にあるであろう寺院の格式をうかがわせるような、豪壮な重々しい造りだ。木々に隠れて見えにくいが、よく見ると、山門に続いてその両側に塀が伸びている。侍屋敷にありそうな、頑丈な高い土塀が延々と続き、どちらも林の中に消えている。広大な敷地をめぐっているのだろう。
 「こんなところに寺があったとは知らなかったな。」
 才三はつぶやいた。
 「わりと最近建ったものかな。」
 私も山門を見ながら言う。
 山門はあたりの景色にそれほどなじまず、新しかった。再建や補修されたものというより、新築されたものという印象だ。いずれにしろずいぶん金がかかったろうと思わせる。
 「あれかな、新興宗教が山の中に本部でも創ったのかな。」
 才三のことばにややたじろぐが、
 「なんでもいいから、ひと休みさせてもらって、このへんの地理を聞くってのはどうだい?」
 とうながした。
 才三も「まあ、それもそうだな。」と賛同し、門をくぐってみることにした。
 門は開いていたのだ。内側へ観音開きに開く、二枚の巨大な板扉は、ふたつとも内側に折り曲げられ、門はマイクロバス程度でも通り抜けられそうに口をあけていたのだ。
 門をくぐるとすぐに道は右にカーブし、延々と続いていく。地面には大きな平らな石がはめこまれ、舗装道路のようになっている。沿道には松の巨木が、どこかの街道を思わせる規模で並ぶ。御幸用の道のような豪華さだ。
 と、道は左へ折れ、さらになだらかな上り坂をゆくと、手入れのゆきとどいた何本かの松ごしに、こつ然とその屋根が現れた。
 それはまさしく、城とも大寺院とも見まがうほどの巨大な日本家屋だった。
 これだけのものを造るのには、どれほどの大木や銘木を必要としたのだろう。まだこけらを落としそうな、真新しいヒバが数段に組まれ、新築の歴史的建造物のような外観を現出している。
 正面から見ると、玄関の屋根をはじめ、切妻が幾重にも重なって見え、渡り鳥の群れがゆくようにも見える。いらかの波がはるか奥から押し寄せてくるようだ。
 私はすっかり気圧されてしまったが、才三は、やはりこれは宗教団体くさいな、とうさんくさそうに言いながら、臆するようすもなく豪壮な玄関のひさしをくぐった。私も用心しながらあとに続く。
 驚いたことに、ここは旅館の可能性もあるとわかった。
 ひさしの下に、自然木を生かした巨大な看板のようなものが横付けされていて、そこには『豹山館』と書かれていたのだ。しかも、玄関わきの舗装された駐車スペースには、三台の高級車がお客様然と並んでいる。
 はたせるかな、開け放しの玄関を入ると、これも大木から造ったであろう柱や梁を優雅にあしらった広々とした中に、重厚な古めかしいイスとテーブルが何組も並ぶロビーらしき場所が見渡せた。
 旅館としたら、とほうもない高級旅館だろう。しかしどこもガランとして人の気配がない。
 人目を忍ぶ隠れ里、秘密高級クラブといった現実離れした初期の印象は、才三の、ごめんくださいという、ものを聞くだけのための、何の気配りもない呼びかけで一変した。
 才三の言葉が終わるか終わらぬかのうちに、何人かがいっせいに、どこからか玄関に走り出て、ボウリングのピンよろしくずらりと並んだのだ。次の瞬間、いらっしゃいませと声をそろえて同時に言い、ぴたりとそろった、訓練された近衛兵なみの動作で、一礼をする。
 私たちに正面を向けて、ひとりづつずれて、斜め奥へとオブジェのように立ったのは、六人の若い女だった。そろいの曙色の、光沢のある着物を着こなしている。同じそろいのあさぎ色の帯が、いかにもきちんとしていながら、襟からのぞく白い襦袢に、不思議なわずかな色気が漂う。
 オーディションでもしてそろえたように、丸顔でくりくりとした目。同じような背丈で小柄だが、可憐な感じがする。うぶな少女のように、世間知らずな愛らしさで、盲目的につくしてくれそうな一生懸命さが伝わってくる。
 男だったら、異性のこのような、必要以上の好意に近い熱意の熱波のようなものを感じ取ったら、誰も悪い気はしない。
 私も才三も思わず気を許した。
 いや、ちょっと聞きたいことがあって…という才三の言葉を聞いてか聞かずか、彼女たちは、さあさあお上がりください、お早くお早く、と私たちのまわりに群がり、なかば手をとって中へ引き入れた。私は苦笑いしながらも、つい誘いに乗って、一晩くらいやっかいになりたい気持ちがわきあがる。
 このとき、私のまわりに群がった三人のうちのひとり、ひときわ小柄な仲居が、私の顔を見て、一瞬ぎょっとしたような表情をみせた気がした。ひときわ少女っぽい目をみひらいて、立ちつくしたような気もしたが、たちまちまわりのざわめきにかき消された。
 見知った顔だったかと思ったが、思い当たらず、かわりに別なことに思い当たった。
 「なあ、(一泊)いくらぐらいするもんかな?」
 才三に耳打ちするように小さい声で聞いてみる。
 「高いんじゃないのか…」
 そうだろう、これほどの構えでは、私たちのようなレベルでは、年に一度でもこられるかどうかの、目玉が飛び出るほどの宿泊料金に違いない。
 しかし、私の手をとった仲居に聞いて、その娘がきっぱりと言ったのは、ごくふつうの、やや高め程度の料金だった。
 「悪くないよ、ここは意外に掘り出し物の宿なのかもしれない。テレビなんかで、たまに紹介されるアレさ。」
 「あとで別料金ってこともあるぞ。」
 才三はさして乗り気ではなさそうだったが、そうこうするうちに、ロビー広間の奥の、和洋折衷のフロントのカウンターらしきところに行き着いてしまい、私は宿泊カードに向かってペンを持たされていた。
 「ま、いいじゃないか。まだ日は高いけど、俺はもう歩くのにはあきたよ。高級旅館に泊まったって、あとあと話のタネになりそうだし。」
 確かに、最終的に、話のタネにこと欠かないという結果にはなった。ただし、それほど進んで話そうという気にもならないという結果にもなった。
 才三も私の乗り気にのまれて、しかたがないというふうに眉をあげた。
 接待する者、される者の期待に満ちた、はずんだ空気を一変させる事態が起こったのはこのときだ。
 「大奥さまのお着きーっ!」
 仲居のひとりが発したものらしい、かん高いひと声が響いたのだ。「殿のお成りーっ!」といった言い方だ。
 と、私のまわりに群がっていた、そしてフロント内で記入をうながしていた仲居も、風のように私たちのまわりから消えた、とみるや、私たちを出迎えたと同じ、いやそれ以上の素早さで、私たちを出迎えたときと同じ態勢、玄関に向かってずらりと並んだ、と思いきや、たちまちそこに膝を折った。新体操かシンクロのグループ演技でもあるかのような、見事にそろった動作で正座したのだ。
 と、両手を前の床につき、静かに頭をたれてゆく。全員が一糸乱れぬきちんとした動きで、うやうやしく土下座したのだ。
 何様のための土下座なのだろう。私たち客など及びもつかないような、皇帝でも迎えるようなへりくだった態度ではないか。
 彼女たちは土下座したまま、石のように動かない。所在ない私たちは成り行きを見つめるしかない。
 と、玄関に、彼女らの栄誉礼を受けるべき人物が姿を現した。
 いつのまにか玄関前に黒塗りの大型車、もちろん高級車が止まっていたのだ。そこから出てきたのは、まさしく大奥の局ともいえる婦人だった。
 小柄な彼女(仲居)たちと比べると、ことさら大柄で年配に見える。背筋を真っすぐに伸ばし、建物の奥を見すえるように、前方に目をやりながら悠然と歩いてくる。土下座する娘たちには目もくれない。かなりの年齢であることは、灰色の髪からわかるが、美しさを失っていない顔にははりがあり、指導者の自信がうかがえる。
 彼女は、髪に合わせたような灰色の、渋くて高貴に見えるワンピースに、同じ色のケープをはおり、マントのようにひらめかせながら通り過ぎる。
 たぶん経営者か、やり手の経営者夫人で、このような大げさな、芝居がかったものごとの運び方が趣味なのだろう。地方のワンマン経営の会社などではありがちなことかもしれない。
 婦人は、あっけにとられて見つめる私たちの前で足を止めると、目で軽く微笑み、さらに目で軽く会釈をした。客と認めてくれたらしい。私たちもつられて思わずひょいと頭を下げる。
 と、婦人は目をそらし、一番奥にいて土下座をし続けているひとりの仲居に、一瞬の鋭い一べつをくれるや、何事もなかったように奥へ歩みを進めた。仲居たちはたちまち一列になって、カモのヒナのようにそのあとにつき従って奥へと消える。
 鋭い視線の一矢を受けたのが、私に驚いたような目を向けたと思われる、あの仲居であったことを私は見のがさなかった。
 その仲居ではない別のふたりが、気まずそうに帰ってきて、どうしていいかわからずに立ちつくしている私たちを、ようやく部屋へ案内したのは、それからしばらくたってからのことだった。

 「なんかへんだったよね…」
 私は庭を眺めながら言った。
 この旅館はどの部屋からも、この立派な庭が見渡せるようになっているようだ。池泉回遊式庭園というのだろう。大きな池が細くなり太くなり曲がりくねって延々と続き、その中に、手入れされた松が生えた小さな島や、まわりにはこれも枝ぶりのいい松が植えられている。山を模した丘が連なる。ところどころに断崖のような岩が立ちはだかり、ひっそりとさまざまな形の燈籠が見え隠れする。池の中には、金色と黒の虎のような縞模様をした鯉が悠然と泳ぐのがみとめられ、その下には、目をこらすと、なんとこれも鯉のような大きさのナマズが身をひそめているのがわかる。
 「あの仲居さんたちのことかい?」
 才三はものめずらしそうに部屋を眺めながら言った。
 部屋もまたやたらと豪気だった。さながら大金持ちの別宅か離宮とでもいえそうなくらいだ。ドアを開けると、広い純和室が四部屋も続く。二間続きの奥の間は、違い棚のある書院造りの床の間と、庭に面して縁側、次の間を隔てる障子を開けると、更紗のカバーのかかった、和室になじむ大型ベッドがふたつ並ぶ。どの部屋も、できたてのような、真新しい木組みだった。
 才三は木の香りをかぐように、鼻を動かしながら言った。
 「ちょっとしらけたかい?」
 「まあね、お客様は神様なんて言葉もあったのに、神様より偉いのが経営者ときてはね。客そっちのけでご主人様の世話とは恐れ入るよ。」
 「小さい閉鎖社会じゃありがちだ。会社なんかでもあるじゃないか。」
 「こんなスゴい部屋に、あの予算で泊まれるんじゃ文句は言えないか。でも、感じはよくない。どこかうさんくさいよ。」
 「やはり何かしら宗教がかったにおいがするな。さもなきゃ…どうも何かにおわないか、タケさん?」
 「何かあるんじゃないかってか?」
 「いや、ほんとのにおいさ。この部屋…というか、この建物全体に、何か、あの…」
 私も鼻をならし、空気を吸いこんでみる。
 「君のリュックからじゃないのか、この木の実みたいなにおいは。」
 「…そうかな…」
 才三もあらためて気づいたように、ふくらんだリュックを見る。
 「何が入っているんだい?君が植物の権威になっていたとは知らなかったよ。」
 「さまざまあるよ。実や花、茎、根。漢方薬になるのもあってね。使い方によってはえらく効果的なんだ。」
 「途中でずいぶんいろいろ採ってたね、俺には何の実か見当もつかなかったが。」
 「植物だけじゃないさ、動物にもいくらか詳しくなった。習性や居場所なんかも…」
 話しているうちに山歩きを思い出し、汗まみれだったことも思い出した。
 「風呂にでも入らないか。こんな立派な旅館だと、きっと立派なでかい風呂場があるはずじゃないのか。汗を流そう。」

 旅館の棟の中ほどらしい場所、建物が最も山際が迫っている方向に向いているところに、大風呂があった。浴場に足を踏み入れてはじめて、ここが温泉の宿だったと知った。〝銀湯〟と麗々しく書かれた表示を見るまでもなく、湯煙の豊穣な香りはまちがいなく温泉のものだったのだ。
 そこは木と石をふんだんに使った大浴場だった。大理石らしい大石柱に支えられた下に、御影石らしい石が敷きつめられた床があり、そこに磨きこまれた木でふちどりされた、木枠のプールみたいな湯船がある。
 ここの湯はきっと切り傷に効く効能があるなと、才三は湯に首までつかりながら、目を細めて言ったものだ。「猿が入ったりする湯もこれと同じものだよ。」
 今日、宿に泊まっているのは私たち二人きりなのか、この広い浴場にはまだ二人しかいなかった。
 「温泉宿に、いい歳の男が二人きりってのも、なんだかまぬけな図だよな。」
 「そういえば、前に雪山でのときは、君ひとりが入っただけだったな。」
 「あのとき俺は、露天風呂で眠り込んで、えらい夢を見た。夢じゃなかったのかもしれないが…」
 「ああ、あのときホテルに帰ってから、何回か聞かされたな。風呂の中で眠るべからずという教訓と受け取ってるよ。」
 「あの露天風呂は妙に気持ちがよくてね。」
 「ここにも露天風呂はあるらしい。ほら、その奥にあるのは戸じゃないのか。」
 露天風呂もまた、ため息の出るような高級感にあふれていた。
 サイズのそろった大き目の岩を、タイルのように並べてふちどりした、長方形の巨大なプールのような湯船が、建物に沿って掘り込まれ、太い四本の支柱の丸太と、それと交差する梁の丸太で支えられた浮き屋根がその上にある。湯船の前は、建物の向かい側に、そのままなだらかな上り坂の斜面となる草原で、林とつながり、林はさらに山腹へとつながっていく。広い草原のところどころに、手前から奥に向かって、造形のようにいかにもバランスよく配置された立ち木がある。湯につかりながら、四季の風情を間近に眺めると、ことさらぜいたくな気分になれるのだろう。
 我々もそういう気分になろうと、ふたりそろってこの露天風呂へと足を踏み入れたときだった。
 ワーッ!という悲鳴のようなかん高い叫びがいくつも同時にあがり、湯船の上に、水柱のような湯の爆発がいくつも炸裂し、猛烈なしぶきと湯気があたりに舞い上がった。
 バシャバシャと湯を叩く音、はじける音、湯の中で何匹もの魚が跳ねたのかと思った。湯気をすかして見えたのは、手前の草原を四方へ散って行くいくつもの白い裸だった。
 濡れて光るつややかな背中、湯をしたたらせ、湯の粒を媚薬の粉のようにまき散らす、ひきしまった、若々しい果実のような尻が次々に遠のいていく。
 全裸の六、七人がいっせいに逃げ出していったのだ。白い裸身はどれもたちまち林の中へ消えて見えなくなった。



  タチヨミ版はここまでとなります。


青火温泉 第二巻

2015年1月30日 発行 初版

著  者:北村恒太郎
発  行:北村恒太郎出版

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北村恒太郎

屋根裏文士です。
青森県を舞台にしたホラー、アクション、コメディー、ファンタジーなどを中心に娯楽ものをいろいろ書いてます。
◇青火温泉 第一巻~第四巻
◇天誅団平成チャンバラアクション
 第一巻~第四巻
◇姫様天下大変 上巻・下巻
◇無敵のダメダメオヤジ 第一巻~第三巻
◇アメブロ「残業は丑の刻に」

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