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この本はタチヨミ版です。
「それじゃあ私たちの予約は入ってないというんですね」
「ハイ、そのようなお名前は見あたりません。」
そのようなとはなんだ、《そのような不審な者》みたいな言い方をするな。
口のきき方を知らん奴だ、と三枝はあやうく声に出して言いかけた。
「そんなはずない…
…あたし確かに予約したし、電話したときたしかあなたが、
いやあなたみたいな(いんぎんで、人を見下したような、上っ面だけ調子のいい、
キンキンした耳障りな)声の人だった……」
「ですが、やはりございません、ハイ。」
男はすかさず言った。
こっちがないと言った以上絶対にないのだ、と言いたそうな尊大さがにじみ出る。
うわべだけ言葉づかいはていねいで、口もとには笑みのつもりかしわがよっているが、
目には表情がない。
妥協の余地のない言い方をされて、逃げ道を断たれてしまった春子は泣きそうになった。
「あの……あのう……、もう一度調べていただけませんか?」
「ハア、ですがございません。」
さっさと帰れ、ハイ、次の人、とつづけそうな、
店先に来たみすぼらしいなりの物乞いをさっさと追い出そうとする番頭の態度だ。
たまらず三枝が割って入った。
「ちょっとォ、アンタ、もう一度調べてくれって頼んでんだから、調べたらどうなの、
アンタ、フロントでしょう。」
フロントの男ははじめから三枝の存在を認めてはいたし、
どういう女なのかすこしは気になっていたが、
真正面からその声を聞かされてちょっとハッとなった。
三枝は目立つ女だった。体格といい、容貌といい、いつでもどこでも誰の目もひいた。
しかしフロントもプロなのだ、名誉にかけて客の器量に心を奪われたりするものか、
だいいち万人が美人と認める女など、高慢で、
中年のフロント係など石ころぐらいにしか思っていまい。
すぐさま自分をとりもどし、いつもの得意な演技パターンをくり出した。
やれやれしかたないなとちょっとだけ目を伏せると、
三枝にむかってききわけのない子供を諭すような調子で言った。
「調べました。ですがありません。」
「調べたって!?ちょっとアンタ、なにも調べてないじゃない、どこ見てんのよ、
ちゃんと、そのう…帳簿とか、宿泊の予定表とかをひっくりかえして調べなさいよ!」
フロントはさもあきれたように苦笑しながら言った。
「お客さま、いまはすべてパソコンでして、
いま私どもの前に本日の宿泊予定名簿がすべて出ております。」
あんたたちの会社にもパソコンはないわけじゃあるまい、
パソコンを使って毎日上役の言いつけどおりの書類を無限に作り続けているじゃないか。
いや、それより、上役の目を盗んで、くだらないメールや、ネットオークションや、
バカな株取引をやっているほうが多いか。
ケバケバしいだけの、見掛け倒しの、見るからに低脳そうな若い女め。
(前の会社にいたとき、社長のお供で赤坂のクラブだかバーだかにでかけたとき、
こいつらに似たタイプのホステスにバカにされたことがある。
この人、社長さんの執事?もしかしてセバスチャンって名前?)
おまえらのような部下をもつ上司こそいい面の皮だ、
この都会の片隅のはきだめビルに巣くっている三下OLめ、
とフロントは待ってましたとばかりに勝ち誇って言った。
カウンターが彫り込まれ、
お客側からははっきり見えなような角度で何面ものディスプレイが埋めこまれていたのだ。
ちょっとした空港ロビーなみさ、田舎にある宿だからってなめる んじゃないぜ、
ディスプレイに触れるだけ で、いちげんさんか常連さまかもすぐわかるんだぜ。
(二人を女子大生ではなくOLで、しかも一流どころの会社ではないと見抜いたところはさすがだ) これは三枝が一本とられた。しかしこの程度でひきさがる三枝ではない。
踏まれれば踏まれるほど強くなるのが三枝の真骨頂だった。
春子は不安になった。雲行きがよくない。このままだと泥沼になる。
もうそろそろひきさがったほうがいい。そうしないと、フロントの男だけではなく、
私たち自信にとってもよい結果にはならないのだ。いつぞやのように。
それに………春子はうしろを見た。
二人のあとに他の客が並んで、早くも短い行列ができはじめている。
客たちはたいていがみやげものらしい大きな荷物をかかえ、
早くチェックインしたくてうずうずしていた。たった二人の若い娘のおかげで、
彼らの、一刻も早く部屋の中で手足をのばしたい、一秒でもはやく湯の中で塵や汗を
流し去りたいという小さいが切実な願いはせき止められていたのだ。
フロントは長くて広いのに、どういうわけか応対に出ているのはこの男ひとりで、
しかも男は自分の責任において、このバカな小娘ふたりを銀河系の彼方、
つまりホテルの外へと葬り去ろうと決心したらしく、助けを呼ぼうとさえしない。
しかし、しばらくこの客ふたりとホテル側との労使交渉のようなやりとりを、ただ漫然と聞いていた客たちは、いち早く三枝の口調に隠された危険なものを本能的に知しはじめていた。
ここでうしろから、早くしてくれなどとせかせた日には、どんなかかわりあいになるともしれない。
ここは二人があきらめて去っていくまで、なりきを見守っているだけにするのが、
無垢の一般大衆のとるべき態度というものだ。
中のひとり、三才ぐらいの子供を抱いた父親は、このゆきづまってしまった事態の中に、
お忍びの主人公のようにさりげなく仲裁にはいり、
大岡裁きのような見事な解決策を見つけだしてやって、
両者から、とりわけ二人の女の子側の、
それも背の高いほうから尊敬と称賛のいりまじったまなざしを勝ちとりたい
という欲求にかられたが、すぐうしろに仏頂面の奥方がいたので、
あわててそんな思いをひっこめた。
それに本人もふくめて誰もが美人だと認めるほどの女は、
高価な陶器のように扱いにくいものだろうし、あの娘はさらに気が強そうだ。
案の定、三枝は気丈にくってかかった。
「本日じゃなく、明日はどうなの?あさっては?そっちのほうにまぎれこんでいないの!」
「ございません。」
「ございませんって、アンタ、なにも見てないじゃないの!」
「お客さま、私、さきほどこのタッチパネルで、明日の分も明後日の分もチェックいたしました。
お客さまのお名前はございません。」
「じゃあ一週間後は!一カ月後は!」
三枝の白い額にみるみる青い血管がひび割れのように浮き出てきた。
「三枝、もういいよ…」
春子はおろおろしだした。
「よくないわよ!」
「でも、ないっていってるし…」
「黙ってなさいよ、春子!あたしはいま、こいつと話をしてるんだから!」
軽くあしらってしまえるはずの小娘にこいつといわれて、
さすがにフロントはむっとして三枝を見た。
導火線に火がついてしまったかのような事態のなりゆきに、春子べそをかいていた。
が、反面感動もしていた。三枝は自分のことをまるで疑ってはいない。
春子が、予約したホテルをまちがえていただとか、
予約しないのに、したつもりになってしまっていただとかは毛ほども思ってはいない。
そんなそぶりさえ見せない。春子以上に春子を信じている。友達を信じきっている。
(走れメロスだ)これこそ親友というものだ。
しかし、厚い友情の二人の前に、フロントは王のように傲慢な態度を崩さなかった。
そろそろこの世間知らずのC級お嬢さまに、世の中の道理というものを教育してさしあげる潮時だ。今こそ衆人の前でとどめをさしてやるのだ。
ヒステリーの坂を登りつめている目の前の首長女とは対照的に、
ほかの客が思わず感心するようなていねいな落ちつきはらった態度で。
「お客さま、私どもはもう何年もコンピューターでお客さまの登録をしておりますが、
いまだかつて一度もまちがったことはございません。機械というものは正直で正確なものです。
今回のことはやはり、そちらのお客さまのご記憶ちがいと存じますが。」
ことさらに春子を見ながら、断定的で、ことが決着したという印象をあたえるように、
笑みさえ浮かべて言う。
「コンピューターはまちがえないでしょうけど、それを使う人間はまちがえたり、
忘れたりするでしょう。ここじゃ予約のとりつぎまでコンピューターがやるわけ?」
「いや、それは代理店か、お客さまから直接か、です。」
「じゃ、お客さんからの電話を受けているのはだれ?」
三枝の予想外のすばやい切り返しにフロントはまごついた。
「それは、その、……ここにいるものです。」
「ここって、フロントのことね。」
「はい……」
「アンタは出るの?」
「まあ………出ることもあります。」
「はっきりおっしゃいよ、出るの、出ないの!」
「出ます。」
「そう、じゃあ、あなたがまちがえたら予約されないわけね。」
「お客さま、私はまちがえたりいたしません。」
いくらか声が震えぎみだった。自信たっぷりに言ったつもりだが、不利になったのは否めない。
この女を甘く見ていたかもしれない。
早く巻き返さないと………ここは焦点をぼかす手で切り抜けよう。
「まあ、もっとも、このごろはネットによるご予約がほとんどで、
電話をかけていらっしゃる方はたいへんすくのうございますが」
もちろん嘘だ。個人の客は年寄りが多いので、いまだにほとんどが電話による申し込みだった。三枝たちのほうが時代おくれだと印象づけ、矛先をかわすための出まかせだ。
しかし、三枝は動じなかった。
「ネットだって同じでしょう、あたしがネットで申し込んだら、
自動的にお部屋の準備ができるっての、全自動でベッドメイクができて、
おフロのお湯がいっぱいになって、あたしがカギを開けるのを待っているっていうの。
アンタのホテルは全自動ロボットなの。そんなことないでしょう。
パソコンにはいってきた予定表を《アンタたちが》見て、アンタたちがメイドさんにいいつけて、
そこではじめてメイドさんが準備するんでしょう、最後はみんな人じゃない、
アンタたちが予定表を見まちがったり、見忘れたりしたらそれまでってことじゃないの。」
この女、手ごわい。そして許しがたい。
恐れ多くもネットさまの盲点をついてきやがった。だれもがひれ伏す全能のパソコンさまが、
じつは人間ごときの道具だったなどと声高にあばきたてるなど、
それこそ神をも恐れぬもってのほかの所業ではないか。
無関心で待っているふりをしながら、しっかりと聞き耳をたてていた行列の連中は、
早くも三枝を見直しはじめたようだ。
圧倒的に劣勢だった、どこの馬の骨ともわからない若い娘が、
持ち前の勇敢さで盛り返しはじめたのだ。
三枝は馬上のジャンヌ・ダルクのようにさっそうとしていた。
こんなフロントのチンピラなど、もはや斬って捨てたも同然だ。
「アンタじゃ話がわからないわ、支配人を呼んでよ!」
「支配人は私です。」
フロントの男が言った。
並んでいる行列からちょっと驚いたような、軽いどよめきが起こった。
行列はいまや観客と化しつつあった。男のほうが、隠していた新しいカードを出したのだ。
これはきっと新たな展開の布石にちがいない。
しかし、三枝もさるもの、いっこうにひるんだ様子もない。
「へえー、それで、それで支配人なの。」
「ええ、支配人です。」
二人は、ともに全勝で千秋楽まできた横綱と大関のように、
フェアプレー精神を超越した根源的な憎悪をのぞかせてにらみ合った。
ただならぬ雰囲気に、ロビーをなすことなくうろついていた宿泊客まで、
事あれかしと集まってきた。うしろの行列は、殺気だった緊迫した空気に、
チェックインすることなどすっかり忘れ、ことのなりゆきをかたずを飲んで見守っていた。
はたしてどっちが勝つのだろう、何をもって勝ちと決めればよいのだろう。
春子が張りつめた空気に用心しいしい近づいた。
いまや春子に関心をはらうものはだれもいない。
支配人の様子をうかがいながら三枝になにごとか耳うちした。
三枝はかすかにうなづくと、支配人を見すえたまま言った。
「それじゃあ、春子、いや、大間という名前じゃなく、
あたしの、尾崎という名前で予約は入っていないかしら?」
「ございません。」
支配人は問答無用とばかりに言い放った。
もうたくさんだ。ここは、《私の》ホテルは、地方でも有数の人気のスポットだ。
シーズンにむかおうとしているいま、部屋をほしがっている客は山ほどいるのだ。
これからは客はこちらで〈質のいいのを〉選ばしてもらおう。
「ちょっと待ってよ、アンタ、いまあたしを見たまま言ったでしょう、下の画面を見ないでさ。
見ないで、どうしてそんなことがわかるの!」
「私はご宿泊の皆さまのお名前を記憶しております。」
支配人はうるさそうに言った。
観客からどよめきが起こった。支配人は達人だったということがわかったのだ。
しかし、当の支配人は、ついうかつなことを言ってしまったと後悔していた。
打ち負かしたいと焦るあまり、調子に乗ってしまった。
はたせるかな、女は待ってましたとばかりに食いついてきた。
「ここには一日何人泊まるの?」
「日によってちがいます。」
「何人ぐらい!」
「日によります!」
「だから何人ぐらい!」
「さ、三百人…」
「へえー、じゃあ、きょうの、たとえば310号室のお客さんの名前は?
下を見ないで!あたしを見たまま言ってごらんなさい!」
「さ、さん百じゅう号室は、う………」
まわりの連中は観客を通り越して陪審員になりつつあった。
いまや誰もが三枝を賞賛の目で見る。被告が逆転勝訴したのだ。
しかもこのヒロインは毅然としていてじつに絵になる。ヒーローとしての条件さえ備えている。
春子は駆け寄って三枝に握手し、肩を抱いて祝福したい気分だった。なによりもよかったのは、三枝が《秒読み》までいかずにことがおさまったことだ。しかし、ほんとうにそうだろうか?
はたして、一敗地にまみれた支配人は態勢を立て直そうとやっきだった。
まだ勝負はついたわけではない。このままではお客の面前で支配人の面目丸つぶれだ。
このまま引きさがっては、どんな不利な噂が流れるかわかったものではない。
さいわいここは自分の陣地の中だ、まだまだ主導権は自分にあるのだ。
お客の手前、ここはひとつ負けをすりかえるという作戦をとることにしよう。
慈悲深い仏のような態度で臨むのだ。駄々っ子に手を焼くものわかりのいい親のような態度で。
そうだ、このふたりを駄々っ子にしてしまおう。
支配人はお手あげだといわんばかりに、わざとらしく両手をあげると、
いかにもしかたがないといった調子で言いだした。
「はいはい、わかりました。よーくわかりました。それではこのようにいたしましょう、
さいわいきょうはあき部屋がひとつございます。
このお部屋をおふたりのためにご用意いたしましょう。」
三枝はうつむくと額の奥から支配人をにらみつけた。こめかみの青すじがぴくぴく脈打っている。 春子はぎょっとした。
やばい!三枝が秒読み態勢に入った、いやそれどころか、もうカウントダウンははじまっている! なんとすでに5秒前なのだ!
4秒前…
「このお部屋を予約していたと、このようにいたしましょう。」
支配人はしたり顔でつづける。これですりかえはうまくいった。
ふたりの小娘を横暴でわがままな客と決めつけて、封じ込めてしまったのだ。
負けたふりをして完勝さ…
3秒前…
2秒前…
「それでよろしゅうございましょう、ね、これで文句はございませんでしょう。」
1秒前…
「これでいいですね、ハイ、それじゃ、そういうことで…」
0秒。
「やかましいいいいいいぃぃぃぃッ!!
ふざけるなこいつううううぅぅぅぅッ!!
なにがあき部屋よッ!!ごまかすなッ!!
いさぎよく自分の非を認めろッッ!!
きったねーやつッッ!!
旅館の番頭のくせに、客をバカにするなあああああぁぁぁぁぁッッッ!!!」
三枝は両手を振り回し、つかみかからんばかりにくってかかった。
三枝のつりあがった目ととんがった鼻は猛禽類を思わせた。
顔はいちどきにニワトリのトサカのように赤黒くなっていた。
ついに三枝は爆発した。
やれやれまただ………。
たいていの場合爆発物処理係は春子なのだ。
こうなっては誰も三枝を止めることはできない。三枝はもはや手のつけられない暴れ馬だった。 ロビーにいたすべての人々の目がまん丸となって、三枝ひとりにむけられている。
「黙って聞いてりゃいい気になって!
まるでこっちが悪いような言い方じゃあないのッ!
悪いのはアンタのほうよッ、アンタなのッ!
きったないわねーッ!見えすいた手を使わないでよッッ!」
けだし胸のすくようなタンカではある。
三枝はいまにも片肌脱ぎになりそうだ。
行列のうしろにいた老夫婦の夫のほうは、
前に歌舞伎で見た白波五人男の浜松屋の場を思い出して、
思わず「音羽屋!」と入れたくなった。
ほかのまわりの人々同様、さすがの支配人も棒のようになって唖然としている。
いきなり、荒れ狂う三枝をがしっと捕まえて、
牛のような頑固さと思いがけない怪力でずるずるとひきずってフロントから遠ざけはじめたのは、ほかならぬ春子だった。
「なにすんのよ、春子!あんたも言ってやりなさいよ!
もとはといえば、こいつが、こいつが………」
「もういいよ、三枝!いいってば!いこう、ね、いこう」
常態を乱すものは、誰であれ何であれ、つねに非難の対象となる。
ホテルのロビーは静けさこそ常態だ。それを妨げるものは、そこにいる人々、
主に客たちから眉をひそめられる。
いま三枝は大声でわめきちらすという暴挙に出てしまったのだ。
こんなところでの大声は暴力にも等しい。
いかなる理由があろうと、もはや正当性は失われた。
暴力では解決はしない。憎悪と新たな暴力の芽が残るだけだ。
三枝はこのことがわかっていない。
春子は、あの日三枝が蒔田にしたことも正当だとは思っていなかった。
このうえは、好意的だった客たちの視線が一転して険しくなる前に、早めに退散することだ。
春子は、三枝がじたばたと悪態をつくのもかまわず、しゃにむに入り口の自動ドアへとむかった。
くだんの老夫婦の夫は、こんどは仮名手本忠臣蔵の松の廊下を思い出して、
「高麗屋!」といいそうになった。
「春子!あいつは春子が予約したのを忘れてたんだよ!それをごまかすために、
責任のがれであんなことを言ったのよ!わからないのッ!」
唖然としていた支配人は、こんどはヒヤリとした。三枝の言っていることは正しかった。
一カ月あまり前、春子が電話で予約を入れてきたとき、
支配人はちょうど気もそぞろのときだったのだ。
あれは一人息子の《最後の》合格発表の日だった。
息子はこれまで十七校もの大学を受け、信じがたいことに、ことごとく落ちていた。
なんとすべり止めのはずの、大安売りのように学生を募集している大学にさえ落ちていたのだ。
(予備校はいったいなにを指導しているのだ。息子はいったい予備校でなにをしているのだ。)
息子は今年で三浪目になる。近所でも噂になって久しく、まじめで小心な本人自身、
いまや身も心もクラゲのようになっている。今年こそ受かってもらいたい。もう金も続かない。
今日の発表が最後の望みだった。息子はとっくに発表を見に行ったはずなのに、
まだ知らせてこない。何も手につかず、フロントに茫然としていたとき
(ふだんは支配人はフロントに出てこない。この日は若い連中が団体の誘導に出はらっていた。ちょうどいまのように)、電話が鳴り、東京から若い女が予約を申し込んできた。
支配人は受けたつもりでうわの空だった。そして息子はやはり不合格だった。
支配人は、メガネばかりがやたらと目立つ若い女―春子が、
カウンターの前まできてたずねたとき、そのベタベタした特徴ある声に思いあたった。
そしてはじめて打ち込むのを忘れていたことに気づいたのだ。
中年の中間管理職は、身についた、慣れた素早さで保身に身を固めた。
この年齢になると、どんなささいなことでも、失敗という言葉を忌み嫌い、
責任という文字を自動的にかわすようになっていた。
経営者からはひとことなりとも非難がましいことを言われることは避けなくてはならない。
自分は被害者を装い、
すべての責任を、一過性の部外者でしかないお客に負わせてしまうのが一番だったのだ。
「冗談じゃないわよ!こんなド田舎までわざわざバカにされるためにやってきたと思ってるの!
この、くそ旅館の(ホテルと旅館の区別は、三枝にとってはあまり意味がない)インキン野郎!
オカマのケツの穴畜生!あたしをだれだと思ってんのよ!こう見えてもね、こう見えても………
こっ、ここはどこよ?」
三枝の頭上にはふんわりした白い雲があり、
あたりには輝くばかりの緑がさわさわと軽やかに風に揺れている。
どこからかハチミツのように甘い花の香りもしてくる。
静かなかぐわしい谷間に、三枝のかすれた、かん高い声ばかりががんがん鳴っていた。
「見てのとおり外よ。」
春子が冷静に言った。
タチヨミ版はここまでとなります。
2015年1月30日 発行 初版
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屋根裏文士です。
青森県を舞台にしたホラー、アクション、コメディー、ファンタジーなどを中心に娯楽ものをいろいろ書いてます。
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