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青火温泉 第四巻

北村恒太郎

北村恒太郎出版



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  この本はタチヨミ版です。

 目 次

第七章 薬湯その三

第七章 薬湯その四

第八章 おわりに―怖山温泉にて

第七章 薬湯その三

エレベーターから降りてきたのは、小柄なゾンビ一体だけだった。
 そいつは小柄なうえ、右腕がつけ根からなかっために、どこか不安定に見えた。
 迷うことなく、そいつはひょこひょこエレベーターから出てくると、
床の上のおぞましい見世物に熱心に見入っている二人の間をするりと通り抜け、
足をひきずりながら、そのひくひく動いている腕の前でひょいと腰をかがめて、
のたくる自分の右腕をさも大事そうに、左手で拾いあげた。
 そのままエレベーターまでもどろうと、くるりと振り返ったとき、二人とまともに目が合った。
 目が合ったというのは正確ではない。
なにしろ、そいつの目玉はつぶれたピンポン玉のようになって、
ふたつとも、大きく開けられた暗い窓のような眼窩を飛び出し、
頬とおぼしき、皮が破れて骨がむきだしになっているあたりまで、
一本の腱でヨーヨーよろしくぶら下がっていたのだから。
(つまりそいつの視界は下に向いているということになる)

 突然の恐怖に直面したとき、人がとる行動は、
大体が、いくつかのおなじみのパターンのどれかにあてはまるものだろう。
が、その前に、前座として、導入部として、いちようにすることは、
反射的に悲鳴をあげることであろう。
 程度の差こそあれ、ほとんど例外なく、まず叫び声をあげる。
それを合図に、思い思いの行動に移るわけである。
 すくみあがって、その場に突っ立ったきりになってしまうものもいるだろうし、
顔をおおってうずくまるもの、気を失ってしまうという手もある。
 わけもわからず、がむしゃらに向かっていくという、
健気なのか無謀なのか判別しにくい少数派もいることはいるにはちがいないが、
やはり、圧倒的に多いのは、その対象物から逃げ出すという、
古典的かつ最も自然体と思われる手法ではなかろうか。
 もちろん、これらのおおかたは、
発作的、本能的で、ほとんど無意識のうちに、きわめて短時間でおこなわれる。
 本人たちでさえ、何がどうだかよくわからず、
気がついたら、飛び出してきていたということがほとんどのはずだ。

 
 したがって、春子は、いま、自分がどうして、
この薄暗い廊下のすみに震えながらうずくまっているのか、はっきりとは思い出せなかった。
 三枝とほとんど同時に、自分でも驚くような、けたたましい悲鳴をあげたところまでは覚えている。 そのあとはむちゃくちゃだった。暗い中をやみくもに、めったやたらとひたすら逃げた。
 何度か足をすべらせ、膝をぶつけた。
四つんばいになって、えんえんと登ってきたような気もする。
 あれは階段だったのか……
 そのうち息が切れ、手足がもつれてころがりこんだ……
 春子は顔をあげた。
 いまいるのは細長い廊下の真ん中へんだった。
 どちらをすかして見てもさっきのゾンビの姿はない。
どうにかあいつからは逃げることができたのだことはわかった。
 自分のいるまわりが、ひときわ明るく、安全に感じられるのは、
自動販売機によりかかっているせいだった。
 色とりどりのビール缶が並んだ大きな機械の、こうこうとした明かりと、
ブーンという、低い独特の単調な機械音は、春子を落ち着かせた。
 落ち着くとともに、ようやく大事なことが欠落していることに思い当たった。
 三枝!三枝はどうした?!


 三枝は息を切らせ、太ももにからみつく浴衣に悪態をつきながら、
(ただでさえ三枝には小さすぎた浴衣は、いまや三枝の、すらりとのびきった身体に、
かろうじてひっかかっているといった状態だった。
暗闇の中に汗で光る白い両足がなんとも無防備だった)
 左手を床の上に伸ばすと、その指先全部にこん身の力をこめて、
自分の体を階段から廊下へとひっぱりあげた。
 そこは、どうやら長い廊下だった。
 明かりはまったくついてはいないが、いくぶん闇に慣れた三枝の目には、
自分がいるまわりだけのおぼろげなりんかくと、そして、前方のはるかな奥行きが感じられた。
 人の気配はまるでなく、物音ひとつしない。
長く使われていない部屋などに特有の、ちょっとかびくさい乾いた匂いがした。
 誰も、いや何も追ってくる気配もない。
 どうやら逃げきった。
 ここは何階なのだろう?相当な高さであることはまちがいない。
 何段もの階段をいっきに駆け登り、いくつもの踊り場を走り抜けてきたのだ。
嵐のようなパニックの中で、自分も嵐のように走ってきた。
 ここまできて、ついに足がマヒしてしまった。
 全身の汗がにわか雨のようにパラパラと床に落ちる。
 しかし、あれほどとり乱し、あわてふためいた中でも、
いまの三枝にはちょっとばかし自分を誇れるところがあった。
 こんどは春子への気づかいを忘れなかったということである。最前の春子の叱咤には、
ひそかにこたえていたのだ。
 確かに、いくら脅え、あわてていたとしても、自分ひとりだけ逃げ出すなど、
親友を名乗るもののとるべき行為ではない。それが自他ともに認める姉貴分であれば、
なおさらのことだ。
 こんどは春子は、すくなくとも文句は言うまい。
 今度こそ、いかなることがあっても、死んでも離すまいと決心した三枝の右手は、
今なおしっかりと春子の腕を握っていた。
 「ね、ね、………春子………」
 やっとのことで息を整えながら、三枝は春子に話しかけた。
 春子は階段の途中で、荷物のようにぐったりのびていた。

 あの片腕ゾンビ野郎とハチ合わせした瞬間、頭を総毛立たせ、錯乱しながらも、
三枝は春子の手をとるのを忘れなかった。
 そのまましゃにむに近くの階段らしきところを登ったのである。
 春子もなんとか三枝についてきたが、実際のところ、三枝が急場のバカ力で、
片手で春子をバッグのように持ち上げて、駆け上がっていたというわけだ。
 「ええいッ!」
 三枝はくたびれた体にムチ打ち、マヒした足をふんばると、大根でも引き抜くように、
春子を階段から廊下へと引き上げた。
 疲れ切った手には、春子の身体は死体のように重く感じられた。
 「いつまでものびていないで、春子、いいかげんにしっかりしてよ……
 ここにいちゃ、まだ油断できない、もっと奥まで逃げよう、ねえ春子!」
 暗闇の中で、三枝は、春子をすこしはしゃきっとさせようと、
頬とおぼしきところを二、三発ひっぱたいた。
 人形のようにぐったりしている春子の頬はピタピタと骨ばった音がしたが、
いっこうにしゃんとする気配がない。
 「えーい、しかたがない!」
 三枝は、重い荷物となんら変わりなくなっている春子を、そのままズルズル床の上を引きずって、廊下のさらに奥へと歩き出した。


 「三枝………ねえ、三枝、どこにいるの………」
 春子は小声で恐る恐る呼びかけてみた。
 大声を出すのはためらわれた。
 春子の声は宙に吸いこまれるように消え入った。
 何も答えるものはない。
 ただ自動販売機のブーンといううなりが低く響くだけ。
 廊下はまったくの闇ではなかった。販売機のおかげで、
春子のいるあたりはぼんやりと乳白色にうす明るく、さらにどういうわけか、
廊下のどんづまり壁もぼうっと明るい。
長方形の区画全体に、夕暮れどきのようなもやが漂っているような気がした。
 春子は用心深くうしろを振り返った。
 販売機のすこしうしろに、登ってきた階段の区画がある。
階段は、上りも下りも底なしの闇に吸いこまれているのが、そこからでもはっきりと見てとれた。
 下からは、なんの迫ってくる物音も気配もしなかったが、再び階段のほうへ行く気はしなかった。 三枝はきっとこの先にいる。
さっきと同じように、春子を捨てて、ひと足先に逃げてしまい(やっぱり足の長さではかなわない)、どこかにうずくまって震えているにちがいない。
 そうとも、きっとそうだ………

 春子は片側の壁に身をよせて、そろそろと前方へ歩きだした。
 どういうわけか、自分がいまいる場所に見覚えがあるような気がした。
 なぜなんだろう……
 と、突然行く手の廊下の中ほどに、四角い黒い影が現れた。
 春子ははっと立ち止まる。
 ドアだった。
 この廊下にそって、ずらりといくつもの部屋が並んでいたのだ。
 春子が身をよせている壁と反対側にある部屋のひとつの扉が開いていたのだ。
 扉の陰で何かもぞもぞ動きがあり、何かが出てくる気配がする。
 「み……」
 と言いかけて、春子はあわてて両手で口を押さえた。
 あそこにいるのが三枝とは限らない、いや、むしろ……
 そいつはぎくしゃくしたぎこちない動きで廊下に出てきた。
 春子は目を見開き、身を硬くして見守る。
 男だった。
 遠目にもそいつが男だということがわかる。
がっしりしたやけに広い肩幅、すらりとしたまっすぐな足。かなり長身の男だった。
 春子が心からほっとしたことには、そいつは少なくともゾンビではなかった。
 そいつはしっかりした服を着ていた。
 (ゾンビのユニホーム、ボロや破れた自分の皮ではない)
 それもかなり高級なスーツなのが、黒いシルエットだけにもかかわらず、はっきりと見てとれる。
そのまま壇上で講演でもできそうな、ぱりっとした、スキのないあらたまった着こなしだった。
 にもかかわらず、動きが妙にわざとらしい。
 わざとらしくそいつがドアの陰に手をさしのべたと思うと、
たちまちもうひとりがふわふわと現れた。
 それはまさにふわふわしたシルエットだった。
 こんどは女だ。
 ふわふわしていたのは、女の着ていたのが、すそが大きく広がるスカートで、
これまた遠目にもはっきりとわかる豪華なドレスだったためだ。
 男は、黒いスーツにフリルのついたシャツを着ているのもぼんやりわかってきた。
 二人とも、そのまま大金持ちが主催するパーティにごく自然に出席できそうな、
普通の人間は一生にそう何度もしないであろう見事な身なりだった。
 夜中にホテルのどこかで、パーティか社交ダンスのコンテストでもあるのだろうか。
ふたりしていままさに部屋を出て、出かけていくところだった。
 二人の顔の部分がちょうど、より暗い影の中に隠れていたので、
どんな表情をしているのか春子には見えず、話し声も春子の耳までは聴こえてこなかったが、
身振りで、二人ともさも親しそうに何かを話しているのがわかる。
 春子は叫びたいほどうれしくなった。
 助かった!
 この迷宮のようなホテルで、ようやくゾンビ以外のまともな人間に会うことができた。
 「あっ、あっ、あっ、あのーーー!」
 春子は二人に向かって小走りに走りだしていた。


 三枝はあいかわらず右手で春子の腕をしっかり握り、
春子の尻が床とこすれてすりむけるであろうことなどいっこうにおかまいなく、
ズルズルと引きずって歩いていたが、さすがに手がしびれ、足の感覚が再びなくなりはじめて、
もつれてきた。
 春子は、このまま三枝に引きずられていくことを無意識のうちに決意したかのように、
いっこうに気づこうとしない。
 三枝はだんだん腹が立ってきた。春子はとっくに気づいていて、
歩くのがめんどうなので楽をしようとしているだけなのかもしれない。
また、さっきのしかえしに、いやがらせのつもりでふざけているのかも。
 この非常時になんてこと!
 「いいかげんにしてよね、春子。
 春子!春子!いいかげんに目をさましてよ!春子ったら!」
 三枝は、春子をむりやり立たせようと、春子の腕を握っている右手を高く持ち上げた。
 と、スポンと春子の腕が抜けた。


 春子は走りながら、ふたりになんと説明しようかと思案していた。
 ありのままのことをしゃべっても、信用されまい。
 春子は、風呂場以来、ショックの連続に取り乱し、心身ともに混乱のさなかにあったが、
初対面の、それも身なりからしてかなりお高く気取っていそうな二人に、
このホテルにはゾンビがうじゃうじゃいますだの、さっきまで追いかけられていましただのと、
必死で訴えても、相手にされないだろう(自分はふたりに比較すると、身なりも貧相で小柄だし)
と予想するくらいの冷静さはとりもどしていた。
 何と言ったらこの急場をわかってもらえる………
 そうだ!友達とはぐれてしまったと言おう!
 フロントへ行く方角を教えてもらえないかと、パーティでもなんでも連れていってもらって、
ホテルの関係者に会わしてもらいたいと……

 二人は春子が走ってくるのに気づいて、立ち止まった。
 春子もつられて思わず立ち止まる。
 「あっ、あのーっ、すみません、あの、お急ぎのところ……
 じつはですね、その、あたし……えーと、あのその、こんばんは。
 あ、あ、あたし、あたし、じつは友達とはぐちゃったんです、その、ここ広いでしょう、
 どこがどこだかわかんなくて…
 …迷っちゃって、暗いし、怖いし、それでその………」
 安心して落ちついて話していいはずなのに、なぜか妙に緊張し、早口で、
しどろもどろになっていた。
 二人は灯台のように突っ立って、ひとことも言わず、春子を見下ろしている。
 思ったとおり、二人ともすばらしく豪華な夜会服といった盛装だった。
 男のほうは、影のように黒い、つやのあるタキシードに、
フリルが積もった雪のようにあふれている白いシャツ。
ビロードの小さなタイをなにかの宝石で留めている。
 女のほうは、大きく広がった、絹らしいなめらかな、深い緑のドレス。胸が大きくあいていて、
白い肩がむきだしだ。
 舞踏会にでも行くのだろうか。
 春子はこのドレスにも見覚えがあった。
 前に見たことがある……
 「あの、あの、それであの、もしかしてフロントへ行く道をご存じじゃないかと思って、あたし……」 春子はなおもけんめいに話しかける。
 不安になってきていた。
 相手はなんの反応も見せない。
 表情が読みとれないのだ。
 二人とも、近くで見ると、思った以上に大きかった。
 二人ともモデルのように均整のとれた体つきだ。
 二人の前の春子は幼稚園児のようだ。
 女の脚がうらやましいほど白く長い。
 「あ、あの、それでもし、これからどちらかへお出かけになるんでしたら……」
 春子は自然と声をはりあげていた。
 二人はようやく、春子の声をもっとよく聴こうとでもするように、
上体をかがめて、春子をとり囲んだ。
 「あ、あたしも連れていっていただけないかと……
 …ホテルの人のいるところまでご一緒に………」
 春子は電柱のような二人を見上げて、必死で訴えかける。
 どうにか自分の意図をわかってもらいたいと、なんとか相手の表情をさぐろうとした。
 が、いくらすかして見ても、二人の表情を読みとることはできなかった。
 春子は空間に向かって話しかけていたのだ。
 ふたりには、ふたりとも表情がなかった。
 顔がなかった。
 ふたりとも、首から上は、すっぱりと切断されたように消えていたのだ。


 三枝は、はじめぎょっとしたが、すぐさま春子がいたずらをしているのだと思いこんだ。
 自分の腕のかわりに、ホウキの柄かなんかを三枝に持たせていたというわけだ。
 あんな臆病者だったのに、いつの間にそんな余裕のある行動がとれるようになったのだ。
 あまつさえ、この非常時にギャグをかまそうとするなど……
 三枝はいよいよ腹が立ってきて、持っていたホウキの柄を床に叩きつけた。
 三枝はまだ気づかないでいたのだが、それは確かに腕だった。
腐っていて、途中からちぎれた腕だった。
 「起きるのよ、春子!立ちなさい!立って、一緒に歩いて逃げるのよ!」
 無言でうずくまっていた春子はようやく、ぐずぐず動き出した。
 そのぎくしゃくした動きが、ますます三枝をいらだたせた。
 「えーい!このぉ、さっさと起きんか!」
 三枝は両手を春子のわきの下に入れると、無理に立ち上がらせ、
さらに、目を覚ましてやろうと、どしんと壁に押しつけた。
 このとき三枝は、その勢いで、自分の両の指が、春子の肉にずぶりとめりこんだことに気づいた。 春子の肉は冷たく、しめっていた。


 思い出した……
 …これは、この連中は…
 ……あのブライダルコーナーに立っていた二体のマネキンだ。
 マネキンたちも、春子がようやく気づいたことがわかったらしい。
 そうだ、いまごろわかったか、と言わんばかりに笑いだした。
 首がなく、口がないために笑い声は聞こえない。しかしこの二体はあきらかに笑っていた。
 全身を小刻みに震えさせ、さもおかしそうに笑っている。
 無音の笑い声がそこらじゅうに満ちあふれ、春子の耳をおおいつくした。
 二体は全身を揺らしながら、一歩一歩春子に近づく。
 出目金なみに目を見開かせ、カラカラに渇いた口をそれこそ金魚のようにパクパクさせながら、春子は声もなく後じさった。
 と、女のマネキンの白く細い首に、上のほうから一本、下へむけてひびが走った。
 さらに二本、三本…
 それはひびではなかった。
 よく見ると、ねばっこい液体が、細い筋となって上からヘ流れ落ちていたのだ。
 さらに四本、五本…
 血だった。
 赤黒い血が、上のすっぱりした切り口から白い首をつたって、いく筋もいく筋もしたたり落ち、
絹のドレスにたちまち黒いしみを広げていっていたのだ。
 見る見る血の流れは激しくなり、女の白い肌は、赤黒い滝でどんどんおおいつくされていった。 よく見ると、首の上からは、血が細かい霧となって、噴水のように吹き出ている。
 女は血を吹き出しながら、目は見えないが、手で春子を捜しでもするように、
よろよろと歩きだしていた。
 男のほうはもっとすさまじかった。
 首が、切断された水道管のように、せきを切ったように、なまぐさい血を吹き上げ、
それは廊下の天井まで届いた。
 男の白いシャツは一瞬のうちに、ぐっしょり赤黒く濡れ、
血は春子にもシャワーのように降り注いだ。
 春子は悲鳴をあげ、腰を抜かしてその場にすわりこんでしまった。
 首のない男と女は血を吹き出しながら、ふたり同時にどうっと春子の上に倒れこんだ。
 不幸なことに、春子は気を失わなかった。
こんなとき気を失ことができたなら、どれほど楽であったことか。
 二体から浴びた血で、全身血みどろになってしまった春子は、発狂寸前のパニックにとらわれ、ひたすらはりさけんばかりの悲鳴をあげながら、無茶苦茶に両手両足をばたばた振り回した。
 二体のマネキンは信じられないほど重く、いまにも息がつまりそうだった。
おまけに、血でぐしょぬれのために、全身がヌルヌルすべり、自分がなにをしているのか、
ほとんど感覚がなくなりそうだった。
 さらに、生臭い濃密な血の匂いにむせ、もどしそうになる。
 が、必死でもがくうち、このヌルヌルすべるのが幸いして、
春子はするりと男のマネキンの下をくぐり抜けた。
 錯乱した中に、クモの糸ほどのほんの一筋の光明を得た春子は、四つんばいになり、
亀のようにはってそこを抜け出そうとした。
 と、いきなりなにかが足にひっかかり、春子は思わず振り返った。
 足は、ひっかかっているのではなかった。
 赤黒い血でまだらに染まった女のマネキンの白い細い手が、
春子の一方の足首をしっかりと握っていたのだ。
 またしても発狂すれすれのパニックにつき落とされた春子は、
死にもの狂いで女の手を振りほどこうとする。
 しかし、女も春子を引きずりこもうとしていた。
 「………いか………ない………で……」
 春子には女の声がきこえた。
 しわがれた女の声がはっきり聴こえたのだ。
 振り返ると、女は、春子の足を引っぱりながら、言っていた。
 口で言ったのではない。



  タチヨミ版はここまでとなります。


青火温泉 第四巻

2015年1月30日 発行 初版

著  者:北村恒太郎
発  行:北村恒太郎出版

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北村恒太郎

屋根裏文士です。
青森県を舞台にしたホラー、アクション、コメディー、ファンタジーなどを中心に娯楽ものをいろいろ書いてます。
◇青火温泉 第一巻~第四巻
◇天誅団平成チャンバラアクション
 第一巻~第四巻
◇姫様天下大変 上巻・下巻
◇無敵のダメダメオヤジ 第一巻~第三巻
◇アメブロ「残業は丑の刻に」

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