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天誅団
平成チャンバラフィクション
第一巻

北村恒太郎

北村恒太郎出版



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おねがい

 この小説は、日本国内で大陰謀を企む一団と、それを阻止しようとする所轄署の警部補たちとの対決を描く娯楽アクションです。

 すべてフィクションであり、作者の創作ですが、2015年2月の日本国内の情勢にてらして、作中の一部(無料部分)に現実の事件と似かよって不適切なところがあるという、意見をお持ちになる読者もおられることと思います。

 本作が、書き始められたのが2001年より前、完成したのが2007年頃であり、その頃の国内、世界の情勢・情報をもとにしているという事実をお考えいただき、お読み下さい。
 不快に思われた方は、ただちに読むのをおやめ下さい。           作者





 「我等は天誅団、平成幕末を騒がす不埒者どもに天誅を加える…」
逮捕・拘禁されている凶悪犯を誘拐・殺害し、それをネットの掲示板に誇示する事件が起こる。
所轄署の警部補は過激な右翼の仕業とにらむが、テロ対策室の捜査官は、背後に大きな組織の存在を感じ取る。時に、地軸を揺さぶる大陰謀の決行一ヶ月前…

 剣士VSガンマンたち…常識無視、法則無視、既成事実歪曲の問答無用トンでもアクション。ブチ切れブッ飛ぶ!そんなアホな!活字劇画。首相官邸、国会議事堂を舞台に見たこともない超絶アクションが炸裂する。書かれていることは句読点に至るまで全てが虚構であり、いかなる現実とも抵触しない。

主な登場人物

耕下仙人(たがしたせんと)…舞綱署の警部補
緑馬子(みどりまこ)   …耕下の同僚の巡査長
辺田和門(へんだかずと) …対テロ高度対策室の特別捜査官
九頭竜太         …暴力団・九頭会の総長
井上月昭         …右翼団体・月盟社の総代
桐生           …警視庁捜査一課の警部
大蟻           …桐生の部下の刑事
千葉三尉         …自衛隊中央即応団の小隊長
ゾウさん         …刺客
半次           …刺客





本文中に登場する場所・人物・物語は架空のものです。
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 目 次

第一章 街頭の激

第二章 会長の断

第三章 現場検証異変

第四章 川原の斬

第五章 掲示板の驚

第六章 警部補推参

第七章 ガイシャの怨

第八章 窮鼠の抗

第九章 組員の怖

Next Story

第一章 街頭の激

  (六ヶ月前)

  「世の中が悪い、政治が悪い、景気は良くなったというのはまやかしだ、不景気は止まってはいない、と皆さんは嘆きます。何もかも悪くなる一方だと、未来に明るい希望は見当たらない、とも口癖のように言うでしょう。
 ふざけるな、と私は言いたい。すべて皆さんのせいではありませんか。何もかも皆さん自身が悪かったのではありませんか。自ら好んで未来への希望を捨てているからではありませんか。
 現在の社会は皆さんが決断を避け、決断によって生じる責任を回避し続けてきた結果の産物なのです。悪いと思ったら、なぜその時点で変えようとする勇気を持たないのですか。
 かつてクリントン大統領は、「チェンジ」の一言をスローガンにしました。現状に倦んでいた国民は、この若い田舎の知事の一言に魅かれ、あっさりと彼に将来を託したのです。おかげで以後合衆国はさらなる繁栄と、将来への希望を手にすることになります。わが国がバブルの底に転落し始めるのと対照的にです。
 「生き残るのは強いものでもなければ、賢いものでもない。変化するものだ」。
変化することで、かの国は散漫な大国にもかかわらず、強さと健全さを保ち続けています。
 わが国ほど変化を恐れる国はない。 
 何を恐れるんですか、何が怖いのです。現在の、悪くなる一方の暮らしぶりこそ真に恐れる対象ではありませんか。もしかして皆さんはまだ苦しみ足りないのですか。決断を先送りする期間に比例して、苦痛はふくれあがっていきますよ。
 放っておけば、行き着くところ、国民は殺されていく。事実死んでいる。リストラを苦に自殺するサラリーマン、経営難から自殺する中小の経営者、これらの人たちが何人いるか、泣いている家族がどれほどいるのか、目をそらさないでよく見てください。彼らはあなたがたの近未来の姿でもあるんです。
 自ら命を絶つほど思いつめる人たちを悪く言いたくはないが、この人たちもまた、なぜおめおめと、すべて自分で背負い込んで死んでいくのでしょう。悪いのは国民ではない、失政を繰り返しながらも、一点の恥じ入るところもなく、ぬくぬくと現在の政権に居座り続ける為政者なのです。
 なぜ為政者に抗議の矛先を向けないのですか。なぜ、皆さんを苦しめる犯罪者に等しい張本人に一矢むくいようとはしないのですか。皆さんは抗議したり、逆らったりすることより、死ぬことのほうが楽なのですか。まさか、抵抗する勇気を持つよりは、死ぬほうがめんどうがなくていいなどと思っているわけではないでしょうね。
 それでは家畜と同じです。
 意志も自我もなく、それらを主張する勇気もなければ、人間の尊厳というものは存在しない。
 戦後六十年余の間に、皆さんの何割かの家畜化が着実に進行してきた。哲学と精神を欠いた、個人主義戦後占領教育も家畜化に貢献しました。
 六十余年。大戦後六十余年もの永きに渡ってひとつの政党が政権の座に居座り続けたという事実は、民主国家では、わが国を除いて世界のどこにもその例はない。
これは独裁です。独裁国家です。われわれが忌み嫌う彼の国と同じ、完全な独裁国家です。
なけなしの言論の自由がかろうじて残されているということを除けば、国民の精神は全く奴隷化しているではありませんか。
 権力は十年で王朝化します。王朝の権威に浴するものどものために、システムができあがり、
それが国の機構や国民の生活の中に行き渡り、反発するものを突出させない、しっかりした体制となって、国全体を固めます。権力維持のみが最終目的となった体制、国民を食い物にする体制の完成です。
 実際には、不況は止まらない、いつまでも続いている、と皆さんは嘆きます。あたりまえです。
皆さんの努力の結果はすべて、官僚・特殊法人・銀行そして政権政党の政治屋どもの漏斗の中に吸い込まれて消費されてしまいます。皆さんの血のにじむ努力はひたすら空回りするのです。
 この事態がさらに進むと、皆さんも薄々気づいているとおり、彼らの狙いは皆さんの預金や年金に及びます。いや、もうすでに及んでいる。彼らは権益を維持するためには、一方的に皆さんから搾り取る以外に方法を知りません。
 皆さん、今の国会議員の顔を見て、不思議に思わないのですか。親とそっくり同じ顔の息子や孫が、親と同じ席に当然のことのように座っているこの状態はいったい何でしょう。まるでクローン人間じゃありませんか。これは私物化です。一部の人間による政治の私物化にほかなりません。なぜこのような状態を許しておくんです。コピーだって、続けていけば、どんどん粗悪に文字がかすれていくじゃありませんか。彼らは優秀だから、自力で選挙を勝ち抜いたからそこにいるわけじゃない。皆さんの事なかれ主義が、決断からの逃避が、悪しき惰性をのさばらせているだけなのです。
 これはまさに階級社会です。わが国は、人々がそれと自覚しないうちに完全な階級社会となり、国民の多くは心の中でそれを受け入れてしまっているのです。
 江戸時代の再来じゃありませんか。
 家畜は楽でしょう。考えることも、決断することも、責任を負うこともなく、今を生きることだけに思いをはせていればいい。すべては支配階級がやってくれます。自我を持つことも個性もいらない、漂っているだけでいい。しかし所詮家畜は食われる運命にある。行き着くところ、誰も彼も屠殺場へ連れていかれ、黙々と肉になって、支配者の皿の上に乗るのです。
 豚はストレスを与えると簡単に死にます。ちょっと苦しいことがあると、すぐに自殺したがる類の人に似ていませんか。そろそろ気づいてください。もう家畜化の進行を止めましょう。皆さんの意思で意外に簡単にできるのです。
 わが国には市民革命の歴史がない。
 国民自らが立ち上がって、ときの支配者を追放したことはないのです。三百年の永きに渡った江戸幕府を倒したのは、一部の武力集団でした。そのとき、当時の大多数を占める被支配階級は、観客のようにこれを眺めていただけでした。支配者に対し何の疑いもなく盲従したがる性格は、江戸時代に培われたものなのでしょう。
 いまこそ、いまこそ、この国の歴史始まって以来初めて、国民ひとりひとりの勇気と、
意志の力と、自覚が試されています。どうか現在の、皆さんを搾取し続ける支配者を追い落とし、自分たちの運命を自分たちの手に取り戻してください。彼らを当選させないでください。
 我々に、私に、一票を投じてください。
 私こそ皆さんの代表者です。皆さんの幸せのみに働き、結果を出します。勘違いしないでください、政治家というものは、皆さんのご主人様ではないのです。皆さんが選ぶ道具なのです。役に立たない道具はすぐに廃棄する勇気を持ってください。道具に振り回されていると、道具と共に磨り減っていくだけです。有史以前から独裁国家はすべて滅亡する宿命にあります。現在の、確実に潜在し進行する不況、社会の不安、混乱、停滞といった澱みは、滅亡しようとしている今の独裁体制に、私たちが巻き込まれているだけなのだということにも気づいてください。
 私たちは、資金もなく、人員にも事欠く、小さな小さな団体です。落選しても当選しても借金だけが残ります。それでも、現在のこの国の有様を見るにつけ、やむにやまれず立候補しました。無謀でも微力でも、少しでもなんとかしたいという、やむにやまれぬ思いです。
 私は、当選したときには、一ヶ月でなんらかの結果を出します。それが今の私の約束です。
どうか、この、無名で無力で、いまの演説しかない私に、あなただけの一票をください。
 変えようという勇気を持って決断すれば、そこに希望が生まれます。」


 拍手はなかった。
 傘を叩く雨の音、行きかう人々の、水溜りの路面を踏みつける無数の靴音、車の通り過ぎる音が渾然一体となった、ただの騒音が無感動に響いている。
 彼の熱弁は都会のいつもの風景を微動だにさせなかった。何とも知れぬ騒音の一部となって消えただけだ。
 彼は雨に向かって演説をしたような気がした。虚しさにちょっと顔をしかめる。はじめてはみたものの、場違いで、気まずい。
 街頭に立ち始めて一週間、よくなったのはあがらなくなったこと、どうにか筋の通った話ができるようになったことだ。
 彼の後ろでずっと傘を差しかけ続けていた、一人しかいない運動員の若者が、
 「なかなかいい話し振りでしたよ」
 と車のドアを開けながら言った。
 「そうか、でも誰も聞いちゃいなかったな」
 彼もため息混じりに応じる。
 「そうでもない。地下鉄の入り口にいたホームレスらしいのがひとり、拍手をしてましたから」
 「願わくば、そのホームレスに選挙権があってほしいよ」
 彼はがらにもなく、雨に濡れたドーベルマンのように背を丸め、のっそりと車に乗り込んだ。
 若者は彼のもっともな気落ちを、いささかも気に留めるふうもなく、陽気に言う。
 「次からは、もっと踏み込んだ、具体的な政策の話をしましょう」
 「そうだな‥‥」
 という彼のつぶやきは、若者が勢いよくドアを閉める音にかき消された。

 彼らは気がつかなかったが、彼の話を聞いていたものが、ホームレスのほかにあと二人はいた。彼らのずっと後方、駅の奥のほうから、中間管理職サラリーマンふうの男と、それよりかなり役職が上といった感じの男が、行きかう人ごみ越しに彼らを見守っていたのだ。
 「いかがですか」
 目下らしい男が、車に乗り込んだ二人から眼を離さないまま、となりの男に聞いた。
 「うむ」
 年かさのほうもじっと駅の外側にめをやったままうなずくように言う。
 「元レンジャーですからね、筋金入りですよ」
 「うむ」
 年配のほうは考え込むように目を細めると、くだんの二人の車が、遠大な川の流れのような車のライトの洪水の中に飲み込まれ、テールランプがその波間に消えるまで見送っていた。

第二章 会長の断

  (三ヶ月前)

 「申し訳ありませんでした。私の力不足で、ご期待にそうことができませんでした。」
 男は、明るい外の日差しのせいでシルエットかげんになっている小柄な背中に、目で平伏しつつうつむきかげんに言った。
 最上階、天井から床まで壁面がガラスのこの部屋は、空中に浮かんでいるようで、高いところが苦手な男にとっては、ここにいるだけで落ち着かなくなってくる。しかしこのガラスは見かけよりはるかに強力なはずだ。けして壊れない、何があっても中にあるものを保護する。この部屋そのものが世界一安全なポッドになっていることだろう。目の前の男が所有している技術力の一端は、それを可能にしているはずだ。
 明るい午前の陽光に照らされた下界は、実際にはそうではないのだが、心が浮き立つような可能性に満ちて見える。抽象絵画的なビル群の屋根とちょうど半分くらいの視界で、日本的な松を中心とした森が広がり、その彼方にはまた幾何学的な高層ビルがかすんで見える。前衛的なものと古いものとのせめぎあい。勝つのはどちらだろう。目の前の人物は高みの見物をしているように見える。ここにいると世界の行く末を見守る神のような気分になるのかもしれない。
 「いや、あなたのせいではない。あなたはじつによくやってこられた。」
 その人物は、心からねぎらうように、しかし顔は外界の方に向けたまま言った。
 「最新の世論調査の時点で、予測はできました。しかし、世論調査と現実とが寸分たがわず一致するというのは、考えてみればじつに不思議なことですな」
 「すべては私の不徳と致すところです」
 「いやいや、不徳は国民です。しかも国民はその自分の不徳に気づいているのだから、なおさら始末が悪い。こんなときのマスコミの決まり文句に、野党がだらしないからだ、というのがありますが、だらしないのは当のマスコミを含めた国民にほかなりません。国民のだらしなさが、決断と責任を回避する姿勢が、犯罪者をのさばらせる。
 回復とは皮相的で、実際には根をはり、底なしに長引く不況、これはまさに犯罪です。しかし国民は口では不平を言いながら、いざ選挙となれば、その張本人を責めるどころか、望んで権力の地位につかせようとする。民主国家でひとつの政党がこれほど永く権力の座に居座っている例は他にないでしょう。
 ひとえに、ひたすら変化を恐れ、同じことばかり続けようとする国民の家畜根性のたまものなのです。
 このような家畜根性はいつこの国の国民に培われたのか。私は、江戸時代の三百年間に、国民の性根に染み付き、国民的性格となってしまって、ひとつの伝統として現代に受け継がれてきているじゃないかとさえ思うんです。
 家康は、戦いのない、秩序ある社会を造るために全国を統一したと言われているが、それはすべて自分の一族の権勢の維持という原点に根ざしていた。支配者一族のためにすべての国民が奉仕する完全な国家的システムを作り上げた。国民は戦いのない社会と引き換えに、思考を忘れた家畜となったのです。
 明治維新で江戸幕府を倒したのは国民ではない。別な権力者です。国民はやらなければならないと気づいていながら、黙って見ていた。家畜の臆病さでね。そして、何の疑いもなく、新しい政権に盲従していった。
 大戦後、家康の役をしたのは、合衆国の一軍人です。時の官僚と政権政党はこの軍人の威をかり、すばやく自分たちの支配システム、一見すれば自由で民主的国家に見える、新たな江戸幕府を作りあげた。現在こそそれが見事に完成された姿だ、そうは思いませんか。地盤・鞄・看板という世襲議員がそれを象徴してますよ。」
 これは前にも何度か聞かされたこの男の持論だ。
 「一面真理ではありますが、いささか早急で、一方的でもありますね」
 と反論するのはやめた。自分は今、申し開きに来た立場なのだ。
 「江戸幕府同様の成り行きで、今の政権にも腐敗が進んだ。一部の権益側にばかり金が流れるシステムでは当然のことです。もともとのシステムがそうなっているから、財政改革などできるわけがない。せいぜい享保の改革やら、天保の改革やらの程度で、腐敗と財政悪化は底なしに進行する。国民も底なしに搾取され続ける。
 『そもそもこの国には国家財政のバランスシートというものがない。全員がグルであれば政府が財政内容をごまかすことなど、いくらでも可能です。フタを開けてみたら国民の預金は全部パーになっていたということもありえます。それに薄々気づいていながら、国民は全く行動を起こそうとしません』
 明治維新が、ひとつのこの国のパターンを示してくれました。武力でなければ政権は変わらないということです。今の世の中を変えるのは傭兵なのかもしれない…」
 聞いている男は居心地が悪かった。ようするに、自分はことの不始末を非難されているのだ。
 「私どもは次へ向けて努力を続けます。同盟内部でも私に対しての責任論が日を追って高まってきているこのごろですが、とにかくやり直しです。今後とも支援をよろしくお願いします。」
 ようやく今日やってきた目的を言うことができた。
 小柄な男は、この日はじめて振り返って、来訪者に顔を向けた。目尻のしわはにこやかだが、目そのものは全く笑わないまま、口調を少しソフトにすると、評決のように言った。
 「もちろんです。『次』はあなたがた、あなたがたしかいない。それは決まっている。国民がそうはっきりと気づくのも時間の問題です。しかし…早いに越したことはない。
 私どもの部門のひとつに、金ばかりかかる、小さな、非公式の部門ですが、<予知・予測>というものがあります。私どもと社会・世界との関わりを将来にわたって展望する部署なのですが、そこからくる最近のデータも事態が楽観できないことを告げている。できる限りの努力をお願いします。
 それに、私は私なりに、いろいろな方面から力を尽くしてみます。あなたがたのお役にたてるように、そして私どもの…」
 「会長、会津です。少しだけよろしいでしょうか」
 どこからか声が聞こえた。インターホンなのだろうが、部屋の中で本人が話しかけているように鮮明だ。この会社は最新のテクノロジーに満ちている。
 「ああ、会津君か、ヤマさんとのお話はいま終わったところだ。例の件かね」
 会長はくつろいでデスクに腰を下ろし、空中に向かって話しかける。
 「そうです。‥近藤君に現場を仕切ってもらうことにしました。」
 「近藤というと、以前アフリカ部局の調査部にいた…」
 「そうです、自分の判断で独立して仕事のできる男です。あのときも本部とはほとんど連絡をとることなく、耳目を集めることなく、あれだけの仕事を終わらせました。」
 「確かに…。彼は前歴もちょっと変わっていたね」
 「はい、だからこそうってつけと思いまして。仕事をこなすのに躊躇しません。予算を伝えたところ…」
 「会津君、もういい、その方向で始めてくれ。もはや私に報告する必要はない。私は知らないほうがいいだろう。今後この件に関しての報告はいっさい無用だ。結果は自然とわかるだろうから」
 「失礼します」
 会津の声はぶっきらぼうともいえる唐突さで切れた。
 「ヤマさん、失礼しました。仕事の話でしてね」
 内輪の仕事の話にしては、むしろその内容を聞かせようとでもするかのように堂々と話しておいてから、あらためて目の前の相手に気づいたかのように軽くわびた。
 「お忙しそうですので、私はこれで…」
 「これから本部ですか」
 「ええ、今や恒例ともなりました、針のむしろに長時間座るという荒行です。私を引きずり下ろして八つ裂きにしようという同志たちとの語らいは、回を重ねるごとに、私の人間性を深めてくれるような気がしますよ。」
 「この上、あなたにまで辞められたら、私どもにとっても想定外の事態になってしまう。ここはなんとしても踏ん張ってください。
 まったく…国民を腹の底から罵倒してやりたい。何度自分自身でチャンスを潰したら気がつくんだとね。
…まあ、しかし、国民は動かずとも世界は動いている、世の中の流れている。しばらくは成り行きを見守ってください。」
 会長は親しげに背中を叩きながらドアまで見送った。
 男の行く先には、党大会での、いきり立つ反主流派派によるつるし上げと、全党員による嵐のような非難が待ち構えていた。空しい虚勢がどこまでつうじるだろうか。しばらくは成り行きはよくなりそうにない。

第三章 現場検証異変

  (一ヶ月前)

 「ここへ連れてきたんだな」
 男はやっとうなずいた。
 「どうやって連れてきたんだ」
 男はさらに途方にくれたように刑事を見る。
 「つまり、抱いて連れてきたのか、おぶって連れてきたのかと聞いてるんだ」
 「…こうやって…」
 男はのろのろとしぐさでしめす。
 「そうか、抱きかかえるようにして運んできたわけだな」
 男は刑事の問いに、しばらく呆然と前を見ていたが、やがて思い出したようにうなづいた。
 「そのとき誰にも見られなかったのか」
 男は問いかけになかなか反応しない。
 「このあたりには他に人はいなかったのか」
 しばらくしてから、男はゆっくりとうなずいた。
 「六回ともか、六回とも誰にも見られた覚えはないんだな」
 男はゆっくりうなずく。
 ここは確かに仕切られた場所だ、と刑事は思った。街中にはともすると、ところどころにこんな虚無な空間がある。通りを一歩は入ると、忽然と広がる、窓のない建物の背中と、放置された資材に囲まれた、社会の隙間にできた落とし穴のような空間。ここでは叫びも誰にも聞こえない。悪党は、こんな空間を嗅覚鋭く見つけ、おのれの欲望の巣として利用するのだ。
 「それからどうした」
 二人の大柄な刑事にはさまれた小男は、ことさら弱々しく、おどおどして見えたが、どこか我を忘れて放心しているようでもあった。
 かつては六人もの子供の悲鳴や苦悶のうめきを吸い込んだ静かな空き地は、今、当事者である犯人と、実況見分する警官たちとでただならぬ騒がしさを呈している。
 「つぎはどうした、抱えて連れてきた女の子をどうした」
 刑事はうながす。
 男は思い出すように立ち尽くしている。
 「それからどうしたって聞いてんだ!さっさと答えろ変態!」
 高いがどすのきいた鋭い声に、刑事も犯人もぎょっとなって前を見た。
 サングラスをかけ、フラッシュのついた大型のカメラを構えた若者だった。略式警帽を後ろ向きにかぶり、胸にでかでかと警視庁とロゴの入ったジャケットを着ている。
 「きっ、きみ!質問は我々の役目だ。君は自分の仕事に専念したまえ!」
 若者はたしなめられても、ひょいと小さく肩をすくめただけで、悪びれたようすもなく、カメラを構えている。
 ひるまない新米に不快感がつのった刑事は、ちょっと離れたところで同じような格好で同じような仕事をしているベテランの鑑識係に言った。
 「林田君、彼をちゃんと指導してやってくれ」
 とばっちりを受けた林田は、あわてて経験不足な若者に近づき、
 「おいおい、よけいなことを言うんじゃないよ。それにもうすこし対象から離れて撮るんだ」
 と刑事たちに聞こえるような声で注意した。
 「すみません」
 若者はじつにあっさりと素直に応じた。
 ときたまこういうわきまえない見習いが出てくるのも現代だが、タテ社会の、寸分でも乱してはならない伝統にのっとって指導してやるのも、現代に生きるタテ社会構成人の務めだ。
 しかし見習いが、
 「あいつ、演技してるんだぜ。」
 と林田に言っているのを聞いて、刑事たちは、さらなる指導の必要性を感じた。
 
 「こっちへ連れてきて…」
 犯人は広場の中央あたりを指差す。
刑事二人は両側から、そこへ行けとうながす。
 「ここへ置いた」
 シャッターが押されフラッシュがまたたく。
 「そのとき子供はまだ生きていたんだな」
 小柄でかなり若く見える、たたずまいは普通人そのものの男は、しばらく間を置いてうなづいた。
 シャッターが立て続けに押され、フラッシュが激しくまたたく。さっきの新米はいらだちをカメラにぶつけるように、むきになって写真をとっているようにも見えた。
 林田のカメラのよりもはるかに大きく強力そうなフラッシュであるのは、精度のいいカメラのしるしか、より鮮明に写る解像度の高いフイルムを使っているせいなのか。
 つつけざまに焚かれるフラッシュはしかし、しだいに犯人を脅えさせ、刑事たちをいらだたせていた。
 「そのまま続けてくれ」
 もう一方から犯人によりそっていた同僚に言い残すと、我慢がならなくなったこの刑事は、つかつかと若者に近づいた。
 「きみ、フラッシュはいいかげんにやめてくれ。そんなにやたらと写真を撮る必要はないだろう。きみはシノヤマかね」
 若者はカメラから目を離すと、刑事に向き直って言った。
 「すみません。現場ははじめてなもんで、興奮してしまって。それにあの野郎の下手な演技を見ているとむかついてきてね」
 「演技だと?」
 「あいつ明らかに、、ちょっと精神異常だってふりをしてますよ。弁護士に吹き込まれたに違いない。心神喪失であれば逃げ切れるってね。実況見分から地道に、おかしいふりをして、印象づけようって作戦さ、わかるでしょう」
 いかにも腹立たしそうに言う。
 「取調べのわれわれが、犯人に対して先入観や偏見を持ってはいかん。われわれの目下の役目は客観的に事実関係をあきらかにすることだ。」
 「事実関係をあきらかにするのが、奴を絞首台に送る助けになりゃいいが、結局のところ、犯行は心神耗弱の状態で行われたってことになって、せいぜい十年がところの短い間、奴に食うものと寝るところの心配を無くしてさしあげるってだけのことになりませんかね、この前のように。」
 「裁くのはわれわれじゃない。それに本当に異常かどうかは、精神鑑定をすればすぐにわかることだ」
 「何でも、精神に異常の疑いありで逃げ切るのは最近の流行ですよ。それに、成功している。」
 「だから、そうさせないために、動かぬ証拠をおさえようと、今現在努力しようとしているんじゃないか。
こんな初歩的なこともわきまえず、現場で感情論を振り回すとは、君は本当に警官か。君のような
新人を入れるとは、本庁もずいぶん物分りがよくなったものだな」
 若者は確かに警官ばなれしていた。話し方だけではない。現場捜査官のユニフォームこそ何年も着続けているようにさりげなく着こなしてはいるが、帽子からのぞく髪は、警官にしては派手すぎる色に、金色と茶色がグラデーションとなった色に染められていて、しかも名のある美容院で仕上げられたように自然で無理のない巻き毛パーマになっている。その上、右の耳たぶにはアクセントのように、リング状の金色の小さいピアスがぶら下がっていた。フランスの警官でもこんな格好はするまい、刑事は思った。ジャマイカかニューヨークの下町の警官ならどうかわからんが。
 「だいいち現場写真の見習いなんて聞いていない」
 「私だって、言われて来ただけですよ」
 若者はむっとしたようすで言った。
 「サングラスってのは本庁の流行なのかな」
 若者はさらにまた、濃い色のサングラスもかけていた。明らかにデザイナーズブランドとおぼしき、シャープでしゃれたデザインの、細身の高級品。表情を隠すようでもあり、それ自体が表情のようでもある。
 「フラッシュですよ、フラッシュ。まぶしいですからね」
 と言ってから、すぐに打ち解けた口調で言った。
 「いや失礼しました。生意気なことを言ったのを謝ります。さっきも言ったとおり現場は初めてでして、この雰囲気に呑まれました。」
 若者の妙にさっぱりした態度は、どこか人をひきつけるところがあった。
 「あいつを、ホシを見ていて、あの悪びれもしない、良心の呵責のかけらもないような態度が頭に
きましてね。あいつはここで六人もの子供の首を絞めて殺したんですよ、ただの変質者の欲のためにね。
 子供を殺された親のことを思うとたまらない。なのにあいつは他人事のように現場検証に参加しているんです。」
 「いちいち感情移入していては、しっかりした仕事はできないだろう。」
 「わかりました。仕事にもどります。」
 若い見習いは身をひるがえして、犯人の動きにカメラを構えた。
 被害者に見立てられた子供のダミーが広場の真ん中にぽつんと横たえられている。今しも犯行の再現が行われようとしていた。
 ダミーとわかっていても、それが生々しく思い出させたせいか、間近で何人もの警官が見守っているせいか、犯人は落ち着かなくうろたえた。
 「さあ、」
 刑事が容赦なくうながす。
 「どうした、さっさとやってみろ変態」
 茶髪の若者がカメラを構えたまま、聞こえるような聞こえないような声で言い、刑事にまたしてもきっとにらみつけられる。
 犯人は観念したように、しぶしぶダミーに馬乗りになると、その細い首に両手を回す。
 フラッシュがバッ、バッとたかれる。
 ダミーとはいえ、仰向けに寝ている小さな人形の上に男がのしかかって首を絞めているさまは、なんともグロテスクでおぞましかった。
 「そして手に力を込めていったわけだな。やってみろ」
 犯人は手を放した。額に薄く汗が浮かんでいる。
 「続けるんだ。何秒ぐらい締め続けた?」
 バッ、バッと断続的に幻惑するようにフラッシュがきらめく。
 「無理にとは言わんが、これが終わらないと帰れないぞ」
 刑事にうながされ、犯人はまたもダミーの首に手をやり、力を入れ始めた。
 バッ、バッとたかれるフラッシュがなんともうるさい。聞こえるか聞こえないかの若者のささやきがまじる。
 「うれしいだろう、クソ変態め、お前にとっちゃ最高なんだろう、ウジムシ野郎」
 「君、静かにしたまえ。」
 刑事のたしなめる声がフラッシュにかき消されそうだ。犯人はシャッターとフラッシュにあおられるように首を絞め続ける。
 「おっ、こいつめ、そうきやがったか、変態」
 フラッシュ。フラッシュ。フラッシュ。
 「静かにしろと言ったろう!」
 「本性を現せ変態、ここにいるみんなにお前のゲスぶりを見せつけろ」
 「写真をやめて、フラッシュをやめるんだ!」
 刑事はついに言った。
 若者は刑事のほうにカメラを向けて、
 「わかりました、やめますとも。この一枚を撮ったらね。」
 フラッシュがたかれた。
 刑事の目をもろにフラッシュが射抜いた。バアアッという大音響とともに、原爆の炸裂でも思わせるような強烈な白色光が満ち溢れ、あたりは何も見えなくなった。
 見えなくなったのはまともにフラッシュを浴びた刑事だけではなかった。そこにいた全員が、強烈な刺戟に身動きもできなくなり、ものの三十秒間も呆然とさせられた。
 ようやく、おおっていた白い幕がにじむように薄れていき、あたりのものが鉛色から原色にもどってきたとき、誰もが目をこすり、頭を振っていた。
 「いったい今のは何だったんだ」
 林田がつぶやく。
 「あいつだよ、あの見習いのフラッシュだ。
おい、君、君のカメラはどうかしてるぞ。目潰しの手りゅう弾じゃあるまいし」
 と言いかけた刑事は、若者の姿が見えないことに気づいた。
 若者だけではない、ダミーをむなしく残して、犯人の姿も消えていた。

第四章 川原の斬

道はなおもでこぼこし、窮屈なポーズとあいまって気分が悪くなりかけたとき、前ぶれもなくいきなり車が止まり、
 「着いたぞ」
 という声とともに外気の中へ引きずり出された。
 すがすがしい空気を味わう暇もなく、若者らしい手が容赦なく背中を押してきて、無理に歩かされた。
ごつごつした石が敷き詰められているらしく、足場はひどく悪かった。
 歩みを進めるごとにザーザーという音が近くなる。ふらふらよろけて転びそうになったとき、目に手をやってマスクをはずそうとして、後ろ手に縛られていることを気づかされた。
 なおも歩き続けて不安がつのってきたあたりで、背中を押してきた手はいきなりぎゅっと右肩をつかまえ、そのまま下へ押し付けてきた。抗う間もなく、もうひとつの手が左肩をつかまえて、強い力で下へ押し付ける。犯人は崩れるようにその場に膝を折って正座させられた。
ザーザーいう音がすぐ近くに聞こえる。
水の流れる音だった。
 ふいに世界が明るくなった。アイマスクがはずされたのだ。まぶしさに目を細めるほど外界は太陽が輝いてはいなかったので、すぐに目がなれてきた。日が暮れかかっているらしい。雲が低くたれこめ、あたりを重苦しいモノトーンの世界にしている。
 思ったとおり川原だった。前方、目の高さに、何事にも無関心そうに騒がしくうねる広い流れがある。来し方も行く末も知れない流れの途中だ。彼方には葦の繁みが、防波堤のように川原と外界とを遮断する土手へと続いている。
 自分たちは、グラウンドのように広い、丸い石の敷き詰められた川原にぽつんといた。
 この浮世離れした、人気のない景色はいよいよ犯人を不安にさせた。立ち上がって走り出したい衝動にかられたが、そうはさせじとでもいうように、あの若者が横でじっと彼を見ていた。
 もはや捜査員の格好はしていない。色あせてあちこち擦り切れたジーンズに、はき古されたスニーカー、くたびれてゆるみきった薄い色のトレーナーという、どこにでもいる若者の格好だ。頭にはあの捜査員の帽子もなく、金色とブロンズ色にまだらに染められてカールした髪と、右耳の下の金色のピアスが、あたりの中で浮き上がって見えたが、青白い細面の顔を横切る影のようなサングラスはそのままで、油断なく彼のほうへ向けられていた。
 若者は立ち膝のようなかたちで石の上にひかえていたが、不思議なのは、そのとなりに置かれている木の桶だった。
 取っ手がついた古風な桶で、中からはヒシャクの柄のような木の棒が突き出ている。墓参りのときにこんな桶を使ったりしなかったか。ヒシャクで水をかける…
 犯人は思い当たって、ごつごつした石からくる膝の下の痛みも忘れるほど落ち着かない気分になった。
 さらに落ち着かない気分にさせたのは、すこし離れたところに材木のように突っ立って彼を見下ろしている、もうひとりの男の存在だった。
 見上げるとことさら大きく見えるかなりの長身。すらりとしているが肩幅は広い。黒いスラックスに、黒いブレザーを無造作に羽織り、それだけやけに白く見えるシャツを着ている。
 波打つ長髪が、浅黒い額にたれかかっている。口は一文字に引き結ばれ、若者よりさらに非人間的な、金属的な顔の半分は、若者と同じような濃い色のサングラスに覆われ、表情を読み取ることはできない。




 犯人もまた、そのときは何がどうなったのかわからなかった。
 猛烈な光で視力がきかなくなったと思ったら、いきなり首根っこを誰かにつかまれ、すごい勢いでひきずられると同時に、走れという声がした。逃がしてやる、走るんだといった声も聞こえたと思ったが、とにかく無理やり引きずられて走らされた。何度かけつまづいたり転がったりしたのち、身体全体が放り投げられるように浮き上がったかと思うと、どさりと柔らかいものの上に投げられた。窮屈な感じの中でバタンと音がしてあたりが揺れ出した。
 目をおおっていた白みが薄れはじめると、
自分は車に乗せられているのだということがわかった。
後部座席からはあたりの景色がかなりのスピードで飛びのいていくのが見える。
 となりに捜査員の制服を着た男がいて、じっと彼うを見つめている。これはさっきの広場で、すぐ近くまできて写真を撮っていた若い男だ。帽子から金色の髪がはみ出ている。色白の顔と対照をなす濃い色のサングラスが表情を覆い隠しているが、かなりの威圧感がある。
 運転席にもうひとりいた。豊かに波打つ長髪の後頭部。黒い上着を着ているようだ。ルームミラーの中から、これまた濃い色のサングラスが彼をにらんでいる。
 何がどうなったのだろう。すくなくともここは現場検証をしていたあの空き地ではない。あそこからこの連中によって無理やり連れ去られてきたのだ。あのうようよいた刑事たちはどうしたろう。
 別なところへ護送されるのか。いや、拉致されたというのが当たっているだろう。
この二人は警官か。すくなくともひとりは制服を着ている。しかしそうではあるまい。この手口は誘拐だ。彼が子供たちをさらったときのような素早い強引さがある。
 確か、逃がしてやるという言葉も聞いた。もしかしたらこの二人は何か大きな理由があって、自分を警察の手から逃がしてくれるのかもしれない。ことによるともう尋問も裁判も刑務所も矯正病棟もいらないかも…
 「あんたたちは誰なんだ、どこへ行くんだ」
 おずおずと聞いてみた。
 「ほう、お前、ちゃんとした口がきけるんじゃないか。
もう心神耗弱のまねは終わりにしたらしいな」
 若者がサングラスの奥からねめつけるように言った。犯人はひどく不安になった。
 「逃がしてくれるんだろう、おろしてくれ、今すぐおろしてくれ」
 と言いかけたとき、
 「黙ってろ!」
 という鋭い一言とともに首根っこをかなりの力でねじり上げられた。それほどの大男でもごつい男というわけでもないのに、腕の力は強い。小さな子供の抵抗には慣れているが、若い男に怪力で締め上げられては手も足も出ない。風船がしぼむように気力がなえてしまうと、男はすかさず彼にアイマスクをおしつけた。さらに、
 「手に足をくぐらせろ」
 と責めたてるように言う。意味がわからずぼんやりしていると、若者は強引にその動作を押し付けはじめた。
 「こうやって、お前の手を足の下へまわしてくぐらせるのさ」
 犯人の両脚を折り曲げさせると、手錠を使って縄跳びをさせる要領でくぐらせる。無理な姿勢に思わず
 「痛い」
 と悲鳴をあげtが、若者は少しも手加減しない。
道がでこぼこしはじめたのでなおさら窮屈で苦しい。
やっとのことで足をくぐらせ、両手は後ろへ。結果として後ろ手に縛られた格好になった。


 両手を後ろ手に縛られたまま川原に正座させられているのは、いかにも罪人のようで、犯人をひどくみじめな気分にさせた。こんな光景を以前テレビか何かで見たことがある。時代劇のドラマだ。ドラマでは罪人は広場に引き立てられ、まわりには大勢の見物人と何人かの役人が…
 今、この川原には彼と二人の男の三人しかいない。誰も見てはいない。
 彼を不安にさせている大元ともいうべき背の高い男は、一見してヤクザの中堅幹部のようにも見えたが、もっと別な形容が似合う妖気のようなものが感じられる。男は両手をポケットに突っ込み、犯人を見下ろしている。車を運転してきた男だ。二人にはさまれ、犯人はこれまでにないほど不安がつのってきた。何かよくないことが起こりそうだ。
 「あ、あんたたち、どうしようっていうんだ。俺を逃がしてくれるんじゃないのか」
 二人は答えない。
 重苦しい雰囲気に耐えられなくなって、思わず立ち上がろうとした犯人を、
 「動くな!」
 と若者が鋭く一喝した。
 犯人は殴られたようにびくりと縮み上がってもとの姿勢にもどる。
 「お前は何人もの子供を殺した」
 背の高い男ははじめて口を開いた。低い唸るような声だが、一語一語はっきり聞き取れる重みがある。
犯人は思わず高いところにあるサングラスを見上げ、その奥を凝視せざるをえなかった。男は同じ口調で続ける。
 「自分の欲望のために多くの幼い命をもてあそび、なぐさみものにしたあげく断ち切ったのだ。しかもこのままでいくとお前は精神病棟へは行っても、絞首台へ行くことはなさそうだ。多くの家族がいっそうの悲しみの底で苦しんでいるときに、お前は毎朝、税金を使ってつくられた朝飯をうまそうに食うというわけだ。
 俺たちにはそれが我慢ならない。
 お前のようなウジムシは、それにふさわしい罰を受けねばならない。お前のような奴は一秒でも長く生きていてはならん。だから俺たちがやってきた。ただ今よりお前を斬首の刑に処する。」
 犯人はあっけにとられて聞いていた。この連中は、自分のしでかした悪事を非難しているということはわかったが、<ざんしゅ>の意味がよくわからなかった。しかし、この連中が、自分に何かしら危害を加えようとしていることは本能で感じ取っていたため、緊張し、石のように硬くなっていた。
 この連中は何も凶器らしいものは持っていない。にもかかわらず感じる、息苦しいような胸騒ぎは何だろう。
 「あ、あんたたちは警官じゃないな、誰なんだ、なぜ俺をこんなところに連れてくるんだ、帰してくれ、もとの拘置所にもどしてくれ!」
 男は彼の声など全く聞こえないように、右手をゆっくりその頭の後ろへもっていき、長髪を掻くようなしぐさをしかけた。
 シュルン!と金属がこすれる音がした。
男は右手の親指と残り四本の指を丸めて輪をつくっていた。
それを高く上げてから、腕を曲げてゆっくり右肩の前にもってきた。そして左手もゆっくり右肩のほうへもっていき、輪をつくった右手の下のほうで、左手のひらでもおなじような輪をつくった。
 バッターが見えないバットで見えないボールを打つような構えをおおまじめですると、右足をぐいと突き出して踏ん張り、構えた両手をさらに少し上げて見得を切るようなポーズをとった。
 空手か何かの構えか、何のパフォーマンスなのだろう。まじまじと見上げる犯人は、男の輪をつくった両手の上にあるものに目がいって、息を呑んだ。
 輪をつくった右手の10センチくらい上に、薄暗い中でも光るものがあった。金属らしい白い光。それほど幅広ではないが。片側半分が白くもう半分が鉛色の金属が縦に長く、上へ上へと伸びている。
 刃だった。
 犯人の目線は我知らず刃を這い上がる。とほうもなく長く続く刃。その切先は自然なカーブを描いて鋭い先端となり、曇り空を突き刺すようにそそり立っている。
 実物は初めて見るが、それはまさしく日本刀だった。男は両手で日本刀の刃だけを空中に浮かせていたのだ。
 この男は手品師なのか、川原でマジックを披露するために手の込んだまねをしたのか、などと考える余裕はなかった。日本刀の持つ殺気に気圧され、身をよじったために正座が崩れて倒れかかっていた。
 と、男は構えを解き、スーッと、輪をつくっていた両手を下げていった。それにつれ、その先にある日本刀の刃も男の両手にあやつられるように下へ降りてくる。男が手を動かすだけで、その先に浮いている刃を自在にコントロールできるのだ。刃の先はゆっくり地面の石ころの近くまで下りてきて止まった。と、その横に、いつの間にか、犯人の後ろにいたはずの若者が、例の木の桶を前に立ちひざで待ち構えていた。
 若者は木の桶からひしゃくを出し、中の水を日本刀の刃にかける。水は刃の表面を伝い、いくつもの小さな玉になってこぼれ落ちる。
 より間近で見る日本刀はさながら巨大なカミソリだった。触れるだけで、肉といわず骨といわず垂直にあるいは水平に切り分けてしまうバカでかい包丁だ。
 こんな場面もまた時代劇のドラマでみたことがある。処刑の前の、斬首の前の儀式だ。
 「うわあああああっ!」
 犯人はようやく自分がされようとしていることがわかった。立ちひざのまま死に物狂いでその場を逃げようとする。しかし、刃に水をかけていたはずの若者はいつの間にか、今度は彼の後ろにいて、、背後から彼の両肩を押さえつけ、頭が前に出るように、首が突き出されるように、背中を押し出す。
 男は再びゆっくりと輪をつくった両手を上に上げていく。
もはやマジックに感心しているヒマなどなかった。
浮いている日本刀はまちがいなく本物なのだ。
 男は両手を高々と頭上に振り上げ、刃はいまにも振り下ろされんばかりに高く高く構えられる。
 「いっ、いやだ、死ぬのはいやだっ、誰か助けてくれ、助けてくれ!」
 「怖いか。今のお前は、お前が殺した子供たちと同じ恐怖を味わっているんだぞ。」
 男の声に犯人はいっそう首を振り暴れだす。
 「いっ、異常だ、異常だ、あんたたちは異常だ!異常な人殺しだ、人殺しだ!だっ、誰か、誰かーっ!」
 「何を言ってやがる。異常な人殺しはお前だろう。」
 「おっ、俺は、俺は知らないんだ、ほんとに知らないんだ、殺してなんかいない、子供を殺した覚えはない、覚えてないんだ、何もかも夢の中の出来事みたいで、気がついたら目の前に子供が死んでいたんだ」
 「そうか、夢か。さぞやいい夢だったんだろう、お前にとっては。薄汚い快楽の夢の中にひたっていたというわけだ。だがな、お前が今見ているのはお前にとっちゃ悪い夢だぜ。」
 「ひいいいいいーっ!」
 犯人は完全なパニックにとらわれ、めちゃくちゃに上半身を振り回し、死に物狂いで首をカメのように短く短くすくめようとした。さらに、押さえつけている若者の手をかいくぐり、地べたに転がって逃れようとする。
大勢で押さえ込んでいるならともかく、つかまえているのは若者一人だ。
手のつけられないようなあまりに激しい狂乱ぶりに、さしもの若者ももてあましぎみになってきた。
 「こりゃいけねえ、こいつ完全にいかれちまった。こんなに興奮してたんじゃもうどうにもなりませんよ。少し待って落ち着かせましょう。明日の朝まで延ばしましょうよ。」
 と、さすがにあきれて妥協案を出した。ちっという舌打ちとともに男もしぶしぶ認めたようだ。
 「しかたがない、命冥加なやつだ。しかし明日の朝までだぞ。」
 「大丈夫、逃がしゃしません。時間をかけましょう。」
 押さえつけていた若者の手がすっと引いた。
 犯人は安心のあまり心臓が止まる思いだった。
 助かった、とにかくこの場は助かった。異常な犯罪者の手からのがれられた。
何時間か時間をかせぎ、暗くなればチャンスも出てくる。暗くなってこいつらが眠るころになれば、この連中にだってスキが出てくるだろう。逃げるか反撃するか、俺だって、子供とはいえ何人も殺している殺人犯だ。むざむざ殺されはしない。何とかなる。そう思うと思わずほうっと息をついた。
 頭をめぐらしまわりを見ると、少し離れたことろに若者が立っていて、腕組みをして彼を見下ろしている。
その落ち着き払った様子にハッとなった。
思わず反対側を見たとき、ワナにかかったと気がついた。
 男は刃を引いてなぞいなかった。さっきと寸分たがわぬまま、日本刀を上段に構え、今にも振り下ろそうとしていたのだ。彼が首を伸ばすのを待ち構えて。
 「我らは天誅団。平成幕末を騒がす不埒者どもに天誅を加える…」
 上のほうで刃が動いたような気がした。
 風を切る音もなかった。首の後ろを何かで叩かれ、ちょっと背筋が寒くなったというのが、彼がこの世で感じた最後の感覚だった。と、視界がぐるりと回って暗い空が見え、さらに回ってどんどん川原の石が前に迫ってきて真っ暗になった。
 首は7メートル近く飛び、ざしゃりと勢いよく石畳の上に落ちると、血をまき散らしながらごろごろ転がった。
 「すごい!さすがゾウさんだ。一刀のもとだな。」
 若者は競技でも見ているように感心して言った。
 「たいしたもんですねえ、ゾウさん。人を斬るのは初めてでしょう。とても初めてとは思えない鮮やかさだ。」
 「人も何も俵と板以外のものを斬るのさえ初めてだよ。」
 男が右手を振ると、その先に浮いていた日本刀の刃も振られ、血のしずくが石の上にまかれた。 「どんなもんですか、感触は?」
 「そうだな、やはり藁や板とは違う、別な抵抗感があるというか。踏み込みも大事だな。
呼吸を乱さず、躊躇せず、一息にカタをつける。まあなんだかんだ言っても、お前のほうがうまいにきまってるよ。」
 なんとも客観的に人ごとのように言う。
 「さあ、それはどうですかね。ところで、面と向かって人を殺すってのも初めてでしょう。」
 「面と向かわなくても初めてさ。」
 「どうですか、感想は?」
 「おいおい半次、インタビューか。
そう、もともとゴキブリみたいな奴だから、ゴキブリを殺した程度の感慨かな。」
 「なるほど、そいつは名言だ。」
 ゾウさんと呼ばれた男と、半次と呼ばれた若者は、首のない胴体を前に、ゴルフの話でもしているようだ。
 「半次、あまりゆっくりもしていられないぞ。次の仕事に移ろう。」
 言うなり男は左手でポケットから小さなスプレーを取り出し、それを右手の先の刀身に吹きかける。
 「これ一本で脂とりOK、抜き身のケアには必携だそうだ。」
 「ハイテク時代ですねえ。」
 若者のあきれたような感心したような声を聞き流し、さらに男はポケットから灰色の手袋取り出し、口を使って左手にはめると、首の後ろへもっていき、何かを抑えるしぐさをした。そののち、輪をつくった右手を動かし、その先に浮いている抜き身をあやつって、首の後ろから背中へともっていく。パチンと音がして、抜き身は見えなくなった。
 「俺はカメラと台を用意する。お前はそっちだ。」
 と若者をうながす。
 「了解。」
 とうなずいた若者は素早く動き、ころがっている犯人の首の髪をつかんで、カボチャか何かのように持ち上げると、せせらぎまでもって行き、流れに首の切り口のところを浸してじゃばじゃば洗いはじめた。

第五章 掲示板の驚

 定年退職したての部長の目下の暇つぶしは、当然のことながらパソコンだった。これまで多くの部下を使ってきた自分が、なすこともなく空中を見ているのはなんとも情けなく間が持たない。
とにかく何かしなければ…いかにも仕事をしているようにデスクに向かうにはこれしかない。
いまや自宅の書斎のデスクに一日中腰かけ、いまの自分には何の役にも立たない種々雑多な情報を漫然と見やる毎日が延々と続いてた。
 小さなディスプレイの中にあふれる世界中の情報の中で、部長が少しだけ心を動かされるのは掲示板だった。自分と同じ意見を見つけると、組織から外れて孤立無援となってしまった自分にとって同志か後援者にめぐり合った思いで心強かった。掲示板の中でもお気に入りは、ひとつのテーマで参加者が賛成・反対の意見を戦わせる「イエスオアノー」というものだ。
匿名で何でも言えるとあって、意見はかまびすしく活気に満ちていた。今回は「死刑廃止」というテーマだけにいつにも増して盛り上がっているようだった。多数派の廃止賛成方は勢いづき、死刑は憎しみの連鎖を生むだけだ、刑罰で犯罪の解決はできない、犯罪者は社会の犠牲者だ、刑罰なら人を殺してもいいという法律こそ憲法違反、世界の趨勢に反する野蛮な制度、死刑制度は為政者の民衆に対する威嚇でしかないなどと意外にも論旨一貫した永遠の正論を展開し、犯罪の抑止には威嚇が一番、犯罪者を刑務所で長期間養なう必要がなければ税金の節約になるなどという、いかにも人聞きが悪い廃止反対の少数意見を圧倒していた。
それにしてもこの国には、こうも身勝手で無責任な意見ばかり持っている者のなんと多いことか。
 そうだね、私としてはやはり…と、部長が久々に自分の意見を打ち込んでみようと思い立ったとき、短い一文だけの意見に目がいった。「我らの答えはこれだ」とあり、名前も仮名もない。
そこにカーソルをもっていくとクリックの印が出た。部長は何の気なしにクリックしてみた。
と、写真が現れた。妙だな、なぜ写真が…掲示板には写真は載せられない仕組みなのに。
しかもこの写真も妙だ…
 
 退職した校長先生は目下、陰陽道に凝っていた。平安の昔の易学は現代を超越しつつ、なお現代にとって味のある示唆を与えてくれそうで、なまじな時事哲学より実用性がありそうに思えたのだ。図書館に行って本のオゾンに浸りつつ、あらゆる関連書から陰陽道を吸収するのが生にあっているのだが、いかにも小説やドラマに影響されているようで、誰も気に留めないのに気恥ずかしく、そこまでの行動を起こす気になれない。すなわち今は安易で無責任でいいパソコンの検索サイトに向かっていた。陰陽道の実効のありそうな道具、天中節について詳しく知ろうと思ったのだが、打ち間違えて天中殺を出してしまったところで疲れてきて、老眼鏡が見当たらないことにも気づいた。さっさとやめればいいのだが、老いの妙な義務感から無理をして打ち込むと、カテゴリーが一つだけ出てきた。もちろんまたしても打ち間違えていたのだ。
それに気づかぬまま、ひとつとは少ないものなのだなとクリックすると、いきなり写真らしいものが現れてきた。ディスプレイいっぱいの大きな写真が上から下に、むかって少しづつ現れてくる。
何気なく見続けていた校長先生は、やがてけげんそうに目をしばたかせ、老眼鏡を取りに立ち上がった。

 優等生の誉れ高いクラス委員長の目下の興味は宇宙だった。宇宙と比べたとき、地球の矮小さはどうにも我慢がならない。しかも人間はさまざまな問題をでっち上げ、その矮小さをさらに再分化させている。人類も地球も僕の生には合わない。将来は宇宙を相手に暮らすことに決めている。そこでとりあえず今必要なのは天頂儀だ。観測の緯度を性格に知るためには天頂儀がいる。
どんな種類があるのかパソコンで検索して調べることにする。このとき、乱視のメガネを、図体ばかりの、嫌なライバルに壊されて修理中だったことを思い出した。はっきりは見えないが、仕事に支障があるほどではないので、とりあえず打ち込んでみたが、手もとがはっきりしないため、打ち間違えていた。そして、ディスプレイに現れた写真を見て、あわてて机の中をひっかきまわして古いメガネを探し出し、そののち父親を呼びに行ったのだ。
 「なんだろう、これ?」
 ディスプレイに現れていたのは顔だった。
うつろな焦点の合わない目がこちらを見ている顔だった。
 「見たところ写真のようだが…」
 父親も薄気味悪さに衝撃を受けながら、まゆをよせぎみに言う。
一見して床板から顔を出してこちらをのぞいているように見えたが、よく見るとそれは床ではなく、木でできた小さな台で、その上に顔が乗っているのだ。
 「いたずらかな。」
 「いたずらだろう…おかしな写真を撮ってネットで流す奴はいるからな。」
 「きっとCGで描いたんだろうね。」
 「たぶんな。ずいぶんよくできているようだが…」
 「ほんとに切られた人間の首そのままだ。」
 「それにしてもリアルだな。作り物とは思えない。」
 木の台には血がにじんだあとさえ見える。
 「思い出した…この顔、見たことがあるよ、テレビに出てた。色が違っちゃってるけど、あの、小さな子供を何人も殺して、現場検証の場所から誘拐されたって言われてる、あの犯人に似てる!」
 「そういえば、そのような…下のほうに字幕が出てるが、メッセージはこれだけか?」
 「そうだよ、てん…この字なんて読むの?」
 「ちゅう、だ。天誅団…と読むらしい…
  『我らは天誅団、平成幕末を騒がす不埒者どもに天誅を加える。子供殺しの悪党をここに誅す。』」

第六章 警部補推参

 ヘリコプターは市街地の上空をぬけ、かなりの速さで進んでいった。
住宅の屋根が飛びしさると、田園地帯が通り過ぎ、たちまち畑作地帯も飛びのく。
ローターの音に驚いて小鳥の群れがちりぢりに散っていく。
ヘリコプターは一心に地上のあるものを追っていた。それはキラキラと光りながらくねくねと曲がり始め、やがて山並みの尾根に隠れたり出たりする。山は迫り、光る流れは細くなる。
川幅が狭くなってきたのだ。川原には石ころが増えてくる。
 「そろそろじゃないか。スイッチを入れてくれ。現場が見えると同時にレポートしよう、そのほうが緊迫感が出る。」
 レポーターはカメラマンにうながした。
 「もう着きましたよ。」
 パイロットがちらりと後ろを見ながら言った。
 「さすがパイロット、目がいいねえ。こんなに高いところからでも現場が見える。」
 レポーターはおせじのように言う。
 「前を見てください。」
 パイロットはこともなげに言った。
 前方を何機かのヘリコプターが行きかっていた。先客がいたのだ。
現場上空はすでに他社のヘリコプターが我が物顔に飛び回っている。
 「よし、じゃあいくぞ、カメラいいかな。」
 レポーターはライバルに臆することなく、マイクを持ち、二、三度せきばらいをすると、ヘリに乗る前に用意したメモにちらりと目を走らせながら、勢い込んでカメラをのぞきこんだ。
 「私は今、凶行があった現場上空に来ています。こちらがその現場です。
(カメラ、ズームイン)あの幼児殺害の容疑者が、現場検証中の場所から何者かに連れ去られ、二日後頭部を切断された無残な遺体となって発見された現場です。
 犯人は切断した頭部の写真を、メッセージとともにインターネットで全国の家庭に流すという、前代未聞の猟奇的かつ挑戦的な行為を行い、全国に衝撃を与えました。
そのメッセージとは『我らは天誅団、平成幕末を騒がす不埒物に天誅を加える』というものです。
これまた挑戦的で不敵なメッセージです。
 検索サイト会社では、このようなサイトの掲載を許可した事実はなく、なんらかの方法でもぐり込んだものと断言しており、ここからは手がかりになるものはつかめていないというのが、舞網署の発表です。
 犯人は天誅団と名乗る人物あるいは集団なのか、何のためにこのようなことをするのか…
 今、下の現場では、大勢の捜査官や警察官が現場検証とともに手がかりを探しています。」

 薄手の皮のジャケットを羽織った背の高い女が、長靴に釣り用のベストを着て釣竿を持った小太りの男を離れて、丸石の上を歩いてきた。細いジーンズがいかにもきゃしゃだが、歩き方はガンマンのようにしっかりしていて、化粧っ気のない顔は角ばっていかつく見える。
 「第一発見者のあの人、この下流の市街地に住むサラリーマンだといってますが、その発見者によると、渓流釣りをしに来て、この上空にカラスがたくさんいるのを不審に思ったんだそうです。発見者とガイシャやホシとの関連は薄そうです。」
 背の高い若い女は、大学生がレポートでも読むように警部補に報告した。
 目を見張るほどの好男子ではないが無視されるほど影が薄くもない、新人ほどのはつらつさはないが管理職ほど無気力にも見えない、スキだらけの服装はあまり気にかけてくれる人がいないのを物語る警部補は、吟味するように聞いていたが、つぶやくように口を開いた。
 「うまこちゃん、現場にむやみにすてきなヘソ出しファッションで来るのは感心しないな。そりゃ死体を見てるより君のヘソを見ているほうが気分がいいが、ここにいる男どもの捜査員全員の目が君の露出オーバーのウエストにはりついたままだったら困るし、だいいちカゼをひくぞ。」
 「何度も言うようですが、うまこではありません、マコ(馬子)です。ゆうべ遅くまで飲んでて急に呼び出されたんで、そのままの私服なんです。それに私はカゼをひくほどバカではありません。」
 バカこそカゼをひかないんじゃないか、と言おうとして耕下は思い直した。馬子は新人のくせに決してあやまったり反省したりしない。配属されたときから、試験で昇進できるのなら、二、三年で署長になってみせると言い切るほどの剛の者でもある。
 「若い女が遅くまで飲んでいてか、現代だねえ、榊さん」
 と相手を変えた。榊刑事ととなりの寺内刑事はおもしろくもなさそうに仏頂面を返し、うなづきもしない。
警部補は二人の先輩の無聊にも臆せず、茶飲み話でもするように気楽に話しかける。
 「どうですか、まちがいありませんか。」
 「ああ、間違いなく奴だ。」
 「俺たちが知ってるのは首と胴がつながってる奴だがな。」
 「それに目も二つとも入ってましたからね。」
 二人より一歩下がっていた鑑識の林田が答えた。
 殺害がここで行われたのはまちがいなかった。
幼児殺害犯は車でここに連れてこられて斬殺されたのだ。
川原の丸石の間に、平らな四角い台が打ち付けられた白木の杭が差し込まれていた。
台の上に赤黒いしみがあるところから、首はこの上にのせられて写真を撮られたことがわかる。
首はいませせらぎの近くに転がっていた。
鑑識班がさかんに写真を撮ったり距離を測ったりしている。
山のカラスたちが盛大な晩餐会を催したらしかった。首の目玉は二つともくりぬかれ、鼻の先も皮も肉も食い破られて白い骨が出ている。
唇も上の肉がなく、黄色い歯がむき出しだった。
胴体はそこから離れた繁みの近くに仰向けに寝かせらて、祈るように両手を組まされていたが、首の切り口は、これまたカラスがさんざんほじくったらしく、肉も皮膚もずたずたになっていた。
死んでからもカラスにいたぶられたというわけで、幼児を殺した殺人犯の最後は、本人も想像だにしなかったほどみじめなものだった。
 「まさかこんなことになるとはな。俺はてっきりこいつには我々の知らなかった仲間がいて、助けていってしまったのだろうと思っていた。」
 榊が下を向きながら苦々しげに言う。
 「おとといから係長とマスコミにどやされっぱなしだ。前代未聞の大失態だといってな。係長はいつだって前代未聞だ。しかしな、耕下、殺人犯を誘拐して首を切るなんてやつがこの世にいるなんて信じられるか。しかも大勢警官がいる前からだ。」
 「今なら信じられますね。」
 「何のためにそんなことをする。」
 「まあ、犯人の言うとおりだとすると、天罰を下すってことですか。神様きどりの変質者ってとこかな。自分たちで検察官も裁判官も執行官も、ロープの役までやる。しかし、舞網署で捕まえた犯人ですから、我々としてはトンビにあぶらげさわわれたって感じですね。」
 「いちばん頭にくるのはそこだよ。まだまだ野郎には聞きたいことがあった。あの事件は終わっちゃいないんだ。」
 「やはりこれはあいつの仕業だと思いますか?鑑識係に化けていた…」
 「もちろんかんでいることは間違いない。まったく俺も寺さんもまんまとだまされていた。それが一番の失敗だ…」
 責任と罰則に思い当たってたちまち榊の声が暗くなる。
 「しかし、なあ、寺さん…」
 と助けを求めるように寺内に言う。
 「あいつには、どうも、その、悪党らしいところはなかったよな…」
 「確かに…」
 寺内も思い当たったように言った。
 「長いことこの仕事をしていると、
悪いことをするやつは態度や顔つきですぐピンとくるものなんだが、あの若いのにはそれがまるでなかった。妙になじんだ感じで自然だった。
ピアスや茶髪はおかしいとは思ったが…モンタージュはもうできたろう。」
 「私ももう見ました。」
 「あそこにいた全員が目撃者だったからな。これ以上精度のいいモンタージュ写真はない。その目撃者が警官だったというのが情けないが。」
 「サングラスがとりわけハッキリ記憶されてたみたいですね。」
 モンタージュは、細面で精悍なスポーツ選手のような若者に仕上がっていた。
しっかり結ばれた唇が、一筋縄ではいかないような印象を与える。
しかし肝心の目が、黒いサングラスの下のため、全体の印象がはっきりしない。
 「心当たりはありませんか。」
 耕下はそれとなく言うように言う。
 「俺が、あの若造にか。」
 榊がきっと向き直る。
 「あるわけないだろう、見たのも初めてだ。」
 「寺内さんは?」
 寺内も耕下をにらみつける。
 「おい、耕下、お前、俺たちを疑ってるんじゃあるまいな。」
 「もちろん疑ってなんかいません。確認ですよ。念のため、うまこちゃんに榊さんと寺内さんの、一両日とここ一ヶ月くらいの動きをチェックしてもらいました。」
 軽く右手を振って馬子にうながす。
 「『マコ』です。お二人の立ち回り先とご家庭での様子を電話で確認しました。お二人とも普段と変わりありません。おとといから大きく落ち込んでいたことをのぞいては。」
 あっけにとられていた二人はたちまち怒り出した。
 「なんて野郎だ、自分の同僚、いや先輩を調べやがったのか!見当違いもはなはだしいぞ!こんなことをするなら署員全員を調べあげろ!」
 耕下はこともなげな態度を崩さない。
 「単なる確認ですよ。内部に手引きしたものがいると言われないための予防線です。もちろん署員の中にいつもと違った動きをしているものがいないかも調査中です。」
 「頭にくる奴だ。なんで俺たちがお前の取調べを受けにゃならんのだ。」
 榊は不満が大きな怒りと不安に変わりつつある。
 「取調べじゃありません。聞き取りですよ。なにしろ容疑者をいちばん近くで長く見ていたのはお二人なんですから。」
 「俺たちは被害者なんだぞ!」
 寺内もくってかかる。
 「重要な事件の容疑者をさらわれて殺害されてしまった警官は被害者ってことですね。被害届けはどうします?」
 「その態度が頭にくるというんだ。だいいち何でお前が担当なんだ?」
 「知りませんよ。係長に言われたんだから仕方がないでしょう。私とうまこちゃんは生活保安課なんですよ。たった二人の生活保安課がなぜこんな猟奇事件の担当にならなくちゃいけないのかこっちが聞きたい。幼児殺しの容疑者が殺されたんだから、同じ幼児殺し事件担当の一課の仕事じゃないかって言ったんですが、一課と刑事課は幼児殺し事件の立証に当たるから、人手がないって言われました。二つの事件は別だ、別個に捜査する必要があるとか言ってね。
キャリアには独自の価値基準があるんでしょうよ。」
 「それで、舞網署きっての名警部補どのは、もうとっくにホシのめぼしはついたってわけだな。」
 「ぜんぜん。まあ、おおまかなところ、神様気取りの変質者か、被害幼児の関係者の報復か、日本刀マニアの愉快犯か…」
 「日本刀?」
 「まだはっきりはしませんが、鑑識の話だと、傷口から、犯行には日本刀がつかわれたらしいって
ことです。もちろん榊さんも寺内さんも暴力団の取り締まり何度も経験しておいでだが、日本刀がらみの事件はない。さっきうまこちゃんにメールで署に確認してもらいました。」
 「おまえ、そこもチェックしてたのか!イヤミな奴だな。」
 先輩と渡り合って立場がよくなさそうに見える耕下のようすは、馬子のなけなしの義侠心をいささか刺激した。ここは割って入って話をそらして、助け舟を出してやろう。
舞網署に配属されて以来、榊はハゲという印象しかないし、寺内はヒゲという印象しかない。
耕下もうだつのあがらない万年ヒラ社員といった程度の印象なのだが、ハゲやヒゲよりはいくらか好感が持てる。
 「あ、あのう、例のメッセージにあった天誅団や平成幕末ってどういう意味なんでしょう。」
 誰にともなく言いかける。
 榊も寺内もちょっと馬子に顔を向け、寺内は馬子のヘソに目をやったが、二人ともすぐ横をむいてしまい、関係ないとばかり答えようとしない。
 「幕末はもちろん江戸時代の終わりのことだろうさ。尊王攘夷派や佐幕派が入り乱れた動乱の時代だ。お互い敵対する派の要人を暗殺し、その首を鴨川べりあたりにさらすことが流行した。
たぶんここで行われたようにね。しかもたいてい『天誅』などという張り紙をしてだ。
この事件はもちろんそのマネだ。」
 耕下が面白くもなさそうに解説した。
 「じゃあ犯人は時代劇マニア?」
 「さあね、なんで平成が幕末になるのかも意味不明だ。幕末を現代になぞらえたつもりなんだろうが…天誅団というのも、そのころいろいろあった武装集団のひとつの名前かもしれない。
よくはわからないが、これはきっと…」
 「ルールルル…」
 重苦しく緊迫しなおかつ騒然としている山あいの川原の空気を見事に能天気に切り裂いて、明るくさわやかな電子音のメロディーが響き渡った。
 「おっと」
 馬子はジーンズのポケットから小さい折りたたみ携帯を取り出すと、話し続ける耕下の前からさっと飛びのき、さっさと一行に背を向けると携帯に顔をぴったりと押し付け、小声で一心に話し始めた。
モデルのような着こなしのモデルのように背の高い女が、長い髪をなびせて、モデルのように堂々と携帯で話すさまは、凄惨な殺人現場の只中にはどうにも似合わない。
 と、馬子はいきなり携帯を顔から離し、右手でささげ持つようにして耕下に近づいた。
 「警部補に電話です。」
 「俺に?誰から?」
 と聞く間もなく、馬子は耕下の手に携帯を押し込んだ。
 「はい…もしもし?…」
 とまどいがちにまだ馬子の腰と手のぬくもりが残っているプラスチック片を耳に当てる。
たちまち絹のようななめらかな声が朗々と響き渡った。
 「君が自分のものを持たないで、いつも碧馬子巡査長の携帯を借りるのは、馬子女史の携帯の着信とメールをひそかにチェックするためじゃないのか?」
 何でも知っているものわかりのいい上司のような言い方だ。耕下も反射的に反応する。
 「大物は携帯なんてチマチマしたものを持たないのさ。総理や大臣は携帯で話したりしないだろう。」
 相手も場慣れした応答を続ける。
 「君は大物とはいえないだろう。たしかに舞網署ではこまごました事件をよく解決している腕利きかもしれないが、このところ昇進試験も受けていない。大物になる足がかりもできていないよ。」
 「この前行った風俗店の女の子はすっごい大物って言ってくれたぜ。ところで、あんたは何者だ?」
 ヘリコプターの音ごしにまたしても朗々たる声が耕下の耳に満ちてくる。
 「辺田和門というものだ。現在サッドの特別捜査官をしている。」
 「サッドって何だい、新しいサラ金か?」
 特別捜査官と名乗った男は耕下のわざとらしいおちゃらけをやすやすと聞き流して、ドキュメンタリーのナレーターのように話し続ける。
 「『T・H・A・D』…Terrorist High Against Division、対テロ高度対策室だ。
内閣官房に属する特別特命部局でね、アメリカのテロ以後設置が検討されてきたが、今年やっと立ち上げた。今は私ひとりしかいないが、まもなく実行部隊もそろう。
君のデスクの上のパソコンにも、かなり前から連絡事項として、本庁から流されているはずだ。」
 そういえばそんな一行を前に見たような気がしたが、耕下には興味がない。
 「あれはTRTというんじゃなかったっけ?」
 「それはテロの被害者を救済する機構のことだ。私の、いや我々のはテロを未然に防ぐのが目的だ。」
 ヘリコプターの音がいちだんと激しくなり、捜査官の声が聞き取りにくくなった。
ローターの巻き起こす風を感じ始める。耕下は馬子に手を振りながら大声で言った。
 「ちょっと離れたところからブン屋たちのヘリコプターに合図して、ここからどくように言ってくれないか。うるさくて話が聞こえないんだ。」
 馬子が身振り手振り豊かに上に向かって合図しようとしたとき、例のなめらかな声がそれに答えるように言った。
 「その必要はない。上にいるのは私だ。わかった、ちょっと離れることにしよう。君、上昇してくれ。」
 耕下の真上にいたヘリコプターはすこし上昇し、機影が小さくなった。
なるほど、新聞社やテレビ局のヘリとは少し違っていた。
白・黒・灰色のまだらの都市部用パターンのカモフラージュ塗装がほどこされ、いくぶん小さい。ガラスの風防は金魚鉢のようにまん丸で、全体としてトンボのような印象なのだが、見るからに小回りがききそうで、素早そうだ。
 「あきれたな、そんなところにいたのか。ずっと俺たちを見ていたってわけだ。」
 声から感じたとおり油断のならない相手のようだった。ヘリコプターの中の影が手を振る。
 「都市部の見回りや現場に急行するのにはこいつが一番いい。わが部局最初の大きな備品だよ。こいつに機関砲を取り付ければ鬼に金棒だ。」
 「警察のヘリは武装は禁止されてるぜ。」
 「我々は警察ではない。警察よりも権限も行動範囲も態度も大きい。」
 辺田捜査官は堂々と言い放った。耕下も目を細めて上を見上げながら軽く手を振る。
 「見損なって失礼した。で、その捜査官どのは、本日は特殊ヘリの性能を自慢にこられたわけですか?」
 「もちろん君の担当の事件に興味があるのさ。」
 「変質者の首切り事件がなぜテロ対策室とつながるんです?」
 辺田捜査官の声はヘリコプターのローターの音とまじり、こだまするように聞こえてくる。
 「君は、この事件はありきたりの猟奇事件と決めたいようだが、どうもこの一件にはテロのにおいがする。」
 「幼児殺害犯に対して誰がテロを?やはり恨みを持つものと考えるのが自然でしょう。」
 「まず、容疑者側は複数で、組織だっていることをうかがわせるいくつかの注目すべき点がある。犯行声明で『我ら』と名乗っている点も注目されるが、まず、鑑識係に化けていた人物の着ていたジャケットだ。ここ何年も本庁からジャケットが盗まれたという事例はない。つまりそれは手製ということだ。現在のジャケットは複製を防ぐため複雑な仕上げとなっているはずなのに、現職の捜査員でさえ本物と見分けがつかないほどよくできているということは、かなりの縫製技術だ。」
 「裁縫好きの犯人というのがいてもおかしくない。」
 「もうひとつ。犯行はきわめて計画的だった。現場にはおそらく妨害電波が流れていたものと思われる。」
 そのとおりだった。あのとき、警視庁の鑑識係のジャケットを着た茶髪の男に違和感を覚えた、舞網署の榊刑事と、鑑識の林田主任はその場で一応本庁に確認の一報を入れたのだが、電話も無線もつながらなかった。
ビルがまわりに建て混んだ都会の空き地ではときたまこんなこともあるので、二人ともそれ以上は確認しなかったのだ。
 耕下は初めてちょっと感心した。この男は自分よりいくらか上手かもしれないと思った。
きっとこいつは俺よりかなり年長だ。額が広くひいでて、背が高く、やせぎすで、ヘビースモーカーで、地味だがトラディショナルな格好をしているに違いない。
 「ずいぶん詳しいですね。うちの署に来て、係長や榊さんに会ったんですか?」
 「ヘリに積んであるコンピューターのおかげさ。詳しくは話せないが、こいつの性能もヘリ同様群を抜いている。どこにでもアクセスが可能だ。近頃の住基ネットのおかげで、ここから全国民の情報もわかる。別れた君の奥さんの近況を知ることだってできる。なんならその携帯に送ろうか?」
 「ご好意ありがたいが、そこまでしてもらういわれはないね。」
 耕下ははるか上空で気持ちよさそうに浮かんでいるヘリコプターをにらみつけた。
ようするにこの捜査官はコンピューターをいじるだけで、偉そうに断言しているにすぎないのだ。現場主義の自分のほうがまだ理にかなっているし現実的だ。
 耕下の反発を小指で軽く押しのけるように捜査官は続ける。
 「犯人をバックアップするものがいると推察できる以上、現場には何も証拠は残していないはずだ。誘拐現場の空き地にも、今君が立っているまわりにも」
 辺田の言うことはいちいち当たっていた。
かれこれ3時間以上捜査員たちが川原の石の上を這いずり回っているのに、手がかりらしいものは何一つ出てきていない。首を置いていた台はどこにでもある木材で、誰にでも作れる程度のしろものということだった。
 いまいましく眉をひそめる耕下を、さらにいらだたせるように携帯の声がうながす。
 「で、耕下警部補はどのように捜査を進めるつもりですか?」
 耕下はひらきなおりかげんに答える。
 「インターネットにも手がかりがないとすると、定石どおり管内の変質者の前歴を洗うのと、殺された子供の親族の関係、そして日本刀の不法所持の前科のある暴力団関係を地道に洗っていくのが筋じゃないかな。」
 「暴力団関係というのはいい線だ。私ならもちろん右翼団体も忘れないね。これはほんの憶測の域にすぎないが、外国の工作員ということも考えられる。あちこちで刺激的な騒ぎを起こし、わが国の世情を不安にするためだ。」
 「あんたはどうも変質者の変態的な犯罪を無理やりテロに結び付けようとしているように思えてしかたがないんだが。新設された部署ではりきっているのはわかるが、それだけあんたの部署がヒマで仕事を探してるってことですか?」
 耕下の問いかけに捜査官は、ローターの音とともに低く遠ざかっていく声で答えた。
 「じつは私が一番注目したのは、メッセージにあった、犯人の自己紹介ともいうべき名前だ。天誅団というものは実在しなかったが、天誅組という集団は実在した。江戸幕末に脱藩士が結成した倒幕尊攘の過激派だ。一年足らずで壊滅させられたが、武力倒幕の先駆だった最も過激な集団だ。」

第七章 ガイシャの怨

 捜査をはじめてまもなく、耕下は事件が辺田捜査官のねらいどおりに進行していくかもしれないと不安になりはじめた。耕下がいちばん可能性があると目標に定めていた変質者の犯行のセンが薄れはじめたのだ。刃物を使った事件であげられた変質者は舞網署の管内ではこの十年でひとりだけ。この男は保釈中で、現在も署がマークしていて、あやしい動きは見受けられないという。 都内に範囲を広げてみても、疑われるのは五人の男程度。しかも一人は服役中で、一人はすでに死亡、二人はいずれも精神病棟に収監され、治療中、残る一人も通院治療中でおとなしいという。そのうえ、全員がナイフやカッターの事犯で、日本刀のような大きなものを扱った経験はない。都内には未解決の、刃物を使った通り魔的な事件があり、二件とも現在捜査中だが、いずれも街中でカッターを使って女性ばかりを狙ったものであり、日本刀には結びつけにくい。
 舞網署の鑑識は、あの川原の斬首事件は日本刀によるものと断定していた。切り口から見て、日本刀にまちがいない。しかし、裁断機で切ったと見まがうほどの鮮やかな切り方は、よほど日本刀の扱いに慣れたものの仕業だろう…
 日本刀を所持して犯行に使う可能性があるものとすれば、やはり暴力団。舞網署管内をふくめ、都内で銃刀法違反であげられた暴力団はこの十年で、小さな組ばかり十五件。そのうち十件がピストルで、二件がピストルとドスなどの短刀。日本刀をふくんでいるものは三件だった。
 辺田捜査官の言った右翼団体を加えると、その数はいくらか増える。右翼団体で日本刀の所持で逮捕されたものは三団体。
 犯行声明らしいものの中にあった『天誅団』という、名前からしていかにも右翼的な表現であり、団体であれば辺田の言った組織だった犯行も可能だろうし、自分たちの行動をPRしたがるのもうなずけるので、いちばんあやしいとはいえる。彼らの武器はいずれも警視庁に押収されてしまっているが、ピストルが無数に出回っているのは国民公認の事実だから、日本刀もそれなりに出回っているはず、と刑事課はひとごとのように言っている。これらの組や団体は再武装している可能性もある。
 そこでこれら前科のある組や団体に絞って、その構成メンバーについて、本庁や各所轄署のデータにアクセスしてみたが、人の首を一刀で斬れるほどたくみに日本刀を使いこなせる剣道、居合道の巧者となると皆無だった。彼らは日本刀を脅しや護身用や見せびらかしの道具としてだけ持っているのであり、それを、それがつくられた本来の目的のために使おうなどとはほとんど思っていなかった。刀剣の収集家となると本庁にすべて登録されており、即座にアリバイが出てきた。 それでも馬子と二人、リストアップされた二、三の組にあたってみたが、やはり結果ははかばかしくなかった。
 いまどき日本刀を抜くような目立つまねをして、しかもサツに捕まった奴の首を斬るなどという意味のないことをしでかすイカれた組員なんぞいねえ、ヤク中なら刀を振り回すくらいはするかもしれないが、そんな奴は組も会も即破門だ。組は仕事をしなきゃならないんだぜ、変態のつどいじゃないっての。
 日本刀のセンでいくと手詰まりになりがちだったが、日本刀は別にして、もうひとつ耕下がにらんでいたのは、殺された子供たちの親というセンだった。
 首を切ってさらし、それをインターンネットにのせるなどというのは、なまなかなことのなせる業ではない。しかし、凄まじいばかりの憎しみがあればそれほど難しくはないだろう。わが子を無残に殺害された親であれば、その容疑者に対する怒り、憎しみはどんなことも可能にするはずだ。だが、悲しみの中で、ある程度の冷静さを持って、それを実際に行動に移せるものだろうか。
 子供の親のセンを洗うのはさらに容易だった。まだ榊と寺内のチームの捜査線上にあったし、榊と寺内も何度もこれらの遺族を訪問し、すべての遺族をすっかり知り尽くしていたからだ。今回の、容疑者殺害の詳細を報告にいったとき、どの遺族も一様に驚きと虚しさをもって迎えたという。これで自分の子供が巻き込まれた事件の全貌を解明するのは不可能になった、とつぶやく親もいた。いま犯人に死なれたところで、子供は帰ってはこないのだ、と多くの親がうなだれた。
 しかし、当然のことながら、犯人に対する同情などは一片もなかった。むしろどの親にもある種の安堵感があったのだ。のうのうと生きていられて、罪の償いをするなどとふざけたことをうそぶかれるよりは、死んでくれたほうがはるかにいい。死んで当然の奴なのだ。殺した奴は誰だっていい。
 榊・寺内両刑事が声をそろえて言うには、「復讐のために大胆なことをしでかそうなんて人は一人もいないよ」ということだった。
みんなごくふつうの、法律にそって生きているまっとうな人ばかりだ。むしろ子供を失った悲しみにすっかり打ちのめされ、立ち上がれないほどうちひしがれ続けている人がほとんどだという。しかし、悲しみの中で怒りの牙を研ぐ人がいないとは言い切れまい。悲しみを憎しみに昇華させたり、報復の義務感にさいなまれ、悲しみを忘れるために行動を起こそうと考える人だっているだろう。
 耕下は実際に彼らに会って、耕下の角度から聞いて見ることにした。
 それならまず岡崎さんに会ってみるといい、と榊がアドバイスした。岡崎さんは容疑者が逮捕されたとき、舞網署に押しかけ、取調室の外で、犯人に会わせろと怒鳴り散らした。取調室に入ろうとして、署員に取り押さえられたが、そのとき取調室の中に向かって、必ず殺してやると叫んだ。激しいところのある人だ。でもいまは遺族の会をつくろうと、同じ被害者の家族を慰める役を買って出ている。
 岡崎に会ってすぐに耕下は、自分の初動捜査は壁にぶつかっていると感じた。
 がらんとしたマンションの一室の遺影の前に、岡崎はぽつんといた。
 「最近みんな(被害者の親たち)のところを回ってるんで、会社を休みがちなんですよ。家内は実家に帰ってまして、お茶も出さないですみません。あれ(妻)もちょっと参ってまして…」
 耕下は会ったとたん、この人は容疑者斬殺には何の関係もないと直感した。榊の言ったとおりだった。大切な人を失ったものは、誰でもこのような顔になるものなのだろう、顔には何かが欠けていた。どこかうつろでしっかりと焦点が合っていなかった。この空虚さはこれから何年にもわたってこの人の表情になるのだろう。
 この人はかかわりないとわかっていても、聞き込みにやってきた以上、刑事の本能として聞かないわけにはいかない。しばらく近況などあたりさわりない話をしてから、
 「容疑者の首を切断した人物に心当たりはありませんか?」と切り出してみた。
 岡崎は黙って首を振ったが、ふと思いついたように
 「私をお疑いですか」と問いかけてきた。
 「いや、単なる聞き取りです。思い当たることはないかと思いまして」
 「お疑いならお調べ下さい。調べればすぐわかります、私にはそんな、人を殺したりする能力は全くないことが。人と対決する度胸すらもない。
 刑事さん、子供を失った悲しみのほかに、それと一緒に今私をさいなんでいるものは何だかわかりますか。それは自分の弱さです。自分の弱さに対する自分の怒りです。私は自分の弱さを思い知ったんです。情けないほど弱い、勇気がない、子供が殺されて犯人が捕まったというのに、何もできない、何もしなかった、ただめそめそ嘆き悲しんでいるだけでした。あのとき、刑事さんたちを押しのけ、取調室の中に入って犯人の首をしめてやるべきだった。それが子供を無慈悲に殺されたものの義務だったはずだ。ところが私はしなかった。
 どんなときでも誰に対してでも法律は守らなければならないという正義の自制心からではなかった。臆病なだけだったんだ。私には勇気がなかっただけなんだ。
 だから…今となってしまっては…見当違いかもしれないが、私は子供に対するほんのすこしのつぐないとして、同じ被害に遭った人たちを回って励ましているんです。」
 「いや、自制なさったことは正しい。怒りにまかせて我を忘れては犯人と同じ畜生になってしまいます。犯人の追及は法律と我々の役目です。ご自身で復讐をしてもお子さんは喜ばないでしょう」「実を言いますとね、刑事さん、私はあいつが首を切られて死んだと聞いたとき、手を打って喜んだんです。仕返しをすることができた、子供の仇討ちをすることができたとね。
 誰かが自分のかわりに、勇気のない自分のかわりに、私のしたいことをやってくれた、世の中に神らしいものはいるんだと感謝しました。刑事さん、あいつは、あの人殺しのくそ野郎は死ぬときに苦しんだんでしょうか。」
 耕下はいささか閉口してきた。
 「両脚にたくさんの擦り傷がありました。首を切られまいと逃げようとして、かなり暴れたようです。」
 「めいっぱい苦しんだわけですね、それはよかった、ざまあみろだ、私の子供の何倍も苦しんでくたばってもらいたい。
 刑事さん、今の世の中には、私たちのように一方的に被害に遭って苦しんでいるものがまだまだ大勢いる。あいつを殺した連中にもっとやってもらいたい、勇気のない私たちのかわりに、もっともっと悪党をたたっ殺してもらいたい」

第八章 窮鼠の抗

  (三週間前)

 「第二回はあんな態度じゃ絶対だめだぞ。もっと被告人らしくしおらしい振る舞いに徹するんだ。前かがみに、目を伏し目がちにして。君のとった態度は正反対じゃないか、あれほど言ったのに。」
 弁護士・塙は額にうっすら汗を浮かべながら、目の前の、まだにきびの残る、どこかネズミを思わせる若者に向かって必死で言っていた。
 若者は小さな机に頬杖をつき、顔も目も塙とは反対の方に向けていて聞いている様子はない。「ちゃんと聞くんだ、さもないと…」
 「聞こえてるよ、うるせえな。キーキーよくしゃべる先生だ。それよりあんたタバコ持ってねえか」
 若者は顔を横に向けたままうるさそうに答えた。
 「私はタバコは吸わない」
 「ちっ、気が利かねえな。差し入れでもってくるのが礼儀だろう」
 「君はまだ未成年じゃないか、こんなところで公然とタバコを吸うのはまずいだろう」
 「へっへっへ」と鼻で笑ってから、若者は
 「だったら外で立ってるおまわりにもらいな」と続けた。
 「何だって?」
 「おまわりにタバコをもらえって言ってんだ。何度も言わせるな」
 若者は目だけ塙のほうへ向けながら言った。
 このとき塙には、この若者が見たこともない爬虫類に見えた。今まで父親以外の誰に対しても、こうして命令をし続けてきたのだ。もちろんあの哀れな被害者たちに対しても。
 この若者ほど、その背後にあるものの威を借り、それを権力のように利用し続けてきた者もいないだろう。羊の群れのような一般人社会、子猫の群れのような学生たちの中では絶対的だった。
ゆすり・たかりには暴力団の名前は錦の御旗のような効果を発揮した。そうして、こまごました悪事を地道に積み重ねてきた結果、この若者には、十人並みの大人程度では太刀打ちできない、悪党としての威厳が備わるようになっていた。
 いま塙は、若者の鋭い目で見据えられて、ひどく落ち着かない気分になって、ちらりとドアのほうを見た。
 塙がこの種の業界を進んで担当するのは、もちろんこれがはじめてではない。
この種の客筋はみんな金持ちで、なにしろ実入りがいいので、危険手当の分も軽くクリアできる。しかしこの業界のみに予想できる不測の事態、たとえば巻き添えや、そして見境のない狂気などには警戒せざるを得ない。
 ドアにあるのぞき窓のような小さなガラス窓が、小さな部屋の小さな机や無機質なイスとあいまって殺風景さを際立たせている。
 塙は第一回口頭弁論閉廷後、どうしても被告人の少年・九頭真吾と打ち合わせがしたくて、護送車で拘置所に送られる前の五分間だけ、裁判官に頼み込んで、この地方裁判所の小さな一室で対面していた。ドアの外では護送の係官が看守のように立っている。
 第一回口頭弁論は失敗だった。
塙があれほど被告人の未熟さを強調し、情状に訴えかけたのに、被告人の傲慢で不遜な、全く怖れるもののないといった強がりともとれる態度はすべてをだいなしにしてしまった。退廷前の裁判官の眉間には、あきらかに怒りのタテじわが刻まれていたのだ。
 塙はほんとうにドアの外の係官にタバコをもらうべきかどうか考えていたが、タバコで少年が少しでも素直になるならと自分を納得させ、ドアをちょっと叩いて開けさせながら言った。
 「タバコを一本もらえませんか。じつはちょっときらしてしまってね」
 係官が肩をすくめながら一本差し出したのを受け取ってドアを閉め、少年に差し出す。
 「タバコっていったら火もだろう、マッチももらいな」
 塙は自分がヤクザの息子の使用人になったようなみじめな気分になったが、自分を抑えて言うとおりにした。
 にきび面の若者は、さもうまそうにタバコの煙を肺いっぱい吸い込んで、ニコチンの毒のおかげで気分がよくなったとでも言わんばかりに、くっくっと思い出し笑いをかみ殺しながら機嫌よく言った。
 「判事の野郎にガンつけてやったぜ。なあ、俺が思い切りにらんだときの判事のツラを見たか。野郎、明らかにビビッてたぜ。何が判事だ、笑わせるぜ、おめえみてえなそこらのオヤジに裁かれてたまるかっての」
 「はじめから終わりまでそんな調子だから、どんどん印象が悪くなってしまうんだ。私がいくらがんばっても当の本人の君がそうでは、まるで意味がない」
 「心配すんなよ、やつらはほんとは怖いのさ。判事だって人間だ、内心じゃ組や殺し屋は怖くて仕方がねえ。ビビらせときゃ、仕返しが怖くて、まともな刑になんかできるもんか。あんただってわかってるだろう、横領や収賄には重いが、殺しは思ったほど重くねえってのが通り相場じゃねえか」塙はさすがにムカついてきた。この小僧は自分の理屈で世の中が回ると思っている。
 「反省の態度がないと実刑の刑期に影響すると言ってるんだ」
 若者はいっこうにひるむ気配がない。
 「おいおい忘れたのか、俺はまだ少年だぜ。
少年法っていうあんたよりうんと頼りになる味方がいるんだ」
 「しかしやったことは殺しだ。仲間はみんな罪を認めて反省しているというのに、主犯の君がそんな態度だから世間も騒ぐ」
 「やつら生意気だったからさ。優等生づらしやがって、いい気になって逆らうから、ヤキを入れてやったんだ。まあ、はずみってやつさ」
 九頭真吾は小学生のころから、ヤクザの息子だということをかさにきて、脅しやゆすりを繰り返してきた。怖がる顔を見るのが好きだった。脅えるやつらをいじめるのがおもしろくてたまらなかった。王道を歩む裏の世界のサラブレッドというより、生まれついての残忍な異常性格者といったほうがいいかもしれない。父親の九頭竜太は、息子をどう思って弁護を頼んだのだろう。
 「はずみで、親が遺体を判別できないほど殴ったってのか」
 「ま、少しはずみすぎたかもな。でもな、助けてくれってわんわん泣きながら命乞いをする奴に、いやだねと言って、そいつのツラのど真ん中に蹴りを入れてやるってのは最高の気分だぜ」
 聞いていて塙はさすがに気分が悪くなってきた。こいつは弁護する価値すらない正真正銘の害虫だ。
しかし好き嫌いはそれはそれとして、これは仕事なのだ。しかも大金が稼げるいい仕事なのだ。相手はどうあれ、仕事を手際よくこなして見返りを得ることだ。
とにかくこのろくでなしに自分のいうことを理解させなければならない。
 「いいか、よく聞くんだ。世間やマスコミが少年法改正を持ち出して久しい。この裁判が続くうちに法案が通ってしまって、結審するころには判決が予想以上に重くなっているってこともありうるんだぞ」
 思えば、こんなやつと面と向かって、机をはさんでイスにすわっていたのは自殺行為に等しかったと塙は早く気づくべきだった。
 にきび面の少年悪党は、やにわに手錠のままの右手で塙の髪をむんずとわしづかみにすると、そのまま塙の横っ面を机の上にいやというほど叩きつけた。さらに二度三度四度、叫び声をあげるひまもなく、何が起こったかわからぬまま、真吾のなすがままに振り回される。塙の頭が机にぶつかる音がにぶく小さな部屋全体に響き渡った。
 「やかましい!この野郎!黙って聞いてりゃうだうだごたくを並べやがって!罪をうんと軽くして無罪にするのがてめえの仕事だろうが!どうせオヤジから何千万もふんだくったんだろう、つべこべ言わずに金の分だけ働きやがれ!」
 たちまち狂犬の本性があらわになった。
こいつは狂ってる、完全に狂ってる、塙はようやく理解した。
しかし猛り立った凶暴さは容易におさまらない。そのまま素早く立ち上がると、今度は塙の襟首を捕まえ、身体ごと振り回して部屋の壁にぶっつけはじめ、さらに塙の腹に膝でキックをみまう。
「いいか、さっさと俺をここから出すんだ!こんなブタ箱はもうたくさんだ、いますぐ出せ!出さないと、お前も、お前の家族も、指をつめるどころか、手首をみんな切り落としてやるぞ!」
 中の騒ぎが聞こえてかどうか、コツコツと外からとを叩く音がして、
 「時間だ」という係官の声がした。
 真吾はとっさに塙を抱え上げてイスに座らせ、自分もイスに座ってなにくわぬ顔をきめこんだ。直後に戸がゆっくり開いて、長身の係官が姿を現し、
 「九頭真吾、前に出ろ」とうながした。
 真吾は出ていきざまに、振り返りもせずに、机につっぷしている塙に
 「言われたことはちゃんとやれよ」
 と一言残して部屋の外へ消えた。
 塙はしばらく立ち上がれないでいた。
あんな奴の弁護を引き受けたことを心の底から後悔していた。しかしここで投げ出せば、あいつの言ったとおり、ただではすみそうにない。
 よろよろしながらやっと立ち上がり、もつれる足をひきずりながら部屋を出た。
 もしここで冷静になれれば、殴られていなくて、あたりに気を配る余裕があっていれば、真吾を連れに来た係官が、さきほどタバコをもらったのとは別人であったことに気づいていただろう。また廊下を歩いて帰るとき、顔や腹の、したたかな打撲による痛みに気をとられていなければ、となりの小部屋から聞こえてくるかすかなうめき声~下着姿の五人の男が手足をテープで縛られ、口にも粘着テープをされてうめいている声~に気づいていたろう。


 塙をさんざん痛めつけてやったせいで、久々に残忍な闘争心に火がつき、すっかり興奮して我を忘れがちになっていたおかげで、車が走り始めてからだいぶたつまで、真吾は様子が少しちがっていることに気がつかなかった。
 この護送車の後部座席~運転席と隔絶された、左右の長いベンチが向かい合って、何人もの警官が一人の犯人を見張ることことのできる後部座席には、彼と一人の警官の二人しかいなかった。いつもなら二人の警官が彼の両脇に座り、残りの一人が向かい合った席に陣取って、暗い目で無言で彼を見つめるのがふつう~来たときもそうだったというのに、帰りはずいぶんと手を抜いたものだ。
 しかもこの警官ときたら、着ている濃紺の略服がいかにも大柄な身体に合っていず、髪ものばしほうだいの上に、サングラスまでかけているというなんとも警官ばなれした風体だった。来たときいた警官とは違う。
今日日すべての警官がいかにも警官らしい格好をしているというわけではないのだろう。底知れない濃い色のサングラスが身じろぎもせず真吾を見続けている。
 真吾はふんと鼻をならすと、おもしろくもなさそうに横を向いた。こんな奴とは口もききたくない。拘置所の中でも何一つおもしろいことはないが、それは護送中の車の中でも同じことだ。やたらと時間だけが長く感じられる。真吾はふと窓の目隠しの隙間から外をのぞいてみた。
茶褐色や緑がどんどん流れていく。
もう街中ではないのだ。そういえばなかなか拘置所に着かない。
 ハッと思い当たって警官に向き直った。
 「あんたたち警官じゃないな」
 サングラスからは何の表情も読み取れないが、長い金属的な顔をより不敵に見せている、真一文字に引き結ばれた唇の右端がにやりと上にゆがんだ。
 「おまわりは?拘置所のおまわりたちは?」
 「まだ裁判所で寝てるさ」
 サングラスが初めて口をきいた。低く重い声だ。
 「そうか、そうっだたのか!オヤジだな、オヤジがとうとうやってくれた!さすがオヤジだぜ、プロの兵隊をつかってくれた。ヒャホー!出られたぞ!」
 真吾は手錠のまま手を叩き、腰を浮かせて飛び上がった。
 「そうとも、オヤジが指をくわえて黙って見てるわけがない、あんなバカ弁護士にまかせっきりにしておくわけがない、なんたって俺は九頭竜会の跡取りだからな。正統な二代目がいつまでもおまわりの世話になってちゃ、体面にかかわるってもんさ。
 それにしてもいいところで出してくれた。くそブタ箱なんぞもううんざりだ。ざまあみろ、間抜けおまわりども、くそ判事も!まんまと出てやったぜ!」
 警官の衣装を着たサングラスの男は、人差し指を口に当てて、シーッとたしなめるようなしぐさをした。はしゃいでいた真吾は我に返り、ことさら素直に言った。
 「わかった、わかった、もう騒がねえ。そうとわかりゃひと安心だ。着くまでおとなしくしてるよ。」
 にやにやしながら座席にふんぞりかえると、鼻歌をうたいだした。

 
 たいして座り心地のよくないベンチ式の後部座席が、ガタガタとたて続けに止まることなく揺れ続け、真吾は目をさました。
緊張がとけていたために、いつの間にか眠り込んでいたらしい。
 護送車は岩だらけの荒地でも走っているように揺れる。
うかうかしていると座席からも振り落とされそうになる。
と、ひときわ大きく前のめりに揺れて、動かなくなった。
 「ついたぞ」
 という声とともに、警官に化けた男は後部ドアを開け、さっさと外へ出て行った。
 真吾もそれに続いて車の外へ飛び出す。
 とたんにごつごつした石の上でバランスを失い、倒れそうになった。
丸いふぞろいの大きさの石が一面に敷きつめられている。
新鮮な空気のにおい、途切れることのない瀬音に満ちていた。
川原だった。
 真吾が予想していた、ほんのしばらくの間だけ身を隠すための居心地のいい隠れ家でもなければ、ほんの少しの間高飛びしているための飛行場でも港でもなかった。
そこは、曇り空で夕日も見えないが、夕闇せまる川原だった。
 真吾を連れてきた二人の男は、すばやく似合わない警官の制服を脱ぎ捨て、車の中にほうりこんだ。
真吾の前に座っていた、波打つ長髪の男は、思ったとおり背が高かった。
黒っぽい上下のスーツに、ネクタイのない白いシャツ。
そのまま街を歩けば、どこかの組の兄貴分としてかなりニラミがききそうだ。
 若く見えるもうひとり、車を運転してきたほうは、カールした髪を茶色と金色のまだらに染め、灰色のトレーナーに擦り切れたジーパン、履き古されたスニーカーという、どこにでもたむろしていそうな若者の格好だった。少年らしさの残るきびきびした動き、白い顔にアクセントのように、金色に右耳たぶに光るリング状のピアスが妙に印象的だ。
二人とも、その顔を横切るように細めの濃いサングラスをしているので、表情は読みとれない。
 「おい、ここは川原じゃないか。なんでこんなところに…」
 真吾は妙に景観にマッチしている二人に向かって言ったが、すぐに
 「そうか、ここで乗り換えか。念が入ってるな、さすがプロの仕事ってわけか」
 と納得した。
 「じゃあ、ひと息いれるとするか」
 と大きくのびをしようとして、まだ両手が手錠につながれていることに思い当たった。
 「おい、こいつをはずしてくれ」
 両手を差し出し、アゴで指図すると、黒服の男がふところからカギを取り出した。
真吾は男がカギをはずすのを待ちきれないように両手を手錠からむしりとると
 「くそ野郎め、もう二度と手錠なんかかけられねえぞ、こんどはもっとうまくやるからな」
 と言って、手錠を川めがけて高く放り投げた。完全に自由になった真吾は上機嫌で言った。
 「あんたたち、いい腕してるぜ。手際がいい。フリーかい?オヤジはいくら出した?なんなら今後俺の兵隊にしてやってもいいぜ。俺がオヤジに頼み込んでやるよ。さあ、お兄ちゃん、タバコもってねえか」
 茶髪が首をかしげて手を振る。
 「ちっ、気がきかねえな、それじゃあ俺の兵隊はつとまらねえ。主人の好みはよく勉強しておかなくちゃな。まあ、いい。で、いつまでここにいるつもりだ、もう別な迎えが来てもいいころじゃねえか」
 「ここで終わりだ。ここがお前の終点だよ、九頭真吾。」
 黒服の男がぶっきらぼうに言った。
 「ハア、何だって?」
 「ここが終点だと言ってるんだ。
あれが三途の川ってわけさ。お迎えはまもなく来る。俺たちは送る役だ。」
 「何だと、おい、言ってる意味がわからねえぞ」
 「お前は二人の高校生を殺した、なぶり殺しだ。なのに少年法とやらに手厚く守られ、国家から庇護されて、何年もしないで、何事もなかったように堂々とシャバへ出てきそうだ。俺たちにはそれが気に入らん。だから特別に罰を下すためにここへ連れてきた」
 「何ぃ、バツだあ、何だそれは?オヤジに雇われていたんじゃねえのか、お前らは何者だ?」
 「お前のようなろくでなしが、のうのうと、普通の市民と同じように、地上の空気を吸っているのを見るのがガマンならん人間だ。」
 真吾は予想していた以外の展開にとまどい、なかなか次の言葉が出てこない。
 黒服の男は両手をポケットに突っ込み、厳格な教師のように黒メガネの奥から真吾をにらんで言う。茶髪の若者は一歩下がったところから同じように真吾を凝視する。
 「お前のような取り返しのつかないゴミに、将来ある若者などというほめ言葉のようなものを添えられて、つぐないもへちまもなく、大手を振って歩かれては、殺された人間が穏やかでない。
 そこで、今ここでお前に罰を下すが、お前もヤクザの跡取り息子で、いっぱしのワルだ。だから、特別待遇をしてやろう。暴力団二世のためのスペシャルメニューさ。ヤクザ貴族にふさわしい名誉ある最期ってわけだな。
 腹を切れ」
 黒い上着の内側にすっと右手を入れると、白木の棒を取り出し、真吾の方に放ってよこした。
木の棒はカランと石の上に落ちる。
白木の柄と鞘に包まれたドスだということは、もちろん真吾にはすぐわかった。
 「何のマネだ、これは?」
 男たちの言動についていけず、はじめはとまどっていた真吾は、たちまち体勢を立て直し、小才がきく悪党らしい傲慢さで開き直った。いまにも破裂しそうな狂気を秘めたことさらな冷静さで、見下すように言う。
 「おいおい、にいちゃんたち、ムショから出してくれたことには礼を言うぜ、だがな、こんな川原へ連れてきて、わけのわかんねえことをべらべら言い出すとは、あんたら、すこしおかしいんじゃありませんか。なにかい、あんたらどっかの宗教か?もしかしてドッキリカメラか?
 俺はな、バカにつきあってるヒマはねえんだ。さっさと親父に電話しろ、俺が本気で怒らねえうちに迎えの車を呼べ!」
 黒服の男は、真吾のすごんだ声が全く聞こえていなかったかのように、表情も声の調子も変えず淡々と続ける。
 「これは俺たちの情けだ。自分の始末をつけるのは自分が一番ふさわしい。人を殺すことができるのなら、自分を殺すこともできるだろう。腹切りはひとつの責任の取り方だ。お前は今ここでしでかしたことの責任をとれ」
 「ハア?何ですって?こいつでどうしろって?」
 真吾は左手でさっとドスを拾い上げると、右手で柄を持ち、スラリと抜いた。
 「リッパなドスじゃねえか」
 意外なほどしっかりした作りの見事なドスだった。しかもドスというにはかなり長い。
日本刀とドスの中間くらい、脇差といってもいいほどだ。
 真吾はこれまで何度もドスを見てよく知っている。組の武器庫にたくさんあるからだが、使ったことは一度もない。脅しにはナイフのほうが取り回しがよかった。だが手に持ったドスの重さと、金属を超越したような刃の輝きは、いやがうえにも凶暴さをたきつけ、優越感をあおった。
 サングラスの男は、ドスに見入る真吾に平然と話しかける。
 「ヤクザの息子なら最期は男らしくしろ、さっさと腹を切れ、悪党らしく、いさぎよくな…」
 「やかましいっ!うだうだごたくを並べやがって!どこのバカだか知らねえが、俺にドスを持たせるとは、たいしたお人よしもいたもんだ。
 ナメるんじゃねえぞ、三下!時代劇じゃあるめえし、何が腹を切れだ!そんなに腹を切るのが見たきゃ、切ってやるぜ、これでもくらえ!」
 真吾は両手でドスを中腰に構えると、いきなり弾丸のように飛んで、黒服の男に、全体重をかけ体当たりした。
 長いドスが男の白いシャツにめりこむ。
 男は衝撃でよろめき、うっと一言うなったきり、あとは声もなくその場に崩れ落ちた。
 「へっ、ざまあみろ!わかったか、バカやろう!俺をナメるとそんなめにあうんだぜ!」
 真吾は、あっけなく倒れて、川原の石の上に敷物のようにのびている男を見下ろし、勝どきのように得意がった。
 「やったぞ!一発だ!たった一発でやっちまった!俺って強すぎる、ドスの天才だ、ホッホウ!」ドスを振り回しながら小躍りする。
 「今のを親父に見せたかったなあ、組のみんなにも。伝説になるぜ、キャッホウィ!」
 前に高校生を殺したときと同じように高揚感にとらわれてうかれていた真吾は、もう一人いたことに気づいて、ハッと向き直った。
 見ると、瞬時に相棒を殺された茶髪の若者は、身じろぎもせず、こちらを見ている。サングラスの下の目は恐怖に凍りついていることだろう。
 「おい、お前!今のを見たろう、俺に対してふざけた態度をとる奴はこうなるんだ。よく覚えておきな」
 茶髪の若者の唇は固く引き結ばれ、頬は緊張のためか引き締まっている。
 真吾は腕をぴんと伸ばしてドスを茶髪にまっすぐに向け、ヘビのようににらみつけながら、自信に満ちて言った。
 「ま、お前が手をついてあやまるってのなら、許してやらないこともないけどな、さあ、どうする?へへへ…」
 若者は顎を引き、サングラスの底から真吾を無言で見つめていたが、やがて、つと右手を、ブロンズと金色がまじった豊かな巻き毛へともっていき、頭の後ろをかくようなしぐさをしたかと思うと、その腕を、何かを高々とささげ持つように、空に向かってまっすぐにのばした。
このときかすかに、シュルンと金属がこすれるような音がした。
手は、何かをつかむように、親指と他の指で輪を作っている。
と、のばした腕を静かにおろし、輪を作った右手を顔の近くへもってきた。
それと同時に、スッと左手を右手の下へもっていき、同じように親指と他の指で輪を作る。
見えないバットで見えないボールを打つようなかっこうとなった。何かの構えと見えないこともない。
 突然のパフォーマンスの一部始終を見せられていた真吾は、たまらず笑い出した。
 「おいおい、かっこいい茶髪のおにいさん、ピアスのあんちゃんよう、それは何のマネだ、何かの拳法のつもりかい?それにしちゃ、間の抜けた構えじゃないか。
 あ、わかった、お前ら、やっぱりなんかの宗教だな、それは魔よけのおまじないなんだろう、そんなもんで俺に勝てるってのか、ふざけるのもいいかげんにしろよ…」
 真吾の目は大きく見開かれた。
 灰色の空にまぎれて、それまで気がつかなかったが、夕暮れのかすかな光が、一瞬それをぎらつかせた。
 茶髪の、丸めた右手の上、五センチぐらいのところに、刃が浮いていた。
4センチくらいの幅で、見事なまでに切っ先が研ぎ澄まされた、反った刃が天を突いていた。
若者の右耳の金色の小さなピアスと、刃の細長い銀色が、妙に薄明かりに際立つ。
若者は両手で長いドスの刃を空中に浮かせていたのだ。
 「キャハハハハ」
 真吾はすっとんきょうな乾いた笑い声をあげた。
「お前、マジシャンだったのか、空中に刀を浮かせるマジックをタダで見せてくれてるってわけだ。おもしれえ、で、それに何の意味があるんだ?だいたいそいつは本物か?」
 本物だった。真吾はひと目でわかった。日本刀は見たことがある。九頭竜会の武器庫には、チャカやヤッパにまじって日本刀が二振りだけあった。若者頭の小坂は、巨大なカミソリのような日本刀を、白木の鞘から恐る恐る抜きながら説明したものだ。
 いまどきどこの組にだって日本刀をまともに使える奴なんていやしません。重いし、ほんとうに危ないもんですからね。これ全部刃なんですよ…
あの威圧感と殺気は一度見たら忘れられない。
 その日本刀が振り上げられて目の前にある。真吾の心をはじめて不安がよぎった。
彼と対峙している若者は、どういうトリックか、本物を宙に浮かせていたのだ。
真吾は唇をなめた。
 「よくわかった。おまえはいっぱしのマジシャンらしい。しかし、まさかそれでかかってこようってんじゃあるまいな。お前も相棒と同じになりたいのか!」
 鋭く脅したつもりだったが、若者は両手を静かに下に下ろしただけだった。
その手に操られるように、長い刃も下へ下りて、切っ先が地面に近づく。
 若者は八双から下段の構えとなり、真吾の方へ一歩踏み出す。
刀も地面の上を滑って前に出る。
 真吾はぎくりとした。こいつ、かかってくる気だ。
 「俺を怒らせるなと言ったろう!
ケガするぜ、ケガだけじゃねえ、お前のダチと同じ目にあわしてやる…」
 茶髪はなおも近づく。刀もつられてするする滑ってくる。
 「近寄るな!この野郎!」
 真吾は右手に持ったドスを茶髪に向けてめちゃめちゃに振り回した。
 茶髪がすっと両手を上のほうへ上げた。
その先の刀は、ほとんど見えない、光のような速さで、上に向かって振り上げられた。
 ギャリーン!
 真吾のドスは上のほうへはじき上げられ、それを握っていた真吾も吹っ飛ばされた。
すごい力だった。
茶髪の若者は日本刀を完全に掌握していた。
重い刀を軽々と、自分の手の延長のように操ることができるのだ。
 ドスを放さなかったのも、そのままぶざまにひっくり返らなかったのも、単にちょっと運がよかっただけだ。
風にあおられる木の葉のように、ひらひらと倒れそうになりながら、どうにか体制を立て直し、あわせて受けた衝撃を押し隠して、両手でドスを中腰に構えると、あの長身の男を倒したのと同じ要領で、「うわあ!」と叫び声をあげ、身体ごと、茶髪の腹めがけて飛び込んだ。
 ごつごつした石の上をしばらく走ってから、若者がいないことに気づいた。
真吾は誰もいないところへ飛び込んでいた。
 あいつはどこへいった?あたりをキョロキョロ見回す。
 茶髪は真後ろにいた。かわされたのだ。
 若者はさっきと同じポーズで、静かに日本刀を下段に構えている。
夕闇に白い顔が無表情に浮かぶ。
サングラスは洞窟の中のように暗い。
 「やろう!」
 真吾は頭に血がのぼってきた。苦もなく自分をコケにする奴は、それだけで我慢がならない。
 もう一度ドスを中腰に構えなおすと、再び「くたばれっ!」と若者に向かって飛び込んだ。
 またしても勢いは空回りし、真吾は空にぶつかり、ドスは空を突き刺していた。
闘牛士にあしらわれる牛さながら、やすやすとかわされてしまったのだ。
 強い、こいつは手ごわい。予想外に、こういったやりとりに慣れている。
あっさりやられたでくのぼうとは違う。ただの茶髪ではなさそうだ。
 ならば、これではどうだ!
 真吾はドスの柄の付け根、ちょうどドスの重心あたりを右手の親指と人差し指でつかむと、槍のように、若者の顔に向けて勢いよく飛ばした。 
 チャン!
 ドスは叩かれるハエのように、こともなげに、茶髪の刀で石の上にはたき落とされた。
 真吾は全身に汗がふきだしてきた。このときはじめて身の危険を感じた。
 こいつはただものではない。自分が立ち向かっているのはとほうもない達人だったのだ。
自分と同じくらいの歳に見える茶髪の男は、何者か知らないが、とてもまともに太刀打ちできる相手ではなかったのだ。そうとわかれば、次の手はひとつ。
真吾は狡猾にも、時と場合に応じて、いくらでも卑屈になることができるのだ。
 「ま、まいった、まいった、俺の負けだ」
 真吾は崩れ落ちるようにその場にうずくまった。
 「あんたは強い、とてもかなわねえ、たのむからもう勘弁してくれ」
 いまにも涙を流しそうに懇願する。
 「あんたを刺そうとした俺がまちがっていた。どうか機嫌を直してくれ。俺ってやつはいつでも調子に乗りすぎるんだ。本気じゃないんだ。悪気はないんだ。」
 茶髪は同じポーズで、なんとも答えない。
 「あんたの相棒をやっちまったことも謝る。すまん、はずみだったんだ。はずみで、つい、手が勝手に動いちまった。許してくれ。悪かった、お願いだから許してくれ…」
 真吾はいまや完全に土下座をし、額を石にこすりつけていた。
 「拾え」
 茶髪が鋭く言った。心なしか声にいらだちが含まれているように感じる。
 思ったとおり、達人ともなると、まともな勝負はできるが、土下座する人間などは殺せないのだ。「ドスを拾え」
 茶髪はなおもうながすが、真吾は起き上がろうとしない。
 「たのむ、たのむ、お願いだから…」
 真吾は脅えた涙声で、両手と額を川原の石に這わせ、茶髪の前にひれふしたが、じつは両方の手の指を少しづつ動かして、石を握りはじめていた。
 「さっさと起き上がってドスを持て」
 真吾はしかたなく、そろそろとおそるおそる顔を上げていったが、途中いきなりがばっと上体を起こすと、両手に握った野球のボールほどの石ころを、茶髪の額めがけて力いっぱい投げつけた。
 ものの見事に茶髪のふいをついた、つもりだったが、
石は暗い宙をうなりをあげて飛んで、二つとも彼方の川原へカランと落ちただけだった。
 茶髪はいつのまにか真吾の真後ろに立っていた。
 「ひえええええっ!」
 真吾のほうが虚をつかれ、幽霊でも見たような声をあげて飛びのいた。
 「ドスを拾え」
 「かんべんしてくれ…」
 完敗だった。もはや打つ手はなく、とてもかなう相手ではなかった。
真吾は生まれてはじめて心底脅えていた。
自分が殺した高校生たちもこれほど脅えたのだろうか、などとさえ思いやる余裕もなかった。
 「ドスを持って死ぬか、丸腰で死ぬか、選ぶのはお前だ。お前がドスを持っても持たなくても、俺はお前を斬るぞ。
 我らは天誅団、平成幕末を騒がす不埒者どもに天誅を加える。高校生殺しの大罪人、九頭真吾、ここに貴様を誅す。」
 若者は決然と言い放った。宣告だった。
ここには助けてくれるものは誰もいない。親父も、手下同然の仲間たちも、真吾を若様扱いしてくれる組の連中もいない。真吾は、どうしようもなく、避けようもない事態~最期のときが、なんともそっけなく壁のように目の前に迫ってきていることを悟った。
 茶髪の言った天誅団とは何なのか問いかける余裕すらなかった。
 「やああああああっ!」
 真吾はとっさにドスを拾うと、めちゃめちゃに振り回しながら、茶髪に正面から飛び込んだ。
 バシュッ!
 下段から振り上げた刀が、真吾の胸をなでた。
 刀は、切っ先から、薄い囚人用シャツと皮膚をなかったかのように切断し、肉にめり込むと、そこにあった何本かのあばら骨を断ち切り、その内側の肺と心臓に近い部分を真っ二つにしたのち、再び皮膚と服をすっぱり切って、するりと背中へ出た。
 直後、真吾はへなへなと崩れ落ち、ドスを落として、ぺたんと川原の石の上に正座するかたちになった。そのままひくひくと上半身をけいれんさせる。目にはもはや生気はなかった。
胸から背中にかけての細い線のようだった傷からは、血が流れはじめ、囚人服の胸から下を赤黒く染めていった。

 茶髪でピアスの若者は、ため息もつかず、呼吸を乱すこともなく、淡々としていた。
 右手を動かし、刀をひと振りして血を払うと、左手で腰のポケットから小さな布切れを出して、刀の身をすばやくぬぐい、それを再びポケットにしまいこんだのち、こんどは薄い手袋を取り出すと、口を使って左手にはめた。上体をすこしかがめると、左手を首の後ろのほうにもっていき、空中で何かをつかまえるしぐさをした。
と、右手首をうごかしてその先にある刀を操ると、その切っ先を空をつかんでいる左手の親指と人差し指の間に入れる、と、刀はどんどんその姿が消えていき、左手と右手がくっつきそうになったとき、パチンと音がして刀は完全に見えなくなった。
 パチパチパチと音がすると、倒れていたはずの長身の黒服の男が、暗がりの中から、拍手をしながらのっそり現れた。
 「たいしたもんだな、半次。見事な腕前だ。やはり剣はお前が一番だな。とても初めて人を斬ったとは思えん。」
 サングラスの奥の目が細くなっているようだ。
 ピアスの若者もすこしてれたように言う。
 「ゾウさんも前にやってるじゃないですか」
 「俺のは据物切りだったからな。ま、これからは二人とも、手合わせみたいなのが多くなるだろうが…どうだ、人を斬った気分は?」
 「正直、複雑だが、仕事だからいいんでしょう、悪党だからね。ところでずいぶん大きな穴をあけられましたね」
 半次と呼ばれた若者は、ゾウさんと呼んだ相手の、真吾のドスによって切り裂かれたシャツの裂け目を見ながら言った。
白いシャツの下から灰色の下着のようなものが見えているが、それには傷はついていなかった。
 「アザになるかもな。こいつはまだ改良の余地があるぞ。手袋と同じものだと言っていたが…上着のジャケットに使ったほうが効果的だ」
 「この手袋はいいですね。背中は見えないから、刀を扱うのはどうも…下手をするとケガしてしまう」
 「さてと、準備するとするか。俺は台を用意しよう、お前はカメラを…」
 と言いかけて、ゾウさんと呼ばれた男はあきれたように苦笑しながら言った。
 「おいおい半次、とんだつや消しだぞ」
 前の方に顎をしゃくる。
 なんと真吾はまだ生きていた。
だらしなく正座しているような格好で、胸から下を赤黒く染めながら、ひっくひっくと咳をするように細かく動いていた。
口をぱくぱく動かして何かを言いそうにさえしている。
 「チッ」半次は大きく舌打ちをした。サングラスの下の目が怒りで鋭くなったようだ。
自分の手際は完全ではなかったのだ。
ゾウさんに指摘されるのはいい。取りこぼしをして気づかなかった自分のうかつさに腹が立った。自他共に認める腕前にしょっぱなからケチがついてしまった。
 半次はやにわに、右手を背中に回すと、さっと上げ、空をつかんで再び刃を出現させた。
 たちまち左手をそえ、刀を操る八双のポーズをとると、だっと飛び出しざまに、真吾の首をしゅっと払った。
 真吾の頭は、細かい血をまき散らしながら、くるくると回転し、勢いよく宙を舞った。

第九章 組員の怖

 ママはこのところ密かにパソコンにはまっていた。
パパがみんな寝静まった夜中にけしからぬ画面を見ているのは、かなり前から知っていた。しかし、パパがキーやマウスに触るのはそれだけで、あとはラップトップだというのに、家のデスクの上に置きっぱなしだった。これがなければ仕事ができないという会社員がほとんどのご時世に、こうして無為に遊ばせておくのはいかにももったいないような気がして、とりあえず起動させてみたのがきっかけだった。
 はじめにはまったのがトランプゲームだった。相手に気をつかわなくてもいい気安さとひとおおりでない「手」が面白く、気がつけば昼の間じゅうディスプレイに向かっていて、すべての「手」が読めるほど精通してしまった。
 次にはまったのが掲示板のページだった。ネットは不特定多数を相手にできて、編集者の関門を通過する必要がないため、責任感に欠けた連中が姑息な自己表現の場としてごたくを並べ立てる単なる電力の無駄遣いにも思えた。掲示板など、顔を出さないことをいいことに、よくも勝手なことをほざけたものだとあきれることもある。どうでもいい駄菓子評さえ、いくつものカテゴリーがあるではないか。
 しかしこんなガラクタのような駄文の中にも、ささやかに生きる庶民の本音やつぶやきが垣間見える。それが時としてママも共感するところがあり、いったんページを開くと見入ってしまい、子供が塾から帰ったことも気づかないことがあるのだ。
 今しも小学生の長男が帰ってきて、おやつをねだりにママを探しはじめていた。
台所にも居間にもママの姿を見つけられなかった長男は、こんなときはパパの部屋のパソコンの前だと合点し、パパの部屋の戸を開けた。
そこで、ディスプレイに見入って青ざめているママを見つけたのだ。
 ディスプレイに映っていた顔は見るからに気持ちが悪かった。
 
 九頭竜会は中堅クラスの暴力団だった。
世の不況風にも大手の組の脅威にもめげることなく、その体面を保っていられたのは、ひとえに組長・九頭竜太の冷酷さのおかげだった。
 組長は、はむかうものは、外からのものでも、内部に対しても、徹底して妥協することない冷酷さで臨んだ。やられたら倍にしてやり返す、シマは1センチも縮小させない。組の経営も経営者のように冷酷だった。年寄りと役立たずはことごとく追い出すというリストラをすすめ、構成員は、今はやりすぎで拘置されている息子の真吾をはじめ、ドーベルマンなみの突撃精神をもつ若者ばかりをそろえた。
 竜太は組員にも冷酷非情を強いるカリスマ指導者だった。
組の間での戦争となったら九頭会組員は狂犬なみに手がつけられない、軍隊でもなければ互角に戦えないと、一目置かれるほどになっていたのだ。
 しかし、そんな凶悪エリート集団の中にもわずかにそうでないものもいた。この組員は映画の中のエキストラのようにただいるだけの、子分Aのような存在だが、パソコンで簿記ができたため、組の経理を担当することになった男だ。
組員も寺の住職なみにパソコンを持つ時代だが、簿記となると誰でもできるというわけではない。だが、組の経理は(組外秘ではあるが)意外と単純だったため、この子分Aの仕事は働いているふりをしてパソコンにむかっているだけということが多かった。これを真吾に見つかり、無駄めしを食ってパソコンで遊んでいるだけだといじめられたことがある。 竜太・真吾というマムシの親子は、ネズミのような顔をした息子のほうがよりマムシらしくて恐ろしかった。あの子マムシは、高校生殺しの罪で拘置所の中だから、今はひと息つけるが、未成年であり、高い報酬の弁護士をつけたこともあって、まもなくのうのうと出てきてまたいじめだすかもしれないが、とりあえず今のところは気楽にやっていようと、今日も掲示板を見て遊んでいた子分Aは、ディスプレイに現れた写真を見て、おやと目をしばたかせた。
 ディスプレイの中から生気のない顔が子分Aを見つめている。
なんだか坊っちゃんに似た顔だな、首をかしげて凝視する。
どう見ても、子分Aの知った顔によく似ていた。
 これは坊っちゃんだ、坊っちゃんじゃないか、しかし、ディスプレイの中の坊っちゃんの顔は子分Aがよく見知っていたものとは様子が違っていた。
 目はうつろに半開きで、さらに口もしまりなく半開きだ。
あの傲岸不遜で冷酷な強靭さはみじんもない。狡猾なネズミのようだった九頭真吾の顔は、そのまま死んだネズミのような顔になっていた。
 これは頭だ、坊っちゃんの頭だ…
坊っちゃんの首のまわりは赤黒い細い線で取り巻かれ、その下は赤黒いしみがにじんだ白木の板になっていた。
 坊っちゃん、胴体はどうしました?胴体をさがさないと…きっと組長は怒るぞ、どえらく怒る…どこのどいつがこんなことを…桑名小金か周防連合か…これは戦争になる、全面戦争だ…
子分Aは最悪のニュースを伝える伝令にはなりたくなかった。頭にきた親分にかかっては、悪いニュースをこしらえた張本人の一味とみなされかねない危険がある。しかし彼は自他共に認めるパソコン番なのだ、どんなニュースでもパソコンがらみのものは真っ先に伝えなければならない。
 気もそぞろのまま立ち上がると、泣きそうな声で組長の名を呼んで、パソコンの前を離れた。あわてていたために、真吾の生首写真のあとに書き込まれていたメッセージには気がつかなかった。
 「我らは天誅団、平成幕末を騒がす不埒物どもに天誅を加える。高校生殺しの悪党をここに誅す」

Next Story

 耕下警部補はひとつの右翼団体に目星をつけた矢先、今度は大蔵官僚が、日本刀を操る男に襲われる事件が起こる。これも天誅団の仕業か?辺田捜査官の要請で要人警護に駆けつけた耕下は、そこで、日本刀で政府要人を襲う襲撃犯に出くわす。ビルの屋上から公園へと、辺田も巻き込んだ大立ち回りのあげく、ついに犯人の一人が耕下に捕らえられる。
 連行されたその茶髪の若い男は、自らを中村半次郎と名乗り、「時代」は粛清される必要があるとうそぶく。決行の二週間前…
 
 幕末や昭和の事件をヒントにしていますが、メインは刀対GUNの、理屈のいらない、荒唐無稽アクションです。もはやほとんどSFといえるブッとんだ話、さらに無理な設定、無謀な筋書き、無茶な展開…と感じられる方もおられるかと思いますが、粗雑さを荒削りなパワー、強引さを奔放な発想とご理解いただいたうえで、Chapter22の「屋上庭園の決闘」やChapter36の「官邸の変」が、前半、中盤のヤマ場、そしてChapter39の「門内事変」から40「最後の告」が長い長いクライマックス、さらにChapter41には意外な結末も用意しましたので、アクションのお好きな方に楽しんでいただけたら幸いです。
 
 また、ファンタジーのお好きな方、「青火温泉」もよろしく。

天誅団 平成チャンバラフィクション

2015年2月6日 発行 初版

著  者:北村恒太郎
発  行:北村恒太郎出版

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東京都品川区上大崎 1-5-5 201
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北村恒太郎

屋根裏文士です。
青森県を舞台にしたホラー、アクション、コメディー、ファンタジーなどを中心に娯楽ものをいろいろ書いてます。
◇青火温泉 第一巻~第四巻
◇天誅団平成チャンバラアクション
 第一巻~第四巻
◇姫様天下大変 上巻・下巻
◇無敵のダメダメオヤジ 第一巻~第三巻
◇アメブロ「残業は丑の刻に」

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