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老詐欺師を北海道から本州へ護送しようとする若い刑事。
しかし、催眠術もどきの技を使う老人はなかなか狡猾で、
追いつ追われつ、海峡を行ったりきたりのドタバタとなる。
第一場 漁港
第二場 ドライブイン
第三場 空港
第四場 ドライブイン
第五場 大ホール
第六場 霊園
第七場 並木道
第八場 ロビー
今年は春が早いという。
雪もほとんど消えてしまい、明るい日差しがさんさんと降り注いではいるが、しかし、そこここに春の気配というほどではなく、木々のつぼみもまだ石のように硬そうに見えた。
この時期にしては記録的な暖かさだと地元の人は言うが、来たばかりの尾縞には記録的な寒さに感じられた。来るときにちらりと見えた海峡の水はさぞ冷たいのだろう。
外で待っていたときは寒さに首をすくめ、そのうえ予想が外れたかもしれないという不安が、さらに首を襟の奥へ押し込めたものだが、こうして屋内~先生と生徒でいっぱいの講堂に入ることができて、ホッと肩の力を抜くとともに、読みが当たっていたと実感できて、さらに暖かい気持ちになったものだ。
階堂はいざというときはムダな抵抗はしない、知能犯とは概していさぎよくおとなしいものだという読みも当たっていた。(けしていさぎよくはないということは、すぐあとで思い知らされたが)
「どの生徒なんだい?」
尾縞が前を見たまま、上半身を少しだけ階堂によせて小声で聞いた。
「二列目の一番前。」
階堂は、その年齢にしてはしわがれていない張りのある声でもそもそと答えた。上唇の上の厚い白いヒゲがもそもそ動いて、エサを食べているアザラシのように見えた。
階堂は、ここ函館の、わりあい名の通った高校の卒業式会場、父母席の最後列に、その転がりそうな樽のような体躯をストンと座らせていたが、その両脇には、スマートな二人、尾縞と冷馬が屈強な番人よろしく、守るようにじつは逃げられないようにどっかと腰を下ろしていた。
「へえー、きれいな娘さんじゃないか、しっかりしてそうだ。」
尾縞はつい口に出した。その女生徒は階堂とはあまりにもかけ離れて、一輪の花のように見えたためだ。
「まったくだ。いい娘に育ってくれたよ。」
階堂は思わず目を細め、感慨深そうに答える。長髪ぎみの白髪と白ヒゲが、ことさらその容貌を、ゴロゴロのどを鳴らす太った老ペルシャ猫のように見せていた。
まさしくその女生徒が起立して、卒業証書を受け取るために壇上へ向かっていくところだった。気持ちがいいほどスラリとしたその姿は、近ごろ死語になってしまっている清楚という言葉を思い出させてくれそうだった。ほとんどの男子生徒は、彼女を見るのはこれが最後になるかもしれないと思い、やはり思い切って告白しておくべきだったと、さまざまな感慨を持って彼女が礼をするのを見つめ、一部の女生徒はありがちなライバル心と敵意を持って彼女が席に帰るのを見つめた。
「それにしても、よくここが…わしがここにいると読んだものだな。」
階堂は一転皮肉な口調になった。
尾縞は平然と、歳に似合わぬ自信をあふれさせて答える。
「あんたに息子がいるのはわかっていた。あんたとは折り合いのよくないらしい息子さんのようだが。
あんたが収監されたとき、息子さんは東京を離れて行方知れずだった。だが、収監中に一度だけあんたに電話がきた。その電話の後にあんたは相当しょげていたと、
当時の看守が話してくれたよ。で、これは息子に関するよくない知らせだったのではないかと推測したわけさ。
当時の電話記録を見ると函館からのものだった。で、そのあたりの日時の函館市内の死亡者とその家族を当たっていって何組かに絞込み、年齢からあんたの息子らしい人とその奥さん、そしてあの娘さんに行き当たった。
今日が娘さんの学校の卒業式と聞いたので、あんたは孫の晴れ姿を見にやってくるかもしれないと、網を張ってみたんだ。」
「…まあ、若いわりにちょこまかと頭が回るねえ。」
階堂が思わず感心したように、なかばあきれぎみに言った。
実際、尾縞は非常に若く見え、若すぎるから緻密な思考は働くまいと、相手に先入観を持たせ、つい油断させてしまうところがある。スーツを着ていても少年のように見え、つやつやした頬は美少年の稚児を思わせる。
「『哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず』本訓其の三、第一。見張りを甘く見ちゃいかんってことだな」
尾縞は、階堂の独り言のようなつぶやきはまったく気にとめなかった。
「こいつはキャリア志望なのさ。頭脳明晰な試験の虫だよ。」
見るからに後輩に遅れをとった先輩といった皮肉めいた口調で言った冷馬は、歳のわりに額が大きく後退し、あせりやいらだちがすぐに態度に出て、それを隠そうとしないタイプの、尾縞とは対照的な同僚だった。
「『他の栄達を嫉まず己の認めらざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし』本訓其の三、第二」
階堂はさりげなくつぶやいた。
「なんだそりゃあ?お前、なんだか気にさわることを言ってないか」
冷馬は階堂に鋭い目を向ける。階堂は横を向く。
「あの娘は知っているのか?あんたが金を送ってた本人だったってことを。」
尾縞はつい聞いてみた。
この老人は孫娘の成長を陰から垣間見るためだけに来たのではあるまい。捕まる危険も覚悟しながら、大胆にも公衆の前に姿をさらしたのは、孫に別れをつげるためだったのではないか。最後に孫から感謝の言葉を聞きたかったからではないのか。
「知っているだろうな。母親から聞いているはずだ。」
階堂は何を期待するふうでもなさそうに淡々と話した。
「はじめ、あの娘の母親は断ってきた。得体の知れない金は受け取れないとな。しかし、当時は母ひとり子ひとりでえらく困窮していた頃だから、その後は何も言わずにわしの援助を受け入れてくれたようだ。母親の死んだあとも今まで続いたよ。」
「足長おじいさんってわけか。十何年だとそれなりの金額だろうな。」
冷馬の発想はたいていこういうところにいきつく。
「あと30分くらいの約束だぞ。」
尾縞は念を押すように言った。仕事は事務的に冷徹にこなさなければならない。長々と卒業式にいさせてやったのは、あくまで非公式な寄り道なのだ。
「わかっているよ、ありがとう。よくこの年寄りの最後の頼みを聞いてくれた。感謝してるよ。捕まったけど、来てよかった。今日はわしにとって生涯最良の日だ。」
階堂はうってかわってしみじみとした口調で言った。自分に言い聞かせるようでもある。
尾縞も少し心和む思いがした。任務によけいな人情は禁物だが、人の心からの感謝は、自分のしたことの価値と自分の存在意義を再確認させてくれるものだ。
「絵になるねえ、感激のご対面の後は連行ってわけだ。」
冷馬の嫌味はいつも的を得ていて効果的だ。いつも座を見事なまでにしらけさせ、本人以外のほとんどの人に気まずい思いをさせる。
しかし老人は意外な反応を示した。
「とんでもないよ、ご対面なんかしない。このままで十分さ。あの娘を見るだけでな。名のることもない。」
このまま自分の正体を隠し通すということらしい。
生徒たちのさまざまな思いを厳粛に包んだ卒業式は終わり、卒業生たちはこれが見納めとなる講堂を静かに退出しはじめた。在校生、父母、教師たちの拍手の中、悲しそうだったり、晴れ晴れとしていたり、複雑だったりとさまざまな表情の卒業生たちが、尾縞たち三人の横を通っていく。
尾縞、冷馬も階堂もあわせておざなりの拍手をする。卒業生たちはほとんどが目をふせるか、前方~出口の先の未来を見つめるように歩く。
と、間近で見ると、さらにハッとするほどの顔だちの女生徒がひとり、尾縞たちに視線を投げかけてから通り過ぎていった。
あの、階堂が孫だと教えた生徒だ。
「知ってるんじゃないのか。あんたを見ていったぞ。」
尾縞は気づいて階堂にうながした。
「あんたたち二人の方だろう。卒業式にはふさわしくない、目つきのよくない二人だからな。」
確かに彼ら三人はどことなく雰囲気にそぐわなかったし、尾縞と冷馬は父兄にしては若すぎる上、なにかしらぎこちなかった。
「さて、じゃあ我々も行くとするか。」
尾縞が一行をうながした。三人は再び風の冷たい高校の玄関に出てきていた。
手を振ったりさよならを言いあったりする生徒たちと感慨深そうな父母たちが、三々五々校門を出ていく。
「何で行くんだね?」
階堂が聞くとはなしに聞いた。無料の旅を楽しみにしているような響きもうかがえる。
「列車でトンネルをくぐってから新幹線に乗り継ぐ。途中おかしなまねはしないでくれよ。」
尾縞が念を押すように言った。
「気は進まないが、約束は守るさ。」
階堂は渋い顔で言った。
「弁護士があんたを待っているだけだろう。いまのところ容疑はひとつだけだ。」
尾縞はこれを軽い仕事だと考えており(事実軽く終わりそうではある)、数々の疑惑のある階堂も、思いのほか軽い刑ですぐにしゃあしゃあと出てくるのだろうと思っていた。しかし階堂の受けとめ方はもう少し深刻だった。
「そう、そして弁護士はわしが着いたのを確認して、すぐに告訴を取り下げる。わしは明日のうちに釈放だ。問題はその直後さ。奴らは必ず…」
階堂が、尾縞の楽天ぶりをたしなめるように、暗雲がたれこめる未来を予言しようとしたとき、柔らかいが凛とした声が響いた。
「あの、失礼します…」
見ると、すぐ前にあの女生徒が立っていた。階堂が孫だと言っていた娘だ。
面と向かってみるとますますハッとさせられるような娘ではある。化粧っ気のまったくない顔に周囲を明るくさせるような華やかさがある。美しい花は生まれつきのものであり、それだけで完成されたものなのだろう。さらにこの娘は、相手にスキを見せない毅然とした立ち居振る舞いも備えていて、それがその存在をより際立たせているようだ。
その娘がまともに階堂を見すえていたのだ。
「え…」
階堂は当惑して、目を見張っていた。
「おじいちゃんですね、おじいちゃんでしょう…」
娘は大きな目を見開き、追いうちをかけるように言う。
「…」
対面や言葉をかわすことなどまったく予想していなかった階堂は、このいきなりの展開に言葉を失って、ただ娘を見つめていた。
「お母さん、いえ、母が言っていました、おじいちゃんは必ず会いに来るって。そのときは警察の人に付き添われているだろうから、すぐわかるって。」
階堂は、人を出し抜くことにかけては一目置かれる切れ者だ。その血を引くこの娘も、なかなかの洞察力を備えているようではある。
「…いや、あの、わしは…」
階堂は口ごもるのが精一杯だった。孫との初めての対面にたちまち大きな感動の念がわいてくる。(警察の人に付き添われて、という点はさておき)名のりもしないのに自分を認識してくれたことへの喜びも、悪寒のように背中をはいあがる。
「もしかしたら、うんと小さいころに会っているのかもしれませんけど…
はじめまして、鞠萌です。いままでお気遣いいただいてありがとうございます。」
「…あ、ああ…ど、どうも…」
階堂は声が震えてきた。
(そうか、まりもという名前だったのか。いい名前だ。)
どっと涙があふれそうになる。
「おじいちゃんに会ったら必ずと、母から強く言われていたものがあるので、お渡しします。」
鞠萌は祖父とは対照的にあくまで冷静に、ポケットから紙切れのようなものを取り出すと、階堂に差し出した。
「…うん、何だね、これは?」
感激していた階堂はわけもわからず言われるままに受け取った。
「今まで送っていただいたお金、全部この通帳の中に入っています。受け取ってください。
母は元気だった頃、おじいちゃんのお話もしてくれました。いい人だけど、お金を受け取ってはいけないって。使ってはいけないお金もまじっているかもしれないからって。
お気持ちだけ受け取ります。これはお返しします。ありがとうございました。
これから慰労会に出席するので、これで失礼します…」
鞠萌はひと息に言ってのけると、くるりと背を向けてたちまち走り去ってしまった。
階堂は血の気が引く思いだった。暖かい興奮は、冷水を浴びせられたように一気にしぼんでしまった。
「…来ないほうがよかったみたいだな。生涯最悪の日になっちまったな。」
興ざめさせられたのは、見ていた尾縞、冷馬も同じだった。冷馬は自嘲っぽい口調で皮肉めかして言った。階堂にとっては残酷ないやみではある。
「『若い女の冷淡さは特権だ。愚かな男はそれを非難するが、賢い男は黙って耐える』」
階堂はにがい顔のまま言った。
「へえ、そいつは誰かの名言か何かかい?」
「わしがいま思いついた。自分を納得させるためにな」
「こいつはいい、じいさん悟ってるじゃないか!」
冷馬は遠慮なく笑い転げた。
「黙ってあの娘の言うとおりにするさ、それがあの娘に尽くす道だ。『黙々として献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり』」
「さっきからお前が言ってるそれは何だ?」
「戦陣訓だ。本訓其の一、第三。黙って献身的に従えばそれでいいという意味さ。戦争中わしらが教えこまれたれた軍国主義の規範だ。わしの上官は心酔しててな、徹底的に叩き込まれたから、わしは今でもそらで言える。戦後は諸悪の根源みたいに言われたが、精神を律するものとしては今でも通用する部分もある。あんたも覚えておくといい」
「よけいなお世話だぜ、拒否られおじいちゃん。おれも断る、黙って従え」
いささか気の毒になって尾縞が言った。
「…ま、まあ、少なくともおじいちゃんとは認識してくれたわけだから…そのうち気がかわって受け取ってくれるかもしれないし…」
下を向いたままの階堂をなぐさめるように言った。
「どれ、見せてみろ、ほほう、こいつはかなりの金額だな。」
尾縞が止める間もなく、冷馬はスリのような素早さで、呆然としたままの階堂の手からさっと通帳を抜き取ると、なにげないふうに開いてたちまち中味を確認した。
「これは証拠品として預かろうかな…」
さらにへらへら笑いながら手にした通帳を振ってみせる。
「冗談言うな、返してくれ!これはほとんどがまともに稼いだまともな金だ!」
ようやく我に返った階堂が、怒気をこめて叫ぶと、通帳をひったくり、大事そうに両手で握りしめた。
冷馬はふんと鼻で笑って肩をすぼめる。
すったもんだしているうちに、頼んだタクシーが校門の前までやってきて、三人は本来の成り行きにもどるべく、タクシーに乗り込んだ。
「さあ、いつまでもぼんやりしているんじゃないぞ、おじいちゃん。俺たちの仕事はこれからなんだ、張り切って署まで連行されようぜ、足長おじいちゃん。」
またしても、尾縞と冷馬で階堂を囲んで後部座席に座ったが、冷馬はどこまでも意地悪く、階堂を横目で見ながら、からかうようにせせら笑う。
階堂は腹を立てる元気もないように、うつろな目であらぬ方向を見るだけだ。
「冷馬さん、落ち込んでいるお年寄りにつらく当たるのはやめましょうよ。」
さすがに不快になった尾縞がたしなめるように言った。
このときコンコンと誰かがタクシーの窓ガラスを叩いた。
見るとまたしても鞠萌の顔がある。尾縞ごしに階堂を見ている。
「ん、どうしたね…」
階堂はハッと目が覚めたように、鞠萌に話しかけようとした。
尾縞はすかさずウインドーを下げて声がはっきり聞こえるようにした。
「一番大事なことを言うのを忘れてました。
おじいちゃん、今日は卒業式に来てくれてほんとにありがとう。身よりはおじいちゃんしかいないので、会えてとっても嬉しかったです。」
先ほどとは違い緊張がほぐれた笑顔で言った。
「おお、そうか、わしもだよ。」
階堂もあわてて口をもごもごさせながらも補うように言う。たちまち目に明るい光が宿る。
「この先のことだけど、私は四月から大学へいきます。」
「札幌のか?」
「ええ。」
「そりゃすごい、帝大生になるわけだな。さすがわしの孫だ。」
胸にこみあげるものがあり、言葉もつかえがちな階堂が、さも感心したようにうなずきながら言った。
このとき遠くから「マリモ~、早く~」と、鞠萌の級友であろう、もうひとりの女性徒の声が聞こえた。
「いま行く~」
鞠萌は振り返って返事をすると、再び視線を車内にもどし、
「じゃあ、また…」
と階堂の目をのぞきこむように見てから、尾縞へ目で礼をして踵を返し、車から離れた。
「どうだ、どうだ!やっぱり生涯最良の日だったぞ!」
階堂は首を左右に回し、尾縞と冷馬を何度も交互に見ながら、感動と誇りで胸もはちきれそうなようすで、笑いながら言った。さらに尾縞に向かい、
「なあ、お若いの。あんた、わしの友達にならんか?『友情は喜びを倍にし、悲しみを半分にする』って、偉い劇作家も言ったそうだ。わしは今の喜びを倍にしてみたい」
と調子に乗る。
「遠慮しとくよ、友達は選べってじいちゃんに言われたし、僕の喜びが半分になりそうだし」
ことさら雰囲気にそぐわないように新築されがちな古い街の駅舎の例にもれず、不気味に近未来的に造られてしまった函館駅を抜け、不思議なほど大きくカーブしたプラットホームから、三人は津軽海峡線青森行きの列車に乗っていた。
青森へ出てから新青森駅までいき、新幹線に乗りかえる。
なにやら蝦夷共和国といった広大な大陸=蝦夷大陸を離れ、本国のように見える本土へ入ると、それで少し気が楽になるだろうと尾縞は思った。海を隔てると、他人の家にいるようでなにやら心もち落ち着かなかったのだ。
地図で見るとほんの少しの距離に見える海峡はしかし、人と人を切り離すほど広大で深かった。函館から見ると本州は彼方にある別な大陸の別な国だった。これほどの海を毎日、休むこともなく数えきれないほどの人々が、通勤でもするように往復しているというのは、考えてみればたいしたことであり、不思議なことのようにも思えた。しかも誰しもそれほどたいしたことだとは考えていない。列車でトンネルをくぐっていくのであればなおさらのことだ。過去の渡海のわずらわしさやトンネルづくりの難工事に思いをはせる人などほとんどいない。さらにもちろん頭上にある何億トンもの岩と水のことなども考えたりしないし、列車がトンネル内で立ち往生する可能性なども思い描くこともない。
「大学の入学式ってのはいつなんだろう?」
上機嫌が続く階堂が、新入生のように希望に満ちて、同僚にでも話しかけるように言った。
「…四月はじめだろう。」
言ってから尾縞は思い当たり、すかさず釘を刺した。
「おいおい、それにも出たいから、あと二週間待ってくれなんて言い出すんじゃないぞ。」
三人は八両編成の特急列車の機関車に近い三両目に乗っていた。
車両の中ほどの席に階堂を窓際に、となりに尾縞、通路を隔てて冷馬が陣取る。この車両はわりとすいていて、四割程度の入りだった。階堂の両手にかけられた手錠は、巧みに人目から隠していたが、三人が刑事と容疑者だと気づく者もいなかった。
「もちろんだよ、卒業式を見せてくれただけでも、とても感謝しているよ。君たちは人情がわかってる。」
「列車の時間までちょっと間があったのさ。」
通路をはさんでいても一言も聞き逃さない冷馬が、階堂の熱を冷ますように、通路に身を乗り出してきて言った。
それでも階堂は心から感謝するように言う。
「一時間の猶予をくれただけでもありがたかった…」
そしてやっぱり
「ついでにあと二週間猶予をくれたらばもっと感謝するんだが…」
となにげなく付け加えた。
「そろそろ発車だ。」
尾縞はまったく無視して、進行方向を見ながら言った。
列車は函館山を迂回するように湾をめぐって山中に入ると、いくつか短いトンネルを抜けたのち、海底トンネルに入った。
あたり(窓の外)が地下鉄以上に真っ暗で、いっこうに明るくならず、しかもあきらかに前方に向かって下っていっていることから、海底トンネルを進んでいることがわかった。
「このトンネルはすごいねえ、海の底の底だなんて信じられない。」
照明の輝く車内で、尾縞は修学旅行の生徒のように感心していた。
「北海道を離れちまったぜ、おじいちゃん。」
冷馬はまだうかれ気分の階堂の望みを断つように皮肉に言う。
階堂は、聞こえないふりをしながらも、さすがに影がさしはじめた声で言った。
「…このままだと、もうあの娘には会えないかもしれん…。
なあ、どうだろう、わしが留保してある資金でこの手錠の鍵を買うってのは。」
「お孫さんのために、今の話は聞かなかったことにしてやろう。買収も罪が重い。」
やっぱりなと呆れ顔の尾縞は、ため息まじりにきっぱりと否定した。
冷馬は階堂の申し出を非難したりしなかった。関心が別なところにあったのだ。
「通帳の金もかなりのものだった。年寄りがそんなに金を貯めこんでどうしようってんだ。」
「秘密の基金を作ってあの娘と似た境遇の子を支援する。」
階堂は迷いもためらいも隠し事もないと強調するように断言した。
冷馬にとっては予想外の答えだったが、あきれたことにかわりはない。
「ヤクザをカモるとはいい度胸してるぜ。」
むしろ得意そうに、階堂はさらにあかした。
「欲だけの連中は欲で釣れば簡単さ。IT業界の一匹狼だと言えば、事あれかしと一応関心を示す。そこでパスワードの解読器を開発したと売り込むんだ。
はじめは半信半疑だが、親分と二人きりになって、実際にその組の重要なパスワードを解いてみせる。親分たちは信じて、わしがでっちあげた口座にすぐ振り込んでくれるよ。何日かしてやっと気がつくってわけだ。
しかし、このときパスワードを解いたおかげで、見なくてもいいヤバいものまで見てしまうことがある。」
自信満々で滔々と言ってのける階堂に、尾縞も冷馬も半信半疑ながら気おされる思いだった。
「パスワードを解くってのはどういうしかけなんだ?」
冷馬は思わず聞かずにはいられなかった。
「これだよ。」
階堂はやにわに左腕をかかげ、しゃれたブレザーとシャツをまくって、隠れていた腕時計をあらわにした。
一目で高級品とわかる黒皮ベルトと黒ケースの丸い時計。
あくまで薄く、下卑た派手さやブランドのこれ見よがしの刻印は全くなく、黒く細い長針短針秒針を浮き上がらせている白い文字盤がまぶしく見える。デザインはカルバンクラインだろうか。
尾縞は目を細め、冷馬は身を乗り出してその高級時計に見入った。
じつは文字盤は液晶の画面であり、針はすべて液晶のディスプレイなのだということに二人は全く気づかなかった。
そして階堂は意外なことを言った。
「解きゃしないさ。いいかい、こうするんだ。」
二人が時計を見ていることを確認したうえで、階堂は続ける。
「まず、わしの時計を見てみろ。」
通路を通る客はいず、まばらな他の客はこのことに気づいていない。
「いま文字盤に青い光が見えただろう。」
二人はのぞきこむ。
光などは見えない。
と、文字盤のふちの数字があるあたりからいきなり青い円が現れ、それが見る見る小さくなって、文字盤の中央に吸い込まれるように消えた。
確かに光が見えた。
「じっと見てろ、また見える。」
さらに階堂が言うと、再び青い輪が現れ、中央に吸い込まれて消えた。続いてまた現れ、消える。
「もっと見えるぞ…」
階堂の声が遠くで響くように聞こえた。
二人は青く光る時計から目が離せなくなっていた。
「おい、なんだか騒がしいな。」
ふいに、冷馬があらためて気づいたように言った。
確かに、いつのまにか、それほど多くはないこの車両の乗客の何人かが、落ち着かなげに立ち上がったり、通路を歩いたり、開かない窓の外の暗がりをのぞきこもうと、ガラスに額をくっつけたりしている。
さらに冷馬は、何かがさっきと違うことにも気づいた。乗客のささやきやひとり言がよく聞こえてくる。つまりそれだけ静かなのだ。他に物音がしない。
列車の音がしない。
「列車が止まったんじゃないか。」
言われて尾縞もようやく気づいた。
「え?ああ、ほんとだ…」
あいずちをうとうとして冷馬を見たとき、冷馬の格好もおかしいことに気づいた。
両手を前の無人の座席に回し、前の席の背もたれを抱いているようなポーズなのだが、なにやら不自然だった。不自然なのは冷馬の手首の銀色の腕輪に原因しているらしい。
「あれ、冷馬さん、その手錠どうしたんですか?」
言われて冷馬もハッとした。両手を前にもどそうとしたが、もどらない。金属が手首に食いこむ。両腕をその前の座席に回され、左右の手首を手錠でつながれていたのだ。
「…なに?!これは…?いつの間にこんな…?誰がこんなことを…?!」
尾縞に問いかけて見たとき、尾縞の隣りは空席であることに気づいた。階堂がいたはずだが…そして手錠をかけられていたのは階堂だったはずだ。
「あいつは!おじいちゃんはどうした?!こいつの鍵は?!」
冷馬がわめいた。
尾縞はざわつく車内を二両ほど通り抜けて、先頭の機関車両に着いた。
ノックしてのち返事も待たずにドアを開ける。
中には当惑顔の運転士と車掌が立ちつくしていて、運転士は電話で話をしている。相手は函館駅らしい。
「車掌さん、運転士さん、何かあったんですか?私は警視庁大江戸署の尾縞といいますが、容疑者を護送中で乗り合わせていまして…」
警察バッジを見た運転士は、目をパチクリさせ、すぐに話を終わらせて受話器を置いた。
「…わからない…なんだかよくわからない…
車掌が、客車の調子がおかしいからすぐ止めて点検してくれと言い出して…
とにかく緊急停止したんですが…いま函館機関区と連絡をとって、点検にいこうと…
君があんまり取り乱して騒ぐから、こっちもちょっとあわてたんだ…」
非難するように車掌を見る。
「わ、私は、ただ、白髪のお客さんに、列車が遅れていると言われて…」
失態の責任を負わされそうな車掌は、青ざめてしどろもどろな抗弁をはじめた。
「…そ、そしたら、こんなに遅れていると時計を見せられて、そしたら客車のようすが変じゃないかと言われて…そしたら、4号車の調子が悪いような〝気がして〟これは大変なことになると…」
「だから4号車がどう変だというんだ?!君の言っていることは、さっきからまるではっきりしてないぞ…」
運転士もいらだって正した。
「…だからその、この4号車の…」
車掌は苦しまぎれにすがるように運転席のディスプレイを指した。
ディスプレイには全部の車両が青いシルエットとなって浮かんでいる。
その一か所で赤い小さい点がまたたいていた。
「大変だ!4号車のドアが開いている!まさか降りた客が?!」
運転士が思わず叫んだ。
赤い点は危険のシグナルだった。開いてはならないドアが開いていたのだ。
尾縞は湿った空気の中に降り立った。
あたりは真夜中の闇よりも暗い。
あかりがあるのは今降りた列車の周り、そして行く手にぽつりぽつりとともる蛍光灯がはかなげに確認できる。列車の窓からの明かりのみが生命の息吹を伝えている。他はうすら寒く、コンクリートのにおいがかすかにする無機的な世界だ。闇は濃密なのに空気は濃密な感じがしない。
トンネル内も線路は複線で、列車のいるレールのとなりにもう一対のレールが走っているが、どちらも後も先もすぐに闇の奥に消えている。前後が闇では遠近の感覚もにぶりがちだ。
尾縞はためらいなく、階堂が列車を降りて向かった方向の見当をつけた。
列車を降りたじいさんは深く考えもせず、こっちへ、つまり北海道方向へ向かったはずだ。
列車をはなれるとたちまち前後左右が塗りつぶされたように暗くなった。
トンネルの両側面に点々と灯る蛍光灯が、裏町の街路灯のようにうら寂しく、前も後ろも彼方に消えている。尾縞はライターをつけ、自分のまわりを少し明るくして進むことにした。尾縞は愛煙家ではないが、ライターはいつも持ち歩くようにしている。
慣れてくると、ここが海底トンネルだと忘れそうになるのでありがたかった。この上には何億トンもの岩と砂、さらには何億トンもの海水があるということはつとめて考えないようにする。
しばらくいくとうれしいことにあたりが明るくなってきた。
なぜかここの部分だけが停電を免れたように明るい。
明るい区画の中ほどに小さくプレートがあった。
竜飛海底駅
名前からして海の底だ。
駅といっても、トンネルの一部が唐突に照明の数が多くなっているだけだった。プラットホームのつもりなのだろうが、どう見ても足場にしか見えない狭さのコンクリートの通路が、トンネルの両の側面に長く伸びてへばりついている。そのところどころに、ホームと垂直に小さな横穴が伸びていて、先はアナグマの巣のようになっているらしいが、その先にはキヨスクなど期待できず、人気のない、超現実絵画の世界を現出している。
ホームを見上げながら急ぎ足で進む。
駅をやり過ごし、しばらく歩いて、前も後ろも、果てしない暗闇に線路だけが伸びていると痛感できるところまできて、ハッと立ち止まった。
何かがおかしかった。つい勢いで、夢中で追いかけてきたが、何かがおかしい。
自分は今、階堂を追っている。つまり階堂は自分の前を逃げていると仮定している。ということは、階堂が歩いてトンネルを出ようと仮定していることになる。年寄りが何キロもの暗闇の線路を行く、歩いて海の底を渡ろうなどと思うものだろうか?しかも階堂は名うての詐欺師だ。さっきも一杯くわされたばかりではないか!
くそっ!またしても引っ掛けられるところだった!追いかけているつもりでどこまでも行くところだった。こっちの単純な思い込みを突かれた。
尾縞は回れ右をすると、急ぎ足で引き返した。
再び海底駅が見えてくる。
やっぱりここか?隠れるとすればここしかない…
この横穴の奥に潜んで、函館行きが止まったところで、飛び乗るつもりか?
ともかく上がって横穴の奥を探してみようと思ったとき、尾縞がいる付近のホームの先の、端っこの横穴からひょいと顔がのぞいた。
白髪のアザラシがこっちを見とめ、ぎょっとあわてる。むこうもようすをうかがおうと、うっかりホームに顔を出したらしい。
「いたな!みつけたぞ!そこを動くな!」
尾縞は、とっさのときの確かな判断能力と、けしてホシを見失わないすぐれた追跡能力を自分自身再確認した思いで、ちょっと痛快な気分になった。
ここはひとつドラマのようにカッコをつけてやろうと、仁王立ちになり、
「よーし、ゆっくり出て来い!」
と言い放つ。
と、まことに意表を突いたことに、何を思ったか、階堂はホームから石の線路上に飛び降り、石の枕木の上を、尾縞とは反対方向へいちもくさんに走り出した。
尾縞も追いかける。
階堂は逃げ足が意外に速かった。脱兎のごとく走るアザラシだ。海底駅はどんどん遠ざかり、あたりは暗闇につつまれていく。
尾縞は走りながら叫んだ。
「そっちへ行くな!危ないぞ!あと2分で下りの列車がくる!」
その声にあわせるように、逃げる階堂のりんかくがはっきり見えはじめた。階堂の行く手のはるか先に明かりが見えていた。
「…なんてこった、ほんとに列車が来た…」
2分で列車が来るなどと言ったのは出まかせのはったりだった。
さすがに階堂も気づき、身の危険を悟った。
列車は思いのほか早い。しだいにトンネル内に明かりが満ちてくる。
「走れ!早く走って来い!逃げろ!」
尾縞はどんどん高まる列車の響きに負けないように大声で叫ぶ。
必死の形相の階堂がどんどん近づく。
「『勇往邁進百事懼れず、沈着大胆難局に処し』本訓其の一、第六…」
「しゃべってないで、急げ!」
尾縞はこのとき、こうして高みの見物のように見ていては自分も危ないのだということにはたと気づき、あわてて回れ右をすると、階堂の前を全力で走り出した。
列車は、前方になんらかの異変を感じとったのか、駅が近づいたせいなのか、トンネル内に響く警笛を鳴らした。
二人はその轟音にせかされ、転がるようになりながら海底駅へと向かう。
二人とも振り返る余裕などなかった。
階堂は、その歳にしてはあきらかに記録的な速さで、尾縞に続いて海底駅区間に走りこむ。
尾縞は、狭いプラットホームの、横穴がある部分にひらりと駆け上がり、振り返ると、
「ここだ!ここへ上がれ!」
と叫んだ。
階堂は倒れそうになりながらも立ち止まると、ジャンプするウシガエルのようにジャンプし、尾縞が差しのべた手を無視して、尾縞めがけて飛び込んだ。
二人は激突し、階堂が尾縞を押し倒すかたちで、横穴の中に重なって倒れた。
そののち、ひょうしぬけするほどしばらくしてから、列車がプラットホームにするするとすべりこんだ。
海底駅はまばゆい光と、列車が止まる騒音で満たされる。
列車が静止して危険がなくなったのを確認したのち、尾縞は転がったまま、息を切らせながらも、すばやく階堂の首根っこを押さえこんだ。続いていまいましげに立ち上がり、ネコの首根っこをつかまえてつまみ上げるように、強引に階堂を立たせながら言った。
「捕まえたぞ、こいつめ!年寄りの足で若い僕を振り切れると思っていたのか!」
階堂も息を切らせながらも、気抜けしたように言った。
「そうだった、この列車はここに止まるんじゃないか。あわてて走ることはなかった。ずっと前からスピードを落としていたんだ。今考えりゃ、隣のレールにどくだけでもよかったしな、焦ってバカみた…」
「まったくあんたは途方もないバカだ!トンネルの線路を歩くだけでもとんでもないことだ。僕だって、あんたを追っていなきゃ線路に出たりしない。列車は幸か不幸か僕たちに気がつかなかったみたいだが、線路を歩いたのがバレたら、大騒ぎものだぞ!いいか、もう一度、あのヘンな催眠術みたいなマネをしてみろ!まったく油断もスキもない奴だ…」
「『一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備へ厳に警めざるべからず』本訓其の三、第一だ。油断するやつが悪いよ。戦争中の話だが、わしの中隊長は撤退のときはいつも、樹の陰に狙撃兵を残したもんだ。油断してやってきた敵兵どもは被害甚大さ」
「じゃあ聞くが、それなのになぜ戦争は負けたんだい?」
「今の例でいうと、油断しなくなった敵に、しまいには樹ごと火炎放射器で焼かれてな。
しかし、あんたはさすがだね、気づくのが早いよ。わしが見込んだだけのことはある。」
「見込まれた覚えはない。適当なことを言うな。」
「ところで、どうだね?まがりなりにもわしは海底を歩いたぞ。ほんとうにあのまま函館まで行けばよかった。歩いて海底横断だ、この志や良し!」
階堂は尾縞のいらだちなど少しも気にするようすもなく、なにやら得意気に言ってのける。どんなときでも自分を肯定するネタを見つけ出すことができる年寄りではある。
「前に、大バカな学生がやろうとしたってのを聞いたことがある。あんたも大バカな学生なみだ。」
「学生なみの若々しい行動力があるのさ。さて、海底は海底でも、ここはどのあたりなんだね?」
階堂はあらためて気づいたように、あたりを見渡しながら言った。
確かに、二人がいるのはすべてコンクリートで固められた、異次元空間を思わせる、灰色の管の中だった。
「トンネルの奥底の海底駅さ。トンネルの構造も知らないで、よくもウロチョロできたな。海底駅は観光客用だから、列車はほとんど止まらないんだぞ。よくも逃げ出そうなんて考えたもんだ」
尾縞の話にあわせるように、二人のいるプラットホームの先、列車の先頭部分あたりから、観光客らしい小人数の一団が降りて、そこにある横穴に吸い込まれていった。
「入学式にも出たかった…」
階堂はうつむきかげんにぼそりと言った。このとき、いつも笑いじわが刻まれているような顔が少しひきしまり、影がさしたようになった。
「自分のことをすっきりさせてから、さっぱりした気持ちで会えばいいじゃないか。」
尾縞は当然ながら正論を言う。
「今しかない。孫は二度も大学へ入学はしないだろう。わしは歳も歳だし、ムショに入ったらいつ出られるかわからないしな。
何より、あいつらはわしを無事には済ますまい。」
「あいつらってのは誰だい?ま、見当はつくけど。」と尾縞が問いかけるひまを与えず、階堂はたたみかけた。
「なあ、わしはべつにあの娘と一緒にいたいなんて思っちゃいないんだよ、わしみたいな無頼漢ではあの娘に迷惑なだけだ。
ただ、あの娘が一番輝くときを見てやりたいんだ。身寄りらしいことを何ひとつしてやらなかったものの最後の務めだ。」
目には誠実さをたたえ、真剣な顔で尾縞をのぞきこみながら説得するように言う。
詐欺師のたぐいはこうして人の心を動かしてきたという、模範のような名調子だ。誰でもいくらかは同情せずにはいられない。このスキを突かれてまんまとたぶらかされるのだ。
しかし、階堂もまた尾縞の外見にたぶらかされていた。童顔は心根まで幼いという思い込みがあった。
「僕の目下の務めは、うちの署まであんたを連れていくことさ。」
尾縞はあっさり断ち切るように言うと、事務的に次の行動に移ろうとした。
さて、この列車に乗って函館へ戻るべきか、あの停車した列車まで引き返して冷馬と合流すべきか、そもそも、あの列車はまだあそこに停車したままでいるのか…
ブザーが鳴り、入っていた列車は早くも北海道へむけ出発しようとしていた。にぎやかな光と音に満ちた列車が去ったあとには、この駅は再び打ち捨てられた海の底のようになって残るのだろう。
列車は、観光客を降ろした以上あまり長居はしたくないとでもいうように、さっさとドアを閉めかける。
と、閉まりかけたひとつのドアに向かって突進していく影があった。
小さなカバのような影がいちもくさんにドアに向かって走っていく。
尾縞はホームに頭をめぐらした一瞬のスキを突かれたのだ。
階堂が手をふりほどいたのにも気づかなかった。
「あっ、待てっ!」
言ってもおそく、カバはすでに列車の中に消えていた。
列車のドアはするする閉まる。
尾縞の若い反射神経と運動能力をもってしても、階堂を追ってドアのすきまにすべりこむのは難しいかと思われた。
函館駅は駅舎はモダンなものへと大きく変わったが、プラットホームはそれほど変わってはいない。ここの長いホームに立って冷たいかすかな潮風を頬に感じたとき、人々はここが北の大陸の出口であり、入口であると感じるのだ。
いまその湾曲した長いホームをふたつの影が歩いていた。
ずんぐり小山のような影と、なよなよとひょろ長いかげろうのような影。
意識して他の乗客のあとにふたりだけで降りてきたのだ。細い若いほうが小太りのほうにぴったりとよりそっているが、どう見ても、親子連れにも孫と祖父にも同性愛者カップルにも見えないよそよそしさがある。
「どこまでムダに手をやかせる気だ?」
尾縞は歩きながら、右手でしっかり階堂の左腕をつかまえ、いまいましげに言った。
「これで元にもどったね。イーブンってところか。わしのポイントだね。」
階堂は全く屈託がなく明るく言う。自分のしたことをほとんど省みたりすることがないというのはこの男の特質らしい。尾縞はいまいましいと思いながらも、ついつりこまれて、屈託がなくなりがちだった。
「何を言ってる、次の列車で行けばいいことだ。何も変わっちゃいないさ。ようは連行できればそれでいいんだ。
おっと、車掌さん…」
列車から降りて彼らを追い越して駅舎へ向かおうとしていた車掌を呼び止めた。
「次の海峡線の上りはどのホームから出ますか?」
車掌の答えは意外だった。
「それが…いま海峡線は上下線とも運転を見合わせたところなんですよ。前の列車が海底駅付近で止まって、乗客が線路上に降りたかもしれないとのことで、事実関係を確認中でして…」
尾縞と階堂は思わず顔を見合わせた。自分たちのしたことが、列車が止まるという《事件》になっているのかもしれない。
「情報が遅いな、しかも正確じゃない。」
階堂が気にもとめないようすで言った。
ここから本州行きの列車に乗り海峡を越えるという尾縞のもくろみは頓挫したことになる。
ふたりはプラットホームの出口付近で立ち止まった。
尾縞はあたりを見回し、発着列車の表示プレートへ目をやる。
海峡線運転見合わせ中の表示が出ていた。
「くそっ!待つしかないのか…」
尾縞はいらだって再びあたりを見回したが、らちがあきそうになかった。
「ほかに別の方法が…それにしても冷馬さんはどこだろう…すっかりはぐれてしまったか…」
と言いかけたとき、
「待たないほうがいいようだ。何でもいいから早くここを離れたほうがいい…」
階堂がうって変わった深刻な声で言った。
「何だって?…」
尾縞の問いかけに答えず、階堂は改札口方向に目を向けたまま、アゴで前方をさして言った。
「むこうからこっちへ歩いてくるごつい四人が見えるだろう。察するに、あいつらの目当てはこのわしだね。荒武会の系列の組か、地元のどれかだ…」
なるほど、ひと目で暴力関係とわかる四人が、横一列になって我がもの顔に大またで近づいてくる。しっかりした目標と目的があるのは確かだ。二人は濃い色のスーツに、この肌寒さなのに襟の大きくあいたシャツを着て、あとの二人は襟に毛皮のついたバックスキンのブルゾンを着ている。
「何を言ってるんだ…」
尾縞は半信半疑ながら不安になった。
迫る四人に表情はなく、つかつかと近づいてくる。
尾縞と階堂を目がけてきているのかどうかも定かでないが、もうホームには彼らふたりしかいない。
階堂はせっぱつまったように言った。
「…言ったろう、わしは前の仕事で、パスワードと一緒にかなりの情報を見てしまったと。政界や特定の外国との微妙なつながりをね。予想以上に多くの人間がわしの口を封じたがっているはずだ…」
四人は二人を見すえたままどんどん近づく。
「よけいな気を回しすぎじゃないのか…」
尾縞も四人から目を離さないまま身構える。
四人の暴力団員が二人に話があるのは確かだった。
四人は二人の二メートルくらい前でいっせいに歩みを止めた。
人気のないホームで四対二が向かい合う。
友好的なムードではない。向かい側のホームに列車待ちらしい客はいるし、その向こうのホームにも人影は見えるが、このホームに関心をはらうものはいない。
「やあ、じいさん、会うのは初めてだが、写真のとおりだな。」
四人の内側にいたダークスーツを着たうちの一人が、どすのきいた声で、いかにも幹部らしい口調で言った。
「うちの会長があんたに会いたがっていてね。いいことをしてくれたそうじゃないか。」
カエルを飲み込もうとするヘビのように、階堂に、そのは虫類のような顔を近づける。同時に他の三人が階堂に一歩近づく。
「何だ、君たちは。何の用だ。」
容疑者は確保した以上は保護しなければならないうえ、駅の観光ポスターなみに無視されていたことに怒りを覚えていた尾縞は、階堂を背後にかばうように前に出た。
「僕はこういうものだが。」
ここで懐から、お上の御用聞きの輝かしいあかし、警察身分証を出し、吸血鬼に向ける十字架のように敢然と前にかざした。暴力団員には葵の印籠のような効果を発揮するはずだ。
「何だ、そりゃ。ウルトラ隊員の隊員章か?」
意外なことにスーツを着たもうひとりが、せせら笑うように言った。
「黒皮の手帳じゃないですか、銀座のホステスの。」
ブルゾンを着たひとりがまぜっかえすように言って、四人がふっと笑ったとみるま、最初に話しかけた幹部らしい男が、
「ススキノじゃお前の働き口はないぜ、オカマバーのホストめ!」
とすごみをきかせて言い、
「用はないぜ、引っ込んでな!」
と言い放つや、手下三人を三方から階堂に襲いかからせ、がっちり組み固めてしまうと、神輿をかつぐように全員で外へ向かいはじめた。
「待て!」
尾縞は引きとめようと、思わず階堂と一体化した三人につかみかかる。
と、はじかれたように吹っ飛んで、プラットホームの上に転がった。
ブルゾンの一人が尾縞の顔に飛び出しナイフのようなパンチをくらわせたのだ。
「よせっ、やめろ!手荒なまねをするんじゃない!」
階堂は必死で叫んで暴力を止めようとした。階堂としては意外なことだ。
「そうとも、ここは駅の中だ。ほかの連中に感づかれるんじゃねえ。俺たちゃ、仕事仲間って設定なんだからな。」
幹部が冷静にたしなめるように言った。
転がった尾縞のえりくびをつかんで、もう一撃加えようとしていたブルゾンの組員は、思いなおして聞いた。
「こいつはどうします?」
尾縞は一撃で完全にのびて、プラットホームのコンクリート上に安眠するホームレスのように横たわっていた。
「そこのイスに座らせとけ。気分が悪くなったって設定でな」
二人が両側から階堂の両腕をつかみ、その後ろに一人が密着して、四人五脚のように歩幅までそろえて歩き、その後ろを幹部が油断なく、しかし悠然と歩く一行は、駅舎の出口にさしかかった。そのまま駐車場のリムジンまで連行し、事務所へひったてて、ひとまずいやというほど叩きのめして、すべて吐かせるつもりだった。行きかう乗降客の目には一行の姿は奇異に映ってはいるようだが、とりたてて異を唱えるものはいない。なにかしら変だとは思っても、人目でそれとわかる組員と好んで関わりをもとうなど考える一般人はふつうはいるはずもなく、行く手の客たちは自然によけていく。
ゆうゆうと出口を出ようとしたとき、
「…お~い…待て…お前たち…」
と、前にも聞いた情けないアルバイト学生のような声が弱々しく聞こえてきた。
幹部が思わず振り返ると、刑事役のエキストラをやるアルバイト学生のような若い男がよたよたと乗降客をぬってやってくる。
「野郎、気づきやがったか。」
もっと強くぶちのめしておきゃあよかったと幹部は舌打ちしながら毒づいた。
幹部の声に階堂をおさえていた三人もいっせいに振り返った。
もちろん階堂はこの機をのがさなかった。
「『凡そ戦闘は勇猛果敢、常に攻撃精神を以って一貫すべし』本訓其の一、第六」
「いま何て言った、銭湯で裸一貫だと?」
階堂が人の虚を突くタイミングをとらえるうまさ、決断と行動の早さは、トンネル内で尾縞が思い知ったばかりだ。
やくざものたちの腕をふりほどくと同時に走り出す。走るコビトカバは転がるボウリングの球のように速いのだ。
「あ、兄い、じじいが逃げた…」
ブルゾンの組員があっけにとられて言う。
階堂は迷いなく一直線に走り、その背中がたちまち遠ざかる。
「早く追え!ばかやろう!」
さすがの幹部もあわてた。
階堂はわき目もふらずにタクシー乗り場へ急行する。
前方に並んで止まっていたタクシーの一台が、気を利かせて自動ドアを開けるのが見えた。
「あのタクシーだ!」
組員が次々に叫ぶ。
「あれに乗ったぞ!」
先頭に並んでいたタクシーがドアを閉めると同時にいきなりダッシュし、一瞬遅れて組員たちは次のタクシーになだれをうって飛び込むが早いか、
「あのタクシーを追いかけろ!見失うな!」
と誰彼ともなしに叫び、そのタクシーも脱兎のごとく飛び出した。
二台のタクシーは、たちまち駅前広場を走りぬけ、二台とも次の信号が変わる間際に滑り込むように角を曲がって消えた。
尾縞がタクシー乗り場にたどり着いたときは、追うほうのタクシーのリアバンパーが角を曲がるところだった。
尾縞は追うべきタクシーのいなくなった駅前広場を見つめたまま、しばし呆然と立ち尽くす以外なかった。
次の行動へ頭が回らない。連行すべき重要人物に逃げられてしまった。
これだから実際の仕事は昇進試験のテストとは違う。相手はとらえどころのない人間というしろもので、きまった解答なぞないのだ。任務に失敗したという虚脱感が尾縞を打ちすえ、同時に組員に打ちすえられたアゴの痛みがぶりかえしてきた。
「…ああ、痛い…」
と言いながら思わずアゴをさすり、頭を振る。
「大丈夫か、刑事さん?」
聞き慣れた声が彼を心配してくれた。
「ああ、まだアゴが痛いよ…」
とつい言って、横を見て驚いた。知性のある白髪の豚のような顔が彼をのぞきこんでいたのだ。
「…あれ?階堂?!…おまえタクシーで逃げたんじゃ?!…」
階堂は息を切らせることもなく、はじめからそこにいたように、なにくわぬ顔で立っていた。
「籠脱けの術ってやつだよ。それにしても信じられないくらい弱い刑事さんだね。」
階堂が手の届くところにいてホッとしたものの、その痛いところを突く直言に、尾縞はアゴの痛さが増す思いがした。
「もともと武闘派じゃないし体育会系でもない、格闘も逮捕も得意じゃない。現場の仕事はうんざりだ。早く管理職になってデスクワークがやりたいよ。それよりも早くこんな仕事辞めてしまいたい…」
容疑者にさえあわれに思われてしまったことに、厭世観が増し、つい本音が出た。
「さるハリウッド・スターが職探しをしていた若いころ、父親から言われたそうだ。〝仕事を選ぶなら、お前がイージーにできる仕事を選べ。そしてそれをできるだけ長く続けろ〟とな。あんたにとっちゃ、警官はイージーな仕事ではなかったというわけか」
「もともと向いてないし、人が良いからじいさんにもあしらわれる。つまらない仕事で痛い目にあうのももうごめんだ。」
「こりゃまたずいぶんと異色な刑事さんだったんだな。そんな調子じゃ、奴らが戻ってきたら、とても太刀打ちできないぞ」
ことは終わってはいない。一難去っただけだ。階堂は次の段階へ思いをはせようとしている、尾縞はそう気づかされ、気を取り直した。
突き抜けるような青空と、ビロードのじゅうたんのような青い海の中間に青黒く見えるのは函館山だ。江ノ島のように海にせり出した陸繋島のこの山は江ノ島ほど可愛らしくは見えない。どでかい壁のような山だ。尾縞にはあたりのものすべてがよそよそしく見え、白い巨大なカーテンが視界をふさいだとき、いくらか落ち着く気がした。フェリーがフェリーターミナルのバースに入ってきたのだ。
「まるっきり嘘とも思えないところもあるんですよ。げんに暴力団らしいものの襲撃も受けてますし、私もやられてますしね…」
600キロ以上離れたところに目に見えない電波というものではかなげにつながる相手の声は距離に合わせて他人行儀に聞こえる。
「…ええ、もちろん大丈夫です。たいしたことはありません…」
ケイタイからアンテナの突起がなくなってつるんとしたプラスチックの板だけになってから、ケイタイは頼りなさが増したと尾縞は思う。
「…で、連中に、つまりその暴力団員たちに対するフェイントのつもりで、フェリーで行こうと思うんです…」
移送が遅れたことをいくらか不快に感じていた電話口の上司はしかし、ここでようやく上司らしい気遣いを示してくれた。
「道警の応援?…それは、確かにありがたいですが、今ただちにというわけにもいかないんじゃ…とにかく今フェリー埠頭にきてるんで、このままフェリーでいきますよ。少なくとも船にいる間は誰も手出しはできないでしょうからね…」
今のいままであのやくざものたちはこのフェリーターミナルにはやってこなかった。まくことができた、振り切ったと尾縞は思った。
フェリーは隣町へ買い物にでもいくように何のドラマ性も感傷もなく出港した。するすると世にも滑らかに進んでいく。これほどの巨大な構築物がたいして揺れることもなく、水平に海上を滑ってゆくのは、船というもののなせるわざではあるが、驚異的なことだと尾縞は思う。青い海にさわやかに白く泡立つ航跡の彼方に、フェリーターミナルが遠ざかっていく。
「海はいいね、船もいい。だいいちトンネルより空気がいい。」
船尾の展望デッキで風に吹かれながら、のんきな旅行中の年寄りさながらに階堂が言った。
「空が晴れて海が青いときは海も機嫌がいい。曇り空のときは機嫌が悪いから要注意だぞ。残忍な暴君になることがあるからな。地上に住んでいる人間は海が地球の支配者だってことを忘れがちだ。人は、この星の三分の二を支配している海に対する畏敬の念と出し抜く手だてを忘れてはならん」
「つくづく無駄話が多い人だな、あんたも。歳をとるとそうなるもんかな」
「いかなるときでも余裕だよ、刑事さん。余裕を忘れては人でなくなる」
「もう余裕は必要ない。さっきは僕に余裕がありすぎて逃げられたからな」
「まあ、そう言いなさんなって。ところでな、わしはな、あの連絡船ってのがなくなったと聞いて以来、海の上を渡る方法はなくなったとばかり思っていた」
「フェリーはちゃんとあったさ。船舶ファンと貨物輸送のためにね。それどころかちょっと前まではUFOみたいなどでかい高速船も走っていたという話だ。…とにかくこれに乗っている間は我々は安心だ。」
(そうだろうか?ここから海面までの高さは目がくらむほどだ。それに、まわりは海ばかりでどこにも逃げ場がない)
「どこにいても安心じゃないさ」
階堂がさとすように反論した。
「一番危ないのは東京に着いてからだ。警察の中にいるうちはいい。奴らはわしが自由になったときを狙ってくる。奴らのやり方は見たろう。あれは荒武会のさしがねだ」
「そのことは僕の上司にもよく言っておくつもりだ」
「釈放されたあともわしを守ってくれるのかね。大臣並みの警護をしてくれるのか?関東には刺客になる構成員が何人もいる。一人や二人の警護じゃ役にたたないよ。なあ、わしは命がかかってるんだ。もしここで逃げることができたら、姿をくらまして逃げられる。頼むから、わしを逃がして、もう一回だけ孫に会わせるチャンスをくれんかね」
階堂はあきらめていない。話をもちかけるように懇願してきた。
「手遅れだよ。もう船は出てしまった。それに僕だって全力を尽くすさ」
「弱い刑事さんの口約束じゃあな。」
階堂は鼻で笑うように痛いところを突いてくる。尾縞はむっとして逆にさとしてやりたくなった。
「そもそもなんでこんなヤバい仕事を続けてるんだい?もう引退してもいい歳じゃないか」
「戦中派というのはな、いつでも何か目標を持って働いていないと気がすまない人種が多いんだ。」
階堂は得意なテーマを講義する教授のような口ぶりになる。
「わしらはな、あんたくらいの歳のもっと前から、無理に目的を持たされて、目的のために励まさせられた。お国のため、天皇陛下のためと言われてな。わしはサイパンの生き残りなんだ。知ってるか?」
遠い目をしながらもどこか尾縞を見下す話し方だ。
「知ってるよ、僕もじいちゃんから聞かされた。玉砕したんだろう」
「戦争ってのはな、仲間が死ぬのが日常になるんだ。助け合った仲間たちがあっという間に死んでいく。生き残るのは努力も能力も関係ない。運だけだ。あんないい奴ら、わしを助けてくれた連中が何人も何人も死んでいく。数えきれないくらい死ぬんだ。それこそ国民がいなくなるんじゃないかと思うくらいにな。
たまたま生き残ったわしは、生き残ったことが死んだ戦友たちに申し訳なくてな。戦友の分までしっかり生きてやろうと思った。うんと働いて国の発展に尽くすのが供養になると思ってな。自分の仕事を成し遂げることを目的にして一生懸命になった。『九死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具に思を護国の英霊に致し』本訓其の三、第二」
自分に言い聞かせるひとり言のようでもあるが、なにやら説得力を帯びてくる。
「…わしが中心になって小さな会社をいっぱしのところまで引き上げた。ところがだ、バブルとやらのときに会社を追い出されたよ。わしのやり方は古すぎると言われてな。腹が立ったね。目的に肩すかしをくらわされたのは二度目だ。世の中間違っていっていると思ったよ、戦前や戦中のようにな。まわりを見てみりゃ、間違ったことが大手を振って、まともなことが小さくなってるってのがいっぱいだ。
そこで、間違っている奴の代表みたいな連中で、しかも強い奴らに狙いを定めた。奴らから大金をせしめるネズミ小僧稼業に新たな目的を見いだしたってわけさ。詐欺の心得は戦友に教わっていたよ。軍隊は徴集されてくるから、泥棒もいれば人殺し、詐欺師もいたからな。でも、みんなに道理があった」
「道理って?」
尾縞はついつりこまれて聞いた。
「しっかり生き抜くってことさ。短い人生を無駄にしない。『流言蜚語は信念の弱きに生ず。惑うこと勿れ、動ずること勿れ』本訓其の三、第一。『諸兵心を一にし、己の任務に邁進すると共に、全軍戦捷の為毅然として没我協力の精神を発揮すべし』本訓其の一、第五。いわく、迷うな動揺するな、任務に励め」
「じいちゃんも目的を持てってよく言ってたなあ。そして努力と艱難辛苦ときた」
尾縞は頑迷な祖父のこごとを思い出して苦笑いした。
「じいちゃんの言ったとおり目的は持っているのかね?」
「いや、だいいち今は戦中の人たちのように目的を必要としない時代だしね。生きるのを目的にするほど波乱万丈な人生でもない。学生のころは受験のための試験勉強だけ。その後も試験で、公務員さ。何のために試験ばかり受けてきたのかもよくわからない。たいした目的もない。就職して新米の警官から、これも試験で刑事になったが、いまだに自分が何をやりたいのかもわからない」
あきれたことに、いつのまにか尾縞は、この得体の知れない年寄りに自分の本質的な迷いをあらいざらいぶちまけてしまっていた。
「つまり一種のノンポリだな」
階堂はこともなげに言う。
「何だい、それ?」
「昔は骨のある奴からは軽蔑された、そのう、思想面でのフリーターみないなものかな」
「あんたも軽蔑してた?」
「もちろん。」
「あんたもじいちゃんに似たところがあるなあ、年代が近いんだろうなあ」
「わしもあんたが、なんだか孫のように思えてきたところだよ」
階堂の話術にまんまとのせられていた。結局はここらあたりへもってくるのが、手馴れた詐欺師・階堂の手口なのだ。人情をからめて油断をさそう。
「その手には乗らないよ、なめちゃいけない。」
ぴしゃりと言ってやったが、階堂はそれほどこたえたようすも見せないので続ける。
「あんたの話にはおかしなところがある。じいちゃんはタラワ島玉砕の生き残りだった。90歳をだいぶ過ぎて去年死んだが、あんたはじいちゃんと比べるとずいぶん若く見える」
「見かけと実際とは同じじゃない。見かけはあんたのじいさんと似ていなくとも、じいさんと似たようなことは言えるぞ」
「ほう、どんなことが言えるんだい?」
「いま自分の前にある仕事を目的にしろってことさ。全力をあげて仕事をすれば、それで人生けっこう充実するよ。」
「そうかな。いや、そうだとしても、いまぼくの目の前にある仕事は充実どころか、思った以上に大変だと思えてきたよ」
尾縞は警官特有の油断のない顔にもどって、階堂の後方へ目をやりながら言った。
「またまたお客さんらしい」
いましも6人からの男たちが彼らを取り囲むように背後からばらばらと迫り始めていた。はじめ尾縞はホストの集団かと思った。それほど揃いも揃って華々しくかついかがわしい格好をしていたのだ。ユニホームのような黒っぽい上下のスーツに、大きく開け放たれた襟元からはとりどりの金色の鎖がのぞく。手間ひまかけて見事にセットされた髪も、すべてホスト並みに金がかかっているが、全身から奥様方が近寄りたくない身勝手なオーラを発散させている。
「よう、じいさん、見つけたぜ。ここでお前に会えるとはな」
中でもひときわ大柄な、リーゼントが無謀な若作りに見える男がずいと進み出た。
「さる書家の有名な一文を思い出しましたぞ、『つかまったっていいじゃないか、にげるんだもの』」
階堂が愛想笑いをしながら言った。
「逃がすか、この野郎!」
小柄な手下が吠える。
「それを言うなら、『つまずいたっていいじゃないか、にんげんだもの』だろう!」
「こりゃまた、思いがけないところで…しかも皆さんお揃いで。小熊会の方々でしたっけ?」
階堂はなんともばつが悪そうに、しかし悪びれることなく言った。
「火熊会だ!このやろう!」
小柄な手下がたたみかけた。
「さっきの同類か?」
尾縞が集団に目をやったまま階堂に小声で言う。
「いや、別口。これは地元の親分さんだ。」
「おい、じじい!よくもよくもハメやがったな、くそじじい!金はどこへやった!」
リーゼントの親分が火を噴く怪獣のように言った。
「あ、あれはもう慈善団体に寄付しました。」
階堂はぬけぬけとすまし顔で言う。
「なっ!なんだと!てめえ…」
「いいじゃありませんか、あんたの20台もあるベンツのうちの2台分くらい、恵まれない子どもたちのために使ったって、バチはあたりゃしませんでしょう」
「ベンツ1台分だ!俺は安いベンツに乗っちゃいねえ!このフェリーに乗りつけたベンツも5000万だ、ふざけんな!」
親分は逆上し、リーゼントが噴火しそうだ。
「いいか、野郎!金のありかを吐かせてやる!おい、こいつを海に放り込め!」
たちまち子分たちが階堂に殺到し、お神輿よろしくかつぎ上げようとする。
「何をするんだ!やめないか!」
尾縞が割って入って立ちふさがった。
「ひっこんでな、あんちゃん。こいつはとんでもないペテン師なのさ。むろん、ごまかした金をたんまり隠し持ってるってわけだ。あんたにゃ関係ねえ」
親分は尾縞を通行人程度に思っていたようだ。
「僕は警視庁大江戸署の尾縞というものだ」
尾縞は落ち着いて警察バッジを出し、桜吹雪の刺青のような効果をあてにした。
「じゃあ、ひっこんでな、警視庁のあんちゃん」
またしてもこともなげにスルーされてしまった。ほとんど無視されているといっていい。
「おい、サメのエサになる前に金をどこへやったか言え!」
「このへんにはサメはいないよ。いるのはイルカだ」
階堂はしぶとく指摘する。
「ほんとだ、会長!イルカがいますよ!」
小柄な子分が遠くを見やって、いくぶん嬉しそうにすっとんきょうな声をあげた。
「何だと!」
確かに水平線の手前に白い水しぶきがいくつもあがっている。灰色に光るなめらかな姿も見える。道楽者の何頭かのイルカがフェリーと併走して、船客たちにもって生まれた芸を見せびらかして悦に入っているのだ。
「そうとも、イルカが見えるはずだよ。海から飛んで出てくる…」
階堂が落ち着いて解説するように言う。
「だから何だ!この…」
言いながら親分はついイルカを探して、海の彼方を見やる。
「ほらまた一匹飛び上がった、また一匹…じっと見てると面白いだろう…」
階堂の声は遠くから響くように聞こえてくる。
「…また出てくるぞ、みんな見てろ、ようく見ろ、こんどはスローモーションみたいにゆっくり出てくるぞ…」
言われたとおりイルカはゆっくり水から出、水しぶきもゆっくり上がるように見えた。奇妙なことに階堂の言うままにイルカが泳いでいるように見える。
「…また一匹…もう一匹…」
全員の目が海上にそそがれ、誰もイルカから目が離せなくなっていた。
「会長、じいいがいません!」
小柄な子分の声に全員がはっと我に返った。あらためて気づいたように見渡すと、確かに今まで真ん中にいた階堂の姿がない。
「なに!どうなったんだ?!どうした?野郎、どこへ消えた!」
親分は目をパチパチさせ、あたりを見回す。
「どこへいったんだ!じじいを探せ!」
まだのみこめず途方にくれているような子分たちをどなりつける。
いち早く気配に気づいた小柄な子分が身を乗り出して叫んだ。
「あそこに!前の方へ走っていくぞ!」
見ると、彼らのいる一階下の右舷のデッキを船首方向へ走る姿がある。すんづまりのカバのような体を包む、それなりに仕立てのいいジャケットが躍動している。
「追いかけろ!」
親分の号令を待たずに子分たち全員は階段を駆け下り、一階下の側面通路デッキに殺到した。
階堂は必死で走ったが、この通路からは船首方向へ抜けることはできず、そこから船内へ入る入口もない。つまり行き止まりだった。
たちまち追っ手は追いつき、息を切らせ脂汗を流す階堂と対峙した。階堂はさすがにお手上げとばかり両手を上げる。目くらましは一時的な効果しかなかったのだ。
子分たちを押しのけ、リーゼント親分が噛みつかんばかりに階堂に迫った。
「手間をとらせやがって、じじい!とんまなじじいだぜ、船ってのはなあ、どこへ行っても行き止まりだ、まわりにゃ海しかねえんだよ!どこへも逃げられねえってことがわからねえのか!」
階堂は両手を下ろし、手すりをつかんでそのままへなへなと床に崩れ落ちる、と見せかけて、両手に力をこめ、短い足を踏みしめて乗り越えると手すりを蹴って飛んだ。あとから子分どもの後ろに追いついた尾縞もなすすべもなくあっけにとられる。
どこかビーチボールを思わせる階堂の体はゆっくり海面に向かって落ちていき、白い水しぶきが上がって見えなくなった。
「人が落ちたぞ!」
デッキにいたほかの船客の何人かが叫んだ。
「ばかめ、自分から落ちやがった、同じことじゃねえか、叩っ込む手間が省けたってもんさ!」
親分が見守る水面には泡以外浮かんでいず、さすがに覚悟のダイブだったかと尾縞も思いはじめたとき、船からだいぶ離れたところにぽっかりと白い海草のような髪をゆらめかせて頭が現れた。ひげの下から水を吐くところは太ったアザラシにも見える。
「ちくしょう、野郎、生きていやがった!会長、あいつ泳いで逃げるつもりじゃ…」
子分が地団駄を踏む。
「泳げるもんか!あんなカバみたいな図体をしやがって…」
「会長、カバは泳げますよ!」
言われたとおり、階堂は短い手足をばたつかせて危なっかしいながらも平泳ぎをはじめた。
「くそっ!じじい、おぼれろ!沈め!」
親分の呪いの言葉に続いて子分たちも合唱する。
「沈め、沈め、じじい!沈んでしまえ!」
これに対抗するように船尾デッキにいたほかの船客たちが
「がんばれ、がんばれ、おじいさん!がんばって泳げ!」
とエールを送る。
上の騒ぎが聞こえてか聞こえずか、階堂はけんめいに泳ぎ続け、どんどん船から遠ざかる。人が落ちたという声が船橋まで届いたのか、フェリーは機関を止め、その場に停船していた。
しかし、船からかなり離れたと思われたそのとき、階堂はにわかに動きがにぶくなり、もがくように手足をばたつかせるだけになると、そのまま沈んでしまった。力尽きたらしい。
「やったぞ、ざまあみろ!沈め、龍宮城までいっちまえ!」
親分以下のやくざものたちがワーッと歓声をあげる。
「えーい、仕方がない!」
尾縞は上着を放り出すと、階堂にならって手すりに飛び乗り、威勢良くジャンプした。そのままさっそうと海面へ突入する。
「会長、あのあんちゃん、じじいを助ける気ですよ!」
「くそっ、よけいなことを!」
親分たちも船客たちも尾縞が勇躍階堂をレスキューする次の瞬間をかたずを呑んで見守る。しかし期待した場面にはなかなか至らなかった。尾縞が飛び込んで波間に消えた海面はたちまち波静かとなり、階堂の姿もなく、待てど暮らせど何事もなくひっそりとしていたのだ。
「どうしたんだろう?」
「もしかして、後から飛び込んだあの人って泳げなかったんじゃ…」
船客たちが不安を口にしてざわつきはじめたとき、またしても、長い白髪を海草のように揺らめかせる頭が潮吹きクジラのように近くの海面に飛び出した。見るともうひとり、ほとんど白目をむいた若者を片腕に抱えている。
「おおっ、おじいさんが復活した!」
「あの人を助けてる!やっぱりあの人泳げなかったんだ!泳げないのに飛び込むなんて間抜けな人だな…」
「すごいぞ、おじいさん!」
「おじいさん、がんばれ!」
後部デッキにつめかけた船客たちは意外な成り行きにやんやの喝采を送る。
「くそお、じじいめ、バカあんちゃんを助けるほど元気一杯だったとは…」
親分は歯ぎしりした。
「だが、どのみち、この船へ上がってくるしかあるめえ、そのときに…」
「そうでもなさそうですよ…」
小柄な子分が、彼方からどんどん近づいてくる一艘の船を見やって水をさした。
大漁旗のような旗をひらめかせる白い小ぶりな船。漁船だった。
漁船はたちまちフェリーの真下、階堂と尾縞が漂っているところにやってくると、乗組員が浮き輪を投げ、それにつかまる階堂に続いて尾縞も慣れたようすで助け上げた。見守る観客と化した船客たちは二人が救助された瞬間、拍手と歓声を送る。
親分たちにとってまことに腹立たしいことに、階堂は漁船のへりに立って、手を振ってこれに答えたのだ。
ことが一件落着したと判断したフェリーは、あとはすべて漁船に任せるとばかり、時間に遅れてはならじと、機関をスタートさせ、デッキで怒り狂う親分たちを乗せたまま、海峡の彼方へと遠ざかった。
半分気を失っていた尾縞は、階堂に水を吐かせられ、ようやく息をふきかえして、
むせながら言った。
「ありがとう、助けるつもりが助けられてしまった…じつは僕は泳げないんだ…」
「泳げないのに無理しちゃいかんな。軽率すぎる。あんた、たった今、向かないって言ってた仕事に命をかけてしまったんだよ」
「あんたが溺れそうなのを見て、警官として黙って見ているわけにいかないだろう」
自分の勇気や善意、使命感までないがしろにされたようで、さすがにむっとして尾縞が言った。
「溺れたふりをして、奴らをまこうと思ってな。ほんとは泳ぎは得意なんだ。水の扱い方には慣れている。『水は万物の根源だ』と古代の哲学者が言った。つまりは諸悪の根源でもある。水とのつきあいは徳川家康とのつきあいと同じだ、つかず離れず、親しんで油断せず。海峡を泳いで渡るほどじゃないが、ガダルカナル時代は泳いで物資を運んだりもした」
「サイパンじゃなかったっけ」
尾縞が指摘したが、階堂は動じない。
「もちろんサイパンだとも。あのへんは似てるからな」
「ともかく本州には着いたことになるな」
濡れねずみながら、いくらか元気を取りもどしてきて、尾縞が言った。
「あとは車を拾って、駅か空港まで…」
「それはどうかな…」
同じくびしょ濡れながら、妙に落ち着いた階堂が言った。
「なんだって!?」
尾縞は思い当たってにわかに不安になった。よたよたしながらあわてて操舵室までいき、
「いや、助けていただいてほんとうにありがとう、成り行きでフェリーから飛び降りてしまって…僕は警察の者で…いまいきさつを詳しく説明しますが、ところでその前に、あの、あっちのほうに見えてきた港は?」
と、舵を握る船長らしい乗組員に聞いた。
「汐首の漁港だよ」
船長は当然のことのように答える。
「汐首って、それはどこですか?」
「あの国道を、右の方へ行けば恵山、左へ行けば函館だ。ちょうど船が帰るときでよかったよ、あんたがたを陸へ上げられるしな」
船長は好意に満ちた笑顔を見せたが、尾縞は力が抜ける思いだった。
「戻ってきたのか…」
またしても海峡が越えられなかったのだ。
汐首漁港は東西に恵山や函館山を望み、タコやマグロの漁船が出入りする小さな漁港だが、迫る夕闇の中で、疲れ果てて、腹立たしい倦怠感に包まれている尾縞にとってはそんなことはどうでもよく、廃線路跡の見事なアーチ橋や汐首灯台のシルエットには目もくれず、船長に礼を言ったあとは仏頂面で船を下りた。もちろん隣の階堂をしっかりマークしておくのは忘れない。
まことに予期していなかったことに、出迎えがあった。
ユニホームのように揃いの明るい色のコートを着、形態模写のように同じように髪をきれいになでつけた、保険の外交員のような男たち四人が桟橋にいた。四人とも屈強そうで背が高い。
「ご苦労様です。この男が階堂ですね」
中でも彫刻さながらにひときわ髪を固めた男が値踏みするように言った。四人とも行き止まりの壁のように身じろぎもしない。
「失礼ですが、どなたですか?」
尾縞はけげんに思った。敵ではなさそうだが、なんだか尊大な感じがする。
「道警捜査一課の鋤野です。大江戸署の桜田係長の依頼で来ました」
道警と名乗ったが、どこかしら本庁の人種と似通った雰囲気を感じさせる、第一印象のあまりよくない連中だった。
「よく僕たちがこの港に着くってわかりましたね」
この連中、読みとフットワークの良さは確かだ。
「フェリーの乗客が漁船の名前を覚えていて、連絡してくれましてね」
なるほど…
「助かります、僕ひとりでは手を焼くところもあって…」
言い終わる前に鋤野の部下たちは尾縞を押しのけるように階堂を取り囲むと、なすすべもない階堂に素早く手錠をかける。
「確かに引き受けました。ここからは我々が引き継ぎます」
鋤野は階堂と部下たちを背後に隠すようにして、断を下すように言った。
「あの、僕の応援でこられたのでは…」
尾縞は驚くとともにとまどった。自分と階堂の周りを人数でかためていけばそれで済むことではないか。引継ぎなんて聞いていない。どこかで話が行き違っている。自分の任務はどうなるのだ。
「我々は引き継ぐように言われたんです。責任を持って移送に当たりますから、巡査長はここでおひきとりいただいて結構です」
お前は失格だ、ここで解任だと言わんばかりだ。階級で呼ぶということには身分を思い知らせるという意味もある。つまりは自分たちは尾縞より格上だと言いたいわけだ。しかし直属の上司でもないのに、いきなり無礼な言いぐさではなかろうか。地元には地元ならではのやりかたがあるとでも言いたいのだろうか、いきさつも知らないくせに。尾縞も黙ってはいられない。
「…しかし、こいつは油断のならない奴ですよ」
「ご心配なく。我々はベテランだ、君ほどに油断はしないよ」
鋤野は鼻で笑うように妙になれなれしく言った。そうか、こいつらは自分を、任務に失敗して助けを求めて泣きつく迷惑なキャリア小僧だととっているのか…事実そんなところもあるのだが…
「なんだかここでお別れみたいだな、刑事さん。いろいろ迷惑かけたが、許してくれ。あんたと会えてよかったよ」
成り行きを見ていた階堂が、運命を悟った家畜のようにうつろに呼びかけてきた。大男たちに囲まれて、いっそううなだれて見える。
「『花に嵐のたとえもあるぞ、サヨナラだけが人生だ』。ほんとうにサヨナラを言わなければならなくなったとき、誰もがしみじみこう思うんだ。確かなのはサヨナラだと。世は常に移ろう。だからサヨナラは必ず巡ってくる、誰にでもな…」
それ以上階堂がしゃべるひまを与えず、道警一行はいっせいに身をひるがえすと桟橋を滑るように遠ざかって夕闇に消えた。
「くそっ、なんてこった!さんざん走って、海で溺れて、あげくにトンビに油揚げか!」
恵山街道沿いの、とってつけたような小さなこぎれいなドライブインで尾縞は気炎をあげていた。
「なんて割に合わない、嫌な仕事なんだ…」
もともと混み合うような店ではなさそうだが、このとき客はいず、聞いているのはマスターかウエイトレスくらいのものだ。それを承知でのひとり言だった。
「まったく向いていないよ、向かない仕事だ。ドラマなんかではどうしてみんなあんなに一生懸命に仕事をするんだ、テレビじゅう優秀な警官だらけじゃないか、そんなら警察の仕事は全部タレントがやりゃあいいんだ…僕はもう用済みさ、辞めてやる、帰ったら辞表を出してそのままフリーターだ、ざまあみろ…」
「あのう…何になさいますか?」
ウエイトレスが恐る恐る危なそうに見える客に問いかけた。
尾縞はすかさず大声を出す。
「辞表!…いや、ジョッキ!三つ一度に!今日は退職祝いだ!」
空港は駅のように、なにかしら一抹のうら寂しさや虚しさをしのばせた陰の部分がない。人々は駆ける乗り物に乗るというより、空間を越える装置に乗るといった風情がある。しかしながらどこかしら漂う緊張感が垣間見えるところは、地上から切り離された中空をゆくという、まがりなりにも二千年以上人間が夢に見続けてきた冒険に出るのだということを、無意識のうちに再確認しているからではなかろうか。
しかしながら、搭乗手続きを済ませる間の階堂の思いは別なところにあった。階堂はマスコミが注目するほどの有名犯罪人でもないため、普通の乗客扱いで、手続きも普通に行われていた。
「じつはわしは飛行機が苦手なんだけどな」
取り囲む四人の誰にともなく言った。
「あの狭い座席でエコノミー症候群になるんだ。あれは苦しい、容疑者虐待ってことになるんじゃないかな」
「搭乗時間は短いから問題ない」
誰かが全く感情を表さずに言った。
「そうだ、絶対にエコノミー症候群にならない方法を教えよう、わしの言うとおりにするといい、つまりファーストクラスに変えるのさ、プレジデントクラスでも我慢しよう」
OLに無視されるオヤジギャグなみに完璧に無視された。
「あのう、ずっと手錠をかけたままなんですかな、飛行機の中でも?」
今度はよりへりくだって、いかにも居心地悪そうに階堂が聞いた。手錠の両の輪は階堂のジャケットの袖口深く押し込まれ、鎖も一般客に見えないように手首を合わせて隠しているが、それによる不自然なポーズが、階堂には気になるらしかった。
「あたりまえだ」
両脇を固める鋤野の部下のひとりが、表情も変えず階堂を見ることもなく、つぶやくように言った。
「あの…あのね、手錠が時計にぶつかって痛いんですけどね…」
階堂は食い下がった。
「わしの時計は高いものなんだ、傷でもついたらどうしてくれる…」
階堂は腕を上げ、左手首をその部下に突き出す。
「ほら、見てくれ、青いライトが仕込んであって、文字盤が光って見えるだろう…皆さんも見てくれ…」
階堂は時計を見せびらかすように手首を振り回したが、ほかの刑事たちは何の反応も示さない。言われた部下だけは時計に目をやってそのまま文字盤をのぞき込む…ように見えたがすぐさま目を離し、鋭く階堂をにらんだ。
「聞いてるぞ、おまえはおかしな催眠術もどきを使うってな。その時計はしばらくこっちであずかろう」
言うなり、自由がきかない階堂の手首から素早く時計をはずすと、前にいた鋤野めがけてひょいとほうる。鋤野は右手で受け止め、時計をちらりと見てふんと鼻で笑うと、自分のコートのポケットにしまい込んだ。階堂は舌打ちをし、ばつが悪そうに下をむいた。
もはや観念する以外なすすべもなく、要人警護体制のまま搭乗口までひったてられた階堂は、しかし、搭乗客の行列がなかなか前に進まないことに気づいた。
「刑事さん、飛行機遅いですね。もしかして飛ばなかったりしてね…アハハ…」
せめてもの嫌味の軽口のように言う。
「遅れてるのさ」
鋼鉄の面をつけているような鋤野の部下は、微動だにせずに言い返した。
「なんかトラブルでもあったんじゃ…」
階堂が、誰にでもそれとわかる希望的観測をこめて言い、
「あそこで何か光ってますよ…」
と指摘した。
階堂たちが立っている近くの窓からは、滑走路のほぼ全体と上空の暗闇も見える。確かにはるか上空で一部分が点滅するライトのかたまりがUFOのようにゆっくり動いているのが、ぼんやり霧ごしに見える。。
「なかなか着陸できないのかもしれないな。この上を旋回してるぞ」
鋤野の部下のひとりがつぶやいた。
「今日の便は遅れがちだそうだ、霧のせいで」
もうひとりがあいずちをうつ。
「あれが降りないうちは、我々は飛べないのか」
鋤野の言い方にほんの少しだけ不満と不安といらだちの影がさす。
「そうです。あれが着陸して、折り返しで上りの便になります」
部下が応じた。
「『防禦又克く攻撃の鋭気を包蔵し、必ず主導の地位を確保せよ』本訓其の一、第六」
「それは何の呪文だ?」
鋤野が興味もなさそうに聞いた。
「いや、こっちのことさ。しかし、やっぱりなにかあったんじゃないかな、あの飛び方はいつもと違うような気がする…見て下さい…」
いつもの飛び方なぞ知りもしないくせに、階堂は見え見えの言い方で根拠のない不安をあおるように言う。
「何をバカなことを。管制塔がすべてコントロールしてるさ」
言いながらも鋤野の目は上空にくぎ付けだ。部下たちもそれにならい飛行機から目が離せなくなっている。
「でも、飛び方がゆっくりし過ぎてるように見えないかね?さっきよりスピードがおちた。ほら、よく見て…」
そのとおり、光は今にも止まりそうなくらいのろのろした動きとなっていた。
「あの光るのもゆっくりしてきた。いま光ったぞ…まだ光らない…まだだ…みんなよく見て…ほら、やっと光った…」
遠くから響くような階堂の声に合わせるように、鋤野たち護送刑事たちの目には、飛行機のライトの点滅の間隔も、眠気を誘うほど妙にゆっくりしたものに見えていた。
「…え?!ああ、僕ですよ。まだ北海道ですとも。いいじゃないですか、僕はもう用済みでしょう…」
ここ恵山街道沿いの小さなドライブインが心底気に入ってすっかり腰を据えてしまったといった体で、意外にも取り外されることなく現在まで店内に残っていた公衆電話によりかかり、尾縞はジョッキ片手にくだを巻いていた。
「…ええ、飲んでますとも、退職前祝いにね…」
すでに尾縞がいたテーブルには五つの空のジョッキがある。自分でもこれほど飲めたとは知らなかったというほど杯を重ねており、したがって足も舌もからまりそうになったまま電話の相手にからんでいた。
「…最後に飛び切りアタマにくる仕事をさせてもらいましたよ。ケイタイも海水でイカレちゃってね…この電話に入れる小銭ももうないよ…そろそろ終わりだ…おっと、そうだ!これを忘れちゃいけねえ、いけねえ…これを言いたくて電話したんだよ、これ! いいですか、これは僕の最後の、警察官として最後のたったひとつの頼みです…あのじいさんが、階堂が釈放されたときは、しばらく身辺を警護してやってほしいんですよ…確かにあのじいいさんは狙われて…ええ…ですから、警護を…」
ここで尾縞の話はふっつりと途切れた。ひとり芝居さながらにうるさくわめいていた客が急に黙りこくったので、マスターもウェイトレスも、ついさっき入ってきてひとりの酔っぱらいのたわごとに閉口していた若い男女も、つい尾縞の方を見やる。尾縞は無言で受話器とジョッキを持ち、言葉を忘れてしまったかのようにあらぬ方向に目をやりながら立ち尽くしている。電話に聞き入っているのだ。
「…どういうことです?…」
ようやく言葉を思い出したように問いかけた。
「…沖縄?!沖縄に向かっているだと!乗り換えたあげく沖縄に!」
いきなり突拍子もない大声になり、受話器に喰らいつきでもするようにわめいた。
風雲急を告げるような尾縞のモノローグにマスターもウェイトレスも客も引き込まれ、身を乗り出し加減になる。電話は予想外のことを告げたらしい。
「…何も覚えていないって!…あの…あの…道警のご一行さんが!」
言った瞬間尾縞は爆発した。店を吹っ飛ばしてしまいかねないほどの爆発的な笑いだった。
「ブアーッハッハッハ!こいつはいい!なるほど!やってくれるぜ、サイパンじじい!」
尾縞の過剰なひとり芝居のような豹変に、マスターらドライブイン一行は今度はさすがに引き気味になる。尾縞はなおも笑いころげながらわけ知り顔に返答する。
「…ワハハハハ…わかりますよ…やられたんですよ、サイパンじじいに。さすがは油断しない道警のお歴々だ…アハハハハ…こいつはまったくお笑いだ、油断なくだまされて、油断なく逃げられたってわけだ。じいさんは逃げて、道警ご一行さんだけまんまと沖縄行きに乗せられたんだ、アハハハハ…」
ひとしきり笑ってようやく笑いの突風がおさまってきたらしい尾縞は
「いやいや大丈夫です」
と、落ち着きはらって受話器に言った。もはや酔っているふうはない。
「あのじいさんを捕まえることはできますよ。次に現われる場所も時間も、もうわかってます」
と、さらに若さに似合わぬ全権者の余裕を漂わせて付け加えた。
今年も大学の入学式は、市中心部にほど近いコンベンションセンターで行われた。大学キャンパスとは別の場所にある立派な施設で行われるのは、近年のある種流行でもあるが、あきれるほど近代的なこの種の施設は、伝統や学風とは見事なまでに無縁で、かつ無個性であり、全国共通の快適さと機能性に満ちている。したがって、二千人もの新入生であふれる大ホールは、入学式より入社式の様相を呈してくる。しかし、もしかしたら、北風の吹き込む旧式の大講堂で、ふるえながらのがまんの入学式もあるかもしれないとの外地の学生やその父母の覚悟は、良い意味で裏切られ、学生生活の第一歩はとりあえず順調に、不安なく踏み出されることになる。
ところが今年の入学式はいささか趣きを異にした。新入生の緊張感のほかに、いささかの不安をふくんだ別の緊張感が、大ホールの建物のある地区一帯にたちこめ、まず大学関係者が敏感に反応していたのだ。
「今年の入学式はどうしたんだね。なんだか妙に警戒が厳重みたいな気がするんだが…。入口の前に止まってた車、あれって機動隊の車じゃないか…」
大ホールのステージ下の前列、大学関係者の席に座っていた理事のひとりが、落ち着かなげに隣につぶやいた。
「まったく。会場のあちこちにおまわりさんが立っているなんてはじめて見ましたよ。新入生も不思議に思ってるんじゃないでしょうか…。このセンターに何かあるんでしょうか…」
もうひとりの理事もいささか困惑ぎみに答える。
「いや、センター内で今日行われるのは私どもの入学式だけです。…学長がちょっと前に説明したところでは、いたずら電話らしい脅迫電話があったようなんですよ」
学部長のひとりが声をひそめて説明した。
「…それで道警に警備を依頼したんだとか。聞いたところでは、来賓になりすました私服の警官もかなり配置されているらしいです。それにしても異例ですよね」
これら大学関係者も大ホールの席を埋め尽くす新入生も父母たちも知らなかったが、彼ら全員が見張られていた。いくつもの双眼鏡が前から横から斜めから後ろからホール全員の表情や動きをなめていたのだ。
「ほんとうに奴は来るんだろうな。もう入学式は始まっているのに、それらしいのは見当たらんじゃないか」
ステージが真正面に見える大ホールの後ろの壁の上方の窓から見下ろし、映写室を兼ねた照明コントロール室に陣取った灰色の髪の、青銅でできているような男が言った。
「来るはずです。そのために逃げ出したんだから」
答えたのは、男に比べるとひときわ幼く見える尾縞だった。そのほかにもこの部屋には、参謀よろしく何人かの大江戸署の刑事たちが控えている。
「君をあざむいて捜査の手を見当違いの方向へ向けさせようとした方便、というセンはないんだろうね。君を手こずらせたじいさんなんだろう」
捜査にぬかりはないか、常に振り返って確認するのは用心深い係長のくせだ。しかし大筋の方向性は定まっていて、青銅の像のように揺るがない。それは部下に、尾縞に全幅の信頼を置いているということだった。
「それはありませんよ、係長。たったひとりの自分の孫をデコイに使うようなまねはしないはずです」
「やけに自信を持って言うんだね。いつの間にか君は犯罪者心理の奥底にも精通するようになったか」
「いや、そうじゃありませんが、あの種の古い型の人間は、目の前の目的を達成するために一生懸命になるはずだ、ということはわかるんです」
「で、その孫というのはどこにいるんだね?」
「いま新入生代表で宣誓した娘です」
「…ほう、なるほどな!」
係長はあらためて気づいたように上体を起こし、ステージ上に目をやった。ステージの演壇で話す人物の姿は、大ホール内に目だたなく設置されたテレビカメラでとらえられ、同時にその後ろのスクリーンに大写しに映し出される。したがって双眼鏡を使わなくても、鞠萌の姿ははっきり確認できた。鞠萌は一礼してステージを下りていくところだった。係長はちょっとにやりとすると、
「この警戒を口実にして、お前の方があの娘に会いたかったんじゃないのか」
と、つい軽口をたたいた。
「やめて下さいよ、係長。まがりなりにも道警の皆さんを大動員してるんですから」
尾縞は少年のように頬を紅潮させると、真に受けたようにむきになった。
このとき係長のシャツの胸ポケットが点滅するとともに電子音を放ち、係長はケイタイより小さな無線機を取り出すと応答した。そして
「…そっちもか。了解、監視を続けてくれ。いまのところこちらも異常ない。気づいたことがあったらすぐに連絡してくれ」
と無線機をしまいなおすと、尾縞向き直った。
「西入口側からだ。写真の人物やそれらしい者が学内に侵入した形跡はないそうだ」
学内に展開している大江戸署と道警の確保チーム全員には階堂の写真が配ってあった。
「『軍隊は統率の本義に則り、隊長を核心とし、強固にして而も和気藹々たる団結を固成すべし』本訓其の一、第四」
尾縞がふとつぶやいた。
「何だ、それは?」
「戦陣訓というものです。あやしげな名文句を並べて我々を煙に巻くのも階堂の手です。中でもお気に入りが、この戦時中の規範・戦陣訓です」
「私もオヤジから軍人勅諭ってのは聞いたことがあるがな」
「それにしても、係長が僕の失態の埋め合わせのために、これほどの大包囲網を築いてくださったとは、ただただ恐縮ですよ」
「いや、大江戸署だけの問題ではないんだ。本庁の一課が興味を示してきてね。階堂は、その手口の中でいくつかの組織を手玉にとっている。その過程で、一課が知りたい情報も手に入れているかも知れないとにらんだ。階堂は意外な重要人物だったってわけさ。
…しかし、もう入学式も終盤じゃないか、ほんとうに来るのか?」
「…うーん、必ず来る…いや、来ているはずだと思うんですが…」
尾縞は双眼鏡に目をやったまま、さすがに不安を隠しきれずうなった。式が始まる前、父母たちが大ホールに入場しはじめてくるときから席につくまで、ひとりひとり双眼鏡で確認していた。階堂の姿はなかった。大学関係者の席を見ても、あの特徴ある影は見当たらない。
「…さっきから見ているんですが…」
ここからだと後頭部しか見えないが、あの、ほとんど首のない、コビトカバのような頭を探して父母たちをさらにひとりひとり吟味する。
「…いませんねえ…」
式はほとんど終わりにさしかかっていた。来賓のことばも数人を残すばかりだ。
「…さて、続きまして…」
司会進行の会場アナウンスがどんどん式を進行させる。
「…ここでもうひとかた、来賓の皆様を代表して、特別ゲスト、クラーク経済大学名誉教授の蔵楽洲美寿先生から新入生の皆さんへのお言葉をいただきましょう。先生、どうぞ」
うながされてステージの横からおごそかに現われたのは、見るからに威厳のある人物だった。
威儀を正した羽織袴がその容姿を際立たせる。胸までたれる純白の総髪、顔半分を覆うヒゲも純白で、胸までたれ、同じく純白の両の眉毛も刷毛のようにたれてほとんど両目を隠している。ほとんど仙人、というより赤い服を着たらサンタクロースそのままだった。重々しくすべるように演壇までやってくると、モゴモゴとかすれたしわがれ声で話し出した。
「皆さん、入学おめでとう。当校と私どもの大学とは研究面でいろいろ提携し、さまざまな成果をあげています。皆さんと協力し、さらに学究を深め、より一層の成果をあげていくことは、私の何よりの喜びであります…」
「…ん?…あれ?…」
照明コントロール室で尾縞が双眼鏡に目を押しつけた。
「どうした?」
係長が問いかける。
「…いや、なんか…似ているような…」
今回はどういうわけか、式の演出なのだろうが、後ろのスクリーンに演壇の教授の顔が大写しにならない。照明コントロール室は調整室のようにモニター画面も並んでいるわけではないので、尾縞は双眼鏡を持ったままのぞき窓から身を乗り出さなければならなかった。
「『…少年老い易く学成り難し』、と、朱子学の祖の朱子が言ったと伝えられてますね。これに続く次の言葉はご存知ですかな?少女老い易く嫁成り難し、というんです」
ここで会場からざわめきと笑いが起こった。名誉教授はにこやかに受け流して
「いやいや、ほんとうですよ、思い当たるかたもおありでしょう、意外に知られていない次の文句なんです…」
人を喰ったように妙に余裕のある教授ではある。尾縞はさらに身を乗り出す。
「…さて、かの初代教頭・クラーク先生の名言は言うまでもないですよね。『少年よ大志を抱け』。しかしこれに続く二の句を知っている人は皆さんの中でも半分くらいじゃないですか。
曰く、『金のためではなく、私欲のためでもなく、名声のためでもない、人のあるべき道を全うするための大志を抱け…』というんです。個人のためではなく、人のために尽くせ。そのための自分の生き方をちゃんと示せということではないでしょうかな。では、どうすれば自分の生き方を示せるか…まず目の前の仕事をしっかりこなして見せるということになるんじゃないか、私はそう思う…」
「…何が言いたいんだろう…もしかして…」
尾縞も思わず聞き入る。
「…希望に満ちた新入生の皆さんのお顔を拝見していると、私自身新たな元気が湧いてくる思いです。今の皆さんは意欲にはちきれんばかりでしょう。目の前には無限の可能性があります。
しかし、ですな、これが一ヶ月もたちますと、情熱が薄らぐ、やる気が半分以下になる人が結構多いんですな。こんなはずじゃなかった、予想していたのと違うといってな。仕事がなくてやっと職にありついたサラリーマンでさえそんなことを言い出す人もいる世の中ですからな。そして目標を失う、何をしていいかわからなくなる。震災の被災者でもないのに虚脱状態になる。今の若い人に目標を持ち得ない人が多いのは、恵まれて育っているからでしょうな。働くのや生きていくのは目標にはならない。そこで、自分が判断し決断する立場になったとき、何をしていいかわからなくなる。何のために生きるかという、根っこのところで悩む人も出てくるわけだ…」
「…あいつだ…」
尾縞がつぶやいた。
「…将来そんな思いにとらわれた人は、私の言葉を思い出してもらいたい。『信は力なり。自ら信じ毅然として戦ふ者常に克く勝者たり』本訓其の一、第七。これは私が若い頃、上の人から言われたことでしてな。そこそこいい言葉でしょう、信ずることは大きな力です。そして皆さんの学業について、『任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業一務ゆるがせにせず、心魂を傾注して一切の手段を尽くし、之が達成に遺憾なきを期すべし』本訓其の二、第六。学ぶことは神聖で責任重大です…」
「言ってくれたな!あれこそ戦陣訓です!やつは間違いなく階堂です!」
尾縞が確認するようにうめいた。
「なにっ!」
係長が尾縞に向き直った。
「…いました…いま壇上で話してます…うまく化けたつもりでしょうが…」
「そうか!かつらと付け髭か!しかし教授に化けるとは…」
照明コントロール室の全員が緊張した。
係長が素早く胸ポケットから無線機を出し、壇上から目を離さないまま握りしめる。
「全員に告げる。ターゲットが現われた。壇上で演説をしている白髪の男!」
「…係長!」
尾縞が懇願するように言う。
係長はうなづいて続ける。
「…いや、確保はまだ早い。入学式をだいなしにするのはまずい。ターゲットが話を終わって、舞台の袖に引っ込んだところを確保せよ。老人だからさほどの抵抗はないはずだ。それにしてもよく現われたな、見つけたかぎり逃がさんぞ。この包囲をかわせると思ってきたのかな」
「捕まるのは覚悟の上でしょう。どれほどの催眠術もどきの使い手とはいえ、この会場の二千人もの目をごまかせるわけがない…」
尾縞の言い方にはどこか複雑な思いが含まれているようだった。が、ふと思い当たったようにハッと顔をあげた。
「…まてよ、しかし、あのじいさん、どこからどうやって入ってきたんだ?誰にもチェックされずに入ってきたとなると、抜け出す方法も考えてのことか…?」
係長は尾縞のつぶやきを受けて、無線機にうなる。
「全員に告げる、外の警備班は出口以外にも気を配れ、出るものはすべて拘束しろ、大ホールから一人も出してはならん…」
「…しかし、今回の入学式は素晴らしい。とりわけ入学生宣誓が見事でした、私は感動した。鞠萌さんといわれましたな。壇上から失礼するが、皆さん、宣誓をなさった入学生代表の鞠萌さんにもういちど全員で拍手をしてはいただけませんか…鞠萌さん、起立をなさって…」
壇上の教授にうながされて新入生席にいた鞠萌は、予定外の事態にとまどいながらも立ち上がり、顔を赤らめて周りに礼をする。大ホール全体に割れんばかりの拍手が満ちた。
「…やるじゃないか、サイパンじいさん、ぬけぬけと身びいきを…」
尾縞はなかばあきれてうめく。
「…式場の客席のものは、ステージの下へ向かえ、ステージの上手・下手のものは準備せよ…」
係長は最後の指示を下す。
「…さて、もうひとつ、私が皆さんに言っておきたいことがあります。お若い皆さんもおいおいわかってくると思いますが、現実は見た目とはだいぶ違うということがままある、ということです。見た目を疑ってかかること、これが皆さんのこれからの研究の第一歩です。いい例を紹介しますと、この私です。私はクラーク経済大学の名誉教授だと、皆さんは思っているでしょう、そう紹介されましたからな。しかし、本物の教授はいまごろ別な大学の入学式へ出ようとして、そこの人たちともめているはずです…」
名誉教授の言葉に大ホール全体がざわめいた。教授が何を言っているのかわからなかったのだ。新入生たちは、来賓にしては面白いことを言う一風変わった教授がフェイントめいたことを言い出すのかと耳をそばだて、大学関係者席の学部長たちは、はてといぶかしみ、おやととまどった。いきなり何を言い出そうというのか。ジョークなのか。壇上の教授は、確かに何度か面識のあるクラーク経済大学の白髪白ヒゲの蔵楽名誉教授である。しかし…そういえば…今日の教授はいつになくあざとくわかりやすい話をした…そして、蔵楽教授ってもうすこしスマートだったと思っていたが…
「…名誉教授でない私がなぜここに来たかはさておき…」
名誉教授でないと名乗った男は堂々と、ゆったり話し続ける。もはや造ったようなしわがれ声ではない。自信に満ちた口調だ。
「…ここで皆さんにしっかり言っておきたいことがもうひとつ。何かをするなら十分調査をしてから事に当たれということです。私はここへ来る前に、今日のこの地区の今の時間の天気をしっかり調べてきました。雲の動き・気温・気圧などについて入念にチェックと検討を重ね、気象予報士なみにこれから数分後の天気を予想したのです。私の予想したとおりになるはずです。この天気でなければ、あるいは私はここに来なかったかもしれない…」
教授の言い方になにやら不穏な影がさす。それに合わせるようにはるか遠くで地鳴りのような音が聞こえた。
「…ほら、聞こえてきたでしょう。だんだん大きくなりますよ…」
そのとおりだった。空気を震わせる音は断続的ながら大きさを増し、それに合わせるように唐突に何かが天を叩く音が耳をろうせんばかりに響いた。
「…どんぴしゃり!読んだとおりだ。皆さん、この地区はただ今台風なにみ発達した低気圧による猛烈な集中豪雨にみまわれております…」
屋根を叩く雨の音で教授の声も途切れがちだ。
「しかも…」
教授は右手を上げ天井を指差した。
「雷をともなっています…」
言った瞬間、密閉された大ホールでもそれとわかる稲妻を感じ、同時に爆発音がホールの空気を揺るがした。雷はここコンベンションセンターの真上にいた。会場の全員が身じろぎをする間もなく、スーッと大ホールのすべての明かりが消える。出席者たちから驚きの声があがり、ざわめきがひろがった。
「お静かに!」
マイクの電源が切れても壇上の教授の落ち着き払った声が響いた。
「落ち着いて下さい、何も起こってはおりません。地震でも津波でも竜巻でもありません。落雷によって変電所が被害を受けて電圧が低下しているだけです。自家発電に切り替わるまでもない。すぐに回復します」
言ったとおり、一時的な停電はたちまち回復し、大ホールにうっすらと明かりがもどった。しかし、すぐにまた消える。
「大丈夫、消える間隔が短くなって、完全に回復します…」
教授の声は、まるですべて知り尽くし、この場を完全に掌握しているように自信に満ちている。ホールの出席者たちはどこか安心して教授の声を待つ。
「…また点きますよ…」
ホールが明るくなった。
「…また消える…」
ホールが暗くなる。
「…また点く…また消える…だんだん早くなりますよ…」
明かりはほとんど明滅しはじめる。
二千人以上いるホールの中で、ただ一人、尾縞だけが気づいた。
「危ないっ!みんなだまされるぞ!」
尾縞の叫びにもコントロール室は何の反応もない。
「係長!」
呼びかけにも係長は呆然とホール内に目をやったままだ。
「係長!目を覚まして下さいっ!奴の術です!ハメられてます。奴に逃げられてしまいます!」
肩をゆすられて係長はようやく我に返った。
「…え?あ?ああ…?」
「確保です!今すぐ!確保しましょう!」
「…なに?…あ、そ、そうか!か、確保だ!全員行動開始!確保せよ!」
係長がトランシーバーに怒鳴っても会場内には何の動きもなかった。
「確保と言ったんだ!確保せよ!ステージ下のもの、上手・下手の袖に待機しているもの、かかれーっ!」
係長はあらんかぎりの声を張り上げる。ようやく上手の袖の私服警官が動き出し、ぎこちないながらステージへ進む。
「捕縛班全員でかかれ!演壇のターゲットを取り押さえろ!逃がすな!」
ようやく警官たち全員が動き出した。最初にステージ上へ進んだ私服警官はたちまち走り出し、演壇の教授へ突進する。明滅する明かりの中で意外にも教授は平然とし、逃げるそぶりさえ見せない。
最初に突進した警官は演壇の前でジャンプし、教授に飛びかっかった。教授は受けて立つ。警官の勢いがまさり、教授はタックルの要領で床に倒された。続いて下手袖から突進してきた警官がその上からおおいかぶさる。これが合図となり、下からステージへ上がったものも、左右から突撃したものも次々とその上へおおいかぶさり、ステージの上はたちまちラグビーさながらの人の山となった。さすがに大ホールは騒然となる。
尾縞と係長がコントロール室を飛び出し、大ホールを縦断してステージ上に上がったとき、明滅していた照明は安定し、こうこうたる明かりの下に、何人も重なり合ってもがく珍妙な人の塊があった。客席の多くの出席者も思わず立ち上がって、何事かとざわつきながらステージ上を見やる。集中豪雨の轟音も雷鳴も潮が引くように遠ざかっていった。
「よし、みんな、よくやったぞ!」
係長が上機嫌で、階堂を押さえ込む警官の山に近づいた。
「みんなのおかげでターゲットをおさえることができた、お手柄だ。よーし、じゃあみんな、立ち上がってくれ。君たちの重みでターゲットの体型が変わってしまわないうちにしっかり確保するとしよう!奴の手が薄くなって手錠がかけられなくなると困るからな」
折り重なった警官たちは、一人づつその山の上のほうから降り、臼のような重しのいましめを解いていった。警官たちは次々に立ち上がって、ステージ上に車座になり、一番下敷きの階堂を見下ろすように取り囲む。しかし、最後の一人が立ち上がったとき、床の上には誰もいなかった。
「え!?」
と係長は目をしばたかせる。尾縞もキリンのように首を伸ばして床を見つめる。そこには何もなかった。
「…ど、どうしたんだ?!」
係長は周りの警官たちを見る。その彼らも全員キョトンと床や同僚たちを見比べるだけだ。
「奴はどこだ?どこへいった…?!」
尾縞も目を見張って居並ぶ警官たちを見やる。どこにも階堂はまぎれていなかった。
「…消えた…」
警官のひとりがつぶやいた。
「…消えてしまった!」
もうひとりがうめく。
「どういうことだ、消えてしまうなんて?俺は確かにしっかり見ていたが…」
係長はまだ困惑している。
呆然とたたずむ中で、またしてもひとり尾縞がハッと気づいた。
「…そうだ!彼女は?彼女は!?」
ステージ上から客席を見やる。
新入生席のほぼ中央、さきほど立ち上がった鞠萌がいた席…
そこだけ空席になっていた。階堂と同じように鞠萌もまた消えてしまった。
函館の郊外の、海峡や半島を一望できる小高い丘に、石の町がある。
見渡す限り立方体の石が林立する広大な区画だ。石の町は市内のそこここにあるが、ここはとりわけ立地条件がいい。無数の石だけが集合する生命感のない場所だが、画一的に見える石はどこか個性的にも見え、モノリスのように意思を備え、お互い同士会話でもしそうに見える。隔絶された北の大地を生き抜いた人々の見えない連帯感のようなものが、ただの石に漂っているようだ。
そのはずれ、仏堂や供養塔がある木立の多いところに、生命感あふれる小ぶりなトドを思わせる影と、可憐なエゾシカを思わせる影があった。
「そうか、お父さんのことは覚えていないか」
いつものこざっぱりしたジャケット姿にもどっていた階堂が言った。
「ものごころついてきたころから、ずっと母と二人きりでした」
入学式のままのほっそりしたスーツ姿の鞠萌が答える。
春彼岸も過ぎたこの頃は、墓参り客もめっきり減り、この時間の大霊園の中には、二人と、遠くで線香をあげている四・五人の喪服のグループ一組が見えるだけだ。
「あいつは…あんたのお父さんはまじめな男でな。小心なくらいまじめだった。だからわしと合わなくてな。どんな目的のためでも、法に背くのはよくないとえらく反発した。わしのことを無頼漢と呼んだよ。わしは、あんたもさっき見ただろうが、人をだますのが得意でな、人生の後半はそればかりしてきて、染みついた生き方になっておった」
「あのときはびっくりしました。何が起こったのかすぐにはわかりませんでした。…でも…」
「でも?」
「…ちょっとおもしろかった。不謹慎かもしれませんが、イリュージョンみたいで」
「そうか!おもしろかったか!それはよかった、少しは喜んでくれたわけだな。いや、入学式も終わりのころだし、わしも十分嬉しい思いをさせてもらったから、たいくつしのぎにアトラクションを見せてやろうと思ってな。…あんたの入学式も見られたし、喜ぶ顔も見られた、ほんとに来たかいがあったよ」
階堂は心底嬉しそうに言った。
「だがな、言っておくから覚えておいてくれ。わしはこれまで人様に対してあこぎなことは一切しておらんぞ。人を傷つけたりもしない。あくどいことをして金儲けをしている奴らから、ほんのちょっと上前をはねただけだ。自分では鼠小僧次郎吉だと本気で思ってるんだよ。わしは顔の半分しか見せていない〝片目のジャック〟じゃない。隠したもうひとつの顔なぞないんだ」
「心意気はいいと思いますが、悪い人をだます悪い人って感じで、悪さが二倍になってるような…賛成はできません」
「きついねえ、あんたはほんとにしっかりしてる人だな、鞠萌さん。孫ではあるがとてもちゃんづけでは呼べんな。年上のわしが尊敬してしまうよ。わしが唯一つ世間に誇れるのは、まさにあんただな」
「いえ、それほどでは…」
さすがに鞠萌もてれる。
「で、わしのことを嫌いになったかね?」
「いえ、安心しました」
娘は即座に答えた。
「ありがとう、一世紀とはいかないまでもかなり永く生きてきて、聞いたうちで一番うれしい言葉だ」
階堂はほうっと息をつきながら答えた。体が小さく縮んだようにも見えた。
「やさしい娘さんに成長してくれたな。お母さんは、何よりも思いやりのある子に育ててくれたようだ。お母さんはわしのことについて、他に何か言っていたかね?」
「そんなに話してはくれませんでした。でも毎月かなりのお金を送ってくれるんだから、どこかでいつも私たちを気にかけていてくれるのは確かだって言ってました」
「そうか、わしの勝手で、お父さんやお母さんには迷惑ばかりかけていたんだろうなあ…あらためてそう思うよ。墓参りをしたくらいじゃ大目に見てはくれまいが、墓参りができてよかった。あんたのおかげだ。函館の寺を探したが、寺は少ない上に寺に墓はないときた、墓はすべて郊外のどでかい霊園にあるというんだから、さすが新大陸だな、本州の感覚じゃない。知らなかったよ。つれてきてもらわなけりゃどの墓だかわかるもんじゃない」
階堂は霊園を見渡してから、目の前のひとつの墓を見やってしみじみ言った。
「…さてと、あんたの入学式の晴れ姿も見ることができたし、墓参りも終わったし、これでかなり心残りは減った」
「これからどうするんですか?」
鞠萌の問いは漠然としていた。一時間先のことのようでもあるし、階堂の残りの人生のことのようでもある。じっさい鞠萌はその両方を心配しはじめていた。
「どこにいてもあんたを見守っているよ。いつでもあんたの幸せを願ってる。困ったときは呼んでくれ。もし生きていたら飛んで来る。わしも歳だ、これを機会に引退しようと思ってな…」
階堂は、もう会うことはないだろうということをさりげなく告げていた。
「あんたの邪魔にならないところに隠れて、ずっと静かにしていようとは思うが、奴らがあんたを狙ってきてはいかんからな…」
奴らというのは、これまで階堂がまんまとカモにしてきた組織の連中のことだ。今回のことで、連中は鞠萌という、階堂の最大の弱点の存在を知ってしまったのだ。
「…ひとまず、警察に出頭して相談してみようかと思ってな…」
「じゃあ、一緒に行こう!」
聞き覚えのある声が大きく響き、通路をはさんだ対岸の墓石群の、ひときわ大きな墓石のひとつの陰から、ひょろりと見るからに頼りない姿が現われた。
「うん?!…おっと、これはこれは、あんたか!よくここがわかったな!」
まったく予想していなかった登場に、さすがの階堂も驚いた。鞠萌も目をみはる。この人は、卒業式で自分の祖父を連行しようとしていた刑事らしい人の、若いほうではなかったっけ。なぜここに…
「お孫さんのご両親の墓の場所を調べておいてよかった。二人でいなくなったとすると、たぶんこのあたりじゃないかと思ってた」
尾縞は階堂と鞠萌へせわしなく目をやりながら言った。
「『哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ、一隊の軍紀を代表す』本訓其の三、第一。見張り・目配りはあらゆることの基本だな。腕力はからきしダメなくせに、あいかわらずアタマはこまめに回るなあ。あんたこそどうやらわしにとって片目のジャックになりそうだ。わしがハートあんたがスペード、つきまとう愛と憎しみってとこだよ」
「あんたの容疑にいまは公務執行妨害も加わった。聞きたいことが山ほどあると思っているのは僕だけじゃないぞ」
「『尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の練磨に勉むべし』本訓其の三、第一。あんたは確かに優秀な刑事さんだよ。腕力が弱いだけで、勉強と訓練はしっかりやっているらしい」
「また戦陣訓か。じゃあ、言ってやろう、あんたの得意な戦陣訓には決定的な欠陥がある、それを忘れたとは言わせないぞ。本訓其の二、第八、『生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』だ!この一文のおかげで、それに従ったどれほど多くの真面目な兵士がその命を失ったと思う、何万もの兵士を無駄死にさせた悪魔の規律じゃないか!しかもそれを公布させた張本人は終戦まで生き残り、アメリカ軍によってやっと処刑させられた。生きて虜囚もへちまもあったもんじゃない」
「それは確かにそのとおり。それが戦後、戦陣訓が戦犯なみに断罪された理由だ。しかし、かばうわけじゃないが、武士道と同じようにこれもまた時代の産物なのだ。彼らは自分のために行ったのではない、間違っていたかもしれないが、これが国を救う道だと本気で思っていたのだ。そこのところを割り引いてもらいたい。叩き込まれたわしらにとっては精神の支えになった。敗戦で価値観は変わったが、わしにとってはいつまでもよりどころの言葉さ。良いことをしても悪いことをしてもこの言葉を頼りにする。わしの名言好きもここからきている。現代は誰も支えになる言葉を持たない。心が迷うと思うよ。その上でこれを見返してみると、ほとんどは現代に通用しない昔の遺物だが、規範だから、中には、あたりまえの人の道を説くいいところもある。宗教も信条も、自分自身を律する規律もない今のこの国には、そのいいところだけは残してもいいのではないかと、わしは思う。
ついでに言うと、わしはな、戦陣訓を信じ、それに殉じていった者たちを無駄死にだとは言いたくない。彼らの犠牲の上に現在のこの国がある。彼らは日本の意思と強さを世界に示したのだ。信じることの強さをな。世は変わってもどこかでこの印象は日本自身へ、世界へ受け継がれてゆく。日本人は自覚し、世界は日本の個性に対して敬意を払う。歴史は忘れられることはあっても、消えはしない。世界大戦の当事者だった国々は、そうでない国々に抜きん出て大人だ。経験から、世界をリードする知恵と資格がある。戦死者たちの尊い犠牲のおかげだと思うな」
「どう思おうとあんたの勝手だが、懐古趣味はひとりでやっててくれ。アナクロな押しつけは迷惑だ。それに僕の公務には何の関係もない。では、そろそろ公務を執行するときだ。粛々と従ってもらいたいね」
尾縞は鞠萌の前でその祖父に手ひどい仕打ちはしたくなかった。孫には何の罪もないし関係ない。つらい思いはさせたくないし、何より自分が悪く思われたくはなかった。もう階堂も観念してくれたほうがお互いのためにいい。ここで戦意喪失して説得に応じてくれ。
そう念じていた尾縞は、遠くで墓参りをしていた喪服の一団が、別な墓を探してか自分たちの方へ近づいてきているのを目の隅にとらえながら無視していた。捕り物場面には見えまい、自分たち三人は墓参り客の立ち話のように見えるだろう。他の客は脇を通り過ぎていくはずだ。これは成り行きに不安を覚えはじめている鞠萌も、思案をめぐらせている階堂も同じだった。
階堂はあくまで立ち話を装って静かに言った。
「じゃあ、聞かせてやろう。わしがこれまで貯め込んだ金なら、そっくり児童基金あたりに寄付する予定だ。わし一人で基金を立ち上げるには時間も余裕もなくなってきたしな…」
「こっちに寄付してもらいたいね。その中には、俺の知り合いの金もふくまれているはずだから」
いきなり声がして、通り過ぎていく喪服の一行の中からひとりが振り返り、話の仲間入りでもするように尾縞と階堂の間に割って入った。
広い額のつるりとした男。不幸の衣装の喪服をまといながら、ふさわしくない薄ら笑いを浮かべている。
「冷馬さん…」
尾縞は驚きの声をあげた。
「どうしてここに?!」
「ずーっとお前の動きを見張っていたよ。お前ならかならずこいつに行き当たると思ってな。仲間と一緒につけてきた」
冷馬が右手を上げ、人差し指と親指でパチンと鳴らすと、通り過ぎつつあった他の喪服の墓参り客四人はさっと振り返り、だっと駆けつけると、二人一組となり、それぞれ尾縞と鞠萌の背後から両腕をつかんでねじりあげた。突然の襲撃に鞠萌は悲鳴をあげる。四人はしおらしい喪服を着ているが、まことに暴力に慣れた連中だった。そのまま組長宅の玄関に並んだほうが似合う。
「何をする?!冷馬さん!仲間って…この連中は荒武会の組員じゃありませんか!」
駅のプラットホームで階堂と尾縞を取り囲み、尾縞にパンチをくらわせたスーツとブルゾンの四人組だった。尾縞に手を下したブルゾンの男は、いまはにやにやしながら尾縞をにらみ、両手で鞠萌の右手を彼女の背中にきつくねじっている。鞠萌は痛さに顔をしかめる。
「これはいったい、どうなってるんですか?!」
「『軍機を守るに細心なれ。諜者は常に身辺に在り』本訓其の三、第一。最大の敵はいつも身近なところにいる」
「黙ってな、じじい!」
「霊園に合わせて喪服で登場とは、その刑事さんもあんさんがたも用意のいいこと!」
意外に冷静な階堂がうめいた。
「お前らに用心させまいとしてな、化けて近づいたってわけさ。さっき墓参りをしていた奴らに頼んだら、気持ちよく喪服を貸してくれてな。もう墓参りはすんだからいいそうだ、フハハハ…」
駅でもいろいろ指図をしていた荒武会のリーダー格の男が、尾縞に組みついたまま階堂を射るようににらんで言った。
「おい、じいさん、さっさと金のあり場所を言ったほうがいいぞ。でないと、お前のたった一人の孫が痛い目に遭う。入学の次は入院ってことになるかもしれん」
冷馬はとても警官とは思えないひどいことを平気で言った。しかしそれは冷馬に馴染んでまことに自然に聞こえた。
「やめて下さい!冷馬さん!どうしたんですか、なぜこんなことをするんです?!気は確かなんですか…!」
そういえば冷馬にはトンネルで離れ離れになって以来会っていなかった。あれから大江戸署へ帰っても姿を見なかった。あの直後に冷馬は、この捜査からはずれることを希望して許可され、都内の暴力組織の捜査班へくらがえになったと聞いていた。トンネルで階堂を取り逃がしたことに責任を感じたつもりなのか、ならば尾縞も同罪なのだが、と思っていたが、次の対策に忙しく、冷馬のことは忘れていたのだ。なんのことはない、なじみの暴力団と旧交を温めていたとは。トンネルのとき、冷馬は函館駅まで戻り、あのとき階堂にまかれた荒武会のこの一味としめし合わせて方策を練ったのだろう。そしてそのまま尾縞を追っていたというわけだ。
「やかましい!」
冷馬は、腕をねじりあげられ冷馬の前にに突き出された尾縞の顔に、かみつかんばかりにわめいた。
「俺はお前みたいな小僧が大嫌いだ!仕事はろくにできないくせに試験勉強ばかりしやがって!試験ばかりでさっさと上へいきやがる。そんな奴らばかりだ。俺みたいに現場で這いずり回って苦労してきた人間が、試験小僧にアゴで使われるのはもううんざりだ!」
「察するに、あんたは四十を越えてるな」
階堂が冷馬の見得に水をさすように唐突に言う。
「それがどうした、じじい!」
冷馬はいきり立つ。
「名だたる劇作家が言ったよ、『四十歳以上の男はみんな悪党だ』、と」
「悪党のほうが得だからな。義理と欲とをはかりにかけりゃ、欲が重てえオヤジの世界さ。しっかり金をいただいて、借金を返して、おまわりは引退するのさ。こいつらが天下りしているうちに、下っ端で磨り減って、定年で抜け殻になってたまるか。そろそろ転職して幸せな老後さ」
「『己に克つこと能はずして物欲に捉はるる者、争でか皇国に身命を捧ぐるを得ん』本訓其の二、第十」
階堂が淡々と言う。
「うるさいぞ!教訓じじい!」
「それでいいんですか、冷馬さん!そんなんで幸せになれるんですか!」
「『しあわせはいつも、じぶんのこころがきめる』。高名な書家も言っている」
尾縞の叫びに階堂が諭すように言う。
「よけいなことは言わないでくれ!」
尾縞は階堂にも叫ぶ。
「そうとも、じじい。よけいなことは言わなくていい。必要なこと、金のあり場所さえ言えばいい。
俺は気が長いほうじゃない…」
冷馬は目で合図をした。鞠萌の右腕をねじりあげている男は、さらににやついて、うなずいた。
鞠萌は恐怖に青ざめる。
「やめろ!」
尾縞は飛び出そうとするが、おさえている二人に引き戻される。
「静かにしてな、あんちゃん。じじいの話が聞こえるようにな」
リーダー格の男が後ろからささやくように言う。
「…あれ、兄い、聞こえませんか?」
尾縞をおさえているもうひとりが言った。
「まだじじいはしゃべってねえだろ」
リーダー格がたしなめる。
「いえ、ほら、パトカーのピーポ、ピーポ…」
確かに聞こえていた。パトカーの音が遠くで。徐々に高くなってくるようにも聞こえる。
「なんだと!パトカーか?こっちへ来るのか?!」
リーダー格もはっと顔を上げ、あたりを見回す。全員動きを止め耳をそばだてた。
「道警だ。まもなくここへ来るぞ」
尾縞が落ち着き払って、急所を突くように言った。
「嘘をつけ!出まかせだ!ハッタリを言うな!」
「ハッタリじゃない、容疑者を捕らえるのにひとりで来るものか。僕はいつだって計算ずみだ。冷馬さん、よく知ってるでしょう」
「くそっ、ふざけやがって!」
「ど、どうする?!」
冷馬はじめ組員全員がうろたえはじめた。
パトカーはたちまち霊園の入口まで来た、と、その音は通り過ぎるようにどんどん低く、見る見る遠ざかっていった。
組員たちは顔を見合わせる。
「みろ、やっぱりハッタリだったじゃないか、脅かしやがってこの野郎!」
冷馬はいきり立つ。見すかされた尾縞は困り果てた顔になる。
「ハッタリじゃない」
階堂がぼそりと、響く声で奥底から言うように言った。
「パトカーは確かにこっちへやって来る、よく聞け、ほら、聞こえるぞ…」
確かに、低くなったと思った音が息を吹き返すように高まっていた。
それがまたなぜか急激に低く、消え入りそうになる。
「また聞こえてくる、だんだん高くなるぞ…」
そのとおり、ずんずん高くなり耳をろうするかと思うほどになる。
「ここでまた低くなる…」
階堂の言うとおり、音はすーっと消え入り、無音となった。
いまや全員耳をすまして、パトカーの音に聞き入っていた。
「そうそう、みんな耳をすましてよく聞くんだ、パトカーの音しか聞こえない…」
無音の中に階堂の声だけがこだまする。
「ほら、また高くなるぞ、だんだん高くなる…」
言うとおり、ふっとパトカーのピーポー、ピーポーという音聞こえてきたかと思うと、ぐんぐん高くなり、さらに耳をふさぎたくなるほどになったあげく、なおも高鳴り続け、聞く全員の頭の中を駆け巡る…
「やめろ!じじい!」
冷馬の声で誰もがハッと我に返った。
「くそっ!あぶない!またおかしな手で一杯くわされるところだった!みんな目を覚ませ、こいつは催眠術みたいなものを使うんだ、大丈夫か!?」
叱咤された組員たちは、目をしばたかせ頭を振って正気にもどりはじめる。
「何度もだまされないぞ、じじい!もうぐずぐずしない、さっさと言え!かまわん、その女の腕を一本へし折れ!」
鞠萌を押さえていた組員のひとり、尾縞にパンチをくらわせた男は、両腕に力をこめ、枝でも折るように彼女の細い手首をねじ曲げようとする。鞠萌は悲痛な叫び声をあげる。
「やめろ!やめさせるんだ!なんてことをする、それでも警官か、冷馬さん…」
尾縞も叫び、両手を振りほどこうとするが、屈強な組員たちはびくともしない。
「…あっ、痛い…お、おじいちゃん…!」
鞠萌は必死に階堂に助けを求めた。
「おお、呼んでくれたな、おじいちゃんと!心から頼りにしてくれたな、おじいちゃんを!」
打つ手を見破られ、もはや策もなく立ち尽くしているだけ、と思われた階堂が自分を取りもどしたようにうめいた。
「…おじいちゃん…そうとも、おじいちゃんだ!あんたのおじいちゃんだぞ!いいとも、このおじいちゃんにまかせろ!いまこそあんたの役に立つ!何もしてあげられなかった無頼のわしが、今こそ孫のために身を捨てる!」
と、たちまち生き生きとした表情になるが早いか
「うおおおおおおおお!」
と、にわかに奇妙なうめき声をあげた。さらに
「『攻撃に方りては果断積極機先を制し、剛毅不屈、敵を粉砕せずんば、やまざるべし』本訓其の一、第六」
と大声で叫んで拳を握る。
「ぐおおおおおおお!」
続いて両脚を踏ん張り両腕を高く振り上げる。
怒りに立ち上がって咆哮するヒグマのポーズだが、がんばって曲芸を見せるコビトカバの珍妙な土俵入りにも見える。しかし、そのとりつかれたような突然の豹変ぶりに、またも妙な小細工と思いつつも、冷馬たちはやや引いた。
「何だ?!じじい!またおかしなまねを…」
「うお、うお、うおーーーん!」
階堂はさらに一声吠えると、冷馬に向かってのっしのっしと一歩一歩進みはじめた。
「下がれ、じじい!何をする気だ!?」
「『死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし』本訓其の二、第七。そのとおりだ!わしは身を捧げる、死も超えたぞ、バンザイ!」
大柄ではない階堂だが、その形相はいまやボスの座を争うセイウチのようになっている。
「な、な、な…」
冷馬は思わず一歩後じさりする。
「最後だ!わしも最後のときがきた!決着をつけるときだ!これで終わりだ!玉砕だ!タラワの戦友たち、いまいくぞ!」
階堂が雄たけびをあげた。
「サイパンじゃなかったっけ…」
尾縞がつぶやいた。
「よっ、よっ、よるな!じじい!」
冷馬はうろたえ、懐に右手を突っ込むと、さっと取り出して階堂に向けた。
手の先にある黒い金属は銃身の短いリボルバーだった。
「わしが撃てるか臆病者!わしひとりに拳銃とは、お前は臆病者だ!『臆病者の目には常に敵が大軍に見える』、信長公も言った。お前の目にはわしが何人にも見えるだろう!」
「見えるもんか!アル中じゃあるまいし、お前は一人だ!」
「そうか…信長公のほうが酔ってたのか…それはそれとして、撃てるものなら撃ってみろ!」
「じじい、下がれ!ほんとに撃つぞ!」
「撃てるものか!お前みたいな卑劣な奴は逃げるネズミくらいしか撃てまい!面と向かってくる勇敢な戦士を撃つ勇気があるか!」
「じじい、撃つと言ったら撃つぞ!」
階堂は追いつめる。
冷馬は後じさりしながらも銃を振り回す。
階堂はとうとう手を差し出した。
「銃をよこせ。お前みたいな奴にガダルカナルの生き残りの、このわしが殺せるか!」
階堂はあくまで高飛車に迫る。
「だから、サイパンじゃ…」
尾縞がつぶやく。
「聞け、臆病者!『人はいつ死ぬと思う。お前に撃たれたときじゃない、不治の病になったときでもない、毒を飲んだときでもない、人に忘れられたときだ』。わしは今あの娘の記憶に永遠に残ろうとしている、だからわしはけして死なないんだ!」
階堂は声高く誇らしげに宣言した。
「じじい、そのセリフ、マンガで見たぞ!このイカサマじじい!」
という冷馬の返事を待たず、階堂は飛びかかった。
次の瞬間、轟音と閃光が霊園を揺るがした。
階堂はびくんと動きを止める。
ジャケットの間からのぞくシャツの胸の部分の真ん中に黒いあとがあった。
シャツにあいた小さな穴の周りの布がかすかにこげている。まだ血は流れてこないが、一発の弾丸が命中したのだ。
「…それだけか…それでおしまいか…」
階堂は立ちつくしたまま言った。
「…そんなものでわしが倒せるか…お前なんぞに…わしがやられて…たまるものか…」
冷馬をにらみ続けているが、声はどこかうつろだった。
「…わしは倒れていない…倒れない…まだまだ倒れないぞ…いくらでも撃つがいい…」
さらに冷馬に向かって進む。足元は明らかによろけていた。
「…さあ、こい…臆病者…」
なおもふらふらしながら冷馬につかみかかろうとする。
「ひやあああ!」
冷馬はゾンビにでも迫られたように震え上がり、完全に追いつめられ、供養塔のそばの松の大木に背中を押しつけ、そこで
「く、くそう!」
と、破れかぶれに引き金を引き、闇雲に銃を乱射した。
弾丸が次々に階堂の胸に食い込み、階堂は小刻みに揺さぶられる。
カチッ、カチッとリボルバーの輪胴が空回りしても冷馬はまだ引き金を引き続けていた。
硝煙ももやが晴れたとき、階堂はまだ立っていた。
かっと目をみひらいているが、その目は何も見ていなかった。
「…み…見ろ…わしは…わしは…いくら撃たれても…平気だ…」
自分でも信じられないといった調子で、どうにか言った。シャツの胸には五つもの穴があいている。
「うわあ!」
冷馬が銃を捨て、松の前から飛び退いた。
「…お…お前の弾なんか…何発当たっても…びくともするもんじゃない…」
と、言ってからにわかに
「…ああ…」
とよろけ、冷馬にかわって松の大木によりかかった。
「おじいちゃん!」
鞠萌は悲痛に叫び、組員の一人も
「やべえ、やっちまった!」
と呆然とする。
「まずいぞ!逃げよう!」
言ったのはリーダー格の男だった。
そのひと言を聞き終わる前に、荒武会の四人は尾縞も鞠萌もうっちゃって、一目散に霊園から姿を消した。戒めを解かれた鞠萌は
「おじいちゃん!」
と階堂に駆け寄り、尾縞は目をみひらいて呆然と立ち尽くす。
「なんてことを…なんてことをするんだ!武器を持っていないこの人を…一生懸命生き抜いてきたこの人を…ガダルカナルの最後の生き残りを…サイパンだっけ…」
「撃った…初めて人を撃った…殺してしまった…こいつが悪いんだ…撃つ気はないのに、こいつがかかってきたから…」
自分のしでかしたことに放心状態になり、同じように呆然と立ち尽くしていた冷馬は焦点の定まらない目でつぶやいた。
「許さない!」
尾縞はきっと冷馬をにらみつけた。
「よくもやったな!許さないぞ!許すもんか!お前だけは許さない!」
言うなり冷馬につかみかかった。
「ひゃああ!」
我に返った冷馬はあたふたと逃げ出そうとしたが、尾縞が体当たりを食らわせてその場に転がした。
「ちくしょう!はなせ!」
手足をばたつかせて必死に逃げようとする冷馬に、頭突きを食らわせ膝蹴りを入れ、顔をさんざんひっかき、頭をかきむしり髪を引っぱり、手にかみつき足にかみつき、ついに馬乗りになって思うさま打ち据えた。
「…いかん…刑事さん、それではいかんぞ…」
階堂が光が消えかかった目で、それでも尾縞の方をむいてどうにか言った。
「…鞠萌さん…刑事さんに言ってくれ…」
階堂の声は消え入りそうだ。
「…『怒を抑へ不満を制すべし。怒は敵と思へと古人も教へたり』…本訓其の三、第一…」
もはやうわごとにしか聞こえない。
「おじいちゃん!しっかりして!」
「…か、かまわんよ…鞠萌さん…『屍を戦野に曝すは固より軍人の覚悟なり』本訓其の三、第二…」
尾縞が気がついたときは冷馬は口から泡を吹き、白目をむいてのびていた。
「思い知ったか!万年下積み野郎!」
勝ち誇ったとき、
「刑事さん!おじいちゃんが!」
という鞠萌の叫びを聞いた。
怒りに我を忘れていたのだ。
「しまった!救急車だ!早く救急車を呼ぶんだ!」
立ち上がり、あたりを見回す。
「警察を!救急車!…そうだ、ケイタイだ!」
あわててケイタイを取り出そうとする。
「あ、あの、刑事さん…」
鞠萌は悲痛というより、不可解という表情をしていた。
「いえ、おじいちゃんが…いなくなったんです…消えちゃったんです…イリュージョンみたいに」
見ると松の木の前に階堂の横たわる姿はなかった。
「刑事さんに救急車を呼んでもらおうと思って振り返って、すぐ振り向いたら、おじいちゃんが見えなくなっていたんです…ここにいないんです…」
「何?どういうこと…?」
尾縞もわけがわからず、鞠萌と松の木をかわるがわる見やる。
松の大木の幹の人間の背丈あたりのところに、銃弾によると思われる穴が五つあいていた。
北海道は何もかも、日本の他のどこともケタが違う、と尾縞は思った。
この大学の敷地の広さはどうだ。構内を自転車で移動するなぞ、イギリスの大学町さながらだ。このどこまでも続く並木道もどうだろう。どう見ても都市の住宅街の街路ではないか。そのうえ樹木もとほうもなく大きい。すべてが大陸的な大きさだった。空気までが未開発の大陸のそれで、まじりものが一切なく、冷たさがじかに伝わってくる。
その清澄な空気の中を彼女は足早にやって来た。ジーンズ姿が乗馬にでも出かけるようにさっそうと見える。
「お待ちになりました?」
「いま来たばかりです。お元気そうですね」
尾縞はちょっとてれながら言った。新緑もまぶしいが彼女はもっとまぶしい。
「はい。…今日はお仕事でこちらへ?」
鞠萌は、見たところ、今日の天気のように屈託がなかった。
「ちょうど用事もあったものですから…いや、じつは鞠萌さんはどうしているかと気になっていましてね」
尾縞は半分程度本音を吐いた。
「ご心配いただいて、ありがとうございます。ここでの生活にも少し慣れました」
尾縞が安心したことに、この前のことは鞠萌には何の影も落としてはいなかった。
「その後、おじいさんからの連絡は?」
「いえ、あれ以来何も…無事でいるのかどうかもわかりません…」
ここで鞠萌の表情がややくもる。
「おじいさん、どうやら元気でやっているようなんです」
いい知らせこそ伝える価値がある。いい知らせを持ってきたものは好意をもって迎えられる。
「まあ、やっぱり…」
鞠萌の表情がゆるんだ。
「それほど心配はしていませんでしたけど…とてもたくましい人ですし、イリュージョンも得意だし」
「聞いた話では、追っていたヤクザ連中と取引したらしいんです。連中の弱みはいろいろ握っているようですから、取引の材料にはこと欠かないらしくて。少なくとももうヤクザに追われる心配はないようです」
「そうだったんですか」
「あいかわらず食えないじいさんですよ」
「でも私は、無事でいてくれると、それだけで嬉しいです…」
「ところで…」
尾縞は早々と話題を変えた。これからが本題だ。
「この木は何ですか?ポプラじゃないですよね」
並木を見上げて言う。
「楡です」
鞠萌が答えた。
「この大学とくればてっきりポプラばかりだと思ってました」
「ポプラ並木も離れたところにあります。観光客にはがっかりポプラとも言われてるんです」
「へえ、どうして?」
「ご覧になったら?行ってみましょうか」
「お願いしますよ。今ごろの北海道はいいですね」
「よろしかったら、市内をいくつかご案内しましょうか、明日は休みだし」
「じつはそう言ってくれるのを期待してたんです。ぜひお願いします。『戦友の道義は、大義の下死生相結び、互いに信頼の至情を致し、常に切磋琢磨し、緩急相救い』ってところで」
「それ、おじちゃんのあれですか?」
「そうです、本訓其の二、第四」
「私は尾縞さんの戦友ではありませんけど」
「そうですね、じゃあ、〝戦〟をとって〝友〟ということでどうでしょう」
北欧の森の中にそびえる城のようなクラブハウスの中の、階段の壁も床も天井もベルサイユ宮殿風にあつらえられた荘厳なロビーで、見るからに最高級なウエアを非のうちどころなくこざっぱりと着こなした、人品骨柄は一目で最下級とわかる男が、ケイタイにあたりかまわず大声で話していた。
「…ドタキャンってわけか、ふん、まあいい、わけはわかってるさ。前回はあんたをカモにしすぎたからな」
男は最高級クラブハウスには全くそぐわないようでありながら、成金趣味が妙にマッチしているところが不思議だった。
「…言い訳はいい!だがな、コースは一月前からおさえてあったんだ。このバカ高いコースをな」
窓の外の緑が映えるフェアウエイを見やりながら言う。世界の名コースにも選ばれた、スタープレーヤーも訪れる名門コースだ。
「…キャンセル料はそっちが持つんだぞ!」
捨て台詞をひときわ声高に言って、組長はケイタイを切った。
「けっ、ちかごろの奴らときた日にゃ、遊びの作法もろくに知らないときてやがる」
腹立たしくつぶやいてケイタイをしまいこんだとき、
「失礼ですが、そちらも欠員のようで。偶然だな、私もあぶれたんですよ」
と銀髪の男が声をかけた。
「どうです、私と一緒にまわりませんか?そのう…勝負がてらに」
口ぶりが《その方面の》プロなみであることをうかがわせる。
「あんたは誰だい、じいさん、グレッグ・ノーマンか?」
話しかけてきた、一見老人に見える男のスタイルも組長に負けず劣らず見事だった。地味だが品のいい緑色のスラックスに緑のシャツが、よく日焼けした肌と、銀色に輝く長髪、セイウチのような銀色の口ひげを際立たせている。仕上げが最新型のサングラス、とどめが緑色のカウボーイハットだった。上流に見えるにもかかわらず、組長と共通する、下卑て世慣れたところが垣間見える。
「ハハハ…彼とまわったこともありますよ、彼が設計したタイのコースをね。いや、私はただの勝負が得意な年寄りですよ。しかし、言っておきますが、負けたとき、子分どもを使ってとり返そうなんてのはやめて下さいよ。江戸時代の賭場じゃないんだから」
「大きく出たな、俺は負けやしないさ」
組長はにやりと余裕で答えた。
「そう言って、私に貢いで下さった親分さん方がたくさんいます。『勝負は、その勝負の前についている』って有名な将棋指しも言ってます」
「そりゃおもしろいな、やろうじゃないか。『勝負の世界には、後悔も情けも同情もない、あるのは結果、それだけだ』って言った将棋指しもいたぜ」
組長はすっかり乗り気になった。
「あんた、身ぐるみはがれるぜ、じいさん。覚悟しときな。かわいそうだからその帽子だけは残しておいてやるがな」
「『諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ』本訓其の三、第二」
「何だと?」
「いえ、独り言です。私が負けたら、金額のほかにもちろん身ぐるみだけじゃなく、この時計もサービスで差し上げますよ」
老人は左腕を組長の前に差し出した。黒いベルトでケースも黒い大きめの丸い時計だ。文字盤は白い。
「ほら、見てください、文字盤が青く光るんですよ」
2015年2月13日 発行 初版
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屋根裏文士です。
青森県を舞台にしたホラー、アクション、コメディー、ファンタジーなどを中心に娯楽ものをいろいろ書いてます。
◇青火温泉 第一巻~第四巻
◇天誅団平成チャンバラアクション
第一巻~第四巻
◇姫様天下大変 上巻・下巻
◇無敵のダメダメオヤジ 第一巻~第三巻
◇アメブロ「残業は丑の刻に」