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黒の黄昏 2

那識あきら

あわい文庫



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 目 次


第六話  虚空を掴む指


第七話  古都の収穫祭


第八話  絡み合う糸


第九話  求める者、求められる者


第十話  死が二人を別つまで

第六話  虚空を掴む指

 宵闇に沈む奥まった路地に、微かに目抜き通りの喧騒が響いてくる。鎧戸から漏れる光が夜空の星のようにちらちらと瞬くその一角に、完全に闇と同化している建物があった。
 かつて酒場だったその三階建ては、もう随分前から空き家のはずだった。だが、板を打ちつけられた扉の向こうから、微かな人の気配が漏れてくる。
 と、石畳に響く虫の声が、ぴたりと止んだ。
 張りつめる空気。
 次の瞬間、幾つもの黒い影が音もなく姿を現した。影達は、間髪を入れずに、封鎖された元酒場の扉をぶち破る。そうして、靴音も高く一気に室内へとなだれ込んだ。
 既に本来の目的で使用されなくなって久しいのだろう、部屋の隅には幾つもの椅子やテーブルが乱雑に積み上げられていた。埃だらけで床に散乱する酒瓶やグラス、分厚いカーテンで覆われた壁、部屋の中央にはランプが乗ったテーブルが一つ。カーテンは、光が外に漏れないようにするためのものだろう。
 そのテーブルを囲んでいた五人の屈強な男達が、突然の侵入者達に驚いて腰を浮かせていた。
 
 剣を構え男達を包囲するえんじ色の壁。それを割って、切れ長の目をした青年が、ジャケットの裾をひるがえしながら前に進み出た。
「警備隊だ。室内をあらためさせてもらおう」
 その言葉がきっかけとなった。
 男達は口々に叫びながら人垣を突破しようとする。テーブルが倒され、椅子が飛び交う。ほどなく室内は乱戦状態に突入した。
 
 乱闘の隙間をぬって、一人の男が階段へと逃れた。すかさず追い縋る隊員に、男は持っていた椅子を投げつけて、階上へと姿を消す。
「隊長! 一人、上へ!」
「慌てるな。逃げ場はないはずだ。追え」
 先ほどの青年が命令する声に、二人の隊員が従った。あっという間に、靴音と怒号が階段を駆け上がっていく。
 ほどなく、重苦しい破壊音が階段の上から響いてきた。次いで、呼び子の符丁。
 多くの廃屋と同様、不当な侵入者を防ぐべく、この建物も開口部を全てしっかりと板で塞がれていたはずだった。追い詰められた鼠が、あらぬ底力を発揮したということか。隊長と呼ばれた青年は、残る四人の賊が取り押さえられつつあるのを確認するや否や、褐色の髪をなびかせて外へ飛び出した。
 石畳に降り注ぐ、木材の破片。見上げれば、カンテラの光に微かに浮かび上がる三階の窓に、蠢く影。
 即座に隊長が、小声で一言二言、傍らの隊員に指示を出す。了解、と小気味良い返事とともに六人が闇の中へと駆け出していく。
 と、影が夜空に見事な弧を描き、道を挟んだ向かいの家の屋根に賊が飛び移った。
 あとを追わんと三階の窓から身を乗り出した隊員らが、何か大きなものを屋根から投げつけられ、慌てた様子で部屋の中へと身を引くのが見えた。そのあとも、何か硬い物がぶつかる鈍い音が、ひっきりなしに聞こえてくる。
 牽制しているつもりなのか、どうやら逃亡者は隣の家の屋根材を片っ端から追っ手に投げつけているようだった。彼らの立つ路地にも、壁に跳ね返った木の板やら重石やらが幾つも落ちてくる。少し離れた所でくぐもった悲鳴が聞こえたかと思うと、一人の隊員が頭を抱えてうずくまった。
 口元を強く引き結ぶ隊長の眉が、不意にひそめられた。視界の端に何か動くものを捉えたのだ。
 顔を巡らせると、隣の家の塀から、一階、二階と庇を足がかりに軽々と屋根を目指す人影があった。やがてその影は、男のいる屋根の上の死角に姿を消した。
「小僧、そこをどけっ!」
 屋根材の雨あられが止んだかと思えば、今度はドスの利いた声が上空から降ってきた。そして何かの打撃音。重い靴音、また打撃音。
 路地からは、屋根の上で何が起こっているのか窺い知ることはできない。戸外に立つ警備隊員達は、一様に難しい表情で夜空を仰ぎ続けた。
 
 やがて、どすん、と鈍い音が辺りの空気を震わせた。
 三階の隊員達が、窓から身を乗り出して歓声を上げる。と、先刻隊長の命で先回りをしに行った六人のうちの二人が、屋根をつたって現場に近づいてきた。
「隊長ー」
「なんだ」
「こいつ、どうやって下に下ろしましょう?」
「どんな状況だ」
「見事にノされてます。流石は……」
 その声が終わりきらないうちに、影が一つ、ひらり、と庇つたいに地上へと降り立った。
 今回の捕り物の一番の功労者をねぎらうべく、隊長がそちらに足を向ける。
「良くやった」
「するべき事をしたまでです」
 表情一つ変えずに通り過ぎる影を、隊長は溜め息とともに腰に手を当てて見送った。
 黒いズボンと黒いシャツ、暗い色の髪が闇に沈み、官給品の丈の短いジャケットが一際目立つ後ろ姿。首の後ろで括られた髪が、えんじ色を背景に揺れている。
「相変わらず愛想の悪い奴だな」
「隊長、嫌われてるんじゃないんスか?」
 隊員の一人にまぜっかえされて、彼は憮然としたおもてを作った。
「……私だけを嫌っているわけじゃなさそうだがな」
 魔術が使えるにもかかわらず、この新参者の隊員は危険な接近戦を好んで行っていた。
 ――もしかしたら、奴は自分自身すら好いていないのではないだろうか。
 ルドス警備隊隊長の視線の先、捕縛した男達を牽き立てるカンテラの光が、往来へと投げかけられる。その光に照らされて、黒尽くめの影――シキ――は眩しそうに目を細めた。
 
    一  光陰
 
 イの町から西へ、街道を馬でひた走り十日。眼前にそびえ立つ雪を頂いたナナラ山脈、その中でもとりわけ人目を引く、切り立った絶壁を誇る聖峰ガーツェの麓に、その街はあった。
 峰東州の州都、ルドス。名前が示す通り、ここにはかつて古代ルドス王国の都が存在したといわれている。一度は滅び廃墟と化したこの街は、失われた知識の断片をかき集めて、再び歴史の表舞台に返り咲いた。以来、もう何百年もの間、ここは古代ルドス魔術の中心地として盤石の地位を誇っていた。魔術師なら誰でも一度はこの街を訪れて、知識の源泉たる呪文書の原本を拝んでみたいと思うことだろう。
 そんな古い都にも、帝国軍は等しくやってきた。今から十年前、ルドスはその自治権をあえなく帝国に明け渡した。歴史あるルドス領は解体され、新しく編成された峰東州の一部として新たな物語を刻むことになったのだった。
 ルドスの街は、南北に連なる高山の裾野に帯状に広がっている。辺境からほぼ真っ直ぐ東西に伸びてきた街道は、ルドスの手前で大きく北に進路を変え、街の北門からそのまま街の中央を縦断して、南門へと抜けていくのだ。
 その南北の大通りの東側は、いわゆる庶民の居住地であった。反対側、商業地を挟んで西側には、上層階級の住居が建ち並んでいる。そして街を見下ろす一段高い所には、今は大学堂となった主無き城が、ただ静かに青空を背に佇んでいた。
 
 
 夜勤組に仕事を引き継いで、シキは家路を急いでいた。ルドス警備隊の証であるえんじ色の短上衣は鞄の中に仕舞われているため、彼女はさながら闇夜の鴉のようだ。
 大通りから少し坂をくだった所にある、三角破風の家。重厚な木の柱と少しくすんだ白い壁、そして破風に絡まる蔦。素朴且つ上品な佇まいのその家の、二階と屋根裏がシキ達の住まいだ。鍵を開けて玄関をくぐり、ホール脇の階段に足をかけたところで、奥の扉から恰幅の良い中年の婦人が顔を出した。
「お帰りなさい」
 家主のジジ夫人は、少し大袈裟に両手を広げると、優しくシキを抱きしめた。
「……ただいま」
「あらら、顔に何かついてますよ」
 夫人はエプロンのポケットから布巾を出して、シキの頬を優しく拭ってくれた。子供のいないジジにとって、シキは可愛い娘みたいなものなのだ。シキは少し頬を赤くして、小さな声で礼を言った。
「ありがとうございます」
「……怪我、は無いの?」
 拭き取った汚れが乾いた血であることに気がついて、ジジがそっと眉根を寄せる。
「はい」
 ふと頭上で階段の軋む音がして、二人は同時に顔を上げた。
 ロイが悠然と二階から下りてくるところだった。
「今帰りました」
「随分遅かったね。何かあったのかい?」
「明日の朝、隊長から先生に報告が入ると思います」
 淡々とそう告げるシキに、ロイが片眉を上げる。
 ロイは、一年半前から非公式にルドス警備隊の顧問の役に就いている。隊専任魔術師の教育と評価、隊員に支給される魔術道具の生成など、そういった仕事が彼に任せられていた。イに居る頃に断続的に繰り返されていたロイの州都出張は、こういう事情が背景にあったのだった。
 しかし、どういうわけか彼は表に出るのをあまり喜んではいないようだった。特にこの半年、ルドスに居を構えるようになってからの彼は、限られた者にしか所在を明かさず、ひっそりと隠遁生活を続けている。
「先に休みます。おやすみなさい」
 一階に降り立ったロイと入れ違うように、シキは階段をのぼっていった。それを心配そうに見送りながら、ジジは大きな溜め息をついた。
「あんな子があんな危険な仕事をするなんて。先生、なんとかならないものですか?」
「……彼女がしたいというのだから仕方がない」
 ロイは少し苛立たしそうに、溜め息とともに言葉を吐いた。
「でも……」
「それに、あの『子』と言うが、彼女はもう十九、立派な大人だ」
「……ああ、そうでしたっけねえ。どうもシキちゃんを見ていると……『女性』という気がしなくてねえ」
 
 シキの額のフォール神の印。不肖の弟子の裏切りによって刻まれたそれは、「偽装」の術を封じた指輪のお蔭で人目に触れることはないが、依然としてそこに存在する。その禍々しい刻印に、ロイは今でも怒りが湧き起こるのを禁じ得ない。
 だが、ロイが最も腹立たしく思うのは、その術の効果についてだった。
 封印された「女」の「性」。
 ロイは下唇を噛んだ。既に自分とシキの間を阻むものがないにもかかわらず、彼はどうしても「その気」になれなかったのだ。自分がいだいていた欲望や妄想、それらの記憶はロイの中ではもはや単なる過去のものでしか過ぎず、ふとした弾みに手が触れ合っても、そこには木石を触る以上の感慨が存在しなかった。
 ――苛立たしい。そして忌々しい。
 魔術で一気に引導を渡すのではなく、この手で奴の身体を切り刻むべきだった。そうすれば、自分がこれほどまでの憤怒に捕らえられることもなかったのではないだろうか。ロイは拳を固く握り締めた。
 あれから半年。山から吹き降ろす刃のような風が、秋の終わりを告げ始めている。
 辺境の田舎町から賑やかな州都にやってきたというのに、シキはほとんど笑わなくなった。年頃の娘達が華やかに着飾っては余暇を楽しんでいるというのに、シキが仕事以外で外出することはほとんどなかった。
 彼女の目立つ黒髪は、額の印と同じく「偽装」の指輪によって隠されている。誰もが見知った人間である故郷と違い、黒髪は奇異の目をもって迎えられるだろう、というのがロイがシキにその指輪を与えた一番の理由だ。それに、反乱団の黒の導師の噂のこともある。もう一つ、ある不安感――そのために、彼は極力公の場から遠ざかっていたのだが――も手伝って、ロイは指輪に人目を欺く魔術を込めたのだった。シキがこれを嵌めている限り、そしてシキの魔力が尽きぬ限り、彼女の黒髪は深茶の髪に、そして額の印は肌の色に、それぞれ偽装され続けるのだ。
 肩までしかなかったシキの髪は、夏を過ぎて少し伸び、無造作に首の後ろで束ねられている。相変わらず身に纏うのは女らしさとはほど遠い服。それがどれも黒い色であることに、ロイは最近気がついた。
 死してなお、シキの全てを所有する存在。ロイは呪詛の言葉を何度も呑み込んだ。

 
 
 
 自分にあてがわれた屋根裏部屋で、寝台に仰向けに横たわりながら、シキはぼんやり天井を眺めていた。
 何度も脳裏で繰り返されるあの風景を持て余しながら。
 
 半年前のあの日、町の方角で莫大な魔力が炸裂するのを感知したシキは、咄嗟に洗濯物の籠を放り出して家の前へと飛び出した。小道を街道へと駆け上がり、東の空に目を凝らす。
 遥か上空に、小さな光点が生じた。それは、みるみるうちに細い光の筋となって、真っ直ぐに大地へと突き刺さる。一呼吸遅れて、微かな地響きが足元に伝わってきた。
「天隕」の呪文だ、とシキは呟いた。彼女がまだ習得していない、最高位の魔術。遥か虚空の星のかけらが、恐るべき凶器となって地上へと落とされるのだ。その破壊力は他に比類されるものがない。
 ――先生だ。
 ごくり、とシキは唾を飲み込んだ。でも、何故。何のために、師匠はそんな術を使ったというのだろうか。
 シキの心臓が、ぎりぎりと不安に締めつけられる。レイと連れ立って出かけた先生。その先生が殺戮の呪文を放ったのだ。
 ――何に対して。いや、誰に対して……?
 シキは身動き一つできずに、ただ祈るような心地でその場に立ち尽くした。
 
 どれくらいの間、東の空を見つめていたのだろう。やがてシキの目が、砂煙を上げて近づいてくる何かを捉えた。
 それは二頭の馬だった。先生と、レイが帰ってきたのだ。安堵のあまり泣きそうになりながら、シキは二人を出迎えようと歩みを進めた。
 だが、ほどなくシキの瞳に怯えの色が入る。
 ロイが上衣の裾をひるがえしながら馬を駆っていた。その後ろ、手綱を引かれた「疾走」。その馬上には、……誰も、乗って、いない。
 愕然とした瞳で、シキは足を止めた。
 蹄の音も高く、シキの傍まで一気に駆け込んできたロイは、馬上から険しい声を投げかけてきた。
「シキ、至急荷物をまとめなさい。州都へ行く」
「先生! 何があったんですか! レイは!? さっきのあの呪文は一体!?
 血相を変え、矢継ぎ早に問いを重ねるシキに、ロイは静かに語りかけた。
「……落ち着いて聞きなさい、シキ。彼は我々を裏切ったのだ」
「え?」
 突然思いも寄らない単語が飛び出したことで、シキは二三度目をしばたたかせた。
「そう、レイは、皇帝陛下に叛旗をひるがえそうとしていたのだよ」
「叛旗?」
「サンは反乱団の一味だったのだ。彼がレイを引き込み、そしてレイは君を手駒とするために……解るね?」
「手駒?」
 混乱のあまりに、シキはオウムのようにロイの言葉を繰り返す。
「そうだ。君を利用しようとしていた。篭絡して、その力をおのが野心のために悪用しようとしていたのだ」
 そう言いきって、ロイはひらりと馬から飛び降りた。そうして真っ直ぐシキの目を覗き込んだ。
「レイは私に言った。力こそ全てだ、と。彼は七か条の規範に背いた。魔術師としての道を踏み外してしまったのだ」
 その瞬間、シキの脳裏にレイの声が閃いた。
 
『俺が魔術師になったのは、力が欲しいからだ』
 闇に沈む小屋の中、刃のように鋭い声が空気を切り裂く。
『他人のための力じゃない、俺自身のための力だ』
 
 シキの頭を覆っていた靄が一瞬にして晴れ、ここにきてようやくロイの言葉の意味がシキの中に浸透し始めた。
 ――サンが反乱団で、レイを仲間に引き込んで、それで今度はレイが私を引き込もうとして……。
「そして、その挙げ句に、彼は私を殺そうとした。反乱団にくみすることを私に咎めたてられたからだ。あれはもう、我々の知っているレイではなかった。彼は力に魅入られ、力に溺れてしまったんだ……」
 ロイは悲しそうに軽く首を振り、手綱を引いて家へと向かい始めた。
「彼らはまた君の力を狙ってくるだろう。ここは危険だ。とにかく一度州都へ行こう。あそこなら、頼もしい味方が大勢いる」
 茫然とロイの背中を見送っていたシキは、そこで、はっと我に返って、必死の形相で師のあとを追った。
「……ちょっと待ってください!」
 からからに乾いた唇を無理矢理に動かして、シキは声を絞り出した。きっと何かの間違いだ、と心で強く願いながら。
「レイはどこですか。直接彼の口から説明を……」
 大きな溜め息とともにロイがゆっくりと振り返った。そして、シキを諭すように静かな声で答えた。
「レイは……もういない」
 シキの瞼の裏に、先刻東の空を切り裂いた一筋の光が浮かび上がる。
「私が、殺した」
 
 
 あのあと、サンは忽然と姿を消した。そればかりか、聞いた限り、シキ達の他に誰もサンが帰ってきたことを知らなかったのだ。
 たとえサンが反乱団の一味ではなかったとしても、彼が何か良からぬ事態に陥っているのは間違いないだろう。そういえば、あの時分、レイはサンの話題を避けていたふしがあった。彼らの間にあらぬ密約が交わされていたと考えるのは、そう不自然なことではない。
 ――でも、本当にレイは裏切り者だったのだろうか。
 一縷の望みをかけて、シキは何度も何度も自問する。だが、彼女はそのたびにいつも、同じ迷宮の中をぐるぐると彷徨うことになってしまうのだ。
 あの時、ダンの小屋でレイは魔術師の規範を鼻で嗤った。自分が必要と思うならば、ダンに術を使うことさえ厭わないと言った。力が欲しい、だから魔術師になったと言った。
 力、力、力。力を求めるあまり、彼は、先生に黙って東の森で特訓までしていたのだ……。
『俺にはお前だけだ』
 ――あの台詞も偽りだったのだろうか。本当に必要だったのは私の「力」で、私自身なんてどうでも良かったのだろうか。
 大きく息を吐いて、シキは寝返りをうった。
 堂々巡りを始めた思考を、シキは無理矢理に打ち切った。これ以上考えても、つらくなるだけだから、と。とにかく、何としてもサンを捕まえるのだ。そうすれば、きっと真実が明らかになる。それまでは、もう、何も考えたくない。
 力無く敷布に顔をうずめたシキを、揺らめくランプの光がそっと撫でた。
 
 
 
 自暴自棄、ということなのか。ロイは二階の書斎で独りごちた。少し伸びをしてから椅子の背にもたれかかり、ぼんやりと天井を見上げる。
 階上で眠っているであろうシキのことを、彼はつらつらと考えていた。
 
 レイを屠った翌日には、ロイはシキを連れてイの町を引き払った。最低限の身のまわりの物を携えて。
 家の管理は町長に一任してきた。蔵書の類は追々人を頼んで運び出せば良い。とにかくロイはあの場所から少しでも遠く、一刻も早く離れたかったのだ。シキが平静を取り戻す前に。彼女についた嘘が綻ぶ前に。
 もっともその「嘘」について、ロイは、嘘とは言いきれないのではないかとも思っていた。なにしろ、反乱団の一味は、あの時確かにロイの家を監視していたのだから。秘密裏のうちに帰郷していたサンが、わざわざ危険を冒してまでロイ達の前に姿を現したのには、何か理由があるはずだ。それにあの時のレイの様子を見る限り、サンが本当に彼を手駒として引き入れようとしていた可能性は高い。
 加えて、ロイには、レイの行動を細部まで再現できる自信があった。何しろ十年間も同じ屋根の下で暮らしてきたのだ。レイがどういう条件下でどのような行動を取るか、模擬するなど朝飯前だ。
 そうやってでっち上げた「嘘」は、自分でも惚れ惚れするほど完璧な出来栄えだった。とはいえ、兄弟同然の幼馴染みの造反を俄かには信じられなかったのだろう、州都へ出立する直前まで、シキはサンを探して町中を走り回っていた。そのことが、よりはっきりとロイの説を裏づけることになろうとは、一体なんという皮肉だろうか。
 ――私の勝ちだ。
 確かにレイには先手を打たれてしまった。だが、現在、シキは自分の傍にいる。フォール神の呪文書も取り返した。あとは……、この忌々しい術を解除するだけだ。そうすれば、シキはレイの亡霊から解放される。今みたいに、自ら進んで危険に身を投じることもなくなるだろう。
 そこまで思考をめぐらせて、ロイは大きく溜め息をついた。机の上に開きっぱなしになっている、くだんの呪文書に目を落とす。
 天才の名をほしいままにするロイにとって、この程度の呪文など物の数ではない。おそらく十日もあれば充分だろう。
 充分なはずだった。
 既に「半身」の術について九割がたは理解できていた。だが、あと一息だというのに、根本的なところで全くやる気がおきないのだ。
 たった一つの呪文が、十日どころか半年かかっても未だ習得できていないという事実。それでも悔しさすら感じられない。理由は簡単、自分がシキを欲していないからだ。いや、むしろ彼女に対して禁忌に近い感情さえ湧き起こる。
 ――実に良くできた術だ。
 ロイは皮肉の笑いを口元に刻んだ。
 
 フォール神は豊穣を司る女神だ。
 古来より人々の生活を土台のところで支えてきた、大地の恵み。その豊穣を願って人々は神に祈りを捧げた。現在はもうほとんどその信仰は残っていないが、その祈りの形は、収穫祭での感謝の踊りに垣間見ることができる。男女一組が向かい合わせとなって、手を取り、歌い、ステップを踏む。それはまさしく、フォール神神聖魔術の作法に他ならない。
 術の主導権は女性側にあった。それ故、女の術者の力量は男性のそれよりも重視されたらしい。そして、腕の良い術者をめぐって争いが起きることも少なくなかったということだ。「半身」とは、無用な争いを防ぐための呪文だったのだろう。
 拍子抜けだな、とロイは小さく鼻を鳴らした。別の書物で初めてこの術のことを知った時は、もっといかがわしい、男性が女性を一方的に虜囚にする術のような気がしたものだが、と。
 頬杖をつきながら、ロイは気だるそうにページをめくった。目は文字を追っているのだが、どうしても内容が頭に入って来ない。今日はこれぐらいにしておこう。そう思って呪文書を閉じかけたロイの目が、ある一文を捉えた。
『……効力は術者に依存する』
 ロイは弾かれたように姿勢を正して呪文書を開き直した。
 効力は術者に依存する。
 効力。
 依然として存在する、シキの額の印。
 ロイは愕然と目を見開いたのち、思いきり奥歯を噛み締めた。
「生きているのか……! レイ!」
 
 
 

    二  潮境
 
 ルドス警備隊の本部は、町の中心部にある。
 大通りに面した、三階建ての重厚な石造りの建物は、かつてルドス自治領の領主の持ち物だったという。それが、さきの戦争を経て、峰東州の知事に就任した帝国の公爵家の物となり、それを譲り受ける形で現在の本部となったのだ。
 二階にある会議室では、遊戯室として使われていた時の調度品が、多少場にそぐわないながらもそのまま利用されている。マホガニーのテーブルが六つ、そのそれぞれに配置された革張りの椅子。かつて館のあるじとその客がゲームに興じたその場所に、今、えんじ色のジャケットを着た二十余人の警備隊隊員が座っていた。
 
「残念ながら、ハズレだったぞ」
 大きな両開きの扉を押し開けて部屋に入るなり、忌々しそうに隊長が言った。部下達の視線を一身に集めながら、壁際にしつらえられた黒板の前へとツカツカと歩み寄る。
「どういうことですか?」
「どうもこうもない。昨日の奴らは、単なる窃盗団だった。反乱団と名乗れば箔がつくと考えたらしい、相当の馬鹿だな」
 名誉の負傷もかたなしだぁ、と部屋の隅から嘆き声が上がる。昨夜の捕り物で、屋根に逃げた男に重石をぶつけられた隊員が、包帯の巻かれた頭を大事そうにさすった。
 現帝が即位して以来、マクダレン帝国は着々とその領土を広げていった。同時に、それを快く思わぬ者の数も、兵の進んだ距離の分だけ増えていった。彼らの一部は、不承不承ながらも新しい社会の枠組みに呑み込まれていったが、残る一部は、抵抗分子となって、事あるごとにあちこちで小競り合いを起こしていた。
 それが、この三年ほど前から、急になりを潜め始めたのだ。
 皇帝陛下の威光がようやく民草に浸透したか。最初のうちこそ、役人達はそう得意げに頷いていたが、ほどなく彼らはそれが間違いであることに気がついた。表立った抗議行動に出ていないというだけで、造反者達は依然としてその矛を収める気がないのだということに。
 皇帝の失政をでっち上げ、不穏な噂を流布しようとしたり、禁じられた異教を復興させようとしてみたり、……それまでただ闇雲に反抗していた連中が、明らかに何か一つの意志の下に蠢いている気配に、中央は戦慄し、即座に各地の警備隊に通達を出した。各町、全力をもって、皇帝陛下の治世を守るのだ、と。そしてその通達書以降、「反乱団」という名称はたびたび公文書を賑わすことになった。
 局地的な騒乱の種に過ぎなかった有象無象を、一つの組織としてまとめ上げた者の存在については、未だ明らかにはされていない。最近になって「黒の導師」という通り名が囁かれるようになってはきたが、依然としてその正体は諸説入り乱れている有様だ。彼らが何者で、どこから来て、一体何をしようとしているのか、町の治安を守る警備隊としては、どんな僅かな情報でも喉から手が出るほど欲しかったのだ。
 偽反乱団のせいですっかり意気消沈してしまった一同を鷹揚に見渡しながら、隊長は片方の口元をすっと引き上げた。
「だが。収穫がゼロというわけではないぞ」
 そう言って彼は、傍らの文机の上から白墨を一本手に取った。そして黒板に『赤い風』と大きく板書した。
「連中は、反乱団のことをこう呼んでいた」
 芝居がかった様子で、隊長はコツリと黒板を軽く叩いて示す。それを合図に、ざわめきが細波のように室内をそっと渡っていった。
 こうやって名前が与えられるだけで、靄か霞のようだった存在が急に現実味を増してくるのだから、不思議なものだ。
 と、隊員達の誰もが真剣な表情で白墨の文字を注視する中、場の雰囲気にそぐわない素っ頓狂な声が、最前列からやや控えめに湧き起こった。
「あ……あか……、赤い、何だぁ?」
「何だとは何だ」
「赤い、の次は、なんて書いてあるんスか? 読めないんスよ、字が汚くて」
 赤みがかった茶髪の青年が、余計な一言とともに黒板を指差した。
 隊長の目が、つうと細められる。
「目の悪さを私のせいにしないでもらいたいな、ガーラン・リント」
「そんなことないスよ。なんならここから隊長のうなじのキスマークを数えてみましょうか?」
「見えないものが見えて、見えるべきものが見えないのか。医者に行ったらどうだ」
 不敵な笑顔を湛えつつ、二人は楽しそうに悪態の応酬を重ねていく。残る隊員達も慣れたもので、今日はどちらに軍配が上がるのかと、彼ら二人のやりとりをにやにやと見守っていた。
「二人とも、いい加減にしてください」
 窓際の椅子に座っていた、蜂蜜色の髪の女性が、冷ややかな声で幕を引いた。ポニーテールにした長い髪が、彼女の溜め息とともに優雅に揺れる。副隊長の肩書きを持つインシャは、隊内で唯一の癒やしの術の使い手だ。
「私はいたって真面目だが。不真面目な部下を持つと苦労して敵わんな」
「あ、ひっでえ、全部俺のせいかよ」
「いい加減にしてください」
 声ばかりでなく視線まで凍りつかせながら、インシャはもう一度同じ言葉を繰り返した。
 隊長が降参のジェスチャーを作って、彼女のほうを見る。
「厳しいねえ。我らが女神達は、皆、実に手厳しい」
「皆?」
 隊長の言葉を受けて、ガーランが不思議そうにそう呟いた。一呼吸置いて、一同が「あ」と声を漏らして一斉に後ろを振り返った。
 一番後ろの椅子に静かに座っていたシキに、全員の視線が集まる。シキは表情を変えずに、無言でその視線を受け流した。
「たおやかな女性をお望みでしたら、来る場所を間違えていらっしゃるのではありませんか」
 インシャの声で我に返った隊員達は、少しばつが悪そうな表情のまま、前に向き直った。隊長が咳払いをして、場を仕切り直す。
「とにかく。明後日には収穫祭も控えていることだし、各人、気を抜くなよ」
 それから、にやりと笑ってつけ加えた。「ガーラン、サボるなよ」
 
 
 町の治安維持は、元来、町民達自らが結成する自警団の仕事だった。
 稀に、自らの騎士にその仕事を担わせる領主も存在したが、基本的に騎士が自警団の仕事に直接関わることはなかった。城を守り、来るべき戦争に備えて自己を鍛練する、……騎士はあくまでも、主従関係を結んだ領主のための存在であった。
 だが、帝国の侵攻によって一気にその図式は崩れ去った。皇帝陛下直属、領主預かり、という身分の者達が、警備隊として各地に配備されることになったのだ。
 もっとも、戦争による人材不足から、大部分の警備隊は騎士団との兼任者で占められている。ルドスでも、専任の警備隊員はたったの二十八人しかいない。
 しかし、貴族や郷士の子弟がほとんどを占める騎士団と違い、警備隊は高価な装備を必要としないこともあって、完全に実力重視の世界だった。出自も性別も問わず、剣士に限らず癒やし手や魔術師でも、能力さえ認められれば任命されることができるのだ。
 馬も無く、鎧も無く、その出で立ちは歩兵となんら変わりない。だが、皇帝陛下から賜った、機動性に富む丈の短いえんじ色のジャケットは、彼らの誇りの象徴だった。
 
 その警備隊の誇りの象徴を、何のありがたみもなさそうに無造作に袖で腰に結わえ、ガーランは大きく伸びをした。
 二日後に迫った収穫祭の準備で、ルドスの街中が浮かれていた。もう日が沈んで随分経つというのに、まだまだ街は活気に満ち溢れている。その喧騒は、裏通りを歩く彼らの耳にも楽しげに飛び込んできた。
「あーあ、かったるいなあ」
 彼は持っていたカンテラの覆いを少し明け、三本目の煙草に火をつけた。深く煙を吸ってから、巡回の相棒であるシキのほうをちらりと窺う。
「ルドスの収穫祭は初めてなんだろ?」
「はい」
「楽しいぜー。特にパレードがな、近隣の町という町から見物客が押し寄せてくるんだ。そりゃもう、凄い人出でな」
「そうなんですか」
「まあな」
「……」
 ……再び会話が途切れ、沈黙が二人を包む。
「疲れたろ、もうそろそろ引き上げようか」
「疲れてません」
 可愛くない、とガーランは大きく煙を吐いた。とはいえ、それはこの半年の間に嫌というほど思い知らされていることではあるのだが。
 溜め息とともにがっくりと大袈裟に肩を落としてみせて、それからガーランは低い声で囁いた。
「あとをつけている奴がいるな」
 瞬時にして、シキの瞳に力が込められる。それに応えて、ガーランもそっと眉間に皺を寄せた。
 二人は、背後を振り返ることなく平然と歩み続ける。
「……一人、ですね」
「ああ。祭りの前ってんで、酒でも飲んで気が大きくなっている三下だろう。特にこの辺り、ガラの悪い連中が揃ってるからなあ。日頃の憂さ晴らしに、赤ジャケットにちょっかいかけてやろう、ってとこだろうな……」
 そっとカンテラを持ち直し、ガーランはシキに目配せをした。
「面倒だから、振りきっちまおう。あの角を曲がったら走るぞ」
 何事も無かったかのように二人は歩き続けた。三丈進んで、煤けた板塀の角を左に折れる。
「二角向こうで右に曲がろう」
 小声でそう指示するや否や、ガーランは駆け始めた。それまでの気だるそうな態度からは想像もできない俊敏さで、暗い路地を音もなく走り抜ける。宣言どおりに辻を右に曲がった所で、傍らにシキの姿が無いことに気がつき、ガーランは驚いて足を止めた。
 慌てて元の裏道に戻り、闇に目を凝らせば、遥か後方、先刻の曲がり角に蠢く二つの影が辛うじて見てとれた。
「ちょ、待てよ、あンの馬鹿野郎」
 小さく毒づいてから、ガーランは来た道を全速力で戻り始めた。
 角に近づくにつれ、影の形が明瞭になる。むやみやたらに両手を振りまわして暴れている男の影を、小柄な影がひらりひらりと翻弄していた。間合いをとっては、打撃を受け流し、相手の懐に潜り込む。その機敏な動きは、見事としか言いようがない。
 ガーランが現場に到着する直前、男の影が大きく体勢を崩して石壁に寄りかかった。対するシキは構えを解くことなく、僅かに重心を左足へと傾ける。
「いい加減にしろ!」
 容赦なく繰り出されたシキの右足が、男の顔面すれすれのところで大きく空を切った。彼女がとどめの回し蹴りを放とうとした瞬間、ガーランが背後から彼女の身体を思いっきり引いたのだ。
 声にならない悲鳴を上げて、男がもんどりうって逃げ出していく。
 ガーランは、安堵の溜め息とともにそれを見送った。そして、ふと、右の手のひらに感じる柔らかい感触に気がついた。シキを止めようと咄嗟に彼女の胴に回した両手のうち、右手がしっかりと胸のふくらみを鷲掴んでしまっていたのだ……。
「何するんですかッ!」
 シキの、振り向きざまの張り手を頬に喰らって、ガーランはただ呆然とその場に立ち尽くした。
「そうだ、女の子、なんだっけ」
 半年前、二人目の女性隊員がやってくるという噂に、警備隊本部は沸きに沸いた。何歳なのか、既婚者か否か、隊員達はひとしきり各々の好みの女性像について語り合ったのち、一転して至極控えめに頷き合った。曰く、どんなに筋肉達磨だとしても、オバサンだとしても、女性が増えるというだけで幸せじゃあないか、と。
 果たして、隊長に連れられて現れた新隊員は、むくつけき大女でもなければ年増でもなかったが、それ以前にとても女性とは思えぬ、かといって男性とは勿論違う、しかも子供のようで子供ではない、ひたすら不可思議な存在だったというわけだ。
 真っ赤な顔で肩で息をするシキを、ガーランはまじまじと見つめ直した。やはりどうしても「少年」としか感じられない。居心地の悪い妙な違和感に苛まれて、彼は頭をがしがしと掻き毟った。
 
 
 非礼を詫びようともせずに頭を掻き続けるガーランを、シキは冷ややかな目で見つめ続けた。怒りで上気した頬がようやく治まり始めたところで、攻撃的な口調でガーランに問いかける。
「何故止めたんですか」
 シキの問いに、ガーランも険しい顔で言葉を返してきた。
「お前こそ、何故わざわざ喧嘩を売るような真似をした?」
「喧嘩など売っていません。『何か用か』と訊ねただけです」
「それが喧嘩売ってる、ってんだよ。酔っ払いの下っ端野郎なんざ、放っておきゃあいいんだ」
「ですが、この程度で問題を起こすのならば、どうせきっとまたどこかで騒動を起こすはずです。それなら、今ここで、きっちりとカタをつけたほうがいい」
 一片の迷いもなく、シキは言いきった。それを聞いたガーランが、大きく肩を落とし両手を腰に当てる。
「いや、まあ、確かにそういう考え方もあるにはあるが、時と場合ってものがあるだろう? あんなチンピラをこんな状況で叩きのめしたところで、意味なんてねえよ」
 理不尽に思える物言いに、シキは露骨にむっとした表情を作った。
「じゃあ、みすみす悪党を見逃せ、と」
「そうじゃない!」
 そう声を荒らげてから、ガーランはそっと眼差しを緩ませた。
「お前は強いさ。見た目差っ引かなくても、な。素手で一対一なら、たぶん隊長にも勝てるんじゃねえか? だからさ、折角のその力を汚さないでくれよ」
 ちから、という言葉の響きに、シキの眉が曇る。
「力ってのは、決して誰かを傷つけるためのものじゃない。わざわざ力を使わなくとも、悪い奴に睨みを利かすことができるなら、それでいいんだよ。今のだってお前なら、足払い一発であいつを転げさせて、ガツンと一言シメたらそれで充分だったはずさ。たとえ相手が悪党でも、傷つけずに済んだほうが気分いいじゃねえか?」
 そこまでを一気に語って、ガーランはまたも大きく溜め息をついた。少し冗談めかした仕草で、小さく肩をすくめてみせる。その様子をシキは苛々しながら黙って見つめていた。
「ま、確かにうちの隊で暴走するのはお前だけじゃないけどさ、でも、ちょっとお前はピリピリし過ぎなんだよ。昨日の捕り物だってそうだ。一人で全部最後までカタをつけずに、援護を待てばいいんだ。少しは仲間のことを信用しろ」
「信用していないわけではありません」
「だーかーら。ちょっとぐらいは俺達を頼れよ、ってんだよ。大体仮にも女の子なんだから、たまには素直に守られてろって」
 副隊長といい、うちの女どもは全くもって可愛くない、と唇を尖らせるガーランの前で、シキは小さく息を呑んだ。

 
『たまには、素直に守られてろ』
 視線を上げた先、黒尽くめの後ろ姿が遠ざかっていく……。
 
 半年前の記憶を振り払うように頭を振って、シキは口元を引き結んだ。足元を見つめながら、手が震えるほどに拳を握り締めた。
 そんなシキの様子に気づいているのかいないのか、ガーランはいつになく落ち着いた声で、静かに語り続ける。
「とにかく、だ。力に呑まれんなよ。力に溺れてしまったら、ろくなことにならねえ。最後は自分に返ってきて、身を滅ぼすことになっちまう」
 ――ちから。
 シキの脳裏に、再度懐かしい声が響く。力こそ全てだ、と。
『彼は七か条の規範に背いた。魔術師としての道を踏み外してしまったのだ』
 師匠の台詞が、レイの声を追いかける。
『あれはもう、我々の知っているレイではなかった。彼は力に魅入られ、力に溺れてしまったんだ……』
 シキは唇を強く噛んだ。
 まさしく、ガーランの言うとおりなのだ。力に溺れ、師を欺こうとしたレイは、師の手によって滅ぼされてしまった。全て、彼が力を欲したがために。
 だが、シキが力を求めなかったというわけではない。日々の修行を何のために行っていたのかと問われるならば、それは間違いなく、知識を、ひいては力を求めてのことだと言えるだろう。
 ならば、何が自分と彼とを別ったのか。シキはその瞳に昏い光を浮かべて静かに顔を上げた。
「でも、私は、私自身のために、力を使う」
 ――そうだ、私は躊躇わない。必要な時には、遠慮なく力をふるう。かつてレイがそうしたように。
 そう決意を込めて奥歯を噛み締めるシキに、ガーランが酷く可笑しそうな表情で言葉を返してきた。
「そりゃ、当たり前だろ?」
 何を言われたのか、すぐには理解できずに、シキはまばたきを繰り返した。
「隊長だって、俺だって、たぶん皆、自分自身のために力をふるってんだ」
 驚きのあまり、シキは身動き一つできなかった。
 ――当たり前?
 おのれの力をおのれのために使うのが当たり前だと言うのならば、魔術師ギルドに誓わされた規範は一体何なのだ。力に溺れるな、と、より良き世のためにのみその力を行使せよ、と、その文言でレイを縛り、その命を奪ったのは、一体どういうことなのだ。
 あまりのことにぽかんと口を開けたまま棒立ちになっていたシキは、我に返るなり再び奥歯に力を入れた。
「違う。力は、より良き世のためにのみ使われなければならない」
 そうでなければ、レイの死が無意味なものになってしまう。彼が許されなかったものを、私だけ許されるなんて、そしてこのままのうのうと生き延び続けるなんて、そんなことはあってはならない。シキは渾身の力を込めてガーランを睨みつけた。
 だが、ガーランは飄々とした表情のまま、事も無げに返答する。
「そりゃー、当たり前だろ?」
「でも、さっきは、自分のためって」
「なんでその二つを別々に考えるんだよ」
 分からない奴だな、と溜め息をついてから、ガーランは胸を張った。
「好きな奴を、好きな街を守りたいから、俺はここにいるんだ。仕事はキツいし、訓練も大変だがな。まあ、給金が良いとか格好よいとか威張れるからとか、そういった雑念もそれなりにあるような、ないような……。でも、余計な衣を引っぺがしたら、最後に残るのは一つだけだ」
 そこで、ガーランは少し照れくさそうに笑った。
「それぞれの大切な何かを守るために、俺達は力をふるう。大切なものを守りたい、と思う俺達自身のために。違うか?」
 
『俺が魔術師になったのは、力が欲しいからだ』
 そう言ったレイの声は自信に満ち溢れていた。
『他人のための力じゃない、俺自身のための力だ』
 疚しさのかけらもなく、彼はそう言い放った。
 そう言って……、シキを助けに来てくれた……!
 
 シキの頬を、何か熱いものがつたっていった。
 急にぼやけた視界の中、ガーランらしき人影が酷く慌てた様子で何かを喋っている。
 身体中が燃えるように熱くなって、頭の芯が痺れるようだ。
 ごうごうとこめかみを響かせる耳鳴りの合間に、微かにガーランの声が聞こえた。
「いや、だから、別に怒ってるわけじゃないんだって。だからさ、とにかくさ、泣き止もうぜ?」
 止めどなく溢れるこの熱が、涙だということを知って、シキの胸の奥が更に締めつけられた。
 ――泣くもんか、と思っていたのに。
 泣けば、悲しくなってしまう。思い出してしまう。だからシキは、もう一生泣かないと心に決めたのだ。決めたのに、どうして今、自分はこうやって涙を流しているのだろう。
「よし、帰ろう? やっぱり疲れてんだよ、な。悪かったよ」
 ガーランに手を引かれ本部へ戻る間ずっと、シキははらはらと涙を流し続けた。
 
 
 勤務を終え家路についたシキは、泣き腫らした目で夜空を見上げた。
 おのれを鎧い、周囲にほりを造り、悲しみを閉じ込めていた。だが、そうすることで、シキは彼への想いや大切な記憶まで、封印してしまっていたのだ。
「レイを、信じてあげなきゃ」
 かつての決心を、シキは今再び心に噛み締めた。
 ――自分を、そして彼を、信じるのだ。
 ――好きだと言ってくれたことを。そして何より、好きだと言ったことを。
 ならば、齟齬はどこから生じているのだろうか。
 静かに微笑む師の姿を思い浮かべて、シキはごくりと生唾を呑み込んだ。
 たった一人の目撃者にして、証言者。そう、全ての鍵を握っているのは……。
 
 
 

    三  虚実
 
 賄いつきの下宿を営むジジ夫人は、半年前から店子となった一風変わった下宿人達を、とても気に入っていた。
 彼ら二人はとても礼儀正しかったし、約束や規則を破ることもなかった。しかし、それより何より、彼らは実においしそうに自分の出す料理を平らげてくれるのだ。それだけで、彼女の胸は幸福感で一杯になるのだった。
 だが、今朝のジジは少し幸せな気分から遠ざかっていた。食器を片付けながら、ふと先ほどのシキの様子を思い出して溜め息をつく。
 シキは、普段からあまり感情を表に出さない娘だ。過去に何かつらい目にあったことがあるんだろう。初めて会った時の直感は間違っていないとジジは思っている。
 この半年の間に、彼女の心の傷は多少癒されたようだった。いや、もしかしたら傷の痛みに慣れて来ただけなのかもしれない。それでも、いつかシキが心からの笑顔を見せてくれるであろうことを、ジジは信じて疑わなかった。
 それが、今朝は一体どうしたことか、彼女の様子はまるで再び半年前に逆戻りしたかのようだった。シキは深い皺を眉根に刻み、ただ黙々と朝食を摂り、小さく一言「行ってきます」と呟くと、静かに家を出ていったのだ。
 ――何か新たな悩み事でもできたのかしらねえ。
 再度溜め息をつくジジの耳が、階段を下りてくる足音を捉えた。大きく深呼吸をして気持ちを切り替えると、ジジはオーブンの上の鍋を手に食堂へと向かった。
 
「おはようございます、先生」
「……ふ……あ、失礼、おはようございます」
 朗らかな家主の声に、ロイは大きな欠伸をかみ殺しながら挨拶を返した。香草と、焼きたてパンの良い香りが彼を包む。
「おやおや、昨晩は遅かったんですか?」
「まあ、適当にね」
「いけませんよ。夜更かしが過ぎると、身体を壊してしまいますからね」
 またも込み上げる大欠伸をこらえながら、ロイは席に着いた。
 レイが生きているであろうことを知ってから一昼夜、ロイはひたすら呪文書に向かっていた。レイへの怒りを原動力にして、心に禁忌として刻まれてしまったシキへの想いを、必死で掘り起こしながら。ともすれば挫けそうになる精神を奮い立たせ、ロイはひたすら呪文書を読み続けた。
 そして、つい先ほど、ロイは自分が「半身」の呪文を完璧に会得したことを確信するに至ったのだった。
 術が解除されるのは、次の三つの場合のみ。術者による解除の呪文。そして、術者の死、被術者の死。まさしく、死が二人を別つまでということなのだ。忌々しいにもほどがある。
 だが、他人によって同じ術を上書きすることは可能のようだった。もっとも、既にこの術をかけられた人間に対して、別の人間がそこに至ろうとするのは、理論上は不可能に近い。
 だが、と、ロイは歯を食いしばった。たとえどんなに至難の業だとしても、ここで諦めてしまっては、シキは一生手に入らない。そもそも術者としての力量を考えるならば、レイと自分とでは比べるべくもないのだから。どんなにレイがロイの知らない所で技を磨いておろうが、それでも圧倒的な技能の差は一石一夕には埋めようがないはずだ。
 ……そう考えたロイの脳裏を、ふと暗い影がよぎる。
「天隕」の呪文は完璧だった。瀕死のレイがいくらあの場から逃げようとしたところで、移動できる距離など高が知れている。彼が術の直撃を免れることなどできるわけがなかった。
 なのに、奴は生きているというのだ。
 あの圧倒的な質量が生み出す熱量を、全て「盾」で防ぐことは不可能だ。何よりあの時点でレイの身体には、魔力も生命力もほとんど残っていなかったはずなのに。
 ロイは、軽く頭を振って不安を追い出した。
 ――何を怯えている、ロイ・タヴァーネス。貴様は帝国一の魔術師ではなかったのか。
「レイ、お前にはもうこれ以上何も渡さない」
 決意に燃える瞳で、ロイは静かに呟いた。
 
 
 
「ガーラン」
 夕闇が深くなる廊下、談話室の扉の前で、彼は今一番会いたくない人間に呼び止められた。
 今日は準夜勤のため、ガーランは今登庁してきたばかりだ。おのれの不運さを呪いながら、聞こえなかったフリでそのまま部屋に入って扉を閉めようとする。が、隊長はそれよりも早く足を隙間に差し入れ、両手で扉を力任せに引き開けようとした。負けじとガーランもドアノブを捕まえて抵抗する。
「聞いたぞ。お前、昨日『嬢ちゃん』を泣かしたらしいな」
 扉の隙間から、底意地の悪い笑みを浮かべた上司の顔が覗く。ガーランは必死でドアを引っ張った。
「た、隊長、扉、壊れますって……」
「お前が手を放せば済むことだ」
「隊長こそお先にどうぞ」
 木の軋む嫌な音を伴奏に、二人は扉を挟んで押し問答を繰り広げる。
「ふん、お前が稚児趣味だとは知らなかったな」
「だーかーらー、そんなんと違いますって」
「どうだか。人の好みは色々というからな」
「いや、マジで勘弁してくださいよ」
 普段とは違う悲痛なガーランの声に、隊長は表情を一瞬曇らせた。そしてやにわに手を扉から離す。
 勢い余って、扉が大きな音を立てて閉まった。
「どわっ」
「扉は静かに閉めるものだぞ」
「それはこっちの台詞っスよ!」
 愉快そうな笑い声とともに、隊長の気配が扉の前から遠ざかる。最後に一つ、捨て台詞を放り投げて。
「『嬢ちゃん』は資料室にいるぞ。過ちなら素直に謝っとけ」
「だから、何もしてませんって! こンの、色ボケ隊長!」
 ガランとした談話室に、ガーランの悪態がこだました。
 
 
 もう何時間もの間、シキは資料室で何冊もの分厚い書類綴りと格闘していた。
 探しているのは帝都から下される通告書だ。だが、そのような書類の目録等があるわけもなく、目的の情報に到達するためには、綴られた書類の束に片っ端から目を通していくしかない。そもそも、目指す書類が存在するかどうかすら定かではないのだ。シキは朝一番から待機の間中ずっと、この部屋に籠もって通告書の綴りをひたすらめくり続けていた。
 シキは確証が欲しかったのだ。師匠と対峙するにあたって、理論武装できるだけの材料が。勿論そんなものがなくとも、もうレイに対する信頼は揺るがない。だが、感情論のみをぶちまけても師は耳を傾けてはくれないだろう。何でもいい、客観的な情報がシキには必要なのだ。
 六冊目の綴りをぱたんと閉じて、シキは大きく溜め息をついた。両の目頭をつまみながら、しばしじっと目をつむる。じんわりと染み出してきた涙を、まばたきで乾いた瞳に行き渡らせれば、少しだけ目元が軽くなったような気がした。そうして、ゆっくりと深呼吸をしてから、七冊目に手を伸ばす。
 静かな室内に再び、紙をめくる微かな音が漂い始めた。
 
 
 資料室の扉の前で、ガーランは少しだけ躊躇った。肩の力を抜くべく無理矢理息を吐いてから、小さく咳払いもつけ足してみる。それから、畏まった表情で軽く扉をノックした。
 しばらく待ってみたが、中からは何の反応も返ってこない。仕方がない、とガーランはドアノブをそっと回した。扉の隙間からおずおずと顔だけを覗かせて、室内をぐるりと見渡してみる。
 整然と立ち並ぶ本棚の手前、広い机の上には幾つもの書類の束が山を成していた。そしてその山にうずもれそうになりながら、シキが一心不乱に何かを読んでいるのが見えた。
「……よお」
「こんにちは」
 ガーランの挨拶に声だけで返事をして、シキは目を書類に走らせ続ける。
 挨拶する時ぐらい顔を上げろよな、とガーランは思ったものの、あまりのシキの真剣な眼差しに悪態もつけず、彼は黙って部屋の中に足を踏み入れた。
「調べ物?」
「はい」
 何か相当切羽詰まっているらしいな。そう他人事のように胸の中で呟きながら、ガーランは机の上に積まれた紙の束を手に取り、パラパラとめくった。
 ――いや、切羽詰まっているのはいつものことか。
 手にした書類綴りをそっと机に戻して、ガーランはシキを見やった。そうだ、この「嬢ちゃん」には余裕というものがないのだ。いつだって彼女は、崖っぷちギリギリに立っているかのような危うさを身に纏っていた。
 危険な任務に躊躇いなく身を投じる隊員は、シキの他にも大勢いる。かく言うガーランだってそのつもりだったし、副隊長などはその最たる例と言えるだろう。だが、シキの場合は、他の者とは少し様相が違うような気がした。おそらく、裏庭の草抜きを命じられたとしても、彼女はそれに没頭するに違いない。それは真面目さとか忠実さとは違う、もっと異質な……、まるで自ら思考することを放棄したような……。
「……を辞めます、と言って簡単に辞めることができるものなのでしょうか……」
「え?」
 我に返ったガーランが慌てて顔を上げると、シキと真正面から目が合った。
 シキのほうから自分に話しかけてきたという事実に、彼は激しく動揺した。そして、やや遅れてその内容に度肝を抜かれた。
「え……? 辞める? いや、ちょっと待て、そりゃ簡単には辞められないぞ。なにしろ俺らは、書類上とはいえ皇帝陛下の任命を受けたわけだから、手続きだって簡単じゃないだろう? それに、突然どうしたんだよ? まさか昨日の……いや、その、確かに俺が悪かったんだが……それにしても」
 必死にまくし立てるガーランに、今度はシキが面食らったような表情を見せた。
「リントさん?」
「……って、え? 何? 君が警備隊を辞めるって話じゃなく?」
「自分の都合で近衛兵を辞めるなんてこと、簡単にできると思いますか?」
 シキが、何事も無かったかのように淡々と問いを繰り返した。
 決まりの悪さを無理矢理呑み込んで、ガーランは大きく息を吐いた。それから、がしがしと右手で大仰に頭を掻き毟った。
 その間も、シキは黙ってガーランの返答を待っているようだった。こういう時は、彼女の鉄面皮に救われるような気がする。気遣いに甘えることにして、ガーランも何事も無かったかのように話題を仕切り直した。
「近衛兵を辞める? クビになるのと違って?」
「はい。クビを切られるような事態が起こった時には、きっと本当に文字どおりのことになると思うので」
 恐ろしいことをさらりと言ってのける同僚に、ガーランは思わず苦笑を返した。
「あー、まぁ、そうだな。なんといっても皇帝陛下のお傍をお守りする立場だからな。不祥事を起こせばタダじゃあ済まないわな、そりゃ」
 ガーランはそう言って我が身を振り返ったのち、心の底から見知らぬ彼らに同情した。
「しかし、辞めるって言って辞められるものなのか? 宮城の警備体制やら何やら、内部事情を知り尽くしているわけだからな。それに、そもそもが物凄い名誉職だろ? 自分から辞めたがる奴がいるもんかな?」
 そこまで言ったところで、ガーランの脳裏に、ふと、幾つかの文字の並びが浮かび上がってきた。彼は記憶を辿りながら、先刻めくっていた書類の束をもう一度手に取る。
「そういえば、さっき、何か……、あった、あった。へぇ、いるんだな、辞めたがる奴が」
 その言葉に、シキの目が見開かれる。ガーランはそのまま書面を声に出して読み始めた。
「……帝都より脱走せし近衛兵、見つけ次第身柄を拘束せよ。生死問わず……」
 
 
 
 シキの帰宅は深夜になった。既に一階の明かりは消え、ジジは床についているようだった。玄関の鍵を確認してから、シキは静かに二階への階段をのぼる。
「随分遅かったね」
 二階の居間からロイが姿を現した。「食事は未だなんだろう?」
「はい」
 居間のテーブルには、覆いのかけられた皿が幾つか並んでいた。下宿人の帰りが予定外に遅くなった時の常で、ジジは食事を部屋まで運んでおいてくれていたのだ。
 寝室への扉のほうへ向かうロイを、シキは意を決して呼び止めた。
「先生、お話ししたいことが、あります」
「私も君に話があるんだ」
 そう言ってロイは、扉の手前にある棚の前で足を止める。棚から珈琲豆の袋を取り出すと、二人分の豆をミルに入れた。
「あ、私が……」
「君の仕事は別にあるだろう。家のことに関しては、もう私も君も対等だ」
「でも……」
「君は食事をしたまえ。話はそのあとだ」
 そう言われて、シキは素直に席に着いた。

 
 アルコールランプに火が入れられる。
 皿に残ったソースをパンで拭いながら、シキはぼんやりと、ロートの中へと湧き上がっていく透明の液体を眺めていた。
 やがて、それは褐色の粉とゆっくり混ざり合い、そして静かにサーバーへと戻ってゆく、色を変えて。室内を照らすランプの光が琥珀色の液体に乱反射して、えもいわれぬ美しさを辺りに揺らめかせた。
 シキは空になった皿をトレイの上に重ね置き、テーブルの端に寄せた。そうやって空いた場所に、ロイがカップを並べる。サーバーから注がれる珈琲の香ばしい香りが部屋中に広がった。
「話とは何だね」
 シキの向かい側に座ったロイが、鷹揚な様子でテーブルの上で両手を組む。シキは深呼吸してから、ゆっくりと口を開いた。
「……レイのことです」
 ロイの表情は変わらない。
「疑問点があるんです」
 そこまで言ってから、シキは少しだけ躊躇した。それから大きく息を継ぎ、固い表情で言葉を繋げる。
「先生はご存じないかと思いますが、レイは、サンがイの町に姿を現した日以前に、私に対して、その……、好意を明確に口にしてくれていました」
 やはり、ロイの表情は変わらない。
「……それ以前にサンがレイと接触していないと何故分かる」
 だが、変化のない表情とは裏腹に、彼の声は氷のように冷えきっていた。
 それに負けじと、シキは腹の底に力を込める。
「サンの足取りを調べました」
 
『峰東州イの町出身、アランの息子、サン。
 その者、帝都より脱走せし近衛兵、見つけ次第身柄を拘束せよ。生死問わず。
 身長六フィート二インチ、栗色の髪、同色の瞳。
 無断で職務を離脱の上、制止に当たった同職の者に手傷を負わせた咎により、処罰すべし。』
 都からの通達書が指し示しているのは、間違いなくあのサンのことだった。
 一体彼の身に何が起こったというのだろか。剣術に長け、朗らかで、男前だと評判だった人気者。彼のパートナーの座を手に入れようと、沢山の女生徒が凌ぎを削っていたことは、まだ記憶に新しい。そんな彼が近衛兵に大抜擢されたということで、女達の争いもなお一層盛り上がったほどだというのに。
 脱走、逃亡。同僚に手傷を負わせてまで。何が彼をして、そんな行動に走らせたのか……。
 ふと我に返ったシキは、慌ててその通告書の隅々に目を走らせる。書類の上部に小さく記された日付を見て、シキは喜びのあまり泣きそうになった。
 
 
「彼がイの町に到着したであろう日付のほうが、レイの告白よりも遅かったのです。つまり、レイが私を反乱団に引き入れるために篭絡した、という話とは矛盾が生じます」
 硬い表情でそう言いきったシキを、ロイはちらりと一瞥した。そうして、何事も無かったかのように優雅にカップを口に運んだ。
「レイだって最初は君を騙そうとしていたわけではなかったかもしれない。それが、サンに会って……」
「先生、事実のみを語ってください。レイは先生に何と言ったのですか? 先生は何を見たのですか?」
 シキに刺さっていた過去の棘は、今やすっかり消えてしまっているようだった。そう、今まさに彼女は、あらわになった傷口と正面から向き合おうとしているのだ。
 もう少しだけ、この痛みから顔を背けていてほしかった。そうすれば、何も解らないままに、夢を見させてあげることができただろうに。ロイは小さく溜め息を吐き出してから、深く椅子に座り直した。
「解った。どうやら私も色々と混乱していたようだ。改めて整理するとしよう」
 そう言ってロイは苦笑とともに、指を一本だけ立てた。
「事実。そうだね、確固たる事実は、まず、サンが反乱団『赤い風』の一員だということだ」
「何故そう断言できるのですか」
「あの二日ほど前から、数人が家の周りで我々を監視していた。その気配の中に、サンの気配と、反乱団に関わっていると思われるある人間の気配があった」
「ある人間?」
「かつて帝都で要職にあった魔術師だ。彼の気配は間違えようがない」
 何かを懐かしむような眼差しを静かに伏せて、それからロイは言葉を継いだ。「反乱団の思想や、幾つかの目撃証言から、私は彼こそが反乱団を組織したに違いないと考えている。その彼と、サンが一緒にいたのだ。導き出される結論は言うまでもない」
 そもそも、お尋ね者となったサンが彼一人の力でもって、こんなにも長期間に亘って追跡の手を逃れることができるとは考えられない。それも、人里に姿を何度も現せて。そこに何らかの組織的な支援が存在するのは間違いないだろう。
 ロイは、神妙な顔で頷くシキに満足そうに笑いかけ、二本目の指を立てた。
「次に、レイが君に服従の術をかけた、ということ。君の額に邪教の印が刻みつけられているのは知ってのとおりだ。それにこれはレイ自身も私に白状している」
 シキの表情が曇るのを見て、ロイは心の内でほくそえんだ。これは、レイが自分で掘った大きな墓穴だ。奴を蹴落とし、埋葬してやらねばなるまい。徹底的に。
「……どうしてレイは、想いが通じたはずの君のことを、邪教の魔術で服従させなければならなかったのか? 不思議に思わないかね?」
 シキが目を伏せる。
 ――もう一息だ。
 そしてロイは一つだけ嘘を紛れ込ませた。
「最後に、彼がこの私を殺そうとしたということ。人目のない東の森に連れ込んで、ね」
 ここまで情報を与えれば、あとは彼女が自分で物語の細部を作り上げるだろう。ロイは勝利を確信して、これ以上はないというぐらいに優しい笑みをシキに投げかけた。
 それに……そろそろ効き目が表れてくる頃だ。
「それでも、君は、私が間違いだったと言うのかね?」
「間違いだなんて、そんな……」
「いや、そういうことだろう? レイを信じるか、私を信じるか、結局行きつく所はそこだ。そして、シキ、君は私を信じたからこそ、ここ州都へついて来たのではなかったのか?」
 
 
 ぐらり。
 周りの情景が激しく揺れ、シキは思わず額を押さえた。頭の芯で何かがゆっくりと渦を巻いている。
 ――先生を信じたから、ついて来た……、そう、私は先生について来たのだ。故郷を、思い出の地を離れて。
 だって、レイはもうどこにもいないのだから。
 シキの指からカップが離れた。テーブルの上に転がったカップから、少しだけ残っていた珈琲が飛び散る。
 ――眩暈が、する……。
 
 東の森に連れ込んで……先生を殺そうと……。
 違う。
 レイならあの森でそんなことはしない。だって、あそこは――
 
 朦朧とした視線を彷徨わすシキに、穏やかな声が纏わりついた。
「術を解いてあげよう、シキ。いなくなってしまった人間にいつまでも支配されることはない」
 ロイがゆっくりと立ち上がる。
 
 ――だって、あそこは、ふたりだけの、ひみつの……
 
 シキの視界は、どんどん狭くなっていった。まるで望遠鏡を逆さに覗いているような。
 周りの音が、急速に消えていく。
 珈琲の香りも、消えていく。
 泥沼に引きずり込まれるように、全身の感覚が無くなっていった。ただ残っているのは、ぼんやりとした浮遊感……。
 
 意識を失ってテーブルに突っ伏したシキの耳元に口を寄せて、ロイは囁いた。
「その苦しみから解放してあげるよ、シキ」
 
 
 

    四  儀式
 
 綺麗に片付けられた書斎の床一面に、白墨で魔術陣がえがかれている。
 部屋の中には、息苦しいほどの香がたきしめられていた。机の上で揺らめくランプの光が、この世のものならざる雰囲気を更に盛り上げている。ロイは足元の白墨の線を消さぬように注意をしながら、抱きかかえていたシキを陣の中央にそっと横たえた。
 半年前にロイがあれほどまでに切望した「至福の時」、そこへ至るための重い扉が、今ようやく開かれようとしているというのに、彼の表情は晴れなかった。深く溜め息をつき、ぎりりと歯を食いしばる。これからおのれが為すべき事を考えれば考えるほど、破戒に対する嫌悪感が胸の中から湧き上がってくるのだ。
 形相が変わるほどに奥歯を噛み締め、ロイは机に寄りかかった。ふう、と大きく息を吐き出して、額の汗を拭う。そうして机の上の呪文書を覗き込んだ。
 古代ルドス魔術において、陣を使う魔術は一般的ではない。例えば「偽装の指輪」のように、物に呪文を込めていわゆる魔術道具となすためには陣が不可欠だが、その技を持つ者はロイの知る限り帝国に一人だけ。それは他でもない彼自身だ。レイがこの「半身」の術を成功させたという事実を思い返して、ロイは素直に悔恨の情をいだいた。余計なことさえしなければ、この私が最高の術者に育て上げてやったのに、と。
 魔術陣に決まった書式はない。術の理論、組成を読み解いて、起動に必要な力場を構成する作業は、決して簡単なものではなかった。
 ――奴は、どのような陣を展開したのだろうか。そもそもどこに、どうやって……。
 そこまで考えて、ロイは固く目をつむると頭を激しく振った。
 どうしても、意識が施術から逸れてしまう。
 自分が今為すべき事は、シキにこの術をかけることだ。彼女の身体に絡まるレイのくびきを引きちぎり、代わりにおのれの術で彼女を我が物とするのだ。
 無理矢理に心を奮い立たせようと、ロイは床に横たわるシキを注視した。黒髪が飾る形のよい額、柳の葉のような眉、長い睫毛、通った鼻筋。ほんのりと上気した頬は薔薇の花びらのごとく。呼吸に合わせて微かに震える唇の、みずみずしさといったら。襟ぐりからちらりと覗く鎖骨、規則正しく上下する胸元、すらりとした手足がなんとも無防備に床に投げ出されている。
 ロイの口から、知らず、大きな溜め息が漏れた。
 大した術だ、とロイは独りごちた。この状況に至っても、ひとかけらも意欲が湧いてこない。ロイはもう一度溜め息をつくと、「抗魔術」の呪文を詠唱し始めた。少しでもこの忌々しい呪縛から逃れることができるように、魔術の効力に抗う力を我が身に纏おうというのだ。
 ランプの炎が不意に揺らめいて、床に落ちるロイの影が大きく波打った。
 術の効果が現れてきたのだろうか、ロイの胸の奥に詰まっていた何かが、ほんの僅か溶け始めたような気がした。ここぞとばかりに、ロイは意識を床に横たわるシキへと向ける。
 ――思い出せ、あの、狂おしいほどの渇望感を。
 ロイの拳が固く握り締められた。おのれがどんなにシキを欲していたのか、何としてもそれを思い出すのだ、と。
 柔らかそうな身体を、この腕でしっかりと抱きしめたかった。温かい頬に、首筋に、そして唇に、接吻の雨を降らせたかった。たっぷりと勿体をつけてその衣を剥ぎ、全身くまなく愛したかった。羞恥に震える彼女を、快感に酔わせてみたかった。
 相手は自分を師と慕ってくれている女だ。慎重にさえ事を運べば、望む結果は順当に得られたことだろう。だが、彼女の傍には常にあの忌々しい幼馴染みの姿があった。自分と比べて、より彼女に近い立場で、より多くの時間を共有してきた男の存在に、ロイは密かに嫉妬した。なんとかして、彼を出し抜いてしまいたかった。
 そう、ロイは彼女をおのれだけのものにしたかったのだ。自分の声だけを聞き、自分だけを見つめて、自分だけに笑いかけてほしかったのだ。
 ――これはシキに対する情欲なのか、それともレイへの対抗心なのか……?
「どちらでもいい」
 ふと生じた問いかけに自ら即答してから、ロイは昏い瞳で呪文書を手に取った。
 
 
 
 突然耳に飛び込んできた歓声に、シキはハッと我に返った。
 煤けた板壁の広い部屋に、幾つもの長机と椅子が並んでいる。端材で作られたそれらは、帝国領となって義務化された初等学校用にと、町の大人達が急ごしらえで用意したものだ。
 懐かしいイの町の、懐かしい学び舎。その廊下寄り最後列の席に、シキは座っていた。机の上には、数学の帳面が広げられている。
 どうやら授業の復習をしていて、うっかりうたた寝してしまっていたようだった。まだ目覚めきっていないのか、頭の中にぼんやりと靄がかかってしまっている。シキは漠たる心地で、ゆっくりと頭を振った。
 ――何だか随分長い間夢を見ていたみたいだ。
 しかも、とんでもない悪夢を。気持ちを切り替えるべく、シキは大きく伸びをした。ぐるりと周囲を見渡せば、級友達が窓際に集まって、外を見て騒いでいる。もうすぐ午後の授業が始まるというのに、一体何が起こっているのだろうか、そう眉間に皺を寄せたところで、朗らかな声が降ってきた。
「剣術の手合わせだってさ」
 リーナが、にやにや笑いを浮かべながら、机の前に立っていた。「ライン先生が昼休みに男子の相手をしてたらしいんだけど、その流れで、レイがサンと練習試合するんだってさ」
 そうだよ、やっぱり夢だったんじゃないか。レイはちゃんと生きている。シキはそっと安堵の溜め息を吐き出した。
「……ふーん。それで、この騒ぎ?」
 努めて冷静に言葉を返せば、リーナがこれ見よがしに目を剥く。
「ウチの学校で一、二を争う腕前の奴らの一騎打ちだよ? 盛り上がらないほうがおかしいって! ほら、シキ、レイを応援しに行ってあげなきゃ!」
 なんで私が、との抗議の声も虚しく、シキはリーナに校庭へと引きずられていった。
 
 真っ直ぐに削り出した木の枝を三本束ねて作られた、練習用の剣を手に、二人は微動だにせず対峙していた。
 長身を生かした余裕のある構えを見せるサンに対して、レイは幾分腰を落とし、身体のすぐ前で小さく剣を構えている。サンの攻撃を警戒しているのだろう。だがあの構えでは、突くにしろ薙ぐにしろ、いざ攻めかかる際に動きに無駄が生じてしまう。サンの懐に飛び込む前に返り討ちにあうのが落ちだ。そうシキが眉をひそめたその瞬間、一切の予備動作も見せず、レイの身体が前方に飛んだ。
 驚くべき跳躍を見せて、レイがサンの至近に迫る。剣を振り上げる間すら惜しみ、そのまま逆手で剣を一閃させるレイに、サンの目が見開かれた。
 だが、流石は校内一の剣の使い手。サンは即座に右足を引き、レイの刃を跳ね上げた。そのまま返す刀でレイの胸を突く。
 レイが、身をひるがえす。サンの突きを剣で叩き落す。
 シキは、息を詰めながら、試合の行方を見守り続けた。
 切り結んでは離れ、打ち込んでは引き、二人の剣士は、息をつかせぬ勢いで打ち合いを続ける。
 やがて観衆から一際大きなどよめきが沸き起こり、一本の木の剣が宙に舞った。
 それがサンの剣と分かった瞬間、シキは思わず歓声を上げていた。あのサンに、レイが勝ったのだ。日頃、どうやってもサンには敵わない、と悔しそうに漏らしていたレイの顔を思い出し、シキの胸の奥が熱くなる。
「シキ!」
 と、人波をかき分け、レイがシキのもとに駆け寄ってきた。満面の笑みで、正面からシキを抱きしめる。
 突然の、しかも大勢の面前での抱擁に、シキの思考は一瞬にして真っ白になった。
「れ、れれれれレイ?」
「好きだ、シキ」
 甘い囁きが、シキの耳元を震わせる。思わずうっとりとしかけたものの、周囲の状況を思い出し、シキは慌ててレイの身体を押しのけようとした。
 が、レイの腕は僅かとも緩まない。
「は、放してよ、レイ」
「好きなんだ、シキ」
 レイは表情を変えることなく、ゆっくりと顔を近づけてくる。
 その瞳に湛えられた欲情を読み取って、シキは大きく息を呑んだ。皆が見ている前で、彼は一体何をするつもりなのか。いや、それよりも、どうして誰も何も言わないのか。
 シキはぎょっとして、辺りを見回した。
 レイの肩越し、リーナが、サンが、級友達が、穏やかな笑みを顔に貼りつけたまま、じっと佇んでいる。
 何が起こっているのか全く理解できないまま、シキは必死で身体をよじり続けた。
 だがその甲斐もなく、レイの顔は着々とシキへと迫ってくる。諦めきれずに頭を振りたくるシキだったが、ほどなくレイによって頬を押さえられ、問答無用に唇を奪われてしまった。
 拘束が解かれたにもかかわらず、身体の自由が全く効かない。白昼の校庭、大勢の見ている前で、こんな深い口づけを披露させられているなんて、羞恥でシキは気が変になってしまいそうだった。いっそ全てが夢であってほしい、と、祈るような心地で目をつむる。
 しかし、視覚を遮断したことによって、他の感覚が前にも増して鋭敏になってしまったようだった。柔い感触が絡み合うたびに、シキの背筋を何度も震えが走った。身体の奥底がじんじんと熱くなると同時に、頭の芯が鈍く痺れ始める。
 ――やだ、やめて、レイ!
 心の中でそう懇願するも、自分の言葉によって余計にこのあとの展開を意識してしまい、シキの体温はますます上昇した。
 ――レイ、お願い、こんな……。
 口づけは、ますますその激しさを増していく。
 喘ぐように息を継いだシキは、ふと、ぎくりとしてその動きを止めた。
 いつの間にか自分達が、瑞々しい森の香に包まれていることに気がついたからだ。
 足元から立ちのぼる、湿気を含んだ土の匂い。風が頬を撫でるたびに、木の葉の香気が辺りの大気を揺らす。それらは間を置かず不安感となって、シキの肌にべったりと貼りついた。
 シキは驚いて目を開いた。
 気配を察知したのか、レイもまたそっと瞼を開き、それから静かにシキの口を解放した。
「シキ、好きだ」
 ――長い夢を見ていた……? 違う。
 シキの額で、あの異教の印が、じくじくと疼いている。
 そうだ、これは、あの時の記憶。懐かしい森の中で、シキを抱きしめ、キスの雨を降らせ、溢れんばかりの熱を分け与えてくれた、あの時のレイ。
 シキは茫然と息を呑んだ。
 
 違う。今まさに、これが、夢なんだ。
 レイはもうどこにもいなくて。
 サンは皆の前から姿を消して。
 リーナの居る故郷を離れて。
 
 いつしか、シキは何処いずことも知れぬ闇の中を漂っていた。懐かしい校舎も、級友も、親友も、仇も、全てが消え失せ、シキを抱きしめるレイの感触だけが、彼女の輪郭を支えている。
 ――ほらね。やっぱり夢だったんだ。
 冷笑を浮かべるシキの頬を、あの時と同じように、レイの指がそっと撫でた。熱の籠もった指は頬からおとがいへと、愛おしそうになぞっていく。
 ――でも、夢でもいいや。
 夢だとしても、こうやってレイに会えるのなら。こんなに優しく抱きしめてくれるのなら。溢れる涙を拭おうともせず、シキは精一杯の笑顔を作った。
「レイ、……あいしてる」
 
 
 足元に横たわるシキの口から、その名が零れ出した刹那、ロイは自分の視界が真っ赤に染まったような気がした。
 辛うじて残った理性のかけらが呪文の詠唱を続ける一方で、ロイの大部分は、憤怒のままに、声無き叫びを上げていた。
 
 忘れろ、奴のことなんか忘れてしまえ。
 忘れさせてやる! この、私が……!
 
 呪文の詠唱が終わり、術が起動し始める。
 魔力を使い果たしたロイは、肩で息をしながら傍らの長椅子に倒れ込んだ。
「……これで、シキは私のものだ」
 ざまあみろ、と呟いてから、彼はゆっくりと瞼を閉じた。
 
 
 どれくらいまどろんだのだろうか。いつもの寝台とは違う感触に、ロイは目を覚ました。
 ランプの炎がすっかり小さくなって、部屋中を闇の中に沈ませている。ロイは机の上のランプに手を伸ばして芯を迫り出した。
 室内にゆっくりと明るさが戻ってくる。
 疲労感にふらつきながらも、ロイは長椅子から立ち上がると、シキの傍に膝をついた。
 穏やかな寝顔を眺めているうちに、どんどんロイの気持ちが昂ってくる。そうだ、これが本来の状態だ。遂にシキはレイの支配から脱したのだ。
 盛り上がる気持ちとは裏腹に、ロイはすっかり疲弊していた。「半身」の呪文を習得するために、彼は昨日から一睡もしていなかったのだ。術で力を使い果たした今、彼の体力はもはや限界に達していた。
「続きは明日……かな」
 シキの髪を優しく手でくしけずりながら、ロイは幸せを噛み締めた。遂に、遂にこの日がやって来たのだ、と。
 だが、次の瞬間、ロイの手が止まった。
 ――無い。
 シキの額の印が、無い。
「半身」の術は術者以外には解除は不可能、上書きすることでしかその効力を奪えない。その記述どおり、ロイはレイの術を破ったのだ。その結果、シキの額のフォール神の印は消え去った。
 ――ならば、私の術は……?
 上書きしたはずのロイの術は、一体どこへいったというのか。ロイは身動きすることもできずに、愕然とシキを見つめ続けた。

 
 
 
 早朝、いつもどおりの時間に、シキは目を覚ました。
 屋根裏部屋の窓の向こう、見事な青空に雲が幾筋も走っている。清々しい気持ちで寝台に起き上がったシキは、自分が外出着のままであることに気がついて、首をかしげた。昨夜に何があったのか、記憶を辿るべく目を閉じる。
 ――レイのことを先生に問いただそうと決意して、帰ってきた。遅い夕食を摂って、珈琲を飲んで、意を決して話を切り出した。
 そこから先の記憶が……無い。
 脳裏におぼろげに浮かぶのは、先生の優しい笑顔と、柔らかな声。
『術を解いてあげよう――』
 
 シキは寝台から立ち上がると、鏡の前に立った。そうして指から「偽装」の指輪を抜き取った。
 深い茶色だった髪が、黒に染まる。
 そして、額には……何も浮かび上がらない。
 ――レイの術が、解けたんだ。
 あれから半年も経った今になって、何故先生は今更術を解除しようとしたのだろうか。どうせ髪の色を変えるためにこの指輪は使わなければならないのだから、わざわざ額の印を消す必要はなかったのではないだろうか。そう疑問をいだきつつも、シキにはなんとなくその答えが解るような気がした。おそらく先生は、くだんの呪文をその手中に修められたのだろう、と。習得したからには、実践してみたくなるのは当然の流れであろうことも。
 レイが自分にかけた術は、一体どのようなものだったのだろうか。どのように施術して、どのように解除を……。そこまで考えを巡らせたところで、シキは昏い瞳で首を振った。そんなことを知ったからといって、事態が変わるわけではないのだから、と。
 ――そう、どうあがいたところで、死者が甦ることはない。
 深い溜め息一つ、勤めに出るための準備を始めたシキの頬を、一筋の涙がつたった。

第七話  古都の収穫祭

 家々の軒先には提灯が灯され、空を仰げば、通りに渡された色とりどりの旗が、闇空を背景に楽しそうに風に揺れる。
 年に一度の収穫祭を明日に控えた州都は、夜が更けるにつれますます活気に満ち溢れてきた。街中はどこもかしこも祭りの準備に大わらわで、あちこちから怒号とも悲鳴ともつかない声が、絶えることなく街路にこだましている。
 そんな喧騒の中、頭巾を頭に巻いた一人の若者が、大きな荷物を肩と背中にかついで黙々と通りを進んでいた。と、突然、路地裏から伸びてきた手に袖を掴まれて、若者はぎょっとしたように振り向いた。
「兄さん、宿は決まってるのかい?」
「決まっておるのだ。すまんね」
 その傍らを歩いていた小柄な初老の男が、若者の代わりに客引きの少年に小さく手を振る。少年は大きな溜め息をついてから、それでもなおも食い下がってきた。
「爺さん、ウチの裏の屋根からだと大通りが見えるから、パレード見物も楽だよ? 安くしとくからどうだい?」
 男は、慣れた様子で少年をすげなくいなし、そのまま雑踏の波に乗る。取り残された若者は、唇を尖らせる少年に一言「悪ぃな」と言い残してから、慌てて男のあとを追った。
「安くしとく、って、実際どんなもんなのかな」
「碌なものでないのは、確かだろうがな」
 興味深そうに背後を振り返る若者を、男はきっぱりと切って捨てた。「祭りの前夜になってもまだ空き部屋があるということだけで、どのようなものか想像がつくというものであろう」
「う、そうか。……すると、大通りが見えるってのは……」
「宿とやらの裏に、何か大きな建物がそびえておるのだろう。そこにどうやって上がるかは、別問題ということなのじゃないかね」
 幼子を諭すような男の口調に、若者はがっくりと肩を落とした。潔く自らの不明を嘆いたのち、恨めしそうな視線を後方に投げる。
「ったく、子供のくせに、大人を騙そうとすんじゃねーよ。可愛くない」
「客を連れて帰らねば雇い主に殴られるとなれば、嘘も並べ立てるだろう」
 若者は思わず足を止めた。その拍子に、肩にかけていた大きな鞄が勢い良く石畳に落下する。
「殴る、って」
「街の人口が増えれば、相対的に困窮層の人数も増える。おぬしの故郷のように孤児が一人二人で済めば、教会も手厚い救いの手を差し伸べることもできようが、その数が十倍、二十倍ともなればどうしても無理が生じるからな」
 淡々と語ってから、男は再び視線を前方に向けた。
「ほれ、あの角が問題の辻ではないかな。あそこを曲がれば、目的の宿までもうすぐだ。もうひとふん張り頼むぞ」
「了ー解」
 大きく息を吐いてから、レイはえいやと鞄を肩にかつぎ直した。
 
    一  巫子
 
「あー、もう、一歩も歩けねー」
 宿の部屋に入るなり、荷物を放り出してレイは長椅子の上に倒れ込んだ。その様子を連れの男がほほえましそうに眺めている。
「確かに、長い一日だった。おぬしが荷物を持ってくれて助かったよ」
 老人と呼ぶにはまだ少しだけ早かろうその男は、ザラシュという名を名乗っていた。たいしゃ色の短い髪が、顔立ちの精悍さを際立てている。
「ご苦労だった」
 奥の寝室の扉が開いて、上背のあるがっしりとした体つきの青年が姿を現した。暗色の長髪を揺らしながら、皮肉ありげな視線をレイに投げかける。「……だが、この程度で根を上げるとはな。口ほどにもない」
 彼の名は、ウルス。「黒の導師」を自称する、反乱団「赤い風」の重鎮だ。だが、レイはそんなことを少しも気にすることなく、正面きって彼に食ってかかった。
「この程度? 人に荷物全部押しつけた奴が言う台詞か? 宿が決まってるんだから、さっさと部屋に置きに来たら良かったんじゃねーか。大荷物抱えて一日中あっちこっち歩き回らされた俺の身にもなってみろってんだ」
「祭りの人出に紛れたとはいえ、万が一ということがある。警備隊を引きつれたまま仲間と合流することになったら、なんとする? 二手に分かれて、時間をかけることにこそ意義があったのだ」
 尊大な態度を崩さないウルスに、レイの顔がみるみる赤くなる。しかし、ウルスはそのことを気にとめた様子もない。
「一日街中をうろうろするなんて機会も、そうそうないことだしな。どうだ、尋ね人は見つかったか?」
「そんな余裕あるわけねーだろ! て言うか、州都は一番に調べたはずだったろ?」
「祭りのために周辺の町や村からも大勢が出てきているからな。普段の比ではない。それに入れ違いという可能性もある」
「よく言うよ」
 レイは呆れたような声を出してから、ふと、怪訝そうな表情で首を巡らせた。
「そういや、サンは?」
「明朝会えるだろう」
「なんであいつだけ、とことん別行動なんだ?」
「奴は、近衛兵時代にも、休暇を使って何度かこの街を訪れることがあったらしい。我々と違って土地勘があるから、色々と重宝がられているのだ」
 まるで自分のことのように、ウルスは誇らしげにサンのことを語る。
「すみませんねー、お役に立たないお荷物で」
「気にすることはない。明日の早朝にはお前にも一緒に来てもらう」
 皮肉を正面から返されて、レイは面食らった表情を作った。
「って、俺はまだお前らの仲間になったわけじゃねーぞ」
 半年前の東の森でレイを助けたあと、仲間になれ、と彼らは言った。その言葉に、レイはこう応えたのだ。「シキを取り戻すことができたならば」と。
「お荷物なのが嫌じゃなかったのか?」
「取引は取引だろ。お荷物上等。て言うか、いつも荷物持ちとかしてるじゃねーか、俺」
 傍らの床に放り出したままになっている大きな鞄を恨めしそうに眺めてから、レイは左の口角を引き上げた。
「大体、任せておけ、って胸を張った割に、もう半年だ。仲間が沢山いる、って嘘なんじゃないのか? 稀代の大魔術師と黒髪のなんとかだぞ。目立つどころの話じゃないだろ」
 滔々と文句を垂れるレイを、何か面白いものでも見るような目つきで見物していたウルスだったが、ある単語を耳にした途端、真顔になって鼻を鳴らした。
「黒髪、か」
 そう言って、青年は鷹揚な態度でレイのほうへと手を伸ばしてきた。束ねられた長い髪を手にとり、そっと目を細める。
「確かに、俺の『まがい物』とは比べるべくもないな。実に美し……」
「放せよ」
 手を払いのける乾いた音が部屋に響いた。ウルスは右手を押さえながら、小さく舌打ちをした。
 おそらくウルスは元々赤毛なのだろう。染料を根気良く重ねて作られた、まるで凝固した血液のような鉄錆色の髪が、ランプの灯りを鈍く反射しながら軽いウェーブを肩口に描いている。
 彼の「まがい物」と比べても、確かにレイの髪は異質であった。一切の光を映し込まぬその髪は、真に「漆黒」と言うべきもので、見る者に無限の星空を思い起こさせる。
「……実に禍々しい色ではないか。全ての光を飲み込んでなお、更なる何かを求め続ける貪欲な黒。流石は『黒の導師』。破滅の啓示に登場するだけのことはある」
「兄帝がそう仰られたに過ぎぬがな」
 ウルスの意趣返しをたしなめるように、ザラシュが久方ぶりに口を開いた。「太古の文献に、神に仕える黒髪の巫子について書かれたものがある。兄帝の仰る『黒の導師』がその者どもを指すのであれば、宗教改革の邪魔になるとお考えになっても無理はない」
 そうして、深い眼差しをレイに向ける。
「暗黒魔術を喰らい、更に『天隕』の直撃を受けてなお生き永らえる……。おぬしのあるじはおそらくくだんの像にかたどられている神なのだろう。そうでなければ、おぬしは粉微塵であったに違いない」
 あの時、東の森にウルス達が駆けつけた時、巨大なすり鉢状の穴の底には、レイと、レイを守るかのように立つ小さな神像があった。
 その高さ、約十寸。黒曜石に刻まれていたのは、優しげな顔の女神だった。左肩のところでまとめた長い髪が、優雅に胸元を飾っている姿を思い出して、レイの瞳が懐かしさに緩む。
『……ね、おかあさんにそっくりでしょ?』
 幼い頃のあどけないシキの笑顔が、レイの脳裏に浮かび上がって来た。
 
 
 たぶん、シキは泣くことのできる場所が欲しかったんだと思う。十年前のあの日のことを思い出して以来、レイはそう考えていた。
 シキとレイ、連れ立って二人で遊んでいても、いつも羽目を外して大人に怒られるのはレイだった。レイの母も、我が子達が遊びに出る時には、決まってシキに「レイが馬鹿をやったら、叱ってやってね」などと頼み事をする有様で、そのためだろう、シキも自分がレイの世話をしなければならない、と思っていた節があったのだ。
 両親の訃報がもたらされた時、真っ先に泣き声を上げたのはレイだった。あの瞬間、シキは出遅れてしまったのだ。先にレイに泣かれてしまったことで、彼女はきっと思いっきり泣くことができなくなったに違いない。その胸中を思うと、今でもレイの心はチクチクと痛む。
 そのあとも、泣くレイを見るたびに、シキはその面倒をみるべく一人頑張っていたのだろう。
 そうして、彼女は見つけたのだ。誰も立ち入らない禁断の森に、自分一人で思いっきり泣ける秘密の場所を。
 
 その日、掃除を終えてこっそりと治療院を抜け出そうとしていたシキを、レイはとうとう捕捉することができた。彼はすっかり得意になって、意気揚々とシキを問い詰める。
「どこ行くつもりだったんだ?」
「……森。東の森」
「って、しばらくは町から出ちゃいけないって、司祭さまが言ってたじゃないか」
 もしかしたら、と想像はしていたものの、本当にその単語がシキの口から出たことに、レイはびっくりして目を見開いた。
「だって、とってもすてきなものを見つけたんだよ……」
「すてきなもの? 何だ、それ」
「もう少しないしょにしておくつもりだったんだけど……、ちょうどいいや。とくべつにレイだけに教えてあげる」
 心の中で歓声を上げながら、レイはわざとらしく考え込む素振りを見せる。
「……しかたがないなあ。昼めしまでに帰ってこられるなら、とくべつについていってやってもいいぜ」
 
 丁度戦争が終結し、帝国軍が町にやってきた頃だった。
 旧権力者達の財産の没収と、邪教狩り。先鋒として各地に入った彼らの目的を知ったのは、レイ達がもっと大きくなってからのことだ。
 
「どこまで行くんだよ?」
 昼なお暗い東の森をシキに手を引かれて進みながら、レイはわざと不機嫌そうな声を出した。
「もう少しだよ」
 やがて、森の真ん中辺りまで来たところで、二人は少し開けた場所に出た。大人の背丈の倍以上ある高さの、急な斜面が目の前に立ち塞がっている。手前には平たい大きな石が横たわり、その向こう側に黒い空間がぽっかりと口を開けていた。
「すげえ!」
 にやにやと笑いながら、シキがレイを見る。うっかり目を輝かしてしまっていた自分に気がついて、レイは慌ててそっぽを向いた。
 だが、彼はすぐに観念して再びシキのほうに向き直る。秘密の洞窟だ。意地を張るのはあまりにも勿体ない! おそるおそる入り口に近づきながら、レイはごくりと唾を飲み込んだ。
「宝物、とかあるんじゃないのか?」
「無かったよ」
「ええええー! お前もう探検したのかよ! ズルいぞ!」
「だって、見つけたの、先月だもん」
「なんですぐに教えないんだよ」
「だって、町から出るなって言われてたし」
「だからって、自分だけズルいぞ」
 唇を尖らせて文句を言ったのち、レイは真剣な表情になると暗い洞窟の中を覗き込んだ。
 大人二人が並んで通れるぐらいの空間が奥のほうまで続いている。自然にできたものではない、人工の通路だ。レイは高鳴る胸を抱えながら、暗がりへとゆっくり足を踏み出した。
 シキが何かをぶつぶつと呟いたかと思えば、辺りがほんのりと明るくなった。見れば、彼女の指の先で手のひら大の光が優しく揺れている。彼女が亡き父親から教わったという「灯明」の呪文。レイにとって、シキの術を見るのはこれが初めてではなかったが、彼はつい息を呑むと、次に大きく溜め息をついた。
「やっぱ、すげえよ、お前」
「えへへ、そうかな?」
 得意そうなシキの笑顔が眩しくて、レイは早足で暗闇の中へと歩みを進める。
 揺らめく魔術の光に照らされた洞内は、思ったよりも歩き易かった。
「最初はもっと石とか木とか落ちてたんだけどね……」
 歩きながらシキがぐるりと辺りを見まわす。「そうじしたんだ」
「よくやるよ」
「だって、ひみつの部屋だもん。キレイなほうがいいじゃん」
 ひみつのへや。なんてステキな響きなんだろう。
 自分がその秘密の共有を許されたということに気がついて、レイは知らず顔を緩ませた。
 
 真っ直ぐ伸びる通路は、五丈ほど奥で少し広い部屋のような所に繋がっていた。どうやらここが洞窟の終点らしい。
 部屋の中央には、表にあったものと同様な石の台が据えつけられていた。奥の壁には棚のようなものが掘り込まれており、そこには何かこまごまとした物が並べられている。
 祭壇、おそらくはそういった類のものなんだろう。ただ、その時のレイ達には知るよしもなかったわけだが。
「これだよ、これ。ほら!」
 巨石を回り込んで、シキが祭壇の中央を指差す。レイも遅れじと駆けつけ、シキの指差した物を見た。
 それは十寸ほどの高さの、黒い石の人形だった。それが「灯明」の光を反射して、きらきらと光っている。
「ね、おかあさんにそっくりでしょ」
 肩の所で一つに束ねられた長い髪、通った鼻筋、優しげな瞳。「ご飯の時間までには帰ってくるんですよ」そう笑いかけて戸口でシキを見送る姿。もう、二度と見ることの叶わない、失われた風景がそこにあった。
「……びっくりした?」
「あ……うん。本当だ。おばさんにそっくりだ……」
 泣きそうになっている自分に気づき、レイはきつく下唇を噛んだ。
「来て良かった?」
「まあな」
「ホントはもっと早く教えたかったんだけどね。司祭さまに見つかっておこられるのは私だけでいいかな、って」

 
 その時だ。
 災厄がやって来たのは。
 
 重い、金属のぶつかり合うような音が、入口のほうから響いてくる。
 数人の大人達の話し声、土を踏みしめる重たい足音、それらがぼんやりと土壁に反響しながら、レイ達のいるほうへと近づいてきた。
 二人は声を出すこともできずに、お互いの腕を掴むと、暗い通路をただじっと見つめ続けた。
 やがて、通路の奥が明るくなったかと思えば、松明を持った腕が暗闇から現れた。続いて、鎧を身に着けた騎士の全身が部屋の中へと踏み込んで来る。一人、また一人。全部で五人の騎士が姿を現し、部屋の中は一気に狭苦しくなった。
 一同を先導していた赤い鎧の騎士が、レイ達を一瞥する。
「お前達、どこの者だ?」
「イの町、です」
 レイの肩越しにシキが答える。
「ここは子供の遊び場ではない。立ち去れ」
 そう言う間も部屋を見渡していた赤い騎士は、ほどなく奥の祭壇に目をとめた。
「あったぞ、ここで間違いない」
「よし、油を運び込め」
 一人の騎士がレイ達のほうにやってきて、二人の腕を掴んだ。
「さ、ここは危ないからね。お兄さんと外へ出よう」
「……何するの?」
「ここは、悪ーい神様のおうちなんだよ。僕達がそれをやっつけに来たから、もう大丈夫。さ、こっちへおいで」
 
 どうして、彼女を止められなかったのだろう。
 だが、その時レイはただ事ならぬ雰囲気にすっかり呑まれてしまっていて、シキの叫びを聞くまで、彼女が若い騎士の手を振りほどいたことに気がつかなかったのだ。
 
「だめ!」
 丁度、赤い鎧を着た騎士が神像を狙って剣を振り上げたところだった。
 両手を広げて飛び出したシキの背中に、銀の刃が鮮血を散らす。
「……シキーーーーッ!」
 レイは、掴まれていた腕を振りほどくと、地に倒れ込むシキに駆け寄った。
 シキの金の髪が、白い服が、血に赤く染まっている。鮮血が、シキの身体を中心に、じわりじわりと地面の上を広がっていった。
 必死でシキの身体を助け起こすも、手ごたえのない、まるで人形のような感触に、彼の心臓は凍りつきそうになった。そうこうしている間にも、シキの小さな身体は、どんどん冷たくなっていく。
「おい、シキ、シキ……」
 レイの視界の端が、黒いものを捉えた。今の騒ぎで地面に転がり落ちたのだろう、「悪い神様」の像だった。
 ――こんなもの。こんなもののせいで。
「くっそう!」
 レイは拳を力一杯地面に打ちつけた。「仮にも神様なんだろ! 助けろよ! シキを助けてくれよ! あんたを守ろうとしたんだぞ!」
 絶叫するレイの背中に、灼熱が突き立てられた。
 次の瞬間、レイは背後から自分の胸部を突き破った切っ先を見た。
 
「邪教徒め」
 冷徹な騎士の声。
 痛みよりも、吐き気がレイを襲う。そして強烈な眩暈。
 シキの上に折り重なるようにしてレイは倒れ込んだ。
 暗闇の中、揺らめく松明の光。騎士達の足。血塗られた切っ先。それらがゆっくりと霞んでいく。
 ――おれはここで死ぬのだろうか。
 ――シキはもう死んでしまったのだろうか。
 
 彼此ひしともつかない場所を漂いつつあったレイの意識を、鈍い地響きが引き戻した。
 穏やかな光が、洞窟内に静かに満ち溢れる。
「何だ」
「うわっ」
「これは……」
 騎士達が色めき立つ声が、突然止んだ。静寂の中、がしゃん、がちゃん、と次々に金属質の物が地面に落ちる音が響く。
 レイが重い瞼をうっすらと開くと、地面にばらばらと積み重なった鎧や剣の上に、さらさらと白い粉が降り積もるのが見えた。
 そして、ゆうるりと崩れ落ちていく洞窟。
 
「人の子よ」
 瓦礫が降りしきる中、レイの心に響く声なき声。
「我が祝福を受け取るが良い」
 それは、柔らかな女の声だった。レイの手足が、身体が、温かい光に呑み込まれていく。まるで母の腕の中にいるかのような温もりが、やがてレイの全身をそっと包み込んだ。
「この瞬間より、そなたは我のものであり、我はそなたのものでもある」
 自分の身体の下で、シキが軽く身じろぎするのが感じられた。
 レイはこれまで感じたことのない満ち足りた気持ちで、深い眠りへと落ち込んでいった……。
 
 
 半年前、東の森でロイに完膚なきまでに打ちのめされた時、レイはとうとう「あの日」の全てを思い出した。
 あの洞窟で二人は帝国の「邪教狩り」に遭遇し、彼らの刃に倒れた。だが、命の炎が消える直前、何ものかが二人を救ってくれたのだ。
 ――黒髪は、その奇跡の証だったんだ。
 視界の端にかかる漆黒の前髪を意識しながら、レイは感慨深げに目を閉じた。あの優しい声の主が、自分達を助けてくれたのだ、と。シキの母親にそっくりな、温かい眼差しのあの女神が……。
「何をぼんやり突っ立っている。明日は早いぞ、さっさと寝床につけ」
 無粋なウルスの声とともに、柔らかい塊がレイの顔面を直撃する。一気に現実に引き戻されたレイは、足元に落ちた毛布を慌てて拾い上げた。
「……祭り見物でもするのかよ?」
 なんとか一矢報いたいと願うレイの望みも虚しく、どうやらウルスには皮肉が通用しないらしい。
「残念ながら、見物している暇はない。パレードにセルヴァントがやってくるのだ」
「セル……? ……誰だ、それ?」
「セルヴァント男爵、帝国の貴族だ。そして……」そこで、ウルスの顔が急に赤みを増した。凄惨な声で、吐き捨てるようにつけ加える。「そして、カラントの裏切り者」
 ――カラント?
 聞き覚えのない言葉を問い質そうとした瞬間、レイの身体を激しい衝撃が打った。
 針に串刺しにでもなったかのように、脳天からつま先までを痛みが一息に駆け抜ける。あまりのことに、レイは呻き声を上げるとその場にうずくまった。
「どうしたね!」
「何事だ」
 しばしのち、レイは喘ぐように息をついてからゆっくりと顔を上げた。全身を貫く痛みは無くなったものの、心の臓は未だ早鐘を打ち続けている。息苦しさに胸を押さえながら、レイはのそりと身を起こした。
「大丈夫かね」
 自分を助け起こすザラシュの手を、レイは静かに退けた。
「……大丈夫です」
「本当かね? 顔色が真っ青だぞ」
「ちょっと目眩がしただけです」
 大きく息をついたレイは、よろめきながらもなんとか立ち上がる。
 心配そうに眉をひそめるザラシュの傍らで、ウルスが床の毛布を拾った。そうして、ふん、と鼻を鳴らしてから、一人さっさと長椅子に横たわる。
「え? あ、おい……」
「お前はザラシュ殿と奥の寝台を使え。今夜は俺が長椅子で寝る」
「何だよ、突然。らしくねーな」
「いいから寝台で寝ろ。そんなやつれた顔をいつまでも人目に晒すな。見苦しい」
 そう言い捨てるや、ウルスはさっさと毛布をかぶってしまった。黙ってレイを見つめていたザラシュも、小さく肩を落としたのち、大鞄から自分の荷物を出し始める。
 レイは、その場に立ち尽くしたまま、ぎゅっと両手を固く握り締めた。
 ――「半身」の術が破られた。たった今。
 絶望の色を瞳に浮かばせながら、レイは呆然とおのれの手を見る。
 シキが命を落とした、という可能性もあるにはあるが、レイはそれだけは断じて考えたくなかった。シキは生きている。それは絶対の前提条件だ。
 ならば……あの術を破ったのはロイに違いない。禁忌のくびきを引きちぎり、ロイはとうとうレイの術を打ち砕いたのだ。
 ごくり、とレイは生唾を呑み込んだ。ロイは術の上書きに成功したのだろうか、それとも、レイの術を滅するだけにとどまったのだろうか、と。
 たとえロイの施術が失敗に終わったのだとしても、ロイが「半身」を会得してしまった今、彼が再び術をかけ直すのは時間の問題と思われた。なんとかして、それまでにシキを見つけなければ……!
 
 神像にかたどられている女神よ。
 真に我らのあるじならば、何卒シキを護りたまえ。
 レイは生まれて初めて、「神」というものに祈りを捧げた。
 
 
 

    二  前哨
 
 大空に紙吹雪が舞い、街路に銅鑼が鳴り響く。遂にやってきた祭りの日、名にしおうルドスの収穫祭だ。
 会議室の窓から下の大通りを見下ろしたシキは、町を埋め尽くさんばかりの沢山の人々に目を丸くした。
「毎年、こんなに凄いんですか?」
 街中を覆う浮かれたような空気に呑まれて、シキはいつになく饒舌に他の隊員達を振り返った。
「……あれ?」
 誰かの気配があったはずなのに、シキの周りには誰もいなかった。自分と皆との間に空いた不自然な距離に、シキは軽く首をかしげる。変だな、と思いつつも、彼女は再び窓の外へ身を乗り出した。そして今度は、そっと背後に注意を向けてみる。
 途端に背中に感じられる、不可思議な空気。いや、視線、と言ったほうが良いのかもしれない。それも一人や二人ではなく……。
 勢い良くシキは背後を振り返った。慌てて目線を逸らせる者、さりげなく横を向いてとぼける者、観念したのかそのままシキを見つめる者、……つまりは、その場にいるほとんど全員が、シキを注視していたのだ。
 シキの首の後ろがざわめいた。
 漠然とした不安を感じながら、シキは一番後ろのいつもの席に着く。そのまま、何事も無かったかのようにシキは頬杖をついて窓の外を見た。顔の向きをそのままに意識だけを部屋に戻すと……、皆の視線が自分に向けられているのがはっきりと感じられる。
 舐めるように、シキの全身をねめつける幾つもの目。普段とは違う周囲の雰囲気に、シキの背中を冷や汗がつたった。
 
「皆来ているわね」
 副隊長のインシャ・アラハンがポニーテールを揺らしながら部屋に入ってくるのを見て、隊員達は慌てて姿勢を正した。
「ガーランの奴は腹痛で動けないらしいぞ」
 四角い顔の巨漢、エンダが笑いながらそう報告する。「そういや、隊長も先刻から見てないな」
「その二人は頭数には入れていません」
 ぴしゃり、とインシャが言い捨てて、その場は水を打ったように静かになった。
「騎士団組も、今日はえんじのジャケットを着用なさるそうです。大通り沿いは彼らに任せて、我々はその外側を重点的に巡回することになりました」
 そう言って、インシャは傍らの箱から短い杖を取り出した。
「本日は、おそらく呼び子は用をなさないと思います。狼煙杖を各自携帯してください」
 えー、と部屋のあちこちから不満の声がちらほらと上がる。狼煙杖というのは、ロイが製作した「狼煙」の呪文の込められた短杖のことだ。これを天に掲げて「狼煙よ上がれ」と言うだけで、魔術師でなくとも「狼煙」の術を起動することができる。ただ、その効果の発動には魔力が必要となってくるため、慣れない者にとっては苦労や苦痛の多い道具ではあった。
「ガーラン・リントがいないということは……シキ、」
 シキに視線を向けたインシャが、そこではっと息を呑んだ。
 副隊長の細い喉が、ごくりと鳴るのを、シキは見逃さなかった。一体、先刻から何が起こっていると言うのだろうか。シキは胸騒ぎを鎮めようと、両手を強く握り締める。
 インシャは眉根に皺を寄せ、しばらく何かを考え込んでいた。そして、慎重に言葉を継ぐ。
「シキ、今日はエンダと組んでください。ラルフ・クァイトは私と。巡回路の詳細はここにあります。単独行動は避けること。朝の部のパレードが終わった時点で、警邏組は全員一度本部に帰投してください。その他のことは普段と変わりありません。皆の健闘を祈ります」
 インシャが朝礼の終わりを告げると同時に、隊員達は一斉に立ち上がった。黒板に貼り出された地図に群がったのち、一人二人と出動していく。その人の波に逆らって、インシャがシキの傍へと駆け寄ってきた。
「……何があったのですか?」
「え?」
「貴女の気配が……あまりにも不自然だから」
「……不自然、ですか?」
 インシャは軽く溜め息をつくと、険しい表情のまま呟いた。
「……いえ、今までが不自然だったのかも。でも……昨日までと比べてあまりに……」
 そして再び溜め息。シキは否が応でも不安感をかきたてられる。
「エンダなら大丈夫だと思いますが……」
「副隊長!」
「……には気をつけて」
 おのれを呼ぶ声に、インシャが背後を振り返った。彼女の巡回の相棒であるラルフが、苛々した様子で戸口の向こうに立っている。インシャは何か物言いたげな様子でもう一度シキを一瞥して、それから、きびすを返して部屋を出ていった。
 ――何に気をつけろと?
 ラルフの大声がきれいにかき消したインシャの声は、一体何を警告していたのか。あとを追ってもう一度聞き質すべきか。悩むシキをエンダの声が打つ。
「おぅい、嬢ちゃん、行くぞ!」
 気がつけば、辺りにはもう誰も残っていなかった。シキは懸念を振り払うように小さく頷くと、エンダの待つ廊下へと駆け出した。
 
 
「嬢ちゃんはこの祭りは初めてなんだってな?」
 軽く顎で人ごみを指し示しながら、エンダはシキを見やった。
「はい」
「もうすぐパレードが始まる時間だ。少しぐらいは見られるかもな」
「え、でも、巡回が……」
「持ち場まで大通りを通って行きゃあいいのさ。ちょっと大回りになるが、まあ問題ないだろ」
「いいんですか?」
 弾みそうになる声をなんとか抑えて、シキは静かに問い返す。先ほどまでの不安な気分が、一気に吹き飛んでしまったような気がした。
 そんなシキの様子を、エンダは浅黒い頬をほんのり染めてうっとりと見つめていた。と、はっと我に返って、気の良い大男は自分の頬を両手でぱちぱちと打つ。
「いかん、いかん、女房に殺されちまわぁ」
 とってつけたような深呼吸を何度か繰り返してから、エンダはやにわに足早に歩き出した。「迷子になるなよ」と肩越しにシキを振り返り、そのまま人垣に消えていく。シキは、大きなえんじ色の背中を慌てて追いかけた。
 
 人出はどんどんその数を増してきている。子供から老人まで、女も、男も、見慣れない民族衣装を着た者、仕事着のままの者。何人かは、シキのジャケットを見て道を譲ってくれたが、ほとんどの観客達は、いかにパレード見物に良い場所を確保するかに腐心して、とてもそれどころではない様子だ。
 やがてシキ達は大きな四つ辻を折れ、大通りをあとにした。人波に逆らいながら一角ひとかどをくだり、自分達が警邏を担当する街区に入ったところで、どこか間延びしたような女の悲鳴が、人いきれを押し退けるようにして二人の耳に届いた。
「きゃあぁああああぁ、スリよぉ、スリが鞄を盗ったわぁあ」
 シキとエンダはお互い小さく頷きあうと、人混みの中を声のしたほうへと向かっていった。十数歩も行かないうちに、二人の目の前に人垣が立ち塞がった。ひょいと覗いてみれば、人々の輪の中央で、中年の女性が手振りも豊かに何か大声で喚いている。
 人垣を割ったえんじの上着を見るなり、大騒ぎしていた女性は物凄い勢いで二人のもとへ駆け寄ってきた。
「ああ、あなた達、警備隊ね! 助けてちょうだい!」
「どうなさったね」
「私の鞄が誰かに盗られたのよ!」
 そう絶叫すると、女性は右手をぐいっとエンダの鼻先へ差し出した。
「ほら、見てちょうだい! これ!」
 彼女の手には、鞄の持ち手と思われる紐だけが握られていた。両端の真新しい切り口は、おそらくは何か鋭利な刃物で切られたものであろう。
「お金だけじゃないわ、鞄には主人の形見のお守りも入っているのよ! ああ、私、一体どうしたらいいの!」
 みるみる涙ぐむ婦人に、エンダは心底困ったような表情を見せた。
「どうしたらと言われても、この人出ではなあ。とりあえず、本部のほうまで行ってもらえんか。そっちに係がいるから、そこで詳しい話を……」
「まぁあ! あなた、荷物を盗られた可哀想な人間を見捨てるおつもりなの?」
「いや、見捨てるってったって、俺達はこの辺りの警備を……」
「今、盗られたばっかりなのよ? 盗人はきっとまだこの近くにいるはずだわ! それを放っておくというの!?
 噛みつかんばかりに詰め寄ってくる婦人を前に、二人は思わず顔を見合わせた。大きく息を吐いて、心持ち姿勢を正して、シキが一歩を進み出る。
「放っておくなどしません。警邏の最中にも盗人を探すつもりです。ですから、安心して本部のほうに……」
 シキがそこまで言ったところで、少し離れた所でまたもや女の悲鳴が上がった。鞄がどうとか叫ぶ声に続いて、「泥棒よー!」なんて声まで、喧騒をぬって聞こえてくる。
「ああ、ほら、あなた方がのんびりしているから、他でも被害が出ているじゃない!」
 シキとエンダは、再度顔を見合わせた。
「祭りの初っ端から、えらく飛ばす奴がいたもんだな」
「どうしましょう」
「狼煙杖を使うほどのことじゃねえしな。仕方ねえ、シキ、レンシの組が向こうの区画にいるはずだから、ちょっくら呼んで来てもらえんか。単独行動は厳禁っていっても、この際だ、仕方ねえ」
 エンダは、やれやれと肩をすくめてから、両手を口元にそえて大声を張り上げた。
「おおい、そっちの、鞄を盗られたってオバサ……ご婦人! 警備隊だ。なんとか俺んとこまで寄って来てくれんかね」
 何事かとエンダに注意を向ける人混みに逆らいながら、シキは指示された角を目指した。大通りへと向かう人々でごった返す街路を、人波をかき分けかき分け進んでいく。
 一つ目の四つ辻を通り過ぎたところで、前方からシキを呼ぶ声が聞こえてきた。
「シキ!」
「レンシさん」
 少年のような風貌の小柄な人物が、えんじのジャケットの裾をひるがえして人混みの中から現れた。
「丁度良かった。呼びに行こうと思ってたところなんだ。シキ、エンダは?」
「それが、向こうで、スリの被害に遭われた方が騒いでおられて……」
「ええ? そっちも?」
 二人は揃って絶句して、それから同時にそっと眉をひそめた。
「……とにかく一度合流しよう。俺、ノーラ呼んで来る。シキはエンダの所へ戻れ」
「はい」
 踵を返して、再びシキは雑踏へと身を投じた。四苦八苦しながら人の波を泳ぎきり、やっとの思いでエンダのもとへと到達した。
「レンシ達は?」
「まもなく、こちらへ来られるかと」
 簡潔に返答してから、シキは一段低い声で言葉を継ぐ。「向こうでも出たそうです」
 呆れたとばかりに、がっくりと肩を落とすエンダに、シキが険しい表情で問いかけた。
「毎年、こんな感じなんですか?」
「うーん、例年に比べて出足が早いような気もするが、他の区域がどんな調子か解らんことには、何とも言えんなあ」
 エンダが難しい顔で首をひねったその時、レンシの声が喧騒を突き抜けてきた。
「エンダー!」
 人垣を割って現れたレンシは、一人の女性を連れていた。女性の手には、何やら長い紐状のものが握られている。どうやらこちらと同じ手口で肩掛け鞄を盗られたのだろう。
 息せききって駆け寄ってきたレンシは、やや興奮気味にときの声を上げた。
「ノーラがそこで盗っ人を見つけたぜ!」
 エンダの傍らで、被害者であるご婦人達が色めき立つ。
 と、周囲の喧騒とは明らかに異質な騒ぎ声が、シキ達のいる所へと近づいてきた。
「痛ぇな! 放せよ!」
「つべこべ言わずにとっとと歩け」
 エンダを中心に輪を描く人々の垣根から、警備隊員にしてはやや線の細い赤毛の男がまず吐き出された。次いで十歳ぐらいの少年が、男に右手を引かれて姿を現す。
 じたばたと暴れる少年を見るなり、エンダが驚いた表情を作った。
「なんだ、お前か。最近とんと見なくなったから、足を洗ったんだと思っていたのに」
「俺はやってねぇよ!」
「嘘をつくな。こそこそと他人の鞄を探っていただろう。いい加減に観念しろ!」
 汗の浮いた額に赤毛を貼りつかせて、ノーラが声を荒らげる。だが、少年は一向に物怖じする様子も見せずに、なおも両手足をばたつかせた。
「嘘じゃねぇよ! 俺の身長だと、丁度鞄が顔に当たるんだよ。邪魔だから避けようとしてただけだ。誰があんな貧乏ったらしい鞄を盗るかよ」
「言い訳は結構」
「言い訳じゃねぇって!」
 往来の真ん中で言い争いを始めた二人を横目で見ながら、エンダが盛大に溜め息をついた。
「とにかく、このままじゃ、通行の邪魔なだけだな」と、シキとレンシを振り返り、「オバサン達をあっちの角へ避難させてやってくれ」
 それから、まだ言い合いを続けているノーラ達のほうへ向き直ると、もう一度大きな溜め息を漏らした。
「ま、とにかく場所を変えよう。話はそれからだ」
「話も何も、俺は足を洗った……じゃなくて、もともとスリなんかじゃねぇってば!」
 少年の叫び声を背中で聞きながら、シキとレンシは三人の女性を指示された街角へと誘導する。
「ねえ、大丈夫なの? あの子、やってない、って言ってるけど」
 一人のご婦人が、心配そうにシキに問いかけてきた。応えに詰まるシキの代わりに、傍らでレンシが胸を張る。
「大丈夫です! あいつがスリなのは絶対に間違いないんですよ。ま、確かに、これまでも尻尾を見せることはあっても、肝心なところで尻尾を掴ませてはくれなかったから、だからあんなふうに、平気でとぼけてくるんですけどね」
「でも、もしも本当にあの子じゃなかったら、どうするの?」
 母性本能でもくすぐられたのだろうか、先刻までとは打って変わってご婦人方は盗人に対して同情的だ。
「そうよね。あんな子、私の近くにはいなかったような気がするわ。ええ、私ちょっと、間違いなんじゃないか、って言ってくるわ」
「あ、ちょっと、待ってください」
 制止の声を振りきって、オバサンの一人がエンダ達のいる人混みの中へと飛び込んでいった。慌ててシキも彼女を追って雑踏へと足を踏み入れる。
 その時、聞き覚えのある声が、風に乗ってシキの耳に飛び込んできた。
「この子は関係ないよ」
 シキは、思わず足を止めた。
 愕然と顔を上げれば、人垣の向こうに、頭一つ飛び出した長身の後ろ姿が見える。
「この子、しばらく前からずっと俺のすぐ横で、前の人の鞄から顔を離そうと必死だったよ。スリなんてしている暇はなかったと思うな」
 栗色の髪が、さらりと風にそよぐ。話しかける相手が変わったのか、顔の角度が僅かにこちらを向き、人懐っこい瞳が見て取れた。

 
 ――サン、だ。
 まるで、心臓が喉の近くまでせり上がってきたかのようだった。息苦しさを無理矢理呑み込んで、シキは口を引き結ぶ。
 同僚に事情を説明している暇はない。ということは、支援は期待できないということだ。シキは意を決するや否や、死に物狂いで人混みをかき分け始めた。
 誰かの足を踏んだが、気にしない。わき腹に鞄か何かが当たったが、そのまま力任せに押しきった。背後から追い縋る罵倒の声も、ぶつけた身体の痛みも、今のシキにとっては何も気にとめるものではない。何かに躓いて倒れそうになったが、手に触れた誰かの身体を支えにして、更に前へと進む。
 危ねぇだろ押すんじゃねえ、という罵声とともに、とうとうシキは人垣を抜ききった。
「悪かったな、ボウズ」
 身を屈めたエンダが、少年に詫びている。その横では、ノーラが少し決まり悪そうに首を掻いていた。
「まあ、確かに、お前にしては仕事が雑だったな」
「だから、俺はスリなんかじゃない、って言ってるだろ」
 頬をふくらませながら腕組みをする少年の傍ら、サンの姿は、無い。
 シキは必死の形相で辺りを見まわした。
 少し離れた人垣の向こうに、栗色の頭が見え隠れする。
 
 ――逃がさない!
 このために、警備隊に入ったのだ。
 ここは峰東州一の大都市、ルドス。この街の警備隊員になれば、反乱団の情報も手に入るだろう。そうして、サンを捕まえるのだ。捕まえて、真相を聞き出すのだ。
 レイの仇を討つために。
 先生をしてレイを殺さしめた、その元凶。
 許さない。
 
 シキは躊躇うことなく人の波へと飛び込んだ。
 おのれの名を呼ぶエンダの怒鳴り声も、シキの耳には届かない。
 ぐつぐつと煮えたぎる怒りに全てを忘れて、シキはサンのあとを追った。
 
 
 

    三  醜類
 
 栗色の髪を風になびかせて、サンは雑踏を切り進んでいった。時折歩調を緩めては、辺りをきょろきょろと見まわし、そしてまた大股で颯爽と歩き出す。それを何度も繰り返しながら、サンは大通り沿いを南へと進んでいった。
 歩幅の差を、人ごみを素早く避けることで埋めながら、シキはサンを尾行し続けた。
 敵は剣術の達人だ。迂闊に行動を起こせば、周りに被害が及ぶのは勿論、彼に逃げられてしまいかねない。となると一番確実なのは、魔術を使って相手を行動不能に陥らせることだろう。だが、そうするにはここは人が多過ぎる。シキは機会を窺いながら、ひたすらサンのあとを追い続けた。
 二角ふたかどほど進んだ所で、サンの姿が急に見えなくなった。シキは大慌てでその四つ辻まで走る。人の海を必死で見渡すと、東の脇道へ栗色の頭が消えていくのが見えた。
 大通りから一本逸れるだけで人通りはぐっと少なくなるだろう。術をかけるなら今しかない。脇道の手前、物陰に隠れながら、シキはそっと両手を前に出す。
 いざ「睡眠」の呪文を口にしようとしたその瞬間、後頭部に衝撃を受けて、シキは気を失った。
 
 
 悲鳴もなく崩れ落ちるシキの身体を、男の腕が抱きとめた。えんじの上着を隠すべくシキの頭からマントをかぶせると同時に、別な二人が、肩を組むようにして意識のないシキを支える。
 男達は、全部で五人。年の頃、二十代後半から三十代といったところだろうか、全員が見るからにならず者の風体をしている。
 そのうちの一人が、会心の笑みを浮かべて、シキの顔を覗き込んだ。一昨日の夜、警邏中のシキと一悶着起こし、回し蹴りを喰らいかけてほうほうの体で逃げ去った、あの男だった。
「おい、お前、こんな女にやられたのかよ」
 あからさまに馬鹿にした声音で、仲間の一人が言い放つ。
「っかしいな。てっきり小僧とばかり思ってたんだけどよ」
「いいじゃねえか。こいつは、予想以上に楽しめそうだ」
「違ぇねえ」
 涎をすする音とともに、下卑た声がシキの身体をなめた。「よく見りゃ、すげえ上玉じゃねえか」
「ああ、たまんねえな」
 男達は、ひとしきりシキの品定めをしたのち、彼女を囲んだまま移動を始めた。不審そうな眼差しを向ける通行人を恫喝で退けつつ、白々しくも酔っ払いを介抱する芝居をうつ。そうやって男達は、シキを抱えてゆっくりと坂をくだっていった。
 
 人ごみを避け、警備隊の巡回をかわし、男達はやっとの思いで目的地である町外れの小屋へと到達した。
 時折風に乗って微かに祭囃子が流れてくる以外は、完全な静寂が辺りを支配している。ここならば、多少大声を出されたところで、邪魔者が現れる心配はない。男達は満足そうに笑い合うと、薄暗い小屋の中にシキの身体を転がした。
 埃っぽい床の上に、えんじのジャケットが鮮やかに映える。袖口から覗くすらりとした腕も、襟元に絡まる髪も、眉間に刻まれた皺すらも、今や男達の劣情を煽るものでしかなかった。呼吸に合わせて上下するシキの胸元に、みるみる彼らの眼が血走っていく。
「誰が一番だ?」
「俺っていう約束だろ」
 いやらしい笑い声が、男達の間に細波のように広がっていく。早く代われよ、と一人が戸口の外へ見張りに出た。
「慌てんなって。時間はたっぷりあるんだ」
 一番、と言っていた男がそう言って身を屈めた時、シキが微かに身じろぎをした。
「まずい、気がつくぞ。手、押さえろ!」
「足もだ!」
 一人がシキの両手を、一人が右足、もう一人が左足、と見事な連携をもって、男達はシキの身体を押さえ込む。一番手が安堵の息をつくと同時に、シキの瞼がゆっくりと震えながら開いた。
「……ここは……?」
 身動きがとれないことに気づいたシキが、ぼんやりと首を巡らせる。にやにやといやらしい笑みを顔に貼りつけた男達を見て、数度まばたきを繰り返す。
「誰、ですか?」
「誰だろうねえ」
「何を、しているんですか」
 シキは呆然とした表情で、自分を押さえつける者どもを再度見まわした。
「何って、決まってるだろーがよ」
「警備隊の牝犬を、俺達が躾けてやろうってんだよ」
 ようやく状況を理解することができたシキは、殴られた頭が痛むのも構わずに全力で暴れ始めた。手足の戒めを振りほどくべく、力一杯身体をひねろうとする。
「無理無理ー。あんまり暴れたら、骨が折れちゃうよ?」
 必死に抵抗するシキの様子が、男達を更に煽り立てる。彼らの興奮はもはや最高潮に達していた。
「おい、上着は脱がすなよ。このまま、ぶち込んでやれ」
「解ってるさ。日ごろの恨みだ、赤ジャケットに思いっきりぶっかけてやるぜ!」
 一番手が得意げに吠えたその時、表のほうで何か重いものが落ちる音が聞こえた。
 シキのズボンに手をかけたまま、男はおずおずと顔を上げる。彼の目の前、シキの両手を押さえている男が、大きく眼を見開いていた。恐怖に彩られたその視線を追って、残る三人がゆっくりと背後を振り返る……。
 開け放された小屋の扉の向こう、見張り役が腹を抱えてうずくまっていた。その傍らに、逆光の人影一つ。
 たった一人きりにもかかわらず、その人物は凄まじいまでの威圧感を放っていた。
「お取り込み中のところ、真に申し訳ないんだが……」
 高らかな靴音が、小屋の壁にこだまする。
 風にひるがえった上衣の裾が、影の色を捨ててえんじ色に変わった。
「部下を返してもらおうか」
 ルドス警備隊隊長エセル・サベイジは、静かに腰の剣を抜いた。褐色の前髪の下で切れ長の目がぎらりと光る。
「……それとも、私が自分で取り戻したほうが良いかな」
 
 
 脱兎のごとく路地を逃げ去っていく暴漢達を見送りながら、エセルは剣を鞘に収めた。
 その後姿に、シキは深々と頭を下げる。
「……すみませんでした」
「酷い格好だな」
 シキの髪は解け乱れ、頬には汚れがついていた。皺だらけの服は、砂にまみれてすっかり白茶けている。自分のあまりにもみすぼらしい風体に、シキは思わず泣きそうになった。
「本部に戻る前に、埃を掃う必要があるな。来たまえ」
「は、はい」
 そっけなくきびすを返すエセルのあとを、シキは慌てて追いかけていった。
 
 坂を登るにつれ、再び街路は人で混み合い始めた。
 パレードは、巡回はどうなっているのですか、とのシキの問いかけに、隊長は曖昧に頷くばかりで、そうこうしているうちに二人は、大通りのすぐ裏の小洒落た共同住宅に到着した。
 綺麗に掃き清められた階段を上がって三階、エセルに促されるがままに、シキは一番奥まった部屋の敷居を跨ぐ。
 若い独身男性のものにしては、妙に整頓された部屋だった。いや、片付いているというよりも、生活感がない、と言ったほうが良いのかもしれない。最低限の用をなしているのかすら危ぶまれる程度の家具が置かれた、二間続きの部屋。がらんとした室内を見まわしていたシキは、素直に疑問を口に出した。
「……ここが隊長の家、なんですか?」
「家ではない。『部屋』だ」
 要領を得ないエセルの答えに、シキは眉間に皺を寄せた。こことは別に実家か何かがあるということなのかな、と一応納得することにする。
「何か飲むものは……と……」
「そんな、気を遣わないでください」
「喉が渇いたのは私だ。君こそ気にせずに、そこいらに腰かけて待ちたまえ」
 辺りを見まわしても、椅子の類は見当たらない。当惑するシキに、エセルの声が投げかけられる。
「向こうの部屋に座るところがあるだろう?」
 言われたとおりにアーチを抜ければ、そこには天蓋つきの立派な寝台があった。シキには調度品の価値など良く解らなかったが、それでもこの寝台が高級な品であることは見てとれた。エセルがいつも身に着けている、仕立ての良いズボンといい、真っ白で折り目正しいシャツといい、うすうすそうではないかと思っていたが、彼はかなり裕福な身の上であるのだろう。
 部屋の中に椅子を見つけられず、仕方なくシキはさっきの部屋に戻ろうとした。そこへ両手にグラスを持ったエセルがやってきて、仏頂面で口を開いた。
「座れ、と言っただろう。立ったままの飲食は淑女のすることではないぞ」
「でも、椅子が」
 反論しかけて、エセルが寝台を指し示しているのに気づき、シキはつい肩を落とした。
「掛布が汚れてしまいます」
「私が構わないと言っているのだ」
 頑として譲らないエセルに、シキは不承不承従った。それでもやはりズボンの汚れが気になって、ちょこん、と浅く腰をかける。
 その様子にエセルは小さく眉を上げ、それから豪奢なグラスをシキに手渡した。
「隊長、これ……」
「麦酒だ」
「仕事中ですが」
「生憎、ここには酒しか置いていないのでね」
 そう言って、エセルは一息にグラスの中身をあおった。
「なんだ、飲まないのなら私が代わりにもらうぞ」
 手のひらのグラスの中、黄金色の液体に細かい泡が次々と弾けている。シキの乾ききった喉がごくりと音を立てた。
 だが、このあとも仕事が待っていると思えば、これを飲んでしまうわけにはいかないだろう。何より、シキが今こうしている間も、同僚達は各々の任務についているのだ。のんびり休憩している場合ではない。
「申し訳ありませんが、仕事に戻ります」
「まあ、待て」
 シキの手からグラスを受け取ると、エセルはまたも一気にそれを飲み干した。空になったグラスを寝台脇の小卓に置いてから、そっとシキに手を差し伸べる。
「上着を貸したまえ。埃を掃ってやろう」
「大丈夫です」
 そう言ってシキは立ち上がった。「隊長のお蔭で、人心地つくことができました。ありがとうございました」
「埃を掃ってやると言っているのに」
 溜め息をつくエセルに深々と頭を下げて、シキは踵を返した。玄関へと向かおうと一歩を踏み出したところで、前触れもなく何かがシキの足にぶつかってきた。
 足払いだ、と思う間もなく、油断しきっていたシキはあっけなくバランスを崩した。転倒するシキの身体を力強い腕が捕まえたかと思えば、そのまま後方へと掬い投げる。我に返った時には、シキはふかふかの寝台の上に仰向けになって横たわっていた。
「それでは、着たまま掃うことにするか」
 にこやかにそう宣言してから、エセルがシキに覆いかぶさってくる。何が起こっているのか理解できず、ただまばたきを繰り返していたシキの脳裏に閃くものがあった。
 出動前の会議室、届かなかったインシャの声。だが、あの唇の動きは……。
『……隊長には気をつけて』
 愕然と息を呑むシキに、エセルは愉快そうに口角を上げた。
「さて、どこから埃を掃ってやろうかな」
 まるで舌なめずりをするかのごとく、エセルが上唇を軽く湿す。油断のない猛禽類のような濃紺の瞳に、好色そうな色が溢れていた。
「た、隊長っ、な、何をっ」
「無粋なことを聞くな。男と女がこの体勢で、一体他に何をすると言うのだ?」
「冗談はやめてください!」
 シキにはこの状況がさっぱり理解できなかった。これは何かの間違いだ、そう信じて必死で訴えかける。
「冗談?」
 軽く眉を上げてから、エセルは極上の笑みをシキに返した。そうして、耳元に口を近づけると、低い声で囁いた。
「私はいつだって真剣だ」
 耳たぶを震わせる熱い息に、シキは無我夢中で首を振りたくった。
「どうした? これだけ自分から誘っておいて、今更嫌だと言うのか?」
「さ……!?
 意味が解らずに目を丸くするシキに対して、エセルは怪訝そうに眉をひそめた。
「抱いてくれ、と言わんばかりに全身で媚を振り撒いていたではないか。よくぞ今まで我慢したものだ、と自分を褒めてやりたいぐらいだ」
「はぁっ?」
 心の底からの素っ頓狂な声を上げ、シキはエセルを睨みつけた。
「訳の解らないことを!」
「解らないならば、皆に聞いてみると良い。今朝は隊の誰もがそんな君に釘づけだったぞ。いやはや、女は化ける、とはよく言ったものだ。つい昨日までは、少年のようにしか見えなかったのに、これではまるで別人だ」
 感心したように目を細めてエセルが呟く。「一体何が……、いや、誰が、君を『女』にした?」
「そんなの、知りません! 分かりません! 何かの間違いです!」
「……間違い?」
 シキの必死の叫びが届いたのか、エセルが眉根を寄せたままようやく身を起こした、その時、表の扉からノックの音が響いてきた。
 
 
 

    四  復讐
 
 さて、時刻は、警備隊が朝礼を行っていた頃まで少し遡る。
 ルドスの高台に建つ、とある一軒の屋敷。通りから一番遠い棟の二階の部屋に、七人の男達が集まっていた。窓には厚いカーテンが隙間なくひかれ、室内は夜明け前のように薄暗い。
「それだけは絶対に承知できません!」
 上品な薄紫の上衣を纏った男が声を張り上げた。男の指に光る幾つもの装飾品が、彼の生活レベルを雄弁に物語っている。
「代わりの者にさせれば良いでしょう! ラグナ様にもしものことがあれば……」
「俺個人の問題だ。『黒の導師』も代わりがいることだしな」
 一人だけ椅子に腰をかけ、ウルスは不敵な笑みで返答した。その声に、部屋の一番隅を居心地の悪そうな表情でうろうろしていたレイが、思わず反応する。
「俺は、そんなもんになる約束なんかした憶えないぞ」
 一身に部屋中の視線を集めてしまったのを感じて、レイは更に落ち着かない様子で小さい声でつけ加えた。「それに、ナントカの導師じゃなくて『お前』がいなくなったら困る、ってその人は言ってるんじゃないか?」
「そう! そのとおりなんです! あなた様の代わりは誰にもできません。ご再考くださいませ、ラグナ様!」
 今日は年に一度の収穫祭だ。それに来賓として参加するために、帝都からセルヴァントという貴族がやってくるという。
 そしてウルスは、自らその貴族を手にかけるということを、たった今この場で宣言したところだった。
「衆人監視のパレードだ。当然警備は厳重だろう。だが……、サン」
「はい。警備隊を含む領主の騎士団が警備に当たる模様です。名誉ある沿道の警備は騎士団が、警備隊は市内の警邏を受け持つとのこと」
 名誉ある、のくだりは明らかに揶揄が込められた口調であった。サンの言葉を受けて、嬉しそうにウルスは言う。
「馬に乗るだけが能の愚鈍な連中でパレードを固めるらしい。この機に乗じないでどうするというのか」
「しかし、危険が多過ぎます! 今、ラグナ様にもしものことがあれば、せっかくまとまりつつある同志達が、再び霧散することになってしまうでしょう!」
 蒼白なおもてで口角泡を飛ばす薄紫の男に、ウルスはやや怪訝そうな表情を作った。
「手を尽くし、巣穴に引っ込んだままのアナグマを外へと誘い出してくれたのはお前だろう。いくらルドスの現領主がぼんくらだとしても、苦労や危険の伴う仕事だったには違いあるまい。どうして今更躊躇うのか」
「ラグナ様が直々にお手をくだすおつもりであると知っていたら、お手伝いなど致しませんでしたものを」
 男はつらそうな表情でそう絞り出す。「ですから、どうか自重を。何卒、他の者にお言いつけください。ラグナ様の代わりはどこにもいないのですから!」
 
 
「どうしたのだね? 難しい顔をして」
 ザラシュが眉間に皺を寄せるレイの傍らに寄って来た。
「……俺、ここにいてていいのかな?」
 いつになく神妙な表情で、レイはポツリと呟く。
 これまでの半年間、「赤い風」の三人とあちこちの町に立ち寄っては、彼らが色んな人間と会うのを、レイは少し離れた立ち位置から傍観しているのみだった。それが今回は何故かこうして一緒に部屋に呼ばれ、途方もなく大事な話を聞かされている。レイは、事ここに至って、ようやく自分の不安定な立場に思い当たったようだった。
 ザラシュはくつくつと笑うと、若き魔術師の肩を軽く叩いた。
「お前の為したいように為せば良い」
 答えになっていないその返答に、レイは軽く息を吐いた。
「……大体、俺はアイツの本当の名前すら知らないのに。ウルス? それともラグナ? それかまだ他にあるのですか?」
「ふむ。まあ、別に今更お前に隠すことでもないだろう」
 そう言って、ザラシュは静かに語り始めた。
 
 ナナラ山脈のすぐ北側に広がるという内海、オンファズ海。その更に北にカラントという王国がある……いや、あった。
 冬の長い、森と湖の大地。決して豊かではなかったが、善政を敷く国王のもとで国民は幸せな日々を送っていた。
 国政にかまけ長らく独り身であった国王は、四十路に入ってから美しい町娘と恋に落ち、そして一人の王子をもうけた。唯一の懸念であった跡継ぎの問題も解決し、カラントは永きに亘る繁栄を約束されたかのようだった。
 
「……その王子が、彼だ。カラントの忘れ形見、ラグナ王子」
 レイは、他の男達とまだ何か言い合っているウルスをそっと見やった。
「……王子様? らしくないなあ。で、そんなやんごとなき方がなんだってこんなところに?」
「帝国が東方に進出する少し前、カラントもその標的となっていたのだよ。
 幸い、事前にその情報を得たカラント王は、戦を避けるために帝国と和平を結ぼうとしたのだ。帝国側でも、セイジュ帝の強い願いから、国境の町で和平交渉の席を設ける運びとなった。
 そして、カラント王は信頼できる精鋭を引き連れて、その町へと出立し、……その道中忽然と消息を絶った」
 予想外の話の展開に、レイは思わずザラシュを振り返る。
「当然、和平は成らぬ。王は主だった側近を連れて行方不明となってしまったから、国中が大混乱だ。そんな時に、十八歳の誕生日を迎えたばかりのラグナ王子が、自ら父王の手がかりを探しに城を抜け出した」
「……らしいなあ」
「彼には母方に同じ歳の従兄弟がいた。性格は正反対だったそうだが、容貌は非常に良く似ていたらしい。彼はその従兄弟を自分の身代わりとして王宮に置き、自身は従兄弟の名、ウルスを名乗って城を出たのだ。
 そして、その一週間後、帝国に一通の書状が届いた。カラント国宮宰セルヴァントから、反故になった和平を結びたし、と。その書状には、帝国への忠誠の証として、和平を踏みにじった王と王子の首級を捧げるとあった……」
「それって……」
 瞳に怒りを滲ませるレイに、ザラシュは軽く頷き返す。
「そうだ。最初から仕組まれていた裏切りであろうな。セイジュ帝は驚いておられたが、アスラ帝はこの申し出を大歓迎していた。もしかしたら、兄帝もこの企みに加担していたのかもしれん……」
 遠くを見るような目つきで、ザラシュはしばし黙り込んだ。
「カラント王国は解体され、重職にいた者は各地に移動させられた。この館のあるじ、アカデイア殿もそんな一人だ。氏は幸いこの地で成功を修められたそうだが、零落してしまった者も数多いと聞く。カラントの民にとって、セルヴァントは憎んでも憎みきれない男なのだろうな」
 
 
 
 パレード見物の人々から少し離れた街角に、人待ち顔で佇むサンの姿があった。のんびりして見える所作とは相反して、その瞳には一分の隙もない。
 と、彼が勢い良く背後を振り返った。
 刃物のごときサンの眼差しが、一呼吸おいて緩められた。彼は大きく息を吐いてから、咄嗟に懐に差し入れた右手をそっと外へ出す。
 彼の視線の先、建物の陰から、先ほどのスリの少年が躊躇いがちに姿を現した。
「どういうつもりなんだよ」
「知り合いが困ってたら、助けたくなるのが人情ってもんでしょ」
 そう事も無げに言うと、サンは涼しげな笑みを浮かべた。
 サンが以前に何度かこの街に来たことがある、という先だってのウルスの弁の通り、彼はこの少年と既に面識があったのだ。
「今度ばかりは、礼は言わねーぞ」
 刺々しい少年の言いざまに、サンの眉が曇る。怪訝そうな表情で、サンは大袈裟に首をかしげてみせた。
「前の時はともかく、今日のは完全に濡れ衣だろ? それこそ、俺に感謝して当然だと思うけど?」
「本職はあんな手を使わない」
 その一言を聞いて、サンの目が細められた。
「へえ? んじゃ、どんな手を使うわけ?」
「それを他人に教えるほど俺は馬鹿じゃねーよ」
「……まだ、足を洗っていないのか」
 サンが小さく溜め息をつく様子に、少年は僅か頬をふくらませた。
「スリはやめたよ」
 驚きの表情で顔を上げたサンに、少年は少しだけ照れくさそうに耳の後ろを掻く。「今、庭師の見習いをしててさ。それで細々と食いつないでる」
「良かったじゃないか」
 そう微笑むサンは、本当に嬉しそうだった。
 だが、少年は再び眉間に険を刻むと、真っ正面からサンを指さした。
「俺のことはどうでもいいんだ。それよりも、問題なのはあんたのほうだ」
 ぎりぎりと歯ぎしりせんばかりに、少年はサンを睨みつける。
「何を企んでんだよ」
「別に」
 あくまでも軽いサンの物言いに、少年はつい声を張り上げた。
「だから、本職はあんな場所であんな仕事はしないんだよ。大勢で猿芝居打って、警備隊の目を人ごみに向けさせて、お前ら一体何をするつもりなんだよ!」
 肩で息をする少年をじっと見つめたのち、サンはそっと顔を背けた。
「こんなの、全然あんたらしくないだろ!」
「一年あれば、人は変わるんだ。お前がスリをやめたようにさ」
 抑揚のないサンの声に、少年は愕然と息を呑んだ。
「すぐにここから立ち去れ。俺は警告したぞ」
 そう言ってから、やにわにサンは大通りの方角に向かって手を振った。「こっちですー」
 二つの頭が、サンの声に応えるようにして人垣をかき分けてくる。
 少年は物言いたげな視線を無理矢理伏せて、そうして人波の中へと走り去っていった。歯を食いしばりながら、無言のままに。
 
 
 少年と入れ替わるようにして、ウルスの姿が人々の間から吐き出された。
「……今のは?」
「宿の客引きだそうです」
 なんでもないように肩をすくめたサンが、次の瞬間盛大にふき出した。ウルスの後ろから姿を現したレイを見て。
 ウルスもレイも、揃って南方の民を偽装していた。白い布を黒い輪で頭にとめ、白いシャツを着たウルスは、まさしく精悍な砂漠の民といった風情で、惚れ惚れするほどその装束が似合っていたが、対するレイはと言うと、頭を覆う白い色がいつもの黒装束に釣り合わないこと甚だしい。
「……レイ、お前、似合い過ぎ」
「何とでも言え」
 憮然とした表情で、レイはサンを睨みつける。
「首尾はどうだ」
「どうやら奴さんの馬車、予定よりも早くここを通過しそうです」
「仕掛けるタイミングは、ダラスに任せよう。そう伝えてくれ。俺はそれに合わせるから」
 そう言って、ウルスは視線を大通りのほうへ向けた。歓声に沸く人々を、無感動な瞳でねめつける。
 ウルスの眼差しは、気安く声をかけることを躊躇わせるほど鋭く、冷たかった。レイは仕方なく、サンのわき腹を肘で軽く小突く。
「おい、俺は一体何をすればいいんだよ」
「何って、ウルスさんから聞いてないのか?」
「聞いてねーよ」
「……じゃ、別に何もしなくていいんじゃねーの?」
 眉間に皺を寄せて、レイはサンを見る。
「でも、必要があれば手伝えって言ってたぞ」
「じゃ、レイが加勢が必要だと思った時に手伝えば?」
「だから、それが解らねーって言ってるんだ」
 サンは、呆れた、と言わんばかりの表情でレイのほうに向き直った。
「あのな、いい加減察してくれよ。細かいこと全部知ってしまったら、万が一の時にお前もタダじゃすまないだろ?」
 そして大きく溜め息をつく。「お前の事情は解ってるからさ、無理強いはしたくない。今ならまだお前は『部外者』だ」
 それを聞いたレイの胸中に去来した感情……それは一種の後ろめたさだ。一宿一飯どころではない恩を受けながら、それを甘んじて貪るだけの自分に対する。
 サンはそんなレイの心を読んだかのように、続けた。
「お前が俺達と共倒れになると困る理由は、他にもあるんだ。解るだろ?」
 そう言ってサンはきびすを返す。
「頼りにしてるぜ、『黒の導師』殿」
 レイの肩を軽く叩いて、彼はウルスのあとを追って沿道へと向かった。
 
 
 仮装した人々がゆっくりと大通りを練り歩く。色とりどりの山車が、囃子手に囲まれながら太鼓の音とともに姿を現した。
 人垣の中、長身を活かして遠眼鏡でパレードの後方を見つめていたサンが、来た、と呟いた。
 華やかな列の最後尾、煌びやかに飾られた四頭立ての箱型馬車があとに続いている。その両脇を、馬に乗った騎士と歩兵達が固めている。護衛は思ったよりも少なかったが、その代わり、沿道には三丈おきに騎士が立ち、つつがない行進を見守っていた。
 サンから遠眼鏡を受け取ったウルスは、独りごちた。
「やはり箱型で来たか」
 二人は、急ぎ足でレイのいる路地へと戻った。ウルスはサンに遠眼鏡を返しながら、嘲笑する。
「沿道に手を振る勇気もないのならば、こんなところに出てこず、さっさと領主の屋敷へ直行すれば良いものを。臆病者のくせに、見栄だけは一人前だな」
「俺も行きましょうか」
「手出し無用だ。あいつはこの俺がやる。そうでなければ意味がない。それよりもあとの援護を頼む。それと……レイ」
 いつもどおりに傍観者に徹していたレイは、いきなり名前を呼ばれてびっくりした。
「赤い風、というのは、昔、俺につけられた二つ名だ。その由来を見せてやろう」
 そう言って、ウルスは頭の白布を毟り取った。肩口に溢れた鉄錆色の髪が、ふわりと揺れる。それから彼は、先ほど同志の一人が連れてきた栗毛の馬にひらりと跨った。

 
 
 最後の山車がレイの目の前をゆっくりと通り過ぎていく。
 彼には、全てがまるで夢の中の出来事のような気がしてならなかった。
 自分が今ここにいるということ、何故ここにいるのかということ、故郷を捨てたということ、シキを失ったということ、ロイを裏切ったということ……。つい、現実から乖離してしまいそうになる意識を、レイは激しく頭を振って繋ぎとめようとした。
 
 時が来た。
 場違いな喧騒が大通りの向こう側から湧き起こった。
 沿道の人垣が大きく崩れる。怒号、悲鳴、そして石畳を打つ蹄の音。
 突如としてパレードの列に、何頭もの馬が乱入した。
 
 色めき立つ騎士達。
 興奮して暴れまわる馬は、その数十四頭。観客達は、わけも解らないままに口々に何か喚きながら、脇道へ、建物の傍へと一斉に避難を始めた。
 軽い恐慌が一帯を支配する。
 箱型馬車を牽いていた四頭の馬も、すっかり我を失って後ろ足で立ち上がり、暴れ、いななく。
 ウルスは馬の腹を蹴った。混乱に乗じて、大通りの真ん中、立ち往生する馬車へと突進する。護衛の騎士が槍を構えた時には、既に馬上にウルスの姿は無かった。
「屋根だ!」
 歩兵の叫びを聞いたのか、馬車の扉が開く。
 馬車の屋根の上に着地したウルスは、風に髪を逆巻かせながら、扉から身を乗り出した人物に剣を突き立てる!
 サンが援護にまわるために駆け出そうとしたその瞬間、青白い光が辺りに閃いた。
 
 ウルスの渾身の一撃は、見えない壁に阻まれていた。
 古代ルドス魔術、「盾」の術。魔術師がいるのか、と胸の内で毒づいたウルスは、青白い光の下におのれの標的とは違う顔を見て、愕然とした。
 眩いばかりの金の髪を後ろに撫でつけたその姿。精悍な鼻筋、引き締まった顎、そして暗い海の色のような瞳。見目麗しきその人は……。
「違う! そいつは……その方は、アスラ兄帝だ!」
 サンの叫びが辺りに響き渡る。その一瞬、世界は凍りついたように動きを止めた。
 
 最初にその呪縛を破ったのはウルスだった。彼はもう一度皇帝に向かって剣を振り下ろした。
 だが、またも青白い光が刃を阻む。
 そうこうしている間に、騎士達が馬車の周りに馬を寄せてきた。各々剣を抜き、馬車を、ウルスを取り囲む。
 ここまでか。ウルスは髪を振り乱して、吼えた。
 
 ウルスが泣いている。唐突にレイはそう思った。
 復讐を誓って、自分の身代わりとして命を落とした従兄弟の名を継いで、果敢にも巨大な敵に叛旗をひるがえした男が、今まさに絶望に囚われようとしている。
 レイは意を決すると懐から短剣を取り出した。素早く「打克の刃」の術を剣にかけ、狙いを定めて投げつける。
 魔術の力を与えられた短剣は、青白い光の壁をものともせずに切り裂いた。
 かん高い音が空気を震わせ、短剣が馬車の扉に突き刺さる。
 馬車を包囲しつつあった騎士達の注意がそちらへと逸れた。その隙を逃さず、ウルスは馬車の屋根から飛び降りた。間髪を入れずに、剣で四頭の馬と御者台を繋ぐ綱を切る。暴れ、逃げ惑う馬に、騎士達の包囲網が再びかき乱された。
 
 皇帝の白い頬に引かれる赤い一筋。
 じわりと滲み出る血を手の甲で拭って、アスラはレイに視線を向けた。
 禍々しいほどに冷たい、刃のような視線を。
 
「皇帝陛下をお守りするのだ!」
 ようやく我に返ったのか、徒歩の騎士達も体勢を整え始める。サンは懐から出した何かを思いっきり地面に叩きつけた。煙幕が張られ、騎士達は再び浮き足立つ。
 それを合図に、往来のあちこちで同様の煙幕が上がった。大通りの一角が完全に煙に沈み、反乱団の姿を覆い隠す。
 
 
 まだ辺りで暴れる馬達と、馬車に突き刺さった短剣。
 煙が晴れた時に残されていた蛮行の残滓は、ただそれだけであった。

第八話  絡み合う糸

    一  隙意
 
「隊長、こちらにいらっしゃいますか」
 ノックの音に続けて表から聞こえてきたのは、警備隊副隊長インシャの声だった。
 シキの上にのしかかっていたエセルは、眉間に深い皺を刻むと、目をきつくつむった。それから溜め息をついて、シキの身体から、寝台から、降りた。
 即座にシキも、勢いよく立ちあがり、エセルに対して一挙一足の間合いを取る。
 そんなシキの様子には一瞥もくれず、エセルは険しい眼差しを扉に投げかけた。
「何だ」
「パレードにて暴漢が出ました」
 冷静な声が、部屋の空気を一変させる。仕事の顔に戻ったエセルは、玄関扉に駆け寄るなり、勢いよく扉を開け放った。
「被害は」
 戸口に姿を現したインシャは、表情一つ変えず報告を続けた。
「アスラ皇帝陛下が軽い傷を負われました」
「騎士団組は何をしていた」
「彼らの最善を尽くしたのでしょう」
 舌打ちの音とともに、エセルは懐から取り出した何かを、インシャに手渡した。「お前達は本部で待機しておけ」とだけ言い捨てて、靴音も高らかに走り去っていく。
「シキ」
 インシャに名を呼ばれ、シキも慌てて部屋を飛び出した。
 決まりの悪さから視線を地面に落とすシキの横で、何事もなかったかのようにインシャが、エセルから受け取った鍵で扉を施錠する。
「では、戻りましょうか」
 インシャの声からは、何の感情も読み取れなかった。
 
 
 警備隊本部の一階、玄関ホールのすぐ左手に位置する談話室。南北に長いこの広い部屋には、食堂として使われていた頃の名残の長いテーブルが中央に置かれている。
 玄関ホールに一番近い北側の壁に一つ、長廊下に面した西側に二つ。この部屋には全部で三つの扉があった。それとは別に、南側の壁、暖炉の脇に厨房へと通じるアーチが一つあり、水差しを持ったインシャがそこから姿を表した。
 皇帝陛下襲わるる、の一報に、どうやら他の隊員全員が出払ってしまっているようだった。いつになく静かな部屋の中に、水差しからカップに水を注ぐ音が一際大きく響く。
 シキは椅子から立ち上がると、インシャに向かって深々と礼をした。
「さっきは、ありがとうございました」
 インシャが来なければ、どうなっていたことか。シキは改めて感謝の意を表した。
 エセルがシキの懇願を聞き入れてくれれば問題はないが、もしも、彼が強硬手段に出たならば。そうなれば自分は彼を拒みきれなかったに違いない、と、シキは思っていた。
 小奇麗な部屋、上等な寝台、高価な衣服。隊ではあまり表立って語られていなかったため知らなかったが、エセルは特権階級に属する人間なのだろう。あの時、シキはそう悟ったのだ。
 ルドスに移り住んで半年、警備隊の仕事を通じて、シキは身分制度というものを嫌というほど目の当たりにしてきた。権力者がもの申せば、黒も簡単に白くなる。彼らに逆らうことの難しさたるや、生半可なものではない。それに、シキは、今警備隊を辞めるわけにはいかなかった。反乱団の奴らに鉄槌をくだすには、警備隊の情報網と権力が必要だからだ。
 となれば……、エセルが我を通そうとする限り、シキに残された道は一つしかない。
 シキはもう一度溜め息をつくと、再度インシャに頭を下げた。
「それと……、すみません……せっかくの忠告を無駄にしてしまって」
「別に貴方が謝ることではありません」
 テーブルの上に二つのカップを並べてから、インシャはシキに席に着くよう促した。そうして彼女もシキの隣の椅子に腰をかける。
「こうなることが解っていて、はっきり言わなかった私も悪いのだから」
「え? 解っていた……って?」
「貴方の気配が……昨日までとは明らかに違っていて……」インシャは少し言いよどんだのち、躊躇いがちに言葉を継いだ。「その、なんだか急に女らしく、色っぽくなった、というか……」
『一体何が……、いや、誰が、君を︿女﹀にした?』
 エセルの言葉を思い出し、シキの眉間に皺が寄る。
「そんなに、私の気配、変、ですか?」
「いえ、一般的には『普通になった』と言うべきなのかもしれません。でも、今までの貴方を見慣れていた人間にとっては、あまりにも突然で、そして刺激的だった……」
 大きな溜め息を吐き出してから、インシャはシキを正面から見つめた。
「彼がそんな貴方を放っておくはずがありません」
「え、でも、そんな、それだけで……」
 理解できない、と首を振るシキに、インシャはまたも溜め息をつく。
「半年もここにいて気がつきませんでしたか? 彼の華々しい女性遍歴に。ガーランなどが、始終それをからかっていたでしょうに」
 ルドスに来てからというもの、シキは極力他人と深く関わらないようにしていた。その結果がこのざまだ。シキは思わず唇を噛んだ。おそらく、エセルの身分についても、知らなかったのはシキぐらいなものなのだろう。
「……その、……単なる冗談だと、思っていました……」
「女と見れば、見境なしだから、彼は。……警備隊隊長としては、優秀な方なのですけどね」
 やれやれ、と肩をすくめたインシャの口元が、僅か綻んだ。薔薇色の唇から、白い歯がこぼれる。
 エセルのことを、まるで手のかかる子供か何かのように語るインシャの瞳はとても優しくて、シキは思わずどきりとした。
「鉄の女」だとか、「怒れる女神」だとか、インシャを揶揄する言葉は隊員達の口によくのぼる。だが、その口調にいつも親愛の情が込められていることに、シキも気づいていた。たぶん、皆、副隊長のこの笑顔を一度ならず見たことがあるのだろう。勿論、隊長も……。
「何か?」
「いえ、その、副隊長も色々大変だな、と」
 つい余計なことを想像してしまい、シキは慌てて態度を取り繕った。だが、インシャの槍のごとき視線は、容赦なくシキに突き刺さる。
「どうして?」
「あ、いや、その、いつも隊長の補佐で傍にいなきゃいけないわけだし」
「彼が私に言い寄ってくる、とでも?」
「だって、副隊長、素敵だし……」
 そこでインシャは少し意外そうに片眉を上げた。
「その意見は初耳だわ」
「当たり前のこと過ぎて、皆わざわざ言わないだけですよ」
 お世辞と思われたらどうしよう、と心配しながらも、シキは思いきって断言した。だが、インシャはにべもない様子で視線を逸らせる。
「私が隊長の誘いに乗ると思う?」
「……そうですよね、副隊長はそんな迂闊じゃないですよね」
 私と違って、と、シキが自虐的に一言つけ加えたところで、インシャの冷たい声が宙を切った。
「迂闊だわ。そして、どうしようもなく愚かしい」
 自分のことを言われたのだと思って、歯を食いしばるシキの目の前、インシャの表情が、切なそうに歪んだ。
「貴方のことではありません、私のことです」
「え?」
「私は、貴方が思っているような人間ではありません」
 そう言い切ったインシャの青い目は、まるで底なしの淵のようだった。
 
 
 数刻後、シキとインシャの二人は資料室にいた。
 窓の外はすっかり闇に沈んでしまっていたが、同僚達はまだ誰も帰ってこない。皇帝陛下襲撃事件ともなれば、そう簡単に事は片付かないのだろう。待機中といえども、ただ無為に時間を潰すのはいかがなものか、と揺れるランプの火を頼りに、二人は反乱団についての手がかりを探し続けた。
 
「どうして、職務を無断で離れたのですか?」
 先刻、談話室でインシャにそう尋ねられ、シキは素直にサンのことを語った。故郷での出来事も、資料室で脱走近衛兵の通告書を見つけたことも、全て包み隠さずインシャに話した。
 シキがレイのことを他人に語ったのは、実にこれが初めてのことだった。事態は何も変わっていないというのに、ただ話を聞いてもらったというだけで、何故かシキの心はほんの少しだけ軽くなったような気がした。
「通告書があったということは、人相書きも回ってきた可能性がありますね」
 インシャの一言で、二人は資料室へと足を運ぶことにしたのだ。そうして書類の箱をあちこちひっくり返すこと半時、サンと言われればそう見えなくもない、かなり微妙な出来の似顔絵を部屋の片隅から見つけることができた。
「通告書を処理した者は調べてみないと誰か分かりませんが、きっとこの絵では何の役にも立たないと思ってよけておいたのでしょう」
 大きな溜め息をついて、インシャが人相書きを机の上に置いた。「所詮は帝都での問題に過ぎない、と判断する気持ちも分からないでもありません。人相書きを掲示する場所にも限りがありますし」
 でも、これからは、どこからのどんな通告書であろうと、隊内での周知を徹底しなければ。インシャは自分に言い聞かせるようにそう呟いてから、さっき訓練場の壁から剥がしてきた一枚の人相書きを、サンのそれの横に並べた。
 そこには、波打つ黒い髪を肩の下まで伸ばした男が描かれていた。
「これは、昨年に嶺北州から回ってきたものです。二年前の北方での騒乱で目撃された、その首謀者と見られる男の人相書きだそうです」
「もしや、この人が」
「今回の襲撃者の中にこの顔があったことを、目撃した騎士団組の一人が奇跡的にも覚えていました」
 騎士団との兼任隊員は、多忙を理由に日頃滅多に本部に顔を出すことはない。当然、訓練に出ることもなければ、訓練場の壁一面に並んだ人相書きを見ることもないわけで、インシャが力を込めて「奇跡」と言うのも至極もっともなことだ。
 我々のうちの誰か一人でもその場に居合わせておれば、と、心底悔しそうに、インシャが絞り出した。
「現場で目撃された主だった襲撃者は、三名。残る二人は、『長身の男』と『白い頭巾をかぶった男』だそうです。確認を取ってみないと分かりませんが、背の高いほうが、貴方の言う『サン』であるかもしれません」
「ということは、今回の事件は反乱団の仕業かもしれない、と」
「ええ、状況から考えてもその可能性はかなり高いでしょう。それに、この黒髪の男も、反乱団に関わっていると目されていますから。ただ……」
 不意に言いよどんだインシャに、シキは知らず身を乗り出した。
「ただ?」
「ただ、この人物については、……死者が甦ったという眉唾物の噂があるとのことで、それで我々も今まであまり重要視していなかったのです」
 ――死者が甦る。
 その冒涜的な響きに、口にしたインシャは勿論、シキも青い顔で黙り込んだ。
 ランプの芯が燃える微かな音が、二人の影を揺らす。
 と、その時、どこか遠くから微かに呼び鈴の音が聞こえてきた。
 
 本部玄関のそれとは異なる、聞いたことのない音色に、シキが眉をひそめる。その横で、インシャが静かに立ち上がった。少し席を外します、と一言言い置いて廊下の扉へ消えていく。
 一人残されたシキは、机の上に広げられていた資料を、黙々と整理し始めた。
 
 
 一通り片付けが終わり、人相書きを訓練場の壁に戻しにいくべきか、と悩んでいるところへ、ノックの音とともにインシャが戻ってきた。
「シキ、こちらへ来てください」
 酷く事務的な口調が気になったが、シキはインシャにいざなわれるがままに資料室を出た。
 淡い月の光が、階段ホールをぼんやりと照らしている。インシャは振り返ることもなく、三階へのぼる階段に歩みを進めた。
 そこは、シキにとっては初めて足を踏み入れる場所だった。
 三階には勝手に立ち入らないように。そうシキは入隊した時に説明を受けていた。そもそも、この建物はかつて貴族様のお屋敷だったという。会議室は遊戯室、談話室は食堂、資料室は書斎、訓練場は大広間。警備隊本部として譲り受けたのは、一、二階のみで、三階は未だその貴族の持ち物となっている、とのことだった。
 何故副隊長は、使われていないはずの三階へと向かっているのだろうか。不思議に思いつつもシキはインシャにつき従って、最上階の床に立った。
 意外なことに、その廊下は綺麗に掃除がなされていた。埃一つ無い床が、窓から差し込む月光に浮かび上がる。
 インシャは、階段ホールから大通りに沿うように伸びる廊下を南へと進んでいった。
「あの……、副隊長、どこへ?」
 資料室を出て以来沈黙を守り続けていたインシャは、突き当たりの扉を押し開けながら、ようやく口を開いた。
「ここよ。さあ、入って」
 月明かりに慣れた目が、暗闇に視力を奪われる。シキは慎重に部屋の中へと一歩を踏み出した。
「副隊長、ここは一体……?」
 返答の代わりにゆっくりと扉が閉まり、部屋が闇に閉ざされる。
 シキが身を硬くして息を詰めていると、部屋の中央が急に明るくなった。
「さて、昼間の続きといこうか」
 覆いを外したランプの傍らに、エセル・サベイジが立っていた。

 
 ランプが置かれたテーブルに、二脚の椅子。少し離れたところに見えるのは、寝台か。周囲が完全に闇に沈む中、右手、正面、左手、と、三方に並ぶ窓の影が、かろうじて部屋の輪郭を浮かび上がらせている。窓の数を見る限り、どうやらこの部屋は資料室二つ分以上の広さを持っているようだった。
「私専用の仮眠室、みたいなものかな」
 シキが問うよりも先に、エセルが答えた。
「もともとは当主の部屋として使われていたからな、単なる寝室とするには少々広すぎるきらいがあるが……まあ、そのおかげで、色んな楽しみ方が、できる。なあ、インシャ」
 すぐ後ろでインシャが身じろぐ気配を感じ、シキは思わず振り返った。
「副隊長?」
 インシャが、顔を背けた。きつく唇を噛みながら。シキの視線を避けるように。
 仕方なくシキは再びエセルのほうに向き直った。
「一体どういうことなんですか? 何故隊長がここにいるんですか? 襲撃事件は? 私はどうしてここに連れてこられたんですか?」
「だから、昼間の続きを、と言ったろう」
「はァ?」
 驚きよりも恐怖よりも、呆れる気持ちが全てを上まわった。こいつ相手では話にならない、と悟って、シキは再度インシャのほうを向く。
「副隊長、これは一体……」
 インシャは、依然としてシキのほうを見ようとない。
「彼女を責めないでやってくれ。私の命令に従ったまでだからな」
「命令?」
「ああ、そうだ。『命令』だ」
 その瞬間、それまで軽薄の極みにあったエセルの気配が、一転して凄惨さを増した。
「インシャ、シキを我がもとへ」
「それは命令ですか」
「そうだ。命令だ」
 表情一つ変えず、インシャがシキの右手を掴んだ。荒くれ者を取り押さえる時のように、シキの右手を背中のほうへ軽くねじる。そうして、部屋の中央へ、エセルのもとへ、シキをゆっくり押しやっていく。
 あまりにも痛々しいインシャの気配に、シキは抵抗することができなかった。ただ呆然と、二人の顔を見比べるばかり。
 エセルの口元には、毒々しいまでの嘲笑が浮かんでいた。にもかかわらず、その眉間には深い深い皺が刻まれていた。
 インシャは、あくまでも無表情だった。衝撃を与えれば壊れてしまいそうな、陶器人形のようだった。
 エセルの前で、インシャはシキを解放した。そうしてそのままきびすを返す。
「……やはり何も言わないんだな」
「何と申せばお気に召すのか、解りかねますので」
 それだけを吐き出して、インシャは静かに扉へと向かう。
「失礼します」
 そして、彼女は一度も振り返らないままに廊下へと姿を消した。
 
 
 

    二  兄帝
 
 ――帰って来なかった。
 部屋に差し込む暁の光に目を細めながら、ロイは身を起こした。
 依然として、階段の上り口に仕掛けた「張糸」の術が破られた気配はない。つまり、シキは帰宅しなかったということだ。
 収穫祭のパレードで何か騒動が持ち上がったらしい、ということは彼も聞いていた。なんでも、帝都の貴族が暴漢に襲われたらしい。いや、襲われたのは領主様だ、お忍びの皇帝陛下だ、と、どこまで本当か解らない尾ひれまでつけて、昨夜ジジ夫人はロイに熱弁を振るってくれていた。
 なんにせよ、警備隊がその事件を片付けるために駆り出されているのには違いない。そのような理由でシキが外泊するのは、決して珍しいことではなかった。だが……、
 ――なんだ、この胸騒ぎは。
 ロイは眉間に深く皺を刻み込んだ。
 
 昨日の朝、ロイが目を覚ました時には、既にシキは家を出たあとだった。「半身」の術に予想以上の力を吸い上げられてしまっていたのだろう。折角の計画を自ら台無しにしてしまい、彼は激しく落ち込んだ。
 そう、ロイは警備隊顧問という立場を利用して、今日一日彼女を休ませるつもりだったのだ。そして、彼女を抱きしめ、その耳元で囁くつもりだった。自分がレイの術を解いたということを。どれだけの情熱をかけて、どれだけの苦労をして、術を解いたのかということを。そうして、この燃え盛る想いを彼女に伝えるつもりだったのだ。
 こんなことなら、彼女を部屋に戻すべきではなかったか。ロイは心の底からおのれの失策を悔いながら、仕方なくシキの帰りを待つことにした。
 
 あれだけの力を注ぎ、入念な準備をしていたにもかかわらず、術の上書きが為されなかったことに、ロイは内心穏やかではなかった。ロイがかけた術はレイのそれと真っ向からぶつかり、その結果、双方ともに弾け飛ばされてしまったようだった。
 ――この術に限っていえば、拮抗していたということなのか。このロイ・タヴァーネスと、名も無き弟子のちからとが。
 悔しさに思いっきり奥歯を噛み締めながら、ロイは独りごちた。
 ――だが、もう良い。レイはここにはいないのだ。今、シキの傍にいるのはこの私。術のことも、魔術に頼るな、というアシアスの思し召しなのだろう。そういうことならば、姑息な手を使わずにものにしてみせよう、彼女を。
 そう思って気持ちを昂らせて待っていたのだが、シキは帰って来なかった。
 ロイは大きな溜め息をつくと、寝台から起き上がった。
 
 
「お客様ですよー、先生ー!」
 朝食を終え、居間で寛いでいたロイに階下から声がかかった。
 ロイ達がルドスに居ることを、更にはこの家に住んでいることを知る者は限られている。幾つかの可能性を思考にのぼしつつ階段を下りると、案の定、玄関広間に、外套を纏った警備隊隊長の姿があった。
「おはようございます。朝早くからすみません」
「……おはよう。何やら昨日は大変だったようだね」
「ええ。その件については、またのちほど報告書を持って来させます」
 ロイは隊の顧問ではあったが、それはあくまでもルドス領主に頼まれての非公式な立場に過ぎない。表向きは、ロイよりもこの十も若いエセルのほうが、社会的地位は上なのだ。だが、エセルは決してロイに対して慇懃な態度を崩さなかった。
 元・帝国宮廷魔術師長、という肩書きがものをいっているのだろう。ならば、とロイもかつての自分の立場にふさわしい態度でそれに臨むことにしていた。この処世術に長けた若者が心中でどのようなことを思っているにしても。
 一階に下り立ったロイは、不思議そうな顔でエセルを見た。
「君がわざわざ自分でここに出向くとは、一体何の用なのかね」
「他の者には任せておけない、大切な用件を承りまして……」
 そこまで言って、エセルは靴の踵を鳴らして直立不動の体勢をとった。
「タヴァーネス宮廷魔術師長様、アスラ皇帝陛下が領主の屋敷でお待ちです」
 
 
 
「随分、嫌われたものだ」
 古めかしい城を嫌って利便性の高い町なかに新しく建てられた、ルドス領主の屋敷。
 いつもは領主が座っている椅子に深く腰をかけ、肘掛に右肘をつきながら、今を時めくマクダレン帝国皇帝は静かに口を開いた。一段下がった所で黙って跪くロイをねめつけて、更に続ける。
「ルドスまで来ていながら、どうして帝都に帰ってこないのだ? 今日来るか、明日来るか、と待っているうちに、もう半年だ」
「……失礼いたしました」
 やっとの思いで、ロイはそれだけを絞り出した。
 十年前、ロイは得体の知れぬ「何か」に衝き動かされるようにして、戦勝に沸く帝都を去った。言葉にできない衝動をどう説明したものか考えつかなかったロイは、役人や同僚達には勿論、あるじであるアスラに対しても、顔を合わせることなく書き置きでのみ別れを告げて宮城を出たのだ。
 その「何か」が、他でもないアスラの視線であったことに気がついたのが、半年前だった。教え子達の雑談によって脳裏に引き出された記憶の中で、主君は禍々しい視線をロイの身体に打ち込んできたのだ。
 そして、あの台詞だ。「黒髪の巫子」と、あからさまな嘲笑に彩られたあの言葉は、ロイの心の奥底に、今も楔のように深く食い込んでいる……。
 イの町を引き払い、ルドスに来た時、ロイはまだレイが生きているという事実を知らなかった。それでも自分の存在を表立たせなかったのは、山脈の向こう側にある帝都の存在が今までよりもずっと近かったからだ。幼少期からの半生を過ごしたあの街が、懐かしくないと言ったら嘘になる。だが、自分の行く末について、ロイはまだ心を決めかねていたのだ。そんなあやふやな状態で、あの視線に捕捉されるわけにはいかない。
 だが、それらは全て、児戯にも等しい悪あがきに過ぎなかった。ロイがルドスに居ることを、兄帝は既に知っていたのだ。そして、半年の猶予ののち、彼はロイを迎えにわざわざこの街までお出ましになったのだ。
 皇帝自ら、かつての家臣のもとへ、直々に。その意味が分からないロイではない。彼は額を床に擦りつけんばかりに身を低くして、畏まった。
 身じろぎ一つしないロイを、アスラの冷たい目が見据える。
 壁際には、皇帝の随行者達と、ルドス領主と、エセルを含むルドスの将官が何人も控えている。だが、まるで深夜の墓場のように、部屋中が静まりかえっていた。
 
 衣擦れの音がして、皆の視線が玉座に集まる。
 アスラが悠然と立ち上がるところだった。
 人々が固唾を呑んで見守る中、皇帝は静かに赤い絨毯を踏んで壇を下りる。やがて彼はロイのすぐ傍までやってくると、ゆっくりと腰を落とした。
 ロイの前髪に、冷たい息がかかる。
「何を怖がっているのだ。暗黒魔術を使用したということか?」
 囁くような小声は、ロイの耳にだけ届いた。反射的に、ロイは大きく息を呑む。
 アスラは、その反応を確認してからおもむろに立ち上がった。そして、部屋中を見まわして、一言、「席を外せ」と命をくだした。
 
 
 最後の一人が扉の向こうに消え、室内にはアスラとロイの二人だけが残された。
「顔を上げよ」
 再び玉座についたアスラは、先ほどまでと比べて若干砕けた調子でロイに言葉を投げた。
 ロイは命に従って、静かにおもてを上げた。まるで首の関節が錆びついてしまったかのような、ぎこちない動きで。
「『誓約』の苦痛は、耐え難いものではなかったか」
 問いかけるふうでもなく、アスラが呟いた。「一体何が君をしてそこまでさせたのか……」
「何故、私が禁を破ったと」
 覚悟を決めて、ロイは口を開いた。兄帝に下手な小細工が通用しないということを、彼は充分過ぎるほど知っていたからだ。
「解るさ。私は君のことならなんだって解るのだからな」
 軽口を叩いて、アスラは口元を緩ませた。だが、ロイの不安感はいや増すばかり。
「安心しろ。別に暗黒魔術を使ったからといって、咎め立てるつもりはない」
 椅子に深く座り直して、アスラは胸のところで両手の指を組んだ。
「黒の導師というのは、暗黒魔術とは何の関係もないのだから」
 ロイはその言葉に思わず唾を飲み込んだ。
 ――やはり、あの時のあの兄帝の表情は、そういうことだったのだ。
「それでは、何故」
 先ほどまでいだいていた畏れを忘れて、ロイは兄帝へ問いかけていた。対するアスラは、玉座に背もたれたまま気だるそうに目を閉じる。
「あれ以上巷間こうかんを混乱させるわけにはいかなかったからな。暗黒魔術を禁じたところで、とりたてて不利益をこうむることもない。ギルドの連中がそれで満足するのなら、それはそれで良いだろう、そう思ったのだ」
 ――では、あの呟きは? 虚空へと投げかけられた、嘲りの言葉は?
 何ものかに急かされるかのように、ロイは身を乗り出した。
「それでは、黒の導師とは? 黒髪の巫子とは何者なのです」
「……聞いていたのか。あの時だな」
 軽く鼻を鳴らしてから、アスラは瞼をゆっくりと開いた。それから意味ありげにロイを見つめる。
 主君の瞳に、あの時と同じ嘲笑の気色けしきを感じ取り、ロイの胸の奥がざわめいた。
「黒の導師も黒髪の巫子も、その指し示すものは同じようなものだ。そうだな、数多あまた存在する『黒髪の巫子』のうちに『黒の導師』と名乗る者がいる、と言うべきか」
「一体何者なのですか?」
「……邪教の祝福を受け、邪なる神々に仕える者達のことだ」
 アスラの双眸に、暗い炎が入る。
「邪教の神に奉仕し、その代わりに神はその者の生命を守る。 巫子となりし者はその髪を闇の色に染め上げられ、人々と神の橋渡しとなる……。解るか? どれだけそやつらが、アシアス信仰にとって危険な存在か」
 その瞬間、ロイの脳裏を稲妻が走りぬけた。次いでアスラの一言が、何度も脳蓋にこだまする。
『その髪を闇の色に染め上げられ――』
 
 ――夕方になっても、彼ら二人は教会に帰って来なかったという。町の人間は総出で辺りを探し回ったらしい。
 二人は天涯孤独な孤児だったが、彼らの両親の記憶は人々にまだ新しかった。町のために戦いに赴き、命を散らした英雄達の忘れ形見。皆必死に、仕事の手すら休めて、川の底まで浚ったそうだ。
 そして、一夜明けて彼らは町外れの丘の上で発見された。髪を漆黒に染め上げられた姿で――
 
 ロイは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 黒髪の巫子。
 異教の書物に散見されるその名前。
 その者は生まれながらに黒髪なのだと思っていた。
 我々とは違う存在だと、神の領域に属するものだと、そう思い込んでいたのだ。
 だから、シキとレイは「違う」と思っていた。「巫子」の手がかりになるやもしれぬとは思ったが……彼ら自身のことだとはついぞ考えもしなかった!
 
 ロイの喉が、ごくり、と鳴った。
 シキに与えた「偽装」の指輪。自分の存在を兄帝に気取られたくなくて、あくまでもロイ自身の保身のために与えたあの指輪が、このような形で役に立つとは。彼女が黒髪であることをこの方に知られるわけにはいかない。ロイは腹の底に力を込めた。
「……何故、そのことを今まで仰らなかったのですか」
「言っただろう。あの時は不可能だったのだ。皆、聖なる神像を受け取るだけで精一杯であっただろう?
 それに、短絡的に黒髪などという目印を掲げてしまえば、感情的、強迫的な『人狩り』が行われる恐れがあった。それこそ、黒に近い色味の髪をした数多の者の命を無駄に散らせる羽目になったに違いない」
 兄帝の言葉は、ロイが想像もしなかったものだった。思わずまばたきを繰り返したロイに、アスラの苦笑が投げかけられる。
「柄に合わないことを、とでも言いたそうな顔だな、ロイ。民あっての国だ、と、セイジュも申しているだろう。
 そもそも、黒の導師が現世にヒトとして存在するかどうかすら明らかではない以上、不用意なことは言えなかった。実体を持たぬ存在が無辜の者に憑依している可能性だってあろう。それゆえ、私は警告だけで諦めたのだ」
 そう言って、アスラは髪をかき上げた。指の動きに合わせて金糸のような髪が、さらさらと波打つ。
 この十年という歳月は、皇帝の風貌を少しもくすませていなかった。齢にふさわしい風格こそつきはしたが、それすら麗しき飾りとなって、この芸術作品を彩っている。それは双子の弟であるセイジュ帝も同様だろう。
 そして、彼らを飾るのは見目だけではなかった。魔術と武術と、智謀と慈愛と、畏怖と尊敬と。実に対照的な双子の皇帝は、たった二人で人々の羨むもの全てを所有していた。
「……兄帝陛下はどうしてそのようなことをご存知なのですか」
 そう、ロイが十年かかっても知りえなかったことを。いくらアスラが天に二物を与えられた存在だとしても、ロイもまた人々に天才と呼ばれる人間だ。ついついむきになってしまう。
「神の声を……聞いたのだ。知っているだろうに」
 少し呆れたような顔で、アスラは答えた。それから、何か思いついたように少し眉を上げると、ロイの目を正面から見据えた。
「君になら、全てを教えてやってもいい。帝都に帰って来い」
 全て。
 ロイの心が、ぐらりと揺れる。
 だが――
「君のために、この十年、宮廷魔術師長の役は空けてある。再び、我の右手となれ」
 ――だが、ロイの頭の奥底が、警告していた。
 行くな、と。
 、と。

 
 黙り込むロイにアスラは軽く息を吐いてから、話題を変えた。
「確か、この州のイの町だったか」
 そう言って、アスラは陽光の差し込む窓のほうを見やった。
「十年……、よい教師にはなれたのか? タヴァーネス?」
 皮肉なのか、何なのか。アスラの真意を図りかねて、ロイは微かに眉を寄せる。
 だが、アスラの次の言葉に、一瞬にしてロイの心臓は跳ね上がった。
「弟子が二人いるらしいな」
 ロイは思わず目を逸らす。そのあとに続くであろう単語を予測して。そしてその予想は的中した。
「……黒髪だと、聞いたが……」
 シキを守れ、シキのことを知られてはならない。そうロイの中で本能が囁く。
「いました。黒髪なのは一人だけですが……、彼は、半年前に私がこの手で屠りました。暗黒魔術で」
「ふむ」
 アスラが微かに眉根を寄せた。「なるほど、あの時の波動はそれだったのか」
 やむをえぬか、と独白を漏らしてから、アスラはゆっくりとロイを見た。
「そうか。それならさしもの巫子とて、ひとたまりもなかっただろうな。しかしまた、どうして弟子を手にかけることになったのだ?」
「陛下を裏切ろうとしたからです」
 その言葉に、アスラはふっ、と目を細めた。
 ――そうか。
 満足そうな笑みを浮かべるアスラを見つめながら、ロイは一人合点した。レイが生き永らえることができたのは、彼が「黒髪の巫子」であったからに違いない、と胸の内で頷く。
 行方をくらました二人が発見されたのが東の丘。そして、ロイがレイを殺そうとしたのが東の森。おそらく、彼らに祝福を与えたであろう邪神は、あの辺りをテリトリーとしていたのだろう。加護の力も強くなるはずだ。
 ロイには、レイのことを庇うつもりはさらさらなかったが、どうしても真実をアスラに語ることに抵抗があった。それに、全くの嘘というわけではない。現につい三日前まで、自分もレイの死を疑っていなかったのだから。
「もう一人の弟子は黒髪ではないのだな」
「はい。彼女は……」
「彼女? 女が魔術を使うのか?」
 卒然、アスラが眉をひそめた。
 ロイは、今度こそ背中を冷や汗がつたうのを感じた。……とはいえ、こればかりは嘘のつきようがない。
「は、はい……」
「……その娘は、イの町の者か?」
「そうです」
「その親は? どこの出身だ? 姓は?」
 いつもの兄帝らしからぬ、切羽詰まったような声で問い詰めるその様子に、ロイは戸惑いを隠せなかった。
「……は。両親ともに地元の者かと……。さきの戦争で戦死しております。姓はありません」
「……そうか。なら良い」
 アスラは再び普段の顔に戻って、のり出していた上半身を玉座の背に埋めた。
「女魔術師か……腕前はどうなのだ?」
「……それなりに、役に立つかと」
「ふん、君がそう言うということは、かなりの腕だということか。すごいじゃないか」
 
『すごいじゃないか』
 
 突然ロイの脳裏に、幾つもの映像が閃いた。視界がぐらりと揺れ、天地が逆さまになったかのような感覚が彼を襲う。
「いや、それとも君という先生が素晴らしいのかな」
 上機嫌でロイに語りかける、アスラの声。
 まるで頭蓋骨が空洞になってしまったようだった。その声がわんわんとロイの頭の中に反響する。
「私は君をとても気に入っているんだよ」
 アスラがゆっくりと立ち上がった。
 
 ――母が、山賊に牽きたてられていく――
 
「どんな時も、諦めることなく」
 アスラが一歩前に進み出た。
 
 ――山賊の指が、ロイの首を絞める――
 
「知識を、力を求め、より高みを目指して」
 アスラが赤い絨毯を踏みしめ近づいてきた。
 
 ――ロイの右手が埋もれていた魔術杖を探り当てる――
 
「いつだって君は、私の期待に充二分に応えてくれた」
 アスラがロイの前に立った。
 
 ――風の刃が辺りに乱舞する。
 人間の身体の破片が飛び散り、巨石をつたう血。
 血が、地面にどんどん吸い込まれていく――
 
「田舎に引っ込んでしまって少し丸くなったようだが……」
 アスラは軽く膝をつくと、ロイの顔を覗き込むようにして語りかけた。
「私と君は同類だからな」
 何かに絡め取られてしまったかのように、ロイは身動き一つできなかった。眼前に迫るアスラの彫像のような顔から目を逸らすこともできずに、ただ息を呑む。
「明々後日に帝都へ帰る。君も一緒に来い」
 
 
 

    三  嵌絵
 
 昼下がりのジジ家の浴室で、手桶で浴槽に湯を張り終えたシキは、ふぅ、と溜め息をつくと服を脱ぎ始めた。
 一階は基本的に家主であるジジ夫人の私空間だが、浴室と食堂だけは下宿人が立ち入ることを許されている共用部分だった。早番扱いで昼前に帰宅することができたシキは、夫人に頼み込んで早々に湯浴みすることにしたのだ。
 一糸纏わぬ姿になって、シキは浴室の片隅にある洗面台の前に立つ。鏡の中の自分は、これ以上はないというほど難しい顔をしていた。
 
 
 昨夜、本部三階のあの部屋からインシャが出ていったあと、エセルはしばらくの間微動だにしなかった。
 今のうちに逃げるべきだろうか、と思いつつ、シキもまた一歩も動くことができなかった。ほんの僅かな衝撃で、全てが粉々に砕け散ってしまいそうな、そんな張り詰めた空気が恐ろしかったからだ。
 先ほどはインシャに気を取られていて気がつかなかったが、エセルが纏う気配も、非常に悲痛さを感じさせるものだった。鬼気迫る眼差しは、怒りというよりも悲しみに満ちていた。口元に浮かぶ嘲笑は、むしろ苛立ちの表れに見えた。
 やがて、舌打ちの音とともに、エセルの右足が動いた。優美な曲線で飾られた木の椅子が、派手な音を立てて転倒する。エセルはそれを起こそうともせずに部屋の奥へ向かうと、寝台の上に仰向けに倒れ込んだ。
「……隊長……?」
 シキがおずおずと問いかければ、ぶっきらぼうな返事が返ってきた。
「なんだ? 抱いて欲しいのか?」
「いいえ!」
 全身全霊の力を込めたシキの返答に、エセルが鼻を鳴らした。
「嫌がる女を無理に抱かねばならぬほど、不自由はしていない」
「え?」
「誘いには全力で応じさせてもらうがな。そういうわけではなかったのだろう?」
「は、はい」
 先刻は、「昼間の続き」などと言っていたというのに、一体いつ誤解が解けたのだろうか。首をかしげながらも、シキはほっと胸を撫で下ろす。
「無様なものだな……」
 ぼそり、と独りごちてから、エセルが寝台の上に身を起こした。
「シキ、ここへ来てくれないか」
 あからさまに警戒しつつ、シキはゆっくりと寝台へ近づいた。
「私はしばらく仮眠を取る。すまないが、傍にいてくれないだろうか」
 広い寝台の足元に座るよう指差し、エセルが苦笑を浮かべる。「迷惑のかけついでだ。頼む」
 力なく微笑む、濃紺の瞳。だが、その奥に潜む激しい渇望の色を見とめて、シキは思わず息を呑んだ。
 今、エセルが見つめているのはここにいる自分ではない、そうシキは直感した。彼の視線はシキを通り過ぎて、どこか遠いところに注がれていたのだ。
 シキには、その眼差しに見覚えがあった。
 それは、毎朝身繕いのたびに鏡の中から自分を見返してきた。おのれの黒い髪に、黒い服に、そして額の異教の印に、「彼」の微かな痕跡を探し出そうとする、縋りつくような昏い眼差し。目の前の男は、それと同じ色を瞳にたたえて、今、シキを見つめている。
 シキはそっと息を吐いた。この男もまた、どんなに手を伸ばそうと決して届かない何かを求めているのだ。そして今、それをシキに映し込んでいる……。
 ――私と同じだ。
 そう独りごち、シキはそっと眉間を緩ませた。
 
 
 シキは湯船につかると目を閉じた。身体ばかりか心までもが、ゆっくりと弛緩していくようだった。
 ここルドスには、潤沢な雪解け水を利用した水道が、町中に張り巡らされている。天険に冠する万年雪のおかげで、真夏でも水不足に悩まされることはない。井戸と川に頼っていたイの町とは違い、ルドスの人々にとって風呂は比較的身近な存在だった。
 湯の中で手足を伸ばし、ふう、と一息つく。そうしてシキは、靄の晴れた頭で、今朝の出来事を思い返した。
 
 寝台に腰掛けエセルの寝息を聞いているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたのだろう。気がついた時には、見事な朝焼けが部屋の中を満たしており、シキはたった一人、広い寝台の真ん中で掛布に包まっていた。
 慌てて部屋を飛び出して、談話室に駆け込むと、仮眠を終えたばかりの第一斑が珈琲を流し込んでいるところだった。休みじゃなかったのか? と同僚が怪訝そうに指差した輪番表には、インシャの筆跡でシキが非番である旨記されていた。
「隊長は?」
「夜中のうちから領主の屋敷へ詰めてる」
「あれさ、隊長がかけあわなきゃ、俺ら徹夜させられるところだったらしいぜ。騎士団組の奴らは早々におねんねしてるってのに、冗談じゃねえよな」
「隊長が宵の口に『寝てくる』って帰っちまった時は、一瞬『あんたもか』って思ったけどな。二時ふたときも経たずに『寝てきた。今度はお前らが寝ろ』だぜ、まいったよ」
「隊長に叩き起こされてきたっつー騎士団組の顔、見たかよ。これでしばらくは酒が美味ぇや」
 せっかくの非番なんだから休んどけ、と言う同僚達を尻目に、シキは黙々と雑務にあたった。そうして、インシャが登庁するより少し早く、本部をあとにした。
 
 シキは、どんな顔をしてインシャに会えばよいのか、分からなかったのだ。
 隊長には気をつけて。シキの身を案じてそう忠告してくれた一方で、エセルの命令を受けて、シキを彼のもとへと引き立てていく。そもそも普段の彼女ならば、エセルの戯言を一刀両断で切り捨てていただろうに。
 何故、昨夜に限って、インシャはあのような行動をとったのか。何故、あんなにつらそうな表情を見せたのか。
 それに、エセルの態度も変だった。シキを抱くために呼び出したかと思えば、そのつもりはないなどと言う。挙げ句の果てに「傍にいてくれ」だ。
「だめだ。解らない」
 深く、深く息を吐いて、シキは湯に身を沈ませた。
 
 
 新しい服に袖を通し、シキは両手で頬をぴしゃりと叩いた。
 浴槽を空にして、浴室の窓を開ける。冷たい風が吹き込んできて、鏡の露を見る間に掃っていった。
「さっぱりした?」
 廊下に出たシキに、ジジ夫人が朗らかに声をかける。
「はい。ありがとうございました」
「そうそう。やっぱり女の子はそうやって笑ってないと。お風呂に入って、美味しいもの食べて、そしてぐっすり眠るのよ。それが元気の出る秘訣なんだから」
 そう言って自分に笑いかけてくれるジジ夫人に、シキは思わず抱きつきたくなった。なんて温かい存在なんだろう、と心から思った。幼い頃の記憶がないシキには、想像することしかできなかったが、きっと「お母さん」とは、このような存在なのだろう。
 潤み始めた瞳を、シキは欠伸で誤魔化した。今は感傷に浸っている場合ではない、と、改めて口元を引き締める。
「ええとね、シキちゃん。私、今から買い物に行くんだけれど、どうする? 一緒に来る?」
 シキはゆっくりと深呼吸をして、それから微かな笑みをジジに向けた。
「残念ですが、やらなければならないことがあって……」
「あら、そぅお? じゃあ仕方ないわね。それじゃあちょっと行って来ますから」
 ジジは外套掛けから上着と帽子を取ると、玄関の扉を開けた。柔らかな午前の光が、ホールに満ち溢れる。
「戸締まりはしておいてね。鍵持っているから」
「分かりました。いってらっしゃい」
 扉が閉まり、辺りが再び薄闇に閉ざされる。
 ――解らないことは、もう一つある。
 遠ざかっていく軽やかな靴音を背に、シキは決意を込めた瞳で二階への階段を見上げた。
 
 二階に上がったシキは、少し逡巡してから書斎の扉の前に立った。
 居間と、書斎と、ロイの寝室。二階にある部屋はこれが全部だ。お互いの寝室以外は、二人とも自由に使うことができる。それがロイとシキの間に暗黙の了解として存在するルールだった。
 だが、あくまでもロイは師であり、シキは弟子である。それ故シキは、いつも書斎の使用許可をロイに問うていた。
 今、初めて、彼女は無断でその部屋に足を踏み入れようとしている。多少の後ろめたさを感じながら、シキは静かに書斎の扉に手をかけた。
 
 半年の間にイの町から少しずつ移された蔵書は、部屋の四方の書架をほぼ満たしていた。シキは目的のものを探すべく、書物の背表紙を端から順に目で追い始めた。これは、というものに当たるたびに慎重に棚から取り出しては、丁寧に中身を確認する。
 シキは知りたかったのだ。レイがどのような術を自分にかけたのかということを。
 彼が一体どのような手段でその術を会得したのか、シキには見当もつかなかった。だが、あれから半年の時を経てロイがそれを解除したということは……、呪文書があるはずなのだ。間違いなく今、ここに。
 ――それを読んでみたい。
 読めば、答えが見つかるに違いない。シキはまばたきをする間さえ惜しんで、一心不乱に呪文書を探し続けた。
 
 
 
 玄関の前に、一台の二輪馬車が横づけされた。
 どこか憔悴しきった表情でロイは馬車から降り立った。立ち去っていく蹄の音をしばらく見送ってから、ロイはゆっくりと玄関の段をのぼる。
 扉には鍵がかかっていた。夫人は午後の買い物なのだろう。ロイは外套のポケットを探った。ようやく見つけた鍵を鍵穴に差し入れようとして、彼は自分の手が震えていることに気がついた。
 皇帝の命令は絶対だ。
 お前も一緒に来い、そう言葉を成された以上は、もはや従う他に道はない。それに、よくよく考えるならば、十年間も自分を放っておいてくれていたということに感謝するべきなのだ。しかも、役職を空席としたままで。
 それでも、ロイは即答することができなかった。
 考える時間を、と不遜な言葉を絞り出したロイに、兄帝は不気味なほど穏やかな笑みをたたえて、是、と言った。
 だが。いくら考えたところで、選ぶことができる道は一つしかない。兄帝の瞳は、言葉とは裏腹にそう語っていた……。
 
 疲れきった身体を引きずるようにして真っ直ぐ寝室に向かおうとしたロイは、ふと書斎の前で足を止めた。
 何者かの気配が、書斎の中で蠢いている。
 ロイは両のこめかみを右手で掴むようにして押さえた。面倒事というものは、どうしてこう次から次へとやってくるのだろうか、と。
 とはいえ、アスラ帝の御前でその視線に晒されることに比べたらば、今のロイには怖いものは何も無かった。彼は大きく息を吸うと、一気に書斎のドアを押し開けた。
「誰だ!」
 本棚の前、シキが驚愕の表情で扉を振り返った。
「睡眠」の印を半ばまで紡いでいた右手を下ろし、ロイは大きく溜め息をついた。
「……ああ、すまなかった。君が帰っているとは思っていなかったから……」
 ロイの帰宅に全然気がついていなかったのだろう、相当度肝を抜かれた様子で、シキがおろおろと口を開く。
「……せ、先生、お帰りなさい。あの、私、ちょっと調べ物を……それで……」
 ぐらり、と眩暈を覚えて、ロイは額に手を当てた。目の前の風景が歪み、耳鳴りが周囲の音を呑み込んでいく。
 ロイは大きく息を吐き出した。
 再び明瞭になる視界の中、おののきうろたえるシキの姿が見える。その首筋に絡まる濡れた髪。湯浴みをしたのだろうか、ほんのり色づいた頬。襟元から覗く白い胸元、喘ぐように大きく上下する胸……。
 自分を見つめる怯えたようなシキの瞳が、ロイの中の「何か」を粉々に砕いてしまっていた。
 
 
 ロイが、無言でシキを見据えたまま、後ろ手で扉を閉める。
 師の気配が急に変化したのを感じとって、シキは思わずあとずさった。
「……先生?」
 ロイは無言でシキのほうへと近づいてくる。
 距離を保つように、シキは後ろへと下がっていく。
「……どう、されましたか……? 先生……」
 遂に、シキの踵が本棚にぶつかった。
 部屋の隅に追い詰められたシキに、ロイの手が伸びてくる。肩口を鷲掴みにされ、シキは無我夢中で声を荒らげた。
「やめてください! 先生、気を確かに!」
「気を確かに、とは、穏やかじゃないね」
 ロイは、熱の籠もった瞳でシキを見下ろした。「私が正気を失っているとでも言うのかい」
「そうです!」
 シキの断言に、ロイは一瞬怯んだのち、不快そうに眉を寄せた。
「レイが私にかけた術というのは、単に服従を強いるというものではありませんね?」
 シキは、真っ直ぐにロイを見つめた。真実を見通そうというかのごとく。
「何故、そう思う」
「もしや、他の男性が私に興味を持たないように、何らかの制約を課する効果もあったのではないですか?」
 言葉に詰まるロイの様子を見て、シキは自分が正解を引き当てたことを確信した。
「おそらく、術の効果が消えたその反動で、必要以上に……その、……私に魅力を感じてしまわれるのだと……」
 そうとしか考えられない。一昨日までは何事も無かったのだ。それが突然、事態は豹変した。
 
『貴方の気配が……昨日までとは明らかに違っていて……その、なんだか急に女らしく、色っぽくなった、というか……』
『女は化ける、とはよく言ったものだ。つい昨日までは、少年のようにしか見えなかったのに、これではまるで別人だ』
 
 ――私は何も変わっていないというのに。……一点だけ、レイの術が解除されたということを除いては。
 現に、あれから一日が経過した今日、皆の様子は随分落ち着いてきていた。今のシキを、見慣れてしまったのだろう。
「……だから、先生、落ち着いてください。これは所詮まやかしです」
 そう言ってシキはロイの胸を押しのけようとした。しかし、ロイの手は一向に緩む気配もない。
「先生、放してください!」
「まやかしではない」
「ですから、術が」
「惑わされてなどいない」
「どうか、手を」
「私を誰だと思っているのだ?」
「でも」
「くどい!」
 肩を掴むロイの手のひらが、熱い。それに増して熱を帯びる彼の眼差しが、痛いぐらいにシキに突き刺さる。
「だって、こんな、突然……」
「突然ではない。ずっと前から、こうしたいと思っていた」
 視界一杯にロイの顔が大写しになる。思わず目をつむったシキの唇に、柔らかいものがそっと触れた。
 
 その瞬間、シキの中で、嵌絵の最後の一片が、すとん、と正位置に嵌まり込んだ。

 
 一昨日の夜にロイがシキに投げかけた問いが、シキの脳裏に甦ってくる。
『どうしてレイは、恋人であるはずの君を、邪教の魔術で服従させなければならなかったのか?』
 邪教の魔術でシキを支配下に置き、無理矢理反乱団へ連れて行くつもりだったのなら、幾らでもその機会はあったはずだった。なのに、レイはそうしなかった。
 ここに、師の言葉との大きな齟齬が二つある。一つは術の効果について。そしてもう一つは、レイの目的について。
 レイの目的が違っていれば、術の効果についても評価が変わってくるだろう。となれば、どちらに転んでも、くだんの術について再考する必要が出てくるのだ。
 ――そう、果たしてその術は本当に、被術者を強制的に従わせるためのものであるのか、どうか。
 シキは、愕然と瞼を開いた。
 その術は、他の男性がシキに興味を持たないように、何らかの制約を課する効果があった。
 ならば、レイは何のためにその術をシキにかけようと思ったのか。
「シキ……、愛している」
 熱に浮かされるような眼差しとともに、ロイが微笑む。
 シキは、一瞬の隙を突いてロイの手を振りほどくと、その勢いのまま、ロイの脇をすり抜けた。退路を確保したところで、おずおずと口を開く。
「先生、まさか……」
 まさか、レイは、先生の気持ちに気づいていたのではないだろうか。そして、それが成就するのを阻止するために、シキにあの術をかけたのではないだろうか。
 ――と、いうことは、レイが命を落とした原因は、先生に……、そして……
 
 しばしの間、まばたきすら忘れて目を見開いていたシキの、まなじりに光が宿った。溢れる涙が珠となって、白磁の頬を滑り落ちていく。
 それを見たロイが、困ったような表情でそっと眉をひそめた。
「私のことが、嫌いかい?」
 シキは反射的に首を横に振った。
 嫌いなはずがない。孤児だった自分達を引き取ってくれた恩も、深い知識に対する尊敬や憧れも、そして何より、師とともに過ごした十年間の思い出が、シキの胸の中には詰まっているのだ。
「ならば、どうして泣いているのだ」
「……だって、」
 だって、レイが死んだのは、私のせいだったのだから。心の中でそう叫びながら、シキは逃げるようにして書斎を飛び出していった。
 
 
 

    四  祖師
 
「お尋ね者デビューおめでとう!」
 満面の笑みを浮かべて、サンがレイの部屋の扉を威勢良く開け放った。手に持った一枚の紙をひらひらと揺らして寝台の傍まで近づくと、笑顔を顔に貼りつけたままレイの反応を待つ。
 もそ、と頭まで毛布をかぶったレイが微かに身じろぎした。
「おい、見ろよ、レイ! って、いい加減起きろよな」
 だが、その言葉を無視するように、毛布の塊は再び動きを止める。
「もしもし、レイ? レイ君? レイさん? レイ様? おーい、聞こえてんのかー、レー……」
「だーっ! う、る、さ、いっ!」
 毛布が空中にひるがえり、レイが寝台に起き上がった。どさくさに紛れた蹴りをあっさりとサンに避けられ、レイの機嫌は更に斜めにかしぐ。
「俺は、疲れてるんだ。も少しゆっくり寝かせろ!」
 それだけ言い捨てて、レイは再び毛布にくるまった。
 昨日、パレードの襲撃に失敗して逃げる際、レイは行動をともにしたウルスとサンと自分に「偽装」の術をかけた。
 この術は静止物にこそ効果的な代物だ。それを動き回る人間にかけようというのだから、術者の負担は非常に大きくなる。しかも術者自身も追っ手をかわしながらという非常識な状況で。三人の髪の色を変化させ続ける、ただそれだけのために、レイは全精力を使いきる羽目になったのだった。
「疲れた、って、お前、ナイフ投げて逃げただけじゃん。あ、ナントカって術使ってたか」
「偽装」
「それ、そんなに大変な術なわけ? 随分地味だったけど」
「お前なあ! …………っ!」
 もう一度飛び起きたレイだったが、何か言いかけた言葉を呑み込むと、歯軋りをしたまま壁のほうを向いて毛布に潜り込んだ。
「寝る。邪魔するな」
「朝から何も食ってないだろ。昼飯ぐらい食べに降りて来いよ」
「……いらね。眠いんだ、寝かせろ」
「こんだけ寝ててまだ寝足りないのか?」
 そう、眠いのだ。なにしろ一昨日の夜以来、レイは充分な睡眠がほとんど摂れていないのだから。これだけ疲弊していれば熟睡もできるだろう、と期待した昨夜も、結果は同じだった。眠りにつくなり、前日同様、あらぬ悪夢がレイに襲いかかってきたのだ。
 夢の中のシキは、決まって全裸だった。そしてあろうことか、彼女の身体には、影のようなものが纏わりついている。
 影が動く。
 シキが喘ぐ。
 薄らぼんやりと輪郭の定まらない影は、シキの体中を這い回り、遂には彼女の身体の中へと溶け込んでいく。
 苦悶に満ちた、シキの表情。
 だが、レイは確信している。この表情がこれからどのような変化を見せるのかということを。彼女の喉から迸るであろう、その声を。
 ――ロイの奴……!
 口惜しさのあまり吐き気が込み上げ、一晩の間にレイは何度も目を覚ました。そして、一日が経ってもそれは収まることはなく、それどころか頻度も過激さもいや増してくる有様だ。
 あの呪文の効果に逆らうことがどんなに難しいか、レイには良く分かっていた。禁忌として本能に刻み込まれた枷を引きちぎり、新たに術をかけ直すなど、普通の人間には到底不可能だろう。
 ――だが、あいつはやってのけた。
 半年前のあの洞の中で、暗黒魔術を紡ぎ出した師の様子を思い出し、レイはぞくりと背筋を震わせた。「誓約」の術のくびきすらも、ロイを従わせることができなかったのだ。その恐るべき精神力を思うだけで、レイの全身に鳥肌が立つ。
「なーに、悩ましい顔してんのさ」
 突然耳元で響いたサンの声に、レイはびっくりして顔を上へ向けた。
 いつの間にか、目と鼻の先にサンの顔があった。普通ならありえない至近距離に、レイの思考は一瞬停止した。
「…………な、何だ?」
「んー」
 レイの上に覆いかぶさるようなな体勢で、サンが笑いかけてきた。レイは慌てて寝台の頭のほうへ、ずりずりと後退する。
「お尋ね者になってからこっち、とんと色気のない生活が続いてるだろ」
「……あ、ああ」
「随分ご無沙汰でさ、溜まるとつらいよな、お互い」
「ま、まぁ、そうだな」
 ひしひしと押し寄せる嫌な予感に押しつぶされそうになりながらも、レイは必死でサンとの距離を稼ごうとする。だがその努力も虚しく、サンが朗らかな笑顔で、ずい、っと身を寄せてきた。
「で、さ。いっそのこと、宗旨変えしてもいいかなー、なんてさ?」
「待て。……まてマテ待てマて!」
「流石に、あまりにゴツイのはちょっとヤだからなぁ。そう考えると、レイ、お前結構イイ線いってない?」
 にっこりとサンは極上の笑みを浮かべる。だが……、目が、笑っていない!
「いってない。いってない、いってない! 断じて!」
「いやいや、も少し細ければ、かなりイイ感じなんだけど?」
 真っ青な顔で脂汗を流しながら硬直するレイを、充二分に鑑賞してから、サンはゆっくり身を起こした。にいっ、と意地悪な笑いを口元に刻んで、再びレイを見る。
「なあ、レイ、夕食も抜いてみないか?」
「……昼飯、食いに行ってくる!」
 敗北感よりも大きな危機感をいだきながら、レイは大慌てで部屋を飛び出していった。
 
 
 階下の広間では、ウルスとザラシュが既に食卓についていた。部屋に入ってきたレイを見るなり、ウルスがにやり、と笑いかけてくる。
「ようやく起きてきたか、色男」
 ここはアカデイア邸。彼ら四人の秘密の客に供されたのは、母屋の裏に建てられている離れだった。小さいながらも立派なこの建屋には、一階に一つ、二階に三つの客間がある。山がちなこの街で、これだけの敷地を確保するのがどんなに難しいことか、レイは思いを巡らせた。ふと、一昨日に会った客引きの少年の姿が脳裏に浮かび上がってきて、レイの眉が微かに曇る。
「そんな所に突っ立っていないで、席に着いたらどうだ、色男」
 部屋の中央に据えられたテーブルの上には、羊肉の串焼きが盛られた皿と、まだ湯気が立っていそうなパンの籠とが置いてあった。それを見た瞬間、レイの腹は大きな音で空腹を主張を開始した。
「元気そうじゃないか、色男」
「なんだよさっきから、その色男ってのは」
「サンの奴に見せてもらっていないのか?」
 ウルスが怪訝そうな顔をするのと同時に扉が開き、サンが一枚の紙を手に部屋に飛び込んできた。
「これだよ、これ。見せる前に飛び出していくんだもんなー」
 そう言って、サンはレイにその人相書きを手渡した。
「なかなか男前だぜ? 腕が良いよなあ、この絵師」
 そこにえがかれていたのは、白い頭巾をかぶった男の顔だった。
 目元はすっぽりと布の影に沈んでおり、涼しげな瞳だけがその黒色の中に浮かび上がっていた。少々鼻筋が整い過ぎているような気がするが、固く結ばれた薄い唇は、間違いなくレイのそれだ。
 ――あの喧騒の中、誰が一体どうやってこんなに克明な像を。
 そこまで考えて、レイは思い当たった。あの、灰色の冷たい瞳に。
「いいよなぁ。俺のなんて案山子みたいな絵なんだぜ。しかもその案山子、へらへら笑ってやんの。三年も帝都に居たってのに、なんでそんな絵しかけないかな、くそっ」
「……それって、まんま、そっくりじゃねーの?」
「レイこそ、似てない人相書きに、いちいち喜んでんじゃねぇよ」
 不安感を打ち消すつもりでサンに絡んでみたものの、抑えようとすればするほど胸の奥には得体の知れぬざわめきが押し寄せてくる。レイは観念して小さい溜め息をついた。
「目の辺りはともかく、似てるじゃねーか。お前は三年で案山子なんだろ? あんな短時間でこれだぞ。似過ぎていて……少し怖いぐらいだ」
「……アスラ帝だな」
 ザラシュがおもむろに口を開いた。
「あのお方に見つけられたのだろう? それでこの程度で済んだのだから、お前は運が良かったのだよ。なにしろ、頭巾から覗くひとふさだけで、その髪の色を見破られるかもしれなかったところなのだからな」
「……そんなに凄い奴……なのですか」
 レイはどうしても、この初老の男にぞんざいな言葉を遣うことができなかった。
 魔術師だということだが、レイはまだ一度もザラシュが術を使うところを見たことがない。だが、その物腰と気配から、相当な腕の持ち主であろうことは充分に察することができた。
 力ある者への素直な想い……それは尊敬であり、畏怖でもある。レイは、かつて師と仰いだ人物のことを思い返しながら、ザラシュの返答を待っていた。
「アスラ帝自身が、魔術師だからな。それも高位の。術師としての位は明らかにされておらぬが、おそらくその力は、ロイ・タヴァーネスよりも強大であろう」
 その言葉に、他の三人は思わず息を呑んだ。
 
 レイは手元の人相書きに視線を落とした。
 短剣の軌跡を追って振り返った皇帝の、豪奢な顔にそぐわない、暗い光を放つあの瞳。
 あの一瞬に、自分はここまで捕捉されてしまったのか。
 
「魔術、魔術、魔術、か」
 最初に沈黙を破ったのは、ウルスだった。腕を組んで勢い良く椅子の背にもたれると、鼻を鳴らしてうそぶく。「……だが、それを使うのは人間だ。俺と同じ、な」
 それから彼は、鷹揚にレイのほうを向いた。目に喜色を滲ませながら。
「なんにせよ、こうなってしまったからには、一蓮托生、だな。いい加減諦めろ」
「……ーったよ、認めるよ。認めたらいいんだろ」
 レイは両手を挙げて降参のポーズを示した。「でも、約束は守ってくれよな」
「ああ。仲間達には、引き続き彼女の行方を捜させよう」
 ウルスの言葉が終わるのを待って、サンが嬉しそうに右手をレイに差し出した。
「ようこそ、レイ。『赤い風』へ」
 そうして旧友二人は、実に四年ぶりの握手を交わしたのだった。
 
 
 
「さて。まずはどこから説明したものかな」
 全員が食事を終えたところで、ザラシュが口火を切った。てっきりウルスが話すものだと思っていたレイは、意表を突かれた形で、慌ててザラシュのほうに向き直る。
「レイ、お前は、我が孫弟子……ということになるのかね」
 その言葉にレイが目を見開く。
 ザラシュは、テーブルの上で節くれだった指を組み、静かにその過去を語り始めた。
 
 
 自慢の弟子。
 魔術学校の教師とともに彼が初めてザラシュのもとにやって来たのは、十五の時だった。
 孤児だった彼の才能をふとしたことから見出した貴族が、彼に姓を与え、教育を与えたのだという。それから五年の歳月が経ち、彼を連れてきた教師は神妙な面持ちでザラシュにこう語った。
 魔術に関して、我々が彼に教えられることは、もうないのです、と。
 
 ロイ・タヴァーネスはとても真面目な少年だった。
 放課後、学校の寄宿舎からザラシュのもとに通うのにも、一度たりと遅刻することはなかった。
 控えめな口調で話し、穏やかに笑う、年齢にそぐわぬ落ち着きを見せていた彼の、見事なまでに抑制された自己は、多分に、孤児出身の身でありながら貴族や名士の子弟達と机を並べねばならぬ、という状況が鍛え上げたものだったのだろう。
 当時、ザラシュは三十八歳だった。その三年前に彼は皇帝――現皇帝達の父君である先代――の任命を受け、宮廷魔術師長の地位に就いていた。
 おそらくは帝国一の魔術の使い手。そう自負していたザラシュにとって、ロイの存在はただひたすら驚嘆すべきものだった。まるで砂漠の砂が雨を呑むかのように、彼はザラシュが教える全てをまたたく間に吸収していった。
 ――素晴らしい。まさしくこれぞ逸材なり。
 ロイを育て上げることに、ザラシュは酔いしれた。稀代の人材に「先生」と呼ばれるたびに、彼は高揚した。この時こそが、ザラシュの魔術師としての人生の中で、最も充実していた日々だったのかもしれない……。
 
「だが、私は何かを教え間違えてしまったのだろうな」
 ポツリ、と呟くように、老いた魔術師は語り続けた。
「そもそも私のような凡人が彼を導こうという時点で、既に破局は決定していたのであろう。優秀な弟子とともに歩んでいくということに私は夢中になっていたが、それは彼にとってはもどかしいこと甚だしき事態であったのかもしれん。
 彼が宮廷魔術師となった四年後、今から十五年前。私はロイの一言によって、宮廷を追われることになったのだ」
 レイの脳裏に、あの時のロイの声が蘇ってくる。
『師匠を裏切る……か。そこまで私に似ずとも良かったのに』
 淡々と、何の感慨もなく呟く、冷たい声。十五年前も、彼はそんな口調でおのが師を裏切ったのだろうか。
「当時は、即位したばかりのアスラ帝が、神の啓示を受けた、と途方もない改革をのたまわれた時だった。それはあまりにも突然で、強引で、乱暴な話であった。皇帝陛下を、その啓示とやらを疑う気はなかったが、少なくとも一度は学者や将官がつくテーブルに議題としてあげるべきだろう、私はそう考え、そのことをいかにして皇帝陛下に解っていただけば良いのか、それに腐心する毎日だった。
 そうやって私が煩悶とした日々を送っている間に、彼に先手を打たれてしまったのだよ」
 
 畏れながら申し上げます。我が師は、皇帝陛下の信仰改革を快く思っておりませぬ。
 それどころか、どのようなことをしても思い直していただかねば、と不遜なことを申しておりました。
 
 のちにザラシュが人づてに聞いたその告発は、決して荒唐無稽なものでも、大袈裟なものでもなかった。ただそれを耳にしたアスラ帝が、その言葉に激しく反応したのだ。ザラシュ・ライアンに謀反の意思あり、と。
 即時に、ザラシュは城に呼び出され、皇帝に目通りも叶わないまま、独房に入れられた。術を封じるべく両手を拘束されたが、それでもザラシュはおとなしく命に従った。これは何かの誤解だ、きっとすぐに解放されるに違いないと信じて。
 その夜更け、ザラシュの後援者の使いが命を賭して牢獄に忍び込み、明朝にザラシュが処刑されることになったと耳打ちした。あまりにも短い時間に急変する事態に、ザラシュは混乱した。混乱して、彼はとりあえず生き永らえる道を選ぶことにした。
 宮廷魔術師となって二十余年、ザラシュは皇帝の命に初めて背くこととなった。牢を破り、後援者の伝手を辿って、帝都を脱出した。おそらくはもう二度とこの地に帰ることはできないだろう、という思いとともに。
 ザラシュは、名実ともに謀反者となったのだ。

 
「仮に、あのまま牢に留まったとして、翌日には間違いなく私は剣の露と消えていただろう。後悔はしておらぬ」
 レイは、師の師であった男の顔をまじまじと見つめた。
 計算が間違っていなければ、ザラシュが都を追われた時、彼は四十五歳であったはずだ。人生の折り返しをとうに過ぎて、彼は全てを失ったのだ。宮廷魔術師長としての申し分のない生活も、安泰だったはずの余生も。その挙げ句が、反乱団の頭領とは。レイはむしょうにいたたまれない気分に襲われた。
「……なに、そんなに哀れんでくれるな。これでも私はこの生活に概ね満足しておるのだから」
 レイの胸の内を見透かしたかのように、ザラシュが笑みを浮かべる。
「どこに身を置こうと、私はこの帝国がより良い国たるように、民が皆幸せであるように、尽力したいと思っている。それが、魔術を修める者の務めだからだ。
 偶々、私の周りには帝国そのものへの不満分子が多く集まり、偶々、解りやすい旗印が出来上がってしまったが、所詮それはそれだけのことだ。目的は違っていても、手段が同じということは間々あるわけだからな」
「さだめし、俺なんかはその軒を借りる最たる者だな」
 口のを少し上げながら、ウルスが冗談めかしてまぜっかえす。それに対して、ザラシュは不敵な表情を浮かべて応戦した。
「なあに、母屋は簡単には盗られまいぞ」
 これまで往々にして不思議に思えた彼らの力関係に、レイは初めて納得した。
 昨日の襲撃は、あくまでもウルスの、カラント元国民の「仕事」だったのだ。だからザラシュは動かなかったのに違いない。
 もしも、ザラシュがあの場に居合わせていて、そしてもしも、馬車に乗っていたのがアスラ帝ではなくセイジュ帝のほうだったら、ザラシュは皇帝の守護にまわっていたかもしれない。稀代の名君と名高い弟帝だったらば。
「アスラ帝の宗教改革は間違っている。この十五年、各地をまわって見聞きし調べた事実から、私はそう確信している。異教は邪教ではない。水が無ければ人は死んでしまうが、水しかなくともやはり人は生きられないのだ」
 ザラシュは拳を握り締めて、熱弁をふるう。
「私は、何度となく『風声』の術を使って、皇帝陛下達、特にアスラ帝に、邪教狩りの危険性についてご注進いたした。いくら謀反者の言葉だといえども、お二人は聡明な統治者だ。その意味がお解りにならぬはずがないと思ってな。
 それでも未だ邪教狩りを敢行し続けておられるアスラ帝は、よほどの阿呆か、人々の敵か」
 敵、という言葉に、皆は息を呑んだ。あのウルスでさえ、一瞬怯えたような色を瞳に宿す。
「……少し、喋り過ぎたようだ」
 ザラシュはグラスの水を一息に飲み干してから、ゆっくりと立ち上がった。「部屋に戻って少し休むとしよう」
 そう言って、彼は静かに食堂を出ていった。
 
 
「カラントの再興、それが俺の目的だ。そのためには、まずこのマクダレン帝国を倒さねばならん。が……、ザラシュ殿の言ではないが、もう少し的を絞っても良いかなとも思っている。俺だって、好き好んで世の中を乱そうとしているわけではないからな」
 ウルスは大きく伸びをして天井を仰いだ。そのまま仰け反った姿勢で、言葉を継ぐ。「打倒、アスラ帝。当面の敵はあの気障ったらしい優男だな。弟帝とやらが本当に名君だというのならば」
 そもそも「皇帝が二人いる」ということ自体が変なのだからな。そう呟くウルスの横で、レイはつい身震いをした。アスラのあの氷のような視線を思い出してしまったのだ。
 気持ちを落ち着かせようと、レイは大きく息を吸った。自分の恐怖心が誰かに見透かされてやいないかと、そっと周りを見渡す。途端にサンが「どうした?」と喰いついてきて、その勘の良さにレイは心の中で大きく溜め息をついた。
「いや、何でもねーよ。それよりさ、お前はなんで仲間になったんだ?」
 問いかけられたサンは、ほんの瞬間少し目を細める。それから悪戯っぽく片目をつむってみせた。
「……まあ、そのうち教えてやるよ」
 
 
 
 館の主人に用がある、とウルスが退席したのち、家令が食器を下げに離れにやって来た。秘密の客の世話を、一介の使用人に任せてはおけないということなのだろう。まだ若いその男は、てきぱきと食卓の上を片付けると、レイ達に珈琲まで入れてくれた。恐縮する二人に軽く会釈のみを返し、家令は食器の籠を抱えて母屋へと帰っていった。
 
 取り残された二人は、なんとなく部屋に戻りそびれたまま、お互い無言のままカップを傾けた。
 先刻のザラシュの話ですっかり眠気が飛んでしまったレイは、テーブルの上に肘をつきながら、ちらりと隣を窺った。昼食を食べたら、また昼寝をしに戻るつもりだったのだが、こんなに高揚した頭では、眠るどころの話ではないだろう。こうなったら、秘密主義者のサンを問い詰めて、反乱団に所属するに至った動機を聞き出そうか。そう、レイが考えたのと時を同じくして、「おお、そうだ」とサンが両手を打って、沈黙を破った。
「お前、その髪を上手く隠す方法を考えろよ。あの白い布じゃなくって」
「はぁ? 何だって?」
「あの人相書きなら、髪さえ上手く隠せたらなんとかかわせるさ。でさ、」
 サンはレイの耳元に手を当てると、こそこそ耳打ちした。
「折角の大きな街だ。幾らでも官警の隙はあるさ。今晩か明晩あたり、ちょいと『冒険』しに行こうぜぃ」
「……って、ちょ、おま……」
「何だよ、やっぱ俺がイイわけ?」
 サンに、耳に息を吹きかけられ、レイは思わず椅子を蹴って横に大きく跳びずさる。
「そ、そ、そんなわけないだろ!」
「じゃ、決まりだ」
 にいっ、と笑うサンを見ながら、レイはもう遠い学び舎の風景を思い出していた。
 ――ああ、確かに、シキ、お前の言うとおりだ。コイツは全然変わってねえ。
 歳月が経ち、居場所が変わり、立場も、為すべき事も変化していくのに、サンは間違いなくサンであった。
 ――ならば……。
 レイはふと自分の手を見やった。
 ……ならば、俺はどうなのだろうか。この、めまぐるしく変化する情勢の中で、俺はどこまで俺自身でいられるのだろうか。
 黒の導師。
 黒髪の巫子。
 考えるべき事は山ほどある。だが……、まずはシキを見つけ出すのが先だ。
 手のひらに爪が食い込むほどその拳を握り締め、レイはあえて自らの思考を停止させた。

第九話  求める者、求められる者

    一  命令
 
「サラナン先生連れてきたっスよー」
 相変わらず飄々とした風体で、ガーランが談話室に入って来た。広い室内にいるのが同僚二人だけと知り、彼はきょとんと足を止める。
「あれ? 隊長は? 部屋にいなかったからこっちだと思ったんだけど」
 一昨日の皇帝陛下暗殺未遂の件もあり、隊員達のほとんどが街中に繰り出している。おそらく、皇帝陛下がルドスを離れるまで、休日返上の勤務体制は続くのだろう。ガーランはかなりゲンナリしながら、二人の傍へと近づいていった。
 テーブルの上には、人相書きが三枚並べられている。一枚は資料室で埃をかぶっていた半年前の脱走近衛兵のもの。もう一枚は昨年から訓練場の壁を飾っていた黒髪の男。ガーランは最後の一枚を手にとりながら感心したように鼻を鳴らして、傍らの椅子に座った。
「上手いもんだよなあ。天は二物を与えまくりかよ」
 目撃者自らが筆をとった人相書きは、異例の速さで版木が彫り上げられ、昨日の夕刻には既に隊員達の手元に配られていた。ガーランはもう一度、ふん、と息を吐くと、皇帝陛下の作品を指で弾いてテーブルに戻す。
「それにしても、お前ら随分真面目じゃん。談話室でも作戦会議?」
「いや、これはシキのだ。ほら、彼女昨日早く帰っただろ」
 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる二人の様子に、ガーランは、すっと表情を引き締めると、彼らしからぬ鋭い声音で低く語りかけた。
「……どうした?」
 しばし二人は何か言いにくそうに顔を見合わせていたが、やがて肩で大きく溜め息をついてから、一人が重い口を開いた。
「いや、それが、しばらく前に副隊長が、シキを呼びに来てな」
「ふん、それで?」
「入れ違いに、こいつが丁度コレを」と、テーブルの上の人相書きを顎で示して、「資料室から取って戻って来たから、早いとこシキに渡そうと思ってさ、追いかけたら……」
「追いかけたら?」
「……副隊長、あの子を三階に連れて行ったんだ……」
 がたん、とガーランは思わず椅子を蹴って立ち上がった。一瞬にして深い皺が彼の眉間に刻まれる。
「……あンの姐さん、何考えてんだ……。おい、副隊長はどこだ」
「それが……あれから降りてこないんだよ。二人とも」
 ガーランは下唇を噛んだ。絞り出すように息を吐いてから、頭をがしがしと掻き毟る。
「このことを知っているのは?」
「今のところ俺達だけだが……」
 ガーランは、滅多に見せることのない険しい表情で、同僚二人を振り返った。
「……誰にも言うな。いいな。頼むぞ」
「……解った」
 
 
 
 優秀なるルドス警備隊隊長にして、峰東州知事サベイジ公爵の三男。
 数多あまたの女性達を蝶のごとく渡り歩く漁色家。
 エセル・サベイジに対する世間の評判はそのどちらかに限られている。
 だが、実際に彼の下で働くようになって、インシャはエセルに常に纏わりついている寂寥感に気がついた。それは他の隊員達も、多かれ少なかれ感じているようだった。隊長によく口喧嘩をふっかけているガーランなどは、特にそれを強く意識しているに違いない。
 彼は一体何を切望しているのだろうか。羨まない人はいないといわれるその境遇の中で。
 
 噂に違わず、エセルは紅一点のインシャをよく口説いた。だが、その口調は軽く、本気でインシャをおとそうとしているというよりも、ガーランとのように、ただ言葉の応酬を楽しんでいるような節があった。だから、インシャも遠慮なくエセルをやり込めて、そのやりとりを楽しむことにしていた。
 男と女、上司と部下、そういった枠組みを越え、それぞれ警備隊員という仲間として、彼らは同じ時間を共有した。事務能力を買われてインシャが副隊長として隊長補佐の役に抜擢されてからも、その構図は変わらなかった。
 そう、インシャが入隊してからの三年間、彼ら二人の間には職場上の関係以上のものが築かれることはなかったのだ。――あの時までは。
 
 
 今から二年前のその日、インシャは巡回中に、女性を連れて出会い茶屋から出て来た上司にばったりと出くわした。
 見慣れた黒い外套に纏わりつく、金ボタンと金のリボンをあしらった外套。艶やかな羽飾りのついた帽子、スカートの裾から覗く上品な編み上げブーツ、そして鈴を転がすような笑い声……。おのれの属する世界とはかけ離れた風情に、インシャの胸がちくりと痛んだ。
「隊長、職務中のはずですが」
 一緒に任務に当たっていた同僚が見て見ぬフリをしてその場を立ち去ったのに、どうしてインシャはそうすることができなかったのだろうか。
 いつになく狼狽の色を瞳に浮かべるエセルの横で、華やかな衣装を身に纏った女は、鼻にかけるような声で囁いた。
「あら、こちらの方、どなた?」
「ああ、私の……部下だ」
 ちくり。
 ……気のせいだ、と、インシャは無理矢理その痛みをなかったことにする。
「あら、警備隊の。でも……女性、ですわよね?」
 無遠慮に、彼女はインシャの全身をねめまわした。
 固く結い上げられたポニーテール、化粧っ気のない顔。男物のえんじのジャケットの下に着込まれたのも、機能性重視の飾り気のない服だった。言わずもがな、動き易いようにボトムはズボンである。
 女性は、エセルの肩へ顔を寄せた。優越感をたたえた瞳をインシャから外さずに、勝利の笑みを浮かべる。
「ふふ、変わった方……」
 敵意を剥き出しにしたその台詞に、最初に反応したのは意外にもエセルだった。
「メルサ。失礼だぞ」
「だって、本当のことじゃない」口元を手で軽く押さえながら、メルサと呼ばれた女性はころころと笑った。「悪党相手に剣をふるったりするのでしょう? おお、恐ろしい」
 ――何故、この女性は私に突っかかってくるのだろうか。それもこんなに下品に。
 インシャの心は、自分でも信じられないほど、冷めていた。
 ――隊長は、このような女性が好みなのか。……いや、それとも、女ならば誰だって良い、そういうことなのか。
 つい漏れそうになる溜め息を、インシャはなんとか押し殺す。やはり、最初からこの場を立ち去るべきであった、と……。
「ふふふ、それに、こんな格好、私にはとても恥ずかしくてできないわ……」
「メルサ!」
 咎める声とともに、エセルが手を振り上げる。咄嗟にインシャは、彼らのほうへ一歩踏み出した。
 
 手首を掴み止められたエセルが、愕然とした表情でインシャを見つめている。
「隊長ともあろう方が、女性に手を上げるとは、らしくありませんね」
「……侮辱されたのは君だぞ」
「侮辱とは思っておりません。事実ですから」
 インシャはそっとエセルの手を放した。そして再び一歩下がる。
「ちょっと貴女、エセル様が折角優しく言ってくださっているのに、何よ、その態度」
 火種が自分であることを棚に上げて、メルサは、ここぞとばかりにインシャを攻撃し始めた。
「ちょっとお仕事が一緒だからって、いい気になっているのではなくて?」
「いい気、というのはよく解りませんが……」思わず漏れた溜め息を誤魔化すべく、インシャは言葉を継いだ。「同じ仕事……つまり上司と部下という関係は、貴方が望むものではないのではありませんか?」
 ――私は何を言っているのだろうか。
 インシャは頭痛を感じていた。そう、これではまるで、痴話喧嘩のようではないか、と。
「……ええ、そうよ。私は女ですもの。そう、……そうよ、上司と部下……。貴方は部下なのよね?」
「はい」
 ちくり。
 ……この痛みに、慣れなければ。インシャはそっと唇を引き結んだ。
「そうよ。やだわ……、私ったら、何をムキになっていたのかしら……」
 メルサは再び艶のある笑顔を満面に浮かべると、エセルの腕にしがみついた。そうして、媚びた瞳でエセルを見上げる。「だって、エセル様が随分この方にお優しいのですもの……」
「私は部下です。ですから、優しい言葉など必要ありません。部下に必要なのは……、命令です」
 ――何てつまらないプライド。私はこの女とは違う、と。
 エセルの表情を見るのが怖くて、インシャは、すっときびすを返した。
「出過ぎた真似をしてしまいました。失礼します」
 ひとけの無い通りで良かった。そう思って足早に立ち去ろうとするインシャの背中に、エセルの声が突き刺さった。
「インシャ」
「なんでしょうか」
 振り返ったインシャは、暗い光をたたえる上司の瞳に捉えられた。
「あとで、本部の三階に来い。一番奥の部屋だ」
「……命令ですか?」
「そうだ、命令だ」
 
 警備隊本部となっている屋敷は、元々サベイジ公爵のものであった。警備隊にそれを譲ったあとも、三階だけは公爵家のものとして他の者が立ち入るのは禁じられている。そして、その一番奥の寝室は、エセルが隊長の位に任命されてからは、彼専用の宿直室として使用されていた。
 巡回から帰投したインシャは、初めて三階に上がると、命令どおりにその部屋をノックした。
 抑揚のない声が、一言「入れ」と告げる。
 エセルは、奥の寝台に腰かけていた。
 西側の窓から、痛いほどに眩い夕日が差し込んでいる。茜色に染まる部屋の中、俯き加減なエセルの顔だけが、昏い影を纏っていた。
 
 どれぐらいの時が過ぎたのだろう、沈黙にインシャが耐えきれなくなってきた頃、エセルは静かに立ち上がった。そして、ゆっくりと彼女に近づいてきた。
 インシャは目を閉じた。
 淡い想いがなかった、と言えば嘘になる。
 だが、入隊して三年、彼の補佐役となって半年。これだけ身近なところに居りながら、エセルが本気でインシャを求めることは一度としてなかった。
 だから、諦めたのだ。心の奥底にうずめて、何も無かったことにして。女としての自分は必要とされなかったのだから。
 ちくり。
 ――そうだ、この痛みには、とっくの昔に慣れていたはずではなかったか……。
 エセルはインシャの背後にまわり込むと、耳元で囁いた。
「命令すれば、君は私に抱かれるのか?」
 それは、インシャにとって、まさしく最後通牒であった。
 彼が欲しているのは、インシャではない。インシャという、人格を持った存在は、求められていないのだ……。
「ああ、私の仕事環境を整えるのも、君の仕事だったな? え? 副隊長」
「……はい」
「私は今、非常に機嫌が悪い。仕事が手につかないほどに、な」
 エセルはインシャの長い髪を手にとると、そっと口づけした。
「……さて。慰めてもらおうか」
 甘い声が、みるみるインシャの脳髄に染み込んでいく。ごくりと生唾を嚥下してから、彼女はそっと瞼を閉じた。
 
 
 
 自分こそが一番彼を愛している、自分こそが一番彼に愛されている、そう夢を見て順番を待つ女達。インシャは、その中に埋もれてしまうことだけは絶対に嫌だった。どんなに醜くとも、どんなに情けなくとも、それはなけなしのインシャの矜持だった。
 それに、巷の噂に聞く限り、彼はとても紳士的だということだった。沢山の女性を乗りこなそうというのだから、余計な恨みを買わないようにしているのだろう。
 しかし、インシャが知る彼は違った。
 二年前のあの時から、ずっと、そこにあったのは、愛の囁きも、ひとかけらの思いやりもない、ただ欲望を吐き出すだけの交わりだった。
 ――この人は、数多あまたの女性達の前ですら自分を偽っているというのだろうか。閨房ですら孤独を感じているというのだろうか。
 過ぎ去りし時から意識を引き剥がして、インシャは静かに息を吐いた。そうして、眼前のエセルを真正面から見つめ返した。
 エセルが冷たい笑みを浮かべる。
『部下に必要なのは、命令です』
 ――あの一言で、私は彼の仮面を剥ぎ取ってしまったのかもしれない。
 
 彼が睦言を囁く相手は山と存在するだろう。だが、命令をくだす女は……私しかいない。
 私だけだ。
 
 それはちょっとした優越感だった。
 たとえ、そこに心は無くとも。
 
 
 

    二  錯綜
 
 物心ついた時から、自分と「外」の間には昏い川が流れていた。
 
 サベイジ家のご子息。
 家の外ではそれが自分の名に等しかった。学友は勿論、教師までもが自分をその名で呼んでいた。たとえ彼らの唇は真の名を紡ごうとも、その音の裏に潜む響きをエセルは決して聞き逃さなかった。
 そして、家ではまた別の名前がエセルに与えられていた。
 サベイジ家の「三番目」。
 二歳ずつ歳の離れた、二人の兄。家人の視線はその二人に集まっていた。そう、嫡男と、その「予備」。彼らが齢を重ねるにつれ、「予備」が必要となるリスクは減り続けていく。戦争が終わる頃には「予備」の「予備」の存在価値などないに等しかった。
 
 人々の視線は、常に自分をすり抜けて背後の何かに向けられていた。誰も……親ですら、自分を取り巻く昏い流れに踏み込んでは来なかった。
 
 
 エセルが十七の年に戦争は終わり、生家は帝都からルドスに居を移した。
 身分制度と古い因習に囚われた都からの脱出。新しい土地ならば、自分はこの形のないくびきから逃れることができるかもしれない、エセルはそう期待した。
 だが、ルドスは既に名実ともに帝国領の街であった。結局ここでも自分は自分になりきることができなかった。
 ――家を出るんだ。いつか、きっと。
 父親が望んだ法律学校を蹴り、エセルは剣術の道を選んだ。まだ躊躇いがちだったその決心も、三男の行く末を案じるよりも、自分の命に従わなかったことにのみ怒る父親の態度によって、確固たるものと化した。
 独りでも生きていける力を求めて、彼はがむしゃらに鍛錬を続けた。三年も経つ頃には、エセルの腕前は万人の知るところとなっていた。皇帝陛下から任命状を下され、ルドス警備隊専任の隊員となったのが翌年。その更に翌年には隊長の任についた。
 だが、結局は「流石はサベイジ家のご子息」なのだ。その言葉には多分に棘が含まれている。兄弟子を打ち負かしても、師匠に認められても、帝国最年少で隊長に就任しても、それは全てエセルの力ではない、と。
 心の隙間は人肌で無理矢理埋めることにした。
 元々、エセル自身、情欲の強い性質だったのだろう。それも手伝って、彼のもう一つの武勇伝もほどなく人々の知るところとなる。
 肌を合わせ、官能に酔いしれるその瞬間だけは、相手は心からエセルの真の名を呼んでくれる。遂にエセルは他の誰でもない、エセル自身になることができた。
 本当に、その一瞬だけのことではあったが。
 
 
 
「どうして、こんな言いなりになっているんですか?」
 三階に足を踏み入れた途端、シキがインシャに問いかけてきた。
 先ほど、談話室でインシャに名前を呼ばれた時は、シキはもの言いたげな表情を浮かべただけで、何も聞こうとはしなかった。おそらく、人目を気にしてくれているのだろう。その心遣いが、インシャはとても嬉しかった。
「答えてくれるまで、私はここから動きません」
 真っ直ぐな視線が、インシャを射抜く。
 理不尽な呼び出しを無視することだってできたのに、シキはこうやって真正面からインシャに向き合ってくれている。こんな愚か者のことを、気にかけてくれている。申し訳なさで張り裂けそうな胸を押さえて、インシャは息をついた。唇を引き結び、大きく息を吸い、そうしてシキの目を見つめ返した。
「それは……、彼の命令、だから」
 シキが、目を見開く。
 インシャは、覚悟を決めた。
「彼が私を必要としている限り、私は彼の求めに応じるでしょう」
「え、まさか、でも……」
「そうね。女ならば誰だっていい、女と見れば見境なしの女ったらし。それでも、私は彼に惹かれている……。彼に見捨てられたくない。可笑しいでしょう」
 口にすればするほど、おのれの愚かさが身に突き刺さる。自嘲の笑みを浮かべるインシャに、シキが悲しそうに眉を寄せた。
「それでいいのですか? こんな、使い走りみたいなことさせられるのも、『必要にされている』ってことなんですか?」
 インシャが必死に目を背けていたものを、シキはいとも簡単に目の前に突きつけてくる。返す言葉もなく、ただ立ちすくむインシャの脳裏に、二日前の出来事が甦ってきた。
 
 二日前、宵闇に沈む資料室で、自分を呼ぶ鈴の音を聞いたインシャは、シキを残して三階のあの部屋を訪れた。
 皇帝陛下を襲った下手人がまだ見つかっていない状況で、エセルだけが帰所するとは、一体現場はどういう状況になっているのだろうか。しかも、執務室ではなくあの部屋の呼び鈴を鳴らすとは、一体どういうつもりなのだろうか。疑問に思いつつエセルの前に立ったインシャは、挨拶を口にする間もなく、エセルによって傍らの壁に押しつけられた。
 深い口づけに、条件反射のごとく応えてしまう自分が酷く情けなくなって、インシャは密かに拳を固めた。だがその一方で、胸の奥に熱いものがこみ上げてくる。ああ、今私は、求められているのだ、と。
「ふざけた話だ。何故、お前達が、あのぼんくらどもの責任まで背負わねばならぬのだ」
 口づけの合間に、エセルが吐き捨てた。こらえきれない鬱憤を晴らすかのように、彼の手つきが荒々しいものとなる。
 甘い痺れに全身を侵されそうになりながらも、インシャはなんとかおのれの職務を全うしようとした。
「どうされましたか、隊長」
「班別に仮眠を取らせようとしたら、却下された。使える人間が揃ってこその総員態勢だろう。消耗しきった兵に何の価値がある」
「では、何故、隊長は」
 ここにいるのですか、と続けるつもりが、嬌声を漏らしてしまい、インシャの体温がますます上がる。
 エセルが得意そうに笑う気配がした。
「少し仮眠を取りに、な。班別が駄目なのなら、代わりに騎士団組を叩き起こしてやる」
 また、深いキス。
 全身から力が抜けそうになるのを気力で耐えて、インシャは言葉を絞り出した。
「隊長、仮眠なさるのではなかったのですか?」
「構わん」
「でも、お身体を休めないと」
「このままでは、とても眠れそうにない」
「ですが、隊長」
 荒い息をおして反論を繰り返せば、ねっとりとした声が耳元にすり込まれた。
「……こういう時は名前で呼べと言っただろう」
 ぎり、とインシャは歯を食いしばった。これは、せめてもの抵抗なのだ。心のない情交に対する。そして――
「名前を呼んでくれ、インシャ」
 ――そして、私は、他の女達とは、違う、と……。
「……隊長、仮眠を」
 次の瞬間、舌打ちの音とともに、インシャは解放された。
 崩れ落ちそうな膝に力を込め、肩で息をしながら顔を上げたインシャを、ぎらつく瞳が出迎えた。
「……そうだ。シキをここへ連れてこい」
 思ってもいなかった言葉に、インシャは我が耳を疑った。
「隊長?」
「さっきは、途中で邪魔が入ったからな。続きといこう」
「馬鹿なことはおやめください!」
 語気を荒らげるインシャを見て、エセルが鼻で嗤った。
「妬いているのか?」
 選択肢のない答えを、インシャは静かに吐き出した。
「……いいえ」
「その割には、不満がありそうだな」
「彼女の意向にそぐわないかと思うからです」
 インシャの言葉を聞くや、エセルの頬に朱が入った。口元を歪ませ、尊大に言い放つ。
「命令だ、インシャ。シキをこの部屋へ連れてこい」
 
 あの時の記憶は、二日経ってもなお、インシャの胸をえぐり続けている。
「自分の価値をさげたくなくて、貴方を犠牲にしてしまった。私は本当にどうしようもない人間だわ」
 深く、深く息を吐き出して、インシャはシキを見つめた。
「ごめんなさい、シキ。談話室へ戻ってください。貴方がこれ以上つらい思いをする必要は、ありません」
「いえ、行かせてください」
 シキの言葉に、インシャは思わず息を詰める。
「隊長に話があるんです」
 強い光を宿した瞳が、真っ向からインシャを見返してきた。
 
 
「ご苦労だったな、インシャ」
 鷹揚な声が、インシャを出迎える。声の主は冷たい笑みを取り繕おうともせずに、ゆっくりと戸口のほうへ近づいてきた。
 無言で扉を閉めるインシャの横で、シキが大きく息を吸い込んだ。
「隊長がこんなに酷い人とは思わなかった! 副隊長の気持ちを利用して、こんな……」
 いきなりのシキの告発に、インシャは慌てふためいて彼女を振り返る。
 シキは、先刻見せたあの挑戦的な眼差しで、エセルにくってかかっていた。
「……インシャの気持ち?」
 エセルの顔からは、先ほどまでの皮肉ありげな表情がすっかり消えていた。しばし、真剣な眼差しでインシャを見つめ、それから静かに口を開く。
「どういうことだ?」
 インシャは、唇を噛みしめ横を向いた。
 エセルの瞳に、獰猛な獣のような光が宿る。彼の喉が大きく波打った。
「答えろ、インシャ・アラハン!」
「…………上司の命令に従うのが、部下の務めです」
 顔を背けたまま言葉を絞り出すインシャに、シキが驚きの表情もあらわに声を上げた。
「副隊長!」
「ふん」
 エセルの口元が、再び冷徹な笑いを刻んだ。先ほどまで熱を帯びていた彼の双眸はすっかり冷めて、まるで氷のようだった。
「流石は、優秀なる補佐役だ。命令一つで身体を開くかと思えば、可愛い後輩を人身御供にも差し出す、と」
「隊長!」
 シキが、憤怒の声とともにエセルに向かって、固めた拳を大きく振りかぶる。
 インシャは無我夢中でシキに追いすがった。
 
 意識を失ったシキを、インシャは壁際の長椅子に寝かせた。口の中で「ごめんなさい」と呟きながら、そっとシキの髪を手ですく。
 シキを止めなければ、と焦るあまり、インシャは反射的に呪文を唱えてしまったのだった。被術者を眠らせる「昏睡」の術を。
「このようなことは、私一人で充分でしょう」
 インシャは静かに立ち上がった。そうして、ゆっくりとエセルを振り返った。
「妬いているのか?」
 嘲るような表情を浮かべて、エセルが問う。
 一瞬、ほんの一瞬だけ、インシャは逡巡した。
 ――この人は、私に心など求めていないはずだ。でも……もしも……。もしかしたら……。
 
 いや、「はい」と答えたら……私は私の居場所を失ってしまう。その他大勢の女にだけは、使い捨ての愛人にだけは、なりたくない。
 
 インシャは、顔を上げると、一言「いいえ」と返答した。
「彼女が嫌がっているのに、強要するのはどうか、と申しているのです」
 嫉妬と罪悪感がない交ぜになった胸の内を悟られないように、インシャは抑揚を殺した声で続けた。
「エセル・サベイジは紳士ではなかったのですか?」
 眼差しに力を込めれば、エセルの唇が弧を描いた。捕り物において相手を捕縛した際に偶さか彼が見せる、支配者の笑み。
「紳士……か。つまり、合意の上でなら問題ない、と。そういうことなのだな、インシャ?」
 寝台に腰かけると、エセルは右手を前へ差し出した。手のひらを上へ向け、ゆっくりと獲物を招く。
「インシャ、来い」
「それは命令ですか?」
 半ば儀式のようにインシャが問いかける。
 エセルが口角を吊り上げた。
「そうだ、命令、だ」
 
 
 
 カツ、カツ、と規則正しい靴音が上階から降りてくる。やがて、その足音の主は、二階と三階の間の踊り場に姿を現した。
 袖のカフスをとめながら階段をくだってきたエセルは、二階の廊下に佇むガーランの姿を認めて立ち止まった。
「……いい加減にしろよ、隊長」
「何のことだ?」
 エセルは再び段を降り始める。進路を塞ぐように立つガーランを避けて、彼は二階の床に降り立った。
 平然と階下へ歩みを進めようとするエセルの前に、ガーランは再び立ち塞がる。上背のあるガーランに対して、エセルはその眼光で対抗した。
「俺達は、アンタのことを尊敬している。だから……頼むから、それを裏切らないでくれ」
「何のことか分からんな」
 静かにそう返すと、エセルは進路を変えた。靴音を響かせながら、二階の廊下を執務室のほうへと向かっていく。
「隊長!」
 ガーランの声が、ただ虚しく廊下に反響した……。
 
 
 

    三  淵源
 
 大きく息を吐いて、シキは二階の床に降り立った。そうして、あの部屋のある三階を、吹き抜け越しに見上げた。
 
 インシャに腕を掴まれ、魔術の波動を感じたかと思えば、次に気づいた時には、シキは長椅子の上に横たわっていた。
 頭は石のように重く、手足は棒のごとくこわばっている。目覚めたものの身動き一つできずに、シキは視線だけを部屋中に巡らせた。
 テーブルを挟んだ部屋の向こう側、天蓋つきの寝台が見える。そして、その傍らにエセルが佇んでいた。
 エセルが寝台のほうを向いているため、シキからは彼の表情を見ることができない。ただ、その背中は、酷く寂しそうに見えた。
 と、エセルがこちらを振り返った。
 咄磋にシキは目をつむり、寝たふりをする。
 規則正しい靴音が、戸口へと動いていく。
 そっと薄目をあけたシキは、エセルの顔を見て息を呑んだ。
 彼の表情は、苦悶に歪んでいた。とてもではないが、先刻暴君のごとき台詞を吐いた男の顔には見えなかった。憔悴しきったそのおもては、間違いなく深い悲しみに彩られていた。
 扉が重々しい音を立てて閉まったのち、寝台の上で何かが動いた。
 インシャだった。掛布を羽織った背中が、とても頼りなく見えた。
「副隊長……」
「お願い、しばらく独りにして……」
 インシャはシキに背を向けたまま、呟くように声を漏らす。
 返事をするのも憚られるぐらいに、彼女の声は弱弱しかった。シキは口の中で「はい」と応えると、静かに部屋をあとにした。
 
 ふぅ、と大きく溜め息を吐き出して、シキは三階から視線を引き戻した。と、ふと人の気配を感じて、廊下の先へと顔を向ける。
 暗い廊下の真ん中に、ガーランが独り佇んでいるのが見えた。
「……大丈夫か」
「……え?」
 彼は、見たこともないような難しい顔で、静かに問いかけてきた。シキはなんと返答したものか悩んで、思わず押し黙る。
「確かに変わったよな」
 ガーランは神妙な顔のまま、シキを静かに見つめた。
「もう間違いなく女の子だ。……こんなに変わるものか……」そこで少しばつが悪そうな表情を作って、彼は頭を掻き毟った。「いや、悪い。俺は根っから下品なんでな」
 ガーランの言葉を聞いて、シキは思い出した。半年前に聞いた、リーナの台詞を。
『シキ、あんた遂に︿女﹀になったね――』
「あ! えええっと! 違います、違います! 何もありませんでしたから!」
 大慌てで両手を身体の前で振るシキに、ガーランは思いっきり目を丸くする。そして、信じられない、といった表情で、まず三階を指差し、次に背後にある隊長の執務室を指差し、最後にシキを指差した。
「……何も、無かった?」
「あ、はい……概ね」
 苦笑しながら、シキは一言つけ加える。確かに、何かあったわけではないが、何も無かったと言える性質のものでもない。
「おおむねぇ? なんだそりゃ。……ま、無事だったんならいいんだ、無事だったんなら」
 ガーランは、溜め息とともに肩を落とした。ややあって、もう一度険しい表情でシキに視線を合わせてくる。
「いいか、シキ。もしも次に何か言われたら、俺でもいい、他の奴でもいい、とにかく助けを求めろ」
 その一瞬、ガーランの目に苦悶の色が浮かんで、……消えた。
「……隊長の本当の目当てはお前じゃない、副隊長だ。当て馬にされてお前が傷を負うことなんかないんだからな」
 ――やはり、そうだったんだ!
 これまで自分が漠然と感じていた違和感に、明確な言葉が与えられたことによって、シキは自分の視界が一気に広がったように感じた。
「人間ってもんは、そんなに強い生き物じゃねえ。しんどいこと、つらいことが続くと、なんとかして逃げ道を作ろうとしちまう。それが、間違った方法だったとしても、だ」
 そこまでを一息に語って、ガーランは肩を落とした。
「これで楽になる、って思ってしまったら、もうだめだ。そこに嵌まり込んで、二度と出られやしない。……隊長も、副隊長も」
 ああ、そうだ。と、シキは思った。かつて自分も、レイに拒絶されるのが怖くて、ただ黙って自分の殻に閉じ籠もっていた。幾重にも予防線を張って、自分に言い訳を繰り返して、正面きって彼と向き合うことを避け続けていた。そればかりではない。現に今も、シキはレイの死を認めたくなくて、逃げている。彼と同じ髪型をし、同じ色の服を着、目に映る全てのものに彼の面影を探している……。
 シキは、大きく息を吸った。
 現実から目を背けて、距離を空け、我が身を鎧う。それは強さではなく、逃避でしか過ぎない。そのことに改めて気づかされたシキは、どこか晴れ晴れとした表情でガーランを見上げた。
「リントさん……」
「ガーランでいいさ。ああ、そうだ、シキ、ちょっと来いよ。面白いものが見られるぞ」
 
 
 一階に下り立ったガーランは、階段ホールのすぐ左側、建物の一番北に位置する応接間の扉を開けた。
 扉をくぐってすぐの所は、かつて画廊として使われていた空間らしく、幾つかの油彩が豪気にも壁に残されたままだ。部屋は向かって右手……通りに面した東側へと伸びており、入ってきた扉と同じく南側の壁にある大広間へと繋がる扉の前に、豪奢なソファが並んでいる。
 その傍で、腕を組んで壁にもたれていたラルフが、ガーランとシキの姿を認めて茶髪を揺らして駆け寄ってきた。眉間に入った皺が、彼の容貌を更に神経質そうに見せている。
「ガーラン、隊長はどうしたんだ」
「知らねえよ」
 年恰好も背格好も似通っている二人だったが、こうやって並んでみると彼らは非常に対照的だ。
「呼びに行ったんじゃないのか? じゃ、副隊長は?」
「知らね」
「知らね……って、こんなに待たせておきながら、それか?」
「知らんもんは知らん。こうやって待ってても時間の無駄だろ? サラナン先生、さっさと始めようぜ」
 その声に、ソファから一人の青年が立ち上がった。はね癖のついた、くすんだ茶色の短髪に、まるで瓶の底を切り取ったかのような丸い眼鏡。そんなに背が高くないにもかかわらず、彼は風に折れそうなぐらいにひょろ長く見えた。
「先生はやめてくださいよー」
 その声はまるで少年のように甲高かった。一度会えば二度と忘れはしないほどの、印象的な人物である。
 話についていけずに目をしばたたかせるシキを見かねたのか、ラルフが簡潔に解説を入れた。
「こちらはユール・サラナン先生。東の初等学校で、歴史を教えておられる」
「初めまして! こんな可愛い隊員さんがいるなんて、知らなかったなあ!」
「……あ、はい、初めまして……」
 握手のはずが、両手で手を掴まれ、更にぶんぶんと振りまわされて、シキは呆然と挨拶を返した。その横を通り過ぎたガーランが、大広間への扉を開けて振り返る。
「先生、待たせた上に急かすようで悪いんだが、こっちへ来てくれないか」
「了解」
 ガーランのあとをついて、ユールの姿が大広間へと消えた。ラルフに促されてシキもそのあとを追う。
「今回、僕は何をすれば良いのかな?」
「一昨日のパレードでの騒動は……」
「知ってるよ。皇帝陛下の兄のほうが襲われたんだって?」
「襲撃に使われた馬の持ち主がな、どうしても馬泥棒の顔を思い出せないらしいんだ」
「なーるほど。そこで僕の出番というわけだね」
 シキは首をひねった。一体、歴史の先生が馬泥棒とどのような関係があるというのだろうか。
「先生にはちょっとした特技があるのさ」
 シキの心を読んだかのように、ガーランが後ろを振り返った。「特技?」とオウム返しに訊くシキに、何やら得意そうな笑顔を作る。
「まあ、見てのお楽しみ、ってな」
 
 
 大広間から玄関ホールに抜ける途中にある控えの間は、現在、取り調べ室という名称を冠している。
 部屋に入ってきた面々を確認して、エンダが怪訝そうな表情を浮かべた。相棒であるラルフの傍まで近寄って、耳打ちする。
「隊長は?」
「手が離せないそうだ」
「なんだそりゃ」
 鼻を鳴らすエンダに、ラルフはちらりと横目でガーランを見やった。
「あいつがそう言うんだから、そうなんだろ」
 そうか、と頷いたエンダの口元が、にやにやと笑っているのを見咎め、今度はラルフが鼻を鳴らした。
「なんだ」
「お前、ガーランにしょっちゅう突っかかってる割に、こういうとこ素直だなあ、と思ってな」
 エンダの言葉に、ラルフの眼差しが一気に険しくなる。
「好き嫌いで他人を評価するほど、俺は馬鹿じゃない」
「それ、本人に言ってやれよ。喜ぶぞー」
「死んでもお断りだ」
 ひそひそ話をきっぱりと打ち切り、ラルフは戸口を振り返った。所在なげに佇むシキに部屋の中へ入るよう促し、油断のない眼で扉を閉める。
 尋問が、始まるのだ。
 
 
 部屋の中央には四人がけの簡素な木のテーブルと椅子が置かれていた。これは明らかに本部の調度だろう。扉に遠いほうの椅子に、少しくたびれたふうの中年の男がこちらを向いて座っていた。
「さて、先生、頼む」
 ガーランが一番手前の椅子にユールをいざない、自身は男の右手に立つ。
 自分の正面に座った、明らかに場違いなユールの姿を見て、馬借は眉根に深い皺を刻んでガーランを見上げた。何か言いたそうな馬借の肩をポンポンと叩いて、ガーランは気安い笑顔で応える。
「随分待たせてしまって、悪かったな、大将。もう少しだけ付き合ってくれないか?」
 その声を合図に、ラルフが少し離れた所にある文机についてペンを握った。エンダはさりげなく出入り口を固める。これから何が行われるのか解らないシキは、自分の仕事を見つけられずに戸惑って辺りを見まわした。
「シキ、こっちだ」
 ガーランに手招きされるがままに、シキはテーブルに近づく。ガーランは男の右辺の椅子を引き出すと、シキを座らせた。「特等席、な」
「……あのー、わし、仕事があるんで、もうそろそろ……」
「いいからいいから、もう少しだけ」
 調子良く男に笑いかけてから、ガーランは一転して厳しい目線でユールに頷きかける。瓶底眼鏡の青年はにんまりと頷き返して、両手を目の前にゆっくりと差し出した。
 馬借が、シキが、驚いてその手を見つめる。
 次の瞬間、ガーランの手がシキの視線を遮った。
 
 パチン!
 
 手を打つ音とともに一瞬だけ閃いた魔術の気配に、シキは思わず息を呑んだ。自分の知る古代ルドス魔術とは違う、もっと原始的、淵源的な術。そう、まるで精霊使いの技のような……。
「さあ、気を楽にして」
 一呼吸おいてから、ユールの柔らかい声音が静かに響いた。シキの目を覆っていたガーランの手が、そっと外される。
 シキは思わずガーランを振り仰いだ。彼女の驚きを知ってか知らずか、彼はどこか得意げに片目を閉じると、人差し指を口元に当てる。
「馬達は可愛い?」
「……はい……」
 馬借は、焦点の定まらない目でぼんやりと宙を向いたまま、訥々と返答を始めた。
「毎日お仕事大変だよね。ああ、でも今日は収穫祭だから、仕事になりそうにないか」
「……そうですな……」
「でも、お客が来る予定があるんだよね?」
「……はい……」
 刹那、室内の空気が変わったのをシキは感じた。ガーランが、エンダが、身を乗り出して男の話に耳をそばだてている。
「ああ、どうやらそのお客さんが来たようだよ」
「……ダラスのダンナ、いらっしゃいませ」
 ラルフがペンを紙に走らせる音が響く。
「どんな用事なんだっけ?」
「……馬を……ありったけ……貸してくれと……」
「盗られたってことにして?」
「……はい……」
「何に使うんだろうね?」
「……それは……聞くなと……」
「気にならない?」
「……気にはなるけども……余分に……」
「ああ、ちょっと余分にお代を貰っちゃったんだ」
「……はい……」
「で、誰にも言うなって? 他には何か頼まれた?」
「……いんや……」
 ガーランがユールに向かって大きく頷いた。
「さて、では、もう一度楽にして。そう、そう。次に僕が手を叩いたら、夢から覚めるよ」
 
 大きく息を吐いて、馬借は我に返った。何が起こったのか解らずに辺りをきょろきょろと見まわしている。
「どうしても、馬泥棒の顔は思い出せないのか?」
 とぼけた表情でガーランが馬借に尋ねる。
「……は、はぁ。歳をとると目も頭も悪くなるもんで……」
「仕方ない。もう帰っていいぞ」
 
 
 頼りなさそうな足取りで馬借が玄関を出ていくのを見送ってから、ガーランは同僚を振り返った。
「ラルフ、隊長に報告頼む」
「……え?」
「もうそろそろ執務室で暇を持て余している頃だ。俺はシキと一緒に先生を送っていく」
 突然の話の展開についていけずに、ラルフは目を白黒させながら、辛うじて一言を言い返す。
「送っていく、って、お前一人で充分じゃないのか?」
「野暮なこと言うなよ」
 言うが早いか、ガーランはシキとユールの背中をドンと押した。「じゃ、任せたぜ」
 
 
 
「元々は、古い伝承の聞き取りに使ってた技なんだけどね」
 道すがら、ユールは相変わらずの調子でシキに語り続けていた。
「お年寄りって、ほら、物忘れが激しくなるでしょ。折角の貴重な話が途中でぶつ切りだったり、違う話と合体したり……」
 さっきの型破りな尋問以来、シキは無口だった。今も、思いつめたような表情でユールが話すのをじっと見つめている。
「で、僕は考えたわけ。もしかしたら、記憶は頭の中にあるのに、それを引っ張り出せていないだけなんじゃないかな、って。それだったらまだ望みはあるわけでしょ。なんとか失われた話を聞けないかなあって思って、色々試行錯誤しているうちにね、結構上手くいくようになってきたんだよ」
 ユールの話が一段落ついたところで、同じく黙って歩いていたガーランが、ズボンのポケットに手を突っ込んだ格好のまま、肘でシキを軽く小突いた。
「……何か聞きたいことがあるんじゃないのか? 先生に」
 シキは小さく息を呑んでからガーランを見た。訳知り顔で頷くガーランに促され、意を決したようにユールの前に回り込む。
「あの、サラナン先生」
「何?」
「十年も前の記憶でも、掘り起こせるんですか?」
「できるかもしれないし、できないかもしれない」
「できるかも、しれないんですね」
「うん」
 シキは決意の光を瞳に宿して、ユールの丸眼鏡をじっと見つめた。
「先生にお願いしたいことがあります」

 
 
 ユールの家は大通りから少し坂を上がった所にあった。
 隊長には上手いこと言っとくから、と先に帰ったガーランを見送ってから、シキはユールのあとについて玄関をくぐる。
 間口の狭い石造りの家は、思いのほか奥行きがあった。母親と二人暮らしだと言っていたが、シキ達が住まうジジ夫人の家よりも広いようだ。大通りの西側という立地を考えても、結構裕福な家なのかもしれない。そんなことをつらつらと考えながら、シキはユールのあとをついて階段をのぼっていった。
 二階の廊下の一番奥の扉の前で、ユールは振り返った。
「ちょっと散らかっているけど、気にしないでね」
 そうして踏み入ったその部屋は、それはそれは見事な乱れようだった。床面を埋め尽くさんばかりの本の山に、それをうずめんばかりの紙の束。部屋の四方は天井までの書架で覆われ、当然のごとくその棚は、並べられた書物の背表紙が読めないぐらいに手前にも本が横積みにされている。
 足の踏み場を見つけられず戸口で立ち尽くすシキを尻目に、部屋の主は流石の技で、器用に本を避けながら部屋の中央へと進んでいく。
「こっち、こっち。この椅子に腰かけてよ」
 シキは必死に足元に全神経を集中させて、ようやくその椅子のもとへと辿り着くことができた。ほっと安堵の溜め息を吐き出し、椅子の上にへたり込む。
 とにかく、出会ってからの数刻、シキはこの歴史教師に度肝を抜かれっぱなしであった。彼は一体どんな授業をしているのだろうか、生徒達は一体この変わり者の教師をどう思っているのだろうか。シキは興味深そうな眼差しで、ユールの姿を追う。
 彼は、肩からさげていた鞄を、本の山に同化しつつある机の上に置くと、そそくさとシキの傍へと戻ってきた。悪戯っ子のような笑みを頬に刻んで、シキの前に立つ。
「さーて、十年前だね。戦争が終わってすぐ、君の町に帝国軍がやって来た頃……」
 ユールの両手が前に差し出される。シキはその手をじっと注視した。
「何が君の記憶に蓋しているのか……思い出してみようか」
 手が軽く打ち鳴らされる。視界が真っ白に染まり、シキの意識はぐるりと裏返った。
 
 
 
 いそがしい、いそがしい。
 え? だって、おそうじしなきゃ。
 ううん、わたしの部屋じゃないよ。ひみつの部屋。東の森で見つけたんだ。
 ちがうちがう。どうくつなの。森の奥にあるんだよ。
 そうだよ、誰も知らない。
 そうなんだけど、だって、教会じゃ泣けないんだもん。レイがいるから。レイだって泣きたいのをガマンしているんだから、私が泣いたらこまるよ、きっと。
 うん。それで見つけたの。木や石なんかで歩きにくいし、よごれているから、そうじしに行ってるんだよ。
 そう、ないしょ。片付いたら、レイにも教えてあげるんだ。
 けっこう大きなどうくつだよ。
 うーんと、通路の奥に、部屋みたいなのがあって、そこにおいてある物もふいたりしてる。食器みたいなのとか、何かよく分からない道具みたいなのとか。あと、お母さんの像。
 黒い石でできててね、小さいけど、お母さんそっくりなんだよ! キレイにみがいてあげたら、よろこんでいるみたいだった。とこよの国から会いに来てくれたのかも、って、おもうんだ。
 うん……そう。お父さんも。レイも同じだよ。うん。でも、教会のみんなはとてもやさしいし、平気。もうだいじょうぶだよ。
 
 
 えっとね、レイはすっごくよろこんでる。きょうみないんだーって顔をしようとしてるけど、目がかがやいているもん。
 うん、見せたよ。びっくりしてる。やっぱり似てるって。ねえ、本当にお母さんが会いに来てくれたんじゃないかなあ。
 
 あれ? 何の音だろ。だれか来るみたいだ。
 ……よろいを、きた大人……。五人いる。
 こわい。
 ううん……あぶないから……そとへ……わるいかみさまを……やっつけに……?
 だめ。
 こわさないで。
 ころさないで。
 お母さんをかえして……!
 ああああああああ!
 いたい! いたい! いたい!
 うごけない!
 いたい!
 たすけて!
 たすけて、レイ!
 いたいよ、いたいよ……
 たすけて――――
 
 
 
「いやあ、凄いな。なにか読本よみほんでも読んでいるみたいな気分になったよ」
 青い顔で喘ぐように肩で息をするシキの前で、ユールはただひたすら感嘆の声を上げていた。凄い、凄い、と何度も連発したところで、ふと我に返ったのかシキの顔を見る。
「……思い出せた? 書き取ったメモ、見せようか?」
「…………いえ……、いいです。思い出しましたから……」
 それだけを必死に絞り出して、シキはもう一度大きく息をついた。
 
 ああ、そうだ。全て、私のせい、だったんだ。
 私が、洞窟を見つけなければ。
 私が、レイをあそこに連れて行かなければ。
 私が、剣の前に飛び出さなければ。
 
「悪い神様、って言っていたってことは、邪教狩りだね。斬られたようだったけど、良く無事で」
 ……薄れゆく意識の中、レイの声を聞いたような気がした。そして、身体を包む仄かに暖かい感触。そこから先は闇に閉ざされている。あの、優しい声が自分を引き戻すまでは。
 
『人の子よ、我が祝福を受け取るが良い。
 我が巫子として、我に仕えよ。我のために祈りを捧げよ。しからば、我はそなたに加護を与えよう……』
 
 異教の神の、祝福。黒髪はその証なのだろう。それは、アシアス一神教の帝国の支配のもとでは許されるはずのない存在であった。
 ――レイまで、巻き込んでしまった。私に関わったばかりに、彼は……。
 シキは、溢れる涙を袖で拭った。
 そんな彼女の様子に頓着するふうもなく、ユールは本棚に向かうと、積まれた本の隙間から、奥の棚にある一冊の本を迷いなく取り出した。
「僕は、古代の伝承を調べるのが趣味でね。まあ、神話とか伝説とかそんなものばかり読んでいるというわけなんだけど……」
 そう言いながら、器用に本の山脈を跨いで戻ってくる。
「これは、古代の神々について記された本の写しなんだ。どう? この中に、その『お母さん』っているかな?」
 椅子に座ったまま、シキは手渡された本のページをめくった。そこには、びっしりと細かい文字が書き連ねられ、その合間に、繊細な筆致でえがかれた絵が挿まれていた。
もっとも、実際に神々がそんな姿をしていたかどうかは、定かではないんだけどね。まあ、神様が世の中の人々にどう認識されていたのか、ってことだよ」
 動物の形でえがかれたものもあれば、人の形をしたものもあった。人型のものの中にも、老人から若者まで色々な姿があった。醜女もいれば、色男もいる。それら沢山の神々は、それこそ草木の一本から岩石砂粒に至るまで、あらゆるものを司っているようだった。
 ページを繰るシキの指が止まる。長い髪の美しい女神。どこか哀しそうな瞳で清廉と微笑むその姿……。
 ユールがシキの手元を覗き込んで、読み上げた。
「フォール神、豊穣の女神、かぁ」
 この神が、自分を救ってくれたのだ。あの、柔らかくて温かな声をかけてくれたのだ。シキは食い入るようにその絵に見入った。
「その本、貸したげるから、あとでじっくり読めばいいよ」
 そう言ってから、ユールは少し考え込むような素振りを見せた。「……それはいいとして、君のお母さんはこの絵にそっくりだったんだ?」
「はい」
 ユールの眉根が寄せられる。眼鏡の向こうの目が、いつになく厳しい色を浮かべていた。
「ふうん……。まさか……ね。いや、ううんと……君、何歳?」
「十九です」
「お母さんの名前、まさか、マニだなんて言わないよね」
 驚きのあまりパタンと勢い良く本を閉じて、シキはユールを見上げた。
「……マニです……。でも、どうして……」
「……この絵にそっくりなんだよ、ね?」
「はい」
「年齢は?」
「二十一歳で私を産んだそうです」
「ってことは、二十年前には二十歳だった」
「はい」
「どこで生まれ育ったか、聞いてる?」
 次々と畳みかけるように発せられる問いに、シキは夢中で応え続ける。
「いえ……父が旅先から連れ帰って来たと……魔術の修行に行って、技能は得ずに伴侶を得て来た、とからかわれていました」
 ユールは感極まった様子で両手を擦り合わせ始めた。頬を紅潮させて、半ば独り言のように呟く。
「いや、もしかしたら、でも、あれは今から二十年前のことだから、年齢も合うし……。魔術の修行ってんなら、この街に来た可能性もあるし……。それに……うん、確かに君には面影があるよ」
 そう言って、ユールはシキの眼前に身を乗り出した。対するシキは、仰け反るようにして辛うじて一言を返す。
「なんですか?」
「もしかしたら、だけどね、君ね、古代ルドス王家の末裔かもしれないよ?」
 
 
 

    四  伝承
 
 深夜の自室、シキは軽い溜め息とともに本から顔を上げた。ゆっくりと伸びをしてから、そっと目元を押さえる。
 疲れきった目をいたわるべく、シキはランプの芯を少し繰り出した。炎が若干大きくなるのを確認して、シキは再び書物に目を落とす。
 ユールは二冊の本をシキに貸してくれた。一冊は、彼の部屋で見せてもらった『神々の黄昏』という写本。そしてもう一冊が、今彼女が読んでいる『ルドスの歴史』という本だった。
「半分はお伽噺だと思ったほうがいいよ、こういうのは」
 本当に、こういった話が好きなのだろう、ユールは実に雄弁に、朗らかにシキに語ってくれた。
「でも、全てがまったくの石ころばかりじゃない。中には目も眩むばかりの玉だって混じっていることがあるんだ。それを見つけるのが楽しいんだけどね」
 
 
『神とともに在った国、ルドス。』
 その本はそういう文言で始まっていた。
『太古の昔より魔術によって栄華を誇っていた、奇跡の王国。ルドスでは王家の者が神より魔術を授かり、その秘儀を使って民を幸せへと導いていた。
 魔術は、王族にのみ許された技であった。その血脈に属した者ならば、男女問わず神の御業を為すことができたという。』
 シキが息を呑む。
 ――男女問わず。……女性の魔術師!
 そういえば、とシキは記憶の糸を手繰った。彼女が読んだ限り、どの魔術書にも「女は魔術師になれない」とは明言されていなかった。女魔術師という存在がこの世に無いに等しいにもかかわらず。それはこういう伝説の流れを汲んでのことなのだろうか。
『ところが、永きに亘ってアルクセジュ大陸中を統べ、この世の楽園かと謳われていたルドス王国が、大きく道を踏み外してしまう時がやってきた。
 ルドス最後の王は、自国の繁栄を堅固なものとすべく、秘儀として伝承され続けていた魔術を市井に広めようとしたのだ。王自らが魔術書を記し、呪文書を作り、王家の秘密であったはずのその知識を外部へと漏らした。』
『どういう契約であったのか、その王の裏切りにより神はルドスから去り、高い文明を誇っていた王国は一夜にして滅んでしまった。
 更に遺憾なことに、呪文書は神の技を完全に伝えきるものではなかった。記した者が男王であったためであろうか、以降、女の術者が現れることはなかった。』
 ――ならば何故。何故私は魔術を使えるのか。
 シキは何かにとりつかれたように夢中でページをめくり続けた。そうして更に夜が更けた頃、シキはとうとうその答えを手に入れた。
 書物の最後の最後に、さらりと記されたその文言にはこうあった。王族の末裔と呼ばれる人々の血には、その完全な技の記憶があるかもしれない、と。
 
 
「ルドス自治領は、元々、ルドス王家の末裔と名乗る領主様が治めていたんだ。その真偽はともかく、ね。で、その遠縁の家族が家の隣に住んでいたんだよ」
 瓶底眼鏡の位置を直しながら、ユールは淡々と語っていた。聞き手であるシキはというと、次々とユールの口のにのぼる言葉の数々に、心底驚いているというのに。
「ま、全然普通のご家族でね、よほどの物好きじゃなければ、王家だの末裔だの気にする奴なんていなかったし。僕だって、その時はまだ子供だったから、そんなこと全然知ったことじゃなかったんだけど」
 子供時代のユールの姿を想像できそうで想像できなくて、シキはつい笑いを漏らしそうになった。そのお蔭で少し緊張の糸が緩み、シキは大きく息をつく。
「綺麗なお姉さんだったよ、マニさんは。ココだけの話、ちょっと憧れてたんだ」
 そう言って、ユールはウインクしたようだった。もっとも、眼鏡に遮られて、単に顔をしかめたようにしか見なかったが。
「この女神の絵に似ているのは、たぶん偶然だろうけど……、本当の女神みたいに神々しくてね。ところが、今から丁度二十年前の、収穫祭のあと。マニさんは忽然と消えてしまった」
 いよいよ話が核心に迫ってきたのを感じて、シキは思わず身を乗り出した。
 二十年前。
 ――私が生まれる一年前。……つまり、母と父が結ばれたであろう頃のこと。
「小母さん達は、何か諦めていたような感じだったなあ。仕方ない、みたいな。他の大人達も皆、必死になってマニさんを探すことはなかったんだけれど。ただ、領主様がすっごくお怒りになってね」
 遠くを見つめるような表情で、ユールは言葉を継ぐ。「うん、ますます『駆け落ち』と考えるとしっくり来るなあ。で、領主様はマニさんを狙っていた、と。うんうん。じゃあ、みんな薄々事情を知っていたんじゃないかな、ズルいなあ。よし、ちょっと母さんに聞いてこよう」
 言うが早いか、ユールは本の山を跨いで扉に向かおうとした。シキは慌てて椅子から立ち上がると、必死で彼の服の裾を引っ張って止める。
「ま、待ってくださいっ」
「なんで?」
「あ、あまりに色々突然で、心の準備がっ」
「マニさんって駆け落ちしたの? って訊くだけだよ」
「いや、だからっ……! そう、そうだ、その方のご家族は……?」
 その言葉を聞いた途端、ユールの表情は目に見えて翳った。
「……戦争で、亡くなられたよ」
「え、でも、ルドスは無血開城したのじゃ……」
「言ったでしょ、領主様の遠縁だって」
 帝国の東方侵攻に先立って、その自治権を皇帝に明け渡した古い都市。和平の代償は、時の領主一族の命であった……。
「……つまり、そういうことなんだ」
 無念さを声に滲ませながら、ユールはぼつりとそう呟いた。
 
 
 
 ――この冷たい水が、全ての感情を流し去ってくれたらいいのに。
 洗った顔から滴る水を拭こうともせずに、シキは洗面台の鏡に映る自分の顔をしばし眺めた。水滴がランプの光を反射して、どこか妖しく揺らめいている。
 深い色味の長い金髪。シキの記憶に残る母は、いつもその髪を左肩でまとめて、優しく笑っていた。子供達の悪戯が過ぎた時ばかりは、母もその顔に険を刻んでシキ達を叱り飛ばしていたが、それでも最後はいつもぎゅっと抱きしめて、静かに諭してくれたものだった。
 タオルに顔をうずめながら、そうなのかもしれない、とシキは思った。母は、古い王家の血筋の人間だったのかもしれない、と。
 近所の小母さん達は、時々母のことを「お嬢さん」と呼んでいた。今ならその理由が解る気がする。おっとりとした態度、丁寧な言葉遣い、洗練された物腰、確かにそれらはどれも、田舎育ちの小母さん達とは一線を画していた。精霊使いの技を使うということと、変わり者の魔術師の伴侶であったということが、彼女の過去についての目眩ましとなっていたのかもしれない。「あの人は特別だから」と、その言葉が、人々に詮索の余地を与えなかったということなのだろう。
 それに。何よりシキが女の身でありながら魔術を使えるということ。
 シキは悔しさを顔に滲ませた。努力の賜物だと思っていたが、それは単に体に流れる血のせいだったというのだろうか。一番弟子が聞いて呆れる。私なんかよりもレイのほうがずっと……。
 ――私のせいで頭髪を黒に変えられ、私のせいで不当な評価を押しつけられ、挙げ句の果てに……。
 シキは洗面台をきつく握り締めた。
 
 
 少し眩暈を感じて、シキは階段の手すりに寄りかかった。このところ、一度にあまりに色んなことが起こり過ぎて、頭が過負荷状態なのかもしれない。手に持ったランプの光がやけに頼りなく思え、シキは身震いした。大きく深呼吸すると、先の暗い直階段を注意深く踏みしめる。
 二階の床に立ったシキは、屋根裏への階段に向かう廊下の途中に人影を認めた。静かに佇むロイの姿を。
「先生……」
 共犯者だ、とシキは独りごちた。レイを殺した、共犯者だ、と。
 ――そう、私が、先生に、レイを殺させた。
 ふいに、昼間のガーランの言葉が、シキの胸に迫ってきた。
『人間ってもんは、そんなに強い生き物じゃねえ。しんどいこと、つらいことが続くと、なんとかして逃げ道を作ろうとしちまう。それが、間違った方法だったとしても――』
 手を伸ばさなければ、振り払われることはない。足を踏み出さなければ、傷つくこともない。そうやって自分は、レイと正面きって向かい合うことを避けていた。
『――これで楽になる、って思ってしまったら、もうだめだ。そこに嵌まり込んで、二度と出られやしない……』
 たぶん、先生もそうなんだ。シキは静かに目を伏せた。
 異教の呪文書なんて、レイが簡単に手に入れられるようなものではない。ならば、一体どこからそれは現れたのか。
 シキは、あの嵐の日のことを思い出したのだ。わざわざイの町を避けるようにして、サランで古物商と取引をしようとしていた先生の、あの切羽詰まった様子を思い出したのだ。
 おそらく、あれが、その呪文書だったのだろう。異教の呪文でシキを独占しようとしたのは、レイではなく先生のほうだったのだ。
 そして、お使いに行ったレイが、何かの弾みで先生の計画を知り、それを邪魔するべく呪文書を奪い取った……。
 ――私と、先生は、同類なのだ……。
 無言で俯くシキの手から、ロイがランプをもぎ取った。それをそっと床に置き、シキの正面に立つ。
 そうして彼は、シキの顎をそっとすくい上げた。
 
 唇が触れ合おうとするその瞬間、シキは咄嗟に両腕を前方に突っ張っていた。
 胸を押されて、ロイが後ろに数歩よろめく。その隙に、シキはロイの横をすり抜けて、屋根裏への階段に駆け寄った。何度か足を踏み外しそうになりながらも、部屋に上がり、扉を閉める。
 ぎし、ぎし、と木の軋む音が聞こえ、扉にノックの音がした。
 シキは、息を詰めながら、床の扉を見つめる。無言で。
「まだ忘れられないのか? 奴のことが」
 月明かり差し込む屋根裏部屋に、静かな声が響く。
「忘れることだ。もう奴はいない」
 シキはきつく目をつむった。
「……まあ、急に意識を変えろというのも、難しい話かもしれないな」
 シキの内部に、自分自身に対する怒りと同時に、どこまでも独善的な師匠への腹立たしさも首をもたげてくる。
 ――でも、この人を動かしたのは、私。
 唇を噛み、身体をこわばらせるシキの耳が、微かな溜め息を捉えた。
「明後日、皇帝陛下とともに帝都へ行く。勿論、君も一緒だ」
 そうして、階段を踏みしめる音が、一歩また一歩と遠ざかってゆく。
 師の気配が階下に消えるのを待って、シキはその場に崩れ落ちた。
 ――お似合いだ。
 シキは自嘲した。レイを死に追いやった者同士、これ以上の組み合わせはない……。
 レイの仇をとる、と決意して警備隊に入った。だが、何のことはない、仇とは、レイの死の原因とは、ほかならぬ自分のことだったのだ。
 警備隊にいる意味がなくなってしまった以上、もはやシキには、ロイの申し出を断る理由はない。
 ――そう、これは、罰なのだ。
 シキはそっと瞳を閉じた。

第十話  死が二人を別つまで

    一  急転
 
「……まァ、上出来なんじゃないの?」
 結い上げた髪を耳当てつきの帽子で隠したレイに、サンが頷きながらそう言った。「昼間じゃないし、大丈夫だろ? 耳当てを下ろしたら、完璧だろうけどさ」
「それはいくらなんでも、季節外れだろ?」
「なぁに、冬はもうすぐそこだ。寒がりさんってことにしとけよ。じゃ、行こか」
 言うが早いが、サンはレイの手をむんずと掴んで、部屋を出ようとする。
「いざゆかん! 我が友よ!」
「だぁーーーー! 待て待て待て!」
 調子の良いサンの手を思いっきり振りほどいて、レイは部屋の戸口に踏み止まった。すっかりサンの勢いに乗せられ、疲れきったように肩で息をしているその様子に、二人の往年の力関係が窺える。
「なんだよー。行かないのか? 折角その帽子見つけてきてやったのにー」
 昨夜、サンは大きなバンダナをレイの頭巾にしようと試みていた。
 ところが、普通に頭を包めば髪を隠しきれなくて、髪を隠すように工夫しようとすると、「変だ」「不審だ」「余計に怪しい」と、ウルスや、ザラシュ、果ては彼らの世話を焼いてくれている家令のシシルまでもが容赦なく突っ込みを入れる有様だった。
 最終的に、「変なんじゃなくて、女みたいなんだ」という、無責任なサンの呟きにレイが堪忍袋の尾を切ってしまい、サンの野望はあえなく潰えてしまったという。
「……悪いけど、俺は別行動をとるつもりだ」
「え? 何? そんな特殊な店に行くわけ?」
 今度ばかりは、サンはレイの一撃を避けきれなかった。彼は頭を抱えながら床にうずくまる。
「……ってー! 冗談に本気で返すなよ」
「お前が言うと、全然笑えねーからだ!」
「くっそー……思いっきり殴りやがって……」
 脳天をさすりながら、サンはゆっくり立ち上がった。いつになく真面目な顔で溜め息をつくと、レイの顔をじっと見つめる。
「……お前さ、この二、三日ずっとイライラしてるだろ」
「……」
「シキのことで、何か……あったんだろ? 俺達には解らない何かが」
「……まあな」
「かといって、何かできる事があるわけでもなし……」
 その言葉に酷く傷ついたような表情を浮かべるレイを、サンは静かに見やった。「せめて、さ、息抜きぐらいはいいんじゃねえの? 彼女を見つけ出す前に、お前が参ってしまってちゃ、元も子もないだろ?」
「サン……」
 二人の視線が交錯する。
 本当に、コイツは昔のままだ。レイは肩の力を抜いた。しばし視線を床に落としてから……眉間に皺を寄せて勢い良く顔を上げる。
「そのテは喰わねえからな!」
「おーや、レイったら進歩したねえ」
「言ってろ。人に物を頼む時は、お願いします、ってんだ」
「お願いします、一人じゃつまんないんで、一緒に行ってください」
 レイのことを拝むようなポーズでそう言ってから、サンは身を起こし、軽く苦笑して腰に両手を当てた。
「……ま、お前のことを心配していない、つったら、嘘になるけどさ」
「とにかく、俺は他にすることがあるから、一緒には行けねえ」
 思いつめたようなレイの様子に、サンは降参のポーズで背を向ける。
「じゃ、ちょっと行ってくらー」
 
 扉の向こうにサンが姿を消すのを見送ったあとで、レイははっと気がついた。
 ――そうだ、帽子の礼、言ってなかった……。
 なんだかんだ言って、サンはやはり自分のことを気遣ってくれているのだろう。あの、「ふざけたあとに、真面目にちょっと退いてみる」サンの得意技を差っ引いたとしても。
 だが、駄目だ。レイには一刻も早く為さねばならないことがあるのだ。
 シキは、レイが死んでしまったと思わされているに違いない。そこまでは、この半年間、散々レイも考えてきたことだった。シキがロイと一緒にいるであろうことは、想像に難くない。「半身」の術が破られてしまった今、それはほぼ事実だと確定してしまっている。そして、ロイがシキを手に入れるために、レイの存在を抹殺しようとするのは、火を見るより明らかなことだった。
 レイは、いつになく晴れ晴れとした表情で、大きく息を吸った。
 ――どうして今まで気がつかなかったんだろう。俺が生きているということを、シキに伝えなきゃならない理由なんてないってことに。
 今後のことを考えると、あれ以上詳細な自分の容姿を晒すわけにはいかないだろうが、「レイという名の魔術師」という情報を、あの人相書きに付加させることができたら……。
 と、バタン、と部屋の扉が派手な音とともに開かれ、全力疾走してきたと思しきサンが、大きく肩で息をしながらレイを睨みつけた。
「ちょっと、待て。レイ。お前、これから、何する、気だ?」
「どうしたんだよ、サン?」
「お前、まさか、『俺の名は、レイだ!』とか、なんとか言って、警備隊本部を、魔術で襲撃、しようってんじゃ、ないだろうな?」
 流石にそこまで過激なことを考えていたわけではないが、方向性としてはほとんど図星に違いない。レイは、ぐっと息を呑んだ。
「な、何だよ、サン。夜遊びはやめか?」
 レイのその言葉が終わりきらないうちに、何かに気がついたサンが、暗い廊下を振り返る。
 ほどなく、ウルスが難しい表情で戸口に姿を現した。
「非常事態だ。すぐにここを引き払う。荷物を用意しろ」
 ウルスの口調は厳しかった。聞くなり、慌ててサンが自分の部屋へと走り去る。それを満足そうに見送ってから、ウルスはレイのほうを振り返った。
「丁度良い。その帽子はしっかりかぶって行け。名乗りはともかく、髪の色が知れ渡ると、お前もこれから動きづらくなるだろう?」
 軽く頷いてから、レイは荷物をまとめ始めた。それを確認して、ウルスはきびすを返す。
「階下で、シシルが待っている。あいつについていけ」
「あんたはどうするんだ?」
「目立ってはいけないからな。俺とザラシュ殿は別の道を行く。またのちほど会おう」
 
 
 シシルはアカデイア家の家令だ。親子二代で同じあるじに仕えており、シシル自身がアカデイア家の家政を取り仕切るようになったのは、ここ数年のことだという。
 一見線が細く、頼りなさそうに見えるその身体が、実にしなやかに武器をふるうのをレイ達は知っていた。というのも、昨日、時間を持て余していた元近衛兵との手合わせを、シシル自身が求めてきたからだ。
 癖のない赤毛を揺らしながら細身の片刃の剣を自在に操り、彼は一度はサンの喉元まで迫る勢いであった。流石は、使用人の長でありながら護衛も兼ねるという男。主人の信頼が厚いのも頷ける。
 もっとも、鯛は腐ってもやはり鯛であったということか、最終的に刃が突きつけられたのは、剣を弾き飛ばされ空手となったシシルの胸元であったわけだが。
 
 若い家令は広間の扉の前で待っていた。二人が階段から降り立つのを見ると、そのまま先導するように玄関を外へ出る。
「こっちだ」
「非常事態って、一体、どうしたんですか?」
 サンの声に振り返った彼の眼鏡が、カンテラの光を反射して不気味に光る。
「……ダラス・サガフィが捕まった」
「ええっ?」
 あの、豪快に笑う好漢が、とレイは記憶を辿った。
 名実ともにウルス達の同胞はらからとなったレイは、昨日の午後、主だった面子と引き合わされていた。ダラスは、アカデイアと取引のある古い商店の息子で、短く刈り上げた髪が良く似合う、精悍な顔立ちの丈夫だった。レイは、その顔に見覚えがあるような気がしてならなかったが、どこで会ったのかどうしても思い出すことができず、もどかしい思いは今も胸の奥にくすぶり続けている。
「悪いが、お前達をこれ以上この屋敷に置いておくわけにはいかないんだ。代わりの滞在先にこれから案内する」
 細い目を更に細く、険しくさせて、シシルは暗闇の中へと歩みを進めた。
 
 
 
 ひとけの無い深夜の街路。
 家紋のない二輪馬車が速度を弛めたかと思うと、そこから人影が三つまろび出てきた。
 馬車はまた速度を上げ、闇の中へと走り去っていく。人影達はそれを見送ることもなく、するりと、ある家の裏口へと消えた。
 
 
 暗闇から急に明るい室内に入って、レイは一瞬目が眩んだ。裏口から一直線に奥へと伸びる細い廊下の、糸杉の葉の模様の壁紙が、壁にかけられたランプの光を柔らかく受け止めている。
「問題はないか?」
「はい、ラグナ様」
 先に到着していたウルスが、廊下の真ん中で仁王立ちになって彼らを出迎えてくれた。
「彼は……?」
 そう問うたシシルの眉間に、あからさまに皺が寄る。声も心なしか不機嫌そうな響きを増したようだ。
「上だ。行こう」
 そう言って廊下を進んでいくウルスのあとを、シシルが追った。話についていけずに立ち尽くすレイの脇腹を、サンが肘で突つく。
「俺達も行こうぜ」
「……ああ」
 
「いらっしゃーい」
 重苦しい雰囲気に包まれていたレイ達の逃避行は、不必要に朗らかな声で幕を閉じた。茶色の髪の、日陰の豆の芽みたいにひょろ長い男が、両手を広げて彼らを出迎えたのだ。
「あ、お世話になりますー」
 思わずサンが、調子を合わせて返答する。
 分厚い眼鏡のその男は、サンの手を両手で握ると、大きく何度も縦に振った。そして、酷くあっさりと手を放して、今度はレイの手も同様にぶんぶんと振る。どうやらこれが彼流の握手らしい。
「そんな奴に礼なんて言う必要はない」
 棘だらけの声で、シシルが一喝した。「アカデイア様は人が良いお方だが、俺はお前を信用していない。警備隊なんかに加担する奴なぞ、誰が仲間なものか」
 暖炉の前、長椅子に座ったウルスとザラシュの傍に控えていたシシルは、双眸に怒りの色を滲ませながら、そう言葉を継いだ。
 部屋の主であろうその男は、少し口を尖らせたものの、あまり気にしたふうでもなく、言葉を返す。
「そんなこと言ったって、僕はかなり役に立っているはずだよ? 致命的な情報の漏れは防げているはずだし、警備隊の情報だって得られているでしょ?」
「そう言うのなら、きっちりとおのれの仕事をすることだ。ダラスが捕まったあとで情報を得たところで、何の意味がある!?
 激昂するシシルの様子に、レイはただ呆然と事の成り行きを見守るのみだ。
「馬鹿言わないでよ。そんなことしたら、僕が情報を漏らしたってことがバレバレになるでしょ」
 家主は、肩をすくめて飄々と続ける。「捕まるのはヤだからね。あそこの連中は優秀だよ。少しでも隙を見せたら、おしまいだ」
「自分がそんなに大事なのか」
 吐き捨てるように、シシルが言った。
 険悪な雰囲気の漂う二人を見比べながら、レイは一人密かに合点した。なるほど、この男は「赤い風」の仲間で、警備隊にくい込んだ間諜なのだろう。少々傍若無人が過ぎる気もするが。
 相手をひたすら糾弾するシシルには少し申し訳ない気がしたが、レイにとっては、この男の主張は充分理解できるものだった。本当に彼の言うとおりに、組織の核心に迫る情報を守りつつ、尚且つ敵側の情報が得られているのならば、その重要な位置取りを簡単に手放すわけにはいかないだろう。たとえ保身が第一義であったとしても。
「大事だよー。自分が大事じゃなくちゃ、生きていけないじゃん」
「そんなことはない。『赤い風』には他人を犠牲にして自分だけ助かろうって奴はいない。お前みたいな、臆病者なぞいない!」
 シシルの拳が怒りのあまりに震えている。だが、瓶底眼鏡の間諜は少しも臆することなく、あろうことかシシルを軽い調子で指差した。
「あー、それ勘違いね。人は誰でも自分が一番なんだって。それに気がついていないだけだよ」
 ――うわあ……そこまで言うか。
 半ば呆れながらレイがふと横を見ると、サンも自分と同じように眉間に皺を寄せて、口をあんぐりと開けていた。
 一気に顔を紅潮させるシシルの後ろで、ザラシュが少し困ったような笑いを浮かべている。ウルスは、というと、何やら楽しそうに、言い合う二人を見比べていた。
 男は、シシルの剣幕に気がついていないかのように、淡々と語り続ける。
「仲間を庇いたい自分がいるから、庇うんだよ? 帝国と戦いたい自分がいるから、戦うんだよ。皆、自分がしたい事をしているだけに過ぎないさ」
「俺達を馬鹿にするのか……!?
「馬鹿になんてしてないよー。どうしてそんなに僕につっかかってくるのさ」
 男は、そこで初めて心底困ったような様子を見せた。
「じゃあ、お前はどういう理由で俺達の味方をしているんだ?」
 にやにや笑いながら二人を見守っていたウルスが、その間に割って入る。
「決まっているじゃん。皆が暮らし易い世の中にしたいからさ」
 ……それでは、先刻からの彼の主張と真っ向から対立する。それとも、自分はお前達と違って高潔なのだ、とでも言いたいのだろうか。
「からかっているのか、貴様!」
 当然……シシルは怒るだろう。わざと怒らせているんじゃないのか? とレイは思わず溜め息をついた。
「やだなあ、最後まで良く聞いてよ」
 そして、まるで生徒に語りかける教師のような口調で、男は語り始めた。「良いかい? 皆が暮らし易い世の中、だとね、僕だって暮らし易いわけだよ。自分の住環境を整えようとするのが、そんなにおかしいかな?」

 怒りに全身を震わせていたシシルは、その言葉を聞いて、急に憑き物が落ちたかのようにがっくりと肩を落とした。悄然とした様子でポツリ、と呟く。
「本当に、自分さえ良ければ良い、ということなのか……」
「そんなこと言ってないよー。何所に自分独りで生きていける人間がいるんだよ? 自分が快適に暮らすためには、できるだけたくさんの人間も同じように快適に暮らしてもらわなくちゃ」
 静まりかえった部屋の中、男はそれまでとは打って変わって静かな声で語り始めた。
「鍬をふるう人がいるから、ご飯が食べられる。猟をする人がいるから、肉にありつける。綿を栽培する人、布を作る人、服を仕立てる人、道具を作る人、道を作る人……誰が欠けても、僕は生きていけないからね。
 自分さえ良ければ、って考えほど、自分のためにならないものはない。自分を大切にすればするほど、他の人間をも大切にしなければならなくなる。多少面倒なことではあるけどね」
 男は、そこで大きく息を継ぐと、口角を上げた。
「と、いうわけ。満足した?」
「……しかし…………」
「もういい。下がれ、シシル」
 ウルスが、先刻までとは打って変わって厳しい表情で言葉を挟んだ。ちらり、とシシルのほうを一瞥してから、鷹揚と長椅子に背もたれる。
「それで、皆が暮らし易いというのは、どのような世なのだ?」
 凄みのあるその声に、傍観者の立場にもかかわらずレイは思わず息を呑んだ。
「うーんと……そうだね、とりあえず、邪教狩りはやめてもらわないと」
「宗教改革に反対、と?」
 と、ザラシュが問いを投げる。
「いんや? 別に為政者がどんな神様に肩入れしようが、そんなのはどうでもいいことだし、これまでも色んな時代に色んな国であったことだから。でも、他の神々を排除しようというのは……」少しの間。そして静かに続ける。「……ヒトが踏み込んで良い領域じゃ、ない」
 男が口をつぐんだ途端に、沈黙が一同を包み込んだ。
 その幕を無理矢理破り捨てて、ウルスが静かに口を開く。
「だが、奴は……アスラ帝はやめようとはしないだろうな」
「うん。だから、彼には退しりぞいてもらわなきゃ」
 その瞬間、シシルが身震いしたのを、レイは見逃さなかった。もっとも彼自身も、部屋の気温が数度下がったように感じたものだったが。
「聞いたか? シシル。とりあえず、彼と我々の志は一致しているようだ」
「は……、はい……」
「親友のダラスが捕まって冷静でいられないというのは解らんでもないが……彼は、味方だ。それも有用な、な」
 下を向いて黙りこくるシシルを見つめながら、男はバツが悪そうな表情で頭を掻く。
「仕方がなかったとはいえ、責任は感じているんだよ。だから、こうやって君達に部屋を使ってもらってもいいよって言ってるんだし……」
「それだけかな?」
 ウルスが、足を組み直し、組んだ両手をその膝の上に乗せた。
「本物の黒の導師に興味があった……という理由もありそうだな」
 大きくはぜた暖炉の炎が、男の分厚い眼鏡にぎらりと映り込んだ。
 
 
「……また何か新しい情報が入ったら教えてくれ」
 外套を身に纏って、シシルが部屋の扉のところで振り返った。視線は逸らしていたものの、その言葉はこの部屋の主に向けられたものだった。
 声をかけられたその男は、屈託のない調子で返答する。
「いいよー。……あ、そうだ」
「何だ?」
「……あ、いや、大したことじゃないから」
 流石のシシルも、思わせぶりなこの台詞に、つい男の顔を真っ向から見つめ返した。
「何だ。気になるじゃないか、言ってくれ」
「警備隊に新顔の可愛い女の子がいたよ。十九歳だって」
 その刹那、シシルの形相が鬼面のように変化した。ふざけるな、とその目が大声で語っている。
「だから大したことじゃないって言ったのにー」
 ――なんだって?
 レイは一呼吸遅れて、男の台詞を反芻した。
 警備隊。騎士団を鼻で笑うウルス達が、一目置く存在だ。強さや体力を求められるそのような仕事に就いた女……十中八九、何かの術師であるはずだ。
 新顔の。
 十九歳の。
「あ、あのっ、その女の子……なんて名前だった?」
「名前? …………んー、とー、……あれ? ……ゴメン、忘れちゃった」
「髪は……髪の色は……?」
 身を乗り出さんばかりにレイは質問を投げつける。対する男は、相変わらず飄々とした態度で、肩のやや下を手で示した。
「こんなぐらいの長さの深い茶色の髪だったよ。意志の強そうな、すごく良い目をしてた」
「深い……茶色……」
 あの髪を、見間違えようはずがない。それに、この人物は「黒の導師」に興味があるということだった。ならばなおのこと、あの黒髪を見逃すはずはなかっただろう……。
 ――違うのか。
 大きく溜め息をつくレイを、サンが心配そうな表情で見ていた。
 
 
 
 そそくさとシシルが辞したあと、男も「ちょっと待ってて」と一言言い置いて部屋から出ていった。
 レイもサンも、呪縛が解けたかのように大きく息を吐くと、空いている椅子に腰をかける。改めて室内をゆっくりと見まわすと、そこは居間のようだった。無駄なく整頓された、飾り気のないその部屋の様子が、レイにはとても懐かしく感じられた。
「……で、彼は何者なんです?」
 サンがウルスにこう問うた時、勢い良く部屋の扉が開かれた。
 筆記用具と帳面を手に持ち、キラキラと目を輝かせて、男は部屋の中へ飛び込んで来た。そのまま、椅子に囲まれた背の低いテーブルのところまで走り寄ってくると、机の上に帳面を展開し、直接床に正座してレイを振り仰いだ。
 あまりの彼の勢いに、一同はただ唖然とその様子を見守る。
「さーて。黒髪の。話聞かせて?」
「え? 話?」
「そ。誰に祝福を授けられたの? 何所で? どうやって?」
 もう、彼を止められるものは誰もいなかった。
 ザラシュは苦笑し、ウルスは他人事と言わんばかりに眉を上げ、サンは大きな溜め息をつく。
 そして、レイは、自分に向けられたその双眸に射すくめられてしまって、訥々と言葉を吐き出し始めたのだった。
 
 戦争が終わった頃に、幼馴染みに誘われて森へ行ったこと。
 森の中で洞窟を見つけたこと。
 その洞窟は異教の祭壇であったらしいこと。
 そして、邪教狩りの騎士達と鉢合わせてしまったこと。
 
 初めて耳にする物語に、サン達はすっかり引き込まれていた。炎のはぜる音と、ペン先が紙を引っ掻く音だけが、静かな室内を支配する。
 いよいよのところで、レイは逡巡した。
 しかし、神の祝福の話をするためには……最後まで語らねばならない。自分自身の語りに、そして、この一風変わった男の瞳に呑まれてしまっていたレイには、他の選択肢は考えつかなかった。
 
 異教の神像を守ろうとして幼馴染みが斬られたこと。
 それを助け起こした自分も斬られたこと。
 
「なぜ、シキは、そんな……」
 サンが震える声で問いかける。レイは眉間に深い険を刻みながら、一言一言を噛み締めるように答えた。
「……神像が、そっくりだったんだ。あいつの母親と」
 ふんふん、と相槌を打ちながら帳面にかぶりついてペンを走らせていた男は、そこでふと動きを止めると、勢い良く身を起こした。
 腕を組み、難しい顔でもう一度帳面を覗き込み、それからレイを指差して大声を出した。
「あーーーー!」
 何が起こったのか理解できずに、全員が目を丸くした。男自身も何かに酷く驚いた様子で、震える指でレイを指し示し続ける。
「レイ、だ!?
「え? 一体何だよ」
 あまりにも当然のことを指摘されて、レイは眉をひそめた。
 何事か、と固唾を呑んで見守っていたウルス達も、一斉に肩を落として息を吐く。だが、次の瞬間、サンがある事に気がついた。
「ちょっと待て。レイ、お前、名乗ったっけ?」
「そういや、名乗ってなかったな」とウルス。
「そもそも、お互い挨拶しか交わしてはおらぬわ」とザラシュ。
 レイは、思わず立ち上がると、男を見下ろしながら声を荒らげた。
「なんで、俺の名前を知っているんだ!?
「え……、だって、今日の昼に、その話を別のところから聞いたばっかりだったから。そこに出てきたんだってば。レイって名前が」
「別のところ!?
「さっき言ったでしょ? 警備隊の女の子。その、君の話に出てきた幼馴染みの子なんじゃないの? 知らなかった?」
 レイの鼓動が、恐ろしいまでに高鳴っている。彼は、一音一音を噛み締めるようにして、言葉を吐き出した。
「シキ、って名前だ」
「そう! そうそう。そんな名前だった。えっとね、お母さんの名前がマニさんっていうんだって」
 全身の力が一気に抜け、レイは大きな音を立てて椅子に腰を落とした。そのまま、ずるずると身体を座面に沈ませていく。
「……見つけた……!」
 
 
 

    二  吐露
 
 昼下がりの談話室。
 二十人ぐらいは裕に座れそうな、長いテーブルの一番端に着席して、シキは昼食に持参したパンを頬張っていた。椅子一つ空けて左に、インシャが弁当箱を広げている。その向かいにパンをがっつくガーラン。更に少し離れて、玄関ホールへと続く扉に近いところでは四人が珈琲を飲んでいた。
 職務の性質上、隊員全員が同時に食事を摂るということはありえない。常にそのほとんどは市中に警邏に出ているし、残りの人員もいつでも出動可能な状態で待機しておかなければならないのだ。そのため、食事中の者ほど無駄口を叩かない。何やらふざけあいながら珈琲を楽しむ同僚達を尻目に、シキ達三人は黙々と食べ物を口へ運び続けていた。
 
 ――警備隊を辞める、ということを、皆にはいつ切り出したらいいのだろう。
 シキはこれからのことを考えながら、最後のパンを口に含んだ。
 ――やはり、相方のガーランには、予め言っておくべきなのだろうか。それとも、隊長、副隊長にまず言うべきなのだろうか。
「旅の支度については、全て任せておきたまえ」と胸を張った師匠の姿を思い出し、シキはそっと笑みを浮かべた。あんなに上機嫌の師を見るのは、一体いつ以来のことだろう、と。
 師曰く、兄帝がここルドスにいるから、大した手間もかからずに除隊手続きがなされるだろう、とのことだった。それならば、早めに皆の耳に入れたほうがいいのかもしれない。では、いつ切り出したら……、と、再び思考が堂々巡りを始める。
 
 部屋の北側の扉が静かに開いた。雑談に花を咲かせていた四人の隊員が黙り込む。
 軽い靴音が、彼らの横を通り過ぎて、テーブルに沿って奥へと進んでいく。
 インシャが顔を上げた。はっと息を呑んで……それから下を向く。
 その様子を見てガーランが振り返る。足音の主の張りつめたような気配に、彼もまた口をつぐむ。
 その場に居合わせた全員の視線を一身に受けながら、彼はテーブルを回り込んだ。
 
「シキ」
 思索に耽っていたシキは、声をかけられてはじめて、自分のすぐ右にエセルが立っていることに気がついた。慌てて背筋を伸ばし、お茶で口の中のパンを喉の奥に流し込む。そうして見上げたエセルは、酷く冷たい目をしていた。
 ふと、ガーランの台詞がシキの脳裏に蘇る。
『隊長の本当の目当てはお前じゃない――』
 彼がそう言うのなら間違いないはずだ、とシキは思った。目の「良い」ガーランが言うのならば。ほら、今だって彼は、隊長のこの異様な雰囲気を充二分に感じ取って、つらそうな視線を副隊長に絡ませている。
「シキ」
 エセルはもう一度静かに名前を繰り返した。
「食事が終わったら三階に来い」
 
 
 最初にその言葉に反応したのは、インシャだった。微かに身体を強張らせて、一瞬動きを止める。
 同時に、扉近くの同僚達がざわめきだし、ガーランは舌打ちをした。
 待機中に、休憩中に、隊長が「ちょっとした息抜き」をするのは、決して珍しいことではない。しかし、隊員達に「色ボケ」とも「たらし」とも揶揄される上司だったが、ひとたび有事の際には、誰もがお相手のことを心配してしまうぐらい迅速に職務へと戻って来て、文句のつけようのない完璧な仕事をこなしていた。
 ――仕方ない。あれは「病気」だから。
 そこにあるのは、諦観よりも信頼であった。色事に多少の目をつむることで、我らが上司がその実力を充二分に発揮できるのならば、それでも良いじゃないか、と。彼らはエセルの戦士としての能力や指導者としての才覚に、色好みという悪癖をも含めて、一切を呑み込み、受け入れてきたのだ。
 しかし、今は、皇帝陛下暗殺未遂を受けての非常事態である。そのさなかにあろうことか部下である隊員に食指を伸ばそうというのだ。許されるはずがない。
 明らかに不信の色を増す同僚達を目の端に意識しながら、ガーランはゆっくり立ち上がった。
「隊長……」
 だが、エセルはその声を無視して、なおも言い募る。
「解ったか、シキ」
 ガーランは、拳を固く握り締めた。
 ――壊れるというのなら、勝手に壊れてしまえばいい。俺がアンタを買いかぶり過ぎていた、ただそれだけのことだ。
 ならば……、彼女を道連れにするのはやめてくれ。
 そこまで考えて、ガーランはきつく目をつむった。……だめだ。道連れにされなくとも、彼女は勝手に自滅してしまうだろう……。
 絶望に押し潰されそうなガーランの耳に、澄んだ高い声が飛び込んできた。
「解りません」
 シキが立ち上がって、真っ向からエセルをねめつけていた。
 
 天啓だ。心からガーランはそう思った。
 シキの一声に、同僚達がどよめく。エセルは一瞬怯んだが、再び不必要な威厳を声に込めて、言い放つ。
「命令だ」
「私用は命令に含まれません」
 再度、エセルは言葉に詰まった。
「……言うことが聞けないというのか」
「聞・け・ま・せ・ん」
 おお、と同僚達が感嘆の声を上げた。
 今だ、今しかない。ガーランはすかさず口笛を鳴らすと、殊更に軽い調子でシキに声をかけた。
「言うじゃん、シキ」
 ガーランの言葉が呼び水となって、同様なヤジがエセルに投げかけられる。
「良く言った、シキちゃん」
「隊長、負けてるぞー」
 場の雰囲気が一気にほぐれたことに、ガーランは密かに胸をなでおろした。さて、あとはこの場をどう収拾つけるかだが……。
 外野の喧騒を気にすることもなく、シキは、強い光を目にたたえながら静かに話し始めた。
「公務以外なら、いくら隊長でもそれは『命令』でなくって『お願い』です。『お願い』なら、聞くか聞かないかは私の自由です」
 ガーランが息を呑む。シキの決意を読み取って。
 シキは、少し息を継ぐと、ゆっくりと自分の左側に座る人物を見下ろした。
「そうですよね、……副隊長」
 その一言で、談話室の中は水を打ったように静かになった。
 
「おお、そうだ!」
 重苦しい沈黙の中、ガーランは大袈裟に膝を打った。「おい、野郎ども、便所の掃除を頼まれていたんだ。行くぞ!」
 その場にいた誰もが、シキが禁忌に触れてしまったということに気がついていたようだった。この、実に白々しいガーランの人払いに、全員がおとなしく従って席を立つ。
 これまでが長過ぎたのだろう。彼ら二人のいびつな関係は、ガーランが知る限りもう二年も続いている。器の縁から溢れんばかりに溜まってしまったその澱に、シキという石が投げ込まれてしまったのだ。吉と出ようが凶と出ようが、このまま放っておくわけにはいかない。
 ――頼むぜ、シキ。彼女を助けてやってくれ……。
 扉を閉める瞬間、ガーランの瞳が、切なそうに揺れた。
 
 
 
 残された三人は、しばらくの間、ただ沈黙していた。
 
 シキは、明日にはこの古都を去る。一夜明ければ、もう何もしなくとも、彼らのこの馬鹿げた関係から逃れてしまえるのだ。
 だが、互いに絡まってただ疲弊するだけの二人を、このまま捨て置くわけにはいかない。そうシキは考えていた。そして、それをなんとかできるかもしれないのは、自分だけであろう、とも。
 皇帝陛下の任命状を領主から受け取って、半年。結局自分は見習いで終わったようなものだ。仕事を教わるために、ほとんど全員の手を順番に煩わせた。巡回の輪番に加わるようになってからも、それとない気遣いをシキは感じていた。平隊員頭とも言えるガーランが相棒に宛がわれたということからも、それは窺えよう。それに、交代勤務においても、夜勤がシキに割り当てられることはほとんどなかった。
 一方的に迷惑をかけ続けながら、何もそれに報いることなく隊を去らねばならないということに、シキはほぞを噛む思いであった。
 ――ならばせめて、最後に、私にしかできない事を。
 それに、シキはインシャのことが好きだった。飾り気のない、少し不器用な、でも頼りがいのある姉みたいな存在に、シキはどれぐらい助けられていたか。隊長にしたって、こんなことになるまでは、とても尊敬していたのだ。カッコイイな、と思ったことだってあったんだから。
 ――だから。
 だから……お願い。シキは、縋るような気持ちを視線に込めて、彫像のように微動だにしない二人を交互に見つめ続けた。
 
「なるほど、私用、か。違いない」
 絞り出すような声が沈黙を破る。エセルがやっとインシャのほうを見やった。
「インシャ。君ともあろう者が気づかなかったのか」
 インシャは、椅子に座したまま、正面を、虚空を見据え続けている。
「それとも……」
 エセルはそう言いかけてから、喘ぐように息を継いで、唾を飲み込んだ。
 ゆっくりと口を開き……だが、彼の喉から漏れたのは、声にならない溜め息だけだった。
「……いや、いい。そんなはずはない、か」
 途切れ途切れにそれだけを呟くと、エセルはテーブルから離れて、廊下に続く扉へと足早に向かおうとする。
「隊長、逃げないでください!」
 シキは思わず叫んでいた。
 普段の様子からは想像もつかないほど弱気な上司の姿に、怒りよりも憐憫の情が湧き上がる。その気色けしきを感じ取ったのだろうか、エセルは振り返ろうともせずに、抑揚を殺した声で返答した。
「……負け戦はしない主義なんでね」
「ルドス警備隊隊長ともあろう方が、笑わせないでください」
 踏み込んでしまった以上、もうあとには引けない。シキは語気を荒らげたままで、エセルに噛みつく。
「戦ってもいないのに、なんで負けるって分かるんですか」
「分からいでか!」
 エセルが勢い良く振り返った。その燃えるような双眸に、シキは一瞬気圧されそうになる。
「インシャが私を嫌っていることなど、見ればすぐに判るだろう!」
 そこまで一気に吐き出してから、彼は、はっと息を呑んだ。
「そうだ……昔は笑ってくれていたな」
 その声に、インシャが静かに立ち上がった。ゆっくりと後ろを、エセルのほうを、向く。
「ああ、そうか。私が、自分で壊したんだったな、君の笑顔を」
 エセルは右手で顔を覆うと、くつくつと自嘲した。
 
 
 そう、彼女の顔から微笑みを剥ぎ取ったのは、紛れもなく自分なのだ。
 二年前のあの時、どうしようもない衝動から無理矢理インシャを犯して。
 
 家名というくびきから解き放たれることのできる場所は、閨房だけだと思っていた。
 それが、警備隊隊長の任に当たって半年も経った頃には、隊員達は、ある者は渋々、ある者は驚きとともに、エセル自身の力を認め始めるようになっていた。特に、騎士団組ではない、叩き上げの猛者揃いの専任隊員達が呼ぶ「隊長」という声は、単なる肩書きにもかかわらず、エセルの心を揺さぶった。
 初めて体験する、自分自身に向けられる瞳。それはエセルを有頂天にさせた。仲間との軽口の応酬も、冗談のかけ合いも、力を合わせて危険な任務に当たることも、全てが心地良かった。
 そして、その中の紅一点であるインシャに、特別な感情をいだくようになるのは、当然のことともいえた。なにしろ、彼女は閨以外で彼を「見つけた」初めての女性だったのだから。
 その、澄んだ瞳を失うことが怖くて、エセルは行動を起こせずにいた。自分に魅力がない、とは微塵も思っていなかったが、それでも、インシャの前に立つと、エセルは酷く臆病な心持ちになったものだった。
 
 あの時、同伴の女性よりもインシャのことが大切なのだと、そういう意味を込めてエセルは手を振り上げた。あの時のインシャは、明らかにその女性に嫉妬しているふうだった。だから、喜んでくれるだろう、そう心から確信していたのだ。
 
『優しい言葉など必要ありません』
 
 自分は思いあがっていたのだろう。
 今でも忘れられない、あの軽蔑の眼差し。あの時の彼女の冷たい瞳は、エセルの心を一瞬にして凍りつかせた。それまで、エセルがどんな冗談を言おうとも、一度たりとも彼女の瞳は温かな光を失わなかったのに。
 ――もう、届かない。
 この手は、どんなに伸ばそうと、彼女には届かないのだ。
 ならば――
「……貴方が私に求めているのは、部下としての私。違いますか?」
 真っ直ぐエセルを見つめながら、インシャが囁くような声で言った。
「それは君が言ったことだ。違うとは言わせんぞ。優しい言葉など要らない、と」
「それは……」
「――ならば、命令するしかないではないか。君を手に入れるためにはな!」
 顔を押さえていた右手を大きく振り開いて、エセルは吼えた。
 無駄なことだと解っていても、いや、解っているからこそ、彼女を屈服させたかった。力でねじ伏せ、彼女をおのれのものにしたかった。
 女としての悦びは、全て自分が教え込んだ。まさか初めてだとは思いもしなかったが……あれから他の男が彼女に近づく余地は与えていない。彼女が自分のものにならないというのなら尚更、他人にくれてやるつもりなど、エセルにはなかった。
 もしかしたら、自分の気を引くために、彼女はわざと頑なな態度を崩さないのかもしれない。肌を重ねる回数が増えるにつれ、つい湧き上がる都合の良い夢。しかし、そんな淡い期待も、インシャと目を合わせれば最後、全てが無残に吹き飛んでしまった。
 真っ直ぐにエセルを貫く、碧の瞳。ここに浮かぶ色は、嘲りであり、軽蔑に他ならない。エセルが彼女に為した事を考えると、それは当然のことに思えた。そして、その瞳に吸い寄せられるようにして、エセルは更にインシャに酷い仕打ちをしてしまうのだ……。
 だが、もう、後戻りはできない。彼はぎらぎらと光る目でインシャを、彼女の瞳を、見据える。
「君が。君が欲しかったのだ。他の誰でもない、君のことが。……どんなに憎まれようとも、君の心におのれを刻みつけたかったのだ……!」
 
 その瞬間、二人の視線が強く絡み合った。
 
「私は……強欲ですから」
 ふと、インシャが目線を落とす。ポツリ、と漏らした呟きは、まるで独白のようだった。
 言葉の意味をはかりかねて、エセルは怪訝そうな表情を浮かべる。
 長い沈黙を経て、インシャは静かに言葉を継いだ。
「私は、隊長の周りにおられる他の女性のようにはなれません……」
 淡々と。
 震える声で。
「女らしい仕草も、甘い言葉も、殿方を喜ばせる技も、身分も……何も持ち合わせておりません」
 唇を噛み締めて、インシャはゆっくりと顔を上げた。
「それなのに、私は、貴方の、ただ一人でありたいと……」
 エセルが息を呑む。
 インシャの磁器のような頬を、涙が一筋つたい落ちた。
「ただ一人の特別な女性になれないのならば、せめて、ただ一人の特別な部下として……」
 もう、言葉は必要なかった。
 エセルがインシャのもとへ駆け寄り、彼女をきつく抱きしめる。
 それを見届けてから、シキは静かにその場を辞した。

 
 
 
 廊下に出たシキは、頬を染めながら閉めた扉にもたれかかった。想像以上の情熱的な告白にあてられて、彼女の胸も高鳴っている。
 ――隊長も、副隊長も、本っ当に馬鹿なんだから。最初っからああ言えば良かったのに。
 高揚する気持ちを落ち着かせようと心の中でわざと毒づいたあとで、シキは思わず溜め息をついた。
 ――相思相愛……か。
 自身の遠い記憶が去来する。
 シキは目をつむって、軽く頭を振った。振り返っては、いけない。前を……前を向かなくては、と。
 もう一度溜め息をついてから、シキは扉から離れて歩き始めた。特に行くあてもなく、廊下を真っ直ぐ階段のほうへと進もうとした彼女だったが、玄関への岐路でぎょっとして足を止める。
 通路の曲がり角に、ガーランをはじめとする隊員たちが鈴なりになっていた。
 先ほど、談話室にいた五人以外に、巡回から帰投したと思しき二名が加わっている。大の大人が七人も団子状に固まっている光景は、暑苦しい以外のなにものでもない。
 一同を代表する形で、ガーランがずいっと一歩を踏み出してきた。身を屈めて、目線をシキに合わせてくる。
「……どうよ?」
「たぶん……もう大丈夫なんじゃないかなあ、と」
「よっしゃ! ダメなほうに賭けた奴、とっとと出しやがれ!」
 喜色満面でガーランは同僚達を振り仰いだ。即、その声に、悲喜こもごもな叫びが重なる。
「やったー!」
「ぐあああっ」
「マジかー!」
「くっそー」
 大騒ぎの一同を満足そうに眺めながら、ガーランは身を起こした。喧騒の輪から少し離れて、シキの横にそっと移動する。
「……お前は大丈夫か?」
 正面を向いたまま、ガーランが小声で囁いた。「その、何と言うか……災難だったな。今度あの二人に何か奢ってもらえ。思いっきりドカンとな」
 彼らしい物言いに、シキはくすりと笑った。ガーランに倣って、彼女も前を向いたまま返答する。
「……確かに、ちょっと大変でしたけど、もう大丈夫です」
「強いな」
「そんなことないです」
 晴れ晴れとしたシキの声に、ガーランも小さく笑ったようだった。更に空気が動いたのを感じてシキが横を向くと、ガーランと正面から目が合った。
「いいや、強いよ。それに……イイ女だ」
 思いもかけないその言葉に、シキが目を丸くする。
「……よし、俺、立候補しようかな」
 目を丸くして、それからシキはふんわりと微笑んだ。
「ダメですよ、失恋したばっかりの人が、何言ってるんですか」
 今度はガーランが驚く番だ。口をあんぐりと開けて、廊下の壁に力無くもたれかかる。
「……敵わねえなあ」
 そして、彼は自分の頭をがしがしと掻き毟るのだった。
 
 
 

    三  餞別
 
 ――夢、かもしれない。
 エセルに力強く抱きしめられながら、インシャは目を閉じた。
 今、背中にまわされているのは、自分を求める彼の腕。
 彼の口から漏れるのは、間違いなくこの自分を求める声。
 ――たとえこれが、この人にとって一時いっときの気紛れだとしても、もう構わない。
 いや、「たとえ」どころではない……。この五年間を知るインシャには、エセルがただ一人で我慢ができるなどとは、到底思えなかった。
 ――夢、なのだろう。
 そっと自嘲の笑みを口元に浮かべ、インシャはエセルの身体に腕をまわした。そうして、ぎゅ、と力を込める。
 ――それでも、……構わない。やがては飽きられ、その他大勢にうずもれてしまうのだとしても、今は……今だけはこの人は私を求めてくれている……。
「目を……開けてくれ。私を、見てくれ、インシャ」
 言われるがままに瞼を開くと、目の前にあるのは、潤んだ濃紺の瞳。見たこともないような穏やかな光をたたえて、エセルがインシャを見つめていた。
「ああ、その目、だ」
「……目?」
「あの冷たい軽蔑の色ではなく……。もう、その温かい眼差しは望めないと思っていた……」
 そう言って、エセルはインシャの額に口づける。インシャは、今までの齟齬にやっと気がついて、思わず声を震わせていた。
「……違います……。私が蔑んでいたのは、私自身です……」
「何故」
 驚いたエセルの声に、インシャは逡巡しながら、目を伏せた。
「……身のほど知らずな矜持に……私は他の女性達とは違う、と……」
 その言葉が終わりきらないうちに、エセルの唇がインシャの口を塞いだ。荒々しい、いつもどおりの口づけ。だがそれは、これまでとは違って途方もなく甘かった。
 二人の心が、柔らかく絡まり合う。
 エセルの大きな手のひらがインシャの頭の後ろを鷲掴みにし、更に強く唇が押しつけられる。インシャも両腕をエセルの首にまわし、濃厚な口づけを貪り続けた。
 
 と、びくん、とインシャの身体が震えたかと思うと、彼女は慌てて唇を離した。
「逃げるな」
「……ちょ、ちょっと、何を」
 エセルの手が、インシャの胸を撫で始めたのだ。彼女を包んでいた甘い霧が一気に散する。
「何を、って、決まっているだろう?」
「やめてください! ここをどこだと思っているのですか!」
「……食堂、いや違う、談話室、だな」
「だな、じゃありません!」
 インシャの頭を掴まえていた手は、いつの間にか彼女の腰にまわされている。エセルはその腕に力を込めると、インシャの身体を引き寄せた。
「だめです! そんな、こんなところで」
「ここじゃなければ、良いのか?」
 意地悪い笑みを浮かべながら、エセルが囁く。インシャは先ほどまでの夢心地を破られてしまったことから余計に機嫌を悪くして、眉間に皺を刻みながら抵抗した。
「違います! 今は職務中……んっ」
「なに、先ほどの今だ。皆も大目に見てくれよう」
「そういう問題じゃ……!」
「あんなに情熱的な口づけに奮い立たないようでは、男がすたるというものだ」
「やめてください。そ、それに、何よりも、まず……」
「まず、なんだ?」
 耳元にかかる熱い息。インシャの呼吸がどんどん荒くなってくる。
「……わ、私にも、貴方にも、……っ、……しなければならないことが……」
「一体、何を?」
「……し、シキに、謝らなければ……」
 その名前を聞き、エセルの動きがようやっと止まった。
 
「……私も、貴方も、散々彼女に迷惑をかけたではありませんか」
 エセルの腕をそっとほどくと、インシャは襟元を正しながら静かに言った。
「それなのに、彼女はこうやって私達のことを……」
「ああ」
「謝って済むようなことではないと思います。それでも、心から許しを乞わねば……。それに、私は、彼女にどうしてもお礼を言いたいのです。こんなところで、こんなことをしている場合ではありません」
 真摯なインシャの瞳に見据えられて、エセルは軽く息をついた。それから、優しい視線を彼女に絡ませる。
「……ああ。間違いなく、君は他の女性達とは違うぞ。自信を持って良い。この私に説教しようなどという女性は、帝国中に君だけだ」
「褒め言葉と受け取っておきます」
 エセルの言葉に、挑戦的な眼差しで返すインシャだったが、一瞬の隙をつかれて再び彼の逞しい腕に抱きしめられてしまった。
「隊長! 何度言ったら……!」
「もう一度。……キスだけだ。君を味わわせてくれ」
「……隊長……」
「エセル、だ」
 その囁きはこの上もなく甘美にインシャを誘った。
 これまでその呼称を頑なに拒否し続けていた、その理由はもう失われてしまっている。インシャは、おずおずと口を開いた。二年もの間、密かに恋い焦がれ続けていたその人の名を呼ぶために。
 呼べば、もう、後戻りはできない……。インシャは固く口を引き結んで、それから微かに唇を震わせた。
「………………る」
「聞こえない」
「……………………ぇ、せ……る…………」
 顔を真っ赤にさせて、インシャが俯いた。その様子に、エセルの喉がゴクリ、と鳴る。
「上出来だ」
 そして、再度重ねられる、唇。
「続きは、またあとで、な」
 
「……失礼するよ」
 わざとらしい咳払いとともに、静かな声が二人に投げかけられた。
 インシャが、顔面を蒼白にさせて勢い良く両腕を突っ張った。突き飛ばされる形となったエセルは、そのまま二、三歩よろめいてから、慌てふためいて玄関ホールへの扉を振り返った。
「た、タヴァーネス魔術師長様……!」
 辛うじてそう声を絞り出して、エセルは一歩前に進み出る。言葉を失ってただ口をパクパクと動かすインシャを庇うかのように。
「ノックをしたのだが、返事がなかったものでね。申し訳ない」
「あ、いえ、とんでもありません。こちらこそ、大変失礼いたしました」
 嫌な汗が彼の背中をつたった。
 いつからいたのだろう。どこまで聞かれたのだろう。愛弟子に迷惑をかけたという言葉は、彼の耳に入ったのだろうか。
 ついと魔術師長から視線を外したエセルは、そのすぐ後ろに真っ青な顔で固まっているガーランを見つけた。大魔術師を引き止めようとして叶わなかったのであろう。右手を身体の前に差し出した体勢のまま硬直している。
 エセルは深く息を吐いた。
「ご一報くだされば、わたくしがそちらに伺いましたものを」
「いや、それには及ばない。私事なのでね」
 ロイは後ろを軽く振り返った。「とはいえ、警備隊の人事に関することだから、こうやって君達の仕事中にお邪魔することになったわけだが」
 ロイの後方、ガーランの更に後ろ側に、他の隊員たちが集まりつつある。
わたくしの部屋が宜しいですか。それとも……」
「会議室を貸してもらうよ。今いる人間だけで良いから、隊員達を集めてはもらえないだろうか」
 
 
 自分を取り戻したインシャが、完璧な物腰でロイを案内していく。
 やや後方を歩くエセルは表情一つ変えずに、隣を行くガーランに小声で訊いた。
「どこから見ていた?」
「熱烈なキスシーン。ごちそうさまでした」
「最後の、か?」
「……一回だけじゃなかったのかよ……」
 いかにも暑そうに、ガーランは大袈裟に胸元を扇いでみせた。そこで初めてエセルは軽く笑うと、ちらりとこの信頼する部下のほうを一瞥した。
「……心配をかけて、悪かったな」
「やめてくださいよ。明日、大雪降らせる気っスか?」
 二人の含み笑いが、会議室の扉へと消えていった。
 
 
 
「……というわけで、私は明日、皇帝陛下とともに帝都へと出立することになったのだ。申し訳ないが、警備隊顧問魔術師の役は、辞させてもらうことになる。すまないね」
「いえ、これまで色々とありがとうございました」
「仕事を半ばで放り出していくようで、少々心苦しいのだが……」
「陛下に乞われてということは、重々承知しております。どうかお気になさらないでください」
 会議室。テーブルに四人ずつ分かれて着席した隊員達の前で、ロイとエセルが社交辞令を交わしている。
 その妙に芝居がかった会話を聞きながら、ガーランは一人首をひねっていた。偉大なる大魔術師様が、自分達平隊員に、一体何の話を聞かせようというのだろうか、と。
「……と、これだけならば、わざわざ君達の時間を貰うこともないのだが……」
 勿体ぶるように一旦言葉を切って、ロイが部屋の後方へ視線を投げた。
「シキ」
 名を呼ばれたシキが、ゆっくりと前へ進み出る。
 シキが無言で大魔術師の傍らに並ぶのを、ガーランは眉をひそめて見守った。
「彼女も、私と一緒に帝都へ行くことになったのでね。こればかりは、諸君に黙って、というわけにはいかないだろう?」
 静かなざわめきが、部屋のあちこちから上がる。それを代表するつもりで、ガーランはわざと大きな声を上げた。
「えぇっ! なんで……」
「……すみません……」
「あ、いや、そういう意味じゃないんだ……。なんで一緒に……」
「私の弟子だからね。彼女は」
「で、でで弟子!?
 想像もしていなかった言葉に、ガーランは思わず腰を浮かせた。と、エセルが仰々しい身振りでガーランを制す。
の者の無礼をお許しください。なにしろ、彼女はあまり自らを語らなかった上に、一度も隊で魔術を使うことがありませんでした。彼女がタヴァーネス様の弟子であるということは勿論、魔術師であるということすら、私以外の者は知らなかったと思われます」
 呆然と腰を下ろすガーランの耳に、同僚のひそひそ話が飛び込んでくる。
『マリとノーラが今いなくて良かったな』
『シキが大魔術師の弟子だったなんて、あいつら聞いたら卒倒するぞ』
『女魔術師だとよ。自信無くすだろうな』
 ああ、なるほど。これは彼女流の処世術だったのだろう。ガーランは妙に感心すると同時に、激しい寂寥感を覚えた。いかに自分がシキのことを知らなかったのかということに。
 たったの半年。されど半年、だ。しかも、自分は警邏の相棒だったというのに。
「皆さんにはお世話になりっぱなしで、本当に申し訳なく思っています。短い間でしたが、ありがとうございました」
 深々と頭を下げるシキに、部屋中が静まりかえった。
「明日は、私とシキは皇帝陛下と同乗することになるだろう。警備のほう、宜しく頼むよ」
 そう言って、ロイは背後からシキの両肩に手を乗せた。シキは、身動き一つせず、じっと足元を見つめている。その様子は、かしこまる、というよりも、萎縮する、という言葉が相応しいように見えた。
 ――気にくわねえな。
 ガーランは、無性に煙草が吸いたくなった。
 
 
 
 夕暮れの中、シキはジジ家の玄関のステップに足をかけた。
 
 あれから、警備隊本部は大騒ぎだった。
 領主の屋敷に用があるので、とロイが退出したのち、皆が堰を切ったようにシキの周りに殺到したのだ。「魔術使ってみせてくれ」と言う少なからぬ者を軽くいなしながら、シキは同僚達と別れの挨拶を交わした。
 インシャが珍しく半泣きになりながら、シキの両手を握って、何度も何度も謝罪と感謝の言葉を繰り返していた。そしてエセルは……相変わらず尊大な態度で、だが少しだけ躊躇いがちに、一言「すまなかったな」とねぎらいをかけてきた。
「元気でな」
 それだけを呟いたガーランの、どこか寂しそうな様子が少し気になったが、もう次の瞬間には彼の姿は辺りに無かった。
 
 えんじのジャケットを返却し、私物を片付け、何かに追い立てられるように帰途につく。その頃にはもう皆は通常勤務に戻っており、玄関でシキを見送ってくれたのはインシャだけだった。
 たったの半年。それに、故郷とは違ってルドスはゆかりのない土地だ。ここを去ってしまえば、彼らにはもう二度と会うこともないだろう。
 初めて体験する「別れ」に、シキの胸は少しだけ痛んだ。こんなことならば、もっと深く彼らと交われば良かった、と。我が身の悲運に世を拗ねて、孤独に浸ることなどせずに。ならばきっと、こんなにも未練を感じることなどなかったのかもしれない、と……。
 
 玄関の鍵を開けたシキは、ジジ夫人の熱烈な出迎えを受けた。
「お帰りなさい! シキちゃんにお客様よ」
 ただいま、を言いかけて、シキの思考が止まる。
 誰も知らないこの町で、一体誰が自分に用があるというのだろうか。シキが考えを巡らせている間も、ジジの語りは続いている。
「ああ、シキちゃん、いつ帰るか分からなかったから、間に合って良かったわあ。そうね、半時はんときほど前からお待ちなのよ。ささ、こっちにいらっしゃい。早くはやく」
 話の展開についていけずに、シキは眉間に皺を刻んだ。だが、ジジはそんなことはお構いなしに、彼女の背中をぐいぐいと一階の夫人の居間へと押していく。
「帰ってきたわよー」
 居間の扉をくぐれば、ソファに座る二人の人物の姿が目に入った。奥側のほっそりとした中年の女性が、入ってきたシキを見るなり軽く会釈をする。シキの知らない人だ。
 ややあって、手前に座っていたもう一人が、立ち上がって振り返った。大きく両手を広げ、そそくさとシキの傍へとやってくる。それから彼は、驚く彼女の右手を両手で掴むと、ぶんぶんと大きく縦に振った。
「今日はね、母さん連れて来ちゃったよ」
 瓶底眼鏡の歴史教師、ユールが、満面の笑みを浮かべてそこに立っていた。

 
 
 ユールの母は、その息子とは違い、とても常識的な女性だった。静かに立ち上がると、シキに向かって改めて一礼する。
「はじめまして。サホリ・サラナンと申します。息子がご迷惑をおかけして、すみませんね」
 薄墨色のワンピースに萌黄色のボレロをはおり、優雅に微笑むその様子は、とてもユールと血の繋がりがあるようには思えない。だが、すっと通った鼻筋と、薄い唇、跳ね癖のある茶色の髪は、間違いなく二人とも瓜二つであった。
「もうね、この道楽者の人生には関わらないことにしているんですけれどね。今回ばかりは、事情が違いますから……」
 頬に手を当てて軽く溜め息をついてから、サホリはにっこりと隣に座ったシキに向かって微笑んだ。
「本当。マニちゃんに良く似ているわ。あの時のまま、時間が止まってしまっているみたい」
 シキは思わず唾を飲み込んだ。
「母……のことをご存知なんですね」
「そうね。息子に粗方の話は聞きました。状況も、名前も、それに容貌まで合致しているのだから、間違いないと思いますよ。あの子はとても歌が上手でね、うちの子もよく子守唄を歌ってもらったものです」
「母も、歌は上手でした」
「精霊使いの技を持っていてね、庭の手入れが得意だったわ。大きな向日葵を咲かせるのが好きでね。私達は皆、アルナム家のことを『向日葵屋敷』って呼んでいたのよ。でもね、料理は少し苦手だったみたい」
「…………ああ……!」
 もう、言葉にならなかった。シキの胸に、懐かしい情景が怒涛のように押し寄せてくる。
 寝る前に聞いた子守唄。
 いつも鼻歌を歌いながら、家事の合間に庭に出ていた母。
 庭を、畑を彩る見事な花花。とりわけお気に入りの大きな向日葵。
 そして、時々食卓に並ぶ「個性的」な味つけの料理。
「……お母さん……!」
 涙が溢れてくる。シキは思わず両手で顔を覆った。サホリは身を乗り出して、そっとシキの頭を撫でる。
「お母さんは幸せだった?」
「はい。たぶん……」
「あの、栗色の髪の旅人と結ばれたのね?」
「はい、父だと思います……」
「収穫祭でね、二人が仲良く歩いているのを見たのよ。手を繋いで。良かったわ……本当に。きっとアルナム夫妻も喜んでいらっしゃることでしょう」
 それが処刑されたという母の両親のことだ、と気がついて、シキは顔を上げた。
「私の、祖父母、なんですね」
「ええ。でも、残念なことに、もう……」
「そうですよ、いくら領主様の縁者っていってもねえ。そんな、実際には関わりなんかほとんどなかったんですから」
 丁度お茶を運んできたジジが、もらい泣きに目を潤ませながら相槌を打った。その手元からパイの皿を一つ、ユールがさっさと自分のほうへと引き寄せる。
「あの、祖父母のお墓は……」
「それがね、無いのよ」
「無い、のですか」
 サホリがつい、と眉根を寄せた。「ええ、無いの。皇帝が御身体を返してくれなかったから」
「非常識な話だろー?」
 ユールが口をもごもごと動かしながら、非難の声を上げた。そして再び大口を開けて、残りのパイを口に入れる。「ほんっと、このパイ美味しいですね」
「あら、嬉しいわ。おかわりあるのよ、どうぞたんと召し上がれ」
 にっこり笑いながら、ジジは皆にパイの皿を配った。
「重い話を終わらせたい時だけは、ユールがいてくれて良かったって思うわ」
 サホリが冗談めかして片目をつむる。シキもつられて顔を綻ばせた。
 
 
「色々お話できて、とても楽しかったわ」
 玄関ホールでサラナン親子に別れを告げられてから、シキは大切なことを思い出した。
「あ! そうだ。私、借りていた本を返さないと……」
 慌てて階段へと身をひるがえそうとしたシキの手を、すかさずユールが掴む。
「いいよ。あの本、君にあげるよ」
「え、でも、大事な本なんじゃないんですか?」
 シキは、あの、本に埋もれた部屋の中で、迷いなく目的の本を選び取ったユールの姿を思い出していた。どうでも良い本ならば、ああはいかないだろう。
 ユールはにっこりと笑うと、両手でシキの手を握り直した。
「いいんだ。粗方中身は憶えてるしね。それより、シキ、今から家に遊びに来ない? 会わせたい人もいるし、ね」
 そう言ったユールの口元が、何か言いたそうにうずうずと動いている。
「会わせたい、人?」
「それがねー……」
 得意満面にユールが口を開いたその時。
 バタン、と扉が開いて、ホールは一瞬静まりかえった。
「ただいま」
 ロイ・タヴァーネスの帰還だった。
 
「お客様でしたか。驚かせてしまったようですね」
 一同をゆっくり見渡して、ロイは最後にシキの手を握るユールに目をとめた。にっこり微笑みを作って、二人の間に割り込んで握手を求める。
「シキの新しいお友達かな?」
「ああ、貴方がシキ達の先生ですね。初めまして」
「こちらこそ初めまして」
 ユールの台詞に何か違和感を覚えて、シキは軽く首をかしげた。
「ああ、折角知り合えたというのに、残念だが我々は明日ルドスを発たねばならんのだよ」
「ええっ、一体どういうことなんですか!?
 ジジ夫人が皆の背後で驚きの声を上げた。
「すまないね、ジジ夫人。なにしろ突然の皇帝陛下直々のお申し出でね、帝都へご一緒することになったのだ」
 その声に、ユールが軽く眉を上げる。瓶底眼鏡が燭台の光をきらりと反射した。
「ま、皇帝陛下! あらあら、私もしかして大変な方々をお世話していたのかしら?」
「急な話で申し訳ない。だが、約束どおりあと半年間は部屋をお借りするよ。書斎の荷物については、その間に人を寄越すことになるだろう」
 ロイはそこで息を継ぎ、弟子のほうを振り返る。
一時いつとき後に迎えが来る。今夜は領主様が部屋を用意してくださるそうだ。出立の準備をしなければ。行くぞ、シキ」
 そう言って、ロイはシキの肩をぐいと抱いた。一瞬シキが身体を強張らせる。二人を見つめるユールの目が、つう、と細くなった。
「さ、さようなら。本をありがとうございます!」
 客人と家主をあとに残し、シキはロイに手を引かれて階段をのぼっていく。
 唇を尖らせて、何か思索に耽っているようだったユールが、突然弾かれたように彼女を追った。
「シキ!」
 シキが足を止める。ロイは、渋々といった様子で彼女の手を放した。
 階段下まで戻ってきたシキに、ユールはいつになく静かな口調で語りかけた。
「君のお母さんはとても強い人だった。君もきっと大丈夫だよ」
「え?」
「自分の気持ちに正直に。大丈夫。お母さんが君を護っているから」
 そう言うや否や、彼は素早くシキの目の前に両手を差し出して、ぱちんぱちん、と二度手を打った。
 刹那の魔力の波動を感じて、ロイが思わず段を一つ降りる。
 シキは、呆然とその場に立ち尽くしている。
「旅のご多幸を祈っているからねー。じゃ、母さん、帰ろっか」
 サホリが会釈をし、玄関の扉を開ける。そのあとに従って、不思議な技を持つ歴史教師は、往来へと姿を消した。一度も振り返ることなく。
「……なんだ、今のは」
 階段を降りて来たロイが、険を含んだ声で呟く。
 シキは、ゆっくりと手を自分の頬に当てた。
 
 暗い森の中、唇に落とされる優しい口づけ。
『シキ、好きだ』
 黒髪に縁取られた、若草の瞳。真摯に、真剣に、ただシキを乞い求める瞳。
 突然湧き起こった半年前のあの夜の記憶に、シキはしばらくの間身動きをとることができなかった。
 
 
 

    四  再会
「……どうします?」
「……どうもこうもないだろう?」
 エセルとガーランが警備隊本部の会議室の窓辺に立って、ほの明るい東の空を眺めている。
 今日という日に備えるために、結局彼らは本部で夜を明かすことになったのだった。
「冗談はやめてくださいよ」
「私のせい、だと言うのか」
「昨日、隊長がガラにもないこと言うから……」
「お前が不吉なことを言うからだろう」
 ガーランは大きく紫煙を吐き出した。
「……真冬ならまだしも、まだ十月っスよ」
 呆れたような表情のガーランが、空を仰ぐ。「いくらなんでも、こりゃないでしょうに」
 彼ら二人の逆光の後ろ姿の向こう、窓の外には、ちらちらと粉雪が舞い飛んでいた……。
 
 
 
 ――雪だ……。
 寝台から身を起こしたシキは、天蓋の隙間から窓を見て驚いた。
 生まれ故郷とは違い、標高のあるルドスは比較的夏も冷涼だった。冬はさぞかし厳しく、深い雪に長期間閉ざされることなのだろう……、シキはそう考えた。だから、同僚達が笑いながらそれを否定した時は、彼女はにわかには信じられなかった。
『ルドスに初雪が降ると、学校も仕事も休みになるんだぜ』
 冬、この地方には高山からの冷たい西風が吹き降ろす。氷の刃のような風は、川を凍らせ、畑を凍らせ、家畜達を凍えさせる。そう、確かにルドスの冬は長く厳しいのだ。
 だが、雪はほとんど降らない。
 山脈の向こう側で雪を降らせた西風は、雲を置き去りに山を越え、すっかり乾いた風となってルドスを吹き抜けていくのだ。
 風は冷たいが、日差しは意外と強い。たとえ雪が気まぐれに降ったとしても、それが地面に残るのは長くてせいぜい二日。むしろ、ルドスよりも雪の日が多いイの町のほうが、大地が雪に覆われる期間は長いようだった。
 そんなわけで、雪に慣れていないルドスの民は、初雪が降ると大騒ぎするのだそうだ。時期的に新年祭の前後となることが多く、街は余計にお祭り気分に満たされるらしい。
 しかし、今はまだ十月。
 冷気に身を震わせ、寝巻きの襟元をかきいだきながら、シキは静かに窓の傍まで歩み寄った。
 東の空が穏やかに朱に染まっている。ところが、視線を天頂へと巡らせるにつれ、藍色は鉛色へと置き換えられていった。立ち込める暗雲に何か象徴的なものを感じて、シキは深く溜め息をついた。
 ここはルドス領主の屋敷、自分には身分不相応な客室。鈴蘭の柄で統一された煌びやかな調度品も、硝子の雫があしらわれた燭台も、毛の深い絨毯も、全てがシキにとっては異世界であった。
 本当ならば、使用人達と同じ棟で一夜を明かすはずだった。そのほうが、ずっと心安らかに眠れただろうに。少しばかり寝不足の目元を擦りながら、シキはもう一度深い溜め息をつくのだった。
 
 
「貴女はこちらへ」
 昨夜、ロイに従ってこの屋敷に降り立ったシキは、ホールで従僕に引き止められた。
 執事に先導されていたロイがそれに気づき、足を止める。
「何所へ?」
「はっ。使用人の棟はこちらでございます故に」
 若い従僕は滑稽なほどかしこまって、ロイに向かって最敬礼をした。
「彼女は使用人などではない」
 予想外の事態に軽く恐慌をきたしたのか、青年は大きく息を吐くとそのままの姿勢で動かなくなってしまった。
 年老いた執事が、見兼ねたように助け舟を出す。
「おそれながら申し上げます。我があるじから、宮廷魔術師長様は……侍女、をお連れだと聞き及んでおりますが……」
「侍女などではない。弟子……いや、助手と言うべきか」
「助手、でございますか?」
 彼らの遣り取りを聞きながら、シキは密かに嘆息する。
 侍女でも弟子でも助手でも小間使いでも何でも良い。はっきり解っていることは、「ここ」は、東の辺境出身の名も無い魔術師の娘がいる場所ではない、ということだ。ここに招かれたのはあくまでも先生であって、自分は単なるおまけ、付属物に過ぎないのだから。
「そうだ。彼女は使用人でも奉公人でもない。それに――」
 もう一度溜め息をつこうとしたシキの耳に、とんでもない言葉が飛び込んできた。
「――それに、彼女は近々私の妻となる。それに相応しい扱いをお願いしたいものだ」
 驚きのあまり身動きもできないシキの代わりに、執事が素っ頓狂な声を上げた。
「は。そ、そうでございましたか。それは大変失礼をいたしました。……そうしましたらば……いかがいたしましょう。ご一緒のお部屋が宜しゅうございましょうか?」
「近々、と申したはずだが。不必要な醜聞は望むところではないのでね」
「はっ、重ね重ね、失礼いたしました」
 執事が何事か従僕に囁きかける。青年は軽く一礼すると、慌てて廊下を駆け出していった。
「では、宮廷魔術師長様、奥方様、こちらへどうぞ」
 
 二人は、控えの間に通された。当初の予定と違う事態に、おそらくあるじの意向を確認しに行くのだろう、二人を部屋に案内した老執事もまた、「しばらくお待ちを」と一言を残して姿を消した。
 シキは、ただひたすら動転していた。
 妻。
 ――確かに先生はそう言った。でも、そんな、まさか。
 年齢も、能力も、社会的立場も、全てにおいて、シキとロイとではあまりに差があり過ぎた。何より、先ほどからのほんの短い時間ですら、シキはこの場所は自分がいるべき処ではない、と強く感じていたというのに。
「どうしたね?」
「えっ? ……い、いえ……」
 視線が合ってしまうのが怖くて、シキは顔を上げることができなかった。その様子にロイは軽く苦笑すると、シキの頭を軽く撫でた。
「驚いたのかい?」
「……はい」
 ふう、と大きな溜め息がシキの髪を揺らす。
「なんだ。意外と信用されていなかったんだな。私は、戯れで女性に愛を囁いたりなどしないよ」
 驚愕、動揺、混乱のあまり、シキの中で、言葉が、思考が、完全に途切れてしまっている。
「帝都に着いたら結婚しよう、シキ。これからもずっと、私の傍にいてはくれないか」
 
 
 ナイトテーブルの上には、光沢のある生地で仕立てられた華やかな衣服が用意されている。宮廷魔術師長様からで御座います、そう執事は言っていた。
 結局、あのあと、シキが返事をする前に執事が姿を現し、うやむやのままに二人は別々の客間へといざなわれたのだった。
 この服に袖を通せば、先生の求婚を受け入れたということになるのだろう。
 それは、これまでの世界からの決別を意味する。およそ考えたこともなかった、いわゆる上流階級としての生活が待っているのだ。
 シキは、長椅子の上に畳んで置いた、自分の衣服に手を伸ばした。
 国の最高権力者にまみえるため、一張羅を選んではいたが、とても比べるべくもない。第一、礼装とは言っても、彼女のそれはドレスではなく男性用のパンツスタイルだ。
 ――何を躊躇うことがあるのか。先生についていく、と決めたはずではなかったか。
 シキはそっと、簡素なシャツから手を放した。
 
 
 
「初雪の日は自主休業、か。なかなか気が利いた風習じゃないか?」
 街の南門近くの広場。耳当てつきの帽子をかぶったウルスはベンチに座り、大喜びで走り回っている子供達の様子を眺めながら呟いた。
 晩秋の空気のもとでは積もることはないだろうが、視界一面にはらはらと降りしきる白い氷の結晶は、人々の気持ちをすっかり浮かれさせている。
「流石に警備隊の奴らは休日出勤でしょうね」
 大袈裟に落胆してみせるサンに、ウルスが苦笑する。
「そこまで多くを求めてはいけないだろうな。ともかくも、これで同志達は心おきなく仕事を休んで加勢にまわることができるというわけだ」
「街でも一つ、騒ぎを起こしたほうが良いのではないですか?」
「シシルが既に手配済みだ」
 
 広場の反対側では、旅装束に身を固めた初老の男と、帽子の耳当てを下ろした青年が、乗合馬車を待つ風情で立っている。
 初雪の恩恵を充二分に享受しようとして、朝から酒場の扉をくぐる親爺達を目で追いながら、レイは傍らのザラシュにおそるおそる問いかけた。
「……あれは、何という術なのですか」
「解らぬか?」
「解りません。こんな広い範囲に雪を降らせる術など、見たことも、聞いたこともない……」
「そうだな。古代ルドス魔術の呪文書には、ないな。だが不可能ではない。そう、お主の師匠ならば……幾つかの術を分解、構築し直して雪を降らせることもできるだろう」
「では、老師も……?」
「以前の私ならば、同じようにしただろうな」
 怪訝そうな視線を投げかけるレイに、ザラシュは少しだけ頬を緩ませた。
「今日の仕事が無事終わったらば、教えよう。この十五年で私が知り得た一つの真実を」
 
 
 
 別れを惜しむ銅鑼のが鳴り響く。いつになく湿った空気に、重く、鈍く。
 雪の中、街を南北に貫く大通りを隊列が進み始めた。セルヴァント家の紋章が入った四輪箱形馬車を中心に、騎士が騎乗した八頭の馬、大きな荷台に幌をかけた荷馬車が二台、簡素な二輪の箱形馬車が三台。それに加わること、ルドス警備隊の騎馬が総勢二十、行列の前後を固めている。
 そもそも、今回のアスラ兄帝のルドス訪問は、収穫祭の来賓であるセルヴァント男爵に便乗してのお忍びの旅だったのだ。それ故、同勢は貴族の末席である男爵の位に相応しい規模でしかない。
 それでも、その行軍は勇壮で、沿道の人々は歓声をもって彼らを見送っていた。
 
 
「最悪だ」
 一行を先導するような位置につきながら、エセルは馬上で毒づいた。
 ルドス警備隊に課せられた護衛は、街の南門を出て三里先にある「鴉の嘴」と呼ばれる大岩を越えるまで。そこから先、イシュトゥの港まではひたすら見通しの良い荒れ地が広がり、いかな身のほど知らずの狼藉者といえども、この規模の一団を襲撃するのは難しいと思われる。しかも、一行には腕の立つ魔術師が二人、いや三人も存在するのだ。
 実のところ、警備隊による警護はあくまでも儀礼的なものに過ぎぬ。とはいえ、エセルには自分の仕事をなおざりにするつもりはなかった。基本隊列と、有事の際の陣形、呼び子での合図の型など、入念な打ち合わせを行い、万全の態勢で今日という日を迎えた。
 ところが、今朝、出発の直前になって、それまで本部に顔を出すことすらしなかった「騎士団組」が姿を現したのだ。領主からの命令書を持って。
『皇帝陛下の警護は騎乗する者に任せよ』
「馬車を徒歩かちで護衛するのは無理があるだろう?」
 そう彼らは嘲笑い、専任隊員達は隊列から外された。副隊長の指揮のもと、市中の警備に当たれ、と。
 この状況で街中で起こる騒ぎなど、陽動以外のなにものでもない。優秀な人員をそんな馬鹿な仕事にまわすなど、愚の骨頂だ。それに、打ち合わせも満足に行えていない連中を、一体どうやって指揮すれば良いというのか。
 エセルは絶望的な気持ちで、雪の舞う空を見上げた。
 
 
 ――どうして、私はこんな所に座っているのだろう。
 無表情の奥で、シキはひたすら困惑していた。
 四輪馬車の豪奢な座席は柔らかく、ゆったりとした車内はとても快適だ。
 ロイの左側に座らされたシキの向かい側には、見事な恰幅のセルヴァント男爵が座り、好色そうな視線をチラチラと彼女に投げかけてくる。そして、その向かって右。ロイの向かい側には、今を時めくマクダレン帝国の皇帝が、気だるそうな表情を窓に向けて優雅に座していた。
 先刻、領主の屋敷の客間にて、黒を基調とした男性用の礼装で御前にひれ伏すシキに、アスラは優しい眼差しで、「勇ましいお嬢さん」と語りかけてきた。「道中、お嬢さんには、タヴァーネスのことを色々と教えてもらおうかな」とにっこり微笑みさえした皇帝陛下だったが、いざ馬車に乗り込むと、彼はぼんやりと窓の外を眺めるばかりで、その代わりに何とか男爵とやらが、ねちっこい目つきで、宮廷魔術師長様も隅に置けませぬなあ、などと下品な話題を振ってくるのだ。
 ――あの服……。先生は少し落胆しておられたようだけど、自分の服を選んで良かった。もしもあの服を着ていたら、きっと、この何とか男爵の視線はもっといやらしくなっていたに違いない。
「気に入らなかったのかい?」
「いいえ、そういうわけじゃなくて……あんな動きにくい服では、旅なんて無理です」
「……動き回るような旅じゃないよ?」
「でも、勿体なくって……」
「……仕方ない。解ったよ。じゃあ、帝都に着いたら、着てみてくれるかい?」
 シキが小さく頷けば、ロイの顔がぱあっと綻んだ。その、まるで子供のような表情を思い出し、シキは思わず頬を緩ませる。
 と、物思いに耽るシキの意識を、突然の怒号が現実に引き戻した。
 
 
「敵襲!」
 馬の手綱を引いて、エセルは叫んだ。右手が振り下ろした剣は、飛来した矢を真っ二つに叩き切っている。
 早速乱れた隊列に舌打ちして、エセルは辺りを見まわす。右手の岩場に隠れている弓手はせいぜい二、三人。
「本隊がいるはずだ! 気をつけろ、特に後ろ!」
 張り上げた声は、喧騒に紛れてしまってしんがりにはおそらく届かない。それを気にする間もなく、潅木の陰から長鎗を構えた覆面の男達が飛び出してきた。
 エセルは馬から飛び降りて、その臀部を柄で叩く。驚き暴れる馬が暴漢達の列を少しだけ乱した。その隙にエセルは幌馬車の陰に矢の死角をとる。
「馬を捨てろ! 狙われるぞ!」
 いちいちこんなことまで指示せねばならないのか。エセルは深く嘆息した。そう言っている間にも、一頭の馬が胴に槍を突き立てられて、どう、と地面に倒れた。落馬した隊員に襲撃者が群がる。そして、断末魔の絶叫。
 眼前にいる敵は七人。おそらく列の背後にも同じぐらいはいるはずだ。
 相手にとって不足はない。不敵な笑みを浮かべて剣を構えたエセルは、突如襲いかかった悪寒に、思わず息を呑んだ。
 ――何の、気配だ?
 次の瞬間、まるで地面が沸騰したかのように泡立った。馬をも含む全ての者の足が、馬車の車輪が、ずぶずぶと白茶色の泥の中に沈んでいく。足首まで埋もれたところで、地面は再び元の堅固さを取り戻した。
「魔術か!」
 両足は、がっちりと地に縫いつけられてしまっている。だが、このまま死を待つわけにはいかない。絶望の呻きを必死で嚥下しながら、エセルは腰の狼煙杖を天に掲げた。

 
 
「『泥縛』か」
 そう呟いてロイは静かに立ち上がった。「一度にこれだけの範囲に、とは流石ですね」
 反乱団に前宮廷魔術師長が加わっているというのは、帝国の上層部でもほんの一部の人間しか知らない最高機密だ。おそらく外は大混乱に違いない。
「読みが外れたな」
「……彼が、こんなに無駄の多い手段をとるとは……意外です」
「ロイ、任せるぞ」
 アスラの声に、シキも腰を浮かせた。
「先生、私も出ます」
「君はここに居たまえ。男爵をお守りするのだ」
 ロイは馬車の扉を開けると、地面に降り立った。先ほど、「泥縛」の呪文が発動した後方を向いて、右手をひねらせる。
 ロイが呪文を詠唱しようとしたまさにその時。ロイの背後、列の進行方向から、先ほどとは比べようもないほどの強大な魔術の気配が炸裂した。
 間違いなく今度こそ、ロイがかつて師と仰いだの人物の気配。ならば先ほどの術は。反乱団に二人も術者が存在するのか?
(……まさか、レイ!)
 思わず発したその叫びは、声にはならなかった。前宮廷魔術師長、ザラシュ・ライアンが紡ぎ出した術は、辺りを完全なる静寂の世界に閉じ込めてしまっていた。
 
 
 無音の世界。
 まるで夢の中のようだ、とエセルは思った。聴覚のみならず五感全て、更に現実感までもが奪われてしまったようだ、と。彼は為すすべもなく、静かに傍らを走り抜けていく襲撃者をただ見送っていた。
 二輪馬車からおそるおそる顔を出す使用人達には目もくれず、馬上の騎士を打ち倒し、彼らは確実に列中央の四輪馬車を目指している。一足遅れて駆け抜けていった鉄錆色の髪のお尋ね者が、ふ、と自分を見て嗤ったようだった。
 援軍は。「狼煙」は確かに上がったはず。エセルは思わず手のひらに爪を立てた。
 
 
 突然の異常事態に恐慌をきたしたのか、たるんだ顔の肉を恐怖に引きつらせながら、セルヴァントが馬車から飛び出していった。制止すべくそのあとを追って地に降り立ったシキの目の前、男爵の太った身体が地面に崩れ落ちる。
 その向こうに歓喜の表情を浮かべて立つ、黒っぽい長髪を風になびかせた男。血塗られたつるぎを天に掲げ、犬歯を剥き出して声も無く咆哮するその姿は、まるで獣のようだった。
 シキは思わず一歩あとずさった。と、馬車の反対側で数人が入り乱れる気配を感じ取る。
(そうだ、先生!)
 慌ててシキは馬車の後ろへ回り込んだ。
 
 護身用の短剣で応戦するロイの前には、剣を構えたサンの姿があった。二人は、お互い隙を見つけられずに、微動だにせず対峙している。
(サン! やめて!)
 シキは絶叫した。だが、その声は声にならない。
 術者個人にかける「沈黙」ならば、この稀代の大魔術師が後れをとることなどありえないはずだった。だが、恐るべきこの未知の術は、辺り一帯の音という音を完全に消し去ってしまっている。
 呪文を詠唱できないこの状況では、魔術師はあまりにも無力だ。シキは意を決して、懐から短剣を取り出した。
 ――先生を守らなければ。
 お母さんも、お父さんも、レイも、いなくなってしまった。それに、顔も知らないまま、存在も知らないままに亡くしたお祖父さんとお祖母さん。
 もう、一人で取り残されるのは嫌だ!
 
 ロイに加勢しようとした彼女の背後に迫る、更なる人の気配。シキは振り向きざま、咄嗟に剣をふるった。
 短剣は虚空を切り、伸びきったシキの腕が誰かに掴み取られる。
 帽子を目深にかぶったその手の主は、静かに唇を動かした。
 
 し・き。
 
 そして、レイはゆっくりと顔を上げた。
 
 
(そんな……!?
 死霊か、幽鬼か。
 シキは息をすることも忘れて、ただただレイを凝視した。半年間、何度も夢に見たその顔を。どうしても忘れられなかった、そして必死で忘れようとしたその顔を。
(本当に、レイなの?)
 神の雷とも称される「天隕」の術。あの恐るべき破壊力から逃れることなどできるわけがない。
 だが、彼は今シキの目の前で静かに微笑んでいる。幻などではなく。
 レイの唇が再び何かを紡ぎ出す。しかし、その声はシキの耳には届かない。
(何? 何て? 何て言ってるの!?
 シキはレイの手を握ると、思わず叫んでいた。その手が強く握り返され、レイも何かをシキに語りかける。
(聞こえないよ! レイ!)
 ふいに、視界が暗くなった。
 唇にそっと触れる、柔らかい感触。
 全ての音が遮蔽された中での、ほんのまばたきほどの短い口づけ。シキの鼓動が一気に跳ね上がった。
 
 
 北の方角で眩い光が弾けて、消えた。反乱団の面々は、一様に動きを止める。
 ルドスから警備隊の増援が来た、という合図だ。
 サンは、剣を構えたままじりじりと間合いを広げようとした。ロイはそれを許すまいと、静かに距離を詰めようとする。
 突然馬車の扉が開き、黒い塊がまろび出てきた。
 ロイが息を呑んだその隙をついて、サンは地面で呻くウルスを助け起こす。彼は左肩を負傷しているようだった。険しい表情で歯軋りするウルスをなだめるかのように、サンは軽く頭を振ると、煙幕を張る。
 ロイはアスラの無事を目の端で確認してから、改めて辺りを見まわした。既に、サンとウルスの姿は完全に煙に紛れてしまっている。
 舌打ちしながらぐるりと振り返って、ロイはシキに気がついた。
 そして、その先に立つレイに。
 同時に、二人もロイに気がついたようだった。
 
 ロイのこぶしが握り締められる。
 シキの瞳が揺れる。
 
 ロイとシキ、二人を隔てるのは、ほんの僅かな距離だった。だが、ロイはどうしても一歩を踏み出すことができなかった。まるで両足を地に縫いつけられてしまったかのように、身動き一つとることができない……。
 ロイの顔が、苦渋に歪んだ。胃の辺りが、何かにねじ上げられているみたいだった。苦い唾があとからあとから彼の口の中に湧き出してくる。
 ――勝ち目など、最初からなかったのだ。
 本当は、そんなことはずっと解っていた。
 
 
 レイが、静かにシキに右手を差し出す。
 シキはしっかりとレイの手を握った。それから、少し申し訳なさそうにロイを振り返ると、軽く一礼した。
 
 レイが、生きていた。
 自分の手を包み込む、彼の手のひらの温もり。シキは熱の籠もった瞳で、自分を先導するレイの広い背中を見つめ続けた。
 物心ついた時から一緒だった。友人であり、ライバルであり、家族。そして…………愛しい恋人。
 シキの頬を伝い落ちた涙が、雪と混ざる。
 
 
 
 重苦しい沈黙の中、煙幕が晴れていく。
 いつの間にか雪はすっかりやんで、悲しいまでに澄んだ空がロイの頭上に広がっていた……。
 
 
 

黒の黄昏 2

2015年2月25日 発行 初版

著  者:那識あきら
発  行:あわい文庫

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那識あきら

創作小説書き。
著作『うつしゆめ』(徳間文庫)、『リケジョの法則』(マイナビ出版ファン文庫)など。
サイト「あわいを往く者」
http://greenbeetle.xii.jp/




「黒の黄昏」第六話~第十話
サイト初出 2006/5/30~8/28

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