わーくしょっぷシリーズは、
5人の書き手によるアンソロジー短編集です。
今回のお題は、
「卒業」
───────────────────────
───────────────────────
この本はタチヨミ版です。
1
真面目系くずという他人からの評価を聞き流しているうちに、大学院生活は一瞬で終わって俺は単位を取得し退学した。
大切なのはレポート用紙に字を埋める事ではなく、修めた学業をもってこれからの日々の糧とする事さ。結局、それまで就職活動なんていうものをろくにしてこなかった俺は、父の伝手を辿ってどうにか保険会社に滑り込んだ。
祝。
とも言いきれない事くらいは俺にだってわかっている。先の事を考えると気は重い。けれど俺と15年の付き合いになる親友の颯介はそれを出来る限りポジティブにとらえ、祝福して、二泊三日の旅に出る事を決めた。
もう何十曲目かになる、毒にも薬にもならぬブラス・ロックが終わる。すると、関東平野のぬるぬると続いた高速道路はふいに終わって、バスの窓に流れる風景には温泉街のありふれた看板が現れるようになった。
いつの間にやら目を覚ましていて、あ、もう着いたの? みたいな事を呟く颯介の横顔は旅の景色に映え、俺は写真を――と思ったけれど、携帯電話の馬鹿らしいスペックのカメラ、馬鹿らしい俺の撮影技術の事を考えてやめる。そうすると旅先でのすべては、どこか美しさのあまり却って物憂げになり、旅の情緒がぐっと胸に踏み込んできたのであった。
――とか考える方向性で今回の旅は行こうと強く思う。その方が温泉旅行に典型的な文学っぽいフレーズが付与され、箔が付いて盛り上がるからだ。
湯泉に浸かる時、まずどこから入る? 足の指。やっぱり? よく頭から入るって奴いるけどさ。いないよ。といったとりとめのない話をしているうち、バスはくたびれたマイカーが停まればめっけものみたいな小さい土産物屋を冷徹にすり抜けて駅前のターミナルに停まった。
通りにはフレッシュなムードの店がちらほらあって、和紙の工芸品に、石鹸、和風アロマなどが並んでいる。実際に必要かどうかはさておき、少なくとも洗練という事に対して気を遣っている雰囲気。そんな風にして店並みは小綺麗で、また空が高く澄み渡っていて陽が高いから、近隣の、旅行客の浴衣の白地などが映えてきわめて鮮やかである。辺り一帯が、CGで白色を強調したような感じになっていて、霞の吹き飛んだ春の空。淡く映えた遠景の山並みをバッグに輝く街は絶佳であった。
のんびりと坂を下ると、街はそろそろ温泉街の中心、湯畑がありそうな賑わいを見せてくる。漂う硫黄の匂いからもそうである事が知れて、次の角かな……! 焦らすねー。みたいな事をやっているうち、肩透かしのように湯畑がやってきて、しかし俺が声を上げそうになったのはそれにではなかった。
そこには15前後の、風貌の極めて優れていて、余人の外へと発散さるる心をすべて一身に集めるような少女がいた。
何かを話しかけられた気がするが、彼女の言葉は俺の輪郭で綺麗に反射してちっとも頭に入ってこない。
間が悪いのは、ちょうど俺の禁欲生活が一か月と一週間。――これは俺が悪いのではなく、性欲に浮かされた人間が画一的になるのと同じように、禁欲を続けた人間もまたその期間を反映して画一的になるのがいけない。女友達やバイト先の同僚なんかにもさっぱりと接していたものを、不意打ちで15くらいの、黒の縫い目を波立たせたMA1の前を開けて白のワンピース、胸には小振りのホワイトオニキスなんていう変に大人びた子が出てきたために、俺は完全にキョドってしまった。15かそこらの相手である。
俺はそんな自分に失望したのだけれど、それだけで被害は収まらない。
さらに俺の心を砕いたのは、道を訊いたような口ぶりだった少女に対する、その後の親友颯介の、「あ、うん。来たばっかりだからわからないんだよね。良かったら観光協会に行って訊いてこようか?」などというさっぱりした返答。そこにはなんだかまるで大学の必修だけ同じなクラスメートの女の子とさっぱり接する男とか、教育学部の単位に必要だからという理由だけでボランティアに来た子をさり気なく気遣う男とか、そういった感じの良さが漂っていた。
差を見せつけられた俺はメロンを前にした吹き出物。
そして俺がいつまでもそんな恥じらいにのた打っていられなかったのは、さらなる火種、こちらに向かって駆け寄ってくる男のせいだった。タバコ屋の、たまに60代の婆と入れ違いに店舗に出てくる男のような、中古ゲームショップの、バイトなのか経営者の身内なのかよくわからない店員のような奴。丸首のトレーナーにネルシャツのエリを見せて、ベージュのくたびれた幅広のチノ、黒のエアワームなんて出で立ち。どうやら少女に用があるらしくて、そうなるとまるで俺たちとは無関係とはいかない。
男はなにやら不審なほどあたふたしていた。普通ならそんなに取り乱しているという事は財布がないとか、連れがぶっ倒れたとか、そういう事件が頭をよぎり、助けた方がいいんじゃないかなんて思うものなんだけれど、なにしろ身なりがぶっ飛んでいる上にどこか歳不相応、致命的なレベルに苦労が足りていない雰囲気。助けても仕方ないという感じがする。
相手にしない方がいいと、俺はあくまで様子見の、平凡な小市民。見て見ぬふりをして、視点を遠くにフォーカスさせ、温泉街の風情を楽しんでいる風を装っていた。
そうして張りつめた気を抜き、少し遠くを見てみると観光地もまた違った姿を見せる。石畳の路地は、品の良い落ち着いたチャコールグレーのブロックが敷きつめられていて洒落ている。路肩には年季の入ったシルバーのハンディッドが停まっていて、タンデムシートには赤や白の反射シールが張り付いた大ぶりのコンテナや荷物ネットなんかがついている。いかにもひとり旅の風情があった。
そんなハンディッドとは水と油。温泉街にあってひとり、きわだって周囲から浮いた男が、じっとこちらを見ている。アイドル崩れという感じの面で、売れぬまま40になりうまく歳を取れずに偽評論家みたいになってしまった男。全身をミッシェルタランの見せ筋を超高級にしたみたいな悪趣味な服でキメて「はやくやめさせろ、はやくやめさせろ」って、頭部だけを動かしていかに遠くまで唾を飛ばせるか試している様な身振りでエアワームをけしかけていた。
はやくやめさせろ。
なにを。
って、もう一度『なにを』って思って先程の少女を見ると、あぁ、これ? 少女の手の中にあるググールグラス。男はこれが気に入らない様子であった。
『はやくやめさせろ』、が続くたび、エアワームはそれにあたふたして、「はい、はい、フジキさん」なんて言っているのだが、少女の方はというとエアワームを舐めきっていて、恬然としている。どうやったところで自分の悪いようにはできまいといった態度で、まるで動じない。あたかも空気のようにエアワームを扱っていて、ひとしきりググールグラスで退屈そうに遊んだあげく、それを雑にベンチの上に放って、「馬鹿みたい」と呟いた。
少女がググールグラスを置くと、それでフジキはある程度満足したらしく「行くぞ」とエアワームと少女に声をかけ、それはむしろナルシストな無頼漢気取りみたいに「ぁ行くぞぇ」って感じだったのだが、それでもちっともその場から動く気配を見せない少女と同じように、フジキとやらもそうとう頑固らしい。エアワームがあたふたしているのも気にせずに、一度も振り向かずどんどん歩いてゆく。
やがてフジキの姿は中心街の一角から少し奥まった先の高級志向な旅館、その豪勢な門へと消えてしまった。
エアワームはフジキが見えなくなるまでずっとあたふたしていて、少女の顔を見つつ、フジキの背中を見つつ、ずっとキョロキョロしていた。けれど、一度フジキの姿が見えなくなると撮影でカットが入ったみたいに、すっ、と力を抜き、別人になったようにゆるい顔で、あー、と漏らしながら首を回しおもむろに店の奥へ歩いて行った。しばらくするとスポーツ新聞を片手に戻ってきてベンチに座り、脛を掻きながら読み始め、まるで人目を憚らない。
「――わかった? 本当に道に迷ってたらあの人に訊けばいいの。だから観光センターなんて連れて行ってくれなくてもいい」
おもむろに少女が言った。それでエアワームが何か反応をするといった事もない。
「みたいだね。……でもちょっと状況が呑み込めないな。君は別に迷っているわけじゃないと言う。僕はなんて答えたらいいんだろう」
「これからどこか行くんでしょ。私はそれに勝手についていく。連れていかれるんじゃない。ついていくんだからいいよね」
話をしている颯介と少女には『レオン』とまでは行かないが、それこそ全国をひっそり行脚している凄腕の医者と謎の少女みたいな、有難いドラマチックさ、神々しさがあった。
CMに入るとロゴが出る。積尸気ハイム。ハウヌ食品。どんなに潔癖な人間の被害妄想も寄せ付けない。
俺じゃこうはいくまい。だからリスクにだって過敏になる。世の中の「あやしいおじさん」の何割かは社会に「あやしいおじさん」を演らされているのだ。その残酷さを、決して軽んじてはいけない。
そんな具合で、俺がキョドってしまった恥、それによって注がれた世間の冷たい目線から逃避していると、その中に暖かくて、情状酌量っていうか、こちらの言い分も聞いてくれそうな目線。その先には颯介がいて、えぇと、この状況、どうしたらいいんだろう、みたいな目で見ている。
俺だって知らない。
でもあんまりぐずぐずしていると、少女が、『大人二人でいつまでもダラダラと話し合わないと決められないわけ?』みたいな事を俺にだけピンポイントで言いそうで、それは不服だったから、いいんじゃないの、と俺はお茶を濁した。
それに拘泥する様子もなく、すっと立ち上がり、ググールグラスを拾って歩き始める少女。颯介と二人、突っ立ってその光景を見ていると、彼女は脚を止めて振り返る。それでもしばらく見ていると、彼女はあからさま不快そうに眉を寄せ、それで俺はどっちつかずの小さなため息をついて歩き出す颯介についていく事になった。
「テレビってよく観るの?」、「いや、あまり観ないな」、「いいの観なくて。あれは自分以外はみんな馬鹿だと思っている人が観るものだから」、という具合で話す二人の一歩半後ろ。草漬温泉本当に奥が深いなって坂の上の遥か遠く、どこかもの悲しく深い春空を仰ぎ歩いていると、ふと心臓あたりに注がれる目線。いつの間にか振り返っていた少女が、「つかったら? いらないからあげる」ってググールグラスを手渡してきている。
――いらない。骨遣るからあっち行けみたいな扱いはやめろ。そいつの友達なんだよ、俺は。
□
温泉街の坂をのんびりと上る間、『ついていく』と言った少女は颯介を、そして俺を先導する形で歩いていた。俺の二歩ほど先で少女は颯介に向かって自分の境遇などの話をし、それでも別に俺を置いてゆくような歩みではなかったため、俺は気楽な心持ち。
しばらくすると、颯介は一通り少女の身の上話を聞き終えたらしく、その内容を俺にさりげなく話してくれた。
いわく、彼女の名前はフジキサキ。サキはフジキの事を、『父親じゃない』と当初は言っていたものの、それは、『あんな人お父さんじゃない!』みたいな腐り気味のニュアンスだったらしく、フジキは正真正銘、彼女の実の父。歌手、俳優として活動しているフジキには旅癖があり、今回のような旅は割と日常茶飯事であるようだった。なんでも、フジキは家族の事情など省みずふと思いついた時に旅に行く事を突然決めると、サキに学校を休ませ、エアワームには旅行の同伴も仕事のうちって感じで付いてこさせているようだった。役者という人種にとって私生活が仕事で大忙しというのは名誉な事、同時に同僚が忙しいのに自分が暇だというのは我慢ならない事、というのは万人の知るところだ。フジキもその例に漏れず、これに付き合いきれないとした妻とは別居状態。サキも今は付いてきているが、もうグレる寸前という有様のようだった。そりゃそうだ。勝手に自分の休日を決められたんじゃ納得がいかない。彼女の気持ちはわからないでもなかった。
□
「なんか大変な事になっちゃったな……。俺がもっとはっきり断っておけばよかったんだけど。ごめん」と颯介。でも旅先でこんな事があるなんて誰が思う。普通は対処できない。俺だってキョドってしまったのだからと思い、俺は「いや、俺もどうしていいかわからなかったし」とフォローした。
こんな有様だからサキはまず俺に話しかけたというのは明白で、相手をふっかける時は、まずそのコミュニティを観察。立場の弱そうな者を見極めて奇襲をかけ、その者をこちらに付けてから、偉い方に交渉するなんていうのは定石である。このやり方の巧妙な所は、付け込まれた方は自分が間抜けそうだから狙われたという事実を否定したくて連れと対等に相談しようとするから、ふっかけた側からすると即席の味方を一人作ったに等しいというところにある。営業でよくある手法だ。それを俺は15くらいの少女にやられたっていう事で、あまりに情けない。当然、颯介を責めてなどいられない。
とはいえ、実際に酷い事になったと俺が思いきれないのは、颯介との旅はすなわち親友との旅。けれど親友であるが故に距離が近づきすぎて息が詰まってしまっては元も子もない。常日頃から俺は重い友人になる事は避けたいと思っているため、こういう外部に関心が向くような存在が出来てくれると負担が軽くなっていい。そういう打算があったからだ。
「まぁ、なんの面白みもない男二人の旅行だし。あっちも飽きたら適当にどこかへ消えるんじゃないかな」
あくまで俺は余裕の皮を被った無責任、投げ遣りの精神で構えると、颯介からは、「いつもそうやって瞬が余裕を見せてくれるから、俺は安心できるんだよ」、などと却って感謝されてしまった。
まぁ難しく考えずとも、向こうは付いていくとだけ言っているのだから、俺たちがそれ以上の事を考えても仕方がないのかもしれない。
「で、どこに付いてくんの?」
一通り颯介との話を終えた俺はサキに水を向け、このどう転ぶかもわからない状況でどこに向かえば彼女が穏便に事を運んでくれるのかという事を問うた。
「どこでも。勝手についていくだけだから」
どこでもいいは、どこでもよくない。このへんはさすがに俺だってよくわかっているから、長い目で行くよ。
「じゃあ喫茶店でも行くか」
「嫌に決まってるじゃない」
「なんで」
「常識で考えてよ。観光地のお店がアイディアと良心を振り絞ったような店で、私はこの世の暴力を呪うような話をして、そんなの人の善意を踏みにじっているようなものじゃない」
素直に周りが楽しそうなのに寂しいって言えばいいのに……。この感じだと電車やバスもダメそうだと判断して、
「じゃあ坂を上ってすぐの所にリフトがある。乗ると20分かけて峠の向こうまで行くから、これに乗ろう」
と提案。
「いいね、賛成」
タチヨミ版はここまでとなります。
2015年3月7日 発行 初版
bb_B_00132427
bcck: http://bccks.jp/bcck/00132427/info
user: http://bccks.jp/user/127104
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp