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黒の黄昏 1

那識あきら

あわい文庫



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 目 次


第一話  二人の弟子


第二話  春の嵐


第三話  小さな秘密


第四話  這い寄る混沌


第五話  引き裂かれた二人

第一話  二人の弟子

    一  喧嘩
 
「さーて、今日はここまでにしよっか」
 夕焼けに染まる屋根裏部屋、茶色のおさげを揺らしてそう問う親友に、シキは返答の代わりに大きく伸びをした。机の上に広げられていた帳面をぱたりと閉じ、もう一度深く息を吐く。その拍子に、肩のところで切りそろえられた漆黒の髪が、さらり、と揺れた。
「ありがとうね、リーナ。いつもいつも、お世話になっちゃって」
「なーに。教え甲斐のある生徒だもん、いつでも大歓迎よ」
 リーナはシキにとって、初等学校以来の一番の友人だ。小さな田舎町に在りながら、領内一の腕前との誉れも高い「癒やし手」である彼女に、「癒やしの術」を習うために、シキは週に一度、ここ、教会併設の治療院に通っている。
「でも、本当にシキは筋が良いよ。流石はタヴァーネス大魔術師の一番弟子!」
 調子良く囃し立てるリーナに、シキはそっと形の良い眉をひそめた。
「そんなんじゃないよ」
「いやいや。んじゃ、レイが一番弟子? それ、絶対ありえないから」
 大袈裟に首を振ってから、リーナはふと真顔になって、机越しに大きくシキのほうへ身を乗り出してきた。
「ね、シキ、いい加減アイツに告らないわけ?」
「な、なんで、レイに、そんなこと……」
 さりげなく視線を逸らせるシキを、リーナのにやにや顔が追いかける。
「あーらぁ? ワタクシ、一言もレイのことだなんて言っていませんけどぉ?」
 真っ赤な顔をして硬直するシキに向かって、リーナは大仰に腕組みをしてみせた。
「こういうのは当事者同士がなんとかするものだとは思うんだけど、いつまでたってもあんたら、全然進歩がないんだもん。あ、それか、もしかして、先生に『恋愛禁止』とか何とか言われてるとか……」
 だとしたら由々しき事態ね、と芝居がかった調子で顎をさするリーナに、シキは必死で両手を振った。
「いや、先生はそんなこと言ってないし。って、だから、その、私達、そんなんじゃないから……!」
「またまたー。顔が真っ赤ですわよー」
「もうっ、リーナっ!」
 
 
 ようやく春めいてきた風も日没とともに冷たさを増し、まるで冬を名残惜しんでいるかのように、新芽の膨らみ始めた枝々を容赦なく震わせる。
 治療院の扉を開けたシキは、思わず身震いすると、慌てて外套の前をかき合わせた。この教会は、イの町の一番東の外れに位置し、すぐ横手を川が流れていることもあって、見事なまでに吹きっさらしとなっている。夏は涼しくていいんだけどね、とぼやくリーナに、シキは苦笑で返した。
「それにしても、シキ、あんた頑張るのはいいけど、身体壊さないでよ」
 教会の門のところで足を止めたリーナが、いつになくしみじみと口を開いた。
 昔からリーナは、折に触れシキのことを色々気にかけてくれる。今も、こうやって体調を心配してもらったことが嬉しくて、シキは心の底からの笑顔を浮かべた。
「大丈夫だよ。そう言うリーナだって、治療院の仕事と、お家の手伝いとで、大忙しでしょ? 面倒なこと頼んじゃったかな、って、ちょっと心配してるんだけど」
 心配ご無用! とリーナが胸を張った。
「大体、パン屋はもう弟が跡を継ぐ気満々だからね。『姉ちゃんに手伝われても、邪魔なだけだ』ですって。失礼しちゃうわ」
 ひとしきりカラカラと笑ってから、リーナははっと我に返った様子で小さく咳払いした。
「いや、私のことはどうでもよくって、シキのことだってば。家事全部やって、魔術の勉強やって、最近は魔術師ギルド(協会)の仕事もしてるって聞いたよ? それで更にウチに癒やしの術習いに来るって、ちょっと無理し過ぎのような気が」
「……私には魔術以外取り得がないからね。それに、家のことはレイもしてくれるし」
「魔術以外、って、もうそれだけで充分じゃん……。ってか、そうだ、それよりも、問題はヤツよ、レイよ!」
 リーナは神妙な顔になるなり、少し声を落とした。
「先週、そこの酒場で、レイとダンが騒ぎを起こしたの、知ってる?」
 大きく息を呑んで、シキは目を見開いた。
 ダンといえば、確か二つ年上の、いわゆる「札つきのワル」だ。この町で何か騒動が起きる時は、必ずといっていいほど、彼かその取り巻きが関わっている。とはいえ、所詮は辺境の田舎町、悪事のほどもたかが知れているわけではあるが。
「ヤツはあまりギルドのほうにも顔を出してないでしょ? 仕事もせずに、あんな連中とつるんで、流石にちょっとヤバいんじゃない?」
「何がヤバいって?」
 不意に、やたら粘っこいだみ声が聞こえてきたかと思うと、道の反対側、川べりへくだる土手の陰から、背の高い影がのっそりと現れた。
 朽葉色の前髪の下から、穏やかならぬ光をたたえて煤色の瞳が覗いている。物言いたげに片側の口角を吊り上げ、両手を上着のポケットに突っ込んだ前屈みの姿勢で、そいつはゆっくりと砂利を踏んで近寄ってきた。
「ダン・フリア……」
「俺がどうかしたって?」
 すぐ目の前までやってきた「噂の人」は、下卑た笑みを頬に張りつかせたまま、不躾にもリーナの顎を右手ですくい上げた。
「別に」
 無礼者の手を払いのける容赦ない音が、辺りに響き渡る。
「鳴鶏亭の椅子やらテーブルやらを壊した馬鹿がいるらしい、ってね」
 ほんの一瞬鼻白んで、だがすぐにダンは両の眉を大きく跳ね上げた。
「リフのオヤジも、新しい椅子がタダで手に入って喜んでるさ」
「あっきれた。あなたね、弁償すればいいってものじゃないでしょう? そもそも、それ、自分でお金出したわけ? その歳で親父さんのスネかじって、恥ずかしいと思わないの?」
 鼻息を荒くするリーナから面倒臭そうに視線を逸らせ、ダンは今度はシキのほうを向いた。彼女の眉間に刻まれた険に怯むことなく、彼は平然と彼女をねめまわす。四肢に絡みつくその眼差しは、それだけで何か得体の知れない生き物のようで、シキはおのれの背筋に震えが走るのを必死で押し殺した。
 どういうつもりなのか、何をするつもりなのか。相手が町の鼻つまみ者とはいえ、力の行使者たる魔術師の自分が、明確な理由もなしに先に手を出すことは絶対に許されない。嫌悪感と戦いながら、シキは黙ってダンの出方を待ち続けた。
「ふん、怖い物なんか何もない、って顔していやがる」
 吐き捨てるように呟いて、ダンが顔を背けた。「あいつも苦労するわけだ」
「え……?」
 あいつ、という言葉をシキが聞きとがめる間もなく、ダンの後ろ姿は深みを増した夕闇の向こうへと消えていく。追いかけて言葉の意味を問いただすべきか否か、悩むシキの背後でリーナが盛大に息を吐いた。
「何よ、あの偉っそうな態度!」
 頬をふくらませ、腕組みを決めて、リーナがシキの目の前に進み出る。「あいつ、ってやっぱ、レイのことよね。朱に交わればなんとやら、ってね、『やんちゃなお調子者』程度で済んでたのが、このままじゃ、あの大馬鹿の仲間入りまっしぐらじゃない?」
 そこまで勢いよくまくしたててから、リーナは小さく息を呑んだ。言い過ぎた、と口元を手で押さえて、俯くシキの顔をおずおずと覗き込む。
「……って、盛大に脅しておいてナンだけど、正直なところ、レイならきっと大丈夫だと思うよ」
 怪訝そうに顔を上げたシキに、リーナは屈託ない笑顔を向けた。
「だって、レイにはシキがいるもんね」
「え? どういうこと?」
「決まってるじゃない! シキが愛の力でヤツを更生させるのよ!」
 しばしの間、びっくりまなこで友の顔を見つめ続けていたシキは、やがて静かに目を伏せた。
「……無理だよ」
「なんで?」
「そもそも女扱いされてないし」
「そっかなー? あれは絶対意識し過ぎてるんだと思うけど。考えてみなさいな、年頃の野郎が気になると一つ屋根の下、だよ? そりゃあ、いちいち過剰に反応してたらキリが……」
「リーナ」
 小さく、だが鋭く、シキはリーナの言葉を遮った。そうしてゆっくりと顔を上げる。
「今日はありがと。また来週頼むね」
「……う、うん。お安いご用よ」
 じゃ、またね。そう言葉を交わしてシキは町外れの教会をあとにした。
 
 
 ――無理だよ、絶対に、無理。
 町の中心を東西に走る街道を辿りながら、シキは心の中でその言葉を何度も繰り返した。
 シキとレイは、幼馴染みだ。同じ年に隣同士の家に生まれ、兄弟同然にして育ってきた。二人はともに、十年前の戦争で二親を亡くし、ともに教会の世話になった。同じ先生に引き取られ、同じ学校に通い、同じ魔術師という道を選んだ。
 だが、それだけ、なのだ。
 レイの、シキに対する態度は、十八になった今も、子供の頃から一切変化がなかった。気に食わないことがあれば、容赦なく罵倒してくるし、魔術の修行は勿論、体術の稽古ですら、遠慮の欠片もなくシキを叩きのめしにかかってくる。雨で服が濡れたから、と半裸で家の中をうろつくなんてことも日常茶飯事だ。
 仲間内でふざけ合う様子も含めて、こういう子供っぽい言動はレイの性格の問題かと思いきや、どうやら彼は、家の外では、異性や年長者に対して年相応な行動をとっているようだった。「レイって、最近めっきり落ち着いて、素敵になったよね」と初等学校時代の友人に言われた時の、シキの驚きといったら、思わず「どこが!?」と声を上げてしまったほどだ。
 ――要するに、私は女と認識されていない、ってことよね……。
 そもそも自分は、女だてらに魔術を修めようという極めつけの変わり者。見た目も、性格も、全然女らしくない。スカートなんて一着も持っていないし、化粧の仕方だって知らない。誰が、こんな人間を相手にするだろうか。
 シキは大きく溜め息をついた。ならば、せめてこの生活が変わらなければ良いのに。このゆるい関係のままで、いつまでも過ごしていければ良いのに。
 
 夕闇に沈む牧草地の間を歩きながら、シキは、先刻聞いた、レイがダンと一緒に騒動を起こしたという話を思い返していた。
 最近、彼は時々夜に姿を消すようになった。
 確かに、普段から彼は羽目を外しがちではあった。最低限の言いつけと、最低限の鍛練のみをこなし、あとは暇さえあればどこかへ遊びに出てしまう。そして、あろうことか、先生が家を空けると、その最低限のことすら怪しくなってくるのだ。
 昨年から先生は州都に時々遠出するようになった。峰東州の東の果てから州都のある西部へは、片道だけで十日はかかる。先生が不在の約一ヶ月間、シキはレイと二人だけで留守を預かることになった。保護すべき孤児ではなく、一人前の弟子として認められたような気がして、シキはこの役目を果たせることがとても誇らしかった。
 だが、レイはそう思っていないようだった。
 先生を見送ったあと、彼はいつだって不機嫌になった。何か苛々した様子で家事当番をこなし、当番以外の日はどこかに出ていって帰ってこない。辛うじて、先生に出された課題だけはこなしているようだったが、それすらかなり出来の悪い代物らしく、帰宅した先生にこっ酷く叱られるのが常だった。
 このままでは、いつかそう遠くない未来に、彼はこの家を追い出されるのではないだろうか。シキは自分の抱く不安が、単なる杞憂に過ぎないことを祈らずにはおられなかった。
 
 そして、先月。先生はまた州都に旅立った。二人の弟子に留守を託して。
 先生の信頼を損ねてはならない。シキは日常どおり規律正しく、決められたことを忠実にこなしていく。だが、レイはといえば、相も変わらずふらふらとあちこちほっつき歩いては、徒に時間を浪費するばかり……。
 彼は平気なのだろうか。先生の不興を買うかもしれないということが。この生活――先生と、レイと、シキ、三人での厳しくも楽しい共同生活。それを失うことが。
 きっと、いや、間違いなく、自分は彼にとってそんなに重要な存在ではないのだろう。偶々傍にいるだけの存在。偶々同じ道を歩んできただけの存在。
 シキはその深緑の瞳に、諦めに似た憂いを漂わせて、もう一度溜め息をついた。

 
 
 シキが家に帰り着いた頃には、辺りはすっかり夜の帳に包まれてしまっていた。前方の空に微かに漂う残照を追いかけるようにして、幾つもの星がその姿を現し始める。ふと振り返れば、遥か彼方に小さく瞬く町の灯り。
 急に心細さを感じたシキは、小走りで母屋のほうへと道をくだった。宵闇に目を凝らしながら、砂利の敷かれた前庭を慎重に進む。玄関左手の窓に下ろされた鎧戸の隙間から、微かに明かりが漏れているのを見て、シキはほっと安堵の息をついた。レイが台所で、晩ご飯の用意をしているのだろう。肉を焼く香ばしい匂いがふうわりと辺りに漂っている。
 炊事、洗濯、掃除に始まり、馬の世話、畑作業などなど、するべき家事は山ほどある。魔術の修行はさぼっても、レイがそれらの仕事をないがしろにすることは一度もなかった。
 ――レイならきっと大丈夫。
 リーナの言葉を思い出し、シキは自らに言い聞かせるように大きく頷いた。そう、レイなら大丈夫。たとえ、怪しげな連中と付き合っているのが本当だったとしても、彼ならきっと大丈夫だ。
 重厚な樫の扉を、シキはゆっくりと押し開いた。木の軋む音が真っ暗な空間にこだまする。
 と、正面奥の闇に光の扉が生まれた。食堂から廊下へと溢れる暖かな光の中、影が一人、憮然とした声を吐き出した。
「随分のんびりしたお帰りじゃねーか」
「あ、ゴメン。もしかして、何か手伝うことあった?」
 壁の外套掛けに上着を引っかけてから、シキは影のほうへと駆け寄った。「やっぱり当番制って無理があるよ。前みたいに、二人で仕事を分担したほうが……」
 逆光の口元が微かに歪んだかと思えば、影はシキから顔を背けるようにして、廊下の暗がりへと身を滑らせた。シキの横をすり抜け、無言のままに玄関のほうへと向かっていく。
「レイ?」
「……何だよ」
 黒ずくめの服に、首元で束ねられた黒の長髪。食堂から漏れる光を背に受けてもなお、周囲の闇よりも昏い影は、振り返ることなく不機嫌そうに一言を返した。
「晩ご飯……」
「できてる。俺はもう食った」
 壁にかかった鉛色の長外套を乱暴にひっ掴むレイに、シキは慌てて問いを投げた。
「これから出かけるの? どこへ?」
「どこだって良いだろ」
 そう一言吐き捨てて、レイは玄関の取っ手に手をかける。
「良くないよ。先生に言われた課題、まだ全然終わってないじゃない」
「あー、はいはい。分かった解った」
 白々しいまでに一本調子で返答してから、レイは躊躇いも見せずに扉を開いた。夜気が、さあっと一気に廊下へと吹き込んでくる。
「って、全然解ってないよ! 先送りにしてたら、あとで苦労することに……」
「解ってないのはお前だろ! 一体誰のせいで苦労してると思ってんだよ!」
 突然話の矛先が自分に向いたことに、シキは思わず目を丸くした。
「何それ。課題ができないの、私のせいなわけ?」
 びくり、とレイの肩が震えた。シキに背を向けたまま、硬直したようにしばし動きを止める。
「あ、ああ、そうだよ、いちいち細かいことガミガミと、うざったいんだよ!」
「でも、真面目にしなきゃ、先生だっていい加減……」
「それがうるさい、ってんだよ!」
 怒声とともに、遂にレイがシキを振り返った。若草色の瞳が部屋の明かりを映して黄金色に輝く。何かを言いかけたところでレイは強く口を引き結び、……それから再び踵を返した。
「センセイ、センセイ、ね。そんなにセンセイが好きなら、俺のことなんか放っておけばいいだろ」
「レイ!」
「明日のメシ、いらねーから。当番の日には帰る」
 開け放たれた扉の向こう、影が闇にみるみる溶け込んでいくのを、シキは為すすべもなくただ見送り続けた。
 
 
 

    二  愚計
 
 次の日、家事当番であるシキは、夜が明け始める前に鳥の声に助けられて起き出した。身繕いをしてから、まずは母屋の裏へと向かう。
 そろそろ春の息吹も感じられるようになってきたこの頃とはいえ、まだまだ朝晩は冷え込みも厳しく、シキはかじかむ手を息で暖めながら納屋の扉を開けた。手押し車を引き出してくると、飼い葉を二束、水桶とともに積む。いざ厩へ、と納屋の入り口へ向き直ったところで戸口に人影を一つ見とめて、シキはすっと目を眇めた。
「朝早くから、精が出るこったな。連れがあんなのだと、あんたも苦労するよな」
 口を開けば罵倒の言葉が溢れ出してしまいそうで、シキはダンの声が聞こえないふりをした。無言のままで、彼の前を素通りしていく。
「連れねぇな。あんたが知りたい事を教えてやろうと思って来たんだぞ」
 その言葉を聞いて、シキの足が止まった。途端にダンの両眉が得意げに跳ねる。
「俺に訊きたいことがあるんじゃねぇのか?」
 ゆっくりと背後を振り返って、それからシキは真っ直ぐにダンを見据えた。
「あいつが今、どこにいるか教えてやろうか?」
 にやけた口元が実に楽しげに言葉を吐き出す。「そんなに睨みつけんなよ。おお、怖ぇ怖ぇ」
 わざとらしく怯えてみせてから、ダンは大きく一歩を踏み出した。シキのすぐ目の前に立つと、粘ついた嘲笑を投げかけてくる。
「自分が一番あいつのことを知っているんだ、と思ってるんだろう?」
 へっ、と鼻で笑って、それからダンはくるりと背中を向けた。
「来なよ。あんたに現実を見せてやるよ」
 
 
 東の空が徐々に赤みを増していく中、シキは険しい眼差しでダンのあとをついていった。ほどなく街道の脇に生い茂る潅木は絶え、見通しの良い牧草地が目の前に広がり始める。彼の思惑が何であれ、当分待ち伏せの心配はないだろう。シキは心持ち警戒を解き歩調を早めた。
 教会の鐘楼が遠くに見えてきた辺りで、ダンは街道を逸れた。町の南側に広がる耕地をぬって、楠の大木がそびえる風見の丘へと向かっていく。冬を乗りきった小麦の青々とした葉に見送られながら、丘の向こう側へと斜面を回り込めば、見渡す限りの麦畑の一角に、周囲とは少々植生の異なる畑が現れた。小さな掘っ立て小屋が一軒、その真ん中にぽつねんと佇んでいる。
「薬草畑の道具小屋だ」
 シキが黙って先へと進もうとすると、ダンが慌ててその行く手を阻んだ。丘の麓に僅かに生い茂る低木の陰を指差して、自らもそこに身を潜ませる。
「気づかれると、ややこしいだろ。ここにあんたを連れてきたのは、奴には内緒なんだから」
 仕方なくシキも彼に倣って木陰に身を屈めることにした。
「あそこにレイがいるとでも?」
「そうさ」
 下品極まりない笑いを吐き出して、ダンがシキを振り返った。「薬草屋のカレンとな、二人連れ立って夜の遅くにあそこにしけ込んで、それから夜通し、しっぽりずっぽりお楽しみさ」
 その言葉が終わりきらないうちに、小屋のほうから木の軋む音が聞こえた。思わず茂みの隙間に顔を寄せるシキの視線の先、小屋の扉がゆっくりと開かれる。朝靄にけぶる農地を背景に、シキのよく見知った影が戸口に現れた。
 黒いズボンに黒いシャツ、灰色の長外套の裾が風にひるがえる。さらさらと風になびく黒髪を、今まさに首の後ろで一つに束ね、それからレイはこりをほぐすようにして大きく肩を回した。
 シキは身動き一つできずに、ただひたすら息を詰め続けた。と、再び扉が開き、今度は妙齢の婦人が姿を現した。
 イの町の大通り沿いで薬草屋を営む、未亡人のカレン。それがレイの逢瀬のお相手だった。森の向こうから昇り始めた太陽の、まだか細い光にも眩く輝く金髪に、同性も見とれる肉感的な身体。上衣のボタンを閉め終わったカレンは、とろけるような笑顔をレイに向けると、しなやかな指を彼の頬に滑らせた。
 シキの喉が、ごくり、と鳴った。
 カレンの両手がレイの顔を包み込んだかと思えば、レイがそっと身を屈める。降り注ぐ朝の光の中、ゆっくりと二人の唇が重なった。
 黒い髪を、白い指が乱す。小鳥が木の実を啄むようにして、カレンは何度も黄金こがねの髪を揺らす。
「おうおう、お熱いこって。カレンの奴、まだまだヤり足りねぇって感じだな」
 ダンの声が、どこか遠くから聞こえてくるようだ。シキはまばたきも忘れて、呆然とその場に立ち尽くしていた。
 いくら色事に縁遠いといっても、シキももう一人前の大人だ。子供ではあるまいし、彼らがどんな関係にあるのか、先刻までここで何をしていたのか、解る。
 もっとも、その行為についてシキがどこまで具体的にっているのかと問うならば、甚だ心許ないとしか答えようがなかった。何故ならば、彼女は今までそういった話題に触れることを、可能な限り避けてきたからだ。
 彼女が師と仰ぐのは魔術師だ。癒やし手や精霊使いと違い、女が魔術師になることは非常に稀であった。いや、不可能だ、という声の上がらないことが不可解なほど、女魔術師という存在は実質ありえないと思われていた。
 ところが、一体どういう適性があったのだろうか、先生の指導のもと、彼女は魔術に関して素晴らしい腕前を発揮しつつあった。すると今度は他人からの嫉妬や偏見と戦わねばならない。そんな事情もあって、彼女は自分が「女」であることを極力意識しないように、意識させないようにしてこれまでを生きてきたのだ。
 そんな中途半端な自分を、先生とレイだけは受け入れてくれている、理解してくれている、そう思っていた。
『誰のせいで苦労してると思ってんだよ!』
 昨夜のレイの言葉が脳裏に甦り、シキは思わず唇を噛んだ。全ては、自分の願望であり、思い込みに過ぎなかったのだ、と。
 このまま今まで通り三人で仲良く暮らし続けられたらいい。そうレイも考えているに違いない、と思っていた。たとえレイがどんなにあちこちさまよい歩こうと、帰ってくる場所は先生と住むあの家なんだ、と信じていた。今の生活が失われてしまうことを恐れつつも、心の奥底では、そんなことあるわけない、と高をくくっていたのだ。
 ――だって、……一緒にいたかったから。
 振り返れば、いつだってそこにはレイの姿があった。野原を転げまわって遊んだ時も、教会で訃報に涙した時も、先生の家に来た時も。学校に行き始めて友達が増え、お互い少し距離を置くようになっても、視界のどこかにはいつも彼の姿があった。
 卒業後、先生の下で本格的に魔術の修行を始めた頃から、レイの態度はよそよそしくなってきた。もっとも、先生はそのことをとても歓迎しているようだった。お互いを好敵手と意識することができたのは幸いだ、そう先生は喜んでいた。これでこそ修行の効果が上がるというものだ、君達はもう子供じゃないんだからね、と。
 それでも、どんなに愛想がなくとも、シキの隣にはレイがいたのだ。時には喧嘩もしたけれど、二人で力を合わせて家事をこなし、競い合いながら修練を積んできた。
 ――もう、一緒にはいられないのだろうか。
 ちょっとしたことですぐに調子に乗っては先生に叱られ、でも全然懲りた様子もなく、先生が向こうを向けばまたすぐにふざけてみせたり、そうかと思えば別人のごとく神妙に修行に取り組んだり。そんなレイの様子は見ていて飽きなかったし、楽しかった。悪戯っぽく笑う顔も、得意げに胸を張る仕草も、真剣な表情で呪文を唱えるさまも、……素敵だった。
 先生の合図で、レイはその勝ち気な瞳を僅かに細めると、厳かな指遣いで空気中に魔術の印を描いた。囁くような詠唱は、普段の彼の言動からは想像もつかないほどに繊細で、シキはただ黙って彼のしらべに聞き惚れるのだった……。
「すげぇよな、あの女」
 突然の濁声に、シキの心は一気に現実に引き戻された。「朝までハメまくって、そのまま畑仕事かよ。一体いつ寝るんだ?」
 枝の隙間から見える世界には、既にレイの姿は無かった。薬草の世話をするカレンの金髪だけが、畝の陰にちらちらと垣間見える。
 家事を当番制にしよう。レイがそう言い出したのが、一年前。丁度先生が州都へ遠出することが増えた頃だった。その結果、レイとシキの生活周期はお互いにバラバラとなった。同じ家に住みながら、彼と全く言葉を交わさない日もあった。
 ――なんだ、レイはもうとっくに……
 おのれが気づこうとしなかっただけで、とっくの昔にレイは自分の傍にはいなかったのだ。シキはすっかり血の気の引いた頬で、ふらりとダンのほうを振り向いた。
「なあ、深刻になるなよ」
 ダンが少しだけ気の毒そうな表情を作ってみせた。
「あの女がどういう奴か、あんたも知らないわけじゃないだろ? 俺だってな……」と、一転して卑猥な身振りを披露して、「まさしく、同じ穴のなんとやら、ってな。そんなわけだから、あまり気にすんなよな?」
 慣れ慣れしく肩に置かれたダンの手を、シキは反射的に払いのけた。その手が、肩が、小さく震えているのに気づいたダンの目が、ねっとりと細められる。
「気が強い女は嫌いじゃないぜ。口うるさくなければな」
「私に構わないで。……それから、レイにも」
 悲痛な面持ちで、それでもシキはレイの名を最後につけ加えた。
「同じ穴のムジナだと言ったろ?」
「レイは、あなたとは違う」
 はっ、と派手な嘲笑を吐き出してから、ダンがシキの至近に迫ってきた。
「いいことを教えてやろう。今日の晩、東の森近くで、一仕事する予定でな。
 俺の仲間がナガリャの町で知り合った旅人なんだが、独り身の行商人らしくてな、大きな金剛石を嵌め込んだ首飾りやら何やら、物騒な物をしこたま持っているんだとよ。
 可哀想に、夜盗に狙われたら最後、そいつは身ぐるみ剥がれて殺されちまうに決まってる。だから、そうなる前に俺様が保護してやろう、ってな」
「保護?」
 彼女らしからぬ攻撃的な調子で、シキは鼻で一笑した。鋭い視線に、刹那ダンが怯む。
「物は言いようってな。……勿論、レイのヤツも協力してくれるんだぜ」
 シキが表情を一変させるのを見て、ダンは至極満足そうに相好を崩した。
「言っとくがな、ヤツを説得しようとしても無駄だぜ。一人前の男が、オトモダチに説教されたぐらいでやめるなら、最初からやろうって言うわけないだろ?」
 なるほど、そうかもしれない。シキはきつく下唇を噛んだ。非常に不本意ではあるが、ダンの言うとおりに違いない。
 だが、だからといって、このままレイが犯罪に手を染めるのを、指を咥えて見ているわけにはいかなかった。彼が彼の道を邁進するというのならば、最初に踏み出すその一歩の向きを、大きく違えさせてしまえばいいのだ。力ずくでも。
「腕にものを言わせて、って顔だな。怖ぇ怖ぇ」
 腹が立つほど白々しい口調で揶揄してから、ダンが明後日の方角を向いた。
「ま、あんたにヤツが捕まえられたら、の話だな。あいつ、今日も帰らないって言ってたろ?」
 愕然としたのち、一気に殺気立つシキに、ダンの腰が引ける。
「おいおい、なんて顔してんだよ。やる気か?」
 それから、少しだけ引きつった笑みを口元に浮かべて、胸を張った。「でも、できねぇんだよなあ? 俺、何もしてねぇもん。無抵抗の人間には手を出せねぇよなあ、術師さまよ」
「悪事を謀っているだろう」
「証拠があるのかよ?」
 抜け目のない瞳をシキに向けて、ダンが喉の奥でくつくつと笑った。
「それに、俺の邪魔をしたところで、今度はレイのヤツが首謀者になるってだけのことだしな」
 今度こそ、シキの瞳に絶望の色が入った。そんなことになってしまったら、間違いなくレイは破滅する。
「警備隊に密告してもいいんだぜ? ダン・フリア様を捕まえるとなれば、現場を押さえるしかないだろうが、そうなりゃ、レイだって一蓮托生だ」
 自分には、何もできない。レイを助けることができない。そう考えた途端、シキの胸の奥がカッと熱くなった。潤み始める目元に力を込めるべく、奥歯を強く噛み締める。
 対して、すっかり調子を取り戻したダンは、手振りも豊かに熱弁をふるい続けた。
「大体、だ。そんなに深刻になるようなことじゃねぇだろ? 人殺しするわけじゃなし。そもそも、そのためにヤツの力が必要なんだからな。魔術でちょちょいと、標的を眠らせるのがヤツの役目さ。どうだい、実に紳士的じゃねぇか」
 そこまで言って、ダンは鷹揚に腕を組んだ。微動だにしないシキを、しばし無言で見下ろす。
「それとも……ヤツの代わりに、あんたがするか?」
 思いもかけない申し出に、シキは眉間に皺を刻んだまま顔を上げた。
「俺ぁな、常々あんたに一目置いてるんだ。女のくせに、媚びねぇし、ギャアギャアうるさく出しゃばらねぇし、それに強ぇしな。今だって、泣き喚きもせずに頑張ってる。正直、あんなヤツのせいで悲しむあんたを見たくないんだ」
 どの口がそれを言うか、と叫びたくなるのを必死で抑えて、シキは強く口を引き結んだ。視線の先では、ダンが悪魔の笑みを浮かべて立っている。
「あんたがレイの代わりに手伝ってくれる、ってんなら、ヤツには適当な理由をつけて、計画は中止だとでも言っておくが……、どうする?」
 
 
 

    三  襲撃
 
 ダン・フリアは、郷士の息子である。
 ダンの父親のアーロンは、かつてこの辺りを治めていたサラン領主の右手とまで謂われた男で、「鷹」の異名を持つ人物だった。曰く、鷹のように鋭い目を持ち、よく風を読み、抜け目なく獲物を捕らえる、と。
 十年前、帝国軍が天下平定を旗印にこの辺りに侵攻を始めた時、アーロン・フリアはいち早くサランの劣勢を読み取り、帝国側に寝返った。人々が「裏切り者」と彼を非難する間もなく、サランの町は焼け、城が落ちた。かつての同胞と袂を分かって僅かふた月、彼はマクダレン帝国の式服を身に纏って故郷に凱旋した。
 領主の血をもって争いに幕が引かれたのち、この辺りの町長まちおさに指名されたのは、意外なことに、最後までサランの城を守り、おのあるじの死を見届けた者どもだった。領地再編の混乱の中、造反者では人心を上手くまとめることができない、そう皇帝は考えたのだろう。
 一見、過去の遺恨をそのまま火種として抱え込んだかのように見えた人事ではあったが、それら地方の長達の傍には漏れなく監視役が据えられた。ダンの父親をはじめとする「忠臣」達が皇帝陛下の名の下に、各地の治安を守る任についたのだ。
 
 ――確たる証拠がなければ、ダンとその一味に手出しはできない。
 暗闇の中、シキはそうおのれに言い聞かせると、強く拳を握り締めた。
 すっかり日が暮れた町外れ、道往く人々の姿も消え、辺りに動くものは何もない。大地を渡る風の音だけが、時折もの悲しい旋律を奏でている。
 ひとけの絶えた街道から少し離れた森の中で、シキは昏い眼差しを前方に投げた。そこには、ダンをはじめとする町のならず者が五名、黒々とした影を揺らしながら、今か今かと獲物を待ち構えている。
 イの町の警備隊は当てにできない。シキは憂いを静かに吐き出した。普段町で会う警備隊員らは皆、礼儀正しく正義感に溢れた好漢ばかりだ。だが、彼らはほぼ全員がフリア家子飼いの者であったし、仮に彼らが自らの正義を全うしようとしたところで、最終的な判断をくだすのはダンの父親なのだ。それがどのようなことを意味するか、解らないシキではない。
 まさか自分が、この連中と係わり合いを持つようなことになるなんて。昨日までは想像もしていなかった事態に、シキの溜め息はますます深くなるのだった。
 
 やがて、イの町がある西の方角に小さな影が動くのが見えた。
「時間通りだ。トーマのヤツ、上手く時間を稼いでくれたみたいじゃねぇか」
 得意げなダンの声が、夜のしじまを震わせる。
「でもよ、いくら満月だからって、夜道を独りでよく行くよな。この時間なら普通はイで泊まるだろう?」
「それがよ、どうしてもイを素通りしたいらしいぜ。えらく嫌われたもんだよなあ?」
 何が可笑しいのか大仰に笑い合う一同を軽蔑の目でねめつけてから、シキは周囲に目を凝らした。月明かりに照らされた灰色の世界に存在するのは、自分達の他には件の旅人ただ独りのみ。道行きを相当急いでいるのであろう、胡麻粒のようだったその影はみるみるうちに大きくなり、今やその背格好が判別できるほどになってきた。
 ――なるほどね。
 シキはすぐに納得した。魔術の手助けが必要な理由について、ダンは人殺しを避けるためだの何だの言っていたが、本音は「相手が手強そうだから」の一言に尽きるのだろう。遠目にも判る、上背のある逞しい体格は、ここで手ぐすね引いている悪漢どものうちの誰よりも強そうに見えた。豆の蔓のような夜盗もどきが五人揃ったぐらいでは、あの丈夫に勝てやしないだろう。
「おい、シキ」
 ダンが急いた様子でシキを振り返った。「さっさと呪文を唱えろよ。俺達は、あいつが眠ったのを確認してから突撃する」
 遂に決行の時がやってきたのだ。カラカラに乾いた唇をそっと舌先で湿し、大きく深呼吸をしてから、シキは静かに瞼を閉じた。
 ――全て承知して、ここに来たのではなかったのか。どのような結果になろうと、それを真っ向から受け入れる覚悟で、今この場に立っているのではなかったのか。
 おのれにそう言い聞かせて、目を開ける。それからシキは、ゆっくりと両手を身体の前に差し出した。
 夜目にも白い指が、そっと空中に文様を描く。糸を紡ぐように、布を織るように、複雑な軌跡を描きながら、大気に術の印を刻む。それに合わせて、歌うような旋律が風に乗った。
 ダン達が固唾を呑んで見守る中、早足で進み続けていた旅人の歩みが鈍った。躊躇うように二歩を進んでから、がくりと大地に片膝をつく。
「今だ、行くぞ!」
 得物を手に、勝ちどきの声を上げて、五人が藪を飛び出していった。
 
 賽は投げられた。
 シキは、おのれの術の成果に思わず泣きそうになった。だが、の涙はまだ早い。ここからこそが正念場なのだ。
 もう一度大きな動作で両手を閃かすと、シキは先ほどとは違う呪文を唱え始めた。全身全霊の力を込めて、「睡眠」の術を放つ。狙うは、街道に向かってひた走るダン一味。
 一番後ろを走っていた一人が、ばたり、と倒れた。次いで、二人。驚いた一人が足を止め、そのままぱったりと倒れ伏す。だが、先頭を走るダンに変化はない。
 ――術が届かなかったか!
 舌打ちと同時に、シキも木の陰を飛び出した。悪い足場をものともせずに、月明かりを頼りに街道を目指す。
「な、なんだぁ!?
 ようやく異変に気づいたダンが、酷く狼狽しながら来た道を振り返った。累々と地に横たわる仲間達を目にし、息を呑む。と、自分の背後に不穏な気配を感じ取ったのだろう、ダンは驚きの表情で再び進行方向を向いた。
 そこには、術をかけられ地に折れたはずの旅人が、膝の土を払って立っていた。
 ダンがすっかり慌てふためいた様子で後ろを振り返った。そして、縋りつくような眼差しをシキに投げつけてきた。
 だが、シキはそれを容赦なく振り払い、新たなる呪文の詠唱を開始する。旅人ではなく、ダンを見据えて。
「シキ、てめぇ、裏切ったな!」
 ダンが絶叫するのとほぼ同時に、旅人が短剣を抜いた。そうして、ゆっくりとダンとの距離を詰め始めた。
 隙のない構えと、全身から放たれる並々ならぬ気迫。鍛え上げられた身体は、外套の上からでも窺い知ることができるほどだ。これまでどれほどの苦難を乗り越えてきたのであろうか、旅人は一切の動揺を見せることなく、じりじりとダンに迫りゆく。
 ――ちょっと待って。
 今まさに呪文を唱え終わらんというところで、シキは慌てて詠唱を止めた。ダンと旅人との距離が近過ぎることに気がついたのだ。
 このままでは、旅人も術の巻き添えになって眠ってしまうことになる。だが、それでは困るのだ。ダンの悪事の証人になってもらうためにも、彼には一部始終をしっかりと目撃してもらわなければならない。
「旅の方、下がってください!」
 シキの叫び声に、おろおろと慌てふためくばかりだったダンが我に返った。及び腰のまま悲鳴とも雄たけびともつかない声を上げて、手に持った剣を出鱈目に振りまわす。旅人が間合いを計るべくほんの少し身を引いたのを見てとるや、ダンはぐるりと勢い良く回れ右すると、これまでとは比べ物にならないほどの俊敏さでシキに向かって突進してきた。
 予想もしていなかったダンの行動に、シキの反応が一瞬遅れた。その僅かな隙を狙って、ダンの体当たりが炸裂する。咄磋のことに受け身も取れず、シキはそのまま一丈ほど後方に思いっきり吹っ飛ばされた。
 星空が暗転したかと思うと、次の瞬間、強い衝撃が背中に襲いかかる。全身を駆け巡る痛みに、悲鳴を上げるどころか息をすることすらできない。喘ぐように喉の奥をせり出しながらも、シキは涙に滲む視界を必死で巡らせた。ダンを逃がすわけにはいかない、と。
 むくり、と目の端でダンが起き上がるのが見えた。
 遅れじと死にもの狂いで立ち上がろうとしたシキを、激しい咳の発作が見舞った。それと引き換えに胸に流れ込んでくる、新鮮な空気。ようやく身体の感覚が戻ってきたと安堵する間もなく、今度はシキの両腕に激痛が走った。
「やい、お前! 刀を捨てろ!」
 背後にまわり込んだダンが、シキの腕をねじり上げていた。体当たりの打撃を真っ向から受けた部分をひねるようにして掴まれて、シキの喉からうめき声が漏れる。
「刀を捨てろってんだよ! こいつがどうなってもいいのか!?
 月の光を映し込んだ刃が、シキの喉元に突きつけられた。
 旅人は小さく肩をすくめてみせてから、表情一つ変えずに手に持った短刀をそっと地面に落とした。
「へ、へへへ、へへへへ、分かりゃいいんだよ、分かりゃ」
 ダンが笑い声を上げた拍子に、剣の切っ先が僅かに緩んだ。即座にシキは、痛みをこらえて思いきり身をよじる。だが、ダンの手から逃れられたと思う間もなく、シキはあえなく大地に引き倒された。短刀を拾おうと屈みかけていた旅人も、渋々ながら再び身を起こす。
「残念だったな、シキ。俺を甘く見るんじゃねぇぞ」
 虚勢ともとれる嘲笑を吐き出しながら、ダンが剣を構え直した。地に伏すシキの外套を残る左手で器用に肩まで脱がせると、後ろ手に押さえ込んだ両の腕を外套でぐるぐる巻きにして、彼女の自由を奪う。
「さて、仕切り直しだ」
 そう得意そうに胸を張ったダンの眉が、不意にひそめられた。
 腕の痛みに顔をしかめながら、シキも顔を上げた。旅人も、怪訝そうに遥か東の地平線を見やる。
 遠くから微かに聞こえてくるのは、数頭入り乱れる馬の足音、人の声、そして……呼び子の笛の音。
「シキ、お前、まさか……」
「警備隊に密告してもいい、って言ったろう?」
 苦虫を噛み潰したかのような表情で目を剥くダンに、シキは涼しい顔で返答した。「だから、そのとおりにした。ただし、イではなくサランの警備隊に」
「きさまぁ!」
 怒りに拳を震わせながら、ダンはもう一度東を向いた。煌々と降り注ぐ月の光の中、彼方からこちらに向かって着々と何かが近づいてくるのが見える。
 次いで、彼は旅人を見やった。心持ち低い姿勢でダンを睨みつけながら、なお足元の短剣に注意を払い続ける屈強な男を。
「やい、お前、動くなよ! この女の命を助けたかったら、動くなよ!」
 そうがなり立てると、ダンはシキを引き起こした。「俺は本気だからな! お前が動けば、こいつを殺す! 動かなきゃ……、こいつはあとで無事解放されるってわけだ。いいな、解ったな!」
 ダンは外套の戒めごとシキの腕を掴んで、森のほうへと引っ張っていこうとする。全力で抗おうとしたシキだったが、ふと、おのれの目的を思い出して、下唇を噛んだ。
 ――ここで逃げられるわけには、いかない。
 捕り手達が追いつくまでもはや数刻、だが、ダンは足が速い。森の奥深くに逃げ込まれでもしたら最後、明日の朝には、彼は自宅でそ知らぬ顔をして豪勢な朝食を食べていることだろう。
 が、人質を連れて行くとなれば話は別だ。さしものダンの逃げ足も鈍るはず。途中で置いて行かれたとしても、追っ手を導くしるべになれるだろう。シキは意を決すと、ダンに不審がられない程度に抵抗しつつ、彼に従って木々の合間へと分け入った。
 
 
 
 乱暴な音を立てて、小屋の扉が開かれる。
 戸口には、月の光を背に受けた男が一人。両腕に抱えた大きな荷物を乱暴に床に落とし、それから小屋の扉を閉める。
 そこは、人ひとりが住むに丁度良い大きさの、小ぢんまりとした部屋だった。二方の窓から差し込む月明かりが、部屋の内部を淡く浮かび上がらせている。簡素な戸棚に、小さな食卓、優に四人は腰かけられる長椅子の前には暖炉もある。一見きちんと片付けられたように見える室内は、物が無い故と言うべきか、部屋の隅には幾つもの酒瓶が転がっている有様だ。
 やれやれ、と一息吐き出して、男が床に屈み込んだ。荷物の傍らに膝をつき、ポケットからナイフを取り出す。
「もう、いくら騒いでも大丈夫だぜ」
 呻く荷物に向かって、ダンはいやらしい笑みを浮かべた。そうして、ナイフで猿轡を切る。
 ようやく自由を取り戻した口元を確かめるかのように、シキは大きく息を吸い込んだ。
 
 シキがおのれの判断が間違っていたことを知ったのは、森に入ってすぐだった。前方の低木に隠れるようにして、一台の荷馬車が停められていたのだ。
 今回の襲撃にあたって指定された場所に、ダン達が連れだって森から現れたことを思い出し、シキは自分の浅慮を心の底から呪った。もはや、ダンの悪事を白日の下に晒すなどと言っている場合ではない。かつてない窮地に自分が立たされていることに気づき、シキは大慌てで踵を返そうとした。
 だが、シキがダンの手を振り払うよりも早く、足払いが彼女を襲った。草の上に倒れ込んだシキを、ダンが荷台に担ぎ乗せる。鞭をふるう音が慌ただしく辺りに響き、車輪が激しく軋みだす。
 そうして、荷馬車は木立の向こうへと姿を消した。

 
 そして今、どことも知れぬ小屋の中にシキはいた。
 両腕は相変わらず外套でがんじがらめにされており、呪文を唱えようにも指が自由に動かない。冷たい板張りの床に横たわりながら、シキは無言でダンを見上げた。
「お前のせいで、儲けがパァだ」
 忌々しげにそう吐き捨ててから、ダンがシキの上に屈み込む。すかさずその側頭部めがけてシキは蹴りを繰り出した。全体重を右足に乗せるつもりで、ありったけの力を込めて、身体をひねる。
 見事な軌跡を描いて、シキの臑がダンの横っ面を捕らえた。尻尾を踏まれた猫のような声とともに、ダンが床へと倒れ込んだ。間髪を入れずシキは大きく両足を振り上げ、反動をつけて上体を起こす。
「ふ……ふざけんな!」
 シキが立ち上がろうとするよりも早く、怒りで顔を真っ赤にさせたダンがのっそりと身を起こした。
 やはり体勢に無理があったか。シキは小さく舌打ちをした。普通ならばこんな奴、一撃でお仕舞いのはずだったのに。悔しさに歯軋りするシキの眼前、ダンが拳を固めて大きく振りかぶった。顔面めがけて打ち下ろされた打撃をぎりぎりのところでかわしたものの、シキは再び床の上に押し倒されてしまった。
「このお礼は倍にして返してもらうぜ」
 肩で息をしながら、ダンがシキの上にのしかかってきた。両手でシキの両肩を、両膝でシキの両足を、それぞれがっちりと押さえ込んで、会心の笑みを浮かべる。
「あいつらに味わわせてやれないのは予定外だが、仕方ないか」
「予定外!?
「ああ。一仕事のあと、皆であんたをマワすのを楽しみにしてたんだがよ」
 涎をすする音を漏らしてから、ダンがせせら笑った。「そんなに暴れんなよ。あちこち痛ぇだろ?」
「じゃあ、放して」
「それはできねぇなあ」
 下卑た笑いとともに、無骨な男の手が、シキの胸へと伸びてくる。
 シキの全身が、嫌悪感から総毛だった。痛みに耐えて必死で身をよじるも、押さえられた肩と足首が、ぎしぎしと嫌な音を立てるのみ。背中と床に挟まれた腕はぴくりとも動かすことができず、彼女に打つ手はただ一つも残されていない。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう! 恐慌状態に陥ったシキは、ただひたすら思考を空回りさせるばかりだ。
「おもしれぇよな。トーマのところといい、ウェンのところといい、あんたといい、『誰々を仲間から外してやってもいい』って言うだけで、ホイホイ言うことを聞くんだもんな」
 ダンが、至極楽しそうに、くっくっと喉の奥を鳴らした。
「あいつら、自分から進んで俺の傍にいるのに、馬鹿じゃねぇの?」
 その言葉に、シキは大きく目を見開いた。おのれがするべき事が何であったか、今ようやく気がついて。
 ダンを罠に嵌めて、捕縛する。そんなことは最後の最後で良かったのだ。まずは、何が何でもレイを探し出し、彼と話をするべきだったのだ。
 レイと正面きって向き合うこともせずに、短絡的に問題を解決しようとした結果が、このザマだ。そうでなくとも、件の旅人に注進するなりして襲撃そのものを防ぐのが筋だったのだ。決着を急ぐあまりに大局を見誤った自らの愚かさに、シキは思わず泣き出しそうになった。
「いいねぇ、その顔。泣けよ。喚けよ。助けを求めてみろよ」
 ダンはすっかり得意顔で、シキの耳元に顔を近づけてきた。「ま、大声で叫んだところで、誰も助けには来ないだろうがな。ここは俺達の秘密の隠れ家だからな」
 湿気を含んだ息が、シキの頬にかかる。
「い、嫌っ……!」
 必死で顔を背けようとするも甲斐はなく、シキは固く目を閉じた。目の前のこのおぞましい光景が、幻であることをただひたすら祈りながら。
 次の瞬間、轟音が小屋を揺るがした。
 
 一体何が起こったのか、シキにはすぐに分からなかった。
 夜風が頬を撫でたかと思えば、押さえ込まれていた身体が急に軽くなった。おそるおそる視線を巡らすと、激しく揺れる小屋の扉がまず目に入ってきた。次いで、顔面から床に突っ伏すダンの姿。彼は、四つん這いの体勢で痛々しい呻き声を上げながら、頭を押さえて苦しんでいる。
「いい加減にしろよ、コラ」
 凄みのある声は、ダンの向こう側から聞こえてきた。と、思う間もなくダンの身体がぺしゃんと床に伸びた。
「レイ! お前、どうして、ぐあっ」
 ダンの背中に乗せられていた足が消え、鈍い音が響き渡る。ダンは今度は腹を抱えてうずくまった。その横から、漆黒に彩られた人影が姿を現す。黒い髪に、黒い服。レイは両手をズボンのポケットに突っ込んだままの姿勢で、とどめとばかりにダンの尻を軽く蹴った。またも手負いの猫そっくりの声が、暗闇に小さく湧き起こる。
 突然のことに今一つ状況が理解できず、シキは床に転がったまま呆然とするばかり。レイはそんな彼女の傍までやってくると、面倒臭そうに鼻を鳴らしてから彼女を助け起こした。シキの両腕に絡まる布地をぞんざいな手つきでほどき終えるなり、一人さっさと立ち上がる。
「て、てめぇ、術師のくせに、無抵抗の人間に……」
「何が無抵抗だ。つうか、今のは魔術と関係ないだろ。頭ン中腐ってんじゃねーのか」
 思いっきり馬鹿にした口調で、レイが言葉を返す。「この程度で済んでありがたく思え。場合によっては、ぶっ殺してやるつもりだったんだからな」
 夜気をも震わす凄まじい殺気に、ダンが一瞬息を呑む。だが、どうしても腹の虫がおさまらないのだろう、うずくまった状態から顔だけ上げてやみくもにレイに食ってかかった。
「暴力でも同じことだろ! いいのか、魔術師ギルドに言いつけてやるぞ! 『力の行使者』がいたいけな民を怪我させたとな!」
「勝手にしろ」
 レイは盛大に鼻で嗤ってから、ダンの眼前に、ぐいと迫った。
「『より良き世のためにのみその力を行使する』ってか?
 ――くそくらえ、だ」
 ダンばかりかシキも思わず目を丸くする中、レイは低い声で語り続ける。
「俺が魔術師になったのは、力が欲しいからだ。他人のための力じゃない、俺自身のための力だ」
 襟元を掴まれたダンが、体勢を崩して床に倒れ込んだ。
「だから、俺は、躊躇わねえ。あんたをぶっ飛ばしたい時には、遠慮なくぶっ飛ばす。必要とあらば術だって使うさ」
 きっぱりとそう言い捨てると、レイはシキの腕を掴んで立ち上がらせた。そうしてそのまま、無言で扉へと向かう。
 レイの言葉にあっけにとられていたシキも、扉が閉まりかけるのを見て慌ててレイのあとを追った。
 
 
 
 レイは一度も後ろを振り返らなかった。月夜でなければ、シキは道に迷っていたかもしれない。彼女は遥か前を行くレイのあとを必死で追い続けた。何度も木の根に躓きながら木立の中をぬい、小川を越え、牧草地を抜け、どこをどう歩いたのか解らないままシキはようやく家に帰りついた。
 玄関の扉を開ければ、真っ暗な廊下がシキを出迎えた。レイは自分の部屋に行ってしまったのだろう。もしかしたら……またどこかへ……恋人のもとへ、出かけていったのかもしれない。シキは昏い瞳で食堂へ向かった。
 闇に沈む部屋の中、窓から射す月明かりを頼りにランプを見つけ、手探りで調理場に入る。オーブンの種火からランプに火を灯すと、ようやっとシキは心からの溜め息をついた。優しい光がゆっくりと身体を満たし、ずっと張りつめっぱなしだった糸が切れたように、ぐったりと食卓の椅子に身を沈ませる。
 ――なんて一日だったんだろう。
 うっかり、先ほどのあの出来事まで思い返しそうになって、シキは慌てて頭を振った。おのれの行動を反省するにしても、今はもう何も考えたくない……。
 とにかく今日のところはさっさと部屋に戻って休むことにしよう。そうシキが立ち上がった時、扉が開いてレイが食堂に入ってきた。漆黒の前髪から滴る水が、ランプの光をきらきらと反射している。
 しまった、とシキは思った。私も顔を洗ってくるんだった、と。埃と涙の跡で、きっと自分の顔はとんでもないことになってしまっているはずだ。シキがあたふたとレイから顔を逸らせた途端、彼が忌々しそうに舌打ちをした。
「お前、自分が何をしたのか解ってるのか?」
 シキは申し訳なさから身体を小さくして、消え入りそうな声で一言を搾り出した。
「ごめん……」
「余所見するなよ。本当に解ってるのか?」
 怒りを押し殺した声に、急いでシキは前を向く。
「ごめん。余所見とか、そんなつもりじゃ……」
 レイが小馬鹿にしたように、ふんっと鼻を鳴らした。
「お前な、うぬぼれるのもいい加減にしろよな」
 考えてもみなかった言葉がレイの口から飛び出したことに、シキは思わず目を丸く見開いた。
「自分一人で何でもできるって、思うだけならお前の勝手だけどな、後始末に回るこっちのことも考えろよな」
「ちょ、ちょっと待って、私、そんな……」
「一網打尽とか何とか考えたんだろうけどな、あんなヤツにのこのこついていったらどうなるか解らないのか、この大馬鹿野郎!」
 レイのあまりの言い草に、シキは数度まばたきを繰り返した。
 確かに、少しは考えが甘かったかもしれない。うぬぼれがなかったと言えば嘘になる。一網打尽を目論んだのも間違いない。だが、元を正せば、事はレイに端を発しているのだ。今、目の前で他人事のようにシキを糾弾している、レイがそもそもの原因なのだ。
 シキの疲れきった頭に、一気に血がのぼった。助けてもらったことも忘れて、彼女はレイに向かってまくしたてた。
「ちょっと待ってよ! 大体、レイが彼らの悪事に加担するのが悪いんじゃない! それこそ、自分が一体何をしようとしてたのか解っているわけ!? 魔術で眠らせたら紳士的、って、本気でそんな世迷言を考えていたの!?
 レイが、はっと息を呑んだ。眉間に深い皺を刻みながら、ぐ、と唇を噛む。
 肩で息をしながら、シキはレイを見つめた。こんな恩着せがましいこと、本当は言うつもりなどなかったのに。そう胸の内で悔いつつも、彼女は半ば涙ぐみながら言葉を継ぐ。
「うるさい奴だ、って嫌ってくれてもいい。邪魔だって言うなら私が家を出るから。でも、これだけは言わせて。
 ――お願いだから道を外れないで。どうかその瞳を、曇らさないで」
 辛うじてそれだけを言いきって、シキは身をひるがえした。こぼれ落ちる涙を見られたくなくて、そのまま自室へ戻ろうとレイの傍をすり抜ける。
「シキ……!」
 酷く擦れた声が、シキの背後から追い縋る。次いで、レイの手が彼女の肩を掴んだ。
 強い力で問答無用に振り返らされたシキの目の前、これまで見たこともない真摯な瞳があった。森の奥、木々の葉を映し込んだ泉のように、どこまでも深く、吸い込まれそうな常盤の瞳が。
 次の瞬間、シキはレイの腕の中にいた。
 柔らかいものが唇に触れた感触に、シキは我に返った。目を白黒させながら、大慌てでレイの身体を押しやろうとあがく。
「ちょ、ちょっと、レイ、何を……!」
 無理矢理絞り出したような声で、くそ、と小さく吐き捨ててから、レイがもう一度シキと目を合わせてきた。
「好きだ、シキ。お前のことが、好きなんだ」
 強い眼差しが矢となってシキの胸を貫く。全てを忘れて、シキはその場に立ち尽くした。まるで血潮が沸き立ったかのように全身が熱くなり、身体のあちこちで鼓動が、どきどき、どきどき、響き合っている。
 真っ赤な顔で放心したように突っ立つシキの面前、レイが僅かに瞳を緩め、再びそっと身を屈めてきた。
「ふざけないで!」
 すんでのところで我を取り戻し、シキは思いっきりレイの横っ面を張り倒した。
 打たれた頬を押さえながらレイが愕然とシキを見やる。
「カレンさんがいるのに、何考えてるのよ!」
 レイが何かを言おうと口を開けかけた時、玄関のほうから激しく扉を叩く音が響いてきた。悲鳴にも似た甲高い女の声と馬のいななきが、それにかぶる。
 シキはレイを一顧だにせず、これ幸いと、そそくさ応対に駆け出していった……。
 
「レイ! いるんでしょ! リーナです! 開けてちょうだい!」
「リーナ!?
 鬼気迫る親友の声に、取るものもとりあえずシキは閂を外した。と、扉が開くのももどかしい様子で、リーナが玄関にまろび入ってくる。
「シキー! 無事だったのー? 良かったー!」
「ど、どうしたの、リーナ?」
「良かった……、シキ、本当に良かった。レイが間に合ったんだね」
「あ、うん」
 涙でぐしゃぐしゃになったリーナに勢い良く抱きつかれ、シキはたたらを踏んだ。良かった、良かった、と繰り返すリーナをなだめながらふと視線を外にやると、馬を引いてこちらへ近づいてくる人影が見えた。
「さらわれた女魔術師というのは、君かね」
 警備隊の制服であるえんじの上着を着、帯剣した壮年の男性が、シキの前に歩み寄ってきた。リーナが慌ててシキから離れて心持ち姿勢を正す。
「本部に書簡を届けてくれたのも、君だね。賊には、逃げられた……ということかな」
「あ、はい」
 サランの警備隊員はしばし何か考え込み、それから静かにシキに語りかけてきた。
「お疲れだろうが、今からサランまでご足労願えないだろうか。幾つかお聞きしたいことがある」
「解りました」
 
 一行が慌ただしく出立し、辺りに再び静寂が戻ってくる。
 一人取り残されたレイは、暗い部屋の中でじっと佇んでいた。拳を硬く握り締めて、いつまでも。
 
 
 

    四  逆襲
 
 深夜にもかかわらずサランの警備隊本部には煌々と明かりが灯されていた。
 サランはイに比べて随分大きな町だ。そのため、街の治安維持にあたる警備隊の規模も、イのそれとは比べるべくもない。ダン一味の捕り物の余波もあってか、幾つもの影がせわしなく門を出入りしている。
 一階の廊下の突き当たり、奥まった部屋、木の軋む音とともに簡素な扉が開いた。
 隊員に連れられて部屋に入ってきたシキを見とめて、旅人が椅子から立ち上がった。そうして、すまなかったな、と軽く頭を下げた。
「あの時、俺が前に出なければ、あんたは魔術を使えたんだな」
「いえ、あなたの協力がなければ、私は悪漢どもの手によって、もっと酷い目にあわされていたところでした」
 ダンのいやらしい目つきを思い出して、シキは小さく身震いをした。改めておのれの幸運を感謝すると同時に、脳裏にレイの顔が浮かび上がり……、つい短い溜め息が漏れる。
 既に時刻は明け方に近い。案内の役を解かれたリーナと彼女の家の前で別れてから、シキはサラン警備隊副隊長とともに愛馬の「疾走」を繰り続けた。速足はやあしでひた走ること三時みつとき、シキは疲れきった身体を引きずるようにして、サランの中央広場に建つ警備隊の本部へと、つい先ほどようやく辿り着いたところだった。
 ランプの光のもとで見る旅人は、予想に違わず立派な体格をしていた。その鍛え抜かれた肉体は、襟元から僅かに覗く鋼のような首筋からも窺い知ることができる。ややくすんだ朱の短髪に、よく陽に焼けた肌。彼は口元をほんの微かに綻ばせながら、シキに右手を差し出してきた。
「俺は……サガフィ。……あんたが無事で良かった」
「私はシキと申します」
 二人が握手を交わす傍らで、シキを案内してきた隊員が少し慌てて姿勢を正す。と、まもなく、副隊長が戸口に姿を現した。彼は隊員に壁際の机に着席するよう指図して、静かに部屋の扉を閉める。苦い顔で。
「お二方とも、お疲れであろう。どうぞお座りください」
 眉間の皺を心持ち緩めつつ、副隊長がシキに布張りの椅子を勧めた。会釈をしてから腰かけるシキに続いて、サガフィも元の長椅子に悠然と腰を下ろす。
「とりあえず、何があったのかを話していただきたい」
「俺の知っている事は、あんたの部下に既に話したが」
「もう一度話していただけないだろうか。彼女の話と合わせてお聞きしたいのだ」
 副隊長のその言葉を合図に、隊員がインク壷の蓋を開けた。記録をとるつもりなのだろう。
 サガフィは小さく肩をすくめてから、低い声で淡々と語り始めた。
 
 彼がイの西隣の町ナガリャに到着したのは、三日前のことだった。
 そもそも今回の旅の当初の目的地は、南方の海沿いの町だったという。ナガリャよりもずっと西で進路を南にとり、州の南部に広がる樹海を迂回する予定だったのだそうだ。
 それが、ちょっとした「野暮用」が舞い込み、サランに向かわなければならなくなった。予定外の行程に目算が狂い、路銀が底をついたのがナガリャに着く手前。小さな町で物騒な物を出したくはなかったが、先立つ物が無ければ進むことはできない。サガフィは仕方なくナガリャの道具屋を訪れると、手持ちの貴金属を幾らか金に替えた。
「どうやらそれを、賊の仲間に見咎められたようだった」
 苦笑を微かに口元に浮かべてから、サガフィは鷹揚に椅子に背もたれた。「二人がかりで入れ代わり立ち代わり、色んな理由をつけて話しかけてくる。やれいい宿を紹介する、美味い料理屋を教えてやる……」
「時間稼ぎですな」
「どういうつもりかは解らなかったが、せいぜい利用させてもらった。結果として、あの町で金を作る必要はなかったと言えるほどに」
 隊員の口笛を小声でたしなめてから、副隊長が話の先を促す。サガフィは大儀そうにまた肩をすくめた。
「挙げ句の果てに、奴らは俺の通行手形を掠めようとまでしたんでな。ひと悶着になって、一人はノしたが一人は逃げていった」
「通行手形?」
 なじみの薄い単語が飛び出したことに、副隊長が思わず身を乗り出した。
「ここでの用事が終わったら、すぐに南へと向かうつもりだからだ」
「まさか、東の砂漠沿いに州境を越えるというのか? ……ああそうか、海沿いに出ると仰られていたな……」
 顎をさすりながら、警備隊副隊長はまじまじとこの壮健な旅人をねめまわした。ふむ、と一応は納得した面持ちで、姿勢を正す。
「話の腰を折ってすまなかった。続きを」
「……身なりも育ちも悪くなさそうな悪ガキが、まさか夜盗に化けるなどとは思わず、俺はそのまま町を出た。それが昨日の昼過ぎのことだ。お蔭で、イを過ぎる頃にはすっかり日が暮れてしまった」
「どうして、イに泊まらなかったんですか?」
 今度はシキが、旅人の語りに口を挟んだ。話の邪魔をしてはいけないと思いつつも、どうしても一言問わずにはおられなかったのだ。見れば、残る二人も彼女をたしなめるばかりか、小さく頷いてさえいる。
 サガフィはこれ見よがしに溜め息を漏らした。
「……商売上の都合があってな。とにかくサランまで一気に行きたかったんだ」
 今一つ釈然としない表情の三人に、苦笑いが投げかけられる。
「とにかく、俺はイを通り過ぎた。川を越え、丘の麓の切り通しを抜けた所で、彼女からの警告が届いた」
 あの時、道行く旅人に「睡眠」の術を使うようダンに急かされた時、シキは別な術を彼にかけたのだ。魔術の風に乗せて、離れた場所におのれの声を届けるという術を。
 副隊長が神妙な顔でシキのほうを向いた。
「君が? 警告を?」
「はい。『夜盗があなたを狙っています。少しの間だけ、睡眠の術にかかったふりをしてください』と、密かにそう声を届けました」
 いよいよ自分の番がまわってきたのだ。シキは背筋を真っ直ぐに伸ばした。ダンのこと、レイのこと、どこまでを話してどこまでを伏せるべきか、慎重に頭の中を探り続ける。
「最初は何かの罠かと思った。だが、『風声』の術を使える術師なら、他の術だって使えるはずだ。俺を襲うつもりなら、それこそ『睡眠』を使わない手はない。それで信用してみることにした。
 俺が地に膝をついた途端、藪の向こうから賊がわらわらと飛び出して来た。五人全員が出揃ったところで、遠いほうからぱたぱたと面白いように連中が倒れていった」
「彼らに『睡眠』の術をかけました」
「四人倒れて、一人だけが術を逃れた。そこへ彼女が走ってきて……、まさか術師が女とは思わなかった。術の邪魔をしてしまって悪かったな」
 仕方がない、というふうに、副隊長までもが相槌を打った。
「残った一人が彼女を人質にした。丁度あんた達が東からやってくるのが見え、奴は逃亡した。馬なら人質は置いて行くだろう、徒歩ではとても逃げきれまい、そう思って、あんた達の到着を待っていたんだが……。馬車を隠していたとはな」
 淡々とここまでを語って、サガフィは長椅子の背に身体を沈ませた。これで話は終わりだ、と言わんばかりの視線を副隊長に投げつける。
「それでは、今度は君だ。また一体どうして、君はあの場に居合わせたのかね」
 副隊長の鋭い眼差しが改めてシキに注がれた。シキは大きく息を吸い込むと、口を真っ直ぐ引き結び、そうしてゆっくりと話し始めた。
「昨日の朝、ダンが私の家にやってきました。彼は、私に今回の襲撃計画を語り、それに加担するように言ってきました。ナガリャで羽振りの良い旅人を見かけた。そいつを町外れで襲うから魔術で眠らせろ、と。言うことを聞かなければ……友人、に危害を加える、と」
「それで、この書面を届けてくれたんだね」
 副隊長はそう言って、一通の封書を懐から出した。
「『本日の夜の刻、イの町より二里東の街道にて、アーロン・フリアの息子、ダンが奸計をもって無辜の旅人を襲わんとす』……遂に来たか、というのが正直な心地ではあったが、なにぶん非常に扱いの難しい案件である。実のところ、この書簡が悪戯である可能性も捨てきれず、隊内の調整がなかなかつかずに到着が遅れてしまった……」と、そこで申し訳なさそうに、ふう、と吐いて、「これを届けにわざわざ来てくれたのだから、そのまま直接我々に説明、協力してくれれば、危険な目に遭うこともなかっただろうに……」
「すみません。時間がなかったものですから」
「まあ、ご友人を盾にされたとなれば、表立って動けなかったのも、いたしかたあるまい。とにかくお二人が無事で良かった」
 言葉とは裏腹に今一つ晴れぬ副隊長の表情を見て、シキの眉が曇る。サガフィも同様に感じたのであろう、怪訝そうに椅子の背から身を起こした。
「……その、ダン、という奴に何か問題が?」
「あ、まあ、実のところ彼は我々の街では何も揉め事を起こしたことがないのだが……、噂に聞く限り、ゆすりたかりや喧嘩といった騒動を常とする小悪党で……」
 躊躇いがちにそこまでを語って、副隊長は意を決したように顔を上げた。
「何より問題なのは、彼のお父上が、旧サラン領の改め役であり、イの町の警備隊の長も兼ねている、ということなのだ」
 副隊長の言葉が途切れ、重苦しい沈黙が辺りに降りる。彼は部屋に入ってきた時と同じ、苦渋の表情を浮かべてシキのほうを向いた。
「非常に慎重に、そして迅速に対応する必要があった。それ故、君には無理を承知でその足でここに来てもらったのだが……、どうやら、無駄になってしまったようなのだ」
「……それは、一体、どういう……」
「捕縛された仲間達は一向に口を割る気配がなく、肝心のダン・フリアは未だ確保できていないのだ……。このままでは捜索の甲斐なく夜明けとなるだろう。今更奴を捕まえたところで、確たる証拠がない現状では彼の罪は問えないであろう、というのが我々の見解だ」
「そんな……!」
 あまりのことに、シキは思わず立ち上がっていた。
「それに、ついさっき、フリア氏から問い合わせがあったのだ。ご子息のご友人方にかけられた『濡れ衣』について、な」
「私、嘘なんか言ってません!」
 声を荒らげるシキに同情の眼差しを注いでから、副隊長は静かに目を伏せた。再度、深い溜め息が彼の口から漏れる。
「ああ、誰も――おそらくはフリア氏すらも――そのようなことなぞ本気で思ってはいないだろう。だが……、解るな?
 彼がそう言い張るならば、鶏も鵞鳥となるのだ。毟り取られた羽を、誰かがかき集めてこない限りは、な」
 副隊長が大きく肩を落としたその時、扉が控えめにノックされた。
「失礼します、副隊長……」
「なんだね?」
 扉を開けた副隊長に、廊下に立っていた若い隊員が、一言二言耳打ちをした。
 何度目か知らぬ嘆息が、静寂を震わせる。
「解った。イに残っていた皆に帰還命令を」
 それからぐるりと室内を振り返ると、彼はおもむろに口を開いた。
「他の町のことに口を出すな、だそうだ。我々が思っていたよりもずっと、改め役殿は我々から遠いところにおられるようだ。せっかく無理をして夜通し走ってもらったが、無駄足を踏ませてしまって申し訳ない」
 口を引き結び黙って頭を垂れる警備隊員達を前に、シキは愕然と立ち尽くしていた。
 
 
 朝日が、最果ての街サランを茜色に染め上げていく。
 仮眠をとってはいかがか、という副隊長の言葉を丁寧に辞し、シキは建物を出た。厩から引き出された「疾走」の手綱を受け取り、もう一度ふかぶかとお辞儀をして門をくぐる。
「黒髪か」
 一足先に退出していたサガフィが、シキの外套のフードから覗く髪に目を細めた。「つるばみか鳶か……、黒く見えるのは部屋が暗いせいだと思っていた」
「あまり驚かないんですね」
 苦笑を浮かべながら、シキはフードを目深にかぶりなおした。「この辺りの人でも、初めて見た人はまずぎょっとするのに」
「旅をしておれば、似たような暗い色の髪にも良く出会うからな」
 気遣いともとれるサガフィの言葉に、シキはそっと笑みを返した。確かにつるばみ色も鳶色も、薄闇では同じように黒く見える。だが、ひとたび明るい陽光の下に出れば、シキの髪の異質さは他に類を見ない。まるで無限の闇を覗き込むような、どこまでも深い漆黒がそこにあった。流石にイの町の住民で今更シキ達の髪の色に驚く者はいないが、他の町に出かけるとなると、どうしても帽子や頭巾が必要になってくる。
「おのれの全ては、与えられるべくして与えられたものだ。それは髪の色も同じ。気に病むことはない」
 静かな声が、冷え込んだ朝の空気を揺らした。その力強い響きに、思わずシキはサガフィを見上げる。
「……まあ、場合によっては、多少肩身の狭い思いをすることもあるが……、それでおのれの価値が決まるわけではないからな」
 なんて深い碧なんだろう。彼の瞳を見つめながら、シキは独りごちた。その底知れぬ眼差しは、この空の下に広がる世界の全てを見通そうとしているように見えた。遥か彼方から久遠の果てまでを、我が眼で見届けんと言わんばかりに……。
「これから、南へ……行かれるのですか?」
「商売のためには、売り物を仕入れなければならんからな」
 小さく肩をすくめてみせてから、サガフィはシキに背を向けた。「縁があればまた会おう」
「道中お気をつけて」
 目覚め始めた街角、朝靄の向こうへと旅人の姿が消えていくのを、シキはしばし無言で見送っていた。

 
 
 
 前夜の騒動に加えて、深夜の強行軍。一晩の間一睡もしていないこともあり、シキの体力はそろそろ限界に達しつつあった。眠気から手綱を取り落としそうになるたびに、シキは何度も必死で意識を手繰り寄せた。
 だが、馬の背はひたすら揺りかごのように揺れ続け、うららかな陽光が外套の背中をじんわりと暖める。カッポカッポと蹄鉄が奏でる単調なリズムに合わせて、睡魔は容赦なくシキに遅いかかってきた。
 ――仕方ない、歩くか。
 帰宅が遅くなってしまうだろうが、落馬するよりはずっといい。シキはぼんやりとした頭を振り振り、馬から下りた。「疾走」の頬を優しく撫でてから、手綱を引いて歩き出す。一歩、一歩、大地を踏みしめる感触が、頭に纏わりつく霞を少しずつだが晴らしていった。
『好きだ、シキ』
 ふと、あの射るような瞳が脳裏に浮かび上がってきて、シキは思わず足を止めた。
 ランプの頼りなげな光を背負った影の、燃えるような双眸が、再びシキの胸を揺り動かす。
『お前のことが、好きなんだ』
 ……シキは今まであんなレイの表情を見たことがなかった。真面目さや真剣さとは少し違う、もっと切迫した……、強いて言うならば恐怖にも似た……。
 シキは小さく息を吐くと、再びゆっくりと歩き始めた。
 ――あの瞬間、彼は一体何を恐れていたのだろうか。
 突然の口づけ、そして告白。その場の勢いで行動を起こし、想いを拒絶されることに怯えていたと考えるのが普通だろう。だが、つい直前まで二人は言い争いをしていたのだ。ましてや、レイはシキのことを嫌っていたのではなかったのか。
 ならば残る可能性は、彼がシキをからかっていた、ということだろう。でも、それなら何故、どうして彼はあんなにも追い詰められたような表情を見せたのか。
「ふざけてはいなかった、ってこと?」
 思わず口に出したのち、シキは独り密かに赤面した。
 レイに限って、喧嘩の続きの意趣返し、ということはないように思えた。どんなに気に食わない人間が相手だとしても、レイがそこまで手の込んだ悪戯を仕掛ける性格ではないのは確かだ。敵を罠に引っかけて陰でこっそり嗤いものにするよりも、公衆の面前で自らの手でこてんぱんに叩きのめすほうが、遥かに彼の性には合っている。
 ということは……。その続きを頭の中で呟いて、シキはまた頬を赤くした。心なしか、胸の鼓動も早くなってくる。
 あの時、逃げるようにしてレイの傍を離れた時。彼はシキの名を呼んで、その肩を掴んだ。打算も何も無く、ただシキを求めて、力強く引き寄せ、そして……。
「ちょっと待って」
 もう一つの口づけの場面を思い出し、シキの口から独り言が漏れた。風にそよぐ若葉と朝焼けに彩られた、金の髪の女性との濃厚な接吻を思い出して。
 手綱を握るシキの手に、ぐ、と力が込められた。
 逢瀬を重ねる恋人がいるというのに、レイは一体どういうつもりなのか。やはり告白は冗談だったというのだろうか。それとも、あっちも、こっちも、と調子の良いことを考えているのだろうか。
 シキの中の記憶が、ゆらりと歪む。昨夜の薄暗い食堂に立つのは、レイと……あのひと。立ち去ろうとするカレンを、強く抱きしめ、彼は静かに彼女の耳元に口を寄せる。うっとりと顔を上げる彼女の頬に優しく手を添えて、それからゆっくりと唇を重ね……。
 鼻の奥が、つん、と痛くなり、目頭がみるみる熱くなってくる。シキは慌ててかぶりを振った。艶めかしく絡み合う二人の像を、必死で頭から追い出そうとする。
 ――考えるな。余計なことを考えるな。レイに嫌われていたわけじゃなかった、その事実だけで良いじゃないか。
 たとえ、あの告白が、一時の気の迷いから生じたものだったとしても。自棄気味にそう自らに言い聞かせるシキの背後に、影が立った。
 シキが振り返るよりも早く、影の一撃が彼女を打ちのめした。
 
 
 意識を失って足元に倒れ込んだシキを、ダンは手早く肩に担ぎ上げた。そしてそのまま木立の中へと分け入っていく。
 森へ、人目につかないほうへ。血走った目できょろきょろと辺りを窺いながら、ダンは進み続ける。殊更に荒い息は、早足のせいばかりではないだろう。時折ごくりと生唾を嚥下しては、どす黒い笑みを口元に浮かべて、力無く運ばれるばかりのシキに粘ついた視線を絡ませる。
「いい加減にしろよ、ダン」
 おのれに投げかけられた低い声に、ダンの歩みが止まった。荒地に突き刺した鋤のように、ぎくしゃくと身体をひねって、声の主を探す。
「……またお前か。お姫様の騎士気取りかよ。ご苦労なこった」
 木の陰から姿を現したレイを見て、ダンのおもてが憤怒に歪んだ。シキの身体を地面に下ろすと、ゆっくりとレイのほうに向き直る。
「そんなんじゃねーよ。自分のケツは自分で拭く、それだけだ」
 ダンの背後、ぐったりと草の上に横たわるシキを見つめ、レイは小さく溜め息をついた。
「大体お前、今度の計画、俺に断られたからってシキに頼むのかよ、情けない奴だな」
「臆病者に情けない奴呼ばわりされる筋合いはねぇ」
 盛大に鼻で笑うダンに、レイがむっとした表情を作る。
「勝手にほざいてろ。お前と関わるのは、もうこれが最後だからな」
 半ば自分に言い聞かせるように、レイはそう言いきった。そっと視線を伏せ、それから大きく息を吸った。
「シキを返してもらうぞ」
 白刃のごときレイの眼差しに、ダンがたじろぐ。レイが殺気とともにおのれに迫り来るのを見て、彼は小さく息を呑んだ。気圧されるがまま、及び腰で一歩を下がる。
 表情一つ変えず、レイは悠然とダンの横を通り過ぎた。シキの傍らに膝をつき、彼女を抱きかかえようと両手を差し伸べた。
 その刹那、レイの手元に細い影が巻きついた。
「はっはー! 油断大敵だぜ、レイ!」
 レイの両手首にかかった輪縄が、濁声と同時に勢い良く締まった。いびつな笑みを顔に貼りつけたまま、ダンが縄を手に勝ちどきを上げる。彼は、怖気づいたふりをしながら、懐から取り出した輪縄でレイの両手を封じたのだ。
 レイが戒めを振りほどこうとする間もなく、思いきり縄が引かれた。一気に荒縄が手首に食い込み、彼の口から呻き声が漏れる。なおも手繰り寄せられる手枷に引き倒されまいと、レイは必死に両足を踏ん張り、それからダンを睨みつけた。
「てめえ、良い趣味してるじゃねーか」
「この女に使うつもりだったんだがな」
 涎をすするような下卑た声を聞き、レイの頬に朱が入る。締め上げられた手首が痛むのも構わずに、彼は両手をほどこうと力を入れた。
「前からお前のこと、目障りだったんだよ。自分だけ偉そうにすかしやがってな」
 レイの努力をあざ笑うかのように、ダンがまた縄を引いた。苦悶の表情で引き寄せられてくるレイを、実に楽しげに見物しながら。
 縄の動きに合わせて、何度もレイの顔が痛みに歪んだ。それでも、彼は抵抗をやめようとはしない。固く締まった結び目をなんとかして広げようと、必死で両手を動かしている。
「魔術って不便だよな、両手が使えないと駄目なんだもんな」
 あがくレイの面前にダンが勝ち誇った瞳で迫り来る。
「お前に思いっきり土を喰わしてから、この女を犯してやる。好きな女が、自分の目の前で他の奴にぶち込まれるのを見るって、どんな気分だろうなあ!」
 勝利を確信した咆哮とともに、ダンの拳がレイの腹部に叩き込まれた。咄嗟に攻撃を払おうとするも、不自由な両手では全てを受けきれず、衝撃を鳩尾に喰らってレイはよろよろと一歩を後退した。激しく咳き込みながら、なおも攻撃的な視線をダンに投げつける。
 燃えるような眼光に射抜かれて、ダンがほんの一瞬たじろいだ。だがすぐに、おのれの優位を思い返して胸を張る。左手に巻いた縄を思いっきり引くと同時に、レイの顔面めがけて突きを繰り出した。
 気合の一声を上げて、レイは渾身の力を込めて両手を引っ張り返した。まさかの力比べに、ダンの体勢が大きく崩れる。レイはすかさず更に腕を引くと、拘束されたままの両手でダンの一撃を打ち落とした。
 ダンがよろめき、たたらを踏む。だが、その拍子に縄が張り、レイの口から押し殺した悲鳴がこぼれた。束ねられた手首に血が滲んでいるのを見て、ダンが歓喜の笑みを浮かべる。
「さっさと楽にしてやるよ」
 そう言うなり、ダンは勢い良く地面を蹴った。姿勢を低くして、レイに体当たりを仕掛けた。
 手首の痛みに歯を食いしばりながらも、レイは大きく振りかぶった。気合を込めるように短く鋭く息を吐き、両手を振り下ろした。
 ダンの頭突きが決まるよりも早く、レイの拳がダンの背中を打った。耳障りな悲鳴を上げて、ダンが地面に倒れ伏した。彼の手から縄が離れ、レイは大きく後ろに飛びずさった。
「逃がすかぁ!」
 両手の拘束をほどかせまいと、ダンがむやみやたらに両手を振りまわして突進してきた。対するレイは痛みに顔をしかめながらも、幾分余裕のある動きでダンの攻撃をかわしていく。依然として両手は封じられたままだが、先刻までとは違って、今は間合いを自分で取ることができるのだ。次々と繰り出されるダンの強打も、当たらなければどうということはない。一打一打を確実に払いながら、レイは縛られた縄を外す機会を窺い続けた。
 だが、さしものダンもまるっきりの馬鹿ではない。レイの意図を察して、間断なく攻撃をかけ続けた。牽制を交えつつレイの全身をくまなく狙い打つ。
 左から、右から、右手で、左手で。頭、腹、肩、また頭を狙い、次に胸。
 レイの呼吸が次第に乱れ始めた。肩を大きく上下させながら、不規則なリズムで、何度も細かく囁くように息を吐いていく。時折苦しげに喘ぐ様子を見とめて、ダンが満足そうに口のを引き上げた、その時、久方ぶりにレイが言葉を発した。
「……なあ、一つ、訊きたいんだ、けどさ」
 呼吸を整えようというのか、言葉の合間に短く息を吐き出しながら、「ダン、お前、親父さんに、たんまり小遣い、貰ってンだろ? どうして今更、夜盗の、真似事だ?」
「ふん、それをお前が訊くか?」
 大きな動作で振り出されたダンの右手が、レイの頬を掠めた。
「この間の、鳴鶏亭の騒動で、謹慎くらってんだよ! お蔭様でスッカラカンだ」
「それで、金目の物狙って、旅人を襲おう、ってか」
「護衛も雇わないドケチ野郎に、大した金の使い道なんてないだろ。俺様が代わりに使ってやったほうが、何倍も金が喜ばぁ」
「失敗したくせに」
「次は成功させてやらぁな!」
 自信たっぷりに叫ぶダンに、レイが肩で息をしながらもニヤリと笑う。
 ムッとした表情ののち、ダンもまたレイに向かって嗤い返した。
「へっ、偉そうな口を利く割に、もう息が上がってるぜ。シューシュー、シューシュー、まるで割れた釜の蓋だな」
「うるさいな。動きながら術かけるのは、大変なんだよ」
「術?」
 思わぬ単語に、ダンが目を丸く見開いて動きを止める。と、幾度目かの擦過音がレイの唇から漏れた。短く、長く、囁くような呼吸音が。
 息を凝らし、耳を澄ましたダンの顔色が変わった。
「お前、何か呪文を……!」
「残念だったな。魔術を封じるには、指を固定しなきゃ意味ないんだよ、ばーか」
 会心の笑みを浮かべてレイが背筋を伸ばす。痛みを耐えつつ、戒めを緩ませようと両手をひねる。
 一方、ダンは滑稽なほど慌てた様子で、きょろきょろと辺りを見まわしていた。ややあって、おどおどしながらも虚勢を張って肩をすくめる。
「へ、へへへへ、何も起こらないじゃねえか。ヘッポコ術師が驚かせるんじゃねえよ……」
「『風声』の術って言ってな、声を遠くへ届ける術さ。ちょっと工夫すれば他人との会話もそのまま運べんこともない」
 かなり力技だけどな、とつけ加えるレイの額を脂汗がつたった。そして、また微かな息が魔術の調べを紡ぎ出す。
「ま、まさか、まさかお前……」
「ああ、素敵な告白を、中央広場にお届けだ。親父さんも大喜びじゃねーの?」
 大きな溜め息がレイの口から漏れると同時に、縄がぱさりと地に落ちた。自由になった手をさすりさすり、まだ気絶しているシキのもとまで行くと、よっこらせ、と彼女を肩に担ぎ上げる。
「ま、待ってくれ! レイ! いや、レイさん! 今のは嘘だった、ってもう一度頼む!」
 仕上げとばかりにこれ見よがしに指を空中に閃かせて、レイは術を終えた。
「一生謹慎くらってろ」
 そう言い捨てて、レイは森の入り口を目指す。背後から追い縋る、ダンの懇願の叫びを容赦なく振り払いながら。
 
 
 
 真っ赤な色彩の中、シキは目を覚ました。
 何が起こったのか、どこにいるのか、理解できないままにシキは勢い良く飛び起きた。目の前の窓の向こうに、茜色の太陽が大地に沈みゆくのを見て、数度まばたきを繰り返す。
 慣れ親しんだ我が家の居間、その長椅子の上にシキは起き上がっていた。あろうことか外套を着たままで、しかもその身ごろにはあちこちに枯れ葉がついているばかりか、袖口が泥で汚れてさえいる。
 茫然としながら、シキは椅子から立ち上がろうとした。途端に、後頭部が鈍く痛みだす。ずきずきと疼く痛みに、シキの記憶がゆっくりと甦ってきた。
 ダンの悪事を告発すべく、深夜にサランに行ったこと。だがそれは無駄に終わり、失意のままに帰途についたこと。
 馬を引いて歩いていた時に、背後に不穏な気配を感じたのだった。だが、振り返る間もなく、一撃を喰らって……。
 ふと室内を見渡せば、低いテーブルを挟んだ向かいの長椅子で、レイが眠っていた。座面からずり落ちた左足が力無く床の上に投げ出され、同じくだらりとぶら下がっている左手が、規則正しい寝息に合わせてゆったりと揺れている。眩い西日を顔面に受けてもピクリともしないところを見れば、相当眠りが深いのであろう。
 痛む頭をさすりながら、シキはレイの傍に寄った。そして息を呑んだ。
 彼の両手首には、生々しく赤剥けた傷跡が残されていた。見れば、頬や腕のあちこちにも、擦り傷や打ち身が見受けられる。こんな傷は、昨日は無かったはず。驚きのあまり声も無く立ち尽くすシキの視線が、レイの髪に絡まる枯れ葉に止まった。自分の外套に付着したのと同じ枯れ葉に。
 窓の外、どこか遠くから家路に急ぐ鳥の声が微かに響いてくる。
 夕焼けを頬に映して、シキは静かに目を伏せた。それから、脱いだ外套をそっとレイの身体にかけた。

第二話  春の嵐

 それは、よく晴れた春の日のことだった。
 せんそう、というものがはじまった、と大人たちは言っていた。遠くの国から、こわい人たちがせめてくるんだ、と。
 でも、そう言いながらも、町もみんなもいつもどおりで、何がどう大変なのかおれにはさっぱり分からなかった。
 
 やがて、夏がすぎて秋が来た。
 みんな、せんそう、について忘れてしまったみたいだった。だれも何も言わなかったし、何も変わらなかったからだ。ただ、いつも夏のおわりに来るはずのニシン売りが、その年はとうとうやってこなかった。おまつりのごちそうはどうなるんだろう、とおれがきいたら、母さんは少しだけこまった顔をしていた。
 ある日、みんなで畑に出ていた時に、領主さまのお使いが馬にのってやってきた。そいつは、えらそうなたいどで、父さんの名前をよんだ。そして、父さんはそのままお使いといっしょに行ってしまった。
 
 父さんが出かけてしばらくぶりに、お使いがまた町にやって来た。前に見た時よりも、なんだかつかれているみたいだった。
 町の大人たちが、そいつによばれて教会にあつまった。朝になって母さんが帰ってきた時、母さんはとなりのシキをいっしょにつれて来た。おじさんとおばさんが帰ってくるまで、うちにいたらいいよ、と母さんがシキに言っていた。
 おじさんたちのほかに、教会の助祭さまも、お使いといっしょに行ってしまったらしかった。町はなんだか少しだけさびしくなった。小麦の種まきは、残った町のみんなでみんなの畑を手分けしてすることになった。畑おこしはとても大変だったけど、シキと一日中いっしょにあそべるのがうれしかった。
 
 それからまた何日かがたったある夕べ、教会にけが人がはこびこまれたと、みんながさわいでいた。
 シキとおれは、教会のまどの外で、大人たちが言い合っているのを聞いていた。
 北の庄がおちた、と司祭さまが言うと、みんな大さわぎをはじめた。城に知らせなければ、とだれかがさけぶと、母さんがみんなの前に出た。
「私が城まで行きましょう」
 肉屋のおばさんが、だめよ、と言った。
「あなた一人のからだじゃないんだから」
「でも、私なら、何かあったときに剣がつかえます」
 母さんがそう言うと、だれも何も言わなくなった。
 
 朝早く、おれとシキは、司祭さまといっしょに母さんを見送った。
 司祭さまは、父さんたちのことを「町のほまれだ」とおれたちに言った。
「たたかうすべをもたないわれわれには、ただいのることしかできない」
 司祭さまはそうつぶやいてから、とても悲しそうな目をした。
 
 その日の夜おそく、半鐘が鳴った。
 おれもシキも、おどろいて家からとびだした。
 東の空が、真っ赤だった。
 何がおこっているのか、おれにはぜんぜん分からなかった。たぶん、シキも分かっていなかったと思う。
「すごいなあ」
「きれいだね」
 おれたちは、そうやっていつまでも、もえるような空を見つめていた……。
 
    一  記憶
 
 十年前の晩秋、北方のワミル領を我がものとした帝国軍は、その勢いのままに南下、通り道にあたる町や村を摂取しながら一直線にサランへと攻め入ったという。イの町は、幸いにもその侵攻路から外れていたため、直接的な被害をこうむらずにすんだのだ。もっとも、徴集された十数人の剣士や術師は誰一人として帰ってはきやしなかったけれど。
 サランの城が落ちた翌日、訃報よりも早く帝国軍がイにやって来た。大人は勿論のこと、年端も行かぬ子供さえも、誰もが不安に怯えながら、息を潜めて各々の家に閉じ籠もっていた。
 サラン領主の庄は全て召し上げられ、新しい体制が整うまでの間、教会の司祭が帝国軍と住民の仲立ちをすることになった。税貢や耕地の分配、住民台帳の整備、などなど、人々は目まぐるしく変化する日常についていくだけで精一杯だった。戦で父を、夫を、子供を亡くしたという人々さえ、その死を嘆いている暇なぞどこにもなかった。二親をいちどきに失くしたレイとシキを除けば。
 天涯孤独の身となった彼らは、おのれ自身の手で生きていくにはまだ小さ過ぎた。帝国の歩兵によって家を取り壊され、両親の遺したなけなしの私財も取り上げられ、ただ身一つで茫然と立ち尽くす二人を、司祭様は教会に連れ帰ってくれた。教会の治療院の奥に部屋を与えられ、皆の善意に支えられて、二人はなんとか生きていくことができたのだ。
 
 
 その日、礼拝堂の掃除をしていたレイは、小さな影が戸口を横切ったのを見逃さなかった。汚れた雑巾をポイとバケツに投げ入れると、急いでそのあとを追う。
「シーキー! お前、治療院のそうじはどうしたんだよ!」
 レイの声にシキが眩い金の髪を揺らしながら振り返った。大きな動作で辺りを見まわすと、人差し指を口元に当てる。
「おわったよ」
「どこ行くんだよ」
 ふて腐れて腕組みをした拍子に、レイの蜂蜜色の短髪がふわりと風になびいた。
「お前、さいきん、昼めしの前にこそこそとどこに行ってるんだよ?」
「んー、んーと、……ないしょ」
「あ、そ。……司祭さまー! シキの奴が、またどこかに……」
 手を口に添えて大声を上げ始めたレイに、シキが必死の形相で追い縋ってきた。
「教える! 教えるから、しずかにして、レイ!」
 肩を落とすシキとは対照的に、レイは満足そうに胸を張った。作戦成功。顔がにやけそうになるのを押し殺しつつ、シキに問いかける。
「で? どこ行くつもりだったんだ?」
「……森。東の森」
 その言葉に、レイは目を丸くして絶句した。
「って、しばらくは町から出ちゃいけないって、司祭さまが言ってたじゃないか」
「だって、とってもすてきなものを見つけたんだよ……」
「すてきなもの? 何だ、それ」
 そんな思わせぶりな台詞を吐かれたら、誰だって気になってしまうに決まっている。
「もう少しないしょにしておくつもりだったんだけど……、ちょうどいいや。とくべつにレイだけに教えてあげる」
 にっこりと花ほころぶ笑顔に、レイの心臓がどきりと大きく脈を打った。特別に、との言葉が、更に彼を舞い上がらせる。
「……しかたがないなあ。昼めしまでに帰ってこられるなら、とくべつについていってやってもいいぜ」
 
 二人は、こっそりと教会を抜け出した。
 昼なお暗い森の中へと、二つの小さな人影が消えていく……。
 
「ほら! びっくりした?」
 薄闇に浮かび上がる、シキの得意そうな表情。だが、その瞳からは今にも涙がこぼれそうだった。
「本当だ。…………に、そっくりだ」
 そう応えるレイの胸にも、熱いものが込み上げてくる。懐かしくて、悲しくて、声を上げて泣き出してしまいたくなる。
 
 ふと、重い、金属のぶつかり合うような音が向こうから響いてきた。
 二人は暗闇の中、音のするほうをじっと見つめた。
 
 良くないものが、近づいてくる。
 レイは知らずシキを庇うように身構えた。
 
 怖い。
 恐ろしい。
 この続きは見たくない。
 
 忌まわしい記憶が、閃光のように、闇を切り裂いて、刹那閃いては消えてゆく。
 
 明かりを反射する銀色の刃。
 小さな影が目の前で崩れ落ちる。
 じわり、と地面に広がる鮮血。
 そして血塗られた切っ先が――
 
 
 声にならない叫び声を上げて、レイは飛び起きた。まだそんなに暑い季節でもないのに、全身がぐっしょりと汗をかいている。全力疾走のあとのように息がなかなか収まらず、レイは何度も肩を大きく上下させた。
「――夢か」
 声に出すことで、気持ちがようやく落ち着きを取り戻してきた。
 数度大きく息をついてから、レイはゆっくりと辺りを見まわした。窓にかけられた鎧戸の隙間から、幾筋もの光が薄暗い部屋の中に差し込んでいる。自室とは違う広々とした空間に、レイは面食らってまばたきを繰り返した。
 自分が居間の長椅子に起き上がっていることを認識すると同時に、両手首の傷がずきずきと痛み出した。荒縄によって無残に刻まれた痕が、昨日の出来事を一気に呼び起こす。
 ダンが自分ではなくシキに報復しようとするであろうことは、想像に難くなかった。
 サランの警備隊がおのれの巣へと戻っていったのち、案の定ダンはフリア家のお屋敷からこそこそと現れた。シキがサランに行っていることを耳にしたのだろう、彼は下品な情熱をその眼に湛えて、街道を東へと進んでいく。気づかれないように、見失わないように、慎重にレイはそのあとを追い続けた。
 シキを無事奪還できたものの、彼女は家に着くまで一度も目を覚まさなかった。夜間行軍で相当疲れていたのだろうと思いつつも、もしも夜までこのままだったら癒やし手を呼ぼうと、そう居間の向かいの椅子でじっと彼女を見守っていた……はずだったのだが……。
 何時の間に寝てしまったのだろうか。シキの姿は長椅子には無い。窓の鎧戸を閉めたのが彼女だとすると、遅くとも夜のうちに彼女は目を覚ましたということになる。
 ――良かった。無事だったんだな。
 ふう、と安堵の溜め息を漏らした瞬間、レイの脳裏に眩い銀色の光が閃いた。
 
 闇を一閃する刃。
 崩れ落ちる身体。
 悲鳴。
 絶望。
 そして、耐え難いほどの痛み……。
 
 レイは神妙な顔で立ち上がると、深呼吸をした。
 十年前のあの日。あの時の記憶が自分達には欠けている。
 シキと二人でどこかへ出かけ、次の朝に町外れで発見された時には、二人とも頭髪が真っ黒に染まっていた。光すら呑み込む、無限の暗黒を纏うかのように。
 ――俺達は森へ……行ったのか?
 それはまさしく「漆黒」としか言い表せない髪であった。まるで闇に染まったかのようだ、と司祭が言ったのをレイは良く憶えている。墨でも鳶でも鴉羽でもない、異質な色のこの髪は、さんさんと降り注ぐ太陽の光すら映すことはなかった。東の砂漠の更に向こう、この世界のどこか遠くに黒髪の民の国がある、という話も聞かないでもないが、それでもきっと自分の髪は彼らとは違うであるに違いない、そうレイは確信していた。
 何かに呪われているわけではないようだと司祭が言いきってくれたお蔭で、レイ達は町を追われずにすんだ。最初のうちこそ奇異な目で見られはしたが、そのうちに皆見慣れたのか何も言わなくなった。むしろ、先生が自分達を引き取ってくれたのがこの髪のせいなのだとしたら、幸運の色と言うべきなのかもしれない。
 大きく伸びをしてから、レイは窓の鎧戸を開けた。辺りに満ち溢れる陽光に、思わず目を細める。
 ――何か……思い出しかけたんだがな……。
 あの時、シキはどこへ自分を誘ったのか。そして何が起こったのか。
 指の間からこぼれ落ちていく砂粒のように、先ほど見ていた夢の映像が消えていく。
「くそっ」
 軽く毒づいてから、レイは部屋を出た。

 
 
 
 微かに聞こえてくる教会の鐘の音が、昼前の刻を告げる。
 廊下の窓の向こう、風に揺れる洗濯物を眺めながらレイは肩を落とした。確か今日の当番は自分だった。厩の掃除も、畑の水遣りも、シキのことだからきっともうとっくに終えてしまっているはずだ。
 煩いお小言を覚悟しながら、すきっ腹を抱えてレイが食堂の扉を開けると、無人の部屋が彼を迎えた。パンと豆のスープの匂いが微かに辺りに漂っている。食卓の上を見れば、鍋と布巾のかかった籠。
 ――シキは、昨日の出来事をどう考えたのだろうか。
 調理台の前に立つシキをぼんやりと思い浮かべながら、レイは胸の中で呟いた。彼女は、この朝食をどんなふうに作っていたのだろうか。普段どおりに楽しげに鼻歌を歌いながら? それとも、ダンやレイへの怒りに震えつつも義務感から渋々……?
 シキはとりわけ料理が上手というわけではなかったが、いつも楽しそうに調理台に向かっていた。横に立つこちらのほうが思わず照れてしまうほどに。家の外で見せる、冷たささえ感じさせる余所行きの顔とは違って、そこには昔と変わらぬ屈託のない笑顔があった。
 ――もう、一年か……。
 当番制に変えて以来、レイがシキの隣で料理を手伝うことはなかったが、その記憶は一年たった今でさえ僅かたりともくすんではいない。
 レイは意を決したように口元を引き結んだ。腹の虫を鎮めるべくパンをひとかけら口に放り込んでから、彼はシキの姿を求めて食堂をあとにした。
 
 
 レイが図書室の扉を開けると、正面の窓辺の机上にシキの筆記用具が展開しているのが見えた。レイは静かに扉を閉めて、部屋の中へと歩みを進める。
 通路の両側には、背の高い本棚がずらりと立ち並んでいた。奥には窓が三つ並んでいるが、北向きのために部屋全体の印象は暗い。
 シキの姿は窓辺には無かった。東西の壁に平行に本棚が幾つも並んでいる、その合間のどこかにいるのだろう。配架内容を思い出しながら、レイは右奥二番目の角を覗いてみた。
 奥のほうに、本を立ち読みしているシキがいた。
 こちらに半ば背を向けるような姿勢で、左手で分厚い本を持ち、右手で顎の辺りを押さえている。いつもの、彼女の考える時の癖だった。時折頬を撫でるように動く指がやけに艶めかしくて、レイはしばらくの間、まばたきも忘れてその場に立ちすくんでいた。
「あ、レイ、お早う」
 ようやっとこちらに気づいたシキが、レイの手振りに挨拶を返した。それから彼女は躊躇うように視線をしばし彷徨わせて、そうしておずおずと言葉を継いだ。
「もしかして、昨日……私、誰かに……」
「あの馬鹿の往生際の悪さは半端じゃないからな」
 レイの言葉を受けて、シキが自分の後頭部を大事そうにさすった。軽く顔をしかめるところを見れば、どうやらまだ少し痛むらしい。
「レイが助けてくれたんだよね」
「ん、ああ、まあ、……行きがかり上というか、成り行きというか」
 反射的にそう答えてから、レイは心の中で頭を抱えた。別に恩を売るつもりはなかったけれど、この返答ではシキに呆れられても仕方がない。
「……ありがとう」
 予想外に柔らかい声が返ってきて、レイは驚いてシキを見つめた。嫌味も何もない、心からの笑顔がレイを暖かく包み込む。
 レイは知らず息を呑んだ。
 いつの頃からだろうか。レイがシキを「女」として意識するようになったのは。
 のどかで平和な学校生活を終え、各々がそれぞれの道を歩き始めた時から、シキの様子は一変した。鋭い眼差し、硬く結ばれた口元、そして性別を隠すかのような襟元の詰まった衣服。それらは、完全な男社会である魔術の道を往くための、彼女なりの手立てだったのだろう。
 そんなシキも、家ではその鎧を脱いでいた。子供の頃から変わらない優しい眼差し、外の男どもは誰も知らない甘い笑顔。それは一部の者にだけ許された特権であり、レイの独占欲を充分に刺激した。
 そして、隠されれば隠されるほど、妄想は募るのだ。
 袖口から覗く白い腕。黒髪に映えるうなじ。組み手の時の柔らかな感触。術をかける時の官能的な指の動き。全てがレイの心をざわめかせた。
 ――シキが欲しい。俺だけのものにしたい。
 レイの内部で情熱が性に結びつくまで、さほど時間はかからなかった。伝えられない想いを抱え、何度想像の中でシキを貪ったか。
 
 ふと、シキの眉が微かに曇った。レイから何も反応がないことに当惑しているのだろう。やがて、彼女は小さく溜め息をついてから、ゆっくりと再び本棚に向かった。
 レイのまなこに、無防備な背中が大写しになる。
 生唾を飲み込む音が、レイの喉を震わせる……。
 
 静寂は突然破られた。
 シキが持っていた本が、音を立てて落下する。入り乱れる二人分の靴音に、重たいものが本棚にぶつかる音がかぶる。
「れ、レイ、何をす……」
 シキの抗議の声を、レイは無理矢理封じ込めた。
 唇に触れた柔らかい感触に、レイの血潮はますますたぎり始める。彼は問答無用でシキの肩を棚に押しつけ、なおも深く口づけを貪った。
 レイの脳裏に、ダンのいやらしい顔が浮かび上がる。
 あの隠れ家で、また森の中で、ダンがシキに何をするつもりだったのかなど、わざわざ考えるまでもない。勝ち誇ったようなダンの表情を思い出し、レイは歯を食いしばった。あの時、縄の食い込む手首なんかよりも、胸の奥底のほうがずっと痛かった。少し離れた所にぐったりと倒れるシキを見るたびに、レイは抑えきれない憤怒と、もう一つ、嫉妬にも似た感情に身を焦がされる思いだった。
 
 唐突に、昨日の映像が夢の光景と重なった。
 地に倒れ伏すシキ。
 血にまみれて、ぴくりとも動かない、小さな身体……!
 
 短く鋭く息を吐き出すと同時に、レイは我に返った。視線の先で、緑の瞳が今にもこぼれそうな雫を湛えてこちらを見据えている。
 レイが茫然と身を起こすと、シキはすっかりはだけさせられたシャツの前を両手でかき合わせながら、彼を睨みつけた。
「女だったら誰でもいい、って言うわけ? 馬鹿にしないで」
 シキの頬を、一筋の涙がつたっていった。
「そんなんじゃない。……ずっと前から、俺はお前のことが」
「じゃあ、カレンさんと楽しそうにしてたのは、何なの!」
 シキのほうへ差し伸べようとしたレイの右手がピクリと止まった。そのまま拳を一瞬だけ握り締め……、力無くぱたりと身体の横に落ちる。
「シキ、お前、俺のこと……嫌いか?」
「分からない」
 ゆるりと顔を振って、シキが視線を伏せた。
「ついこの間までは、レイのこと、好きだったと思う。レイとずっと一緒にいたいと思ってた。でも、今は分からない。もう、何がなんだか、さっぱり分からない」
 そう言い放って俯くシキに、レイは再度そっと手を伸ばした。伸ばそうとした。
 手が触れる直前に、シキは踵を返した。そして、レイの傍らをすり抜けて走り去ってしまった。
 
 
 

    二  告白
 
「レイと喧嘩してんの?」
 うららかな陽光の下、教会の裏手にある井戸端、リーナがよっこらせと立ち上がって大きく伸びをした。
「怒られたんでしょ。あんなヤツに関わるなんて、何考えてるんだ! とか何とか」
 伸ばした腰をとんとんと叩くリーナの横では、シキがひたすら無言でガーゼを洗い続けている。
 勢い良く家を飛び出したものの行くあてもなく、シキはリーナの手伝いをしに治療院にやってきていた。折しも癒やし手が一人今日はお休みだということで、掃除に洗濯にとシキの助けは重宝がられた。無我夢中で作業に没頭すること数刻、ようやくシキの気持ちが落ち着き始めたのを察したリーナが、あっさりと容赦なく話の核心を突いてきたというわけだ。
「息をすっごい切らして教会に飛び込んできてさ、『シキを見なかったか?』って、それはもう、すっごい取り乱しようでさ。丁度サランの人達がやってきて、ダンの馬鹿が女魔術師をさらったらしいとか何とか言ったら、レイってば、また物凄い勢いでどこかへ飛び出していってさ」
 リーナの癖であるところの派手な身振りで、臨場感たっぷりに語ってから、彼女はふっと眼差しを緩めてシキを見つめた。
「心配してくれてるんだよ。嬉しいじゃない」
 そうかもしれないけれど。とシキは溜め息をついた。
 襲われたのが誰であろうと、レイは同じように身を挺して悪漢の手から守ろうとしただろう。ああ見えて、レイは意外と他人に対して優しいのだ。普段意地悪な態度をとっていても、ここぞという時には助けてくれる。学校でもそんな彼を悪しからず想う者は決して少なくなかった。
 そもそも、利他心が強いということも、魔術師になるための重要な条件の一つなのだ。もしもレイがおのれのことしか考えない人間だったならば、先生は彼を弟子にはしなかっただろう。
『俺が魔術師になったのは、力が欲しいからだ』
 唐突に一昨日のレイの台詞が脳裏に甦って、反射的にシキは身震いをした。
『他人のための力じゃない、俺自身のための力だ』
 それは、禁忌とも言える発言だった。
 魔術を学ぶ者は、何よりも先にその規範を叩き込まれることになっている。曰く、求めるべきは真理であり決して力に溺れてはならない。曰く、より良き世のためにのみその力を行使する。――それら七つに及ぶ条項をギルドの長の前で宣誓して初めて、正規の魔術師として認められるのだ。
 シキは心配そうにそっと眉を寄せた。レイのあの言葉を先生の耳に入れるわけにはいかない。絶対に。幸いにも、あれを聞いていたのは自分の他にはダン一人だけ。あのうつけ者のことは気にしなくともよいだろう。
 そこまで考えて、シキの手が止まった。
 ――「俺自身のため」ということは、やっぱり、レイが私を助けてくれたのは、規範とか大義とかとは関係なくて……?
 やはりリーナの言うとおり、レイはシキのことを大切に想ってくれているんだろう。シキは知らず顔を赤くした。彼の真っ直ぐな瞳が瞼の裏に浮かび上がり、つい手の中のガーゼを握り締める。
「でも、だからって、あんな乱暴な……」
 よりによって知識の象徴とも言える図書室で、力任せに本棚に押しつけて、無理矢理迫ってくるなんて。先刻の出来事を思い出したシキは更に頬を赤く染めた。
 荒々しく重ねられる唇。突然のことに為すすべもなく、シキはただひたすらレイの口づけを受け入れ続けた。何度も激しく口接を貪られ、シキの意識はどんどん曖昧さを増していく。身体の奥に生じた熱を持て余しながら、シキはぼんやりとレイのされるがままになっていた。冷たい風を胸元に感じて、ふと我に返るまで。
 シキの背中を優しく撫でまわしていたはずのレイの左手が、いつの間にか彼女のシャツのボタンを外しにかかっていたのだ。がっしりとシキの肩を押さえ込む右手とは別に、片手で器用に着々と前合わせを開いていく、そのあまりにも手馴れた様子に、シキはすっかりおのれを取り戻してしまったのだ……。
「あー、まあ、昔からあやつは、そういうところ粗暴ってか、配慮に欠けてるからなあ」
 訳知り顔で空を見上げるリーナには、シキの上気した顔は見えていない。シキがレイの態度に憤っているのだと思い込んだまま、うんうんと相槌を打つ。
「それに、今まで兄弟同然に暮らしてきたわけでしょ? そりゃ、口調もキツくなるわよ。遠慮もないだろうしね。家族なんだから」
「遠慮しなくていいからって、あっちも、こっちも、ってそれは酷いよ」
 そこでやっと話題が噛み合っていないことに気づいたリーナが、盛大に首をひねった。
「え? ナニ? あっち? こっち?」
「え、あ、いや、そのぅ……、何でもないよ、こっちの話」
 慌てて両手を振って誤魔化そうとするシキに、リーナが今一つ釈然としない表情を向ける。
「? ……まあいいや。でもさ、これを機会に、お互いのことをよくよく考えてみるのもいいかもね。いつまでもこのまま宙ぶらりんな関係のままでいるわけにはいかないでしょ? 何らかの形でケリつけないと」
「ケリ?」
 シキがきょとんと顔を上げるのを見て、やれやれ、とリーナが肩をすくめた。
「周り見てみなよ。ティナにカナンに同い年の子ら、みーんな身を固めてきてるじゃない。レイとひっつくにせよ、別れるにせよ、そろそろ答えを出さなきゃ、ってこと」
「そういうものかなあ」
 ふう、と肩を落とすシキの横で、リーナもまた大きく嘆息した。
「そういうものなのよ。窮屈だけど。なんならシキ、今度一緒にうちの母さんにお説教されてみる? 『誰かいい人はいないの?』『このままじゃすぐに行かず後家よ』って、すっごいシツコイよー」
 
 
 
 日暮れとともに降り出した雨は、シキが家に帰り着いた時にはすっかり本降りとなっていた。全身濡れ鼠となったシキは、玄関の軒先で外套のフードを脱ぎ、恨めしい表情で夜空を見上げた。
 鍵を開け玄関扉を入れば、無人の空間がシキを出迎えた。ホッとしたような、でも少し拍子抜けしたような、なんとも言えない心地でシキは滴のしたたる外套を洋服掛けに干した。それから、暗い廊下の先、図書室のある方角をじっと見つめた。
『シキ、お前、俺のこと……嫌いか?』
 そう問いかけてきたレイの顔を思い出して、シキは息を呑んだ。あの時は自分のことで手一杯で気がつかなかったが、よくよく思い返せば、彼は酷く傷ついたような表情を浮かべていた。まるで痛みに耐えるかのように、一言一言噛み締めるようにしてシキに語りかけてきた。
 その、彼が身を切るような思いで吐き出した言葉を、自分は容赦なく叩き落したのだ。深い自己嫌悪に陥りながら、シキはもう一度溜め息をこぼした。
「謝らなきゃ」
 決意を言葉にして、シキは両の拳を力一杯握り締めた。
 
 食堂には、朝食の鍋がそのまま手つかずで残っていた。レイが食べた様子もなければ、別に調理をした様子もない。シキが出ていったあとすぐに、彼もまたどこかへ出かけてしまったのだろう。
 溜め息また一つ、窓に鎧戸を下ろそうと食卓を回り込んだシキは、窓辺の木の長椅子の上に綺麗に畳まれた洗濯物が並べられているのを見つけた。ふんわりとふくらんだタオルからは、まだ微かに太陽の香りが感じられる。
 ああ、とシキは思わず声を漏らした。きっと、夕方の飼いつけ(馬の餌やり)も、レイはきちんとこなしてくれたに違いない。いくら本来の当番がレイだったにせよ、シキが半ばで放り出した仕事を、彼は放棄することなくしっかりと始末してくれたのだ。
 ――レイに謝って、それからきちんと話し合おう。
 これまでのことを。そして、これからのことを。
 ランプの炎が、まるでシキを励ますかのように大きく二度揺らめいた。
 
 
 雨はどんどん激しさを増してきた。
 夕食代わりに朝の残り物を片付けたシキが、鍋や食器を洗い終った頃には、屋根を打つ雨音に風の音が混じり始め、嵐とも言うべき様相を呈してきた。
 レイは今どこにいるのだろうか。シキは心配そうに窓の外を見やった。友達のところか、それとも……。
 流石にダンのところではないだろう。あの一味と関わっていないのならば、どこにいても構わない。そう心の中でシキは呟いた。たとえカレンのところだったとしても……構わない。レイが冷たい雨に濡れずに済むのならば。
 窓に映る自分が、静かな眼差しを返してくる。自分でも驚くほど穏やかな気持ちで、シキはそっと頷いた。
 
 いよいよ激しくなってきた雨風に、シキは家中の窓の鎧戸を閉めて回った。厩を見回り、しっかりと小屋に鍵をかけ、最後にもう一度食堂に戻ってオーブンの火が完全に消えていることを確認してから、シキは自室に戻った。
 部屋の扉を閉めたシキは、戸に背もたれて大きな溜め息を一つついた。
 昨日といい、今日といい、なんて長い一日だったんだろう。シキは上着を椅子の背に引っかけると、そのまま寝台に倒れ込んだ。
 ――ケリをつける、か……。
 シキの頭の中で、この三日間の出来事が断片的なカケラになって、ぐるぐる、ぐるぐる渦巻いている。
 
 レイが、私のことを好きだと言った。
 でも、レイは、カレンさんと付き合っていて……。
 レイは彼女のことをどう思っているのだろうか。
 彼女はレイのことをどう思っているのだろうか。
 そして、私は……?
 
 答えの出ない、出しようのない問いを、シキは何度も胸の中で繰り返す。ランプが暗い天井に映す淡い光の輪、その影と光が織り成すどこか幻想的な模様を、シキはぼんやりと眺め続けた。
 
 そうやってどれぐらいの間寝台に横たわっていただろう。
 ふと、嵐の音に混じって、木の軋む音が聞こえたような気がした。シキはそっと身を起こすと、静かに扉のほうへと向かった。
 微かに聞こえてきたのは、玄関扉の閉まる音。かそけき金属音は、鍵をかける音か。それから、鈍い、閂をかける音。
 また雨の音が激しくなり、全てが闇に呑み込まれた。ごうごうと唸る風の音に苛立ちながら、シキは息を殺して耳を澄ます。
 やがて、躊躇いがちな足音が、シキの部屋の扉を通過していった。
「レイ?」
 シキの呼びかけにやや遅れて、足音は止まった。
 逆巻く風が家全体を揺らしているにもかかわらず、痛いほどの静寂が辺りを支配していた。
「……レイ、その……、お帰り……」
「…………ただいま」
 扉の向こうから、ぶっきらぼうな声が返ってくる。
 シキは気力を振り絞って、嵐に負けじと腹に力を込めた。
「あの、レイ、……今朝は、ごめん。急に色んなことが起こって、ちょっと混乱してて……。だから……」
「わかってる」
 少しだけ、レイの声が近くなった。
「つもりだったんだが、……俺も混乱してたんだと思う」
 扉のすぐ向こうにレイの気配を感じ、シキは知らず安堵の息を吐いた。
「あの馬鹿に聞いたのか?」
「何を?」
「……俺がカレンと会ってたって」
「…………見せられた」
 あの野郎、と押し殺した声が微かに響く。
 でも事実は事実なんじゃないの? ついそう問いかけたくなるところをグッと堪えるシキの耳に、力強い声が飛び込んできた。
「カレンのことは、もう俺とは何の関係もない。別れてきた」
「えっ?」
 予想もしていなかった展開に、シキの目が丸くなる。
「前からそういう話をしてはいたんだ。でも、何か成り行きでずるずる来てしまってた。だから、はっきり別れるって言ってきた」
 まるで自分に言い聞かせるかのように、レイは一言一言を吐き出していく。
「とにかく一度振り出しに戻って、それから落ち着いてお前と話をしようと思ってた。だから、本当は、今日は帰らないつもりだったんだ。こんな嵐になりさえしなければ」
 絞り出すようにそこまでを語ると、レイは再び黙り込んだ。「じゃあ」と軽い挨拶一つ残して、靴の音がまた遠ざかり始めた。
「待って、レイ!」
「無茶言うな」
 苦笑するレイの顔が、シキの瞼の裏に浮かび上がる。「お前と二人きりでいたら、また襲ってしまいそうになるだろ」
 昼間の、図書室での出来事を思い出し、シキは思わず足を止めた。
「もう歯止めなんて効かねーよ。今まで我慢していた分、お前を無茶苦茶にしたくなる。だから……」
 レイの声が、ゆっくりと小さくなっていく。嵐の音が、彼の存在を呑み込んでいく。
 気がついた時には、シキは扉を開け放ち、廊下に飛び出していた。
 その一瞬、風が僅かに凪いだのか、廊下の窓を打つ雨音が少しだけ弱まった。
「レイ……」
「って! この会話の流れで、どうして部屋から出てくるかな!」
 部屋から漏れるランプの光が、シキの周囲を朧かに照らす。闇に沈む廊下の少し先、驚いたように立ちすくむ人影がぼんやりと浮かび上がった。
 シキは、胸の前の右手を強く握り締めると、一言、一言、噛み締めるように吐き出した。
「私、てっきり、レイは私のこと嫌いなんだと思ってた」
「シキ……」
「レイに避けられてると思ってた。それでも、一緒にいれたらいいって思ってた。でも、付き合っている人がいるって知って、もう駄目なんだって思った」
「避けてたさ。この家を出ていかなきゃならなくなるのが、嫌だったからな」
 僅かに顔を背けて、レイは語気を強めた。
「自分を抑えきれる自信がなかった。早まったことをしてしまったら、もうここにはいられない。だから避けてたんだ。
 悶々としていた時に、カレンに誘われた。気を紛らわせることができるなら、誰でも良かった。あいつ自身も、暇つぶしだと言っていた……し。だから、あいつとは本気でもなんでもなくて、それで……、あー、もう、何言ってんだ、俺」
 しどろもどろになりながら、レイが頭を掻き毟った。それから舌打ち一つ、勢い良く顔を上げた。
 一陣の風がシキの髪を揺らしたかと思えば、次の瞬間、シキはレイの腕の中にいた。

 壁が風に軋み、大粒の雨が一斉に屋根を震わす。
 逞しい腕が、シキの身体を強く抱きしめていた。
 シキの鼓動がみるみる早くなる。早鐘のような心臓の音に、きっとレイは気づいているに違いない。そう思うと、恥ずかしさから余計にシキの身体は熱くなってしまうのだった。意識すればするほど激しくなる胸の高鳴りに支配され、シキはもはや身動き一つとれない。
 立ち尽くすシキの首筋に、息がかかった。
 レイがゆっくりと身を屈めてくるのが分かった。そうして彼は、シキにそっと頬を寄せてきた。雨に濡れたせいだろうか、とても冷たい頬だった。
「止めるなら、今だぞ」
 背中にまわされたレイの手のひらから、じんわりと熱が伝わってくる。シキは返事の代わりにレイの身体に両腕をまわした。おずおずと……、だが、しっかりと。
 感極まったような唸り声がシキの耳元で響いた。レイの腕が、更に強くシキの身体を抱き寄せた。広い胸にすっぽりとくるまれて、シキは陶然と目を閉じた。
 ――なんだろう、とても、懐かしい……。
 遠い昔、誰かがこうやって自分を抱きしめてくれたっけ。そうぼんやりと考えながら、レイの胸元に顔をうずめる。レイの心臓が自分と同じように激しく脈動しているのを聞き、シキは思わず嬉しくなってそっと微笑を浮かべた。
 シキの頬に、レイの手が添えられた。
 熱の籠もった燃えるような指先が、シキの顎をゆっくりとなぞる。その動きにいざなわれるようにして、シキが静かに顔を上げる。
 二人は、ただ無言でしばし見つめ合った。それから、どちらからともなく唇が重ねられた。
 そっと、優しく。躊躇うように、二度、三度と。
 何度も交わされるうちに、口づけは次第に深さを増していった。始めはぎこちなかったシキの動きも、レイに導かれるままどんどん熱を帯びてくる。
 シキの部屋から漏れる淡い灯りが、固く抱き合う二人の影を艶めかしく揺らめかせる。雨の音も風の音も、もはや二人の耳には届いてはいなかった。
 
 
 

    三  帰還
 
 眩暈にも似た浮遊感ののち、シキの背中を柔らかい感触が包み込んだ。
 はっと我に返れば、満足そうな表情で自分を見下ろすレイの顔があった。すぐ横の机に置いたランプの光を受けて、その瞳がぎらぎらと輝いている。
 寝台の軋む音がして、レイがシキの身体に覆いかぶさってきた。目の前に迫るレイの眼差しに耐えられずに、シキは固く瞼を閉じた。
 そして、再び口づけ。レイの気持ちになんとかして応えようと、シキは見よう見まねで彼にならう。時折そっと唇が離れるたびに、微かな水音がシキの鼓膜をくすぐった。
 
 と、突然、弾かれたようにレイが顔を上げた。
 驚いて瞼をあけたシキの目の前、レイが、ぎこちなく身を起こす。驚愕よりも恐怖に似たその表情に、シキの中の熱気が急速に引いていく。
「……れい?」
 すっかり力の抜けてしまった身体を鞭打って、シキも上体をゆっくりと起こした。
「どうしたの?」
「……誰かが来る」
 レイの言葉に、シキの身体を緊張が走った。ごくりと唾を呑み込んでから、シキは慌ててレイの視線を辿る。
 窓の外、道の方角から、何かが雨に打たれながら近づいてくる気配があった。
 知らず二人は息を潜めて身を固くした。
 それは、微かな微かな音だった。屋根を、壁を、窓を打つ雨音の中、何ものかが歩く音がする。やがてその音は次第に大きくなり、遂には水溜りを踏む音も加わった。そしてシキの部屋の外を通り過ぎると、真っ直ぐ玄関のほうへと消えていった。
 圧倒的な「気配」が、激しい風雨を突き抜けて感じられる。そう、魔力の気配が。
「……先生だ……」
 搾り出すように、レイが呟いた。シキは返事の代わりに生唾を飲み込む。
 普通に考えるならば、今のこの状況に何もやましいことなどあるはずがなかった。シキもレイももう十八を超え、同い年の学友には生涯の伴侶を得て所帯を構えた者も少なくない。想いを通じ合わせた男女が二人、おのれの部屋で何をしていようが、誰に咎められることもないはずだ。
 だが、ここは彼らにとってはなによりもまず「師の家」だった。厳粛なる修行の場であるこの場所で、一時いっときとはいえ全てを忘れて快楽に耽るなど、果たして弟子である自分達に許されるのであろうか――
「……どうしよう、レイ」
「落ち着け。玄関の閂は閉まってるんだ」
 ――許されないかもしれない。そう考えたのはシキだけではなかったようだった。レイの声が微かに震えているのを聞き、シキは思わず生唾を嚥下した。
 
 
「とにかく俺は部屋に戻る」
 レイは努めて平静を装いながら、扉に手をかけた。「シキは呼び鈴が鳴ったら……」
 と、その時、玄関の方角で術を使った気配がはぜた。次いで、微かに鈍い響き。
「何だ?」
「たぶん『飛礫』の応用だよ。つぶての代わりに閂を動かしたんだ」
 比類なき大魔術師、ロイ・タヴァーネス。
 魔術師ギルドに出入りするようになって、彼らは自分達の師匠の偉大さを改めて認識する羽目になった。サラン近郊において高位の術を使う者は数あれど、ロイにかなう者は誰一人としていなかった。術の正確さや速さ、効力は勿論のこと、ロイは教本にある呪文を組み替え、自由に応用することができた。そして何よりその圧倒的な威容は、まさしく元・宮廷魔術師長の肩書きに恥じぬものであった。
 レイは慌ててドアノブから手を離した。それから、音がしないように細心の注意を払って掛け金をかけた。
「ね、何か別の用があって私の部屋に来てた、ってことにすれば……」
「駄目だ。俺はここにはいてはならない」
 レイの脳裏に、桑染の瞳が浮かび上がる。銀縁眼鏡の奥から全てを見通すかのような、師の瞳。
 初めて会ったあの時も、彼はその深い眼差しで自分達をじっと見つめていた……。
 
 
「やー、これはまた、見事に真っ黒になっちまったなあ、ボウズ!」
 鍛冶屋の店先、カウンター越しにちょこんと覗く小さな頭を、店の主人が豪快な手つきで撫でた。くしゃくしゃに乱された髪を手櫛で直しながら、レイは小さく唇を尖らせる。
「うるさいなぁ。そんなこと言うなら、これ渡さねーぞ」
 そう言いつつ、レイは持ってきた麻袋をよっこらしょ、とカウンターの上に持ち上げた。「畑で昨日取れたんだ。鍬を直してくれたお礼に、司祭様がどうぞってさ」
「おう、ありがとうな」
 役目を果たして満足げに踵を返したレイを、少し躊躇いがちに鍛冶屋が呼び止めた。
「……シキちゃんは、元気かい?」
 レイの足が止まる。小さな背中が何かを必死に堪えている様子に、鍛冶屋の眉が曇った。
「そうか。早く元気になったらいいな」
「……うん」
 声だけで頷いて、レイは店を出た。
 
 二人の孤児が黒髪となってから、一ヶ月が経とうとしていた。
 長かった冬も終わりに近づき、町は混乱からゆっくりと立ち直り始めていた。帝国騎士達の代わりに新しく寄越された役人が町に駐留するようになり、人々は着々と「マクダレン帝国」という社会に組み込まれていった。身近なところでは、五年間の初等学校を修了することが民に義務づけられた。租税の仕組みも大幅に変化し、小作達は各々の生活を守るために何度も寄り合いを開いては、郷士達と交渉を重ねていた。
 レイが教会の傍まで戻ってくると、裏手の土手のほうから賑やかな声が聞こえてきた。ひょいと川辺を見下ろせば、町の大人達が治水工事の準備に大忙しの様子だった。灌漑についての新しい取り決めが未だ確定していないらしく、いい年をした大人が数人、今も眼下で言い争いをしている。レイは、ふんっ、と鼻を鳴らしてから教会の木の柵を飛び越した。
「ただいまー」
「おかえり、レイ」
 年老いた癒やし手が、破顔してレイを出迎える。「お使い、行って来てくれたんだね」
「うん。ところで、シキは?」
 レイの問いに、癒やし手の表情が翳る。
「……変わらないね。ずっとぼんやりと座ったままさ。もしかしたら、もう……」
「大丈夫だって! 最初は寝たままだったのが、ご飯も食べるようになったし、動けるようにもなったし!」
 それは、司祭がレイを励ます時にいつも言う台詞だった。
「だからさ、そのうちまた話せるようにもなるさ!」
「ああ、そうだねえ」
 癒やし手が、震える声でそう頷きながら、目元をそっと押さえた。レイはそれを見なかったことにして、元気良く胸を張る。
「大体さ、部屋に閉じ籠もってばっかりだから余計に悪いんだ。おーい、シキー! 表出ようぜー! 何か川で大人が騒いでるぞー!」
 どたばたと奥へと向かうレイを見送って、それから癒やし手は小さな声で神に祈りを捧げた。
 
 近所の小母さんに貰った耳あてつきの帽子をシキにかぶせてから、レイは自分も同じものを用意した。今日はいい天気だが、川べりの風は切れるように冷たいはず。仕上げに大きめのショールをシキの肩にかけて、レイは彼女を支えて窓辺の椅子から立たせた。そうしてそのままゆっくりと扉に向かって歩かせていく。
 レイが意識を取り戻したのは、黒髪で発見された次の晩だった。だが、シキはそれから更に二日もの間、昏々と眠り続けていた。三日目の朝、ようやく目を覚ましたシキは、全てをどこかへ置き忘れてしまったみたいだった。言葉もなく、感情もなく、ガラス玉のような瞳が、必死にシキの名を呼び続けるレイの顔をただ静かに映していた。
 司祭を始めとする皆の献身的な看病のお蔭か、やがてシキは自分で食事を摂ることができるようになった。手を貸して促せば、最低限の日常生活もできるようになった。
 だが、その心は、どこか分厚い壁の向こうに厳重に封印されたきりだった。誰の呼びかけに答えることもなく、何も喋らず、放っておけば何時間でも彫像のように動くことはない。そんなシキに、レイだけは頑なに回復を信じて、毎日ずっと言葉をかけ続けていた。
「なんかさ、畑に新しくどこから水を入れるかで、いい大人が本気でけんかしてたりするんだぜ。これまで上手く皆で仲良くやってたんだから、前のままでもいいんじゃねーのって思うよなー?」
 シキの手を慎重に引きながら、レイは殊更に大袈裟な調子で彼女に語りかける。と、礼拝堂の前を過ぎて門の前まで来たところで、土手の向こうのほうで、ごろんごろんと大きな音が響いた。
 積んであった材木が崩れたんだな、とレイは先刻見た川原の風景を思い出した。怪我をした者はいないのだろうか。心配そうにレイが川の方角を見やった時、土手の陰から黒い大きなものが躍り出てきた。少し遅れて、幾つもの叫び声が辺りに響き渡る。
「馬が逃げた!」
「誰か! 止めてくれ!」
「危ないぞ!」
 黒い影は、狂ったようにたてがみを振り乱して、土煙を巻き起こしながら跳ねている。後ろ足の付け根、尻に近い部分に大きな傷があり、そこから赤い雫が幾つも辺りに飛び散っていた。少し遅れて持ち主と思しき男が土手を駆け上がってきて、鞭のごとく空を打つ手綱を必死で掴もうとするものの、馬に蹴られぬようにするのが精一杯の様子だ。
 と、不意に馬が高くいなないた。それから、物凄い勢いでレイ達のいるほうへと向かってきた。
 ――逃げなきゃ。
 慌ててシキを見やったが、彼女は相変わらず人形のように無表情で立ち尽くすばかり。こんな状態のシキを連れてはとても逃げられないだろう。だが、シキを置いて行くわけにもいかない。どうすればいいのか分からずに、レイもまた茫然とその場に立ちすくむ。
 遂に馬が、教会の敷地を囲む簡素な柵を蹴散らした。砕け散った材木の破片が、空中高く舞い上がる。
 意を決してレイは大きく息を吸った。そうして歯を食いしばってシキの前に出ると、彼女を抱きかかえるようにして、迫り来る巨体に背を向ける。
 次の瞬間、大きな打撃音がレイの鼓膜を震わせた。
 
 衝撃は、無かった。おずおずと背後を振り返れば、すぐ目の前に、不自然なさまで空中に静止する馬の姿があった。何かに突き当たったような馬の身体のところどころで、青白い光が見えない障壁の存在を浮かび上がらせている。
 魔術の「盾」に行く手を阻まれ、ずるずると崩れ落ちる馬の向こう、黒い外套を纏った人影があった。
「君達はここの子かね」
 年恰好に似合わぬ落ち着きと威厳をもって、その銀髪の若者はレイに語りかけてきた。「よわい七つで魔術を使うことができるというのは、君か」
 鈍い地響きを立てて、馬が大地に倒れ伏す。周囲の騒ぎを微塵も意に介せずに、ロイ・タヴァーネスは静かにレイを見つめ続けた。
 
 
 ――あの眼差しが、そっと緩む瞬間を俺は知っている。
 レイは、ちらりと背後を振り返った。寝台に腰かけたシキが、困惑の表情を浮かべて自分と扉を見比べている。レイがこうも頑なに、シキの部屋に入った事実を隠そうとしているのは何故か、彼女には解っていないのだろう。
 ロイが二人を引き取り、この町に居を構えて以来、彼ら三人はとても上手くやってきた。最初の頃こそ、双方ともに手探りの状態であったが、彼らは月日をかけて単なる師弟から盟友とも言える間柄へと一歩一歩を歩んできたのだ。
 そうやって築かれた関係が、近年また少し変質し始めているのを、レイは感じ取っていた。時折感じる、自分と彼女とに対する師の対応の違い。それは贔屓というよりも、むしろ……。
 シキに近づき過ぎてはいけない。レイはほどなくそう直感した。深い淵のような師の瞳が、シキを見る時だけ僅かに和らぐのだ。その視線を邪魔する者を、彼は躊躇いなく排除するだろう。そう、適当な理由をつけてレイをこの家から追い出すことなど、彼にとっては朝飯前だ。
「家事を当番制にしよう」
 これ以上シキと二人きりでいたら、近い将来にきっと自分はシキに対する気持ちを隠しきれなくなるに違いない。そうなれば、良くて勘当、最悪の場合、師の手にかかって命を落とすことになる。シキにこの想いを伝えることができる日まで、距離をおき頭を冷やす必要があった。
 それに、レイは見たくなかったのだ。嬉々としてロイに教えを請うシキの姿を。
 十年前、心を閉じ、目の前に迫る暴れ馬にすら何の反応も見せなかったシキ。強固に封印された扉を開き、彼女をに連れ戻したのは、他でもないロイだったのだ。
 
 銀の髪の男が紡ぎ出した「盾」が放つ光に、シキはゆっくりまばたきを繰り返すと、レイの身体の陰からそっと右手を差し出した。見えない壁を確かめるかのように。
 ――そっちじゃない!
 シキを抱きしめながら、レイはそう叫びたいのを必死で我慢した。おれがいるのはそっちじゃない。あんなにシキのことを心配して世話してくれた、司祭様だって、治療院のおばあだって。あそこにいるのは、どこから来たのかも解らない、氷のような瞳の男だけだ、と。
 シキの指が「盾」に触れた瞬間、青白い光が弾けるようにして辺りに飛び散った。
「そうか、君のほうだったのか」
 ロイが黒い外套をなびかせながら悠然と、倒れた馬を回り込んで来る。太陽を背負った逆光の姿で、彼は遥か高みからシキを見下ろす。
「君、名前は?」
 呆然と二人を見比べるレイの面前、シキの唇が静かに動いた。

 
 軽いノックの音が、レイの回想を破った。
「シキ、まだ起きているのかい」
 柔らかな低い声が、扉の向こうから空気を震わせる。イの初等学校で魔術を教える教師にして、自分達が師事する師匠、ロイ・タヴァーネスの帰還だった。
 若くして宮廷魔術師長という要職中の要職に登りつめ、東部平定とともに引退して、辺境の町に引き籠もってしまった変わり者。彼にとって研究は娯楽であり、教職ですらその息抜きに過ぎない。
 常に自分のペースを崩さず飄々と我が道を行く彼が、このような夜中に嵐をおしての強行軍をとるというのは、俄かには考え難きことだった。一体何をして、彼を荒れ狂う夜道に踏み出させたのか。ふと、今自分が置かれている状況を思い返したレイは、あの茶色の瞳が本当に全てを見透かしているように思えて、密かに背筋を震わせた。
「……あ、はい、今お帰りですか? 先生」
「まいったよ。明日に予定があるから急いで帰って来たんだけどね。こんな嵐とはなあ」
 ばさばさと厚手の布地を払う音がした。
「嵐は大丈夫でしたか」
「まあね。留守中変わりはなかったかい」
「あ、はい」
「レイは……真面目にしていたかい?」
 その名を言う瞬間、きっと師の眼差しは翳ったに違いない。そうレイは思った。
「え、レイですか? ……いつもどおりです。当番じゃなければ、家に寄りつきもしません」
 レイの目配せに応えて、シキが見事なまでにすらすらと愚痴をこぼす。
「そうか……。彼ももう少し落ち着いてくれたらいいんだけどね……」
 やれやれ、と溜め息をついたものの、師匠の口調は先ほどと比べて明らかに軽かった。
「そうですよ。先生からも何か言ってやってください」
 そう言ってから、シキはレイにそっと微笑んでみせた。これならなんとか上手く遣り過ごせそうだ、とレイも小さく頷き返す。
 だが、その安息は長くは続かなかった。
「……入っても良いかな?」
「えっ?」
 二人の間に、緊張が走る。
「あっ、あの……! 今着替えているところなので……」
「……ああ、それは悪かったね」
「そのぅ、何か……?」
「ああ、いや、久しぶりだからちょっと顔でも、ってね。大した用があるわけじゃあないんだ。すまなかったね」
 どうやら部屋に入ることを諦めたらしい師匠の口調に、シキは大きく胸を撫で下ろした。
 だが、レイは依然として苦い表情のまま、両の拳を固く握り締め続ける。
 果たして、レイの部屋に明かりが点いていたとして、彼は同じように声をかけただろうか。いや、声ぐらいはかけるかもしれない。だが、顔を見ようと、部屋に入ろうとするだろうか。
 ――やっぱりそうだ。
 これまで自分が抱いていた疑念が真実であろうことを、レイは確信していた。おそらく師匠は、シキを異性として見ているのだ。そして、機会があれば彼女をおのれのものにしようと考えている。余計な虫がつくことのないように見張っている……。
 そしてシキは、そんなことを夢にも思わずに、純粋に彼のことを師と仰ぎ、尊敬し、敬服しているのだ。遣りきれない感情が、レイの中で波立ち始めた。
「そうだな、もう休むとしよう。明日はまたちょっと遠出せねばならないんだよ」
「帰ってきてすぐなのに、また遠出ですか?」
「と言っても、サランに行くだけなんだけどね。そのためにこんな雨の中帰ってきたんだ。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 気配が扉の前から消え、シキが大きく肩を落とす。
 足音が遠ざかる方向へ、レイは昏い眼差しをいつまでも向けていた。
 
 
 

    四  思惑
 
 朝が来ても、嵐は一向に弱まる気配がなかった。激しい雨が屋根を打つ音に混じって、時折雷鳴が空気を震わせている。日の出をとうに迎えているにもかかわらず、家の中はまるで夜明け前のように薄暗い。シキは、オーブンから取った火で食卓の上のランプを灯した。
「先生、遅いな。まだ寝てんのか?」
 当番のレイが鍋をかきまわしながら首をかしげた。
「呼んでこようか」
「いや、いい。俺が行く。シキは火を見ててくれ」
 何やら慌てたようにそう言って、レイが食堂を出ていった。シキは言われたとおりにオーブンの前に立つ。天板に置かれた鍋の中では、タマネギのスープがぐつぐつと美味しそうな匂いを辺りにふりまいていた。
 ふとスープをかき混ぜる手を止めて、シキは窓を見やった。空一面を覆い尽くす暗雲に、雷光が遠く閃いている。しばし無言でシキは窓の外を見つめ続けた。
 得体の知れない胸騒ぎが、昨夜から彼女を苛んでいた。何かは解らないが漠然とした不安感が、胸の奥にみつしりと詰まっている……。
 ――こんな鬱陶しい天気では、気分が沈んでしまうのは当たり前だから。
 そう無理矢理自分を納得させようとしたシキを、廊下の向こうから響くレイの声が打った。
「シキ! ちょっと来てくれ! 先生が!」
 彼のただ事ならぬ声の調子に、シキは椅子にぶつかりながら部屋を飛び出した。
 
 
 不機嫌そうな表情で、レイが手水鉢ちょうずばちを運んできた。同じく憮然とした顔で、シキがタオルを絞る。
 彼らの非難めいた視線の先には、寝台に横たわるロイ・タヴァーネスの姿があった。汗にまみれた銀髪を額に貼りつけ、時折咳き込んでは、荒い呼吸を繰り返している。シキが額に濡れタオルを乗せると、彼は少し決まり悪そうな様子で、おのが弟子達に視線を向けた。
「……面目ない」
「バカだ」
「バカです」
 即座に、二人の弟子が口を揃えて同じ言葉を吐き出した。ロイは力無く苦笑する。
「……君達、仮にも師に向かって……」
「バカをバカと言って何が悪い」
「こんな天気の中を無理して帰ってくるからです」
 ごもっとも、という表情で、それでもロイは反論する。
「私だって、雨に打たれる趣味はないさ」
「趣味があろうが無かろうが」
「長旅で疲れている時に雨中行軍なんて」
「自己抑制ができていないぞ」
 絶妙のコンビネーションで言葉を繋げる二人の、声を揃えての最後の台詞が自分の口癖だと気がついて、ロイは大きく溜め息をついた。
「ありがとう、君達の気持ちはしかと受け取らせてもらったよ」
 冗談めかしてそう言ってから、ロイは大儀そうに身を起こした。そのまま立ち上がろうとしたが、案の定ふらりとバランスを崩す。慌てて駆け寄ろうとしたシキを押し退け、レイがロイを支えそっと寝台に座らせた。
「また倒れるぜ、凄い熱なんだから」
「……面目ない……しかし……」
「……一体、何の用があると言うんですか」
 先刻寝台の脇に倒れていたロイを助け起こした時、彼は制止する二人の弟子を振りきって、出かける準備をすると言い張った。サランで人を待たせている、と。もっとも、ロイはまたすぐに平衡を失って床に倒れ込み、現在に至るというわけだが。
 シキの問いには答えず、ロイは冷たいタオルで目元を押さえた。熱のせいだろう頬は燃えるように赤く、肩で息をしながら寝台に座り込むその様子はかなりつらそうだ。
 どんな用事があるというのか、そして何故言い渋るのか。ロイをしてあの嵐の中へと足を踏み出さしめたものとは、一体何なのか。
 レイが心底不思議そうに、おずおずと口を開く。
「……俺が、代わりに行って来ようか?」
 ロイはゆっくり顔を上げると、レイの目を静かに見返した。何かを見定めようとするかのように、おのが弟子をじっと見つめ続ける。
「あ……いや、あの、えっと、俺にできる事ならば、だけど……」
「そうか……。そうだな。レイに頼もうか」
「こんな嵐の中を? 危険過ぎます!」
 抗議の声を上げるシキを軽く左手で制すると、ロイは真っ直ぐレイのほうに向き直った。
「サランの町に行って、ある人物と会ってほしい」
「ある人物? 会って、どうするんだ?」
「探し物を依頼していた古物商だ。頼んでいた品物を受け取りに行ってほしいのだ」
 ロイは大儀そうに大きく息をついた。
「探し物?」
「ここに届けてもらうわけにはいかなかったのですか?」
「こんなことになるのが解っておれば、そうしたがね」と、再度大きな溜め息を吐き出して、「少々注意を要する事柄なのだ。これ以上は察してくれたまえ」
 ロイの州都への出張理由について、二人は何も聞かされていなかった。が、仮にも元宮廷魔術師長を州都まで遠路はるばる呼びつけるのだ、それ相応の権力者がその周辺に存在するのは確かだろう。うやむやにされてしまった感は拭えなかったが、とりあえず彼らは神妙な顔で了解の意を表した。
「では、くれぐれも頼んだぞ、レイ」
 そう言ってロイは静かにレイを見つめた。
 
 
 大粒の雨が外套を打つ。風は少し収まってきていたが、雨脚は一向に衰える気配を見せない。
 帰途のための馬を牽きながら、レイはぬかるむ街道をゆっくりと歩いていた。まだ昼前だというのに、辺りは薄暗い。まるで沼の底を歩いているかのようだ。
 その古物商は多忙な人物ということだった。明日の早朝にはもうサランを出てしまうらしい。ならばイを通過する時に捕まえては、とのシキの提案はあっけなく却下された。くだんの人物が街道を通らない可能性があるから、という師の言葉に、二人は眉間に皺寄せ顔を見合わせた。国土の東端、最果ての地に位置するサランは、北に荒地、東に砂漠、南には樹海、とまさしく袋小路な地形に位置するのだ。この街道を使わずに一体どこへ至るというのか、シキもレイもひたすら首をひねるばかりだった。
 一面の水溜り、深い泥に足を取られながら、レイは黙々と歩みを進めた。半ば好奇心から使いを名乗り出たものの、彼は今激しく後悔していた。
 イからサランまでは、普段ならば馬で半日もかからない。道も比較的平坦だし、途中の森はかつて子供の頃にシキと遊びまわった「我が庭」だ。だが、横殴りの雨の下で見る街道はまるで別物だった。轟く雷鳴を怖がっていななく馬をなだめながら、レイは絶望的な気分でのろのろと街道を進んでいった。
 
 レイがサランの町の門をくぐったのは、もう日付も変わろうかという夜中だった。レイは疲れきった体を引きずるようにして、師匠に教わった宿屋を探して通りを彷徨った。
 サランほどに大きな街ともなれば、深夜であっても表通りには人の行き来が絶えない。一般の商店はとっくに店を閉めている時間だったが、酒場や宿屋は未だ煌々とした灯りを通りに投げかけ、小降りになった雨がそれらの光に眩しく煌めいていた。
 待ち合わせ場所である「六つの靴」亭は、酒場を兼ねた小ぢんまりとした宿屋だった。靴が六足、何故か片方ずつ描かれた看板が軒先で風に揺れている。レイは裏手に回って厩に馬を結わえると、店の扉をゆっくりと押し開けた。
 薄暗い店内は思いのほか広々としていた。余計な装飾が無いことが、そう見せているのかもしれない。愛想のない殺風景な室内にはテーブル席が四つ、すぐ右手とその奥に杯を傾ける客が二人。そして頬に大きな傷のある大男が、カウンターの向こうで居眠りをしていた。
「一部屋、一晩空いているかな」
「ん? ああ、一番安い部屋なら一つ空いているな」
 前金をカウンターの上に置きながら、レイは宿屋の主人に尋ねる。
「でさ、ここに、『月の剣』って人がいるはずなんだけど」
「俺だ」
 レイが静かな声に驚いて首を巡らせば、部屋の隅、カウンターの陰に隠れるようにしてもう一つのテーブルがあった。
 さっき店に入った時には気がつかなかった、三人目の客。声をかけられるまで全く気配が感じられなかったことに内心驚きつつ、レイは慎重にその男のほうへ向かった。
 まくり上げられた袖口から覗く腕は、見事なまでに鍛え上げられており、ランプの光が筋骨隆々とした陰影を刻んでいる。浅黒く見える肌は日焼けのせいか。堂々たる体躯の壮年の男は、手に持っていたグラスをテーブルに置くと、鷹揚な態度でレイのほうへ身体を向けた。
「ロイ・タヴァーネスの使いか?」
 古物商という響きに、干乾びた年寄りを思い描いていたレイは、すぐに返事をすることができなかった。一拍おいて、慌てて懐から託けられた書簡を取り出す。
「ああ。これを先生から預かってきたんだ。あんたが『月の剣』って人?」
 答えの代わりに、男はゆっくりと片方の口角を引き上げた。
「待ちくたびれたぞ」
 ランプの炎を映し込む男の瞳はまるで淵のように深く、知らずレイはごくりと喉を上下させた。
 
 
 
 シキの懸命な看病も甲斐なく、翌朝になってもロイの体調は芳しくなかった。ピークは過ぎたようだがまだまだ熱は高く、喉も痛むようで食事も充分に摂れていない。
 癒やし手かお医者か、とにかく誰かに診てもらいましょう、とシキは何度も言ったが、ロイは断固として首を縦に振らなかった。自分の身体のことは自分が一番解っている、薬を飲んで休めば問題ない、そう言い張る師匠に、シキは深い溜め息を繰り返すのみだった。
 その肝心の薬が、朝にはとうとう底を尽いてしまった。買いに出るべく玄関で外套を羽織りながら、シキは大きく嘆息した。
 ――薬草屋……カレンの店か……。
 よりによっての目的地、気が進まなかったが仕方がない。先生が他人の治療を拒む以上、頼みの綱は薬しかないのだ。幸い、薬草屋の店主は、素行はともかく腕前は確かという評判だった。熱も下がり始めたようだし、薬を飲んで安静にしておれば、きっとなんとかなるだろう。
 玄関を開ければ、大粒の雨が家の中へと吹き込んでくる。夜中には一度止みかけた雨だったが、日の出とともに再び勢いを取り戻しつつあった。
 それでも昨日の豪雨に比べれば、この程度の雨なんて大した問題ではない。レイの安否を気にしながら、シキは雨の中に踏み出した。
 
 
 軽やかなドアベルの音に、店の奥から「いらっしゃいませ」と甘い声が響く。カウンターの向こうに現れた薬草屋の女主人は、蠱惑的な笑顔でシキを出迎えた。
「どんな御用かしら」
 軽く揺れるウェーブした金の髪。鮮やかな口紅、肉感的な胸元。小さく小首をかしげる仕草も完璧だ。これまでシキが感じたことのなかった劣等感に似た感情が、ちくちくと彼女を苛む。
 しかし、今は余計なことを考えている場合ではない。シキは頭から邪念を掃うべく、大きく息を吸った。
「先生が熱を出して……お薬が欲しいんです」
「あらあら大変。熱さましね」
 そっと眉をひそめたカレンがあまりにも色っぽくて、同性にもかかわらずシキはドキリと息を呑んだ。
「あ、あの、それと喉のお薬も無くなってしまって」
「分かったわ。ちょっと待ってて頂戴」
 そう言って奥の棚に向かうカレンの瞳が妖しく光る。エプロンに隠れた彼女の拳が、強く握り締められるあまりに色を失っていることに、シキは気づかなかった。
 
 
 
 ――この娘の、一体どこが良いというのかしらね。
 シキに背を向けたカレンは、そう憎憎しげに胸の奥で呟いた。
 黒い髪は肩までしかなく、化粧っ気もない、襟の詰まった男物の服ばかり着ている変な娘。確か、母親はかなりの美人だった、と記憶している。素材は決して悪くないだろうに、どうしてこんなに自分の性を隠すのだろうか。心の中でカレンは思いっきり首をひねった。
 カレンは、自分が女であることを充分に意識していたし、十分に利用し、また楽しんでもいた。そんな彼女にとって、シキの存在は到底理解できるものではなかった。
 そして、それよりももっと解らない、解りたくないのが、レイが自分ではなくこの変わり者を選んだということだった。
 あの、忌々しいほどに真っ直ぐな視線を思い出し、カレンは人知れず奥歯を噛み締めた。

 
 
「別れよう」
 昨日、お昼休みの時間に店を訪れたレイは、開口一番そう言いきった。
 カレンは数度まばたきを繰り返して、それからとろけるような笑顔を作った。
「嫌だわ、レイったら。まだ三日しか経ってないのに、もう欲しいの?」
 面食らった表情を浮かべるレイに、ダメ押しとばかりにしなだれかかり、細い腕を彼の首に絡ませる。「今度はどこでする? 奥の揺り椅子なんかはどう?」
「はぐらかすなよ」
「はぐらかしてないわよ?」
「これまでだって、何度も言ってるじゃねーか。もう一度言うぞ。別れよう」
「嫌ぁね。はぐらかしてなんかないわ。あなたが……」と、カレンはレイの下腹部へと手を伸ばした。「いつだって最後には私を欲しがるんじゃない」
 艶めかしく蠢く指を、レイは容赦なく払いのけた。それから、少しだけ決まりが悪そうな表情で、顔を背けた。
「確かに、毎回毎回あっさり誤魔化されてしまう俺も悪かったけどさ……。でも、もうこれが最後の最後だ」
 そう口を強く引き結んで、レイは正面からカレンの目を見つめた。
「別れよう。そもそも最初からそういう約束だっただろ?」
 この間までのレイとは明らかに違う、強い決意を窺わせる眼差しに、カレンはそっと柳眉を寄せた。
「そんな約束知らないわ」
「暇つぶしにどう? って声をかけてきたのはあんただろ。遊びだから気軽に、って」
「そうだったかしら」
 それはそのとおりなのだ。いつもカレンはそうやって数多の男を誘っていた。枷となる伴侶も無ければ、新たに決まった相手を作る気もなかった彼女は、精を殺す薬を片手に、これまで様々な快楽を貪ってきたのだ。
 子を成さない、後腐れなく抱ける都合のいい女。家族というものを欲すことなく、ただ肉欲に耽りたいだけの女。男達からそう思われることで、カレンはより簡単に、その時々に望む相手と情交を重ねることができた。穴の開いた器のように決して満たされることのない渇きの中、カレンはひたすら割れがめに水を注ぎ続けていた。
 レイに声をかけたのも、同様の気紛れからだった。十歳年下の、ちょっぴり素直じゃない男の子。少し煽れば簡単に乗ってくる彼は、とても可愛くて遊び甲斐があった。
 粋がっている割にレイはとても初心だった。筆おろしから始めた若者に自分好みの秘戯を仕込んでいくのは、思ったよりも楽しかった。だが、それは決して他の男達から抜きん出るほどのものではなかった、はずだった。――あの夜までは。
 転機が訪れたのは、半年前のことだ。
 妙に物寂しい夕べ、カレンはレイを呼び出した。秋の薬草の処理に追われ寝不足気味であったカレンだったが、どうしても気分が高揚してしまって仕方がなかったのだ。レイを相手に選んだことに、別段深い理由はなかった。
 夜になって、レイは店にやって来た。少し苛々した様子を問えば、彼は全力でそれを否定した。
「最近、口煩い同居人と顔を合わさずに済むからせいせいしているぐらいだ」
 そう強がる台詞からも、彼が欲求不満ではちきれそうになっているのは一目瞭然だった。レイはそれ以上何も言わなかったが、彼がくだんの娘に対して精一杯自制しているということだけは、カレンには痛いほど伝わってきた。
 彼の「飢え」を上手く刺激すれば、いつもよりもずっと楽しめるかもしれない。そんなことを考えながら、カレンは奥の居間の長椅子へとレイを誘った。
 突然の眩暈がカレンを襲ったのは、その時だった。
「大丈夫か!」
 ふらりと床にくずおれたカレンを、レイが抱え起こしてそっと椅子に横たえた。
「大したことないわ」
「でも、顔色が真っ青だ」
 レイの指が、カレンの頬にかかる髪をそっとかき上げた。とても温かい指だった。
「無理すんなよな。今日はもうゆっくり休めよ」
「駄目よ!」
 その瞬間、カレンの胸に押し寄せたのは、途方もない寂寥感だった。
 ――ひとりにしないで。
 その言葉を、カレンはすんでのところで呑み込んだ。それは、決して口にしてはいけない台詞だからだ。それを言ってしまえば、自分の価値は下がってしまう。
「お願い、レイ。私を抱いて……」
 長椅子から身を起こし、カレンはレイに取り縋った。彼の胸元にしがみつくようにして顔を上げれば、心配そうな瞳が静かにカレンを見つめていた。
 唐突に、風に揺れる秋桜の風景が、カレンの脳裏に浮かび上がってきた。
 
 十年前の丁度今頃、剣士だったあの人はサランへと招へいされた。
 秋桜の咲く道を、彼は手を振って去っていった。すぐ帰ってくるよ、と笑いながら。
 
 ――ひとりにしないで。
 その一言を、カレンはどうしても言うことができなかった。言えば、彼は心配するに決まっている、最期の時まで。
 だから、彼女は笑って見送った。薄情な女だと他人に陰口を叩かれようと。
「レイ、私を抱いて。あなたのそれで、むちゃくちゃにして」
「だから、無理すんなって。今日は休んだほうがいいって」
「嫌よ!」
 秋桜が、瞼の裏でさやさやと風にそよいでいる。汲めども汲めども、満たされぬもの。あの時から、自分の中の何かはひび割れたきりだ。
「抱いてほしいの。お願い……」
 ふう、という溜め息とともに、レイが身体を引いた。
「今日は抱かない」と、愕然と目を見開くカレンから視線を逸らせて、「……けど、今晩この椅子貸してくれねーか?」
「え……?」
「せっかく上手いこと逃げてきたのに、今帰ると課題の残りをしなきゃならねーんだよな。な、一晩ここにいてもいいだろ?」
 そう悪戯っぽく笑った彼の、優しい瞳。なんて温かいんだろう。カレンは心の底からそう思った。
 それが――半年の間にすっかり熱を失ってしまったその瞳が――、今、真正面からカレンの目を見つめている。
「もう、会わない。……今までありがとう」
 そうして、レイは踵を返した。
 ドアベルの音とともに扉が開き、そして閉まる。
 閉ざされた扉を、カレンは無言で見つめ続けた。
 
 
 彼の視線が自分のほうを向いていないことなど、最初から分かっていた。分かっていたけれど、解りたくなかった。カレンは心の中でそう呟いて唇を噛んだ。薬草が細かく分類された小引き出しに向かったまま、感情を押し殺した声でシキに声をかける。
「最近、性質の悪い風邪が流行っているものね。貴女は大丈夫なの?」
「私は大丈夫です」
「レイも? 大丈夫?」
 ――彼が私とここでどんなことをしてたか知ったら、貴女はどんな顔をするのかしら。
 禍々しい笑みをひっそりと浮かべるカレンに、無邪気な声が答える。
「あ、え、レイも大丈夫です。……えっと、あの、レイは先生のお使いでサランまで出かけているんです」
「あら……そう。彼、お留守なの」
 その瞬間、カレンの心にどす黒い炎が灯った。
 ――そう、レイ、あなたの愛しい彼女は、今、他の男と二人っきりで家にいるのね。
 それも、あの、ロイ・タヴァーネスと。彼は、カレンの誘いを断った数少ない男の一人でもあった。
 銀縁眼鏡の奥のあの涼しげな瞳に、時折浮かぶ欲望の色を、カレンは見逃さなかった。そして、そのねっとりとした視線の先に、いつもシキがいることを。
 ――本当に、この娘のどこにそんな魅力があるというのかしら。
 カレンは小さく嘆息してから、ちらりと背後を窺った。
「あら、ごめんなさい。材料が足りないわ。裏から取ってくるから、お茶でも飲んで待っててくれるかしら」
 シキに背中を向けたまま、カレンはポットから熱いお茶をカップに注ぐ。そして右手に隠し持った小瓶から数滴、透明な液体をカップに落とし入れた。
「貴女まで風邪をひいたらいけないわ。さ、これを飲んで暖まって頂戴」
 にっこりと振り返って、カレンはカウンターにカップを置いた。甘い香りがふんわりと辺りに広がる。
「ありがとうございます」
 シキがカップに口をつけるのを確認して、カレンは奥の部屋へ向かった。それから扉の陰からこっそりと店内を窺う。シキが間違いなくお茶を飲んでいるのを見て、彼女はくくっと小さく笑った。
 ――残念ね、レイ。可愛い小鳥はあなたのためには鳴かないわよ。
 閃光が部屋の中を射る。雷鳴が轟く。雨の音がまた激しさを増し始めた。

第三話  小さな秘密

    一  暗雲
 
 ――身体が、熱い。
 濡れた石畳は、一面が水溜りと化している。滑らないように注意を払いながら、シキは帰宅の途を辿っていた。
 この大雨のせいで、町一番の大通りにもかかわらず、往来に人影はほとんど見受けられなかった。家々の煙突から微かにのぼる煙と、すっかり曇った窓ガラスだけが、人の気配を感じさせている。
 外套のフードを目深にかぶっていても、激しい雨は容赦なくシキの顔や襟元を濡らした。まだ冷たい春の雨に、体の熱が奪われていくのが分かる。……なのに、何故だろう。胸の奥の辺りが、焼けつくように熱く感じられるのは。
 シキは喘ぐように息をつきながら、重い足取りで街道を西へと進み続けた。
 やがて周囲の建物はまばらになり、道の脇に農地や牧草地が広がりだした。敷石はいつしか泥に呑み込まれ、ますますシキの歩みを妨げる。大きく溜め息を吐き出してから、シキは雨にけぶる前方を見据えた。
 目指す我が家までもう少し。懐の薬の包みを外套の上から確認しようとしたところで、すっかり水を吸って重たくなった外套の布地が、胸の先端を擦った。
「……んっ!」
 思いもかけないほど強い刺激を感じて、シキは全身を震わせた。甘い痺れが彼女の身体中を駆け巡る。
 雨に濡れているにもかかわらず、シキの喉はカラカラだった。唾を飲み込もうにも口の中が乾ききってしまっていて、引きつれるように喉が上下するばかり。
 ――おかしい。変だ……。
 ぬかるみに足をとられながら、シキはただ歩くことだけに集中しようと努力した。だが、深みから溢れる妙な熱は、彼女の身体をどんどん蝕んでいく。
 この感覚は何かに似ている。シキは、いやシキの身体は、この感覚が何かを知っている。そう、あの熱い口づけの先に、シキを待ち受けているであろうもの……
 シキの鼓動がますます早まり、息がどんどん上がってきた。
 レイの手が、背後から自分を絡め取り、外套を剥ぎ取り、身体を撫でまわす……。
 弾かれたように顔を上げると、シキは激しく頭を振った。
 一体何がどうしてしまっているのか、シキには見当もつかなかった。自分は依然として外套を羽織って、雨の中を歩いている。そう、見渡す限り、雨、雨、雨。そして外套姿の自分。……ここに在るのはただそれだけなのに。
 シキは気合を込めるように大きく息を吐いた。そうして両の拳を握り締めた。手のひらに爪が喰い込む痛みが、彼女を現実に繋ぎとめる。永遠に続くとも思える長い家路を、シキは朦朧としながら辿り続けた。
 
 
 
 午前中に一眠りできたお蔭だろうか、心持ちさっぱりした気分でロイは目を覚ました。身体のだるさがましになったところを見れば、熱が下がり始めているのかもしれない。ふう、と安堵の溜め息を漏らしてから、彼は慎重に寝台に起き上がった。痛む喉に顔をしかめながら、薬を探して小机の上に視線を巡らせる。
 ――ああ、そうだ、薬が無くなったのだ。
 シキが買いに行ってくれているんだったな、とロイは窓を振り返った。小降りにはなっているようだが、外はまだ雨が降っている。それでも彼女は、こんな悪天候の中を自分のために出かけてくれたのだ。一晩中つきっきりでタオルを絞ってくれていたシキの、不安そうな瞳を思い出し、ロイはつい口元をほころばせた。いつも、保護者である自分が彼女らを心配する立場であったが、たまにはそれが逆転するのも悪くない。
「癒やし手に診てもらいませんか」と、シキは何度も訴えかけてきた。だが、ロイはそれに頑として首を縦に振らなかった。この程度の自分の不調など、わざわざ誰かに見立ててもらうほどのことではない。大体、自分について、他人に見当違いの知ったかぶりで語られることほど、腹の立つものはないだろう。
「薬が効いている以上は、往診は無しだ」
 そう言い張るロイに、シキはほとほと困り果てた色を顔に滲ませていた。
 それでも、彼女は無くなってしまった薬を買いに雨の中へ出てくれたのだ。手の焼ける師匠だ、と少しばかり眉をひそめながらも、あの澄んだ瞳を真っ直ぐ前に向けて。
 ロイはそっと瞼を閉じた。
 
 十年前、戦勝に沸く宮廷を辞し、ロイは旅に出た。
 最果ての街サランが陥落したという一報が宮城にもたらされたのは、ロイが遠征から帰京した次の日の朝議の席のことだった。本来は宮廷魔術師の長として城を守るべき立場にあったロイだったが、東部三領のうち一番北に位置する国に、既に帝国領となっていた北方の王国の残党が入り込み、挟撃や奇襲で帝国軍を多分に苦しめたため、請われて特別に戦列に加わっていたのだ。無事に勤めを果たしたロイを讃える声は、ほどなく勝ち戦を喜ぶ大歓声に呑み込まれた。
 だが、その時ロイの胸中に去来したのは、名状しがたき不安感だった。
 最初は、罪悪感かと思った。この一ヶ月、ロイは戦争の名の下に、躊躇うことなくその力を振るってきた。いざ平和が訪れると知った今になって改めて、自分は罪の意識を感じているのだろうか、と。
 しかしおのれを冷静に分析する限り、どうやらそれは間違いのような気がした。その不安感は、過ぎ去りし出来事に対してではなく、来たるべき「何か」に根ざしているように思えたのだ。
 おのれの四肢に見えない糸が絡みついているような気がして、ロイは背筋をぞくりと震わせた。自分は本当にここにいても良いのだろうか、何故か唐突にこんな疑問が生じた。
 ロイは意識を目前へ戻した。目の前の大テーブルでは、将官達が、新たに増えた領土の再編成と行政組織の割り振りについて口角泡を飛ばしている。切り開かれた森には、地ならしが必要なのだ。そうして今度は、維持してゆかねばならない。それは酷く単調でつまらないことのように思えた。
 ここは自分のいるべき場所ではない。衝動にも近い思いが、ロイの胸の中に突如として湧き起こった。
 それは、身体の奥底で渦巻く不安感が生んだ錯覚だったのかもしれない。だが、振り払おうとしても振り払おうとしても、べっとりとへばりつくその思いは、みるみるうちにロイの心を支配していった。
 そう、自分が為すべき事は、もうここには無いのだから、と。
 
 ロイは城を出ることを決意した。
 戦の始末やこれからの国土再編に大わらわの宮城には、ロイを引き止める余裕は微塵もなかった。彼は自分の代理を立てるや否や、手際良く業務を引き継がせ、最低限の荷物をまとめると港行きの馬車に乗った。漂泊の足を東へ向けたのは、贖罪の意味が少し含まれていたのかもしれない。とにかく、えも言われぬ焦燥感のままに、こうやってロイは住み慣れた街をあとにしたのだ。
 
 そうして旅の途中で、彼はある噂を耳にすることになる。それが、全てのはじまりだった。
 酒場で相席となった老いた魔術師は、まるで自分のことのように誇らしげに胸を張ると、二つ隣の町に住むというある子供のことを語ってくれた。第五位の魔術師の忘れ形見だというその子は、まだ七つだというのに、第二位までの簡単な術を使うことができるとのことだった。
「まだ若いのに、夫婦揃って戦で亡くなってな、可哀想にその子は今は教会で世話になっとるんだそうじゃ。術を教える者もおらなければ、宝の持ち腐れってやつかねぇ」
 あの当時、戦争孤児など珍しくもなんともなかったが、魔術を使えるということとその年齢とがロイの気を引いた。まさか第二のロイ・タヴァーネスとはいかないだろう、と思いつつも……なんとなく親近感を覚えたのも確かだった。半ば気まぐれからイの町の教会を訪れたロイは、そこで劇的な逢着を果たすことになったのだ。
 暴走する馬を止めるべく咄嗟に放った「盾」の呪文の向こう、もう一人の子供の陰から手を伸ばしたその子は、静かにロイを見上げてきた。白磁のような頬に、深く澄んだ常盤の瞳。まるで人形のようだ、とロイが思ったその時、小さな手が彼の外套の裾を掴んだ。
「シキ!」
 傍らの子供が何か切羽詰まったような声を上げる。その声に振り返ることなく、その子はゆっくりと立ち上がった。ロイの外套を握り締めたまま、じっと彼のことを見つめながら。真っ直ぐな眼差しに胸を射抜かれて、ロイは身動き一つ取ることができなかった。
 
 あれから十年。あの時の幼子は、術師としては既にこの近在では五本の指に入るほどまでにも熟達していた。そればかりか、癒やし手である友人の指導を受けて癒やしの術さえ習得し始めている。この素晴らしい逸材を自分が育て上げたという事実に、ロイは酔いしれていた。そう、彼女はいつだってあのひたむきな眼差しで、この自分の望みに応えてくれる……。
 ふう、とロイは大きく息をついた。それから小机の上の濡れ手拭いで顔を拭いた。冷たい空気がすうっと額を撫でるが、頭に纏わりつく重苦しい靄は依然として拭いきれないままだった。
 彼女の、真っ直ぐ自分を見つめる信頼しきった瞳。それが最近のロイには、重荷だった。密かにいだく彼女に対する欲望が、罪悪感となって彼を苦しめるのだ。
 彼女は強い。だが、それでいてとても脆い面も持ち合わせているように思えた。下手を打てば全てが粉々に壊れ去ってしまうことだろう。行き場のない感情を押し殺しながら、ロイは出口のない迷路をもうずっと彷徨い続けていた。
 幸いにもシキ自身の行いによって、これまで彼女に近づこうとした余計な虫は、ことごとく打ち落とされ振り払われてきた。しかし、それもそろそろ限界だろう。彼女がそれを望まなくとも時が満つれば、「社会」という形無き怪物が彼女に伴侶をあてがうことになる。そこまで考えたところで、ふと脳裏にレイの顔が浮かび上がり、ロイは奥歯を噛み締めた。今はシキの才能に嫉妬し反発している彼も、修行を離れれば一人の男に過ぎない。何かの拍子に彼女を女として認識するようにでもなれば、一体どんなことになるか。なにしろ、彼はこの自分よりも長い時間をシキと過ごしてきたのだから。
 ――だが、もうすぐ、だ。
 いささか卑怯な手だとは思うが、これ以上この閉塞した状況で足掻き続けるわけにはいかない。そうロイは独りごちた。あれを見つけられたということもだが、あれの存在をこの自分が知ったということが何よりも天啓に思えた。とにかく、今は身体を休めるのみだ。レイの奴が帰ってくる頃には、体調も治っていることだろう。そうすれば……。
 はやる気持ちを抑えるべく、ロイは大きく伸びをした。寝汗ですっかり濡れてしまっている服を着替えようと衣装棚に向かいかけた時、部屋の扉に何か重いものがぶつかる音がした。
「誰だ!」
 ロイの誰何の声と同時に、ドアノブが弱弱しく回転した。そしてゆっくりと開く扉に取り縋るようにして、シキが部屋の中へと倒れ込んできた。
「シキ!」
 ロイは傍らの眼鏡を掴むと、ふらつく身体に鞭打ってシキのもとへと駆け寄った。慎重に助け起こせば、彼女の瞳が薄っすらと開く。
「……せんせい……これ、くすり……」
「あ、ああ。ありがとう。それよりも大丈夫かね」
 震える指から受け取った薬の包みを傍らに置き、ロイはシキをしっかりと抱え込んだ。雨に冷えきった髪とは対照的に、彼女の身体は湯気が立つほどに上気していた。
「からだが……あつい、んです……」
 荒い息の合間に、甘い声が漏れる。濡れた瞳に絡め取られ、ロイはしばし息をするのも忘れて彼女を見つめ続けた。たっぷり一呼吸ののち我に返ると、慌てて手をシキの額に当てる。
「熱があるわけではないようだが……一体何があった」
「分かり、ません……」
 シキはゆるりと顔を横に振ると、それから瞼を閉じた。
 大きく上下する胸元。荒い呼吸を繰り返す半開きの唇。桜色に染まったうなじに、艶めかしく貼りつく黒髪。時折びくんと小さく身体を震わす悩ましい様子に、ロイの口の中に生唾が溢れてきた。
 それは、匂い立つような「女」の気配であった。そう、今彼の腕の中にいるのは「弟子」でも「被保護者」でもない。火照った身体を持て余し、媚態に身をよじらせる一人の女の姿だった。
「……シキ……?」
 そっとシキの耳元に唇を寄せてみるものの、力尽きたのか彼女はぐったりと目を閉じたままだ。しかし、そんな状態でも彼女の身体はほんの僅かな刺激にも小刻みに震え、時に男を誘うように波打っている……。
 表情こそ冷静だったが、ロイの身体の中では血潮がたぎり始めていた。しどけないシキの姿態に、今まで絶えず彼を縛っていた呪縛が、ゆっくり解きほぐされていく……。
 ロイは少し屈むと、そっとシキに口づけをした。劣情のままに彼女の身体を抱きしめた。夢中で彼女を床に押し倒そうとしたところで、……ロイは気がついた。
 ――媚薬か。
 カレンだな、とロイは苦笑した。この独特の癖のある甘い香りに、彼は覚えがあった。というのも、何年か前にロイもカレンに一服盛られたことがあったのだ。幸いすぐ異変に気がつけたため、「解毒」の呪文で事無きを得たのだが。
 ルカカラの根から採れる一種の興奮剤を元に作られた、欲情の薬。その効力は、他に類を見ぬほどに大きい。経験の乏しいシキには、自分の身体に何が起こっているのか、理解することすらできなかったことだろう。狂おしいほどの肉欲に呑み込まれながらも、彼女はどうすることもできずにただその身をくねらせ、悶え苦しんでいた……いや、苦しんでいるのだ、今も。
 腕の中、力無くもたれかかってくるシキをロイは黙って見つめた。
 これは、願ってもない状況ではないだろうか。そう考えてロイはまた生唾を飲み込んだ。今、彼女は明らかにこの自分を欲している。普段あまり頼み事をしない可愛い弟子が、こんなにも切々とロイのことを求めているのだ。聞いてやらないわけにはいかないだろう。
「お使い」が無駄になってしまうな。そう低く笑ってから、ロイは今度は先ほどよりも力強く彼女を抱きしめた。彼女の顎をすくい上げ、もう一度唇を重ねようとした、その時――

 
 ――その時、突如として雷を思わせる轟音が家中を響かせた。
 欲情に浮かされるロイを嘲笑うかのように、その音は玄関のほうから強く激しく聞こえてくる。どうやら、誰かが力任せに玄関の扉を何度も打ち鳴らしているようだった。
「……あれ……? 私……」
 あまりの騒音に、とうとうシキが意識を取り戻した。ロイは小さく舌打ちしてシキから身を引く。と、野太い声が合奏に加わり、騒がしさはいや増した。
「先生! タヴァーネス先生!」
 扉を叩きながら叫ぶのは、鍛冶屋のエイモスだった。あの巨躯にあの調子で叩かれては、扉はほどなく壊されてしまうだろう。ロイはふらつくシキをあとに残し、玄関ホールへと向かった。平静を取り戻すべく大きく二度深呼吸をし、それから閂を外す。
 扉が開くなりエイモスがびしょ濡れで転がり込んできて、そして息も絶え絶えに絶叫した。
「先生! 大変だ! 町外れで崖が崩れたんだ!」
「落ち着いて。どこで、どんな規模で?」
「サランへの街道だ! 森のこっち側、あの崖がごっそりいってしまったんだ! 何人か埋もれてしまっているようなんだ!」
 エイモスの叫びに、短い悲鳴が重なる。驚いて背後を振り返ったロイは、蒼白な顔で廊下に立ちすくむシキを見た。
 と、不安と恐怖に翳る彼女の瞳が、一転して強い光を宿す。
 次の瞬間、彼女はロイの傍らを駆け抜けて、壁にかかっていた自分の外套をひっ掴んだ。
「待ちなさい、シキ! 私も行こう」
「だめです! 先生は家にいてください! エイモスさん、先生は病気なんです。絶対に家から出さないでくださいね!」
 外套に袖を通すのももどかしそうに、シキが厩へと走っていく。その後ろ姿を、ロイはただ無言で見送っていた。
 
 
 

    二  被災
 
 雨粒を全身に受けながら、シキは馬を走らせた。速度を出せない町中を避けて、彼女の馬は農地の間をぬうように駆け抜けていく。
 外套のフードを目深にかぶってもなお顔面に襲いかかる雨。何度も水滴が目に入り視界がぼやけるが、シキは手綱を緩めようとはしなかった。使命感と不安感と、それともう一つ、深い自己嫌悪に駆り立てられて。
 ――なんて私は弱いんだろう。
 風にはためく襟の陰で、シキは下唇を噛んだ。
 カレンの店を出てからの記憶が、やけに曖昧だった。燃え立つように熱を帯びる身体に鞭打って、必死の思いで辿り着いた我が家。薬を届けようと先生の部屋の扉を開けたところまでは、なんとか覚えている。先生の声が聞こえたかと思うと、ぐらりと天地がひっくり返り、真っ赤な霧が視界に押し寄せ……。
 玄関を叩く鍛冶屋の声に起こされるまで、どうやら自分は気を失ってしまっていたらしかった。冷たい床から助け起こしてくれていた先生の暖かい腕の感触が、まだ微かに肩に残っている。気遣わしげな先生の目を思い出し、シキの胸は申し訳なさで一杯になった。
 ――病人に心配をかけるなんて。
 奥歯を噛み締めながら、シキは馬の腹を蹴った。忠実なる「疾走」が再び速度を上げる。
 レイのことを考えるたびに、あの夜の記憶が彼女の胸に甦った。甘い口づけ、熱い抱擁。レイの腕の中、今にも燃え上がらんとする身体。だが、先刻カレンの店でシキは改めて思い至ったのだ。カレンもまた一度ならずこの感覚を味わったのだということに。そればかりか、彼女はシキとは違い、レイの全てを既に幾度もその身に受け入れているのだということに。
 妖しげな熱が、シキの身体の奥底でまだ微かにくすぶっている。それを消し去るべく、シキは大きく息を吸った。冷たい風が胸腔を満たす。
 ――なんて、自分は、弱いんだろう。
 レイとの甘美なひととき。嫉妬心が拍車をかけたとはいえ、あの先に待つものを自分がこれほどまでに欲しているとは、思ってもみなかった。彼が傍にいないだけでこんなにも心が乱れてしまうなんて、考えてもいなかった。
「レイ……無事でいて……」
 外套の裾をはためかせながら、シキは一心不乱に町外れを目指し馬を走らせ続けた。
 
 
 
 イの町のすぐ東側を北から南に流れるタジ川の向こうには、小高い丘が広がっている。その頂上を少しくだった向こうは、町の人間が「東の森」と呼ぶ、昼なお暗い深い森だ。
 峰東州を真っ直ぐ東西に貫く街道は、イの町を出た所でタジ川に沿って南へとその向きを変える。それから一里ほど下流で支流に道連れを替え、大きく弧を描くようにして丘と森とを迂回し、再び真東を、サランを目指していくのだ。丘を抜ける川沿いの道は概ね平坦だったが、それゆえ一部丘を切り通す部分があり、そこは十丈ほどに亘って両側を高い崖に囲まれていた。
 シキが切り通しに近づくにつれ、凶事を聞いて現場に駆けつける人々の姿が散見されるようになった。ほどなく、彼女の目に見るも無残な風景が飛び込んできた。
 切り立った崖はその角度を変え、剥き出しになった岩石や木の根があちこちから露出していた。そこから崩れ落ちた多量の土砂は、ほんの少し前まで街道だった所にうず高く積もっている。川原にまで散乱する岩や木が、災害の激しさを如実に物語っていた。
 シキは馬から飛び降りると、手近な潅木に手綱を結わえた。人々の中心で声を張り上げ指図する町長の姿を見つけ、急ぎ駆け寄っていく。
「埋もれている人がいるんですか」
 恰幅の良いリスター町長は、シキの顔を見て一瞬失望の色を浮かべた。その意味するところを理解したシキは、努めて冷静な声で続ける。
「……先生は今、病に臥せっているのです。私で良ければ、微力ながらお手伝いいたします」
 シキの言葉にリスターは取り繕うように咳払いをすると、視線を土砂の山に向けて、言った。
「ああ、よろしく頼むよ。とにかく見てのとおりの有様でな、どれだけの者が被害に遭ったのかまだ良く分かっておらぬのだ。直前にここを通った者によると、行商のキース一家が後ろを歩いていたとか……」
 その言葉が終わりきらないうちに、少し離れた所で怒鳴り声が上がった。
「荷車だ! ぺしゃんこに潰れちまっているぞ!」
「これはキースのだ! 見覚えがある!」
「よーし、その辺りを重点的に掘り返せ!」
 大声で指示を出すリスターから離れて、シキは災禍の場へ向かった。道を塞ぐ倒木や岩を身軽に越えて、荷車が見つかったという辺りに登る。山のごとく堆積する岩石の陰で、数人の男達が必死でシャベルを動かしているのが見えた。
 ふと上を仰げば、北側の崖が全域に亘ってその形を変えていた。思ったよりも広い現場に、シキは少し眉をひそめた。呪文の効力範囲は、それが複雑になればなるほど狭まってしまう。これだけの広さの瓦礫の山から埋もれている者を探すとなれば、かなりの力を費やさねばならないだろう。
 気を取り直すべくシキは頭を振った。それから大きく深呼吸をした。静かに袖をまくって腕を身体の前に差し出し、指で複雑な印をえがく。シキの詠唱を耳にした数人が作業の手を止めて見守る中、生者を探知する呪文が完成し、青白い光の柱が二丈ほど先の地面から微かに立ちのぼった。
「あそこなんだな!?
「はい。まだ生きています」
 額の雨を拭いながらシキが頷くと、男達は歓声を上げながらその場所に殺到した。土砂を掘り返す音が、先ほどまでよりもずっと力強く辺りに響き渡る。
「今助けてやるぞ!」
「急げ! 急げ!」
 心持ち周囲の雰囲気が明るくなった中、シキは心配そうな視線を街道の先に向けた。
 レイはまだこの向こうを歩いているのだろうか。それとも、まだサランの町で道草を食っているのだろうか。まさかそれとも……と不吉なことを考えかけて、シキはかぶりを振った。いや、そんなことはない、と。ここを歩いていたのなら、キース達を見ていたという人間が、きっと彼の姿も目撃しているに違いない。そんな話が出ていないということは、ここには彼はいなかったということだ。……きっと。
「お疲れー」
 シキが驚いて振り返ると、癒やし手のリーナが岩をよじ登ってくるところだった。悪い足場に何度も躓きながら、シキの近くまでなんとか辿り着いた彼女は、肩で息をしながらにんまりと笑いかけてきた。
「お手柄だね、シキ。流石はタヴァーネス大魔術師の一番弟子!」
 シキが謙遜の意を表す間もなく、リーナは威勢よく腕まくりをした。「さて、私も自分の仕事をするかなー」
「頑張って。私は、まだ誰かが埋もれていないか確かめるから」
「ん」
 リーナが軽く頷いて現場に向かおうとしたその時、金属質な音が大きく響き渡った。石にシャベルが突き当たったのだろうと思いきや、ほんの一瞬青白い光が辺りに閃いた。
 その光を目にするや否や、シキは弾かれたように姿勢を正すと男達のもとに駆け寄った。
 すり鉢状に掘り返された土砂の中央、直径半丈ほどの空間がぽっかりと口を開けている。誰かの足元から転がり落ちた石が、その穴に落ち込んでいき……そして青白い光に妨げられて空中に静止した。
 大きく生唾を飲み込むシキのすぐ背後から、「解呪」の呪文が聞こえた。
 その瞬間、穴の縁がごそっと下へと落ち込み、更に大きな空間が地面の下から姿を現した。と、同時に若い女の声が穴の中から聞こえてきた。
「助かった? 私達助かったのね!」
「子供がいるんだ。早く引き上げてくれ!」
 上ずったようなキースの声に、人垣は一瞬息を呑んだ。
「大丈夫か!? 怪我は!?
「大丈夫だよ!」
 元気そうな子供の声が響き、皆は歓喜の声を上げた。
 崩れそうな穴の縁から慎重に岩を取り除き、倒木を支えに中へとロープを垂らす。毛布と担架が用意され、気合の入った表情のリーナが、いつでも来い、と治療の術に備える。
 俄然慌ただしくなった、その喧騒の中、シキは身じろぎ一つできずに一人立ち尽くしていた。
「『盾』を全方位に張り巡らしたのか」
「解呪」の名残の両手をゆっくりと下ろしながら、ロイが静かにシキの傍らに歩み出た。
「こんな芸当ができるのは……」
 こめかみを流れる血潮の音か、それとも風の音か、師の言葉を半ばまで聞いたところで、シキを耳鳴りが襲った。耳元でごうごうと鳴り響く音にかき消され、師の声が途切れる。だが、最後まで聞かなくとも、シキにも分かる。一度に六つの「盾」を張るなんて荒業は、第六位以上の技の持ち主でなければ不可能だということは。そして、イの町でそれに該当する魔術師は、たったの三人だけ……。
 ばくばくと暴れる心臓を静めようとして、シキは握り締めた拳で胸を押さえた。息苦しさのあまり、喘ぐようにして何度も大きく息を吸った。
「なにぃ!? レイ君が!?
 リスターの声で、シキの呪縛が解けた。耳鳴りが治まり、再び周囲の雑音が彼女の耳に押し寄せてくる。慌ててシキは声のした方向を振り向いた。
 人々の輪の中で、助け出されたキースの息子にリーナが毛布をかけてやっているところだった。泥に汚れた身体を小さく震わせながら、だがはっきりと少年はリスターに言った。
「僕達を助けてくれたんだよ」
「そうなんです。しっかりお互いを捕まえていろ、と。目の前が光って、その次にはもう真っ暗で……」
「彼はどこにいたんだね!」
「あたし達の少し後ろを、馬に乗って……」
 その言葉を聞くなり、シキはすぐさまきびすを返した。うず高く積み重なる土砂の向こう、被災地の更に奥へと駆け出そうとする。だが、間髪を入れずに、シキの腕を力強い手が鷲掴みにした。
「向こうはまだ危ない。もう一度崩れるやも知れない」
「だって! レイがまだ……!」
「落ち着きなさい、シキ」
 氷のように冷たい声で、ロイは容赦なく言葉を継いだ。
「良く聞きなさい。崖が崩れ始めて、この道に降り注ぐまで、一体どれぐらいかかると思う?」
 無情な声を振り払おうとするかのごとく、シキは必死で頭を振る。そんなことぐらい、彼女だって知っていた。それでも、きっと、レイなら、なんとかして、どうにかして――
「レイが、そんな短時間に六つの『盾』を起動できたということだけでも、私は驚いているんだよ」
 ――どうにも、ならない。なりようが、ない。
 目の前に突きつけられた現実に、とうとうシキは暴れるのをやめた。周囲を埋め尽くす岩や礫を愕然と見つめながら、ふらりと地に膝をついた。
「とにかく、ここでまた君まで危険に晒すわけにはいかない。解るね、シキ」
 小さな溜め息ののち、師匠が静かに呪文の詠唱を始める。それが生者を目当てとしていないことに気がついたシキは、絶望的な視線を彼に向けた。
 ロイを中心とした二丈四方の土砂から、細い光があちらこちらで立ちのぼった。それを合図に、屈強な男達がシャベルを持って駆け寄ってくる。ロイは彼らに一番太い光の柱を指し示し、静かに言った。
「あれです。……また崖が崩れるかもしれませんから、慎重に」
「……解った」
 沈痛な面持ちで、彼らは倒木を乗り越えていく。先ほどまでとは打って変わって、重苦しい沈黙が辺りに充満していた。地面を掘り返す単調な音が、人々の胸の中に虚ろにこだまする。雨の音に混じって、小さな祈りの声がそこかしこから聞こえてきた。
「大丈夫よ」
 そっと肩に手が置かれ、シキは憔悴しきったおもてを上げた。リーナが、今にも泣き出しそうな表情で笑いかけてきた。
「あの、おバカがこんな簡単にくたばるわけないでしょう?」
 そうだね、と言おうとしたシキだったが、どうしても声が出て来なかった。
「もぅ! しゃきっとしなさいよ、シキ! あんたが奴の無事を信じなくって、一体誰が信じるっていうのよ!」
 目に涙を浮かべながら、それでもリーナは笑ってみせる。シキは、しばしまばたきを忘れて友の顔をじっと見つめた。それから、返事の代わりに彼女の手を強く握り締めた。
 
 作業に当たっていた者達の間から、えも言われぬどよめきが湧き上がった。
「馬だ! 馬が……!」
「どんな様子ですか」
「……ダメだ、死んでいる……」
 ロイは掘り出された馬の傍まで行くと、そこで再び印を結んだ。そうして、先ほどと同じ術の調べを歌うように唱え始めた。おのが弟子への手向けとするかのごとく、厳かに。
 呪文が完成する直前、ふと違う魔術の波動を感じて彼は手を止めた。
 怪訝そうに振り返った視線の先、シキが大きく両手を広げて立っていた。背筋をぴんと伸ばし、迷いのない瞳を真っ直ぐ前に向けて、彼女は今まさしく生者を探す術を起動させるところだった。
 呪文の詠唱が終わると同時に、見えない圧力が彼女を中心に広がっていくのを、ロイは感じた。多大な魔力を注がれた術は、細長く伸びる被災地の隅々まで、余すところなく行き渡っていく。シキの放った術の素晴らしさに、ロイは素直に息を呑んだ。そして、それが徒労に終わるであろうことを思って、小さく嘆息した。
 
 祈りさえも心の中から追い出して、シキはひたすら全神経を前方に張り巡らせた。例え微かな反応だったとしても、絶対に見逃さないように。
 彼女の脳裏に、先刻のリーナの言葉が浮かび上がる。シキはきつく奥歯を噛み締めた。
 ――そう、私が信じなきゃ、レイは本当に死んでしまう……!
 
 崩れた谷の中央部、一際大きな落石の陰。静かに光が立ちのぼった。
 
「まだ生きています!」
 絶叫に似たシキの声に、辺りが一気に沸きかえった。男達が一斉に光を目指して駆け出す。「急げ!」「助けるんだ!」と、口々に喚声を上げて。
 だが。
 シキと、足の速い何人かが落石の傍まで到達したその時、鈍い響きが空気を震わせ始めた。
「いかん!」
 ロイが素早く中空に手をかざす。偉大なる魔術師は、持てる限りの力を振り絞って呪文を紡ぎ出した。瞬時に巨大な光の「盾」が谷底を守るように出現し、降り注ぐ岩や土がそれに弾かれて道の脇に飛び散っていく。
 しかし、その「盾」はレイが埋もれている場所までは届かなかった。途切れた光の先、泥の滝が視界を塞ぐ。岩石のぶつかる音や木のきしむ音が、辺りを席捲する。
 体調さえ、身体の調子さえ完全ならば……! 力を使い果たして膝を折るロイの口から、そう無念の呟きが漏れた。

 
 永遠に続くかと思われた崩落も次第に収まり、辺りにはようやく静寂が戻ってきた。人々はおそるおそる身を起こして、もうもうと舞う水煙の向こうを固唾を呑んでじっと見つめた。
 土砂は全てを飲み込んでしまっただろう。勇敢な救護者達を、助けを待っていた若い魔術師を。
 空高く舞い上げられた泥しぶきが雨に混じり、けぶっていた視界が静かに晴れていく。曇天を背景に、ごっそりと崩れえぐれた崖が、まず皆の目を奪った。あれだけの質量の直撃を受ければ、人間などひとたまりもないだろう。一同は言葉もなくその場に立ち尽くした。
「先生、あれ……」
 リーナに助け起こされたロイが視線を上げる。絶望に彩られた彼の瞳に、不可思議な形で静止する巨大な土塊が飛び込んできた。獲物に襲いかかる龍のあぎとのようなそれは、いざその牙を突き立てようと大口を開け、……そして硬直している。
 その下に、シキが立っていた。傍らでは、男達が必死でシャベルを振るっている。
 
 ――間に合った……。
 激しい疲労から倒れそうになりながら、シキはほっと息を吐いた。
 咄嗟に放った「氷結」の呪文。最後の一片まで力を出しきって、シキは襲いかかる土石流を凍らせたのだ。
 シキがゆっくりと振り向けば、大きな岩の陰、落石と落石の細い隙間からレイが助け出されるところだった。
 無数の細氷がきらきらと辺りに降りしきる中、レイはシキに気がつくと右手を上げた。
「よぉ。遅かったじゃねーか」
 止み始めた雨の中、大きな歓声が谷中に響き渡った。
 
 
 

    三  生還
 
 予兆など何も無かった。
 降りしきる雨の中、不吉なものを感じてふと空を仰げば、水を含んでどす黒く変色した崖が、静かにその形を変えようとしているところだった。
 まず、岩棚に生える木がゆっくりと倒れてきた。
 次に、拳大の礫が、幾つも壁面を転がり落ちてきた。
 見上げるばかりの土の壁が、痙攣するように震えた。咄嗟に辺りを見まわせば、前方を行く一台の荷馬車が目に入った。御者席に男、荷台に女と子供。街道には他に人影は無い。
「崩れるぞ!」
 自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。低い地響きも、悲鳴も怒号も、全てがぼんやりとくぐもった中、気が狂わんばかりの緊迫感だけが、やたらと生々しく胸に迫ってくる。
 ――落ち着け、呪文は間に合ったんだ。俺は助かったんだ。
 そう自分に言い聞かせても、焦れば焦るほど指は満足に動かず、声は喉に貼りついたきりだ。詠唱半ばで霧散する術を、レイは何度も何度もやり直した。一刻も早く「盾」の術を完成させなければ、このままでは皆、死んでしまう、と。
 大がかりな呪文は未熟な自分には荷が重い。ならば迅さで数を稼ぐしかない。それなのに、さっきから一つとして術が成功しないのだ。こんなに頑張っているのに、どうしても「盾」が現れてくれないのだ。
「くそう! なんでできないんだよ!」
 思い余って絶叫した次の瞬間、視界が一気に暗転した。
 驚きのあまり、レイは茫然とその場に立ち尽くす。雨も風も、道も崖も、全てが一瞬にして消え去り、完全なる暗闇と静寂が彼を包み込んでいた。
 とうとう埋もれてしまった、とレイは思った。四方から押し寄せる土砂に追い詰められ、土中に閉じ込められた恐怖が彼の中に甦る。荒れ狂う心臓の音が、全身をも震わせる。
 岩と岩の僅かな隙間、為すすべもなく救いの手を待つばかりのレイを支えたのは、はにかむようなシキの笑顔だった。きっと彼女なら自分を見つけ出してくれる。そうして、今度こそ彼女と……一昨日の続きを……。
 と、真っ暗な中、微かに空気が動き、土の香りに混ざって鉄錆の匂いがした。
 ふと気がつけば、レイは両膝を地について座っていた。
 目の前に力無く投げ出された、白い腕。
 倒れ伏す小さな身体を慌てて抱き起こせば、生暖かいものがぬるりと手を濡らした。
 ――だめだ、このままでは、死んでしまう。
 シキが、シキが死んでしまう……!
 
「レイ!」
 肩を揺らされて、レイは目を覚ました。荒い息のまま身を起こせば、ぼんやりと霞む視界に、眉根を寄せたシキの顔がゆっくりと像を結ぶ。
「大丈夫? 随分うなされていたみたいだけど」
 きらきらと眩い朝の光が、優しく辺りに降り注いでいた。少し日に焼けた生成りのカーテンが、静かに風にそよいでいる。十年前、孤児として数ヶ月を過ごした時と変わらぬ懐かしい景色に、早鐘を打っていたレイの鼓動も次第に落ち着きを取り戻し始めた。
「……大丈夫?」
 心配そうなシキの瞳が、昔日のそれと重なる。あの時、訃報がもたらされたのもこの部屋だった。弔詞を聞くなりレイは、沈痛な表情を浮かべる司祭にしがみついて、声の限りに泣き叫んだ。
 泣きに泣いて、それでも涙は一向に枯れることなく、あとからあとから溢れ出てきた。いい加減呼吸がつらくなって、しゃくりあげながら傍らの寝台に突っ伏して、それでようやく息が治まり始めた時に、シキがレイの顔を覗き込んできたのだ。真っ赤に腫らした目をそっと緩ませながら、「大丈夫?」と。
「あ、ああ、大丈夫だ。ちょっと夢見が悪くてさ。俺、うなされてたか?」
「うん。苦しそうな顔で、うんうん唸ってるから、心配したよ」
 街道の崩落から明けて翌朝。彼らは教会の敷地にある治療院にいた。
 あの救出劇ののち、大魔術師とその弟子達は馬車に乗せられてここに運ばれてきた。三人とも限界以上の力を使い果たして、立つことすらできないほどに疲労していたからだ。特にロイは再び高熱がぶり返してしまっていたため、治療院に着くなり一番奥の部屋へと運ばれていった。「どうして、こんなになる前にさっさと診せに来ないんですか!」と言うリーナの一喝とともに。
 散々な一日だった、とレイは深く息を吐いた。嵐の中のお使いの果て、生き埋め。そしてとどめの悪夢。――あれはやっぱり、「空白の一日」の記憶の断片なのだろうか。自分達が黒髪となったその時に起きた出来事なのだろうか。
「どんな夢だったの?」
 遠慮のない声にレイは一瞬ぎくりとすると、それからついと視線を逸らせた。
「……忘れた」
 そうきっぱり言いきってから、レイはやにわにシキのほうに身を乗り出した。「それよりも、シキ、お前さ、昔のことって全然憶えてないのか?」
「どうしたの、突然」
 きょとんとした顔をするシキを前に、レイは胸の中で慎重に情報を仕分けし始めた。不吉な部分に触れずに、どこまであの日の記憶を掘り返すことができるか、考え考え訥々と口を開く。
「いやさ、崖崩れで埋まってる時に、少しだけ思い出したみたいなんだ。……あの、俺達が黒髪になった日のことを」
「そっか、レイも憶えてないんだったっけ」
 黒髪となってから一か月近くの間、シキは心神喪失状態にあった。ロイとの邂逅で奇跡的に意識を取り戻したものの、それ以前の記憶の大部分は、未だ彼女の奥底でぼんやりと靄がかかったままだという。
「俺の場合は、肝心のその日だけなんだけどな」
 そう言って、レイは先日見た夢の内容から話し始めた。教会で掃除をしている最中に、シキに連れられて東の森へ行ったということを。
「何か見せたいものがある、みたいな感じだった。とっても素敵なもの、だと言っていた。それが何かは分からないが、俺はそれを見て驚いていたような気がする」
「それで?」
 そこで、レイは大きく息を吸った。
「それで、終わり。思い出せたのはそれだけ」
「じゃあ、その何かを見て、びっくりし過ぎて、それで記憶を失っちゃったってこと?」
「そんなわけねーだろ。……って言うか、そうとは限らないだろ」
 レイの瞼の裏に、血まみれの光景が浮かび上がる。彼は軽く頭を振って脳裏からそれを追い出し、溜め息をついた。
「きっと、何かもっと激しい衝撃を受けたんだ。そうでなきゃ、黒髪になんてならなかっただろうし、記憶だって失わなかっただろうし」
 お前だって、何日も寝込んだり、何週間も心を見失ったりしなかっただろう、と、レイは心の中でつけ足した。
 一方、シキはといえば、難しい顔で息を詰めるレイに気づきもせずに、ひたすら首をひねっている。
「……呪いではないって言ってたよね、司祭様」
「ああ。……だが、それはアシアス神の教義のもとで、だ」
 シキが驚きの表情でレイを見た。
 レイも、自分の台詞に内心でびっくりしていた。これまで思いつきもしなかったある事に、彼は今この瞬間気がついたのだ。
「そうだ。考えてもみろ、同じアシアス信仰なのに、昔と今じゃ随分教会のあり方も変わってしまった」
「だから、昔のことを憶えてないんだって」
 頬をふくらませるシキに一瞥もくれずに、レイは興奮して言葉を紡ぎ続ける。
「前はアシアスの神以外もあちこちに祀られていたんだよ。帝国からこっち、今じゃ軒並み邪教扱いだがな。同じ神様でもこれだけ違ってくるんだ。他の教えのもとでは、『呪い』の概念だって変わってくるだろ? 『呪い』だけじゃない。『祝福』だってそうだ。大体、髪の色を根っこから替えるなんて、そもそも人間業じゃねーんだからさ」
「つまり、この髪は、異教に関わるものかもしれない……ってこと?」
「可能性としてな」
 渋い表情でレイがそう言った時、扉にノックの音がした。
「おはよーございまーす、入りますよー?」
 返答を待たずに扉が開き、リーナがひょっこりと顔を出した。シキを見つけて、仕事の顔が普段の表情に戻る。
「お、やっぱり、シキもこっちだったか。どう? 体調は」
「ん、お蔭さまで、もう大丈夫だよ」
 良かった良かったと大きく頷きながら、リーナは今度はレイの顔を覗き込んできた。
「レイも、あれだけの目にあって、かすり傷で済んで良かったねえ」
「まあな。それより何の用だよ」
「おお、そうそう。タヴァーネス先生がね、何か二人と話をしたいんだって。だから呼びに来たのよ」
 そう言ってからリーナは、一丁前な癒やし手の顔つきで、「先生、まだ熱下がってないから、手短に頼むね」と二人に釘を刺すのだった。
 
 
「すみませんでした」
 深々とレイが頭を下げれば、寝台に横たわるロイの目元からほんの僅か険しさがとれた。
「……いや、まあ、冷静に考えれば、お前が悪いわけではない、な」
 そう自分に言い聞かせるように呟くと、ロイは額に乗せた氷嚢を掴んで目元を拭った。
「そうだな。あの状況では仕方がないな」
「本当に、すみませんでした」
「もういい。運がよければ見つかることもあるさ」
 リーナに連れられて二人がロイの病室を訪れるや否や、師は開口一番、預かり物についてレイを問い質してきた。叱責を恐れたのかレイは少し躊躇ったものの、すぐに姿勢を正して、崩落で荷物を失ったことを正直にロイに報告したのだった。
 いつになく神妙な表情で謝罪を重ねるレイに、ロイは深い溜め息とともに許しの言葉を吐き出した。あのような事故に巻き込まれて無事に生還できた、というだけでも充分奇跡的なのだ。それ以上のことを求めるのは贅沢というものかもな、と。
 しばしの沈黙ののち、ロイは話題を切り替えるように大きく息を吸った。それから今度は好奇の色をその瞳に浮かべ、寝台の上に身を起こそうとした。その途端、部屋の隅からリーナの小言が飛んでくる。
「先生、安静にしてください」
「身体の向きを変えるだけだよ」
 これだから治療院は嫌なんだ、と大魔術師はリーナに聞こえないように小声でこぼして、それでも大人しく再び枕に頭を沈めた。
「レイ、それよりも、教えてくれないか。どうやってあの崩落から身を守ることができたのか」
「……運が良かっただけだよ」
 大したことではない、とばかりに、そっけなく言葉を返すレイに向かって、ロイは有無を言わさぬ口調で再度問いかける。
「詳しい状況が知りたいのだ。話してくれたまえ」
 レイは諦観の表情を浮かべてから、しばし両目を閉じた。険を眉間に刻みつつも、心を落ち着かせるように二度三度ゆっくりと呼吸を繰り返す。
「……あの時、崖は町に近いほうから順に崩れていったんだ。だからキース達に『盾』を出すこともできた。そのあとは確かにもう余裕がなかったけど、すぐ近くに転がり落ちてきた大きい岩を避けることができたから、なんとかなったんだと思う」
 レイはそこでシャツの襟元を数度軽く引っ張って、胸元に風を送った。
「とにかくあの岩に背をつけて、なだれてくる土砂の盾にして、それから頭上に『盾』を張って……」
「まだ更に『盾』を使えたのか」
 驚いて眉を上げるロイに、レイはそっとかぶりを振った。
「それで終わりさ。力を全部使いきっちまったから、『狼煙』も『灯明』すらも使えなくて……。
『盾』のお蔭で上からの直撃は避けられたけど、横から土砂が押し寄せてきて……、岩と岩の隙間に空間を確保できたはいいが、身動きとれなくて……」
 そこまで語ってレイは大きく息を吐き、ゆるりと顔を上げた。「もういいだろ? あとは先生も知ってのとおりだ」
 小鳥の声が、開け放たれた窓の外から風に乗って室内に届けられる。暖かな日差しに溢れているにもかかわらず、皆には部屋の温度が数度下がったように感じられた。
「……でも、本当に凄いね、レイ。あんな短時間に七つも『盾』を出せるなんて、隠れて特訓でもしてたんじゃない?」
 シキが、わざとらしいほどに明るい声で、冗談めかしてレイに笑いかける。が、彼は小さく息を呑んだのち、ぷいと視線を逸らせてしまった。
「そんなわけねーだろ」
 冷たく言い放つレイの傍ら、シキの眉が曇る。
 だがシキが何か言いかけるより早く、リーナが高らかに両手を打った。
「はいはい、話も終わったみたいだし、これぐらいにしておきましょうか」
 容赦なく面会を切り上げるリーナに連れられるがままに、二人はロイの深い溜め息をあとにした。

 
 
 
 まだまだ絶対安静! とリーナに言い渡されたロイを残して、シキとレイは帰途についた。泥だらけの「疾走」の手綱を牽いて、蹄鉄の音も高らかに石畳を進む。
 昨日までとは打って変わった快晴の下、町はすっかり活気を取り戻していた。窓という窓には洗濯物がかかり、路地で遊ぶ子供達の声が賑やかに家々の壁にこだましている。
 町並みを抜ければ、今度はむっとするほどの草いきれが二人を包み込んだ。おずおずと顔を出し始めた新芽が、さんさんと照りつける陽光に無数の水滴を煌かせながら、気持ち良さそうに風にそよいでいる。
「『疾風』には可哀そうなことをしたな……もう少し、早く帰れていたら……」
 治療院を出て以来ずっと黙りこくっていたレイが、ふとポツリとそうこぼした。初等学校の卒業祝いに先生が買ってくれた二頭の馬を、二人はそれぞれ「疾風」と「疾走」と名づけて、とても可愛がってきたのだ。
「……仕方ないよ」
「そうだな……。仕方ない……か……」
 あまりにも苦渋に満ちたレイの声に、シキはかける言葉をすぐには見つけられなかった。視線を落として、レイのすぐ後ろを黙って歩く。
 街道を逸れ、砂利道をくだり、家の前まで帰ってきたところで、シキがおずおずと口を開いた。
「……あのさ、レイ」
「疾走」を牽いたレイは、振り返ることなく無言で厩へと向かっていく。
「あそこにレイが居合わせたから、キースさん達は助かったんだよ」
 口元を引き結び、シキも歩調を速めた。レイのあとを追って厩の扉をくぐる。
「キースさん達もレイも助かって、私は本当に嬉しいよ……」
 三つ並んだ馬房の真ん中が、「疾風」の寝床だった。ロイの馬が出ている今、厩はガランとしていて、やけにもの寂しく見えた。仲良く額を付き合わせてじゃれる二頭の若馬を思い出し、シキの目が微かに潤む。
「……『疾風』のことは残念だったけど、あまり自分を責めないでよ」
 まるでシキの言葉に頷くようにして、「疾走」が小さくいなないた。
 次の瞬間、シキは強い力ですぐ傍の柱に押しつけられた。打ちつけた背中の痛みに悲鳴を上げる間もなく、柔らかいものが唇にかぶさってくる。レイの唸り声がシキの唇を震わせた。猛獣が獲物を貪るような荒々しい口づけが、何度も何度もシキに襲いかかった。
「…………だ」
「な、何……?」
「俺のものだ」
 会話もままならないまま再再度口を塞がれ、シキは喘ぐように息を継ぐのみだ。
「なに、が……?」
「誰にも渡すものか」
 レイの指が肩に食い込み、痛みのあまりシキは思わず抗議の声を上げた。だが、それすらレイの唇に阻まれて、くぐもった呻き声にしかならない。
「俺の……」
「ん、や、だから」
「俺だけの……」
「ちょっと、あの」
「シキ、お前は……」
「落ち着いてってば!」
 膝蹴りを食らわしそうになるのをすんでのところで踏みとどまって、その代わりにシキは思いっきりレイの頬を張り倒した。パシン、と容赦のない破裂音が、厩の空気を震わせた。
「痛ってー!」
「レイの馬鹿!」
 肩で息するシキの目には、涙が滲んでいた。上気した頬で荒い呼吸を繰り返し、レイを睨みつける。
「お願いだから、ちょっと、落ち着いてよ!」
 一瞬だけ言葉に詰まったものの、レイも負けじとシキに向かって怒鳴り返した。赤くなった左頬を押さえながら。
「って、お前、思いっきり叩いただろ!」
「叩くよ! だって、レイってば全然人の話聞いていないんだもん!」
「だからって、ここまで力一杯引っぱたくことないだろ!」
「だって、そうでもしなきゃ、レイ、落ち着いてくれないじゃない!」
 それだけを言いきって、シキが目を伏せる。
 レイが大きな動作で腕組みをし、そっぽを向く。
 重苦しい沈黙が続く中、開け放たれた扉が風にゆらりと揺れた。薄暗い厩の中に差し込む光に、無数の埃がきらきらと舞った。
 ぶひん、と遠慮がちな馬の声に促されるようにして、おずおずとシキは顔を上げた。
「……ごめん、レイ。……痛かった?」
 ふう、と息を吐き出して、レイもまたシキのほうに向き直った。
「…………ああ。お蔭でちょっと頭が冷えた」
 そう決まり悪そうに苦笑するレイからは、先刻の獰猛な気配はすっかり消え去っていた。優しい瞳に絡め取られ、シキの鼓動が一気に跳ね上がる。先日のあの甘いひとときが脳裏に甦り、シキの口の中につばきが溢れてきた。
 レイが、そっと一歩前に出た。彼の手が、ゆっくりとシキに向かって差し出される。
 気がついた時には、シキはレイの腕の中にいた。温かい胸にもたれ、うっとりと目を閉じかけたところで、ふとシキは我に返った。
「って、待って、ちょっと」
「落ち着いたところで、さっきの続きといくか」
 言葉どおりに冷静な声が、シキの髪にすり込まれる。状況が理解できずに、シキは数度目をしばたたかせた。
「……え?」
「少なくとも明日までは、先生は留守なんだ。何の遠慮もいらないだろ?」
 彼の熱い指がそっとシキのうなじに触れた。シキの髪をなぞっていた口づけが、ゆっくりと額に落とされる。身体を満たし始める熱に流されまいとあがきながら、シキは言葉を絞り出した。
「続き、って、ここで一体何を」
「決まってるだろ。お前を抱くんだよ」
 実に嬉しそうに、レイがシキに微笑みかけてきた。眩いばかりのその笑顔にシキは一瞬見とれかけたものの、すぐに彼女は素っ頓狂な声を上げた。
「え……? ええええっ? ちょっと待って、ここでって、そんな」
「これ以上我慢なんてできない。もう止まらねーよ」
 清清しいまでにそう言いきって、レイはシキに覆いかぶさってきた。
「ちょ……、ま……」
「シキ、好きだ……」
 レイの唇が、シキの頬から首筋へと滑っていった。そしてそのまま襟の中へと潜り込もうと……。
「待ってって言ってるでしょう!」
 
 
「……信じられない。部屋ならともかく、厩ってどういうことよ」
 玄関の扉が閉まる音を背景に、シキがぶつぶつと愚痴をこぼす。
「だから、きちんと反省して、こうやって母屋に帰ってきただろ?」
 レイが、更に赤みを増した頬をさすりながら扉に鍵をかけた。大きな溜め息をついてからシキの傍へ寄ると、ゴホン、とわざとらしい咳払い一つ、そうしてそっと彼女の腰を抱いた。
「で、部屋だったら問題ないんだよな?」
 シキが返答する間もなく、レイの唇が彼女の言葉を奪った。今度ばかりは少し慎重に、啄ばむような軽い口づけが数度。
「どんなに、お前と、こうしたかったか」
 絞り出される声から、彼の想いが痛いほど伝わってくる。少しだけ申し訳なくなって、シキはおずおずとレイの左頬に触れた。赤くなった部分をいたわるように、手のひらで優しく彼の頬を撫でる。
 その手に、レイの手が静かに重ねられた。強い光を宿した瞳が、シキを真っ向から貫いた。
「……レイ……」
「お前が、欲しいんだ、シ……」
 とろけるような囁きに続けて、レイが口にしたはずのシキの名は、頭上で鳴り響く呼び鈴の音にかき消されてしまった。
 
 あまりの間の悪さに、レイばかりかシキまでもが眉間に深い皺を刻んだ。二人して顔を見合わせることばし、呼び鈴がもう一度鳴らされた。
 溜め息をついて身を離すシキの腕を、レイはぐいと引っ張った。
「気のせいだ。部屋に行こうぜ」
「でも……」
「風が紐を引っ張ってるんだ。そうに決まってる」
 彼がそう言い張る間も、呼び鈴は辛抱強くかつ控えめに鳴り続けた。おそらく来客は、玄関を入る二人をどこかから見るなどして、家人の在宅を確信しているのだろう。
「あー、もう! くそっ、どこのどいつだ一体!」
 とうとう観念したのか、レイは毒づきながらも大股で扉に向かった。あからさまに不機嫌そうな表情で、「どちらさま」と扉を開ける。
 そこにはキース一家が神妙な顔で立っていた。
「お忙しいところをすみません。お帰りになるのが街道から見えたものですから、どうしても一言お礼を言いたくて……」
 額に包帯を巻いたキースが、そう言ってふかぶかと頭を下げた。それに続いて、夫人もまた拝むような仕草でお辞儀をする。
「本当にありがとうございました。あなたが助けてくださらなかったら、私達一家は今頃は冷たい地面の下でしょう」
「でしょう」と、母の言葉を復唱する少年の真剣な表情に、予想外の訪問者に驚いていたレイの頬が、少しだけ緩んだ。
「私達を助けたために、あなたまで土砂崩れに巻き込まれることになってしまって、本当に申し訳なかった」
「何かお礼を、と思ったのですが……、荷物を全て失ってしまったものですから……、せめてお礼の言葉だけでもと……」
「あ、いや、いいよ、気にすんなって」
 跪きかねない勢いで頭を垂れる三人に、レイは慌てて両手を振った。
「皆助かったんだから、これで良かったんだよ。気にすんなって!」
 レイのその言葉を聞き、少し後ろで控えていたシキの顔が、ぱあっと明るくなる。
「ありがとうございました」
「ご恩は一生忘れません」
「おにいちゃん、ありがとう!」
 何度も何度もお辞儀を繰り返しながら去っていく一家を、レイは見えなくなるまで見送り続けた。愛馬の名前を小さく呟いて、これで良かったんだよな、と、自らにも言い聞かせながら。
 
 
 再び玄関の扉を閉めたレイは、今度はしっかり閂もかけて、「さて」とシキを振り返った。大きく息をついてから、仕切り直しとばかりにシキに挑みかかる。不意を突かれたシキは為すすべもなく、レイによって廊下の壁に押しつけられてしまった。
「……レイ、ちょっと、ここ、玄関……」
「うるさい。お前も少しは譲歩しろ」
 怒るよりも呆れるようにシキが口を開きかけた時、またしても、またしても呼び鈴の音が鳴った。
 声にならない唸り声を漏らしながら、レイは拳を握り締める。そうして、応対に出ようと身を起こしたシキの両手を無理矢理押さえつけ、問答無用に唇を重ねた。
 再度呼び鈴が鳴り響く。
 シキが何か言いかけるたびに、レイは接吻で彼女の口を封じた。何度も鳴らされる呼び鈴を徹底的に無視し、今度こそ本懐を遂げるべく、シキの身体をまさぐり始める。
 遂に呼び鈴が鳴りっ放しになった。誰だか知らないが、そいつは呼び鈴の紐を玩具か何かと勘違いしているに違いない。
「いい加減にしろよな!」
 堪忍袋の緒をぶち切ったレイが怒気もあらわに扉を開ければ、今度は鍛冶屋のエイモスが満面の笑みをたたえて立っていた。
「やー、よく頑張ったな、ボウズ!」
 そう言うなり、巨漢は大きな手のひらで豪快にレイの頭を撫でた。きれいにまとめられていた黒髪が、あっという間にぐしゃぐしゃに乱される。慌てて手櫛で髪を直そうとするレイに、エイモスは麻の袋を差し出した。
「それでこそ、我が友カシアの息子だ。よくやったぞ。馬は残念だったが、ご主人が無事で喜んでるさ」
 袋の中には、「疾風」の鞍とあぶみが入っていた。
「町外れの楠の根元に埋葬しておいた。また花でも供えてやれ」
「……ありがとう」
 じっと鞍を見つめるレイに小さく頷いてから、エイモスは今度はシキに向かって両手を合わせた。
「それと、シキちゃん、すまんかった! 頑張ったんだが、先生を止めきれんかったんだ」
 そう言われて、エイモスに先生の足止めを頼んだことをシキは思い出した。
「いえ、そんな、気にしないでください。こちらこそ、無茶を頼んでしまってすみませんでした」
「でもよ、そのせいで、先生また熱出して、ぶっ倒れちまっただろ?」
 本当に申し訳なさそうに眉を寄せてから、彼ははたと膝を打った。「そうだ、先生がいないんだから、ウチにご飯食いにくるかい? 飼いつけなら俺があとでしておいてやるから、今日ぐらいは二人ともゆっくりしたらいいんだ」
「おっさん!」
 腹の底から絞り出したような怨嗟の籠もった声で、レイがエイモスに噛みついた。
「何だ?」
「頼むから、空気読んでくれよ……」
「は?」
「せっかくシキと二人き……」
 そこまで言いかけたレイの口を、真っ赤な顔をしたシキが両手で塞ぐ。
「どうしたね?」
「なんでもないですっ」
 もごもごと唸りながら暴れるレイをシキが必死で押さえ込んでいると、家の横手の方角から、何やら賑やかな声々が近づいてきた。
 緩んだシキの手を振りほどいて、レイが自由を取り戻す。が、彼もまたシキと同じく、目をしばたたかせながらその場に立ち尽くす羽目になった。
 近くに住む面々が、手という手に籠やら鍋やらを持ってやって来たのだ。そうして、レイが無事帰ってきたお祝いをしよう、と声を上げる。
「お昼、まだだろう? ご飯作ってきたよ!」
「うちは、パンを焼いてきたよ」
「いい葡萄酒が手に入ったんだ」
「ちょっと、あんた、それ、いつ買ったの?」
「俺の小遣いだ、ごちゃごちゃ文句言うな」
 主役をそっちのけに、すっかり盛り上がっている一同を前に、遂にエイモスまでが気勢を上げた。
「よーし、俺もちょっと家に戻って、秘蔵の酒を二三本持ってきてやろう!」
 こんなにも沢山の人がレイのことを心配してくれていたと知って、シキはすっかり嬉しくなった。自然とこぼれる笑みに少しだけ同情の色を交え、レイに小声で問う。
「どうする?」
「くそー! どいつもこいつも、もう、勝手にしやがれー!」
 レイはそう叫んで両開きの玄関扉を全開にするのだった。
 
 
 

    四  裏切
 
 崩落から二日が経過した街道に、威勢の良いかけ声が何度もこだまする。町の男達が仕事の合間を見つけては、交代で復旧作業を行っているのだ。
 堆積する土砂や岩などのあまりの多さに作業が難航する中、今また大きな倒木が一つ、街道から一段下がった川べりへと落とされた。鈍い地響きに次いで、やや疲れたような歓声が早朝の空気を震わせる。
「なかなか片付かんなあ」
 道具を満載した引き車とともにエイモスが現場に現れた。右手に大きなツルハシを、左手にロープの束を掴んで、えっちらおっちら土の山を登る。
「よう、エイモスのダンナ、朝っぱらからえらく疲れてるみたいじゃねえか」
「昨晩、ちょっくら飲み過ぎてなぁ」
 そう言って、エイモスは土砂に突き刺さる倒木の根にロープをかけた。いざツルハシを手に構え、盛大に溜め息をつく。
「しっかし、こりゃ改めて見ると、とんでもねぇな。いっそ元通りにするのは諦めて、地ならしするほうがいいんじゃないか?」
「けどよ、これじゃ坂がキツいだろ? 馬車が通れないと意味がねぇぜ」
「いやいや、岩と木とをどかして、こっちとあっちの端っこを均せば、なんとかなるんじゃないか?」
「だけどよ……、ああ、先生!」
 馬具屋のドッジの視線を追ってエイモスが街道を見下ろせば、丁度馬から降り立ったロイ・タヴァーネスの姿があった。エイモスは申し訳なさそうに顔をしかめて、それから大声を張り上げる。
「先生、もう大丈夫なんですか?」
「面目ない。なんとか復活できたよ」
 ロイはそう涼しげに笑うと、エイモス達のいる所に悠然とやって来た。
「すまんかったです。シキちゃんに、先生は病気だって聞いていたのに、俺……」
「貴方が気に病むことではないですよ」
 ロイの言葉を聞いて、エイモスの顔がみるみる明るくなった。ロイが倒れたことに対して責任を感じていたのだろう、良かった良かった、と俄然張りきってツルハシをふるいだす。
「なあ、先生。こう、何か、ぱぱぱっと片付ける魔法って、ないもんですかね?」
 シャベルによりかかりながら溜め息をつくドッジの声に、ロイは苦笑を浮かべながら静かにかぶりを振った。
「申し訳ない。どちらかといえば、魔術師は壊すのが専門なんでね」
 そう言うと、彼は土砂の山を奥へと進んでいく。
「先生……?」
「少し探し物をね。気にしないでくれたまえ」
 崩落現場のほぼ中央に立つと、ロイは深呼吸をした。
 彼にとって、魔力を探知する術は決して難しいものではなかった。だが、その効果をこの谷全体に、更に地中にまで及ぼすためには、かなりの力を注がねばならないだろう。もう一度大きく息を吸って、ロイは両手をそっと身体の前に差し出した。
 すらりと長い指が魔術の印を空中に描き始める。呪文を詠唱する声が、まるで歌のように風に乗った。人々は皆作業の手を止め、固唾を呑んで、この微動だにしない大魔術師を見守った。一体今からここで何が起こるというのだろうか、と。
 
 ……何も、起こらなかった。
 ロイは掲げていた手を下ろすと、低く呟いた。
「……遮蔽箱が裏目に出たか」
 不測の事態を避けるべく、その「探し物」は魔力が外に漏れぬよう厳重に封されていたはずだった。それは他でもないロイ自身が要求したことであり、誰を恨むこともできない。
「……先生?」
 難しい顔で立ち尽くすロイに、エイモスがおずおずと声をかける。
「ああ、すまない。私の用は終わったよ、気にせず作業を続けてくれたまえ」
 怪訝そうに首をひねる一同に背を向けると、ロイはその場をあとにした。暗い瞳で。
 
 
 
 大きな欠伸とともに、レイはぼんやりする頭を振りながら板張りの床の上に起き上がった。寝起きの視界にむさ苦しい足の裏が飛び込んできて、思わず肩をがくりと落とす。
 母屋から短い渡り廊下を通った先にあるこの離れは、普段は体術や武術の稽古に使われる。家で一番広いこの部屋に、昨日、ご馳走を持参したご近所さん達が集まったのだった。
 賑やかな食事会は、いそいそと酒瓶を取り出す男衆のお蔭で、ほどなく騒がしい酒盛りと化し、女子供が苦笑とともに退席する頃には、どこから聞きつけたのか学校時代の友人連中も合流、それから最後の一人が沈没する明け方近くまで、夜通しの酒宴となったのだった。
 辺りを見まわせば、五人の男が酒瓶と一緒に寝息も高らかに転がっている。記憶を探っても、何人で飲んでいたのか、誰が途中で帰っていったのか良く解らない。硬い床のお陰ですっかりこわばった肩を回しながら、レイはやれやれと再度溜め息をついた。
 ――二人だけの甘い夜を過ごすはずだったのに。
 こいつらを追い出してから……と考えかけて、レイはすぐに諦めの表情で首を横に振った。治療院嫌いの師のことだ、多少の無理があろうと彼は午前中には帰ってくるだろう。この間のような窮地に立たされることだけは、レイは絶対に避けたかった。
 それに、自分にはどうしてもしなければならないことがある。目元に力を込めて、レイは一人頷いた。
 
 寝こける客達を部屋に残し、レイは厩へと向かった。ふと母屋を振り返れば、煙突から煙が青空を背景に細く立ちのぼっている。パンの焼ける香ばしい匂いにレイの腹が派手に鳴り響いた。おそらくシキは、律儀に六人の酔っ払いどもの分も朝食の用意をしているに違いない。
 再び恨めしそうに鳴く腹の虫を聞かなかったことにして、レイは静かに「疾走」を牽き出した。少し借りるぜ、と小さく厨房に向かって呟いて、軽やかに馬に跨る。そうしてそのまま、すぐ裏手の森へと分け入った。
 
 森は、ところどころその密度を変えながら、町の北側に広がっている。レイは、木々の合間の獣道を器用に辿りながら、真っ直ぐに東へと向かった。
 町を通り過ぎタジ川を越えた先は、昔から子供達の遊び場だ。丘の斜面を転がったり、森のほんの入り口を探険家気取りでうろついたり、レイ達も日が暮れるまで泥だらけになって辺りを走り回ったものだった。今も何人かの子供が丘で遊んでいるのを、木々の隙間から眺めつつ、レイは潅木の中を更に東へと進んだ。丘の向こう側を覆う、暗くて深い森のほうへと。
 町の人間が「東の森」と呼ぶそこは、子供達にとっては近寄ってはならない場所の一つだった。
 森そのものの大きさは大した規模ではない。街道沿いに歩けば、二時ふたときもかからずに迂回することができる、その程度の森なのだ。だが、昼なお暗く生い茂った木々は、人々の侵入を拒まんばかりに幾重にも枝を絡ませている。下草も人の背丈を越える勢いで道を塞ぎ、猟師でさえこの森に踏み入るのを敬遠しているという。
 レイはその禁断の森の入り口に馬を結わえると、静かに緑の壁の中に入り込んでいった。
 
 初めてこの森に足を踏み入れたのは何時のことだったか。
 子供にありがちな冒険心と功名心から、レイは「東の森」に挑んだのだった。背負い袋にパンと水筒とナイフを入れて。なにしろ、相手は大人だって入らない闇の森、そこを探検したとなれば、自分も一躍「英雄」の仲間入りだ。
 ところが、そうは簡単にはいかなかった。ちょっとだけ中を探検して、適当な木の枝を戦利品にして、そしてすぐに帰るつもりだったのに、道に迷ってしまったレイは、出口を探して必死に森の中を彷徨い続けた。
 覆いかぶさる木々の葉の隙間、頭上に僅かに見える空が茜色に染まっている。レイの瞼の裏に、麦畑に沈む真っ赤な夕日がよぎった。宝石のようにきらきらと光り輝く空は、無情にもやがて静かに色褪せていくのだ。金色から朱へ、そうして藍色へ……。暗黒が町を呑み込む頃には、この森も完全なる闇に閉ざされることだろう。すぐ近くに山犬の遠吠えを聞き、レイの目に絶望の色が入った。
 もう、帰れないんだ。そう考えたレイの胸が、張り裂けそうになる。言いつけを破って禁忌の森に立ち入ったばかりに、おれはここで死んでしまうのだ。母さんや、父さんにも会えないままに……。
 その刹那、すぐ脇の草むらが、がさり、と揺れて、レイはもう少しで絶叫するところだった。
「見ぃつけた! あれ? レイ、泣いてるの?」
 シキが、目をしばたたかせながら葉の陰から顔を覗かせていた。しばし言葉もなく立ち尽くしていたレイは、はっと我に返ると大慌てで目元を袖口で拭った。
「な、なんだよ、目にごみが入っただけだぞ! それよりなんでおまえがここにいるんだよ、シキ!」
「レイを探しに来たんだよ。早く帰らないと、東の森に入ったのがレイのお母さんにばれちゃうよ」
 悪戯っぽい表情でシキはそう言って、レイの手をしっかりと掴んだ。
「こっちだよ」
 まるで町角を歩くかのように、軽やかな足取りでシキがレイを先導する。薄暗さを増した森の中、シキの周りだけが何故か光り輝いているように、レイには見えた。
 
 ――で、結局、あのあと母さんに大目玉とげんこつを喰らって、一週間外出禁止を言い渡されたんだよなー。
 遠くを見つめる眼差しで、レイは森の中を見渡した。口止めしておいたはずの悪友達は、なかなか戻らないレイに不安を感じるや、まずシキに、それからレイの母に、ペラペラと彼の探検について喋ってしまったのだった。母に怒られるのは自業自得とはいえ、探検のことを母に告げ口されないように内緒にしていたシキに助けられたというのは、少し……いや、かなり情けなさ過ぎる。
 過ぎし日々に、ふぅ、と溜め息をついて、レイは再び前へと進み始めた。
 あの時、お前はどうして迷わないんだ、と問うたレイに、シキは「木が教えてくれたから」と笑って言った。
「なんとなく、だけどね。うれしいなーとか、いやだなーとか、そんな声みたいなのが聞こえてくるんだよ」
 そう言ってシキは木の幹に耳をつけた。「うるさいなーって困っている木をね、たどって歩いたら、レイがみつかったんだ」
 シキの母親は植物の精霊使いだった。その能力ちからで彼女は季節を読み、農作業に一番良い時期を皆に教えてくれたものだった。庭はいつも色とりどりの花が満開で、夏になると、びっくりするぐらいに大きな向日葵が、誇らしげに背筋を伸ばして風にそよいでいたのを覚えている。シキは、そんな母の才能を受け継いでいたのだろう。
 以来、東の森は二人の秘密の遊び場になった。シキの道案内で、レイも少しずつ森の様子を把握していった。もともと方向感覚には自信があっただけに、彼は少しずつ慎重に行動範囲を広げ、遂には自分一人でも森の奥まで入り込むことができるようになっていた。
 やがて時は流れ、戦争を経て、二人を取り巻く環境は大きく変化していった。歳を重ねるごとに日々の諸々に追われ、シキの口からこの森の話が出ることもなくなった。
 だが、レイにとって、ここは過ぎ去りし場所ではない。
 張り出した木の根を跨ぎ深い草むらをかき分けながら、レイは森の中心へと向かっていった。その脳裏には、三日前のサランでの出来事が浮かび上がっていた。

 
 
「月の剣」と名乗る男に続いて、レイは簡素な木の扉をくぐった。ランプの頼りなげな光に照らされた室内には、寝台の他にテーブルと二脚の椅子が備えられていた。洋服掛けには年季の入った外套、寝台の脇の窓の下には子供の背丈ほどもありそうな大きな背嚢。他には彼の私物は見あたらない。
 男はランプをテーブルの上に置くと、その大きな荷物を実に軽々と持ち上げて寝台の上に乗せた。鞄の口をとめているベルトを外しながら、棒のようにつっ立つレイに一瞥を投げる。
「座ったらどうだ」
「いや、このままでいい」
 固辞するレイに、男は低い声で言い放った。
「そこに立たれるのは落ち着かない。座れ」
「……あ、ああ、分かったよ」
 凄みのある眼差しに射抜かれて、レイはどぎまぎしながら頷いた。言われたとおりに木の椅子に腰かけ、外套のフードを脱いだ。
 その間も男は、皮製の背嚢から取り出した荷物を、黙々と寝台の上に並べていく。衣料や食料などの小包から窺える、見事な荷造りの技からも、男が旅慣れているということがまざまざと見てとれた。
「もしかして、もうすっかり荷造りしてしまっていたとか」
「ああ。もう来ないとばかり思っていた」
 容赦なく投げられる言葉に、ついレイの口から溜め息が漏れた。
「随分とお急ぎのようで」
「ややこしい条件を幾つも呑んでやったんだ。これ以上ずるずると付き合わされるのはごめんだからな」
 そう言うと、男は鞄の奥底から掘り出した一つの箱を手に振り向いた。
「心配しなくとも、一度約束した品を他へ回すことはしない。二月後に俺が店に帰った時に、改めて取引すれば良い。お前の師匠にもそう言っておいたはずなのだが」
「……勘弁してくれよ、先生……」
 がっくりと頭を抱えるレイに片眉を上げてみせて、男もテーブルについた。装飾一つ無い灰色の箱を机の上に置き、ややあって両眉を大きく跳ね上げた。
「漆黒の髪……」
「なんだよ、俺の髪の色に何か文句あんのか?」
 男はしばし身動きもせずに目を見開いていたが、やがて大きく肩を落とすと、再び悠然と椅子に背もたれた。
「なるほど。そういうことか」
「何が『そういうこと』なんだよ」
 レイは精一杯の気迫を込めて男を睨みつけた。だが、男は微塵も怯んだ様子もなく、何事も無かったかのように、手元の箱をレイのほうにゆっくりと押し出してきた。
「……これが君達の師匠から頼まれた品物だ」
 しばらくの間、二人はその箱を挟んで無言で対峙した。燃えるような眼差しを投げつけるレイに対して、男はあくまでも静かに、まるで淵のような深い瞳で、全てを呑み込んでいく……。
 最初に根負けしたのは、レイのほうだった。小さく舌打ちしてから、彼は不貞腐れた表情で灰色の箱に手を伸ばした。これ見よがしな嘆息とともにそれを手元に引き寄せる。
「これで取引は完了だ」
 有無を言わせぬ口調で話を打ち切る男を、恨めしそうにねめつけてから、レイはそっと箱を持ち上げた。
「……重いな。本……、かな?」
「守秘も条件の一つなんでな」
 そっけない男の態度に、もはやレイは肩をすくめることしかできなかった。流石はあの師匠の知り合いだ、と。類は友を呼ぶと言うべきか、傍若無人に我が道を突き進む変人がこの世に複数存在するという事実に、レイは頭痛すら覚えていた。
「……じゃあ、もう俺は帰ってもいいんだな」
「ああ」
 客を見送るどころか立ち上がる素振りさえ見せない男に、諦観の眼差しを投げかけて、レイは扉へと向かった。受け取った品物を小脇に抱え、ドアノブに手をかけたところで、ふとレイは動きを止めた。
「あれも売り物?」
 レイの視線を辿って、男が寝台を振り返る。そこには一振りの大きな剣が、背嚢の陰に隠れるようにして置かれていた。
「違う」
「だろうね」
 どう見てもこの男には、商人よりも剣士という肩書きのほうが遥かにしっくり来る。レイは黙ってこの謎の男を見つめた。そもそも、この取引に関わる師の態度からして、不可思議なことだらけなのだ。
 何故、イを取引の場に使わなかったのか。
 何故、こんなにも急がなければならなかったのか。
 そして、こいつは一体何者なのか……。
「度を過ぎた好奇心は、身を滅ぼすぞ」
 まるでレイの心を読んだかのように、男は凄みのある笑いを口元に浮かべた。そうして、椅子から立ち上がると、寝台へと向かった。
 何が行われようとしているのか、レイの胸中に不吉な予感が押し寄せてくる。だが、彼は身動き一つとることができなかった。
「月の剣」の通り名を持つ男は、空の背嚢を乱暴に払いのけると、片手でいとも軽々とその大剣を持ち上げた。そのままレイを振り向いて、ゆっくりと鞘から刀身を抜いた。
 その瞬間、稲妻が辺りに閃いた、ようにレイは感じた。手首をついと返すだけの僅かな動きにもかかわらず、男の手元から閃光がほとばしるようだった。その光はレイの眼底に深々と突き刺さり、更には頭の奥深くまでを焼き尽くしていくように思えた。
 レイの額に、汗の玉が生まれた。悲鳴を上げてこの場から逃げ出したい衝動に駆られながら、レイは必死で男を見つめ続けた。視線を外してしまったら最後だと、おのれに言い聞かせて。
「だが、好奇心がなければ、世界は閉じたままだ」
 横目でレイを見て、男は口元だけで笑った。それから彼は剣を握った右手を真っ直ぐにレイに向かって突き出した。
「ふん。肝が据わっているな」
 鼻先一尺に静止する切っ先を直視し続けることができず、とうとうレイは視線を逸らせた。悔しさで胸の奥がずしりと重くなった。
「これは、俺がかつて東の砂漠の遺跡で見つけたものだ。見ろ、この見事なまでに鍛え上げられた刃を。何度も俺の命を守ってくれた、最高の相棒だ」
 そう言って、男は剣を手元に引いた。慎重な手つきでそっと刃をランプの光にかざし、満足そうに目を細める。
 男を守り、幾たびも血路を切り開いてきたという大剣。だが、その刀身が放つ輝きは、禍々しいと言うよりもむしろ神々しいと言うべきものであった。そこに微かな魔術の気配を感じて、レイは思わず息を呑んだ。
 剣に魔術の力を与えることで、その威力を増さらせたり、刃こぼれを減らしたり、「盾」の呪文に対抗させたりすることができるのは、レイも知っている。だが、この剣が纏う術は、術師がそうやってあとから刃に付与したようなものではなかった。どのような業を使ったのかは解らないが、それは間違いなくこの剣自身にねり込められた未知なる「力」だった。
「我々の知らない、先人の智慧と技。そういったものを見つけ出すのが俺の仕事だ」
 ひらりと白銀を閃かせて、彼は剣を鞘に収めた。
 消耗しきった表情でレイが大きく息を吐くのを見て、男は少しだけ目元を緩ませる。そして、元あったように背嚢に剣を仕舞い込んだ。
「強大な力は、時に災厄を引き寄せる。人里では、これで充分だ」
 そう懐の短剣を示してから、男はあの深い眼差しをレイに向けた。
「役目を果たせ、若き魔術師よ。また会うこともあるだろう」
 咄嗟に言葉を返すこともできず、レイはぎくしゃくと男に向かってただ頭を下げた。
 
 階下の酒場に閂のかけられる音が、雨の音をぬって微かに響いてくる。
 しんしんとふけゆく夜の中、レイは自分にあてがわれた部屋でまんじりともせずに、寝台に腰かけていた。腕を組み、難しい表情で見つめるのは、目の前に置かれた例の箱である。
「月の剣」から預かったその箱は、魔術によってしっかりと封が成されていた。だが、封印以外に魔術の気配は微塵も感じられない。魔力を探知する術も無駄に終わり、レイは拍子抜けした表情で寝台の上に仰向けに倒れ込んだ。
 ――てっきり、魔術関係の何かだと思っていたんだけどな。
 剣士と見まがう古物商の正体は、いにしえの宝を求めてさすらう探索者だった。対する依頼主が帝国一の大魔術師とくれば、箱の中身は生半可なものではないはずだった。
 そこまで考えたところで、レイはふとある事を思い出した。世の中には、魔力を通さない金属かねが稀少ながら存在するらしいということを。この箱は、その金属で作られたものではないだろうか。
 それで全ての辻褄が合う、レイはそう思った。とにかくこの件についてはおかしなことが多過ぎる。師匠の執着ぶりも、厳重に隠された使いの内容も。
 大きな溜め息とともに、レイは寝台の上に起き上がった。険しい眼差しで、灰色の箱を見つめる。
 ――魔術による封印を、物理的にこじ開けることは不可能だろう。だが……。
 レイは、生唾を飲み込みながら、静かに印を結んだ。空中に描くのは、「封印解除」の呪文。彼がまだ習得していないはずの、第七位の術である。
 レイはしばらく前から、位や系統を無視して自分の好みを優先に呪文を自習していた。例えば、「探知」よりも「幻覚」を、「解読」よりも「封印解除」を。独学ゆえ、変則的ゆえに、習得には多大な努力を必要としたが、レイはとても充実していた。あのシキも知らない呪文を、この自分が使うことができるのだ。そして、そのことはシキは勿論、先生だって知らない……。
 レイが呪文の詠唱を終えると同時に、箱の蓋が軽く浮き上がった。
 
 
「東の森」のほぼ中央に、レイだけが知っている小さな洞がある。
 洞の入り口は、這わなければならないほど狭いが、すぐ中は大人が二人並んで立てるぐらいの広さがあった。一丈ほど奥で行き止まりになっている、この小さな「部屋」は、レイの秘密基地だった。
「灯明」の呪文とともに、洞内がほの明るく浮かび上がった。机代わりの大きな石の上には、あの灰色の箱が置いてある。レイは神妙な顔でその蓋を開けた。
 
 
 あの時、サランの宿で蓋を開けた時も、魔力の気配がレイの顔面を打った。唾を嚥下しながら箱を覗き込めば、一冊の古ぼけた本がすっぽりと中に収まっていた。
 呪文書だ。立ちのぼる「気」からそう直感してレイは息を呑んだ。
 そっと手に取れば、古書独特の埃っぽい臭いがレイの鼻腔をくすぐった。相当年代ものの本にもかかわらず、しっかりした装丁に綻びは見あたらなかった。レイはおそるおそるページを開いた。
 そもそも呪文書というものは、記述が非常に難解である。術を構成する要素とその組成式、力の配分、起動のための手順、それらが古代ルドス語で書かれているのが普通だ。かつてこの世界を統べたと謂われるルドス王国の、今は失われし秘技を現代に伝えるもの――それら書物に残された魔術は、綴られている言語の名前をとって、古代ルドス魔術と総称されている。
 ページを読み進めていたレイの眉が、ふと、ひそめられた。
 訥々と単語を追う限り、確かにこの本は呪文書のようだった。だが、どうにも少し勝手が違う。彼がよく知っている古代ルドス魔術の呪文書とは異なって、信仰、という言葉があちこちに見られた。何より、そこには、シキが最近紐解き始めた「癒やしの術」の呪文書と同じ気配があった。
 癒やしの術とは、正確には「アシアス神神聖魔術」のことである。アシアス神の加護を受け、その力を発動させる神の言葉……。
 レイは、弾かれたように本を閉じると、表紙をもう一度ねめまわした。表がささくれだった皮紙に、微かに残る色褪せた筆致。ランプの光に目を凝らし、一文字一文字を解読していく。
『フォール神神聖魔術 Ⅲ』
 フォール神、と、レイは口の中で繰り返した。
 ――異教。
 再びレイはページを繰り始めた。その手の動きが、どんどん早くなる。
 ――異教の呪文書。まさかそんなものが存在するとは。
 読み進めていくにつれ、不思議なことに文言が自然とレイの頭の中に流れ込んできた。フォール神……上位魔術……より複雑な大きな呪文……その特別な方法……。額の汗を拭いながらページをめくり続けるレイの手が、ふと、止まった。
『女……絆……保護……支配下に……』
 ぎり、と奥歯を噛み締めて、レイは拳を握り締めた。
「ロイ、てめえ、まさか……」
 
 レイは夜明け前にサランの町を出た。
 途中で街道を逸れ、彼は裏手から「東の森」へと入る。雨露に濡れる草をかき分けながら真っ直ぐこの洞を目指すと、中に呪文書を隠した。
 雨は依然として冷たく降りしきっていたが、彼の心は怒りのあまりに燃え立つようだった。身体の疲れさえ感じられないぐらいに。
 レイには、呪文書を盗むことに対する躊躇いも良心の呵責もなかった。この雨だ、足を滑らせてタジ川に落ちるということは、充分にありうる話だろう、そう彼は自分に言い聞かせた。荷物は流されてしまったとでも言えばいい。師匠の信頼? 信用? そんなもの、くそくらえだ。
「シキは俺のものだ。誰にも渡すものか」
 歯ぎしりをするように、レイが決意の言葉を漏らす。「誰にも……、ロイなんかに渡すものか」
 
 
 そして、あれから二日が経った。
 今、「東の森」の洞の中で、レイは再び呪文書を読んでいる。時の経過とともに、彼の頭も少しずつ冷静さを取り戻し始めていた。
 ――もしかしたら、早合点だったかもしれない。
 レイはきつく口を引き結び、心の中で呟いた。あんな短時間での拾い読み、流し読みで、正確な文意が読み取れるわけがない。きっと最初からよく読めば、全てがおのれの勘違いだったと分かるはずだ、と。そうなれば、すぐにこの本をロイに返すんだ。土砂の中から見つけたとでも言って……。
 ――とにかく、確かめることだ。はっきりさせるんだ。
 魔術の灯りの下で、レイは静かに呪文書のページを繰った。

第四話  這い寄る混沌

    一  風聞
 
 タヴァーネス家の朝食は、基本的にパンとスープである。今朝はそこに炒り卵が加わった。近所のシェスおばさんが、産み立てを差し入れてくれたからだ。
 シキは、盛りつけの終わった三人分の皿を調理台の上に並べ、満足そうに腰に手を当てた。固過ぎず、柔らか過ぎず、今日の炒り卵はかなり上出来だな、と胸を張る。
「ご機嫌じゃん」
 いきなりすぐ背後から声をかけられて、シキは思わず皿を払い落としそうになった。
「れ、れれれれレイ、いつの間に」
「さっきから。呼んでも気がつかねーんだもんな。鼻歌まで歌ってさ」
「は、鼻歌……?」
 おずおずと訊ねるシキに、レイは涼しい顔で口のを上げた。
「『たっまごー、たっまごー』って歌ってただろ」
「! いや、だって、ほら、シェスさんが卵くれたから……」
 気恥ずかしさから、シキは慌てふためいて身体の前で両手を振る。その様子にますますレイは調子に乗った。
「卵一つで幸せなこったな。いいよなー、シキは」
「…………あっそ。じゃあレイは卵無しでいいよね」
 小ばかにしたようなレイの態度に、あっさりとシキは機嫌を急降下させ、いそいそとレイの皿の中身を残り二つの皿に分け始めた。
「えっ、ちょっと待てよ、なんでそうなるんだよ」
「卵のありがたみが分からない人に食べさせる炒り卵はありません」
 本気で拗ねるシキに、本気で卵を惜しむレイ。どっちもどっちな二人に向かって、突然、これ以上はないというほど楽しそうな声が投げかけられた。
「朝から仲がいいねえ、お二人さん」
 驚く二人のすぐ横、南側の出窓の外にリーナがニヤニヤしながら立っていた。
 
 
「そこのジェン爺さんの調子が悪いってね、夜明け前に呼ばれて行ってたのよ」
 やれやれ、と椅子に座るリーナの前に、シキが熱い珈琲を注ぐ。ありがと、と顔を綻ばせながら、リーナは早速カップを傾けた。
「ジェンさんが? 大丈夫?」
「ん、それがさ、ただの二日酔い。大体、十日前にも爺さんってば、飲み過ぎ食べ過ぎで調子崩してるのよ」
「十日前っていったら……」
「そう、レイの生還を祝って、どんちゃん騒ぎしたらしいじゃない? 爺さん、もういい歳なんだから、勘弁してほしいわぁ」
 どこぞの小母さんのような手振りを披露するリーナに、不機嫌そうなレイの声がかぶさった。
「勘弁してほしいのはこっちだよ、」
 食卓の向こう端、レイは肘をつきながらこれ見よがしにあさっての方向を向く。「どうして女ってのは、集まるとこううるさいかな」
「レイ達だってよく大騒ぎしてるじゃん」
「お前らと一緒にするな」
「もう、違うってば、シキ。嫉妬よ、嫉・妬。レイごめんねー、ちょっとシキ貸してねー」
 おどけた物言いで、リーナがレイをからかう。レイが不貞腐れて鼻を鳴らしたところで、食堂の扉が開いた。
「随分賑やかだね」
「あ、先生、おはようございまーす! お邪魔してまーす」
 物怖じすることなく元気にリーナがロイに挨拶をする。そんな彼女を、レイは呆れたように、そしてシキは羨ましそうに見つめた。
 
「朝食はまだなのかい?」というロイの一言で、今朝は四人で食卓を囲むことになった。レイだけが一人つまらなさそうに、黙ってフォークで皿をつついている。
「そうだ、最近ヘンな噂があるの知ってます?」
 近況報告や他愛もない話題が一段落したところで、リーナがやにわに話を切り出した。
「ウチで世話をした旅人から聞いたんですけど、なんでも反乱を企てている連中がいるんですって」
「……反乱?」
 想像もしていなかった言葉に、シキが面食らったような表情をみせた。対して、ロイが少しだけ眉根を寄せる。
「それは、打倒帝国、ということなのかね?」
「はっきりと解らないけれど、たぶんそういうことみたいですね。その人は、サランの町外れで怪しげな連中の会話を聞いてしまって、その連中に追いかけられて、逃げきれずに、こう、背後からバッサリと」
「うわあ、」今度はシキが眉根を寄せる番だ。「で、その人、大丈夫だったの?」
「イの町のほうが近いって、ウチに担ぎ込まれたんだけど、勿論無事だよ。任せてよ」
 自信たっぷりに胸を張るリーナに、ロイが話の先を促した。
「それで、一体どういうことを聞いてしまったというのかね」
「大したことは言ってなかったらしいです。仲間を増やそう、とか、まだ時期尚早だ、とか」
 こめかみを指で押さえつつ、訥々とリーナが記憶を掘り返す。黙って聞き手に回っていたシキが、つい驚きの声を上げた。
「そんなことだけで、追いかけられてバッサリ?」
「そんなこと、どころではないよ、シキ。皇帝陛下に楯突く意思があるというだけで、立派な反逆罪だ」
 やや世事に疎いきらいのあるシキには、どうも実感が湧かないようだった。そういうものなのか、と呟いてから、彼女は更に思いついた疑問を口にした。
「でも、何故、今更反乱を起こそうなんて思うんでしょうか」
「そう、それよ! それ、私も不思議に思った。だって、大人は皆『帝国領になって良かった』って言っているもん。昔のほうが税は重かったし、移動は大変だったし、商売もやりにくかったって」
 十年前に帝国がやってくるまでは、東部一帯は三人の領主がそれぞれ統べる小さな領地に分割されていた。領主ごとに施策から度量衡まで違っていたため、広範囲に亘っての商活動は非常に難しく、また領地の境界をめぐっての争いも絶えなかったらしい。
 帝国の侵攻に対して、初めは色んな流言蜚語が飛び交ったものだったが、やがて町の大人たちは口を揃えてこう言うようになった。「帝国が豊かな生活を与えてくれた」と。「マクダレン帝国万歳」と。
 リーナの同意を得たことで勇気づけられたのか、シキが頷きながら言葉を続ける。
「だよね。前より良くなったんだったら、今更反乱なんて起こさなくても……」
「そうそう。……ま、強いて言うなら、問題はあの神像かなー」
 突然曇ったリーナの口調に、不思議そうにシキが問うた。
「神像?」
「礼拝堂にあるじゃない、アシアスの神像だよ。どうにも馴染めないなあって思ってたら、あれ、戦後に帝国軍が置いてったやつなんだってね。なんというか、もうちょっと違うイメージだったんだけどなあ……。って、ごめん。やっぱ、今の無し。聞かなかったことにして。昔はともかく、今はあれが我らが主の象徴なわけだから」
 言われてみれば、あの像は、どこか周囲から不自然に浮いているような気がする。いつぞやレイが言った、『同じアシアス信仰なのに、昔と今じゃ随分教会のあり方も変わってしまった』との言葉を思い出し、シキはそっと眉を寄せた。
「とにかく、ね、概ね皆、帝国に不満はないわけだから……」
「皆、というわけじゃないだろ?」
 それまで一人黙りこくっていたレイが、リーナの声を遮って口を開いた。
「帝国に恨みを持つ者が皆無だってことはないはずだ」
 彼らしからぬ、感情を抑えた穏やかな声が辺りに響き、その場は水を打ったように静まりかえった。
「帝国に何かを奪われたというヤツだっているはずだ。それまで権力を持っていた人間とか、……戦争で家族を失った人間とか」
 返す言葉を見つけられずに、シキもリーナも黙り込む。その様子を見かねたロイが、場を取り繕うように軽く咳払いして、レイに語りかけた。
「そうだ、不満を持つ者がいないわけではない。だが、多くの民が帝国を、皇帝を支持しているというのは間違いない事実だ」
 そして、少し軽い調子で続ける。「まあ、何事も二元論で片付けるのは現実的ではない。それに、陛下達も少しでも世の中を良くしようと頑張っているわけだから……」
「そうだ、先生、帝都で皇帝陛下のお傍にいたんですよね! 陛下達って凄くイイ男だって本当ですか?」
 沈んでしまった雰囲気をなんとかしようと考えたのだろう、リーナが必要以上に明るい声で話題を変えた。意図を汲み取ったロイもまた、彼女に調子を合わせる。
「あ、まあ、そうだな、お二人とも確かに見栄えのする方々だな」
「双子なんですよね? 若いんでしょ?」
「若いって言ったって……私と同じ歳だったはずだよ、確か」
「じゃあ、充分若いじゃないですかー。見てみたいなー。ね、シキ」
 話題を振られたものの、勢いに乗り遅れたシキは軽く溜め息をついた。
「……リーナ、良く知ってるねえ」
「シキが知らなさ過ぎなのよー」
 得意げなリーナの声を聞くなり、レイが行儀悪く鼻を鳴らした。スープを口に運びながら、顔も上げずに横槍を入れる。
「余計なことばっかり知っていてもなあ?」
「なぁんですってー?」
「リーナ、落ち着いて!」
「止めないで、シキ。今日という今日は……」
「言っとくけどな、女だからって、俺は手加減しねーぞ」
「もうっ、レイもいい加減にしてよ!」
 
 若者達の喧騒にやれやれと溜め息をついて、ロイは窓の外を見やった。
 垣根の向こう、だらだらと続く小道沿いに、菜の花が鮮やかな黄色を落としている。
『先生、帝都で皇帝陛下のお傍にいたんですよね!』
 先刻の会話がロイの脳蓋にこだまする。今は遠いあの城でも、春が来れば見事な黄色が中庭を飾っていた。薄暗い回廊の窓から眺めたその景色はまるで一枚の絵画のようで、感嘆のあまり、ロイはしばし足を止め……
「あのロイ・タヴァーネスでも、花を愛でるのか」
 冴え冴えとした声が、どこか愉快そうに背後から投げかけられた。慌てて振り返った視線の先、暗がりから現るるのは、金の髪の美しき君主。
 一瞬にして、ロイの意識は十五年前へと時を遡った。初めて皇帝の面前で跪いた、あの時へと。
 
 
 当時、ロイはまだ二十二歳だった。だが、魔術の腕前では既に都に並ぶものは無く、彼の噂を聞かない者はほとんどいなかった。曰く、天才魔術師、伝説の伝承者、そして傲慢不遜な若造、と。
 その朝、ロイは一等式服に身を包んで宮城に上がった。
 廊下をすれ違う同僚達の反応に、ロイは冷笑を口元に刻んだ。正装した自分に対して、ほぼ全員が、躊躇うことなく即座に姿勢を正して深々と頭を垂れるのだ。宮宰が「内々に、他言無用で」と耳打ちしてくれた人事は、実のところ公然の秘密という類のものだったのだろう。
 その日の朝議が始まってすぐ、宮宰が朗々とロイの名前を読み上げた。
 名を呼ばれたロイは、目を伏せたままゆっくりと前へ進み出た。居並ぶ高官達の刃のような視線の中、玉座の正面に跪く。
「ロイ・タヴァーネス、汝を宮廷魔術師長に任命する」
 怜悧な声が、簡潔に勅命をくだした。事前に宮宰に教わったとおり、ロイは「拝命いたします」と返答をした。微かに震えるその声が、まるで自分の声ではないように思えた。
 床にぬかずき、「下がれ」の言葉を待つロイの耳に衣擦れが聞こえた。次いで、微かな足音が悠然と段を降りてくる。恐慌をきたしそうになる自分を自分で必死に励ましながら、ロイはただひたすら荒い息を繰り返した。
おもてを上げよ」
 意を決して顔を上げたロイの目の前に、美しき丈夫が立っていた。金糸の髪に、絹の頬、煙水晶の瞳。彼こそが兄帝アスラ、魔術師団を率いる高位の魔術師である。燃ゆるような双眸に絡め取られ、ロイは身動きはおろか呼吸すら忘れて石のように御前に硬直した。
 やがて、アスラが静かに右手を差し出した。その手には、宮廷魔術師長の印章を刻んだ一本の官杖が握られていた。なんと兄帝手ずからそれを下賜なさるというのだろうか。ロイは強張る身体を無理矢理動かし、ぎくしゃくと両手を前に差し上げた。
 ひんやりとした感触が手のひらに触れたかと思えば、次の瞬間、ロイの手の中に、ずしり、と重さが落とされた。
「そう硬くなっていては、この先身が持たぬぞ」
 揶揄するように笑うアスラを、柔らかい声が「兄さん」とたしなめる。玉座におわすもう一人の美丈夫が、兄帝に向かって軽く首を振ってから、今度はロイに笑いかけてきた。
「兄を助けて、これからも帝国のために尽力してくださいね」
 騎士団の長でもある弟帝セイジュは、その武勇伝にそぐわぬ優しげな瞳の青年だった。まだ即位して二月ふたつきにもかかわらず、兄と同様に彼についても、その素晴らしい資質を讃える声が巷に溢れていた。
 曰く、その目は臣民を見つめ、その耳は市井の声を聞く。その名前は、名君と呼ばれるに恥じない、と。
 ロイは、胸の奥に熱いものが込み上げてくるのを感じて、そんな自分に少し驚いた。
「これから頼んだぞ、ロイ・タヴァーネス」
 アスラの声に、ロイは慌てて官杖を両手で握り締めた。そうして自分が仕えるべきあるじに視線を戻す。
 双子の皇帝。同じ顔、同じ体、同じ声、……それなのに二人は全てにおいて対照的であった。
「謹んで拝命いたします」
 深々と頭を下げながら、ロイは背中に注がれるアスラの視線を意識せずにはおられなかった。鋭い……いや、むしろ禍々しさすら感じさせるような強い視線を……。
 
 
「それがどうした、って……、レイ、本気で言ってるの?」
 シキらしからぬ素っ頓狂な声に、ロイの心は再び現在へと引き戻された。視線を食卓へと向ければ、相変わらずの三人が、まだ何か言い合いをしている。
「何をバッカみたいに突っ張ってんのよー。気にならない?」
 呆れかえったようなリーナの様子に怯むことなく、レイが鷹揚に椅子に背もたれた。
「たかが噂だろ、ぜーんぜん気にならないね。この目で見たわけじゃないからな。それに何だよ、ふざけた名前だな。黒の導師ぃ?」
 その言葉を聞くや否や、ロイは勢い良く食卓の上に身を乗り出した。
「なんだって?」
 突然のロイの剣幕に、リーナはどぎまぎと目をしばたたかせた。
「え? あ、反乱団について他にも噂があるって話です。その一団の首領が、なんでも『黒の導師』って名乗っているらしいんです」
 
『帝国をゆるがせる忌まわしき存在がいる!』
 大広間に集う人々の間から、うねるようにざわめきが湧き上がった。それを切り裂くように、アスラの声が再度高い天井に反響する。『真の信仰を取り戻せ!』
 
「先生? どうかしましたか?」
 再び黙り込んでしまったロイに、シキが心配そうに声をかけた。
「……リーナ君、本当にそやつは『黒の導師』と言ったのかね?」
「は、はい……。そう……らしいです……」
 先ほどまでとは打って変わって厳しいロイの声に、流石のリーナも動揺を禁じえない。「って、先生、心当たりがあるんですか?」

 
 
 ロイが宮廷魔術師長の任を受けて六月むつきが経過したある朝、城中の人間が大広間に集められた。
「皆の者、良く聞け。私はまた神の声を聞いた!」
 半年前にも、兄帝は同じように末端の官吏に至るまでの全員を集め、同じようにアシアス神より受けたという啓示を発表していた。『我を唯一の神とせよ』との神の言葉を、まだ一介の宮廷魔術師に過ぎなかったロイは、同僚達とともに大広間の片隅で拝聴したのだ。
 そして今、ロイは兄帝のすぐお傍で、その神がかった演説を目の当たりにしている。
「我々は、忌まわしき存在によって、今まで真の神の姿を隠されていたのだ」
 澱みなく紡ぎ出されるその声は、時に優しく、時に激しく、聞く者の心を根底から揺さぶる。居並ぶ人々は皆、瞬く間にアスラの語りに魂を奪われていった。
「私は神の嘆きたもうを聞いた! 聖峰ガーツェに神像を祀るのだ!」
 それまでのアシアス信仰は、偶像崇拝を禁じていた。人々が祈る対象は、神の言葉そのものであり、教会は装飾的に綴られた神への賛歌で飾られていた。だがそれは、忌まわしき者――黒の導師――によって作り上げられた偽の信仰であったという。兄帝の夢枕に立ったというアシアス神は、苦渋に満ちた様子で善良なる帝国の民に助けを求めてきたとのことだった。
 突然のアスラ帝の告発は、帝国全土を震撼させた。折しも東部平定の決議がくだり、二人の皇帝は「真の信仰」を合言葉に出兵することになる。そしてこの帝国軍の侵攻は、のちに信仰復古、もしくは神像復古と記録されたのだった。
「真の信仰を取り戻すのだ!」
 寝耳に水な御触れに対する人々の戸惑いや迷いも、神像を頂いた聖峰が炎を噴き出すまでであった。東の空を赤く染める火柱に、誰もが熱狂した。
 ――取り戻せ! 真の信仰を! 唯一の絶対神、アシアスのご加護を!
 
 
「……で、黒の導師ってのは何者なんですか?」
 レイの問いに、ロイは軽くかぶりを振った。
「正確には解らない。皇帝陛下が明らかにされた啓示は、特定の人物を明確に指し示してはいなかったのでね。おそらくは暗黒魔術を使う者のことだろう、ということになったのだよ」
 皇帝の御触れが出されてからすぐ、魔術師ギルドは自ら「魔力吸収」「生命力吸収」「死者使役」などのいわゆる「暗黒魔術」を封印した。それらは、もともと好まれざる術ゆえに、忌まわしき「暗黒」の名前を冠していた。だが、術を使用する者こそほとんど存在しなかったものの、知識として習得している者は少数ながら存在した。ギルドは、暗黒魔術に関して焚書を行い、既に習得している術者に対しては、暗黒魔術を使用しないように「誓約」の術をかけた。
 邪教狩り、神像復古、暗黒魔術の封印。これらによって、アシアス神の加護はより確固なものとなったのだ。
「そういえばさっき、何かまだ気になる話があるようなことを言っていたね?」
「あ、そうなんですよ! 私が聞いた話では、その黒の導師とかいう人は黒髪なんですって」
「黒髪……?」
「ほら、先生だって気になるでしょう? なのに、コイツってば、『気にならないねー』とか何とか、拗ねちゃって……」
「なんだよ、じゃあ、俺達がそのナントカっていうアシアスの敵だというのか?」
「誰も、そんなこと、言ってないでしょ」
「二人とも、落ち着きたまえ」
 また言い争いを始めそうな二人を遮るべく、ロイは少し語気を強めた。それから、弟子をやや気遣うようにして言葉を継いだ。
「とにかく、その当時、黒髪だから黒の導師、という話はなかったよ」
 そもそも黒い髪という発想自体が誰の頭にも存在しなかったのだから。そこまで考えて、ロイははっと息を呑んだ。そうだ、黒髪に言及した人物が一人だけ存在した、と。
 
 ロイは思い出した。ギルドによる暗黒魔術封印の報告をした時の、アスラ帝のあの表情を。彼は眉間に皺を寄せて、握り締めた拳をじっと見つめていた。
「……まあ、よい。ギルド長の好きなようにやらせるがいい」
「何か問題でも?」
「別に何もない」
 明らかに何か不都合があるかのような主君の態度に、ロイの眉が曇る。だが、兄帝は視線を逸らしたまま、小さく一言を吐き出した。
「もう下がれ」
「は」
 兄帝の執務室を辞したロイが部屋の扉を閉める直前、彼の耳が微かな声を捉えた。
「……黒髪の巫子が…………」
 そう、ロイは思い出したのだ。
 棘々しく、まるで嘲り笑うがごとく兄帝が吐き捨てた、あの声を。
 
 
 

    二  師弟
 
 琥珀色の液体が、ランプの灯りを反射しながら杯の中で揺れる。幻想的に絡み合う光の曲線を見つめ、ロイは一つ溜め息をついた。
 彼が都を離れて、今年で十年の歳月が経った。
 七歳で孤児になり、十歳の時に魔術学校の門をくぐることを許され、寄宿舎生活を八年の間続けた。そして、宮廷魔術師の末席から頂点まで駆け上がった九年間。イの町で二人の弟子と過ごす時間が、自分の人生で一番長い期間を占めてきているということに、ロイは少し驚いていた。
 こんなに感傷的になるのは、今朝の朝食での会話が原因なのだろう。再度ロイの口から深い息が漏れる。思いがけずに掘り起こされた記憶はどこか現実味が薄く、なのにどこか生々しく、まるで季節外れの東風のようにロイの胸の奥をざわめかせていた。
 
 軽いノックの音に続いて静かに扉が開き、珈琲の香りが居間に侵入してきた。
「先生、こちらにいらしたんですか」
 シキが、小脇に本を抱え片手に湯気の立つカップを持って部屋に入ってきた。夕食の片付けが終わって、一息つきに来たというところであろう。
「もうお休みになっておられるのだと思ってました。……おや、お酒ですか、珍しい」
 ロイはあまりアルコールに強くない。頂き物の酒類は、専ら戸棚の飾りとなっている有様だ。
「たまには、ね」
「無理しないでくださいよ」
 そう言いながら、シキは空いている肘掛椅子に腰をかけた。傍らの小机にカップを乗せ、本を読み始める。
 ロイは、長椅子の肘掛に頬杖をつきながら、揺らめく炎に照らされる愛弟子の横顔を静かに眺めた。
 つい十日前のあのひととき、彼女は自分の腕の中にいた。薬のせいとはいえ、情欲に濡れた瞳で自分を見つめ、口づけを交わし、甘い吐息を漏らしさえもした。
 もしもあのまま邪魔が入らなければ。あえなく幻となったもう一つの結末を、ロイは幾度となく夢想した。華奢な身体をそっと寝台に横たえ、一枚一枚衣を剥いでいくさまを。あらわになった首筋に刻むは、吸い口の痕。首から襟、そして胸へと、白い肌に花びらを散らしていけば、彼女は一体どんな歌を歌うだろうか……。
 かつて、ころころと犬の仔のように纏わりついてきた少女は、十年の歳月を経てすっかり成熟した大人の女となった。丸みを帯びた柔らかな腰、動きに合わせて控えめに揺れる胸のふくらみ、絶妙な曲線を描く脚、それら蠱惑的な肉体が男の劣情をどんなにかき立てるのか、シキは全く分かっていないようだった。なにしろ、二人もの異性の同居人に対して、彼女の態度は子供の頃からと何ら変わることがなかったからだ。
 幸い、彼女が進んだ道は「女」の存在しない世界だった。魔術師として生きるために、彼女は自らの性を隠そうとした。体形の現れにくい男物の服に身を包み、簡潔に喋り、機敏に動き、鋭い眼差しで彼女は世界と対峙した。「女魔術師」という存在に当初はあらぬ期待をしていたであろうギルドの連中も、現実を知った者から意気もろもろが萎えていった様子で、やがてそのうち誰も彼女のことを気にとめぬようになった。
 ――愚かな奴らめ。
 ロイは心中ほくそ笑んだ。仮にも術師ならば、外見に囚われずに真理を見抜くことができてしかるべきはずなのに、と。無能な奴らには想像もできないのだろう、シキがどんなに優しく微笑むのか。どんなに楽しそうに笑うのか。うっかり失敗をした時の、あの困ったような表情も、唇を噛み自省するあの眼差しも。
 体術の稽古中、組み合った時の彼女の荒い息遣いは、それだけで身体中の血液が沸騰してしまうようだった。彼女が苦しそうな表情で突きを払うさまを思い出し、またもロイの思考はあのひとときへと引き戻された。腕の中で震えるシキの、悩ましげな媚態へと。
 ――もしもあのまま邪魔が入らなければ……
「先生?」
 シキの落ち着いた声に妄想を破られて、ロイは大きく息を呑んだ。
「何か、私の顔についてます……?」
 ロイは慌てて背筋を伸ばすと、取り繕うように口を開いた。
「いや、ああ、この間はすまなかったね」
「この間?」
「わざわざ雨の中、薬を買いに行ってくれただろう」
「ああ。そんな、大したことないですよ」
 にっこりとそう言ったのち、シキはそっと柳眉を寄せた。「でも、結局、治療院のお世話になってしまったじゃないですか。薬もいいですけど、やっぱり……」
「ああそうだね、今度は考慮しよう」
 シキの言葉を思いっきりばっさりと打ち切って、それからロイは心持ち膝を前に出した。
「そんなことより、薬を買った時、薬草屋は何か言っていたかね?」
「カレンさんが、ですか? ええと、特に何も仰ってなかったような……」
「彼女の様子は、どうだった?」
「どうって……、いつもどおりというか……」考え考え言葉を吐き出しながら、再度シキが首をかしげる。「それに、私、カレンさんとあまり喋ったことがないし……」
 そうか、とロイは長椅子に背もたれた。
 カレンがシキに媚薬を盛ったのは間違いないだろう、そうロイは心の中で頷いた。事故か、悪戯か、……事故でなかったとすれば、その対象はシキなのか、この自分なのか。
 そこまで考えて、ロイはふとある可能性に気がついた。
「レイが遠出していることは言ったのかい?」
「えっと……、言ったんじゃないかなあ。ちょっと良く覚えていないんですけど」
 なるほどな。小さく呟くロイの脳裏に、あの妖艶な美女の姿が浮かび上がる。あれはいつのことだったか、「解毒」の術で身体から薬を抜いたロイを、彼女は至極残念そうにねめまわしていた……。
 私はただ楽しい時間を過ごしたいだけなの、他は何も要らないわ。そう笑う女に、ロイはかつての自分を見た。師のもと、ただひたすら知識を求めて、夢中になって魔術を研究した懐かしい日々、あの時確かに自分は、もう他に何も必要ない、と思った。学問を続けることさえできるのなら、他には何も要らない、と。
 だが……、と、ロイはおのれを顧みて苦笑を浮かべた。欲しいものはただ一つ、などと臆面もなく口にするような者ほど、得てしてそれだけでは足りぬのだ。他には何も必要ない、と殊勝な表情で唱えながら、その一方で貪欲に全てを喰らい尽くそうとするに決まっている。
 そうして自分は宮廷魔術師長となった。そればかりか、魔術師として最高の権力を手中に収めておきながら、まだ手に入れていない何かを求めて帝都を離れた。
 同様にカレンもまた、新たな何かを欲したのだろう。
 ロイはこれまでに何度か、薬草屋を訪れるレイの姿を目にしていた。遂に奴も一人前の男としてあの女に認められたのか、と感慨深く思いこそすれ、ロイはその逢瀬自体を驚きはしなかった。気が向いた時に、気が向いた男を嗜む、それが彼女の日常だったからだ。
 それが、今回のあの薬だ。きっと、カレンは、レイと一つ屋根の下に住むシキが目障りになったのに違いない。シキをさっさともう一人の同居人とまとめてしまって、レイの周りから女の気配を絶とうとしたのだろう。あの女が、既に一度ならず関係を持った男相手に、そのような回りくどい方法を取ろうとするということは……、きっと彼女は欲しくなったのだ。これまで彼女が手にしたことのない何か……を。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもないんだ」
 怪訝そうに問いかけてくるシキを適当にかわして、ロイは杯を傾けた。そして慎重に胸の中で計算をする。ルドスの古物商との取引が無に帰した今、あの媚薬はロイにとって非常に有用な代物だった。あれを手に入れることができれば、夢想は現実のものとなる。出口の見えない隧道から、ロイは抜け出すことができるのだ。
 空になった杯をロイが置いたその時、居間の扉が勢い良く開いた。
 
「……びっくりしたー」
 大きく息を吐いて、シキが恨めしそうな声を上げる。彼女の視線の先には、廊下の暗闇を全身に纏ったレイが、荒い息で立っていた。
「レイ、扉は静かに開けなさい」
「あ……、はい」
 何やら溜め息を吐いたレイは、少しだけ決まり悪そうな表情をこぼした。
「そんなに息を切らせて、何の用だね」
「あ、いや、……その、俺、ちょっと先生に訊きたいことがあって」
「私も、お前に少し訊きたいことがあったのだ。座りなさい」
 扉を開けた時の勢いはどこへやら、レイは大人しくロイの向かいの長椅子に腰を下ろした。
「レイ、この十日ほど、家事をシキに任せっぱなしにしているようだが」
 レイはほんの刹那身をすくませたのち、膝の上で組んだ両手を見つめた。
「鍛冶屋のおっさんが腰を痛めたってんで、手伝いに行ってるんだよ」
 その答えに、ロイは意外そうに小さく片眉を上げた。
「そうだったのか。エイモスさんが。そんなに悪いのかね?」
「あ、まあ、もうそろそろ、良くなってきたみたいなんだけど……」
 訥々と言葉を返していたレイは、そこで勢い良く顔を上げた。
「それよりも先生、先生は何故俺達を引き取ってくれたんだ?」
 予想もしなかった突然の質問に、ロイは数度まばたきを繰り返した。
「どうしたんだね、突然」
「いや、前から一度訊いてみたいと思っていたんだけど、今朝の先生の話を聞いてさ、改めて気になってさ……」
 レイの言葉を聞いたシキも、同じように身を乗り出してきた。
「私もです。せっかく皇帝陛下のお傍でご活躍しておられたのに、一体どうしてイに留まることを決めたのですか?」
 二人は揃って口元を引き結び、真剣な表情で答えを待っている。ロイはしばし無言で、弟子達を交互に見つめていたが、やがて悪戯っぽく口のを上げた。
「シキが私のことを『おとうさん』って呼んだからだ、と言ったらどうする?」
 
 
 ゆっくりと立ち上がったその子供は、名前を問うロイの声に答えることなく、ただじっと彼を見上げ続けた。ロイの外套の端を握り締めたまま。
 自分を見つめる深緑の瞳に魅入られ、身動きもとれずにただ立ち尽くすロイの目が、はっと驚きに見開かれた。
 ――黒髪、なのか。
 視線を巡らせば、傍らに立つもう一人の子供も同じように漆黒の髪をしていた。外套を掴む子供よりも若干短いが、色も質感も全く同じ、夜の闇を飛ぶ鴉の羽のような果てなき黒。このような色味の髪がこの世に存在するとは、と絶句したところで、ロイの外套が軽く引かれた。
「……おとうさん……?」
 それはとても弱々しい声だった。喉に貼りついてしまった言葉を、無理矢理吐き出そうとしたかのように、酷くかすれて聞こえた。
 言葉の意味を問い質そうと、ロイが口を開きかけたその時、小さな影が目の前で動いた。
「あんた、誰だ」
 髪の短いほうの子供が、もう一人を守るように、両手を広げてロイとの間に割って入ってきた。
「シキ、しっかりしろ。こいつはお前の父さんなんかじゃない」
 一人前にも、ちらちらと背後を気遣いつつも、その子供はロイを睨みつけた。
「あんた、何者だ。何しに来た」
 大人の自分をもたじろがせるほどの眼光に、ロイは心の中で舌を巻いた。だが、そんなことはおくびにも出さず、悠然と少年の眼前に迫る。少し大人げないかな、と僅かな罪悪感を抱きつつ、ロイは負けじと目元に力を込めて少年を睨み返した。
 
 
「私が? お父さん、って呼んだんですか? 先生を?」
 びっくり眼で声を上げるシキの傍らで、レイが声を押し殺して笑っていた。
「そうそう。それで先生、あの時、大真面目な顔で名乗ってから、『残念ながら、まだ誰の父親にもなったことはない、はずだ』って……」
「そんなこと、言ったかな」
 額を指で押さえて記憶を探るロイに、レイはなおも言い募る。
「言った言った。『はず』ってなんだよ、はっきりしろよ、って思った記憶あるし」
「命の恩人に、随分な態度だな」
「それも言ってた」
 にやにやと追い討ちをかけるレイに、鋭い一瞥で反撃しておいて、それからロイはわざとらしく咳払いを一つした。
「まあ、印象深い出会いだったのは間違いないということだな。あの時も言ったと思うが、私は、七つの子供が魔術を使えるという噂を聞いて、イにやって来たのだ。まさか女の子とは思わなかったけどね」
 いよいよ話が本題に入ると分かって、二人の弟子は揃って居住まいを正した。その様子に至極満足そうに頷いてから、ロイは静かに言葉を継いだ。
「私がどんなに驚いたか、解るか? 女には魔術は使えない、それは真理ではなかったのだから。真理ではないものを真理として思い込まされていたという事実に、私は愕然としたよ」
 そうロイは悔しさを声に滲ませた。
「いわれてみれば確かに、どの書物にも、古代ルドス魔術の使役に性別が限定されるなんてことは記されていない。それでも、現実問題として、女性の術師は私の知る限り存在しない。君を除けば」
 じっとシキを見つめながら、ロイは膝の上で両手を組んだ。
「あの時、君が『灯明』を見せてくれた時、私は思ったんだ。ここに糸口があるのかもしれない、と。まだ手に入れていない真理への鍵が、ここにあるのではないか、そう思ったんだ。
 それに、君の術は子供とは思えないぐらいに見事だった。この才能がどこまで伸びるのか、見極めたいとも思った」
 熱の籠もったロイの視線を受けて、シキが少しだけ眉を寄せつつはにかんだ。それを見ながら、レイが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「どうせ、俺はオマケだよ……」
 拗ねた声に、ロイは心外だと言わんばかりに大きく息を吐くと、鋭い視線を真っ直ぐにレイへと向けた。
「オマケなものか。私はお情けや同情で子供を引き取ったりなぞしない。忘れたのか?」

 
 
「私のところへ来ないか?」
 治療院の一室で、ロイはそう言ってシキに微笑みかけた。「魔術を教えてあげよう。君ならばきっと素晴らしい魔術師になる」
 差し出された手を、戸惑う瞳がじっと見つめた。小さな手が胸元でぎゅっと握り締められ、そのまま硬直したように動きを止める。
「だめだ!」
 部屋の隅に立っていた少年が、必死の形相で叫び声を上げた。「シキは家族をなくしたんだぞ。それなのにまだ更にシキを一人ぼっちにしようっていうのかよ!」
 またお前か、と肩を落としながら、ロイはレイに冷ややかな眼差しを投げつけた。
「お前には関係ない。それに、私は彼女を帝都へ連れて行くつもりはない。あくまでも主体は彼女なのだからな。住み慣れた町を離れたくないと言うのなら、それはそれで構わない」
 それに私はあの街を出てきたのだからな、と胸の中で呟いて、それからロイは司祭のほうに向き直った。
「どこかこの近くに、空いている家などありませんか?」
「ああ、それなら、ええと、確か、町の西の外れに……」
 何事も無かったかのように司祭と相談を始めるロイに、酷く切羽詰まった声が縋りついてきた。
「おれも……、おれにも魔術をおしえてくれ!」
 それが人にものを頼む態度か、という心の声がどうやら届いたようだった。レイは慌てて姿勢を正すと、神妙な顔でもう一度繰り返す。
「おれにも魔術をおしえてください!」
「私は無駄なことはしない」
「むだかどうかなんて、やってみないと分かんないだろ!」
 ここに及んで、思わずロイは目を細めた。ぎゃんぎゃん吠えるばかりのこの仔犬が、得意そうに尻尾を振るところが、ふと目に浮かんだのだ。それとも、尻尾を巻いて悲しそうに鼻を鳴らすか、悔し紛れに遠吠えするか、……どちらにせよ、想像するだに面白い。
 さて、どうするか、と顎をさするロイを尻目に、レイが勢い良くシキを振り向いた。
「シキ、お前、さっきの術、できるようになるまで何日かかった?」
「え……、その……、おぼえてない……」
 か細い声で呟いて、そうしてシキは俯いてしまった。
 身勝手にも不満そうに唸るレイを、ロイの冷たい声が打つ。
「二週間」
 まるで講義でもするかのように、ロイは淡々と言葉を継いだ。「一般的な教本では、『灯明』に二週間を割いている。ただしこれは、古代ルドス語の読み書きができることが前提であり、加えて、数学と……」
「一週間だ」
 ロイの話を途中で遮って、レイが真っ向から睨んでくる。あまりのことに、ロイは茫然と口を開いた。
「……お前に呪文書が読めるのか?」
「読めるわけないだろ。シキにおしえてもらう。だから、半分の一週間でいい」
 
 
「いや、あれは凄かったな。これが、火事場の底力というものか、と本当に感心したよ」
 半分からかうような口調のロイに合わせて、シキはしみじみと相槌を打った。
「口頭で習うほうが、教本を使うよりもずっとややこしいですよね?」
「そんなこと、あの時の俺に分かるわけないだろ!」
 過去の自分の無謀さが相当気恥ずかしいのだろう、すっかり不貞腐れた様子で、レイが長椅子の背に背もたれた。「大変だったんだぞ、本当に」
「ああ。……よく頑張ったな」
 そう頷く師の瞳は、いつになく優しかった。
「レイ、君は若い頃の私に良く似ている。勘も良い。今でも私の見立ては間違っていなかったと思っている」
「ええええ!? レイが先生に似ているんですか? ……どこが?」
 レイ自身も、師匠の言葉に驚いているようだった。口を半開きにしたまま、まばたきも忘れて目を丸く見開いている。
 驚愕する二人の弟子に苦笑しながら、ロイが続けた。
「似ているとも。私もこの十年で随分丸くなったからね。そうだな、レイがもっと強くより高みを望むのならば……私を超えることも可能かもしれないな。なにしろ、あのだからな」
 冗談めかしてそうつけ加えたのち、ロイの眼差しがふっと遠くなる。
「……私も、君達と同じぐらいの歳に孤児になったからね。ある篤志家のお陰で魔術を習う機会を手に入れて、それで生き永らえることができた。……そうだな、同情はないとは言ったが、同一視はしていたかもしれないな。かつての自分と、君達とを」
 背もたれから身を起こし神妙な表情で耳を傾ける二人に、ロイは訥々と語り続ける。
「私は、物心がつく前に父親を亡くしているのでね。こうあってほしかった、という父親像を自分で体現しているのかもしれないな……。ふむ、今まであまり深く考えていなかったが……、人の心とは難しいものだな。自分のことですら良く解らないときた」
 ロイが口を噤めば、沈黙がしばしその場を支配した。
 二人の弟子は語るべき言葉を見つけられず、ただ黙って師匠の顔を見つめている。ほどなくして、レイが大きく息を吸った。
「……先生が俺をそんなふうに見てくれていたなんて、思ってもいなかった。正直、この髪の色がなければ、俺はシキのオマケにもなれないんだと考えていた」
「そんなことはない」
 ロイが即答した。
「確かに君達の髪の色に驚きはしたが、そのような理由で弟子を取ろうなど思ったりはしない。ただ……」
 語尾に躊躇いがちにつけ足された一言を、シキは静かに復唱した。
「ただ?」
「黒髪という存在について、何ら含意がなかったかと言えば、断言することができないというのが正直なところだ」
 やけに歯切れの悪い師の言葉に、二人の声が重なる。
「それは、どういうことですか?」
「今朝、君達に昔語りをしている時に、思い出したのだ。兄帝陛下が、『黒髪の巫子』と仰られたことを」
「黒髪の、巫子?」
 二人の問いかけに、ロイは静かに語り始めた。ギルドが暗黒魔術を封印した報告を聞いた兄帝が、浮かない表情を浮かべたことを。ロイが退出したのち、兄帝が漏らした独り言を。
「君達と出会い、ともに暮らすことを決めた時、あの言葉が頭のどこかに引っかかっていた可能性は否定できないというわけだ。まぁ、だからといって、黒髪ならば誰でも良かったなんてことは絶対にないだろうがね」
「でも、黒髪の巫子、って一体誰、というか何、ですか?」
「解らぬ。巫子、と言うからには、何か信仰に関わる役割を担うのだろうが……、だが、私が知る限り、アシアスの教義にそのような言葉は出てこない」
 自信たっぷりにそう言いきったロイに、シキは更に身を乗り出した。
「すると、私達のこの髪は、アシアス以外の神に関わるというのでしょうか?」
「だから、解らないのだ。大体、君達は異教徒ではないし、そんな神々に関わったようなこともないだろう?」
「確かに、異教の神さんなんか知らないな」
 口を開こうとしたシキを遮って、レイが言い放った。有無を言わさぬ強い響きに、シキは思わず彼を振り返る。
「リーナの奴の言うとおり、ナントカの導師っていうのが、その巫子なんじゃねーの?」
「そうだな、陛下の話もあるし、まるきり無関係とは言えないかもな」
 師とともに平然と議論を続けるレイを、シキは無言で見やった。
 この黒髪が異教に関わるものかもしれない、そう言ったのは彼だった。崖崩れのあとの治療院で、彼がそう語ってくれたのだ。
 言い知れぬ不安が、胸の奥でのたりと波打っている。シキはそっと眉をひそめ、レイの横顔を見つめ続けた。
 
 
 

    三  取引
 
 甲高い悲鳴が森の中に吸い込まれていく。
 抗う音、交錯する靴音、下卑た男達の声、また悲鳴、悲痛な叫び。それらがゆっくりと木立の中へと遠ざかっていく……。
 
 その時、僕は山道のすぐ脇で、ごつい手のひらに頭を押さえ込まれていた。
「放せよ! 母さんに何するんだよ! やめろよ!」
「子供の見るもんじゃねぇんだよ」
 髭だらけの顔が、目前でにやけた笑いを刻む。
 一瞬の隙を突いて、僕は、自分を捕まえていた腕に噛みついた。
「痛ててて、このガキゃ!」
 蹴り倒され、視界が一瞬暗転する。
 腹部にめり込む堅い靴。右肩と右頬に鈍い痛み。起き上がろうとしたところに、男の拳が飛んで来た。
「よくもやってくれたな! 命だけは助けてやろうかと思ってたのによぉ、こンのクソガキめ」
 木の幹に打ちつけられた背中が激しく痛む。動けない。
 霞む視界に、髭男の姿が大写しになった。その向こう、大きな石の上に三人の男達が群がっているのがちらりと見えた。そして、彼らの隙間から垣間見える白い足……。
 大きな手が、僕の首を掴む。男の指に力が込められる。
 
 ――殺される。僕は殺されるのか。いやだ、誰か。
 
 右手が何か堅いものに当たった。夢中で握り締めると、それはずるりと地中から抜けた。
(そう、最初は木の根か何かだと思っていた)
 
 ――死にたくない。誰か、助けて。
 
 一撃だけでいい。せめて一撃だけでもくらわせてやりたい。死にものぐるいで、全身の力を右手に集中する。薄れかけた意識の下、木の根を握った右手を必死で身体の前まで動かした。そうして、男の腹に突き立てようと、手首を返す。
 
 ――誰か、助けて。誰か、力を……!
 
 その刹那、砂塵が勢いよく舞い上がった。と、同時に風切り音が耳をつんざく。
(今なら分かる。これは「風刃」だ。風の刃の呪文が込められた魔術の杖。打ち捨てられていた古代の遺物……)
 生温かい血の感触が、両手をぬめらせる。僕は、のしかかる髭男の巨躯を無我夢中で押し退けて、荒い息で身を起こした。これまで感じたことのない激しい疲労感が、身体全体を押しつぶすようだった。
 
 ――そうだ、母さんを助けなきゃ!
 
 力の入らない両足を踏ん張れば、霞む視界の中、やけに赤い色彩が目を射た。
 巨石から地面へとつたう幾つもの赤い筋。その上に覆いかぶさる男達も、朱に染まっている。
 僕は呆然とそこへ駆け寄った。
 男達は、互いに折り重なったままぴくりとも動かない。信じられないほど重いそれらの身体を、石の台から転がり落としていくと、一番下にはあった。僕の頭を撫でてくれた優しい手、僕を抱きしめてくれた温かい腕、柔い肩。でも、そこには、あるべきはずの頭部が……。
 
 込み上げる吐き気、絶叫、絶望。
(だが、どうしようもなかったのだ)
 ゆらり、と黒いかげろうが地面から立ちのぼる。
(なんだこれは?)
「すごいじゃないか……」
(誰の声? どこから?)
 
 
 久しぶりに見た、あの夢。ロイは表情一つ変えずに、寝台から起き上がった。
 三十年前、遠出の帰り道、ロイは母とともに山賊どもの待ち伏せを受けたのだ。
 まだ日が高いからと、母子二人きりで山を越えたのがよくなかった。彼らは白昼堂々と姿を現すと、あっという間に二人を虜にし、その荷物を奪い盗った。
 力無き婦人と七歳の子供相手に、すっかり自分達の優位に酔った連中は、祝杯の肴にロイの母を饗しようと考えた。そして、あろうことかその場でそれを実行に移したのだ。
 そのあと、何が起こったのかは夢のとおりだ。ただ一人生き残ったロイは、その場で気を失い、通りすがった旅人に助けられた。そうしてそのまま、いつしか帝都へと流れついたのだ。
 ロイは、大きな溜め息をついた。何度も何度も、心が麻痺するぐらいに繰り返された夢だ。今更何の感慨も湧かない。そこまで考えて、ふとロイは右手を顎に当てた。
「いや、まてよ」
 今回の夢はこれまでとは少し違っていたような気がした。意識を失うその寸前、地面から染み出したかのように揺らめき立った黒いかげろう。あれは一体何だったんだろうか。それにあの声。どこかで聞いたことのある、低い声……。
 ロイは頭を軽く振った。昨夜のアルコールがまだ少し残っているのか、鈍い頭痛がこめかみを差す。ロイは眉間に皺を刻みながら、窓辺に寄って鎧戸を開けた。森の上に顔を出し始めた太陽が、真っ直ぐに彼の目を射る。
 ――そうだ。私の手は汚れきっている。山賊達を殺し、母を殺し、それからも生きるために幾度となく盗みを働いた。魔術師となってからも、ライバルを蹴落とし、師匠を裏切り……、それどころではない。さきの戦争で私は一体何人の人間を殺めたのか。
 清々しい表情でロイは深呼吸をした。
 町の人々や子供達に「先生」と呼ばれる生活。弟子の規範となるべき生活。あまりにも穏やかな日々が、自分というものを勘違いさせていたような気がする。そう独りごちると、そっと口元にいびつな笑みを浮かべた。今更何を躊躇おうというのか、と。
 ――そう、今まで犯してきた罪に比べると、実にささやかなことではないか。女を一人我が物にする、ただそれだけのことなのだから。
 
 
 
 大きな溜め息が、レイの口から漏れた。
 さんさんと春の日差しが降り注ぐ井戸端、レイは摘み取ったばかりの菜っ葉を洗いながら、もう何十回、もしかしたら百回を超えたかもしれない溜め息を繰り返し続けていた。
 あれから昨夜は、夜の更けるまで三人で話し込んでいた。話題は「黒髪の巫子」から「暗黒魔術」へと流れ、禁断の術やら誓約の呪文やら、レイ達が普段なかなか知ることのできない興味深い内容へと変遷していった。師匠はここぞとばかりに知識を披露し、弟子達は目を輝かせてひたすら相槌を打った。
「こういう深い会話のできる相手が存在する、というのは、良いものだな」
 師はそう言うとレイに向かって微笑んだ。「こんな団らんもたまにはいいものだろう? お前も、外をほっつき歩くばかりでなく、もう少し落ち着いたらどうだ」
 本当にそのとおりだ、とレイは思った。十年の歳月を経て、ようやく自分達は先生と同じ場所に立つことができたのだ。これまでのように「お荷物」としてではなく、同志としてともに道を歩んでいける、そういう位置につくことができたのだ。
 しかも先生は、この自分の実力を認めてくれていた。そればかりか、師を超えることを期待しているとまで言ってくれたのだ。
 あの瞬間の自分の気持ちを、一体どう言い表したらいいだろう。一瞬にしてレイの鼓動は高鳴り、熱いものが胸に溢れかえった。どこか誰もいない場所で、思いっきり勝ちどきを上げたくなる、そんな心地だった。
 ――もっと早く言ってくれれば。
 ならば、何も知らないまま、「その時」が来るまで夢を見ていられたかもしれない。だが、レイは気づいてしまったのだ。ロイがその胸の内に抱えるどす黒い欲望に。
 
 あの嵐の日からもうそろそろ二週間が経つ。その間毎日、レイは東の森の「秘密の部屋」に通っていた。鍛冶屋に口裏を合わせてもらって、家事をシキに任せて、彼はあの異教の呪文書を一心不乱に読み続けた。
 師匠の指摘が入らなければ、今日だってレイは朝から東の森に行くつもりだった。しかし、物言いがついた以上、目立った行動は慎んだほうが安全だろう。就寝ぎわの「人助けもいいが、シキの負担も考えてやりなさい」とのロイの言葉に、レイは潔く首を縦に振った。実のところ、二週間みっちり自分の時間を持てたことで、例の呪文書の解読はほぼ完了し、鍵となるであろう一つの呪文も、あらかた理解することができていたからだ。
 菜っ葉の土を落としながら、レイはまたもや大きく息を吐いた。
 呪文書を読み込めば読み込むほど、レイは自分の直感が正しかったことを思い知らされることになった。疑心暗鬼が確信へと変貌する中、レイは黙々と異教の術を読み解き続けた。
 だが、この期に及んで、レイはまだ悩んでいたのだ。師匠の本意を自分は誤解しているのではないか、と。所詮人間は、自分自身を尺度に事象を捉えることしかできないものなのだ。となれば、自分は今、おのれの心の弱さが見せる幻に囚われてしまって、現実が見えていないだけなのかもしれない、と。
 ――俺が、考え過ぎなのかもしれない。全ては杞憂に過ぎず、この呪文書だって、単なる学問上の資料でしかないのかもしれない。
 
 しかし、もしも、仮に、この想像が真実であったならば。
 
 レイの拳が、強く、強く握り締められた。
 シキを奪われるのを、黙って指を咥えて見ているなんてことは、絶対にできない。そうレイは歯を食いしばった。そんなことになってしまったら、俺は、一生自分を許さないだろう……。
 ――どうしてなんだよ、先生……!
 手桶に映ったレイの表情が、悲痛に歪んだ。
 
 
 
 妖艶な微笑みが、みるみる毒を帯びていく。血のように紅い唇がそっと綻んだかと思えば、とろけるように甘い声が静かな室内を震わせた。
「いい話だと思うんだけど?」
 薬草屋の主人は、そう言ってカウンターにしなだれかかった。あいた胸元を強調するように突き出して、上目遣いで客人を見上げる。こうすれば、大抵の男は彼女の言いなりとなった。特に、頭の中が股間と直結しているようなダンみたいな男には、絶大な効果を及ぼすだろう。
 だが、今度ばかりは様子が違った。ダンは、柔らかそうな胸の谷間には目もくれずに、戸口に向かってじりじりと二歩をあとずさった。
「い、嫌だ、俺はもう金輪際あいつらには関わらねぇって決めたんだ」
 カレンの眉が、そっとひそめられる。
「言っとくけどな、俺ぁ、レイの奴なんか全然怖くねぇんだからな! けどよ、親父が言うんだ。ロイ・タヴァーネスに関わるな、ってよ」
 なけなしの虚飾もすっかり剥がれ落ちた様相で、ダンの遠吠えは続く。
「レイの野郎なんか、俺が本気出したら屁でもねぇ! だけどよ、あの大魔術師が出てきてしまったら、もう誰にも、親父にも手は出せないってよ! そんな奴ら相手にするの、俺はごめんだからな!」
 その瞬間ドアベルが可憐な音を立て、ダンはバネ人形のようにその場に飛び上がった。慌てて振り返った先に、他でもない噂の人物が立っているのを見て、彼は上ずった声を上げた。
「わ、俺、その、……じゃあな!」
 辛うじてそれだけを言い捨てて、ダンはロイの傍らをすり抜けて走り去っていった。
 
「失礼するよ」
 騒がしい足音が往来の向こうに消えていくのを黙って見送ってから、ロイは悠然とカレンへ向き直った。
「いらっしゃいませ、先生」
 そっと身を起こしたカレンがとびっきりの笑みを浮かべる。「いつぞやのお薬は良く効いたかしら?」
 その挑発するような口ぶりに、ロイはほんの僅か片眉を上げた。
「……どちらの、かな?」
 そう返すロイの口元が静かに笑いを刻むのを見て、カレンの目が細められる。
「ねぇ先生、こちらでお話ししません?」
 そう言って、カレンは奥の扉を開いた。

 
 薬草屋の居間は調度こそ普通の家と変わりがなかった。ただ一つ、天井から幾種類もの薬草がぶら下げられているという点を除いては。カレンのあとから部屋に足を踏み入れたロイは、辺りに充満する不思議な香りに包まれながら興味深そうに周囲を見まわした。
「そうね、個人的には、風邪薬じゃないほうのお話が聞きたいわ」
 カレンは一人優雅に長椅子に腰かけると、紅を差すように小指で自分の唇をなぞりながら、ロイを見上げてきた。
「自信作なのよ、あれ。どう、存分に楽しめて?」
「……何も無かったさ」
 無表情に言葉を返すロイに、カレンは意外そうに刹那目を見開いた。それから小さな声で「やっぱり、そうだったのね」と肩を落とした。
「崖崩れがあったものね。貴方達を現場で見たもの。でも、彼女、よく正気に返ったわね。薬は効いていたのでしょう?」
「そうだな。見事な効き目だったよ。邪魔さえ入らなければ、な」
 心底残念そうに、ロイが吐き捨てた。
「崖崩れの一報を聞いて、レイが巻き込まれたかもしれない、と考えたのだろう。あっという間に彼女は我を取り戻したよ」
 レイ、の名前を聞いた瞬間、カレンの口元に力が入った。
「あらあら、先生ともあろう方が、弟子に負けてしまわれるなんてね」
「非常事態だからな。彼女だけじゃない。あの時、町中の人間が奴のことを心配した。そう、君だって」
 ロイの囁きから、カレンがそっと顔を背ける。
 その様子を満足そうに見やって、ロイは更に言葉を継いだ。
「……だが、君は皆に誤解されている」
 驚いた表情で顔を上げるカレンに、ロイは静かに言い足した。「勿論、レイにも」
「誤解?」
「そうだ、皆誤解している。片っ端から男に媚を売っては腰を振る、淫乱なだけの女だと、ね。君が、君の中に足りないものを必死で探し続けているということも知らずに」
 それだけを言って言葉を切ったロイの眼前、カレンの顔が不意に歪んだ。
「そのとおりだもの。私はただ楽しい時間を好きなように過ごしたいだけ。別に皆が私のことをどう思おうと構わないわ」
「だが、見つけたのだろう? 本当に傍にいてほしい、と思う相手を」
 桑染めの瞳に見据えられ、カレンは硬直したようにその動きを止める。彼女の表情からはすっかり余裕が消え失せていた。
 狼狽するカレンを冷静に見下ろしながら、ロイは一段低い声で囁きかけた。
「ダン・フリアと、何を話していた」
「……何って、その……」
「怒らないから、言いなさい」
「え、でも……」
「言うんだ」
 有無を言わせぬロイの口調に、震える唇が少しずつ言葉を紡ぐ。
「あの娘が、欲しくはないかと……、欲しいのならば手助けをするわ、と」
「馬鹿なことを」
 蔑みの目を向けるロイをものともせず、カレンは必死にかぶりを振った。膝の上の彼女の拳が、固く握り締められるあまりに血の気を失っている。
「だって、……だって、このままだと、レイがあの娘にとられてしまうもの!」
「何故そう思う」
「レイはあの娘のことが好きなのよ。見てたら解るわ。それにきっと、あの娘だってそう。だったら、多少強引なことでもしなきゃ、二人の間に割り込めないじゃない。だから……」
「シキを辱めるような真似は、私が許さない」
 思い詰めた表情で足元を見つめ続けるカレンを、凄みを増した声が打った。
 だが一呼吸のち、ロイは今度は一転して穏やかな声音でカレンに語りかけてきた。
「その代わり……取引といこうじゃないか」
「取引?」
 おずおずと視線を上げたカレンの瞳に、ロイの顔が映る。彼は妖しい光を銀縁眼鏡の奥に湛えながら、もったいぶるようにゆっくりと口を開いた。
「あの薬を私に売ってくれないか。私がシキを、君がレイを、……それで全てが丸く収まる。そうじゃないか?」
 
 
 
 昼下がり、レイは再び井戸端にいた。
 適当に家事をやっつけて、浮いた時間を自習にあてようと思っていたレイは、すっかり打ちのめされていた。洗濯物を干していれば、籠を引っくり返して洗い直す羽目になり、掃除をしようとすれば、箒を扉に挟んで柄を折り修繕しなければならなくなり、どんどん余計な仕事が増えるばかりだったのだ。他事に気を取られているせいで、注意力が散漫になってしまっているのだろう。このままでは、今日は夜まで何もできなくなってしまう。そう焦る中、一向に進まないジャガイモの皮むきに、レイの苛々は限界に達しつつあった。
 今更献立の変更も面倒臭ければ、皮ごと煮てしまうのもあとの言い訳がややこしい。しかも新たな邪魔までやってくるとなれば、この行き場のない鬱憤をどうすればよいというのか。怒鳴りつけたくなる気持ちを必死に抑え込んで、レイは背後に一言を投げた。
「何か用か?」
 そして、振り返ることなく言葉を継ぐ。これ以上はないというほどに不機嫌な声で。「用があるなら、こそこそすんなよ。俺は忙しいんだ」
「お見事」
 感心したような声とともに、母屋の陰から砂利を踏む音が聞こえてきた。足音の主は、そのまま真っ直ぐ近づいてくると、至近でぐるりとレイの前に回り込んだ。長身を折りたたむようにしてその場にしゃがみ込み、レイと目線を合わそうとする。
 レイは久々に見る旧友の顔を一瞥すると、再びジャガイモと格闘を始めた。
「良く気づいたなあ」
「気配がバレバレなんだよ」
「敵わないなあ」
 そう言って、サンははしばみの瞳を細めた。にっこりと微笑む頬を縁取って、栗色の髪が風にそよぐ。初等学校時代に多くの女生徒の心を鷲掴みにしていた色男っぷりは、三年の都生活を経て更に洗練された様子で、レイは胸中密かにやっかみながら黙々と作業に没頭した。
 そんなレイを、サンはしばらくの間楽しそうに眺めていたが、やがて首をかしげるようにしてレイの顔を覗き込んできた。
「レイ、お前、死にかけたって?」
「誰に聞いたんだよ、リーナの奴か?」
 どうせあの口煩い喋り魔が、久しぶりの帰郷者に頼まれもしないことをペラペラとくっちゃべったのだろう、そう推理して嘆息するレイとは裏腹に、サンは弾かれたように背筋を伸ばした。
「リーナ? え、お前、まさか、いや、なんでそこで、リーナが出てくるんだよ?」
「何、驚いてんだよ?」
「ああ、いやいや、なんでもない、なんでもないさ。それにしても……お前、意外と似合うな、そういうの」
 揶揄する口ぶりでジャガイモを指差すサンを、ちらりと一瞥してから、レイは剥き終わった芋々を籠に入れて立ち上がった。そうして一人さっさと勝手口へと向かっていく。
 慌ててサンがそのあとを追った。
「おいおい、レイ、つれないなあ」
「忙しいつってんだろ! 大体、お前、仕事はどうしたんだよ」
 最終学年である五年生の時、サンはサランでの剣術試合で見事優勝を果たした。彼はその縁で仕官の口を与えられ、今は遠い帝都に出仕しているのだ。町の誉れ、と、盛大に行われた壮行会を思い出し、レイの瞳がそっと緩む。
「ああ、あれ? ……辞めた」
「はああ?」
 これ以上はないというぐらいに素っ頓狂な声で、レイは友を振り返った。だが、サンは何も言わずに、飄々とした表情を崩さないまま。
 しばらくの沈黙のあと、レイは大きな溜め息とともに手にしたジャガイモで裏口を指した。
「入れよ。中で話そう」
 
 レイが憮然とテーブルにカップを二つ並べる。サンがそれをにこにこと受け取った。
「気がきくじゃん……って、水かよ」
「文句を言うなら、返してもらうぞ」
 そう言ってレイが取り上げたカップを、サンは即座に取り返し、中身を一気にあおって息をついた。
「ところで、先生はいる?」
「今日は授業があるから、学校行ってるぞ」
 その言葉に、サンは大袈裟に胸をなでおろした。
「良かったー、俺、あの人苦手なんだよなー。未だに試験の夢でうなされる時があるんだもんなあ」
「お前、いつも居残り組だったもんな」
「レイだって同じようなものだったじゃないか」
 お互い昔の悪行を思い出したのだろう、二人は同時にふき出し、遂には高らかに声を上げて笑い出した。
「大体お前、絶対似合わねえって。何、イモ洗ってんだよ?」
「お前こそ、近衛兵なんてガラじゃねーだろーが」
「ちまちまイモの皮剥いてるの見た時は、どうしようかと思ったぜ。お前本当にレイか?」
「そういうお前は、どうせ上司の女横取りしたとかでクビになったんだろ?」
 ……ひとしきり笑い合ってから、サンがしみじみと口を開いた。
「まさかレイが魔術師とはね。俺と同じで肉体派だと思っていたんだけどな?」
 サンの父親は、町一番の使い手の誉れも高い剣士だった。そして、レイの父と同じくさきの戦に駆り出され、帰らぬ人となった。
 サンはそんな父親の血を色濃く継いでいる。学校でも体術、武術に関しては抜群の成績を残していた。レイだってそこそこ腕前には自信があったものだが、長身のサンから繰り出される変化自在な攻撃には、何度も地面に這い蹲らされたものだった。
「まあな。こう見えて頭脳派だったってことさ」
 よく言うよ、とサンが笑うのを見ながら、レイは少し真面目な顔をした。
「……なんで仕事辞めたんだよ。お袋さん喜んでいたのに」
「話せば長いことながら、ってね。ところでシキは?」
 軽く話題を流されたことにムッとしつつ、レイは諦観の溜め息を漏らした。昔からサンは、自分の領域に他人が入り込むのを極度に嫌う傾向にあったからだ。もっとも、そつのないサンのことだ、相手に気取られずに適度な距離を確保するなどお手のもので、そのことに気づいているのはレイを始めとするほんの二三人の友人達だけであった。
 学校時代を通して親密な付き合いのあったレイとサンだったが、その一点において、レイは自分がサンの「親友」たると断言することができないでいる。涼しい顔で自分を見やるサンに向かって、レイはもう一度小さく息をつくと、渋々といったふうに言葉を返した。
「今日はリーナの所に癒やしの術を習いに行ってる」
「へぇ、相変わらず真面目だねえ」
 サンは感心したように眉を上げて、それからぼそりと独りごちた。
「……シキも捨て難いんだけど、彼女、先生べったりだからなあ」
「は?」
 何のことだよ、と唇を尖らせるレイに思わせぶりな視線だけを返し、サンはまたも独り言めいたものを訥々と吐き出す。
「……となると、やっぱりレイ一択なんだよなあ。でもなあ、お前、ちょっとしたことですぐに暴走するからなあ……」
「おい、何だよ! もったいぶるのもいい加減に……」
 レイが声を荒らげるのと同時に、サンの表情が一変した。これまで滅多に見せたことのない険しい顔で、テーブルに身を乗り出してくる。
「レイ、話がある。重要な話だ」
 そのあまりにも真剣な眼差しに、レイは知らず生唾を飲み込んだ。
 
 
 

    四  獲物
 
 夕焼けに染まった道が、赤く揺らめく太陽へと真っ直ぐに伸びている。街道を逸れたシキとリーナは、タヴァーネス家の敷地の前で別れの挨拶を交わした。
「送ってくれてありがと」
「いーえ。どうせ往診のついでだからね」
 リーナがそう笑ってから、はっと何かを思い出したような表情を作った。
「そうだ、シキ。一つ訊きたいことがあったんだっけ」
 ん? と小首をかしげるシキに向かって、リーナの遠慮ない一言が投げかけられた。
「あのさ、最近レイと何かイイコトあったんじゃない?」
 予想もしていなかった問いにシキの思考が停止する。その一方で、冷や汗ってこういう時にも出るんだ、などと暢気な感想だけが彼女の頭をよぎった。
「な、ななななんで?」
「最近のシキって、なんだかちょっと前よりも色っぽかったりするんだもん」
「ええええ!? 色っぽい? 私が? そんなの生まれて初めて聞いたよ!」
 喜ぶよりも何よりも、心底驚くシキに向かって、リーナが訳知り顔で首を横に振った。
「いやいや、このリーナ様の目は誤魔化せないよ。シキ、あんた遂に『女』になったね!」
 その台詞を聞いて、先ほどまで動揺していたシキの眉間に皺が寄った。
「いや……私は昔っから女だけど……?」
「そういう意味じゃなくて……!」
 拳を振り上げ力説しかけたものの、ほどなくリーナはがっくりと全身の力を抜いた。そうして両手でポンポンとシキの肩を叩く。
「あのね、あんたらどう見ても相思相愛でしょ。そんな若い男女が一つ屋根の下にいるんだからさ。こんなに美味しい状況って、なかなかないんだからさ。……何と言うかな、こう……、えいやってさ、あんなこととか、こんなこととか、色々あるでしょ?」
 あんなこととか、こんなこと。そう聞いたシキの顔がかあっと熱くなった。
 ――そうか、「女」になるって……。
「おやぁ? ちょっとそれ、珍しい反応じゃない? まさか、やっぱり……」
「ないないない! まだ全然何もないから……!」
 大慌てで両手を振るシキに、にやにやとリーナが迫り寄ってくる。
「ほぉーお、『まだ』ねぇ?」
「そうだよ、まだだよ」
 シキの表情が微かに翳ったのを、目ざとくも見とめたのだろう、リーナがついと身を引いた。大きな動作で両手を腰に当て、やれやれ、と肩を落とす。
「そうだねぇ。あんたらの環境じゃ、なかなか突き進むにも突き進めないもんねぇ。て言うか、二人で落ち着いて話とかできてる?」
「何か忙しいみたいで、このところずっとすれ違いっ放しだよ」
 ますます表情が暗くなるシキに、リーナは優しい瞳を向けた。
「家を出たら? 二人で」
「え?」
「実際のところ、レイと所帯を持つってことになったら、いつまでも先生ん家にいるわけにもいかんでしょ」
「ええ?」
 目をしばたたかせるシキを尻目に、リーナは腕を組むと滔々と語り続ける。
「あんたはいいかもしれないけど、レイは無理だわ、絶対。あれ、自分が家長じゃなきゃ我慢できない性質と見た。なんて言うか、仕切り屋? ううん、違うなあ、どちらかといえば、自分の思うようにしたいってだけかなあ。要するに、まだまだお子様、ってことよ、うん。
 それに、先生もなあ……。結構大人げないとこあるしね、あの人。大体、新婚夫婦に身のまわりのお世話してもらう、って、状況は嫌がりそうだしなあ、なんとなく。だから……」
 延々と続く演説に聞き惚れていたシキだったが、ようやく我に返って、真っ赤な顔で親友に食ってかかった。
「ちょっと、リーナ、話が先に進み過ぎ!」
「でも、どうせそのうち独立するんだったら、適当なところで家を出たほうがいいと思うのよ」
 動じたふうもなく、リーナはきっぱりと言いきった。
「でも、まだ全然先生に恩返しできてないのに、家を出るも何も……」
「あ、そっか。そのあたり、あんたらはちょっとややこしいかもねー。親子だったら、そういうものだ、の一言で済むけど、篤志家と弟子っつう関係は、一体どうすればいいのかねえ」
 リーナは渋い顔で首をかしげながら、ふう、と深く嘆息した。
「まぁ、当面の問題はレイだよ。あんまり生殺しにしとくと、あのテのタイプはキレて手がつけられなくなるから、そうなる前にさっさとくっついちゃいなよ!」
 豪快な言動とは似ても似つかぬ柔らかい瞳で、リーナがシキに笑いかけた。この温かい笑顔に、一体どれだけの人が救われているのだろう。この歳で既に「治療院のオカン」などと影で囁かれている頼もしき友人は、いつだってその優しい眼差しでシキを勇気づけてくれるのだ。
「……心配してくれて、ありがとう」
「うむ。あまり真面目に考え過ぎずにね。魔術師だって、弟子だって、恋愛する自由はあるんだからさ」
 沈みゆく太陽のように頬を染め、シキは小さく頷いた。リーナはもう一度にっこりと笑うと、大きく両手を振って今度こそ小道をくだっていった。
 
 夕闇の中に溶けていく友の背中を見送りながら、シキはまだ上気している頬を両手でそっと押さえた。
 ――相思相愛。
 そうか。そうだよ。そうなんだ。シキは何度も噛み締めるように胸の内で繰り返し、それから大きく息を吐いた。全身の血が沸き立ったかのように、身体のあちこちがどくどくと脈打っている。
 ――ついこの間まで、そんなこと考えたこともなかったのに。
 いや、考えないようにしていた、というのが正しいかもしれない。
 ああ見えて、レイは意外と人気者だ。口が悪くて、お調子者で、乱暴で、学校でも事あるごとに教官室に呼び出されてはお説教を喰らっていたレイだったが、彼のことを悪く言う者はほとんどいなかった。羽目を外すことは数あれど、他人が本気で嫌がるようなことだけは決して行わなかったからだろう。
 思い起こせば、剣術の時間にレイとサンが手合わせをする時など、授業中にもかかわらず学友達が大勢それを見学にやって来たものだった。そして、サンほどではないにしても、レイを応援する黄色い声が少なからず飛び交っていたのを、シキも良く憶えている。
 幼馴染みじゃなかったら、同じ先生の弟子同士じゃなかったら。そう口の中で呟いて、シキは拳を握り締めた。そうだったら、果たして、彼は自分なんかを相手にしただろうか、と。そもそも、男子に混じって魔術の授業を受けていた時点で、女と認識されたかどうか、かなり疑わしい。
 そういえば、と昔を思い出してシキはがっくりとうなだれた。シキが落とした教本を、上級生がわざと土足で踏みつけたことがあったのだ。女の癖に魔術かよ、とあざ笑う彼奴に、レイはこう食ってかかった。「小猿苛めて喜ぶなよ、馬鹿猿」と。
 庇おうとしてくれたのはありがたいけど、小猿はないだろう。しかもその言い回しがよほど気に入ったのか、レイはその一件以来シキのことを小猿呼ばわりし続けたのだ。もはや女扱いがどうこうなどというような話ではない。
 溜め息を幾つも吐き出しながら、とぼとぼとシキは玄関へと向かった。扉に手をかけたところで、ふとある考えが思い浮かんで青ざめる。
 ――まさか、レイ、女だったら小猿でも良い、とか……!
 もしくは、手近なところで我慢しよう、ってことだったらどうしよう、そう考えてシキは愕然と立ち尽くした。口の中が一気に乾いて、喉の奥が心なしかひりひりと痛み始める。
 嫌な考えを振り払うべく、シキは勢い良く頭を振った。それから、力一杯口を引き結んだ。
 ――いいや、カレンさんのことがあるじゃない。彼女は美人で凄く色っぽいし、全然手近じゃないし。それでも彼は私がいいって言ってくれたじゃない!
 ふと、空を見上げれば、茜色の残照が木々の梢の向こうへと静かに遠ざかっていく。小さい頃、レイと二人で空を見上げて、競うように一番星を探したことが、まるで昨日のことのようにシキの胸に思い出された。
 物心ついた時から一緒だった。友人であり、ライバルであり、家族。そして…………
 その先をシキは真っ赤な顔で呑み込んだ。そうなれたらいいな、と、そっと小声でつけ足してみる。
 決意を瞳に込め、シキは玄関の扉を開けた。もう逃げちゃいけない、これからのことを考えなければ、と。弟子としての領分さえ見失わねば、修行が疎かになりさえしなければ、きっと――
 
 ――そう、きっと、先生は私達のことを許してくれるはずだ。
 
 
 
 その日の夕食は、皆、一様に何か様子がおかしかった。
 シキは、ぼんやりと物思いに耽りながら、時折レイとロイの顔を盗み見ては赤い顔で溜め息をつく。
 レイは、食卓に肘を突いて、食事を口に運びながら難しい顔で何かを考え込んでいる。
 そしてロイは、一見普段と変わりがないようだったが、弟子達のそんな有様に一向に気がついていない様子だった。
 
「ごちそうさま」
 食事を終えたレイが立ち上がり、食器を流しへと運んでいく。シキも慌てて、ごちそうさま、とそのあとを追った。
「ね、レイ、話があるんだけど……」
「レイ」
 シキの言葉を遮るようにして、ロイが静かに、だが有無を言わさぬ口調でレイの名前を呼んだ。その一瞬、レイは電撃に打たれたかのように背筋を震わし、それからぎこちない動きでゆっくりと師匠を振り返った。
「何ですか」
「……悪いが、少し使いに行ってくれないか」
 ほっ、と大きな溜め息をついてから、レイは改めて師のほうへ向き直った。
「使い? 今から?」
「これを薬草屋に届けてほしい」
 ロイはそう静かに言うと、一通の書状を懐から出した。
 怪訝そうにレイが眉を上げるのとほぼ同時に、二人の前にシキが割り込んできた。
「それだったら私が行きます。レイは後片付けがあるし」
「あ、いや、しかし……」
 酷く狼狽した様子でロイが何か言いかけるよりも早く、レイが呆れたとばかりに声を上げた。
「お前なあ、いま何時だと思ってんだよ。女子供の出歩く時間じゃねーぞ」
 そう言いながらレイは、自分の食器をシキの持つ食器の上に重ねて乗せた。落ちそうになる皿へと、シキの注意が逸れる。
「たまには、素直に守られてろ」
 レイの囁きを耳にして彼女が顔を上げた時には、既に彼はロイの傍で書状を手にしていた。
「じゃ、シキ、後片付け頼むぜ。先生、これを薬草屋に届けるんだな」
「ああ。間違いなく手渡しで頼むぞ」
 椅子の背にひっかけていた上着を羽織り、早足でレイが部屋を出ていく。その背中を二組の瞳が静かに見送った。
 心配そうな瞳が、そして満足そうな瞳が。
 
 
 夕食の後片付けを終えたシキは、鎧戸を閉めようと食堂の窓を明けた。
 灌木の向こう、月明かりに照らされて薄ぼんやりと光る街道が、静かに東へと延びている。町の中心へ、カレンの店へ。
 艶めかしい彼女の姿態が脳裏に浮かび上がってきて、シキは大きな溜め息をついた。満面の笑みを浮かべるカレンにいざなわれるがまま、レイの後ろ姿がドアの向こうへと消えていく。その時、レイはどんな表情をしているのだろうか……。
 ――やっぱり無理にでも私が行けば良かった。いくら女に夜道が危険だといっても。
「どうせ小猿だし」
 わざと自嘲気味に呟いてみたものの、余計に自分がみじめになってしまった気がして、シキは力無く肩を落とした。
 カレンの華やかな金髪、柔らかそうな唇、豊かな胸、綺麗な脚、女らしい仕草……、同性であるシキから見ても、その魅力は相当なものだった。世の男性諸氏にとっては、言わずもがなだろう。
 それに、確かに彼女は奔放な女性だという評判だが、不思議と悪い噂などは聞いたことがない。
 ――もしも……もしもカレンさんがレイのことを本気で好きだったのだとしたら。それにレイだって、彼女のことが嫌いだったら、関係を持つことなんてないはずだし……。
 そこまで考えて、シキは更に深く落ち込んだ。おのれに対する劣等感を、レイへの不信感にすり替えようとしていることに気がついたのだ。
 自分がこんなに弱い人間だったなんて、とシキは拳を握り締めた。こんなことじゃ駄目だ。自分を、レイを信じないと。
「……シキ」
 突然の呼びかけに、シキは驚いて背後を振り返った。
 ぽっかりとあいた扉の前、暗い廊下を背景にしてロイが静かに佇んでいた。
「は、はい。なんですか?」
 何時からそこにいたのだろう、シキはどぎまぎしながら、師匠の言葉を待った。
「片付けは終わったかい?」
「あ、はい」
「それなら、居間で一服しないか? 一緒に」
 その申し出を聞いて、昨日の楽しかった団らんがシキの脳裏に甦る。
「はい。じゃあ何か飲み物を持って行きましょうか?」
「ああ、頼むよ。……アルコールは無しで」
 ロイが冗談めかしてつけ足した一言に、シキは思わず笑みを浮かべた。
「了解。丁度リーナに桂皮を貰ったんです。肉桂茶にしますね」
 
 シキが窓から身を乗り出して、鎧戸を下ろす。
 夜風に騒ぐ木の葉擦れの中、タヴァーネス邸が闇に沈んだ。

 
 
 
「手渡しってったって、あの女が寝てたらどうすんだよ」
 ひとけの無い街道を歩きながら、レイは不機嫌そうに独りごちた。シキの手前勢いで引き受けたものの、良く考えたらそんな緊急の用事が薬草屋にあるものなのか? 明日の朝ではダメなのか? 疑問ばかりが、次々と彼の胸に湧き上がってくる。
 とはいえ、あのままもたもたしていたら、自分の代わりにシキがお使いに行ってしまったことだろう。「それだったら私が」と師の前に進み出たシキの表情を思い出して、彼は溜め息をついた。
 ――信用ないのか、俺。
 ……あるわけないか。レイは口のを少し上げながら、自嘲した。
 
 薬草屋の未亡人カレンは、確かレイよりも八つほど年上だという話だった。十年前の戦争で、連れ添ったばかりの夫を亡くし、以来ずっと決まった相手を作ることなく独りで店をきりもりしている。
「気に入った相手となら、誰とだって寝るらしいぞ」そう上級生から聞いた噂どおり、彼女はレイに声をかけるなり、その場で閨まで誘ってきたのだ。
 匂い立つような色気に、未熟なレイが抗えるはずがない。呑み込まれ、流され、何度も逢瀬を重ねたが、やがて主導権を握ろうとする彼女にレイは辟易するようになった。
 最初のうちはそれでも構わなかった。溜まり猛る性を解放することさえできれば、それで満足だったのだ。だが、レイが経験を積んでくるにつれ、相性の悪さが露呈することになる。カレンに呼び出されるたびに、レイの心は身体とは裏腹に彼女からどんどん遠ざかっていった。
 最初の逢瀬から一年半が経ったある日、レイはカレンに別れを切り出した。もう、呼び出さないでくれ、と。これ以上この関係を続けることが、レイにはつらくなってきたのだ。
 まだ想いを伝えていないとはいえ、これはシキに対する裏切り行為なのではないだろうか。今更ながらレイはそう思い当たったのだ。もしも自分がシキの立場なら、絶対にいい気はしないだろう。それに、誘われるがままに心のない情交を重ねるというのも、カレンに対して失礼というものだろう、とも。
 だが、一番の理由は、実は別にあった。
 カレンの手ほどきで数多くのわざを知ってしまった今、それに触発されるようにしてシキに対する欲望が、より具体的に、より過激に、自分の中で膨れ上がってしまっていることに気づいたのだ。
 場所を問わず、状況を問わず、レイは妄想の中でシキを抱いた。そこにあるのは、愛という言葉を隠れ蓑にして、ただひたすら欲望を吐き出すだけの、おのれのための行為でしかない……。
 
『別れよう』
 レイが言ったその言葉を、カレンは何度もはぐらかした。
 自分がフるのはいいが、フられるのは我慢ならないとでもいうのだろうか。別れ話の時の、カレンの不穏な目の光を思い出して、レイはぞくりと背筋を震わせた。
 ――しっかりしろ、レイ。彼女を守ると決めたんだろ。
 レイの瞼に、子供の頃のシキの笑顔が浮かび上がる。
 同じように天涯孤独の身となったレイを気遣って、自分の両親の訃報にも必死で泣くのをこらえていたシキ。彼女がレイに涙を見せたことは一度もなかった。シキの布団からは毎晩のように嗚咽が聞こえてきたが、朝になれば、彼女は泣きはらした目を誤魔化すようにこすりながら、おはよう、と満面の笑顔でレイを起こしてくれた……。
 ――これからは、俺がシキを守ってやる。
 あの時の決意を改めて噛み締めて、レイは夜道を急いだ。
 
 
 薬草屋はまだ煌々とした明かりを往来に投げかけていた。
 入り口の段にレイが足をかけたその時、目の前のドアがカランと開き、閉店の札を持ったカレンが顔を覗かせた。
「あら」
「手紙。先生から」
 書簡を受け取ったカレンは、懐から折りたたみナイフを出すと封を切った。便箋にさっと目を走らせ、それからレイの顔をじっと見つめる。
「返事とか、必要ないんだったら、もう帰るけど」
「……そうね、とにかく中に入って頂戴」
 彼女は店の扉を大きく開くと、さっさと店に引っ込んでいった。仕方なくレイもカレンのあとに従う。
「いつもこんなに遅くまでやってんのか?」
「いいえ。今日はちょっと……ね。お昼休みが長かったから……」
 意味ありげな目つきでレイのほうを一瞥してから、カレンは戸締まりを始めた。
 彼女が鎧戸を全部閉め終わるまでの間、レイは手持ち無沙汰に店内をゆっくりと見まわしていた。正面には陳列棚を兼ねたカウンター、窓辺に並ぶ植木鉢、吊るされ干されている葉や実、調合を待つための木の長椅子……。
 ここは、二年前にレイが初めて女を知った場所だ。
 ――まあ……悪い経験じゃ、なかった……よな。
 過去を思い出した勢いで、うっかり気持ちが高揚してしまい、レイは慌てて頭を振った。こんな状態でシキのいる家に帰った日には、理性の糸がぶち切れてしまうに違いない。どうやって落ち着かせようか、と必死に頭を巡らせるレイの背中に、柔らかいものが押しつけられた。
 それが何であるか、レイが思い当たるのと同時に、細い腕が背後からレイの身体を抱きしめる。カレンは官能的な指遣いでレイの身体を撫でながら、豊かな胸をなおも彼の背に押しつけてきた。
 ごくり、とレイの喉が鳴った。
 おのれの下腹部に熱が集まっていくのを自覚しつつ、レイはカレンの細い手首を掴むと、静かに身体から引き剥がした。そして、ゆっくりと彼女のほうに向き直る。
「どういうつもりだ」
「こういうつもりよ」
 そう言うなり、カレンがレイの頭を両手で引き寄せて、唇を重ねてきた。いつぞやシキが目撃した時と同じように、半ば強引に口づけを貪る。またしても不意を突かれたレイだったが、今度ばかりは力を込めてカレンを押し退けた。
「……用がないんだったら、帰るぞ」
「どうしたの? 楽しみましょうよ」
「別れようって言っただろ」
 吐き捨てるかのごときレイの口調に、カレンの表情から微笑が消えた。見たこともないような冷ややかな目つきで、じっとレイの目を見つめ、そして静かに口を開く。
「いやよ」
「じゃあな」
 あっさりと踵を返すレイの目の前に、カレンが息せき切って回り込んできた。それから、扉に鍵をかける。
「帰さないわ」
「帰る」
 背中でドアノブを隠すカレンを、レイは容赦なく引き剥がそうとする。その手に、必死の声が取り縋った。
「ねぇ、好きにしていいのよ。あの子にできない事もなんだってしてあげる」
 振り乱された金の髪が、レイの手に、腕に絡まる。
「胸でも、口でも、どこだって、何でも言うこと聞いてあげる。何なら、私のこと、シキって呼んでくれてもいいわ!」
 
 その瞬間、レイの動きが止まった。
 カレンを退けようとしていた手から力が抜け、踏ん張っていた足もそっと揃えられる。レイが抵抗をやめたことを知り、カレンは勝利を確信して顔を上げた。
 顔を上げた先、レイが黙って佇んでいた。静かに息をつき、とても寂しそうな瞳で、彼はカレンを見つめていた。
「……お願いだ、カレン。俺にあんたを嫌いにならせないでくれ」
 まるで心の底から絞り出されたかのようなレイの声音に、カレンは目を見開いた。
 みるみるうちに彼女の両目から涙が溢れ出し、はらはらと頬を伝い落ちていく。
 嗚咽は次第に泣き声に変わり、そして最後には号泣と化した。

第五話  引き裂かれた二人

    一  奪取
 
 その場に座り込み泣きじゃくるカレンを、レイはただ黙って静かに見下ろしていた。
 カレンが、こんなにもこの自分に執着しているということが、レイには不思議で仕方がなかった。そもそも遊びと割りきるよう声をかけてきたのは、他ならぬカレンのほうだったし、この一ヶ月の間だけでも、彼女が他の男と会っているところを、一体何度目撃したことか。
 そんなに、他人が自分の思い通りにならないのが、腹立たしいのだろうか。そう眉をひそめる一方で、レイは首をひねった。これまで、カレンがこんなわがままを言うところを見たことがなかったからだ。
 確かに、情事のさなかのカレンの、いかにも年上ぶった態度は非常に面白くないものだったが、それはあくまでも自分自身の好みの問題だとレイも認識している。そして何より、普段のカレンは、他人に何かを強制するような女ではなかった。レイは何度か、逢瀬の約束をすっぽかされたと言うカレンに会ったことがあるが、そんな時も彼女は相手の男に対して文句一つ言わず、ただ少しだけ寂しそうな眼差しで苦笑を浮かべているばかりだった。
 ならば、どうして今、彼女はこんなに取り乱しているのだろうか。レイはひたすら困惑しながら、カレンを見つめ続ける。
 やがて泣き声は次第に小さくなって、しゃくりあげる音だけが頼りなげに辺りに響き始めた。
「……媚薬をね、盛ったのよ。あの娘が薬を買いに来た時に」
「なんだって?」
 唐突にぽつりとこぼされたカレンの台詞に、レイは驚いて聞き返した。
 カレンはレイから顔を背けたまま、訥々と言葉を継いでいく。
「……貴方が生き埋めになった、あの嵐の日、熱さましを買いに来たの。先生が熱を出した、って」
 そう言って、カレンは自分の手元を見つめたまま、どこかいびつな笑みを浮かべた。
「雨に濡れて寒そうだったわ。だから、熱いお茶を出したの。媚薬入りの」
 次の瞬間、レイは思わずカレンの胸倉に掴みかかっていた。床に座り込む彼女を無理矢理に引き立たせると、憤怒の形相で声を荒らげる。
「……俺が留守だということを知っていてか!」
「そうよ!」あくまでもレイから顔を背け、カレンは吐き捨てるように先を続けた。「あの子がいなければ、あの子が他の男とくっついてしまえば、貴方はきっと私を見てくれる、そう思ったのよ!」
 そこでようやく、カレンはレイの顔を見た。
「貴方のことが好きなの。貴方に傍にいてほしいの、ずっと」
 視線と視線が、真っ向からぶつかった。縋りつくようなカレンの瞳が、レイの心臓を鷲掴みにする。
 レイは知らず息を呑んだ。
 ――同じだ。
 二週間前のあの夜、思いあまってとうとうシキに想いを告げた、あの時の自分と同じ瞳が、そこにあった。この想いをどうか受け入れてくれ、と、祈るような心地で「好きだ」と吐き出した、あの時の……。
 カレンの襟元を掴む右手が、急に重さを増したようにレイには感じられた。
 レイは深く嘆息すると、そっとカレンから手を放した。それから拳を握り締め、絞り出すような声でカレンに語りかけた。
「……冗談なんだろ? 全部、何もかも」
 カレンの顔を見ていられなくて、レイはきつく目を閉じた。自分が今吐き出した言葉が、どんなに身勝手で自己中心的なことなのか、彼には分かっていた。解っていて、口にしたのだ。
 息を呑む気配に続き、大きな溜め息が聞こえた。
「そうね、少なくとも、媚薬の話は冗談なんかじゃないわ」
 穏やかな声音に、レイがおずおずと目を開けば、カレンが力無く微笑むのが見えた。
 レイは、再度拳に力を込めると、「本題」に話を戻した。手のひらに爪を深く喰い込ませながら。
「だって、シキも先生も、何も変わらなかった」
「邪魔が入ってしまったんですって。崖崩れの一報で」
 カレンは呟くようにそれだけを言い、ふらりと壁に背もたれた。
 くだんの薬は、レイも一度味わったことがあった。ちょっと趣向を変えてみましょうか、とカレンが差し出した一杯の珈琲。妙に甘ったるいそれを飲み干して間もなく、気が狂わんばかりの淫猥な渇望感がレイを襲ったのだ。
 朦朧とした意識の下、レイは夢中になって快楽に耽り続けた。次に我に返った時には夜はすっかり明け、とても満足そうなカレンの笑顔と、かつてないほどの疲労感が、レイを出迎えてくれた。
『凄かったわ……』
 カレンは、レイの胸元を指でなぞりながら、うっとりと囁いた。
『たまには、強引にされるのもいいわね……』
 ――あの薬を、シキが、飲んだ。
 レイは、口の中に溢れる生唾を嚥下した。
 色事に耐性のないシキのことだから、あっさり意識が吹っ飛んだに違いない。虚ろな瞳でロイにしなだれかかるシキの姿が、レイの脳裏に生々しく思いえがかれた。女が男を無理矢理襲うというのは、身体の構造上なかなか難しい作業ではあるが、迫るのがシキで、それを受けるのがロイとなれば、据え膳を阻むものなど何もないはずだ。
 崖崩れの報せが彼女を救ったとは、世の中、何が幸いするか分からない。レイはほっと肩を落として、そして……、気がついてしまった。
「ちょっと待て。邪魔が入ったとか、なんでてめえが知っている」
 依然としてカレンは俯いたままだ。
「今日のお昼、先生が来たのよ、うちに。その時に聞いたわ」
「ロイが? 来た? ここに? 何のために? ……そうだ、さっきの手紙! 何のために俺はここにいるんだ?」
 懐から先刻の手紙を出し、カレンは虚ろに微笑んだ。力の抜けた指先から、ひらりひらり、と白い紙が床に落ちていく。
「……取引なんですって。私に貴方との時間を、そして先生には媚薬を……」
 床の上で広がった便箋には、たった一文だけが記されていた。見慣れた筆跡で、僅か一行、『お互い、至福の夜を』と。
 
 
 
 肘掛け椅子に深く腰かけて、ロイは居間の扉が開くのを待っていた。やっと、やっと解放される、その期待を胸に抱いて。
 そもそも、ロイという人間の中における愛欲の地位は低い。無理矢理に順位をつけるならば、一番に来るのはやはり知識欲。そして、力欲、自己顕示欲……とくだっていく。生きていくために必要なレベルの食欲、金銭欲は当然のことながら持ち合わせてはいたが、仮にそれら全てを犠牲にすることはあったとしても、知識と強さを求める心だけはどうしても譲ることができなかった。
 勿論、三十余年という人生の中、彼も女性と深い関係を持ったことは何度かある。だが、一度として、それらの関係が長続きすることはなかった。心ときめく出会いから甘い蜜月に至れども、やがて彼女達は判を押したように、あまりにも身勝手な要求をロイに突きつけてきたのだ。
『私のことを一番に考えて』
『私だけを見て』
『私と魔術とどちらが大切なの?』
 その問いは、あまりにも非論理的過ぎた。誰が彼女達に「恋人と食事とどちらが大切なのか」と問うだろうか。「恋人と空気と」でもいい。そして、ロイがそのことを指摘しても、彼女達が自らの不明を改めることは一度もなかった。
 いつしかロイの中では、煩わしさが人恋しさに勝つようになった。どうしようもなくなった時は、金さえ払えばなんとでもなる。そうやってロイは今まで生きてきたのだ。
 ――だが、シキはそんな愚かしい女達とは違う。十年間をともに過ごした、我が忠実な愛弟子よ。
 喉の奥で小さく笑って、ロイはゆったりと椅子に身を預けた。そう、もはや何も思い悩むことはない、と。彼女とロイは同じものを見て、同じ所に立って、同じ道を歩んでいるのだから。
 
 静かな室内にノックの音が響く。ゆっくり扉が開き、お盆を持ったシキが顔を出した。
「お待たせしましたー」
「ああ、待ちかねたよ」
 心の底からそう頷きながら、ロイは自分の向かいの長椅子をシキに勧めた。
 背の低いテーブルの上にカップが二つ並べられ、甘い肉桂の香りが辺りに充満した。
「そうだ、砂糖を貰おうか」
「あ、はい。ちょっと待っててください」
 シキがバタバタと部屋を出ていくのを見送って、ロイは懐からガラスの小瓶を取り出した。瓶の蓋を開け、透明な液体をシキのカップに落とし入れる。
 遂に始まるのだ。至福の夜が。
 
 
 
 レイは扉を蹴り破らん勢いで薬草屋を飛び出した。三段のステップを一気に飛び降り、そのまま靴音も高く石畳の街路を走り抜けていく。
 家を出てから、どれぐらい経った?
 ここから家まで、どれぐらいかかる?
 余計な自問を振り払い、レイは夜道をひた駆けた。悩んだり考えたりしている暇はない。とにかく、全ての身体能力を走ることだけに費やすのだ!
 そう自分に言い聞かせる一方で、レイの脳裏にはこれまでの思い出が、川に浮かぶ木の葉のように次々と流れては消えていった。
 
 先生と出会い、教会を出て、新しい家族と新しい生活を始めたこと。空き家を皆で力を合わせて改修したこと。
 魔術を教えてもらったこと。勉強を教えてもらったこと。体術や剣術までも教えてもらったこと。
 一緒に掃除洗濯をし、料理をし、食卓を囲んだこと。最初の頃は、火の扱いだけは先生の役目と決まっていたっけ。
 学校に行き始めて、先生の授業を受ける時は、なんだか少しだけ気恥ずかしかった。だが、同時にとても誇らしく思えて……。
 
 記憶の中の「彼」は、時には厳しく、時には優しく、そして常に温かく自分達を包み込んで、育んできてくれた。
 走り続けるレイの胸に、不意に熱いものが込み上げてきた。思わず泣きそうになって、レイは目元に力を込めた。
 ――今まで三人で上手くやってきたじゃないか……!
 そう、今まで三人はとても上手くやってきた。だが、時が流れ、二人の弟子は大人になり、「彼」は今までの関係では我慢できなくなった。……まさしく、レイがそうだったように。
 ばくばくと暴れる心臓の音に合わせて、家々の壁が矢のように背後へと飛び去っていく。石畳を蹴る足音があちこちにこだまして、まるで怪物の笑い声のようだ。
 あの異教の呪文書、そして今回の媚薬。清廉を装った師の表情を思い描いて、レイは歯ぎしりをした。先生は……ロイは、シキが自分に寄せる信頼や尊敬といったものの上に胡坐をかいているのだ。そのくせ、正面から体当たりして拒絶されるのを怖がっている。
 ――へっ、確かに俺と良く似てるぜ。
 怒りと、焦りと、自己嫌悪と、そういったものがない交ぜになってレイを苛んだ。ぎり、と歯をくいしばって、小さくかぶりを振る。
 ――いや、違う。俺なら、そんなものに頼らない。無理矢理シキを自分のものにするなんて、絶対にしない!
「見損なったぜ……」
「……誰を?」
 独り言に返答があって、レイは息が止まるほどに吃驚した。驚きのあまり一瞬足をもつれさせるが、なんとか体勢を立て直し、走り続ける。
 レイの左側を、サンが息せき切って走っていた。
「おーい、無視は、ない、だろう」
「るさい」
「昼の話、考えて、くれた?」
「邪魔するな」
 だが、レイの心中を知ってか知らずか、サンは並走体勢を崩さない。
「……緊急事態?」
「そうだ」
「俺に何か手伝える?」
 サンと言葉を交わしているうちに、少しだけレイの頭が冷静さを取り戻してきた。
 家に帰りついたあと、ロイの計画をどうやって邪魔すればいいのだろうか。シキが未だ薬を飲んでなければ良いが、もしも既に罠に嵌まっていたら、どうすればいい? 相手はあの大魔術師、ロイ・タヴァーネスだ。レイごときヒヨッコ一匹、片手の一閃であっさり返り討ちにあうのが落ちだろう。
 それに、併走者がいるほうが、闇雲に独りで走るよりも速度を維持できるかもしれない。そうと決まれば、と、レイは大きく息を吸い込んだ。
「……よし、競走だ、サン。ゴールは、俺の家!」

 
 
 
 お茶に浮かべた桂皮を、シキは軽くスプーンで突っついた。肉桂独特の甘い香りが、湯気と一緒に立ちのぼる。
 ――遅いな、レイ。
 レイの身を案じて注意が逸れたシキの手元で、スプーンがカップの縁とぶつかった。大きく波立つ器の中、渦にまかれる桂皮のかけらをシキはしばしぼんやりと眺め続ける。
 胸の奥を大きな手で鷲掴みにされたような、何か得体の知れぬ胸騒ぎがしてならなかった。大体、夜道が危険なのは、別に女子供に限った話ではない。それに、最近は物騒な連中がこの辺りをうろついているらしいと言うではないか。
 そうでなくとも、最近レイの様子が変なのに。シキはそっと唇を噛んだ。
 腰を痛めた鍛冶屋の手伝いに行くんだ。彼がそう言って、当番を代わるよう頼んできたのは、崖崩れの三日後だった。生還祝いの酒盛りの次の日、眠りこける客人達を残したまま姿を消したレイは、翌朝になって「しばらく当番を代わってくれ」と、シキを拝まんばかりに頼み込んできたのだった。
 それから毎日、遅くまでレイは家を空けた。シキも家事に追われ、二人はすれ違い続けた。特に最初の一週間は、エイモスの容態がよほど芳しくないのか、レイはとてもピリピリした様子で、朝食も食べずにパンを三つ鞄に放り込むだけで出かけていったものだった。
 一週間が過ぎて諸々に余裕が出てきたのだろう、レイは朝食を食べてから家を出るようになった。それでも、シキが全ての配膳を終えて先生を呼ぶ頃には、レイの姿は食卓から消えているという有様だった。昨日の朝、あんなにもレイが苛々した様子を見せていたのは、リーナのせいで出かける予定が狂ってしまったからだろう。
 結局、昨夜のあのひとときまで、シキはレイと二週間近くもの間、まとまった会話を交わしていなかったことになる。夜遅くに帰宅したレイがシキの部屋の扉の前で「ただいま」「おやすみ」と優しい声で足を止めることがなければ、シキはあの告白のことを幻と思ってしまったかもしれない。
 ふう、と溜め息をついてから、シキはもう一度昨晩のことを思い返した。
 先生が異教について言及した時、レイは明らかに何か含みのある様子だった。あの日治療院で、彼は確かにこの黒髪が異教に関わるかもしれない可能性について語っていたのだから。なのに、どうして彼は強引に話を切り上げたのか。推論とはいえそれを先生の耳に入れることで、何か新しい事実が分かるかもしれなかったのに。
 そういえば、とシキは更に記憶を掘り返した。前にも同じようにレイが話を打ち切ったことがあったのを思い出したのだ。あの時、治療院の先生の寝台の前でシキの言った軽口に、彼は過敏とも言える反応を見せていた。
『隠れて特訓でもしてたんじゃない?』
『そんなわけねーだろ』
 彼の口調は不自然なほどに刺々しかった。何より、シキの言葉を聞いた刹那、彼は、はっとしたように息を呑んだのだ。
 ――レイは何を隠しているんだろう。
 考えれば考えるほど、不安がシキの胸に押し寄せてくる。
 暗い気持ちを振り払うようにしてシキが顔を上げれば、自分を食い入るように見つめる師と目が合った。
 
 
「……どうかしましたか? 先生」
「いや、別に。なんでもないよ」
 真正面からシキと視線がぶつかって、ロイは少しだけたじろいだ。澄んだ眼差しに、心の奥底を見透かされてしまいそうな気がしたからだ。
 身体の奥から淫らな妄想が、次から次へと湧き上がってくる。それらが現実となるのが、ロイは待ち遠しくてたまらなかった。ごくり、と、生唾を飲み込むのも、先刻からこれで何度目だろうか。取り繕うように姿勢を正し、大きく息を吐いてから、ロイはできるだけ不自然にならないように気をつけながら、シキのカップを指し示した。
「お茶が冷めてしまわないかね?」
「冷ましているんですよ」
 シキが小さくはにかんだ。
「私、猫舌だから。レイにはお子様だってバカにされますけど」
 もう一人の弟子の名に、ほんの瞬間ロイの意識は現実に引き戻された。
 だがすぐに、ロイは目前に迫る至福の時へと頭を切り替える。そう、彼らはもう子供ではない。甘い夜を過ごすのは、自分とシキだけではないのだ。
 また、ごくり、とロイの喉が鳴った。
 ――早く。早く口をつけるんだ、シキ。
 カップ一杯のお茶を飲むのに、何をもたもたしているのだろうか。ロイははやる心を自制して、必死に平静を装った。彼のそんな焦りを知るよしもないシキは、カップに触れようとすらせずに、お茶が冷めるのを暢気に待っている。ロイの苛立ちは、ただつのるばかりだ。
 ――いっそのこと、実力行使といくべきか。
 だが、シキは腕の良い魔術師だ。下手に抵抗されると大変なことになる。ロイは心を決めかねて、下唇を噛んだ。
 
 ロイにとって拷問のような時間が、刻々と過ぎてゆく。
 やがて、とうとうシキの手がカップへと伸びた。
 細い指が軽く陶器の側面に触れる。温度を確かめているのか、指先で軽く二、三度カップを撫で、それから彼女はゆっくりと両手でカップをすくい上げるようにして持ち上げた。
 ロイの喉で、生唾を嚥下する音が鳴る。
 カップは、そのまま静かに胸元まで運ばれた。香りを楽しむかのように、シキは軽く目を閉じて動きを止める。
 もう少し。
 さあ、飲め。
 飲むんだ。
 シキの形の良い唇が綻んだ。カップの縁が、唇に…………
 
 その瞬間、大音響が家を震わせた。
 反射的に身をすくめたシキの手から、あろうことかカップが滑り降ちた。淡黄の液体がゆっくりと弧を描いて床に飛び散るさまを、ロイは茫然と見つめ続けた。
「すみません、あとで片付けますから」
 その視線に気づいたシキが、申し訳なさそうな表情を作った。だがすぐに真顔となって、音のしたほうを振り返る。「それよりも、先生、今のは……?」
 シキの手元に全意識を集中させていたロイに、そんなことが判るはずがなかった。あまりの悔しさに、濡れた床から視線を外すこともできないまま、ロイは辛うじて一言を返す。
「分からない」
「玄関……ですね」
 囁くようにそう言って、シキがそっと立ち上がった。気配を殺しながら、慎重に扉へと向かっていく。
 シキの後ろ姿を見送るロイの内部で、ぐつぐつと怒りが沸きかえった。ロイは憤るがままに勢い良くテーブルの上のランプを掴むと、シキを押し退けて居間の扉を開けた。
 
 腹立たしさで煮えくり返るはらわたを抱えながら、ロイは廊下へ出た。ランプの光を玄関のほうへと向ければ、未だ激しく揺れる両開きの扉が目に入った。
 鍵も閂もかけていたはずなのに。愕然と目を見開くロイの脳裏に、ある映像がまざまざと浮かび上がってきた。砂糖を取りに台所へと戻ったシキが、玄関に立ち寄って鍵を開ける姿が。おそらく、レイが帰ってくると信じた彼女が、玄関扉が閉まっているのを見て、密かに錠を外しておいたのだろう。
「……勝った……」
 地獄の淵から響いてくるような、擦れた声が聞こえた。ぎくりとしてロイが視線を下方へとやると、玄関の床に膝をつく人影が見えた。
 見まごうことなき、黒い髪、黒い服。荒い息でそこにうずくまっていたのは、誰あろうレイだった。ロイは自分の頬が一気に熱を帯びるのを自覚した。怒りのあまり身動き一つできずに立ち尽くしていると、今度は別な声が暗闇から湧き起こった。
「違う、って。同着、だぞ」
 その声は、レイの後方から聞こえてきた。闇に慣れた目が、玄関扉のすぐ近くに座り込む長身の影を捉える。人影は大きく肩を上下させながら、訥々と言葉を吐き出した。
「あ、先生、お久し、ぶり、です」
「え、もしかして、サン?」
 シキの声を聞いて、ロイの呪縛が解けた。声が震えるのも構わずに、ロイは心の底からの怒号を発した。
「どういうことだ、レイ!」
「帰りに、たまたま、サンと、会って」
「競走、して、ました」
「……なんで競走?」
 ロイの背後でシキが首をひねる気配がする。
 全ては、水泡に帰してしまった。絶望にも似た憤怒を押し殺して、ロイは静かに口を開いた。
「レイ、使いはどうした」
「ちゃんと、手紙、渡して、きまし、たよ。手渡し、で」
 何か言おうとしたものの、ロイはその言葉を呑み込んだ。その代わりに震えるほど力を込めて拳を握り締め、そのまま無言できびすを返す。
 
 立ち去る師を見送りながら、レイがもう一度呟いた。まだ収まりきらない息の下で、それと分からないように小さく笑いながら、「勝ったぞ」と。
 
 
 

    二  決意
 
 木漏れ日がちらちらと風に揺れている。
 東の森の中心部、レイの秘密基地が穿たれている片丘。その洞の入り口の前にある、寝台ほどの大きさの平たい石に腰かけて、レイは習得し終えたばかりの呪文を呟きながら、一心不乱に木の枝をナイフで削っていた。
 彼の足元には、鍬の柄程度の太さの枝が全部で十一本転がっている。それらの枝の側面には、レイの手によって古代ルドス文字がびっしりと刻みつけられていた。
 ナイフの切っ先が描き出す軌跡は、一つ一つは単なる記号に過ぎないが、それらがある法則の下に並べられることで、文字は言葉となり、言葉は呪文を生み、そうして遂には山をも動かす力にさえなり得るのだ。
 ふう、と一息をつくと、レイは枝とナイフを持ったまま大きく伸びをした。すっかりこわばってしまった身体をほぐすべく、二度三度と肩を回してから、また再び作業を再開する。
 早朝、まだ夜が明けやらぬうちに家を出たレイは、東の森へと真っ直ぐにやってきた。そうしてそれからずっと、何も食べず、何も飲まず、少しも休むことなくこの作業を続けている。
 
 フォール神神聖魔術「半身」。これが、今レイが構築しようとしている呪文の名だ。レイが手に入れた呪文書の巻末にひっそりと付記されていたこの術は、フォール神からより大きな恵みを得るための、特別な呪文ということだった。
 そもそもフォール神とは何者なのか。呪文書に記された術の内容から推察する限り、恐らくは農耕に関係する神なのだろう。その加護を受けるには、男女の術者一人ずつが組となる必要があるとのことだった。術者二人が向かい合わせに立ち、お互いに両手を繋いで、心を合わせて呪文の詠唱を行わなければならない、と、そこにはそう記されていた。心を通じ合わせた男女が手を取り合って、大地の恵みを神に祈る。そこに描かれているのは、邪教という言葉からはほど遠い、穏やかで平和な情景だ。皇帝陛下は一体何の意図があって、アシアス以外の神を葬り去ろうとしているのか。レイは呪文書を読みながら何度も首をひねったものだった。
 そして「半身」の術は、それを確固たるものとするための呪法として記されていた。
 愛し合う二人を、更に結びつけるもの。その一文で付記は始まっていた。二人一組で施術しなければならないフォール神の術において、何よりも大切なのは、術者二人の絆である。二人の間に余計な邪魔者が介入するようなことは、あってはならない禁忌だった。「半身」とは、そのような問題が起こらないように、男女二人の術者の関係を意図的に固定するものであったのだ。
 この呪文によって、二人の術者はそれぞれの「性」を外部に対して封印するのだという。判りやすく言い換えるならば、この術をかけられた女性は、術者以外の人間には性的な魅力を一切認識させなくなる、ということらしい。一方、術をかけた男性のほうにも、制約は課せられた。この術を使用した術者は、被術者以外の人間と性的な交わりを持てなくなってしまうというのだ。施術者がひとたび不義を働こうものなら、たちまち苛烈な苦痛が彼を襲うことになるだろう、と。
 お互いがお互いの支配下に入ることによって、術者二人と外界の間に超え難き境界を築き上げる。それが「半身」の役目であり効果であった。
 
 レイの口から、大きな溜め息が漏れた。
 ロイが手に入れたかったのは、間違いなくこの「半身」であったはずだ。昨日までは半信半疑だったが、今ならそう断言できる。レイは胸の内でそう呟くと、ナイフを握り締めた手に力を込めた。一切の「悪い虫」を、彼女の周囲から強制的に排除する。ロイにとってこんなに美味しいことはないだろう。
 ――呪文書が手に入らなかったら、次は薬だと?
 ふざけるな、とレイは思った。いくら拒絶されたくないといっても、やっていい事と悪い事がある。そもそも、魔術の力で彼女を我が物とするなんて、虚しいとは思わないのか!
 そう憤りつつも、レイもロイの考えが全く理解できないわけではなかった。彼女を手に入れられるのなら、姦計だろうが陰謀だろうが幾らでも企ててやる、そんなことはレイだって何度も考えた。
 だからといって、それらを実行するか否かと問われれば、それはまた別の問題だ。レイは眉間に深い皺を刻んで、手に握ったナイフを見つめた。
 ――だが、奴は本気だ。本気でシキをモノにしようと考えている。
 自分がシキの傍に四六時中ついていてやるなんてことは、絶対に不可能だった。このままでは、いつかロイはシキをレイの手から奪い取るだろう。それも卑怯な手で。
 力が入るあまり震える右手を落ち着かせるように、左手をそっと添えながら、もう一度レイは溜め息を吐き出した。
 二人でロイの下を去る、という選択肢もないではなかった。折しもサンに「あんなこと」を持ちかけられたあとだ。
 だが、とレイは考える。より高みを、より知識を求めているシキにとって、それは最善の道なのだろうか、と。
 天才魔術師、ロイ・タヴァーネス。それは決して誇張ではない。彼の傍で彼に師事するということがどんなに誇らしく素晴らしいことか、それはレイにも良く解っていた。そう、ロイの下から離れたくないと考えているのは、レイも同じなのだ。何より、これまで十年もの間、自分達を手厚く育ててくれた彼のことを思えば、恩知らずな真似は絶対にしたくない。
 それに……、レイは怖かったのだ。仮に家を出ようとシキに持ちかけた場合に、彼女が自分ではなく魔術を、ロイを選ぶのではないかということが。
 ならば、残された道は一つ。
 先手を打つしかない。
 
 そろそろ日が傾き始めていた。
 薄暗さを増した手元に難渋しながら、レイは出来上がった十二本の杭を順番に地面に打ち込んでいった。木槌の奏でる規則正しい音が、鬱蒼と茂る木立の中へと吸い込まれていく。
 石の台を中心に描いた正円に沿って、木杭は立てられていた。円周を十二等分する杭は、どれも正確に十二方位を示している。更にその内側には、赤黒い印をつけられた拳大の石が、やはり十二個、綺麗な円を描いて草むらに置かれていた。
 これらは、「半身」を起動するための力場となる魔術陣を形作っていた。地面や床に直接陣をえがくことができるのなら、作業はもっと楽だったんだけどな、とレイは大きく息を吐いた。
 とはいえ、家の中に描けば、準備の段階でロイに術のことがばれてしまうだろうし、ことが「邪教」にかかわるだけに、家の外に場所を探すのも難しい。
 それに、レイにとって、この場所こそがこの術にふさわしいような気がしたからだ。誰も立ち入らない東の森、二人だけの秘密の遊び場。シキと契りを交わすのに、おそらくここ以上の場所はないだろう。
 レイは慎重に水平面を測り出すと、木綿の糸を杭から杭へと張り巡らせた。そのところどころにも、赤の印がついている。最後に、レイは石の台の横にしゃがむと、右手人差し指のまだ新しい傷を爪で扱き、溢れ出す血で石の側面にも文言を記した。
 体力と魔力を使いきったレイが、やっとのことで陣を完成させた時には、空はすっかり赤錆色に染まっていた。
 
 
 帰宅したレイが「疾走」を繋ぎに向かうと、丁度ロイが厩から出てくるところに鉢合わせた。
 ちら、とレイのほうを見やったその茶色の瞳が、まだなみなみと怒りの色をたたえている。今日のロイの授業はさぞかし厳しかったことだろう、と見知らぬ後輩達に激しく同情しながら、レイはとりあえず反省の表情を作った。
「昨晩は騒がしくしてすみませんでした」
 ロイは無言で、軽く頷いた。
 邪魔が入るとは微塵も考えていなかったんだろうな。胸の内で呟きながら、ふと、レイは悪戯心を出した。神妙な表情のまま、心にもないことを白々しく口にする。
「その……、何かマズかったですか?」
 その瞬間、ロイの表情が更に険しくなった。そうして大きく息を吸い込んで……押し殺した声で吐き捨てる。
「……読書の邪魔をされたんだ。機嫌だって悪くなるだろう」
 足早に母屋へ去っていくロイを見送りながら、レイは不敵な笑みを浮かべた。
 ――絶対お前の思う通りにはさせないからな。シキは俺のものだ。これまでも、これからも。
 
 
 
 ――カレンの奴、一体どういうつもりだ。
 ロイは先ほど帰りがけに寄ってきた薬草屋でのことを思い出して、余計に怒りを増幅させていた。
 ドアノブにかかる臨時休業の札。気配から家にいるのは間違いないのに、いくら呼んでも出て来ようとしないカレン。やはり、あんな奴を信用するべきではなかったのか。
 ――この期に及んで、まさかシキに秘密を漏らすことはないだろうか。
 唐突に湧き起こる不安に、ロイは大きく息を呑んだ。それに、レイのことも気にかかる。カレンは、レイがシキを狙っていると言っていた。それが事実かどうかは別にしても、奴は昨晩、絶妙なタイミングでロイの邪魔をしたのだ。
 ――まさか奴に自分の計画がばれてしまったなどということはないだろうか。
 これは、なんとしても早急に事を運ぶ必要があるな。そう決意新たに玄関扉に手をかけたところで、ロイは動きを止めた。それから、なんでもないような素振りで、ゆっくり辺りを見まわした。
 ――二人……いや、三人……?
 誰かがこの家を見張っている。こちらを注視している気配がする。
 ロイはそっと眉をひそめた。そういえば、昨日帰宅した時も何か違和感を覚えたような気がした。例の薬を手に入れて気が昂ぶっていたこともあって、単なる気のせいだと片付けてしまったが、もしかしたらその時から既に何者かがこの家を監視していたのかもしれない。
 そうこうしているうちに、その視線はふっと消えた。更なる気配を読み取ろうと意識を集中させていたロイは、忌々しそうに舌を鳴らした。
 どうやら、相手はかなり慎重な連中らしい。誰が一体どういうつもりなのかは知らんが、今は様子見だ。ロイはそう軽く鼻を鳴らすと、家の中へ入っていった。
 
 
 
「そうだ、レイ。サンって今何してるの?」
 夕食の席で突然シキにこう訊かれて、レイは口の中の食べ物をふき出しそうになった。なんとか慌てて飲み込んで、更に水を流し込む。
「なっ、何って、どうして?」
 予想もしていなかった話題に、レイの声は滑稽なほどに上ずってしまっていた。だめだ、落ち着け、とレイは自分を叱咤する。
「今日、厩の掃除を手伝ってくれたんだけど、サンって帝都に行ってたでしょ? 休暇か何か?」
「本人に訊けよ」
「訊こうと思ったんだけど、訊きそびれたんだ。レイ知らない?」
 レイは、視界の端でロイの様子をそっと窺った。
「……仕事は辞めたって言ってたぜ」
「えー! 近衛兵って、そんな簡単になれるものじゃないでしょ? なんで?」
「それは俺のほうが訊きたい」
 食事に意識を集中しているようなフリをして、レイはそっけなく答えた。
「じゃ、こっちで何か仕事を見つけるつもりなのかな」
「そうじゃねーの?」
 暴れる心臓を必死で抑える一方で、だんだんレイは腹が立ってきた。なんで、この俺がサンの奴にこんなに気を遣ってやらなけりゃならないんだ? と。
「サンと話すのって三年ぶりぐらいだったかな、私は。彼、全然変わらないね」
 ――全然変わらない? そうなのか?
 にこやかに語るシキの顔をぼんやりと見つめながら、レイはかつての親友との距離を測りあぐねていた。

 
 
 ごちそうさま、とシキがフォークを置く。その向かいで、ロイはそっと背筋を伸ばした。
 昨晩、シキは当番だったレイの代わりに後片付けをしてくれている。それを理由に今晩の仕事をレイに肩代わりをさせようと、ロイは考えていた。そうして、適当な理由をつけてシキを自分の部屋に誘い入れ、そのまま昨夜の続きを果たしてしまおうと画策していたのだ。
 部屋の扉や窓を術で封印してしまえば、「封印解除」を使えないレイにはどうすることもできないだろう。シキの喘ぎ声は「沈黙」の術で消し去ることができる。交合も魔術もとなればかなりの負担ではあるが、とにかく今は、一刻も早く既成事実を作り上げることが大切だろう。極論を言えば、実際にシキを抱けなくとも良いのだ。彼女が自分から進んでロイを求めたという事実を、彼女自身が明確に意識することさえできればそれで良い、とまでロイは考えていた。
 さて、と居住まいを正してロイが口を開きかけた時、レイがシキの名を呼んだ。
「昨日の埋め合わせに手伝ってやるよ」
 予想外のレイの発言に、ロイは一瞬虚を突かれた。言葉に詰まった彼の見ている前で、シキが少しおどけたふうに眉を上げる。
「埋め合わせって言うなら、代わってくれるんじゃないの?」
「俺だって遊んでいたわけじゃないからな」
「競走してたじゃん。サンと」
「贅沢言うなら手伝わねーぞ」
 そう言いつつ、レイはシキを退かせて流し台へと向かっていった。ロイは言葉もなくただそれを見送るばかり。
「食器、下げて来てくれ」
「了解」
 そうして、シキはてきぱきと食卓の上を片付け始めた。
 言葉をかける機会を窺いながら、ロイはじっとシキを見つめ続けた。その間も、彼女は厨房と食堂とをせわしなく往復しては、食卓の上を綺麗に空けていく。
 やがて、シキが自分のすぐ傍にやってきた。
「お皿、お下げしてよろしいですか?」
「ごちそうさま。美味しかったよ、シキ」
 その言葉に、シキがぱあっと顔を綻ばせた。
 今だ、とロイが静かに息を吸い込んだところで、無邪気な声がロイを打つ。
「良かった! 先生ってば、ずーっと黙ったままだったから、何か問題でもあったかな、って思ってたんですよ」
「ああ、すまないね。ちょっと考え事をしていたものだから」
 狼狽しつつも吐き出した弁解に、シキはにっこりと微笑み返した。そうしてロイの皿を手に、さっさと台所へと踵を返す。
 大きく肩を落としてから、ロイは立ち上がった。
「……今晩は、無理だな」
 無理を押せば、勘の良いレイに計画を見抜かれてしまうかもしれない。ここ一番の大勝負に焦りは禁物だ。
 それに、二人っきりになれるのなら、別に家でなくとも構わないのだ。そう、例えば……、学校の教官室に呼び出すという手もある。今まで散々待ったんだ、慌てることはない。そう自らに言い聞かせながら、ロイは静かに食堂を辞した。
 
 
 廊下の途中で、ロイは足を止めた。
 やはり、何者かがこちらを窺っている視線を感じる。夜陰に油断しているのか、彼らの気配は夕方の時よりもはっきりと解った。
 一人、二人、全部で三人。
 ロイの眉が、ゆっくりとひそめられる。彼の脳裏に、朗らかに笑う長身の教え子の姿が浮かび上がってきた。
 ――彼の身に、一体何があったというのだろうか……。
 とりあえずは、向こうの出方を待つとするか。ロイは軽く頭を振ると、自室に向かって再び歩き始めた。
 
 
 
 深夜、明かりの消えた自室の寝台に腰かけながら、シキはまんじりともせずにいた。
 彼女は、先刻食堂で交わしたレイとの会話を思い出していた。
 
「……シキ」
 窓に鎧戸を閉め終わったシキの耳元で、レイが囁いた。その甘い声音に、シキの鼓動が跳ね上がる。
「余計なことせずに、今日はさっさと部屋に引っ込めよ」
 いつぞやの続きかと思いきや、愛想の全くない台詞に、シキはあからさまな険を眉間に刻んだ。
「……なんで?」
 ……少し、否、かなり期待していた自分が、なんだかむしょうに惨めに思えて、シキはわざとつっけんどんな訊き方をした。もしかしたら、本当にあの告白は幻で、私が一方的に片想いをしているだけなんだとしたらどうしよう、と恐れつつ。
 そんなシキの様子に気づいているのか否か、レイは悪戯っぽい笑みを口元に浮かべて静かに言葉を継いだ。
「寝たふりをして待っててくれ。鎧戸は閉めずに。迎えに行くから」
 
 ――「迎え」だって。迎えに来てくれるんだって。
 暗闇が隠してくれるのをいいことに、シキは顔を緩ませた。熱くなった両頬を手で押さえながら、高鳴る胸でレイを待つ。どこへ行くのかは知らないが、とうとう今夜は彼に置いて行かれずに済むのだ。
 満月が中天にかかる頃に、窓ガラスに何かが当たる軽い音が響いた。慌てて窓辺に駆け寄れば、すぐ外に佇むレイの姿。月光に照らされたレイの凛々しい顔に、シキの胸はいよいよ高く鳴り響く。
「行こうぜ」
「え? 窓から出るの?」
「脱走ってな、窓からって決まってるんだよ」
 
 シキの手を引いてレイは厩へと向かい、静かに「疾走」を牽き出した。手綱を取るレイに促され、シキがその背にしがみつく。
「どこに行くの?」
「いいとこ」
「何しに?」
「いいこと」
 夜の道に、二人を乗せた馬が走り出た。
 
 それを見て、家の裏手に広がる森の陰から、人影が三つ姿を現す。
「まさかまたあの森に行くのか」
「だとしたら、この暗闇では追跡は不可能かと」
「そうも言ってられないだろう。サン、あの二人をつけろ」
「分かりました」
 無表情なサンの顔が、冴え冴えとした月明かりに浮かび上がった。
 
 
 

    三  半身
 
 かち色の空を黒々と切り取って、木々が生い茂っている。
 東の森を前に、サンは慎重に手綱を引いた。きわの木に繋がれている一頭の馬を見て、サンの眉がひそめられる。
「普通じゃねーんだよ、お前ら」
 夜にこの森に入るなんて、およそ正気の沙汰ではない。
 サンはひらりと地上に降り立つと、「疾走」から少し離れた木の陰に馬を繋いだ。そうして、自分もその傍らに姿を隠す。
「だからこそ、わけだが……」
 そう呟くと、サンはいつになく鋭い視線を黒い森へと投げかけた。
 
 
 その、普通じゃない二人は、月の光も届かない真っ暗な森の中を、草をかき分けながらゆっくりと進んでいた。レイの腰の小袋に灯された魔術の灯りだけが、二人の足元をほのかに照らしている。
「懐かしいなあ……」
 まるで外と時間の進み方が違うみたいだ。そうシキは感嘆の声を上げた。ここは全然変わらないね、とレイに微笑んでから、シキは何かに思い当たったように両眉を上げる。
「そうか……この雰囲気。前は解らなかったけれど、似てるんだ。魔術の気配に」
 シキの言葉に、レイが驚いたように目を見開いた。自分達を包む空気がどこか肌に馴染むのは、湿気のせいだけではないということに、彼もまた気がついたのだろう。
 いわれてみれば、この森が昔から人々を寄せつけなかったということについても、そこに何者かの大いなる意思が介在しているかのように思えてくる。まるで森全体が一つの生き物のような、そして自分達がその胎内にいるような、そんな気がして、二人はしばし足を止めると、どこか厳かな心地で頭上を振り仰いだ。
「……受け入れて、くれてるんだ、よね。私達を」
「……たぶん、な」
 東の森は人を喰う。迷ったら二度と出られない。そうして最後は野獣の餌になるだけだ。……町の大人達は一様に口を揃えて、そう子供達に言い聞かせていた。だが、これまでシキもレイも、ここで実際に危険な目に遭ったことは一度としてなかった。
「なあ、シキ、まだ『木の声』って聞こえるのか?」
 しみじみとそう問いかけてきたレイに、シキは少し大袈裟に胸を張ってみせた。
「聞こえるよ。……最近やってなかったけど」
 そう言ってシキは、傍の木の幹に両手を広げてぺたっとはりついた。そのまま静かに目を閉じる。
 木の葉が風にそよぐ音が、二人を包み込んだ。やがてシキは、ゆっくり目を開くと、少し驚いたような表情でレイのほうを向いた。
「レイ、今でもここに良く来るんだ?」
「まあな」
「なんで?」
「別に。なんとなく」
 あっさりと話を打ち切られて、シキの眉がそっと翳った。
「それよりシキ、お前、なんでそんなことが解るんだ?」
 シキは諦めたような笑みを浮かべると、溜め息一つ漏らしてから、静かに話し始めた。
「木がね、私に久しぶりって。でも、レイにはお帰りって……」
「そんなことまで『聞こえる』のか?」
「なんとなく、だけどね」
 初等学校に入学するまでは、シキもレイと一緒に家事や勉強の合間によくここに来ていたものだった。せわしない日常からほんの少し離れて、誰にも邪魔されずに、二人して緑の木々の下でぼんやりと風に吹かれていた……。
 レイと一緒に屈託なく転げまわった幼い日々、彼のことなら何だって知っているとシキは思っていた。あの頃のことが遙か遠く感じられるのは、自分自身のせいなのではないだろうか。ふとシキはそう強く感じた。足を踏み出さなければ傷つくことはないかもしれないが、それではいつまで経っても前へは進めない。シキは強く口を引き結んでから、心の中に仕舞い込みかけた諸々を思いきって口にした。
「ね、レイ、もしかして、今まで家を抜け出してた時ってここに来てた……?」
 レイが軽く眉を上げた。
「……まあな」
「秘密特訓、とか?」
 間髪を入れずに畳みかけるシキの勢いに呑まれたのか、レイは一瞬言葉を詰まらせて、……それから決まり悪そうな表情で顔を背けた。
「そんなんじゃねーよ。ただ、まあ、ここなら、誰にも余計な口を挟まれずに練習できるだろ?」
 その応えを聞いて、シキはこれ以上はないというぐらいに顔を綻ばせた。突然の大輪の笑顔に、レイが一瞬息を呑む。
「ね、じゃあ、夜にいなかった時も?」
「あ……まあ、それは適当に」
「適当?」
「その、なんだ、大人の時間、ってやつだよ。人が気を遣って言わずにいるんだから、察しろよな」
 そんなに度々カレンさんと会ってたんだ、と拗ねつつも、つい「大人の時間」について具体的な想像を張り巡らせそうになり、シキの両頬は一気に熱くなった。慌てて首を振って余計な映像を頭から振り払い、大きく深呼吸をする。
 もう一度息を吸って、吐いて、それからシキは意を決したように顔を上げた。真っ直ぐにレイを見つめると、もう二十日間も胸の内でくすぶっていた問いを、訥々と吐き出した。
「レイが、ダン達と、酒場で乱闘したって聞いたけど、それは……?」
 ダンの名前を聞いたレイの顔が、険しくなる。
 やがて、ふう、と肩の力を抜いて、レイは口を開いた。
「あの時、隣のテーブルにいたあの野郎が笑えねぇ冗談言いやがってさ、酒も入ってたし、俺、カッとなってさ」
「ダンと一緒に暴れたんじゃなくて?」
「まあ、確かにそうとも言えるけどさ、俺は奴と喧嘩したんだよ」
 そう言って、レイは傍の木にがっくりと寄りかかった。
「幸い、大した怪我人は出なかったし、リフのおやっさんも、全部ダンが悪いって言ってくれたし、でもさ、なんつーか……、やっちまったよなあ、俺」
 予想外の話の展開に目をしばたたかせるシキを横目に、レイが頭を抱えて嘆息した。
「前から、あいつ、事あるごとに俺に絡んできてて、鬱陶しかったんだよな。まあ、あいつも始終悪いことしてるわけじゃないだろ? 普段とか、あいつに話しかけられたりしたら普通に受け答えしてたから、御しやすいって思われてたのかもな」
 シキの胸の奥が、燃え立つように熱くなった。レイが、ダンと同類などころか、その仲間ですらなかったという事実を知って。シキが信じていたとおり、レイはダンのように得意顔で他人に迷惑をかけ、それを武勇伝として人にひけらかすような人間ではなかったのだ……!
 安堵するあまり言葉を詰まらせるシキの前で、レイはまたも大きく溜め息を吐き出した。
「酒場の乱闘で、どうも勝手に俺に共感を覚えたらしく、あいつ、旅人を襲うから魔術で眠らせてくれ、なんて、とんでもないことを頼んできやがったんだ」
 そうだ、レイがダンの仲間ではないのならば、あの襲撃計画はなんだったのだろうか。シキはおずおずとレイの目を覗き込んだ。
 ゆっくりと、力強く頷いてみせるレイが、とても頼もしく思えた。
「勿論、断ったさ。『全力で通報する。お前の親父が握り潰すなら、町中に大声で言いふらしてやる』って言ったら、あいつ、慌てて計画は取りやめにする、って逃げてったんだ。まあ、正々堂々と夜盗できるような技も力も頭もない奴らだから、大丈夫だろう、って高をくくってたら……」
「代わりに私に頼みに来た、と」
 そこでレイがもう一度息を大きく吐いた。
「あいつ、俺をダシにしやがったんだろう?」
 シキが小さく頷くと、レイは足元に視線を落とした。
「あの日、薬草屋に向かう時、ダンの腰巾着が一人、俺をつけていたんだけどさ、面倒臭くて俺はそれを放っておいたんだ。で、その……、朝になって……、お前に当番まで家に帰らねーって言っちまったし、どうやって時間を潰そうか悩んでたら、そいつがやたら馴れ馴れしく絡んできてさ、変だな、って思ってちょっと締め上げたら、俺をシキと会わせないようにダンに命令された、っつうだろ? 俺はもう、心臓が止まるかと思ったぜ……。
 必死でお前を探して回ったが、見つからねーしよ。腰巾着の奴も、ダンがどこで誰を襲撃するのか知らされてなかったらしく、とにかくあちこち走り回ってたら、サランの警備隊が、ダンがお前をさらって森に逃げたって言うじゃないか。ま、そのお蔭で、あの隠れ家を思い出せてさ。見事正解で本当に良かったよ……」
「隠れ家のこと、どうしてレイが知ってたの?」
 少し怪訝そうに眉をひそめれば、またもレイは溜め息をついた。
「タキさんところの仔牛が迷子になった時に森を探し回ってて、たまたまあの小屋から出てくるあいつらを見かけてさ。黙ってろって言うから、まあ、特に誰にも言わなかったんだが……、あー、くそっ! そういうあたりでも、なんか俺、同属扱いされてたんかもな……」
 ひとしきり毒づいて、レイが再度頭を抱える。
 不意に視界が滲み、シキは慌ててレイから顔を背けた。
 全ては、杞憂だったのだ。レイは、何も変わっていなかった。責められるべきは、シキのほうだった。目を閉じ、耳を塞ぎ、ただ嘆くばかりで、レイと正面きって向き合うことを避け続けていた、シキのほうにこそ、問題があったのだ……。
 そんなシキのことを、レイは以前から変わらず好きだと言ってくれた。今もこうやって、シキの問いかけに真摯に応えてくれている。
 感極まって、シキは思わず傍らの木にしがみついた。目を閉じた拍子に、涙が一滴頬をつたっていった。
「おい、どうした、シキ」
 無言で幹を抱くシキに、レイが首をかしげながら声をかける。彼の顔を正視できずに、シキは木のほうを向いたまま小さくぼそぼそと呟いた。
「? 聞こえないぞ」
「……良かった……。レイが私の知っているレイで、本当に良かった……」
 消え入りそうなシキの声を耳にして、レイが一瞬息を詰めた。大きく息を吸い、それからゆっくりと吐き、そしてわざとらしいほど乱暴にシキの肩を自分のほうへと引っ張った。
「お前なあ」
 そして、そのままシキの肩を抱きすくめる。「こういう時は、木じゃなくて俺に! 抱きつくもんだろうが」
 
 さやさやと木の葉が頭上で囁いている。
 シキはそっと手をレイの背中にまわした。レイもシキの腰をぐいと引き寄せる。それから、どちらからともなく、双方の唇が重ね合わされた。
 最初は、果実をついばむように。ほどなくその動きは激しさを増し、シキの内部は更に燃え上がった。熱に浮かされるがままに、何度も何度もレイの名を呼ぶ。
 シキの耳元で、レイが唸った。
「煽んな」
「煽ってないよ」
「急かすな」
「急かしてもないよ」
 深呼吸の音に視線を上げれば、レイが苦笑を浮かべてシキを見つめていた。そうして、今度は額に、キス。
「もう少し向こうに、いい場所があるんだ」
 額にかかる息の熱さに、シキの身体がびくんと震えた。
「来いよ」
 レイに手を引かれ、シキは二人は暗い森の中を足早に奥へと進んでいった。
 
 
 暗闇をしばらく進んだのち、ふと木々が途切れた所で、突然レイがシキを抱きかかえた。
「なっ、何?」
「ここは足元が悪いんだ。暴れるなよ」
 地面に注意を払いながら、レイが慎重に草むらを進む。広場のような空間の中央、草の陰に横たわる石の台の上にシキをおろすと、レイは再び口づけをした。
 より深く、より長く……、どれぐらいの時間、唇を合わせていたのだろう。レイがようやくそっと顔を離した。
「シキ、好きだ」
 すっかり上気した眼差しで、シキもレイに向かって微笑んだ。
「……私も、レイ、大好きだよ」
「俺にはお前しかいない。お前は……本当に俺で良いのか?」
 恐ろしいまでに張り詰めたレイの気配に呑まれて、シキは数度まばたきを繰り返した。
「……レイ、どうしたの?」
「良いのかダメなのかどうなんだ」
 誤魔化しようのない問いかけに少し照れ恥ずかしくなって、シキは顔を横に向けた。そして小さく呟いた。
「……良いに決まってるじゃない」
 月明かりが淡く辺りを照らす中、甘い吐息が、風に混じって木々の葉を揺らし続けた。
 
 
 

    四  決別
 
 レイがこちらに背中を向けて立っている。
 木々の葉が一斉に風にざわめいた。闇に沈む森の中、レイが立つ処だけが、一筋の月明かりに淡く照らされている。
「レイ!」
 シキの呼びかけが聞こえないのか、彼は微動だにせずにただ佇んでいる。もう一度、さっきよりも大きな声で呼んでみるが、やはり返事はない。
 ならば、とレイの許に駆け寄ろうとして、シキは躊躇った。無言の背中が、まるで自分を拒絶しているように思えたからだ。
 シキは、握り締めた右手を胸に当て、その場にじっと立ち尽くした。そして、固く目をつむった。
 
 ざわざわざわと、葉擦れの音が大きくなる。
 何度か深呼吸を繰り返し、それからシキは決意を込めて瞼を開いた。
 ――自分を、そして彼を、信じるのだ。
 好きだと言ってくれたことを。そして何より、好きだと言ったことを。
 シキは大きく地面を蹴った。
 手を伸ばさなければ、振り払われることはない。けれど、手を伸ばさなければ、彼には決して届かない。
 シキは大きく両手をレイへと差し伸べた。そうして、その広い背中をしっかりと抱きしめた。
 
 その瞬間、レイの背中は粉々に砕け散った。
 完全な静寂の中、レイのかけら達がきらきらと月光を反射する。
 シキは呆然と、自分の腕の中を見つめた……。
 
 
 自分の寝台の上で、シキは目を覚ました。眩しい陽の光が部屋中に充満している。
「レイ……?」
 ここがどこなのか一瞬理解できずに、シキはきょろきょろと視線を巡らせた。ややあって自分が夢を見ていたということに気づき、ふう、と溜め息をこぼす。
 ――でも、どこからどこまでが、夢だったんだろう……?
 シキは慌てて寝台から立ち上がった。そうしてゆっくりと辺りを見まわした。
 鎧戸の閉まっていない窓、昨日のままの服。森の香り、身体に残っているレイの感触……。ということは、真夜中の逢瀬は夢ではなかったのだ。シキはほっとした表情で寝台に腰をかけると、改めて昨夜の記憶を辿った。
 ――東の森。懐かしい遊び場。そして……そこでレイと……。
 ごくり、とシキは唾を呑み込んだ。暴れ始めた心臓をよそに、シキの頭は昨夜の出来事を忠実になぞっていく。背中に当たる冷たくて硬い石。レイの熱い身体。レイの手、レイの唇、レイの――。思い出すだけでシキの身体に震えが走る。レイが指を動かすたびに、信じられないほどの快感がシキに襲いかかった。何がどうなったのかも解らないままに、怒濤に呑み込まれ…………
 そこから先の記憶がなかった。
 あまりの気恥ずかしさに、シキは身悶えせんばかりだった。上気した両頬を手で押さえながら、しばしその場にうずくまる。気を失うまでそれを堪能するなんて、どれだけ自分は欲深いのだろうか、と少し情けなくなって。
 それに、東の森の中心部からシキを連れて帰るのは、大変な仕事だったに違いない。自分がその間一度も目を覚まさなかったということにシキは驚き、そして申し訳なく思った。
 ――とにかく、レイに帰途のことを謝らなければ。
 シキは大きく頷いてから、身支度を整えて部屋を出た。
 
 
 急ぎ足で玄関ホールを通り過ぎたシキは、廊下の角で何かにぶつかってしまった。びっくりして顔を上げれば、師匠の広い背中がすぐ目の前にある。
「す、すみません、先生! おはようございます」
「おはよう、シキ、良く眠れたかい……」
 そう言ってにっこりと振り返ったロイの穏やかな笑顔、銀縁眼鏡の奥の優しい光。
 それが、一瞬のうちに凍りついた。
 
 愕然とした形相でロイが息を呑んだ。それから乱暴にシキの頬を両手で掴んで上を向かせ、その顔を覗き込んだ。
「な、何ですか、先生……」
 ロイは、そのままシキの顔の上のほうを凝視する。そう、丁度額の辺りを。
「夕べ、何があった?」
「え? 何って……」
「……何をした?」
 聞いたこともない、低く押し殺したロイの声が響く。顔を固定されたシキは、身動き一つとることができない。
「どこへ行った!」
 ロイはますます声を荒らげると、ぎらぎらと目を光らせてなおもシキに詰め寄ってきた。あまりに突然のロイの変貌に、シキの足が震え始めた。
 ――これは、誰?
 いつだって先生は穏やかで、悠然としていて、その広い懐で自分達を優しく包み込んでくれていた。悪さや失敗を叱る時だって、常に順序立てて説明してくれた。急を要する時ばかりは大声を上げることもあったが、それでもすぐに冷静に諭してくれた。
 それが、この豹変ぶりだ。一体全体自分の身に何が起こっているのかシキには全く理解ができず、ただ師匠の鬼気迫る剣幕に怯えるしかなかった。
 と、その時、廊下の少し先で扉がゆっくりと開いた。
「……朝メシ、できてるぜ」
 食堂の入り口に姿を現したレイは、彼らしからぬ静かな声でそう言うと、じっと二人を見つめた。
 ロイはシキから手を放すとレイのほうにゆっくりと向き直った。
 二人の視線が、激しくぶつかり合った。
 解放されたシキは、わけが解らないままに逃げるように食堂へと駆け込んだ。悪い夢を振り払うかのように。
 取り残されたロイとレイは、しばらくの間、お互いただ無言で睨み合い続けた。
 
 
 重苦しい沈黙が場を支配する。
 ロイは食事にほとんど手をつけずに、ひたすらレイをねめつけ続けていた。
 レイはといえば、自分に突き刺さる視線をものともせずに、平然と朝食を摂っている。
 そしてシキは、混乱した頭をなんとか鎮めようと必死だった。
 ――先生は、何を怒っているのだろう……?
 昨夜、家を抜け出したことを知られてしまったのか。でも、先生にそれ以上のことがどうして分かる? それに、自分達のしたことは、そこまで怒られるようなことなのだろうか?
 何よりロイのあの激昂ぶりが、シキを激しく動揺させていた。
 今まで見たことのないあの瞳、あの声。先生の汗ばんだ手のひらの感触がまだ頬に残っている。一体何が、先生の逆鱗に触れたというのだろうか……。
「シキ、今日は君が当番をやりなさい」
 レイが食事を終えたのを見て、ロイが静かにそう言った。
「え?」
 突然の命令に、シキは驚いて顔を上げた。
 氷のような視線をレイに向けたまま、ロイが席を立つ。
「レイ、話がある。私の部屋へ」
 レイが軽く頷いてそのあとに続いた。椅子を引く彼の手が、微かに震えていることにシキは気づいた。
 
 
 
「呪文書をどこへやった」
 レイが部屋に入るや否や、ロイが怒りを隠そうともせずに問い質してきた。
「あの額の印はフォール神のものだ。そして、お前にも同じ気配が纏わりついている」
 額の、印。それは、シキが確かにレイの「半身」となった、その証だった。
 昨夜、シキと結ばれたのち、レイは件の術をシキに無断で彼女にかけた。精根尽き果て安らかな寝息を立てるシキを、とても叩き起こす気にならなかったからだ。かといって、この機会を逃せば、もうロイの先手を打つことなどできないだろう。罪悪感を無理やり呑み込んで、レイは魔術陣を起動させたのだ。
 無事に術を成功させられた喜びは、すぐに不安にかき消されてしまった。シキの額に、指の先ほどの大きさの文様が刻まれているということに、気づいたのだ。
「印」についての記述は確かに呪文書にもあった。レイは、てっきり何かの喩えとばかり思っていた、……もとい、そう思い込もうとしていたのだ。
 これではすぐに術のことをロイに知られてしまう。それが嫌ならば術を解除するしかない。
 だがそうなると、ロイは難なく手に入れることができよう。シキの身体を。
 たとえシキとレイが二人の関係をロイに告白したところで、その事実はロイにとって枷にはなり得ない。そうでなければ、そもそも魔術や薬を使ってまでシキをモノにしようという考えが起こらないはずなのだから。ロイは決して次の機会を逃さないだろう。そうなってしまっては、もうお仕舞いだ。たとえシキがレイのもとへ戻ろうとしても……、いや、そんなことをすれば、間違いなくロイはレイを強制的に排除するだろう。
 どっちに転んだところで、レイはシキを失うことになる。それならば、どんな叱責を受けようとも、シキを自分に繋ぎ止めておきたい。たとえ魔術の力を借りてでも。レイはあの時、あの森で、そう覚悟を決めたのだ。
「術をかけたのはお前だな?」
「……はい」
 観念して、レイは返答した。
 大きな溜め息とともに、ロイが窓際の机の上に軽く腰をかけた。その表情は逆光でレイには窺い知ることができない。眼鏡の縁だけが、背後の窓からの光を不気味に反射している。
「お前が『封印解除』を使えるとはな。知っていたらお前を絶対に使いになど出さなかったのに」
 いつもの穏やかな口調に戻って、ロイが呟いた。半ば独り言のように。
「彼女なら、中を見ようとなど考えなかっただろうな。やはり最初からそうすべきだったのだ……」
「あの嵐の中を、シキに行かせるつもりだったのか!」
 今度は、レイが怒りを爆発させる番だった。
 ぬかるんだ道、危険な崖、あの苦労したサランまでの行程。それをロイは、女性、しかも自分の想い人に辿らせようと考えていたのだ。自らの欲望のために、その当人を篭絡せんがために。レイは握り締めた拳をわなわなと震わせた。
 ふっ、と鼻を鳴らして、ロイが床に降り立った。そうして、ゆっくりとレイのほうへと近づいてくる。その目は禍々しさすら感じさせる光をたたえていた。
 ――誰だ、これは。
 レイは初めて師に対して恐怖した。
「二週間そこらで、初見の、しかも異教の呪文をものにしてしまうとは。どうやら本当に、お前には私を越え得る才能があったようだな」
 レイの背筋を冷たいものがつたう。緊張に耐えきれず、とうとうレイは足元に視線を落とした。
「実に残念だよ、レイ」
 今まで噂でしか知らなかったロイの顔――東部平定の立役者、一騎当千の大魔術師――それは、征服された側にとっては、殺戮者、という意味だ。
「……さて、呪文書の処に案内してもらおうか」
 抜き身の刃のような囁き声が、レイの耳元を震わせる。その声に抗うことなど、もはやレイにできようはずがなかった……。
 
 
 いっそこのまま逃げ出してしまえれば。そんな衝動を必死で抑え込んで、レイは馬を走らせた。
 規則正しく追ってくるもう一頭の蹄の音は、ロイの馬だ。背後に感じる凄まじいまでの威圧感に押し潰されそうになりながら、レイは真っ直ぐに東へと向かった。ともすれば震えそうになる身体を必死に奮い立たせながら。
 
 半時後、二人は東の森の洞の前にいた。
 レイが先導して、狭い入り口をくぐる。「灯明」を唱えるレイの声とともに、狭い洞内に二人分の長い影が揺らめいた。
「こんなところがあったとはな。お前の秘密の部屋か」
 石の上に無造作に開かれた呪文書を、ロイが静かに手にとった。そのままパラパラと頁をめくる。
「……油断したよ。師匠を裏切る……か。そこまで私に似ずとも良かったのに」
 まるで他人事のように呟くロイの様子に、思わずレイは言い返していた。
「裏切ったのは先生のほうだ」
 怪訝そうにロイが呪文書から顔を上げた。そうして視線だけをレイのほうに向ける。
「シキが、どんなに先生を尊敬していたか。それが……こんな……、女を薬や魔術で無理矢理従わせよう、なんて男だったとはな!」
 顔を背けて吐き捨てるようにレイが言い放つ。
 ロイはぱたりと呪文書を閉じると、上着の懐に仕舞い込んだ。
「お前が言うことではないだろう?」
 そう言うとロイは、数段低い声で先を続けた。「彼女を操り人形にして、どんなことをした? 何度楽しんだ?」
「その発想が反吐が出そうなんだよ!」
 レイの絶叫が湿った空気を震わせた。大きく肩で息を継いでから、苦渋に満ちた表情を浮かべる。
「本当なら、こんな呪文に頼る必要なんてなかったんだ」
「……何?」
「シキも俺のこと、好きだって言ってくれたんだ」
「馬鹿な」
 信じられないとばかりにロイが漏らした言葉を聞き、レイの奥歯に力が入った。
「嘘なものか! 先生が帰ってきたあの嵐の晩、俺はシキの部屋にいたんだぜ」
 レイの頭のどこかで何かが、止せ、黙れ、と警告する。
「薬なんか使わなくっても、彼女は俺を求めてくれた」
 だが、もう、止まらない。
「そうさ、先生が余計なことをしようとさえしなければ、俺だってこんな術をかけることはなかったんだ!」
 レイの言葉が終わりきらないうちに、ロイの表情が唐突に歪められた。怒り、いや、痛みを堪えるがごとく。
 
 
「……言いたいことはそれだけか」
 頭に太い釘を何本も打ちつけられるような疼痛が、ロイの頭骨の内部を犯し始めていた。視界が狭まり、吐き気が湧き起こる。激痛のあまり、身体から力という力が抜けていく。
 それは、「誓約」を破る者に襲いかかるという「戒め」だった。十五年前、ギルドが暗黒魔術を封印した際に、ギルド長がロイにかけた「誓約」の魔術。その術の下、ロイは忌まわしき暗黒の名を冠した呪文を生涯使わぬことを誓わせられたのだ。
 そして今、ロイはまさにその禁忌を破ろうとしていた。最大級の苦しみをレイに与えんがために、彼は禁じられた術を紡ぎ出そうとしていた。
 凄まじき苦痛により意識がどんどん朦朧としていく中、ただ怒りの感情だけがロイを支えていた。
 
 
 脂汗を流しながら苦悶の表情で、ロイが呪文を詠唱している。
 レイは思わず一歩あとずさっていた。
 初めて耳にするその旋律の、なんと禍々しいことか。恐怖のあまり、レイはロイから目を逸らせることができなかった。
 荒い呼吸に、血の滴るような声音が混ざる。
 空気が次第におぞましい色を孕んでくる。
 初めて感じるその「気配」は、底知れぬ闇の香りがした。
 ――やばい!
 限界まで張りつめた空気の中、レイは辛うじて我に返った。そうしてあらん限りの力を注ぎ込んで、必死に呪文を詠む。ロイの魔術に対抗するために。
 レイが自身に「抗魔術」をかけ終わるのとほぼ同時に、暗黒の力がロイからほとばしった。

 
 
 レイの全身を打つ、力の奔流。それは不可視の鋭い爪となって、彼の頭の芯を鷲掴みにした。そしてそのままレイの脳天から、ずるり、と何かを引き抜いた。
 全身が総毛立つ。割れ鐘が頭で鳴り響く。
 恐ろしいまでの喪失感と疲労感に襲われ、レイはがっくりと膝をついた。手足が震え、もはや立ってなどいられない。
 霞む目で師を見上げれば、彼はまだ何か呪文を唱えようとしていた。レイは、遠ざかる意識を死に物狂いで掴みながら、もう一度「抗魔術」を詠唱しようとした。そして、ほどなくその瞳に絶望の色を浮かべた。
 ――力が……出ない!?
 レイの魔力は、先刻のロイの術により喰われてしまっていた。それも、全て。
 もう反撃することは叶わない。愕然とレイは地面に爪を立てる。
 
 ――「だめ!」
 両手を広げて飛び出したシキの背中に、銀の刃が鮮血を散らす。
 レイは、掴まれていた腕を振りほどくと、倒れ伏すシキに駆け寄った。
 シキの金の髪が、白い服が、血に赤く染まっている――
 
 跪くレイを前にして、ロイも立っているのが精一杯の有様だった。だが、それでも彼はなおも指を動かして、二つ目の呪文を起動させる。
 
 ――シキの小さな身体が、腕の中でどんどん冷たくなっていく。
 絶叫するレイの背中に、灼熱が突き立てられた。
 次の瞬間、レイは背後から自分の胸部を突き破った切っ先を見た――
 
 レイの喉から、聞くに堪えぬ絶叫がほとばしった。
 力を失い地に這い蹲るレイを、再び襲う暗黒の魔術。生皮を剥がされるかのような激痛が、彼の全身を駆け巡った。今度はレイの命の火が、みるみるロイに吸い盗られていく。
 
 ――シキの上に折り重なるようにしてレイは倒れ込んだ。
 暗闇の中、揺らめく松明の光。
 騎士達の足。血塗られた切っ先。
 おれはここで死ぬのだろうか。
 シキはもう死んでしまったのだろうか――
 
 
 術を終え、ようやく苦痛から解放されたロイは、暗い洞内に横たわる「元」弟子の傍に膝をついた。そしてそっとその首筋を触る。
「……驚いたな。まだ生きているのか」
 弱々しいながらも、レイの体はまだ脈を刻んでいた。だが、もはや彼に意識はなく、事切れるのも時間の問題かと思われる。
「せめてもの手向けに、我が最高位の術でとどめをさしてやろう」
 ロイは静かに立ち上がると、洞をあとにした。
 
 
 目印に手折った枝を頼りに、ロイは来た道を逆に辿った。森の出口近く、充分に洞から離れた所で、晴れ晴れとした表情で印を結び始める。
 紡ぎ出すのは「天隕」の呪文。詠唱の終わりと同時に両手を天に掲げて、術を起動する。
 
 
 上空から迫り来る、圧倒的な魔力の気配。
 レイは少しだけ意識を取り戻した。
 そうだ、あの時も、自分はこんなふうに冷たい地面に横たわり、命が尽きるのを為すすべもなく待っていたのだ。
 おのれの身体の下、途切れ始めるシキの鼓動。レイ自身も手足の感覚は既になく、呼吸することすら苦痛で、ただぼんやりと霞む目で洞窟内を眺めていたのだ……。
 
 そう、洞窟。
 あの時……十年前、シキに誘われてレイは
 
 
 空の彼方から、森の中心に向かって一直線に落ちてくる光の筋。
 ロイはそれを無表情で眺めていた。
 次の瞬間、目も眩むばかりの閃光が森の木々をなぎ払った。一瞬遅れて、低い地響きが耳をつんざき、爆風が物凄い勢いで森中を席捲する。
 ロイの周りで、礫や破片を「盾」が弾く青白い光が何度も閃いた。
 
 
 
 再び静寂が訪れた東の森。まだ舞い立つ砂煙の中、森は外から見る限りは一見変わりがないように思えた。
 だが、一歩中に踏み込むと、それが間違いであることが解る。
 下草や細い枝は全て、森の周縁部に向かって薙ぎ倒されていた。そして、緑の葉という葉にうっすらと白く降り積もる砂。
 更に中心へ向かって歩を進めると、やがて木々は森の外側へと傾ぎ始める。
 悪路に難渋しながら半時間も歩いた頃、目の前が大きく開けた。
 巨大なすり鉢状の穴がそこに現れていた。
「……見事だ。よくぞここまで腕を磨いたものだ……」
 小柄な影がフードを脱ぐ。顔に深い皺を幾つも刻み込んだ、初老の男が姿を現した。「こんな奴とどうやって戦うつもりなのかね?」
 男に問いかけられて、傍らの青年は不敵な笑みを浮かべた。くせのある黒髪が、風になびいている。
「化け物には、化け物で対抗すればいい」
 その視線の先には、穴の斜面を滑り降りるサンの姿があった。
 彼はそのままの勢いで窪地の底を中心へと走っていく。目標に到達すると、サンは軽く溜め息をつき、ゆっくりと屈み込んだ。
 爆心地に無傷で立つ、高さ十寸ほどの何かの像。そして、その傍らに…………
「ったく、後先考えないところは全然直らないよな、お前」
 口調を裏切る優しい表情で、サンが呟いた。
 
 
 

黒の黄昏 1

2015年2月24日 発行 初版

著  者:那識あきら
発  行:あわい文庫

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那識あきら

創作小説書き。
著作『うつしゆめ』(徳間文庫)、『リケジョの法則』(マイナビ出版ファン文庫)など。
サイト「あわいを往く者」
http://greenbeetle.xii.jp/




「黒の黄昏」第一話~第五話
サイト初出 2006/3/1~5/25

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